鳥島移住始末 鳥島移住始末   鳥島移住の始末の序 凡そ世界孰れの国民も其建国の歴史を有せない者はない而して其歴史こそ祖 国建設の叫びにして国民が強烈なる愛国心を湧起せしむる実に唯一の教材で ある 我大日本国民は活眼を「大日本」てふ国家の歴史に曝し畏くも宗祖建国 の状態を明にして始めて我国体の尊厳世界万国に優秀なる所以を感得し因て 以て鬱勃天に冲する忠君愛国の精神を養成坌湧せしむる者である焉我々国民 は此事由に拠り必ずや我国の歴史を知らなくてはならむ其歴史を知ると倶に 国家組織の分子たる県郡乃至は村字の歴史をも知り併せて国家及県郡町村字 の為に尽せし先輩偉人の事蹟をも知らなくてはならむ而して其先輩偉人が公 利公益の為に神血を灑きし事蹟を探究稽査し做【倣カ】ふて以て大に公共心を養成す るの資と為さなくてはならぬ蓋し近時識者間に在て郷土誌研究の論頻りに提 唱せられ拠りて以て年少子弟訓化教養の資を此の郷土誌に覓めて感化の料に 供せられつつあるは教育界一般の傾向なるに拘らず其郷土の誌料に乏しきは 実に遺憾とする所である夫れ鳥島の住民は自助の精神を奮起し新に自己の運 命を開拓せざる可ざる住民である移住の主旨精神を貫徹せざれば止まざる責 任ある住民である鳥島の向上発展と産業の振興を謀り国家に貢献せんとする 住民である要は努力奮励を以て大に 聖恩に報ひ奉らんとする住民でなくてはならぬ斯の如く進取敢為の気象に富 む字鳥島の移住歴史を明にし之を子弟に教へ先づ子弟をして愛郷の念を湧起 せしめんとするのである由来愛郷心の養成は国土愛護の精神を涵養する所以 たるを思惟し茲に此の「鳥島移住始末」てふ小冊子を記し一は以て鳥島の移住 顛末と主旨精神を年少子弟に教へ第一に移住に就きて 皇恩の難有きを体得感謝し奉らしめ一は以て郷国愛護の精神を涵養すると 倶に忠国愛国の念を盛ならしめんとの微意に外ならぬ辛に鳥島先輩及子弟諸 子の諒察を得ば余の満足何方のか之に過る者あらむ矣   大正九年三月              斎藤用之助識 鳥島移住始末    解 説 一.此の書は鳥島人民は始めどんな生活をして居たか亦移住の動機はどんな工   合に起因しどんな沿革を経てどんなにお上の保護を受けどんな人々の尽力   で移住する事が出来たか今は父母兄弟姉妹と共に一家団欒の楽を倶にして   此の難有き 聖代の臣民たる事が出来きたと云ふ事を鳥島の年少子弟に   覚らしめたいと云ふ目的で此書を著はすことにした 一.本書の第一に於て藩政時代の鳥島を第二に於て廃藩置県後の鳥島を第三に   於て移住間際の鳥島を述べ移住前の状態を明にし即生活其他の有様を知ら   しむる事にした 一.本書の第四に於ては移住後の鳥島の事で即移住の起因より移住の終りまで   に湧き出たる事項を網羅し移住の状況を知らしむる事を骨子として書た此   第四に在ては「習ふもの」「教ゆるもの」倶に最も注意して移住事件の真相を了解   することに努めん事を希望するのである 一.本書の第五第六には移住後に於る具志川村の各字及び字鳥島の心得を掲げ移   住後の鳥島が将来進歩発展の基礎を定めたる事項を示した故に鳥島字の継   続者である年少子弟は最も克く第六の事項を留意了解し益奮ふて新たなる   運命の開拓に努力せんことを希望す 一.此書は主として夜学少年団の如き学校教育を終へて補習を為す者に読しめ   鳥島字の歴史を知らしめ郷土愛護の素地を作らんとの主旨に出でたのであ   る故に行文も言文一致体とし出来る丈け難渋なる字句を避け平易に子弟に   読み易からん事を期した 一.本書の表紙に現れたる意図について説解なしますれば左の通り  一.表紙の表面に現れたる「丸にぶっ違」の紋は字鳥島を表章する徽章である藩政    時代には硫黄上納の都度毎年一対づゝの扇を弁所に供ふる為に藩庁より下    附せられたる因縁あり扇は末広と称へ将来の進歩発達を祝福するの意を有    □□□□徽章として掲げました  一.