嘉永七甲寅年十一月 聞書諸国並大阪地震つなみ           諸国 早飛脚へ 申来り候由 【上段】  尼ケさき 十一月四日朝五ツ半時ゟ大 地震となりつき地凡家数 二百けん余りくづれ辰巳のわたし 南詰宿屋茶見世共残らず くづる市中凡三百軒余り崩 内川八尺余の高水となる 五日夜まで三十五六度のゆり 死人数凡百人余けが人数知ず 失人数有之由誠に哀至極目も 当られぬ次第也 六日の朝まで三十二度ゆり一尺二寸   【津波挿絵】 西ノ宮灘め 神戸(かうべ)す摩皆々 同様のおおぢしんにて家数 多くくづれ死人数知れず けが人多く失人凡八百人   いづれもゆり同様  丹波園部 同四日五ツ時ゟ大ぢしんとなり 家かず凡二百軒余り死人二百人余 失人数しれず近在五六ケ処 大にそんじ 亀山凡百軒あまりくすれ 三田凡七十軒余くづれ 其近在九ケ村大にそんじ 家数凡百四五十軒余り崩 けが人多く死人凡五十人斗 失人数しれずいつれもゆり同様 【中段】   【津波挿絵】 大坂つなみ 十一月四日朝五ツ時ゟ大地震と成 委しくは下段にしるす 同五日又々度々はけしくゆり 市中人々あわて舟へかけ出候所又々 大つなみにて新田其外島々 水につかり大船浪に追れ内川へ のり込にて逃出る舟人橋々崩おち 人損じ又は□へ打上りさん〴〵の所 逃る人々舟々向ふゟ追れ大船に 敷れあたりさま〳〵して死す人凡千 人共千五百人共かず不知 大船□三百艘余小舟千艘あまり くづれ破そんのふね数しれず 大船の為にくつれたる橋の名爰に記 道頓ほり川筋日吉橋塩見ばし 幸橋住吉ばし大黒橋にてとまる かなやばしくすれる堀江川筋水分橋 くろがねばし長ほり高橋江子嶋かめ 井ばし安治川橋落る 凡ゆり八寸  奈良 同四日朝五ツ時より大地震と成一人も 内にゐる者なし家内蔵くづれ清水 辺西手貝通り五六軒くづれる 五日より昼夜かけて又々はげしく先に 残たる家みな〳〵くづれ 郡山大躰同様の大地震也 逃る人幾千とも数しれず たび〳〵の大地震ゆへ其混乱         筆につくしがたし 【下段】  大坂大地しん 清水舞台みちんとなる 天王寺村所々大にそんじ さのやばしすじ塩町北へ入高へい崩死人あり 《割書:京町ほり羽子板ばし|北詰四五けんくづれ》死人あり  かごや町角間口十七八間くづれ 北久太郎町丼池北へ入四五けん同断 永代はま大土蔵 同断 ざま石鳥井みぢん崩絵馬堂崩 さつまぼり願教寺たいめん所くづれ 北ほりへ四丁目五軒崩あみた池西門 一すじ西の辻南へ四五けん幸町東樋 より南へ五六けん堂しま桜橋南詰西へ 七八軒順けい町丼池東へ二けん崩かゝり 本町狐小路浄土寺高へいくづれ上福 嶋天神の門井戸家形北江戸ぼり一丁目 高塀十五けん崩天満天神御霊いなり 高津皆境内井戸館絵馬堂大に そんじあはち町中ばし大道 われる也安治川三丁目十四五けん崩 同所順正寺茶の間本堂くづれ いたちぼり中ばし□両かわ崩 其外うち〳〵かし屋または 土蔵などは一々筆につくし がたし 天王寺境内いろ〳〵損じ幷に 太鼓堂くづれる寺町色々損じる 福しま五百らかんくづれる      凡ゆり  五寸 【挿絵内文章】 市中毎夜〳〵如此にて大道べ 畳等を敷屏風或はむしろにて かこひ夜を明し内に ねる者一人もなく 誠に〳〵哀至極 なる事 前代未聞 の事なり