十八  全五  温古集   三巻     目録 一古名人物畧伝             寺嶋知義編 一太政復古之御趣意ニ而丁卯以来 朝務拝命  奉職 勅任奏任判任一等属以上之面々  死亡 非職并有功之面々官員録之外  諸学之教員へ公私病院之長有名会社之  吏員   学者并有功之人寄    追々夫々之部へ割込候趣向 旧君老公慶永卿ハ田安従一位斉匡卿之 御次男ニ被為 在天保九戊戌年故斎善公 御逝去ニ付依召命当越前家御相続以来 文武之諸道専御勉強何レも御上達且御藩中 当初ハ勿論子弟輩厄介ニ至迄日々之勤怠玉簿 を以御改尚一層御引立之思召を以文道之学校 御城内へ明新館御開役教授初夫々へ教員 学監幹事其他総而之役員相当之俸給を賜り 繁々教場御巡視尚学齢幼年輩ハ四方ニ外 塾を被建夫々教育方世話被命出精之甲乙ニ寄り 褒賞を賜り又武芸之儀も追々御趣意被仰出 迄ハ弓馬剣鎗柔共励敷御引立人撰又ハ願 等ニ而他国修業等も度々被指出又炮術之儀ハ 従来夫々之流儀ニ而師範家五名有しを被廃 大小炮共総而西洋打方伝習被仰付専士気を被励 遊惰ニ不相成様御鞭策被成下古老輩ハ懇ニ御慰 労又夫々之雅人へハ折々兼題を賜り詠草 御覧被遊且又折々御巡覧御放鷹御川狩等之 節ハ農民共田圃耕作之労を御視察卒然 民家へ被為入所之物産製出之所作等御覧又 古稀以上之者被召出養老之典御酒肴等被下 専節用愛人使民以時之御仁恵御心を 被為尽候処嘉永以来宇内之形勢内患外憂 混交指湊御国体之安危ニ関係不穏折柄 御誠忠之思召御強ナガラ被為過候故歟幕吏之所 置を以御退隠幽閉之冤被為 蒙遺憾徹 骨髄慷慨被在候処明成哉無程 御出仕加之 無比例大任御政事総裁職被為 蒙候ニ付而は 不容易御尽力尚御拝職之上も度々 朝廷ゟ被為 召京師動揺不穏際ニ当り而ハ昼夜之 別なく御参内 勤王一途御尽力京都御守 護職 大蔵太輔 議定職 内国事務総督等 御拝命猶又 御維新以来 民部卿 大蔵卿 大学別当等卿上之高位高官ニ 塁遷御栄/進(昇)己巳九月廿六日 大政復古之 御賞典被叙正二位庚午七月十三日麝香之間 御詰御拝命 十四年七月十六日被叙勲二等 旭日重光章御拝受益御隆盛之御結構 尚幾千歳を奉祈重畳之恐悦也 旧諸侯華族方ハ何れも旧藩良臣之輔佐次第ニ 依り候事ニ而現ニ 御自身如斯御誠勤被為尽 方々ハ外ニ比較無之実ニ難有福井之面目なれハ 御履歴之荒増を大略して永世ニ伝へ又 大政御復古前後之際種々之御下問建白等之 公儀を以諸省百官之職員被仰付ニ付而ハ各藩 之徴士夫々拝命奉職之処静岡 鹿児島 山口高知等ハ従来之藩臣も多く且聡明英 智之儫傑数多有之将ニ高位高官数名在職 随而下官下等ニ至而ハ猶更夥敷仍而此四藩を 除之外各藩ニ比較劣れるなく数多之人員 諸府県ニ奉職高位高官昇進之方ニも 多く専ら旧御藩之名誉を顕されしも全く 老君公御徳沢之然らしむる所ニして是又 福井之美目なれハ 御維新以来当時迄之 勅使ゟハ位一等属以上 在職非職病死共 又特別有功名誉ノ人且当 時世ニ尽力有名之人詩歌俳諧書画之先生等 不残記載して永世ニ伝へ尚後世迄此意を 請継連々奮発して夫々目的之業ニ進歩し 官途ハ勿論其余之事業篤実ニ勉励時代 々々有名者之党ニ入らん事を志し聊も醜態 之悪名を後世へ残さす蓋福井之景況不衰様 注意を尽し幾萬歳之未々迄前書之進退 書継可申事   右之ケ条此所へ相認候義不都合之体相見得   候得共未々可見合義も有之候ニ付旁爰ニ記置  旧君茂昭公御履歴之内  明治二年己巳六月二日   与父慶永勤_二労 王家_一加 ̄ㇽニ以_二 下口出兵之   戦功_一永世賜_二壱万石_一   同年十一月左之通    丁卯冬   皇政復古諸事維新ノ際会慶永以才徳     浅小 奉   天意鞅掌 王事茲汝等抛命日夜    奔走鞠躬盡力全賛翼不浅之功    労ニ依ルナリ且戊辰秋討会之   詔令ヲ奉シ出兵北越当時物議沸騰    忽鎮静定一藩方向出大兵在内総    括庶務在外周旋励耤指揮大兵    遂凱歌ス今日一藩仰   朝廷私家之繁栄昔日不変万民浴   聖恩是汝等共ニ賛翼ノ所致銘心肝   感賞シ永世不忘ユエンナリ夫過日  朝廷有賞典賜万石家全有スルノ   理ナシ故ニ聊頒汝等共沐浴  聖恩永世赤心報国ノ寸誠ヲ共盡サン   事ヲ期ス    明治二年己巳十一月    正二位行 大学別当源朝臣慶永(角印)    正四位福井藩知事源朝臣茂昭(角印)       華族   旧藩一等之大禄門閥ノ故を以華族ニ被列    図書寮御用掛り      本多副元   十九年 本■■勧業課   同年五月七日南条■■部長          狛  元弟             阿部 重                    改名             阿部正義    明治十三年四月六日       東京麹町区西片町        華族従五位             阿部正垣               養子    勅任    《割書:元老院議官|従四位》      由利公正 一丁卯九月徴士参与会計官へ出仕大判事奉職断然  方向ヲ策シ諸端尽力   旧藩諸幣漉職并従来掛り役輩之内人選を以   呼登シ新規金札を製シ差向キ莫大之御用途を初   会征鎮静後引続籾千万両之才覚無御指支相   整且右紙幣新製候付而ハ種々議論有之候を   方向之見当を毌らキ尚々夫ゟ以来紙種板行   等ハ時々之御模様ニ而代るといへとも引続益御製   造外国とも融通盛ニ相成候ハ全く由利氏   智謀之勲功也と衆人妬情之念なく感賞   せり 一戊辰    被叙 従四位 一庚午四月廿五日福井藩ニ而  丁卯之冬上京以来断然方向を策シ諸端替決尽力其績ヲ  賛成候付御賞典之内永世弐百石終身百石都合三百石  金領換候事 一同年十一月依召東京へ出立十二月二日  太政復古ノ時ニ方テ度支ノ職ヲ奉シ今日ノ丕債ヲ  賛ケ候段  叡感不斜仍賞其勲労禄八百石下賜候事 一辛未正月十七日帰  前後在福中藩庁出仕 一同年七月四日御用有之東京へ可罷出旨 一同廿三日   任東京府知事 一   元老院議官 一 非職 一十八年  元老院議官   帝国大学総長   東京雇■■【一行見せ消ち】      従四位勲三等  渡辺洪基   一等侍医      正五位     岩佐純   秋田県知事二等下級俸      正五位     青山貞              橋本綱常   宮城県知事二等下級俸      正五位     松平正直      奏任   海軍少将      従五位     福嶋敬典   宮内省大書記官 皇太后宮亮      従五位     堤正誼   高知県知事一等上級俸        従五位     田辺良顕   農商務省大書記官        従五位     長谷部辰連   海軍中佐        正六位 勲五等 今井兼輔   大審院判事        正六位     関義臣   参事院議官補        従六位     山脇 玄   宮内省御用掛        従六位 勲六等 佐々木長淳   大蔵   主税官        従六位    斯波有造   長崎県大書記官        従六位    柳本直太郎   海軍少佐        従六位    八田裕次郎   外務大臣秘書官兼外務省局政務課長        従六位    斎藤修一郎   陸軍少佐後備軍司令官判士長        従六位勲五等 大久保継久   陸軍二等軍医正        従六位勲五等 玉村巍    文部省大学教授        従六位    岩佐巌   新潟県一等属        従六位    高木惟矩         陸軍大尉    正七位勲五等 天方 道  東京小石川本郷区長    正七位    加藤治幹  東京下谷区長    正七位    岡本益道  大蔵四等主税官    正七位    青木咸一  陸軍一等軍吏正    正七位    松田尚正  陸軍大尉    正七位勲五等 小幡蕃  陸軍大尉    正七位勲五等 八田知行  憲兵大尉    正七位勲五等 比企福造  陸軍大尉    正七位    湯浅伍一  陸軍大尉    正七位勲五等 田辺良成  陸軍大尉    正七位    下山 清  農商務省書記官    正七位    栗塚省吾  検事    正七位    渥美友成  判事    正七位    長谷川喬  二等軍医    正七位    馬渕清勝  軍医薬剤監    正七位    石塚左玄  陸軍々医    正七位    雪吹常之  陸軍々医    正七位    加藤謙蔵  判事    従七位    山岡 愨  四等警視一等警察吏    従七位勲六等 大島正人  陸軍中尉    従七位勲六等 富沢 憭  陸軍付四等警視    従七位勲五等 近藤 篤  警視庁小石川署長    従七位    円乗 豁  陸軍中尉    従七位    林忠夫  同    同      大内守幹  同    同      田辺光正  同    同      後藤教吉  同    同勲六等   宇都宮 九  同    同 同    妹尾義稠  同    同 同    山口午郎  同    同      永見 裕  同    同      三上三郎  同    同      林騳二       同    同      渡辺時馬  同    同      小幡 環  陸軍同吏副    従七位勲六等 小林千和岐  海軍中尉    従七位    東郷正路  同    同      稲生震也  海軍中主計    従七位    藤本綱長  陸軍医    従七位勲五等 山本謙  陸軍医副    従七位    石田厚哉  陸軍中尉    従七位    中野公武  同    従七位    斎藤時之  陸軍少尉巡査長     正八位    相沢武辰  同   同     同      坂野親伯  同   同     同      下山貫雄  陸軍中尉     正八位勲六等 林勝利  陸軍少尉     正八位    佐々木文次郎  陸軍少尉    正八位    小川博明  同    同      横山軍二  海軍少尉    正八位    田中源太郎  陸軍会計軍吏副    正八位    跡部貴直  憲兵少尉    正八位    水谷不二夫  同     同      大井確士  海軍少主計    正八位    林 一雄  判事    正八位    八杉 淳  同    同      石原虎雄  同    同      岡島 力  陸軍少尉     大谷深造  同        山崎 幾  宮城県部長   元福井藩大参事   一旦大蔵省六号出仕ゟ群馬県参事 小笠原幹      一等属  東京府一等属  荒木 功  陸軍省一等属  加藤 斌  工部省    一等属     門野隼雄  青森県    一等属     井手今滋     死亡  元岐阜県令    従五位     長谷部恕連  赴任以来 朝旨之御仁恵御趣意ニ基キ所置之件ニ県地  一般之人望ニ叶ひ在職中ゟ今以神ニ崇メ祭祠之由  元陸軍々医監    従五位 勲四等 橋本綱維            三崎嘯輔   元大蔵少書記官     正六位勲六等 橋本安治   軍医補     