字徽章の下に現はした小形の屋形は七嶽神社石造の社である之は鳥島住民    諸氏が祖先来奉祀し其神威の守護に拠り今日の繁栄を来したわけです故に    移住以来も其守護を頼み字鳥島の益々向上進展を祈る意味に於て掲ぐる事    にしました  一.表紙の裏面に現れたる石碑の形は鳥島移住紀念碑其侭の形を現はしました    由来本書は鳥島移住の事実を永く紀念し其主意を久しく伝へ鳥島住民の子    孫へ紀念たらしむるの外何等の意味もありませんから之を抽象する為に掲    げたのであります  大正九年三月                      斎藤用之助識 鳥島移住始末   目 次 ○第一 藩政時代の鳥島……………………一   イ 緒言…………………………………一   ロ 鳥島の吏員…………………………二   ハ 人口と戸数…………………………三   ニ 土地の面積…………………………四   ホ 租税…………………………………四   ヘ 救助米………………………………四   ト 七嶽御拝へ藩の下賜品……………五 ○第二 廃藩置県後の鳥島…………………六   イ 置県間際の鳥島……………………六   ロ 移民勧誘と拒絶……………………七   ハ 救助米の廃止と基本金の設定……八   ニ 納税義務の免除……………………九 ○第三 移住間際の鳥島…………………一〇   イ 人口と戸数………………………一〇   ロ 土地………………………………一一   ハ 産業………………………………一二   ニ 教育………………………………一四   ホ 衛生………………………………一五   ヘ 生活状態…………………………一六 〇第四 移住の鳥島………………………一八   イ 移住の起因   ロ 移住の勧誘   ハ 先覚者の尽力及其功労者   ニ 移住費の恩賜と貯蓄金   ホ 皇室と移住費   ヘ 紀元節と移住記念日   ト 七嶽神社   チ 遺骨合祀所   リ 移住と日露戦争   ヌ 移住記念碑の原文と和訳   ル 移住事業の関係者 ○第五 移住終了後郡長の告諭   イ 鳥島人民へ   ロ 具志川間切人民へ ○第六 移住後の鳥島   イ 字鳥島   ロ 字区会   ハ 基本財産と人物養成   ニ 硫黄事業と共有金   ホ 鉱業組合   ヘ 産業組合 ○第七 鳥島子弟へ警告   鳥島移住に関し日本地名辞書の記事(硫球の部  頁) 鳥島移住始末                       斎藤用之助著  ○第一 藩政時代の鳥島   イ 緒言 藩政時代の鳥島はどんな状態であつたか書いた物が乏しひ為に解らない事が 多い況や明治八年に藩となる前の遠ひ昔に遡りては凡て何事も先づ解らない 事のみであると言てもよい慶長の頃薩摩兵が侵入した後の琉球国は其境 域が変更したと云ふ事は誰れも異論のない事実である薩摩兵の侵入後は島 津氏に分割せられて今の鹿児島県下の大島郡は其時から島津氏の領分となつ たのである所で其分割当時の我「鳥島」はどふであったかと言へば勿論分割■【衍字か】 せられて島津氏の領分に入りたての島嶼であったのである然ば何故に今日は 鹿児島県下に属せずして沖縄県に属して居るかと申せば斯様である 琉球政府より支那国への朝貢品中には「硫黄」が加りて居たが硫黄産地の鳥島が 島津氏に分割されては朝貢品に閊ゆると言ふので鳥島は島津氏より琉球国に 還附して其代りとして琉球国の領分である鳥島よりも大きな所の与論島を遣 す事になつた即交換する事になつたと云ふ言い伝へがある位で其他は何も解 らん下に記する藩政時代の鳥島として記する所の者は著者が短翰零墨の書類 を見たり亦古老に尋ねたりして彼是総合して記述するに過ぎないのである故 に覧者は其旨を諒せられんことを   ロ 鳥島の吏員 島の統治者は与人二人(村長の如きもの)筑二人(書記の如きもの)作事二人(小使の 如きもの)都合吏員四人と小使二人であった給料は与人は年報【俸の誤字か】拾円筑は五円作 事は無給是丈が島の統治者及附属員であった与人筑は各一人作事一人を引率 し先島頭の如く二年づつ首里へ参覲交代したものである。    