《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 一 【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>帝国文庫>第4篇・京伝傑作集>昔話稲妻表紙 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179162/9】 ●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。 ●参照する翻刻本では、かなを漢字にしたり、濁点や句読点を付加するなど、読みやすさのために原書と異なる表記をしている場合があります。入力にあたっては、「みんなで翻刻」ガイドラインの規則に従い、原書の表記を優先し、見たままに翻刻して下さい。 ●参照する翻刻本と原書の間で、版の違いなどにより文章や構成が相違する場合があります。この場合も原書の状況を優先して翻刻して下さい。 《割書:嘉永|新板》増補(ぞうほ)書翰(しよかん)大成(たいせひ)《割書:大冊|全部一》 《割書:いつれの本屋にも御座候間|御 手寄(てより)にて御もとめ可被成候》 此(この)書(しよ)は前板(ぜんはん)書翰(しよかん)大成(たいせい)の増補(ぞうほ)にして四季(しき)の贈答(そうたふ)はいふに 及(およ)ばず諸(しよ)商売用(しやうばいよう)の掛引(かけひき)種々(いろ〳〵)入組(いりくみ)たる文章(ぶんしやう)に至(いた)るまで 御家(おいへ)の書筆(しよひつ)をえらひ之取懇に書著(かきあらは)し頭書(かしらがき)には日用(にちよう) 要字 万(よろつ)字尽(じつくし)証文(しようもん)手形(てかた)案文(あんうん)書状(しよじやう)并 ̄ニ箱目録等(はこもくろくたう)一切(いつさい) 纏物(もの)の心得(こゝろえ)諸礼(しよれい)図式(ずしき)吉書始(きつしよはじめ)七夕(たなばた)詩歌(しいか)仮名 和字の濫觴五性人名尽商売往来其外日 夜(や)有益の事どもを数多(あまた)あつめいつれも絵を まじへて専重宝たらしむ実に諸家必用 随一の用文章なり  価五匁八分定    東山八景 みわたせはひかしやまのはるのけしきや きをむはやしにふくあらしは山市の晴嵐と うたかはれ河原おもてのまさこのいろは 江天の暮雪もかくやらむおもしろの花の みやこやちしゆのさくらにしくはなし 賀茂川のなかれのすゑにゆくふねは遠浦 の帰帆かさえわたる清水寺のかねのこゑ 煙寺の晩鐘のひゝきそれしら川のすさきに つはさの散乱すは平沙の落雁ともひつへし さてれうせむの月かけは洞庭のあきのゝ これにはよもまさらしさてまた漁村の 夕照はつりたれてあけまきにあそふものを    香つくし 六十一種の名香は法降寺東大寺逍遥みよしの 紅塵枯木なか川法華経はなたちはな やつはし園城寺似たり不二のけむりは あやめ槃若鷓鴣あを梅楊貴妃とひ梅 たねかしまみをつくし月竜田もみちの賀 斜月白梅千鳥や法華老梅や重かき 花の宴はなの雪名月賀蘭子卓橘はな散里 丹霞はなかたみ上はかをり須磨あかし十五夜 隣家夕時雨たまくら有明雲井くれ なゐはつせ寒梅ふた葉早梅霜夜たなはた 【挿絵】 不破伴ざゑもん 稲妻(いなつま)の はじまり 見(み)たり 不破(ふは)の関(せき) 荷翠 なご家山三 傘(からかさ)に ねぐら かさふよ ぬれ燕(つばめ) 其角 ゆふくんかつらき 傾城(けいせい)の 賢(けん)なるは此(この) 柳(やなぎ)かな 其角 ねさめしのゝめうすくれなゐうすくも のほり馬とかく伽羅のけふりといのちの君は とめてもいく夜いくよとめてもとめあかぬ   右東山八景香尽二曲はむかし室町に花の御所を   いとなまれし頃京童のうたひし小歌となむそのゝち   はるか過て堺の僧高三隆達といふ者ふしはかせを   あらためかへてうたひしよりなへて隆達ふしと   いふとそ此草紙の時代に因あるをもてこゝにしるしつ 【挿絵】 僊風道骨 ○梅津嘉門(うめづのかもん) 咲匂ふ 梅津の川の 花さかり うつる鏡の かけもくもらず 為家卿 【挿絵】 胚姧逞慾 ○不破(ふは)道犬(だうけん) 伴左衛門(ばんざゑもん)父(ちゝ) 其角 あの声で 石蜴(とかげ) くらふか 時鳥(ほとゝぎす) 回雪飛僊 ○白拍子(しらびやうし)藤波(ふぢなみ)幽魂(いうこん) 鬼貫 骸骨(がいこつ)の うへを 粧(よそ)ふて 花見哉 喰物(くひもの)も みな 水くさし 魂祭(たままつり) 嵐雪 【挿絵】 水寒陰薄 ○六字(ろくじ)南無右衛門(なむゑもん) ゆふだちや 細首(ほそくび)ちうに 大井川 宗因 画足蛻皮 ○丹波国(たんばのくに)因果娘(いんぐわむすめ) 蛇くふと きけば おそろし 雉子(きじ) の声(こゑ) 芭蕉 【挿絵】 守節握符 ○貞婦(ていふ)磯菜(いそな) 言水 花瓜(はなうり)や 絃(つる)をかしたる 琵琶(びわ)の上(うへ) 天機心匠 ○浮世(うきよ)又平(またへい)重起(しげおき) 大津 絵(ゑ)の 筆(ふで)のはじめは 何仏(なにぼとけ) 芭蕉 【挿絵】 裂石穿雲 ○佐々木(さゝき)桂之助(かつらのすけ)国知(くにとも) 其角 七月や 暮露(ぼろ) よび入て 笛(ふえ)を聞(きく) 又平(またへい)妹(いもと)於竜(おりう) 夜動昼蔵 ○銀杏前(いてふのまへ) うぐひすや 鼠(ねずみ)ちりゆく 閨(ねや)のひま 其角 【挿絵】 非風非幡 ○旧家怪(ふるいへくわい) 水風呂(すいふろ)の下や 案山子(かゝし)の 身(み)の終(をはり) 丈草 昔話(むかしがたり)稲妻(いなつま)表紙(ひやうし)総目録(そうもくろく)    巻之一 一 遺恨(いこんの)草履(ざうり) 二 風前(ふうぜんの)灯火(ともしび) 三 胸中(きやうちうの)機関(きくわん) 四 荒屋(あばらやの)奇計(きけい)    巻之二 五 厄神(くわじんの)報恩(ほうおん) 六 因果(いんぐわの)小蛇(しやうじや) 七 呪詛(しゆその)毒鼠(どくそ) 八 夜(あんや)の駿馬(しゆんめ)    巻之三 九 辻堂(つぢとうの)危難(きなん) 十 夢幻(むげんの)落葉(らくえふ) 十一 断絃(だんげんの)琵琶(びは)    巻之四 十二 修羅(しゆらの)大鼓(たいこ) 十三 霊場(れいぢやうの)熱閙(にきはひ) 十四 仇家(きうかの)恩人(おんじん)    巻之五 上冊 十五 孤雁(こがんの)禍福(くわふく) 十六 名画(めいぐわの)奇特(きどく) 十七 雪渓(せつけいの)非熊(ひゆう) 十八 花柳(くわりうの)□(さや)当(あて)    同 下冊 十九 刀剣(たうけんの)稲妻(いなづま) 二十 積善(しやくぜんの)余慶(よけい)     以上       通計二十回 総目録終 昔話(むかしがたり)稲妻(いなづま)表紙(ひうし)巻之一          江戸   山東京伝編   一 遺恨(いこん)の草履(ざうり) 今(いま)は昔(むかし)人皇(にんわう)百三代。後花園院(ごはなぞのゝいん)の御宇(きよう)。長禄(ちやうろく)年中(ねんぢう)。足利(あしかゞ)義政(よしまさ)公(こう)の時代(じだい)。 雲州(うんしう)尼子(あまこ)の一族(いちぞく)に。大和(やまと)の国(くに)を領(りやう)す。佐々木(さゝき)判官(はんぐわん)貞国(さだくに)といふ人ありけり。 兄弟(きやうだい)二人の男子(なんし)をもてり。兄(あに)は桂之助(かつらのすけ)国知(くにとも)といひて。今年(ことし)二十五才なり。 弟(おとゝ)は花形丸(はなかたまる)とて十二才なり。兄(あに)は先妻(せんさい)の子(こ)弟(おとゝ)は後妻(かうさひ)の蜘手(くもで)の方(かた)といふに 出生(しゆつしよう)したる子(こ)なり桂之助(かつらのすけ)の伯父(おぢ)に蔵人(くらんど)貞親(さたちか)といふ人あり是(これ)則(すなはち)判官(はんぐわん) 貞国(さだくに)の弟(おとゝ)なるゆゑに一万町の分地(ぶんち)を与(あた)へ同国(とうこく)平群(へぐり)に。別館(べつくわん)を造(つく)りて すゑおきけるが。一人の娘(むすめ)をまうけ。先(さき)だつて夫婦(ふうふ)ともに身(み)まかりけり。その 息女(そくぢよ)容顔(ようがん)美麗(ひれい)なるが。成長(せいちやう)の後(のち)。桂之助(かつらのすけ)の内室(ないしつ)となり。名(な)を銀杏前(いちやうのまへ) といふ夫婦(ふうふ)中むつましく。ほどなく男子(なんし)誕生(たんじやう)あり。其(その)名(な)を月若(つきわか)といひて。 今年(ことし)七才にぞなりぬ。其(その)比(ころ)義政公(よしまさこう)。京都(きやうと)室町(むろまち)に新館(しんくわん)を営(いとなみ)て花(はな)の御所(ごしよ) と号(ごう)し。兼(かね)て花車(きやしや)風流(ふうりう)を好(この)み玉ひ。近仕(きんし)の士(もの)も列侯(れつこう)の子息(しそく)のうちより。 美男(びなん)を撰(えら)びて召(めし)つかはれけるが。桂之助(かつらのすけ)兼(かね)て美男(びなん)のきこへあるにより。此(この) 撰(えら)びに入て京都(きやうと)にめされ。右近(うこん)の馬場(ばゝ)の旅館(りよくわん)に住(すみ)。室町(むろまち)の御所(こしよ)に通(かよ)ひて 勤(つとめ)けり。此度(このたび)桂之助(かつらのすけ)にしたがひて。上京(じやうきやう)したる家士(いへのこ)は。執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん)一子(いつし)。 不破(ふは)伴(ばん)左衛門 重勝(しげかつ)。長谷部(はせべの)雲六(うんろく)。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくつの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬかみ) 雁八(がんはち)等(ら)なり。去程(さるほど)に桂之助(かつらのすけ)妻子(さいし)は国(くに)に残(のこ)しおき其(その)身(み)独(ひとり)長(なが)々 在京(ざいきやう)し。御所(ごしよ) 勤(つとめ)の気欝(きうつ)つもりけるにや。頃日(このごろ)は病(やまひ)がちになりて折(をり)々 悩(なや)みければ。一時(ひととき)家士(いへのこ) 等(ども)。桂之助(かつらのすけ)が前(まへ)に集(つどひ)。何(なに)がな殿(との)の欝結(うつけつ)を慰(なぐさむ)る事(こと)もやと評議(ひやうき)しけり。さて 当家(たうけ)の重宝(ちやうほう)に。巨勢(こせ)の金岡(かなおか)が画(ゑがき)たる。百蟹(ひやくがい)の図(づ)とて。百種(ひやくしゆ)の蟹(かに)をかきたる 絵巻物(ゑまきもの)あり室町殿(むろまちとの)兼(かね)て古書画(こしよくわ)を好(この)み玉ふにより。御聞(おんみ)に達(たつ)し。御覧(ごらん) あるべきよし命(めい)ぜられければ。国元(くにもと)より。名古屋(なごや)三郎左衛門が一子(いつし)。名古屋(なごや) 山(さん)三郎 元春(もとはる)。彼(かの)巻物(まきもの)を携(たずさ)へてまかり上(のぼ)り。すなはち当(たう)館(やかた)に逗留(とうりう)して ありけるが。兼(かね)て大殿(おほとの)申楽(さるがく)を好(このま)れけるゆゑ。山(さん)三郎 武芸(ぶげい)のいとま乱舞(らんふ)を学(まな) びて扇(あふぎ)とりて名誉(めいよ)の者(もの)なりければ。皆(みな)々 口(くち)を揃(そろ)へて申しけるは山(さん)三郎 上京(しやうきやう)こそ幸(さいは)ひなれ。かれに一(ひと)さし舞(まは)せて御覧(ごらん)候へ。しかし彼(かれ)が舞(まひ)御国元(おんくにもと) にては度々(たび〴〵)御覧(ごらん)ありし事(こと)なれは。相人(あいて)なくては興(きよう)あるまし頃日(このごろ)時(とき)めく 白拍子(しらびやうし)に。藤波(ふぢなみ)と申す女(をんな)あり。年(とし)は十七才のよし。歌舞(かぶ)吹弾(すいたん)の業(わざ)に 達(たつ)し。しかも類(たぐひ)まれなる美女(びぢよ)にて。古(いにしへ)の祇王(ぎわう)祇女(ぎぢよ)仏(ほとけ)なとにもをさ〳〵 をとらざる者(もの)にて候。彼(かれ)を召(めし)て山三(さんざ)が相人(あいて)とし。乱舞(らんふ)俳優(わざをき)を催(もよほ)し玉はゞ いみじき観物(みもの)にて候はんと。伴(ばん)左衛門をはじめ。これをすゝめけるにぞ。桂之助(かつらのすけ) 大に喜(よろこ)び夫(それ)きはめて興(きよう)あらん。急(いそ)ぎ催(もよほ)すべしと命(めい)じければ。皆(みな)々かし こみ候といひて退(しりぞ)き。つぐる日(ひ)彼(かの)藤波(ふぢなみ)。ならびに囃方(はやしかた)を召(めし)よせ。山(さん)三郎を くわへて。乱舞(らんふ)俳優(わざおき)をさせ美々(びゞ)しく酒宴(しゆえん)をまうけて。大に興(きよう)を催(もよほ)し けりかくて山(さん)三郎 藤波(ふぢなみ)かわる〴〵。種々(くさ〴〵)の舞(まひ)ありて後(のち)。酒(さけ)□(たうべ)の乱足(みだれあし)。西寺(にしでら) の鼠舞(ねずみまひ)。無力(ちからなき)蟇(かいる)。無骨(ほねなき)蚯蚓(みゝず)の道行(みちゆき)ぶり。福広聖(ふくわうひじり)の袈袋求(けさもとめ)妙高尼(みやうかうに)の 繦緥乞(むつきこひ)などいふ。両人(りやうにん)立合(たちあひ)の俳俳優(わざをき)ありて笑(わら)ひを生(しやう)じ。終(をわり)にいたりて藤波(ふぢなみ)。 男舞(をとこまひ)といふ秘事(ひじ)を舞(まひ)ぬ。これは昔(むかし)後鳥羽院(ごとばのいん)の御宇(ぎよう)。通憲(みちのり)入道(にうだう)。讃岐(さぬき) の磯(いそ)の前司(ぜんじ)といふ女(をんな)に。伝(つた)へたる舞(まひ)なり。金(きん)の立烏帽子(たてゑぼうし)。白(しろき)水于(すいかん)に紅(くれなゐ)の 大口(おほくち)はき太刀(たち)をおびて立舞(たちまふ)さま。誠(まこと)是(これ)。沈魚(ちんぎよ)落雁(らくがん)。羞月(しうけつ)閉花(へいくわ)の容(かたち) あり。ひるがへす袖(そで)は鸞鳳(らんほう)の舞(まふ)にひとしく。歌(うた)うたふ声(こゑ)は頻伽(びんか)の囀(さへづる)がごとく なれば。皆人(みなひと)感(かん)にたへ。奇妙(きみやう)の舞妓(まひひめ)やと。賞嘆(しやうたん)の声(こゑ)しばらくはやまざりけり。 此時(このとき)より桂之助(かつらのすけ)藤波(ふぢなみ)を恋(こひ)そめて。病(やまひ)はいづくへか去(ゆき)。只(たゞ)思(おも)ひ川(かは)の水(みづ)胸(むね) にあふれて恋(こひ)の淵(ふち)となり。舞(まひ)を見るに事(こと)よせて。度々(たび〴〵)めしよせけるが。 つひに伴(ばん)左衛門がはからひとして。藤波(ふぢなみ)を桂之助(かつらのすけ)の妾(そばめ)にめしかゝへ。館(やかた)に 引(ひき)とりて給仕(きうし)させければ。桂之助(かつらのすけ)望(のぞみ)たりて最愛(さいあい)深(ふか)くめかしつかひ。かれが 妹(いもと)に於竜(おりう)とて。今年(ことし)十三才になる少女(しやうぢよ)のありけるを。これをも館(やかた)にめし よせて。藤波(ふぢなみ)がそばづかひにさせぬ。藤波(ふぢなみ)も桂之助(かつらのすけ)が美男(びなん)なるにめてゝ 誠心(せいしん)を尽(つく)し。鴛鴦(ゑんおう)の契(ちぎり)浅(あさ)からざりしかば。桂之助(かつらのすけ)おのづから御所(ごしよ)の勤仕(きんし)おろ そかになりぬ。されども佞臣(ねいしん)等(ら)はこれを幸(さいわひ)とし。昼夜(ちうや)かたわらをはな れず。遊相人(あそびあいて)となりて。酒宴(しゆえん)婬楽(いんらく)にのみあかしくらせば。旨酒(ししゆ)珍膳(ちんぜん)席上(せきしやう) にみち。郢曲(ゑいきよく)謳歌(あうか)室中(しつちう)にかまびすく。恰(あたか)も妓家(ぎか)娼門(しやうもん)の所行(しよぎやう)に似(に)て。 うたてかりける形勢(ありさま)なり。山(さん)三郎 逗留(とうりう)の間(あいだ)。此(この)為体(ていたらく)を見聞(けんもん)して。只(たゞ) 独(ひとり)胸(むね)をいため安(やす)き心(こゝろ)はせざりけり。しかるに伴(ばん)左衛門いつのほどよりか。 藤波(ふぢなみ)に恋慕(れんぼ)し。千束(ちづか)の艶書(ゑんじよ)をおくるといへども。藤波(ふぢなみ)は手(て)にもふれず。 尽(こと〴〵)くこれをもどして。一言(ひとこと)の返荅(いらへ)だにせず。伴(ばん)左衛門 一向(ひたすら)思ひとゞま らず。折(をり)をうかゞひひまを見て。おどしつすかしつかきぐとく。藤波(ふぢなみ)はじ めは彼(かれ)が恨(うらみ)憤(いきどほ)らん事をおそれて。心(こゝろ)一ツにをさめおきけるが。今はやむこと を得(え)ず。桂之助(かつらのすけ)に艶書(えんじよ)を見せて。彼(かれ)かふるまひをつぶさに告(つげ)ぬ。桂之助(かつらのすけ)は 短気(たんき)の生(うま)れなるうへに。心(こころ)狂(くるは)しくなりたる時(とき)なれば。これを聞(きく)とひとしく 奮然(ふんぜん)として怒気(どき)天(てん)にさかのぼり。急(いそ)ぎ伴左衛門をめし出(いだ)し。かの艶書(ゑんじよ) をくりひろげていひけるは。汝(なんじ)藤波(ふぢなみ)に不義(ふぎ)をいひかけ。数通(すつう)の艶書(ゑんじよ)を おくる条(しやう)。罪科(ざいくわ)甚(はなはだ)重(おも)し。後日(ごにち)の見せしめに。我(われ)みづから手(て)をくだす なりといひもあへず。白鞘巻(しらさやまき)を抜(ぬき)はなしければ。次(つぎ)の間(ま)にひかへたる 山(さん)三郎いそがはしく走出(はしりいで)。袖(そで)にすがりて押(おし)とゞめ。詞(ことば)を尽(つく)してなだめける にぞ。やう〳〵刀(かたな)をおさめ。しかるうへは汝(なんぢ)にめでゝ一命(いちめい)をたすけ。長(なが)く勘当(かんだう)す なりとて。かたはらに命(めい)じて。伴(ばん)左衛門が大小をもぎとらせ。庭上(ていしやう)に引(ひき)おろさ しめければ。伴(ばん)左衛門は一言(いちごん)の分説(いひわけ)なく。只(たゞ)打(うち)しほれてぞ伏(ふし)居(ゐ)たる。桂之助(かつらのすけ) 山(さん)三郎を顧(かへり)み。汝(なんぢ)上草履(うはぞうり)を以(もつ)て。伴(ばん)左衛門が面(おもて)を打(うち)。辱(はづかし)めを与(あた)へよと 命(めい)ず。山(さん)三郎 頭(かしら)をさげ。御憤(おんいきどほり)はうべなれども。さすがに彼(かれ)は。執権職(しつけんしよく)を 仕(つかまつ)る道犬(だうけん)が児子(せがれ)にて候へば。この侭(まゝ)御いとまつかはされくだされかしと願(ねがふ)を。 聞入(きゝいれ)ず。いな〳〵彼がごとき人畜(にんちく)は面(おもて)に糞汁(ふんじふ)をそゝぐとも飽(あき)たらず。とく〳〵 打(うて)よ。たゞし我(わが)命(めい)を背(そむく)かと。いきまきつゝいふ。山(さん)三郎おそれいりおふせを背(そむく) には候はねども。傍輩(はうばい)の因身(よしみ)武士(ぶし)の情(なさけ)に候へば。辱(はづかしむ)るにしのびず。押(おし)て願(ねがひ) 奉(たてまつ)るといはせもはてずいな〳〵何の宥免(ゆうめん)あらん。汝(なんぢ)若(もし)打(うた)ずんばともに 【挿絵】 佐々木(さゝき)桂之助(かつらのすけ) 怒(いかり)て家士(かし)名古屋(なごや) 山(さん)三郎に命(めい)じ上(うは) 草履(ぞうり)をもつて 不破(ふは)伴(ばん)左エ門が 面(おもて)を 打(うた)しむ おりう 桂之助 なごや山三 不破伴左エ門 勘当(かんだう)なり。打(うつ)べきや打(うつ)まじきや。返答(へんたう)せよと。せきにせきて詞詰(ことばづめ)し ければ。山(さん)三郎しかるうへは是非(せひ)に及(および)候はず。いかでか違背(いはい)仕るべきとて。 袴(はかま)のくゝり引(ひき)あげ。上草履(うはぞうり)をとりて庭(には)にをり立(たち)。庭下駄(にわげた)をならして。 飛石(とびいし)をつたひ。伴(ばん)左衛門が傍(そば)にちかづき。厳命(げんめい)なればせんすべなし。かならず 恨(うらみ)玉ふなと。耳(みゝ)ちかくいひきけて。草履(ぞうり)をあげ。面(おもて)をかけて一打(ひとうち)うち。 退(しりぞか)んとするを。桂之助(かつらのすけ)椽先(ゑんさき)に出(いで)て一見(いつけん)し。あな手弱(てよわき)ぞ山(さん)三郎。数(かづ)なく 打(うち)て辱(はづかし)めよとあふせければ。やむことを得(え)ず立(たち)もどり。又しと〳〵と連打(つゞけうち) に打(うち)けるにぞ。伴(ばん)左衛門が鬠(もとゆひ)弗(ふつ)ときれ。鬢髪(びんはつ)乱(みだ)れて見るにしのびぬ 形勢(ありさま)なり。桂之助(かつらのすけ)呵々(から〳〵)と打笑(うちわらひ)。みな〳〵彼(かれ)を見よ。こゝちよき見物(みもの)にあら ずや。はや引出(ひきいだ)して後門(うらもん)より追払(おひはら)へと命(めい)ず。やがて奴僕等(しもべら)割竹(わりだけ)を とりて庭(には)づたひに出来(いできた)り。いざ〳〵とて追立(おひたて)ければ。伴(はん)左衛門しぶ〳〵 立(たち)あがりて。しづかに衣服(いふく)の塵(ちり)を打払(うちはら)ひ。山(さん)三郎を尻目(しりめ)ににらみていて ゆきぬ。これぞ遺恨(いこん)の起(おこ)りとは後(のち)にぞ思ひ知(し)られける。かくて後(のち)山(さん)三郎。 しば〳〵諌言(かんげん)をもちひけれども。桂之助(かつらのすけ)露(つゆ)ばかりも聞入(きゝいれ)ず。佞臣等(ねいしんら)は 山(さん)三郎をとほざけんと計(はかり)。一向(ひたすら)あしくとりなすにより。桂之助(かつらのすけ)山(さん)三郎を 召出(めしいだ)し。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)御覧(ごらん)すみなば。此方(このはう)より別人(べつじん)を以(もつ)てもとすべし。 汝(なんぢ)が役目(やくめ)すみたるうへは。いたづらに在京(ざいきやう)せんも親人(おやびと)のおぼす所(ところ)いかゞなり。 とく〳〵帰国(きこく)いたすべしとあれば山(さん)三郎 心(こゝろ)ならずといへども君命(くんめい)もだしがたく。 俄(にはか)に行装(たびよそほひ)をとゝのへて国元(くにもと)へまかりくだりぬ。しかりしより後(のち)は。誰(たれ)憚(はゞか)る者(もの) もなく。室町(むろまち)の御所(ごしよ)へは重病(ちやうびやう)と披露(ひろう)して出仕(しゆつし)をやめ。日夜(にちや)の酒宴(しゆえん) 糸竹(いとたけ)の調(しらべ)に。春(はる)の日(ひ)も暮(くれ)なんことを花(はな)におしみ。秋(あき)の夜(よ)も短(みぢか)しと 月(つき)にかこち。更(さら)に本性(ほんしやう)はなかりけり   二 風前(ふうぜん)の灯火(ともしび) 爰(こゝ)に又。此(この)旅館(りよくわん)をあづかる家士(いへのこ)に。佐々良(さゝら)三八郎といふ。忠臣(ちうしん)無二(むに)の者(もの) ありけり。兼(かね)て妻子(さいし)をおびて当(たう)館(やかたの)中(うち)に住(すみ)けるが。山(さん)三郎 帰国(きこく)の後(のち) は。桂之助(かつらのすけ)の身持(みもち)益(ます〳〵)あしく成行(なりゆき)けるを深(ふか)く悲(かなし)み。主君(しゆくん)の前(まへ)に出(いて)て 諌(いさめ)けるは。虚病(きよびやう)をかまへ玉ふのみならず。旅館(りよくわん)に妾(そばめ)をめしつかひ玉ふ放佚(はういつ) 無慙(むざん)の御行跡(おんふるまひ)若(もし)室町(むろまち)御所(ごしよ)にきこえなば。ゆゝしき大事(だいじ)。御家(おんいへ)にも かゝはることにはんべり。こひねがはくは藤波(ふちなみ)にいとまをつかはされ。御身持(おんみもち)を あらためくださるべしと。何(なに)の憚(はゞか)る所もなく。おもふむねをのべて。しば〳〵 諌言(かんげん)せしかども。桂之助(かつらのすけ)耳(みゝ)にも聞入(ききいれ)ず。日をおひて悪行(あくこう)つのりければ。 三八郎 熟(つら〳〵)おもひけるは。かくばかり詞(ことば)を尽(つく)し理(り)を糺(たゞ)して諌(いさめ)まうすに。御聞(おんきゝ) 入(いれ)なきうへはせんすべなし。これ畢竟(ひつきやう)藤波(ふぢなみ)が色香(いろか)に迷(まよ)ひ玉ふゆゑなれば。 【裏表紙】 《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 二 彼(かれ)あらん限(かぎ)りはいかに諌(いさめ)申すとも悪行やむべからず。根(ね)をたちて葉(は)をから すの道理(だうり)なれば。折(をり)をうかゞひ藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)し。おのれ腹(はら)かきやぶりて死(しす)るに しかじ。科(とが)なき女(をんな)を殺(ころす)は情(なさけ)なしといへども。御家(おんいへ)にはかへがたし。越(ゑつ)の范蠡(はんれい) 西施(せいし)を呉湖(ごこ)に放(はな)ちたる例(ためし)もあるものをと。つひに心(こゝろ)を決(けつ)し。よき折(をり)も がなと思ひ居(ゐ)たるに。一夜(あるよ)時(とき)ならぬ夜嵐(よあらし)の烈(はげ)しきを幸(さいは)ひとし。身軽(みがる)に 打扮(いでたち)て奥庭(おくには)にしのび入(いり)。樹木(じゆもく)の茂(しげり)たる所(ところ)にかくれて。藤波(ふぢなみ)が部屋(へや) に下(さが)るを待(まち)居(ゐ)たり。藤波(ふちなみ)はかくとは露(つゆ)しらず。子(ね)すぐる比(ころ)殿(との)の前(まへ)を 退(しりぞ)き。ほろ酔(ゑひ)の機嫌(きげん)にて。みづから手燭(てしよく)をてらし。濃紫(こむらさき)の小袖(こそで)のつま とりあげて。長(なが)き廊架(らうか)を歩(あゆ)み来(く)る。三八郎かくと見るより氷(こほり)なす刀(かたな)を 抜(ぬき)そばめ。今(いま)を盛(さかり)に咲乱(さきみだ)れたる山吹(やまふき)躑躅(つゝじ)。早咲(はやざき)の燕子(かきつばた)花(はな)を踏(ふみ)ちらし やり水(みづ)の流(なが)れそばたちたる。庭石(にはいし)を飛越(とひこへ)て。廊架(らうか)の手(て)すりの下(した)を 【挿絵】 佐々木(ささき)の家士(かし) 佐々良(さゝら)三八郎 忠義(ちうき)の為(ため) 白拍子(しらびやうし) 藤波(ふぢなみ)を 殺(ころ)す さゝら三八郎 藤波 つたひ藤波(ふぢなみ)が跡(あと)をつけて。今(いま)や斬(きら)ん〳〵とつけねらふ。藤波(ふぢなみ)は何(なに)の心(こゝろ)もなく 歩(あゆ)みけるが。此(この)時(とき)一命(いちめい)の終(おは)るべき宿世(すくせ)の因果(いんぐわ)にやありけん。風雨(ふうう)ます〳〵 つよく爛熳(らんまん)たる庭木(にはき)の桜(さくら)を吹(ふき)ちらして。吹雪(ふゞき)のごとく散(ちり)かゝり。手(て) 燭(しよく)を颯(さつ)と吹(ふき)けして忽(たちまち)真(しん)の闇(やみ)となる。嗚呼(あゝ)彼(かれ)が命(いのち)の危(あやう)さもげに風(ふう) 前(ぜん)の灯火(ともしび)なり。藤波(ふぢなみ)進退(しんたい)を失(うしな)ひて心(こゝろ)たゆたひける所(ところ)に暗(くらき)裏(うち)に剣(つるぎ)の 光(ひか)り電光(でんくわう)石火(せきくわ)と閃(ひらめ)きければ驚(おどろ)きて逃(にげ)ゆかんとするを。三八郎をどり かゝりて斬(きり)つけたるが。暗中(くらがり)なれば目当(めあて)ちがひて空(くう)を斬(きる)。これはと又 斬(きる) 剣(つるぎ)の下(した)をくゞりぬけて。猶(なほ)逃去(にけゆか)んとしけれども。余(あま)りに驚(おどろ)き。身(み)うち わなゝき足(あし)なへぎて走(はし)ることあたはず。夢路(ゆめぢ)に迷(まよ)ふごとくなり。三八郎は 息(いき)をこらし。あたりを探(さぐ)りて立(たち)まはり。めつた斬(きり)にきりけるにぞ。藤波(ふぢなみ) 振袖(ふりそで)の袂(たもと)を斬落(きりおと)され。危(あやう)く身(み)は避(のがれ)たれども。目前(めさき)に剣(つるぎ)のひらめく たび〴〵胸(むね)冷(ひえ)。魂(たましい)きへて。黒暗地獄(こくあんぢごく)の罪人(ざいにん)が。剣樹(けんじゆ)にのぼることならず。三八郎は ひまとりて。仕損(しそん)ぜまじと心(こゝろ)せかれ。衣(きぬ)にとめたる蘭麝(らんじや)の。薫(かほ)る方(かた)を心当(こゝろあて) に。うかゞひすまして斬(きり)つけたれば。手(て)ごたへして呀(あ)とさけぶ。仕(し)すまし たりとたゝみかけてきるにぞ。あはれむべし藤波(ふぢなみ)。たまきはる声(こゑ)とゝもに。 のけさまになりて。背後(うしろ)なる杉戸(すきど)はづれ。おしになりて噇(どう)と倒(たふ)る。時(とき)に 奥深(おくふか)くたてたる。灯火(ともしび)の光(ひか)りもれ来(く)るに乗(じやう)じて。その形勢(ありさま)を見るに。 無慙(むざん)やな左袈裟(ひだりげさ)に斬(きり)さげられ。鮮血(なまち)泉(いづみ)のごとく湧(わき)流(ながれ)て。身(み)うち 朱(あけ)に染(そま)り。手足(てあし)をもがき。歯(は)をかみならして苦(くるし)む体(てい)。見る目(め)もあて かねたり。三八郎せめて苦痛(くつう)をさせじと思ひつゝ。乗(のり)かゝりて吭(のんどふえ)にとゞめの 刀(かたな)をさしとほす。嗚呼(あゝ)悲哉(かなしいかな)。嗚呼(あゝ)痛哉(いたわしいかな)。十七 歳(さい)を一期(いちご)として。黄泉(よみぢ)の 鬼(ひと)となりにけり。かくて三八郎 袖(そで)引(ひき)ちぎりて血刀(ちがたな)にまき。肌(はだ)おしくつ 【挿絵】 藤波 さゝら三八郎 おりう 其二 ろげ。已(すで)に腹(はら)につきたてんとせしが。俄(にはか)におもひなほしけるは。いな〳〵今(いま) 死(し)すべき命(いのち)にあらず。人の見とがめぬこそ幸(さいはひ)なれ。不破(ふは)道犬(だうけん)が為体(ていたらく) お家(いへ)を乱(みだ)すべききざしあり。これよりすぐに出奔(しゆつほん)し。権(しばし)命(いのち)をながらへて。 よそながら主君(しゆくん)の目代(めじろ)となり。彼(かれ)が悪意(あくい)を見あらはし。其後(そのゝち)此(この)藤波(ふぢなみ)が 所縁(ゆかり)の者(もの)の。恨(うらみ)の刃(やいば)にかゝりて死(しな)んこそ武士(ぶし)の道(みち)なるべしと。心(こゝろ)をさだめ て死骸(しがい)にむかひ。忠義(ちうぎ)の為(ため)とはいひながら。科(とが)なきおことを無代(むたい)に殺(ころ) せし。不便(ふびん)さよ。やがて此(この)身(み)も刃(やいば)にかゝり。冥途(めいど)において分説(いひわけ)せんと掌(て)を 合(あは)せ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)〳〵と。口(くち)の裏(うち)に回向(ゑかう)して。退(しりぞ)き出(いで)んとしたる折(をり)しも。 藤波(ふぢなみ)が妹(いもと)の於竜(おりう)。姉(あね)の下(さが)りのいつより遅(をそ)きを案(あん)じ。むかひの為(ため)手燭(てしよく)を ともして何(なに)の心(こゝろ)もなく此(この)所(ところ)まで来(き)かゝり。三八郎と顔(かほ)見合(みあは)せ。此(この)血(ち)しほ はとおどろきて。声(こへ)たてければ。三八郎 手(て)ばやく刀(かたな)の□(みね)打(うち)に。手燭(てしよく)をはつ しと打落(うちおと)し。吻(ほ)とため息(いき)つきもあへず。又 庭(には)つたひに逃出(にげいで)けるが。深夜(しんや)と いひ夜嵐(よあらし)ます〳〵烈(はげ)しければ。誰一人(たれひとり)これを知(しる)者(もの)なかりけり。かくて三八郎 我家(わがや)にかへり。妻(つま)礒菜(いそな)にしか〴〵の事(こと)を語(かた)り。いそがはしく。身支度(みじたく)して。 たくはへの金子(きんす)を懐(ふところ)にし。おのれは今年(ことし)十二才になる楓(かへで)といふ娘(むすめ)をせおひ。 妻(つま)には七才になる栗(くり)太郎といふ男子(なんし)をおはせ。夫婦(ふうふ)しのびやかに 後門(うらもん)より逃出(のがれいで)けるが。四方(しはう)暗々(あん〳〵)として東西(とうざい)を弁(へん)ぜず。雨(あめ)はやゝつよく降(ふり) て篠(しの)をつかぬるがごとくなれども。雨衣(あまぎぬ)をだに身(み)につけねば。濡衣(ぬれぎぬ)足(あし)に まとひつきて歩(あゆ)みがたく。素足(すあし)なれば道(みち)ぬめりて心(こゝろ)のみ前(さき)に走(はし)り 身(み)はあとへ引(ひか)るゝこゝちし。おぼへず背後(うしろ)を顧(かへりみ)れば。怪哉(あやしいかな)心火(しんくわ)ぱつと燃(もへ) 上(あか)り藤波(ふぢなみ)が姿(すかた)かげろひのごとくあらはれて。行(ゆく)をやらじと引(ひき)とゞむ。 三八郎 此(この)時(とき)身(み)うちぞつと冷(ひへ)とほりけるが。刀(かたな)を抜(ぬい)て斬払(きりはら)ひ妻(つま)の 手(て)をとりゆくむかふへ。又ぱつと炎(ほのほ)燃(もへ)て。藤波(ふぢなみ)が姿(すがた)すくと立(たち)。なほもやら じとさゝへたり。妻(つま)子(こ)の目(め)には見へねども。三八郎が目前(めさき)にはまぼろしの ごとくつきまとはり。此(こゝ)にあらはれ彼処(かしこ)に立(たち)て。斬(きれ)ど払(はら)へど立さらず。勇気(ゆうき) 烈(はげ)しき三八郎も。身(み)うちしびれ足(あし)なへぎて走(はし)ることあたはず。妻(つま)の 礒莱(いそな)ももろともに。たぢ〳〵と引(ひき)もどされ。髪(かみ)も乱(みだ)れもすそも破(やぶ)れ。 身体(しんたい)すくみて倒(たふ)れしが。やう〳〵心(こゝろ)を励(はげま)して。百歩(ひやつぽ)ばかりも逃去(にげゆく)時(とき)。 烈風(れつふう)颯(さつ)とおろし来(き)て。大粒(おほつぶ)の雨(あめ)つぶてを打(うつ)がごとく降(ふり)かゝり。一団(いちだん)の心火(しんくわ) あとを追(おひ)て飛来(とびきた)り。見る〳〵空中(くうちう)にて二つにわかれ。一つは娘(むすめ)楓(かへて)が懐(ふところ)に入(いり)。一つ は栗(くり)太郎が懐(ふところ)にいりぬ。是(これ)乃(すなはち)藤波(ふぢなみ)が死霊(しりやう)。兄弟(きやうだい)の児等(こどもら)につき恨(うらみ)を報(むくゆ)る 一端(いつたん)なり。かくて夫婦(ふうふ)こけつまろびつ。たゞ走(はし)りに走(はし)り。辛(からう)じて遥(はるか)に逃(にげ) のび先(まづ)身体(しんたい)恙(つゝが)なきを喜(よろご)びけり。此(この)時(とき)にいたりてやう〳〵風雨(ふうう)おさまり 雲(くも)はれて朧月(おぼろづき)さし出(いで)。草(くさ)の緑(みどり)に影(かげ)うつるを便(たより)に北山(きたやま)を過(すぎ)杉坂(すぎさか)を上(のぼ)り あまりに息(いき)たゆければ。茂林(もりん)のうちにいり。夫婦(ふうふ)背上(せなか)より両人(ふたり)の子(こ)を おろして岩(いはほ)の上(うへ)に尻(しり)かけ濡衣(ぬれぎぬ)をしぼり。清水(しみつ)に咽(のんと)をうるほしなとして 権(しばし)やすらひ居(ゐ)たる折(をり)しも。坂(さか)のうへより若(わかく)うつくしき女(をんな)ちらし髪(かみ)素足(すあし) にて。ぬかり道(みち)をびしよ〳〵と歩(あゆ)み来(き)ぬ。よく〳〵見れば何(なに)にかあらん煙(けふり)の やうにて。壁人(かげぼうし)のことく。人(ひと)の形(かたち)したるもの。女の前(さき)に立(たち)。糸(いと)のやうなる手(て)を あけてさしまねく。まねけば女 足(あし)をはやめて歩(あゆ)む。まねかざれば女 立(たち) とゞまり。頭(かうべ)を傾(かたふけ)て物(もの)をおもふさまなり。女 立(たち)とゞまればかの怪物(あやしきもの)。又 手(て)を あげてさしまねくかくしつゝも女。旧(ふる)榎(ゑのき)の下(もと)にいたり権(しばし)たゝずみてさめ〴〵 と泣(なき)居(ゐ)たるが。かの怪物(あやしきもの)梢(こずゑ)をゆびさせば。女あふぎ見(み)てうなづき。なほさめ〴〵 と泣(なく)涙(なみだ)梢(こすゑ)の雫(しつく)とおちかゝる。怪物(あやしきもの)又 榎(ゑのき)の枝(えだ)をゆびさし。物(もの)打(うち)かくる仕方(しかた)を 【挿絵】 佐々良(さゝら)三八郎 藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)し 妻子(さいし)を具(ぐ)して 逃(のがれ)ゆく途中(とちう) にて首(くび)縊(くゝる) 女(をんな)を救(すく)ふ むすめかへで 妻いそな さゝら三八郎 すれば。女うなづき前後(あとさき)を顧(かへりみ)つゝ。やがて腰帯(こしおび)を解(とき)。木(き)の枝(えだ)に打(うち)かけたり 三八郎 妻(つま)とゝもに。木蔭(こかげ)の暗所(くらきところ)にあり。此(この)為体(ていたらく)を見て暗(ひそか)に思ひけるは。 彼(かの)怪物(あやしきもの)は世(よ)にいふ死神(しにがみ)なるべし。首縊榎(くびくゝりゑのき)などいふものありて。前(さき)に縊(くびれ)死(し)し たる者(もの)の亡魂(ばうこん)。樹下(じゅか)にとゞまりて。死神(しにがみ)となり。人をいざなひて縊(くびれ)しむと。世(よ) の語柄(かたりぐさ)には聞(きゝ)つれども。眼前(まのあたり)見るはこれがはじめなり。我(われ)忠義(ちうぎ)の為(ため)とは いひながら。罪(つみ)なき藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)せし事(こと)。みづから悲(かなし)み愁(うれふ)る事(こと)深(ふか)し。せめて此(この) 女(をんな)をたすけて藤波(ふぢなみ)が冥福(めいふく)をもとむる種(たね)ともなし。怨魂(えんこん)をなだむる便(たより)とも なしてんとおもふうち。彼(かの)女(をんな)西(にし)にむかひて掌(て)を合(あは)せ念仏(ねんぶつ)数遍(すへん)となへ ほど〳〵縊(くびれ)死(しな)んとするを。やれまてしばしと声(こへ)かけて走(はしり)り出(いで)。背後(うしろ)より抱(いだ) きとゞむ。女はおもひかけざる事(こと)なれば打驚(うちおどろき)。ゆゑありて死(しな)ねばならぬ者(もの) なれば。はなして死(しな)せてよ折角(せつかく)思ひきりつるものを。二度(にど)のおもひさする人 よとつぶやきて又 縊(くびれ)んとするをしかととゞめ。一命(いちめい)を失(うしなは)んと思ふほどなれば。 定(さだめ)て迫(せまり)たる事(こと)ならんが。まづ其(その)縁故(いはれ)を語り候へ。若(もし)我(わが)力(ちから)に及ぶ事(こと)ならば。 力(ちから)を尽(つく)して救(すくひ)たく思ふなりといふ。女(をんな)情(なさけ)深(ふか)き詞(ことば)を聞(きゝ)。何方(いづく)の御方(おんかた)かは 知(し)らざれども誠(まこと)に慈悲(じひ)深(ふか)きおふせなり。さりながら其(その)故(ゆへ)を語(かた)るとも。とても 生(いき)ながらへがたき身(み)なれば。此侭(このまま)に見捨(みすて)て御通(おんとほり)くだされかしといふ。三八郎 かさねていひけるは。見ず知(しら)ずの者(もの)なれば。卒爾(そつじ)に語(かたり)玉はぬはうべなれど。世(よ)の 常言(ことはざ)に膝(ひざ)とも談合(だんかう)せよといふ事(こと)あり。何(なに)にもあれつゝまず語(かた)り候へかしと 誠心(せいしん)面(おもて)にあらはれければ。女 権(しばし)思案(しあん)し左(さ)ばかり深(ふか)き御心(おんこゝろ)を無下(むげ)にせん もいかゞなれば。一 通(とほり)語(かた)りはべらん。妾(わらは)は此辺(このへん)に住(すむ)武士(ぶし)の浪人(らうにん)の妻(つま)なるが。家(いへ) 貧(まづし)きによりさきだつて先祖(せんぞ)伝来(でんらい)の物(もの)を。金(きん)二十両に質入(しちいれ)したるを。夫(をつと)の 妹(いもと)なるもの聞(きゝ)およびてこれを愁(うれ)ひ。二十両の金子を合力(かうりよく)しくれつる ゆへ今宵(こよひ)妾(わらは)に彼(かの)質物(しちもつ)を受(うけ)もどしまゐれと。夫(をつと)いひつけ侍(はべ)るにより。金子 を懐(ふところ)にして出(いで)たるが。途中(とちう)にて盗人(ぬすびと)に出(いで)あひ残(のこ)らず奪(うば)ひとられ侍(はべ)り。合力(かうりよく) したる妹(いもと)の手前(てまへ)といひ。夫(をつと)に対(たい)して分説(いひわけ)なく。面(おもて)を合(あは)せがたければ縊(くびれ)死(しな)ん と覚悟(かくご)をきはめ候なりと。愁(うれひ)の色(いろ)を面(おもて)にあらはして語(かた)りければ。三八郎 始終(しじう)を聞(きゝ)。それなれば死(しぬ)るにおよばず。幸(さひは)ひ某(それがし)少々(しやう〳〵)の路銀(ろきん)を携(たづさ)へたれば。 其(その)金(かね)の数(かづ)ほど合力(かうりよく)いたすべしこれにて質物(しちもつ)を受(うけ)もどし候へとて。金子 二十両 出(いだ)して与(あた)へけるが。女これをうけず誠(まこと)に御慈悲(おんじひ)の深(ふか)きは骨身(ほねみ)にとほ りておぼゆれども。所縁(ゆかり)もなき御方(おんかた)より。金子をまうしうけしと夫(をつと)に語(かたら) ば。かへりて快(こゝろよく)存(ぞん)じ候まじさりとて語(かた)らざれば夫(をつと)を欺(あざむく)に似(に)て。女の道(みち)□□ち はべらず。いづれの道(みち)にも死(しな)ねばならぬ身(み)の因果(いんぐわ)今宵(こよひ)に迫(せま)り候といひて。 おつる涙(なみだ)滝(たき)のごとし。三八郎 其(その)詞(ことば)を感(かん)じて。もつともと点頭(うなづき)。懐中(くわいちう)の金子 を財布(さいふ)ながら取出(とりいだ)し。かの金をひとつに入(いれ)て地上(ちしやう)におとし。某(それがし)誤(あやまり)て此(この)金(かね)を こゝにとりおとしつるを。おん身(み)はからず拾(ひろひ)たり。凡(をよそ)道(みち)におちたるを拾(ひろ)ひ。其(その) 主(ぬし)の出(いで)たるとき其(その)物(もの)をわかち与(あた)ふるはなき例(ためし)にあらねば。おん身(み)二十両の 金子をうくるとも恥(はぢ)ならず。某(それがし)又 与(あた)ふるとも恩(おん)ならずと。理(り)を尽(つく)して与(あた)へ けるにぞ。女 感涙(かんるい)とゞまらず。おん身(み)のごとき大慈悲(だいじひ)の人は。世(よ)に又とある べからず。よも凡人(ぼんじん)にては候まじ。観音菩薩(くわんおんぼさつ)権(かり)に身(み)を現(げん)じて。妾(わらは)を救(すくひ)玉ふ ならめといひ。掌(て)を合(あはせ)て再三(さいさん)拝(をが)み。しかるうへは権(しばし)此(この)金(かね)を借用(しやくよう)いたし。後日(ごにち) 此(この)身(み)を售(うり)てなりとも。返(かへ)しまゐらせん。そも御身(おんみ)はいづくの御方(おんかた)にて。 御姓名(ごせいめい)は何(なに)とまうし候ぞ。妾(わらは)が夫(をつと)の姓名はと。いはんとせしを三八郎。 いそがはしくとゞめ。いな〳〵其(その)姓名(せいめい)あかし玉ふな。某(それがし)が姓名(せいめい)もいふまじ。素(もとより)返(へん) 済(さい)をうくるこゝろにあらず。おん身(み)の夫(をつと)の名(な)を聞(きゝ)我(わが)名(な)を語(かた)ればおのづ から。恩(おん)を著(き)。恩(おん)に著(き)するの理(ことはり)にて某(それがし)が意(い)にあらず。深夜(しんや)といひ旅人(りよじん)の身(み) 殊(こと)に足弱(あしよわ)を伴(ともなひ)道(みち)をいそげば。ひまどりがたし。御縁(こえん)もあらばかさねて相(あひ) 見(まみ)ゆべしといひすてゝ。もとの木蔭(こかげ)に走(はし)り入(いれ)ば。女は涙(なみだ)を流(なが)しつゝ。金を 押(おし)いたゞきてとりをさめ。しばらく跡(あと)を伏拝(ふしをがみ)もと来(き)し道(みち)へ急(いそ)ぎ去(ゆき)ぬ   三 胸中(きやうちう)の機関(きくわん) さても右近(うこん)の馬場(ばゞ)の館(やかた)におきては。其夜(そのよ)藤波(ふぢなみ)が妹(いもと)於竜(おりう)。姉(あね)の死骸(しがい)を 見(み)つけて大に驚(おどろ)き。声(こへ)たてゝよばゝりければ。侍宿(とのい)の武士等(ぶしら)馳(はせ)集(あつま)り。 