道中安全 道中安全 道中安全 画種五 【白紙】  當院(とういん)に宗祖(しうそ)歴代(れきたい)の真筆(しんひつ)ならひに上古(しやうこ)の調度等(てうととう)を収蔵(しうさう)す  《割書:其余(そのよ)深草(ふかくさ)不可思議(ふかしき)の|筆(ひつ)せる経題等(きやうたいとう)あり》  【當院とは鬼子母神別当の大行院のこと】 蓮成寺(れんしやうし) 同 東(ひかし)に隣(とな)る當寺(たうし)は本山(ほんさん)十三世 日延(にちえん)上人の開創(かいそう)なりと  いへり十八 老僧(らうそう)の像(さう)を安(あん)す《割書:日源(にちけん)日家(にちり)日保(にちほう)日弁(にちへん)日法(にちほふ)日傳(にちてん)日位(にちゐ)日秀(にちしう)|天目(てんもく)日得(にちとく)日合(にちかふ)日賢(にちけん)日高(にちかう)日實(にちしつ)日禮(にちれい)日祐(にちいう)》  《割書:日忍(にちにん)日門(にちもん)以上|十八人なり》 【本頁は「江戸名所図会  巻之四 天権之部」より引用されたもの】 【参考:国立国会図書館デジタルコレクション「江戸名所図会 7巻. [12]」の54コマ】 【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563391/54】 【白紙】 本門寺(ほんもんし) 檀林 身延記行 万治二年  深草隠士   元政法師 やつかれは一日先 たちて池上へ 行てこころ しつかに法文 なと尋ていたう ふけて書院 なる所に臥 ぬ夜静に心 すみてしはし ねられねは枕 をささへて  人世少智音追師斯再尋  今宵池上月依奮照天心 其朝とく起て遥に 御骨堂をおかむ 肉つきの御歯も 此内にあり此歯の あらん所は我生 身常にありと 思へとなんのたまへる いとたうとし 其二 其三 松化石 清正社 鐘楼 庫裡 祖師堂 釈迦堂 楡蔵 玄関 塔中 宝蔵 骨堂 日蓮上人荼毘所 塔中 硯井 大坊 其四 日蓮上人廟所 塔中 義経(よしつね)握弓(ゆみとり) 詠-歌尋-訪 ̄ス五 條 ̄ノ宅横笛吹 囘 ̄ス一 ̄ノ谷 ̄ノ風壮 士勇名皆若 _レ是九郎不_レ失 楚人弓  羅山先生賛  三世(さんぜ)休(やま)ず戦(たたか)ふも斯(かく)やと覚(をぼ)へて無慙(むざん)なり平家(へいけ)射調(いしら)はれて船(ふね)ども少々(せう〳〵)漕(こぎ)■■んす  判官(はうぐはん)勝(かつ)にのつて馬(むま)の太腹(ふとはら)まで打入(うちいれ)て戦(ただか)ひけり越中(えつちう)の治郎兵衛盛嗣(ぢらうべうへもりつぐ)折(おり)を得(え)たり  と悦(よろこ)びて大将軍(たいせうぐん)に目をかけて熊手(くまで)を下し判官(はうぐはん)をかけんと打(うち)かけたり判官(はうぐはん)  ■(しころ)【革+固 𩊱】頎(かた)ふけて懸(かけ)らじ懸(かけ)られじ〳〵と太刀(たち)をぬき熊手(くまで)を打(うち)のけ〳〵する程(ほど)に脇(わき)挟(はさ)み  たる弓(ゆみ)を海(うみ)にぞ落(おと)しける判官(はうぐはん)は弓(ゆみ)を取(とつ)て上らんとす盛嗣(もりつぐ)は判官(はうぐはん)をかけて引(ひか)ん  とす元より危(あや)ふく見へければ源氏(げんじ)の軍兵(ぐんべう)あれは如何(いか)に〳〵其(その)弓(ゆみ)捨(すて)給へ〳〵と声(こへ)〴〵に  申けれども太刀(たち)を持(もつ)て熊手(くまで)を会釈(あしら)ひ左(ひだり)の手(て)に鞭(むち)を取(とつ)て掻(かき)よせてこそ取(とら)れける軍(ぐん)  