今より考ふれば年俸拾円とは全く虚言の様であるが夫れで大きな人が    喜んで勤めたのは名誉を重んじたからである。     ハ.人口と戸数 旧藩時代の人の数も家の数がどんな風に増加して来たか頓と分らない廃藩間 際の人口戸数も確な事は知れないが置県後即明治十三年に県庁の手で始めて 出来た統計書に拠ると男が弐百七拾弐人女が弐百参拾六人都合五百八人家の 数が六拾五戸と云ふのであるが是は明治十三年度の事実を調査した県の統計 であるから調査が幾分不充分の点があるとしても所謂当らずといへども遠か らずで廃置処分前後の数は其辺のことと云ふ事が知らるる     ニ.土地の面積 外の間切島の如く検地帳や竿入帳が在たとすれば夫を見たらば面積も分るで あろうが素と鳥島は地租御免の島である為地租を取る必要もなく地割の必要 上から一人に付五拾坪宛と三百二十人分即一萬六千坪が藩庁の認めた地割地 であつたと云ふ事を口碑に伝へた外は何等書いた物はない故に地租改正迄は 耕地面積の外は不明で終たのである     ホ.租税 鳥 島の租税として上納の義務を有して居るのは田畑から生ずる物でなく鉱 山より生ずる硫黄であつた即年々精錬硫黄一萬五千斤宛を藩庁に納めたもの で外には納税の義務は少しもなかつたのである     ヘ.救助米 島で出来る食物は土地が狭い為に住民の食ふ丈の分量は出来なかつた夫で硫 黄上納の残りを売たり海から獲る魚類を売りて食料を求め補ひて生活をして 来たので人民の生活は楽ではなかつた否な真に困難であつた為に毎年救助米 として米参百石宛を給与したるものである其救助割合は男十五歳以上は一日 に六合女十五歳以上も男十五歳未満のものも一日に二合五勺である女十五歳 未満のものは救助計算には入りて居らなかつた此の通りの猫額大の土地を有 する大洋中の一孤島であるから藩政時代よりして鳥島住民の生活は豊富では なかつたらしい藩庁でも厄介視したのではなかつたろうか。     ト.七嶽御拝へ藩庁の下附品 毎年壱五千斤の精錬硫黄を上納せし時は藩庁よりして鳥島の七嶽お拝所に一 箇所に対し沖縄の陶器(俗に云ふ「シニンクン」の大きさのもの)壱枚づつと扇弐本 づつを下附されたのである其制例は何百何十年前から続ひたものであつたか 分らないが嶽々のお拝所には陶器の山を成したとも申すべく沢山な陶器が積 み重ねてあつたそして上部に成つて居るのは近年の壺屋の素焼であつたが下 層に成つて居る陶器は薬を掛けた物もあつて亦緊致愛すべき物もあつた常用 の焼物としては余り感心も出来ないが茶人杯に見せたらば何百年間と云ふ長 い間風雨に晒され硫黄の煙にいぶされて一種古雅の色をなした物もあつたか ら欲しがらるゝ品らしい物もあつた    ○第二 廃藩置県後の鳥島     イ.置県間際の鳥島 置県後の鳥島も初めの程は藩政時代の鳥島と人口も戸数も別に変りた事は なかつた矢張り藩政の時代其儘で吏員の配置も上納の義務も救助米の支給も 何も変りた事はなかつた明治十五年に始て飢饉の為に救助願を出したが夫れ が動機となりて県庁では鳥島を研究する事になつて鳥島救済策を根本的 に確立しなくてはとの議が萌芽したのも其時からである     ロ.移民の勧誘と拒絶 鳥島の救済策を根本的に研究した結果救助米を当にするが如き乞食根性の依 頼心を起さしめては独立自営の道の妨げである独立自営の心は人間になくて は叶はぬ道であると云ふ事を覚んらしめようと云ふので実況を調査する事に なつた即ち明治十五年に県属二人(添田弥、勝屋弘道)を出張せしむる事にな つた此の両人の属官が出張種々調査の結果鳥島は到底住民が衣食住共求遠 に安穏に住居し得べき土地でないと云ふので島全部の住民を集め即島民大会 を島の出張先で開いて現住民及子孫の繁昌の為め移住の得策なるを説き久米 島に移住する事の得策で大に安全なる事を悃々説示して移住の勧誘を熱心に 試みたが何等効なく島民は一も二もなく拒絶して仕舞ふた出張の属官は再三 再四根気能く之を試みた移住せなければ毎年制例の救助米参百石の支給は乞 食根性と依頼心を養成するから廃止する事を宣言したが夫れでも宜しいと島 民は頑として応じなかつた両属官は終に失望して手持不沙汰で帰庁して其旨 を復命する事になつた其時に於る鳥島人民の反対した心情の一班を知るには 島民の誰れかが作りた俗謡がある其時から住民間に伝り謡はれて居るのがあ る其の謡は「いかに久米島か楽な国やてんあわれ鳥島どましやあらに」と云ふ のである     ハ.