【表紙】 【左端に赤い題箋】 《割書:開巻|驚奇》暴夜物語《割書:永峯秀樹譯》第二編 【左端下に円形図書票】 JAPONAIS 5636 2 【頁上部余白に左から読む】 ARABIANNIGHTS 【本文】 永峯秀樹譯 【朱の角印】秀樹之印 《題:《割書:開|巻|驚|奇》暴夜物語(あらびやものがたり)》 東京 奎章閣發兌 印 【注 奎章閣(キュジャンガク)は、李氏朝鮮の王立図書館に相当する機関である。​歴代王や王室の各種文書や記録、中国の文献、朝鮮の古文書などを収蔵管理した。】 《割書:開巻|驚竒》暴夜物語巻之二                       永峰秀樹 譯    漁夫の傳 昔し一人りの老夫あり漁猟を生計(なりわひ)となし其性 固より正直にして又 勤業者(かせぎもの)なりければ一日た りとも怠ることなかりしも得る利は細く家族は 多く一人の妻に三人の子を養ひ兼ね家いと貧 しく危き露命を其日々々と漸くに繋ぎ留めた る計(ばか)りなりき。斯く其身は貧しく暮せ共(ども)神に願(ねぎ) 事(こと)ありしかや綱を投(うつ)こと一日に四回よりは多く せじと自から盟ひを立たりけり斯くて或日常 の如く早且【旦】に家を出て月を燭(あかり)に舩を波間に漕 ぎ出し三回まて網を撒(ま)きたるに撒く度毎に手 堪へ强く曳網の断(きる)るばかりに重かりければ數 千の魚を得たるにあらざるも數尾の大魚は失 はじと心嬉しく兎角して曳擧たる所に始めの  網には驢馬の死骸の大きやかなるの既に腐爛(くされたゞれ) たるを曳擧げ次には沙泥を盛りたる馬篭を曳 擧け又其次には貝殻(かゐがら)石泥等を夥しく曳き擧げ 三回共に一尾の魚をも得ることなく徒らに力を 勞する常日(ひごろ)に十倍したれば大に其身の不幸を 嘆き夜も既に明け方に近つけば先づ朝拜を了 り再び第四回の網を撒きたるに先きに増して 重かりける此度こそは必ず多數の魚を得たる ならんと力を極めて曳き擧げたるに又一尾の 魚もなく只黄銅を以(も)て製したる最(いと)重き古瓶の み一個 滚(ころ)び出たり漁夫怪み近ひて注視(よくみ)れば鉛 を以て固く封じ封の上には印章を深く打ち打 ちたる字畵尚ほ明亮(あり〳〵)と讀得べし漁夫之を見て 大に悦び之を以て鑄冶(いものし)【左ルビ】に賣らば今日の食量を 購ふに餘りあらん善き物得たりと獨語(ひとりごと)【左ルビ】しなが ら猶打返し打返し心を注(と)めて上下周圍を檢査(ぎんみ) し中には何物か入りて有るやらんと震動(ふりうごか)して 試むるに響なし熟(つら〳〵)思ふに此封印の文と云ひ此 瓶の状(なり)と云ひ中に入れたる者は貴重の珍宝に 疑ひなし。いで先づ試みに取出して見んと腰に  帯たる小刀を把出し鉛封を開き瓶を倒さまに 為したる所中より出る物なければ怪みながら 瓶を己が前に据(すへ)置き姑(しばら)く手を拱(こまぬ)き思考してあ 【瓶の中から煙と共に現れた魔神と驚く漁夫の図】 【図右下に】彫刻會社製 【白紙】 る處に忽ち瓶中より一道の濃烟湧き出しける 漁夫之が為に一驚を喫し両三歩(ふたあしみあし)退ひて打守る に烟は次第に上騰し将さに雲際(くもきわ)に達せんとす るとき忽ち解けて水陸に充満し咫尺もわかぬ 朝霧に 彷彿(さもに)たり漁夫は此時 股慄(おのゝきふるへる)【左ルビ】して走り避る ことさへも得ならず怕ながらに尚ほ注目(みつめ)てあれ ば瓶より出る烟り騰り畢るよと見る處に水天 に霏抹(たなび)きたる烟霧は次第に収縮(まとま)りて終に一個 の固体となり仰見(みあげ)ても猶ほ見盡し難き大魔君  と為りにける其時魔君は雷の如き聲を轟かし 【注】  【咫尺(しせき):周代の小尺で、約十八㎝。距離が短いことをいう。ここでは咫尺も弁えぬ程の深い朝霧という言い回しで、視界がきかず近距離のものも見分けがつかない意】 て所羅門(ソロモン)乎(よ)至大至聖なる預言者所羅門よ吾か 罪を赦せ余再ひ君が意に逆(さか)【注】はじ今より後萬事 君が命令に黙従せんと叫び了り頭を垂れ漁夫 を見て汝疾く吾が前に来り拜伏して吾が汝を 殺すを待てと一聲大ひに叫びけるに漁夫は怕 れながら吾れ君に何の罪ありや今君の禁錮を 救ふたるの大恩は既に忘れ玉ひたるやと聲振 はして怨ずれば魔君荅へて爭(いか)で汝が恩を忘却 すべきや然れども汝を殺すことは止まる能はず 只汝に一事を恵まんと曰ふ漁夫曰く大君何を 【注】 【古語に「逆(さか)ふ」(四段活用)という語が有り、「おのずからさからう」の意】 か吾に惠まんや魔君曰く唯汝自から死の方法(しかた) を擇べ然らば吾汝が望に従ふて汝を殺さんの み因りて汝が疑ひを晴さしめんがため其由来 を語り聞せん抑も余は天帝に背きたる一位の 魔君なり大闢(ダビット)《割書:大闢は耶蘓の|祖なりと云ふ》の子 所羅門(ソロモン)天帝の  預言者として衆魔君を其下に致せしに佐加尓(サカル) と吾とは他神に服従するが如き卑物にあらず と自から驕りて彼が命に従がはざりしかば所(ソ) 羅門(ロモン)余を罪して此銅瓶の中に包埋(いれる)【左ルビ】し余か脫出 せんことを恐れ封印を打ちて瓶口を固く封した り彼が封印には原来上帝の大名を■(きざみ)【刻刾ヵ】あれば余 が力之を破る能はさるを知ればなり、さて所羅 門は余を包藏したる此瓶を配下の魔君に授け 此海底に沈めしめたり余れ瓶中に在りて自(み)か ら誓ふらく若し初めの百年間が余を救ひ出す ものあらば此世は勿論(おろか)死後に至るまでも永久 の冨を與へんと然れども救ふものなく百年を 打過ぎたれば又 自(み)から誓ふらく第二百年間に 救ふものあらば地下の富を發して盡く之を與 へん又第三百年間に救ふものあらば地上の大 王となし魔君仙女と伍せしめ一日に三度宛其 望む所の亊を叶へしめんと然るに既に三百年 を經ても未た救ふ者なく瓶裏に鎖篭(とじこめる)【左ルビ】さるゝこと 依然たれば是に於てか余れ憤怒やる方なく又 自(み)から誓ふらく此後余を救ふ者あらば憐慈を 垂れす速かに之を殺し只其死法を自から擇べ しめ其望みに任すべきの一惠を與へんと然る に今日汝来りて余を救へり故に余汝を殺すの み汝が死は既に避くべからず速かに其死法を 擇びて快よく余が劍を受よと語り了りければ 漁夫其身の免れ難きを聴き悲歎限りなく我身 はさして惜むに足らねども一日一日と辛く漁 獵に世を送るに我身死しなば三人の子兒(こども)等は 如何にせん餓へてや死なん乞兒(かたひ)【左ルビ】とやならんと 愁緒萬丈(うれいのいとすじ)【左ルビ】九膓(はらわた)【左ルビ】を圍繞(めぐる)【左ルビ】して悲傷やるかたなくい かで今一度哀を請はんと魔君に向ひ縦(たと)ひ大君 の誓は。