【表紙】 【見返し】 JAPONAS 190 【白紙】 【白紙】 【扉】 【題簽】 繪本朝鮮征伐記《割書:前編|  壹》 鶴峰彦一郎挍正 【印 千里必究不許飜刻】 橋本玉蘭畫圖 《題:繪本朝鮮征伐記》 東都書房  萬笈閣【印 萬笈】 題_二朝鮮征伐記_一 赤縣之州相傳太古之世。帝王出_レ乎_二東方_一 開_二【-脱】闢國土_一。教_二-化人民_一。扵_レ是蠢化蠕動。始有_二 倫理_一。穴居野䖏。方有_二教養_一矣。赤縣之東方 則我神州也。西洋人以為_二東方_一。是神聖首 出之郷。是之謂歟。然則可_レ知。彼之所_レ為_レ道 彼之所_レ為_レ教者。亦皆係_レ乎_二我 神聖之所_一 _レ授也。若能辨_二君臣父子之義_一。則誰不_レ尊_二 皇蕐之尊_一乎。至_二豐臣太閤之起_一。憤_三-激諸道 阻_二-格帝命_一。西討東伐。以定_二 六十餘國_一猶羞_下 諸醜夷有_中阻_二王化_一者_上。於_レ是先嘱_二琉球_一求_二通 扵_一レ眀眀主不_レ聽。太閤欲_下以_二朝鮮_一為_二前導_一。起_二- 越山海_一直入_上レ于_レ眀。朝鮮依違不_レ従太閤發 _レ怒遂興_二大軍_一。以伐_二朝鮮_一。盖㔟不_レ得_レ不_レ然也。 夫朝鮮者。古之三韓。 神功皇后奉_二神教_一 而所_レ獲。方_二此時_一也。新羅王素組面縛。降_二扵  官舩之前_一。其誓曰非_三東日更出_レ西。鴨綠 之水逆流。河石昇為_二星辰_一。而若闕_二春秋朝 貢_一。則天神地祇共罸殛焉。高麗百濟二國 王亦一時降附永稱_二西蕃_一。 皇后因以定_二 内官家_一。置_二鎮守将軍_一。以統_二-制三韓_一。三韓朝 貢。不_三敢憚_二航海之遠_一。而三國史記。東國通 鑑䓁所_レ記。一言不_レ及_二此事_一何也。是亦得_レ非_下 阻_二王化_一者_上哉。太閤之征_二朝鮮_一不_レ得_レ不_レ然也。 雖_レ然當時諸将。皆血氣好_レ功。有_レ威無_レ恩與_二  神聖柔遠之制_一相反。可_レ憐八道無辜之 民。盡被_二殘滅_一矣。獨有_下鬼将軍之勇且仁。得_二 太閤之心_一者_上。然小西行長䓁嫉_二其功_一相䦧。 奸計及_二冊封之事【一点脱】。将_レ汚_二 國體_一。其罪大也 矣。太閤大怒。欲_下併_三行長與_二明使者_一。皆誅_中【-脱ヵ】殺 之_上。行長諉_三罪扵_二 三奉行_一。諸将亦解_二救之_一事 𦆵得_レ止焉。嗚呼使_二太閤_一果誅_二行長䓁_一。姑舎_二 朝鮮之役_一。乃遣_二鬼将軍䓁_一。越海直問_二明主 之罪_一。則朱明之國者。在_二太閤之手_一。而朝鮮 之地者。為_二群下沐浴之邑_一。柔遠之制自行 ■【耳ヵ】。吾扵_二此事_一。為深惜_レ之。友人菊池春日樓 刻_二朝鮮征伐記_一。又就_レ余求_二題言_一。余乃書_レ之 以與_レ之。讀者善_二其善者_一。惡_二其惡者_一。則亦扵 其學_一。庶有_二𥙷【補】益_一云■【爾】。  嘉永癸丑之春       海西漁夫鶴峰戊申題 【地図】 【地図】 朝鮮国全図(てうせんこくぜんづ) 朝鮮郡州府県之名目(てうせんぐんしうふけんのみやうもく)      京畿道(けんきたい) 郡(ぐん)三ッ 府(ふ)三ッ 州(しう)七ッ 県(けん)三ッ (郡)楊根(やうこん)  豊徳(ほうとく)  水原(すゐげん) (府)漢城(かんじやう)  開城(かいじやう)  長湍(ちやうせん) (州)《振り仮名:■州|てきしう》  亷州(れんしう)  潤州(じゆんしう)  驪州(りしう)  谷州(こくしう)  果州(くわしう)   坡州(はしう) (県)交何(かうか)  三登(さんとう)  土山(とさん)      江原道(こうけんたい) 郡(くん)七ッ 府(ふ)五ッ 州(しう)四ッ 県(けん)十 (郡)忤城(きよせい)  平海(へかい)  通州(とうしう)  寧越(ねいゑつ)  松岳(しやうかく)  旌善(せいせん)   高城(かうせい) (府)江陵(こうりやう)  淮陽(わいやう)  三歩(さんほ)  襄陽(しやうやう)  鉄原(てつげん) (州)原州(をんしう)  江州(こうしう)  槐州(くわいしう)  溟州(めいしう) (県)平康(へいかう)  安昌(あんしやう)  烈山(れつさん)  麒麟(きりん)  酒泉(しゆせん)  丹城(たんしやう)   蹄麟(ていりん)  蔚珍(うつさん)  瑞和(すゐくわ) 歙谷(きふこく) 【( )は丸囲み文字】 【■は「彳+易」・「楊」or「惕」or「㑥」ヵ】      黄海道(ばはいたい) 郡(くん)二ッ 府(ふ)三ッ 州(しう)五ッ 県(けん)七ッ (郡)遂安(すゐあん)  延安(えんあん) (府)平山(へさん)  瑞興(すゐこう)  承天(しようてん) (州)黄州(くわうしう)  白州(はくしう)  海州(はいしう)  愛州(あいしう)  仁州(じんしう) (県)安岳(あんかく)  三和(さんくわ)  龍岡(りやうこう)  咸従(かんしやう)  江西(こうせい)  半峯(はんほう)   長淵(ちやうえん)      全羅道(こるらたい) 郡(くん)三ッ 府(ふ)二ッ 州(しう)四ッ 県(けん)廿三 (郡)霊巌(れいかん)  古阜(こふ)  珍島(ちんとう) (府)全州(てるしう)  南原(なんおん) (州)羅州(らしう)  済州(せいしう)  光州(くわうしう)  昻州(こうしう) (県)万頃(ばんきやう)  荗長(ほちやう)  鎮安(ちんあん)  扶安(ふあん)  全渠(せんきよ)  康津(かうしん)   興徳(こうとく)  黄城(くわうしやう)  楽安(らくあん)  昌平(しやうへい)  済南(せいなん)  会寧(くわいねい)   大江(たいこう)  臨波(りんは)  古皐(こかう)  南洋(なんやう)  富順(ふじゆん)  扶寧(ふねい)   麻仁(まじん)  渚城(ちよじやう)  海南(かいなん)  神云(しんうん)  移安(いあん)      忠清道(ちくしやくたい) 郡(ぐん)四ッ 州(しう)九ッ 県(けん)七ッ (郡)清風(せいふう)  《振り仮名:■陽|うんやう》  天安(てんあん)  林川(りんせん) (州)忠州(ちうしう)  《振り仮名:■州|むしう》  興州(こうしう)  清州(せいしう)  靖州(せいしう)  礼州   公州(こうしう)  幸州(こうしう)  洪州(こうしう) (県)永春(ゑいしゆ)  扶余(ふよ)  保寧(ほうねい)  報恩(ほうおん)  石城(せきしやう)  連山(れんざん)   燕岐(えんき)      平安道(へあんたい) 郡(ぐん)十一 府(ふ)九ッ 州(しう)十六 県(けん)六ッ (郡)加山(かさん)  价川(かいせん)  郭山(くわくさん)  雲興(うんこう)  熈川(きせん)  宣川(せんせん)   江東(こうとう)  慈山(じざん)  龍川(りうせん)  順川(しゆんせん)  伝川(でんせん)【注】 (府)平壌(へくしやく)  見仁(けんじん)  成川(せいせん)  寧辺(ねいへん)  定遠(てゑん)  江界(こうかい)   昌城(しやうじやう)  合蘭(かふらん)  広利(くわうり) (州)安州(あんしう)  霊州(れいしう)  青州(せいしう)  定州(ていしう)  朔州(さくしう)  昻州(こうしう)   平州(へいしう)  撫州(ぶしう)  常州(じやうしう)  義州(ぎしう)  宿州(しゆくしう)  銀州(きんしう)   鋼州(こうしう)  渭州(いしう)  鉄州(てつしう)  買州(かいしう)【注】 【■ 「阝+昷」・「温」ヵ】 【■ 「矛+今+力」・「務」ヵ】 【注 「伝(傳)川」は「博川」の誤ヵ】 【注 買州(かいしう)の振り仮名は「はいしう」の誤ヵ】 (県)孟山(もうさん)  徳川(とくせん)  陽徳(やうとく)  江東(こうとう)  中和(ちうくわ)  泰川      慶尚道(けくしやくたい) 郡(くん)七ッ 府(ふ)六ッ 州(しう)五ッ 県(けん)十一 (郡)蔚山(うるさん)  咸陽(かんやう)  熊川(こもがい)  陜川(せふせん)  永川(えいせん)  梁山(りやうざん)   清道(せいどう) (府)金海(きんかい)  善山(せんざん)  寧海(ねいかい)  密陽(みつやう)  安東(あんとう)  昌原(しやうげん) (州)慶州(けくしう)  泗州(ししう)  尚州(しやくしう)  晋州(しんしう)  蔚州(うるしう) (県)東萊(とくねき)  清河(せいか)  義城(ぎじやう)  義興(ぎこう)  開慶(かいけい)  巨済(きよせい)   昌寧(しやうねい)  三加(さんか)  安陽(あんやう)  高霊(かうれい)  守城(しゆじやう)      咸鏡道(はみきやんたい) 郡(ぐん)三ッ 府(ふ)五ッ 州(しう)八ッ 県(けん)一 (郡)端川(たんせん)  蜀莫(しよくはく)  寧遠(ねいゑん) (府)咸興(かんこう)  永興(えいこう)  鏡城(けいしやう)  安辺(あんへん)  会寧(くわいねい) (州)延州(えんしう)  徳州(とくしう)  開州(かいしう)  蘇州(そしう)  合州(かふしう)  燕州(えんしう)   随州(ずゐしう)  惠州(けいしう) (県)利城(りじやう) 【右丁・絵のみ】 【左丁】 朝鮮王(てうせんわう)《振り仮名:李■|りゑん》 溺(おほれ)_一【二点誤】于(に)女色(ぢよしよくに)【一点脱】乱(みだす)_二 於(を)_二【二点衍】国政(こくせい?)_一 【■ 「日+八+日」・「㫟」「昖」ヵ】 【右丁・絵のみ】 【左丁】 大明(たいみん)の提督(ていとく)   李如松(りぢよしやう) 【右丁】 小西摂津守行長(こにしつのかみゆきなが) 【左丁】 雖(いへとも)_レ有(ありと)_二智勇(ちゆう)【一点脱】其性(そのせい)姧(かん) 雄(ゆう)与(と)_二沉惟敬(ちんいけい)_一潜(ひそかに)雖(いへとも) _レ謀(はかると)於 和議(わきを)_一不(ず)_レ成(なら)惟(い) 敬(けい)者(は)被(らる)_レ罪(つみせ)    日本(につほん)より朝鮮(てうせん)に到(いた)る海路程(うみみちのり) 肥前国(ひせんのくに)名護屋(なごや)より壱岐(いき)の国(くに)まで 四十八/里(り) 壱岐国(いきのくに)より對馬国(つしまのくに)まで 四十八/里(り) 對馬(つしま)の城本(しろもと)より對馬(つしま)の豊崎(とよさき)まで 三十六/里(り) 豊崎(とよさき)より朝鮮(てうせん)釜山浦(ふさんかい)まで 四十八/里(り) 釜山浦(ふさんかい)より朝鮮(てうせん)王城(わうじやう)まで 一千二百六十/里(り) 朝鮮(てうせん)王城(わうじやう)より鴨綠江(あうりよくこう)まで 一千二百/里(り)    薩摩(さつま)より琉球(りうきう)の道程(みちのり) 薩摩(さつま)の棒(ぼう)の津(つ)より役(えん)の島(しま)まで 四十八 里(り) 薩摩(さつま)の内(うち)なり 役(えん)の島(しま)より種(たね)か島(しま)まで 十六/里(り) 日本(につほん)の内(うち)《割書:高(たか)四/萬石(まんこく)|はかり》 種(たね)が島(しま)より七嶌(しちとう)まで 十六/里(り) 七ッ島(しま)あり 七島(しちとう)より大島(おほしま)まで 十六/里(り) これより琉球(りうきう)の内(うち)なり《割書:六群(ぐん)|あり》 大島(おほしま)より八幡馬場(はちまんばゝ)へ 九十/里(り) 此所(このところ)琉球(りうきう)王城(わうじやう)なり    凡(およそ)百八十六/里(り) 朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編惣目録     巻之一  一 朝鮮国(てうせんこく)の圖(づ)《割書:并(ならびに)》地理(ちり)の名目(みやうもく)  一 朝鮮国(てうせんこく)初(はじめ)の事(こと)  一 衛満(えいまん)朝鮮(てうせん)の王(わう)となる事(こと)  一 三韓(さんかん)古今(こゝん)分別(ふんべつ)有事(あること)  一  巻之二【行頭数字衍】  一 朝鮮(てうせん)地方(ちほう)大略(たいりやく)の事(こと)  一 日本(につほん)より三韓(さんかん)を初(はじめ)て攻(せむ)る事(こと)  一 日本(につほん)代々(よゝ)朝鮮(てうせん)を攻(せむ)る事(こと)  一 新羅国(しんらこく)興廃(こうはい)《割書:并(ならびに)》朝鮮(てうせん)雞林(けいりん)と號(がう)す事(こと)  一 高勾麗(かうこうらい)始興(はじめおこり)の事(こと)  一 百済国(ひやくさいこく)始祖(しそ)興(おこり)の事(こと)  一 唐(たう)新羅(しんら)二兵(にへい)百済(ひやくさい)を亡事(うつこと)【注】  一 日本勢(につほんぜい)百済(ひやくさい)を救(すく)ふ事(こと)  一 高勾麗(かうこうらい)滅亡(めつばう)【注】の事(こと)  一 新羅(しんら)滅亡(めつばう)【注】《割書:并(ならび)》高麗(かうらい)始祖(しそ)王建(わうけん)の事(こと)  一 高麗(かうらい)盛衰(せいすい)《割書:并(ならひに)》李成桂(りせいけい)位(くらゐ)を竊(ぬす)む事(こと)     巻之二  一 豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)天下(てんか)御成敗(こせいはい)の事(こと) 【注 兦は亡の本字】  一 橘康廣(たちばなやすひろ)朝鮮(てうせん)に到(いた)る事(こと)  一 重(かさね)て両使(りやうし)を朝鮮(てうせん)に遣(つかは)さる事(こと)  一 朝鮮(てうせん)の三使(さんし)来朝(らいてう)の事(こと)  一 棄君(すてぎみ)誕生(たんじやう)《割書:并(ならびに)》逝去(せいきよ)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)朝鮮(てうせん)征伐(せいばつ)思立(おもひたち)の事(こと)     巻之四  一 朝鮮(てうせん)征伐(せいばつ)舩造(ふねつくり)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)琉球国(りうきうこく)に書(しよ)を遣(つかは)す事(こと)  一 朝鮮(てうせん)大明(たいみん)に急(きう)を告(つぐ)る事(こと)  一 朝鮮国(てうせんごく)日本(につほん)の軍(ぐん)を惧(おそる)《割書:并(ならびに)》英雄(えいいう)を選(えら)ぶ事(こと)  一 朝鮮国(てうせんこく)に到(いた)る人数(にんず)着当(ちやくたう)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)筑紫(つくし)御進発(ごしんばつ)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)処々(しよ〳〵)神社(じんじや)御参詣(ごさんけい)の事(こと)  一 渡海(とかい)の諸将(しよしやう)軍評定(いくさひやうぢやう)并(ならびに)逆風(ぎやくふう)に逢(あふ)事(こと)  一 小西行長(こにしゆきなが)抜懸(ぬけがけ)《割書:附(つけたり)》藤堂佐渡守(とう〴〵さどのかみ)唐島(からしま)を放火(やく)事(こと)     巻之五  一 加藤左馬助(かとうさまのすけ)番船(ばんせん)を乗取(のつとる)事(こと)  一 日本勢(につほんぜい)釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)を取(とる)事(こと)  一 小西行長(こにしゆきなか)東萊(とうねぎ)を攻陥(せめおと)す事(こと)  一 浮田秀家(うきたひでいへ)行長(ゆきなが)に後詰(ごづめ)の事(こと)  一 慶尚道(けくしやくどう)処々(しよ〳〵)落城(らくしやう)《割書:并(ならびに)》黒田長政(くろだなかまさ)金海(きんかい)に入(いる)事(こと)     巻之六  一 黒田長政(くろだながまさ)金海(きんかい)稷山城(しよくざんしやう)を攻(せめ)とる事  一 小西行長(こにしゆきなが)忠州(ちくしう)を攻落(せめおと)す事  一 朝鮮王(てうせんわう)都(みやこ)を落(おち)る事  一 加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)先陣(せんぢん)を争(あらそ)ふ事  一 王城(わうじやう)途中(とちう)郡県(ぐんけん)を陥(おとしい)る事  一 加藤清正(かとうきよまさ)龍津(りうしん)を越(こゆ)る事     巻之七  一 小西行長(こにしゆきなが)朝鮮(てうせん)の都城(とじやう)に入(い)る事  一 加藤清正(かとうきよまさ)都(みやこ)へ入(い)る事  一 朝鮮王(てうせんわう)所々(しよ〳〵)艱難(かんなん)の事  一 朝鮮王(てうせんわう)平壌(へくしやく)に入(い)る事  一 戸川花房(とがははなぶさ)白光彦(はくくわうげん)李時禮(りしれい)を討(うつ)事  一 黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)武勇(ぶゆう)の事  一 清正(きよまさ)王子(わうし)を追(おひ)かくる事  一 清正(きよまさ)克諴(こくかん)が軍(ぐん)を戦(たゝか)ひやぶる事      巻之八  一 清正(きよまさ)兀良哈人(おらんかいしん)と合戦(かつせん)の事  一 清正(きよまさ)安辺(あんへん)へかへる路(みち)軍(いくさ)の事  一 秀吉公(ひでよしこう)加勢(かせい)を朝鮮(てうせん)につかはさるゝ事(こと)  一 小西行長(こにしゆきなか)朝鮮勢を破(やぶ)る事  一 李鎰(りいつ)行在所(あんざいしよ)に到(いた)る事  一 李鎰 義綂(よしのり)が兵(へい)を防(ふせ)ぐ事  一 遼東(れうとう)の李時孳(りじじ)朝鮮を窺見(うかゞひみ)る事(こと)  一 清正(きよまさ)征東使(せいとうし)伯寧将軍(はくねいしやうぐん)を擒(とりこ)にする事  一 東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)ノ両王子(りやうわうし)にまみゆる事  一 黒田長政(くろだながまさ)が先勢(さきぜい)狼川(らうせん)にて軍(いくさ)の事  一 小早川隆景(こはやかはたかかげ)晋州城(しんしうじやう)をかこむ事  一 行長(ゆきなが)書(しよ)を朝鮮王(てうせんわう)へ贈(おく)る事(こと)  一 行長 数度(すど)和議(わき)を欲(ほつ)する事  一 李徳馨(りとくけい)僧(そう)玄蘇(げんそ)等(ら)に会(くわい)する事(こと)  一 小西行長(こにしゆきなが)平壌城(へくしやくしやう)東岸(とうがん)に寄(よす)る事  一 朝鮮(てうせん)の軍兵(ぐんひやう)浅灘(あさせ)に備(そな)ふ事  一 朝鮮 王(わう)嘉山(かさん)に留(とゞま)る事  一 高彦伯(かうげんはく)小西行長(こにしゆきなが)が陣(ぢん)へ夜討(ようち)の事    《割書:并(ならびに)》倭兵(わへい)江(え)を渡(わた)る事  一 平壌(へくしやく)落城(らくじやう)の事  一 柳成龍(りうせいりやう)粮米(らうまい)を防(ふせ)ぐ事  一 柳成龍(りうせいりやう)兵粮(ひやうらう)を聚(あつむ)る事  一 遼東(れうとう)の祖承訓(そしようくん)遊撃将軍(ゆうげきしやうぐん)史儒(ししゆ)朝鮮(てうせん)を援(すくふ)事  一 小西行長(こにしゆきなか)祖承訓(そしようくん)と戦(たゝか)ふ事  一 祖承訓(そしようくん)遼東(れうとう)に走(はし)る事  一 元均(げんきん)李舜臣(りしゆんしん)をまねぐ事 朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編巻     目録  一 朝鮮国(てうせんごく)初(はじめ)の事(こと)  一 衛満(えいまん)朝鮮王(ていせんわう)と成(なる)事  一 三韓(さんかん)古今(こゝん)分別(ふんべつ)有(あ)る事 朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編巻之一    朝鮮国(てうせんこく)初の事 夫(それ)日本(につほん)よりはるかに西(にし)の海(うみ)を隔(へだ)て一方境(いつはうけい)の国土(こくど)あり是(これ)を名付(なづけ)て朝鮮(てうせん) 国(ごく)とは云(い)へるなり則(すなは)ち支那(しな)の東濱(とうひん)にあたつて古(いにしへ)より唱(とな)ふるところの三韓(さんかん)の 地(ち)は此境(このきよう)なり往昔(そのかみ)は如何(いか)なる人(ひと)の何(なに)の世(よ)に開闢(かいびやく)したる国(くに)ぞと問(と)へば。もと より東夷(とうい)の一種(いつしゆ)にして草(くさ)を結(むす)んで雨露(うろ)を覆(おほ)ひ穴(あな)を鑿(うが)ちて寒暑(かんしよ)を 避(さ)く。ましてや君長(くんちやう)の差別(しやべつ)もなく毛類(まうるい)を殺(ころ)して食(しよく)となし草葉(くさば)をむ すんで衣(ころも)となす蠢(うご)きわたれば無智(むち)の民(たみ)とは聞(きこ)えけり。此時(このとき)一人の神化(しんげ)の 男(おとこ)出生(しゆつしやう)し。此国(このくに)の人(ひと)に教(おし)へて家居(いへゐ)を作(つく)る仕方(しかた)を知(し)らせ茅(ちかや)を斬(きり)ては屋(おく) を蓋(おほ)ひ金(かね)を扣(たゝ)へて門限(もんげん)をたて城邑(じやうゆう)こゝに始(はじ)めてなれば山(やま)に採(と)り水(みづ)に探(さぐ)り 野(や)を耡(す)き家(いへ)にかしくの功業(こうぎやう)。全(まつた)くなる是(これ)よりして此国(このくに)の者(もの)とも人智(じんち)のた つときことをさとりて土着(どちやく)安身(あんしん)の宜(よろし)と云(い)へるすべを悦(よろこ)ふ。爰(こゝ)におゐて一国(いつこく)の人(ひと) 相集(あひあつま)り。此神人(このしんじん)を尊敬(そんけい)しこの国(くに)の君(きみ)に立(たて)て囲饒(いけふ)渇仰(かつこふ)したりけり此人(このひと) 変化(へんげ)の人(ひと)なりける故(ゆゑ)。もとより名乗(なの)れる姓氏(せいし)もなしされば神人(しんじん)の初(はじめ)て下(くだ)りし 地(ち)を見(み)れば檀木(だんぼく)の下(した)にてありけるゆゑ其木(そのき)によつて名(な)をかたどり。是(これ)を檀(だん) 君(くん)と尊(たつと)び称(しよう)じ。国(くに)をはじめて朝鮮(てうせん)と号(がう)しける此時(このとき)中国(ちうごく)唐堯(とうげふ)の在位(ざいゐ) 戊辰(ぼしん)の歳(とし)の事(こと)なりとかや。はじめの程(ほど)は平壌(へくしやく)の地方(ちはう)に都(みやこ)したりしが後(のち)に 都(みやこ)を白岳(はくかく)に移(うつ)したり。神君(しんくん)は其後(そのゝち)此国(このくに)の民(たみ)ともを全(まつた)く教(おし)へ導引(みちびき)終(をは)り。 阿斯達山(あしたつさん)の中(うち)に入(いり)神(しん)を顕(あらは)しけるとなり。それより檀氏(だんし)の子孫(しそん)国(くに)を受(うけ)て つぎ世(よ)を伝(つた)へたる事(こと)。千百四拾八年 商(せう)の武丁(ぶてい)乙未(きのとひつじ)の年(とし)に至(いた)るといへり。此(この) 後(のち)又(また)殷(いん)の箕子(きし)周(しう)の武王(ぶわう)に封(ふう)ぜられ始(はじ)めて。此国(このくに)に至(いた)るまでは時世(じせい)ははるか に隔(へだ)たれど。誰(たれ)かその世(よ)をうけ伝(つた)へ幾世(いくよ)をかへたりけん正(たゞ)しき史説(じせつ)なきゆゑ に。彼国(かのくに)に人(ひと)の論(ろん)と云(いへ)とも疑(うた)がはしきの一事(いちじ)とす。武王(ぶわう)既(すで)に殷紂(いんちう)が無道(ぶだう)を誅(ちゆう)し その有道(ゆうたう)をたつとび。紂(ちう)が諸父(しよふ)大師(たいし)の官(くわん)箕子(きし)が大賢(たいけん)なるを以(もつ)て朝鮮(てうせん) 候(こう)になし給ふ。箕子(きし)此国(このくに)を給(たま)はりしより平壌(へくしやく)に都(みやこ)を立(たて)たれど。其民(そのたみ)猶(なほ)も 愚痴(ぐち)なるを教(お)しへ。五穀(ごゝく)を種(う)ふるの道(みち)をつくし蠶(こがい)の糸(いと)を繰(いとく)り。織工(しよくこう)を なさしむ国(くに)を治(おさ)むる条目(でうもく)。八ヶ条(でう)にかぎりて其(その)制禁(せいきん)を立(たて)定(さだ)む。爰(こゝ)に於(おい)て 国内(こくない)大(おほい)に治(おさ)まり。国(くに)に盗賊(たうぞく)のあとたゆれば自(おのづか)ら門戸(もんこ)を閉(とづ)る事(こと)もな し。女(おんな)は夫(おつと)に貞節(ていせつ)をつくすの道(みち)をしる。箕子(きし)はじめ此所(こゝ)に至(いた)る時(とき)中(ちう) 【左ページ上部】 周(しう)の武王(ぶわう) 殷紂(ゐんちう)の無道(ぶだう) を征(せい)し大(たい) 賢(けん)箕子(きし)を 朝鮮(てうせん)に封(ほう)ず 其国(そのくに)に入(い)りて 民(たみ)に耕作(かうさく)蚕織(さんしょく)の【蝅は異体字】 事(こと)を教(おし)へ法令(はうれい)を 正(たゝ)しくして其(その)人民(しんみん)を 安(やす)んぜしむ 華(くわ)の人(ひと)を五千人を率(ひき)ひて到(いた)りける。詩書(ししよ)礼楽(れいかく)醫卜(いほく)の枝芸(きけい)までみな したがへて往(ゆき)たりしが。既(すで)に朝鮮(てうせん)に入(い)ると云(いへ)とも其土(そのど)の人(ひと)の言語(ごんご)さらに通(つう)ぜ ず。故(ゆゑ)に訳者(つうじ)を以(もつ)て言(ことば)を解(げ)し人道(じんだう)に五常(こじやう)あることを知(し)らする故(ゆゑ)中国(ちうごく)の 風(ふう)自(おのづか)らうつしける。これによつて衣冠(いくわん)の制度(せいと)こと〳〵く中国(ちうごく)に同(おな)じ。それより歳(せい) 霜(そう)おし移(うつ)り周道(しうだう)もまた。哀(おとろ)ふる代(よ)に到(いた)り諸矦(しよこう)我意(がい)をふるふの時(とき)。こゝに燕(ゑん) 国(こく)の矦(こう)王号(わうがう)を偕称(せんしよう)し。東方(とうばう)の国々(くに〴〵)まで兵(へい)を出(いた)して切(きり)なびけ。既(すで)に朝鮮(てうせん) の地(ち)までも打入(うちい)らんなどゝ取(とり)さたあれば。朝鮮矦(てうせんこう)はこのよしを聞(きく)よりも同(おな) じく。是(これ)も王号(わうがう)を称(しよう)し兵(へい)をおこして燕(ゑん)を伐(うち)。周王(しうわう)の味方(みかた)をなし天子(てんし) をたつとぶ道(みち)を立(たて)んとしたりける。されども朝鮮(てうせん)の大夫(たいふ)禮(れい)といへる者(もの)強(しひ)て 。便宜(びんぎ)のよからぬ事(こと)をもつて諌(いさ)むる故(ゆゑ)。兵出(へいをいだ)すの事(こと)をば止(や)みぬその後(のち)に 大夫(だいぶ)禮(れい)をもつて説士(せつし)となし。燕(ゑん)の国(くに)につかはし燕王(ゑんわう)に説(とか)しめたり。燕王(ゑんわう)は其(その) 理(り)を得道(とくたう)して朝鮮(てうせん)は計畧(けいりやく)する其志(そのこゝろさし)をば止(や)めたり。其後(そのゝち)に朝鮮国王(てうせんこくわう)の 子孫(しそん)に至(いた)りて。其国(そのくに)の冨饒(ふによう)なるにつき其志(そのこゝろさし)しやゝ驕(おご)り。政(まつ)りごと虐(きやく)にして国(くに) 人(ひと)の意(こゝろ)離(はな)るゝを。燕(ゑん)の国(くに)より窺(うかゞ)び兵馬(へいば)を遠(とほ)く入(い)れ動(どう)じ。朝鮮(てうせん)の西境(さいぎやう)を 攻(せめ)とること凡(およそ)二千 余里(より)。満汗(まんかん)といふ所(ところ)に至(いた)つて界(さかい)を立(たつ)其後(そのゝち)秦(しん)六 国(こく)を合(あは)する時(とき)万里(はんり) の長城(ちやうじやう)を築(きつ)きけるに。遼東(れうとう)を以(もつ)てかきりとして朝鮮(てうせん)は外(ほか)になしたりけり。此時(このとき)の 朝鮮王(てうせんわう)は箕子(きし)より四十 代(たい)の孫(そん)。箕否(きひ)が位(くらい)に立(たつ)て君(きみ)たるに秦王(しんわう)の威(ゐ)におそれて秦(しん)に入(いつ) て附属(ふぞく)す。否(ひ)死(し)して其子(そのこ)準(じゆん)立(たつ)て二十 余年(よねん)。陳勝(ちんとう)項羽(こう)が乱(らん)起(おこ)り天下(てんか)大(おほい)に困窮(こんきう)し 燕(ゑん)斉(せい)趙(ちよう)の民(たみ)ともやゝ亡(ほろ)びて箕準(きじゆん)に帰(き)す。其後(そのゝち)盧綰(ろくわん)が燕王(ゑんわう)となれる時(とき) 箕準(きじゆん)は燕(ゑん)と約(やく)を定(さた)め浿水(ばいすい)を以(もつ)て両国(りやうこく)の界(さかい)を定(さた)め。其後(そのゝち)に盧綰(ろくわん)は漢(かん) に反(はん)して匈奴(けうと)に入(い)る。此時(このとき)に燕人(ゑんひと)衛満(えいまん)といへる者(もの)燕(ゑん)の国(くに)を亡命(かけおち)して党(たう)を 聚(あつ)むること。千 余人(よにん)にして衛満(えいまん)これが。頭(かしら)となつて魋結(かみをからけ)蛮夷(ゑひす)の服(ふく)を着(つ)け 中国(ちうこく)の衣冠(いくわん)を棄(す)て東(ひかし)の方(かた)浿(ばい)の水(みつ)を打渡(うちわた)り。來(きた)りて朝鮮国(てうせんこく)の王城(わうしやう)に至(いた)り うつたへ云(いふ)我々(われ〳〵)永(なか)く西界(さいかい)に居(きよ)を定(さた)め朝鮮(てうせん)の藩屏(はんへい)たらん事(こと)を願(ねか)ふに 箕準(きしゆん)は是(これ)をまことゝし。衛満(えいまん)を官(くわん)にすゝめて博士(はくし)となし地方(ちはう)百 里(り)の州(しう)を あたへ西(にし)の鄙(ゑびす)の境(さかい)を守(まも)らす衛満(えいまん)すでに朝鮮国(てうせんこく)に居住(きよちう)して彼(かの)亡命(かけおち)の 從党(じふたう)を招(まね)ぎはかりて朝鮮国(てうせんこく)を奪(うは)はんとす則(すなは)ち使者(ししや)を朝鮮(てう[せ]ん)の 王城(わうじやう)につかはし慌(あは)たゞしく告(つ)けさせける漢(かん)の兵軍(へいくん)十方(じつはう)より朝鮮国(てうせんこく)に 襲(おそ)ひ來(きた)るとうけ給はる我等(われら)今(いま)是(これ)に付(つい)て城内(じやうない)に参候(さんこう)し宿衛(しゆくえい)たらんと 申 乞(こふ)箕準(きじゆん)は是(これ)をまこととし何(なん)の意(こゝろ)もなき所(ところ)へ忽(たちま)ち衛満(えいまん)が兵(へい)とも王(わう) 城(じやう)に撃入(うちいり)て攻討(せめうち)ける箕準(きじゆん)が方(かた)にも番兵(ばんへい)ども防([ふ]せ)ぎ戦(たゝか)ふといへとも。衛(えい) 満(まん)か兵士(へいし)大勢(おほせい)なれば遂(つひ)に軍(いくさ)に打負(うちま)け。箕準(きしゆん)は船(ふね)に打乗(うちの)り南海(なんかい)さして 没落(ぼつらく)せり    衛満(えいまん)朝鮮王(てうせんわう)と成(な)る事(こと) 衛満(えいまん)既(すて)に箕準(きじゆん)をば追(お)ひ出(いた)し。自(みつか)ら王倹城(わうけんしやう)に拠(より)て朝鮮(てうせん)の主人(しゆじん)となり 実(じつ)に漢(かん)の恵帝(けいてい)呂后(りよこう)の世(よ)に当(あた)れるなり。此時(このとき)天下(てんか)初(はし)めて定(さた)まりて太平(たいへい)の基(もとい) を立(た)つ。遼東(れうとう)の大守(たいしゆ)は衛満(えいまん)と約(やく)すらく今(いま)より你干(なんち)漢外臣(かんくわいしん)となつて塞(さい) 境(きやう)の外(そと)なる諸国(しよこく)を保(たも)ち漢(かん)の境辺(きやうへん)に寇(あた)をなすべからず若(もし)又(また)諸国(しよこく)の夷(い) 蕃(びす)朝鮮(てうせん)の下(した)に随順(ずゐじゆん)し。中国(ちうこく)へ入朝(じゆてう)せんと欲(ほつ)する者(もの)をは此方(このはう)よりあへて 是(これ)を禁(きん)する事(こと)なし。何程(なにほと)も夷藩(いはん)の国(くに)を你(なんち)の器量(きりやう)に任(まか)せて手(て)に附(つけ) へしと定(さた)むる故(ゆゑ)衛満(えいまん)爰(こゝ)におゐて自己(じこ)の兵威(へいゐ)を逞(たくま)しふして隣国(りんこく)を侵(おか)し 撃(う)ち或(あるひ)は財物(ざいもつ)を与(あた)へて是(これ)を誘(みち)びき。朝鮮国(てうせんこく)のその傍(かたはら)の小邑(せうゆう)まで多(おほ)くは 来伏(らいふく)せしめたり真蕃(しんばん)臨屯(りんとん)の諸郡(しよくん)もみな〳〵来(きたり)て服属(ふくしよく)すれば此地(このち)も今(いま) は方角(はうかく)数千里(すせんり)の国(くに)とは成(なり)にける。かくて衛満(えいまん)が子孫(しそん)朝鮮国(てうせんこく)を相受(あひう)け て。第(たい)三 代(たい)右渠(ゆうきよ)といへるが世(よ)に至(いた)りし時(とき)。漢国(かんこく)より逃亡(かけおち)し来(きた)る者(もの)ます〳〵多(おほ) くなりければ弥(いよ)国(くに)は繁栄(はんえい)せりされども右渠(ゆうきよ)は我威(かい)を立(たて)て。天子(てんし)の国(くに) に入朝(にうてう)すべきの意(こゝろ)もおこらず近隣(きんりん)の辰国(しんこく)より既(すて)に天子(てんし)に参内(さんだい)すべき よしを思立(おもひたつ)よし云(い)ひ来(きた)れば。右渠(ゆうきよ)は是(これ)を防(ふせ)きおさえて道(みち)を通(とほ)さず。漢(かん) の武帝(ぶて[い])の時(とき)に至(いた)り歩河(しやうか)【注】と云(い)へる臣(しん)を。朝鮮(てうせん)の使(つかひ)として右渠([ゆ]うきよ)にすゝめ諭(さと)して 天子(てんし)の朝廷(てうてい)に入朝(じゆてう)し其命(そのめい)に順(したか)へと云(い)はしむれども。右渠(ゆうきよ)は遂(つひ)に承引(しよういん)せ 【注 「歩河」は「渉何」の誤ヵ】 ず寔(まこと)にもつて詔命(ぜうめい)を違背(ゐはい)するだにも。その罪(つみ)大(おほい)なるべきにあまつさへ漢(かん)の使者(ししや) 渉河(しやうが)【注】を襲(おそ)ふて撃殺(うちころ)せり。爰(こゝ)において漢(かん)の武帝(ぶてい)元封(けんほふ)三 年(ねん)朝鮮(てうせん)を討伐(とうはつ) せんと。楼舡将軍(ろうこうしやうぐん)楊僕(ようぼく)に命(めい)じ。斉(せい)より路(みち)しそれより渤海(ほつかい)に船を浮(うかば)せ。 左将軍(さしやうぐん)筍彘(じゆんてい)は遼東(れうとう)に出(いで)て。朝鮮矦(てうせんこう)右渠(ゆうきよ)が渉河(しやうが)【注】を殺(ころ)せる罪(つみ)を攻(せめ)し む。右渠(ゆうきよ)もまた兵(へい)を発(はつ)して漢兵(かんへい)を防(ふせ)ぐにより。両将(りやうしやう)城(しろ)をかこんで是(これ)を 攻撃(せめうつ)といへども。其戦(そのたゝか)ひ利(り)あらず攻(せ)めあぐんで見(み)えたりける。朝鮮(てうせん)の城中(じやうちう) の諸臣(しよしん)ども謀(はかりこと)をめぐらし。漢(かん)の二将(にしやう)の意(こゝろ)を隔(へだ)て楊僕(ようぼく)をすゝめて朝鮮(てうせん)に 降(くた)し。漢(かん)に背(そむ)くの相談(さうだん)をなしたり左将軍(さしやうぐん)筍彘(じゆんてい)是(これ)を初(はじ)めは知(し)らざりしか ども。のちには此儀(このぎ)を察(さつ)するゆゑ。いよ〳〵城(しろ)をば急(きふ)にもせめず楊僕(ようぼく)がその 動静(どうせい)を待(まち)窺(うかゞひ)【「ひ」は衍ヵ】ふて居(ゐ)たりけり。漢(かん)の朝廷(てうてい)には楊僕(ようぼく)が異変(いへん)あるをは知(し)り 【注 「渉河」は「渉何」の誤ヵ】 給はず久(ひさ)しく朝鮮(てうせん)に兵(へい)を屯(とゞ)めて虚(いたづら)に費(ついや)すことをとがめ給ふに筍彘(じゆんてい)ひそ かに楊僕(ようぼく)が変(へん)あることを申により重(かさ)ねて斉南(せいなん)の大守(たいしゆ)公孫遂(こうそんずゐ)に命(めい)を 下(くだ)して朝鮮(てうせん)に往(ゆ)き向(むか)はしめ其節(そのせつ)にのぞんで便宜(びんぎ)の事(こと)あるに至(いた)つては京(きやう) 都(と)まで告報(つけはう)ずるに及(およ)ばず事(こと)を意(こゝろ)に任(まか)すべきとの別勅(べつちよく)を蒙(かうふ)りて夜(よ) を日(ひ)についで馳(はく)【「く」衍ヵ】せたりける已(すで)に朝鮮(てうせん)の漢(かん)の陣(ぢん)に着(ちやく)せしかば左 将軍(しやうくん)筍彘(じゆんてい) は公孫遂(こうそんすゐ)に対(たい)しひそかに楼舡将軍(ろうこうしやうぐん)楊撲(ようぼく)がそむく意(こゝろ)ある事(こと)を告(つ)げ 知(し)らするに公孫遂(こうそんすゐ)やがて是(これ)を捕(とら)へしめ其軍兵(そのぐんひやう)を一所(いつしよ)に合(あは)せて其後(そのゝち)急(きふ)に 城(しろ)を取(とり)かこんで攻撃(せめうつ)たり城中(じやうちう)の者(もの)ども油断(ゆだん)なし楊僕(ようぼく)か一左右(いつさう)の 相図(あひづ)を待居(まちゐ)る時(とき)なるに思(おもひ)の外(ほか)にせめ立(たて)られあはて騒(さわ)ぎて驚(おどる)きける爰(こゝ) に朝鮮(てうせん)の諸臣(しよしん)に朝鮮相(てうせんのしよふ)路人(ろじん)韓相(かんのしよふ)陰(いん)尼雞林(にけいりん)の相(しよふ)参(さん)将軍(しやうぐん)唊(けう)【注】なんどいへる 【注 史実と照合すると、「朝鮮相路人」は「朝鮮の相の路人」、「韓相陰」は「朝鮮の相の韓陰」、「尼雞林の相参」は「尼谿の相の参」、「将軍唊」は「(朝鮮の)将軍の王唊」に比定されると思われる。】 者(もの)ども一所(いつしよ)に謀(はかりごと)を定(さだ)めてつひに右渠(ゆうきよ)を殺(ころ)し。漢軍(かんぐん)に降(くだ)りけり爰(こゝ)に於(おゐ)て 朝鮮国(てうせんこく)全(まつた)く漢(かん)の下(した)に附属(ふぞく)せしかば。国(くに)を破(やぶ)りて四郡(しぐん)となし今度(こんと)右渠(ゆうきよ) を殺(ころ)して漢(かん)に帰(き)したる者(もの)どもに分(わか)ち与(あた)へらる。参(さん)を封(ほう)じて澅清侯(くわくせいこう)とな し。陰(いん)を封(ほう)じて荻苴侯(てきしよこう)とし。唊(けふ)を平州侯(へいしうこう)となし。路人(ろじん)が子(こ)最(さい)を以(もつ)て涅(ねつ) 陽侯(ようこう)となしたりける。かくてまつたく朝鮮一国(てうせんいつこく)の侯号(こうがう)は絶(たえ)たりけり。    三韓(さんかん)古今(こゝん)分別(ふんべつ)有(あ)る事(こと) 馬韓(ばかん)辰韓(しんかん)弁韓(べんかん)是(これ)を合(あは)せて三 韓(さん)【「さ」は「か」の誤記ヵ】といふ。其(その)馬韓(ばかん)といへるは箕準(きしゆん)すでに衛(えい) 満(まん)が為(ため)に攻奪(せめうば)はれ。其(その)左右(さいふ)の臣下(しんか)宮人(きうしん)を率(ひき)ひ走(はし)りて遠(とほ)く海(うみ)に逃(のか)れ入(いり)。 韓(かん)の地(ち)金馬郡(きんばぐん)に居住(きよぢう)をなし自号(しごう)して韓王(かんわう)といへり。其地(そのち)後世(こうせい)に称(しよう)ず るところの益州(えきしう)の地(ち)の古城(こじやう)の墟(あと)なり。土人(どじん)は名付(なづけ)て箕準城(きしゆんじやう)といへると なり朝鮮(てうせん)の南方(なんばう)に当(あた)るとか。其後(そのゝち)百済王(ひやくさいわう)温祚(うんぞ)が位(くらゐ)に立(たて)る時(とき)。此所(このところ)を一所(いつしよ)に 合(あは)せて保(たも)つといへり。是(これ)をもつて考(かんが)ふれば此所(このところ)馬韓(ばかん)と名付(なづく)るは百済国(ひやくさいこく)の旧名(きうめい) なるに疑(うたが)ひなし。しかるに後世(かうせい)説(せつ)を立(たつ)て馬韓(ばかん)はもと勾麗(かうらい)の名(な)にして。弁韓(べんかん) はまた百済(ひやくさい)なりといふ者(もの)は尤(もつとも)正義(しやうぎ)にあらざるなり。古(いにしへ)は馬韓(ばかん)の地(ち)広大(かうだい)にし て五十 余(よ)の国(くに)を立(た)つ。大国(たいこく)といふものは人家(じんか)万戸(まんこ)にあまり。小国(せうこく)といふは千 軒(げん) に滅(げん)ぜず惣(そう)じて十 余万戸口(よまんこかう)の人家(じんか)あり。また辰韓(しんかん)は馬韓(ばかん)よりは東(ひがし)にあり自(おのづか) ら立(たつ)て。我々(われ〳〵)か先祖(せんぞ)は秦(しん)の時(とき)の亡人(ばうじん)にて始(し)。【。衍ヵ】皇(こわう)が世(よ)に乱(らん)を避(さけ)てこゝに至(いた)り。韓(かん) 国(こく)に逃入(にげいり)【迯は俗字】しを韓人(かんじん)これをあはれみ韓国(かんこく)の東界(とうかい)を置(おき)て。これに与(あた)へ城柵(じやうさく) を立(たて)しむと。その言語(ごんご)なほ秦人(しんひと)に類(るい)せる事(こと)のありともいへり。或(あるひ)は是(これ)を 辰韓(しんかん)と号(なづ)く辰韓(しんかん)乃(すなは)ち後世(かうせい)新羅(しんら)なり始(はじめ)め【め衍】のほどは国(くに)に主人(しゆじん)なき時(とき)は馬韓(ばかん)に乞(こ)ふて。 これを立(たて)しかそのゝち新羅(しんら)の始祖(しそ)赫居世(かくきよせい)が。此(この)辰韓(しんかん)の地(ち)より興(おこ)つて統(とう) を立(たて)て子孫(しそん)にゆづる。扨(さて)また弁韓(べんかん)は其始(そのはじ)め国(くに)を起(おこ)すの祖(そ)を知(し)らず。かつは 辰韓(しんかん)の属国(ぞくこく)と聞(きこ)えたり。辰弁両韓(しんべんりやうかん)の地(ち)をすべて二十四の国名(こくめい)ありしは往昔(むかし) のことと聞(きこ)えたり。其時(そのとき)には大国(たいこく)に四五千 軒(けん)の人家(じんか)あり。小国(せうこく)には六七 百 家(け)民人(みんじん)を住(すま)しめたりといへり。新唐書(しんたうしよ)に是(これ)を載(の)せて弁韓(べんかん)は楽浪(らくらう)の 地(ち)。是(これ)をまた平壌(へくしやく)と云(いふ)ともいへり。古(いにし)へ漢(かん)の時(とき)の楽浪郡(らくらうぐん)といふ時(とき)は。是(これ)を以(もつ)て見(み) るときは辰韓(しんかん)の新羅(しんら)たる。弁韓(べんかん)は高勾麗(かうこうらい)たる疑(うたがひ)なき所(ところ)なり。また後漢(こかん) 書(しよ)にこれを説(とい)て。弁韓(べんかん)は南(みなみ)にあり辰韓(しんかん)は東(ひがし)に有(あり)。馬韓(ばかん)は西(にし)にありといふ其(その) 南(みなみ)とさし。東(ひがし)とさすは漢(かん)の地界(ちかい)遼東(れうとう)の地(ち)を北西(ほくせい)と定(さだ)めて説(とく)ことの言(ことば)なり。 弁韓(べんかん)は辰馬(しんば)の二韓(にかん)の南(みなみ)にあるといふの儀(き)にあらず。三 韓(かん)すべて七十 余國(よこく)の 名目(みやうもく)は陳壽(ちんじゆ)が書(しよ)せる三国志(さんごくし)に見(み)えたれど。東史(とうし)世(よ)絶(た)へて傳(つた)わらざれば 今(いま)朝鮮(てうせん)の地(ち)におゐて。在所(あるところ)はたしかに知(し)れずといふ。 朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編巻之一《割書:終》 朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編(しよへん)巻之二      目録  一 朝鮮(てうせん)地方(ちはう)大略(たいりやく)の事(こと)  一 從(より)_二日本(につほん)_一攻(せむる)_二 三韓(さんかんを)_一初(はじめ)の事(こと)  一 日本(につほん)代々(よゝ)攻(せむる)_二朝鮮(てうせんを)_一事(こと)  一 新羅国(しんらこく)興廃(こうはい)《割書:并(ならびに)》朝鮮(てうせん)号(かうす)_二雞林(けいりんと)_一事(こと)  一 高勾麗(かうこうらい)始(はじめ)興(おこりの)事(こと)  一 百済(ひやくさい)始祖(しそ)興(おこり)の事(こと)  一 唐(たう)新羅(しんら)二兵(にへい)亡(うつ)_二百済(ひやくさいを)_一事(こと)【兦は亡の本字】  一 日本勢(につほんぜい)百済(ひやくさい)を救(すく)ふ事(こと)  一 高勾麗(かうこうり)滅亡(めつばう)の事(こと)  一 新羅(しんら)滅亡(めつはう)《割書:并(ならびに)》高麗始祖(こうらいしそ)王建(わうけん)の事(こと)  一 高麗(こうらい)盛衰(せいすゐ)《割書:并(ならびに)》李成桂(りせいけい)位(くらゐ)を窃(ぬすむ)【竊は旧字】事(こと) 朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編巻之二    朝鮮(てうせん)地方(ちはう)大略(たいりやく)の事(こと) 朝鮮(てうせん)地方(ちはう)。縣郡(げんぐん)の世々(よゝ)に異(こと)なる名号(めいがう)を考(かんが)ふるに。漢(かん)の武帝(ぶてい)元封(げんほう)三 年(ねん)右渠(ゆうきよ)が王命(わうめい)にしたがはさるを討伐(たうばつ)あつて。遂(つひ)に朝鮮(てうせん)の地(ち)を平(たいら)げ定(さだ)めて。 こゝにおいて。楽浪(らくらう)。臨屯(りんとん)。玄菟(げんと)。真蕃(しんばん)。の四郡(しぐん)を置(お)く。楽浪郡(らくらうぐん)の泊(とま)りはこれぞ即(すなは) ち。故(もと)の朝鮮王(てうせんわう)右渠(ゆうきよ)が都(みやこ)する治所(ちしよ)として。また臨屯(りんとん)は故(もと)の東暆県(とうしけん)の治所(ぢしよ)。玄(げん) 菟郡(とぐん)はまた。故(もと)の沃沮城(よくしよじやう)と云(いひ)し府(ふ)にして。これを時(とき)の治所(ぢしよ)なりとか中(なか)ごろ夷(い) 貊(びす)のために所侵(おかされ)て。郡(ぐん)を勾麗(こうり)の西北(せいぼく)にうつしたり。漢(かん)の時(とき)といへども此所(このところ)の治(ぢ) 所(しよ)たることは同前(どうぜん)たりと聞(きこ)えたり。また真蕃郡(しんばんぐん)の治所(ぢしよ)たるは。霅県(げんけん)を以(もつ)て 定(さだ)めたり。また漢(かん)の昭帝(せうてい)始元五年(しげんごねん)朝鮮(てうせん)の旧地(きうち)。平那(へいだ)玄菟(げんと)等(とう)の郡(ぐん)を もつて。平州(へいしう)の都督府(ととくふ)となし。臨屯(りんとん)楽浪(らくらう)等(とう)の郡(ぐん)をもつて。東府(とうふ)の都督(とゝく) 府(ふ)となせり。それ府(ふ)は一国(いつごく)の治政(ぢせい)を出(いだ)しなす仕置所(しおきところ)を称(しよう)するなり。都督(とゝく) はまたその所(ところ)の政事(せいじ)を正(たゞ)す。官人(くわんにん)の職名(しよくめい)たりとしるべきなり。其(それ)より唐(たう)の 世(よ)に至(いた)りて。朝鮮(てうせん)の土地(とち)方境(はうきやう)を定(さだ)むるに。東西(とうざい)は二千 里(り)南北(なんぼく)は四千 餘里(より)にし て。西北(せいぼく)は鴨緑江(あうりよくこう)にいたれり。此水(このみづ)つねに緑(みどり)の色(いろ)なるは。恰(あたか)も鴨(かも)の頭毛(くびけ)を見(み)る が如(ごと)くなり。故(ゆゑ)にこの江(え)を名(な)づけてかく云(いへ)り。北(きた)は女直(ぢよぢよく)の州(しう)にかぎれる是(これ)一名(いちめう)は 兀良海(おらんかい)といへるとかや。偖(さて)また國(くに)に八道(はちだう)を啓(ひらい)て。第一(だいゝち)に京畿道(けいきたう)この道(みち)は京(けい) 城(じやう)の海道(かいだう)にして。江原(こうげん)咸鏡(はみきやん)の両道(りやうだう)は北(きた)に出(いづ)る道筋(みちすぢ)なり。平安(へいあん)黄海(ばはい)の両道(りやうだう) は平壌(へいじやく)の東(ひがし)にあり。忠清道(ちくしやくたい)慶尚道(けいしやくたい)の二道(にだう)は海(かい)の東南(ひがしみなみ)にあり。全羅道(こるらだう)は 海(かい)の西南(せいなん)の道路(だうろ)たり。その外(ほか)府州郡縣(ふしうくんけん)すべて二百 餘(あまり)りの地名(ちめい)をつらね。三 韓(かん)鼎足(ていそく)の如(ごと)く立(たつ)て。代々(よゝ)数(す)百 歳(さい)の間(あひだ)を歴(へ)。互(たがひ)に武威(ふゐ)を争(あらそ)ひ來(きた)る《割書:事(こと)段々(だん〳〵)|下(しも)に見(み)ゆ》 新羅国(しんらこく)の東(ひがし)は長人国(ちうじんこく)につゞき。西(にし)は百 済(さい)に隣(とな)り南(みなみ)は海濱(かいひん)に臨(のぞ)み。北(きた)は高(かう) 麗(らい)の地(ち)につゞけり。東南(とうなん)は是(これ)日本(につほん)渡海(とかい)の通路(つうろ)なり。百 済国(さいこく)は唐土(とうと)洛陽(らくやう)の 東(ひがし)。六千 餘里(より)蒼海(さうかい)はるかに途(みち)を隔(へだ)て。その正東(まひがし)は新羅国(しんらごく)の海(うみ)につゞき。西(にし)は 越州(えつしう)北(きた)は高麗(かうらい)にあたつて海水(かいすゐ)間(へだゝ)つて湛(たゝ)へたり。また高麗(かうらい)は新羅(しんら)の西(にし)にあ たつて。南(みなみ)は海(かい)を越(こ)ゆるまで百 済国(さいこく)の領分(りやうぶん)たり。西北(にしきた)は遼水(れうすい)を過(す)ぎ支那(しな) 営州(えいしう)の地(ち)につゞき。北方(ほつはう)は靺鞨(まかつ)の狄国(てきこく)なりこの遼水(れうすい)と名付(なづく)るは世(よ)にしれる遼(れう) 東(とう)の地(ち)にして。靺鞨(まかつ)は今(いま)の韃靻国(だつたんこく)の別種(わかれ)たり。是(これ)も漢(かん)の世(よ)楽浪郡(らくらうぐん)の一分(いちぶ)た り。洛陽(らくやう)の東(ひがし)を去(さ)る事(こと)。五千 余里(より)国主(こくしゆ)は平壌(へいじやく)に居城(きよじやう)を構(かま)ふとなり。今(いま)に 至(いた)つて朝鮮(てうせん)の国都(こくと)にして。長安城(ちやうあんじやう)と名付(なづく)るなり。城野(じやうや)の外(そと)に一 方(はう)は高山(かうさん)廻(めぐ)り つゞき。盤石(ばんじやく)峙聳(そはだちそび)へて険隘(けんあい)自(おのづから)の。要害(やうがい)を其儘(そのまゝ)の城郭(じやうくはく)に用(もち)ひたれば。堅固(けんご)宜(よろ) しき外関(くわいくわん)たり。内(うち)には万民(ばんみん)居所(きよしよ)を安(やすん)し市店(してん)商肆(せうし)は。町(まち)を連(つら)ね售物(うりもの)をそ なへ。高堂(かうとう)楼閣(ろうかく)軒(のき)を重(かさ)ねたるは寺院(じゐん)あり。官所(くわんしよ)もあり真俗(しんぞく)貴賤(きせん)交会(かうくわい) 男女(なんによ)その業(ぎやう)をたのしめば。実(じつ)に一 方(はう)冨饒(ふにやう)の境(けやう)たり。南郊(なんかう)は広(ひろ)く開(ひら)け浿水(ばいすい)を 限(かぎ)つて喉(のんど)とし。別(べつ)に王宮(わうきう)を構(かま)へ其基(そのもとい)塁土(つちをかさね)疂石(いしをたゝん)で。高(たか)く。土屏(どべい)を築(きづい)て溝濠(みぞほり) ふかくしたゝめ。乃(すなは)ち浿水(ばいすい)の流(ながれ)を引(ひい)て深(ふか)き淵(ふち)を湛(たゝへ)たる。たとひば河伯(かはく)魚鼈(ぎよべつ)たり とも漂瘍(みつにふか)れて。なか〳〵易(やす)くは渡(わた)り得(う)べからざるの急流(きふりう)たり。それより左(ひだ)りの方(かた)を 望(のぞ)めば。遥々(はる〳〵)と路隔(みちへだ)たりて国内城(こくないじやう)と。漢城(かんじやう)と雲(くも)を衝(つ)き山巓(さんてん)に兀然(こつぜん)たるは。唐(とう) の代(よ)より此所(このところ)朝鮮国(てうせんこく)の別都(べつと)と定(さだ)め。壁(るい)をかさね塹(みぞ)を深(ふか)くし。一 方(はう)の不虞(ふぐ)の 備(そなひ)にいましめ構(かま)ふ。また大遼水(たいれうすい)小遼水(せうれうすい)二ッの流(なが)れ。国内(こくない)に廻(めぐ)りわかれて長(とこしな)へに 漲(みなぎ)れば。舟筏(ふねいかだ)運漕(うんそう)の便宜(びんぎ)あつて。実(まこと)に負担(ふたん)の旅客(りよかく)を助(たす)く。此水(このみづ)源洞(みなもと)は遥(はる) か靺鞨(まかつ)の西南(さいなん)の山渓(さんけい)より洩出(もれいづ)る。さゞれ水(みづ)それより次第(しだい)に広(ひろ)く漂(たゝ)へて洋々(よう〳〵) たる流波(りうは)を動(どう)じ。南(みなみ)に向(むか)ひ安市城(あんしじやう)の前(まへ)なる大江(たいえ)とはなりたるなり。それより また。遼山(れうさん)の西岸(さいがん)に一帯(ひとすぢ)の派流(はりう)をなすを。名(な)づけてこゝに小遼(せうれう)と云(いふ)。末(すゑ)再(ふたゝ) び南(みなみ)に廻(めぐ)り流(なが)るゝを梁水(れうすい)と唱(とな)ふれば一水(いつすい)にして三(みつ)の名(な)をなす大河(たいが)なり。爰(こゝ) に馬訾水(ばしすい)と云(い)ふ河(かは)あり。是(これ)もまたその源上(みなかみ)は靺鞨(まかつ)の白山(しらやま)と云所(いふところ)より涌(わ)き 出(いづ)る。纔(わづか)に小(せう)なる渓澗(けいかん)たりと雖(いへ)とも万木(ばんぼく)の雨露(うろ)の滴(したゝ)り落(おち)添(そふ)て。つひにはかゝ る大江(たいえ)の秋水(しうすい)を湛(たゝ)ゆれば。其末(そのすへ)に至(いた)つては千隻(せんせき)の旅舶(りよはく)を浮(うか)め來(きたつ)ても。猶(なほ)豁(ゆたか)な る大濤(たいとう)を起(おこ)し動(どう)せる。朝鮮(てうせん)の州郡(しうぐん)第一(だいゝち)の大浸(たいしん)たり。その水(みづ)もとより底(そこ)を 計(はか)らず。四時(しじ)の碧潭(へきたん)藍(あゑ)に染(そ)みなす是(これ)ぞ名高(なたか)き鴨緑江(あうりよくこう)の要処(やうしよ)なり。 平壌(へいしやく)よりは西北(せいぼく)なれば。唐土(とうと)遼東(れうとう)の地(ち)を経(へ)來(きた)る。路道(ろたう)屈竟(くつきやう)の堅(かた)めたるゆへ に。唐土(とうと)中国(ちうごく)と高麗(かうらい)の境(さかひ)と定(さだ)め。常(つね)に大舮(おほぶね)を浮(うか)べ旅客(りよかく)の往來(わうらい)を迎(むか)へ。馬(うま)を 渡(わた)し人(ひと)を渡(わた)す。大津口(たいしんこう)とは聞(きこ)えけり。    日本(につほん)より三韓(さんかん)を攻(せむ)る初(はじ)めの事(こと) 爰(こゝ)に本朝人皇(ほんてうにんわう)十四 代(たい)。仲哀天皇(ちうあひてんわう)と申 奉(たてまつ)るは。第(だい)十三 代(たい)の君王(くんわう)景行天皇(けいこうてんわう)の 王子(わうじ)。日本武王子(やまとたけのわうじ)の第(たい)二の御子(おんこ)にて渡(わた)らせ給ふ。御母(おんはゝ)は両道入姫(ふたみちひめ)の命(みこと)と申す。 垂仁天皇(すゐにんてんわう)の皇女(くわうぢよ)なり。そも〳〵我(わが)日本(につほん)の大祖(たいそ)神武天皇(じんむてんわう)より。以来(このかた)継体(けいたい)の御(おん) 事(こと)たるや。各々(おの〳〵)其代(そのよ)の儘(まゝ)にして全(まつた)く父(ちゝ)は子(こ)に譲(ゆづ)り給ひて。爰(こゝ)に十二 代(だい)の天(あまつ) 祚(ひつき)を累(かさ)ねさせ給ふ処(ところ)に。景行(けいかう)の儲君(もふけのきみ)日本武尊(やまとたけのみこと)の。東夷(とうい)を制伐(せいばつ)し給ひ 信濃國(しなのゝくに)まで入(い)り給ふとき。山神(さんじん)の尤(とが)めに遇(あ)ひ不幸(ふこう)にして御 ̄ン身(み)を焼(やか)れ給ひ ける。尾張(をはり)の國(くに)まで事故(ことゆゑ)なく回(かへ)り至(いた)り給ひけれとも。遂(つひ)に爰(こゝ)にて遊去(かんさり)ます。御(おん) 父(ちゝ)景行(けいかう)一向(ひたすら)これを哀(かなし)み給ふのみならず。王子(みこと)の勲労(くんらう)大方(おほかた)ならず痛(いた)ましく思召(おぼしめ) し其(その)御子(おんこ)仲哀(ちうあひ)を東宮(とうくう)に立(た)て置(お)き。遂(つひ)に御代(みよ)をは譲(ゆづ)らせ給ふとなん。この 天皇(てんわう)の御形(おんかたち)他(ひと)にすくれおはしまし。御身(おんみ)の長(たけ)一丈(いちじやう)にして実(まこと)に勇猛(ゆうまう)の志気(しき)あ ること。御父尊(おんちゝみこと)にも劣(おと)らせ給はぬ御器量(こきりゆう)なり。皇后(くわうこう)は息長足姫(いきながたりひめ)と申す。 第九代(だいくだい)開化天皇(かいくわてんわう)より。第三(だいさん)の皇孫(わうそん)息長宿祢(いきなかすくね)の命(みこと)の女(むすめ)なるを立(たて)て。皇(くわう) 后(ごう)となし給ふ。是(これ)ぞ則(すなは)ち神功皇后(しんこうくわうごう)の御(おん)ことなり。御意(おんこゝろ)天皇(てんわう)にひとしく雄(すぐ)れ させ給ひて。最(もつと)も勇(ゆう)におわします。此時(このとき)に當(あた)つて九州(きうしう)の戎(ゑびす)の魁首(かしら)。熊襲(くまをそ)と 云(い)へる無道(ぶたう)の者(もの)。可畏(かけまくもかしこ)き天子(てんし)の常(つね)ある。神器(しんき)の威(い)ある理(ことは)りを知(し)らず。これ 【右丁 挿絵のみ】 【左丁】 皇后(かうごう)三韓(さんかん) 御征伐(ごせいばつ)のとき 楼船(ろうせん)三千 余艘(よさう) をうかめ諏訪(すわ) 住吉(すみよし)の御神(おんかみ)を始(はじ)め 奉(たてまつ)り海神(かいじん)御船(おんふね)の左右(さいふ) を守護(しゆこ)し奉(たてまつ)りしかば 風雨(ふうう)のわざはひなく彼国(かのくに) にいたり龍神(りうじん)より奉(たてまつ)りし干(かん) 満(まん)二珠(にしゆ)の神宝(しんはう)を以(もつ)て夷(い) 賊(そく)を一 時(じ)に征討(せいとう)し給ふ よりさき景行天皇(けいかうてんわう)の御宇(ぎよう)に於(おゐ)て。筑紫(つくし)の地(ち)にて反逆(ほんぎやく)を企(くわだ)て。貢物(みづきもの)を も押(おし)とゞめて是(これ)を献(けん)ぜず。しば〳〵叡慮(えいりよ)にそむきし儘(まゝ)京都(きやうと)より多(おほ)くの軍(ぐん) 兵(ひやう)を指遣(さしつかは)され。討伐(とうばつ)を加(くわ)へらる。熊襲(くまをそ)すでに己(おのれ)が足(たら)ざることを知(し)れるが 故(ゆゑ)に。一旦(いつたん)は其(その)罪(つみ)に伏(ふく)し随(したが)ふといへども。また再(ふたゝ)び謀反(むほん)をなし朝廷(てうてい)の貢献(こうけん) を怠(おこ)たつて奉(たてまつ)らず。天皇(てんわう)は聞召(きこしめし)悪(にく)き者(もの)の仕方(しかた)かな。急(いそ)ぎ誅伐(ちゆうばつ)あるべ きに定(さだ)めて。宝輦(ほうれん)をかの地(ところ)に廻(めぐ)らされ。自(みづか)ら追討(つひとう)せらるべきの旨(むね)あり。国(くに) 々(〳〵)の軍兵(くんひやう)を召(め)されける。皇后(くわうこう)はこの事(こと)あるを聞召(きこしめ)し。吾(われ)は女(おんな)なりとても 此度(このたび)の御供(おんとも)に参(まゐ)らでやあるべきと。頻(しき)りに望(のぞ)ませ給ふにより。天皇(てんわう)も又(また)此(この) 儀(ぎ)を御承引(ごしよういん)まし〳〵ける。既(すで)に鷁舟(けぎしう)の纜(ともつな)を解(とく)に至(いた)り。皇后(くわうごう)は此度(このたび)逆賊(けぎぞく) 追討(つひとう)御祷(おんいのり)のためにとて。先(さき)だつて越前(ゑちせん)の国(くに)笥飯(けひ)の明神(みやうじん)に詣(まう)で。奉幣(ほうへい)を 参(まゐ)らせらる。其(それ)より北国(ほくこく)の海上(かいしやう)に龍舟(りうしふ)を巡(めく)らし。天皇(てんわう)と一所(いつしよ)に行逢(ゆきあひ)給ひ筑(つく) 紫(し)の地(ち)に趣(おもむ)かせ給ふに。一(ひ)とりの神(かみ)あらはれ皇后(くわうごう)の御夢(おんゆめ)ともなく。御現(おんうつゝ)にもあら で物(もの)おしへなし申す。是(これ)より西(にし)の方(かた)にあたりて宝(たから)の多(おほ)き国(くに)あり。早(はや)くこれを 討伐(とうばつ)して日本下(につほんのした)に附属(ふぞく)し給ふべし。熊襲(くまをそ)は小国(せうこく)なりその上(うへ)伊弉諾(いざなぎ)伊(い) 弉冉(ざなみ)の。産置(うみおき)たまへる国(くに)なれば討(うた)ずとも終(つひ)には順(したが)ひ靡(なび)きなんぞと。有(あり)けるを 皇后(くわうごう)は急(いそ)ぎ天皇(てんわう)に告(つ)げ。しひて諌(いさ)めさせ給へども天皇(てんわう)これを用(もち)ひ給はず。強(しひ)て 制(せい)し給(た)ふところに。その事(こと)遂(つひ)に成就(じやうじゆ)すべからざる故(ゆゑ)にや有けん。俄(にはか)に橿日(かぢひ)の行宮(あんきう)に して隠(かくれ)給ふぞうたてしき。泣々(なく〳〵)御尸(おんから)をば長門(ながとの)の国(くに)の内(うち)に治(おさ)め埋(うづ)めて。これを穴戸豊(あなととよ) 浦(うら)の宮(みや)と申すなり。すでに皇后(くわうごう)の御腹(おんはら)には応神天皇(おうじんてんわう)の胎育(はらま)させ給ふ御 ̄ン時(とき)な り。しかるに皇后(くわうごう)はかゝる乱逆(らんげき)の時(とき)にのぞんで。帝位(ていゐ)一日(いちにち)も空(むなし)かるべからざる理(ことは)りを群(ぐん) 臣(しん)挙(こぞつ)つて奏聞(そうもん)するにより。女躰(によたい)の御身(おんみ)ながら天位(てんゐ)につかせ給ひける。是(これ)そ第(だい) 十五代の継体(けいたい)神功皇后(じんこうくわうごう)にて渡(わた)らせ給ふ。爰(こゝ)に皇后(くわうこう)は仲哀天皇(ちうあひてんわう)の御教(おんおしへ)を承(う) け給はず。強(しひ)て我意(がい)を用(もち)ひ給ふにより神(かみ)の祟(たゝ)りのある故(ゆゑ)にや。俄(にわか)に崩御(ほうきよ)まし〳〵 ければ大(おほい)に恐(おそ)れ給ふのみか。また御憤(おんいきどほ)りも深(ふか)くして三韓征伐(さんかんせいばつ)の叡慮(えいりよ)は遂(つひ)に 起(おこ)りけり。諸臣(しよしん)とともに此議(このぎ)を詢(と)ひ計(はか)り給ひ。日本(につほん)の国内(こくない)にあらゆるところ の大小(たいせう)の神祗(しんぎ)【祇】を勧請(かんしやう)し。常陸国(ひたちのくに)鹿島(かしま)の地(ち)に神集(かみあつ)めし給へける。中(なか)に阿度部(あとべ) の礒良(いそら)と云(いへ)る神(かみ)一人。この召(めし)に応(おう)ぜざるはいかなる故(ゆゑ)にやあらんと。諸(もろ〳〵)の神達(かみたち)は 庭燎(ていりやう)【左ルビ:にはひ】の光(ひかり)をさかんに焼(た)き。青白(せいひやく)の幣(にきで)を榊(さかき)の枝(えだ)に懸(か)けつらね。風俗(ふうぞく)催馬楽(さいばら) さま〳〵の神事(かみこと)をなし給ふ。礒良(いそら)感(かん)にたへずして海中(かいちう)より顕(あらは)れ出(い)て。神遊(かみあそび) の場(には)に交(まじは)り会(くわい)す。諸神(しよじん)は礒良(いそら)の皃(かを)をつく〴〵と見(み)給ふに。蜂螺(ほら)貝虫(かひちう)浮(うき) 藻草(もくさ)海苔(かいたい)の類(たぐ)ひ透間(すきま)もなく。手足身体(しゆそくしんたい)に取付(とりつき)たり。おの〳〵是(これ)を奇(あやし)んで その故(ゆゑ)を問(とひ)給ふ。礒良(いそら)答(こたへ)て我(われ)海中(かいちう)に跡(あと)たれて。魚鱗(ぎよりん)を利(り)せんと思(おも)ひしよりかく のことくのさまとなる。この見(み)くるしきを恥(は)ぢ。思(おも)ひ。止(や)んことなき神遊(かみあそび)に遅参(ちさん)を なせる所以(ゆゑん)なりと申ける。皇后(くわうごう)は礒良(いそら)をもつて海龍王(かいりうわう)へ御 ̄ン使(つかひ)とし。龍宮(りうぐう)の 宝物(ほうもつ)なる潮(しほ)の満干珠(みちひのたま)を乞(こひ)借(か)り給ひけるに。龍神(りうじん)勅(ちよく)にまかせて二ッの玉(たま)をた てまつる。皇后(くわうごう)はこれより早(はや)く御船(おんふね)を艤(ふなよそほ)ひし給ひて。軍兵(ぐんびやう)を渡海(とかい)せんとし給 ふに胎中(たいちう)に在(ましま)す。太子(たいし)の重(つき)月(かさな)りて御腹(おんはら)ふくらかになるにより。常(つね)に召(め)す御 ̄ン鎧(よろひ)の 引合(ひきあは)せ狭(せま)くして。御膚(おんはだへ)の脇(わき)のあきける故(ゆゑ)。高良明神(かうらみやうじん)の謀(はかりごと)にて巧(たく)ませ給ひ一ッ の小板(こいた)をこしらへて当(あて)給ふ。今(いま)の世(よ)まで伝(つたは)り鎧(よろひ)の脇立(わきだて)といふものあるは。是(これ)がはじめ と承(うけたまは)る。諏訪(すは)住吉(すみよし)の両神(りやうじん)は。副裨(ふひ)の二将軍(にしやうぐん)となり給ひ。皇后(くわうごう)の陣(ぢん)を助(たす)け玉(たま) へばましてや自余(じよ)の神兵(しんへい)をや。楼船(ろうせん)三千 余艘(よさう)を漫々(まん〳〵)たる蒼海原(あをうなは[ら])に乗(の)り 放(はな)つて。高麗(こま)の地(ち)に漕向(こぎむか)ふ。住吉(すみよし)の社(やしろ)とまうするは。昔(むかし)伊弉諾尊(いざなきのみこと)の。日向(ひうが)の国(くに) 小戸川(をとかわ)の川上(かはかみ)檍(あをき)が原(はら)と云(い)ふ所(ところ)にして秡(はらい)し給ふ。その時(とき)に化生(けせふ)したりし表筒男(うはつゝを)底(そこ) 筒男(つゝを)の神(かみ)これなりとか。斯(かく)て新羅(しんら)百済(ひやくさい)高麗(こま)を討(うち)したかへ給(たま)ふべき奇瑞(きずゐ)を 見(み)せ。海神(かいじん)形(かたち)を顕(あらは)し御 ̄ン船(ふね)をさしはさんで。多(おほ)くの海族(かいぞく)守護(しゆご)せしかば波濤(はとう)お のづから風(かぜ)を動(とう)ぜず。彼國(かのくに)に着岸(ちやくがん)あるこの由(よし)すでに三韓(さんかん)に聞(きこ)へければ。高麗(こま) の者(もの)ども兵船(へいせん)万余艘(まんよさう)をおし浮(うか)め。海上(かいしやう)に出会(いであひ)合戦(かつせん)をなしたりける。両軍(りやうぐん) 鋒(ほこ)を交(まじ)ゆることすでに半(なか)ばに至(いた)りて。皇后(くわうごう)はかの干珠(かんしゆ)を取(とつ)て海(うみ)に入給へは。海上(かいしやう) 忽(たちま)ち干潟(ひかた)となつて舟(ふね)の進退(しんたい)かなはねば。高麗(こま)の兵(へい)あざむかれ船(ふね)より下(くだ)つて歩(ほ) 行(かう)をなし。矛戟(ほこ)を取(と)つて進(すゝ)める時(とき)また潮(しほ)の満(みつ)る玉(たま)を取(とつ)てなげうち給へ。 けるに大濤(おほなみ)山(やま)を崩(くづ)すが如(ごと)く。大水(たいすい)忽(たちま)ち漲(みなき)りて高麗(こま)の兵卒(へいそつ)万 人(にん)をこと〳〵 く底(そこ)の藻(も)くずとなしたりける。残(のこ)りし者(もの)ども乱(みた)れ立(たつ)て漸(やうや)くに船(ふね)を廻(めぐ)らし逃(のが)れ 行(ゆく)ゆゑ。皇后(くわうごう)の神兵(しんへい)は全(まつた)き勝(かち)を得(え)たりける。新羅王(しんらわう)は手合(てあはせ)の一戦(いつせん)に利(り)を失(うしの)ふのみ ならず。我(われ)日本(につほん)の神兵(しんへい)の大軍(だいぐん)なるに驚(おどろ)きおそれ。遂(つひ)に我陣前(わがぢんぜん)に降参(かうさん)して命(めい)を請(こ) ひ。すなはち誓(ちかつ)て申やう。今(いま)より後(のち)日本(につほん)へ貢物(みつぎもの)の舟(ふね)楫(かぢ)の乾(かは)く間(ま)なく。毎年(まいねん)に 郡(くに)の内(うち)の宝物(ほうもつ)は申に及(およ)ばず。男女(なんによ)奴婢(ぬひ)の数(かず)をそへて是(これ)を調進(てうしん)すべし。たとへば 朝(あした)の日(ひ)は西(にし)より出(いで)て河水(かすい)返(かへつ)て逆流(けきりう)し。地(ち)の石(いし)曻(のほつ)て天(てん)の星辰(せいしん)に連(つらな)れる世(よ)はありと ても。春秋(はるあき)の朝貢(てうこう)は闕(か)き惰(おこ)たれる事(こと)はあらじと。頭(かうべ)を叩(たゝい)て佗(わび)申す茲(こゝ)において。 皇后(くわうこう)は新羅王(しんらわう)の降(かう)を納(い)れ免(ゆる)し。其(その)科(とが)をなだめ給へける。其国(そのくに)に伝(つた)ふる文書(ふんしよ)の 類(るひ)をば尽(こと〳〵)く取収(とりおさ)め給へけるとなり。新羅王(しんらわう)の方(かた)よりは其国(そのくに)の至宝(しいほう)の数(かず)を撰(えら)み。 て大船(たいせん)八十 艘(さう)に満(み)ち載(の)せて奉(たてまつ)る。高麗(かうらい)百済(ひやくさい)両國(りやうこく)の王(わう)もこの戦(たゝか)ひを聞(き)き。畏(おそ)れ 我軍(わがぐん)に敵(てき)しがたきことを知れば。早(はや)く皇后(くわうこう)の陣営(ちんえい)に馳参(はせまい)りともに降参(かうさん)を請(こ)ひ 申。今(いま)より以来(いらい)永(なが)く日本(につほん)西方(さいはう)の藩兵(ばんへい)と称(しよう)し。貢献(こうけん)さらに怠惰(たいた)なく是(これ)を捧(さゝ)げ んと佗(わび)たるにぞ。是(これ)またこゝに免許(めんきよ)なれば永(なが)く。日本(につほん)の幕下(ばつか)となるは勇々(ゆゝ)しかりけ る次第(しだい)なり。此時(このとき)に支那(しな)は魏(ぎ)の世(よ)のことなりしが。其臣(そのしん)張政(ちやうせい)と云(い)ふ者(もの)を三韓(さんかん)和睦(わぼく) の使者(ししや)とし。日本(につほん)の中(なか)を取(と)りあつかへしと聞(きこ)へけり。こゝに於(おゐ)て皇后(くわうごう)は大矢田(おほやだ)の宿祢(すくね) と云(いふ)人(ひと)を。新羅国(しんらこく)の鎮(しづ)めとし金城(きんじやう)にとゞめ置(おい)て。帰帆(きはん)を促(うなが)さる皇后(くわうこう)の持(もた)せた まへる。御 弓(ゆみ)の末弭(すへはづ)にて高麗王(かうらいわう)は日本(につほん)の犬(いぬ)なりと。石壁(せきへき)に書(しよ)し給も此時(このとき)のこと なりと聞(きこ)へけり。皇后(くわうごう)すでに筑紫(つくし)の地(ち)に帰(かへ)り着(つか)せ給ひて。御安産(ごあんざん)なりけるその 御誕生(ごたんじやう)まします皇子(わうし)ぞ。これ応神天皇(おうじんてんわう)にて御座(おはしま)す。是(これ)よりして高麗(かうらい)は常(つね) に我国(わがくに)に附(つ)き順(したが)ひ。多年(たねん)の貢献(こうけん)怠(おこ)たらず呉服(こふく)羅綾(らりやう)の織工(おりく)。大紋(たいもん)の高麗縁(かうらいへり) と世(よ)に云(い)へるは皆(みな)これ初(はじ)めて此国(このくに)より出(いで)たる物(もの)と聞(きこ)へけり    日本(につほん)代々(よゝ)朝鮮(てうせん)をせむる事(こと) 斯(か)くて高麗(かうらい)百済(ひやくさい)の二国(こく)は已(すで)に附(つき)したがふといへども。新羅(しんら)は常(つね)に漸(やゝ)もすれば野(や) 心(しん)を含(ふく)んで。吾国(わかくに)の命(めい)に叛(そむ)きぬるを皇后(くわうごう)これを怒(いか)らせ給へ。襲津彦(をそつひこ)に詔(みことのり)ま し〳〵重(かさ)ねて新羅(しんら)を責(せ)めさせらるれば。是(これ)も畏(おそ)れて附(つき)したがふ其(それ)より年月(としつき)過(すぎ) されば神功皇后(じんこうくわうごう)も崩御(ほうぎよ)まし〳〵けるゆゑ。王子(わうし)御位(おんくらい)に即(つか)せ給ひ是(これ)を応神天(おうじんてん) 皇(わう)と申 奉(たてまつ)る。此時(このとき)世(よ)には三韓(さんかん)全(まつた)く我国(わがくに)に附属(ふぞく)すれば。其国(そのくに)の政刑(せいけい)をも皆(みな) 日本(につほん)より是(これ)を下知(げち)して。大和(やまと)の国(くに)軽島(かるしま)明(あけ)の宮(みや)の造営(さうえい)の時(とき)は。蝦夷人(ゑぞじん)を召(めし)て 厩坂(むまやざか)の道(みち)を啓(ひら)き。三韓(さんかん)の人(ひと)を召(めし)ては池沼(いけぬま)を掘(ほ)らしめ給ふとかや。この時(とき)に武内(たけうち) 大臣(たいしん)の弟(おとゝ)甘美内(あまみうち)の宿祢(すくね)大臣(たいじん)を讒(ざん)し。武内(たけうち)筑紫(つくし)にして三韓(さんかん)を相語(あひかたら)ひ謀(む) 叛(ほん)せんと巧(たく)めりと云(い)ふにより。天皇(てんわう)怒(いか)つて武(たけ)の内(うち)大臣(だいじん)を誅殺(ちゆうはつ)あるべき討手(うつて)の 兵(へい)をつかはさるゝにより。壱岐(いき)の直(あたい)真根子(まねこ)と云(いふ)もの武(たけ)の内(うち)の命(めい)に替(かは)りて死(しゝ)たり ける。其内(そのうち)に武内(たけうち)の臣(おみ)はひそかに京洛(けいらく)にかへり至(いた)りて科(とが)なき由(よし)を申すに。天皇(てんわう) これを叡聞(えいぶん)あつて武内(たけうち)と甘美内(あまみうち)と神前(しんぜん)にて湯(ゆ)を探(さぐ)らせその真偽(しんぎ)を正(たゞ)さ るゝに。武内(たけうち)の臣(しん)過(とが)なきにきわまれば甘美内(あまみうち)が讒言(さんげん)はあらはれたり。今(いま)の世(よ)に 真偽(しんき)を神(かみ)に正(たゞ)さんとて。湯(ゆ)を探(さぐ)り鉄火(てつくわ)を握(にぎ)れる因縁(いんえん)は。これが始(はじ)めと承(うけ給は)る此(この) 時(とき)また。百済国(ひやくさいこく)より貢献(こうけん)をすゝめざるを討伐(とうばつ)あるべき撃手(うつて)として。紀(き)の角(つの) 宿祢(すくね)に命(めい)じて其怠(そのおこた)りを正(たゞ)さるゝに。其国人(そのくにびと)大(おほい)に畏(おそ)れ其王(そのわう)辰斯(しんき)といへるを殺(ころ) し。さてその罪(つみ)を悔(く)ひかなしむが故(ゆゑ)により。其王(そのわう)の兄(あに)抌流王(しんりうわう)と云(いへ)るが子(こ)。阿花(あくわ)と 云(いふ)を立(たつ)て百済王(ひやくさいわう)となし給ふ。此時(このとき)の事(こと)かとよ王仁(わうじん)と云(い)へる博士(はかせ)論語(ろんご)等(とう)の書(しよ)を持(じ) して來朝(らいてう)し。絹(きぬ)を織(をる)工人(たくみにん)糸綿(いとわた)をつみ縫者(ぬふもの)までこと〳〵く添(そへ)て奉(たてまつ)るなり。応神(おうじん) の御(お) ̄ン嗣(つぎ)仁徳天皇(にんとくてんわう)の御宇(ぎよう)。新羅(しんら)重(かさ)ねて日本(につほん)の命(めい)を違背(いはい)するの情(じやう)あらは るれば。田道(たみち)をして是(これ)を討伐(とうばつ)す。此時(このとき)高麗(こうらい)もすこしく野心(やしん)の意(こゝろ)あるにより。 日本(につほん)の才藝(さいけい)を計(はか)り見(み)んとや思(おも)ひけん。鉄(てつ)にて認(したゝ)めたる楯板(たていた)同(おなしく)的(まと)を奉(たてまつ)る。 天皇(てんわう)これを察(さつ)し給へばすなはち。彼国(かのくに)の使者(ししや)を内裏(たいり)へ召(めさ)れ盾人宿祢(たてひとのすくね)と 云(い)ふ強弓(がうきう)の者(もの)に仰(おふ)せて。鉄(てつ)の的(まと)を射通(いとほ)さしむ。かの使者(ししや)大(おほい)に畏(おそ)れて舌(した)を捲(ま)く 。また此(この)御宇(ぎよう)に百済(ひやくさい)より酒(さけ)の君(きみ)と云人(いふひと)來(きた)りで鵰鷹(しうよう)【左ルビ:たか】の鳥(とり)を取(と)る術(じゆつ)を教(おしへ)たる 鷹狩(たかがり)の始(はじめ)なり。同(おなじ)き二十七 代(だい)継体天皇(けいたいてんわう)の御宇(きよう)。筑紫(つくし)に岩井(いわゐ)と云者(いふもの)あり て謀叛(むほん)を起(おこ)し。肥前(ひぜん)肥後(ひご)豊前(ぶぜん)豊後(ぶんご)を押領(おうりやう)し。三韓(さんかん)の貢物(みつぎもの)を中途(ちうと)に 押(おさ)へて奪(うば)ひ取(と)る。天皇(てんわう)は大臣金村(だいじんかねむら)とこれを議(はか)り。鹿鹿火(ろかひ)と云人(いふひと)を大将(たいしやう)と し岩井(いわゐ)を誅殺(ちゆうさつ)せしめ。近江(おふみ)の毛野(けや)と云(い)ふ者(もの)を三韓(さんかん)へつかはし。政(まつりこと)を行(おこな)はしむ 毛野(けや)三韓(さんかん)に至(いた)りて勅詔(ちよくぜう)を宣(のふ)るときは。高(たか)き所(ところ)に登(のほ)つて是(これ)を宣(の)べわたせば。 三韓(さんかん)の諸臣(しよしん)は庭(には)に在(あつ)て是(これ)を承(うけ給は)る。この御代(みよ)に百済(ひやうさい)より五経(ごきやう)の博士(はかせ)段揚尓(だんやうじ) といへる者(もの)を指遣(さしつかは)せり。同(おなじ)き廿九 代(だい)宣化天皇(せんくわてんわう)の時(とき)に百済国(ひやくさいこく)より使者(ししや)あり て。新羅(しんら)より兵(へい)を起(おこ)し任那(あまな)の国(くに)を攻(せ)め百済(ひやくさい)まで寇(あだ)し來(きた)れり。援(すくひ)の兵(へい)を賜(たま)へ と請(こ)ふ。これに依(よ)りて大伴(おほとも)の挟手彦(さでひこ)を大将軍(たいしやうぐん)となし。大勢(おほぜい)の兵士(へいし)をつかはさる 挟手彦(さでひこ)は大臣(たいじん)金村(かねむら)が子(こ)なりけり。挟手彦(さてひこ)勅命(ちよくめい)に応(おう)じて任那(あまな)を平(たいら)げ。百(ひやく) 済(さい)を救(すく)ひ助(たす)けて軍功(ぐんこう)を立(たて)たりけり。挟手彦(さでひこ)が妾(せう)松浦佐用姫(まつらさよひめ)が夫(おつと)が夫(おつと)の別(わか)れ を悲(かなし)んで高山(かうさん)の巔(いたゞき)にかけ登(のぼ)り。漕行舩(こきゆくふね)の影(かげ)見(み)ゆるに領巾(ひれ)ふる袖(そで)を返(かへ)して まねきしも此時(このとき)の事(こと)と聞(きこ)えける。同(おなじく)欽明天皇(きんめいてんわう)の在位(さいゐ)の時(とき)新羅(しんら)より任(あま) 那(な)百済(ひやくさい)を攻(せむ)るにより。日本(につほん)より是(これ)を救(すく)はしむ其使者(そのししや)の一人。膳(かしはで)の臣(しん)巴提使(はでし)と 云者(いふもの)あり。百済(ひやくさい)へ趣(おもむ)ける路(みち)にして深雪(ふかゆき)に遇(あひ)ぬるが故(ゆゑ)に。海辺(かいへん)に一宿(いつしゆく)したるに召具(めしぐ) したる童子(どうじ)を虎(とら)のために喰殺(くひころ)さる。巴提使(はでし)これを大(おほい)に怒(いか)り虎(とら)のすでに行(ゆき)さり し足(あし)のあとを追(おひ)たづね。山中(さんちう)に入(い)りたりしに遂(つひ)にかの兒(ちご)を喰(くろ)ふ虎(とら)を見出(みいだ)し。かゝ つて是(これ)を搏(うた)んとす。虎(とら)は怒(いか)りの相(そう)をなし口(くち)をひらいて進(すゝ)み來(きた)るを。巴提使(はでし)左(ひだり)の手(て) にてやがて虎(とら)の舌(した)をとり。右(みぎ)の手(て)にて刀(かたな)をとりそのまゝ虎(とら)を引(ひき)とらへ刺殺(さしころ)し。其皮(そのかは)を 剥(はい)たくりて日本国(につほんこく)に帰朝(きてう)せり。かくて百済王(ひやくさいわう)使者(ししや)を献(けん)じて仏経(ぶつきやう)佛具(ぶつぐ)諸道(しよたう)の博(はか) 士(せ)を奉(たてまつ)る。同(おなじく)御宇(ぎよう)二十三年 高麗(かうらい)新羅(しんら)はやゝもすれば日本(につほん)の下知(げぢ)に背(そむい)て。貢献(こうけん) の備(そなひ)ざる故(ゆゑ)。紀男麻呂(きのをまろ)河辺(かはべ)の臣(しん)等(ら)をつかはして討伐(とうばつ)せらる。その軍(ぐん)の大将(たいしやう)擒(とりこ)とな 巴提使(はでし)童僕(どうぼく)を  虎(とら)に喰殺(くひころ)さる  足跡(あしあと)を尋(たづ)ねて その虎(とら)を  打殺(うちころ)す つて我国兵(わがこくへい)をはづかしむるによつて。大伴(おほとも)の挟手彦(さてひこ)を重(かさね)ねてつかはさえるゝに。百(ひやく) 済王(さいわう)は両国(りやうこく)の約(やく)をなさず。日本(につほん)の命令(めいれい)を用(もち)ひけるにより挟手彦(さでひこ)は百済王(ひやくさいわう) とともに謀(はかりごと)を合(あは)せしかは。挟手彦(さでひこ)が軍(いくさ)大(おほい)に勝利(しようり)を得(え)て。高麗王(かうらいわう)の王宮(わうきう)ま で攻入(せめいり)たり。高麗王(かうらいわう)はわずかに免(まぬか)れ出(いで)て逃(のが)れ出(いで)て挟手彦(さでひこ)が兵(へい)ども高麗(かうらい)の宝(ほう) 物(もの)どもを奪(うば)ひ取(とつ)て。これを天皇(てんわう)に献上(けんしやう)し大臣(だいしん)稲目(いなめ)にも贈(おく)りけり。今度(こんど)新(しん) 羅(ら)へつかはさるゝ官軍(くわんぐん)の中(うち)に。伊企儺(いきな)といへる者(もの)過(あやまつ)て新羅(しんら)の軍(いくさ)に擒(とりこ)となる。彼(かの) 軍将(ぐんしやう)伊企儺(いきな)を責(せめ)て降参(かうさん)せよとて。嚇(をど)し罵(のゝし)れど伊企儺(いきな)これを肯(うけ)かはず。新(しん) 羅人(らびと)刀(かたな)を抜(ぬい)てこれが首(くび)を斬(きら)んずと駭(おどろか)し。