金 《題:《割書: |様》続英雄百人一首 《割書:本鄕区本鄕六丁目帝【大赤門前】|会場 赤門俱楽【部】|絶版古書籍陳列【会場】|書舗 木内【誠】| 電話小石川五五【七三番】》》 【右丁】 緑亭川柳輯 諸名画集筆 新■【版ヵ】 續英雄百人一首全 東都書肆 錦耕堂梓 【左丁】 續英雄百人一首序 孟子有_レ言 ̄ルヿ曰聞_二伯夷之風_一 ̄ヲ在 ̄ハ頑父 ̄ニ 廉 ̄ニ懦夫 ̄モ有_レ立_レ ̄ルヿ志 ̄ヲ䎹_二柳下恵之風_一 ̄ヲ者 ̄ハ 鄙夫 ̄モ寛 ̄ニ薄夫 ̄モ敦 ̄シト宜 ̄ナル哉盛徳之化_レ ̄スル人 ̄ニ 也不_レ ̄シテ俟_二口 ̄ツカラ諭_一 ̄スヿヲ而教_二 ̄ム各句遷_一レ ̄ラ善 ̄ニ矣無 _レ他感_レ ̄スレハ之也夫易_レ ̄キ感_二-動 ̄シ人心_一 ̄ヲ者無_レ如_二 ̄クハ 我國風三十一言_一 ̄ニ己(ヲノレ)感 ̄シテ而後能詠 故 ̄ニ復能令_二 ̄シムル人 ̄ヲシテ感_一 ̄セ也深 ̄シ焉/曩(サキノ)日川柳 翁撰_二 ̄ス英雄百首_一 ̄ヲ既 ̄ニ行_二 ̄ル子世_一 ̄ニ今續 ̄テ而 【右丁】 輯_二 ̄ム是 ̄ノ編_一 ̄ヲ乃此先哲之雅章也若 ̄シ使_三 ̄ム 読者 ̄ヲ感激 ̄シテ而轉_二 ̄セ其心_一 ̄ヲ則自 ̄ヲ有_下 ̄ニ侔_レ ̄シキ聞_二 ̄ク  夷恵ノ風_一 ̄ヲ者_上矣乎/於(ア)戯翁之箸_二 ̄スル此 書_一 ̄ヲ亦世教之捷径 ̄ナル也哉刻已 ̄ニ成 ̄ル請_二 序 ̄ヲ於余_一 ̄ニ因 ̄テ贅_二 ̄シテ数語_一 ̄ヲ以弁_二 ̄シムト于其端_一云 嘉永己酉孟春   武陽 金水處士関口東作識                【印】【印】        龍 眠書【印】 【左丁】 よつの時いつか帰りて■英雄百首をゑりて■を せしに猶是に嗣んことを書肆のこひぬれは はからすもことかけせしよりをちこちに事実を たつねいにしへ葦原の乱にしふしに猛き ものゝふの旌旗の下にて風に吹し帷幕に 備へて月をなかめしことの葉を寄ぬれと多くの ふること聞もらし見及さる所もすくなからねそ ちさとの道たとりかたきを人に問ひ普く求て 續英雄百首とはなしぬしかはあれと■■【青きヵ】 渚の玉ひらふともつくることなく■【枝カ】番■もとつ 葉の手もとゝきかねてのこせるたくひ残多き 【右丁】 こえのあるやうなれとみて事を開事は天の道に 随ふにこそと目にふれしことのみをしるし歌の よしあしはしらねと八嶋の外波音高き比にも みやひをわすれぬやまと魂を感し且錯乱の 世のことしらぬ童に忩劇やすまぬ昔をさとし 今弓を袋にかくし劔を箱におさむる静けき 大御代のおゝんめくみをもしらせまほしく聊俚語を 添て心さしをのふれと拙にはちて汗顔きはまりなき ことにこそ              緑亭川柳【朱判】   嘉永二酉の春          ■■   ■岡書【朱判】 【左丁】 鐡石心肝錦繡腸 巧名藻思兩涼芳 干戈世上斯介在 須愧太平木偶郎  武南  金水釣客題【印】 我国(わがくに)の古(いにしへ)より神明(しんめい)の威徳(ゐとく)を信(しん) 敬(きやう)するもの御/恵(めぐみ)をかふむること すくなからず中にも天満大自 在天神は威霊(ゐれい)いちじるく萬(ばん) 機(き)を輔佐(ほさ)し文道を守(まもり)給ふ 御神なり好文木(こうぶんぼく)の名ある故(ゆへ)歟(か) 神慮(しんりよ)に別(べつ)して梅(うめ)を愛(あい)し給ふ されば神詠(しんえい)にも  梅あらばいやしき賤(しづ)がふせやまで  われたちよらん悪魔(あくま)しりぞけ また匂(にほ)ひおこせよと詠じ賜(たま)ひ て御愛樹(ごあいじゆ)も御跡(あと)を慕(した) ひ空(そら)をかけりてとびきたる など是(これ)心誠(しんせい)の不思議(ふしぎ)なる べし然(しか)るに世(よ)も末(すへ)になり 建久(けんきう)二年の春(はる)鎌倉(かまくら)の武(ぶ) 士(し)九州の押領使(おうりやうし)となり 爰(ここ)に来(きた)り梅(うめ)の枝(えだ)を折(おり) けるに其(その)夜(よ)の夢(ゆめ)に神人(しんじん) あらはれて 〽なさけなく折(をる)人つらし我宿(わがやど)の   あるじわすれぬ梅のたち枝(え)を 此神詠に彼(かの)武士 恐驚(おそれおどろ)き 後悔(こうくわい)して御 詫(わび)を申上 丹(たん) 誠(せい)を抽(ぬきん)で祈(いの) りしかは御 咎(とがめ)を 免(まぬが)るゝことを 得(え)たり誠(まこと)の 道(みち)といへる古(ふる) き教(おしへ)にそむか ず文雅(ぶんが)に心 ざしある輩(ともがら)は うるはしく神(しん) 徳(とく)を仰(あほ)ぎ敬(うやま)ひ 御恵(おんめぐみ)の幸(さいは)ひを  ねがふべき     ことなり 右大将(うだいしやう)頼朝(よりとも)卿(けう)世の政事(まつりごと)を とりて文を左にし武を右にして いにしへの法(ほふ)を兼(かね)そなへ敷嶋(しきしま)の 道(みち)に心がけ深(ふか)く春(はる)の花のあし た秋(あき)の月 夜(よ)ごとにつけて 物の興廃(こうはい)もしるゝは歌(うた) なりと八雲(やくも)の風を慕(した)ひ 陣中(ぢんちう)にも詠吟(えいぎん)たえず 文治(ぶんぢ)の末(すへ)陸奥(みちのく)の夷(えびす)を 退治(たいぢ)せんと大軍を卒(そつ)し 名取(なとり)川を渡(わた)り給ふ時(とき) 〽頼朝がけふの軍(いくさ)に名とり川 と詠ぜられ梶原(かぢはら)附(つけ)にとあれば 〽君もろともにかちわたりせん 景季(かげすへ)言下(ごんか)に是をつけけれ ば感(かん)じ給ふ事ひとかたならず かつまた白川(しらがわ)の関(せき)を越(こえ)給ふ時 関(せき)の明神(めうじん)へ奉幣(ほうへい)をさゝげ 景季(かげすへ)をめして当時(たうじ)初秋(はつあき)へ 能因(のういん)法師の古風(こふう)思ひ出 さるゝなり一首 仕(つかまつ)れとあり ければ 〽秋風に草木(くさき)の露(つゆ)を    払(はら)はせて   君がこゆれば     関守(せきもり)もなし 鎌倉(かまくら)どの聞召(きこしめし)て 槊(ほこ)を横(よこ)たへて生死(せうし) の街(ちまた)にありても風雅(ふうが) を捨ざるはいと優(やさ)し と引出物(ひきでもの)あまた たまはりぬ数(す)万(まん) 騎(き)の中に一人 面目(めんぼく) をほどこすこと  歌(うた)の徳(とく)有(あり)がたき    ことといふべし 【右頁】 祝部(はぶり)成茂(なりしげ)は日吉の社(やしろ)の称宜(ねぎ) なり承久(しやうきう)の乱の砌(みぎ)りに後鳥羽(ごとばの) 院(いん)の御 隠謀(いんほう)に組(くみ)せしよし申す ものありしにより則(すなはち)召捕(めしとら)れ鎌(かま) 倉(くら)に下して誅(ちう)せらるべきに定(さたま)り ぬ成茂(なりしげ)無実(むじつ)の讒(さん)に沈(しづみ)しを 歎(なけ)き日吉(ひよし)の社を伏拝(ふしおが)み 〽すてはてず塵(ちり)にまじはる影(かげ)そはゞ   神(かみ)もたびねの床(とこ)やつゆけき 此 歌(うた)を日吉の神前(しんぜん)にをさめ させしにふしぎや其夜(そのよ)北条義(ほうでうよし) 時(とき)の北(きた)のかたの夢(ゆめ)に老(おい)たる猿(さる)一ツ 来りて黒髪(くろかみ)をとり猿の 手にからみ鏁(くさり)を 以(もつ)て北(きた)の方(かた)の身(み) をいましめ大きに 怒(いか)り日吉の祢(ね) 宜(ぎ)成茂(なりしげ)罪(つみ)なき 者(もの)なるに囚人(めしうど) 【左頁】 たるによりて権(ごん) 現(げん)の御 咎(とがめ)なり と言(いひ)ける北のかた 夢(ゆめ)さめて驚(おどろ)き 大膳大夫(だいぜんのだいぶ)入道 覚阿(かくあ)に此事 を申 頻(しき)りに 成茂(なりしげ)が罪(つみ)を なだめ命乞(いのちこ)ひ ありてゆるされ 帰洛(きらく)に及(およ)び けり哥(うた)の徳(とく) 神慮(しんりよ)にかなひ 無実(むじつ)を消(け)して  一 命(めい)を助(たすか)りしは   いと有がたき      ことなり         けり 【右頁】 後醍醐天皇(ごだいごてんわう)重祚(てうそ)まし〳〵てのち都(みやこ)は合(かつ) 戦(せん)のちまたとなれば吉野(よしの)山に入り給ひ仮(かり) 宮を皇居(くわうきょ)としてあらたまの年立(としたち)かへ りても節会規式(せちゑぎしき)のさまもいとかなし く春(はる)もはやなかば過(すぎ)て御/庭(には)の桜(さくら) もやゝ咲(さき)出しを御 覧(らん)ありて 〽爰(こゝ)にても雲井(くもゐ)の桜さきにけり  たゝかりそめの宿(やど)とおもへど かく遊(あそば)していともわびしく過(すぎ)させ 給ふに世の中なほも騒(さわが)しく楠(くすのき) 新田(につた)名和(なわ)北畠(きたはたけ)の諸将等(しよせうら) 一致(いっち)して朝敵(てうてき)足利(あしかゞ)の勢(せい)を追(おひ) 退(しりぞ)け防戦(ふせぎたゝか)ふといへどもさらに 干戈(かんくわ)の休(やすま)る時なく此/皇居(くわうきよ)に 日(ひ)を重(かさ)ね給ふに折(をり)しも五月(さみ) 雨(だれ)ふりつゞき淋(さび)しさ増(まさ)る山 里(さと)に供奉(ぐふ)の人々も袖(そで)の かはけるひまもなく雨(あめ)も をやみなくふりつゞきければ 【左頁上段】 後醍醐天皇(ごだいごてんわう) 筆(ふで)を 染(そめ)させ   給ひ 〽此さとは  丹生(にふ)の 川 上(かみ)ほど  ちかく いのらば  はれよ さみだれ  のそら 斯(かく)詠(えい)じ 給ひしより 忽(たちまち)空(そら)はれ るのみか日(ひ) 影(かげ)うらゝかに なりしは御威(ごゐ) 徳(とく)といひ 御製(ぎよせゐ)といひ     ⊖ 【左頁下段】 ⊖ いみじく わたらせ 給ふ ことを 人〴〵 皆感(みなかん) 心(しん)せり 【右頁上段】 つるぎ太刀身に  とりそふるますらをぞ 恋のみだれの  もとにもありける 鬼神(おにかみ)もおそれおのゝく  くはがたのかぶとを  着(き)ける武者と      ならばや かしこくもたねをつたゆる     よろひ草  風はふけども    身とそうごかね ものゝふのやなみ   つくらふ小手のうへに    あられたばしる  なすのしのはら 【右頁下段】 あづさ弓  いるよりはやく 落(おつ)る瀬(せ)を八十  うぢ川と人はいふなり ますらをのゆすゑふりたて  いづる矢をのち見ん    人はかたり   つくがに【注】 【注 この歌は万葉集(364番)「ますらをの 弓末ふりおこし 射つる矢を 後見ん人は 語り継ぐがね」を引いていると思われる。】  武士(ものゝふ)の母(はゝ)の衣(ころも)を  こひうけて しなばかたみと   思ふのちの世 風きよくふきたち  まはすしら雲は 人をなびかふ  はたにぞありける 【左頁上段】 源頼義(みなもとのよりよし)は河内守/頼信(よりのぶ)の子にて勇(ゆう) 猛(もう)の大 将(せう)也/永承(えいせう)二年/奥州(おうしう)へ下向し 朝敵(てうてき)頼時(よりとき)を討取(うちとる)といへどもその子/貞(さだ) 任(たふ)勢(いきほ)ひ強大(けうだい)にして官軍(くわんぐん)戦利(せんり)を失(うしな)ひ わづか七/騎(き)に打なされ敗軍(はいぐん)の中にも 義家(よしいえ)の射術(しやじゆつ)神(しん)のごとく白刃(はくじん)を冒(をか) して重囲(てうゐ)を破(やぶ)る是に依(より)●各(おの〳〵)難(なん)を まぬがるゝことを得(え)たり九ケ年/苦戦(くせん) のうちに終(つい)に貞任(さだたふ)を討(うち)大軍を亡(ほろほ) し左りの耳(みみ)を切(きり)都(みやこ)に携(たずさへ)埋(うつ)めて堂(どう) を建(たつ)六條/防(ぼう)門(もん)の西洞院(にしのとういん)耳輪堂(にりんとう) 是也戦死/亡霊(ぼうれい)の為千/僧(そう)を供養(くよう) し仏像(ぶつぞう)を安置(あんち)し伊豫守正四位 下に昇(のぼ)る勇(ゆう)のみか風月の才にも富(とみ) ある時/難波(なには)の商人(あきひと)物売(ものうり)てかへるさに 〽あしもて帰(かへ)る難波津(なにはづ)のなみと いひければ頼義/言下(げんか)に 〽みだれ藻(も)はすまひ【相撲】草(ぐさ)にぞ似(に)たりける 永保(えいほう)二年十一月三日/逝去(せいきょ)八十八才 【左頁下段】 伊豫守(いよのかみ)頼義(よりよし) 都(みやこ)には   花(はな)の名(な)ごりを とめおきて     つたふ   けふした芝(しば)に  白雪(しらゆき) 【右丁上段】 武則(たけのり)は出羽国山北俘囚(ではのくにさんほくふしう)の城主(ぜうしゆ)に て清原真人光頼朝(きよはらのまつとみつより)の弟也 永承(えいせう) 五年 将軍(せうぐん)頼義より加勢(かせい)のことを申 込(こみ)しに早速(さつそく) 領掌(れうぜう)して一 族良等(ぞくらうとう)を 集(つと)へ一万余人を卒(そつ)し栗原郡営(くりはらこほりたむろか) 岡(おか)に至(いた)り将軍に謁(えつ)す此地 坂上(さかのうへ)田村丸 の勢を集(あつめ)し吉例(きちれい)の地(ち)なれば也 爰(こゝ)にて 軍術(ぐんじゆつ)を談(だん)ずる折から白鳩(しろはと)飛(とび)来りて 旗竿(はたさを)の上に羽(は)を休(やす)む是 弓矢(ゆみや)神の 示現(じげん)なりと諸軍 勇進(いさみすゝ)んで貞任(さだたふ)の伯(を) 父(ぢ)良照(りやうしやう)入道の籠(こも)りし小松の柵(さく)をおび やかさんと民家(みんか)に火をかけし所其火 城中(ぜうちう) に吹(ふき)こみ敵兵 周章(あわて)さわぐ折から 武則 兵(へい)を発(はつ)して攻寄(せめよせ)しに忽(たちまち)落(らく) 城(ぜう)におよぶなほ追々(おひ〳〵)軍功(くんこう)ありて平均(へいきん)の のち都(みやこ)に召(めさ)れて鎮守府将軍(ちんじゆふせうぐん)従五 位下を給はり貞任か所領(しよれう)六 郡(ぐん)の押(おう) 領使(れうし)となさる譜代(ふだい)の臣下まで忠功(ちうこう) の浅深(せんしん)に寄(より)て勧賞(けんしやう)を給はりけり 【右丁下段】  清原武則(きよはらのたけのり) 賤(しづ)の女(め)   が しづ  はた 布(ぬの)のぬきに    うつ うの毛(げ)の ぬのゝほどのせばさよ 【左丁上段】 源(みなもとの)頼実は頼光(らいくわう)の孫 頼国(よりくに)の子也頼 実の知音(ちいん)に説法(せつほう)をよくする僧(そう)の有 けるが檀越(だんおつ)も多(おほ)ければ財(ざゐ)に富(とみ)たりある日 その坊(ばう)に旅僧(たひそう)一人来り宿(やどり)を乞(こひ)ければゆるして 泊(とま)らするに夜(よ)に入り門の戸 荒(あら)やかに叩(たゝく)もの あり何ごとそと問(とふ)に使(し)の庁(てう)の使(つかひ)也是にやど する旅僧(りよそう)は世(よ)にしられたる盗人(ぬすびと)也 逃(にか)さば同(どう) 類(るい)たるべし夫(それ)を捕(とらへ)ん為 検非違使(けびいし)の判官(はんぐわん)むか ひたり早(はやく)明(あけ)よといふ故戸を明けけるに五六人 刀(かたな) 抜(ぬき)つれ主(あるじ)の僧(そう)を押付(おさへつけ)汝(なんぢ)はたらかば刺殺(さしころさ)ん 坊(ばう)中の物のこらず渡(わた)すべしと心の侭(まゝ)にさがし 取て馬(うま)七 疋(ひき)におほせて僧(そう)をも縛(しば)りのせて急(いそぎ) 粟田(あはだ)の山に連行(つれゆき)もし此ことさたせば三日が うちに殺(ころす)べしと山中に僧(そう)を捨(すて)て行(ゆき)けり扨 頼実は此 夜(よ)月にうかれてあゆみしがかの僧 の泣(なき)居(ゐ)し所へ来あはせ此 由(よし)を聞(きゝ)直(たゞち)に 盗人の跡(あと)を追(おひ)かけ三人を切伏(きりふせ)残(のこ)りになを 負(おは)せ難(なん)なく馬(うま)を引戻(ひきもと)し僧を助(たす)けかへ りし人也此歌 後拾遺集(ごしういしふ)雑(ざふ)に入る 【左丁下段】  右衛門尉(ゑもんのぜう)源頼実(みなもとのよりざね) 日もくれぬ  人も帰(かへ)   りぬ 山里(やまさと)   は 峰(みね)  の 嵐(あらし)の音(おと)  ばかりして 【右ページ上段】  門脇(かどわき)中納言/教盛(のりもり)は清盛(きよもり)入 道の弟(おとゝ)にて三位/通盛(みちもり)能登守(のとのかみ) 教経(のりつね)等(ら)の父なり武(ぶ)に猛(たけ)き人にて 平家の一門/都(みやこ)を落(おち)て後(のち)も備中 国/下道郡(しもみちこおり)の野(の)に五百/余騎(よき)にて備(そな) へし所四国九州の軍勢(ぐんぜい)源氏に心を 通(つう)じ二千/余騎(よき)教盛(のりもり)の備(そなへ)を取か こみて攻(せめ)けれとも事ともせず悉(こと〴〵く)おひ 拂(はら)ひ勇(ゆう)を震(ふるい)て淡路冠者(あはぢのくわんしや)掃部(かもりの) 冠者といふ二人のつはものを打取り 子息(しそく)通盛教経と一所になりて  再(ふたゝ)び主上(しゆぜう)を都(みやこ)へ還幸(くわんこう)の事を計(はか)る にその憲證(けんしやう)として正二位大納言 を送(おく)り給ひければ教盛/西海(さいかい)の波(なみ) 路(ぢ)行衛(ゆくゑ)さだめがたき夢(ゆめ)の世(よ)に此/昇(しやう) 進(しん)も又/夢(ゆめ)なりと此哥を詠(えい)じて位(ゐ) 階(かい)を御/辞退(じたい)申上て世をはかなみ 亞相(あしやう)にはなり給はず恩義(おんぎ)に一命(めい)を 捨(すて)て後(のち)の世(よ)に名(な)をのこしぬ 【右ページ下段】 平教盛(たひらののりもり) 今日(けふ)までも  あれば ある かの 世(よ)の  中に 夢(ゆめ)の うちにも ゆめを見る     かな 【左ページ上段】 新(しん)中納言/知盛(とももり)は入道/清盛(きよもり)の三 男にて一門第一の武勇(ぶゆう)の人なり元暦(げんりやく) 元年十月 屋嶋(やしま)にありて四方を 詠(なが)めしに蒼海漫々(そうかいまん〳〵)として眠(ねぶり)を おどろかし夜半(よは)の月 明々(めい〳〵)として水に うつる影(かげ)鎧(よろひ)の袖(そで)をてらし浦吹(うらふく)風(かぜ)に 磯(いそ)こす波高(なみたか)く行通(ゆきか)ふ舟(ふね)もまれ に月日 程(ほど)ふるにつけても都(みやこ)こひしくおぼ して此歌はよめり斯(かく)て屋嶋(やしま)の船軍(ふないくさ) いまだ戦(たゝかひ)なかばなるに阿波民部大(あはのみんぶのた) 輔(いふ)成良(なりよし)心 変(へん)ぜしかば味方 利運(りうん) なきをしりて人々に生害(せうがい)をすゝめ舟(ふな) 掃除(さうじ)をせさせ覚悟(かくご)の折から二位 の尼(あま)ぎみ先帝(せんてい)を抱(いだ)き奉りて入(じゆ) 水(すい)ありしかば知盛(とももり)今は心 安(やす)しとうち 笑(えみ)門脇(かどわき)教盛(のりもり)と目くばせして二 人とも鎧(よろひ)ぬぎ捨(すて)腹(はら)一文字にかき 切り海中(かいちう)へまろび入その勇名(ゆうめい)を 後(のち)の世にのこしぬ 【左ページ下段】 平知盛(たひらのとももり) 住馴(すみなれ)れし都(みやこ)の  かたは よそ なが ら 袖(そで)に 波(なみ)  こす磯(いそ)の松風(まつかぜ) 【右ページ上段】 本(ほん)三位中将/重衡(しげひら)は大政(だいぜう)入道(にうだう) 清盛の四男にて生質(せいしつ)優美(ゆうび)に して智(ち)勇(ゆう)備(そなは)り詩歌(しいか)管弦(くわんげん)に 高聞(かうぶん)せし人也此歌は都落(みやこおち)の節(せつ)北(きた) 野(の)の社(やしろ)へ参詣(さんけい)して今/斯(かく)九重(こゝのへ)を捨(すて)て 遠(とほ)き波路(なみぢ)に赴(おもむ)く此かなしみを神も昔(むかし) に思ひしもましまさんとなげきてよみし也 後(のち)重衡は運(うん)拙(つたな)く捕(とらは)れとなりて鎌(かま) 倉(くら)に下りしかども源(げん)二位ことのほかいた はり心を慰(なぐさ)めんため美女(びぢよ)をあまた 附(つけ)おかるゝその中に容儀(ようぎ)勝(すぐ)れし手(て) 越(こし)の千寿(せんじゆ)を昼夜(ちうや)側(そば)におかれ けれども糸竹(しちく)朗詠(ろうえい)のほか更(さら)に心を うごかさず旦夕(たんせき)に死(し)を待(まち)て仏名(ぶつめう) を唱(とな)へ後(のち)南都(なんと)へわたされ最期(さいご)の みぎり西の方へ時鳥(ほとゝぎす)の啼(なき)ゆき ければ  〽おもうことかたり合(あは)せん時鳥    実(げ)にうれしくも西(にし)へゆくかな 【右ページ下段】  平(たひらの)重衡(しげひら) 住(すみ)みなれし  古(ふる)き 都(みやこ)  の こひ  しさは  神(かみ)も昔(むかし)に   おもひしる    らめ 【左ページ上段】 後藤兵衛守長(ごとうびやうゑもりなが)は平家の郎等(らうどう)に て中将 重衡(しげひら)心づけて召仕(めしつか)ひ給ふある 時重衡 卯花(うのはな)に時鳥(ほととぎす)をかきたる扇(あふぎ)の 地紙(ぢがみ)を取(とり)出し是を張(はり)てまゐらせよと あれば守長 承(うけたま)はりていそぎはりける に分廻(ぶんまは)しをあしく充(あて)て時鳥の画(ゑ)の中 を切りけること深(ふか)く尾(を)とはねのみあら はに見えければ守長 誤(あやまり)しぬと思 へども取(とり)かへべき地紙(ぢがみ)なければ詮(せん)かた