357 527【貼付ラベル】 特《割書:266|72》【手書】 《割書:豊橋市史編纂委員|豊橋観光協會理事》豊田珍彦著 豊橋市及其附近案内 東三河道中記 全 豊橋 日吉堂書店 帝國図書館蔵【所蔵印】 昭和一〇・八・六・内交・【所蔵印】 序  愛國観念の源泉は郷土愛に存する、郷土精神を涵養す るには郷土を識らしむることを第一義とする、是れ郷土 史の重要なる所以である。 抑も郷土史の編纂は容易の業でない、その背景たるべき 歴史に通暁し郷土史の本質主體を理解し、加ふるに透徹 せる史眼を有し文才亦豊富の士に非ずんば能ふ所でない 頃日友人豊田珍彦君東三河道中記を編纂し携へ來り予に 序を需めらる、君は東三河八名郡舟着村の産先考伊之吉 君は多年自治公共に参劃し帝國議會開設以來俱に談じ俱 に語りて管鮑の誼を盡した、其後豊橋に転住したので共 同事業など經営して彌々交りを深めたのである。當時珍 彦君は職を軍隊に奉じ後家庭の主となつて薬店を經営し 其傍ら靑年時代より趣味とする歴史の研鑽にふけり史跡 の研究に努め現に豊橋市史編纂委員を嘱托されて居る。 東三河道中記は君が蘊蓄を語る史眼と文才の現はれであ るが鄕土人に便益を與ふると共に外來者の為にもよき案 内書として貢献する處偉大なるものがあらう。  昭和十年七月 《割書:豊橋市長|豊橋観光協會長》神戸小三郎 自序  由來東三河の天地には外來者に紹介する程の名所舊跡は余りない やうに鄕土人自らが云ふ、然るにこの方面を研究して見ると事實は 全く反對で到る處に賞すべき風光があり、語るべき遺跡がある。即 ち決して乏しいのでなく知られてゐないのであるから之等の名勝舊 跡の一般を鄕士【ママ(「土」の誤植か)】人に語ると共に外來者の方々に紹介する案内書が必 要となつてくる。  尤も今迄にこれに關した若干の冊子は公刊されてはゐるが其の多 くは斷片的羅列的で案内人なくしては観光の目的を達する事も出來 ずまして案内書によつて人々の遊意をそヽるやうなものは見當らな つか【ママ(「かつ」の誤植か)】た、そこで案内書の要らない案内書を目標に書いたのが本書で ある。従つて本書を手に市内を巡り市外に遊ばヾ案内者の必要もな くほぼ其の目的を達する事の出來るものと信ずる。  本書の記述は著者の創意になり、從来の案内記と趣を換へ市内は 順を撰み著者自身が案内する心持ちで述べ、市外は實際の位置を観 光の順序に書いた。本書を上下に分けたのは其の為で上巻を市内に 下巻を市外に充てた。又附録とした東三古謡集は著者が年來蒐集し た中から古典味と郷土色豊かなのを撰んだもので、これによつて東 三河に於ける古い情操を偲び得られると共に何かしら我々の魂に触 れるものがあるやうに思はれたからである。    昭和拾年七月  著者識 東三河道中記 上巻 目次  第一日 市内東部方面 一七頁 豊橋驛    一七  岡田屋旅館   一八 豊橋市の大勢 一九  松月堂菓子舗  二六 喜見寺    二六  天神社     二七 田中屋呉服店 二八  豊橋別院    二九 白山比咩(はくさんひめ)神社 三二  牟呂用水路   三三 諏訪神社   三四  首斬地蔵    三四 松山神社   三五  潮音寺     三六 松林寺    三七  野口神明社   四〇 神宮寺    四一  西光寺     四三 龍/拈(ねん)寺      四三  時習館   四七 琵琵【琶】塚      四九  吉田城   四九 屯營       五一  縣社神明社 五二 神武天皇御銅像  五四  大松    五五 八幡社      五五  野牛門   五六 青龍寺、大蓮寺  五七  郷社神明社 五八 東田古墳     五九  二連木城址 五九 法言寺      六一  鞍掛神社  六一 戸田宣光の墓   六二  古墳    六三 徳合長者     六四  船形山   六四 全(ぜん)久(きゆう)院     六五  臨済寺   六六 陸軍墓地、楠公祠 六八  /豊(とよ)城(き)神社  六九 願(がん)城(じよう)寺     六九  不動院   七〇 常夜燈      七二   第二日 市内西部方面  七五頁 安(あん)海(かい)熊野神社   七六  妙圓寺   七八 本陣址      八〇  問屋塲址   八一 悟眞寺      八二  縣社吉田神社 八七 廣徳寺、賢養院  九一  郷社神明社  九三 大橋       九六  /聖(しよう)眼(げん)寺  九九 明治天皇御小休所 九九  龍運寺   一〇一 納豆      一〇二  稲田文笠  一〇三 稱名院     一〇三  大聖寺   一〇六 長全寺    一〇七  羽田八幡社  一〇八 羽田文庫   一〇九  浄慈院    一一三 牟呂八幡社  一一五  坂津寺址   一一七 専願寺    一一九  三ツ山古墳  一一九   上巻 目次終  東三河道中記 下巻 目次   第一信 小坂井、國府、八幡方面 一二三頁 菟(う)足(たり)神社  一二四  五社稲荷   一二八 欠(かけ)山(やま)貝塚  一二九  醫王寺    一二九 報恩寺    一三一  多美河津神社 一三三 稻荷山貝塚  一三三  東漸寺    一三四 伊奈八幡社  一三六  本多家墓地  一三七 銅鐸發見地  一三八  伊奈城址   一三八 新(しん)宮(ぐう)山古墳 一四〇  昌林寺鐘   一四一 守(しゆ)公(こう)神社  一四三  観音寺    一四三 總社     一四五  八幡社    一四六 國分寺    一四七  國分尼寺   一四八 財(ざい)賀(か)寺   一五〇  芭蕉句碑   一五二 西明寺    一五三  芭蕉句碑   一五五 宮路山    一五五  正法寺    一五六 長福寺    一五六   第二信 豊川、新城、鳳来寺方面 一五九頁 大(お)蚊(が)里(さと)貝塚   一五九  大村     一六〇 一色城址   一六〇  熊野神社   一六一 光輝庵    一六二  中條神社   一六二 八幡宮    一六三  妙嚴寺    一六四 三明寺    一六六  加茂村    一六九 麻(あさ)生(ふ)田(だ)、牧野村 一七〇  穂國故地    一七一 砥(と)鹿(が)神社   一七二  本宮山    一七四 野田城    一七五  芭蕉句碑   一七七 永住寺鐘   一七七  太田白雪   一七八 大脇寺佛像  一七九  蜂巣岩    一七九 石(いは)座(くら)神社  一七九  酒井忠次軍  一八〇 信玄塚    一八一  牧野文庫   一八二 長篠城    一八二  鳳來寺    一八四 田峰観音   一八八  郷土資料保存會 一九〇 馬(うまの)背(せ)岩  一九〇  /服(はつ)部(とり)郷   一九二 阿寺七瀧   一九二  /乳岩(ちいは)、天然橋 一九四 花祭り    一九六   第三信 東部方面 石巻神社   一九九  /正(しよう)宗(ぢう)寺  二〇一 嵩(す)山(せ)蛇穴  二〇三  /馬(ま)越(ごし)古墳  二〇四 岩屋山    二〇五  芭蕉句碑   二〇七 普門寺    二〇八  東觀音寺   二一〇   第四信 渥美郡方面 二一五頁 王塚古墳   二一六  十三本塚  二一六 高師小僧と長葉石持草 二一七  車神社 二一八 大津神戸   二一九  高縄城    二二〇 大平寺    二二一  妙見古墳   二二二 百(どう)々(どう)竈址  二二三  砲台址    二二三 長仙寺    二二三  田原城    二二四 池の原邸   二二六  華山墓地   二二六 城寶寺古墳  二二六  芭蕉句碑   二二七 吉(よし)胡(ご)貝塚  二二七  長興寺    二二九 谷の口銅鐸  二二九  阿志神社   二二九 鸚鵡石    二三一  村松銅鐸  二三一 伊川津貝塚  二三二  間宮氏    二三二 芭蕉句碑   二三三  /平(ひら)城(き)貝塚  二三四 川地貝塚   二三五  泉福寺    二三六 經瓦     二三六  伊良湖神社  二三八 瓦塲     二三八  糟谷磯丸   二三九 日(ひ)出(い)石門  二四〇  醫福寺   二四一   第五信 御油、蒲郡方面 御(み)津(と)神社  二四三  大恩寺    二四四 國坂越へ   二四七  寶住寺    二四八 養圓寺    二四八  三谷町    二四九 竹島     二五一  赤日子神社  二五二 安樂寺    二五四  /清(せい)田(だ)大楠  二五四 天桂院    二五五  坂本古鐘   二五六 長泉寺    二五七  形原神社   二五八 郷土雑感   二六〇  東三古謡集  二六七   下巻 目次終 東三河道中記 上         豊田珍彦   第一日  ヤアどうもお久し振りで、相變らず御壮健で誠に結構です。過日 は御手紙を頂き、昨日は又電報を下さいましたので、手具臑ひいて 待構へて居たわけです。此度こそは充分に御見物なさるやう、こヽ にプログラムも作つてありますから、残らず御案内出來ると思ひま す。サアどうぞ、これが豊橋の玄關口です。 豊橋驛【ゴチック見出し】 御覧の通り驛はあまり大きい方ではありませんが、燕の 外は特急も止りますし大變に都合はよいのです。ご承知の通りこの 驛は明治貳拾壹年九月一日の開業で、其頃は大層珍らしがられ乗客 よりはむしろ見物に來るものヽ方が多かつたといひます。其の珍ら しさのあまり飛んだ間違ひが起りました。それは開業して間もない 廿貳年の一月廿日に豊橋分營の兵士がこれも矢張り見物た【ママ・「に」の誤植か】來た處、 驛員に侮辱されたとかいふので、越えて廿四日貳百五拾人位の兵士 が、この驛を襲撃し手當り次第に器物を破壊し亂暴を働くので、驛 長以下悉く逃げ出したといふ椿事です。此時は兵士の方で拾六人が 處刑され落着しましたが、今に話の種となる程の騒ぎだつたと申し ます。   處でまだ少し早いから、その邊で宿をとり腹でも作つてから緩く   り御案内致しませう。今度はお急ぎでもありませんから、四五日   がかりで豊橋市内から、附近一帯を見て頂きたいと思ひます。 岡田屋旅館【ゴチック見出し】 宿は中央の札木方面にも二三よいのがあります が、驛前ならば交通の便もよし、代表的なのがありますから、此邊 で宿をとる事に致しませう。アノ向ふに見える岡田屋、アレがよい でせう、サアお上り下さい。この宿はもと遠州の白須賀で、古くか らの本陣だつたのが、鐵道開通と共に、こちらへ越して來たのです 何でも大石良雄が度々泊つた事があり、最後の東下りには記念に刻 煙草を一玉くれて行つたのが今にあるさうです。市内では一流の宿 屋で設備も整つて居り、親切で居心地がよいといはれて居ります。 豊橋の大勢【ゴチック見出し】 膳が参りましたから、喰べながら市の大勢をお話 しませう。昭和五年の國勢調査では戸数が一八、三一五、人口が九 八、五五四ありました。今都市計劃も進行中で、それに昭和七年八 月一日附近の四ヶ村を併せ、面積は六、八一七方里、人口が約拾五 萬といふ中流都市へ躍進致しました。 交通の方で申しますと、豊橋驛を中心として四方へ通じて居ります が、最も古いのが明治三十三年に開通した豊川鐵道で、其終点の長 篠驛からさき、川合驛までが鳳來寺鐵道、其川合驛から先が三信鐵 道で、やがては伊奈電鐵を通じて中央線に連結しますので、軍事上 にも産業上にも非常に期待されてゐます。途中鳳來寺鐵道鳳來口驛 から分岐して田口鐵道が北設楽郡の田口町まで通じ、又西の方へは 愛知電鐵が岡崎を経て名古屋へ通じて居ますが東海道線に較べて距 離がやヽ近く、時間も節約されるので喜ばれてゐます。南へ行くの は渥美電鐵で、是は渥美半島の突端伊良湖まで行く計劃ですが、ま だ途中の、田原町の少し先までしか通じて居りません。それと此處 から遠州濱松まで行く遠三電鐵といふのが計劃された事がありまし たが、この方は實現せずに終りました。其代りといふ譯でもないで せうが、二川驛から遠州二俣へかけて、軍用線が敷かれることにな つたと聞いてゐます。市街電車は大正十四年の開通で、狭い土地に も拘はらず相當の成績を挙げてはゐますが、一般に自動車全盛の時 代の事とて、東海道線、各電鐵なども共にこの自動車から非常な脅 威を受けて居る事は事實です。この為に省營自動車が二川町まで通 じ、行々は濱松まで延長する筈になつて居り、豊川鐵道が豊川まで バスを運轉する外、田原方面や前芝、牟呂、加茂村などへも一日数 回のバスが運轉されてゐます。 産物は御承知の生糸、玉糸の外に全國に知られるやうなものはあり ません。玉糸は全國一で、御覧の通り西から南にかけて林立して居 ます煙突、あれが皆製糸工場のもので、幾百の工塲に一万人からの 従業員が働いて居ます。原料の繭はこの地方でも可なり産出します が、玉繭の方は全國から集つて來るのに、それで居て尚原料不足に 悩んで居る程で、全國に類のない乾繭取引所もある位です。 養蠶に就いては延喜式にありますやうに、近江、伊勢と共に上糸國 となり、色々と精巧な織物を出して居りますが、それを初めたのは 雄略天皇の朝にこの邊へも分置されました帰化人の泰人達であつた やうです。市内の花田はもと羽田と書きまして、泰の字を用ひた文 書もあり、随分古くから養蠶の盛んな土地であつたといはれて居り ますが、中世に於きましては木綿に壓倒され甚だ振はなかつたので あります。處が明治になつて急激な發達を遂げ、農家などどちらが 本業か分らない位で、従つて豊橋地方の経済界は、繭糸と重大な關 係を持つて居る譯であります。 其他に産物と申しますと麻眞田加工品、毛筆、三州味噌それに海苔 位なもので、其他はマア附帯工業といつた所でせう。この毛筆は延 喜式にも三河から献る規定があり歴史も古く、海苔の方は歴史こそ 新しいが大都市へ進出して相當聲價を挙げてゐます。 豊橋と云ふ名は、明治二年六月二十三日に吉田を改めたもので、こ の吉田は甲州にもあれば四國にもあり紛らはしいので改めたといひ ますが何れ大名などの勢力關係もあつた事と思はれます。この豊橋 は吉田大橋といふ豊川に架けられた橋の別名をとつたもので今日で は町の名も橋も同じ豊橋です。地圖を御覧下さると分りますが市の 西北部が一段と低くなつてゐます。此低い方面は昔然菅海と云はれ 豊川河口に當る入り海で對岸一里先の小坂井までの間を船で渡つた といひ傳へて居ります。然し中間に當る所々に砂洲など相當な陸地 があつたものと見えまして、そこに先史時代の貝塚があつたり、原 史時代の古墳があつたりします。また台地の所々にも貝塚がありま                          二四 すが、小坂井方面のやうに遺跡は豊富でないと思はれます。 豊橋の歴史は余り古い事は分りません。鎌倉時代以前の事は和名抄 に磯邊、高芦、多米などの郷名が見える外、伊勢神宮の神戸が天慶 弐年に置かれてゐます。これは飽海新神戸と申しまして戸数で十戸 ありましたのと、又薑御園、岩崎御園、橋良御厨、高芦御園、野依 御園と五ヶ所の名が伝はつて居るのに過ぎません。然し牟呂とか飯 村とかいふ原始的の名を伝へた処もあり、先史時代の遺跡も間々あ りますから、遼遠の古代から人間の住んでゐた事は事実と思ひます それと今一ツ、類聚三代格にある承和弐年の太政官符に渡船増加云 々とある飽海川は豊川の古名と考へられ、古来東海の官道に当つて ゐたらしく、そこへ発生した部落が神戸の設置によつて多少発展し たかと考へられますが、漸く著名になつたのは、戦国時代に入つて からの事で、永正の頃牧野古白によつて築城され、それ以来城下町 として発達したものと見なくてはなりません。夫等の遺跡も追々に 御案内する考へですが、余り古いものは市中に無く、反つて市外に 多少御目にかけるやうなものがあるかと思はれます。  食事も済みましたから、ぼつ〴〵出掛けませう。順路は私にお任  せを願つて、最初に先づ電車線路に沿うて歩いて見ませう。この  駅の出来た当時は町の片隅だつたのですが、今日では殆んど中央  になりました。道が三方に岐れるこの中央のは旧停車場通りで駅  へ出る為めに鉄道の開通、間もなく開かれた路です。左は船町線  と申し、先に申しました豊橋の豊橋へ行く路、右は新停車場線と  いはれ、大正四年開通になつたものです。こゝ三四町の間は何も  御案内するやうなものはありません。                          二五                          二六 松月堂菓子舗  この左側角にある菓子舗の主人は河合岩次君とい ひ豊橋では珍らしい発展家で、階上を喫茶部とする外吉田名菓等を 出し、最も進歩的な経営をやつて居られる代表的商人の一人です。 喜見寺    あの左に見えるのが喜見寺で、ここは新銭町といひ ます。この寺は南朝の元中七年、北朝の明徳弐年に吉見太郎某とい ふものが建てたので、初めは吉見寺と書いたといひます。最初は臨 済宗で鎌倉建長寺の末寺だつたのを、大永五年に禅宗に改め、やは り市内にある、龍拈寺の末寺になつたといひます。もと野口山とい ふ山号でありましたが、このすぐ近くに妙徳院と云ふ寺があり、頽 廃に及んで寛永六年にこの寺へ合併され、その妙徳院の山号が呉服 山なのでそれ以来この山号を用ふる事になりました。本尊は聖観音 ですが、この左手にある文珠堂、それにもと妙徳院の本尊だつた文 珠菩薩像が安置してあります。一尺一寸余りの座像で、多少後世の 補修もありますが、よい出来で藤原時代の作だらうといはれてゐま す。以前喜見寺に、三石、妙徳院に一石五斗の朱印地を貰つてゐま した。本堂が近く新築になり立派になりましたが市街宅地を沢山持 つてゐて、有福な寺ださうです。  少し東へ参りますと、四ツ角です。こゝから左へ参りますと右側  に天神社があります。 天神社    本社は名の通り菅原道真公をお祭りしてあります。 創立の時代は分りませんが、昔羽田の辺へ流れついた神像を、其附 近で祭つたのが初めで、天文の頃岩崎玄朝といふ者が此処へ遷し祭 つたといひます。今のこの拝段は延宝弐年に城主小笠原壱岐守長矩 の造営に係り、殆んど全部が欅を用ひてあります。格天井の絵は天                          二七                          二八 保の頃此附近の画家に一枚づゝ描かせましたが、この先の花園町に 鈴木三岳といふ画家があつて、同様一枚を引受けは致しましたが、 何かの都合でその代作を田原の渡邊崋山に頼みました。そこで崋山 は月に雁の絵を描いてよこしたのですけれども、其時崋山からの手 紙に、随分あしくきたなく描いたつもりだからたとへ私と疑はれて も決して代筆の事は洩らさぬやうといつて來ました。其手紙と実物 とは厳重に保管され、今は写しが嵌めてありますが、此等は中々面 白い事と思ひます。  此処を北に向ひますと花園町で、さながら呉服町とでも申したい  位に呉服屋が軒を並べて居り豊橋一の田中屋呉服店もこの町にあ  ります。 田中屋呉服店  当主は国府町の竹本家から入つた人ですが兄弟が 多く、其兄弟の一人はこれも豊橋一の酒問屋川清商店主であり、他 の一人は素封家福谷家をついで医学博士、今一人は東北帝大に冶金 工学の権威として令名ある西沢博士、其上に竹本家は地方に聞えた 製油工場を経営して居られ、兄弟揃つてその道の成功者という訳で す。 豊橋別院  次は程近い東本願寺派豊橋別院へ參りませう。門前に 並ぶ寺は北側が浄円寺、正淋寺、蓮泉寺で南側が仁長寺、応通寺で す。この五ヶ寺の間を通り重層の楼門を潜ると、正面にあるのが本 堂です。明治四年に焼失しまして、之は其後の建築ですが、入母屋 流向拝で市内では代表的の大建築です。もと西竺山誓念寺と云つて ゐましたが、後に吉田御坊と改め、更に又豊橋別院と呼ぶ事になり ました。庭にある鐘楼は寛永弐拾壱年の建築、鐘も其年に出来たも                          二九                          三〇 のです。これと楼門とが市内で一番古い建物だと思ひますが、後世 に手が入り過ぎた為、昔の面影は余り残つてゐないやうです。鐘の 銘は本願寺の十三世宣如上人の撰文で、鋳工は宝飯郡金谷の中尾四 家です。 門前にある五ヶ寺のうち蓮泉寺と応通寺は、古い書物によると山内 にあり、他の三ヶ寺は門前にありと書き分けてありますから門の位 置が変つた事が知られます。この蓮泉寺は南朝の正平十六年八月の 建立で開祖は足助の人舟橋兵庫頭といひ、南朝の遺臣でありますが 初め碧海郡の上宮寺で僧となり、名を慶信と改め、後故郷に近い下 山と云ふ処に正行寺を建て、更にこちらへ移りました。正淋寺は永 正六年に川毛といひまして、今の城跡の辺に建ちました。開祖は玄 栄といふ人です、少し遅れて、大永弐年に応通寺が建ちました。 これは初め無量寿寺といつて、開祖の源明は碧海郡平坂、無量寿寺 の了源の三男でした。それと殆んど同じ頃浄円寺も建つたのですが 開祖は了証といつて、山科本願寺の第九世実如上人の弟子で、こち らへ来ました処、頗る武道に達し城主の知遇を得て、一寺を建立し て貰つたといひます。以上四ヶ寺は本坊と共に川毛にあつたのを天 正弐年に城地拡張の必要から今の地に移転させられたといひます丁 度其頃仁長寺も都合で宝飯郡伊奈から移転して来て、今見るやうに 五ヶ寺になつたのだと言ひます。本坊の方はこの移転地が西竺寺と 云ふ廃寺の跡であつたとか、又は本坊そのものゝ前身を西竺寺と呼 んだとか申しますが明らかでありません。その西竺寺のものとして 文治五年の鐘が伝はつてゐたのを火災で失つたと伝へてをります。 本尊は何れも阿弥陀如来ですが、余り古いのはありません。仁長寺                          三一                          三二 の寛永十七年、蓮泉寺の慶安三年位が古い処で、建築としては浄円 寺の庫裡が宝永頃で一等古く、他は御覧の通り何れも新しいもので す。こゝで申し上げたいのは浄円寺に了願と云ふ僧がゐて文化年間 に経蔵を建て明本の一切経を備へ付けた事と、最近蓮泉寺の舟橋水 哉氏が三舟文庫を建てられた事で、その了願は非凡の僧でありまし たし、水哉氏は元大谷大学教授、今は退いて居られます、原始仏教 史の権威で著書も沢山あり、鉄筋コンクリートの文庫と共に、断然 山内に異彩を放つて居られます。  次は今来た道を四ッ角まで戻りまして、南へ入りますと、左側に 白山比咩神社  があります。創立は保延弐年の六月、祭神は伊弉 諾尊外一柱であります。もと札木町に魚町の安海熊野神社と一所に あつたのを天正十八年城主の池田輝政が城を城張するに当つてここ へ遷したものと云ひます。この社では寛文五年に神輿が出来てから 七月十七、八日に花祭りと云ふのが行はれましたが今は廃絶致しま した。この附近は新銭町といつて、寛永十四年に幕府の命を受けて 新銭を鋳造した事から起きた名だと申します。吉川駒曳銭といふの は其時数取りに造られた絵銭です。 この社の神職は鈴木氏で、土佐守を名乗つた梁満呂は天明四年に本 居宣長の門に入り、豊橋最初の国学者でした。其子の、陸奥守を名 乗つた重野、是も寛政元年に同様宣長の門に入った人で、郷土人と して相当敬意を払ふべき人物です。墓は二人共に中世古町花谷院に あります。  道の都合で今少し南へ参りませう。小さい川が流れてゐます。 牟呂用水路  俗に新川といつて、この先の神野神田へ引く為に明                          三三                          三四 治廿七年に完成した水路で、水源は豊川の上流にありまして、一鍬 田と云ふ処に取入口を設け、延長は五里にも達しまして、今日では この地方一帯の灌漑に用ひられ、非常な利益を与へてゐます。 諏訪神社  水路の橋を渡つて少し行つた処の左側にあります。こ の社の御立は永仁元年といはれてゐますが詳しい事は分りません。 祭神は建御名方尊となつて居り、以前祭の時は先に寄りました白山 比咩神社の神輿はここまで渡御せられたといふ事です。 首切地蔵  この附近一帯を中柴町といひますが、この辺にもと首 切地蔵といふのがありました。寺名は蓬沢山桂徳寺とかいつて地蔵 が祀つてあつたのです。いつの頃からですか上伝馬町藤三郎といふ 者の妻が、二人の子供を失つたのを悲しみ、毎夜此処を通つては小 池の潮音寺の観音様へお参りを続けてゐました。処が藤三郎は毎夜 妻が出て行くのを密夫でもあるのではないかと疑ひ、そつと跡をつ けて行くと、果して二人連で行きます。忽ち切りつけました処、そ れは地蔵様が妻を送つてくれたので、其時首を切落されて以来、首 切地蔵の名がついたと申します。場所はどの辺だつたかよく分りま せん。少し行きますと今度は右へ曲ります。この道は以前渥美郡へ の唯一の往還路でしたが、新道が開けてからすつかり淋しくなりま した。右側は素盞雄尊をお祭りした 松山神社  です。もと渥美順慶といふものが創立したといひます が、中絶してゐたのが明治三年再興されたのです。  もう少し行きますと鉄道線路で、これに沿つて東に行きますと川  があります。柳生川といひますが、この下流は耕地整理に伴つて  運河が作られ、河口の牟呂から水運の便が得られるやうになりま                          三五                          三六  したから物資の集散に非常に役立つだらうと期待されてゐます。  この南が小池町で、その向ふに見える台地には、もと第十五師団  の兵営が置かれましたが、軍縮で廃止になり、今は教導学校、兵  器支廠などあるに過ぎません。線路を越して向ふの樹立まで行き  ませう。之が先程申しました藤三郎の女房の通つたといふ 潮音寺   で俗に潮満ちの観音様といはれてゐます。曹洞宗で市 内龍拈寺の末寺ですが、行基の創立といひ鎌倉時代には相当立派な 寺だつたと申します。其後吉田城主の池田輝政や小笠原氏などの庇 護を受けた事もあり、御覧の通り仁王門、本堂、観音堂などがあり ます。有名な観音様は、一尺五寸許りの木彫で背に慶長廿一年三月 吉日とありますから其頃のものでせう。前立の出来はよくありませ んが時代はずつと古く、堂は寛文年間の建築です。三間四面の入母 屋造りへ流れ向拝がつき三ッ斗組が使はれ、また斗束には実肘【月+斗】木が 使つてあります。仁王門は近頃のものですけれども、仁王尊には元 禄拾弐年九月吉日京都寺町通り三条大仏師齋藤左近法橋浄慶作と銘 があります。  これから先き、まだ〴〵御覧を願ふ処が沢山ありますが道順の都  合で引返します。この大路が先に通りました松山町の繁華を奪つ  た新道です。どうも豊橋の道は真直なのが少く、昔城下町時代に  は敵に見透かされなくてよかつたかも知れませんが今日それを踏  襲する必要はないと思ひます。この道なども出来た当時などノラ  クラ街道などといはれたものです 松林寺   左手に大きな建物が見えませう。これが松林寺で豊橋 では一等古い歴史を持つた寺なのです。御覧の通り最新式の建物で                          三七                          三八 一寸公会堂といふ感じがします。建築は大体信州善光寺のそれを取 つたのではないかと思ひます。横手に千体骨地蔵といふのが祀つて ありますが、これがなか〳〵面白い由来を持つて居るのです。  寺伝によりますと、鎌倉の執権北条経時の時代に、筑紫の大守に  原田次郎種猶といふ者がありました。鎌倉に出仕した時、高橋修  理大夫といふ者の為に讒言せられて、遂に永牢入りとなり、十三  年間も捉はれの身となつてゐました。その種猶の一子に花若と云  ふ者がありまして、父が国を出る時はまだ母の胎内でしたが、何  とかして父を救ひ出さうと思ひ、十三歳になると家来の藤王丸を  連れて鎌倉へ出で、先づ由比ヶ浜に父の戦場を弔ひ、枯骨を集め  てそれで千体の地蔵尊を作りました。そして之を厨子に入れて藤  王丸に負はせ、鎌倉中を托鉢して廻りました。処が其花若は頗る  美しい児でしたので、地蔵様の化身だといふ評判が立ちました。  これを時の執権北条時宗が聞き花若を召出して会つて見ました。  色々法談などをしました揚句花若は牢獄に居る人達を見る事を乞  ひました。許されて巡つて見ると土牢に居る一人が、自分の恋慕  ふ父でありましたので、色々執権に話し漸く赦免を得、足腰も立  たぬ程衰弱してゐる父種猶を介抱をしつゝ国へ帰へる途中、こゝ  迄来て種猶は遂に死んで了つたのです。そこで花若は此処に寺を  立てゝ千体骨地蔵を祀り、父の菩堤を弔つたのだと言ひます。  尚開山の春岳栄陽尼は花若の母だという事です。 この門前に呉竹の井といふのがありますが、これは羽田の栄川の泉 と共に豊橋の名水として好事家の間に賞翫され、この名は山田宗遍 がつけたといふ事です。今は両方共殆んど湧出が止まり、其名許り                          三九                          四〇 となつたのは誠に惜しい事と思ひます。  これから北へ向つて歩きませう。東側にあるのが謂信寺で、大正  八年に渥美郡野田村かち【「ら」の誤植か】移転して来たものです。少し先の左側に  ある建物は武徳殿でありまして、名古屋武徳殿の支部となつてゐ  ます。又新川を渡ると左側に小さいお宮がありませう、天白稲荷  社といつて魚町安海熊野神社の末社でありましたのを天文の頃此  処に祭つたといひます。次は俗に野口の神明樣といふ 神明社   で、これは以前この辺を野口といひ、社家も野口氏だ つたからですが、今は神明町といひます。創立は天正十一年ださう で、勿論天照大神をお祀りしてあります。