伊企儺(いきな)が臀(しり)を日本(につほん)の方(かた)に向(む)け させ。日本(につほん)の将(しやう)我尻(わがしり)をくらへと云(い)へ言(いふ)たらば命(いのち)助(たす)くべし。云(いわ)ずんば忽(たちま)ち此刀(このかたな)にて 斬(き)らんと罵(のゝし)る。伊企儺(いきな)この時(とき)大音(たいおん)揚(あ)げ新羅王(しんらわう)我臀(わがしり)をくらへと。呼(よば)はる 敵兵(てきへい)大(おほい)も怒(いか)つて遂(つひ)に伊企儺(いきな)は殺(ころ)されける。その後(ご)新羅王(しんらわう)もまた日本(につほん)に順(したが)ひ ける。同(おなじく)三十四 代(たい)推古天皇(すいこてんわう)の御宇境部(ぎようさかいべ)の臣(しん)に勅(ちよく)あつて。高麗(かうらい)を攻撃(せめうた)しむ る高麗王(かうらいわう)力(ちから)つきて。邦(くに)の内(うちの)城池(じやうち)を献(けん)じて降(かう)を納(いる)る。同(おなじく)三十八 代(だい)斉明天皇(せいめいてんわう) の重祚(ぢうそ)の御謚号(おんおくりな)を皇極天皇(くわうきよくてんわう)と申 奉(たてまつ)りし。此(この)御宇(ぎょう)在位六年(さいゐろくねん)に百済国(ひやくさいこく)の使(し) 者(しや)來(きた)りて言上(ごんじやう)しけるは。去(さ)る六 月(がつ)に新羅(しんら)の兵(へい)大唐(たいとう)の軍(ぐん)をまねいて。百済国(ひやくさいこく) を撃破(うちやぶ)り。君臣(くんしん)みな生捕(いけど)られすでに亡国(ぼうこく)に至(いた)れり。されども百済王(ひやくさいわう)の宗族(そうぞく) 福信(ふくしん)といへる者(もの)。残兵(ざんへい)を借(か)り集(あつ)め一端(いつたん)新羅(しんら)の兵(へい)をば追(お)ひ退(しりぞ)けたり。願(ねがは)く ば貴国(きこく)に人質(ひとしち)としてあるところの。扶余王子(ふよわうじ)豊璋(ほうしよう)《割書:これ百済(ひやくさい)|の王子なり》を返(かへ)し玉(たま)はら ば。再(ふたゝ)び国(くに)を興(おこ)さんと請(こ)ひたりける。天皇(てんわう)これを許容(きよよう)し給ひ豊璋(ほうしやう)を送(おく) り返(かへ)して。百済王(ひやくさいわう)となさんとしまた加勢(かせい)をもつかはさるべき用意(ようい)とし。即(すなは) ち兵船(ひやうせん)を造(つく)り。武器(ぶき)を調(とゝの)へ給ふべき為(ため)として。まづ難波(なには)まで行幸(ぎやうこう)あり。皇太(くわうたい) 子(し)中(なか)の大兄(おほえ)を摂政(せつしやう)とし。諸国(しよこく)の軍(くん)を招集(めしあつ)めらる。備中国(ひつちうのくに)下(しも)の郡(こふり)の一郷(いちがう)よ り人数(にんす)二 万(まん)を出(いだ)しければ。其国(そのくに)を号(がう)して二万(にま)の郷(がう)とは名付(なづけ)たり。明年(みやうねん)の春(はる) すでに御(お) ̄ン船(ふね)を進発(しんばつ)あり。伊予(いよ)に泊(とま)り土佐(とさ)に至(いた)り給ふ時(とき)。其所(そのところ)に社(やしろ)ありその 神木(しんぼく)を切取(きりとつ)て仮(か)りの内裏(たいり)を造(つく)り給ふを。とがめ給ふ神(かみ)の祟(たゝ)りにや新造(しんざう)の 御殿(ごてん)忽(たちま)ちくづれて。死(しゝ)たる者(もの)もまた多(おほ)し。同(おなじ)き年(とし)の七 月(がつ)に天皇(てんわう)も又(また)。朝倉(あさくら) の宮(みや)に崩御(はうぎよ)【ママ】ある。同(おなじく)三十九 代(だい)天智天皇(てんちてんわう)の御宇(ぎょう)即位(そくゐ)の年(とし)。将軍(しやうぐん)阿曇比羅(あつみのひら) 夫(ふ)可邊(かはべ)の百枝(もゝえ)等(ら)を大将(たいしやう)として。百済(ひやくさい)を救(すく)はんため兵粮(ひやうらう)武具(ぶぐ)を贈(おく)り給へ。同く 九月(くがつ)百済王(ひやくさいわう)の王子(わうし)豊璋(ほうしやう)を免(ゆる)しつかはし。秦朴市田來津(はたえいちたくつ)等(ら)に五千(ごせん)の兵(へい)を指(さし) 添(そ)へて送(おく)り遣(つか)はさる。福信(ふくしん)もまた中途(ちうと)まで出(いで)迎(むか)へて豊璋(ほうしやう)を百済(ひやくさい)に奉請(うけしやう)じ。 百済王(ひやくさいわう)と仰(あほい)で日本(につほん)の下知(けぢ)を受(うけ)たりける。    新羅国興廃(しんらこくこうはい)《割書:并》《振り仮名:朝鮮号_二雞林と_一|てうせんけいりんとうかうす》事(こと) 爰(こゝ)に新羅国(しんらこく)の中興(ちうこう)の始祖(しそ)。朴赫居世(はくかくきよせい)と云者(いふもの)は漢(かん)の宣帝(せんてい)。五鳳(ごほう)元年(くわんねん)日本(につほん) の崇神天皇(ようじんてんわう)の四十一年に当(あた)つて。一方国(いつはうこく)を建(たつ)る事(こと)あり。その先祖(せんそ)何(いづ)れの国(くに)何(い) 何(か)なる氏(うぢ)の人(ひと)なるをもしらず。不思議(ふしぎ)の出世(しゆつせう)たる者(もの)なり。朝鮮(てうせん)すでに漢(かん)の 武帝(ぶてい)のために亡(ほろぼ)され。その国(くに)を四郡(しぐん)となすより朝鮮(てうせん)旧国(きうこく)の遺民(ゐみん)ども。こと〳〵 く分離(ふんり)して東海(とうかい)のほとりなる。山谷(さんこく)の間(あひだ)に居所(きよしよ)をかまへて聚(あつま)り居(ゐ)る。遂(つひ)に村(そん) 里(り)をなしその数(かず)六 所(しよ)に分(わか)ちたり。一にはこれを閼川(あうせん)の楊山里(やうさんり)と云(いふ)。二ツには突山(とつさん)の 高墟村(かうきよそん)。三には嘴山(しざん)の珎支村(ちんしそん)。四には茂山(ぼさん)の大樹村(たいしゆそん)。五には金山(きんさん)の加里(かり)。六には明活(めいくわつ) 高村(かうそん)とぞ称(しよう)じける。これを辰韓(しんかん)の六 部(ぶ)とせり有(あ)るときの事(こと)なるに。高墟村(かうきよそん) の里(さと)の長(おさ)蘇伐公(そばつこう)と云(いへ)る者(もの)。遥(はる)る【衍ヵ】か楊山(やうざん)の麓(ふもと)を見(み)れば蘿井林(らゐりん)と云(いへ)る処(ところ)の方(はう) 角(かく)に。馬(うま)の嘶(いなゝ)ぐ声(こゑ)のするを怪(あや)【恠は俗字】しくも聞(きこ)ふるかな。こゝにおいてその声(こゑ)をしるへに尋(たづ)ね 行(ゆき)て見(み)てあれば。馬(うま)の形(かたち)はあらずして大(おほい)なる卵(たまご)を一つ拾(ひろ)ひたり。常(つね)に替(かは)れる卵(たまこ)に て何鳥(なにとり)の種(たね)とも見(み)えず。乃(すなは)ちこれを打(うち)わりて見(み)てあれば其中(そのうち)よりうつくしき嬰(あ) 男兒(かご)ぞ出(いで)たりける。蘇伐公(そばつこう)は是(これ)を愛(あい)して抱(いだ)きとりて家(いへ)にかへり。養育(やういく)をなし たりければ。此兒(このこ)程(ほど)なく成長(せいちやう)し総角姿(あげまきすがた)となりにけり。六部(ろくふ)の者(もの)とも是(これ)に驚(おどろ)き 如何(いか)さまにも。その行末(ゆくすへ)を思量(しりやう)するに惟者(たゞもの)ならず。是(これ)を国(くに)の君(きみ)にとりたて尊(そん) 敬(けう)せば。所(ところ)の繁栄(はんえい)疑(うたか)ひあるべからずと。六部(ろくぶ)の村長(むらおさ)評定(ひやうちやう)して。つひに是兒(このこ)を守(も) り立(たて)て韓国(かんこく)の主人(しゆじん)とせり。その歳(とし)いまた十三の幼年(ようねん)の時(とき)と聞(きこ)へける。乃(すなは)ち尊号(そんがう) を進(すゝ)めて。居西于(きよせいう)と云(い)ふ是(これ)辰韓(しんかん)の風俗(ふうぞく)に王(わう)と唱(とな)ふる辞(ことば)なり。その国(くに)を徐(ぢよ) 羅伐(らばつ)と名付(なつけ)其姓(そのせい)を朴(ぼく)と云(い)ふ。是(これ)は卵(かいこ)を剖(▢▢)て破(はり)し其形(そのかたち)の朴(ほく)に《割書:朝鮮瓠(てうせんひさこ)を|呼(よ)んて朴(ほく)と云》似(に) たるをもつてなり。其(その)妃(ひ)をは閼英(あつえい)と云(い)ふ此女(このおんな)もまた變生(へんせう)にして。閼英井(あつえいゐ)の龍(りやう)の 子(こ)なるを以(もつ)て如何(いか)に名付(なづけ)たり。其生質美色(そのうまれつきびしよく)あるを以(もつ)て立(たつ)て妃(ひ)となしたる なり。寔(まこと)に此女(このおんな)賢徳(けんとく)の行(おこなひ)ありて内(うち)を治(おさ)むる道(みち)正(たゝ)しく。宮中(きうちう)の婢(ひ)に至(いた)るまで 恩愛(おんあい)の深(ふか)きになづいてければ。内外(ないくわい)これを悦(よろこ)んで二聖(じせい)の御代(みよ)と仰(あふ)きける。斯(かく) て国(くに)を享(う)くること六十年に及(およ)びける。其子(そのこ)南解(なんかい)に国(くに)を譲(ゆづ)り。是(これ)を二 代(たい)の朴(ほ) 南解(なんかい)と云(い)ふ此時(このとき)にあたつて。南解(なんかい)が在位(ざいゐ)五 年(ねん)の春(はる)。昔脱解(せきたつかい)と云(い)ふ者(もの)を南(なん) 解(かい)が婿(むこ)にとる。此者(このもの)旧(もと)は木多那国(もくたなこく)と云(い)ふ処(ところ)の者(もの)なり。其国(そのくに)は日本(につほん)より東北(とうほく) の方(かた)一千 里(り)に当(あた)れるなり。その国(くに)の王(わう)の女妻(ちよさい)一ツの卵(たまこ)を生産(せうさん)せしを。国王(こくわう)これを 不祥(ふせう)として速(すみやか)に棄(すて)さしむ。其妻(そのつま)我(わか)産(うめ)る恩愛(おんあい)の引(ひ)くところより。卵子(たまこ)を捨(すつ) 【右丁 絵画のみ】 【左丁】 高麗王(かうらいわう)  金蛙(きんあ) 大白山(たいはくさん)に  遊(あそ)んで  一奇女(いつきぢよ)を    得(う)る るに忍(しの)びざれども夫(おつと)の命(めい)のそむきがたきに。帛(はく)を以(もつ)て卵(たまこ)をつゝみ宝物(ほうもつ)を多(おほ)く中(うち)に 満(いれ)て。是(これ)を櫝(ひつ)に入(いれ)封(ふう)じ海(うみ)に浮(うか)めて流(なが)し去(さ)り。八重(やえ)の塩路(しほぢ)の雲霞(くもかすみ)行衛(ゆくゑ)もしらず 放(はな)ちさる。偖(さて)もこの櫝(ひつ)朝(あした)の風(かせ)夕(ゆふ)への浪(なみ)に漂泊(たゝよふ)て行程(ゆくほと)に。遂(つひ)による瀬(せ)の定(さだま)るにや 金官国(きんくわんこく)の磯辺(いそべ)によるを。海浜(かいひん)の漁人(ぎよじん)とも是(これ)を取(とり)あけ卵(たまご)を見(み)て。これは何(いか)なる 水怪(すゐくはい)【恠は俗字】ぞや。此程(このほと)しきりに風波(かせなみ)悪(あら)ふして漁(すな)どりの無(なか)りしは是(これ)が故(ゆゑ)にてありけるかと 早(はや)く捨(すて)よとて。元(もと)の如(こと)くに封(ふう)をなしおそれて沖(おき)へ衝(つ)き出(いた)す。其(それ)よりこの櫝(ひつ)再(ふたゝ)び転(めく) りたゞよひて。辰韓(しんかん)の阿珎浦口(あちんほこう)といふ所(ところ)の蜑女(あま)の老嫗(らうば)。是(これ)を見付(みつけ)て櫝(ひつ)を開(ひら)きたり けるに。其中(そのなか)に美(び)なる男兒(なんし)の微笑(びしやう)して有(あり)けるを。老嫗(らうば)はよろこんて遂(つひ)にこれを やしなひたつるに。程(ほと)なく成人(せいじん)するにしたかへ身(み)の長(たけ)九尺(くしやく)にあまり。其骨(そのこつ)清(きよ)く秀(ひい) てゝ凡人(ぼんにん)とは更(さら)に見(み)へざりける。其知識(そのちしき)大(おほい)にすぐれたり。曽(もと)よりこの兒(ちこ)の姓名(せいめい) のしれざれば嫗(うば)が始(はじめ)て櫝(ひつ)をとり上(あぐ)る時(とき)。この兒(ちご)ことともに鳴鵲(なくからす)あり則(すなは)ちこれ によりて鵲(からす)の字(じ)の声(こゑ)と。形(かたち)と借省(かりはぶき)て昔氏(せきし)と名乗(なのら)らせたり。また其櫝(そのひつ)を解(とく) の義(ぎ)をとり。その名(な)を脱解(だつかい)と呼(よ)んたりける。生計(すきのひ)のなき儘(まゝ)に漁釣(ぎよてう)の業(わざ)を在(し) ならつて。老嫗(らうば)をやしなひしが常(つね)に怠(おこた)る色(いろ)もなく嫗(うば)はある時(とき)この兒(こ)に向(むか)ひ。你(なんが) が骨相(こつさう)を見(み)るに。凡人(ぼんにん)に殊(すぐ)れて類(たぐ)ひまれなる者(もの)と知(し)る。克(よく)く学文(がくもん)をつとめ て功名(かうみやう)を立(たつ)るならば大(おほい)に立身(りつしん)すべきなりかまへて其身(そのみ)を疎(おろそ)かに持(もつ)べからずと。教(きやう) 訓(くん)すれば脱解(だつかい)遂(つひ)に学文(かくもん)を専(もつは)らに勤(つと)めたる中(かな)にも。地理(ちり)の吉凶(きつきやう)に通(つう)じたり 爰(こゝ)に楊山(やうざん)の瓠公(こゝう)とのへるが宅地(たくち)を見(み)るに。其吉祥(そのきちじやう)の地(ち)なるをかんがへ此地(このち)を借(か)り て居住(きよぢゆう)せり。瓠公(こゝう)はもと日本人(につほんしん)と聞(きこ)へたり。其後(そのゝち)に南解王(なんかいわう)は脱解(だつかい)ばが賢徳(けんとく)あ るを聞(きく)より。その愛寵女(むすめ)を以(もつ)て脱解(たつかい)を婿(むこ)にとり。南解(なんかい)が死(し)せるとき遺(ゆゐ) 言(ごん)して向後(いまより)は此国(このくに)を継(つが)ん者(もの)。朴昔(ぼくせき)の二姓(にせい)の内(うち)何(いづ)れにても年歯(としは)の長(ちやう)じたらん 者(もの)を登(のほ)せて。主人(しゆじん)となすべしと定(さだ)めたり。それよりは朴昔(ぼくせき)の二姓(にせい)互(たがひ)に国(くに)を受継(うけつぎ) たり。第(たい)三 代(たい)脱解(だつかい)が世(よ)を知(し)る時(とき)。一夜(いちや)金城(きんじやう)の西(にし)始林(しりん)の間(あひだ)に当(あた)り鶏(にはとり)の鳴(なく)声(こゑ)あり けるを怪(あや)【恠は俗字】しみて。瓠公(ここう)に命(めい)じて見(み)せしむれば。小(ちい)さき黄金色(わうごんしき)の櫝林(ひつはやし)の梢(こずへ)にか かり。其下(そのした)に白(しろ)き雞(にはとり)の鳴(なき)けるあり。瓠公(ここう)は急(いそ)き馳(は)せ回(かへ)りて脱解(だつかい)に告(つく)れば則(すなは)ち 人(ひと)をつかはし。この櫝(ひつ)をひらき見(み)其中(そのなか)に奇麗(きれい)なる小男兒(せうなんし)ありければ。脱解(だつかい) 大(おほい)によろこび。天(てん)より授(さづ)くる嗣(よつぎ)の子(こ)なりとて其(その)金櫝(かねびつ)より出(いで)たる円(えん)?をかたどり。乃(すなは) ちこの兒(こ)の姓(せい)を起(たつ)て金氏(きんし)とし。自己(じこ)の養子(やうし)としまた雞(にはとり)の吉祥(きちじやう)あれば。始林(しりん)を 改(あらた)め雞林(けいりん)となし是(これ)よりして朝鮮(てうせん)の一名(いちみやう)には唱(とな)ひける斯(かく)て新羅(しんら)の国主(こくしゆ)是(これ)よりまた 三姓(さんせい)互(たがひ)に受継(うけつい)で朴昔金氏(ぼくせききんし)の家(いへ)を起(た)つされども朴昔(ぼくせき)の二 姓(せい)は中昔(なかころ)に退転(たいてん)し 第十六代 奈勿(なほつ)が時(とき)よりして。全(まつた)く金氏(きんし)の国(くに)となる其後(そのゝち)廿二代の主(しゆ)。金智證(きんちしやう) が世(よ)たる時(とき)新羅(しんら)群臣(ぐんしん)奏(さう)していはく。始祖(しそ)国業(こくけう)を始(はじ)め給へしより以來(このかた)国号(こくがう) 一に定(さだ)まらず。或(あるひ)は斯羅(しんら)或は斯盧(しんろ)或(あるひ)は新羅(しんら)と申すか。その中を臣(しん)等(ら)以(もつ)て 勘(かんがふ)ればその新(しん)と唱(とな)ふるは徳(とく)。これ新(あらた)なるの義(ぎ)ありまた羅(ら)と云者(いふもの)は。これ狩(しゆ) 猟(れう)の器(き)にして鳥獣(てよしう)を網羅(まうら)してとるべきのものたれば。其如く四方の国の聚民(しゆみん) を日々に新(あらた)なる徳をもつて。我国(わかくに)に網羅(まうら)して聚(あつ)むるの意(こゝろ)にかなへは。是(これ)より 長く国号(こくがう)をなすべしと。評議(ひやうき)一に定(さた)まりこれよりして。新羅国王(しんらこくわう)と称(しよう)じける。    高勾麗(こうこうらい)始興(はしめおこり)の事(こと) 漢(かん)の昭帝(せうてい)建昭(けんせう)二 年(ねん)に当(あた)つて。高勾麗(こうこうらい)の高朱蒙(かうしゆもう)と云(いへ)る者(もの)始(はじめ)て立(たつ)て。国(くに)を なす其(その)根元(こんけん)は如何(いか)なる者(もの)ぞと考(かんが)ふるに。こゝよりさき扶余王(ふよわう)解夫婁(かいふろう)と 云(いへ)る者(もの)年齢(ねんれい)すでに。老(おい)に至(いた)れど子(こ)の無(な)き事(こと)を悲(かな[し])んで。山川(さんせん)の神(かみ)に祭(まつ)りて嗣(よつき)の 子(こ)を求(もと)むるに。ある時(とき)扶余王(ふよわう)鯤淵(こんえん)と云ふ所(ところ)を過(すく)るとて。その淵(ふち)の傍(かたはら)にて乗(のつ)た る馬(うま)の足(あ)を止(とゞ)めて策(むち)うてども動(うこ)かさるに心(こゝろ)づき。あたりを見れば珍(めづ)【珎は俗字】らしき大石(たいせき)あ り。彼馬(かのうま)しきりに此石(このいし)に向(むか)ひ対(たい)して涙(なみだ)をながす。扶余王(ふよわう)いよ〳〵怪(あやし)【恠は俗字】んでその石を 転(ころば)しのけ見てあれば。金色(こんしき)の蛙形(かへるのかたち)なる小兒(せうに)一人 出(いで)たり。王よろこんで抱(いた)き取 これぞ寔(まこと)に天(てん)の授(さづ)くる端相(すゐさう)たりとて。乃(すなは)【「ち」は誤】ち己(おのれ)が子となし養育(やういく)するほどに。 日を経(へ)て成長(せいちやう)したりければ。立てこれを太子(たいし)とす。その家(いへ)の長臣(ちやうしん)阿蘭弗(あらんほつ)と 云(いへ)る者(もの)扶余王(ふよわう)に告(つぐ)るやう。昨夜(さくや)不思義(ふしき)の夢(ゆめ)を見たり天 帝(てい)我(われ)にのたまふやう 正(まさ)に我子孫(わがしそん)をして爰(こゝ)に国を立(たて)しむ。你(なんぢ)は早(はや)く東海(とうかい)のほとりへ行(ゆき)。宜(よろし)き地を見立(みたて) べし加葉原(かえうけん)と云地(いふち)あり。其所(そのところ)土壌(とじやう)ゆたかに地(ち)厚(あつ)し土穀(ごこく)によろしき所なれば。早(はや) く都(みやこ)をうつせとの御 ̄ン誥げたしかなりと云(いふ)。こゝによりて扶余王(ふよわう)もその教(おしへ)にしたが つて。つひに彼所(かしこ)に都(みやこ)を遷(うつ)したれは扶余(ふよ)の旧都(きうと)には。何(なに)ともなく人(ひと)あつて出来(いてきた) り自(みつか)ら天帝(てんてい)の子(こ)と名乗(なの)り。其名(そのな)を解慕漱(かいほそう)と云(い)へりしが。此所(このところ)をしたかへて自(し) 然(ぜん)に爰(こゝ)の君(きみ)となる。東扶餘(とうふよ)の解夫婁(かいふろ)薨(かう)ずるに及(およ)んで。金蛙(きんあ)これが嗣(つぎ)とな る金蛙(きんあ)ある時(とき)出(いで)て遊(あそ)ぶに。大白山(たいはくさん)の南(なん)優渤水(ゆうぼつすい)と云所(いふところ)にて一人の女子(によし)を得(え)る。 金蛙(きんあ)は女(おんな)に対(たい)して。你(なんぢ)はこれ如何(いか)なる者(もの)の女(め)なるぞと問(とひ)ければ。女(おんな)こたへて我(われ)はもと 河伯(かはく)の女(むすめ)其名(そのな)を柳花(りうくわ)【桺は柳の本字】と云(い)へり。或時(あるとき)諸弟(しよてい)と出(いで)遊(あそ)ふに解慕漱(かいほそう)と云(い[へ])る者(もの)の。我(われ) を誘(あさむ)き熊心山下(ゆうしんさんか)鴨緑室(あふりよくしつ)の中(うち)に入(いり)て。我(われ)とともに私(わたくし)す彼者(かのもの)其後(そのゝち)再(ふたゝ)び來(きた)らず。 何(いづ)くとも行方(ゆきがた)なし。父母(ふぼ)我媒(わかなかたち)なふして人(ひと)にしたがふ罪(つみ)を悪(にく)んで。遂(つひ)に爰(こゝ)には なかされたりと語(かた)るを。金蛙(きんあ)是(これ)を異(こと)なることゝ思(おも)ひければ。彼(かれ)をとらへて家(いへ)に 朱蒙扶余国(しゆもうふよこく) をのがれて淹(えん) 流水(りうすい)にいたる 追手(おつて)の急(きふ)なる を見(み)て天(てん)に 向(むか)つて裞言(のつと)す れば魚鼈(ぎよべつ)出(いで) て河(かは)をわたす 回(かへ)り一室(いつしつ)の中(うち)に住(すま)しめて外(ほか)に出(いだ)さず。その成行(なりゆき)をうかゞひたり。ある時(とき)この女(おんな)朝日(あさひ)の 影(かげ)に照(てら)されて。是(これ)より思(おも)はず妊娠(にんしん)し鉄卵(てつらん)の如(ごと)きものを生産(せうさん)す。その中(なか)より奇(き) なる男子(なんし)を出(いだ)したり。骨相(こつさう)もとより凡人(ぼんにん)のやうにもなし。すでに七 歳(さい)におよぶ時(とき)は 自(みつか)ら木(き)を曲(まげ)て弓(ゆみ)となし竹(たけ)を隠(ため)あては矢(や)を造(つく)り。是(これ)をとつて物(もの)を射(い)るに中(あた)らずと 云(い)ふことなし。扶余国(ふよこく)の俗(ぞく)の言(ことば)によく弓(ゆみ)射(い)るを朱蒙(しゆまう)と呼(よ)ふ。今(いま)此男子(このなんし)よく 弓(ゆみ)射(い)るをほめ称(しよう)し。遂(つひ)にこれが名(な)を呼(よ)んで朱蒙(しゆもう)と名(な)づく。金蛙(きんあ)が子(こ)ども 七人ありその技芸(きげい)をくらふるに一人として朱蒙(しゆもう)に及(およ)へる者(もの)はなし。金蛙(きんあ)が嫡子(ちやくし) 帯素(たいそ)をはしめ相謀(あいはか)りてこれをひそかに殺(ころ)さんとす。朱蒙(しゆもう)が母(はゝ)これを知(し)りぬれ ば密(ひそか)に朱蒙(しゆもう)に向(むか)ひ。国人(くにびと)汝(なんぢ)を害(がい)せんとす早(はや)く爰(こゝ)を去(さ)るべしと教(おし)へければ。朱蒙(しゆもう) は母(はゝ)の意(こゝろ)にまかせて。烏伊(うい)。摩離(まり)。陜父(せんふ)と云(いへ)る。三人の者(もの)どもを伴(ともな)ひ東扶余(とうふよ)の ちをのがれ出(いで)淹淲水(えんこすい)と云(い)へる河岸(かし)に至(いた)れどもわたりをなしべきやうもなしその ときにのつと【祝詞】し。我(われ)は是(これ)天帝(てんてい)の子(こ)にして河泊(かはく)の外甥(くわいせい)たり今日(こんにち)なんをのがれて爰(こゝ) に來(きた)るを伺たより救はさるぞと罵(のゝし)れば忽ち河流(かりう)浪切(なみきら)し多の魚鼈(きよべつ)あつま りてはしをなし。四人の者(もの)を渡(わた)しけりうしろより追手(おつて)の至ると云どもずでに朱蒙(しゆもう) を渡(わた)るを見ておの〳〵あとへかゑり。その後 朱蒙(しゆもう)は卒本扶余(そつほんふよ)沸流水(ふつりうすい)のへん まてを手(て)に入つひに爰(こゝ)に国(くに)を立て居城を定(さだ)め。高勾麗(かうこうり)と国(くに)を号(ごう)し自己(じこ)の 姓(せい)を高氏(かうし)と称(しよう)ず是(これ)よりして近郡(きんぐん)を斬(き)りしたかへ大威猛(たいいまう)をふるひしが。位(くらい)に つくこと十九 年(ねん)にして薨(こう)ずれば龍山(りうせん)といふところに葬(ほうふ)り是(これ)を東明聖王(とうめいせいわう)と云。 第(たい)二 代(だい)を琉離王(るりわう)と号(がう)しける    百済(ひやくさい)始祖(しそ)興(おこり)の事(こと) 百 済(さい)の始祖(しそ)高温祚(かううんそ)が立てること。漢成帝(かんせいてい)𩿇(こう)喜三年に当(あた)り。新羅(しんら)の始祖(しそ) が四十年。高勾麗(かうこうり)の琉璃王(るりわう)が二年なり高勾麗の高朱蒙(かうしゆもう)が扶余(ふよ)の難(なん)を のがれ去り。卒本扶余(そつほんふよ)に至(いた)れるとき。卒本王男子(そつほんわうなんし)なふして女子(によし)のみ三人ありけ るが。朱蒙(しゆもう)が平(へい)人にあらざることを察(さつ)する故 第(たい)二の女を妻(め)となし朱蒙(しゆもう) を立て嗣(つぎ)となす。其妻(そのつま)二人の子(こ)を生(う)めり長子(ちやうし)を沸流(ふつりう)と名(な)付。次子(じし)を温祚(うんそ) と云 朱蒙(しゆもう)か嫡子(ちやくし)類利(るいり)といへるが。すで高勾麗(かうこうり)の王(わう)となる時(とき)卒本(そつほん)にて生れし 二人の子。類利(るいり)がために殺(ころ)されん事(こと)を悪(にく)んで。烏干(うかん)馬黎(ばれい)の氏ある者(もの)以上十人 の臣(しん)を召(めし)つれ。南に逃(のが)れ去(さ)つて二人ともに国(くに)をひらきしかと。沸流(ふつりう)が国(くに)は衰(おとろ)へ温祚(うんそ) が方(かた)は大に栄ふ乃ち慰禮(うつれい)と云(い)ふ所に城(しろ)をなす。その後(のち)に国号(こくがう)を百 済(さい)と号(かう)し たり。彼(かの)十人の臣下(しんか)ども何(いづ)れも補国(ほこく)の臣(しん)となり。是(これ)を称(しよう)ずとかや百済と高勾(こうかう) 麗(り)はその系図(けいづ)一(いつ)に出(いで)たるなり。其(その)後孫(こうそん)三十 代(たい)義慈王(きしわう)が時(とき)に至(いたつ)て。唐(とう)のために 亡(ほろぼ)さるゝとき。唐(とう)は百済(ひやくさい)の故地(こち)を分(わか)つて。熊津(ゆうしん)。馬韓(ばかん)。東明(とうめい)。金漣(きんれん)。徳安(とくあん)。五所(ごしよ)の 都督(とゝく)を置(おい)て。各(おの〳〵)其下(そのしも)の州県(しうけん)を統(すべ)しめ其中(そのなか)の棟梁(とうりやう)を撰(えら)んで。是(これ)を軍令(くんれい)の本(もと) となしける。     《振り仮名:唐新羅二兵亡_二百済を_一|とうしんらにへいひやくさいをうつ》事(こと) 爰(こゝ)に新羅(しんら)の太宗王(たいそうわう)。六 年(ねん)百済(ひやくさい)の義慈王(ぎしわう)十九 年(ねん)に当(あた)つて。百済国(ひやくさいこく)の王城(わうじやう)には さま〳〵の物化(ものゝけ)あやしき事(こと)を示(しめ)すは。此国(このくに)の亡(ほろ)ぶべき前兆(せんてう)とは後(のち)にぞ思(おも)ひ合(あは)せけ る。これよりさき年々(ねん〳〵)に新羅(しんら)百済(ひやくさい)両国(りやうこく)の争(あらそ)ひあれどもやゝもすれば新羅(しんら)の軍(ぐん) よはくして百済(ひやくさい)の勝(かち)となれば。新羅(しんら)これを憂(うれ)ひくるしみ。諸臣(しよしん)と議(ぎ)して唐朝(とうてう) に使(つかひ)をつかはし。援兵(えんへい)を請(こ)ひたりけり。此時(このとき)唐(とう)の高宗(かうそう)顕慶(けんけい)四 年(ねん)の事(こと)なりける。 その年(とし)も暮(くれ)明(あく)る三月。唐(とう)の左武衛(さゝふゑ)大将軍(たいしやうぐん)蘇定方(そていはう)等(とう)に命(めい)あつて。百済国(ひやくさいこく)を 伐(うた)しめらる。先(さき)だつて新羅(しんら)より来(きた)りて唐(とう)に宿衛(しゆくゑい)たる。金仁問(きんじんぶん)を道路(たうろ)険(けん) 易(い)の案内(あんない)たらしむ。其(その)土地(とち)の要害(やうがい)を答(こた)ふること絵図(ゑづ)に向(むか)ふが如(こと)くなる故(ゆゑ)。 高宗帝(かうそうてい)大(おほい)に悦(よろこ)び遂(つひ)に三軍(さんぐん)を調(とゝの)へて。その備(そなへ)を定(さだ)めらる定方(ていはう)を神丘道行(しんきうだうかう) 軍(ぐん)大総官(たいそうくわん)となし。仁問(じんもん)を副大総官(ふくたいそうくわん)となし。左驍衛(さげやうえい)将軍(しやうぐん)刈伯英(かうはくえい)龐孝公(はうかうこう) 右武衛(いうぶゑい)将軍(しやうぐん)馮士貴(ひやうしき)等(とう)をして。水陸(すいりく)十三 萬(まん)の人数(にんす)にて百済(ひやくさい)を伐(うた)しめたり。また 新羅王(しんらわう)に勅(ちよく)ありこれが援兵(えんへい)たるべき旨(むね)を蒙(かうふ)り。同(おなじ)く夏(なつ)六月には新羅王(しんらわう)自(みづか)ら 兵(へい)に将(しやう)として唐軍(とうぐん)を助(たすけ)たらんとす。乃(すなは)ち南川停(なんせんてい)と云(いふ)処(ところ)に軍(ぐん)を次(じ)して。唐兵(とうへい) の相図(あいづ)をこゝに待居(まちゐ)たり。既(すで)に蘇定方(そていはう)等(とう)兵(へい)を引(ひい)て菜州(さいしう)と云(い)ふ処(ところ)より。海(うみ)を 渡(わた)つて出來(いできた)る舳艫(ぢくろ)千 里(り)の浪(なみ)を断(た)ち。旌旗(せいき)万天(ばんてん)の雲(くも)を起(おこ)して。既(すで)に徳物島(とくぶうとう)と 云(い)ふ所(ところ)に軍(いくさ)だてすと聞(きこ)えければ。新羅王(しんらわう)は大(おほい)によろこび其太子(そのたいし)法敏(はふひん)大将軍(たいしやうぐん)金庾(きんゆ) 信(しん)将軍(しやうぐん)真珠(しんしゆ)天存(てんそん)等(ら)を。迎(むか)ひのための使者(ししや)とし兵船(へいせん)一百 艘(さう)の楫櫓(しうろ)【櫨は誤】を早(はや)め て定方(ていはう)が軍(くん)に会(くわい)しけり定方(ていはう)ときに法敏(はふひん)に対(たい)して云(いふ)。我軍(わがぐん)は海(うみ)より伐(うつ)べし太子(たいし)は 陸(くが)より攻(せめ)よ。期(ご)するに來(きた)る七月十日を以(もつ)て直(たゞち)に義慈王(ぎしわう)が都城(とじやう)を擣(つか)んとす。互(たがひ)に 礼(れい)をはり約(やく)を定(さだ)めて進(すゝ)み撃(うつ)ほどに。百済(ひやくさい)の軍兵(ぐんへい)出(いで)迎(むか)ひ戦(たゝか)ふといへども其軍(そのぐん)遂(つひ) に利(り)をうしなひ。白江(はくこう)炭峴(たんけん)などいふ百済(ひやくさい)一 国(こく)の要害(ようがい)第一(だいゝち)の所(ところ)もうち破(やぶ)られて。城(しやう) 内(ない)の上下(じやうけ)大(おほい)に騒動(さうとう)に及(およ)ぶ。階伯将軍(かいはくしやうぐん)なんど云(い)ふ者(もの)どもゝ大(おほい)に戦(たゝかひ)て討死(うちしに)す。これによつ て唐軍(とうぐん)新羅(しんら)の兵(へい)どもに大(おほい)に百済(ひやくさい)界内(けやうない)に乱(みだ)れ入(いり)て。義慈王(ぎしわう)其子(そのこ)孝泰(かうたい)等(とう)を始(はじ) めとし。其外(そのほか)の大臣(だいじん)将士(しやうし)八十八人百 姓(せう)万二 千 余人(よにん)引連(ひきつれ)還(かへ)りけり。    日本勢(につほんぜい)百済(ひやくさい)を救(すく)ふ事(こと) 斯(かく)て我国(わがくに)に宿直(とのゐ)たる。百済国(ひやくさいこく)の王子(わうし)豊璋(ほうしやう)を。その臣(しん)福信(ふくしん)が百済(ひやくさい)の亡国(ぼうこく) を相続(さうぞく)せんと願(ねが)ふにより。望(のぞ)みにまかせてかへされける是(これ)日本(につほん)の天智天皇(てんぢてんわう)即(そく) 位(ゐ)の歳(とし)の明年(あくるとし)なり。また天皇(てんわう)より福信(ふくしん)が軍(いくさ)の助(たすけ)に賜(たま)ふところは。征矢(そや)十万(じふまん)糸(いと) 五百 斤(きん)。布(ぬの)千端(せんだん)葦皮(あしかは)千張(せんちやう)稲種(いねたね)三千 石(ごく)とぞ聞(きこ)えける。今年(ことし)大唐(たいたう)并(ならびに)新(しん) 羅(ら)より高麗(かうらい)をも攻撃(せめうつ)により。高麗(こうらい)よりも日本(につほん)へ加勢(かせい)を請(こ)ふにつき。高麗(かうらい) へも又(また)加勢(かせい)を数多(あまた)つかはさるゝに。大唐(たいとう)の大将(たいしやう)任邪相(にんがそう)は陳中(ぢんちう)に病死(ひやうし)をなし。同(おな) しく総【惣】官(さうくわん)龐孝泰(わうかうたい)は。嶺南(れいなん)の水戦(すゐせん)の士(し)を率(ひき)ひて蛇水(じやすい)といふ所(ところ)の上(うへ)に戦立(いくさだて)をなす 高勾麗(かうこうらい)の権臣(けんしん)蘇文(そふん)といふ者(もの)。大将(たいしやう)となつて唐(たう)の兵(へい)をむかひ撃(うつ)。龐孝泰(わうかうたい) が軍兵(ぐんへい)大(おほい)に戦(たゝか)ひやぶれて。蘇文(そぶん)が軍(ぐん)に逼(せはめ)られその子弟(してい)十三人とともに潔(いさぎ)よく。 戦(たゝか)つて討死(うちじに)をしたりける。唐(たう)大将(たいしやう)蘇定方(そていはう)は既(すで)に高麗(かうらい)の兵壌(へくしやう)まで囲(かこ)むと いへども龐孝泰(わうかうたい)が討死(うちじに)して高麗(かうらい)の兵勢(へいせい)さかんなるより。一軍(いちぐん)の敵(てき)せざることを 悟(さと)り兵(へい)を収(おさ)めて引回(ひきかへ)すこゝに百済(ひやくさい)を救(すく)ふの日本勢(につほんせい)兵士(へいし)兵粮(ひやうらう)をとゝのへ。数万(すまん) の軍(ぐん)にて新羅(しんら)をうつよし聞(きこ)えければ。福信(ふくしん)は大(おほい)によろこび浮屠(ふと)道探(だうたん)と ともに兵(へい)を起(おこ)し。周留城(しうりうじやう)を撃(うつ)て出(いて)豊璋(ほうしやう)を日本(につほん)の船(ふね)よりむかひ来(きたつ)て。百(ひやく) 済王(さいわう)と仰(あを)ぎける。是(これ)に仍(よつ)て百済国(ひやくさいこく)の打(うち)もらされ西北部(せいほくぶ)よりみな〳〵兵(へい)を起(おこ)し来(さた)つて。日本(につほん) 勢(せい)に相応(さうおう)ししば〳〵戦(たゝか)ひをましへけるが。遂(つひ)に新羅(しんら)の兵(へい)を退(しりぞ)け勝軍(かちいくさ)し たりける。其後(そのゝち)福信(ふくしん)は道探(だうたん)を殺(ころ)し。その人数(にんす)をあはせてこれを保(たも)つといへ とも扶余(ふよ)豊璋(ほうしやう)かちから制(せい)するに及(およ)ばすつひに其中(そのなか)悪(あし)くなり扶余王(ふよわう)権抦(けんへい)を相争(あひあらそ)ひ福(ふく) 信(しん)密(ひそか)に豊璋(ほうしやう)を殺(ころ)さんことを巧(たく)めるに。ある人(ひと)これを豊璋(ほうしよう)に告(つ)げしらする に。豊璋(ほうしよう)は自(みづか)ら新任(しんにん)する臣下(しんか)どもを召(め)し具(ぐ)し。福信(ふくしん)がおもひもよらざ るところへ押寄(おしよせ)彼(かれ)を生捕(いけとり)て斬(きつ)たりける此時(このとき)に日本(につほん)より指越(さしこ)す軍兵(ぐんひやう)も 百済(ひやくさい)に着岸(ちやくがん)の折(をり)から。新羅国(しんらこく)の兵(へい)と唐(から)の熊津惣管(ゆうじんそうくわん)孫仁師(そんしんし)等(ら)百済(ひやくさい)の 周留城(しうりうしやう)に奇来(よせきた)りて。扶余(ふよ)豊璋(ほうしよう)を攻(せ)むる時(とき)なりける。此時(このとき)新羅王(しんらわう)等(ら)も 舟師(せんし)をひきひて。熊津江(ゆうしんこう)より同(おな)じく周留城(しうりうじやう)におし奇(よす)る中途(ちうと)にして日本(につほん) の兵船(へいせん)に出合(いであひ)たれば。両陳(りやうぢん)則(すなは)ち舟軍(せんぐん)をとゝのへ白江口(はくこうかう)といふ所(ところ)にして戦(たゝか)ひ をまじへたりされ共(ども)新羅(しんら)の軍兵(ぐんひやう)は目(め)にあまる大軍(たいぐん)なれば。軍兵(ぐんひやう)を合(あは)すること四(よ) 度(よ)に及(およ)べと我軍(わがくん)みな戦(たゝか)ひまくるに。新羅(しんら)の兵(へい)勝(かつ)ほこつて我(わが)兵船(へいせん)四百 余艘(よさう) を暫時(ざんじ)のほどやき立(たつ)れば余煙(よえん)天(てん)をかすめ蒼天(さうてん)をやくかと驚(おどろ)かる。また討(うち) 死(しに)せし者(もの)ともの屍(かばね)は海水(かいすい)にうかんで白波(しらなみ)は紅(くれない)に変(へん)じけり日本(につほん)の大将(たいしやう) 軍(ぐん)朴市田來津(ゑちたくづ)味方(みかた)の逃(のが)るゝ船(ふね)どもに下知(げぢ)して。揖(かぢ)をめぐらし櫓(ろ)をとゝめ て大(おほい)に呼(さけ)び。鉾(ほこ)をまじへて敵兵(てきへい)数十人(すしふにん)暫時(ざんじ)の間(あいだ)に討取(うちと)りたり。勇猛精神(ゆうまうせいしん) の其(その)有(あり)さまはさながら。郡羊(ぐんよう)の猛虎(まうこ)に遇(あ)ふが如(ごと)くなり。唐(たう)新(しん)の両兵(りやうへい)とも此(この) 勢(いきほ)ひに辟(へき)【劈】易(ゑき)し。進(すゝ)み兼(かね)て見(み)えけれども日本(につほん)の兵軍(へいぐん)はつゝける味方(みかた)の あらざれば。其身(そのみ)一人を以(もつ)て万千(まんせん)の兵(へい)に当(あた)りがたくしてつひに。朴市田來津(ゑちたらつ)【ママ】は 討(うた)れにけり事(こと)すでにかくの如(ごと)くなりければ。豊璋(ほうしやう)今(いま)は独身(どくしん)にてのがれ出(いて)て 高勾麗(かうこうらい)に落行(おちゆき)けり。百済国(ひやくさいこく)の王子(わうし)忠勝(ちうかつ)忠志(ちうし)等(とう)はその部下(ぶか)の人衆(にんしゆ)を引(ひき) て。唐(たう)の軍(ぐん)に降参(こうさん)すれば我軍(わがぐん)の残兵(ざんへい)は。新羅(しんら)の軍(くん)にくだれるも又(また)多(おほ) かりける新羅(しんら)の大将(たいしやう)我軍(わがくん)の降人(かうさん)に対(たい)して云(いふ)。新羅(しんら)よりなんぢが国(くに)とは海(うみ)を 隔(へだ)て講話(かうわ)をなして。聘問(へいぶん)交通(かうつう)に嘗(かつ)て他(た)の意趣(いしゆ)を構(かま)へず。しかるに何(なん)ぞ百 済(さい)を救(すく)ふて我(われ)をはかれる。今(いま)汝(なんぢ)が命(いのち)我(わが)掌握(しやうあく)のうちにあれどもこれを殺(ころ)す に忍(しの)びず。早々(はや〳〵)かへりてこの趣(おもむき)を汝(なんぢ)が国(くに)の王(わう)に語(かた)れといふてかへしけり。日本(につほん)の兵(へい) 士(し)どもは豊璋(ほうしやう)破(やぶ)れて走(はし)る上(うえ)は。誰(たれ)か味方(みかた)をなすべきやうなくみる〳〵軍(いくさ)を かへしけり。百済(ひやくさい)の者(もの)ども此時(このとき)に日本(につほん)へ逃(のが)れ來(きた)るも多(おほ)かりける。其中(そのうち)男女(なんによ)四百 余人(よにん)を近江(おふみ)の国(くに)なる神前郡(かんさきこふり)に移(うつ)し置(おか)れ。また東国(とうごく)へ二千 余人(よにん)を分(わか)たれ けり。其後(そのゝち)唐朝(たうてう)より劉徳高(りうとくかう)といへる者(もの)を日本(につほん)へ來(きた)らしむれは。我朝(わがてう)より守(もり) 君(きみ)の大石坂部(おほいしさかべ)の積(つもり)等(ら)を遣唐使(けんたうし)として渡海(とかい)せしめ。大唐(たいとう)の高宗皇帝(かうそうくわうてい) に対面(たいめん)して帰(かへ)りたりける。かくてぞ日本(につほん)と異国(いこく)の意趣(いしゆ)とけ。しばらく無(ふ) 事(し)には成(なり)にける    高勾麗(かうこうらい)滅亡(めつばう)の事(こと) 高勾麗(かうこうらい)の朱蒙(しゆもう)始(はじめ)て国(くに)をひらくの後(のぢ)。第二代(たいにたい)を琉璃王類利(るりわうるいり)といへりそれ より子孫(しそん)うけつぎ。第(だい)廿六代をば栄留王(えいりうわう)と称号(しようがう)す其得(そのうまれつき)昏愚(こんぐ)暗弱(あんしやく)にして 政(まつりこと)を自(みつか)らせす賊臣(ぞくしん)蘇文(そぶん)に打まかせたるにより。彼すでに国(くに)を奪(うは)はんとする に至(いた)りて栄留(えいりう)俄(にはか)にこれを心(こゝろ)づき。其力(そのちから)をも計(はか)らず弱(よわ)きを以(もつ)てみだりに強(きやう)を制(せい) せんとしてければ。かへつて彼(かれ)がために殺(ころ)さるゝは本意(ほんい)なかりける次第(しだい)なり。第(だい) 二十八代 宝蔵(ほうざう)が位(くらゐ)に立(たつ)にいたる。是又(これまた)蘇文(そぶん)が立(たつ)るところなれば君位(くんゐ)に居(おる) の名(な)のみにして。一国(いつこく)の政事(せいじ)権抦(けんへい)全(まつた)く下(しも)に移(うつ)りて。国民(くにたみ)ともに蘇文(そぶん)が民(たみ)と なる。彼(かれ)が凶悪(きやうあく)日々(ひゝ)まさり行(ゆ)き我(わが)まゝのきわめには。唐帝(たうてい)の使臣(ししん)を囚(とら)へ て中国(ちうこく)の命(めい)に違(たが)へば。爰(こゝ)におゐて唐(たう)の太宗(たいそう)憤怒(ふんぬ)の余(あま)り。彼(かれ)が弑逆(しいきやく)の罪(つみ)を鳴(なら) して自(みづか)ら六軍(ろくぐん)の兵士(へいし)を盛(さか)んにして。是(これ)を討伐(とうはつ)し給へども勝利(しやうり)なふして一端(いつたん) 軍(いくさ)をかへし給ふなり。しかりといへども兵家(へいか)に所謂(いわゆ)る小国(せうこく)の大国(たいこく)に克(かて)るは。 【右丁 絵画のみ】 【左丁】 百済国(ひやくさいこく)の 王子(わうじ)我国(わがくに)にかへる とき 天智天皇(てんぢてんわう) より征矢(そや)十万(じふまん) 綿(わた)五百 斤(きん)布(ぬの)千 端(だん) 韋皮(おしかは)千 張(ちやう) 米(こめ)三千 石(ごく)を    給はる 是(これ)ぞ後(のち)の禍(わさは)ひたりと斯(これ)を以(もつ)て論(ろん)ずれば。高勾麗(かうこうらい)のあやうきこと実(じつ)に 旦暮(たんぼ)にあるかなと意(こゝろ)ある輩(ともがら)はみな〳〵眉(まゆ)を皺(しは)めけり。太宗皇帝(たいそうくわうてい)のうらみ の意(こゝろ)猶(なほ)もつてましければ。頻(しき)りに諸大将(しよたいしやう)に命(めい)あつて高勾麗(かうこうらい)を討伐(とうばつ)あ れども。其利(そのり)を全(まつた)く得(え)給はずさるによつては。自(みづか)ら再(ふたゝ)び是(これ)を討(うた)せんと思召(おぼしめし) けれど未(いま)だ時節(しせつ)の至(いた)らざるにや。おのづから其事(そのこと)遅々(ちゝ)に及(およ)ぶところ。高勾麗(かうこうらい) の国事(こくじ)年々(ねん〳〵)衰退(すいたい)の世(よ)となつて。万(よろづ)の政(まつりこと)みな非(ひ)なるの上(うへ)にあまつさへ。蘇文(そぶん) 既(すで)に死(しん)だりけるつひに其家(そのいへ)の内(うち)みだれ蘇文(そぶん)が子(こ)ども欲(よく)を争(あらそ)ひ嫡子(ちやくし)男(なん) 生(せう)其弟(そのおとゝ)男建(なんけん)男産(なんさん)等(ら)と相和(あひくわ)せず。すでに互(たがひ)に害(かい)せんとするに至(いた)れば男生(なんせう) はやく唐(たう)に降(くだ)りて高勾麗(かうこうらい)を討伐(ちうはつ)し給はゞ。我等(われら)導引(みちびき)せんと請(こ)ふ此時(このとき) 唐(たう)の高宗(かうそう)の時(とき)なりしが則(すなは)ち李世勣(りせせき)契苾何力(けいひつかりよく)の英将(えいしやう)ともに命(めい)ぜられ 兵(へい)をあげて討(うた)しめ給ふ。此時(このとき)に契苾何力(けいひつかりよく)先鋒(せんほう)なり平壌城(へいしやくしやう)に押(おし)よせた り李世勣(りせいせき)が兵(へい)これに続(つゞ)ひて打入(うちいり)しが遂(つひ)に。高勾麗王(かうこうらいわう)宝蔵(はうさう)を獲(とりこ)となす 男建(なんけん)は事(こと)急(きふ)にのぞんて。自殺(しさつ)すれども未(いま)だ死(し)するに及(およ)ばざるを李世勣(りせいせき)が 軍(くん)に執(とら)へらる王(わう)宝蔵(はうさう)か子(こ)の。福男(ふくなん)徳男(とくなん)其外(そのほか)大臣(たいじん)男建(なんけん)等(ら)二十 余万(よまん)をこ と〳〵く獲(とりこ)として唐朝(たうてう)にかへりけり。寔(まこと)に唐(たう)の高宗(かうそう)中材(ちうさい)の人(ひと)にして最(もつと)も太(たい) 宗(そう)に及(およ)ぶべきにはあらず。李世勣(りせいせき)又(また)壮年(さうねん)の武略(ぶりやく)愚(おろか)にして老後(らうこ)に勇気(ゆうき)の 益(まさ)れるにはあらざれども時運(しうん)の至(いた)ると至(いた)らざる所(ところ)の有(ある)ゆゑとこそ聞(きこ)え けれ高勾麗(かうこうらい)の始祖(しそ)。東明王(とうめいわう)漢元帝(かんのけんてい)建昭元年(けんせうぐわんねん)甲申(きのへさる)に卒本扶余(そつほんふよ)に 都(みやこ)を定(さだ)め。瑠璃王(るりわう)が癸亥年(きがいのとし)都(みやこ)を国内城(こくないしやう)に移(うつ)し。其後(そのご)丸都(くわんと)平壌(へ[い]しやく)長安(ちやうあん) 城(しやう)等(とう)の所々(しよ〳〵)に都(みやこ)を定(さだ)む。爰(こゝ)に於(おゐ)て唐(たう)の高宗(かうそう)捴章元年(さうしやうくわんねん)にして。高勾麗(かうこうり) へ亡(ほろ)びたり。凡(およそ)二十八 王(わう)にして歳星(さいせい)七百五 年(ねん)なり。実(じつ)に我(わが)日本(につほん)の天智天皇(てんちてんわう)の 在位(ざいゐ)七 年(ねん)に当(あたれ)り。夫(それ)高勾麗(かうこうらい)は本(もと)檀君(だんくん)が朝鮮(てうせん)の地(ち)をひらきし都(みやこ)の 墟(あと)にして。其後(そのゝち)箕子(きし)が封境(ほうきやう)の所(ところ)たり漢(かん)の時(とき)に分(わ)けたりし。玄兎(けんと)楽浪(らくらう)の地(ち) 半(はん)にあたる。中華(ちうくわ)の東北(とうほく)の隅(すみ)の向(むか)ふと聞(きこ)ゆ往日(そのかみ)箕子(きし)八 条(てう)の禁戒(きんかい)を立(たて)て 礼義(れいぎ)をもつて治道(ちだう)をなす。猶(なほ)末(すへ)の世(よ)に風俗(ふうぞく)のこりて其民(そのたみ)正直(しやうちき)にして婦人(ふしん)は 貞信(ていしん)ありて淫(いん)をこのまず。此(この)仁賢(しんけん)の化(くわ)なるかな其(その)天性(てんせい)柔順(じうじゆん)にして。南北(なんほく) 西(せい)の夷(ゑひす)には最(もつと)も異(こと)に聞(きこ)えけり    新羅(しんら)滅亡(めつほう)《割書:并(ならびに)》高麗(かうらい)始祖(しそ)王建(わうけん)が事(こと) 新羅王(しんらわう)第(だい)三十代 文武両王(ぶんぶわう)といへる者(もの)。英雄(えいゆう)の器量(きりやう)あり発明(はつめい)にして智勇(ちゆう)ある 者(もの)なればよく先人(せんじん)の業(けふ)を受(うけ)つぎ唐朝(たうてう)に意(こゝろ)をかたむけ。唐兵(たうへい)を請(こ)ふて百済(ひやくさい) の地(ち)を亡(ほろぼ)し高勾麗(かうこうらい)の敵(てき)を滅(めつ)し。始(はじめ)て三韓(さんかん)一統(いつとう)の封(ほう)を得(え)たれば高勾(かうこう) 麗(らい)の余党(よたう)を納(い)れ優(なづ)け百済(ひやくさい)の古地(こち)により繁栄(はんえ)の土地(とち)となりぬる処(ところ) に。中頃(なかごろ)国(くに)に内乱(ないらん)起(おこ)り科(とが)を唐(もろこし)の朝廷(てうてい)より蒙(かうむ)り。一端(いつたん)爵位(しやくゐ)までを削(けつ)らるゝといへ とも。再(ふたゝ)びこれをかへし賜(たまは)り其後(そのゝち)世々(よゝ)相続(さうぞく)し。第(たい)五十代に至(いた)りける此時(このとき) の新羅王(しんらわう)は新聖王(しんせいわう)と号(がう)し。女子(によし)にて国(くに)を受(うけ)つきたるが其(その)行(おこな)ひ正(たゞ)しか らず。唐(たう)の則天皇后(そくてんくわうこう)にも超過(てうくわ)したりし淫女(いんぢよ)にして。其(その)志(こゝろざし)悪(あく)なれば国民(くにたみ)大(おほい)に 困窮(こんきう)し。四方(よも)に盗賊(たうぞく)おこり戦闘(せんたう)所々(しよ〳〵)に障(ひま)なきを。爰(こゝ)に弓裔(きうえい)といへる者(もの) 其時(そのとき)を窺(うかゞ)ひ北京(ほくきん)といふ所(ところ)にて返逆(ほんぎやく)を企(くわだ)てたり。弓裔(きうえい)は其先祖(そのせんぞ)新羅王(しんらわう)四十 六代 憲安王(けんあんわう)の庶子(しよし)より分(わか)れたり。弓裔(きうえい)初(はじ)め生(うま)るゝ時(とき)屋上(おくじやう)に白氣(はくき)おこり。天(てん) につゐて虹(にじ)の如(ごと)くなりけるを。日官(につくわん)のために奏(そう)せられすてに悪祥(あくしやう)なりとて殺(ころ)さ るべかりしを乳母(ちぼ)かなしんで深(ふか)くかくして養育(やういく)したりしが。八九 歳(さい)にして僧(そう)と なりしも壮年(さうねん)の後(のち)に至(いた)れば。僧律(そうりつ)の戒行(かいきやう)をもつゝしまず行跡(きやうせき)悪(あ)しき者(もの)な り。爰(こゝ)に国(くに)には一揆(いつき)おこつて盗賊(とうぞく)しば〳〵起(おこ)るに乗(じやう)じ。竹州(ちくしう)の賊(ぞく)の魁(かしら)箕萱(きけん)が 下(した)に属(ぞく)しけれども。後(のち)にはともに一方(いつはう)によりすまふ。またこゝに加恩懸(かおんけん)の甄萱(しんけん) といへる者(もの)も謀反(むほん)して武珍州(ふちんしう)【珎は俗字】といふ所(ところ)に兵(へい)を聚(あつ)めたり。弓裔(きうえい)甄萱(しんけん)とともに 王号(わうがう)を僭(せん)して国(くに)を盗(ぬす)むの意(こゝろ)ありしも。後(のち)高麗(かうらい)の大祖(たいそ)のために平(たいら)げらる。 既(すで)に真聖王(しんせいわう)が国(くに)亡(ほろび)んとして一人の英雄(えいゆう)出(い)づ。其名(そのな)を王建(わうけん)とぞいひける元(もと) は松嶽郡(せうがくぐん)の人(ひと)にして父(ちゝ)をば王隆(わうりう)と号(がう)しける。王建(わうけん)が生(うま)れし時(とき)異僧(いそう)來(きた)つて 此子(このこ)の凡人(ぼんにん)ならざる事(こと)を。其父(そのちゝ)に教戒(けうかい)せしが異人(いじん)の云(いひ)しに違(たが)はず。初生(しよせい)の ときよりさま〴〵の奇端(きずゐ)をば示(しめ)すのみならず。幼(いとけな)きより聡明世(そうめいよ)に聞(きこ)えその 形骸(ぎやうたい)【注】龍顔(りうがん)しな〳〵の異(い)あるに。又(また)其意(そのこゝろ)寛厚(くわんかう)の仁者(じんしや)たるはこれぞ定(さだ)めて乱(らん) 民(みん)を助(たす)け世(よ)を済(すく)ふべき人(ひと)ならんと意(こゝろ)をよせぬ者(もの)はなし。王建(わうけん)初(はしめ)は弓裔(きうえい)が 幕下(ばくか)にありしが。弓裔(きうえい)これに鐵原郡(てつえんぐん)の太守(たいしゆ)となす。其後(そのゝち)威望(いまう)大(おほい)に加(くは)り 人心(じんしん)の帰(き)し順(したが)ふところ。爰(こゝ)にあれば部下(ぶか)の諸将(しよしやう)王建(わうけん)をすゝめ王号(わうがう)を称(しよう)じ て。国(くに)を高麗(かうらい)と号(がう)しける。この時(とき)中国(ちうごく)は後梁(ごりやう)の太宗(たいそう)貞明(ていめい)の年(とし)。我(わ)が本(ほん) 朝(てう)醍醐天皇(だいごてんわう)延喜年中(えんきねんちう)に当(あた)つて新羅国(しんらこく)景明王(けいめいわう)が二 年(ねん)に王建(わうけん)国(くに)を建(たつ) るの歳(とし)にして。其後(そのゝち)新羅(しんら)に五十五 代(たい)敬順王(けいしゆんわう)が在位(さいゐ)八 年(ねん)にして。終(つひ)に重箸(ちうき)を 高麗(かうらい)の王建(わうけん)に譲(ゆつ)つて降参(かうさん)をなしたりける。こゝに高麗王(かうらいわう)在位(ざいゐ)十七 年(ねん)にし て。中国(ちうごく)後唐(こうたう)の潞王(ろわう)が清泰元年(せいたいくわんねん)。我(わ)が本朝(ほんてう)の朱雀院(しゆじやくゐん)承平四年(しようへいよねん)と聞(きこ)え けり。そも〳〵新羅(しんら)の始祖(しそ)赫居世(せききよせい)漢(かん)の宣帝(せんてい)五鳳元年甲子(ごほうくわんねんきのへね)を以(もつ)て。辰韓(しんかん) 【注 骰は音・義ともに合わず、音からは體が考えられるも、字面からは骸と思われ、「形骸」と書き「ぎやうたい」と仮名を振ったと捉え「骸」にする。】 の土(ど)に都(みやこ)を定(さだ)め国(くに)を徐伐羅(ぢよはつら)と号(かう)し。朴(ぼく)昔(せき)金(きん)の三 姓(せい)相伝(あいつた)へ知證王(ちしようわう)癸未(きび) の年(とし)国(くに)を定(さだ)めて新羅(しんら)と号(がう)し。太宗王(たいそうわう)の庚申(かのへさる)に百済(ひやくさい)の地(ち)を合(あは)せ文武王(ぶんぶわう) 戊辰(ぼしん)の年(とし)高勾麗(かうこうらい)まで。一統(いつたう)すべきの唐(たう)の封(ほう)を受定(うけさだ)めて敬順(けいじゆん)が高麗(かうらい)に降(かう) をなすまで。朴氏(ぼくし)十 王(わう)昔氏(せきし)八 王(わう)金氏(きんし)三十七にして年(とし)をかぞふる事(こと)。九百九十二 年(ねん) 王世(わうせ)五十五 王(わう)にして新羅國(しんらこく)は亡(ほろ)びにけり。     高麗(かうらい)盛衰(せいすい)《割書:并(ならひに)》李成桂(りせいけい)位(くらゐ)を竊(ぬす)む事(こと) 高麗(かうらい)の大祖(たいそ)全(まつた)く新羅(しんら)の乱国(らんごく)を平(たいら)げ三韓(さんかん)の旧地(きうち)を一統(いつとう)し世(よ)をつたふること 爰(こゝ)に三十二 王(わう)ともに四百七十五 年(ねん)の歳(とし)をへたるも其後(そのゝち)権臣(けんしん)李世桂(りせいけい)が為(ため) に其国(そのくに)を奪(うば)はれたり。第(だい)三十一 代(たい)恭愍王(けふみんわう)が本性(ほんせい)其始(そのはじ)め令名(れいめい)世上(せじやう)に聞(きこ)ゆと いへども。中年(ちうねん)に至(いた)つて其志(そのこゝろざ)しいつしかくじけ我意(かい)をふるまふところより親族(しんぞく) 大臣(たいじん)を軽(かろ)んじ嫌(きら)つて是(これ)をうとんじ。偏(ひとへ)に讒人(さんにん)を信用(しんよう)するの理(り)に戻(もど)れる心(こゝろ)と なつて邪僧遍照(じやそうへんせう)が妖悪(ようあく)あるを正直(しやうぢき)の人なりと心(しん)実に思(おも)ひまどふて。是(これ)に政(まつり) 事(こと)を与(あた)ふれば遍照(へんせう)もこれをよき時(とき)至(いた)るの幸(さいわひ)と。速(すみやか)に還俗(げんぞく)し其名(そのな)を辛(しん) 肫(とん)とあらため国(くに)の政事(せいじ)を意(こゝろ)にまかせて。遂(つひ)に一国(いつこく)の政権(せいけん)其身(そのみ)に帰(き)する 事(こと)十五六 年(ねん)の間(あいだ)なりしか。其(その)子孫(しそん)辛禑(しんぐう)辛昌(しんせう)父子(ふし)に至(いた)て高麗(かうらい)の神器(しんき)【注】 を竊(ぬす)み。王氏(わうし)の族(ぞく)こゝにつき国(くに)又(また)亡(ほろ)ぶに至(いた)るに。恭譲王(けふじやうわう)一人たま〳〵諸大将(しよだいしやう)の おし戴(いたゞ)くにより。一たんは統(とう)を保(たも)つて暫(しばら)く其世(そのよ)をなすといへども。天命(てんめい)こゝに 絶(たゆ)べきの時節(じせつ)にやきわまりけん。日々(ひゞ)の政道(せいだう)みだりがはしく遂(つひ)に国(くに)を李成桂(りせいけい) がために奪(うば)はれて。王氏(わうじ)の国(くに)は敗亡(はいぼう)せり。此年(このとし)大明(たいみん)の大祖(たいそ)皇帝(くわうてい)洪武(こうぶ)二十五 年(ねん)なり。同(おな)じく三十 年(ねん)にあたつて国号(こくがう)を旧(ふる)きに回(かへ)りて。再(ふたゝ)び朝鮮(てうせん)とは唱(とな)へ 【注 コマ99の9行目にこの字面で「器」の意で使用されている。】 ける。是(これ)我(わ)か本朝(ほんてう)の天子(てんし)百一 代(だい)後小松院(ここまつのゐん)應永年中(おうえいねんぢう)足利義満公(あしかゞよしみつこう)の治世(ぢせい) 李成桂(りせいけい)こゝに於(おゐ)て大明(たいみん)へ朝貢(てうこう)の使(つかひ)を通(つう)じ。年号(ねんがう)正朔(せいさく)にいたるまでみな一 に大明(たいみん)の制法(せいはう)に承(う)け順(したが)ふ。かくて我朝(わがてう)近頃(ちかごろ)打(うち)つゞいて闘諍(とうぜう)諸国(しよこく)に起(おこ)り。反(ほん) 逆(ぎやく)逃亡(とうはう)の輩(ともから)其身(そのみ)を寄(よ)すべき所(ところ)なき者(もの)は。一族(いちぞく)徒党(とたふ)を引(ひき)いれて大船(たいせん)を 多(おほ)く海上(かいじやう)に乗(の)り浮(うか)め。往来(わうらい)の蛮舶(ばんはく)商船(しやうせん)の宝物(ほうもつ)をかすめ奪(うば)ふて年月(としつき)を 送(おく)り或(あるひ)は大明(たいみん)朝鮮(てうせん)の津々嶋々(つゞしま〴〵)を見立(みたて)。勝手(かつて)のよからん方(かた)に押入(おしいり)て乱防(らんばう) に及(およ)ばざれども。弓矢(ゆみや)を携(たつさ)へ兵甲(へいかう)を着(き)たれば漁人(ぎよしん)農夫(のうふ)は云(いふ)におよばす 官人(くわんにん)といへども混(みだ)りに是(これ)を防(ふせ)ぐに及(およ)ばず。大明(たいみん)朝鮮(てうせん)大(おほい)にくるしみ使書(ししよ)を発(はつ)し てうつたへ歎(なげ)くといへども。亡名(はうめい)流浪(るらう)の士(し)のなすところ一(いつ)に我国(わがくに)の預(あづか)り知(し)る儀(ぎ)にあ らずと答(こた)へらる。且(かつ)又(また)國内(こくない)近年(きんねん)静謐(せいひつ)ならねば。朝鮮(てうせん)より貢献(こうけん)の怠(おこた)り あるを。とがむるにも及(およ)ばず多(おほ)くの年月(としつき)を過(すこ)しけり 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之二終 【白紙】 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編巻之三     目録  一 豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)天下(てんか)御成敗(ごせいばい)の事(こと)  一 橘康廣(たちはなのやすひろ)朝鮮(てうせん)に到(いた)る事(こと)  一 重而(かさねて)両使(りやうし)を朝鮮(てうせん)に遣(つかはさ)るゝ事(こと)  一 朝鮮(てうせん)の三使(さんし)來朝(らいてう)の事(こと)  一 棄君(すてきみ)誕生(たんじやう)《割書:并(ならびに)》逝去(せいきよ)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)朝鮮征伐(てうせんせいばつ)思立(おもひたち)の事(こと) 【白紙】 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編巻之三   豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)天下御成敗(てんかごせいばい)の事(こと) 爰(こゝ)に本朝(ほんてう)人王(にんわう)一百七代(いつひやくしちだい) 正親町院(おほぎまちのゐん)の御宇(ぎよう)に当(あた)つて。豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)は惟任(これたう)日向(ひうがの) 守(かみ)光秀(みつひで)を誅戮(ちゆうりく)し給ふ後(のち)は。天下(てんか)の権柄(けんへい)自(おのづか)ら其身(そのみ)に帰(き)し官爵(くわんしやく)すてに。人臣(じんしん) の極(きわ)めに至(いた)り今歳(ことし)。天正(てんしやう)十三 年(ねん)七月十一日 関白職(くわんぱくしよく)に任(にん)じ給ふは。実(まこと)に以(もつ)て往古(わうご) より我朝(わがてう)にはためし少(すくな)き御(お) ̄ン事(こと)なり。其(その)御 ̄ン祝(いわひ)として今日(こんにち)参内(さんだい)の御儀式(ごぎしき)供奉(ぐぶ)の大(だい) 名(みやう)。奇羅(きら)をかざり任官(にんくわん)の歴々(れき〳〵)。栄耀(えいよう)をあらはすことすてに今日(こんにち)にとゞまれりと。 雑色(ざつしき)下部(しもべ)に至(いた)るまで。晴(はれ)を尽(つくさ)ぬ者(もの)もなし。禁裏(きんり)。仙洞(せんとう)。女御(にようご)。更衣(かうい)女房達(にようぼたち)。摂(せつ) 家(け)。百官(ひやくくわん)。は申に及(およ)ばす諸司(しよし)役人(やくにん)の末々(すへ〴〵)に至(いた)るまで。品々(しな〳〵)の賜(たまは)りもの宝(たから)の山(やま)を 崩(くづ)すが如(こと)くなるは語(かた)るに言葉(ことば)もなかるべし。爰(こゝ)に於(おい)て秀吉公(ひでよしこう)は前田徳善院(まへだとくぜんゐん) 玄以(けんい)。浅野弾正少弼長政(あさのだんじうやうせうひつながまさ)。増田右衛門尉長盛(ますだゑもんのぜうながもり)。石田治部少輔三成(いしだぢぶせうゆうみつなり)。長束大(ながつかおほ) 蔵大輔正家(くらたいふまさいへ)。を以(もつ)て五奉行(ごぶぎやう)と定(さだ)め。国家(こくか)の政(まつりごと)を司(つかさど)らしめ給へける。中(なか)にも浅野(あさの) 弾正長政(だんじやうながまさ)の妻(つま)は。秀吉(ひでよし)の御台所(みだいどこ)と腹替(はらがはり)の姉妹(あねいもと)たるがゆへ。最(もつと)も親(した)しみ深(ふか)く して評議(ひやうぎ)相談(さうだん)の事(こと)。あるごとに内外(ないげ)を論(ろん)ぜず長政(ながまさ)これを預(あづか)り聞(きか)ずと云(いふ) ふことなし。玄以(げんい)はまた信忠(のぶたゞ)の推挙(すいきよ)し給ふ人(ひと)にして。長束(ながつか)はその始(はじ)め丹羽五郎左(にはごらうざ) 衛門尉長秀(ゑもんのぜうながひて)につかへたりし人(ひと)なれども。其(その)評論(ひやうろん)何事(なにこと)も尋常(よのつね)の類(たぐ)ひにあらず。 智才(ちさい)に秀(ひいで)し者(もの)ゆゑに。此度(このたび)の列(れつ)に抜(ぬき)んでらる。増田長盛(ますだながもり)。石田三成(いしだみつなり)。両人(りやうにん)はもとより 秀吉公(ひでよしこう)の家(いへ)に伺候(しかう)して年久(としひさ)しく事(つかふま)つる者(もの)なれば。此列(このれつ)に加(くわ)はるなり殊(こと)に長政(ながまさ) は。其性(そのせい)豪気(がうき)にして肝(きも)魂(たましい)人(ひと)にすぐれ。物(もの)ごとの利害(りかい)に能(よく)あきらかなる者(もの)なればと て此職(このしよく)に居(すへら)れける。秀吉重(ひてよしかさ)ねて令(れい)を下(くだ)し宣(のたま)ふやう。玄以(けんい)は京洛(けいらく)の所司代(しよしたい)とし洛(らく) 外(くわい)の。神社佛閣(じんじやぶつかく)僧俗(そうぞく)の雑事(ざつし)何(なに)によらず。是(これ)を掌(つかさと)つて裁許(さいきよ)せよ。長束大蔵(なかつかおほくら)は天下(てんか) の年貢(ねんぐ)。軍役(くんやく)の事(こと)を司(つかさ)どれ。長政(ながまさ)長盛(なかもり)三成(みつなり)は諸(もろ〳〵)の評定(ひやうちやう)を吟味(きんみ)せよ。万一(まんいち)不善(よからさる) の事(こと)をかまへ。民(たみ)百姓(ひやくせう)を労困(らうこん)せしむるの政(まづりこと)をなすべからず。小事(せうじ)あらば一二人にて相(あい) 計(はか)るともこれ可(か)なり。郡国(ぐんこく)の政事(せいじ)の相談(さうだん)をば速(すみやか)に評議(ひやうぎ)をなすべし。公儀(こうぎ)遅(ち) 滞(たい)のことあらんは。是(これ)民(たみ)の困窮(こんきう)する本(もと)たるべし。籠獄(らうごく)訴訟(そせう)を決断(けつだん)せば慎(つゝしん) んで聴(きゝ)さはき富(とめ)るを愛(あい)し。貧者(まつしきもの)を軽(かろ)んずべからずと。理世安民(りせあんみん)の政(まつりこと)を諸(しよ) 奉行(ぶぎやう)に仰付(おふせつけ)らるれば。おの〳〵此議(このき)を承(うけ給は)り恭(つゝしん)で退出(たいしゆつ)せられける    橘康廣(たちはなのやすひろ)朝鮮(てうせん)に到(いた)る事(こと) 其歳(そのとし)も既(すて)に暮(くれ)明(あく)れば。天正(てんしやう)十四 年(ねん)にもなりにけり。ある時(とき)に秀吉公(ひてよしこう)老臣(らうしん)近従(きんじふ) 【右丁】 朝鮮(てうせん)の 両使日本(りやうしにつほん)の 兵乱(ひやうらん)をきゝ 畏(おそ)れ病氣(ひやうき)と いつわり貢献(こうけん) の品々(しな〴〵)を 対州(たいしう)の 県令(けんれい)に詫(たく)    して 帰帆(きはん)す 【左丁 絵画のみ】 の人々(ひと〴〵)を召(め)され仰出(おほせいだ)されけるやう。吾(わが)威風(いふう)すでに海内(かいだい)に加(くわ)はり日本(につほん)六十 余州(よしう) におゐては。すてに靡(なひ)かぬ草木(くさき)もなきに。未(いま)だ朝鮮(てうせん)の嘉祝(かしゆく)の使(つかひ)來(きた)らす。殊(こと)に 代々(よゝ)吾国(わかくに)の聘使(へいし)のみ彼国(かのくに)に至(いた)ると雖(いへ)とも。彼(かれ)が返礼(へんれい)をなさゞるは何事(なにこと)ぞ や其上(そのうへ)又(また)朝鮮(てうせん)は往古(わうこ)より日本(につほん)付属(ふそく)の国(くに)なるに如此(かくのことく)の躰(てい)たらく畢竟(ひつきやう)を察(さつ) するに。是(これ)我国(わかくに)を軽(かろん)し慢(あなど)ると云者(いふもの)にあらざるや。それに付(つい)ては先(まつ)一旦(いつたん)通信使(つうしんし) を求(もと)めて。彼国(かのくに)の意趣(いしゆ)を探(さく)るべしとて橘(たちばな)の康廣(やすひろ)に仰付(おふせつけ)られて。朝鮮(てうせん)に遣(つか)は さる。今年(ことし)天正(てんしやう)十四 年(ねん)は。明朝(みんてう)の萬暦(ばんれき)丙戌(ひのへいぬ)の年(とし)と聞(きこ)えけり是(これ)より先(さ)き足(あし) 利家(かゝけ)天下(てんか)を知(しり)給ふて。殆(ほとんど)こゝに二百 餘年(よねん)なり。往日(さきのひ)明(みん)の洪武年中(こうぶねんぢう)に当(あた)り朝(てう) 鮮(せん)より隣国(りんごく)旧好(きうこう)を修(おさ)むる使者(ししや)としてその役(やく)を相勤(あひつと)むる。申叔舟(しんしゆくしう)といへる者(もの) 幾度(いくたび)か日本(につほん)に渡海(とかい)をなし。我国(わがくに)の風俗(ふうぞく)勇武(ゆうぶ)の有(あり)さまをも能(よく)諳(そらん)したり し者(もの)なりけるが叔舟(しゆくしう)すでに死(し)せんとする時(とき)にのぞんで朝鮮王(てうせんわう)成宗(せいそう)は叔舟(しゆくしう)か 方(かた)に使者(ししや)をつかはし何(なに)にても言(ことば)を遺(のこ)すべきの意(こゝろ)あらば国(くに)の為(ため)に一言(いちごん)を述(のぶ)べ し必(かなら)ず遠慮(えんりよ)を以(もつ)て申さでやある事(こと)なかれと命(めい)あれば叔舟(しゆくしう)答(こたへ)て奏(そう)する やう願(ねが)はくば国家(こくか)と日本(につほん)と長(なが)く不和(ふわ)なる御 意(こゝろ)を起(おこ)し給ふべからず終(つひ)に其(その)懈(おこた)り の儀(ぎ)有(ある)ならば必(かなら)ず国(くに)の害(がい)となるべきの処(ところ)なりと云(いひ)しを成宗(せいそう)も彼(かれ)が異見(いけん)を 感悟(かんご)し給へけるにや茲(こゝ)に於(おい)て副提學(ふていがく)李亨元(りかうげん)書状官(しょじやうくわん)金訢(きん〳〵)と云(い)ふ者(もの)をし て。旧交(きうかう)を修(おさめ)ん為(ため)に遣(つかは)し対馬(つしま)の国(くに)まで到(いた)るといへども渡海(とかい)風水(ふうすい)の悪(あし)きに よつて正使(せいし)すでに疾(やまい)を生(せう)じ書(しよ)を成宗(せいそう)に奉(ほう)じ回(かへ)らん事(こと)を乞願(こひねか)ふ成宗(せいそう)も また彼(かれ)が意(こゝろ)に任(まか)せて赦(ゆる)さるれば音物(いんもつ)書状(しよしやう)をばこれを以(もつ)て対馬(つしま)の国主(こくしゆ)に 致(いた)しすゝめて両使(りやうし)は是(これ)よりやめて帰国(きこく)を赦(ゆる)されたり其後(そのゝち)は絶(たへ)て日本(につほん)への 使(つかひ)を通(つう)する事(こと)なかりしなり。只(たゞ)日本(につほん)の信使(しんし)來(きた)れは礼(れい)によつて応接(おうせつ)はかりにして 事畢(ことおは)れりと聞(きこ)えたりそも〳〵我朝(わかてう)の記(き)によつて此事(このこと)を考(かんが)ふるに。京都将軍(きゃうとしやうぐん)源(みなもと) 義政公(よしまさこう)の長禄(ちやうろく)二 年(ねん)まては朝鮮(てうせん)の來朝使(らいてうし)の時々(とき〳〵)來(きた)れる事(こと)の見(み)へたれども それより以來(このかた)は絶(たへ)て此事(このこと)所見(しよけん)なし。されば其後(そのゝち)打続(うちつゝき)て本朝(ほんてう)大(おほい)に戦国(せんこく)となり 左(さ)ながら打乱(うちみだ)れたる碁(ご)の如(ごと)くなる故(ゆゑ)に此時(このとき)の朝鮮(てうせん)の使(つかひ)も風水(ふうすい)の難儀(なんき)に言(こと) を寄(よ)せて身(み)の危(あやう)きをのかれ中途(ちうと)より帰(かへ)れると知(し)られたりそれより後(のち)足利家(あしかゞけ) 滅亡(めつはう)し今(いま)や秀吉公(ひてよしこう)天下(てんか)を渾一(こんいち)に成(なし)給ふよりすてに十 余年(よねん)に至(いた)れるなり 此間(このあひた)日本(につほん)の商売人(しやうばいにん)。幾人(いくたり)か朝鮮(てうせん)に往来(わうらい)する者(もの)ありと雖(いへ)ども我国(わがくに)の令(れい) 法(ほう)厳密(けんみつ)なる。その刑罰(けいばつ)をつゝしんで。こゝに本朝(ほんてう)の時世(ときよ)も遷(うつ)り代(かわ)つて当世(とうせい)す てに秀吉公(ひてよしこう)天下(てんか)の権柄(けんへい)を取(とり)玉(たま)ふと云(い)ふことをも嘗(かつ)て以(もつ)て泄(もら)さねばこれによつ て朝鮮(てうせん)の君臣(くんしん)は。猶(なほ)今(いま)に源氏(げんじ)足利(あしかゞ)の世(よ)たりとばかり思(おも)ふ処(ところ)へ。秀吉公(ひでよしこう)の信使(しんし)とし て。橘(たちばな)の康廣(やすひろ)着岸(ちやくがん)すれば始(はじめ)て豊臣秀吉(とよとみひでよし)の世(よ)と成(な)る事(こと)を知(し)るなり。康廣(やすひろ) 時(とき)に年齢(ねんれい)五十あまりの男(おとこ)の。其(その)容貌(ようぼう)大(おほい)にたくましふして鬚(ひげ)髪(かみ)すでに。斑(またら)に白(しろ)きが 過(すぐ)るところの旅館(りよくわん)馬驛(うまつき)に至(いた)つては宿(しゆく)する所(ところ)の家屋(かをく)を吟味(ぎんみ)し。村里(そんり)の中(なか)の広(ひろ)き宅(いへ) なるを求(もと)めて本陣旅宿(ほんぢんりよしゆく)と定(さだ)め其威(そのい)の厳重(けんぢう)なるを示(しめ)しける。又(また)自己(じこ)の寛大(くわんたい)を ふるまひ。倨傲(おこりほこ)れる様体(やうだい)は往日(さき〳〵)朝鮮(てうせん)に至(いた)れる所(ところ)の日本使(につほんし)にもあらねば。所々(ところ〳〵)の 郷民(がうみん)以(もつて)の外(ほか)に仰天(ぎやうてん)せり。夫(それ)朝鮮国(てうせんごく)には古(いにしへ)よりの作法(さはう)として日本(につほん)よりの使者(ししや)たる。 その王城(わうじやう)まで至(いた)り過(すぐ)るの路(みち)すぢをば。すでに使(つかい)の来(きた)ること聞(きく)より早(はや)く境内(きやうない)の歩兵(ほへい) を発(はつ)し。槍(やり)を執(とつ)て左右(さいふ)の道(みち)を立(た)て夾(はさ)みて。行列(ぎやうれつ)を通(とほ)らしむ是(これ)をもつてかの 国(くに)の軍威(くんい)を示(しめ)す風儀(ふうぎ)なりとか。されは此度(このたび)康廣(やすひろ)が打(うつ)て通(とほ)る一路(いちろ)にも。各(おの〳〵) 【右丁】 橘康廣(たちはなのやすひろ) 朝鮮(てうせん)に    使(つかひ)して 本朝(ほんてう)の武威(ぶゐ) を異域(いいき)に 輝(かがや)かんさんとて 武器調度(ふきてうど) 従臣(じふしん)の 衣服(いふく)を 装(かさ)り其行(そのこう) 程(てい)の警衛(けいえい) を土芥(とかい)のに 見(み)て王城(わうしやう) にいたるる 【左丁  絵画のみ】 出合(いであは)せ立(たち)ならんで槍(やり)をとり。間々(あひだ〳〵)に隊(そなへ)の頭(かしら)と見(み)えたる者多(ものおほ)くの人数(にんず)を下(げ) 知(ぢ)し。すはと云(い)はゞ討取(うちとれ)と云(いわ)ぬ計(ばかり)の顔色(がんしよく)なり。康廣(やすひろ)は元來(もとより)かゝる事(こと)異(こと)なる とも思(おも)はねば手(て)の者(もの)どもに下知(けぢ)をなし。左右(さいふ)に眼(まなこ)をくばつて静(しづか)に馬(うま)を乗(のり) すゝめ。すでに仁同(じんだう)と云所(いふところ)に到(いた)り付(つ)く時(とき)。其(その)路辺(みちのべ)の鎗(やり)とる者(もの)を急度(きつと)睨(にら)んて 馬(うま)をひかへて。から〳〵と打笑(うちわら)ひ汝(なんち)が輩(ともがら)の持(もつ)ところ槍(やり)の竿(ゑ)はなはだ短(みじか)し。それが 人(ひと)を衝(つ)くやくに立(たゝ)んやさても油断(ゆだん)なる抱(かゝ)へやうやと。高声(たかごゑ)に物(もの)いへば人歩(にんぶ)ど も物言(ものごと)の通(つう)ぜぬゆゑ。何言(なにごと)とはわきまへねども。康廣(やすひろ)が眼(まなこ)つきの冷(すさま)じきと高声(かうしやう) に笑(わろ)ふとの其様(そのさま)に。肝(きも)つぶしあきれかへりて居(ゐ)たりしが。左右(さいふ)に立(て)てる己(おの)が達(たち)と舌(した) をまきたる顔色(がんしよく)す。かくてこゝをも過通(すぎとほ)り程(ほど)なく尚州(しやくしう)に着(つき)たりけり。此所(このところ)の 牧守(くにのかみ)宋應洞(そうおうとう)と云(いへ)る者(もの)の。康廣(やすひろ)が馳走(ちさう)のため待(まち)うけの旅館(りよくわん)まて。綺羅(きら)びやかに 賁飾(かざり)立(たて)。さま〳〵の饗応(きやうおう)美(び)をつくし其(その)酒宴(しゆえん)には。楽器(がくき)を連(つら)ね舞歌(ぶか)の 子女(しぢよ)衆(おほ)く列座(れつざ)し。さま〳〵の興(きやう)を促(うなか)せり衣裳(いしやう)に花(はな)をかざりては。桃李(とうり)の色(いろ)を あらそひ顔色(がんしよく)に。笑(ゑみ)をふくんでは夜月(やげつ)のかけ媚(こび)をなす。まことに歯牙(しげ)の春色(しゆんしよく)と はかゝる事(こと)をや云(い)ひつらん。康廣(やすひろ)は應洞(おうたう)が己(すで)に両鬢(りやうびん)の霜(しも)ふりて。翁(おきな)さびたる 顔色(がんしよく)なるにかゝる色(いろ)をもてあそぶを見(み)るより。傍(かたはら)なる通事(つうじ)に云含(いひふく)め應洞(おうとう) に告(つげ)させける。御覧(こらん)の如(ごと)く我等(われら)老衰(らうすゐ)に及(およ)べること。年齢(ねんれい)より抜群(ばつくん)に見(み)え候 は数年(すねん)干戈(かんくわ)の内(うち)にあつて。多(おほ)くの心労(しんらう)をなす故(ゆゑ)なりと存(そん)するに。又(また)應君(おうくん) はつね〳〵如此(かくのごとく)安樂(あんらく)の中(うち)におはしますなれば。何(なん)の憂(うれひ)もあるまじきに見(み) 申せば両鬢(りようびん)全(まつた)く白(しろ)くなり候こと心得(こゝろえ)がたき一事(いちじ)なりと難(なん)じたるは。應洞(おうとう) が色欲(しきよく)に淫(いん)することを少(すこ)し諷言(あてこと)したるとは聞(きこ)え[け]り。それより王城(わうしやう)に到着(いたりつき) 朝鮮王(てうせんわう)に書(しよ)を奉(ほう)じをはりぬれば。其後(そのゝち)禮曹判官(れいそうはんぐわん)の所(ところ)にして。朝鮮王(てうせんわう)より 饗宴(きやうえん)を賜(たま)はりける。酒(さけ)すでに酣(たけなは)なるの時(とき)に及(およ)んで。康廣(やすひろ)は腰付(こしつけ)の瓢簞(ひやうたん)【簟は誤】 より席上(せきじやう)に胡椒(こせう)を多(おほ)くとり散(ちら)して。これを甜(つ)み食(くら)ふを見(み)一座(いちざ)にありつる妓(ぎ) 女(ぢよ)ども。康廣(やすひろ)は隣国(りんごく)他家(たけ)の人(ひと)ぞとて遠慮(えんりよ)の心(こゝろ)。すこしもなく皆々(みな〳〵)これを争(あらそ) ひて奪(うば)ひ合(あふ)たるは。さらに男女(なんによ)の礼儀(れいぎ)もたへ。興(けう)さめたる有(あり)さま放埓(はうらつ)なりし事(こと) どもなり。康廣(やすひろ)すでに旅館(りよくわん)にかへりて通事(つうじ)の者(もの)に向(むか)ひ。打(う)ち嗟(なげ)いて語(かた)りける は。汝(なんぢ)が国(くに)早(はや)く亡(ほろ)びん氣(き)の毒(どく)さよ。それ男女(なんによ)の禮(れい)あつて隔(へだ)つるは。これ人道(にんだう)の くゝりたり。然(しか)るに今(いま)你(なんぢ)が国(くに)のやうを見(み)るに。上(かみ)にあるも下(しも)なる者(もの)も一様(いちやう)に色(しき) 慾(よく)のみたりをつとめとなし。網紀(かうき)の立(たゝ)ぬ所(ところ)あれば亡(ほろ)びずして。何(なに)をか待(また)ん自己(おのれ) が云(い)ふところ辟目(ひがめ)にはあらじと云(いひ)けるを。後(のち)にぞ思(おも)ひしられたり。康廣(やすひろ)す でに帰国(きこく)の趣(おもむ)きを告(つげ)て返翰(へんかん)を請(こ)ふと雖(いへ)とも。秀吉(ひでよし)の来書(らいしよ)の辞(ことば)甚(はなは)だ倨(おご)り て今(いま)天下(てんか)我(わか)一握(いちあく)の中(うち)に帰(き)する等(とう)の語(こ)あるを見(み)。朝鮮王(てうせんわう)これを不快(ふくわい)に懐(おも) ふの故(ゆへ)。但(たゝ)其書(そのしよ)を報(ほう)し通信(つうしん)のことにおいては。水路(すいろ)はるかにしてつねに使(つかひ)を遣(つかは) しかたしと云(いふ)をもつて。聘使(へいし)の事(こと)をばゆるさず。康廣(やすひろ)かへりて右(みき)の趣(おもむ)きを報(ほう) ずれば。秀吉公(ひてよしこう)大(おほい)に怒(いか)り給ひて遂(つひ)に。康廣(やすひろ)を誅(ちゆう)し其刑(そのけい)一族(いちそく)までに及(およ)へり とかや秀吉公(ひでよしこう)康廣(やすひろ)が罪科(さいくわ)さして。誅(ちゆう)すへきにはあらさるを何(なに)の故(ゆゑ)あつて。 其罪(そのつみ)一門(いちもん)に及(およ)ぶにやと其(その)意趣(いしゆ)をさつするに康廣(やすひろ)か兄(あに)康年(やすとし)は足利家(あしかゞけ) の時代(しだい)より。幾回(いくたひ)か朝鮮国(てうせんごく)の遣使(けんし)として往来(わうらい)し。彼国(かのくに)の職名(しよくめい)まてをも受(うけ) たりし者(もの)の末(すへ)なれは多(おゝ)くは今(いま)その述(のぶ)る所(ところ)の語(ご)の中(うち)にも朝鮮国(てうせんこく)の荷担(かたん)する の下心(したごころ)の有(あり)けるにや。また秀吉公(ひてよしこう)の心中(しんちう)に往々(ゆく〳〵)は朝鮮(てうせん)へ軍(いくさ)を出(いだ)さんの。謀慮(ほうりよ) のある折柄(をりから)又(また)若(もし)康廣(やすひろ)か彼国(かのくに)の為(ため)反間(はんかん)もなりねべきは我国(わがくに)の大(おほい)なる妨(さまた)けたる 事(こと)なりとさてそ切(きつ)ては捨(すて)られしは深(ふか)き意(こゝろ)と聞(きこ)えける。    重(かさね)て《振り仮名:被_レ遣両使于朝鮮_一事|りやうしをてうせんにつかはさるゝこと》 秀吉公(ひてよしこう)既(すで)に橘康廣(たちばなのやすひろ)を誅殺(ちゆうさつ)あつて。後(のち)再(ふたゝ)ひ対馬大守(つしまのたいしゆ)平義智(たいらのよしあきら)柳川豊(やながはぶ) 前守(せんのかみ)調信(しけのふ)并(ならひ)に禅僧(ぜんそう)玄蘇(けんそ)《割書:号(かうす)仙(せん)|巣》を差添(さしそへ)られ重(かさ)ねて朝鮮国(てうせんこく)につかはし。通信(つうしん) 使(し)渡海(とかい)あるへき旨(むね)を催促(さいそく)せられける。此(この)義智(よしとも)は宗宗慶(そうのむねとし)か子孫(しそん)とし代々(たい〳〵) 此島(このしま)の領主(りやうしゆ)たり朝鮮(てうせん)順路(しゆんろ)の海道(かいたう)として彼国(かのくに)の近隣(きんりん)たれば。