ざることなりとも禁錮の中より救ひ奉り たる老夫が功を顧み一片の憐れみを垂れ斯く 非理不道の誓を立返し老夫が命を赦し玉はれ や然らば天帝亦大君を赦し大君の為に敵者の 害を防ぎ玉ふべきものをと聲 震(ふる)はして歎き乞 へども魔君は之を肯んぜす痴呆(おろか)なり如何に道 理を列(なら)べ立て一年三百六十五日 口説(くどく)とても赦 すものかは無益の談論聞く耳持たず疾(と)く汝の 死法を擇べ無用の談に時晷(とき)たてざれと聲荒ら かに言い放てりと語り了り新皇后は帝に向かひ 世の常言(ことわざ)に窮迫者思慮之母なりと云へるが如 く此漁夫忽ち一計を設け。さの玉ふ上は吾身の 死は救ふに術(すべ)なし只上帝の意に任せんのみ但 し老夫が死法を擇むに先だつて大闢(ダビツト)の子 所羅(ソロ) 門(モン)なる天帝の預言者の封印に■【刻刾ヵ】みたる上帝の 大名を以て大君と誓はん老夫 疑慮(うたがひ)【左ルビ】決し難き一 亊あり試みに大君に問ひ奉らんに大君真誠を 以て答へ玉へと云ければ魔君は上帝の大名を 以て誓を立てたるを見て既に恐怖の体あり汝 の問ふ所は何事ならんか速かに語れと促すに 漁夫は既に其状を察し再び聲を擧げ上帝の大 名に因り誓を立てん大君實に此瓶中に在りし や甚た不審(いぶかし)く覺へ候ふ此瓶此の如く小なり大 君の一足をだも容るに足らす豈能く大君の全 身を藏すべけんやと難じたるに魔鬼笑ふて正 に汝が目前に見たるが如くなり余之を上帝の 大命に誓へり汝尚之を信ぜざるやと答へたる に漁夫尚ほ之を信ぜざるが如くもてなし其實 否を親視(まのあたりみる)【左ルビ】せんと請ふたれば随即(たちまち)魔君の形は再 び烟霧と觧け初め次第に前の如く天際に靡抹(たなび) き亘り再び凝りて一道の濃烟と變し徐々(しづか)【左ルビ】とし て瓶中に収まり一点の烟影も瓶外に残らざる とき魔君瓶中より聲を擧げ疑深き無智の匹夫  なりとも今は吾言の真誠なるを信ずべけんさ りとも尚ほ疑ふやと問ふたる聲を聞くやいな 漁夫は得たりと答もなさず敏捷(てばや)く鉛蓋を把り 持ちて忙がはしく瓶口に推當て聢(しか)と嵌込(はめこみ)棒の 如き大息(ためいき)をほつとつき瓶に向ひ魔君既に事情 一變せり今番(このたび)憐恕を願ふ者は正に汝が身に遷 り行けり余再び汝を此海に沈め余又此處に家 を搆え此海に漁する者に誡めて禁錮を救ふ者 を殺さんと毒誓を立てたる惡魔を救ひ舉げざ らしめんと言ひければ魔君は漁夫の仁心を動 さんと言を巧にして百方に苦請すれども漁夫 之を聴かす詐り多き汝が言を争でか信ずへけ んや若し再び汝を許さば其時こそは余命は汝 の為めに失はれん汝の余を遇するは希臘(グリーキ)王が 醫生 銅盤(ドウバン)を遇したるに善く似たりいで其物語 を語らん    希臘王並醫生銅盤の傳 昔し希臘に一王あり久しく癩病を患ひたるに 在庭の医官は云に及ばす國中の医師尽々秘方 を探り夙夜(よるひる)【左ルビ】心を苦しめて治療を施せども一毫(つゆばかり) も效験(しるし)なく匙を投し手を引きて治術なきを嘆 じたり然るに他邦より新たに来りたる一医生 名を銅盤と称するもの自から朝に入り大臣に 謁して王の病を治癒せん亊を乞へり此醫生銅 盤は學織古今に匹(たぐい)なく希臘(グリーキ)。此耳西(ペルシヤ)。土耳古(トルコ)。亜刺(アラ) 非亜(ビヤ)。羅典(ラテン)。西里亜(シーリア)。欺非流(ヒブルー)諸國の學に精しく又理 學に長じ尤も本業に明らかに草木の貭に通暁 したり王先づ其人物を見んと欲し玉ふ銅盤乃 はち朝服を穿ちて宮に入り王に見へて臣大國 の医官盡く不學にして王の病を医する能はざ るを聞及びたるを以て遠路を厭はす遥々貴國 に推叅せり若し陛下臣が術を試むるの意あら ば臣内服外貼を用ひずして忽ち陛下の大患を 除かんと言ければ王悦んで治を請はれける銅 盤は私宅に歸り「ラツケツト」板《割書:羽子板の如き者|にして球を打つ》 《割書:の遊戯に|用ふる者》を作り其柄に窩凹(くぼみめ)【左ルビ】を■【刻刾ヵ】み之に藥劑を 填塞(うめる)【左ルビ】し次の日之を持ちて宮に入り王の前に拜 伏し地を啜り了り《割書:地を啜るは此地|方の敬礼なり》王を請ふて 「ラツケツト」塲に致らしめ王には昨夜製したる 「ラツケツト」を執らしめ其 操持法(もちかた)をも精しく示 し朝臣と共に馬上に球を撃ち勝敗を爭はしめ たり王は原来最も「ラツケツト」遊を好みたりけ れば往来馳騁(わうらいちてい)勝を爭ふて心身を勞動せるを以(も) て忽ち周身(みのうち)汗を流し掌裏(てのうち)も亦汗を握りたれば 藥劑掌より鑽入(とほる)【左ルビ】して周身に流注(めぐる)【左ルビ】せり是に於て 銅盤「ラツケツト」遊を輟(や)めしめ王に沐浴を勸め 其他種々銅盤の言ふ所王盡く之に従がひ。さて 明朝に至りし處竒なるかな一夜の中に數年の 痼疾忽ち平癒し瘢痕(あと)さへもなかりける王は之 を見て忻喜極まりなく政㕔に出で玉㘴に就け ば列㘴の朝官聲を齊ふして其平癒を祝賀し王 の喜びを賛成(たす)けたり既にして銅盤も入朝し王 の前に拝伏すれば王 忽忙(あはたゞしく)玉㘴を下り自から扶 け起して王と共に玉㘴に上らしめ姑くして午 時になれば食架(テーブレ)を共にし相對して食ひ衆官退 朝の時に及び更らに御服に二千金を添へて之 を銅盤に賜ひ其次の日も王は唯銅盤に幸福を 與へんとすることのみにて朝を卒り再び許多 の賜物あり爰に宰相中に貪婪(むさぼること)【左ルビ】にして邪智に冨 み猜忌深き者ありけるが王が一醫生を寵して 賜物夥しきを見て嫉(ねた)きこと限りなく医生の罪を 構成(こしらへる)【左ルビ】せんと王に謁して陛下未だ悟り玉はざる や彼の醫生銅盤は敵國の刺客なり然るに陛下 心を傾けて親任し玉ふは抑も亦危ふきことに候 はすやと密奏す王は顔を左右に打ふり否々賢 相過てり卿の目(めざす)【左ルビ】して刺客となし逆臣となす者 は實に天下の良士なり吾身に取りては天下に 尊崇すべき者彼に増す者一人もなきを覺ふる なり卿も知る如く彼れ實に吾が不治の痼疾を 医したり彼れ若し刺客ならんには吾身を殺さ んことをこそ圖るべけれ何の為めにか吾が病を 治すべけんや察するに彼が才智群を㧞くを見 て卿妬心を懐きたるならん吾焉んぞ徳に報ゆ るに怨を以てすべけんや余れ初めは彼を以て 一醫生の特(たゞ)に其業にのみ精しき者とのみ思ひ たるに昨日彼と談ぜし所彼は諸學に通じ實に 天下又あるまじき賢人なり故に今日より彼に 大禄を給し別に毎月一千金を與へんと欲す。