琉球秊代記 附雑話 全 【右頁】 【枠外上】(横書き) 天保三壬辰新鐫 【表題】 太田先生著      《割書:|附録》 琉球秊代記《割書:琉球|雜話》 此書(このしよ)は琉球国(りうきうこく)開闢(かいびやく)よりして歷代(れきだい)の即位(そくゐ) あるひは王(わう)の壽(ことふき)とうをしるし且(かつ)は来聘(らいへい)の 年歷(ねんれき)ならびに國中(こくちう)の雜説(ざつせつ)竒談(きだん)こと〴〵く 圖画(づくわ)をくはへてつまびらかに擧(あぐ)る 【左頁】 琉球年譜序 方今重煕累洽之運寰宇寧謐。吾濟鮮 生。得優游于操觚之中。而耳擩目熟乎図 書之圃。翰巻之朴。聞而識四方遐陬之風 俗。豈得非昇乎膏降之所覃也哉。此琉 球臣附于我。三百有餘年如一日。請封朝貢。無 有■【懈の異体字】怠。其誠欵謹恪。旌不嘉尚。雖然其 國僻遠在于極南海之中。一筆所抗。所謂 風馬牛不相及■。以故其制度文物。人不得詳 之。余嘗得一二之書。讀之足以知其國之梗 概焉。若波明請之士。張變東西洋考。鄭 若曾琉球圖説。張學禮使琉球紀畧。徐葆 光中山傳信録。周煌琉球國史略。若我先 修之士。新井君美南島志。物茂卿琉球 聘使記。青木敦書琉球紀畧。赤崎楨幹 中山入貢記。編著不一。歴々可證。頃者亦得斯 書読之。既佚非考之名氏。雖固不詳為人之 所著。自其封冊甲子朝貢年月。至民間歌謡 風俗理事。雅俗古拳無不収載。其詳畧 出入。雖不及諸家之書。亦足以知其國之 梗概焉。書估北降生持刻斯書。乞言於余。 余謂之曰。昔者琉球不貢。蠢有違言。薩即 受 命。三軍此征。勢如破竹。殺伐于張。自爾至 今。氷附庸于公家。当迷之時。足躡其土目覩 其地。不啻生悪王之被荼毒。我三軍之士。寄 命於孤島絶域之際波濤萬里之上。督慶真 宇内處分勞乎外。豈如方々之耳聞哉。然前生之 有斯擧也。欲使吾濟鮮生。優游于操觚之中。 聞而識四方遐陬之風俗。亦非所以鼓舞 非興於昇平膏澤之所覃矣哉。遂書以為 序。 天保三年 壬辰之暮秋琴臺陳人 東條耕書于掃葉山房南尉         【角印二つ】   【琴臺陳人東條=東條琴臺】     目録 一 年代記(ねんたいき)并 来聘年曆(らいへいねんれき) 二 国王(こくわう)の印(いん)并 花押(かきはん)の図 三 王廟(わうのびやう)がくの図 四 首里(すり)三大寺(さんたいじ)の説 五 いしぶみの説 六 護国(ごこく)寺 不動明王(ふとうめうおう)の説 七 波上寺八幡宮(はしやうじはちまんぐう)の説 八 善興寺(ぜんこうじ)天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)の説 九 天孫神(てんそんしん)の画像(ぐわぞう) 【各行頭の漢数字は全て○囲い】 十  寶剣重金丸(ほうけんてうきんまる)の来由(らいゆ)并図 十一 女子の説并図 十二 娼妓(たはらめ)謡歌(こうた)おとりの説并図 十三 梅津(うめづ)少将(せう〳〵)三線傳来(さみせんでんらい)の説 十四 託女荒神(たくじよくはうじん)ばらひ并図 十五 酒の説 十六 諳厄利亞人(あんぎりあじん)紀行(きこう) 十七 錢(せに)の説 十八 君子樹(くんしじゆ)の説 十九 古郡(ふるこほり)八郎 漂流(ひやうりう)の話(はなし)并図 【各行頭の漢数字は全て○囲い】 琉球年代記 (天孫氏(てんそんじ)王) 抑(そも〳〵)此国 開闢(かいびやく)の始(はじめ)・一男一女おのづから降(かみさがり)て・ 男神(おかみ)をシネリキユ・女神(めかみ)をアマミキユといひ・三男二女 をうむ・長男を天孫氏(てんそんし)と云・王の始也・次男は按司(あんず)《割書:諸候|なり》 の始となり・三男は百姓の始となる・長女はクン〳〵・次女を シユク〳〵と云・クン〳〵は天神(あまつかみ)・シユク〳〵は海神(わたつみのかみ)となる・此ふた はしらの神・ともに国の守護神(しゆごじん)なりと云・陏書(ずいしよ)に いはゆる・大業(たいきやう)元年・《割書:推古帝|十三年》阿蛮(あばん)と云者・上言(しやうげん)すらく 海上(かいしやう)烟霧(ゑんむ)のかたちみゆ・これすなはち流求(りうきう)也と・しば〳〵 【一頁右】 まねけども服(ふく)せず・同六年・陏(ずい)の兵船(ひやうせん)攻(せめ)きたりて・王 を殺(ころ)す・その後(のち)《割書:文治二年|宋淳煕十三年》逆臣(ぎやくしん)利勇(りゆう)毒(どく)を以て王を弑(しい) し・自(みづから)立(たち)て王と称(しやう)す・此時 浦添(うらそえの)按司 舜天(しゆんてん)・利勇を討(うつ)・ 利勇これに死(し)す・もろ〳〵の按司・舜天の德(とく)をあほひて・ 推(お)して王位(わうい)につかしむ・《割書:以上廿五代一万七千八百二年》 (舜天(しゆんてん)王) 傳信録(てんしんろく)に・舜天王は日本 人皇(じんこう)の後裔(こうゑい)・大里(おほさとの)按司 朝公(てうこう)の子・浦添(うらそへの)按司たり・逆臣利勇を討・衆人(しうじん)推(お)して 王位につかしむ・《割書:文治三年|淳煕十四年》時に年廿一《割書:嘉禎三年|嘉煕元年》薨(こうず)・在位(ざいゐ) 五十一年・壽(ことぶき)七十二・〇保元平治物語に云・為朝(ためとも)十八歳 の時・父 六条判官為義(ろくじやうはんがんためよし)とおなしく・新院(しんいん)の御味方(おんみかた)となり・ 【一頁左】 軍(いくさ)やぶれて・伊豆国(いつのくに)に流(なか)さる廿九歳にして・鬼(おに)が島(しま)へわたり 帰国(きこく)の後・国人(くにたみ)のうつたへによりて・官兵(くはんへい)をさしむけ られ・三十三歳にして自殺(じさつ)す・云々○琉球本略に云・ 二条院永万年中・為朝海にうかみ・ながれにしたがひて・ 国を求め・琉球国にいたる・国人その武勇(ふゆう)におそれふくす つゐに大里按司の妹(いもうと)に相具(あいぐ)し・舜天王をうむ・為朝 この国にとゝまる事・日久しく・故土(こと)をおもふ事・禁(きん)しがたく して・つゐに日本に帰(かへ)れり・云々○中山世譜・《割書:紫金|大夫》 《割書:蔡温撰す尚敬王の代康熙|五十六年清に使するもの也》南宋乾道(なんそうのけんどう)元年乙酉・鎭西(ちんせい)為朝 公・随(したがひ)_レ流(なかれに)至(いたる)_レ國(くにゝ)・生(うみて)_二 一子_一而 返(かへる)・其子名 ̄は尊敦(そんとん)・後為(のちなる)_二浦添 ̄の 【二頁右】 按司_一 ̄と・云々又云舜天王・姓源(せいはけん)・■_二【號(こうす)の異体字】尊敦_一 ̄と父 ̄は鎮西八郎為 朝公・母 ̄は大里按司 ̄の妹・云々 (舜馬順熙(しゆんばしゆんき)王)舜天王の子・《割書:文治元年|淳煕十二年》生・《割書:歷仁元年|嘉煕二年》位を