【枠外右上】 嘉永七年寅ノ十一月 【上段の一・二段タイトル】 《割書:大地震|大津浪》末代噺 二編   こは初へんに洩たる諸国をつまびらかに記す 【上段の一段目】 桑名津嶋佐夜 つなみちしん 宮名古や同事 あつたの宮別条なし 鳴海池鯉鮒 ちしん斗り 岡崎矢矧橋落る 人家少々崩る 赤坂御油吉田 二川白須賀 ちしん斗り 富士川川上山崩れ土砂流れ    水なし歩きわたり 荒井 ぢしんつなみ 浜松 舞坂 ぢしん斗り 見附 半崩れ 袋井 出火にて丸やけ 掛川 大半丸やけ 日阪 ぢしん斗り 金谷 下口より出火七部通り    やける 大井川 常水より水越し 嶋田 半崩れ 藤枝 岡部丸子 大ぢしん大火 府中 江川町より出火所々飛火    □□部通りやける 江尻 棒はなの茶やより    出火七部通りやける 興津 つなみにてながれ残る家崩る 由井 無難なれ共ちしん度々也 蒲原 問や場より東やける    西くづれる 吉原 丸やけ 原 沼津 三嶋 ぢしん斗り 箱根 山少々崩れ湖水吹出し    候へ共さしてさわりなし 小田原 大地しん半崩れ 大いそ 平塚 ふじ沢 大ちしん出火 戸塚 大ちしん    出火 程か谷  大ぢしん 神奈川 川崎 品川 大地しん     大つなみ 【仕切り線】  江戸 四日地しんは大坂同事 五日夜亥の刻 猿若町壱丁目より 出火二丁目三丁目 不残三芝居やける 聖天町山の宿町花 川戸町不残西は馬道 まで焼ぬけ東は大 川端夫より向嶋小梅 村へ飛火いたし九十丁 □□卯刻火鎮る 【上段の二段目】 阿波徳しま 同日大地しん大つなみ 其跡出火となり 御城下七部通り やける死人けが人 数不知 同小松嶋むや 大地震 大つなみ 淡州 ゆら須本 ふくら丸山 大ちしん つなみ 讃州 丸亀高松 金ぴら大てい同事 豫州 土州 大あれのよし 【仕切り線】 西国筋 播州 明石か古川高砂赤穂    網干姫路いづれも大坂    同事 備前備中備後 右同事 宮嶋 廻廊損じとうろう落る 岩国 きんたいはしそんじる 長州 萩長府上ノ関下ノ関    ちしんつなみ大損じ 豊前 小倉より九州路大てい    同事のよし 【仕切り線】 【図中】 阿波鳴戸 大なみ山の如く 汐の光り遠 方より見る時は 大はしらのごとし 【仕切り線】 芸州広嶋 御城角矢倉三ケ所 崩る御家中町家 大損じ此辺 大道一尺斗り われ泥水吹出る 【仕切り線】 泉州堺 大地しん大つなみ大坂     同事橋舟数多崩る 貝塚岸和田新立 みな〳〵同事 加田粟嶋 御宮崩る町家流る 紀州若山 大つなみにて人多く      損る 【仕切り線】 藤代湯浅 田辺日高 すへて此辺若山 同事大あれなり 熊野辺 山崩れ大あれのよし 高野山 大あれ石碑こける 南大和吉野 所々大あれ 北国若狭越前加賀中仙道 木曽海道信濃路 大地しん なれ共別条なし 惣而此度の地震は六十余州大 小共に震わぬ所なし一々忠記此 くだ〳〵しければ烈敷所は図にあ らわしこれにもれたる所は大ちしん なれ共別条なし猶書落し 書損も御座候はゝ板元江被仰可被下候 早速相改可申候恐々 【下段の一・二段タイトル】 今昔地震津浪説 