正八位    梯文造            鈴木魯            岡本晋   農商務少書記官     正七位    南部則敏   元陸軍大尉     正七位    粕谷外人   工部大学校助教授     従七位    中野外志男  明治十九年五月廿一日脳卒中ニて死去二十三日葬儀  旧藩主君松平春嶽君公ゟ左之通   余カ最モ将来ニ望ヲ属シテ親愛セシ中野外志男ニ汝ハ脳病ニ罹リ   俄然黄泉ニ独リ旅セシハ実ニ命数如何トモスルコト能ハス余此訃首ヲ   聞キ哀惜ノ至リニ堪へサルナリ汝ハ多年鉱学ニ志シ頗ル熟達シテ工   部大学ノ助教授ニ任セラレ従七位ニ叙セラレタリ余ハ汝ガ教育ノ功ヲ   輝サンコトヲ希望セリ然ルニ一朝永訣ノ訃ヲ聞ク残情顧ル甚タシ   幸ニ汝ノ朋友ナル出浦力雄ニ託シテ此数言ヲ伝へ以テ永ク汝ノ霊魂ヲ   慰ントス是余ガ追慕ノ微意ヲ表スル為ナリ汝霊アラハ歆享セヨ   嗚乎哀哉     明治十九年五月廿二日  正二位勲二等 松平慶永    非職     元内務大丞警保権頭        従五位    村田氏寿 一明治元戊辰征会出張中  九月廿九日奥州若松ニ西園寺殿御達   民政【右に一字あり】来着迄 一十月廿三日総督宮新発田御本営ヨリ御達   会津民政総轄之御用取計兼守衛諸兵隊   参謀可相勤旨 御沙汰候事    十月 一同二己巳十二月十五日   戊辰之歳賊徒掃攘之砌軍事勉励之段神妙之至   被 思召仍慰労金三百両下賜候事    十二月       太政官 一同三年庚午二月十四日   任福井藩大参事 一同年四月廿五日   皇政御一新之際格別用心且北越出兵総管ヲ賛   補シ其務ヲ勉励シ竟ニ克捷之功ヲ成ス其功労   不尠仍御賞典之内永世弐百石令領授候事 一同四辛未七月朔日   多年精勤且御維新後藩制改革之際諸務   尽力功労不尠依之当年限米五十俵被下候事 一同年十一月廿日   任福井県参事 一同五壬申十一月十二日   叙従六位 一同六年一月十九日   任敦賀県参事  右之後塁遷栄転東京ニ而   任内務大丞警保権頭   叙従五位  元開拓使幹事    従五位    大山 重  元大蔵省紙幣寮権頭    正六位    渡辺 弘  元鉄道権頭    正六位    瓜生 寅  元検査助    従六位    南部 広矛  元大蔵省六等出仕    従六位    能勢久成  元新潟県参事    従六位    南部信近   元陸軍大尉     正七位   中川祐順    元足羽県権参事     正七位   千本久信 一明治二己巳十月十四日   任福井藩権大参事 一同三庚午四月廿五日戊辰以来多端之折柄事務担当格別   尽力ニ付慰労御賞典之内永世三十石終身二十石   都合五十石領授 一同四辛未七月朔日   数年勤労且御維新後藩制改革之際補助之功不尠   依之当年限米三拾俵被下候事 一同年十一月十五日   任日広島県権参事 一同廿五日   任福井県権参事 一同五壬申十一月十二日   叙正七位 一同六年一月渡県後従来之旧御家中ニ専尽力且   朝旨之御趣意ニ基キ士族営業之資本并土地豊饒   之方法一途ニ振込ミ第九十二国立銀行設立支配人   担当又養蚕製糸蕃殖尽力桑蚕会社設立担   当旧桜馬場続新屋敷士族屋敷跡又東光寺町   辺等開墾数万之桑苗植付当社中之面々も右趣法を以   各所々を開キ漸次成功相企候事    十八年九月十五日病死    東京ゟ種々御恵之頂戴有之由 書入   元七尾県権参事  奈良 幹   元租税寮七等出仕 岡田 信            毛受 洪 一丁卯  大政御復古之御趣意ニ付西京へ徴士参与奉職集議院へ  出仕不容意公議ニ尽力 一己巳十月四日   任福井藩権大参事東京へ引越 一庚午五月七日   丁卯以来事務多端之処精勤ニ付御賞典之内金三百両被下 一同年九月 朝廷ゟ   集議院幹事相勤候付金六千三百疋下賜 一同年閏十月廿八日東京ゟ帰十一月廿二日本官被免多年勤労ニ付  為慰労年々金五十金ツヽ被下 一漸々之御模様ニ付旧御家中種々尽力且 佐佳枝廼御宮  御造営之際尚又士族営業之資本土地豊饒益繁  栄之方法一途ニ尽力竟成社銀行設立之発起又市街  混同有志輩赤心社団結 福井新開社発起保護之   賛成等総而時態之景況永久衰微不相成様一途ニ  尽力   元陸軍中尉 従七位     病気ニ付      山田 正   元馬医副 従七位     同 福井県衛生掛り 吉田以一   工部省少技長四級      従六位      柏林之助   三重県大書記官 十九年一月非職      従六位      下山尚   大分県大書記官 同      従六位      佐々木千尋         中根雪江  右履歴は莫大之功績故略す  福井新聞四千三十一号ゟ追々四度之温故叢談ニ  大概伝を書しある故其儘を誌す 中根雪江翁諱ハ師質初ハ栄太郎後靱負と通称す雪 江は致仕後晩年に号する所なり其先従五位下讃岐守 平忠正ゟ出ず父諱ハ衆諧母ハ平本氏越前家之世 臣ニして越前国足羽郡福井藩之士族たり食録七百石 文化四年七月三日福井に生す天性寡言方を愛し人 を容す亦文を好ミ武を講す文政十三年歳歯廿四才 にて父親に離れ家督相続藩歩合引渡之席を命す 天保二年側役用人見習と為り翌年江戸藩邸詰之 命あり六年江戸におゐて用人奏者を兼ね爾来江戸藩 邸詰若くして立帰り江戸出府を命せらるゝ事数回あれも 勲績あり弘化三年大番頭と為り続いて側用人見 習ひと為翌年進んて側用人本役と為りそも翁は 書を学んて窺はさる所なしと雖とも専ら心を邦典に 登らめ壮年笈を負ふて江戸に遊ひ平田篤胤氏の門 に入従遊年あり喜んて尊王之説を主張す嘉永六年 六月北米合衆国之本師提督べㇽリー軍艦を統率し 相州浦賀港に来りて通商互市を要求す是を以て諸 属験族幕府列侯ニ命して海防を議す時に翁江 戸藩邸ニ在り水戸藩の枢臣藤田虎之助等と事を議 して在江戸当路之人就て以て諮詢するあれハ翁詳 かに判害得失を述べて遺す所なく其言皆肯緊に 申たる是より翁の名益々世に顕れ当下国事漸く多 端藩政また釐革せさるへからさるの運に際せり翁要路に ありて藩主を補翼し庶政を整理す藩の兵制を 改革し銃炮を改良し藩地に 講武所を起し西医 術を拡張し洋学者を聘招する等凡て改革改良の事 興つて尽力せさるなき同年七月藩翁を褒詞す曰く 今度異国船渡来之節御固御人数繰出方を始め不容易 骨折相勤御満足思召候同日再ひ褒詞あり曰く御役 義以来御武器之儀格別心配致被置候故今般御人数被差出 候ニ付ても御差支無之儀ハ全く兼々行届候故と御満悦に 思召候七年七月松本地方渋谷氏屋敷地内百坪を角 場として之を賜ひ居屋敷内へ角場を立業を修するを 許す安政三年猶此角場に添地を賜ひ下屋敷とせられ 四年勝見川下畑地の裏におゐて新たに下屋敷五百坪を 給ひ角場百坪を還さしむ皆翁の精勤を賞するなり 安政五年大将軍徳川家定公薨して世嗣なし営中の内議 中納言一橋慶喜君を立て嗣と為さんとするに傾しが翁 固より水戸藩藤田虎之助戸田銀二郎安嶋帯刀及び薩 藩有志の人々と交り深く互に相往来せり一日薩主中将公 今の正二位春嶽公大老井伊掃部頭の桜田邸ニ詣り 将軍家の世嗣并ニ関鏁の事を京師に奏問せん事を議 せしに其論おのつから経庭する所なるが如し帰路追手前 を過る時翁単騎にして馳せ寄り鞍に伏して曰今日水 戸老公尾州公の俄に東條登城せらると聞思ふに立嗣開鏁之 事件なるへし主公なんぞ其議に與らせ玉ハさる哉と 公曰く今此事を知らさる也実に知らすと雖措く可きニ あらす依之直に馬を回らして登城せられしに果して 此日立嗣の議稍定まれりと翁が交際広き以て此補益 を為すの大となり推知すへきなり幾許もなく江戸におゐて 中将公謹慎之命あり又隠居ノ命あり翁亦江戸より国に帰りて 謹慎之職務差免され近習に置れ側用人次席と為る 万延二年正月側用人と為る文久二年ニ金五十両を賜る 続而足高百石を賜はり五十両は指止らる文久三年六月命 あり家督を牛之介に譲り退隠蟄居す十一月蟄居免ぜ られ側用人隠居の取扱いとなり上京し滞在中銀二百枚 を給わる元治元年二月公用方命せられ側用人同様と為り 勤中弐百俵賜ふ五月側用人隠居の取扱と為る年々 金五拾枚を賜ふ此年名を雪江と改む是より先国家多事 藩主又江戸ニ京都に上らるゝこと̪頻々なり而して翁之に供し 亦命を含んて藩境を離るゝこと屡なり慶応元年九月 御用中中老勤と為り五十人扶持を賜り十二月中老と為り 慶応三年願に依り職務差免され十人扶持賜り 宰相老公春嶽公上京せられ翁之に供し上京中二老勤 務五十人扶持を賜ふ同年八月帰藩格藩旨を以て家 老格隠居の取扱と為り左の通り命せらる 一年始御礼於韃靼之間被為請候事一御座所御門 三ノ丸御座所御門下馬御門致下座候事一御改札御 中老ノ通一他国御用之節ハ千石ニ被成下候回月々の座席 高知隠居の次に命せらる九月議事懸り十月宰相老公 に供し上京す上京中家老格と為る慶応三年幕府還政の 議起り時勢大ひに変す朝廷則ち列侯及諸藩有志の士を 京師に召され普く其意見を諮詢せらる時に翁恰も 春岳公に供し京師にあり徴士と為り参与職と拝任し 四年正月内国事務掛りと為り二月外国人参内御用掛 と為り同月大阪内国御用掛となり即日下阪滞在十二日に して帰京更に内国掛分課民政宿駅助郷等取扱を 命せられ三月宿駅掛を免せられ租税掛と為る四月 本藩ニおゐて微士勤中家老格の役義免せられ従来 賜わりし十人扶持ハ別段の義に付其侭給わり他国御用の 節は賜はるへき千石高の儀は地高同様の義ニ付其侭賜 わるとの命なり五月三日召に依り参朝し小御所ニおゐて 龍顔を拝し畢て御廊下ニおゐて中山正新町三條徳大 寺の諸卿列座にて微士参与被免賜暇の仰せ渡され あり猶中山卿より書付を以て別段左之如く仰渡さる 兼而勤王之志不薄就御政務御一新ニ付官代出仕勉励 之段神妙之至被思召依之為功労賞賜此品候猶何時被為 召儀可有之候間此旨可相心得候事  赤地金欄一巻 御文庫入御印籠一御盃一個 右の品々坊城卿よりして伝賜なり八月藩に帰り再たひ隠居 す同月当分藩公の供を免せられ猶時宜に依り上京を命す る事あるへしとの藩命あり明治二年九月朝廷より仰せ出され し旨ニ而春岳公より使を以て左の通授附せらる 太政複古之時ニ際シ其藩ヲ助ヶ力ヲ皇室二尽シ候段叡感不浅仍 賞其功労禄四百石下賜候事   高四百石  依功労永世下賜候事 三年四月本藩両公より左の通り仰せ渡さる  丁卯之冬皇室御維新事務多端之際日夜奔走尽力  之勤労不少仍御賞典之内百五十石永世分授候事 四年より阪井郡阪井港の南宿浦へ別荘を卜し爰に閑居 風に吟月に嘯き亦世事を云はす 明治十年天皇京都に行幸あり暫く爰に鳳輦を駐め させ玉ふ則旧藩主春嶽老公には天機伺ひとして東 京より京都に出られし砌翁にも天機伺ひとして宿浦 の閑居より京都に上られしが天顔拝謁仰せ付られ且 一新の際国事尽力の段叡感在せらるゝ旨を以て金 七拾円羽二重一疋を賜ふ春嶽老公東に帰らせられん とする途次車を枉けて福井に来寄せらるゝに供し翁 にも帰福せられ常に陪従す老公其閑居の風流を 称慕せられ親しく宿浦の閑居に臨ませられ波音 艪声の中に風流を談じて一夜を明されたるが頓而 東に老公の帰らせられしや翁又之に供し上京す 同年十月三日翁当東京に滞留の中病に罹られし