兵(べう)等(ら)が従(たと)ひ金銀(きん〴〵)をのべたる弓(ゆみ)なりとも怎(いかが)壽(いのち)に替(かへ)させ給(たま)ふべき浅猿(あさまし)〳〵と  申ければ判官(はうぐはん)は軍将(ぐんせう)の弓(ゆみ)とて三人 張(ばり)五人 張(ばり)ならば面目(めんぼく)なるべし去(され)ども平家(へいけ)  に責(せめ)つけられて弓(ゆみ)を落(おと)したりとて彼(あち)とり此(こち)とり強(つよ)きぞ弱(よは)きぞと披露(ひらう)せ  んこと口惜(くちおし)かるべし又 兵衛佐(ひやうへのすけ)の漏(もれ)きかんも言(いひ)甲斐(かひ)なければ相構(あいかま)へてと取(とつ)たりと宣(のたま)へば 行吉水法印(きやうよしみづほふいん)宗信(そうしん)が方(かた)に至(いた)り給ふに。諸卿(しよきやう)うち集(つと)ひ出家(しゆつけ)遁世(とんせい)の御評議(ごひようぎ)最(さい) 中(ちう)なりしかは。正行公(まさつらぎみ)臆(をく)する色(いろ)なく。法印(ほふいん)に向(むか)ひ給ひ。ほぼ承(うけたまは)れば當山(たうざん)伺(し) 侯(かう)の諸卿(しよきやう)。退散(たいさん)隠遁(いんとん)の思召(おぼしめし)有(ある)よし。正行(まさつら)に於(おい)ては甚(はなはだ)心得(こゝろえ)がたく候。先尅(せんこく)臣(しん)への 御遺勅(ごゆいちよく)には。新帝(しんてい)を守立(もりたて)如何(いか)にもして。尊氏(たかうし)兄弟(けいてい)を亡(ほろぼ)し再度(ふたゝび)京師(みやこ)へ還幸(くわんこう) なく奉れよと。呉(くれ)〻(〳〵)したゝめ給へり。然(しか)らば諸卿(しよきやう)へは猶(なを)以(もつ)て朝敵(てうてき)追伐(つひばつ)の御遺(ごゆい) 勅(ちよく)にて有べきに。無下(むげ)に言(いひ)甲斐(がひ)なき思召(おぼしめし)にて。返(かへす)〻(〳〵)も口惜(くちをしく)候。但(ただ)し諸卿(しよきやう)へは新(しん) 帝(てい)を捨(すて)ても出家(しゆつけ)遁世(とんせい)し。朕(ちん)が後世(ごせ)菩提(ぼだい)を吊(とふら)へと御遺勅(こゆいちよく)有しにや。正行 未(いま)だ 幼若(ようしやく)には候へど。一命(いちめい)を新帝(しんてい)に献(たてまつ)り。幾度(いくたび)も大敵(たいてき)に駈(かけ)向(むか)ひて忠戦(ちうせん)を励(はげ)み。逆臣(げきしん) を誅伐(ちうばつ)して。君(きみ)を再度(ふたゝび)花洛(くはらく)に還幸(くわんこう)なし奉らん所存(しよぞん)に候へば。隠遁(いんとん)退散(たいさん)の 御詮議(ごせんぎ)ならんには。速(すみやか)に退(しりそき)候べし。將(はた)朝敵(てうてき)征伐(せいばつ)の御評議(ごひやうき)ならば。恐(おそれ)ながら御(ご) 末席(ばつせき)を汚(けが)し。是非(ぜひ)の御高論(ごかうろん)を承(うけたまは)り度(たく)候。法印(ほういん)宜(よろ)しく示(しめ)し給へと。礼儀(れいぎ)を 正(たゞ)し弁舌(でんせつ)爽(さはやか)に宣(のたま)ひける。其(その)さま相貌(さうばう)衆(しう)に秀(ひいで)。言語(ごんご)人を動(うごか)し給ふ。並居(なみゐ)る 後醍醐天皇(ごだいごてんわう) 崩御(ほうぎよ)之(の)図(づ) 諸卿(しよきやう)僅(わづか)十四才の正行(まさつら)に説伏(ときふせ)られ。各(おの〳〵)面(おもて)を見合(みあはせ)一言(いちこん)半句(はんく)もなく。赤面(せきめん)閉口(へいかう)して さし兎(うつ)【俛】首(むき)給ふ。法性寺(ほふしやうじ)佐兵衛督(さひやうゑのかみ)殿(どの)膝(ひざ)を拍(うつ)て感嘆(かんたん)し給ひ。