つく・年五十四・《割書:宝治二年|淳祐八年》薨・在位十一年・寿六十四・ (義本(ぎほん)王)舜馬順熙の子・《割書:建永元年|開禧二年》生・《割書:建長元年|淳祐九年》位をつく・年 四十四・国中(こくちう)飢饉(ききん)うちつゞき疫疾(ゑきしつ)おほし・こゝにおいて 王 群臣(ぐんしん)をめして曰(のたまはく)・飢疫(きゑき)ふたつなからおこなはれて・人民(しんみん) 死(し)するもの半(なかば)にすぐ・これ我(われ)不徳王位(ふとくわうい)をふむにたへず・汝等(なんじら) 賢人(けんじん)をあけて・二災(ふたつのわさはい)をまぬかれしめよと・群臣すなはち 天孫氏(てんそんし)の後裔(こうゑい)・惠祖(けいそ)嫡孫(ちやくそん)・英祖(えいそ)といふ人をすゝむ・王 大(おほい)に 【二頁左】 よろこび・試(こころみ)に国政(こくせい)をとらしむること七年・賢(けん)をすゝめ・不肖(ふしやう) をしりぞけ・国中(こくちう)こと〳〵くやすんして・二災ともにやみぬ・王 位(くらい)をゆづりて・北山(ほくざん)にしりそきかくる・在位十一年・寿五十 四・《割書:以上三代七十三年》 (英祖(えいそ)王)天孫氏の裔・惠祖の嫡孫・《割書:寛喜元年|紹窆二年》生長して伊祖(いその) 按司となる・《割書:建長五年|寧祐元年》より摂政し・《割書:文應元年|景窆元年》義本王■ ゆつりをうく・年三十二・《割書:正安元年|大德三年》薨・在位四十年・寿七十一・ (大成(だいせい)王)英祖王の子・《割書:宝治元年|淳祐七年》生・《割書:正安二年|大德四年》位につく・年五十四・ 《割書:延慶元年|至大元年》薨・在位九年・寿六十二 (英慈(えいじ)王)大成王の次子・《割書:文永五年|咸淳四年》生・《割書:延慶二年|至大二年》位につく・年四十 【三頁右】 二・《割書:正和二年|皇慶二年》薨・在位五年・寿四十六・ (玉城(きよくしやう)王)英慈王の四子・《割書:永仁四年|元貞二年》生・《割書:正和三年|延祐元年》位につく・年 十九・此王内には酒色(しゆしよく)にふけり・外には田猟(みかり)を事として・ 政(まつりこと)すたれ・世(よ)おとらふ・こゝにおいて・諸 ̄の按司・みなそむきて・ わつかに中山王と号して・首里(すり)・真和志(まわし)・浦添(うらそへ)・北谷(きたたん)・中城(なかぐすく)・ 越来(こへく)・讀谷山(よむたんさん)・具志川(ぐしかは)・勝連(かつれん)・西原(にしはら)・与那城(よなぐすく)・泊(とまり)・南風原(はへはら)・東風(こち) 平(ひら)・等(とう)の数國(すこく)のみを領(りよう)して・餘(よ)は大里 ̄の豊見城(とよみくすく)に自立(みつからたち) て・山南王(さんなんわう)と号(ごう)し・今歸仁(いまきにの)按司は山北王(さんほくわう)ととなん・国 𪔂足(ていそく) のいきほひをなして・合戦(かつせん)一日もやむ時なし・《割書:建武三年|至元二年》薨・ 在位廿三年・寿四十一・ 【三頁左】 (西威(せいゐ)王) 玉城王の子《割書:嘉曆三年|至和元年》生《割書:建武四年|至元三年》位につく年十歳 国政(こくせい) こと〳〵く母妃(ぼひ)に帰(き)せりいはゆる牝鶏晨(ひんけいのあした)するのならひなれば 事としてみだれざるはなし《割書:観応元年|至正十年》薨・在位十四年寿廿三 此時浦添按司に察度(さいと)といふ賢者(けんしや)あり人々みなこれに 帰服(きふく)せしかば王の世子(せいし)を廃(はい)してこの察度にしひて王位を つがしむ《割書:以上五代九十九年 》 (察度(さつと)王)浦添間切・謝那村(やなむら)・奥間大親(おくまおほおや)の子にして・はしめ 浦添按司たりし時・西威王薨じて・世子わづかに五蔵・ 母妃いよ〳〵政をみだりければ・國人 世子(せいし)を廃(はい)して・王位 につかしむ・《割書:観応元年|至正十年》なり・《割書:応永二年|明洪武廿八》薨・在位四十六年・壽 詳(つまひらか)ならず 武寧(ぶねい)王 察度王 ̄の子・《割書:延文元年|至正十六年》生・《割書:応永三年|洪武二十九年》位につく・年四十一・ 此王父とはこころざし大小たがへり・酒色田猟(しゅしょくでんりやう)を事として 昼夜放逸(ちうやほういつ)にふけりければ・按司みなそむく・《割書:応永十二年|永楽三年》薨【みまかる】 在位十年・寿五十・此と紀山南王の属下(ぞくか)に・佐敷(さしきの)按司・思紹(しせう) の子・尚巴志(しやうはし)といふ人・父の職(しよく)をつぎてありしが・山南王/無道(ぶどう) なりしかば・兵(へい)を発(はつ)してこれを攻(せめ)滅(ほろぼ)し・ならびに山北王を ほろぼし・つゞひて中山をせめほろぼし・父をすすめて・ 王位につかしめ・国中を一統(いつとう)していにしへにかへす・《割書:以上二代》 《割書:五十六年》 思紹(ししやう)王 はじめは山南王の佐敷按司たり・子尚巴志・山 南王の暴虐(ぼうぎやく)をにくみて・これをほろぼし・次第に山北中山 をたいらげ・父(ちち)をして王位につかしむ・《割書:応永十三年|永楽四年》なり・《割書:応永二十八年|永楽十九年》 薨・在位十六年・寿詳ならず・ 尚巴志(しやうはし)王 思紹王の子・《割書:応安五年|洪武五年》生・《割書:応永九年|洪武三十五年》年三十一にして 佐敷按司をつぐ・後父をすゝめて王位につかしめ・《割書:応永二十九年|永楽二十年》 位につく・年五十一・《割書:永享十一年|正統四年》薨・在位十八年・寿六十八・ 尚忠(しやうちう)王 尚巴志王 ̄の次子・《割書:明徳二年|洪武二十四年》生・《割書:永享十二年|正統五年》位につく・年五十・ 《割書:文安元年|正統九年》薨・在位五年・寿五十四 尚思達(しやうしだつ)王 尚忠王の子・《割書:応永十五年|永楽六年》生・《割書:文安二年|正統十年》位につく・年三 十八・《割書:宝徳元年|正統十四年》薨・在位五年・寿四十二・世子なかりしかば・叔父(しゆくふ) なりける・尚金福をして・位をつがしむ・ 尚金福(しやうきんふく)王 尚巴志王の第六子・《割書:応永五年|洪武三十一年》生・《割書:宝徳二年|景泰元年》位を つく・年五十三・《割書:享徳二年|景泰四年》薨・在位四年・寿五十六・此王・宝徳三 年・将軍(しやうぐん)義政公(よしまさこう)へ銭千貫(せにせんくはん)と方物(ほうぶつ)を献ず・ 尚泰久(しやうたいきう)王 尚金福王の子・《割書:応永二十二年|永楽十三年》生・《割書:享徳三年|景泰五年》位につく・年 四十・《割書:寛正元年|天順四年》薨・在位七年・寿四十六・ 尚徳(しやうとく)王 尚泰久王の第三子・《割書:嘉吉元年|正統六年》生・《割書:寛正二年|天順五年》位につく・年 二十一・此王 