【表紙 題箋】 あかし 【資料整理ラベル 右上】 MS 【資料整理ラベル 右下】 JAPONAIS  5340   2 【見返し 文字無し】 【白紙】 【白紙】 なを雨かせやますかみなりしつま/ら(ら)てひこ ろになりぬいとゝものわひしき事かす しらすきしかたゆくさきかなしき御あり さまに心つようしもえおほしなさすいか にせましかゝりてみやこにかへらんこともま た世にゆるされもなくては人わらはれなる 事こそまさらめなをこれよりふかき山 をもとめてやあとたえなましとおほすに もなみかせにはかされてなむと人のいひ つたへん事のちの世まてもいとかろ〳〵し 【頭部欄外の手書文字】 Japonais 5340 (2) き名をやなかしはてんとおほしみたるゆめに もたゝおなしさまなるもののみきつゝま つはしきこゆと見給くもまなくてあけくる る日かすにそへて京のかたもいとゝおほつか なくかくなから身をはふらかしつるにやと心ほ そうおほせとかしらさしいつへくもあらぬ そらのみたれにいてたちまいる人もなし二條 院よりそあなかちにあやしきすかたにて そほちまいれる道かひにてたに人かなに そとたに御らんしわくへくもあらすまつ をひはらひつへきしつのおのむつ か(ま)【左に「ヒ」と傍記】しうあはれ におほさるゝも我なからかたしけなくくし【屈し 注」】に ける心のほとおもひしらるゝ御ふみにあさ ましくをやみなきころのけしきにいとゝそらさ へとつる心ちしてなかめやるかたなくなん    浦風やいかにふくらむおもひやる 袖うちぬらしなみまなきころあはれにかなし き事ともかきあつめ給へりいとゝみきはまさ りぬへくかきくらす心ちし給京にもこの雨か せあやしきものゝさとしなりとて仁王会 【注 「クッシ」の促音「ッ」を表記しない形。心がふさぐ。気が滅入る。意】 なとおこなはるへしとなんきこえ侍し内【内裏のこと】にま いり給かんたちめなともすへて道とちてまつ りこともたえてなむ侍なとはか〳〵しうもあ らすかたくなしうかたりなせと京のかたの事 とおほせはいふかしうておまへにめしいてゝとは せ給たゝれいのあめのをやみなくふりて 風はとき〳〵ふきいてゝ日ころになり侍を れいならぬ事におとろき侍なりいとかく 地のそことほるはかりのひ【氷】ふりいかつちのし つまらぬ事ははへらさりきなといといみしき さまにおとろきおち【懼ぢ】てをるかほいとからきにも 心ほそ き(さそう)まさりけるかくしつゝ世はつきぬへ きにやとおほさるゝにそのまたの日のあか つきより風いみしうふきしほたかうみちて なみのをとあらきこといはほも山ものこるま しきけしきなりかみのなりひらめくさま さらにいはんかたなくておちかゝりぬとおほゆる にあるかきりさかしき人なし我らいかなるつみ ををかしてかくかなしきめをみるらむちゝはゝ にもあひ見すかなしきめこのかほをも見てし ぬへき事となけく君は御心をしつめてなに はかりのあやまちにてかこのなきさ【渚】にいのち をはきはめん【極めん】とつようおほしなせといと物さは かしけれはいろ〳〵のみてくらさゝけさせたまひて すみよしの神ちかきさかゐをしつめまも り給まことにあとをたれ給神ならはたす け給へとおほくの大願をたて給ふをの〳〵 みつからのいのちをはさるものにてかゝる御身 のまたなきれいにしつみ給ひぬへき事の いみしうかなしき心をお こ(こ)してすこしものお ほゆるかきりは身にかへてこの御身ひと つをすくひたてまつらんとゝよみて【大声をあげて】もろこゑに 仏神を念したてまつる帝王のふかき宮 にやしなはれ給て色〳〵のたのしみにおこり 給ひしかとふかき御うつくしみ【愛しみ:可愛がること】おほやしまに あまねくしつめるともからをこそおほくうかへ 給ひしかいまなにのむくひにかこゝらよこさま なる浪風におほゝれ給はむ天地ことはり給 へつみなくてつみにあたりつかさくらゐを とられいへをはなれさかゐをさりてあけくれ やすきそらなくなけき給にかくかなしきめを さへ見いのちつきなんとするはさきの世のむ くひかこの世のおかし【犯し】かと神仏あきらかに ましまさはこのうれへやすめ給へとみやしろ のかたにむきてさま〳〵の願をたて給ふ又 海の中の龍王よろつの神たちに願をたて させ給にいよ〳〵なりとゝろきておはします につゝきたるらうにおちかゝりぬほのほ もえあかりてらうはやけぬ心たましゐなく てあるかきりまとふ【惑う】うしろのかたなるおほ いとの【大炊殿】とおほしきやにうつしたてまつりて 上下となくたちこみていとらうかはしく【ごった返した様】なき とよむ【泣き響む:泣き騒ぐ】こゑいかつちにもおとらすそらはすみをす りたるやうにて日もくれにけりやう〳〵風な をり雨のあししめり星のひかりもみゆるに このおまし所のいとめつらかなる に(も)【左に「ヒ」と傍記】いとかたし けなくてしん殿にかへしうつしたてまつら むとするにやけのこりたるかたもうとましけ にそこ ら(ら)【「ら」に見え憎いので右に「ら」を傍記ヵ】の人のふみとゝろかしまとへる【惑へる】にみす【御簾】 なともみなふきちらしてけりよをあかしてこそ はとたとりあへるに君は御ねんす【念誦】し給てお ほしめくらすにいと心あはたゝし月さしいてゝ しほのちかくみちきけるあともあらはになこ り猶よせかへる浪あらきをしはのと【柴の戸】をしあけ てなかめおはしますちかきせかいにものゝ心をし りきしかたゆくさきの事うちおほえとや かくやとはか〳〵しうさとる人もなしあやしき あま【海人】ともなとのたかき人おはする所とてあつ まりまいりてきゝもしり給はぬ事ともをさ えつりあへるもいとめつらかなれとをい【追い】もはら はすこの風いましはしもやまさらましかはしほの ほりて【潮の上りて:高潮がきて】のこる所なからまし神のたすけおろかなら さりけりといふをきゝ給もいと心ほそしといへはをろかなり    海にます神のたすけにかゝらすは しほ◦(の)やほあひ【八百会:多くの潮路の集まり合うところ】にさすらへなましひねもすに【一日中】い りもみつる【烈しく吹き荒れる】風のさはきにさこそいへ【そうはいっても】いたうこう し【困(こう)ずる:疲れる】給にけれは心にもあらすうちまとろみ給ふか たしけなきおまし所なれはたゝよりゐた まへるにこ【故】院【源氏の父の故桐壷院】たゝおはしましゝさまなからたち 給てなと【など:どうして】かくあやしき所【むさくるしい所】にはものするそ【いるのだ】とて 御てをとりてひきたて給すみよしの神の 道ひき給ふまゝにはやふなてしてこのうら をさりね【去ってしまえ】とのたまはすいとうれしくてかしこ き御かけ【畏れ多いお姿=父の桐壷院のこと】にわかれたてまつりにしこなたさま 〳〵かなしき事のみおほく侍れはいまはこの なきさに身をやすて【棄て】はへりなましときこえ 給へはいとあるましきことこれはたゝいさゝかなる ものゝむくひなりわれはくら ひ(ゐ)【「ひ」の中に「ヒ」と書けり】にありし時あ やまつ事なかりしかとをのつからおかしあり けれはそのつみををふるほといとまなくてこ の世をかへり見さりつれといみしきうれへ【ひどい歎き】に しつむをみるにたへかたくて【あの世から出てきて】うみにいりな きさにのほりいたくこうし【困ずる:つかれる】にたれとかゝるつい てに内裏にそうす【奏す】へき事のあるによりなん いそきのほりぬるとてたちさり給ひぬあか す【飽かず:物足り無く。名残惜しく。】