豊橋地方は昔伊勢神宮御 領が多かつた関係で神明社が多く、外にもまた数社あります。こゝ にはキリシタン遺物としてマリアを刻んだ灯籠があり、私が大阪毎 日に発表してから見に来られる方もあるさうです。来歴など調べて 見ましたが一向に分りません。  このキリシタン灯籠は御覧の通り竿が十字架を象つたのが特徴で  此地方に沢山ありますが、本当の潜伏キリシタン遺物と見られる  やうな古いのは、これとすぐ近くの森富蔵氏方にあるのだけで之  には像はあるが文字がなく、森氏のは像と文字とある非常に立派  なものです。今度は向側に移りますと 神宮寺   があります。山号を白雲山といひ天台宗で比叡山延暦 寺の末寺となつてゐます。維新前は江戸東叡山寛永寺の直末で別に 寿命院といふ称号を貰つて居たさうです。創立は慶長元年ですが、 寺の言ひ伝へではもと此処に長禅寺といふ寺がありまして荒廃して ゐましたが、これを開山の重心僧都が再興したといひます。本堂は                          四一                          四二 貞享二年の再建にかゝり、四注造りに舟肘木が使つてあります。隣 にある護摩堂、これは三間四面の入母屋造り流れ向拝の妻入で三斗 の出組が使つてあります。寛政頃の建築でせうが、総体が欅造りに 縁板は楠といふ豊橋としてはよい建物です。鐘は貞享二年の鋳造で 本堂と一所に出来たもの、山門は元禄十四年に久世山和守が建てた ものです。本尊は大日如来の座像で三尺ばかりの木彫で、寺伝では 雲谷の普門寺にあつたものといひ、今は後世の補修によつて時代な ぞ分らなくなりました。或は鎌倉末期か室町初期ではないかとの説 もあります。護摩堂の不動さまは衣服の盛上げ模様といひ、玉眼の ある点から室町初期のものであらうと思はれます。これは寺伝では 寛延二年に碧海郡刈谷の嵩福寺から譲り受けたものといつて居りま すが、智証大師の御作といふはどうでせうか、維新前は除地で三十 一石六斗を貰つてゐました。 此処の墓地に飯野柏山の墓があります。太宰春台の門人で吉田に於 ける一方の重鎮でしたが、寛政七年に七十九歳で没して居ります。 次は少し東へ参りまして南側にあるのが 西光寺   で創立は慶長六年、本尊はもと神宮寺にあつたといふ 阿弥陀如来です。維新前は黒印、三石持つてゐました。近頃住職の 発案により十二月に酉の市を開き、相当な賑ひをみせて居りまして 昔の情緒に乏しい豊橋としてはよい趣向だと思ひます。  次は境内を通りぬけて 龍拈寺   へ参りませう。この門前にある土塀の一廓、これは寺 の開基で、初めて吉田城を築いた牧野古白の墓だといふ事になつて 居ります。こちらが山門で元禄六年の建築ですが切妻破風造りで三                          四三                          四四 ツ斗が使つてあり、比較的釣合のとれた建物と云へませう。裏手に ある地蔵様、これは豊橋での二大露仏で、正徳六年に出来て居りま す。サア本堂の方へ参りませう。右手の鐘楼は新らしいものですが 鐘は元禄四年に出来たもの、左手は羅漢堂で、正面の本堂は宝暦十 一年の建築にかゝり、十一間に九面の入母屋造り本瓦葺といふ堂々 たるものです。この羅漢堂の裏にある旧鐘楼は、二間一面の四注造 り慶文元年の建築ですから、豊橋としては古い建物だと云へませう 匂欄の擬宝珠に銘文があります。この鐘楼は新しいのが出来て不用 になつたのを、識者の尽力によつて保存される事になつたのです。 本尊は十一面観音で五寸許りの木像ですが、後世の補修ですつかり 駄目になつてしまひました。鎌倉時代か或はそれよりも古いもので はないかといふ説もあります。大体この寺は大永の初めに牧野伝左 衛門成三が父古白の菩提を弔ふ為に建てた事になつてゐますけれど も本尊がそれ程古いものとすると、その以前に小さな寺があつて、 古白はそれへ葬られ、後に菩提の為に寺を拡張したといふ事になる かも知れません。尚境内には日信院、悟慶院、盛涼院、長養院と塔 頭が四ヶ寺あつて、中にも悟慶院と盛涼院の本尊はほんの四五寸の ものですが室町時代の作で比較的優秀なものと思ひます。宝物には 牧野古白内室の画像、松平清康の妻華陽夫人の画像など珍重すべき ものがあり、古文書の類も余程保存されてゐます。維新前は朱印二 十五石と、外に隠居寺広徳寺分二十石とを貰ひ、相当格式のあつた 寺で、墓地には元和から寛永頃の碑が沢山あります。変つた墓では あの地蔵さまの裏手にある観世左近太夫の墓、これは昔此地にゐて 死んだといふ事で、御覧のとほり浄光院殿王庵全宗居土、観世左近                          四五                          四六 太夫墓、天正五年丁丑正月廿九日としてあります。それから今一ッ は日信院の方にある五輪塔で、地輪に月峰桂旭居士、寛永十二年七 月廿一日とあります。これは其年朝鮮からきた使節一行のもので此 地に病没したのを葬つたのですが、これに就いては国王から礼状も 来て居るさうです。又本堂西の墓地には越後流の軍学者であつた関 屋一勲の墓があります。これは元禄から安永へかけての人です。 この墓地には御覧の通り大楠が三本並んで居ります。あの中央のは 周囲が十八尺、北のが十五尺、南のが十三尺ありまして、これが市 中最大の木です。各方面を実測してみましたが、市街地の事ですか ら切られたり枯れたりで、十尺以上のものは殆んど指を折る程しか ありません。  今度は西の通用門を出ませう。此通りが吉屋町で、以前は元鍛冶  町といひました。これは古白が築城のとき宝飯郡牛久保から鍛冶  職のものを連れて来て八町辺に置いのを、池田輝政が城地を拡張  するときに此処へ移し、其後又移したのが今の鍛冶町で、それに  対し此処を元鍛冶町といつたのです。又先程の電車道へ出ました  北へ二ッ目の十字路のところが元大手門のあつた処で、これから  が城内でした。正面の建物が市の公会堂で昭和六年の建築です。  丁度昼になりましたから、こゝの食堂で食事をしながらお話致し  ませう。此敷地になつて居る処は、徳川時代に藩校の時習館が置  かれた処でした。 時習館   は宝暦二年藩主松平信復が創立されまして、享和三年 に一度拡張があり、明治維新に至つたものです。この中に西岡翠園 の建てた梅花文庫といふのもありました。専ら藩の子弟を教育した                          四七                          四八 処で、教師には著名の人物も居り、吉田に於ける文教の中枢であつ たのです。此西隣りが市役所で、もとは渥美郡役所の建物でした。 市役所は此西にありましたが、昭和三年十二月焼け、当時郡役所廃 止で不用になつてゐた建物へ移つたのです。  食事も済みましたから、またボツ〳〵出掛けませう。今度は少し  西へ参ります。 この西へ突当つた処は悟真寺ですが其手前南側に松が一本ありませ う。此樹下に小野湖山の寓居がありました。湖山は明治五年に東京 へ移住しましたが、其邸内には明治元年湖山が同志と共に祀つた楠 公祠があり、移住と共に他に移され転々とした揚句、只今では東田 町八雲ヶ岡に祀られて居ります。それからこの西八町に 琵琶塚   といふのがありました。これは城主牧野大学成央に仕 へた土肥二三といふものがありまして、物頭役を勤めてゐました。 至つて風流な人で、茶道の心得もあれば絵も描き、殊に琵琶の名手 で邸内に妙音天を勧請して一の塚を築き琵琶塚と呼んだといふので して、この二三の事は近世奇人伝にも出て居ります。  これから公会堂の処まで戻ります。この東側を突当つた処が十八  聯隊の兵営で昔の 吉田城   です。この城は先にも申しました通り永正二年に牧野 古白が始めて築きまして、其後数次の争奪があつて後徳川氏の手に 入りました。そして永禄八年酒井忠次が第一次の拡張をし、天正十 八年に池田輝政が第二次の拡張をして居ります。德川時代には城主                          四九                          五〇 の更迭も度々ありまして最後までゐたのが今の大河内正敏子爵家で その治績など詳しいものが色々の書物となつて残つてゐます。この 城が敵の攻撃を受けたのは永正三年と享禄二年と永禄七年、それに 文亀二年と天正三年の五回が主なもので、永正三年には築城者の古 白が戦死し、享禄二年には松平清康の為に再びこの城に拠つた牧野 一族が亡ぼされ、一旦松平氏の手に入つたのが今度は天文十五年に 今川義元の勢力範囲となり、小原肥前守が守つてゐたのを、永禄四 年に家康が今川家に背き、東三河の諸城は皆これに従つたので肥前 守は預つてゐた人質十幾人を龍拈寺口で刺殺しました。それを永禄 七年に家康が攻めまして城を陥れ、肥前守は遂に自殺しましたので 仇を酬ひ、城を酒井忠次に与へました。やがて今川氏が衰へると今 度は武田氏の勢力が侵入し、文亀二年に信玄が来て城に迫つたので すが大戦にもならずに退き、其後天正三年に武田勝頼が来襲しまし たが、此時は城を持堪へる事が出来ました。天正十八年家康が関東 移封と共に酒井忠次も関東へ移り、跡へ池田輝政がやつて来て、こ れが第二次の拡張をいたしました。城内の模様など今日それと想像 し得る程度に残つて居り、特色のない平凡な城ですが、裏手の豊川 に臨んだ処はまことによいやうに思はれます。 屯営    明治十七年にこの城跡へ屯営が置かれる事となりまし て、それと同時に今練兵場になつてゐる処、あれには神社が三ッと 民家があつたのを他へ移して作つたので、神明小路、袋小路、八幡 小路とか土手町、川毛町などがありました。屯営が出来上つて十八 聯隊が参りましたのが明治十八年の四月で、日清戦争の時には平壌 攻撃で名を挙げ、日露戦争には数度の偉勲に感状を授つてゐます。                          五一                          五二 面積は営内の方が三七、七〇〇坪、練兵場の方が六三、〇〇〇坪合 せて拾萬坪からあり、これを他に移して公園や市街地にしたいと云 ふ意見もありますが、少し大きすぎて、中々実現致しません。  これから追々に東に参ります。この通りは以前士族屋敷のあつた  処で、御覧の通り多少その面影を残したものもあります。  左側のが 県社神明社  此社は天慶三年朝廷から伊勢神宮へ献ぜられた神領 飽海新神戸の地にお祀りしたことになつて居り、以前の社地は城の 東に当る今の練兵場の中央北寄りの処でしたが、其処が軍用地にな つた関係で明治十七年此地へ遷座されました。本社は城の西にある 県社吉田神社と共に古来から此地方の代表的神社で棟札によります と、明応六年に牧野古白、天文十九年に今川義元、天正六年に酒井 忠次がそれ〴〵造営して居り社領は今川氏以来ずつと三十石持つて ゐました。現在の社殿は昭和七年の造営で、未だに木の香が漾ふて ゐますがこれ程整備した建築は附近に一寸見られません。 私は神明社に余り古いのはないやうに聞いてゐますが此社は天文十 九年の棟札に神明御宝殿云々とあり、又海蔵寺と云ふ別当寺のあつ た事から見て、此附近では最古の神明社ではないかと思ひます。そ れに文書記録では戦国時代に遡り得るに過ぎませんが、本社の神事 儀式など見ますと鎌倉時代或は平安朝時代の遺風と思はれるものが 伝へられ、創立の古さを物語つてゐるやうにも考へます。即ち毎年 二月十四、十五日に行はれる本社の祭には神幸の外に俗に鬼祭りと 云つて士烏帽子に小具足をつけた天狗が赤鬼を追払ふ式や、田楽の 遺風といはれるボンテンザラの神事、農作を占ふ榎玉争ひの神事な                          五三                          五四 どがあり、これ等は先年喜田貞吉博士が京都帝大に居られる頃見に 来られ、雑誌歴史地理へ発表されたことがありました。この祭りに 露天で商ふ薙刀と鬼の持つ鐘木とは土俗研究者の間に喜ばれてゐる ものです。尚本社に伝はる神楽歌は別項に載せて御覧に入れる事に 致します。社前を東へ抜けると北が練兵場で 神武天皇御銅像  が見えませう。これは明治三十年に日清戦争の 紀念に三遠駿豆四ヶ国の人達によつて建られたもので、御像は岡崎 雪声氏の作です。以前は東八町の裏通りにありましたが後、こゝら へ移したのです。此戦役に戦病死したものの名を刻んだ碑も同時に 建られましたがこれは陸軍墓地へ移されました。 この御銅像の前方地点が去る昭和二年十一月、今上陛下の行幸を仰 ぎました際御親閲を賜つた処で、この光栄を紀念する為、其後毎年 ここで紀念式が挙げられます。  これからもとの電車道まで戻り、少し参りますと 大松    が北側に見えませう。この松は地上三尺位の処で廻り が一丈からありますが、それより横に二間許り這つて枝を出して居 ります。相当年数を経たものと思はれ、今川義元の鎧掛松だといふ 伝説もありますし、以前に居たここの主人が女中をこの松に吊して なぶり殺しにしたので其亡霊が残つて祀りを欠かすと崇【「祟」の誤植か】るなどとい ふ話も残つてゐます。この東の木立が 八幡社   です。この社は秋葉神社と合併されて居りますが、以 前は両社共今練兵場になつて居る処にありましたが、明治十七年秋 葉社はここへ、八幡社は中八町へ越したのを、明治四十三年更に合 併したのです。この秋葉神社は正徳三年に大河内氏が下総の古河に                          五五                          五六 建てましたのを、其翌年移封せられると共にこちらに移し、享保十 四年浜松へ、寛延三年又こちらへと城主と共に度々移建され明治に なつて又此地に移されたのですから前後四回も移転してゐます。そ れも其都度社殿は勿論水盤や石灯籠の類まで運んだのですから驚き ます。この少し東に左へ曲る道がありませう。 野牛門   といふがここにありました。池田輝政が長篠城から移 して建たものださうで刀痕や鉄砲玉の跡があつたといひますが惜い 事に取毀されて仕舞ひました。この門には藩政時代に目安箱をかけ 人民の訴へを受付ける事になつてゐました。  この北の方に明治廿一年に開設された聯隊区司令部と市の小公園  があります。その小公園は明治卅年に置かれた旅団司令部が大正  十四年に第十五師団と共に廃止され空地になつてゐたのを市が譲  り受けたものです。別に見る程のものもありませんのでもつと東  へ参ります。四ッ角を越して次の左へ通る道、これが八名郡へ行  く別所街道でここが起点です。これからこの道を行つて二三御案  内を致しませう。この突当りが飽海町で、和名抄以来の郷名がこ  の小区域に残つて居るのです。 青龍寺   とい寺がこの裏手にあります。古義真言宗で本尊は不 動明王、大きな寺ではありませんが以前の住職で古道法印といふの が頗る和歌の道に長じて居りました。近頃この寺から宝船を出しま すが附近に類がありませんので喜ばれてゐます。東へ新川を渡ると 大蓮寺   が左側にあります。道路が出来て境内を両断された形 ですが。この寺は元中六年の創立といはれ、開山は覚阿和尚といつ て真言宗だつたといひますが今は浄土宗で、本尊の阿弥陀如来は木                          五七                          五八 像で高さ二尺八寸許りの座像ですが室町時代の作でありませう。寺 伝ではもと八名郡石巻村屏風岩にあつた廃寺のを移したものといひ ます。こゝから東の高所に見える森は臨済寺ですが帰り途による事 として其下を通り田中の神明社へ参ります。 郷社神明社  は伊勢神宮の御領、薑御厨に祀つたものといはれ、 創立は古いでせうが余り古いものは残つてゐません。天文廿二年戸 田宣光の棟札が一等古く、慶長九年と、元和二年とのがそれに続い てゐます。この附近は古名を薑といつたらしく思はれますが、和名 抄にはありません。今大神宮に献じた薑蔵の跡といふものが近くに ありますが、真偽は保証の限りでありません。其後二連木といふ名 で呼ばれたこの地は楡の木があつたからともいひます。社前から西 を見ますと、田の中に小山があります。 東田古墳  といふのがこれで、以前は経塚だといふ説もありまし たがそれは考古学的知識のないものがいふた事で、御覧の通り立派 な前方後円墳で、地形の関係で主軸が東西になつて居る事がやゝ変 つてゐます。このくびれの具合や、後円部の傾面などさながら壱千 数百年前の面影を見る事が出来ませう。明治維新前まで後円部の上 に一小社がありました。明治七年その焼跡を発堀して仿製変形鳥文 鏡と鉄刀片を発見し、今に保存されてゐますが、かやうな低地に古 墳が築造された事はこの辺古代の地形に就いて、大いに考へねばな らぬ問題だと思ひます。  こゝから東の台地へ上ると北に城址があります。 二連木城址  といひます。この城は明応の頃渥美郡田原城にゐた 戸田宗光が築城したもので、宗光は子の憲光に田原城を守らせ、自                          五九                          六〇 分はこの城にゐましたが、宗光の死後は憲光が続いて居りました。 其後この城は暫らく放棄されてゐましたが、天文七年になつて憲光 の曽孫宣光が再興して三代程ゐましたが、天正十八年関東に移ると 共に廃城となりました。  この芝生で一服致しませう。あの高い処の紀念碑は大正四年の御  即位紀念に愛知県が建てたもので、其裏手の方など昔の有様が残  つて居るやうに思ひます。 これから東は全くの村落部ですが市の区域はまだ東へ一里もあるの です。大して見るものもありませんから、ざつとこゝで御話し致し ます。前方左手に見える突起した山は石巻山で、その中腹と山麓に 延喜式内の石巻神社があります。その右手の小山の上に見えるのが 市の水道配水池で、附近一帯を屏風岩といひ、一寸とした遊園地に なつてゐます。その南の裙を少し行きますと赤岩で 法音寺   といふ真言宗の寺があります。こゝの本尊愛染明王像 は昭和三年に国宝に指定されました。高さ三尺三寸の木像で宝瓶上 に安座され、鎌倉末期の作ですが、その頭上獅子冠の中に多数の小 木像が納めてあることは面白いと思ひます。境内も広く今遊園地と しての計画が立てられ、着々進行中ですから、将来は市の行楽地と して一名所となりませう。寺は衰退してゐますけれども、山門だけ は立派なのが残つてゐます。これは建久の頃三河の守護代であつた 安達藤九郎盛長が頼朝の命を受けて建営したといふ三河七御堂の一 つです。寺伝や寺宝については略しまして、次はその南に当る岩崎 町に 鞍掛神社  といふのがあります。以前は鞍馬大明神といひました                          六一                          六二 のを源頼朝が上洛の際此附近に休息し、この社に鞍を奉納したので 鞍掛神社と呼ぶやうになつたといひます。これは地名の説明伝説で ありませうが、然しこの地が鎌倉時代或はそれ以前の交通路であつ た事は事実のやうで、此社には天正十八年以来の棟札が二十枚も保 存されてゐます。尚其社から数町東の道添ひに頼朝公駒止桜といふ のがあります。本幹が枯れて新芽が成長してゐますが、ざつと大き いのが四本小さいのが五本で、普通の山桜と思はれます。頼朝が上 洛のときこの附近で軍馬を止め、馬をこの木に繋いだといふのです 又数町東の畑地の中に 戸田宣光墓  があります。一廓を土塁で仕切り一基の石碑が建つ て居りますが、これは二連木城を再興した戸田丹波守宣光の旧蹟を 紀念するために、その子孫の信州松本城主丹波守光則が、嘉永二年 に建てたものです。其向ふの部落が岩崎町で、天文八年創立と伝へ る龍岩院と日吉神社とがあります。此日吉神社は神亀四年に僧行基 が建てたといふ社伝があり。其後建保三年に再興し、天文二年兵火 に焼けたといふ記録もあるさうです、現にある棟札は天文十七年の を初め二三あります。其社の境内に古墳が一つあります。横穴式の 至つて小さい、半ば破壊されたものですが、この式では市内唯一の ものとして保護されてゐます。 古墳    この岩崎町の北が多米町で、その多米町から岩崎を経 て南の方高師方面にかけて古墳が頗る多く、それも殆んど破壊され てゐますけれども、探索したらまだ多少残つてゐるだらうと思ひま す。何分にも規模が小さく、塚として地表に現はれてゐないので、 工事などの際に偶然発見されるやうな訳で、その遺構の調査どころ                          六三                          六四 か遺物さへ行衛が分らないのですから、誠に遺憾な事だと申さねば なりません。 徳合長者  の伝説はこの多米町に残つてゐます。この長者は敵に 攻られて水の手を絶たれた時白米で馬を洗ふ真似をして敵をあざむ いたといふ、諸国によくある馬洗伝説ですが、古い街道に沿ふた地 ではあり駅長の居た処とも見られます。この地は和名抄にある多米 郷で其頃の範囲は豊橋市の東半部であつたやうに思はれます。 船形山   は其南一帯にそびえた山でありまして、頂上が豊橋市 の境界です。今川氏の時代には城塁があり、其辺一帯は度々兵火の 洗礼を受けてゐます。それを向ふに下つた処に有名な雲谷の普門寺 があります。これは路順の都合で二川町の方から参る事に致します  東方一帯はざつとこんな程度で、次はこのすぐ南にあつてこの城  と最も関係の深い全久院へ参ります。 全久院   この寺は大永三年に、戸田弾正忠即ち二連木城を再興 した憲光が父宗光の菩提を弔ふために創立したもので、全久とは宣 光の法名です。元禄元年及永禄五年の今川親子の寄進状から、続い て徳川氏代々の朱印状もあり、其外古文書では道元禅師筆の聖法眼 蔵の真本といふ国宝級のものや、天文廿四年と弘治三年に光国禅師 の書いた仏書などが残つてゐます。これについて一場の美談は、こ の戸田氏が後に信州松本に移り、そこにも全久院と云ふ寺を建てま した。つまり全久院が二つあつて、寺領など共通してゐたのではな いかと思ひますが、明治維新の際その松本の全久院が廃される事に なりまして、前申しました聖法眼蔵や光国禅師筆の仏書、或は代々 の朱印状、この朱印状は大抵写したものですが、こゝのは全部が正                          六五                          六六 本で、夫等を一纏にして住職は旅の姿も甲斐々々しく野越へ山越へ 遥々と此全久院まで届けた上、自分は郷里越後へ引退したといふの です。其心懸の美しさには全く感服の外ありません。本堂も庫裡も 大正三年の建築で、境内には戸田氏の墓が数基あり、中に松君とい ふのは憲光の末孫康長の妻で家康の妹でした。之で境内を出ませう 此寺の前にある蓮田は一段低くなつてずつと続いて居る処を見ます と、どうも昔こゝに河があつたのではないかと思ひます。  次は西に向つてぼつ〳〵歩きませう。右手にあるのが先程下を通  つた時申上げた 臨済寺   で、之は曽て城主だつた小笠原忠知が、豊後の杵築に ゐた頃父の追善の為めに建てた寺で、移封と共に飽海に移し、以前 は父の法名をとつて宗言寺と申しましたが、寛文三年に忠知が没し 子の長矩がこれ又父の追福にこゝへ移し寺号を改め、寺領として百 石を与へたといひます。維新間もなく全部取毀され、山門と庫裡だ けが残つてゐましたのを数年前新築したものです。本尊は木彫の釈 迦像で、高さ約一尺八寸、余程古いものと思ひますが之れも後世の 補修で一寸識別がつきません。寺伝に恵心僧都作といひますのは、 比較的古いといふ事だらうと思ひます。境内には忠知以下の墓が十 基余もあり、それに寛文の石灯籠も十基からあります。又此寺には 山田宗偏が滞在したこもとありまして、今こそ見る影もありません けれども、庭園などその差図になつたもので、今に自作の茶器数点 がこゝに所蔵されでゐます。  今度は前の路を南に参ります。電車線路を越えて突当りから右へ  曲ります。この右手の松林中が                          六七                          六八 陸軍墓地  で日清、日露戦役に忠死された人達を葬つてあります 左手一帯を八雲ヶ岡といひ、出雲大社教分院や、もと城内にあつた 稲荷社、それから楠公祠、乃木祠、豊城神社などがあります。 楠公祠   は先に一寸申しましたやうに、明治元年に小野湖山が 羽田八幡社の祠官であつた国学者の羽田野敬雄等と謀つて、西八町 の邸内に祀りましたのが最初で、その五年に湖山は東京へ移住する 事になり、羽田野翁が自分の邸へ移し維持の任に当つたのですが、 十五年には翁も亦没し、祭祀が絶へましたのでこの北にある神葬墓 地へ移し、後此処へ迎へてお祀りする事になつたのです。前にある 碑には湖山の子正弘が建設の経過を書いて居り、「非理法権天の旗 印」は後人が備へたものです。何分法規上の神社でありませんから どうとかして維持の出来るやうに致したいと思ひます。お隣の 豊城神社  には最後まで城主でありました大河内家の遠祖源三位 頼政卿と松平信綱とが祀つてあります。初め松平信綱の子信輝が元 禄七年に下総の古河に建て、信輝の子信祝が正徳二年吉田移封と共 に移して城中二の丸に祀りましたが、廃藩後度々其地をかへ、最後 に此処へ祀られる事になりまた。前の池を距てゝ東海道が通じ、寺 が見えます。 願成寺   といひまして真宗高田派、大永二年の創立といひます が、もとは市内指笠町にありましたのを明治の末に移したのです。 以前はこゝに善明寺といふ寺があり、其境内に十王堂がありました ので瓦町の十王と呼ばれたものですが、寺が他方に移転すると同時 にこの十王堂は大蓮寺へ移され、その跡へ今の寺が来たのです。前 の坂を東へ少し上つた処にあるのが                          六九                          七〇 不動院   で古義真言宗、寛文六年の創立といはれます。前庭に あるナギの木は熱帯植物で、大体紀伊が自生北限地となつてゐます から、移植したものでせうが、この木には一つの伝説があります。 それは神武天皇が熊野から大和へ御向ひなされます時に、土地のも がこの木に鈴をつけたのを先頭にたて、御案内申し上げたので、其 功を嘉みし給ひ、鈴木といふ姓を賜はつた。そこで熊野地方から此 辺に拡がつてゐます鈴木姓のものに、此木の葉を紋所とするものが あるといふ事です。  此先にはまだ寿泉寺と神明社とがあります。寿泉寺は延宝八年に 渥美郡大津村から移つて参りました、臨済宗の寺で、神明社は創立 不明ですが、境内に椎の大木許りなのは変つてゐます。又南に当つ て大池があります。面積は十町歩もありませうか、以前は凡そ百六 十町歩の耕地へ灌漑してゐたものですけれど、牟呂用水が出来てか らは利用されなくなりました。此池は承応三年に郡代であつた長谷 川太郎左衛門が考案し。藩主小笠原忠知の許しを受けて作りました もので先づ吉田城の堀へ引いて洗濯などの用をした上、更に耕地へ 灌漑するといつたやうな計画でした。其水道は最近下水道工事の完 成によつて失はれましたが、それまで市中を貫通してゐたもので、 これには元禄六年と宝永五年の二度改修せられた歴史があります。 其西方台地の端に、今上陛下の御野立所があります。これは昭和二 年大演習終了後、当市に行幸遊ばされた際に全市をこゝから御覧遊 ばされた処で、此光栄を紀念する為に、市では土地所有者の寄附を 得て小公園とし、紀念碑を建てゝ後世に伝へる事としました。場所 が少し離れて居りますから参るのは止めませう。                          七一                          七二  これから西へ坂を下りて水路を渡ります。こゝは西新町で右側に  偉大な 常夜灯   がありませう。これは銘文にある通り文化二年に出来 たものです。これに就いて一つの物語りは、西三河挙母の石屋が註 文を受けて作り上げまして、船で関屋河岸まで運んで来ましたが註 文主がどうしても分らず、従つて代金を貰ふ事も出来ないし、持ち 帰るにも費用がかゝるといふので河岸に上げたまゝ帰りました。後 年それをこゝヘ建てたのですから、これには所有者がないといふ訳 です。  これから南へ行つて西に曲つた処に東口の総門があつたさうで地  形は其頃とは大変に変つてゐます。これを今一度南へ行くと東西  の通りがあり、これが鍛冶町で、以前は鍛冶職のもので軒を並べ  てゐた処です。その次が曲尺手町、呉服町と続きその先が問屋場  本陣などのあつた札木町ですが、今日は遅くなりましたので明日  御案内致す事としまして、電車が来ましたから、一先づ宿へ引上  げ御休息を願ふ事に致しませう。 以上で今日御案内したのが凡そ市街地の七分位で、あすはその残り の三分と時間がありましたら牟呂方面を御案内する事に致します。                          七三                          七四 【右頁白紙】     第二日 お早やう御座います。昨日はお疲れになりましたでせう。如何です 御安眠出来ましたか。さうですかもう御食事もお済みになつて、で は早速出掛る事に致しませう。 昨日はこれから右へ参りましたが、今日は中の道を参ります。これ が旧停車場通りで、いま常盤通りといつてゐますが表向きの名では ありません。あの五階建は額田銀行が建てたもので、これについて 右に廻りますと、東西が指笠町で南北の萱町と交叉してゐます。  