が嗚呼終に卒去せらる時に歳七十一聞もの歎惜せ ざるなし則ち品川海晏寺中旧藩主松平家の 墳墓地に神蔡す同月廿三日遺族令子中根牛介氏 へ思召を以て祭資料金五拾円を下賜せられ 本年三月六日左之通栄典   故中根雪江 積年力ヲ国事二尽シ大政維新之際励精職ヲ奉シ 功労不少依テ特旨ヲ以テ従四位ヲ被贈候事 明治十八年三月六日    大政官    故中根雪江    贈従四位 太政大臣従一位大勲一位公爵三条実美奉 明治九年十一月発兌名誉新誌第二十号翁の事績と題 する文中に記して云へるあり曰く嘉永六年癸丑六月亜米 利使節へルリ其国大統領の書簡を齎らし来りて和 親貿易を請ふ時に幕府其齎らす所の国書を諸侯 に示し各自の異見を問ふ時に諸侯伯開港を是と する者少き概ね皆鎖港攘夷の論にして物情騒然たり 君《割書:翁を|さす》或日春嶽公の前に伏して曰臣倩々世の形勢を 見るに今や国家艱難の時に際し禍ひ爰に萌芽せり 天下皆消壌を主張して其勢ひ実に止むべからす臣 の見ハ甚だこれと異なり依て誠に我皇帝陛下より 米国大統領に答る書読に擬する一篇を草せり是臣 の志の存する処願くハ一覧を賜へとて懐より一書を差出し ける其書の略に曰く時に亜米利加大統領の請求に応じ 我国に三港を開くへし欧州格国へハ米国より是を通報 し皆来りて貿易そ為さしむへし今鎖国を変して開港を 許すに於てハ互に信義を以て交際を厚くし貿易を盛ニ し欧米諸州と往来し我よりも公使を各国へ飲差すべし と云々これ其大意にして其他の件々何れも開明の説なら さるは莫き公閲し終り冊を掩ひ沈思すること良【やや】久しく 莞爾として曰く汝これを舎ㇽ今日の勢ひ如此慎んて 世の嫌疑に触るゝ事なかれ速に之を火に投せよといふて其 書を返へされたりし又云へるあり曰く春嶽公人に語て云ク 予田安の館より当家の養子と成りし時年甫て十一歳 なりし或日雪江予に告て曰く若は民の父母にして民ハ 君の赤子なれハ願くハ之を虐け之を欺むくこと勿れ事 ハ志に因て成る者なれハ志の一字ハ常に忘るゝ事勿れ上は 幕府へ忠節を尽し下は一国を治め衆庶【?】をして安か らしむるこそ国君の職務なりと其言温にして其事甚だ 厳なり今に於て耳尚欹つ爾後予を補翼すること始 終一の如しヘルリが初て内海に来るや世論洵々【恂恂】たり当 時予も亦鎖港論なりしに雪江が擬答の一書能く 予提携すと謂ふへし雪江二十年前にして既に眼を全地 球上に上に開き蚤く【はやく】今日を洞見したる事正に是の如し 重く朝廷の抜擢を蒙むるも又宜【うべ】なり是予が面目となし 敢て雪江の為に誇言するなりと云云以上名誉新誌記載 する所信偽固より保せすす【衍】と雖とも今翁の小伝を畢るに 臨ミ暫く之を抜萃して其一分を補ふ       橋本左内       号景岳后景鄂亦黎園トモ云 嘉永五年壬子十一月廿九日父彦也ノ後ヲ襲キ藩ノ医員ニ 列ス後藩命ヲ以テ漢洋修学ノ為江戸ニ赴キ往還数 回安政二年乙卯医籍ヲ以テ書院番組ニ編入セラㇽ同三年 丙辰明道館教授兼学監ニ転シ同四年丁巳八月命ヲ以江 戸ニ至リ侍講及ヒ内用機密係並幕府諸有司往復ノ内使 ヲ奉ス同五年戌午正月外用ニ托シ出坂ヲ命セラレ途中姓名ヲ変 シテ桃井亮太郎又伊織ト称シ坂地ヨリ京師ニ往来縉紳家へ出 入 輦下有名ノ諸家へ交通シ時事ヲ論疏ス四月二日京師 ヲ発シ江戸ニ帰ㇽ八月十四日側向頭取ヲ命セラレ機密係故ノ 如シ爾来内外ノ機務晝夜鞅掌寧日無シ十月二十二日幕吏十 名藩邸ニ来り左内ノ曹舎中ヲ捜索シ文書類ヲ攫収シ帰 ㇽ後糺問数回六年己未十月二日揚屋入同七日処刑年 二十六千住骨ヶ原へ葬ㇽ後福井相生町善慶寺へ帰葬ス事 蹟顛末ノ記録及建議策文ノ類遺物ナシ藜園遺草二巻 刊行世ニ行ハㇽ而巳 一明治十八年九月  故橋本左内石碑建設ノ赴  聞食され 御手許より金百円橋本綱常へ  下賜     日下部太郎墓表 先是明治三年三月十三日我留学生日下部太郎病死于 米利堅合衆国生姓ハ木日下部其本姓初称八十八本県 福井人世仕旧藩為士族生幼而穎敏好読書略通 大義比成童忽以為文武不可偏廃也自是並講武 技志存義烈時幕命許藩人洋行就学藩因遣蓋 生好学且傍解読洋字故与此選於是生慨然辞其父 曰児今離膝下遠赴海外其如定省何然児聞之我 国之不振也不一日矣自中古足利氏失権英雄各拠 一隅以抗朝幕之命猶唐之於藩鎮遂歴織田豊臣 二氏以馴致徳川氏而徳川氏漸収其権天下不見干戈 已数百年可謂其功大也然与夫趙宋消除外権専帰 重於根本雖天下為之成小康至乎後年本末共弱不 能抗金元之兵同轍而一旦洋警海内騒然卒醸開 鎖之論以為天下之紛紜況我国之形四方環海古称 形勝然古今異勢今洋舶之利百倍陸馬而坐守孤 島以争区々無為也顧西洋各国其称開化畢竟 芸術耳其間称大才英傑者有幾人歟而児歳纔超 弱冠前途已遠矣自今尽力従事彼学何不成之 憂天如不捨他日終業與夫所謂称大才英傑者 博論万国之公法断以天下之大義而於彼我之 間【問ヵ】審明是非曲直以為皇国正名義豈不愉 快乎而彼今方各国競持無以相尚然独米利 堅合衆国之建国其本已正其俗亦重信義児将 先赴之大人幸自嗇莫以児為即復本性改太 郎直発我横浜港実慶応三年三月十五日也 已而到彼国也就新日爾塞新不倫瑞克之地 入其小学受業某氏纔閲歳遂登彼所謂拉 多牙大学其進歩之速至為彼邦人驚嘆事 聞会我 王政維朝議給其学費蓋生之就学也夙夜激励 祈寒暑雨未嘗頃刻廃業於是益責其志 幾忘寝食乃至以成病也臥猶手巻人或 諫止之生固不可尋病大発而終不起悲夫 生以弘化二年六月六日生享年二十有六於是与 生留学彼地者杉浦弘蔵伊勢佐太郎等与共 相謀就彼地以葬埋之而并其墓地之写真及生 在彼所看読書数百巻以帰送之此時会旧藩 請諸彼国遣其学師一員以来教藩内彼 国乃差額力非斯生於彼学兄事之者以故悉其詳 且額力非斯之来也持金章一牧以寄之生家蓋彼 国之命章而得之者恒施前衿以為得業之証 於其同盟之国咸以列之教官生之於学級次当以 得之而会病死故国命所謂云嗚乎生留学僅四年 其成業至此如仮之年以終其所学其必有與国輝 者焉然則生之死也豈特生之不幸也乎生乃父名 某号米斎与予固善一日為予請曰児已死異邦 又委之異土父子之情不忍措之欲為之建石於 先人墓側以為之表先生幸誌其一二予何可辞然 生方我国生徒洋行留学之初而苦学以致死則不 特我国其名已施各国予復何言乎顧今 朝廷創立南校施及各県皆設之学以講洋書然 学者概為利禄而至其志如生者天下有幾人歟是豈 朝廷之意哉因今為之概序其所以若【苦ヵ】学致死之意 庶幾使世之講洋書者有感発与起以継述其 遺志上以副 朝廷起学之意下亦生在数千里外異土之中喜以瞑 焉之表云明治六年七月敦賀県隠士東篁山守篤㯢【撰】     正二位慶永公ヨリ賜フ御自筆 太郎日下部君ハ幼ニシテ志ヲ英学ニ鋭リシ長スルニ及テ笈ヲ 米国ニ負ヒ「ニユーゼルセー州」「ニエーブラスウイツク」府ノ 大学ニ従事シ研精スル数年茲ニ蛍雪ノ功成リ漸ク名 声ノ殊邦ニ籍カントスルニ垂シ不幸肺病二罹リ一朝溘 焉終ニ起タス是ニ於テ君カ在学ノ日縝交知心ノ友朋 等懇ニ相謀リ墓碑ヲ其地ニ建テ以テ君ノ霊魂ヲ 不朽ニ安セリ于嗟彼誉【蒼ヵ】ヲシテ君ニ年算ヲ仮シ果シ テ今日ニ値ハシメハ其学愈邃ニ其識益高ク独リ 我郷閭【注】ノ学誉ヲ博スルノミナラス必スヤ国家ノ為ニ 観ㇽヘキノ裨益ヲ貽スモノアラントスへシ然リ而シテ苗ニシテ 秀テス夙ニ海外不還ノ客トナル嗚乎悲哉   二千五百三十七年十月              松平慶永 【注 村里の門の意】   八等以上之官給ニ当ㇽ医員 京都府療病院長       半井 澄 秋田県病院長    準医学士       吉田貞準 長崎県医学士        田代 正 長崎県病院長        吉田健康 福井県病院副院長      高桑 実 大分県病院副長兼医学教諭  魚住以作 青森県広崎病院長      魚住完治 岡山県医学二等教諭医学士  山形仲芸 岐阜県病院外科医長     佐々木曠 内務省衛生局三等試薬師   辻岡精輔 東京石川島監獄署医長    村上貞正 東京黴毒病院副院長     有賀琢二 福島県医学校教諭      辻岡直江 此所へ 官員外奏任以上ニ相当之職掌所々教員ニ 被聘又私立之学塾教頭諸会社之頭取ハ勿論 其向々諸員ニ而勉励之人書入度心算           右ハ                  長谷部礼二         長崎ノ教員    南部  ヶ様之人々           山田又三         郵船会社副支配人 加藤 亮           月給七拾円         高知学校     田口虎之助 【このコマ、文字無し】     和歌之部 一倭歌は  皇国ニ生れし人として必学べき業と  聞侍れと予ハ其道に疎く偶よみ出るも  皆ざれ歌にも成がたく又文章を綴るも  雅俗混交して道知れる人ニは恥かし  元より秀逸の本歌ニ至而ハ天地神明も感  応まし〳〵悪魔鬼神も降伏し猛キ武  士の心も和らけ其徳益の例之余多ありて  其道を学ハんには種々の階梯栞の 書やまと言葉や題林抄ふるき大人の 歌集文集数多の著書便らんには古体新 体万葉集抔好む所ニたがひハあるも手をもて ひくがことくにて皆実情をのぶるが主の よし 是ハ歌人の各知り給ふ事故爰に書んハいかなれど 我心に感せしゆへ一二首を誌す  いつの頃にや 堂上方の時鳥を聞んとて  行玉ふ時賊の如の案内まいらせしにそなたも  一首よめよかしと給けれハいとはぢらいたる  おもゝちにてわらわハ何も知り侍らすゆ  るし給へいらひけるを押返して勧められ  けれバ此女近き頃夫トに別れし由にて  取あへす   ほとゝきす迷途の鳥ときくからハ   もし太郎兵衛に逢ハせぬかや  と詠しけれハ  公卿の御方之其実情を感し今夜の  詠歌是より秀逸ハなしとて帰り玉ふとなり  又五摂家方之内江戸へ 勅使にて御下り之節花輪検校を召連れ られしに信州更科姨捨山田毎の月の 名所々へ立寄玉ひて  我心なくさめかねつ更科や  おは捨山に照る月を見て と 詠したまひ検校はいかにと仰けれは取あへず  我心なくさめかねつさらしなや  おは捨山に照る月を見で と 結句のてに濁り二点をくわへ文字を不綺 見てを見でと一音の裏返して御答申せし 斯る自在なるものにて「てにをはばどども を請る言葉を初総而仮名遣ひの文字は 篤く学ぶ事なれは古より諸名家の書を 博く見究め両京有名之大家尚所地 之先生等に便り我情の意を放れて親しく 尋ね学びたらんには実に面白き事ならん 然る処ことしより十あまり九のとせ前の頃 新たなるまつりことに改め玉ふ折からより よろつの事々変り果ぬるありさまを 旧弊に執着するにはあらざめれどむかし ありさまを後の代に至りてしらす成なんは いとかなしき事と思ふ心よりして昔より 福井のありさまを或は画き或は何事に よらす書綴りて一帖となし幾千代の末に 迄書継たらんにはと先の年東京 御両君公へ御覧に入しに 正二位老君公御序又温故帖と題号を 戴き尚あがた十五景の御詠歌又 御簾中様 正四位君公之御認を賜り しより年々追録の数多ある内当地 歌人の名句を残りなく書列ねんと思いひしが 其中には緬き名歌文作著述之書抔 秘蔵又時代々々の連中詠草之名列等可 有歟と心当り之向々心を尽して尋ぬといへとも 探り得ざればせんかたなく井上翼章 高野真斎先生高田保浄等之編集 又寄々持伝への書色紙短冊等を尋ね 