かなしくて御ともにまいりなんとなきいり給 て見あけたまへれは人もなく月のかほのみきら 〳〵として夢の心ちもせす御けはひとまれる【残っている】 心ちしてそらのくもあはれにたなひけり年 ころ夢のうちにも見たてまつらてこひしう おほつかなき【お会いしたくても仕方がない】御さまをほのかなれとさたかに見 たてまつりつるのみおもかけにおほえ給て 我かくかなしひをきはめ命つきなむとしつる をたすけに【私を助けるために】かけり【天翔けり】給へるとあはれにおほす【ありがたくお思いになる】 によくそかゝるさはきもありけるとなこりた のもしううれしうおほえ給ことかきりなし むねつと【胸がぐっと】ふたかりて【詰まって】中〳〵なる【なまじっか夢で故桐壷帝にお会いしたので】御心まとひ にうつゝ【現実】のかなしき事もうちわすれ夢にも 御いらへをいますこしきこえす【申し上げず】なりぬる事 といふせさ【心が晴れず】にまたや見え給とさらにねいり 給へとさらに御めもあはて【少しも眠れないで】あかつきかたに なりにけりなきさにちいさやかなる舟よせ て人二三人はかりこのたひの御やとりをさし てまいるなに人ならむとゝへはあかしの浦よりさ きのかみしほち【新発意(しんぼち)の「ん」を表記しない形:新たに発心(ほっしん)して仏道に入った者】の御ふねよそひてまいれる なり源少納言さふらひ給はゝたいめ【対面(たいめん)の「ん」を表記しない形】してことの 心とり申さんといふよしきよおとろきて入道は かのくにのとくい【得意:親友】にてと(と)【本文中の「と」が墨で汚れているので右に「と」と傍記】しころあひかたらひ侍つ れとわたくしにいさゝかあひうらむる事侍て ことなる【事成る:事がうまくまとまる】せうそこをたにかよはさてひさしう なり侍ぬるをなみのまきれにいかなることかあら むとおほめく【不審に思う】君の御ゆめなともおほしあはする 事もありてはやあへ【会え】とのたまへはふねにいき てあひたりさはかりはけし【激し】かりつる浪風にい つまにかふねて【舟出】しつらんと心えかたくおもへり いぬるついたちの日の夢にさまことなるものゝつ け【告げ】しらする事侍しかはしんしかたき事とお もひ給へしかと十三日にあらたなるしるしみせ む舟よそひまうけてかならす雨風やまゝは この浦によせよとかねて【前もって】しめす事の侍し かは心み【試み】に舟よそひまうけてまち侍しに いかめしき雨風いかつちのおとろかし侍つれは 人の御かとにも夢をしんして国をたすくる たくひ【類】おほう侍をもちゐさせ給はぬまても このいましめの日【お告げの日】をすくさす【過ぐさず】このよし【由】をつけ【告げ】申 侍らむとて舟いたし侍 つる(へイ)にあやしき風ほそ うふきてこのうらにつき侍へる事まことに神 のしるへたかはすなむこゝにもしろしめす事や 侍らんとてなむいとはゝかりおほく侍れとこの よし申給へといふよしきよしのひやかに【秘かに】つた へ申君おほしまはす【「思い廻す」の尊敬語。:思い廻らされる】に夢うつゝさま〳〵しつか ならすさとしのやうなる事ともをきしかたゆ くすゑおほしあはせてよの人のきゝつたへん のちのそしりもやすからさるへきをはゝかりて まことの神のたすけにもあらんを【あったものを】そむくものな らは又これよりまさりて人わらはれなるめをやみ むうつゝの人の心たに猶くるしは か(か)【本文の「か」が墨で滲んでいるので右に「か」と傍記】なきこ とをもつゝみてわれよりよはひまさりも しは【または】くらゐたかく時よ【時世:世の中】のよせ【寄せ;信頼、信望】いまひとき は【一際】まさる人にはなひきしたかひてその心む け【意向】をたとるへき物なりしりそきてとかなし【咎無し】と こそむかしさかしき人もいひをきけれけふかくい のちをきはめ世にまたなきめのかきりを見 つくしつさらにのちのあとのなをはふくとて もたけき事もあらし夢のなかにもちゝみ かとの御をしへありつれはまたなに事かはう たかはんとおほして御返【御返事】の給しらぬせかいに【見知らぬ土地で】 めつらしきうれへのかきり見つれと宮こ【都】のかた よりとてことゝひ【言問い:見舞う】をこす【遣す:よこす】る人もなしたゝ行ゑ【行方】 なき空の月日のひかりはかりを古郷のともと なかめ侍にうれしきつり舟をなんかのうらに しつやかにかくろふへきくま【隈】の侍なんやとの給 かきりなくよろこひかしこまり申ともあれかく もあれ夜のあけはてぬさきに御舟にて【「て」の左に傍記あるも解読できず】たて まつれとてれいのしたしきかきり四五人はかり してたてまつりれいの風いてきてとふやう【飛ぶよう】に あかしにつき給ぬたゝはひわたるほとにて かた時のまといへとあやしきまてみゆるかせ の心なりはまのさま【様】けに【げに:まことに】いと心ことなり【格別で】人し けう見ゆるのみなむ御ねかひにそむきける 入道のらうししめたる【領じ占めたる:独占私有している】所〳〵海のつらにも山 かくれにも時〳〵につけてけふ【興】を ま(さかイ)す【さかす:盛んにする】へきなきさ のとまやおこなひ【勤行(ごんぎょう)】をして後の世の事をおもひす ましつへき山水のつら【山水に面して】にいかめしきたう【堂】たて て三 昧(まいイ)おこなひこの世のまうけ【設け:営み】に秋のた【田】のみ をかりおさめのこりのよはひ【齢】つむへきいねのくら まちとも【倉町ども】なとおり〳〵所につけたる見所ありて しあつめ【為集む:数多く作りなす】たりたかしほにおちて【怖じて】このころむす めなとは岡へ【岡辺】のやとにうつしてすませけれは このはまのたち【館】には心やすくおはしますふ ねより御車にたてまつりうつるほと日やう〳〵 さしあかりてほのかに見たてまつるよりおい【老い】わ すれよはひのふる【延ぶる】心ちしてゑみさかへてまつ すみ吉の神をかつ〳〵【かつがつ:とりあえず】おかみたてまつる月日の ひかりをてにえ【得】たてまつる心ちしていとなみつ かまつることはりなりところのさまをはさらに もいはすつくりなしたるこゝろはえこたち【木立】た ていし【立石】前栽なとのありさまえもいはぬ入江の 水なとゑ【絵】にかゝは心のいたりすくなからんゑし【絵師】 はかきをよふましとみゆ月ころの御すまゐ よりはこよなくあきらかになつかし【慕わしい】御しつらひな とえならすしてすまひけるさまなとけに 宮こ【都】のやんことなき所〳〵にことならすえんに【艶に:洒落た趣】 まはゆきさま【眩しいほど立派】はまさりさまにそみゆる【(都に)勝っているように見える】すこし 御心しつまりては京の【京への】御ふみともきこえ【差し上げる】給【京から】ま いりしつかひはいみしき【ひどい】みちにいてたちてかなし きめをみるとなきしつみてあのすま【須磨】にとま りたるをめして【召して】身にあまるものともおほく給 てつかはすむつましき御いのりのし【師】ともさる へき所〳〵にはこのほとの御ありさまくはしく いひつかはすへし入道の宮はかりには【だけには】めつらかにて【奇跡的に】 よみかへるさま【命拾いした経験】なときこえ【申し上げ】給二条院のあはれ なりし程の御返はかきもやり給はすうちおき〳〵 をしのこひつゝきこえ給御けしき猶こと【殊:格別】なり返 〳〵いみしきめのかきりをつくしはてつるあり さまなれはいまはと世【俗世】をはなるゝ心のまさり侍れと かゝみをみてもとのたまひし面かけのはなるゝよ【世:とき】 なきをかくおほつかななからや【かようにお目にかからないままであろうか】とこゝら【これ程多く】かなし きさま〳〵のうれはしさはさしおかれて    はるかにもおもひやるかなしらさりし 浦よりをち【遠方】にうらつたひして夢のなかなる心ち のみしてさめはてぬほといかにひか事【取違い】おほからん とけにそこはかとなく【何気なく】かきみたり給へ り(る)【右に「ヒ」と傍記】しも そいと見まま【ママ】しきそはめ【側目】なるをいとこよなき御 心さしのほとゝ人〳〵見たてまつるをの〳〵ふるさと に心ほそけなる事つて【伝え】すへかめりをやみ【小止み:雨や雪などが少しの間降りやむこと】な かりしそらのけしきなこりなくすみわたり てあさり【漁り】するあまともほこらしけなりす まは心ほそくあまのいそや【磯屋】もまれなりしを人 しけき【人が多いのを】いとひはし給しかとこゝは又さまことに あはれなることおほくてよろつにおほしなく さまる【思し慰まる】あかしの入道おこなひつとめたるさまい みしうおもひすましたるをたゝこのむすめ ひとりをみてわつらひたるけしきいとかたは らいたきまてとき〳〵もらしうれへきこゆ御 心ちにもおかし【魅力がある】ときゝをき給し人なれはかくおほ えな く(く)て【思いもよらず】めくりおはしたるも【廻り会ったのも】さるへき契ある にやとおほしなから猶かう身をしつめたる程【謹慎中は】 はおこなひ【仏道修行】よりほかの事はおもはし宮こ【都】の人も たゝなるよりはいひしにたかふ【言っていたことと違う】とおほさむも【思われるのも】 心はつかしうおほさるれはけしきたち【顔色やそぶりを示す】給事な しことにふれて【折に触れて】心はせありさまなへてならす【なべてならず:普通ではない。