土地(とち)風俗(ふうぞく)海陸(かいりく) の案内(あんない)まて能(よく)そらんじたる故(ゆゑ)を以(もつ)て。此度(このたび)の使節(しせつ)を承(うく)るなり殊(こと)に義智(よしとも)は 秀吉公(ひてよしこう)の家臣(かしん)。小西摂津守(こにしせつゝのかみ)か婿(むこ)たれば秀吉公(ひてよしこう)の腹心(ふくしん)を明(あ)け示(しめ)さるゝの一 人なり又(また)義智(よしとも)いまた年/廿(は[た])たりと雖(いへと)も勇悍(ゆうかん)他(ひと)にすぐれ。殊(こと)に当時(たうし)権臣(けんしん)の 一家(け)につらなり。秀吉公(ひでよしこう)の目見(めみ)せ能(よき)につけ諸人(しよにん)これを畏服(いふく)すれば。柳川調(やなかはしげ) 信(のぶ)といへども。凡(すべ)て義智(よしとも)が指圖(さしづ)を承(うく)る処(ところ)とこそ聞(きこ)えけれ。両使(りやうし)は早(はや)く朝(てう) 鮮(せん)の王城(わうじやう)に打入(うちい)りたりければ。東平館(とうへいくわん)にこれを宿(しゆく)させてさま〳〵に饗応(きやうおう) せり。かくて朝鮮王(てうせんわう)其(その)意趣(いしゆ)を尋問(たづねとは)るゝに義智(よしとも)答(こたへ)て。幾回(いくたび)も貴国(きこく)通信(つうしん) の使(つかひ)を邀(むか)ふるに外(ほか)なし。今度(こんど)は義智(よしとも)調信(しげのぶ)両人(りやうにん)とともに通使(つうし)を誘引(ゆういん)せず んば本国(ほんごく)にかへるべからずといふ。是(これ)において彼国(かのくに)の諸臣(しよしん)胥集(あひあつま)つて評議(ひやうぎ)を なして云(いふ)。日本(につほん)の両人(りやうにん)に諷(ふう)して其実(そのじつ)に両国(りやうこく)の隣好(りんこう)を求(もと)むるに意(こゝろ)ありや。又(また)他(た) の陰謀(ゐんぼう)を構(かま)ふるや否(いなや)を先見(まづみ)よとて。其議(そのぎ)一に定(さだ)まれば乃(すなは)ち旅館(りよくわん)賓奏(ひんそう)の 役人(やくにん)に云(いは)せける。是(これ)より数年前(すねんさき)倭人(ねいじん)【ママ】來(きた)りて全羅生道(てるらだう)に寇(あだ)をなし。竹島(たけじま)を損(そん) じ其砌(そのみぎ)り。朝鮮国(てうせんこく)の辺将(へんしやう)李太源(りたいけん)を殺(ころ)せり。且(そのうへ)日本(につほん)の生口(さんこう)を獲(とら)へて聞(きく)に朝(てう) 鮮(せん)の辺(さかい)の氓(たみ)沙乙背同(しやいつはひどう)といへる者(もの)。国内(こくない)を逃亡(かけおち)して日本(につほん)の地(ち)に入(いり)やゝもすれば 倭(わ)の海賊(かいぞく)を導引(みちびい)て。寇(あだ)をなすにより朝鮮王(てうせんわう)の愠(いきとほ)り深(ふか)く此事(このこと)にある処(ところ) なり。しかれば今(いま)の謀(はかりこと)に日本(につほん)に在(あ)る処(ところ)の朝鮮(てうせん)の叛民(はんみん)を擒(とりこ)とし。送(おく)りかへされ なば通信(つうしん)の求(もと)めは早速(さつそく)に叶(かな)ふべきと。余所(よそ)ながら物語(ものかたり)なさしめける。義智(よしとも)聞(きゝ) てそれこそ易(やす)き望(のぞみ)なるべけれとて。早速(さつそく)平調信(たいらのしけのふ)を日本(につほん)へかへらしめ。未(いま)だ数月(すげつ) ならざるに悉(こと〳〵)く叛民(はんみん)の日本(につほん)の地(ち)にありける者(もの)。十四人まで生捕(いけどり)て朝鮮(てうせん)の王城(わうしやう)へ 来(きた)る。朝鮮王(てうせんわう)は仁政殿(じんせいでん)に出御(しゆつぎよ)なし大(おほい)に兵威(へいゐ)をそなへ。沙乙背同(しやいつはいどう)等(とう)を擒(とりこ) ながら庭上(ていしやう)に引(ひき)すへ。委細(ゐさゐ)に彼者共(かのものとも)の罪悪(さいあく)をせめ問(と)ふに。其(その)白状(はくじやう)明(あきら)かに発(はつ) する上(うへ)は。外(ほか)に再(ふたゝ)び詰問(なじりとふ)ことあらずとて。それより城外(しやうくわい)の常(つね)に刑罰([け]いばつ)をな すの地(ち)に引出(ひきいだ)し。斬罪(ざんざい)して捨畢(すておは)るこゝにおゐて義智(よしとも)には。内厩(ないきう)の馬(うま)一 匹(ひき)を賜(たま)ひ其後(そのゝち)また義智(よしとも)調信(しげのぶ)等(ら)の遣使(けんし)を殿内(でんない)にして饗宴(きやうえん)あり。其(その) よろこびを盡(つく)されけり。此時(このとき)衆議(しゆうぎ)紛々(ふん〳〵)として通信使(つうしんし)を。日本(につほん)に渡海(とかい)せし むべきの義(き)一 決(けつ)せず。相国(さうこく)柳成龍(りうせいりう)知事(ちし)邉恊(へんけう)等(ら)強(しひ)て啓(まふ)して使(つかひ)をつかはし。報(はう) 答(たふ)し給はん事(こと)のよろしかるべき旨(むね)を奏(そう)す。其(その)第一(たいゝち)には外(ほか)には和睦(わぼく)の義(き)をとゝのへ 内(うち)には彼国(かのくに)の動静(どうせい)を窺(うかゞ)ひ見(み)んこと。是(これ)失計(しつけい)にあらじと諫るに朝議(てうき)始(はしめ) て一に定(さだま)り。朝鮮王(てうせんわう)は柳成龍(りうせいりう)等(ら)に命(めい)して日本(につほん)への使(つかひ)すべき。器量(きりやう)の者(もの)をゑ らましむ時(とき)に。大臣僉知(だいじんせんち)黄允吉(くわういんきつ)司成(しせい)金誠(きんせい)一 等(とう)を抜(ぬき)んでたり。黄允吉(くわういんきつ)を 上使(しやうし)とし金誠(きんせい)一を副使(ふくし)となす。曲籍(でんせき)許箴(きよしん)を以(もつ)て書状官(しうしやうくわん)となし。庚寅(かのへとら) 年(とし)三月つゐに義智(よしとも)等(ら)と。おなじく朝鮮(てうせん)の湊(みなと)を船出(ふなて)してはるかに漕(こき) 向(むか)ふ。此度(このたひ)義智(よしとも)朝鮮(てうせん)の国王(こくわう)へ土産(みやけ)として。孔雀(くしやく)二 羽(は)ならびに鳥鋭(てうゑい) 宗(そう)対馬守(つしまのかみ)   義智(よしとも) 柳川(やなかは)豊前守(ふせんのかみ)   調信(しけのふ) 朝鮮(てうせん)の両使(りやうし) を引率(いんそつ)   して 聚楽城(しゆらくしやう)に   来(きた)る 鎗刀(さうたう)の類(るい)を献(けん)じたり。夫(それ)我朝(わかてう)に鉄砲(てつほう)の術(じゆつ)ある初(はじめ)を尋(たづ)ぬるに。後奈良院(ごならのゐん)の 御宇(ぎよう)天文(てんぶん)八 年(ねん)八月に。南蠻(なんばん)より渡海(とかい)の商船(しやうせん)悪風(あくふう)に漂泊(たゞよは)されて大隅国(おほすみのくに)種(たね) 子島(がしま)に吹(ふき)よせらる。海浜(かいひん)の魚人(きよじん)とも相集(あひあつま)りて何国(いづく)の者(もの)ぞと尋(たつ)ねけれども。その 言語(ごんご)通(つう)ぜねば解(げ)すへきやうのなき処(ところ)に。船中(せんちう)に大明国(たいみんこく)の儒生(しゆせい)便船(びんせん)したる五(こ) 峯便(ほうびん)と云(いへ)る者(もの)船(ふね)より出(い)で。筆(ふで)執(と)つて委細(いさい)を書(しよ)すによりてこそ其(その)蠻船(なんせん)たる をば知(しり)たるなり。嶋主(しまぬし)兵部丞(ひやうぶのじやう)時堯(ときたか)是(これ)を痛(いた)はり。暫(しばら)く旅館(りよくわん)に宿(しゆく)せしめて さま〳〵に饗應(もてな)しける。船長(ふなおさ)牟良叔舎(むらしゆくしや)時堯(ときたか)が其情(そのなさけ)の厚(あつ)きに感(かん)じ。 船中(せんちう)の宝(たから)たる蠻物(ばんもつ)多(おほ)く時堯(ときたか)に進(すゝ)むる中(うち)に。此鉄砲(このてつほう)あるを取出(とりいだ)し薬(くすり)を こめ火(ひ)を刺(さし)て目当(めあて)をして。放(はな)つて見(み)すれば忽(たちま)ち火雷(くわらい)の如(こと)き響(ひゞ)きあり。臭(くさ) き煙(けふり)雲(くも)を衝(つい)て。外(ほ)り。其(その)玉丸(ぎよくくわん)の当(あた)る処(ところ)は金石(きんせき)と雖(いへど)も打碎(うちくだ)き。劈穿(さきうがた)ずと 云ふことなきを軍用第一(ぐんようだいち)の重宝(ぢうほう)たるものなりとて。時堯(ときたか)にこれを与(あた)へ其(その)秘術(ひじゆつ)薬(やく) 方(ほう)までこと〴〵く伝授(でんじゆ)したりけり。当世(たうせい)に見(み)るところの短筒(たんつゝ)種(たね)か島(しま)と云(いへ)る。鉄砲(てつはう) は是(これ)なり時堯(ときたか)是(これ)を島津義久(しまつよしひさ)に送(おく)れば。義久(よしひさ)この器(き)をこしらへ将軍家(しやうぐんけ)に 奉(たてまつ)り。其術(そのじゆつ)を根来寺(ねごろし)の杉(すぎ)の坊(ぼう)に伝授(でんじゆ)せしを始(はしめ)としそれより次第(しだい)に妙用(みやうよう) を工夫(くふう)し来(きた)つて大小(だいしやう)鉄銅(てつどう)の筒(つゝ)は云(いふ)に及(およば)す。火矢筒(ひやつゝ)松樹紙(せうじゆかみ)をもつて張(は)れる 筒(つゝ)までもその術(じゆつ)諸国(しよこく)にくわしく成(な)りぬ。実(まこと)に武用(ぶよう)その技(ぎ)を尽(つく)せる時世(ときよ)とな るももとより武道(ぶだう)さかんなる我国(わがくに)の風俗(ふうぞく)ゆゑと聞(きこ)えけり。義智(よしとも)又(また)此物(このもの)を 朝鮮(てうせん)へも送(おく)りし故(ゆゑ)彼国(かのくに)始(はじめ)て鉄砲(てつほう)あるを知れりとなり    朝鮮(てうせん)の三使(さんし)来朝(らいてう)の事(こと) かくて朝鮮国(てうせんこく)の通信使(つうしんし)の三人と宗(そう)対馬守(つしまのかみ)義智(よしとし)【ママ】と桺川調信(やながわしげのぶ)。僧(そう)玄蘇(けんそ) 等(ら)と同じく四月二十九日には釜山浦(ふさんかい)に船(ふね)を発(はつ)し。対馬(つしま)の国(くに)に至(いた)り着(つき)ぬ此所(このところ)に留(とま) ること一日また船(ふね)を発(はつ)しすへて水行(すいこう)四十 余里(より)にして壱岐(いき)の島に到着(たうちやく)し。それ より長門国(なかとのくに)那古耶(なこや)などを歴(へ)過(す)ぎ。同七月二十二日に至(いた)りて京都(きやうと)洛陽(らくやう)の地(ち)に 到着(たうちやく)す。それより五条堀川(ごでうほりかは)本國寺(ほんこくじ)中(ちう)を旅館(りよくわん)と定(さだ)め。暫(しばら)く逗留(たうりう)の儀(き)をな さしむ。此時(このとき)に当(あた)つて秀吉公(ひでよしこう)は相州(さうしう)小田原(をだはら)。北条氏政(ほうてううちまさ)追討(つひとう)の為(ため)として 彼国(かのくに)に発向(はつかう)なし給ふの。御 ̄ン留守(るす)たれば御帰京(ごききやう)を待(まつ)ほどすでに数月(すげつ)を 経(へ)たりけり程(ほど)なく凱歌(がいか)し給ふと雖(いへ)ども。又(また)託(たぐ)するに城官(じやうくわん)修治(しゆぢ)の事(こと)ありと て。已(すで)に五月(ごげつ)を経(へ)て後(のち)朝鮮使(てうせんし)御対面(ごたいめん)有(あ)るべきの由(よし)を仰出(おふせいだ)されたり。三使(さんし)の 者(もの)は聚楽亭(じゆらくてい)に参上(さんじやう)し。朝鮮国王(てうせんこくわう)の書(しよ)を奉(ほう)ず其帖(そのてう)に云(いはく)。    朝鮮国王(てうせんこくわう)李㫟(りえん) 奉(たてまつる)_二書(しよを)   日本国王之殿下(につほんこくうわうのでんか)_一   春候(しゆんこう)和煦(くわく)動静(とうせい)佳勝(かしやうならん)遠伝(とほくつたふ)   大王(たいおう)一(いつ)_二-統(とうし)六十餘州(ろくじふよしうを)_一雖(いへとも)_レ欲(ほつすと)_三速(すみやかに)講(かうじ)_レ信(しんを)修(しゆして)_レ睦(むつひを)以(もつて)敦(あつうせん[と])_二隣好(りんこうを)_一恐(おそらくは)道路(たうろ)湮晦(いんかい)使(しめんことな)_三   臣行李(しんがあんりの)有(あら)_二淹滞之憂(あんたいのうれひ)【一点脱】歟(か)是以(こゝをもつて)多年(たねん)思而止矣(おもふてやみぬ)今(いま)令(しめて)_レ與(ともなは)_二貴介(きかいに)_一遣(つかはして)_二黄允(くわういん)   吉(きつ)金誠一(きんせいいつを)許箴之三使(きよしんのさんしを)_一以(もつて)致(いたす)_二賀辞(かじを)_一自(より)今(いま)以往(いわう)隣好(りんこう)出(いでば)_二于 他上(たのかみに)_一幸甚(こうじん)   仍(なほ)不腆(ふてん)土宜(とき)錄(ろくの)在(あり)_二別幅(へつふくに)_一庶幾(こひねがはくば)笑留(せうりうせよ)餘(よは)順(したかつて)_レ序(じよに)珍嗇(ちんしよくせよ)不宣(ふせん)     萬暦(はんれき)十八年三月日   朝鮮国(てうせんこく) 李㫟(りえん) 偖(さて)又(また)朝鮮国(てうせんこく)より関白(くわんはく)秀吉公(ひでよしこう)へ献上(けんじやう)の音物(いんもつ)別幅(へつふく)に書(しよ)する処(ところ)の品々(しな〳〵)朝鮮国(てうせんこく)の馬(うま)二 疋(ひき)大鷹子(おふたかのこ)十五 連(れん)鞍子(あんす)二 面(めん)《割書:并(ならびに)》諸(もろ〳〵の)馬具(はぐ)二通(ふたとほり)黒麻布(くろまふ)三十 疋(ひき)白綿紬(しろめんゆう)五十 匹(ひき)青斜皮(せいとひ) 十 張(ちやう)人参(にんじん)百 斤(きん)豹皮(ひやうひ)二十 張(ちやう)虎皮(とらのかは)二十五 張(はり)彩花毛氈‘(さいくわせん)十 枚(まい)紅綿紬(こうめんゆう)十 匹(ひき)清蜜(せいみつ)十一 壷(つぼ)豹皮(ひやうひ)心(しん) 兒皮(しひ)辺海松子六碩等と聞(きこ)えけり秀吉公(ひでよしこう)既(すで)に対面(たいめん)の儀(き)をはり乃(すなは)ち返翰(へんかん)を遣(つかは)さる其文(そのぶん)に曰(いはく)    近歳(きんさい)本朝(ほんてう)分(ふん)崩離(ほうり)析(せきし)兵革(へいかく)不(ざる)_レ止(やま)故(ゆゑに)予(われ)発(はつして)_レ憤(いきとほりを)不(ず)_レ過(すごさ)数(す)    年(ねん)宇内(うない)既(すでに)清夷(せいゐなり)矣 夫(それ)我(われは)固(まことに)甕(よう)牖(よう)【牗は俗字】縄(せう)枢(すう)之(の)周餘(しうよ)也(なり)然(しかれども)    慈母(じぼ)夢(ゆめみて)_三日輪(にちりん)入(いると)_二懐中(くわいちうに)【一点脱】而(しかふして)吾(われ)以(もつて)降(くだれり)時(ときに)有(あり)_二相士(そうし)_一曰(いはく)日(ひ)之(の)    所(ところ)_二照臨(せうりんする)_一莫(なし)_レ不(ずといふこと)_二砥(たいらぎ)属(つか)_一後来(こうらい)其(その)有(あらんこと)_二蓋(をほふの)【レ点脱】世(よを)之氣(き)_一不(ず)_レ可(べから)疑(うたかふ)焉    故(かるかゆへに)吾(われ)常(つねに)自負(じふす)一且(いつたん)乘(しようじ)_二時運(じうん)【一点脱】而 龍(りやうの如くに)飛(とび)東略(とうりやく)西征(せいせい)南伐(なんはつ)    北討(ほくとう)大功(たいこう)之(の)速(すみやか)成(なること)也 誠(まことに)如(ことし)_二大陽(たいやうの)一(ひとたび)外(のほりて)万物(ばんもつ)皆(みな)無(なきが)_一_レ不(ずと云こと)    _レ照(てらさ)焉 吾(われ)想(おもふに)人生(じんせい)不(ず)_レ満(みた)_レ百(もゝに)豈(あに)壱(いち)_二-鬱(うつとして)于 一方(いつほう)_一以(もつて)費(ついやかさん)_レ日(ひを)乎(や)    是(これ)故(ゆゑに)吾(われ)促(うながして)_二大兵(たいへいを)_一将(まさに)入(いり)_二大明(たいみんに)_一而 使(して)_二【左ルビ:しめんとす_下】一剣(いつけんの)霜(しもを)_一満(みた)_中 四百州(しひやくしうに)    之(の)天(てんに)_上唯(たゞ)是(これ)之(これを)願(ねがふ)耳(のみ)若(もし)然(しからば)則 必(かならす)以(もつて)_二貴国(きこくを)為(せん)_二前(せん)鋒(ばうと)_一也【注】 其(それ) 【注 金+夅は鋒の俗字】    必(かならず)勿(なかれ)_二遺失(いしつはすること)_一吾(われ)出(いださんの)_二軍(くんを)于 大明(たいみん)_一之 時(とき)弥(いよ〳〵)與(と)_二貴国(きこくと)_一結(むすはん)_二交隣(かうりん)    之(の)好(よしみを)_一而已(のみ) 秀吉公(ひでよしこう)より朝鮮(てうせん)の上副使(じやうふくし)共(とも)に。銀(きん)四百 両(りやう)を賜(たま)ふ其外(そのほか)書状(しよじやう)通事官(つうじくわん)以上(いじやう)各々(おの〳〵) 差(しな)あつて。御 ̄ン暇(いとま)賜(たま)はりければ今日(こんにち)京都(きやうと)を発(はつ)し。帰国(きこく)にこそは趣(おもむ)きける。    棄君(すてきみ)誕生(たんぜう)《割書:并(ならひに)》逝去(せいきよ)の事(こと) 明(あく)れは天正(てんしやう)十九 年(ねん)正月元日。秀吉公(ひでよしこう)今日(こんにち)参内(さんだい)の御儀式(ごぎしき)華(はな)をかざり。路(ろ) 次(じ)の警衛(けいえい)嚴重(げんぢう)に執行(とりおこな)はせ給(たま)ふて。公事(おほやけ)の御祝事(おんいわひこと)をはりければ。東西南(とうざいなん) 北(ぼく)の諸大名(しよだいみやう)聚楽城(じゆらくしやう)に相集(あひあつま)りて。年頭(ねんとう)の御 ̄ン慶(よろこび)申 上(あぐ)る。去年(きよねん)相州(さうしう)小田(をだ) 原(はら)一戦(いつせん)に北条氏政(ほうでううちまさ)頭(かうべ)を授(さづく)るの後(のち)は天下一統(てんかいつとう)の御代(みよ)とをさまり。吹風(ふくかぜ)枝(えだ)をな らさず長閑(のどか)なる春(はる)に立回(たちかへ)【囘は古字】り。京洛(けいらく)伏見(ふしみ)大坂(おほさか)の間(あひだ)には万馬(ばんば)の往来(わうらい)。日々(ひゞ)路頭(ろとう)を 去(さ)りあへず。目出度(めでたき)御代(みよ)の瑞祥(しるし)ぞと喜(よろこ)ばざる者(もの)もなし。秀吉公(ひでよしこう)しば〳〵諸大(しよだい) 名(みやう)近従(きんじふ)の第宅(ていたく)に御駕(おんが)をまげられ。茶(ちや)の会(くわい)遊楽(ゆうらく)さま〳〵の観(みもの)をつくして観(くわん) 樂(らく)を極(きわ)め給ふ。中(なか)にも技曲(きゞよく)をすかせ給へ南都四座(なんとよざ)の猿樂(さるらく)どもを召聚(めしあつ)めて。その家(いへ) 々(いへ)の秘曲(ひしよく)を尽(つく)させ上覧(しやうらん)あるこそ目出度(めでた)けれ。又(また)去年(きよねん)の夏(なつ)秀吉公(ひでよしこう)の愛(あひ)【ママ】さ せ給ふ。女中(ぢよちう)の腹(はら)に男子(なんし)出来(てき)させ給ふあり。此女(このおんな)は浅井備前守長政(あさゐびぜんのかみながまさ)が女(むすめ)なり。 秀吉公(ひでよしこう)御齢五十(おんよわひいそじ)に逾(こへ)給ふまで。未(いま)だ一處(ひとゝころ)の御子(おんこ)も出来(でき)給はぬに適々(たま〳〵)儲(まうけ)給ひ たる。御 ̄ン子(こ)なるをましてや男子(なんし)にさへおはしませば。其(その)折節(をりせつ)の御 ̄ン祝(いわひ)大方(おほかた)なら ず。されば諸大名(しよだいみやう)の在京(ざいきやう)あるは申(まう)すに及(およ)ばず。国々(くに〳〵)より若君(わかぎみ)の出来(でき)させ給ふ 慶賀(けいが)のためとて。参勤(さんきん)の輩(ともから)あれば或(あるひ)は遠路(えんろ)の使者(ししや)飛脚(ひきやく)。毎日(まいにち)引(ひき)もきら すさゞめきわたり。京中(きやうぢう)の貴賎(きせん)の往来(わうらい)はにぎやかなりし事(こと)どもなり。即(すなは)ち御(おん) 名(な)を始(はじめ)は棄君(すてぎみ)と名付(なづけ)給ふが。あまり寵愛(てうあい)の意(こゝろ)より八幡太郎殿(はちまんたらうどの)と御 ̄ン名(な)をかへ させ給ふて。掌中(たなこゝろ)の珊瑚(さんこ)優曇華(うどんげ)の花(はな)よりも猶(なほ)珍布(めづらしく)もてなし給ひける。目出度(めでたき) 中(なか)に其年(そのとし)も暮(く)れ。今年(ことし)もはや九月 中半(なかば)に成(なり)にける。かゝる所(ところ)に八幡太郎殿(はちまんたらうどの)い かなる故(ゆゑ)ともなく。俄(にはか)に病(やまひ)つかせ給へは秀吉公(ひでよしこう)を初(はじ)めまゐらせ。内外(ないげ)の人々(ひと〳〵)手(て)に 汗(あせ)を握(にぎ)りて如何(いかゞ)あらんと云(いへ)るほど。次第(しだい)に御 ̄ン氣色(けしき)。重(おも)らせ給ふを諸方(しよはう)の名(めい) 医(い)。自己々々(おのれ〳〵)が良法(りやうはう)の覚(おぼ)へを尽(つく)し。御祈(おんいのり)の師(し)は丹誠(たんせい)を抽(ぬき)んづるといへども。 終(つひ)には医療(いりやう)の術(しゆつ)もたへ。神仏(しんぶつ)の加護(かご)の験(しるし)もなきにや。今(いま)は此世(このよ)のかぎりとなつ て。女中(ぢよちう)の歎(なけ)き諸臣(しよしん)の譟動(さうどう)云(いふ)ばかりなく哀(あは)れなり。中(なか)に就(つい)て秀吉公(ひでよしこう)の御悼(おんいたみ) 悲歎(ひたん)の涙(なみだ)には袂(たもと)のかはく間(ま)もなし。情愛(じやうあい)常(つね)に思(おもひ)に焦(こが)れ惨怛(さんだつ)の色(いろ)肝(きも)を乾(かは) かす。近從(きんじふ)の輩(ともがら)其(その)哀情(あいじやう)を示(しめ)さんとて髪(かみ)を断(き)り。若君(わかぎみ)の喪(も)にこもれる人(ひと)もあり 秀吉公(ひでよしこう)は憂鬱(ゆううつ)の御意(おんこゝろ)斯(かく)ても慰(なくさ)む事(こと)もありやと。清水寺(せいすいじ)に参詣(さんけい)ありて 彼所(かしこ)に滞留(たうりう)し給ふこと三日までに至(いた)りける。音羽山(おとはやま)の松(まつ)の風(かぜ)瀧(たき)の響(ひゞ)きに音(おと)そふ るに。暁(あかつき)の夢(ゆめ)打(うち)さめ寝(ね)られぬまゝの思(おも)ひより。却(かへつ)て若君(わかぎみ)の哀(あひ)を引出(ひきいだ)す種(たね)とこそ なれ。何(な)に慰(なださ)む意(こゝろ)はなく秀吉公(ひでよしこう)つく〳〵と。寝(ね)られぬ枕(まくら)をそはだてゝ思(おも)ひつゞけ 給ひけるやう。さても往古(いにしへ)より中華(もろこし)の軍兵(ぐんひやう)来(きた)つて。我国(わがくに)を侵(おか)せること幾度(いくたび)と云(いふ) 事(こと)なし。然(しか)れども本朝(ほんてう)より外国(ぐわいこく)を伐(うち)しことは。神功皇后(しんごうくわうごう)の三韓(さんかん)を征伐(せいばつ)し 給ふの外(ほか)。いまだ聞(きか)ざることなり今(いま)我(われ)卑賎(ひせん)の民間(みんかん)より震起(ふるひおこ)り。位(くらゐ)人官(にんくわん)の極(きは)め に至(いた)り六十 州(しう)を掌(たなごゝろ)の中(うち)に握(にぎ)れる身(み)となれば。何(なに)不足(ふそく)の事(こと)もなく一生(いつせう)は憂(うれひ)なき の地(ち)に座(ざ)し。起臥(おきふし)老(おひ)の安身(あんしん)をこそ樂(たのし)むべきと思(おも)ひつる甲斐(かひ)もなく方(まさ)に今(いま)掌中(しやうちう) に珠(たま)くだけては再(ふたゝ)びかへる光(ひかり)なく。枝上(しじやう)に花(はな)散(ちり)て遂(つひ)に栄(さか)ふる色(いろ)を不見(みず)。されば 世間(せけん)のありさまを熟(つく〴〵)と案(あん)ずるに。幼年(ようねん)は泉中(せんちう)の夢(ゆめ)暁(あかつき)知(し)らぬ別(わか)れとなり。余(よ) 筭(さん)は風前(ふうぜん)の燈(ともしび)暮(くれ)をも頼(たの)まぬ憂(うれひ)に沈(しづ)んで。既(すで)に此生(このしよう)を蹙(しゞめ)んとす大丈夫(だいぢやうぶ)豈(あに) 鬱々(うつ〳〵)として歎(なげ)きに死(し)することあらんや。秀次(ひでつく)を以(もつ)て帝都(ていと)の守護(しゆご)となし。日(につ) 本国中(ほんこくちう)の事(こと)を掌(つかさどら)しめ。我(われ)は将(まさ)に大明国(たいみんこく)に入(いつ)て皇帝(くわうてい)とうちなつて。老(おひ)の鬱(うつ) 情(じやう)を晴(はら)さんに何(なん)の子細(しさい)かあるべき。其上(そのうへ)去年(きよねん)書翰(しよかん)を朝鮮(てうせん)に馳(は)せて略(ほゞ)此事(このこと)を 通(つう)ずと雖(いへ)ども。彼国(かのくに)未(いま)だ有無(うむ)の沙汰(さた)なし。是(これ)又(また)罪(つみ)せずんば有(あ)るべからず。我(わ)れ 思(おも)ふに先(まづ)大明(たいみん)をば打(うち)すて置(おき)。朝鮮(てうせん)を征伐(せいばつ)して朝鮮(てうせん)我(わ)が意(こゝろ)にしたがはゞ。彼(かれ)が兵(へい)を 先手(さきて)として軍(いくさ)を進(すゝ)めんに従(したがは)すんば。こと〳〵攻夷(せめたいら)ぐべし直(すぐ)に我(わ)が鉾先(ほこさき)を以(もつ)て。 大明(たいみん)に入(い)らんには手間(てま)どる事(こと)あるべからずと。思案(しあん)し給へ早々(そう〳〵)聚楽城(じゆらくじやう)に還(かへ) らせ給ふは。ひとへに邪慢(じやまん)の天狗(てんく)どもよき折(をり)を窺(うかゞ)ひ。秀吉公(ひでよしこう)の心中(しんちう)に入(いり)かはりて障(しやう) 【右丁】 大閤秀吉公(たいかうひでよしこう) 大広間(おほひろま)に 出御(しゆつぎよ)五大老(ごたいらう) 中老(ちうらう)五奉行(ごふきやう) をはじめ 諸役人(しよやくにん)   諸大名(しよたいみやう)を  集(あつ)め給ひ 朝鮮(てうせん) 征伐(せいはつ)の事(こと)を 仰出(おほせいだ)さる 主計頭(かずへのかみ) 清正(きよまさ) 先手(さきて)を 乞(こ)ふ 【左丁 絵画のみ】 㝵(げ)をなすとぞ聞(きこ)えける。    秀吉公(ひでよしこう)朝鮮征伐(てうせんせいばつ)思立(おもひたち)の事(こと) 偖(さて)も秀吉公(ひでよしこう)清水寺(きよみつてら)より帰城(きじやう)あつて。近従(きんじふ)の人(ひと)に仰(おふ)せ付(つけ)られ早々(さう〳〵)。大老(たいらう)中老(ちうらう) 五奉行(ごぶぎやう)の者(もの)共(ども)は云(い)ふに及(およ)ばず。其外(そのほか)諸(もろ〳〵)の老功(らうこう)ある大将(たいしやう)ども末々(すゑ〳〵)の輩(ともがら)に至(いた)るま て。こと〴〵く相誥(あひつむ)【詰とあるところ】べし評議(ひやうぎ)せんずる事(こと)ありと。触渡(ふれわた)すべきの上意(じやうい)あれば是(これ)は 如何(いか)なる珍事(ちんじ)ぞと。各々(おの〳〵)驚(おどろ)き早速(さつそく)にこの趣(おもむき)を述(のべ)たりけり此時(このとき)に。 大権現(だいごんげん)德川公(とくがはこう)。前田利家(まへだとしいへ)。浮田秀家(うきたひでいへ)。毛利輝元(もうりてるもと)。小早川隆景(こはやかはたかかげ)。これを天下(てんか) の大老(たいらう)となし。生駒雅樂頭(いこまうたのかみ)。中村式部少輔一氏(なかむらしきぶせふゆうかつうぢ)。堀尾帯刀吉晴(ほりをたてわきよしはる)。を以(もつ)て中老(ちうらう) と定(さだ)められたり。五奉行(ごぶぎやう)はなを前(まへ)に定(さだ)めおかるが如(ごと)くなり。時(とき)をうつさず在京(さいきやう) の諸大名(しよだいみやう)役人(やくにん)まで登城(とじやう)あり。何事(なにごと)をか仰出(おふせいだ)さるゝやらんと思(おもひ)をこらして仕(し) 候(こう)ある程(ほど)なく。秀吉公(ひでよしこう)御出座(ごしゆつざ)あつて上意(じやうゐ)有(あり)けるは。日本(につぼん)すでに我手(わがて)に入(いり)て 天下(てんか)一 統(とう)の代(よ)となる事。一ッは面々(めん〳〵)の軍功(ぐんこう)ある故(ゆゑ)か。それにつゐては此国(このくに)を は中納言(ちうなごん)に渡(わた)し。《割書:三好中納言秀次(みよしちうなごんひでつぐ)|秀吉公(ひでよしこう)の甥(おひ)なり》摂政(せつしやう)関白(くわんはく)ともに天機(てんき)をうかゞつて。彼(かれ)に 譲(ゆづ)り京都(きやうと)の守護(しゆご)とし。我(われ)大明(たいみん)に打渡(うちわた)りて彼(かの)所(ところ)をうちしたかひて隠居(ゐんきよ) 所(じよ)とせんとおもふが故(ゆゑ)。兼(かね)て去年(きよねん)朝鮮(てうせん)の使(つかひ)にもこの義(ぎ)をすでに云(いひ)つかはすの ところ。其(その)返答(へんたふ)もいまだ是非(ぜひ)の沙汰(さた)におよばず。しかる時(とき)は彼国(かのくに)の怠(おこた)りなり。 是(これ)を征伐(せいはつ)せすんば有(ある)べからずことには。我(われ)すでに老屈(らうくつ)を催(もよほ)したれば事(こと)遅々(ちゝ) におよぶ時(とき)は。その願(ねかひ)ひ中途(ちうと)にして空(むな)しからんは口(くち)おしき次第(しだい)なるへし。是(これ) によつて俄(にはか)におもひ立(たつ)ところなり。二ッには日本(につほん)は小国(しやうこく)ゆへおの〳〵旧功(きうこう)の輩(ともがら)に 爵禄(しやくろく)を与(あた)へんと欲(ほつ)しても。我意(わかこゝろ)に叶(かな)はざれば我(わ)か武功(ふこう)の太刀先(たちさき)にて。大国(たいこく) の山(やま)も川(かは)もみな我手(わがて)に入(い)れ。功作(こうさく)ある者(もの)どもには意(こゝろ)の如(ごと)く知行(ちぎやう)をも所持(しよぢ) させん事(こと)は。なんぼうこゝろよき老(おひ)のなぐさみ頃日の鬱朦(うつもう)をはらさんに。此上(このうへ)は 有(ある)べからずとおもひ立(たつ)が故(ゆゑ)。諸老中(しよらうぢう)ともへ申 談(たん)せんため召(めし)よせしなり。おの〳〵は 何(なん)とおもふぞ異見(ゐけん)あらば。遠慮(ゑんりよ)なく申さるべしと上意(じやうゐ)ある。大老(たいらう)の面々(めん〳〵) より五奉行衆(こぶぎやうしゆう)にいたるまで。おもひもよらぬ珍事(ちんじ)を承(うけ給は)り。当座(たうざ)に何(なん)と御返(ごへん) 荅(たふ)申さんやうなく。アツト計(はかり)にて互(たがひ)に目(め)と目(め)を見合(みやわせ)【語尾衍】せしばらく言葉(ことば)を出(いだ) す人(ひと)もなし。実(じつ)に數百年来(すひやくねんらひ)日本(につほん)の大乱(たいらん)となつて。東西(とうざい)の国(くに)の終(おはり)まで年(ねん) 々(〳〵)の戦闘(せんとう)に父(ちゝ)に離(はな)れ子(こ)を殺(ころ)し。百 姓(しやう)は賦役(ふやく)にかり立(たて)られ人馬(にんば)非理(ひり)の労(らう) 困(こん)によつて。安(やす)き間(ひま)なき若(く)なりしもやうやく去年(きよねん)の秋(あき)よりこそ。暫(しばら)く大(たい) 平(へい)のきさしを顕(あらは)し。民(たみ)も公家(こうけ)も安楽(あんらく)の気(き)に移(うつ)らんとする時(とき)。又(また)大軍(たいぐん)を 動(どう)じでしらぬ行末(ゆうゑ)の風波(ふうは)をしのひて。見(み)も聞(きゝ)もせぬ人(ひと)の国(くに)へ怨(うら)みも起(おこ) らぬ兵戈(へいくわ)を動(どう)じおもむかんことは。妻子(さいし)の難(なげ)き父母(ふぼ)の情(こゝろ)まで一々おもひ つゞりみるほど。誰(たれ)一人の意(こゝろ)に宜(よろ)しとおもふべき満座(まんざ)の人々(ひと〳〵)さしうつむひて。 居(ゐ)たる許(ばかり)なり。斯(かく)ては上(かみ)の仰(おほせ)の御挨拶(こあいさつ)間抜(まぬけ)の仕(し)たる体(てい)に見(み)ゆる処(ところ)を。 徳川公(とくがはこう)しづかに仰出(おほせいだ)されて。是(これ)はめつらしき御沙汰(ごさた)にも御座(おはします)かな。一 段(だん)しかる べうおぼへ候とある秀吉公(ひでよしこう)の御顔色(ごがんしよく)うるはしく見(み)へたるに。是(これ)につゞひて 高列(かうれつ)を出(いで)て申 上(あぐ)る旨(むね)あるは。加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)なり高声(かうしやう)にはり あげて。偖(さて)も其昔(そのむかし) 神功皇后(しんかうくわうこう)の三 韓(かん)を攻(せめ)給ひしより。朝鮮(てうせん)は我国(わがくに) の犬(いぬ)同前(どうせん)の定(あため)【ママ】にして。此方(こなた)の下知(げぢ)につき貢物(みつきもの)をも怠(おこた)りなく。年々(ねん〳〵)持参(じさん) の筈(はづ)なるに。それさへ近代(きんたい)は其(その)沙汰(さた)を取失(とりうしな)ひ。につくひ仕形(しかた)に候あまつさへ 御 ̄ン尋(たつね)のおもむきの御 ̄ン返事(へんじ)まで遅々(ちゝ)におよぶ事(こと)その科(とが)宥免(ゆうめん)なされかたき 事(こと)勿論(もちろん)の義(ぎ)にて候なり殊(こと)には八 幡殿(まんどの)の御追善(こつゐせん)にも高麗(かうらい)へ御人数(こにんす)を つかはされ面々(めん〳〵)の手柄次第(てがらしだい)に御知行(ごちぎやう)を下(くた)され武士(ぶし)の意(こゝろ)を悦(よろこは)せ給はんは是(これ) に過(すぎ)たる御法事(ごはふじ)は候まじ弥(いよ〳〵)事(こと)の決(けつ)する上(うへ)は清正(きよまさ)身(み)不肖(ふせう)に候へど御 ̄ン先(さき) 手(て)の御免(ごめん)蒙(かうふ)り生(いき)ながら高麗王(かうらいわう)を引(ひつ)とらへ対定乞(たいぢやうこひ)を仕(つかまつ)らせ日本(につほん)への 年貢諸役(ねんぐしよやく)をつとめさせそれより大明(たいみん)の案内(あんない)に駆立(かりたて)て分捕(ぶんどり)高名(かうみやう)仕(つかまつ)ら んは子細(しさい)なき事に候といきり切(きつ)て申せば秀吉公(ひでよしこう)は大(おほひ)に御機(ごき)げんよくて 称(なんぢ)が申す通(とほ)り聊(いさゝ)か吾(わが)こゝろに違(たが)ふ事(こと)なしと即時(そくし)に人數(にんす)割備(わりそなひ)定(さた)め の評定(ひやうぢやう)を仰出(おほせいだ)されけるとなり 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之三《割書:終目》 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之四       目録  一 朝鮮征伐(てうせんせいばつ)船造(ふなつくり)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)書(しよ)を琉球国(りうきうこく)へ遣(つかは)さるゝ事(こと)  一 朝鮮(てうせん)大明(たいみん)へつぐる事(こと)  一 朝鮮国(てうせんこく)日本(につほん)の軍(ぐん)をおそる《割書:并》英雄(えいゆう)を選(えらぶ)事(こと)  一 朝鮮(てうせん)に到(いた)る人数(にんず)着当(ちやくたう)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)筑紫(つくし)御進発(ごしんはつ)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)所々(しよ〳〵)神社(じんじや)御参詣(ごさんけい)の事(こと)  一 渡海(とかい)の諸将(しよしやう)軍評諚(いくさひやうちやう)《割書:并》 逆風(きやくふう)に逢(あふ)事(こと)  一 小西行長(こにしゆきなが)抜懸(ぬけがけ)《割書:附 》藤堂高虎(とう〴〵たかとら)唐島(からしま)を放火(はうくわ)の事(こと) 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之四    朝鮮征伐(てうせんせいばつ)船造(ふなつくり)の事(こと) 五奉行(ごぶぎやう)の人々(ひと〳〵)は。すでに如此(かくのごとく)備定(そなひさだ)めの仰(おほせ)出(いだ)され有(ある)うへは。是(これ)を今(いま)さらとゞめ申 すとも。事止(ことやむ)むべき義(ぎ)にあらねば。諸大名(しよだいみやう)に触渡(ふれわた)して早(はや)く御 ̄ン支度(したく)をな さしむるにしくべからずと。一々 次第(しだい)に触(ふれ)つかはし城内(じやうない)に是(これ)を招集(めしあつ)めて。此儀(このぎ)を かたく決定(けつぢやう)せり。第一(たいゝち)に標汒(ひやうぼう)たる海路(かいろ)を大軍(たいぐん)の押渡(おしわた)らんに。船楫(ふねかぢ)悪(あし)ふしては叶(かなふ) べからずと。御 ̄ン船奉行(ふねぶぎやう)九鬼大隅守嘉隆(くきおほすみのかみよしたか)を伊勢(いせ)の浦辺(うらべ)につかはし。 大(おほ)いなる軍船(ぐんせん)数(す)百 艘(さう)造(つく)らしむ。その第一(たいゝち)に尤(もつとも)大(おほ)いなるをば日丸(につほんまる)と 号(ごう)して。これ秀吉公(ひでよしこう)の召(め)さるべき御座船(ござふね)の領(れう)とぞ聞(きこ)えたりその 外(ほか)四国(しこく)中国(ちうごく)九州(きうしう)の船(ふね)たよりよき国々(くに〳〵)の大名(たいみやう)も。各(おの〳〵)渡海(とかい)の仕度(したく)のために 大船(おほふね)多(おほ)く作(つく)り立(たて)て。兵粮米(ひやうらうまい)を儲(たくは)へ軍兵(ぐんひやう)を催促(さいそく)して。人々(ひと〳〵)打立(うちたつ)べき用意(ようい) の外(ほか)今更(いまさら)余事(よじ)はなかりける。時(とき)に秀吉公(ひでよしこう)重(かさ)ねて仰(おほせ)いださるゝは。来年(らいねん) 正月 先陣(せんぢん)の兵(へい)どもははやく洌山(うるさん)にすゝみ。二三月に至(いた)つて諸軍(しよぐん)こと〳〵く 渡海(とかい)すべし。我(われ)まさに旅館(りよくわん)を肥前(ひぜん)名護屋(なごや)につくり。其所(そのところ)に居(ゐ)て軍旅(ぐんりよ)の 指図(さしづ)におゐて如此(かくのごとく)は。便(たよ)りよからんか又(また)東国(とうごく)の兵士(へいし)は。山谷(さんこく)馬上(ばじやう)にのみ達(たつ) 者(しや)にして。舟軍(ふないくさ)に不勝手(ふかつて)なれば是(これ)をば名護屋(なごや)に屯(あつ)め置(おき)。その国(くに)の遠近(えんきん)を はかりて兵(へい)の多少(たしやう)を出(いだ)さすべし。其(その)また方角(はうがく)の近(ちか)からんところは。常(つね)の軍役(ぐんやく) なかばを出(いだ)すべし。遠(とほ)くして勝手(かつて)のよからぬは其兵(そのへい)三が一。或(あるひ)は五分(ごぶ)にして其(その)一を出(いだ) して何(いづ)れもまさに此法(このはう)を守(まも)るべし。又(また)南海(なんかい)四国(しこく)九州(きうしう)の兵(へい)はつねに。舟軍(ふないくさ)になれ たらん者共(ものども)は。皆々(みな〳〵)朝鮮(てうせん)に押(おし)わたりて軍功(くんこう)をはげますへしと。約束法度(やくそくはつと) を定(さだ)めて又(また)京都(きやうと)の警衛(けいえい)大坂(おほさか)の番手(ばんて)まで。其(その)人数(にんず)を定(さだ)め置(おか)れけり。    秀吉公(ひでよしこう)書(しよ)を琉球国(りうきうこく)へ遣(つかは)す事(こと) 秀吉公(ひでよしこう)はこゝに於(おゐ)て今度(こんど)朝鮮征伐(てうせんせいばつ)のあらんとすることを琉球国(りうきうこく)にも 告知(つけし)らせ其(その)威風(いふう)をしめさんとて一書(いつしよ)をしたゝめ。島津兵庫頭(しまづひやうごのかみ)に仰付(おふせつけ) られて贈(おく)り遣(つかは)さる其趣(そのおもむき)に曰(いはく)   吾(われ)勃(ほつ)_二興(こふし)于 蓬(ほう)姿(しに)_一順(したがつて)_二武威(ぶい)之(の)運(うんに)_一 六十(ろくじう)餘州(よしう)既(すでに)入(いる)_二彀(やごろの)中(うちに)_一   故(ゆゑ)。殊域(しゆいき)避方(かほう)来庭(らいていする)者(もの)不(からず)_レ少(すくな)吾(われ)今(いま)将(まさに)_レ征(せいせんと)_二大明(たいみんを)_一是(これ)天(てんの)所(ところ) _レ授(さづくる)也(なり)蕞(すこし)禾(きなる)琉球(りうきう)未(いまだ)【左ルビ:■】_レ通(つうぜ)_二聘帛(へいはくを)_一吾(われ)欲(ほつす)_下遣(つかはして)_レ兵(へいを)征(せいせんと)_上_レ之(これを)而(しかも)原田(はらだ)   孫七朗(まごしちらう)以(もつて)_二南舶(なんはく)之(の)有(ある)_一_レ利(り)故(ゆゑに)屢(しば〳〵)往(わう)-_二来(らいす)于 琉球(りうきうに)_一比(この)頃(ころ)俾(▢て)_下【左ルビ:■しむ】   近臣(きんしんを)_一達(たつ)_中-告(こう)吾(われに)_上曰(いはく)速(すみやかに)赴(おもむき)_二琉球(りうきうに)_一説(とかば)_下本朝(ほんてう)征(せいする)_二明国(みんこくを)_一之(の)旨(むねを)【上点脱】則(すなはち)   其(その)来亨(らいきやうせんこと)不(ず)_レ可(べから)_レ疑(うたがふ)焉 是(この)故(ゆゑに)余(よ)暫(しばらく)宥(なだめ)_レ之(これを)来春(らいしゆん)出(いだす)_レ師(いくさ)之(この)日(ひ)   速(すみやかに)可(べし)_二来(きたり)謁(ゑつす)_一若(もし)怠(おこたつて)而不(すんば)【レ点脱】至(いたら)則(すなはち)其(それ)必(かならず)遣(つかはし)_二大 兵(へいを)_一焼(やき)_二其(その)城郭(しやうくわく)_一   鏖(みなごろし)_二其(その)島民(たうみんを)_一可(べし)_レ運(めくらす)_二于掌上(たなごゝろのうえに)_一 と認(したゝ)めて是(これ)を贈(おく)られけるところに。琉球(りうきう)の君臣(くんしん)この書(しよ)を得(え)て大(おほい)に驚(おとろ)き早速(さつそく) に官人(くわんにん)。鄭禮(ていれい)と云者(いふもの)を使(つかひ)とし大明国(たいみんこく)へこの旨(むね)を告(つ)け訟(うつた)ふ。福建(ふくけん)巡撫使(しゆんぶし)趙(てう) 参魯(さんろ)といへる者(もの)の吹虚(すいきよ)によりて。日本 入寇(にゆこう)するの支度(したく)専(もつぱ)らなる由(よし)伝(つた)へ承(うけ給は)る 所(ところ)なりと。委曲(いきよく)に子細(しさい)のやうを申(まう)せば又(また)江右(こうゆう)の閩人(みんじん)許議(きよき)といふ者(もの)。近年(きんねん)薩(さつ) 摩(ま)の国(くに)に在(あり)て医(い)を業(げふ)として居(ゐ)たりけり又(また)同郷(どうきやう)朱均(しゆきん)といへる者(もの)是(これ)も 薩摩(さつま)の国(くに)に居(ゐ)たりしが。蜜(ひそか)に相議(あひぎ)して福建(ふくけん)の守(まも)りたる大明の臣(しん)に右(みき) の旨(むね)を告(つげ)やりける大明帝(たいみんてい)は敢(あへ)て是等(これら)を恐(おそ)るべき事(こと)ともせず。唯(たゝ)海浜(かいへん) の兵士(へいし)に令(れい)して軍船(ぐんせん)をとゝのへたる用心(ようじん)の事(こと)ばかりなり。琉球(りうきう)よりも日本(につほん)へ 返(へん)書も贈(おく)らすして。さて止(や)みたりける    朝鮮(てうせん)大明(たいみん)へ急援(きふえん)を告(つぐ)る事(こと) 茲歳(ことし)大明国(たいみんこく)萬暦(ばんれき)辛卯(かのとう)は。日本(につほん)の天正(てんしやう)十九 年(ねん)に当(あた)れり。然(しか)れば去年(きよねん) 朝鮮(てうせん)より我国(わがくに)へ指遣(さしつかは)すところの。来使(らいし)黄允吉(くわういんきつ)金誠一(きんせいいつ)が等(ともから)此春(このはる)に至(いた)り て帰国(きこく)なす。両使(りやうし)はすでに来朝(らいてう)して日本(につほん)にありし時(とき)。彼国(かのくに)のもてなしの 体(てい)より始(はじ)め。秀吉公(ひでよしこう)の風度(ふうど)諸臣(しよしん)のやうすまてくわしく是(これ)を述(のべ)おわつて 再(ふたゝ)ひ誠一(せいいつ)申(まうす)やう。我等(わかともから)まさに帰国(きこく)せんとするに当(あた)りて。彼国(かのくに)の荅書(たふしよ)を 裁(さい)せず。先(まづ)両人(りやうにん)の者(もの)は回(かへ)り去(さ)るべし後(あと)より荅書(たふしよ)をやらんと云(い)ひし。其時(そのとき) 【右丁】 朝鮮王(てうせんわう) 日本(につほん)より帰(かへ)る の両使(りやうし)を召(め)し。 諸臣(しよしん)朝参(てうさん) して一たびは 怒(いか)り一たびは おそる 【左丁 絵画のみ】 我等(われら)重(かさ)ねて申けるゆうは。使臣(ししん)として国書(こくしよ)を奉(ほう)じ来(きた)りながら。若(もし)其(その)返書(へんしよ) を受(うけ)ずして帰参(きさん)いたしなば。是(これ)君命(くんめい)を草(くさ)【艸】莽(むら)に委(すつ)るに同(おな)じからんの条(でう) 是非(ぜひ)ともに乞受(こひうけ)て回(かへ)らんと申(まう)せしを。允吉(いんきつ)若(もし)や強(しひ)て此事(このこと)を請(こひ)なば秀(ひで) 吉(よし)か意(こゝろ)に逆(さか)つて。長(なか)く彼国(かのくに)に押留(おしとゞめ)られなんかと。俄(にはか)に我等(われら)をすゝめて海(うみ) 界(きは)の浜(はま)まで到(いた)り回(かへ)りて相待(あひまつ)とき。荅書(たふしよ)始(はじ)めて到来(たうらい)せりされども其(その)ことば 礼(れい)なく。人(ひと)を慢(あなど)るの体(てい)多(おほ)くありし故(ゆゑ)。再三(さいさん)押返(おしかへ)してこれを改(あらた)めさせたる処(ところ) なり。偖(さて)又(また)其(その)経来(へきた)る所々(ところ〳〵)の国主(こくしゆ)どもの贈(おく)り与(あた)ふる品々(しな〴〵)の音物(いんもつ)をは。金誠(きんせい) 一(いつ)全(まつた)く此(これ)を退(しりぞ)けて少(すこ)しも受納(うけおさむ)ることなしと語(かた)る。是(これ)より先(さき)黄允吉(くわういんきつ)すでに 釜山(ふさん)に回(かへ)り泊(とま)るとき。一使(いつし)を馳(はせ)て王城(わうしやう)へ其(その)量見(りやうけん)を述(のべ)て曰(いは)く日本(につほん)の様(やう)を 窺(うかゞ)ひ候にかならず兵禍(へいくわ)ちかきに起(おこ)り来(きた)り候はんか。早(はや)く御用心(こようじん)の事(こと)ある べしこれによつて先(さき)だつて注進(ちうしん)に及(およ)べりと訟(うつた)へしにより。今日(こんにち)当着(たうちやく)の時(とき)早々(さう〳〵)此(この) 議(き)を相謀(あひはか)らんとて。朝鮮王(てうせんわう)自(みづか)ら両使(りやうし)を召(めし)て尋問(たづねとは)る。允吉(いんきつ)が対(こた)ふる処(ところ)全(まつた) く前(まへ)に述(のぶ)るが如(ごと)し。誠一(せいゝち)に再(ふたゝ)び此議(このき)を尋(たつ)ねらるゝに誠一(せいいち)が荅(こた)へは大(おほい)に相違(さうゐ)し。 何(なに)をもつて兵事(へいじ)の禍(わざは)ひあらんと云事(いふこと)を允吉(いんきつ)は見申(みまうず)や。臣(しん)は且(かつ)て存(ぞん)じ別(わか) つことなし。允吉(いんきつ)謾(みだ)りに人(ひと)の心(こゝろ)を譟動(さうどう)せしむるに至(いた)るかと云(い)ふ。諸(もろ〳〵)の議(ぎ) 者(しや)あるひは允吉(いんきつ)を主(しゆ)として是(これ)を取(と)るもあり。また誠一(せいゝち)を是(ぜ)なりといへる 者(もの)もあつて一座(いちさ)紛々(ふん〳〵)の説(せつ)やまざりける。時(とき)に柳相(りうしやう)誠一(せいゝち)に向(むか)ひ君(きみ)が言(こと)黄使(くわうし) と相違(さうゐ)す。万一(まんいち)兵(へい)起(おこ)りて油断(ゆだん)あらば。君(きみ)是(これ)をいかんとかせんと云(い)ふ。誠一(せいゝつ)重(かさ) ねて吾(われ)と云(い)へども。豈(あに)よく倭人(わじん)の終(つひ)に変動(へんとう)あるまじきといふ事(こと)の見定(みさだ)め はなけれども。たゞ黄(くわう)が言(こと)のはなはだ重(おも)く申(まうす)を聞(きい)て。朝廷(てうてい)も野外(やぐわい)も以(もつて)の 外(ほか)に驚(おどろ)きまどひ候を心(こゝろ)落付(おちつけ)申(まう)さんため。かくは荅(こた)へ候なり強(しひ)て兵禍(へいくわ)のあ るまじきとは肯(うけが)ひにくき事(こと)なりといふ。しかのみならず倭(わ)より来(きた)れる返書(へんしよ)に 兵(へい)を率(ひい)て超(こへ)て大明(たいみん)へ入(い)らんの語(ご)あり。柳相(りうしやう)議(ぎ)して此言(このこと)只(たゞ)に黙(もく)すべきにあらず。 早(はや)く使臣(ししん)をもつて天朝(てんてう)《割書:大明|を指(さす)》へ奏聞(さうもん)すべしといへば。或(あるひ)は又云(またいふ)恐(おそ)らくば此言(このこと)を 皇朝(くわうてう)に申(まう)さんとき。我国(わがくに)の私(わたくし)に倭國(わこく)に通(つう)ぜしことを尤(とか)め罪(つみ)せられんか。一(いつ)に これを諱(いみ)かくして告(つげ)ざるがましならんといふ。柳相(りうしやう)時(とき)におしかへして夫(それ)事(こと)に因(よつ) て隣国(りんごく)に往來(わうらい)する事(こと)古(いにし)へより。民(たみ)を保(たも)つの仁徳(じんとく)より免(まぬか)れざるの例(ためし)ありむかし 成化(せいくわ)の間(あひだ)にも日本(につほん)より我(われ)にたよりて。貢物(みつぎもの)を中国(ちうごく)に求(もと)むる時(とき)即(すなは)ち其実(そのじつ) を尽(つく)して奏聞(さうもん)せしに。勅(ちよく)あつて此旨(このむね)を諭(さと)さる。前例(ぜんれい)すでに然(しか)るときは 独(ひと)り今日(こんにち)のみの科(とが)にあらず。今(いま)これを諱隠(いみかくし)て奏聞(さうもん)せざらんこと。大義(たいぎ) に於(おゐ)てよからざるなり。況(いはん)や倭人(わじん)実(じつ)に順(じゆん)を犯(おか)すの謀(はかり)ことあつて他国(たこく)より是(これ) を奏聞(そうもん)し。天朝(てんてう)反(かへ)つて我国(わがくに)の同謀(どうぼう)あるが故(ゆゑ)を以(もつ)て隠諱(かくしいめ)ると疑(うたが)はれんは。 其罪(そのつみ)なか〳〵通信(つうしん)の類(るい)にあらじと強(しひ)て申(まう)し請(こひ)たるに。朝鮮王(てうせんわう)も此議(このぎ)に 同(どう)し遂(つひ)に金應南(きんおうなん)と云(いへ)る者(もの)を使(つかひ)とし馳(はせ)て。此議(このぎ)を大明国(たいみんこく)に奏聞(そうもん)す時(とき)に 福建(ふくけん)の人(ひと)。許議俊(きよぎしゆん)。陳申(ちんしん)等(ら)倭人(わじん)のために捕(とら)へられ彼国(かのくに)にありけるも。密(ひそか) に此事(このこと)を大明国(たいみんこく)に告(つ)げやり。又(また)琉球国(りうきうこく)の世子(せいし)しきりに使(つかひ)を遣(つかは)して此事(このこと) を奏(そう)する砌(みきり)なるに。朝鮮国(てうせんこく)の使(つかひ)のみ未(いま)だ大明(たいみん)に至(いた)らざる故(ゆゑ)を以(もつ)て。大明(たいみん) 帝(てい)は扨(さて)は朝鮮(てうせん)日本(につほん)と一(ひと)ッになつて大明(たいみん)へ二心(ふたこゝろ)ありけるやと。議論区々(きろんまち〳〵)な る中(なか)に許國曽(きよこくそう)と云(い)へるものは。先立(さきだつ)て大明(たいみん)より朝鮮(てうせん)へ使節(しせつ)として来(きた)る者(もの) なるが衆臣(しゆうしん)の論(ろん)を止(とゞ)めて曰(いは)く。朝鮮国(てうせんこく)の本朝(ほんてう)へ至誠(しせい)なる。かならず倭人(わじん) とともに叛(そむ)くにあらじ。しばらく待(まつ)て見(み)給へと云(いふ)こと未(いま)だ久(ひさ)しからずして。 應南(おうなん)等(ら)が至(いた)るに付(つい)て。許公(きよこう)も大(おほい)によろこぶのみか朝議(てうぎ)も始(はじ)めて定(さだま)りけり。    朝鮮国(てうせんこく)日本(につほん)の軍兵(ぐんひやう)をおそれ英雄(えいゆう)選(えら)む事(こと) 朝鮮王(てうせんわう)倭人(わしん)の難(なん)あらん事(こと)を憂(うれ)ふるが故(ゆゑ)。朝廷(てうてい)に日々(ひゞ)集会(しふくわい)して評(ひやう) 議(ぎ)を定(さだ)め。其(その)国辺(くにざかへ)の武事(ぶじ)を煆煉(たんれん)する輩(ともがら)をゑらむに。金晬(きんすゐ)といへる者(もの) をすゝめて慶尚(けくしやく)の監司(かんし)となし。李洸(りくわう)を全羅(てるら)の監司(かんし)とし尹先覺(いせんかく)を 以(もつ)て。忠清監司(ちくせいかんし)と定(さだ)めて三道(さんだう)の巡見(じゆんけん)をなさしめ所々(しよ〳〵)の城地(じやうち)の修理(しゆり)を加(くわ)へ 兵具(へいぐ)器械(きかい)を備(そな)へ設(まう)く。三道(さんだう)の中(うち)慶尚道(けくしやくたい)の城(しろ)を築(きづ)くこと尤(もつとも)多(おほ)かりけり。 永川(えいせん)。清道(せいたい)。三嘉(さんか)。大丘(たいきう)。星州(せくしう)。釜山(ふさん)。東萊(とうねき)。晋州(しんしう)。尚(しやく)州。の如(こと)き左右(さいふ)の兵營(へいえい)とな し。或(あるひ)は新(あらた)に築(きづ)くもあれば。或(あるひ)は古(ふる)きを増修(ましおさ)むもあり。時(とき)に昇平(しようへい)すでに久(ひさ) しふして中外(ちうくわい)ともに安(やす)きに狎(な)れ。民間(みんかん)また労役(らうえき)をもつて憚(はゝか)りなやむの時(とき)な れば。所々(しよ〳〵)の普請(ふしん)に召(めし)とられ往来(わうらい)の任歩(にんぶ)に駆立(かりたて)るを。無益(むえき)の事(こと)に労困(らうこん)す るやうにのみ人々(ひと〳〵)覚(おぼ)えて。国家(こくか)の大事(だいじ)と思(おも)ふわきまへなく怨(うら)みの声(こゑ)路(みち)に載(みち) たり。前(さき)の曲籍(てんせき)李魯(りろ)と云(い)ふ者(もの)柳相(りうしよう)に書(しよ)を贈(おく)りて。城(しろ)を築(きつ)くの良謀(りやうばう)に 非(あら)ざる事(こと)を言(い)ふ。そのうへ曰(いは)く三嘉(さんか)の地(ち)前(まへ)に鼎津(ていしん)の遥(はる)かなる水(みづ)を隔(へだ)てた れば。倭人(わじん)よも飛(とん)ではこゝには渡(わた)るまじ。船(ふね)なくば何(なに)を以(もつ)てか克(よく)至(いた)らん何(なん)の 為(ため)にか浪(みだり)に版築(ふしん)して。民歩(みんぶ)を労(らう)するに至(いた)るやと云(い)ふ。夫(それ)万里(ばんり)の滄溟(さうめい)だ に障(さゝ)へ隔(へだ)つる事(こと)なくて超来(こえきた)らん。倭賊(わそく)をたゞ一帯(いつたい)の江水(こうすい)を以(もつ)て渡(わた)ること 叶(かな)ふべからずと決(けつ)して頼(たの)めるおろかさ。一時(いちし)の評論(ひやうろん)すべて如此(かくのごとく)なるこそうた てけれ。又(また)弘文館(こうふんくわん)の書箚(しよたう)を奉(たてまつ)りて委曲(いきよく)の謀計(ばうけい)を論(ろん)ぜしに。其説(そのせつ)を用(もち) ひずして。西南(せいなん)の築(きづ)ける所(ところ)みな其(その)地形(ぢぎやう)の勢(いきほ)ひに叶(かな)わず。たゞに濶大(くわつだい)の地(ち)を撰(えら)ん て大勢(おほぜい)をいるゝを以(もつ)て専(もつはら)とす。晋州城(しんしうじやう)の如(ごと)きは本(もと)幸(さいわ)ひに其地(そのち)険(けん)【險は旧字】に拠(より)て守(まも) りをなすべき事(こと)なるに。其古城(そのこじやう)の小(せう)なるを嫌(きら)つて新(あらた)に東面(とうめん)の地(ち)に移(うつ)して。 下(くだ)つて平地(ひらち)にこれを築(きづ)けり。其後(そのゝち)倭軍(わぐん)の此城(このしろ)に入(い)る事(こと)やすく。城(しろ)を保(たも)つに 至(いた)らざるこそ残念(ざんねん)なれ。また軍政(ぐんせい)の本(もと)たる大将(たいしやう)を択(えら)【擇は旧字】むにあり。また 大将(たいしやう)の 要(やう)たるは。軍事(ぐんじ)に組練人(ねれたるひと)を以(もつ)て付属(ふぞく)せんこそよかるへし。斯(かゝ)ることの計策(けいさく) をば百(ひやく)に一ッも挙(きよ)せざる事(こと)こそ愚(おろか)かなれ。爰(こゝ)に井邑(せいゆう)監(かん)李舜臣(りしゆんしん)もとより 胆勇(たんゆう)謀略(ぼうりやく)のある者(もの)なればとて。擢(ぬき)んでられ全羅道(てるらだう)水軍(すいぐん)節度使(せつとし)になさ れける。舜臣(しゆんしん)騎射(きしや)に鍛煉(たんれん)なる者(もの)なる故(ゆゑ)造山(ざうざん)の万戸(ばんこ)となつて。巡察使(じゆんさつし)鄭(てい) 彦信(げんしん)が幕下(ばつか)にあり。鹿屯島(ろくとんとう)の屯田(とんでん)たるとき一日 大(おほい)に霧暗(きりくら)く。暴雨(ぼうう)頻(しき)りに 至(いた)らんとするを見(み)。軍柵中(くんさくちう)の兵士(へいし)ども尽(こと〳〵)く。田畝(でんほ)【注】に出(いで)て刈(かり)たる禾(あわ)を取(と)り収(おさ)め て。留守(るす)には僅(わづか)十人のこり居(ゐ)る時節(じせつ)にのぞんで。俄(にはか)に胡人(こじん)の騎馬(きば)を連(つら)ねて襲(おそひ) 来(きた)るを。舜臣(しゆんしん)ははやく柵門(さくもん)を閉(とぢ)かため。自(みづか)ら柳葉箭(りうやうせん)をおつとり柵(さく)の内(うち)よ りさしとり引(ひき)つめ。散々(さん〴〵)に射立(ゐたて)れば何(なに)かはもつてたまるへき。賊(ぞく)数十騎(ずしうき)をやに はに馬(うま)より射倒(いたふ)しけり。胡虜(こりよ)是(これ)に驚(おどろ)いて忽(たちま)ちに退(しりそ)き去(さ)る。舜臣(しゆんしん)夫(それ)より 大(おほき)に門(もん)をひらかせ。只(たゝ)一騎(いつき)にて馬(うま)駈出(かけいだ)し大(おほい)に呼(さけ)んで是(これ)を逐(お)ふ。虜(ゑびす)どもこれに乱(みだ) れ立(たつ)て尽(こと〳〵)く奔去(はしりさ)るは。全(まつた)く舜臣(しゆんしん)か力(ちから)なり然(しか)れども誰(たれ)あつてこれを朝廷(てうてい)に推(おし) 挙(あぐ)る者(もの)なふして。それより十四 年(ねん)小官(せうくわん)に隠(かく)れしを。今度(こんど)倭賊(わぞく)の急(きふ)なるゆゑに 召出(めしいだ)さるゝと聞(きこ)えけり。時(とき)に朝鮮(てうせん)の朝廷(てうてい)に武将(ぶしやう)多(おほ)しといへども。惟(たゞ)申砬(しんりつ)と李(り) 鎰(いつ)の二人のみ。最(もつと)も名(な)ある輩(ともがら)なりまた。慶尚右兵使(けくしやくゆうへいし)曹大坤(そうたいこん)已(すで)に其年(そのとし)老(おひ)に 【注 畝の古字「畞」の俗字】 【右丁 絵画のみ】 【左丁】 李舜臣(りしゆんしん)  単騎(たんき) にして 胡虜(ごろ)の  賊兵(そくへい)を   追(お)ふ 至(いた)れるのみならず。勇気(ゆうき)の劣(おと)れる男(おとこ)なれば柳相(りうしよう)請(こ)ふて李鎰(りいつ)をもつて。これに 代(かへ)給ふべき旨(むね)を申(まう)すと云(い)へとも。曹判書(そうはんしやう)洪(こう)。汝諄(しよしゆん)が強(しひ)て曰(いは)く。名将(めいしやう)は当(まさ)に京(きやう) 都(と)に在(あら)しむべし李鎰(りいつ)を遠所(えんしよ)に離(はな)ち遣(や)るべからずと。柳相(りうしよう)重(かさ)ねてすべての 事(こと)其議(そのき)にあづかるを以(もつ)て貴(たつと)しとせり。況(いはん)や兵(へい)を治(おさ)め敵(てき)を防(ふせ)ぐの道(みち)をや。 最(もつと)もみたりに弁(べん)ずべからず。一朝(いつてう)にして変(へん)あらばこれを遣(やら)ずんばあるべから ず。同(おな)じくこれを遣(や)るならば早(はや)く遣(や)らんには及(しく)べからず。あらかしめ備(そな)ひて変(へん) のおこるを待(また)んこそ能(よか)らんずれ。其上(そのうへ)に祖宗(そそう)より已来(このかた)鎮管(ちんくわん)の法(ほふ)あつて。諸(しよ) 道(たう)の兵(へい)を以(もつ)て所々(しよ〳〵)の鎮府(ちんふ)に付属(ふぞく)せしめ。鎮管(ちんくわん)にある所(ところ)の総大将(そうたいしやう)の下(げ) 知(ぢ)を請(こは)しむ。慶尚道(けくしやくたい)を以(もつ)て是(これ)を言(い)へば。金海(きんかい)。大丘(たいきう)。尚州(しやくしう)。慶州(けくしう)。安東(あんとう)。晋州(しんしう)。 これを六鎮(ろくちん)の場所(ばしよ)とす。一所(いつしよ)敵兵(てきへい)ある時(とき)は六鎮(ろくちん)これを救(すく)ふ。たとへば一鎮(いつちん) たま〳〵利(り)を失(しつ)するといへども。他(た)の鎮(ちん)次第(しだい)に兵(へい)を厳(おごそか)にして堅(かた)く守(まも)るときはこ と〳〵く靡(なび)き立(たつ)て奔(わし)り。潰(つい)ゆるに至(いた)るべからず此法(このはう)当今(いま)名(な)のみにして。実(じつ)は昔(むかし) の如(ごと)くにあらず。一(いつ)に驚急(きやうきふ)の事(こと)あらば必(かならず)遠近(えんきん)謾(みだ)りに動(どう)じ。将(しやう)なきの軍(いくさ)を以(もつ) て原野(げんや)の内(うち)に聚(あつ)め将師(しやうすゐ)を千里(せんり)の外(ほか)に待(また)んは。其(そ)れ勝利(しやうり)あるべからず。早(はや)く 古(いにし)への法(はう)によつて。名将(めいしやう)の武功(ぶこう)あるを撰(えら)んで所々(しよ〳〵)に分(わか)つて軍心(ぐんしん)総聞(すべきく)ところ あらしめ給へと云ども。此議(このぎ)を行(おこ)なはれず明(あく)れば壬辰(みづのへたつ)の春(はる)申砬(しんりつ)。李鎰(りいつ)の 二将(にしやう)を分(わか)ちつかはし。辺(へん)の備(そな)ひの懈(おこたり)を巡見(じゆんけん)せしめ李鎰(りいつ)は忠清(ちくしやく)全羅道(てるらたい) に往(ゆ)き。申砬(しんりつ)は京畿(けんき)黄海道(べかいたい)に行(ゆか)しめらる。点撿(てんけん)するところの事(こと)は弓矢(きうし) 搶刀(そうたう)の事(こと)のみなり。申砬(しんりつ)素(もと)より残暴(ざんばう)の名(な)ある者(もの)にして至(いた)る所(ところ)の人(ひと)を殺(ころ)し。 威(い)を立(た)て我意(がい)を震(ふる)ふにより。所々(ところ〴〵)の守令(しゆれい)たゞこれを畏(おそ)るゝのみなれば。 人歩(にんぶ)を発(はつ)し道路(だうろ)を治(おさ)め。馳走饗應(ちそうきやうおう)の事(こと)のみを専(もつは)らに勤(つと)めとし。其(その) 他(た)の備(そな)ひ禦(ふせ)ぎの長(なが)き策(はかりごと)におゐては聊(いさゝか)もなかりけり。程(ほど)なく二将(にしやう)は巡見(じゆんけん)し 終(おは)りて立回(たちかへ)【囘は俗字】る。かくて四月も一日になれば砬(りつ)は柳相(りうしよう)の宅(たく)に来(きた)りて。私(わたく)しの雜談(ぞうたん) におよべる時(とき)柳相(りうしよう)これに問(と)ふて曰(いは)く。倭兵(わへい)のこゝに到(いた)り来(きた)らんことさもあれ早(い) 晩(つ)の時(とき)にか。変(へん)あらん且(かつ)又(また)今日(こんにち)賊(ぞく)の勢(いきほ)ひ難易(なんい)如何(いかん)とかするや。事(こと)興(おこ)ら ば貴公(きこう)此任(このにん)に當(あた)るべきの人(ひと)たり。其謀(そのはかりごと)いづれに出(いで)んと思(おも)ひ給ふぞと問(とい)ける に。申砬(しんりつ)はなはだ是(これ)を軽(かろん)じ何(なん)の憂(うれひ)とするに足(た)らんや。さのみ心(こゝろ)を労(らう)し 給ふべからすと云(い)ふ。柳相(りうしよう)重(かさ)ねて左(さ)にあらず往(さき)には倭兵(わへい)但(たゞ)に短兵(たんへい)を頼(たの)み とせしが。今(いま)は鳥銃(てつほう)長技(ちやうぎ)をとれり軽(かろ)〳〵しく見(み)るべからず。其上(そのうへ)我(わが)國家(こくか) 久(ひさ)しく昇平(しようへい)の安楽(あんらく)に住(ぢう)して。士卒(しそつ)の意(こゝろ)おそれて弱(しやく)なり事(こと)急(きふ)なるに 至(いた)つては土(つち)の如(ごと)く崩(くづ)れ瓦(かはら)の如(ごと)く解(とけ)ん時(とき)。一旦(いつたん)にはこれを支(さゝ)へ防(ふせ)ぐに難(かた)からん 若(もし)戦闘(せんたう)数年(すねん)を経(へ)て。後(のち)人々(ひと〴〵)兵(へい)を習(なら)ひ法(はふ)を知(し)らん時(とき)はしるべからず。その 初(はじ)めに於(おゐ)て吾(われ)甚(はなは)だ此義(このぎ)を憂(うれひ)に思(おも)ひりといへども。申砬(しんりつ)かつて省悟(さとら)ず縦(たと) ひ鳥銃(てつほう)ありとても。豈(あに)よくすべて当(あた)らんやと云(いひ)すてゝ其座(そのざ)を立(たち)さりけり。 申砬(しんりつ)初(はじ)め穏城府使(おんしやうふし)の官(くわん)にありし時(とき)。胡虜(ゑびす)来(きた)りて鍾城(しようじやう)を囲(かこ)むに砬(りつ)馳(はせ) 往(ゆき)て。纔(わづか)に十餘騎(じうよき)の兵(へい)にて胡虜(ゑびす)の大勢(おほぜい)を突撃(つきうつ)てこれを破(やぶ)るの功(こう)によつて。申(しん) 砬(りつ)が将(しよう)の量(りやう)あるを進(すゝ)め挙(あげ)られしものなるが。先日(さきのひ)趙栝(てうくわつ)が秦(しん)の兵(へい)を軽(かろ)ん じ事(こと)に臨(のぞ)んで惧(おそ)るゝの意(こゝろ)のなかりしに。是(これ)又(また)克(よく)も似(に)たるかな如此(かくのごとく)の量見(りやうけん) は。事(こと)の過(あやまち)を引出(ひきいだ)すべきかと識者(しきしや)は眉(まゆ)を皺(しは)めける    朝鮮(てうせん)に到(いた)る人数(にんず)着当(ちやくたう)の事(こと) 同(おなじく)天正(てんしやう)十九 年(ねん)は豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)。朝鮮(てうせん)に渡海(とかい)すべき人数(にんず)又(また)は名護屋(なこや)に屯(とゞ)む べきの。軍兵(ぐんひやう)を分(わか)ち定(さだ)め諸軍(しよくん)の手分(てわけ)をなし給ふ。時(とき)に秀吉公(ひでよしこう)仰出(おふせいだ)さるゝは 此度(このたび)朝鮮(てうせん)発向(はつかう)の先手(さきて)のことは。兼(かね)て主計頭(かずへのかみ)が望(のぞ)む所(ところ)といへども高麗(かうらい)。 渡海(とかい)の船路(ふなぢ)その筯(すぢ)不案内(ふあんない)にしては最(もつと)も衆(しゆう)を誤(あやま)るの事(こと)に至(いた)らんか。これ によつて一の先手(さきて)は小西摂津守行長(こにしつのかみゆきなが)に相定(あひさだむ)る所(ところ)なりと。上意(じやうい)あれば加藤(かとう) 清正(きよまさ)も其意(そのい)畏(かしこま)りて随(したが)ひけるゆゑ。二の先手(さきて)とは定(さだめ)りけり一の先手(さきて)小西摂津(こにしつの) 守行長(かみゆきなが)。其兵(そのへい)七千 宗対馬守義智(そうつしまのかみよしあきら)其勢(そのせい)五千。松浦式部卿法印鎮信(まつらしきぶきゃうはういんちんしん) 三千。有馬修理太夫(ありましゆりだいふ)二千人。大村新八郎(おほむらしんはちらう)一千。宇久大和守(うくやまとのかみ)七百人。以上(いじやう)一万八 千七百人を右(みぎ)の先手(さきて)と相定(あひさだ)む。加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)一 万(まん)人。鍋島加賀守直(なべしまかゞのかみなほ) 茂(しげ)其兵(そのへい)一 万(まん)二千人。相良宮内大輔(さがらくないたいふ)八百人 此手(このて)合(あは)せて。二 万(まん)二千八百人を一手(いつて) として是(これ)ぞ左(ひたり)の一 手(て)なり。主計頭(かずへのかみ)鬮(くし)を取(とつ)て一日 替(かは)りに。日(ひ)を隔(へだ)て先陣(せんぢん)を勤(つと) むへきの仰付(おほせつけ)られたり。黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)その兵(へい)五千人。羽柴豊後守大友義(はしばぶんこのかみおほともよし) 統(とう)六千人。合(あはせ)て一万一千人 是(これ)三 番(ばん)の相備(あひそなひ)たり。島津兵庫頭義弘(しまつひやうこのかみよしひろ)その兵(へい) 一 万(まん)人 毛利壱岐守(もうりいきのかみ)二千人 高橋(たかはし)九郎二千人。秋月(あきつき)三郎 伊藤民部太輔(いとうみんぶたいふ) 島津又(しまつまた)七郎。おの〳〵一千人 合(あはせ)て一万七千人をもつて四 番(ばん)とす。五 番(はん)には福(ふく) 島左衛門大輔正則(しまさへもんたいふまさのり)。四千八百人 戸田民部少輔(とだみんぶしやういふ)三千九百人。長宗我部土佐(ちやうそかべとさの) 守元親(かみもとちか)三千六百人。合(あはせ)て一万二千三百人六 番(はん)には。蜂須賀阿波守(はちすかあはのかみ)七千二 百人。生駒雅楽頭(いこまうたのかみ)五千人。合(あはせ)て一万二千七百人。【一万二千二百人の誤】七 番(ばん)に小早川左衛門佐隆(こはやかはさゑもんのすけたか) 景(かげ)一万人 立花左近将監宗茂(たちばなんさこんしやうけんむねしげ)二千五百人。久留米侍従(くるめししふ)千五百人 高橋主(たかはししゆ) 膳(ぜん)正五百人。筑紫上野介(つくしかうつけのすけ)九百人。合(あはせ)一万五千七百人。【一万五千四百人の誤】八 番(ばん)は毛利右馬頭(もうりうまのかみ) 輝元(てるもと)。その兵(へい)三万人一 列(れつ)とす都合(つかふ)十四萬二百人【十三万九千四百人の誤】の著当(ちやくたう)なり。さて又(また)海路(かいりく)の人々(ひと〳〵)には九鬼(くき) 大隅守(おほすみのかみ)一千五百人。藤堂佐渡守高虎(とう〴〵さどのかみたかとら)二千人 。脇坂中務少輔(わきざかなかつかさしやういふ)千五百人。加藤左馬頭(かとうさまのかみ) 善明(よしあきら)七百五十人。来島出雲守(くるしまいづものかみ)七百人 菅平右衛門(すげへいゑもん)二百五十人。 桑山藤太(くわやまとうた)一千人 同(おなじく)小傅次(こでんし)一千人。堀内安房守(ほりうちあはのかみ)八百五十人 杉若傅三郎(すぎわかでんざふらう)六百五十人。都合(つかふ)十五万四百人【十四万九千六百人の誤】 海陸(かいりく)分(わかつ)て。押出(おしいた)すべき御軍法(こぐんはう)を定(さた)めらるゝは。天正(てんしやう)二十 年(ねん)壬辰 年号(ねんごう)こゝに改(あらた)まつて。 文禄元年(ぶんろくくわんねん)三月十日の御 ̄ン書出(かきだ)しと聞(きこ)へたり。渡海(とかい)の面々(めん〳〵)相守(あひまも)るべき数(す)ケ(か)條(でう)を 以(もつ)て諸手(しよて)大将(たいしやう)に触(ふれ)わたさせ給ふなり。既(すて)に四 国(こく)九州(きうしう)伊勢(いせ)紀伊国(きいのくに)の兵船(へいせん)は。順(じゆん) をもつて乗出(のりいた)すべき仰出(おほせいだ)されなりとかや 徳川公(とくがはこう)其兵(そのへい)一万五千人 大和中(やまとちう) 納言英俊(なごんひてとし)《割書:秀長|の子》其兵(そのへい)一万 前田利家(まへだとしいへ)。その兵(へい)八千 徳川秀康(とくかはひでやす)其兵(そのへい)千五百 織田常真(おたじやうしん)《割書:信雄剃髪|して常信と号》其兵(そのへい)千五百 上杉景勝(うへすきかげかつ)其兵(そのへい)五千 蒲生氏郷(かまううじさと)其(その) 兵(へい)二千。佐竹義宣(さたけよしのぶ)其兵(そのへい)三千。伊達政宗(だてまさむね)その兵(へい)千五百。最上義光(もかみよしみつ)其兵(そのへい)一千。森(もり) 右近大夫忠政(うこんたいふたゞまさ)其兵(そのへい)二千。丹羽五郎左衛門長重(にはごらうさゑもんながしげ)其兵(そのへい)八百。木下勝俊(きのしたかつとし)其兵(そのへい)千 五百。北(きた)の庄(しやう)某(なにがし)六百人。同(おなじく)舎弟(しやてい)美作守村上周防(みまさかのかみむらかみすおふの)守二千人。溝口伯耆守(みそぐちほふきのかみ)千三百 人。木下宮内少輔(きのしたくないしやういふ)百五十人。水野下野守(みつのしもつけのかみ)千人。青木紀伊守(あをききのかみ)千人。宇津宮弥三(うつのみややさふ) 郎(らう)三百人。秋田太郎(あきたたらう)百二十人。津軽右京亮(つがるうきやうのすけ)五十人。南部大膳大夫(なんふだいぜんのたいふ)。本田伊(ほんだい) 勢守(せのかみ)。那須太郎(なすたらう)。日根野織部(ひねのおりへ)。北条美作守(ほうてうみのゝかみ)【「みまさかのかみ」の誤ヵ】伊藤長門守(いとうなかとのかみ)。凡(すべ)て外様(とさま)の大名(たいみやう)其(その) 勢(せい)六 万(まん)六千 余人(よにん)なり。扨(さて)又(また)近從(きんじふ)御 ̄ン手廻(てまは)りの人々(ひと〳〵)には。富田左近(とみたさこん)金森飛弾守(かなもりひたのかみ) 蜂屋大膳大夫(はちやだいぜんのだいぶ)。戸田武蔵守(とだむさしのかみ)。奥山佐渡守(おくやまさどのかみ)。池田備中守(いけだひつちうのかみ)。小出信濃守(こいてしなのゝかみ)津(つ) 田長門守(たながとのかみ)。仙谷越前守(せんごくゑちぜんのかみ)。木下右衛門大夫(きのしたゑもんのたいふ)。上田左太郎(うへださたらう)山崎左馬介(やまざきさまのすけ)。稲葉兵(いなはひやう) 庫助(このすけ)市橋下総(いちはししもふさ)。赤松上総介(あかまつかづさのすけ)羽柴下総守(はしはしもふさのかみ)大嶌雲(おほしまうん)八。伊藤弥吉(いとうやきち)。野村肥(のむらひ) 後守(このかみ)。木下右衛門(きのしたゑもん)。船越五郎右衛門(ふなこしごらうゑもん)。宮木藤左衛門(みやぎとうさゑもん)。橋本伊賀守(はしもといがのかみ)。鈴(すゝ) 木孫市(きまごいち)。生熊源介(いけぐまけんすけ)。羽柴(はしば)三 吉(きち)。長束大蔵少輔(ながつかおほくらのしやういふ)。古田織部(ふるたおりべ)。山崎右京進(やまざきうきやうのしん) 蒔田左衛門権佐(まへださゑもんのごんのすけ)。中江式部大輔(なかえしきぶのたいふ)。生駒修理亮(いこましゆりのすけ)。同(おなしく)主殿佐(とのものすけ)。溝口大炊助(みぞくちおほいのすけ) 川尻肥前守(かはしりひせんのかみ)。池田弥右衛門(いけだやゑもん)。大塩與一(おほしほよいち)。木下左京(きのしたさきやう)。矢部豊後守(やべぶんごのかみ)。有馬玄番(ありまけんばの) 助(すけ)。寺澤志摩守(てらさはしまのかみ)。寺西筑後守(てらにしちくごのかみ)。同(おなじく)次郎助(じらうすけ)。福原右馬助(ふくはらうまのすけ)。竹中丹後守(たけなかたんこのかみ)長谷(はせ) 川右兵衛尉(かわうひやうえのじやう)。松岡右京進(まつおかうきやうのしん)。松下右兵衛(まつしたうひやうえ)。氏家志摩守(うじいへしまのかみ)。同(おなじく)内膳正(ないぜんのかみ)。寺西右(てらにしう) 兵衛尉(ひやうえのしやう)服部土佐守(はつとりとさのかみ)。間嶌彦太郎(ましまひこたらう)。御 ̄ン馬廻(うままは)り御 ̄ン扈從組(こしやうぐみ)。御 ̄ン使番(つかひばん)弓鉄(ゆみてつ) 砲(ほう)の物頭(ものかしら)諸役人(しよやくにん)御 ̄ン中間(ちうげん)以下(いか)に至(いた)つて凡(すべ)て五千七百 余人(よにん)は是(これ)御 ̄ン手廻(てまは) りと聞(きこ)えたり又(また)別(べつ)に六万の人数(にんず)を分(わけ)て遊兵(ゆうへい)と定置(さだめおき)給ふ。すでに朝鮮(てうせん)渡海(とかい) の兵(へい)《割書:十五万二千 余人(よにん)とも云|或は十三万 余人(よにん)とも云》まことに多(おほ)しと申せども。大明(たいみん)よりの援(えん) 兵(へい)の多(おほ)からん時(とき)に。其手当(そのてあて)となさんためとこそ知(り)られたり。    秀吉公(ひでよしこう)筑紫(つくし)御進発(ごしんばつ)の事(こと) 今年(ことし)文禄元壬辰年(ふんろくくわんみづのへたつどし)三月には。秀吉公(ひでよしこう)肥前(ひぜん)名護屋(なごや)へおもむき給ふよしに 相極(あひきはま)る。すでに去年(きよねん)より彼所(かしこ)御狩屋(おんかりや)の普請(ふしん)等(とう)を。近習(きんじゆ)外様(とざま)の差別(さべつ)なく 一所(いつしよ)〳〵を分(わか)つて。其(その)もよりよき大名(たいみやう)小名(せうみやう)に仰付(おふせつけ)られしかば。大勢(おほぜい)の人数(にんす)を 以(もつ)て本丸(ほんまる)二の丸(まる)。楼門(ろうもん)矢倉(やくら)は申(まう)すに及(およ)ばず。奥(おく)の局(つぼね)に山里(やまさと)の数寄屋(すきや)築山(つきやま) 遣水(やりみつ)所々(しよ〳〵)の番所(ばんしよ)まで木石(ぼくせき)を撰(えら)み工匠(くしよう)を揃(そろ)へて奇羅(きら)をみがける間所(まどころ)。大小 五六十 処(しよ)の造作(ざうさく)を数月(すげつ)も経(へ)ざるに出来(しゆつたい)せしかば。分別(ふんべつ)なき者(もの)とも云(いひ)けるは 是(これ)ひとへに。太閤(たいこう)の御器量(ごきりやう)の広(ひろ)きと又(また)御威風(ごいふう)の強(つよ)きをもつて。流石(さすが)武功(ぶこう)の人々(ひと〴〵) まて畏(おそ)れ仰(あほ)ぐがゆゑにより。何事(なにごと)にもあれ御 ̄ン意(こゝろ)に叶(かな)わぬ事(こと)のなきを見(み)よと。 【右丁】 秀吉公(ひでよしこう)  行装(ぎやうそう) 花麗(くわれい)に  して  筑紫(つくし) 御進発(ごしんばつ)   の図(ず) 【左丁 絵画のみ】 のゝしる者(もの)もあれば。また適(たま)〳〵多(おほ)き人(ひと)の中(なか)には是非(せひ)の理(ことは)り知(し)りたる人(ひと)は。異域(いいき)に 兵(へい)を弄(もてあそ)んでよしなき民(たみ)を怨鬼(ゑんき)となし。それさへあるに大兵(たいへい)を興(おこ)す国(くに)の費(ついえ)の 大方(おほかた)ならぬがゆゑを以(もつ)て百姓(ひやくしやう)は云(いふ)に及(およ)ばず大名(たいみやう)も近年(きんねん)困窮(こんきう)なるに一朝(いつてう)の驕(おこり)と て仮屋(かりや)の普請(ふしん)の結搆(けつかう)は何事(なにごと)ぞやと謗(そし)れる者(もの)も多(おほ)かりける。斯(かく)て三月に 至(いた)つては秀吉公(ひでよしこう)の御 ̄ン備(そなひ)段々(たん〳〵)に打起(うちたつ)べきに極(きわ)まれば諸老臣(しよらうしん)一やうに。大将軍(たいしやうくん)名護(なご) 屋(や)に御在陣(こさいちん)あるなれば。定(さた)めて大明(たいみん)朝鮮(てうせん)をかきらす書翰(しよかん)の遣取(やりとり)も多(おほ)から んに。文才(ぶんさい)の者(もの)なくんば叶(かな)ふべからず。一両輩(いちりやうはい)其者(そのもの)をゑらんで召具(めしぐ)せられんかと 申(まう)せば。秀吉公(ひでよしこう)聞召(きこしめし)我(われ)大明(たいみん)朝鮮(てうせん)の人(ひと)をして。今(いま)よりは其(その)文字(もんし)を抛(なけう)たせて悉(こと〳〵)く 吾國(わかくに)のいろはをしらしむるに。何(なん)の難(かた)事(こと)かあらん。何(なに)無益(むえき)の徒(ともから)を携(たつさ)へんや と宣(のたま)へば。老臣(らうしん)といへども再(ふたゝ)び此旨(このむね)を強(しひ)て。進(すゝ)むることの叶(かなは)さるゆゑ其後(そのゝち)は言(ことば) をかへす者(もの)もなし。秀吉公(ひでよしこう)其夜(そのよ)思案(しあん)し給へけん翌日(よくしつ)則(すなは)ち相国寺(しようこくし)の僧(そう)承兌(しようゑつ) 南禅寺(なんぜんじ)の僧。霊山(れいさん)東福寺(とうふくし)の僧(そう)永哲(えいてつ)等(ら)を促(うなが)して。ともに名護屋(なごや)におもむ き給ふ。同月(どうげつ)二十六日に秀吉公(ひでよしこう)京(きやう)を出(いで)て備押(そなひおし)あらんとす。京洛(けいらく)の町人(ちやうにん)百姓(ひやくせう)に 至(いた)るまで今日(こんにち)の行装(ぎやうそう)を見物(けんぶつ)すべき旨(むね)。御免(ごめん)あれば其通路(そのつうろ)たる小路(こうぢ)〳〵町家(まちや) の肆店(みせたな)寺社(じしや)の門外(もんぐわい)。人(ひと)ならずといふ所(ところ)なし天晴(あつはれ)奇代(きたい)の見物(けんふつ)やと。遠国(えんこく)在々(ざい〳〵) 所々(しよ〳〵)よりも親(おや)を携(たづ)さへ。子(こ)を抱(いだ)き京洛(けいらく)の縁(ゑん)【緑は誤】をもとめて相(あひ)集(あつま)る。男女(なんによ)の数(かす)大(おほ) 凡(よそ)二三 万(まん)とそ聞(きこ)えける。    秀吉公(ひでよしこう)所々(しよ〳〵)神社(じんじや)御参詣(ごさんけい)の事(こと) 其夜(そのよ)は秀吉公(ひでよしこう)摂津(つの)国(くに)。茨木(いばらき)に至(いた)りて後(のち)御 ̄ン馬(うま)を進(すゝ)め給ふ。