朝倉義景公を初としての近来迄を書綴り しが右三名之外贈四位中根雪江翁は 別冊履歴に演る如く報国尽忠抜群之 功労有之曁諸書博覧別而 皇典を初歌道に執心若干巻之書籍を 秘蔵せられ後学之歌人他に依らずとも 此書冊を熟覧せんには大概歌道の 真意を学ふに足れり希は今后歌道 執心之方々温故之題号を賜われるを 元として寄々別会あるも一致して年々歳々 例会を催し透逸を撰んて書綴り幾万 歳之末々迄続けよかしと書初しは 明らかに治まる十あまり年の始の事になん 附表右本文に云中根家之蔵書今度東 京え引越さるゝに付尊志を以 佐佳枝廼御社え倭漢共悉皆之書籍 奉納有之に付而は有志之社中出納之規則 を厳にして拝借聊も汚穢麁暴之取 扱無之様にして拝見相当之御初穂を 献して返納又取替ては右之如くせば終又 社中一統之力らと成尚追々後進之輩 右同様本紙趣向の如くせば 佐佳枝廼御神慮にも被為 応(カナウ)第一 【右丁】  雪江翁の霊位満足且  當今歌道特別御引立被成下御趣意  ニも叶ひ蓋福井の福井たる繁昌の  基礎とも成なん歟と思ひのまゝを書  添侍る 【左丁】   松虫の音 略     朝倉左衛門督 日下部義景  朝倉院直作曲水宴 題早涼至 花流る昔を汲て山水に一葉をさそふ秋の涼しさ     日下部景記  朝倉九郎左衛門  同 同 峯の月 もろこしの遠ひかけをも手にとるや峯にうかへる月の盃     栂野吉仍   栂野三郎左衛門尉  同 水江の鷺 鷺のゐる芦邊涼しき柳陰この川つらに停ふみしたえ     宗澄法師   朝倉時人  同 号衣應 もらさしとつゝむ涙のから衣朽なん後やさていかゝせむ 【右丁】      龍崎宮ちよ 同 父の討死を歎き跡ゟ追腹切る時畳紙ニ書置 年十六才 子をおもふ闇に迷ふなまてしばし死出の山路を共に越なん      日下部景綱女   朝倉新太郎女 同 元亀元年近江国坂本城責ニ景綱戦死之跡を訪ひ行墓場にあり井ニ身を沈めてうせんの時 世を經なばよしなき雲やおほはなんいさ入てまし山のはの月      日下部景氏    朝倉掃部助 同 同四年同国北部にて敗軍の節刀祢坂嶽ニしるして 今宵われ露と消なば草の原月より外にたれかとふべき      鳥居景近     朝倉家鳥居兵庫助 同 義景君と共に大野六坊にてうせんる時息子與七刀祢坂ニうせたる事を思い出て さき立し小萩がもとの秋風や残るしつえの露さそふらん      鳥居景ちかゞ妻  鳥居兵庫助妻 同 同時ニよめり あるはなくなきは散そふことのはをわか身の上と思はさりはさりしに 【左丁】      藤原景宗     朝倉家 稲岡石見 同 二人の姫君を伴ひ一乗を出るとて妻のもとへ遣したる歌なり 涙よりほかにことはもなかりけりかねて思ひしわかれならねは      柴田修理亮    平勝家 太閤記 天正十一年四月志津ケ嶽の戦敗れ 同十三日豊臣秀吉城を囲まれし時 夏のよの夢路はかなき跡の名を雲井にあけよ山ほとときす      小谷方   織田内大臣信長公女            柴田勝家 同 同 さらぬたに打ぬる程もなつの夜の別をさそふほとときす哉      文荷齊   柴田家始號中村徳房 同 同 契あれや涼しき道にともなひて後のよ迄もつかへ仕へん      末盛方   柴田勝家姉 同 同時植村六左衛門供して竹田の里迄さられける時北ノ庄ニ當り煙立のぼりけるを見て生害之時 今爰にむそし餘の年月をたゞ一ときにかへしつるかな 【右丁】      柴田すりの鳧姫  勝家姪女」 母末盛方 同 同 おもひきや竹田の里の原の寄はゝうえ共に消んものとは      堀侍従  始號久太郎後左衛門督藤原秀政 同 天正六年豊臣太閤関白聚楽亭御歌會松によする祝 露の後猶あらはれん松かえの千世のみとりや今茂る葉      浄光公 權中納言従三位徳川參河守源秀康 同 同 玉をみかく美き里の松は幾ちとせ君かさかへんためし成らん      侍従藤原秀一  長谷川藤五郎 同 同 此頃當国東郷ニ在して東郷侍従となん云ひける 世々を經は植る梢も白雲をつねにかゝらん庭の山まつ      侍従源頼隆   蜂屋出羽守 同 同 此頃敦賀に在して敦賀侍従となんいひける 君をいはふためしに植し住吉のまつも久しきよゝの行末 【左丁】      少将  豊臣関白秀次公妾 當国の人 同  文禄四年秀次公は鳥野山辺ニてうせ給ひし時奉仕之女 六条河原ニ而切られし時 あめつちの其間よりうまれ来てもとの道にし帰る成けり      假名前 同上 同 夢とのみおもふが君にまほろしの身は消て行あはれ世中      清池君 越後中将光長卿女」大安公正妃 新百人一首 行逢恋 おもふぞよ逢見て後はとわかりもはては神さへつらからん身を      藤原三治  杉田主水 勘斎集 吹はらふ雲に入日の影見えて衣手涼しもりの下つゆ      藤原政方  有賀 同 一むらの梢も見えぬあけぼのは雲に道ある峯のかけはし 【右丁】      山本廣足  山本筒齋 同 はなさかふ夏野の草の茂けれは駒の尾髪につたふ白露      卜琴    氏不詳福井ノ人 同 よし野山木のもと毎にうつり行ひとのこゝろを花や恨ん      源維貞   馬渕亨苞 松の下葉 みなとえの芦間の波は道絶てこほりにつなぐあまの捨舟      豊紀公   従四位下侍従中務太輔源宗昌公 嬉しくも長かりけりな玉の緒の絶なばたえね人にあはめや      藤原澄孝  柏 伊勢 松の下葉 山賤は春ぞともなきこゝろにも折しるものは山峯のさわらび 【左丁】      故巌  始松園仕士渋谷酒之亟後謞居於島半邑 清女百首 われもうき音を社そゆれとりは鳴あつまの方に草枕して      平貞堅【ママ、賢】 川越宇右衛門 松の下葉 われならて住とも知らぬ山里のあらしの奥にころもうつ也      足羽政明朝臣 従四位下内蔵權頭 同 かつらきやしくれの雲は中絶て月ぞ夜わたるくめの岩橋      徳正公  従四位下左少将松平兵部大輔宗矩公 夏のよの月なき空の星かとも見まかふものは飛蛍かも      源雅辰  太田三弥致仕號朝倉岸雪 蟬吟集 もしほ草人のこゝろのあたなみにかきやるかひもあらぬ身そうき 【右丁】      うらの  豊臣関白秀次公妾少将仕女 同 秋深き今宵の月もあかさりし最中の影にかはらさりけり      藤原達良 本山桃齊 松の下葉 昨日越したらねはけふの麓にて恋の山路そ猶はてしなき      いはて  豊臣関白秀次公妾少将仕女 あだし世の人の心のあきかせにわか恋草は色もかはらす      小武廣堅 慶松友梅 松の下葉 契てし人のこころはあさころも今はまとをのおとつれもなし      赤尾治英 赤尾勘左エ門 同 こかれても身はあた波のよるへなき瀬路にまよふあまの捨舟 【左丁】      荒川景平 茶屋宗壽 同 うつり香の消すしもあれな小夜衣又あふ迄のうらみとおもへは      源 将武 松岡仕士山田軍治 芥舟六首 山深く住なす房は其ままにひかでねのひの房の松がえ      藤原久中 本多修理致仕號波守見 蟬吟集 はかなしやうきなはよそにたつは弓契し中の末もとをらで      小草女  川瀬五郎治母 同 軒はふく風にたよはき萩かえに散もひまなき今朝の白露      藤原保敬 有賀極人 同 契きれしらぬ旅路も花にのみなれ行袖の露のころも手 【右丁】      藤原保敬祖母  有賀極人祖母 同 あはれともいかでか人にしられまし浮世にはぢていはぬこゝろを      物部演祥  蜷川七郎兵衛 同 山深みわか住宿の淋しさもしのぶにあまるあきのゆふつや      源 直紀  太田丹治 同 秋風にふしの高ねの雲消て雪かとまがふあり明のつき      源 賢詮妻  芦田下野妻 松之下葉 沖津かせ浪もしつかに漕出て雲ゐにうかふあまの釣舟      いせの  某家仕女 たのましな嵐の庭の花よりもうつろひやすき人の心は 【左丁】      平佐賀  周防伊左エ門後号自反 蟬吟集 危さも今は中々わすられて恋路にわたる木曽のかけはし      平久竹  並河一九郎 同 見しを其かきりとしらば中々にあたに思ひの色は深しを      源 英長  小川治兵衛 重病中の歌 あだに消るものとものみえず置わたすをり小野の萩の上露      湛盈法師  吉江石田西光寺住寺【ママ】 月ニ對苔を慕 うしと見し世をしたはしの月の影幾めくり来つほし光に      小嶋紀盛  小嶋知策 小川英長の身まかりしをとふらひて 名にしおふ人の別をゝしてるや難波のあしも夢の世中 【右丁】      越智勝平  林又左エ門 松の下葉 さよ時雨もり社あかせ小山田の房の笹ぶき荒増る比      りさ子   伊東佐右衛門妻 袖之露 月夜よしまのゝ萩原わけゆけば袂に露の玉そくだくる      藤原廣武  近藤八右衛門 家集 一声を待得て遠く聞しより猶したはるゝ山ほとゝぎす      藤原孝章  狛 木工 松の下葉 おさまれる御代のしるしに民の戸もさらでや秋の月をみるらん      藤原成要  本多左門致號道入 蟬吟集 おしめたゞ霜にうつろふ色菊の後に咲へき花しなければ 【左丁】      平基喜   萩野涼左衛門致仕号露斎 仝 秋風のふかぬかぎりはさのみなと夏野の真葛うらみ果めや      藤原孝章妻 狛 木工妻 松の下葉 山涼みとひ来る人もあらし波ゆふへ淋しきまつの下菴      藤原宣持  澁谷権左衛門 蟬吟集 さゆる夜の月にこゆれば故郷にこゝろそかよふ白川の関      源 吉次  菅沼七郎左衛門 仝 あふと見る夢の浮橋それをさく渡しもはてぬ中となりぬる      平雅廣   多賀谷舎人 有明の月はかすみて咲花の色よりしらむみよしのの山 【右丁】      もと女  菅沼氏女 蟬吟集 おもひつゝまとろむ夢の手枕にうしやあたなる人の契は      足羽住夏朝臣 従四位下摂津守 松の下葉 笛の音にしらべてましを散比の花にとひくる宿の梅枝      源 興之 溝口郷左衛門 續采藻篇 夏風にうつろひやすき花よりも人にこゝろの置れやはせぬ      源 元敷 熊谷小兵衛号梅𦾔 【左丁】 松の下葉 すめは又都のそらもわすられて月になれたるあきの山さと      源 道張 笹川血治兵衛 續采藻篇 立うへる春の霞のころもきて袖ふる山は色まさりけり      源 友量 渥美新右衛門 蟬吟集 逢事は初花そめのかり衣身にふれてこそ色まさりけれ      源 満雅 大井弥太郎 同 あかなくに春の日数も過にけり野を起ふしの宿としてしか      藤原勝具 秋田八左衛門 續采藻篇 あはてふる程をうき世となかむれは涙の玉ぞいとなかりける      源 行忠 彦坂又兵衛 【右丁】 蟬吟集 なら柴のなれても寂し山里はまつのあらしの音はかりして      源 満堯  小笠原孫次郎 同 軒近きまつかせならて梅か香のうち驚かす夢も有けり      藤原 通  渋谷與五左衛門 撫子 なる神の音もはるかに雲消てまかきにのこる露の撫子      大崎信門  大崎岩之助 あたに吹袖の春風寒からて庭にうつふる花のしら雪      藤原勝徴  秋田左太夫 續采藻篇 わたつみの底もひとつにかすむかと見えてのとけき朧夜の月      源 周春  高田金太夫 【左丁】 