優れている。】 もありけるかなとゆかしうおほされぬにしも あらすこゝにはかしこまりて身つからもおさ〳〵【めったに】 まいらすものへたゝりたる【なにかと距離をおく】しもの屋にさふ らふさるは【そのくせ実は】あけくれ見たてまつらまほしう【見たいと】あ かす【飽かず:いつまでも】おもひきこえておもふ心をかなへんと仏神 をいよ〳〵ねんしたてまつるとしは六十はかり になりにたれといときよけにあらまほ しうおこなひ【修行で】さらほひ【痩せて骨ばる】て人のほと【人の程:身分】のあてはか【上品で優雅なさま】 なれはにやあらん【であろうか】うちひかみ【うちひがみ:「うち」は接頭語。ひねくれる】ほれ〳〵しき【年をとってぼけている】事は あれといにしへの事をもしりてものきたな【むさくるし】 からすよしつきたる【由緒ありげな】事もましれゝは【交じれれば】むかし物 かたりなとせさせてきゝ給にすこしつれ〳〵 のまきれ【紛れ】なりとしころおほやけわたくし御 いとまなくてさしも【それほどにも】きゝをき給はぬ世のふる 事ともくつしいてゝ【端から徐々に】かたるかゝる所をも人をも 見さらましかはさう〳〵しく【張り合いがなくて寂しい感じがする】やとまてけふ【興】あり とおほす事もましるかうは【このように】なれきこゆれ といとけたかう【気高う】心はつかしき【立派な感じがする】御ありさまに さこそいひしか【ああは言ったが】つゝましうなりて【気がひけて】わかおもふ 事は心のまゝにもえうちいてきこえぬ【お話申し上げられない】を心も となうくちおしとはゝきみといひあはせて なけくさうしみ【正身(そうじみ):当人】はをしなへての人【普通の人】たにめや すきは【見た目のよい人は】みえぬせかいに世にはかゝる人もおはし けりと見たてまつりしにつけて身のほと しられていとはるかにそおもひきこえける おやたちのかくおもひあつかふをきくに く(も)【左に「ヒ」と傍記】に け【似気(にげ):似つかわしい様子】なきことかなとおもふにたえなるよりは ものあはれなり四月になりぬころもかへのさう そく御帳のかたひらなとよしある【ふさわしい】さまにしい て【為出で:作り上げる】つゝよろつにつかうまつり【御奉公し】いとなむ【せっせと務める】をいと をしう【気の毒で辛い】すゝろなり【思いがけないことだ】とおほせと人さまのあく まておもひあかりたるさまのあて【上品】なるに おほしゆるして見給京よりうちしきりた る【度重なる】御とふらひ【御見舞の文】ともたゆみなく【途絶えることなく】おほかりのとや かなるゆふつくよにうみのうへくもりなく 見えわたれるもすみなれ給しふる里の池の 水におもひまかへられ給にいはんかたなくこひ しきこといつかたとなくゆくゑなき心ちし 給てたゝめのまへにみやらるゝはあわちしまなり けりあはと【あれは】はるかになとのたまひて    あはとみるあわちの島のあはれさへ のこるくまなくすめる夜の月ひさしうても ふれ給はぬきん【琴】をふくろよりとりいて給ては かなくかきならし給へる御さまを見たてま つる人もやすからすあはれにかなしうおもひ あへりかうれう【広陵】といふ手【曲】をあるかきり【残らず全部】ひき すまし給へるにかのをかへの家も松のひゝき なみのをとにあひて心はせ【心得】あるわか人は身 にしみておもふへかめり【思うに違いないようだ。】なにともきゝわくまし き【聞き分けられない】このもかのもの【あちらこちらの】しはふるひ人【皺のある老人】ともゝすゝろはし【じっとしていられない】 くてはまかせをひきありく入道もたへて くやうほう【供養法】たゆみていそきまいれりさらに【あらためて】 そむきにし世中もとりかへしおもひいてぬ へく侍りのちの世にねかひ侍所【極楽浄土】の有さま もおもふ給へやらるゝよのさまかなとなく〳〵め てきこゆ我御心にもおり〳〵の御あそひの 人かの人のことふえ【琴笛】もしはこゑのいてしさま とき〳〵につけて世にめてられ給ひし ありさま御かとよりはしめたてまつりてもて かしつき【相手を大事にして仕え】あかめたてまつり【尊敬して大切にし】給ひしを人のうえ もわか御身のありさまもおほしいてられて 夢の心ちし給まゝにかきならし給へるこゑ【音色】も 心すこく【ものさびしく】きこゆふる人【入道】は涙もとゝめあへすを かへにひは【琵琶】 しやう(さうイ)のこと【筝の琴:十三絃琴】とりにやりて入道 ひわのほうしになりていとおかしうめつらし き手ひとつふたつひき出たりさうの御こと まいりたれはすこし引【弾】給もさま〳〵いみしう のみおもひきこえたりいとさしも【それほどにも】きこえぬも のゝね【音】たにおりから【物事を引き立てるのにふさわしい場合】こそはまさる物なるをはる 〳〵とものゝとゝこほりなき【さえぎる物のない】海つらなるにな か〳〵春秋の花もみちのさかりなるよりは たゝそこはかとなう【どうということもなく】しけれるかけて【左に「ヒ」と傍記】ともなまめ かしきに【風流で】くひな【注】のうちたゝきたるはかと【門】さし てとあはれにおほゆねもいとになういつること ともをいとなつかしうひきならしたるも御 こゝろとまりてこれは女のなつかしきさまに てしとけなう【無造作に】ひきたるこそをかしけれとお ほかたに【普通に】のたまふを入道はあひなく【何となく】うち 【注 水辺にすむ小鳥の名。初夏の頃、盛んに鳴き、その声が戸を叩く音に似ているので「鳴く」といわず「たたく」という。】 ゑみてあそはす【君が演奏なさる】よりなつかしきさまなるは いつこのか侍らんなにかし【わたくし】延喜の【帝の】御てより ひきつたへたる事三代になん侍ぬるをかう つたなき身にてこの世のことはすてわすれ侍 ぬるを物のせちにいふせき【気持ちが晴れない】おり〳〵はかきなら し侍しをあやしうまねふものゝ侍こそし ねん【自然】かの せん(前イ)大王の御手にかよひて侍れは 山ふしのひかみゝ【聞き違い】に松風をきゝわたし侍 にやあらんいかて【なんとか】これしのひてきこしめさ せてしかなときこゆるまゝにうちわなゝき て涙おとすへかめり【涙を落としそうな様子に見える】君ことをことゝも【(私の)琴を琴とも】きゝ給ま しかりける【きっとお聞きにならないだろう】あたり【方】にねたき【憎らしい】わさかなとて をしやり給にあやしうむかしよりさうは女 なんひきとる物なりける さか(嵯峨イ)の【帝から】御つたへにて 女五宮さる世中の上手に物し給けるを その御すちにてとりたてゝつたふる人なし すへてたゝいま世に名をとれる人〳〵かき なて【搔き撫で:通りいっぺん】の心やりはかりにのみあるをこゝにかう ひきこめ【弾き籠め:琴を弾く手腕を内に隠して、世に知られないままにしておき】給へりけるいとけう【興】ありける事 かないかてかは【どうかして】きくへき【聞きたい】とのたまふきこしめ さむになにのはゝかりか侍らんおまへにめして もあき人【商人】の中にてたにこそふる事きゝ はやす人は侍けれひは【琵琶】なんまことのねをひ きしつむる【弾き鎮むる=見事に弾きこなす】人いにしへもかたう侍しをおさ〳〵【きちんと】 とゝこほる事なうなつかしきて【手】なとすち【奏法】 ことになむ【格別である】いかて【どのようにして】たとるにか侍らんあらき浪 のこゑにましるはかなしくもおもふ給へなから かきつむるものなけかしさ【何となく悲しく思われること】まきるゝおり〳〵 も侍りなとすきゐたれ【風雅の道に深く心をよせている】はおかし【喜んで迎えいれたい】とおほして さうのこと【筝の琴】とりかへて給はせたりけに【げに:本当に】いと すくして【普通以上にすぐれさせて】かいひきたりいまの世にきこえぬ【伝わらぬ】 すち【奏法】ひきつけて手つかひ【手さばき】いといたうから【唐】めき ゆのね【注】ふかうすましたり伊勢の海なら ねときよきなきさ【清き渚】にかい【貝】やひろはんなと こゑよき人にうたはせて我もとき〳〵ひやう しとりてこゑうちそへて【左に「ヒ」と傍記】給ふをことひき さしつゝめてきこゆ御くた物なとめつらしき さまにてまいらせ人〳〵にさけ【酒】しひそし【強ひそし:むやみに勧める】なと してをのからものわすれしぬへき世のさまな りいたくふけゆくまゝに はま(まつイ)かせすゝし 【注 「揺の音=琴や筝などで、余韻を波うたせるために左の手の指先で絃を左右(琴)、または上下(筝)に幾回かゆすること。