なく是を仕立(したて)てまゐらするに重衡(しげひら) しらずして参内(さんだい)し御前(ごぜん)にて其あふ ぎを遣(つか)ひければ帝(みかど)叡覧(えいらん)ありて無念(むねん) にも名鳥(めいてう)に疵(きず)をつけけるものかなと笑(わら) はせ給へば重衡 恥(はぢ)おそれ退出(たいしゆつ)して守 長を召(めし)よせことのほか折檻(せつかん)ありけ れば恐(おそ)れおのゝきとかくして此歌を進(まゐ)ら するに後(のち)重衡此よしを奏(そう)するにこと のほか御感(ぎよかん)ありければ後藤(ごとう)が誉(ほまれ) とはなりぬ誤(あやまち)の功名(こうめう)とは是なるべし 【左ページ下段】  後藤守長(ごとうもりなが) 五月闇(さつきやみ)  くら  はし 山の  時鳥(ほとゝぎす) すがたを人に  見するもの     かは 【右ページ上段】 弁慶(べんけい)は熊野(くまの)の別当(べつたう)湛玄(たんげん)の子にして 胎内(たいない)十八ヶ月目に出生(しゆつせう)す義経(よしつね)にした がひて無(む)二の忠臣なり学文(がくもん)に秀(ひいで) 能(のう) 書(じよ)の聞(きこへ)あり判官(はうぐわん)かま倉(くら)どのと不和(ふわ) になり北国(ほくこく)へ落(おち)給ふ時弁慶御 使(つかひ)して北(きた) の方 卿(けう)の君(きみ)の方(かた)へ参(まゐ)りしに卿(けう)の宮かこちて 〽つらからばわれも心のかはれかし   などうき人のこひしかるらん 此歌を聞(きゝ)て弁慶あはれを催(もよほ)し見捨(みすて) がたく女性(によせう)をも山 伏(ぶし)の姿(すがた)にやつし種々(しゆ々) いたはりかしづき遠(とは)き旅路(たびぢ)にともなひしは 武(ぶ)に猛(たけ)きに引かへて情(なさけ)ある心といふへし斯(かく) て主従(しゆう〴〵)十 余(よ)人 諸所(しよ〳〵)の苦難(くなん)をのがれ 漸々(やう〳〵)越後(ゑちご)の岩戸の崎(さき)といふ所につきて 海人(あま)のかちめといふもの取(とる)を見て北の方 〽よもの海浪(うみなみ)のよる〳〵きつれ   ども今ぞまことのうきめをぞ見る 此歌心よからずと弁慶(べんけい)返(かへ)しに 浦(うら)づたへの歌はよみしとなん 【右ページ下段】  武蔵坊弁慶(むさしばうべんけい) 浦(うら)づたへ波(なみ)の よる〳〵きつれ ども今ぞ はじ めて よきめをぞ      見る 【左丁上段】 義氏(よしうぢ)は清和(せいわ)源氏 式部大輔(しきぶのたいふ)義国(よしくに) より四代 足利(あしかゞ)上総介(かづさのすけ)義兼(よしかね)の二男にて 智勇(ちゆう)をかねたる大将なり父(ちゝ)義兼は頼(より) 朝(とも)公と連壻(あひむこ)にて北条(ほうでう)一 家(げ)ともあた しみ深(ふか)し足利一 類(るい)は和田 合戦(かつせん)にも 北条(ほうでう)の味方(みかた)にして由井(ゆゐ)が浜(はま)の軍(いくさ) に朝比奈(あさひなの)三郎とわたり合(あひ)力戦(りきせん)せしか ども義秀(よしひで)は死傑(しけつ)の者(もの)と悟(さと)りてその 場(ば)を避(さけ)諸所(しよ〳〵)の戦功(せんこう)人のしるところ也 又 承久(しやうきう)の乱(らん)には東海(とうかい)の先(さき)として 宇治(うぢ)をわたして軍利(ぐんり)あり且(かつ)頼家(よりいへ) 実朝(さねとも)ほろび給ひし後(のち)は足利(あしかゞ)のみは 八 幡(まん)どのゝ後胤(こういん)なりと北条家(ほうでうけ)にも 尊敬(そんきやう)することひとかたならず北条は 源家(げんけ)の被官(ひくわん)なれども足利(あしかゞ)は源家 の正統(せうとう)なりと重(おも)んずる者(もの)多(おほ)しゆゑ に義氏(よしうぢ)より四代の後(のち)尊氏(たかうぢ)天下の 権(けん)をとり正成(まさしげ)義貞(よしさだ)の上に立こと この謂(いひ)なりとかや 【左丁下段】  武蔵前司(むさしのぜんじ)義氏(よしうぢ) 霰(あられ)ふる  雲(くも)の 通路(かよひぢ)  風(かぜ)   さえて  乙女(おとめ)のかざし   玉(たま)ぞみだるゝ 【右頁上段】 大 監物(けんもつ)光行(みつゆき)は清和(せいわ)源氏豊前(ぶぜんの) 守(かみ)光季(みつすへ)の子也 父(ちゝ)は清盛に仕(つか)へければ 平家 滅亡(めつぼう)の後(のち)鎌倉(かまくら)どのこれを誅(ちう) せんと宣(のたま)ひしに一子光行は京(けう)の事に馴(なれ) 和歌(わか)をよくするを以(もつ)て頼朝(よりとも)召仕(めしつか)ひ 給ふ去(さる)に依(よつ)て光行 父(ちゝ)が一 命(めい)を乞請(こひうけ) て助(たすけ)たり斯(かく)て其後光行 承久(しやうきやう)に後(ご) 鳥羽院(とばのいん)にめされて関東(くわんとう)の大名へ院(いん) 宣(ぜん)の当名(あてな)又は副書(そへがき)などかきしこと顕(あらは) れ罪科(ざいくわ)のがれがたく鎌倉(かまくら)へ召下(めしくだ)され 清久(きよくの)五郎 家盛(いへもり)に預(あつけ)らるゝ光行が 嫡子(ちやくし)式部丞(しきぶのぜう)親行(ちかゆき)は鎌倉(かまくら)に仕(つか) へて父(ちゝ)が罪(つみ)をかなしみ慰(なぐさ)めて  〽きてとふもけふばかりなる旅ごろも   あすは都(みやこ)にたちかへりなん 光行かへし  〽たび衣(ごろも)なれきてをしきなごりには   かへらぬ袖(そで)もうらみをぞする 此 歌(うた)にも後悔(こうくわい)の色(いろ)見へてあはれふかし 【右頁下段】  源(みなもとの)光行(みつゆき) 武隈(たけくま)の  松(まつ)の  緑(みどり)も うづ   もれて  雪(ゆき)をみきと      や  人に   かたらん 【左頁上段】 式部丞(しきぶのぜう)親行(ちかゆき)は父が科(とが)いかゞなりゆく事 と案(あん)じ居(ゐ)たりしが北条(ほうでう)義時(よしとき)殊(こと)の外(ほか) 怒(いか)りつよく光行(みつゆき)は故右大将家(こうだいせうけ)の高恩(かうおん) を蒙(かうふ)りながら此 度(たび)の乱行(らんぎやう)に与(くみ)せし を頗(すこぶる)曲者(くせもの)なればはやく首を刎(はね)らる べしと下知(げち)ありければ既(すで)にその儀(ぎ)に決(けつ) す然(しか)るに親行(ちかゆき)北条の館(やかた)に参(まゐ)りて 某(それがし)多年(たねん)奉公の労(ろう)に宥(ゆん)ぜられ父が 死罪(しざい)を恩免(おんめん)下さるべくもし御 聞済(きゝすみ)な きに於(おい)ては某(それかし)が一命を先(さき)へ召(めさ)るべき旨(むね) 愁訴(しうそ)に及(およ)び其座(そのざ)たちさらず北条 父子 彼(かれ)が孝心(かうしん)を感(かん)じ許容(きよよう)したまひ 刑戮(けいりく)をとゞめ赦免状(しやめんでう)を給はる是を 聞くもの持(もつ)べきものは子なるぞと誉(ほめ) ざるものはなかりけり光行 父(ちゝ)光季(みつすへ)の 命を助る孝(かう)の徳(とく)是にてしるべし親 行 哥道(かだう)に名ありのち鎌倉(かまくら)営中(えいちう) にて源氏(げんじ)物語(ものがたり)を講(こう)ず 【左頁下段】  源(みなもとの)親行(ちかゆき) いたづら    に  行(ゆき)ては かへる  年月(としつき)   の  つもる   うき身(み)に  ものぞかなしき 【右ページ上段】 北條(ほうでう)相模守(さがみのかみ)貞時(さだとき)は道閑(どうかん)入道 時(とき) 宗(むね)の息男(そくなん)にて十四 歳(さひ)より家督(かとく)を つぎ文永(ぶんえい)十年 政事(せいじ)の加判(かはん)となり国々(くに〴〵) へ忍(しの)びて使(つか)ひを遣(つか)はし守護(しゆご)地頭(ぢとう)の善(ぜん) 悪(あく)を聞(きゝ)悉(こと〴〵く)民間(みんかん)の愁苦(しうく)を問(と)ふ夫(それ)より 年々(とし〳〵)百 余(よ)人の忍(しの)びを遣(つか)はすところ その使行先(つかひゆくさき)にて悪事(あくじ)ありしを貞時(さだとき) しらざりしが羽黒(はぐろ)の山伏来りて直訴(ぢきそ)せ しより使(つかゐ)の悪事を糺明(きうめい)して罪(つみ)に 行(おこな)はるゝゆゑ世の中 治(をさま)りて善政(ぜんせい)を賞(しやう) す又 筑紫(つくし)長門(ながと)等(とう)に探題(たんだい)を置(おき)西(さい) 国(こく)中国のことをつかさどりかつ又 異賊(いぞく) のおさへとす摂州兵庫(せつしうひやうご)の寺(てら)に平(へい) 相国(しやうこく)清盛(きよもり)の石塔(せきたう)は高大(かうたい)にして十 三 重(ぢう)なり銘(めい)に弘安(こうあん)九年二月とあ り彼塔(かのたう)は此貞時の建(たつ)る所にして 清盛(きよもり)薨去(ごうきょ)の際(きは)にたてしにあらず 貞時は執権職(しつけんしよく)を廿八年つとめ て応長(おうてう)元年四十一にて卒(そつ)す 【右ページ下段】  北条(ほうでう)貞時(さだとき) 吹払(ふきはら)ふ 嵐(あらし) に す  みて 山の端(は)の  松(まつ)より高(たか)く いづる月(つき)かげ 【左ページ上段】 千葉(ちばの)新介氏胤は千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)より 九代の孫(そん)にて代々(よゝ)下総の国を領(れう)し 武勇(ぶゆう)ある謀将(ぼうしやう)なり延元(えんげん)元年 足(あし) 利(かゞ)尊氏(たかうぢ)同 直義(たゞよし)大 軍(ぐん)を以(もつ)て上洛(ぜうらく) す新田(につた)義貞(よしさだ)同 義助(よしすけ)楠(くすのき)正成(まさしげ) 名和(なわ)長年(ながとし)等 拒(こば)み戦(たゝか)ふといへども 大 敵(てき)に敗軍(はいぐん)して都(みやこ)も内裏(だいり)も 炎上(えんしやう)に及(およ)ぶぜひなく御醍醐(ごだいご)天皇 叡山(えいざん)に臨幸(りんこう)あり千葉新介 供(ぐ) 奉(ぶ)となりて登上(とうじやう)す尊氏(たかうぢ)細川 定(でう) 禅を三井寺に遣(つかは)し叡山を責(せめ) んとす官軍(くわんぐん)新田(につた)北畠(きたはたけ)宇都宮(うつのみや) 等 律師(りつし)定禅(でうせん)を討(うた)んと三井寺へ押(おし) 寄(よす)る千葉新介は千 余騎(よき)にて正月 十六日 宵(よい)より志賀(しが)の里に陣(ぢん)どり翌(よく) 朝(てう)諸軍(しよぐん)に先立(さきたち)一二の木戸を攻破(せめやふ) り多勢(たせい)の中へ切て入り兜首(かぶとくび)二ッ打(うち) 取(と)り半時ばかり戦(たゝか)ひて一と足(あし)も引ず 討死(うちしに)して世に勇名(ゆうめい)をあらはしぬ 【左ページ下段】  千葉(ちばの)新介(しんすけ)氏胤(うぢたね) 人しれ   ず  いつ   しか  おつる    涙川(なみだがは)  あふせに     かへて   名(な)をながすとも 【右ページ・上段】  足利義詮(あしかゞよしのり)公は尊氏(たかうぢ)の嫡男(ちやくなん)にて二代 将軍(せうぐん)也/武威(ぶゐ)を四海(しかい)にしめし給ひまた 和歌に名高く貞治(ていぢ)三年卯月 住吉(すみよし)に参詣(さんけい)あり道(みち)すがら江口の里(さと) に舟(ふね)をとゞめ西行(さいげう)のふることを思ひ出て 〽をしみしもをしまぬ人もとゞまらぬ   かりのやどりにひとよねましを 長柄(ながら)にいたり古(ふる)き橋(はし)の跡杭(あとくい)など見て 〽くちはてしながらの橋(はし)のながらへて   けふにあひぬる身ぞふりにける 天王寺(てんわうじ)に詣(まうで)て亀井(かめゐ)の水をながめて 〽よろづ代をかめ井の水に結(むす)びおきて   ゆくすゑながくわれもたのまむ 住吉(すみよし)にいたり四/社(しや)の神殿(しんでん)を拝(はい)して 〽よもの海(うみ)ふかきちかひやひのもとの   民(たみ)もゆたかに住よしのかみ 和哥(わか)の道(みち)を守(まも)り給ふ神徳(しんとく)を感(かん)じて 〽神代より伝へつたふる敷嶋(しきしま)の   みちに心もうとくもあるかな 【右ページ・下段】 足利義詮公(あしかがよしのりこう) いはし水 た え ぬ 流(なが)れを  くみてしる ふかき恵(めぐみ)ぞ  代々(よよ)にかはらぬ 【左ページ・上段】 細川和氏(ほそかはかずうぢ)は細川八郎太郎 公頼(きんより)の 子也 延元(えんげん)元年三井寺 合戦(かつせん)の後 尊氏(たかうぢ) 毎度(まいど)戦ふごとに利(り)を失(うしな)ひ都(みやこ)にも足(あし) をとゞめがたく播磨路(はりまぢ)に落(おち)けるを正成(まさじげ) 義貞(よしさだ)追討(おひうち)にしければ尊氏 直義(たゞよし)兄(けう) 弟(だい)兵庫(ひやうご)へ退(しりぞ)き防(ふせ)ぎけるに九州勢足 利へ加勢(かせい)するといへども悉(こと〴〵)く敗軍(はいぐん)して 今は詮方(せんかた)なく足利(あしかゞ)兄弟兵庫の魚(うを) 御堂(みどう)におゐて自害(じかい)せん覚悟(かくご)なりしを 細川和氏しきりに是(これ)を諫(いさ)めて辛(から)う じて舟(ふね)に取乗(とりの)り筑紫(つくし)のかたに赴(おもむ)く 尊氏(たかうぢ)播磨潟(はりまがた)を見て  〽いまむかふかたは明石(あかし)の浦(うら)ながら    まだはれやらぬわがおもひかな 是を聞(きい)て和氏(かずうぢ)此哥を詠(えい)じて心を なぐさめ九州に落(おち)延(の)び再(ふたゝ)び大軍に て上(のぼ)り先敗(せんはい)の恥辱(ちゞよく)をすゝぎ足利の 代(よ)となせしは此和氏が功(こう)なりけり 【左ページ・下段】 阿波将監和氏(あはのしやうげんかずうぢ) 武士(ものゝふ)の これや 限(かぎ)り  の をり〳〵 も 忘(わす)れざりにし 敷嶋(しきしま)のみち 【右頁上段】 左馬頭基氏(さまのかみもとうぢ)は尊氏 将軍(せうぐん)の三男に して貞和(ていわ)五年十月 兄(あに)義詮(よしのり)公は京都(けうと) の政事(せいじ)を執行(とりをこな)ひ弟(おとゝ)基氏は鎌倉(かまくら)に下(くだ) りて関東(くわんとう)のまつりごとをつかさどる畠山(はたけやま)入 道 道誓(どうせい)と謀(はかり)て新田(につた)の一 族(ぞく)を探求(さぐりもとめ) 義興(よしおき)を武州にて討(うち)鎌倉(かまくら)を治(をさ)む尊 氏 直義(たゞよし)睦(むつみ)かりしころ関(くわん)八州を直義に与(あた) へ基氏を猶子(ゆうし)として鎌倉(かまくら)におき京都 静(しづか)ならざる時は関東(くわんとう)より兵(つはもの)をのぼせ天 下をしづむべきことに定(さだ)め置(おき)し也其後 尊氏直義 逝去(せいきよ)してより義詮(よしのり)基氏 の心をうたがひ打とけず基氏(もとうぢ)此ことを愁(うれ) ひ病(やま)ひに臥(ふし)ても医薬(いやく)を用(もち)ひずはやく 死(し)して兄(あに)の心を安(やす)からしめんと死(し)すこと を願(ねが)へり貞治(ていぢ)六年関東の宮方(みやがた)起(おこ) る故(ゆゑ)基氏 川越(かはこへ)を攻(せめ)んと欲(ほつ)すれども 病(やまひ)あるゆゑ一子 金王丸(きんわうまる)を名代(めうだい)として 発向(はつかふ)せしめその跡(あと)にて卒去(そつきよ)す歳(とし) 二十八 瑞泉寺殿(ずいせんじどの)と号(がう)す 【右頁下段】  左馬頭基氏(さまのかみもとうぢ) 靏(つる)が岡(おか)  木(こ)  高(たか)  き 松を  吹風(ふくかぜ)の 雲井(くもゐ)にひゞく  万代(よろづよ)の声(こゑ) 【左頁上段】 佐々木(さゝき)道誉(どうよ)義詮(よしのり)将軍を守護(しゆご)して 都(みやこ)にありけるに南方(なんはう)より楠正儀(くすのきまさのり)不意(ふい)に 京(けう)に攻上(せめのぼ)り御所(ごしよ)を取囲(とりかこみ)ければ義詮公 没落(ぼつらく)し給ふ此時 道誉(どうよ)も都を落(おち)けるが 我(わが)宿所(しゆくしよ)にさだめて敵(てき)の大将入 移(うつら)んと大(だい) 紋(もん)の幕(まく)を張(は)り畳(たゝみ)を新(あたら)しく敷(しき)かへ床(とこ)に王(わう) 義之(ぎし)の軸物(ぢくもの)を掛(かけ)一ㇳ間(ま)には沈(ぢん)の枕(まくら)に純子(どんす)【「鈍」の誤記】 の宿直(とのゐ)ものを取副(とりそへ)ておき十二 間(けん)の遠侍(とほさむらひ)には 魚鳥(ぎよてう)を取(とり)ならべ三 石入(ごくいり)の大 瓶(がめ)に酒(さけ)を湛(たゝ)へ 斯(かく)とりそろへ遁世者(とんせいじや)二人 留(とゞめ)おきて誰(たれ)にて も此 宿所(しゆくしよ)に入来らんものに一 献(こん)進(すゝ)めよと 巨細(こさい)に申おきけり程(ほど)なく楠正儀入来 りしに遁世者(とんせいじや)右のわけを申 迎(むかひ)入ければ 正儀(まさのり)是をきゝ恨(うらみ)ある当敵(たうてき)なれば火(ひ)を かけ焼(やき)すてべきなれど此 式(しき)を感(かん)じ庭(には)の 木一本も損(そん)ぜず畳(たゝみ)をも汚(よご)さず還(かへり)て居間(ゐま) に秘蔵(ひそう)の鎧(よろひ)と太刀一 振(ふり)をおき良等(らうどう)一人 止(とゞ) め礼を厚(あつ)くして道誉(どうよ)に返(かへ)しけり戦国(せんごく)に も両将(りやうせう)の礼を崩(くづ)さぬを皆(みな)感(かん)じけるとなん 【左頁下段】  佐渡判官道誉(さどのはんぐわんどうよ) さだめなき  世(よ)を  うき 鳥(とり)の  みがく   れて 下やす  からぬ 思(おも)ひ   なりけり 【右頁上段】 北畠 源大納言親房(げんだいなごんちかふさ)卿ははじめ伊勢(いせ) にありて南朝(なんてう)無二(むに)の御 味方(みかた)なり文武 とも衆(しゆう)に越(こへ)数度(すど)の戦場(せんじやう)に勝利(せうり)を 得(え)ぬことなし南帝(なんてい)の皇子(わうじ)宗良親(むねよししん) 王(わう)遠州(ゑんしう)より吉野(よしの)に入給ふを親房 より訪(と)ひ奉り菖蒲(あやめ)に添(そへ)て此 歌を奉りければ宗良(むねよし)親王 返哥(へんか)に 〽ふかき江もけふぞかひあるあやめ草(ぐさ)   きみが心にひくとおもへば 親房卿 常陸(ひたち)にありて軍務(ぐんむ)に隙(いとま)な き折(をり)からなれど神皇正統記(しんわうせうとうき)五巻を 作(つく)り吉野へ献(けん)ず吉野御所に行宮(ぎやうくう) 殿閣(でんかく)なく月卿雲客(げつけいうんかく)昇進(しやうしん)除目(ぢもく)の式目(しきもく) 殆絶(ほとんどたえ)んとす親房卿 常陸国(ひたちのくに)小田の 城(しろ)に居(きよ)して職原抄(しよくげんしやう)二巻を書(かき)又吉 野へ献(けん)ずこれにて百 官(くわん)位職(ゐしよく)皆(みな)掌(たなごゝろ) を指(さす)がごとし末代(まつだい)に至(いた)りて帝都(ていと)の亀鑑(きがん) とす両書(りやうしよ)とも文書(ぶんしよ)一巻 引(ひく)ものなく して著(あらは)すその博学(はくがく)これにてしるべし 【右頁下段】  北畠(きたはたけ)准后(じゆごう)親房(ちかふさ) わきて  たが 頼(たのむ)  心の 深(ふか)き江に   ひける菖蒲(あやめ)ぞ    根(ね)とはしらなん 【左頁上段】 高播磨守(かうのはりまのかみ)師冬は鎌倉(かまくら)基氏の 執権(しつけん)となり貞和(ていわ)五年五月 軍(ぐん) 兵(べう)を催(もよほ)し常陸(ひたち)小田の城(しろ)を攻(せむ)る 南朝方(なんてうがた)いきほひ強(つよ)しといへども師冬 方へかへり忠(ちう)のものありて開城(かいじやう)に及(およ)び ければかの国を切(きり)なびけ師冬 上杉(うへすぎ) 憲顕(のりあき)と共(とも)に基氏(もとうぢ)を補佐(ほさ)して かまくらの執権(しつけん)たり観応(くわんおう)元年 基氏(もとうじ)と不和(ふわ)になり甲州(かうしう)に立(たち)さる 管領(くわんれい)は憲顕(のりあき)一人となり師冬は 甲州 伴野村(ばんのむら)栖渓(すさは)の城(しろ)において 上杉能憲(うへすぎよしのり)と戦(たゝか)ふ信州 諏訪(すは)の 祝部(はふり)寄手(よせて)に加(くはゝ)り六千 余騎(よき)三 日三夜 息(いき)をもつかせず攻(せめ)ければ 城中(ぜうちう)労(つか)れ後詰(ごづめ)のたよりもなく 師冬 術計(じゆつけい)つき果(はて)て最期(さいご)の 一 戦(せん)はな〴〵しく敵(てき)を悩(なや)まし 腹(はら)一 文字(もんじ)にかき切(き)りて勇名(ゆうめい) を世にのこしける 【左頁下段】 初秋(はつあき)は  まだ 長(なが) からぬ 夜半(よは)なれば 明(あく)るやをしき   星合(ほしあひ)のそら    高階師冬(たかしなもろふゆ) 【右頁上段】 武田伊豆守(たけたいづのかみ)信武は新羅(しんら)三郎 の末(すゑ)武田の正統(せうとう)にて初(はじめ)信氏(のぶうぢ)と言 尊氏(たかうぢ)将軍(せうぐん)へ忠勤(ちうきん)の武士(ものゝふ)なり 延文(えんぶん)三年四月廿九日 尊氏(たかうぢ)薨(こう)じ 給ふ御子 義詮(よしのり)南方(なんほう)の敵(てき)と戦(たゝか)ひ 凱陣(かいぢん)して間(ま)もなきことゆゑ不幸(ふこう)を なげき愁(うれ)ひにしづみたる折(をり)から信 武 剃髪(ていはつ)して〽梓弓の哥を詠(えい) じければ義詮(よしのり)涙(なみた)にむせび  