DENKICAN NEWS No. 135. July 28th, 1921. (二) 大正十年七月廿八日発行 デンキカン・ニユース 第百三十五号 【右頁上段】 ―△三角、キーストン映画▽― (1) 捕鯨船(喜劇) 二巻 説明者 宇野英一 ―△パテー、プラツクトン映画▽― (2) 血の砲畳【「塁」の誤植か。原題 "The Blood Barrier"】(人情劇) ―△出演俳優及製作役割▽― △原作…サイラス、テイー、プレデイ氏▽ △脚色…スタンレー、オルムステツド氏▽ △総監督…ステワート、プラツクトン氏▽ △撮影…ウヰリアム、エス、アダムス氏▽ 【右頁中段】 ロバート……………ロバート、ゴルドン氏 エニツド…………シルヴイア、ブレマー嬢 デツデイー……………エツデイー、タン氏 ユージン………………ウヰリアム、タン氏 ヅー、ペーウン………ルヰス、デイーン氏 メーリチエク夫人……エム、バツリー夫人 レフテイー………ガス、アレキサンター氏 (梗概)…元来化学者であるトレバー少佐は 欧洲大戦争に参加し勲功をたて五年振りに 米国に帰りしも恋人たりしエニツド既に人 妻なるを以て楽しまず。たま〳〵染料の処 法の事より悪人に計られ殺人の嫌を受けた れど証人現はれエニツドと結婚す。 説明者 松岡紫芳 鶴野一声 ―△三角ケイビー映画▽― (3) 妹の為めに(社会劇) 五巻 ―△出演俳優及製作役割▽― △原作者 …………ジヨン、リエンチ氏▽ …ジエー、ジー、ホークス氏▽ △監督……トーマス、エツチ、インス氏▽ シルヴアー、ジム、フアーレル…………… …………………ウイリアム、デスモンド氏 マージヨリー………グローリア、ホープ嬢 クラツブ……………ロバート、マツキム氏 エドカー………………ローランド、リー氏 ロタ………………ミルドレツド、ハリス嬢 レーモン………ジヨーヂ、ベランジヤー氏 ホー、セイモーア……トーマス、ガイス氏 フレスデル……………ミルトン、ロツス氏 (梗概)…僅かの手違ひより罪ならぬ罪を蒙 り以後道を誤り悪人となりしファーレルは 敵の為め又愛する妹の為めを思ひ改心し先 年奪はれし金額を返戻せしめ妹の跡を追ひ 南米に渡る。 説明者 細山夢眼 高岡黒眼 【右頁下段】 ―△フオツクス超特作映画▽― (4) 神の娘(神話) 八巻 ―△出演俳優▽― ゼントル、ニデイア……カザリン、リー嬢 オマー王子………………ジエーン、リー嬢 アニテイア……アレネツト、ケラーマン嬢 ザーラー……………………………………… シヤイク……………………………………… サルタン……………………………………… クリオネ……………………………………… 矮人小鬼……………………………………… (梗概)…神国の美女アニテイアは小鳥に生 を代へて現世に現はれ飼主ニデイアに愛さ れ又彼女の匹偶も亦小鳥となりて此世に現 はれ二鳥翼を双べて寸時も離れず終に悪魔 の醜婆の飼へる猫に傷められ海中に落ちて 死するよりアニテイアの小鳥も悲哀極まり て海中に投身して死す。醜婆は土地より土 地へ害毒を流しサルタンの領土に来たり世 継を失ひて心乱れたるサルタンを欺きアニ テイアが美人に生れて此地に来るの運命を を知りサルタンに彼女を殺せと勧む。二鳥 は死せりと雖も其霊魂は美人及貴公子に再 生し互に親しくなる此間醜婆の悪業を善神 来りて破るあり。アニテイアは人魚界に再 来を約して旅行を断続せる中に矮人国にて 善神より若殿の危難を聞き矮人及小鬼の軍 を率ひサルタン領土に攻め入り若殿の刃は 哀れにもアニテイアの命を断つ。