我国の砂糖界に雄飛して居る山藤商店の本拠はこの萱町にあり、  当主福谷藤七氏は豊橋市の大立物です。又此町には県社吉田神社  の祭事として古典味豊かな笹踊りが伝はつて居り、歌詞も備はつ                          七五                          七六  てゐます。 指笠町にはもと光明寺、観音寺、願成寺の三ヶ寺がありましたが何 れも他へ移転致しまして、今眼星しいものは東三玉糸製造同業組合 の建物だけです。次が魚町で中央に 安海熊野神社  があります。この社は保延三年の創立で、以前札 木町にありましたのを池田輝政の時此処に遷したといひます。祭神 は伊弉諾尊外八柱で、毎年六月の七、八日に行はれる例祭にはこの 能楽殿で狂言やお能の奉納があつて有名です。祭礼能を奉納して居 る処は本社と南設楽郡新城町にあるだけですが、何れも余程古い歴 史があり、道具など非常な逸品です。之を比較しますならば装束は 新城のが優り、面はこゝのが優れて居ると云はれ、昭和八年三越の 展覧会へ出陳した時には新城の衣裳三点に壱万円、こゝの面三ッに 壱万円の保険をつけた程で、この面の作者は河内、赤鶴、龍右衛門 など国宝級のものです。 この社にはもと清水寺と云ふ社僧寺があつたといひますが、確な事 は分りません。魚市場は今は位置も組織も変つて居りますが、古く は本社の境内で開かれたもので、これは慶長七年に伊奈備前守忠次 が神社維持の方法として渥美郡一帯で獲れた魚を此処で売買させ二 分の運上を取る特権を与へ、其変りに漁船共の海上安全を怠らず御 祈祷するやうにとの事でした、安海の名はこれから起きたものかと 思ひます。 この魚町は市内一流の商店街で、化粧品問屋の片野商店、紙類問屋 の杉本屋、鰹節問屋の瀧崎商店、そから竹輪の山サ商店、青乾物の 山安商店などは豊橋に於ける代表的商人といつてよいでせう。其片                          七七                          七八 野商店は先代が士族から転向して今日の盛大を致し、杉本屋の商標 久木は杉の文字を二分したといはれるが奈良時代の用紙に久木紙と いうのがあつたのも面白く、山サ商店の竹輪、山安商店の海苔は郷 土の名産として広く世間から認められて居ります。 妙円寺   は熊野神社のすぐ裏手にありますから御案内しませう これは顕本法華宗で、京都妙満寺の末寺ですが、城主池田輝政が文 録元年に創立したものです。此輝政は遠州敷知郡古美の妙立寺、日 円上人を深く信仰し時々招いて教を聞き、又二人の子供の教育を頼 んだ程でした。日円は古美から乗馬で吉田城へ通はれたさうで、其 休憩所といふ意味で建てたのがこの寺だといふ事です。それも初め は妙立寺と申しましたが、慶長五年に輝政は姫路へ移封されて、そ ちらへ更に妙立寺を建て日円を迎へたといひます。其後元禄十二年 に姫路との同名を避けて、妙立寺は日円の名から妙円寺と改めたと いひますが、或は其以前に熊野神社の社僧寺清水寺が此処にあつて 清水町といふ名はそれから来たのではないかと思ひます。本堂は御 覧の通り四注造りで向拝があり、宝暦頃の再建といふ事です。本堂 の隣の入母屋造りは番神堂だつたのですがいまは座敷に使はれてゐ ます。宝物には日蓮、日経、日円等の曼陀羅其他二三あります。鐘 は明和頃のもの、庭にある紀念碑は時習館の教授であつた大田晴斉 ので、後に教を受けた人達が建てたものです。晴斉の父が晴軒、そ の父錦城、三代続いた有名な漢学者でありまして、墓地にその晴軒 と晴斉の碑があります。門前にある法華塔はもと瓦町にあつたさう ですが、明治天皇様が御通りの節御目障りだといふので此処へ持つ て来たのだと云ふことです。                          七九                          八〇  これから引返して魚町の一つ北の通りへ出ます。これが札木町、  此東が電車線を越へて呉服町、昨日通りました処で、少し東へ歩  きます。 本陣址   この左手にあるのがもと本陣があつた処でして、その 隣りの小さい家が門だつたさうです。清須屋中西与右衛門といつて 外に江戸屋山田新右衛門という脇本陣がありました。これは後に本 陣に昇格致しまして、桝屋鈴木庄七郎といふのが脇本陣となりまし た両本陣共いまは跡方もなくなりましたが、脇本陣の桝屋の方は少 し西の南側にいまでも宿屋を営業して居りまして、門など当時の儘 に残つて居ります。さつき申し上げました清須屋本陣は、明治元年 九月廿九日と十二月十五日それからその翌年三月十八日の三回畏く も明治天皇様の行在所に宛てられ、その上その年の十月十二日に皇 后様が御駐泊になつたといふ、豊橋としては最も意義深い聖跡であ ります。それが明治十一年の行幸にはもう御用に立てられなかつた といふのですから有為転変と申しますか随分変るものです。このす ぐ東に郵便局があります。西手の三階造りは昭和六年落成しました 電話室で、これが出来ると同時に自動交換になりました。  この局のある処にもと 問屋場   がありました。この問屋場は道中奉行の支配で、吉田 町中六ヶ町で駅馬百疋を負担してゐましたが、幕末頃になると色々 負担が多くなりまして堪へられない処から近郷近在へ助郷役を割当 て、夫れでも足らぬので随分遠方へまで及んだといふことです。役 人は伝馬六ヶ町の中から官選で三人、これは苗字帯刀御免になつて ゐました。その伝馬六ヶ町の総代を年寄といひ、他の町のものを庄                          八一                          八二 屋と呼んで区別してゐたのです。此等のものが宿駅の行政に当つて 来たものと見えます。この町のかぎやは市内一流の薬店で、先代が 至つて風流の道に詳しく数々の名品を所蔵されますが中にも山田宗 偏自刻の阿弥陀木像は有名なもので、其他宗偏の足跡は市内の処々 に残つて居ります。  これから西の方へ参ります。この四ッ角を三四町四方が豊橋の心  臓部で、其血液に当るものは何といつても繭糸業ですが、経済界  の変動につれ時々貧血症状を起すのは困つたものです。  四ッ角を北に参ります。左にあるのが豊橋の三大寺の 悟真寺   です。浄土宗で初めは浄業院といひました。開基は善 忠上人で貞治五年の創立ださうです。もとは城の辺にあつたのを永 正二年、牧野古白が築城の際此処に移したもので、塔頭がすべて十 二ヶ寺門前に並んで居ります。御覧の通り中門は入母屋造り唐破風 で、扇棰三斗組といふ処は豊橋としては立派な建築です。文化四五 年頃の建築ださうで、正面の本堂は元禄七年に出来て居りますが、 入母屋造り二重軒で本瓦葺である点など立派なものです。本尊の阿 弥陀仏は、享保六年京都に於て誓願寺のを型にして作つたといひま すが、其胎内に弥陀三尊が納まつてゐます。恵心僧都の作といはれ 中央弥陀が一尺五寸、前立の観音、勢至は各八寸あります。この寺 は明治十一年十月、明治天皇様の行在所となつた光栄を荷つて居り それと明治元年に三河裁判所を此処に置かれたといふ事が寺として は変つた歴史です。まだ昔この寺で造つた納豆を御所へ献じ御咏を 頂いて、それ以来御咏に因んで八ッ橋納豆と名づけたといひます。 宝物は色々ありまして、明治天皇様の御内覧に供した二十何点かの                          八三                          八四 内、応永か其少し後に出来たと思はれる開基の画像など実に立派な ものです。前庭にある弥陀の濡仏は豊橋最大のもので、これは元文 五年に京都の大仏師西村左近が作つたもの、其由来は元文元年に百 万遍講を結び、講員が毎月三文づゝを積立てこれを造つたのであり まして、その講は現在まで続いて居ります。向ふの銀杏の根本にあ る小さい墓、これはこの地方では相当人に知られた俳人、佐野逢宇 の墓で    「梅に残り柳にへりし寒さかな」 とあります。此前昭和五年石巻山上へ句碑の立派なのが建ちました    「神山や水もぬるまず岩ばしる」 といふのです。こちらの水盤には意亦浄とありませう、これは大国 隆正が書いたもので、この隆正は維新前復古神道の急先鋒として活 躍した頃当地の羽田野敬雄を訪ひ佐野逢宇へ身を寄せてゐた事があ りますが、これは其時に書いたものでせうが、文句とまた彼が仏教 嫌ひであつた点から考へますと、寺のために書いたかどうか、これ は疑問です。墓地は南と北の二ヶ所にありまして、其北の墓地には 国学者中山美石の墓があります。 美石は本居大平の門人で、それに 一宮砥鹿神社の草鹿砥宣隆神主が撰文し、藩の家老和田元長が書い て居り、何れも当代一流の人物である処に美石の人物が偲ばれます 南の墓にはこの美石の孫に当る中山繁樹の墓があり、又市内最古の 石碑、といつても漸く慶長五年ですが、それがこの墓地にあります その墓地に続いた観音寺には、これは墓ではありませんが、法眼是 心軒一露の碑があります。    「寒風も吹くな柳のみどりをば」                          八五                          八六 これは寛政八年に建てたのですが、華道では是心軒の名は有名なも ので、安永四年此地へ来られたのを手初めに、其後も時々通り懸り に杖を止めて華道を伝へ、当時この観音寺の住職も弟子の一人でし たが、吉田の地に華道の起つたのは此時からの事でありました。 この観音院創立は永正三年指笠町から移転して来たもので其外の塔 頭は西禅院慶長四年、三昧院永享三年、樹松院応永三年、龍興院永 和元年、専弥軒永享六年、勢至軒永禄九年、竹意軒大永五年、法蔵 院応永二年、東高院文禄四年、善忠院明徳三年、全宗軒天正十一年 で、中にも龍興院の本尊は雲谷の普門寺から伝来し、土肥実平が母 の菩堤を弔ふ為に造顕したといふ寺伝のある高さ五尺からの座像で す。この背面に以前その来歴が書いてあつたといひますが惜しい事 には補修の際塗潰して仕舞ひました。又専弥軒のは天正頃のもので 全身に蒔絵が施して見事なもの、樹松院のはあまり上出来ではない が鎌倉末期の作のやうに思はれます。  これから門前へ出ますと、北が関屋町その右手に吉田神社がある  から参りませう。 県社吉田神社  は土地の名を負ふて居る処、豊橋の代表的神社と いふ事が出来ませう。此処はもと城内でありまして、神社は余程古 くからあつたと見え、源頼朝の家臣安達藤九郎盛長がこの三河に奉 行をしてゐた頃盛んに神社や仏閣の造営をやりましたが、本社も其 時造営されたといふやうな説もあります。こんな事から頼朝が崇敬 したといふ説も生れたのでせう。其後牧野古白が築城するに及んで 其処にあつた浄業院を先程の地点へ移し、本社だけは城の鎮守とし て残したといひます。御覧の通り社殿は余り立派とは云へませんが                          八七                          八八 歴代藩主の崇敬を受けまして、天文十六年に今川義元の寄附した神 輿の棟札と、同時に納めた木彫りの獅子面があります。其外延享三 年に松平資訓が石鳥居を、正徳六年に伊豆守信高が水盤を、享保十 七年に豊後守資訓が石灯籠を奉納したのが現に残つて居ります。祭 礼は毎年七月十三、四、五の三日に亘つて行はれますが、これは昔 から吉田の祗園祭とて有名なものでして、馬琴の羈旅漫録にも載つ てゐますが、今も大体昔の通りに十三日にこの地方特有の花火、手 筒、大筒を放揚します。手筒は太い竹へ火薬をつめ縄を巻いて一抱 へもあるのを出すので、三間も四間もの高さに打揚り、甚だ勇壮な ものです。以前東京の靖国神社へ奉納して放揚しました処、火事と 間違へて消防自動車が何台も馳せつけたといふ逸話もあります。大 筒の方はそれを一層大きくしたもので、この方は台に据へて打揚げ ます。これを出す処を見ると勇壮といふよりはむしろ悲壮といつた 感がします。従つて危険性も多く、其筋でも厳重な制限を加へるや うになりましたが若者達は怪我には懲りても花火には懲りないと豪 語して居る始末です。これは社前で出しますが翌十四日は打揚げで 今日では裏手の豊川に船を浮べ、その船から出しますが両国の川開 きなど比較にならぬ豪勢さで、其壮観は実に想像以上のものがあり ます。旧幕時代に、祭礼中本町の通行をとめ町内で出したといふ仕 掛煙火の立物といふのは今はありません。それから十五日になると 神輿の渡御があります。この行列に子供姿の頼朝と、その乳母があ りまして、その家来に十騎の武者が従ひます。その外饅頭喰ひとい ひまして、これは錦の陣羽織を着用し、周囲へ幣の下つた笠をつけ 藩主の桟敷へ来て、「私頼朝の家来なり頼朝先へ通られました此処                          八九                          九〇 にて昼弁当使ふなり」といつて持つて居る嚢の中から饅頭を取出し 桟敷へ投げこんださうですが、今は藩主がありませんから、この姿 で船町の神明社へ挨拶に行きます。行列はかくして氏子中を渡御し ますが、途中先程来ました四ッ角を南にいつた処に天王社があり、 そこで休みますので其社を御輿休天王といひ、町の名を御輿休町と いひました。 この社は文治年中に頼朝公の武運祈願に石田治郎為久と云ふ者が勧 請した事になつて居り、初めは二日市天王といひました。この石田 家は後世まで両社に仕へた神主の家抦です。別に笹踊りといふがあ りますが、これは大太鼓一人に小太鼓二人で、同じ衣裳に塗笠被り 錦の陣羽織、小手臑当と云ふ面白い出立ちで、昔は囃方が数十人、 揃ひの編笠に浴衣姿、提灯を吊した笹を立て囃を入れたもので、歌 詞など今に伝はつてゐます。この笹踊りはこの地方所々の神事に残 り東三だけに十ヶ所からに行はれてゐます。 本社の裏手豊川に臨んだ処は、文亀年間酒井忠次が初めて橋を架け た処だと伝へられて居りますが、其附近は維新後一時花卉などを植 え、文人達の遊んだ処で百花園の名は今に残つて居ります。  次は少し戻つて悟真寺の屏について西へ参ります。こゝは天王町  と云つて、此処に天王門があり番所がありました。右手の奥に広  徳寺と賢養院があります。 広徳寺、賢養院  広徳寺は龍拈寺の隠居寺で以前は相当な建物も ありましたが、火災にかゝつて本堂も庫裡もなく、今はさゝやかな 仮堂ですが、本尊だけは残つて居ります。木彫りの高さ三尺許りの 地蔵さまですが、これは創立当時のものだらうといはれてゐます。                          九一                          九二 賢養院の方はもと広徳寺の塔頭で天文年間の創立といひます。此処 の墓地には天正年間織田信長の為に亡ぼされた浅井勢のものが遺子 を奉じて吉田に来り、船町に土着したが、其子供は成長して浅井与 次右衛門と名乗り、庄屋をして居たといふ、其与次右衛門の墓と、 今一つ伝説的な関の小万の墓があります。この小万は近松の浄瑠璃 丹波与作に出てゐますもので、事実あつたかどうか私には分りませ んが、これが反つて世間には評判が高いのです以上で元の通りへ出 ます。  これを西へ参つて突当りが上伝馬町で北に向つた坂があります。  この坂の中辺西の総門がありまして坂下門といつて居りました。  坂を下ると東西の町がありますがこれは湊町で、次の船町との間  に神明社があります。 郷社神明社  の地籍は湊町にありますが、古来から船町の者が主 として世話をして来た関係から船町の神明社と呼び、境内にある弁 天社を田町の弁天さまと呼んでゐます。田町とは湊町の旧名です。 此社は白鳳元年の創立といひますがどうでせうか、以前此西の方、 馬見塚といふ処にあつたのを天文九年にこゝへ遷座したこと丈は分 つてゐます。此時一所にあつた八幡社が羽田の地に移され羽田八幡 社となりました。それで神領の証文などにも両社が必ず併祀されて 居ります。本社は神鳳抄にある秦御園に祀つた神社だといふ説もあ りますが、和名抄の郷の配置などから考へても信ぜられません。宝 物には今川氏真の文書、棟札、懸仏などがあります。祭礼神事の射 的は元禄九年以来続いて行はれてゐますが、旧藩時代には藩主が非 常に奨励したものです。この池は延宝の頃大水に堤が切れて深く堀                          九三                          九四 れた其切れ口を利用して、天和年間に山田宗偏が設計して作つたと いはれて居ります。その池中の弁天社は宝政頃の建築で三間二面の 入母屋造り流れ向拝で、二重軒三斗である点など割合に整つた建物 と云へませう。石の反橋も其頃に出来たらしく、石灯籠には寛文の ものもあります。正面の木の鳥居、これは昭和五年神宮式年御造営 の撤下品を頂いて作りましたもので、明治三年御造営の際に頂いた のと建換へたものです。 島にある芭蕉句碑は昭和七年豊橋趣味曽【會の誤植カ】の発起で建てられました。  句の    「寒けれど二人旅寝ぞたのもしき」 とありますのは翁の卯辰記行に、みかはの国保美といふ処に杜国が 忍びてあるをとぶらはんと先づ越人に消息し、鳴海より後さまに二 十五里尋ね帰りてその夜よし田に泊る、とありますからその帰途の 吟でありませう。 それから本社には元四月十四日におんぞ祭りといふが行はれました これは元和頃に初められたといひますが明治の初年まで続いた祭で 本社を中心に殆んど全市的の祭りでした。 先づ四月十一日から全市挙つて機織りや裁縫を休み、十二三歳以下 の女子が着飾つて大勢で歌を唄ひながら町々をねり歩きます。十二 日も同様、十三日になると遠州の岡本村から大神宮に献るおんぞが 送られて来ます。それを町役人以下大勢が牛川町まで出迎へ、受取 つて帰ると本社に安置し、翌十四日御祈祷をして諸人に拝ませた上 天候を見定めて船で伊勢へ御送りしたのです。これをおんぞと申し ましても、神宮で神御衣祭に上る御衣ではありません。大方浜名神                          九五                          九六 戸からの調庸の名残でありませう。 それを神宮へ献るのだから御衣と尊称し、また神御衣祭に三河国赤 引糸をお用ひになつた事があるので、遠州岡本村では三河から糸を 取寄せて織つたりしました為に、話が混線しましたので、この吉田 を経て送つた事は海運の便といふより外に大した理由はなかつたや うに思ひます。 このおんぞ祭の歌は大方忘れられてゐたのですが、昭和八年にこれ を知つて居る八十歳余のお婆さんを尋ね出し、同志と謀つて採譜印 刷して後世に伝へる事に致しました。  これで境内をぬけ堤防へ上りませう、これが豊川です。 大橋    は大正五年に出来たもので、元の橋は並んでかけてあ る水道橋のその位置にありました。水道橋の方は昭和五年に出来た ものでして、以前の橋は明治十二年に架けたものでした。今の親柱 は以前のをその儘使つてありすがこれを書いたのは後に県令となり ました当時大参事であつた国貞廉平です。徳川時代にはこれより約 一丁下流に架けてありましたが、吉田大橋といひまして、六郷、矢 矧、勢多と合せ東海道の四大橋といはれ幕府の直轄でした。この橋 の起源は元亀年間に酒井忠次が関屋口へ土橋を架けたといふが初め で、池田輝政が此処へ移し板橋としたもので、その後寛永十八年ま での事は分りませんが、それ以来の事は記録があつて架換六回、修 繕十回といふ事になつてゐます。最も架換や修繕などの時は仮橋を 架ける事もありましたが、大抵は渡船によつたもので、其渡船場の 跡は尚一町程下流にあります。秀吉が天正十八年小田原征伐のとき 此川までやつて来て洪水に遭ひ、それを強ひて渡らうとして伊奈忠                          九七                          九八 次にたしなめられたといふのは此渡しで、秀吉は仕方なく軍を三日 留めたといはれてゐます。この架橋について残る一つの伝説は、い つの頃ですか江戸から大工が来て、工事にかゝりましたが流れが強 くて成功しません。そこで二川の窟観音に祈願をかけると満願の夜 夢に観音が現はれ、向ふ岸へ縄を張つてそのたるみだけ反らせよと 教へられたので、其通りにして成功しました。大工は江戸へ帰ると 其御礼に人々を説いて立派な観音像を造り、窟観音へ建てました。 それが今あの巌上に建つ観音像だといふのです。 この渡船は船町のものが引受けてゐましたので、其為に色々な特権 を持つてゐました。こゝへ出入する荷物に運上をとること、こゝか ら伊勢へ渡す航路の権利など其重なものでしたが、大名などがこの 渡船にかゝりますと、先づ殿様が舟に召され、家臣共一同河岸に平 伏する中を漕ぎ出すのですが、向岸へは行かず上流へ漕いで行く、 其間に家臣共がすつかり渡つて向ふ河岸で平伏してゐる処へ殿様の 船が着いて上陸するといふ呑気千万なやり方だつたさうです。  今度は橋を渡つて下地町に参りませう。 明治天皇御小休所  は今郵便局の隣りで夏目直一氏の宅ですがこ れは明治十一年十月御東行のとき大橋の流失で仮橋を御通り願つた 際、御輿に召換られる為の御休憩所でこの仮橋をお渡りになると船 町の加藤発太郎氏の宅で鳳輦に御召換になつたといふ尊い聖跡であ ります。  少し行くと右側に大きな寺があります。 聖眼寺   といひまして真宗高田派の寺ですが、もとは八名郡の 吉祥山にあつたのを慶長九年こゝに移したといひます。開山は藤原                          九九                         一〇〇 房前の第五子随信房行円で、天福元年親鸞上人を迎へてから随喜し て天台宗を真宗に改めたといひます。本堂も庫裡も立派なものです が、この西手にある太子堂、これは此寺が移転して来ない前からあ つたもので、永禄七年家康が吉田城を攻めた時に陣を取つた処だと いひます。この事は朝野旧聞裒稿や牛久保密談記にも出て有名な話 となつて居ります。  その南に霊亀の上に立つ四尺許りの碑がありませう、これは芭蕉  翁の句碑で、芭蕉翁の三字は白隠禅師の書、其下の、    「ごをたいて手拭あぶる寒さ哉」  それと他の三面にある碑の由来は横井也有の書いたものです。建 てたのは明和六年ですが、其以前に至つて小さいのがありそれが磨 滅したので再建したらしく思はれます。このごといふのは松の落葉 の事でして、こちらの方言ですがそれを通りがかりの芭蕉が扱つた のは面白いと思ひます。この下地町を西に出はづれると小坂井まで 松並木が続き、昔の情緒を味ふことが出来ます。芭蕉が咏んだごを たいての句はその松並木の感じでありましたでせう。凡そ一里近く 続いてゐますがそれが昔の然菅の渡りで、海苔がとれたり白魚がと れたりする前芝といふのはこの下流の河口一帯の海面です。  これから引返して大橋を渡ります。先程申しました大橋址に向ひ  合つてありますのは、 龍運寺   といふ浄土宗の寺で、創立は橋と同様天正年間、それ に山号を橋本山などゝいふ処から諸国の例に見るやうに橋の鎮守か とも思はれます。寺としては珍らしく北向で、然も橋に向つて居る 処などさう思ふも無理でないと思ひます。本堂は明治七年に焼けて                         一〇一                         一〇二 三十八年の再建ですが、観音堂の方は元禄二年の建築で、三間二面 の入母屋造り、向拝が二重についた形ですがよく整つてゐませう。 本尊は阿弥陀如来の立像、観音堂の方は三寸五分許りの如意輪観音 座像でよい出来です。境内の墓地には此地の生んだ大数学家斎藤一 握の墓があります。詳しい履歴は分りませんが数学では神様のやう に云はれる牟呂の牧野伝蔵や、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門など その門人だつたといひます。 納豆    西隣りにある服部家は家号をいがやといひまして、そ の先に分家があり両家共醤油醸造をなし、市内では旧家ですが、こ の両家が近頃納豆の製造を初め、本家では浜納豆、分家では八橋納 豆の名で附近は勿論遠く名古屋、東京までも進出し市の名産といは れるやうになりました。この納豆は一般に浜名納豆といはれるもの で関東の糸引納豆とは違ひますが至つて風味のよいものです。  これから引返して船町の通りを南へ参りませう。この十字路から  西へ十町許りの野田の法興院に、 稲田文笠  の墓があります。文笠は谷文晁の門人でこの地の産で すが安政三年召されて藩の画師となり明治六年歿して居ります。墓 は文笠の生前に建てられたもので碑背一面に自筆の出山の釈迦が彫 りつけてありまして面白いものであります。  次は十字路を越して次の小路から守下へ抜けます。この坂下にあ  る灯籠は、昔小坂井からの船着場で其目印に建てたといふ伝説が  ありますが建つたのは銘文にある通り嘉永三年で、勿論信用は出  来ません。この上に 称名院   があります。これは寛永十九年に悟真寺の隠居所とし                         一〇三                         一〇四 て建てられ、それへもと指笠町にあつた光明寺が明治四十四年名古 屋へ移転する時一切をこの寺へ譲りましてただ名義だけを持つて行 きましたので、いはば合併された形です。その光明寺は大永五年の 創立でその本尊がこの寺の本尊となつてゐます。木彫りで三尺余り の立像ですが室町時代の作でありませう。前の薬師堂には一尺三寸 程の薬師像を祀り、十二神将の像もありますが、一二体紛失して居 ります。  此処の墓地にこれも光明寺から移したのですが、秋元清左衛門の 墓があります。これは姫路藩の家臣で物頭役を勤め江戸にゐました が、文久三年諸藩の参勤を停められたのでまだ見た事もない国許へ 妻子を連れての旅の途中、この地で疾んで死んだのです。行年は六 十五歳といふから相当の年輩で、私はその死の直前の心持を察して 気の毒でなりません。騒々しい世の中に前途のくらい旅路で知らぬ 国元へ妻子を連れて行くさへあるに、寄る年波に疲れた彼がこの吉 田で死ぬ時の心持はどんなであつたでせう。爾来風雨七十年弔ふ人 のないこの墓へ時々は香華を手向けるやうに心がけて居ります。そ の前にある穂積清軒の墓、これは吉田へ初めて洋学を輸入した人で 色々の逸話が残つてゐます。  又門際にある庚申、これは延宝七年のものでこの地方としては古 いものですし、寛文三年の水盤は市街地では墓碑を除いて最古の金 石文です。  それからこの寺が山号を三社山といふのは元鎮守として神明、白 山、天神の三社があつたからで、古文書としては寛永、正徳、元禄 などの領地証文が残つてゐます。この前の空地は明王山大聖寺のあ                         一〇五                         一〇六 つた処で、その大聖寺は今石塚町にありますからそれへ参りませう  裏手に当る市民病院の横を通り船町線をこへて突当りに松の一叢  がありませうこれが今申しました 大聖寺   で本来は寺でなく、醍醐三宝院派の直末修験宗の触次 所であつたのを、私かに永宝院と呼んでゐました。それを文化二年 になつて本山から寺と認められ寺号を貰ひ後此処へ移つたのですが 此処には以前から庚申堂があつて同居した訳で、今日でも石塚の庚 申と呼ぶ方がよく分ります。何もありませんがこの堂の下から附近 へかけて御覧の通り貝塚で、時々来て探す内に土器の破片を見付け ましたので、石塚貝塚と命名し人類学会へ報告し、雑誌に発表しま してから研究者の来訪もあり、地名表にも私の報告として載つて居 ります。発見品は特有の紋様ある弥生式土器で、この附近から磨製 石斧を採集したものもあります。この貝塚にあるサルボーといふ貝 は帝大の村松瞭博士によると暖海産のもので、現在は長崎以南でな いとゐないさうですが、モールス博士は東京大森貝塚でこれを発見 して居り、従つてこの辺は石器時代少くとも現在の長崎以南の暖か さであつたらうとの事です。  これから鉄道線路をこへて西に参りますが、都合で一度宿へ帰り  昼食を頂いてから出掛る事に致しませう。すぐ近くです。  さあまた出掛る事に致しませう。今度は踏切をこえ、真直ぐに行  きますと右側に寺があります。 長全寺   といひます。こゝの墓地に当地としては有名な国学者                         一〇七                         一〇八 羽田野敬雄の墓があります。その生籬を囲らしてあるのがそれです 正面に権少教正羽田野栄木墓とあり、側面には明治十五年六月一日 歿年八十五とありませう。この翁につきましてはこの先に翁の建て た羽田文庫の跡と云ふがありますからそこで申上ませう。  次はこの道を行きますと曲り角の手前にある寺、これは英霊殿と  もいひますが本名は宝形院といふ真言宗の寺で、以前中世古町に  あつたものです。  これを曲つてゆくとすぐ右に神社の参道があります。 羽田八幡社  です。本社は前にも申しました通り天文九年に馬見 塚から遷されたもので、数年前郷社に列せられましてから境内を整 理して見違へるやうになりました。祭礼は行灯祭といはれ一尺に三 尺位の行灯へ俳句、狂歌、地口などを書き、それに俳画を添へたり などしたものを何百も掛けたものですが、近来は祗園祭のやうに大 筒、手筒、打揚煙火などを出すやうになりまして、昔の瓢逸な趣あ る行灯は見られなくなりました。  此社の裏台地の下に清泉が出まして栄川の泉といひ、松山の呉竹 の井と共に代表的二名水でした。これは神主である羽田野家の所有 で本社の御手洗だといふてゐました。