た とひ吾が國を裂き彼に與ふるも猶吾心に厭足(あきたら) ざるの思ひあり新努番努(シンドバンド)王が其王子を殺さん とせしとき其宰相が諫言せし物語あり今卿の 為に之を語らん    富商並鸚鵡の傳 昔し富商ありけるが美婦を娶り夫婦/最(いと)睦(むつま)しく 霎時(しはし)の程も離るゝに忍びざりしが避くべから ざる事出で来たり旅立つこととなりけるに冨商 は其/性(さが)嫉妬(しつと)深かりければ一策を案じ出し市頭 に一羽の鸚鵡を購ふたり此鸚鵡は希世の名鳥 にして一回見たることは日を過ぐれとも強記(よくおほ)へ 問ふ事あれば荅へざることなきの美質あり是れ 屈竟なりと家に携へ来り妻には唯 平常(あたりまへ)【左ルビ】の鸚鵡 の如く言ひ倣し余が身と思ひ此鳥を汝が室に 珍重して飼置玉へと言含【原文は異体字U+2D1E5】めて旅立ちしがさて 家に歸り妻のあらさる時を窺がひ吾が旅行中 何事か家内に起りしやと種々の事を尋ね問ふ たるに鸚鵡は其妻の隠事を洩さず語りにけれ ば富商はさもあらんと其妻の歸り来るを待構 へて其穢行を譴(せ)め鞭笞して之を懲したるに妻 は更に承服せず無根の讒【原文は異体字の谗】言を聴き妄りに潔白 の名を汚せり抔と其夫の薄情を怨み唧(かこ)ちて爭 ひ遂げ。さて自から思ふやふ余が密事を何(いか)にし て夫は早く聞知りけん是必す僕婢の中にて告 たる者あるならんと一人一人に密室に呼び其 事を詰問せしに皆盡く其罪は彼鳥にこそある べけれ我們(わがみ)は告げたる覺之【やの可能性も】れなしと衆人の言 ふ所一致しければ冨商の妻は忽ち悟り夫の疑 心を觧き兼て其怨を報せんと一計を設け夫の 家に在らざる夜を待ち三僕をして其形を隠し て鸚鵡の篭の上下と前とにあらしめ下に在る 者をして手磨(てうす)【左ルビ】を旋轉(まはす)【左ルビ】せしめ上に在るものをし て雨の如く水を溉(そゝ)がしめ又前にある者をして 鏡面に蝋燭の火を照して鳥篭の邉を閃(ひらめ)かさし めたること宵より暁に達したり却(かく)て次の日冨商 は家に歸り又鸚鵡に昨夜何事か有りたるやと 問ふに鸚鵡は雷電暴雨頻りにして甚た困却せ る由を荅へける冨商は是に於て鸚鵡の語を信 ぜす吾婦の事を告げたるも亦彼が胡乱言(めつたぐち)【左ルビ】に出 でたるならんと忽ち大ひに怒り罪なき鸚鵡を 篭より取出し力を極めて地板(ゆかいた)【左ルビ】の上に擲ちけれ ば愍れむべし即時に息は絶にけり其後冨商は 鸚鵡の冤罪なるを聞き知りて大に之を悔たり とぞ賢相たとひ妬心を懐き汝に怨恨なき銅盤 を殺さしめんと欲すとも彼の冨商が如き後悔 なからん為め容易く汝の言を信せざるなりと 奸情を穿(うが)ちて責玉ひけれども宰相猶ほ屈せす 言葉巧みに奏する様陛下善く回想(おもひみ)玉へ一鸚鵡 を失ふも大害と云ふべあらず又彼の冨商も其 後悔は久しからざるべきなり臣が奏する所は 國家の大事なれば寧ろ一/無辜(つみなきもの)【左ルビ】を過殺するの悔 あるも彼医生を誅せんことを抗論せざるべから ざるなり臣が彼を仇とするは陛下を愛し國家 を思ふが為に仇とするなり私怨嫉妬の為にあ らず若し臣が言ふ所ろ詐偽ならば昔時の一相 と同戮を甘受せん若し御許容あらば其一相の 物語りを陳述(のぶる)【左ルビ】せん    受戮宰相の傳 是も亦/新努番努(シンドバンド)國の事に候ふが王に一人の王 子あり其/性(さか)打獵(かり)【左ルビ】を熱愛(ひどくこのむ)【左ルビ】したり王之を鍾愛し其 好む所に任せて戒めず唯其危害を防獲(ふせぎ)【護】しめん と出獵毎に宰相に命じて陪行せしめたり一日 獵人(せこ)一匹の鹿を獵出したりしに王子は宰相後 より續くことよと思へば頻りに駿足に鞭うち獵 夫山を見ざるの喩の如く峻坂危径の嫌ひなく 心を鹿に奪はれて驀直(まつしくら)に逐ひたりしかども鹿 は逸足にして遂に之を見失なひ馬を駐めて初 めて心付き首を延して後方(あとべ)を展眸(ながむれ)ども續く者 とては一人もなく身は唯獨り廣漠たる濤山(うねやま)の 中に佇立(たゝず)めり王子は忽ち懼を懐き聲を限りに 呼び號【原文は號の異体字】べども荅ふるものは幽禽と喬木の風に 戰(そよ)ぐの音のみなり王子は益畏懼甚しく疾く歸 路を求めんと右に馳せ左に馳せて愈深く迷ひ 入り途方に暮れて躊躇(ちうちよ)する所に忽ち女子の啼 ̄キ 聲程近く聞ゆれは訝(いぶか)りながら聲ある方に馬を 寄すれば年少き女の衣裳美麗に容貌の最(いと)嬋㜏(あてやか) なるが路傍(みちのべ)に潜然(さめ〴〵)と泣き伏したり王子怪しみ て何人なるぞと問ひければ彼の少女荅へて兒(わらは) は印土王の少女に侍(は)べるが臣僕と共に此野を 過る時/睡魔(ねむけ)【左ルビ】に誘(さそ)はれて馬より下に滾(ころ)げ落たり しならん睡りてあればそれさへ知らす候ひき 今眼を覺(さま)し侍べりしに身獨りにて斯く恐ろし き野の中に臣僕にさへも打捨られ行べき道も 得知ざれば途方に暮れて泣より外に術(すべ)を知ら ず唯神明の保獲【護】を祈りたるに相公(との)の此地を過 り玉ひしは定めて神明の導き玉ひたるならん にあはれ一片の情を垂れ兒(わらは)を助け玉はれやと 言ひ畢り又 潜然(さめ〳〵)と泣き伏しければ王子は不愍 の事に思ひ最易きことなり吾と累騎(とものり)【左ルビ】【一頭の馬に同乗すること】し玉へと勸 めければ彼の少女世にも嬉しき様子なり王子 はやがて其少女を抱き騎(の)せ歸路を求めんと馬 の蹄(あがき)【「あがき」とは、馬が前足で地面をかくことで、ここでは前進することを指す】を促がしつゝ行々門破れ壁/頹(くづ)れたる一廬(こや)【左ルビ】 を過ぎる處に少女姑く馬より下んことを請ふ王 子乃はち【すなわち】助けて鞍より卸し彼女は内に入りた るより姑くすれども出で来らざれば暇(ひま)どりて は宮に歸るに便(たより)悪し彼女は何をか猶豫(ゆうよ)し居る やらんと馬より飛下り勒口索(たづな)【左ルビ】を執り戸外に近 づけば内に談話の聲するあり耳を𠋣て聴く所 に彼女の聲と覺しく吾が兒よ悦ぶべし汝等の 晩餐(ゆふめし)【左ルビ】に肥満(こへたる)【左ルビ】したる一人の少年を獲たりと曰へ ば今空腹を覺へたり何䖏に居り候ふやと荅へ たり王子は之を聞き毛骨(みのけ)いよだち馬に打騎り 一散に迯出したる所幸に大道に出て辛く虎口 を脱れて宮中に歸り入り父王に見へ食人鬼(ひとくひおに)【左ルビ】に 出逢ふたることを語り是れ全く宰相の緩怠より 起りたると語りければ王大に怒りて直ちに宰 相を殺したり今彼銅盤既に䏻く陛下不治の痼 疾を去りたるも焉ぞ後日却つて為めに大害を 起さゞるを必すべけんやと忠言らしく語りけ る王は原来智識淺くして黒白を辨ずる䏻はず 忽ち迷ひを生じ賢相の言當れり彼れ必らず劔 を用ゆるの刺客ならず定めて毒藥を用ひて暗 殺するの刺客ならん吾先づ彼を屠戮して其伎 𠈓を施す䏻はざらしめんと朝官を馳せて銅盤 を招かしめけるに銅盤はかゝることあらんとは 夢にも知らす速かに朝に入り来れば王は之に 聲かけて銅盤汝を呼びたる意を知るやと問ひ けるに臣爭でか知る由あらんや謹んで王命を 待つのみと荅ふ王は其時言荒らかにさもあら ん汝を呼びたるは我身の汝が絆套(わな)【左ルビ】に䧟らんこと を恐れ吾先づ汝を殺さんが為めなりと罵りけ れば銅盤の驚き言ふべからす微臣何の罪あり てか斯く無慈(なさけなき)命を下し玉ふやと怨するに王は 少しも猶豫なく汝の隠謀既に暴露(ばくろ)【左ルビ:あらはれる】せり汝元来 