同(おなしく)四月 秀吉公(ひでよしこう)は 安芸(あき)の広島(ひろしま)に到(いた)り着(つか)せ給ひこゝに一 両日(りやうにち)御逗留(ごたうりう)まし〳〵厳島明神(いつくしまみやうしん)に詣(まう)で 社頭(しやとう)海辺(かいへん)眺望(てうぼう)さま〳〵の奇(き)なる詠(なが)めに。旅館(りよくわん)【舘は俗字】の情(じやう)をなぐさめ給へ夫(それ)より進(すゝ)ん で。長門(ながと)の国府(こくふ)へ入(いり)給ふ  仲哀天皇(ちうあひてんわう)神功皇后(じんごうくわうごう)の社(やしろ)に参詣(さんけい)ありて。太閤(たいかふ)不肖(ふせう) の身(み)ながら神功(じんごう)の跡(あと)をつがんため此度(このたび)三韓征伐(さんかんせいばつ)の事(こと)思立(おのひたつ)ところなり。可畏(かけまく)も 辱(かたじけなく)も百代(もゝよ)の末(すへ)といへども神徳(しんとく)の冥加(みやうが)あらせ給へ。我国(わがくに)の武功(ぶこう)大(おほい)にして今度(こんど)朝(てう) 鮮(せん)は申(まう)すに及(およ)ばず。大明国(たいみんこく)の果(はて)まても和光(わくわう)の影(かげ)あまねかるべしと祈(いの)らせ給へ。 夫(それ)よりまた赤間(あかま)が関(せき)にのぞんで。阿弥陀寺(あみだじ)に立寄(たちよら)せ給へ  安徳天皇(あんとくてんわう)の御影(みえい)《割書:并(ならひに)》 平家(へいけ)の一門(いちもん)の画像(ぐわぞう)を一覧(いちらん)あるに。古(いに)しへより今(いま)までの旅客風(りよかくふう)僧(そう)意(こゝろ)ある輩(ともがら)の 詠感(えいかん)したる。詩歌(しか)どものよきも悪(あし)きも其側(そのかたはら)にひつしと貼付(はりつけ)てあるを見(み)給へば。寺(じ) 僧(そう)は出(いで)て其故事(そのこじ)を語(かた)りてなぐさめ奉(たてまつ)るに。秀吉公(ひでよしこう)大(おほい)に悦(よろこ)び給へ寺僧(しそう)に物(もの)多(おほ) く賜(たま)はれば俄(にはか)に德(とく)つきて見(み)えにける夫(それ)よりつひに。肥前(ひぜん)名護屋(なごや)に着(つき)て仮(かり)の御(ご) 殿(てん)に入(いり)給ふ。新造(しんざう)といへどもおのづからなる海山(うみやま)の景(けい)を取用(とりもち)ひ。磯辺(いそべ)の松(まつ)岩(いわ) 根(ね)の小篠(おさゝ)此(この)山里(やまざと)に遷(うつ)し来(きた)つて苔(こけ)むせる。谷(たに)かげの茶店(さでん)までわざとならぬ 風興(ふうきやう)に一会(いつくわい)を促(うなが)せり。軍(いくさ)の労(らう)をなぐさめ給はん便(たよ)りまでとゝのへたる。京洛(けいらく)の城(しろ) とてもさらにかはらぬ趣(おもむ)きを去(さんぬ)る頃(ころ)。清正(きよまさ)が申上(まうしあげ)しにかわらぬとて秀吉公(ひでよしこう) の御気色(おんけしき)。殊(こと)によろしく見(み)えけれは上下(じやうげ)これに安堵(あんど)をなす。かくて秀吉(ひでよし) 公(こう)此所(こゝ)に御座(ござ)あつて。朝鮮(てうせん)日本(につほん)両海辺(りやうかいへん)に屯(あつま)りたりし軍兵(ぐんひやう)すべて四十八万 人の米穀(べいこく)。并(ならび)に舟子(ふなこ)馬(うま)の草蒭(くさわら)まで一ッも遅々(ちゝ)のなきやうに其(その)たより宜(よろ)しく。 弁(べん)じさせ給へるは凡(およそ)日本(につほん)始(はじま)りて。如此(かくのごとく)の英雄(えいゆう)の出(いで)んこと末代(まつだい)はいざしらず。上(じやう) 古(こ)より例(ため)しすくなき事(こと)どもにおどろかさりし人(ひと)はなし。    渡海(とかい)の諸将(しよしやう)軍評定(いくさひやうぢやう)《割書:并(ならひに)》逆風(きやくふう)に逢(あ)ふ事(こと) 去程(さるほど)に文禄元年(ふんろくぐわんねん)三月の初(はじ)め。日本(につほん)の諸将(しよしやう)は朝鮮国(てうせんごく)へ押渡(おしわた)らんとて。同(おなしく) 十二日 名護屋(なごや)をは辰(たつ)の刻(こく)に船出(ふなで)の約速(やくそく)相(あひ)きわめたり。すでに其日(そのひ)になししか ば小西摂津守(こにしつのかみ)をはじめとして。其外(そのほか)諸手(もろて)の大船(たいせん)ども組手(くみで)にしたがひ其列(そのれつ)を 相追(あひお)ふて。纜(ともつな)をとき数船艘(すせんざう)の帆柱(ほばしら)を押立(おした)て帆(ほ)をあぐる声(こゑ)のすさまじきに。 諸手(もろて)の船(ふね)より放(はな)しかくる石火矢(いしびや)のひゞきは。只(たゞ)百千(ひやくせん)の雲雷(うんらい)の一度(いちど)に落(おち)かゝる如(ごと) くなり。既(すで)に湊(みなと)を漕(こぎ)はなれ蒼海(さうかい)の浪路(なみぢ)はるかに漂々(びやう〳〵)と。前後(ぜんご)左右(さいふ)を見渡(みわた) せばさま〴〵の船印(ふなしるし)に。家々(いへ〳〵)の紋付(もんつき)たる旌旗(せいき)【方+星は誤】風(かせ)にひるがへり。幔幕(まんまく)浪(なみ)を照(てら)し ては吉野(よしの)龍田(たつた)の花(はな)紅葉(もみぢ)をさながら水(みづ)に浸(ひた)すが如(ごと)し。渡(わた)らば錦(にしき)の中(なか)やたえな んと読(よみ)たりし流(ながれ)の末(すへ)の海(うみ)に入(い)るやと異(あやし)まる。かくて順風(しゆんふう)にまかせけるまゝに 壱岐国(いきのくに)風本(かざもと)といふ所(ところ)まで。時刻(じこく)を移(うつ)さず押付(おしつけ)。夫(それ)より多(おほ)くの船(ふね)を揃(そろ)へ 対馬国(つしまのくに)へ漕渡(こぎわた)らんとするほどに風(かぜ)かはり。船(ふね)を出(いで)すべきやうなく十日 余(あま)りはいか りをも起(おこ)さず。此時(このとき)に海路(かいろ)の諸将(しよしやう)九鬼大隅守嘉隆(くきおほすみのかみよしたか)が方(かた)に集(あつま)りて。軍中(くんちう) の約速(やくそく)をなす。時(とき)に大田小源吾(おほたこげんご)。毛利兵橘(もうりへいきつ)。竹中源助(たけなかけんすけ)。懸樋弥五郎(かけひやごろう)。毛利(もうり) 民部大夫(みんぶたいふ)。は秀吉公(ひでよしこう)より軍中(ぐんちう)の目付(めつけ)として付(つけ)られし人々(ひと〳〵)なり。諸将(しよしやう)各々(おの〳〵)誓(せい) 詞(し)を以(もつ)て。其約速(そのやくそく)を衆士(しゆうし)に示(しめ)すべしと衆議一決(しゆうぎいつけつ)しければやがて誓詞(せいし)の前(まへ) 書(がき)を定(さた)む其(その)ケ(か)条(てう)には。  一  船中(せんちう)の軍評定(いくさひやうぢやう)の儀(ぎ)最(もつと)も其中(そのなか)のよろしきところ有(あ)るを択(えら)んで     用(もち)ゆべき事  二《割書:ニハ》諸船(しよせん)何(いづ)れに依(よ)らず危難(きなん)にのぞむ事(こと)あらば急(きふに)可相救(すくふべき)の事(こと)  三《割書:ニ》 歒謀(てきばう)珍布(めつらしき)手立(てだて)あらば互(たがひ)にこれを申談(まうしだん)すべき事(こと) 【右丁 絵画のみ】 【左丁】 藤堂(とう〴〵) 佐渡守(さどのかみ) 高虎(たかとら) 朝鮮(てうせん) の番船(ばんせん) 百余艘(ひやくさう)を  乗(のつ)とり 唐島(からしま)を 放火(はうくわ)して 首百余級(くびひやくよきう)を     とる  四《割書:ニハ|》 忠節(ちうせつ)の浅深(せんしん)依怙贔屓(えこひいき)をもつて偏頗(へんば)の義(き)あるべからす。真(まつすぐ)に申(まうし)      述(のふ)べき事(こと)  五《割書:ニハ|》 他人(たにん)の軍忠(ぐんちう)を盗(ぬす)みて以(もつ)て我功(わがこう)となす事(こと) 堅(かた)く禁(きん)ずべき事(こと)  六《割書:ニハ|》 諸手(しよて)より一将(いつしやう)ごとに諜船(ものみふね)二艘(にそう)づゝ出(いだ)すべき事(こと)  七   名護屋(なごや)御本陣(ごほんぢん)へ注進(ちうしん)の義(ぎ)これある者(もの)必(かならず)御目付衆(おんめつけしゆう)の指図(さしづ)を       うけ其意(そのい)にまかすべき事            右(みき)の条々(でう〳〵) 奉行衆(ぶぎやうしやう)宛(あて)どころにして霊神(れいじん)に誓(ちか)ひ。血判(けつはん)を調(とゝの)ひ連判(れんばん)をなしおはつて福原(ふくはら) □□□□るは。評議(ひやうぎ)相(あひ)とゝのひ互(たかひ)に目出度事(めでたきこと)なり。さらば酒(さけ)をはじめ船(ふな) □□□□折(おり)二合(にがふ)樽(たる)三 荷(が)出(いだ)したれば。九鬼(くき)是(これ)を聞(きい)て最(もつと)もしかるべしとて □□□□いとなみ。肴(さかな)さま〴〵とゝのへ盃盤狼藉(はいばんらうぜき)として酒宴(しゆえん)もすでに尽(つき) ぬれば。佐渡守(さどのかみ)は千秋樂(せんしうらく)を謡(うた)ひをさめ其日(そのひ)の会(くわい)は終(おは)りける。    小西行長(こにしゆきなが)抜懸(ぬけかけ)《割書:附(つけたり)》藤堂佐渡守(とう〴〵さどのかみ)唐島(からしま)を放火(はうくわ)の事(こと) 諸軍(しよぐん)すでに壱岐(いき)の風本(かざもと)に至(いた)つて数日(すじつ)逗留(たうりう)すといへども逆風(きやくふう)に逢(あふ)がゆゑおの〳〵 気(き)をせき。意(こゝろ)もだへけれども如何(いかゞ)とも詮方(せんかた)なくて風待(かざまぢ)して居(ゐ)たる処(ところ)に行長(ゆきなが)の 思(おもひ)らく海涛(かいとう)もしおだやかならば。諸将(しゆしやう)の船(ふね)みな発(はつ)すべししか〴〵人(ひと)に先(さき)だつ て速(すみやか)に朝鮮(てうせん)に入(い)らんにはと思(おも)ひ定(さだ)め。其夜(そのよ)の夜半(やはん)ばかりにひそかに纜(ともづな)をとき手(て) 勢(せい)をまとひ。宗義智(そうよしあきら)が人数(にんず)と共(とも)に押出(おしいだ)して対馬(つしま)豊崎(とよさき)に馳(はせ)たりけり翌朝(よくてう) になりければ逆風(きやくふう)やうやくに静(しづま)りたれば諸手(もろて)の船(ふね)ども早(はや)く馳(はせ)んと錠(いかり)を上(あぐ) るに至(いた)つて。清正(きよまさ)長政(ながまさ)等(とう)行長(ゆきなか)が船(ふね)の見(み)えざるにおどろき。さらば船共(ふねとも)を 押出(おしいだ)せとて我先(われさき)にと漕行(こきゆき)ける。すでに進(すゝ)み行(ゆく)こと五六 里(り)も過(すぎ)つらんと思(おも)ふ 時(とき)。また逆風(きやくふう)に吹(ふき)もどされて是非(ぜひ)なく風本(かさもと)にかへりけり。行長(ゆきなが)が一手(ひとて)のみ難(なん)なく 豊島(とよしま)に着岸(ちやくがん)し。それより心(こゝろ)は鶏林(けいりん)の地(ち)に馳(はす)るといへども狂風(きやうふう)みだりに強(つよ)くして。 船(ふね)漕出(こきいだ)さんやうもなし。行長(ゆきなが)は清正(きよまさ)等(ら)がすでに至(いた)るべきことを慮(おもんはか)りければ 大風(たいふう)を凌(しの)ひて進(すゝ)み行(ゆく)。釜山浦(ふさんかい)へと漕(こぎ)よせける。斯(かく)て諸手(もろて)の面々(めん〳〵)加藤清正(かとうきよまさ) を始(はじめ)として。黒田(くろだ)鍋島(なべしま)小早川(こばやかは)島津(しまづ)福島(ふくしま)其外(そのほか)の諸将(しよしやう)まで。段々(たん〳〵)の兵船(ひようせん)共(ども) 或(あるひ)は熊河(こもがい)に押入(おしいり)或(あるひ)は釜山浦(ふさんかい)につかんとて。海上一面(かいしやういちめん)に押渡(おしわた)りけり。こゝに藤堂佐(とう〴〵さ) 渡守高虎(とのかみたかとら)は意(こゝろ)はやき者(もの)なりければ。他人(たにん)に先(さき)をせられては口惜(くちおし)き次第(しだい)なる べしとて唐島(からしま)を心(こゝろ)かけ。夜半(やはん)ばかりにひそかに船(ふね)を乗出(のりいだ)し手勢(てぜい)わづかに五百 人を引分(ひきわけ)たり。すでに唐島表(からしまおもて)に着(つき)ければ朝鮮(てうせん)より指置(さしおき)たる。番船(ばんせん)の揃(そろ)へたる を目(め)がけ一柏子(ひとひやうし)に船(ふね)漕(こぎ)よせひた〳〵と乗(のり)うつる。藤堂(とう〴〵)が運(うん)や強(つよ)かりけん爰元(こゝもと) に漕(こき)うかべたるは。敵船(てきせん)の気(き)を奪(うば)はん為(ため)の見(み)せ船(ふね)のかざりのみなりければ。はか〳〵 しき人数(にんず)をも乗(のら)ざるゆゑ。意(こゝろ)やすく時(とき)の間(ま)に百艘(ひやくそう)あまりの船(ふね)を乗取(のつと)り。高虎(たかとら) は此勢(このいきほ)ひに唐島浦(からしまうら)へ漕付(こぎつけ)て島(しま)の人家(じんか)を放火(はうくわ)して。敵(てき)の首(くび)百(ひやく)ばかり討取(うちと)り。 手勢(てぜい)のこらず陸(くが)へ上(あが)り陣取(ぢんとり)ける。味方(みかた)の諸将(しよしやう)は放火(はうくわ)の火煙(くわゑん)に驚(おどろ)き。抜(ぬけ)がけの 者(もの)ありけりや。急(いそ)ぎ船(ふね)を漕(こぎ)つけて味方(みかた)の勇士(ゆうし)をはげませよと。船手(ふなて)の勢(せい)は 申(まうす)に及(およ)ばず。数千(すせん)の兵船(ひようせん)我(われ)おとらじと乗出(のりいだ)し。逃行敵(にげゆくてき)の番船(ばんせん)ともを乗(のり)か け〳〵奪(うば)ひ取(と)る。既(すで)に其数(そのかず)百余艘(ひやくよさう)におよびける七人の目付(めつけ)もろとも諸手(しよて)の大(たい) 将(しやう)は。唐嶋(からしま)に打(うち)あかりて暫(しばら)く休息(きうそく)したりける。七人の内(うち)より今日(こんにち)の取合(とりやい)を早速(さつそく) 名護屋(なごや)へ早船(はやふね)をもつて注進(ちうしん)ある。諸将(しよしやう)すでに唐島(からしま)に打上(うちあか)り。一所(いつしよ)に会合(くわいがふ)して 今日(こんにち)の働(はたら)きは。藤堂(とう〴〵)が手(て)一番(いちばん)なりと評議(ひやうぎ)し。重(かさ)ねて朝鮮(てうせん)へ向(むか)ふべきやう如何(いかゞ)せ んと列座(れつざ)相談(そうだん)の半(なかば)なるに。加藤左馬助嘉明(かとうさまのすけよしあきら)そつと立(たつ)て雪隠(かわや)に行体(ゆくてい)にもて なし。我手(わがて)に属(ぞく)せる若殿原(わかとのばら)を一人 招(まね)ぎて。只今(たゞいま)向(むか)ふに見(み)えたる番船(ばんせん)を乗(のつ) 取(とる)へし。早々(さう〳〵)手船(てふね)の足(あし)はやからんを二十 艘(さう)ばかり用意(ようい)せよとて。我(わが)陣船(ぢんせん)に走(はし) らせ。其身(そのみ)は何(なに)となき体(てい)にもてなし本(もと)の座(ざ)についたりける。 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編之四《割書:終》 朝鮮征伐記(てうせんせいはつき)初編巻之五     目録  一 加藤左馬助(かとうさまのすけ)番船(ばんせん)を乗取(のつとる)事(こと)  一 小 西摂津守(にしせつゝのかみ)釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)を攻落(せめおと)す事(こと)  一 浮田秀家(うきたひていへ)抜(ぬけ)がけして小西(こにし)を救(すく)はんとする事    《割書:附(つけたり)》加藤清正(かとうきよまさ)熊川(こもかい)に着(つく)事(こと)  一 加藤清正(かとうきよまさ)慶州(けいしう)を攻落(せめおと)す事(こと) 【白紙】 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編巻之五   加藤左馬助(かとうさまのすけ)番船(ばんせん)を乗取(のつとる)事(こと) 斯(かゝ)りければ左馬助(さまのすけ)が手(て)の船(ふね)の中(なか)より軽(かる)く乗出(のりいだ)す。早船(はやふね)二三十 艘(そう)中(なか)にも 塙団右衛門直行(はんたんゑもんなほゆき)は。真先(まつさき)に乗出(のりいだ)し水主(すゐしゆ)に下知(げぢ)して真一文字(まいちもんじ)に漕出(こぎいだ)す。つゞいて 左馬助(さまのすけ)が甥(おひ)なる権七(ごんしち)をはじめとして。我(われ)劣(おと)らじと乗進(のりすゝ)む左馬助(さまのすけ)兼(かね)て相図(あひづ) の事なれば早(はや)く其座(そのざ)を立上(たちあが)り船場(ふなば)をさして駈(かけ) 出し。やがて船(ふね)に乗移(のりうつ)り 飛(とぶ)が如(こと)くに敵船(てきせん)の方(かた)へ乗(のり)かくる。七人の目付(めつけ)をはじめ諸将(しよしやう)はこれを見るより。 あれ見(み)給へ左馬助(さまのすけ)が軍法(ぐんはう)に背(そむ)いて危(あやう)く一人 抜(ぬけ)がけするは。若(もし)も仕損(しそん)ずる事 あれば味方(みかた)のものゝ気落(きおち)となる。早(はや)くこれをとゞめよと七人の目付(めつけ)其外(そのほか)。 諸将(しよしやう)の中(なか)よりも端舟(はしふね)をもつてこれを止(とゞ)め。兼(かね)て抜(ぬけ)がけすべからずと総大将(そうたいしやう)の仰(おほせ) にて。約諾(やくだく)ありし甲斐(かひ)なく正(まさ)なふこそ見(み)え候へ。早々(さう〳〵)爰元(こゝもと)へ帰(かへ)られよ一 列(れつ)の上(うへ)にて 約(やく)したるに。一人かゝりて克(よき)はづなれば誰(たれ)かおくれ候はんと。船(ふね)はしらせて禁(きん)ずれ ば左馬助(さまのすけ)使(つかひ)に向(むか)ひ。仰(おふせ)尤(もつとも)に候なりしかしながら我手(わがて)の若輩(じやくはい)はやりすぎ。 我等(われら)が下知(げぢ)も請(うけ)申さず御軍法(ごくんはう)をすでに破(やぶ)り候 得(え)ば。なか〳〵人(ひと)をして止(とゞ)めたる 分(ぶん)にては合点(がてん)いたす事(こと)ならず。扨(さて)ぞ我等(われら)自身(ししん)に是(これ)を止(とゞ)めにまゐる追付(おしつけ)それへ 罷(まか)りかへるべし。抜(ぬけ)がけの意(こゝろ)はいさゝか以(もつ)て候はずと云捨(いひすて)て。せり立(たつ)て船(ふね)を漕(こぎ) 付(つく)る。殊(こと)にさきより天気(てんき)はれ風(かせ)なみはこゝろよし。二里ばかり澳(おき)にかきならべ たる朝鮮(てうせん)の番船(はんせん)四十 餘艘(よさう)。賁(かさ)り立(たつ)て斥候舩(ものみふね)と相定(あひさだ)め日本人の来(きた)るを 待(まち)かけさせ。夫(それ)より一里ばかり引下(ひきさが)り大船(たいせん)数(す)千 艘(そう)幾重(いくえ)ともなく。八重(やえ)の塩(しほ) 路(ぢ)を乗切(のりきつ)て待(まち)かけたるは。数十里(すじふり)の海上(かいしやう)にすべて蒼白(さうはく)の浪(なみ)もなく。紅錦紫繍(こうきんししう)の 船(ふな)やかた粧(よそほ)ひ立(たつ)たる色(いろ)のみなり。かゝる大勢(おほぜい)の真中(まんなか)へ味方(みかた)わづかの小勢(こぜい)にてかゝら んやうはなけれども。左馬助(さまのすけ)の不敵者(ふてきもの)にだしぬかれ諸将(しよしやう)の船共(ふねとも)口惜(くちおし)と思(おも)へる猛(まう) 風(ふう)に浪(なみ)を動(どう)じ我(われ)劣(おと)らじと。手船(てふね)〳〵へ乗(のり)うつるより声々(こゑ〳〵)に水主(すゐしゆ)ども後(おく)るゝ な。揖取(かんどり)いかにと譟(さわ)ぎわめくは偏(ひとへ)に雷鳴(らいめい)の如(ごと)くにて。物(もの)の分(わか)ちも聞(きこ)えば こそ。其間(そのま)に左馬助(さまのすけ)が船(ふね)どもは早(はや)朝鮮(てうせん)の斥候舩(ものみふね)の乗浮(のりうか)めたる真中(まんなか)へ。猶(ゆう) 予(よ)会釈(えしやく)もなく衝(つき)かゝれば。四十 余艘(よそう)の番人(ばんにん)ども弓弩(きうど)鉄砲(てつはう)をそろへて一 度(ど) に打立(うちたつ)ればなか〳〵手易(てやす)くは乗(のり)うつらんやうもなく。流石(さすが)に勇(いさ)める者共(ものども)も少(すこ)し 思惟(しゆい)にわたるを見て。左馬助(さまのすけ)が与力(よりき)なりける塙團右衛門直行(はんだんえもんなをゆき)。水主(すゐしゆ)をはげ まし朝鮮船(てうせんふね)へ近寄(ちかよる)とひとしく。鎖(くさり)の先(さき)にかきのつきたるを敵船(てきせん)へ投込(なげこみ)小縁(こべり) へかけて力(ちから)にまかせて手(た)ぐり寄(よせ)。大太刀(おほだち)を振(ふり)かざし敵兵(てきへい)二人を海中(かいちう)へ切(きつ)て おとし。其まゝ敵船(てきせん)へ飛乗(とびのり)当(あた)るを幸(さいわ)ひ切廻(きりまは)る。左馬助(さまのすけ)は是(これ)を見て直(なを) 行(ゆき)打(うた)すなつゞけ〳〵と。自(みづか)ら水主(すゐしゆ)をしかりつけ無二無三(むにむさん)に敵船(てきせん)へ乗(のり)かけ すでに向(むか)ふへ飛越(とひこえ)んとす。左馬助(さまのすけ)が同船(とうせん)に有(あり)つる小扈從(ここしやう)。主(しゆう)を討(うた)せて は叶(かな)ふまじと。左馬助(さまのすけ)が脇(わき)の下(した)をつゝとぬけ。敵船(てきせん)へ乗(のり)うつる心(こゝろ)は剛(がう)に見へ つれども。待設(まちまう)けたる敵(てき)の中(なか)へ飛込(とびこむ)に何(なに)かはもつてたまるべき。やかて爰(こゝ) にて討(うた)れける。左馬助(さまのすけ)是(これ)を見(み)るより南無三宝(なむさんばう)といふまゝに。鎗(やり)おつとり 朝鮮船(てうせんふね)へ乗込(のりこみ)左右(さいふ)に当(あた)り火花(ひばな)を散(ちら)して戦(たゝか)ひば。姪(おひ)の権七(ごんしち)つゞいて駈入(かけいり) 伯父(おぢ)と姪(おひ)と二人つれ。前後(ぜんご)に敵(てき)をとりて乱戦(らんせん)す。主人(しゆじん)先(さき)だつて如此(かくのごとく)に働(はたら)く を見(み)るより其手(そのて)の兵士(へいし)誰(たれ)か一人 臆(おく)すべき。我先(われさき)にと乗入(のりいり)〳〵斬(き)るをも突(つく) をも少(すこ)しもひるまず。我先(われさき)にと敵船(てきせん)に取付(とりつき)おもひ〳〵に戦(たゝか)ひ乗入(のりいれ)ば。朝鮮(てうせん)の 兵(へい)防(ふせ)ぎかねて十 艘(そう)ばかり乗取(のつと)られ。残(のこ)る三十 艘(さう)は舳艫(ちくろ)を回(かへ)し後陣(ごぢん)の 同勢(どうぜい)へ逃入(にけいつ)たり。後(あと)に残(のこ)りし日本(につほん)の諸大将(しよだいしやう)左馬助(さまのすけ)にだしぬかれ。無念(むねん)に おもひ我(われ)も〳〵と手船(てふね)に乗(のり)我(われ)よ人(ひと)よと罵(のゝし)る声(こゑ)。おびたゞしく左馬助(さまのすけ)は 乗取(のつとつ)たる番船(ばんせん)に。大綱(おほづな)をつけて十 艘(そう)ばかりの船(ふね)を漕戻(こぎもど)させける。諸大将(しよたい) 将(しやう)是(これ)を見(み)ていよ〳〵気(き)をもみ。一 同(よう)に水主(かこ)をはげまし朝鮮勢(てうせんせい)数百艘(すひやくそう)にて ひかへたるを乗取(のつと)るべしとて船(ふね)をはやめ波(なみ)おし切(きつ)て押寄(おしよす)る。脇坂中務安(わきさかなかつかさやす) 治(はる)久留島出雲守(くるしまいつものかみ)。戸田民部少輔(とだみんふしやうゆう)。藤堂佐渡守高虎(とう〴〵さどのかみたかとら)。蜂須賀阿波守(はちすかあはのかみ) が輩(ともがら)真一文字(まいちもんじ)に押(おし)かゝる。左馬助(さまのすけ)は元来(ぐわんらい)藤堂(とう〳〵)脇坂(わきざか)とその中(なか)不和(ふわ)なる 事故(ことゆゑ)。評議(ひやうぎ)の時(とき)も口論(こうろん)せし事(こと)なれば。今(いま)諸大将(しよだいしやう)の見(み)る前(まへ)にて脇坂(わきさか)等(ら)に 勝(まさ)る功名(こうみやう)を顕(あら)さんと。第一(だいゝち)ばんに乗浮(のりうか)べたる番船(ばんせん)へ一 文字(もんじ)に押(おし)かゝる。朝鮮勢(てうせんせい) は先刻(さき)の敗軍(はいぐん)を憤(いきどほ)りて居(ゐ)たる事(こと)なれば。左馬助(さまのすけ)が船(ふね)を乗取(のつと)らんと相(あい)かゝり に漕向(こぎむか)ふ。弓(ゆみ)鉄砲(てつはう)にて射立(ゐたつ)る事(こと)さながら雨(あめ)の如(ごと)し。左馬助(さまのすけ)怒(いか)り罵(のゝし)り船(ふね) をおしへけける時(とき)。萩作左衛門(はぎさくざゑもん)打(うち)かぎを以(もつ)て引(ひつ)かけて乗入(のりい)らんとなしけれ ども。敵兵(てきへい)是(これ)を切拂(きりはら)ふて半弓(はんきう)を射(ゐ)かけしかは。矢(や)二 筋(すぢ)三 筋(すぢ)あたつて其身(そのみ)自(じ) 由(ゆう)ならず。左馬助(さまのすけ)も抜(ぬけ)がげ【ママ】の若殿原(わかとのばら)を止(と)める体(てい)にて乗出(のりいだ)したる事(こと)なれば。 帷子(かたひら)一 重(え)に渋手拭(しふてぬぐひ)にて鉢巻(はちまき)したるばかりなれば。矢(や)三 筋(すぢ)あたつて船(ふな)はだを 踏(ふみ)はづし海(うみ)へ落入(おちいり)けるが元(もと)より早業(はやわざ)にて落(おち)さまに。船(ふね)の艗(へさき)へ取(とり)つき浮(うき)ぬ しづみぬたゞよふところを。作左衛門(さくざゑもん)左馬助(さまのすけ)が帯(おび)をつかんで船中(せんちう)へ引上置(ひきあげお)き。 敵船(てきせん)へ飛(とび)こみ一 番乗(ばんのり)萩作左衛門(はぎさくざゑもん)と名乗(なのり)ける。左馬助(さまのすけ)起上(おきあが)りもの〳〵しや といふまゝに続(つゞい)て二 番(ばん)に乗入(のりいつ)たり。川村権七(かはむらごんしち)。戸田三郎四郎(とださぶらうしらう)。宮川三郎左(みやかはさふらうざ) 衛門(ゑもん)。土方長兵衛(ひぢかたちやうべゑ)。中島勝右衛門(なかじまかつゑもん)。東勘兵衛(あづまかんべゑ)。藪与左衛門(やぶよざゑもん)も飛入(とびいつ)て 勇(ゆう)を振(ふる)つて戦(たゝか)ふほどに敵船(てきせん)三 艘(そう)乗取(のつとり)ける。左馬助(さまのすけ)が乗移(のりうつ)りし船(ふね)には三 五人の敵(てき)のみにて外(ほか)に兵(へい)一人も見(み)へざれは。何方(いつかた)へ逃失(にげうせ)けんと踏板(ふみいた)を上(あげ)見(み)れ ば。敵(てき)は舩底(ふなぞこ)へしのび入(いり)半弓(はんきう)を引(ひき)そばめ待(まち)かけたり。何(いつ)れもすべきやうなく 猶予(ためらい)居(ゐ)けるを。左馬助(さまのすけ)眼(まなこ)をいからしてそこ退(のき)候へ我(われ)入(い)らんとすゝみ入(い) る。是(これ)を見(み)るより土方長兵衛(ひぢかたちやうべゑ)真先(まつさき)に飛入(とびいり)しかば。つゞいてみな〳〵切(きつ)て入(いり)当(あた)る をさいわひ切廻(きりまは)る。敵兵(てきへい)叶(かな)はしと海(うみ)へ飛入(とびいる)も有(あり)あるひは討(うた)るゝも有(あり)。左馬助(さまのすけ) も左(ひだ)りの腹(はら)を射(ゐ)ぬかれて血(ち)の流(なが)るゝこと滝(たき)の如(ごと)し。されとも是(これ)をことともせ す。猶(なほ)敵船(てきせん)へ漕付(こぎつけ)んと下知(げぢ)して居(ゐ)たるところへ。鍋島信濃守勝繁(なべしましなのゝかみかつしげ)。一 番(ばん)に乗(のり) 【右丁】 加藤左馬助(かとうさまのすけ)    嘉明(よしあきら) 一 手(て)の従兵(しふへい)にて 朝鮮(てうせん)の番船(ばんせん)  数十艘(すじつさう)を    乗取(のつと)る 【左丁 絵画のみ】 つけ来(きた)り扨(さて)も命(いの)しらず左馬殿(さまどの)かなと。大音(だいおん)に誉(ほめ)ければ左馬助(さまのすけ)につこと 笑(わら)ひ。今日(こんにち)の働(はたら)きいかゞ見(み)給ひしやと自慢(じまん)して立(たつ)たる有(あり)さま。夜叉(やしや)羅刹(らせつ)【殺は誤】の 怒(いか)るが如(ごと)し。かゝる所(ところ)へ脇坂(わきさか)も乗付(のりつけ)しかば兼(かね)て不和(ふわ)なる脇坂(わきざか)なれば。左(さ) 馬助(まのすけ)大音(だいおん)あげて。嘉明(よしあきら)が乗取(のつとつ)たる明船(あきふね)多(お[ほ])く御座(ござ)候。いそぎ乗移(のりうつり)将軍(しやうぐん)へ 注進(ちゆうしん)し給へ。油断(ゆだん)ばしし給ふな脇坂(わきざか)どのと呼(よば)はりければ。安治(やすはる)物(もの)をもいわず 怒(いか)りもだへ討死(うちしに)して。左馬助(さまのすけ)に見(み)せよ兵共(つはものども)と敵船(てきせん)の中(なか)へ面(おもて)もふらず走(はし)り 入(い)る。久留嶋出雲守通安(くるしまいづものかみみちやす)は水主(すいしゆ)に下知(げぢ)して。脇坂(わきさか)に先(さき)たゝんと乗来(のりきた)り 朝鮮船(てうせんふね)へ乗(のり)ちかづくと其(その)まゝ。身(み)をおとらして敵中(てきちう)へ乗入(のりいり)忽(たちま)ち敵(てき)六七人 を海中(かいちう)へ切(きり)こみ。命(いのち)を羽毛(うまう)の軽(かろ)きに比(ひ)し義(ぎ)を金鉄(きんてつ)の重(おも)きになぞらへ戦(たゝか) ひける此時(このとき)藤堂(とう〳〵)蜂須賀(はちすか)等(とう)の面々(めん〳〵)。味方(みかた)をはけまし攻戦(せめたゝか)ふといへども大(たい) 船(ふね)を乗廻(のりまは)し半弓(はんきう)を射(ゐ)かくる事(こと)繁(しげ)く。なか〳〵近(ちか)つくこと出来(でき)ずおの〳〵 船(ふね)を引(ひつ)かへしける故。敵(てき)は勝(かつ)にのり日本舩(につほんふね)へ乗付(のりつけ)〳〵責(せめ)たりける。久留嶋(くるしま) もつゞく味方(みかた)もあらざれば。命(いのち)かぎりと戦(たゝか)ふといへども。敵船(てきせん)より射出(ゐいだ)す 矢(や)は数(かす)しれす其身(そのみ)にあたりて。つゐに此所(こゝ)にて討死(うちしに)す。脇坂(わきさか)も今(いま)は最期(さいこ)と おもひ。死力(しりき)を出(いだ)して戦(たゝか)ふといへとも敵(てき)の矢先(やさき)に射(ゐ)すくめられ。霎時(しはし)躇躕(ためらひ)【蹰は躕の俗字】 居(ゐ)るを見(み)て朝鮮勢(てうせんぜい)得(え)たりや応(おう)と。無二無三(むにむざん)に責立(せめたつ)る脇坂(わきざか)が兵共(へいども)散々(さん〳〵)に なつて逃散(にげちつ)たり。安治(やすはる)今(いま)は是(これ)までなりと甲(かふと)をぬぎ太刀(たち)を抜(ぬき)船(ふな)ばたに腰(こし) をかけ。近寄(ちかよる)敵(てき)を切払(きりはら)へ〳〵自害(じがい)せんとなしけるを。家老(からう)家(いへ)の子(こ)引立(ひつたて)て こゝにて討死(うちじに)あらんはしかるべからず。一《割書:ト》先(まづ)陸(くが)へ上(あが)らせ給へ某(それがし)等(ら)残(のこ)りて討死(うちじに) 仕(つかまつ)るべしと諌(いさ)め。無理(むり)に抱(だ)き上(あ)げて陸(くが)の方(かた)へ漕戻(こぎもど)す。安治(やすはる)無念(むねん)の涙(なみだ)を なかせど詮方(せんかた)なく引(ひつ)かへす。朝鮮(てうせん)の兵共(へいども)勝(かつ)にのつて日本勢(につほんぜい)を追(おひ)まくる。 扨(さて)久留嶋出雲守(くるしまいつものかみ)が弟(おとゝ)。村上彦右衛門(むらかみひこゑもん)は外船(ほかふね)に有(あつ)て戦(たゝか)ひ居(ゐ)しか。兄(あに)の 討死(うちじに)を聞(きく)より涙(なみだ)をながし。今(いま)は生(いき)て何(なに)かせん討死(うちじに)して追付(おひつか)んと。家人(げにん) をはけませ敵中(てきちう)へ真一文字(まいちもんし)乗入(のりいれ)ば。敵船(てきせん)より射出(ゐいた)す矢(や)は霰(あられ)の如(ごと)くなか〳〵 面(おもて)を向(む)くへきやうはなけれど。主従(しゆう〳〵)ともに討死(うちじに)と覚悟(かくこ)をきはめし事(こと)。すこしも ひるます敵船(てきせん)へ漕付(こぎつけ)𨭚(しのぎ)を削(けづ)りて挑(いと)み戦(たゝか)ふ心(こゝろ)は剛(がう)にはやれども敵(てき)より射(ゐ)る 矢(や)におの〳〵深手(ふかで)を負(おひ)。既(すで)に斯(かう)よと見(み)へけるところに左馬助(さまのすけ)はるかに是(これ)を 見(み)て。角切角(すみきりかく)に三 文字(もんし)の船(ふな)じるしは。久留嶋(くるしま)が一 門(もん)なるべしあれ討(うた)すると 自身漕付(じしんこぎつけ)。打(うち)かきをもつてかけとめ是(これ)を救(すく)ふて攻(せめ)たゝかふ。此時嶋津義弘(このときしまつよしひろ) 手勢(てぜい)を下知(げぢ)して敵船(てきせん)を乗取事(のつとること)なかれ。只(たゞ)真中(まんなか)を乗(の)りてかなたこなたへ 乗分(のりわけ)よ必(かなら)ず舟(ふね)にあたるべからずと。采幣(さいはい)とつてかけまはる嶋津(しまづ)が手(て)の者(もの)大将(たいしやう) の下知(げぢ)にしたかつて。右(みき)に往(ゆ)き左(ひだり)に往(ゆ)き南北(なんぼく)に突衝(つきつい)て。一 所(しよ)にこれを聚(あつま)らせじ となしければ。大船(おほふね)のとりまはし元来(もとより)思(おも)ふ儘(まゝ)ならねば。軽(かる)き舟(ふね)にせびらかされ て大(おほい)に飽(あく)んで戦(たゝか)ひつかれ。今日(こんにち)の軍(いくさ)は是(これ)までと湊(みなと)の方(かた)へ押(おし)かへせば。日本勢(につほんせい)も終(しう) 日(じつ)の戦(たゝか)いに将卒(しやうそつ)ともに労(つか)れしかば。元(もと)の陣所(ぢんしよ)へ漕戻(こぎもど)し扨(さて)七人の横目衆(よこめしゆう) 将軍(しやうぐん)へ注進(ちうしん)すべしとて。今日(けふ)の次第(しだい)をしたゝめ此度(このたび)の軍功(ぐんこう)左馬助(さまのすけ)第一番(だいいちはん) なりと注進(ちうしん)す。秀吉公(ひでよしこう)聞召(きこしめし)藤堂(とう〴〵)が唐島(からしま)へ押寄(おしよ)せたる功(こう)を感(かん)じ。左(さ) 馬助(まのすけ)が比類(ひるい)なき働(はたら)きを賞(しやう)し。脇坂(わきさか)が粉骨(ふんこつ)あるをそれ〳〵に褒(ほめ)感(かん)ぜ らるゝの趣(おもむき)をかゝせて下(くだ)されしかば。おの〳〵勇(いさ)みすゝむ中(なか)にも脇坂(わきさか)は一 身(しん)の 不覚(ふかく)家(いゑ)の瑕理(かきん)なれば。すでに切腹(せつぶく)をやなすべきとしきりに憤(いきどほ)りたるを。七 人(にん)の目付(めつけ)の人々強(ひと〳〵しひ)て押(おさ)へ上(かみ)の意(こゝろ)にしたかへ給ひ。これ忠(ちう)なりと諌(いさ)めし所(ところ)へ如此(かくのごとく) の感帖(かんぢやう)を賜(たまは)るゆへ。辱(かたしけな)きこと心胸(しんきやう)に撤(てつ)して其(その)志(こゝろざし)金石(きんせき)の思(おも)ひとなり。弥(いよ〳〵)命(いのち)を 塵芥(ぢんがい)に比(ひ)せんとぞ勇(いさゝ)みける。    小西行長(こにしゆきなが)釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)を攻落(せめおと)す事(こと) かくて小西行長(こにしゆきなが)はすでに海上(かいしやう)の狂風(きやうふう)をおし切(きつ)て。卯月(うづき)十三日 釜山浦(ふさんかい)に至(いた)り しかば。士卒(しそつ)に下知(げぢ)して物(もの)の具(ぐ)つけさせ自分(じぶん)真先(まつさき)に馬(うま)に打乗(うちのり)駈上(かけあか)る。宗(そう) 対馬守(つしまのかみ)をはしめ有馬松浦(ありままつら)五島大村(ごとうおほむら)の面々(めん〳〵)。甲(かふと)の緒(を)をしめ色(いろ)めき渡(わた)つ て我劣(われおと)らじと先(さき)をあらそひ。おめき叫(さげ)ぶ有(あり)さまはいかなる強敵(がうてき)といへ ども。面(おもて)をむくべきとは見(み)へざりける。朝鮮(てうせん)にては日本人(につほんじん)大軍(たいぐん)にて寄(よ)せ 来(きた)る旨(むね)。先達(さきだつ)て聞(きこ)へければ。李雄(りゆう)。孟明伯(まうめいはく)。を大将(たいしやう)として。剛兵(かうへい)二万 餘騎(よき) にて釜山浦(ふさんかい)をかため居(ゐ)たりしか。此(この)有(あり)さまを見(み)て倭勢(わせい)すでに寄(よせ)たりとて。 上(うへ)を下(した)へと騒動(そうだう)し海陸(かいりく)におりかさなつてひしめきたり。小西行長(こにしゆきなが)是(これ)を 見(み)て大音(たいおん)揚(あげ)て下知(げぢ)しけるは。渡(わた)せや人(ひと)〳〵後(うしろ)を見(み)するな。馬(うま)の足(あし)たゝば 船(ふね)より乗移(のりうつ)れ。海中(かいちう)にて弓(ゆみ)鉄砲(てつはう)放(はな)すべからず甲(かふと)の鉢(はち)をかたむけて。前(まへ) 輪(わ)にひらみて鎧(よろひ)をよく〳〵ゆり合(あは)せよ。人(ひと)にも馬(うま)にも力(ちから)を添(そへ)よ味方(みかた) 渡(わた)らば敵(てき)半弓(はんきう)をあつめて射(ゐ)んずらん。敵(てき)は射(ゐ)ると射(ゐ)かへする相(あひ)た めして。錣(しころ)を射(い)らるゝなと曳(えい)〳〵声(ごゑ)あげて押上(おしあが)る。行長(ゆきなが)は真先(まつさき)に進(すゝ)ん で采幣(さいはい)を振(ふ)つて手勢(てぜい)七千 余騎(よき)駈上(かけあが)る。宗対馬守(そうつしまのかみ)をはじめとして 松浦大村(まつうらおほむら)の兵士(へいし)一千二千 騎(き)一むれ〳〵。乗連(のりつれ)〳〵二万 余(あま)りの軍勢(ぐんぜい) 塩(しほ)はな踏立(ふみたて)蹴(け)たてゝ。驀地(まつしくら)になつてかけ上(あが)る。李雄(りゆう)。孟明伯(まうめいはく)。騎射(きしや)の 兵(へい)二万 余(あま)り。矢(や)ぶすま作(つく)つて雨(あめ)の降(ふ)る如(ごと)くさん〳〵に射(ゐ)る。柳川信重(やなかはのぶしげ)是(これ) を見(み)て家老(からう)豊前守(ぶぜんのかみ)と唯(たゞ)二人。横(よこ)さまにまくり立(たつ)て挑(いど)み戦(たゝか)ふ。有馬修(ありましゆ) 理太夫(りのたいぶ)は自身(じしん)母衣(ほろ)をかけ。大(おほ)くわ形(がた)の甲(かぶと)を着(ちやく)し黒(くろ)の駒(こま)の太(ふと)くたくまし きに打乗(うちのつ)て。孟明伯(まうめいはく)が本陣(ほんぢん)へおめいて馬(うま)を乗入(のりいれ)たり。有馬(ありま)柳川(やながは)が兵士(へいし) 何(なに)かはもつて猶予(ゆうよ)すべき。一 文字(もんじ)に駈破(かけやぶ)らんと捲立(まくりたつ)て切(きつ)て入(いる)。朝鮮勢(てうせんぜい)死力(しりき) を出(いだ)して防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふといへども。日本勢(につほんぜい)急(きふ)にもみ立(たて)しかは。副将(ふくしやう)たる李雲(りうん) 一(いつ)をはじめ能(よき)兵共(つはものども)七八人 忽(たちま)ち討死(うちじに)しければ。朝鮮勢(てうせんぜい)叶(かな)はじと引退(ひきしりぞ)く を遁(のが)すまじと日本勢(につほんぜい)は。地(ち)けふりを立(たて)追(おつ)かけたり朝鮮(てうせん)の兵(へい)。二千七百 余人(よにん)討(うた)れしかば町中(まちなか)へ引入(ひきいり)かねたりしところに。孟明伯(まうめいはく)が勇兵(ゆうへい)八百人 面(おもて)もふらずどつとかへし。釜山浦(ふさんかい)の町口(まちぐち)碧巖寺(へきがんじ)の楼門(らうもん)を楯(たて)に取(とつ)て。火(ひ) 出(いづ)る程(ほど)戦(たゝか)ひけるこれによつて。朝鮮勢(てうせんぜい)もからき命(いのち)を助(たす)かりて釜山(ふさん) 浦(かい)の城(しろ)へ逃(にけ)入(い)り。門(もん)のくわんぬきをさしかためたり。行長(ゆきなが)は手合(てあはせ)の軍(いくさ)に打(うち) 勝(かつ)て城外(じやうぐわい)の町家(まちや)を焼立(やきたて)。小高(こだか)きところに打上(うちあが)り暫(しばら)く息(いき)を休(やす)めけるが行(ゆき) 長(なが)采幣(さいはい)を振(ふつ)て。城(しろ)は弱(よは)りけるぞ一 方(はう)を明(あけ)三方(さんばう)より攻付(せめつけ)よと下知(げぢ)すれば。 先手(さきて)に備(そな)ひし比々左近右衛門(ひゝさこんゑもん)。小西若狭守(こにしわかさのかみ)急(きふ)にかゝり太鼓(たいこ)を打立(うちたて)けれ ば。大手(おほて)よりは松浦法印(まつうらはうゐん)をはじめ有馬(ありま)大村(おほむら)の面々(めん〳〵)。三千五百 余人(よにん)弓(ゆみ)鉄(てつ) 炮(はう)をつるべかけ息(いき)をもつかせず攻(せめ)たりける。扨(さて)行長(ゆきなが)は後(うしろ)の高山(かうざん)に登(のぼ)り上(うへ) より城中(じやうちう)を見(み)おろし。数千挺(すせんてう)の鉄炮(てつはう)をもつて雨(あめ)の降(ふ)る如(ごと)く打(うち)かくれば。 城中(じやうちう)には朝鮮人(てうせんじん)みち〳〵たる事(こと)なれば。玉(たま)一ツに二人三人ツヽ討(うた)れ上(うゑ)を 下(した)へと騒動(そうどう)す。大手(おほて)は大村(おほむら)五島(ごとう)松浦(まつら)の人々(ひと〳〵)。鬨(とき)を作(つく)りておめき叫(さけ)んで攻(せめ) 【右丁】 小西摂津守(こにしつのかみ)    行長(ゆきなが) 釜山浦(ふさんかい)の城(しろ) を攻落(せめおと)す 【左丁 絵画のみ】 ける故(ゆゑ)城中(じやうちう)防(ふせ)ぎかねて見(み)へたる折柄(をりから)。大手(おほて)の門際(もんきは)の塀(へい)より行長(ゆきなか)が弟(おとゝ)小(こ) 西主殿助種長(にしとのものすけたねなか)は【注①】十六ふしの絵鶴(ゑつる)に金(きん)の切裂(きつさき)のさし物(もの)をさし。一 番(ばん)に 乗上(のりあが)り大音(だいおん)あけ一 番乗(ばんの)り。小西主殿助(こにしとのものすけ)なり。後陣(こぢん)の人々(ひと〳〵)見(み)たるかと呼(よは)はる 二番に五島半右衛門(ことうはんゑもん)。太田喜太夫(おほたきたいふ)二 番乗入(ばんのり)と呼(よは)はり乗込(のりこめ)ば続(つゝ)ひて同勢(とうせい) 我先(われさき)にと乱(みだ)れ入(いる)。城兵(じやうへい)は今(いま)は叶(かな)はじと西門(にしもん)より逃出(にけいで)んとせし時(とき)。行長(ゆきなが)七千 余(よ) 騎(き)を下知(げぢ)して山上(さんじやう)より落(おと)しかけ。勇(ゆう)をふるつて捲(まく)り立(たて)しかば大将(たいしやう)李雄(りゆう) は馬(うま)に鞭(むち)をうつて熊川(こもかは)【注②】さして落(おち)て行(ゆく)。孟明伯(まうめいはく)は大音(だいおん)上(あげ)国家(こくか)士卒(しそつ)を養(やしな) ふは今日(こんにち)の為(ため)なり。身(み)をもつて国(くに)に住(ぢゆう)する者(もの)豈(あに)此難(このなん)を見(み)て逃(にげ)んやと。士卒(しそつ) をはげまし踏(ふみ)とゞまつて戦(たゝか)ふところに。小西(こにし)が家人(げにん)吉川三太夫(きつかはさんたいふ)馳(はせ)ならんで 馬上(ばじやう)ながら無手(むづ)と組(くみ)しが。両馬(りやうば)が間(あひ)に摚(とう)と落(おち)しばしが程(ほと)はねぢ合(あふ)といへども 【注① 「ハ」は助詞の「ハ(は)と思われる。漢数字の「八)はコマ200の9行目のように明らかに「八」と見えるように書いている。】 【注② 他のコマでは「こもかい」となっている。】 孟明伯(まうめいはく)大力(たいりき)にて。三太夫(さんだいふ)を取(とつ)て押(おさ)へ首(くび)かき切(きつ)て立(たつ)たるところを。小西與左(こにしよざ) 衛門(ゑもん)駈来(かけきた)り。後(うしろ)より孟明伯(まうめいはく)か首(くび)を討落(うちおと)す。朝鮮(てうせん)の兵(へい)は是(これ)を見(み)て何(なに)かは こらへ戦(たゝか)ふべき。右往左往(うわうざわ)に逃散(にげちる)を追(おひ)かけ追詰(おひつめ)首(くび)を取事(とること)。三千五百七拾 三 級(きう)生捕(いけどり)二百十二人なり。こゝにて釜山海(ふさんかい)の口(くち)一 番(ばん)に破(やぶ)れ近辺(きんへん)の老若男(らうにやくなん) 女(によ)おそれ悲(かな)しみ。おもひ〳〵に離散(りさん)する事(こと)只風(たゞかぜ)に木(こ)の葉(は)の散(ち)る如(ごと)く。其(その) 騒動(そうどう)大(おほ)かたならず。行長(ゆきなが)は。手合(てやはせ)の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て心地(こゝち)よしと大(おほい)に歓(よろこ)ひ暫時(ざんじ) 人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)め。扨(さて)生捕(いけどり)の狄鯷(てきてい)を呼出(よびいだ)し近辺(きんへん)の事(こと)を尋(たづ)ねけるに。通(つう) 辞(じ)共(ども)申けるは是(これ)より三十 里(り)乾(いねゐ)にあたつて。東萊(とくねき)と申 城(しろ)是(これ)あり李元翼(りげんよく) 兄弟(きやうだい)と。牛翼(ぎうよく)といふ大将(たいしやう)一万五千 余騎(よき)にてかため候といふ。行長(ゆきなが)聞(きい)て宗対(そうつし) 馬守(まのかみ)有馬修理太夫(ありましゆりだいふ)に向(むか)つて。今日(こんにち)は粉骨(ふんこつ)をつくして比類(ひるひ)なき働(はたら)きを以(もつ) て大功(たいこう)をとぐる上(うへ)は。今夜(こんや)はこゝにて休息(きうそく)すべきなれども。釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)破(やぶ)れ ぬと聞(きこ)へなば。東萊(とくねき)にても聞(きゝ)おぢして居(を)るべし日数(ひかず)を経(へ)なば。敵(てき)にも防(ふせ)ぎ の備(そな)ひをなすべし。此図(このづ)をぬかさず急(いそ)ぎ東萊(とくねき)を攻取(せめとり)。名誉(めいよ)をあらはさ ん。多(おほ)くの首(くび)を日本(につほん)へ渡(わた)し将軍(しやうぐん)の御感(こかん)に預(あづか)らんはいかにと有(あり)ければ。宗(そう)有(あり) 馬(ま)も此義(このぎ)しかるべしと同(どう)じければ。急(いそ)ぎ家人(げにん)どもへ触(ふれ)てその用意(ようい)せよ とて兵粮(ひやうらう)をつかひ。馬(うま)にもの飼(かい)し日(ひ)もやう〳〵未(ひつじ)のはじめに成(なり)にけり。諸(しよ) 人(にん)勇(いさ)み進(すゝ)みて軍馬(ぐんば)をはやめ。急(いそ)きし故(ゆゑ)日本道(につほんみち)六 里(り)なれば。二 ̄タ時半(ときはん) に打(うつ)て東萊(とくねぎ)におし寄(よせ)ける。此城(このしろ)にも朝鮮人(てうせんじん)一万二千 余騎(よき)にて守(まも)りし に。小西行長(こにしゆきなが)七千 余騎(よき)つゞく勢(せい)五千 余騎(よき)三 方(ばう)へわかれて攻(せめ)かゝる。釜山浦(ふさんかい) の戦(たゝかひ)を聞(きゝ)ておそれ居(ゐ)し事(こと)なれば。大将(たいしやう)牛翼(きうよく)一 番(ばん)に落行(おちゆく)ゆゑ李元(りげん) 翼兄弟(よくきやうだい)も続(つゞい)て城(しろ)を落(おち)たりける。行長(ゆきなが)が舎弟(しやてい)小西主殿助長種(こにしとのものすけながたね) ならびに。木戸作左衛門教重(きどさくざゑもんのりしげ)手勢(てせい)を引連(ひきつれ)追(おひ)かけたり。朝鮮(てうせん)の兵共(へいども) 攻立(せめたて)られて右往左往(うわうさわう)に乱(み)だれて逃散(にけちり)ける。主殿助(とのものすけ)作左衛門(さくざゑもん)敵(てき)を討(うつ) こと九百七十五人 討取(うちとり)。つゐに東萊(とくねぎ)をも乗取(のつとり)ける。行長(ゆきなが)心地(こゝち)よき合(かつ) 戦(せん)を両度(りやうど)して。則(すなは)ちこゝに陣(ぢん)を取(とり)大篝(おほかゞり)をたきて。人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)め ける。行長(ゆきなが)は通辞(つうじ)を呼(よ)んで是(これ)より何(いづ)れの所(ところ)に敵(てき)あるやと尋(たづ)ねけるに。通(つう) 辞(じ)は答(こたへ)て曰(いは)く是(これ)より都(みやこ)へは両道(りやうだう)に分(わか)る。城(しろ)もあまた候 中(なか)にもこゝを 去(さ)る事(こと)五百四十五 里(り)にして忠州(ちくしう)といへる名城(めいじやう)有(あつ)て。嶮岨第一(けんそだいゝち)の要害(やうがい) にて牧使(ぼくし)の王僧林(わうそうりん)と。成允門(せいしやうもん)兄弟(きやうだい)并(ならび)に。防禦使(はうぎよし)の権應珠(けんおうしゆ)。右兵使(うへいし)の 金應端(きんおうずゐ)。京幾道(けいきだう)都躰察使(とていさつし)の柳成籠(りうせいらう)を大将(たいしやう)として。軍平(ぐんひやう)七万 余騎(よき) にてこもり兵粮(ひやうらう)なども十分(じふぶん)に入おき王城(わうじやう)にても此城(このしろ)を頼(たのみ)と仕(つかまつる)由(よし)道(みち) の程(ほど)は九日 路(ぢ)御座(ござ)候と云(いひ)ける故(ゆゑ)。さらば此所(このところ)を陣所(ぢんしよ)として後陣(ごぢん)の 続(つゞ)くをまつて押行(おしゆく)べしとて。東萊(とくねき)に陣(ぢん)を取(とつ)て後陣(ごぢん)のつゞくを待(まつ) たりける。    浮田秀家(うきだひでいえ)抜(ぬけ)がけして小西(こにし)を救(すく)はんとする事(こと)    《割書:附(つけたり)|》加藤清正(かとうきよまさ)熊川(こもかい)に着事(つくこと) 小西行長(こにしゆきなが)は惣軍(そうぐん)に先達(さきだつ)て。釜山浦(ふさんかい)東萊(とくねぎ)の両城(りやうしやう)を攻落(せめおと)し。其勢(そのいきほ)ひ 破竹(はちく)の如(ごと)く猛威(まうい)を振(ふる)ふ事(こと)。あたかも項羽(こうう)が咸陽(かんやう)に入(いる)に似(に)たり。扨(さて) また備前宰相(びぜんさいしやう)秀家(ひでいへ)は第八番(だいはちばん)の備(そなひ)に有(あり)けるが小西(こにし)が先陣(せんちん)に居(ゐ) たりしが」抜(ぬけ)がけせしを心元(こゝろもと)なくおもはれ。家老(からう)戸川(とがは)肥後守(ひごのかみ)長船(おさふね)紀伊守(きいのかみ) 明石掃部(あかしかもん)等(とう)を呼(よび)て申されけるは。小西摂津守(こにしつのかみ)抜懸(ぬけがけ)なし敵地(てきち)へ打入(うちいり) しなれば。若(もし)討死(うちじに)なす時(とき)は日本勢(につほんぜい)の弱(よは)みとなり。また不便(ふびん)の次第(しだい)な れば我(われ)是(これ)より兵(へい)を進(すゝ)めて。行長(ゆきなが)を助(たす)くべしと有(あり)ければ。戸川(とがは)。長船(おさふね)。明(あか) 石(し)。の人々(ひと〳〵)承(うけ給は)り摂州事(せつしうこと)は。君(きみ)の御 ̄ン寄(よ)せ子(こ)にて他(た)に異(こと)なる義(ぎ)なれば。 御加勢(ごかせい)尤(もつとも)しかるべしと云(いひ)ける故(ゆゑ)。船奉行(ふなふぎやう)を呼(よひ)て密(ひそか)に此(この)みなとを忍(しの) び出(いで)。釜山海(ふさんかい)へ急(いそ)ぐべしと軍法(ぐんはう)を定(さだ)め卯月(うつき)十四日の晩景(ばんけい)に。壱岐(いき)の風(かざ) 本(もと)を出帆(しゆつぱん)して対馬(つしま)の国(くに)をば横(よこ)に見(み)て。九十六 里(り)の渡(わた)りを打過(うちすぎ)て卯月(うつき) 十六日の東雲(しのゝめ)に釜山浦(ふさんかい)へぞ着(つき)にける。小西(こにし)が郎等(らうどう)結城弥平次(ゆうきやへいじ)。吉田(よしだ) 平内(へいない)。此城(このしろ)を守(まも)り居(ゐ)たりしが急(いそ)ぎ出向(いでむか)ひ。御渡海(ごとかい)目出度(めでたく)奉(そんじ)存(たてまつ)る旨(むね) 申ける時(とき)。秀家(ひでいへ)云(いふ)やう先(まづ)摂州(せつしう)の働(はた)らきのやうすを。具(つぶさ)に語(かた)り候 得(え)迚(とて) 有(あり)のまゝに語(かた)らせ聞(きい)て。秀家(ひでいへ)感涙(かんるい)を流(なが)し比類(ひるひ)なき働(はたら)き。当(たう)表(おもて)第一(だいゝち)の 功名(こうみやう)たるべし。我等(われら)加勢(かせい)に渡海(とかい)の旨(むね)を飛脚(ひきやく)をもつて。申つかはすべしと有(あり) ける故(ゆゑ)。急(いそ)ぎ使(つかひ)を仕立(したて)東萊(とくねぎ)へぞつかはしける其文(そのぶん)に曰(いは)く。     我等(われら)行列(ぎやうれつ)を破(やぶ)り渡海(とかい)いたし候義(ぎ)。手前(てまへ)心元(こゝろもと)なく存(ぞんじ)     今朝(こんちやう)着岸(ちやくがん)せしめ候。釜山浦(ふさんかい)にて比類(ひるひ)なき働(はた)らき。御 ̄ン手(て)     柄(から)誠(まこと)に   御当家(ごたうけ)無二(むに)の忠節(ちうせつ)に候。明日(みやうにち)其表(そのおもて)へ     参着(さんちやく)せしむべき間(あひだ)万端(ばんたん)申 談(たんず)べく候 恐々謹言(きやう〳〵きんげん)       四月十六日      備前宰相(びぜんさいしやう)秀家(ひでいゑ)          小西摂津守(こにしせつのかみ)殿(どの) 小西摂津守行長(こにしせつゝのかみゆきなか)は。此書(このしよ)を披見(ひけん)しなゝめならず歓(よろこ)び。喜悦(きえつ)の眉(まゆ)をひらき誠(まこと) に千 騎(き)万 騎(き)の加勢(かせい)より。大(おほい)に力(ちから)を得(え)たりとていよ〳〵猛勢(まうせい)を振(ふる)ひける。去程(さるほど)に加藤主(かとうか) 計頭清正(すへのかみきよまさ)は。小西行長(こにしゆきなが)に先(さき)を越(こ)されし事(こと)を無念(むねん)におもひ。行長(ゆきなが)が進(すゝ)みし 跡(あと)より進(すゝ)まんも心(こゝろ)うき事におもひ。四月十三日には釜山浦(ふさんかい)の外洋(そとうみ)より熊川(こもがい) へ船(ふね)をつけ。陸路(くかぢ)に登(のほ)つて行長(ゆきなが)が軍功(くんこう)の大(おほい)なることを聞(きく)より。弥(いよ〳〵)。大(おほい)に怒(いか)つて今(こん) 日(にち)より以後(いこ)他人(たにん)をして先鋒(せんばう)となさしむべからず。我(われ)一人 是(これ)をなさんのみといふ 清正は余(あま)りに急(いそ)ぎて押(おし)わたるが故(ゆゑ)。馬(うま)を乗(のせ)たる後船(あとぶね)どもいまた着岸(ちやくがん)せざ るによつて。馬(うま)に乗(の)らざる侍(さむらひ)とも五十人 余(あま)りにおよぶゆゑ。爰(こゝ)に後船(あとふね)をや。待(まつ)べき 又(また)駑馬(どば)なりとも尋(たつ)ね求(もと)めて。是(これ)を馳(は)せて乗(のる)べきやと評議(ひやうぎ)区々(まち〴〵)なるところ に。船頭(せんとう)どもの申やうなか〳〵昨今(さくこん)の風波(かさなみ)にては。五七日の間(あひた)に後船(あとふね)ども湊(みなと)を 【右丁】    小西与左衛門(こにしよざゑもん)   釜山浦城(ふさんかいしやう)の猛将(まうしやう)     孟明伯(まうめいはく)を討(うつ) 【左丁 絵画のみ】 出(いで)候はんこと存(そんじ)もよらざる義(き)に候。一向(いつかう)に先(さき)へ御 ̄ン急(いそ)ぎあらんこそよかるべけれといふ。 よつてさらばすゝむべし。去(さり)ながら侍(さむらひ)とも歩行(かち)にては叶(かな)ふべからずとて。在々所々(ざい〳〵しよ〳〵)へ 打入(うちいつ)て馬(うま)とつて乗(のら)んとするに。所(ところ)の者荷物(ものにもつ)を付(つけ)て自(みつか)らも打乗(うちのつ)て退(のき)つると見(み)へ て。馬一疋(うまいつひき)もなかりけり所々(しよ〳〵)に有(ある)ものは。伴(つな)ぎ捨(すて)たる牛(うし)のみなるを見(み)て是(これ)を取(とり) 来(きた)り。歩行(かち)の達者(たつしや)ならぬ者(もの)は是(これ)に乗(のつ)て急(いそ)げとも。はかの行(ゆか)ぬぞ気(き)の毒(どく)なり 奉輩(ほうばい)中(ちう)の若殿原(わかとのばら)。口(くち)のわろきが集(あつま)りて時(とき)の座興(ざけふ)のやうに笑(わら)つていふ。方々(かた〳〵)は 今日(けふ)の体(てい)たらく騎馬(きば)の人(ひと)とは申されまし。騎牛衆(ききうしゆう)とや申さん何時(いつ)も馬(うま) 乗(のり)よりは気遣(きづかひ)なく。後(あと)にさがりて御座(おわ)すれんは左礼言(されこと)らしういふといへとも。 はじめは此方(こなた)も聞(きゝ)すてゝ行(ゆき)けるが。余(あま)り戯言(けげん)のすきぬれば牛乗(うしのり)とも腹(はら)を 立(たつ)て。さて各々(おの〳〵)は初(はじ)めよりさま〳〵の御 ̄ン なぶりを。左礼言(ざれこと)とのみ存(そん)ぜしが。実(じつ)に我(われ) 々(〳〵)を嘲(あざけ)らるゝとこそ聞(きこ)へたれ。誠(まこと)に左様(さやう)におもはれなばいで牛(うし)に乗(のへ)たるか遅(おそ) きや。馬(うま)に乗(のり)たるが早(はや)きや乗(のり)くらべ致(いた)すべしと。既(すで)に闘諍(たうじやう)におよびなんとな しけるにより。家(いゑ)の老臣(らうしん)これを聞付(きゝつけ)悪言(あくかう)云(いひ)たる者共(ものども)に。牛(うし)に乗(のり)たる者(もの)の方(かた)へ詫(わび) 言(こと)させやう〳〵無事(ぶじ)にすんたりける    加藤清正(かとうきよまさ)慶州(けいしう)を攻落(せめおと)す事(こと) 加藤主計頭清正(かとうかすへのかみきよまさ)は。小西(こにし)に先(さき)を取(と)られし事(こと)を心(こゝろ)うくおもひ。如何(いか)にもして 敵(てき)に出合(いでやい)。小西(こにし)にまさる功名(こうみやう)なして此(この)無念(むねん)を散(さん)ぜんと。軍馬(ぐんば)を急(いそ)がせ七八十 里(り) の道(みち)を四月十三日の暮合(くれやい)に。熊川(こもがい)を出(いで)。同(おなじく)十四日 辰(たつ)の刻(こく)に至(いた)り。爰(こゝ)にて見渡(みわた)せ ば家数(いゑかず)二三万 軒(けん)もあらんとおぼへたる地(ち)に出(いで)。城郭(じやうくわく)雲(くも)にそびえて見(み)へければ 熊川(こもかい)にて生捕(いけどり)し朝鮮人(せうせんじん)に問(とひ)【ママ】ば。慶州(けいしう)と申してむかし高麗(かうらい)の王建(わうけん)か住(すみ) し古都(ふるみやこ)なりといふ。清正(きよまさ)小踊(こおど)りして大(おほい)に歓(よろこ)びさらば攻落(せめおと)すへしと押行(おしゆく)ところに 慶州(けいしう)の東(ひがし)五 町(ちやう)余(あま)りに二 里(り)計(ばか)りつゞきたる松原(まつばら)あり。其所(そのところ)に籏(はた)百ながれ程(ほど)ひるかへり て勢(せい)のほど。四五万もあらんとおぼへたる敵(てき)扣(ひか)へたるが。今(いま)清正(きよまさ)か押来(おしきた)るを見(み)て備(そなひ) を出(いだ)してかゝり來る。清正(きよまさ)朝鮮人(てうせんじん)に問(とひ)は彼者(かのもの)答(こた)へて。是(これ)は此口(このくち)の番手(ばんて)にて五 人の大将(たいしやう)にて。権標(けんひやう)。李福男(りふくなん)。高彦伯(かうげんはく)。鄭紀龍(ていきりやう)。撲殿長(ぼくでんちやう)。の五人の兵(へい)に候はんと いふ。清正(きよまさ)の先手(さきて)加藤清兵衛(かとうせいべい)。庄林隼人(しやうばやしはやと)。備(そなひ)を出(いだ)して弓(ゆみ)鉄炮(てつほう)を打(うち)かけ。戦(たゝか) ひをはじむ。鍋島加賀守直重(なべしまかゞのかみなをしげ)が先備(さきそなひ)鍋島重左衛門(なべしまじふざゑもん)。同(おなじく)平五郎(へいごらう)。五千 余騎(よき) にて左(ひだ)りの川(かは)を渡(わた)り。松原(まつばら)の橋(はし)を過(すぎ)て町口(まちぐち)押入(おしい)らんと。馬(うま)煙(けふ)りを立(たつ)て駈来(かけきた) り。敵(てき)を右(みぎ)に見(み)て押廻(おしまは)さんとなしける時(とき)。朝鮮(てうせん)の高彦伯(かうげんはく)は無双(ぶそう)の剛将(がうしやう)なれ は。手勢(てぜい)一万 余騎(よき)を下知(けち)して鍋島勢(なべしませい)にかけ合(あは)せ。半弓(はんきう)を雨(あめ)の如(ごと)くに射(ゐ)かけ 咄(とつ)と喚(おめい)て突(つき)かゝる。鍋島平五郎成證(なべしまへいごろうなりずみ)駈立(かけたて)られ。五 町(ちやう)ばかり敗走(はいさう)す朝鮮勢(てうせんせい) 勝(かつ)に乗(のつ)て追(おひ)かけ来(きた)る。清正(きよまさ)が左(ひだ)りの先手(さきて)加藤右馬允(かとううまのじやう)。九鬼四郎兵衛広(くきしろへゑひろ) 高(たか)等(ら)。弓(ゆみ)鉄炮(てつほう)をもつて陰(ゐん)にとぢ陽(やう)に開(ひら)きて。矢種(やだね)玉薬(たまくすり)をおしまず雨(あめ)の降(ふる) 如(こと)く散々(さん〴〵)に射(ゐ)けれども。朝鮮勢(てうせんぜい)は馬上(ばしやう)の達者(たつしや)の兵(へい)なれば。討(うて)ども射(ゐ)れ とも事(こと)ともせず。真黒(まつくろ)になつて押(おし)かゝる此時(このとき)加藤清兵衛(かとうせいべゑ)は。あかねの切裂(きつさき) のさし物(もの)にて。馬(うま)より飛下(とひお)り十文字(じふもんじ)の手鑓(てやり)を引(ひつ)さけ。真先(まつさき)に駈出(かけいだ)し驀地(まつしくら) に突(つき)かゝり。人馬(にんば)のきらいなく翌横(じうおう)にかけ立(たて)。勇(ゆう)を振(ふる)ふて力戦(きりせん)す此(この)鑓先(やりさき)に 廻(まは)る者(もの)は。人馬(にんば)ともに助(たすか)るは稀(まれ)なりけり。庄林隼人(しやうはやしはやと)是(これ)を見(み)て。丹頂(たんてう)の立鶴(たちづる)の 書(かい)たる白七子(しろなゝこ)の陣羽織(ぢんばをり)を着(ちやく)し。かす毛(け)の馬(うま)に打乗(うちのり)手勢(てぜい)二十 騎(き)ばかりを。 真丸(まんまる)に備(そな)ひ群(むら)かり立(たつ)たる敵中(てきちう)へ。会釈(ゑしやく)もなく諸鐙(もろあぶみ)を合(あは)せ。一 文字(もんじ)に駈入(かけいり) ける朝鮮方(てうせんがた)二方(にはう)へさつと別(わか)れて。半弓(はんきう)を雨(あめ)の降(ふる)如(こと)く射(ゐ)かくるといへども。庄林(しやうばやし) 隼人(はやと)は大剛(だいがう)の兵(へい)なれば少(すこ)しも恐(おそ)れず。高彦伯(かうげんはく)を討(うた)んと心(こゝろ)ざし東西(とうさい)に駈通(かけとほ) り戦(たゝか)ひける程(ほど)に。既(すで)に間近(まちか)くなるとひとしく隼人(はやと)は馬(うま)をおどらせ馳(はせ)かゝり。高(かう) 彦伯(げんはく)に無手(むづ)と組(くん)で両馬(りやうば)か間(あひ)に摚(どう)と落(おち)上(うへ)を下(した)へともみ合(やい)ける。扨(さて)また山口(やまくち) 與惣右衛門(よそうゑもん)。大木土佐守(おほきとさのかみ)。加藤與左衛門(かとうよざゑもん)。三千 余騎(よき)一 度(と)にどつと駈入(かけい)るに大将(たいしやう) 清正(きよまさ)なにかはもつてこらゆべき。采幣(さいはい)をおさめ大長刀(おほなぎなた)を取(とつ)て先手(さきて)討(うた)すな続(つゞ) けや者共(ものども)とて。自(みずか)ら真先(まつさき)に敵中(てきちう)へかけ入(いり)ければ。籏本(はたもと)の兵(へい)千 余騎(よき)主(しゆう)を討(うた)せじ と喚(おめい)てこそはかゝりける。流(なが)るゝ血(ち)は池(いけ)をなし喚(おめ)く声(こゑ)は天地(てんち)をひゞかし。攻戦(せめたゝか) ひける庄林隼人(しやうはやしはやと)は。つゐに高彦伯(かうげんはく)を取(とつ)ておさへ首(くび)を取(とつ)てさし上(あげ)しかば。加藤(かとう) 清兵衛(せいべゑ)も馬(うま)引(ひき)よせ両人(りやうにん)ともに打乗(うちのつ)て。清正(きよまさ)の籏本勢(はたもとぜい)へ馳加(はせくは)はる。扨(さて)清正(きよまさ) は郭紀竜(ていきりやう)が勢(せい)と駈合(かけやはせ)戦(たゝか)ひしが。日本(につほん)無双(ぶそう)の清正(きよまさ)に何(なに)かはもつて敵(てき)すべき終(つゐ) に打崩(うちくつ)され右往左往(うわうさわう)に散乱(さんらん)す。相良宮内少輔(さがらくないしやういふ)も八百 余騎(よき)にて。権標(けんひやう)が手(て) を切崩(きりくづ)し。直(たゞち)に清正(きよまさ)が手(て)へ馳加(はせくは)はり逃(にぐ)るを追(お)ふて進(すゝ)みける。鍋島(なべしま)が先(さき) 手(て)も是(これ)に気(き)を得(え)て取(とつ)てかへしけるが。加賀守(かゞのかみ)も籏本(はたもと)をおし立(たて)黒煙(くろけふり) をあげて進(すゝ)みける。慶州(けいしう)の町口(まちぐち)にて撲殿長(ぼくでんちやう)李福男(りふくなん)一万 計(ばかり)の勢(せい)をもつて。 踏(ふみ)とゞまり弓(ゆみ)の兵(へい)数十人(すじふにん)を家(いへ)の上(うへ)に登(のぼ)せ両方(りやうはう)より矢尻(やじり)を揃(そろ)へ散々(さん〴〵)に射(い)る。 加藤與左衛門(かとうよさゑもん)吉村吉右衛門(よしむらきちゑもん)。二千 余騎(よき)面(おもて)もふらず進(すゝ)みつゝ。鉄炮(てつはう)を先(さき)に 立(たて)て打(うち)すくめ色(いろ)めくところを。得(え)たりや応(おう)と加藤与左衛門(かとうよざゑもん)只(たゞ)一 騎(き)真先(まつさき) に駈出(かけいで)。鑓(やり)を入(いれ)一 番(ばん)鑓(やり)と名乗(なのり)りて攻戦(せめたゝか)ふ。大将(たいしやう)かくの如(ごと)くなれば此手(このて)の兵士(へいし) 何(なに)かは少(すこ)しも猶予(ゆうよ)すべき。錣(しころ)をかたむけ一 度(ど)にどつと突(つき)かゝる。互(たが)ひに喚(おめ)く声(こゑ) 天地(てんち)にひゞき地煙(ちけふ)りを立(たて)て挑(いど)み戦(たゝか)ふ。清正(きよまさ)馬上(ばじやう)に立(たち)あがり大音(だいおん)あげ。清正(きよまさ)跡(あと) につゞくぞ引(ひく)な人々(ひと〳〵)進(すゝ)めや面々(めん〳〵)と。鑓(やり)おつとりてたゝき立(たて)眼(まなこ)を怒(いか)らし下知(げぢ)し ける。主計頭(かずへのかみ)にはげまされ死(し)を一 挙(きよ)に軽(かろ)んじ。曳(えい)や声(こゑ)を出(いだ)してもみ立(たて)しかば。一万 余騎(よき)の朝鮮勢(てうせんぜい)突立(つきたて)られて大手(おほて)の門際(もんぎわ)まで。七八丁のあひだ足(あし)をもためず突(つき) 立(たて)られ。我先(われさき)にと城(しろ)へ逃入(にけい)り上(うゑ)を下(した)へとかへし騒動(さうどう)なし。橋(はし)より落(おつ)る者(もの)数(かず)を しらず。清正(きよまさ)が兵(へい)どもつゞゐて城(しろ)へ攻入(せめいり)しかば。撲殿長(ぼくでんちやう)。李福男(りふくなん)も防(ふせ)ぐに及(およ)はず 這々(はう〳〵)城(しろ)へ逃入(にけいり)門(もん)をも閉(とぢ)ず。狭間(はざま)配(くば)りもせず周章(しうしやう)して居(ゐ)ける時(とき)清正(きよまさ)艮(うしとら) の角櫓(すみやぐら)へ雨(あめ)の降(ふ)る如(ごと)く火矢(ひや)を射(ゐ)かけたり折節(おりふし)風(かぜ)はげしく吹(ふき)かけたれば 忽(たちま)ち櫓(やぐら)へ火(ひ)うつり。所々(しよ〳〵)へもへつき炎(ほのふ)雲(くも)をまき東西(とうざい)へ焼(やけ)ひろかりければ。 城中(じやうちう)の兵共(へいども)こは何(なに)とせんと戦(たゝか)ふ兵(へい)一人もなく。唯(たゞ)身(み)をのがれんと先(さき)を争(あらそ)ひ。西(にし) 門(もん)より逃出(にげいづ)る事(こと)。さながら堤(つゝみ)の切(き)れて水(みづ)の出(いつ)るが如(こと)し。大将(たいしやう)は駿馬(じゆんめ)に乗(の)り たれは乗(のり)ぬけ〳〵落(おち)たりしが。鄭記竜(ていきりやう)は追(おひ)かけられて嶮岨(けんそ)をつたひ左(ひだ)りの山(やま) を志(こゝろさ)し落(おち)けるを。相良(さから)が家老(からう)犬鐘兵部少輔(いぬかねひやうぶしやういふ)おしならべて引組(ひつくみ)両馬(りやうば)が 間(あひ)に落重(おちかさ)なり上(うへ)を下(した)へと組合(くみあひ)けるが。鄭記竜(ていきりやう)大力(たいりき)にて兵部(ひやうふ)は下(した)に組(くみ)し かれけるが兵部(ひやうぶ)もしれ者(もの)一 尺(しやく)ばかりの正宗(まさむね)の脇差(わきざし)をぬき。鄭記竜(ていきりやう)が鎧(よろひ) のすき間(ま)を力(ちから)にまかせてしたゝかにさしければ。何(なに)かはもつてたまるべき了(さす) 得(が)の鄭記竜(ていきりやう)も眼(まなこ)くらみ。すこし力(ちから)のゆるむところを兵部(ひやうぶ)は得(ゑ)たりと。下(した)より はねかへし鄭記竜(ていきりやう)が首(くび)を取(とつ)てさし上(あげ)たり。討取(うちと)る首(くび)数(かず)をかぞふるに 一千二百五十二なり。城中(じやうちう)城外(じやうくわい)の家(いゑ)に火(ひ)移(うつ)り。三万 軒(げん)に余(あま)る家数(いへかず)一日一 夜(や)に残(のこ)らず炎上(ゑんじやう)してけれは。清正(きよまさ)は総軍(そうぐん)をまとめ山(やま)にそふて陣(ぢん)を取(と)りて 【右丁 絵画のみ】 【左丁】 加藤主計頭(かとうかずへのかみ)    清正(きよまさ) 黒田甲斐守(くろだかひのかみ)    長政(ながまさ) 慶州(けいしう)の城(しろ)を    攻落(せめおと)す 人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)めける。則(すなはち)秀吉公(ひでよしこう)へ此(この)おもむきを注進(ちゆうしん)申 上(あぐ)へきとて。箕(みの) 部金太夫(べきんだいふ)に命(めい)じ。合戦(かつせん)のあらましを認(したゝ)め鍋島加賀守(なべしまかゞのかみ)相良宮内少輔(さがらくないしやういふ) 等(ら)と連印(れんゐん)になし。家人(げにん)庄林喜右衛門(しやうはやしきゑもん)を使(つかひ)となして日本(につほん)へ行(ゆか)しむ庄林(しやうばやし) 喜右衛門(きゑもん)は急(いそ)ぎ支度(したく)をとゝのひ。注進状(ちゆうしんしやう)を箱(はこ)におさめ是(これ)を自(みづか)ら首(くび)に かけ。両(りやう)三人の供人(ともびと)を連(つれ)釜山浦(ふさんかい)へ出(いで)。早船(はやふね)に打乗(うちのり)波(なみ)おし切(きつ)て船(ふね)を急(いそ)がせ。 ける波風(なみかぜ)の難(なん)なく肥前(ひぜん)の国(くに)へ着(つき)しかば。夫(それ)より京都(きやうと)をさして馳登(はせのほ)るところ に。筑前国(ちくせんのくに)姪(めい)か浜(はま)にて秀吉公(ひでよしこう)名古屋(なごや)へおし出(いだ)し給ふに行逢(ゆきあひ)則(すなは)ち途中(とちう) なから御 ̄ン供(とも)の御 側衆(そはしゆう)に附(つい)て。清正(きよまさ)の注進状(ちゆうしんじやう)をさす上(あぐ)るところに。小西摂津守(こにしせつゝのかみ) 行長(ゆきなが)方(かた)よりも。小西平左衛門(こにしへいさゑもん)を使(つかひ)として。釜山浦(ふさんかい)東莱(とくねぎ)両城(りやうじやう)を乗取(のつと)り 候 旨(むね)申 上(あげ)ければ。秀吉公(ひでよしこう)此(この)注進状(ちゆうしんしやう)を御覧(ごらん)あつて。御感悦(ごかんゑつ)浅(あさ)からず両人(りやうにん)の 使(つかひ)の者(もの)どもには。御《割書:ン》羽織(はをり)一ツ宛(つゝ)下(くだ)され。小西摂津守(こにしせつのかみ)此度(このたび)釜山浦(ふさんかい)東莱(とくねぎ)両所(りやうしよ)の 働(はたら)き。比類(ひるひ)なき次第(しだい)なりとて御感状(ごかんじやう)に。定俊(さだとし)の御《割書:ン》太刀(たち)栗毛(くりげ)の馬(うま)一 疋(ひき)相添(あひそ)へ 下(くだ)し賜(たま)はりけり。清正(きよまさ)には大体(たいてい)の御書(ごしよ)なり。扨(さて)清正(きよまさ)は慶州(けいしう)より蜜陽大(みつやうたい) 岳(かく)を経(へ)て全義館(せんぎくわん)【舘は俗字】へ打出(うちいで)。忠清道(ぢくせいたい)を平(ひら)おしにおして王城(わうじやう)へ攻入(せみい)らんと。士卒(しそつ) をはげまし道(みち)を急(いそ)ぎて馳(はせ)たりける。    是(これ)より黒田長政(くろだなかまさ)金海稷山(きんかいしよくざん)を攻(せめ)。後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)。伯子顔(はくしがん)を討取(うちとる)    の働(はたら)き。栗山備後(くりやまひんご)一 番乗(ばんの)りの功名(こうみやう)。また加藤清正(かとうきよまさ)。小西行長(こにしゆきなが)先陣(せんぢん)    争(あらそ)ひ。清正(きよまさ)龍津(りうしん)といへる大川(だいか)を越(こゆ)る條(くだり)は巻(まき)をかへてあらはしぬ。 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編巻之五《割書:終》 【白紙】 【白紙】 【白紙】 【白紙】 【裏表紙】 【表紙】 【見返し】 JAPONAIS 191 【白紙】 【白紙】 絵本朝鮮征伐記 《割書:前編 |》六 Japonais n-191  VIk 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之六     目録  一 黒田長政(くろだなかまさ)金海稷山城(きんかいしよくざんしやう)を攻(せめ)とる事(こと)  一 小西行長(こにしゆきなが)忠州(ちくしう)を攻落(せめおと)す事(こと)  一 朝鮮王(てうせんわう)都(みやこ)を落(おち)る事(こと)  一 加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)先陣(せんぢん)を争(あらそ)ふ事(こと)  一 王城(わうじやう)途中(とちう)群県(ぐんけん)を陥(おとしい)る事(こと)  一 加藤清正(かとうきよまさ)龍津(りうしん)を越(こゆ)る事(こと) 【白紙】 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之六   黒田長政(くろだながまさ)金海稷山城(きんかいしよくさんしやう)を攻(せめ)とる事(こと) 偖(さて)黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)は。加藤(かとう)小西(こにし)があとを詰(つめ)て進(すゝ)みし事(こと)故(ゆゑ)。珍(めづ)らしき 戦(たゝか)ひにも出合(いてあは)ず。将士(しようし)ともに無念(むねん)におもひいかにもして。敵(てき)を破(やぶ)つて功名(こうみやう) を顕(あらは)さんとおもふて進(すゝ)み行(ゆく)ところに。東萊(とくねぎ)より北(きた)にあたつて金海城(きんかいじやう)と云 ところ有(あり)。朝鮮(てうせん)の兵馬使(へいばし)伯子顔(はくしがん)といへるを大将(たいしやう)として。多(おほ)くの敵兵(てきへい)こ もるよし聞(きこ)えければ。大(おほい)に歓(よろこ)び手勢(てぜい)二万 騎(き)計(ばかり)金海城(きんかいじやう)へおし寄(よす)る。先(さき) 手(て)は栗山備後利安(くりやまびんごとしやす)なり。此(この)栗山(くりやま)はかくれなき勇将(ゆうしやう)なれば。金海城(きんかいしやう)へ寄(よす)る とひとしく町々(まち〳〵)を押破(おしやぶ)り。風(かぜ)により火(ひ)をかけたりしかば。城中(じやうちう)よりも是(これ)を 見(み)て伯子顔(はくしがん)兵(へい)を引(ひい)て突(つい)て出(いで)。日本勢(につほんぜい)を追散(おひちら)さんと力(ちから)を尽(つく)して挑(いど)み戦(たゝか) ふ。栗山(くりやま)が勢(せい)の中(うち)より村上彦右衛門(むらかみひこゑもん)と名乗(なの)りて一 番(ばん)に鑓(やり)を入(いれ)。朝鮮勢(てうせんぜい)を 四方(しはう)へ突倒(つきたふ)し八 方(はう)へ追(おひ)なびけ攻戦(せめたゝか)ふ故(ゆゑ)。朝鮮勢(てうせんぜい)四度路(しどろ)になつて見(み)へける 時(とき)。大将(たいしやう)伯子顔(はくしがん)大(おほい)に怒(いか)り東西(とうざい)にあたりて血戦(けつせん)し。士卒(しそつ)に下知(げぢ)して人数(にんず) をまとめ。城中(じやうちう)へ引入(ひきい)らんとす栗山(くりやま)が兵(へい)は附入(つけいり)にせんと。あとにつゞいて押入(おしいる) を伯子顔(はくしがん)は此所(このところ)を破(やぶ)られては叶(か)なはじと。一 世(せ)の勇(ゆう)をふるつて力戦(りきせん)す栗(くり) 山備後(やまびんご)は真先(まつさき)に進(すゝ)み。大太刀(おほだち)をさし翳(かざし)敵中(てきちう)へわつて入。千変万化(せんべんばんくわ)の手(て)を くだき勇戦(ゆうせん)す。此時(このとき)後藤又兵衛基次(ごとうまたべゑもとつぐ)は長政(ながまさ)の籏本(はたもと)に有(あり)しが。先手(さきて)の 戦(たゝか)ひいかゞあらんと只(たゞ)一騎(いつき)にて。駈来(かけきた)りて戦(たゝか)ひの有(あり)さまを見(み)て居(ゐ)たりしが 今(いま)栗山(くりやま)一 番(ばん)に城中(じやうちう)へ乗入(のりいる)を見(み)て。何(なに)かは少(すこ)しもこらゆべき一 文字(もんじ)に馬(うま)を馳(はせ) て城中(じやうちう)へ駈入(かけいり)当(あた)るを幸(さいは)ひ捲立(まくりたて)て攻付(せめつく)る。城将(じやうしやう)伯子顔(はくしかん)はとても叶(かな)はざると おもひ。よき敵(てき)とさしちがひ討死(うちじに)せんと覚悟(かくご)をなし。死(しに)ものくるひに打廻(うちまは)る 基次(もとつぐ)此(この)有(あり)さまを見(み)て。此(この)敵(てき)を討(うつ)て籏本(はたもと)への土産(みやげ)にせんと。伯子顔(はくしがん)を目(め)が けて進(すゝ)みよる。伯子顔(はくしがん)も基次(もとつぐ)が武者振(むしゃぶり)を見(み)て。馬(うま)を寄(よ)せ組(くま)んとす基次(もとつく) も得物(えもの)投捨(なげすて)無手(むず)と組(くみ)しが。忽(たちま)ち両馬(りやうば)が間(あひ)に摚(どう)と落(おち)上(うへ)を下(した)へともみ合(あひ)し が。基次(もとつぐ)面倒(めんだふ)なりと総身(そうしん)の力(ちから)を腕(うで)に入(いれ)。ヤツト声(こゑ)をかけ伯子顔(はくしかん)を引(ひき)かつぎ 力(ちから)にまかせて投出(なけいだ)せば。あはれむべし伯子顔(はくしがん)はかたはらなる石(いし)に当(あた)りて。脇腹(わきばら)を 強(つよ)く打(うち)ければその儘(まゝ)息(いき)はたへたりける。此(この)有(あり)さまに朝鮮人(てうせんじん)おどろき恐(おそ)れ。右(う) 往左往(わうざわう)に散乱(さんらん)す。黒田勢(くろだぜい)は城中(じやうちう)にこみ入(いり)即時(そくじ)に城中(しやうちう)へ火(ひ)をかけ焼(やき)たてける。 敵を討(うつ)こと大将 伯子顔(はくしがん)をはじめ。一千四十三人 首(くび)を取(とつ)たりける。今日(こんにち)栗山(くりやま) 備後(びんご)。粉骨(ふんこつ)をつくして此城(このしろ)を攻落(せめおと)しけるに。栗山(くりやま)が兜(かふと)の枇杷(びわ)の葉(は)の立物(たてもの) の両方(りやうはう)へ。矢(や)三筋(みすぢ)射立(いたて)られ折(をり)かけたれば其(その)有(あり)さまゆゝしくぞ見(み)へたりける。扨(さて)討(うち) 取(とる)ところの首(くび)どもの鼻(はな)をそぎ。酒(さけ)にひたし日本(につほん)へ渡(わた)しければ秀吉公(ひてよしこう)御感(こかん)有 て。清正(きよまさ)行長(ゆきなが)同(どう)やうに首数(くびかす)至来(とうらい)大慶(たいけい)に思召(おほしめす)との御書(ごしよ)を下(くだ)されける。長(なが) 政(まさ)は金海(きんかい)に陣(ぢん)を取(とり)人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)め。扨(さて)後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)村上彦右衛門(むらかみひこゑもん)を呼(よび) て申されけるは。其方(そのはう)ども手勢(てせい)を引(ひい)て船(ふね)に乗(のり)川上(かはかみ)へはたらき。川(かは)の近辺(きんへん) なる在々(ざい〳〵)を放火(はうくわ)し候へと有(あり)ければ。両人共(りやうにんとも)命(めい)を請(うけ)四百 計(ばかり)の勢(せい)を卒(そつ)し 船(ふね)に乗(の)り。川上(かはかみ)へ至(いた)りて所々(しよ〳〵)を放火(はうくわ)しけるに川(かは)の西(にし)に一ツの砦(とりで)の城(しろ)見へたり。通(つう) 辞(じ)を呼出(よひいだ)し所(ところ)の者(もの)に問(と)へば。稷山(しよくざん)といへる城(しろ)なりといふ金海城(きんかいじやう)の落人(おちうと)も。 みな此(この)城(しろ)へ逃入(にげいり)候と云(いゝ)ければ。後藤(ごとう)村上(むらかみ)下知(げぢ)して鉄炮(てつはう)の兵(へい)を追手(おふて)へさし 向(むけ)きびしく打(うち)かけさせ。後藤(ごとう)村上(むらかみ)は強兵(がうへい)を引率(いんそつ)して。