若殿は斃 したる敵将の顔を見れば恋しいとしのアニ テイアなれば悲しみ胸にあふれ彼女と併べ て埋葬せん事を命してアニテイアの跡を追 ふに至る。後両人の霊魂を人魚等は永久死 のあらぬ処に連れ行きたり。 説明者 浅野柳翠 石野馬城 【中央】 《割書:旬刊|雑誌》キネマ旬報《割書:高尚|優美》定価金廿銭 赤坂区溜池町卅番地 キネマ旬報社発行 《割書:月刊|雑誌》活動倶楽部《割書:活動倶楽部社発行|電話下谷五〇七〇番》 (定価七十銭・振替東京四四一八一) 《割書:月刊|雑誌》活動之世界《割書:興味ある毎号を|愛読せられよ》 (定価七十銭)活動之世界社発行 【左頁上段】 雑記 (六) 大津広次 其の時、若し音楽が同じく演奏をクライ マツクスに乗り入れるならば、それは観客 に対する暴逆である。映画に対する反逆で ある。観客の映画に対するゲージングの破 壊である。観客は映画と音楽との二重な注 意力に依つて、その映画の鑑賞をさまたげ られる。飽までも映画は主である、音楽は 従である。音楽は映画の補助以上の何物で ないのだ。 館内がくらくなる、音楽が始まる、その 気分―オバーチユアの必要をみとめない者 はあらうか。それにクライツマスより余韻 ある結果にうつる時の音楽は、我々の心に 何物かを印象させるに違ひない。 各、論じ饒舌し切つて、此の稿も一先づ 終りに至つたが、もう一言お断りする事を 許してもらをう。それは此の稿が全く映画 の本質に馳背してゐる事である。沈黙劇の 領域を犯さんとする論である事である。そ れを私は認める。併し私は只単にそれ丈の 理由で此の稿に価値なしとするものではな い。私は飽くまで映画と音楽、弁士の善用 とを結びつけたい。そうして映画の範囲を 積極的に広めたい。 私は音楽に就いてより弁士に就いては余 り論じなかつたが、字幕全廃の暁、弁士の 善用はより深く考へらる可き問題であらう 私は字幕廃止と同時に弁士採用を大声、論 ずる期ありと断ずる者である。 私の此の稿を見て、思つては居たが、つ ひ気がつかなかつた、点を見出した人があ 【左頁中段】 つたそうだ。大変うれしい。一寸余白を借 用して喜びを書かせてもらほう。 流露一滴 秋嶺夢人 真夏の反影を受けてジー、ジーと響くエ ンヂンの音にも暗い歓喜と忍従の労作が有 るのです。 S君! 其後仕事に追はれて御無沙汰しました。 別に御変りはないでせうね?、君の温い熱 情でDのニユースは正に蘇生の思をして居 ます。 却々しつかりした写真が、ぽつぽつ首を 出すので寔に結構な事です。時折の批評、 感想、希望等も、いやにギゴチないもので なく、又自分一人承知して居る様な物でな く、又小供だましの代物でなく、極めて実 質的に、普遍的に我々をして現在為し得べ き範囲に於て其の部分的欠陥を見出して は、其の改善、方法等を議して居る事は頼 母しく感ずる次第です。 就中、近頃私の眼に止まる亀田君の説や、 しばらく振りで筆を執られた大津君の説 は、私の最も喜ばしく感ずる物の一つです。 何れも未知の人達ですが、こう云ふ人達と 会ふ機会を楽しんで待つて居ます。――ど うか御健在で。 S君! 日本の映画芸術も、やうやく旧套を脱 し、目覚しい進境に有ると云ふ事は、お互 に前途を祝つてやりたい様な爽かな気持に なるね、が然し此頃の山盛りは些に寒心の 至りだね、「向三件両隣り」と謂ふからには、 止むを得ぬと云へば其迄だが、幸に此の言 葉が裏切られるなら以て冥すべき哉だよ。 