〽袖(そで)の色(いろ)かはるときけば旅衣(たびころも)    たちかへりてもなほぞつやけき かく詠(えい)じ歎(なげ)きの中へ勅使(ちよくし)下りて尊 氏へ贈(ぞう)左大臣 従(じゆ)一位の號(おくりな)を賜(たまは)り ければ義詮 則(すなはち)和歌にて勅答(ちよくたふ)す  〽かへるべき道(みち)しなければ位(くらゐ)山    のぼるにつけてぬるゝそでかな 始終(しじう)勅使(ちよくし)も聞召(きこしめし)て哀(あはれ)をもよ ほし此よし奏聞(そうもん)ありければかぎり なく叡感(えいかん)あられしといふ 【右頁下段】 梓弓(あづさゆみ)  もとの すがたは 引(ひき) かへ   ぬ 入(いる)べき  山の   かくれ家(が)もなし   武田信武(たけだのぶたけ) 【左頁上段】 氏清(うぢきよ)は山名 時氏(ときうぢ)の子にて武勇(ぶゆう)の人也 南朝(なんてう)の討手(うつて)に命(めい)ぜられ応安(おうあん)元年(ぐわんねん) より十二年 河内(かはち)紀伊(きい)に向(むかつ)て戦労(せんらう)を つくしければ八 幡(まん)どのゝ例(れい)に比(ひ)すとて陸奥(むつの) 守(かみ)に任(にん)ぜらる明徳(めいとく)元年十月氏清 宇治(うぢ)の別荘(べつさう)紅葉(もみぢ)盛(さか)りなれば将軍(せうぐん) を招請(てうしやう)す日 限(げん)を定(さだ)め御 成(なり)の催(もよほ)し ありけるに氏清の一 族(ぞく)満幸(みつゆき)偽(いつはり)て謀(む) 反(ほん)をすゝめける故 約(やく)を違(たが)へて病気(びやうき)と号(がう) し参(まい)らず将軍(せうぐん)宇治より空(むなし)く還御(くわんぎよ) ありて立腹(りつふく)なのめならず氏清是より 反(そむき)て旗(はた)を上(あげ)八幡山に陣取(ぢんとり)消息(せうそこ)の 序(ついで)に妻(つま)のかたへ此哥を送(おく)りけるに其返(そのかへし)に 〽よしさらば死出(しで)の中道(なかみち)へだつとも   むつのちまたによりもあはなん 氏清 強勇(がうゆう)なりといへども諸所(しよ〳〵)の戦(たゝかひ)に味(み) 方(かた)敗軍(はいぐん)し其身(そのみ)も一色(いつしき)が為に討死(うちしに)す辞世(じせい) 〽とり得ずはきえぬと思へあずさ弓(ゆみ)   引てかへらぬみちしばのつゆ 【左頁下段】  山名氏清(やまなうぢきよ) さてもその  ありしばかりを 限(かぎ)り と も しらで別(わか)るゝ  我(われ)ぞはかなき 【右頁上段】 斯波(しば)治部大輔(ぢぶのたいふ)義将(よしまさ)は尾張守(をはりのかみ)入 道 道朝(どうてう)の男也二 条(でう)勘(か)ケ(て)由小路(のこうぢ)武衞(ぶゑい) の陣(ぢん)に居(きよ)す仍(よつ)て武衞家(ぶゑいけ)と号(ごう)す天下 三 職(しよく)の一人也 永徳(えいとく)二年 従(じゆ)四位下左兵 衛 督(かみ)に任(にん)ず文和(ぶんわ)二年七月 越中(ゑつちう)に 桃井(もゝのゐ)直和(なほかず)将軍の命(めい)に随(したが)はざれば 義将(よしまさ)彼國(かのくに)に走(はせ)向(むか)ッて数度(すど) 戦(たゝか)ひて これを誅戮(ちうりく)し是(これ)より越中に陣(ぢん)を 張(は)ること九ヶ年 應永(おうえい)六年大内 義弘(よしひろ)野心(やしん)につけ氏清の二男 満(みつ) 氏(うぢ)等 蜂起(ほうき)して乱(らん)に及(およ)ぶ此とき義将 即日(そくじつ)走(はせ)向(むか)ッて堺(さかひ)をしづめて軍(いくさ)を をさむ三代 義満(よしみつ)公の治世(ちせい)永和(えいわ)に 菊地(きくち)を攻(せめ)又は鎌倉(かまくら)の満氏 叛(そむ)き 明徳(めいとく)に山名一 類(るい)應永(おうえい)二年 小(せう) 貮(に)大友 千葉(ちば)謀反(むほん)同六年には 堺(さかひ)乱(らん)その後(ご)飛騨(ひだ)の国に藤尹(とうのたゞ) 䌫(とも)に至(いた)るまで義将 執事(しつじ)とな りて軍馬(ぐんば)の労(ろう)多(おほ)し 【右頁下段】 斯(し)波(ば)義(よし)将(まさ)【注】 春(はる)はなを  咲(さき)ちる 花(はな)の 中に  落(おつ)る 吉野(よしの)の    瀧(たき)も  波(なみ)や    そふらん 【左頁上段】 相模守(さがみのかみ)清氏(きようぢ)は和氏(かずうぢ)の長子(てうし)なり 文和(ぶんわ)二年 山名(やまな)時氏 其子(そのこ)師氏(もろうぢ)と 謀反(むほん)して南朝(なんてう)方(がた)となり伯耆國(はうきのくに) を打立(うちたち)南方(なんばう)と諜(てう)じ合(あは)せ京都(きやうと)へ 攻(せめ)上(のぼ)りければ防(ふせ)ぐ事あたはず北帝(ほくてい) を伴(ともな)ひ奉り義詮(よしのり)東国へ落(おち)ける に敵(てき)追(お)ひ来(きた)ること烈(はげ)しく防(ふせぎ)かねける を清氏 力(ちから)を添(そ)へ北帝(ほくてい)を背(せ)に負(お) ひ奉りて美濃国(みのゝくに)垂井(たるゐ)に遁(のが)れて 皇居(くわうきよ)を造(つく)る延文(ゑんぶん)四年十月 仁(につ) 木頼章(きよりあきら)卒(そつ)して細川(ほそかは)清氏 武(ぶ) 家(け)執権(しつけん)となる南方 龍泉寺(りうせんじ)の 城(しろ)を攻落(せめおと)し後(のち)畠(はたけ)山 道誓(どうせい)と中 よからず都(みやこ)を退(しりぞ)き一たび阿波国(あはのくに)に 赴(おもむ)き四国を治(をさ)む佐々木 道誉(どうよ)とも 不和(ふわ)になり讒臣(ざんしん)の為 義詮(よしのり)公に 不興(ふけう)をうけ一たび南朝(なんてう)方(がた)となり 後(のち)同姓(どうせい)右馬頭(うまのかみ)頼之(よりゆき)が為に討(うち)死(しに) して果(はて)ぬ 【左頁下段】 源(みなもとの)清(きよ)氏(うぢ) 音(おと)だにも  秋(あき)には かは  る 時雨(しぐれ)  かな 木(こ)の葉(は)    ふりそふ  冬(ふゆ)や    きぬらん 【注 「義将」の読みは「よしゆき」が正】 【右頁上段】 大内(おほち)左京(さきやうの)大夫(だいふ)義弘(よしひろ)は従四位(じゆしゐ)上 に任(にん)じ周防(すはう)長門(ながと)豊前(ぶぜん)石見(いはみ)四ヶ 二年 内野(うちの)合戦(かつせん)にめさましき功名(こうめう) を現(あらは)せしによのその勧賞(かんしやう)に和泉(いづみ) 紀伊(きい)にも領地(れうち)を給はり同三年 南北朝(なんぼくてう)の御 和睦(わぼく)を調(とゝの)へ皇孫(こうそん)一 統(とう)のことをはかり五十六年の間(あいだ)の 鉾楯(むじゆん)をとり結(むす)び南帝(なんてい)を嵯峨(さが) 大覚寺(だいかくじ)にうつし奉り三種(しゅ)の神宝(しんほう) を再(ふたゝ)び京都へ帰入(きにう)し奉る此賞(しやう) に豊前(ぶぜんの)国(くに)を給はり従上(じゆしゃう)となる和歌を よくして新拾遺(しんしうゐ)に入ル應安(おうあん)五年今 川了俊(れうしゆん)九州 探題(たんだい)として下向の時菊(きく) 地(ち)以下(いか)の南朝方 了俊(れうしゆん)を討(うた)んとせし を義弘 加勢(かせい)して是を救ひ富(とみ)極く 奢侈(しやし)となり天道 満(みつ)るを缺(かく)の道理(どうり) なる歟(か)應永(おうえい)六年何の故もなきに謀(む) 反(ほん)を企(くはだ)て堺浦(さかいうら)合戦(かつせん)に戦死(せんし)す 【右頁下段】 さなへかな  袖(そで)にもとる   ほさぬ に   雨(だれ)  月(み) 五(さ) 早田(わさだ)の  ふるの ひかずのみ  大内介(おほちのすけ)義弘(よしひろ) 【左頁上段】 篠川(しのかは)右衛門督(ゑもんのかみ)持仲(もちなか)は鎌倉(かまくら)新御堂’(しんみどう) 満隆(みつたか)の子(こ)なり応永(おうえい)廿三年 前(さき)の執(しつ) 事(じ)上杉 氏憲(うじのり)入道 犬懸(いぬかけ)禅秀(ぜんしう)管領(くわんれい) 持氏(もちうぢ)の不興(ふけい)を蒙(かうふ)りて蟄居(ちつきよ)してゐたり しが持氏の仁恵(じんけい)なきを恨(うら)み持氏の 舎弟(しやてい)満隆(みつたか)をすゝめ逆意(ぎやくい)を企(くはだ)て 関(くわん)八州へ早馬(はやうま)を走(はせ)て味方(みかた)を集(あつむ)るに 直(たゞち)に十万 余(よ)の勢 集(つど)ふこれ執事(しつじ)の 判物(はんもつ)にては急(きう)に走付(はせつく)べき法(ほう)あるが ゆゑ也此大 軍(ぐん)にて持氏の御所(ごしよ)を夜中(やちう) に取囲(とりかこ)む持氏 忍(しの)びて豆州(づしう)走湯(そうとう)山へ 遁(のが)れ此 由(よし)京都へ注進(ちうしん)しければ将軍ゟ 関東(くわんとう)の武士へ御教書(みぎやうしよ)を給はりければ即(そく) 時(じ)に大軍 集(あつま)り犬懸(いぬかけ)と新御堂(しんみどう)を攻め けるに防(ふせぐ)ことあたはず禅秀(ぜんしう)親子 滅亡(めつぼう)に 及び満隆(みつたか)も自害(じがい)し給ひければ持仲は 此 謀反(むほん)の企(くはだ)てはしり給はねど残(のこり)とゞまる べきにあらねば最期(さいご)の辞世(じせい)にこの哥 をのこし腹(はら)かき切(きつ)てはて給ひぬ 【左頁下段】  篠川(しのかは)持仲(もちなか) 咲(さく)く時(とき)は  花(はな)の 数(かず)  には 入ら  ねども 散(ちる)には    もろき  山桜(やまさくら)かな 【右頁上段】 義勝(よしかつ)公は義教(よしのり)公の長子(てうし)にて母は 裏松(うらまつ)左府(さふ)重光(しげみつ)公の女なり義教公 赤松(あかまつ)満祐(まんゆう)が為に御 他界(たかい)ありければ 八 歳(さい)にて将軍 宣下(せんげ)ありてより山 名細川 守護(しゆご)となりて播州(ばんしう)白旗(しらはた)の 城に押(おし)よせ逆敵(ぎやくてき)赤松を滅(ほろぼ)し六条(でう) 河原(かはら)に掛(かけ)させられ御 幼年(ようねん)なれど武(ぶ) 術(じゆつ)稽古(けいこ)怠(おこた)りなく太刀打(たちうち)兵法(へいほう)馬術(ばじゆつ) 等(とう)日 毎(ごと)に行(おこな)はせ給ふ其ころ出雲(いづも)より 名馬(めいば)を献(けん)じければ是に召(めし)給ふに一 乗(でう)兼(かね) 良(よし)公 諫(いさめ)を入れて名馬(めいば)彼国(かのくに)より出ること 先例(せんれい)よろしからずと申し御 馬術(ばじゆつ)を止(とゞ)め申せど も御 聞入(きゝいれ)なく嘉吉(かきつ)三年七月廿一日 馬場(ばば) に責馬(せきば)二三 返(べん)のらせられける所此馬 俄(には)に 躍(をどり)て駈(かけ)出しければ御 落馬(らくば)ありて急(きう) 所(しよ)を打給ひけるにや御ん悩(なやみ)はなはだし く此哥を辞 世(せい)としてのこし給ひぬ 御とし十 歳(さい)にて薨(こう)じ給ひぬ天下の 人をしまぬはなかりしといふ 【右頁下段】  足利(あしかゞ)義勝(よしかつ)公 咲(さき)きてこそ  人も盛(さか)り     は 見(み)る べき  に あなうら   やまし  朝貌(あさがほ)の     はな 【左頁上段】 伊達(だて)光録(くわうろく)卿(けい)政宗は山陰(やまかげ)中納言(ちうなごん) 九代の孫 弾正(だんぜうの)少弼(せうひつ)宗遠(むねとほ)の嫡男(ちやくなん)に て文武に秀(ひいで)給ふ将なり南朝(なんてう)紀伝(きでん) に鎌倉(かまくら)満兼(みつかね)の舎弟(しやてい)を陸奥(みちのく)の 管領(くわんれい)として篠(しの)川の城(しろ)に下向(げかう)ありて 篠(しの)川の御所(ごしよ)と称(しやう)す然(しか)るに伊達(だて) の入道を軽(かろ)しめたるよしにて礼式(れいしき)の 薄(うす)きを心よからず思ひ下知(げち)に応(おう) ぜず是によつて鎌倉(かまくら)より右衛門佐(ゑもんのすけ)氏(うぢ) 憲(のり)大軍(たいぐん)を引率(いんそつ)して陸奥(みちのく)赤館(あかだて)に おいて合戦(かつせん)に及ぶ伊達(だて)勢(せい)強(つよ)して上 杉勢 敗軍(はいぐん)して引退(ひきしりそ)くかさねて鎌倉(かまくら) より大軍 加(くわゝ)り戦ひに及(およ)ぶといへども 九月五日 和睦(わぼく)となる此時政宗 山家(さんかの) 雪(ゆき)の題(だい)にて此歌を詠(えい)じ敵陣(てきぢん)に 送(おく)りしといふまた山家の霧(きり)の題(だい) にも哥あり 〽やまあひのきりはさながら海(うみ)に似(に)て  なみかときけば松風のおと 【左頁下段】  伊達(だて)大膳太夫(だいぜんのだいぶ) なか〳〵に  九十(つゞら)折(をり) なる 道(みち) た えて 雪(ゆき)に隣(となり)の  近(ちか)き山里(やまざと) 【右頁上段】 春王(しゆんわう)丸 安王(あんわう)丸は鎌倉(かまくら)の公方 持氏(もちうぢ)の 二 男(なん)三男なり永享(えいきやう)十一年御 父(ちゝ)持氏 亡(ほろ) び給ひし後(のち)良等(らうどう)ども落(おと)しまゐらせ日 光(くわう)山の奥(おく)に忍(しの)ばせ置(おき)しに結城(ゆうき)七郎 氏(うじ) 朝(とも)迎(むか)ひ取(とつ)て結城(ゆうき)の城(しろ)にいれまゐらせければ此 よし京都へ聞(きこ)へて大軍を発(はつ)し攻(せむ)るといへ ども城(しろ)の要害(ようがい)はよし氏朝 父子(ふし)勇(ゆう)を震(ふるつ) て防戦(ぼうせん)しければ寄手(よせて)攻落(せめおと)すことを得ず 三年までは籠城(ろうぜう)に及(および)けれどもあら手 を入かへ〳〵責(せめ)めければ終(つひ)に嘉吉(かきつ)元年四月 十二日 落城(らくじやう)に及び春王安王をも奥州(おうしう) まで落(おと)さんと計(はかり)けれども運拙(うんつたな)く生捕(いけとら)れ 道中(どうちう)警固(けいご)きびしく古郷(ふるさと)かまくらを通(とほ)りし 時御父持氏公 自害(じがい)し給ひし永安寺(えいあんじ)を 御 輿(こし)の内より手を合(あは)せ拝(おがみ)給ひしを見て かまくら中のもの泣(なか)ぬ者(もの)はなかりしとかや それより日を経(へ)て遠州(ゑんしう)菊(きく)川の宿(しゆく) につきけるに此所は元弘(げんこう)年中 俊基(としもと)卿 囚(とらは)れ給ふとき一首の歌(うた)を宿(やど)のはし 【左頁上段】 らにかきおかれける 〽 いにしへもかゝるためしをきく川の   おなじ流(なが)れに身をやしづめん これを見て承久(しやうきう)といひ元弘(げんこう)といひ あはれをかさねし所(ところ)なり今は我身(わがみ)の うへとなりしと春王丸 筆(ふで)を染(そめ)て 〽 いまも又なほうきことをきく川の   瀬々(せゞ)のおもひに沈(しづ)むはかなさ 夫(それ)よりも日数(ひかず)つもりて美濃国(みのゝくに)青野(あをの)が 原(はら)に着(つき)し時京都将軍の命(めい)にて誅(ちう) すべき由(よし)にて検使(けんし)荻野(おぎの)三河入道下り ければ今は詮方(せんかた)なく垂井(たるゐ)の金蓮寺(こんれんじ)へ入れ 奉り御 生害(せうがい)をすゝめ申せば二人ともわるびれ もせず父の最期(さいご)の御 供(とも)におくおくれ爰(こゝ)にて 果(はて)るも因果(いんぐわ)不昧(ふまい)の理(ことわり)にて歎(なげく)べきにあ らずと心しづかに念仏(ねんぶつ)して兄弟(けうだい)とも此歌 を辞世(じせい)にのこし自害(じがい)して果(はて)給ふは哀(あは)れはか なきことども也 春(しゆん)王丸十三才 安(あん)王丸十一 才 嘉吉(かきつ)元年四月廿六日のことなりけり 【右頁下段】  春王丸(しゆんわうまろ) よろこびの  世(よ)に あふ  み とは  なりも    せで  青野(あほの)がはらの   露(つゆ)ときえまし 【左頁下段】  安王丸(あんわうまろ) あひ川や  袖(そで)を ひた して 行(ゆく)  さきも   たる井の 露(つゆ)と消(きえ)や   はてなん 【右頁上段】 上杉(うえすぎ)憲実(のりざね)はかまくら持氏(もちうぢ)公の執権(しつけん)た りしが持氏公は京都将軍 義量(よしかず)公御 早(さう) 世(せい)の後(のち)御 跡目(あとめ)をも継(つが)せらるべきとの御 沙(さ) 汰(た)もありしがば御心 悦(よろこび)の所 義教(よしのり)公 継(つぎ)た まひければ持氏 本意(ほんい)を失(うしな)ひ面目(めんぼく)なく 思して京都を攻(せめ)んと議(ぎ)せられけるを憲(のり) 実(ざね)是を諫(いさめ)ることしきりなれば持氏 怒(いか)ら せられ憲実(のりざね)を討(うた)んと計(はかり)給ふゆゑぜひなく 伊豆(いづ)の国(くに)へ身を退(しりぞ)く持氏 益(ます〳〵)反逆(ほんぎゃく)あるに 仍(より)て京都ゟ討手(うつて)来って持氏父子とも亡(ほろ)び給ひ 鎌倉四代九十年の繁昌(はんじやう)一 時(じ)に滅却(めつきやく)す 憲実(のりさね)かはりゆく世(よ)を観(くわん)じ出家して長棟(てうとう) 禅門(ぜんもん)と号(がう)し行脚(あんぎや)となりみの垂井(たるゐ)にて 水相観(すいさうくわん)の心にて此歌はよめり又 河内(かはち)の国 金剛山(こんがうせん)の奥(おく)に草庵(さうあん)を結(むす)び戸板(といた)に書(かき)て 〽 かつらきやよそにぞ見てし岑(みね)のくも   たもとにわくる秋(あき)の夕ぐれ 此歌をのこし置(おき)て行方(ゆくへ)しれず足利(あしかゞ)の 学校(がくかう)に書(しよ)を蔵(をさめ)しは此人のなせる所也 【右頁下段】  上杉(うへすき)安房守(あはのかみ)     憲実(のりざね) 昔見(むかしみ)し 垂(たる) 井(ゐ) の 水の  かはら    ぬに 写(うつ)れる    影(かげ)の  などかはるらん 【左頁上段】 大内(おふち)持世は大内介(おふちのすけ)教幸(のりゆき)の子に て防長(はうてう)豊石(ぶせき)四ヶ国(こく)を領(りやう)し武勇(ぶやう)の 人なり正五 位(ゐ)にて年月 久(ひさ)しく過行(すぎゆき) 父祖(ふそ)の叙任(じよにん)四位の階(かい)にのぼらざる ことをなげきかこちて 〽をり〳〵に袖(そで)こそぬるれたらちねの  かしらにおきししゐしばのつゆ 此一 首(しゆ)を詠(えい)ぜられしに義教(よしのり)将軍(せうぐん) ことのほか御 感(かん)ありて執奏(しつそう)なし給ひ 従(じゆ)い四位の下に叙(じよ)せられしとかや 詠哥(えいか)多(おほ)く新続(しんぞく)古今集(こきんしう)に 載(のせ)らるゝ其後(そのご)嘉吉(かきつ)元年六 月廿四日 赤松(あかまつ)満祐(まんゆう)謀反(むほん)を企(くはだ)て 義教(よしのり)将軍を弑(しい)し奉る持世も 其日(そのひ)御 供(とも)にてありしかば彼所(かしこ)にて 手いたく戦(たゝか)ひ深手(ふかで)を負(おひ)けれど 塀(へい)をのり越(こ)え立退(たちのき)しかども 疵(きず)養生(やうじやう)届(とゞ)かざるや七月八日 了(つひ)に落命(らくめい)す 【左頁下段】  大内(おふち)修理(しゆりの)大夫(だいぶ)持世’(もちよ) さらぬだに  ほさぬ 袖師(そでし)  の  浦(うら)  千鳥(ちとり)  いかに     せよとて  寝覚(ねざめ)とふらむ 【右頁上段】 細川(ほそかは)勝元は武蔵守(むさしのかみ)持之(もちゆき)の嫡子(ちやくし)にて 智勇(ちゆう)兼(かね)たる大将也十六 歳(さい)の時より 管領職(くわんれいしよく)をつとめ政徳(せいとく)正(たゞ)しければ人 皆(みな)尊敬(そんけい)す然(しか)るに山名入道 宗全(そうぜん)と 確執(くわくしつ)に及(およ)び合戦(かつせん)数度(すど)にして都 動(どう) 乱(らん)す相国寺(そうこくじ)を預(あづけ)おきし安冨(やすとみ)民部(みんぶの) 丞(ぜう)元網(もとつな)我身(わがみ)に替(かは)りて討死(うちひに)せしを 悲(かな)しみ鎧(よろひ)の袖(そで)を干(ほし)もあへず此哥を 追慕(つひぼ)に手向(たむけ)なほ弔(とむらひ)合戦して敵(てき) あまた打亡(うちほろぼ)すといへども諸国(しよこく)の軍勢 相(あひ) 加(くはゝ)り山名方十一万 余(よ)人細川方十六万 余(よ)ときこえし文明(ぶんめい)五年三月十九日山名 宗全(そうぜん)病死(べうし)しければ勝元(かつもと)方(かた)へ日々 勢(せい)の加(くはゝ)る こと限(かぎ)りなき程(ほど)なりしに五月十一日勝元も重(てう) 病(べう)に侵(をか)されて卒去(そつきよ)せしかば頼(たのみ)をかけし 軍勢(ぐんぜい)ども思ひの外(ほか)に機(き)を損(そん)じ盲人(もうじん)の 杖(つえ)に放(はな)れしごとし味方(みかた)の内にはかなきを観(くわん)じてある人 〽いづくにか身(み)をもよせまししら雲(くも)の  たなびくみねもさだめねければ 【右頁下段】  細川(ほそかは)勝元(かつもと) 藻塩(もしほ)草(くさ)  かくとは たれか しら 露(つゆ)の 消(きえ)しに  つけて    ぬるゝ  袖(そで)かな 【左頁上段】 応仁(おうにん)の大 乱(らん)山名細川の大 軍(くん)都(みやこ)に 戦(たゝか)ひ爰彼所(こゝかしこ)より兵火(へうくわ)盛(さかん)に起’(おこ)り 【右頁上部】 安富(やすとみ)九郎は安富 民部(みんぶ)元綱(もとつな)の弟(おとゝ)なり 応仁(おうにん)元年九月十九日山名 