誠(まこと)に楠子(なんし)の子(し) 息(そく)とて。年齢(ねんれい)にも似(に)ず。理非(りひ)明らかなる異見(いけん)にて愧(はづ)かしく候。如何(いか)にや■■ 幼若(ようじやく)の正行すら一心(いつしん)動(どう)ぜず。義(ぎ)に勇(いさ)める㕝 斯(かく)の如(こと)し。誰(たれ)か是(これ)に愧(はぢ)ざらん 只(ただ)命(いのち)を塵芥(ちんがい)に比(ひ)し。朝敵(てうてき)誅伐(ちうばつ)の謀(はかりこと)を廻(めぐ)らし給へと励(はげ)まし給ひしかば。諸卿(しよきやう) 大いに色(いろ)を直(なお)し。実(けに)我(われ)ながら愧(はづか)しく候。かかる若大将(わかたいしやう)在(ある)上(うへ)は。聖運(せいうん)を開(ひら)かせ 給はん㕝 何(なに)の疑(うたがひ)か候べき。早(はや)く大嘗会(たいしやうゑ)を行ひ。而(しかふ)して後(のち)朝敵(てうてき)誅伐(ちうばつ)の軍(ぐん) 議(き)有(あれ)かしと一斉(いつせい)に勇(いさ)み立(たち)給ふにぞ。正行公(まさつらきみ)大きに欣悦(きんゑつ)し給ひ。其日(そのひ)は終日(しうじつ)御(ご) 商議(しやうき)に日(ひ)を暮(くら)し給ひける       新帝(しんてい)御即位條(こそくゐのくたり)《割書:并》八尾恩地(やをおんじ)等(ら)病死(びやうし)之㕝 楠右中将正行公(くすのきうしやうまさつらこう)一言(いちごん)を発(はつ)して諸卿(しよきやう)を挫(とりひしき)給ひしかは。各(おの〳〵)大きに慙愧(さんぎ)後悔(かうくわい)し 隠遁(いんとん)の心を転(てん)し。義良親王(のりよししんわう)を御位(みくらい)に即(つけ)。大嘗会(たいしやうゑ)を行(おこな)ひ。南朝(なんてう)二伐の君(きみ)と 十四人 一味(いちみ)の連書(れんしよ)に血判(けつはん)をすへ。京都(きやうと)へ登(のぼ)しけれ尊氏(たかうし)直(たゞ)■(?)。渡(わた)りに船(ふね) を得(え)し心地(ここち)し。一義(いちぎ)にも及(およ)ばず隆(らう)を許(ゆる)し。頓(やか)て大軍(たいくん)さしむけん間。其時(そのとき) 内応(ないおう)し内外(うちと)より挟攻(はさみうち)。南方(なんほう)平(へい)■(きん)【鈞ヵ】の功(こう)を立なむ。莫大(はくたい)の恩賞(おんしやう)を与(あて)行(おこなは)んと 尊氏(たかうし)自筆(じひつ)の證文(しやうもん)執(しつ)事(し)師直(もろなふ)が添状(そえぜう)等さし下しけるにぞ。国人等(くにんとら)雀踊(こおどり)し て怡悦(いえつ)し。内々(ない〳〵)集会(しうくわい)して商議(しやうぎ)しけるは。恩地左近(おんちさこん)死(し)せしと雖(いへとも)。正行(まさつら)は人中(しんちう) の龍(りやう)と称(しやう)する程(ほど)の大将(たいしやう)にて。若冠(じやくくわん)ながら未前(みせん)を先知(せんち)し。希世(きせい)不側(ふしき)【測】の度(と) 量(りやう)有(あり)と聞(きけ)ば。先(まつ)此者(このもの)を除(のそか)ずんば大功(たいこう)の妨(さまたけ)と成(なる)べし。幸(さいは)ひ大島(おふしま)九郎は八(や) 幡林吉太(はたはやしきつだ)と水魚(すいきよ)の因(ちなみ)あれは。何卒(なにとぞ)渠(かれ)をも一味(いちみ)させ。正行(まさつら)を吉野(よしの)へ釣出(つりいた)し て討(うち)とらば。大望(たいまう)成就(しやうじゆ)すべしと申ければ。浅智(せんち)短才(たんさい)の国人等(くにんどら)一応(いちおふ)の思慮(しりよ) にも及(およ)はす。是(これ)窮(きはめ)て上策(じやうさく)なりと。早速(さつそく)京都(きやうと)へ使者(ししや)を登(のぼ)し。楠家(なんけ)の臣下(しんか?) 八幡林吉太(やはたばやしきつだ)をも御味方(おんみかた)に隆(くだ)らせ。俱々(とも〳〵)内応(ないおふ)させ候 半間(はんあいた)。御教書(ごきやうしよ)並(ならび)に執(しつ) 事(し)の添状(そへじやう)を賜(たまは)らんと。早(はや)一味(いちみ)合体(かつたい)せし様(よふ)に申遣しければ。尊氏(たかうし)悦ひ乞(こふ)に 正行(まさつら) 誅(ちうする)_二謀(む) 叛人(ほんにんを)_一 図(づ) 任(まか)せ。成功(せいこう)の上は三千 貫(くわん)の菜地(さいち)を与(あたへ)んとの墨附(すみつき)並(ならび)に師直(もろなふ)が添状(そへしやう)を使者(しゝや) に与(あた)へければ。使者(しゝや)立帰(たちかへつ)て大島に渡(わた)しぬ。大島 是(これ)を懐中(くわいちう)し潜(ひそか)に千剱破(ちはや)に いたり。八幡林(やはたはやし)に対面(たいめん)し。世(よ)の動静(どうせい)に事(こと)よせ。南北両朝(なんぼくりやうてう)の時勢(じせい)を語(かた)り。吉太(きつだ)が 心庭(しんてい)を探(さぐ)らんとす。吉太(きつだ)景舎(かけいへ)心利(こゝろきき)たる者なれば。早(はや)く大島か心術(しんじゆつ)をさとり 扨(さて)は此者(このもの)南朝(なんてう)を叛(そむ)く心ありと思ひければ。佯(わざ)と眉(まゆ)を皺(ひそ)め。我(われ)倩(つら〳〵)当時(たうじ)の時務(しむ) を考(かんがふ)るに北朝(ほくてう)は日(ひ)を追(おつ)て勢(いきほ)ひ強大(きやうだい)となり。諭(たとへ)ば旭(あさひ)の登(のぼ)るが如(こと)く。南朝(なんてう)は月(つき) を重(かさ)ねて勢(いきほ)ひ微々(びゝ)たる事。傾(かたむ)く月(つき)に似(に)たり。とても久しく北朝(ほくてう)に拒敵(てきたい)せん 事(こと)能(あた)はじ。御辺(ごへん)如何(いかゞ)思(おも)ひ給ふやと。実(まこと)しやかに語(かた)るにぞ。大島 仕(し)すましたりと 悦(よろこ)び。人を□【はヵ】らひ声をひそめ。御辺(こへん)如斯(かくごとく)高(たか)き見識(けんしき)有(あり)ながら。あたら智能(ちのふ)を 抱(いだ)き。猶(なを)微々(びゝ)たる南朝(なんてう)に属(ぞく)し。区々(くゝ)として自(みづか)ら亡滅(ほうめつ)の時(とき)を待(まち)給ふやと問(とふ) 吉太(きつだ)額(ひたへ)を撫(なで)て曰(いはく)。我(われ)兼(かね)て南朝(なんてう)の公家原(くげばら)が。貪欲(とんよく)不義(ふぎ)なるを憎(にく)み。北朝(ほくてう)に 降(くだ)らんと思(おも)へども。さすか楠家(なんけ)の恩義(おんぎ)も捨(すて)がたく。又 弱(よはき)を捨(すて)□【てヵ】強(つよき)に降(くだ)らんも  西山(にしやま)善峯寺(せんほうし)に居(きよ)して盛(さかん)に宗教(しうけう)を弘通(くつう)ありし故(ゆゑ)に世(よ)に西山(にしやま)上人  と称(しよう)しまゐらす《割書:浄宗(しやうしう)西山派(せいさんは)の大祖(たいそ)と称(しよう)す|一世(いつせ)の行状(きやうちやう)は上人 傳(てん)に詳(つまひらか)なり》  当寺(たうし)往古(そのかみ)は大伽藍(おほからん)にして関東(くわんとう)の高野山(かうやさん)と称(しよう)し衆人(しやうしん)先亡(せんほう)並(ならひ)に逆(きやく)  