《題:種痘活人十全弁》 《題:種痘活人十全弁 全》 種痘(しゆとう)活人(くわつにん)十全弁(じうぜんべん) 痘瘡(はうそう)は至極(しごく)の大厄(たいやく)にして。小児(しように)の死(し)する事 此(この)病(やまひ)より 甚(はなはだ)しきはなし。古(いにしへ)より医(い)俗(ぞく)共に恐(おそ)るゝものこれに過(すぎ) たるなし。往事(わうし)【左ルビ「すぎさりし」】は姑(しばらく)おいて論(ろん)せず。弘化三年丙午の春 より。痘瘡大に流行(りうかう)し。悪症(あくせう)殊(こと)に多く。死亡(しぼう)する者 亦(また)夥(おびたゝ) し。予(よ)も日夜これが為(ため)に奔走(ほんそう)して。聞見(ぶんけん)する所(ところ)亦 頗(すこぶる)多 し。先(まづ)序(じよ)熱(ねつ)強(つよく)。人の見別(みさかい)もなく。譫語(うはこと)のみにて。狂(くる)ひ躁(さわ)ぎ 或は血(ち)をはき。血を下し。或は紫斑(むらさきのはん)を発し。痘瘡は皮膚(かわ) の中にありて。見(あらわ)れざる者は。二三日にして死し。或は 六七日に至りて死す。」又痘瘡 出斉(でそろへ)たれ共。細(こまか)にして。漆(うる) 液(し)に感触(かぶるゝ)か如く。貫膿(ほんうみ)の頃(ころ)に至りて。少しも起脹(やまあが)らず。 反て痒(かゆみ)出てゝ。顔(かほ)を掻(か)き剥(むし)り。手(て)を押(おさゆ)れは脚(あし)を合せて 摩(すり)むき。脚を防(ふせげ)は。顔を枕(まくら)にすりつけ。背(せ)を床(とこ)にすりつ けて。迚(とて)も防(ふせ)きゝれず。荊芥(けいかい)。蒼朮(さうじゆつ)。続随子(ぞくずいし)。及ひ茄茎(なすのから)等(など)を。 蚊薫(かゑぶし)の如く焚(たけ)共。少しも験(しるし)なく。遂(つい)に惣身(そうみ)をすりむき。 赤肌(あかはだ)になり。獣(けもの)の皮を剥(むく)が如く。後(のち)には真黒(まつくろ)に乾(かわ)き。其 毒(どく)内攻(ないこう)して。心下(むなさき)へ鞠(まり)の如くさしこみ。歯(は)も缺(かけ)る程(ぼど)に。 齘歯(はきしり)をかみ。叫(さけ)びて父母を呼び。苦(くるし)きまゝに。常に嫌(きらい)の 薬を飲(のま)ん事を請(こ)ひ。灸を炷(すへ)んことを願ふ。咽(のんど)は痰(たん)にて 塞(ふさが)り。声(こい)もびつしりと嗄(かれ)て。日夜 悶(もだ)ひ苦(くるし)み。大に渇(かわ)き。茶 碗へ咬(かみ)つく程に。水を飲み氷を食ふものは。十一二日 にして死す。皮 薄(うす)く漿(かみ)薄(うす)くして破れ易く。少しく脂(やに)を 噴(ふく)のみにて貫膿(うみ)にならず。多くは陥(くぼみ)て皺(しは)になり。其 侭(まゝ) にて収靨(かせる)ものは。十六七日の頃に至り。余(よ)毒 再発(ふたゝひおこ)り。腹 の脹りて死するもあり。或は衝心(さしこみ)て死するもあり。或 は走馬牙疳(そうはげかん)とて。齦(はぐき)くさり歯も落(おち)。唇(くちひる)及び鼻(はな)にても腐 り貫て死するもあるなり」仮令(たとへ)死せざるも。余毒の為 に盲(めしい)となり聾(つんぼ)となり。或は鼻(はな)ふさがり或は手足の屈(かゞみ) て不自由になるもあり。或は髪(かみ)の禿(はげ)るもあり。或は痘(あば) 痕(た)多く付て。醜容(みにくきかほ)になるもあり。」