伝説では昔家康が此近くに休 みまして、此清泉を呑みヱイ川ぢやと褒められてその名がついたと 申しますが、今日では双方共附近が開墾されて湧出しなくなり、ほ んの名ばかりとなつたのは惜しい事です。旧藩時代には城主の茶の 湯に召され、一時は番人まで附けられた事もあつた程です。 羽田文庫  は参道中程の東側にあります。この小さな門は当時の ものですが、文庫は今礎石が残つてゐる許りです。羽田野家は古く                         一〇九                         一一〇 から神明、八幡両社の神主で、敬雄は宝飯郡西方に生れ羽田野家に 入りまして、名を常陸といひ、晩年になつて栄木と改めました。敬 雄とは其名乗りです。廿一歳で養子し、廿九歳で養父上総の職をつ いて神職となりましたが、性来の読書好きで和漢を撰ばず万巻の書 を読破したものです。それに就て一挿話は、或時吉田藩で盗賊を捕 へ訊問すると、賊のいふに、以前西方の或る家へ入らうとしたが毎 夜夜半まで熱心に読書する子供があつて遂に目的が達せられなかつ たと申立たので調べて見るとそれが敬雄で、次第に評判が高くなり 羽田野家に懇望されたといふ事です。尤も生家である山本家は富豪 ではあり、兄が三人あつて中兄の、これも他家へ養子した飯田軍次 といふ者が本居大平の門人だつたので敬雄にも入門するやう勧め、 廿八歳のとき入門したのです。処が如何なるわけか三十歳のとき更 に平田篤胤の門に入りました。これは以前から篤胤の学風を慕つて 間接に教を受けてゐたからでもありませう。これを取次しましたの が平田鉄胤で、非常に親密な間抦でありこちらへも度々来て居りま す。これから後追々交際が広くなり伴信友や飯田武郷或は神宮神官 の御巫清直だの一流の人物と交際するやうになりまして、所謂志士 なども窃に翁を訪ねて来た者もありました。大国隆正なども其例で すが、福羽美静なども二三回訪ねて居ります。  文庫は嘉永元年吉田の同志十五人の支持で計画し、安政二年には 一千部、文久元年には千六百部に達しましたが満足せず、広く一般 からの寄附を仰ぎまして、三条実万卿から類聚国史三十巻と御註の 孝経一巻を、又徳川斉昭卿からは破邪集八巻を寄せられ、藩主大河 内信古よりは書籍三十七巻と文庫永続料に毎年米十俵づゝを下され                         一一一                         一一二 ました。かくて後には総数壱万参千六百余巻となりましたが、これ は勿論公開されたものでして、中には翁の家に寄宿し勉強した後の 男爵大久保春野などもあります。此文庫は翁の歿後散逸の悲運に遭 つて、一部は西尾の岩瀬文庫、一部は長篠村信玄の牧野文庫に行つ たとも云はれますが、其大部分は石巻村の大木氏方にあつたのを大 正二年豊橋市が譲り受け、それを基礎に図書館を経営する事になり ました。  大正十四年十月十七日から三日間その豊橋図書館で翁の遺物展覧 会を開いた事があります。此時五百八十八種、千〇八点の出品があ りましたが、其内には翁自筆の稿本写本が百四十六部二百八十二冊 あり、最も力を入れたのは神典でしたが郷土史的のものでは参河古 跡考十冊があります。意外に思ふのは殖産工業に対する見識で、明 治の初年に郷党に養蚕をすゝめるべく三河蚕糸考を出版して居りま すが、其序文など実に経世済国の大文字です。文庫は御覧の通り跡 だけとなりましたが、翁の建てられた皇学四神遥拝碑と、福羽美静 の書いた翁の紀念碑とがこの中に残つてゐます。  次は西隣りの浄慈院へ参りませう。 浄慈院   この寺はもと下野の那須にあつたのですが、寛文七年 開山の良済といふが本尊の押合地蔵を負ふて諸国を巡歴する内、一 時この西の馬見塚といふ処に留まり、後高須新田といふへ移りまし たが、其後延宝八年洪水にあつたので更に此処へ移つたといひます これが寺の起りで、本尊はその押合地蔵だつたのが今は釈迦三尊に なつて居り、其押合地蔵といふのは木彫りで四寸許りの地蔵が二人 立つて押合つてゐる形です。何処やらに之と似たものがあると聞ま                         一一三                         一一四 したが先づ〳〵天下の珍品といつてよいでせう。その外の仏像によ い出来のが数体ありまして永正七年の裏書ある懸仏はもと渥美郡杉 山村の或る神社にあつたものです。  昭和二年に柴田常恵氏と此処へ来て拝見した時、氏はこの押合地 蔵は権作だが珍らしいものといはれ、又地蔵堂にある地蔵尊二体は 凡作だが阿弥陀の方は室町初期のものでよい出来だ。然し手と足は 後世附替たものらしく面相に較べると非常に出来が悪い。けれども これが寺中で一等の作だと褒めて居られました。その横にある宝筐 印塔は享保廿年の出来で、余り古くはないがこれ程形の整つたもの はこの地方にはないやうです。  この方面には余り見て頂きたいやうなものもありませんから、少  し距れてゐますが、牟呂八幡社へ参りませう。町を出はづれて向  うに見える森がさうです。 牟呂八幡社  は御覧の通り入口が三方にありまして鎌倉の八幡宮 にならつたといひます。社標が特に立派で社殿も新らしく整つて居 る処見るからに心地よいお宮です。創立は文武天皇の御宇といふ説 もありますが鎌倉時代の勧請でせう。然し国内神名帳に従五位上牟 留天神とあるのは此社だといふ事で、すると以前に小祠があつて牟 留天神と呼ばれ、そこへ更に八幡宮を勧請したのではないかと思ひ ます。  宝物には直径一尺三寸の円板に釈迦三尊を取つけた懸仏がありま すこれは疑ひもなく鎌倉時代のもので今に金色燦然として実に見事 なものです。恐らく当初の御神体であつたものと思ひます。又神亀 二年二月牟呂八幡宮と彫つた鉄鉾がありますがこれは信用出来ませ                         一一五                         一一六 ん。今一つ面白いのは木彫の獅子で、右が大きく左がやゝ小さい二 尺内外のものです。すつかり腐つて心だけが残つてゐますが、これ は鎌倉時代にまで遡るものかも知れません。  古文書には朱印状が八通、八幡宮略記、牟呂村由来記、古式神事 記などがあり、外に宮座を書いたものがあります。慶長七年のと元 和九年の二通でこれは非常によい資料です。棟札には天文十一年以 後のが十数枚あり、城主などとの関係を知る上によい手懸りとなつ てゐます。  もと社前の西寄りに神宮寺がありまして、其寺の鐘楼だつたのが 今あるあの鼓楼で、これには明応元年の鐘が懸つて居ましたが維新 の頃弘治四年の大般若経と共に失はれました。此神宮寺は今楽法寺 といひましてこの西三町許りの処にあります。この寺には高さ三尺 程の十一面観音像がありますが、その作者は木食五行上人で八十三 歳のときの作とあり、又高さ五寸許りの大黒天像が同上人の作だら うといはれて居りゐます。  これ位にして今度はこの裏手に当る坂津寺址へ参りませう。牟呂  用水を渡るとすぐです。御覧の通り此辺には貝殻の堆積が多く、  到る処が貝塚で、時々捜して見ますが遺物は余り見付かりません  それに貝そのものが新らしいのでこの地方ではずつと後世まで貝  塚が構成されたのでせう。いや現在でも出来つゝあるのです。西  の方一帯の海は渥美湾で、蛤、あさりの産地です。 坂津寺址  は御覧の通り少し高くなつて、地形から云ふと一寸突 出した岬です。この直下は昔の然菅海で、言ひ伝へでは此処が湊で 対岸の渡津からこれへ渡つたといつてゐます。記録にはありません                         一一七                         一一八 が、然しその阜頭ともいひたい此処に、古く大寺のあつた事から考 へて或る時代にはさうであつたかとも思はれます。この東へ向いた 処が湊の形で、もし渡があつたとすればこゝが船着場でなくてはな りません。今畠になつてゐるこの一廓が寺址ですから相当大きな寺 だつたと思ひます。或は平安朝頃官道に添うて建てられた所謂官寺 ではないかとも想像されます。  これを西に行つた処に近頃橋が出来ました。殆んど豊橋と同じ形 で、其名も渡津橋といひます。渡津は和名抄以来対岸小坂井地方の 郷名ですから、所在地の古名をとるなれば然菅橋である筈で、その 上ワタムツと訓むべきをワタツとしたので何の事やら分らなくなり ました。此等は歴史を知らないものゝ罪でせう。  その橋の近くを馬見塚といひ、こゝに 専願寺   があります。この村はもと吉田城址辺にあつたのを築 城の際移されたといひますが、この専願寺へは盆月になると解放さ れた亡者が第一に来る処だといふので、新仏のある家々では三里五 里の道をこゝ迄出迎へる習慣になつてゐまして、旧暦六月晦日の夜 から七月朔日の朝へかけて非常な賑ひを呈します。  それからこのすぐ東に古墳があります。二町もありませうか、ご  く近いから参りませう 三ッ山古墳  といひます。この附近には培塚が二三ありましたが 開墾によつてなくなり、主墳だけが残つたものですが始【殆の誤植】んど完全に 近い前方後円墳で、主軸は東西に向ひ、前方部が十一間、後円部が 十六間あります。後円部の頂上に紀念碑が建てられ、また心なく手 入したので見苦しくはなりましたが、それでも築造当時の面影を偲                         一一九                         一二〇 ぶ事が出来ます。  大正二年後円部から埴輪円筒が発見され、其後私も大正九年同じ 破片を採集して居ります。東三河に古墳は沢山ありますが前方後円 は比較的少く、埴輪のあるは一層少いので此古墳など実に価値のあ るものですから、此上もう手をつけないやうにして欲しいと思ひま す。  これで今日の予定も終りましたから少し早いのですが引揚げる事  に致しませう。さあ宿です。  オヤ電報ですか何か御用でも起つたのではありませんか。さうで  すか「スクカヘレ」では仕方がありません。折角おいで下さつて  明日から郡部の方を御案内する積りでゐましたのに。では夜行で  お帰りになる。さうですか夕食でもおあがりになつてからで丁度  宜敷いでせう。あれで市内だけは大略見て頂きましたので、郡部  の方は書いてお送りすることに致しませう。  東三河道中記 上終                         一二一                         一二二 【右頁白紙】  東三河道中記 下    第一信  先日は色々失礼致しました。御約束によつて東三河の郡部方面を 道順によつて四五回に分け、重立つた名所古蹟のあらましを申上げ やうと思ひます。今日は其第一信と致しまして宝飯郡中部から書き 始めました。  先づ豊川に架けた豊橋を渡り、下地町を出はづれると昔のまゝの  松並木が残つてゐます。中程の下五井には以前富士見茶屋といふ  がありました。晴れた日にはこゝで富士山が見えます。これが東  海道を西から来て富士を見る初めだと云ふ事です。この並木の終                         一二三                         一二四  つた処が小坂井で、豊橋駅から豊川鉄道の電車でも、又バスでも  行かれます。小坂井の町に着きますと右側に 菟足神社  があります。延喜式内社で創立は白鳳年間といつてゐ ます。入口の左側に小さい道しるべがあります。これは羽田野敬雄 が建てたもので、翁は三河国内にある廿六の式内社を数回巡拝して 其案内記を作り人々に巡拝を勧める一方、其廿六社悉くへ道しるべ を建てました。字句には多少相違がありますが本社のは、延喜式官 社廿六座之内菟足神社とあります。この点でも翁の敬神の念を窺ふ ことが出来ませう。  其隣りの大きな紀念碑は県社昇格の祝に建てたもので、正面の石 鳥居は元禄四年に吉田城主小笠原良重が献納したものです。此処は 台地の端で前は昔然菅海と云つた平野を眺め、附近一帯が貝塚で台 地の下には清冷な泉が湧出して居り、先史時代人の生活にも適当な 場所であつたと思ひます。 本社の祭神は国造本紀にある穂の国造菟上足尼といふことになつて ゐますが、これはワタリから転じたと見る方がよいやうに思ひます これだけの渡りですからそれを守る渡りの神があつてよい筈です。 それにもと八幡社があつて、其処へ平井の柏木浜といふ処から遷座 した事になつてゐます。  宝物には色々ありますが安元元年の奥書ある大般若経これは大部 分揃つてゐますが、伝説では武蔵坊弁慶が通りがゝりに豊川の出水 で渡る事が出来ず、七日間逗留してゐる内に書いて奉納したといひ ます。これに附属した十六善神の画像は、弁慶かどうかは分りませ んが時代としては其頃のものです。                         一二五                         一二六  それから応安三年の古鐘がありますが、北朝の年号を用ひた処が 注意されます。これは台地下の田の中から堀出したもので、頗る大 文字に彫つてある処は銘文として上乗のものです。  棟札は応永廿四年のが一等古く、又家康自筆の制札があります。 これは永禄六年吉田攻めのとき陣中で書き与へたもので用意がなか つたから拝殿の床板で間に合せたといひます。徳川時代入口に立て てあつたので、往来の大名は一々乗物を下りて通らねばならなかつ たのを、気の毒に思つた神職が写しを出してこれを仕舞つて置いた といふことです。  それと古い面が四つあります。これは元禄時代のものといはれて ゐますが、祭礼にはこの面を模したのが初まりだといふ色々な面と 風車とを売る店が門前に並びます。これは魔除けといはれ土俗研究 者の間にも喜ばれてゐます。  この祭礼については昔人身供御があつたといふ伝へがあり、今昔 物語や宇治拾遺物語には猪を神に供へるのを見て国司の大江定基が 発心し仏に帰依するやうになつたと書いてありますが、後世では雀 十二羽を献ることになり今に行はれてゐます。  何分氏子区域が広く、それに花火があり植木市があり、春も丁度 暖かになる四月十一日の事ですから遠近から夥しい人出です。色々 の神事がありますが、最も面白いのは旧正月七日の夜に行はれるお 田祭りで、これは神前で百姓が田打ちから取入れ迄の所作をすると いふ土俗方面からは見逃せない神事です。  又本社の最も光栄とするのは、明治天皇様が御東行のとき平田延 胤が勅使として参向された事で、これは東三河ではこの社だけでし                         一二七                         一二八 た。それから明治十一年に有栖川宮熾仁親王様から社号の御染筆を 頂いて、これはその写しが鳥居に掲げてあります。神職は代々川出 氏で当主は今宮内省掌典部に奉仕し居られます。  社地全体が貝塚ですが土器、石器、骨角器などの発見品が川出家 に所蔵されてゐますが、縄紋系統のもので其内土面は珍品の部に属 しませう。尚同家にはもと神社にあつた懸仏数十体が保有されてあ るといひますがまだ拝見して居りません。 五社稲荷  は菟足神社から一町程東にあります。大した社殿では ありませんが中々信仰を聚めたお宮で、それに境内そのものが前方 後円の古墳でして、社殿はその後円部に建つて居ります。主軸は南 西から北東にありまして附近には培塚らしいものもあり、相当な貴 人を葬つたものらしく、三河国造の菟上足尼の塚といふ説もありま すが、これはどうでせうか。 医王寺   はこの東に当る字篠束にありますが、此処から奈良朝 時代の古い立派な瓦を発見して居りますのと、和名抄にある篠束郷 がその附近である事から、これは街道に添ふ官寺で、或る時代然菅 を渡る要津ではなかつたかとも考へられますが、もしさうとすれば 奈良朝時代のことでなければなりません。 欠山貝塚  この五社稲荷と菟足神社との中間に欠山貝塚がありま す。こゝは愛知電鉄が出来るとき土取場となり、其工事中石器、土 器など色々なものが出ました。不思議な事にはすぐ隣りの菟足神社 境内から発見されるものは縄紋系統のものであるのに、此処から出 るものは悉く弥生式系統のもの許りでしたが其時は心なき土工等の 手にかゝり破壊されたり散逸して仕舞ひました。                         一二九                         一三〇  昭和九年になつて附近に区画整理が行はれ土器などが出たとの噂 を聞きまして、五月廿七日試堀した処五六点の土器を得ましたので 更に秋冷を待つて九月卅日発堀を行ひますと、完全な弥生式土器廿 個と破片など小車に一台程も出ました。そして十月廿五日補充発堀 をしまして五個許りの収獲があり、これで其全貌が明らかとなりま した。  発見品は甕形のものが大小八個、高杯形のものが四個、台付甕三 個、壺形土器が六個、高杯の脚部は四十何個あり、それに口縁部や 底部の破片には紋様に注意すべきもの、問題の有孔土器などがあり 同時に鹿角二個を獲て居ります。これには鋭利な切断面があること が興味を惹きます。そしてこの貝塚は所謂塹濠式の直線貝塚であり まして、巾七八尺、深さ六尺位の貝層が南北に続き、台地の端から 起つて発堀位置まで百間以上あり、土器のみで石器はなく、且つ完 全品の多い点から考へまして普通の貝塚と違ひ何か宗教的遺跡と考 へなければなりません。この式の貝塚は未だ学界へも余り報告され て居りませんので将来相当研究が加へられるものと信じます。  次は町通りから西方へ参りますと 報恩寺   です。距離は三四町で踏切をこすと直ぐです。今は小 さい寺ですが境内は余程広かつたものと見え、丁度正面に当る東海 道線踏切の近くで十年前に明応七年在銘の鰐口を発見しました。こ れには法音寺とありましたが、以前は其辺まで境内であつたでせう 創立は大同年間ださうで、山号を大同山といひます。  この寺は平安朝に於ける官道に添ふた官寺の一つで即ち対岸へ渡 る設備の一つであつたやうに思ひます。観音堂は元禄の建築ですが                         一三一                         一三二 漸く頽廃に頻して居ります。  余り古いものはありませんが寛永七年の絵馬があり、これは狩野 法眼の筆になり、毎夜抜出ては畑へ行つて麦を喰つて困つたといふ 伝説があります。本尊は権作の千手観音で鎌倉時代のものらしく、 外に腐朽して心許りとなつた仏像があります。これは或は平安朝時 代のものと考へられるもので、庭にある鐘は幕末に吉田藩で大砲鋳 造の材料にしやうとしましたが、幸ひに其難を免れましたが当時の 文書が残つて居ります。  この後ろに寺域に接して観音山と云ふがあります。横穴式古墳で とつくに破壊され二三の巨石が残されてゐるに過ませんが、この地 方には曽て沢山の古墳があつて、吉田築城の際大分破壊されたと言 ひ伝へて居ります。 多美河津神社  はこれから北数町の大字宿にあります。 仁徳天皇の朝創立といふ社伝と祭神が三河穂国造朝廷別王である外 とり立て云ふ程の社ではありませんが、この社の近くに平安朝時代 国府から渡津駅へ出る街道の痕跡が残り、長ボタ(ボタとは土手の 意)といつてゐます。  次はこれから西へ七八町で東海道の踏切をこえ、平井の村落を西  へ出はづれた処に貝塚があります。 稲荷山貝塚  で大正十一年に人骨五十一体を発見して天下を驚か した処です。この貝塚の発見は明治卅三年頃此地の大林意備といふ 老人が発見して学界に報告したのが初まりで、坪井博士や大野雲外 さんなども度々来、三河最初の発見である丈けに学界では可なり有 名です。この意備老人が丹精して聚集した遺物数百点は今京都帝大                         一三三                         一三四 の清野博士の所有に帰し、再び此地では見られなくなつた事は遺憾 です。其後土木工事で土取場となり今では紀念碑の外何物も残つて ゐませんが、破片位なら採集も出来ませう。  此次は北方に見える森を目当に歩きますと、三町許りで伊奈の村  落に達します。この森に寺があります。 東漸寺   と云ひますが、明応頃の創立で、開山を享隠と云ひ、 尾張知多郡の宇宙山乾坤院の弟子でしたが、兄弟子の周鼎が萩村龍 源院の開山となり、同じく大素が八幡村西明寺の開祖となつたと云 ひます。此処の城主本多隼人佐泰次の信仰を受け、この寺を創立し ました。  此開山について面白い話が残つて居ります。それは或時この附近 に隠れなき大中一介と云ふ大盗が此寺を襲ひました処、和尚に説破 されて弟子となつた、これが第二世の一介禅師で、又第十五世傑仙 と云ふが、撿地のとき此裏を通る平坂街道に沿ふて一夜の内に土手 を築き、この内は凡て寺領だと主張したので、今広大な田地を所有 することになつたと云ひます。そして其傑仙の墓だけは代々の墓地 になく、これは遺言でその道添ひに営まれました。 現住職は宇井伯寿さんで、今東大教授として東京に居られますが、 仏教哲学の世界的権威です。堂宇は度々焼けて新らしく古文書、記 録なども多少はあります。門前に塔頭が二ヶ寺ありましたが今はあ りません。其代り十数ヶ寺の末寺を控へ中々格式のよい寺です。  墓地には寛永三年と同廿年の碑で板形へ五輪を半肉彫にしたのが 珍らしく、薪部屋の屋根に正徳二年吉田花ヶ崎佐藤仁右衛門が作つ た鬼瓦があり、これはよい資料です。                         一三五                         一三六  次は此寺と関係が深かつたすぐ西の八幡社です。 伊奈八幡社  は社伝では昔牛頭天王を祀つてあつたがいつの頃か 吉田へ移したので、末社の八幡社を本座に直し氏神にしたと云ひま す。城主泰次は城の鎮主と崇め社殿を造営したり鐘を鋳て奉納した りしました。其鐘は一時所在を失ひましたが、後年社地の西に隣る 畑地から発見し神社に戻つて現に宝蔵に納まつてゐます。明応六年 の鐘で、且那隼人佐泰次、同十郎衛門とあります。  其外古文書などもありましたが、天保年間社家の火災で大方失は れたさうです。天正の頃その後裔本多俊次が社殿を修造したり、神 田を寄附し、昭和二年郷社に列せられたとき、膳所の本多家から先 祖代々が戦場に用ひたと云ふ鉄の面当を献じて居ります。境内の右 手にあるのは天神社で、社殿は小さい割合によい出来で徳川中期か も少し前位の手法がよく現れてゐます。これはもと社家の邸内にあ つたのを明治十年此処へ移したものです。此社の宝物に菅公の画像 がありまして、昔から神酒を供へるとお顔の色が赤く変ると云ひ伝 へてゐます。  本社の前を西へ村落を出はづれた処に、一寸とした松林がありま  す。此処は伊奈城主でありました 本多家墓地  で皆で四基あります。西寄りの二基は本多助太夫忠 俊と其夫人のもの、中央は本多修理亮光治、東のは本多彦八郎忠次 ので、こゝで聞く松籟は何となく戦国時代の矢叫びに似たやうに思 ひます。  この南に当るすぐ近くに前芝小学校があり、其地続きから大正十  二年十二月銅鐸を発見して居ります。                         一三七                         一三八 銅鐸発見地  はこの伊奈と前芝村との境に接した処ではあり、其 上前芝のものが発見したので、初めは前芝村発見と伝へられたので す。其時はまだ小学枚【校の誤植か】の建たない以前で、全く田圃の中でした。 全部で三個が地下三尺位の処から出まして、現品は帝室博物館に所 蔵されてゐます。御承知の通り三河は銅鐸分布が非常に濃厚で、こ れを加へると十五個に達する筈ですが、これが発見された時には相 次いで調査に来られる方々の応接に案内に不眠不休の日もあつた程 それ程私には思ひ出深い場所です。  次は 伊奈城址  で八幡社からは北西に当ります。只今では旧本丸址が 僅かに残つて居るに過ぎませんが、此城は上島城といひまして、室 町の中期から天正十八年まで本多氏の居城でありました。この本多 氏はもと山城加茂神社の社家で中務といつたのが豊後国へ流され本 田郷に居ました。其子の助秀は本多八郎と名乗り、助秀の嫡男助定 が尊氏をたすけて軍功があり、西三河へ地を貰つて移りました。東 三河へ来たのはそれより三代後の定忠のときで、此処に城を築き又 東漸寺を建てたり八幡社を崇敬した泰次はその定忠の子です。  其頃から本多家は徳川家を扶け、吉田城を攻めたり、田原城を攻 めたりしたのですが、此城址から北に当る葵ヶ池は日本外史にもあ るやうに享禄二年徳川清康が吉田を攻落し伊奈城まで引上げた時、 定忠がこの池の葵をとりまして肴を盛つて出しますと清康は大に喜 んで、それ以来自家の紋所としたといひます。これは三ッ葉葵で、 一方本多家でも三ッ葉の立葵を紋としてゐます。  此附近はこの程度で終りまして、次は昔の街道へ出て十二三町も                         一三九                         一四〇  の松並木を通ると国府町です。小田淵停留所から電車の便もあり  ます。 町から御油駅へ行く街道を南に進むと川があります。此川は音羽川 といひまして持統上皇が当国へ行幸されました頃は、この辺まで船 で上ることが出来たやうにもいつてゐます。橋を渡つて少し行くと 右手に見える山が新宮山で、其麓に古墳があります。 新宮山古墳  と仮りに呼んでゐますが実に立派な前方後円の古墳 で、これは三河国造の墓だと申して居ります。三河国造といつても 一人や二人ではありますまいし、時代も其頃のものですから或はさ うかも知れません。とに角これ程完全に遺されたものは東三河にな いので、史蹟にでも指定されたいと思ひます。測【側の誤植か】溝もありまして清 らかな水が流れて居ります。此処から西南に当る小高い処に、昔城 があつて不意に敵襲を受けた守将はこゝまで落のび、この塚の上で 切腹したといふやうな話も伝はつて居ります。 昌林寺鐘  この塚から東に当る部落は森といつて和名抄の望理卿 の名残りと考へられますが、そこの森豊山昌林寺は佐竹刑部左衛門 政行の菩堤寺でして、寺名はその法名森豊院昌林常縏【?】居士から取つ たものです。天正二年の創立といはれる小寺ですが、この寺にある 鎌は寛正五年に中条郷北鍛治村、今牛久保町の中条神社へ佐竹清康 といふが奉納したもので、それが慶長十六年額田郡深溝村本光寺へ 売渡され、更に寛文元年にこの村にゐた佐竹氏の後裔が買ひ戻して 自分達の先祖を祀る其寺へ納めました。この事抦が次々の銘文とな つてゐるものです。これが明治の初めにどうした事か佐竹武雄とい ふ人の手に渡り、それを明治十年になつて其人から改めて寄附を受                         一四一                         一四二 け、住職と世話人が四人それに村総代の連印で大切に保存するとい ふ証文を出しまして、それに本山の西明寺住職が加判して居ります 処が近頃になつて村ではそこの神社の宝物にしやうと交渉中だと聞 きましたが、いつ迄経つたら安住の地が得られるかと鐘も歎いて居 る事でせう。  鐘の話序にこれから西に国坂ごえといふ古い街道がありまして、 その道添ひの金割といふ村の仲仙寺に文安三年の鐘があります。こ の金割といふ地名は、昔武蔵坊弁慶が国分寺の鐘を持出し、そこ迄 持つて行くと国分寺恋し、国分寺恋しと鳴りだしまして中々止まな いので、そこへ捨て行つた、この時弁慶が余り強く投げだしたので 少し割れた、その後そこを金割と呼ぶやうになつたといひます。  この仲仙寺附近から古い瓦が出ると聞きましたので奈良朝時代の 寺かと調べてみますと、それは仲仙寺でなく字豊沢といふ処の弥勒 寺址から出ることが分りました。立派な蓮弁のあるもので、それに 周縁に雷紋のあることはこの附近に類例のないものです。  国府町で見るものは守公神社と観音寺でせう。 守公神社  は町の南裏にありまして、本来はシユグウで社宮とか 社護神などと同様石神であつたと考へられますが、それをモリノキ ミと読んで三河守公といふが祭神となつてゐます。この社には応永 廿三年の鐘があります。これは維新当時、寛文十年に当地の平松弥 太夫正家が奉納した大般若経と共に近くの高膳寺へ預けてあつたの を近頃漸く取戻したとの事で、大般若経の方は末だに其侭になつて ゐます。 観音寺   は町通りの南側にありまして駅から正面の大松を見当                         一四三                         一四四 てに行けばそこです。この寺に芭蕉の句碑があり、    「紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ」  の句を彫つてあります。建てたのは天保十四年で、この句はこの 地の白井梅阿といふ門人のもとへ杖を止められたときのものださう で其時御油のある家の井戸へ雷が落ち早速蓋をしたと聞いて、翁も 梅阿を連れて見に行き、さて雷とはどんな物かと蓋を取つて見ると 何もゐなかつたといふ話も伝はつて居ります。  その句碑の隣りに一対の灯籠を供へた石碑があります。これは国 府市の開祖といはれる代官国領半兵衛の手代の墓です。この国府市 といふは毎年冬にこの町で盛大な市が立ちます。余程古くから行は れてゐましたがその頃中絶してゐたのをこの片岡丈右衛門が再興し たので、或は平安朝以来の市の名残ではないかと思ひます。  これから道順は十字路を北にとつて台地へ上り総社を見て、尚東  に進むと八幡村で八幡社国分寺国分尼寺などへ参ります。 総社    は平安朝時代一国の総社で、三河国内の神社を国司が こゝで遥拝したのに初まり、色々の神事を行つた処から神社に発達 したものです。