吾を殺さん為めの刺客なるは我に告る者あり て疾く之を知れり如何に陳ずるとも宥し難し と言放ち一員の朝官を顧み速かに敵國の刺客 を曳出して刑に䖏せよと命じたり銅盤は其状 を見て朝臣の中巳【己の誤字】が冨貴尊榮を猜みて王に讒【原文は異体字の谗に近いが、書体がかなり違うので採用せず】 する者あることを悟り再ひ王に向ひ微臣陛下不 治の痼疾を醫したるの功を賞するの法此の如 く苛なるや願くは微臣が露命を生存(ながらへ)しめ玊【原文は誤字で王】へ 若し王微臣を虐殺せは王もやがて其報ひある べきにと哀訴しけれども王尚ほ之を聴かず否 々吾心既に決せり然らざれば汝の妖術を以て 吾が病を治したる如く又人知れす吾を害せん こと鏡に照(かけ)て觀るが如しと赦す氣色なく銅盤の 両眼を布もて縛り膝【原文は膝の異体字】/折屈(おりかゞま)しめ劊手(たちとり)後へ【しりへ】に廻り たる時銅盤再び聲を擧げ、せめて一回家に歸り 葬儀を整へ妻子に訣別(わかれ)【左ルビ】し貧者を恵み微臣珍藏 の書は人を撰んで之を與へ永く世の洪益とな らしめ其中一本は最も貴重の者なれば是を陛 下に奉獻せんと欲す此書實に世間又あるまじ き珍品なれば陛下永く之を珍藏せんことを望む と言ひける時其書に如何なる効䏻ありや其を 語れと王命ありければ銅盤荅へて其書には竒 々妙々/枚擧(かぞへあぐる)【左ルビ】するに勝ゆべからざる諸功䏻あり 其は熟讀せば知り難からす試みに其一を擧げ んに若し陛下自から其書を開き第六葉の裏に 於て第三行を一讀し玉ひて後陛下試みに問を 出さん時/軀(むくろ)を離れたる微臣の頭顱(あたま)一々之を奉 荅せんと荅へければ王は其書を得んと欲し死 一日を弛べ守兵を附けて家に歸らしめたり偖 て次の日に至れば前代未聞の竒事あるぞとて 文武の百官政㕔に群集し今や今やと待居たる 所に銅盤は守兵に取巻かれ手に一巻の冊子を 捧げ持ちて入り来り其帙を脱(はづ)して敬しく之を 王に奉り盆を請ふて帙を其上に開き載せ又之 を王に奉り。さて云ふ様微臣の頭を刎たる後頭 を以て此盆の上に置かば流血忽ち止まん流血 止む時王自から其冊子を開き第六葉裏面の第 三行を一讀し玉ひたる後何事にまれ問玉はん に臣が頭顱一々之を荅ふべきなりされども其(そ) は微臣が願にあらす願くは臣が無罪を亮察さ れ死を赦し玉はれかしと言葉/曇(くも)りて嘆き請へ ども王は首を左右に打振り其願は許し難し若 し汝が罪は寃なるにもせよ死後頭顱䏻く言語 するが如き珍事あれば此一事のみにして既に 汝が頭顱は汝が身に添ふを得ざるなり而るを 況んや汝が隠謀あるに於てをや疾く心を決し て快く刀を受けよと言ひながら彼冊子を受取 り劊手(たちとり)に命して銅盤の頭を刎(はね)之を盆に載せし めたる處其言の如く忽ち出血止みたり竒なる かな此時銅盤の頭顱は眼を開き陛下其冊子を 開き玉はんやと言ひければ在聴の衆官驚き怪 まざるものなかりける。さて王は冊子を開かん とするに葉々/粘貼(かたくつく)【左ルビ】して開き難ければ指に唾し 開ひて苐六葉に到りし處唯白紙のみなれば王 は頭顱に向ひ銅盤苐六葉には一字の讀むべき なきぞと尋ね問ひけるに尚數葉を開き玉へと 荅ふ王は頻りに指頭に唾して數葉を開きたる 所に忽ち心身脳乱し手足を悶躁(もが)き苦痛を叫ん て横に倒れ其まゝ息は絶へたりける銅盤の頭 顱は王の倒るゝを見て虐王吾其書に毒藥を貼(つ)【左ルビ】 附(ける)【左ルビ】せり汝の死は吾が計る處なり以て知るべし 凡そ君主其勢力を恃み無辜を殺すものは早晩(いつか) 其報あることをと言畢り王と共に頭顱の命も絶 たりとぞと漁父は語り了り魔君に向ひ若し此 時銅盤の命を助けたらば王も亦永く冨榮を受 けたらんに暴虐なるを以て自から死を招けり 今汝が形状 希臘(グリーキ)王と同じ余曩に哀を請ふたる も汝之を允(ゆる)さず因て今の苦難を受けたるなり 余汝を愍まざるにはあらざれども已(やむ)を得す斯 く汝を待遇するなりと諭しければ魔君瓶中よ り大漁翁願くは慈悲を垂れよ古時/炎麻(エンマ)が亜的(アテ) 加(カ)に怨を報ふたるが如きなるなかれと叫びけ るとき漁父其委曲を聴かんことを求むれば魔君 荅へて若し君其物語を聴んと欲せば吾をして 瓶外にあらしめよ斯く狭小の器中に在りては 呼吸(いき)苦くして語る䏻はざるなりと荅ふるを打 聴て一聲髙く冷笑(あざわら)ひさても巧みに計りたり今 余窮苦の中に世を送るに一段の物語りを知る も無益なり。いざ此瓶を海底に沈めんと瓶を滾(ころ) がし水中に投ぜんとすれば魔君大ひに驚ろき 大聲擧げて吾猶一言せんと欲す君若し吾を免 さば汝が願ふ如く冨貴安榮を獲【原文は獲の異体字】せしめんと叫 びける漁夫は冨榮の二字を聴き忽ち自から思 ふ様魔君を永く禁錮するも吾が死を免かれた るのみ吾が貧乏を救ふに益なし若し魔君の言 に詐りなく冨榮を得たらんには是又/無上(こよなき)幸福 にこそと思案し再び瓶に向ひ汝の言恐くは詐 りならん何を以て汝が詐りなきを證すべきや 若し汝が言眞實ならば上帝の大名に誓ふて其 誠を顕はせ。よも上帝の大名に誓ふたる盟約は 汝と雖ども破り得難からんと問ひけるに魔君 言下に誓ひける漁夫乃はち【すなわち】鉛蓋を再ひ開く所 濃霧上騰すること初めの如く終に魔君其眞形を 現はし脚を擧げて瓶を海中に蹴(け)込みたり漁夫 此 擧動(ふるまい)を見て大に驚きたる時魔君漁夫に向ひ 心を沈靜(おちつけ)よ余が今の擧動は汝を驚かさんと戯 れたるのみいで約の如く汝に福を與へんに汝 の網罟(あみ)を収め肩に荷ふて吾に跟随(つき)来れと命じ ければ漁夫は尚危ぶみながら魔君に跟随(つき)行(ゆく)に 市中を過ぎ一山の巓を越へ廣野に出でたり茲 處に四𫝶の小山並立し中に小湖を為す者あり 魔君は其湖邉に来りて止まり網を撒(う)てよと命 ずれば漁夫は網を荷ふて湖中を觀る處に魚類 簇(むら)がるが如く鼻衝(つ)き逢ふて浮沈せり然るに怪 むべきは其魚盡く純青。純黄。純赤。純白。