大に騒動(そうだう)し。いそがはしく主君(しゆくん)の前(まへ)に出(いで)て。しか〴〵と告(つげ)きこへければ。 桂之助(かつらのすけ)あはてまどひて那裏(かしこ)に到(いた)り。藤波(ふぢなみ)が死骸(しがい)を点検(てんけん)して。且(かつ)驚(おどろ) き且(かつ)悲(かなし)み。何者(なにもの)の所為(しよゐ)なるやと疑(うた)ひ。先(まつ)於竜(おりう)をめして事(こと)の様(やう)を問(とひ)けるに 佐々良(さゝら)三八郎が殺(ころ)したるよしを告(こく)る折(をり)しも。笹野(さゝの)蟹蔵(かにそう)いそかはしく 馳来(はせきた)り。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)紛失(ふんじつ)いたし候と申す。桂之助(かつらのすけ)益(ます〳〵)驚(おどろ)き。館中(くわんちう)をこまや かに穿鑿(せんさく)あるに。三八郎 家財(かざい)は捨(すて)おき。妻子(さいし)を携(たづさへ)て逃去(にげさり)。長谷部(はせべの)雲六(うんろく) も出奔(しゆつほん)の体(てい)なりと申しけれ。ばさては彼等(かれら)両人いひ合(あは)せて。百蟹(ひやくがい)の巻(まき) 物(もの)を盗取(ぬすみとり)たるを。藤波(ふぢなみ)に見とがめられ。せんかたなく害(かい)し去(さり)たるにうたがひ なし。足弱(あしよわ)をともなひたればよも遠(とほ)くは走(はし)るまじ。追人(おひて)をつかはしはやく 捕(とら)へしむべしと命じけるにぞ。四方(しはう)に手分(てわけ)して追行(おひゆき)けり。かくて翌(よく) 朝(ちやう)にいたり。追人等(おひてのもの)立(たち)かへり。いづくへ逃去(にげさり)候やらん。影(かげ)だに見へずと告(つげ)けれ ば。桂之助(かつらのすけ)只(たゞ)あきれたるばかりなり。これさへ不盧(ふりよ)の騒動(そうどう)なるに。取次(とりつぎ)の 侍士(さふらひ)まかりいで。御国元(おんくにもと)より。執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん)自身(じしん)にのぼられ。只今(たゞいま)著(ちやく) 駕(が)いたされ候と告(つぐ)る。桂之助(かつらのすけ)眉(まゆ)をしはめ先(さき)だつて何(なに)の沙汰(さた)もなきに。 道犬(だうけん)みづから上京(じやうきやう)せしは。いとも心得(こゝろえ)ざる事(こと)なり。何事(なにごと)やらんと心安(こゝろやす)からず。 待(まち)居(ゐ)たるに程(ほど)なく不破(ふは)道犬(だうけん)旅装束(たびしやうぞく)の侭(まゝ)にてうち通(とほ)る。そのさまいかに となれば。惣髪(そうはつ)の頭(かしら)に素雪(そせつ)をいだゝき。しはみたる額(ひたひ)に老(おひ)の波(なみ)をたゝへ。高(かう) 年(ねん)といへども身躯(しんく)すくよかにして。奸佞(かんねい)の面(おもて)野狐(やこ)のごとく。貪欲(とんよく)の眼(まなこ) 皂雕(くまたか)に類(るい)し。相貌(さうばう)きはめて。兇悪(きようあく)なり。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。 大上(いぬがみ)雁八(がんはち)等(ら)。四人の者(もの)も。跡(あと)につきてまかり出(いで)ぬ。桂之助(かつらのすけ)道犬(だうけん)に対面(たいめん)し。 先(まづ)別事(べつじ)をいはず。俄(にはか)の上京(じやうきやう)何事(なにごと)やらん気(き)づかはしとおふせければ。道犬(だうけん)気(き) の毒顔(どくがほ)にいひけるは。火急(くわきう)の上京(じやうきやう)別義(べつぎ)に候はず。ちかごろ君(きみ)御身持(おんみもち)あし く。旅館(りよくわん)におはしながら白拍子(しらびやうし)を召抱(めしかゝへ)て妾(そばめ)となし玉ひ。しかのみならず 虚病(きよびやう)をかまへ。佚遊(いつゆう)宴楽(えんらく)に日(ひ)を費(ついや)し。御所(ごしよ)の勤仕(きんし)をおこたり玉ふよし。 官領職(くわんれいしよく)。浜名(はまな)入道(にうだう)殿(どの)の御聞(おんきゝ)に達(たつ)し。擯斥(ひんせき)すべきよし御内意(ごないい)あり。 若(もし)しかせずんば。御家(おんいへ)にもかゝはり其(その)罪(つみ)大殿(おほとの)の御身(おんみ)にもおひ玉ふべき よしなれば。せんすべなく。御勘当(ごかんだう)との御事(おんこと)なり大殿(おほとの)御自筆(こじひつ)の罪(ざい) 状(じやう)御覧(こらん)あるべしといひて懐中(くわいちう)より一通(いつゝう)の状(じやう)をとり出(いだ)してさしおけば。桂之助(かつらのすけ) とりあげて読(よみ)もおはらず。胸(むね)ひしとつぶれて大に後悔(こうくわい)し。只(ただ)さしうつふきて 言(ことば)なし。道犬(だうけん)かさねていひけるは。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬがみ) 雁八(がんはち)等(ら)四人の者(もの)。君(きみ)の御傍(おんそば)にありなから。御諌(おんいさめ)もせずかへりて放埒(はうらつ)を すゝめ申たる条(じやう)。其(その)罪(つみ)軽(かる)からず。切腹(せつふく)をもおふせつけらるべきはづなれども。 大殿(おほとの)の御慈悲(おんじひ)を以(もつ)て。後門(うらもん)より追払(おひはら)へとの厳命(げんめい)なりと云渡(いゝわた)しければ。 四人の者(もの)はなげ首(くび)してぞよわりける。道犬(だうけん)又いはく。只今(たゞいま)御次(おんつぎ)にてうけ たまはれば。佐々良(さゝら)三八郎。長谷部(はせべの)。雲六(うんろく)といひ合(あは)せ昨夜(さくや)百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を 盗(ぬす)み。御妾(おんそばめ)藤波(ふぢなみ)とやらんを殺(ころ)し逃去(にげさり)たるよし。さある内乱(ないらん)の起(おこ)るも。 総(すべて)是(これ)君(きみ)の御行跡(おんふるまひ)よろしからざるがゆゑなり。かの巻物(まきもの)は御家(おんいへ)の 重宝(ちやうほう)といひ。いまだ室町御所(むろまちごしよ)の御覧(ごらん)も済(すま)ざるよし。若(もし)是等(これら)のこと 此うへおん聞(きゝ)に達(たつ)しなば。いかなる御咎(おんとがめ)あらんもはかりがたし。御痛(おんいた) はしくは候へども。とく〳〵御立退(おんたちのき)候へかし。後日(ごにち)某(それかし)身(み)にかへても。御(ご) 帰参(きさん)あるやう取(とり)はからひ申すべし。只(たゞ)恙(つゝが)なくおはしまして時(とき)の いたるを待(まち)玉へ。かの女の死骸(しがい)は縁者(えんじや)を召叫(めしよび)て引渡(ひきわた)し候べしと いひて。先(まづ)おのれが家来(けらい)に命(めい)じて四人の者(もの)を追払(おひはらは)せければ。桂之助(かつらのすけ) もせんかたなく。打(うち)しほれつゝ出去(いでゆき)ける。心(こゝろ)のうちおもひやられて 哀(あわれ)なり。かくて道犬(だうけん)藤波(ふぢなみ)が縁者(えんじや)をよび。死骸(しがい)ならびに妹(いもと)於竜(おりう) を引渡(ひきわた)し。館(やかた)の財宝(ざいほう)雑具(ざうぐ)をとりおさめ。(けらい)おのれが家来(けらい)をとゞめて 守(まも)らせ。たゞちに帰国(きこく)をいそぎけり  ○後(のち)〳〵此時(このとき)の子細(しさい)を聞(きく)に。是(これ)皆(みな)道犬(だうけん)が奸計(かんけい)より出(いで)たる事(こと)   なり。近曽(ちかごろ)由理之助(ゆりのすけ)勝基(かつもと)。浜名(はまな)入道(にうだう)両官領(りやうくわんれい)確執(くわくしつ)となり。入道(にうだう)   勝基(かつもと)を打亡(うちほろぼ)さん結構(けつかう)専(もつはら)なりけるが。兼(かね)て不破(ふは)道犬(だうけん)浜名(はまな)入道(にうだう)   に内通(ないつう)して媚諂(こびへつらひ)官領(くわんれい)の権威(けんい)をかりて。奸計(かんけい)を施(ほどこ)し。佐々木(さゝき)の   家(いへ)を奪(うば)ひ。浜名(はまな)の味方(みかた)につかんと約(やく)し。児子(せがれ)伴(ばん)左衛門 其(その)余(よ)   蟹蔵(がいぞう)等(ら)にいひふくめて。桂之助(かつらのすけ)に放埒(はうらつ)をすゝめ。密々(みつ〳〵)浜名(はまな)に   告(つげ)。内意(ないい)をいはせて勘当(かんだう)をうけしめ。わざと蟹蔵(がいそう)等(ら)四人の者(もの)   を追払(おひはらひ)て。一家中(いつかちう)の心(こゝろ)をゆるさせ。伴(ばん)左衛門とゝもに他所(たしよ)にかくまひ   おき。何(なに)不足(ふそく)なく扶助(ふぢよ)して。おのれが目代(めじろ)とし。内外(ないぐわい)より事(こと)を   計(はから)んたくみなり。只(たゞ)おのれ等(ら)が一ツ心(こゝろ)よりいでたるは。伴(ばん)左衛門 藤波(ふぢなみ)   に恋慕(れんぼ)したると。雲六(うんろく)が巻物(まきもの)を盗(ぬすみ)て逃去(にげさり)たると。此(この)二ツのみ   なりとぞ 【挿絵】 桂之助(かつらのすけ)放佚(はういつ)無慙(むざん)の  行跡(かうせき)あるにより  勘当(かんだう)すべきよし 官領職(くわんれいしよく)の内意(ないい)あり  執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん) 上京して其(その)事(こと)を  つたへ笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)   等(ら)四人を  後門(こうもん)より   追払(おひはら)ふ 不破道犬 桂之助 土子泥助 さゝの蟹蔵 もくづ三平 犬上雁八   四 荒屋(あはらや)の奇計(きけい) 山城国(やましろのくに)葛野郡(かとのこほり)松尾(まつのを)の近(ちか)きに。梅津(うめづ)の里(さと)梅津川(うめづかは)といふあり。ともに古(こ) 歌(か)に詠(ゑい)じたる所(ところ)なり。そのかみ元享(げんかう)の頃(ころ)此(この)里(さと)に梅津(うめづ)豊前(ぶせんの)左衛門(さゑもん) 清景(きよかげ)といふ人ありけり。此(この)所(ところ)の領主(れうしゆ)にて。家(いへ)富(とみ)栄(さかへ)たる武士(ぶし)なりける か。其頃(そのころ)月林(げつりん)大幢(たいどう)国師(こくし)。洛北(らくほく)岩蔵(いはくら)の庵室(あんしつ)におはすを深(ふか)く尊信(そんしん)し 法名(ほふみやう)を是球(ぜきう)と称(しやう)じ。領所(れうしよ)のうちを附与(ふよ)して禅刹(ぜんせつ)とす。今(いま)の大梅(たいばい) 山(ざん)長福寺(ちやうふくじ)といふは乃(すなはち)是(これ)なり。清景(きよかげ)の墓(はか)今(いま)に此(この)寺(てら)にあり。扨(さて)此(この)清景(きよかげ)の 子孫(しそん)に梅津(うめづの)嘉門(かもん)といふ者(もの)あり。累代(るいたい)此(この)里(さと)に住(すみ)けるが漸(しだい)々に零落(れいらく)し 今(いま)嘉門(かもん)が時(とき)にいたりて益(ます〳〵)困窮(こんきう)す。嘉門(かもん)年(とし)いまた初老(しよろう)にいたらず。 聡明(そうめい)聚(しゆうに)秀(ひいで)胆力(たんりき)人(ひと)に過(すぎ)。世(よ)に希有(けう)の英雄(ゑいゆう)なり。曽(かつ)て六韜(りくとう)三略(さんりやく)に眼(まなこ) をさらして。軍略(ぐんりやく)の妙所(みやうしよ)をきはめ。弓馬(きうば)鎗刀(そうとう)のたぐひ。武芸(ぶげい)の奥儀(おはうぎ) を暁(さと)し。天文(てんもん)地理(ちり)神機(しんき)妙算(みやうさん)進退(しんたい)懸引(かけひき)の道(みち)。其(その)理(り)を得(え)ざるといふ ことなし。そのゆゑに英名(ゑいめい)かくれなく。高禄(かうろく)を与(あた)へてめし抱(かゝへ)んと。懇(こん) 望(ばう)の諸侯(しよこう)おほかりけるが。名利(みやうり)に屈(くつ)するをきらひて仕官(しくわん)をのぞまず。 常(つね)に松尾山(まつのをやま)にのぼり。採薬(さいやく)して薬店(やくてん)にひさき。細(ほそき)煙(けふり)をたて清貧(せいひん)をまも りて。いさゝかも奢(おごり)の心(こゝろ)なく。一人の老母(ろうぼ)に孝行(かう〳〵)を尽(つく)し。姿(すがた)も斬髪(だんはつ)にや つし。いとまには先祖(せんぞ)清景(きよかげ)大幢(たいどう)国師(こくし)より伝来(でんらい)の禅味(ぜんみ)をあまんじ。 世(よ)に諂(へつ)らはぬ暮(くら)し。実(じつ)に一世(いつせい)の賢士(けんし)とは知(し)られぬ。母(はゝ)も又 賢女(けんぢよ)にて。今(いま)の 世(よ)やうやく治平(ぢへい)といへとも。仕(つか)へさすべき明君(めいくん)なしと心(こゝろ)を決(けつ)し。嘉門(かもん)が名利(みやうり)に 屈(くつ)せざるを喜(よろこ)ひ。てづから布(ぬの)を織(おり)て日々(ひゞ)の費(ついへ)にかへ。いさゝかも貧苦(ひんく)を愁(うれひ)ず 暮(くら)しぬ。しかるに頃日(このごろ)彗星(けいせい)あらはるゝにより。諸人(しよにん)心安(こゝろやす)からず吉凶(きつきよう)を弁(べん)ずる 者(もの)なかりけるが。一夜(あるよ)嘉門(かもん)椽先(ゑんさき)に立出(たちいで)。かの星(ほし)をあふき見(み)。母(はゝ)をまねきて いひけるは。抑(そも〳〵)我(わが)朝(ちやう)に彗星(けいせい)あらはれたる事(こと)。皇極(くわうきよく)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)。蘇我(そが)の入鹿(いるか) 叛乱(ほんらん)の時(とき)。始(はじめ)て此(この)星(ほし)あらはれしより。今(いま)にいたるまて一度(ひとたび)も祥端(しやうすい)なること なし。凡(をよそ)彗(けい)に五ツあり。其(その)色(いろ)蒼(あをき)ときは王候(わうこう)破(やぶ)れて天子(てんし)兵革(ひやうかく)に苦(くるし)み。赤(あかき) ときは凶賊(きようぞく)起(おこ)りて国人(くにうど)安(やす)からず。黄(き)なるときは女色(によしよく)害(がい)をなす。白(しろき)ときは将(しやう) 軍(ぐん)叛(そむい)て兵乱(ひやうらん)大に起(おこ)る。黒(くろ)きは水(みづ)の精(せい)にて。洪水(こうずい)河(かは)に溢(あふれ)て五穀(ごこく)登(みのら)ずあれ 見玉へ此度(このたひ)の彗星(けいせい)。其(その)色(いろ)蒼(あをき)に黄(き)をおびたり。まさしく是(これ)牝鶏(ひんけい)晨(あさなき)して 婦女(ふぢよ)権(けん)を奪(うばひ)。天子(てんし)兵革(ひやうかく)に苦(くるし)み玉ふ前兆(ぜんちやう)にて候はん。母人(はゝびと)はいかゝおもひ 玉ふやらんといへば。老母(ろうぼ)点頭(うなづき)。我(われ)もとくにその心(こゝろ)つきぬ。花(はな)の都(みやこ)狐狼(こらう)の 伏土(ふしと)とならんこと遠(とほ)からじ。はやく此(この)所(ところ)を去(さ)り山林(さんりん)にかくれて兵乱(ひやうらん)を 避(さく)るにしくべからずといひけるが。此後(このゝち)果(はた)して応仁(おうにん)の大乱(たいらん)起(おこ)りぬ母子(ぼし) 両人の先見(せんけん)誠(まことに)是(これ)あきらかなりといふべし。此頃(このころ)由理之助(ゆりのすけ)勝基(かつもと)浜名(はまな) 入道(にうたう)両(りやう)官領(くわんれい)なりしが。勝基(かつもと)は浜名(はまな)が婿(むこ)にてしたしきうへ子(こ)なきゆゑ。浜名(はまな) が子(こ)を養(やしなひ)けるが。勝基(かつもと)実子(じつし)出来(いでき)ければ。其(その)養子(やうし)を僧(そう)とす。これより両家(りやうけ) 碓執(かくしつ)となり。浜名(はまな)勝基(かつもと)を打亡(うちほろぼ)し。おのれひとり権威(けんい)をほしいまゝにせん と欲(ほつ)し。密々(みつ〳〵)野伏(のぶし)浪人(らうにん)どもを召抱(めしかゝへ)けるが。嘉門(かもん)が軍略(ぐんりやく)に達(たつ)したる事を 聞(きゝ)および。召抱(めしかゝへ)んと使者(ししや)を以(もつ)ていひ入(いれ)けり。嘉門(かもん)は兼(かね)て入道(にうだう)が行跡(ふるまひ)をにく み居(ゐ)たるうへに。使者(ししや)ののぶる所(ところ)専(もつはら)官領職(くわんれいしよく)の権威(けんい)をふるひ。無礼(ぶれい)の詞(ことば)おほ かりければ。嘉門(かもん)心中(しんちう)に憤(いきどほり)。招(まねき)に応(おう)ぜさるのみか。かへりて入道(にうだう)が日来(ひごろ)の 不道(ふたう)をかぞへてさみし辱(はづかし)め。きびしくいひはなちけるにそ。使者(ししや)面目(めんぼく)を 失(うしな)ひほう〳〵の体(てい)にて立帰(たちかへ)り。入道(にうだう)に嘉門(かもん)がいひつる様(やう)を。あからさまに 告(つげ)きこゆ。入道(にうだう)聞(きゝ)もあへず大に憤発(ふんはつ)し。やをれにくき腐(くされ)儒者(じゆしや)めかな。 憂目(うきめ)を見せて後悔(こうくわい)させんと。家来(けらい)岩坂(いはさか)猪之(いの)八といふ荒男(あらしを)に。大力(だいりき)の 組子(くみこ)二十 余(よ)人を撰(えらび)与(あた)へ。彼奴(きやつ)も智謀(ちぼう)武術(ぶじゆつ)に秀(ひいで)たる者(もの)なれば。若(もし)手(て)にあま らば首(くび)にして持(もち)かへれと命(めい)ず。血気(けつき)にはやる猪之(いの)八かしこみ候と答(こた)へ。 小具足(こぐそく)に身(み)をかため。彼奴(きやつ)たとへ楠(くすのき)が智(ち)をたくはへ。義経(よしつね)の早業(はやわざ)を得(え)たり とも。痩浪人(やせらうにん)の分際(ぶんざい)何程(なにほど)の事かあらん。黄土小屋(はにふのこや)を踏(ふみ)つふし首(くび)すぢつかみ ゐてかへらんと広言(くわうげん)吐(はけ)ば。思慮(しりよ)もなき組子等(くみこども)いさみすゝみて相(あひ)したがひ 梅津(うめつ)の里(さと)へ急(いそぎ)ゆく嗚呼(あゝ)嘉門(かもん)が身(み)のうへ危(あやう)かりける次第(しだい)なり此(この)時(とき) 宵闇(よひやみ)の夜(よ)なりけるが。猪之(いの)八 等(ら)嘉門(かもん)が家(いへ)に近(ちか)づく比(ころ)。月影(つきかげ)あがりて 明(あきらか)なり。嘉門(かもん)は灯下(ともしびのもと)に書(しよ)を読(よむ)壁人(かげぼうし)。あかり障子(しやうじ)にうつりてたしかに見(み)ゆ。 しで打(うつ)砧(きぬた)の音(おと)するは老母(ろんぼ)の手業(てわさ)とおぼし。猪之(いの)八 等(ら)は竹林(たけやぶ)のうちに 身(み)をひそめ。権(しばらく)便宜(ひんぎ)をうかゞひ居(ゐ)たるに。嘉門(かもん)宿鳥(ねぐらのとり)の鳴(なき)さはぐを聞(きゝ)つけ。 あな笑止(しやうし)や我(わが)推量(すいりやう)にたがはず。命(いのち)しらずの愚人(ぐにん)ども。我家(わがや)を襲(おそふ)とおぼへ たり。いで皆殺(みなごろ)しにしてくれんぞと。灯火(ともしび)ふきけして其後(そのゝち)音(おと)もなし。猪之(いの)八 これを聞(きゝ)。にくき奴(やつ)めがいひごとかな。はやく搦捕(からめとり)て手柄(てがら)にせよ者(もの)どもと 下知(げぢ)しつゝ。先(さき)にすゝみて門外(もんぐわい)より声(こへ)高(たかく)。これは官領職(くわんれいしよく)の厳命(げんめい)をかうふり。 嘉門(かもん)をめし捕(とらん)ため岩坂(いはさか)猪之(いの)八むかふたり。いそぎ門(もん)をひらき。尋常(しんじやう)に 縄(なは)かゝれとよばゝれば。障子(しやうじ)のうちに呵々(から〳〵)と笑(わらふ)声(こへ)し。汝等(なんぢら)がごとき鼠輩(そはい) はおろかたとへ。浜名(はまな)入道(にうだう)みづから数百騎(すびやくき)を以(もつ)て攻(せむ)るとも更(さら)におそるゝ所(ところ) なし。嘉門(かもん)が居宅(ゐたく)は鉄壁(てつへき)石門(せきもん)要害(やうがい)堅固(けんご)の城郭(しやうくわく)も同然(どうぜん)なり。命(いのち)おし くは頭(かうべ)をおさへてはやく逃(にげ)かへれとあざけりいふ。猪之(いの)八 等(ら)大に恕(いかり)。門(もん)を ひらかんとするに堅(かたく)とざしたり。しやもの〳〵しと力(ちから)をきはめてぐつと 押(おす)に。ほぞゆるまりてくつろぐを。ゑいやつと踏破(ふみやぶ)り。大勢(おほぜい)一度(いちど)にこみ入て。 椽(ゑん)の上(うへ)に飛上(とびあが)り。障子(しやうじ)をさつとひらけば。一間(ひとま)をへたてゝ梅津(うめづの)嘉門(かもん) 【挿絵】 梅津(うめづの)嘉門(かもん)彗星(けいせい)を見(み)て  治乱(ぢらん)興亡(きようばう)を論(ろん)じ 奇計(きけい)を施(ほどこ)して   捕人(とりて)を皆(みな)      殺(ごろし)にす 萌黄(もへぎ)薫(にほひ)の腹巻(はらまき)のうへに。金紗(きんしや)の道服(だうぶく)を著(ちやく)し。金作(こがねづくり)の円鞘(まるざや)の太刀(たち)を はき。手(て)に文曲(ぶんきよく)武曲(ぶきよく)の二 星(せい)を画(ゑがき)たる軍扇(ぐんせん)をとりて床机(しやうぎ)にかゝりたる 形勢(ありさま)。志気(しき)堂々(とう〳〵)威風(いふう)凛々(りん〳〵)として。いかにも一個(いつこ)の英雄(ゑいゆう)と見へたりけり 老母(ろうぼ)はふるびたれども。摺箔(すりはく)の昔模様(むかしもやう)の袿衣(うはきぬ)を壷折(つぼをり)て著(ちやく)し。雪(ゆき)をあざ むく白髪(しらが)をたれ。玉(たま)だすきかけてかい〴〵しく打扮(いでたち)。銀(ぎん)の蛭巻(ひるまき)したる長刀(なぎなた) を小脇(こわき)にかいはさみて。傍(かたはら)にひかへたる姿(すがた)。老木(おいき)の梅(うめ)にいにしへの薫(かほり)残(のこ)りて 奥(おく)ゆかし。左(ひだり)の方(かた)に千金弩(せんきんど)と称(しやう)じて。一発(いつはつ)数(す)十の箭(や)を飛(とば)す兵器(へいき)を すゑ。右(みぎ)には近頃(ちかごろ)蛮国(ばんこく)より渡(わた)り。磐石(ばんじやく)をも打砕(うちくだ)く火術(くわじゆつ)の具(ぐ)。五六 挺(てふ) 筒先(つゝさき)をそろへてならべたり。勢(いきほひ)こみたる組子等(くみこども)飛道具(とびだうぐ)に心(こゝろ)おくれ。 すゝみかねたるを見て猪之(いの)八 声(こゑ)を励(はげま)し。賦甲斐(ふがひ)なき者(もの)どもかな。わづか に嘉門(かもん)一人の外(ほか)はかよわき老女(ろうぢよ)なり。たとへ三面(めん)六 臂(ぴ)ありとも。いかでか 数々(かづ〳〵)の箭玉(やだま)をはなつことあたはんや。見せかけばかりの兵具(ひやうぐ)おそるゝ にたらず。はやくよりて搦捕(からめとれ)。若(もし)とり逃(にが)さば我(われ)々が越度(おちど)なりと下知(げぢ) するにぞ。組子等(くみこども)げにもさりと思ひ。我先(われさき)とあらそひ飛(とび)かゝらんと したる所(ところ)に。嘉門(かもん)軍扇(ぐんせん)をあげて一(ひと)あふぎあふげば。兼(かね)て用意(ようい)の焰硝(ゑんせう) 縄(なは)に灯火(ともしび)うつり。綱火(つなび)となりて五六 挺(てふ)の火術(くわじゆつ)の具(ぐ)。一度(いちど)に発(はつ)し。其(その) ひゞき大雷(たいらい)のごとく。数(かづ)の鉄丸(てつぐわん)飛出(とびいで)て。前(まへ)にすゝみたる組子(くみこ)十 余(よ)人 打倒(うちたふ)され。煙(けふり)のうちにのたり伏(ふ)す。老母(ろうぼ)は長刀(なぎなた)の鐏(いしづき)を以(もつ)て弩(いしゆみ)を一(ひと)つき つけば。数(す)十の箭雨(やあめ)のごとく飛(とび)かゝりて。組(くみ)子を残(のこ)らず射伏(いふせ)たり。 猪(い)之八は手(て)ばやく畳(たゝみ)を盾(たて)にして箭玉(やたま)をのがれ。逃出(にげいで)んとしたるに 忽(たちまち)板敷(いたしき)磊落(ぐわら〳〵)とひるがへり。深(ふか)き落(おと)し穴(あな)のうちに噇(がう)とおちいり。底(そこ)にうゑ たる剣(つるぎ)に身(み)をつらぬかれ。朱(あけ)に染(そま)りて死(し)してげり。嘉門(かもん)かねて是等(これら)の かまへをなしおきたるゆゑいかなれば。これまで近国(きんごく)他国(たこく)の諸候(しよこう)の 請待(しやうだい)に応(おう)ぜざれば。若(もし)おのれが器量(きりやう)をねたみ。不意(ふい)を襲(おそ)ふ者(もの)あらん をふせがん為(ため)なるが。果(はた)して此度(このたび)不慮(ふりよ)の難儀(なんぎ)をまぬがれたり。さて 嘉門(かもん)老母(ろうぼ)にむかひ。今宵(こよひ)のことを聞(きか)ば浜名(はまな)入道(にうだう)益(ます〳〵)怒(いかり)。多勢(たせい)を以(もつ) てとりかこまばのがるゝてだてなかるべし幸(さいわひ)母人(はゝびと)兼(かね)て山林(さんりん)に身(み)を避(さけ) て生涯(しやうがい)無事(ぶじ)を計(はかり)玉はん御心(おんこゝろ)あれば。今宵中(こよひのうち)に此(この)所(ところ)をのがれ去(さる)に しかじ。母人(はゝびと)はいかゞおぼすやらんといふ。老母(ろうぼ)その意(い)に同(どう)じ。母子(ぼし)両人 いそがはしく身支度(みじたく)して。雑具(ざうぐ)は其侭(そのまゝ)すておき。先祖(せんぞ)伝来(でんらい)の兵(へい) 家(か)の秘書(ひしよ)。大幢(たいとう)国師(こくし)の法語(ほふご)一巻(いつくわん)のみを嘉門(かもん)が懐(ふところ)にし。老母(ろうぼ)を背負(せおひ) て。いづくともなくおちゆきけり        巻之一終 【裏表紙】 《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 三 昔話(むかしがたり)稲妻(いなつま)表紙(びやうし)巻之二            江戸 山東京伝編    五 厄神(くわじん)の報恩(ほうおん) 扨(さて)も佐々良(さゝら)三八郎は。妻子(さいし)を具(ぐ)して丹波(たんば)の国(くに)にいたり。大江山(おほえやま)の麓(ふもと)。穴(あな) 太(ふ)の里(さと)にかくれ住(すみ)けるが。少々(しやう〳〵)のたくはへも。日(ひ)々の費(ついへ)につかひすて。別(べつ)になりわひの 便(たより)もなければ。みづから山畑(やまばた)をたがやし。仕馴(しなれ)ぬ業(わざ)の辛苦(しんく)にたへず。妻(つま)礒菜(いそな)は 当国(とうこく)の名産(めいさん)なる藺莚(いむしろ)を編(あみ)。市(いち)にひさきてわづかの価(あたひ)をとり。夫婦(ふうふ)とも かせぎにして。両人(ふたり)の児等(こどもら)を育(そだて)。権(しばし)月日(つきひ)をおくりぬ。しかるに三八郎 おもへらく。忠義(ちうぎ)の為(ため)とはいひながら。罪(つみ)なき藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)せし事。かへす〳〵も 不便(ふびん)なり。後(のち)に聞(きけ)ば。若殿(わかとの)御勘当(ごかんどう)をうけられ。御行方(おんゆくへ)なくなり玉ひつるよし。 我(わが)心(こゝろ)づくしも藤波(ふぢなみ)が非業(ひごう)の死(し)もみな水(みづ)の泡(あは)。かいなき事(こと)となれり。せめては彼(かれ)が 冥福(めいふく)を得(う)る種(たね)にもと農業(のうぎやう)の片手(かたて)にも。念珠(すゞ)をはなさず。たえす 念仏(ねんぶつ)をとなへければ。里人(さとひと)異名(いみやう)をつけて。六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門とよびけるを みづからも世を忍(しの)ぶにはよき名(な)なりとおもひて。つひに実名(しつみやう)としたりけり さて又 後(のち)々聞(きけ)ば。藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)したる夜(よ)。金岡(かなをか)の筆(ふで)百蟹(ひやくがい)の図(づ)の絵巻物(ゑまきもの) 紛失(ふんじつ)し。長谷部(はせべ)の雲六(うんろく)と計(はか)りて。盗取(ぬすみとり)たりと沙汰(さた)ありつるよし盗人(ぬすびと)の 立田(たつた)の山(やま)に入(いり)て。おなじかざしの穢(けがれ)たる名(な)を得(う)ること。豈(あに)恥(はぢ)ざらんや。渇(かつ)すれ ども盗泉(たうせん)の水(みづ)を飲(のま)ず。熱(ねつ)すれども悪木(あくぼく)の陰(かけ)に息(やすま)ずとこそ聞(きく)ものを。 いかにもしてかの巻物(まきもの)をたづね出(いだ)し。汚名(おめい)をすゝがばやと兼(かね)ておもひ。一ツには 奸臣(かんしん)不破(ふは)道犬(たうけん)が悪意(あくい)を見あらはして。お家(いへ)の禍(わざわひ)の根(ね)をたち。藤波(ふぢなみ)が 縁者(ゑんじや)に出会(しゆつくわい)して。恨(うらみ)の刃(やいば)にかゝり。死後(しご)の名(な)を清(きよ)くすべしとおもひさだめ。 折(をり)々 面(おもて)をかくして大和(やまと)の国(くに)にいたり。或(あるひ)は京都(きやうと)にいたりて便宜(びんぎ)をうかゞひぬ。 かくてある日(ひ)。大和(やまと)より京(きやう)に赴(おもむく)とて。木津川(きづがは)の渡船(わたしぶね)に乗(のり)けるに。船中(せんちう)乗合(のりあひ)の うちに。一人(いちにん)の老女(ろうぢよ)あり。紅裏(もみうら)の昔模様(むかしもやう)のふるびたる小袖(こそて)に。松皮菱(まつかはひし)の紋(もん)つけ たるを着(ちやく)し。さゝやかなる包(つゝみ)を三輪(みつわ)くみたる腰(こし)につけ。細(ほそ)き竹杖(たけづえ)にすがりたるが。 頭(かしら)は佐野(さの)の白苧(しろそ)を乱(みだ)せるがごとく。身(み)うち枯木(かれき)のやうに痩(やせ)がれたれど。人品(ひとがら)は さまで賎(いや)しからず。紫(むらさき)の小袖(こそで)着(き)たる女(おんな)の船中(せんちう)にあるを。深(ふか)くいみきらふ さまにて。袖(そて)をおもてにおほひて。片(かた)すみにひそまり居(ゐ)たり。ほどなく船(ふね)向(むかふ)の 岸(きし)につき。南無(なむ)右衛門 衆人(しゆうじん)とゝもに岸(きし)にのぼり。かの老女(ろうちよ)と後(あと)におくれ前(さき)に すゝみて行(ゆき)けるに。此時(このとき)紅日(こうじつ)西(にし)に落(おち)て。天色(てんしよく)已(すで)に晩(くれ)なんとす。なむ右衛門 草鞋(わらぢ)のひもをむすぶひまに。かの老女(ろうぢよ)は遥(はるか)に行過(ゆきすぎ)たるが。樹木(じゆもく)おほひかゝりて ほの暗(くら)き所(ところ)を過(すぐ)る時(とき)。四五 疋(ひき)の犬(いぬ)出来(いできた)りてとりまき。頻(しきり)に吠(ほへ)てほど〳〵 くらひつかんとす。老女(ろうちよ)杖(つへ)をあげて打(うて)とも去(さら)ず。なほも飛(とび)かゝらん形勢(ありさま)なり。 【挿絵】 六字(ろくじ)南無右衛門(なむゑもん) 木津川(きづがわ)の渡(わたり)にて 老女(ろうぢよ)の危難(きなん)を    すくふ 六字子なむ右衛門 老女 なむ右衛門 ろう女 かゝる難義(なんぎ)を見かねて。なむ右衛門 走(はし)りつき。犬(いぬ)どもを打(うち)ちらして。老女(ろうぢよ)を見るに。 深(ふか)くおそれたるにや。地(ち)にたふれ伏(ふし)て息(いき)もたゆげなれば。介抱(かいほう)してさま〴〵 いたはりけるに。やゝ正気(しやうき)になり。いづくのおん方(かた)かはしらされども。かゝる難義(なんぎ)を救(すく)ひ 玉はるかたじけなさよ。此(この)御恩(ごおん)かさねて報(むくひ)はべらんと。あつく礼(れい)をのぶれば。南無(なむ) 右衛門 打聞(うちきゝ)て。さばかり厚(あつ)き詞(ことば)をおさむるにゆゑなし。とてもの事(こと)に京(きやう)の 町(まち)まで送(おく)り行(ゆき)まゐらすべしとて。相伴(あひともな)ひ。三条(さんじやう)の四ツ辻(つぢ)にて東西(とうざい)に別去(わかれさり)ぬ。 さて南無(なむ)右衛門は。一月(ひとつき)ばかり京都(きやうと)にとゞまり。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を尋(たつ)ねけるが。 その留主(るす)の間(あいだ)。一子(いつし)栗(くり)太郎 此時(このとき)年(とし)八 才(さい)なりしが疱瘡(はうそう)をやみ。母(はゝ)礒莱(いそな)が 辛労(しんらう)おほかたならず。皰瘡(もがさ)の神(かみ)の棚(たな)をまうけ。赤(あかき)幣束(へいそく)。狭俵(さんだわら)。張子(はりこ)の達(だる) 磨(ま)木兎(みゝづく)すら。起臥(おきふし)に心(こゝろ)をつけ。茜(あかね)の頭巾(づきん)すら針(はり)とることを忌(いみ)て。隣家(りんか)の 手(て)をかり。紅火燭(べにびそく)の朱(あけ)をうばふ。紫(むらさき)の色(いろ)は更(さら)なり。詞(ことば)の禁忌(きんき)火(ひ)のよしあし。 食物(しよくもつ)のさし合(あひ)まで。よろづに心(こゝろ)をもちひ湯尾峠(ゆのをとうげ)の孫杓子(まごじやくし)。鮓荅(へいさらばさら)の呪(まじなひ) など。よきといふことは皆(みな)仕(し)つくして。看病(みとり)けるが。いとおもき皰瘡(もがさ)にて。熱気(ねつき) つよく目(め)をひきつけて。今(いま)もたえいるかとおもふこと度(たび)〳〵なり。ほどなく出痘(しゆつとう) にいたり。面上(めんしやう)総身(そうしん)すきまもなく発瘡(はつそう)しければ。かくては命(いのち)も危(あやう)し。 時(とき)も時(とき)折(をり)も折(をり)とて。夫(をつと)の留主(るす)なるぞ便(たより)なき。こはいかにせんと当惑(たうわく)し。 けふやあすやと帰(かへ)りを待侘(まちわび)。娘(むすめ)楓(かへで)を日(ひ)にいく度(たび)か。村口(むらくち)につかはしてうかゞは すれど。帰(かへる)かげだに見へずといへば。益(ます〳〵)愁(うれひ)ぬ。皰瘡神(もがさのかみ)の機嫌(きげん)あしきにや。 栗(くり)太郎 足(あし)ずりしてなきさけび。小豆枕(あづきまくら)をなげうち。人形(にんぎやう)の腕(かいな)ひきぬき などしてあれ出(いだ)し。さま〴〵にこしらへなぐさむれど泣止(なきやま)ず。殆(ほとんど)もてあましたる 折(をり)しも。なむ右衛門 一月(ひとつき)ぶりにて家(いへ)にかへる。磯莱(いそな)喜(よろこ)び出(いで)むかひて。まづ栗(くり) 太郎が事(こと)を語(かた)るにぞ。なむ右衛門 気(き)づかひ。いそがはしくやぶれ屏風(ひやうぶ)を ひきあけて。様子(やうす)を見(み)るに。今(いま)までなきさけびて。もてあましたる栗(くり)太郎。なむ右衛門 を見(み)て礼(いや)正(たゞ)しく座(ざ)をつくり。手(て)をつきていひけるは。こはおもひかけざる事(こと)かな。 此(この)家(いへ)はおん身(み)の宅(たく)にて此(この)小児(しやうに)はおん身(み)の子息(しそく)にて候か。これは前(さき)の月(つき)木津(きづ) 川(かは)の渡場(わたしば)にて。危難(きなん)を救(すくひ)たまはりし老女(ろうぢよ)にてはべり。我(われ)実(まこと)は疱瘡(ほうそう)の神(かみ)なる が。我輩(わかともから)犬(いぬ)をおそるゝ事(こと)人(ひと)に過(すぎ)たり。我(われ)しばらく京都(きやうと)にありて。痘瘡(もがさ)を やましめたるが。四五日さき当国(とうごく)にうつり。おん身(み)の家(いへ)ともしらず。こゝに宿(しゆく)し。 此(この)小児(しやうに)につきて疱瘡(ほうそう)をやましめぬ。元来(ぐわんらい)此(この)児(こ)難症(なんしやう)にて。今(いま)一 両(りやう)日を 過(すぐ)れは落命(らくめい)すべき所(ところ)なるに。危急(ききう)の節(せつ)おん身 帰宅(きたく)したまひしは。畢竟(ひつきやう) 此(この)児(こ)の命(いのち)つよき処(ところ)なり。前(さき)の日(ひ)の厚意(こうい)を報(むくゆ)るは此時(このとき)なり。我(われ)とみに 立去(たちさる)べし。我(われ)去(さ)れば疱瘡(はうそう)速(すみやか)にかせおちて平癒(へいゆ)すべきなり。此(この)すゑとても おん身(み)の族(やから)の家(いへ)には立(たち)よらすまじ。しるしなくては此度(このたび)のごとく誤(あやまる)ことあるべし。 おん身(み)の姓名(せいめい)はいかにと問(とふ)にぞ。なむ右衛門その実名(じつみやう)を告(つく)れば。しからば 鮑貝(あわびがい)のうちにさゝら三八 宿(やど)とかきつけて簷(のき)にかけおき玉へ。その目(ま) じるしある家(いへ)には。我(われ)は勿論(もちろん)ともからの者(もの)をも立(たち)よらすまじ。はやいとま 申すなりといひおはり。栗(くり)太郎 悶絶(もんぜつ)してたふるゝと見へしが。老女(ろうぢよ)の姿(すがた) けふりのごとくあらはれ。外(と)のかたへ走(はし)り出(いで)てきへ失(うせ)ぬ。礒菜(いそな)栗(くり)太郎を 抱(いだ)き起(おこ)せば。不思議(ふしぎ)や疱瘡(ほうそう)俄(にはか)にかせおちてあとだになく。気力(きりよく)常(つね)の ごとくなりけるにぞ。夫婦(ふうふ)奇異(きい)の思(おも)ひをなし。とみに笹湯(さゝゆ)をかけ。赤飯(せきはん)を 調(ちやう)じて。神(かみ)おくりし。なのめならず喜(よろこ)びけり。抑(そも〳〵)痘瘡(とうそう)の日数(につすう)は。三日(みつか)発熱(はつねつ)。 三日 出痘(しゆつとう)。三日 起脹(きちやう)。三日 貫膿(くわんのう)。三日 収靨(しうゑん)。これ常数(じやうすう)なるに。栗(くり)太郎が 痘瘡(もがさ)かく俄(にわか)にかせおちたるは。全(まつた)くかの神(かみ)のたすけにて。南無(なむ)右衛門が 好意(かうい)深(ふか)かりしむくひなりと。此事(このこと)を伝(つた)へ聞(きゝ)人(ひと)みな感(かん)しあへりとぞ。さて 【挿絵】 南無右衛門(なむゑもん) 一子(いつし)栗(くり)太郎  疱瘡(はうそう)を   やむ いそな 栗太郎 かへで なむ右衛門 栗(くり)太郎がもがさ。平癒(へいゆ)して喜(よろこ)ぶ間(ま)もなく。再(ふたゝび)又(また)一つの災(わざはひ)ぞいできにける 磯菜(いそな)ある夜(よ)灯(ともしひ)をたて鏡(かゞみ)にむかひて髪(かみ)をとりあげつるに。鏡(かゝみ)のうちに 藤波(ふぢなみ)が顔(かほ)あり〳〵とうつりて。おそろしきさまなれば。あなやといひて背後(うしろ)を かへり見れば。毬(まり)のごとき心火(しんくは)窓(まど)をこへて飛(とび)さり家(や)のむねのあたりにて。から〳〵と 笑(わら)ふ声(こゑ)す。磯菜(いそな)はたまらずのけさまにたふれて。其侭(そのまゝ)絶入(たへいり)ぬ。南無(なむ) 右衛門あはてふためき抱(いだ)き起(おこ)して。醒薬(きつけくすり)など与(あた)へけるにぞ。やう〳〵いきかへり けるが。これより心気(しんき)日(ひ)々によはりて。ものもすゝまず。色(いろ)あをざめて痩(やせ)おとろへ。 日(ひ)に異(け)におもりていつ怠(おこた)りはつへうも見えず。なむ右衛門まづしき 中(なか)にも。良薬(れうやく)をもとめて与(あた)ふるといへども。とかく藤波(ふぢなみ)がいかれる顔(かほ)目(め)さきに さへぎり。其度(そのたび)々にもだへ苦(くる)しみ。ほど〳〵命(いのち)もあやうく見へぬ。此時(このとき)娘(むすめ) 楓(かへで)は十三才。栗(くり)太郎は八才なれども。兄弟(きやうだい)ともに年(とし)に似(に)ず。すぐれて かしこき生(うま)れにて。殊更(ことさら)世間(せけん)にまれなる孝子(かうし)なれば。母(はゝ)の病(やまひ)を ふかく悲(かなし)み。兄第(きやうだい)枕方(まくらべ)あとべにつきそひて。しばしも病床(びやうしやう)をはなれず。 かはる〴〵もみさすりなとし。心(こゝろ)を尽(つく)してぞ看病(みとり)ける。かゝる病人(ひやうにん)あり ながら。一日(いちにち)もなりはひをせざれば。煙(けふり)を立(たて)かぬる身(み)なれば。せんすべなく。なむ 右衛門は病人(びやうにん)を兄第(きやうだい)の子(こ)どもにあづけおき。其(その)身(み)はたがやしに 出(いで)て。わづかに日雇(ひよう)のあたひを得(え)て。其日(そのひ)をおくる心(こゝろ)の苦(くる)しさ。いかばかり ならん量(はかり)想(おもふ)べし。夜(よ)にいたればなむ右衛門 家(いへ)にありて看病(かんびやう)すれば。 兄第(きやうだい)の子(こ)ども等(ら)。此(この)うへは仏神(ぶつじん)の力(ちから)をたのみ奉(たてまつ)るより外(ほか)なしといひ あはせ。ふたり手(て)をひきあひ。毎夜(まいや)穴太寺(あなふでら)の観音(くわんおん)にはだしまいりして。 南無(なむ)大悲(だいひ)観音菩薩(くわんおんぼさつ)。我(われ)々が一命(いちめい)をとり給ひ。何(なに)とぞ母(はゝ)の病苦(びやうく)を 救(すくひ)玉へと祈念(きねん)し。三七日が間(あいだ)まうでけるに。仏(ほとけ)も孝子(かうし)の誠心(せいしん)を 感(かん)じ玉ひけるにや。満願(まんぐわん)の夜(よ)より。母(はゝ)の病(やまひ)やうやくおこたり。一月(ひとつき)ばかりの うちに全快(ぜんくわい)し。気力(きりよく)かへりて前(まへ)よりもなほ盛(さかん)になりぬ誠(まことに)是(これ)孝行(かう〳〵)の 㓛徳(くとく)大なるるゆゑなりかし ○孝子(かうし)の物語(ものがたり)のついでに記(しる)して。世(よ)の童子(どうじ)にしめすことあり。明心(めいしん)  宝鑑(ほうかん)といふ書(しよ)に。我(われ)親(おや)に孝行(かう〳〵)なれば。子(こ)も又 我(われ)に孝行(かう〳〵)をなす  ものなり。おのれ既(すで)に不孝(ふかう)なれば。子(こ)も又なんぞ孝行(かう〳〵)ならん。われ  孝順(かうじゆん)なれば。又 孝順(かうじゆん)の子(こ)を持(もつ)なり。此(この)事(こと)疑(うたがは)しく思(おも)はゞ。簷(のき)より点々(はつ〳〵)  滴々(てき〳〵)と落(をつ)る雨(あま)しづくを見(み)よ。とく〳〵と落(おつ)るつぼをたがへずといへり。されば  我(われ)父母(ふぼ)の老後(ろうご)を安穏(あんおん)ならしめば。我(われ)も又 老後(ろうご)安穏(あんをん)なること疑(うたがひ)なし ○又 世範(せいはん)といふ書(しよ)におよそ人(ひと)の子としては。身(み)をおわるまてすこしも  父母(ふぼ)の心(こゝろ)にそむかず。孝道(かうたう)をつくすべきなり。父母(ふほ)身(み)まかりてのちも。  其(その)霊(れい)に対(たい)して。存生(ぞんじやう)にいひおかれたることをそむくべからず。  いかほど孝道(かうたう)をつくすとも。おのれが幼少(ようしやう)の時(とき)。父母(ふほ)の愛(あひ)念(ねん)  撫育(ふいく)の恩(おん)をば報(ほうす)ることなりがたし。世間(せけん)の孝道(かうだう)をつくすこと  あたはざるもの。他人(たにん)の小児(しやうに)を育(そだて)あぐるその情愛(じやうあひ)の厚(あつ)きを  見(み)て。父母(ふぼ)の苦労(くろう)を思(おも)はゞ自(おのづから)悟(さと)るべしといへり。古(いにしへ)より孝(かう)を尽(つく)し  て天(てん)のめぐみをかうふり。あるひは立身(りつしん)出世(しゆつせ)して高禄(かうろく)の人(ひと)となり。  或(あるひ)は運(うん)をひらき千金(せんきん)を得(え)富貴(ふうき)の身(み)となりたる例(ためし)。あげてかぞふ  べからず。又 不孝(ふかう)にして天(てん)の罰(ばつ)をかうふり。病苦(びやうく)貧苦(ひんく)をうけ。悪(あく)  獣(じふ)毒虫(どくちう)に害(がい)せられ。雷(らい)にうたれなどして非命(ひめい)に死(し)したる例(ためし)も  又すくなからず。されば幼(いとけなき)ときより。孝道(かうだう)は人倫(じんりん)第一(だいいち)の道(みち)  決定(けつぢやう)の役儀(やくぎ)といふ。道理(だうり)をよく〳〵わきまへて少(す)しも父母(ふぼ)の  おふせをそむかず。