今の本殿は室町時代の建築と思ひますが頽廃に頻し て居りますので、上屋が出来て居り、流造りの杮葺きで、又社殿の 配置に注意すべきものがあります。  永和四年、天文十八年などの棟札もありますが、それよりも珍ら しいのは境内から発見された瓦で、奈良朝のものとして学界では相 当知られたものです。又土塀の下部の石垣が内側は垂直で外側に傾 斜を持ち、其外側の石が大きく内側の石が小さいのは古い形式だと いふ事も聞きました。一体に外の神社と違つて居る点は意味のある                         一四五                         一四六 事でせう。森の囲りが少し高くなつてゐるのは土塀の址で注意する と布目瓦の破片など散乱して居るのが見られます。 八幡社   は平安朝以来の古社で、社伝では源頼朝が社領として 一千町歩の地を寄せたといひますが、これは疑はしくあります。け れども今川氏真以来五十石の朱印地を持つてゐたことは確かで、参 道の両側にある池は放生池でせう。  拝殿は徳川初期のもので重味のある建築ですが、其奥にある本殿 が余りよすぎるので一向に引立ちません。  本殿は文明九年、即ち室町時代の建築でして、国宝に指定された 此種の建物では特に優秀なものです。三間社流れ造りで、蟇股の彫 刻といひ木割の調子の整つた点、懸魚から操形のさびのある点など 実に申分のない出来であります。其上全体が優美な所が此建物の特 色で、ことに蟇股の彫刻は材題の一々変つて居る辺が他に類例がな いといはれて居ります。東寄りに絵馬堂がありますが、こゝは祭礼 の時大弓の神事に奉納した額で一杯になつてゐます。元禄頃のが最 初のやうで、この社の矢場は東三河では最も古く且つ有名で今に至 るまで年々行はれてゐます。 国分寺   は八幡社と道一つ隔てた東隣りにありまして、聖武天 皇の御発願で国毎に建てられたものです。最初の設計によりますと 方八町で四方に大路を開き、其中には南大門と中門、それから本堂 と塔が主な建物になり、それに附属の建物がありました。今の建物 は後世廃絶してゐたのを西明寺の機外和尚が再興して末寺としたと いふ歴史があります。西北の偶に昔の土塁と大路の跡とが残つてゐ ますし、塔の土擅が今木立ちとなつて礎石も其当時のものが二つ三                         一四七                         一四八 つ見えて居ります。  附近からは時折奈良朝時代の古瓦を発見しますが、寺には五六個 ある丈けです。鐘楼にあるのは当時の鐘で国宝に指定されてゐます 形といひ色合といひ、後世のものに較べて全く優れて居ります。こ の鐘は昔弁慶が持出し金割まで行つて棄てた、其時流石の弁慶も余 り重いので引摺つた為八十あつた肩の乳が五十二とれた、そして投 げ出した時出来た割れ目は後追々に癒え元通りになつたといふ伝説 があります。 国分尼寺  は国分寺から三町程東にありまして近頃まで知られな かつたのが、地名が忍地といふ事と土擅の跡がある事から研究して 漸く分りまして、国分寺跡と共に史蹟に指定されて居ります。寺は 今清光寺といつてゐます。其土擅の跡には一度火に焼けた形跡のあ る礎石が一つ残つてゐますから、この尼寺が火災による廃滅であら うことが想像されます。附近からは、此処でも奈良朝頃の瓦を発見 して居りますが、平瓦に飛雲紋のあるのと、磚といふ堂内に敷いた 瓦の発見されて居るのは此処だけのやうに思ひます。  此尼寺の直ぐ裏の山は踊山といつて平安朝の頃「かゞひ」とか歌 垣とかいつたものゝあつた場所で、これは余程後世まで、続いて行 はれてゐたやうです。又其東に当る山麓は国分両寺の瓦を焼いた場 所と見えまして、当時の布目瓦の破片が散乱して居ります。其山の 中腹には長篠戦役で名を挙げた鳥居強右衛門の紀念碑が立つてゐま す。強右衛門はその南に当る市田といふ処の生れです。  これから北の方に当つて一里許りの所に財賀寺といふ寺がありま  す。路順が悪く序でといふ訳には行きません。                         一四九                         一五〇 財賀寺   は神亀元年に行基の開いた寺といふことなつてゐます が、例の安達藤九郎が頼朝の命を受けて造営したといふ三河七御堂 の一つで、木【本の誤植か】堂や仁王門に見るべきものがあります。先づ仁王門か ら申しますと、これは今単層ですが、もとは重層で其外は殆んど昔 のまゝだといひます。  三手先の組物など立派な物で、柱に粽がなく肘木や斗束など和様 の特長があり、中の仁王尊は非常に損じては居りますが、矢張り当 時のものです。本堂は五間五面の入母屋造りに流れ向拝がついて、 全部が欅材を用ひてあり、屋根は杮葺でこれは徳川時代の再建です が余程古い材料を用ひたやうです。  本尊は千手観音で行基の作といひます。両側の廿八部衆は鳥仏師 の作といひますが奇怪な容貌をしたもので製作時代は一寸想像がつ き兼ねます。その裏手にこの寺の鎮守として祀つた八所大明神の社 がありまして、明応四年牧野古伯が造営した棟札がありますが、こ れは吉田城を築いた牧野古白と同一人か否かまだよく分りません。 又境内にある文殊堂は、もとこの村の入口に当る文殊山にあつたの を移したものです。これは大江定基が愛人力寿の死んだとき、文殊 菩薩の告げで舌を切り取つてそこへ葬り、力寿山舌根寺を営みまし たが、この文殊堂がその舌根寺に当るものといはれてゐます。本尊 には力寿の念持仏であつた文殊菩薩の像が安置されてゐます。  この寺でも小坂井菟足神社でやるやうな田舞といふがありまして それは毎年旧暦の正月五日に行はれまま【衍字か】すが、其役は司嗣(つかさ)一人、田(た) 俊(をき)一人、田夫(たつくり)三人、撃鼓(たいこたたき)一人、携蹲(たるもち)一人、盍者(そなへものもち)一人、負児婦(こもちおんな)一人、 為摧者(うしのまねするもの)一人、駆牛者(うしをい)一人で、これは役が極つてゐて、村内の者でも                         一五一                         一五二 他所で生れた者には務めさせないといふ厳しい掟があるさうです。  道順は国分寺尼寺の処から前へ出ると大通りがあります。これを  東へ行けば本野原を通つて豊川に出ますが、その本野原は実は穂  の原で、昔の穂の国の名残りでせう。宝飯郡といふは穂の国を大  化改新のとき二字制により宝飫としたのが誤つたのです。西へ向  つて進むと道は二つに分れ左は総社へ出る道で、右へとつて行く  とやがて西明寺の門前へ出ます。 芭蕉句碑  はこの門前の小高い処にあります。これは翁の五十回 忌に建てられ    「かげらふの我肩に立つ紙子哉」  とあります。芭蕉句碑としては古い方で、小さいけれども整つた 形なので、船町の神明社境内に建てた句碑はこの形をとつて作りま した。 西明寺   は平安朝時代に三河の国司として来任し恋のロマンス を残した大江定基が開基で、それを最明寺入道時頼が再興し、又伊 奈東漸寺の開基享隠の兄弟子だつた大素といふものが再々興したと いふ寺で境内も広く堂宇も整つてゐます。初めは最明寺といひまし たが永禄七年に徳川家康によつて西明寺と改められました。寺領は 二十石ですが中々格式を備へてゐまして、古文書なども沢山ありま すが中にも金屏風へ古今の名筆二百十六枚をはつたのは又と得難い 逸物でせう。  本尊の阿弥陀木像は二尺五寸位で安阿弥の作といはれ、これは大 江定基が安置したものといひます。又此寺には北条時頼が納めた仏 舎利もある筈です。此寺を大成したのは十四世の華山和尚で学者で                         一五三                         一五四 あり、書も画も上手なものでした。渡辺崋山とよく誤られるのはこ の華山です。  門前から西へ進みますと、少し下り坂で五六町行くと昔の東海道  と出合ひます。万葉集にある三河の二見道といふのはそこだと申  して居りますが考証すれば異論もありませう。これを東にとつて  八幡社や国分寺を経て豊川に行く道は姫街道で、こゝで本道と分  れるが末は遠州の橋本宿で出合ふといふのです。本街道の出来た  のは慶長頃の事で、以前は国府へかけて通つたものでせうからこ  ゝで分れる筈もないし、今国府町といつても国府の跡は八幡村方  面にあるのですから従つて二見道といふものが愈々怪しくなつて  参ります。 これから音羽川を渡ると昔の御油宿で多少昔の面影が残つてはゐま すが取たてゝ申上げるやうなものはありません。次の赤坂宿へは僅 か七八町で東海道では一番近い宿場でした。一九の膝栗毛にある弥 次さん喜太さんが狐にばかされて大騒ぎをした松並木といふのは此 間の事です。赤坂の入口には左側に関川神社があり、 芭蕉句碑  がこゝにもあります。句は    「夏の月御油より出でて赤坂や」  といふので明治になつて建て替へたものです。附近に折損した古 い句碑がありますがいつ頃のものか分りません。句碑は多く寺にあ りまして、神社境内にあるのは此処と船町神明社境内だけです。 宮路山   はこれから一町程行つた処に登口があり、頂上迄二十 町近くあります。東三第一の紅葉(どうだんつゝじ)の名所で、大 宝二年持統上皇が三河へ行幸になつた節国見を遊ばされた処ですが                         一五五                         一五六 それを後世誤つて行在所を設けられた処だなどゝ申します。この附 近には上皇に関した伝説が到る処にあります。此町の杉森八幡宮は このとき勧請したお宮といふ事になつて居り、神鳳抄に見える赤坂 御園は此所だともいはれて居ります。 正法寺   は町の中央にありまして、聖徳太子の開創だと伝へ、 弘仁七年箱根金剛王院の万巻上人が此処で歿したともいひます。寺 宝の関白双紙は豊臣秀次の最後を描いたもので、曽ては天覧に供し た事もあり、東三河では代表的美術品でせう。外にも色々名画を所 蔵されてゐます。 長福寺   はその東隣りでこゝは昔国司の大江定基と恋を語つた 力寿姫の父宮路の長者の屋敷址といはれてゐます。寺中の観音堂に ある高さ六尺の聖観音木像は甚だ立派なもので、外に力寿姫の墓と 伝へる女郎石といふもあります。  これから先はおよそ一里ある長沢村を通り本宿村へ出ます。そこ  には家康と関係の深かつた法蔵寺があつて見るべきものも少くあ  りませんが、巳【已の誤植か】に額田郡で西三河に属しますから省略し、次回は  豊川、鳳来寺方面の事を申上げる事にしてこれで擱筆致します。                            早々                         一五七     第二信 御約束によつて今回は豊川、新城から鳳來寺村方面の事を申上げや うと思ひます。  先づ前回と同樣豊川に架けた豊橋を渡り、下地町から右に折れて  豊川街道を北に進みますと、これから豊川、牛久保の台地までが  一帶の田圃で、所々に村落が見えます。左手が瓜郷でそこの滿光  寺には大永五年の鐘があり、右手の大村からは古墳關係のものが  屢々發見されますので、曾て古墳のあつたことが想像されます。  少し行くと大蚊里といふ處を通ります。 大蚊里貝塚【ゴチック見出し】はこの村の西寄りにあります。彌生式系統の石器や土 器が余程廣範圍に亘つて發見されて居り、有史以前已に人間が居住 してゐた事が分ります。是迄此平野一帶は所謂然菅の海と呼ばれ奈 良朝時代までさうであつたと考へられてゐましたが、古墳や貝塚の 發見によりまして是迄の見方を換へなければならなくなりました。  この大蚊里の名を王ヶ里から轉じたものとすると、大村は王村で  あつてよいと思ひます。 大村【ゴチック見出し】はこの附近をこめた町名で、此東に當る八劒社のナギ の木と、長光寺のお葉付銀杏の大木は共に注意すべきものでありま せう。又大同類聚方にある三河國大村藥といふのはこの村からだし たものといはれてゐます。  こヽ迄は豊橋市内で、尚北に進み本道から分れて牛久保の台地へ  上りますとそこに 一色城址【ゴチック見出し】があります。こヽは豊川鐵道牛久保驛のある處で今は 何も殘つてゐませんが、其すぐ近くの大聖寺には城主一色刑部少輔 と、今一つ今川義元の墓といふものがあります。此寺の本尊は室町 中期に出來た阿彌陀像で、背の方に、春日作彌陀立像一体、伽藍為 守護永奉安置大運寺者也西忠敬白とありまして、これは延徳二年に 松平親忠が御津大恩寺に寄附したものでした。その西に見える森は 熊野神社【ゴチック見出し】でこれは秦除福こと除氏古座次郞がこの附近へ永住し 熊野權現を勸請したのが初まりといふ變つた傳説をもち、享祿元年 の棟札には牧野民部丞成勝とあつたといひます。  寶物には經【徑の誤植?】九寸許りの鰐口があつて大永五年の銘があり、それに は三州牛窪郷とありますから其頃から牛久保といつたものでせうが 其以前は一色といひました。社前の石燈籠は寛政八年に越後長岡の 城主牧野備前守忠精の寄附したもの、これは先祖以來信仰してゐた からです。線路を越した所に、むくの大木があつて目通り二丈五尺 に達し樹勢も旺んで天然紀念物に指定されてゐます。  此社の西南に當る台地の端では先年貝塚を發見し二三の遺物を得 ました。此台地に添うて伊奈から一宮附近までは先史時代の遺物が 時々發見されまして、その遺跡であることが分ります。全く後が山 林で前に海を控へ、日當りのよい暖い岸邊には清水が湧き、此時代 人の惠まれた生活を想像すると、そぞろに昔が戀しくなります。 光輝庵【ゴチック見出し】は町の北裏にありまして、舊長岡藩主が祖先の牧野右 馬允の追福の為に建てたもので、寺號はその法名によつたものです【行末句点省略】 裏の方にその墓地があつて一基の碑が淋しく立つて居ります。 中條神社【ゴチック見出し】もこの町の東部にありまして第一信に申上げた森村昌 林寺の鐘は最初このお宮に上げたものでした。こヽは以前の南金屋 で、北金屋と共に大和から移住して來た鍛冶職のものがゐた處で神 社はそれ等のものが金山彦神を祀つたものです。この南金屋の鍛冶 職は後に吉田に移り鍛冶町となり、北金屋の方は中尾家によつて鑄 造の業を續けられ今は一家だけですが寛永頃には四家か五家あり、 此附近一帶の鐘で中尾家の鑄造でないものは殆んどありません。古 いのでは長享二年といふがありますから其歴史の長い事が分りませ う。 八幡宮【ゴチック見出し】この牛久保町に鎭座される八幡宮の祭禮は俗に、うな ごうじ祭といはれまして、長蛇のやうな神幸の行列が、長時間ゆる り〳〵練り歩く處や、その行列の殿りを承るやんよう神が泥の中を も構はず寢たり起きたりする樣は實に奇觀です。これは笹踊のはや し方で、その轉ぶ樣がうなごうじ(うじ虫)に似てゐるから付けら れた名です。  これから殆んど町續きで豊川町に達します。豊川の代表物は何と  いつても妙嚴寺で、俗に豊川稻荷といはれ、豊川閣の名もありま  す。 妙嚴寺【ゴチック見出し】の創立は嘉吉元年、宗派は曹洞宗、維新前寺領四十五 石を持つてゐました。有名なのはその境内に祀る吒枳尼天で、維新 前は專ら稻荷さんと通稱され境内の山林には實際狐などが住んでゐ たものでした。  この吒枳尼天が繁昌するやうになつたのは寶暦から後の事で、三 河名所圖繪に、寶暦の頃までは牛久保西島の稻荷へ參詣するものが 多かつたが、そこから豊川の平八狐の許へ婿をくれた處、其後は豊 川の方が繁昌し。【ママ・「、」の誤植か】西島へ參詣するものが少くなつたといふ話を載せ て居ります。昔は武將の信仰を得たもので、信長も秀吉も或は家康 もその臣下の本多忠勝も信仰してゐた事は事實です。殊に九鬼義【ママ・嘉か】隆 の如き文祿の役に秀吉の命を受けて軍船を造り、其内一等立派なの を伊堯丸と名づけましたが、船中にこの吒枳尼天を勸請したといひ ますし、又江戸町奉行であつた大岡越前守は、其邸内に祠を設けて 祀りましたが、それが東京赤坂の豊川稻荷だといふ事です。  賑かな門前町から一歩山内へ入ると重層の山門があり、扉に使つ てある欅の一枚板が見ものです。正面にあるのが本堂で、重層の入 母屋造り、大屋根には疎棰木が使つてあります。こヽに安置された 地藏尊は鎌倉初期のもので今國寶に指定され運慶の作といはれてゐ ます。  此本堂の左を通つて吒枳尼天堂へ行きます。此堂は卅年の歳月と 巨萬の財をかけて造り上げたもので、丁度明治から大正、昭和の三 代に亘り、其材料など隨分遠方から運んでゐます。とに角現代とし ては代表建築で、これ程の木造建築は今後或は出來ないのかも知れ ません、【ママ・「。」の誤植か】古建築を見た目には樣式や手法に物足りない点がないでも ありませんが、それは時勢で仕方がありますまい、【ママ・「。」の誤植か】そこへ行くと今 奥院となつてゐる元の堂が遙かによい出來で、外に附屬の建物も澤 山ありますが、とりわけて云ふ程のものもありません。  庭園も甚だ立派なものです。此裏手少し距れた處に櫻の馬塲とい つて周圍へ櫻を植ゑた馬塲があり、花時には大層賑かで、それに並 んで豊川鐵道の經營するグラウンドがあります。 三明寺【ゴチック見出し】はこれより東で台地を降りた處にあります。こヽの辨 天堂は古い建物の上へ更に建てヽありまして、今厨子になつてゐる のがもとの建物です。時代は分りませんが天文廿三年の棟札があり ますから或は其頃のものかと思ひます。この堂にある辨天像は、三 河の國司であつた大江定基が力壽の死を悲しみその面貌に似せて作 つたものといはれ、先年鎌倉で發見された裸辨天と同形で廿年目每 に更衣があります。抱いてゐる琵琶は定基の愛玩品だつたといひま す。  此辨天さまは馬方辨天とも云はれますが、それは其前の道をよい 聲で唄ひながら通る馬方の其聲が辨天さんの胸に響いて或夜通りが かりの馬方をそつと呼びとめ、唄をうたはせ、そのお禮にお金の少 し入つてゐる財布を與へ、この財布は使つただけづつ湧く財布です がこれをお前にやる程に、私から貰つたと決していふてはなりませ ぬぞと堅く口止めされました。馬方は決して口外しなかつたのです                         一六八 が、それ以来家業も怠り勝ちで酒とバクチに日を送つてゐる処から 怪まれ、つい問ひつめられて喋舌つて仕舞つた。それと同時に其財 布は空になつてそれ以来一文のお金も出なくなつたといふのです。  又三重塔は国宝に指定されてゐますが、基礎に土檀がなく廻椽の ある事は奈良興福寺の塔に似てゐます。屋根は杮葺で、頂上に九輪 がなく露盤の上に宝珠を置いたのは元あつた九輪が失はれたからで せう。手法は下層と中層が和様で上層が唐様であることが変つて居 ります。此塔は後醍醐天皇の第十一王子無文元選禅師の御建立と伝 へられ、此無文禅師は遠州奥山方広寺の開山です。  こゝから西遠南信へかけて南朝方の一勢力が存したのは、伊勢の 北島氏と相応じた此禅師や、又尹良親王などが孤忠を守られた結果 で、この点から見てこの塔は尊い南朝の紀念品と思ひます。此寺は 寺伝によると大宝年間に大和橘寺の覚淵阿闍梨が創立した事になつ て居り、これから南に当る古宿は平安朝の終りから鎌倉初期へかけ ての宿場で、この辺で豊川を渡つたものらしくありますので、其宿 駅に営まれた寺であつたかとも思ひます。殊に寺地がわざ〴〵台地 を降りて低地である事は何か理由のある事でなくてはなりません。 加茂村   こゝから東へすぐ近くに見える孤立した山は照山とい ひまして、豊川を距てゝ八名郡にありますがこの山へは明応だかの ツナミに下流に当る地方の神社の御神体や寺院の本尊などが夥ただ しく流れついたと伝へて居ります。山麓には作りかけて中止したと 思はれる古墳があつて注意を惹きます。  この村の加茂神社は徳川時代社領百石を持ち東三の大社でした。 創立は文治二年再興となつてゐますが、これは頼朝が山城の賀茂神                         一六九                         一七〇 社へ四十二ヶ国に亘つて神領を献じた中に八名郡小野田庄がありま して、その神領に祀られたものといふ説があります。祭礼は大旛祭 りといはれ、それは巾五尺三寸長七十尺の麻布の浅黄色に白い模様 を染出した旗を中央に、左右にも同じ形の小形のをつけ、大旗の上 には五つの鈴と七つの鏡をとりつけまして、これを建てる所からつ けられた名でせう。今あるのは寛文八年に造り変へたもので、地方 の一名物となつてゐます。 麻生田村、牧野村  麻生田は豊川町の東で、この附近から石器時 代の遺物が余程豊富に発見されて有名ですけれどもしつかりした研 究は加へられてはゐません。こゝの玉林寺にある楠は廻り二丈五尺 樹勢尚盛んで見事なものです。  其北に続く牧野村は吉田城を築いた牧野古白が出た処といはれ、 其古白の父といはれるものの墓もありますし、その屋敷跡として徳 川時代免租地であつた所もあります。古白の父は成富といひまして この人の建てた福昌寺は今退転してありませんが元中七年その寺の 住職実山和尚の書いた経文が其村に伝はつてゐます。 穂国故地  豊川町の次は一宮村です。其間一里許りの間は平坦な 松林でしたが、追々に開墾されて畑地に変りつゝあります。穂国の 故地は一宮を中心とした地方であつたらしく、それには色々な理由 もありますが、先づ北に聳えてゐます本宮山麓には大小無数の横穴 式古墳がありまして、殆んど破壊されてはゐますが相当多数の人が 古く住んでゐた事が分ります。  又其処に、蚕糸についての伝説を持つ犬頭社と服部社がありまし て、犬頭白糸は延喜式にも載り、今昔物語りの犬頭白糸の話はこの                         一七一                         一七二 社の事といはれて居り、服部社は貞観雑儀に見える大嘗会の御用を 承つた処で、三河の蚕業は此地附近を中心として発達したものと思 はねばなりません。其中心が奈良朝に入つて西の方八幡村へ移つた のは豊川の水流変化による航行不便の結果、西方に海津を求められ たによるものと私は解釈して居ります。 砥鹿神社  は三河一宮で今国幣小社です。大己貴命を祭り、文徳 実録嘉祥三年七月三河国砥鹿神授従五位下とあるを初め度々昇叙の 御沙汰がありました。社伝では大宝年間文武天皇の御悩で鳳来寺の 利修仙人をお召しになる勅使として、草砥鹿【草鹿砥】公宣卿が当国に下られ た際神託があつて此処に祀られたといひます。現在の社殿は余り古 くはありませんが優美軽快な流れ造りで周囲の風物と誠によく調和 して居ります。もう二三百年で国宝になるかも知れません。  宝物には御西院天皇第六皇女宝鏡寺宮御染筆の伊勢物語上下二冊 と銅鐸が一口あります。この銅鐸は天保年間に北設楽郡田峰で発見 されたもので袈裟襷紋の高さ一尺二寸程の小形なものです。古文書 も昔は沢山あつたやうですが殆んど散逸しまして、ただ文政十年に 正一位を贈られた神位記があるのみです。祭礼は一月三日の田遊祭 これは菟足神社や財賀寺で行はれるのとよく似て居りまして、五月 四日の例祭に流鏑馬が行はれ、それに一月十五日、本宮山上の奥宮 で行はれます管粥祭といふのは、管を入れ粥を煮まして其管に米粒 の入る加減で其年の豊凶を占ひます。農家もこれによつて其年の方 針を定めるのでありまして、これは石巻神社にもありますが古い遺 風と見られて居ります。  社家の草祗鹿【草鹿砥の誤植】氏は神社の前方に邸があり、維新当時の宣隆神主は                         一七三                         一七四 国学者で、勤王家として非常な傑物でして当時京都にあつて、国事 に奔走して居る内、明治二年六月佐幕派の為に暗殺されたといはれ ますが誠に惜しい人物でした。 本宮山   本社の背後に聳えてゐます本宮山は本茂山ともいひ、 奥宮のある処でありまして参詣人が絶えません。山麓から五十町と いつても三十町位なものですが、頂上の景色は極めてよく、東に富 士南に伊勢から太平洋、西に伊吹山北には御嶽から加賀の白山まで 望む事が出来まして、渥美湾など泉水位に見え、十五万の人間がし のぎを削つて争ひつゝある豊橋など眼にもとまらぬ位です。人間も たまには高所へ登つて大自然にふれ気分を換へる必要があるやうに 思ひます。  豊川鉄道ですと一宮まで豊橋から駅が四つ停留所が二つで次が長  山です。こゝは本宮山への登山口で、又この鉄道が経営する遊園  地があります。 次の東上には直下六十尺の牛の瀧があつて夏は賑ひます。その附近 には殆んど破壊されてはゐますが古墳が数個あります。同時に又石 器時代の遺物散列地でゞもあります。次が 野田城   で、もとは本丸二の丸、三の丸、南郭輪、があり侍屋 敷がそれを取巻いて相当広いものでした。それが今は殆んど耕地と なり、本丸だけは残つてゐますが、内側の土塁とか西から南へかけ ての外側の土塁などによつて僅かに当時の有様を偲ぶ事が出来るの みです。その土塁の上には大正天皇様の御即位紀念に愛知県が建て た紀念碑があります。南郭輪には天正十八年道雲寺が移つて地形を 変へ、その上本丸との間に鉄道が通じて居るので全く別々のやうな                         一七五                         一七六 感が致します。  城址の際にある法性寺の山門は、もと城の二の丸門であつたと伝 へます外に、遺物は何も残つては居ません。この城は永正十三年に 菅沼定則が築きまして、子の定村と孫の定盈と三代居りました。そ の定盈が武田信玄に攻められ三旬の間防ぎましたが、菅沼氏の親族 である山家三方衆の交渉で城を開いたといひます。彼の信玄が城中 の笛の音に聞きとれ近寄つた処を鉄砲で撃たれ、それが原因となつ て死んだといひますのは此城だといふ事ですが、事実はどうか分り ません。数年前まで昔を語るやうな松の大木が城址の辺にあつて、 よい目印となつてゐましたが、数年前心なき里人によつて切り去ら れました。  次が新城で、徳川時代には菅沼氏の陣屋がありました。今もその  廃墟が東入舟といふ処に残つてゐます。これは天正三年奥平信昌  が築いたものです。 芭蕉句碑  は、この町を西へ出外れる処の庚申寺にあります。道 添ひにある大きな自然石で、    「京に飽きてこの木がらしや冬住居」 とあります。建てたのが寛政十二年で書いたのは吉田の俳人古市木 朶です。 永住寺鐘  この町の永住寺にある鐘は長享二年のもので、設楽郡 市場村(今の南設楽郡作手村)の松尾大明神にあつたものでした。 それを天正二年に奥平美作守が老母の追善にこの寺に寄附したこと が銘文によつて知られます。これは奥平氏が軍陣の用に神社の鐘を 持出し、それが済むと今度はこの寺に寄附したと解釈せねばならぬ                         一七七                         一七八 と思ひます。昔の武士はしば〳〵かういふ虫のよい事をしましたの で、社寺では云ひ合せたやうに地中に埋め隠しました。東三河の古 鐘は殆んど悉くといつてよい程後世地中から堀り出したものです。 この永住寺の墓地には太田白雪の墓があります。 大田白雪  は、この町の人で、俳人としては可成有名でした。芭 蕉の門人で、三河小町などといふ俳書を編みました。又中々の学者 でして、殊に郷土の歴史を研究しまして、古文書記録から金石文の 探索、遺跡伝説の研究に没頭すること三十余年、十数種の著書があ り、三河二葉松も数人の共著となつてゐますが実は白雪の業蹟だと いひます。寛文から享保へかけての人で、東三河三十三観音巡礼は この白雪等の主唱によつて行はれるやうになりました。それに就て 三河観音道場来歴なる一書もあり、崇敬すべき我々の先輩です。 大脇寺仏像  はこゝから豊川を距てた南の八名郡八名村庭野にあ ります。木像の薬師如来は昭和七年国宝に指定されました。藤原中 期の作で四尺二寸程の座像ですが、容姿の整備した処や、手法の剛 健な点が見るべきものでありませう。 蜂巣岩   はその庭野にあつて新城町の遊園地である桜淵に対し てゐます。これは大体石灰岩で出来た凡そ百間にも亘る岩壁に無数 の小穴があつて恰かも蜂巣に似たので付けられた名ですが、奇観で もあり地質学からも珍らしいといはれてゐます。尚此岩には数十間 に亘る石灰洞があり、其内部に甌穴がある事など珍らしいものとい はれてゐます。  新城駅の次は東新町駅で、此左手山麓に延喜式の 石坐神社  があります。式には宝飯郡とありますが、其頃宝飯郡                         一七九 を割いて設樂郡を置かれたことも同じ式に見えて居ります。此社に は嘉吉三年在銘の鐘がありましたが、文明九年に遠州引佐郡の安樂 寺へ行き、文龜元年に今度は信州伊奈郡の立石寺へいつて、三様の 銘文を備へたものが現に同寺にあるといふ事です。  本社は今イハクラと讀み祭神は珍らしくも天御中主神であります が、本來はイシニマス神社即ち石神で、これは諸國の例から考へて もさうあるべきだと考へます。  此附近から東へ一帯の地が長篠役の古戦場で、家康が陣をとつた  茶臼山は神社のすぐ近くです。次の川路驛には勝樂寺といふ、こ  の邊としては比較的大きな寺があります。その南に渡船塲があり  ます。 酒井忠次軍【ゴチック見出し】が鳶ヶ巢の砦を夜襲するために間道を進んだといひ ますが、この邊で川を渡つたものでせう。これから吉川村に入り松 山越を登ると鳶ヶ巢はすぐ眼下にあります。