またその音。】 うて月も入かたになるまゝにすみまさり しつかなるほとに御物かたりのこりなく きこえて【お話して】この浦にすみはしめしほとの 心つかひ後の世をつとむるさまかきつくし【あるかぎりすべてを】 きこえてこのむすめのありさまとはす かたりにきこゆおかしきものゝさすかにあはれ にきゝ給ふふしもありいとゝり申【取り立てて申しあげ】かたき事 なれとわかきみかうおほえなきせかい【見知らぬ土地に】にかり にてもうつろひおはしましたるはもしとし ころおいほうし【老法師】のいのり申侍神仏のあ はれひ【不憫に思うこと】しはしのほと御心をも なやましたてまつるにやとなんおもふ給ふ るそのゆへはすみよしの神をたのみはし めたてまつりこの【以来】十八年にもなり◦(侍)ぬめの わら【娘】はいときなう侍しより【幼かった頃から】おもふ心侍て としことの春秋ことにかならすかのみやしろ にまいることなん侍ひるよるの六時のつと めにみつからのはちすのうえのねかひ【蓮の上の願い=極楽往生の願い】 をはさるものにて【それはそれとして】たゝこの人【娘】をたかきほ い【本意=意向】かなへ給へとなんねんし侍さきの世の ちきりつたなくてこそかゝるくちおしき山 かつ【山賎(やまがつ)=山中に生活する身分の卑しい人】となり侍けめおや大臣のくらゐをたもち 給へりきみつからかくゐ中【田舎】のたみ【民】となり にて侍りつき〳〵【代々】さのみおとりまからは【身分、位などが低くなっていけば】なに の身にかなり侍らむとかなしくおもひ侍をこ れは【娘には】むまれし時よりたのむところなん侍いか にして宮こ【都】のたかき人にたてまつらんとお もふ心ふかきによりほと〳〵につけて【その都度】あまた の人のそねみをおひ身のためからきめをみる おり〳〵もおほく侍れとさらにくるしみ と(と)【左に「ヒ」と傍記】 おもひ侍らすいのちのかきりはせはき【せばき=狭い】袖にも はくゝみ侍なむかくなからみすて侍【(娘を)後に残して死ぬ】なはなみ の中にもましりうせね【交り失せね】となんをきて侍【心に定めて指図して有ります】なと すへてまねふへくもあらぬ事ともをうちな き〳〵きこゆ君も物をさま〳〵【いろいろ】おほしつゝくる おりからは【頃なので】うちなみたくみつゝきこしめすよ こさまのつみ【不当な罪】にあたりておもひかけぬせか い【土地】にたゝよふ【寄るべのなくあたりをさまよう】もなにのつみにかとおほつか なくおもひつる【思っていたが】こよひの御物かたりにきゝ あはすれはけにあさからぬさきの世のちき りにこそはとあはれになんなとかはかくさたかに おもひしり給ひけることをいまゝてはつけ【告げ】たまは さりつらん宮こ【都】はなれし時よりよのつね【世間並】な きもあちきなうおこなひ【勤行】よりほかの事なくて 月日をふるに心もみなくつをれにけりかゝる人 ものし給【いらっしゃる】とはほのきゝなからいたつら人【役や地位を離れて無為な人】をはゆゝし きもの【忌むべき人】にこそおもひすて給らめとおもひく ら(し)【左に「ヒ」と傍記】【思い屈し=「オモヒクッシ」の促音を表記しなかった形。気を落とす】 つるをさらはみちひき給ふへきにこそあなれ【あるようだ】心 ほそきひとりねのなくさめにもなとのたまふ をかきりなくうれしとおもへり    ひとりねは君もしりぬやつれ〳〵と おもひあかしの浦さひしさをましてとし月 おもふへ【左に「ヒ」と傍記】給へわたる【思い続けた】いふせさ【気の塞ぎ】ををしはからせ給へ ときこゆるけはひ【申し上げる様子】うちわなゝき【声などが小刻みに震える】たれとさすか にゆへ【品位】なからす【おありである】されとうら【浦】なれ給へらむ人はとて    たひころもうらかなしさにあかしかね 草のまくらはゆめもむすはすとうちみたれ給 へる【くつろいでいる】御さまはいとそあいきやうつきいふよしなき【言いようもない】 御けはひなるかすしらぬ事ともきこえつく したれとうるさしや【面倒で嫌だ】ひか事【覚え違い】ともにかきなし【書いたので】 たれはいとゝ【一層】おこに【愚かなことに】かたくなしき【頑固な】入道の心はへも あらはれぬへかめり【現れてしまったようだ】おもふことかつ〳〵【取り敢えず】かなひぬる 心ちしてすゝしうおもひゐたるに又の日【次の日】のひ るつかたをかへに御ふみつかはす心はつかし さまなめる【~であるようだ】も中〳〵かゝるものゝくま【何とはない目立たない所】にそおもひの ほかなる事もこもる【閉じこもっている】へかめる【ようにみえる】と心つかひし給て こま【高麗】のくるみ色のかみにえならす【一通りでなく】ひきつくろひて【隅々まで気を配って】    をちこちもしらぬ雲居になかめわひ かすめし【ふとよぎった】やとのこすゑをそとふ【訪ふ】おもふにはと はかりやありけむ入道も人しれすまちきこ ゆとてかの家【岡辺の家】にき居たりけるもしるけれは 御つかひいとまはゆきまて【目をそらしたくなるまで】ゑはす御返いと まはゆきまてそゝのかせ【せきたてる】とむすめはさらにきか すはつかしけなる【立派な】御ふみのさまにさしいてんて つき【筆遣い】もはつかしう【気おくれして】つゝまし人の御ほと【身分】わか身 のほとおもふにこよなくて【格段の相違で】心ちあしとてより ふしぬ【物に寄りかかって横になる】いひわひて入道そかくいともかしこき はゐ中ひて【田舎びて】侍たもと【袂】につゝみあまりぬるにや さらに見給へもをよひ侍らぬかしこさ【もったいなさ】になんさるは    なかむらんおなし雲ゐ【空】をなかむるは 【娘の】おもひもおなしおもひなるらむと見給ふる いとすき〳〵し【恋にひたむきである】やときこえたりみちのくに かみ【陸奥国紙:奥州から産した楮を原料とした上質の紙】にいたうふるめきたれとかきさまよしは み【由ばむ=趣深い様子をする】たりけにもすきたるかなとめさましう 見給ふ御つかひになへてならぬ【並々ではない】たまも【玉裳=美しい裳】なと かつけ【褒美としてとらせ】たり又の日せんしかき【宣旨書き=代筆すること。】はみしらす【見知らず=経験がない】なんとて    いふせくも心にものをなやむかな やよや【呼びかけのことば:もしもし】いかに【どうなさいました】ととふ人もなみ【無み=無いので】いひかたみ【言い難いのですが】とこの たひはいとうつくしけにかき給へりわかき人 のめてさらんもいとあまりむもれいたからん【引っ込み思案であろう】 めてたしとは見れとなすらひならぬ【釣り合わない。匹敵しない。】