救助米の廃止と基本金の設定 県庁が藩庁同様に毎年救助米参百石を支給し来たのは明治十二年より同十 五年迄四ヶ年間続たが十六年に至り廃止する事になつた由来救助米は凶荒飢 饉の年などに支給すべき者で平常無事の年に救助米を支給するのは人民を怠 惰に導き依頼心を起さしむると云ふのであつた併し鳥島は外の離島とは事情一【衍字か】 を異にして居る点もあるから絶対に俄かに廃すると云ふことも数年来支給し 来た例もあるといふので定例救助米の三箇年分米九百石を一時に下附し之を 時の米相場壱石弐円八拾銭に換算して現金にて約弐千五百円計りの金を一時 に支給し島では夫を基本金とし銀行に預け利殖する事とし非常凶荒の時の教【救の誤りか】 助基本金となし之を貯蓄し凶荒の場合には其利子を以て救助すると云ふ法が 設けられて毎年定額支給の救助米は廃する事になった之は乞食的依頼心を去 らしめ自産自給の独立心を奮起すべき旨を示す主旨であつた     ニ.納税義務の免除 鳥島住民の納税義務は年額壱万五千斤の精練硫黄である此の現物納税品は旧 藩時代では支那への貢ぎ物として唯一の品であつた置県後はそんな必要はな い鳥島では人口は年々殖るし生産物は増加しないので島住民の生活は年々困 難の程度が加る所から此納税義務の免除を請けて生活困難の補助にしたひと 云ふので県庁を経て政府へ難願した処が政府でも藩政時代の如く必ず此の硫 黄が必要であると云ふ訳でもなく島住民の事情を酌量して其願を納れて明治 二十一年に願の通り年額壱万五千斤の硫黄上納の免除が聞届られて茲に至て 鳥島は全く一厘の国税をも負担しなひ一村落となつた国税を負担しなひ住民 は県下は勿論日本国中唯此の鳥島計りであった是も鳥島人民としては難有事 と思はねばならむ事情が他の村落と同一でなひと云ふことをも此の辺である    ○第三 移住間際の鳥島     イ.人口と戸数 廃藩置県の年を去る弐拾有五年県政の方針も定り著々進歩し時代は自治制 施行の準備に入りし明治三十六年には鳥島の人口戸数は弐拾有五年前の戸数 六拾五戸が百戸と増し五百八人であった人口が六百七拾六人に加り其増加程 度は誠に壮なものである     ロ.土地 藩政時代の土地面積は知ることの出来なかった鳥島の土地面積が明治三十六 年地租改正の為に実測せられた結果は左の通りに明になつた  一役場敷地  五畝弐坪  一島有山林  弐拾九町弐反七畝弐拾五歩  一島有池沼  参畝六歩  一島有拝所  弐反六歩  一宅地    参町五反弐拾五歩  一畑地    参拾八町弐反七畝拾九歩  一山林    参町五反八畝拾壱歩  一原野    拾四町六反八畝六歩 一墳墓地 四反六畝式拾六歩九合七勺 合計百八拾七町五反九畝八歩九合七勺 硫黄鑛山特許坪数七萬九千六百四拾□坪 八.産業 移住間際に於る鳥島□時の産業として以先第一は硫黄鑛業を挙げなくばなら む鑛業より得る所の金は二種に□別せらる其一は島の共有金として貯蓄する 物と其二は鑛採掘以降事する各個人の労働賃銭でである第二の労働賃は直ぐ に島民の生活の助と為りた第一の金は島民の生活の助と為りた第一の金は島 民の共有となる貯金である其金高は年に因り多少があるが約五六百圓乃百貳 参千圓内外であったが事業契約者の都合で全く中止した事もあった為に其□ 入がない事もあった鑛業に次ぐ産業は島内耕地より得る生産物で多くは食料 の甘蕗であった外に食料となる生産物は凶年に備ゆる蘇鐡が山野の□所此所(18) に澤山植へ附られたのみで外には何物もなかった此の耕地より得る甘蕗は住 