君(きみ)たるの徳(とく)なく・漁(ぎよ)猟(りやう)夜(よ)をもつて日につぐ・暴虐(ぼうぎやく) いふばかりなかりしかば・鬼界島(きかいがしま)そむきて・年々の貢(みつき)を おさめさりしかば・王みづから将(しやう)として征伐(せいばつ)し・おほひにほこる・《割書:文明元年|成化五年》薨・在位九年・寿廿九・世子(せいし)いとけなかりしを国人/弑(しい)して・ 浦添/間切(まきり)の内間(うちま)里主(さとのぬし)・尚円(しやうえん)をあげて・位をつがしむ・《割書:以上七代》 《割書:六十四年》 尚円(しやうえん)王 字(あさな)は思徳(しとく)・金伊平(きんいへい)の人にして・その先祖(せんそ)いづれの 人なりとをしらず・一説(いつせつ)に・舜天王の孫義本王・位を英祖王 にゆづりて・北山にかくる・その後裔(こうゑい)也と・父は尚稷(しやうしよく)といひて・ 伊平里 ̄の主たり・此王うまれながらにして異瑞(いずい)おほく・ことさらに 賢(けん)なり・国おほいに旱(ひでり)せしに・此人の田のみはあめなきに 水かれず・人々みなおとろきて奇瑞(きずい)とす・しかれどもなを〳〵・ つゝしみてほこらず・妻子(つまこ)をひき具して・かくるゝ事十四年・ しきりにめして黄帽官(こうほうくわん)となし・また耳目官(じもくくはん)に転ぜり・尚《割書:一行目|二行目》 徳王/不義(ふぎ)なりしかば・しば〳〵これをいさむれともさらにきかさり しかば・浦添の内間にさけかくる・王薨しければあげて位を つかしめんとすれども・王には世子いませりとて・かたく辞(ぢ)して いでず・よつて国人世子を弑(しい)して・尚円をむかへ・推して 王位につかしむ・《割書:文明二年|成化六年》なり・《割書:文明八年|成化十二年》薨・在位七年・寿六十二・ 世子尚真(しやうしん)・年十二なりしかば・王の弟尚宣威(しやうせんゐ)位を摂す・ 尚宣威(しやうせんゐ)王 尚円王の弟なり・世子いまだ弱冠(じやくかん)なりしかば・位を 摂せり・立(たち)て翌年(よくねん)尚真王に位をゆづりて・越来(こへぐ)間切に しりぞきてかくる・此年薨・《割書:文明九年|成化十三年》寿四十七・国人/義忠(きちう)王 とおくり名す・その子孫いまに越来(こゑぐ)の領主(りやうしゆ)たり・ 尚眞王 尚円の子・《割書:寛正六年|成化元年》生・《割書:文明九年|成化十三年》位につく・年十三・ 《割書:大永六年|嘉靖五年》薨・在位五十年・寿六十二・ 尚清王 尚真王の子・《割書:明応六年|弘治十年》生・《割書:大永七年|嘉靖六年》位につく・年三十一・《割書:弘治|嘉靖》 《割書:元年|丗四年》薨・在位二十九年・寿五十九・ 尚元王 尚清王の次子・《割書:享禄元年|嘉靖七年》生・《割書:弘治二年|嘉【?】靖卅五年》位につく・年廿九・《割書:元亀|隆慶》 《割書:三年|六年》薨・在位十七年・寿四十五・ 尚水王 尚元王の次子・《割書:天文廿一年|嘉靖卅一年》生・《割書:天正元年|万暦元年》位につく・年廿一・《割書:天正十六年|万暦十六年》 薨・在位十六年・寿三十五・世子なし・ 【七頁右】 (尚 寧(ねい)王)尚真王の孫にして・尚 懿(い)と云人の子なり・尚永王世 子なりしかば・《割書:天正十七年|万曆十七年》位につく・年廿六《割書:元和六年|泰昌元年》薨・在位三十二年・ 寿五十七・世子なし・ ○此時の三司官(さんしくわん)・邪那(やな)と云者・明朝(みんてう)にこびて・日本へ朝貢すること   をやむ・こゝにおゐて薩州候(さつしうこう)・使をつかはしてことをたゞすに・邪   那こと〴〵く無礼(ぶれい)をおこなひければ・候おほいにいきどほり・慶長   十三年・駿府の  御城におもむき・ 神祖(しんそ)にまみえ奉り・琉球 誅伐(ちうばつ)のむねをこひ奉るに・請(こふ)ところ   をゆるし給ひければ・同十四年二月・薩州 兵舩數百艘(へうせんすひやくそう)を・   つかはして・攻(せめ)うたしむ・同年四月・たゝちに首里にいりて 【七頁左】   王尚寧をとりこにして凱陣(かいじん)す・翌十五年八月六日・候尚寧   をひきぐして駿府へ登(と)  城(ぢやう)す・尚寧薩州に質(ひとしち)たる事   三年・あやまちを悔(くひ)・つみを謝(しや)し・以来属臣(いらいぞくしん)たらんことを   ちかひければ・同十六年・赦(ゆる)して本国に帰(かへ)す・是よりして   薩州へ属(ぞく)し・永世附庸(ゑいせいふやう)の国とはなれり・しかしてより・ 將軍家(しやうぐんけ)・慶賀(けいが)のおり〳〵は・使臣(ししん)として王子(わんす)を来朝(らいてう)せしめて・   貢(みつぎ)を献す・又その国の代(よ)かはりす・ 將軍家の鈎命(きんめい)を薩州候よりつたへて・位をつがしむ・他日(たじつ)   恩謝(おんしや)の使臣を奉ることはなりぬ・ (尚 豊(ほう)王)尚永王の弟(をとゝ)にして・尚久王の第(だい)四子たり・《割書:天正十八年|万曆十八年》生・ 【八頁右】 《割書:元和七年|天啓元年》位につく・年三十二・《割書:寛永十七年|崇禎十三年》薨・在位廿年・寿五十一・ (尚 賢(けん)王)尚豊王の第三子・《割書:寛永二年|天啓五年》生・《割書:寛永十八年|崇禎十四年》位につく・年十七・ 《割書:正保四年|清順治四年》薨・在位七年・寿二十三・ (尚 質(しつ)王)尚賢王の弟・《割書:寛永六年|崇禎二年》生・《割書:慶安二年|順治五年》位につく・年廿一・《割書:寛文八年|康煕七年》 薨・在位廿一年・寿四十一 (尚 貞(てい)王)尚質王の子《割書:正保三年|順治二年》生・《割書:寛文九年|康煕八年》位につく・年廿五《割書:宝永六年|康熙四十八年》 薨・在位四十一年・寿六十五 (尚 益(ゑき)王)尚貞王の世子尚 純(じゆん)の子・《割書:延宝六年|康煕十七年》生・尚純世子たりし かども・先だちて卒(そつ)せり・よりて《割書:宝永七年|康煕四十九年》嫡孫(ちやくそん)たるをもちて・ 位をつぐ・年三十三・《割書:正德二年|康煕五十一年》薨・在位三年・寿三十五・ 【八頁左】 (尚 敬(けい)王)尚益王の子・《割書:元禄十三年|康熙卅九年》生・《割書:正徳三年|康煕五十二年》位につく・年十 四・《割書:宝曆|乾隆》 《割書:元年|十六年》薨・在位三十九年・寿五十二・ (尚穆(ほく)王)尚敬王の子・《割書:元文四年|乾隆四年》生・《割書:宝曆二年|乾隆十七年》位につく・年十四 【九頁右】    〇來聘年曆 〇應水十未年 〇寶德三未年  〇天正十一未年 〇同十八寅年 〇慶長十五戌年 〇寛永十一戌年 〇正保元申年 〇同二酉年   〇慶安二丑年 〇同三寅年  〇■【承の異体字】應元辰年 〇同二巳年 〇同三午年  〇寬文十戌年  〇同十二子年 〇天和元酉年 