の四色を 為し間色(まざり)【左ルビ】の者もなく又/班(ぶ)【斑】色(ち)【左ルビ】の者もなしさて網 を撒ちたるに青黄赤白各色の魚一尾づゝを得 たり手に取り擧げて之を見るに果して未だ嘗 て見聞せざるの美魚なり是を以て市に估(う)らば 必らず多銭を得べき竒貨ならんと獨り大に悦 ひ居たり茲時魔君又漁夫に諭し其四魚を帝宮 に携へば必らず汝が身に餘る多金を得ん尓後【尓(爾)後、じご】 毎日来りて此處に漁するを汝に許さん但し網 を下すは一日に一回にてとゞまるべし然らざ れは後悔あらん善く注意(きをつけ)よ吾が汝に示すべき は是のみなり若し汝䏻く吾が言ふ所に従がは ゞ汝が為に大利あらんと言なから足を擧けて 大地を踏めば大地忽ち左右に開け魔君を中に 入れ終るよと見へける時再び合して裂痕(われめ)も見 へずなりにける    漁夫の傳《割書:續》 却説(さても)漁夫は魔君の言に従がひ再び網を撒たず 市府に歸り彼四色なる四魚を以て帝宮に齎し 之を奉りしかば帝は希代の珍魚なりと暫く熟(なが) 視(め)玉ひしがやがて一個々々に手に取り擧げ打 返し打返して一時餘り顧眄(わきめ)もふらずあり玉ひ さて宰相に向ひ此の如き美魚其味も亦必ず美 ならんに近頃希臘王より送り越したる厨婦は 極めて工手(じやうず)【上手ヵ】なれば彼女に命して晩餐に備へし めよと命じ漁夫には黄金四百両を賜はりけれ ば漁夫は未だ斯(かゝ)る大金を得たることなければ若 しや夢ならんか夢ならば永く醒ざれと祈りつ ゝ先づ試みに市に入り物を買ふたる後初めて 其夢ならざるを悟り歡喜言ふべからざりし却(さて) 説(また)厨婦は宰相の命を受け鱗を去り膓を抜き清 水に洗ひ鍋に油を澆ぎ火に上せ既に下面 炒(や)け 得て十分ならん返して之を炒かんと返し卒る や卒らざるに忽ち見る厨壁左右に拆(ひら)けて入り 来る物あり厨婦驚ひて之を見れば入り来る者 は一婦人にして身には花卉(はなは)【左ルビ】を華麗に刺繡(ぬひとり)した る絲緞(しゆす)【左ルビ】の上衣を穿ち頚環(ゑりわ)【左ルビ】指環は大なる眞珠を 以て作り紅宝石を嵌(はめ)込たる黄金の臂釧(てくびかざり)【左ルビ】【ひせん、本来は二の腕につける腕飾りのことだがここではブレスレットのことらしい】を貫き 手に一條の杖を執りたるが淡粧濃抹相宜しか らざるなく眞に天人ならんかと怪まるゝはか りの容貌あり彼美婦人は徐々と鍋の邉に緩歩 し来り其杖を擧けて一魚を鞭ちなから魚よ々 々汝尚ほ舊約を固保するやいなやと云へども 其魚黙したれば彼女又問ふこと初めの如し其時 四魚齊しく首を擧け唯々(はい〳〵)【左ルビ】若し汝尚ほ記臆せば 吾輩も亦記臆せん若し汝の屓債(おひめ)【屓は負の誤字ヵ】を償(つぐの)はゞ吾輩 も亦償はん若し汝 飛(とび)𩗺(あがる)【左ルビ】せば吾輩䏻く之を制服(おさへつける)【左ルビ】 せん其時吾輩初めて分に安ぜんと荅へければ 彼少女杖を以て鍋を覆(くつが)へし再び折壁(ひらけたかべ)【左ルビ】を過ぎて 歸るよと見れば壁は合して再び舊に復(かへ)り初め に變ることなかりけり厨婦は是等の光景(ありさま)を看て 驚愕(おどろき)【左ルビ】極まりなく漸く吾に返りて魚を視れば既 に炭よりも黒く焼け果てたり厨婦は悲きこと言 はん方なくたとひ有りしこと共を帝に奏すると も爭(いか)でか之を實とし玉はん愈々怒りて重き罪 に行はれんこと必せり如何(いかゞ)はせんと悶へ嘆きて 止ざりけり斯(かゝ)る處に宰相は再び厨房(くりや)【左ルビ】に入り来 り調理了りたるやと尋ねたるに厨婦は有りの侭 に之を語り寛仁の處置を願ひたり宰相は厨婦 の物語を聞きて大に驚きたれど之を帝に奏 せす程䏻く其場を執成し直ちに漁夫に人を走 せて前の如き四魚を求めけるに漁夫は明朝之 を奉らんと約し次の朝未明に彼湖に至り網を 下したる所再び昨日の如く四色の魚四尾を得 たりければ約時を違へす宰相に呈しける宰相 は魚を携へ厨房に来り己【巳の誤】が見る前にて彼厨婦 に之を調理せしめたるに厨婦の物語りたる所 詐ならす再び美女来りて魚と問荅すること毫末(つゆほど) も違はざりければ宰相大に驚き怪み是れ異常 の怪事なり秘すべきことにあらすと。やがて帝に 謁して委曲を奏しければ帝更に四魚を得んこと を欲し漁夫を召て之を求め玉へば漁夫は明朝 之を獻すべしと約し彼湖に至り網を撒ちたる 處同しく四魚を獲て直ちに之を帝に獻ず帝大 に喜んで再び黄金四百両を賜ひ魚をば内閣に 齎し四戸を閉し宰相をして之を調理せしめ下 面既に炒十分(やけとほり)たりいざ反して炒かんと之を反 したる時内閣の一壁忽ち開け入り来る者あり 帝宰相と共に之を見れば前日と異にして入り 来りたる者は美婦に非ず一個の大黒奴。奴衣を 穿ち大棍を右手に提けたるが禹歩(おゝまた)に走み【「あゆみ」と読むヵ「歩」の誤記ヵ】て鍋 に近づき棍を以て魚を打ながら怖ろしき聲を 發し魚よ魚よ汝尚ほ舊約を固保するやいなや と問ふ時に四魚齊しく首を擧け唯々若し汝尚 ほ記臆せば吾輩も亦記臆せん若汝の負債(ふさい)を償 【挿絵の下】 彫刻會社製 【図書館の蔵書印】BnF MSS 【白紙】 はゞ吾輩も亦償はん若し汝/飛(ひ)𩗺(よう)せば吾輩䏻【能の俗字】く 之を制服せん其時吾輩初めて分に安ぜんと荅 へければ彼黒奴棍を擧て鍋を覆(くつがへ)し魚を火中に 投じ開けたる壁を過ぎりて歸りたるに其壁。痕(あ) 跡(と)をも殘さず再び元の如くに合したり帝爰に 於て此魚尋常の魚にあらす必らづ竒事の在る 有らんと察し玉ひ漁夫を召し問ふて纔【原文は纔の俗字】かに三 時間可りにして達すべき四座【𫝶】の小山の中央に 在る一湖より得たるを聞き朝官に命じて盡く 馬に騎らしめ漁夫を嚮導(しるべ)となし湖邉に至り見 玉ふに湖水/透(とう)明にして湖中に游泳する四色の 魚類歴々【明かにわかるの意味】として數ふべし帝は其竒觀なるを賞 して久しく注視(みつめ)玉ひしが諸臣に向ひ卿等斯く 竒にして美なる湖の斯く近地に在るを今迄知 らざりしやと問ひ玉ふに衆官口を揃へて目に 觀るは勿論(おろか)聞きたることも候はずと答へけるに 帝又の玉ふ様是實に極めて怪むべき者なり此 湖/何時(いつ)何様の事変ありて忽ち生し又其魚類何 を以て四色なるや其/縁故(ことのもと)を究めざる間は再び 宮に還らじと心を決したりとて衆官を其地に 陣せしめ帝の幕營(テント)は少しく離れ湖岸に傍ふて 張らしめたり夜に入りて帝は其幕營に入り宰 相に向ひ此湖遽かに現はれ此魚竒語を吐き黒 奴吾か内閣に来りたるが如き盡く竒異にして 吾が心為めに穏かならす必す其本源を探り得 んと決心せり爰を以て吾 今宵(こよい)獨り幕營を出で ゝ之を探らんと欲す賢相は吾が幕營に残り留 まり明日他の宰相衆官等来らば吾れ微恙あり 人を見ることを忌むと告知らせ日を經るとも吾 が歸り来るまでは誰にも其實を洩すことなかれ と命じ玉へば宰相其過失あらんことを恐れ諫沮(とめる)【左ルビ】 すれども帝之を聴かす身輕に打扮(いでたち)一口の劍を 帶び更闌(こうた)け人靜まるを窺ひ獨り幕營を出で玉 ひ峻險(けはし)からざる一山を越へて平野に出てたる 時は既に日出る三竿の頃なりけり其時四方を 展眸(みわた)すところ遥かに宮殿の見ゆるあり近づひ て之を見るに黒き大理石を磨きに琢きて築き 立てたる宮殿に水晶かと怪まるゝはかりに輝(きら) 々(〳〵)と照り耀く鋼鉄(はがね)【左ルビ】を以て之が屋とし其結構善 盡し美盡せり帝は是を見て大に喜び玉ひ是亦 一竒觀なりと正門に至り門を叩ひて案内を請 ふこと數遍(あまたゝび)なれども應ずる者なければ摺門(おりど)【左ルビ】の方 に赴く所に一門の開けたるあり帝其傍に佇立(たゝす) み人の出るを待玉ふに之を久ふして尚ほ一人 の出る者もなかりける帝大に不審(いふかし)み斯く廣殿 華宮の中に人の住するなきや人なければ懼る ゝに足らす。