身のほとの いみしうかひなけれは中〳〵世にあるものとたつ ねしり給につけて涙くまれてさらにれいの とう【動】なきをせめていはれてあさからすしめ【染め】た るむらさきのかみにすみつきこくうすくま きらはして    おもふらむ心のほとややよいかに またみぬ人のきゝ【評判】かなやまんてのさまかきた るさまなとやむ事なき人にいたうおとるま しう上手めきた る(り)【左に「ヒ」と傍記】京の事おほえて おかしと見たまへとうちしきりつかはさんも人 めつゝまし【憚られ】けれは二三日へたてつゝつれ〳〵なる ゆふくれもしは【もしくは】ものあはれなるあけほのな とやう【事情、状態】にまきらはしており〳〵おなし心に見 しりぬへき【理解できる】ほとをしはかりてかきかはし給に にけなからす【不釣り合いではない】心ふかう【思慮深く】おもひあかりたる【気位高き】けしき も見ては【見では=見ないでは】やまし【済まない】とおほすものからよしきよ【良清】 からうして【領じて=独り占めにして自分のものだと】いひしけしきもめさましう【癪にさわる】とし ころ心つけてあらむを【(自分が横取りして)】めのまへにおもひたか へん【見込み違いをする】もいとおしう【気の毒だ】おほしめくらされて人すゝみ まいらはさるかた【そういう方向】にてもまきらはしてん【紛らわしてしまおう】とおほ せと女はた【やはり】中〳〵やむことなきゝはの人より もいたう【たいそう】おもひあかり【気位が高く】てねたけ【妬まし気】にもてなし きこえたれは心くらへ【意地の張り合い】にてそすきける京の 事をかくせき【須磨の関】へたゝりてはいよ〳〵おほつ かなく【逢いたいと】おもひきこえ給ていかにせました はふれにくゝ【軽く考えては済ませなく】もあるかなしのひてや【人目に立たぬようにして】むかへたて まつりてまし【迎えに行けばよかった】とおほしよはる【お気持ちがくじける】おり〳〵あれと さりともかくてやはとしをかさねむといま さ(さ)ら に人わろき事を【みっともないこと】はとおほししつめたり【乱れた心を落ち着かせなさった】 そのとしおほやにものゝさとし【神霊の警告】しきりて物 さはかしき事おほかり三月十三日かみなり ひらめき雨風さはかしき夜御かとの御夢に 院のみかとおまへのみはしのもとにたゝせ給 て御けしきいとあしうてにらみきこえさせ 給をかしこまりておはしますきこえさせ給【申し上げなさる】 事もおほかりけんしの御こと【源氏の御事】なりけんかし【なのであろう】 いとおそろしういとをしとおほしてきさき にきこえさせ給ふ【申し上げ】けれは雨なとふりそらみた れたる夜はおもひなしなる事【自分でそれだろうと思い決めること】はさそ【さぞかし】侍 か ろ(るイ)〳〵しきやうにおほしおとろくましき こときこえ給にらみ給しにめもあはせ給 と見しけにや【げにや:本当にまあ】御めわつらひ給てたへかたう なやみ給御つゝしみ【御物忌み】うち【内裏】にも宮にもかきり なくせさせ給おほきおとゝ【太政大臣】うせ給ぬこと わりの【当然の】御よはひなれとつき〳〵にをのつから さはかしきことあるに大宮もそこはかとなう わつらひ給てほとふれはよはり給やうなる うちにおほしなけくことさま〳〵なり猶 この源氏の君まことにをか し(すイ)なきにて かくしつむならはかならすこのむくひありなん となむおほえ侍いまは猶もとの位をもた まひてん【きっと賜りましょう】とたひ〳〵おほしのたまふを世の もとき【非難】かろ〳〵しきやうなるへしつみにおち てみやこをさりし人を三 ねん(とせイ)をたにすくさ すゆるされん事はよの人もいかゝいひつたへ侍らんな ときさきかたくいさめ給におほしはゝかる【あれこれとお考えになって遠慮なさったり心配なさったりする】 ほとに月日かさなりて御なやみともさま〳〵 におもりまさらせ給ふ【更に重くおなりになる】あかしにはれいの秋は はまかせことなる【特別である】にひとりねもまめやかに【かりそめでなく】 ものわひしうて【何となくわびしくて】入道にもおり〳〵かたらはせ給【語っておられた】 とかくまきらはして【人目につかないようにして】こちまいらせよとのたまひ てわたり給はん事をはあるましうおほした るをさうしみ【正身(そうじみ)=本人】はた【同様にまた】さらにおもひたつ【そうする】へくもあら すいとくちおしききは【つまらない身分】のゐ中【田舎】人こそかりに【仮に:一時的に】く たりたる人のうちつけこと【思いつきのことば】につきてさやうに かるらかに【気軽に】かたらふ【睦まじく語る】わさをもすなれ人かす【人数=人並みの者として数えられる人間】にも おほされさらんものゆへ我はいみじき【ひどく情けない】ものお もひ【思い悩む事】そへん【さらに備わる】かくおよひなき【分に過ぎた】心をおもへるおや たちもよこもり【世籠りて=未婚で将来の運命が決まっていない】てすくすとし月こそあ いなたのみ【あいな頼み=あてにならない期待】にゆくすゑ心にくゝ【不安に】おもふらめ中〳〵 なる【中途半端な】心をやつくさむとおもひてたゝこのうら におはせんほとかゝる御ふみはかりをきこえ かはさむこそをろかならね年ころ【年来】をと【噂】にのみき きていつかはさる【そのような】人の御ありさまをほのかにも 見たてまつり世になきものときゝつたへ し御こと【琴】のねをも風につけてきゝあけくれ の御ありさまおほつかなからて【気がかりに思って】かくまて【こんなにまで】世に ある物とおほしたつぬるなとこそかゝるあま の中にくちぬるみにあまることなれなとお もふにいよ〳〵はつかしうて露もけちかき【近付きやすい】事 はおもひよらすおやたちはこゝらのとしころ【多年】の いのり【願い】のかなふへきをおもひなからゆくりかに【思いがけず突然】 見せたてまつりておほしかすまへさらん【人並みの中に数え入れてお取り扱いなさらない】時い かなるなけきをかせんとおもひやるにゆゝ しく【恐ろしく】てめてたき【申し分のない】人ときこゆともつらういみ しうもあるへきかなめにも見えぬ仏神をた のみたてまつりて人の御心をもすくせ【この世での運命】をも しらてなとうちかへし【繰り返し】おもひみたれたり君 はこの比のなみのおとにかのもの【琴】ゝねをきか はやさらすはかひなくこそなとつねはの給ひし のひてよろしき日見せてはゝ君のとかくお もひわつらふをきゝいれすてしとも【弟子ども】なとにた にしらせすこゝろひとつにたちゐかゝやくは かりしつらひて十三日の月のはなやかにさし いてたるにたゝあたら夜の【注】ときこえたり【仰った】君は すき【風流】のさまやとおほせと御なをしたてまつ りひきつくろひて夜ふかしていて給御車 はになく【二無く=二つとなく(立派に)】つ か(く)りたれと所せし【狭し】とて御馬にて いて給これみつ【惟光】なとはかりをさふらはせ給ふ 【注 「あたら夜の月と花とを同じくは あはれ知れらん人に見せばや」(源信明)の歌を心に置いている】 やゝとをくいる所なりけりみちの程もよもの浦 〳〵見わたし給ておもふとち【思うどち=相思う人々】見まほしき入江 の月かけにもまつ恋しき人の御事をおもひ いてきこえ給にやかて馬ひきすきておもむ きぬへくおほす    秋の夜の月け【月毛 注】のこまよ我こふる 雲井をかけれ【翔けれ】ときのまもみんうちひとりこ たれ給つくれるさまこふかく【木深く=木立が茂っていて】いたき所【すぐれた所】まさ りて見ところあるすまゐなり海のつら【ほとり】は いかめしうおもしろくこれは心ほそくすみたる 【注 赤くて白みを帯びた馬の毛色】 さまこゝにゐておもひのこすことはあらしとお ほしや ■(ら)るゝに物あはれなり三昧たう【堂】【注】ちか くてかねのこゑ松風にひゝきあひてものか なしういはにおひたる松のねさしも心は へあるさまなり前栽ともにむしのこゑをつく したりこゝかしこのありさまなと御らんすむ すめすませたる方は心ことにみかきて月 いる(いれイ) へき(たるイ)真木の戸口けしきはかり【ほんの形だけ】をしあけた りうちやすらひなにかとのたまふにもかうまて は見えたてまつらしとふかうおもふにものな 【注 僧が籠って法華三昧または念仏三昧を修する堂】 けかしうてうちとけぬ心さまをこよなうも【格別に】人め きたる【ひとかどの人のように見える】かなさしも【そんなに】あるましき【有りそうもない】きは【身分】の人たにか はかりいひよりぬれは心つようしも【情にほだされないことも】あらすなら ひたりし【親しくなる】をいとかくやつれたるにあなつらは しきにや【見下げたい気持ちなのか】とねたう【くやしく】さま〳〵におほしなやめ りなさけなう【思いやりなく】をしたゝむ【無理に我意を通す】も事のさまにたか へり心くらへ【意地の張り合い】にまけんこそ人わろ【人わろし=みっともない】けれなとみた