〇同二戌年   〇寛永七寅年 〇正德四午年 〇享保三戌年  〇寬延元辰年 〇寶曆二申年 〇明和元申年  〇寬政二戌年 〇同八辰年  〇文化三寅年  〇天保三辰年 【九頁左】 琉球雜話 此國もと和名・宇留麻府迺久爾(うるまのくに)と云・また屋其惹島(をきのしま) ともいふ・いま沖繩島(をきなわしま)といふ・正和のころ・三つにわかれて・ 中山王・山南王・山北王と唱(となへ)しが應永年中・思紹王 國を一統してより・今に中山王と稱(しやう)す・王城の地名 を首里(すり)といふ・属する島〳〵をくはえて・凡高十二万三千 石余ありと云・もとより言葉の國にして文字なし・ 舜天王のよりして・真字(まな)・仮字(かな)・ともにおこなはれ・察度王 はじめて・明(みん)へ通(つう)じて・經學(からまなび)やうやくにひらけぬ・文(ぶん)の讀(よみ) 法(かた)・日本にひとし・傳信錄に載(の)するところ・和漢三才(わかんさんさい) 【十頁右】 図繪(づゑ)等(とう)・みな日本の古言(こげん)おほく・まゝ方言(ほうげん)あるは・日本の 国〳〵にても・みなしかはあるならひなり・ 【枠外上に二と有】 〇國王印并に花押 【上角印下の説明】 銅印(とういん)にして・鏕(ろく)金虎鈕(きんのこちう)なり・ 綬(じゆ)は紫(むらさき)をもちゆ・印文(いんぶん)は 中山王之印・篆文(てんぶん)は・清(せい)の 乾隆(けんりう)年間・長洲の人・ 沈德潛(しんとくせん)・書するところ なりと云・ 【十頁左】 【上の角印】 首里之印【横書き】 【下の花押(右から)】 貞 益 敬 【横書き】 【十一頁右】 【枠外上に三と有】 寺院(じいん)は臨濟真言(りんさいしんごん)の二宗(にしう)のみにして・三十七寺なりしが・久米村 普門寺(ふもんじ)・西福寺(さいふくじ)・廢(はい)して・今は三十五寺となれり・王廟(わうひやう)は真和志(まわし) 安里(やすさと)村にあり・前堂(ぜんどう)に匾(がく)あり 【匾の下の文字】 肅容【横書き】 【十一頁左】 【枠外上に四と有】 首里(すり)三大寺と称するは・圓覺(ゑんがく)寺天王寺 天界(てんかい)寺なり・ 円覚寺中に・辨才天(べんさいてん)の社(やしろ)あり・もつとも荘厳(そうごん)をきはむ・ 天女堂と号(こう)し・天女槗・観蓮槗(くわんれんばし)・なんとありて勝景(しやうけい)いふ ばかりなし・こゝに円覚 八景(はつけい)ありて・幽景(ゆうけい)の地なりと・すべて 此国八景と称する地おほし・中山八景の図は・周煌(しうくわう)が國志(こくし) 略(りやく)にみゆれば是を・畧(りやく)す・こゝに明洪武(みんのこうぶ)十一年 官板(くわんはん)の般若心經(はんにやしんきやう)・ 金剛(こんごう)經・楞伽(りゆうがん)經・の注解(ちうかい)ありて・各(おの〳〵)御製(ぎよせい)の序(じよ)をくわふ・臨済十 八世・季潭禅師(きたんぜんし)の注するところなり・一經づゝを三大寺に配(わかち) て什物(ぢうもつ)とす・はなはだ美槧(びざん)也と云・これは洪武廿五年かの地へ・ 學(からまなび)に行し人々のもちかへりしもの也となん・ 【枠外上に五と有】 炮䑓(だいば)のあるみなとに碑(ひ)あり・了欖新森城(りやうらんしん〳〵しやう)と・中字に彫(ほり)て・ 下に文(ぶん)を刻(こく)するは・尚清王のたつるところ也と・又一 石(せき)は■【梵字】 かくのごとき梵字をゑりて・下に文をきざめりいつれも解(げ) すへからさるよしを・周煌がしるせるは・和文なるべし・ 【枠外上に六と有】 辻(つぢ)山の護国(ごこく)寺は王の祈願所(きぐわんしよ)なり・此寺の不動明王(ふとうめうわう)・ことに霊(れい) 厳(げん)にして・国中みな尊信(そんしん)す・王みつから参詣(さんけい)し・僧徒集会(そうとしうくはい) して・讀經(どくきやう)ひとしほ殊勝(しゆせう)なりと・國人もつねにこれを拝(はい)す・ 佛前(ぶつぜん)に銅(あかがね)をもてせいしたる鉢(はち)に・水をたゝへて・その数(かづ)十を備(そなふ)・ 佛燈(ぶつとう)ひかりをゑいじて・水上にきらめく・これを・ヲカゲヒカナシ と云・拝するもの水中にゆびをうるほして・あるひはなめ・或は 【十二頁左】 ひたいにそゝぎて・合掌(がつしやう)していはく・キライカナイ・オホツカクヲク・ ナムフドウメウワウ・セウマイアンマア・ヲケカヲイナコ・ツヽゲノキンマモン 〳〵と数(す)へんとなへて・拝伏(はいふく)す・これを佛事(ぶつじ)と称す・ 【枠外上に七と有】 波上(はしやう)寺 境内石筍崖(けいだいせきしゆんがい)といふは・中山八景に一にして・海望無双(かいぼうぶそう) の地也・岸(きし)のうへに・八幡宮(はちまんぐう)ありて・毎年(まいねん)八月十八夜・国中の 男女・うちつどひて・海潮(かいてう)を眺望(てうぼう)し・遊宴(いうゑん)あかつきを侵(おか)す・ 此地に阿弥陀堂(あみだどう)ありて・左右に観音薬師(くわんおんやくし)の両堂(りやうどう)をたつ・ 尚豊王のたつる所也・阿弥陀堂中は像(ぞう)なく・たゞあかがねの 札(ふだ)に・奉(たてまつる)_レ寄御幣(よせごへい)の四字を刻(こく)して・その下に國の咒辞(しゆじ)をゑり・ うらに天和八年壬戌とのみをしるす・ 【十三頁右】 【枠外上に八と有】 善興(ぜんこう)寺に天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)の社あり・すべて日本の諸神(しよじん)は 舜天王 尊信(そんしん)をしことにて・今にいたるまで・王みづから参詣して・ これを礼拝(らいはい)す・さるをまゝ土俗(とぞく)は菅公(くわんこう)なることをしらずして・ かのかン〳〵を天神といふに・混(こん)じて・あやまりこゝろ ゑるものもありと・今に神扉(しんひ)ひらくことをゆるさず・拝(はい)する ものは・神前に白米ひとつかみをそなへて・拝伏(はいふく)す・これを ヲサゴをあげると云・又 天孫神(てんそんじん)と云あり・三首六臂(さんしゅろくへき)にして・ 女神也・これぞ天神といふ神にして・シネリキユアマミキユ の長女・かン〳〵なり・土俗あやまりて・これを辨才天と云は・ 女神なればかくはなれるなり・像図(ぞうづ)のことし 【十三頁左】 【枠外上に九と有】 天孫神の像 【十四頁】 【枠外-十】 此国に重金丸といふ名劔(めいじん)あり・これはもと・山北王 帕尼芝(はくにし)日本 よりゑし太刀(たち)にて・ことさらに秘珍(ひちん)してつたへしか・應永(おほゑい)年中 尚巴志とたゝかひ・数度(すど)の功(こう)はなすといへとも・士卒(しそつ)こと〴〵く降人(こうにん)に いでしかは・山北王はたゞ一騎(いつき)大軍をきりぬけ・志慶真河(しけまかい)の