よしや兇人の住處なるも自から防 ぐの術ありと獨言しながら。やをら摺門(おりど)【左ルビ】を通り 過ぎ長廊(ろうか)【左ルビ】に至りし時再び聲を限りに呼び號べ ども應る者なければ帝は益怪しみながら進み て廣廰(しょいん)に至れとも尚ほ人に出逢はず夫より右 に廻り左に廻り若干の室房を過る處に地氊(しきもの)【左ルビ】は 盡く絹帛《割書:古事亜細亜西邉及び西洲にて絹帛を|得る甚難く絹布を以て最も貴重の品》 《割書:となせり「シーサール」東征より歸り絹布の|上袍を穿ち朝官を驚かしめたることあり》を以 て製し寝室卧床は「メッカ」《割書:亜刺比亜|の大市》織を以て覆(おほ) ひ戸帳は金銀を以て刺繡(ぬいとり)【左ルビ】したる印度「シャール」 を以て製したり帝尚ほ進んで深く入り玉へば 一室あり此室の中央に瀑布(たき)の下るあり何處よ りか落るやらんと觀る所に四隅に一個/宛(づゝ)の大 獅あり各黄金を以て之を製したり各獅の口よ り數千の金剛石ならすば必ず數万の眞珠なら んと怪しまるゝばかりなる數千條の水を噴(は)き 出し室の中央に湊合(あつまる)【左ルビ】して一條の瀑布を成せる なりさて四方を觀る所に此城には園庭甚多く 中に各種の嘉花竒木を栽へ又珍禽群を成して 飛鳴し鳥の飛び去るを防ぐ為ならん黄金の罔 を園上に張れり帝は其構造の壮美を驚きなが ら尚ほ若干の房室を打過ぎ玉ひたる時夜前よ りの倦怠(つかれ)を覺へ玉へば暫く休憩(いこは)んと遊廊に𫝶(す)【左ルビ】【座のJIS標準外の異体字、入力タブで文字化けするが閲覧タグでは表示される】 下(はる)【左ルビ】し園面を望み玉ふ所に忽ち聞く壁を隔てゝ 悲號する者あり耳を傾け聞く所に噫(あゝ)保留丹(ホルタン)神 よ《割書:保留丹は|善神の名》助け玉へ汝既に己が快樂を計らん が為め吾を久しく苦しめたり最早吾を苦しむ ることを止め速かに吾を殺して此苦悩を免がれ しめよと言ふ聲手に取る如く聞へたり帝は此 號聲を聞き直ちに起立し聲を嚮導(しるべ)に一室に至 り戸帳を取りて蹇(かゝ)【搴】げ擧げ室内をさし覗(のぞ)けば小 髙き玉㘴の上に一人(ひとり)の少年あり衣服美々しく 装ふたるが面㒵衰へ深き憂のあるに似たり帝 之を見進んで礼を施こせしに彼少年は起立せ ず但其頭を下低して答礼し。さて言ふ様何人か は知らざれども余が無禮を恕(ゆる)し玉へ吾身不幸 にして竒禍に逢ひ正禮を行ふ能はすと言葉静 かに演(のべ)けれは帝は答へて汝の擧動(ふるまい)【左ルビ】如何んに関 せず既に汝の講情(いひわけ)【左ルビ】あり余身に於ては猶ほ敬礼 を受けたるの想あり余が此處に来りしは今彼 處にて汝が悲號を聴き特に汝を救助せんとの 為めなり我をして此地に来らしめたる者は上 帝の誘引に因れるならん故に余上帝の大命を 奉し力を盡して汝を救助せん。されども先づ吾 が為めに此城に近き湖水のこと又其魚の四色な ること又此城の此處に現出したるは如何なる由 縁なるか何を以て汝獨り此城に住するやを詳 説し玉へと請はれにければ彼少年は言葉なく 唯悲涙を浮べながら其/上袍(うはぎ)を蹇(かゝ)【搴の誤字ヵ】げ擧げたり帝 之を見れば怪しむべし此少年は胸部より以上 のみ人にして胸部より以下は黒き大理石(マーブル)【左ルビ】と化 したりけり帝は之を見て彼少年に向ひ汝の吾 に示したる者は愈々 竒怪(ふしぎ)なり先づ汝の傳記(みのうへ)を 余に語られよ湖と云ひ魚と云ひ必ず汝の傳記 と相関する所あらん速かに物語りて余が疑心 を晴さしめんことこそ願はしけれ又世間不幸の 事も其艱難悲愁を人に告るときは少しく其れ悶 欝を軽減(へらす)【左ルビ】することを得るものなりと諭し玉へば 少年は熟(つら〳〵)之を聞きさて云ふ様慎んで命を奉ぜ り言永く共余が悲しき傳記を聞き玉へ    黒島王の傳 此國は黒島國と號し余が父 眞父武土(マフムード)は之が國 王たり其黒島國と名づけたる由来は君が見た りし四山より出たり彼の四山は徃日(さきごろ)までは皆 海島にて彼湖の在る處は正に吾が父の都城な りき余が父死して余位を繼き従弟女を迎へて 妻となし琴瑟在御(ふうふなかよく)【左ルビ】偕老同穴を約し最樂しく五 年を過せしに爰に不快の一事出て来たりけり 一日午飯も果て吾が妻沐浴せんと出行き余は 一睡せんと卧榻に横はり二人の侍女をして前 後に在らしめ毛扇をもて暑氛を殺(そ)き蒼蝿を拂 はしめ目を閉ぢ睡れるが如く他事を思考(かんがへ)居た りしに侍女等は余が熟睡せると思ひてや聲を 低(ひそ)めて私語(さゝゆく)を聴けば一女先づ口を開き斯く可(いと) 憐(しき)王を嫌ふて他人を愛するとは王后/錯(あやま)てり王 后は是非を辨せざる者に似たるにあらすやと 言ふに一女答へて然り汝の言當れり然れども 王后宮を出で他に行くは毎夜の事なり王の知 らざることはよもあらし知りて恣にせしむるは 最(いと)不審(いぶか)し是れ眞に觧すべからざる事なりとい へば先の女又答へて王如何にして知る由あら んや王后は何やらん草液(くさのしる)【左ルビ】をもて酒に和し毎夜 之を王に飲ましむるが故に王は忽ち先後も知 らす死睡し王后の出入を知らず黎明(しのゝめ)の頃に王 后は歸り来り王の鼻に香氣ある物を當つれば 王は忽ち睡醒るなりと語りたる時余新たに眠 り醒めたる假態(おもゝち)して眼を開きければ侍女等は 口を閉ぢたりさて余が妻は沐浴より歸り来り 晩餐を果て卧床に就かんとする時 例(つね)の如く自 から一杯の酒を持来れは余は其杯を把りなか ら庭面(にはもせ)を觀る假態(ふり)して密に之を窓外に溉(そゝ)ぎ了 り一滴も餘さす飲盡したるを示さんが為め特(わざ) と其杯を吾が妻に還し與へて直ちに卧床に横 はり熟睡せるふり做せしかは吾が妻は。やがて 起き上り美服を着飾り香を薫(くす)べさて余に向ひ 死睡せよ死睡せよ汝の睡り終身醒めざれ吾既 に汝を厭へりと數遍繰り返し室を出で去りた る時余も亦直ちに飛び起き手早く衣裳を引き 披(かけ)劍を提げ足を極めて逐ひかけしかば忽ち前 面に履響(くつのおと)【左ルビ】聞へたり近付ひて悟られじと是より 歩(あゆみ)を緩め見へ隠れに随ひ行くに吾か妻門に至 れば輙(すなは)ち何やらん咒文を唱ふる所忽ち門は左 右に開けたり斯くして數多の門を過ぎ終りに 園門に至る時も亦先の如く咒文を唱へて中に 入りたる時余は此門にて留まり暗夜なれども 眼を凝(こら)して覗(うかヾ)へば吾が妻は林の中に歩み入り たり其林は密樹をもて生籬(いけがき)とし門外より進み 近づくべければ是れ幸ひと路を違へて門外よ り茂林に達し籬外に身を躱(かく)して覗ふたるに吾 が妻は一個の男と伴なふて行々物語るを聞け ば妖術をもて土地人民を滅絶し二人して憚る 處なく世を送らんことを計るなり是時余怒りに 堪へ兼ね劍を抜き持ち躍り入り其男の背を斫 しかば其男は苦(あつ)と一聲叫びたる儘忽ち仆れた り余が妻は親族なれば手づから殺すべき者な らすよりて之を許し足早に籬外に走り出でた れば吾妻は其情郎を害したる者の誰人なるを 知らす只悲み叫ぶのみなれば余は心地よく直 ちに宮裡に歸り卧し。