あけゆくか波にうつろふかゝり火の光もともにしらむ月影      源 景久  大橋久左衛門 よもすから八重立雲と見えつるは花にあけ行そらめ也けり      平 静興  長尾順房 夕くれの君かしらへにかよふらしうら山しきは峯のまつ風      橘 尚常  福井神明宮神主」牧田主殿助 住人のこゝろもしらす女郎花草のまかきをへたてゝぞみる      源 氏暢  村田元作 萩の下葉 水くらさ玉えのあしのふしのまもかそふはかりにとふ蛍かな      藤原翼章  井上織之丞 【右丁】 萩の下草 あふと見る夢路はかなきうたゝねの枕に残る軒の梅がへ      ふさ子 高村兵右衛門妻 百人一題 おのつから散はうき世の雪そとおもふ花をしたふなりけり      撫子  長谷川太次右衛門妻 越路の花 かそふれは鐘はくもりてむら時雨ふるやのとほせあくる侘しさ      安女  長谷川彦三郎妻 我振袖 おもひ川なみの白ゆふかけてしもいはぬ宮なる山吹の花      岩女  蜷川元四郎妻 仝 咲にほふ花しちらすは故郷に春やむかしの色もみてまし      美衣子 堀江武右衛門妻 【左丁】 家集 手まくらにかことはかりの梅か香はたゝ春のよの夢にそ有ける      ゆみ女 三国港醫田辺泰房妻 家集 夏衣きつゝも寒し我宿の垣ねの雪と見ゆる卯のはな      伴峯行 醫青木松柏 蟬吟集 わたつみの沖つ白波よる〳〵はしらぬとまりの月をみるかな      白嶺法師 福井正満寺住僧 我振袖 山里は住かひありと見ゆる哉支直枝あまたのうめのはなかき      平知持 初醫山室松軒 蟬吟集 見るか中に霞へしつる難波江や行ゑもなみに浮ふ舟人      源信里 初醫長谷川雄斎 【右丁】 松の下葉 むさし野もかきりしあるをうき人に迷ふ心の末そ果なき      榮信尼  慶松廣完母 蟬吟集 葵のよをいとふこゝろのかくれ家にはらひもつくせ峯の松風      ひさ子  新屋 我振袖 草まくらかりねの床の夢をさへ結ひもあへぬはるさめの空      りさ子  市中 同 たりやとくしらぬ垣ねもとはれけりゆくてににほふ梅の一もと      坂野致知 金津米屋一郎兵衛 松の下葉 山峯の雲麓の霞いくえ猶おもひわけてもみよしのゝ山      浅田包知 金津午野屋弥兵衛 【左丁】 仝 今朝は又秋見し露の玉笹にむすひかへたり霜のさやけき      信夫女  撰者 梅かゝをはたしく袖のうたゝねにはかなやうかふひとの面影      諱君  紀伊中納言宗将卿女」正妃 せきとむるしからみもかな早瀬川水とゝもにそ春はくれ行    右は越路百人一首松虫の音 尚委敷は本書に    記せり 【右丁、文字無し】 【左丁】 一光道公御簾中清池院殿は武家第一之  歌人にて堂上にても東小町と被仰候よし 御辞世 よきことをきはめつくしてよきに今かへるうれしき                     けふの暮哉 題不知    かきなてし親のめくみにくらふれはわかくろかみのかす    は数かは    なゝくにうき名にかへて世の中に虫とりとゝまるなら    ひありとも    あすしらぬ身をはわすれて花紅葉ゆきをもかけて何おも    ふ覧    いにしへを思ふ心もなかりけりうしのとまやの秋の夕暮       倭人進賢人隠といふこゝろを 【右丁】     青葉のみかすそふ山のおりさくら花はしけみのうちに                         かくれて   御詠置の和歌十五首 早春霞  きのふけふ春にしられて東路やせきの名にたつ朝霞哉 春田雨  おやまたの苗代水やますらおか心にかなふ春さめの空 山家時鳥  忍ねはわれさへきかてこゝも猶世の外ならぬ山ほとゝきす 夕納涼  松陰は秋やかよひてまたきよりゆふへの風の袖に涼しき 七夕  たなはたは年に一夜もつらからし絶せぬ中の契り思へは 山家秋夕  ゆふくれは秋をは堪ぬ山なからうき世に帰るこゝろともかな 月前草花  影やとす尾花か露を吹からに月もみたるし野への秋風 初鳫  かへる山ありとたのめて故郷やわかれ心のはつかりのこゑ 【左丁】 時雨雲  さためなき世のことわりをかみな月うらふしくれの雲やみゆ覧 枯野  秋にみし千種の花のいろ〳〵にかれ野の露におもかはりして 遠村雪  一すちの煙はかりにすむ人のありとしらるゝ雪の山もと 歳暮  出とせをあたに暮してきのふけふおしむや何の心なるらん 祈逢戀  おもふそよむかしは物をとはかりにはてぬ神さへつらからむみを 不逢戀  あふことは思ひもかけす同し世に住むかりなるなくさみもなし 寄松祝   君のみそいくとかへりの花もみん松にちとせの陰をならへて   新院御所よみをきの哥御覧あられて前の十五首とめをかせ   給ひて即御憐みの御製下し給ふ  あるはなきならひもかなしうつもれぬことのはのみそ猶のこる世に 【右丁】  照髙院の宮もおなしく彼人の追善のためにとて金字心経  一巻光通朝臣のかたへおくらせ給ふその御詞書に  越前守なりける人の妻みまかりし後清池の二字を  法皇震翰【ママ、宸翰】をそめられ下し給ふる  新院もよみをきの哥ともの御座の右にありしと御覧あらせ  おはしましてあるはなきならひもかなしといふ御製御口す  さみありしかはひもとし月歌の事なとたつねられしを  おもひ出られて其人の菩提のためとこゝろさし金字  心経一巻送り侍し  おもへ出と色にそめしもそのまゝにむなしとゝける法のまことを 【左丁】    千とせの坂 年賀叙 百伝八十のかす〳〵は玉かきのうちつみくにの神 代をかけてゆえよしあることにや九重の雲の上うち 日さす大宮人も得しすさひ給ふめるいはゆる八十 まかす日八十玉籤八十伴男のたくひかそふへからす こゝに妻木氏相怒のぬしかかそのおきな壷友斎ことし 其八十のよはひをつもりの浦の老木の松とはに常盤に 色かはらぬ春まちえたるよろこひ露の袖につゝみ あまれは人のことのは花によせ松にたゝへて岩 【右丁】 ゐの水は祝哥を友とちにもとめて巻ふみに かいつめ千代の古道千世もつたへんと也迄を此おちや もとつかはねはちひろの陰の竹田氏にしてとほつ おやはみかはの国にうまれ名高のうらの名たか きを猶たらすとく唐船のたよりもとめて千里の 波にうきねの鳥たまりさためぬうちまくら青海 原をふりさけては故郷の月をみかさ山のむかし もおもほゆへくからりしてからにしきたちかへる さのつとに亀山のいくなをもへたへもて来し よりなよ竹の代〳〵いまたいさをしにえさるれは 【左丁】 こゝの都にうつろひにても足羽川のなかれそこひ ふかく家の風たゆます今もかもたゝむきのやしりを けつりはたむねもさきてふをかふる術をさへたな こゝろにをさむる心のまに〳〵碁をかこめるわさに さかしく軒はの萩の遠き昔をうひよたりの翁を も今に見る盤上のきよくにはおのつからおのゝえをも くたしつへしさるものからくぬかのみれしに名 にしおひてなそらふ人しもなつ引のいとやこと なきわたりにもましらひかつとつ国にもかすま へられしなさかるこしのおほ山こえきたりてなつ 【右丁】 さふ人もさはなりけらししかありてなしますけ 七十年のころたまのかとへにからふりをかけ世をゆ つる葉の色もかへす陰しけり行としなみをかけ てもありぬころ衣手はうらやすくにのうらやま                 さらんや    安永未の春むつきはしめ            源満尭のふる 【左丁】      寄花祝   本多方救  本多修理 さくら木の八十年をふれと春ことに老せぬ花の色そのとけき            僧 白嶺  正満寺 やそとせの花さく宿のあるしこそことしを千世のはしめとはせむ            鰐渕幸保  鰐渕茂左衛門 かはらしな八十年の春をふることに千代をかさねむ花の色香は            高畑信好  李八郎 萬代の春をためしに桜花おなし色香は君そ見るへき            久連松義安 猪吉 代々へてもふりせぬやとの桜花やそしのはるをいくかへり見む 【右丁】           大橋景久  久右衛門 かさねこし八十年のはるの花衣たもとゆたに千世をかさゝむ           牧田尚常  主殿 千年とも猶かきらしな陰たかきはこやの山の花のなかめは           福岡敷澄  帰白 あかねさす空もいろそふ八重桜九重にほへよろつ世のはる           いわ女   蜷川林左衛門娘 百とせもちかつく春の花園にはなさくら木そ色まさりける           やす女   長谷川氏女 咲にほふ千年の山のやま桜なを萬代の春をかさねむ 【左丁】           美衣子   堀江武右衛門母 光そふよし野の花の玉かつらかゝる色香は千とせともかな    寄松祝    本多方救 かきりなく久しかるへき老か身はちとせもちきる松にくらへむ           多賀谷雅廣 舎人 ともにへむちとせのかけそ此宿の松によはひやちきり置らん           僧 心賢  宰相 高砂の松の葉いろは常盤にてとしふる人のよはひくらへよ           近藤廣武  花隠 みとりそふ幾代すみえし高砂の松の言のは猶もさかえて 【右丁】           熊谷元敷  桜𦾔 やそとせの春も清見か関こゑて千世の緑をみほの松原           多森 温  太郎兵衛 八十とせの春をはしめに幾千世も色かへぬ軒の松にちきれよ           中村躬子  八太夫 梓弓やそのとし波こゆるきにちとせをまつの影は老せし           石川武久  弥五右衛門 八十年の春をこえてもときは山峯の松か枝いくよふるらし           大井満雅  弥十郎 幾代しをこしちの山の峯におふる松のよはひは君見はやさむ 【左丁】           比企栄禎  文左衛門 やそしへて色もかはらぬ相老に行末契れみほのうらまつ           小笠原満尭 孫次郎 とかへりの花さく春にあふみなる八十のみなとにたてる松かえ           江口幸趠  次兵衛 緑そふ千年の山の嶺のまつ猶幾かへりはるをかさねむ           熊谷元午  小兵衛 梓弓やそしの春の松の色を行すゑなかき友と見るらん           国枝信正  六太夫 行末のひさしかるへきためしにはきみかやとなる松そ色こき 【右丁】           山田英至  五平治 かきらしなちとせのやまの峯に生る松もろ共に人のよわひも           加藤 等  権太郎 あさな夕なめかれぬ庭の玉松と共にちとせの春をむかへむ           中村躬忠  十郎兵衛 八十年の春をむかへて色まさるまつかゑことに千世そこもれる           梯翼章   衛士 ねにせし松の昔はしらまゆみ八十年ふるえの陰そこたかき           勝澤政明  一益 ちとせとも限しられぬ松かえのかはらぬ色を友と見るへき 【左丁】           里見元知  青房 八十年をむかふる宿の松か枝にかはらぬ色を君やならはむ           山田 熙  金五兵衛 常盤なるまつのよはひを揃にてやそしの春は先そへにける           山田嘉覺  加兵衛 とよくにの亀のを山におふる松千世萬代のかすもかきらし           