ほとりまでにげのびしに・漁人(ぎよじん)きたりて・日本へおち給へかし あないしまいらせん・とすゝめけれども・はかりことにやあらん と・うたがひて・みつからこの太刀おつとり・おのれが首(くび)をかき切 て・太刀とともに川ヘなげこみてぞ死したりける・その後・百年 をへて・文明の頃・尚真王の代にあたりて・親泊村(おやとまり)の川中より・ よな〳〵白氣をはなち・金龍(きんりやう)のごときもの・のほることしは〳〵なり 【十五頁】 しかは人々これをあやしみおそれて・そのほとりへちかつくことも なかりしが・こゝに惠平屋島(ゑへやしま)の人に・強健(ごうけん)のものありて・此所に かよひ・一夜(ひとよ)金氣ののぼるをまちゑて・はたとうちおとしければ・ たしかにてこたへして・水底(すいてい)に雷声(らいせい)のこときおとあり・此ものすこ しもひるまず・ゑたりとくゞり入て・もとむるに・一ふりの太刀 をそゑたりける・いそぎ此よしを申て・王に献(けん)ず・群臣(ぐんしん)これを けみするに・重金の銘ありければ・これそいはゆる・山北王の 珍重(ちんてう)たりし・重金丸の宝劔(ほうけん)なることうたかふへくもあらすとて・ 国王第|の宝劔とはなりぬ・いまにその所を・護劔渓(ごけんけい)と なづく・一説に爲朝の太刀なりと云・ 【十五頁右】    重金丸中心之図        重金            惠平屋師志魯謹摸 【枠外上に十一と有】 牝鷄之晨者十室而九(ひんけいのあしたするものじうしつにしこゝのつて)と・夏子陽(かしやう)が録(ろく)する如く・また弁才天の島 なりとて・男子より女を敬(うやまふ)ふと・西定法師傳(じやうさいほうしでん)にもいふに似(に)て 女子いまだ嫁(か)せざるうちは・つねに父母にははなれおり・もつはら 男とまじはりあそび・あひともに手をとりあふて・市中(いちなか)を 往來(わうらい)すれども・いさゝかもはぢはゞからず・されどすでに・嫁して よりならは・操(みさほ)もつはら貞(たゞ)し・もし罪(つみ)をおかすものは・あひ 【十五頁左】 ともにみづから死す ゆへに国中 もとより 獄屋等 のもの なしと いえり 【枠外上に十二と有】 國中 唱妓(たはれめ)はなはだ多し・すへて風俗(ふうぞく)は琉球談にくはし簪(かんざし)は 玳瑁(たいまい)鼈甲(べつこう)にして・銀(ぎん)を挿(さす)ことを禁(きん)ず・途(みち)にして貴人(きにん)に あへば・草履(そうり)をぬぎて・足(あし)ばやに通(とほ)るを法(ほう)とす・又 浪華(なには)に いふ・ピンシヤウの如く・小舟(こふね)にうかみいでゝ・外島(くはいとう)より来る舟人(ふなびと)に すゝむるもあり・ちかき頃は酒席(しゆせき)にましはる時は・謡歌(こうた)をうたひ・ 三絃(さみせん)にあはせて・月扇(げつせん)をもちおどる・坐客(さかく)おほひに興(きやう)じて 酒席のたすけとなる・其かたにいはく・  ちごのもんにたつたればばびうのやうなつのむしがどたま  のぢよけんをちよひとはねたホンダエ〳〵〳〵《割書:ばひうは牛(うし)の子|なりつのむしは》  《割書:はちなりとたまはあたま也ちよけんはあたまのたかき所也ちごのもんとは|わが思ふわかき男の門にしのひよりしかははちにあたまをさゝれしといふ意なるべし》 【十六頁左】 おどりの圖 【十七頁右】 【枠外上に十三と有】 後栢原院(ごかしははらいん)の御宇(ぎよう)のころ・梅津少將(うめづせう〳〵)と云人・生質音學(むまれつきおんがく)にくはし かりしが・應仁の乱(らん)をさけて・長門國なる・大内義隆(おほうちよしたか)により給ひ しに・少將の門に入てまなぶもの・若干(そこばく)におよびぬ・此ころ義隆 の家老(かろう)に陶尾張守晴賢(すへをはりのかみはるかた)・《割書:天文廿年八月晴賢そむく・九月朔日義隆|自殺(じさつ)す・晴賢すなはち大友 宗麟(そうりん)が弟義長》 《割書:を豊後国よりむかへて・長門国をつがしめ・その身は入道して全姜(せんきやう)と号(ごう)す・|弘治元年十一月・毛利元就にうたれて・全姜義長あひともに自殺す・》 といふものありて・ひそかに少將を害(がい)せんことをはかりしかは・ 門人このよしをきゝいだして・いそぎ少將につけまいらせしに・ おどろき給ひて・とく義隆にはかり給ひしかは・義隆 文(ふみ)を書(しる)して・ 毛利元就(もうりもとなり)へさけしめまいらす・そのふね暴風(ぼうふう)にあふて・いづちとも なくたゞよひ・からうじて・琉球に漂着(ひやうちやく)し給ひしを・兼城(かねぐすくの)按司 【十七頁左】 いつくしみまいらせしに・按司のむすめよく月琴(げつきん)を弾ぜり・ 少將はもとより・音律(おんりつ)にたくみなりしかば・たちどころに 目琴の妙手(めうしゆ)とはなれりけり・つゐに此女に通(つう)じて・夫婦(ふうふ)と なれり・ともに月琴の名国中にかくれなかりしかば・尚元王 このよしをきく。夫婦を宮中(きうちう)にまねきて・月琴をこゝろま  しむ・少將 王位(わうゐ)をしやうして・うたをつくりうたひ給ふ・いま 琉球 組(くみ)とよにとなふるものこれなり・徂徠(そらい)の琉球 聘使記(へいしき)に・ 三線歌琉曲也(さんせんうたはりうきよくなり)といふにおなし・王この曲(きよく)にかんじて・しな〳〵 ひきでものありて・日本へ歸しおくらしむ・正親町院(おほきまちいんの)御宇・ 永禄五年の春・夫婦ともに豊前国(ぶぜんのくに)につき・それより同国 【十八頁右】 石田(いしだ)村といふ所にかくれすみ給ひて・一子をうむ・幼名(やうめう)を石(いし) 麻呂(まろ)となづく・此石麻呂 晩年(ばんねん)におよんで・瞽(めしい)となれり・月 琴の秘曲を・父母よりうけゑたりしかば・そのかたちをものずき して・丸胴(まるどう)を角(かく)胴に製(せい)し・八乳(やつち)の描皮(ねこのかは)をもちて・両面(りやうめん)にはり・ 月琴の意(こゝろ)を以て・海老尾(かいろうび)に月のかたちをのこす・此人のち 増官(ぞうくはん)して・石村検校(いしむらけんぎやう)とはなれりけり・  月琴は晋(しん)の阮咸(けんかん)あかかねをもて・丸銅につくりしをはじめ  とす・すべて三絃(さみせん)は元(げん)の代(よ)にはじまれりと・楊升菴詞話(やうしやうあんしわ)  にしるせるはあやまりなり・すでに唐(とう)の崔令欽(さいれいきん)が敎(こう)  坊記(ほうき)にもみゆ・琉球にては・椰子(やし)をもて胴をつくり・うす 【十八頁左】  き板(いた)にて・うらをはり・蛇皮(じゃひ)《割書:エラブウナギと云海蛇の皮|もつとも大なるをもちゆ》をもて  おもてを張(はり)・石村かくどうにせいしかへし・製作(せいさく)は・總尺(そうしやく)  