病家各 先登(われさき)に名流の 医師を招き犀角(さいかく)。一角(いつかく)。穿山(せんざん)甲(▢▢)鹿茸(ろくしよう)。反鼻(はんび)。底野迦(てりあか)。泊夫藍(さふらん)。 大人参等の諸薬を用ひ。遺(のこ)る所なく療治を尽し。或は 仏殿(ぶつでん)に護摩(ごま)を請(こ)ひ。神社(じんしや)に祈祷(きとう)を願ひ。富貴の家には 親類(しんるい)多く集り。出入の者も。入かわり立ちかわり看病(かんびやう)を 助け。貧賤の家には。戸を鎖(とさし)て家業を廃(はい)し。日夜 帶(おび)を解 かず。顔をも洗はず。真黒(まつくろ)になりて看病を怠(おこた)らず。千慮 百計して。力を尽せ共遂に寸効なく。一軒の家にて三 人死するもあり。或は二人死するもあり。死を免るゝ 家は甚 稀(まれ)なり。幼少にて死したる者は勿論。多く十五 六歳より二十五六歳にて死したる者も亦 夥(おびたゝ)し。予が 門へも訃音(ふいん)【左ルビ「しゝたるしらせ」】の来ること。日に三四家に下らず。建具屋。 指物屋等は。常の細具をやめて。葬送(そう〳〵)の道具のみを造 る。毎夜市中は。葬送の五ツ六ツも並ひ行く事あり。或 は東西より出合。或は南北へ行違ひ。四方の寺々にて は。毎夜痘児を葬る事。一寺にて二三人。或は五六人。或 は十三人に及ひたることあり。」死する者甚多き故に。 門人に命し日に聞見(ぶんけん)する所を記さしむるに。一月に 五六十人。或は八九十人。正月より極月にいたり。大数 九百余人に及べり。然れ共 遺漏(いろう)【左ルビ「とりおとす」】する所亦多かるへし。 痘瘡今も□盛に行はれ。近村へも伝染(うつり)て死する者。小 村は二三十人。大村は五六十人。漸次(だん〳〵)に国中へ蔓延(まんゑん)【左ルビ「ひろまり」】し て止ざるときは。此後死する者 幾許(いくばく)か知るへからず。 斯(かく)の如くなれは卒(にはか)に人民を減少(げんせう)し。国家の彊弱(きやうじやく)にも 預(あづか)る事なれは。医業を業とする者は勿論。有志者(こゝろあるもの)は力 を竭(つくし)思を覃(ふこう)して。救急(きう〳〵)【左ルビ「なんをすくふ」】の法を精究(せいきう)【左ルビ「くわしくきはむる」】せずんはあるべか らず。然れ共痘瘡の逆証は。神丹妙薬も効を奏せず。昔(せき) 賢(けん)先哲(せんてつ)も匕(さじ)を投(な)げ手を束(つか)ねて。古今不治の者と決(けつ)す れは。余が輩(ともがら)の救(すく)ふべきにあらず。近世 種痘(うゑはうそう)の法あり。 未病(みびやう)の小児に施して。流行の痘瘡を免(まぬ)かれしむる事。 百発百中にして。一も失策(まちがい)なし。険(さかしき)を去て夷(たいらか)なるを履(ふ) み。危(あやふき)を避(さけ)て易(やすき)に就(つく)事 掌(たなこゝろ)を指が如し。実に人を活(くはつ)し世 を救(すく)ふの良法なり。医道 闢(ひらけ)て以来此 術(じゆつ)の右に出るの 治術なし。其術は鼻(はな)に種(うゆ)ると臑(うで)に種るの二法あり。鼻 に種るは唐山(から)に始り。臑に種るは阿蘭陀(おらんだ)に始りて行 るゝこと已に久し。他方へも其法を伝へて。今は諸国 一般(いつはん)に行はれり。我邦へも唐山(から)より李(り)仁山(ぢんさん)と云者来 りて鼻に種るの法を伝へ。阿蘭陀(おらんだ)より悉以勃児都(しいほると)と 云者来て臑に種るの術を教(をし)へたり。