宇野就宣  其等 君かめてしまつの緑も色そひぬなをさかふへき行末のはる           渡邊 貞  有祐 松はかり年ふるものと思ひしになをかはらぬは君か齢そ 【右丁】           山田尚方  喜一郎 うつしかゑし千年の松は蔭高しやそしの後のかくれ家にせよ           撫子 長谷川多次右衛門妻 色かへぬまつのよはひをみほの浦にいく八十とせの波やこゆらん    父の翁の八十年の賀に寄松祝てふ題をえて    人々と共によみ侍りける   土岐相如 妻木宗伯 うつし植し二葉のまつともろともに千世萬代の春をかさねむ としみの賀跋 神風やいせをの海人のかりてほすみるめにあかぬ 【左丁】 ことのはの数々みはやす人々も共に千代ふへきこゝ ちそせんこゝに妻木氏それの君つまこもる八十年 にみちるへとも色もかはらぬ緑の竹みとり子の生たちも こよなきをみたり迄もたり給ひ中にも世をつき給ふ まねそみやかのわさのひま〳〵やまと哥をした はしう思ひ給へ今父きみのことふきにおもひよる かの池の水その源満尭のせここそまさき見国のた かねの空あかける代のたゝらをふみし難波津浅 かる心のしけみをもわかれ給ふる侍により給ひ老らく のきしかたをもあらはしきぬのあらはさしめはた此おほ人の 【右丁】 なかれを波もろ人の諸共にこしのうらわの松 の葉ちりうせぬ共とちのことのはをもみつからの 筆してかいつめつゝそのことはりを老の波よるもす からにすか原のいとかすかなるともし火のもとに 筆をとりて在明の月影をさまれるよつのうみ 波しつかなるときつ風軒はの梅もやゝほころひる 空のうちに堀江氏みえ子うや〳〵しうしるし 侍りぬ 【左丁、文字無し】 【右丁】      狂歌               足羽川浪                通称 古屋市兵衛   寛政年中江戸ニ而出板   新古今狂歌集之内      霞 天の戸をからりと明て来る春の跡よりたてる初かすみ哉      猿侯の讃 枯枝に猿か三疋三さかり其あひの手は手と手手とてと      大雪の降ける時 お雪さんおまへのふりに打こんてけふも来る日もかいてばつかり 【右丁】        心愛風屋叢書 巻之二  小武友梅 友梅名は廣堅にて小武氏なり慶松氏と屋号 せしなり此人姓山水を好み足迹は天下にあまねし とも云へしはしめ年十歳の時より獨身の旅行をなし かの伊勢大神宮に廿余度白山に七度紀の熊野 藝の厳島奥の松島丹後の橋立肥前の長崎神 社仏閣西三十三所の洞天最後には七十余にして冨士 を問訊し有徳の僧を尋て参禅ししは〳〵京師に まうのほりて縉紳之間に遊終に名を 天庭にまて聞へあけゝるとなん二十一歳の時にわか 【右丁】 足羽郡東郷といへるに 国君より地を給ふて松雪 軒といへるを営みしめをれりしより今もいや栄へ 侍るとそ     辛崎詣之記      中納言實禮卿供奉 詠歌数首     遊大場寺記  詩歌数首    延宝二年     遊大龍山宝慶寺記 大の郡 歌同断    同     遊菅山寺記 江州     右同断     訪相可瑱啓和尚 熊の路邊              あふか 右同断     神垣香合記 【左丁】     観世音誦文之記     世捨人の和哥     山家の名残 歌五首     西国三十三所詣     矢瀬の竃風呂 歌八首     茶の湯祝     伊勢参宮 歌三首     富士禅定略記 詩歌六首       〆 【右丁】    今度高田氏ゟ貰ひ得し井上翼章    大人の短冊 いたつらに過る月かのつもり来て   素良 くれ行としのなこりをそおもふ 【左丁】             小夜 此人何れの所何れの人のむすめともかの井上氏なる 松虫の音にさへ撰みもれぬれはいかんともせんもし しり給ふ人しあらはしめし給はなん文の詞にいとけなき よりみやつかへしまたきに世をのかれ侍れるものならし いわゆる情に發して礼義にとゝまる心を仏の道に ひるかへして柏舟の節をまたくせしものならんいと あはれにもまたたふとしともいふへきや     長き文に      歌十四首 【右丁】                  小川君郷 小川英長字は君郷次兵衛と称す詩哥とも堪能なり     遊足羽川序    宝暦九年     水切日記       詠歌数十種                  源 満尭     ちとせの坂序        小笠原孫次郎                 みえ子                  堀江武右衛門母     としみの賀跋 【左丁】                  知楽翁 大橋景久又悦通称久右衛門老て後知楽と云    寛政二庚戌弥生     一乗の紀行       詠歌十七首                市医 山室松軒 護摩堂のつた       詠哥数十首                  井上翼章 元は梯氏にて井上氏を継井上威之丞と称し其後素良と 改博聞強記にして著述する所の書数種あり 【右丁】 越藩史略名蹟考等世に聞へ侍る     高野真斎居士      心愛風屋叢書  巻ノ三                 安田鎮香      庚午道之記 江戸より甲州通り冨士山禅定之紀行五月廿二日 より六月廿九日駿河路相州小田原に出て帰宅細字廿九枚 【左丁】     高野真斎居士      心愛風屋叢書  巻ノ四                 僧 祐可      越前名所導者草序 須賀の跡のなかめわひぬる窓のもとにむかし見し こゝの花かしこの月の今さらに思ひ出らるゝを遠きわたり まてはる〳〵ともかすむ国の名所に遊ふ思ひにて 哥よまはやと人をそゝなかし侍る川ゐてにむかし国 津人の書置る文ともとりいてゝ見侍るに名所をも また名所ならぬをもふるの神杉すきし世に 人の物せる和哥あるはからうたなと残れる所々を 【右丁】 しるし置けるそか中にもたかふことそおしからめ今 いささか愚かなるからかへを添てをのれにひとしきうゐ まなひの道にわけ入るよすかともならはやと千ゝの ことのはをあつめ侍る巻の表帋にしるへ草と題し はへるもいとおこなるさならし    ことのはのくちせてこしの道くちわけいる人の                  しるへともなれ     文政五年後のむつき 【左丁】                千福寺祐可     天の橋立道の記    妻木陸叟 年頃久かたの天の橋立ふみ見わやと思ひわたりしに ことし文政十二の秋最中の月を彼所にて詠んことをほつし 葉月六日の朝かしま立して足羽のふもとを過行侍るとて  きのふけふ思ひ立ぬる旅衣足羽の神に何を手向ん   祐可  あすは山小柴さしつゝはる〳〵とけふ立出る旅の衣手 陸叟 玉江をよきりて  老か身にしるしてわたれ朝露の玉江の芦にそよく秋風 祐  出る日の光さやかに待とりてみかく玉江の芦の葉の露 陸 【右丁】 浅水の橋をわたり  水の音もふりくる空のへ雨りとて心とろ〳〵浅水のはし 陸  老の足にまかする旅の心みにふみならし行浅水のはし  祐 これより閑道に杖を引て吉江の里にいたりけるにこの日あたゝ かにして夏の心地せらる老のくせなれは喉のかはきけるにまつ 春慶寺に方外大徳のかり居し給ふけるをとふらひふたりともに 常に煎茶をたしみけれは旅の用意に持けるたゝめる昆崙 さゝやかなる暮鼻星やらのもの取出て里のうなゐに清水酌せ 茶を煎して渇をしのきしはし物語し侍る程にはや西光寺上人 聞つけ給ひていさきませ日も半過ぬるはとて使もていそかせ 【左丁】 給ふに方外大徳案内せんとて打ともなひて彼寺にまうて けれは午の時も過ぬるに飯たうへよ酒のみてよともてなし 給ふにそうちくひつゝかたらふまゝに時移りぬれは余波おしくも 別れを告て立さりぬ夫より水落の駅にいてゝ鯖江に いたる爰にもしる人あれはわらくつはきなからとふらひ暫しか ほとかたらひてまかりぬ白鬼女川にいたり渡舟に打のり はるかにむかふを見れは日は西山に落かゝれり此の川いにしへは叔 羅川といひけるを年ふりて河筋すこし所かはり名もまた 白鬼女川とあらたまりぬとかや委しくは祐可かつゝりたる 越の名所道しるへ草にしるし置り 【右丁】  波の上に秋のにしきをしくら川峯の紅葉の影をうつして 祐  なみのあやに夕日の色をしくら川錦をひたす心地こそすれ陸 日もくれぬとて竹生の古府何かしの家にやとりけり今朝より道の程は やう〳〵五里に過されとさすかに老の足のつかれぬれはいさとくとてふし とに入ぬれと雪のほとはいとやすくもいねす行先また立出し 我宿のことなと思ひて  心あひの風の便りに告てましこよひ竹生の古府にふしぬと 祐  うきふしもこゝに忘れて旅衣竹生の古府に一夜ねにけり 陸    是より今庄木ノ目峠通り敦賀ゟ若狭路    丹後天の橋立丹波生野山城京都へ出淀川 【左丁】    舟にのり大坂に至り住吉堺の名所見廻り    又もとり夜ふねに乗伏見につき京都に出て    こゝかしこ見廻り尋ねなとして東し海道通り    九月五日帰    右往来所々にて詠哥百六十二首    心愛風屋叢書譲りて不記                陸叟  名は直妻木榮助と通称し家世外科医を  以て本藩に仕へ博學洽聞にして本草家の  學に長し老後茶を好み陸叟と自號し給へるにや 【右頁】              千福寺祐可 祐可上人は千福寺の住持にして老後菊恭 とも号し行法之余暇和歌を嗜み乞て学ふ ものおほし 【左頁】  心愛風屋叢書之内            勝沢 愿  むかしのこさの記并序跋         本書に譲りて略 真斎居士曰  わか友青互道人名は愿一順と申き筆くさ  の序の末にいひしことこの叢書はすきにし人の  残せし言の葉のみひろひあつむるにて現世の人  のをかひとむにてはあらさりきしかはあれとこの  昔のこさはおふけなくも五つ昔の  君のうみなし給ふける 賢夫人のなり行 【右頁】 給ひし事をたゝへけるにて万つ世の人のかた みとなしつへき事こそおほかめれはかの山に 何との名ところ馬やちのとをきちかきは 物かはかの愿口はしる玉を千いろのふちの そこにしつむへき事やあらんによと つゝしみてこゝに録しとゝめぬ 【左頁】 天保弘化嘉永の頃哥人会連の短冊寄々披し 集めしが猶此外に有へけれは追々書継給へ  子をおもふみちならなくに梅の花 師質   あやなくにほふやみはまとひぬ 中野靱負  はるの夜はおほろ月夜のそのまゝに 弘訓   しらむともなくしらみそめけり      禁中花  はるかすみ立かさねつゝ八重桜 福実   深くもにほふ九重の庭 おもひかね山路わけいる人にのみ 良載  きけとや峰に鳴ほとゝきす 平本作由右衛門     夏月 おほろけに見し月かけもいつの間に  ひかりすゝしき夏は来にけり     庭夏竹 庭もせに何夏草のしけるらん  友嶌  はなちかふてふ駒もあらなくに 渥美新左衛門 神無月そめし木葉の降そひて  道生 しくれもいろに出るころかな 三崎玉雲 いつのまに秋はいにけむ初霜の 從彦 今朝おきそめて冬は来にけり    行路雪 あし引の山路の雪にあとつけて   尚事  人よりさきにこゆるあさ朝かせ  心源    