三尺・《割書:天地人の|三極に表ス》棹(さを)二尺余・《割書:陰陽の|両氣》海老尾五寸・《割書:五|星》胴幅(どうはゝ)・六寸・《割書:六|合》  同長六寸余・《割書:地の六種|震動》厚(あつさ)三寸・《割書:高下平の|三形》轉手(てんしゆ)・絃手(けんしゆ)・また天(てん)  柱(しゆ)とも書す・《割書:天のかたち|を表す》糸巻・《割書:三|台》一の糸・《割書:虗|精》二の糸・《割書:陸|淳》・三の糸《割書:曲|順》  一越(いちこつ)・斷金(だんきん)・平調(ひやうてう)・勝絶(しやうぜつ)・の四を一の糸これを兼(かね)・下無(けむ)・雙調(そうてう)・  鳬鐘(ふせう)・黄鐘(わうせう)・の四を二の糸にそなへ・鸞鐘(らんせう)・盤渉(ばんしき)・神仙(しんせん)・  上無(しやうむ)・の四を三の糸にかねて・十二調(しうにてうし)こと〳〵く三絃(みすぢ)にそなふ・  今世にもちゆる三線は・總長三尺一寸五分・海老尾五寸二分・  棹二尺五分・胴幅六寸・同長六寸六分・天手三寸五分・なり・ 【十九頁右】 【枠外上に十四と有】 此国 竒(き)なることは・託女(たくぢよ)ととなへて巫女(ふじよ)おほく・民間にこと〴〵く これを信(しん)ず・毎年正三五九月を・吉月(きちげつ)として・家々いはひたの しむ・朔望(さくぼう)【陰暦で、月の朔日と十五日のこと】には・早朝(さうてふ)より・かの託女をまねきて・荒神(くはうじん)ば らひの如き祈祷(きとう)あり・託女のまへに・八重山酒(やえまさけ)《割書:みりんの|如き酒也》一 盃(はい) を盆(ぼん)にのせていだす・第一に・シネリキユ・アマミキユ・あまつかみ・ うなはらのかみ・八幡宮・天満大自在天神を拝(はい)し・爲朝公より代(よ)々 の賢王(けんわう)の御名(みな)をとなへ・琵琶(びわ)を弾(たん)じなから・法華經(ほけきやう)・礼文(らいもん)を だみたるこゑにて・いともなかきふしにとなふ・荒神といふは・天孫 神のことのよしにて・祈祷神慮(きとうしんりよ)にかなふをキメテスリと云・祈(いのり)終(おはれ)ば 八重山酒をのみて・その盆へ札一枚をのせてかへる・図左のごとし・ 【十九頁左】 荒神ばらいの図 此札國中家〳〵にはりおく        太田蜀山所蔵 【十九頁左】 【枠外上に十五と有】 酒は焼酒(せうちう)にして・あぢはひはなはだはげしく・水をわり用ゆ・ 太平山(だひんざん)よりいつるを・太平酒(だひんしゆ)といひ・八重山(やゑま)よりいつるを・蜜林(みりん) 酒(しゆ)と云・上噶喇(かみむら)よりいつるは・あぢはひひとしほあまくして あはし・日をける時は・変(へん)じて酸(す)となる・これを土中(どちう)に うづめおくこと一年にして・焼酒(せうちう)につくれば・あぢはひたぐひ なし・薩州(さつしう)にていふサトウアハモリこれ也・清人(せいひと)は女の口中(こうちう)にて かみてつくるときゝて・うすきたなく思ふまゝに・のむ人すく なし・国人はことさらに佳絶(かぜつ)也とて・きそひもてはやす ・ となん・ 【二十頁左】 【枠外上に十六と有】 諳厄利亞(おんぎりあ)【英国】の人・紀行(きこう)の書(しよ)を見るに・千八百十六年・《割書:文化十三年丙子|年にあたる》 九月・琉球國にいたりし条に・此島は日本・あるひは朝鮮(てうせん)の孫(そん) ならん・その容皃(ようほう)朝鮮人とあひおなじ・その性(せい)開豁(かいくわつ)にして 柔弱(じうじやく)なり・云々・また云・アルセスト《割書:舩の|名也》の舶吏(はくり)の長(てう)の婦おほく 陸にありしに・此島の官人(くはんにん)等のめぐみをうけしに・ある日 貴人(きふ) 来りて・おほひなる家をよくかざり・諸器(もろ〳〵うつわ)を設(まうけ)いれおくべしと いえり・ある日また貴人・舶中(はくちう)へ来りし時・かの婦人(ふじん)に對し・ はなはだ丁寧(ていねい)なるやうにて・扇(あふき)をあたへしが・その後たつとき 一女(いちぢよ)・好事(こうず)にて諳■【厄の誤】利亞の婦を見んとて・かの婦ひとりおり し處(ところ)へきたり・かの婦を四方より穴(あな)のあくほど見たりしが・ 【二十一頁右】 かの扇をもちゐたりしゆへか・いかにも妬情(ねたみこゝろ)をふくみし眼(め)の色(いろ) にて・やゝひさしく見てぞかへりけり。《割書:さきに扇を【?】あたへし貴人|は国王にてのちにきたりし》 《割書:貴女は王の|妃なるべし》われ開帆の期すてにさたまりて・九月廿六日・琉球人 祭服(さいふく)して寺におもむき・犠牲(いけにゑ)を神に供(きやう)し・諳■【厄の誤】利亜人を 加護(かご)し・つゝがなく本国へかへらしめんことをいのれり・すでに ひらけしほかのくにの・いつはりてなすところの・別離(べつり)の情(じやう)よ りは・よく心にてつしてかなしかりを・此 質朴(しつぼく)の善心(ぜんしん)より・いづる 所なれば也・祈(いのり)おはりて・別(わかれ)をなさんとて・登 舶(ふね)にきそひ来りぬ・ 無情の・ボナハルテ《割書:悪王|の名》なりとも・いかでかこれにかんぜさらんや・登舶 すでにさりし後も・ひさしく船中より手をあけて・其情(そのじやう)をしらし 【二十一頁左】 めり・われすでに南方へむかひおもむきしに・順風(じゅんふう)にて・ たゞちに此島はみえずなりにけり・しかれども此 土俗(とぞく)の 深切(しんせつ)と・情の厚(あつき)は・わが諸人(しよにん)の心に・ふかくかんじ・恩(おん)とし たふとむなり・云々 【枠外上に十七と有】 銀は日本より渡す・豆銀はことにくらゐよろしく・是を たうとみもちゆ・閩(びん)人はこれを球餅(きうへい)といふ・銭は寛永通 宝なり・別(べつ)に一種(いつしゆ)の國銭(こくせん)ありて・文字もなく外郭(そとのわ)もなし・ 紙に刺して吉事の進物にもちゆ・ 【図の下】 如此にしていたつてうすし 【二十二頁右】 【枠外上に十八と有】 君子樹(くんしじゆ)といふ樹(き)ふたつあり・一は福木(ふくぼく)と云 ・葉(は)は冬青(もち)に似て おほひなり・實(み)は橘(たちはな)のことくにして・あちはひいたつて美(び)なり・ 一はガラボといふ・葉は福木におなじ・花は白梅の如し・この 實をしほりて油につくる・極上品也と云・二樹ともに・冬 にいたれとも葉おちず・ゆへに常盤木(ときはぎ)と称す・ 【枠外上に十九と有】 いつの頃にや周防國(すはうのくに)に古郡(ふるこほり)八郎と云人ありけるが・主従(しう〴〵) 十八人にて大隅(おほすみ)国へわたらんとて・ふなよそほひしていて立 しが・ころは八月のころになんありけるに・豊後(ぶんご)の海を わたるとき・天気 須臾(しゆ)に変更(へんこう)して・一天墨(いつてんすみ)をそゝぐか如く・ 