朝夕(あさゆふ)恭敬(きようけい)おこたらず。一生(いつしやう)安穏(あんをん)ならしむるやうに  心(こゝろ)がくべき事(こと)ぞかし    六 因果(いんくわ)の小蛇(しやうじや) かくて後(のち)は南無(なむ)右衛門が家内(かない)。無事(ふじ)に打過(うちすぎ)けるが。一日(あるひ)なむ右衛門 たがやしに出(いで)けるに。草(くさ)むらの裏(うち)より。丈(たけ)三尺(さんじやく)ばかりの蛇(へび)いでゝ蟇(かいる)をくわへ。 ほど〳〵のまんとす。なむ右衛門これを見(み)て。蟇(かいる)をたすけまほしく。いかに 蛇(へび)よ汝(なんぢ)我(わが)為(ため)にその蟇(かいる)をゆるせかし。さあらば我(わが)娘(むすめ)を汝(なんぢ)に与(あた)ふべきぞといひ けるに。蛇(へび)此(この)ことばを聞入(きゝいれ)たる体(てい)にて。蟇(かいる)を放(はなち)さらしめ。もとの草(くさ)深(ふか)き所(ところ)にかくれ 入(いり)ぬ。さて農業(のうぎやう)をはりて家(いへ)に帰(かへり)けるに。其日(そのひ)の夜半(やはん)の比(ころ)。娘(むすめ)楓(かへで)俄(にわか)に発(はつ) 熱(ねつ)して苦(くる)しみ。声(こへ)たかくうめきければ。両親(りやうしん)おどろきて目(め)をさまし。いそ がはしく抱起(いだきおこ)して見れば。恠哉(あやしいかな)小蛇(しやうじや)楓(かへで)が腹(はら)にまきつき。かま首(くび)をたて。 舌(した)を吐(はき)てうごめくさま。おそろしなどもおろかなり。礒菜(いそな)これを見て身(み)の毛(け) いよだち。泣声(なきこゑ)になりて早(はや)く取捨(とりすて)やりてよといふ。なむ右衛門いはて。我(われ)昼(ひる)ほど 蛇(へび)蟇(かいる)を呑(のむ)を見(み)てたすけまほしく。若(もし)蟇(かいる)を放(はなち)やらば我(わが)娘(むすめ)を与(あた)ふべしと いひけるが。此(この)蛇(へび)我(わが)戯(たわふれ)を実(まこと)として来(きさ)れるに疑(うたがひ)なし戯言(けげん)はすまじきことなり。 凡(およそ)蛇(へび)は婬心(いんしん)ふかきものと聞(きゝ)しか。眼前(がんぜん)にかゝる奇恠(きくわい)を見る不思議(ふしぎ)さよと。 いひつゝ蛇(へび)をひきはなち。䉂(ふご)のうちに入て携(たづさ)へ去(ゆき)。大江山(おほゑやま)の谷底(たにそこ)に捨(すて)て かへりけるに。其(その)つぐる夜(よ)。ふたゝび楓(かへで)発熱(はつねつ)して苦(くる)しみ。いつの間(ま)にかまた蛇(へび) 来(きた)りて。腹(はら)に巻(まき)つく事(こと)前(まへ)のごとし。なむ右衛門 益(ます〳〵)怪(あやし)み。此うへは殺(ころ)しすつべし と思(おも)ひ。蛇(へび)は首(かしら)に魂(たましい)あり。よく首(かしら)を砕(くだ)かざれば生(いき)かへるものと兼(かね)て聞(きゝ)ければ。かの 蛇(へび)をとりはなちて。平(ひら)みたる石(いし)の上(うへ)におき。斧(おの)の脊(みね)をもつて首(かしら)を微塵(みちん)に 打(うち)くたきけるか。血(ち)しほさつと飛散(とびちり)て。傍(あたり)に居(ゐ)たる栗(くり)太郎が。面上(めんしやう)に かゝるとひとしく。呀(あ)とさけびて倒(たふ)れたり。なむ右衛門 蛇(へび)を捨(すて)て抱(いだ)き起(おこ)せば 栗(くり)太郎が両眼(りやうがん)に。蛇(へび)の血(ち)しみとほりたる様子(やうす)にて。痛(いたみ)堪(たへ)がたしとて おめきさけびぬ。礒菜(いそな)もいそぎまどひて介抱(かいほう)するに。しばしありて やう〳〵泣止(なきやみ)けるが。両眼(りやうがん)ひらく事(こと)あたはず。見(み)る〳〵瞼(まぶた)たかくはれあかりぬ。 なむ右衛門は死(し)したる蛇(へび)を携(たづさ)へゆき。遠(とをき)所(ところ)に捨(すて)てかへりけるが。いまだ かへらざるさきに蛇(へび)又 来(きた)りて巻(まき)つくこともとの如(こと)し。なむ右衛門 気(き)をいらち 此度(このたび)は焼殺(やきころ)さばやと。火中(くわちう)に投(とう)じけるが。しばしありて火中(くはちう)を飛出(とびいで)。また 巻(まき)つきぬ。かくさま〴〵にして取捨(とりすて)んとすれども。蛇(へび)の執念(しうねん)いと深(ふか)くして。しばしも はなれず。後(のち)にはせんかた尽(つき)て。其侭(そのまゝ)になしおきけるが。唯(たゞ)腹(はら)に巻(まき)つきたる のみにて。別(べつ)に害(がい)をなす事(こと)なく。楓(かへで)もはじめのほどは我身(わがみ)ながらおそろしく おもひけるが。後(のち)々は蛇(へび)に馴(なれ)したしみて。前生(ぜんしやう)の因果(いんぐは)とあきらめ。かへつて 愛念(あいねん)深(ふか)くなり。朝夕(あさゆふ)我(わが)食物(しよくもつ)をわかち与(あた)へ養(やしな)ひけり。蛇(へび)もよくなれて。食事(しよくじ) の時(とき)にいたれば。懐(ふところ)よりかま首(くび)を出(いだ)してものうちくひぬ。扨(さて)栗(くり)太郎は蛇血(じやけつ)の 毒気(どくき)両眼(りやうがん)に入(いり)て眼疾(がんしつ)となり。さま〴〵療(れう)するといへども治(ぢ)しがたく。ついに 生(うま)れもつかぬ盲目(めくら)とぞなりにける。礒菜(いそな)左(ひだ)りに楓(かへで)をすゑ。右(みぎ)に栗(くり)太郎 をすへ。二人(ふたり)をつら〳〵顧(かへりみ)つゝいふやう。便(びん)なき子(こ)どもが形勢(ありさま)や。情(なさけ)なの神(かみ)仏(ほとけ)や。 楓(かへて)は世(よ)にたぐひなく。姿(すがた)美麗(びれい)に生(うま)れつき。たとひ女御(にようご)更衣(かうい)にたつるとも。 はづかしからぬ容儀(ようぎ)なるに。妖蛇(ようじゃ)に見こまれて。人(ひと)の交(まじは)りならぬ身(み)となり 栗(くり)太郎は生(うまれ)つきもきよらに。心(こゝろ)ばへもすぐれてかしこくありながら。おもひも よらず。盲目(まうもく)となるうたてさよ。殊更(ことさら)兄第(きやうたい)ともに孝道(かうだう)ふかきものなるに。 などてかく薄命(はくめい)にはありけるぞや。いかなる宿世(すくせ)の因果(いんぐは)にて。かく災(わさわひ)の かさなる事(こと)ぞとて。悲歎(ひたん)の涙(なみだ)にむせびければ。兄弟(きやうだい)の子(こ)どもあはてふためき。 【挿絵】 藤波(ふちなみ)が怨魂(えんこん)  小蛇(しやうじや)となりて 南無(なむ)右衛門が       娘(むすめ)  楓(かへで)が腹(はら)に   まとひつく いそな かへで なむ右衛門 くり太郎 なむ右衛門 左右(さゆう)よりとりつきて。背を撫(なで)さすり。共(とも)に涙(なみだ)をおとしつゝ介抱(かいほう)するに。いとゞ 悲(かな)しさまさりけり。なむ右衛門 目(め)をしばたゝき。我(われ)つら〳〵おもふに。藤波(ふぢなみ)が 怨念(おんねん)子(こ)ども等(ら)をなやまし。我等(われら)夫婦(ふうふ)におもひをさせて。宿恨(しゆくこん)を 報(むくゆ)るにうたがひなし。かれ一点(いつてん)の罪(つみ)なくして殺(ころさ)れたれば。深(ふか)く恨(うらむ)も理(ことわり)なり。 三代(さんだい)相恩(さうおん)の主君(しゆくん)のためにせしことなれば。たとひ子(こ)ども等(ら)をとり殺(ころ)さるゝ とも悔(くゆ)べきにあらず。礒菜(いそな)歎(なげ)くな我(われ)は少(すこ)しも悲(かな)しからずと。歎(なげ)きを胸(むね)に おしかくしていへば。兄弟(きやうだい)の子(こ)ども等(ら)口(くち)をそろへ。父(ちゝ)うへののたまふ所(ところ)うべなり。 忠義(ちうぎ)の為(ため)にしたまひし其(その)報(むくひ)ときけば。たとひ我(われ)々が身(み)はいかほどの憂目(うきめ) を見るとも。露(つゆ)ばかりもいとふべきにあらず。母人(はゝびと)よ深(ふか)くなげきたまひて。又(また)も 病(やまひ)をひきいだし玉はるなと。年(とし)に似合(にあは)ぬ理発(りはつ)の詞(ことば)。孝心(こうしん)ふかき けなげさに。大丈夫(だいしやうぶ)のなむ右衛門も。胸(むね)ひしとおしふさがり。おぼへずこぼるゝ 涙(なみだ)を拳(こふし)をもつておしぬぐひ。歎(なげき)を見(み)せぬ武士形気(ぶしかたぎ)の心のうち。おもひ やられてなほ哀(あわれ)なり。かくて又しばらく月日(つきひ)をおくりけるが。栗(くり)太郎 盲目(まうもく) のことなれば。一生(いつしやう)を過(すご)す世(よ)わたりの種(たね)には。琵琶(ひは)を学(まな)ばせ。琵琶法師(びはほうし) となさば。のち〳〵は高官(かうくわん)にもすゝみ。貴人(きにん)のそば近(ちか)くめさるゝ事(こと)も あるまじきにあらす。せめては生涯(しやうがい)安穏(あんをん)の計(はかりごと)をなしつかはすべしと思ひ つき。頭(かしら)を剃(そら)しめて名(な)を文弥(ぶんや)とかへ。磯菜(いそな)をつけて京(きやう)にのぼせ。其比(そのころ)音曲(おんきよく) を以(もつ)て名高(なたか)く聞(きこ)へし。沢角(さはつの)検校(けんきやう)のもとにつてをもとめて母子(ぼし)ともに奉公(ほうこう) させ専(もつはら)琵琶(びは)を学(まなば)せけり   七 呪咀(しゆそ)の毒鼠(どくそ) 扨(さて)も大和(やまと)の国(くに)佐々木(さゝき)の館(やかた)におきては。判官(はんぐわん)貞国(さだくに)。子息(しそく)桂之助(かつらのすけ)を 勘当(かんだう)して後(のち)。銀杏(いてふ)の前(まへ)月若(つきわか)母子(ぼし)を。平群(へぐり)の下館(しもやかた)に移(うつら)せ名古屋(なこや) 三郎左衛門。同(おなしく)山(さん)三郎 父子(ふし)を。守役(もりやく)として付(つけ)おかれぬ。扨(さて)桂之助(かつらのすけ)の継母(けいぼ)。蜘(くも) 手(で)の方(かた)といふは。志(こゝろざし)毒悪(どくあく)にして。かねて桂之助(かつらのすけ)夫婦(ふうふ)をにくみいかにもして 桂之助(かつらのすけ)を失(うしな)ひ。実子(じつし)花形丸(はながたまる)を。家督(かとく)にせまほしと思(おも)ひ居(ゐ)けるが。思(おも)ひよらず 桂(かつら)之助 勘当(かんだう)の身(み)となりたれば。心中(しんぢう)ひそかに喜(よろこ)び。もし又 月若(つきわか)家督(かとく)にならん こともやとおもへば。何(なに)とぞしてかれ等(ら)母子(ぼし)を失(うしなは)んとたくみぬ。しかりといへども かれ等(ら)には。忠臣(ちうしん)名古屋(なごや)父子(ふし)つきそひ居(い)て。片時(へんし)も心(こゝろ)をゆるさねば。いかにとも せんかたなく打過(うちすぎ)けるが。不破(ふは)道犬(だうけん)奸智(かんち)ふかければ。蜘手(くもで)の方(かた)の心底(しんてい) 悪意(あくい)あることを見(み)ぬき。これ我(わが)大望(たいまう)をとぐるよき便(たより)なりとおもひ。一時(あるとき)蜘(くも) 手(で)の方(かた)に近(ちか)づき。好意(かうい)深(ふか)き体(てい)にいひなして探(さぐ)りこゝろ見(み)るに。果(はた)して月(つき) 若(わか)母子(ぼし)を矢(うしな)ひ。花形丸(はながたまる)を家督(かとく)にしたき望(のぞ)みなれば。道犬(だうけん)しかるうへは 何事(なにごと)も某(それがし)にまかせ玉へ。よきにはからひまいらせんとうけがひけるにぞ。蜘手(くもで)のかた なのめならず喜(よろこ)びぬ。かくて道犬(だうけん)蜘手(くもで)の方(かた)と密談(みつだん)し。先(まづ)月若(つきわか)を呪咀(しゆそ) すべきにきはめ。其比(そのころ)よく呪咀(しゆそ)の法(ほふ)を学得(まなびえ)たる。頼豪院(らいがういん)といふ修験者(しゆげんじや)を ひそかにまねき。射物(しやもつ)をおほく与(あた)へてたのみけるに。貪欲(とんよく)深(ふか)きものなれば。速(すみやか) にうけがひ。密室(みつしつ)にとぢこもりて修法(じゆほふ)にぞかゝりける。さるほどに平群(へくり)の下(しも) 館(やかた)には。銀杏前(いてふのまへ)月若(つきわか)母子(ぼし)両人(りやうにん)移住(うつりすみ)。名古屋(なごや)父子(ふし)これを守護(しゆご)して ありけるが。月若(つきわか)はことし已(すで)に十一 才(さい)にぞいたりける。しかるに月若(つきわか)偶(ふと)病(やまひ)を生(しやう)じて 打臥(うちふし)。寝食(しんしよく)安(やす)からず。次第(しだい)に痩(やせ)おとろへ。良医(れうい)をえらび霊薬(れいやく)を与(あた)ふる といへども。更(さら)にしるしなく。たま〳〵眠(ねぶ)ればおそはれおびゆること度(たび)々なり。 殊更(ことさら)怪(あやし)むべきは。深夜(しんや)にいたれば看病(かんびやう)の男女(なんによ)おぼへずねふりを生(しやう)じ。 鼠(ねずみ)おほく出(いで)て病床(びやうしやう)を飛(とび)めぐる。後(のち)には昼(ひる)も出(いで)て人(ひと)をもおそれず。しだい〳〵に 充満(じうまん)し。月若(つきわか)の髪(かみ)の毛(け)をくらひ。肉(にく)をもくひやぶり。頭(かしら)に毒瘡(どくそう)を発(はつ)して 痛(いたみ)堪(たへ)がたく。心気(しんき)日(ひ)をおひておとろへけり。母(はゝ)銀杏前(いてふのまへ)歎(なげき)悲(かな)しむことおほかた ならず。神社(しんじや)仏閣(ぶつかく)に立願(りうぐわん)し。名僧(めいそう)知識(ちしき)の加持祈祷(かぢきとう)を乞(こふ)といへども。 妖鼠(ようそ)しりぞかず。益(ます〳〵)怪(あやし)きことのみおほかりけり。名古屋(なごや)父子(ふし)は昼夜(ちうや)病床(びやうしやう)を はなれず。看病(みとり)けるが。三郎左衛門 山(さん)三郎にむかひていひけるは。我(われ) 曽(かつ)て酉陽雑組(ゆうやうざつそ)を見(み)るに。人(ひと)夜(よる)臥(ふす)にゆゑなうして髻(もとゞり)を失(うしな)ふ者(もの)鼠(ねずみ)の 妖(よう)なり。又 鼠(ねずみ)人(ひと)および牛馬(ぎうば)に着(つく)ことありて昼夜(ちうや)避(はなれ)ず。いかんともすることなし といへり。若君(わかぎみ)の御客体(ごようだい)をうかゞふに。彼(かの)書(しよ)に記(しる)す所(ところ)の。尋常(よのつね)の妖(よう) 鼠(そ)とおなじからず。うたがふらくは呪咀(しゆそ)する者(もの)ありて障礙(しやうげ)をなすとおぼゆる なり。汝(なんじ)心(こゝろ)をつけて怪異(けい)の出所(しゆつしよ)を見(み)あらはすべしといひければ。山(さん)三郎 某(それがし)も左(さ)こそ思(おも)ひ候なれとて。これより別(べつ)して心(こゝろ)をもちひ。寝殿(しんでん)の四方(しはう)に 眼(まなこ)をくばりて守護(しゆご)しけり。さて一夜(あるよ)丑(うし)三ツのころ。銀杏(いてふ)の前(まへ)をはじめ。 御手医者(おんていしや)。乳母(めのと)侍女等(こしもとら)もおぼへずねふりを生(しやう)じたるに。不思議(ふしぎ)や 丈(たけ)抜群(ばつぐん)の大鼠(おほねずみ)。行廊(ほそどの)の方(かた)より歩(あゆ)み来(きた)る。形(かたち)は常(つね)の鼠(ねずみ)にかはらずといへ ども。其(その)おほきさは犬(いぬ)のごとく。すさまじき形勢(ありさま)なり。あなあやしやと 山(さん)三郎。刀(かたな)を携(たづさ)へつらづえつき。瞬(またゝき)もせず見(み)ゐたるに。かの鼠(ねづみ)いきほひ こみて。若君(わかぎみ)の病床(びやうしやう)近(ちか)く飛来(とびきた)る。山三郎いそがはしく立上(たちあが)り刀(かたな)を抜(ぬき)。 まちまうけて丁(ちやう)ど切(きる)に。妖鼠(ようそ)はやく身(み)をおどらして剣(つるぎ)を避(さけ)。あかり障子(しやうじ)を 蹴(け)やぶりて。庭上(ていしやう)に走(はし)り出(いで)築墻(ついぢ)のうへに飛(とび)のぼる。山三郎 追(おひ)かけいで。手(て) ばやく小柄(こづか)を抜(ぬき)とりて。はつしと打(うて)ばあやまたず。鼠(ねずみ)の額(ひたい)にずばとたち。鮮(せん) 血(けつ)たら〳〵と流(なが)れけるが。忽(たちまち)一道(いちたう)の煙(けふり)のごとき妖気(ようき)立(たち)のぼり。頼豪院(らいがういん)が 姿(すがた)髣髴(ほうほつ)とあらはれたり。山三郎さてこそ怪(あやし)き曲者(くせもの)と思ひつゝ。おどり上(あが)りて 頛額(まつかう)二つと斬(きり)つくる。頼豪院(らいかういん)閃(ひらり)と身(み)を避(さけ)。平形金珠(いらがたすゞ)をおしもみて。 【挿絵】 佐々木(さゝき)  桂之助(かつらのすけ)の 若君(わかぎみ)月若(つきわか)  妖鼠(ようそ)の   所為(しよい)にて  奇病(きびやう)を   わづらふ 月わか いてふの前 なごや三郎左衛門 なごや山三 呪文(じゆもん)をとなふれば。忽(たちまち)暴風(ぼうふう)ふきおこり。庭(には)の樹木(じゆもく)の葉(は)をちらし。池水(いけみづ)を 巻(まき)あげ。寝殿(しんでん)大(おほい)に震動(しんどう)し。瓦落(ぐわら)々々(〳〵)と鳴(なり)どよみて。今(いま)も崩(くづるゝ)かとおも はれけり。時(とき)に若君(わかぎみ)の声(こへ)として。あなや〳〵とおめき玉へば。大勢(おほぜい)の声(こへ)として 泣悲(なきかな)しみてかまびすし。聞(きく)にたへざる山(さん)三郎。那裏(かしこ)も気(き)づかひ。這裏(こゝ)も 去(さら)れず。ふたゝび刀(かたな)を打(うち)ふりてきらんとせしが。頼豪院(らいがういん)口(くち)より数(す)十の鼠(ねずみ)を 吐(はき)。その鼠(ねづみ)山三郎に飛(とび)かゝり。五体(ごたい)すくみてはたらかれず。あな口(くち)おし残念(ざんねん) といひつゝ。又きりつくれば忽(たちまち)に。頼豪院(らいがういん)が形(かたち)きへうせて。唯(たゞ)雲(くも)霧(きり)の とぢふさがりたるごとくにて。あやめもわかぬ庭上(ていしやう)に。只(たゞ)ひとり山三郎。挙(こぶし)を にぎり歯(は)をかみならし。虚空(こくう)をにらみて立(たつ)たりけり。頼豪院(らいがういん)はあやうく 身をのがれたりといへども。山三郎が忠義(ちうぎ)一図(いちづ)に精神(せいしん)をこめたる手(しゆ) 裏剣(りけん)の疵(きず)治(ち)せずして。呪咀(しゆそ)の法(ほふ)忽(たちまち)に破(やぶ)れければ。おのづから若君(わかきみ)の 病(やまひ)日(ひ)を追(おひ)て怠(おこた)り危(あやうき)命(いのち)をたもちけり   八 暗夜(あんや)の駿馬(しゆんめ) 扨(さて)も蜘手(くもで)のかたは。頼豪院(らいがういん)の修法(じゆほう)破(やぶ)れ。月若(つきわか)快気(くわいき)のよしを聞(きゝ)て。大に 力(ちから)をおとし。此(この)うへはいかなる計(はかり)をもつてか。彼等(かれら)を失(うしな)ふべきと。道犬(たうけん)をめして 密談(みつだん)ありけるに。奸智(かんち)おほき道犬(だうけん)。少(すこ)しも屈(くつ)せず。再(ふたゝび)又(また)一計(いつけい)を生(しやう)じ。蜘手(くもで)の 方(かた)の耳(みゝ)につきてさゝやけば。蜘手(くもで)の方(かた)とくと聞(きゝ)。これきはめて妙計(めうけい)なり と喜(よろこ)び。いつはりて重病(ちゆうびやう)の体(てい)をなし。ものくるはしきさまをなしければ。判官(はんぐわん) 貞国(さだくに)大におどろき。道犬(だうけん)をめして医療(いれう)のことを相談(さうだん)あるに。道犬(だうけん)申し けるは。。奥方(おくがた)の御容体(ごようだい)をうかゞふに。たゞことならず。まさしく邪崇(じやすい)の所為(しよい)と おぼへ候へば。たとひ耆婆(ぎば)扁鵲(へんじやく)が神方(しんはう)なりとも。薬(くすり)の力(ちから)をもつてすくひ 申すことはかなふべからず。近曽(ちかごろ)京都(きやうと)より下(くだ)りし。頼豪院(らいがういん)といふ修験者(しゆげんしや)。 安部(あべ)の晴明(せいめい)が金烏玉兎(きんうぎよくと)の神書(しんしよ)を家伝(かでん)し。卜筮(ぼくぜい)に妙(みやう)を得(え)たる ものに候へば。かれをめしてうらなはせ。おん聞(きゝ)あれかし。幸(さいはひ)唯今(たゞいま)某(それがし)宅(たく)に参(まい)り 居(ゐ)候と申す。貞国(さだくに)これを聞(きゝ)それいそぎてめしよべとおふせけれは。道犬(たうけん) かしこみ候とて。やがて私宅(したく)にいひつかはしけり。頼豪院(らいがういん)は額(ひたい)の疵(きす)やう やく癒(いへ)。再(ふたゝひ)道犬(だうけん)が奸計(かんけい)にくみしけるが。召(めし)に応(おう)じて。貞国(さだくに)の目どほりに まかりいでぬ。身(み)の丈(たけ)たかく眼中(がんちう)光(ひか)り。斬髪(ざんはつ)ちゞれてらほつのごとく。兜巾(ときん) 篠懸(すゞかけ)に。紅紗(こうしや)の衣(ころも)を着(ちやく)し。最多角(いらたか)の念珠(ずず)を袖(そで)くゝみに持(もち)。中啓(ちうけい) の扇(あふぎ)を把(とり)。あたりもまばゆき金張付(きんばりつけ)の広坐敷(ひろざしき)に。おめずおくせず 坐(ざ)したる体(てい)。誠(まこと)にいかなる悪魔(あくま)をも。降伏(ごうぶく)すべき骨柄(こつがら)なり。貞国(さだくに)まづ 初見(しよけん)の挨拶(あいさつ)おはり。奥方(おくがた)の病体(びやうたい)を告(つげ)て卜筮(ぼくぜい)を乞(こい)れけるに。頼豪院(らいがういん) 恭(うや〳〵し)く卦(け)を敷下(しきくだ)し。孝(かんがへ)を施(ほどこ)していはく。奥方(おくがた)の御病気(こびやうき)。全(まつた)く呪咀(しゆそ)する 者(もの)ありて。苦(くる)しめ申すに疑(うたかひ)なし。今四五日を過(すぎ)なば。御命(おんいのち)危(あやう)かるべし。 若(もし)疑(うたがは)しくおぼし玉はゞ。御寝所(ごしんしよ)の庭中(ていちう)。艮(うしとら)の隅(すみ)の土中(どちう)三尺をほらせ 見たまはゞ。分明(ふんめい)なるべしといふ。貞国(さだくに)半信半疑(はんしんはんぎ)ながら。近仕(きんじ)の士(もの)に命(めい)じ 玉へば。近仕(きんじ)の士(もの)かしこにいたり。土中(どちう)をほらしむるに。果(はた)して一合(いちがう)の白木(しらき)の 箱(はこ)を得(え)て携(たづさ)へ来(きた)り。貞国(さだくに)にたてまつる。貞国(さだくに)これをひらき見るに。内(うち)に 大小二ツの藁人形(わらにんぎやう)ありて。すき間(ま)もなく釘(くぎ)を打(うち)たり。貞国(さだくに)大に驚(おどろ)きて。 頼豪院(らいがういん)が詞(ことば)を奇(き)なりとし。これ呪咀(しゆそ)にうたがひなけれど。別(べつ)に一物(いちもつ)も なければ。何人(なにびと)の所為(しはざ)なるや。分別(ふんべつ)しがたしといはれけるに。頼豪院(らいがういん)膝(ひさ)を すゝめ。凡(およそ)呪咀(しゆそ)の法(ほふ)には。願書(ぐわんしよ)なくてはかなひがたし。其(その)箱(はこ)これへといひて 箱(はこ)を取(とり)あげ。つら〳〵見て。やがて扇(あふぎ)の尻(しり)をもつて。箱(はこ)の底(そこ)をつきぬき けるに。かさね底(そこ)にして其(その)うちより一通(いつつう)の願書(ぐわんしよ)出(いで)たり。貞国(さだくに)これを 【挿絵】 名古屋(なこや)山三郎 若君(わかぎみ)の寝殿(しんでん)に 宿侍(とのい)し妖鼠(ようそ)に 手裏剣(しゆりけん)を打(うつ) 俄(にわか)に暴風(ぼうふう)起(おこり)て  寝殿(しんでん)   鳴動(めいどう)す なごや山三 なごや三郎左衛門 とりひらき見れば。蜘手(くもで)の方(かた)花形丸(はながたまる)。両人(りやうにん)を呪咀(しゆそ)するの願文(ぐわんもん)にて。銀杏(いてふの) 前(まへ)月若(つきわか)両人(りやうにん)願主(ぐわんしゆ)の名(な)あり。しかも銀杏(いてふ)の前(まへ)の自筆(じひつ)をもつてかき たれば。うたがふべうもあらず。貞国(さだくに)忽(たちまち)怒気(いかり)心頭(しんとう)におこり。面色(めんしよく)変(へん)じて。 しばらくものもいはざりけるが。先(まづ)頼豪院(らいがういん)に。呪咀(しゆそ)をはらひのぞく修法(じゆほふ)を頼(たのみ) けるにより。蜘手(くもで)の方(かた)の病症(びやうしやう)に壇(だん)をかざりて。災禳(さいしやう)の法(ほふ)を修(じゆ)し。かの 藁人形(わらにんきやう)は釘(くぎ)をぬき。護摩(ごま)の火中(くわちう)に投(たう)じて。焼(やき)すてたり。かくて蜘手(くもで)の方(かた)。 やう〳〵快気(くわいき)の体(てい)をなし。貞国(さだくに)にむかひていひけるは。妾(わらは)ことかねて銀杏前(いてふのまへ) 母子(ぼし)を。実(じつ)の娘(むすめ)実(じつ)の孫(まご)といつくしみ。何(なに)とぞ桂之助(かつらのすけ)の勘当(かんとう)をゆるし たまふか。さらずば。月若(つきわか)を家督(かとく)にしたまふやうにと。それのみ宿願(しゆくくわん)なるに。 かれらはかへりて妾(わらは)を継母(まゝはゝ)といみきらひ。若(もし)花形丸(はなかたまる)家督(かとく)にならんこともやと。 さきぐりして。妾(わらは)親子(おやこ)を呪咀殺(のろひころさ)んとは計(はかり)候ならん。美麗(うつくしき)顔(かほ)して心は 鬼(おに)よりもなほおそろしく候。こひねがはくは。妾(わらは)親子(おやこ)にはやくいとまをたまはり。 尼法師(あまほふし)ともなし玉はれかし。我(われ)々かくてあらば。ついにはかれらが生霊(いきりやう)にとり 殺(ころ)され候らはめ。などてさばかり妾(わらは)親子(おやこ)を忌(いみ)きらふぞ。情(なさけ)なき銀杏前(いてふのまへ)やと いひて。涙(なみだ)を滝(たき)のごとく流(なが)しぬ。此時(このとき)花形丸(はながたまる)は年(とし)已(すで)に十六才。いまだ了角(つのがみ) にてありけるが。母(はゝ)の悪性(あくせい)には露(つゆ)ほども似(に)ず志(こころさし)正(たゞ)しき生(うま)れなり。素(もとより)母(はゝ) の非望(ひぼう)をしらず。此日(このひ)の子細(しさい)を聞(きゝ)て大に歎息(たんそく)し。かゝる凶事(きようじ)のいでくる こと。皆(みな)これ某(それがし)が誤(あやまり)なり。檀弓篇(だんきうのへん)に。昆第(こんてい)の子(こ)は猶(なほ)己(おのれ)か子(こ)のごとしといへり。 某(それかし)月若(つきわか)に対(たい)して。鄧(とう)伯道(はくだう)がごとき志(こゝろざし)なきゆへなりとて深(ふか)く悲(かなし)みけり。 判官(はんぐわん)貞国(さだくに)蜘手(くもで)の方(かた)の恨(うらみ)の詞(ことば)。花形丸(はなかたまる)が理(ことわり)おほき詞(ことは)を聞(きゝ)て。銀杏前(いてふのまへ) 母子(ぼし)を益(ます〳〵)にくみ。親(おや)を呪咀(しゆそ)する大罪人(たいさいにん)。片時(へんし)もたすけおきがたしとて。黒星(くろほし) 眼平(がんへい)といふものをめし出(いだ)し。銀杏前(いてふのまへ)月若(つきわか)両人(りやうにん)の首(くび)打(うつ)て来(きた)れと 【挿絵】 修験者(しゆげんじや)頼豪院(らいがういん)不破(ふは)道犬(だうけん)にたのまれ    妖術(ようじゅつ)を施(ほどこ)して毒鼠(どくそ)と化(け)し      月若(つきわか)をとり殺(ころさ)んと近(ちか)づきたるが        名舌屋(なごや)         山三郎が         手裏剣(しゆりけん)に 額(ひたい)を打(うた)れて真(まこと)の姿(すがた)をあらはし           修法(しゆほう)破(やぶ)る 頼豪院 【本文】 命(めい)じければ。蜘手(くもで)の方(かた)道犬(だうけん)と顔(かほ)見合(みあわせ)。しすましたりとおもひながら。これを とゞめけれども。貞国(さだくに)聞入(きゝいれ)ず。花形丸(はながたまる)は殊更(ことさら)に。詞(ことば)をつくしてとゞむれども。 火性(くわせい)短気(たんき)の貞国(さだくに)。少(すこ)しも宥免(ゆうめん)なかりければ。もとより道犬(だうけん)一味(いちみ)の黒星(くろぼし) 眼平(がんへい)。迷惑顔(めいわくかほ)にて其(その)坐(ざ)を退(しりそ)き。君命(くんめい)といへども。母子(ぼし)の首(くび)うたんと いはゞ。名古屋(なごや)父子(ふし)。たやすくは渡(わた)すまじ。しかる時(とき)はかれ等(ら)ともに打(うち)とらん とおもひつゝ。四五十人の荒男等(あらしをども)を引具(ひきぐ)して。平群(へぐり)の館(やかた)へいそぎゆく。 鳴呼(あゝ)銀杏前(いてふのまへ)親子(おやこ)の身(み)のうへ。危(あやう)かりける次第(しだい)なり。此事(このこと)はやく 下館(しもやかた)に聞(きこ)へければ。名古屋(なごや)父子(ふし)大に驚(おどろ)き。三郎左衛門山三郎に むかひ。これ正(まさ)しく不破(ふは)道犬(だうけん)が奸計(かんけい)にて。姫君(ひめぎみ)にぬれ衣(きぬ)をおはせ。御母(ごほ) 子(し)を失(うしな)はんとはかりしに疑(うたがひ)なし。(うつて)打手のむかはぬさき。某(それかし)急(いそ)ぎ上館(かみやかた)にいたり。 一命(いちめい)にかへても申しひらきして。御命(おんいのち)を救(すくひ)まいらせんとて。いそがしはく礼服(れいふく)を 着(き)かへ。椽先(ゑんさき)に馬(うま)をひかせてひらりと打乗(うちのち)。供人(ともびと)のそろふひまもおそしと 心(こゝろ)せき。鹿蔵(しかぞう)といふ下部(しもべ)に提灯(てうちん)もたせ。走出(はせいで)んとしたるに。三郎左衛門が刀(かたな) 鞘(さや)ばしりければ。山三郎 気(き)にかゝり。轡(くつは)づらにとりつきつゝ。親人(おやびと)御如在(ごぢよさい)はある まじきが。道犬(だうけん)は奸智(かんち)おほき者(もの)なれば。かならず彼(かれ)が計(はかりこと)におち。ともに 罪(つみ)を得(え)玉ふな。一言(いちごん)の詞(ことば)も心(こゝろ)をつけてのたまへといへば。三郎左衛門打 うなづき。それ合点(がてん)なり。かならず気(き)づかふ事(こと)なかれ。かゝる内乱(ないらん)のときは。 御側(おんそば)近(ちか)き者等(ものども)にも油断(ゆだん)ならねば。唯(たゞ)御二方(おんふたかた)をよく守護(しゆご)すべしといひ 捨(すて)て。一鞭(ひとむち)あて。飛(とぶ)がごとくに走(はし)りゆく。山三郎 身(み)をそばたてゝ。かげ見ゆる まで見おくりけるが。折(をり)しもねぐらにもぐる夕烏(ゆふからす)。いと悲(かな)しげに鳴(なく)を聞(きゝ)。かく烏(からす) なきのあしきは。御二方(おんふたかた)の御身(おんみ)のうへか。親人(おやひと)の身のうへか。いづれにも あれ。あな気(き)づかはしと吐息(といき)して。胸(むね)をいたむるばかりなり。これぞ一世(いつせ)の別(わかれ) とは。後(のち)にぞ思(おも)ひしられける。爰(こゝ)に又 不破(ふは)伴(ばん)左衛門 重勝(しげかつ)は。先年(せんねん)君命(くんめい) とはいひながら。名古屋(なごや)山三郎に。草履(ざうり)をもつて面(おもて)を打(うた)れしを。ふかく 遺恨(いこん)に思(おも)ひ。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)等(ら)四人の 者(もの)をかたらひ夜(よる)々 平群(へぐり)の館(やかた)の近辺(きんへん)を俳徊(はいくわい)して。山三郎をつけねらひ けるが。此夜(このよ)も此辺(このへん)に忍(しの)び来(きた)りてうかゞひぬ。此夜(このよ)は宵闇(よひやみ)といひ空(そら)かきくもりて 星(ほし)も見(み)へず。あやめもわかぬ暗夜(あんや)にてありけるが。三郎左衛門 鹿蔵(しかぞう)に提灯(てうちん) 持(もた)せ。馬(うま)を飛(とば)せて急(いそ)ぎ来(く)るを。伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の者(もの)。三本傘(さんぼんくわさ)の 紋(もん)つきたる提灯(ちやうちん)を見て。山三郎にうたがひなしと思(おも)ひ。物蔭(ものかげ)より一同(いちどう)に おどり出(いで)。まづ提灯(ちやうちん)をはつしときり落(おと)せば。鹿蔵(しかぞう)飛(とび)すさり。一腰(ひとこし)に手(て)を かけて。何者(なにもの)なるやとすかし見る。三郎左衛門は馬(うま)をとゞめ。こは辻斬(つぢぎり)の 曲者(くせもの)か。盗賊(とうぞく)の所為(しわざ)かといひつゝ。肩衣(かたきぬ)はねのけ。一刀(いつとう)を抜(ぬき)ながら。馬(うま)より 飛(とび)くだるひまもあらせず。伴(ばん)左衛門が斬(きり)つくる白刃(しらは)の稲妻(いなづま)。目前(もくぜん)に閃(ひらめき) ければ。老功(ろうこう)頓智(とんち)の三郎左衛門。馬(うま)のかげに身(み)を避(さく)るにぞ。伴(ばん)左衛門が 刀(かたな)いたづらに鐙(あぶみ)にはつしときりつけて。火花(ひばな)ぱつと飛散(とびちつ)たり。暗夜(あんや)といひ 木立(こだち)しげき所(ところ)なれば。一寸(いつすん)さきも見わからず。藻屑(もくづの)三平 土子(つちこ)泥助(でいすけ)馬(うま)の 脚音(あしおと)を心(こゝろ)あてに。前後(ぜんご)よりきりつくるに。目(め)あてちがひ思(おも)はず両人(りやうにん)同士(たうし) 打(うち)に丁(ちやう)ど打合(うちあは)す剣(つるぎ)の下(した)を。くゞりぬけて三郎左衛門。はらひぎりにきる 刀(かたな)。大上(いぬがみ)雁八(がんばち)が鼻(はな)のさきに光(ひり)ければ。胸(むね)ひやりとしてのけぞりけり。伴(ばん)左衛門 心中(しんちう)に。此時(このとき)を過(すご)さばいつか恨(うらみ)をはらさんと思(おも)ひつゝ。息(いき)をこらしてうかゞへば。三平 泥助(でいすけ)雁(がん)八 等(ら)も。あたりを探(さぐ)りて立(たち)まはり。或(あるひ)は互(たがひ)に同士打(どしうち)して薄手(うすで)をおひ。 或(あるひ)へ木立(こだち)にきりつけて気(き)をいらつ。三郎左衛門は。今宵(こよひ)にせまる大事(だいじ)を かゝへたる身(み)なれば。好(このみ)て戦(たゝかふ)心(こゝろ)なく。早(はや)く此場(このば)をのがればやと気(き)はせけども。 四人の者(もの)にかこまれてせんすべなく。うかゞひすましてきりつくる刀(かたな)。三平が 片耳(かたみゝ)をそぎ。二の太刀(たち)に雁八(がんはち)が小指(こゆび)をきり落(おと)しければ。両人(りやうにん)心(こゝろ)臆(おく)して はたらくことあたはず。さて泥(でい)助がさぐりよつたる刀(かたな)のきつさき。三郎左衛門が 刀(かたな)に丁(ちやう)ど打合(うちあはせ)たがひにこゝぞと思ひつゝ。丁(ちやう)々はつしと打合(うちあふ)たり。伴(ばん)左衛門 その太刀音(たちおと)を心(こゝろ)あてに。抜足(ぬきあし)して。背後(うしろ)より。勢(いきほひ)こみて切(きり)つくる刀(かたな)。あや またず。三郎左衛門が肩尖(かたさき)。七八寸 切(きり)こみぬ。痛手(いたで)に屈(くつ)せぬ強気(がうき)と いへども。さすが老人(ろうじん)なれば。たぢ〳〵とよろめく所(ところ)を。伴(ばん)左衛門。たゝみかけて 左(ひだ)りの脇腹(わきはら)を深(ふか)く切(きり)こみければ。三郎左衛門こらへず一声(ひとこへ)呀(あ)とさけびて。 尻居(しりゐ)に噇(どう)たふれたり。伴(ばん)左衛門 探(さぐ)りより。髻(もとゞり)つかみてねぢふせ。これは 伴(ばん)左衛門 重勝(しげかつ)なり。いかに山三郎。汝(なんぢ)君命(くんめい)とはいひながら。先年(せんねん)我(われ)を辱(はづかし)め たる恨(うらみ)。骨髄(こつずい)にとをりて忘(わす)れがたし。今(いま)其(その)仇(あた)を報(むくゆ)るぞとて懐中(くわいちう)より。 【挿絵】 不破(ふわ)道犬(だうけん)   蜘手(くもで)の方(かた)と     計(はか)り  銀杏(いてふ)の前(まへ)   月若(つきわか)母子(ぼし)を     讒(ざん)す 花形丸 不破道犬 くもでの方 判官貞国 眼平 物(もの)に包(つゝみ)し草履(ぞうり)のかたしを取出(とりいだ)し。これはこれ先年(せんねん)汝(なんぢ)我(われ)を辱(はづかし)め たる上草履(うはぞうり)なり。胆玉(きもたま)にこたへよといひつゝ。連打(つゞけうち)に打(うち)けるにぞ。三郎 左衛門 苦(くる)しげに息(いき)をつき。汝等(なんぢら)は辻切(つぢぎり)か盗賊(とうそく)かと思(おも)ひつるに。さては 伴(ばん)左衛門にてありけるか。我(われ)はこれ三郎左衛門なるはといふ声(こゑ)聞(きゝ)て。扨(さて)は 人たがへせしかと。伴(ばん)左衛門 等(ら)一同(いちどう)におどろきけり。三郎左衛門 刀(かたな)にすがり て立上(たちあが)り。児子(せがれ)に仇(あた)をむくふにもせよ。だまし打(うち)とは比興(ひきやう)な奴(やつ)。我(われ) 年(とし)こそ老(おひ)たれ。名乗合(なのりあひ)の勝負(しやうぶ)ならば。汝等(なんぢら)ごときの鼠輩(そはい)ども。数(す) 十人 来(きた)るとも物(もの)の数(かず)とはおもはねども。暗打(やみうち)にせらるゝとは。武運(ぶうん)につき たる身(み)のはてよ。死(しぬ)る命(いのち)はおしからねど。唯(たゞ)心残(こゝろのこ)りは。御二方(おんふたかた)の安否(あんぴ)を 聞(きか)で相果(あいはつ)るかなしさよといひつゝ。よろぼひまわるを伴(ばん)左衛門すかし見て。 合破(がば)と蹴倒(けたふ)し。山(さん)三郎と思(おも)ひの外(ほか)。運(うん)の尽(つき)たるおひぼれめ。山(さん)三に あらぬは残念(ざんねん)なれど。汝(なんぢ)を打(うち)しも又 此方(このほう)に。幸(さいはひ)とすることあり。間話(むだこと)いはず とく死(し)ねかしとにくさげに罵(のゝしり)つゝ。めつた切(ぎり)にきりければ。三平(さんへい)。泥助(でいすけ)。雁八等(がんはちら) も。三郎左衛門が苦痛(くつう)の声(こゑ)をしるべに立(たち)よりて。寸々(ずだ〳〵)に斬(きり)つけ。鱠(なまず)のやう にぞなしたりける。折(をり)しも寺(てら)〴〵の鐘(かね)打交(うちまぜ)て。諸行無常(しよぎやうむじやう)と告渡(づげわた)り。 小田(をた)の蛙(かわつ)の鳴(なき)たちて。いとゞ哀(あはれ)をそへにけり。僕(しもべ)鹿蔵(しかぞう)は先程(さきほど)より。 笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)と渡(わた)り合(あひ)。深田(ふかだ)の中(うち)に踏(ふみ)こみて。たがひに呼吸(こきう)の息(いき)を 心(こゝろ)あてに戦(たゝかひ)。双方(そうほう)薄手(うすで)をおひけるが。鹿蔵(しかぞう)三郎左衛門と伴(ばん)左衛門が いひあふ詞(ことば)を遥(はるか)に聞(きゝ)つけ。扨(さて)は彼奴(きやつ)遺恨(いこん)により。人(ひと)たがへして。はや 御主人(ごしゆじん)を手(て)にかけしかと仰天(ぎやうてん)し。蟹蔵(がいぞう)を捨(すて)て。主人(しゆじん)の声(こえ)する方(かた)へ 探(さぐ)りゆかんとするを。三平 雁(がん)八さはさせじと立(たち)ふさがり。両人(りやうにん)ひとしく切(きり)かけ たり。鹿蔵(しかぞう)これを丁(ちやう)とうけとめ。又もゆかんとしたる時(とき)。雨雲(あまぐも)はれて一輪(いちりん)の 明月(めいげつ)皎々(けう〳〵)とかゝやき出(いで)。木(こ)の間(ま)をもりて光(ひか)りあきらかなりければ。鹿蔵(しかぞう) 五人の顔(かほ)を見(み)るに。伴(ばん)左衛門をはじめ四人の者(もの)。皆(みな)見(み)しりたるもの どもなり。五人の者(もの)も鹿蔵(しかぞう)は。かねて見(み)しりの下部(しもべ)なれば。生(いけ)おきては後日(ごにち) のさまたげなりと。一同(いちどう)にとりまきて。きつさき揃(そろへて)て切(きり)つくる。勢(いきほひ)猛(たけき)鹿蔵(しかぞう)も。 双拳(そうけん)四手(ししゆ)に敵(てき)しがたく。ほど〳〵危(あやう)く見へたる所(ところ)に。三郎左衛門が乗(じやう) 馬(め)。一声(ひとこゑ)いばえて荒出(あれいだ)し。五人の者(もの)を踏(ふみ)たふし踢(け)たふしければ。 五人の者(もの)は大に狼狽(うろたへ)。はたらきかねてぞ見へたりける。鹿蔵(しかぞう)大わらはに なり。命(いのち)を限(かぎ)りに刀(かたな)をまはし。四面(しめん)八方(はつほう)をきりたつる。五人の者(もの)一方(いつほう)は荒馬(あらうま)に 踢(け)ちらされ。一方(いつほう)は鹿蔵(しかぞう)が死物狂(しにものぐるひ)にきりたてられ。ついに敵(てき)することあた はず。いちあし出(いだ)して逃(にげ)いだせば。鹿蔵(しかぞう)主人(しゆじん)の敵(かたき)のがさじやらじとよばゝりつゝ。 葦駄天走(いだてんばし)りに追行(おひゆき)けり。かゝる折(をり)しもむかふの方(かた)より。黒星(くろぼし)眼平(がんへい)。四五十 人(にん)の荒男(あらしほ)どもを引具(ひきく)し。高挑灯(たかちやうちん)を前(まへ)にたてゝ。行列(ぎやうれつ)をつらね。あたりを 払(はら)ひて足(あし)ばやにすゝみ来(く)る。鹿(しか)蔵これを屹(きつ)と見(み)て。正(まさしく)是(これ)上館(かみやかた)の打手(うつて) ならん。立帰(たちかへ)りて註進(ちうしん)すべきか。彼等(かれら)を追(おひ)て仇(あた)を報(むくは)んかと。心(こゝろ)は二ツ 身(み)しばらく猶予くださるべしといはせも果ずいな〱厳命なれば片時もは一ツ。ゆきては思案(しあん)し。もどりては躊躇(ちうちよ)し。おなじ所(ところ)をいく度(たび)か。ゆきつ もどりつひまどりぬ。黒星(くろぼし)眼平(がんへい)は時刻(じこく)をうつさず。平群(へぐり)の下館(しもやかた)にはせむかひ。 これは大殿(おほとの)の厳命(げんめい)をかうふり。銀杏前(いてふのまへ)どの月若(つきわか)どの。親子(しんし)の御首(おんくび)を たまわらん為(ため)むかふたり。名古屋(なごや)父子(ふし)はいづくにあるぞ。はやく御二方(おんふたかた)をわたす べしと。声(こゑ)たからかによばゝりければ。すは一大事(いちたいじ)と第中(ていちう)大に騒動(そうたう)し。名古屋(なごや) 山(さん)三郎 走出(はしりいで)。其(その)儀(ぎ)先刻(せんこく)当館(とうやかた)に告(つぐ)る者(もの)あるにより。父(ちゝ)三郎左衛門 御助命(ごぢよめい)を願(ねが)んため。先刻(せんこく)上館(かみやかた)へまかり越(こ)し候へば。父(ちゝ)が帰(かへ)り候まで。 しばらく猶予(ゆうよ)くださるべしといはせも果(はて)ず。いな〳〵厳命(げんめい)なれば片時(へんし)も 【挿絵】 待(まつ)こと相(あい)ならず。若(もし)違背(いはい)におよばゝ。某(それがし)奥(おく)へ踏込(ふみこみ)て御首(おんくび)打(うつ)べし。返荅(へんとう) いかにといふ。山(さん)三郎しかるうへは是非(ぜひ)におよばず。某(それかし)命(いのち)あらんかぎりは。 御二方(おんふたかた)を渡(わた)すこと。まかりならずといひつゝ。はや身支度(みじたく)して。すはと いはゞ斬死(きりしに)すべき勢(いきほひ)なり。眼平(がんへい)あざみ笑(わらひ)。大殿(おほとの)のおふせを背(そむ)く不忠(ふちう) 者(もの)。先(まづ)彼(かれ)を打取(うちとれ)と下知(げち)すれば。大勢(おほぜひ)一度(いちど)に乱入(らんにう)し。山(さん)三郎をとり かこみ。火花(ひばな)をちらして戦(たゝかひ)けり。こなたは多勢(たせい)山(さん)三郎はたゞ一人といへども。 忠義(ちうぎ)するどき太刀(たち)さきに斬(きり)まくられ。しどろにくづれて大庭(おほには)までさつと ひく。其(その)ひまに山(さん)三郎。奥(おく)の殿(でん)にはせまいり。姫君(ひめぎみ)若君(わかぎみ)にむかひ。父(ちゝ)が 吉左右(きつさう)うけたまはるまでは。一且(ひとまづ)館(やかた)を御(おん)たちのきあれかしといふにぞ。 月若(つきわか)の乳母(めのと)柏木(かしわぎ)といふ者(もの)。女(をんな)ながらもかい〴〵しきものにて。妾(わらは)は若君(わかぎみ)をあづかり ておちゆくべし。山三(さんざ)どのは姫君(ひめきみ)を守護(しゆご)して御たちのきあれかしとて。いそ がはしく身支度(みがまへ)し。