芹全□に対して豊作の時で在ても一ヶ年の三分二の食料にしか足りなかった のである夫で其不足は硫黄山の出稼賃とか海より採る産物で補いを立たので ある其の海の産物は烏賊漁を主とし種々の稚漁で一ヶ年の漁獲高は金で約貳 参千圓内外である之は明治三十五年頃の統計の示す数である高所より考へ島 の生産物の状態を達観して考ふれば余裕が在たかと言へば島人の労働能力も 海陸の生産能力も極點に達しあれ以上増加する事は出来ないと言てよろしい 状況であった夫で島の先覚者は島の前途に對して大に悲観して居た全□鳥島 人の海上稼ぎに達者な事は孰出の人もえに對抗し得る者はあるまいえも生活 と云ふ余義ない必要に迫られてではあるが外で見る事の出来ない程達者であ る之は實に鳥島住民の誇りである今後世界の海國に覇たるべき日本人として 何□□も助長□達する様に奮發しなくてはならぬ之□鳥島人民の覚悟でなく(19) てはならぬ字村の爲め群縣の爲ばかりでなく御國の爲め海國男子の模範と ならねばならん。 二.教育 日本國民は學齢満六歳に達すれば普通教育を受くる権利があると共に義務を 有して居る然るに鳥島の免童は交通の不使と経済上の不如意の爲に普通教育 を受くな事が出来なかった権利も義務も賽行する事が出来なかったのが置縣 後二十五年と云ふ求れ間であった第一に児童の不幸で島の發達上から言へば 島民の不幸である世は明治の聖代に逢ひて日遥月歩知識は年月と共に□歩發 達するのに鳥島のみは□済□の都合とは言へ誠に□□しき事であった世運の 大勢を知りた島の先學者で資力ある人々は一二自費にて遠く那覇や徳之島の 小学校に学ばせて世間の人に後れぬ様に心掛けた人もあったが夫は五指を屈 するにも足らぬ程で眞に残念であった明治三十六年にはやっと小学校が新築(20) の運になって之より島の児童が世間並に普通教育を受けよふと云ふ段になり て未だ教授に着手もしないのに彼の有名な移住騒ぎの基である硫黄抗の爆発 が始り為に□鳥島の土地では小学校の教育を受けた人は一人もなかったと言 ふて宜しい眞に残念な次第である斯様な譯から致して島人の教育を受けて読 み書き算術の出来る人は移住當時は王指を屈する程であったのも是非もなき 事である□々 ホ 衛生 衛生として見るべき者は何物もなかった村監の居るでもなし病院には用意の □薬と素人療治で済すと云ふ状態であった□力ある人は徳之島なり沖縄へ渡 り□師の治療を受る人もあったが夫は極く稀であった多くの人野獣の如く全 く自然の成行に任せ天命を待つと云ふ状況であった故に身□の弱き人は十歳 未満で□れるから残る人は健康者のみ成長する結果になるから鳥島の人々は(21) 一般に健康者のみ揃ふて居る為に夫れが働く時は他地方の人の及び難き程の 活動力を備へて居た次に衛生上に最も必要な淡水の□乏が甚しひ為に衛生上 には宜しくなかった其□乏の激かりし點は眞に御話にならぬ位であった一般 から眺めた衛生上は極く不充分と言ってもよろしかった へ.生活状態 何れの所何れの國何れの人民でも産業の盛でお金の廻りの善ひ所は生活が豊 かな事は誰も知てる通りである身に著る衣類も日々三度の食事も一年三百六 十五日起き臥しする家も我々人間の望み通りに郎理想の通りなるのは金廻り が善くなくては駄目である金廻の善し悪しは産業に基くのである鳥島の産業 はどうかと云へば前にも述べた通りの有様であった鳥島では發運の極點に達 した時であった夫れ以上發達しよと云ふ余裕は最早少しもなかったのである 然るに島民の免疫力は非常なもので人民は土地の産業状態に比し割合に多か(22) った為に一般に押なべて言へば住民各家には最早余裕はなかったのである鳥 島には五屋も貫屋もあって割合に家並もよろしかった故に天災さへなければ 先つづく低級の衣食住丈には困らなかったが一朝天災であれば平素余裕がな い為に直に飢餓に迫り救助を仰ぐの硫黄代の共有金を使用するの基本金利子 を引出のと大騒が始ったものである 移住間際に於る生活状態は概要前述の通りであって島に於る生産力も人の労 働能力も範囲も殆んど絶頂に達し心ある人は不安に感ずる人もあった那覇地 方や徳之島地方へ永住の計量を立てて島より飛び出した人も三四人はあった が併て少しでも世間並以上に生活する為に働くにも働く範囲も少ない其割合 に反して繁殖力が強盛であるのに島の生産力には少しも余裕はなかった結局 維持が出来ない極點に達して居て夫で其儘に推し移り変らば結局は共倒れを しなくば始末の付かぬと深く愛へて居る人もあった因りて先學者は到底永住(123) 安穏の地ではないと云ふ事を遠に達観した人もあった位である 《第四 移住の鳥島》 イ.