楫(かち)帆柱(ほはしら)もこと〴〵く打こぼち・つかの間すぐるいく千里・なみの 【二十二頁左】 ひゝきのみおそろしく・船中の人々は・風にまたゝくともし火の きゆるとはかりのこゝちして・いまや大魚の腹中(ふくちう)にほゝむら るゝかと・たゞ金毘羅(こんひら)をいつしんにいのるより・外のことぞなかり ける・その夜もはやあけちかくなるまゝに・風もすこしはおだ やかになり行しが・ふしぎやふねのかたはら一丁はかりはなれて・ 山の如き魚のうきいでしか・暴風(ぼうふう)なぎわたるにしたがひ・かき けす斗りにうせたりしかは・こは金毘羅の守護(しゆご)し給ふ ならんと・いよゝたうとみおそれけり・《割書:按ずるに此魚はまさに|■(せい)【魚扁に聖】といふものなるべきか》 《割書:ヲキナといひておほひなるものはながさ六七里あるひは二三里の|ものもありといふこの魚うかみいつるときはせんちうのものこと〴〵く》 《割書:けつさいしてこれをまつるときはなんふうしづまりてうれいなし|つゝしみあしきときはふねをやぶるすべてほつかいにおほし小平次が》 【二十三頁右】 《割書:漂流記に船やふれてせんすべなかりしときかたはらにひとつの山いてさ【きの誤ヵ】た|りしかばその山にのぼりてふねをつくろいてのりうかみいでしかはその山は》 《割書:うごきてしづみしはヲキナにてぞありける云々これは北アメリカのおきの|ことにてそありしいまゑそよりいつるヲキナの牙(きば)といえるもこのたぐひなり》 《割書:どくけしとのみ俗(ぞく)にいへともさのみにあらずよくねつをさますことをつかさとる|もの也此ものおほひなるものゝとゞまりにてすべておほきしなどいふことばのも》 《割書:ともこれより|いでしとなり》いかにもして・いつちになりもこぎよらんものをと・ たたよいめくる所に・ことなる衣裳(いしよう)つけたる漁人(ぎょじん)・十 艘(そう)ばかりの 舟・こぎつれてとほりければ・はるかにさしまねきて・ふねを ちかよせ・こゝはいつちぞとたつぬれとも・さらにつうぜず・紙に 文字をなしてとひければ・天地といふ二字をしるして・おの〳〵 ふねをはやめてこぎさりぬ・八郎もせんすべなく・漁に舟の往来(わうらい) するをみれば・いづれにも地(ち)かたとほからじと・なみにまかせて 【二十三頁左】 こぐほとに・はるかに一の山をみだしたりければ・人々おほいに力を ゑて・やう〳〵なぎさちかく・こきよりてのぼりみれば・こゝも異国(いこく)の 漁村(ぎよそん)にやあるらん・網(あみ)なんどさらして・家の二十軒はがり【ばかりヵ】も見えて・ かたはらに一のやしろあり・前殿(ぜんでん)に推朱(すいしゆ)やうの彫紋(ほりもん)ありて・文 字は黄(き)なるいろ・にほりあげたる・鎮面君真物(ちんめんくんしんぶつ)といふ匾(がく)をそ かけたりける・《割書:按するに鎮西君真物(チンゼイキンマモン)なるべし爲朝のことならんか琉球|にては神をとうとむにかならすキンマモンとしやうすること》 《割書:をもて|はかる》これくきやうのばしよ也とて・船中の粮米(ろうまい)・武器(ぶき)なんど はこびて・やう〳〵に食事つかひて・あたりを見まはすに・たゞ 蘇鉄(そてつ)・芭蕉(ばせを)のみおほくして・そが中にひとつの竒樹(きじゆ)あり・ 枝(えだ)は藤(ふじ)の如く・葉は胡麻(ごま)のおほひなるににて・いつれを根と 【二十四頁右】 いふことをしらず・𨌎(みき)はまとひてふたかゝへもあるべく・そのさき 又地にいりて根をなす・あひ對(たい)して門(もん)のかたちににたり・ 何の樹なることをしらず・《割書:按するに南方草木収にいはゆる榕(やう)なるべし|かたちすこぶる相似たり此樹南方のものに》 《割書:して閩廣(ひんかう)のあいだにおほし福州の城を榕城といふ剣州はそのとなりなれ|どもさふき故に生ぜずことはざにいふ榕不_レ過_レ剣とこれ也天竺にてはニキリツド》 《割書:と云薩州にてはガツマルといふ詩は桺宗元が栁州の作にはじめてみゆその後|宗元明清にいたるまで詩賦あけてかそへがたく榕江―菴―巣―村等【?】と号》 《割書:する人おほしくはしきことは|廣東新語もつともつくせり》とかふするうちに・漁者(きよしや)男女数十人 つどひきたりて・何とも辨(べん)じかたき果(くだもの)をあたふ・よつてその地の 名をとへども・さらにつうぜず・しばらくありて・年老(としおい)たる人いで きたりて・いつちの人にて候哉と・日本のことばにてたづぬる ありければ・とるものもとりあえず・さればこそ我々は・ 【二十四頁左】 日本のものなるが・なんふうにあひて・いたくなんぎ候ぞ・そも〳〵 此地はいかなる国にて・そのかたはいうにして我国のことばをしり候ぞ といんぎんにこたへければ・さればこそ此所は・ヨナクニ といふ島にて・ 我は琉球國王より命(めい)をうけて・薬品をもとめにまいりおる ツバノコヲヤカタと申もの也とて・宿所(しゆくしよ)へあんないして・さも深切(しんせつ) にぞとりあつかひ・さて此所より送り参らせたく候へども・ふねは あの如くそんじてのりがたし・ひとまづ琉球へ御渡り候【?】はゝ・国王へも とゞけ候て・御送りまいらすべしとて・その島の船に打のせ・琉球 へ着船(ちやくせん)し・ことのおもむきをつばらにとゞけ・王へもまみへさせければ・ 日本周防人古郡八郎と・名札をしるして出しければ・官人ども・ 【二十五頁右】 いにしへの八郎爲朝ときゝつたへおれば・こと〴〵くうやまひおそれしも おかし・それよりツバノコのやかたに滞留(たいりう)して・日々打とけてもの かたりしけるが・もはや船も出来あがり・帰國(きこく)ほどちかくなり ければ・ツバノコがいふやう・貴国(きこく)は大国にてことに冨饒(ふにやう)の地にし あれば・何ひとつとしてたらざることはあらじ・されどかほどに したしみまいらするからには・かたみにまいらすものとて外には 候はねど・我先祖中国に往来して・うけゑたりし・竒薬(きやく) あり・惹意(とくゐ)牽情散(けんじやうさん)と申はたはれたる薬にて・わかき人々の もてあそぶには・竒代(きたい)の法なれば・傳授(でんじゆ)まいらすべし・ 御用ひ候て御わらひ候へかしとて・方書(ほうしよ)をしめす・ んどう 【二十五頁左】   牡丹花 天茄子花 天仙子 《割書:各等分》  右細末にして茶あるひは酒に入ておもふ婦人に飲(のま)しむる  ときはたちまちに情をうこかすと如神 いよ〳〵出帆の時いたりければ・國王より四人の者をそへて送(おくら) らしむ・その名は・孝貴(こうき)・伊久麻(いくま)・美里二(みりじ)・那古祢(なこね)・とそいひける・ 八郎はあつく恩(おん)をしやして・かれらをめしつれて・うかみ出しが・ その日のひるすきより・雷雨(らいう)はなはだしく・慕風(ぼうふう)【暴風の誤ヵ】しきりに起(おこ)りて・ いかりをおろせば引きられ・楫をそんじ・帆柱をおる・又もかゝる めにあふものかなと・海神をまつり・金毘羅をねんじ・髪(かみ) をきりてはなげいれ・その外 具足(ぐそく)太刀(たち)のたくひまでもなけ入 【二十六頁右】 〳〵・いのれどもそのかひなく・二《割書:タ》月あまりももみにもまれ・ふき にふ【布】かれて・水はこと〴〵くつかひはたして・いかがはせんとあんじ煩ひしを・ 四人のものどもの工夫にて・釜(かま)のそこに・椀(わん)をうつふけに打ふせて・ 米をいれてこれをかしぐに・此わんのうちにしほとゞまりて・ つねの飯にかはることなし・なをもとやかくしてうかみ行ほどに・ いつくともしらぬ国はるかに見えければ・人々あらうれしやと・よろ ぼひなからもよろこびしに・孝貴をはじめ四人のものともは・さき なる地をきつと見てゐたりしが・おたがひに小音(しやうおん)にかたり あひしが・がんしよく土の如くになりてかなしみければ・八郎は おほひにいかり・なんぢ等なにとて・かゝる不祥(ふしやう)のなかたちをなす・ 【二十六頁左】 いつものくにゝもせよ・地のあらんこそ・漂船(ひようせん)の扶助(ふじよ)なるを・いま はしき者ともかな・いで上陸(しやうりく)のちまつりにせんと・つかに手を そえてのゝしりければ・孝貴ことはをあらためていふやう・ あれにみえ候は明(みん)の国にて候・そも〳〵我琉球は・南北わづか 六十里ばかり・東西十四五里の小国にして・大国の間にあり・ これにくはうるに・師旅(しりよ)のうれいある時は・いかなる賢君(けんくん)・勇(いう) 謀(ぼう)の将・ありとも・なかく社稷(しやしよく)をたもつことあたはず・ゆへに 鄰国(りんこく)のたすけにあらされば・寝食(しんしよく)をやすんぜず・よつて 貴国へも・応永(おうゑい)十年 六浦泻(むつらがた)についてよりこのかた・貢(みつぎ)を 献じ・後宝德三年より・兵庫の浦に交易(こうゑき)することを得 【二十七頁右】 たり・又明朝へも貢をいれて・交易することすでに年あり・ いにしへ天孫氏の代のうち・陏(ずいの)【隋の誤りではなく「ずゐ」の音が同じなので仮借として用いているのでは。『大漢和辞典』で「陏」に国名と有り。】煬帝(やうだい)太業(たいぎやう)三年《割書:推古天皇十五|年丁卯にあたる》 よりしてしば〳〵来服(らいふく)すへきよしを申来れとも・あえて したがはさりしかば・同六年陏 の兵舩(へいせん)・數万艘(すまんぞう)・海上(かいしやう)にはかに 陸地(くがち)の如く・蜄𣱛(しんき)【「𣱛」は「氣」の古字】此ところに・乾闥婆城(けんだつばじやう)をはき出せるれと・ あやしまれしほとの大軍・たゝちに首里にせめ入て・王をさし ころし・忠臣(ちうしん)義士(ぎし)・こと〴〵く討死(うちじに)せしよしなりしが・其のち・貴(き) 国(こく)の爲朝公の御子・舜天王より四代をへて・英祖王の時・元(げん)の 至元(しげん)年中・《割書:建武|年中》又もや・軍舩(げんせん)数万(すまん)よせ来たりしが・もはや 我国にても・貴国の武威(ぶゐ)に傳習(でんしう)せしかば・鎮護嚴緊(ちんごげんきん) 【二十七頁左】 にして・やはかあだに上陸はさせずして・追(おい)かえせしかとも・元貞(げんてい)《割書:永仁|の頃》 のはじめまで・しば〳〵海濱(かいひん)をおかされ・一日も安堵(あんど)のおもひを なさゝりしが・つゐにしたがはさりしに・元の代すでにほろ びて・明(みん)の太祖(たいそ)の代となりければ・洪武(こうぶ)のはじめ・行人(こうじん)を使(つかひ) として・とほきをしたしむのこゝろざし・あつかりしかば・ 時の王は舜天王をさること九代にして・察度王とて・賢德(けんとく)いみ じかりしかば・大国によしみなきは・後代のうれひ也とて・ これよりはじめてかの国へも往来し・王の従子(じうし)等(ら)の人々・ 漢學(うちまなび)にも参られしかば・《割書:洪武|廿五》閩といふ所の人・三十六人をたま ものとしておくれり・その子孫今に久米の南門村に居(お)れり 【二十八頁右】 古郡八郎琉球人の   さかやきを剃る圖 【二十九頁右】 されど・我琉球は・爲朝公よりして・貴国の風俗(ふうぞく)に化(くは)し・義𣱛(ぎき)も やゝ相おなじ・しかはあれども・小国のあさましさには・貴国へは彼国へ 往来することをはゞかり・彼国へは・貴国へ奉貢(ほうこう)することをいみ かくす・しかる時は・今度貴国の人々と・同船(どうせん)するを見ば・ 貴国にぞくして・往来することをさとりて・我々かいのち のみかは・国のうれいをひきいだせることを・ひつじやうせり・さらんと すれは・船そんじてのりがたし・のぼらんとすれは・國のうれいをま ねく・前後道なし・いかゝはせんとなししつむ・八郎もことのむね をきゝとゞけて。ことはりなるかなとしあんし・ひとつの謀(はかりこと)をめぐら して・四人のものをさかやきそりて・衣裳をきせかへ・孝貴を孝八・ 【二十九頁左】 伊久麻を伊之助・美里二を道次・耶古称を古助と・あらためて・ 日本人にしたてければ・四人の者は・まことにきたいの良策(りやうさく)なる かなと・こおどりしてよろこび・うちつれて上陸す・通辞(つうじ)来 りて漂着(ひようちやく)のいはれをきゝたゞし・食をすゝめ・水をおくりし かは・二《割書:タ》月あまり水にかつへし人々なれば・なにかはもつてこらふ べき・おの〳〵水二三升ほどをかたむけしと・それよりなんなく 帰國することを得たりとなん・《割書:此漂流の記は中国のことつばらにありて|西湖の景なんどまのあたりゆひさすが》 《割書:ことくにて太田蜀山の秘蔵なりしをたゞ琉球人の月代を|剃て明人をくらませしおかしさをつまみてこゝに載するのみ》 琉林雜話終  天保三年秋   杏花園蔵版 【三十頁右】 此国の狂歌もまた昇平のめてたきまゝに鶴龜の 二首を末に附するのみ     鶴   くびながく觜【くちばし】なかくあしなかく     いのちもなかくそろひつるかな     龜   手も出さすかしらも出さす尾もたさす     身をおさめたる龜は萬年 【三十頁左】 跋 先■南畝いま川橋は近き となん聞えしか終に水瓶の 甲に乗て仙境に逰ひし より既に年ありねくらも 反古をひきくらして蠧魚を 逐ちらすそか中にうるまの 国のふり一二を録せるをほり いたして襍話となつけ暦代 譜のしりにふつゝけかきのつふて 文字をは蜀【蜀山人ヵ】と共にかくものは 天保やつあたりならぬ三の年 のほそみ【ほそみ=八朔日ヵ】人といふもの也 【最終行「の朔蜀山人といふもの也」ヵ】 【裏表紙】 【整理記号】(横書き) Ryu 090 Ota c.2