其際に私の先祖豊田一 當齋秀吉といふものが道案内をして居ります。この一當齋は以前野 田の城主菅沼家の考臣でしたが意見が合はず仕を辭して吉川村に隠 退してゐましたので、その案内をしたものでせう。今も村にその屋 敷跡が殘り一門のものが五軒續いて居ります。 信玄塚【ゴチック見出し】は川路驛の北方小高い岡の上にあります。野田城攻め で負傷した信玄は、引上げの途中此處で死んだので葬つたといふ塚 があります。この塚から毎年夥しい蜂が出て人々を惱ますので其靈 を慰めると共に蜂を追拂ふ炬火踊りといふのが余程古くから行れて ゐます。附近には首洗池といつていつも濁つてゐる池もあり、土地 の名まで信玄といつてゐます。 牧野文庫【ゴチック見出し】はその信玄にありまして、これは其地の醫師牧野文齋 氏が経営され、郷土に關する珍書稀籍を主とし、廣く内外の書籍に 及んでゐます。個人経営として西尾町の岩瀬文庫と共に相當有名な もので、羽田文庫の本も一部はこヽに來て居るといふ事です。  川路驛の次は長篠驛ですが、實は大海といふ處にあるのでして、  長篠は其川東です。これから鳳來寺鐵道となつて次の鳥居驛には  すぐ近くに新勝寺があり、寺内に鳥居強右衛門の墓があります。  その東に北から流れて來る寒狭川と東から流れる三輪川との合流  点、そこが長篠城址で、豊川の名はこの合流点から下流をいひま  す。 長篠城【ゴチック見出し】の歴史は余りにも有名ですから省略しますが、この戦 史を研究された方に古くは新城町の皆川登一郎氏、近頃では對岸乗 本の柿原明十氏があります。この柿原氏は學界に知られた地質學者 でありますが、其余暇に資料を聚め色々研究されて己【ママ・已の誤植か】に發表された ものもあり、この方でも権威者です。さて長篠城址は東西が三町南 北が二町余で、凡そ九町三段歩あり、本丸の跡は畑となつて土壘が 殘つてゐます。高さは十八九尺、延長二百五十八尺、その一部に大 正五年愛知縣が建てた長篠城址の碑があります。  土壘の外側の濠は巾三十三尺から五十四尺、深さは二十九尺あり この西北に弾正廓、東北に帯廓、東南に野牛廓が取巻いて城を構成 してゐたのでした。今一帯が史蹟に指定されてゐますが、この城の 東北にある大通寺には杯井といふがありまして、これは甲軍のもの が最後の戦にその無暴を諫め退軍を勸めて容れられず、愈々明日は 討死と覺悟しましてこの水を汲み最後の別れをしたといふのです。 傍に其由を認めた紀念碑が建てられてゐます。  次の鳳來寺口驛から田口鐵道に分岐して居ります。鳳來寺へはこ  こで乗換へ、次の門谷の驛から登りますが、その門谷の道添ひに  ある「ねずみさし」の老樹は圍り十一尺余もあつて全國でも稀な  ものと云ひます。 鳳來寺【ゴチック見出し】は一名煙巖山ともいひ、全山殆んど火山質で主に流紋 岩ださうです。最頂部を瑠璃山といつて海抜二千五百五十七尺あり ます。この山は地質學及び植物學上の絶好な標本である許りでなく 風影がよく歴史に富んで居ますので、全山が天然紀念物に指定され ました。  山麓から本堂まで凡そ十町の間に千六百の石段があり、途中二町 許りの處に仁王門があります。これは徳川初期の建築で多分慶安頃 のものでせう。仁王尊の偉大なのが頑張つてゐます。集古十種に載 せられた鳳來寺の額はこの門に掲げてあります。門のすぐ下の石段 の送【ママ・途の誤植か】中に、芭蕉の句碑がありまして、    「こがらしに岩吹きとがる杉間哉」  とあり 建てたのは明和三年ですが大分風化して余命幾何もないといつた有 様です。この門から少し登つた處に傘杉と呼ばれる大木があり、樹 高三十間余、圍り二丈二尺で枝下二十一間に達しますが、まだ〳〵 素晴しい勢で成長しつヽあります。これから三町許り参りますと尼 寺が一つ、その上に醫王院がありますがこれが塔頭で、此附近から 四町許り上の本堂邊にかけて森青蛙が住み、盛夏の候樹上に泡を吹 いて卵を生む有様は實に面白く感じます。本堂の少し下に藥師の露 佛があり、相當大きな物でして、これだけのものをよく此山上まで 運んだものと感心させられます。出來たのは享保十六年、嘉永七年 に一度修繕してゐます。本堂は數度の火災で今は假本堂と二三の小 建物がある丈ですが、近く大規模なものが建築される筈です。そこ を通つて少し行くと東照宮の社があります。もとは寺の支配で此方 は幸ひに火難を免れ慶安年間創立のまヽで、老杉に圍まれた一段高 い處に朱塗の社殿があり、それを圍つて立派な石燈籠が十四基と鳥 居、水盤などがあります。これは近くは吉田、田原、濱松から、遠 くは福嶋、宇都宮、奥州棚倉などの城主がはる〴〵と献納したもの で、徳川氏の勢力を雄辨に物語つてゐます。社の上方には鬼の味噌 蔵、鬼の酒蔵と呼ぶ洞穴がありますが、假本堂の左側を通つて岩壁 を登つて行くと八町許りで奥院に達します。  その途中には七本杉といふ見事な老樹がありましたが追々に枯損 して今二本だけ殘つてゐます。何れも圍り三十尺以上あつて全山を 威壓してゐます。  この寺は聖武天皇の御發願で利修仙人が創めたものと傳へられ、 仙人は七本杉の一本を切つて佛像を刻み安置したといひます。傳説 では文武天皇御惱のとき利修仙人をお招きする為め草鹿砥卿が登ら れたとか、役行者が利修仙人に會ひに來たが路が惡く困つたともい ひますし、又徳川家康は此寺に祀る藥師の十二神將の一人寅童子の 化身で、家康が生れたときその寅童子が失はれ、死ぬと又現はれた など馬鹿氣たこともいつてゐます。  境内に東照宮を祀つてありますのはその庇護が厚かつたからです【ママ・行末句点省略】 昔は山中に二十ヶ寺もあり、それが天台と眞言の二派に分れ盛大な ものでして、こヽにも安達盛長が建久の頃造營したといふ歴史があ り、今は古義眞言宗で全國でも指折りの寺です。數度の火災に寶物 も古文書も殆んどありませんが、此山中で每年夏の夜を鳴き明す靈 鳥佛法僧と、二月の末に行はれる田樂祭は有名なもので、雅俗共に 遠近から出掛る人々で相當の賑ひを見せてゐます。  何しろ徳川時代には千石の朱印地を持ち覇を鳴らした寺ではあり ますが、すつかり荒廢した現在ではむしろ風景として賞美されてゐ ると思ひます。  田口鐵道はこれから海老を經て田口に達して居りまして、その田  口に近い田峰には觀首【音の誤植】堂があります。 田峰觀音【ゴチック見出し】といひますのは文明の頃此地にゐた菅沼氏の建てたも のらしく、本尊は松芽觀音といひ、行基の作と傳へられますが大し たものではありません。前立の十一面觀音は創立頃のものでかへつ てこの方がよい出來です。本堂は明治になつてからの改築ですが蟇 股や組物などに古い部分が殘り、それは室町時代のものと見られて ゐます。軒にかヽる鐘は文明十三年在銘のもので實によい出來であ り、古いものとしては永祿十一年信景の制札があります。  此寺でも鳳來寺と同様、舊暦正月十七日の夜から朝にかけて田樂 が行はれ、歌詞も色々あつて郷土研究者の見逃せないものとなつて ゐます。  田口からは伊奈街道によつて長野縣に通じてゐますが、この方面  から發見される先史時代の遺物は悉く信州系統のもので豊橋附近【「近」は文字転倒】  の繩紋系遺跡はこれに聯絡するものと考へられます。從つて已に  有史以前東三河と南信州との間には交通が開け物資の交換が行は  れたものと見なければなりません。 郷土資料保存會【ゴチック見出し】は下津具村にありまして、此等の考古學的遺物 から古文書記錄民族資料まで約五千点を蒐集して居ります。これは 同地の夏目一平氏の業績で北設樂郡の鞍舟及び櫻平遺跡を研究し學 界へ發表したのも同氏であり、又土俗の研究にも精進され、學界名 氏の北設樂行きは氏を訪問する事が目的となつてゐる程です。  此方面は以上で終りまして、次は鳳來寺鐵道の鳳來寺口驛から先  を申上げます。次の湯谷驛には鑛泉があり、ホテルを經營してゐ  ますが、傍を流れる豊川の上流三輪川の風景が實によく鳳來峽と  て世間に可成り知られてゐます。 馬背岩【ゴチック見出し】は驛より少し下流の河心にありまして、今天然紀念物 に指定されて居ます。この馬の背のやうな岩には中央に二尺巾位の 違つた石が縱走して居ますが、これは古い岩の弱点へ新たに異つた 岩漿が噴出したものださうで、その一端が一つの池となり名號池と いつて居ます。傳説ではこの上流一里許りの對岸に名號村といふが あり、昔弘法大師が廻國の際その村に泊つて名を聞かれましたが、 まだ名前がなかつたので命名を乞ふと明朝迄に考へて置くといはれ ました所が翌朝大師は昨夜の約束を忘れて出立されたので、村の者 が追かけて河向ふを行かれる大師を見つけ、大聲でその事を賴むと 何と思つたのか紙へ南無阿彌陀佛と書いて示されました。それが河 の中の石に寫つていつまでも消えなかつたので、その村を名號村と 名づけ、池を名號池といふやうになつたといふのです。  成程この名號池の石面には、字とも繪ともつかない妙な模樣が五 六個ありまして、自然に出來たものでせうが、見て居ると神秘的な 感じが致します。 服部郷【ゴチック見出し】次の大野は八名郡で對岸にありますが、和名抄にある 服部郷をこの附近であると主張し、又令義解に載る三河赤引糸はこ こから献つたものだといふ者もありますが、それは徳川時代に遠州 岡本村から神戸の調として絹を神宮へ納めるにつきまして、原料の 繭をこヽに求めて居た事實を捉へていふのでして、かういふ事實を 曲解し無理に歴史を作り上げやうとする態度はどうも感心しません【ママ・行末句点省略】  又夫程に思ふのなら、明治になつて神御衣祭の御料を北設樂郡稲 橋村から献じ、又渥美郡福江町から献じますのに、何故この町から も献納の舉に出でなかつたものかと反問したい位です。 阿寺七瀧【ゴチック見出し】は大野町から山一つ越えた南の山吉田村阿寺にありま して、七段に折れて居るので有名です。 此七ツの瀧の總高さは二百尺以上ありまして實に壯觀です。大野町 からは瀧の近く迄自動車が通じ、昭和九年名勝及天然紀念物として 指定されました。傳説では昔安倍清明が此瀧に來て修業したと又此 處の礫は子抱石といひまして、これを持ち歸つて祀ると子供が出來 るといふ信仰もあります。  次の槇原驛近くには琵琶淵といふ深淵があります。この淵の主は 頭許りの鰻で大さは四斗樽程もあるといひます。これは鰻をとつて 頭丈けを棄てたからだといはれ、此邊では鰻の頭は川へ棄てない習 慣だと聞きました。  次の川合驛は鳳來寺鐵道の終点で、三信鐵道がこヽを起点として  伊奈電鐵に通ずる筈になつて居り、今遠州佐久間迄開通して居り  ます。何れ全通は二三年後の事だらうと云はれてゐます。 乳岩、天然橋【ゴチック見出し】こヽで有名な乳岩は驛から十五六町で行けます。 海抜は千四百尺許りですから余り高い山ではありませんが、其山中 に洞窟や石門或は胎内潜りといつたやうなものがあるので有名です【行末句点省略】 此等のものを順次に見る樣に道がつけてありますが、全山流紋岩質 凝灰岩で一寸見ると石灰岩のやうです。道の順序で申上げますと、 第一が乳岩で洞窟の深さも巾も各六十尺高さ四十尺ありまして、天 井には鐘乳石が發達してゐますが石灰洞で出來るのとは違ひ長さは 漸く一尺内外です。乳岩とは其形から名づけたものでせうがかく凝 灰岩の洞穴に鐘乳石の出來るのは珍らしい例ださうです。  次が目藥岩で巾が五十尺高さが二十三尺、奥行が三十尺許り、天 井の一部から鹹味のある白い粉を吹き出してゐます。これを水に溶 かして目藥にするさうですが分折【ママ・析の誤植か】の結果は余りきヽさうにもありま せん。  其次が天然橋といはれる石門で、巾が七十尺、高さが七十五尺と いふ大穴が岩にありまして、下に立つて見上げますと、天然の大石 橋の空間にかヽつてゐる樣は實に奇觀でして、誠に驚くべき自然の 技工です。  道はこれから下り坂となります。さて其次が胎内潜りで、穴の長 さが約七十尺、途中で曲つて居るので中は眞暗です。次に又小さい のが一ツありますが、この方は巾五尺、高さ四尺位で長さ十五尺に 過ぎません。次が新穴で梯子によつて井戸の底へでも降りて行くや うな道がついてゐます。これは第一と第二と聯絡し五六十尺をかう して降りるのですが、頭上の巨岩が今にも落て來さうであまり好い 氣持は致しません。これを出て少し行きますとこれで一周した事に なるのでして、此全距離は約八町あるといひますが、恐らく絶景と して又奇勝として誇り得るものだらうと思ひます。  附近の山中には色々の植物に富み、熱帯植物のカギカツラもあれ ば、高山植物の石楠花もあります。そして岩漿中からは色々な化石 が出るといふ風に、地質學や植物學からも實際見逃せない處だとい はれてゐます。  川合から奥は遠州への道が自然に開けて居り、原始時代に豊川を  遡つた先史時代人は此方面へ出たものと思ひます。信州への通路  は鳳來寺から田口、津具の線によつたらしく、この見方は今日發  見される諸種の遺物から判斷されるように思はれます。  尚此方面では年中行事として今も昔ながらの 花祭り【ゴチック見出し】が所々で行はれ、土俗研究者の興味をそヽつて居りま す。此地方出身の其方面の研究家である早川孝太郎氏は、これにつ いて膨大な著書がある程です。  其他天然紀念物とか、史實傳説などにまだ申上げたいものもあり ますが、省略致しまして、今回はこれで擱筆する事に致します。 次回は市の東部方面について申上げたいと存じます。    敬具                         一九八 【右頁白紙】     第三信  つい遅くなりまして申訳ありません。漸く筆を採り、市の東部方 面を申上げ第三信と致します。  東部と申ますと道順が二手に分れ、北寄りの八名郡と南寄りの渥  美郡とになりますが先ず八名郡の方面から申上げませう。 豊橋から別所街道を東北に進みますと、牛川町を経て石巻村となり ますが、この道の行手を遮るやうに聳えてゐる石巻山には八名郡に 一社しかない延喜式内社、 石巻神社  の奥宮が鎮座してゐます。本社は其山下神郷村にあり ますが、豊橋からは約二里で、一歩市外へ出た処に鳥居場があり遥 拝所であると共に登山口となつてゐます。此処に例の羽田野敬雄の                         一九九                         二〇〇 建てた式社二十六座夫々の道しるべが建つてゐます。  此山は全山巨岩で殊に山頂に巨大なものがある事や以前石纏の文 字を使つた事などから、本宮山と同様山岳崇拝或は巨石崇拝によつ て起つた社と考へられます。本社のある神郷は和名抄にある美和郷 に当り、神をミワと呼んだもので、この例は蒲郡町赤日子神社の所 在地を上の郷即ち神の郷としたのと同様でせう。  文徳実録仁寿元年十月三河国石纏神授従五位下とあるのがそれで 奥宮を上社、本社を下社と呼びまして、上社は古田氏、下社は大木 氏が奉仕して来たといふ記録があります。代々の吉田城主が篤く崇 敬しまして、社殿は三河聞書に天文廿三年上社を造営したとあり官 社考集説に天文十六年下社を造営したとありますが、今の社殿は何 れも近代のものです。本社にも砥鹿神社と同様管粥の神事がありま して、其年の五穀の豊凶を占ひ、農家はこれによつて其年の計画を 立てゝゐます。  伝説によりますと、昔この山と本宮山とが高さを争ひ、其解決に 山頂から山頂へ樋をかけて水を流しました処此山の方へ流れたので 石巻山の方が敗けにきまりました。それ以来この山に登る者は大小 に拘はらず石一つ持つて登ると御利益があり、反対に一つでも持つ て帰ると神罰を蒙るといひ伝へて居ります。珍らしいのはこの山中 に陸産の巻貝二三種が棲む事で、これは大体が石灰岩で出来てゐる 関係からださうです。  この山の裏手嵩山といふ処に巨刹があります。 正宗寺   といふので、この寺は支那僧日顔といふ者が永仁年中 に開創したものと伝へます。此附近の地勢が達磨大師の遺跡である                         二〇一                         二〇二 魏の嵩山に似て幽邃の地だといふので嵩山と名づけ、一宇を建立し たのが初めだといひます。一時は非常に栄えまして、山内に十二坊 と末寺が百ヶ寺あつたいひますが、今山内に坊はありません。其後 衰微したものと見えまして永禄年間この地にゐた西郷弾正が、伽監 を再興し寺領を寄せてゐますが、徳川時代には朱印で三十石を持つ てゐました。曽て応挙や盧【蘆の誤植か】雪などの絵師が寄寓してゐた事があり、 其盧【蘆の誤植か】雪の描いた波の大幅は有名なものです。これは八幅に続いて只 一つの大波を描いたもので、現代人の想像にも及ばない材題ではあ り、筆勢雄健、東三屈指の宝物です。其外にも名画を多数に所蔵し 夏の日の曝涼には参観人で賑ひます。本堂は新らしいものですがよ く周囲の山水と調和し宏大な伽監は静寂な雰囲気に包まれてゐます  此門前を、御油に起り豊川から遠州へ出る姫街道が通つてゐます  この先に国境の山を超える本坂峠がありますが、其途中右手に石  灰洞窟があります。 嵩山蛇穴  といふがそれで、深さはどれだけあるか末だ見究めた 人がありません。所々で分岐して居りますので、一度道を失つたが 最後、もう暗黒の世界から遁れ出る事は出来ないのです。附近一帯 が石灰岩で、石灰を製造したりセメント原料に採集されてゐますが 大正十一年此地に於て化石人骨を発見しまして、旧石器時代のもの ではないかと大騒ぎをした事がありました。しかし結局それは鹿の 骨であるとの事でしかと分らずに終りました。これがお隣りの支那 で発見されました。ミナントロプス、ペキネンシスのやうなもので ありましたなら、それこそニホントロプス、スセネンシスとでもい ふ大変なものになつてゐたかも知れません。                         二〇三                         二〇四 馬越古墳  こ村の馬越といふ処に長火塚といふ東三河第一の横穴 式古墳があります。一体この附近には古墳が到る処にありまして、 それが殆んど横穴式でありますけれども中には山上にあつて前方後 円式らしいのもあります。即ちこの東方の神社境内に一つと、それ に隣る寺の境内には開口した横穴式のものがあり、又長楽の正八幡 宮近くには少くとも二十基以上があつたといひますがこの長火塚程 大規模のものはありません。そして又紺屋谷の七ツ塚といひまして もとは附近に七ツの古墳があつたさうですが今はこれが一つだけで それも巳【已の誤植か】に開口して何物も残つてゐませんし記録もありませんが、 現存せる羨道部の入口から奥壁までは四十尺に近く、玄室の高さ十 尺以上といふ豪勢さです。  尚この方面には歴史上重要な慶長以前の金石文も数点あり、棟札    などは実によく保存されて其数は百点を下らぬといひますけれど  も、研究が浅いので言及する事を避け、次は渥美郡の内二川町方  面の事を申上げる事に致します。  東海道線豊橋駅から東へ二川駅迄の間、これを高師原と云ひまし て昔文覚上人が院宣を乞ひに都へ上りました時、高師の荘司といふ 追剥ぎの為に裸にされたといふその原ですが、事実はどうか分りま せん。街道は殆んど並木続きで昔の面影が多分に残つて居ります。 岩屋山   は二川町の西方にあり、一ヶの大岩塊でありまして其 岩上に南面して観音様の立つて居るのが汽車の窓からよく見えます  吉田の俳人古市木朶は    「かすむ日や街道一のたちほとけ」  と咏んで居ります。此処には大岩屋の窟堂とて天平二年行基の開                         二〇五                         二〇六 創と伝へる寺がありまして、曽て吉田の城主でありました池田輝政 の後裔、綱政が非常に信仰して絵馬や水盤、経文など度々寄附して 居ります。伝説ではその綱政が宝永四年の秋江戸から帰る途中、白 須賀の宿に泊りました。其頃白須賀の宿は台地の下海岸近くにあり ましたが、其夜観音様が網政の夢枕に現はれ、早く此地を立退けと 教へられました。そこで綱政は夜中にも拘はらず供揃へしまして、 二川宿へ向け台地を登つたとき、下では突然ツナミが起つたのです  不思儀に命拾ひしました綱政は、其御礼に金の灯籠を献納したと いふのですが、実はそれは白須賀蔵法寺の観音様であつて、使者が 誤つて此寺に納めてしまつたその申訳に切腹したといふ説もあるの ですけれど、綱政の信仰はそれ以前からの事であり間違ひとは考へ られません。本寺大岩寺は町中にありまして、現住の住職鈴木関道 氏は「二川宿大岩加宿の研究」を著はされた程郷土研究の熱心家で す。この町は勿論五十三駅中の一で今に本陣址も残つてゐます。  この二川は和名抄の渥美郡大壁郷に当る地でありまして、其大岩 は岩屋から得た名を伝へられてゐますが、実は大壁から転じたもの で、此処に大壁神明社が残つて居ります。町を東に出はずれる北側 に妙泉寺がありまして、 芭蕉句碑  が建つて居ります。句は    「あぢさゐや籔を小庭の別座敷」  といふので、建てたのは寛政十年です。土地の俳人十人許りの発 起で建てたものですが、其内に一人故人の名を並べてある事は如何 にも床しく感ぜられます。  尚此寺には永享九年在銘の鰐口があり、これには三河国野方郡牧                         二〇七                         二〇八 平合とあります。この野方郡は今の額田郡で「野」を「ヌ」と発音 した証拠であり、合の字は郷の充て字である事が面白い資料である と思ひを【「ま」の誤植か】す。  二川町の北半里許りの処に雲谷といふ村があり、そこは平安朝時  代の街道が通じて居ります。 普門寺   はこの村にありまして、やはり行基の開創と伝へられ 又鎌倉時代に安達藤九郎盛長が頼朝の命を受けて造営した三河七御 堂の一つといひますが、とにかく少くとも平安朝頃のものでありま せう。昔は山に拠り堂塔を構へ山内十幾坊かあつたといひますが、 度々の兵火に焼失しまして、今の堂は元禄十三年再建の茅葺四注造 り二軒で三斗が使つてあります。本尊は聖観音で弘仁以前の作と見 られ、優秀な作品ですし、又この外に国宝に指定された仏像六軀及 経筒とがあります。其国宝は一段高い処の別殿に安置され、阿弥陀 像一軀、釈迦像一軀及び四天王像四軀で、東三河の代表的な仏像で す。経筒は久寿三年在銘のもので土筒と鏡が一面附属してゐますが 其銘文に願主年代作者迄揃つてゐるのは珍らしい例でせう。それと まだ一つ寺伝では頼朝の寄附したといふ弘治二年陽鋳銘のある鉄灯 籠が一つあります。もとは非常に沢山の仏像があつたさうで、天文 廿二年この附近が兵火にかゝつたとき持ち出された仏像が小山の様 に積んであつたといひます。そして市内神宮寺の大日如来、悟真寺 内龍興院の本尊なども此寺から行つたものといふ事です。古文書に は天文十八年今川義元の寄進状を初め色々ありまして、次に申上げ る東観音寺と共に東三河の宝庫となつてゐます。此処には三州吉田 記の著者である林自見の寄附した石灯籠が一つあります。これは自                         二〇九                         二一〇 見の叔父がこの寺の住職であつた関係でせう。又この寺にある山田 宗偏のさゝ波の琵琶は有名なものであります。 東観音寺  は二川町から一里近く南の小松原といふ村にあり、こ の寺も行基の開創といふ言ひ伝へがあります。以前の寺地はそれか らまだ十町程南にありまして大平洋に臨む処でしたが、宝永四年の ツナミに懲りて移転したといひます。寺の縁起によりますと工事に 九年の歳月を費したとありまして、室町時代に田原の城主戸田氏が 信仰し、それに関した古文書も七八通保存されてゐます。  本尊は馬頭観音で、馬の守護神として遠近の信仰を集め、毎年二 月初午に絵馬を出しますが、これを厩にかけて無事を祈り、又馬の 病気にはこの境内の笹を喰せると癒ると信ぜられて居ます。外に安 阿弥の作と伝へる阿弥陀の座像がありまして、鎌倉時代の作、高さ 四尺六寸蓮弁上に安置され、昭和七年国宝の指定を受けました。又 文永八年在銘の懸仏は一尺一寸余の円板に馬頭観音像を取りつけて あり、次の銘文があります。    三河国奉鋳小松原寺 馬頭観世音菩薩    当地頭藤原朝臣泰盛勧請 《割書:沙門行心行決|細工沙弥成仏》    文永八年《割書:太歳|辛未》正月十五日  更に境内の多宝塔も今国宝に指定されてゐますが、これは大永八 年に藤田左京亮定光が建立したもので、慶長十四年に修繕し享保元 年に移転し、又明治十三年手入れを行つてゐます。建築当初は檜皮 葺でしたが今は杮葺となつて居ります。其外鎌倉時代の作の広目増                         二一一                         二一二 長天王像や楽器散しの文様ある和鏡、文治三年から建久三年迄かゝ つて厳朗といふ僧の筆写した一筆写経の、大般若経、文安四年の陀 羅尼経版木、大永六年の馬頭観音版木などから、古文書では田原戸 田氏関係文書、今川家関係文書、徳川氏に関するもの等実に豊富で す。境内は頗る広濶で奥庭に芭蕉の句碑があります。    「道のベの木槿は馬に喰はれけり」  の句で、寛政庚申之夏洛柳後苑野狂の署名がありますが、それに よると同寺にこの句の真蹟と翁の念持仏でありました西行上人の像 が納められた事になつてゐます。  そこでこのやうな立派な寺がどうしてこんな田舎にあるかと申ま すと、これは東海道から分岐しまして渥美郡を縦断する往還があり その先は船で伊勢へ交通があつた事と、今一つは宝飯郡小坂井の渡 津駅から牟呂の坂津へ渡つたとしまして其侭東南に進みますとこの 東観音寺へ出ますので、これが奈良朝から平安朝へかけての官道で あつたからかとも考へられます。この渥美郡方面は次回に譲りまし て今回は簡単ながらこれにて擱筆致します。       以上                         二一三                         二一四 【右頁白紙】    第四信  引続いて今回は渥美郡の方面を申上げやうと思ひます。第一日に 御案内しました小池町の潮音寺、あれから南の方面ですが尚暫くの 間はまだ市内で、豊橋駅前から出ます渥美電鉄、この線を基準に申 上げる事に致します。  市内花田町字松山の正林寺前を通る田原街道はそこで分岐しまし  て左に進めば小松原東観音寺へ達しますがこの田原街道を進みま  すと其先は豊橋市が周囲の町村と合併せぬ前高師村と呼んだ処で  和名抄にある磯辺郷、高芦郷は柳生川流域の磯辺町、梅田川流域  にある高師の地と考へられ、其外神領であつた橋良御厨、野依御  厨、高師御厨などが町名として残つて居りまして、大凡の想像を                         二一五                         二一六  下す事が出来ます。 王塚古墳  はこの磯辺にありまして、小字を王ヶ崎といふ処です これは弘化三年に偶然発見しまして、その際色々の器物を発見しま したが、崇【祟の誤植か】りを恐れ再び埋葬したといふ記録があります。そして大 正十一年五月渥美郡史編纂に際し資料を得る為に再び発堀をやりま して、十四五点の遺物を得ましたが、特に珍らしいのは椎頭の大刀 一振と、狛剣と呼ぶ双龍環頭の大刀一振が出ました事で、是等は国 家の所有として当然帝室博物館へ収蔵される筈なのを、当時の歴史 課長文学博士高橋健自先生の御厚意でそこの小学校に保存される事 になりました。 十三本塚  は富本町にあります。この町名は十三をトミと読んで 合併当時新たに命名されたもので、此処は永禄七年吉田の城代小原 肥前守鎮実が、龍拈寺口で殺した人質十三人を埋めた処だといひま すが、大口氏によりますと、このとき鎮実の殺した人質は十三人許 りでなく、又永禄三年にも永禄五年にも人質を殺してゐるさうです から信用し兼ねると思ひます。恐らくこれは小規模な古墳でもあつ て名付けられたのではないかと思ひます。一説には天平の頃一人の 行者が来て潮音寺の観音堂に参籠し法華経を書いて十三の塚に分ち 納めたといひますが、附近に経塚といふ地名の残るのも不思議です 高師小僧と長葉石持草   高師から老津、二川へかけての原は高 師原で、所々に村落が介在してはゐますが大体二里に三里位の広漠 たる原野です。こゝで食虫植物として知られた長葉の石持草と、水 酸化鉄の固りである高師小僧を産します。私は二川町から雲谷へ行 く途中でこの水酸化鉄の一種を採集して居りますが、その分布は相                         二一七                         二一八 当広いやうに思はれます。  台地を南へ下りて梅田川を渡ると左手の田圃の中に森があります  これはフグの森と呼ばれ、植田町車神社の所在地です。 車神社   の社地は立派な前方後円墳でして、神社の名はこの古 墳の俗称車塚から来たものでありませう。これと同名の神社が八名 郡八名村にも一社あります。神社はその古墳の後円部に建てられて 居り、明治三十六年七月に大野雲外氏が調査に来られて、発堀をな し、色々のものを発見されましたし、又以前に発見して神庫に保存 されてゐるものを研究して帰られまして、その結果を人類学雑誌二 十巻二百三十号に発表されてゐますが、珍らしいのは三鈴のついた 杏葉と三十三個一連の出雲石の管玉でせう。外に硝子製の曲玉、鉄 刀片などがあります。  此社の神様は昔船で来られましたが、上陸の時暴風雨の為に船が 転覆したのをフグに救けられて無事上陸されたといふので村の人は 決してフグを喰べない習慣ださうです。