搦手(からめて)より攻入(せめいり)し に中々(なか〳〵)防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふ兵(へい)なく。右往左往(うわうざわう)に落行故(おちゆくゆゑ)追討(おひうち)にして。敵兵(てきへい)三百 計(ばかり) 討取(うちとり)つゐに城(しろ)を乗取(のつとり)。此所(このところ)に陣(ぢん)を取(とり)足(あし)の早(はや)き者(もの)をつかはし。城(しろ)より一 里(り) ばかり川下(かはかみ)【ママ】に高札(たかふだ)をたて。稷山城(しよくざんしやう)を黒田甲斐守内(くろだかいのかみうち)。後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)。村(むら) 上彦右衛門(かみひこゑもん)乗取(のつとり)篭(こも)り罷在(まかりあり)候と。書(かい)たりける黒田(くろだ)が斥候(ものみ)の兵(へい)来(きた)り 此札(このふだ)を見付(みつけ)て。馳帰(はせかへ)りて此由(このよし)を申ければ。長政(ながまさ)大(おほい)に歓(よろこ)びけるが小勢(こぜい)故(ゆゑ) 心元(こゝろもと)なしとて。長政(ながまさ)夜(よ)どふしに駈至(かけいた)りその功(こう)を賞(しよう)し。扨(さて)稷山(しよくざん)を放火(はうくわ)し て再(ふたゝ)び金海(きんかい)へ引取(ひきとり)ければ。後藤(ごとう)村上(むらかみ)も長政(ながまさ)に従(したが)ひ金海(きんかい)へ引取(ひきとり)ける。かく て一両日 人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)めけるうちに。島津薩摩守義弘(しまづさつまのかみよしひろ)。福島左衛門(ふくしまさゑもん) 太夫正則(たいふまさのり)。戸田民部少輔(とだみんふしやうゆう)等(とう)も。今日(こんにち)は着陣(ちやくぢん)いたすべきよし聞(きこ)へければ。長(なが) 政(まさ)。いざや後陣(ごぢん)のつゞかぬうち都(みやこ)へ打入(うちいり)功名(こうみやう)すべしと。士卒(しそつ)をはげませ進(すゝ)み入(いる)。 加藤(かとう)小西(こにし)に追(おひ)ちらされたる朝鮮人(てうせんしん)共(とも)。蒙露山(もうろざん)といふ山(やま)にたて籠(こも)り。 松(まつ)の木(き)のしげみに集(あつま)り居(ゐ)たりしが。長政(ながまさ)が霊原(れいげん)といへる一 里(り)計(ばかり)つゝきたる 松原(まつばら)を過(すぎ)て押行(おしゆく)ところに。蒙露山(もうろざん)より一 枚楯(まいだて)引(ひき)かつぎたる半弓(はんきう)の者(もの)ども。 二三千 出(いで)てさん〴〵に射(い)る。長政(ながまさ)が先手(さきて)は備後利安(びんごとしやす)なりしが。忽(たちま)ち備(そなひ)を立(たて) 鉄砲(てつぱう)の兵(へい)に下知(げぢ)して打(うた)しめけるに。敵兵(てきへい)色(いろ)めき立(たつ)て見(み)えけるを栗山(くりやま)すは やかゝれと真先(まつさき)に駈出(かけいだ)す。此時(このとき)黒田(くろだ)が籏本(はたもと)より後藤(ごとう)村上(むらかみ)の両勇士(りやうゆうし)。一 文字(もんじ) に駈来(かけきた)り無二無三(むにむさん)に敵中(てきちう)へ突(つい)て入(いり)。竪横(じふわう)に蒐立(かけたて)瞬(またゝ)くうちに。おの〳〵敵(てき)七八 騎(き)つゝ突(つい)て落(おと)す。栗山(くりやま)が兵(へい)五百 余人(よにん)切先(きつさき)を揃(そろ)へ捲立(まくりたて)て切立(きりたつ)れば。何(なに)かはもつて たまるべき。人(ひと)なだれをなして逃(にげ)たりけるを。二 陣(ぢん)にひかへし黒田美作(くろだみまさか)。山(やま)の 尾筋(をすぢ)を取切(とりきり)落行先(おちゆくさき)をふさぎて攻(せめ)たりければ。敵兵(てきへい)は東西(とうざい)に逃(にげ)南北(なんぼく)に遁(のが)れ 落行(おちゆき)ける。敵(てき)を討事(うつこと)七百 余人(よにん)黒田勢(くろだぜい)は大(おほい)に勇(いさ)み。此(この)勇気(ゆうき)のぬけざるうち 都(みやこ)へ打入(うちいり)働(はたら)くべしと。清正(きよまさ)行長(ゆきなが)があとを追(お)ふて王城(わうじやう)へと急(いそ)ぎける。     小西行長(こにしゆきなが)忠州(ちくしう)を攻落(せめおと)す事(こと) 扨(さて)も小西行長(こにしゆきなが)は東萊(とくねぎ)に陣(ぢん)して居(ゐ)たりしが。加藤清正(かとうきよまさ)。黒田長政(くろだながまさ)。大友義(おほともよし) 純(すみ)。島津義弘(しまづよしひろ)等(とう)をはじめ。日本(につほん)の諸大将(しよだいしやう)大(おほ)かた渡海(とかい)せしよし聞(きこ)へければ。 行長(ゆきなが)おもふやう後陣(ごぢん)の勢(せい)至(いた)りて打(うち)こみの軍(いくさ)は。さのみ功名(こうみやう)なるまじ急(いそ)ぎ 忠州城(ちくしうじやう)を攻落(せめおと)し。大功(たいこう)をたてんと五月二日の午(うま)の刻(こく)に東萊(とくねき)を打立(うちたち)。夜(よ)を 日(ひ)につゐで急(いそ)ぎけるほどに。五百四十 里(り)《割書:六丁|一り》を五日におして同(とう)月六日の夜(よ)丑(うし)の 刻(こく)に忠州城(ちくしうじやう)へ着(つき)にけり。此城(このしろ)は忠州府(ちくしうふ)をさる事(こと)三十里(り)なり。是(これ)は東萊(とくねぎ)ゟ(より) 【右丁】 金海城合戦(きんかいじやうかつせん)  後藤又兵衛(ごとうまたべゑ) 勇戦(ゆうせん)して城将(じやうしやう)  伯子顔(はくしがん)を  投(なげ)ころす 【左丁 絵画のみ】 押來(おしきた)る日本人(につぽんじん)の。府中(ふちう)へおし入(い)らん事(こと)を恐(おそ)れて要害(やうがい)の地(ち)なれば。此所(こゝ)に城(しろ)を かまへたり。頃(ころ)は五月六日の事(こと)なれば月(つき)は宵(よひ)より入(いり)。目(め)ざしもしれぬ闇夜(あんや)な れば案内者(あんないじや)を先(さき)に立(たて)。汗馬(かんば)に鞭(むち)を加(くわ)へし程(ほど)に鶏(とり)のなく声(こゑ)聞(きこ)ゆるころ。城(しろ)の 東門(とうもん)におし寄(よせ)先(まづ)手(て)わけをぞしたりける。宗對馬守(そうつしまのかみ)其勢(そのせい)五千 余騎(よき)城(しろ)の巽(たつみ) の田(た)の中(なか)をまはり。南(みなみ)の山(やま)につきて細道(ほそみち)有(あり)けるを通(とほ)りて南(みなみ)の木戸(きど)へ向(むか)ふ。松浦(まつら) 重信法印(しげのぶほうゐん)三千 余騎(よき)にて。城(しろ)の艮(うしとら)の小川(おかは)を渡(わた)り菖蒲林(しやうぶはやし)を五町(ごちやう)ほど渡(わた)り。城(しろ) の北門(ほくもん)につく。此城(このしろ)朝鮮(てうせん)の都(みやこ)をさる事(こと)わづか百八十 里(り)なれば。若(もし)王城(わうじやう)より後(うしろ) 巻(まき)あらんかとて。有馬修理太夫治郷(ありましゆりだいふはるさと)。大村新八郎豊成(おほむらしんはちらうとよなり)。五島若狭守近政(ごとうわかさのかみちかまさ)。 の人々(ひと〳〵)三千 余騎(よき)にて城(しろ)の西門(せいもん)より十町(じつちやう)ばかり押出(おしいだ)し。府中(ふちう)に向(むか)つて備(そな)ひたり行(ゆき) 長(なが)は手勢(てぜい)七千 余騎(よき)大手(おほて)へむかふ。扨(さて)緒手(しよて)一 度(ど)に鬨(とき)を作(つく)り。太鼓(たいこ)を打(うち)貝(かひ)を ふき立(たて)鉄炮(てつはう)を打(うち)かけ攻(せめ)かゝる。城中(じやうちう)には七万 余(よ)の兵(へい)あれば大勢(たいぜい)をたのみ。又(また)釜山浦(ふさんかい) より道(みち)の遠(とほ)きをたのみとしていさゝか油断(ゆだん)して居(ゐ)たれば。此音(このおと)におどろき如何(いかゞは)せんと 東西(とうざい)にさまよひ騒(さは)ぎ。親(おや)をも子(こ)をも顧(かへりみ)ず我先(われさき)にと遁(のが)れ行(ゆく)。大将王僧林(たいしやうわうそうりん)并(ならひ)に 柳成龍(りうせいりう)。金應陽(きんおうやう)。成允門(せいいんもん)。等(とう)鎧(よろひ)ばかりにて防戦(ばうせん)し。こゝを破(やぶ)られては後日(ごにち)人(ひと) に面(おもて)を合(あは)されじと。七 顚(てん)八 倒(たふ)して戦(たゝか)ふといへども城中(じやうちう)の男女(なんによ)上(うへ)を下(した)へと騒動(そうどう)し。 防戦(ばうせん)の妨(さまた)げとなりと見(み)へたりける。小西(こにし)が兵(へい)日比左近右衛門(ひゞさこんゑもん)は赤(あか)だん〳〵の輪(わ)ぬけ のさし物(もの)にて。櫓(やぐら)の上(うへ)へ乗上(のりあが)り大音(だいおん)に日比左近右衛門(ひゞさこんゑもん)一 番乗(ばんのり)ぞ。つゞけや〳〵と 名乗(なのり)つゝ飛(とび)こみしかば。小西(こにし)が兵共(へいども)我(われ)劣(おと)らじと乗入(のりいり)けるによつて。三の丸(まる)をば乗取(のつとり) たり朝鮮勢(てうせんせい)はおもひ〳〵に落行(おちゆき)ける中(なか)より。成允門(せいいんもん)が弟(おとゝ)成義川(せいきせん)。柳成竜(りうせいりう)が嫡(ちやく) 子(し)柳延(りうゑん)等(とう)。逞兵(ていへい)五六千をはげまし取(とつ)てかへし。得物(えもの)を以(もつ)て防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふ有(あり)さま勇(ゆう)々 しくぞ見へたりける。行長(ゆきなが)はしは皮(かは)の鎧(よろひ)に銀(きん)にて鴛(おし)の裾金物(すそかなもの)を打(うつ)たるを。草槢(くさずり) ながにゆりさげ鍬(くわ)がた打(うつ)たる唐(から)の頭(かしら)の兜(かぶと)を着(ちやく)し。銀(ぎん)の天月(てんけつ)出(いだ)したる母衣(ほろ) をかけ将軍(しやうぐん)より賜(たま)はりたる。大黒(おほくろ)の馬(うま)に白泡(しらあは)かませ陣頭(ぢんとう)に進(すゝ)み勝負(しやうぶ)いかにと 見(み)て居(ゐ)たりしが。きつと心(こゝろ)づき伊賀(いが)のしのびの百人の内(うち)。二十人 計(ばかり)を呼出(よひいだ)し搦手(からめて) へ廻(まは)し。風上(かざかみ)より火(ひ)をかけたりければ其煙(そのけふり)城中(しやうちう)に乱(みだ)れ入(いり)。ほのふを吹(ふき)かけたれば城(じやう) 兵(へい)何(なに)かは以(もつ)てたまるべき色(いろ)めき立(たつ)て騒動(そうどう)す行長(ゆきなが)は自(みづか)ら馬印(うましるし)を振(ふつ)て。すはや此図(このづ)をぬか すな進(すゝ)め〳〵と下知(げぢ)をなし。総軍(そうぐん)一度(いちど)に大浪(おほなみ)のげきする如(ごと)く攻(せめ)かゝる。成義門(せいぎもん)柳延(りうえん) 等(ら)心(こゝろ)は剛(がう)にはやれども崩(くづ)れ立(たつ)たる味方(みかた)なれば。今(いま)は戦(たゝか)ふ力(ちから)なく成義門(せいぎもん)は自(みづか)ら剣(けん)【釼は辞書に無し】を 廻(まは)し。我(われ)いやしく国(くに)の臣(しん)として任(にん)をあづかるは只今(たゞいま)のためなりとて。四 方(はう)八 面(めん)に駈(かけ) めぐり死(しに)ものぐるひに戦(たゝか)ひけるところに。小西(こにし)が兵士(へいし)竹内喜兵衛(たけうちきへゑ)。馳(はせ)かゝり。つゐに切 伏(ふせ)成義門(せいぎもん)を討取(うちとり)ける。柳廷(りうてい)是(これ)を見(み)て最早(もはや)是(これ)までなり。敵(てき)の手(て)に死(し)せん事 無念(むねん) なりとて。剣(けん)【釼は辞書に無し】を取直(とりなほ)し自害(じがい)して死(しゝ)たりける従弟(いとこ)なりける。柳石虎(りうせきこ)。蘇源(そげん)も 一 方(はう)を打破(うちやぶ)りて落(おち)たりけるが。大村新八(おほむらしんはち)が勢(せい)に追(おひ)かけられ二人ともに討(うた)れたり。 残(のこ)る将士(しやうし)はみな皇城(くわうじやう)さして落(おち)にける。牧使(ぼくし)王僧林(わうそうりん)は大敵(たいてき)の中(なか)を切(きり)ぬけ。晋州(しんしう) 城(じやう)へぞ入(いり)にける。小西(こにし)が手(て)へ討取(うちとる)首數(くびかす)都合(つがふ)九千二百十三とぞ聞(きこ)へける。味方(みかた)にも 手負(ておひ)死人數(しにんす)百人と記(しる)したり。扨(さて)又(また)加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)は蜜陽(みつやう)大丘府(たいきうふ)をおし て全義館(ぜんぎくわん)へ出(いで)。忠州府(ちくしうふ)に至(いた)るに此所(こゝ)もみな明(あき)のきたれば。残居(のこりゐ)たる朝鮮人(てうせんじん)を 生捕(いけどつ)て尋(たづ)ねけるは。是(これ)より奥(おく)へ日本勢(につほんぜい)討入(うちいり)たるやと問(とひ)けるにいまだ一人も通(とほ)ら すと答(こた)へける。清正(きよまさ)左(さ)あらば此所(このところ)に陣取(ぢんとり)後陣(ごぢん)を待(まつ)べしとて。忠州府(ちくしうふ)に両日(りやうじつ)逗(たう) 留(りう)せられけるに。同(おな)じく八日の晩景(ばんけい)に小西行長(こにしゆきなが)が一 組(くみ)忠州城(ちくしうじやう)を出(いで)。府中(ふちう)に来(きたり) 清正(きよまさ)と一 手(て)になる。小西(こにし)が勢(せい)ども道(みち)〳〵乱妨(らんばう)なして取(とり)しと見(み)へて。木綿布(もめんぬの)など 数千反(すせんだん)牛馬(ぎうば)におはせて来(きた)りしを。清正(きよまさ)見(み)て大(おほい)に怒(いか)り大眼(だいがん)をもつて小西(こにし)をはつ たと白眼(にらみ)。人(ひと)多(おほ)き中(なか)よりゑらみ出(いだ)され異国(ゐこく)の先手(さきて)を命(めい)ぜられし。貴殿(きでん)の軍(ぐん) 勢(せい)かゝる見(み)ぐるしき有(あり)さまや有(ある)べき。都(みやこ)へ入(い)らば綾羅(れうら)錦繍(きんしう)はいふにおよばず。金(きん) 銀(ぎん)財宝(ざいはう)充満(じうまん)たるべしかゝる木綿布(もめんぬの)などに。心(こゝろ)をかける兵士(へいし)にては此後(このご)の道(みち)の 妨(さまた)げとなりて戦(たゝか)ひの程(ほど)もおもひやらるゝなり。楚(そ)の項羽(こうう)が鉅鹿(きよろく)の戦(たゝか)ひに船(ふね)を しづめ。釜瓶(ふへい)を破(やふ)り家財(かざい)をやき士卒(しそつ)に必死(ひつし)をしめしてこそ。戦(たゝか)ひ勝(かつ)つて王離(わうり)を 擒(とりこ)としたりと。史記(しき)にも見へて候へば今(いま)征伐(せいばつ)のはじめにかく乱妨(らんばう)を先(さき)だてたら んば甚(はなは)だもつてしかるべからず。残(のこ)らず焼捨(やきすて)られよと云(いひ)ければ。行長(ゆきなが)も理(り)につめ られ汗(あせ)を流(なが)して赤面(せきめん)し。二万 計(ばかり)の兵共(へいとも)道々(みち〳〵)奪(うば)ひ来(きた)りし品(しな)〳〵を。山(やま)の如(ごと) く積置(つみおき)一時(いちし)に焼捨(やきすて)ければ。小西(こにし)が士卒(しそつ)は折角(せつかく)是(これ)まで持来(もちきた)りて焼捨(やきすて)らるゝのみ ならず。清正(きよまさ)に笑(わら)はれしを無念(むねん)におもひそしらぬ者(もの)こそなかりける。扨(さて)清正(きよまさ)行長(ゆきなが) は忠州府(ちくしうふ)に陣(ぢん)を取(とつ)て。後陣(ごぢん)のつゞくを待(まつ)ところに黒田長政(くろだながまさ)をはじめ。後陣(ごぢん)の面々(めん〳〵) おひ〳〵に忠州(ちくしう)に着(ちやく)しける。此時(このとき)すでに朝鮮(てうせん)の平安(へいあん)黄海(ばかい)忠清(ちくせい)の三 道(とう)も破(やぶ)れ。 慶尚(けいしやく)全羅(せんら)の二 道(とう)も危(あやう)き事(こと)旦夕(たんせき)にあり。朝鮮(てうせん)八ケ道(どう)の貴賎(きせん)老若(らうにやく)上(うへ)を下(した)へ と騒動(そうどう)し。過半(くわはん)落(おち)うせければ慶尚(けいしやく)全羅(せんら)の二 道(とう)にも兵(へい)の籠(こも)る城(しろ)とては十分(じうぶん) 一もなかりける。日本(につほん)の諸将(しよしやう)此(この)二道(にどう)へ軍(いくさ)を進(すゝ)めなば戦(たゝか)はずして味方(みかた)のものと成(なる) へきを。日本勢(につほんぜい)はまづ王城(わうじやう)を取(とる)べしとて忠州(ちくしう)よりひら押(おし)に進(すゝ)みける。     朝鮮王(てうせんわう)都(みやこ)を落(おつ)る事(こと) 扨(さて)また朝鮮(てうせん)の都(みやこ)にては所々(しよ〳〵)より注進(ちゆうしん)あつて。平安(へいあん)黄海(ばかい)忠清(ちくせい)の三 道(どう)も破(やぶ)れぬ 日本勢(につほんぜい)の矛先(ほこさき)強(つよ)くなか〳〵敵(てき)しがたしと聞(きこ)へければ。京都(きやうと)の民間(みんかん)我先(われさき)にと落行(おちゆき) けるに。同(おな)じく朝鮮(てうせん)の王宮(わうきう)も惟(たゞ)に京都(きやうと)を開(ひら)くべきに。評議(ひやうぎ)まち〳〵にして大臣(だいじん)を始(はじめ) としてみだりに慌(あは)つるばかりなり。是(これ)より先(さき)理馬(りば)金應壽(きんおうじゆ)首相(しゆしやう)某(それかし)等(ら)蜜々(みつ〳〵)【ママ】に相(さう) 談(だん)し。京都(きやうと)を落(おち)て王駕(わうが)を西(にし)に幸(みゆき)あるべしと定(さだ)め置(おき)。その事(こと)いまだ外朝(くわいてう)には誰(たれ) も知(し)るものなかりしを。都承旨(としやうし)李恒福(りごうふく)等(ら)柳左相成龍(りうさしやうせいりう)が。忠州(ちくしう)の軍(いくさ)破(やぶ)れて 帰(かへ)りしよしを聞(きい)て成龍(せいりう)が方(かた)へ来(きた)り。首相(しゆしやう)某(それがし)国(くに)をあやまること如此(かくのごとく)なり請(こ)ふ らくは御一族(ごいちそく)の衆中(しゆうちう)とともに奏聞(そうもん)し此(この)京城(けいじやう)を棄(すて)給へ。他所(たしよ)へ臨幸(りんこう)あるべきの 失策(しつさく)なることを諌(いさ)め奉(たてまつ)らんと云(いふ)ほどに。領府事(れうふじ)金貴栄(きんきえい)等(ら)中(なか)に於(おゐ)て憤(いきとほ)り 諸大臣(しよたいしん)とともに進(すゝ)んで請(こ)ふらくは京城(けいじやう)を固(かた)く守(まも)りて倭賊(わぞく)を防(ふせ)がんことを謀(はか)り 給へ。京城(けいじやう)を捨(すて)んと申す等(ともがら)は全(まつた)く是(これ)小人(しようじん)なり。かまへて其言(そのこと)を執(とり)たまふべからず と皆(みな)一 口(こう)に諌(いさ)め奉(たてまつ)る。王李㫟(わうりえん)は一旦(いつたん)彼等(かれら)が意(こゝろ)をなだめんと。宗廟(そうべう)社稷(しやしよく)こゝに有(あり) 朕(われ)これをすてゝ将(まさ)に何方(いづかた)に往(ゆか)んや。心安(こゝろやす)くおもふべしとなだめらるゝに諸大臣(しようだいじん)一同(いちと) に有難(ありがた)しとて退出(たいしゆつ)せり。此時(このとき)に京城(けいじやう)を警衛(けいえい)すべき人(ひと)なければ。里民(りみん)をかり立(た) て諸役所(しよやくしよ)の小奉行人(こぶきやうにん)或(あるひ)は医官(ゐくわん)巫祝(ふしゆく)の輩(ともがら)までを相集(あひあつ)め。城堞(じやうてう)を分(わか)ち守(まも)らし む。それさへ総人数(そうにんず)三 万余(まんよ)に過(すぎ)ざれば城(しろ)を守(まも)る人兵(にんべい)は。僅(わづか)に七千には足(た)らざり ける。元(もと)より烏合(うがふ)の集(あつま)り勢(ぜい)闘戦(とうせん)に心(こゝろ)なく。間(ひま)をうかゞひ何(なに)とぞして城中(じやうちう)を逃(のが)れ 出(いで)んとおもふばかりの者共(ものども)なり。其中(そのなか)に官軍(くわんぐん)の歴々(れき〳〵)上士(じやうし)といへる輩(ともがら)は。此等(これら)が 隊(そなひ)の長(かしら)となつて有(あり)ながら。その下奉行(したぶぎやう)と云合(いひあは)せ金銀(きん〴〵)をいだす兵卒(へいそつ)あれば。ひそ かにこれを放(はな)ちやるもまた多(おほ)かりける。軍政(ぐんせい)の懈(おこた)り弛(ゆる)べること如此(かくのことく)なる時節(じせつ) にあたり。満城(まんじやう)の譟動(そうどう)大(おほ)かたならずして。しばしも座(ざ)をなす者(もの)もなし。扨(さて)五月 【右丁 籏に書かれた文字】 大持国天玉              大広目天玉   《割書:南無十方三世一切諸|南無多宝如来南無    貝菩薩》天照大    《割書:伝教大師》  南無妙法[蓮]  経 南無   菩薩   《割書:南無釈迦牟尼仏|南無十方分身》 《割書:    |日月天》八   《割書:大国天神》 大毘沙門天玉     大    大増長天玉 【右丁】 加藤清正(かとうきよまさ) 小西行長(こにしゆきなが)  先陣(せんぢん)を   争(あらそ)ふ 八日の初昏(しよこん)にあたつて。諸(もろ〳〵)の宰官大臣(さいくわんたいじん)を招集(めしあつ)め倭賊(わぞく)の寄来(よせきた)ること急(きふ)な れば。一先(ひとまづ)京都(きやうと)を出(い)てひらいて重(かさ)ねて冠(あだ)を退(しりぞ)けんと。朝鮮王(てうせんわう)李㫟(りえん)は宮(きう)の東廂(とうしやう) に出(いで)給へて地(ち)に座(ざ)せられ。灯燭(とうしよく)を張(は)りて詮議(せんぎ)ある一 族(そく)の人々(ひと〳〵)には。河源君(かけんくん) 河陵君(かりやうくん)。待座(じざ)したり時(とき)に大臣(だいじん)某(それがし)申すやう。事勢(じせい)すでにこゝに至(いた)れり恐(おそ)れ ながら車馬(しやが)【駕の誤ヵ】。暫(しばら)く平譲(へくしやく)に出(いで)て幸(みゆき)まし〳〵。其後(そのゝち)大明(たいみん)の天朝(てんてう)へ兵軍(へいぐん)を請(こ)ひ 給へしかして国郡(こくぐん)を収(おさ)め給はんに何(なん)の子細(しさい)か候はんといふ。掌令(しやうれい)権悏(けんけふ)は進(すゝ)み出(いで) 大音聲(たいおんじやう)に呼(よば)はるやう。京城(けいじやう)を固(かた)く守(まも)るの外(ほか)量見(りやうけん)なかるべし。若(もし)京城(けやうじやう)を御《割書:ン》 ひらきあらんことは失策(しつさく)〳〵。と其詞(そのことば)はなはだかまびすし。其時(そのとき)柳成龍(りうせいりやう)これ を静(しづ)めて危乱(きらん)の間(あいだ)と云(いへ)ども君臣(くんしん)の礼(れい)なんぞ乱(みだ)らん汝(なんぢ)が体(てい)しかるべかるず暫(しばらく) 退(しりぞい)て啓(けい)すべし。悏(けふ)呼(よば)はつて重(かさ)ねてのゝしり。左相(さしやう)もまた此言(このことば)を出(いだ)すやしからば 公(こう)もおなじく京城(けいじやう)を棄(すて)べき同意(とうい)にやと云(いふ)。柳相(りうしやう)云(いふ)やう権悏(けんけふ)が言(ことば)はなはだ以(もつ)て 忠義(ちうぎ)あり。しかしながら事(こと)の勢(いきほひ)に於(おゐ)てしからざるのことを得(え)ずしばらく京都(きやうと)を 御 ̄ン開(ひら)きあるべきか。其(それ)につゐて諸王子達(しよわうじたち)を諸道(しよたう)へ分(わか)ち遣(つかは)し。人数(にんず)をもてる 諸将(しよしやう)の鎮(しづ)めと定(さだ)めて。事(こと)急(きふ)なるにおよんで招集(めしあつ)め王事(わうじ)を勤(つと)め給ふべし。世子(せいじ)は また御 ̄ン駕(か)にしたがつて御行啓(ごこうけい)あるべし。と奏(そう)するに評議(ひやうぎ)はじめて定(さだま)りけり こゝにおゐて臨海君(けもかいくん)は咸鏡道(えあんたい)に行(ゆき)給へ。領府事(れうふじ)金貴栄(きんきえい)漆渓君(しつけいくん)尹卓然(いんたくせん) これにしたがふ。順和君(じゆんわくん)は江原道(こうげんたい)にゆくべし長渓君(ちやうけいくん)。黄廷或(くわうていいく)。護軍(ごぐん)黄赫(くわうかく)同(おなしく) 知李墍(ちりき)等(ら)これにしたがふ。赫(かく)が娘(むすめ)は順和(しゆんわ)の夫人(ふじん)たり。李墍(りき)はまた原州(げんしう)の人(ひと) たるゆゑ同(おな)じく是(これ)を遣(や)られける。時(とき)に柳相(りうしやう)は留将(りうしやう)として城(しろ)にのこれば。首将(しゆしやう) をはじめ宰臣(さいしん)数十人(すじぶにん)。御 ̄ン駕(が)の御 ̄ン供(とも)なれど柳左相成龍(りうさしやうせいりやう)には。御 ̄ン供(とも)の命(めい)も出(いで) ざるを政院(せいゐん)より啓(けい)して。今度(このたび)の御 ̄ン供(とも)に柳成龍(りうせいりう)なくんばあるべからずと申すにより 是(これ)も御 ̄ン供(とも)と定(さだま)りけり。内医(ないゐ)超英璇(てうえいせん)政院(せいゐん)の吏(り)申徳麟(しんとくりん)が等(ともがら)十 余人(よにん)の者共(ものども) 一 度(ど)に呼(よば)はつて大音(だいおん)あげ。京都(きやうと)をば棄(すつ)べからず〳〵と。しばしは鳴(なり)も静(しづ)まら ず。かゝる所(ところ)へ又々(また〳〵)所々(しよ〳〵)より注進(ちゆうしん)あつて。日本(につほん)の軍勢(ぐんぜい)おひ〳〵人数(にんず)まして都(みやこ)へ責(せめ) 入(いる)よし聞(きこ)へければ。宮中(きうちう)また譟(さわ)ぎおのゝき廷内(ていだい)の衛士(えいし)ども。何(なに)ほどにか尽(こと〳〵)く 散(さん)じぬれば更漏(こうろう)も鳴(なら)さずところ〳〵の灯燭(とうしよく)も無(なか)りし故(ゆゑ)。やうやくに宣伝(せんでん)の 官庁(つかさ)より火炬(たいまつ)をもとめて。御 ̄ン駕(が)を出(いだ)さんとなすに禁軍(きんぐん)方々(はう〳〵)へ奔(はし)りかくれ。供(ぐ) 奉(ぶ)に備(そな)ふる人(ひと)もなし。上下(じやうげ)みだりに騒(さわ)ぎ立(たつ)て一向(ひたすら)に逃(に)げまどひ【ママ】ば。或(あるひ)は人(ひと)に衝(つき) 仆(たふ)され或(あるひ)は人(ひと)を蹈仆(ふみたふ)し。互(たがひ)に人々争(ひと〳〵あらそ)ひてみだりがはしき計(ばか)りなり。羽林衛(うりんえい)の池(ち) 貴壽(きじゆ)といへる者(もの)。御 ̄ン駕(が)の前(まへ)を過(すぐ)るを柳左相(りうさしやう)是(これ)をとゞめて。汝(なんぢ)が輩(ともがら)多年(たねん)朝(てう) 恩(おん)に浴(よく)する身(み)ながら危急(ききう)の時(とき)に至(いた)り。忽(たちま)ち君(きみ)に忠(ち[う])ある心(こゝろ)を忘却(ばうきやく)するやと 義(ぎ)を以(もつ)て是(これ)を責(せむ)れば貴壽(きじゆ)聞(きい)て大(おほい)に感(かん)じ。敢(あへ)て力(ちから)を尽(つく)さゞらんやと荅(こた)へしが その辺(へん)をかけ走(はし)り同類(とうるひ)二人を呼来(よびきた)り供奉(ぐぶ)に備(そな)ひたり。すでに御 ̄ン駕(が)も景福(けいふく) 宮(きう)の前(まへ)を過(すぐ)るに。市街(ちまた)の両辺(りやうへん)の男女(なんによ)の哭声(なくこゑ)おびたゝしきは聞(きく)にたへざる哀(あは) れさなり。承文院(しようふんゐん)の書員官(しよいんくわん)李守謙(りしゆけん)といへる者(もの)。柳左相(りうさしやう)が馬(うま)の鞚(おもつら)をひかへ 院中(ゐんちう)の文書(ぶんしよ)をば。当(まさ)に何(なに)とかいたすべしと問(と)ふ。其(その)きびしく閉(とざ)したる秘(ひ)すべき書(しよ) のみ取(と)り来(きた)れ。と荅(こた)ふるに守謙(しゆけん)は涙(なみだ)ながらに馳(はせ)かへる。御 ̄ン駕(が)は程(ほど)なく敦義門(とんぎもん) といへるを出(いで)て。沙峴(しやけん)にいたるころほひには既(すで)に東方(とうばう)も明(あけ)なんとするに。後(うしろ)の方(かた) をかへり見れば。城中(じやうちう)の南大門(なんたいもん)の内(うち)大倉(おほくら)の有方(あるかた)に火煙(くわえん)おこつて焼(やけ)あがり。烟(けふり)は すでに空(そら)にあがれり。是(これ)なんいまだ倭兵(わへい)の放火(はうくわ)するにはあらで。大倉(おほぐら)の秘(ひ)すべき物(もの) を倭兵(わへい)の手(て)に渡(わた)すべからずと。守謙(しゆけん)等(ら)自焼(じしやう)するとこそしられける。沙峴(しやけん)を  越(こ)えて石橋(せききやう)に至(いた)れる時雨(しぐれ)稍(やうや)くに降来(ふりきた)る。京畿監(けいきかん)権徴(けんてう)等(ら)も追付(おひつき)て御 ̄ン供(とも)に したがふ。碧蹄駅(へきていえき)に至(いた)れる頃(ころ)雨(あめ)しきりに降(ふ)りければ。供奉(ぐぶ)の上下(じやうげ)一行(いちきやう)に沾濕(ぬれしめり)て 行(ぎやう)をすゝむべきやうなかりしかば。かくては叶(かな)ふべからずとてしばらく駅舎(えきしや)に入(いり)て 休息(きうそく)すれど。なか〳〵雨(あめ)の晴(はれ)べきやうなければまた御 ̄ン駕(が)をすゝめらるゝに。是(これ)より 衆官跡(しゆくわんあと)にとゞまり。都城(とじやう)に還(かへ)りけるも多(おほ)かりければ。その中(うち)に侍従台官(じじうだいくわん)の 官人(くわんにん)の。すべあるもの共(ども)も打(うち)まじわつて心(こゝろ)〳〵に逃出(にげいづ)るゆへ。供奉(ぐぶ)の族(ともがら)次第(しだい)〳〵に 減少(げんしやう)するこそうたてけれ。扨(さて)また順和君(じゆんわくん)も江原道(こうげんたい)へと落(おち)給へしが。是(これ)も同(おな) じく御 ̄ン供(とも)の士(し)一人二人と遁(のが)れ行(ゆき)。今(いま)はやうやく十 余人(よにん)のみなれば。かくては道(みち)の程(ほど) もおぼつかなしとて。道(みち)をかへて臨海君(りんかいくん)の落(おち)給へし咸鏡道(えあんたい)へと落(おち)給へける。    加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなか)先陣(せんちん)を争(あらそ)ふ事(こと) 偖(さて)も日本(につほん)の諸将(しよしやう)は忠州(ちくしう)に会(くわい)して。是(これ)より朝鮮(てうせん)の都(みやこ)へ責入(せめいる)べき評議(ひやうき)なし ける時(とき)清正(きよまさ)進(すゝ)み出(いで)て是(これ)より以後(いご)我(われ)必(かなら)ず先陣(せんちん)たらんといふ。行長(ゆきなが)あざ笑(わら)いて云(いふ) 朝鮮國(てうせんこく)の先陣(せんぢん)は巳(すで)に。日本(につほん)にて大将軍(たいしやうぐん)秀吉公(ひでよしこう)の御 定(さだめ)にて我等(われら)是(これ)を承(うけ給は)るとこ ろなり今(いま)若(もし)私(わたくし)にこれを改(あらた)めんとせば秀吉公(ひてよしこう)の御 掟(おきて)を破(やぶ)るに同(おな)じ。我(われ)決(けつ)して相(あひ) したがふ事(こと)を得(え)ずといふ。清正(きよまさ)重(かさ)ねて云(いふ)法令(はうれい)たとへ然(しか)りと云(い)ふとも。惟(こゝ)前陣(せんぢん)は その武勇次第(ぶゆうしだい)に任(にん)ずべきか。行長(ゆきなが)怒(いか)つてまさなや清正(きよまさ)我(われ)と汝(なんぢ)と武勇(ふゆう)に於(おゐ)て 何(なん)ぞ劣(おと)るべき。此度(このたび)の先陣(せんちん)汝(なんぢ)が云(いふ)ところの武勇(ぶゆう)によつてなすならば。なして見(み) 給へと既(すで)に両将(りやうしやう)眼(まなこ)の色(いろ)かはつて憤気(ふんき)をなす。両手(りやうて)の諸士(しよし)左右(さいふ)に詰(つめ)よせ下知(げぢ) あらば討(うつ)てかゝらんと。拳(こぶし)を握(にぎ)り手(て)ぐすね引(ひい)て眼(まなこ)をくばりて待(まち)かけたり。すはや 事(こと)の出来(いでき)ぬと見(み)つれば。黒田(くろだ)鍋島(なべしま)が輩(ともが)ら両方(りやうはう)にわかれて是(これ)を制(せい)し。松浦(まつら) 福島(ふくしま)長曽我部(ちやうそかべ)毛利(もうり)立花(たちばな)の諸将(しよしやう)。左右(さいふ)に和談(わだん)をなさしめたり。島津(しまづ)が輩(ともがら) これを決(けつ)して。是非(ぜひ)ともに先陣(せんじん)は太閤(たいかふ)の御定(おんさだ)めなれば行長(ゆきなが)に定(さだ)めおいて。他人(たにん)の 争(あらそ)ふべき事(こと)にあらず。しかりとは云(いひ)ながら行長(ゆきなが)すでに所々(しよ〳〵)の城(しろ)を抜(ぬき)とられた る上(うへ)は。其(その)手柄(てがら)抜群(ばつくん)なりしかれば今(いま)王城(わうじやう)に入(い)るの功(こう)におゐては。他(た)にゆずるともか たきにあらず。これによつて我々(われ〳〵)の存(そん)ずるには清正(きよまさ)行長(ゆきなが)の両将(りやうしやう)相分(あひわか)れ。両道(りやうだう) より兵(へい)を進(すゝ)めは可(か)ならんかと。道理(たうり)を告(つげ)て取(とり)あつかへば行長(ゆきなが)これに心服(しんふく)し。 此義(このぎ)最(もつとも)なる事(こと)我等(われら)なんぞ違背(ゐはゐ)申さん。さらば各々(おの〳〵)に御まかせ申べし。先(まづ) これより王城(わうしやう)に至(いた)るに二ツの道(みち)あり。一ツは驪州(りしう)といふところを越(こ)ゆその道(みち)江(え)を 渡(わた)り。楊根(やうこん)と云(いふ)ところにより龍津(りうしん)といふ大河(たいか)を渡(わた)り。京都(きやうと)の東(ひがし)に出(いづ)る道(みち) あり。一ツはまた竹山龍仁(ちくさんりうじん)といふところを経(て)て。漢江(かんこう)の南(みなみ)に出(いづ)るなり。また金海(きんかい) より進(すゝ)むには星州(せいしう)茂渓縣(ぼけいけん)より江(え)を渡(わた)り。知礼(ちれい)金山(きんさん)の所々(しよ〳〵)を過(す)ぎ忠清道(ちくしやくたい) 永同(えいどう)なんどいふ所(ところ)をすぎ。京都(きやうと)に向(むか)ふ道(みち)もあり何(いづ)れなりとも清正(きよまさ)の量見(りやうけん) 次第(しだい)にいたし申さん。なれど南大門(みなみおゝもん)は道遠(みちとほ)く。東大門(ひがしだいもん)は道(みち)すこし近(ちか)けれど 大河(たいが)の津(わたり)ありて行難(ゆきがた)し。南(みなみ)の路(みち)すぢは遠(とほ)しといへども川(かは)なふして平地(へいち)なり。 兔(と)にも角(かく)にもその意(こゝろ)にまかせ給へといふ。  一説(いつせつ)に南大門(みなみだいもん)に向(むか)ふ行程(こうてい)近(ちか)ふして河(かは)あり。東大門(ひがいたいもん)に向(むか)ふ道路(みち)すこし  く遠(とほ)くして平土(へいど)といふ。しかしながら彼国(かのくに)の記(き)に述(のぶ)るところ。南方(なんはう)江辺(こうへん)  に出(いで)て河津(かしん)なし。東方(とうばう)に出(いづ)る道(みち)江(え)を渡(わた)り津(しん)を渡(わた)るとある故(ゆゑ)に。彼(かの)  書(しよ)したがつて東南道(とうなんみち)をかへて記(しる)す。 【右丁】 朝鮮王李㫟(てうせんわうりえん)  京都(きやうと)を出(いで)給ふ  おりふし雨(あめ)  はなはだし  嗚呼(あゝ)天(てん)なる哉(かな) 【左丁 絵画のみ】 鍋島直茂(なべしまなをしげ)等(ら)も。行長(ゆきなが)がいへるを聞(きい)て。此義(このぎ)しかるべしと有(あり)ける故(ゆゑ)。清正(きよまさ)も気(け) 色(しき)をなをし。我(われ)はたゞ其(その)行程(こうてい)の近(ちか)き方(かた)を進(すゝ)むべしといふにぞ。諸将(しよしやう)も歓(よろこ)び 扨(さて)こそ清正(きよまさ)は東大門(ひがしだいもん)と相定(あひさだま)る《割書:一 説(せつ)に南大門(みなみだいもん)に向(むか)ふといへども|右河(みぎかは)ある説(せつ)を用(もち)ひて東(ひが[し])とす》こゝにおゐて清正(きよまさ)は 京城案内(けうじやうあんない)のためにとて。通事(つうじ)一人を宗対馬守義智(そうつしまのかみよしとし)に請受(こひうけ)らる。義(よし) 智(とし)は行長(ゆきなが)の婿(むこ)たる故(ゆゑ)荷担(かだん)の意(こゝろ)ありけるにや。遂(つひ)に京都(きやうと)の道(みち)をもしら ぬ剰(あまつさ)へ言葉(ことは)はどもりて。其言語(そのげんぎよ)さへたしかならぬ男(おとこ)をつかはす。其名(そのな)をば 徳右エ門(とくゑもん)とぞ呼(よび)ける。中流(ちうりう)に舟(ふね)を失(うしなひ)ば一 瓠(こ)も千金(せんきん)の価(あたひ)あるたとへにて。この 徳右衛門(とくゑもん)も通事(つうじ)なきにはまさるべしとて。此者(このもの)を先(さき)に立(たて)て朝鮮(てうせん)の王(わう) 城(じやう)さしてぞ駒(こま)を早(はや)めける。    王城(わうじやう)途中(とちう)郡県(ぐんけん)を陥(おとしい)る事(こと) 既(すて)に日本の諸将(しよしやう)二手(ふたて)にわかつて王城(わうしやう)に責(せめ)入る家々(いへ〳〵)の旗(はた)馬印(うましるし)大 旆(まとひ)に旆(まとひ) 雲(くも)とともにひるがへり鉄砲(てつはう)のひゞきは雷声(らいせい)なりに相 聞(きこ)ゆ日本 勢(せい)の過(すぐ)る ところは或(あるひ)は十里 或(あるい)は五六十 里(り)を見立(みたて)。その險岨(けんそ)に拠(より)順(したがつ)て陣営(ぢんえい)を かまへ。壕(ほり)に柵(さく)をふりまはし兵(へい)をとゞめて番兵(ばんぺい)を入 置(おき)ぬ。その取得(とうへ)【ママ】たる 土地(とち)の通路(つうろ)を敵(てき)より奪(うば)ひ隔(へだ)てられしがためなり。清正(きよまさ)の一手の過(すぐ)る ところ金山(きんざん)といへるは。要害(やうがい)堅固(けんご)の所(ところ)とて城郭(じやうくわく)を築(きつき)て。加藤与左衛(かとうよざへ) 門といふ者。其兵(そのへい)三千その外(ほか)組頭(くみかしら)三人相そへ。彼是(かれこれ)五千の人 数(ず)を籠置(こめおき) その他(た)の諸将(しよしやう)もおの〳〵すぎ来(きた)るところ〳〵に番(ばん)手の兵(へい)をとゞめおかずといふ ことなし。夜(よ)にもなれば火(ひ)を挙(あげ)て無為(ぶい)なることをしめす或(あるい)は事(こと)あらば寛(くわん) 急(きふ)によつて。約束(やくそく)の数(かず)を分(わか)ちて事(こと)を弁(わきま)ふ。是(これ)ぞ軍法(ぐんはう)に号(がう)する相 図(づ)の 火飛脚(ひびきやく)かゞりと云(いふ)ことなり。すでに主計頭(かずへのかみ)が人 数(ず)の先手(さきて)より龍津(りうしん)の南(みなみ) 岸(きし)に着(つき)たりけり。此(この)要害(やうがい)を固(かた)めたる朝鮮(てうせん)の大 将(しやう)は江原道(こうけんたい)の助防将(ぢよばうしやう)元豪(けんがう) といふ者(もの)なるが。纔(わづか)に数百(すひやく)の人数(にんず)をもつて此所(このところ)を守(まも)りけるまことに敵(てき)の大 軍(ぐん) には対(たい)すべき人数(にんず)にはあらねども。偏(ひとへ)に龍津(りうしん)の要害(やうがい)を頼(たの)むばかりの 意(こゝろ)なり。元豪(げんがう)こゝに謀(はかりこと)を設(まう)け津口(しんこう)の舟(ふね)とも。一 隻(そう)ものこらず近里(きんり)水村(すいそん) を借集(かりあつ)め。凡(すべ)て舟(ふね)を北岸(ほくがん)にあつめたるは。敵(てき)にたやすく津(しん)を渡(わたら)せま じきの謀計(ぼうけい)なりまた多(おほ)く人 数(ず)の備(そな)ひたる体(てい)を見せ。敵(てき)の気(き)を奪(うばわ) んとや思(おも)ひけん。藁(わら)にて多(おほ)く人 形(ぎやう)を作(つく)らせ甲冑(かつちう)を着(き)せ。弓(ゆみ)をもたせ矢(や)を はげさせ。或は多(おほ)く旌旗(せいき)を指(さ)し上(あ)げ。木の梢(こすへ)尾梁(おくりやう)の陰(かけ)より所々(ところ〳〵)に是(これ) をひるがへすは。まことに多勢(たせい)の有(あり)さまなり。主計頭(かずへのかみ)が先(さき)手の兵(へい)此(この)有様(ありさま) を遥(はるか)に見て大に驚(おどろ)きまた此津(このしん)を越(こえ)て行(ゆ▢)【「く」ヵ】へき舟(ふね)一 隻(さう)もあらざるゆへ。いかゞ すべきとおもひ飽(あぐ)んで。清正(きよまさ)の旗本(はたもと)へ使番(つかひばん)をはしらせ先手(さきて)の諸隊(しよそなひ)は先高(まつこう) 明(めい)の所(ところ)に陣(ぢん)をとりて清正(きよまさ)の来(きた)れるを待居(まちい)たり  一 説(せつ)に小西行長(こにしゆきなか)口 論(ろん)の意趣(いし)をふくむが故(ゆへ)木戸作左衛(きどさくざへ)門 日比左近(ひびさこん)  右衛門(へもん)が等(ともがら)を密(ひそか) ̄ニ【蜜は誤】清正(きよまさ)より先(さき)へ廻(まは)し舟(ふね)尽(こと〳〵)く纜(ともづな)を切(きつ)て流(なが)  すといふまた一 説(せつ)には此所(このところ)の防将(ばうしやう)元豪(げんごう)は胸(むね)に甲兵(かうへい)の機(き)ある者 故(ゆへ)この  所(ところ)を防(ふせ)がんために。南(みなみ)の岸(きし)近辺(きんへん)の船(ふね)ども駆払(かりはら)つて北岸(ほくがん)に引付(ひきつけ)たると有  何(いづ)れが是(ぜ)なるか。諸記(しよき)おの〳〵一 決(けつ)なし。されど凡(およ)そ敵(てき)を防(ふせ)ぐへき用(よう)  心(しん)には舟(ふね)を焼(や)き。野(の)を清(きよら)す此(これ)らは兵(へい)の常談(じやうだん)たれば則(すなは)ち本文にあら  はしぬ後観(こうくわん)の者の校正(かうせい)をまつ    加藤清正(かとうきよまさ)龍津(りうしん)を越(こゆ)る事(こと) すでに清正(きよまさ)の旗(はた)本 程(ほど)なくたう着(ちやく)すれば。清正(きよまさ)近習(きんしゆ)手廻(てまわ)りの人 数(ず)少々(しよふ〳〵) 召(めし)ぐし自(みづか)ら物見(ものみ)に出(いで)られ川の体(てい)を臨(のぞま)るゝに夥(おひたゞ)しき有さまや其 面(おもて) 凡(およそ)十四五町にあまりて。川 幅(はゞ)広(ひろ)きが碧流白浪(へきりうはくらう)を漲(みなぎ)らし湍(せ)の音(おと)の高(たか)き ことどう〳〵聒々(くわつ〳〵)と鳴(な)り。人(ひと)の耳(みゝ)を驚(おどろか)す底(そこ)深(ふか)ふして石(いし)を泳(たゞよは)すは たとへ舟(ふね)ありとも渡(わたり)やすからず北(きた)の岸(きし)には数(す)千 艘(そう)の舟(ふね)とも大小(だいしよふ)ひつしと ならべ纜(つない)で。川端(かはばた)に臨(のぞ)んで敵渡(てきわた)らば防(ふせ)ぎ矢(や)射(いる)べき料(れう)と見へ。其(その)かず しらぬ軍兵(ぐんぴやう)ども冑(かぶと)の星(ほし)をかゞやかし。弓(ゆみ)に矢(や)をさし加(くは)へて扣(ひか)へたりその間(あひだ) に旌(せ)いきはまた白雲(はくうん)と色(いろ)を競(あらそ)ひ。川 風(かせ)に翩翻(へんほん)したるはまことに王城(わうしやう)の 堅固(かため)一防(ひとふせ)ぎなすべき処(ところ)とぞ見(み)えたりける。清正(きよまさ)はじめ此道(このみち)に向(むか)へること 近(ちか)きをもつて意(こゝろ)とし。半日(はんにち)なりとも王城(わうじやう)を人(ひと)より先(さき)に乗取(のつとる)べき量見(りやうけん) なるに。おもひの外(ほか)の行路(こうろ)の難(なん)にてすゝみがたきゆゑに大(おほい)にその意(こゝろ)せはしく なり先手(さきて)の兵(へい)に下知(げぢ)して近辺(きんへん)の在家(ざいけ)に込入(こみいり)。民家(みんか)をこぼち宦舎(くわんしや)を 破(やふ)り。材木(ざいもく)葺茅(ふきかや)をあつめからげて大筏(おほいかだ)に組(くま)せ天晴(あつはれ)早(はや)き渡(わた)りの具(く)と我(われ) 先(さき)にと打乗(うちの)り中流(ちうりう)に漕出(こぎいだ)すところに。おもひの外(ほか)に水勢(みつせい)つよくしていまだ半(なかは) ばも渡(わた)らざるに。尽々(こと〳〵)く水(みつ)のために押(おし)きられ一ツの筏(いかだ)に乗(のつ)たる兵士(へいし)数十人(すじふにん) 河伯(かはく)の厨(くりや)を富(とま)しけるは是非(ぜひ)なかりける事(こと)どもなり。已(すで)に敵(てき)の筏(いかだ)にて渡(わた) りをなすと見(み)るより北岸(ほくがん)より射出(ゐいだ)す矢(や)はさながら雨(あめ)より猶(なほ)繁(しけ)ければ とても漫(みだ)りに渡(わた)りをなすこと叶(かな)ふべからずと。残(のこ)れる筏(いかだ)を引(ひき)かへし其日(そのひ) はこゝにむなしき日(ひ)をぞ費(ついや)しける。かゝる処(ところ)に江原道(こうけんたい)の巡察使(しゆんさつし)より。羽(う) 檄(げき)を飛(とば)せ元豪(げんがう)を促(うなが)し。すでに王城(わうじやう)も虚城(くうじやう)となるとても叶(かな)ふべからざるの 防(ふせ)ぎなり。早(はや)く本道(ほんだう)にかへるべしと云(いひ)たるにぞ元豪(けんごう)も。その夜(よ)ひそかに河(か) 辺(へん)を去(さ)つて本道(ほんだう)にかへりける。偖(さて)も加藤清正(かとうきよまさ)はよしなきところに押(おし)とゞめ られ。いたつらに数日(すじつ)をおくり其意(そのこゝろ)の急速(きふそく)なる憤怒(ふんど)。しきりに止(や)むべから ず終宵(よもすから)【𫕟は誤】是(これ)をおもひなやむが故(ゆゑ)に。潛(ひそか)に河上(かじやう)の体(てい)をうかゞふに炬火(かゝりび)の光(ひか)り 立消(たちきえ)て。深行(ふけゆく)まゝに影(かげ)黒(くろ)く夜(よ)はほの〳〵と明(あけ)にけり。清正(きよまさ)これを遥(はるか)に見(み)如何(いか) さまにも敵陣(てきぢん)に変(へん)ありて。守(まも)りを引払(ひきはら)ひたるにやあるらんと意(こゝろ)づき。再(ふたゝ) び近従(きんじゆ)の士(し)を召具(めしぐ)し。水辺(すゐへん)に立出(たちいで)北岸(ほくがん)のやうを察(さつ)するに。河霧(かはぎり)の晴間(はれま) を見(み)れば守(まも)りの兵陣(へいぢん)をつらね。旌旗(せいき)の影(かげ)さながらもとの如(こと)くなるに。不思議(ふしぎ) や河瀬(かはせ)に集(あつま)る鴨鳬(あふふ)の類(るい)。南岸(なんがん)に向(むか)ふは一ツもなく。さしもに多(おほ)き守兵(しゆへい)共(ども) の弓矢(ゆみや)をとつて水浜(すゐひん)に臨(のぞ)めるを。すこしもおどろく景色(けしき)なく。北岸(ほくがん)に近(ちか) よつて游(およ)ぎ泳(くゞ)れるを見(み)て。清正(きよまさ)も直茂(なをしげ)もいよ〳〵あやしみながら渡(わた)り なければ。如何(いか)んともすべきやうなきところに。紀伊国(きいのくに)の住人(しゆうにん)貴志佐助(きしさすけ)と 云(いふ)もの進(すゝ)み出(いで)。某(それがし)游(およ)ぎて敵(てき)の動静(やうす)をうかゞひ参(まゐ)り候はんといふ。清正(きよまさ)歓(よろこ) びとく〳〵と申されければ。貴志(きし)は鎧(よろひ)をぬぎて川(かは)へ飛入(とびいり)游(およ)ぎけるに。水勢(すゐせい) つよくして息切(いききれ)ておしながされ。浮(うき)ぬしづみぬ見へけるが三町ほど下(しも)へ 流(なが)れつき。半死半生(はんしはんしやう)にして此方(こなた)の岸(きし)へもどりける。清正(きよまさ)身(み)をもんで怒(いか)り けれど詮方(せんかた)なし。其時(そのとき)越中国(えつちうのくに)となみの住人(ちゆうにん)曽根平兵衛(そねへいべゑ)が嫡子(ちやくし)にて 生年(しやうねん)拾(じふ)八 才(さい)なる。孫六(まごろく)といへる者(もの)進(すゝ)み出(いで)云(いふ)やう。某(それがし)およぎて渡(わた)し申 さん。本国(ほんごく)砥並川(となみがは)は是(これ)より水勢(みづせい)つよく候 得(え)ども。幼年(えうねん)の時(とき)より游(およ)き越(こし) 【右丁】 主計頭(かずへのかみ)   清正龍津(きよまさりうしん)を     渡(わた)る 【左丁 絵画のみ】 候 古主(こしゆう)川田豊前守(かはたぶぜんのかみ)は上杉景勝(うえすぎかげかつ)【杦は異体字】の家老(からう)にて。越後(えちご)春日山(かすがやま)へ折々(をり〳〵)参(まゐ)り 申候 時(とき)。某(それがし)十三の時(とき)より従(したが)ひ参(まゐ)り。越中(えつちう)。越後(えちご)のさかい川(かは)。山姥(やまうば)の出(いで)たる姫(ひめ) はや川(かは)。四拾八 瀬(せ)なども游(およ)ぎこし候 得(え)ば。これほどの川。越後(えちご)にては溝(みぞ)も 同(どう)やうなりと。鎧(よろひ)をぬぎ捨(すて)下帯(したおび)計(ばかり)に太刀(たち)を背(せ)におひ。川(かは)へ飛入(とびいり)逆巻水(さかまくみづ) を事(こと)ともせず。一 文字(もんじ)に向(むか)ふの岸(きし)に游(およ)ぎつき。大(おほい)なる家(いへ)に走(はし)り入(いり)て見(み)れば。 人(ひと)一人もなければ捨置(すておき)たる飯(めし)などを。おもひのまゝに食(しよく)し小船(こふね)一艘(いつそう)に打(うち) 乗(のり)。此方(こなた)の岸(きし)へ漕(こぎ)もどしければ。清正(きよまさ)大(おほい)に歓(よろこ)び是(これ)見(み)よや人々(ひと〳〵)。上杉家中(うへすきかちう) の武勇(ぶゆう)のたしなみ。その心(こゝろ)がけの深(ふか)き事(こと)よとて。即座(そくざ)に五百 石(こく)の墨附(すみつき) に肩白(かたしろ)の具足(ぐそく)兜(かふと)一 縮(しゆく)に。名(な)ぎりといへる名馬(めいば)に青貝(あをかひ)の鞍(くら)おいて。孫(まご)六に与(あた) へける。扨(さて)かの小船(こぶね)に数人(すにん)打乗(うちのり)向(むか)ふへ渡(わた)り。数(す)十 艘(そう)の船(ふね)を取来(とりきた)つて一万 余(よ)の勢(せい)を渡(わた)しければ。鍋島(なべしま)相良(さがら)の人々(ひと〴〵)もつゞいて川(かは)を渡(わた)しける。此時(このとき)加藤(かとう) 家(け)名代(なだい)の勇士(ゆうし)。木村又蔵(きむらまたぞう)進(すゝ)み出(いで)。某(それがし)敵地(てきち)のやうす物見(ものみ)仕(つかま)つらんと。黒毛(くろけ) の馬(うま)に打(うち)またかり。真一文字(まいちもんじ)に乗出(のりいだ)し。しばらくして馳戻(はせもと)りて云(いふ)やう。都(みやこ)は 最早(もはや)間(ま)ちかく候。数万軒(すまんけん)の家々(いへ〳〵)相見(あいみ)へ其中(そのうち)王城(わうじやう)とおぼしき所(ところ)は。少(すこ)し 高(たか)くして煙(けふり)見(み)へ候。丑寅(うしとら)の方(かた)の山(やま)には小西殿(こにしとの)の御 ̄ン旗(はた)おひたゞしく見え候と云(いひ) ければ。清正(きよまさ)大(おほい)に歓(よろこ)び先手(さきて)の者共(ものとも)急(いそ)げ〳〵と。自(みづか)らも母衣(ほろ)の者(もの)阿波伊兵(あはいへ)エ(ゑ) 島川九平衛(しまかはくへゑ)祐筆(ゆうひつ)の下川兵太夫(しもかわへいたいふ)を召具(めしぐ)し。案内(あんない)には木村又蔵(きむらまたぞう)を 先(さき)に立(たて)小西(こにし)に先(さき)をせられぬ内(うち)と。もみにもんで馳(はせ)たりける 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之六《割書:終》 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之七      目録  一 小西行長(こにしゆきなが)朝鮮(てうせん)の都城(とじやう)に入(い)る事(こと)  一 加藤清正(かとうきよまさ)都(みやこ)へ入(い)る事(こと)  一 朝鮮王(てうせんわう)所々(しよ〳〵)艱難(かんなん)の事(こと)  一 朝鮮王(てうせんわう)平壌(へくしやく)に入(い)る事(こと)  一 戸川花房(とがははなぶさ)白光彦(はくくわうげん)李時禮(りじれい)を討事(うつこと)  一 黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)武勇(ぶゆう)の事(こと)  一 清正(きよまさ)王子(わうじ)を追(おひ)かくる事(こと)  一 清正(きよまさ)克諴(こくかん)が軍(ぐん)を戦(たゝか)ひやぶる事(こと)  一 清正(きよまさ)王子(わうじ)を執(とら)へ情(なさけ)ある事(こと) 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之七   小西行長(こにしゆきなが)朝鮮(てうせん)の都城(とじやう)に入(い)る事(こと) 爰(こゝ)に朝鮮王城(てうせんわうじやう)の都元帥(とげんすゐ)金命元(きんめいけん)は。濟川亭(せいせんてい)といふ所(ところ)に人数(にんず)を揃(そろ)へて。日本(につほん) 勢(せい)を防(ふせ)がんと待居(まちゐ)たるに。日本(につぽん)の兵(へい)すでに間近(まちか)く寄来(よせきた)ると聞(きゝ)しかば。敢(あへ) て合戦(かつせん)すべき志(こゝろ)もむなしくなり。悉(こと〳〵)く軍器(ぐんき)火炮(くわばう)弓矢(ゆみや)まで江(え)の中(なか)に没溺(ぼつでき)せ しめて。其身(そのみ)は衣服(いふく)をかへて行衛(ゆくえ)もしらず逃(のが)れ行(ゆく)を。其(その)下司(したつかさ)なる従事官(じふじくわん)の 沈友正(ちんいうせい)一人のみ。是(これ)が下知(げぢ)にしたがはず猶(なほ)も城中(じやうちう)に回(かへ)り入(い)り。守城(しゆじやう)の大将(たいしやう)李陽(りやう) 元(げん)にしたがつて寄来(よせきた)る。倭賊(わぞく)を防(ふせが)んとしたりしに李陽元(りやうげん)もすでに。漢江(かんこう)の手(て)の 防守(ぼうしゆ)も其軍(そのぐん)自(みづか)ら散(さん)じ潰(つい)へぬと聞(きく)より。此城(このしろ)の守(まも)るべからざること察(さつ)し 是(これ)も同(おな)じく城(しろ)を出(いで)て揚州(やうしう)さして落行(おちゆき)ける。かくて行長(ゆきなが)が兵士(へいし)ども王城(わうじやう)に到(いた) り着(つい)て。いかさまにも手痛(ていた)き一 戦(せん)もあるべきかと各々(おの〳〵)高名(かうみやう)を意(こゝろ)がけ我(われ) 先(さき)にと攻寄(せめよせ)る。実(まこと)に他(た)の府城(ふじやう)とは事(こと)かはつて。関門(くわんもん)牢(かた)く鎖(とざ)し石垣(いしがき)高(たか) く聳(そび)へたり。門(もん)の高(たか)さは十 餘丈(よじやう)敢(あへ)てたやすく攀登(よぢのぼ)るべきやうもなし。 行長(ゆきなが)も門外(もんくわい)に暫(しばら)く馬(うま)をひかへて仰(おほ)き見(み)るのみなれば。諸備(しよそなひ)ともに馬蹄(ばてい) をとゞめて。大将(たいしやう)の下知(げぢ)を待(まつ)ところに案内(あんない)のために。召捕(めしとり)し生口(いけどり)の申す やう。なか〳〵此門(このもん)より入(いら)せ給はん事(こと)。関(くわん)ひらかずしては叶(かな)ふべからず。此門(このもん) より東(ひかし)に当(あた)りて水門(すゐもん)あり。其(その)広(ひろ)さ方五尺(はうごしやく)鉄(てつ)の透(すか)し有(あり)これを推切(おしきつ)て 入給はゞ。たやすく御人数(ごにんず)入(いる)べしと教(おし)へければ。行長(ゆきなが)大(おほい)に歓(よろこ)びこれぞ屈竟(くつきやう) の入場(いりば)なれ。さらば其(その)水門(すいもん)を打(うち)やぶれと云(い)へども。人夫共(にんぶども)はいまだ馳(はせ)つかず大(おほ) 槌(つち)なんども折(をり)ふしなかりしを。木戸作右衛門(きどさくゑもん)が才覚(さいかく)にて足軽(あしがる)に下知(げぢ)を加(くわ) へ。鉄砲(てつはう)の台(たい)ともを脱(はづ)させ其筒(そのつゝ)をよき手子棒(てこぼう)となし。大勢(おほせい)門扇(とまへ)に立並(たちなら)び 一 声(せい)に。ゑいといふて推(おし)はなせばさしも丈夫(ぢやうぶ)に構(かま)へたる水門(すゐもん)なりといへとも。一 同(どう)に ぐはら〳〵とこぢ放(はな)ちけるは。いさましくこそ見(み)えたりける。其勢(そのいきほ)ひを抜(ぬか)さず 行長(ゆきなが)馬上(ばしやう)に下知(げぢ)を加(くわ)へ。真先(まつさき)に乗(のり)こめば諸備(しよそない)たれが残(のこ)るべき。我先(われさき)に高名(かうみやう)せん と撃入(うちいり)ける。おもひの外(ほか)矢(や)一 筋(すち)だに射出(ゐいだ)す者(もの)なきのみか。さしもに広(ひろ)き王城(わうじやう)に人(ひと) といふもの隻字(せきし)もなし。人々(ひと〳〵)不審(ふしん)をなし事(こと)のやうすを尋(たづ)ねるに。朝鮮王(てうせんわう) を始(はじ)め諸臣(しよしん)百 姓(しやう)に至(いた)るまで。三日 以前(いせん)に西(にし)の方(かた)へ落行(おちゆき)しと聞定(きゝさだ)め。行長(ゆきなが)は 先(まづ)軍中(くんちう)に法令(はうれい)を出(いだ)し。第一(だいゝち)に軍隊列(くんたいれつ)を混(みだ)して王宮(わうきう)に入(いる)べからず。濫(みだり)に民家(みんか) に込入(こみいつ)て宝器(はうき)金銀(きん〴〵)を取(とる)べからず。酒家(しゆか)に入(いり)かたく是(これ)を飲食(ゐんしよく)すべからず。婦(ふ) 女(ぢよ)を侵(おか)すことなかれと。大目(たいもく)を定(さだ)めて列(れつ)をとゝのへ衆(しゆう)を警(いまし)め。偖(さて)その後(のち)に 手分(てわけ)をなし。遍(あまね)く王城(わうじやう)の内外(ないぐわい)まで尽(こと〳〵)く捜(さぐ)りもとむるに今(いま)は敵(てき)一人も なきに極(きは)まり宮中(きうちう)までを清(きよ)く吟味(ぎんみ)し。其後(そのゝち)の者(もの)どもを四方(しはう)の門々(もん〳〵) に分(わか)ち。きびしく是(これ)を守(まも)らせ後陣(ごぢん)の兵将(へいしやう)を待居(まちゐ)たるは。実(まこと)に勇々(ゆゝ)しき 有(あり)さまなり    加藤清正(かとうきよまさ)都(みやこ)へ入(い)る事(こと) 扨(さて)また加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)は。此度(このたび)は人(ひと)より先(さき)に王城(わうじやう)を乗入(のりい)らんと。兵士(へいし)を 急(いそ)がせ馳(はせ)たりければ。漸(やうや)く王城(わうしやう)にも著(つき)ければ清正(きよまさ)が先手(さきて)。城門(じやうもん)を押(おし)ひらい て入(い)らんとす。此時(このとき)小西(こにし)が兵(へい)門内(もんない)より云(いひ)けるは。当城(たうじやう)は小西行長(こにしゆきなが)昨日(さくじつ)入来(いりきた) り我等(われら)に申 付(つけ)四門(しもん)を堅固(けんご)に相守(あひまも)りて。他(た)の人(ひと)をば禁(きん)ずべし。若(もし)諸大将(しよだいしやう) よりの御 通路([つ]うろ)ならば五三人に涯(かぎ)るべし其外(そのほか)は内(うち)へ入 候事 無用(むよう)と大将(たいしやう)より の下知(げじ)に候 得(え)ばゑこそ通(とほ)し申まじ御用(ごよう)あらば五三人は御入(おんいり)あれといふ清正(きよまさ) が母衣(ほろ)の者(もの)阿波伊兵衛(あはいへい)島川九平衛(しまかはくへい)といへる者(もの)早々(さう〳〵)本陣(ほんぢん)に立(たち)かへりて 清正(きよまさ)にかくと告(つぐ)る。清正(きよまさ)大(おふい)に憤怒(ふんど)して口惜(くちおし)や今度(このたび)も小西(こにし)にまた先(さき)をせ られたりぬよし〳〵今は人の乗取(のりとり)たる城(しろ)に入たるとて何(なに)の益(えき)かあらんと 先(まつ)城外(じやう▢▢)に軍(ぐん)を休息(きうそく)せしめ。家臣(かしん)どもを集(あつ)め評諚(ひやうき)しけるは。我志(わがこゝろざ)し先駆(さきかけ) して都(みやこ)に入(い)らんとおもひばこそ。秀吉公(ひでよしこう)の制法(せいはう)を我儘(わかまゝ)に云破(いゝやぶ)りたれ我(われ)不仕(ふし) 合(あはせ)に出合(いであい)て大川(おゝかわ)に隔(へだて)られよしなき隙(ひま)をとり行長(ゆきなが)に又(また)此度(このたび)もおくれを 取(と)る事([こ]と)。我(わが)欝憤(うつぷん)大方(おふかた)ならず口惜(くちおしく)おもふところなり。何(なに)をもつて是(これ)を晴(はら) さん。我(われ)こゝに思案(しあん)するに国王(こくわう)ならびに王子(おうし)の。落行(おちゆき)たる後(あと)を追(おひ)かけ行(ゆき) 押詰(おしつめ)て擒(とりこ)にせんこと安(やす)からん併(しかし)ながら事(こと)明日(めうにち)におよんでは其路(そのみち)はるかに隔(へだゝ) りて。追(おひ)つかんこと叶(かな)ふべからずせんずるところ。今夜(こんや)亥(い)のこく速(すみやか)に我兵(わがへい)を進(すゝ)めん ずるぞ各々(みな〳〵)其覚悟(そのかくご)をなすべしと云(いひ)ければ家(いへ)の軍(ぐん)兵 尽(こと〳〵)く馬(うま)に草飼(くさかい)兵(ひやう) 粮(らう)をつかふて。急(きふ)に其 支度(したく)をとゝのひける。しばらくあつて清正(きよまさ)は庄林隼人(▢▢▢ばやしはいと) 助(すけ)を召(めし)て密(ひそか)に云(いふ)やう。最早(もはや)手の者(もの)どもは兵粮(ひやうらう)をつかひたるや馬(うま)の腹(はら)を ばやしなひたるか。庄林(しやうはやし)答(こたへ)て御意(ぎよい)のおもむき亥(い)の刻(こく)とは承(うけたまは)れど疾(すて)に飼(かい) 足(あし)のかためまて。総(そう)人 数(ず)調(とゝの)ひ申(もふ)すといふに鍋島(なべしま)にも云合(いひあは)せず。清(きよ)正一手の人 数(ず)をもつて汗馬(かんば)に鞭(むち)を加(くは)へて追行(おひゆき)けるが爰(こゝ)に幸(さいわひ)なることありて折(おり)ふし 一人の朝鮮通事(てうせんつうじ)をとらへ得(え)たりける。其名(そのな)をは倭学通事(わがくつうじ)咸廷虎(かんていこ) といふ者(もの)なり。是(これ)がことを知(し)るの委曲(つぶさ)なること。徳(とく)右衛門が類(たく)ひにあら ねばその姓名(せいめい)をたづぬるに某(それがし)は元(もと)日本(につほん)の産(さん)にて姓(せい)は後藤(ごとう)と申候 得(え)とも偽(いつは) りて彼(かれ)にしたしみ命(いのち)を助(たすか)り候と申ける清正(きよまさ)大(おほい)によろこびすなはち名(な)を後藤(ことう) 二郎と改(あらた)め。諸事(しよじ)の通詞(つうじ)の手引(てびき)とはなしたりける。かくて日本(につほん)の諸将(しよしやう)は おひ〳〵王城(わうじやう)へ打入(うちいり)評議(ひやうぎ)しけるに。清正(きよまさ)のみ国王(こくわう)王子(わうじ)を追(おひ)かけ行(ゆき)しよしを 聞(きい)て。彼(かれ)が先立(さきたて)るを打捨(うちすて)置(おか)ば彼軍(かのぐん)敵中(てきちう)深(ふか)く入(いつ)て。若(もし)不時(ふじ)の難事(なんじ)出来(いでき)なば 却(かへ)つて味方(みかた)の落度(おちど)たるべきと。中(なか)にも鍋島直茂(なべしまなほしげ)は清正(きよまさ)が相備(あひそなひ)たるによつ て。急(きふ)につゞいて馬(うま)を急(いそ)がせ跡(あと)をしたふて馳(はせ)たりける。小西行長(こにしゆきなが)は元(もと)より一 方(はう)の前手(さきて)たるによつて。朝鮮王(てうせんわう)の落行方(おちゆくかた)を聞定(きゝさだ)め平安道(へいあんたい)へおもむきける。 其余(そのよ)の大名(たいみやう)黒田(くろた)小早川(こはやかは)が手(て)の軍平(ぐんひやう)ども。おもひ〳〵に打立(うちたつ)て押行(おしゆき)しは。 夥(おひたゞ)しき兵(へい)の形勢(ありさま)なり。 【右丁】 小西行長(こにしゆきなが)  王城(わうじやう)に入(いる) 【左丁 絵画のみ】    朝鮮王(てうせんわう)処々(しよ〳〵)艱難(かんなん)の事(こと) 朝鮮王(てうせんわう)李㫟(りえん)はすでに都城(とじやう)を没落(ぼつらく)まし〳〵。王子達(わうじたち)をば道(みち)をかへて落(おと)し 給へて後(のち)。御 ̄ン駕(ば)を急(いそ)がせ給ふといへども。猶(なほ)降来(ふりきた)る雨(あめ)のやまされば道(みち)のほども はか〴〵しくなければ。左右(さいふ)に供奉(ぐぶ)したる官人(くわんにん)ども助(たす)けかゝへて。恵陰嶺(けいいんれい)を過(すぐ) る時(とき)は。其日(そのひ)もすでに未(ひつじ)の刻(こく)ばかりになりにけり。雨(あめ)は猶(なほ)はげしうして注(そゝ)ぐが 如(ごと)くなりしかば。宮人達(きうじんたち)はやう〳〵に田家(でんか)の馬(うま)を求(もと)め乗(の)せたれども。雨(あめ)の降来(ふりきた) るを凌(しの)ぐべきやうなき故(ゆゑ)。手に手に種々(しゆ〳〵)のものを以(もつ)て面(おもて)を蒙(おほ)ふて。まことに雨(あめ) にそぼぬれたるは浅間(あさま)しき有(あり)さまなり。馬山駅(はさんえき)を過(すぐ)るときは田間(でんかん)に民(たみ) ども多(おほ)く出(いで)て臨(のぞ)み痛哭(つうこく)し。国家(こくか)今(いま)我輩(わがともがら)を打捨(うちすて)て何方(いづかた)へか去(さ)り給ふ。 我輩(わがともがら)今(いま)より何(なに)をたのんでか。此(この)生涯(しやうがい)を立(たつ)べきぞと号(さけ)び呼(よば)ふ。そのあはれ云(いわ) んかたなし臨津(りんしん)といふ渡(わた)りに至(いた)り給へども。雨(あめ)はしきりに強(つよ)くなり。李㫟(りえん)は これより船(ふね)に召(めさ)され。首将軍(しゆしやうくん)柳左相成龍(しりうさしやうせいりう)なんども舟中(しうちう)に侍(はべ)りける。既(すで)に渡(わた)りを 過(すぐ)る時(とき)は其日(そのひ)も暮(くれ)にかゝつて。物(もの)の色(いろ)をも弁(わきま)へず臨津(りんしん)の南(みなみ)の岸(きし)には王朝(わうてう)より。 兼(かね)てたてかまへたる役所(やくしよ)のありしを。賊兵(ぞくへい)の後(あと)より追(おひ)かけ来(きた)り材木(ざいもく)を取(と)り はなし。桴筏(いかだ)なんどに組(くま)れては悪(あし)かりなんと恐(おそ)るれば。李㫟(りえん)は左右(さいふ)に命(めい)じ火(ひ) を放(はな)ち。尽々(こと〳〵)く焼(やき)はらひ給ふ其(その)火光(くわくわう)江北(こうほく)まで照(てら)しゝかば。なか〳〵今(いま)のためにし ては明松(たいまつ)の光(ひか)りとなつて。落行(おちゆく)路(みち)のまどひもなく其夜(そのよ)の初更(しよこう)ばかりには。稍(やうや) く東坡駅(とうはえき)といふ処(ところ)に著(つき)給ふ。坡州(はしう)の牧師(ぼくし)許晋(きよしん)長湍府使(ちやうたんふし)具孝淵(くかうえん)等(ら)相(あひ) 集(あつま)り。かたの如(ごと)くに御《割書:ン|》厨(くりや)の設(まうけ)をまかなひ御膳(ごぜん)を調進(ちやうしん)したりしに。警衛(けいえい)扈従(こしやう) の御《割書:ン|》供(とも)の上下(じやうげ)。終日(しふじつ)食物(しよくもく)をばはか〴〵しくしたゝめねば。甚(はなは)だ以(もつ)て飢(うゑ)たるゆゑ厨(くりや) の中(うち)に乱(みだ)れ入(いり)取(と)り奪(うは)ふてこれを喰(くろ)ふほどに。殆(ほとんと)御膳(ごぜん)を闕(かゝ)んとす許晋孝淵諸(きよしんかうえんもろ) ともに。これを禁制(きんせい)しとゞむれども更(さら)に耳(みゝ)にも聞入(きゝいれ)ず。我(われ)がちに喰(くひ)けるを許(きよ) 晋(しん)孝淵(かうえん)かゝる体(てい)を見(み)るより。とても此(この)すへ頼(たの)みなしとやおもひけん。ともに 打(うち)つれ行方(ゆきがた)しらず落行(おちゆき)ける。五月八日の早朝(さうてう)には李㫟(りえん)不予(ふよ)の事(こと)ありて。一日 此所(このところ)に逗留(たうりう)あり日暮(ひくれ)て開城(かせん)に発向(はつかう)あらんとするに。京畿(けいき)の吏卒(りそつ)尽(こと〳〵)く逃(のが) れ散(さん)じて。御《割書:ン|》供(とも)に警衛(けいえい)たるべき武士(ぶし)なかりしかば。かくては如何(いかゞ)なすべきと。諸(しよ) 大臣(だいしん)もあきれ果(はて)たるところに。黄海(はんはい)監司(かんす)趙仁得(てうじんとく)。たま〳〵本道(ほんたう)の兵(へい)を率(ひい) てまさに京都(きやうと)の軍(ぐん)を援(たすけ)んとするに出会(いであひ)たれば。其(その)郡県(ぐんけん)に触状(ふれじやう)を廻(まは)し人(にん) 数(ず)を集(あつむ)る時(とき)。瑞興府使(ずゐこうふし)南嶷(なんき)先(ま)づ第一(だいゝち)に参(まい)りたるが。其兵(そのへい)数百人(すひやくにん)馬(うま)五六 十 疋(ひき)を引来(ひききた)りければ。此(この)人数(にんす)を警衛(けいえい)として御《割書:ン|》駕(が)をすゝむ。司鑰官(しやくくわん)崔彦(さいけん) 俊(しゆん)すゝみ出(いで)て申やう。宮中(きうちう)の嬪妃(ひんひ)昨日(さくじつ)終日(ひねもす)食(しよく)を断(た)ち。今日(こんにち)もいまだ食(しよく) をなさねば。少(すこ)し米(こめ)を得(え)て飢(うへ)を養(やしな)ふて行(こう)をなすべしといへども。いかん ともすべきやうもなきを。南嶷(なんき)が軍兵(ぐんひやう)の持(もつ)ところの粮(かて)大小の米(こめ)。わづか二 三 斗(と)ばかりのを雜(まじ)へあつめて奉(たてまつ)る。やう〳〵是(これ)をもつて宮人(きうじん)の飢(うゑ)を養(やしな)ひ。 午室招賢站(ごしつせうけんてん)と云(い)ふ処(ところ)に入(いり)し時(とき)。趙仁得(てうじんとく)も来朝(らいてう)し帳幕(ちやうまく)を路辺(ろへん)に 設(まう)けて。御《割書:ン|》駕(が)の人数(にんず)を待受(まちうけ)て饗応(きやうおう)をなしたるに。百 官(くわん)はじめて食(しよく)を 得(え)て生(いき)たる意(こゝろ)なり。此夕(このゆふべ)すでに開城府(かせんほ)に入(いら)せ給ふて。南門(なんもん)の中(うち)に御座(ござ)をすへ らる時(とき)に。諌官(かんくわん)諸司(しよし)の輩(ともがら)章状(しやうじやう)を奉(たてまつ)り。今度(このたび)倭賊(わぞく)の難(なん)あつて一防(いつばう)の功(こう)も なく。忽(たちま)ちに敗亡(はいばう)に至(いた)ること。日頃(ひごろ)に首相(しゆしやう)某(それがし)等(ら)が朝廷(てうてい)に徒党(ととう)をむすひ。平(へい) 生(ぜい)の政(まつりごと)最(もつと)もよろしからず。しかる時(とき)は首相(しゆしやう)某(それがし)をはじめ。此度(このたび)国(くに)を誤(あやま)るの 罪(つみ)を正(たゞ)し。早(はや)く是等(これら)を退(しりぞ)けらるべしと奏(そう)すれども。猶(なほ)これを許用(きよよう)なきを諫(かん) 官(くわん)御吏(きょし)の大臣(だいじん)とも。しきりに此事(このこと)を申 請(こふ)により。首相(しゆしやう)某(それがし)その官職(くわんしよく)をやめ られければ。柳左相成龍(りうさしやうせいりう)首相(しゆしやう)となり。崔興源(さいこうげん)左相(さしやう)となり尹斗寿(いんとしゆ)右相(うしやう)と なされけるところ。柳相(りうしやう)また罪(つみ)あるを以(もつ)て官(くわん)をやめられ。兪泓(ゆこう)を右相(うしやう)となし 崔興源(さいこうけん)首相(しゆしやう)にすゝみ。尹斗寿(いんとじゆ)左相(さしやう)にかはりけり。    朝鮮王(てうせんわう)平壌(へくしやく)に入事(いること) すでに五月十日には李㫟(りえん)は。其日(そのひ)の午(うま)の刻(こく)ばかりに。南城門(なんせいもん)の楼(らう)に登(のぼ)りて 人民(じんみん)を慰諭(いゆ)せらる。此日(このひ)感鏡北道(こんあんほくだう)兵使(へいし)申硈(しんきつ)も馳(はせ)まゐる。猶(なほ)今以(いまもつ)て 王城(わうじやう)へ敵兵(てきへい)の来(きた)りし沙汰(さた)なかりしかば。衆臣(しゆうしん)みな〳〵議(ぎ)して京畿(けいき)をみだ りに遷幸(せんこう)ありしこと失策(しつさく)なりと云(いふ)について。承旨官(じやうじくわん)申磼(しんさふ)はかへり至(いた)り。 京畿(けいき)のやうを窺(うかゞ)ひ。其形勢(そのありさま)を察(さつ)し見(み)よとの仰(おほせ)をうけ。馬(うま)に鞭(むち)うつて 急(いそ)きしが程(ほど)なくかへり參(まゐ)りて。奏聞(さうもん)するやう。最早(もはや)賊兵(ぞくへい)京城(けいき)に入来(いりきた)り候。 留都(りうと)の将(しやう)李陽元(りやうげん)元帥(けんすゐ)金命元(きんめいげん)。とゝもにみな走(はし)るこれによつて敵兵(てきへい)一 戦(せん) にもおよばずして。京城(けいき)へ三 道(だう)より打入(うちいつ)たり城中(しやうちう)の民(たみ)どもはみな。先立(さきたつ)て散(さん) し去(さ)るゆゑに。是(これ)又(また)幸(さいは)ひに死命(しめい)にかゝる者(もの)もなしと云(いふ)。こゝに金命元(きんめいげん)も 既(すで)に漢江(かんこう)を逃(のが)れ去(さつ)て。李㫟(りえん)のおはします所(ところ)に向(むか)ひしが。漸(やうや)く臨津(りんしん)まて 遁(のが)れ来(きた)り。爰(こゝ)より奏啓(そうけい)を奉(たてまつ)りその軍(いくさ)の状(かたち)を申 述(のべ)たりしに。重(かさ)ねて 京畿(けいき)黄海(はんはい)の兵(へい)を集(あつ)めて。臨津(りんしん)を守(まも)るべきよし命(めい)ぜらる。又(また)申硈(しんきつ)に命(めい) あつて同(おな)じく臨津(りんしん)を防(ふせ)ぎ守(まも)り。賊兵(ぞくへい)の西(にし)に下(くだ)るの道路(たうろ)をとゞめて戦(たゝか)ふ べしと。謀計(ぼうけい)を示(しめ)されたり是日(このひ)車駕(しやが)開城(かせん)を発(はつ)して。金郊駅(きんかうえき)に御《割書:ン|》駕(が)を やどし給ひ同月(どうげつ)十二日には。與義金巌(よぎきんがん)平山府(へいさんふ)なんどいへる所(ところ)を打(うち)すぎ。其(その) 日(ひ)は鳳山群(ほうさんぐん)に一 宿(しゆく)あり。夫(それ)より黄州(くわうしう)をすぎて十五日 申(さる)の刻(こく)ばかりに。中和(ちうくわ)な んどいふ所(ところ)をすぎて。平壌(へいしやく)に入(いり)給ふしばらく爰(こゝ)をおはします所(ところ)となし給ひ ける。    戸川(とがは)花房(はなふさ)白光彦(はくくわうげん)李時禮(りじれい)を討事(うつこと) かゝる処(ところ)に全羅道(せんらたい)の巡察使(しゆんさつし)。李光(りくわう)は本道(ほんだう)の兵(へい)を率(ひき)ひ。京城(けいき)に入(い)りて 援(たすけ)んとしたりし時(とき)車駕(しやが)すでに西(にし)に遷幸(せんこう)なり。京城(けいき)もはや落城(らくじやう)に及(およ) んで敵(てき)の手(て)に陥(おちい)ると聞(きこ)へしかば。是非(ぜひ)におよばず全州(せんしう)にかへる処(ところ)に。李洸(りくわう) がすでに戦(たゝか)ひをも為(なさ)ずして。州(しう)にかへるを其軍中(そのぐんちう)の兵士(へいし)憤(いきどほ)りを懐(いだい)て。不平(ふへい) をおもふ輩(ともがら)も多(おほ)かりしかば。李洸(りくわう)もまた其心(そのこゝろ)安(やす)からず。此議(このぎ)を深(ふか)く恥(はち)思(おもひ) て更(さら)に軍平(ぐんひやう)を調(とゝの)へて。忠清道(ちくしやくたい)の巡察使(しゆんさつし)尹国馨(いんこくけい)と諸(もろ)ともに。軍平(くんひやう)を一ツに合(がつ)し て進(すゝ)まんとす。慶尚道(けくしやくたい)の巡察使(しゆんさつし)金晬(きんすゐ)もまた其(その)本道(ほんだう)より。官軍(くわんぐん)数(す)十人を 率(ひ)ひて来(きた)り会(くわい)し。総軍(そうぐん)五万人の兵士(へいし)となりぬ此兵(このへい)を卒(そつ)し。北斗門(ほくともん)の山上(さんじやう) に登(のほ)りて見(み)れば。倭(わ)の軍平(ぐんひやう)を籠置(こめおき)たる小城(こしろ)のあるを見(み)すまし。勇士(ゆうし)白(はく) 光彦(くわうげん)李時禮(りじれい)といへる二人の者(もの)をつかはし。敵兵(てきへい)を甞(こゝろ)みせしむ此城(このしろ)は浮田(うきた) 秀家(ひていへ)が家臣(かしん)。戸川肥後守(とかはひごのかみ)。花房助十郎(はなぶさすけじふらう)と云者(いふもの)五六百人にて籠(こも)り居(ゐ)ける が。光彦(くわうげん)等(ら)すでに。先鋒(せんばう)を率(ひい)て山上(さんじやう)に登(のほ)つて。城壘(じやうるい)に拒(いた)り近(ちか)づくこと十余町(じふよちやう) ばかりにして。馬(うま)を乘(のり)はなち歩行立(かちだち)なつて矢(や)を発(はつ)すされども。戸川(とかは)花房(はなぶさ)与(よ) 力(りき)の者(もの)に下知(げぢ)をなし。堅(かた)く守(まも)りて音(おと)もせず静(しづ)まりかへつて出(いで)ざりけり。光(くわう) 彦(げん)等(ら)おもふやう。此城(このしろ)番手(ばんて)の小城(ごじろ)ゆゑ。城兵(じやうへい)最(もつと)も少(すく)なければおそれて出(いで)ぬ 【右丁 絵画のみ】 【左丁】 黒田長政(くろだながまさ) 朝鮮(てうせん)の大将(たいしやう) 利統制(りとうせい)を 大(おほい)にやぶる ものなりと心得(こゝろえ)たる其意(そのこゝろ)の懈(おこた)る処(ところ)を。日本勢(につほんぜい)見(み)すまし太刀(たち)の切先(きつさき)を揃(そろ)へて。二百 ばかりの兵(へい)一 度(と)にどつと切(きつ)て出(いづ)れば。光彦(くわうげん)大(おほ)いに倉皇(あはて)馬(うま)に打乗(うちの)つて走(はし)らんとすれど も叶(かな)はず既(すで)に倭兵(わへい)の近(ちか)づくを見(み)て光彦(くわうげん)時禮(じれい)日頃(ひごろ)勇士(ゆうし)の名(な)あるにや恥(はぢ)たり けん踏(ふみ)とゞまつて戦(たゝか)ひしが二人ともに敵(てき)二三人に手(て)を負(おは)せ。其身(そのみ)もこゝにて討(うた)れ けり。朝鮮(てうせん)の諸軍勢(しようぐんぜい)二人の勇士(ゆうし)敵(てき)のために。あへなく討(うた)るゝと聞(きく)より兔(と)角(かく) 和兵(わへい)は侮(あなど)りがたしと思(おも)ひけん。大(おほい)に震惧(おのゝきおそ)れける三巡察使(さんしゆんさつし)の輩(ともがら)はみな。文人(ぶんじん) にしていまだ兵事(へいじ)に閑(ならは)ぬ者(もの)どもなりければ。軍兵(ぐんひやう)は多(おほ)しといへどもその号令(ごうれい)の 一ならず。其上(そのうへ)また險岨(けんそ)によつて兵(へい)の備(そなひ)を立設(たてまう)くるすべをもしらず。みだりに 敵(てき)を侮(あなど)り春遊(しゆんゆう)の如(ごと)くなる。其兵行(そのへいかう)なんぞ破(やぶ)れざるべきや。其(その)翌日(よくじつ)に至(いた)つ て戸川(とがは)花房(はなふさ)の二人は。傍輩(はうばい)物頭(ものかしら)の面々(めん〳〵)を集(あつ)め朝鮮(てうせん)の兵卒(へいそつ)其数(そのかず)多(おほ)しと いへどもすべて諸方(しよはう)の集(あつま)り勢(ぜい)と見(み)ゆれば。烏合(うがふ)の兵(へい)其(その)志(こゝろざし)一ならすとふものか。 ことに昨日(きのふ)味方(みかた)の働(はたら)きを見(み)るに付(つけ)ては。其(その)やう察(さつ)する処(ところ)定(さだ)めて惧(おそれ)て心(こゝろ)臆(おく) せん。此方(こなた)よりかゝつて是(これ)を撃(う)ちらさんといへば。岡新之丞(おかしんのしやう)船越源左衛門(ふなこしけんさゑもん)松(まつ) 木清蔵(ぎせいざう)。なんといふ物頭(ものかしら)の面々(めん〳〵)其外(そのほか)若手(わかて)の侍(さむらひ)には。国分(こくふ)蠏原(かにはら)金田(かねた)白畠(しらはた)なん とをはじめとし鑓先(やりさき)をならべて突(つい)て出(いで)。我(われ)と思(おも)はん者(もの)あらば出(いで)て勝負(しやうふ)をなさ さるかと。おめき号(さけ)んで呼(よは)はれば朝鮮(てうせん)の軍将(くんしやう)大(おほい)に破(やふ)れくづれて。そのさけぶ声(こゑ)山を 崩(くず)すが如(こと)くなり。軍資(くんし)器械(きかい)を打捨(うちすて)たるは。足(あし)の踏処(ふむところ)もなかりけり是(これ)か為(ため) に人馬(にんば)の路(みち)塞(ふさ)がつて暫(しばら)く通路(つうろ)を遮(さへ)ぎれば。戸川(とがは)等(ら)下知(げぢ)して盡(こと〳〵)く一所(いつしよ)に集(あつ)め て焚(やき)すてたり。李洸(りくわう)は破(やふ)れて全羅(せんら)にかへれば。国馨(こくけい)は公州(こうしう)に走(はし)り。金晬(きんすい)は 慶尚(けいしやく)の右道(うだう)に引退(ひきしりぞい)て。やうやく残兵(ざんへい)をぞ聚(あつ)めける    黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)武勇(ぶゆう)の事(こと) 偖(さて)また日本(につほん)の諸将(しよしやう)は手分(てわけ)を定(さだ)めて押出(おし)いだ)す中(なか)にも小西行長(こにしゆきなか)は加藤清正(かとうきよまさ)王(わう) 城(じやう)へ入(い)らずして。