むかし宝永の頃大阪大地震大つなみの節 諸人迯迷ふたる旧記こたびのさまに粗似たれば爰に記す 【下段の一段目左へ】 往古宝永四丁亥十月四日未上刻 大地震半時斗り不止人迯迷ふ事 如雲霞又申下刻より津浪参り 道頓堀日本橋迄廻船六七十艘 馳込五十石卅石の船は大船に押 倒される事数不知勿論日本橋より 西の橋は不残落る堀江川はほりへ はし迄落る長ほりは別条なく あじ川筋は堂嶋たみのはし迄 落るわたなべはしは大ぶん損じ往 来止メ寺嶋勘介しま上下ばくろ此辺 家々不残流るあわざ新うつぼ 京町ほり大分崩れざこば大半 崩れ残りは流ルかつを座は不残 崩れ死人夥敷舟場は堺すじより 東は別条なく西は一丁ごとに五軒 七軒崩れ御霊前東がは北がは共 家一軒も不残崩れ御輿蔵弁天 堂荒神社不残崩る本社は 別条なし鳥居ざんじに折る道 修町ふしみ町なにははしより西は大 かた崩れ瓦町より唐物町まで 【仕切り線】 【図中】 宝永時代 大つ なみ の図 堂嶋川 西より たみ のはし迄 落る道とん ぼり川西より 日本はし迄落る 【仕切り線】 心才はし迄角やしき所々崩れ北久 宝寺町北角迄不残崩れ北御堂 茶所崩れ本堂はしらさける南御堂 別条なく惣じて大坂中堺すじより 西は一町に五軒十軒つゝ崩れ角やしき は不残崩れ富家の衆は下やしき 上場町辺へ迯行下々は御城ばゝへ 迯る事如雲霞の夜に入 御城代土岐伊豫守様より御目 附御医師衆など御廻し有之御薬 被下旨被仰其後は又々 御町奉行様より右同断之由 仰被渡候 御城は鴫の口御門落候へとも 早速御修覆外廻り少々損じ 候へ共別条なく 上町東天満は無別条蜆川堂 嶋中の嶋不残崩れ嶋の内は 道とんぼり同事新町別条なし 惣じて大坂中四五日の間門を〆て 商賣相休七日目より無事の町々 店を出し候へ共昼夜又七度震ひ 【下段の二段目】 候へば中〳〵商ひ所ではなし火事の由 風聞いたし候へ共町々用心厳敷 人々帯を不解昼夜辻番いたし 候へは火事は無之候 一 棟数 六百三十軒 一 竃数 一万六千 一 死人 六千人 一 水死人 一万二千人 一 落橋 卅六はし 右之通去る家之旧記を爰に出す 但し宝永四亥年より今嘉永七寅 年迄百四十八年になる 大地震つなみ年代略記 白鳳十九甲寅十一月七日 治承三己亥十一月七日 正中元甲子十一月十五日 天正十三乙酉十一月廿九日 慶長十八癸丑十月廿五日 寛永十癸酉正月廿日 慶安元戊子年 寛文二壬寅五月京大地しん 五条はし落る 同十庚戌八月大つなみ溺死多 元禄十六癸未十一月廿三日 宝永四丁亥十月四日大地しん つなみ溺死多し 宝暦元辛未二月京大地しん 同十三年癸未九月大つなみ 安永三甲午八月大つなみ 天明二壬寅七月江戸大地しん 文化元甲子六月出羽同 文政二乙卯六月大地しん 同十一戊子八月九州大つなみ 天保元庚寅七月京大地しん 弘化四丁未三月廿四日信州大地しん 嘉永六癸丑四月小田原大地震 今嘉永七甲寅六月十五日 同十一月四日大地しん同五日 大つなみ 右大略記し候へ共年月日之 相違も御座候得共御知らせ可被下候 早速相改可申候已上 【仕切り線】 【図中】 宝永 時代 御城馬場江 市中町人 迯あつまる の図