若君(わかぎみ)をせおひ。長刀(なぎなた)を小脇(こわき)にかいこみて。後門(うらもん)より落(おち) 行(ゆき)ぬ。山三郎は姫君(ひめぎみ)をおひまゐらせ。つゞいてのがれ出(いで)んとしたるが。はや 後門(うらもん)にも打手(うつて)のつはもの立(たち)まはりてさゝへたれば。山(さん)三郎しやもの〳〵しと よばゝりつゝ。多勢(たせい)のうちをきりひらきて。生駒山(いこまやま)のかたへぞおちゆきける   道犬(だうけん)が奸計(かんけい)の子細(しさい)をたづぬるに。偽筆(にせふで)の達人(たつしん)をたのみ。銀杏前(いてふのまへ)の   手跡(しゆせき)を見せて。偽願書(にせぐわんしよ)をかゝしめ一味(いちみ)のものをして。かねて庭中(ていちう)に埋(うづ)め   おきけるときゝつ   山三郎 姫(ひめ)をせおひておち行(ゆき)。生駒山(いこまやま)の麓(ふもと)の辻堂(つぢとう)において。危難(きなん)に   あふこと。つぎの巻(まき)を読得(よみえ)てしるべし      巻之二終 【裏表紙】 《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 四 昔話(むかしがたり)稲妻(いなつま)表紙(びやうし)巻之三           江戸  山東京伝編    九 辻堂(つちとう)の危難(きなん) かくて山(さん)三郎は。銀杏(いてふ)の前(まへ)をせおひ。生駒山(いこまやま)を越(こへ)て。河内(かはち)の国(くに)におちゆかんと。 東(ひがし)の麓(ふもと)。竹林寺(ちくりんじ)ちかきあたりまで。逃来(にげきた)りけるに。追人(おひて)ども明松(たひまつ)を ふりてらして。近(ちか)々とおひつきければ。姫君(ひめぎみ)にあやまちあらんことを おそれ。傍(かたはら)の辻堂(つぢどう)のうちに。おろしおきて引返(ひきかへ)し。追人(おひて)の大勢(おゝぜい)に向合(むかひあひ)て。 権(しばらく)戦(たゝかひ)けるが。追人(おひて)ども山(さん)三郎が猛(たけき)勢(いきほひ)におそれ。秋(あき)の木(こ)の葉(は)の散(ちる)ごとく。 四方(しはう)に乱(みだ)れて逃去(にげさ)りぬ。山(さん)三郎 今(いま)は心(こゝろ)安(やす)しと。辻堂(つぢどう)にかへりて見 れば。こはいかに銀杏(いてふ)の前(まへ)はおわさず。月(つき)の光(ひか)りによく見れば。堂上(どうしやう)の塵(ちり) のなかに。足(あし)のあとあり。扨(さて)は追人(おひて)どもの計(はかりこと)にて。我(わが)戦(たゝかふ)ひまに。姫君(ひめぎみ)を 奪去(うばひゆき)つるに疑(うたがひ)なし。姫君(ひめぎみ)を奪(うばゝ)れて。なに面目(めんぼく)にながらふべきと心(こゝろ)を 決(けつ)し。刀(かたな)をとりなほして。ほど〳〵腹(はら)につきたてんとしたる折(をり)しも。僕(しもべ) の鹿蔵(しかぞう)。総身(そうしん)朱(あけ)に染(そま)りながら走来(はせきた)り。此体(このてい)を見ていそがはしくおし とゞめ。大息(おゝいき)つきて。不破(ふは)伴(ばん)左衛門。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥(でい) 助(すけ)。犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)等(ら)。四人(よにん)の者(もの)をかたらひ。草履打(そうりうち)の宿恨(しゆくこん)により。人(ひと)たがへ にて。三郎左衛門を打(うち)たる子細(しさい)を。涙(なみだ)ながらに物語(ものがたり)ければ。山(さん)三郎大に驚(おどろき)。 旦(かつ)怒(いか)り旦(かつ)悲(かなし)み。涙(なみだ)滝(たき)のごとくはふりおちて。しばし詞(ことば)もいでざりけり。 良(やゝ)ありていひけるは。今日(けふ)はいかなる悪日(あくにち)ぞ。おん館(やかた)の騒動(そうどう)といひ。姫君(ひめぎみ) を奪(うばひ)とられ。しかのみならず。伴(ばん)左衛門 某(それがし)を打(うた)んとて。誤(あやま)りて親人(おやびと) を打(うち)たる事(こと)。思へば某(それがし)が手を下(くだ)して親人(おやびと)を打(うち)たるも同然(どうぜん)なり。死(しぬ)も死(し)なれ ぬ今夜(こんや)の仕義(しぎ)也。一ツには姫君(ひめぎみ)をとりもどして奸臣等(かんしんら)を亡(ほろぼ)し。若(わか) 君(ぎみ)をもり立(たて)て御家督(ごかとく)とし。二ツには伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の者(もの)を打(うち)とりて。 父(ちゝ)の霊前(れいぜん)に手向(たむけ)。冥途(めいど)の恨(うらみ)をはらさせ申さでは。忠孝(ちうかう)の道(みち)全(まつた)からず。 今(いま)は二つも三つもほしき命(いのち)なるぞや。さるにても親人(おやびと)の亡骸(なきから)をもとめ。 せめてかりの葬(ほうふ)りせん。彼所(かしこ)へ案内(あない)せよ鹿蔵(しかぞう)とて。すでに立出(たちいで)んと したる所(ところ)に。此辺(このあたり)の百姓等(ひやくしやうら)とおぼしく。明松(たいまつ)を前(さき)にたて。戸板(といた)のうへに 屍(しかばね)をのせ。蓑(みの)打(うち)かけてかゝげつゝ。みればよしありげなる。武士方(ぶしがた)と 見ゆるが。むごたらしう殺(ころ)されたる事(こと)よ。衣服(いふく)大小(だいしやう)懐中物(くわいちうもの)提物(さげもの)など。 その侭(まゝ)にあれば。盗人(ぬすびと)の仕業(しわさ)ともおぼへず。片時(へんし)もはやく郡司(ぐんし)に申し きこへて。我(われ)々があやまりにならぬ様(やう)。いそげ〳〵と口(くち)〴〵にいひて来(きた)り ぬ。山(さん)三郎 立(たち)より。此方(このほう)に思ひあたる事(こと)あれば。その死骸(しがい)見せくれよと いひつゝ。蓑(みの)をとりて見れば。むざんや三郎左衛門。身体(しんたい)寸(ずん)々にきざ まれ。脇腹(わきばら)より五臓六腑(ごぞうろつぷ)みだれ出(いて)て。鮮血(なまち)戸板(といた)にながれけり。 山(さん)三郎ひと目(め)見るより。悲難(ひたん)の涙(なみだ)にむせかへり。地上(ちしやう)に噇(どう)とたふれ 伏(ふ)す。鹿蔵(しかぞう)百姓等(ひやくしやうら)にむかひ。此(この)屍(しかばね)は当国(とうごく)佐々木殿(さゝきどの)の御内(みうち)に三郎左衛門 といふ人なり。これなるは則(すなはち)その子息(しそく)なれば。此(この)死骸(しがい)は此方(このかた)へ渡(わた)すへし。 少(すこし)も汝等(なんぢら)が越度(おちど)になる事(こと)にあらずといひければ。百姓(ひやくしやう)ども死骸(しがい)の 衣服(いふく)の紋所(もんどころ)と。山(さん)三郎が衣服(いふく)の紋所(もんどころ)と。おなじ三 本傘(ぼんがさ)なるをみて。 さては相違(さうい)あるまじと安心(あんしん)し。郡司(ぐんし)の前(まへ)に持出(もちいで)んより。こゝにて 事(こと)をすまさんは。我(われ)々が仕合(しあはせ)なりと納得(なつとく)し。死骸(しがい)を渡(わた)してたちかへりぬ。 かくて山(さん)三郎。なげきてかへらぬことなれば。鹿蔵(しかぞう)にあたりの流水(りうすい)を 汲(くみ)とらせて屍(しがい)を清(きよ)め。後日(ごにち)改葬(かいそう)するまでは。権(しばら)くこゝにかくすべしと。 辻堂(つぢどう)の板敷(いたじき)をとりのけて。床(ゆか)の下(した)を深(ふか)く堀(ほり)。屍(しがい)を埋(うづみ)てもとの如(ごと)くなし おき。香炉(かうろ)の灰(はい)をすてゝ水(みつ)を手向(たむけ)。本尊(ほんぞん)の石仏(せきふつ)にむかひ。南無(なむ)宝珠(ほうじゆ) 地蔵菩薩(ちぞうぼさつ)。悪趣(あくしゆ)の苦患(くげん)を救(すくひ)玉へと念(ねん)じつゝ。なほも涙(なみだ)はとゞまら ず。此時(このとき)三郎左衛門がおびたる刀(かたな)は。重代(ぢうたい)の左文字(さもじ)の刀(かたな)。二千五百 貫(くわん) の折紙(おりかみ)つきたる名作(めいさく)なりしが。せめてのかたみと取(とり)おさめ。懐中物(くわいちうもの)提物(さげもの)と ともに。鹿蔵(しかぞう)に持(もた)しめければ。鹿蔵(しかぞう)いひけるは。弟(おとゝ)猿(さる)二郎 事(こと)。仕(つかへ)を辞(じし)て 後(のち)。河内(かはち)の国(くに)に住(すみ)候へば。一且(ひとまづ)彼地(かのち)におん越(こし)あるべしといふ処(ところ)へ。三郎左衛門が 乗馬(じやうめ)いつさんに馳来(はせきた)り。山(さん)三郎が前(まへ)に頭(かしら)をたれて。涙(なみだ)を流(なが)しければ。 山(さん)三郎その為体(ていたらく)を見て胸(むね)ふさがり。汝(なんぢ)親人(おやびと)の秘蔵(ひそう)ほどあり。我(わが)居(おる) 所(ところ)をしたひ来(き)て。愁膓(しふしやう)の体(てい)。人にもまさりしふるまひなりとて鬣(たてがみ)をかき 抚(なで)つゝいひけるは。昔(むかし)呉(ご)の孫堅(そんけん)董卓(とうたく)と戦(たゝかひ)て利(り)を失(うしな)ひ。馬(うま)より落(おち)て 草中(そうちう)に臥(ふす)。衆軍(しゆうぐん)分散(ぶんさん)してその在所(ざいしよ)をしらず。然(しかる)にかの馬(うま)営中(ゑいちう)に 【挿絵】 名古屋(なごや)山(さん)三郎 銀杏前(いてふのまへ)を扶(たすけ)て 館(やかた)をおちきたり 姫(ひめ)を追人(おひて)に うばゝれて腹(はら)を きらんとするを しもべ鹿蔵(しかぞう)    とゞめて 三郎左衛門が  闇打(やみうち)に なりたる ことを 告(つげ)  しらす 名古屋山三郎 しもべ鹿蔵 三郎左衛門しがい かへり。軍人(くんじん)をみちびき。草中(そうちう)にいたりて。孫堅(そんけん)を扶(たすけ)しめしと聞(きく)。 汝(なんぢ)はそれにもまさりしぞといひければ。鹿蔵(しかぞう)も落涙(らくるい)し。畜類(ちくるい)すら主(しゆ) 人(じん)の恩(おん)を思ひて。かくのごとく愁(うれひ)悲(かなしむ)に。人と生(うま)れていかでか洪恩(かうおん)を 思はざらんや。伴(ばん)左衛門 等(ら)。たとへ天(てん)に道(みち)ありて登(のぼ)り。地(ち)に門(もん)ありて入(いる) とも。某(それがし)が一念(いちねん)の誠(まこと)を以(もつ)て尋出(たづねいだ)し。御本懐(ごほんぐわい)をとげさせ申べしとて。 かの馬(うま)の平頸(ひらくび)をなでまはし。人と畜類(ちくるい)のへだてはあれども。我(われ)も汝(なんぢ)も 傍輩(はうばい)にて。主君(しゆくん)の恩(おん)をかうふりしは同然(どうせん)なるに。我(われ)は汝(なんぢ)にはおとりしぞ。 飢(うへ)はせぬか。飢(うへ)たらんとて。あたりの草(くさ)をとりて与(あた)へ。水(みづ)かひなどしていた はりけり。山(さん)三郎 幸(さいはひ)の父(ちゝ)が片身(かたみ)の此(この)馬(うま)。これに乗(じやう)じて。落(おち)ゆかんと いひて。ひらりとのれば。鹿蔵(しかぞう)あたりの枯枝(かれえだ)をひろひとり。火打袋(ひうちぶくろ)を とり出(いだ)し。火(ひ)を点(てん)じて明松(たいまつ)とし。前(さき)に立(たち)て生駒山(いこまやま)にさしかゝり。名(な)におへる 暗々峠(くらかりとうげ)の難所(なんじよ)も。かねて案内(あない)をしりたれば。口綱(くちづな)をとり馬(うま)を みちびきて。河内(かはち)の国(くに)へいそぎゆきぬ   十 夢幻(むげん)の落葉(らくえう) それはさておき爰(こゝ)にまた。六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門は。佐々木(さゝき)の館(やかた)の事(こと)気(き)づかは しく。旅商人(たびあきびと)に身を扮(やつ)し。一荷(ひとになひ)の荷物(にもつ)をかたげ。人目をはゞかり。笠(かさ)ふか 〴〵と面(おもて)をおほひて。大和(やまとの)の国(くに)にいたりけるが。宿(やどり)をもとめおくれて夜に 入(いり)額田部村(ぬかたべむら)をすぎて。柏木(かしわき)の森(もり)の辺(ほとり)をうち通(とほ)りけるに。木蔭(こかげ)に人(ひと)の うめく声(こゑ)。いと苦(くる)しげにきこえければ。いぶかりつゝ立(たち)より。提灯(ちやうちん)をさしつけて 見るに。よしありけなる女の。むら鹿子(かのこ)の小袖(こそで)の裙(もすそ)をたかくかゝげ。たすき ひきゆひ。けゞしく打扮(いでたち)たるが。黒髪(くろかみ)をふり乱(みだ)し。数(あまた)所(ところ)痛手(いたで)をおひ。鮮(せん) 血(けつ)したたりながれて。総身(みうち)朱(あけ)に染(そま)り。うつぶしに伏(ふし)て。息(いき)もたえ〴〵也。 傍(かたはら)にある長刀(なぎなた)を見れば。銀(ぎん)の蛭巻(ひるまき)して。梨地(なしぢ)に。倚懸目結(よせかけめゆひ)の紋(もん)をちら しに蒔(まき)ぬ。これ佐々木 家(け)の紋なれば。益(ます〳〵)いぶかり。女を抱(いだ)き起(おこ)して顔(かほ)を 見ればこはいかに。月若の乳母(めのと)柏木(かしはぎ)なり。なむ右衛門大に驚(おどろ)きたくはへ の気(き)つけ薬(くすり)など与(あた)へて。さま〴〵に介抱(いたはり)ければ。やう〳〵目をひらき。おん 身は佐々良(さゝら)三八郎どのにはあらずやといふ。なむ右衛門いはく。おん身いか なる事(こと)にて。かく痛手(いたで)をおひ。此(この)所(ところ)にはたふれ居(ゐ)玉ふぞ。そのゆゑくはしく 語(かた)り候へといふ。柏木(かしはき)苦(くる)しき息(いき)をつき。今宵(こよい)おん館(やかた)の騤動(そうどう)しか〴〵の事(こと) にて。姫君(ひめきみ)若君(わかきみ)のおん命(いのち)危(あやう)きにより。姫君(ひめきみ)は名護屋(なごや)山三郎 守護(しゆご)し ておち行(ゆき)。妾(わらは)は若君を扶(たすけ)申して立のきつるに。途中(とちう)にて追人(おひて)の大勢(おゝぜい)に とりかこまれ。ほど〳〵若君を奪(うばひ)とられんとしつるゆゑ命(いのち)かぎりに 戦(たゝかひ)。やう〳〵追人(おひて)を斬散(きりちら)して。若君の御身 恙(つゝが)なく。此(こゝ)までは落(おち) のびつるが。心(こゝろ)は矢猛(やたけ)にはやれども。あまたの深手(ふかで)に歩行(ほこう)かなはずと□ 倒(たふ)れて夢中(むちう)になり。おん身(み)の介抱(かいほう)にあづかりしもしらず。おん身(み)先年(せんねん) 藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)して。立のがれし事(こと)。実(じつ)は若殿(わかとの)放埒(ほうらつ)の根(ね)をたゝんと。忠義(ちうき)の 為(ため)にせらしれよし。おん内方(うちかた)礒菜(いそな)どのよりの消息(せうそく)にて。始(はじ)めてしりかねて 姫君(ひめぎみ)若君(わかぎみ)にも。おん身(み)の誠心(せいしん)をきこえあげて。折(おり)もあらば帰参(きさん)をと思ひし かひなく。此度(このたび)の大変(たいへん)なり。さりながら。こゝにておん身(み)にあひたるは。いまだわ 君(ぎみ)の御運(ごうん)尽(つき)ざる所(ところ)也。妾(わらは)此(この)深手(ふかで)にては。とてもかなはぬ命(いのち)なれば。何(なに)とぞ おん身(み)若君(わかぎみ)をかくまひ申し。再(ふたゝび)世(よ)にいだしまゐらせ玉はれかしと。泣(なく)々ものがたる うちも。いと苦(くる)しげ也。なむ右衛門 委細(いさい)を聞(きゝ)て十 分(ぶん)に驚(おとろ)き。して若君(わかきみ) はいづくにおはすぞと。問(とは)れて柏木(かしはぎ)あたりを見まはし。月若(つきわか)のおはさぬをみて 仰天(きやうてん)し。がつくりとおち入(いり)て。所(ところ)の名(な)さへ柏木(かしはぎ)の。森(もり)の雫(しつく)ときえうせぬ。かゝる 【挿絵】 めのとかしは木 月若(つきわか)の乳母(めのと)   柏木(かしはき)若君(わかぎみ)を  守護(しゆご)して      おちきたり 追人(おいて)とたゝかひて   深手(ふかて)をおふ 折(おり)しも。茂林(もりん)のうちより。追人(おひて)の人数(にんず)。若君(わかぎみ)の口(くち)に猿轡(さるくつは)を かけ。小脇(こわき)にかいはさみて走(はし)り出(いで)。やよ〳〵佐々良(さゝら)三八郎。汝(なんぢ)長谷部(はせべの)雲(うん) 六(ろく)といひ合(あは)せ。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を奪(うはひ)。藤波(ふぢなみ)を害(がい)して逃去(にげさり)たる大罪人(たひさひにん) こゝにて見つけたるは天(てん)の与(あた)へなり。若君(わかぎみ)を奪(うばひ)たるうへに。汝(なんぢ)を捕(とらふ)れは。 両(りやう)の手(て)に美食(びしよく)を握(にぎ)るが如(ごと)し。とく〳〵手(て)をつかねて。いましめをうけ よ。若(もし)手(て)むかひなどせば。忽(たちまち)若君(わかぎみ)をさし殺(ころ)すぞ。返荅(へんたう)いかにとよばゝれば。 なむ右衛門いそがはしく。地上(ちしやう)にひざまづき。此(この)所(ところ)にておん身等(みら)の目(め)に かゝりしは。某(それがし)が運命(うんめい)の尽(つき)なり。いかでか手(て)むかひいたすべき。いざとく縄(なは)を かけられよといひつゝ。手(て)をつかぬれば。追人(おひて)の人数(にんす)くち〴〵に。さすがの三八 郎。覚悟(かくご)の体(てい)殊勝(しゆしやう)なりとて。已(すで)に縄(なは)をかけんとしたる油断(ゆだん)を見す まし。なむ右衛門つと立上(たちあが)りて一人を踢倒(けたふ)し。若君を奪(うばひ)かへして 背後(うしろ)にかこひ。仁王(にわう)だちに立(たち)たるは。こゝちよき形勢(ありさま)なり。追人(おひて)の人数(にんず) これを見て。欺(あざむ)かれたる口おしさよ。それ打(うち)とれと呼(よば)はりつゝ。刀尖(きつさき)そろへ て斬(きり)かけたり。なむ右衛門 手(て)ばやく息杖(いきづへ)に仕(し)こみたる。刀(かたな)を抜(ぬい)て相(あひ)むかひ。 すきまもなく斬(きり)たつれば。追人(おひて)の大勢(おゝぜい)敵(てき)しがたく。春雨(しゆんう)に打(うた)るゝ胡蝶(こてふ)の ごとく。身をすぼめてぞ逃去(にげさり)ぬ。なむ右衛門 今(いま)は心安(こゝろやす)しと。若君(わかぎみ)の前(まへ)に ひざまづき。人目をいとひ候へば。此辺(このあたり)を立(たち)のく間(あひだ)。しばしのほどおん気づ まりにはおはさんが。此(この)うちにおん身(み)をしのびくださるべしとて。月若(つきわか)を荷物(にもつ) のうちに抱(いだ)き入(いれ)。柏木(かしはぎ)が屍(しかばね)は。あたり近(ちか)き流(なが)れに沈(しづ)めて水葬(すいそ)し。又も 追人(おひて)の来(こ)ぬ間(ま)にと。足(あし)をはやめて走(はし)り去(さり)。丹波(たんば)を斥(さし)てかへりぬ    十一 断絃(だんげん)の琵琶(びは) さても六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門は。若君(わかきみ)を救(すくひ)て我家(わかや)に帰(かへ)り。一間(ひとま)のうちに しのばせおき。娘(むすめ)楓(かへで)とゝもに。朝夕(あさゆふ)心(こゝろ)をもちひてかしづき。権(しばらく)月日をおくり けるが。一日(あるひ)若君(わかきみ)にしばし気(き)ばらしさせ申んと。楓(かへで)に申しつけていざなは すれば。煩(いたは)しや月若(つきわか)は。世(よ)にうつくしき生(うま)れなるに。妖鼠(ようそ)の為(ため)に髪(かみ)の毛(け)を くひ尽(つく)され。剃髪(ていはつ)の姿(すかた)となり。頭(かしら)に似合(にあは)ぬ振袖(ふりそで)の。綾(あや)の小袖(こそで)の模(も) 様(やう)さへ。ゆたのたゆたの捨小舟(すてをぶね)薄縹(うすはなだ)の奴袴(すばかま)も。涙(なみだ)の痕(あと)のしみとなり。 身(み)すぼらしげに出(いで)玉ふ。なむ右衛門 楓(かへで)に命(めい)じて。柴(しば)の折戸(おりど)をかためさせ。 若君(わかきみ)を上坐(かみざ)にすゑて申しけるは。狭(せま)き一間(ひとま)のおん隠家(かくれが)。さぞおん気(き)づまり とは存(そんじ)ながら。人目(ひとめ)をはゞかるおん身(み)なればせんすべなし。御先祖(ごせんぞ)をたづ ぬれば。人王(にんわう)五十九代の帝(みかど)。宇多天皇(うだてんわう)の御末(おんすゑ)にて。佐々木(さゝき)成頼公(しけよりこう)の末(まつ) 孫(こ)と生(うま)れさせ玉ひ。あまたの人にかしづかれて。金殿玉楼(きんでんぎよくろう)のうちに生立 玉ひ。錦(にしき)の菌(しとね)玉(たま)の床(ゆか)。なに一点(いつてん)の不足(ふそく)なく。あらき風(かぜ)にすらあたり玉はぬ おん身(み)なるに。奸臣(かんしん)佞者(ねいしや)の為(ため)に世(よ)をせばめられ。かゝる貧家(ひんか)にしのばせ 玉ひ。粟(あは)の飯(いひ)橡(とち)の粥(かゆ)。わづかにおん命(いのち)をつなぐのみ。蕨(わらび)のおどろ紙(かみ)ぶすま。 夜(よる)の物(もの)さへ薄着(うすぎ)にて。壁(かべ)もる月(つき)の灯火(ともしび)に。くらきおん身(み)となり玉ふ。いた はしさよといひければ。若君(わかぎみ)のたまひけるは。汝(なんぢ)が忠志(ちうし)過分(くわぶん)なり。我身(わがみ)は いかになるともいとはざれども。唯(たゞ)気(き)づかはしきは父母(ちゝはゝ)のおん身(み)なり。父上(ちゝうへ)は御勘(ごかん) 当(だう)の身(み)となり玉ひて后(のち)。いづくいかなる所(ところ)におはすやらん。母上(はゝうへ)はなごや山(さん)三郎に 扶(たすけ)られて落(おち)玉ひしが。これも御在所(ございしよ)知(し)れざるよし。追人(おひて)に捕(とらは)れ玉ひしも 知(し)るべからず。あな恋(こひ)しの父上(ちゝうへ)や。なつかしの母人(はゝびと)やとて。しのび涙(なみだ)にむせ び玉へば。なむ右衛門 楓(かへで)も。おん心根(こゝろね)を椎量(すいりやう)して。ともに袂(たもと)をしぼりけり。 かゝる折(おり)しも外(と)の方(かた)に人の足音(あしおと)ひゞきければ。なむ右衛門 楓(かへで)に目ぐはし して。若君(わかきみ)を一間(ひとま)にかくし。さあらぬ体(てい)にて居(ゐ)たりけり。人(ひと)の親(おや)のこゝろは闇(やみ)に あらねども。盲目(めしい)となりし我子(わがこ)ゆゑ。道(みち)に迷(まよ)へる杖(つゑ)小笠(おがさ)。旅(たび)にやつれし 女房(にやうぼう)の。琵琶(びは)を背上(せなか)によこたへし。盲児(めくら)の手(て)を引(ひき)て。四年(よとせ)ぶりにて我家(わがいへ)の。 軒(のき)の垣衣(しのぶ)の露(つゆ)ふかき。草(くさ)踏分(ふみわけ)て柴折戸(しばのをりど)をほと〳〵と打(うち)たゝけば。たそととがめ て。なむ右衛門 戸(と)をひらき見てげれば。妻(つま)の礒菜(いそな)子(こ)の文弥(ぶんや)。京(きやう)よりかへりし 体(てい)なれば。こは思ひかけずよとて。まづともなひてうちに入(い)る。楓(かへで)ははやく 母(はゝ)の声(こへ)を聞(きゝ)つけて。いそがはしく走(はし)り出(いで)。夫婦(ふうふ)兄弟(きやうだい)四人(よにん)の者(もの)ひさし ぶりの対面(たいめん)に。たがひの喜(よろこ)びいふべからず。楓(かへで)は盥(たらい)に湯(ゆ)をたゝへ。母(はゝ)の 裏脚(はゞき)草鞋(わらづ)をとき。足(あし)をそゝぎなどすれば。今(いま)にかはらぬ孝行(かうこう)やと。 うれしさに堪(たへ)ざりけり。さて礒菜(いそな)夫(おつと)にむかひ。いふこと聞(きく)ことあまた にて。何(なに)から語(かた)りはべらんや。且(まづ)申すべきは文弥(ぶんや)事(こと)。幼年(ようねん)なれども芸(げい) 道(だう)に心(こゝろ)をゆだね。片時(へんし)もおこたらざりしかばおのづから妙(みやう)を得(え)て。師匠(ししやう)沢角(さはつの) 検校(けんぎやう)どのも。たぐひまれなる器用者(きようもの)と。賞美(しやうひ)し玉ひ。紫檀(したん)の甲(かう)の 琵琶(びは)一面(いちめん)に。秘曲(ひきよく)の免状(めんじやう)をそへて玉はりぬれば。一ツには彼(かれ)が一曲(いつきよく)をきかせまほ しく。二ツには楓(かへで)が顔(かほ)も見まほしく。すゞろに古郷(こきやう)がなつかしく。文弥(ぶんや)もまた おん身(み)や姉(あね)を恋(こひ)しがり候ゆゑ。俄(にはか)に思ひ立(たち)。師匠(ししやう)にしばしのいとまを乞(こひ)。まかり 下(くだ)り候ひぬと。ものがたれば。なむ右衛門ひたすら喜(よろこ)び。ひさしぶりの対面(たいめん)無事(ぶし)の 顔(かほ)見て安堵(あんど)なり。芸道(けいどう)も上達(しやうたつ)せしとや。しばし見ぬうち。さても能(よく)生立(おひたち)しな。見 たがふばかりに丈(たけ)高(たか)うなりけるぞとて。余念(よねん)なく文弥(ぶんや)が頭(かうべ)を撫(なで)つゝいへば。文(ぶん) 弥(や)は恭(うや〳〵)しく両手(りやうて)をつき。父上(ちゝうへ)御安体(ごあんたい)の様子(やうす)をうかゞひ。喜(よろこ)びに堪(たへ)はべらずと。 おとなしやかに相(あひ)のぶる。楓(かへで)はことし十六 才(さい)。姿(すがた)ます〳〵美麗(びれい)にて。手織木綿(ておりもめん) の振袖(ふりそで)も。綾羅(れうら)にまかふ風情(ふぜい)なるが。母(はゝ)のそばにちかくより。長(なが)〴〵の御在(ござい) 京(きやう)。さぞ御苦労(ごくろう)をなされんと。あけくれ気(き)づかひくらせしが。恙(つゝが)なき体(てい)を見て。 【挿絵】 ぶんや いそな なむ右衛門 かへで 月若 六字(’ろくじ)南無(なむ)右衛門  月若(つきわか)をかくまひおく 南無右衛門は妻(つま)礒菜(いそな) 盲児(めくらこ)の文弥(ぶんや)を具(ぐ)して 京(きやう)より家(いへ)に      帰(かへ)り来(く) やう〳〵心(こゝろ)やすまりしと。いひければ。いな〳〵我(わが)苦労(くろう)よりおことが事(こと)。妖蛇(ようじや)も今(いま) に去(さ)らぬよし。其(その)身(み)を以(もつ)て父上(ちゝうへ)に。孝行(かう〳〵)尽(つく)す辛労(しんろう)を。さぞかしと推量(すいりやう)し。 わかれて居(ゐ)ても片時(かたとき)も。わするゝ事(こと)はなかりしぞや。縫物(ぬひもの)髪(かみ)もよく仕(し) おぼえつるよし。父上(ちゝうへ)の消息(せうそく)にてとく聞(きゝ)ぬとて。うしろむかせ。髪(かみ)のかゝ りをつら〳〵見まはし。さてもうつくしうよくできしぞ。此(この)きるものも。おこ とが縫(ぬひ)しか。あつぱれの手(て)ぎはぞ。広(ひろ)き都(みやこ)のうちにすら。おことが如(ごと)き娘(むす) はまれと。思へばいとゞ妖蛇(ようじや)の事(こと)。おもひいだして不便(ふびん)なりと。何(なに)につけて も子(こ)をおもふ。親(おや)の心(こゝろ)ぞやるせなき。良(やゝ)ありてなむ右衛門。佐々木(さゝき)の館(やかた) の騒動(そうどう)。柏木(かしはぎ)が忠死(ちうし)の子細(しさい)。若君(わかぎみ)をかくまひおく事(こと)の。始末(しまつ)を語(かた)り きかせければ。礒菜(いそな)おどろき。不慮(ふりよ)の御難義(ごなんぎ)。いたはしさよとて泣(なき)ければ。 なむ右衛門。いかほどいふてもかへらぬ事(こと)。そちも文弥(ぶんや)も。久(ひさ)しぶりにて 若君(わかぎみ)に。おん目(め)見へつかまつれとて。楓(かへで)をつけて奥(おく)の一間(ひとま)にいざなはせ。 くろ木(ぎ)の念珠(ねんじゅ)つまぐりて。例(れい)の念仏(ねぶつ)をとなへつゝ。はるかに時刻(じこく)をうつ しけり。日(ひ)あしも漸々(やうやう)かたふく比(ころ)。京下(きやうくだ)りの古書画(こしよぐわ)の商人(あきびと)。いそがはしげに はしり来(き)て。前(さき)の日(ひ)見せまうしつる。金岡(かなおか)が百蟹(ひやくがい)の絵巻物(ゑまきもの)。外(ほか)に望人(のぞみて) いできしゆゑ。唯今(たゞいま)価(あたひ)をお渡(わた)しなければ。望(のぞのみ)の方(かた)へやらねばならず。いかゞ おぼすやらんといふ。なむ右衛門 打聞(うちきゝ)て。そはあまり火急(くわきう)なり。せめて三日(みつか)ま ち玉はれかしといへば。商人(あきびと)頭(かうべ)を打(うち)ふり。某(それがし)も旅(たび)がけの事(こと)なれば。三日など はまたれ申さず。しからば今夜(こんや)。三更(さんかう)の時(とき)までまち申さん。その期(ご)がすぐ れば。たゞちにかの方(かた)へ売(うり)つかはし候ぞとて。詞(ことば)をつがひて立帰(たちかへ)る。ほどなく外(と)の 方(かた)に人声(ひとごゑ)して。足音(あしおと)ひゞきければ。何事(なにごと)ならめといぶかる間(ま)もなく。村長(むらおさ)に案(あ) 内(ない)させて。捕手(とりて)の輩(ともがら)組子(くみこ)ども。どや〳〵と入来(いりきた)る。組子(くみこ)の頭(かしら)黒星(くろぼし)眼平(がんへい)といふ 者(もの)。首桶(くびおけ)を小脇(こわき)にたづさへ。声(こゑ)あらゝかにいひけるは。汝(なんぢ)佐々良(さゝら)三八郎 今(いま)の 名(な)は六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門とやらんいふよし。月若(つきわか)どのをかくまひおく事(こと)。 註進(ちうしん)の者(もの)ありて。大殿(おゝとの)のおん耳(みゝ)にいり。首(くび)打(うち)てまゐれとの厳命(げんめい) なり。汝(なんぢ)自(みづから)打(うち)て渡(わた)すべきや。某(それがし)直(じき)に打(うつ)べきや。返荅(へんとう)いかにとよばゝりぬ。 なむ右衛門 胸(むね)とゞろくといへども。さあらぬ体(てい)をなし。若君(わかぎみ)をかくまひ 申せしなんどゝは。何者(なにもの)が申しけるや。夢(ゆめ)にもしらざる事(こと)なりと。そらうそ ふきていひければ。眼平(がんへい)から〳〵と打笑(うちわらひ)。汝(なんぢ)かくまひおく事(こと)明白(めいはく)なり。しゐて あらがはゞ。此(この)あばら家(や)を踏破(ふみやぶ)りて。家(や)さがしせん。もし又(また)尋常(じんじやう)に首(くび)打(うち)て渡(わた) さば。その㓛(こう)にしり。汝(なんぢ)が旧悪(きうあく)はゆるすべし。返荅(へんとう)により。汝(なんぢ)もともにからめ とりて。藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)し。巻物(まきもの)を奪(うばひ)たる。旧悪(きうあく)をたゞすべしと。ほだ しをかけて。せめければ。さすがのなむ右衛門も。ほど〳〵当惑(とうわく)の体(てい) なりしが。魂(たましい)すゑていひけるは。さばがり事(こと)の。あらはるゝうへはせんすべなし。 いたはしながら若君(わかぎみ)の。おん首(くび)打(うち)て渡(わた)し申さん。さりながら。せめて御最(ごさい) 期(ご)の念仏(ねんぶつ)をすゝめ申すその間(あいだ)。しばしの御猶予(ごゆうよ)くだされかしといへば。 眼平(がんへい)うなづき。得心(とくしん)のうへは。しばしの間(あいだ)はまちくれん。しからば今宵(こよい)三更(さんかう) の。時(とき)打(うつ)鐘(かね)を号(あいづ)として。首(くび)うけとりにむかはんずれば。かならず詞(ことば)たがふ べからず。且(まづ)それまでは。村長(むらおさ)かたにまちをらん。首桶(くびおけ)それへうけとるしべとて。 相渡(あひわた)し。人数(にんず)を引具(ひきぐ)しかへりけり。跡(あと)にはひとりなむ右衛門。手(て)を こまぬき頭(かうべ)をたれて。しばし思案(しあん)にくれけるが。良(やゝ)ありていひけるは。巻物(まきもの)の 価(あたひ)百両(ひやくりやう)といふ大金(たいきん)なれば。とても調(とゝのふ)べき手段(しゆだん)はなけれど。一寸(いつすん)のびれば ひろのびるといふ。常言(ことわざ)もあれば。もしよき思案(しあん)もあらんかと。今日(けふ)翌(あす) といひのべしが。それよりもなほ危急(ききう)なるは。若君(わかぎみ)の御身(おんみ)なり。今宵(こよい)に せまる二ツの難義(なんぎ)。臥竜(ぐわりやう)楠氏(なんし)の智謀(ちぼう)ありとも。のがるゝ道(みち)調(とゝのふ)すべは あるべからず。藤浪(ふぢなみ)が所縁(ゆかり)の者(もの)に打(うた)れんと。かねて思ひし命(いのち)なれ ども。かゝるきはには是非(ぜひ)もなし。若君(わかぎみ)を屓(おひ)まゐらせ。のがるゝたけは のがれ見て。若(もし)かなはざるその時は。御腹(おんはら)をすゝめ申し。斬死(きりじに)するより 外(ほか)はなしと。ひとりごち。心(こゝろ)のうちにうなづきて。旧葛篭(ふるつゞら)のうちより。 一腰(ひとこし)を取出(とりいだ)し。行灯(あんどう)提(さげ)て。奥(おく)の一間(ひとま)に立(たち)いらんと。破(やぶ)れ紙門(ふすま)をさと あくれば。盲児(めくらこ)の文弥(ぶんや)。財布(さいふ)のうちより。あまたの小判(こばん)を取(とり)いだ して。手探(てさぐ)りにかぞへ居(ゐ)たるが。紙門(ふすま)のあく音(おと)におどろき。手(て)ばやく 背後(うしろ)にかくしたり。なむ右衛門 目(め)ばやく見つけて。いぶかりつゝいひ けるは。いかに文弥(ぶんや)。見れば余程(よほど)の金(かね)を持(もち)たるが。いかなるゆゑにてその 金(かね)持(もち)しぞ。こゝへ出(いだ)して見せよといふ。文弥(ぶんや)いはく。これは師匠(ししやう)より あづかりたる金(かね)なれば。親人(おやびと)なりとも見せがたしといふにぞ。なむ右衛門。 師匠(ししやう)なりとも。幼年(ようねん)の汝(なんぢ)に。大金(たいきん)をあづけおくべきいはれなし。 いかなるゆゑにてあづかりしと。問(とは)れて文弥(ぶんや)口(くち)こもり。いやこれは途中(とちう) にて拾(ひろ)ひし金(かね)なり。あづかりしにはあらずと。詞(ことば)のあとさきそろはねば。 なむ右衛門ます〳〵あやしみ。途中(とちう)にてひろひしものを。かくしおくは道(みち) にあらず。いづくにて拾(ひろ)ひつるぞ。実正(じつしやう)いへととひつめられてせんすべなく。 まことは此(この)金(かね)あづかりも拾(ひろ)ひもせず。道中(どうちう)の旅店(はたごや)に。とまり合(あは)せし旅人(たひゞと)の 金(かね)を。盗(ぬすみ)とりつるにて候と。聞(きゝ)てなむ右衛門あきれはて。ゑりくび つかみて引(ひき)たふし。なにといふぞ。そはまことか真実(しんじつ)か。元来(ぐわんらい)なんぢ 孝子(かうし)にて。さある非道(ひどう)をおこなふべき性質(せいしつ)にあらずと。今(いま)のいま まで思ひしが。在京(ざいきやう)のわづかの間(あひだ)に。さばかり心(こゝろ)のかはるものか。これよく きけよ。あきらかなる所(ところ)には王法(わうぼふ)あり。くらき所(ところ)には神霊(しんれい)あり。五戒(ごかい) のうち。もつとも偸盗(とうたう)をおもしとす。たとへ塵(ちり)一(ひと)すぢにても。盗(ぬすみ)を なして。豈(あに)よく罰(ばつ)をまぬかれんや。けがらはしき心底(しんてい)や。あさましき所存(しよぞん) やとて。左(ひだり)の手(て)にゑり首(くび)を持(もち)かへ。右(みぎ)のこぶしをふりあげて。頭(かうべ)をのぞみ。 つゞけ打(うち)に打(うち)たふし。且(かつ)怒(いかり)且(かつ)悲(かなし)み。あつき涙(なみだ)をおとしつゝ。かやうにきび しくいましめなば。もしくは心(こゝろ)もなほらんかと。親(おや)の慈非(じひ)こそせつなけれ。 文弥(ぶんや)はやがて越上(おきあが)り。あざみ笑(わら)ひていひけるは。貧乏者(びんぼうもの)の子(こ)とうまれ。 正直(しやうじき)にかまへては。とても出世(しゆつせ)はなりがたし。此(この)金(かね)にて官(くわん)をとれば。一生(いつしやう)は 安楽(あんらく)なり。さばかり呵(しかり)玉ひそと。きけばきくほどにくければ。歯(は)をかみ ならして声(こへ)をあららげ。大胆不敵(だいたんふてき)の今(いま)のことば。さら〳〵子(こ)とはおも はれず。天魔波旬(てんまはじゆん)の所行(しよぎやう)なり。親子(おやこ)の恩愛(おんあい)これまでなり。 七生(しちしやう)までの勘当(かんどう)ぞ。とくいづかたへもいでゆけとて。足(あし)をあげて踢(け)とばせば。 文弥(ぶんや)は財布(さいふ)を懐中(くわいちう)し。勘当(かんとう)うくれば。親(おや)でなし子(こ)にあらねば。長居(ながゐ)は 無益(むやく)とつぶやきつゝ。あたりを探(さぐ)りていでんとす。なむ右衛門 怒(いかり)にし のびず。走(はし)りよりて。又 踢(け)たふせば。おきあがりて。又(また)悪口(あつかう)す。悪口(あつかう)すれば なほ踢(け)たふし踢(け)たふせば。益(ます〳〵)悪口(あつかう)やまず。なむ右衛門いよ〳〵怒(いかり)。 頭(かうべ)肚(ひはら)の用捨(ようしや)なく。踏(ふみ)つけ〳〵ふみたふせば。文弥(ぶんや)は片息(かたいき)になりながら。 なほも悪口(あつかう)とゞまらざれば。なむ右衛門 怒気(どき)天(てん)にさかのぼり。刀(かたな)を すらりと抜手(ぬくて)も見せず。肩尖(かたさき)四五 寸(すん)きりこめば。呀(あ)と一声(ひとこゑ)たま ぎりて。うつぶしにたふれたり。たゝみかけてきらんとせしが。恩愛(おんあい) 千(ち)すぢの葛篭(つゞら)の緒(ひも)。足(あし)にまとひて背後(うしろ)のかたへ。ひきもどさるゝ こゝちするを。思ひきりて又(また)ふりあぐる剣(つるぎ)の下(した)に。妻(つま)いそ菜(な)はしり出(いで)。 【挿絵】 南無(なむ)右衛門   怒(いか)りにたへず 一子(いつし)文弥(ぶんや)を   手打(てうち)に    きりつくる ぶんや 六字なむ右衛門 いそな やれしばしまち玉へ。いふことありととゞむれば。なむ右衛門いやとゞむるな なか〳〵に生(いけ)おきて。罪(つみ)つくらせんよりは。一(ひと)思ひに手(て)にかくるが。親(おや)の 慈悲(じひ)ぞといひつゝ。いそ菜(な)をおしのけ。つきのけて。なほきりつけんと 立(たち)まはる。いそ菜(な)は夫(おつと)の手(て)にすがり。その身(み)をしづにひきもどし。息(いき)を つく〳〵あの金(かね)は。盗物(ぬすみもの)には候はず。まことは娘(むすめ)楓(かへで)が身(み)の代(しろ)にて候と いへども。なむ右衛門 合点(がてん)せず。妖蛇(ようじや)に見こまれ片輪(かたわ)な娘(むすめ)を。何(なに) ゆゑに大金(たいきん)出(いだ)してかゝゆべき。なんぢもともにいつはるかとて。にらみつく れば。いそ菜(な)奥(おく)の方(かた)に打(うち)むかひ。やよ〳〵娘(むすめ)こゝへ来(き)て。父上(ちゝうへ)におことが 心底(しんてい)ものがたれ。はやく〳〵とよばゝれば。娘(むすめ)楓(かへで)一声(ひとこへ)荅(いらへ)てかけいでしが。 文弥(ぶんや)がきられし体(てい)を見て。むせかへりてぞたふれける。いそ菜(な)文弥(ぶんや)を 抱(だき)かゝへ。くるしうあらんが父上(ちゝうへ)に本心(ほんしん)をかたるうち。こらへてくれよといた はりつゝ。楓(かへで)にむかひ。かなしきはうべなれども。委細(いさい)のわけを父上(ちゝうへ)に。とく 〳〵告(つげ)よと。いはれてやう〳〵顔(かほ)をあげ。なむ右衛門にうちむかひ。 御不審(ごふしん)は理(ことわり)なり。前(さき)の日(ひ)父上(ちゝうへ)おんものがたりに。かねてたづぬる百蟹(ひやくがい)の 巻物(まきもの)。思ひかけず京(きやう)くだりの商人(あきびと)持参(ぢさん)せしが。その商人(あきびと)を捕(とら)へ。出所(しゆつしよ)を たゞさば。盗人(ぬすびと)の在所(ありしよ)もしれ。巻物(まきもの)も手(て)に入(いる)道理(どうり)と思へども。かなしさは 日蔭(ひかげ)の身(み)。あらはに事(こと)をたゞしがたし。さりとて価(あたひ)は百両(ひやくりやう)といふ大金(たいきん)なれ ば。とても我(わが)手(て)にいりがたし。我(わが)手(て)にいらねば。末代(まつだい)盗賊(とうぞく)の汚名(をめい)をすゝ ぐ事(こと)あたはず。金(かね)づくにてこれまでみがきし武士道(ぶしどう)をすて。先祖(せんぞ)の 名(な)までをけがすこと。思へば〳〵無念(むねん)なり。口(くち)おしさよとて男(おとこ)なきになき 玉ひしが。骨身(ほねみ)にしみていたはしく。何(なに)とぞ金(かね)とゝのへてあげ申んと。思へど外(ほか)に仕(し) かたもなし。幸(さいはひ)京都(きやうと)五条坂(ごじやうざか)の傾城屋(けいせいや)。篠村八幡(しのむらはちまん)の門前(もんぜん)に。旅宿(りよしゆく)し て居(をる)と聞(きゝ)。ひそかにまゐりて。此(この)身(み)を百両(ひやくりやう)に買(かい)くれよとたのみしかば。すみ やかにうけがひしが。妖蛇(ようじや)のいはれを。聞(きく)とその侭(まゝ)破談(はだん)におよぶ。金(かね)がほしいと 思ふ心(こゝろ)一図(いちづ)に。我身(わかみ)の片輪(かたわ)に心(こゝろ)つかざりし事(こと)よと。みづからはぢ思ひつゝ。すご 〴〵かへらんとしつるに。捨(すつ)る神(かみ)あればたすくる神(かみ)もありといふ。常言(ことわざ)の ごとく。今(いま)ひとりの年(とし)かさなる傾城屋(けいせいや)が申すには。これまで蛇(へび)つかひの女 さま〴〵ありしが。実(まこと)の因果(いんぐわ)にてさることあるはめづらしく。殊更(ことさら)生(うま)れつきもよけ れば。糺川原(たゞすがわら)にて見せものにせば。あそびにするよりかへりて利得(りとく)おほからん。 もし見せものになる心(こゝろ)あらば。五 年(ねん)をかぎり百両(ひやくりやう)にかゝゆべしと申すにより。 見せものはおろか。たとへ生皮(いきかは)をはがれ。生胆(いききも)をとらるゝとも。百両(ひやくりやう)の金(かね)をとゝ のへ。父上(ちゝうへ)の汚名(おめい)をさへすゝげば。露(つゆ)ばかりもいとふべからず。ことさら面(おもて)はさらす とも。うき川竹(かはたけ)のながれをくみ。身(み)をけがすにはましならめ。諸人(しよにん)にはぢを さらしなば。かへりて罪障(ざいしやう)の。きえうせなんよすがともならんかと。心(こゝろ)を決(けつ)し。 それにきはめてもどりしが。父上(ちゝうへ)にはいひだしかねて居(ゐ)つるに。今日(けふ)思はずも 母(はゝ)さまの。おんかへりを幸(さいは)ひとし。妾(わらは)が心底(しんてい)をうちあけ。さきほど裏口(うらぐち)より ともなひいでゝ。かしこにゆき。母(はゝ)さまの手形(てがた)をすゑて証書(しやうしよ)を渡(わた)し。 百両(ひやくりやう)の金(かね)をうけとり。今夜(こよひ)のうちに都(みやこ)へ旅立(たひだつ)はづに約(やく)して。かへりし 折(おり)から。捕手(とりて)の騒動(そうどう)若君(わかぎみ)の御急難(ごきうなん)。母(はゝ)さまとものかげにて。唯(たゞ)あきれ てをり候。不審(ふしん)はなさせ玉ひそとよ。文弥(ぶんや)が持(もち)しかの金(かね)は。妾(わらは)が身(み)の代(しろ)に ちがひなく候と。泣(なく)〳〵かたるにぞ。なむ右衛門一ツの不審(ふしん)ははれたれども。 それを文弥(ぶんや)が口(くち)ずから。盗(ぬすみ)しとはなどいひしと。血刀(ちがたな)をなげすてゝ。とひかゝ る。いそ菜(な)かはりていひけるは。若君(わかきみ)の御急難(ごきうなん)をきくとひとしく。文弥(ぶんや)を おん身がはりと思ひつきしが。忠義(ちうぎ)に凝(こつ)たるおん身(み)なれども。さすが親(おや) 子(こ)の愛着(あいじやく)にて。もし心(こゝろ)もおくれ玉はんかと。文弥(ぶんや)にいひふくめ。父上(ちゝうへ)の気(き) 質(しつ)塵(ちり)ばかりも。ゆがめる事(こと)をきらひ玉へば。此(この)金(かね)を盗(ぬすみ)しといひ悪口(あつかう)せ ば。怒(いか)りに乗(じやう)じて恩愛(おんあい)の紲(きづな)をたち。手打(てうち)し玉はんは必定(ひつぢやう)也。