れうらみ給さまけにものおもひしらむ人に こそ見せまほしけれちかきき丁【几帳】のひもにさう のことのひきならされたるもけはひしとけな かり【しどけなし:気楽な感じ】かきまさくり【搔き弄る=琴、三味線などを慰みに弾く】けるほと見えてをかしけれ はこのきゝならしたること【琴】をさへやなとよろつに【いろいろ】 のたまふ    むつことをかたりあはせん人もかな うき世の夢もなかはさむ【覚む】やと    あけぬ夜はやかてまとへる【惑へる】こゝろには いつれを夢とわきて【分きて】かたらむほのかなる けはひ伊勢の宮す所【御息所】にいとようおほえた りなに心もなくうちとけてゐたりけるをかう 物おほえぬにいとわりなく【どうにもならない】てち ゝかり(かゝり)【「ゝ」「か」の左と「かり」の間の左に「ヒ」と傍記】ける さうしのうちにいりていかてかためけるにかとい とつよきをしゐてもをしたち【相手を無視して無理に我意をはる】給はぬさま なりされとさのみも【そんなことばかりも】いかてかあらむ人さま【身の様子】いと あて【上品】にそひ ら(え)【左に「ヒ」と傍記】【繊(そび)えて=しなやかでなまめかしいさま】て心はつかしきけはひ【こちらが恥ずかしく思う様子】したる かうあなかち【強引】なりけるちきりをおほすにもあ さからすあはれなり御心さしのちかまさり【注】す るなるへしつねはいとはしき【嫌だと感じる】夜のなかさもと くあけぬる心ちすれは人にしられしとおほす も心あはたゝしうてこまかにかたらひをき ていて給ぬ御ふみいとしのひてそ けふ(けふ)は 【注 遠くで見るより近くで見た方がすぐれて見えること】 あるあいなき【本意でない】御心のおになりやこゝにも【こちらでも】かゝるこ といかてもらさしとつゝみて【用心して】御つかひ【文のお使い】こと〳〵しう【仰々しく】 ももてなさぬをむねいたくおもへりかくてのち はしのひつゝとき〳〵おはす程もすこしはなれた るにをのつからものいひ【ものの言い方】さかなき【たちが悪い】あまのこ【海人の子】もや たちましらんとおほしはゝかるほとをされはよ【やっぱりね】と おもひなげきたるをけにいかならぬと入道も こくらくのねかひ【のお勤め】をはわすれてたゝこの御け しきをまつことにはすいまさらに心をみたる【乱る】も いといとをしけなり二条の君の風のつてにも もり【もれ(漏れ)の古形】きゝ給はんことはたはふれにても心のへたて ありけるとおもひうとまれ【愛想をつかされ】たてまつらん心くる しうはつかしくおほさるゝもあなかちなる【ひたむきな】 御心さしのほとなりかし【なのでしょう】かゝるかたのことをは さすかに心とゝめてうらみ給へりしおり〳〵なとて あやなき【とるに足りない】すまひことにつけてもさおもはれたて まつりけんなととりかへさまほしう人【入道の娘】のありさ まを見たまふにつけてもこひしさのなくさむ かたなけれはれいよりも御ふみこまやかに かき給てまことやわれなから心よりほかなる なをさりこと【気まぐれな行為】にてうとまれたてまつりしふ し〳〵をおもひいつるさへむねいたきにまたあ やしう物はかなき【むなしい】ゆめをこそ見侍しかかうき こゆる【お話する】とはすかたりにへたてなき心のほとはお ほしあはせよ【思いくらべてお考えになって下さい】ちかひしこともなとかきてなに事 につけても    しほ〳〵とまつそ【まづぞ】なかるゝ【泣かるゝ=泣いております】かりそめの みるめはあまのすさひなれともとある御返なに心 なくらうたけ【いかにも可愛らしく見えるさま】にかきてしのひかねたる御ゆめ かたりにつけてもおもひあはせらるゝ事おほかるを    うらなくもおもひけるかなちきりしを まつよりなみはこえしもの とは(そ)【「と」「は」の左に「ヒ」と傍記】とおいらか【おだやかで】なるものか ら【ありながら】たゝならす【普通でなく】かすめ給へるをいとあわれにうち をきかたく見給てなこりひさしうしのひた ひねもし給はす女思もししるきにいまそまこ とに身もなけ【投げ】つへきこゝちするゆくすゑみし かけなるおやはかりをたのもしきものにて いつ世に人なみ〳〵になるへき身とおもはさりし かとたゝそこはかとなくて【どうということもなくて】すくしつる【過ぐしつる】年月は なにことをか心をも心をも【ママ】なやましけむかうい みしう【辛く】物おもはしき【思われてならない】世にこそありけれとかねて をしはかり【推量して】思ひしよりもよろつにかなしけれと なたらかに【無難に】もてなしてにくからぬさまにみえた てまつるあはれとは月日にそへておほしまはせ と【あれこれと思案なさるが】やむことなきかたのおほつかなくてとし月 をすこし給ふるにたゝならすうち思ひおこせ【関心をよせ】 給らんかいと心くるしけれはひとりふしかち【臥しがち】 にてすくし給ゑをさま〳〵かきあつめてお もふことゝもをかきつけ返事きくへき【書けるような】さまに しなし給へり【配慮して作られた】見ん人の心にしみ【染み】ぬへきものゝ さまなりいかてかそらにかよふ御心ならむ二条 の君も物あはれになくさむかたなくおほし給 おり〳〵おなしやうにゑをかきあつめ給つゝや り【左に「ヒ」と傍記】 かて我御ありさま日記のやうにかき給へり いかなるへき御さまともにかあらむとしかはりぬ うち【内裏】に御くすりの事【病気(帝が)】ありて世中さま〳〵に のゝしる【評判が立つ】たうたい【当代】のみこは右大臣のむすめ そ(の)【左に「ヒ」と傍記】 承香殿(そきやうてんイ)の女御の御はらにおとこ宮むまれ 給へるふたつになり給へはいとい ◦(わ)けなし【年がいかず頼りない】春宮【とうぐう】 にこそはゆつりきこえ給はめ【御譲位なさるのだろう】おほやけの御う しろみをし世をまつりこつ【政治を行う】へき人をおほしめく らすにこの源氏のかく【このような(境遇に)】しつみ給ことあたらしう【もったいなく】 あるましきことなれはつゐに后の御い き(さ)【左に「ヒ」と傍記】めを そむきてゆるされ給へきさためいてきぬ【御許しの詔勅が出た】こそ【去年】より 后も御ものゝけなやみ給ひさま〳〵のものゝさ とし【物の諭=神霊の警告】しきり【続き】さはかしきを【騒然としていたが】いみしき【たいそう】御つゝしみ【物忌み】 ともをしたまふしるし【効験】にやよろしうおはしま しける御めのなやみさへこのころおもく ならせ給てもの心ほそくおほされけれは七月 廿日よひのほとに又かさねて京へかへり給へ きせんし【宣旨】くだるつゐの事【いつかはそうなる事】とおもひしかと世の つねなき【世の無常】につけてもいかになりはつへきにか【どうなってしまうのだろうか】と なけき給をかうにはかなれは【こう急に宣旨が下ると】うれしきにそへ ても又この浦をいまはとはなれん事をおほし なけくに入道さるへきこと【帰京は当然】ゝおもひなからうちき くよりむねふたかりておほゆれはおもひの こと【思いのごと=願いどおり】さかへ【栄】たまはゝこそはわかおもひのかなふに はあらめなとおもひなをすそのころは夜か れ【夜離れ=男の通いが途絶えること】なくかたらひ給ふ六月はかりより心くる しきけしき【相手にすまない気持ちがする有様】ありてなやみけりかくわかれ 給ふへきほとなれは【頃には】あやにく【(傍から)憎らしいと思われる程の仲】なるにやあり けんありしより【以前より】もあはれに【不憫に】おほしてあやし う【不思議と】物おもふへき身にもあるけるかなとおほし みたる女はさらにもいはす思ひしつみたりいと ことはりなりやおもひのほかにかなしきみち にいてたち給しかとつゐにはゆきめくりき なんとかつは【一方では】おほしなくさめきこのたひはうれ しきかたの御いてたちのまたやはかへりみるへき【再び帰ってこられるであろうか】 とおほすにあはれなりさふらふ人〳〵ほと〳〵 につけてはよろこひおもふ京よりも御むか への人〳〵まいり心ちよけ【気分のよさそうなさま】なるをあるしの入道 なみたにくれて月もたちぬほとさへあはれな