【左頁下段】 十五巻、二十巻と物凄い処を提供して三割 五割の客足を吸取るより、八巻、十巻、同 情して十二巻位の処で青息吐息を連発しな いパーフオマンスを望んで居る。一般―― 社会――公衆、有ゆる階級と境遇とを包含 すを独特の浅草大地には…………。 こうした私の持論を苛酷な理想で無くと も、自然の力で自由に融和される迄には、 未だ未だ多くの年月を要する事で有らう。 S君! チヤ君にも凋落の秋が来さうだね、けれ ど、彼にはまだ貴い時の余裕が有る。この 豊かな芸術味を失はない内は生気は確だ、 ロイドは流行児だ、彼のコミツキユウは彼 の人生を語るもの――切実、清楚、堅実だ、 否味がない、技巧がない、反応はグツと来 ない。併し一旦来たら却々離れない。チヤ 君より優れた素質だ、大胆な中にも、決し て Minuteness を失はない事だ――ハ君の 自重までに。 S君! もつと早く稿を送るべき筈だつたが、忙 即忙と云ふ訳で意外におくれてしまつた。 亦しばし御目にもかゝれまい。せつかく御 健筆を祈る。気紛れな断想の序曲を終へて 都を去るに先き立ち、夢人頃日の感想をヴ エランダより送つて澄み渡る秋の日の活動 を待つ事とする。 では皆さん! ADIEU. (七月十六日夜) 編輯室より S 坊 大津広次君の「雑記」も永らく続きました が今週を以て一先づ了りと致すさうです。 大津君から御手紙があつたので敢て一言致 して置きます。尚今週は珍らしく秋嶺夢人 君からお便りがありました。時節柄フアン 諸君の御自愛を切望致します。 大正十年七月廿八日発行 デンキカン・ニユース 第百三十五号 (三) 【欄外・右横書き】 (四)大正十年七月廿八日発行 デンキカン・ニユース 第百三十五号 【上段】 「ミラクル・マンの思想」 蔭山逸刀太 ニイチエは「肉体は大なる理性なり、一 箇の意義を持つ複数なり、戦争にして且平 和なり、群畜にして且牧人なり」―長江氏 訳―「とアルゾォ、シユプラツハ・ツアラト ウストラ」で言つてゐる、彼は肉体の中に 精神があつて、霊魂は肉体に含有されてゐ る一部のものに過ぎぬと主張した、私は之 れに大なる反感を懐く者である。 「死」といふことは、霊魂が肉体なる外皮 を破つて新に独立することである。霊は肉 体と共に滅するようなそれ程貧弱なもので はない霊は飽くまで神秘である。そして崇 い。人間が自然から与へられた本能と感覚 は霊に依つて美化される。若しその本能を 名づけて「愛」としたならば、愛は始めて「霊 の神秘」に依つて純化され得る・その感覚 を名づけて「悪」としたならば、悪は霊の為 めに其の価値のために打破されてしまふ。 モオバツサンは“AMOUR”なる一作品に 於て、この二つ―本能と感覚―は文明の凡 らゆる考証と機因とに依つてのみ研磨され 得る。と言つた。其の考証と機因は何を以つ て其の源泉とするか?それは霊を以つてす ると答へる。霊は凡べての源泉だから、こ の言葉は矛盾のやうに聞える。か、一体「悪」 といふのは広義の上では善である。「悪」は 一時の発動性に過ぎぬ、人間に霊がある以 上、善は潜在性を持つてゐる、故に如何な る大悪人でも霊が肉体から独立する間際に は、凡べての悪を失ってしまふ、それは今 迄肉体といふ覆物(ヴエール)のためた【「に」の誤植か?】、其の活動を妨 けられてゐた霊が、突然なる解放に依つて 其の「神秘な力」を振ふからである。又解放 に至らずとも、偉大なる「霊の交通」Verk- 【中段】 ehr der Seeleといふことに依つても或る程 度までは其の力を振ひ得る。