宗全(そうぜん)味方(みかた) 十一万六千の勢(せい)を七手に押分(おしわけ)細川方 に籠(こもり)し所を諸所(しよ〳〵)攻(せめ)ける折(をり)から相国寺(そうこくし) の出城(でじろ)には安富民部丞七百 余騎(よき)に て籠(こも)り戦(たゝかひ)数度(すど)に及(およ)へとも勝敗(しようはい)更(さら)に決(けつ) せざるに城中 心変(こゝろかわり)の者(もの)ありて小屋に火(ひ) をかけければ寄手(よせて)力(ちから)を得(え)て込(こみ)入しかば 味方 過半(くわはん)討死(うちじに)す安富九郎も此中に ありしが十六 歳(さい)の美男(びなん)にて日比(ひころ)兄弟の 約(やく)をなし情(なさけ)を通(かよい)せし者(もの)あれば我(われ)討死(うちじに) の跡(あと)にて歎(なげか)んと思ひ哀(あはれ)におぼへ袖下(そでした)の帛(きぬ) を引切此歌をかき記念(かたみ)に送(おく)り兄(あに)民部 と共(とも)に敵の中へ割(わつ)て入討死す彼(かの)契(ちぎり) し男も是を見て浅(あさ)からずかなしみ我 も泉下(せんか)に追(おい)つかんと乱軍(らんぐん)に切入り同じ 枕(まくら)に討死して同じ塚(つか)の苔(こけ)の下に 埋(うづも)れしこそあわれなることともなれ 【右頁下部】  安冨(やすとみ)九郎 元秀(もとひで) 夫(それ)までの 契(ちぎ)り なり しを 末(すゑ)  の   松(まつ) 波(なみ)  越(こ)さじ    とも  おもひ     けるかな 【左頁上部】 伊達(だて)兵部(ひやうぶ)少輔(しよういふ)成宗は曾祖父(そうそふ) 圓教(ゑんきやう)入 道(どう)より二代 上洛(じやうらく)中絶(ちうせつ)せしを こゝろならず恐■寛正(くわんせう)三年の秋(あき)陸(みち) 奥(のく)より上洛す此ころは関東(くわんとう)には古河(こか) 方(がた)上杉(うへすぎ)がたとて両方(りやうほう)に分(わか)れ合戦(かつせん)止(やむ) ときなくまた五畿内(ごきない)には畠(はたけ)山 正長(まさなが) 同 義就(よしなり)兄弟 鉾(ほこ)をあらそひて道(とう) 中(ちう)さらにおだやかならずかゝる騒(さわが)しき 戦国(せんごく)の中を恐(おそ)れず公方家(くばうけ)へ銀(ぎん)三 万 匹(びき)を献(けん)上して御目見えを申上る 義政(よしまさ)公 浅(あさ)からず思召(おぼしめし)鎧(よろひ)太刀(たち)その 外(ほか)種々(くさ〴〵)を賜(たまは)り大膳大夫(たいせんのたいふ)に任(にん)ぜら れ下向(げかう)に及(およ)び名ごりををしみこの歌 を詠(えい)ぜしかは忽(たちまち)内裏(だいり)にも聞(きこ)え遠(をん) 国(ごく)のものゝふなれども優(やさ)しき心やと ことの外(ほか)御感(ぎよかん)ありとかや斯(かゝ)る茨(いばら)の 如(ごと)く乱(みだ)れし世の道(だう)中を陸奥(みちのく)よ り都(みやこ)へたやすく行通(ゆきかよ)ふことの智(ち) 勇(ゆう)押(おし)はかりてしるべし 【左頁下段】  伊達(だて)成宗(なりむね) 都(みやこ)出(いづ)る  名残(なごり)は 誰(たれ)  と しらね   ども   ひかるゝとのみ   思ふ袖(そで)かな 【右丁上段】 畠山(はたけやま)伊豫守(いよのかみ)義就は持国(もちくに)入道 徳本(とくほん)の子なり徳本 始(はじ)め子なきが ゆゑ舎弟(しやてい)持富(もちとみ)の子を養子(ようし)として 尾張守(おはりのかみ)政長(まさなが)と号(がう)し家督(かとく)たり しが其後 徳本(とくほん)妾腹(せうふく)にこの義就(よしなり) うまれしかば愛(あい)におぼれ家督(かとく)を又 義就(よしなり)に継(つが)せんと政長を憎(にく)むこと甚(はなはだ) し是よりこと起(おこ)りて政長義就 兄(きう) 弟(だい)数年(すねん)弓矢(ゆみや)に及び争(あらそ)ひ止(やむ)とき なし義就 将軍家(せうぐんけ)の首尾(しゆび)あしく 河内(かはち)の若江(わかえ)へ赴(おもむ)きしとき螺(ほら)が峠(とうげ)に かゝり都(みやこ)をかへり見て此うたはよめり此 人将軍の御 勘気(かんき)を三 度(たび)蒙(かう?)りて 三度 免許(めんきよ)ありし人なり応仁乱(おうにんらん)に 山名 宗全(そうぜん)がた一 番(ばん)の味方(みかた)にして 洛中(らくちう)の大 合戦(がつせん)に政長の勢(せい)を 切なびけ七百 騎(き)を打 取(と)り敵(てき) 味方の耳目(じもく)をおどろかせし                人なり 【下段】 うかり ける  都(みやこ)に何(なに)の 情(なさけ)ありて 忘(わす)れ  ぬ 夢(ゆめ) の 残(のこ)る   おもかげ   畠山(はたけやま)義就(よしなり) 【左丁上段】 大内(おほち)左京大夫 正弘(まさひろ)は贈(ぞう)三 位(ゐ) 教(のり)弘の子にして四ケ国(こく)の守(しゆ) 護(ご)なり応仁(おうにん)の乱(らん)にも名誉(めいよ)を あらはし其名中国に鳴(な)れども いまだ正五位下にて四位の叙階(じよかい) を望(のぞま)れけれども小 折紙(をりかみ)むなし く年月を歴(へ)けるほどに祖父(そふ) 持世(もちよ)のふることを思ひある時かこ ちて此哥を詠(よみ)ければかたじけな くも叡聞(えいぶん)に達(たつ)し則(すなはち)四位下 を勅許(ちよくきよ)ありなほ又長享元年 十二月 従上(しゆしやう)に昇(のぼ)る古(いにし)への兵庫(へうごの) 頭頼(かみより)政はしゐを拾(ひろ)ひてとよみ て三位に叙(しよ)せられ正弘は折(を)る ことかたきとよみて四 位(ゐ)に昇(のぼ)る 武勇といひ歌道(かどう)といひ頼(より) 政の再来(さいらい)にやと都鄙(とひ)かたり つぎて皆(みな)感称(かんしやう)せしとかや 【下段】  大内(おほち)左京大夫(さきやうのだいふ)正弘(まさひろ) たよりなき  外山(とやま)に 住(すみ)  て 下(しづ) 枝(え)をも  をることかたき 峯(みね)の椎柴(しひしば) 【右丁上段】 義植(よしたね)公は義視卿(よしみけう)の御子にて義政(よしまさ) 公の御 猶(ゆう)子となり義尚(よしひさ)公の後(のち)将 軍となり畠(はたけ)山 義豊(よしとよ)下知(げち)に応(おう)ぜ ざるを御 誅伐(ちうばつ)の為 河内(かわち)へ下向(げかう)あり て正覚寺(せうがくじ)に在陣(ざいぢん)の所(ところ)古 籏下(はたした)の将(せう) 細川 武蔵守(むさしのかみ)政元(まさもと)俄(にはか)に敵(てき)義豊(よしとよ)と 一 味(み)して将軍(せうぐん)を討(うち)奉らんと不意(ふい)に 御陣へおし寄(よせ)ければ義植(よしたね)公 軍利(ぐんり)を 失(うしな)ひ政元(まさもと)の為に厳(きび)しく押籠(おしこめ)られ しに助(たすく)るものありて一ㇳまづ落(おち)のび西国 へ下向の折から厳嶋(いつくしま)有(あり)の浦(うら)にて 〽わがたのむ神(かみ)のめぐみのありの浦(うら)  ありしむかしにかへせしらなみ また周防(すはう)の国(くに)都浜(みやこはま)にて 〽はまの名の都わすれな夕ぐれに  たつうら浪(なみ)もなくねそふらん 大内 義興(よしおき)を御たのみありて細川政元を 退治(たいぢ)せられ都にましませども御心の儘(まゝ) ならず阿波(あは)の御所(ごしよ)に移(うつり)て此歌を詠ず 【下段】 日をそへて  袖(そで)の湊(みなと)も せきあへず 身(み)を 知  る あめの  うらの   みだれに   足利義植公(あしかゞよしたねこう) 【左丁上段】 大内義興(おほちよしおき)は父祖(ふそ)の跡(あと)を継(つぎ)四ヶ国を 領(りやう)し猶(なほ) 備後(びんご)安芸(あき)石見(いはみ)等に武威(ぶゐ)を 震(ふる)ひ諸国を敵(てき)となして十四年が間(あいだ) 策(はかりごと)をめぐらし都へ責(せめ)上り守護して 義植(よしたね)公を再(ふたゝ)び天下の武将(ぶせう)にそなへ 賢徳(けんとく)異国(ゐこく)までも聞(きこ)え歌道(かどう)にも 名(な)ありてよみ歌(うた)あまたの中に永正(えいせう)八 年の冬(ぶゆ)都にありて佳境(かきやう)に目を悦(よろこば) しめ中にも比叡山(ひえいざん)のみねに雪(ゆき)をかさ ねしはあづまの富士(ふじ)山にもまぎれず 眺望(てうもう)かぎりなくおぼえて 〽かくばかり遠(とほ)くあづまのふじのねを  今ぞみやこのゆきのあけぼの 此歌 堂上(どうしやう)にきこえてかたじけなく も和答(わたふ)の詠(えい)を下されかつ又 天聴(てんてう)に達(たつ)し御製(ぎよせい)をたまはる 〽ゆきに見る山は富士(ふじ)のねことのはの  よゝにその名も雲(くも)のうへまで 【下段】   多々良(たゝら)     義興(よしおき) うき  ふしも かき  つけ   おかば  人や見ん   かゝるためしも  昔(むかし)ありきと 【右丁上段】 細川高国(ほそかはたかくに)入道常桓は義晴(よしはる)将 軍の管領(くはんれい)なれど同姓(どうせい)晴元(はるもと)と戦(たゝか) ひ軍利を失(うしな)ひ播州の浦上掃部介(うらかみかもんのすけ) をかたらひ再(ふたゝ)び摂州に責上(せめのぼ)りけれども 味方(みかた)の赤松正則(あかまつまさのり)敵方(てきがた)へ心を通(つう)じ うら切(きり)しければ常桓 悉(こと〴〵く)打 負(まけ)終(つひ)に 大物(だいもつ)の広徳寺(くわうとくじ)にて切腹(せつふく)す最期(さいご) に料紙(りやうし)を乞(こ)ひ義晴(よしはる)公へ 〽この海(うみ)の波(なみ)より高(たか)きうき名(な)のみ  よゝにたえせずたちぬべきかな 伊勢(いせ)の国司(こくし)へ 〽ゑにうつす石(いし)を作(つく)りし海山(うみやま)を  のちのよまでも目かれずぞ見ん 姉のもとへ 〽世の中に迷(まよ)ふてふことなきものを  まよひといへることの葉(は)はなに 〽なしといひの哥は辞世にのこせし也 常桓(ぜうくわん)の臣嶋村 弾正貴則(だんぜうたかのり)も此時入水 して果(はて)る此霊世にいふ嶋村蟹(しまむらかに)となる 【下段】 細川入道常桓(ほそかはにうどうじやうくわん) なしといひ ま  た あり  と いふ ことの  葉(は)や 法(のり)のまこと   の心なるらん 【左丁上段】 【右頁上段】 太田 隠岐守(おきのかみ)隆道は大内(おゝふち)義隆(よしたか)の 清臣(しん)にて勇猛(やうまう)の人也天文二十年の春(はる) 陶(すへ)尾張守(をはりのかみ)隆房(たかふさ)隠居(いんきよ)と号(がう)し富(とみ) 田(た)に引籠(ひきこもり)けるを是 全(また)く反逆(ほんぎやく)の色(いろ)と 悟(さと)り冷泉(れいぜい)隆豊(たかとよ)天野(あまの)藤内(とうない)等(ら)と共(とも) に大将(たいせう)義隆のまへに出て逆徒(ぎやくと)等 追伐(つひばつ)のため富田(とみた)へ夜討(ようち)をかけ陶(すへ)を 打取(うちとら)ん策(はかりごと)を申すといへども義隆(よしたか)闇愚(あんぐ) にて承引(せういん)し給はへば歯(は)がみをなし大内 家(け)の運命(うんめい)傾(かたぶ)きしとき也と涙(なみ退だ)ながらに 引 退(しりぞ)き其後(そのご)山口 没落(ぼつらく)に千 悔(くわい)して 足(あし)ずりすれどもその詮(せん)なく義隆(よしたか)とゝも に十三 騎(き)になるまで付そひ大将 生(しやう) 害(がい)のあひだ修羅(しゆら)のあれたるごとく戦(たゝか) ひ防(ふせ)ぎ敵(てき)を討(うち)とること数(かず)しれず矢(や) だねつき太刀 折(をれ)ければ今は是(これ)まで也 と此歌を辞世(じせい)として自害(じがい)して誉(ほまれ) を末代(まつだい)にのこしぬ大内主従(しう〴〵)滅亡(めつぼう)は 天文(てんもん)二十年九月朔日(ついたち)のことなり 【右頁下段】  太田(おほた)隆道(たかみち) 秋風(あきかぜ)の至(いた)り    いたらぬ 山蔭(やまかげ)にのこる もみ ぢ も     散ず       やは        ある 【左頁上段】 右田(みぎ)右京亮 多々羅(たゝら)隆次(たかつぐ)は義(よし) 隆(たか)の一 族(ぞく)也 義隆(よしたか)陶(すへ)がために山口を ■運(うん)かたぶきて長州(てうしう)大 寧寺(ねいじ) まで落(おち)給に道(みち)に度々踏(ふみ)とゞまりて 敵(てき)を防(ふせ)ぎ義隆(よしたか)最期(さいご)の辞世(じせい)に  〽討(うつ)人もうたるゝ人ももろともに   如露(によろ)亦(やく)如電(によでん)応作(おうさ)如是観(によぜくわん) 右田もともに此うたを辞世(じせい)にのこし 大将の自害(じがい)の後(のち)も障子(せうじ)蔀(しとみ)な ど焼(やき)草(くさ)を取(とり)かさね死骸(しがい)に火を 掛(かけ)よせくる敵(てき)を矢(や)だねのかぎり 射(い)たほし朋友(ほうゆう)天野(あまの)藤内(とうなゐ)黒(くろ) 川 隆像(たかかた)太田 隆道(たかみち)岡部(おかべ)隆(たか) 影(かげ)冷泉(れいぜい)隆豊(たかとよ)等とともに切(きつ) 先(さき)をそろへ切て出 敵(てき)をうつ事 かぎりもなく右の勇士(ゆうし)等と一 同(とう) 仏間(ぶつま)に列座(れつざ)し腹(はら)かき切り臓(はらわた) を掴(つか)みいだし死(し)をいさぎよくして 名(な)を後代(こうだい)にのこしぬ 【左頁下段】  右田(みぎた)右京亮(うきようのすけ) 隆次(たかつぐ) 末(すゑ)の露(つゆ)本(もと)の  雫(しづく)にしるや   いかに 終(つひ)に おく れぬ 世の 習(なら)ひとは 【右頁上段】 岡部(おかべ)隆景は大内 義隆(よしたか)の臣下(しんか)に て陶(すへ)尾張守(をはりのかみ)が逆意(ぎやくい)に仍(よつ)て義隆 とともに山口を落(おち)のび主従(しう〴〵)十三人 長門(ながと)の瀬戸崎(せとさき)へ船(ふね)をよせ深川(ふかは) の称名(しやうめう)の市(いち)を通(とほ)りけるに三浦 将監(せうげん)尾和(をは)兵庫允(へうごのすけ)しきりに追(おつ) かけ義隆(よしたか)を討(うた)んとす岡部(おかべ)隆景 大きに怒(いか)り譜代(ふだい)相伝(さうでん)の主君(しゆくん) に向(むか)ひて弓(ゆみ)ひく奴(やつ)原(ばら)人面(じんめん)獣心(じうしん)敵に は不足(ふそく)なれど冥土(めいど)の道づれ供(とも)せよ といふ侭(まゝ)に大太刀 抜(ぬい)て切ちらせば此 勢(いきほ)ひに恐(おそ)れ敵引(てきひき)いろに見えければ 引かへして義隆におひつき又 追(おひ)くれ ば取(とつ)てかへし火の出るまで戦(たゝか)ひてもり かへすこと六七 度(ど)身には簔(みの)毛(け)のごとく 矢(や)をおひ大 寧(ねい)寺にてもきびしく はたらき主従(しう〴〵)居(ゐ)ならび最期(さいご)のいと まごひし此哥をかきのこして腹(はら)かき 切り義名(ぎめい)を末世(まつせ)に伝(つた)へけり 【右頁下段】    岡部(おかべ)右衛門太夫(ゑもんのたいふ)隆景(たかかげ) 白露(しらつゆ)の 消(きえ)ゆ  く あき  の 名残(なごり)   とや しばしはのこる  すゑのまつ風 【左頁上段】 八幡(やはた)の祢宜(ねぎ)民部丞右信は義隆(よしたか) に随(したがつ)て名高き勇者(ゆうしや)なり和哥も よくす去年(きよねん)義隆 龍福寺(りうふくじ)において 和歌(わか)の会(くわい)を催(もよほ)せし時民部丞も同席(どうせき) なり然るにそのざに見なれぬ老僧(ろうそう)一 人ありて物がたりなどせしが連衆(れんしゆ)は 寺の僧(そう)と思い寺のものは召(めし)つれられ たる人とおもひ程(ほど)すぎ満座(まんざ)■■■ て静(しづか)なる折(をり)からかの僧 樗(おふち)といふ題(だい)を 操(さぐ)りて一 首(しゆ)よみ民部丞にわたす右(みぎ) 信(のぶ)則(すなはち)詠草(えいさう)をとりよみて見るに 〽しるやいかにすゑの山風 吹(ふき)おちて  もろく 樗(おふち)のちりはてんとは 此哥を再吟(さいぎん)せんとせし時かの僧 はかき消(けす)ごとく失(うせ)けり民部丞おもふに 是 陶隆房(すえたかふさ)反逆(ほんぎやく)によりて大内 家(け) の衰(おとろ)へを告(つげ)し也と歎(なげき)しが天の命(めい) ずる所と心を必死(ひつし)に決(けつ)しつひに 大 寧寺(ねいじ)にて勇(ゆう)をあらはし戦死(せんし)す 【左頁下段】  民部丞(みんぶのぜう)右信(みぎのぶ) 風(かぜ)をあらみ跡  なき露(つゆ)の 草(くさ)のはら 散(ちり) の こる  花も 幾’(いく)ほどの      世ぞ 【右頁上段】 平賀新四郎隆保は芸州(げいしう)頭崎(とうさき)の 城(しろ)□□□□守が附城なれば毛(もう) 利□□□義隆の吊(とむらい)合戦のため 押よする平賀 無勢(ぶぜい)なるがゆゑ同国(どうごく) 大山の城へ一ッになり合戦しば〳〵なるに 毛利勢■ 寄(よせ)をつけ城楼(せいろう)をあげて 手いたく攻(せめ)けるゆゑ城将(ぜうしやう)大森(おほもり)和泉守(いづみのかみ) 平賀新四郎両人 諸卒(しよそつ)の命に替(かはり)て 切腹(せつふく)せんことをいひ送(おくり)ければ約諾(やくだく)極(きはま)りて 毛利けより検(けん)しを遣す平賀ざに直 り介錯(かいしやく)を止(とゞめ)おきて西に向ひ種々(しゆ〴〵)経文(きやうもん)を唱(となへ) はら十文じにかき破(やぶ)り臓腑(ぞうふ)をつかみ出し 寸々(すん〴〵)に切て捨(すて)けれども少もよはる色(いろ)なしはら 切て死(しな)ざるものはなきにいつなればかゝるさまや と硯(すゞり)をとりよせさら〳〵と此歌を書(かき)猶(なほ)又 平賀 隆保(たかやす)廿三歳 諸士(しよし)の命(めい)に代(かわり)て自裁(じさい) のち永(ながく)こゝに於(おい)て詠(えい)焉(ゑん)をたつと筆太(ふでふと)に 認(したゝ)め介錯人(かいしやくにん)に言つけてくびを打(うた)すにて 人その勇(ゆう)を誉(ほめ)ざるものなし 【右頁下段】  平賀(ひらが)新四郎(しんしらう)隆保(たかやす) ありといひなしと  いはんも花 もみじ 只(ただ)かり   そめの  言(こと)の葉(は)のいろ 【左頁上段】 陶(すゑ)尾張守(をはりのかみ)隆房は大内 家(け)の臣下(しんか)なれ ど同輩(どうはい)相良(さがら)遠江守(とほ〳〵みのかみ)と不和(ふわ)になり確(くわく) 執(しつ)よりことおこり義隆(よしたか)相良(さがら)の詞(ことば)のみを 用(もち)ひ給ふゆゑ無念(むねん)に思ふ折から讒者(ざんしや) の中言(なかこと)を信(しん)じ主家(しゆけ)を亡(ほろぼ)せしかども 心ならず剃髪(ていはつ)して全薑(ぜんきやう)と号(がう)し大 友家(ともけ)より養子(やうし)ゑて大内の名跡(めいせき)は立(たつ) るといへども威勢(ゐせい)に任(まか)せて我意(がい)につ のる毛利(もうり)元就(もとなり)これを憎(にく)み陶(すえ)と合戦 度々(どゞ)に及び勝敗(せうはい)なき所 全薑(ぜんきやう)三万の 勢(せい)を卒(そつ)し厳島(いつくしま)へ渡(わた)りかしこを攻(せめ)し に弘治(こうぢ)元年九月 晦日(みそか)大 風雨(ふうう)の夜(よ)毛 利 吉川(きつかは)小早川(こばやかは)の勢を合(あは)せ闇夜(あんや)に 海(うみ)をわたし不意(ふい)を打しかば陶(すえ)大 敗軍(はいぐん) におよび舟(ふね)にのらんとすれども船(ふね)は皆(みな)奪(うば) はれ詮方(せんかた)なく青海苔(あをのり)山へ入り近臣(きんしん)とも と水盃(みづさかづき)をして笑(えみ)を含(ふく)み此辞世(じせい)をよみ 若楓(わかかへで)といふ名刀(めいとう)にて切腹(せつふく)して果(はて)る因果(いんぐわ) 業報(ごうほう)逆罪(ぎやくざい)の然(しか)らしむる所といふ 【左頁下段】  陶(すえ)尾張(をはり)入道(にうどう) 全薑(ぜんきやう) 何(なに)を惜(をし)み  なにを  恨(うらみ)ん もと  よ りも この  ありさまの   定(さだ)まれる      身に   【右頁上段】 山崎 勘解由(かげゆ)隆方は陶方(すえがた)の大将に て軍敗(いくさはい)してより入道と生死(せうし)をともにせ んと青海苔(あをのり)山まで落(おち)たりしが渡(わた)るべ きにも舟(ふね)はなし水練(すいれん)の名人なれば全薑(ぜんきやう)を 材木(ざいもく)にのせおよぎ渡り落(おち)のびんといふに 入道 聞(きゝ)てあまたの味方(みかた)を打(うた)せわれ今 にけ帰(かへ)りしと聞(きこ)えては我(わが)ために死(しゝ)たる 者(もの)の一 族(そく)へ面(おもて)を向(むく)べきにあらずと 承引(せういん)せねばさらばともに自殺(じさつ)せん と最後(さいご)の盃(さかづき)をなし舞(まひ)たわぶれて後(のち) 此 辞世(じせい)をよむ同 朋友(はらから)垣並(かきなみ)佐渡守(さどのかみ) 房清(ふさきよ)も筆(ふで)をとりて  莫論勝敗迹人我暫時情(せうはいのあとをろんずることなかれひとわれざんじのじやう)  一物(いちもつ)不生地(ふせうのち)山寒(やまさむうして)海水清(かいすいきよし) 此 詩(し)を吟(ぎん)じいざ山崎氏 同道(どう〳〵)せん と両(りやう)人ともに手に手をとり互(たがひ)に太刀 を胸(むな)もとへ押(おし)あてエイと声(こゑ)かけ刺違(さしちが) へて死(し)す勇強(ゆうごう)を人 