浦松 大君のいてまし所浦さひて     友嶌  いくよ経ぬらん住の江の松 【右丁】    遠千鳥 鳴聲も遠くなる海のうら千鳥        道生  波のこゝろに身を任すらん 老か身に衾を添へて星の名の        美鷹  よさむしれとや衣うつしむ    契恋                   高田弥市郎 このまゝに千代も経てましかはらしの    保浄  その言のはの空しからすは 【左丁】 東路のあふさかの関は君のみして      正裕  へたゝる恋の中そつらけれ    言霊舎うしの都に帰り玉ふけるとき    馬のはなむけによみてまいらせける 鳴わたる鳫をし聞は君をわか        良策  おもひこし路の侍としらなん      笠原    となり 朝なゆふな板井の水も汲なれて       尚事  こゝろへたてぬとなり也けり    椿の屋といへることを折句にして 【右丁】  月になれ花にうかれて君が代は    敬斎   のにもやまにも宿やしめなん   妻木      駅  雰ふかみあくとも知らぬ関の戸を   筒古   うま屋の鈴の音そこえ行 【左丁】                    正玄曙覧                     初 尚事                       五三郎 福井市中連月次會合之外飛騨の大秀 大人に学ひて倭章之道に上達し士商 各数多入門 御藩君公よりも御懇之恩命を蒙れり   数多作文有之内今夏に出すは    真斎居士心愛風屋叢書     静観者舎八勝詩歌の序     曙覧  伊邪那大神の桃に意冨加牟豆美命といふ  名を賜ひ磐余彦天皇の宇豆毘古命に槁根津日子といふ 【割書き表記は用いなかった】 【右丁】 名を賜へる皆其物其人の功績を賞給ふ餘り然る名をおふせ 給ひ後世まても語り続き言継かせて其功績の跡の 絶へらさらんやうにとおも 給はんの大御意にやあらん 我 守殿の被習給ふ御意の至り深き高野先生の 年ころいそしく仕へ給ふ直實心を愛しみ思ほしましけん 御いてましのついて其文庫に御めとゝめさせ給ひ打わたし 此筆きよしと見そなはしてすなはち文庫の名を静観舎と 呼ふへくまた静観舎の八勝をえりいてさせ給ひ 御自此文字を書せた給ひて賜はせたるを永く文庫にをさめ 奉り御倉棚神と持斎き奉らんとして其教子達はた世の 【左丁】 風流士に普く告しめしこれか八勝の哥も文もあらせ 給へりけるかやう〳〵つもりにけるを一巻の物となし給へるを 先つ頃おのれに見せ給ひいかてこの後に一言そへよとの 給へるによりさるうまし文を汚しなんこともなにも思ひたとう 受しかかすまえられたるうれしさにおふけなさも恥かしさも ふつに忘れてはしり書しつるなりけり  嘉永五年の七月 【右丁、文字無し】 【左丁】      皇学和歌        継軆天皇御子馬来田皇女ゟ四十七代        足羽神社神主        従四位上馬来田内蔵権頭足羽敬明朝臣  寛政十二壬子年正月二十五日生  享保七壬寅年十月二十八日叙従五位下任内蔵権頭  同十八癸丑年五月三日叙従五位上  元文四己未年九月二十二日叙正五位下  延享五戊辰年六月廿八日叙従四位下  宝暦五乙亥年六月二十七日叙従四位上  于玆敬明著明之書藉数多有ト雖モ草稿ニシテ巻冊未定ナリ  内一二ヲ書ス也    足羽社記   越前國式社地名考 【右丁】    續日本紀故事考   續日本後紀故事考    文徳実録故事考   三代実録故事考    日本逸史故事考    其他詩作和歌ヲ好ミ書ヲ能クシ齢老テ后テ    越路の翁ト称セラレタリ   宝暦九己卯年二月十日 齢八十八歳ニ而薨 右能書ゆへ色々のものを認頼しがある時鶴 乱の薬元結の看板を書て貰しにもといあり はくらみのくすりありとかゝれしを夫は片音 にて候くわくらんと御書被下と申けれはいやとよ 【左丁】 かように書置時ははくらみを病むものは 求に来る也鶴乱と知るものはかようなる賣 薬はのまぬ也是こそはくらみを病者の助け とはなれと被申けると也 【右丁、文字無し】 【左丁】     俳諧の部 一古池や蛙飛込水の音とは広遠意味  深重の句にて一応に悟り得へきにあら  されば誰しも只蛙の気色を学ひ身には  奇麗の模様を飾らす心は高き所へ  目を付貌は表裏の諂なく両手をつきて  跪き俗なる塵の中に遊ひ仮令目の前に  獲物あるも思案をせでは容易に捕らす  何たる作配にも害をなさず却而赤蛙は薬と  なりて只天沢を祈る而已又弓術の伝様 【右頁】 たる古実の程は知らされと蟇目の法を 行へば悪魔降伏の徳ある由小野道風は 蛙の根気に感して筆道の極意を極め 又住吉の明神は水に住む蛙迄倭国に歌 よまぬはなしと唐土人にのたまひける由 なるが又俳諧の元祖たる芭蕉翁は 古池や蛙の発句に又名を揚たり然る処 ことしより十あまり九とせ前の頃新なる まつりことに改め玉ふ折柄よりよろつの 事々変り果ぬる有さまを旧弊執着 【左頁】 するにはあらざめれどむかしのありさまを 後の代に至りて何事も知らず成なんはいとかな しき事と思ふ心よりして昔より福井の ありさまを或は画き或は何事によらす書 綴りて一帖となし幾千代の末々迄書継たらん にはと先の年 旧御藩 御両君公へ御覧に入しに 正二位老君公御序文温故帖と題号を 戴きあがた十五景の御詠歌を賜りし より追録の趣向数多ある内芭蕉翁以来 【右頁】 福井俳人の名発句等を残りなく書つらねんと 思ひしが其中には面白き名句文作綴りたる 書抔の秘蔵又は時々之連中詠草之名列等 可有歟と思当り之句に心を尽してた尋ぬと いへとも更に探り得さればせんかたなく 蕉翁の直門中村闇指雅氏初聞次第 書集しが其内馬童仙は当地に俳諧の開けし 元祖と見得て其末裔天井氏方に種々之 書類于今連綿秘蔵持伝へあり又帰一坊 之家駒屋氏も色々所持又旧藩御先代之内 【左頁】 豊仙院殿も御好被遊しや数多之発句 御認之大巻一軸前田家被召出之先祖 道通へ拝領于今持伝へり又其後 威徳院殿も格別御執心之由にて御俳号を 錦帯君と称せられし由なりしが江戸流の 流故歟当地に今御詠句聞伝へし人なく 御認之短冊抔頂戴し家も無之由故今聞 伝へし宗匠家其余之名句を書集めり 希は今後之俳連温故之号を戴けるを 元とし流派の別なく寄之別会あるも一致し 【右頁】 古池の水を汲揚蛙の行状を学び年々 歳々怠なく一会を催し秀句を撰みて 書綴り幾万歳之末々迄続けよかしと 書初しは明らかに治る十あまり九つの年の 始の事になん  附言  是は俳諧に入用之事ならねど蛙の園を以云  蛙合戦の事は昔より聞伝へしが嘉永四  亥年即江戸在番之節麻布之末笄橋  之辺に数万之蛙群りて寄集り如何なる 【左頁】  宿意にや敵味方と見得て双方に分れ種々  得物を持て決(勝負懸)する事連日之由聞へし故  役先之人実検指越されしに全相違なき  ありさまを見届証拠のため右蛙壱疋捕へ  酒樽にいれて持帰り夫々見せしが其大きさ  首尾之径手五寸計蟇蛙なりき  蛙の合戦は殺風のおこる前兆なりと聞しが  戦争にはならすとも翌々六年丑年即もまた  折返し在番非常之尽力せし騒動より  世体不穏形勢となれる闇合にてや有けん 【右頁】 一蛙は本文に言へる如く色々の徳あり殊に  蕉翁の名句もあるに三りに遠からぬ  丸岡にては如何成故事の訛にやドンク(鈍句)と  いふいとおかし            七十二翁              寺島知義 【左頁】    福井俳人古代ゟ之年号順            中村氏 闇指 品川に冨士の影なき潮干かな            祐海町 等哉   越人と同しく訪合て 蓮の実と供に飛入る菴かな   右二人芭蕉翁直同人 【右頁】            天井氏 馬童 ぬくふたる鏡にちりや         啼く雲雀            山宝氏 山流 秋もまた一葉に若し風の色            松平氏 玄駁 古草に降りかへもせす雪雫 【左頁】 さひしからぬ秋は菊あり 本多氏         紅葉あり  紅楓 蔦染めに窓もぬらすか   有賀氏       秋しくれ    桃流 蛙啼く声はくもらて   狛氏        花曇     只静 水仏やさらし物たる   霊泉寺        雪の中    己千衲 吹く中に松はすくれて  一色坊        青あらし 【右頁】 昼の鐘聞て開らくや   可推坊        冬の梅 立川や秋露かゆふへの  祐阿坊        打水か 一念の起らぬ先や    横山氏        ほとゝきす  旭周 人は雨に落付く雪を   勝沢氏        啼く蛙    露芳 常盤にも春の余計や   江守氏        松の花    葵由 【左頁】 山寺の春やさくらに   着川氏        参る人    孤雲 花ならて目をなくさめり 浅井氏        柳かな    李青 若芝やまた世の塵に  坂本氏        染みもせす  左状 露路建てそこへ植けり  中川氏        蔦若葉    暮山 花の色さまさぬほとや  跡部氏        春の雨    隣花 【右頁】 啼くも一羽聞くもひとりの  細井氏          閑子鳥    鷹化 若竹や日裏日表       岡部氏        わかる庭     松声 のとかさや翼休める     萩原氏         松に鶴     梨周 濁るかと覗く流れや     水野氏         おほろ月    志峰 もとの景に山はれて退く   東郷氏          霞かな    孤帆 【左頁】 竹植て影新しき       長宝院       月の窓       帰古  【以下は次ページ左頁に記載】 【右頁文字無し、料紙が半分のため前ページの右頁が見える】 啼くも一羽聞くもひとりの  細井氏          閑子鳥    鷹化 若竹や日裏日表       岡部氏        わかる庭     松声 【左頁】     歳暮の贈答       皐月庵 蓬雨 来年の事を言へは鬼か笑ふとの諺を思ふに只今日の 平生に遊ふにはしかしとこそされや鰯の頭に柊 さす夜の寿きもけふよ明日よと押よせけるか豆に とし数の算用もむつかしき例の二三子をいさなひ 二宇の閑窓を驚さんとの呼事におの〳〵一致ありしは 風雅に倍の貢とも称せんか我は其中の楫取 にして得手に帆風の持加減より今宵の趣向は伺ひ 得る    言の葉の種つと出さん宝船 【右頁】    答         二字亭 李青 やんら目出たやことしの暮は鬢につもれる雪も 降らねは額に寄る浪も荒す老に老は重ねても 心は和歌の浦に遊ひて田鶴の齢にあやからむには 頓て嘉例に鬼打豆の数も尽せす福は内へこされや こされと柊にさす鰯の頭に俳諧の信心を委ねて 閑窓にとしを守る折から其名に一字のゆかりある 蓬莱山の麓より言の葉草の種を積揖取の いさなひに二三子の水主も揃へは得手に帆風の帆を 引あけてやんら目出たやさつさ押せ〳〵と須臾の 【左頁】 間に一艘の宝船を二字の湊に碇をろして長き 世のとをの眠りを覚す談笑の高笑ひはやんら 目出たきとし忘にそ有ける    漕寄せて貰ふ恵みやたから舟     隠居の弁       同人 