又古来宮座があつて多少は 変つて来ましたが、今に行はれて居る事は珍らしい事と思ひます。 この社から西に当る大崎には古城址があります。領主中嶋氏の居館 で慶長五年から引続いて明治初年に及びました。その近くの龍源院 はその菩提寺でありまして、境内には天然紀念物に準ずるお葉付銀 杏の老樹があり、樹勢は今尚熾んで年々多数の結実を見せて居りま す。  以上で市内の御案内を終り、一歩市外へ出る事になります。 大津神戸  は老津村にあります。維新前は大津と書きましたので 今でも老津と書いてオウツと呼びます。この村は文治元年の太政官                         二一九                         二二〇 符に依り神戸に定められた所で、これは高倉天皇がホウソウにかゝ らせ給ふたとき中宮の藤原殖子が御平癒祈願の為め献られた御厨を 此時官符によつて神戸に改められたものといひます。その神戸に就 いての神明社もありましたが、今は老津神社と云ふのを創設しそれ に合祀されました。この老津神社は村中の小社を合祀してゐますが 其中に熊野社といふのがありまして、明治の末頃迄その社に宮座の 制度がありました。その熊野神社はその村の熊野山安養寺の支配で 熊野から移住した人達によつて祀られたものです。その安養寺は今 市内向山町へ移転しまして嵩山正宗寺の別院となつてゐます。 高縄城   は小字向田にあり、文明の頃戸田氏が西三河から来て 第一に足溜りとした処で、戸田氏が田原に移つたのはその後のこと です。城址は今城山といひ、その前方一帯も城の名をその侭に高縄 城といつてゐます。 大平寺   はその高縄城にありまして、寺伝では嘉応年間の創立 となつて居りもと真言宗であつたのを南北朝の頃大暁禅師と云ふ人 が臨済宗に改めたといひます。寺宝には高麗本の紺紙金泥の金剛般 若経があり、是には支那の至正十一年の奥書がありまして我国の正 平六年に当ります。又今から二百年許り前に後の山が崩れましたと き偶然発見した明応四年在銘の古鐘があります。古文書で一等古い のは大永八年の八月の戸田宗光田地寄進状で、次いで天文十七年の 今川義元寄進状、永禄七年蔵人家康の寄進状などがあり、殊に義元 の寄進状には目録が添へてありまして、貴重な資料となつてゐます  境内には苔むした五輪三基がありまして、戸田氏の墓といはれて ゐます。本堂は火災に遭ひ、明治になつてからの再建ですが境内は                         二二一                         二二二 相当広く整つた立派な寺です、 妙見古墳  は西方村界に近い丘の上に営まれたもので、前方後円 で然も横穴式といふ変つた形式をもつてゐます。明治初年迄は玄室 内に入ることが出来て内部は八塁【疊の誤植か】敷程あつたといひますが、其後天 井の墜落によりまして、今は入口から漸く窺知し得るだけです。羨 道部が南に向つて開口し、前方部が北に向つてゐることゝ、其基底 部に貝層のあることなど殊に興味あることゝ思ひます。此の村には 外に二三の古墳がありましたが、今は外に老津神社境内に一つ残つ て居るに過ぎません。そしてこれは玄室の一部を残してゐるだけで す。又岸に近い海中には古墳築造のため運んで来た巨石を取落し其 侭になつてゐるものがありますが、これは築造技術の方面から見て 面白い資料と考へます。  次は杉山村で、こゝには百々の窯址、砲台の址、長仙寺などがあ  り、又神鳳抄にある杉山御園、浜田御園、泉御園もこの村だつた  といはれてゐます。 百々窯址  は、字六連といふ処にありまして、南面した傾斜地を 利用し登り竈に築かれ全長十四尺、高さ七尺程あり、色々の遺物が 其中から発見されてゐます。これは大正十一年三月史蹟に指定され ました。 砲台址   はこの村の太平洋に面した処にありまして、高さ凡そ 七十間位の丘上に、五間に七間位を地均しした所があるだけですが 徳川の末つ方、海岸防備の必要からこれへ大砲を据付け、外国船を 打払ふといふ田原藩の企てであつたのです。 長仙寺   は寺伝によりますと、三河守大江定基が頽廃を歎いて                         二二三                         二二四 再興したことになつてゐますが、鎌倉時代には相当栄えた寺で寺領 六百貫を寄進されてゐたといひます。慶長六年伊原備前守の検地の とき、住職が遠州の麻訶耶寺へ行つて不在だつたので寺領が帳落と なりましたのを、寛文四年になつて田原の戸田氏から漸く三十石を 貰つたといふ事です。当時は西三河の猿投神社と何かの関係があつ たと見えまして、この寺の康安年間の論語、文和年間の白氏文集の 二点が現に同神社に保存されて居るといひます。  杉山の次は田原で、此処には色々のものがありますから順を追つ  て申上げませう。先づ第一が 田原城   これは明応年間に戸田宗光が築きましたもので、豊橋 二連木城の根拠地でありました。其後宗光の子の憲光、孫の政光か ら宗光、尭光と続きましたが、この尭光は牟呂八幡社、小坂井菟足 神社を造営したことが夫々棟札に残つて居ります。天文十六年今川 義元に攻められ城は陥り一族は亡びました。それから今川氏が城代 を置き守つてゐましたが、永禄七年徳川氏が攻めてこれを取り、慶 長頃は池田輝政の支配下にありましたが、其後戸田氏の一族戸田尊 次のものとなり、寛文になると三宅氏が西三河の挙母から転封にな つて維新当時まで続きました。尚この城につきましては、天正十五 年七月に家康が、慶長十五年二月に秀忠がこの附近に狩する為め暫 く滞在したこともあります。  現在では本丸址が残つて居りまして、此処に県社巴江神社が祀つ てあります。文化十二年の創立で、城主三宅康和がその祖先児島高 徳と三宅康貞とを祀つたものです。以前は城址の一偶にありました のを最近本丸址へ遷し、新たに造営されたのです。これ等を含めて                         二二五                         二二六 城址一帯は公園として町で経営してゐます。 池の原邸  は渡辺崋山の遺跡で城址から少し距れた処にあります 崋山が蟄居し自裁した場所ですが其家は己【已の誤植か】になく、礎石が復原して 保存されてゐますのと、外に崋山の銅像及び東郷元帥の書かれた紀 念碑とがあります。崋山の筆蹟はこの地方処々に残つてはゐますが 中でも巴江神社と、この町の有志によつて組織されてゐる崋山会と にその代表作が網羅収蔵されてゐるとの定評です。 崋山墓地  は駅に近い城宝寺にあります。夫人の墓と並んで居り ます。至つて小形な墓石で、これが偉人崋山の墓かと驚かされる位 です。明治元年に息小華が建てたものでして、その小華の墓もこれ に近く建つて居り、この方は関根痴堂の撰文です。 城宝寺古墳  はこの寺域内にありまして、横穴式の大古墳です。 南に向つて開口し、奥壁に沿うて二三の石仏が安置してあります。 玄室も羨道も完備し、東三では馬越の長火塚に亜ぐ大規模のもので すが、発堀されたのは遥か以前の事で遺物も記録も伝はつてゐませ ん。頂上には弁天堂が建つてゐまして、多少形態を損じてはゐます けれど尚よく当初の偉容を偲ぶことが出来ます。 芭蕉句碑  は龍泉寺にあります。句は    「すくみ行くや馬上に凍る影法師」  とあり、これは貞享四年保美に居ました杜国を訪ねる途中天津畷 での吟です。碑は天明二年に出来ましたが適当の場所がなく其侭に なつて居たのを、後年この寺内へ建てたといふ事です。 吉胡貝塚  はこの方面で私共が最も関心を持つものゝ一つで、場 所は町から十町許り距れた字矢崎といふ処にあります。此処は大正                         二二七                         二二八 十一年清野謙次博士が大発堀されました結果、二百三十六体の人骨 及び多数の遺物を発見した処で、それ等の遺物は悉く清野博士の庫 中に納まり跡には何一つ残つてゐないといふ日本一の銘を打たれた 歴史的貝塚であります。  この外附近には古墳が七八基ありまして、多少の発見品が伝はつ  て居り、また竈址はこれから南、神戸村にかけて所々に残つてゐ  ます。それは平安朝から鎌倉時代へかけてのものと認められてゐ  ますが、この地方は上代以来竈業の盛んな地方であつた事は諸々  の遺物遺跡によつて知ることが出来ます。  田原町にあつた神領の御厨御園は吉胡、根田、田原、加治、勢谷 弥熊などで、これに隣る神戸村が三河最古の神領である渥美本神戸 の地でして、和名抄に載る渥美郷は勿論この地方でありました。 長興寺   は大久保にあつて、明応九年版の妙法蓮華経がありま す。これは田原城主戸田宗光の発願で着手され其子憲光によつて完 成されましたもので、この地方で刊行された経文はこれ以外にない やうに思ひます。 谷の口銅鐸  は此神戸村字谷の口におきまして寛政四年用水地を 築くとき、偶然発見されました。今其所在を失ひましたが、記録に よると同時に三口出たやうで、三尺四寸と三尺五分の高さのもの及 び八寸六分といふ小形なものが出て居る様子です。この内一口が今 ロンドン博物館にある由を聞きましたので、先年京都大学の梅原末 治氏が外遊の節調べて貰ひましたけれでも、それは他所発見のもの でありまして、今日では全く捜索の手懸りを失つてしまひました。 阿志神社  は田原の先の野田村にあります。文徳実録に仁寿元年                         二二九                         二三〇 十月参河国阿志神授従五位下とあるこの郡唯一の延喜式内社であり ますが、永らく荒廃しまして、その社地さへも分らなくなつてゐま したのを、寛文十年に田原の藩主三宅康勝の再興したものでして、 其時藩主の寄附した石灯籠一対が今に、昔を物語つてゐます。伝説 には康勝の夢に神が現はれ、阿志神杜は大切な官社だからこれを再 興したら姫の病気が癒るであらうと教へられたので、早速家臣を遣 はし地を求めて再興されたといひます。今の社殿は明治少し前のも ので、附近の葦の池は社に対して如何にも幽邃の趣を添へてゐます  次の泉村へかけては和名抄にある和太郷の地と考へられますが、  これが和地に転じ、田原以南の総称であつた時代もあります。今  日では和地の地は伊良湖岬の一偶に残りまして僅かに其名残を留  めてゐます。この泉村にも鸚鵡石や銅鐸発見地、貝塚などの見る  べきものが残つてゐます。 鸚鵡石   は字馬伏にありまして、これは昔恋する乙女が男を恨 み秘蔵の笛をくはへ、この岩上から飛び降りて死んだ、其後この石 はいかな音でも反響するがただ笛の音だけは反響しないといふ哀話 を伝へてゐます。 村松銅鐸  は我国銅鐸発見史上重要なもので、三代実録に、貞観 二年八月十四日三河国銅鐸を献す高三尺四寸経【径の誤植か】一尺四寸渥美郡村松 山中に之を得たり或は阿育王の宝鐸と曰ふ、とあるものです。口碑 ではその村松山中小字名金堀といふ処だと申しますが、羽田野敬雄 は、名草の山間に金堀といふ処あり、村松の西南にて馬伏の地なり 鸚鵡石の西三町許りの所にて柳七八本ありこの処ならんと考証して ゐます、これもやはり伊河津の地内でありますが、何分にも千年以                         二三一                         二三二 上昔の事でありますから確かな事は分りません。 伊川津貝塚  はこの村の神明社から西に亘つてあります。明治三 十六年大野雲外氏が調査されたを初めとし、大正十一年には小金井 良精博士が柴田常恵氏と共に大発堀をやつて人骨二十七体其他色々 な遺物を得て居られますが、こゝから発見された有髯の土偶は殊に 有名です。その外この村には貝の浜貝塚、石神貝塚がありまして、 貝の浜貝塚は海岸波打際にあることで名高く石神貝塚は相当広い区 域に亘つてゐまして、まだ調査の余地が多分に残されてゐます。  次に福江町で色々と見るべきものもありますが、第一に申上げた  い事は間宮氏の事です。 間宮氏   は此処を根拠としてゐたもので、権太夫直綱は永禄六 年今川家を去つて徳川家に仕へ、この附近を領してゐましたが天正 六年に死にました。そこの栖了院にさゝやかな五輪が残つてゐます 其子広綱は天正十八年に家康に従つて関東に移り、其子の之等は関 ヶ原の軍功により再びこの地を領しましたが、僅が【「か」の誤植か】五年で田原の戸 田氏に譲り隠退致しました。この栖了院はこの直綱が建てた寺でそ の開基となつてゐますが、その墓地にはこれ等一族の立派な墓が多 数並んでゐます。 芭集句碑  は町の西端潮音寺の境内にあります。これは芭蕉杜国 及び越人の俳諧三つ物が彫まれ、明治になつてからの建設です。杜 国の本名は南彦左衛門といひまして名古屋のものですが、貞享三年 故あつてこゝに配流され、保美といふ地に居て、元禄三年二月その 地に歿しました。芭蕉がこの地に来ましたのはその杜国を訪ふ為で 東海道を西へ鳴海宿まで行つて引返したものなのです。こゝで咏ん                         二三三                         二三四 だ三ッ物か後年句碑となつたので、    「麦はへてよき隠家や畠村」        芭蕉    「冬を盛りに椿さくなり」         越人    「ひるの空のみかむ犬の寝返りて」     野仁  と咏んで居ります。野仁は杜国の別名です。この時は暫く滞在し て居たと見えまして伊良湖にも遊んで句が残つてゐます。    「鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬」  の句がそれでこれは寛政五年碑に刻し其地に建てられてゐます。 今陸軍射撃場内の巨岩の上に建つてゐます。 平城貝塚  はその杜国のゐた保美にありましで【「て」の誤植か】、福江町から西南 七八町の地、その小字平城に貝塚があるのです。普通は保美貝塚と 呼ばれますが、学界へは保美平城貝塚として報告されてゐます。最 初に調査されたのは明治三十六年大野雲外氏で、同じ四十二年清野 博士がまだ学生時代に二十日も滞在して研究し、大正十一年には柴 田常恵氏と博物館の後藤守一氏が発堀し、続いて大山公爵と小金井 博士が発堀しまして十九体の人骨と多数の遺物を得られました。 私はこゝで牛の角一個を採集して居ります。我国の石器時代に牛の ゐたかどうかは未だ明かでなかつたので、この発見は熱田高蔵貝塚 の馬骨と共に相当重要性をもつものと思ひます。 川地貝塚  はその南に当る亀山の小字川地にあります。豊島ヶ池 といひまして、もとは入海であつたと考へられる大池の傍にありま すが、此処から大正十一年清野博士が二十五体の人骨と色々な遺物 を獲て居られます。中にも彫刻のある石冠は非常な珍品といはれて ゐます。                         二三五                         二三六 泉福寺   は大字山田にありまして、天平二十年渥美重国の建て たものといはれる古い寺です。その重国はこゝの郡司で泉村に住ん でゐたと伝へられてゐますが、渥美は安曇で白水郎をアマと読み安 曇の一族ですから、白水の二字を合せると泉となり村の名も寺の名 もこれによつたものといはれて居ます。神戸村の大泉寺にある誕生 仏は寺伝によると渥美氏の祖先渥美白水から伝へたものといはれ、 支那六朝式のものです。又知多郡野間の大御堂には大勧請栄源奉施 入三州渥美郡泉福寺拝殿、元応二年八月日と刻んだ錫杖があります し、伊良湖岬村和地の医福院には正和五年六月十日三州渥美郡山田 郷泉福寺東坊云々の奥書ある大般若経のある事などから見て余程古 くから栄えた寺といふ事が出来ませう。 経瓦    保美の海宝天神社にある経瓦は附近の経塚から発見さ れましたもので、尊勝陀羅尼経が殆んど揃つて居ます。書体から見 ると平安朝のものらしく、外に又伊勢の天神山で発見された経瓦に は承安四年六月渥美郡伊良湖郷の銘があり、更に東観音寺には其頃 のものと思はれる立派なものが残つて居るのを見ますと、文化的に 見ても面白いものだと思ひます。  次の伊良湖は福江から殆んど南に当つて居ます。此処は渥美郡の  突端で、知多郡師崎とで三河湾を造り遥かに伊勢と相対して居ま  す。  此地を万葉集にある五十良児島とする事は肯定されませんが名所  であることは間違ひなく、道路に沿ふ西方一帯は陸軍の試砲場と  なつて居まして自由に立入ることは許されません。それ許りでな  く有名な伊良湖神社を初め一村全体が他に移され、移されないの                         二三七                         二三八  は前申した芭蕉句碑だけですが、それも危険区域にある事とて、  いつ重砲なり爆弾なりの洗礼を受けぬ共限らず、思へば心許ない  限りです。聞く処によればこの句碑は次に申上げる伊良湖神社境  内へ移建されたと云ひますから、その心配はもうなくなつた訳で  す。 伊良湖神社  はもと伊良湖御厨に祀られた社でありませう。其創 立は明かでありませんが、古来神宮との関係が深く式年御造営毎に 撤下材を拝授して其度毎に造営する事になつて居り、又四月十四日 に行はれる御衣祭には十里二十里先からも参詣する者が多く非常な 賑ひです。 瓦場    は伊良湖と小塩津とに跨つて今も地名に残ります。東 大寺再築のとき、こゝでも瓦を焼いたもので、間々完全なものが発 見されてゐます。これは建久再建のときのもので。其巴瓦には東大 寺大仏殿瓦の七字が周囲に配されてあります。此処で焼かれました 瓦は船で安濃津に送られ、それから山越に奈良へ行つたものと研究 されてゐます。 糟谷磯丸  はこの地の生れで徳川時代に於ける特異な一大歌人で ありました。殆んど無学文盲でして、四十歳近くになつて漸く仮名 を覚えた位ですが、非常に歌才があつて人を驚かして居ります。吉 田藩主に従つて将軍に謁した事もあり。更に芝山大納言の計ひで一 日だけの五位を授けられ、天顔を拝した事もあります。其歌は天地 の自然を咏んだ詩的のものもあり、又道歌狂歌の類もありますが、 よく味ふと愈々味が出て来て、哲学を詩化したのが磯丸の歌だとさ へ云はれてゐます程で、実に近代の歌聖と申すべき人であらうと思                         二三九                         二四〇 ひます。 日出石門  は字日出にあつて、大平洋に面し怒濤岸を噛む処にあ りますが、地理大系には次のやうな説明が加へられてあります。  伊良湖附近は海岸平野上に古生代岩石の丘陵が立ち其先端は浸蝕  されて伊良湖岬となり、次の突角附近が日出の石門となる地形学  上の対置海岸である。岸頭から石門や神島の眺望はよい。褶曲に  富んで奇岩の島と岩丘とを打寄せる怒濤が、断層断に沿ふて貫い  た洞穴が石門である。石門から灯台へ小径をたどる途中恋路浜は  風景一層佳である。  浜辺からの眺より、私は巌上から見下した景色が一段よいと思ひ ます。私は遠慮なく川合の天然橋と共に三河の二大絶勝だと推称し てよいと思ひます。 医幅寺   は大宇和地にありますが、此寺の大般若経は木曽義仲 の祐筆であつた太夫坊覚明の筆といはれてゐます。事実覚明の奥書 もあるが最後の奥書に正和五年六月十日比丘円澄【?】とあるので一筆写 経ではありません、又貞治何年かに補修したといふ奥書もあります がとに角有名な経文です。  次回は市の西方を申上げて一通り御案内を終り、又足らない処や  申残したものなどを補つて見たいと思ひます。では今度はこれで  失礼致します。                草々                         二四一                         二四二 【右頁白紙】    第五信  これまで四回に分けて申上げましたのは豊橋市を中心として北と 東と南の三方面で、今回は西に当る御津、三谷、蒲郡方面を申上げ て一通りの御案内を終ることに致します。  東海道線で参りますと、次は御油駅ですがその御油の町は駅から  二十町も北にあり、駅は御津村西方にあります。 御津神社  は駅から西北数町の山の間にあります延喜式内社で、 文徳実録に仁寿元年十月参河国御津神授従五位下とあるものです。 祭神は大国主命で、摂社の磯宮には綿津見命、船津神社には猿田彦 神、御舳玉神社には住吉大神がお祀りしてあります。社伝によりま すと昔祭神が船で御出になり、御津村の六本松といふ処へ御上陸に                         二四三                         二四四 なつたといひますが、この点から見ましても海部系の神様である事 が知られます。社殿は流れ造り檜皮葺で、拝殿が妻入である事が注 意されます。  今の建物は余り古くありませんが棟札には応永廿一年、永享十一 年、天文十五年、天正八年などあり、宝物の古鐘は享徳元年在銘の もので、当庄刺吏細川刑部少輔源朝臣藤原政家の名があり、又永禄 元年在銘の鰐口は慶応三年に近くの山中で発堀したものです。又大 同類聚方には此社の伝方として母良世薬といふを載せて居ります。 これはそこの村瀬貫名に伝へられたことになつてゐます。  次はこの社と殆んど相対して居る大恩寺です。 大恩寺   は浄土宗の大寺で、古くは新宮山の麓にあつたのを延 徳二年に遷したといふ事でして、其頃は大運寺といひました。当時 の往【住】職は愚底上人で後に岡崎大樹寺の開山となつた人です。松平親 忠が非常に信仰して本堂其他を再興し、阿弥陀の仏像を寄附して居 ります。本堂は最近のもので単層入母屋造り、設備は立派ですが取 立てゝいふ程のものでなく、山門の重層入母屋造りの方が遥かに優 つてゐます。  左側にある阿弥陀堂は今国宝に指定され、天文廿二年の建築で、 初め杮葺であつたのを後に桟瓦葺に改めましたから外観が少し重苦 くし【しく】見えます。然も構造も手法も中々立派なもので、組物が極彩色 であつたり、柱間に詰組があつたりする処は実によい感じです。そ れに内陣が三間二面で廻廊が化粧屋根裏である事がこの建物の特色 で、繋拱梁も面白い出来です。正面の須弥擅は様式から見ても確か に天文頃のもので、其屋根にある鯱と三花懸魚とは我国に現存せる                         二四五                         二四六 最古の実例として珍重すべきものだとも聞きました。  宝物も沢山ありますが、中に王宮曼陀羅一幅が国宝に指定されて ゐます。これは絵の中に皇慶元年二月とありますから支那伝来品で せうが、作者の名は分りません。観無量寿経の説相が描いてありま して摩掲陀国王舎城の阿闍太子と其父母についての因縁を表し、そ れが城内王宮に起つた事なので王宮曼陀羅の名がついたといひます これは松平親忠が寄附したものです。  外にこれに準ずるやうな絵画も二三点あり、又古文書では明応三 年三月五日と明応八年三月廿三日の綸旨が二通、牧野右馬允の消息 徳川家康の消息、文亀四年山県三郎兵衛の制札などがありますが、 それ等が何れもこの寺の歴史に関した物許りで実に得難い資料であ ります。 国坂越え  は御津村広石から宮路山の南麓金割を通つて蒲郡町の 五井に出る古い街道で、この沿道には奈良時代の創立と思はれる弥 勒寺址がありますし、五井長泉寺は神亀年間の創立と伝へる外、附 近には長者の伝説も残り、今日余り利用されない通路ですが歴史的 には興味津々たる処で、一度は杖を曳いてよいと思ひます。  これから三谷、蒲郡へは勿論鉄道も通じてゐますが陸路では平坂  街道が通じてゐます。途中の大塚村は其名が示すやうに古墳が所  々にありまして、発堀されたのもあればまだ未発堀もあり、深く  研究されてゐませんので早晩この方面は研究者の好目標となりま  せう。現に数年前三谷町の一青年が突然神懸り状態となつて、我  は氏神の主筋に当る田上塚である、どうか我を氏神として呉れる  やうと口走つたので大変な評判となり、見物人が押しかけた事が                         二四七                         二四八  ありますが、これも殆んど破壊された横穴式の古墳でした。 法住寺   はこの大塚村赤根にありまして、こゝの千手観音像は 昭和七年国宝に指定されてゐます。明治の初年伊勢から貰つて来た とかいはれ、高さ五尺八寸からある立派なものです。藤原末期の作 で、処々に菊丸紋や亀甲繋などの截金模様が残り、手法は多少繊弱 な感はありますが兎に角立派な仏像です。 養円寺   は同村相楽にあります。もと保国山全福寺の塔頭十二 院の一だといひますがこれだけが残つたものでせう。その全福寺は 例の行基が神亀年中に開創したと伝へる寺で、建久の頃安達盛長が 頼朝の命で造営したといふ三河七御堂の一つです。  後の御堂山に観音堂がありまして、こゝに全福寺の本尊であつた といふ十一面観音像が安置してあります。高さ五尺二寸、寺伝では 行基の作となつてゐますが相当な出来です。記録などから見ますと 全福寺の名よりはこの御堂山観音の方が多く現はれ、それだけに人 にも多く知られてゐます。養円寺にある宝国山記一巻と宝円山養円 寺記一巻は余り古いものではありませんが、この全福寺の来歴を物 語つて居ものです。 三谷町   は大塚村の西に当る県下有数の漁港でありまして、其 東方の突出した岬の上に乃木公園があります。此処には乃木将軍の 石像が三河湾を睥んで立つて居られます。三谷は和名抄の美養郷に 当る処で、其海岸は三谷浜といひまして古来歌の名所として有名で す。近年この浜辺へ後撰和歌集にある清原元輔の歌、    「みやはまのいさごのこすなわが君の         たからのくらひかぞへみむかし」                         二四九                         二五〇 とありますものを御歌所寄人の坂正臣氏の揮毫によりまして立派な 歌碑が建ちました。  乃木山下にある八剣神社は、神名帳にある従五位上八剣天神、座 宝飯郡とあるのです。この祭礼は俗に三谷祭といひ、神輿の海中渡 御がありまして勇ましい祭です。これは遠州灘は勿論遠く朝鮮や南 洋までも活躍して居りますこの村の漁民たちの一年一度の祭でして 如何に違【遠】方に居る者でもこの祭には必ず帰るといふ事です。  前面海上に浮ぶ大島、小島、仏島は西の形原村と似寄りの距離に ありまして、昔両村で地を争ひましたとき、相談の上同じ時刻に船 を出して早く着いた方の村のものにしやうといふ事になりましたが 三谷の方が勝ちまして、其時から三谷の地に属したといふ誠に漁村 に相応しい物語が伝はつてゐます。其大島は毎年夏キヤンプ村が出 来て賑ひます。仏島は島が海中に没し僅に山骨を海面に現はしてゐ ますので、それが如何にも墓場のやうな感がある処から名付けられ たものです。 竹島    はその近くにありますが、これは蒲郡町に属し海岸か ら何程も距れて居りません。そして干潮時には徒渉出来る程ですが 今では永久的な橋がかゝりました。全島暖地性の植物が繁茂し鬱蒼 として居りまして、遠く望むと笠を伏せた形に見えます。此処に生 育する五十余科百数十種の植物を保護する為、昭和五年天然紀念物 に指定されました。  この島には日本七弁天の一だといはれる弁天様が祀つてあり、八 百富神社と号してゐますが、これは安徳天皇の養和元年、藤原俊成 卿が江州竹生島から勧請して参り、其時竹を二本移し植えた事から                         二五一                         二五二 竹島の名が起つたといひます。八百富の名は享保廿年八月、時の神 祗伯が命名したものださうです。  この海岸一帯は海水浴の名所である許りでなく風景佳絶で、国際 観光ホテルもあり遊覧設備も着々進行中でありますから、将来は東 海の一名勝として喧伝されるでありませう。  この蒲郡はもと蒲形西郡二村を合せた名で、その蒲形には蒲形城  址があつて、建久年間安達藤九郎の築城したものといひます。又  上の郷、五井、不相にも城がありました。この町で見るべきもの  は赤日子神社、安楽寺、天桂院などであります。 赤日子神社  は神の郷にある延喜式内社で、文徳実録及三代実録 に三回程叙位のことが見え、国内神明帳には正二位赤孫大明神と載 つて居ります。境内の風致もよく社殿も立派です。  社伝によりますと昔此社から神宮へ神御衣祭御料の麻を献じた、 それが三河赤引糸だと申して居りますが、本社の祭神が海部系統の 神であること、穂国の中心から距れてゐる事及び赤引とは絹糸に負 せた名である事などから推して信用し兼ねる説だと思ひます。  大体この地方は地形から見ても一種変つた処で、延喜式又は和名 抄以来宝飯郡に属してはゐますが、三河と穂の二国に狭まれた小独 立国の観があり、それが熊野によく似た状態である許りでなく、熊 野新宮の別当行範の男十郎蔵人行家は五井城を築いて居りますし、 又供僧常香の後裔鵜殿藤太郎長門は神の郷に城を築いて居りまして 非常にその地方と関係が深く、この社が海部神を祀つてあることも 実は当然で彼等に養蚕の技術があつた事はどの方面にも伝へられて ゐません。                         二五三                         二五四 安楽寺   は清田にあります。小高い丘の上に構へられ本堂も山 門も重層の立派な建築で恐らく東三第一の結構といつてもよいでせ う。創立は応永十五年、開基は額田郡法蔵寺の開基と同じく龍芸上 人で以前こゝに勧学院がありました。  