誉(ほめ)けるとなん 【右頁下段】  山崎(やまざき)勘解由(かげゆ)隆方(たかかた) 有(あり) と 聞(きゝ) な き と 思(おも)ふ   も  迷(まよ)ひなり   まよひ   悟(さと)り   なければ     さへなき 【左頁上段】 伊香賀(いかゞ)民部太輔 隆正(たかまさ)は陶(すえ)尾張 守のめのとにて希代(きだい)の忠臣(ちうしん)也 最期(さいご) の場(ば)まで側(そば)を放(はな)れず青のり山まで 来り陶(すへ)入道 石上(せきせう)の苔(こけ)を払(はら)ひて座(ざ)し 最期(さいご)の盃(さかづき)せん水はなきにやといひければ 民部 葉広柏(はひろかしは)の落(おち)たるを拾(ひろ)ひ松の 葉(は)にて二三まいとぢかさね谷(たに)川の水を 汲(くみ)て莞(につ)爾(こ)と笑(わら)ひ後漢(ごかん)の逍丙(せうへい)は 水(みず)を酌(くみ)て酒(さけ)となせば人酔ことを得(え)た りといふこれは夫(それ)に引(ひき)かへて浮世(うきよ)の酔(ゑひ) を覚(さま)す功徳(くどく)水即(すいそく)心即(しんそく)仏(ぶつ)ならんと たはぶれ此 辞世(じせい)を詠(よ)むかくて全薑(ぜんきやう) 切腹(せつふく)せしかば介錯(かいしやく)して入道の首(くび)を 小袖(こそで)につゝみ谷川の渕蔭(ふちかげ)に隠(かく)し 上に岩(いわ)を覆(おほ)ひ心静(しづか)に二三丁 脇(わき)の 浜辺(はまべ)に出(いで)腹(はら)かき切り手づから首(くひ)を 切(きり)おとして死(し)す毛利 侯(こう)右四人の 首実験(くびじつけん)の後廿日市 洞雲寺(とううんじ)に納(おさめ) 石碑(せきひ)を立て孝養(かうよう)し給ふといへり 【左頁下段】  伊香賀(いかが)民部太輔(みんぶのたいふ) おもひ  きや 千(ち) 歳(とせ) を か け し 山松(やままつ)の 朽(くち)ぬる時(とき)を  君(きみ)に          見(み)んとは 【右頁上段】 渡辺可性(わたなべかせい)も陶(すえ)尾張守の手にあ りて龍(りう)が馬場(ばば)の山に落(おち)のびかく れゐたりしが毛利勢声々(もうりせいこえ〴〵)に元(もと) 就(なり)公の仰(おほせ)なり大 将陶(しやうすえ)入道 殿(どの) を討(うち)しうへはほかの勢(せい)に恨(うらみ)なし 弓(ゆみ)の弦(つる)をはづし候はば一 命(めい)は 助(たす)くべし降参(かうさん)候へと高声(かうじやう)に 言(いひ)ければこの可性も出て擒(とりこ)と なりて引(ひか)れきたるに元就卿(もとなりけう)見(み) たまひて此ものは以前(いぜん)山口へ下りし をり度々(どゞ)出て狂歌など達者(たつしや) によみし者(もの)なり助(たすけ)おきたりとも何の 仇(あだ)をなすべきものにあらずと召出(めしいだ)し いかに可性日ごろ好(この)む歌(うた)一 首(しゆ)よむ べしよまば助(たすけ)んとありければ言下(ごんか)に 是(これ)をよむさまでの秀逸(しういつ)にはあら ねどよくいたしたりと則(すなはち)命(いのち)を助(たすけ) られたり是 風流(ふうりう)の徳(とく)なれば 英雄(えいゆう)にはあらねど書(かき)くはへぬ 【右頁下段】  渡辺可性(わたなべかせい) かけてしも  頼(たのむ)は もり  の しめ  だすき   命(いのち)一つに 二つまきして 【左頁上段】 宗阿弥(そうあみ)は陶(すえ)尾張守の同朋(どうほう) なり厳島(いつくしま)にかくれゐしが生捕(いけとら) れて引出されたり毛利 元就卿(もとなりけう) 見給ひてこの宗阿弥は大力の剛(かう)の 者(もの)なりされども斯(かく)やみやみと生捕(いけと) られしことよ後の禍(わざはひ)なるべし早(はや)く 誅(ちう)せよと宣(のたま)ひけるがさるにても 汝(なんじ)年来(ねんらい)勇(ゆう)を顕(あらは)しいま武名(ぶめい)の 朽(くち)なんこともいとはず自害(じがい)をもせ ず縲紲(るいせつ)にあふことよしからば命(いのち) のをしきには恥(はぢ)も思(おも)はずといふ心 を歌によめ汝(なんじ)も達者(たつしや)によみし ものなりと宣(のたま)へば宗阿弥 畏(かしこま)り て此 歌(うた)をよむ可性(かせい)が歌(うた)にはま さりたりと是(これ)も一命を助け放(はな) ち給ふ此二人 勇(ゆう)はあらねど元(もと) 就卿(なりけう)の仁心(じんしん)と人の心を和(やは)らぐ る歌の徳(とく)を感賞(かんしやう)して爰(こ々) にしるしぬ 【左頁下段】  宗阿弥(そうあみ) 名(な)ををしむ  人と いふ  と   も 身(み)を   惜(をし)む をし  さにかへて 名(な)をば惜(をし)まじ 【右頁上段】 武田(たけだ)左馬介 信繁(のぶしげ)は大膳大夫 信玄(しんげん)の 舎弟(しゃてい)也 兵学(へうがく)に秀(ひいで)軍立功者(いくさだてこうしや)なるがゆへ 信玄 片腕(かたうで)のごとく思ひ大事(だいじ)の場所へは此 人を備(そなへ)させしといふ信繁 子息(しそく)へ遺書(ゆいしよ) の中に戦場(せんじやう)において聊(いさゝか)未練(みれん)すべからず生(いき)ん とすれば死(し)す必死(かならずしな)んとすれば則生(すなはちいき)る忠節(ちうせつ) の臣(しん)を忘(わする)べからず善悪同(ぜんあくおなじ)うする時は忠臣 倦(う)む褒美(ほうび)は大 細(さい)によらず則 感(かん)ずべき也 功(こう)を賞(しやう)すべきに時を踰(こえ)ず深(ふか)く思ひ立義(たつぎ) ありとも餘義(よぎ)なき異見(いけん)についてはその意(い) に任(まか)すべし無行義(ぶぎやうぎ)の人に近付(ちかづく)べからず 其(その)人をしらば其友(そのとも)を見よ人は賢(さかしき)に馴(なれ) よ賎(いやしき)にふるゝことなかれ花中(くわちう)の鶯舌(おうぜつ)は 花(はな)ならずして香(かう)ばし是等(これら)のこと数(す)ケ條(かでう) あり永禄(えいろく)四年九月十日川中嶋合戦に 左馬介は左備(ひたりそなへ)なりしが籏本(はたもと)手詰(てづめ)の勝(せう) 負(ぶ)ありて甲州(かうしう)方 軍難義(いくさなんぎ)に及(およ)ぶ此時 山本勘介 初鹿野(はじかの)源五郎等 討死(うちじに)す此日 信繁も討死して勇名(ゆうめい)を世に残(のこ)せり 【右頁下段】  武田左馬介信繁(たけださまのすけのぶしげ) 数なら  ぬ 心 の とがに なし  はてし しらせてこそは  身をもうらみめ 【左頁上段】 多々良(たゝら)義長は大友(おおとも)入道 義鑑(よしあき)の 三男なれども大内 義隆(よしたか)ほろびて のち陶(すえ)尾張守 全薑(ぜんきやう)がはからひにて 大内の 養子(やうし)として家督(かとく)たりしが 政事(せいじ)のことは全薑の思ひの侭(まゝ)なれば 義長は席上(せきしやう)に座(ざ)すのみ也 弘治(こうぢ) 元年いつく嶋(しま)において陶(すへ)入道 亡(ほろ) びてのちは国中の者(もの)どもおもひ〳〵に 確執(くわくしつ)の臣(しん)おほく義長の下知(げち)にした がふものすくなく山口の築山御所(つきやまごしょ) 衰(おとろへ)たる折(をり)から毛利勢大 軍(ぐん)にて 押寄(おしよせ)ければ一とさゝへもせず没落(ぼつらく)に および長府(てうふ)の長福院(てうふくいん)に立退家(たちのきけ) 来(らい)ども一先(ひとまづ)豊前(ぶぜん)へ落(おち)大友家と合(がつ) 躰(たい)して恥辱(ちぢよく)をすゝがんといへども古(こ) 卿(けう)は錦(にしき)をかざるべきに養家(やうか)を失(うしな)ひ 名を汚(よご)して人に面(おもて)を向(むく)べきやうなしと 義長 覚悟(かくご)して此 辞世(じせい)をかきのこし 腹(はら)十文字にかき切て死(し)す 【左頁下段】  多々羅義長(たたらよしなが) さそふとも  何(なに)か 恨(うらみ)ん 時(とき)  きては 嵐(あらし)のほかの  花(はな)も こそ  ちれ 【右頁上段】 三好(みよし)新五郎 入道(にうだう)宗三は長輝(ながてる)入道 希雲(きうん)の五男にて長慶(てうけい)とは従弟(いとこ)な れども中不和(なかふは)にして鉾楯(むじゆん)に及(およ)び摂州(せつしう) 榎波(えなみ)中嶋 両城(りやうぜう)に籠(こも)る天文十八年 正月 長慶(てうけい)これを攻(せめ)んと大 軍(ぐん)にて押(おし) 寄(よせ)けるに三好宗三人 数(ず)をおし出して 江口の里(さと)に陣(じん)をとる長慶(てうけい)の軍勢(ぐんせい)江 口と根城(ねじろ)の道を取切(とりきり)兵粮(へうらう)を断(たゝ)ば攻(せめ) ずとも滅(ほろ)ぶべしと其道をふさぐ宗三 飛脚(ひきやく)を走(はせ)て江州の六 角家(かくけ)へ加勢(かせい)を たのむに近日(きんじつ)むかふべしとあれば是を待(まち) て江口の陣中(ぢんちう)にて此歌をよむ斯(かく)て 江州六 角(かく)義賢(よしかた)二万人にて出馬(しゆつば)の よしを長慶方(てうけいがた)きゝつけさらば加勢(かせい)の 来(きた)らぬさきに打取(うちと)れと惣軍(そうぐん)川を渡(わた)し 急(きう)に攻(せめ)たてければ宗三が勢(せい)終(つひ) に敗軍(はいぐん)して大崩(おほくづ)れとなり 宗三入道 河内勢(かはちせい)の大軍(たいぐん)の 中に討死(うちじに)す 【右頁下段】  三好(みよし)宗三(そうさん) 川舟(かはふね)を とめ て 江口(えぐち)の  明暮(あけくれ)に 問(とは)んともせぬ  人をまつかな 【左頁上段】 義輝公(よしてるこう)は義晴(よしはる)公の長男(てうなん)也 永禄(えいろく)八年 五月十九日 三好日向守(みよしひうがのかみ)松永弾正等(まつながだんぜうら)反逆(ほんぎやく) して大和河内(やまとかはち)より京に入り室(むろ)町御所を取(とり) 囲(かこ)み鉄砲(てつほう)を打(うち)かけ無二むざんに攻(せめ)ければ防(ふせぐ) 者(もの)どもおほく打 死(じに)す沼田(ぬまた)上野介と同朋(どうぼう) 福阿弥(ふくあみ)といふもの敵の合印(あいしるし)の竹(たけ)の葉(は)を 腰(こし)にさし外(そと)より紛(まぎれ)入御 前(ぜん)に参(まゐ)り我等(われら)二 人 防(ふせ)ぎ候はん君には日頃愛(ひごろあい)せられ候 名(めい) 馬(ば)に召(め)して東川辺に駈(かけ)入給はゞ御 運(うん) を開(ひらか)せ給ふべしと涙(なみだ)を流(なが)して申けれ ば神妙(しんべう)によく申つるぞされども汝等(なんぢら)が 打死(うちしに)したる跡(あと)にのこりとゞまるべきや最(さい) 期(ご)の軍(いくさ)して賊徒(ぞくと)等が目を覚(さま)させ んと近士(きんし)等とともに敵(てき)あまた打取り 折(をり)ふし時鳥(ほとゝぎす)の声(こへ)きこえければ筆(ふで)を取(とり)て 〽五月雨はつゆか涙(なみだ)かほとゝぎす  わが名をあげよ雲(くも)のうへまで 是を辞世(じせい)として主従(しう〴〵)同じ枕(まくら)に 腹(はら)かき切て果(はて)給ふ御とし三十七也 【左頁下段】      光源院義輝公(くわうげんいんよしてるこう) よしや    今 頼(たのま)  ずとても 言(こと)の葉(は) の かはるが  すゑに 思ひ   あはせよ 【右頁上段】 香川(かがは)兵庫介 行景(ゆきかげ)は将軍義晴(せうぐんよしはる)公 の臣(しん)なりしが大内 義興(よしおき)義種(よしたね)公を再任(さいにん) して義晴公 没落(ぼつらく)に及(およ)びしを無念(むねん)に 思ひ何卒(なにとぞ)義晴公を世にたてんと若(わか) 狭(さ)の武田 元繁(もとしげ)の籏下(はたした)となり己斐(こひ)の 入道 師道(もろみち)とゝもに武田の勢に加(くはゝ)り中 国へむかひしが毛利家の猛勢(まうせい)に及(およ)び がたく武田 元繁(もとしげ)熊谷(くまがへ)直宗等(なほむねら)も討(うち) 死(しに)せり香川(かゞは)行景 己斐師道(こひもろみち)両人 は山を隔て二里 余脇(よわき)に備(そなへ)ければ武 田の惣軍敗(そうぐんはい)せし事をしらざりしが 翌朝(よくてう)きこえて口 惜(をし)く思ひ味方(みかた)の 大将 打死(うちしに)しければ皆色(みないろ)を失(うしな)ふ折(をり) から我(われ)一人は弔合戦(とふらひかつせん)して義心(ぎしん) を磨(みが)かんと兵卒(ひようそつ)をあつめ兵(へう) 粮(らう)をつかはせ香川 筆(ふで)をとりて此 歌をよみ香川 兵庫介(へうごのすけ)邁齢(ばんれい)三 十三武田 元繁(もとしげ)麾下(きか)たるにより 義(ぎ)のために今月今日 敵陣(てきぢん)に入て 【右頁下段】  かへらぬ道芝(みちしば)の露(つゆ) 引(ひい)て     弓(ゆみ)  しらま に 世ゝ  や 名(な) 其(その)  とも 消(きえ)ぬ   香川兵庫介(かがはひやうごのすけ) 【左頁上段】 討死(うちしに)すと書(かき)たりければ己斐(こひ)の 入道も是(これ)を見て此歌を書そへ 己斐 豊後(ぶんごの)守 師道(もろみち)入道 行(げう)年 六十一才同じ意趣(いしゆ)に因(よつ)て快死(くわいし) すと書のこし両人心を合せさし もの毛利勢の大 軍(ぐん)も恐(おそ)れず蒐(かけ) 出(いで)て竪横(じうわう)むじんに突立(つきたて)ければ敵 兵 色(いろ)めき開(ひら)きて通しけり香川 己斐と目と目を見あはせ今生(こんじやう) の契(ちぎ)り是までなり先(さき)たちしもの 死出三途(しでさんづ)に待(まち)て伴(ともな)はんと言(いひ)かはし又 大軍の中にかけ入思ふまゝ働(はたら)き郎等(らうどう) も百五十余(よ)人 残(のこ)らず打死(うちしに)せしかば此 両人も今は世に思ひ無(な)しと乱軍(らんぐん)の 中に討死す毛利家にも義心(ぎしん)を感(かん) じ此両人の死 骸(がい)を円光寺(ゑんくわうじ)といふ 禅院(ぜんいん)へ送(おく)り孝養(かうやう)ねんごろに取行(とりをこな) ひ士卒(しそつ)の首(くび)も土中に埋(うづ)め是を 弔(とふら)ふ有田(ありた)の首 塚(づか)といふは是なり 【左頁下段】  己斐入道師道(こひのにうだうもろみち) 残(のこ)る名(な)にかへなば  何(なに)か惜(をし) むべき 風(かぜ)  に 木(こ) の葉(は)   の 軽(かろ)き命(いのち)を 【右頁上段】 細川九郎 澄之(すみゆき)は武蔵守政元(むさしのかみまさもと)の養(やう) 子也其臣 香西(かさい)又六 元近(もとちか)権(けん)を取(とり)威(ゐ)を ふるひ逆心(ぎやくしん)を企主君政元をひそかし風(ふ) 呂(ろ)にて殺害(せつがい)し香西は澄之(すみゆき)に世を継(つが)せ 我意(がい)を以(もつ)て政事(せいじ)を扱(あつか)はんとのことなり 三好 筑前(ちくぜん)守 長元(ながもと)これを怒(いかり)て家督(かとく) の事は一家の氏族(しぞく)なきにもあらずと細 川 右京(うけうの)大夫澄元を跡(あと)目にせんと論(ろん) 争(しやう)起(おこ)りて鉾楯(むじゆん)に及(およ)び香西又六九郎 澄之を同伴(どうはん)して嵐山に城(しろ)をかまへて 籠(こも)る三好長 輝(てる)不意(ふい)に澄之の城郭(ぜうくわく) を攻(せめ)しかば防(ふせぎ)がたく味(み)方 多(おほ)く打死す 澄之今は是(これ)までなり雑兵(ざふひやう)の手に かゝらんよりは自害(じがい)せんと実父(じつぷ)の方 へ最期(さいご)のふみをしたゝめ奥(おく)に此歌 を書(かき)鬢(びん)の毛(け)を添(そへ)て是を送(おく)り腹(はら) 十文字にかき切て死(し)す廿二才 波々(はは) 伯部(かべ)伯耆(はうき)守 介錯(かいしやく)してその刀(かたな)にて 自分(しぶん)も自害して死(し)す 【右頁下段】  細川澄之(ほそかはすみゆき) 梓弓(あづさゆみ)張(はり)て  心(こゝろ)は 強(つよ)けれど 引手(ひくて)すくなき  身(み)とぞ    なりぬる 【左頁上段】 摂津守(せつつのかみ)冬康は三好 長慶(てうけい)同 実休等(じつきうら)の弟(おとゝ)也 兄(あに)実休は四国の 守護(しゆご)細川讃岐守持隆(ほそかはさぬきのかみもちたか)の臣(しん) なれども逆心(ぎやくしん)にして持隆 生害(せうがい)あ りしよりその妾(せう)を実休 妻(つま)とし悪(あく) 逆(ぎやく)すこぶる甚(はなはだ)しければ天誅(てんちう)逃(のが)れざ るゆへにや畠山高政(はたけやまたかまさ)と戦(たたか)ひ実休方 敗軍(はいぐん)せしは全(まつた)く逆 罪(ざい)の遁(のが)れぬ 所なりと実休(じつきう)心にくやみて  〽草からす霜(しも)またけさの日にきへて   因果(いんぐわ)はやがてめぐり来にけり 実休此歌を見せければ冬康 これをなぐさめて  〽因果とははるか車(くるま)の輪(わ)の外(ほか)を   めぐるもとほきむさしのゝはら 斯(かく)世乱(よみだ)れて君臣(くんしん)父子の礼(れい)もなく欲心(よくしん) に引れて戦(たゝか)ひのみに道(みち)のなきをかなしみ  〽いにしへをしるせるふみの跡(あと)もなし   さらずはくだる世とはしらじを 【左頁下段】   安宅木冬康(あたぎふゆやす) うたふ夜(よ)の暁(あかつき)  深(ふか)く声(こゑ) ふけ て 神(かみ)  代(よ) ながら  の 鈴(すず)の声(こゑ)かな 【右頁上段】 松永(まつなが)弾正は摂州嶋上群(せつしうしまかみこほり)の民間(みんかん) より出て始(はじめ)は貧(まづし)き者なりしが神峰山(しんぶせん) の毘沙門(びしやもん)天を信(しん)じ参詣(さんけい)怠(おこた)らす大晦 日の夜そのかへるさに松明(たいまつ)の火(ひ)きへて難義(なんぎ) せしに化野(あだしの)の煙(けふ)り立(たつ)を見て世(よ)の有(あり)さま を観(くわん)じ死人(しにん)を火葬(くわそう)の火を松明にうつし 夫(それ)にそなへし供物(ぐもつ)を取(とり)かへりて翌朝(よくてう)正月 元日に祝義(しうぎ)をいはひ是よりだん〳〵冨貴(ふつき)と なれり松 虫(むし)を飼(か)ふことを好(このみ)しが手をこ めて養(やしな)ひければ既(すで)に三年 生(いき)たり弾正 思ふに虫さへ斯(かく)のごとしまして人には養(やう) 生(ぜう)あるべきことなりと申けり後 信長(のぶなが)と 戦(たたか)ひまけ自害(じがい)すべき前(まへ)に灸(きう)をす ゑ居(ゐ)たるを見てある人今 死(し)する身に 何(なに)の養生(やうぜう)ぞやと申ければ弾正 答(こたへ)て我(われ) は常(つね)に中風(ちうぶ)の病(やまひ)あれば死(し)にのぞみ起(おこ)る ならば臆(おく)したりと人の笑(わらは)ん病を防(ふせ) ぎ置(おき)心よく自害(じがい)せんため成と灸を仕(し) 舞(まひ)て切腹(せつふく)す心にとめおくべきことなり 【右頁下段】  松永弾正忠久秀(まつながだんぜうのちうひさひで) 世(よ)の中(なか)に 春(はる) なか り せ  ば いかで    かは  花(はな)の影(かげ)に      て  きみにあひみん 【左頁上段】 福井(ふくゐ)小次郎は父 源(げん)左衛門と共(とも)に 中国(ちうごく)より撰(えら)ばれて備前福岡(びぜんふくおか)の城(しろ) に籠(こも)り隣国(りんごく)の敵(てき)を引(ひき)うけ数度(すど) 戦(たゝか)ひけれども屈(くつ)する色(いろ)なくある日 敵(てき) の油断(ゆだん)を見(み)すまし父とゝもに討(うつ)て 出思ふまゝ働(はたら)き引(ひき)上け父は城(しろ)に入たり と思ひ尋(たづぬ)るに行方(ゆきがた)見えざれば驚(おどろ) き又 城外(じやうぐわい)に打て出 寄手(よせて)の中へ名の り出 横立(よこたて)に切てまはりしがあまり戦(たゝか) ひ労(つか)れ身躰自在(しんたいじざい)ならねば家人(けにん) ども肩(かた)にかけ引入しに手疵(てきず)二十六 ケ 所(しよ)あれば終(つひ)に活(いき)たえたり跡(あと)に 鎧櫃(よろひひつ)に母の方への文(ふみ)あり幼少(ようせう)の時 より御 別(わか)れ参(まゐ)らせ此 侭(まゝ)打死せば 御 歎(なげき)の程(ほど)こそ心にかゝり候しばしこの 世に残(のこ)り給ふとも終(つひ)にはあふべき 所こそ候へば御 心(こゝろ)をなぐさめさせ玉 へとかきておくに此 歌(うた)あり今年(このとし)十 九歳なりとかや 【左頁下段】  福井小次郎政家(ふくゐのこじらうまさいへ) 生(うま)れこ親子(おやこ) の契(ちぎ)り いか  なれば おなじ  世(よ)に だに  へだて果(はつ)らむ 【右頁上段】 浅井備前守(あさゐびぜんのかみ)長政は下野守(しもつけのかみ) 久政(ひさまさ)の子にて和漢(わかん)の学(がく)に名高(なたか) く武勇(ぶゆう)のきこえある将(せう)なり永禄(えいろく) 三年の春(はる)十六 歳(さい)にて北近江(きたあふみ)五 郡(ぐん)の軍勢(ぐんせい)を引率(いんそつ)し六 角(かく)入道 承禎(でうてい)同右衛門佐 義弼(よしかず)の多勢(たせい) を引うけ一戦(いつせん)に打勝武名(うちかちぶめい)を遠(ゑん) 近(きん)にあらはし江州(ごうしう)一国をこと〴〵く    切なびけ手にたつ者なし同七 年濃州の織田信長(おたのぶなが)の妹聟(いもとむこ) となり其比 威勢近国(ゐせいきんごく)に鳴動(めいどう)す 