国王(こくわう)王子(わうじ)を追行(おひゆき)しと聞(きゝ)しかば。心急(こゝろいそ)がれ。いかにもして清正(きよまさ)よ り先(さき)へ朝鮮王(てうせんわう)が。または王子(わうじ)を擒(とりこ)となして清正(きよまさ)に鼻(はな)あかせんと。兵士(へいし)を急(いそ)がせ 進(すゝ)み行(ゆく)。其日(そのひ)は東坡駅(とうばえき)に陣取(ちんどり)し。あくれば十一日 開城(かせん)へ発向(はつかう)せんとて小西(こにし)が先(さき) 手(て)。日比左近右衛門(ひゞさこんゑもん)。小西若狭守(こにしわかさのかみ)。二 陣(ちん)は大村新八郎(おほむらしんはちらう)。宗(そう)対馬頭(つしまのかみ)。とだん〳〵 押行(おしゆく)ところに。朝鮮(てうせん)の船大将(ふなだいしやう)利統制(りとうせい)といふ者(もの)。開城府川(かせんふかは)に待(まち)かけ居(ゐ)しが。 小西(こにし)が勢(せい)の押来(おしきた)ると聞(きゝ)て。五千 余騎(よき)を下知(げぢ)し小西(こにし)が先手(さきて)へ無二無三(むにむざん)に打(うつ) てかゝる。小西(こにし)が先勢(さきぜい)不意(ふい)を打(うた)れて色(いろ)めくところを。利統制(りとうせい)半弓(はんきう)を以(もつ)て さしつめ引(ひき)つめさん〴〵に射(ゐ)る。日比左近右衛門(ひゞさこんゑもん)小西若狭守(こにしわかさのかみ)一(ひと)さゝへもせず。射(ゐ) 立(たて)られ二 陣(ぢん)の大村(おほむら)宗(そう)が備(そな)ひになだれかゝる。宗(そう)大村(おゝむら)が勢(せい)も先陣(せんぢん)の敗(はい) 兵(へい)に引立(ひきたて)られ。三 陣(ぢん)松浦(まつら)が陣(ぢん)へ崩(ぐづ)れかゝる是(これ)も同(おな)じく味方(みかた)の勢(せい)におし立(たて) られ心(こゝろ)ならずも引退(ひきしりぞ)く。行長(ゆきなが)は味方(みかた)の崩(くつ)るゝを見(み)て兵(へい)に下知(げぢ)し南(みなみ)の 方(ほう)なる山(やま)のふもとに陣(ぢん)を取(と)り。戦(たゝ)かはんとなしたる時(とき)利統制(りとうせい)は小西(こにし)が先陣(せんぢん) を追崩(おひくづ)し。勝(かつ)に乗(の)つて追来(おひきた)る折(おり)から後陣(ごぢん)に備(そなひ)たる。黒田甲斐守(くろだかひのかみ)は 生年(しやうねん)二十四才の若武者(わかむしや)なれば。なにかはもつて猶予(ゆうよ)すべき先(さき)手に下知(げじ) して押出(おしいだ)しけるに。黒田(くろだ)が先鋒(せんばう)栗(くり)山 備後(びんご)。黒田美作(くろだみまさか)後藤又兵衛(ごとうまたべ)は 五千ばかりの兵(へい)を真丸(まんまる)になして。烈風(れつふう)の如(ごと)くに馳来(はせきた)り利統制(りとうせい)が横合(よこあい) より一 文字(もんじ)に突(つき)かゝる利統制(りとうせい)少(すこ)し引色(ひきいろ)になりたるところへ。後藤又兵衛(ごとうまたべ) 基次(もとづぐ)と名乗(なのつ)て朝鮮勢(てうせんぜい)の中(なか)へ割(わつ)て入(はり)つゞひて。村上彦右衛門義清(むらかみひこへもんよしきよ)と呼(よば) はり敵中(てきちう)へ馳入(はせいり)両勇士(りやうゆうし)四方(しはう)へ当(あた)りて戦(たゝ)かひば。此(この)二人が太刀先(たちさき)に向(むか)ふ者(もの)一人と して。命(いのち)をたもつ者(もの)なく討(うた)れければ。朝鮮勢(てうせんぜい)忽(たちま)ち崩(くづ)れて散乱(さんらん)す。利統制(りとうせい) も叶(かな)はざることを擦(さつ)し。元(もと)の陣所(ぢんしよ)へ引退(ひきしりぞ)く。此時(このとき)黒田長政(くろだなかまさ)なかりせば。 今日(こんにち)の軍(いくさ)難義(なんぎ)なるべかりしを。長政(なかまさ)利統制(りとうせい)を追退(おひしりぞ)けしは天晴(あつはれ)の働(はたら)き なり。かくて行長(ゆきなが)諸将(しよしやう)を会(くわい)して評議(ひやうぎ)なして利統制(りとうせい)を討(うつ)て後(のち)兵(へい)を進(すゝ) めんと有(あり)ける故(ゆゑ)。諸将(しよしやう)もしかるべしとて其(その)用意(ようゐ)をなしけるに。利統制(りとうせい)は其日(そのひ) 兵(へい)を引(ひい)て李㫟(りえん)のおはします。平壌(へくしやく)の地(ち)へ引退(ひきしりぞ)くゆへ平安道(へいあんたい)の路(みち)ひらけ たり。されども開城府川(かせんふかは)に大(おほい)なる番船(ばんせん)数十艘(すしつさう)有(あり)しかば先(まづ)これを攻取(せめとる)べし と有(あり)ける時(とき)。黒田長政(くろだながまさ)云(いひ)けるは今日(こんにち)の戦(たゝか)ひに。敵(てき)に一しほつけ候得ば某(それがし)が兵士(へいし)を つかはし。其(その)番船(ばんせん)を乗取(のつとる)べしとて即時(そくじ)に村上彦右衛門義清(むらかみひこゑもんよしきよ)。衣笠久右衛(きぬがさきうゑ) 門助則(もんすけのり)に命(めい)してさしむける。村上(むらかみ)衣笠(きぬがさ)の両人(りやうにん)は東西(とうざい)へ兵(へい)を出(いだ)し船(ふね)をもとめ。 または筏(いかだ)などをこしらへ翌(よく)十二日の未明(みめい)に乗出(のりいだ)し数(す)十 艘(さう)かけならべたる敵船(てきせん) の真中(まんなか)へ乗込(のりこみ)。鉄砲(てつはう)を打(うち)かけひるむところを十文字(じふもんじ)のうちかきにて。引(ひき)よせ〳〵 大船(たいせん)二 艘(さう)に乗(のり)うつり。敵兵(てきへい)あまた討取(うちとり)ければ朝鮮人(てうせんじん)大(おほい)におそれ。開城(かせん)を さして逃行(にげゆき)ける。これによつて日本勢(につほんぜい)諸軍(しよぐん)をまとめて進(すゝ)み行(ゆく)    加藤清正(かとうきよまさ)王子(わうじ)を追(おひ)かくる事(こと) 斯(かく)て加藤 主計頭清正(かずへのかみきよまさ)は。朝鮮国(てうせんこく)の王城(わうじやう)を起(た)つてより十三日の道程(だうてい)を 過(す)ぎ来(きた)り。咸鏡道(ゑあんだう)の境(さかひ)なる安辺府城(あへんふじやう)に到著(たうちやく)し。爰(こゝ)にてしばらく 人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)めける。扨(さて)また鍋島直茂(なべしまなほしげ)は江原府(こうげんふ)に打出(うちいで)て。此所(このところ)を 陥(おと)しいれ鍋島平五郎茂里(なべしまへいごらうしげさと)といへる者(もの)を。番手(ばんて)にさし置(おき)其外(そのほか)所々(しよ〳〵) に多(おほ)くの艱難(かんなん)を經過(けいくわ)し。近郡(きんぐん)の敵兵(てきへい)を追討(おひうつ)ゆゑ清正(きよまさ)に後(おく)るゝ事(こと)。已(すで) に十日におよびけるが。兵士(へいし)を急(いそ)がせ汗馬(かんば)に鞭(むち)を加(くわ)へて馳(はせ)けるほどに。五月廿 五日の午(うま)の刻(こく)ばかりに。鍋島(なべしま)が先手(さきて)清正(きよまさ)が陣所(ぢんしよ)に当着(たうちやく)す。つゞひて直茂(なほしげ) も馳着(はせつき)二人の大将 対面(たいめん)あつて。いよ〳〵両手(りやうて)の兵(へい)を以(もつ)て朝鮮王(てうせんおふ)【ママ】《割書:并》に諸(しよ) 王子(おふし)【ママ】の行(ゆく)へを探(さぐ)り求(もとめ)んと。同月廿六日 両手(りやうて)の兵将(へいしやう)を促(うなが)し。それより廿 九日の晩(くれ)ほどに。永興府(えいこうふ)といふ所(ところ)に着(つき)たりけり。是(これ)ぞ俗(ぞく)に云(いふ)永橋(なかはし)なり此(この) 処(ところ)に高札(たかふた)をかゝげ臨海君(けもかいくん)。順和君(しゆんはくん)の両(りやう)王子 此道(このみち)より行啓(こうけい)なり忠義(ちうぎ) をいだくの輩(ともから)早々(さう〳〵)人衆(にんず)を聚(あつめ)会(くわい)して供奉(ぐぶ)すべきの旨(むね)を書(しよ)し。太子(たいし)の 從臣(じふしん)金貴栄(きんきえい)が名(な)をしるす。清正(きよまさ)は此(この)高札(こうさつ)を取(とり)よせて美野辺金(みのべきん) 太夫(だいふ)といへる士(し)に。これを読(よま)せ大(おふ)に喜悦(きえつ)し両王子(りやうおふじ)はさすれば吾(われ)掌(たなごゝろ) の中(うち)に入(いり)たるものよ是(これ)より北土地(きたとち)だにつゞかは虎狼(こらう)の穴鬼(あなおに)が島(しま)まで逃(にげ)給ふ とも。遁(のが)しはせじと笑(えみ)をふくんで直茂(なほしげ)に此事(このこと)を談(だん)ぜらる。鍋島聞(なべしまきい)て云(いひ) けるは。異国(いこく)の者(もの)は謀慮(ばうりよ)をもつて。敵(てき)をやぶるを専(もつはら)といたすなれば。計(はかりごと)を もつて敵兵(てきへい)を深入(ふかいり)させ。切所(ぜつしよ)の死地(しち)に陥(おと)して伏兵(ふくへい)をかまへて。我々(われ〳〵)を打取(うちとら)ん と存(ぞんず)るかも知(し)らず。浅(あさ)はかに是等(これら)の事(こと)を誠(まこと)とし不覚(ふかく)ばし得(え)給ふなよ。 其上(そのうへ)我等(われら)が手(て)の者(もの)どもは。王城(わうじやう)を出(いづ)るより十六日の炎熱(えんねつ)を侵(おか)し来(きた)る のみならず。所々(しよ〳〵)のせり合(あひ)手(て)ひどき目(め)に出合(いてやひ)。切所(ぜつしよ)あまた越来(こえきた)れば上下(じやうけ)の草(くさ) 臥(ひれ)大(おほ)かたならず。余(あま)り不便(ふびん)の事(こと)にて候 此辺(このへん)は幸(さいわ)ひに。富饒(ふにやう)【冨は俗字】の土地(とち)にして百 姓(しやう)も肥(こへ)米大豆(こめだいづ)も沢山(たくさん)に見(み)へたれば。しばらく逗留(たうりう)せんと存(ぞん)ずるなり。貴(き) 方(はう)も我等(われら)が申(もふ)すところを承引(しやういん)あられ。都(みやこ)へ此趣(このおもむき)早々(さう〳〵)注進(ちゆうしん)の後(のち)次第(しだい)により 【右丁】 両兵(りやうへい)  臨津(りんしん)に   戦(たゝか)ふ 【左丁 絵画のみ】 一先(ひとまつ)此陣(このぢん)を引(ひき)かへし給ひなば。よろしかるべき謀慮(ばうりよ)ならんと申されける清(きよ) 正(まさ)聞(きい)て。此札(このふだ)を朝鮮人(てうせんじん)い立(たて)たると加州(かしう)には思召(おほしめす)や。我等(われら)はさやうには存(ぞん)ぜぬ なり。即(すなは[ち])天照太神(てんしやうだいじん)八幡宮(はちまんぐう)の御。示(しめ)しと存(ぞん)ずれば。神慮(しんりよ)にまかせ押付(おしつけ)王(わう) 子(じ)を生捕(いけどり)て見(み)せ申さん。其内(そのうち)は此辺(このへん)にてゆる〳〵休息(きうそく)し給ひと。不興気(ふけふげ) に云(いひ)はなし。兵士(へいし)に下知(げぢ)して打立(うちたち)ける。此時(このとき)清正(きよまさ)は安城(あんき)の郷民(がうみん)二人捕(とら)へ。これ より北路(ほくろ)の案内(あんない)せよと云(いひ)ければ。二人の百 姓(しやう)云(いひ)けるは此所(こゝ)に久(ひさ)しく住(すむ)といへども。 是(これ)より北道(ほくたう)は終(つゐ)に通(とほ)らず候 得(え)ば。案内(あんない)なすべきやうなしと。中(なか)にも一人 口(くち) 強(こは)にあらそひけるを。清正(きよまさ)大(おほい)に腹(はら)を立(た)ち口(くち)の利(きゝ)たる奴(やつ)かなと。やがて切(きつ)て捨(すて) させたりけるに。一人の百 姓(しやう)大(おほい)におそれ何卒(なにとぞ)命(いのち)を助(たす)けて給はり候へ。実(まこと)は案(あん) 内(ない)をは克(よく)存(ぞん)じたる事となげきける。清正(きよまさ)大(おほい)に打笑(うちわら)ひ左(さ)も有(ある)べし。さらば ゆるして案内(あんない)させよ。導引(みちひき)あしくは切(きつ)て捨(すて)んと。眼(まなこ)をいからせしかり付(つけ) 前(まへ)に押立(おしたて)八千の人衆(にんしふ)を繅(く)り出(いだ)すは。雄々(ゆゝ)しかりける有(あり)さまなり。    清正(きよまさ)克諴(こくかん)を戦(たゝか)ひ破(やぶ)る事(こと) 鍋島加賀守直茂(なべしまかゝのかみなほしげ)はこれより二手(ふたて)に分(わか)つて。咸興府(かんこうふ)を切(きり)したかひ此所(このところ)に陣(ぢん) を定(さだ)めて。近(ちか)きあたりの郡県(ぐんけん)端川(たんせん)なんどいふ処(ところ)を制略(せいりやく)して。人馬(にんば)を こゝに休(やす)めて居(い)たりける。清正(きよまさ)は彼(か)の案内(あんない)の百 姓(しやう)を真先(まつさき)に立(たて)。谷山(こくさん)の地(ち) より老里峴(らうりけん)といふ所(ところ)を越(こえ)。鉄嶺(てつれい)の北辺(ほくへん)に出(いで)て日々(ひゝ)に行(ゆく)こと。数(す)百 里(り) を過(すく)るにその勢(せい)の速(すみやか)なるは。風雨(ふうう)の来(きた)るより猶(なほ)急(きふ)なれば向(むか)ふところに 敵(てき)ぞなかりける。爰(こゝ)に朝鮮(てうせん)北道(ほくだう)兵使(へいし)韓克諴(かんこくかん)といへる者(もの)。六鎮(ろくちん)の兵馬(へいは)を 引率(いんそつ)して追来(おひきた)る敵(てき)を防(ふせ)がんとて。馳向(はせむか)ふに海汀倉(かいていそう)とて海辺(かいへん)運漕(うんそう)の 米穀(べいこく)をおさめ置(お)く湊(みなと)に出会(いであひ)たり。朝鮮(てうせん)の国内(こくない)にても北方(ほつはう)の兵士(へいし)は騎射(きしや) の芸(げい)に達(たつ)したるに。此所(このところ)は平衍(へいゑん)の地形(ちけふ)にして騎(き)を馳(は)するに。其(その)駆引(かけひき)の自(じ) 由(ゆう)なるを。得(え)たりや応(おう)と左右(さいふ)迭(たがひ)にあらはれ。馳出(はせいた)し射出(ゐいだ)し働(はたら)きけるゆゑ 清正(きよまさ)が兵士(へいし)此勢(このいきほ)ひに対(たい)しがたく見(み)へければ。清正(きよまさ)下知(げぢ)して兵(へい)を退(しりぞ)け倉(くら) ともの丈夫(ちやうふ)なるを。よき幸(さいわひ)の陣屋(ぢんや)とて其中(そのなか)に入たりける。すでに其(その)日も暮(くれ) にかゝれば。朝鮮(てうせん)の兵将(へいしやう)ども今日(けふ)は日も暮(くれ)ぬ。しばらく兵士(へいし)の息(いき)をやすめ。明(みやう) 日(にち)賊(そく)の出(いづ)るを待(まつ)て戦(たゝか)はんと云(いひ)けるを。克諴(こくかん)これを聞用(きゝもち)ひず軍気(ぐんき)はその 勢(いきほ)ひに乗(の)るにしかずと其軍(そのくん)を揮(ふるひ)て囲(かこみ)を合(あは)せて攻立(せめたつ)る清正(きよまさ)諸手(もろて)の兵(へい) に下知(げぢ)し倉中(そうちう)の米穀(べいこく)を取出(とりいた)し土手(とて)のかはりとなし米俵(こめたはら)のかけを小楯(こたて)に とりて敵(てき)よりいかくる矢石(しせき)の防(ふせき)となし其下(そのした)に鳥鋭(てつはう)をひつしとならべ一ど に放(はな)ちかくるに。克諴(こくかん)が軍兵櫛(ぐんひやうくし)の歯(は)をならべたるやうに立(たて)つらなりたる中(なか)へ。 つるへ打(うち)にこめかへ〳〵放(はな)ちかくれは。何(なに)かはもつてたまるべき一ツの玉(たま)にて五人三人 打斃(うちたふ)す。克諴(こくかん)が兵(へい)乱(みた)れ立(たつ)て敗走(はいそう)す克諴(こくかん)はやう〳〵兵(へい)を収(おさ)めて。軍(ぐん)を退(しりそ)け嶺(れい) 上(しやう)に屯(たむろ)をなす。すてに其夜(そのよ)も明(あけ)なんとする時(とき)に。再(ふたゝ)び備(そな)ひを立(たて)更(さら)に雌雄(しゆう)を 決(けつ)せんとしたりける。清正(きよまさ)はその夜(よ)深更(しんかう)におよんで潜(ひそか)に。木村又蔵(きむらまたぞう)。井上大(いのうへたい) 九朗(くらう)の両人(りやうにん)に兵(へい)をそへ。克諴(こくかん)が陣取(ぢんどり)し山(やま)の麓(ふもと)につかはし。草間(さうかん)に伏兵(ふくへい)を 置(おき)たりけり。今朝(けさ)はことに山間(やまあひ)の霧(きり)ふかく。物(もの)の色目(いろめ)も見(み)えざりけり克諴(こくかん) が兵(へい)は。是(これ)をばしらず日本勢(につほんぜい)は猶山(なほやま)を隔(へだ)てゝ。倉(くら)の辺(ほとり)にのみ陣(ぢん)せりと 油断(ゆたん)して押出(おしいた)しけるところに。忽(たちま)ち響(ひゞ)く砲(はう)の音(おと)四面(しめん)より打立(うちたつ)て。大(おほい)に 叫(さけ)んで突出(つきいづ)る。克諴(こくかん)が兵(へい)大(おほい)におどろき此勢(このいきほ)ひに劈易(へきゑき)し。右往左往(うおうさおう)に 散乱(さんらん)し道(みち)を求(もと)めて逃(にげ)たりける。克諴(こくかん)はやうやく逃(のか)れて鏡城(けやうしやう)に入(いり)たるを。清(きよ) 正(まさ)が衆兵(しゆうへい)遂(つい)にゆるさず追討(おひうち)けるが。其中(そのなか)より黒糸(くろいと)おどしの鎧(よろひ)を著(き)たる武(む) 者(しや)。真先(まつさき)に馳出(はせいだ)し敗将(はいしやう)逃(にく)る事(こと)なかれ。斎藤立本(さいとうりうほん)汝(なんぢ)を生捕(いけどり)て。当国(たうごく)の案内(あんない) をさすべきぞと云(いひ)ながら。近(ちか)つき来(きた)る克諴(こくかん)も遁(のが)れぬところと覚悟(かくご)をきはめ。 もつたる剣(けん)を取(とり)なをし戦(たゝか)はんとなしたる時(とき)立本(りうほん)はやくも馳(はせ)つき。弓手(ゆんで)さし のべ馬上(ばじやう)ながらに擒(とりこ)になし。味方(みかた)の陣(ぢん)へ投(なげ)こみける。扨(さて)また臨海君(けもかいくん)順和君(じゆんわくん)の 両王子(りやうわうじ)は。初(はじ)め江原道(こうげんたい)に在(いま)せしが日本勢(につほんぜい)江原道(こうげんたいに)入(い)ると聞(きく)より。道(みち)を転(てん) じて金貴栄(きんきえい)。黄廷或(くわうていいく)。黄赫(くわうかく)ならびに咸鏡道(ゑあんたい)の監司(かんし)。柳永立(りうえいりう)等(ら)を御《割書:ン》供(とも)にて 北道(ほくたう)にめぐりたり。清正(きよまさ)は勝軍(かちいくさ)の勢(いきほ)ひぬくべからずと。密(きび)しく王子(わうじ)を追(おつ)かけ 会寧府(ほれいふ)といふ所(ところ)まで追詰(おひつめ)たり。かゝる時(とき)に至(いた)つて頼(たの)みかたきは人心(ひとこゝろ)にて。 会寧(ほねい)の吏(り)鞠景仁(きくけいじん)忽(たまち)ち意(こゝろ)かはり。多(おほ)く同類(とうるひ)をかたらひ謀反(むほん)の色(いろ)を顕(あら) はし。府城(ふじやう)の内(うち)に逼(せま)りかこみ置(おき)使(つかひ)を清正(きよまさ)の陣(ぢん)へつかはし王子(わうじ)を生捕(いけど)りて 降参(かうさん)すべき旨(むね)を云(いひ)つかはしける。    清正(きよまさ)王子(わうし)を執(とらへ)情(なさけ)ある事(こと) 抑(そも〳〵)会寧府(ほねいふ)【注】と云ところは朝鮮(てうせん)の王城(わうしやう)よりは。北東(きたひかし)艮(うしとら)の方(かた)にあたり朝鮮(てうせん)の辺境(へんきやう) たれば。我日本(わかにつほん)の八 丈(ぢやう)が島(しま)硫黄(いわう)が島(しま)の如(こと)くにして。遠流(をんる)の者(もの)も多(おほ)く入(いり)こむ所(ところ)な れば。忠義(ちうぎ)の分(わけ)をもしらぬ輩(ともがら)なり今(いま)おもひもよらね大軍(だいぐん)押来(おしきた)りいまだ見(み) も聞(きゝ)もせざる日本武士(につほんぶし)の。剛勇(こうゆう)なるに惧(おそ)れをなし鞠景仁(きくけいじん)をはじめとし。 不忠(ふちう)の心(こゝろ)を生(しやう)じ清正(きよまさ)が方(かた)へ使(つかひ)をつかはし。恩賞(おんしやう)をもとむかくて清正(きよまさ)は此使(このつかひ) を得(え)て。大(おほい)に悦(よろこ)び恩賞(おんしやう)は。汝等(なんぢら)が望(のぞ)むことろにまかすべしと荅(こた)へられければ。府(ふ) 【注 305コマでは「ほれいふ」とある。】 城(じやう)の一 揆(き)ども大(おほい)によろこび。重(かさ)ねて書翰(しよかん)を送(おく)りて云(いふ)清正(きよまさ)直(すぐ)に城(しろ)に入(いり)て。王子(わうじ) を受取(うけとり)給へ最(もつと)も大勢(おほぜい)は叶(かな)ふべからず。上下(じやうげ)十 余人(よにん)をもつて涯(かぎ)りとすべしと云(いひ) おくる。清正(きよまさ)聞(きい)て其日(そのひ)の中(うち)に軍中(ぐんちう)に触(ふれ)させ。日頃(ひごろ)武士(ぶし)の馬(うま)を嗜(たしな)むはかゝる事(こと) の為(ため)なるぞ。行列備(きやうれつそなひ)にも及(およ)ばず一 騎(き)がけに馳行(はせゆく)べし。早(はや)く駆(かけ)たらん者(もの)が手(て) 柄(から)なるべしと云捨(いひすて)其身(そのみ)は秘蔵(ひさう)のはね月毛(つきけ)の馬(うま)に打乗(うちのり)真先(まつさき)に馳出(はせいだ)せは。誰(たれ) か一人 留(とゞま)るべき我(われ)劣(おと)らじと馬(うま)を飛(とば)せて。会寧府中(ほねいふちう)に入(いり)にける。其夜(そのよ)は城外(じやうぐわい) にて夜(よ)を明(あか)し。翌朝(よくてう)卯(う)の刻(こく)ばかりに城中(しやうちう)へ入(い)らんとす。加藤家(かとうけ)の老臣(らうしん)諌(いさ)め て云(いふ)案内(あんない)しらぬ異国(ゐこく)の城内(じやうない)へ。小勢(こぜい)にて御《割書:ン》入(いり)あらんこと其(その)謀計(ぼうけい)の遠慮(えんりよ)な きと申さんか。万一 敵大将軍(てきたいしやうぐん)をあざむき。王子(わうじ)を餌(ゑば)にして擒(とりこ)にせん工(たく)みかも知(し) るべからず。敵兵(てきへい)御《割書:ン》大将(たいしやう)を見(み)しらざるこそ幸(さいわ)ひ。誰(たれ)にても御名代(ごみやうだい)に清正(きよまさ)なり と名乗(なのり)て王子(わうじ)を受取(うけとり)申さんといふ。清正(きよまさ)聞(きい)て最(もつと)も汝(なんぢ)が申ところ一 理(り)なきにもあらず。 去(さり)ながら我(われ)一 国(こく)の大将(たいしやう)たる身(み)として両国(りやうこく)の交(まじは)りのみならず。敵国(てきこく)の王子(わうじ)を生捕(いけど)る 節(せつ)に望(のぞ)み其信(そのしん)を守(まも)らず。おそれて其身(そのみ)を陰(かく)し家(いへ)の子(こ)を我(われ)ぞと名乗(なの)らせんは。 実(まこと)に武将(ぶしやう)の身(み)にとりて恥(はぢ)る所(ところ)なり。其上(そのうへ)我(われ)日本(につほん)を出(いで)しより屍(かばね)は朝鮮国(てうせんこく)の沙(しや) 石(せき)に曝(さら)さんこと。是(これ)我(わか)覺悟(かくご)せし処(ところ)なり。今(いま)是(これ)王子(わうし)を擒(とりこ)にするとて我(われ)に過(あやま)ちあ ればとて何(なん)ぞ忠義(ちうぎ)の立(たゝ)ざある事(こと)かあらん何(なに)をか辞(じ)する事(こと)あらんやと。早天(さうてん)に城中(じやうちう) に案内(あんない)すれば。鞠景仁(きくけいじん)が輩(ともから)大(おほい)に歓(よろこ)び城門(じやうもん)をひらいて清正(きよまさ)を内(うち)に入(いれ)。あとに つゝひて加藤家(かとうけ)名代(なだい)の勇臣(ゆうしん)。五十 余人(よにん)まで込入(こみいつ)たり清正(きよまさ)は鞠景仁(きくけいじん)に案内(あんない) させ。王子(わうじ)の居(ゐ)給ふ所(ところ)を取巻(とりまき)美濃部金太夫(みのべきんだいふ)を以(もつ)て云(いわ)せけるは。日本(につほん)の将(しやう)加藤(かとう) 清正(きよまさ)此所(このところ)まで追(おひ)かけ参(まゐ)り候。とてものがし奉(たてまつ)らず候 間(あひだ)。唯(たゞ)こなたの陣(ぢん)へ入ら 【右丁】 加藤主計頭(かとうかずへのかみ)   清正(きよまさ) 両王子(りやうわうじ)に   見(まに)ゆ 【左丁 絵画のみ】 せ給へと有(あり)ける時(とき)王子(わうし)の従臣(じふしん)金貴栄(きんきえい)出(いで)むかへ日本(につほん)の大将(たいしやう)。王子(わうじ)の御《割書:ン》命(いのち)を 助(たす)け奉(たてまつ)らば御《割書:ン》出(いで)あるべし。もし殺(ころ)し奉(たてまつ)るべくは此方(こなた)にて御《割書:ン》自害(じかい)ある べしと荅(こたへ)ける。金大夫(きんだいふ)聞(きい)て其事(そのこと)は御《割書:ン》心(こゝろ)やすかれ。今(いま)清正(きよまさ)が軍門(ぐんもん)に御《割書:ン》入(いり)あら は。日本国王(につほんこくわう)関白(くわんんはく)秀吉(ひでよし)へ申 達(たつ)し。必(かなら)ず御《割書:ン》命(いのち)を全(まつた)ふし其上(そのうへ)朝鮮(てうせん)と会盟(くわいめい) なして好(よしみ)をむすばん事(こと)古(いに)しへの如(ごと)くたるべし。此度(このたび)当国(たうごく)へ軍馬(ぐんば)を向(むけ)る事(こと) 唯(たゞ)前年(せんねん)の書翰(しよかん)の。返事(へんじ)のなきをとがむるの外(ほか)他事(たじ)なしと。云(いひ)ければ。王子(わうし)を 始(はじ)め従臣(じふしん)等(ら)悦(よろこ)ぶ事(こと)なゝめならず。さらば此方(こなた)へ入(いり)給へとて広(ひろ)き馬場(ばゝ)の如(ごと)く なる所(ところ)へ。臼(うす)を二ツ置(おき)其上(そのうへ)に門(もん)の戸(と)びらをしき。東(ひがし)の方(かた)を王子(わうじ)の座(ざ)と定(さだ)め西(にし) の方(かた)に壘(たゝみ)をしき清正(きよまさ)の座所(ざしよ)と定(さだ)め。さて王子(わうじ)出(いで)給へば金貴栄(きんきえい)を始(はじ)め。従(じふ) 臣(しん)あまた左右(さいふ)にならびて著座(ちやくざ)なす。清正(きよまさ)は例(れい)の大兼光(おほかねみつ)の太刀(たち)を横(よと)たへ 二十 余人(よにん)の勇士(ゆうし)を従(したが)ひて座(ざ)に著(つけ)は両王子(りやうわうじ)礼(れい)をなし給へば。清正(きよまさ)も礼拝(れいはい)し 拝荅(はいたふ)の式(しき)おはつて。供御(くご)を両王子(りやうわうじ)にそなへ奉(たてまつ)る諸大臣残(しよだいじんのこ)らず。是(これ)をもてなす 酒(さけ)すでに三 献(こん)におよびける時(とき)。清正(きよまさ)が臣(しん)等(ら)肴(さかな)を出(いだ)さんとて立(たつ)を見(み)て。王子(わうじ)の従(じふ) 臣(しん)等(ら)俄(にはか)に騒(さわ)ぎ立(たち)すはや王子(わうじ)を殺(しゐ)【「弑」とあるところ】し奉(たてまつ)るぞと心得(こゝろえ)て。半弓(はんきう)取(とつ)て矢(や)をつがひ 清正(きよまさ)を目(め)かけ射(ゐ)かけんとす。清正(きよまさ)おどろきこはいかにと制(せい)すといへども。言語(ごんご) 通(つう)ぜずなを〳〵近(ちか)よりければ清正(きよまさ)きつと心(こゝろ)づき伝(つた)へ聞(きく)。異国(ゐこく)には印章(ゐんしやう)を 与(あた)へて約(やく)をなすといふ事(こと)あり。是(これ)こそ大事(だいじ)のところなりと腰(こし)につけたる巾(きん) 着(ちやく)より。印形(ゐんぎやう)を取出(とりいた)し紙(かみ)へおして王子(わうじ)の従臣(じふしん)へ一 枚(まへ)づゝ与(あた)ければ。王子(わうじ) をはじめ従臣(しふしん)等(ら)大(おほい)に安堵(あんど)し。半弓(はんきう)を捨(すて)て座(ざ)したりけるま事(こと)に危(あやう)き 事(こと)どもなり。清正(きよまさ)戦場(せんじやう)へ出(いづ)る事(こと)数(かす)しれずといへとも。今日(けふ)の如(こと)き危(あやう)きこと に出合(てあひ)しことなしと語(かた)られけるとなり。かくて清正(きよまさ)は臨海(けもかい)順和(しゆんは)の両王子(りやうわうし)を 受取(うけとり)日本(につほん)の陣(ぢん)へかへり。此時(このとき)国妃(こくひ)は侍婢(おもとひと)等(ら)多(おほ)からで。落人(おちうど)となり給ふが頸(くひ) に一ッ物(もの)をかけ。面(おもて)を覆(おほ)ふに巾(きん)をもつて倭人(わじん)の追(お)ふに路(みち)にあへるを。清正(きよまさ)が 手(て)の者(もの)すでに是(これ)を追捕(おひとら)へしとしたりしに。清正(きよまさ)これを制禁(せいきん)し其顔面(そのがんめん)を見(み) ることなかれ。侵(おか)し掠(かす)め汚(けが)すことなすべからすと下知(げぢ)をなし。飲食(いんしよく)を与(あた)へて意(こゝろ) のまゝに逃(のが)れしむ。其頸(そのくび)にかけたるは牛(うし)の脯(ほしゝ)と聞(きこ)へける。清正(きよまさ)はその驍勇(きやうゆう)のみな らで情(なさけ)まで深(ふか)き人(ひと)なるかなと感(かん)ぜぬ者(もの)は無(なか)りけり 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之七《割書:終》 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之八      目録  一 清正(きよまさ)兀良哈人(おらんかいしん)【注】と合戦(かつせん)の事(こと)  一 清正(きよまさ)安辺(あんへん)へかへる路軍(みちいくさ)の事(こと)  一 秀吉公(ひでよしこう)加勢(かせい)を朝鮮(てうせん)につかはさるゝ事(こと)  一 小西行長(こにしゆきなか)朝鮮勢(てうせんせい)を破(やぶ)る事(こと)  一 李鎰(りいつ)行在所(あんざいしよ)に到(いた)る事(こと)  一 李鎰義綂(りいつよしのり)が兵(へい)を防(ふせ)ぐ事(こと)  一 遼東(れうとう)の李時孳(りじじ)朝鮮(てうせん)を窺見(うかゞひみ)る事(こと) 【注 315コマ参照】 【白紙】 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之八   清正(きよまさ)兀良哈人(おらんかいじん)と合戦(かつせん)の事 清正(きよまさ)は既(すで)に両王子(りやうわうじ)を擒(とりこ)としければ早速(さつそく) 本朝(につほん)へ注進(ちゆうしん)をなさんとて足早(あしはや) の者(もの)五人をゑらみ箕部金太夫(みのべきんだいふ)に命(めい)じ。注進状(ちゆうしんじやう)五通(こつう)書(かゝ)しめ秀吉公(ひでよしこう)の御(ご) 本陣(ほんちん)へおもむろしめけるに。五人の者(もの)どもつゝがなく名護屋(なごや)の御陣(ごぢん)へ到(いた)り。 浅野弾正少弼長政(あさのだんしやうしやうひつなかまさ)へ書状(しよじやう)をさし出(いだ)す。浅野長政(あさのなかまさ)秀吉公(ひてよしこう)の御前(こぜん)へ此書状(このしよじやう) を披露(ひらう)におよびける。秀吉公(ひでよしこう)此注進(このちゆうしん)を聞召(きこしめし)御《割書:ン》よろこびまし〳〵。御前(ごぜん)に伺(し) 公(こう)せし 家康公(いゑやすこう)景勝(かげかつ)利家(としいへ)をはじめ老臣(らうしん)の面々(めん〳〵)へ仰(おほせ)けるは。注進状(ちゆうしんしやう)を見(み) られ候へ。朝鮮(てうせん)の両王子(りやうわうじ)をはじめ従臣(じふしん)等(ら)。二百 余人(よにん)を生捕(いけどり)たるよし。扨(さて)も 気味(きみ)よき清正(きよまさ)が働(はたら)き。その戦(たゝか)ひのやうもおもひやらるゝなりと。御《割書:ン》喜(よろこ)びなゝめ ならず。御前(ごぜん)に有(あり)ける人々(ひと〳〵)も感(かん)ぜぬ者(もの)こそなかりける。秀吉公(ひでよしこう)自(みづか)ら御《割書:ン》筆(ふて)を 取(とり)給へて御感状(ごかんじやう)を遊(あそ)ばされ。吉光(よしみつ)の御《割書:ン》脇差(わきざし)ならびに黄金(わうごん)五千 両(りやう)そへて。清(きよ) 正(まさ)へ下(くだ)されけるとなん。扨(さて)又(また)加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)は王子(わうじ)をはじめ生捕(いけどり)の朝鮮(てうせん) 人(じん)を引(ひい)て。安辺(あんへん)の陣所(ぢんしよ)へかへらんとなしけるところに。兀良哈(おらんかい)の夷(ゑびす)ども数万(すまん) 人(にん)起来(おこりきた)ると聞(きこ)へしかば。生捕(いけどり)の者(もの)をば庄林隼人(しやうはやしはやと)加藤清兵衛(かとうせいべゑ)の両人(りやうにん)に。兵(へい) 六百余人をそへて守(まも)らしめ。清正(きよまさ)は兀良哈(おらんかい)の案内(あんない)のため会寧府(ほれいふ)の降人(かうにん)。 鞠景仁(きくけいじん)が徒党(ととう)の者(もの)ども。五百 余人(よにん)を一 隊(そなび)となし南無妙法蓮華経(なむみやうほうれんげきやう)と 書(かい)たりける。笠印(かさしるし)を一 様(よう)に付(つけ)させて押行(おしゆく)ほどに。兀良哈(おらんかい)の兵(へい)に出合(いであひ)互(たがひ)に矛(ほこ)を まじへて合戦(あひたゝか)ふ。兀良哈(おらんかい)の夷(ゑびす)どもは元来(もとより)勇(ゆう)ある強人(きやうじん)にして。騎(き)を馳(は)せ射(や)を 放(はな)ち少(すこ)しもひるむ気色(けしき)なきを。清正(きよまさ)の兵士はみな〳〵精兵(せいへい)卓然(たくぜん)たる者(もの)なれ ば。鉄砲(てつほう)をきびしく下知(げぢ)して打(うち)かけさせ。火花(ひばな)を散(ちら)して攻戦(せめたゝか)ひいつ勝負(しようぶ)あ らんとおもはれける時(とき)飯田角(いへたかく)兵衛といへる清正(きよまさ)の勇臣(ゆうしん)花色(はないろ)おどしの鎧(よろい) を着(ちやく)し。頭(づ)なりに鹿(か)の角(つの)の前立物(まへだてもの)打(うつ)たる甲(かぶと)を頂(いたゞ)き。赤根(あかね)の陣羽織(ぢんばをり)を 着(き)て群集(むらがる)敵(てき)の真中(まんなか)へ。只(たゞ)一 騎(き)馳(はせ)入 大手(おふて)をひろげて駈巡(かけめぐ)り。手 當(あた)り次第(しだい) に引(ひき)つかみ投付(なげつく)るゆゑ。是(これ)がために敵(てき)二三人づゝ打倒(うちたふ)され。狼破(うろたへ)まはるを味(み) 方(かた)の兵(へい)。どつと㗲(おめ)いて突(つき)入ゆゑ兀良哈人(おらんかいしん)つゐに戦(たゝか)ひやぶれて引退(ひきしりそく)を。清正(きよまさ) その図(づ)をぬかさず追撃(おひうち)に進(すゝ)み行(ゆき)しに一 城(じやう)の地(ち)に押(おし)つめたるところ後(うしろ)は深山(しんざん) を堅固(けんご)にとり。前(まへ)には濠深(ほりふか)く壘石(いしがき)を高(たか)くして。たやすく寄(よら)ん気色(けしき)もなし 清正(きよまさ)下知(げぢ)して会寧府(ほれいふ)の者(もの)に。手の者(もの)をさしそへ前(まへ)より攻(せめ)させ自(みづか)ら木(き) 村又蔵(むらまたぞう)をはじめその外(ほか)日本無双(につほんぶそう)の勇士(ゆうし)をしたがひ。後(うしろ)の山(やま)に打登(うちのぼ)り高(かう) 山(さん)の巓(いたゞき)より。凡(およそ)五六十人にても動(うごか)しがたき大石(たいせき)を。二三人ツヽ力(ちから)を合(あは)せ堀(ほ)り 起(おこ)し。かさより真下(まつくだ)しに墜(おと)しかくれば。何(なに)かはもつてこらゆべき山下(さんか)に多(おほ)く作(つく) りならべたる家(いゑ)どもを。片(かた)はしより打崩(うちくづ)す城兵(じやうへい)ども大(おほい)に騒動(そうどう)するところ へ。清正(きよまさ)得(え)たりと足軽(あしがる)に下知(げぢ)し。鉄砲(てつはう)をつるべ打(うち)に一 度(ど)にどつと打(うち)かけつゝ。続(つゞ) ひて内(うち)に殺(き)り入(い)れば。城兵(じやうへい)今(いま)は戦(たゝか)ふ力(ちから)なく右往左往(うわうざわう)に逃(に)げ走(はし)り。手(て)に立者(たつもの) もなかりければ。忽(たちま)ち城(しろ)を乗取(のつとり)ける。其(それ)よりつゞひて城数(しろかず)以上(いじやう)十三まで攻取(せめとる) 兀良哈人(おらんかいじん)を撃取(うちとる)事。七百 余人(よにん)味方(みかた)の討死(うちじに)は纔(わづか)に侍(さむらひ)七人。雑兵(ぞうひやう)ともに二十 七人と聞(きこ)えける。其中(そのなか)に清正(きよまさ)の愛臣(あひしん)貴田孫兵衛(きだまこべゑ)といへる勇士(ゆうし)。今度(このたび)い さぎよく討死(うちじに)したる。子細(しさい)を委(くわ)しく尋(たづね)るに。傍輩(ほうばい)なる森本義太夫(もりもとぎだいふ)と いへる者(もの)と去(さんぬ)る夜(よ)のことなるに清正(きよまさ)の前(まへ)におゐて。女真国(おらんかい)へ攻寄(せめよす)る前陣(せんぢん)の ことを云(いひ)つのり。互(たがひ)に過言(くわごん)におよんで既(すで)に撃果(うちはた)すべき気色(けしき)なりしを。清正(きよまさ) 中(なか)に入(いり)互(たがい)に無異(ふゐ)をつくろはるゝといへども心(こゝろ)に遺趣(いしゆ)は残(のこ)りけるこゝに意(い) 丹城(たんじやう)といへるを攻(せめ)ける時(とき)義太夫(ぎだいふ)は腰兵粮(こしひやうらう)の類(るい)までしづかにこれを調(とゝの)ひ。未(いま)だ夜(よ) の明(あけ)ざるに。諸隊(しよたい)に先立(さきだち)て唯(たゞ)一騎(いつき)馬(うま)を追手(おほて)の門前(もんぜん)に乗(の)りかけしところへ。孫兵(まこべ) 衛(ゑ)もつゞひて馬(うま)を馳来(はせきた)る。森本(もりもと)は貴田(きだ)に向(むか)つて只今(たゞいま)まで遅参(ちさん)におよぶ者(もの)は 孫兵衛(まごべゑ)にはあらざるや。貴田(きだ)聞(きい)ていかにも我(われ)は孫兵衛(まごべゑ)なり。互(たがひ)にこゝにて高(かう) 名(みやう)せんと云棄(いひすて)て。追手(おほて)の門(もん)へかけ入(い)らんとせしところへ。城内(じやうない)より二人の男(おとこ)駈(かけ) 出(いで)て。一人は義太夫(ぎだいふ)に渡(わた)り合(あひ)しがやにはに二人 引組(ひきくみ)けるが。義太夫(ぎだいふ)力(ちから)や勝(まさ)り けん彼男(かのおとこ)を組仆(くみたふ)し。首(くび)とつて立(たち)あがる。孫兵衛(まごべゑ)は今(いま)一人の敵(てき)と戦(たゝか)ひけるが 其長(そのたけ)八 尺(しやく)ばかりの大男(おほおとこ)にて。頬鬚(ほゝひげ)左右(さいふ)にわかち鉄(くろがね)の針(はり)をのべたるが如(ごと)くなる が。両眼(りやうがん)大(おほい)にしてさながら鈴(すゞ)を張(は)るに異(こと)ならず。その声(こゑ)大鉦(おほどら)の如(ごと)くなるが喚(おめ) きさけんで孫兵衛(まこべゑ)と。剣(けん)【劔は俗字】を合(あは)せ踊躍(おどりおど)つて斬合(きりあひ)たりしが。孫兵衛(まごべゑ)は元来(もとより)剣術(けんじゆつ)【劔は俗字】 巧者(こうしや)の早業(はやわさ)なれば。蝶(てう)鳥(とり)の如(ごと)く飛(とび)めぐり彼男(かのおとこ)の真向(まつかう)を。冑(かぶと)の上(うへ)より割(わり) つけ鼻柱(はなはしら)まで切(きり)こんたるに。何(なに)かはもつてころぶべきうんと云(い)つて仆(たふ)れながら。持(もつ) たる剣(けん)【劔は俗字】を孫兵衛(まこべゑ)に拋(な)げ付(つけ)たり。運(うん)の極(きは)めのかなしさは孫兵衛(まごべゑ)が。左(ひだり)の小脇(こわき) に当(あた)り。痛手(いたて)なれば遂(つひ)にたまらず死(しゝ)たりける   一説(いつせつ)に意丹城攻(いたんじやうせめ)の時(とき)義太夫(ぎだいふ)。孫兵衛(まごべゑ)先陣(せんぢん)を争(あらそ)ひぬけがけして。敵城(てきじやう)へ   打入(うちい)らんとせし時(とき)。城内(じやうない)より雨(あめ)の如(ごと)く半弓(はんきう)を射出(ゐいだ)すといへども。両人(りやうにん)少(すこ)し   もひるまず打入(うちい)らんとせし時(とき)鉄木舌(てつほくせつ)といへる兀良哈人(おらんかいじん)駈出(かけいで)やにはに   義太夫(ぎたいふ)と引組(ひきくん)たり鉄木舌(てつぼくぜつ)は大力(だいりき)にて忽(たちま)ち義太夫(ぎだいふ)を取(とつ)て押(おさ)へける時(とき)義(ぎ)    太夫(だいふ)は心(こゝろ)はやき者(もの)なれば下(した)よりわきざしをもつて鉄木舌(てつほくぜつ)が脇腹(わきばら)を   力(ちから)にまかせてさし通(とほ)すさしもの大力(たいりき)も少(すこ)しひるむ所(ところ)を義太夫(ぎだいふ)下(した)   よりはねかへし押(おさ)へて首(くび)を取(とつ)たりける貴田孫兵衛(きだまごべゑ)も兀良哈人(おらんかいしん)の   穀々賀(こく〳〵が)といへる者(もの)と 組(くん)だりけるが穀々賀(こく〳〵が)は八 尺(しやく)に余(あま)る大男(おほおとこ)にて   二王(にわう)の如(ごと)くなる者(もの)なれば孫兵衛(まこべゑ)が着(ちやく)したる兜(かぶと)の唐(から)の髪毛(かみげ)を引(ひき)   つかみ押(おさへ)つくるゆゑ孫兵衛(まこべゑ)わきざしをぬかんとせしに寸(すん)のびたる故(ゆゑ)   ぬけざれば心(こゝろ)いらだち敵(てき)の上帯(うはおび)に手(て)をかけ矢声(やごゑ)をかけ力(ちから)にまかせて捻(ねぢ)   倒(たふ)しけれども穀々賀(こく〳〵か)はつかみし兜(かぶと)の毛(け)をはなさず二三 度(ど)上(うへ)になり   下(した)になりてもみ合(あふ)ところへ穀々賀(こく〳〵か)の弟(おとゝ)穀々理(こく〳〵り)といへる者(もの)馳来(はせきた)り忽(たちま) 【右丁】 飯田角(いひたかく)兵衛 力戦(りきせん)して 穀々理(こく〳〵り)を   生捕(いけど)る 【左丁 絵画のみ】   ち孫兵衛(まこへゑ)を引仆(ひきたふ)し剣(けん)【劔は俗字】をもつて突殺(つきころ)しけるあはれむへし孫兵衛(まこへゑ)は   生年(しやうねん)三十三才にて討死(うちじに)なしたりける義太夫(ぎたいふ)救(すく)はんとなしけれども敵(てき)のた   めに隔(へだ)てられ救(すく)ふことあたはずとなんかくて清正(きよまさ)は孫兵衛(まこべゑ)の討死(うちじに)をしら   ず居(い)られしが阿波伊兵衛(あはいへゑ)といふ者(もの)清正(きよまさ)へかくと告(つげ)ければ清正(きよまさ)大(おほい)になげ   き早速(さつそく)人(ひと)をつかはし孫兵衛(まごべゑ)の死骸(しがい)を取(とり)よせ我膝(わがひざ)へ首(くび)をのせさせむ   なしき額(ひたい)をなで涙(なみた)をながし云(いひ)けるは朝鮮(てうせん)の都(みやこ)へ討入(うちいり)の時(とき)秀吉公(ひでよしこう)へ注(ちゆう)   進(しん)の使者(ししや)を命(めい)ぜしに都城(とじやう)の軍(いくさ)大事(だいじ)なれば此使(このつかひ)は他人(たにん)へ申 付(つけ)くれよ   とありしかど大事(だいじ)の使者(ししや)ゆへ弁舌(べんせつ)よく場(ば)なれたる者(もの)ならでは申 付(つけ)   がたしとさま〳〵すかして遣(つかは)せしに滞(とどこふり)なくかへり来(きた)りし時(とき)我尋(われたづね)けるは日(につ)   本(ほん)へ参(まゐ)りしつひで汝(なんぢ)が老母(らうぼ)に対面(たいめん)せしかと申せし時(とき)母(はゝ)の方(かた)へは使(つかひ)をつか   はし候まてにて立寄(たちより)申さずと。潔(いさき)よく荅(こた)へしが其後(そのゝち)また母(はゝ)は無事(ぶじ)に   てありしかと尋(たづ)ねけるに。左(さん)候 使(つかひ)の者まゐりし時(とき)門(かど)まで立出(たちいで)申けるは。我(われ)は無(ぶ)   事(じ)にてあれば決(けつ)して心(こゝろ)にかくることなかれ。我(わ)がことをおもふて未練(みれん)の働(はたら)   きをなしなば。生々世々(しやう〳〵せゝ)口おしかるべし只(たゞ)弓矢(ゆみや)とる身(み)は。名(な)こそおしく   候へ明日(あす)をもしらぬ老(おひ)の身(み)なれば。かまへて我有(われあり)とおもふべからず名(な)を揚(あ)げ   高名(かうみやう)をあらはすべしと申候よし。使(つかひ)の者(もの)かへり語(かた)り候と荅(こたへ)し折(をり)。両眼(りやうがん)に涙(なみだ)   をうかめ語(かた)りしが。嘸(さぞ)母(はゝ)のこと心(こゝろ)にかゝるべし。なれども清正(きよまさ)かくてあらん   限(かぎ)りは。汝(なんぢ)が母(はゝ)は我(われ)太切(たいせつ)に養(やしな)ふべければ少(すこ)しも心(こゝろ)かくることなかれと。生(いき)たる   人(ひと)に云(いふ)ごとく申(もう)されければ。側(そば)に聞居(きゝゐる)勇士(ゆうし)をはじめ心(こゝろ)なき兵卒(へいそつ)まで。鎧(よろい)   の袖(そて)をぬらしける。かくて清正(きよまさ)は孫兵衛(まこべゑ)が討死(うちじに)を無念(むねん)におもひ。当(たう)の敵(てき)な   れば穀々賀(こく〳〵が)兄弟(けうだい)を討(うつ)て追善(つひせん)に手向(たむけ)べしと。自(みつか)ら意丹城(いたんじやう)の追手(おふて)へ馳到(はせいた)り   真先(まつさき)に進(すゝ)み乗入(のりい)らんとせし時(とき)。城中(じやうちう)よりも討(うつ)て出(いで)こゝを大事(たいじ)と防(ふせ)ぎける   時(とき)。穀々賀(こく〳〵か)は剣(けん)【釼は俗字】を廻(まわ)し群集(むらかる)日本勢(につほんぜい)の真中(まんなか)へ馳入(はせいり)。竪横(じふわう)に当(あた)りて戦(たゝか)ひける   を清正(きよまさ)が兵(へい)。見知(みし)りし者有て穀々賀(こく〳〵が)なるよしを告(つげ)ければ。清正(きよまさ)大(おほい)に歓(よろこ)ひて   一 文字(もんじ)に馬(うま)を駈寄(かけよせ)討(うつ)てかゝる。穀々賀(こく〳〵が)も心得(こゝろえ)たりと二(ふ) ̄タ打(うち)三打(みうち)うち合(あひ)けるが。穀(こく)   々賀(こくが)は大力無双(たいりきぶそう)の者(もの)なれば。組(くん)で勝負(しやうぶ)を決(けつ)せんと無二無三(むにむざん)に組付(くみつき)けるを。清(きよ)   正(まさ)少(すこ)しもひるまず組合(くみあひ)しが。忽(たちま)ち首筋(くびすぢ)へ手をかけ力(ちから)にまかせてしめつくるゆゑ   さすがの穀々賀(こく〳〵が)も働(はたら)きえず。清正(きよまさ)は其(その)まゝ曳(えい)と声(こゑ)かけ馬上(ばじやう)より投出(なげいだ)せば。   従兵(じうへい)忽(たちま)ち馳寄(はせより)生捕(いけどり)にこそなしたりける。是(これ)を見るより穀々理(こく〳〵り)兄(あに)を奪(うば)ひかへ   さんと。八 尺(しやく)余(あま)りの棒(はう)を打振(うちふ)り日本勢(につほんぜい)を或(ある)ひは薙伏(なぎふせ)あるひは打倒(うちたふ)して。   働(はたら)きける故(ゆゑ)日本勢(につほんぜい)忽(たちま)ち十五六人 打倒(うちたふ)され。四方(しはう)へさつと開(ひら)きけるこれを。   見(み)るより飯田角兵衛(いゝだかくべゑ)大(おふ)いに奮発(しんぱつ)し驀地(まつしぐら)に馳来(はせきた)り。大手(おほで)をひろげ   て立向(たちむか)ふ。穀々理(こく〳〵り)は是(これ)を見(み)て只(たゞ)一 打(うち)に打殺(うちころ)さんと棒(ぼう)振上(ふりあげ)力(ちから)をきはめて打(うち)おろ   すを。角兵衛(かくへゑ)心得(こゝろえ)たりと身(み)をかはしそのまゝ馳寄(はせより)。穀々理(こく〳〵り)の肩(かた)のあたりに   手(て)をかけ引(ひき)よする。敵(てき)も得(え)たりと組付(くみつく)を角兵衛(かくべゑ)敵(てき)の上帯(うはおび)を持(もち)。力(ちから)にま   かせて引(ひき)かつぎ。真一文字(まいちもんじ)に馳出(はせいだ)し味方(みかた)の陣(ぢん)へ駈戻(かけもど)り。ヤト声(こゑ)かけて投付(なげつく)れ   は是(これ)も同(おな)じく味方(みかた)の兵士(へいし)駈寄(かけよつ)て。つゐに縄(なは)をぞかけたりける。清正(きよまさ)は大(おほい)に歓(よろこ)び   穀々賀兄弟(こく〳〵がきやうだい)を引出(ひきいだ)し。首(くび)を刎(はね)孫兵衛(まごべゑ)が亡體(なきがら)に手向(たむ)けらけると   なり是(こ)は孫兵衛(まごべゑ)が討死(うちじに)の説(せつ)を聞傳(きゝはべ)る故(ゆゑ)こゝにしるしぬ。いづれが是(ぜ)なるや   尚(なほ)後人(こうじん)の評(ひやう)を待(まつ)のみ    清正(きよまさ)安辺(あんへん)へかへる路軍(みちいくさ)の事(こと) 扨(さて)清正(きよまさ)はすでに兀良哈(おらんかい)の城塁(じやうるい)を攻墜(せめおと)し。朝鮮路(てうせんみち)に引返(ひきかへ)しけるが。其夜(そのよ)は川(かは)の 上流(じやうりう)に野陣(のぢん)を張(は)つて若(もし)又(また)狄人(てきじん)の後(あと)より追来(おひきた)る事(こと)もあらんかと。其用意(そのようゐ)を なして待(まち)けるに。其夜(そのよ)は何(なん)の子細(しさい)もなく夜(よ)も明(あけ)ければ総軍(そうぐん)へ下知(げち)して押出(おしいだ)し。 すでに打立(うちたゝ)んとなしけるところへ。女真国(おらんかい)の者(もの)ども是(これ)を喰止(くひと)めんとやおもひけん。其兵(そのへい) 幾千万(いくせんまん)といふ数(かず)をしらず起(おこ)り来(きた)り。清正(きよまさ)の本陣(ほんぢん)へ無二無三(むにむざん)に衝(つ)きかゝるは。夥(おびたゝ)しき形(あり) 勢(さま)なり清正(きよまさ)も侮(あなと)るべき事(こと)にあらずと。自(みづか)らばれんの馬印(うましるし)を振廻(ふりまは)して下知(げぢ)し けるに。幕本(はたもと)の士卒(しそつ)も手を碎(くだ)きこゝをせんどゝ戦(たゝか)ひける。清正(きよまさ)大音声(だいおんじやう)にて鳴(なり)わめ き。首(くび)をば取(とる)な切(きり)すてよ組打(くみうち)するな太刀(たち)にて切(き)れと下知(げぢ)すれば。物(もの)なれたる士卒(しそつ)共(とも) 大将(たいしやう)の下知(けぢ)に勇気(ゆうき)をそへ。狄人(てきじん)を斬(き)り殺(ころ)すは青蕪(あをな)を刈(か)るが如(ごと)くにすれども。敵猛(てきまう) 勢(ぜい)なれば切(き)をも突(つく)をも事(こと)ともせず手 負(おひ)死人(しにん)の玫越(のりこへ)躍(かれ)こへ戦(たゝか)へける。此時(このとき) 狄兵(てきへい)とも兼(かね)て用意(ようゐ)をなしたりけるが。多(おゝ)くの焼草(やきぐさ)を持(もち)来り風上(かさかみ)より火(ひ) を放(はな)ち。倭兵(わへい)の方(かた)へ投(なげ)かけ〳〵なしける故(ゆゑ)さしもに猛(たけ)き日本勢(につほんぜい)も戦(たゝか)ひ悪(あぐ)【僫は悪の俗字】みて 見(み)へたる時(とき)清正(きよまさ)は馬上(ばじやう)にて兜(かふと)をぬき。天照皇大神宮(てんせうくはうだいじんぐう)其外(そのほか)日本(につほん)の諸神(しよじん)を祈(いの)り別(わけ)て弓矢(ゆみや)八幡 照覧(せうらん)あれ只今(たゝいま)清正(きよまさ)敵(てき)と戦(たゝか)ひ難義(なんぎ)に及(およ)び。味方(みかた)の兵(へい)ほと〳〵危(あやう)しあはれ神力(しんりき)を 添(そへ)給へて。味方(みかた)の兵士(へいし)を救(すく)ひ給へと念(ねん)じおはりて。兜(かぶと)を着(ちやく)し鎗(やり)おつ取(とつ)て自(みづか)ら敵(てき) 中(ちう)に馳入(はせいり)当(あた)るを幸(さいわ)ひ打倒(うちたふ)し薙伏(なぎふせ)働(はたら)きける。折(をり)ふし今(いま)まで北風(きたかせ)にて味方(みかた)の方(かた)へ 吹(ふき)かけし煙(けふり)忽(たちま)ち南風(なんふう)とかはりて敵(てき)の方(かた)へ吹(ふき)かけける故(ゆゑ)清正(きよまさ)が兵士(へいし)是(これ)に力(ちから)を得(へ) て命(いのち)を羽毛(うもう)の軽(かろ)きに比(ひ)し。喚(おめ)き呼(さけ)んで戦(たゝか)ひけれども敵(てき)は目(め)に余(あま)る大 軍(ぐん)なれば いつ果(はつ)べしとも見(み)へざりける。此時(このとき)清正(きよまさ)が運(うん)や強(つよ)かりけん。又(また)は日本(につほん)の諸神(しよじん)応護(おうご)を 【右丁 絵画のみ】 【左丁】 斉藤立本(さいとうりうほん)女真国(おらんかい) の猛将(もうしやう)と組(くみ)打して差(さし) 添(そえ)なければ詮方(せんかた)なく 必死(ひつし)をきわめて咽(のど)ふへ に喰付(くひつき)殺(ころ)す狄人(てきじん) 悪鬼(あくき)のおもひをなし 戦慄して敗(やぶ)る たれ給へけん大(おほい)に暴雨(ばうう)降來(ふりきた)り。南(みなみ)より吹(ふき)かくる風(かぜ)つよく狄兵(てきへい)ども。眼(まなこ)を開(ひら)かんやう なきゆゑ少(すこ)し足立(あしだち)まばらになるを。清正(きよまさ)の兵士(へいし)得(え)たりや応(おう)と捲立(まくりたつ)て戦(たゝか)ふ程(ほと) に。狄兵(てきへい)大(おほい)に乱(みだ)れて引退(ひきしりぞ)けば清正(きよまさ)はおもふやう。此(この)敵兵(てきへい)もとよりも撃(うち)たやすべき 敵(てき)にあらずとおもひて。相引(あひびき)にこそ引(ひき)たりけるが。尚(なを)したひ来(きた)る事(こと)もやとおもひけれ ば。齋藤伊豆入道立本(さいとういづにうだうりうほん)。井上大九郎(いのうへたいくらう)の両人(りやうにん)に命(めい)じ後殿(しんがり)をなさせ総軍(そうぐん)をまとめ 安辺(あんへん)さして押行(おしゆき)けるところに。また〳〵女真国(おらんかい)の兵(へい)五千三千つゝ。所々(ところ〳〵)より打(うつ)て出(い)て 道(みち)の妨(さまた)げをなしけるを大九郎(だいくろふ)立本(りうほん)の両人(りやうにん)打散(うちちら)し〳〵通(とほ)りけるが。こゝに女真国人(おらんかいしん) の中(なか)より。七 尺余(しやくよ)の大 男(おとこ)二三 千計(ばかり)の兵(へい)を引(ひい)てしたひ來(きた)りて戦(たゝか)ひをいどみければ。井上(いのうへ)齋(さい) 藤(とう)も引(ひつ)かへし戦(たゝか)ひけるに此兵(このへい)すこぶる強勇(がうゆう)にしてなか〳〵切崩(きりくづ)しがたく見(み)えけれ ば。両人(りやうにん)轡(くつはみ)を双(なら)べ敵中(てきちう)へ切(きつ)て入(いり)。四方(しはう)八面(はちめん)に当(あた)りて血戦(けつせん)す。敵兵(てきへい)の中(なか)より真黒(まつくろ)に鎧(よろ)ふたる 兀良哈人(おらんかいじん)身(み)の丈(たけ)七 尺余(しやくあま)りなるが。剣(けん)【釼は俗字】を廻(まわ)して打(うつ)てかゝるを。立本(りうほん)蒐合(かけあはせ)て一上(いちじやう) 一下(いちげ)落花未塵(らくくわみぢん)【未は微とあるところ】と戦(たゝか)ひけるが。立本(りうほん)面倒(めんだふ)なりと太刀(たち)投捨(なげすて)むづと組付(くみつけ)ば。敵(てき)も心(こゝろ) 得(え)たりと互(たがひ)に捻合(ねぢあひ)。両馬(りやうば)が合(あひ)に摚(どう)と落(おち)上(うへ)を下(した)へと組合(くみあひ)けるが。両人(りやうにん)ともに雨降(あめふり) に組合(くみあひ)けるゆゑに。傍(かたはら)の深田(ふかだ)の中(なか)へすべり落(おち)たりしが。立本(りうほん)やがて上(うへ)になり力(ちから)をきは めて取(とつ)て押(おさ)へ。首(くひ)をかゝんとさし添(ぞへ)を探(さぐ)りけるに。組合(くみあひ)し折(をり)落(おと)しけるにやあらざれ ば。いかゞはせんとしばし躊躇(ためろふ)とき敵(てき)は刎(はね)かへさんと掙扎(もかく)ゆゑ必死(ひつし)をきはめて咽吭(のとふへ) へ喰付(くひつき)しかば何(なに)かはもつてたまるべき七転(しちてん)八 倒(たふ)して死(しゝ)たりける立本(りうほん)はなんなく敵(てき)を 喰殺(くひころ)し深田(ふかだ)の中(なか)より這上(はひあが)り大手(おほで)をひろげて敵中(てきちう)に駈入(かけいれ)ば此(この)有(あり)さまに恐(おそれ)をなし兀良(おらん) 哈人(かいじん)右往左往(うわうさわう)に散乱(さんらん)し四方(しはう)へさつと退(のひ)たりける扨(さて)又(また)井上大九郎(ゐのうへたいくらう)は立本(りうほん)の勝負(しやうぶ)い かゞとあんじ敵(てき)を八方(はつはう)へ切散(きりちら)し人(ひと)なき所(ところ)を行如(ゆくごと)く働(はたら)きけるところに身(み)の丈(たけ)七 尺(しやく) 五六 寸(すん)もあらんかとおもふ大男(おほおとこ)面(おもて)は真黒(まつくろ)にして。さながら悪鬼(あくき)の如(ごと)くなる者(もの)丈(たけ)五 尺計(しやくばかり) にして。握(にき)り太(ふと)なる鉄(てつ)の棒(ばう)を麻殻(おがら)の如(ごと)く打振(うちふ)り。大九郎(だいくらう)を目(め)かけて打(うつ)てかゝる。大九郎(だいくらう) 立向(たちむか)ひ四 尺(しやく)五 寸(すん)の大太刀(おほだち)にて秘術(ひしゆつ)を尽(つく)して戦(たゝか)ひども。たやすく討取(うちとり)がたくおもへければ大(だい) 九郎(くらう)あしらひかねたる体(てい)にもてなし。馬(うま)をかへして逃出(にけいづ)れば敵(てき)は大(おほい)に怒(いか)り鐘(つりがね)の如(ごと)き声(こゑ) を発(はつ)して。驀地(まつしぐら)に追(おひ)かけ来(きた)るを大九郎(たいくらう)仕済(しすま)したりと急(きふ)にふりかへり。大太刀(おほだち)にて横(よこ) さまに薙(なぎ)たりければ。敵(てき)は不意(ふい)を討(うた)れ左(ひだ)りの肩(かた)より胸(むね)のあたりまて切付(きりつけ)られ。馬(うま)よ り下(した)へ落(おち)けるを。大九郎(たいくらう)すかさず馬(うま)より飛下(とびお)り押(おさ)へて首(くび)をぞ掻(かい)たりけり。こゝに於(おゐ) て敵(てき)は四方八方(しはうはつはう)へ逃散(にげちる)を。加藤勢(かとうぜい)追詰(おひつめ)〳〵敵(てき)を討(うつ)ことその数(かず)しれず。扨(さて)斎藤(さいとう)井(ゐの) 上(うへ)は長追(なかおひ)悪(あし)かるべしと人数(にんず)をまとめ。清正(きよまさ)の跡(あと)をしたふて馳(はせ)たりける。かくて清正(きよまさ)は 安辺(あんへん)へと急(いそ)がれしが。後殿(しんがり)の味方(みかた)狄兵(てきへい)と戦(たゝか)ひ。二時計(ふたときばかり)もおくれければ心易(こゝろやす)からずおも ひて木村又蔵(きむらまたぞう)に人数(にんす)五百を添(そへ)てつかはしけるが。途中(とちう)にて逢互(あひたがひ)に歓(よろこ)び打連(うちつれ)かへり来(きた)れ ば。清正(きよまさ)も其働(そのはたら)きを感(かん)じそれより安辺(あんへん)へと引取(ひきと)られける。     秀吉公(ひでよしこう)加勢(かせい)を朝鮮(てうせん)につかはさるゝ事(こと) こゝに秀吉公(ひてよしこう)日本(につほん)の軍勢(ぐんぜい)すでに朝鮮(てうせん)の王城(わうしやう)まで責破(せめやぶ)るといへども。大明(たいみん)の援(ゑん) 兵定(へいさだ)めて来(きた)り助(たす)けずんば有(ある)べからず。其(その)多勢(たぜい)なること必定(ひつぢやう)せりしかる時(とき)には。我兵(わがへい) のすでに渡海(とかい)する処(ところ)十 余万(よまん)なりといへども。なか〳〵以(もつ)て敵(てき)しかたからんか重(かさ)ねて 兵士(へいし)を遣(つかは)すべしと。増田右衛門尉長盛(ましだゑもんのしやうながもり)其兵(そのへい)二千。石田治部少輔三成(いしだじぶしやういふみつなり)其兵(そのへい)二 千。大谷刑部少輔吉隆(おほたにぎやうぶしやういふよしたか)その兵(へい)二千五百。前野但馬守長康(まへのたしまのかみながやす)その兵(へい)千 凡(すべ)て一万七 千二百人を以(もつ)て一 列(れつ)となしたりけり。浅野左京太夫幸長(あさのさきやうたいふゆきなが)その兵(へい)三千。南條左衛門(なんでうさゑもん) 尉(しやう)その兵(へい)一千五百人。中川右衛門太夫秀政(なかがはゑもんたいぶひでまさ)その兵(へい)三千。凡(すべ)て一万五千五百人を一 列(れつ)とす。 岐阜少将(ぎふしやう〳〵)その人数(にんず)八千。羽柴丹後少将(はしばたんごしやう〳〵)その兵(へい)三千五百人。長谷川藤五郎秀一(はせがはとうこらうひてかず) その手勢(てぜい)五千人。木村常陸介(きむらひたぢのすけ)その兵(へい)三千五百。糟屋内膳正(かすやないせんのかみ)その兵(へい)二百。片桐東市(かたきりとういち) 正直盛(のかみなをもり)その兵(へい)二百。凡(およそ)二万五千五百人を以(もつ)て一 列(れつ)となす。こゝに伊達政宗(だてまさむね)は浅野弾(あさのだん) 正長政(じやうながまさ)によつて。同(おな)じく今度(こんと)の人数(にんず)に召加(めしくは)へられ。朝鮮渡海(てうせんとかい)のことを請(こ)ふ。秀吉(ひでよし) 公(こう)これを聞(きこ)し召(めし)。その意(い)にまかせてこれを許(ゆる)され。浅野幸長(あさのゆきなが)に相備(あひそなひ)として渡海(とかい)の 儀(ぎ)をなさしめたり。長盛(ながもり)三成(みつなり)吉隆(よしたか)の三人 秀吉公(ひでよしこう)の御書(ごしよ)をもつて。朝鮮(てうせん)の王城(わうじやう)に至(いた) りて在陣(ざいぢん)の諸将達(しよしやうたち)にこれを示(しめ)せり。その趣(おもむき)は軍兵(ぐんひやう)を進退(しんたい)することいよ〳〵今春(こんはる) 命(めい)ずるところの如(ごと)くにして。先陣(せんぢん)は清正(きよまさ)行長(ゆきなが)相代(あひかは)つてこれを勤(つと)むべし。其余(そのよ)の法(ほう) 令(れい)先立(さきだつ)て定(さだ)むる処(ところ)相違(さうゐ)有(ある)べからす。凡(すべ)ての諸将士(しよしやうし)少(すこ)しも怠惰(たいだ)の意(こゝろ)を生(しやう)せず。朝(てう) 鮮(せん)大明(たいみん)の間(あひだ)に横行(おうきやう)し。その軍法(ぐんほう)を正(たゞ)しくして武備(ぶひ)に油断(ゆだん)すべからす。夫(それ)大明(たいみん)は衣(い) 裳(しやう)文字(もんじ)のみ事(こと)として武備(ぶび)へ油断(ゆだん)のところと聞(きく)。諸将(しよしやう)の勇猛(ゆうまう)なるを以(もつ)て彼国(かのくに)に攻(せめ) 入(い)らんこと。何(なん)の遠慮(ゑんりよ)も無(な)き事(こと)なれば我意(わがこゝろ)安堵(あんど)せしむる処(ところ)なるが。委細(いさゐ)は 石田(いしだ)等(ら)其旨(そのむね)を伝(つた)ふべき由(よし)をぞ書(しる)されける。此時(このとき)秀吉公(ひでよしこう)は名護屋(なごや)海辺(かいへん)の風(ふう) 興(けう)面白(おもしろ)き地(ち)を撰(えら)んで。広(ひろ)さ六七 間(けん)長(なが)さ数(す)百 間(けん)におよびたるを造作(ざうさく)し。畳(たゝみ) の座(ざ)板敷(いたしき)一所々々(いつしよ〳〵)を十 間(けん)に涯(かぎ)りて。厨(くり)や竈爐(かまど)の手遣(てづかひ)よく器皿(きへい)薪炭(しんたん)精米(しらけごめ) 塩梅(しをうめ)の類(たぐ)ひまで。こと〳〵くこれを備(そな)ひ置(おゐ)てその後(のち)近郷(きんごう)の海濱(かいひん)より。漁夫(ぎよふ)蜑郎(あま)【延+女を一字と見るとそれは誤ヵ】 どもを招集(めしあつ)め。此澳(このおき)にし【「し」の横に句点あるは「て」の下の付間違いヵ】て大網(おほあみ)を引(ひか)せつゝ名護屋(なごや)に居住(きよぢゆう)の諸国(しよこく)の軍兵(ぐんひやう)共(ども)。 なが〳〵の在陣(ざいぢん)にてその気(き)の退屈(たいくつ)せんをなぐさめんとのことなりけり。かゝり しかば其(その)触(ふれ)にしたがつて。相集(あひあつま)るところの漁猟(ぎよれう)の師(し)凡(すべ)て数(す)百人におよびけるが。 遥(はるか)に小船(こふね)どもを漕出(こぎいだ)し。大網(おほあみ)を遠(とほ)くより巻(ま)き寄(よせ)たり。さしもに広(ひろ)き蒼(さう) 海(かい)に人(ひと)ならぬところもなし。かくて取集(とりあつ)めたるところの漁蝦(きよか)海物(かいぶつ)浜砂(すなご)の上(うへ)に 引上(ひきあげ)たれば。溌活(おどりはね)ては沫(あは)を噴(は)き喁(くちさし)つとふ鱗(うろくず)共(ども)見(み)なれぬ鬐尾(はたひれ)の。数(かず)をつくし て恰(あたか)も阜山(おかやま)の如(ごと)く積上(つみあげ)たるは。何(なに)にたぐへんやうもなく目(め)をおどろかす有(あり)さまなり。 第一(だいゝち)に大(おほい)なる赤鯛(あかたい)一千 尾(び)をゑらみて。是(これ)を塩(しを)に淹(ひた)し早飛脚(はやびきやく)をもつて禁中(きんちう) に献上(けんじやう)ある。其外(そのほか)は大庁所(おほまんところ)を始(はじ)めとし親王(しんわう)公家(くげ)の所々(ところ〳〵)まで。不残(のこらず)贈(おく)り賜(たまは)り けり。その余(よ)は在陣(ざいぢん)の大名(だいみやう)より以下(いか)の軍兵(ぐんひやう)。諸士(しよし)の族(ともがら)に至(いた)るまで意(こゝろ)にまかせて 食(しよく)せしむ。さればにやさしもに広(ひろ)き仮屋(かりや)〳〵に居(ゐ)あまつて。木(き)の陰(かけ)岩(いわ)の上(うへ)までも 人(ひと)ならずと云(いふ)所(ところ)もなく。おもひ〳〵に料理(れうり)して膾(なます)灸(あぶりもの)炰煎(つゝみやき)品(しな)をつくし。調味(てうみ)せ ずといふことなし。呉江(ごこう)の鱸(すゞき)丙穴(へいいけつ)の鮮味(うをのあぢ)といふとも。此外(このほか)はあるべからずとて各々(おの〳〵) 歓喜(くわんぎ)の興(きやう)を催(もよほ)し。諸将(しよしやう)以下(いか)の士卒(しそつ)まで在陣(ざいぢん)のおもひを忘(わす)るれば。君恩(くんおん)の辱(かたじけ) なきを感(かん)し。秀吉公(ひてよしこう)はまた諸大名(しよたいみやう)の中(なか)に雜(ましは)り出(いで)て笑物語(わらひものがたり)などし。酒茶(しゆちや)の 遊(あそひ)をなし軍士(くんし)の窮(きう)をなぐさめ給ふは。実(じつ)に英雄(えいゆう)名大将(めいたいしやう)の手段(しゆだん)とこそ聞(きこ)へけれ。     小西行長(こにしゆきなか)朝鮮勢(てうせんぜい)を破(やふ)る事(こと) かくて小西行長(こにしゆきなが)は第一(だいゝち)の先陣(せんぢん)なれば。朝鮮王(てうせんわう)の行在所(あんさいしよ)へ押詰(おしつめ)諸将(しよしやう)に増(まさ)りし 功(こう)を顕(あら)はさんと。勇(いさ)み進(すゝ)んで押行(おしゆき)すでに臨津(りんしん)をはなれて五里計(ごりはかり)も行(ゆき)たりけん とおもふ時。朝鮮の将(しやう)申硈(しんきつ)を先鉾(せんほう)として都元帥(とけんすゐ)金命元(きんめいけん)京畿監司(けいきかんし)権徴(けんてつ)【ママ コマ339では「けんてう」とす。】等(ら) 五万 余(よ)の軍(ぐん)を引(ひい)て。臨津(りんしん)にて倭兵(わへい)を防(ふせが)んと押来(おしきた)るにはしなく出合(いてあひ)たり。双方(さうはう) 陣(ぢん)を張(はり)戦(たゝかひ)をいどみけるに。朝鮮勢(てうせんせい)は土地(とち)の案内(あんない)くわしけれはこゝかしこより 討(うつ)て出(いで)て。小西(こにし)が兵(へい)をなやませける故(ゆゑ)行長(ゆきなが)大(おほい)に心(こゝろ)をくるしめ。いく〳〵工夫(くふう)をめ ぐらし一ツの手術(てたて)をなし。陣頭(ぢんとう)に進(すゝ)んで味方(みかた)に下知(げぢ)して戦(たゝ)かはしむ申硈(しんきつ)は元来(もとより) 【右丁】 小西行長(こにしゆきなが)   臨津(りんしん)に 朝鮮(てうせん)の兵(へい)を   大(おほ)いにやぶる 【左丁 絵画のみ】 謀(はかりごと)のなき者(もの)なれば咄(とつ)と喚(おめい)て突(つき)かゝる。日本勢(につほんぜい)もしばしは挑(いど)み戦(たゝか)ひけるが。行長(ゆきなが)は 兵(へい)に下知(げぢ)して引退(ひきしりぞ)く。申硈(しんきつ)は勝(かつ)に乗(のり)備(そな)ひを乱(みだ)して追進(おひすゝ)む。二 陣(ぢん)に有(あり)ける権徴(けんてう) 応寅(おうゐん)も兵(へい)を進(すゝ)めて追(おひ)かけけるを。金命元(きんめいげん)是(これ)を制(せい)しけれども耳(みゝ)にもかけす馳出(はせいだ) す故(ゆゑ)一人にして禁(きん)することあたはず。こゝに応寅(おうゐん)が引率(いんそつ)したりし兵(へい)は常(つね)に北虜(ほくりよ)と 戦(たゝか)ひをなし。軍(いくさ)の虚実(きよじつ)謀(はかりごと)などをもすこしは知(し)りたる者(もの)ともなれば。応寅(おうゐん)に告(つげ)て 云(いふ)やう味方(みかた)の軍士(くんし)今(いま)急(きふ)に追討(おひうつ)こと謀(はかりごと)の可(よ)からざるところあり。よく〳〵敵(てき)の動静(とうせい) を観察(くわんさつ)して後(のち)に進(すゝ)み戦(たゝか)ひ給へといふ。応寅(おうゐん)これを悪(あし)ざまに聞(きゝ)なし。惟(ひと)へに士卒共(しそつとも) の戦労(せんらう)をいとふて。言(ことば)をこゝにかこつけて戦(たゝか)ひをとゞむるとおもへは。何(なん)の遠慮(ゑんりよ)にも及(およ) ばず其(その)頭取(とうどり)となつて。口(くち)をきゝたる者(もの)を捕(とら)へ三人までぞ斬(きり)たりける。金命元(きんめいけん)また 是(これ)をも最(もつと)もよからずとはおもひながら。此(この)応寅(おうゐん)は朝廷(てうてい)より加勢(かせい)として来(きた)りし者(もの) にて。自己(じこ)の武威(ぶゐ)を立(たて)んとおもひ。なか〳〵他(ひと)の節制(せつせい)を承(うく)べき者(もの)にもあらじと おもへば。敢(あへ)て一 言(ごん)の異見(ゐけん)をも云(いは)ざりけり。又(また)応寅(おうゐん)が別将(べつしやう)劉克良(りうこくりやう)といふ者(もの)は。年(とし) すでに老(らう)して兵(へい)に習(なら)へる者(もの)なりしが。つとめて異見(ゐけん)し軽々(かる〳〵)しく進(すゝ)むべからず と云(い)へるを。申硈(しんきつ)これをとらへて下知(げぢ)を違背(ゐはい)して。妄(みだ)りに言(こと)をなす悪(にく)き者(もの)の しかたかなと。すでに罪(つみ)して是(これ)を切(き)らんとす。克良(こくりやう)云(いふ)やう我(われ)髪(かみ)を結(むす)んでより幾(いく) 回(たび)【囘は古字】か軍(ぐん)にしたがふ身(み)の。豈(あに)今更(いまさら)に死(し)を避(さく)るのゆゑを以(もつ)て心(こゝろ)とせんや。如此(かくのごとく)に争(あらそ)ふ 者(もの)は恐(おそら)くは国事(こくじ)をよしなく誤(あやまら)んとする故(ゆゑ)なるのみと。憤(いきどほ)りを含(ふく)んでそれより 己(おの)が兵(へい)を引(ひい)て真先(まつさき)に馳出(はせいだ)す。申硈(しんきつ)等(ら)も人数(にんず)を引(ひい)て日本勢(につほんぜい)を追(おひ)かくる。小西(こにし) が兵(へい)どもは兼(かね)て相図(あひづ)のことなれば。敵(てき)の追来(おひきた)るを見(み)るよりわざと取物(とるもの)もとり あへず。冑(かぶと)を落(おと)し兵器(へいき)を打棄(うちす)て乗(のつ)たる馬(うま)に鞭(むち)うち。逸足(いちあし)を出(いだ)して逃(のが)れ行(ゆく) 申硈(しんきつ)等(ら)この体(てい)を見(み)るより。実(じつ)に逃(にぐ)ると心得(こゝろえ)れば何(なん)の思案(しあん)もなく備(そな)ひを混(みた) して追(おひ)かけたり。既(すで)に両山(りやうさん)相聳(あひそび)へわづかに一條(ひとすじ)の広路(ひろみち)ある所(ところ)を。はや五六 町(ちやう)ほども 行過(ゆきすぎ)ぬらんとおもふ時(とき)。兼(かね)て小西(こにし)が先(さき)だつて宗義智(そうのよしとし)と。己(おの)が舎弟(しやてい)主殿助(とのものすけ)木(き) 戸作右衛門(とさくゑもん)の三人 兵(へい)を二 手(て)となして。左右(さいふ)の山(やま)に伏兵(ふくへい)となつて隠(かく)れ居(ゐ)たるが。 今(いま)敵(てき)すでに此所(このところ)を過(すぐ)ると見(み)るより時分(じぶん)はよしと。貝金太鼓(かいがねたいこ)を一 度(ど)にならし 鉄炮(てつはう)の筒先(つゝさき)を揃(そろ)へて打(うち)かけ。左右(さいふ)より起(おこ)り一 手(て)は山路(やまぢ)の敵(てき)を後(うしろ)よりとゞめ。 一 手(て)は朝鮮(てうせん)後軍(ごぐん)のつゞくを立切(たちきつ)てこれを討(うち)。はじめ敗(はい)せし小西(こにし)が兵(へい)も頓(やが) て備(そな)ひをもりかへし。朝鮮(てうせん)の兵(へい)を中(なか)に取(とり)こめ責立(せめたつ)れば。朝鮮勢(てうせんぜい)大(おほい)に驚(おどろ)き 崩(くづ)れ立(たつ)を。劉克良(りうこくりやう)はすこしも譟(さわ)がず馬(うま)より下(くだ)つて。吾死(わがし)すべきのところ 爰(こゝ)にありとつぶやきながら。矢束(やづか)を解(とい)て推乱(おしみだ)し弓(ゆみ)の弦(つる)噛湿(くひしめ)しさしとり 引(ひき)つめ日本勢(につほんぜい)を射斃(ゐたふ)しける。此時(このとき)小西主殿助(こにしとのものすけ)馳寄(はせより)克良(こくりやう)を討(うた)んとす。 克良(こくりやう)是(これ)を見(み)て十分(じふぶん)に引(ひき)しぼり。切(きつ)て放(はな)ては主殿助(とのものすけ)が胸金物(むなかなもの)にはつしと当(あた)る。 されども鎧(よろい)の札(さね)やよかりけん。裏(うら)かくまでには有(あら)ざりける。克良(こくりやう)二の矢(や)をつかへ んとなしけるところへはやくも主殿助(とのものすけ)駈寄(かけより)兜(かふと)の天返(てつへん)をしたゝかに切付(きりつけ)たれば。何(なに) かはもつてたまるべきつゐに爰(こゝ)にて討(うた)れける。朝鮮(てうせん)の後軍(ごぐん)討(うち)もらされの者(もの)どもは。 かへし合(あは)せて敵(てき)をさゝへ大将(たいしやう)の死(し)を援(すく)はんとする心(こゝろ)なく。惟(たゞ)はしりに走(はし)りて右往(うわう) 左往(ざわう)に遁(のが)れ去(さ)り。日本勢(につほんぜい)に討(うた)るゝ者(もの)数(かず)しれず。申硈(しんきつ)も今(いま)は叶(かな)はぬところと覚悟(かくご) なし。剣(けん)【釼は俗字】を振(ふり)て日本勢(につほんせい)の中(なか)へ切(きつ)て入(いる)しばしがほどは。戦(たゝか)ひしが乱軍(らんぐん)の中(なか)にて討(うた)れ ける。また命元(めいげん)応寅(おうゐん)は此有(このあり)さまを見(み)るより大(おほい)に英気(えいき)を喪(うしな)ふて。顔色(かんしよく)春菜(あをな)の 如(こと)くになり。如何(いかゞ)はせんと詮方(せんかた)尽(つき)て居(ゐ)たりける時(とき)。折(をり)ふし商山君(せうさんぐん)朴忠侃(はくちうかん)といへる 大臣(たいじん)も適(たま〳〵)来(きた)つて陣中(ぢんちう)に在(あ)りけるが。かゝる有(あり)さまを見(み)るよりも大(おほい)に驚(おどろ)き。馬(うま)に打乗(うちのり) 走(はし)り行(ゆく)を軍兵(くんびやう)どもは。只(たゝ)金命元(きんめいけん)が走(はし)るぞと見(み)るより元帥(げんずゐ)すでに走(はし)り給ふに。 みな〳〵逃(にげ)よといふを聞(きく)より朝鮮勢(てうせんぜい)。誰(たれ)か一人とゝまるべき我先(われさき)にと散乱(さんらん)し ければ。金命元(きんめいけん)応寅(おうゐん)も今(いま)は是(これ)までなりと。是非(ぜひ)なく朝鮮王(てうせんわう)の行在所(あんざいしよ)をさして 走(はし)りける。又(また)京畿監司(けいきかんし)権徴(けんてう)は加平郡(かへいくん)に入(いつ)て乱(らん)を避(さ)けたり。日本(につほん)の軍将(ぐんしやう)こゝに おゐて勝(かつ)に乗(のり)西(にし)の方(かた)に下(くだ)り伐(うつ)。その勢(いきほ)ひまことにもつて竹(たけ)をわるが如(こと)くに見(み)へにける。     李鎰(りいつ)行在所(あんざいしよ)に到(いた)る事(こと) 扨(さて)また李鎰(りいつ)は忠州(ちくしう)に有(あり)けるに。日本勢(につほんぜい)のために忠州(ちくしう)の軍(いくさ)破(やぶ)れければ。是非(ぜひ)なく江(え)を 渡(わた)り江原(こうけん)の堺(さかひ)に到(いた)り。其(それ)より道(みち)を転(めぐ)りて行在所(あんざいしよ)に至(いた)りける。此時(このとき)朝鮮(てうせん)の諸将(しよしやう) どもみな〳〵南方(なんばう)に馳向(はせむか)つて敵(てき)を防(ふせ)ぎたりけるに。或(あるひ)は討(うた)れあるひは又(また)逃(のが)れ走(はし) り今(いま)は一 人(にん)として御 ̄ン駕(かこ)に相(あひ)したがふの者(もの)なかりしに日本(につぼん)の兵将(へいしやう)は日々(ひゞ)に盛(さか)んにして 今(いま)にも押寄(おしよせ)なんと。譟動(さうどう)するの折(をり)なりければ人心(しんしん)まさに驚(おどろ)きおそれ。頼(たの)みなき 折(をり)に当(あた)り李鎰(りいつ)がこゝにかへり至(いた)るに。李鎰(りいつ)はもとより武将(ぶしやう)の中(なか)にも重名(おもきな)のある 者(もの)なる故(ゆゑ)。破(やぶ)れ奔(はしり)し後(のち)とはいへども人々(ひと〳〵)そのかへり来(きた)ると聞(きく)よりも。忽(たちま)ちに意(こゝろ)つ よくなりみな〳〵大(おほい)に歓(よろこ)びける。李鎰(りいつ)しば〳〵軍(いくさ)に打負(うちまけ)て逃奔(とうほん)したりし其後(そのゝち) は。昼(ひる)は荊棘(けいきよく)の中(なか)にかくれて倭人(わじん)の多(おほ)き目(め)をふせぎ。捕(とら)へられじと忍路(しのびぢ)の風雨(ふうう)を 凌(しの)ぐ便(たより)に。平涼子(けかし)一ツを頭(かうべ)に戴(いたゝ)き身(み)には白布(はくふ)の衫(ころも)を着(ちやく)し。草履(くさのくつ)の穿(かけ)たるを やう〳〵に足(あし)に著(つ)け。形容(けいよう)憔悴(しやうすゐ)せる有(あり)さまにてやう〳〵に。敵中(てきちう)多(おほ)くの艱難(かんなん)を逃(のが)れ 来(きた)る物(もの)がたりを、涙(なみた)ながらに語(かた)るを聞者(きくもの)嘆息(たんそく)し。まことに此比(このころ)は君(きみ)一人より民(たみ)百 姓(しやう)まで。身(み)の変改(へんかい)の憂(うれ)ひにあふ定(さた)めなき世(よ)のならひかなと。打驚(うちおどろ)かぬ人(ひと)もなし柳(りう) 成龍(せいりゆう)は李鎰(りいつ)に向(むか)ひ。只今(たゞいま)こゝに集会(しふくわい)の貴賎(きせん)いづれもともに君(きみ)に依(より)てたのみをかけ 鉄楯(くろがねのたて)をつきたるおもひをなせるに。如此(かくのことく)枯槁(ここう)衰体(すゐたい)の風情(ふぜい)にては何(なん)ぞ衆人(しゆうじん)の志(こゝろざし)を しつめ堅(かた)むることを得(う)べきやと成龍(せいりう)藍色(あいいろ)なる紗衣(うすものゝきぬ)を取出(とりいだ)してこれに与(あた)ふ ればこゝに於(おゐ)て一 座(ざ)の諸大臣(しよだいじん)もあるひは騣笠(けかさ)をあたへ。或(あるひ)は銀頂子(きんのびやううつ)彩纓(たまかむりもの)をあ たふる者(もの)も有(あつ)て。当面(まのあたり)衣服(いふく)の飾(かざり)をあらため換(かへ)ひとへに。新粧(しんそう)の大将軍(たいしやうぐん)とはなり たれども。靴(くわ)一 色(いろ)を与(あたふ)るものゝなき故(ゆゑ)に。猶(なほ)も単(ひとへ)の履(くつ)をつけたりける成龍(せいりう)笑(わら) つて。錦衣(きんい)を着(ちやく)せる大臣(たいじん)として草履(くさくつ)をはけることの称(かな)はずやと云(いひ)ければ。満座(まんざ) 笑(わら)ひどよめきしばしの憂(うさ)を忘(わす)れける。    李鎰(りいつ)義統(よしのり)【綂は俗字】が兵(へい)を防(ふせ)ぐ事(こと) こゝに碧潼(へきとう)の兵士(へいし)任旭景(じんきよくけい)あはたゞく来(きた)り報(はう)じて。倭賊(わぞく)すでに鳳山(ほうさん)まで至(いた)る といふ柳成龍(りうせいりゆう)は尹相(いんしやう)にむかひ。倭賊(わぞく)の物見(ものみ)すでに江外(こうくわい)に至(いた)るといへば。定(さだ)めて方々(はう〳〵)の渡(わたり) 場(ば)までも穿鑿(せんさく)せんにはきはまりたり。それにつゐては此間(このあひだ)詠帰楼(ゑいきろう)の下(した)なる江水(こうすゐ) の水岐(みつまた)わかれて。二《割書:タ》すじとなつて流(なが)る故(ゆゑ)に此所(このところ)水浅(みつあさく)して渉(わた)りやすかるべし。万(まん) 一 賊兵(ぞくへい)我民(わかたみ)をとらへて得(え)て案内者(あんないじや)となし。暗(あん)にこゝを渡(わた)りてにはかに至(いた)るほど ならば。此城(このしろ)もつとも危(あやう)かるべし急(きふ)に李鎰(りいつ)をつかはし。往(ゆ)き向(むか)つて浅瀬(あさせ)の ところを防(ふせ)かせ。もつて不測(ふしぎ)の憂(うれ)ひを警(いまし)め備(そな)ひさらんやと云(い)ひければ。尹公(いんこう)も 是(これ)を然(しか)りとし。即(すなは)ち李鎰(りいつ)をつかはすべきに定(さだま)りて是(これ)をやる。李鎰(りいつ)が率(ひき)いる ところの江原(こうけん)の軍兵(ぐんひやう)わづかに数(す)十 余人(よにん)有(あり)けるに。他(た)の軍兵(ぐんひやう)七百 余人(よにん)をさし添(そへ) たり。李鎰(りいつ)はすでに含毬門(かんきうもん)の外(そと)に座(ざ)し。