これは長保二年寂照法師(大江定基)が創立したもので荒廃に及 んでゐたのをこの時再興したやうに云ふてゐます。本尊はその勧学 院の本尊で行基の作といふことです。  この寺が現在のやうに規模を大きくしたのは久松佐渡守の庇護に よるもので、寛永七年に本堂が出来、宝暦二年に大門、又明和七年 に総門が出来てゐます。境内にはその久松佐渡守の墓が五輪で残つ てゐます。 清田大楠  は安楽寺の北方にありまして、天然紀念物に指定され た三河一等の大樹であります。囲りが四丈余、高さが八丈、枝張り は東西へ八丈、南北へ九丈で樹勢は豪も衰へてゐません。この樹に つきましては、昔八幡太郎が奥州征伐に行くとき植えたとか、時々 龍灯が上るとか、この木を切ると村中を焼尽くす火事が起きるなぞ の伝説があり。村人達によつて大切に保存されて居ます。 天桂院   は文亀三年竹の谷の城主松平左京亮一家の菩提を弔ふ 為に松平守親が建てたものです。もとは今の塩津村にありまして龍 台院と云ひましたが、天正十八年松平玄蕃頭の武蔵八幡山転封と共 にその地へ移し、慶長六年吉田へ転封とともに又吉田へ移し、この とき寺号を全栄寺と改め、慶長十七年再びこの地へ転封して寺を移 し、寺号を母天桂夫人の名によつて改めたといひます。今にその墓 地には代々の墓が残つてゐます。                         二五五                         二五六  境内には俗に沙羅双樹と呼ぶ大小二本の樹がありますが、実はや まぼうしと云ふ木で大きな木ではありませんが珍らしい木だといは れてゐます。 坂本古鐘  は蒲郡から北へ一里許り坂本の大塚寺といふ無住の小 寺にあります。この鐘は今廃寺となつた薬勝寺のものでして、一時 安楽寺に預けてあつたといひますが後年こゝに納まつたものと見え ます。寛喜二年のもので箱根から鈴鹿までの間で第一等の古鐘です この鐘は一時所在を失ひ、人々から惜まれてゐたのを数年前私が友 人と手を尽し捜し当てたもので、山上無住のこんな小寺にあらうと は思ひがけ□【ま?】せんでした。  銘文は陽鋳で、これを鋳造した行範は五井城を築いた蔵人行家の 父で熊野新宮の別当湛海の孫に当るとか聞きましたが、これは将来 国宝に指定される可能性あるものと思ひます。 長泉寺   は五井にありまして創立は寺伝によると神亀年中行基 の開創となり、これを建久年中、安達藤九郎盛長が再興したと伝へ て居ます。この盛長の造営した寺が三河に七ヶ寺ありまして、これ を三河七御堂といひ、普門寺、法言寺、財賀寺、鳳来寺、御堂山そ れにこの寺と西三河の金蓮寺といふ事になつゐます。  仏像には行基の作と伝へる千手観音像、慧心僧都の作と伝へられ る薬師三尊、運慶の作と伝へる不動、毘沙門の二像もあり、又境内 には安達盛長の墓や松平家の墓もあります。  次は形原方面のことを申上げませう。形原は宝飯郡の西端、幡豆  郡に接した処で、和名抄にも載り或は昔慶雲が見えたといふやう  なことも伝はつてゐます。殆んど漁村ですが、こゝに式内官社が                         二五七                         二五八  一社あります。 形原神社  は国内神名帳に従四位下形原明神、座宝飯郡とありま す。これには異説がありまして、八幡村八幡社がそれだといひます が、郷の配置から見てこの社と見られるのであります。中世ひどく 荒廃して殆んど所在もみとめられなかつたやうな有様でありました が、其の後復興されたものです。社伝では舒明天皇の十一年摂政藤 原千方公が埴安大神を祀られたのが初めだと申します。吉田の国学 者羽田野敬雄は天保四年此の社に詣でて、    「いにしへの栄へも今は形の原        かた許りなる御社はなぞ」 と咏じまして荒廃を歎きましたが、其の後六年を経て天保十年再び 詣でますとすつかり造営が出来、立派になつてゐましたので、    「かたの原形許りなる御社も       古きに帰る時は来にけり」 と咏んで喜ばれたといふ事が翁の記録に見えて居ります。  以上で豊橋市及び其の附近の名所旧蹟に就きまして大体の御案内 を終りました。それもほんの重立つたものゝ概略でありまして、細 かい点まで申上げますれば際限もありません。のみならず御感興も 湧かないだらうと存じ省略致しました。尚郷土特有の士【土の誤植か】俗なども御 紹介致したいと思ひましたが色々の都合で省かせて頂きました。  最後に補遺でもなく概論でもない、云はば郷土雑感のやうなもの を申上げて御約束の責任を果したいと思ひます。                         二五九                         二六〇  先日私が一寸とした用事で豊橋駅に居りますと、豊川稲荷参詣の 団体がゐまして、一人が豊橋に何処か見物する処はないかと聞くと 一人が恐らく何もない処だ、町らしい町はこの駅前だけだと話して ゐましたので私が傍から話かけて二三勧めて見ましたが格別興味も 惹かなかつたと見え其の侭帰つて行きました。尢【尤】も此の人達には趣 味と時間の余裕を持たない関係もあつたでありませうが、それにし ても今少し外来者の足を止めるやうな設備があつてもよいと思ひま す。旅行協会もあり観光協会もあるのですからこれは何とかしなけ ればならぬ問題でせう。  余談はさて置き、私共としては住めば都でこれでも多少は郷土の 誇といふやうなものを持つて居ります。尢【尤】も土地自慢は大底の場合 主観的な自惚れで、客観的立場からはお笑草に過ぎない場合がよく ありますから其のおつもりで御覧を願ひます。  土地自慢にも色々の方面がありまして、御承知のあの岩屋山上に ある観音像も、仏法僧の鳴く鳳来寺も、或は又日本一多数の人骨を 出した吉胡貝塚も、市としては不似合な程立派な公会堂をもつ事も 自慢の種であるかも知れませんが、私は主として歴史の方面から少 し許り自惚れて見たいと思ひすす。  御承知の通り東三河は古くは穂国といひ、大化改新のとき今日い ふ西三河を合せて三河国が出来ました。それから千余年後の今日で も東三と西三とは言語風俗又は人情習慣の上に多少の相違が認めら れるのでありまして、この点で伝統の力が如何に強いものであるか を知ることが出来ると思ひます。この穂といふ名前には五穀豊穣の 意味が含まれ、農業とか養蚕について先進国であつたのであります                         二六一                         二六二 これには帰化人である秦人達の功績を考へなければなりませんが、 其の結果は奈良朝から平安朝を通じ三河白絹の名で声価をあげ、践 祚大嘗祭には持に当国の絹糸を御採用になりまして、犬頭糸の名に 依つて朝廷の御料に供すると共に、畏くも神宮で神御衣祭の御料に 三河赤引糸を召されたといふ事実があります。此れ等は何処の国に も求め得られない名誉であると私は考へて居ります。  それから近頃研究の結果によりますと、東三河の地は非常に考古 学的遺物の豊富の処で、学界著名な遺跡も十指に余ります。その発 見品には先史、原史時代を通じあらゆるものが出て居ります。私は それ等の遺物の発見を誇るでなく、二千年三千年の昔に、かくも多 数の器物を遺す程の人間が住んでゐた事が、この地方の自然の恵の 如何に篤かつたかを語るもとして、誇るべきだとも思ひます。  然しながらこの自然の恩恵は人々を保守的な退嬰的な気風に陥れ それに東西交通の衝に当つて色々の事物に接する結果人情は軽薄と なり敦厚の風は見られません。これが古来大人物の出なかつた大き な理由でありませう。勿論元亀天正頃には多少覇気のあるものも出 ましたが、気の利いたものは天正十八年家康に従つて江戸へ出て仕 舞ひ、跡には屑許りが残つた形です。その上徳川氏が三河全国を十 小藩に分ち尚其の間に天領を置いて大勢力の発生を防いだ、これが 余程人心に影響して居るやうに見られます。  次に物の方面で申しますと、国宝が十四点、史蹟が三ヶ所、これ に天然紀念物が十ヶ所許りあります。其の内国宝では国分寺にある 奈良朝時代の鐘、普門寺にある久寿三年の経筒などは立派なもので 史蹟としては奥平信昌、鳥居強右衛門によつて知られた長篠城、天                         二六三                         二六四 然紀念物では鳳来寺山と蒲郡の竹島、川合の天然橋でありまして、 此れ等が東三河の代表物と云ふべきでせう。  景観としては、その竹島と天然橋へ日出の石門を加へて東三の三 景と申してもよく、これに次ぐものが鳳来峡の秋色かと思ひますか 其の外本宮山頂の眺望、史実と伝説に富む宮路山の紅葉なども棄て 難いものです。  古社寺の方では延喜式に載る官社が八社ありますが、何れも小社 で其の筆頭が一宮砥鹿神社です。今国弊小社になつてゐます。寺で は国分寺と、小坂井町の医王寺、御津村の弥勒寺は奈良時代栄えた 寺と思ひますが、現在では世間的に有名な豊川閣と安達藤九郎の所 謂七御堂が僅に残る程度に過ぎません。  歴史の徴証としての金石文では、最古のものが前にも申しました 久寿三年の普門寺経筒で、寛喜二年の大塚寺の古鐘もよく、慶長以 前のものは約三十点を数へる事が出来ます。又棟札の類には室町時 代頃からのものが所々に残り地方誌に確実な基礎を与へてくれます  最後に今一つ申上げたいのは北設楽郡稲橋村と渥美郡福江町にそ れ〴〵献糸会がありまして、神宮に於ける神御衣祭御料の糸を献つ てゐる事で、これは古く三河赤引糸を召されたのですが長く中絶し てゐましたのを、明治十二年稲橋村古橋源六郎氏が復興を願ひ出て 組織し、又明治三十五年には福江町渡辺熊十氏が願ひ出で組織した ものでこの福江の献糸会へ大正十三年から知多郡半田町も参加して 居ります。これは他に類例のない東三河独特のものでありまして、 国体観念の上から或は産業振興の立場から大に誇つてよいものと信 じます。                         二六五                         二六六  以上長々と取止めもない事を申上げ失礼致しましたがこれにて擱 筆いたします。いつかまた御閑暇の節再度御来遊を御侍【待】ち申して居 ります。                    敬具 東三河道中記下 終   附録     東三古謡集                         二六七   催馬樂 貫河           本文一五五頁參照    一段 ぬき河の瀬々の小菅の やはら手枕 やはらかにぬる 夜は【「は」字、右転倒】なくて おや(イキ)避くる夫(つま)    二段 おやさくる夫は ましてるはしも もかし(イキ)あらば矢矧の市 に 沓買ひにいかむ    三段 沓かはば /線鞋(せんかい)の細底(さくつ)を買へ さしはきて 上裳とりきて 宮路か よはむ   砥鹿神社 田遊祭歌詞  本文一七二【「頁」抜けか】參照     田うち 田を作らば門を作れ 門には田の門吉の〳〵くわそめに ふたねを ひろめ まいも〳〵まヽいもの きぬをば田ごのもに吉の     なはしろ 白金のにはとこ 小金のこくさぎ めんどりはにしいといと おん どりはにしいといと     もみまき ふくまんごく〳〵〳〵     鳥追ひ こりやたが【こりゃ誰が】 鳥追ひ 天下樣の鳥追ひ こりやたが鳥追ひ 御供田 の鳥追ひ おへおへ扨とり追ひ 山のものにとりはておふべきもの あり みねをはしるは みみやういくのこうさぎ谷にふすは いの 丸かつら 田におつれば おふべきものあり ひろひくらう小すず め すすり喰ふくろかも あぜをのたるは とうかめ あぜをもつ は けら丸 おへ〳〵鳥追ひ     田うゑ いたづかのそおとめ 五萬人よなつかのそおとめ 五萬人しろかき 田京次 つつみ打とうまれい     田刈 京からくだるふしくろのいね いねは三ばで米は八石 京からくだ るふくらすずめよ よねたはら いただいてくだる ふんまんごく の もちつく要は うすもとよりも おくおみみたまへば けすぞ 樂しや〳〵     束かぞへ まちに萬束 せまちに千束 千萬束 まヽのそん〳〵     いなぶら いなふらは打は打つて候が あそうぎのほどが めんどりはいゆか うて候 京の九條のとうの九りんのゆかう田を 京ばん正が京わら んべにわらわれしとて 夜のまに直したつ らんがふせいこいなだ うが こしのふんなうを以て 直さばやと存候 直しは直りて候が 我君五万歳まで 御さかえしよちには しよちかさせ りやうちに は りやうをおさしそえて このおんいなぶら いつときのまに  つく〳〵とわき出候   田峯觀音堂 田樂神歌       本文一八八頁參照 ヤイヤア 美濃に上品尾張に紬 三河白絹 遠江にあらヽぎが米   甲斐に黑駒 伊豆に大黑 上總にゆんぎ 出雲に轡 武蔵に鞦(しりかい)   紺の手綱を持ちや揃へて これのみうちへもつてぞまいる  ハイヤイヤ ヤイヤア 新らしき年の初めに年男 あきかたから白銀をひさぐに  まげて水汲めば 水諸共に とびや入ります ヤイヤア /東(あづま)には女はなきかよ 女はあれども ヤイヤア神のきら  ひで 男巫子 ヤイヤア しやぐじ大ぼさん 只ならぬ神でまあします 星の位に  まします さか盛りや酒やが子供も△△△△【ママ】まする あからぬて  いで あれにまします ヤイヤア 白鳥大明神の御前 十一面觀音の御前 あやすけも 皆  まいりうどの祝ひなるらん ヤイヤア 東山小松山影出づる月 西へもやらじこれへ照す ヤイヤア 春くればいかにくはごも惠とるらん いかにくはごも嬉  しかるらん ヤイヤア 春くればおそね花よね うちまぜて 皆まいりうどの祝  ひなるらん ヤイヤア 辭義を申せよ辭義ならば くきと申すか 辭義をは神も  厭ひなるらん ヤイヤア 譲り葉や 若狹にもとるよ 白鳥大明神△△【ママ】 ヤイヤア 十一面觀音の北の林のすもヽの芝が 千代 千代と常に  囀ずる ヤイヤア 白鳥大明神の鳥居の御座に綾を敷き 錦を敷きて御座を  定めて  門に五常の松を祝ひ御代若き万歳おはします我等も千△【ママ】さむらん  あいの門を開きて 御前參りて打△【ママ】の錦のけちやうもんを卷揚△  △△△【ママ】し給へ 玉のみうちや   田峯盆踊歌詞           本文一八八頁參照 これが山家の十六踊り 足が九つ手が七つ ヤンサ彌之助來たそな背戸へ 一分雪駄の音がする 踊れ若衆三人でなりと 四角三角そばのなり オサマ甚句はどこからはよた 三州振草オサマ下田から ハヨイ節なら習はにやならぬ 國へ土産にせにやならぬ セツセ踊りはせつない踊り 腹にある子をもみさげる 何が何でもすくいサでなけりや東しや切れても夜があけぬ    其他多數あり略之   財賀寺田植歌           本文一五〇頁參照 善哉ようしんや 作田たをつくる 作前田かとだ【ママ・かどたの誤植か】んをつうくる 善哉よ うしんや 自前田かどたんよく 入遠田いりまんするとほもに 善哉よ うしんや 所徂ゆくところ /善哉(ようしんや) 善哉 桑麻實種くはさうのこだん 滋ゆをひろめ 善哉 繭與麻まいもまい 麻繭可織まいもきぬうんな 善哉 田衣繭たごろもにきぬ 可織うんな 善哉 陳銀壺しろがねのつ ぼをならべ 善哉 水■【奭?・器の異体字か】みつくうめば 水候みづもつとうもに 善哉 富有とみぞあるんな 下干春田はるたにおくるなら 稻苗其葉とうみやうさのはを 摘入干兩 手み【ママ・りの誤植か】やうてにつみれての 詣社みやへまゐるよの 白壟上るすもとよりも 春裏田うらをみやればの 稻苗彼面とうみやうかつらち 所滋蔓ねざす とこをの   小坂井菟足神社笹踊歌詞     本文一二四頁參照 一番  大明神諸神 しめを引けや〳〵     /八百萬神(やんよろ)神も そんよそうよ 二番  おさじきの御前で梅はほうろり     まりは枝にとうまれよう 三番  金の金の御幣を差上げて     參ろうよ 差上げて參ろうよ 四番  卯の花をかきねならびに ほとヽきすやきすや     八百萬神も そんよそうよ 五番  あれを見よ 沖つ島でこぐ船は     へさきではやらひてさんさで でて行笹の林ぶんぶ   牛久保町八幡宮笹踊歌詞     本文一六三頁參照 一、馬塲先の千本松は西東の名所よ〳〵   (ハヤシ)サーゲニモサー やんよく神もやんよう                  (一節每ハヤシあり) 一、武運長久 御役所も榮えろう〳〵 一、いざや參らうよ 若宮へ參らうよ 若宮へ參たら  福の神を貰うだよ〳〵 一、八幡の先達は 白鳩を迎へらう〳〵 一、丑の年丑の月日に初まりて牛久保と名をつけた 一、二六七さい每市も榮えらう〳〵 一、南に熊野權現 東に天王 中に八幡とどまりまします 一、千早振神の生垣に松を植えて久しき名所と愛でたよ 一、きのふけふ若葉なりしが若宮のおふろの杉も榮えろう〳〵 一、げにも貴や 我内の神はよ〳〵今日こそ共に參らうよ 一、氏子揃ふて今子の橋を渡るよ 今子の橋を渡れば遙かに森が見  えるよ 一、當所氏神は熊野の分れで あら神にてまします 一、熊野權現の御神体は若一王子にてまします   豊川進雄神社笹踊歌詞 一、豊川の水の流れは清ければ 本のか原に神とどまりまします   げにもさよ〳〵神もさよ〳〵 一、豊川の西に若宮東に三社高のごぜん南に妙高辨財天   天に熊野權現 中に天王御立有り 一、豊川は名所〳〵よ 豊川の口は七口丸市塲 市は四日九日〳〵 一、天王の御奥の院とう光寺 藥師は福神でまします 一、旅人のこよひやはぎにかりねして 明日や渡らん豊川の水 一、豊川の浪も風もしずかに 治まる御代の 目出度〳〵 一、天王へ參たれば福の神をたもつた實にもさよ〳〵神もさよ〳〵   八幡村踊山の歌詞          本文一四八頁參照 ○しかくはしらは かどらしよござる かどのないのがそれよかろ ○ひともとすすき ゑんややと ひきや手がきれる ○梅は匂へど櫻は花よ 人は見目より ただ心 ○末を申せば まだなごござる お伊勢踊りは これまでよ   牟呂村雨乞の歌           本文一一五頁參照 ちはやふる 神の御前でささおどり     神のめぐみで いよ雨がふる わしは澤水 出はでて來たが     岩にせかれて 落ちあはぬ いつも出てくる 背戸がの水が     こよい出て來て 名をながす いよさヽおどり 神のめぐみで雨がふる   市塲 おどろ〳〵となるかみなりは     おきのくらやみ雨となる   北設樂郡方面花祭唄         本文一九六頁參照 ○伊勢の國高天原はこヽなれば こヽなれば 集り給へ四方の神々  集り給へ四方の神々おもしろ ○諏訪の海水なそこ照すこだま石 手にはとれねど 袖はぬらさじ ○神道はみちも百網 みち七つ 中なる道は神の通ふ道 ○七瀧や八瀨の水を汲み上げて きよめればこそしようじとはなる   (外に澤山あり略之)   縣社吉田神社笹踊歌詞        本文八七頁參照 天王の御本尊は 何佛にてまあします 藥師の十二神と現はれ給ふ神々 サーゲニモサーヨ 聖王と申するは唐土の國の神々 サーゲニモサーヨ 大師文殊を拜むとて ヤアー     /忉利(とうり)天へ上れよ/忉利(とうり)天へ上れよ 衆生利益の為にとて此所へ天下らせ     君を守り玉【ママ】ふよ君を守り給ふよ さるに此の所と申するは 目出度かろう すろう     樂しかろう すろう すろう 各々御幣を差上げて祈る祈る     感應なるらんヤンヨウ 神ヲヤンヨヨウ 熊野なる入江の奥の椰の葉よ     參りの人の祝なるらん ヤンヨウ 神ヲヤンヨヨウ 井垣に建てる榊葉よヤアー     神のしるしなるらんヤンヨウ 神ヲヤンヨヨウ 三河なる今子の橋を いざやとどろ〳〵と打渡り     ハア思ふ人渡れよ ハア思ふ人渡れよ 橋本の千本の松は西東の名所よ ハア沖の白浪     見下せば 鹽見坂名所よ 鹽見坂名所よ 姫島をさし出て見れば笠島よ     沖こぐ船に袖ぬらす ぬれてさヽらすろう すろう 駿河なる富士の高根は名所かな 富士の高根の洲流れて     流れもやらぬ浮島が原 ヤンヨウ神ヲヤンヨヨウ 奈良の都の八重櫻ヤー 奈良の都の八重櫻     田面はしれば志賀の都名所よ 志賀の都名所よ 鶯が櫻の枝にすをかけて     ゆられて花のちるをしさよヤンヨウ 神ヲヤンヨヨウ 時鳥深山渡りをするときはヤア卯月に渡れほとヽぎす     里へ下ればさへずるならんヤンヨウ神ヲヤンヨヨウ 秋の野のさを鹿戀にこそやつれよ     秋こそ虫がさらりさらりと ヤンヨウ神ヲヤンヨヨウ 鹿の啼く音に夢さめて 秋は心すごいよ 秋は心すごいよ 青柳の糸をくりくりためて     はたをへるハアもようよ もようよ   吉田おんぞ歌詞        本文九三頁參照 一、おみすヨイヨイヨイヨイ出處は岡本さまよナ    田町お宮へ踊りこむ   (以下調子略ス) 二、此處は田町の神明樣よ    皆んな揃ふて踊りこむ 三、おんぞふれ〳〵六尺袖を    袖を振らねば踊られぬ 四、橫町々々は暮しとござる    花の本町星月夜 五、坂を上れば關屋がござる    かうてやりましよまき筆を 六、田町船町清水車    たれを待つやらくる〳〵と 七、橋のらんかん腰うちかけて    月をながめりや餘念なや 八、おんぞ踊子が橋から落ちて    橋の下では踊られぬ 九、おどる中でもあの子が一寸いと    さぞや親達うれしかろ 一〇、わしと行かぬかおくらのせどへ    忍び櫻の枝おりに 一一、吉田本町萬やさまに    一期居りたや風の期に 一二、吉田通れば二階から招く 然もかの子のふりそでで   縣社神明社神樂歌         本文五二頁參照 一、新玉にヨウ御門に。五葉の松を立て。松は祝つて立つたぞよ。   千年經よと榮えけるヨウヤア。新玉の年の始めに。ヤウ年男。   ヤンヤア。年男年もてまゐるは。ヤウヤア。美濃の上品ヤンヤ   ア。年男年立ちかへりヤウヤア。空見れば。ヤンヤア。空見れ   ばそらこそよけれ。ヤウヤア。 二、新玉にヨウ御門に。五葉の松を立て。松は祝つて立つたぞよ。   千年經よと榮えける。ヤウヤア。白銀をひしやくにまげて。ヤ   ウヤア。水汲は水諸共に。ヤウヤア。富ぞくまゐる。ヤウヤア【行末句点省略】   春くれば。先花米をヤウヤア。打ちまきて。ヤウヤア。打ちま   きてみな人よしと。ヤウヤア。 三、新玉にヨウ御門に。五葉の松を立て。松は祝つて立つたぞよ。   千年經よと榮えけるヤウヤア。桑園に。蠶種をひろめ。ヨウ。   ヤンヤア。繭も繭もヤンヤア。繭も繭も繭もの絹は。ヤウヤア【行末句点省略】   毛衣にせよ。ヤンヤア。氏人のあるちやう。里は。ヤウヤア。   身も寶。ヤンヤア身も寶。丸生る石のヤウヤア。ひらくなるま   で。   八名郡嵩山大念佛歌     和讃 澄めよ澄ませよ心静めて歌を腹せよ 朝日さす兩日輝く此の堂に黄金作りの佛まします 觀音の前の小池に蓮放し舟を差出し蓮を切りそろ 目出度や此處のお庭に井戸堀つて水は出もせで黄金わきそろ 白金の銚子ひしやげに茶釜茶びしやく此處の泉を汲むぞ目出たき 十五夜の月に曇はなけれども庭の櫻で内のくらさよ 此の櫻きろよ〳〵と思へども花の咲く木でよもや切られん 此の宿は如何なる宿と人問へば風は吹かねど吹きあげの宿吹きあげ て入(いり)破(は)七(なな)口(ぐち)出(で)破(は)八(や)口(くち)出破こまよふて我が友達 我親の野邊の送りに空晴れて廣き白きが四百八流千の疊を敷きなら べ讀まずやお經を七日讀ませよ 我親の野邊の送りを見てやれば四方幕にて絹を七疋七疋の駒を引け な人ならば四方幕にて絹ぞ七疋   北設樂郡/古戸(ふつと)田樂歌詞     みよしうた 春は東にや林あり 夏は南にや林あり 秋は西にや林あり 冬は北にや林あり 今はみよしのや花ざかり〳〵 春のでゐにおりぬれんば〳〵 櫻山吹や岩つヽじ〳〵 夏のでゐにおりぬれんば〳〵 夏はこゑだかのやせみのこゑ〳〵 秋のでゐにおりぬれんば〳〵 いなごむしやちら〳〵 くつはむしやざき〳〵 とびにとほだか よいおりやそよ〳〵と 冬のでゐにおりぬれんば〳〵 わがやどんのいたやの軒に しらげのよねがざらりざらりと ふるぞめでたや〳〵   北設樂郡富山村大谷御神樂歌詞    ねぎ ゆとんとは やれ いじや/御(み)扉(と)ひらき 神の御扉ひらき をりかはや 神の心をとる〳〵 どこに のこり とどまる神あらじ うれしげになるたき川を渡り來て いかに大し やも つちのみかどをあらめにあけて拜むには 神をかいして 神さかへ かきたてるぞよ しでの葉ごてに をごる神神あらはれて ゑぎや うしたヽめ 空には梵天帝釋や 下にはしいだい天王や 上には ごぞうの神やうが なるいかづち ぼうせんごくや ほしのみかどを そらふくは くわれ 風のさむらう殿や おりゐて花の きよめの 御湯召すときのみるかげは  湯本で見える あたいとヽまる うれしかるらん うれしげに なにをかとうせ 唐ごろも たもとをとうりし よろこびや なほ喜びがかさなれば ゆをうが山に 袖はぬらさじ 類別索引                         二九八 東三河三景  乳岩天然橋 一九四  伊良湖岬   二四〇  蒲郡竹島  二五一 三河七御堂 (西三河の金蓮寺を加ふ)  法言寺    六一  財賀寺    一五〇  鳳来寺   一八四  普門寺   二〇八  御堂山    二四八  長泉寺   二五七 延喜式内社  菟足神社  一二四  砥鹿神社   一七二  石座神社  一七九  石巻神社  一九九  阿志神社   二二九  御津神社  二四三  赤日子神社 二五二  形原神社   二五八 芭蕉句碑  船町神明社  九四  下地聖眼寺  一〇〇  国府観音寺 一四四  八幡西明寺 一五二  赤坂関川神社 一五五  新城庚申寺 一七七  鳳来寺   一八五  二川妙泉寺  二〇七  東観音寺  二一二  田原龍泉寺 二二七  福江潮音寺  二三三  伊良湖神社 二三四 国宝所在地  法言寺    六一  八幡社    一四六  国分寺   一四七  妙厳寺   一六四  三明寺    一六六  大脇寺   一七九  普門寺   二〇八  東観音寺   二一〇  大恩寺   二四四  法住寺   二四八 史蹟名勝天然紀念物  国分寺址  一四七  国分尼寺址  一四八  蜂巣岩   一七九  長篠城址  一八二  鳳来寺    一八四  馬背岩   一九〇  阿寺七瀧  一九二  乳岩天然橋  一九四  百々竈址  二二三  竹島    二五一  清田大楠   二五四                         二九九                         三〇〇 貝塚及古墳  東田古墳   五九  岩崎古墳    六三  三ッ山古墳 一一九  菟足貝塚  一二四  五社古墳   一二八  欠山貝塚  一二九  報恩寺古墳 一三一  稲荷山貝塚  一三三  新宮山古墳 一四〇  大蚊里貝塚 一五九  麻生田貝塚  一七〇  馬越古墳  二〇四  王塚古墳  二一六  十三本塚   二一六  車神社古墳 二一八  妙見古墳  二二二  城宝寺古墳  二二六  吉胡貝塚  二二七  伊川津貝塚 二三二  平城貝塚   二三四  川地貝塚  二三五  大塚村古墳 二四七 土俗  鬼祭     五二  笹踊 八七、一二四、一六三  小坂井祭 一二四  踊山    一四九  財賀寺田植  一五〇  牛久保祭り 一六三  砥鹿神社田遊祭 一七二  鳳来寺田楽祭 一八四  田峰田楽 一八八  花祭り   一九六  三谷祭り   二四九 伝説地  首切地蔵   三四  松林寺     三七  琵琶塚    四九  鞍掛神社   六一  徳合長者    六四  人身御供  一二七  国分寺址  一四七  宮地山    一五五  三明寺   一六六  信玄塚   一八一  名号池    一九一  琵琶淵   一九三  十三本塚  二一六  車神社    二一八  鸚鵡石   二三一  竹島    二五一  清田大楠   二五四 慶長以前の古鐘  菟足神社鐘 一二四  伊奈八幡社鐘 一三六  昌林寺鐘  一四一  仲仙寺鐘  一四二  守公神社鐘  一四三  国分寺鐘  一四七                         三〇一                         三〇二  永住寺鐘   一七七  岩座神社鐘   一七九  田峰観音鐘  一八八  大平寺鐘   二二一  御津神社鐘   二四三  坂本古鐘   二五六 東三古謡集  催馬楽貫河  二六九  砥鹿神社田遊祭 二七〇  田峰田楽歌  二七三  田峰盆踊歌  二七六  財賀寺田植歌  二七七  小坂井笹踊  二七八  牛久保笹踊  二七九  豊川笹踊    二八一  八幡踊山歌  二八二  牟呂雨乞歌  二八三  花祭歌     二八四  豊橋笹踊   二八五  吉田おんぞ歌 二八八  県社神明社神楽歌二九〇  嵩山大念仏歌 二九一  古戸田楽歌  二九三  大谷田楽歌   二九五 昭和十年七月廿七日印刷 昭和十年八月三日発行 著作 権 所有            定価金六拾銭         豊橋市瓦町字臨済寺前二十七番地       著作者 豊田珍彦         豊橋市上伝馬町一一四番地ノ九       発行者 菅谷克美         豊橋市新川町市南八番地ノ一       印刷者 小林鶴治         豊橋市門前町三丁目       印刷所 清豊社  発行所 《割書:豊橋市上伝馬町|常盤通り三丁目》日吉堂書店           振替名古屋一八〇八二番 【裏表紙】