移住の起因 明治三十六年四月鳥島の硫黄坑が俄かに爆発した一時は其勢どが□にすさま しく澤丸黒子の一孤島は今に粉□せんとする状況を□した其燃烈の状は眞に 筆や口で言ふ事も書く事も出来ない極であった其實況を見た島の人々は老若 男女の区別なく喧々□々と騒ひで安堵する心はなかった不安の念は日一日と 加り□泣する者もあった爆発の報告は鳥島役場より郡役所を経て縣聴に達し た縣□は更に内務省に致した縣よりは参事官岸本賀昌郡役所よりは郡長齋藤 用之財汽船□□丸にて出張し内務省参事官坂仲輔農災稼防調査□員山崎直方 は政府派遣の軍艦高千穂号に衆じ視察の為に鳥島へ出張し□艦は知事の上申 に□り萬一の場合に島民を非難せしむる為じ派遣せられるといふ大騒ぎにな(24) った(高千穂号は大正三年七月十七日青島征討不幸にして戦没す) 震災隊防□委員山崎氏の調査報告によれば是以上災害の惨状を□する虜はな いが数年間毎に亦爆発は免れぬとの事であった夫で島民現在の生活状況と島 の生産物の状態より観察する時は適當なる土地に移住し永遠に萬全の策を乗 るに若かずとの意見は期せずして出張各官の意見が悉く一致した ロ.移住の勧誘 出張各官の意見も悉く一致したる故先以て移住の勧誘を島長國吉清勤書記國 吉昌勤に謀かった両人は一も二もなく直に大に其議に賛成したので速かに島 民大會を開く事とした而して之を協議せしめたが全會一致ではないが多数は 移住を得策として其議に賛成した因りて之を決行するにも何等差文はなかっ たが由来本件の如きは事件其もの性質が多数に頼り決行するのは得策でなひ 故に先□者有志の移住を是とする人々に□りて移住の主旨を其反對者に説示(25) し十分に懇篤に納得せしむる事にした其人々は島で先覚者に昌せられた者で 吏員乃議員の連中や重なる有志者であった夫々の相談の済み次第に再び島民 大會は開かれたが其時は一人の異議者もなく全會一致を以て移住する事に決 定するに至たった此度は明治十五年以来の聴議であった移住勧誘の□を奏し たのである 一、移住を可とし移住論を主張する人々が理由とする概要は左の通りであった  一、鳥島は土地□なく住民多く之を養ふ丈の生産物がない己に紫に現在に    於て困難を□り二三の人々は沖縄又は徳の島等へ移り生活の運命を新    に開拓せんとするのは島住居の苦痛に堪へずして移住する人を生じた    為ると云ふ事である  二、沖縄本島にあれ離島にあれ人智の進歩を計る為に学校の設備があって(26)    小学校より順次中学校に進み分相應に智識を研ぎ世間並に進む事□亦    立身出世も出来る然るに鳥島には読み書き算術の出来る者は五指を屈    する程にもない夫れでは日に月に駿々の勢で進歩発展しつつある世間    と智識も何も益遠ざかり後れる事が甚しいから是非相當の所に移住し    て子弟教育の便を開き世間並に後れずに進歩発展して是まで世間で度    外視せられたる鳥島人民も人の為にも□すようにならなくてはならぬ    と云ふ事である  三、猫額大の孤島の悲さ海にも陸にも物産至て少なくどんなに努力奮発す    るも限りある区域より産出する物産は何程にもならず□令多額の物産    が生ずるとしても航路に搬出に□費に不便で労多く利薄し図りて他地    方と財力の競争を為すが如きは夢だに想ふ事は出来ぬ髄て島民各自の    経済□□にし生活を向上せしめ安全にすることは幾歳月を経るも到底(27)