五事略 下 五事略下巻   琉球国事略    ○異朝の書に見えし琉球国の事 琉球は其国大小の二ツあり今の中山はその大琉球の国なり  小琉球の国は中国に通する事なしと見えたり其琉球の人に此事を  問ひしに小琉球といふ所詳ならす今の大島の地を申せしにやと申  す此説心得す異朝の書に小琉球は泉州の地に彭湖といふ所と煙火  相望むといひ又閩中の皷山に上りて望むへしといふ然ちは閩中に  近き海上にあるなり大島ならんには閩を去る事数千里を隔つ又朝  鮮の書に小琉球の地は琉球の東南水路七八日ほどにあり国に君長  もなく人皆たけたかく大にして衣裳といふもなし人死しぬれは其  親族あつまりてその肉をくらひそのかしらに漆ぬりて飲器とすと 【枠外上記】 書中中国と あるは支那 を指して云 ふなり以下 賛同し  いふ事あり是も又信用にたらす 古より中国に通せし事は聞えす隋の煬帝大業年中羽騎尉朱寛をして 異俗を訪求めしめ始て其国に至る其語言通せす一人を掠めて還る後 に武賁郎将陳稜をして兵を率いて其国に至らしめ男女五千人を生捕 て還れり《割書:□の煬帝大業六年の事也本朝|推古天皇十八年にあたれり》其後大元の時に至て使して招諭せられ しかともつひに従はす《割書:これ元の世祖日本を招諭せられし時の事なる|へし本朝にては亀山院御在位の時にあたる候》其国王初の姓 は歓斯(ハンスウ)氏名は渇剌兜(カツラトウ)国人これを呼ひて可老羊(コラウヤン)といふ其妻を多抜荼(トハト)と いふ《割書:一説に其国王の姓名の事た|しかならぬ説なりといふ》数世を経て後国わかれて三つとなる中山山南 山北これなり大明の太祖洪武五年日本につかはされし行人楊載使の 事訖りて帰る時に琉球を過て中国に内附すへき由を招きけれは此年 秋七月其王各々使して朝貢し対爵の事を請ひ申を《割書:我国南朝後亀山院文中元年|北朝後円融院慶安五年の事》 《割書:なり大明の太祖の使明州の天□寺の僧祖□南京の无宮寺の僧無逸九州に来りて南朝関西の懐良親王|にまみえき揚載これ之の僧と共に来れるなるへしこれ大明より我国への使第二度に及ひし時の事也》 同十五年《割書:我国南朝弘和二年|北朝永徳二年也》中山王察度山南承察に印金幣等を賜る《割書:これ中|国より》 《割書:冊封使あ〓|事の始なり》其使環りて三王互に雄を争ひて相攻る由を申けれは三王相 和らくへきよしの詔書を賜りて同十六年《勅書:我国南朝弘和三年北|朝小松院永徳三年》山北王怕尼芝 にも印文綺等を賜る此年勘合文冊を三王に賜るこれより三王皆中国 に請ふて其封を嗣く《割書:王には紵緑紗羅冠服王妃には紵緑紗羅王|姪王相寨官等には絹公服等を賜ひしなり》同二十五年《割書:我国此年南|北一統す後》 《割書:小松院明|徳三年》中山王其子侄陪臣の子弟等をして国学に入らしむ太祖よろこ ひ給ひて其礼遇山南山北にこえすくれて閩人の善く船を操るもの三 十六姓を賜りて其往来に便し給ひ二年ことに一たび朝貢し船ことに百人 多くとも百五十人に過へからすと定められ福建の南台の外に蕃使館を設て其使を 待たる《割書:朝貢使の朝を拝する等の義|事長けれはしるする及はす》その貢物は馬、琉黄、蘇木、胡椒、螺殻、海巴、生紅銅 牛皮、摺子扇、刀、錫、瑪瑙、磨刀石、烏木、降香、木香、其中琉黄、螺殻、海巴、牛皮、磨刀 石、は其国の産物にて蘇木、胡椒等は歳々に暹羅日本より易る所にして摺 子扇は即ち日本の扇也《割書:按するに蘇木、胡椒は我国の物にあらす日本より賜るという事は|あやまれり日本の扇の事はいにしへより彼国にて申伝る所なり》 帝の景泰元年《割書:本朝後花園院|宝徳二年なり》中山王尚思達か代に至て山南山北を併せて使 をまいらせて朝貢を《割書:此説誤れるか山南山北を併せしは尚志か時の事の由琉|球の人は申すなり此事の詳なることは下の条に見えたり》此後凡三 年に一たひ朝貢し貢使百五十人に過へからすと定めらる神宗万曆元 年《割書:本朝正親町|院天正元年》琉球冊封使蕭崇業謝杰等環りて其国に日本館ありて日本 の人数百人利刀を執て往来す其国の心慎み懾る由を奏す《割書:中山王尚永嗣|封の年の事な》 《割書:り》同十七年《割書:天正十|七年也》日本国平秀吉ことことく六十六州の地を併せて中山 の世子尚寧を招く尚寧関白に臣たらん事を恥て来らす《割書:尚寧か父王尚永去年|万暦十六年に薨して》 《割書:尚寧いまた冊封をうけさ|る故に世子とは称せし也》同十八年《割書:天正十八|年なり》秀吉朝鮮の地を経て中国に入寇せん 事を謀て琉球の朝貢を禁すこれその入寇の事を洩さん事を恐れてな り琉球の相鄭週蜜に其事を奏聞す  又一書に万暦十八年九月関白一和尚を差して琉球に至らしめ正朔 【右頁上部】 一本に杰を述に作る 南島志には □礼とあり 今ま諸書を 参考し週に 従ふ蓋し□ 礼は別に其 人あり