時節到来と言事ありて願ひの侭に隠居りなりし 有かたさは短き筆には尽せさるを人も嘸かしとは 祝ひくれぬさはされ隠居の名目の実に屈して深 山幽谷に世を遁れ八重むくらの門さしこめて 人には見へしと煩ひ証す分別もなく誘ふ水 【右頁】 あらは小船に棹さして王子猷の跡を追ひ折から の雪けしきを詠めはやの合点なれと舟を扱ふ 業に疎けれは危き事は聖人の誡めを守り巨燵 の櫓に陣を居へて寒気と疝気の敵を防くに 孔明か弾琴の智計も入らねは眠たき時は横になり 腹か減れは起て喰ふ寝ると喰ふとは若きより 心かけたる一芸なるをある日は宰予か浮名を取 或夜は廉頗か沙汰に預りほめる友あれはそしる 友あれともよきにつけあしきにつけ誰かは世上の 褒貶を遁れんや誉られて日を移しそし 【左頁】 られて年を越えやゝ春暖の進むにしたかひ 桃桜さく頃は老情おのつから引立てけふはさる方へ 召さるゝの明日は何某か来いと言われたの噓をつく 手に杖を携へてよろほひ出るは隠居に似気なき 笑ひくさも苦い顔して薬を飲み痛む腰を捺【擦ヵ】ら すより家内の為にはましならんと身勝手なる了 簡も御尤との挨拶にさすか恥入る時しあれと罪 なくて配所の月を見んといひし君も窓に日黒みて 白河の関を床しめる法師もたしかに歩行好の 思はくならんと又候身勝手の了簡に是らのかた〳〵 【右頁】 をさへ証人に立てよしなき事を書つゝり侍るは 尾の暮れか隠居の弁を残したれは其糟粕を 嘗て生酔のくたをまくに異ならねと誠に 隠居の翁といふは我名の一字にして我事なるとそ  于時天保二辛卯如月 【左頁】            二字亭緑山            《割書: 初李青|通称浅井弁左衛門》 似合はぬと言はれて着たき紙子哉            古音亭暮静            《割書:    帰童|通称桑山十蔵》 若草や世話なしに見る春の色 朝皃や見に来る人も静かいき  辞世          白雲斎岡鷺紀          通称細井守博 名月や枕よこさぬ泊客              左杖           通称坂本平左衛門 葉を摘まれ〳〵し跡や蓼の花          二老庵 松篝           初め蔦亭露暁           通称秋田三五左衛門 小春哉翌日を頼むは人心        糟粕集   編輯          皐月園孤雲          初 聴松庵又蓬雨          通称荒川十右衛門 霜白し岩にからみし蔦の骨            聴鳥舎有原            初 隣花             通称              跡部俊助 活て退く手際を無下に          落椿 【右頁】           白日亭孤帆            通称 東郷平太夫 朝の事忘るゝ頃やふしの花           四時庵暮江            通称 川地権行 姿から見付し秋や二日月           時雨庵祐阿坊            通称 大坂や 山嵐幾夜聞かせて今朝の霜 【左頁】           雨後庵帰一坊            通称 駒や善右衛門 暖かや蚤取合ふて親子猿 【右丁】                馬童仙                有底寓 鳳凰井                馬仙人 韋吹桐子                州之斎 塵狸閑                馬落童子 北湖隙人                ちくら閑人                京町 天野與三兵衛   たのしめや世をたゝちさの一葉も 【左丁】          一色坊                堂舎  岩芝                可仙人 呉老人                一乗町 出倉作次郎右衛門   身の針もつゝむけもなし花茨                可推坊                以乙斎                久保町 正源五郎右衛門   あのことく有りたき一重桜かな           為卜仙            市中閑            本町 荒木孫三郎 涅槃会に笑ふも山の無心哉           双巴坊 朝顔や先見るけふも無事の庵            以■【談?龍?】庵             木隠 代恵坊             本町 荒木祐右衛門 ちる筈と見れは悠有りけしの花             韋一              夏近舎              京町 天野与壱坊 かれ尾花十寸穂の名さへあはれ也             円意坊              淡水亭 伸也              聴雨舎              与力町 能勢比郎太夫 流行にそまぬ浮世を投頭巾           萁吹            皎月舎 甚睡           住町            多田甚右衛門 まつ嶋は見たれおしき命哉           香夢           金毛屋 可秋           江町 能勢一平 月代に海見かゝれはしくれけり           黄美園 古麦            初椎陰舎             通称生田準内 水と空音は合ふ日や雁の声            松落舎暁琢             通称三好久左衛門 紅梅の下たには立ゝぬ柳哉            木の葉猿?  編輯 【右頁】             諷々園百之              通称 飯塚市助 月晴れつく曇りつ果は時雨けり             古参              若思園  香堂              高低閑人              本町 山田 登 ちる花や誉ても見たりおしえたり 【左頁】 長崎?【折り込まれ判別困難】 基近曰此宗匠につき或時 威徳公宗匠へ仰には一句のうちへ五しきを こめてと御好みありしかは宗匠取あへす 一といろは花にあつげて西瓜かなと よみしさて西瓜の花は黄にして西瓜 の皮は青くその下タは白く身は赤く 核は黒く都合五しきになりたり 公いかにも名句なりと御意ありしよし    田辺平学大力之事 いつ頃の事ニ哉田辺家世代之内大強力ありて 江戸詰之節浅草観音へ参詣せしに其辺の 寺に釣鐘の供養ありて境内夫々之 桟敷を掛備物寄進之品々飾り立官吏 を初世話方之者厳重ニ詰切境内ハ参詣 人立錐の透間なく近隣屋根迄も見物 群集鐘楼ニハ数多の車力仕事師火方 之者大勢夫々之法被手拭等を揃音頭を 唄ひ一統同音金剛力を出し鐘を持上ヶ 龍頭を掛んとすれども容易掛るべき体 なき故平学己が力量ニ任せ弱き事と思い けんはからず大言を吐けれハ膽煎を初一同 腹立一応仛言すれども了簡すへき体なき故 最早此上ハ不及是非壱人力を以掛て見す べし乍去掛損ずれバ覚悟あり見事かけ たらんには各の命貰わんと言ければ 夫ハ無論之事無間違渡しべしと大勢同 音ニ而喚りける故覚悟を極め鐘楼へ登り 天井鑰釣等之工合を能々見計らひ伏せたる 梵鐘を何之苦労もなく傾け引冠りて 中ニ入けれハ衆人驚鎮り返つて見て居る内 静々動き出し無難ニ指上けれバ皆々恐怖 感歎之息をもせで眺め居しに龍頭掛らんと せしを勘考之体ニて元の如くおろして良 久しく動かざりけれハ如何せしやと諸人 種々に沙汰し混雑して相待内又々再び 動き出すよと見る間に見事ニ指上龍頭を 掛るとひとしく刀を抜放し約束の如く 所望せんと大音声にて呼りけれハ不容易 大騒動故世話方之者并役僧等只管仛【詫】入 且当日出席官吏迄倶々取成挨拶有之 ニ付無難ニ事済承知いたし罷帰候由 又 ある時両国おてゝこ芝居見物ニ入しに 桟敷ゟ唾をはき吸売【殻の略記】を落し種々無礼 をなし喧嘩を好む徒ものすれ掛りしを 堪忍して帰らんとせしに又木戸口に両 足を出して支へける故右両足と襟元 うなじを苦労もなくひつ掴ミ木戸外へ 持出幅狭き桟子の一ト間へ/力(チカ)らニ任せて 二ツニ折グツト押込ミ見返りもせで帰りけれバ 木戸之者跡ゟ附廻し姓名聞糺し右座元之者 罷越深く礼謝して申様彼レハ御覧之通徒を なし何業ニ不限御客へすれ掛り喧嘩を好 店先を妨候悪党ニ而今後之為懲皆々 挙而難有かり候段云いしと也 当務之応答首尾能相勤罷帰役揚之節 右麁忽之趣有体を仛申演何之御沙汰も なく相済しが其後御登城之折殿中ニて 双方之君公御出逢御使之御挨拶有之就而ハ 其節之御使姓名楠多門兵衛と承り候右ハ 楠公之血流由緒有之者ニ候哉と被尋けれバ 当君公御答夫ハ楠田門兵衛と申候ニ而可有之 全御取次之聞誤りならんと被仰けると也 又ある時加州候とかへ雨天之節御使者ニ罷越 退出之節取次之者式台鏡板迄見送り出 辞宜相済立んとせし時ブウ鳴りけれバ右 取次を初詰合之番士大笑ひせしを聞捨其侭 中雀門を出しが又立帰り玄冠之中央大音 声ニて申様只今之退出之節足袋の湿りニて 鏡板之鳴りしを各放疵【屁の間違ヵ】と御聞候哉殊 之外御笑ひし段遺憾至極ニ候拙者真の 疵ハ是で御座ると云ひ捨大キ成疵を二ツ 放ち悠々として帰りしと也          吉川蘭渓      極印屋 庄左衛門 此人ハ元一乗町土倉屋とか申方ゟ養子ニ行 極印屋家相続せしが敢而学問の沙汰ハなかり しか格別能書ニて歌道抔執心成しや度々 上京して堂上方を初有名之諸大家に 交り遊長之行状成しがある時京都へ登りかけ 三条通り上等之菓子屋へ腰掛茶を乞 口取を所望しける故通例之茶菓子を 出しけれハ今少し最上之製を出すへしと 金ニ任せ家製第一之品を見せけれハ気ニ 叶ひつまミてハ喰ひ〳〵〳〵けるが素々上等 之事故金高ニも相成るニ付亭主も案事けるに 殊之外仕立方を褒め価は何程ニ相成やと問 ける故気之毒之体ニ而弐両 幾(いく)らとか相成段 答けれハ何之思案もなく払ひて出行しゆへ 不審ニ思ひ店之者追かけ為附廻しに二 條辺何とか云旅籠屋へ向ふとひとしく家内 諸共飛出奔走して座敷へ通せし故右菓子 屋の丁稚只今御入之御客ハ何国之御方ニ候哉と 問しにあの旦那ハ福井ニて名高き豪家 極印屋庄左衛門と申御方ニて度々御上京当家 御定宿之由申を聞取一さんに駆戻り主人ニ 云けれハ早々袴羽織着極製菓子箱を 携へ右旅宿へ罷越面会を乞云ふ様私店 京都上等製出之仲ヶ間ニて数年来栄候得共 未タ当旦那之如き御方御立寄之事ハ聞伝 ニも承り不申儀ニ而実ニ我家益繁盛之瑞 相と存難有存御礼ニ罷出候尚御贔屓を願 ますと深額ひて帰りしと也 右之外美質滑稽之話数多あれとも第一之 家業ニ怠惰遊長ニ暮し不経済之行状ニ付 退隠蟄居の御咎を蒙り後分家して医 者を業として吉川蘭渓と称して畳町ニ住 せしと也右行状之人書残さんハ如何ながら餘り 話伝への多き人且格別之能書ニ付一話を 残す    久野   芸術手錬之事 右ハ旧藩柔術之師範家ニ而此人ハ文政 天保之比盛し先生格別名人ニて予も門ニ 入て指南を乞へり何年成しや江戸詰之節 美濃路起しの川場ニて舟荷物積込ミ の混雑人足ニ任せてハ前後手間取ニ付 手伝働しに至而小兵ながら恰好之様子 尋常之人ならずと思いしや相撲取之如き 大男後ろゟ無手と引抱へ旦那 斯(こ)ふ仕たらバ どふすると云いけれハ其よふな事でどふするも 【左丁、雪吊り図?】 【裏表紙】