越前(えちぜん)の朝倉(あさくら)と年来睦(ねんらいむつみ)しに織(お) 田信長盟約(だのぶながめいやく)を破(やぶ)り朝倉を討(うつ) ことを憤(いきどほ)り出陣す此歌は軍船(ぐんせん) を湖上(こしやう)に浮(うか)め有明(ありあけ)の月のてらす を見て今 武備(ぶび)に隙(いとま)なき干戈(かんか)の 内にも月花(つきはな)は心をなぐさむものを月(げつ) 卿雲客(けいうんかく)の優美(ゆうび)の人には詠(ながむ)る心は 別(へつ)なるやいかがぞとよみし哥也  【右頁下段】 浅井長政(あさゐながまさ) さゞ波(なみ)や 志(し) 賀(が)  の うら  はに すむ月を  いかゞ見(み)るらん    雲(くも)の上人(うへびと) 【左頁上段】 朝倉左衛門督義景(あさくらさゑもんのかみよしかげ)は越前(ゑちぜん)一国 を領(りやう)して武威盛(ぶゐさか)んなれば新公方(しんくばう) 義昭(よしあき)公 彼国(かのくに)へ御動座(ごどうざ)ありて当敵(だうてき) 三好退治(みよしたいぢ)のことを御 頼(たのみ)ありしに朝 倉御 請(うけ)に及びしかば義昭公御 悦(よろこ)びの 余(あま)り義景(よしかげ)の母を執奏(しつそう)ありて二 位(ゐ) の尼(あま)に任(にん)ず永禄(えいろく)十年の春(はる)一 乗谷(じやうだに) 南陽寺(なんようじ)にて公方家 花(はな)の宴(えん)あり 義景此 歌(うた)を詠(えい)ず其 後(のち)義景の 息男阿君(そくなんあきみ)丸 死去(しきよ)せし故義景 愁(うれい)に 沈(しづ)み軍 延引(ゑんいん)に及びし折(をり)から織田信長(おたのふなが) より密使来(みつしきた)り公方家 上洛(しやうらく)の義を進(すゝ) め申すにより義昭(よしあき)公越前を御 開(ひら)き あり濃州岐阜(のうしうぎふ)へ赴(おもむ)き給ふ是より信(のぶ) 長将軍再興(ながせうぐんさいこう)と号(がう)し諸国(しよこく)を平呑(へいどん)せ んとす義景の女(むすめ)を本願寺(ほんぐわんじ)へ嫁(か)して 朝倉と本願寺 唇歯(しんし)の因(ちなみ)を結(むす)び相(あひ) 互(たがひ)に急難(きふなん)を助(たすく)る約(やく)ありし故信長これ を憎(にく)み終(つひ)に確執(くわくしつ)に及ぶこととなりけり 【左頁下段】  朝倉義景(あさくらよしかげ) 君(きみ)が代(よ)の  時(とき)に   あひ あふ 糸(いと) 桜(さくら) いとも   けふの かしこき   ことの           は 【右頁上段】 鈴木(すゞき)重幸は始(はじめ)源(げん)左衛門といふ紀州(きしう)より 出て鈴木三郎 重家(しげいへ)の子孫(しそん)也信長 石(いし) 山 本願寺(ほんぐわんじ)を攻(せむ)るに仍(よつ)て門徒(もんと)よりたのみ 重幸(しげゆき)を軍将(ぐんしやう)とす重幸 采配(さいはい)をとるに勝(せう) 利(り)を得(え)ざることなしさしもの信長十 余年(よねん)戦(たゝか) へども石(いし)山 勢(せい)に勝(かつ)ことを得(え)ざれば怒(いかり)て宗(しう) 旨(し)の根(ね)を断(たゝ)んと欲(ほつ)す重幸 猶(なほ)も策(はかり)て大 敵(てき) を碎(くだか)んと思ひしに夢中(むちう)に尊(たつと)き僧(そう)あらはれて  〽最上(もがみ)川人をくだせばいなぶねの   かへりてしづむものとこそきけ 此 縁(えん)心ならず思ふに又の夜 同僧(おなじそう)の  〽世を治(をさ)め民(たみ)をたすくるこゝろこそ   やがてみのりのまことなりけれ 此 歌(うた)に悟(さと)り心 晴(はれ)て信長 我(われ)を憎(にく)みける ゆゑ猶(なほ)宗旨(しうし)をにくむ我(われ)死(し)なば心とけて攻(せめ) ること緩(ゆるやか)ならんと覚悟(かくご)をなし一 族(ぞく)鈴木 孫市(まごいち) に遺言(ゆいげん)して謀(はかりごと)の書(しよ)をのこし出陣の砌(みぎり)此 歌をよみ心の侭(まゝ)戦ひて敵を悩(なやま)し其後(そのご)入(じゆ) 水(すい)せしとも山 籠(ごもり)するとも言(いひ)て行方(ゆくへ)しれず 【右頁下段】  あけぼのゝ空(そら) とぼその  の 花(はな)  ん なら  春(はる) 外(ほか)の  うき世(よ)の これやこの  鈴木飛騨守重幸(すずきひだのかみしげゆき) 【左頁上段】 森迫(もりさご)三十郎は豊後国(ぶんごのくに)大友(おほども)の幕下(ばくか) 森迫 兵部允(へうぶのぜう)親数(ちかかず)の子なり肥後(ひご) の国人 合志伊勢守(がつしいせのかみ)と戦(たゝか)ひの砌(みぎ)り親(ちか) 正(まさ)わづか十七 歳(さい)常(つね)に優美(ゆうび)にして 文武(ぶんぶ)の心がけ深(ふか)し其日のし出立(いでたち)には 白糸縅(しらいとおどし)の鎧(よろひ)に鍬形(くはがた)の兜(かぶと)を着(ちやく)し 手荒(てあら)き馬(うま)に打のり敵(てき)を駈散(かけち)らし 合志 方(がた)山本十郎と戦(たゝか)ひ火花を 散(ち)らせしが組打(くみうち)となり両馬(りやうば)が合(あひ)に 落(おち)けるがなんなく山本を組敷(くみしき)し に彼(かれ)が良等(らうどう)走付(はせつき)て親正の草摺(くさずり) をたゝみ上け二刀(ふたかたな)さしければたゞよふ所 を山本はねかへしつひに三十郎は 討(うた)れにけり親正が兜(かぶと)の立物は 三本 菖蒲(せうぶ)の中に金の短冊(たんざく)あ りて此命よりの歌を書(かき)つけたり 此首 実検(じつけん)の折(をり)から是(これ)を見(み)し 人〳〵感涙(かんるい)をながし惜(をし)まぬもの はなかりしとなん 【左頁下段】     森迫(もりさご)三十郎 親正(ちかまさ) 命(いのち)より  名(な)こそ 惜(をし)けれ  武士(ものゝふ)の 道(みち)をば 誰(たれ) も か く  おも  や  はむ 【右頁上段】 大嶋民部澄月(おほしまみんぶすみづき)は松浦壱岐守隆(まつらいきのかみたか) 信(のぶ)の籏下(はたした)にて兄筑前守(あにちくぜんのかみ)ともろとも 肥前(ひぜん)の飯森(いひもり)を攻(せめ)んと出陣(しゆつぢん)に及(およ)び松 浦の下知(げぢ)にしたがひ先(まづ)相神浦(あひのうら)の城(しろ) へ押寄(おしよせ)度々(どゞ)戦(たゝか)ふといへども城兵(じやうへう)強(つよ)く してさらに弱(よわ)るけしきなきゆゑ寄(よせ) 手(て)は武辺(たけべ)といふ所に引 取(とり)て数日(すじつ)陣(ぢん) 所(しよ)を固(かため)て居(ゐ)しに城兵兵粮(じやうへうへうらう)とぼしく すでに飢喝(きかつ)にのぞみければ今は最(さい) 期(ご)と思ひ定(さだ)め城将(じやうせう)東(あづま)甚介□忠(ときたゞ) 三百人ばかりにて打出 精兵(せいへう)共に射(い) たてさせ疼(ひる)む所を蒐立(かけたて)ければ寄(よせ) 手(て)難義(なんぎ)に及(およ)びくり□に退(のきに)けるに 大嶋 兄弟(けうだい)殿(しんがり)□て度々□し合せ 敵(てき)を追拂(おいはら)ひけれども軍(いくさ)急(きう)にし て味方(みかた)多(おほ)く討(うた)れければ大 敗軍(はいぐん) となる大 島(しま)兄弟 雑兵(ざふへう)の手(て)に かゝらんよりはいさぎよく自害(じがい)せ ばやと二人り打(うち)つれ小高(こたか)き所(ところ)に 【右頁下段】 澄月(すむつき)のしばし  雲(くも)には 隠(かく)るとも  己(おの)が 光(ひか)り   は 照(てら)さ  ざらめや  大嶋民部澄月(おほしまみんぶすみづき) 【左頁上段】 のぼり民部兄(みんぶあに)にむかひ最期(さいご)の 辞世(じせい)はいたしたりと此〽 澄月(すむつき)の歌(うた) を見せければ筑前守(ちくぜんのかみ)も矢立(やたて)取(とり) 出(だ)し〽 かりそめのゝ歌を書(かく)に弟民部(おとゝみんぶ) は莞爾(くわんじ)と笑(わら)ひもはや刀(かたな)を胸板(むないた)に 突立(つきた)て死(し)す照屋(てるいへ)さらば弟(おとゝ)が弔(とふらひ) 合戦(かつせん)せんと寄(よせ)くる敵(てき)を山より追下(おひさげ) 頬当引切(ほうあてひききり)て自害(じがい)せんとする所に 敵方の勇士北川兵部(ゆうしきたかはへうぶ)といふ者 馳(はせ) 来(きた)つて筑前殿(ちくぜんどの)御首(みぐし)を給はらんと 言葉(ことば)を掛(かけ)たり大嶋 照屋(てるいへ)あざ笑(わらつ) て身石火(みせきくわ)の風に向(むか)つて滅安(めつしやす)きが如(ごと)く 朝露(てうろ)の日にむかひて消(きえ)やすきに似(に) たり心 得(え)たるか兵部(へうぶ)といひて刀(かたな)を 咽(のど)へ突通(つきとほ)して死(し)す後(のち)此軍 勝敗(せうはい) 決(けつ)せず扱(あつか)ひとなり和睦(わぼく)しぬれ ど大嶋 兄弟(けうだい)の名は後(のち)につたへて 敵(てき)も味方(みかた)も誉(ほめ)ざる者(もの)は          なかりしとかや 【左頁下段】   大嶋筑前守照屋(おほしまちくぜんのかみてるいへ) かり  そ めの 雲隠(くもがくれ)   とは  思(おも)へども 惜(をし)む習(ならひ)ぞ在明(ありあけ)    の月 【右頁上段】 三村(みむら)元親は備中(びつちう)松山の城主(ぜうしゆ)なりしが 毛利家(もうりけ)と弓矢(ゆみや)に及(およ)び籠城(らうじやう)年をかさ ね堅固(けんご)なりしが兵粮乏(へうらうとぼ)しく降参(かうさん)する 者 多(おほ)く城(しろ)の保難(たもちがた)きを知(しつ)て城外松連寺(ぜうぐわいせうれんじ) に退(しりぞ)き敵方(てきかた)より検使(けんし)を乞(こひ)て切(せつ)ふくす 最期(さいご)に筆(ふで)を染(そめ)親友(しんゆう)細川 藤孝(ふじたか)の方へ  〽一とたびは都(みやこ)の月とおもひしに   われまづ空(そら)の雲(くも)がくれして 竹田(たけた)法印は親類(しんるい)なれど戦国(せんごく)の 隔(へだて)に文通(ぶんつう)のみに対面(たいめん)せねば  〽ことのはのつてのみ聞ていたづらに   此世の夢(ゆめ)よあはでさめけり 又 大庭加賀守兼賢(おほばかゞのかみかねかた)は和歌(わか)の師(し) にて深(ふか)き情(なさけ)を通(つう)ぜし人なれば  〽のこしおくことのは草(ぐさ)のかげまでも   あはれをかけて君(きみ)ぞとふべき 人といふの歌は辞世(じせい)又 位牌(いはい)に書付(かきつけ)しは  〽思ひしれ行(ゆき)かへるべきみちもなし   もとのまことをそのまゝにして 【右頁下段】  もとの雫(しづく)に  かへる 消(きえ)てぞ 露(つゆ) 末(すゑ)の  や ほど  借(か)る 人(ひと)といふ名(な)を  三村修理亮元親(みむらしゅりのすけもとちか) 【左頁上段】 大江(おほえ)元就卿は関東執権(くわんとうしつけん)大膳大夫 廣元(ひろもと)十五代の孫(そん)にて無双(ぶそう)の良将(りやうせう)なり 始(はじ)め芸州(げいしう)半国より武略(ぶりやく)を以(もつ)て次(し) 第(だい)に国を切取(きりとり)陶尾張守全薑(すへをはりのかみぜんきやう)の 勢(いきお)ひ強大(けうだい)なるをも謀略(ぼうりやく)にて厳嶋(いつくしま)へ 引出し悉(こと〴〵く)討亡(うちほろぼ)し尼子(あまご)を始(はじ)め中国を 切(きり)なびけて十州の大守(たいしゆ)となるある夏(なつ) 尼子攻(あまこせめ)の時 軍勢(ぐんぜい)を引て夜(よ)に入り ぬるに是より先(さき)へ味方決(いかたけつ)して押(お)す まじと止(とゞめ)ける故 諸将不審(しよせうふしん)をなす 元就(もとなり)卿 宣(のたま)ふは此川下の蛍(ほたる)を見るに その光(ひか)り一丁ほどつゞきたり其中の絶(たえ) たるはまさしく人の渡(わた)りしに違(ちが)ひはある まじと見に遣(つかは)さるに果(はた)して木の茂(しげみ) に伏勢(ふせせい)ありけり諸人その明智(めいち)を感(かん) ず青柳(あをやぎ)の歌は集外歌仙(しふぐわいかせん)に入又 ある春農業(はるのうぎやう)の苦(く)を思(おぼ)して  〽ちる花を詠(ながめ)ずもしや里(さと)人の   たゞ春ごとに小田(をだ)かへすらん 【左頁下段】   大江元就(おほえのもとなり) 青柳(あをやぎ)の  いと繰(くり) 返(かへ)す その  かみ    は 誰小手(たがをだ)    巻(まき)の  はじめなるらん 【右頁上段】 友梅(ゆうばい)は備中国(びつちうのくに)手の村 国吉(くによし)の城(じやう) 主(しゆ)手右京亮政親(てのうけうのすけまさちか)が子にて天正二 年十二月 毛利家(もうりけ)の勢(せい)と戦ふころは 友梅 眼病(がんびやう)にて盲目(もうもく)となれり弟(おとゝ)の 新(しん)四郎 政貞(まささだ)とても軍(いくさ)に利(り)なきこと を見きり五十 余(よ)人打出 死(しに)もの狂(ぐる)ひに 働(はたら)き敵あまた打取り深手(ふかて)を負(おひ)け れども少しも屈(くつ)せず敵将 栗屋彦(くりやひこ) 右エ門と戦ひ終(つい)に討死(うちしに)しければ友梅 今は是までなり弟(おとゝ)に追付(おいつか)んと良等(らうどう) 坂下彦(さかしたひこ)六郎が肩(かた)にすがり敵中へ 蒐入我首取(かけいりわがくびとつ)て見よと呼(よば)はりながら大 太刀にて盲(めくら)打に働(はたら)き終(つひ)に木原(きはら)次 郎兵衛に討(うた)れて死す坂下彦六 郎も同枕(おなじまくら)に自害(じがい)して死せり友 梅 竹(たけ)の枝(えだ)に短冊(たんざく)を付此歌を書(かき) さし物として軍中(ぐんちう)に死すはためし    すくなき盲人(もうじん)なりと皆感涙(みなかんるい)を もよほしけり 【右頁下段】 手友梅(てのゆうばい) 暗(くら)きよりくらき道(みち)にも迷(まよ)はじな 心の月のくもりなければ 【左頁上段】 甫一検校(ほいちけんげう)は京都の座頭(ざとう)遠都(とほいち)と いひて平家(へいけ)を語(かた)り和歌を嗜(たしみ)ける 者(もの)にて義昭(よしあき)公 御前(ごぜん)へも召(めさ)れし者(もの)也 然(しか)るに都(みやこ)■(せう)乱(らん)によつて将軍(せうぐん)も西国(さいこく)へ 下向(げこう)のよしゆゑ甫一も備中(びつちう)松山に下り 三浦 元親(もとちか)の憐(あわれみ)を受(うけ)て勾当(かうとう)になり 又 検校(けんげう)をさへ極(きは)め此 比(ころ)京にありしかが 松山の兵革(へうかく)をきゝて其恩(そのおん)を得(う)るもの 何ぞ義(ぎ)に一 命(めい)を捨(すて)ざらんやと松山に下り 元親(もとちか)と死(し)を共(とも)にせんことを願(ねが)ふ元親大に 感(かん)じ心ざしは至極(しごく)せり速落(とくおち)よと言(いひ)けれ どもさらに用(もち)ひずいかにもして助(たすけ)ばやと 思ひ馬酔木丸(あせびのまる)といふへ遣(つかは)し置(おき)けるにこの 丸の者ども心 変(がわり)して敵(てき)を引入れ騒動(そうどう)に 及(およ)びければ甫一怒(いか)り腹(はら)だちいひがひなき やつ原(ばら)なりと罵(のゝし)り今は是までなりと 辞世(じせい)に此歌を残(のこ)して自害(じがい)して果(はて)けり 義(ぎ)をしらぬもの共に対(たい)してはこれ等(ら) も英雄(ゑいやう)といふべきものなり 【左頁下段】  甫一検校(ほいちけんぎやう) 松(まつ)山に消(きえ)なん  ものを   末(すゑ)の 露(つゆ)  落(おち)ても    水の あはれうき身(み)は  【右頁上段】 志水(しみづ)伯耆守 清久(きよひさ)は八郎 為朝(ためとも)の末(すゑ)にて 足利家(あしかがけ)の臣也都六 條(でう)の軍(いくさ)に宗(そう)上と いふ者を討(うつ)て其 首(くび)供養(くやう)の手向(たむけ)に 〽うらむなよ勝(かつ)も負(まく)るもあだし野(の)の   つひには消(き)える露(つゆ)の人の身 公方(くはう)義昭(よしあき)没落(ぼつらく)の後(のち)は細川 藤孝(ふじたか)卿 に仕へ軍忠(ぐんちう)ありしゆゑ忠興(たゞおき)侯(こう)手づから 鑓(やり)を給はりて賞(しやう)し給ふ然(しか)るに戦国(せんごく)の習(なら)ひ 軍功(ぐんこう)高(たか)きを忌(いみ)て君臣(くんしん)の中を隔(へだつ)る者あり 故(ゆへ)に虚名(きよめい)を受(うけ)て田辺(たなべ)を退(しりそ)く良党(らうどう)十 余(よ)人 共(とも)に流浪(るらう)して清久を助(たすけ)養(やしな)ふ其比 列侯(れつこう) より禄(ろく)を厚(あつ)ふして招(まね)くといへども再主(さいしう)の 望(のぞみ)なく息(そく)二人を加藤家(かとうけ)に奉仕(ほうじ)させその 身は都(みやこ)東山(ひがしやま)に寓居(ぐうきよ)して無実(むじつ)の解(とけ)ざ るを愁(うれ)ひ此歌を詠(えい)ず細川 侯(こう)疑(うたが)ひとけ て召(めし)かへし給ふ清久 無明(むめう)の闇(やみ)はれて再(さい) 勤(きん)して忠誠(ちうせい)厚(あつ)ければ大 禄(ろく)を給ひ豊前(ぶぜん) な 中津(なかつ)に城を守(まも)らしむ後(のち)入道(にうだう)して 宗加(そうか)と号(がう)し九十六歳にて卒(そつ)す 【右頁下段】 いかにせん  秋(あき)のたのみ もかれ  はてゝ 露  の   み ひとつ  おきぞ   煩(わづ)らふ  清水(しみず)伯耆守(はうきのかみ)清久(きよひさ) 【左頁上段】 白子(しらこ)杢左衛門は濃州(のうしう)の者(もの)にて 織田(おた)信孝(のぶたか)に仕(つかへ)しが天正七年の 比 羽柴(はしば)筑前守(ちくぜんのかみ)中国 攻(せめ)の折(おり)から 播州(ばんしう)三木の城(しろ)をかこみ赤松(あかまつ)の氏(し) 族(ぞく)別所(べつしよ)長治(ながはる)を退治(たいぢ)せんと対(たい) 陣(じん)におよび白子杢左衛門 寄手(よせて)に ありけるに彼(かれ)は風月(ふうげつ)の才(さい)ある者(もの)なれ ば秀吉(ひでよし)召出(めしいだ)し給ひて陣中(ぢんちう)の徒(つれ) 然(づれ)何か狂歌(きやうか)にても詠候へとありけ れば杢(もく)左衛門とりあへず 〽はりまなる三木 赤松(あかまつ)を切捨(きりすて)て  羽柴(はしば)ぞ山の大木となる 此 狂歌(きやうか)をよむはたして此 城(しろ) 落(おち)ければ秀吉(ひでよし)大きに喜感(きかん) ありて手づから酒(さけ)を給はりさま ざまのひきで物をとらせ其後(そのゝち) 度々(どど)召出(めしいだ)されておもひのほか なる富貴(ふうき)の身となりしといふ 【左頁下段】  白子(しらこ)杢左衛門(もくざゑもん) 武士(ものゝふ)の  山路(やまぢ) わけ  入(いる) 小手(こて)  の上の 露(つゆ)にもやどる  夜半(よは)の月影(つきかげ) 【右頁上段】 別所(べつしよ)長治(ながはる)は播州(ばんしう)三木の城主(ぜうしゆ)にて智勇(ちゆう) ある将(せう)也天正五年より三ヶ年の籠城(ろうじやう)に 防戦(ぼうせん)油断(ゆだん)なく毛利家へ後詰(ごづめ)を乞(こ)ふと いへども自国(じこく)の軍務(ぐんむ)に隙(いとま)なき故 延引(えんいん)せり されども中国より兵粮(へうらう)運送(うんそう)して魚住(うをすみ) といふ海辺(うみべ)より取(とり)入ければ城中 屈(くつ)する色(いろ) なし秀吉(ひでよし)これをしり給ひてこの城 力責(ちからせめ) にて落(おつ)べきやうなし糧攻(かてせめ)にせよと魚住(うをすみ) と三木の間に向城(むかひしろ)を築(きづ)き道(みち)を断(たち) 切(きり)ければ城中 難義(なんぎ)に及び必死(ひつし)の戦(たゝか)ひす れども味方(みかた)に討死(うちしに)する者 多(おほ)し天正七 年十二月に至(いた)り糧(かて)尽(つき)て牛馬(ぎうば)を喰(くら)ふ までになりければ長治 伯父(をじ)山城守 弟(おとゝ) 彦之進(ひこのしん)と談(だん)じわれら三人 切腹(せつふく)して士(し) 卒(そつ)を助(たすけ)ばやと此よし秀吉へ云(ゐひ)入ければと 定(さだま)りて同八年正月十七日此歌を残(のこし)て 切腹(せつふく)に及ぶ長治の妻(つま)も筆(ふで)を染(そめ) 〽もろともに消(きえ)はつるこそうれしけれ  おくれさきだつならひなる世に 【右頁下段】  思へば 我身(わがみ)と  かはる 命(いのち)に    の 諸人(もろひと)  じ あら  恨(うらみ)も 今はだゞ  別所(べつしよ)小三郎 長治(ながはる) 【左頁上段】 彦之進(ひこのしん)友之は其日 朝(あさ)より士卒(しそつ)を集(あつ)め 酒肴(さけさかな)を与へ三年の籠城(ろうじやう)の功労(こうろう)を謝(しや)し 忠節(ちうせつ)を賞美(しやうび)しいとまをつげ其身も一 献(こん)汲(くみ)て思ふまゝ舞(まひ)たはぶれて本城(ほんぜう)客(きやく) 殿(でん)に敷皮(しきがは)布(しゐ)せ兄(あに)長治(ながはる)と盃(さかづき)取(とり)かはし 此歌を書(かき)のこし腹切(はらきつ)て死(し)す長治の 妻(つま)もかひ〴〵しき女なれば夫(をつと)に遅(おく)れ じと 三才の児(ちこ)を刺殺(さしころ)して同(おな)じ枕(まくら)に自(じ) 害(がい)す廿一才 浦上宗景(うらかみむねかげ)の女(むすめ)なり彦(ひこ) 之進 友之(ともゆき)の妻(つま)は山名 豊恒(とよつね)のむすめ なりしが懐胎(くわいたい)にて産月(うみつき)も近(ちか)く産落(うみおと) して顔(かほ)見んと思ふにかひなくけふとなりて 長治(ながはる)の子の目前(もくぜん)刺殺(さしころ)さるゝ見ては 吾身(わがみ)の産(うま)ざるも一ッの悲(かなしみ)は遁(のが)れたりと いひながら暗(くらき)よりくらきに迷(まよ)ふ罪(つみ)を かなしみ泣々(なく〳〵)夫(をつと)におくれじと 〽たのめこし後(のち)の世まてにつばさをも  ならぶる鳥(とり)の契(ちぎ)り嬉(うれ)しき 此歌をのこし十九才にて自害(じがい)して果(はて)けり 【左頁下段】 別所(べつしよ)彦之進(ひこのしん)友之(ともゆき) 命(いのち)をも惜(をし)ま  ざりけり 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ) の  世(よ) までの  名(な)を おもふ  とて 【右頁上段】 三宅(みやけ)肥後守 治忠(はるたゞ)は別所(べつしよ)長治の老(ろう) 臣(しん)にて忠勇(ちうゆう)の人なり切腹(せつふく)の定日時(ぢやうじつじ) 刻近(こくちか)づきしに長治の伯父(をぢ)山城守い まだ見えざれば三宅(みやけ)心ならず思ひ使(つかひ)を 走(はせ)てかねて定(さだめ)候 切腹(せつふく)の時刻只今(じこくたゞいま)に 迫(せまり)て候 詎(など)おくれさせ給ふいそぎ御 入来(じゆらい) 最期(さいご)の式(しき)をも先立(さきたち)て御 覧(らん)に入れ候 はんと申 送(おく)りけるに山城守これを聞(きゝ)て 万卒(ばんそつ)の将(せう)のため命(いのち)を抛(なげうつ)は日比(ひごろ)の恩(おん) の報(むく)ひなれば誰(たれ)か恨(うらみ)ん迚(とて)も叶(かな)はぬ時 なればおめ〳〵敵(てき)に渡(わた)さんより城(しろ)に火(ひ) をかけ焼捨(やきすて)て死(しな)んと其用意(そのようい)なり ければ斯(かく)させては大将長治の盟約(めいやく) 偽(いつは)りとなるのみか万卒(ばんそつ)も命(いのち)を落(おと)すべ しと策(はかり)て山城守を討取(うちとり)長治にこの 事(こと)を告(つげ)ければ能(よく)こそせしと悦(よろこ)びて果(はて) ければ三宅(みやけ)入道 介錯(かいしやく)してのち腹(はら)十 文字(もんじ)にかき切殉死(きりじゆんし)して果(はて)る此歌は 其時(そのとき)の辞世(じせい)なり 【右頁下段】 君(きみ)なくばうき  身(み)の命(いのち) 何(なに)か せ ん のこりて かひのある  世(よ)なり    とも  三宅肥後入道治忠(みやけひごのにうとうはるたゞ) 【左頁上段】 武田(たけだ)勝頼は信玄(しんげん)の四 男(なん)にて諏訪(すは) 頼茂(よりしげ)の跡目(あとめ)なるがゆゑ武田相伝(たけたさうでん)の 信(のぶ)の字(じ)は名(な)のり給はずされど信玄 陣(ぢん) 代(だい)の比(ころ)より諏訪法性(すはほつせう)の兜(かぶと)は譲(ゆづ)られ しといふ勝頼(かつより)勇(ゆう)に任(まか)せ臣(しん)の諌(いさめ)を 用(もち)ひず智臣(ちしん)は退(しりぞ)き佞人(ねいじん)どもの進(すゝ)む ゆゑ変心(へんしん)の者多(ものおほ)し天正十 年(ねん)三月 軍(いくさ) 破(やぶ)れて天目山(てんもくざん)に落(おち)ける時 土屋宗蔵(つちやそうぞう)馳(はせ) 来(きたつ)て君(きみ)は新羅殿(しんらどの)より廿八代 弓矢(ゆみや)の 家(いへ)を継(つが)せ給ひて今際(いまは)に及(およ)びて一揆(いつき)ば らに首(うび)を渡(わた)し給ふは口惜(くちをし)と諌(いさめ)ければ 尤(もつとも)なりと土屋に介錯(かいしやく)させて果(はて)給ふ 此 比(ころ)秀吉(ひでよし)中国にありて勝頼 討死(うちしに) して甲州平均(かうしうへいきん)と聞(きゝ)大 息(いき)ついてあた ら人を殺(ころ)したること残(のこ)りおほきことなり 我甲斐(われかひ)の軍中(ぐんちう)にあらば強(つよ)くいさめ て勝頼を助(たす)け甲斐信濃(かひしなの)をあたへ て味方(みかた)とせば東北(とうぼく)の国々に心 置(おき)なかりし にと落涙(らくるい)してをしまれしといふ 【左頁下段】  にぞ見る 緑(みどり) 水(みづ)の  中(なか)の 野(の)   さを  梢(こずえ)の涼(すゞ)し 夏山(なつやま)の遠(とほ)き   武田勝頼(たけだかつより) 【右ページ本文】 織田(おた)信長公は備後守信秀(びんごのかみのぶひで)の二男 にて尾州(びしう)より出(いで)て武名(ぶめい)を諸国(しょこく)に轟(とゞろか)す 越前(ゑちぜん)より義昭(よしあき)公を迎(むか)へとり足利家再(あしかゞけさい) 興(こう)の補佐(ほさ)と号(がう)し先(まづ)佐々木承禎(さゝきじやうてい)三 好(よし)の一/類(るい)幷に伊勢(いせ)を攻(せめ)とり山門 ̄ン根(ね) 来(ごろ)の悪僧(あくそう)を討(うち)浅井朝倉(あさゐあさくら)をも平(たひ)ら げて上洛(じやうらく)し官位昇進(くわんゐしやうしん)して譜代(ふだい)被(い)【「ひ」ヵ。文字が欠けたものと思われる。右横の「平(たひ)」の「ひ」の上半分に似ている】 官(くわん)にも叙爵(じよしやく)を給ひしころ京中(きゃうちう)の 者献上物(ものけんじやうもの)ありて信長公の勝利(しやうり) を賀(が)す折(をり)から連歌師紹巴(れんがしせうは)も恐悦(きやうゑつ) に出(いで)扇子(せんす)二本/台(だい)にのせ御/前(ぜん)にさゝ げかしこまりて紹巴(しやうは) 〽にほん手に入るけふのよろこびト 申ければ信長公/喜悦(きゑつ)あり言下(ごんか)に 〽舞(まひ)あそぶ千代(ちよ)よろづ代の扇(あふぎ)にてト 附(つけ)させ給ひ紹巴(しやうは)にひきでものあまた給は りし人〳〵是をきゝ只(たゞ)荒々(あら〳〵)しく鬼(おに)の 如(ごと)き大将(たいせう)とのみ思ひしに優美(ゆうび)の事 も勝(すぐ)れ給へりと感賞(かんしやう)せしとなり 【右ページ下段】 四方(よも)の秋風(あきかぜ) はらへ 吹(ふき) すゑ 浮雲(うきくも)の 月にかゝれる さへのぼる 織田信長公(おたのぶながこう) 【左ページ本文】 松田(まつた)平介勝忠は信長(のぶなが)公の近臣(きんしん)也 天正十年五月 下旬(げじゆん)三好の残党(ざんとう)を 責(せめ)よと丹羽(には)五郎左衛門 戸田(とた)武蔵守(むさしのかみ) 坂井(さかゐ)与(よ)右衛門 等(とう)に三千 余(よ)の勢(せい)をそへ 泉州堺(せんしうさかい)より四国(しこく)に渡(わた)すべしと下(げ) 知(ぢ)せられければ一同 勢揃(せいそろ)へをなし押(おし) 出(いだ)すに信長公 急(きう)に松田平介を 使(つかひ)として堺(さかい)へ下し丹羽(にわ)等(ら)の諸将(しよせう) に告(つげ)て四国へ渡海(とかい)に及(およ)ばず其(その)勢 を以(もつ)て不意(ふい)に紀州(きしう)鷺(さぎ)の森(もり)に押(おし) よせ本願寺(ほんぐわんじ)門徒(もんと)の油断(ゆだん)せしを攻(せめ) つぶすべしと申 付(つけ)られその外(ほか)内密(ないみつ)の策(はかりごと) をさづけ紀州(きしう)へ遣(つかわ)しけるに急(いそぎ)立帰(たちかへり) 来(きた)りし所はや本能寺(ほんのうじ)にこと有(あり)て信 長公御 最期(さいご)信忠(のぶたゞ)卿も生害(せうがい) ありし 跡(あと)へ走付(はせつき)軍(いくさ)はてける故 力及(ちからおよ)ばず平介 無念(むねん)の歯(は)がみをなし妙顕寺(めうけんじ)にいたり此 哥を書(かき)のこし腹(はら)十文 字(じ)に掻切(かききつ) て義名(ぎめい)を後(のち)の世(よ)にのこしぬ 【左ページ下段】  松田平介勝忠(まつだへいすけかつただ) そのきはに消(きえ)のこる身(み)のうき雲(くも)も つゐにはおなじ道(みち)の山風(やまかぜ) 【右頁上段】 吉川式部少輔経家(きつかはしきぶせうゆうつねいへ)は毛利家(もうりけ)の 将(せう)にて因州(いんしう)丸山の城(しろ)に籠(こも)り数(す)百日の 防戦(ばうせん)に勇(ゆう)を顕(あらは)しけれども中国の後(ご) 詰(づめ)延引(ゑんいん)し兵粮難義(へうらうなんき)におよぶ羽(は) 柴勢(しばせい)これを察(さつ)し使者(ししや)を遣(つかは)して開(かい) 城(ぜう)を進(すゝ)む経家(つねいへ)切腹致(せつふくいた)すべき侭諸(まゝしよ) 士(し)を本国へ帰(かへ)させ給へと言送(いひおく)るに 秀吉答(ひでよしこたへ)に切腹(せつふく)に及(およ)ばず経家(つねいへ)をも 助けんよしを申 送(おく)るといへども経家 死(し) を望(のぞみ)て盟約(めいやく)の書(しよ)を乞(こ)ひ検使(けんし)を 申 請(うけ)切腹(せつふく)の式法厳重(しきほふげんぢう)にかまへ 家臣静間源(かしんしづまげん)兵衛に向(むか)ひ信長(のぶなが)の 実検(じつけん)に入る首(くび)なりよく心を付 介錯(かいしやく) 致(いた)すべきよし言(いひ)ふくめ此 辞世(じせい)を書(かき)のこし 腹(はら)かきさばき首(くび)さしのべて打(うて)と言(いひ)けるに 静間主君(しづましゆくん)に刃向(はむか)ふ悲(かな)しさに討(うち)かねゐ けるを経家弱(つねいへよわ)るけしきなくばか者 切(きら) ざるかと笑(わら)ひて討(うた)れけるその勇威(ゆうゐ)を 感(かん)じ実検(じつけん)の後 厚(あつく)葬(ほうむ)りしといふ 【右頁下段】   吉川経家(きつかはつねいへ) 武士(ものゝふ)の と  り 伝(つたへ)   たる   梓弓(あづさゆみ)  かへるや    もとの   栖(すみか)なるらむ 【左頁上段】 清水宗治は毛利家(もうりけ)の勇将(ゆうせう)にして備(びつ) 中 高(たか)松の城主也 秀吉数度(ひでよしすど)これを攻(せめ) るといへども勇威(ゆうい)盛(さかん)にして力戦(りきせん)には落難(おちがたき) を悟(さと)り地利(ちり)を見るに高松は小高(こだかき)のみの 平城なれば水 攻(せめ)にしかずと城の西(にし)より 南(みなみ)へまはし一里の間廣(あひだひろ)さ三十 間(けん)の堤(つゝみ)を築(きづか)せ 盤石(ばんじやく)をたゝみ上 兄上(けうべ)川の流(なが)れを堰(せき)入 折(をり) ふし五月雨(さみだれ)ふりければ渓(たに)水流れいりて 洪水(こうずい)をなし城中水にひたして忙然(ぼうぜん)たる時 秀吉和義(ひでよしわぎ)の使(つか)ひを遣(つかは)し城将 宗治(むねはる) 切腹(せつふく)せば和睦(わぼく)して陣(ぢん)を引べき旨言 送(おく) れと元春 隆景(たかかげ)和平致すとも忠臣(ちうしん)を 切 腹(ふく)させんこと本位(ほんい)にあらずと領掌(りやうじやう) なければ使(つか)ひの僧安国寺(そうあんこくじ)此よしを清 水に告(つげ)けるに涙(なみだ)を流(なが)し義 将(せう)の両川 臣(しん)を憐(あはれみ)給ふこと忝(かたじけなし)切腹せば士卒助(しそつたすか)り 和(わ)義 調(とゝの)ひ国(こく)家治平の基(もとひ)なりと悦(よろこ)び 検使(けんし)を乞(こ)ひ此 辞世(じせい)を残(のこ)し兄月(あにげつ)清と ともに切腹して義名を世々(よゝ)に伝(つたへ)けり 【左頁下段】  清水長(しみづてう)左衛門 宗治(むねはる) 浮世(うきよ)をば今こそ  渡(わた)れ武士(ものゝふ)   の 名(な) を 高松(たかまつ)  の 苔(こけ)に   のこして 【右上】 川上左京は薩州嶋津(さつしうしまづ)家の臣(しん)なり 秋(あき)月孫左衛門/種実(たねさね)筑紫広門(つくしひろかと)に 遺恨(いこん)あるによつて嶋津勢をたのみて 天正十四年七月六日/筑前御笠郡(ちくぜんみかさこほり) 勝(かつ)の尾(を)の城へおしよせ攻戦(せめたゝ)ふ又嶋津 勢広門の舎弟(しやてい)美濃守晴門(みのゝかみはるかと)の 籠(こもり)たる一久/瀬(せ)の城へ取掛り一/時(とき)責(せめ)に 操立(もみたて)ける城将晴門こゝを専度(せんど)と 防(ふせ)ぎけれども大勢入レかへ攻付(せめつけ)ければ 既(すで)に落(らく)城に及ばんとす美濃守 晴門/防戦(ぼうせん)の術(じゆつ)尽(つき)て今はこれまで と思ひきり軍(ぐん)神へいとま乞(こ)ひの一 戦(せん)して花をちらし閻魔王(ゑんまわう)への娑(しや) 婆(ば)土産(みやげ)にせんと荒(あら)き馬にうち のり大太刀/振(ふつ)て切て出またゝく間(ま) に数(す)十人切/伏(ふせ)猛威(まうゐ)をふるつて 働(はたら)く折(をり)から薩摩(さつま)勢の中より 川上左京わたり合/数度(すど)切(きり)むす び火花を散(ち)らすに勝負(せうぶ)はさらに 【左上】 附(つか)ざりける然(しか)る所に川上左京/戦(たゝか)ひ なかばに笑(ゑみ)をふくみ 〽打むすぶの哥 をよみかけければ筑紫(つくし)晴門これ を聞て面白(おもしろ)しといふ詞(ことば)の下より 〽き らばきれの歌(うた)を返(かへ)しとして互(たが)ひに 火になり水となつてしばしがあいだ 戦ひけるに左京が打太刀/晴門(はるかど)の高(たか) 股(もゝ)へ切込(きりこみ)ければ晴門も左京が足(あし) を薙倒(なぎたを)せば双方(さうはう)ともに尻居(しりゐ)に どうとたをれにけれど互(たが)ひに聞(きこ) ゆる勇猛(ゆうまう)なれば深手(ふかで)もいとはず 組付(くみつい)て両人/等(ひとし)く声(こゑ)をかけ あひさし違(ちが)へてぞ死(し)したりける かゝる烈(はげ)しき場(ば)にいたり生死(せうし) の街(ちまた)にありながら敷嶋(しきしま)の道(みち) に心をこめて骸(なきがら)は戦場(せんぢやう)の土と なるとも其(その)名は末世(まつせ)に残(のこ)し つゝ敵味(てきみ)方の感涙(かんるい)の種(たね)とは なりにけり 【右下】  川上左京(かはかみさきやう) うちむすぶ 太刀(たち)の 下こそ 産家(うぶや)なれ 唯(たゞ)切(きり)かゝれ 先(さき)は極楽(ごくらく) 【左下】  筑紫晴門(つくしはるかど) きらば切(き)れ 刃(やいば)に かゝる 物(もの)も なし 本来(ほんらい)心(しん)に かたちなければ 【右上】 高橋紹運(たかはしでううん)は筑前岩屋(ちくぜんいはや)の城主に て武勇(ぶゆう)の将也天正十二年/嶋(しま)津/勢(せい) 十万/余騎(よき)大友を攻(せめ)て猛勢(まうせい)なるに岩 屋の城へ使者(ししや)を立て申けるは紹運(でううん)の 武勇世に名高(なたか)しといへどもかくては衰(おとろへ) られんこと近(ちか)きにあるべしとにかく家(いへ)を興(おこさ)ん 事/武(ぶ)の本意(ほんい)とす早(はや)く嶋津家(しまづけ)と和睦(わぼく) せられ人/質(しち)を出され然(しか)るべき由(よし)申/送(おく)り けるに紹運聞て尤の仰(おほせ)に候へども運(うん)衰へ て志(こゝろざし)を変(へん)ずるは弓矢(ゆみや)取身の恥(はぢ)にし て人に爪抓(つまはぢ)きせらるべし松樹(せうじゆ)千年/終(つひ) に朽(くち)ることぞかし人生朝露(じんせいてうろ)の日/影(かげ)を 待(まつ)にひとし只(たゞ)世に残(のこ)らんものは義名(ぎめい)也 とさらに取合ねばさらば攻(せめ)よと大軍 を発(はつ)し押寄(おしよせ)ければ数日(すじつ)防(ふせ)ぐといへども 七百/余(よ)の小勢なれば敵(てき)しばらく討死(うちしに) と覚悟(かくご)し門(もん)の柱(はしら)に  〽かばねをば岩屋の苔(こけ)にうづむとも   雲(くも)井のそらに名をとゞむべき ト 【左上】 書付(かきつけ)て一ト度(たび)敵(てき)を追払(おひはら)ひ心しづかに 切腹(せつふく)せんと高矢倉(たかやぐら)に打上り其/用意(ようい) せしかば義(ぎ)の深(ふか)き将(せう)を慕(した)ひ同じ枕(まくら)に 切腹(せつふく)する者三十七人 〽流(なが)れての哥(うた)は此 時の辞世(じせい)也/紹運(でううん)の骸(なきがら)は薩州(さつしう)ゟ厚(あつく) 葬(ほうむ)り給ひしとかや三原/紹心(でうしん)も岩屋(いはや)の城 一方を引うけ防戦(ばうせん)手を尽(つく)しけるに四方十 余(よ)万の寄隊(よせて)山野蹊路(さんやけいろ)に充満(じうまん)して天 地も崩(くづ)るゝばかりにときを発(はつ)し攻(せめ)ければ 城兵一人して五人十人打といへども打死 する者(もの)数増(かずまさ)りける三原紹心花やかに いで立て四尺五寸の大太刀を真向(まつかう)にさし 挿(かざ)し持口に立/添(そひ)て大/音(おん)に此/辞世(じせい) を吟(ぎん)じむらがる敵中へ蒐(かけ)入て当(あた)るを さいはひ切(きり)ちらし敵(てき)あまた打とれども 其身/金鉄(きんてつ)ならねば数(す)ヶ所の手疵(てきず) を負(お)ひ今は是までなりと向(むか)ふ敵(てき)と 引組(ひきくみ)て深き谷(たに)へ転(まろ)びおち重(かさな)り合 て死(し)したりける 【右下】  高橋紹運(たかはしでううん) 流(なが)れての 末(すゑ)の 世(よ) 遠(とほ)く 埋(うづも)れぬ 名(な)をや 岩屋(いはや)の 苔(こけ)の下水(したみづ) 【左下】  三原紹心(みはらでうしん) 打太刀(うつたち)の かねの 響(ひゞき)は 久(ひさ)かたの あまつ   空(そら)にぞ   きこえあぐべき 【右上】 佐久間玄蕃允盛政(さくまげんばのでうもりまさ)は柴田勝家(しばたかついへ)の 甥(おひ)にて大/勇強(ゆうがう)の武者也/常(つね)に鉄(てつ)の 棒(ぼう)を遣(つか)ふ事に馴(なれ)たり天正十一年四月 賤(しづ)ヶ嶽(たけ)へ取掛(とりかゝ)り羽柴勢(はしばせい)を切崩(きりくづ)し 敵陣を数多焼立(あまたやきたて)しかばさしもの中 川/清秀(きよひで)も討死ありしかば盛政(もりまさ)勇に ほこつて打とる所(ところ)の首(くび)を持(もた)せ勝家(かついへ)方 へおくり勝利(せうり)の吉事を言(いひ)のべその上盛 政/賤(しづが)ヶ嶽(たけ)のの陣所(じんしよ)を去(さ)らず爰(こゝ)に 在陣(ざいぢん)致すべきよしを注進(ちうしん)すれば 勝家(かついへ)さありては軍(いくさ)に利(り)なき事を しりて少利(せうり)にほこらずいそぎ引上候へと 使(つか)ひしき波(なみ)を打(うつ)て諫(いさむ)れども強気(がうき)の 盛政/返答(へんたう)もせず然(しか)るに其夜(そのよ)子の 刻(こく)に秀吉(ひでよし)公/着陣(ちやくぢん)ありて翌朝(よくてう)敵を 眼下(がんか)に見おろし攻(せめ)かけければ忽(たちまち)北国勢 敗軍(はいぐん)に及び盛政/終(つひ)に生捕(いけとり)となり最(さい) 期(こ)の辞世(じせい)に此哥をよめり 【右下】【注:歌は左から右へ読む】 門(かど)を出るなりけり 火宅(かたく)の 小車(をぐるま)は ぬる はて 廻(めぐ)り 世(よ)の中を  佐久間盛政(さくまもりまさ) 【左上】 柴田(しばた)勝家は織田家(おたけ)の老臣(ろうしん)にて越前(ゑちぜん) 北の庄(せう)の城主也/軍功者(いくさこうしや)にして魁(さきがけ)に名 を得(う)るされば其/時代(じだい)の小/唄(うた)に 木綿(もめん)藤吉/米(こめ)五郎左かゝれ柴田(しばた)に 退(のけ)佐久間(さくま)と謡(うた)ひしとなり木綿(もめん)は何 に用(もち)ひても調法(てうほう)なる物(もの)ゆゑ木ノ下にた とへ米(こめ)はなくて叶(かな)はぬものゆゑ丹羽(には)に比(ひ) し柴田は勇気(ゆうき)盛(さか)んに駈口(かけくち)よきゆゑ 斯(かく)いふ又佐久間/信盛(のぶもり)は退口(のきくち)上手ゆゑ なりといふ平日勝家/軍令(ぐんれい)を伝(つた)へるに哥 を以(もつ)てすその中二三/首(しゆ)をしるす  だん〳〵に人数(にんず)を押(おせ)ど先勢(さきせい)を   とりかためずはつぎをくづすな  敵(てき)の退(の)くところへつかばくひつきて   追(お)はゞ逃(にげ)たりにげばおふべし  陣(ぢん)とりはいづくなりともきを付て   日くれぬさきにあたり見ておけ  合戦(かつせん)に勝(かつ)てかぶとの緒(を)をしめて   追(お)ふも二のみも場(ば)や時(とき)による 【左下】  柴田修理亮勝家(しばたしゆりのすけかついへ) 夫(それ)ぞ とも 人(ひと)にしら れず 憂(うき) ものは 身(み)を 心ともせぬ世(よ)なりけり 【右上】 信孝(のぶたか)は織田信長(おたのぶなが)公の三男なり永禄(えいろく) 十一年信長公/伊勢(いせ)の神戸(かんべ)をせめてその 一/族(ぞく)下総守(しもうさのかみ)と和平(わへい)し信孝(のぶたか)十一/歳(さい)也 しを彼家(かのいへ)の養子(やうし)となし伊勢(いせ)を領(りやう)し 後(のち)美濃(みの)に移(うつ)る然(しか)るに天正十年 六月/本能寺(ほんのうじ)の事(こと)ありてのち信(のぶ) 孝(たか)英雄(えいゆう)の挙(きよ)にして明智退治(あけちたいぢ) の功(こう)すくなからずといへども秀吉三/法(ほう) 師丸(しまる)を立て信孝の功(こう)を賞(しやう)せず此 ゆゑに信孝/快(こゝろよ)からずありし所/柴田勝(しばたかつ) 家(いへ)北国に兵(へい)を起(おこ)す信孝是に合(がつ) 体(たい)して軍議(ぐんぎ)つたなからずといへども柳(やなが)ヶ 瀬(せ)賤(しづが)ヶ嶽(たけ)の敗軍(はいぐん)より柴田(しばた)佐久(さく) 