修(しゆ)等(とう)の石塔婆(せきたふは)を建(たて)参詣(さんけい)の人も多(おほ)かりしとなり故(ゆゑ)にや今(いま)も古(ふる)き  石碑(せきひ)石仏(せきふつ)の類(たく)ひ此処(ここ)彼処(かしこ)に存在(そんさい)せり《割書:寺(てら)の大門より六七丁 東(ひかし)の方(かた)に|護摩堂(ごまたう)屋敷(やしき)と号(なつ)くる地(ち)あり》  《割書:不浄(ふしやう)なる時(とき)は祟(たたり)ありとて田畠(たはた)耕作(こうさく)|する事なしとて叢(くさむら)となりてあり》 光明寺池(くわうみやうしのいけ) 光明寺(くわうみやうし)の南(みなみ)に添(そ)ふ往古(そのかみ)の矢口(やくち)の川筋(かはすち)なりしといへり今(いま)は  水流(すゐりう)替(かは)りて南(みなみ)の方へ寄(より)て流(なか)る池(いけ)の長(なか)さ東西(とうさい)弐百 余(よ)間(けん)幅(はは)は南北(なんほく)へ  五十 間(けん)はかりもありとおほし《割書:里老(りらう)傳(てんに)云(いふ)記主(きしゆ)禅師(せんし)当寺(たうし)に住職(ちゆうしよく)たりし時(とき)|此池(このいけ)の鯉魚(りきよ)を取揚(とりあけ)頭(かしら)に朱(しゆ)をもて名号(みやうかう)を書(かき)て》  《割書:元(もと)の所(ところ)へ放(はな)ち給ふ其(その)余類(よろい)ありて今(いま)に折々(をり〳〵)浮(うかみ)出(いつ)ることもありといへり正月廿五日御 忌念(きねん)|仏会(ふつゑ)執行(しつきやう)の時(とき)は彼魚(かのうを)あまた水上(すゐしやう)に浮(うかみ)出(いつ)るとなり》 新田大明神(につたたいみやうしん)社 光明寺(くわうみやうし)より五丁南の方 矢口邑(やくちむら)にあり別当(べつたう)は古義(こき)の  真言宗(しんこんしう)にして真福寺(しんふくし)と号(かう)す高畑宝幢院(たかはたけはうとうゐん)に属(そく)す祭(まつ)る所(ところ)の神(かみ)は  新田左兵衛佐(につたさへうゑのすけ)義興(よしおき)朝臣(あそん)の霊(れい)なり十日を縁日(えんにち)とす拝殿(はいてん)のみを経営(けいえい)す 新田明神社(につたみやうしんのやしろ) 真福寺(しんふくし) 本社(ほんしや)の地(ち)は古廟(こひやう)なり則(すなはち)其回(そのめく)りに瑞籬(たまかき)を造(つく)り設(まう)く中(なか)は一堆(いつたい)の塚(つか) にして蒼樹(さうしゆ)繁茂(はんも)す《割書:此地(このところ)は昔(むかし)の奥州(あうしう)海道(かいたう)にして往古(そのかみ)は廟後(ひやうこ)耕田(こうてん)の地(ち)こと〳〵く|入江(いりえ)にして玉川(たまかは)の流(なかれ)も此地(このところ)に傍(そひ)て流(なか)れしとなり是(これ)を矢口(やくち)の》 《割書:沼(ぬま)と称(しやう)す長(なかさ)凡(およそ)三百 間(けん)斗(はかり)横(よこ)四十 間(けん)或(あるひ)は三十八間 程(ほと)ありといふ土俗(とそく)のいはく是(これ)も昔(むかし)の川筋(かはすち) |なりといへり今(いま)は水流(すゐりう)付(つけ)かはりたり》 鞍掛榎(くらかけえのき)《割書:社前(しやせん)にあり至(いたつ)て老樹(らうしゆ)なりしか|今(いま)はかれたりとてみえす》 古廟碑(こひやうのひ)《割書:社前(しやせん)左(ひたり)の方に建(たて)たり文章(ふんしやう)は服元(ふくけん)喬書(きやうしよ)は烏石(うせき)|葛辰(かつしん)なり古(いにしへ)は後(うしろ)の方へ向(むか)ふと云 今(いま)は社(やしろ)の方(かた)へ向(むか)ふ》