そしらぬ風(ふり)して卧床に横 はりたり余が斫りたる創は最深くして忽ち死 すべき程なるに吾か妻の妖術を以て其生を尚 ほ保たしめ死とも云ふべからす生とも云ふべ からす恰かも是れ入定の有様となし一處に隠(かく) 匿(まい)おき。さて夜も明け方に近き頃歸り来りて吾 を醒し両親及長兄の死報を聞きたるとて䘮服 を着し大小/悲(かなし)み號び為めに一廟を建てゝ時々 參詣せんことを乞ける余其/虚誕(いつわり)たるは知るとい へども其情郎を害したるは余が業なることを察 せられじと故(わざ)と其孝心を賞し之を允(ゆる)し壮嚴を 極めて一廟を建て圓屋を備へ既に峻功(できあがり)たる時 之を墮涙廟と名けたり彼處に見ゆる圓屋即其 廟なりと帝に指さし示しさて吾が妻は姦夫を 墮涙廟に移し其後廟に詣(もふづ)ると號し朝夕彼處に 往き姦夫を看護(かいほふ)したり吾妻廟に篭り初めたる より數日を過ぎたる頃余其/光景(ありさま)の如何なるや らんかそを見聞したきこと堪がたければ密かに 廟裏に入り窺ふ處に吾が妻は半死半生にして 㘴卧も自(み)からする能はざるのみか言語さへも 不自由にて宛然(さながら)唖の如くなる黒奴に體し最/懇(ねんご) ろに慰めつゝ心を盡して看護(かんご)するを見て再び 憤怒を忍び難く奸夫姦婦を誅せんと劍を抜き 持ち跳り入りたる所に吾妻は少しも恐れず冷(あざ) 笑(わら)ふて左程に怒り玉はすともよからんにと云 ながら咒文を唱へ又聲髙 ̄ニ吾が妙術を以て汝を して半石半人たらしめんと云かと思へば今君 の見るが如き淺間敷形と変じ死躰は生人と伴 なひ生躰は死人と連なれり彼の毒婦余が形を 是の如くなしたる後余を此宮に移し我が都府 を滅ぼし宮殿を消滅し人口稠密にして繁昌な りし國をして今君が見る如き湖水不毛の地と 変ぜしめたり彼の湖中四色の魚類は元来四教 徒の市人なり乃ち白き者は回々(マホメツト)教徒にして赤 なるは火を拜するの比耳西(ペルシヤ)教徒なりし又青き 者は基督(キリシタン)教徒にして黄なるは猶太(ジユデヤ)教を奉ずる 者共なりし余が是等の事共を知る者は余が悲 痛を増さしめんが為め毒婦が口づから余に告 知らせたるに因れり毒婦余に仇する是に止ま らす尚ほ日々に来りて衣裳を褫(うば)ひ裸躰(はだか)【左ルビ】となし 背に一百の鞭を啖(くら)はしめ流血常に身に徧き【読みは、あまねき】に 至りたる後山羊の踈服【そふく、粗末な服のこと】を肌上に蓋ひ其上に此 刺繍衣(ぬいとりぎぬ)【左ルビ】を掩ひたり其刺繍衣を掩ふ者は吾を敬 ふが為ならす唯吾を嘲侮せんとする者なりと 語り畢りて少王は悲憤の涙止敢す聲を放つて 泣伏しける帝は始め終りを熟(とく)と聴き共に感傷 やるかたなく手を拱ぬき頭を垂れ黙し玉ひた り暫時(しばし)ありて少王天を仰ひで大息し吾が今日 の不幸は決して人事ならす必らず天意に依れ るならん是を以て苦悩を忍んで人天を恨みず 只願くは上帝吾が誠心を鑑みて将来の幸福を 與へ玉へと祈念しける是時帝は少王の資質(うまれつき)善 良なるを知るからに。愈(いとゞ)不愍やるかたなく。いか で為めに怨を報ぜしめんと心を決(さだ)め少王に向 ひ世間君が如き危禍に苦しめらるゝ者二人と はあるべからす唯君の傳記中に尚ほ一事の不 足する者あるを覺へたり其(そ)は他にあらす即ち 復讎の一事なり余必らず力を盡して君が為め に復讎を謀らんと此地に来りたる一五一十(いちぶしぢう)を 少王に告げ復讎の計策を相謀り毒后毎朝少王 を苦めたる後姦夫を見舞ふこと及び姦夫が言語 する能はざるを歎く等のことを聴得て帝忽ち一 計を工夫し少王に示しければ少王甚だ之を悦 び明日其事を行はんと帝は夜も䦨(ふけ)たる時少し 睡眠(まどろみ)玉へども少王は妖婦に魅(み)せられてより以 来一刻の睡もならざれば帝の為めに周夜(よもすがら)警備(こゝろづ) け其復讎の成否は期すべからさるも尚ほ一点 の冀望【きぼう】なきにあらざれば僅かに慰むる所あり て最(いと)賴母敷(たのもしく)覺へ玉ひけり斯くて帝は次の朝。曉 と共に起き出て玉ひ其計を行はんと上袍(うはぎ)を脱 ぎて軽装(みがる)に打扮(いでた)ち時を計り墮涙廟に【「に」の左側がやや消えていると判読】至りて見 玉ふに内には數万の白蝋燭の火把(たいまつ)【左ルビ】を尚ほ煌々(こう〳〵) と燭(とも)し連ね數千個黄金の香爐よりは數千條の 烟り上騰(あがる)【左ルビ】し妙香鼻を衝(つ)きたり帝は直ちに進ん で後堂(おくざしき)【左ルビ】に至り見玉ふに姦夫なる黒奴は唯獨り 死するが如く生けるが如く卧榻【がとう、寝台のこと】に横はり居り たり帝は之を一刀に誅戮し之を程近き井の内 に投げ棄て再び返りて姦夫の卧榻に横はり劍 を懐ひて待構へたり再説(さてまた)少王の宮には帝の出 てたる後 少間(しばらく)ありて妖婦なる王后は黒島王な る丈夫の室に入り来り少王の哀を耳にも入れ す其苦を叫び痛を呼ぶを見て心地善げに汝吾 が情郎をして彼の状となしたるは情ある處置 と云ふべきや然るを奈何ぞ獨り汝を遇する苛 虐ならざるを得べけんやと嘲けりながら一百 の鞭笞を背に負はせ了はり山羊の踈布【疎布:そふ、あら布のこと】を肌上 に蓋ひ其上に刺繡の美服を被せ踵を旋らして 墮涙廟に至り閾を越へて入り来りながら伏し たる帝を情郎(おもふおとこ)【左ルビ】なりと思へばや聲 曛(くもら)【曛について、5コマ3行目の明け方の「明」の篇と同じなので日篇と判断】せて君こそ は妾が腹なり光なり又精神(たましひ)とも思ふなるに恒(い) 常(つも)一言の返し言なきは餘りに情(なさけ)なし今朝こそ は一言の返言して妾が悲みの眉を開かしめ玉 はれやと聲を擧て號(なげ)きければ帝は黒奴に假(に)せ。 さも疲れ果たる如き聲音にて一言答へけるに 妖婦は天に欣び地に喜び可憐夫(いとしきつま)よ今聞きたる 言は吾耳の過(あやま)ちにはあらすや眞に君が口より 出たるにやと喜んで手の舞ひ足の踏ところを 知らす進み近づかんとする時帝は可笑(おかし)さを保(こら) へ猶(なほ)黒奴の聲音に假せ毒婦め汝と談話(ものいふ)は最(いと)穢(けがら) はし疾く何處へなりと出て行けと答へければ 妖婦忽ち哀み號【読みは「さけ」び、號の旁の虎が異体字の乕となっている】び君は汝を罵り玉ふや最(いと)怨(うら)め し何事の氣に逆(さか)ふてか斯く怒りを起し玉ふや と問ひ返せば帝又/低聲(こゞへ)に汝日毎に汝が正夫を 呵責(かしやく)し其哀號天に通じたるを以て吾が病勢の 治癒を妨ぐるなり否(しか)らざれば既に吾が病は昔 し話しとなり又吾が舌は既に圓滑昔の如くな りしならんに汝が此悪行の為に吾が舌縮(しゞ)まり 身は疲れ平生(いつも)聲の出で難きなりと答へ玉ふ滛【滛は淫の異体字】 后再びさらば吾れ彼をして元形に復せしめん 然(さ)ることとは知らすして今迄多少の辛苦せしは 吾ながら愚なりき又吾が所天(おつと)も早く之を告げ られざりしは可恨(うらめし)くこそ候へ吾が先夫を元形 に復さんは君の情願より出たるやと問ひ返す に帝又答へて然り速に彼を濟へ。