故に我邦にては 二法並行る。初九州より起り中国に及び。今は関東迄 も行るゝ様になれり。種痘家も多く起りたれ共。就中(なかんづく) 高名なるは。肥前(ひぜん)大村(おほむら)の吉岡(よし▢▢)英伯(えいはく)。長余(ながよ)春達(しゆんたつ)。筑前(ちくせん)秋月(あきづき) の緒方(をかた)春朔(しんさく)。武州(ぶしう)忍(をし)の河津(かはづ)隆碩(りうせき)。江戸近村 木下川(きねかわ)の荘(せう) 屋(や)治郎兵衛(ぢろうひやうゑ)なり。各毎年種痘する事五六百人に至(いた)る と云ふ。我か常陸にて早く気(き)の付たるは。家厳(かげん)研堂(けんだう)君(くん) なり先年 不肖(ふせう)か西遊(せいゆう)するに臨(のそみ)て。教て曰 逆痘(ぎやくとう)に救法 なし。九州の地方に種痘の術ありと聞く。必す逆痘を 免(まぬか)るゝの良法なるべし。第一に此術を学ふべしと。謹(つゝしん) て慈教(じけう)を奉(ほう)し。長崎(ながさき)に滞留(とうりう)の時。西洋医(おらんだいし)悉以勃児都(しいぼると)の種 痘を学(まな)び。又 本邦名流の種痘家に就(つい)て。其術を研究(けんきう) せり。其法第一に小児の強弱(けうじやく)【左ルビ「つよきよはき」】を察(さつ)し。気候(きかう)の祥凶(せうけう)【左ルビ「よしあし」】を審(つまびらか) にし。好苗(よきたね)を撰(えら)び種(うゑ)て後は。痘瘡になりたる心得にて。 飲食(いんしい)起居(ききよ)を謹み。消毒(せうどく)の薬を服する故。予(あらかじ)め必す軽痘 なる事を知り。種て後六七日に至り。微(すこし)く熱を催(もよう)せ共。 夜のみ出てゝ。昼(ひる)は遊嬉(ゆうき)【左ルビ「こどもあそひ」】に紛(まきる)る程の事にて。臥床(とりふす)者は 稀なり。見点(はうそう)も尖円(まるく)紅活(くれない)にして。至極の吉痘(きつとう)を発(はつ)す。数(かづ) は惣身に十四五 粒(りう)出(いつ)るを常とす。少き者は僅(わづか)に五六 粒。多きものも五六十粒に過(すぎ)す。貫膿(うみ)易く。収靨(かせ)易く。数 日にして全快(ぜんくはい)し。感冒(ひきかせ)よりも軽し。自家の児女。及び親 族朋友の小児に施し。敷(しい)て遠近(えんきん)に及び。是迄に種痘す る事六百人に至れ共。死せし者は勿論。痘痕(あばた)の附(つき)たる ものは一人もなし。実に活人十全の良法なり。然れ共 囂々(けう〳〵)【左ルビ「うるさし」】として誹謗(ひはう)【左ルビ「そしる」】する者の多きは。人情世態(にんじやうせいたい)【左ルビ「よのありさま」】の常にし て怪(あやし)むに足らず。 本邦(わがくに)には限らす阿蘭陀(おらんだ)及び唐山(から) にても種痘を唱(とな)へ始(はじ)めたる頃(ころ)は。誹謗(ひはう)する者多く。種 痘にて死せし者。此(こゝに)も彼(かしこ)にもありと云ひ。或は後に再 感して死せりと云ひ。根もなき事を流言せり。然れ共 邪は正(せい)にかたずして。種痘 盛(さかん)に行れ。流言は自然に止 みたると阿蘭陀の書並に唐山(から)の書に見へたり。余天 保十三年 壬寅(みづのえとら)の冬。江戸より我常陸に帰り種痘する に。亦 誹謗(ひはう)【左ルビ「そしり」】排斥(はいせき)【左ルビ「しりぞける」】者多くして。再感する者ありと云ひ。亦 死せしものありと云 流(ふらす)ども。