兵士(へいし)の点撿(てんけん)をなしたりけるが。如(い) 何(かゞ)意(こゝろ)の臆(おく)したりけん。遅々(ちゝ)におよび行列(ぎやうれつ)をすゝめかねて居(ゐ)たりしを。柳成(りうせい) 【右丁 絵画のみ】 【左丁】 黒田(くろだ)  大友(おほとも)の  両将(りやうしやう)平壌(へくしやく)に    至(いた)る 龍(りやう)は事(こと)急(きう)なりとおもひし故(ゆゑ)。人(ひと)をつかはして李鎰(りいつ)が軍(いくさ)は発(はつ)したりや。見(み)て 来(きた)れと云(いひ)ければ使者(ししや)は命(めい)をうけて出行(いでゆき)しが。直(たゞち)に馳戻(はせもど)りて云(いふ)やういまだ門上(もんじやう)の 矢倉(やぐら)の上(うゑ)にありと云(いふ)。柳成龍(りうせいりやう)はしきりに心(こゝろ)をいらだて。尹斗寿(いんとしゆ)へ此旨(このむね)を告(つげ)やり て急(きふ)に李鎰(りいつ)を催促(さいそく)せしむ。李鎰(りいつ)すでに行(きやう)を発(はつ)すといへども道(みち)の案内(あんない)しらざ るゆゑ。その方角(はうかく)をあやまつて江西(こうさい)の方(かた)に馳向(はせむか)ふ。中途(ちうと)にして平壌城(へくしやくじやう)の番兵(ばんへい)の 座頭(さがしら)金胤(きんいん)といへる者(もの)が。外(ほか)より来(きた)るに出会(いであひ)てその道(みち)を問(とひ)ければ。金胤(きんいん)聞(きい)て これは方角(はうがく)ちがひたり。此方(こなた)へ馳(はせ)られ候 得(え)とて真先(まつさき)に馬(うま)を馳(は)せ。その道筋(みちすぢ)を案(あん) 内(ない)なしける故(ゆゑ)李鎰(りいつ)が人数(にんず)馬(うま)に鞭(むち)をくわへて馳(はせ)たりければ。すでに万頂臺(はんけうだい)の 下(した)に至(いた)りたり。平壌城(へくしやくじやう)をはなるゝ事(こと)わづかに十 余里(より)ばかりにして。江南(こうなん)の岸頭(がんとう) を望(のそ)み見(み)れは。早(はや)日本(につほん)の兵将(へいしやう)数(す)百 騎(き)馬(うま)に白泡(しらあは)はませて駈来(かけきた)る。此筋(このすぢ)へ馳(はせ) 向(むか)ふは大友(おほとも)黒田(くろだ)の両手(りやうて)の兵(へい)なり。江中(こうちう)の小島(こじま)に居(きよ)をなせる村民(そんみん)ども日本人(につほんじん) の寄(よ)するを見(み)るより。慌(あは)て譟(さは)ぎ呼(よび)なげきて我先(われさき)にと落失(おちうせ)けり。李鎰(りいつ)は是(これ) を見(み)るよりも。精兵(せいへい)の射手(ゐて)二十 餘人(よにん)をすぐりて早(はや)く島中(とうちう)に入(いれ)。これを速(すみやか)に射(ゐ) 立(たて)よと下知(げぢ)すれば。軍士(ぐんし)ども日本勢(につほんぜい)の猛勢(まうせい)なるに。おそれをなして進(すゝ)みかね たりしかば。李鎰(りいつ)は大(おほい)に怒(いか)り憤勇(ふんゆう)の相(さう)をあらはし。腰(こし)なる剣(けん)【釼は俗字】をするりと 抜(ぬい)て一人を斬(き)らんとすれば。兵士(へいし)とも大(おほい)におどろき我先(われさき)にとすゝみ行(ゆき)。島上(とうじやう)に 駈上(かけあが)り矢先(やさき)を揃(そろ)へて。一 度(ど)に射立(ゐたて)すき間(ま)あらせず防(ふせ)ぎけるゆゑ。義統(よしのり)が先(さき) 手(て)の兵(へい)ども六七 騎(き)。馬(うま)より下(した)へ射倒(ゐたふ)されければ。日本勢(につほんぜい)も此勢(このいきほ)ひに辟易(へきゑき) し。つゐに岸頭(がんとう)をば引退(ひきしりぞ)きたり。李鎰(りいつ)はこの一軍(ひといくさ)に勝(かち)を取(とり)たる心地(こゝち)して。弥(いよ〳〵) 兵士(へいし)をはげまして此所(このところ)を守(まも)りける。    遼東(れうとう)の李時孳(りじじ)朝鮮(てうせん)を窺見(うかゝひみ)る事(こと) 大明(たいみん)遼東(れうとう)の都司官(としくわん)李時孳(りじじ)は。朝鮮王(てうせんわう)倭国(わこく)の難(なん)をうくる事(こと)既(すで)に急(きふ)也(なり) と聞(きこ)えけれども。いまだ大明(たいみん)の朝廷(てうてい)より兵(へい)を出(いだ)すべきの。命令(めいれい)の到(いた)らざれども 朝鮮国(てうせんこく)よりは。天朝(たんてう)の援兵(ゑんへい)を乞(こふ)ことしきりにして。又(また)遼東(れうとう)へもこの事(こと)を 急々(きふ〳〵)になげき告報(つけはう)ずること。数度(すど)におよべど大明(たいみん)の命令(めいれい)もなくては。兵(へい)を出(いだ)す ことかなはねば。兼(かね)てその仕度(したく)をば調(とゝの)へおきて。その一 左右(さう)を待(まち)たりけるがそれに就(つき) ては。先立(さきたつ)て日本人(につほんじん)の情(じやう)をも捜(さぐ)り見(み)。戦(たゝか)ひの虚実(きよじつ)をも計(はか)りしるべきためぞと て。鎮撫官(ちんぶくわん)林世禄(りんせいろく)といへる者(もの)をして平壌城(へくしやくじやう)へつかはして。朝鮮(てうせん)の君臣(くんしん)の動静(どうせい) を窺(うかゞ)はしむ。朝鮮国(てうせんこく)李㫟(りえん)はいそぎ林世禄(りんせいろく)を。大同館(だいどうくわん)にこれをむかへて早速(さつそく) 対面(たいめん)ある。此時(このとき)に柳成龍(りうせいりやう)は去(さん)ぬる五月よりして。左承相(さしやう〳〵)の官(くわん)をやめられたり しか彼(かれ)が忠心(ちうしん)の違(たが)はざるに依(よつ)て。再(ふたゝ)び官(くわん)に叙(しよ)せられ此日(このひ)に当(あた)りて。大明(たいみん)の将(しやう)を 馳走(ちさう)する役人(やくにん)たらしむ。遼東(れうとう)の都官(とくわん)倭人(わじん)の来(きた)つて朝鮮(てうせん)を犯伐(ほんばつ)することあり と先(さき)たつて聞(き)けりといへどもその月日(つきひ)を重(かさ)ぬる事(こと)。未(いま)だ久(ひさ)しき事(こと)ならねば 急(きふ)なりといへども猝遽(にはか)にして如此(かくのごとく)なるべしとはおもはざりしに。京都(きやうと)の守(まも)り つゐにかなはず。王(わう)の駕(か)こゝに西(にし)に遷(うつ)ると告(つぐ)るのみか。既(すで)に日本(につほん)の兵(へい)はや平壌(へくしやく) の境内(きやうない)に入(い)りぬといへるを聞(きゝ)て。甚(はなは)だ是(これ)を疑(うたが)ひその疑心(きしん)の余(あま)りには。或(あるひ)は朝鮮(てうせん) かへつて倭(わ)の導引(みちひき)たれども。大明(たいみん)の聞(きく)を憚(はゞか)り倭兵(わへい)のために寇(あだ)せられて。偽(いつは)りて 没落(ぼつらく)せりといへるは。皆(みな)是(これ)謀計(ばうけい)たらんなどゝいふ族(やから)も多(おほ)かりける故(ゆゑ)に。世禄(せいろく)一人 使(つかひ)として今(いま)来(きた)れるは。そのやうすを窺(うかゞ)はんためなりけりと聞(きこ)へける。柳成龍(りうせいりやう)は 馳走人(ちさうにん)の役(やく)たれば世禄(せいろく)ともろともに。練光亭(れんくわうてい)の上(うへ)に登(のほ)り敵(てき)の形勢(ありさま)を望(のぞ)み。 察(さつ)するに一人の日本(につほん)の兵卒(へいそつ)。江東(こうとう)の林木(りんぼく)の間(あひだ)より忽(たちま)ちあらはれ。又(また)乍(たちま)ち隠(かく)れて 遥(はるか)に城(しろ)のやうすを窺(うかゞ)ひしが。しばらくあれば同(おな)じく倭(わ)の兵(へい)二三人。跡(あと)よりつゞひて あらはれ出(いで)。あるひは座(ざ)し或(あるひ)は立(たつ)てその意(こゝろ)安閑(あんかん)たる風情(ふぜい)をなすは。さながら行(みち) 路人(ゆくひと)の休足(きうそく)するに異(こと)ならず。柳成龍(りうせいりやう)は林世禄(りんせいろく)に対(たい)して。あれ御覧(ごらん)ぜよ倭軍(わぐん)よ りさしつかはすところの斥候(ものみ)の者(もの)なり。日本人(につほんじん)の意(こゝろ)もとより巧(たく)み詐(いつは)り多(おほ)くして。大(たい) 兵(へい)後(あと)にありといへども。先立(さきたて)るに物見(ものみ)の者(もの)をもつて遠(とほ)くすゝませ。敵(てき)の動静(やうす)を窺(うかゞ) はすに。その人数(にんず)二三人の間(あひだ)にすきず是(これ)を小物見(こものみ)といふといへり。若(もし)彼等(かれら)少(すこ)しき 兵(へい)とて敵(てき)の方(かた)に油断(ゆだん)すれば。後(あと)より大兵(たいへい)つゞき来(きた)りて攻撃(せめうつ)ことをなせりと。 かや。実(まこと)にゆるがせにすべからず。偏(ひとへ)に天朝(てんてう)の援兵(ゑんへい)を給(たま)はらんこと是(これ)願(ねが)ふところ なりと。憂(うれ)ひ訟(うつた)ふれば林世禄(りんせいろく)もこれを最(もつとも)と同(どう)じ。急(いそ)ぎかへりて天朝(てんてう)に訟(うつた)んと 急(いそ)ぎ馬(うま)に鞭(むち)うつて遼東(れいとう)さしてかへりける。すでに日本勢平壌(につほんぜいへくしやく)の境内(きやうない)に入(いる) のよし聞(きこ)へければ。平壌(へくしやう)の守(まも)りのため左相尹斗壽(さしやういんとじゆ)に命(めい)じ。都元帥金命元巡(とけんすゐきんめいけんじゆん) 察使李元翼等(さつしりげんよくとう)の令(れい)して。府城(ふじやう)の守(まも)りとなさしめたり是(これ)より數日前(すじつまへ)に。平壌(へくしやう) 城中(じやうちう)に籠(こも)るところの人民倭兵(じんみんわへい)の責來(せめきた)ると聞(きゝ)て。車駕他所(しやがたしよ)に遷(うつ)らんとすと いふよりおの〳〵我先(われさき)にと遁(のが)れ散(さん)ずれば。閭里(むらさと)の民人家(みんしんいへ)を明(あ)けほとんと今(いま)は虚(むな) しき村落(むくらい)とならんとす。朝鮮王李㫟(ていさんわうりえん)は太子(たいし)に命(めい)おへて大同館(たいどうくわん)の楼門(らうもん)に登(のぼ) り。城中(じやうちう)の父老(としより)どもを召(め)され此城(このしろ)を明(あ)け他(た)へまた臨幸(りんこう)あらんとは。誰(た)がかく云出(いひいだ) したりしことなるぞ。嘗(もと)よりかゝる御沙汰(ごさた)はなし。只何日(たゝいつ)までも此城(このしろ)をかたく 守(まも)り給(たま)はんとも。上(かみ)の御 心(こゝろ)なれば意(こゝろ)やすく存(ぞん)じ候へと示(しめ)し給(たま)へば。父老(としより)どもは館下(くわんか) に進(すゝ)みすゝんで。東宮(とうぐう)の仰(おほ)せばかり承(うけ給は)りては。民(たみ)の心(こゝろ)よくもこれを信(しん)し申すまじ。必(かなら)ず 聖上(せいしやう)の親(みづか)ら御 出(いて)あつて勅命(ちよくめい)なくば叶(かな)ふべからずと。口(くち)を揃(そろ)へて奏(そう)する故(ゆゑ)是非(せひ) なく。朝鮮王(てうせんわう)館門(くわんもん)に登(のぼ)らせ給ひて承旨(ぢやうじ)の官(くわん)をして此(この)むねを仰(おほ)せらるゝに 父老(としより)ども数(す)十人 堂下(とうか)に拝伏(はいふく)して。勅命(ちよくめい)を畏(かしこま)りて退(しりそ)きける。この故(ゆゑ)に平壌(へくしやく)の 者(もの)ども大(おほい)に歓(よろこ)び。それより方々(はう〳〵)に人(ひと)をつかはし老若男女(らうにやくなんによ)山谷(さんこく)の間(あひた)に隠(かく)れ居(ゐ)たる 者(もの)どもを。招(まね)き集(あつ)め。こと〳〵く城内(じやうない)に入(いり)たれば又(また)城中(じやうちう)に人(ひと)満(みち)て。元(もと)の人居(じんきょ)となりに ける。しかるに日本(につほん)の斥候(ものみ)時々(とき〳〵)大同江(たいとうこう)辺(へん)に形(かた)ちをあらはしけるよし。潜言(ひそめく)を聞(きく) より諸臣(しよしん)惧(おそれ)を生(しやう)じ。宰臣(さいしんか)盧稷等(ろしよくら)廟中(へうちう)の神主(じんしゆ)なんどを取(とり)もち。己(おのれ)が同志(どうし)の 者(もの)ともを引(ひき)つれ。道(みち)を求(もと)めて落行(おちゆか)んとす城中(じやうちう)の民(たみ)ども是(これ)を見(み)て。大(おほい)に怒(いか)り刃(やいば)を 取(とつ)て盧稷等(ろしよくら)が遁(のかれ)んとする路頭(ろとう)を遮(さへき)り。おもひ〳〵に打(うち)たゝきすでに廟社(べうしや)の神(じん) 主(しゆ)をも地上(ちしやう)にたゝき墜(おと)され逃行(にげゆき)ける。また堂上(とうしやう)に向(むか)つて大音(だいおん)に罵(のゝじ)りけるは。汝等(なんぢら) 平生(へいせい)国(くに)の禄(ろく)を食(しよく)しながら。その政(まつりごと)をも正(たゞ)しうせず如此(かくのごとく)に国(くに)を誤(あやま)る。今(いま)また民(たみ) を欺(あさむ)きてかたく此城(このしろ)を守(まも)らんとすと云(いひ)たるに。間(ま)もなく落行(おちゆか)んと欲(ほつ)するやと云(い)ひ 詈(のゝし)り怒(いか)り。兵杖(へいぢやう)をもつて人(ひと)に遇(あは)ば人(ひと)をたゝき貴人(きにん)高官(かうくわん)と見(み)るときは。なほ〳〵強(つよく) くこれを打(うち)婦女(ふぢよ)幼稚(えうち)の輩(ともがら)まで。みな〳〵怒髪(いかるかみ)さか立(たち)號(さけ)びけるは。かく城(しろ)を棄(すて)んとせ んに。何故(なにゆゑ)我等(われら)を欺(あざむ)き呼(よ)んで城(しろ)に入(いれ)賊(ぞく)の手(て)に殺(ころ)さしめんとはかれるやと。声々(こゑ〳〵)に呼(よば)はり ける故(ゆゑ)諸大臣(しよだいじん)みな〳〵色(いろ)を失(うしな)ひ。これを禁(きん)ずれども更(さら)に止(やむ)ことなし柳成龍(りうせいりやう)おもふ やう此(この)有(あり)さまにては乱民(らんみん)どもの庭中(ていちう)まで押入(おしい)らんかと心(こゝろ)をいため門外(もんくわい)の階(きさばし)の上(うゑ)に 立出(たちいて)て。その中(なか)をつく〳〵見(み)れば年(とし)長(ちやう)じて髯(ひけ)多(おほ)き男(おとこ)のあり如何(いか)にも此(この)乱民(らんみん)どもの 頭(かしら)と見(み)へける故(ゆゑ)成龍(せいりやう)乃(すなは)ち手(て)をあげて是(これ)を招(まね)けば其男(そのおとこ)乃(すなは)ち進(すゝ)み来(きた)るこれは此(この) ところの下役人(したやくにん)と聞(きこ)へける成龍(せいりやう)此者(このもの)に諭(さと)して云(いふ)汝等(なんちら)如此(かくのことく)に憤(いきどほ)りを発(はつ)するは実(まこと)に 忠義(ちうぎ)の志(こゝろざし)と云(いゝ)つべし感心(かんしん)なきにあらず。しかるに是(これ)によつてかへつて乱(らん)をなし宮内(きうない)をお どろかし擾(みだ)すに至(いた)れる条(でう)。甚(はなは)だ以(もつ)て相違(あひたがひ)駭入(おどろきいつ)たることどもなり。主上(しゆじやう)すでに汝等(なんぢら)が為(ため) に籠城(らうじやう)のことを以(もつ)て許(ゆる)され給ふ上(うへ)は。何(なん)の違(たが)ひかあらん早(はや)く此(この)趣(おもむ)きを以(もつ)て。衆人(しゆうじん)に 諭(さと)し此(この)譟動(さうどう)をしづむべし。若(もし)また退(しりそ)かずんば汝(なんぢ)か輩(どもから)重罪(ぢゆうざい)なれば赦(ゆる)すべからずと。 云(い)ひければ彼男(かのおとこ)持(もつ)たる矛(ほこ)を打捨(うちすて)て手(て)をおさめつゝしんで云(いふ)。小民(しやうみん)等(ら)城(しろ)を棄(すつ)るの説(せつ)を 聞(きい)てその憤(いきどほ)りしのびかたく。妄(みだ)りに動(うご)くこと如此(かくのごとく)なり今(いま)大臣(だいじん)の言(ことは)を承(うけ給は)る。小人(しやうじん)まことに 理(り)をしらぬ者(もの)たりと申(まう)せども。心中(しんちう)安堵(あんと)仕(つかまつ)りたりと大(おほい)に悦(よろこ)べる顔色(かんしよく)して。衆人(しゆうじん)を引(ひい) て退(しりぞ)きたり。されども猶(なほ)朝臣(てうしん)は日本勢(につほんぜい)の来(きた)らんことをおそれ。出(いで)て走(はし)らんといふより 外(ほか)の量見(りやうけん)もなかりけり。中(なか)にも寅城府院君(いんじやうふゐんくん)鄭徹(ていてつ)しきりに城(しろ)を棄(すて)て。他(た)へ遷幸(せんこう)あ らんことを相議(あひはか)る。柳成龍(りうせいりやう)さま〳〵理(り)をつくして是(これ)を止(とゞ)め。しばし籠城(らうしやう)する内(うち)には 大明(たいみん)よりの援兵(ゑんへい)も来(きた)らん。今(いま)城(しろ)を棄(すて)て落(おち)給はんには。是(これ)より義州(ぎしう)の地(ち)に至(いた)るまで 更(さら)に拠(よ)るべき地(ち)なくして。其勢(そのいきほ)ひ必(かなら)ず国(くに)を亡(ほろぼ)すに至(いた)らんといへば。左相(さしやう)尹斗壽(いんとじゆ)は此議(このぎ)に 同(どう)じぬ。柳成龍(りうせいりやう)また鄭徹(ていてつ)にむかひ平生(へいぜい)常(つね)におもひしは。公(こう)慷慨(かうがい)の慍(いきどほり)を発(はつ)し難易(なんい)を 避(さ)けず。国家(こくか)のために身(み)を殺(ころ)して。冠(あだ)を防(ふせ)ぐべきの器量(きりやう)なりとおもひつるに。豈(あに)思(おも)は んや今更(いまさら)その議(ぎ)の如此(かくのごとく)ならんとはと。はげませども一 言(ごん)の返荅(へんたふ)をもなさばこそ。また 尹斗壽(いんとじゆ)は彼(かの)文山(ふんさん)が詩(し)を吟詠(ぎんゑい)し。我欲(われほつす)_三借(かりて)_レ剣(けんを)斬(きらんと)_二佞臣(ねいしんを)_一といふを聞(きゝ)。鄭徹(ていてつ)はつゐに その座(ざ)にたまらず。大(おほい)に怒(いか)り顔色(がんしよく)して袂(たもと)を奮(ふる)つて立去(たちさ[り])けり 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之八《割書:終|》 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之九      目録  一 清正(きよまさ)征東使(せいとうし)伯寧将軍(はくねいしやうぐん)を擒(とりこ)にする事(こと)  一 東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)両王子(りやうわうし)にまみゆる事(こと)  一 黒田長政(くろだながまさ)が先勢(さきぜい)狼川(らうせん)にて軍(いくさ)の事(こと)  一 小早川隆景(こはやかはたかかげ)普州城(しんしうじやう)をかこむ事(こと)  一 行長(ゆきなが)書(しよ)を朝鮮王(てうせんわう)へ贈(おく)る事(こと)  一 行長(ゆきなが)数度(すど)和議(わき)を欲(ほつ)する事(こと) 【白紙】 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之九        清正(きよまさ)征東使(せいとうし)伯寧将軍(はくねいしやうぐん)を擒(とりこ)とする事(こと) かくて加藤主計頭清正(かとうかすべのかみきよまさ)は。兀良哈人(おらんかいじん)を打破(うちやぶ)り安辺(あんへん)ちかく引上來(ひきあげきた)りける処(ところ) に朝鮮四道(てうせんしどう)の元帥(げんすい)征東使(せいとうし)伯寧将軍(はくねいしやうぐん)といへる者(もの)。此道(このみち)へ落來(おちきた)り瓶愈浦(へいゆうほ) といふところに隠居(かくれゐ)て。しきりに軍兵(ぐんひやう)を集(あつ)め清正(きよまさ)の帰路(きろ)をさへぎらんとする よし聞(きこ)へければ。清正(きよまさ)おもふやう味方(みかた)の兵(へい)にくらぶれば。敵(てき)は自国(じこく)のことゆゑ定(さだめ)て 大勢(たいぜい)ならん。兵(へい)の少(すくな)きを見(み)すかされなば戦(たゝか)ひ難義(なんぎ)なるべし。敵(てき)より寄(よせ)ざる 先(さき)に此方(こなた)より押寄(おしよせ)。打散(うちちら)さんにしかじと思慮(しりよ)をなし。諸将(しよしやう)へ其旨(そのむね)をしめし夫(それ)より 所(ところ)の者(もの)を案内者(あんないじや)となし。先陣(せんぢん)は鵤平治(いかるがへいぢ)。井上大九郎(ゐのうへだいくらう)。小代下総守(こしろしもふさのかみ)の三人 相備(あひそなひ)となし征東使(せいとうし)が籠(こも)りたる。島鶏館(とうけいくわん)といへる山(やま)へ押寄(おしよす)る此時(このとき)兀良哈人(おらんかいしん) 月縁(げりす)といふ者(もの)。伯寧(はくねい)が催促(さゐそく)によつて兵(へい)を引(ひい)て島鶏館(とうけいくわん)へ来(きた)りけるが。今(いま)日(につ) 本勢(ほんぜい)の押(おし)かゝるを見(み)て。横合(よこあひ)よりかゝり来(きた)る清正(きよまさ)が家老(からう)。加藤与左衛門(かとうよざゑもん)黒(くろ) 革威(かはおど)しの腹巻(はらまき)に。中二段(なかにだん)紫糸(むらさきいと)にておどしたる大袖(おほそで)つきの鎧(よろひ)を着(ちやく)し。刃(は) 渡(わた)り一 尺九寸(しやくくすん)の菊(きく)一 文字(もんじ)の長刀(なぎなた)を取(とつ)て。手勢(てぜい)二百人 余(あま)りを下知(げぢ)し向(むか)ひ合(あは)せて 突(つき)かゝる。兀良哈人(おらんかいじん)半弓(はんきう)をきびしく射(ゐ)かくるゆゑ。味方(みかた)の兵(へい)すゝみかねて見(み)へたり ける時(とき)。赤星太郎兵衛(あかぼしたろべゑ)手勢(てぜい)を引(ひい)て馳来(はせきた)り。此体(このてい)を見(み)るより鉄砲(てつほう)を四五十 挺(てう) つるべ打(うち)に放(はな)ちかくれば。先(さき)に進(すゝ)みし兀良哈人(おらんかいじん)三十四人やにはに打倒(うちたふ)され。色(いろ)めき立(たつ) て見(み)へけるに。加藤勢(かとうぜい)得(え)たりや応(おう)と無二無三(むにむさん)に突(つき)かゝる故(ゆゑ)。つゐに追立(おひたて)られ引退(ひきしりぞ) く其中(そのなか)より。大将(たいしやう)月縁子(げりす)は矛(ほこ)を打振(うちふり)取(とつ)てかへし戦(たゝか)ひけるが。加藤与左衛門(かとうよさゑもん)は 是(これ)そ此中(このうち)の大将(たいしやう)と見(み)てけれは。馬(うま)を馳寄(はせよせ)渡(わた)り合しばし互(たかひ)に挑(いど)み戦(たゝか)ひけるが。双方(さうはう) ふみ込(こみ)相突(あひつき)にしたりしに。与左衛門(よさゑもん)か長刀(なきなた)月縁子(げりす)が内甲(うちかふと)を突(つい)たり月縁子(げりす)が矛(ほこ) は与左衛門(よさゑもん)が鼻紙入(はなかみいれ)の上(うへ)に当(あた)りたり。されども具足(くそく)つよくして裏(うら)かゝず。月縁子 は内甲(うちかふと)を突(つか)れて馬(うま)より落(おつ)るところを。与左衛門(よさゑもん)長刀(なぎなた)を取直(とりなほ)し丁(てう)と切(き)れば。左(ひだ)り の股(もゝ)をしたゝかに切込(きりこん)だりければ何(なに)かはもつてたまるべき大地(だいち)へ摚(どう)と倒(たふ)れけるに 加藤(かとう)が郎等(らうとう)はしり寄(より)押(おさへ)て首(くび)を掻(かい)たりける。残(のこ)る敵(てき)は散々(さん〳〵)になつて逃行(にげゆく)を 赤星太郎兵衛(あかぼしたろべゑ)与左衛門(よさゑもん)追(おひ)かけ敵(てき)を討(うつ)こと二百三十一人と記(しる)したり扨(さて)又(また)島鶏(とうけい) 館(くわん)へ向(むか)へたる。井上 大九郎(たいくらう)鵤平治(いかるかへいち)小代下総守(こしろしもふさのかみ)の三人は勇(いさ)み進(すゝ)んで攻(せめ)かゝる清正 は籏本(はたもと)の勇兵(ゆうへい)に鉄砲(てつはう)を取持(とりもた)せ歩行立(かちたち)となして後(あと)を誥(つ)め。曳々(えい〳〵)声(こゑ)を出(いた)して攻(せめ) 入(い)らんとす征東使(せいとうし)伯寧(はくねい)はいまだ催促(さいそく)の兵(へい)も来(きた)らず。一万 余(よ)の兵(へい)を下知(けぢ)して 爰(こゝ)を大事(たいし)と防(ふせ)き戦(たゝか)ふ。清正(きよまさ)は自(みつか)ら陣頭(ちんとう)に馬(うま)を乗出(のりいだ)し兼(かね)て命(めい)じ置(おい)たる 鉄砲(てつはう)の兵に下知(げぢ)し。一 度(と)に打(うち)かけさせつゞいてどつと押(おし)かゝり。塀(へい)を二三 間(げん)打破(うちやふ)りて 喚(おめ)きさけんで突入(つきいり)ければ征東使(せいとうし)今は叶(かな)はじと剣(けん)を振(ふり)かざし一 方(はう)の血路(けつろ)を開(ひら)き 鶏関(けいくわん)の方(かた)へ逃(にげ)たりけるを小代 下総守(しもふさのかみ)。鵤平治(いかるかへいち)。井上大九郎(ゐのうへたいくらう)追(おひ)かけつゐに伯寧(はくねい) を生捕(いけどり)縄(なは)をかけ清正(きよまさ)が前(まへ)へ引来(ひきゝた)れは清正大に歓(よろこ)ひ。扨(さて)討取(うちとる)ところの首(くび)ともを 実撿(しつけん)し人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)めけるところに。兀良哈人(おらんかいしん)不骨木(ふこつほく)といへる者(もの)五万 余(あま)りの 兵(へい)を引。半弓(はんきう)五千 張(ちやう)を先(さき)に立(たて)是(これ)も伯寧(はくねい)が催促(さいそく)にしたがひ来(きた)りける。道(みち)にて合(かつ) 戦(せん)のよしを聞(きゝ)急(いそ)ぎ馳来(はせきた)りしが。伯寧(はくねい)擒(とりこ)となりけるを聞(きく)といへども元来(くわんらい)剛強(かうきやう)の 勇兵(ゆうへい)なればすこしもおそれず。日本人(につほんしん)を討取(うちとつ)て味方(みかた)の仇(あた)を報(ほう)せんと。八 尺(しやく)九尺に余(あま) る大男共(おほおとことも)真黒(まつくろ)になつて寄来(よせきた)る。加藤勢(かとうぜい)是(これ)を見(み)てとても遁(のか)れぬとこと覚(かく) 悟(ご)をきはめ先(まづ)手配([て]くば)りをぞなしたりける。先手(さきて)は加藤与左衛門(かとうよざゑもん)。水野三郎衛門(みづのさふらうさゑもん)。 原田五郎左衛門(はらだこらうざゑもん)。天野助左衛門(あまのすけざゑもん)。其勢(そのせい)二千 余騎(よき)にて鎗(やり)を小膝(こひざ)にのせて。敵(てき)かゝらば 突崩(つきくづ)さんと敵陣(てきぢん)を白眼(にらん)で扣(ひか)へたり。次(つぎ)に加藤清兵衛(かとうせいべゑ)。小代下総守(こしろしもふさのかみ)。近藤四郎(こんとうしらう) 右衛門(ゑもん)。安田善助(やすだせんすけ)。に五百 余騎(よき)の先手(さきて)崩れなば入かはらんと。勇気(ゆ[う]き)をふくんで扣(ひか)へ たり。左(ひだ)りの山(やま)の尾(を)さきには山口与惣右衛門(やまくちよそうゑもん)。斎藤立本(さいとうりうほん)。大脇治部右衛門(おほわきじぶゑもん)二千 余(よ) 人にて横槍(よこやり)を入(いれ)て敵(てき)を切崩(きり[く]つ)さんと待(まち)うけたり。三 陣(ぢん)は清正(きよまさ)の本陣(ほんぢん)なれは妙法(みやうほう) の籏(はた)を山風(やまかぜ)に吹(ふき)なびかせ。銀(ぎん)のばれんの馬印(うましるし)を日(ひ)にかゞやかし其下(そのもと)に清正は 銀(ぎん)三 尺(じやく)の立帽子(たてえぼし)の兜(かふと)を着(ちやく)し。大兼光(おほかね[み]つ)の太刀(たち)を横(よこ)たへ例(▢▢)の大十文字(▢ほじふもんじ)の鑓(やり)を 持(もつ)ては八方(はつはう)へ眼(まなこ)を配(くば)つて扣(ひか)へたり。左右(さいふ)には木村又蔵(きむらまたぞう)なんどといへる一 騎当千(きとうせん)の勇士(ゆうし)。 二百 余人(よにん)得物(えもの)〳〵を持(もつ)て大将(たいしやう)を守護(しゆご)する有(あり)さま。実(まこと)に勇々(ゆゝ)にしくぞ見(み)へたりける 兀良哈(おらんかい)の勢(せい)五万 余人(よにん)真黒(まつくろ)になつて押(おし)かゝるを。加藤与左衛門(かとうよざゑもん)兵(へい)に下知(げぢ)して曰(いは)く。 敵(てき)を間(ま)ぢかく引寄(ひきよせ)一 度(ど)に鎗(やり)を入(いれ)よとて。備(そな)ひを真丸(まんまる)にして半弓(はんきう)を防(ふせ)ぐ用意(ようゐ)を なして。しづまりかへつて待(まち)かけたり。其時(そのとき)左(ひだ)りの山(やま)の尾(を)ざきに扣(ひか)へたる。斎藤立本(さいとうりうほん) 山口与惣右衛門(やまくちよそうゑもん)。大脇治部右衛門(おほわきちぶゑもん)。はや合戦(かつせん)をはじめ鉄砲(てつほう)を打(うち)かけ。煙(けふり)の下(した)より 斎藤立本(さいとうりうほん)大長刀(おほなぎなた)を打振(うちふり)真先(まつさき)に馳入(はせいり)縦横(じふおう)にかけ立(たて)血戦(けつせん)す。山口(やまくち)大脇(おほわき)も続(つゞひ)て 蒐入(かけいり)相戦(あひたゝか)ふ是(これ)を見(み)て。加藤与左衛門(かとうよさゑもん)味方(みかた)に下知(けぢ)して敵中(てきちう)へ乗込(のりこみ)。勇(ゆう)を振(ふる)つて 戦(たゝか)ひける。敵(てき)は目(め)に余(あま)る大軍(だいぐん)なれば切(き)れども突(つけ)どもことともせず戦(たゝか)ふ程(ほど)に二 陣(ぢん)の 大将(たいしやう)加藤清兵衛(かとうせいへゑ)。小代下総守(こしろしもふさのかみ)も味方(みかた)をたすけて突(つい)て入(いる)。此時(このとき)清正(きよまさ)は木村又蔵(きむらまたざう) 井上大九郎(いのうへだいくらう)飯田角兵衛(いひだかくべゑ)。の三人に下知(けぢ)して。右(みき)の方(かた)にすこし小高(こだか)き所(ところ)へつか はし。敵(てき)の横合(よこあひ)より鉄砲(てつはう)を打(うち)かけ〳〵拳下(こぶしさが)りに打(うた)せける故(ゆゑ)。兀良哈(おらんかい)の兵(へい)少(すこ)し しらけて見へける時(とき)。清正(きよまさ)時分(じぶん)はよしと自(みづか)ら真先(まつさき)に。馬(うま)を馳(はせ)て敵中(てきちう)へ駈入(かけいり) 当(あた)るを幸(さいわ)ひ打倒(うちたふ)し。突倒(つきたふ)し働(はたら)きければ味方(みかた)の兵(へい)。何(なに)かは少(すこ)しも猶余(いうよ)す べき我劣(われおと)らじと。八 方(はう)へ当(あた)りて戦(たゝか)ひば木村(きむら)井上(ゐのうへ)飯田(いひだ)の輩(ともがら)。是(これ)を見(み)て大将(たいしやう) に先(さき)を越(こさ)れて残念(ざんねん)なりと。轡(くつばみ)をならべて同(おな)じく敵中(てきちう)へわつて入(いり)。兀良哈勢(おらんかいせい)日本(につほん) にても名高(なだか)き加藤(かとう)の勇臣等(ゆうしんら)に捲立(まくりたて)られ。瞬(またゝ)くうちに五六百人 討(うた)れしかば今(いま) は総崩(そうくづ)【惣】れとなつて引退(ひきしりぞ)くを。味方(みかた)は勝(かつ)に乗(のつ)て追討(おひうち)けるを。清正(きよまさ)は是(これ)を制(せい)し 人馬(にんば)ともに労(つか)れたれば。長追(なかおひ)なすべからずとて人数(にんず)をまとめて休息(きうそく)なして。其(その) 夜(よ)は此所(このところ)に野陣(のぢん)を張(はり)翌日(よくじつ)早天(さうてん)に手負(ておひ)たる者(もの)を中(なか)にかこひ。勢(いきほ)ひ摚々整々(とう〳〵せい〳〵) として陣払(ぢんばらひ)をなし打立(うちたゝ)んとす此(この)瓶愈浦(へいゆほ)といへる所(ところ)は。日本(につほん)より乾(いぬゐ)に当(あた)りて雲(くも) 晴(はれ)日和(ひより)よき時(とき)は。日本(につほん)の富士山見(ふじさんみ)ゆる。此所(このところ)人家(じんか)の屋根(やね)などはみな昆布(こんぶ)にて 【右丁 籏の文字】 無妙法蓮華経 【左丁】 加藤主計頭(かとうかずへのかみ) 清正(きよまさ)兀良喰(おらんかい)に いりて遥(はるか)に 富嶽(ふじ)を 遠望(ゑんぼう)して 衆軍(しゆうぐん)ともに 故郷(こけふ)をおもふ こしらひ有(あり)けるなり。清正(きよまさ)は兀良哈人(おらんかいじん)の生捕(いけどり)を案内者(あんないじや)となし。近道(ちかみち)へ入(い)りて 沙塞(しやさい)といへる大川(だいが)にかゝる。此川(このかは)の向(むか)ふは兀良哈(おらんかい)の地(ち)にして后虹(こう〴〵)といふ家数(いへかず)四五百 軒(けん) 有(あり)。其村(そのむら)より大勢(おほぜい)の人(ひと)立出(たちいで)日本人(につほんじん)を見物(けんぶつ)なして居(ゐ)たりしが。其中(そのなか)より三人 進(すゝ)み 出(いで)日本勢(につほんぜい)の方(かた)をさしまねき。尻(しり)をまくりたゝきつゝ一 度(ど)にどつと笑(わら)ひけり。清正(きよまさ) 大(おほい)に腹(はら)を立(たち)。アレ射殺(ゐころ)せと下知(げぢ)すれば馬上(ばじやう)の侍(さむらひ)十 騎(き)計(ばかり)下(お)り立(たち)て。鉄砲(てつほう)を打(うち)かけ しかども其間(そのあひ)はるかに隔(へだ)たりける故(ゆゑ)当(あた)らざれば。清正(きよまさ)案内者(あんないじや)を近(ちか)く呼(よび)此川(このかは)の 渡(わた)る瀬(せ)を聞(きゝ)。総軍(そうぐん)【惣】に下知(げぢ)して一度に川(かは)へ乗込(のりこみ)さか巻(まく)水(みず)を事(こと)ともせず。鬨(とき)を揚(あげ) て渡(わた)しければ。兀良哈人(おらんかいじん)此(この)有(あり)さまに驚(おどろ)き蜘(くも)の子(こ)を散(ちら)すが如(ごと)く。后虹村(こう〳〵むら)へ逃込(にげこみ) ければ清正(きよまさ)は通辞(つうじ)をつかはして言(いは)せけるは。此兀良哈(このおらんかい)の地(ち)は日本国(につほんごく)へ対(たい)し何(なん)の意(い) 趣(しゆ)もなきといへども。朝鮮(てうせん)の王子(わうじ)落来(おちきた)り給ふゆゑ追(おひ)かけ来(きた)りて。此(この)国風(こくふう)を聞(きく)に人(ひと) 強(がう)にして弓(ゆみ)をよくすといふにより。日本(につほん)の弓矢(ゆみや)のほどをを此国(このくに)へしらせんと是迄(これまで) 攻入(せめいり)。数度(すど)の合戦(かつせん)に打勝(うちかち)今 朝鮮国(てうせんこく)へかへらんとなすところ。此地(このち)の者(もの)ども大勢(おほぜい)立出(たちいで) 尻(しり)をまくりて嘲(あざけ)り笑(わら)ふこと。其(その)不 礼(れい)ゆるしがたし右三人を捕(とら)へ此方(こなた)へ渡(わた)すべし。若(もし) 渡(わた)すこと出来(いでき)ざるにおゐては。是(これ)より廿日 路(ぢ)が間(あひだ)堅横(しうおう)に責(せめ)なびけ。在々所々(さい〳〵しよ〳〵)一 宇(う) も残(のこ)らず焼払(やきはら)ひ。一人も残(のこ)らず打殺(うちころ)すべしと云(いは)せければ。后虹(こう〳〵)の者(もの)ども大(おほい)におそれ 大勢(おほぜい)にて。彼(かの)三人を捕(とら)へ来(きた)り清正(きよまさ)の前(まへ)へ引出(ひきいだ)し。大(おほい)なるまな板(いた)に彼(かの)三人が首(くび)を のせ。剣(けん)をあてゝ槌(つち)を振上(ふりあげ)力(ちから)にまかせて打(うつ)たりけるに。三人の首(くび)は一度(いちど)に一 間(けん)ばかり 飛(とん)だりけり。かくて此所(このところ)の老人(らうじん)とも数(す)十 人(にん)出(いで)て清正(きよまさ)を拝(はい)し羊(ひつじ)の皮(かは)百 枚(まい)進(しん)上 して不礼(ふれい)のほどを詫(わび)けれは。清正(きよまさ)大(おほい)に気色(けしき)をなをし川を渡(わた)りて。元(もと)の道(みち)に かゝり夫(それ)より道(みち)を急(いそ)ぎて東泉城(とうせんじやう)へとかへりける。     東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)両王子(りやうわうじ)にまみゆる事(こと) かくて清正(きよまさ)は十月九日の晩景(ばんけい)に。東泉城(とうせんじやう)へ着(つき)しかば田守久太夫(たもりきうだいふ)前野助兵(まへのすけべ) 衛(ゑ)むかひとして出来(いできた)り。死(しゝ)たる人に逢(あふ)如(ごと)く互(たがひ)に歓(よろこ)び先(まづ)城(しろ)に案内(あんない)し。其(その)軍(ぐん) 労(らう)をなぐさめける。清正(きよまさ)はこゝにて将卒(しやうそつ)ともに鎧(よろひ)をといて休足(きうそく)なし。両王子(りやうわうじ)に 対面(たいめん)し東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)を擒(とりこ)となしたるよしを語(かた)り。召出(めしいだ)して両王子(りやうわうじ)にま みえしむ。伯寧(はくねい)は地上(ちしやう)にひれふし涙(なみた)をながし。何(なに)かいろ〳〵と言葉(ことば)を発(はつ)す といへども。清正(きよまさ)にはすこしもわからねば通辞(つうし)に是(これ)を尋(たづ)ねけるは自害(じがい)にても願(ねが)ふ ことにやと問(とふ)。通辞(つうし)荅(こたへ)て左(さ)にあらず此(この)東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)は元(もと)身(み)いやしき者なりしが 朝鮮王(てうせんわう)の御《割書:ン》ゑらみによつて大国(たいこく)を下(くだ)し給はり。武官(ぶくわん)となりて朝鮮(てうせん)八 道(だう)の 内(うち)。江原(こうげん)。黄海(ばはい)。平安(へあん)。咸鏡(はみきやん)。四 道(たう)の大将(たいしやう)を命(めい)ぜられしに。其(その)甲斐(かひ)もなく一 戦(せん)に打 まけ王子(わうし)を始(はじ)め后宮(こうくう)をやみ〳〵と。敵(てき)の手へ渡(わた)し我身(わがみ)までかく虜(とりこ)となりて。 再(ふたゝ)び龍顔(りうがん)を拝(はい)し奉ること生前(しやうぜん)の恥(はぢ)この上(うへ)なし。倭将(わしやう)少(すこ)しおそく寄(よ)せ来(きた)ら ば触(ふれ)つかはせし。人数(にんず)を集(あつ)めて戦(たゝか)ふ程(ほど)ならばかくもろくは負(まけ)まじきに。行長(ゆきなが)清(きよ) 正(まさ)すき間(ま)なく取(とり)かけし故(ゆゑ)。かく敗軍(はいぐん)におよびしこと生々世々(しやう〳〵よゝ)の意恨(いこん)たり。せめて 討死(うちじに)なさば今 此(この)恥辱(ちじよく)はあるまじきに口おしき次第(しだい)なりと。声(こゑ)をあげて歎(なげ) きかなしみければ。両王子(りやうわうじ)も聞召(きこめし)御 ̄ン衣(ころも)の袂(たもと)を御 ̄ン顔(かを)にあてゝ。御なみだにむせび玉 ふ。朝鮮(てうせん)の大臣(だいじん)はいふにおよばず清正(きよまさ)をはじめ。百万 騎(ぎ)の敵(てき)をもものともせぬ加(か) 藤家(とうけ)の勇士(ゆうし)どもゝ。伯寧(はくねい)が云(いふ)ところ理(ことは)りなりとて涙(なみだ)をながさぬは無(な[か])りける。かゝ るあはれなる中(なか)に。阿波伊兵衛(あはいへゑ)。九鬼四郎兵衛(くきしろべゑ)。二人は少(すこ)しも涙(なみだ)を浮(うか)めもせず。 常(つね)の如(ごと)くにて有(あり)しかば人々(ひと〳〵)是(これ)を見て。あはれをしらぬ荒夷(あらゑびす)かなと申あへりける 時(とき)側(そば)なる者(もの)云(いひ)けるは左様(さやう)に云(いひ)給ふる。此両人(このりやうにん)は狼眼(らうがん)といふて何(なに)ほど哀(あはれ)な事にて も。涙(なみだ)は出(いで)ぬ生(うま)れつきなり心(こゝろ)には哀(あはれ)なる事(こと)は。人々(ひと〳〵)も同(おな)じ事(こと)なりと云(いひ)ける。此後(このゝち) 朝鮮(てうせん)在陣中(ざいぢんちう)。哀(あは)れなる事三 度(ど)あつて清正(きよまさ)も涙(なみだ)を落(おと)されしかども。此両人(このりやうにん)は 少(すこ)しも落涙(らくるい)せず。こゝにおゐて人々扨(ひと〳〵さて)は狼眼(らうがん)にて有(あり)しかと。若(わか)き人々(ひと〳〵)は笑(わら)ひける となん。去程(さるほと)に清正(きよまさ)は十月十二日 両王子(りやうわうじ)ならびに后達(きさきたち)を始(はじ)め。大臣(だいじん)都合(つがふ)二百 余(よ) 人を引(ひい)て。吉州(きつしう)まで来りて蓮下(れんが)といへるところに宿陣(しゆくぢん)せり。かゝる所(ところ)に梅天(はいてん)といふ 者(もの)二万 余騎(よき)にて梁養山(りやうやうざん)に陣(ぢん)して。外(ほか)に一万の勢(せい)をもつて清正(きよまさ)がかへる道(みち)をさへぎ つて討(うた)んとなすよし聞(きこ)へければ清正(きよまさ)が兵士(へいし)。なが〳〵の旅(たび)には労(つか)れ殊(こと)に度々(たび〳〵)の戦(たゝか)ひ に。手負(ておひ)は多(おほ)くいかゞはせんと評議(ひやうぎ)しける時(とき)。清正(きよまさ)は少(すこ)しもひるまず云(い)はれけるは。 明朝(みやうてう)の合戦(かつせん)には我(われ)先手(さきて)を勤(つと)むべし。横槍(よこやり)は吉村吉右衛門(よしむらきちゑもん)。出田宮内少輔(いづたくないしやういふ)。 森本義太夫(もりもとぎだいふ)仕(つかまつ)るべし。二 番備(ばんそなひ)は加藤清兵衛(かとうせいべゑ)。山口与惣右衛門(やまぐちよそうゑもん)。加藤美作(かとうみまさか) 守(のかみ)。長尾安右衛門(ながをやすゑもん)。片岡右馬允(かたおかうまのじやう)。庄林隼人(しやうはやしはやと)三 番(ばん)の陣(ぢん)は小代下総守(こしろしもふさのかみ)。佐々平左(さゝへいざ) 衛門(ゑもん)つとむべし。其外(そのほか)は両王子(りやうわうし)を警固(けいご)すべしと。手配(てくばり)をさだめける時(とき)吉村吉(よしむらきち) 左衛門(ざゑもん)進(すゝ)み出(いで)云(いひ)けるは。明日(みやうにち)の合戦(かつせん)に御 ̄ン先手(さきて)を御自身(ごじしん)になし給はんこと。御尤(ごもつとも)には候 得(え)ども昔(むかし)より大将(たいしやう)の。自(みづか)ら軍(いくさ)の荒(あら)こなしをなし給ひしこと承(うけ給)はらず。万々一(まん〳〵いち)御 ̄ン あやま ちにても有時(あるとき)は。第一(だいゝち)日本(につほん)の弱(よわ)みとなつて渡海(とかい)の諸将(しよしやう)戦(たゝか)ひ難義(なんぎ)ならん。此義(このぎ)は決(けつし)て しかるべからず。某(それかし)御 ̄ン先手(さきて)を蒙(かうふ)り敵兵(てきへい)何万騎(なんまんき)来(きた)るとも。弓矢八幡(ゆみやはちまん)照覧(しやうらん)あれ打(うち) 散(ちら)し申さんと。勇気(ゆうき)りん〳〵として見(み)へければ清正(きよまさ)大(おほい)に歓(よろこ)び。左(さ)らば肥前守(ひぜんのかみ)を添(そへ) て両人(りやうにん)にてつとむべしとて。夫(それ)より兵粮(ひやうらう)などの用意(ようい)をなし。将卒(しやうそつ)ともに支度(したく)を とゝのへ明(あく)れば十月廿日の早天(さうてん)に。備(そな)ひを乱(みだ)さず押出(おしいだ)し梁養山(りやうやうさん)近(ちか)く来(きた)りける に案(あん)の如(ごと)く梅天(ばいてん)二万 余騎(よき)をしたがひ。別(べつ)に一万 計(ばかり)の兵(へい)を孟武伯(もうぶはく)といへる者(もの)につ けて。日本人(につほんじん)の来(きた)る道筋(みちすぢ)へ出(いだ)し置(おき)日本勢(につほんぜい)の帰路(きろ)を留(とゝ)めしむ。孟武伯(もうぶはく)は一万 余(よ) 騎(き)を三 手(て)に分(わ)け。半弓(はんきう)千五百ほど真先(まつさき)に出(いだ)し備(そな)ひを乱(みだ)さずかゝり来(きた)る。加(か) 藤(とう)が先陣(せんぢん)吉村(よしむら)は少(すこ)しも騒(さわ)がず。鉄砲(てつほう)の兵(へい)を先(さき)に出(いだ)し敵(てき)より射(い)かくる矢(や)を しころを傾(かたむ)けてしのぎ。敵(てき)を間近(まちか)く引寄(ひきよせ)一 度(ど)にどつと放(はな)ちかくれば。群衆立(むらがりたつ) たる敵兵(てきへい)ども。忽(たちま)ち二三百人 打倒(うちたふ)す朝鮮勢(てうせんぜい)色(いろ)めき立(たつ)て見(み)へける時(とき)。吉村(よしむら)は 時分(じぶん)はよきぞ槍(やり)を入(いれ)よと下知(げぢ)をなし。自(みつか)らも真先(まつさき)に馳入(はせいり)八 方(はう)に当(あた)りて戦(たゝか)ひは 其手(そのて)の兵士(へいし)。何(なに)かは少(すこ)しも猶予(いうよ)すべき黒煙(くろけふり)を踏立(ふみたて)血戦(けつせん)す。朝鮮勢(てうせんぜい)大軍(たいぐん)な りといへども加藤が兵(へい)のために捲(まく)り立られ。四五町 計(ばかり)追(おひ)立られける時。清正(きよまさ)は 馬上(ばしやう)に立上(たちあが)り大音(だいおん)あげ。此図(このづ)をぬかすな者共(ものども)と采(さい)打振(うちふつ)て下知をなす。吉(よし) 村吉右衛門(むらきちゑもん)はいかにもして大将(たいしやう)に組(くま)んと。東西(とうざい)に馳廻(はせまは)り南北(なんほく)に駈通(かけとほ)りて戦(たゝか) ひける折柄(をりから)。朝鮮人(てうせんじん)の中(なか)より山春(さんしゆん)といへる者(もの)追来(おひく)る。日本人(につほんしん)を打払(うちはら)ひ突払(つきはら)ふ て退(しりぞく)を。吉村(よしむら)きつと見(み)て能敵(よきてき)こそと一 文字(もんじ)に馳来(はせきた)り打(うつ)てかゝる。山春(さんしゆん)も勇(ゆう)を 振(ふる)つて戦(たゝか)ひしが互(たがひ)に面倒(めんだふ)なりと。得物(えもの)を投捨(なげすて)引組(ひきくみ)しが忽(たちま)ち両馬(りやうば)か間(あひ)に摚(どう) と落(おち)。上(うへ)を下(した)へと捻合(ねぢあひ)けるところへ。阿波伊兵衛(あはいへゑ)駈来(かけきた)りつゐに山春(さんしゆん)が首(くび)を 打落(うちおと)しける。此時(このとき)梅天(ばいてん)が二万 騎(き)山(やま)の上(うへ)より烈風(れつふう)の如(ごと)くにおとし来(きた)り。加藤(かとう) 勢(ぜい)に突(つき)かゝるを。横合(よこあひ)に備(そな)ひたる山岡肥前(やまおかひせん)。森本義太夫(もりもとぎだいふ)。出田宮内少輔(いづたくないしやういふ)。是(これ) を見(み)て急(いそ)ぎ備(そな)ひを操出(くりいだ)し。鉄砲(てつはう)を百 余挺(よてう)つるべ打(うち)に放(はな)ちかけ。煙(けふり)の下(した)より どつと喚(おめい)て駈入(かけいれ)ば。二 陣(ぢん)なりける加藤清兵衛(かとうせいべゑ)。庄林隼人(しやうばやしはやと)。山口与惣右衛門(やまくちよそうゑもん)。長尾(ながを) 安右衛門(やすゑもん)。加藤美作(かとうみまさか)。片岡馬允(かたおかうまのじやう)。梅天(はいてん)が横合(よこあひ)より無二無三(むにむさん)に鑓(やり)を入(いれ)たりける。 【右丁】 吉村吉(よしむらきち)《振り仮名:右エ門|ゑもん》 朝鮮(てうせん)の勇将(ゆうしやう) 山春(さんしゆん)と組打(くみうち) して両馬(りやうば)が間(あひ) に摚(どう)とおつ 阿波伊兵衛(あはいへゑ) 駈来(かけきた)つて  山春(さんしゆん)をうつ 【左丁 挿絵だけ】 これによつて朝鮮勢(てうせんぜい)大軍(たいぐん)なりといへども。加藤勢(かとうぜい)の必死(ひつし)の太刀先(たちさき)に捲(まく)り立(たて) られ。色(いろ)めき立(たつ)て見(み)へける時(とき)三 陣(ぢん)にひかへし。小代下総(こしろしもふさ)。佐々平左衛門(さゝへいざゑもん)。轡(くつばみ)をな らべて突(つい)て入(いり)。清正(きよまさ)が旗本(はたもと)よりも木村又蔵(きむらまたぞう)。赤星太郎兵衛(あかぼしたろべゑ)。飯田角兵衛(いひだかくべゑ)な どゝいへる一 騎(き)當千(たうせん)の勇士(ゆうし)。得物(えもの)〳〵を振(ふる)つて敵中(てきちう)へ駈入(かけいり)。当(あたる)をさいわひしのぎを 削(けづ)り火花(ひばな)をちらして戦(たゝか)ふほどに。梅天(はいてん)が二万 余騎(よき)竪横(しふおう)に駈立(かけたて)られ。討(うた)るゝ者(もの)多(おほ) かりければつゐにかなはず。梁養山(りやうやうさん)の上(うへ)へ逃上(にげあが)る。加藤勢(かとうせい)続(つゞひ)て追(おひ)あがらんとなし けるを。清正(きよまさ)これをかたく制(せい)し。加藤与左衛門(かとうよざゑもん)。天野助左衛門(あまのすけざゑもん)。を後殿(しんがり)となし てしづ〳〵と物(もの)わかれして橘州(きつしう)の城(しろ)へと進(すゝ)みけるに。永興府(えいきやうふ)にのこり居(ゐ)し鍋(なべ) 島加賀守(しまかゞのかみ)。相良宮内少輔(さがらくないしやういふ)一万五千 余騎(よき)にて此橘州(このきつしう)まで。迎(むか)ひとして出張(しゆつちやう)し て居(ゐ)たりけるが。今(いま)清正(きよまさ)がかへり来(きた)ると聞(きゝ)て大(おほい)に歓(よろこ)び。早速(さつそく)城(しろ)に入(い)れて互(たかひ)に 手(て)に手(て)を取(とり)かはし涙(なみた)をながして鍋島(なべしま)申されけるは御辺(ごへん)と永興(えいきやう)に別(わか)れ しより四ヶ月(げつ)が間(あひだ)行衛(ゆくゑ)しれず音信(おとづれ)もなければ扨(さて)は討死(うちじに)なし給へけるかと 明暮(あけくれ)案事(あんじ)わづらひしに先達(さきだつ)て兀良哈(おらんかい)にて両王子(りやうわうじ)をはじめ多(おほ)くの大臣(だいじん)を 生捕(いけとり)給へしとの日本(につほん)へ御注進(ごちゆうしん)の使(つかひ)に承(うけ給は)り漸々(やう〳〵)案心(あんしん)いたしたりさるにても此(この) 度(たび)彼地(かのち)にての御戦功(ごせんこう)天晴(あつばれ)さぞかしとおもひやらるゝなりと歓(よろこ)ばれければ清正(きよまさ)も 兀良哈(おらんかい)表(おもて)の合戦(かつせん)よりして両王子(りやうわうじ)を擒(とりこ)となしたることなどを語(かた)り両王子(りやうわうじ)に 鍋島(なべしま)相良(さがら)の両将(りやうしやう)を謁(ゑつ)せしめければ両将(りやうしやう)も清正(きよまさ)が働(はたら)きを感(かん)じ扨(さて)両将(りやうしやう)清正(きよまさ)に 向(むか)ひ御《割書:ン》身(み)を入(いれ)まゐらせんために一ッの城(しろ)をきづき置(おき)候へば夫(それ)へ御《割書:ン》入(いり)あつて御休足(こきうそく)あ るへしとて家来(けらい)に案内(あんない)させければ清正(きよまさ)は大(おほい)に歓(よろこ)び其意(そのい)にまかせ兵(へい)を引(ひい)て 新城(しんじやう)に入(いつ)て長途(ちやうど)の労(つか)れを休(やす)めける此地(このち)は殊(こと)の外(ほか)豊饒(ぶにやう)の地(ち)にして洛陽(らくやう)にも おとらぬ地(ち)なれば此所(このところ)より案辺(あんへん)まで十三日 路(ぢ)が間(あひた)清正(きよまさ)が所領(しやうりやう)として米(へい) 穀(こく)などをはこばせ。軍用(くんよう)に備(そな)ふ扨(さて)まだ所々(しよ〳〵)に城(しろ)をかまへて是(これ)を守(まも)らしむ先(まづ) 橘州(きつしう)《割書:揚(やう)州の|ことなり》の城(しろ)には。加藤清兵衛(かとうせいべい)片岡右馬允(かたおかうまのしう)加藤伝蔵(かとうでんさう)永野三郎左衛門(ながのさふろさへもん) 原田五郎右衛門(はらだころへもん)天野(あまの)助 左衛門(さゑもん)山口(やまち)与 惣右衛門(そうへもん)。七人を大将(たいしやう)として兵千 五百人 入置(いれおき)たり蔵荘(ぞうしやう)には近藤四郎左衛門(こんどうしろざもん)岡田善右衛門(おかだぜんへもん)佐々平左衛門(さゝへいざへもん) に五百 余(よ)人を添(そへ)て守(まも)らしむ。金(きん)山には加藤与左衛門(かとうよさへもん)出田宮内少輔(いづたくないしよふ)井上大(いのう[へ]たい) 九郎五百 余騎(よき)にて是(これ)を守(まも)る律貢(りつこう)といへる所には。小代下総(こしろしもふさ)大脇次郎左衛門(おゝはきしろざへもん) 長尾安(なかおやす)右衛門に五百人の兵(へい)をさづけて守(まも)らしむ。鳳井(ほうせい)には吉村吉右衛門(よしむらきちへもん)堤権(つゝみごん)右 衛門(へもん)。手勢(てせい)を引て是(これ)を守(まも)る。清正(きよまさ)は蝗承(こうしやう)の地に城(しろ)を構(かま)へて在陣(ざいぢん)す。鍋島(なべしま)もと 原分(げんふん)水。高原(こうけん)。永興定平(えいきやうていへい)。供原(こうげん)。咸興(はみほん)等(とふ)へ家臣(かしん)を分(わ)けて守(まも)らしむ。扨(さて)清正(きよまさ)は 人数配(にんすくば)りも終(おは)りければ。文禄(ふんろく)二 年(ねん)二月 下旬(げじゆん)までは。此所(このところ)に有(あつ)て遠近(ゑんきん)に威(ゐ)を ふるひ民(たみ)に仁(じん)を施(ほどこ)しけば。人民(しんみん)大(おほい)になつきける事(こと)。是(これ)みな清正(きよまさ)仁義(じんき)を守(まも)る 徳(とく)にして。人(ひと)のおよばざるところなり。    黒田長政(くろだながまさ)が先勢(さきぜい)狼川(らうせん)にて軍(いくさ)の事(こと) 黒田甲斐守長政(くろたかひのかみなかまさ)は小西行長(こにしゆきなが)が後(あと)を詰(つめ)。葛原(かつげん)といへる所(ところ)に陣(ぢん)を取(とり)。小西(こにし)に続(つゞひ) て平壌城(へくしやくじやう)へ乗入(のりい)らんとひかへたり。長政(ながまさ)が先手(さきて)栗山備後(くりやまびんご)。後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)。黒田(くろた) 惣右衛門(そうゑもん)。衣笠因幡(きぬがさいなば)等(とう)その勢(せい)二千七百 余騎(よき)にて。狼川(らうせん)といふ所(ところ)に陣屋(ぢんや)をしつら ひ。総大将(そうたいしょう)【惣】の下知(げぢ)を待(まつ)たりける。此時(このとき)朝鮮國王(てうせんこくわう)の命(めい)を受(うけ)。忠清道(ちくしやくたい)の節度使(せつとし)李(り) 時言(じげん)といへる者(もの)。平安(へあん)咸鏡(はみきやん)両道(りやうだう)の落武者(おちむしや)なんどを集(あつ)め。兵(へい)五万 計(ばかり)を引(ひい)て狼(らう) 川(せん)に陣(ぢん)したる。長政(ながまさ)が先勢(さきぜい)を討散(うちゝら)さんと。六月二日の夜(よ)ひそかに川(かは)を越(こえ)。翌(よく)三 日(か)の東雲(しのゝめ)に老翁山(らうおうざん)を打越(うちこし)て。狼川(らうせん)さして押寄(おしよす)る。黒田(くろだ)が勢(せい)大(おほい)におどろきて 敵(てき)の有(あり)さまを見(み)てけるに。李時言(りじげん)が四万 余騎(よき)の軍勢(ぐんぜい)。大浪(おほなみ)のわくが如(ごと)くに押(おし) 来(きた)る。黒田勢(くろだぜい)はわづか二千七百 余騎(よき)にて。此大軍(このたいぐん)に蒐合(かけあは)せべきやうなければ。早(はや)く 長政(ながまさ)へ注進(ちゆうしん)なして援兵(ゑんへい)を乞(こは)んと。衣笠因幡(きぬかさいなば)。黒田惣右衛門(くろだそうゑもん)。など相談(さうだん)なして連(れん) 状(じやう)をしたゝめ。早走(はやはし)りの者(もの)五人を撰(ゑら)み出(いだ)し。此状(このじやう)を葛原(かつげん)へ持参(ぢさん)すべしと命(めい)じ。 けるが。未(いま)だ栗山備後(くりやまびんご)。後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)。の両人勢(りやうにんせい)の手配(てくば)りを下知(げぢ)して居(ゐ)たるゆゑ。 印形(ゐんぎやう)をすへざれは。栗山備後(くりやまびんご)の方(かた)へ連状(れんじやう)を持(もた)せつかはし。印形(ゐんぎやう)すへらるべしと云(いは)せ ければ。備後(びんご)承知(しようち)せりとて其状(そのじやう)を開(ひら)き見(み)るに。      急度(きつと)注進(ちゆしん)仕(つかまつり)候 敵(てき)夜中(やちう)に川(かは)を越(こし)此方(こなた)の陣所(ぢんしよ)へ取懸(とりかゝ)り申候 間(あひだ)      少々(しやう〳〵)御人数(ごにんず)出(いだ)され後詰(ごづめ)《振り仮名:被遊可被下|あそばされくたさるべく》候 恐惶謹言(きやうくわうきんげん) とぞ書(かい)たりける故(ゆゑ)。栗山是(くりやまこれ)にては文言(もんごん)あしく候へば。書直(かきなを)し申べしとて其状(そのじやう)をかへ しければ。衣笠(きぬがさ)等(とう)しからば其方(そなた)にて書(かき)給へと有(あり)しかば。備後(びんご)は床几(しやうぎ)にかゝりながらに 筆(ふで)を取(とつ)てしたゝめける。其文(そのぶん)にいはく     急度(きつと)申 上(あげ)候 敵(てき)夜中(やちう)に川(かは)を越(こえ)此方(こなた)の陣(ぢん)へ取懸(とりかゝ)り申候 乍併(しかしながら)     此地(このち)の義(ぎ)は御《割書:ン》意安(こゝろやす)く思召(おぼしめさ)るべく候 恐惶謹言(きやうくわうきんげん) と書(かき)なをしみな〳〵連印(れんゐん)して葛原(かつげん)の本陣(ほんぢん)へつかはし。扨(さて)二千七百 余騎(よき)を二 備(そなひ)となし。一 手(て)は栗山(くりやま)。衣笠(きぬがさ)。大将(たいしやう)となり一 手(て)は。後藤(ことう)。毛利(もり)。是(これ)を司(つかさど)り将卒(しやうそつ)とも に討死(うちじに)と覚悟(かくご)をなし。敵(てき)の大軍(たいぐん)に少(すこ)しもおそるゝ色(いろ)なく。李時言(りじげん)の寄(よす)るを 待(まち)かけたり。朝鮮勢(てうせんぜい)は日本勢(につほんぜい)のすくなきを見(み)て。大(おほい)にあなどり備(そなひ)も立(たて)ず どつと喚(おめい)て突(つき)かゝるを。黒田勢(くろだぜい)は兼(かね)て期(ご)したる事(こと)なれば。五百 挺(てう)の鉄砲(てつぱう)をつるべ 打(うち)に放(はな)ちかくれば先(さき)に進(すゝ)みし朝鮮勢(てうせんせい)やにはに四五百人 打倒(うちたふ)され進(すゝ)み兼(かね)て 見(み)へたるところへ後藤(ごとう)が一 手(て)の勢(せい)横合(よこあひ)より備(そなひ)を操出(くりいだ)し是(これ)も同(おな)じく鉄砲(てつはう)を 放(はな)ちかくれば李時言(りじけん)が兵(へい)的(まと)になつて打倒(うちたふ)されける故(ゆゑ)四度路(しどろ)になつて崩(くづ)れかゝる 栗山(くりやま)衣笠(きぬがさ)得(え)たりや応(おう)と敵中(てきちう)へ駈入(かけいれ)は後藤(ことう)毛利(もり)が勢(せい)も何(なに)かは以(もつ)て猶予(いうよ)すべき 我(われ)劣(おと)らじと突(つい)て入(いり)右(みぎ)に当(あた)り左(ひだり)を突(つい)て千変万化(せんへんばんくわ)に手(て)を砕(くだ)き𨭚(しのぎ)を削(けづ)り命(いのち)を 羽毛(うまう)の軽(かろ)きに比(ひ)し只討死(たゞうちじに)と覚悟(かくご)をなし血戦(けつせん)す李時言(りじげん)大軍(たいぐん)なりといへども 馬(うま)の足(あし)を立(たて)兼(かね)けるを栗山(くりやま)後藤(ごとう)は大軍(たいぐん)の中(なか)を東西(とうざい)に駈廻(かけまは)りひとへに大将(たいしやう)に組(くま)んと 働(はたら)きけるに了得(さすが)の大軍(たいぐん)も是(これ)がために捲(まく)り立(たて)られ惣崩(そうくづ)れとなつて散乱(さんらん)し大川(おほかは) へ追(おひ)ひたされ命(いのち)を落(おと)す者(もの)数(かず)しれず李時言(りじげん)も崩(くづ)るゝ味方(みかた)に引立(ひきたて)られ川(かは)を 越(こえ)て遁(のが)れ行(ゆく)黒田勢(くろだぜい)勝(かつ)に乗(のつ)つて追(おひ)かけけるを栗山(くりさま)【ママ】後藤(ことう)これを制(せい)し大軍(たいぐん)は 追(お)ふことなかれとて。軽(かる)く兵(へい)を引上(ひきあげ)もとの陣所(ぢんしよ)へ引取(ひきとり)ける。今日(こんにち)の合戦(かつせん)大敵(たいてき)といひ つゞく味方(みかた)はなし。万死一生(ばんしいつしやう)の大事(だいじ)なりしを。栗山(くりやま)。後藤(ごとう)。衣笠(きぬがさ)。毛利(もり)。黒田(くろだ)。が輩(ともがら)手(て) を碎(くだ)き大軍(たいくん)を切崩(きりくづ)しけること。比類(ひるひ)なき働(はたら)きなりと感(かん)ぜぬ者(もの)はなかりける。栗山備(くりやまびん) 後(ご)は。左(ひだ)りの高股(たかもゝ)右(みぎ)の小臂(こひぢ)内甲(うちかぶと)四ヶ所(しよ)ほど手(て)を負(おひ)たり。其外(そのほか)将卒(しやうそつ)ともに三四ヶ所(しよ)づゝ 手(て)を負(おは)ざるはなかりける。かくて又(また)黒田長政(くろだながまさ)は葛原(かつげん)に陣(ぢん)して居(ゐ)られけるところに。狼川(らうせん) よりの注進(ちゆうしん)を聞(きく)とひとしく。兵(へい)を引率(ゐんそつ)し揉(もみ)にもんで馳着(はせつき)きかど。早(はや)合戦(かつせん)もすみて味(み) 方(かた)の手負(ておひ)などを療治(れうぢ)なして居(ゐ)たるところなれば。大(おほい)に歓(よろこ)び直(たゞち)に栗山(くりやま)が陣所(ぢんしよ)に入(い)りて 申されけるは。何(なに)とて卒爾(そつじ)に合戦(かつせん)を好(この)み候やと云(いは)れける時(とき)。備後(びんご)は手負(ておひ)たる故(ゆゑ) 傍(かたはら)に寄(より)かゝりて居(ゐ)たりしが。眼(まなこ)を怒(いか)らしながら。敵(てき)押寄(おしよせ)候につき合戦(かつせん)仕(つかまつり)候と返(へん) 荅(たふ)し。不興氣(ふけうげ)なる体(てい)なりけるに長政(ながまさ)涙(なみだ)をながし。左様(さやう)に立腹(りつふく)は尤(もつとも)ながら卒(そつ) 【右丁】 黒田長政(くろだながまさ) 味方(みかた)の手負(ておひ)を 見廻(みまは)りて あはれむ図(づ) 【挿絵中の文字】 正八幡大菩薩 【左丁 挿絵 文字無し】 爾(じ)の合戦(かつせん)なして。万一(まんいち)其方(そのほう)ども討死(うちじに)などなすならば此(この)長政(ながまさ)を誰(たれ)か補佐(ほさ)すべき夫(それ) ゆゑに申せしなり。四 万(まん)に余(あま)る大敵(たいてき)を纔(わづか)に二千 余(よ)の小勢(こぜい)にて打破(うちやぶ)りたる働(はたら)き。今(いま) にはじめぬ事(こと)ながら比類(ひるひ)なき手柄(てがら)なり。必(かなら)ず長政(ながまさ)か言葉(ことば)を心(こゝろ)にかくることなかれ とて。それより手負(ておひ)の小屋(こや)〳〵を見廻(みまは)りて。また栗山(くりやま)が小屋(こや)へかへられける時(とき)。先手(さきて) の将(しやう)みな〳〵来(きた)りて合戦(かつせん)の物語(ものがた)りなどしけるに。黒田惣右衛門(くろだそうゑもん)注進状(ちうしんじやう)書(かき)なをしの ことを申 出(いだ)しければ。長政(なかまさ)何故(なにゆゑ)書(かき)なをし候やと尋(たつね)られけるに。栗山(くりやま)さん候 敵(てき)は四 万(まん)に 余(あま)る大軍(たいぐん)。味方(みかた)は二千 計(ばかり)の小勢(こぜい)ゆゑなか〳〵勝(かつ)べき戦(たゝか)ひならねば。只(たゞ)討死(うちじに)と覚悟(かくご) をなし候へば。あと〳〵にて黒田(くろだ)の者(もの)ども死(し)すべき軍(いくさ)に。加勢(かせい)をたのみしなどゝ云(いは)れ んことの口(くち)おしさに。したゝめなをし此地(このち)の事(こと)は御《割書:ン》心(こゝろ)やすかるべしと申上候。また仮令(たとへ)君(きみ) 加勢(かせい)をなし給はんにも。此所(このところ)より葛原(かつげん)まて九 里(り)の行程(ぎやうてい)を注進(ちゆうしん)なし。夫(それ)より御人(こにん) 数(ず)を出(いだ)し給ひて。また九 里(り)の道(みち)を駈着(はせつき)給はり。往返(おうへん)十八 里(り)の道(みち)を馳(はせ)る間(ま)もあれば時(じ) 刻(こく)うつりて。なか〳〵合戦(かつせん)の間(ま)に合(あひ) 申さゞれば右(みぎ)の如(ごと)く申上しなりと云(いひ)けれは。長政(ながまさ)を始(はじ) め将卒(しやうそつ)ともにみな感涙(かんるい)をながしける。此度(このたび)の戦(たゝか)ひに栗山(くりやま)が家人(げにん)。山本甚太夫(やまもとぢんたいふ)。津(つ) 田才蔵(ださいざう)栗山甚太郎(くりやまぢんたらう)。池田久兵衛(いけだきうべゑ)。などをはじめ十二三人 多(おほ)くの敵(てき)を討取(うちとり)。手柄(てがら)を なす後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)が家人(げにん)にも。古沢(ふるさは)。金馬(かなま)。等(とう)八九人も高名(かうみやう)をなしければ。それ〳〵 に褒美(ほうび)を与(あた)へられて。その軍労(ぐんらう)をなぐさめられける。    小早川隆景(こはやかはたかゝげ)晋州城(しんしうじやう)をかこむ事(こと) 爰(こゝ)に又(また)小早川隆景(こはやかはたかゝげ)は。朝鮮(てうせん)の王城(わうじやう)に入(いつ)て諸将(しよしやう)と会(くわい)し。評定(ひやうちやう)の上(うへ)平壌(へくしやく)へ打入(うちい)らん と其(その)用意(ようい)なしける時(とき)。晋州(しんしう)へ籠(こも)りたる王僧林(わうそうりん)多(おほ)くの兵(へい)を集(あつ)め。釜山浦(ふさんかい)の日本(につほん) 勢(せい)を攻(せめ)んとするよし聞(きこ)へければ。さらば先(まづ)晋州城(しんしうじやう)を責(せむ)べしとて。総大将(そうたいしやう)【惣】毛(もう) 利輝元(りてるもと)申 渡(わた)され。目付(めつけ)として糟谷内膳生(かすやないぜんのかみ)。新庄新三郎(しんじやうしんさふらう)。太田飛彈野守(おほたひだのかみ)。をさし添(そへ) られ。小早川隆景(こはやかはたかゝけ)。立花宗茂(たちはなむねしげ)。久留米侍従秀包(くるめじじうひでかね)。高橋筑前(たかはしちくせん)。二万五千 余騎(よき)各(おの〳〵) 手勢(てぜい)を引(ひい)て。晋州城(しんしうじやう)へと進(すゝ)みける小早川(こはやかは)は諸将(しよしやう)に先立(さきたち)。汗馬(かんば)を早(はや)め急(いそ)きけり。 かくて牧使(ほくし)王僧林(わうそうりん)は。金山(きんさん)の麓(ふもと)に柵(さく)をふりて一万 余(よ)の勢(せい)を引(ひい)て。此(この)ところに出張(しゆつちやう)し て待(まち)かけける。小早川(こはやかは)が先手(さきて)高山主殿助(たかやまとのものすけ)。栗谷四郎兵衛(くりやしろべゑ)。三千 余騎(よき)にて進(すゝ)みけるが。 はしなくこゝへ来(き)かゝりければ。牧使(ぼくし)が兵(へい)は待(まち)もふけたることなる故(ゆゑ)。所々(ところ〳〵)に立(たち)わかれて 矢(や)だねをおしまず。さし詰(つめ)引(ひき)つめ散々(さん〳〵)に射(ゐ)る。高山(たかやま)。栗谷(くりや)が兵(へい)はかゝることゝは夢(ゆめ) にもしらざれば。色(いろ)めき立(たつ)て騒(さは)ぐところを。一万 余人(よにん)の牧使(ぼくし)が兵(へい)咄(どつ)と喚(おめい)て切(きつ)て入(いり) 日本勢(につほんぜい)しばしが程(ほど)は戦(たゝか)ひしが。大軍(たいぐん)に揉立(もみたて)られ一 度(ど)に崩(くづ)れて引退(ひきしりぞ)く。牧使(ぼくし)が勢(せ▢)【せいヵ】 勝(かつ)に乗(のつ)て追来(おひきた)る事(こと)甚(はなは)だ急(きふ)なれば。味方(みかた)多(おほ)く討(うた)れける故(ゆゑ)。栗谷(くりや)が勢(せい)の中(なか)より野(の) 島掃部(じまかもん)白母衣(しろほろ)かけて。大鍬形(おほくわかた)打(うつ)たる兜(かぶと)を着(ちやく)し大身(おほみ)の鎗(やり)を携(たづさ)へ取(とつ)てかへし。追来(おひく) る敵(てき)を忽(たちま)ち五六 騎(き)突殺(つきころ)し。勇(ゆう)を振(ふる)つて防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふ野島(のじま)を討(うた)せじと。村上河内守(むらかみかはちのかみ)。木(き) 梨平左衛門(なしへいざゑもん)。同(おな)じく返(かへ)し合(あは)せ防戦(ぼうせん)す。されども敵(てき)は大軍(たいぐん)味方(みかた)は小勢(こぜい)にて。殊(こと)に崩(くづ) れ立(たつ)たることなれば。右往左往(うわうさわう)に敗走(はいさう)す野島(のじま)。村上(むらかみ)。木梨(きなし)の三人。三四 度(たび)かへし合(あは)せて 引退(ひきしりぞ)く。高山(たかやま)栗谷(くりや)も是非(ぜひ)なく五六 町(ちやう)退(しりぞい)て主従(しゆう〴〵)六 騎(き)にて馬(うま)より下(お)り立(たち)。急(いそ)ぎ本陣(ほんぢん) へ注進(ちゆうしん)す。隆景(たかゝけ)すこしも騒(さは)かず兵(へい)に下知(げぢ)して。汗馬(かんば)に鞭(むち)を加(くわ)へて馳(はせ)ける故(ゆゑ)。御《割書:ン》横目(よこめ)太(おほ) 田(た)。糟谷(かすや)。新庄(しんしやう)も馬(うま)を馳(はせ)て進(すゝ)みける故(ゆゑ)。王僧林(わうそうりん)は遥(はるか)にこれを見(み)て。急(いそ)ぎ兵(へい)をまとめ て金山(かなやま)へ引返(ひきかへ)しける。隆景(たかゝけ)が旗本(はたもと)の先手(さきて)。井上五郎兵衛(ゐのうへころべゑ)備(そなひ)を乱(みた)さず鬨(とき)を作(つく)り。 鉄砲(てつはう)を打(うち)かけ責登(せめのぼ)る。隆景(たかゝけ)は旗本勢(はたもとせひ)【「せい」とあるところ】を引(ひい)て小山(こやま)の有(あり)けるを幸(さいわ)ひと。是(これ)に上(あが)りて 陣(ぢん)を取(とり)。敵(てき)山(やま)を下(くだ)らば其後(そのうしろ)を討(うた)んとひかへたり。太田飛騨守(おほたひだのかみ)。新庄(しんじやう)。糟谷(かすや)は。西(にし)の方(かた)の 横合(よこあひ)より責登(せめのぼ)る。王僧隣(わうさうりん)が勢(せい)も必死(ひつし)となつて追下(おひくだ)し追上(おひあげ)られて戦(たゝか)ふこと夥(おひたゞ) し。井上(ゐのうへ)か勢(せい)の中(なか)より深野平右衛門(ふかのへいゑもん)。佐世勘兵衛(さよかんべゑ)。尾島丹治(おじまたんぢ)。早見式部(はやみしきぶ)。等(とう)各(おの〳〵) 得物(えもの)〳〵を携(たづさ)へ。喚(おめ)き叫(さけ)んで突登(つきのほ)る此時(このとき)栗谷五郎兵衛(くりやごろべゑ)。高山主殿助(たかやまとのものすけ)の両人(りやうにん)は 主従(しゆう〳〵)纔(わづか)七八 騎(き)なれども。はじめの合戦(かつせん)に負(まけ)しことを無念(むねん)におもひ。いかにもして牧使(ぼくし) の旗本(はたもと)へ切入(きりいり)。王僧隣(わうそうりん)と組(くま)んと主従(しゆう〳〵)心(こゝろ)を一ツにして。牧使(ほくし)が旗本(はたもと)を目(め)がけ轡(くつはみ)を双(なら)べ 死(しに)ものくるひに切(きつ)て入(いり)。当(あた)るを幸(さいわ)ひ切伏(きりふせ)薙伏(なぎふせ)七 転(てん)八 倒(たふ)して働(はたら)きける。是(これ)によつて牧使(ほくし) が旗本(はたもと)四度路(しとろ)になつて見(み)へける時(とき)。隆景(たかゝげ)味方(みかた)に下知(げぢ)して総(そう)【惣】かゝりに攻(せめ)かゝる。こゝに おゐて朝鮮勢(てうせんぜい)つゐにかなはずして。総(そう)【惣】崩(くづ)れとなつて敗走(はいそう)す。栗谷四郎兵衛(くりやしろへゑ)は牧(ぼく) 使(し)に逢(あは)んと敵中(てきちう)を駈廻(かけまは)りけれとも出合(いであは)す。逃(にぐ)る敵(てき)を追(おひ)かけ東(ひがし)の峯(みね)へ来(きた)りしに。百 人 計(ばかり)の朝鮮人(てうせんじん)。一 ̄ト かたまりになつて落行(おちゆく)を四郎兵衛(しろべゑ)。これを見(み)て牧使(ぼくし)ならんかと 心(こゝろ)に歓(よろこ)び驀地(まつしくら)に馳出(はせいだ)し。敵中(てきちう)へ切(きつ)て入(いり)敵(てき)四五人 切(きつ)て落(おと)し王僧隣(わうそうりん)をさがしけれども 此中(このうち)に有(あら)ざれば詮方(せんかた)なく主従(しゆう〴〵)六 騎(き)敵(てき)數多(あまた)討取(うちとつ)て隆景(たかゝげ)の手(て)へ引退(ひきしりぞ)きける。扨(さて)も 隆景(たかゝげ)は備(そなひ)を乱(みだ)さず金山(かなやま)へ押上(おしあが)りける故(ゆゑ)。朝鮮勢(てうせんぜい)つゐに打負(うちまけ)晋州(しんしう)さして引退(ひきしりぞ)く 続(つゞい)て攻入(せめいる)べしと勇(いさ)みけるを。隆景(たかゝげ)は智勇兼備(ちゆうけんび)の老将(らうしやう)なればかたく制(せい)して。大(たい) 嶮(けん)を経(へ)ての合戦(かつせん)は実(じつ)に大事(だいじ)の勝負(しやうぶ)ゆゑ。深入(ふかいり)して味方(みかた)を損(そん)ずべからすとて。 陣(ぢん)を張(は)り物見(ものみ)を出(いだ)して晋州城(しんしうじやう)の動静(やうす)を聞(きか)しむるに五万 余(よ)の大軍(たいぐん)にて用(よう) 心(じん)きびしく守(まも)りけるよしなれば。隆景(たかゝげ)も陣(ぢん)をかたくなして日々(ひゞ)城下近辺(じやうかきんへん)を 放火(はうか)して。兵威(へいゐ)をしめし対陣(たいぢん)して有(あり)けるに。王城(わうじやう)に有(あり)ける総(そう)【惣】大将(たいしやう)秀家(ひでいへ)三 奉行(ぶぎやう) より使(つかひ)来(きた)りて。晋州表(しんしうおもて)を引払(ひきはら)ひ王城(わうじやう)より五 里(り)隔(へだ)たる。開城府(かせんふ)といへる所(ところ)に戸田(とだ) 民部少輔(みんふしやういふ)在城(ざいじやう)しけるが。入(い)りかはり申べきよし云越(いひこし)けるにつき。隆景(たかゝげ)は兵(へい)をまとめ て引退(ひきしりぞ)き開城府(かせんふ)へ至(いた)りて戸田(とだ)と入(いり)かはり。此所(このところ)を守(まも)りて近辺(きんへん)の一 揆(き)をしつめて 武威(ぶゐ)をふるはれける。    行長(ゆきなが)書(しよ)を朝鮮王(てうさんわう)におくる事(こと) 小西摂津守行長(こにしつのかみゆきなが)は数度(すど)の軍功(くんこう)を著(あらは)すといへども。王子(わうじ)を捕(とら)へざる事(こと)に おゐて甚(はなは)だもつて恨(うら)みとせり。此(この)ゆゑに清正(きよまさ)と其間(そのあひだ)むつましからず。遂(つゐ)に心(こゝろ)の 隙(ひま)をなす。まことに古(いにしへ)より両雄(りやうゆう)はかならず争(あらそ)ふならい有(あり)と云置(いひおき)しは。さる事(こと) と聞(きこ)へけり。行長(ゆきなが)もすでに平壌(へくしやく)の境内(きやうだい)に打入(うちい)り。兵共(つはもの)をしはらく屯(たむろ)し止(とゝ)めたる に。大明(たいみん)の援兵(ゑんへい)の来(きた)れる事(こと)も近(ちか)きにありと風聞(ふうぶん)すれば。大明(たいみん)の兵(へい)来(きた)るにおゐて は一 戦(せん)に功(こう)を成就(じやうじゆ)するが。または奮(ふる)ひ戦(たゝか)つて討死(うちじに)し。残(のこ)る名(な)を千古(せんこ)に留(とゞむ)るかの 此(この)二のものにおゐて。其運命(そのうんめい)を極(きわ)めんとおもひ定(さだ)めて。人(ひと)を王城(わうじやう)につかはし諸(しよ) 将(しやう)の方(かた)へ述(のふ)るやう。是(これ)より段々(だん〳〵)攻討(せめうつ)て鴨緑江(あふりよくこう)を打渡(うちわた)り直(たゞち)に大明(たいみん)へ打入(うちい)らん こと最(もつと)も容易(たやす)かるべきことなり。諸将(しよしやう)もし後援(こつめ)をなし給はゝ。吾(われ)必(かなら)ず前鋒(せんほう)たら んと云(いひ)やりける。諸将(しよしやう)は行長(ゆきなか)が使者(ししや)に対(たい)し。慶尚(けくしやく)全羅(てるら)の両道(りやうたう)の残城(さんしやう)とも固(かた)く 守(まも)りていまだ降(くだ)らす。是(これ)大敵(たいてき)前(まへ)にあるを打捨(うちすて)て。今(いま)軽々(かる〳〵)しく鴨緑江(あふりよくこう)を渡(わた)らん とせんこと。最(もつと)も危(あやう)き事(こと)なるべししかれば籌(はかりごと)を帷幄(ゐあく)の中(うち)に運(めぐ)らして先(まづ)全羅(てるら) 道(たう)に打入(うちい)りて。これを全(まつた)く取(と)り収(おさ)めんにはと云(いひ)やりけり。行長(ゆきなか)はこれを聞(きく)より大(おほい)に怒(いか)り。 所詮(しよせん)しからば和儀(わき)をなし。朝鮮王(てうせんわう)を和談(わたん)せしめて自己(じこ)の巧作(こうさ)になすべしとて僧(そ▢) 玄蘓(げんそ)をつかはし朝鮮王(てうせんわう)李㫟(りゑん)に書(しよ)を贈(おく)り此事(このこと)をなさんとしたりける。玄蘓(げんそ)は乃(すなは) ち行長(ゆきなが)が命(めい)に応(おう)じ。平壌(へくしやく)の北岸(ほくかん)にぞ急(いそ)ぎける。扨(さて)また平壌府(へくしやくふ)の城内(じやうない)には。倭軍(わぐん) すでに境内(きやうだい)に攻寄(せめよ)せ。纔(わつか)に一 江(こう)の水(みつ)を隔(へた)てゝ居(ゐ)ける故(ゆゑ)諸臣(しよしん)いよ〳〵恐懼(きようく)に偪(せま)りて。ひ 【右丁】 小西《振り仮名:摂津守|つのかみ》行長(ゆきなが) 一人 諸将(しよしやう)に抜(ぬき)んじて 自己(じこ)の功(こう)を立(たて)んと 僧(そう)の玄蘓(げんそ)を使(つかひ)と して朝鮮王 李㫟(りえん)に 書をおくり和議(わぎ)を なさんとはかる 【左丁 挿絵のみ】 とへに王(わう)を始(はし)め大臣(たいしん)も逃仕度(にけしたく)の外(ほか)は更(さら)になかりける。咸鏡道(ゑあんたい)は加藤清正(かとうきよまさ)鍋島(なへしま) 直茂(なをしげ)等(ら)が手(て)にて。既(すで)に攻破(せめやぶ)りたりといふ事(こと)をしらずして。咸鏡(ゑあん)に落行(おちゆく)べき僉(せん) 議(き)一(いつ)にきはまれば。同知官(とうちくわん)李希得(りきとく)が曽(かつ)て永興府使(えいきやうふし)となつて。民(たみ)に恵(めくみ)ある政(まつりこと)を なしたりし故(ゆゑ)今(いま)に国人(くにたみ)の心(こゝろ)を取得(とりえ)たりと云(いふ)をもつて。再(ふたゝ)ひ咸鏡道(ゑあんたい)の巡撿使(じゆんけんし)とな し。兵曹郎(へいそうらう)金義元(きんきけん)を従事官(じふじくわん)となして。北道(ほくたう)に行(ゆか)しめ皇妃(くわうひ)をはじめ内々(ない〳〵)の女(ちよ) 官(くわん)以下(いけ)まで。先立(さきたつ)て北(きた)に向(むか)ひて落(おと)し行(ゆか)しめける。柳成龍(りうせいりやう)は固(かた)く此義(このぎ)を警(いまし)めて 車駕(しやか)始(はしめ)より西(にし)の方(かた)に臨幸(りんこう)なさるゝの議(ぎ)は。もと天兵(てんへい)《割書:大明(たいみん)の|こと也》の援(たす)けを頼(たの)んで再(ふたゝ) び。国(くに)を奪(うば)ひ復(かへ)さんとする故(ゆゑ)なり。すでに軍兵(ぐんひやう)を天朝(てんてう)に請(こひ)たれば。近(ちか)きに当(あた)り て定(さだ)めて援兵(ゑんへい)も来(きた)りぬべしそれを待(また)ずして反(かへ)つて深(ふか)く北道(ほくたう)に入(い)らんとし給ふ 此(これ)より後(のち)其間(そのあひた)を敵兵(てきへい)のために隔(へだ)てられなば。天朝(てんてう)の通路(つうろ)も断絶(だんぜつ)して。音問(おんもん)を も聞(きく)ことなからん。ましてや国家(こくか)を恢復(くわひふく)するの勢(いきほ)ひあらんや。其上(そのうへ)敵兵(てきへい)すでに 諸道(しよだう)に人数(にんず)を散(さん)じたりと聞(きこ)ゆれば。北道(ほくだう)も必(かなら)ず敵兵(てきへい)の無(なく)てや有(ある)べき。若(もし)不幸(ふこう)に して賊兵(ぞくへい)の中(うち)に落入(おちいり)。後(うしろ)より賊兵(そくへい)に追(おは)るゝほどならは。再(ふたゝ)び他(た)に往(ゆく)の道(みち)とては只(たゞ) に北(きた)の虜(ゑひす)のあるのみなり。何(いづ)れの所(ところ)をか依(よ)りたのまん。其(その)危(あやう)きこと又(また)甚(はなはだ)しからず やといへども。朝廷(てうてい)にあるところの臣(しん)の家属(かぞく)ども落行(おちゆき)て。多(おほ)くは北道(ほうだう)にある故(ゆゑ)を もつて。妻子(さいし)の行衛(ゆくゑ)の覚束(おほつか)なさに北道(ほくだう)とのみおもひ立(たつ)とは聞(きこ)へけり。柳成龍(りうせいりやう)は これをのみ独(ひとり)つぶやき。臣(しん)が老母(らうぼ)といへども京城(けいじやう)を落去(おちさ)つて。東(ひがし)に出(いで)しと聞(きく)なれ ば定(さだ)めて江原(こうけん)咸鏡(ゑあん)の間(あひだ)にあらん。其(その)行方(ゆきがた)をしらずして母子(ぼし)の情(じやう)の覚束(おぼつか)なきは 元(もと)より人(ひと)と同(おな)じけれと。豈(あに)私(わたくし)の計(はかりこと)をもつて公(おほやけ)の義(ぎ)を害(がい)せんやと。懇(ねんごろ)にこれを奏(さう) しければ。李㫟(りえん)はこれを痛(いたま)しく聞(きゝ)給へど。