間(ま)もほろび世にあるかひもなき身とかこち  〽身はかくて入ぬる磯(いそ)の草(くさ)なれや   ありとも人に見えずはてなん 運(うん)つたなく尾州野間(びしうのま)の内海(うつみ) にて自害(じがい)ありし生年(せうねん)二十六/歳(さい) なりけるとなん 【右下】  神戸信孝(かんべのぶたか) たらちねの 名(な)をば くださじ 梓弓(あづさゆみ) いなばの 山の露(つゆ)ときゆとも 【左上】 筒井陽舜順慶(つゝゐやうしゆんじゆんけい)は筒井/浄妙(じやうめう)の 末(すゑ)筒井大夫/順武(じゆんぶ)より応永以来(おうえいいらい) 武事(ぶじ)をもつて大身(たいしん)となり和州筒井(わしうつゝゐ) の城主(しやうしゆ)にて七十五万石を領(りやう)せり天 正四年/松永弾正(まつながだんぜう)織田家(おたけ)を反(そむい)て 信貴(しぎ)の城に籠(こも)る織田/勢(せい)数(す)万に て攻(せめ)けれども要害(ようがい)の城(しろ)なればたやす く落(おつ)べきやうなし此時順慶/策(はかりごと)を めぐらし軍士(ぐんし)二百人/大坂本願寺(おほさかほんぐわんじ)より 加勢(かせい)なりと披露(ひろう)し信貴(しき)の城に入ら せ惣攻(そうせめ)の折(をり)から城に火を掛(かけ)させ落(らく) 城(しやう)に及(およ)ぶ信長(のふなが)此/功(こう)を賞(しやう)し大和(やまと)一ヶ 国(こく)を給はる又/明智光秀(あけちみつひで)本能寺(ほんのうじ)合(かつ) 戦(せん)の後(のち)大和/紀伊(きい)和泉(いづみ)三ヶ国を送(おく)ら んと味方(みかた)に招(まね)ぎけれども是に応(おう)せず 八幡(やはた)山に備(そな)へて山/崎(ざき)合戦の砌(みぎり)淀(よど)川 辺(へん)にて明智(あけち)が兵(へい)五百ばかり打とり功(こう) を顕(あらは)しければ元(もと)のごとく大和一ヶ国(こく)領(りやう) し天正十二年八月/病死(びやうし)す 【左下】  筒井順慶(つゝゐしゆんけい) 筒井筒(つゝゐづゝ) つゝゐの 底(そこ)の 清水(しみづ)かげ 結(むす)ぶ手(て) 多(おほ)き けふの明雲(あけくも) 【右上】 山名豊国(やまなとよくに)は因幡(いなば)の出/久松(ひさまつ)の城主(じやうしゆ)に て毛利家(まうりけ)に属(ぞく)してありしかど羽柴(はしば) 秀吉(ひでよし)中国/攻(せめ)の時/同意(どうい)せしかば家人(けにん) どもは毛利家を放(はな)れしをうとみて 離散(りさん)せしゆゑ其身も頓(やが)て世を遁(のが) れ山家(さんか)に住(じう)し法躰(ほつたい)して禅高(ぜんかう)と号(がう) すある夜中(やちう)盗(ぬす)人大勢/乱入(らんにう)して禅(ぜん) 高(かう)を討(うた)んとせしを鑓(やり)おつ取(とつ)て 老法師(ろうほうし)が手並(てなみ)を見せんと大 勢にわたり合いどみ戦(たゝか)ひし所 禅高が妻(つま)心/利(きゝ)たる者(もの)ゆゑ物蔭(ものかげ) に身をひそめ衣服(いふく)を多持(おほくもち)出し賊(ぞく) の剣戟(けんげき)に投(なげ)かけて纏(まと)ふこと度々(たび〳〵)なれ ば賊(ぞく)どもはたらき自由(じゆう)ならずたゞよふ 所を禅高/踏込(ふみこん)で賊多(ぞくおほ)く打取(うちとり)二人 生捕(いけどり)て市中(しちう)に引ければ皆(みな)人山名/夫(ふう) 婦(ふ)の者を誉恐(ほめおそ)れけるとなん此哥は 秀吉九州/攻(せめ)の時/同伴(どうはん)にて長州 あみだ寺(じ)においてよめり 【右下】  山名禅高(やまなぜんかう) 名(な)ば かりは 沈(しづみ) も は てぬ うた かたの あはれながとの 春(はる)のうらなみ 【左上】 北畠信雄(きたはたけのぶを)は織田信長(おたのぶなが)公の二/男(なん)也 織田/勢(ぜい)永禄(えいろく)十一年/大河内(おほかうち)の城(しろ)を 攻(せめ)やがて和義(わぎ)をとゝのへ信雄(のぶを)十二才 にて北畠/信雅(のぶまさ)の女(むすめ)に配(はい)して彼家(かのいへ) の家督(かとく)となり門(もん)若ふ【?】栄(さかへ)しに天正四 年北畠一/族(ぞく)皆(みな)ほろび失(うせ)しのちも位(ゐ) 階(かい)昇進(しやうしん)して暫時(さんじ)ときめくといへども 信長公/本能寺(ほんのうじ)の変(へん)の後(のち)は日々(ひゞ) 衰(おとろ)へ挙用(きよよう)するものなきゆゑ無念(むねん)に 思ひ秀吉(ひでよし)と鉾楯(むしゆん)におよび一/戦(せん)の 後(のち)和平(わへい)になりけれど豊臣家(とよとみけ)武(ぶ) 威(ゐ)盛(さか)んなる頃(ころ)はかすかなるさまにて 京に住居(すまゐ)し昔(むかし)にも似(に)ず静(しづか)な るに詫(わび)つゝ述懐(じゆつくわい)の心にてこの哥は よめり北畠/准后親房卿(じゆごうちかふさけう)より 十四世の孫(まご)に当(あた)れり 墓(はか)は京都廬山寺(きようとろさんじ)にありて 高照院殿(かうせういんでん)と号(がう)す 【左下】  北畠信雄(きたはたけのぶを) 嬉(うれ)しさのあり とや人 の思ふ らん 憂(うき)を うきとも 歎(なげ)かれぬ身(み)は 【右上】 日下部元五(くさかべもとかず)は志水伯耆守(しみづはうきのかみ)の息男(そくなん)也ゆゑ ありて加藤清正(かとうきよまさ)に仕(つか)ふ朝鮮陣(てうせんぢん)の時清正 兀良哈(をらんかい)を攻落(せめおと)す砌(みぎり)元五(もとかず)首数級(くびすきう)を取/功有(こうあり) 然(しか)るに清正/地利(ちり)を計(はかり)て急(きう)に軍勢(ぐんせい)を引揚(ひきあぐ) る折(をり)から元五(もとかず)が傍輩(ばうばい)戯(たはむれ)て和(わ)どのは日比歌(ひごろうた)を 好(この)まれ候に斯(かゝ)るせはしき場(ば)にても詠(よま)るゝやと 言(いひ)ければ元五/聞(きゝ)て異国(ゐこく)なりとも我国(わがくに)の 詞(ことば)を残(のこ)さんと筆(ふで)をとりあたりの白壁(しらかべ)に此 歌を書(かき)のこし又/蔚山籠城(うるさんろうぜう)の時/明(みん)の大/軍(ぐん)に 囲(かこま)れ夜半(よは)も油断(ゆだん)なく塀裏(へいうら)を廻(まは)り味方(みかた) を励(はげま)し眠(ねふり)もやらず寒(かん)気/烈(はげ)しき折(をり)から  〽さむけさは鎧(よろひ)のそてに霜(しも)を置(おき)て   さえゆく月のあけかたのそら 《振り仮名:関ヶ原|せきがはら》御陣(ごぢん)の後小西の居城肥後(きよぜうひご)の宇土(うど) を攻(せめ)し時/元五(もとかず)一/番鑓(ばんやり)の功(こう)あれば清正/感状(かんでう)に 脇差(わきざし)を添(そへ)加増(かぞう)を給はる其後/細川侯(ほそかはこう)加藤 家(け)に日下部與助(くさかべよすけ)を乞得(こひえ)給ひて志水/新(しん)之 允(でう)と改名(かいめい)させ父と共(とも)に中/津(つ)を守(まも)らしむ 後(のち)伯耆守(はうきのかみ)と号(がう)し九十二/歳(さい)にて卒(そつ)す 【右下】  日下部與助元五(くさかべよすけもとかず) 武士(ものゝふ)の矢竹(やたけ)心を 異国(ことくに)の はての はて までしらせ けるかな 【左上】 金上(かなかみ)遠江/盛備(もりみつ)は奥州南部(おうしうなんぶ)芦名(あしな)盛(もり) 隆(たか)の臣(しん)にて勇猛(ゆうまう)の人也/使者(ししや)となり上 洛(らく)して諸国(しよこく)の使者一/同(とう)出て太閤(たいかう)に 拝謁(はいえつ)せしに金上(かなかみ)いと無骨(ぶこつ)に見えし かば御前(ごぜん)の人々/批判(ひはん)せしに太閤(たいかう)人 〴〵に示(しめ)して曰(いはく)西国(さいこく)の使者(ししや)はへつ らふ心ありて腰(こし)をかゞめるは悴(ゑせ)【?】ごとなり 会津(あひづ)の使者は芦名(あしな)にて一二と呼(よば) るゝ者(もの)ゆゑ拝礼(はいれい)に馴(なれ)ず無骨(ぶこつ)に 見ゆれども無(む)二の勇者(ゆうしや)なりと誉(ほめ) られし人なり又和哥もよく詠(よみ) 連歌(れんが)は紹巴(せうは)に学(まな)ぶあるとき秀 吉公の御前(ごぜん)にて  〽女も鎧(よろひ)きるとこそきけ といふ前句(ぜんく)ありしに金上は風雅(ふうが)に志(こゝろざ) あり附(つけ)よと仰(おほせ)ありければ金上/畏(かしこま)りて  姫百合(ひめゆり)のとも草摺(くさずり)に花ちりて 此付句/斜(なゝめ)ならず御/感(かん)ありて引(ひき) 出(で)もの給はりしとかや 【左下】  金上遠江盛備(かなかみとほ〳〵みもりみつ) 越(こえ)ぬ べき 山/路(ぢ)を いかにふる雪(ゆき)の みなれし鎧(よろひ) 袖(そで)おもるなり 【右上】 佐々成政(さつさなりまさ)は大/勇強(ゆうがう)の大将也/初(はじめ)北国を領(りやう) せしが天正十六年/肥後(ひご)を拝領(はいりやう)して熊本(くまもと) に移(うつり)制法(せいほう)を定(さだむ)るに隈府(くまぶ)の城主/相摸(さがみの) 守(かみ)親長(ちかなが)下知(げち)に応(おう)ぜず成政/怒(いかつ)て隈(くま) 府(ぶ)を攻(せむ)るにいまだ戦(たゝか)ひ半(なかば)に熊本に一 揆(き)起(おこり)て留守(るす)の城(しろ)を攻(せむ)るよし注進(ちうしん)ありけ れば成政(なりまさ)熊本へ引取(ひきとる)所/歒跡(てきあと)を追(おつ)て退(のき) 口(くち)難義(なんぎ)なりしが成政一世の勇(ゆう)を震(ふるつ)て引 上る此/勇戦(ゆうせん)辺土(へんど)なるゆゑ世に知(し)れざること を成政/歎(たん)ぜしといふ斯(かく)て国中/治平(ちへい)せざる は邪政(じやせい)なるゆゑと太閤(たいかふ)召(めし)給ふ成政/尼(あま)が崎(さき) 法園寺(ほうおんじ)に旅宿(りよしゆく)してありしに自害(じがい)せよと 上/使(し)の来るを成政/驚(おどろ)く気色(けしき)なく沐浴(もくよく) して撿使(けんし)に向ひ後代(こうだい)の物語(ものがたり)にせられよ と立ながら腹(はら)十文/字(じ)に切(き)り腸(はらわた)を掴(つか)み 出し天井(てんじやう)へ打付しに龍(りう)の画(ゑ)に血活(ちくわつ)のこ りて誠(まこと)の龍(りう)の蟠屈(はんくつ)する如く末代(まつだい)これを 見る者/恐怖(きやうふ)せざることなしといふ此哥は 長門(ながと)のあみだ寺(じ)にての詠(えい)なり 【右下】 名にしおふ長(なが) 門(と)の海(うみ)をきて 見れば あはれを 添(そふ)る 春(はる)の浦波(うらなみ)  佐々陸奥守成政(さつさむつのかみなりまさ) 【左上】 吉川治部少輔元長(きつかはぢぶのせうゆうもとなが)は元春(もとはる)の男に て智勇(ちゆう)の大将也/秀吉(ひでよし)と度々(どゝ)手/詰(づめ) の勝負(せうぶ)を決(けつ)せんと勇進(いさみすゝま)れし強威(がうゐ)の気(き) 質(しつ)也/父(ちゝ)元春/羽柴(はしば)の下風(かふう)に附(つか)んこと本意(ほい) なく思ひ給ひしや元長に家(いへ)を譲(ゆづ)り隠(いん) 居(きよ)し給ふ元長も一胸襟(いつきやうきん)にておはしけれど 秀吉吉川を重(おも)く用(もち)ひ給ひ九州/陣(ぢん)の 時近年/諸所(しよ〳〵)の軍物語(いくさものがたり)をもせん間(あいだ)ぜひ 出陣し給へと宣(のたま)ふに仍(よつ)て九州陣に出(しゆつ) 馬(ば)あれども俄(にはか)に病気(びやうき)脳(なやま)【悩】されければ弟(おとゝ) 蔵人経言(くらんどつねのぶ)を名代として遣(つかは)され其身 は山渓(さんけい)に入水竹の居(きよ)に心を清(すま)し隠遁(いんとん) の思ひあれば石見(いはみ)にある舎弟(しやてい)左近将監(さこんのしやうげん)【「将」のフリガナ不詳】 元氏(もとうぢ)の許(もと)へおくり給へる哥に  〽梓弓(あづさゆみ)ひかれけるぞや心にも   まかせはてなばすみぞめのそで されども桑門(さうもん)の望(のぞみ)もとけず邁(ばん) 齢(れい)四十/歳(さい)にて日向(ひうが)の国の陣中 にて病死(びやうし)したまふ 【左下】【注:歌は左から右へ読む】 まゝの  継(つぎ)はし もとの 吾身(わがみ)ぞ 中(なか)は 世(よ)の ぬる はて わたり 皆(みな)人は  吉川元長(きつかはもとなが) 【右上】 北條(ほうでう)左京大夫/氏政(うぢまさ)は氏康(うぢやす)の嫡(ちやく) 子(し)也/文武(ぶんぶ)をかねたる将(せう)にしてよみ歌 もあまたあり松契多春(せうけいたしゆん)の題(だい)にて〽ま もれ猶(なほ)の歌はよめりおなじく松の題(だい)にて  〽うつし植(うへ)し二/葉(ば)の松(まつ)のことしより   みどりにこもる春(はる)はいくはる  〽いく春を契(ちぎ)りおきてか住吉(すみよし)の   はま松(まつ)がえのみさほなるらん 氏政氏康の名跡(めうせき)を継(つぎ)て一代の間(あいだ) 合戦(かつせん)多(おほ)し所謂(いはゆる)里見義弘(さとみよしひろ)するがの 今川(いまがは)上杉(うへすぎ)武田(たけだ)何れの歒(てき)にも鉾(ほこ)を 争(あらそ)へども自国(じこく)を掠(かすめ)られし事(こと)なく 五代百/余年(よねん)家(いへ)を治(をさめ)られしかども 天正にいたり上/洛(らく)延引(ゑんいん)のことについて 太閤(たいかう)の心に違(たが)ひ合戦に及(およ)び天運(てんうん)に 叶(かな)はざる所あるゆゑにや落城(らくじやう)して天 正十八年七月十一日/生害(せうがい)の時/辞世(じせい)  〽ふきとふく風なうらみそ花の春   もみぢの残(のこ)る秋(あき)あらばこそ 【右下】  北條氏政(ほうでううぢまさ) まもれ 猶(なほ) 君(きみ)に ひかれて 住吉(すみよし)の 松(まつ)のちとせを 万代(よろづよ)のすゑ 【左上】 小早川筑前守(こばやかはちくぜんのかみ)隆景は元就卿(もとなりけう)の 三男なり毛利家(まうりけ)三家の内にて芸(げい) 州(しう)より東南(とうなん)の方を附(ふ)せられ九州/発(はつ) 向(かう)の時は先鋒(せんぼう)の大将たり毎度(まいど)戦場(せんぜう) に向(むかつ)て堅(かた)きを砕(くだ)き哀憐(あいれん)をたれて其智(そのち) 勇(ゆう)朝鮮(てうせん)までも轟(とゞろか)せし将なりさしも軍(ぐん) 慮(りよ)に賢(かしこ)き秀吉(ひでよし)公すら播州上月(ばんしうかうづき)又 は馬野山対陣抔(うまのさんたいぢんなど)には両川の智勇(ちゆう)に は舌(した)を巻(まき)て陣を払(はら)つて退(しりぞか)れたり中国 和睦(わぼく)の後(のち)は秀吉公/敬(うやま)ひしたしむことひと かたならず此哥は上/洛(らく)の砌(みぎ)り聚楽(じゆらく)の御(ご) 所(しよ)にて月の宴(えん)の折(をり)から詠(えい)ぜしなりその 節(せつ)太閤/或公卿(あるくげう)と碁(ご)を囲(かこみ)給ひしにむ づかしき石続(いしつづき)にていろ〳〵御/工夫(くふう)あれども 御手につかへ給ふ御/見物(けんぶつ)の歴々(れき〳〵)いかがせ させ給ふらんと詠(なが)め居(ゐ)たりその時/太閤(たいかう) これは小早川が智恵(ちゑ)にてもかなふまじ と宣(のたま)ふ此/詞(ことば)をもつても隆景(たかかげ)の英智(えいち) の程を押(おし)はかりてしるべし 【左下】  小早川隆景(こばやかはたかかげ) 治(をさま)れる代(よ)を こそ仰(あほ)げ 九(こゝの) 重(へ) の 今宵(こよひ)の 月(つき)を見るに 附(つけ)ても 【右上】 細川幽斎卿(ほそかはゆうさいけう)は文武両道(ぶんぶりようどう)の大将にて 丹州田辺(たんしうたなべ)に在城(ざいぜう)のころ歒一万七千の 勢を以て攻囲(せめかこ)むかゝる騒(さはが)しき中にも 中院通勝(なかのいんみちかつ)卿/歌道(かどう)にて親(した)しき御中 なれば軍中に御/訪(とふら)ひのことまめやかに して幽斎卿より歌道/伝授(でんじゆ)のこと 残(のこ)りしよしにて甲冑(かつちう)の侭(まゝ)手に采配(さいはい)を 持(もち)軍の駈引(かけひき)の中にて口伝(くでん)ありし所へ 歒方より鉄炮(てつほう)しげく打両卿の中へ玉 一つ落(おち)ければ幽斎卿とりあへず  〽爰(こゝ)をさしてうつ鉄鉋【炮】の玉きはる   いのちに向(むか)ふ道(みち)は此みち かゝる場所(ばしよ)にても詠歌あることいみじく 世にきこえけり又/古今集(こきんしう)の秘訣(ひけつ)兵火の 為に失(うしなは)んことを惜(をし)み禁裡(きんり)へ奉る時の哥  〽もしほ草(ぐさ)かき集(あつ)めたるあととめて   むかしにかへせわかのうらなみ 斯(かく)て勅命(ちよくめい)ありて城の囲(かこみ)を解(とか)せ大歒を 追払(おひはら)ひ給ふ和歌の徳(とく)いと尊(とうと)むべきことなり 【右下】 いにしへも 今もかはら ぬ 世(よ)の 中(なか) に 心(こゝろ)の たねを 残(のこ)すことのは  従(じゆ)二/位(ゐ)法印幽斎(ほふいんゆうさい) 【左上】 陸奥黄門(むつのくわうもん)政宗/卿(けう)は文武(ぶんぶ)二/道(たう)に秀(ひいで) 給ふ大将にて又/能書(のうじよ)に聞(きこ)へあり敷嶋(しきしま) の道(みち)に心がけ深く世に伝(つた)へし古歌(こか)に  〽むさしのは月の入べき山もなし   草(くさ)よりいでゝ艸(くさ)にこそいれ 是にては月の出入りはるかならずと 思し此こゝろをたよりとして  〽いづるより入る山の端(は)は何国(いづく)ぞと   月にとはましむさしのゝはら かく詠(よみ)て近衛殿(このゑどの)へまゐらせしに限(かぎ)り なく御/誉(ほめ)ありて月/雪(ゆき)を事として花 のもとにすむ歌人もおもてを覆(おほ)ふよし 仰(おほせ)られける詠哥数多(よみうたあまた)の中に冨士(ふじ)を  〽いつ見てもはじめて向ふ心かな   たび〳〵かはる冨士の景色(けしき)を 此/詠(えい)たぐひなく思召と雲上(うんせう)より御 褒美(ほうび)ありし哥也又/逝去(せいきよ)の時/辞世(じせい)に  〽くもりなき浮(うき)世の月をさき立て   こゝろの闇(やみ)をてらしてぞゆく 【左下】  藤原政宗(ふぢはらのまさむね) さゝずとも誰(たれ)かは 越(こえ)んあふ 坂(さか)の 関(せき)の戸(と) うづむ 夜半(よは)の しら雪(ゆき) 【右ページ上段】  秀吉(ひでよし)公の武略官位昇進(ぶりやくくわんゐしようしん)の事は 人のしる所なればしるさずば和歌をも よく詠(よみ)給ふゆゑ聊(いささか)これを抄出(せうしゆつ)す 小田原下向(をだわらげかう)に冨士(ふじ)山を御覧(ごらん)じて 「都(みやこ)にて聞(きゝ)しはことのかずならで  くもゐにたかき冨士の根(ね)の松 伏見(ふしみ)山に茶座敷(ちやざしき)をしつらはせて 「あはれこの柴(しば)のいほりの淋(さび)しさに  人こそとはね山おろしの風 御/当座(とうざ)夢(ゆめ)によする恋(こひ) 「思ひ寝(ね)の心やきみにかよふらん  こよひあひ見る手枕(たまくら)のゆめ   世の中のはかなきををおぼして 「つゆとちりしづくと消(きゆ)るよの中に  何とのこれる心なるらん 天正十六年四月十五日/聚楽御(じゆらくご) 所(しよ)へ御幸(みゆき)ありて和歌の御/會(くわい)に 「よろづ代の君がみゆきになれなれん  みどりこだかきのきの玉水 【右ページ下段】 吉野(よしの)山 誰(たれ)とむる とは なけれ ども 今(こ) 宵(よひ) も 花(はな)の蔭(かげ) に やどらん 豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう) 【左ページ】 輯者緑亭川柳 畫工《割書:口画五頁|出像自一至十》前北斎卍老人 仝《割書:自十一|至二十》一勇齋國芳 仝《割書:自二十一|至三十》玉蘭齋貞秀 仝《割書:自三十一|至四十》柳川重信 仝《割書:自四十一|至五十》一陽齋豊國 【右ページ】 英 雄(ゆう)百人一首 袋入緑亭川柳        一冊玉蘭齋貞秀画  此書 諸君(しよくん)思召(おぼしめし)に叶ひ年々に出月々に行(おこなは)れて弘化二巳年春より四ヶ年の間  絶間(たへま)なく摺(すり)出し近来 稀(まれ)なる大あたりに付なほ此たび増補(ぞうほ)いたし板木を彫(ほり)  あらため紙摺等 精密(せいみつ)に相 製(せい)し申候 且(かつ)また緑亭 輯録(しうろく)の本并に著   述の合巻(くさぞうし)るゐ追々出板仕候間相かはらず御求御高読【覧ヵ】の程奉希候   義列(ぎれつ)百人一首 袋入 緑亭川柳輯        一冊      近刻 瑞応百歌撰(ずゐおうひやくかせん) 袋入 緑亭川柳輯        十冊      近刻 于時嘉永二年巳酉正月発版 馬喰町二丁目  東都書肆 錦耕堂     山口屋藤兵衛梓 【左ページ】       日本橋通一丁目  須原屋茂兵衛       同   二丁目  山城屋佐兵衛       同     所  小林新兵衛  東 都  芝 神 明 前  岡田屋嘉七       同     所  和泉屋市兵衛       本石町十軒店   英 大 助       芳町親仁橋角   山 本 平 吉       大伝馬町二丁目  丁子屋平兵衛  書 林  横山町一丁目   出雲寺万次郎       浅草茅町二丁目  須原屋伊八       横山町三丁目   和泉屋金右衛門       馬喰町二丁目   山口屋藤兵衛板 【白紙】