しか〴〵 はからふべし。と心(こゝろ)づよくもいひきけたれば。すみやかに聞(きゝ)とゞけ。某(それがし) 宿世(すくせ)の因果(いんぐわ)にて。盲目(まうもく)となりつれば。すは主君(しゆくん)の御大事(おんたいじ)といふ とも。戦場(せんぢやう)のはたらきなりがたく。武士(ぶし)の子(こ)とうまれたるかひなしと。 日来(ひごろ)くちをしく思ひつるに。若君(わかぎみ)のおん身(み)がはりとなるは。戦場(せんぢやう)の打(うち) 死(じに)も同然(どうぜん)。ねがふてもなき幸(さいはひ)也。さりながらたとへ計(はかりごと)にもあれ。親(おや) にむかひて悪口(あくかう)し。盗(ぬすみ)せしなどは勿体(もつたい)なくて申しがたし。こればかりはゆるし 玉へといひけるゆゑ。そは最(もつとも)のことなれども。さなくては父(ちゝ)うへの。愛念(あいねん)を 絶(たつ)ことあたはず。何事(なにごと)もみな忠義(ちうぎ)の為(ため)ぞとて。やう〳〵得心(とくしん)させ つるに。けなげにもよくはからひしぞ。ほめつかはされくださるべし。さき ほどものかげにて。おん身(み)の様子(やうす)をうかゞひしに。若君(わかぎみ)をとも なひてのがれ出(いで)。かなはぬ時(とき)はきり死(じに)と。覚悟(かくご)の体(てい)に見へたれども。 村(むら)の口(くち)〴〵山道(やまみち)まで。捕手(とりて)の人数(にんず)かため居(ゐ)るよし聞(きゝ)はべれば。とても のがるゝ道(みち)はなし。きり首(くび)となり瞼(まぶた)をふさがば。盲目(めしい)目(め)あきの差(しや) 別(べつ)もあらじ。たとへ眼平(がんへい)若君(わかぎみ)のおん顔(かほ)を見知(みしる)とも。忠義(ちうぎ)の一心(いつしん)を以(もつ)て あざむかば。やはり損(しそん)じ候まじ。大丈夫(だいじやうぶ)のおん身(み)をさへ。恩愛(おんあい)にひか されて。おぼつかなしと思ふものを。愚智(ぐち)な女の心(こゝろ)といひ。朝夕(あさゆふ)はなれず 手(て)しほにかけて。これまでに育(そだて)あげたるいとし子を。すゝめて殺(ころ)さす 胸(むね)のうち。御推量(ごすいりやう)くだされかし。しかのみならず娘(むすめ)楓(かへで)。しばしのわかれと いひながら。世(よ)の中(なか)の親(おや)の情(なさけ)は。我子(わがこ)の片輪(かたわ)をどこまでも。かくして やるが常(つね)なるに。諸人(しよにん)に顔(かほ)をさらさせて。丹波(たんば)の国(くに)の恩果娘(いんぐわむすめ)と。 のち〳〵までもはぢを残(のこ)さす不便(ふびん)さよ。妾(わらは)が身(み)せめて十 年(ねん)とし若(わか) くば。此(この)身(み)を売(うり)ても。娘(むすめ)にうき目(め)は見せまじものをと。くどきたて〳〵。兄弟(きやうだい) ふたりの手(て)をとりつゝ。夫(おつと)におくれをとらせじと。たへしのびつるため涙(なみだ)。 瞼(まぶた)の堤(つゝみ)をおしきりて。あふれおつるぞことわりなる。なむ右衛門 始終(しじう)を 聞(きゝ)。うたがひはるれば百倍(ひやくばい)かなしく。鉄石(てつせき)のごとき心(こゝろ)にも。肝(きも)にやきがねさゝ るゝ思ひ。五臓六腑(こぞうろつぷ)悩乱(のうらん)し。しばし詞(ことば)もいでざりしが。やゝありていひけるは。 文弥(ぶんや)事(こと)若君(わかぎみ)と同年(どうねん)といひ。剃髪(ていはつ)の姿(すがた)といひ。顔(かほ)かたちも似(に)たる ゆゑ。おん身(み)がはりと思ひつきては見しかども。何(なに)いふも盲目(めしい)にて用(よう)にたゝず と。一図(いちづ)に思ひて。死首(しにくび)のまぶたをふさぎ。盲目(めしい)めあきのへだてなき所(ところ) にはつゆはかりも心(こゝろ)つかざりし。楓(かへで)も容(かたち)はすぐれたれども。片輪(かたわ)なれば 身うりもならず。嗚呼(あゝ)ふたりの子(こ)どもは持(もち)ながら。親(おや)の恩果(いんぐわ)が子に 報(むくい)。忠義(ちうぎ)の用にたゝざる事(こと)よと。残念(ざんねん)に思ひしが。おことをはじめ兄弟(きやうだい)の 子(こ)どもら。たぐひまれなる心底(しんてい)かな。持(もつ)べきものは子(こ)なるぞやといひて。涙(なみだ)と血(ち)と 相和(あいくわ)して。滝(たき)のごとくに流(なが)しけり。文弥(ぶんや)は母(はゝ)の介抱(かいほう)にて。やう〳〵と起(おき) なほり。おとなしやかに手(て)をつきていひけるは。渇(かつ)しても盗泉(とうせん)の水を 飲(のま)ずとやらんきくものを。母(はゝ)うへのおふせとはいひながら。盗(ぬすま)ぬ金を盗(ぬすみ)し と。親(おや)をいつはる詞(ことは)の罪(つみ)。おんゆるしくだされかし。果報(くわほう)つたなくて。生(うま)れ もつかぬ盲目(めしい)となりぬれば。せめて芸道(げいどう)をはげみ。父(ちゝ)母(はゝ)老後(ろうご)の 心を安め。片輪(かたわ)な奴(やつ)に御不便(ごふびん)をくはへ玉ひ。御養育(こよういく)くだされし。大 恩(おん)を むくはんものと。それたのしみに四年(よねん)このかた。精神(せいしん)をこらせしが。此度(このたび)若君(わかぎみ) に一 命(めい)をたてまつり。姉(あね)うへも身(み)を売(うり)玉へば。此(この)末(すへ)はさぞ心ぼそくおぼさ れん。生(いき)わかれ死(しに)わかれと兄弟(きやうだひ)二道(にだう)にわかれども。死(し)は一且(いつたん)にしてなし安(やす)く。生(いき)て 諸人(しよにん)に面(おもて)をさらし。父(ちゝ)の汚名(おめい)をすゝがんとおぼしめす。姉(あね)うへの心底(しんてい)は。 又なしがたき孝行(かう〳〵)也。此(この)年来(としごろ)学(まな)び得(え)し。琵琶(びは)の一手(ひとて)を父(ちゝ)うへに。聞(きか)せ 申さで死(しす)るのは。心 残(のこ)りに候へば。かく手(て)を屓(おひ)ておぼつかなくははべれども。 一曲(いつきよく)つかふまつり候べし。冥途(めいど)の旅(たび)のおき土産(みやげ)。ながきかたみとおぼ されて。おん聞(きゝ)くだされかし。母人(はゝびと)さまその琵琶(びは)こゝへといふにぞ。いそ菜(な) 泣(なく)〳〵琵琶(びは)とりいだしてあたふれば。わずかに年(とし)は十一 才(さい)の盲児(めくらこ)が。 縹木綿(はなだもめん)の肩(かた)あげに。血(ち)しほしたゝる疵口(きずくち)の。いたさをこらへて琵琶(びは) かきならし。いと苦(くる)しげに声(こゑ)たてゝ。平家(へいけ)をぞかたりける  さるほどに。一の谷(たに)の軍(いくさ)やぶれしかば。武蔵(むさし)の国(くに)の住人(ぢうにん)熊谷(くまがへ)の  次郎 直実(はほざね)。平家(へいけ)の公達(きんだち)たすけ船(ふね)にのらんとて。みぎはの  かたへおちゆき玉ふらん。あつぱれよき大将軍(たいしやうぐん)にくまばやと  思ひ。ほそ道(みち)にかゝつて。みぎはのかたへあゆまする所(ところ)に。こゝに  ねりぬきに寉(つる)ぬふたる直垂(ひたゝれ)に萌黄薫(もゑぎにほひ)の鎧(よろひ)着(き)て。鍬(くは)  形(がた)打(うつ)たる甲(かぶと)の緒(お)をしめ。黄金作(こがねづくり)の太力(たち)をはき。二十四さいたる  きりうの矢(や)おひ。頻藤弓(しげどうゆみ)もち。連銭驄(れんぜんあしげ)なる馬(うま)に。金覆(きんぷく)  輪(りん)の鞍(くら)おいてのつたりける者(もの)一騎(いつき)。沖(おき)なる船(ふね)を目(め)にかけ海(うみ)へ  さつと打入(うちいれ)。五六たんばかりぞおよがせける とうたふ唱歌(しやうが)も声(こゑ)くもり。ひくてもふるへてたしかならねど。さすが日(ひ) 来(ごろ)の手練(しゆれん)といひ。此世(このよ)のなごりと思ふから。苦(くる)しき息(いき)をはげませつゝ。三(さん) 重(ぢう)の甲(かう)をあげ。初重(しよぢう)の乙(おつ)に収(おさめ)て。うたひすしまたりければ。大絃(たいげん)は嘈(そう〳〵) として急雨(きうう)のごとく。小絃(しやうげん)は切々(せつ〳〵)として私語(しご)のごとく。昭君(せうくん)馬上(ばしやう)にしらべ。 【挿絵】 文弥(ぶんや)手(て)をおひ実(じつ)は 月若(つきわか)の身代(みがわり)にならん 覚悟(かくご)と本心(ほんしん)をかたり 死出(しで)のおきみやげ なりとて平家(へいけ)を かたる其(その)声(こへ)   いともあわれなり 六字なむ右衛門 かへで ぶんや いそな 楽天(らくてん)客舟(かくしう)に聞(きゝ)つるにも。はるかにまさりて哀(あわれ)なり。なむ右衛門 耳(みゝ)を そばだてゝ聞(きゝ)居(ゐ)たるが。恩愛(おんあい)切(せつ)なる難(なげき)のうへに。かゝるかなしき調(しらべ)をきけ ば。皮肉(ひにく)もはなるゝこゝちして。こらへかねてぞ泣伏(なきふし)ける。礒菜(いそな)。楓(かへで)も。もろ ともに。涙(なみだ)にむせぶばかりなり。文弥(ぶんや)はなほも声(こゑ)ふりたて  熊谷(くまがへ)なみだをはら〳〵とながいて。あれ御覧(ごらん)候へ。いかにもして  たすけまゐらせんとは存(ぞんじ)候へども。味方(みかた)の軍兵(ぐんひやう)うんかのごとく  みち〳〵て。よものがしまゐらせ候はじ。あはれおなじうは直実(なほざい)が  手(て)にかけ奉りて。後(のち)の御孝養(ごけうやう)をもつかまつり候はんと申  ければ。只(たゞ)何様(なにやう)にもとう〳〵首(くび)をとれとぞのたまひける。くま  がへあまりにいとをしくて。いづくに刀(かたな)を立(たつ)べしともおほえず。目(め)も  くれ心(こゝろ)もきえはてゝ。前後(せんご)ふかくにおぼえけれども。さてしもあるべき  ことならねば。なく〳〵首(くび)をぞかいてげる とうたふ声(こゑ)さへ。しだいによはり。ほど〳〵たえん琵琶(びは)の緒(お)に。かゝる血(ち)しほ の疵口(きずくち)より。さとながるればあな苦(くる)しや。もはやうたふことかなひがたし。 これまでぞとて。琵琶(びは)をおき。此世(このよ)からさへ一条(ひとすぢ)の。杖(つゑ)をたよりの暗穴道(あんけつだう)。 死出(しで)の旅路(たびぢ)は殊更(ことさら)に。黒闇地獄(こくあんぢごく)に迷行(まよひゆき)。無目(むもく)の餓鬼(がき)と生(うま)れ出(で)て。 呵責(かしやく)をうけんは必定(ひつぢやう)なり。それを不便(ふびん)とおぼすなら。末期(まつご)の水を さかしまに。逆縁(ぎやくえん)ながらお手(て)づから。香花(かうげ)を手向(たむけ)たまはれかし。我身(わがみ)のた めの功徳(くどく)には。他人(たにん)の千 僧供養(ぞうくよう)より。はるかにまさり候べし。さらぬだに。 親子(おやこ)は一世(いつせ)のちぎりときくに。盲目(まうもく)のかなしさは。父上(ちゝうへ)母(はゝ)うへ。千万 年(ねん)のお 齢(よはひ)すぎて。冥途(めいど)へおはす事(こと)ありとも。お顔(かほ)を見る事(こと)かなはじと。思へばこれ が三世(さんぜ)のわかれ。又あふことはあらじと思へば。いとゞかなしくなごりおし。父(ちゝ)うへは どこにおはすぞと。いひつゝはひよりて。なむ右衛門にとりすがり。身(み)う ちを探(さぐ)りつ。撫(なで)まはしつ。御苦労(ごくろう)をなさるゝゆゑか。いかうやつれが見(み)へはべる。 かならずわづらひ玉ふなよ。とかくおん身(み)恙(つゝが)なく。寿(ことぶき)長(なが)くおはしませと。今般(いまは) のきはまで孝心(かうしん)の。ふかき詞(ことば)をきくになほ。なむ右衛門 胸(むね)ふさがり。主君(しゆくん)の 御先途(ごせんど)見とゞけて后(のち)は。藤波(ふぢなみ)が縁者(えんじや)をたづね。恨(うら)みの刃(やいば)にかゝりて死(し)す べき。かねての覚悟(かくご)なれば。思へば蜉蝣(ぶゆう)の一期(いちご)にて。翌(あす)をもしらぬこの身(み) なるに。夫(それ)とはすこしもしらずして。長生(ながいき)せよとは。いとをしのいひごとよと。心(こゝろ)に は思ひながら。口(くち)にはえいはず。過去(くわこ)の修因(しゆいん)今生(こんじやう)の現果(げんくわ)。つたなかりける 我(われ)かなと。のみいひて。とかく涙(なみだ)にむせびけり。礒菜(いそな)。楓(かへで)。両人(りやうにん)は文弥(ぶんや)が左右(さいう) にとりつきて。これが三世(さんせ)のわかれかと。声(こゑ)もおしまず泣(なき)ければ。文弥(ぶんや)は ふたりが身(み)うちをさぐり。せめての事(こと)にたゞ一目(ひとめ)。おん顔(かほ)を見(み)て死(しに)たきこと ぞ。盲目(まうもく)となりしは何(なに)の因果(いんぐわ)と。又 今更(いまさら)にかきくどきて。血(ち)を□□り 泣(なき)けるが。折(おり)しも空(そら)に時鳥(ほとゝぎす)。一声(ひとこゑ)なきて過(すぐ)るにぞ。死出(しで)のたをさの道(みち)しるべ ながく苦痛(くつう)をせんよりは。少(すこし)もはやく父(ちゝ)うへの。おん手(て)にかゝるにしくなしと。西(にし)に むかひて合掌(がつしやう)し。しばらく念仏(ねぶつ)をとなへつゝ。いざ〳〵と催促(さいそく)し。首(くび)さしのべ て。まちければ。なむ右衛門 子(こ)にはげまされて身(み)を起(おこ)し。刀(かたな)を抜(ぬき)そばめ やがてうしろに立(たち)まはりけるが。前(さき)に斬(きり)しは怒(いかり)の刀(かたな)。今(いま)の刀(かたな)は恩愛(おんあい)の。切(せつ)なる 思ひの剣(つるぎ)なれば。手(て)も抖(わなゝ)き脚(あし)も軟(なへ)ぎて。いづくに剣(つるぎ)を打(うつ)べしともおぼえず。 今(いま)聞(きゝ)つる琵琶(びは)の唱歌(しやうが)。熊谷(くまがへ)の次郎は敵(てき)でさへ。敦盛(あつもり)を打(うち)かねつる ものを。現在(げんざい)我子(わがこ)を斬(きる)おもひ。いかでかたへ忍(しのぶ)べきと。前後不覚(せんごふかく)の体(てい)なりしが。 時刻(じこく)うつりて仕損(しそん)じなば。かれが忠死(ちうし)も水(みづ)の泡(あは)と。おもひきり〳〵。よろめく 足(あし)をふみしめつゝ。若我成仏十方世界(にやくがじやうぶつじつほうせかい)。念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゆじやうせつしゆふしや)。南無(なむ) 阿弥陀仏(あみだぶつ)と。声(こゑ)もろともに。はつしときれば。むざんやな。首(くび)は前(まへ)にまろびおち。 躯(むくろ)はうしろにたふれたり。礒菜(いそな)。楓(かへで)は。太刀音(たちおと)と。共(とも)にさけびて打(うち)ふしぬ。折(おり)しも 遠寺(ゑんじ)の鐘(かね)の声(こゑ)。はや三更(さんかう)の時(とき)なれば。猶予(ゆうよ)ならずと立(たち)よりて。かの金(かね)を とりをさめ。手(て)ばやく躯(むくろ)を葛篭(つゞら)にかくし。泣伏(なきふす)妻(つま)を引(ひき)おこし。泣(ない)て居(お)る処(ところ)に あらず。此(この)金(かね)持(もち)て裏道(うらみち)より。かの巻物(まきもの)を買取(かひとり)来(きた)れ。娘(むすめ)は今宵(こよい)生別(いきわかれ)。しば しもなごりをおしむべしとて。鮮血(なまち)したゝる首(くび)たづさへ。両人(りやうにん)をひきたてつゝ。 へだての紙門(ふすま)をたてきりて。その後(のち)音(おと)もなかりけり。約束(やくそく)の時刻(じこく)ぞ と。里星(くろぼし)眼平(がんへい)手(て)の者(もの)をゐて来(きた)り。やよ〳〵なむ右衛門。若君(わかぎみ)の首(くび)打(うち)しか。いかに 〳〵とよはゞれば。一間(ひとま)のうちよりなむ右衛門。首桶(くびおけ)をたづさへて。打(うち)しほれつゝ あゆみ出(いで)。厳命(げんめい)もたしがたく。いたはしながらおん首(くび)打(うち)候ひぬ。いざ御点検(ごてんけん)と さしいだせば。眼平(がんへい)いはく。某(それがし)月若(つきわか)どのをよく見 知(し)りたる事(こと)は。かねて知(しり)たる なんぢなれば。よも仮首(にせくび)はわたすまじ。もし又すこしもいつはらば。忽(たちまち)なんぢが身(み) のうへなりと。にらみつゝ。首桶(くびおけ)を引(ひき)よせて。已(すで)に蓋(ふた)をとらんとす。なむ右衛 門は若(もし)仮首(にせくび)と見あらはさば。きり死(じに)すべき斍悟(かくご)にて。袖(そで)の下(した)に刀(かたな)を抜(ぬき)かけ。 かたずをのみてひかへしは。げに危(あやう)くぞ見えたりける。眼平(がんへい)蓋(ふた)をとりのけて。これ はとおどろく体(てい)なりしが。文弥(ぶんや)が首(くび)の口中(かうちう)より。陰気(いんき)を吐(はく)と。なむ右衛門が目(め)に のみ見へしが。眼平(がんへい)忽(たちまち)眼(まなこ)くらみ。いかにも月若(つきわか)どのゝおん首(くび)に相違(さうい)なし。よく打(うち) つるぞと賞美(しやうび)して。首桶(くびおけ)をとりおさめ。従者(じゆうしや)をちかづけ。とほまきの人(にん) 数(ず)を。とく〳〵ひかすべしと下知(げち)をなし。ふたゝびなむ右衛門にむかひ。若君(わかぎみ)の首(くび) 打(うち)たるうへは。汝(なんぢ)においてかまひなし。旧悪(きうあく)の罪(つみ)あれども。此度(このたび)の㓛(こう)により。大殿(おほとの)の 御前(こぜん)。よきにとりなしつかはすべしと。いひ捨(すて)て。人数(にんず)を引(ひき)つれ立(たち)かへる。なむ右 衛門ため息(いき)を吻(ほ)とつきて。とほまきの人数(にんず)を引(ひけ)ば。もはや気(き)づかふ事(こと)なし 若君(わかぎみ)をおとしまゐらす。支度(したく)せばやと思ひつゝ。立上(たちあが)る折(おり)しも。妻(つま)いそ菜(な)息(いき)も つきあへずはせ帰(かへ)り。様子(やうす)はいかにとたづぬれば。文弥(ぶんや)が一念(いちねん)頭(かうべ)にとゞまり。 陰気(いんき)を吐(はき)て。眼平(がんへい)が眼(まなこ)をくらませ。十 分(ぶん)に欺(あざむ)きしときゝて。いそ菜(な)は心(こゝろ)おち つき。かの巻物(まきもの)をとり出(いだ)してわたせば。なむ右衛門ひらきみて。お家(いへ)の重(ちやう) 宝(ほう)に。まぎれなしとて巻(まき)おさめ。これさへあればそれがしが。汚(けがれ)たる名(な)をそゝぎ。 末代(まつだい)までもきよかるべし。これといふも楓(かへで)が孝心(かうしん)ふかきゆゑぞ。娘(むすめ)はもはや旅(たひ) 立(たち)しか。あな不便(ふびん)や。さそかなしからん。今(いま)思へば。かれを楓(かへで)となづけしも。かへで は蟇手(かいるで)の略訓(りやくくん)にて。小蛇(しやうじや)のたゝる前表(ぜんひやう)ならん。文弥(ぶんや)が初名(しよめい)を栗(くり)太郎と名(な)づしけも。 丹波(たんば)の国(くに)の爺打栗(てゝうちぐり)。爺(てゝ)に打(うた)るゝ因縁(いんえん)か。只(たゞ)此(この)うへは文弥(ぶんや)めが。菩提(ぼだい)をとふが 肝要(かんやう)なり。眼平(がんへい)一度(ひとたび)仮首(にせくび)をとりゆきしが。今(いま)にそれとあらはれて。ふたゝび こゝによせ来(きた)らんは必定(ひつぢやう)なり。片時(へんし)もはやく若君(わかぎみ)を。おとし申すにしかじと いひて奥(おく)に入(いり)。月若(つきわか)の手(て)をたづさへて立(たち)いづれば。若君(わかぎみ)は目(め)を泣(なき)はらし。 夫婦(ふうふ)の忠節(ちうせつ)過分(くわぶん)なり。便(びん)なき文弥(ぶんや)が身(み)のはてやと。なげき のたまふ一言(ひとこと)が。世(よ)にあるときの千石(せんごく)より。夫婦(ふうふ)が身(み)にはありがたく。 なむ右衛門 巻物(まきもの)を懐中(くわいちう)し。躯(むくろ)をいれたる葛篭(つゞら)をせおひ。若(わか) 君(ぎみ)のおん手(て)をとれば。妻(つま)のいそ菜(な)は琵琶(びは)をいだき。地水火風(ちすいくわふう)の四ツ の緒(お)の。きれし我子(わがこ)のかたみぞと。転手(てんじゆ)撥面(ばちめん)半月(はんげつ)の。月(つき)の光(ひか)りを たよりにて播磨(はりま)のかたへぞおちゆきける ○かくて。なむ右衛門 夫婦(ふうふ)。若君(わかぎみ)を扶(たすけ)て。播磨(はりま)より河内(かはち)にいたり  取縁(しよえん)の寺(てら)にたよりて。文弥(ぶんや)が躯(むくろ)を煙(けふり)となし。かたみの琵琶(びは)  を施物(せもつ)として。仏事(ぶつじ)をいとなみ。若君(わかぎみ)にいそ菜(な)をつけて。かの寺(てら)  に忍(しの)ばせおき。その身(み)はかの巻物(まきもの)をたづさへ。桂之助(かつらのすけ)銀杏(いてふの)  前(まへ)の。ゆくへをたづねに。いでけるとぞ    巻之三終 【裏表紙】 《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 五 昔話(むかしがたり)稲妻(いなつま)表紙(びやうし)巻之四           江戸  山東京伝編   十二 修羅(しゆら)の大鼓(たいこ) さても銀杏(いてふ)の前(まへ)は。山三郎に扶(たすけ)られて。生駒山(いこまやま)の麓(ふもと)までおちのびしが。 辻堂(つぢどう)にて追手(おひて)の者(もの)に捕(とら)へられ。不破(ふは)道犬(だうけん)が手(て)にわたりて。蜘手方(くもでのかた)の 深殿(しんでん)。おくまりたる一間(ひとま)のうちに押篭(おしこめ)られて。日(ひ)のかげだに見ること あたはず。月若(つきわか)の身(み)のうへ苦(く)になるうへに。朝夕(あさゆふ)の食事(しよくじ)だに。ろく〳〵に 与(あた)へざれば。心気(しんき)日々(ひゞ)におとろへ。身体(しんたい)夜々(やゝ)にやせほそりて。命(いのち)も危(あやう)く 見え玉ふ。しかのみならず。道犬(だうけん)蜘手方(くもでのかた)と密談(みつだん)して。大殿(おほとの)判官(はんぐわん)の 命(めい)といつはり。いてふの前(まへ)を引(ひき)いだして。両人(りやうにん)かはる〴〵。昼夜(ちうや)たえまなく 寤現責(うつゝぜめ)にして。月若(つきわか)のゆくへ白状(はくじやう)せよと責(せめ)にけり。むざんやないてふの 前(まへ)は。三日(みつか)三夜(さんや)のうつゝぜめにつかれはて。おぼえずねふれば。道犬(だうけん)耳(みゝ)のはたに 大鼓(たいこ)をならして。ねふりをさまさせ。しばしのうちもねふらさず。夢(ゆめ)幻(まぼろし)の 世(よ)の中(なか)に。夢(ゆめ)も見せぬぞ哀(あわれ)なる。道犬(だうけん)眼(まなこ)をいからし。いかにいてふの前(まへ)どの。月(つき) 若(わか)どのゝゆくへ。しらぬ事はよもあらじ。とく〳〵白状(はくじやう)しめされよ大殿(おほとの)の 厳命(げんめい)なれば。とてものがれぬ処(ところ)ぞと責(せめ)とへば。いてふの前(まへ)瞼(まぶた)おもげに。目(め)を ひらきて。苦(くる)しげに息(いき)をつき。かくやすみなき責(せめ)にあひ。夜(よ)とも昼(ひる)とも おもほえず。夢(ゆめ)か現(うつゝ)か寝(ね)てか醒(さめ)てか。わかたざるこゝちすればいかばかりいと をしと思ふ我子(わがこ)にても。。ありかさへしるならば。うつゝのうちにいはでやは。いかでか つゝみかくさるべき。推量(すいりやう)してよ道犬(だうけん)と。のたまひつゝも又ねふれば。又 大鼓(たいこ)を 打(うち)て目(め)をさまさす。ねふれば打(うち)うてば醒(さめ)。水責(みつぜめ)火責(ひぜめ)にあふよりも。はるかに まさる責苦(せめく)なり。傍(かたはら)より蜘手方(くもでのかた)。小膝(こひさ)をすゝめてちかくより。いまだ わづかに三日(みつか)三夜(さんや)の責(せめ)なれば。まこと現(うつゝ)にはならぬとおぼし。ながき責(せめ)をうけん より。つひ一言(ひとこと)白状(はくじやう)せよ。此うへにもいはずは。骨(ほね)をひしぎ肉(にく)をさきても。いは さでやはあるべき。いでいへいで荅(こた)へよとて。角(つの)なき夜叉(やしや)のさまなして。くらひつく べき形勢(ありさま)なり。いてふの前(まへ)顔(かほ)をあげ。いかほどにのたまふとも。しらぬ事はせん すべなし。只(たゞ)此うへは片時(へんし)もはやく。殺(ころ)し玉ふが情(なさけ)ぞとて。さめ〴〵と泣(なき)玉ふ。紺(こん) 青(じやう)の髪(かみ)すぢも。こぼるゝまゝにとりあげず。顔(かほ)さしいるゝ襟(ゑり)もとに。つたふ涙(なみだ)の 白玉(しらたま)は。夷(ゑびす)の国(くに)の胸装(むなかざり)を。目前(まのあたり)見るこゝちして。哀(あわれ)などいふもおろか也。蜘手方(くもでのかた) 声(こゑ)あらゝげ。あなしぶとき女めかな。とても本性(ほんしやう)にては白状(はくじやう)せまじ。いつまでも 手(て)をゆるめず。責(せめ)つからして現(うつゝ)のうちにいはすべし。道犬(たうけん)大鼓(たいこ)打(うて)〳〵と下知(げぢ)する にぞ。道犬(だうけん)かしこみ候とて。耳(みゝ)のはたにさしつけて。鼕々(どう〳〵)と打(うち)ならせば。いてふの 前(まへ)の身にとりては。修羅(しゆら)の大鼓(たいこ)にことならず。一百(いつひやく)三十六 地獄(ぢごく)。品(しな)かは りたる呵責(かしやく)にも。たぐひまれなる責苦(せめく)なり。かゝる折(おり)しも。とり次(つぎ)の者(もの) はせまゐり。黒星(くろぼし)眼平(がんへい)只今(ただいま)帰国(きこく)つかまつりおん次(つぎ)にひかへ。おんめしを まち候ときこゆれば。道太(だうけん)打聞(うちきゝ)。それいそぎこれへよべといふにぞ。かしこみ 候とて退(しりぞ)きぬ。ほどなく眼平(がんへい)まかりいで。椽側(ゑんがは)に頭(かしら)をさげていひけるは。 月若(つきわか)どのゝゆくへをたづね。おん首(くび)打(うち)てまゐれとのおふせにより。所々(しよ〳〵) 方々(ほう〴〵)をたづねもとめ候うち。註進(ちうしん)の者(もの)ありて。丹波(たんば)の国(くに)穴太(あなふ)の里(さと)に住(すむ)。 六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門と申す者(もの)。かくまひおくよし聞(きゝ)いだし候ゆゑ。いそぎゆき むかひ候 所(ところ)に。彼者(かのもの)いかゞしてか打手(うつて)のむかふ事を知(しり)。若君(わかぎみ)をつれてのがれ 去(さ)り。ゆくへしれずなり候。なむ右衛門と申すは別人(べつじん)ならず。佐々良(さゝら)三八 郎がことに候と。仮首(にせくび)をうけとりし。おのが越度(おちど)はおしかくし。まことしやか に相(あい)のぶる。蜘手方(くもでのかた)これを聞(きゝ)。そは残念(ざんねん)なり。しかるうへは。いてふの前(まへ)を せむるも無益(むやく)なり。かれはとくに殺(ころ)すべきはづなれども。畢竟(ひつきやう)月若(つきわか)の ありかをいはさんばかりに。今日(こんにち)までもいけおきぬ。もし大殿(おほとの)の心(こゝろ)かはり て。助命(ぢよめい)などあらば。後日(ごにち)のさまたげなり。とく〳〵かれを殺(ころ)すべし。 月若(つきわか)三八郎がゆくへは。なほきびしくたづぬべし。道犬(だうけん)そちはいかゞ思ふ やらんとのたまへば。道犬(たうけん)うなづき。それがしも左(さ)こそ存(そんじ)候へ。さるからは片時(へんし) も猶予(ゆうよ)はよろしからず。幸(さいは)ひ日(ひ)もくれなんとすれば。今宵(こよひ)のうちに御 首(くび)打(うち)候べし。いかに眼平(がんへい)。なんぢいてふの前(まへ)どのを乗物(のりもの)にのせ。夜(よ)にまぎ れて岩倉谷(いはくらだに)にかきゆき。ひそかにおん首(くび)打(うち)て来(きた)るべしと命(めい)じければ。 眼平(がんへい)腹心(ふくしん)のしもべをよびつぎ。庭(には)さきに乗物(のりもの)をかきいれさせ。夢(ゆめ)現(うつゝ) にて打伏(うちふし)たる。いてふの前(まへ)を。情(なさけ)なくもあらなはにて高手(たかて)小手(こて)にくゝし あげて。乗物(のりもの)におし入(いれ)。しもべにかゝせつきそひて庭(には)づたひにいで岩倉(いはくら) 谷(だに)にいそぎゆきぬ。いてふの前(まへ)はこのごろのつかれにて。乗物(のりもの)のうちに熟(じゆく) 睡(すい)し。身(み)のあやうさも露(つゆ)しらず。屠所(としよ)のあゆみのほどもなく。岩倉谷(いはくらだに)に ゆきつき。眼平(がんへい)下知(げぢ)して。とある処(ところ)に乗物(のりもの)をすゑさせ。戸(と)をあけていてふ の前(まへ)をひきいだす。いてふの前(まへ)は此時(このとき)にいたりて。やう〳〵すこしねふりさめ。 目(め)をひらきて。先(まづ)我身(わがみ)をかへりみれば。いましめの縄目(なはめ)あり。四方(よも)をあふぎて 見わたせば。月(つき)の光(ひか)りはあきらかなれども。いづくいるなる所(ところ)をしらず。松(まつ)吹(ふく)風(かせ)は 梢(こずゑ)をならし。谷(たに)の水音(みつおと)耳(みゝ)にひゞきて。ものすさまじくきこゆれば。こはまだ 夢(ゆめ)のうちなるかと。更(さら)にうたがひはれざりけり。眼平(がんへい)むかひ合(あひ)ていひけるは。 いかにいてふの前(まへ)どの。此(この)所(ところ)は名(な)におへる岩倉谷(いはくらだに)といふ所(ところ)也。大殿(おほとの)の厳命(けんめい)に よりて。唯今(たゞいま)おん首(くひ)を打(うつ)なり。念仏(ねんぶつ)まうしたくおぼさばとく〳〵申されよ と。情(なさけ)なげにぞ申しける。いてふの前(まへ)これを聞(きゝ)。さては我身(わかみ)も今(いま)かぎりなる か。捕(とら)へられたるその時(とき)より。覚悟(かくご)のうへの命(いのち)なれば。おどろくべきにあら ざれども。今般(いまは)のきはに唯(たゞ)一目(ひとめ)。月若(つきわか)を見ざるのみ。此世(このよ)の心(こゝろ)のこりぞかしとて。 さめ〴〵とぞなげかるゝ。たとへ鉄(てつ)もて鋳(ゐ)なしたる人(ひと)。土(つち)もてつりたる的(もの)なり とも。すこしは哀(あは)れをもよほすべきに。物(もの)のあはれをわきまへざる。夷(えびす)ごゝろの 眼平(がんへい)なれば。なげきを耳(みゝ)にも聞入(きゝいれ)ず。氷(こほり)なす刀(かたな)を抜(ぬき)。左(ひだ)りの方(かた)よりふみこ みて。已(すで)にかうよと見えたる処(ところ)に。はるかむかふの茂林(もりん)のうちより。噇的(どうと)一声(いつせい) ひゞきわたりて。たちまち鉄丸(てつぐわん)飛来(とびきた)り。眼平(がんへい)が胸板(むないた)を打(うち)ぬきければ。血(ち)を吐(はき) ながらさかしまにひるがへり。ふすぼりかへりて死(しゝ)てげり。しもべらは魂(たましい)天外(てんぐわい)に 飛去(とびさり)つゝ。かうべをおさへて逃去(にげさり)ぬ。しばしありて林(はやし)のうちより。忍頭巾(しのびつきん)に面(おもて) をつゝみ。黒(くろ)き装束(しやうぞく)したる者(もの)。手(て)に火術(くわじゆつ)の具(ぐ)をたづさへて。悠々(ゆう〳〵)とあゆみ いで。驚(おどろ)き臥(ふし)たるいてふの前(まへ)を引(ひき)おこし。小脇(こわき)にはさみて。いづくともなく走(はせ)ゆきけり。 【挿絵】 いてふの前(まへ) 岩倉谷(いはくらだに)に おいて首(くび)を うたんとす 時(とき)に何者(なにもの) ともしれず 太刀(たち)どりを 打(うち)ころして いてふの前(まへ)を うばひ去(さ)る いてうのまへ がん平 是(これ)善人(ぜんにん)か悪人(あくにん)か。はた敵(てき)か味方(みかた)か。何人(なにびと)といふことをしらず。此(この)者(もの) の姓名(せいめい)をしらんと要(やう)せば。巻(けん)之(の)五の下冊(げさつ)。第(だい)十九 回(くわい)を。読得(よみえ) て知(しる)べし    十三 霊場(れいぢやう)の熱閙(ねつたう) その比(ころ)近江(あふみ)の国(くに)。石山寺(いしやまでら)の観音菩薩(くわんおんぼさつ)。結縁(けちえん)のため開帳(かいちやう)ありけるが。名(な)に おへる霊場(れいぢやう)なれば。これにまうで来(く)る人(ひと)。士女(しぢよ)老少(ろうしやう)群集(くんじう)し。綿々(めん〳〵)絡繹(らくゑき) としてゆきゝしばらくもたえず。誠(まことに)是(これ)行川(ゆくかは)のながれのとゞまらざるに 似(に)たり。商人(あきびと)どもかゝるにぎはひに乗(じやう)じて。過分(くわぶん)の福(さいはひ)を得(え)んと。俄(にはか)に仮(かり) 屋(や)をつくり。草津鞭(くさつむち)。守山鞦(もりやましりかい)。高宮布(たかみやぬの)。長浜糸(ながはまいと)。大津針(おほつはり)。高島硯(たかしますゞり)。武佐(むさ) 墨(ずみ)。水口笠(みなくちかさ)。辻村(つぢむら)の鍋(かなゝべ)のたぐひ。玄恵(げんゑ)法印(ほふいん)が庭(には)の訓(をしへ)にもらせるものまで。おの がさま〴〵持(もち)はこびて。山(やま)のごとくつみあぐれば。買人(かひて)は雲(くも)のごとくにあつまりぬ。 あるひは酒(さけ)売(うる)家(いへ)あり。餅(もち)菓(くだもの)売(うる)軒(のき)あり憩所(いこひところ)をつくりて。茶(ちや)をひさく者(もの) あり。小弓(こゆみ)の射場(ゐば)まうけて。いとなみとする者(もの)あり。あるひは長剣(ちやうけん)を撫(ぶ)して 薬(くすり)をうり。今様(いまやう)をうたひて銭(せに)を乞(こひ)聞(きゝ)もつたへぬ片輪者(かたわもの)。見もおよばぬ 鳥(とり)獣(けもの)など。奇(あやし)とあやしきものを見する所(ところ)幻戯(めくらまし)篭脱(かごぬけ)刀玉(かたなだま)縁竿(くもまひ)のたぐひ 奇妙(きみやう)の術(じゆつ)を施(ほどこ)す所(ところ)など。処(ところ)せきまで立(たち)ならび。笛(ふゑ)吹(ふく)音(おと)鼓(つゞみ)打(うつ)声(こゑ)四方(よも)に ひゞきてかまびすく。諸人(しよにん)の耳目(じもく)をおどろかしむ。此(この)大路(おほぢ)のうちに。薦(こも)すだれ かけかり家(や)つくりて。紙(かみ)もてはれる招牌(まじるし)に。辻談義(つぢだんぎ)露(つゆ)の五郎兵衛尉(ごらうひやうゑのじやう)と墨(すみ) ぐろにかきつけて。戸口(とぐち)にかけたるあり。かれがいふこと聞(きく)とて人(ひと)あまたつどひ 居(ゐ)たり。講師(かうし)たかき床(ゆか)のうへにのぼり。書案(ふづくえ)のうへに柝木(ひやうしぎ)のかたしをおき。まづ しはぶきを前(さき)にたてゝ。聴聞衆(ちやうもんしゆ)にむかひ。夫(それ)つら〳〵阿弥陀経(あみだきやう)を考(かんかう)るに如来(によらい) は五劫(ごこふ)の間(あひだ)思惟(しゆい)し玉ひ。上(かみ)は一人(いちにん)より下(しも)は婆(はゞ)々 嫁(かゝ)々にいたるまで。残(のこり)りなく すくひとらめとの御誓願(ごせいぐわん)は。おの〳〵や我等(われら)まで。ありがたくたふとき事に あらずや。かるがゆゑに弥陀如来(みだによらい)は。寝(ね)玉ふことはさておきてあぐみ居玉ふ ことだになく。十万 里(り)かなたの西方(さいほう)より。こなたの方(かた)に伸(のび)あがり玉ひて。衆生(しゆじやう) の地獄(ちごく)をつくるを見玉ひては。あなや〳〵とかなしみおぼさるゝよし。それよりは 持国(ぢこく)多聞(たもん)などいへる一騎当千(いつきとうせん)の四天王(してんわう)に命(めい)ぜられ衆生(しゆじやう)胸裏(きうり)の地獄(ぢごく)を つぶす御分別(こふんべつ)はなきかと。声(こゑ)おかしううちあげていひつゝ。かの柝木(ひやうしぎ)をとりて 書案(ふづくえ)を撲地(はたと)打(うち)ならしければ芝居(しばゐ)一 度(ど)に鳴動(めいどう)し且(かつ)笑(わらひ)且(かつ)感(かんず)る声(こゑ)しば らくはやまざりけり。そのとなりもおなじすぢなる小 屋(や)つくりて。外(と)の方(かた)に うつくしき少女(しやうぢよ)の身(み)うちに蛇(くちばみ)のまとひつきたるさまを絵(ゑ)にかきたる。招(ま) 牌(しるし)をかゝげいだしたるあり。かたぬぎたる男(おとこ)戸口(とぐち)に立(たち)扇(あふぎ)をひらきて往来(ゆきゝ)の 人(ひと)をさしまねきつゝ。声(こゑ)たかやかによばひいへるは。これ此(この)まじるしを見玉へ。そも 此(この)女子(をなご)こそ。丹波(たんば)の国(くに)なる奥山(おくやま)に住(すむ)猟師(かりうど)の子(こ)なれ。殺生(せつしやう)の罪科(つみとが)親(おや)の 因果(いんぐわ)の子(こ)にむくひはべりてかく蛇(くちばみ)に見こまれ身(み)うちにまつはりてはなれさらず。 容(かたち)は世(よ)にすぐれてうつくしう生(うま)れつきながら。人(ひと)がましき交(まじは)りならぬ身(み)とはなり にたり。十(とを)か一ツ罪障(ざいしやう)消滅(せうめつ)の便(よすが)ともなれかしとて。あまねく人々に見せ奉(たてまつ)る也。 都(みやこ)におきては四条(しじやう)の川原(かはら)。浪華津(なにはづ)にては道頓堀(だうとんぼり)。伊勢(いせ)の国(くに)にゐてゆきては。白子(しろこ) なる観音堂(くわんおんどう)のほとりにて見せ奉りぬ。ものゝむくいのおそろしさはかくぞあなる。前(ぜん) 代未聞(だいみもん)又たぐひあらじ。いへづとによき話柄(はなしのたね)ぞ招牌(まじるし)につゆばかりもいつはりあらば銭(ぜに) とり候まじ見玉ひてのちおこし玉へと。声(こゑ)かるゝばかりのゝしれば。見物(けんぶつ)の諸人(しよにん) 蟻(あり)のごとくに集(つどひ)蜂(はち)のごとくに群(むらが)りて。かりやのうちにいり。こちおしあちおし。 ひしめきあひてこれを見る。此(この)をなごはすなはちこれ。六字(ろくじ)南無(なむ) 右衛門が娘(むすめ)楓(かへで)なり。憐(あはれ)むべし楓(かへで)は。こゝろにもあらで。眉(まゆ)をゑがき脣(くちびる)を そめ。頭(かしら)に花笄(はなかんざし)をさしかざし。色元結(いろもとゆひ)をむすび。髪(かみ)のゆひざまも今(いま) 様(やう)にとりあげて。阿曽比(あそび)めきたる容(かたち)につくり。床机(しやうぎ)めきたるものゝ うへに。紅(くれなゐ)の毛氈(けむしろ)しきて尻(しり)かけたる姿(すがた)嬋娟(せんけん)たる壮丹花(ぼたんくわ)の咲(さき)いで たるごとくにて。あたりもかゞやくばかりうつくしけれど腹(はら)手首(てくび)咽(のんど)くび なとに。蛇(へび)どもいくつとなくまとひつき。かまくびをおしたて赤(あか)き針(はり)の やうなる舌(した)を吐(はき)いだし。目(め)をぽち〳〵としてうごめくさま。見るにさへ身(み)の毛(け)そば だつばかりなり。見物(けんぶつ)の諸人(しよにん)何(なに)の遠慮(ゑんりよ)もなくかれが顔(かほ)をちか〴〵とうち まもり。世(よ)にまれなる娘(むすめ)なるにかく妖蛇(ようじや)に見こまれしはおしむべき事(こと)に あらずや。かゝるあさましき身(み)とだになりにたるを。はれがましう人(ひと)集(あつめ)て見する ことよ。かの女いかにわびしとや思ふらん。あな不便(ふびん)のことやといへば傍(かたはら)の人(ひと)の いへるは。いな〳〵かれが親(おや)めは。さだめて非義(ひぎ)非道(ひどう)をおこなひつる。悪人(あくにん) ならめ。そのゆゑに親(おや)の因果(いんぐわ)の子(こ)にむくいて。かうあさましき身(み)とはなり つらめ。さるあしき者(もの)の。うみつけつる子(こ)なれば。かれも又 姿(すがた)こそうつくし けれ。志(こゝろざし)はさぞゆがみつらめ。世(よ)の人(ひと)のよき戒(いまし)めぞ。かう人(ひと)〴〵に面(おもて)さらさしむる は。かへりてかれらが罪科(つみとが)のきえうするよすがなり。憐(あはれ)むべきにあらず。人(ひと) 〴〵よく見てやりねなど。口(くち)〴〵にいふを聞(きゝ)つゝ。人(ひと)〴〵に顔(かほ)まもらるゝ楓(かへで)が 苦(くる)しさ。いかばかりならんはかり思ふべし。抑(そも〳〵)石山寺(いしやまでら)は石光山(せきくわうざん)と号(がう)し。天平(てんへい) 勝宝(しやうほう)六年の草創(さう〳〵)なり。聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の朝(ちやう)。僧正(そうじやう)良弁(りやうべん)。如意輪観自(によいりんくわんじ) 在(ざい)丈六(じやうろく)の尊像(そんぞう)を安置(あんち)す。一千 有余年(ゆうよねん)を経(へ)たる霊場(れいぢやう)なり。後(うしろ)は 連峰(れんほう)峨々(かゞ)として。岩間(いはま)笠取(かさとり)醍醐(だいご)につらなり。前(まへ)は勢田川(せたがは)のながれ) 淼々(べう〴〵)として。湖水(こすい)につゞく。げに此地(このち)の月(つき)を賞(しやう)じて。近江八景(あふみはつけい)の一勝(いつしやう)と せるもうべなり。扨(さて)此(この)御寺(みてら)の門前(もんぜん)に。ひとりの浪人(ろうにん)。深編笠(ふかあみがさ)に面(おもて)をかくし。 【挿絵】 近江国(あふみのくに)  石山寺(いしやまでら) 観音(くわんおん)開帳(かいちやう)   あるにより  参詣(さんけい)   群集(くんじゆ)す かへで やへがき 大入 因果娘 開帳 石山寺 禍福 卜筮 吉凶 手のうらなひ 露の五郎兵衛 辻談義 小鼓(こつゝみ)を打(うち)つゝ。月(つき)にはつらき小倉山(をくらやま)その名(な)はかくれざりけりと。くせ舞(まひ)〳〵 のうたひをうたひ物(もの)を乞(こふ)さまなり。往来(ゆきゝ)あまたの人(ひと)のうちより。年(とし)の ころほひ十六七とおぼしく。容貌(みめかたち)すぐれて美(うつ)しき娘(むすめ)。田舎染(いなかぞめ)とは見ゆれど。 紅(くれなゐ)のこぞめの梅(うめ)の小枝(さゑだ)に。春霞(はるかすみ)立田(たつた)の山(やま)の鴬(うぐひす)といふ文字(もじ)を。縹(はなだ)にそめ いだしたる。木綿(もめん)の振袖(ふりそで)着(き)て。もすそかゝげ。褌衣(おひづる)かけ。手覆(ておほひ)脛巾(はゞき)草(わら) 鞋(づ)を穿(はき)。菅(すげ)の小笠(をがさ)をたづさへて。巡礼(じゆんれい)の道者(だうしや)と見えたる女。かの浪人(ろうにん)の 傍(そば)にちかづき。扨(さて)もしほらしき鼓(つゞみ)の音(ね)ぞといひつゝしばしたゝずみぬ。 かの浪人(ろうにん)編笠(あみがさ)ごしに。此(もの)女(をなご)をつら〳〵見て。さてもいぶかしさよ。おことはおさ なき時(とき)。出雲(いづも)の国(くに)大社(おほやしろ)の社家(しやけ)に。養子(やうし)につかはしたる。八重垣(やへがき)にはあら ずやといふ。かの女これを聞(きゝ)。打(うち)おどろきたるさまにて。しばし荅(いらへ)もせず。只(たゞ) 打(うち)まもりて居(を)る。浪人(ろうにん)ふたゝびいひけるは。かく零落(れいらく)してむかしにかはる 姿(すがた)なれば。いぶかるも理(ことはり)なりとて。声(こゑ)をひそめ。それがしはおことが兄(あに)長谷部(はせべの) 雲六(うんろく)なるはといふにぞ。女は益(ます〳〵)おどろきたる体(てい)なりけり。かくて雲六(うんろく)女をもの 蔭(かげ)にいざなひ。笠(かさ)ぬぎていひけるは。世(よ)を忍身(しのぶみ)なれば。人目(ひとめ)おほき所(ところ)にては 面(おもて)をあらはしがたし。おことは何(なに)ゆゑかゝる姿(すがた)となり。具(ぐ)せる人(ひと)もなく若(わか)き 女の身(み)にてたゞひとり。此辺(このへん)には来(きた)りしぞと。とはれて女さては兄(あに)うへにておはし けるものをとて。涙(なみだ)さしぐみ。さきほどかしこの算(さん)おきにうらなふてもららひ しに。けふたづぬる人(ひと)にあはめといひしは。まことに見通(みとほ)じのうらなひなり。 さて妾(わらは)が薄命(はくめい)を聞(きゝ)てたべ。養家(ようか)の父(ちゝ)母(はゝ)此(この)春(はる)わづか一 月(つき)の間(あひた)に。つゞき て身(み)まかり玉ひ。妾(わらは)ひとりあとにのこりしが。養父(ようふ)の弟(をとゝ)にて妾(わらは)がためには 伯父(をぢ)なる人(ひと)。養父(ようふ)の遺財(いざい)を奪(うばひ)とらんたくみにて。情(なさけ)なくも妾(わらは)をおひ 出(いだ)しぬれば。せんすべなく。此(この)うへは兄(あに)うへにあひて。身(み)のうへをたのみ申す 【欄外】くせ舞々といふものふるし文明の職人尽に見へたり より外(ほか)なしと思ひ。かく巡礼(じゆんれい)に姿(すがた)を扮(やつ)して物乞(ものこひ)つゝ。