細(こまか)に捜索(ぎんみ)するに。再感せ しものは一人もなし。再感のなき事は。五百年来 昔賢(せきけん) 先哲(せんてつ)の歴験(れきけん)して決定(けつじやう)したる事にて。今 弁(べん)するに及は ぬことなれ共。今一言にて其 疑(うたがい)を解(と)くへき事あり。試(こゝろみ) に自然痘(はやりはうそう)を患(うれ)ひたる人へ種痘するに。決(けつ)して伝染(でんせん)せ ず。又種痘のすみたる人へ再び種痘するに。決して伝 染せず。此一事にて再感のなき理を知るに足れり。此 迄種痘したる六百人は姑(しはら)く置(おき)て余か第五男初生の 時。種痘を施し。今年七歳になり。其間に痘瘡 四度(よたび)行は れたれ共再感せず。若し一人も再感したる者あらば。 立(たちどころ)に後悔して罪を謝(しや)すべし。余 愚慮(くりよ)するに。流行痘(はやりはうそう)は 百人の者なれは。其中三十人は逆痘にて必す死し。三 十人は険痘にて死を免るゝも。婚姻(ゑんぐみ)に障(さわ)る程の麻面(あばた) になり。或は盲(めしい)となり或は聾(つんぼ)となり。或は筋(すぢ)を縮(つめ)て不 自由になり。加之(しかのみ)ならず痘前痘中の心配。死亡の歎(なげ)き。 医 薬(やく)祈祷(きとう)及ひ送葬等の費あり。三十人は順痘なれ共。 医師を招き祈祷を行ひ一と躁ぎせざれはならず。実 の軽痘は僅に十人のみ。自然痘を種痘に比すれば。其 優劣(ゆうれつ)同日の論にあらず。今十全良法の種痘を用ひず して。険(けん)逆(きやく)の流行痘を待つは。夷(たいらか)なるを見ながら険(さかしき)を 履(ふ)み。易(やすき)を知れども危(あやふき)に就(つく)なり。人の父母たる者此 理(り) を知らざれば生育(せいいく)の恩(おん)を闕(かく)に似(に)たり。徒(いたづら)に私意を放(ほしいまゝ) にし是非を察せず。妄(みだり)に誹謗(ひほう)する者は強(しい)て咎(とが)むべか らず。聡明(そうめい)の君子 熟慮(じゆくりよ)して。余か言(こと)の誣(しい)ざることを知 り。力(ちから)を戮(あは)せて此術を広(ひろ)めたらんには。天下万民の大 幸とも云べきか。今眼前に逆痘を患ふる者 月(つき〳〵)に多く。 死亡する者日に夥(おび)たゝし。されば区々(くゝ)の婆心(ばしん)已む事 を得ず。因(よつ)て自然痘の大害を述へ。種痘の良法たる事 を弁ず。清朝の名医徐大椿の言に。毎年逆痘流行し嬰(ゑい)【左ルビ「こ」】 孩(がい)【左ルビ「ども」】の死亡する者甚多し。近世種痘の術出てゝこの厄を 免(まぬ)かれしむるは。実に人事に非ず。天の人を教へて造 物の化育を賛(たすく)るなりと。蘭台軌範に見ゆ。余も徐大椿 の言に本つき天意を奉行(うけをこなひ)。種痘の法を弘(ひろ)め庶幾(こいねがはく)は嬰(ゑい) 孩(かい)の夭折(ようせつ)【左ルビ「わかしに」】を免(まぬかれ)しめ寿域(じゆいき)【左ルビ「なかいき」】に躋(のほ)らしめ国家人民 蕃殖(はんしよく)【左ルビ「しげくふへる」】の 一助(いちゝよ)とならん事を欲するに因て。此 呶々(とう〳〵)【左ルビ「やかましき」】の多言(たけん)を布 て梨棗(りそう)【左ルビ「はんき」】に上せ普く世人に瀆告(とくこく)【左ルビ「けかしつける」】すと云 弘化三年歳次丙午冬十二月          水戸  棗軒本間玄調誌 【白紙】 【裏表紙】