ミラクル・マン の一篇はこの「霊の交通」を適当に主張した 代表的の映画である。 フランク、バツカアド氏がこれを巧妙に 客観化したことは賞讃に余りある。氏は民 衆の理解を容易に生ましむべく至当な筋を 書いた。が余りに技巧を弄した処もある、而 しそれは映画劇の自然不自然云々を論ずる よりも広く民衆に意を用ひたと解釈すべき である。この一事で凡べては償ひ得る。跛 者が全癒した例を使つたのはこれである。 これ程人間の霊は尊いことを具体的に示し たのである。これはこの一篇のイデーの支 流であつて本流ではない。氏は余りこれを 使ふことに賛成しなかつたらうと思ふ。ミ ラクル・マン―彼は人間にして人間に非ず 神にして神に非ず―の全身にこそ氏のイデ ーは流れて居る。氏の思想は彼に集つてゐ て、彼をどこまでも「偉大なる人」として取 扱つたのである。 監督者 脚色者、俳優等はこの思想を理 解したかといふと、遺憾ながらこれを否定 する、映画劇となつたミラクル・マンは僅 かに原作で生きてゐる。殊にタツカア氏は 原作の思想を忘れて、徒に技巧方面に苦心 した傾向がある。全篇八巻の長いダラシナ イ作品を作つてしまつた。或る人は映画劇 はそれで好い―といふかも知れぬ。が、私 はそれだから日本映画は根本から間違つて ゐますと御 【脱字?】する。彼の独逸、仏蘭西、伊太 利の映画は、技巧よりも何よりも全篇を流 れるイデーに腐心する、情緒に腐心する、 だから深刻味な作品が出来るのである。私 は映画の技巧と思想をいふことについて何 方を選ぶといつたならば―勿論二つともあ ればよい―後者をとる。何よりも思想を表 現することが大切である。それを表現すべ く巧妙なる技巧が備はつてゐるならばこれ に越したことはないがそれは第二の問題だ 【下段】 神秘なる愛の力 雪原銀橇 宗教の力、―愛の力、それは『奇蹟と人』を 一貫したテーマである。 偉大なその力は、すべての世の悪人を悔ひ 改めさした。そしてあの大作をタツカーを してなさしめたタツカーの脚色監督の大き さはともかく、全篇に流るゝ、愛の大きな 魅力が、始めから終りまで、寸分の弛みも なく、観客をひつぱつてゐつた。 全巻の主□である、神の愛から、小さな小 児の犬に対する愛までが、我々観客に与へ た、微妙な旋律は、『奇蹟の人』の大作たる の真意義ではなからうか。 小児の跛がなほり、小女の病の治つたあの 奇蹟はむしろ児戯に等しい、然しそれを冷 笑の眼で見ることは、少くともあの映画を 解するものには出来ない、なんとなれば、 そこに偉大な神の愛を認めるからである。 フロツグが、老婆に対して、養子たらんと するの請ひを入れた。それは彼が、温かい 母の愛を得んがためである、関節をはずし てまで不具者を装ふた。冷血漢が母の愛を 得んとしてつとめる。その間に、考へるべ き或物がある。ドープが、田舎娘の純な愛 に生きんとする。その心理、そうして、ロ ージーが、あの、淫蕩な、女からリチヤー ドキングの愛の力に依つて、美しい心の女 に甦る。こゝに至つては愛の力の、余りの 神秘さに、驚くの他はないのである。そう して、これからのすべての愛の源泉たる神 の愛を考へる時はいかに無宗教者といへど も『神よ?』と讃美せざるを得まい。 「黄金何ぞ、愛を失ひて黄金なにするもの そ」とトムが絶叫した、その言葉を何人が 否定することが出来よう。 大正十年七月廿八日発行 定価一部三銭郵税二銭【郵税:郵便料金の旧称】 発行編輯兼印刷人 森田勝祐 浅草公園六区三号八番 デンキカン社 電話浅草三六二一・三六二二