辛(から)うじて大和(やまと)の 国(くに)にいたりけるが。おん身(み)在京(ざいきやう)の節(せつ)。かしこにて。俄(にはか)に浪々(ろう〳〵)の身(み)となり玉ひ。 ゆくゑしれずときゝつるゆゑ。ほとんど力(ちから)おち。縊(くびれ)てや死(しな)ん。淵川(ふちかは)に身(み)を しづめやすべきと。とざまかうざまに思ひめぐらしけるが。せめて諸国(しよこく)の 霊場(れいじやう)をめぐりて。養父母(ようふぼ)の菩提(ほだい)の為(ため)。我身(わがみ)来世(らいせ)をたすかるよすが にもせばやと思ひつき。社家(しやけ)に育(そだち)て仏(ほとけ)につかふるは心(こゝろ)たがへるやうには あれど。神仏(しんぶつ)もと同体(どうたい)ともきけば。くるしからじと心(こゝろ)を決(けつ)し。をちこちを 巡拝(じゆんはい)して。けふしも此(この)御寺(みてら)にまうでしが。思ひかけず兄(あに)うへにあひ 奉りしは。全(まつた)く菩薩(ぼさつ)のみちびき玉ふに疑(うたがひ)なし。おん身(み)は又 何(なに)ゆゑ 俄(にはか)に浪人(ろうにん)し玉ひ。かばかり零落(れいらく)はし玉ひつるぞと。とひかへせば。 雲六(うんろく)こたへて。我(わが)身(み)のうへの物語(ものがたり)は一席(いつせき)に尽(つく)されず。殊更(ことさら)こゝは路(みち)の 傍(かたはら)といひ人 立(だち)おほき所(ところ)なれば。くはしき事(こと)を語りがたし。且(まづ)我(わが)住家(すみか)へともなふべし とていそがはしく鼓(つゞみ)しきものなどとりおさめ。女をつれて家(いへ)にかへりぬ。雲六(うんろく)が 心底(しんてい)善(ぜん)か悪(あく)かはかり知(し)るべからず。かくて日も西山(せいざん)にかたふきければ。参詣(さんけい)の諸人(しよにん)足(あし)を はやめておのがさま〴〵帰路(きろ)をいそぎ。俄(にはか)に寂寞(せきばく)たる折(をり)しも。一人の虚無僧(こむそう)尺八(しやくはち)の 笛(ふゑ)をとり。滝(たき)おとしを吹(ふき)すまして此(この)処(ところ)にあゆみ来(く)る。その後(しりへ)につきて腹巻(はらまき)に擘(こ) 手(て)臑楯(すねあて)つけたる捕手(とりて)の人数(にんず)。ぬき足(あし)しつゝ忍(しのび)より時分(しぶん)よしとや思ひけん。前後(せんご) 左右(さゆう)をとりかこみ。一言(いちごん)の詞(ことば)もなく。手(てに)〳〵に十手(じつて)を打(うち)ふりて。からめとらんとかゝり けるが。虚無僧(こむそう)尺八(しやくはち)を以(もつ)てあしらひ。しばし打合(うちあひ)ける所(ところ)に。思ひかけざる背後(うしろ)の方(かた)の かり家(や)のうちより。耳(みゝ)もとにいさゝか鬢(びん)の髪(かみ)のこし。頭(かしら)なごりなく剃(そり)すてゝ いとおかしげなる男(をとこ)。一根(いつこん)の棒(ぼう)をとりてをどり出(いで)。捕手(とりて)の人数(にんず)をめつた打(うち)に 打(うち)たふしけるにぞ。彼(かの)輩(ともがら)敵(てき)する事(こと)あたはず。散(さん)〴〵になりて逃去(にげさ)りぬ 【挿絵】 辻談義(つぢたんぎ)露(つゆ)の 五郎兵衛 実(じつ)は 名古屋(なごや)山三が しもべ猿(さる)二郎 佐々木(さゝき)桂(かつら)之助の 危難(きなん)を  すくふ 菩薩建立 露の五郎兵衛 佐々木桂之助 蘭陀 外料 伝家赤かうやく 請合入歯 口中 時(とき)にかの男(をとこ)棒(ぼう)をからりとなげすてゝ平伏(へいふく)し。土(つち)に額(ひたい)をすりつけて恭く いひけるは。某(それがし)察(さつ)し奉るに。君(きみ)は佐々木(さゝき)の若殿(わかとの)桂之助(かつらのすけ)国知公(くにともこう)にうたがひなし 実をおんあかし玉はれかしと相(あひ)のぶる虚無僧(こむそう)頭(かうべ)を打(うち)ふり。こは思ひかけざる 事(こと)を聞(きく)ものかな。某(それがし)は一所不住(いつしよふちう)の修行者(しゆぎやうじや)にて。もとより卑賤(ひせん)の者(もの)なり かならずしも人たがへし玉ふなといふ。かの者(もの)かさねていはく。世(よ)をしのぶおん身 なれば。容易(ようい)に実(じつ)をあかし玉はぬも理(ことはり)なり。先(まつ)やつがれが身(み)のうへを前(さき)に 告(つげ)きこえ奉らん。そもやつがれはおん家士(いへのこ)名護(なこ)屋山三郎が僕(しもべ)鹿蔵(しかぞう) と申す者(もの)の弟(をとゝ)猿(さる)二郎と申す者(もの)にて候もとは兄(あに)とゝもに山(さん)三郎につかへ はべりしが。やつかれはゆゑありて仕(つか)へを辞(じ)し。古郷(こきやう)河内(かはち)の国(くに)にかへりてくらせし うちなごや三郎左衛門は不破(ふは)伴(はん)左衛門が為(ため)に闇打(やみうち)にあひ山三郎は平(へ) 郡(ぐり)の館(やかた)の騒動(そうどう)につきて。やつがれが住家(すみか)におち来(きた)り。一ツには君(きみ)のおんゆく へをたづねて安否(あんぴ)をとひ奉り。二ツには伴(ばん)左衛門をたづね出(いだ)して父(ちゝ)の仇(あた)を むくはんと。我(われ)〳〵に命(めい)じて所々(しよ〳〵)方々(ほう〴〵)をたづねしめ。このごろは山(さん)三郎 鹿蔵(しかぞう)を具(ぐ)し て西国(さいこく)に旅立(たびだち)はべりぬ。やつがれは露(つゆ)の五郎兵衛と名(な)を更(かへ)。辻談義(つぢだんぎ)にことよせて。 京(きやう)大坂(おほさか)は申すにおよばず。所々(しよ〳〵)人立(ひとだち)おほき処(ところ)にいたりて。専(もつはら)尋(たづ)ねはべりぬ。しかるに 唯今(たゞいま)君(きみ)にめぐりあひ奉るは。我(われ)〳〵主従(しゆう〴〵)が一念(いちねん)とゞきし所(ところ)也。世(よ)にあるおん時(とき)ならば 某等(それがしら)がごとき賎(いやし)き身(み)は。おん姿(すがた)を拝(をが)み奉ることだもあたふまじきに。面前(まのあたり)拝(はい) 謁(ゑつ)つかまつる勿体(もつたい)なさよといひて。実心(じつしん)面(おもて)にあらはれければ。虚無僧(こむそう)打(うち)うな づき。さる誠心(せいしん)を聞(きく)うへは何(なに)をかつゝむべき。汝(なんぢ)が推量(すいりやう)にたがはず我(われ)は桂之助(かつらのすけ)也。 汝(なんぢ)が面(おもて)は見しらずといへども。山(さん)三郎がしもべに。鹿蔵(しかぞう)猿(さる)次郎とて両人(りやうにん)ありとは かねてより聞(きゝ)およびぬとのたまひければ。猿(さる)二郎こは冥加(みやうが)なるおん詞(ことば)。あり がたきまでにおぼへはんべり。不破(ふは)道犬(どうけん)が悪意(あくい)。奥方(おくがた)若君(わかぎみ)のおん身(み)のうへに つきては。さま〴〵申あぐべき事(こと)あれども途中(とちう)にてはきこえがたし。かの捕手(とりて)の 奴原(やつばら)人数(にんず)をましてふたゝびこゝにきたらんは必定(ひつぢやう)なれば。とく〳〵おん身(み)を かくし玉ふべし。もしかの奴原(やつばら)来(きた)り候はゞ。しか〴〵はからひ候べしとて耳(みゝ)につけて さゝめきぬ。さてはるかむかひの方(かた)に家(いへ)あり。あかり障子(しやうじ)に一子相伝(いつしそうでん)名方(めいほう)赤(あか) 膏薬(かうやく)と。筆(ふで)ぶとにかきつけたるを門口(かどくち)にたて。外(と)のかたにあまたの薬名(やくめい)を しるしたる招牌(せうはい)をかけならべ。もろ〳〵の奇病(きびやう)のさま解体(かいだい)の図(づ)などをかき。 これらをもかゝげいだしたるは。外療(ぐわいりやう)の薬(くすり)をひさく家(いへ)なりけり。猿(さる)二郎 指(ゆび)さして。 かしこはやつがれが旅宿(りよしゆく)にて候。幸(さいはひ)あるじは京上(きやうのぼ)りして家(いへ)にをらず。只(たゞ)聾(みゝしい)の老僕(ろうぼく) あるのみ。たれはゞかる者(もの)も候はずとて。桂之助(かつらのすけ)をいざなひてかの家(いへ)にいたり。 裏(うち)に入(い)りてあかり障子(しやうじ)をもとのごとく引(ひき)たて。声(こゑ)をなさずして居(ゐ)たり けり。此時(このとき)已(すで)に日(ひ)はくれ果(はて)て。夕月夜(ゆふづくよ)の光(ひか)りあきらかなりけるが。果(はた)して 捕手(とりて)の者(もの)ども人数(にんず)をまし来(きた)りて。此(この)家(いへ)をとりかこみ声(こゑ)たかやかによばゝりいひ けるは。さきほど此(この)家(や)にかくれたる虚無僧(こむそう)は。佐々木(さゝき)桂(かつら)之助 国知(くにとも)にうたがひなし。 いかに国知(くにとも)なんぢ官領職(くわんれいしよく)浜名殿(はまなどの)の内意(ないい)により。勘当(かんどう)うけたる事(こと)を遺恨(いこん) に思ひ。ひそかに野伏(のぶし)浪人(らうにん)どもをかたらひ。浜名(はまな)どのに敵(てき)せんとはかるよし。註進(ちうしん)の 者(もの)ありてきこしめされ。からめとりてきたるべしと厳命(げんめい)をかうふりて。我輩(わがともがら) はせむかひつるなり。のがれぬ所(ところ)ぞ。とくこゝに出(いで)きたりていましめをうけよ。さきほど 手(て)むかひせし奴(やつ)めも。なんぢに一味(いちみ)の者(もの)ならん。かの奴(やつ)めもとく〳〵こゝへいだせ。 首(くび)ひきぬきて思ひしらせんずるぞと。口(くち)には猛(たけ)くのゝしれども。猿(さる)二郎がさき ほどの手(て)なみにおそれて。内(うち)にすゝみいらんずる者(もの)は独(ひとり)もなく。只(たゞ)さわがしき のみなりけり。時(とき)にあかり障子(しやうじ)に人影(ひとがけ)うつり。桂(かつら)之助の声(こゑ)として。いかになんぢ らしづまりて我(わが)いふ事を聞(きけ)。我(われ)恥(はぢ)をしのびて今日(こんにち)までいきながらへ。一所不住(いつしよふぢう) にさまよひつるが。とても武運(ぶうん)に尽(つき)たる身(み)なれば。此(この)所(ところ)におきていさぎよく。 腹(はら)かきやぶりて相果(あいはつ)るぞかし。いざ首(くび)をとりて高名(かうみやう)にせよ者(もの)どもとよばゞり けるが。やがて障子(しやうじ)のすきまより。鮮血(せんけつ)こゞりてながれいでぬ。捕手(とりて)の者(もの)われ さきに首(くび)とりて賞銀(しやうぎん)にあづからんと。遅速(ちそく)をあらそひ。障子(しやうじ)を打(うち)たふして 内(うち)を見れば。こはいかに桂(かつら)之助にはあらずして。正面(しやうめん)の胡床(あぐら)のうへに。人(ひと)の長(たけ)ほど につくり。五臓六腑(ごぞうろくふ)をいろどりたる。神農(しんのう)の胴人形(どうにんぎやう)。右(みぎ)に茶匙(さじ)を持(もち)左(ひだ)りに薬(やく) 草(そう)をとりたるをすゑおきぬ。障子(しやうじ)のひまより血(ち)わたと見えしは。赤膏薬(あかかうやく)に ぞありける。かの者(もの)どもこれを見て。只(たゞ)あきれて酒(さけ)に酔(ゑひ)たるこゝちしけるが。さては 欺(あざむ)かれたるか口(くち)おしさよ。さるにても今(いま)の声(こゑ)は桂(かつら)之助にまぎれなし。かしこにかくれ たるにうたがひなしとて。奥(おく)の一間(ひとま)を目(め)がけて走(はし)りいらんとひしめき。誤(あやま)りて傍(かたはら)に ありける笊籬(ざる)をふみたふしけるが。たちまち数多(あまた)の蛇(へび)のたり出(いで)て。かれらが 手脚(てあし)にまとひつきけるにぞ。打驚(うちおどろ)てさわぎたち。又 誤(あやま)りて膏薬鍋(かうやくなべ)を ふみかへしければ。膏薬(かうやく)足(あし)のうらにねばりつきてはなれず。蛇(へび)の手(て)かせ。 膏薬(かうやく)の足(あし)かせ。これをのぞかんとすれば。かれにまつはれ。ほど〳〵進(しん) 退(たい)を失(うしな)ひて。只(たゞ)騒動(そうどう)するのみなりけり。時分(じぶん)よしと猿(さる)二郎たすきひきゆひ。 もすそかゝげて身(み)がるに打扮(いでたち)。明晃々(めいくわう〳〵)たる大太刀(おほだち)を抜(ぬき)もちて。一間(ひとま)のうち よりをどり出(いで)。めつた斬(きり)にきりたつればみな〳〵大に狼狽(らうばい)し。一人(いちにん)と して敵(てき)する者(もの)はなかりけり。かの大太刀(おほだち)はもと居合(ゐあひ)の刃引太刀(はひきだち)なれば。 きりつけられたる痕(あと)。蚯蚓(みゝつ)のごとくはれあがるのみにて。一命(いちめい)に恙(つゝが)はなし といへども。しば〳〵魂(たましい)を奪(うばゝ)れて。こゝろます〳〵臆(おく)したる者(もの)どもなれば。 黐(もち)に黏(つき)たる蝿(はへ)のごとく。たふれしまゝに起(おき)も得(え)ず。手(て)をすり足(あし)を すりてくち〳〵に。ゆるし玉へと打(うち)わひつゝ。からうじて起上(おきあが)りけるが。疵(きづ)持(もつ) 足(あし)の膏薬(かうやく)に。引(ひき)もどさるゝこゝちして。こけつまろびつ逃(にげ)ゆきけり。 猿(さる)二郎は太刀(たち)をすてゝ打笑(うちわらひ)。さても臆病(おくびやう)なる奴原(やつばら)かな。因果娘(いんぐわむすめ)の 蛇(へび)どもが。思ひもかけず用立(ようだち)しは。禍(わざはひ)の三 年(ねん)めともいひつべしと。ひとり ごちて。蛇(へび)どもをもとの笊籬(ざる)にうちいれ。一間(ひとま)のうちより桂(かつら)之助を ともなひ出(いで)。かれらを殺(ころ)し候ては。かへりて後日(ごにち)のさまたげに候へば。わざと 刃引太刀(はひきだち)をもちひておどし候。つら〳〵思ひはべるに。不破(ふは)道犬(どうけん)君(きみ)を失(うしな)ひ 奉らんとはかりて。官領(くわんれい)の命(めい)といつはり。君(きみ)のおん心(こゝろ)におぼえなき事(こと)を 申したてゝ。捕手(とりて)をむけたるに疑(うたがひ)なし。大切(たいせつ)のおん身(み)なればかならずしも かろ〴〵しく出(いで)あるき玉ふべからず。かれら一度(ひとたび)見おぼえたる此(この)家(いへ)に忍(しの)ばせ 申すは危(あやう)ければ。今宵(こよひ)のうち別所(べつしよ)に御座(ござ)をうつし奉らん。いざゝせ 玉へと催(もよほ)して。つひに両人(りやうにん)いでゆきけり 【裏表紙】 《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 六  ○徒然草(つれ〴〵ぐさ)に。めなもみといふ草(くさ)。蛇(くちはみ)にさゝれたるによきよしを記(しる)すといへども。   いまだこゝろみず。蛇(へび)にかまれたるには。串柿(くしがき)の肉(にく)を粘飯(そくいひ)のごとくねり   てつくるにしくものなし。度(たび)〳〵こゝろみつるに。一度(ひとたび)もしるしなき事(こと)   なし。よくきざみ煎(せん)じてのみもすべし。蛇毒(じやどく)を解(げ)す也。本文(ほんもん)蛇(くちなわ)の   話(はなし)につきて。偶(ふと)思ひいだせるまゝ。筆(ふで)のついでに記(しる)しおきつ    十四 仇家(きうか)の恩人(おんじん) 爰(こゝ)に又 湯浅(ゆあさ)又平(またへい)といふは。戸佐(とさ)正見(しやうけん)といふ名画人(めいくわじん)の弟子(でし)にて。その身(み)も画(ぐわ) 道(だう)に秀(ひいで)たりといへども。ゆゑありて師(し)の勘当(かんどう)をうけ。そのゝち正見(しやうけん)も小粟(をぐり) と筆(ふで)のあらそひによりて。勅勘(ちよくかん)の身(み)となりぬ。又平(またへい)は漸(しだい)々に零落(れいらく)しければ。 妹(いもと)藤波(ふぢなみ)白拍子(しらびやうし)となりて。兄(あに)をみつぎけるが。これも不慮(ふりよ)に殺害(せつがい)され。 ます〳〵困窮(こんきう)しければ。せんすべなく夫婦(ふうふ)もろとも。もとのすみかをさり て。近江(あふみ)の国(くに)にうつり。大津(おほつ)走井(はしりゐ)のほとりに住(すみ)。絵(ゑ)をかきて往来(ゆきゝ)の旅人(たひゞと) にこれをひさく。妹(いもと)が菩提(ぼだい)の為(ため)にもと思ふこゝろより。多分(たぶん)仏像(ぶつゑ)を画(ゑが) きぬ。十三 仏(ぶつ)地蔵菩薩(ぢぞうほさつ)のたぐひなり。そのころは民百姓(たみひやくしやう)の家(いへ)に木仏(もくぶつ)はまれ にて。おほくは此(この)又平(またへい)が仏絵(ぶつゑ)をもとめて。持仏(ぢぶつ)の本尊(ほんぞん)にしけるとかや。仏絵(ふつゑ)のみ にあらず。浮世(うきよ)の人物(しんぶつ)さま〴〵のざれ絵(ゑ)をもかきけるゆゑ。浮世(うきよ)又平(またへい)大津(おほつ)又(また) 平(へい)ともいへり。かれ又 生(うまれ)つきて吃謇(ことどもり)にてありければ。吃謇(ことどもり)の又平ともいへり。 その絵(ゑ)を大津絵(おほつゑ)とも追分絵(おひわけゑ)ともいひて。時(とき)の人(ひと)童(わらはべ)などのめづる事おほ かりしとぞ。又平が妻(つま)の名(な)を小枝(さえだ)といひ。藤波(ふぢなみ)が次(つぎ)の妹(いもと)阿竜(おりう)も。今(いま)は兄(あに) 又平に養(やしなは)れこゝにありて。ひとつに住(すみ)ぬ。藤波(ふぢなみ)は前(さき)つ年(とし)佐々良(さゝら)三八郎が 為(ため)に罪(つみ)なくして殺(ころ)されたれば。又平 何(なに)とぞ三八郎を一太刀(ひとたち)恨(うら)みて。妹(いもと)か修羅(しゆら) の宿恨(しゆくこん)をはらしつかはさんと。日来(ひごろ)こゝろかくるといへども。三八郎 出奔(しゆつぽん)のゝち。 弗(ふつ)にゆくへしれざれは。むなしく月日(つきひ)をおくりぬ。扨(さて)ある年(とし)の春(はる)藤浪(ふぢなみ)が 祥月命日(しやうつきめいにち)にあたれる日(ひ)。妻(つま)小枝(さえだ)妹(いもと)阿竜(おりう)等(ら)がすゝめにより。縣神子(あがたみこ)を やとひ。藤浪(ふぢなみ)が口(くち)をよせて。冥途(めいど)のおとづれをきゝぬさて降巫(みこ)上坐(かみくら)に居(ゐ)なほり て。目うへの人(ひと)にや目下(めした)にや。生口(いきぐち)か死口(しにくち)かとたづぬれば。小枝(さえだ)すゝみいで。目下(めした)の 者(もの)にて死口(しにくち)なりとこたへつゝ。樒(しきみ)の葉(は)にて水(みづ)むけすれば。巫(みこ)はさゝやかなる弓(ゆみ)を とりいだし。弦(つる)を打(うち)ならして。且(まづ)神保(かみおろし)をぞとなへける  夫(それ)つゝしみ敬(うやまひ)てまうし奉る。上(かみ)は梵天(ぼんでん)帝釈(たいしやく)四大天王(しだいてんわう)。下(しも)は閻魔法王(えんまほふわう)。  五道冥官(ごだうのみやうくわん)。天(てん)の神(かみ)。地(ち)の神(かみ)。家(いへ)の内(うち)には井(ゐ)の神(かみ)。竃(かまど)の神(かみ)。伊勢(いせ)の国(くに)  には。天照皇大神宮(てんしやうくわうだいじんぐう)。外宮(げくう)には四十 末社(まつしや)。内宮(ないくう)には八十 末社(まつしや)。雨(あめ)の宮(みや)  風(かぜ)の宮(みや)。月読(つきよみ)日読(ひよみ)の御神(おんかみ)。当国(たうごく)の霊社(れいしや)には。坂本山王大権現(さかもとさんわうだいごんげん)。胆吹(いぶきの)  神社(しんじや)。多賀明神(たがみやうじん)。竹生島弁才天(ちくぶしまべんざいてん)。築摩明神(つくまみやうじん)。田村(たむら)の社(やしろ)。日本(につぽん)六十  余州(よしう)。すべての神(かみ)の政所(まんどころ)。出雲(いづも)の国(くに)の大社(おほやしろ)。神(かみ)の数(かづ)は九万八千七 社(しや)の  御神(おんかみ)。仏(ほとけ)の数(かづ)は一万三千四 箇(か)の霊場(れいぢやう)。冥道(みやうだう)をおどろかし此(こゝ)に降(くだ)し奉る。  おそれありや。此時(このとき)によろづのことを残(のこ)りなく。をしへてたべや梓(あづさ)の神(かみ)。  うからやからの諸精霊(しよしやうれう)。弓(ゆみ)と箭(や)のつがひの親(おや)。一郎(いちらう)どのより三郎どの。人(ひと)も  かはれ水(みづ)もかはれ。かはらぬものは五尺(ごしやく)の弓(ゆみ)。一打(ひとうち)うてば寺(てら)〴〵の。仏壇(ぶつだん)に  ひゞくめり 梓(あづさ)の弓(ゆみ)にひかれ〳〵て。藤娘(ふぢなみ)がなきたまこゝまでまうで来(き)つるぞや。なつかし やよく水(みづ)手向(たむけ)て玉はりしぞ。主君(しゆくん)とは申しながら。おそれおほくも心(こゝろ)には。枕(まくら)ぞひとも 思ひしから。烏帽子宝(ゑぼしだから)を産(うみ)はべりて。唐(から)の鏡(かゞみ)とかしづかれ。おん身(み)等(ら)にも 安堵(あんど)させ。たのしきくらしをさせ申んと。思ひし事も左(ひだ)り縄(なは)。ゆひがひもなき 妾(わらは)が身(み)のうへ。露(つゆ)ばかりも罪(つみ)なくて。邪見(じやけん)の刃(やいば)に身(み)をほふられ。つきぬ恨(うらみ) の悪念(あくねん)が。此(この)身(み)を焦(こが)す炎(ほのほ)となり。はれぬ思ひの冥道(くらきみち)に。今(いま)に迷(まよ)ふて居(をり)候と。いとも 哀(あはれ)にいひければ。小枝(さえだ)泣声(なきごゑ)にて。うかまぬもことわりぞ。冥途(めいど)の苦患(くげん)さそかしと。 思ひはかればはかるほど。胸(むね)ふさがり。心(こゝろ)も消(きゆ)る思ひぞかしといひて打(うち)なげゝは。阿竜(おりう)は うしろに打伏(うちふし)て。涙(なみだ)にむせぶばかり也。巫(みこ)かさねていひけるは。地獄(ちごく)のうちのおそろし さを聞(きゝ)てたべ。妾(わらは)がごとく刃(やいば)にかゝりて死(しゝ)したるものは。刀山地獄(とうざんぢごく)とて。垂氷(つらゝ)を さかしまに植(うゑ)たるごとき剣(つるぎ)の山(やま)を。牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼(おに)どもが。くろがねの笞(しもと)を あげて追(おひ)たつるに。罪人(さいにん)はせんすべなく。なきさけびつゝはせのぼり。はせくだりて 苦(くる)しむ也。妾(わらは)も日々(ひゞ)にその苦(くるしみ)をうくるぞかし。あるは火(ひ)の車(くるま)にのせられて。黒闇(こくあん) 道(どう)をゆく時(とき)もあり。あるは血(ち)の池(いけ)にひたりて。火(ひ)の雨(あめ)に身(み)を焦(こがす)す時(とき)もあり。 紅蓮(くれん)大紅蓮(だいくれん)の氷(こほり)にとぢられ。叫喚(きやうくわん)大叫喚(だいきやうくわん)の炎(ほのほ)にやかれ。品(しな)かはりたる 地獄(ちごく)のさま。なか〳〵詞(ことは)にのべがたし。さる責(せめ)の苦(くる)しきうちにも。唯(たゞ)忘(わす)れがたきは 【挿絵】 藤波(ふぢなみ)ならびに  うからやからの   亡魂(ぼうこん)梓(あづさ)の    弓(ゆみ)に     ひかれ      来(く)る 藤なみ 妹おりう 妻さえだ うき世又平 殿(との)のおん事(こと)。なつかしく思ひはべるは。おん身(み)ら御夫婦(ごふうふ)妹(いもと)ぞかしといひければ。又平 は目(め)をすりあかめ。きけば聞(きく)ほど不便(ふびん)なり。まづしき我(われ)を見つぐとて。千辛(せんしん) 万苦(ばんく)のそのうちに。たま〳〵少(すこ)しの福(さいはひ)を得(え)て。思ひあふたる殿(との)にめでられ。その 身(み)の出世(しゆつせ)と喜ぶ間(ま)もなく。不慮(ふりよ)の枉死(わうし)をなしたれば。心(こゝろ)の残(のこ)るも理(ことはり)也。せめて 敵(かたき)をたづねいだし。仇(あた)をむくいて修羅(しゆら)の宿恨(しゆくこん)をはらさすべければ。とく〳〵 仏果(ぶつくわ)を得(え)て悪趣(あくしゆ)をまぬかれよとて。念珠(ねんじゆ)すりならし。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)あみだ 仏(ぶつ)と。となふる声(こゑ)も吃謇(ことどもれ)ば。いとゞ哀(あは)れぞまさりける。巫(みこ)又いひけるは。そのおふせ こそ我身(わがみ)には。読経(どきやう)にまさる功徳(くどく)なれ。此(この)うへのお情(なさけ)には。仇(あた)をむくいてたび 玉へ。情(なさけ)なきはこれまで手向(たむけ)たまはりし飯菜(はんさい)も。みさき烏(からす)にさまたげられ。 妾(わらは)がもとにとゞかねば。飢(うへ)にたへざる餓鬼(がき)の飯(めし)。炎(ほのほ)となりて消失(きへうせ)ぬ。ねがはく はみさき烏(からす)をよけてたべ。くれ〴〵たのみはべるぞかし。あな名残(なごり)をし語(かた)りたき こといひたきこと。数(かづ)なくありて尽(つき)ねども。黄泉(よみぢ)の使(つかひ)しげゝれば。はやいとま申す ぞと。いひおはりて巫(みこ)は目(め)をひらき痺(しびり)を撫(なで)て居(ゐ)たりけり。又平 米銭(こめぜに)をとりて 与(あた)へ。その労(ろう)を謝(しや)しければ。巫(みこ)はこれをうけをさめ。わかれを告(つげ)てまかりいでぬ。 扨(さて)小枝(さえだ)は。今宵(こよひ)の仏(ほとけ)に供(くう)ぜんと高木(たかぎ)へ餅(もち)買(かひ)に立出(たちいづ)れば。阿竜(おりう)はなみだをおし。 ぬぐひ。このひまに香(かう)を盛(もり)て。手向(たむけ)ばやと奥(おく)にいり。又平 独(ひとり)こゝにのこり。手(て)を こまぬきてぞ居(ゐ)たりける。頃(ころ)しも弥生(やよい)のはじめにて。堅田(かたた)におつる雁金(かりかね)も。 こしぢに帰(かへ)る時(とき)なるに。比良(ひら)の高嶺(たかね)の雪(ゆき)おろし。余寒(よかん)をまして肌(はだ)さむく。 瀬田(せた)にかたふく日(ひ)のかげも。西方浄土(さいほうじやうど)と思ふから。辛崎(からさき)の松風(まつかぜ)も。常楽我(しやうらくが) 浄(じやう)ときこゆめり。粟津(あはづ)の嵐(あらし)を世(よ)の中(なか)の。生者必滅(しやうじやひつめつ)と観(くわん)ずれば。矢早(やば) 瀬(せ)の船(ふね)も人(ひと)の身(み)の会者定離(ゑしやぢやうり)とぞ思はるゝ。石山(いしやま)の月(つき)三井(みゐ)の鐘(かね)。生(しやう) 死長夜(じちやうや)の夢(ゆめ)の世(よ)を。悟(さと)れる人(ひと)か外(と)の方(かた)に。鉦(かね)の音(おと)念仏(ねんぶつ)の声(こゑ)。いとも 殊勝(しゆしやう)にきこえけり。又平これを聞(きゝ)つけて。庭(には)におり立(たつ)折(おり)しも。軒端(のきば)に 通(かよ)ふ松(まつ)の風(かぜ)柴(しば)の折戸(おりど)をひらきければ。外(と)の方を見やるに。笈(おひ)をせほひ 錫杖(しやくじやう)をつきて。回国(くわいこく)の修行者(しゆ やうじや)とおぼしきが。まどほにかこふ竹垣(たけがき)の葎(むぐら) のうちにたゝずみぬ。又平ちかづきていはく。けふしも同胞(はらから)の亡霊(なきたま)をまつる べき志(こゝろざし)のあるに。修行者(しゆきやうじや)のおはせしこそ幸(さいはひ)なれ。かゝる荒屋(あばらや)にははべれども。 今宵(こよひ)は我家(わがや)に一宿(いつしゆく)し。終夜(よもすがら)回向(ゑこう)して玉はれかし。味(あぢ)なくはおぼされんが。所(ところ) がらの志賀大根(しがたいこん)蜩大豆(ひぐらしまめ)。麁抹(そまつ)の斉(とき)を供養(くよう)せん。あながちにとゝめ申すと いひければ。修行者(しゆきやうじや)打聞(うちきゝ)て。そはかたじけなし。いまだ時(とき)も八ツに過(すぎ)ずとおぼ ゆれば。石部(いしべ)の報謝宿(ほうしややど)までもと思ひつるが。朝(あした)の雲(くも)夕(ゆふべ)の霧(きり)一所不住(いつしよふじう)の 身(み)のうへなれば。いそぐべき旅(たび)にもあらず。殊(こと)に亡人(なきひと)の志(こゝろざし)とあればもだし がたし。しからば御報謝(こほうしや)にあづからんかといふにぞ。又平いざ〳〵とてむかひいれ。 苔井(こけゐ)の水(みつ)に足(あし)そゝがせ。八幡円坐(やわたゑんざ)をしきまうけて何くれともてなせば。修行(しゆきやう) 者(しや)喜(よろこ)び。憂世(うきよ)をはなれし閑居(かんきよ)の体(てい)。おくゆかしく候といへば。又平は囲炉裏(ゐろり)に 不灰木(すくも)うちたきつゝ。尾羽打(をはうち)からせし浪人(らうにん)の侘住居(わぎずまゐ)。お宿(やど)申すもはづかし さよといひて。信楽焼(しがらきやき)の天目(てんもく)に。茶(ちや)の香(か)もうすき手煎(てせん)じを。心(こゝろ)ばかりのもて なしにて。四方山(よもやま)の話(はなし)さま〴〵にかはりて。立山(たてやま)の地獄(ぢごく)ばなし。熊野詣(くまのまうで)の幽霊(ゆうれい) のさかしまにあゆむことなど。ものがたるを聞(きゝ)つゝ。時(とき)をうつしけるがやゝありて又 平 仏壇(ぶつだん)にみあかしたて。麁抹(そまつ)の斉(とき)を調(ちやう)ずるあひだ。こゝにて御回向(ごゑこう)くだ されかしといひておくにいりぬ。修行者(しゆきやうじや)は仏壇(ぶつたん)にむかひて鉦(かね)打(うち)ならし。南無(なむ) 幽霊(ゆうれい)頓証仏果菩提(とんしやうぶつくわほだい)南無(なむ)あみだ仏(ぶつ)〳〵と。一心不乱(いつしんふらん)にとなへけるが偶(ふと)仏壇(ぶつだん)の うちを見れば。白木(しらき)の位牌(ゐはい)に刃誉妙剣信女(にんよみやうけんしんによ)長禄(ちやうろく)二年 戌寅(つちのへとら)三月五日 としるしあり。修行者(しゆきやうじや)これを見て思ひけるは。かの法名(ほふみやう)のうちに刃剣(にんけん)の 二 字(じ)あるを見れば。これも刃(やいば)にかゝりて亡(うせ)し女ならめ。それがし六年 以前(いぜん) 藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)せしも。同年(どうねん)同月(どうげつ)同日(どうじつ)なり。広(ひろ)き世界(せかい)といひながらよく似(に)たる こともあるものかな。いかなれば長禄(ちやうろく)二年の今月(こんげつ)今日(こんにち)は。女の刃(やいば)にかゝる日ぞ。 此(この)女子(をなご)もいかなる因果(いんぐわ)にて。剣難(けんなん)に死(し)せしぞと。藤波(ふぢなみ)が事(こと)思ひ合(あは)せて涙(なみだ)を おとしつゝ。しばらく回向(ゑこう)して居(ゐ)たりけるに。又平が妹(いもと)於竜(おりう)朽木塗盆(くつきぬりぼん)に日野(ひの) 椀(わん)すゑて持(もち)いで。麁抹(そまつ)の斎(とき)をめし玉へといひつゝ。修行者(しゆきやうじや)の顔(かほ)をつら〳〵 打(うち)まもり。そなたは佐々良(さゝら)三八郎にあらずやといひて。おぼえず手(て)に持(もち)たる物(もの) を。地上(ちしやう)にはたと取(とり)おとす。修行者(しゆきやうじや)いぶかり。さいふそなたは何人(なにびと)ぞ。見忘(みわす)れ たりといへば。於竜(おりう)泣声(なきこゑ)にて。見忘(みわす)れしとはよくもいはるゝ事(こと)よ。妾(わらは)はそなたに 殺(ころ)されたる。藤浪(ふぢなみ)が妹(いもと)竜(りう)といふものなり。その時(とき)妾(わらは)は十三 才(さい)京都(きやうと)佐々木(さゝき) の旅館(たびやかた)。お寝間(ねま)に通(かよ)ふ廊架(ほそどの)にて。手燭(てしよく)の光(ひか)りに顔(かほ)見 合(あは)せ。たしかに見とゞけ たる三八郎。刀(かたな)の□(みね)打(うち)に手燭(てしよく)をはしと打(うち)おとして。逃去(にげさり)たるはおぼへあらん。 折(をり)しも風雨(ふう)はげしくて。庭木(にはき)の花(はな)も風前(ふうぜん)の。灯火(とうくわ)ときえたる姉(あね)の敵(かたき)。覚(かく) 悟(ご)せよとよばゝれば。さきほどより屏風(びやうぶ)のかげに。様子(やうす)をうかゞふ浮世(うきよ)又 平。刀(かたな)を抜(ぬい)てをどり出(いで)。ものをもいはず斬(きり)つくれば。修行者(しゆきやうじや)手(て)ばやく。 あたりにありあふ机(つくえ)をとりて丁(ちやう)とうくれば。皿(さら)にときたる青黄赤白(せいわうしやくびやく)の絵(ゑ) の具(ぐ)。四方(しほう)にさつと飛散(とびちり)て。秋(あき)の花野(はなのに)に異(こと)ならず。又きりつくるをうけとめ て。いかにも某(それがし)が実(まこと)の姓名(せいめい)は佐々良(さゝら)三八郎。今(いま)の名(な)は六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門と申す。 藤浪(ふぢなみ)といふ女を殺(ころ)せし事(こと)おぼえあり。さりながら委細(いさい)のゆゑをかたるうち。 しばらく待(まち)玉はれといふを。又平 耳(みゝ)にも聞入(きゝいれ)ず。頭(かうべ)をふりつゝ勢(いきほひ)こみてぞ きりつけぬ。なむ右衛門 錫杖(しやくじやう)をとりて。うけつながしつ立(たち)まはり。子細(しさい)をいは ねば。せき玉ふもことわりなり。しばし〳〵ととゞめけり。又平は吃謇(ことともり)なる うへに。心(こゝろ)せけば。ものいふことあたはず。唯(だゝ)口(くち)に指(ゆび)さして気(き)をいらつを。傍(かたはら)より 於竜(おりう)見かねて。丹(たん)をときたる皿(さら)と筆(ふで)をとりて与(あた)ふれば。又平これをとり。机(つくえ)の 上(うへ)にものかくを。なむ右衛門 読(よみ)くだせば。なんぢ六 年(ねん)以前(いぜん)。長谷部雲六(はせべのうんろく)と やらんいふ者(もの)といひ合(あは)せ。佐々木(さゝき)の家宝(かほう)百蟹(ひやくがい)の絵巻物(ゑまきもの)を奪取(うばひとり)。しかのみ ならず。藤浪(ふぢなみ)を害(がい)して逃去(にげさり)たる大罪人(たいさいにん)。いかでかのがるゝ道(みち)あらん。それがしは則(すなはち) 是(これ)藤浪(ふぢなみ)が兄(あに)湯浅(ゆあさ)又平といふ者(もの)なり。汝(なんぢ)を打(うつ)て妹(いもと)が冥途(めいど)の宿恨(しゆくこん)をはらし やらんと。日来(ひごろ)心(こゝろ)がけたれども。弗(ふつ)にゆくへしれざれば。むなしく月日(つきひ)をおくりつる に。今月(こんげつ)今日(こんにち)妹(いもと)が祥月命日(しやうつきめいにち)にめぐりあひしは。因果(いんくわ)のめぐる車(くるま)の輪(わ)。妹(いもと)がみち びく所(ところ)なるべし。猶予(ゆうよ)せよとは比興(ひきやう)なり。覿面(てきめん)の悪報(あくほう)妹(いもと)の敵(かたき)。のがれぬ所(ところ)ぞ。 はやく勝負(しやうふ)を決(けつ)せよと書(かき)おはり。ふたゝび刀(かたな)をとりなほして。只(たゞ)一打(ひとうち)ときりつく れば。なむ右衛門しかおぼすはうべなれども。それがしがものがたる子細(しさい)を一(ひと) 通(とほ)りきゝてよとて。なほうけつながしつあしらひけり。かゝる折(おり)しも又平が妻(つま) 小枝(さえだ)。餅(もちひ)をもとめて立(たち)かへり。何事(なにごと)やらんとしばらく門(かど)にたゝずみて。内(うち)の様子(やうす) をうかゞひけるが。又平どのはやまり玉ふなと。いそがしはく声(こゑ)かけて。走(はし)り入(いり)。夫(をつと) の手(て)にすがりておしとゞめ。かねておん身(み)にものがたり。いつぞはめぐりあひて 大恩(だいおん)をむくはんと。日来(ひごろ)心(こゝろ)に忘(わす)れざる恩人(おんじん)は。則(すなはち)此(この)おんかたにておはすなり といふにぞ。又平大におどろき。扨(さて)はしかとさあるかとて。手(て)をとゞめてぞ坐(ざ)し 居(ゐ)たる。なむ右衛門いぶかしく。小枝(さえだ)がかほをつら〳〵見れば。いかさま見おぼへ ある女なり。小枝(さえだ)はなむ右衛門が前(まへ)に恭(うや〳〵)しく手(て)をつき。さても思ひかけ ず。ふたゝびおん目(め)にかゝるうれしさよ。妾(わらは)ことは六年 以前(いぜん)。思へばしかも今月(こんげつ) 今夜(こんや)。京(きやう)北山(きたやま)の杉坂(すぎさか)にて。首(くび)縊(くゝり)て死(し)なんとせしを。金(きん)二十 両(りやう)たまはり。危(あやう)き一命(いちめい) をすくひくだされしその女にて。則(すなはち)これなる又平が妻(つま)小枝(さえだ)と申すものにて候。 【挿絵】 六字(ろくじ)なむ右衛門 修行者(しゆぎやうじや)に 身(み)を扮(ふん)して  大津(おゝつ)又平が   家(いへ)に宿(しゆく)す はせべうん六 うき世又平 なむゑもん 妻さえだ その時(とき)の大恩(だいおん)。骨(ほね)に鏤(ゑり)心(こゝろ)に銘(めい)じて。片時(かたとき)もわすれず。ひとへに命(いのち)の 父母(ふぼ)と存(ぞんじ)。何(なに)とぞ再(ふたゝび)おん目(め)にかゝり。露(つゆ)ばかりも洪恩(こうおん)を報(ほう)じはべらんと思へ ども。その時(とき)は只(たゞ)おん顔(かほ)を見おぼえたるのみにて。姓名(せいめい)をあかし玉はざれば。 いかなるおん方(かた)ともしらず。たづね申すべきよすがもなければ。むなしくこれ まで打過(うちすぎ)候といへば。なむ右衛門さてはその時(とき)の婦人(ふじん)にて候か。思ひかけざる 再会(さいくわい)に。恙(つゝが)なき体(てい)を見。て喜(よろこ)びにたへずといふ。又平は此時(このとき)やう〳〵心(こゝろ)おち つきぬれば。ものいふ事も常(つね)のごとく。なむ右衛門にむかひ。詞(ことば)をあらため ていひけるは。某(それがし)かねて妻(つま)に金子(きんす)をたまはり。危(あやう)き一命(いちめい)をすくひくだされし 恩人(おんじん)を慕(したひ)つるに。おん身(み)にてあらんとは夢(ゆめ)にもおもはざりき。某(それがし)そのかみ都(みやこ) 北山(きたやま)に住(すみ)しころ。殊外(ことのほか)困窮(こんきう)し過去(すぎさり)し。母親(はゝおや)を養育(よういく)の為(ため)せんすべなく。 先祖(せんぞ)より伝来(でんらい)の。巨勢(こせ)の金岡(かなをか)が画(ゑがき)たる。陸奥(みちのく)武隈(たけくま)の松(まつ)の絵(ゑ)を質入(しちいれ) せしが。妹(いもと)藤浪(ふぢなみ)その事(こと)を聞(きゝ)て気(き)の毒(どく)に思ひ。うけもどせとて。金(きん)二十 両(りやう)合力(かうりき)し くれけるゆゑ。その夜(よ)妻(つま)に命(めい)じて絵(ゑ)をうけもどしにつかはしける途中(とちう)にて。盗(ぬす) 人(ひと)に金子(きんす)を奪(うばひ)とられ。妹(いもと)の手前(てまへ)面目(めんぼく)なしとて。杉坂(すぎさか)にて縊死(くびれしな)んとせしを。 おん身 詞(ことば)を尽(つく)し理(り)をのべて。二十 両(りやう)の金(かね)をめぐみたまはり。一命(いちめい)を救(すく)ひ くだされ。殊(こと)に後日(ごにち)に恩(おん)をきまじとて。姓名(せいめい)を告(つけ)玉はず。此方(このかた)の名(な)をも 聞(きゝ)玉はざるよし。その夜(よ)妻(つま)たゞちにかの絵(ゑ)をうけもどし。家(いへ)に帰(かへ)りて。つぶ さにものがたり候ゆゑ。世(よ)にはさばかり慈悲深(じひふか)き人(ひと)もあるものかと。感歎(かんたん) し。今(いま)にいたるまで。夫婦(ふうふ)折(おり)ふしその事(こと)をかたりいだして。感じ思ふ事 たえはべらず。おん身(み)さばかり慈悲深(じひふか)き人(ひと)にてありながら。何(なに)とて妹(いもと)藤(ふぢ) 浪(なみ)を殺(ころ)し。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を奪(うばひ)とるたぐひの。非道(ひだう)をおこなひ玉ひしや。 こゝに於(おい)て思へば。おん身の心底(しんてい)善(ぜん)か悪(あく)か。分明(ふんみやう)ならず。妹(いもと)が仇(あた)を報(むくは)んと すれば。恩(おん)をしらざる者(もの)となり。恩(おん)を思ひて打(うた)ざれば。妹(いもと)が冥途(めいど)の恨(うらみ) はれず。かの恩(おん)と此(この)仇(あた)といづれかおもくいづれかかろき。とくと思案(しあん)つかま つり。恩(おん)を以(もつ)て仇(あた)にかゆるか。仇(あた)を以(もつ)て恩(おん)にむくふか。心(こゝろ)を決(けつ)し候べしと。吃謇(ことともり) つゝいひて。刀(かたな)を鞘(さや)におさむれば。なむ右衛門いひけるは。しかおぼすは理(ことはり)なり。 某(それがし)藤浪(ふぢなみ)どのを殺(ころ)せしは。全(まつた)く非義非道(ひぎひとう)にあらず。くはしき物語(ものかたり)を聞(きゝ)て たべよ。若殿(わかとの)桂(かつら)之助どの在京(さいきやう)の刻(きざみ)。藤浪(ふぢなみ)どのゝ艶色(ゑんしよく)に迷(まよ)ひ。不破(ふは)伴(ばん)左 衛門がたぐひの。佞臣等(ねいしんら)にすゝめられて。放佚無慙(ほういつむざん)の不行跡(ふぎやうせき)漸々(ぜん〳〵)に つのり。名古屋(なごや)山(さん)三郎と某(それがし)。しば〳〵諌(いさめ)をたてまつるといへども。露(つゆ)ばかり ももちひ玉はず。若(もし)室町御所(むろまちごしよ)の御耳(おんみゝ)にいれば。おん家(いへ)にもかゝはる事(こと) なれば。せんすべなく。越(ゑつ)の范蠡(はんれい)西施(せいし)を呉湖(ごこ)にはなちたる例(ためし)にならひ。 科(とか)なきを殺(ころ)すは不便(ふびん)とは思ひしかど。お家(いへ)にはかへがたしと思ひなほして。 藤浪(ふぢなみ)どのを殺(ころ)し。すでにその場(ば)にて腹(はら)きらんと。刀(かたな)に手(て)はかけたれども。執(しつ) 権(けん)不破(ふは)道犬(どうけん)が心底(しんてい)。いぶかしき処(ところ)あれば。権(しばらく)一命(いちめい)をたもち。かれが悪意(あくい)を見 あらはせしうへにて。藤浪(ふぢなみ)どのゝ縁者(えんじや)をたづね。恨(うらみ)の刃(やいば)にかゝりて相果(あひはて)んと。 妻子(さいし)を具(ぐ)して。その夜(よ)館(やかた)を立退(たちのき)けるが。杉坂(すぎさか)にて。ふと此(この)婦人(ふじん)の首(くび)縊(くゝら)んと せられしを見つけ。いづくいかなる人(ひと)かはしらざれども。せめて此(この)婦人(ふじん)をすくひ。 藤浪(ふぢなみ)どのゝ冥福(めいふく)の便(よすが)ともなしてんと。あながちに死(し)をとゞめぬ。藤浪(ふぢなみ)どのゝ 兄(あに)なるおん身(み)の妻女(さいぢよ)とは。いかでか思ひ候べき。誠(まこと)に不思議(ふしぎ)の出会(しゆつくわい)なりとて。其(その) のち丹波(たんば)の国(くに)にうつり住(すみ)六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門と改名(かいめい)したるいはれ。百蟹(ひやくがい)の 巻物(まきもの)を奪(うばひ)たるは。長谷部雲六(はせべのうんろく)一人(いちにん)の所為(しよい)なる事(こと)。藤浪(ふぢなみ)の怨霊(おんりやう)兄弟(きやうだい)の 子どもにつき。姉(あね)楓(かへで)は蛇(へひ)に見こまれ。弟(をとゝ)栗(くり)太郎は盲目(めしい)となり。文弥(ぶんや)と 改名(かいめい)したる事(こと)。文弥(ぶんや)忠孝(ちうかう)全(まつた)くして。若君(わかぎみ)の身がはりとなりし事。楓(かへで)孝心(かうしん) 深(ふか)く。父(ちゝ)の汚名(をめい)をすゝがんと。見せ物芝居(ものしばゐ)に身(み)を売(うり)て。金(かね)をとゝのへ。かの 巻物(まきもの)を買(かひ)とりたる事(こと)。月若(つきわか)に妻(つま)礒菜(いそな)をつけて。河内(かはち)の国(くに)某(それがし)の寺(てら)にしの ばせおき。おのれは回国(くわいこく)の修行者(しゆきやうじや)に身(み)を扮(ふん)して。かの巻物(まきもの)をたづさへ。桂(かつら)之 助いてふの前(まへ)二方(ふたかた)のゆくへをたづねに出(いで)て。けふしも不思議(ふしぎ)にこゝにやどり。 さきほど位牌(いはい)の法名(ほふみやう)を見て。似(に)たる事(こと)と思ひしまで。こまやかに語(かた)りける にぞ。又平 夫婦(ふうふ)お竜(りう)も。はじめて其(その)実(しづ)を知(しり)。たぐひまれなる忠臣(ちうしん)やと。転(うたゝ) 感嘆(かんたん)にたへざりけり。なむ右衛門かさねていはく。おん身等(みら)に出会(しゆつくわい)し。恨(うらみ)の 刃(やいば)にかゝりて死(し)し。冥途(めいど)にいたりて藤波(ふぢなみ)どのにいひわけせんことは。かねて 望(のぞ)む所(ところ)なれども。主君(しゆくん)御夫婦(ごふうふ)御親子(ごしんし)の先途(せんど)を見とゞけ。