さらば吾が病 は頓(とみ)に平癒すべきなりとの玉へば滛后直ちに 墮涙廟を出で王宮に入り盃に水を盛り咒文を 唱ふれば其水/忽地(たちまち)沸騰せり妖后直ちに少王の 室に至り其水を少王に濺(そゝ)ぎながら若し造物主 汝を罪して此形と造りしならば此形を変ぜざ れ若し吾が妖術を以て此形と変ぜし者しなら ば汝が天賦の形を再受し元形に復れと唱へ了 りたるよと思へば少王忽ち元形に復り起立し て恩を上帝に謝したる所に妖后は王に向ひ速 かに此宮を出て去り再び歸り来るなかれ若し 再び歸り来らば其時決して赦さじ疾(とく)々と追立 られ少王は是非なく宮を出で起手(てはじめ)既に思ふ如 くなれば後事も失敗(しそこな)はじと想へども尚覺束な く上帝に祈り後の安否如何と待居たり妖后は 足を空(そら)に墮涙廟に走(はせ)歸り尚ほ榻上の帝を情郎 なりと誤信(おもひたがへる)【左ルビ】しければ聲を擧げて可憐夫(いとしおとこ)よ既に 君の命に随ひ事果てゝ歸り来れり君の容体如 何んぞやと問ひける時帝は猶黒奴の聲を假せ 聲音(こはね)低(ひく)く汝が為せし事未だ全く吾が病を平癒 せしむるに足らす唯一半の苦惱を去りたるの み汝速かに根本を撃打せよと命じ玉ふ妖后/不(いぶ) 審(かしみ)ながら根本を撃打するとは何事ならんや觧 し難く候と問ひければ帝又汝尚ほ觧せざるや 乃ち都府國民四島等汝が妖術を以て壊滅(ほろぼ)した る者を云ふなり彼の魚類毎夜頭を擡(もた)げて上帝 に哀訴し復讎を計りたるもの亦吾病の長く癒 へざる由縁なり疾く行きて萬物を元の形に復 すべし斯く為し果て歸り来らば吾れ其時吾手 を汝に與へんに汝吾を助けて起立せしめんや と尚黒奴に似せての玉へば妖后此言を聞き情 郎の平癒目前に在りと喜び勇んで吾が心膓な り精神なる可憐夫(かれんぷ)よ汝の平癒は時を移さじ悦 びて待玉へと言ひながら再び墮涙廟を出で湖 畔に至り手掌に水を掬し二三語の咒文を唱へ ながら湖面に濺ぎける所見る間に都府現はれ 出て魚類は盡く回々(マホメツト)。基督(キリシタン)。比耳西(ペルシヤ)。猶太(ジユデヤ)。の四教徒 となり老少の男女一時に現はれ中に主あり奴 僕あり家として人あらざるはなく人として財 産を保たざるはなく萬事変形以前に在りし者 と異なることなし帝に従がひ来りたる宰相以下 諸従僕等湖畔に陣を張りたると思ひたる者遽 かに廣大華美にして人口稠密なる一都府の中 央に立ちたるを見て驚愕せざる者なかりける 再説(さてまた)妖后は萬物を回復し直ちに墮涙廟裏に歸 り入り吾が可憐夫よ一々君が命の如く成し果 てたり。いざ起立して君の手を與へ玉へよやと 呼びければ帝は仕濟したりと喜びさらば近く 寄り玉へとの玉ふに妖婦は喜びながら近寄り 来るを待付け忽ち俄破(がは)と蹶(はね)起きて左手に妖婦 の手を把(とら)へ右手に劍を揮ふて薙(なぐ)ところに妖婦 の身軀は腰より別れて両段(ふたきだ)【左ルビ】となり一半は戸外 に僵(たふ)れ一半は戸内に落たりけり帝は思ひの儘 に仕遂げたれば喜悦限りなく死骸を其儘打捨 て置き墮涙廟を出で黒島王に尋ね逢ひ君が仇 敵既に吾が手に死せり怕るべき者更らになし 是より君は妨碍(さはり)なく都城に住することを得べし 唯吾と共に吾都に来ることを煩(はづら)はさんのみ君も 定めて知らん比隣の地なれば敢て否み玉はじ 吾國に来り玉はゞ國人必らず君を敬待する猶 ほ君の臣民の如くならんとの玉ふに少王敬ん で吾が大恩ある宇宙の大君たる陛下のゝ玉ふ 言を考ふるに都府相接すると思ひ違ひ玉へる と見へたりと怪み問玉へば帝又唯三四時を費 さば速かに達すべきのみとの玉ふ少王忽ち悟 り陛下此地に来り玉ふことの斯く容易(たやす)かりしは 吾國妖術の為に縮小されたればなり然るに今 既に妖術除き萬物古に復りたれば早行夜宿(はやくおきおそくとまる)【左ルビ】も 尚ほ一年の久しきを費やさん。されどもたとひ 地は遠く路は険(けは)しく地極より地極に至る旅途(たびぢ) なりとも爭でか恩人の随行を否まんや吾れ不 才にして報恩の術を知らず唯吾が身を君に任 せ國家を捨るも悦んで陪行せんとの玉ふに帝 は思はす身は斯く遠地に来りたるを聞き驚き 玉ふこと大方ならざりしが暫くありて少王に向 ひもし君を得て吾が子となすことを得ば斯る長 途の勞を償ふに餘りあり吾に子女なし是を以 て君を請ふて嗣子となし吾か帝國を譲らんと 欲するなり。若し承諾あらば吾身の大幸なり君 に取りても敢て不利ならじいざ同行し玉へと 説勸め玉へば少王は悦ぶこと限りなく父子たら んことを約し宮裏の重宝を一百頭の驢馬に負せ 騎士の精鋭なる者五十人を従がへ帝諸共に黒 島國を打立ち長き旅路も障碍(さはり)なく既に都に近 づかんとする前數日に人を馳せ歸都を報し兼 てその遅延の由縁を告しめければ大臣初め満 城の臣民數を盡して出迎へ大臣等は先づ國中 の平穏を奏し市民は帝の恙なきを祝して數日 の間歡び歌ふ聲/都城野村(みやこもひなも)【左ルビ】に充満せりさて帝は 其次の日百官を集めありしことともを精く説知 らせ黒島王を養ふて嗣子となすべきことを令し 少王は帝城に留まり黒島國には大臣を派遣し て之を治めしめ官等に随がひ臣民に賜與する こと各其/差(しな)あり帝は此時尚ほ彼の漁夫を遺忘せ ず此/回(たび)數十万の生靈を救濟したる大功業も其 本は彼に因れりと漁夫を召して美服を賜ひ家 に二女一子あるを問ひ知り一女を自からに一 女を太子に娶り其子をば出納官となし漁夫は 當時の豪冨中の冨者と称され二女は長く帝后 となり共に冨貴安樂を得たりと世の口碑に傳 はり【別本より判読】たりと助邉良是土新皇后は最(いと)面白く語り 卒(おは)り又帝に向ひ若し漁夫の物語りを以て之を 担夫(にもち)【左ルビ】の物語に比すれば未だ甚だ竒とするに足 らす候との玉ひければ帝愈興あることに覺へ玉 ひいざ疾く其担夫の物語りを語り繼ぎ玉へと 耳を傾け促(うな)し玉ふ新皇后果して何等の竒談か ある看官之を次編に會せよ 《割書:開巻|驚竒》暴夜物語巻之二《割書:終》 【奥書】 暴夜物語 次編近刻 BnF MSS【蔵書印、フランス国立図書館BnFが所蔵する写本を示す】 明治八年五月七日官許 發兌 東京亰槗【京橋の異体字】銀㘴三丁目 書肆 山城屋政吉 【裏表紙の見返し】 【裏表紙】 【背】 【上小口】 【前小口】 【下小口】 暴夜物語二【小口書、右からの読み】