知事官(ちしくわん)韓準(かんしゆん)また独(ひとり)進(すゝ)み出(いで)て。北(きた) に向(むか)ふの是(ぜ)なること申すにより。兔(と)に角(かく)咸鏡道(ゑあんだう)へ臨幸(りんこう)あるべきとて。其(その)落支度(おちしたく) を急(いそ)ぎしこそははかなけれ。     行長(ゆきなが)数度(すど)和議(わぎ)を欲(ほつ)する事(こと) 倭兵(わへい)すでに大同江(たいとうこう)まで入(い)り臨(のぞ)んで。今(いま)にも江(え)を渡(わた)りて責入(せめい)らん勢(いきほ)ひなれば。柳成(りうせい) 龍(りやう)が輩(ともがら)練光亭(れんくわうてい)の上(うゑ)に在(あ)つて。渡(わた)り場(は)の方(かた)を遥(はるか)に見(み)るに。一人の倭人(わびと)紙(かみ)と見(み)へたる ものを以(もつ)て。木(き)の梢(こずへ)に挟(さしはさ)み江紗(こうしや)の上(うへ)に立置(たておき)て。此方(こなた)に向(むか)ひ扇(あふき)を上(あげ)て招(まね)くの体(てい)なり。柳(りう) 成龍(せいりやう)はこれを見(み)て火炮(くわはう)の匠(たくみ)金生麗(きんせいれい)といへる者(もの)を召来(めしきた)して。倭人(わびと)の招(まね)くは如何(いか)さま にも此方(こなた)の人(ひと)に諸用(しよよう)ありと見(み)へたるそ。汝(なんぢ)早速(さつそく)行向(ゆきむか)つて是(これ)を取(と)り来(きた)れといへば。金(きん) 生麗(せいれい)はそれより小舟(こふね)に打乗(うちのり)楫取(かぢとり)一人 召具(めしぐ)して向(むか)ふの岸(きし)に漕付(こぎつけ)て陸(くが)にあかれば。彼(かの) 倭人(わひと)兵具(へいぐ)を調(ととの)へず。常(つね)の衣(きぬ)着(き)て生麗(せいれい)に立向(たちむか)ひ。其手(そのて)を握(にぎ)り背(せ)を拊(なで)て。極(きは)めて款(ねんころ)【欵は款の俗字】 狎(な)るやうにもてなし。一 封(ほう)の書(しよ)を懐中(くわいちう)より取出(とりいた)してこれを与(あた)ふれは。金生麗(きんせいれい)は是(これ)を 請取舟(うけとりふね)に乗(の)りて帰(かへ)り来(きた)り。書(しよ)を尹斗壽(いんとしゆ)に相渡(あひわた)す尹相(いんしやう)は此書(このしよ)受取(うけとり)内証(ないしやう)にて 開(ひら)くべきこと如何(いかゞ)あらんと。思案(しあん)にわたるを柳成龍(りうせいりやう)云(いふ)やう。是(これ)を啓(ひら)くとも何(なん) の子細(しさい)かあらんぞ。早(はや)く封(ふう)をきつて見(み)給へといふに。尹相(いんしやう)これに同(どう)じて封(ふう)を啓(ひら)けば。朝(てう) 鮮国(せんこく)礼曹判書(れいそうはんしよ)李公閣下(りこうかつか)に上(たてまつ)ると書(しよ)したるは。これ李徳馨(りとくけい)に与(あた)ふるところの書(しよ) にして。平(たいら)の調信(しげのぶ)と僧(そう)玄蘇(けんそ)とが贈(おく)れるところなり。其(その)大概(たいかい)は小西行長(こにしゆきなが)が意(こゝろ)を 伝(つた)へ我国(わがくに)と和議(わき)をなさんと欲(ほつ)するには過(すぎ)ざるのみ。抑(そも〳〵)朝鮮国(てうせんこく)の諸臣(しよしん)の中(うち)其名(そのな) を知(し)るの人(ひと)も多(おほ)かるべき。に李徳馨(りとくけい)を宛(あて)として此書(このしよ)を贈(おく)るぞと。其(その)由来(ゆらい)を 尋(たづね)るに小西(こにし)平(たいら)の行長(ゆきなが)が。去(さん)ぬる頃(ころ)尚州(しやくしう)の城(しろ)を攻破(せめやぶ)る時(とき)倭学通事(わがくつうし)景應舜(けいおうしゆん)と いへる者(もの)。李鎰(りいつ)が軍中(ぐんちう)に在(あ)りけるが敵(てき)の為(ため)に虜(とりこ)となりし時(とき)平(たいら)の行長(ゆきなが)應舜(おうしゆん)が 擒(とりこ)を許(ゆる)し。書(しよ)一 封(ふう)を与(あた)へて贈(おく)り来(きた)せる其文(そのふん)にいはく。東萊(とうねき)に在(あり)し時(とき)蔚山(うるさん)の群守(ぐんしゆ) 李彦誠(りげんせい)を生(いき)ながら得(え)たりし時(とき)。彼(かれ)を免(ゆる)して帰(かへ)らしむる刻(きざみ)一 封(ふう)を贈(おくる)といへども。 今(いま)におゐてその返報(へんほう)も到来(とうらい)せず。朝鮮(てうせん)今(いま)我(われ)と和睦(わほく)せんと欲(ほつ)するならば。早(はや)く 李徳馨(りとくけい)をして当月(たうげつ)廿八日までに。行長(ゆきなが)と忠州(ちくしう)に会(くわい)せしめよと書(かき)たるける是(これ)は 過(すき)つる四月の事(こと)なりける。又(また)李彦誠(りげんせい)は倭兵(わへい)の蔚山(うるさん)を攻(せめ)つる時(とき)敵(てき)のために生捕(いけとら)れ すでに殺(ころ)さるべかりしを。行長(ゆきなが)和睦(わぼく)を欲(ほつ)する故(ゆゑ)彦誠(けんせい)を免(ゆる)してそれを便宜(びんぎ)とし て。書状(しよじやう)を贈(おく)りたれども李彦(りげん)は敵中(てきちう)に生捕(いけと)られたるその科(とが)を恐(おそ)るゝの意(こゝろ)より。 軍(いくさ)すでに戦(たゝか)ひ破(やぶ)れて惟(たゞ)一 人やう〳〵に逃来(にげきた)ると号(がう)して。その書状(しようじやう)をば遂(つゐ)に隠(かく)し たる故(ゆゑ)今(いま)までも猶(なを)知(し)れる人(ひと)の無(なか)りしを。行長(ゆきなが)が再(ふたゝ)ひ景應(けいおう)を免(ゆる)しかへすと云(いふ) により。始(はし)めて是(これ)をしりたりける。此時(このとき)はいまだ王李㫟(わうりえん)京城(けいしやう)に在(あり)し時(とき)なれは早(さつ) 速(そく)に李徳馨(りとくけい)に命(めい)ぜられ。景應舜(けいおうしゆん)をさし添(そへ)て行長(ゆきなが)が方へつかはしける。徳馨(とくけい) は去(さん)ぬる年(とし)宗義智(そうのうよしとし)等(ら)が使(つかひ)として来(きた)りし時(とき)。馳走人(ちさうにん)にて出合(いてあひ)たるゆゑに行(ゆき) 長(なが)も。其名(そのな)を知(し)るかゆゑ今度(このたび)も彼(かれ)をさして状(じやう)をも贈(おく)れるなり。李徳馨(りとくけい) 等(ら)はその時(とき)途中(とちう)まで出(いで)たるに忠州城(ちくしうじやう)もはや陥(おちい)ると聞(きこ)へたれば。如何(いかゞ)あとへや 還(かへ)らんかと思案(しあん)する。折(をり)から加藤清正(かとうきよまさ)が兵(へい)に出遇(いであひ)應舜(おうしゆん)は討(うた)れければ。 徳馨(とくけい)もやう〳〵に逃(に)げ回(かへ)【囘は古字】り王城(わうじやう)に入(い)らんとするにはや李㫟(りゑん)平壌(へくしやく)に落行(おちゆき) 給ふにより。直(たゞち)に行在所(あんざいしよ)に至(いた)つて此事(このこと)を奏聞(そうもん)したりけり。これによつて和睦(わぼく)の 儀(ぎ)も久(ひさ)しくこと止(や)んで其(その)沙汰(さた)もなかりしに兔(と)角(かく)につゐて行長(ゆきなが)はじめより和(わ) 議(ぎ)をおもふの志(こゝろざし)止(やま)ざりしゆゑ。今(いま)また如此(かくのごとく)の書(しよ)を贈(おく)りて。和睦(わぼく)をなさんと欲(ほつ)す る下意(したこゝろ)とは見(み)へたりける。行長(ゆきなが)一己(いつこ)の功(こう)をたてんと思(おも)ひ。はじめ李彦誠(りけんせい)を免(ゆる)し 書(しよ)を贈(おく)り次(つぎ)に景應舜(けいおうしゆん)をして書(しよ)をつかはし。今(いま)また僧玄蘇(そうげんそ)をもつて和議(わき) をなさんとす。都合(つがふ)三度(ど)におよひけるとなん 朝鮮征伐記(てうせんせいはつき)巻之九《割書:終|》 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之十      目録  一 李徳馨(りとくけい)僧(そう)玄蘇(げんそ)等(ら)に会(くわい)する事(こと)  一 小西行長(こにしゆきなが)平壌城(へくしやくしやう)東岸(とうがん)に寄(よす)る事(こと)  一 朝鮮(てうせん)の軍兵(くんひやう)浅灘(あさせ)に備(そな)ふ事(こと)  一 朝鮮王(てうせんわう)嘉山(かさん)に留(とゞま)る事(こと)  一 高彦伯(かうげんはく)小西行長(こにしゆきなが)が陣(ぢん)へ夜討(ようち)の事(こと)    《割書:并(ならびに)|》倭兵(わへい)江(え)を渡(わた)る事(こと)  一 平壌(へくしやく)落城(らくじやう)の事(こと)  一 柳成龍(りうせいりやう)粮米(らうまい)を防(ふせ)ぐ事(こと)  一 柳成龍(りうせいりやう)兵粮(ひやうらう)を聚(あつむ)る事(こと)  一 遼東(れうとう)の祖承訓(そしようくん)遊撃将軍(ゆうげきしやうぐん)史儒朝鮮(ししゆてうせん)を援事(すくふこと)  一 小西行長(こにしゆきなが)祖承訓(そしようくん)と戦(たゝか)ふ事(こと)  一 祖承訓(そしようくん)遼東(れうとう)に走(はし)る事(こと)  一 元均(げんきん)李舜臣(りしゆんしん)をまねぐ事(こと) 朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之十  李徳馨(りとくけい)僧(そう)玄蘇(げんそ)等(ら)に会(くわい)する事(こと) こゝに行長(ゆきなが)が和睦(わぼく)の議(ぎ)を。欲(ほつ)する其(その)おもむきを聞(きか)んため。此旨(このむね)を李徳馨(りとくけい) に命(めい)ぜらる。徳馨(とくけい)命(めい)を承(うけ給は)り急(いそ)ぎ扁舟(へんしう)に竿(さほ)さゝせ。江中(こうちう)に出向(いてむか)ひば平(たいら)の調信(しげのぶ) 僧(そう)の玄蘓(げんそ)も。東岸(とうかん)より舟(ふね)を漕出(こきいだ)し舟(ふね)をならべて参会(さんくわい)せり。その情(じやう)平生(へいぜい)の 慇懃(ゐんぎん)を尽(つく)し。扨(さて)僧(そう)玄蘓(けんそ)云(いひ)けるやう日本(につほん)より貴国(きこく)の道(みち)を借(かり)。中原(ちうけん)に至(いた)らん とするを許(ゆる)さゞるが故(ゆゑ)により。事(こと)まさに如此(かくのごとく)の大兵(たいへい)に及(およ)ぶなり。併(しかし)ながら猶(なほ)今(いま) とても中国(ちうごく)への一 條(すぢ)の路(みち)を開(ひらい)て。日本勢(につほんぜい)を中国(ちうごく)へ至(いた)らしむるに於(おゐ)ては。貴方(きはう)の亡(ほろび) んことは遁(のが)るべきなりといふ。徳馨(とくけい)聞(きい)て兼(かね)て和睦(わぼく)すべきとは云(いひ)ながら。みだりに 兵(へい)を進(すゝ)むること是(これ)約(やく)をそむくといふものなり。しかれば今(いま)も我国(わがくに)と和(わ)せんとお もはゞ。先(まづ)其兵(そのへい)を退(しりそ)けよ其後(そのゝち)和解(わかい)をなさんといふ。調信(しげのぶ)これを聞(きい)て貴方(きはう)我(われ) 等(ら)が言(いふ)ところを用(もちひ)ずして。郛郭(しろくるは)を完(まつ)とふして民人(みんじん)を聚(あつ)め我兵(わがへい)をいよ〳〵 拒(ふせ)がんとおもはゞ。これを拒(ふせ)ぎて見(み)よ汝(なんぢ)の大王(たいわう)。何(なに)ほどの兵数(へいすう)を聚(あつ)め鴨緑江(あふりよくこう)を 隔(へだて)にとりてさゝへんと欲(ほつ)すとも。我将士共(わかしやうしとも)鼓(つゞみ)【皷は俗字】をならしてこゝをもやすく攻破(せめやぶら)ん ぞ。此上(このうへ)は速(すみやか)に和(わ)を請(こふ)ともまた防(ふせ)ぐとも。汝等(なんぢら)が意次第(こゝろしだい)なり。斯(かく)言(いふ)を聞(きか)ずして 後悔(こうくわひ)すとも益(えき)あらじと云(いひ)すてゝ。互(たがひ)に舟(ふね)を乗別(のりわけ)てこそかへりけれ。こゝにおゐて 遂(つひ)に和睦(わぼく)のこともやぶれたり。されは調信(しげのぶ)等(ら)行長(ゆきなが)の陣所(ぢんしよ)に至(いた)り。此(この)おもむき を語(かた)りけるに小西(こにし)は聞(きい)て大(おほい)に怒(いか)り我(われ)彼国(かのくに)を亡(ほろぼ)さんことの本意(ほんい)なさに。兼(かね) てさま〳〵の言(ことは)を尽(つく)させ。善(ぜん)を告(つぐ)れば却(かへつ)てこれを聞(きか)ず。此上(このうへ)は速(すみやか)に江(え)を渡(わた)り 朝鮮王(てうせんわう)を獲(とりこ)にして。秀吉(ひでよし)公の御 感(かん)に預(あづか)んずぞと。義智(よしとし)等(ら)が兵士を合(あは)せて 江東(こうとう)の岸(がん)上に押寄(おしよ)せて陣列(ぢんれつ)をぞなしたりける    小西行長(こにしゆきなが)平 壌城(しやくしやう)東岸(とうがん)に寄(よす)る事 平壌(へくしやく)の城(じやう)中には敵(てき)すでに江東(こうとう)に陣(ぢん)を結(むす)んで。江(え)を渡(わた)らんとなす有(あり)さまを 見(み)るより。上 官(くわん)下部(しもべ)に至(いた)るまで大(おふ)に惧(おそ)れ早(はや)く御 駕(が)を出(いた)されよと。寧辺(ねいへん)の 路(みち)に向(むか)ふ。大臣(たいじん)には崔興源(さいこうげん)愈泓(ゆこう)鄭徹(ていてつ)等(ら)を始(はじめ)として。王駕(わうか)の御供奉(こくふ)にしたがひば 左相(さしやう)尹斗壽(いんとじゆ)。金元帥(きんけんすゐ)李元翼(りげんよく)等(ら)は。留(とゞめ)て平壌(へいじやく)の府城(ふじやう)を守(まも)るの役(やく)人たり柳(りう) 成龍(せいりやう)は。大 明(みん)の大将(たいしやう)を待受(まちうく)るの役(やく)として。同(おな)じく府城(ふじやう)に留(とゝま)りけり。是(これ)ぞ八月十二日 の事(こと)なり早朝(さうてう)より日本の諸勢(しよぜい)小西(こにし)黒田(くろだ)宗(そう)の輩(ともがら)兵(へい)を合(あは)せて。城(しろ)を責(せめ)ん と巻(まき)よせ東岸(とうがん)に打望(うちのぞ)み。江水(こうすゐ)を早(はや)く渡(わた)らんとこそ議(ぎ)したりける。左相(さしやう)尹(いん) 斗壽(とじゅ)。金元帥(きんげんすゐ)李元翼(りげんよく)。柳成龍(りうせいりやう)とともに練光亭(れんくわうてい)に陣(ぢん)をなす。平壌(へいしやく)の本(ほん) 道(だう)の監司(かんす)の官(くわん)宋言慎(そうけんしん)は。大 同城(とうしやう)を守(まも)りたり門楼兵使(もんらうへいし)李潤徳(りしゆんとく)は。浮碧楼(ふへきらう) より以上(いじやう)の江灘(こうだん)を守り。慈山郡守(しさんくんしゆ)尹裕俊(いんようしゆん)等(ら)は長慶(ちやうけい)門を守(まも)りたり。城(じやう)中の士(し) 卒(そつ)民夫(みんふ)を合(あわ)せて。纔(わづか)に三四千には過(すぎ)ざりける。城堞(しやうてう)を分(わか)ち配(くば)りて是(これ)を守(まも)るし かれども。元(もと)より軍法(ぐんはう)正(たゞ)しからざる故(ゆゑ)其部(そのぶ)の人衆(しんしゆ)を立(たつ)ること一ならで或(あるひ) は間数(まかず)の少(すこし)き所(ところ)を大勢(おふせい)にて守(まも)るによつて。かへつて混雑(こんさつ)におよぶも有(あり)或(あるひ)は間(ま) 数(かず)の遠(とほ)き所(ところ)を小勢(こぜい)にて防(ふせ)ぐが故(ゆゑ)。数間(すけん)の垜(とて)に一人の兵士(へいし)の守(まも)れる者の無(なき) も有(あり)て。其所(そのところ)をばやう〳〵に人の衣服(いふく)をといて。松(まつ)の木(き)などにかけつらねて偽兵(ぎへい) と名付(なつけ)。これを以(もつ)て和兵(わへい)の心(しん)を人(ひと)ありと疑(うたが)はしめんと謀(はか)りける。偖(さて)又こゝに 江(え)を隔(へだて)て敵兵(てきへい)の動静(やうす)を望(のぞ)み見(み)るに。おもひの外(ほか)に多(おほ)からず。又 東大院(とうたいいん)の岸上(がんしよふ) に一 文字(もんじ)に陣(ぢん)を張(はり)たるは。紅白(こうはく)の旗旌(きせい)をたてつゝけたり。その備(そなひ)の内(うち)よりも十 余(よ)の馬武者(うまむしや)を出(いた)して。羊角島(ようかくとう)の方(かた)に向(むか)つて江中(こうちう)に乗(のり)入。馬(うま)の太腹(ふとばら)の没(した)るばかり に成(なり)ぬれば皆々(みな〳〵)轡(くつばみ)を扣(ひか)へ。馬(うま)の首(かしら)を双(なら)べまさに渡(わた)らんとするの勢(いきほひ)をぞ示(しめ)しける その余(よ)の兵士(へいし)も江上(こうじやう)に馬(うま)を乗(のり)入。勇威(ゆうい)をしめす体(てい)なるは。是(これ)ぞ乃(すなは)ち小西(こにし)黒(くろ) 田(た)等(とう)の手(て)の者(もの)なり。かゝる所(ところ)へ小西(こにし)が陣(ぢん)より又(また)六七人の兵士(へいし)鳥鋭(てつほう)【銃の誤ヵ】を打(うち)かたげ て江辺(こうへん)に到(いた)ると見えしが。城(しろ)に向(むか)つて放(はな)ちたてたるその響(ひゞ)き忽(たちま)ちに雲雷(うんらい) の起(おこ)るが如(ごと)くなり。さしもに広(ひろ)き大江(たいこう)を打越(うちこえ)て大 同館(とうくわん)の内(うち)に入(いり)。屋瓦(おくくわ)の上(うへ)に 落散(おちち)ること其間(そのあひだ)幾(いく)百 間(けん)といふことなし。或(あるい)は城楼(しやうらう)の柱(はしら)に中(あた)つて深(ふか)く入(は[い])ること 五六寸に至(いた)れるは。其数(そのかず)しらぬことどもなり。其中(そのうち)に緋縅(ひおどし)の鎧(よろひ)を着(ちやく)せる武者(むしや) 一 騎(き)。中(なか)にもすぐれて其術(そのじゆつ)を得(え)たりと見(み)へたるが。遥(はるか)に練光亭(れんくわうてい)の上(うへ)を望(のぞ)み朝(てう) 鮮國(せんこく)の大将共(たいしやふども)の並居(なみゐ)たるを見(み)て。惟者(たゞもの)ならずとやおもひけん鳥鋭(てつほう)【銃の誤ヵ】を小脇(こわき)に かひこみ。邪睨(ながしめ)に楼上(らうしやう)を見(み)上たるが少(すこ)し町間(てうけん)の延(のび)たりとや計(はか)りけん。沙渚(すさき)の上(うへ) に進(すゝ)みよりて引金(ひきかね)を切(きつ)て放(はな)せば。何(なに)かはもつてたまるべき亭上(ていしやう)に座(ざ)したりし。二 人の官(くわん)人を打仆(うちたふ)す。是(これ)二ツ丸(たま)とはしられけるされども其(その)丁間(てうけん)の遠(とほ)き故(ゆゑ)を以(もつ)て 傷(きづさき)やふるとはいへども薄(うす)き疵(きづ)なれば死(し)におよばず。諸(もろ〳〵)の官(くわん)人ども大(おふい)に色(いろ)を失(うしな) ひしが。中にも柳成龍(りうせいりやう)は軍官(ぐんくわん)の姜士益(きやうしえき)といふ者(もの)。強弓(つよゆみ)の男(おとこ)なるを早(はや)く下知(げじ) して。防牌(もちだて)の陰(かげ)より射(い)させける。元来(ぐわんらい)手だれの精兵(せいへい)なるゆゑ。射(い)出すところ の二三 箭(せん)沙上(しやしやう)遥(はるか)に絃音(つるおと)して並(なら)び居たりし小西(こにし)が兵の中にも大 筒(つゝ)をかゝへ たる兵(へい)をやにはに撞(どう)と射仆(いたふ)したれば。残(のこ)りの兵士(へいし)とも不覚(ふかく)とやおもひけん。皆(みな)々 東岸(とうがん)にかけ上(あか)る。金元帥(きんけんすゐ)は是(これ)を見(み)るより弓(ゆみ)をよく射(いる)兵(へい)を選(えら)み出(いだ)し。船(ふね)に 打乗(うちの)せ江(え)の中流(ちうりう)まで漕出(こぎいだ)し。倭軍(わぐん)の兵船(へいせん)を射立(ゐたて)つゝ稍(やうや)く東岸(とうがん)に近(ちか)づけ ば。倭軍(わぐん)はすでに射(ゐ)しらまされて引退(ひきしりぞ)く。朝鮮(てうせん)の船中(せんちう)より玄字鋭(げんじえい)と名付(なつけ) たる。大箭(おほや)の椽(たるき)の如(ごと)くなるを発(はつ)すを見(み)て。日本(につほん)の兵士共(へいしども)此(この)大箭(おほや)を取上(とりあげ)大(おほい)に 肝(きも)をつぶさずといふ者(もの)なし。依茲(こゝにより)倭(わ)の軍兵(ぐんひやう)ども此所(このところ)は安(やす)く攻破(せめやぶ)りかたし とて。暫(しばら)くこゝを引退(ひきしりぞひ)てぞひかへたり。    朝鮮(てうせん)の軍兵(ぐんひやう)浅灘(あさせ)に備(そな)ふ事(こと) 其頃(そのころ)日(ひ)を経(へ)て雨(あめ)降(ふ)らざりし故(ゆゑ)によつて。江水(こうすゐ)日々(ひゞ)に縮(ちゞま)りければ城中(じやうちう)是(これ)を 憂(うれ)ひ苦(くるし)み。一人の大臣(だいじん)を差遣(さしつかは)し雨(あめ)を求(もと)めて檀君(だんくん)箕子(きし)東明王(とうめいわう)の廟(びやう)に祷(いの)ら せけれども。雨(あめ)は猶(なほ)少(すこ)しも降(ふ)らず柳成龍(りうせいりやう)は尹斗壽(いんとじゆ)に向(むか)つて云(いふ)。此所(このところ)水(みず)深(ふか)ければ 歩渡(かちわた)りせんこと最(もつと)もかなふべき所(ところ)にあらず。其上(そのうへ)漕(こぐ)べき船(ふね)一 艘(さう)もなければ倭(わ) 【右丁】 練光亭(ちんくわうてい)【「れんくわうてい」の誤】の 楼上(らうしやう)へ 小西(こにし)が兵士(へいし) 鳥銃(てつほう)を 打(うち)かけ 官人(くわんにん)を  打仆(うちたふ)す 【左丁 挿絵】 兵(へい)遂(つゐ)に是(これ)より越(こ)す事(こと)なりがたからん。さりながら流(ながれ)の上(かみ)の所々(ところ〳〵)浅灘(あさせ)多(おほ)く有(あり) なれば。定(さだ)めて倭兵(わへい)の是(これ)を尋(たづ)ねて早晩(いつしか)渡(わた)るべし。若(もし)兵(へい)の此所(このところ)をだに渡(わた)りおふ せは。此城(このしろ)如何(いかゞん)ぞ守(まも)るに堪(たえ)んや早(はや)く人(ひと)をつかはして。浅(あさ)かるべき所々(ところ〳〵)をなど防(ふせ)が しめざるぞと云(いひ)けれども。金元帥(きんげんすゐ)はその生(うま)れつき裕寛(ゆうくわん)に緩(ゆる)ふして。物(もの)こと急(いそ)ぐ に意(こゝろ)なし。たゞ云(いひ)けるは李潤徳(りじゆんとく)をしてこれを守(まも)らしむれば。何(なん)の気遣(きつかひ)なることなし といふ。柳成龍(りうせいりやう)はこれを聞(きゝ)潤徳(しゆんとく)が助(たす)けともなるべきために。弥(いよ〳〵)別将(べつしやう)をつかはして こそよかるべけれと。再三(さいさん)すゝめ即(すなは)ち李巡察(りじゆんさつ)を指(さし)て云(いふ)。公等(こうら)一 處(しよ)に会合(くわいがふ)し酒(しゆ) 宴(ゑん)なんどの座(ざ)の如(ごと)く。無益(むえき)に日々(ひゞ)暮(くら)すこと是(これ)何(なん)のためなるぞ。早(はや)く往(ゆき)て江灘(こうだん)を 守(まも)らざるやと云(いひ)ければ。李元翼(りげんよく)是(これ)を聞(きゝ)て各々(おの〳〵)の仰付(おほせつけ)られ有(あ)らば。我(われ)何(なん)そ其(その)涯分(かいふん) を尽(つく)さゞらんやと答(こた)へける。尹斗壽(いんとじゆ)さらば早(はや)くおはせよと李元翼(りけんよく)をつかはし けり。柳成龍(りうせいりやう)は又(また)大明(たいみん)の軍(いくさ)に相接(さうせつ)するの役人(やくにん)たれか。守防(しゆぼう)の軍務(ぐんむ)には預(あづか)らざ るが黙念(もくねん)として。此有(このあり)さまを考(かんが)ふるに。兔角(とかく)に此城(このしろ)も持(もつ)こらゆべき体(てい)にあら ず。早(はや)く大明(たいみん)の将(しやう)を迎(むか)ひ来(きた)り一 時(じ)も速(すみやか)に来(きた)り救(すく)ふがまさるべきかと。日暮(ひぐれ)に及(およ) んで従事官(じふじくわん)洪宗禄(こうそうろく)辛慶晋(しんけいしん)の二人と打(うち)つれ。城(しろ)を出(いで)それより馬(うま)に鞭(むち)うつて馳(はせ) たるに。其夜(そのよ)深更(しんかう)におよんで順安(じゆんあん)の路中(ろちう)に。李陽元(りやうげん)。従事官(じふじくわん)金廷睦(きんていほく)の二人が軍(いくさ) 破(やぶ)れて准陽(わいやう)より来(きた)るに逢(あ)ふ。李陽元(りやうげん)は柳成龍(りうせいりやう)と見(み)るより馬(うま)をとゞめて云(いふ)。既(すで) に倭賊(わぞく)の兵(へい)《割書:加藤(かとう)鍋島(なべしま)|が兵なり》鉄嶺(てつれい)に至(いた)れり。其勢(そのいきほひ)中々(なか〳〵)もつて当(あた)るべからずと云(いひ)てわかれける。 柳成龍(りうせいりやう)は其翌日(そのよくじつ)肅川(しゆくせん)を過(す)ぎ安州(あんしう)に至(いた)るのところに。遼東(れうとう)の鎮撫(ちんぶ)林世禄(りんせいろく)再(ふたゝ) び至(いた)りて軍(いくさ)のやうを咨(とひ)はかり。大明(たいみん)の大兵(たいへい)も程(ほど)なく到(いた)り会(くわい)すべきの旨趣(ししゆ)を告(つぐ) れば。早(はや)く朝鮮王(てうせんわう)の行在(あんざい)へ人(ひと)を馳(はせ)て是事(このこと)を申すにより。車駕(しやが)すでに寧辺(ねいへん)を意(こゝろ) かけ博川(はくせん)を過(すぎ)給ふと聞(きこ)ゆる故(ゆゑ)。柳成龍(りうせいりやう)も馬(うま)を急(いそ)がせ馳(はせ)ける程(ほど)に。やう〳〵博川(はくせん) に到(いた)り著(つ)く。李㫟(りえん)は時(とき)に柳成龍(りうせいりやう)を召(めし)見(まみ)へて。平壌(へくしやく)府城(ふしやう)その守備(しゆび)何(なに)とか有(あ)ら んと問(とは)はれければ。成龍(せいりやう)荅(こた)へて人心(じんしん)頗(すこぶ)る一 図(づ)に固(かた)し。其(その)城(しろ)守(まも)るべきに似(に)たるが 但(たゝ)し援兵(ゑんへい)なくんばかなふまじ。此故(このゆゑ)臣(しん)今(いま)こゝに来(きた)り天兵(てんへい)を。一 時(じ)も早(はや)く迎(むか)ひ 速(すみやか)に馳(は)せて。平壌(へくしやく)を援(すく)はんと存(ぞん)ずるに。今(いま)に天兵(てんへい)の至(いた)るを見(み)ざるこそ此(これ)を以(もつ)て 憂(うれひ)となし申なりと奏(さう)すれば。李㫟(りえん)は即(すなは)ち平壌(へくしやく)の守将(しゆしやう)。尹斗壽(いんとじゆ)が方(かた)より来(きた) るところの状(じやう)を取出(とりいだし)。柳成龍(りうせいりやう)に示(しめ)して昨日(きのふ)すでに平壌(へくしやく)の城中(じやうちう)より。老弱(らうじやく)の輩(ともから) をばこと〳〵く出(いだ)して落(おと)したりといへり。是(これ)人心(じんしん)の動揺(どうえう)するにあらざんや。 しかるに汝(なんぢ)何(なに)を以(もつ)てよく守(まも)らんとは云(い)へるぞや。成龍(せいりやう)荅(こた)へて此状(このじやう)を見(み)る時(とき)は誠(まこと) に聖慮(せいりよ)の如(ごと)くなり。併(しかしなが)ら臣(しん)が彼城(かのしろ)に有時(あるとき)は。かゝる事(こと)いまた候(そうら)はず。大概(だいがい)其趣(そのおもむ) きを察(さつ)すれば。敵兵(てきへい)かならず浅灘(あさせ)の所(ところ)より渡(わた)りたらば。平壌(へくしやく)を保(たも)たんとする に堅(かた)からんか。よろしく菱(ひし)鉄をもつて水中(すゐちう)に布(し)き植(うゑ)させて。備(そなひ)をなすにはしか ずと申に。李㫟(りえん)重(かさね)て此縣中(そのけんちう)にもまた菱(ひし)鉄の有(ある)べきや。しからば早(はや)く布(しか)せよ と命(めい)あるに。成龍(せいりやう)は承(うけ給は)り此縣中(このけんちう)にも凡(およそ)数千(すせん)の菱(ひし)鉄は候べし。また平壌(へくしやく) より西(にし)の地(ち)。江西(こうせい)の龍岡(りうこう)。甑山(そうざん)。咸徒(かんと)等(とう)の邑々(むら〳〵)の倉中(さうちう)につめるところの穀(こめ)多(おほ)く。人(じん) 民(みん)もまた多(おほ)し。しかるに倭賊(わぞく)の兵(へい)近(ちか)づきぬと承(うけ給)はらば。かならず民間(みんかん)おどろき 騒(さわ)きて方々(ほう〳〵)へ散乱(さんらん)せん。急(きふ)に近侍(きんじ)の臣(しん)一人を撰(えら)ばせ給へ。これより馳(は)せて其民(そのみん) 人(じん)をしづめ撫(なで)させ。且(かつ)また兵士(へいし)を集(あつ)め収(おさ)めて平壌(へくしやく)の継援使(けいゑんし)となし給はゞ。 よろしからんかと奏(そう)するに。李㫟(りえん)はこれに最(もつとも)と同じ給へければ。即(すなは)ち兵曹(へいそう) 正郎(せいらう)李幼證(りようせう)。その器量(きりやう)謀計(ばうけい)の有(ある)ものなりと。此事(このこと)を命(めい)じ急(きふ)に馳駆(ちく)し て少(すこ)しの遅滞(ちたい)あるべからずと有(あり)ければ。成龍(せいりやう)は幼證(ようしやう)に王命(わうめい)を伝(つた)へける。李(り) 幼證(ようしやう)大(おほい)に驚(おどろ)き東南北(とうなんぼく)ともに敵兵(てきへい)の集会(しふくわい)せる中(なか)へ。如何(いかん)ぞ我(われ)一人進(すゝ)むべ きと辞退(じたい)する顔色(がんしよく)あり。成龍(せいりやう)これを辱(はつかし)めて禄(ろく)を食(はむ)て臣(しん)たる身(み)。其君(そのきみ) の難(なん)あるを見(み)ながら。その身(み)を顧(かへ)りみるの道(みち)やある。国事(こくじ)今(いま)危急(ききふ)の場所(ばしよ) たとへ湯火(とうくわ)といふとも。何(なん)ぞ是(これ)を避(さく)べきぞと。責(せめ)られて幼證(ようしやう)は黙然(もくねん)と首(こうべ)をさげ。 其理(そのり)には伏(ふく)しながら恨(うら)める色(いろ)は見(み)へにけり。    朝鮮王(てうせんわう)嘉山(かさん)に留(とゞま)る事(こと) 扨(さて)も成龍(せいりやう)は李㫟(りえん)の旅館(りよくわん)に来(きた)り。拝辞(はいじ)して一 時(じ)も早(はや)く大明(たいみん)の軍兵(ぐんひやう)を迎(むかへ)ん と。大定(たいてい)の江辺(こうへん)に出(いで)たるに其(その)日(ひ)もすでに西(にし)に傾(かたふ)きぬ。遥(はるか)に広通院(くわうとうゐん)の方(かた)を顧(かへりみ)れば。 軍(いくさ)破(やぶ)れて討(うち)もらされの兵士(へいし)と見(み)へ。打続(うちつゞひ)て落来(おちきた)るは是(これ)早(はや)平壌(へくしやく)の守(まも)り破(やぶ)れて。 遁(のが)れ來(きた)る敗兵(はいへい)と見(み)てければ。早(はや)くこれを留(とゞめ)てそのやうすを問(とふ)べしと。軍官(ぐんくわん) 数人(すにん)を追(おひ)かけさせ馬(うま)を馳(はせ)て見(み)せしむるに。散卒(さんそつ)十九人を伴(ともな)ひ来(きた)る是乃(これすなは)ち 義州(ぎしう)。龍州(りやうしう)等(ら)の所々(ところ〳〵)より平壌(へくしやく)の堅(かた)めとし。江灘(こうだん)を守(まも)りたる者(もの)どもなり。 彼等(かれら)が言(こと)をくわしく聞(きけ)ば。昨日(きのふ)倭賊(わぞく)小西行長(こにしゆきなが)が兵馬(へいば)王城灘(わうじやうたん)より江(こう)を渡(わた)る によつて。江上(こうじやう)に備(そなひ)たりし味方(みかた)の兵将(へいしやう)各軍(かうぐん)大(おほい)に潰(やぶ)れ。兵使(へいし)李潤徳(りしゆんとく)は遁(のが)れ走(はし)りて 跡方(あとかた)なし。これによりて我々(われ〳〵)も皆(みな)本軍(ほんぐん)に罷(まか)りかへるといふ。柳成龍(りうせいりやう)此事(このこと)を 聞(きく)より大(おほい)に惧(おそ)れ。十九人の兵士(へいし)をば成龍(せいりやう)が幕下(ばつか)にとめ置(おき)。軍官(くんくわん)崔允元(さいゐんけん)をし て急(いそ)ぎ李㫟(りえん)に報(はう)ぜしむ。車駕(しやが)此時(このとき)すでに敵兵(てきへい)の北道(ほくだう)をも全(まつた)く陥(おちい)るの説(せつ)を 聞(きく)。道(みち)よりして再(ふたゝ)び博川(はくせん)に回(かへ)【囘は古字】り至(いた)りてすゝめざるに。通川(つうせん)の郡守(ぐんしゆ)鄭述(ていじゆつ)は使者(ししや)を もつて。王李㫟(わうりえん)に食膳(しよくぜん)をすゝめければ。爰(こゝ)にてしばらく今日(こんにち)の労(らう)を休息(きうそく)なし給ふ ところへまた。柳成龍(りうせいりやう)が使者(ししや)をはじめとして。平壌(へくしやく)の府城(ふじやう)すでに陥(おちい)りたりとも 告(つ)げ来(きた)り。或(あるひ)は其(その)危(あやう)き事(こと)旦暮(たんぼ)にありども報(はう)じて。兔(と)角(かく)によろしき沙汰(さた)はなし。 しかれば御《割書:ン》駕(か)の臨幸北(りんこうきた)に向(むく)こともかなはず。又(また)平壌(へくしやく)へ還幸(くわんこう)あるべきやうもなければ。 暫(しばら)く此辺(このへん)のよろしき方(かた)を行在所(あんざいしよ)と定(さだ)め。大明(たいみん)の援兵(ゑんへい)を待(まつ)より外(ほか)の議(ぎ)有(ある)まじ。 とて。車駕(しやが)をば嘉山(かざん)にとゞめ東宮(とうぐう)は廟社(ひやうしや)の主(しゆ)を奉(ほう)じて博川(はくせん)より。再(ふた)び山群(さんぐん)に入(いり) 給ふべきに定(さだま)りけり。    高彦伯(こうげんはく)小西行長(こにしゆきなが)が陣(ぢん)へ夜討(ようち)の事(こと)    《割書:并(ならびに)|》倭兵(わへい)江(え)を渡(わた)る事(こと) 偖(さて)又(また)小西摂津守行長(こにしつのかみゆきなが)。宗對馬守義智(そうつしまのかみよしとも)。黒田甲斐守長政(くろだかひのかみなかまさ)。大友豊後守義(おほともふんこのかみよし) 統(すみ)【綂は俗字】。久留米侍従秀包(くるめしじふひでかね)。小早川隆景(こはやかはたかゝけ)等(とう)の諸将(しよしやう)次第(しだい〳〵)に陣(ぢん)をすゝめ。江沙(こうしや)の上(うへ)に手(て) 配(くば)りをなし草(くさ)を結(むす)んで陣(ぢん)を取(とり)。軍営(くんゑひ)を連(つら)ねたり凡(およそ)数(す)十人の大将(たいしやう)。家々(いへ〳〵)の 幕(まく)の紋(もん)其(その)染色(そめいろ)の品(しな)をまじへて。昼(ひる)は旌旗(せいき)大旆(まとい)の影日(かけひ)に照(てら)されておびたゞしく 夜(よ)はまた焼(たき)つゞけたる炬火(かゝりひ)に江淵(こうゑん)の魚(うを)もおどろくへし。かくて累日(るいしつ)を経(ふる)といへ ども。朝鮮(てうせん)の兵士(へいし)命(いのち)を捨(すて)て是(これ)を防(ふせ)けば。一 端(たん)にしてはなか〳〵もつて安(やす)く渡(わた)りを なし得(う)べきやうもなし。また遠矢(とほや)の軍(いくさ)ばかりにてははか〴〵しき勝負(しやうふ)なければ 今(いま)は攻(せむ)るに力(ちから)もつき日本(につほん)の兵士(へいし)退屈(たいくつ)し。其(その)警(いましめ)も怠(おこた)りがちになりたりける。金(きん) 命元(めいけん)等(ら)は平壌城(へくしやくじやう)より遥(はる)かに是(これ)を望(のぞ)み見(み)て。諸将(しよしやう)とはかつて云(いひ)けるやう倭賊(わぞく)の 体(てい)をかんがふるに。其勢(そのいきほ)ひ始(はしめ)とちかひ大(おほい)に怠惰(たいだ)して相見(あひみ)ゆるは。此城(このしろ)まさに江(え)を 隔(へだて)て。その守(まも)りも最(もつと)も強(つよ)きによつて全(まつた)くこれを攻(せめ)あぐみ。退屈(たいくつ)すると覚(おぼ)えたり いざや此夜深更(このよしんこう)に精兵(せいへい)をゑらんで。一 夜討(ようち)して味方(みかた)の兵士(へいし)の勢(いきほ)ひをつくべしと 【右丁 挿絵】 【左丁】 高彦伯(こうけんはく)  行長(ゆきなが)の  陣(ぢん)へ無法(むほう)に  夜討(ようち)  して  敗軍(はいくん)  なして  浅瀬(あさせ)を   しらる 有(あり)ける時(とき)高彦伯(こうげんはく)一 列(れつ)の中(うち)を進(すゝ)み出(いて)。我等(われら)こそ今夜(こよひ)の大将(たいしやう)を承(うけ給)はらんと云(いひ)け れば。左(さ)らば其用意(そのやうい)をなすべしと有(あり)ける故(ゆゑ)。早速(さつそく)浮碧樓(ふへきらう)より綾羅渡(れうらと)を下(くだ) り。潜(ひそか)に船(ふね)を出(いだ)して軍(ぐん)を渡(わた)す。精兵(せいへい)ゑらんで七百人二 手(て)となつて押寄(おしよせ)けるが 始(はし)め約(やく)して今夜(こよひ)三 更(こう)に事(こと)を挙(きよ)すべしと云(いひ)たりけるに。江上(こうしやう)の船(ふね)とも遅速(ちゝそく)最(もつと)も 同(おな)しからず。これによつて其(その)時刻(じこく)相違(さうゐ)してすてに渡(わた)り終(おは)るの時(とき)は。昧爽(あげかた)ちかく成(なり) にけり。こゝに於(おい)て日本勢(につほんぜい)の体(てい)を窺(うかゞ)ふところに。未(いま)だ諸軍(しよくん)の備(そなひ)ともに猶(なを)眠(ねむ)れる の時(とき)なりけり。すでに時分(じぶん)は遅(おそ)しといへどもおもひもふけし事なれば。第(だい)一 番(ばん)の陣(ぢん) 中(ちう)へおめきさけんで切(きつ)て入(いり)是(これ)は小西行長(こにしゆきなが)が陣営(ぢんゑひ)なりしが。おもひもよらぬ夜討(ようち) をうたれ。陣中大(ぢんちうおほい)におどろき乱(みた)れ鎧(よろひ)を着(き)れば槍(やり)をわすれ。弓(ゆみ)をとれば箙(ゑひら)を 捨(す)つ朝鮮(てうせん)の軍兵(ぐんひやう)はいよ〳〵是(これ)に力(ちから)を得(え)。勝(かつ)に乗(じやう)して切伏(きりふせ)突伏(つきふせ)するほどに。倭兵(わへい) の騒動(そうどう)大(おほ)かたならず。平壌(へくしやく)の住人(ぢゆうにん)仼旭景(わうきよくけい)一 番(ばん)に先登(せんとう)し。力戦(りきせん)して日本勢(につほんぜい) 数人(すにん)を斬仆(きりたふ)す。されども日本(につほん)の勇兵(ゆうへい)等(ら)に取(とり)こめられ。遂(つゐ)にこゝにて討(うた)れける。倭(わ) 軍(ぐん)の馬(うま)を奪(うば)ふこと三百 余匹(よひき)におよびける。黒田(くろだ)が陣(ぢん)の軍兵(ぐんひやう)ども。小西(こにし)が陣(ぢん)へ夜(よ) 討(うち)の入(いり)しと聞(きく)より人数(にんず)を備(そなひ)て。大浪(おほなみ)の起(おこ)るが如(ごと)く朝鮮勢(てうせんぜい)へ突(つき)かゝる。こゝに於(おゐ) て朝鮮勢(てうせんぜい)かなはじとやおもひけん。我先(われさき)にと走(はし)りかへりて船(ふね)に乗(の)らんとしたり けるに。船手(ふなて)に残(のこ)る朝鮮人(てうせんじん)日本勢(につほんぜい)の興(おこ)つて後(うしろ)より迫(せま)り来(きた)るを見(み)るより。中流(ちうりう) に棹(さほ)をとゞめおそれて岸(きし)に船(ふね)を寄(よせ)ねば。岸(きし)に臨(のぞ)める夜討(ようち)の者共(ものとも)前(まへ)に乗(のる)へき船(ふね) はなく。後(しりへ)に迫(せま)る敵(てき)多(おほ)ければ今(いま)はすべきやうなくて。江中(えちう)に飛入(とびいり)〳〵する程(ほど)に。 水練(すゐれん)をしらざる者(もの)は溺(おぼ)れて死(し)する者 多(おほ)ければ。生(いき)たる者(もの)は残(のこ)りすくなくなりに けり。夫(それ)夜討(ようち)の法(ほう)といふは厚(あつき)に討(うつ)て薄(うす)きに出(いで)。送(おく)り備(そなひ)に待備(まちそなひ)。摚(どう)と討(うつ)てはさつと 引(ひ)き敵(てき)の不意(ふい)を伺(うかゞ)ひ。したるく矛(ほこ)を合(あは)せざる。其(その)さま〳〵の大事(だいじ)有(ある)を。元(もと)より しらぬ朝鮮人(てうせんしん)其術(そのじゆつ)なふして人(ひと)の陣(ぢん)をみだりに侵(おか)すおろかさよ。又(また)小西(こにし)が陣中(ぢんちう) 兼(かね)てより夜討(ようち)の入(いる)へき用心(ようじん)なく。油断(ゆだん)に寝入(ねいり)たるに此時(このとき)若(もし)敵(てき)の中(なか)に其術(そのしゆつ)し れる者(もの)あらば。危(あや)ふかるべきことなりと識者(しきしや)は是(これ)を難(なん)じける。かくて朝鮮(てうせん)の 討(うち)もらされ。我先(われさき)に西岸(せいがん)に落行(おちゆか)んとおもふばかりの意(こゝろ)なれば。何(なん)の量見(りやうけん)にか わたるべき。今(いま)までは倭軍(わぐん)に渡(わた)りを知(し)らせしと。心(こゝろ)をつくしてかくし守(まも)れる浅(あさ) 灘(せ)へ。憖(なましい)【愗は誤】に案内(あんない)しれるが害(がい)となつて。我(われ)も〳〵と走(はし)り行(ゆき)流(なかれ)を乱(みだし)て渡(わた)り行(ゆく)を。小西(こにし) 黒田(くろだ)が兵士(へいし)是(これ)を見(み)るより。こゝぞ浅灘(あさせ)と見(み)へたるぞ。敵(てき)の渡(わた)るを嚮道(みちひき)にし 越(こせ)や面々(めん〳〵)渡(わた)せや諸将(しよしやう)と。行長(ゆきなが)諸軍(しよぐん)の真先(まつさき)に下知(げぢ)をなして。王城(わうしやう)灘(だん)を向(むか)ふ さまに。波(なみ)おしきつて西(にし)なる岸(きし)に打(うち)あがるは蟻蜂(ぎほう)なんどの集(あつま)るが如(ごと)くなり。 灘(なだ)を守(まも)れる防(ふせ)ぎの兵(へい)。此勢(このいきほひ)におそれをなし一 矢(し)を射出(ゐいだ)す者(もの)もなく。我先(われさき) にと走(はし)りける。小西(こにし)等(ら)はこと〳〵く西北(せいほく)の岸上(がんじやう)に打上(うちあが)るとはいへども。城中(じやうちう)猶(なほ) いまだ其備(そのそなひ)あらんかと憚(はばか)るゆゑ。其日(そのひ)は終日(ひめもす)岸上(がんじやう)に陣(ぢん)取(と)りて。しばらく城(しろ)の 動静(やうす)を窺(うかゞ)ひける。    平壌(へくしやく)落城(らくじやう)の事(こと) 平壌府(へくしやくふ)の城内(しやうない)にはすでに。灘頭(だんとう)の防(ふせ)ぎも破(やぶ)れ日本(につほん)の兵士(へいし)。城(しろ)を囲(かこま)んとす と聞(きこ)へければ。尹斗壽(いんとじゆ)金命元(きんめいげん)を始(はじめ)とし。諸将(しよしやう)は一 処(しよ)に相集(あひあつま)り此城(このしろ)今(いま)は保(たも)ち かたければ。今宵中(こよひちう)に逃(のが)れ退(しりぞ)くべしと城門(しやうもん)を開(ひらい)【閧】て。尽々(こと〳〵)く城中(じやうちう)に取入(とりいれ)たる民人(みんじん) 兵士(へいし)に至(いた)るまで。一人も残(のこ)らず是(これ)を出(いだ)し軍器火炮(ぐんきくわはう)の類(たぐ)ひはみな。風月楼(ふうけつらう)の池(いけ) 水(みづ)の中(なか)にこれを沈(しづ)【沉は俗字】め。その後(のち)斗壽(とじゆ)等(ら)は普通門(ふつうもん)より打出(うちいで)て順安(じゆんあん)の方(かた)に落行(おちゆき) けるされども。後(うしろ)より日本勢(につほんぜい)の追(おひ)かくる者(もの)もあらざれは。意(こゝろ)やすく逃(のが)れける。従(じふ) 事官(じくわん)金信元(きんしんげん)一人は。如何(いか)なる思案(しあん)かありたりけん諸将(しよしやう)とは同道(とう〴〵)せず。大同門(だいどうもん) に立出(たちいで)て船(ふね)をもとめて流(ながれ)にしたがひ。西(にし)の方(かた)へぞ逃(のが)れける既(すて)に其夜(そのよ)もほの〳〵 と明(あけ)わたれば。小西(こにし)が軍兵(ぐんひやう)漸々(せん〳〵)に城外(じやうくわい)に巻(まき)よせ。しばらく牧舟峰(ほくしうほう)に打上(うちあか)り城(じやう) 内(ない)のやうを良(やゝ)久(ひさ)しく観望(くわんばう)するに。竈煙(かまどのけふり)の立(たつ)こともなく樹頭(しゆとう)に野鳥(やてう)あつまり て。人(ひと)をおそれるゝ体(てい)も見(み)へねばさては城中(じやうちう)人(ひと)なきに極(きはま)れりとて。小西(こにし)が兵(へい)ども我先(われさき) にと城内(じやうない)へ乗(のり)こみける。王(わう)李㫟(りえん)はじめ平壌(へくしやく)に至(いた)り給へし時(とき)朝廷(てうてい)の大臣(だいじん)評議(ひやうぎ) をなし。此(この)城内(じやうない)粮餉(かて)の少(すくな)き事(こと)を憂(うれひ)とせしかば。尽(こと〴〵)く近(ちか)きあたりの別邑(べつゆう)の 田税貢(ねんぐ)を運漕(うんさう)せしめ。平壌(へくしやく)にあつめける此日(このひ)城(しろ)の陥(おちい)るにおよんで見(み)れば。城中(じやうちう) に元(もと)より積(つ)めるところの倉穀(さうこく)を取集(とりあつめ)。都合(つがふ)十 余万(よまん)にあまる米粮(ひやうらう)なるが 今(いま)みな日本勢(につほんぜい)の手(て)に落(おち)て。軍中(ぐんちう)の助(たす)けをなすこそ口(くち)おしけれ。此日(このひ)巡察使(しゆんさつし)李(り) 元翼(げんよく)従事官(じふじくわん)李好閔(りこうびん)等(ら)。平壌(へくしやく)より遁(のが)れかへり行在所(あんざいしよ)に到(いた)り。平壌(へくしやく)すでに 倭兵(わへい)に陥(おとしいれ)られたるよしを奏(そう)する故(ゆゑ)。こゝにも御 ̄ン駕(が)をとゞむべきやうなく。御 ̄ン駕(が) 内宮(ないきう)をはじめ嘉山(かさん)におゐて世子(せいし)に命(めい)じ。廟社(びやうしや)の神主(しんしゆ)を奉(ほう)じ他(た)の路(みち)にし たがひて。四方(しはう)の人数(にんず)を召収(めしおさ)め再(ふたゝ)び国(くに)を取(とり)かへすべき。手立謀計(てだてぼうけい)を尽(つく)さるべ きの命(めい)あれば。世子(せいし)は即(すなは)ち是(これ)より別(わか)れ給ふとぞ哀(あは)れなれ。太子(たいし)に従(したが)ふ大(だい) 臣(じん)には。領議政(れいぎせい)の官(くわん)崔興源(さいこうげん)これは太子(たいし)の御後見(ごかうけん)と聞(きこ)へたり。右議政官(うぎせいくわん) 兪泓(ゆこう)も。また自(みづか)ら太子(たいし)に御 ̄ン供(とも)して参(まゐ)らんと一向(ひたすら)に乞(こ)ひ奉(たてまつ)りて。御前(ごぜん)へ此事(このこと)を 申 出(いづ)れど。朝鮮王(てうせんわう)如何(いか)なる意(こゝろ)やおはしけん。一 言(ごん)の答(こたへ)もなしされども兪泓(ゆこう) は。私(わたくし)に後(あと)を追(お)ふて太子(たいし)の方(かた)へ行(ゆき)たりけり。時(とき)に尹相(いんしやう)は未(いま)だ平壌(へくしやく)より回(かへ)【囘は古字】り至(いた)ら さるの折(をり)なれば御 ̄ン供(とも)に参(まゐ)る大臣(だいじん)もなかりけり。惟(たゞ)鄭徹(ていてつ)一人御 ̄ン駕(が)に供奉(ぐぶ)して すでに嘉山(かさん)を出(いづ)る時(とき)は。五更(ごかう)の比(ころ)と聞(きこ)へける車駕(しやが)は定洲(ていしう)に至(いた)り。しばらくこゝの 旅館(りやくわん)に次(やど)りて御座(おはしま)すこそ哀(あは)れなりける有(あり)さまなり。    柳成龍(りうせいりやう)粮米(らうまい)を防(ふせ)く事(ごと) 御 ̄ン駕(が)始(はじめ)て平壌(へくしやく)を出(いで)給ふより。人心(じんしん)こと〳〵く崩(くづ)れやぶれ所々(しよ〳〵)の国民(こくみん)乱(らん)をなし。 倉庫(さうこ)に入(いり)ては穀物(こくもつ)を奪(うば)ひ掠(かす)むれば。順安(じゆんあん)肅川(しくせん)安州(あんしう)寧辺(ねいへん)博川(はくせん)等(ら)の地(ち)に至(いた) るまで。次第(しだい)にみな責破(せめやぶ)る御 ̄ン駕(が)のすでに嘉山(かさん)を発(はつ)するにおよびて。郡主(ぐんしゆ)沈信(ちんしん) 謙(けん)は柳成龍(りうせいりやう)に博川(はくせん)に会(くわい)して云(いふ)。此郡(このぐん)の粮穀(らうこく)まことに優(ゆたか)に候なり。今(いま)すでに官(くわん) 所(しよ)に納(おさ)むる白米(はくまい)も一千 石(こく)余(よ)有(あり)。是等(これら)をもつて天兵(てんへい)《割書:大明(たいみん)|の兵(へい)》の兵粮(ひやうらう)ともいたすべ く存(ぞん)ずれども。かやうに乱民(らんみん)多(おほ)くして防(ふせ)くべきにも兵卒(へいそつ)なし。何卒(なにとぞ)柳公爰(りうこうこう) にとゞまり此(この)乱民(らんみん)の取掠(とりかす)むるを鎮(しづ)め定(さだ)めて給(たま)はれかし。左(さ)あらば邑人(ゆうしん)の譟(そう) 動(どう)もやみなんか。我等(われら)不幸(ふこう)にして其下(そのしも)を令(れい)するに聞(きゝ)したがふ者(もの)なし。まさに 今(いま)は海辺(かいへん)にかくれ避(さけ)んと存(ぞん)ずといふ。柳成龍(りうせいりやう)是(これ)を聞(きゝ)実(げに)もと是(これ)ほどに優(ゆたか) なる米穀(べいこく)を儲(たくは)へ置(おく)ことなれば。大明(たいみん)の援兵(ゑんへい)の粮米(らうまい)も不足(ふそく)なからんを。乱民(らんみん) の為(ため)に奪(うは)はれんは口惜(くちおし)きことどもなり。しばらく是(これ)を制(せい)して見(み)んと。引率(いんそつ)し たる軍官(ぐんくわん)六人に途中(とちう)にて収(おさ)め得(え)たる兵卒(へいそつ)十九人に下知(げぢ)を加(くわ)へ。各(おの〳〵)弓箭(きうせん)を 取(とり)もたせ左右(さいふ)に是(これ)を立(たて)ならべて。官所(くわんしよ)の大門(たいもん)にひかへたるが其日(そのひ)もすでに午(うま) の刻(こく)に過(すぎ)たりけり。柳成龍(りうせいりやう)熟々(つく〳〵)こゝにおもひ廻(まは)すに。我(われ)君命(くんめい)を蒙(かうふ)り大明(たいみん)の 軍(ぐん)を待受(まちうけ)。一 時(じ)もはやく倭兵(わへい)を退(しりぞ)くべきの役人(やくにん)として。如何(いか)に米穀(べいこく)を乱(らん) 民(みん)の為(ため)に掠(かす)めとらるゝが惜(おし)きとて。久(ひさ)しくこゝに有(ある)べきやうなし。早(はや)く行(ゆく)には 【右丁】 国民(こくみん)  みだれて  粮米(らうまい)を  うぼふ 柳成龍(りうせいりやう)  これを防(ふせ) がんと欲(ほつ)  すれども およばずして 暁星嶺(きやうせいれい)に  いたる 【左丁 挿絵だけ】 しかずとおもひければ。遂(つゐ)に信謙(しんけん)と別(わか)れをなし暁星嶺(けうせいれい)を越(こ)ゆるとて。嘉(か) 山(さん)の方(かた)を回顧(かへりみ)れば。早(はや)郡中(ぐんちう)の乱(みだ)れたると見(み)へ。倉穀(さうこく)のある方(かた)は人多(ひとおほ)く郡(むらが)り騒(さう) 動(とう)のやうすなり。此時(このとき)信謙(しんけん)もつゐにこれを制(せい)しとゞむる事(こと)叶(かな)わずして。尽(こと〳〵) く倉穀(さうこく)を失(うしな)ひて其身(そのみ)は遁(のが)れ去(さ)りたりとなん。翌日(よくじつ)に至(いた)れば御 ̄ン駕(が)また定州(ていしう) を出(いで)たり。宣州(せんしう)に向(むか)ひけり柳成龍(りうせいりやう)定州(ていしう)に至(いた)つて見(み)れば。州人(くにひと)已(すで)に四方(しはう)に散(さん)し て乱(らん)を避(さけ)老(おひ)たる奉行役人(ぶぎやうやくにん)に。白鶴松(はくくわくしやう)が等(ともがら)纔(わづか)に数人(すにん)ならでは。城中(じやうちう)にとゞま る者(もの)もなし。柳成龍(りうせいりやう)は御 ̄ン駕(が)の出(いづ)るを送(おく)り別(わか)れをなし奉(たてまつ)り涙(なみだ)をながして 御 ̄ン後(あと)にとゞまつて。延薫楼(ゑんくんらう)の下(もと)に座(ざ)したるに引率(いんそつ)したる軍官(ぐんくわん)と。途中(とちう)に得(え)たる 十九人は猶(なほ)落行(おちゆく)べき気色(けしき)もなく。乗(のり)たる馬共(うまども)を路辺(ろへん)の柳(やなぎ)に繋(つな)ぎとゞめて すでに今日(けふ)も晩(くれ)かゝるに。門外(もんくわい)より多(おほ)く乱民(らんみん)ども。城内(しやうない)の米穀(べいこく)を掠(かす)めんと皆々(みな〳〵) 倉(くら)の下(もと)に集(あつま)る者(もの)数(す)百人になりければ。柳成龍(りうせいりやう)おもふやう彼(かれ)と争(あらそ)ひ戦(たゝか)ふ時(とき)は。我(われ) 率(そつ)したる兵(へい)小勢(こぜい)なれば叶(かな)ふまじ。こゝには謀慮(はうりよ)の有(ある)べきところと城門(しやうもん)の方(かた)を窺(うかゞ) ひ見(み)るに。人数(にんず)少(すくな)く弱(よは)げに見(み)ゆるの有(あり)けるを。士卒(しそつ)に下知(げぢ)をなし押(おし)かゝりて是(これ)を 捕(とら)へさすれば。彼者(かのもの)ども惧(おそ)れて四方(しはう)へ逃散(にげちる)を。つゐに追(おひ)つめ九人まで生捕(いけどり)ける。柳成(りうせい) 龍(りやう)即(すなは)ち彼(かの)九人の乱民(らんみん)を縛(しば)りくゝりて。倉(くら)の辺(へん)の道路(だうろ)を引廻(ひきまは)し。十 余人(よにん)の 軍官(ぐんくわん)是(これ)につき添(そへ)。米穀(べいこく)を掠(かす)むる盗賊(とうぞく)をかくの如(ごと)くに行(おこな)ふ者(もの)なりと。触廻(ふれまは) り首(くび)を切(きつ)て倉(くら)の下(もと)に梟(かけ)たるにぞ。城中(じやうちう)の乱民(らんみん)おそれおどろき。倉(くら)の辺(ほと)り に集(あつま)りたりし乱民(らんみん)ともゝ。こと〳〵く西門(せいもん)より逃(のが)れ去(さ)つて。其後(そのゝち)は米穀(べいこく)を掠(かす) めんとする者(もの)なかりける。茲(これ)により龍川(りうせん)宣川(せん〳〵)鉄山(てつさん)等(とう)の米穀(べいこく)を。掠(かす)め盗(ぬす)める 者(もの)なきは。偏(ひとへ)に柳成龍(りうせいりやう)が働(はたら)きゆゑと聞(きこ)へけり。尹左相(いんさしやう)金元帥(きんげんすゐ)武将(ふしやう)李薲等(りひんら)【注】も。 【注 「𦿜は」辞書に見当たらず】 みな平壌(へくしやく)より落來(おちきた)りて。定州(ていしう)に相集(あひあつま)る尹斗壽(いんとじゆ)は。日本勢(につほんぜい)の間(ま)ぢかきを恐(おそ)るゝ ゆゑ。此所(このところ)を守(まも)り得(え)ず御 ̄ン駕(が)を追(お)ふてしたひ行(ゆく)。金命元(きんめいけん)李薲等(りひんら)【注】は跡(あと)にしばらく とゞまり。定州(ていしう)を守(まも)りける御 ̄ン駕(が)は此時(このとき)龍川(りやうせん)の地(ち)に入(いり)給ふとぞ聞(きこ)えける。     柳成龍(りうせいりやう)兵粮(ひやうらう)を聚(あつむ)る事(こと) 偖(さて)また大明(たいみん)の軍兵(ぐんひやう)すでに日(ひ)を経(へ)て。鴨緑江(おうりやくこう)にも近(ちか)づきなんとする由(よし)。先立(さきたつ)て李㫟(りゑん) の行在所(あんさいしよ)義州(ぎしう)の地(ち)にも聞(きこ)へければ。柳成龍(りうせいりやう)は頃日(このころ)病気(びやうき)に臥(ふし)て有(あり)けれども。臣(しん)すでに 明将(みんしやう)を相接(あひせつ)すべき役(やく)として。怠(おこた)るべきにあらずとて強(しい)て行(ゆか)んことを乞(こひ)申にぞ。 李㫟(りえん)もこの義(ぎ)を許(ゆる)されける。兼(かね)て亀城(きじやう)の従事官(じふじくわん)洪宗禄(こうそうろく)をもつて。粮米(らうまい)転(てん) 運(うん)のことを諭(さと)し告(つげ)て。亀城(きじやう)優福(ゆうふく)なる邑里(むらさと)につかはしたれば。成龍(せいりやう)も又(また)此事(このこと) を弁(べん)せんため。所串駅(しよさんゑき)といふところの間(あひだ)まで行到(ゆきいた)るといへとも。役人(やくにん)も民人(みんじん)も尽(こと〳〵) 【注 「𦿜」こは辞書に見当たらず。】 く山谷(さんこく)に逃(のが)れ去(さり)て一人の形(かたち)も無(なか)りけるゆゑ。軍人(ぐんじん)ともを村居(むらゐ)の間(あひた)にさし遣(つかは)して。 これ等(ら)をさがしもとめさすれば。やう〳〵に役人(やくにん)数人(すにん)を尋(たづ)ね出(いだ)して連来(つれきた)る。柳成(りうせい) は彼(かの)者(もの)どもに向(むか)つて汝等(なんぢら)平生(へいぜい)上(かみ)の御恩(ごおん)を身(み)にうけ。妻子(さいし)を養育(やういく)したる身(み)の今(いま) に至(いた)つて何(なん)ぞ。主恩(しゆうおん)を忘(わす)れ果(はて)て身(み)をかくしけるや。大明(たいみん)の大兵(たいへい)すでに近日(きんじつ)にこの 国(くに)に到著(たうちやく)すと聞(きこ)へたれば。国家(こくか)の急事(きふじ)まさに此時(このとき)なり。又(また)賊(ぞく)を退(しりぞ)け大平(たいへい)の日(ひ) を得(え)んことも。今(いま)にあり汝(なんぢ)が輩(ともがら)大功(たいこう)を立(たて)んことも。かまへて又(また)此時(このとき)なるぞと云(いひ)さと し。彼等(かれら)が心(こゝろ)を励(はげま)さんためなれば。一ツの帳面(ちやうめん)を作(つく)り只今(たゞいま)功(こう)ある輩(ともがら)をば。此(この)帳(ちやう)に しるして重(かさ)ねて働(はたら)きの多少(たしやう)を論(ろん)じ。賞禄(しやうろく)を与(あた)ふべし若(もし)また。その力(ちから)を尽(つく)さ ず。惰(おこたり)ある者(もの)あらば常刑(じやうけい)をもつて罸(はつ)せんと云(いひ)ければ。此(この)ことを聞伝(きゝつた)へ多少(そくばく)の人民(じんみん) 出来(いできた)り。其(その)姓名(せいめい)を訴(うつた)ふるに。一々(いち〳〵)に彼(かの)帳面(ちやうめん)に書記(かきしる)し。後日(こにち)に事(こと)を正(たゞ)さんとす。成龍(せいりやう) 此有(このあり)さまを見(みる)につけ人心(じんしん)の合(かな)へるところを知(しる)がゆゑ。所々(ところ〳〵)へ移文(ふくらしふみ)【注】を廻(まは)し功(こう)ある者(もの) をば賞(しよう)すべし。早(はや)く來(きた)つて大明(たいみん)の兵(へい)の待受(まちうけ)に其(その)支度(したく)をつとむべしと。触(ふれ)を廻(まは)し たりけるに其(その)令(れい)を聞(きく)の民人(みんじん)。何方(いづく)より集(あつま)るともしれず方々(はう〳〵)より馳来(はせきた)り。争(あらそ)ひ出(いで) て柴(しば)を荷(にな)ひ草(くさ)を刈(か)り室屋(しつおく)の造作(ざうさく)し。釜鍋(かまなべ)の類(るひ)まで調(とゝの)へ設(まう)けたりけるゆゑ。 数日(すじつ)を経(へ)ずして凡(すべ)ての事(こと)を弁(べん)じたり。柳成龍(りうせいりやう)はこゝにおゐて其功(そのこう)あるを点検(てんけん)し。 彼(かの)帳面(ちやうめん)に其(その)労力(らうりよく)の次第(しだい)を追(おつ)て書記(かきしる)し又(また)乱離(らんり)にあへるの民人(みんじん)急(きふ)に調(とゝの)へかたし とおもふが故(ゆゑ)。たゞ至誠(しせい)の理(り)を尽(つく)し彼等(かれら)が意(こゝろ)を暁(さと)し諭(さと)して。つかひければ一人の者(もの) をも鞭打(むちうつ)ことなくして。自己(じこ)の下知(げぢ)に相(あひ)したがつて定州(ていしう)の地(ち)までに至(いた)る。かゝる処(ところ)へ 洪宗禄(こうそうろく)も。またこと〳〵く亀城(きしやう)の人(ひと)を催促(さいそく)し馬(うま)の豆(まめ)粮米(らうまひ)をはこばせ。定州(ていしう) の地(ち)嘉山(かさん)に到(いた)るもの遂(つゐ)に二千 余石(よこく)に及(およ)べり。かくても猶(なほ)安州(あんしう)以後(いご)の粮米(らうまい)迄(まで)も 【注 「めくらしふみ」の誤ヵ】 其(その)憂(うれひ)をなさんかとおもふところに。適(たま〳〵)忠清道(ちくしくたい)牙山倉(かざんさう)の税米(ねんぐ)一千二百 余石(よこく)を 船(ふね)に載(のせ)て到(いた)り来(きた)りて。行在所(あんざいしよ)に行(ゆか)んとするが定州(ていしう)の立岩(りうがん)といふところに到(いた)り 泊(とま)るを。柳成龍(りうせいりやう)大(おゝゐ)に歓(よろこ)び行在所(あんざいしよ)へ此趣(このおもむき)を申(もうし)たつすば。遠方(ゑんほう)の米穀適(べいこくたま〳〵)こゝに到(いた) れること。兼(かね)て約束(やくそく)あるが如(こと)くなるはまことに天(てん)より我国(わがくに)を賛(たすけ)て中興(ちうかう)の 運(うん)を開(ひらか)んとするに似(に)たるか。請(こふ)らくは此米(このこめ)をもつて軍(くん)の粮(かて)の不足(ふそく)なる処(ところ) を補(おきな)はんかと奏(そう)しさて又(また)守門(しゆもん)の将(しやう)姜士雄(きやうしゆう)を立岩(りうがん)に馳(は)せ遣(つかは)し。二百 石(こく)を ば定州(ていしう)の城(しろ)に入(いれ)二百 石(こく)をば嘉山(かざん)に入(いれ)八百 石(こく)をば安州(あんしう)に入(いれ)たりける。安州(あんしう)は已(すで)に 倭軍(わぐん)に近(ちか)きによりしばくら船(ふね)を河中(かちう)にとゞめさせて倭兵(わへい)の退(しりぞ)かんを待居(まちい)た り扨(さて)又(また)宣沙浦(せんしやぼ)僉使官(けんしくわん)張佑成(てうゆうせい)に令(れい)して大定江(たいていこふ)の浮橋(うきはし)を作(つく)らしめ。老江(らうこふ)僉(せん) 使官(しくわん)閔網仲(いんけいちう)には。晴川江(せいせんこふ)の浮橋(うきはし)を作(つく)らしめ大明(たいみん)の軍兵(ぐんへい)の至(いた)るを相待(あいまち)て 是(これ)を渡(わた)さんとこそ計(はか)りける。此時(このとき)倭将(わしやう)小西(こにし)が等(ともから)平壌(へくしやく)の府城(ふじやう)に入(いり)。大明(たいみん)へ 兵(へい)を進(すゝ)めんか如何(いかゞ)あらんと。諸将(しよしやう)の評議(ひやうぎ)一 決(けつ)せざりし折(をり)なれば。平壌(へくしやく)より 西北(せいほ[く])はおのづから日本勢(につほんぜい)の難(なん)をばうけざりける。巡察使(しゆんさつし)李元翼(りげんよく)と兵使(へいし) 李賓(りひん)は。順安城(しゆんあんじやう)に逼(せま)り都元帥(とげんすい)金命元(きんめいけん)は肅州(しゆくしう)に相待(あひまて)ば。柳成龍(りうせいりやう)は安(あん) 州(しう)に出(いで)て大明(たいみん)の兵軍(へいぐん)の来(きた)るを遅(おそ)しと待居(まちゐ)たり。    遼東(れうとう)祖承訓(そしようくん)遊撃将軍(ゆうげきしやうぐん)史儒(しじゆ)朝鮮(てうせん)を援事(すくふこと) 大明国(たいみんこく)には李㫟(りえん)がすでに。幾度(いくたび)となく援兵(ゑんへい)を乞(こひ)て已(や)むることなく。殊(こと)には 日本勢(につほんぜい)国(くに)に入(いる)こと最(もつと)も深(ふか)きよし。告報(つけほう)ずるによりてこゝに於(おゐ)て遼東巡按(れうとうしゆんあん)李(り) 時孳(しじ)。遼東(れうとう)の守道官(しゆたうくわん)荊州狻(けいしうしゆん)に命(めい)じて。朝鮮国(てうせんこく)の援兵(ゑんへい)を出(いだ)すべき旨(むね)あれ ば。二人の官人(くわんにん)畏(かしこま)りて即(すなは)ち遼東(れうとう)の大将(たいしやう)。祖承訓(そしようくん)遊撃将軍(ゆうげきしやうくん)史儒(しじゆ)の二人を 両将(りやうしやう)として精兵(せいへい)三千人を引率(いんそつ)し。朝鮮(てうせん)の国境(くにさかへ)鴨緑江(わうりよくこう)を渡(わた)りて。平壌(へくしやく)を 責(せめ)んとするよし聞(きこ)へけり。爰(こゝ)に日本(につほん)の先鋒(せんばう)小西摂津守行長(こにしせつのかみゆきなが)は。平壌(へくしやく)の府城(ふじやう)の 手勢(てぜい)二万の兵士(へいし)を手配(てくば)りをして。此城(このしろ)を保(たもた)んと欲(ほつ)するに平壌(へくしやく)より王城(わうしやう)の間(あいだ)ま で道(みち)のり遥(はる)かに遠(とお)くして味方(みかた)の弁利(べんり)悪(あし)かりける故 其(その)間々(あひだ〳〵)に城を構(かま)へ諸将(しよしやう)に是(これ)を 守(まも)らしめ。其(その)急(きう)を告(つげ)互(たがひ)に援(すく)ふの便(たより)となすべしと。各(おの〳〵)相談(さうだん)極(きは)まれば先(まつ)大友義綂(おほともよしむね)は。 鳳山(ほうざん)に在城(さいしやう)す是(これ)よりして平壌(へくしやく)までは日本道(につほんみち)十四里 余(あま)りと云伝(いひつた)ふ。龍川(りやうせん)の南(みなみ)白(しら) 川の城(しろ)には黒田長政(くろだながまさ)在城(さいじやふ)す。是(これ)より鳳山(ほうさん)の城(しろ)までは七里ばかりの道路(たうろ)なり。それ よりして小早川隆景(こはやかはたかゝげ)。久留米秀包(くるめひでかね)の諸将(しよしやう)。相つゝひて在 城(じやう)をぞなしたりける。 大将 祖(そ) 承訓(しようくん)が兵士(へいし)もすでに。義州(ぎしう)に到着(たうちやく)すこゝにおゐて各(おの〳〵)備定(そなひさだ)めの謀計(ぼうけい)を なし即(すなは)ち史儒(ししゆ)遊撃(ゆうげき)を先鋒(せんほう)となして進(すゝ)みける。祖承訓(そしようくん)は乃(すなは)ち遼東(れうとう)の名(めい) 【右丁】 小西行長(こにしゆきなが)  大明(たいみん)の援兵(えんへい)  祖承訓(そしやうくん)を   大(おほい)に    やぶる 【左丁 挿絵のみ】 ある勇将(ゆうしやう)にして。是(これ)より先(さき)北荻(ほくてき)の虜(ゑひす)と戦(たゝか)つてその功(こう)多(おゝ)く取(とり)たる者(もの)なりければ。 此度(このたひ)日本勢(につほんぜい)を侮(あなど)り必(かなら)ず彼軍(かのいくさ)と戦(たゝか)ふほどならば勝(かち)を取(とる)べきものとおもひ侈(おこ) りける故(ゆへ)に。既(すで)に嘉山(かさん)に至(いた)りて朝鮮人(てうせんじん)に問(とふ)て。平壌(へくしやく)の日本勢(につほんせい)はいまだ走(はし)り退(しりぞ)か ずやと云ければ。朝鮮(てうせん)の者(もの)どもなか〳〵左(さ)やうのことにあらず形勢(きやうせい)甚(はな[は])だ強(つよ)しと 答(こた)ふ。承訓(しようくん)は是(これ)を聞(きゝ)天(てん)に仰(おほい)て手を合(あは)せ祝言(のつと)をなして云(いふ)。倭賊(わぞく)猶(なを)こゝに在(あり)天(てん)必(かなら)ず 我(われ)をして大 功(こう)を成(な)さしめんと欲(ほつ)するは有(あり)がたきことなりと大(おほい)に歓(よろこ)ひて一 両日(りふにち)は爰(こゝ) に人馬(にんば)の足(あし)を休(やす)めつゝ。平壌(へくしやく)を責破(せめやぶ)るべき其(その)支度(したく)をこそ成(なし)にける。    小西行長(こにしゆきなが)祖承訓(そしようくん)と戦(たゝか)ふ事 明(あく)れば同月廿八日 大明(たいみん)の総(そう)大将。祖承訓(そしようくん)は順安(しゆんあん)より陣営(ぢんえい)を打立(うちたつ)。其夜(そのよ)の三 更(こふ) に馬(うま)を馳(はせ)同廿九日の朝(あさ)まだきより。平壌(へくじやく)の府城(ふじやう)小西行長(こにしゆきなが)宗義智(そうよしとし)が立籠(たてこも)り たるをぞ攻(せめ)たりける。祖承訓(そしようくん)は元(もと)より遼東(れうとう)の騎馬(きば)に狎(なれ)たる者(もの)にして 日本人(につほんじん)と戦(たゝか)ふの手段(しゆだん)を知(し)らず。折(おり)ふし此頃(このごろ)降(ふり)つゞけたる五月雨(さみだれ)の強(つよ)き によりて。山水(やまみづ)俄(にはか)に漲(みなぎ)り来(きた)りて陸地(くがち)も川波(かはなみ)を漂(たゞよ)はするの時(とき)なるに。数日(すじつ)馬(ば) 足(そく)を泥土(でいど)に浸(ひた)したれば。馬蹄(ひづめ)たゞれて馳駆(ちく)するに便(べん)ならず殊(こと)には平壌(へくしやく)嶺(れい) 頭(とう)聳(そび)へて城内(じやうない)道(みち)狭(せば)きところなるに。祖承訓(そじよふくん)元(もと)より地(ち)の利(り)を諳(そらん)ぜず徒(たゞ)に 順安(じゆんあん)より夜通(よどほ)しに押(おし)よせて。思(おも)ひもよらず攻(せめ)たりける城中(じやうちう)の者(もの)どもは。此程(このほど) の長雨(ながあめ)に敵(てき)よも急(きふ)に寄来(よせきた)らじとおもふ折(をり)ふしなれば日本勢(につほんぜい)も其防(そのふせ)ぎ 怠(おこた)るところへ。大明(たいみん)の兵(へい)きびしく殺(きつ)て入(いり)ければ小西(こにし)が兵士(へいし)意(こゝろ)あはて。総門(そうもん)を一 叚(だん)【ママ】に攻(せめ) やぶられ二の木戸(きど)へ引(ひゐ)て入(いり)祖承訓(そじよふくん)が騎馬(きば)ども勝(かつ)に乗(じよう)じて息(いき)をもあらせず 七 星門(せいもん)より攻入(せめいり)たりされども。城内(じやうない)路(みち)狭(せま)くしてことに長雨(ながあめ)に道(みち)あしく。馬足(ばそく)の 進退(しんたい)自由(じゆう)ならず。又(また)小西(こにし)が兵士(へいし)ども城塁(じやうるい)の険難(けんなん)なる要害(やうがい)に引(ひき)うけて。鳥鋭(てつぽう) を矢狭間(やざま)にならべ石打棚(いしうちたな)より。大石(たいせき)大木(たいぼく)を投(なげ)かくれば史儒(しじゆ)遊撃(ゆうげき)が先手(さきて)の勢(せめ) 進(すゝ)むべきやうなく已(すで)に崩(くづれ)かゝらんとするところを遊撃(ゆうげき)大(おゝゐ)に怒(いか)り麾(ざい)を取(とり) て進(すゝ)めかゝれど下知(げじ)を加(くは)ふる故(ゆへ)遼東勢(れうとうせゐ)大将(たいしやう)の下知(げぢ)を違(そむ)くべきやうなく。狭(せば)き 道(みち)を強(しひ)てすゝまんとするほどに。小西(こにし)が兵卒(へいそつ)が打下(うちくだ)す鉄炮(てつほう)に当(あた)りて。人馬(じんば)共(とも) に打斃(うちたほ)ざるゝ者(もの)其数(そのかず)をしらざりけり。斯(かく)ても猶(なほ)寄手(よせて)退(しりぞ)くべきやうもなか りし処(ところ)に。遊撃(ゆうげき)余(あま)りに士卒(しそつ)に先立(さきだつ)て進(すゝ)みける故(ゆへ)城上(じやうしやう)より打出(うちいだす)【「す」衍】す鳥鋭(てつほう)の 丸(たま)に当(あた)つて。忽(たちま)ち馬上(ばしやう)より打落(うちおと)されて死(しゝ)たりける。是(これ)によつて此手(このて)の人数(にんず)味(み) 方(かた)の後陣(ごじん)へ崩(くづ)れかゝれば。城中(じやうちう)より是(これ)を見(み)て木戸作左衛門(きどさくざへもん)丸茂新五郎(まるもしんごらう)臼田(うすだ) 清兵衛(せいべい)。荒木図書(あらきづしよ)なんどゝといへる。小西(こにし)が手(て)にて一 騎当千(きたうせん)と呼(よば)れたる勇士(ゆうし)木(き) 戸(と)を開(ひらい)て切(きつ)て出(いづ)るに。崩(くづ)れ立(たて)たる遼東勢(れうとうぜい)右往左往(うわうさわう)に乱(みだ)れ立(たち)。後陣(ごぢん)の兵(へい)も先手(さきて) の備(そなひ)の崩(くづ)れかゝるに。■■に同(おな)じく押立(おしたて)られ総崩(そうくづ)れとなつて敗走(はいそう)す。祖承訓(そしやうくん)麾(ざい)を 打(うち)ふり是(これ)を制(せい)しとゞむといへども。崩(くづ)れ立(たつ)たる癖(くせ)として誰(たれ)かは耳(みゝ)にも聞入(きゝいる)べ き。あまりに慌(あは)てゝ逃(のが)るゝとて泥潦(たまえりみづ)に墜入(おちいり)り馬足(ばそく)を没(ぼつ)する者(もの)は。是非(ぜひ)なく敵(てき) と撃合(うちやい)て討(うた)るゝ者(もの)数(かず)しれず。祖承訓(そしようくん)も今(いま)はすべきやうなくして。漸々(せん〳〵)に残(ざん) 兵(へい)を引(ひき)まとひ。平壌(へくしやく)の安定館(あんていくわん)まで引退(ひきしりぞ)く。されども小西(こにし)が兵士共(へいしとも)みだりに 敵地(てきち)へ深入(ふかいり)せざるの法(はう)をもつて追討(おひうち)せざれば。遼東勢(れうとうぜい)やう〳〵命(いのち)を助(たすか)りける。 小西行長(こにしゆきなが)宗(そう)の義智(よしとし)の両将(りやうしやう)は。大明(たいみん)の兵(へい)と手合(てあはせ)の合戦(かつせん)に大(おほい)なる勝(かち)を得(え)つれば 大明勢(たいみんぜい)の分劑(ぶんさい)これもおそるゝに足(た)らずとして。其翌日(そのよくしつ)城(しろ)をは宗義智(そうよしとし)か兵(へい) を分(わ)け。同名(どうみやう)主殿頭(とのものかみ)等(ら)をさし添(そへ)て是(これ)を守(まも)らせ。行長(ゆきなが)は自(みづか)ら精兵(せいへい)すぐつて三 千 計(ばか)りの人数(にんず)をもつて安定館(あんていくわん)におし寄(よせ)たり。日本勢(につほんぜい)の鎧甲(よろひかぶと)旗旌物(はたさしもの)馬面(ばめん) 等(とう)に至(いた)るまで。見(み)なれぬ物(もの)のかず〳〵におどろき起(おこ)つて。大明人(たいみんじん)の乗(のつ)たる馬(うま)とも尻(しり) ごみして進(すゝ)まぬを。さらばもどかし歩行立(かちだち)になつて戦(たゝか)ふべしと。馬(うま)どもを乗放(のりはな) ち戦(たゝか)ふといへども。元(もと)より足(あし)だちあしければ泥土(でいど)の中(うち)に仆(たふ)れまろび戦(たゝか)ふべきやうも なきを。小西(こにし)が兵(へい)ども時分(じぶん)を見合(みあは)せ一 度(と)にどつと打(うつ)てかゝつて。透間(すきま)もあらせず 責(せめ)たつるに。遼東(れうとう)の兵士(へいし)ども大(おほい)に敗軍(はいぐん)におよんで我先(われさき)にとぞ落行(おちゆき)ける。    祖承訓(そしようくん)遼東(れうとう)に走(はし)る事(こと) 祖承訓(そしようくん)は二 度(ど)のかけ合(あはせ)に。味方(みかた)の兵士(へいし)こと〳〵く日本勢(につほんぜい)に討破(うちやぶ)られ。余兵(よへい)を 集(あつ)めて是非(ぜひ)なく逃(のが)れ走(はし)りて。順安(しゆんあん)肅州(しゆくしう)を打過(うちすぎ)夜中(やちう)しばらく安州(あんしう)の城外(じやうぐわい)に 馬(うま)をひかへて。朝鮮(てうせん)の通事官(つうじくわん)朴義儉(ぼくぎけん)といふ者(もの)を呼来(よびきた)らしめ。吾軍(わかぐん)今日(こんにち)多(おほ) く賊(ぞく)を切(き)らんとしたるに。不幸(ふこう)にして史(し)遊撃(ゆうけき)討死(うちじに)すしかも天(てん)の時(とき)如此(かくのことく)なる故(ゆゑ)に。 おもひの外(ほか)に戦(たゝか)ひ利(り)あらず賊(ぞく)を討(うつ)こと延引(ゑんいん)せり。我(われ)まさに兵馬(へいば)を添来(そへきた)り更(さら)に 進(すゝ)んで征討(せいとう)すべきのこと。汝(なんぢ)が宰相(さいしやう)に語(かた)るべし。必(かなら)ず上下(しやうげ)譟動(そうどう)をなすべからず。浮橋(うきはし) をも撤(すつ)べからずと云(い)ひ畢(おは)り。軍(ぐん)を控江亭(くうこうてい)にとゞめたり。抑(そも〳〵)承訓(しやうくん)が此度(このたび)のなす ところを考(かんが)へ見(み)るに。おもひの外(ほか)の一 戦(せん)にこと〳〵く敗(はい)を取(とり)。おそらくは日本勢(につほんせい)の追(おひ) 討(うた)んことの急(きふ)ならんかと。これによりて二 江(こう)を隔阻(へだて)て防(ふせが)んとおもふによりて。如此(かくのごとく)の 手段(しゆだん)なり。柳成龍(りうせいりやう)は兼(かね)てより大明(たいみん)の軍将(くんしやう)の馳走人(ちそうにん)たるにより。従事官(じふしくわん)を つかはしてこれを慰(なくさ)めしむ。粮米(らうまい)なとを送(おく)るか故(ゆゑ)祖承訓(そしやうくん)も控江亭(くうこうてい)に逗留(とうりう) すること二日なり。連日(れんじつ)昼夜(ちうや)の小(こ)やみなく大雨(たいう)しきりに降(ふり)たりければ。諸軍(しよぐん) 野中(のなか)に陣(ちん)をなす故(ゆゑ)に。着(き)たるところの甲冑(かつちう)こと〴〵くぬれて。兵士(へいし)の苦(くる)しみ大(おほ) 方(かた)ならず。其上(そのうへ)承訓(しようくん)か節制(せつせい)のよからぬ事(こと)を恨(うら)み謗(そし)りて。戦(たゝか)ふ心(こゝろ)なきゆゑ 承訓(しようくん)もいよ〳〵速(すみやか)に陣(ぢん)を拂(はら)つて。遼東(れうとう)にこそかへりける。柳成龍(りうせいりやう)はこゝに おゐて人心(じんしん)の動揺(とうえう)せんことをおそるゝ故(ゆゑ)。乃(すなは)ち奏(そう)して安州(あんしう)にとゞまりて明兵(みんへい)後(ご) 軍(ぐん)の至(いた)るを相待(あひまち)。民心(みんじん)を静(しづ)むる手段(しゆたん)をなしたりける。    元均(けんきん)李舜臣(りしゆんしん)をまねく事(こと) こゝに全羅水軍節度使(てるらすゐぐんせつとし)李舜臣(りしゆんしん)と。慶尚右水使(けくしやくうすゐし)元均(げんきん)。全羅右水使(てるらうすゐし)李億(りおく) 稘(き)等(ら)。水軍(すゐぐん)を大(おほい)に起(おこ)して日本(につほん)船手(ふなて)の勢(せい)を押止(おしとゞめ)んと議(ぎ)したりける。さても去(さん) ぬる四月 日本勢(につほんせい)。はじめて朝鮮国(てうせんこく)に軍兵(ぐんひやう)を出(いだ)し押寄(おしよせ)来(きた)ると聞(きこ)へければ。慶(けく) 尚右水使(しやくうすゐし)元均(げんきん)等(ら)は。唐崎表(からさきおもて)巨済(こさい)といふ所(ところ)に番船(ばんせん)を出(いだ)して。是(これ)を防(ふせい)で戦(たゝか)はんと せしとき。藤堂(とう〴〵)。加藤(かとう)。脇坂(わきざか)が諸船(しよせん)に抜(ぬき)ん出(で)。粉骨(ふんこつ)を尽(つく)して戦(たゝか)ふにより。朝鮮(てうせん) の水軍(すゐぐん)大(おほい)に破(やぶ)れ多(おほ)くの番船(ばんせん)を日本勢(につほんせい)に奪(うば)はれたりけるが。元均(げんきん)は今(いま)は敵(てき)の強(つよ)き におそれとても対敵(たいてき)すべきこと叶(かな)ふましとやおもひけん。自(みづか)ら乗(のり)たる百 余艘(よそう)の戦(たゝかひ)船(ふね)并(ならひ) に火砲(くわほう)軍器(ぐんき)の類(るい)まで。尽(こと〳〵)くこれを海中(かいちう)に沈(しづ)め或(あるひ)は焼捨(やきすて)て。独(ひと)り手下(てした)の裨将(ひしやう) 李英男(りえいなん)李雲龍(りうんりやう)といへる等(ともがら)を引具(ひきぐ)し。纔(わづか)に四 艘(さう)の船(ふね)に取乗(とりのり)昆陽海口(こんやうかいこう)に至(いた)り陸(くが)に 登(のぼ)りて。倭軍(わぐん)を避(さけ)んとしたりける。元均(けんきん)が兵(へい)万余人(まんよにん)有(あり)けれども大将(たいしやう)の心(こゝろ)すでに 如此(かくのごとく)臆病神(おくひやうがみ)の付(つい)たるを見(み)るより。大(おほい)に潰(ついえ)たり。英男(ゑいなん)は元均(げんきん)に向(むか)つて諌(いさ)めて云(いふ)。尊(そん) 公(こう)まことに君命(くんめい)を受(うけ)水軍(すゐぐん)の節度(せつと)となりし身(み)として。軍(ぐん)をすて陸(くが)に登(のぼ)りて落行(おちゆか)ん とき。朝廷(てうてい)罪(つみ)を吟味(きんみ)して公(こう)を罪(つみ)せんとする時(とき)は。何(なに)を以(もつ)てか自(みづか)ら云(いひ)わけをなし給はん 同(おな)じくは全羅道(てるらたう)に請(こひ)もとめ人兵(じんへい)を合(あは)せて戦(たゝか)ひ給はゝ。国家(こくか)のためなるべし其上(そのうへ)にて 戦(たゝか)ひ破(やぶ)るゝ時(とき)は是非(せひ)もなし。逃(のが)れ走(はし)るとも何(なん)ぞ遅(おそ)きことかあらんと云(いひ)けれは 元均(げんきん)もこゝに感悟(かんご)し。乃(すなは)ち英男(えいなん)を使者(ししや)として舜臣(しゆんしん)が方(かた)に遣(つかは)し。援兵(ゑんへい)を出(いだ)し てともに志(こゝろざし)を合(あは)せ。日本勢(につほんせい)を退(しりぞ)くべきことを乞望(こひのぞ)むといへとも。舜臣(しゆんしん)は此(この)ことを辞(じ) 退(たい)して。人々(ひと〳〵)みな其守(そのまも)るへきの分境(ふんきやう)の限(かき)り有(あり)。朝廷(てうてい)の令(れい)なふして豈(あに)擅(ほしまゝ)に自(みづか)ら 境(さかい)を越(こゆ)るの義(ぎ)あらんやといふを。元均(げんきん)猶(なほ)やまずして強(しい)て是(これ)を求(もとむ)ること。凡(およ)そ往(おう) 返(はん)五六 度(と)に及(およ)ぶといへともやますして。英男(えいなん)をさし遣(つかは)す英男(えいなん)が空(むな)しくかへること に。船(ふね)の頭(かしら)に座(ざ)をなし遥(はる)かに是(これ)を望(のぞ)み見(み)て。痛哭(つうこく)せずといふことなし舜臣(しゆんしん)も かたく辞(じ)すといへども。元均(けんきん)が誠(まこと)あるしひてもとむるの志(こゝろざし)にめで乃(すなは)ち水(すゐ) 軍(ぐん)を起(おこ)し四十 艘(そう)を率(ひきい)て巨済(きよさい)に到着(たうちやく)すれば。元均(げんきん)大(おほい)に歓(よろこ)び謀略(ほうりやく)を相定(あひさだ)めてすでに 兵船(へいせん)を調(とゝの)へ。日本勢(につほんぜい)と戦(たゝか)はんとぞなしたりける 朝鮮征伐記(てうせんせいはつき)巻之十《割書:終|》 【白紙】 【白紙】 【見返し 白紙】 【裏表紙】