再(ふたゝび)世(よ)に出(いた)し まゐらすまでは。死(しに)にくき命(いのち)なれば。しはしの間(あひた)某(それがし)が命(いのち)を。某(それがし)にあづけおき たまはれかし。かの宿願(しゆくくわん)をはたせしうへは。首(くび)さしのべておん身等(みら)に打(うた)る べし。常言(じやうげん)にも大丈夫(たいじやうぶ)の一言(いちげん)は。駟馬(しめ)も走(はし)らずといへり。若(もし)此(この)詞(ことは)に 露(つゆ)ばかりもいつはりあらば。立地(たちどころ)に天地神明(てんちしんめ)の御罰(ごばつ)をかうふるべし。 恩(おん)は恩 仇(あた)は仇なり。少(すこ)しの恩(おん)を以(もつ)て覚悟(かくご)の命(いのち)をたすかるべき所(しよ) 存(ぞん)なしと。詞(ことば)すゞしくいひければ。又平 返答(へんとう)の詞(ことば)はなく。つと立(たち)て刀(かたな)を すらりと抜(ぬき)はなち。なむ右衛門がたづさへたる編笠(あみがさ)をずばと斬(きり)て。 仏壇(ぶつだん)に手向(たむけ)。いかに藤浪(ふぢなみ)汝(なんぢ)が敵(かたき)佐々良(さゝら)三八郎が首(くび)を。かくのごとくなし たれば。速(すみやか)に恨(うらみ)をはらして仏果(ぶつくわ)を得(え)よ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)あみだ仏(ぶつ)ととなへ。 扨(さて)南無(なむ)右衛門にむかひ。晋(しん)の予譲(よじやう)が例(ためし)にならひ。今(いま)已(すで)に妹(いもと)が仇(あた)をむくい たれは。もはや恨(うらみ)は少(すこ)しもなし。此うへは妻(つま)小枝(さえだ)が命(いのち)を救(すくひ)玉はりし。大恩(だいおん)を 報(ほう)ずるのみなり。その恩(おん)を報(ほう)ずべき仕方(しかた)はかくと。へだての紙門(ふすま)を押(おし) ひらけば。一間(ひとま)のうちに声(こゑ)ありて。某(それかし)さきほどよりこゝにありて。委細(いさい)のゆゑ を聞(きゝ)つるぞといひつゝ。立出(たちいづ)る人(ひと)は。乃(すなはち)是(これ)別人(べつじん)にあらず。佐々木(さゝき)桂(かつら)之助 国(くに) 知(とも)なり。なむ右衛門 椽(ゑん)のはしまで退(しりぞ)きて。平伏(へいふく)すれば。桂(かつら)之助いひける は。我(われ)佞者(ねいしや)の為(ため)にすゝめられて行(こう)を乱(みだ)し。汝等(なんちら)が諌言(かんけん)をもちひず。 今(いま)思へば藤浪(ふぢなみ)が非業(ひごう)の死(し)は。畢竟(ひつきやう)我(わが)手(て)をくだして殺(ころ)せしも同然(とうぜん)なり 我(われ)眼(まなこ)ありながら。誠(まこと)の忠臣(ちうしん)を見ることあたはず。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を奪(うはひ)し も。汝(なんぢ)が仕業(しわざ)と思ひしは。大なる誤(あやま)りなり。今(いま)汝(なんぢ)がものがたりをきけば。楓(かへで) が孝行(かう〳〵)により。巻物(まきもの)をもとめ出(いた)し。文弥(ぶんや)が忠義(ちうぎ)によりて。月若(つきわか)も恙(つゝが) なきとや。たぐひまれなる者(もの)どもが。不便(ふびん)なる身(み)の果(は)と。思へば悲歎(ひたん)にせ まるぞかし。我(われ)不行跡(ふかうせき)によりて。父(ちゝ)の勘気(かんき)をかうふり。かく漂泊(ひやうはく)の身(み) となりて。今(いま)後悔(こうくわい)すといへども。更(さら)にかひなし。いきながらへて恥(はぢ)をのこ さんより。自殺(じさつ)せめと思ひしことは。たび〴〵なれども。道犬(とうけん)が謀計(はうけい) 館(やかた)の騒動(そうとう)をほのかにきけば。父(ちゝ)うへのおん身(み)のうへ気(き)づかはしく。時節(じせつ)を まち。御勘気(ごかんき)のゆるしをうけてたちかへり。家(いへ)をおさめんと思ふから。おち こちをしのびて。むなしく月日(つきひ)をおくりつるが。此(この)家(いへ)のあるじ又平。藤浪(ふぢなみ) ゆゑに零落(れいらく)せしを憐(あわれ)み。深(ふか)くいたはりてかくまひおきぬ。なごや山(さん)三 郎 不破(ふは)伴(ばん)左衛門がために父(ちゝ)を打(うた)れたる事(こと)も。かれが僕(しもべ)猿(さる)二郎と いふ者(もの)にあひてくはしくきゝぬといひければ。なむ右衛門 頭(かしら)をさげ。おん 気(き)づかひあそばされな。某(それがし)命(いのち)あらんかぎりは道犬(とうけん)が悪意(あくい)を糺(たゞ)し。 再(ふたゝび)世(よ)にいだしまゐらすべしと申すにぞ。桂(かつら)之助すゑたのもしく ぞ思ひける。かゝる折(おり)しも空中(くうちう)より。一羽(いちは)の雁(がん)片田(かたた)に落(おつ)る雁(かり)ならで 椽(えん)さきに撲地(はたと)おち。なむ右衛門か膝(ひざ)に上(のほ)り。再(ふたゝび)飛(とば)んと羽(は)たゝきすれ ども。飛(とぶ)ことあたはず。よく〳〵見れば。足(あし)に財布(さいふ)をゆひつけたるが。足(あし)かし となりて飛(とぶ)ことならざるなり。なむ右衛門いぶかりつゝ。財布(さいふ)をときて 見れば。うちにおよそ百両(ひやくりやう)ばかりの小判金(こばんきん)あり。扨(さて)は此(この)金(かね)のおもさに たへずしておちたるか。朱賓(しゆひん)が雁(がん)は臆(むね)に金銭(きんせん)を貫(つら)ぬき。蘇武(そぶ)か雁(がん)は 脚(あし)に帛書(はくしよ)を繋(つなぎ)たる。ためしはあれども。かゝる大金(たいきん)を雁(がん)の足(あし)にゆひつけ たるは。何(なに)のゆゑぞと。一同(いちどう)にいぶかり思ひぬ。此(この)金(かね)の出所(しゆつしよ)をしらんと要(やう)せば。 且(まづ)下回(つぎのくだり)を読得(よみえ)て知(しる)べし      巻の四終 【裏表紙】 《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 七 昔話(むかしかたり)稲妻(いなつま)表紙(ひようし)巻之五上冊            江戸  山東京伝    十五 孤雁(こがん)の禍福(くわふく) 当時(そのとき)。なむ右衛門又平 等(ら)一同(いちどう)に。かの金(かね)の出所(しゆつしよ)いかゞと。いぶかり思ひける所(ところ)に。 一人の男(おとこ)。汗(あせ)もしとゝに息(いき)もつきあへず。飛(とぶ)がごとくにはせ来(きた)り。案内(あんない)も こはず内(うち)にいり。たしかに爰(こゝ)におちたるがといひつゝ。あたりを見まはし。 なむ右衛門が手(て)に持(もち)たる財布(さいふ)を見つけ。そは我(わが)失(うしな)ふたる金(かね)なり。 此方(このほう)へかへすべしといひつゝ。財布(さいふ)に手(て)をかくるを。なむ右衛門かへり見て。汝(なんぢ) は長谷部雲六(はせべのうんろく)ならずやといへば。此(この)男(をとこ)仰天(ぎやうてん)しよく〳〵見れば。佐々良(さゝら)三 八郎にて。かしこに若殿(わかとの)桂(かつら)之助もおはしければ。ます〳〵驚(おどろき)。財布(さいふ)も とらで逃(にげ)いだすを。なむ右衛門 猿臂(ゑんひ)を伸(のべ)。ゑりくびつかみてひき もどし。膝(ひざ)の下(した)におししきていひけるは。汝(なんぢ)六年 以前(いぜん)しかも今月(こんげつ)今(こん) 夜(や)。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を盗(ぬすみ)。逃去(にげさり)たる事おぼえあるべし。我(われ)その夜(よ)若殿(わかとの) 御放埓(ごほうらつ)の根(ね)をたゝんと。藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)し。思ふむねありて。一旦(いつたん)館(やかた)を たちのきしが。同(おなじ)夜(よ)の事(こと)なれば。某(それがし)にもおん疑(うたがひ)かゝり。汝(なんぢ)といひ合(あは)せて かの巻物(まきもの)を盗(ぬすみ)しならんと。共(とも)に盗賊(とうぞく)の汚名(をめい)をかうふりぬ。そのゝちかの 巻物(まきもの)を売(うら)んといふ者(もの)あるゆゑ。これをもとめて汚名(をめい)をすゝがばやと思ひ けれども。價(あたひ)百両(ひやくりやう)といふ大金(たいきん)なれば力(ちから)およばず。しかるに娘(むすめ)楓(かへで)此(この)事(こと)を 聞(きゝ)て深(ふか)く悲(かなし)み。みづから身(み)を見せ物芝居(ものしばゐ)に売(うり)て。百両(ひやくりやう)の金(かね)をとゝのへ。 かの巻物(まきもの)を買(かい)もどし。諸人(しよにん)に面(おもて)をさらし。丹波(たんば)の国(くに)の蛇娘(へびむすめ)と。世(よ)に恥(はぢ) をあらはす憂身(うきみ)のうへとなりぬ。これみな汝(なんぢ)がなせし業(わざ)にあらずや。唯(たゞ) 今(いま)はからず出会(しゆつくわい)せしは天(てん)の与(あた)へ。我(わが)宿恨(しゆくこん)をはらすべき時(とき)のいたれる なり。たとへ生皮(いきかは)を剥(はぎ)臊子(さいのめ)にきざむとも。飽(あく)べからすといひつゝ。簀子(すのこ)の 上に鼻(はな)の尖(とがり)をすりつけ〳〵して。さいなみければ。雲六(うんろく)は一言(ひとこと)だに返荅(へんとう) すべき詞(ことば)なく。只(たゞ)ゆるし玉へ〳〵とうちわびけり。時(とき)に又平が妻(つま)小枝(さえだ)さき ほどより。雲六(うんろく)が顔(かほ)をつれ〳〵とまもりつめて居(ゐ)つるが。大におどろき。先(せん) 年(ねん)杉坂(すぎさか)にて。妾(わらは)が懐中(くわいちう)の金(かね)二十 両(りやう)を奪取(うばひとり)。逃去(にげさり)たる盗人(ぬすびと)は。すなはち 此者(このもの)にて。たしかに見おぼえありといへば。又平きゝて。扨(さて)はしかありけるか。 恩人(おんじん)と仇人(あだびと)と。しかも同月(たうげつ)同日(たうじつ)に。はからず出会(しゆつくわい)せしは。正(まさに)是(これ)天(てん)のみちびき 玉ふ処(ところ)にして。善悪(ぜんあく)つひに報(むくい)ある事(こと)を示(しめ)し玉ふ所(ところ)ならん。いかに雲六(うんろく)とやらん よくきけとて。小枝(さえだ)金(かね)をうばゝれいひわけなく。首(くび)縊(くゝり)て死(しな)んとせしを。三八 郎が情(なさけ)にて。金子(きんす)を合力(かうりよく)され。危(あやう)き一命(いちめい)をたすかりたる事の始終(しじう)を。 つぶさにかたりければ。雲六(うんろく)頭(かしら)をたれてきゝ居(ゐ)たるが。やがて一刀(いつとう)を抜(ぬき)て 腹(はら)にぐさとつきたて。いと苦(くる)しげに息(いき)をつきていひけるは。あなおそろしや 勿体(もつたい)なや。今(いま)やう〳〵天(てん)の賞罰(しやうばつ)あきらかなる事(こと)をしり。積悪(せきあく)の報(むくい)の 覿面(てきめん)にめぐり来(きた)ることを暁(さと)らぬ。某(それがし)が懺悔物語(さんげものかたり)を。一回(ひとゝほり)おん聞(きゝ)くだされ かし。そのかみ某(それがし)在京(ざいきやう)のうち。五条坂(こじやうざか)の曲中(くるわ)に通(かよ)ひて。過分(くわぶん)の金銀(きんぎん)を ついやし。身分(みぶん)たちかだきにより。偶(ふと)悪念(あくねん)おこりて。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を盗(ぬすみ) 取(とり)。おん館(やかた)を出奔(しゆつぽん)して。北山(きたやま)をすぎ。杉坂(すぎさか)にいたりけるに。折(おり)しも風雨(ふうう) つよかりければ。しばし木蔭(こがけ)に晴間(はれま)を待居(まちゐ)たるに。それなる婦人(ふじん)来(き) かゝり玉ひ。懐中(くわいちう)おもげに見えけるゆゑ。又 悪念(あくねん)おこり。婦人(ふじん)を地上(ちしやう)に 踢倒(けたふ)して。二十 両(りやう)の金(かね)をうばひ。仕合(しあはせ)よしと歓(よろこ)びて。その所(ところ)を逃去(にけさり)。そのゝち かの巻物(まきもの)を。金(きん)五十 両(りやう)に売(うり)けるが。一所不住(いつしよふぢう)に迷(まよひ)ありく間(あひだ)に。かの金(かね)を 残(のこり)なくつかひ尽(つく)し。つひに零落(れいらく)してかゝる身となりぬ。某(それがし)は金(かね)を奪(うばひ)て 死(し)にいたらしめんとし。三八郎どのは金(かね)を与(あた)へて。死(し)を救(すくひ)玉ひつるよし。今(いま)思へ ば。善悪(ぜんあく)のたがひ誠(まこと)に壌霄(じやう〳〵)をへだつるがごとし。豈(あに)賞罰(しやうばつ)の報(むくい)なからんや。 扨(さて)某(それがし)ちかごろ当国(とうごく)にいたりて。草津(くさつ)の駅(ゑき)に住家(すみか)をもとめ。幸(さいは)ひ石山寺(いしやまでら) の観音(くわんおん)開帳(かいちやう)ありてにぎはしければ。かの門前(もんぜん)に出(いで)。鼓(つゞみ)を打(うち)くせ舞(まひ〳〵)の 謡(うたひ)をうたひて物(もの)を乞(こひ)けるに。前(さき)の日(ひ)思ひかけず。幼年(ようねん)の時(とき)わかれたる。 八重垣(やへがき)といふ妹(いもと)にあひ。住家(すみか)にともなひかへりて。何(なに)くれと過去(すぎさり)し事 どもを語(かた)りけるに。妹(いもと)某(それがし)がかく浪人(ろうにん)したるいはれをとひけるゆゑ。又 悪念(あくねん) おこり。いつはりていひけるは。我(われ)前(さき)の年(とし)在京(ざいきやう)の刻(きざみ)。偶(ふと)五条坂(ごじやうざか)に通(かよ)ひ。過(くわ) 分(ぶん)の金銀(きん〴〵)をついやし。そのおひめをつくのはん為(ため)。若殿(わかとの)よりあづかりたる。 絵巻物(ゑまきもの)を質入(しちいれ)しつるが。つひにその事あらはれていとまたまはり。かく浪々(ろう〳〵) の身(み)となりぬ。格別(かくべつ)の科(とが)にもあらねば。今(いま)にもかの巻物(まきもの)をうけもどし てさし上(あぐ)れば。帰参(きさん)のかなふは必定(ひつじやう)なれども。本金(ほんきん)に利金(りきん)をくはへて。かれ これ百両(ひやくりやう)ばかりの金(かね)なれば。なか〳〵とゝのひがたく。今(いま)先非(せんぴ)を悔(くゆ)ると いへどもかひなしといひて。そら泣(なき)して見せければ。妹(いもと)これを実(まこと)とし。 しからば妾(わらは)が身(み)を売(うり)て金(かね)をとゝのへ。その巻物(まきもの)をうけもどして。帰参(きさん) を願(ねかひ)玉へといふにぞ。某(それがし)心(こゝろ)に計(はかりこと)なりしと歓(よろこ)び。うまくいつはりて情(なさけ)なくも。 妹(いもと)を当所(たうしよ)の伏柴(ふししば)の里(さと)にゐてゆき。百両(ひやくりやう)に身(み)を売(うり)て。今日(けふ)しもその 身(み)の代(しろ)をうけとり。天(てん)へものぼるこゝちして。かへる路(みち)の傍(かたはら)に。一羽(いちは)の雁(がん)首(かしら) をなげて落居(おちゐ)たり。飛(とぶ)けはひはなく見ゆれども。抜足(ぬきあし)しつゝ拾取(ひろひとり)て 見るに。箭(や)の疵黐(きづもち)のあともなし。扨(さて)はこしぢにかへる雁金(かりがね)の。行倒(ゆきだふれ)かと 推量(すいりやう)し。何(なに)にまれ福(さいはひ)のいたり時(どき)。晩(ばん)の寝洒(ねざけ)の肴(さかな)とし。ひさ〴〵飢(うへ)たる 痩腹(やせばら)を肥(こや)さんものと。心(こゝろ)のうちに歓(よろこ)び。はや栄耀(ゑひよう)心(こゝろ)いでゝ。提(さげ)てゆくも わづらはしと。金財布(かねさいふ)の紐(ひも)のあまりを。雁(がん)の足(あし)にゆひつけ。肩(かた)の尖(とがり)にふりかた げて。懐手(ふところで)して帰(かへ)りしが。何(なに)とかしけん。かの雁(がん)途中(とちう)にて蘇生(よみがへり)。くゝりつけたる 財布(さいふ)とゝもに。虚空(こくう)を斥(さ)して飛去(とびさり)けるあひだ。翼(つばさ)なき身(み)を悲(かな)しみて。 あとをしたひて此(この)処(ところ)まで追来(おひきた)りしが。落(おつ)べき所(ところ)もあるべきに此(ここ)におちて 君(きみ)を始(はじ)め奉り。おの〳〵方(がた)に出会(しゆつくわい)し。某(それがし)が旧悪(きうあく)のあらはるゝは。正(まさしく)是(これ)兄(あに)の為(ため)に 身(み)を売(うる)ほどの。実(まこと)ある妹(いもと)の身(み)の代(しろ)をむさぼりし。某(それかし)が非道(ひだう)をにくみ。 天罰(てんばつ)を与(あた)へ玉ふに疑(うたがい)なし。今(いま)にいたりてやう〳〵と思ひあたり候とて。財布(さいふ) をとりあげ。此(この)百両(ひやくりやう)の金(かね)は先年(せんねん)奪(うばひ)し二十 両(りやう)に利(り)をくはへて。又平とのに かへすあひだ。合力(かうりよく)うけし三八郎どのへ此侭(このまゝ)返(かへ)し玉ひて。御息女(ごそくじよ)楓(かへで)どのゝ 身(み)をあがなひ返(かへ)し玉はれかし。さもあらば我身(わがみ)の罪(つみ)の一分(いちぶん)を減(げん)じ。いさゝか 来世(らいせ)をたすかる便(よすが)とも相(あい)なるべし。いはれを聞(きか)ねばよそことにおもひ しが。此度(このたび)石山寺(いしやまでら)の門前(もんぜん)にて。諸人(しよにん)に見する蛇娘(へびむすめ)は。楓(かへで)どのに疑(うたかひ)なし。 聞(きゝ)とゞけてよ御両人(ごりやうにん)といひて。掌(て)を合(あは)せて拝(おが)み。涙(なみだ)を滝(たき)のごとくながし ければ。又平かの財布(さいふ)をとりてなむ右衛門が前(まへ)におき。雲六(うんろく)慚邪(さんじや)懺(ざん) 罪(ざい)して実心(じつしん)にひるがへりしうへは。不便(ふびん)にも存(ぞん)ずれば。かれが望(のぞみ)のごとく 此(この)金(かね)にて。息女(そくぢよ)をあがなひ候へかしといへば。なむ右衛門 頭(かしら)を右左(みぎひだり)にふり うごかし。いな〳〵八重垣(やへがき)とやらんさばかり実(まこと)ある者(もの)を。うき川竹(かはたけ)のなが れにしづめ。長(なが)く辛苦(しんく)をうけしめんは。しのびがたき事ならずや。娘(むすめ) 楓(かへで)はみづから斍悟(かくご)のうへにて。親(おや)の為(ため)にはづかしめをうくるなればせん すべなし。此(この)金(かね)をかへして八重垣(やへがき)をとりもどし。つかはすべしといひて。 うけがはざれば。雲六(うんろく)苦(くる)しげに息(いき)をつき。いな〳〵その金(かね)にて御息女(こそくぢよ)の身(み)を あがなひ玉はらば。かへりて妹(いもと)が実心(しつしん)のかひもあるべし。殊更(ことさら)その金(かね) おん身(み)の膝(ひざ)のあたりに落(おち)たるよし。畢竟(ひつきやう)天(てん)より忠臣(ちうしん)孝子(かうし)を賞(しやう)じ 玉ひて。与(あた)へ玉ふに疑(うたがひ)なし。若(もし)海川(うみかは)にもおちいりなば。妹(いもと)が志(こゝろざし)は水(みづ)の泡(あは)と なり候べし。ひとへにおん聞(きゝ)とゞけ玉はれかし。若(もし)さもあらずは某(それがし)死(し)しても。 こゝろよく眼(まなこ)をふさぎ申すまじとて。涙(なみだ)をながしてねがひけり。桂(かつら)之助 始(し) 終(じう)を聞(きゝ)。悪(あく)にもつよく善(ぜん)にもつよき彼(かれ)がねがひ。未期(まつご)の望(のぞみ)なればきゝ とゞけつかはすべしと。おもきおふせになむ右衛門。やう〳〵これをうけがひ けり。雲六(うんろく)はうれしげに打笑(うちわらひ)。今(いま)は此世(このよ)にのぞみなし。死出(しで)の旅路(たびぢ)を いそがばや。相公(との)の御前(ごぜん)をけがす罪(つみ)は。おん免(ゆる)し玉はれかしとて。腹(はら)十文 字(じ)にかきやぶり。咽吭(のんどのくさり)をかき斬(きり)て。うつぶしに伏(ふし)てぞ死(し)したりける。時(とき)に なむ右衛門。かの鳥(とり)をとりあげていはく。此(この)鳥(とり)雁(がん)に似(に)たりといへども。 よく〳〵見れば漢名(かんみやう)蒼鶂(そうじ)といふ鳥(とり)なり。よく高(たかく)飛(とび)雁(がん)に似(に)て蒼白(そうはく)也。 目(め)相見(あいみ)て孕(はら)み。吐(はき)て子(こ)を生(うむ)といへり。夏子益(かしゑき)が奇疾方(きしつほう)に。蒼鶂(そうじ)の肉(にく)に 人血(じんけつ)を和(くわ)して。瘂(おし)を治(ぢ)する方(ほう)ありと。ある名医(めいい)に聞(きゝ)たる事(こと)あり。吃謇(ことどもり) にも又 験(しるし)あるまじきにあらず。思ひかけずかゝる奇鳥(きちやう)を得(え)たるも。又 一奇(いつき) 事(じ)なれば。こゝろみにもちひ玉はずやといふにぞ。又平やがてかの鳥(とり)の肉(にく)をさき とりて火(ひ)にあぶり。雲六(うんろく)が鮮血(せんけつ)をそゝぎて食(しよく)しけるに。頓(とみ)に咽(のんど)すゞやかになり。 生(うま)れつきたる吃謇(ことどもり)。忽(たちまち)常(つね)の人(ひと)のものいふごとくになりて。これもまた天(てん)の 与(あた)へならめといふこはざまも。いとあきらかなれば。小枝(さえだ)於竜(おりう)等(ら)こは不思議(ふしぎ)〳〵 といひて歓(よろこ)びあひぬ。誠(まこと)に奇異(きい)の事(こと)なりけり。かゝる折(おり)しも外(と)の方(かた)に。人(ひと) の足音(あしおと)ひゞきければ。又平 小枝(さえだ)於竜(おりう)に目(め)くはしして。柱(かつら)之助を一間(ひとま)に かくし。雲六(うんろく)が屍(しかばね)を蒲団(ふとん)にくるみて床(ゆか)の下(した)に押入(おしいれ)。血(ち)しほをぬぐふひま もなく。見(み)せ物芝居(ものしばゐ)の主(あるじ)。楓(かへで)を伴(ともな)ひこゝぞ〳〵といひつゝ裏(うち)にいり。 なむ右衛門にむかひていひけるは。おん身(み)今日(けふ)しも此(この)宿(しゆく)をよぎり玉ひしを。 僕(しもべ)が見つけて告(つげ)しゆゑ。楓(かへで)をあはせ申さんため。旅宿(りよしゆく)をたづね参(まゐり)しと いへば。楓(かへで)は父(ちゝ)にとりすがり。かはりたる此(この)お姿(すがた)。母(はゝ)うへも恙(つゝか)なくおはすかとて。あと は涙(なみだ)に詞(ことば)なし。なむ右衛門は折(おり)よき幸(さいはひ)と歓(よろこ)び。たがひに何(なに)くれとかたり あひて後(のち)。芝居主(しばゐぬし)にむかひ。ゆゑありて思ひかけず金(かね)とゝのひつるが。元金(もときん) 百両(ひやくりやう)を以(もつ)て。娘(むすめ)をもどしたまはらずやといへば。芝居主(しばゐぬし)すみやかにうけがひ。 楓(かへで)事 京(きやう)大坂(おほさか)は勿論(もちろん)。伊勢(いせ)尾張(おはり)のあたりまでゐてゆき。おほくの金(かね)を 徳(とく)つきたれば。即坐(そくざ)に百両(ひやくりやう)渡(わた)し玉はゞ。いかにもいとまをつかはすべし といふにぞ。南無(なむ)右衛門ます〳〵へ歓(よろこ)び。かの金(かね)をとり出(いだ)して渡(わた)しければ。 芝居主(しばゐぬし)数(かづ)をあらためてとりおさめ。こは思ひよらざる楓(かへで)が仕合(しあは)せよとて。 金(かね)のうけ取(とり)。いとまのしるしを証文(しやうもん)にかきしるし。印信(おして)をすゑて 与(あた)へ。楓(かへで)をわたして。又かさねてまみゆべしといひて出去(いでゆき)ぬ。時(とき)に三井(みゐ)の 晩鐘(ばんしよう)つげわたり。勢田(せた)のあたりに夕日(ゆふひ)のかげぞかたふきける    十六 名画(めいぐわ)の奇特(きどく) 扨(さて)も其時(そのとき)なむ右衛門。主君(しゆくん)桂(かつら)之助にねがひて娘(むすめ)楓(かへで)にめみへをさせ。又平 夫(ふう) 婦(ふ)阿竜(おりう)等(ら)にも引合(ひきあは)せ。今日(けふ)のくはしき物語(ものがたり)をかたりきかせければ。楓(かへで) 打間(うちきゝ)て。因果(いんぐわ)輪転(りんでん)の理(ことはり)。善悪(ぜんあく)つひに報(むくい)ある事(こと)を暁(さと)して。嘆息(たんそく)しけり。 かくて又平 夫婦(ふうふ)食事(しよくじ)を調(ちやう)じて。なむ右衛門 父子(ふし)に与(あた)へ。一間(ひとま)のうちに みちびきてやすませけり。なむ右衛門 父子(ふし)は。たえてひさしき出会(しゆつくわい)なれば。 さま〴〵の物語(ものがたり)に思はず時(とき)をうつし。やう〳〵睡(ねふり)につきけるに。やゝありて楓(かへで)が 声(こゑ)として。あなや〳〵とおめきさけひければ。なむ右衛門 驚(おとろき)ねふりを醒(さま)して 見れば。楓(かへて)が腹(はら)に巻(まき)つきたる小蛇(しやうじや)。懐(ふところ)より飛出(とひいづ)ると見えしか。忽(たちまち)丈(たけ)一丈(いちしやう) ばかりの大蛇(だいじや)と変(へん)じ。楓(かへで)が身(み)をいくへともなくまとひぬ。あなかなしやこはそも いかにすべきとあはてまとひけるに。枕上(まくらがみ)におきたる笈(おひ)のうちより。あまたの 蟹(かに)はひ出(いで)て。大蛇(だいじや)にとりつき。螯(はさみ)を以(もつ)て肉(にく)をはさみ。血(ち)は泉(いづみ)のごとく ながれて。暫時(ざんじ)に大蛇(だいじや)を殺(ころ)しおはんぬ。蟹(かに)はたゞちにもとの笈(おひ)のうちに はひいると見えしは。すなはち夢(ゆめ)なりけり。なむ右衛門 夢(ゆめ)さめて。身(み) うちに汗(あせ)をながし。楓(かへで)をゆりうごかしければ。楓(かへで)もねふりをさまして起(おき) 上(あが)りけるにぞ。衣服(いふく)をくつろげて腹(はら)を見るに。これまで片時(へんじ)もはなれ ざる妖蛇(ようじや)。いづくへゆきしやらん失(うせ)てあとだになし。なむ右衛門さては正(まさ) 夢(ゆめ)にてありしかと思ひつゝ。笈(おひ)のうちよりかの巻物(まきもの)をとり出(いだ)してひら き見れば。画中(くわちう)の蟹(かに)の螯(はさみ)に尽(こと〴〵)く鮮血(なまち)つきてぞありける。此時(このとき)已(すで)に 四更(しかう)のころなりしが。又平も楓(かへで)がおめきたる声(こゑ)を聞(きゝ)つけて起(おき)いで来(きた)り。 【挿絵】 藤波(ふぢなみ)  成仏(じやうぶつ)   得脱(とくだつ)す 楓(かへで)孝道(かうだう)  あつきにより夢中(むちう)   名画(めいぐわ)の奇特(きどく)を得(ゑ)て    妖蛇(ようじや)の難儀(なんぎ)を         まぬかる かへで なむ右衛門が夢中(むちう)の事(こと)をきゝ。灯火(ともしひ)をかゝげてかの巻物(まきもの)を熟覧(じゆくらん)し。 掌(て)を打(うち)ていひけるは。奇(き)なるかな妙(みやう)なるかな。巨勢(こせ)の金岡(かなをか)は。清和(せいわ)。陽成(やうぜい) 光孝(くわうかう)。宇多(うだ)。醍醐(たいご)の五朝(ごちやう)に仕(つか)へて。官(くわん)大納言(だいなごん)に至(いた)る。曽(かつ)て御府(ぎよふ)に蔵(おさめ) 玉ふ金岡(かなをか)が画(ゑが)ける馬(うま)。毎夜(まいや)萩(はぎ)の戸(と)のほとりに出(いで)て。萩(はぎ)の花(はな)をくひしと。 古今著聞集(ここんちよもんしふ)に見えたり。また仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)に金岡(かなをか)が画馬(ぐわば)あり。近(ちかき) 田(た)のほとりに出(いで)て。稲(いね)の苗(なへ)をくひしといふ。また河内(かはち)の国(くに)金田村(かなだむら)牛頭(こづ) 天王(てんわう)の社頭(しやとう)の。金岡(かなをか)が筆(ふで)の絵馬(ゑま)。ぬけ出(いだ)しといふたぐひの説(せつ)は。かねて聞(きゝ) 伝(つた)ふるといへども。目前(まのあたり)かゝる奇特(きどく)を見る不思議(ふしぎ)さよ。抑(そも〳〵)此(この)百蟹(ひやくがい)の図(づ) は金岡(かなをか)殊(こと)に精神(せいしん)をこめ。螃蟹(かに)の絵(ゑ)に妙(みやう)を得(え)たる。唐代(とうのよ)の名画(めいぐわ)。韓滉(かんくはう) といふ者(もの)。玄宗皇帝(げんそうくわうてい)の勅(ちよく)によりて画(ゑがき)たる。百蟹(ひやくがい)の図(づ)にならひてかきたる とは聞(きゝ)つるが。見るは今(いま)がはじめなり。神彩(しんさい)飛動(ひどう)誠(まこと)に生(いけ)るが如(ごと)し。奇特(きどく)ある もうべなり。某(それがし)これを見て画道(ぐわうだう)の奥儀(おうぎ)をきはめたりといひつゝ 歓(よろこ)びて巻物(まきもの)をおしいたゞき。再(ふたゝび)又いひけるはこれにつきて思ひいだせる 物語(ものがたり)あり。昔(むかし)山城国(やましろのくに)相良郡(さがらこほり)《割書:元享釈書に|久世郡》綺田村(かはたむら)に。一個(ひとり)の美女(びぢよ)あり。 曽(かつ)て仏道(ぶつだう)を信(しん)ず。一時(あるとき)里人(さとびと)あまたの蟹(かに)を捉(とら)へ煮(に)てくらはんとす。かの女 是(これ)を見てあはれみ。美食(びしよく)にかへて蟹(かに)を尽(こと〴〵)く池(いけ)にはなつ。又その父(ちゝ)一時(あるとき) 野(の)に出(いで)て。蛇(へび)の蟇(かいる)を呑(のむ)を見てあはれみ。若(もし)蟇(かいる)をはなちやらば我(わが)娘(むすめ)を 汝(なんぢ)にあたへんといふ。蛇(へび)これをきゝ入(いれ)たるさまにて蟇(かいる)を吐(はき)て去(さら)しむ。その 夜(よ)衣冠(いくわん)の若人(わかうど)来(きた)りて。約(やく)のごとく女(をんな)を与(あた)へよといひて一室(いつしつ)にいり。忽(たちまち) 大蛇(だいじや)と変(へん)じて女(をんな)の身(み)をまとふ。時(とき)に前(さき)の日(ひ)たすけられたるあまたの 蟹(かに)こゝに集(あつま)り。大蛇(だいじや)の遍身(へんしん)を螯殺(はさみころ)して女(をんな)をすくひ。大蟹(おほがに)は去(さり)小蟹(こがに) はそこに死す。よりてその所(ところ)に蟹(かに)および蛇(へび)のからをうづめ寺(てら)を建(たて)て 普門山(ふもんざん)蟹満寺(かにまでら)と号(ごう)す。或(あるひは)また紙幡寺(かはたでら)ともいふよし。元享釈書(けんかうしやくしよ)《割書:巻之|廿八》 に見えたり。息女(そくぢよ)の事(こと)よく此事(このこと)に似(に)たり。思ふにかれは陰徳陽報(いんとくやうぼう)の 理(ことはり)を示(しめ)しこれは名画(めいぐわ)の奇特(きどく)によりて孝女(かうぢよ)をすくふ。共(とも)に是(これ)仏(ほとけ)の慈(じ) 悲(ひ)衆生済度(しゆじやうさいど)の方便(ほうべん)也あれ壁(かべ)におしたる我(わが)拙筆(せつひつ)の絵(ゑ)を見玉へ。地(ち) 水火風(すいくわふう)の四ツの緒(を)の。きれてはかなき琵琶法師(びはほうし)も。忠孝(ちうかう)全(まつた)き竹杖(たけつゑ) にて。煩悩(ぼんのう)の犬(いぬ)を打(うち)畜生道(ちくしやうだう)をまぬかれて。天堂(てんどう)に生(うま)るゝかたち。子(し) 息(そく)文弥(ぶんや)どのゝ姿絵(すがたゑ)とも見玉へかし。緑青(ろくしやう)の髪(かみ)すぢ胡粉(ごふん)の肌(はだへ)無常(むじやう) の風(かぜ)に塗笠(ぬりがさ)も。骨(ほね)のみ残(のこ)る手弱女(たをやめ)が。肩(かた)にかたげし一枝(ひとえだ)は。紫雲(しうん)たなびく 藤(ふぢ)の花(はな)これ妹(いもと)藤波(ふぢなみ)が成仏(しやうぶつ)の姿(すがた)なり。積悪(せきあく)の角(つの)を折(をり)鬼(おに)なす心(こゝろ) をひるがへして。墨(すみ)の衣(ころも)に鉦(かね)打(うつ)さまは。是(これ)乃(すなはち)長谷部雲六(はせべのうんろく)が邪念(じやねん)を滅(めつ)せ し姿(すがた)ならずや。喜怒哀楽(きどあいらく)にいろどりて。もろ〳〵のかたちをなし。善(ぜん)と なり悪(あく)となり。正(しやう)となり邪(じや)となり。恩(おん)となり仇(あた)となるも。三世(さんぜ)因果(いんぐわ)の報(むくい) と思へば。互(たがい)の恨(うらみ)もつき弓(ゆみ)の。矢猛(やたけ)心(こゝろ)をやはらげて。唯(たゞ)彼等(かれら)が菩提(ぼだい)をとむらふ にしかじ。某(それがし)さきほどの夢(ゆめ)に。藤浪(ふぢなみ)姿(すがた)をあらはし。敵(かたき)三八郎どの親子(おやこ)のいみじ き忠孝(ちうかう)を感(かん)ずれば。今(いま)は恨(うらみ)も尽(つき)はてゝ。安養浄土(あんようじやうど)に生(うま)れ候といひ て。身(み)より光明(くわうみやう)をはなちて去(さる)と見たれば。成仏得脱(じやうぶつとくだつ)うたがひなし。と いふ折(おり)しも。桂(かつら)之助 小枝(さえだ)於竜(おりう)と共(とも)に。ねふりをさまして一間(ひとま)を立出(たちいで) 我(われ〳〵)三人もおなじ夢(ゆめ)を見たりといひて一同(いちどう)によろこびけり。時(とき)に楓(かへで) 父(ちゝ)の前(まへ)に手(て)をつき。妾(わらは)こと姿(すがた)をかへて藤浪(ふぢなみ)どの文弥(ぶんや)等(ら)の。菩提(ぼだい)を とひたく候へば。剃髪(ていはつ)をゆるして尼(あま)となし玉はれかしといふ。なむ右衛門いはく。 いな〳〵汝(なんぢ)剃髪(ていはつ)無用(むよう)なり。我(われ)今(いま)より剃髪(ていはつ)して。佐渡島坊(さどしまほう)と名告(なのり)。 我(わが)異名(いみやう)を汝(なんぢ)にゆづり。若殿(わかとの)を世(よ)に出(いだ)しまゐらせし後(のち)は。専修(せんじゅ)の念(ねん) 仏者(ぶつしや)となり。かの蟹満寺(かにまでら)ちかごろ破損(はそん)したるよしきけば。これを修理(しゆり) して亡(なき)人(ひと〴〵)の冥福(めいふく)の種(たね)とすべし。なんぢ六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門といふ名(な)を つけば。道心(だうしん)せしも同然(どうぜん)なり。汝(なんぢ)又これより文弥(ぶんや)が師(し)とたのみたる。 沢角(さはつの)検校(けんぎやう)にしたがひ。近(ちか)ごろ世(よ)におこなはるゝ浄瑠璃節(しやうるりぶし)を学(まな)ひ。因(いん) 果(くわ)の道理(だうり)を唱歌(しやうが)につくり。糺河原(たゞすがわら)に於(おい)てこれをかたり。普(あまねく)諸人(しよにん)を 勧進(くわんじん)して。我(わが)志願(しぐわん)の助力(ぢよりよく)せよといひおはり。髻(もとゞり)弗(ふつ)とおしきりて。藤浪(ふぢなみ)が 位牌(いはい)に手向(たむけ)ければ。みな〳〵その誠心(せいしん)を感(かん)じけり。六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門 といふ女太夫(をんなだいふ)。浄瑠璃芝居(じやうるりしばゐ)の始祖(しそ)なりといひつたふるは。此(この)楓(かへで)が事(こと)なり とぞ。なむ右衛門又 桂(かつら)之助にむかひて頭(かしら)をさげ。これより河内(かはち)の国(くに)に おん越(こし)ありて。若君(わかぎみ)に御対面(ごたいめん)あれかし。奥方(おくがた)のおんゆくへはなほまた たづね候べし。いざ夜(よ)のあけぬ間(ま)にとく〳〵ともよほせば。桂(かつら)之助いそがは しく身支度(みじたく)して。又平にむかひ。我(われ)時運(じうん)を得(え)て世(よ)に出(いで)なば。かならず 報(むくい)をすべきぞといひてわかれを告(つげ)。編笠(あみがさ)ふかくかたふけて立出(たちいづ)れば。なむ 右衛門 修行者(しゆぎやうじや)の姿(すがた)その侭(まゝ)に。楓(かへで)を具(ぐ)して相(あい)したがふ。又平 夫婦(ふうふ)於(お) 竜(りう)もともに。恙(つゝが)なくおはしませといひつゝ門(かど)おくりし。たがひに涙(なみだ)をそゝぎ て別(わか)れ纔(わづか)に一町ばかりゆきけるに。昨日(きのふ)やとひし縣神子(あがたみこ)。野(の)ぶせりの乞(こつ) 丐(がい)どもをかたらひ来(きた)りて道(みち)をふさぎ。このごろ官領(くわんれい)浜名(はまな)どのより きびしくたづね玉ふ。佐々木(さゝき)桂(かつら)之助とやらん。いづくへおちゆくぞ。われ 昨日(きのふ)又平が家(いへ)にやとはれ。家内(かない)の様子(やうす)いぶかしと思ひしゆゑ。今(いま)爰(こゝ)に きたりてうかゞふに。果(はた)してあやしき者(もの)どもなり。からめとりて賞銀(ほうびのかね)に あづかるぞ。とく〳〵手(て)をつかねよとぞよばはりける。なむ右衛門 追(おひ)ちらし てとほらんと。錫杖(しやくじやう)をとりのべける処(ところ)に。思ひかけざる物(もの)かげより。猿(さる)二郎 棒(ぼう)をとりて走(はし)り出(いで)。かの奴原(やつばら)を散(さん)〴〵に追(おひ)ちらし。これより志賀(しが)の山越(やまごへ) しておん立(たち)のきあれかし。人(ひと)のしらざる間道(かんだう)をおん供(とも)つかまつらんとて。つひに 四人 打(うち)つれていそぎゆきぬ。さて雲六(うんろく)が屍(しかばね)は。又平その夜(よ)ちかき山(やま)にかき ゆきて煙(けふり)となし。あとねんごろにとふらひけるとぞ    十七 雪渓(せつけい)の非熊(ひゆう) 爰(こ)に又 梅津(うめづ)の嘉門(かもん)は母(はゝ)と共(とも)に世(よ)を避(さけ)て。和州(わしう)河州(かしう)のさかい。金剛山(こんがうせん)水越(みづこし) 峠(とうげ)の谷蔭(たにかけ)に。いぶせき庵(いほり)をいとなみ。当山(とうざん)は薬草(やくそう)おほく。殊(こと)に金山(きんざん)にして 金剛砂(こんがうしや)を出(いだ)すゆゑ。これらをとりて日(ひゞ)の費(ついへ)にかへ。みづから薪(たきゞ)をとり 水(みづ)をくみ。あけくれ老母(ろうぼ)に孝行(かう〳〵)を尽(つく)し。いとまには書籍(しよじやく)を友(とも)として臥竜(ぐはりう) 先生(せんせい)の跡(あと)を追(おひ)。禅味(せんみ)を甘(あまん)じて大幢国師(だいどうこくし)の道(みち)をしたひ。名利(みやうり)に屈(くつ)せぬ 志(こゝろざし)。はるかにたふとくぞ見えぬ。一日(あるひ)老母(ろうぼ)山寺(やまでら)にまうでけるが。比(ころ)しも厳冬(げんとう)の 時節(じせつ)なれば。帰路(きろ)にのぞみて雪(ゆき)ふり出(いだ)し。見る〳〵満地(まんち)玉(たま)をしけるが ごとく。通(かよ)ひなれたる道(みち)すぢも。深(ふか)く雪(ゆき)にかくれたれば。おのづから道(みち)に 迷(まよ)ひ。殊更(ことさら)峠越(みねごし)の吹雪(ふゞき)。肌(はだへ)にしみて寒(さむ)ければ。ゆきなやみて杖(つえ)をとゞめ。しば したゝずみ居(ゐ)たる折(おり)しも。猟師(かりうど)に追出(おひいだ)されたる穴熊(あなぐま)にや。雪(ゆき)を踢立(けたて)て 馳来(はせきた)り。ほど〳〵老母(ろうぼ)に飛(とび)かゝらんとしたる処(ところ)に。一人(いちにん)の若者(わかもの)木蔭(こかげ)より走(はし)り 出(いで)。立(たち)へだゝりて熊(くま)の肩(かた)さきを一刀(ひとかたな)きりつけたれば。熊(くま)は怒(いかり)て狂(くる)ひ けるが。つひに足(あし)をふみながして。谷底(たにそこ)にさかしまになりておちいりぬ。かの若(わか) 者(もの)は腰(こし)をかゞめて老母(ろうぼ)にむかひ。年(とし)老(おい)玉ふおん身(み)にて。雪中(せつちう)の歩行(ほかう)見る にしのびがたし。いづくにもあれおん住家(すみか)まで。負行(おひゆき)まゐらせんといふにぞ 老母(ろうぼ)うれしげに。いづくのおん方(かた)かはしらざれども。今(いま)の危難(きなん)をすくひ玉はる のみならず。情深(なさけふか)きおん志(こゝろざし)謝(しや)しはべるに詞(ことば)なしといへば。さばかりあつき詞(ことば)をおさ むるにゆゑなし。いざとく〳〵とて。背(せ)をおしむけて老母(ろうぼ)を負(おひ)。住家(すみか)の方(かた)を問(とひ) つゝ走行(はせゆき)けり。さて嘉門(かもん)はひとり家(いへ)にありて。母(はゝ)の帰(かへ)りのおそきを案(あん)じ。殊(こと) 更(さら)俄(にはか)の大雪(おほゆき)なれば。途中(とちう)さぞわびしからんと心(こゝろ)ならず。蓑笠(みのかさ)打着(うちき)ていほりを 出(いで)。母(はゝ)の帰路(きろ)を斥(さし)ていそぎけるが。むかふの方(かた)より老母(ろうぼ)。若(わかき)男(をとこ)におはれ来(きた)り。 嘉門(かもん)を見て喜(よろこ)びければ。嘉門(かもん)もやう〳〵心(こゝろ)おちつき。おん迎(むかひ)の為(ため)これ迄(まで)参(まいり)候と云(いふ)にぞ。老母(ろうぼ) 若者(わかもの)の背(せ)よりをりたち。途中(とちう)にて荒熊(あらくま)に出会(いであい)ほど〳〵命(いちめい)を失(うしな)ふべき を。此(この)おん方(かた)の情(なさけ)にて危急(きゝう)をまぬかれ。しかのみならず。これまで負(おひ)玉はりし とかたれば。嘉門(かもん)若者(わかもの)にむかひ。母(はゝ)をいたはり玉はる御芳志(ごほうし)。謝(しや)し尽(つく)しがたしと 相(あい)のぶる。時(とき)に若者(わかもの)雪中(せつちう)に身(み)を伏(ふし)て礼(れい)をおこなひ。卒示(そつじ)ながらおん身(み)は。 梅津(うめづ)の嘉門(かもん)どのにはあらずやといふ。嘉門(かもん)荅(こたへ)て。某(それがし)かゝる深山(みやま)に住(すみ)鹿(しか)猿(さる) と臥戸(ふしど)を共(とも)にする身(み)なれば。名(な)を知(し)る人(ひと)もあるまじきに。いかにして我(わが)姓名(せいめい)を しり玉ふや。いぶかしさよといひければ。若者(わかもの)益(ます〳〵)かしらをさげ。たとへ泥中(でいちう)に 尾(を)を曳(ひき)玉ふとも。先生(せんせい)の雷名(らいめい)を誰(たれ)かしらざる者(もの)あらんや。かしこの山寺(やまでら) にてこれなる御老母(ごろうぼ)は。先生(せんせい)の母人(はゝびと)なるよしをうけ玉はり。しひてこれまで 送(おく)り来(き)しも。先生(せんせい)にま見へん事(こと)をこひねがふがゆゑなり。某(それがし)は武士(ぶし)の 浪人(ろうにん)なるが。何(なに)とぞ軍略(ぐんりやく)智謀(ちぼう)の人傑(じんけつ)にしたがひ。兵学(へいがく)の余緒(よしよ)なり ともうかゞひ知(し)り。再(ふたゝび)家(いへ)をおこさんものと思ひ立(たち)。師(し)とたのむべき人品(ひとがら)を 聞(きゝ)つくろふに。此(この)山(やま)の谷蔭(たにかげ)に世(よ)を避(さけ)て住(すむ)。梅津(うめづ)の嘉門(かもん)といふ人(ひと)。生得(うまれえて)頓(とん) 智(ち)聡明(そうめい)にして。軍学(ぐんがく)に眼(まなこ)をさらし。石黄(せきくわう)孫呉(そんご)が奥儀(おうぎ)をきはめ。武略(ぶりやく) 衆(しゆう)に秀(ひいで)玉ふよし。その才名(さいめい)かくれなく。曽(かつ)て兼好法師(けんかうほうし)の草紙(さうし)になら ひ。武道徒然草(ぶだうつれ〴〵ぐさ)といふ。兵法(へいほう)の奥儀(おうぎ)を記(しる)せし書(しよ)を。編(あみ)玉ふよし うけたまはりて。わざ〳〵当国(とうごく)にうつり住(すみ)。いかにもして相(あい)まみへ。兵学(へいがく)の 【挿絵】 梅津(うめづ)嘉門(かもん)  河内国(かはちのくに)金剛(こんかう)   山(せん)に世(よ)を避(さけ)て 清貧(せいひん)を   まもり 生涯(しやうがい)の  無事(ぶじ)を ね がふ かもんが母 嘉門の母 梅津嘉門 御指南(ごしなん)にあづかり。かの奥儀(おうぎ)の書(しよ)をも拝見(はいけん)し度(たく)思ひしが。容易(ようい)に人(ひと)に あふ事(こと)をゆるし玉はざるよし。よき門路(つて)もがなと思ひ候に。今日(けふ)しも思ひかけず 相(あひ)まみへしは。誠(まことに)是(これ)師(し)とたのむべき時節(じせつ)到来(とうらい)。天(てん)のみちびき玉ふ処(ところ)なるべし。 向後(きやうこう)おん家(いへ)の奴僕(ぬぼく)ともおぼされて。薪水(しんすい)の業(わざ)を命(めい)ぜられ。兵術(へいじゆつ)の進退(しんたい) 軍伍(ぐんご)の勝敗(しやうはい)。