るそらのけしきになそや心つから【自身の心によって】いまもむか しもすゝろなること【これといったわけもないこと】にて身をはふらかす【放るようにする】らん とさま〳〵におほしみたれたるを人〳〵はあな にく【ああ、憎らしい】れいの御くせ【癖】そと見たてまつりむつ かるめり【不愉快がるように見える】月ころ【何か月かの間】はつゆ人にけしき見せす とき〳〵はひまきれ【這紛れ=人目を紛らわし忍び隠れる】なとし給へるつれな き(さ)【左に「ヒ」と傍記】 をこの比あやにくに【憎らしいと思われる程】中〳〵の心つくし【心をすり減らすこと】に かとつきしろふ【突きしろう=相手を突っついて合図する】少納言しるへ【てびき】してきこえ いてしはしめの事なとさゝめき【ヒソヒソと話し】あへるをたゝ ならす【ただ事でなく】おもひあへり【出立が】あさて【明後日】はかりになりて れいのやうにもふかさて【夜更けでなく】わたり給へりさやか にも【はっきりと】また見給はぬかたち【容貌】なといとよし〳〵しう【風情があって】 けたかきさましてめさましうも【以外にたいしたものに】ありける かなと見すてかたくくちをしうおほさるさる へき【然るべき】さまにしてむかへんとおほしなりぬ【新たにそう思うようになられる】さ やうにそかたらひなくさめ給おとこの御かたち ありさまはた【当然のこととして】さらにもいはす【改めて言うまでもない】としころ【年来】の御 おこなひ【勤行】にいたくおもやせ【顔が痩せてやつれること】給へるしもいふかた なく【言いようがなく】めてたき御ありさまにて心くるしけ なる【胸がつまる】けしきにうちなみたくみつゝあはれふ かく【感慨深いありさまで】ちきり給へる【固く約束する】はたゝかはかりを【これだけでを】さいはひにても【幸せとしても】 なとかやまさらんとまてそみゆめれと【思うが】めてたき【申し分なく素晴らしい】 にしも我身のほとをおもふもつきせすな みのこゑ秋のかせには猶ひゝきことなりし ほやくけふりかすかにたなひきてとりあ つめたる所のさまなり    このたひはたちわかるとももしほ【藻塩=海藻からとる塩】やく けふりはおなしかたになひかんとのたまへは    かきつめてあまのたくものおもひにも いまはかひなきうらみたにせしあわれにうちな きてこと【言す】すくなゝるものからさるへきふしの御い らへなとあさからすきこゆ【申し上げた】このつねにゆかしかり 給ものゝね【琴の音】なとさらにきかせたてまつらさり つるをいみしううらみ給さらはかたみにもしのふ はかりのひと ゝと(こと)【「ゝ」・「と」の左に「ヒ」と傍記】をたにとのたまひて京よ りもておはしたりしきんの御こと【琴の御琴 注】とりにつか はして心ことなる【特別な感じの】しらへをほのかにかきならし 給へるふかき夜のすめるはたとへんかたなし 【注 「琴の琴(きんのこと)」=奈良朝から平安初期に使われた楽器。面に桐、胴に梓(あずさ)を使い、長さ三尺六寸。黒漆塗り七絃。柱(ぢ)が無く、左手でおさえ右手で弾く。奏法が複雑で弾きにくかった。】 入道えたへて身つからさうのこと【筝の琴】とりてさ しいれたりみつからもいとゝなみたさへそゝのか されてとゝむへきかたなきにさそはるゝなるへ し【気持ちが乗ってきたのだろう】しのひやか【人目を避けているように感じられるさま】にしらへたるほといと上手めき たり入道の宮の御琴のねをたゝいま【現在】の またなき【比類のない】ものにおもひきこえたるはいまめか しく【当世風で】あなめてたときく人の心ゆきてかたち【容貌】 さへ思ひやらるゝ事はけにいとかきりなき【この上なき】御 ことのね【琴の音】なりこれはあくまてひきすまし 心に つゝ(くゝ)ねたきねそまされるこの御心に たにはしめてあはれになつかしうまたみゝな れ給はぬてなと心やましき【相手が巧みで自分が感じ入る】ほとにひきさし つつ【弾くことを途中でやめながら】あかすおほさるゝにも月ころ【(この)何か月かの間】なとしゐて も【強いてでも】きゝならさゝりつらん【いつも聞くようにしなかったのか】とくやしうおほさる 心のかきりゆくさきの契のみし給きんは又か きあはする【合奏する】まてのかたみとの給女    なをさりに【かりそめに】たのめをくめる【ずっと頼りに思わせるようなお約束でしょうが(その)】ひとことを つきせぬねにやかけてしのはんいふともなき くちすさみ【口に出るままを言う】をうらみ給て    あふまてのかたみにちきるなかのを【琴の中の緒。 注】の 【注 筝の十三絃、琴の七絃等、のうちの中程の絃。夫婦の仲の意をかけて使われる】 しらへはことにかはらさらなむ【変わらないでほしい】このねたかはぬさき にかならすあひみんとたのめ【期待をもたせ】給めり【なさったのでしょう】されと たゝわかれんほとのわりなさ【どうにもならないこと】をおもひたるも いとことはり【もっともなこと】なりたち給あか月は夜ふかくい て給て御むかへの人〳〵もさはかしけれは心もそ らなれとひとま【人のいないすき】をはからひて    うちすてゝたつもかなしきうらなみの なこりいかにとおもひやるかな御返し    としへつる【年経つる】とまやもあれてうき浪の かへるかたにや身をたくへまし【一緒に行かせましょうか】とうちおもひける まゝを見たまふにしのひ給へとほろ〳〵と こほれぬ心しらぬ人〳〵はなをかゝる御すま ゐなれととしころといふはかりなれ給へる をいまはとおほすにはさもある事そかし なと見たてまつるよしきよなとはをろかなら す【おろそかでなく】おほすなめりかし【お思いであるようだな】とにくゝそおもふうれ しきにもけにけふをかきりにこのなきさ【渚】 をわかるゝことなとあはれかりてくち〳〵しほ たれ【涙にくれる】あへることもあめり【あるだろう】されとなにかはとてな む【いちいち書き留める必要もあるまい 注】入道けふの御まうけ【準備】いといかめしう【盛大に】つかう 【注 「何かは(書かむ)とてなむ(省きぬ)」の語の()部を省筆している】 まつれり人〳〵しものしな【品=身分】まてたひのさうそ くめつらしき【心ひかれる】さまなりいつのまにかしあへけ む【間に合うように成し遂げたのだろう】とみえたり御よそひ【(君の)服装】はいふへくもあらすみ そひつ【御衣櫃=御衣を入れておく櫃】あまたかけさふらはす【荷わせる】まことのみやこのつ と【苞=土産】にしつへき御をくり物ともゆへつきて【品格が備わって】思よ らぬくま【心惹かれない欠点】なしけふたてまつるへき【御召しになる】かりの御さうそく【狩の御装束=狩衣に烏帽子・指貫(さしぬき)などを着けた装束】に    よる浪にたちかさね【裁重ね=衣を裁って縫い、それを重ねて着る】たるたひころも しほとけしとや【(水や涙で)ぐっしょり濡れていますので】人のいとはむとあるを御らんし つけて【御覧になって】さはかしけれと    かたみにそかふへかりける【取り替えるべきなんですね】あふことの 日かすへたてん中のころもを【(再会までの)日数を隔てる中の衣だから】とて心さしあるを とてたてまつりかふ【替ふ】御身になれたるとも をつかはすけにいまひとへ【さらにいっそう】しのはれたまふへき ことをそふる【添ふる】かたみなの【左に「ヒ」と傍記】めりえならぬ【並々でなくすぐれた】御そ【衣】にに ほひうつりたるをいかゝ人の心にもしめさらん【染めざらん=染まらぬことがあろうか】入 道いまはと世をはなれ侍にし身なれともけふ の御をくりにつかうまつ こ(ら)ぬ事【お供できないとは】なと申てか ひをつくる【貝を作る=泣き顔をする】もいとをし【気の毒】なからわかき人はわらひぬへし    よ【世】をうみ【倦み=嫌になる】にこゝら【これ程おおく】しほしむ【(海辺の生活で)潮気が浸み込む】身となりて なをこのきしをえこそはなれね【離れられません】心のやみは【注】 【注 「人の親の心は闇にあらねども子を思う道にまどいぬるかな」(後撰雑一 藤原兼輔)の歌を踏まえている】 いとまとひぬへく侍れはさかひ【国境】まてたにとき こえ【申し上げ】すき〳〵しきさま【色めいた話】なれと【娘を】おほしいてさせ給 おり【折】侍らはなと御けしき給はる【ご機嫌をお伺いする】いみしうもの をあわれとおほしてところ〳〵うちあかみたる【左に「ヒ」と傍記】 まへる御まみ【目元】のわたりなといはんかたなく見え 給おもひすてかたきすちにもあめれはいまいと とく【今すぐに】見なをしたまひてん【見直されるだろう】たゝこのすみかにて 見すてかたけれいかゝすへきとて    みやこいてし春のなけきにおとらめや としふるうらをわかれぬる秋とてをしのこひ【涙を押すようにして拭く】 給へるにいとゝ【ますます】物おほえす【我を忘れて】しほたれまさる【涙にくれる】た ちゐもあさましうよろほう【今にも倒れそうによろよろする】さうしみ【正身=本人】の心ち たとふへき方なくてかうしも【こんな風を】人にみえし【人に見せられない】と 思ひしつむれと身のうきを【身分の違いが】もと【根本、原因】にてわりな き事なれと【どうにもならないが】うちすて給へるうらみのやる かたなきにたけきことゝは【現在できる最大の事とは】たゝ涙にしつめり はゝきみもなくさめわひてはなにゝ【何のために】かく心つく しなる事【心労すること】をおもひそめけむ【思いついたのか】すへてひか〳〵し き【ひねくれている】人にしたかひける心のおこたり【思慮の手抜かり】そといふあ なかまや【ああ、うるさい】おほしすつましき【心の中で見捨てられない】事も物し給めれ【おありなのだろう】 はさりとも【ともかく】おほすところあらむおもひなくさめて 御ゆ【煎じ薬】なと は(を)【「は」字の中央に「ヒ」と挿入】たにまいれ【飲んでおれ】あなゆゝしや【縁起が悪い】とてかた すみによりゐたりめのとはゝ君なと【(入道の)】ひかめる 心をいひあはせ【口をそろえて話し】つゝいつしかいかて【どうかして】おもふさま【申し分のない方】にて見 てまつらんととし月をたのみすくしいまやお もひかなふとこそたのみきこえつれ【期待申し上げたが】心くるし きことをも物のはしめに【はじめての縁組で】みるかなとなけくをみる にも【見るにつけ】いとをしけれはいとゝほけ【呆け】られてひるは日ゝ とひ【日一日=朝から日暮れまで】い【眠】をのみねくらし【寝暮らし】よるはすくよかに【元気に】おきゐ てすゝ【数珠】のゆくゑもしらすなりにけりとてて をおしすりてあふきゐたり弟子ともにあ はめられて【軽蔑されて】【(なんと】月夜にいてゝ行道するものは【ものだから】 やり水にたうれいりにけりよし【由来】あるいは【岩】 のかたそはにこしもつきそこなひてやみふした るほとになむすこしものまきれける君はな にはのかたにわたりて御はらへし給てすみよ しにもたひらかにて【(ここまで)無事で】いろ〳〵願【いろいろ祈願したことが(かなったので)】はたし申【願ほどきをされる】へ きよし御つかひして申させ給にはかに所 せうて【狭うて】みつからはこのたひえまうて給はす ことなる御せうようなとなくていそき【(都へ)】いり給 ぬ二条院におはしましつきてみやこの人も御 ともの人も夢のこゝちしてゆきあひ【再会し】よろこひ なきともゆゝしきまて【甚だしきまで】たちさはきたり 女君もかひなきものにおほしすてつるいの ちうれしうおほさるらんかし【思われたのだろう】いとうつくしけに ねひとゝのほり【大人びて容姿が整う】御ものおもひのほとに【悩み煩ったからか】ところ せかりし【所狭しとフサフサに生えていた】御くしのすこしへかれたる【減っている】もいみしう【たいそう】 めてたきを【すばらしく】いまはかくてみるへきそかしと御心 おちゐる【落ち着く】につけては又かのあかす【飽かず=物足りなく】わかれし人 のおもへりしさま心くるしうおほしやらる猶 世とゝもにかゝる方にて御心のいとまなきや その人【明石の君】の事ともなときこえいて給へり【お話しになる】【(君が)】おほし いてたる御けしきあさからす見ゆるをたゝな らすや【普通ではないと】見たてまつり給らんわさとならす【何気なく】 身をはおもはすなとほのめかし給ふそを かしうらうたく【心ひかれいじらしく】おもひきこえ給かつ【同時に】みるにたに あかぬ御さまをいかてへたてつるとし月そと あさましき【見苦しい】まておもほすにとりかへし【もとに戻し】世中 もいとうらめしうなむほともなくもとの御位 あらたまりて【改善されて】かすよりほかの【定員外の】権大納言に なり給ふつき〳〵の人【供の者】もさるへきかきり【それにふさわしい者に限って】はもとのつ かさ【官職】かへし給はり世にゆるさるゝほとかれ【枯れ】たり し木の春にあへる心ちしていとめてたきけ【様子】 なりめし【召し】ありて内【内裏】にまいり給おまへにさふ らひ給にねひまさりていかてさる【そんな】ものむつ かしき【なんとなく好ましくない】すまゐにとしへ給つらん【何年も過ごせたのだろうか】と見たてま つる女房なとの院の御時よりさふらひ【仕えた】 ておいしらへるとも【老女たち】はかなしくていまさらに なきさはきめてきこゆうへ【上=帝】もはつかしうさへ おほしめされて御よそひなとことにひきつくろ ひていておはします御心ちれいならて【例ならで=いつもの状態でなく】日ころ【このところ】へさせ 給けれはいたうをとろへさせ給へるをきのふけふそす こしよろしうおほされける御物かたりしめやかに ありて夜にいりぬ十五夜の月おもしろうし つかなるにむかしの こと(こと)【「こ」「と」の左に「ヒ」と傍記】かきくつし【少しずつ崩すようにして】おほしい てられてしほたれさせ給【涙にくれられる】もの心ほそくおほさ るゝなるへしあそひなともせすむかしきゝしものゝ ねなともきかてひさしうなりにけるかなとの給はするに    わたつ海にしつみうらふれ【失意にうなだれる】ひる【蛭】の子の あしたゝさりし年はへにけりときこえ給へり いとあはれに心はつかしうおほされて    宮はしらめくりあひける時しあれは わかれし春のうらみのこすないとなまめかしき【しっとりとして美しい】御 ありさまなり院【故桐壷院】の御ために八講【注】おこなはる へきことまついそかせ給ふ東宮を見たて まつり給にこよなうおよすけさせ給て【格別に成長なさって】めつらし う【なかなかお会い出来ないことと】おほしよろこひ給へるをかきりなくあはれ【立派だ】と 見たてまつり給御さ え(え)【才能】もこよなく【格段に】まさらせ 給て世をたもたせ給はんにはゝかりあるまし くかしこくみえさせ給入道の宮にも御心す 【注 「八講会」の略。法華経八巻を八座に分け一巻ずつ講讃する法会】 こししつめて御たいめんのほとにもあ は(は)れな る事【切なる思い】ともあらむかし【あるであろう】まことや【ほんにそうそう】かのあかし【かの明石】にはか へる浪【遣いのこと】につけて御文つかはすひきかへしてこ まやかにかき給ふめりなみのよる〳〵いかに    なけきつゝあかしの浦にあさきりの たつやと人をおもひやるかなかの帥のむす めの五節あいなく【そんなことしても仕方がないのに】人しれぬものおもひさめぬ る心ちまくなき【まくなぎ=めくばせ】つくらせてさしをかせたり    須磨の浦に心をよせし舟人の やかてくたせ【朽たせ】る袖をみせはやて【手=筆跡】なとこよなうま さりにけりと見おほせ給て【見てお感じになられて】つかはす    かへりては【逆に】かことや【託言や=愚痴を】せまし【言いたいぐらいです】よせたりし【お手紙を下さった】 なこりに【そのあと】袖のひかたかりしを【干難かりし=乾きにくかったのですから】あかすをかしと【いつまでも気になる程魅力的だと】 おほしゝ【思っていた】なこりなれはおとろかされて【ママ】給てい とゝ【いとど=ますます】おほしいつれとこのころはさやうの御ふるま ひさらにつゝみ給めり【慎んでいらっしゃるように思われる】花ちる里なとにもたゝ 御せうそこ【消息=便り】はかりにておほつかなく中 〳〵うらめしけなり 【白紙】 【白紙】 【裏表紙の見返し 文字無し】 【裏表紙】 【背】 【天或は地】 【小口】 【天或は地】