御指南(ごしなん)たのみはべるなりと。低頭(ていとう)謙譲(けんじやう)して思ひ入たるけしき にぞ見へぬ。嘉門(かもん)感歎(かんたん)していはく。いまだ若輩(じやくはい)の身(み)を以(もつ)て。武道(ぶだう)の 心(こゝろ)がけ深(ふか)き殊勝(しゆしやう)さよ。いかでか疎意(そい)に存(ぞんず)べき。何(なに)にもあれ。且(まづ)某(それがし)が 宅(たく)におん越(こし)あれ。人(ひと)はいかにいひはやすかはしらざれども。某(それがし)が得(え)たる 業(わざ)は。林(はやし)に入(いり)て薪(たきゞ)をとり谷(たに)にくだりて水(みづ)をくむのみ。他(た)の事(こと)はさらに しらず。殊更(ことさら)武道(ぶだう)つれ〴〵草(ぐさ)とやらん書(しよ)を編(あみ)たるなどは。あともなき 虚言(そらごと)なり。軍師(ぐんし)なとゞはおこがましやといひて笑(わらひ)つゝ。三人 打連(うちつれ)て 谷(たに)かげのいほりにかへりぬ。かくて嘉門(かもん)家(いへ)に帰(かへ)り。老母(ろうぼ)に衣服(いふく)をきせかへ 濡衣(ぬれぎぬ)をあぶりかはかし。しゐ柴(しば)たきてあてなどし。さま〴〵にいたはる体(てい)を。かの 若者(わかもの)打(うち)見て。平日(へいじつ)の孝行(かう〳〵)を思ひやりぬ。嘉門(かもん)茶(ちや)を煮(に)て若者(わかもの)にすゝめ。 四方山(よもやま)のものがたりして。しばらく時(とき)をうしつけるに。折(おり)しも外(と)のかたにしはぶき の声(こゑ)しければ。人跡(じんせき)たえたる此(この)かくれ家(が)に。何者(なにもの)の来(き)つるやといぶかるうちに。 案内(あない)をこへば。ものゝひまよりうかゞひ見るに。これ一人(ひとり)の武士(ぶし)なり。簑笠(みのかさ) 打着(うちき)て。笠(かさ)の下(した)に覆面(ふくめん)したれば。面(おもて)はさだかならねども。遠国(ゑんごく)の旅人(りよにん)と おぼしき打扮(いでたち)なり。雪(ゆき)深(ふか)くふりうづみたる柴(しば)の戸(と)を。ほと〳〵と打(うち)たゝき。 誰(た)そたのみ申したし。こゝあけて玉はれと。いふ声(こゑ)聞(きゝ)て老母(ろうぼ)立出(たちいで)。何人(なにびと)ぞと 思ひしに。おん身(み)は頃日(このころ)両度(りやうど)まで来(きた)られし侍(さふらひ)よな。今日(けふし)も嘉門(かもん)家(いへ)に をらず。御用(こよう)の間(ま)にはあひ申すまじ。たとへおんたのみのすぢを。嘉門(かもん)に 申しきかせたりとも。此方(このほう)におもふ旨(むね)も候へば。とてもうけがひ申すまじ いたづらに足(あし)をついやし玉ふな。とく〳〵おん帰(かへ)り候へかし。かさねておん出(いで)無益(むやく)也 といひすて。戸(と)を撲地(はたと)たてゝ裏(うち)に入(い)る。嘉門(かもん)これを聞(きゝ)。何者(なにもの)なれ ばかくあらけなく母人(はゝびと)はあしらひ玉ふやといぶかり。再(ふたゝび)又 窓(まと)のひまより窺(うかゞひ) 見るに。かの武士(ぶし)雪中(せつちう)に坐(ざ)をしめ。情(なさけ)なきぞ御老母(ごろうぼ)。嘉門(かもん)どの家(いへ)におはさ ずは。此(この)処(ところ)にて帰宅(きたく)を待(まち)申ん。よろしくとりなしたのみはべるといひて。帰(かへ)るけはひ は見えざりけり。折(おり)しも雪(ゆき)はつよくふり。紛々(ふん〳〵)揚々(やう〳〵)として。恰(あたか)も柳絮(りうぢよ)の舞(まふ)が ごとく。鵞毛(がもう)の飛(とぶ)に似(に)たり。さらぬだに寒気(かんき)きびしき谷蔭(たにかげ)なるに。朔風(さくふう) はげしく吹(ふき)おろせば。見る〳〵かの侍(さふらひ)の蓑(みの)の毛(け)に垂氷(つらゝ)さがりて。鈴(すゞ)のやうにから〳〵 となり。身(み)はなかば雪中(せつちう)にうづもれて。吹雪(ふゞき)は面(おもて)につぶてを打(うつ)がごとくなるを。 笠(かさ)にふせぎ真袖(まそで)にはらひ。歯(は)をくひしめて寒気(かんき)をたへしのぶ為体(ていたらく)。誠(まこと) に余儀(よぎ)なく見へて。今(いま)にも凍死(こゞへしぬ)べき形勢(ありさま)なり。嘉門(かもん)此(この)体(てい)を見て益(ます〳〵)いぶかり。 さても堪忍(かんにん)づよき人(ひと)かな。覆面(ふくめん)にて面(おもて)はしかと見へざれども。いやしからざる 侍(さふらひ)の。かゝる厳寒(げんかん)をいとはぬ体(てい)。いかさま何(なに)ぞ思ひつめたる事(こと)あらんと。舌(した) を巻(まき)てぞ居(ゐ)たりける。湯(とう)に伊尹(いいん)を得(え)。周(しう)に太公望(たいこうぼう)をもちひたるも。大(たい) 将(しやう)たる人(ひと)。賢(けん)を尊(たつと)び敬(うやまふ)志(こゝろざし)の厚(あつき)がゆゑなり。総(すべ)て国家(こくか)を治(おさむ)るの要(よう)。賢臣(けんしん) にあり。賢臣(けんしん)を得(う)るに礼譲(れいじやう)をあつくせざれば出(いで)て仕(つか)へず。禄(ろく)を施(ほどこ)し金(きん) 帛(はく)を以(もつ)て招(まね)くとも。賢士(けんし)を尊(たつと)ぶ志(こゝろざし)なき人には仕(つか)ふる事(こと)なしとかや。扨(さて)その 時(とき)嘉門(かもん)母(はゝ)のそばちかくより。かの雪中(せつちう)の旅人(りよじん)は何者(なにもの)に候やらん。見るも気(き) の毒(どく)の形勢(ありさま)なり。おん心(こゝろ)にかなはさる者(もの)ならば。理(ことはり)をのべておん帰(かへ)しなされ ずや。某(それがし)出(いで)ておひかへし申さんやといへば。いな〳〵そちはかまふべからずかの侍(さふらひ) そちが留主(るす)に両度(りやうど)まで来(きた)りて。さま〴〵のたのみ事(こと)。我(わが)心(こゝろ)にかなはねば。 うけがふべき様(やう)もなく帰(かへ)しつるが。又 今日(けふ)も来(きた)りてそちにあひたき望(のぞみ) なれども。仕官(しかん)さする心(こゝろ)なければ。とかく人(ひと)にあはさぬにしくべからずと。 かねて思ひて。他行(たぎやう)といつはりかへさんとするに。しからば帰宅(きたく)を待(また)んとて あのごとく寒気(かんき)に苦(くる)しむたはけ者(もの)。此方(このほう)の心(こゝろ)も察(さつ)せず長居(ながゐ)するうつけ 人(びと)。いよ〳〵そちをあはすべきにあらず。かの若者(わかもの)に命(めい)じて追帰(おひかへ)すにしかじ といひて。若者(わかもの)をちかづけ。俄(にはか)に詞(ことば)をかへていひけるは。汝(なんぢ)さきほど奴僕(ぬぼく)とも おもへといひつる詞(ことば)によりて。申しつくる事(こと)あり。かの雪中(せつちう)の侍(さふらひ)を汝(なんぢ)が弁(べん) 舌(ぜつ)を以(もつ)ておひかへせ。いかにいふとも嘉門(かもん)は他出(たしゆつ)せしといひて。是非(ぜひ)とも かへせといひつくれば。若者(わかもの)うけ玉はり。某(それがし)御奉公(ごほうこう)の手柄(てがら)はじめに。おん 手(て)にあまる馬鹿者(ばかもの)を。おひかへして見せ申さんといひて。外(と)のかたに立(たち)いで。 やよ〳〵旅人(たひゝと)おん身(み)いつまで待(また)るゝとも。あるじ嘉門(かもん)の帰宅(きたく)のほど。何(いづれ)の時(とき)と はかられねば。若(もし)日(ひ)もくれなば難儀(なんぎ)のうへの難義(なんぎ)ならん。とくかへられよ。 いざ〳〵といひつゝ手(て)をとりて。ひきたてんとせしが。顔(かほ)を見て仰天(ぎやうてん)し。貴君(きくん)は 由理(ゆり)之助 勝基公(かつもとこう)にはあらずや。此(この)おん姿(すがた)は何(なに)ゆゑぞと打驚(うちおどろき)つゝ。恭(うや〳〵しく)礼(れい)を 行(おこな)ひ。官領職(くわんれいしよく)のおん身(み)を以(もつ)て。一人(いちにん)の従者(ずさ)をも召具(めしぐ)せられず。かろ〴〵しき 御容体(ごようだい)。いぶかしさよと相(あい)のぶる。勝基(かつもと)はこの人(ひと)を。桂(かつら)之助 国知(くにとも)とは見つれ ども。一言(いちごん)の荅(こたへ)なく。唯(たゞ)拳(こぶし)を握(にぎ)り歯(は)をかみしめて。寒気(かんき)にたへざる様(やう) 子(す)なり。桂(かつら)之助こゝろづき。某(それがし)おん館(やかた)《割書:義政公を|さしていふ》の御気色(ごきしよく)を損(そん)じ。浜名入(はまなにう) 道殿(だうどの)の御内意(ごないい)によりて。父(ちゝ)の勘気(かんき)をうけし身(み)なれば。おん詞(ことば)をたま はらぬも理(ことはり)なり。かゝる大雪(おほゆき)をいとひ玉はず。自(みづから)此 家(いへ)にいたり玉ふを察(さつ)し 思ふに。嘉門(かもん)を軍師(ぐんし)に召抱(ましかゝへ)玉はん結構(けつこう)と存(ぞん)ずるなり。某(それがし)今日(けふ)しも此 山(さん) 中(ちう)にいたり。心(こゝろ)を尽(つく)して嘉門(かもん)に近(ちか)づき候も。別意(べつい)にあらず。曽(かつ)ておん館(やかた) 嘉門(かもん)が編(あみ)たる。武道徒然草(ぶだうつれ〴〵ぐさ)といふ書(しよ)を。御懇望(ごこんばう)ありといへども。かれ ふかく秘(ひ)して他見(たけん)をゆるさず。若(もし)厳命(げんめい)を以(もつ)て召(めし)上らるゝ時は。かの書(しよ) を焼(やき)て。身(み)をかくさんこと必定(ひつぢやう)なりとて。これまでそのおん沙汰(さた)もあら ざりき。某(それがし)偶(ふと)此事を思ひいだし。なにとぞ嘉門(かもん)に誠心(せいしん)を見せ。かの 書(しよ)を得(え)ておん館(やかた)にたてまつり。それを微㓛(びこう)となして。父(ちゝ)の勘気(かんき)赦(しや) 免(めん)の御内意(ごないい)を願(ねがひ)奉らん為(ため)なりとかたれば。勝基(かつもと)尻目(しりめ)にかけ。その 身(み)放佚(ほういつ)無慙(むざん)にして。おん館(やかた)の御不興(ごふきやう)をかうふり。父(ちゝ)の勘気(かんき)をうけ たる者(もの)に。かはすべき詞(ことば)なしとのたまふにぞ。桂(かつら)之助げに理(ことはり)とその身(み)の 科(とが)を後悔(こうくわひ)し。此(この)うへは嘉門(かもん)親子(おやこ)に。勝基(かつもと)どのと打(うち)あけいひて味方(みかた)に つけ。せめての功(こう)になすべしと。心のうちに思ひつゝ。打(うち)しほれて内(うち)に入。おづ〳〵 老母(ろうぼ)の前(まへ)にひざまづく。老母(ろうぼ)見るより。かの馬鹿者(ばかもの)はいまだかへらずや。理(ことはり) いふてなどかへさぬぞ。汝(なんぢ)は案外(あんぐわい)なる不調法(ぶちやうほふ)ものかな。さばかりいひがひなくて。此(この) 家(いへ)に足(あし)をとゞめ。嘉門(かもん)を師(し)とたのみ。兵法(へいほふ)の道(みち)すぢをわきまへんこと。いかで かかなふべきぞ。およそ奴僕(ぬぼく)を召仕(めしつか)ふには。そのはじめによく戒(いましめ)ざれば。不奉(ぶほう) 公(こう)するものぞといひて。一ツの服紗包(ふくさつゝみ)をとりて。さんん〴〵に打擲(ちやうちやく)すといへども。桂(かつら) 之助 露(つゆ)ばかりも怒(いか)るいろなく。某(それがし)が宿願(しゆくくわん)成就(じやうじゆ)するまでは。いかなる憂目(うきめ)に あふとも。此(この)家(や)をいづる心(こゝろ)にあらずお気(き)にかなはぬ事(こと)ありて。たとへ打殺(うちころ) さるゝともせんすべなし。此うへのお情(なさけ)には。かの雪中(せつちう)の侍(さふらひ)に。嘉門(かもん)どのを おん引合(ひきあは)せくだされ。事(こと)の子細(しさい)をおん聞(きゝ)玉はれかしと。簀子(すのこ)のうへに額(ひたひ)を つけ。涙(なみだ)ながらにねがふ形勢(ありさま)。誠(まこと)に哀(あはれ)の姿(すがた)にて。思ひ入(いり)てぞ見へたりける。 かゝる折(おり)しも納戸(なんど)のへだてをさとひらきて立出(たちいづ)る骨柄(こつがら)。白糸縅(しらいとおどし)に銀(しろかね)の 鏢緘(べうとぢ)したる腹巻(はらまき)の上(うへ)に。萌黄錦(もへぎにしき)の陳羽織(ぢんばおり)を着(ちやく)し。青鈍(せいどん)の大口(おほくち)はき。 黄金作(こかねづくり)の丸鞘(まるざや)の太刀(たち)をはき。文曲(ぶんきよく)武曲(ぶきよく)の二星(にせい)を画(ゑがき)たる。軍扇(ぐんせん)を把(とり)て 立出(たちいで)たる為体(ていたらく)。志気(しき)堂々(どう〳〵)威風(いふう)凛々(りん〳〵)として。誠(まこと)に一個(いつこ)の英雄(ゑいゆう)と見えたり。 桂之(かつらの)助 仰天(きやうてん)し。何人(なにびと)ぞと顧(かへりみる)に。是(これ)乃(すなはち)別人(へつじん)にあらず。梅津(うめづ)嘉門(かもん)景春(がけはる) なり。こは嶢々敷(げう〳〵しき)打扮(いでたち)ぞといぶかりけるに。嘉門(かもん)門外(もんぐわい)に出(いで)。勝基(かつもと)をいざ なひいれて上坐(しやうざ)にすゑ。桂之(かつらの)助の手(て)をとりてその次(つぎ)におらしめ。老母(ろうぼ)もろ ともはるかにくだり平伏(へいふく)して。恭(うや〳〵しく)礼(れい)をおこなひ。まづ勝基(かつもと)にむかひていひけるは。 某(それがし)がごとき不肖(ふしやう)の身(み)を。かばかり御懇望(ごこんばう)玉はる事(こと)。冥加(みやうが)にあまる仕合(しあはせ)也。 頃日(このごろ)某(それがし)が他行(たぎやう)のあとに。両度(りやうど)までおん駕(が)を枉(まげ)られ候よし。母(はゝ)の物語(ものかたり)に うけたまはれども。勝基公(かつもとこう)とは思ひもよりはんべらず。某(それがし)いさゝか虚名(きよめい)を しられ。これまで諸国(しよこく)の諸侯(しよこう)より。召抱(めしかゝへ)んと使者(ししや)の来往(らいわう)しげしといへども。 その大将(たいしやう)の心(こゝろ)。いづれも皆(みな)高禄(かうろく)さへあたふれば。奉公(ほうこう)するとのみ思はれて。 軍師(ぐんし)をもちゆる礼義(れいぎ)をしらず。只(たゞ)権威(けんい)を以(もつ)て招(まね)くゆゑ。返荅(へんたう)もわづら はしく。当代(たうたい)諸侯(しよこう)おほしといへども主君(しゆくん)とたのむ人(ひと)なしと。世(よ)をせまく見く だして居(ゐ)たりしに。驚入(おとろきいり)たる公(きみ)のおんふるまひ。官領職(くわんれいしよく)のおもきおん身(み)を 以(もつ)て。唯(たゞ)一人(いちにん)の従者(ずさ)をも具(ぐ)せられず。かゝる雪中(せつちう)の寒気(かんき)をしのび。露(つゆ) ほども権威(けんい)のいろなく。某(それがし)一人(いちにん)をおん招(まね)きあらんとて。さばかりおん心を くだき玉はる事(こと)。無勿体(もつたいなし)なども申すべからず。此(この)うへはおん招(まね)きにしたがひ 麾下(きか)に属(しよく)するそのしるしに。兵具(ひやうぐ)を帯(たい)しておん目(め)見え仕(つかふ)ると。敬(うやまひ)ふかく相(あひ) のべけり。勝基(かつもと)大(おほき)に喜(よろこ)び玉ひ。我(われ)蜀(しよく)の劉備(りうび)におよばずといへども。三度(みたび)艸(そう) 盧(ろ)をかへり見るは。軍師(ぐんし)をもとむる礼(れい)なれば。いかでか苦辛(くしん)をいとふべき。 先(まづ)もつて早速(さつそく)の許容(きよよう)。よろこびにたへずとのたまへば。老母(ろうぼ)つゝしみていひ けるは。妾(わらは)は始(はじめ)より勝基公(かつもとこう)と察(さつ)し奉れども。いく度(たび)もおん心(こゝろ)をためし見て。 短慮(たんりよ)卒忽(そこつ)の大将(たいしやう)か。又 寛仁大度(くわんじんたいと)の大将(たいしやう)か。はゞかりながら御心底(おんしんてい)をうかゞひ しうへかねては主(しゆう)どりさせざる心なりしが。我子(わがこ)ながら一方(いつはう)の大将(たいしやう)にして不足(ふそく)なき 嘉門(かもん)を。一生(いつしやう)深山(みやま)の埋木(うもれぎ)。谷(たに)の巣守(すもり)と朽果(くちはて)させんより。母(はゝ)がすゝめて御(ご) 奉公(ほうこう)いたさせんと存(ぞんじ)つき。度(たび〳〵)心(こゝろ)にもあらぬ不礼(ぶれい)のことを申せしに。よくも 御堪忍(ごかんにん)あそばせしぞ。心のうちにはいかばかりか勿体(もつたい)なく。只(たゞ)感涙(かんるい)をおし かくして。居(をり)候ひぬといひて。老(をい)の涙(なみだ)ぞまことなる。老母(ろうぼ)又 桂之(かつらの)助にむかひ。 さきほど途中(とちう)にておん目(め)にかゝりし時(とき)より。唯人(たゞびと)ならずと思ひしに。さき ほど勝基公(かつもとこう)におん物語(ものがた)りを。ものかげにてうけたまはれば。果(はた)して 君(きみ)にておはしけり。いまだ一度(いちど)もおん目(め)見えいたさねば妾(わらは)をおん見知(みしり)ある まじく。妾(わらは)も又おん顔(かほ)を見しらねども。今(いま)は何をかつゝみ候べき。君(きみ)は 元来(ぐわんらい)妾腹(しやうふく)にて。その御実母(ごじつぼ)は妾(わらは)が娘(むすめ)。嘉門(かもん)が為(ため)には姉(あね)にて。君(きみ)を産(うみ) 奉りてすぐに身(み)まかり候ひぬ。先(せん)奥方(おくがた)は賢女(けんぢよ)にておはせしゆゑ。少(すこ)しも嫉(ねたみ)のいろ なく。奥方(おくがた)の御正腹(ごしやうふく)と御披露(ごひろう)ありしが。平人(へいにん)の身(み)にて申さば君(きみ)は妾(わらは)が為(ため)には 孫(まご)なれども。腹(はら)はすなはちかりものなれば。妾(わらは)が為(ため)にも正(まさ)しく主君(しゆくん)なるを。 かりそめにも奴僕(ぬぼく)とよび。打擲(ちやうちやく)せしは大罪(だいざい)なれども。これにはすこしく縁故(いはれ) あり。此(この)包(つゝみ)を御覧(ごらん)くだされかしとさし出(いだ)す。桂(かつら)之助は始(はじめて)て実母(じつぼ)の母(はゝ)なる事(こと) を知(し)りて打驚(うちおどろき)。頓(とみ)に包(つゝみ)をひらき見れば。短冊入(たんざくいれ)に一ひらの短冊(たんざく)あり。とりあげ見れば。   咲匂(さきにほ)ふ梅津(うめづ)の川(かは)の花(はな)さかりうつる鏡(かゞみ)のかけもくもらず といふ歌(うた)をしるせり。桂(かつら)之助 眉(まゆ)をしはめて。此(この)手跡(しゆせき)は見おぼえありといへば。老(ろう) 母(ぼ)小膝(こひざ)をすゝめ。そは為家卿(ためいへきやう)の詠歌(ゑいか)にして。夫木集(ふぼくしふ)に入(いり)たる歌(うた)なるが。 そのかみ祖父君(おほちきみ)。佐々木(さゝき)盛貞公(もりさだこう)御在京(ごさいきやう)の折(おり)から。妾(わらは)が夫(おつと)梅津(うめづ)兵衛(ひやうゑ) 北野(きたの)の社人(しやにん)にてありし時(とき)。御連歌(ごれんが)のついでに。おん筆(ふで)をそめてたまはり し短冊(たんざく)なり。その短冊(たんざく)の箱(はこ)を以(もつ)て打擲(ちやうちやく)仕(つかま)りしは。すなはち祖父君(おほぢぎみ)の おん拳(こぶし)をくだされ。君(きみ)がこれまでの御不行跡(ごふぎやうせき)を戒(いましめ)玉ふ同然(とうぜん)也。しかる に君(きみ)おん怒(いかり)のけはひも見え玉はず。妾(わらは)が打擲(ちやうちやく)をたへしのび玉ふ為体(ていたらく)。 深(ふか)く先非(せんひ)を悔(くい)玉ひ。武道(ぶどう)つれ〳〵草(ぐさ)を得(え)て。御勘気(ごかんき)おんわびの 種(たね)となし玉はん。御心底(ごしんてい)あらはれておんいとをしく。胸(むね)さくるばかり悲(かなし)き を見せ申すまじと。涙(なみだ)をかくせし老(おい)が心を。御推量(ごすいりやう)くだされかし。子(こ)よりも 孫(まご)のかはゆきは。世(よ)の人の心ぞかし。平人(へいにん)のおん身(み)ならば。祖母(ばゝ)よ孫(まご)よと名告(なのり)あひ。 娘(むすめ)がかたみといつくしみ。片時(かたとき)も傍(かたはら)をはなすまじきに。君臣(くんしん)とへだゝれば。 いひたきことのかづなきも。心に思ふのみぞかしといひて。悲歎(ひたん)に袖(そで)をひたし けり。良(やゝ)ありて涙(なみだ)をぬぐひ。いかに嘉門(かもん)此うへはかの秘書(ひしよ)を惜(おし)ます君(きみ)に たてまつれといふにぞ。嘉門(かもん)こゝろえ候とて。かの書(しよ)を取出(とりいだ)して桂(かつら)之助に 与(あた)へけり。老母(ろうぼ)又 勝基(かつもと)にむかひ。御覧(ごらん)のごとく桂(かつら)之助どの。今(いま)はむかしの志(こゝろざし)を あらため玉ふなれば。おん館(やかた)の御前(こぜん)しかるべう。とりなしひとへに願(ねがい)奉る といへば。桂(かつら)之助は秘書(ひしよ)を勝基(かつもと)に渡(わた)し。稽首(けいしゆ)俯伏(ふふく)してともにこれを 願(ねがひ)けり勝基(かつもと)打聞(うちきゝ)玉ひかねておん館(やかた)御懇望(ごこんまう)の此 秘書(ひしよ)を奉るは 国知(くにとも)どのゝ大㓛(たいこう)なれば。御前(こぜん)をよきにとりなして。やがて帰国(きこく)をとり 持(もつ)べしとのたまへば。三人ひとしく喜(よろこ)ぶこと恨(かき)りなし。扨(さて)嘉門(かもん)勝基(かつもと)に むかひ。先年(せんねん)彗星(けいせい)あらはれたる刻(きざみ)。星(ほし)のいろ蒼(あをき)に黄(き)をおびたるを見て。牝鷄(ひんけい)晨(あさなき)し て婦女権(ふぢよけん)を奪(うばひ)。大乱(たいらん)の起(おこ)るべききざしと考(かんかへ)たる事(こと)を語(かたり)ければ。勝基(かつもと)掌(て) を打(うち)てその先見(せんけん)を感(かん)じ。義政公(よしまさこう)の北(きた)の台(たい)香樹院殿(かうじゆいんどの)は。若君(わかきみ)を浜(はま) 名(な)入道(にうだう)に相托(あいたく)して世(よ)にたてんとし。今出川殿(いまでかはどの)は勝基(かつもと)を執権(しつけん)として。武将(ぶしやう) たらんことをはかられ。天下(てんか)二ツにわかれて。已(すで)に大乱(たいらん)の起(おこる)べき時節(じせつ)なる 事(こと)をものがたりければ。嘉門(かもん)又 先年(せんねん)浜名(はまな)が招(まね)きに応(おう)せずして。岩坂(いわさか) 猪之八(いのはち)等(ら)数人(すにん)を打(うち)とり。たゞちに此(この)山(やま)にあとをかくしたる事(こと)をかたりて。互(たがい)に 権(しばらく)兵学(へいがく)の事(こと)を論(ろん)じ。嘉門(かもん)当山(とうざん)に住(すみ)常(つね)に千早(ちはや)の城路(しろあと)を見て。楠氏(なんし)の 奥妙(おくみやう)を感(かんず)る事(こと)などを物語(ものがたり)けるが。嘉門(かもん)かさねていひけるは。さりながら 官領職(くわんれいしよく)のおん身(み)にて。此 山中(さんちう)に唯(たゞ)ひとり往来(わうらい)し玉ひ。若(もし)浜名方(はまながた)の者(もの) ども聞知(きゝし)り。多勢(たせい)を以(もつ)てとりかこまば。いかゞし玉ふやらん。君子(くんし)は危(あやう)きに ちかづかずといへり。軍慮(ぐんちよ)のほどうけたまはり度(たく)候と。詰問(なじりとへ)ば勝基(かつもと)莞(くわん) 爾(じ)と打笑(うちわらひ)さる時(とき)の備(そなへ)こゝにありといひつゝ懐(ふところ)を探(さぐ)り。号笛(あいづのふへ)をとり出(いだ)して 吹立(ふ▢たて)玉へば。忽(たちまち)鎧腹巻(よろひはらまき)に擘手(こて)臑楯(すねあて)をきびしくかためて。蓑笠(みのかさ)をうち 着(き)たる荒武者(あらむしや)ども。こゝの木蔭(こかげ)かしこの岩(いは)かげよりあらはれ出(いで)で。数(す)十人 馳集(はせあつま)り。枚(ばい)をふくませたる馬(うま)を引出(ひきいだ)して。御帰館(こきくわん)とよばゝれば。嘉門(かもん)おどり あがりて感嘆(かんたん)し。これいにしへ韓信(かんしん)がもちひたる。虚無(きよむ)の謀計(はかりこと)伏兵(ふくへい)なら ずして其(その)理(り)すみやかなりと称美(しやうび)の折(おり)しも。以前(いぜん)の手負熊(ておひぐま)。いかりくるひ て此 処(ところ)へ走(はし)り来(きた)るを。荒武者(あらむしや)どもかけへだて。手槍(てぼこ)をとりて已(すで)につき殺(ころ) さんとしつるを。勝基(かつもと)見玉ひ。やれまてしばしと声(こゑ)かけてとゞめ玉ひ。夫(それ)六韜(りくとう) を考(かんがふ)るに。文王(ぶんわう)太公望(たいこうはう)を得(え)たる時(とき)。卜(ぼく)して非熊(くまにあらす)といへり。我(われ)今(いま)已(すで)に当世(とうせい) の呂尚(りよしやう)を得(え)て。いかにぞ熊(くま)を欲(ほつ)せんや。無益(むやく)の殺生(せつしやう)好(この)むべからずとく〳〵 放(はなち)やれとおふせければ。荒武者(あらむしや)ども呀(あつ)とこたへて放(はな)ちけり。勝基(かつもと)桂(かつら)之 助にむかひ。和殿(わどの)は今(いま)しばし世(よ)をしのび。帰国(きこく)の時節(じせつ)をまたれよかし。老母(ろうぼ) はしばらく此 家(いへ)にあれ。かさねてむかひの乗物(のりもの)を以(もつ)てよびとるしべ。嘉門(かもん) は今(いま)すぐにともなひゆかん。幸(さいはひ)雪(ゆき)もふりやみぬとのたまひて。馬ひきよせ て乗(のり)玉へば。嘉門(かもん)は馬(うま)の左(ひだ)りにしたがひ。大勢(おほぜい)の荒武者(あらむしや)ども。列(れつ)をたゞ して前後(ぜんご)をかこみ。つもれる雪(ゆき)を踏分(ふみわけ)つゝ。麓(ふもと)を斥(さし)ていそぎゆく。 老母(ろうぼ)は嘉門(かもん)がいさましき門出(かといで)を見おくりて。すゞろに喜(よろこ)ぶといへども。桂(かつら) 之助のみすぼらしげなる姿(すがた)を見れば胸(むね)ふさがり。喜(よろこ)び悲(かなし)み打(うち)まぜて。 しばしは詞(ことば)もなかりけるが。桂(かつら)之助にむかひ。ひそかに君(きみ)にあはせまゐらする おん方(かた)あり。いざこなたへとて。奥深(おくふか)くはなれたる一間(ひとま)のうちにいざなひけり。 これ何人(なんびと)にあはするやしらず。のち〳〵の巻(まき)を読得(よみえ)てしらん   ○雍州府志(ようじうふしに)曰(いはく)。梅津(うめづ)清景(きよがけ)の塔(とう)梅津邑(うめづむら)にあり。清景(きよかげ)は藤原(ふぢわら)惟隆(これたか)    十八 世(せい)の孫(そん)也。代々(だい〳〵)院(いん)の北面(ほくめん)たり。禅法(せんほふ)に帰(き)し。剃髪(ていはつ)して是心(ぜしん)と    号(がう)す云々。案(あんず)るに一説(いつせつ)是球(ぜきう)。いづれか是(ぜ)なるをしらず。此(この)考(かふがへ)は巻(けん)之    第(たい)四 回(くわい)の下に記(しる)すべきを。誤(あやまり)てもらしぬれば。此(こゝ)に記(しる)せり。彼処(かしこ)と    てらし見るべし 夫(それ)はさておき爰(こゝ)に又。名護屋(なこや)山(さん)三郎 元春(もとはる)は。一ツには桂(かつら)之助いてふ前(まへ)。月若(つきわか) 等(ら)三人のゆくへをたづねて。その安否(あんぴ)をとひ。二ツには父(ちゝ)の仇(あた)不破(ふは)伴(ばん)左衛 門をたづねて宿意(しゆくい)をとげばやと。心(こゝろ)は二ツ身(み)は一ツちゞに心をくだきつゝ。 僕(しもへ)鹿蔵(しかぞう)を具(ぐ)して。処々(しよ〳〵)方々(はう〴〵)を尋(たづね)ありき。しはらく旅中(りよちう)に月日(つきひ)をおくり けるが。一夜(あるよ)旅店(りよてん)のうちに不思議(ふしぎ)の夢(ゆめ)を見たり。その夢(ゆめ)いかにとなれば。 比(ころ)しも孟蘭盆(うらぼん)の時(とき)にて。父(ちゝ)の亡霊(なきたま)をまつらばやと。香華(かうげ)灯烛(とうしよく)をもとめん 為(ため)。街(ちまた)に出(いて)けるに。民家(みんか)一等(いちとう)に霊棚(たまだな)をまうけ。庭火(にはひ)をたきて。亡霊(なきたま)を迎(むかふ)る。 念仏(ねんぶつ)の声(こゑ)念珠(ずゞ)の音(をと)街(ちまた)にみち。あまたの亡者(まうじや)ともつどひ来(き)て。おのがさま〴〵 かなたこなたの家(いへ〳〵)に入(い)る為体(ていたらく)。誠(まこと)に哀(あはれ)のありさまなり。亡者(まうじや)のすかた さま〴〵にて。額(ひたい)に波(なみ)をたゝへたる翁(おきな)もあれば。腰(こし)に弓(ゆみ)を張(はり)たる姥(うば)もあり。 若男(わかきをとこ)の幼子(いとけなきこ)の手(て)をひくもあり。若女(わかきをなご)の乳(ち)ぶさはなれぬ嬰子(みとりこ)を。懐(ふところ)に したるもあり。雨露(うろ)にされたる骨(ほね)のみつゞき。男(をとこ)とも女(をんな)ともわかちかね たるが。影(かげ)もひときは薄(うすく)見えて。浪々(ろう〳〵)蹌々(そう〳〵)とあゆみ来(く)るは。いく年(とし)ふりし 亡者(まうしや)にや。頬髭(ほうひけ)生(おひ)しげりていとあら〳〵しき男(をとこ)のいまた肉(にく)脱(だつ)もぜす。なま〳〵 しく見ゆるは。きのふけふの亡者(まうじや)ならん。白髪(しらか)を乱(みだ)せる姥(うば)の亡者(まうしや)。庭火(にはひ)の かげにはらばひたるおさな子(こ)の顔(かほ)をさしのぞき見て。さめ〴〵となくは。孫(まこ)に 心の残(のこ)りつるか。鼻(はな)ひらみ口ゆがみて。いと醜男(みにくきおとこ)の亡者(まうしや)。むかひ火(び)たく女(をなご)を つれ〳〵とかへりみて。うらしめげに立(たち)たるは。後(のち)の夫(をつと)をむかへたる恨(うらみ)とおぼし。 かくさま〴〵の亡者(まうじや)。蜂(はち)のごとくに群(むらかり)。蟻(あり)のごとくに集来(つどひく)れども。家(いへ〳〵)の 男女(なんによ)の目(め)には少(すこ)しも見へざる様子(やうす)なれば。山(さん)三郎おのれも命(いのち)おはりて。 亡者(まうじや)の数(かず)に入(いり)けるかと。一度(ひとたひ)はおどろき。蜉蝣(ふゆう)の一期(いちこ)朝露(ちやうろ)の命(いのち)。泡沫(はうまつ) 無常(むしやう)老少(ろうしやう)不定(ふじやう)の世(よ)のならひ。皆(みな)かくのごとしと。一度(ひとたび)は歎(なげ)きてたゝずみ ける所(ところ)に。背後(うしろ)の方(かた)に。山(さん)三郎〳〵とよぶ声(こゑ)。虫(むし)のなく音(ね)に異(こと)ならず。山(さん)三 郎 身(み)をひるがへしてこれを見れば。正(まさ)しく亡父(ばうふ)三郎左衛門なれば。うち おどろきつゝ平伏(へいふく)して礼(れい)をなし。世(よ)を去(さり)玉ふ親人(おやびと)に。又あふ事(こと)の不思議(ふしぎ) さよといへば。三郎左衛門いひけるは。汝(なんぢ)我(わが)仇(あた)をむくはんと身(み)を苦(くる)しめ。 思ひを尽(つく)すを。苔(こけ)の下(した)にて不便(ふびん)に思ひ。これまでかたちをあらはせしぞ。 汝(なんぢ)伴(ばん)左衛門をもとめんとならば。他(た)をもとむるは無益(むやく)なり。はやく京都(きやうと) に立越(たちこへ)。なんぢが幼年(ようねん)の時(とき)いひなづけしつる女をたづねて相(あい)まみへなば。 おのづから伴(ばん)左衛門にめぐりあふべし。此 事(こと)を告(つげ)ん為(ため)にまうで来(き)つる ぞ。親子(おやこ)は一世(いつせ)のちぎりなれば。再(ふたゝび)まみゆる事(こと)を得(え)がたしといひすてゝ。 さらんとする袖(そで)にすがり。せめて今(いま)しばしまち玉はれかしといふかとおもへば 夢(ゆめ)さめて。旅店(りよてん)の寝所(しんじよ)に只(たゞ)独(ひとり)。惘然(ばうぜん)として居(ゐ)たりけるが。五更(ごこう)の鐘(かね)に おどろきて。やう〳〵夢(ゆめ)なることを暁(さと)し。悲歎(ひたん)に袖(そで)をしぼりけり。かくて 山(さん)三郎 父(ちゝ)の告(つげ)にまかせ。いそぎ京都(きやうと)に立越(たちこへ)て。小幡(こばた)の里(さと)にあやしげなる 家(いへ)をもとめ。鹿蔵(しかぞう)もろとも住(すみ)けるが。ひさしく旅中(りよいう)にありて。少(しやう)〳〵の たくはへも。皆(みな)もちひ尽(つく)し。素(もとより)もなりはひなき身(み)なれば。持合(もちあは)せたる 衣服(いふく)のたぐひも。おほかたに売尽(うりつく)して。日(ひ)〲のついへにかへなし。至極(しごく)貧(まづ)し きくらしなれども。鹿蔵(しかぞう)忠義(ちうぎ)の心(こゝろ)ふかき者(もの)なれば。毎日(まいにち)煎(せん)じ物(もの)を 売(うり)に出(いで)て。身体(しんたい)の痩(やせ)ほそるをもいとはず。やう〳〵かそけき煙(けふり)をぞ 立(たて)ける  ○案(あんず)るに煎(せん)じ物売(ものうり)。古事(ふるきこと)にや。文明(ぶんめい)の比(ころ)の職人尽(しよくにんづくし)のうちに見ゆ。   又 能(のう)狂言(きやうげん)にせんじ物売(ものうり)といふあり。薬(くすり)を煎(せん)じてになひ売(うり)する   者(もの)とぞ    十八 花柳(くわりう)の鞘当(さやあて) 其頃(そのころ)都(みやこ)五条坂(ごじやうざか)に妓楼(ぎろう)あり。原(もと)此(この)所(ところ)は。平家(へいけ)の侍大将(さむらいだいしやう)悪七兵衛(あくしちびうゑ)景清(かげきよ) が妾(おもひもの)阿古屋(あこや)が住(すみ)し処(ところ)とぞ。そのなごりにや。あまたの阿曽比(あそび)ありて。秦楼(しんろう)の 柳絮(りうじよ)常(つね)に浪子(ろうし)の心(こゝろ)を牽(ひき)。楚館(そくわん)の蕣華(しゆんくわ)。能(よく)富翁(ふおう)の産(さん)を蕩(とらか)す。 されば賢(けん)となく愚(ぐ)となく。貴(き)となく賎(せん)となく。此(この)妖境(ようきやう)に迷来(まよひく)る者(もの)ひき もきらず。恰(あたか)も蝦蟇(がま)の井(ゐ)におちいるがごとく。飛蛾(ひが)の灯(ともしび)に集(あつま)るに似(に)たり。 あまたの人のつどへるうちに。一(ひと)きは目(め)だちたる打扮(いでたち)の侍(さむらい)あり。春雨(はるさめ)に燕子(つばくらめ) の飛(とび)かふさまを摺(すり)て。三本傘(さんぼんからかさ)の鹿子紋(かのこもん)つけたる小袖(こそで)を着(ちやく)し。白柄(しらつか)の大小(だいしやう)を 掴差(つかみざし)にさしこらし。洲(す)の与三(よそう)などや製(せい)しけん。手(て)をこめたる蒔絵(まきゑ)の一ツ 印篭(いんらう) をおび。深編笠(ふかあみがさ)をまぶかにきて。絡(くり)かけずの緒(を)をつけたる。板金剛(いたこんがう)をはき ならしつゝ。東(ひがし)をのぞみてすゝみゆく。又 西(にし)の方(かた)より。羽織(はをり)小袖(こそで)も一様(いちやう)に。村(むら) 【欄外】板金剛ハ今草履下駄ト□□□類▢リ職人尽一図アリ だつ雲(くも)に稲妻(いなづま)の。閃々(せん〳〵)たる形(かた)をすらせたるに。釘線(はりがね)入(いれ)たる袖(そで)べりかけて。 一ツまへに着(き)なし。はつぱの鮫函(さめざや)の大小(だいしやう)を関(くわん)の木(き)におび。目(め)せき笠(がさ)の下(した)に懐(ふところ) 紙(がみ)の覆面(ふくめん)かけ。肩(かた)を首(くび)より高(たか)くさしはりて。六方(ろつはう)かゞりに手(て)を打(うち)ふり つゝ大路(おほぢ)せましと歩(あゆ)み来(く)る侍(さむらい)あり。已(すで)に両人(りやうにん)ゆきちがひける時(とき)。三本傘(さんぽんからかさ)の 紋(もん)つけたるこなたの侍(さむらい)。あやまりてかなたの侍(さむらい)の刀(かたな)の鞘(さや)に鞘(さや)をはつしと打(うち) あてけるが。雲(くも)に稲妻(いなづま)の侍(さむらい)。こなたの璫(こじり)をしかとにぎり。臂(たゞむき)をおしはりて 怒(いか)れる体(てい)なり。こなたはその手(て)を払(はら)ひのけてゆかんとすれば。かなたはまた猿(ゑん) 臂(ひ)を伸(のば)して引(ひき)とゞむ。たがひに口(くち)には一言(いちごん)をいはずといへども。つひに刀(かたな)を抜(ぬき)はなし て。丁々(てう〳〵)しとゝ打(うち)あひければ。群集(くんじふ)の諸人(しよにん)これを見て。すは諠譁(けんくわ)よとさは ぎ立(たち)。東西(とうざい)に散乱(さんらん)して。ひろき大路(おほろ)に只(たゞ)両人(りやうにん)。うけつながしつ。斬(きり)むすぶと いへども。両人(りやうにん)の猛(たけ)き勢(いきほひ)におそれて。誰(たれ)ひとりこれをとゞむる者(もの)なかりけり。 時(とき)に此(この)曲中(くるは)第一(だいいち)の名妓(めいぎ)とよばれて。その名(な)世(よ)にかくれなき。神林(かんばやし)道順(だうじゆん)が もとの。葛城(かつらき)といふあそび女(め)。籬(まがき)のうちより此(この)体(てい)を見て。いそがはしく裙(もすそ)かい とりて出来(いできた)り。いとあやうげなる剣(つるぎ)の下(した)をぐゝりて。両人(りやうにん)のへだてと なり。鴬(うぐひす)の囀出(さへづりいで)たるがごとき声(こゑ)していひけるは。おん二方(ふたかた)ともによしありげなる おん方(かた)と見えはべるに。所(ところ)をもきらひ玉はず。刃傷(にんじやう)におよび玉ふは。おぼしめし たがひにやあらん。いかなる宿恨(しゆくこん)のあるかはしらざれども。此(この)諠譁(けんくわ)は妾(わらは)に玉 はりて。双方(そうはう)ともにおん刀(かたな)をおさめたびなんやと。笑顔(ゑがほ)つくりてとゞめけり。 両人(りやうにん)は葛城(かつらき)が理(ことわり)ある詞(ことば)にや恥(はぢ)けん。思ふ旨(むね)やありけん。ひとしく打(うち)うなづき つゝ。刀(かたな)を□(さや)におさめて。衣服(いふく)の塵(ちり)を打払(うちはら)ひ。雲(くも)に稲妻(いなづま)の侍(さむらい)は出口(でくち)の方(かた) へわかれゆく。三本傘(さんぼんからかさ)の侍(さむらい)も退(しりぞ)かんとしたるを。葛城(かつらき)袖(そで)をとりてしばしと とゞめ。かしこの編笠茶屋(あみがさちやや)にゐてゆきて。あるじの女にしばしこゝかしてよといへば。 【挿絵】 京 五条坂(こじやうざか)の 曲中(くるわ)において 鞘当諠譁(さやあてけんくわ) の図(づ) かつらき 所(ところ)がらとて物(もの)馴(なれ)たる女なれば。ゆる〳〵物語(ものがたり)し玉へといひて出(いで)ゆきぬ。あとにて 別(べつ)に人(ひと)もなければ。葛城(かつらき)かの侍(さむらい)にむかひ。卒爾(そつじ)なりといへども。とひ申し度(たき)事(こと) のはんべり。妾(わらは)は葛城(かつらき)と申すあそびなるが。おん身(み)三本傘(さんぼんからかさ)の紋(もん)つけ玉ふからは。 若(もし)名古屋(なごや)山(さん)三郎どのにはあらずやといふ。かの侍(さむらい)打聞(うちきゝ)てさては聞(きゝ)およびたる 葛城(かつらき)どのなるか。おことは山(さん)三郎に何(なに)の所縁(ゆかり)ありてたづぬるや。推量(すいりやう)の ごとく某(それがし)は山(さん)三郎なりとて編笠(あみがさ)をとれば。葛城(かつらき)顔(かほ)をつれ〳〵と打(うち)まもり 幼時(おさなきとき)わかれたれども。面(おもて)はしかと見おぼへぬ。姓名(せいめい)はおなじおん方(かた)なれども。 おん身(み)は妾(わらは)がたづぬる人(ひと)にはあらず。疎忽(そこつ)のだんはおゆるしあれ。妾(わらは)は大和(やまと)の 国(くに)佐々木(さゝき)の家臣(かしん)。名古屋(なごや)三郎左衛門どのゝ子息(しそく)山三郎どのとて。おさなき 時(とき)いひなづけの殿(との)なるゆゑ。たづねはんべるなりとて。ほいなげに見へければ。 かの侍(さむらい)眉(まゆ)をしはめ。しかのたまふおん身(み)は。和州(わしう)子守町(こもりまち)の浪人(ろうにん)。高間(たかま)久米(くめ) 右衛門どのゝ息女(そくぢよ)にて。幼名(ようみやう)を岩橋(いわはし)とはいはずやといへば。葛城(かつらき)おどろきいか にしておん身(み)はさばかり妾(わらは)が出身(しゆつしん)をよくしり玉ふやといぶかるにぞかの侍(さむらい)掌(て) をはたと打(うち)。誠(まこと)に不思議(ふしぎ)の出会(しゆつくわい)なり。今(いま)は何(なに)をかつゝみ候べき。某(それがし)はおん 身(み)のたづね玉ふ。佐々木(さゝき)の家臣(かしん)。名古屋(なごや)三郎左衛門 正春(まさはる)とのゝ僕(しもべ)鹿蔵(しかぞう)と 申す者(もの)なり。かねて山(さん)三郎との幼年(ようねん)の時(とき)いひなづけの女子(によし)ありしと聞(きゝ)しは。 おん身(み)にてありけるか。某(それがし)かゝる打扮(いでたち)にて。今日(けふ)しも此(この)曲中(くるは)へ来(きた)りしは。大(おほい)にいはれ ある事(こと)なり。先年(せんねん)主君(しゆくん)三郎左衛門 殿(どの)佐々木(さゝき)のおん家(いへ)の執権(しつけん)。不破(ふは)道(だう) 犬(けん)が児子(せがれ)伴(ばん)左衛門が為(ため)に闇打(やみうち)にあひ玉ひ。その夜(よ)おん館(やかた)の騒動(そうどう)に よりて。山(さん)三郎どの浪(ろう〳〵)の身(み)となり玉ひ。敵(かたき)伴(ばん)左衛門がゆくへを尋(たづね)ん ため所(しよ〳〵)方(はう〴〵)をめぐり。旅路(たびぢ)に月日(つきひ)をおくり玉ひしが。近(ちか)ごろ当国(とうこく)小幡(こはた)の 里(さと)にかくれ住(すみ)玉ひ。某(それがし)もその所(ところ)に仕(つか)へ申す也。しかるに頃日(このころ)人の噂(うわさ)を聞(きけ) ば。伴(ばん)左衛門 雲(くも)に稲妻(いなづま)の模様(もやう)つけたる衣服(いふく)を着(ちやく)して。此(この)曲中(くるは)へ往来(わうらい) するよし。かれ敵(かたき)とねらはるゝ身(み)を以(もつ)て。人の見知(みし)りたる衣服(いふく)を着(き)て。しかも 人立(ひとだち)おほき所(ところ)を俳徊(はいくわい)するはこゝろえず。うたがふらくは仮人(にせもの)にて。山(さん)三郎どの をつり出(いた)して。かへり打(うち)にすべき謀計(はかりこと)と思ひしゆゑ某(それかし)持伝(もちつた)へたる一腰(ひとこし) を代(しろ)なし。主人(しゆじん)の紋付(もんつき)人(ひと)の見知(みし)りたる衣服(いふく)をこしらへて。かくたはれ男(を) のさまに打扮(いでたち)。山(さん)三郎どのと見せて。けふしも此(この)処(ところ)へ来(きた)りけるに。折(おり)よくかの侍(さむらい)に ゆきあひ。わざと鞘当(さやあて)して諠華(けんくわ)を仕(し)かけこゝろみつるに。かれ始終(しゝう)ものいはず。 深編笠(ふかあみかさ)にて面(おもて)はしかと見えざれども。身(み)のはたらき恰好(かつこう)果(はた)して伴(ばん)左衛 門にあらず。小指(こゆび)の無(なき)を見れば。伴(ばん)左衛門が腹心(ふくしん)の傍輩(ほうばい)犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)といふ 者(もの)に疑(うたかひ)なしとかたれば。葛城(かつらき)は涙(なみた)をながし。山(さん)三郎どのは妾(わらは)七 才(さい)の時(とき)おや〳〵 のゆるしをうけて。いひなづけしつる夫(をつと)なれば。うき川竹(かはたけ)の身(み)となりても。片(かた) 時(とき)も忘(わす)るゝひまはなく。せめては一目(ひとめ)相(あい)見んことをねかひけれども。篭(かご)にかは るゝ鳥(とり)の身(み)なれば。せんすべなく。むなしく月日(つきひ)をおくりけるが。そのゝち聞(きけ)ば 父(ちゝ)うへを打(うた)れ玉ひて。その身(み)もゆくへしれずなり玉ひしと聞(きゝ)しゆゑ。殊更(ことさら) かなしく。何(なに)とぞ一度(ひとたび)めぐりあふよすがもがなと。神仏(しんふつ)に祈(いのり)て。あけくれ 只(たゞ)その事(こと)のみをねがひぬ。けふしもはからずおん身(み)にあひしは。いまだ縁(えん)の尽(つき)ざる 所(ところ)なりといひて。或(あるひ)はかなしみ或(あるひ)は喜(よろこ)び。その身(み)親(おや)の貧苦(ひんく)を見るに忍(しの)びず。 みづから此(この)曲中(くるわ)に身(み)を売(うり)たる。はじめ終(おわり)をこまかにかたり。かゝる賎身(いやしきみ)と なりて。顔(かほ)合(あは)するもおもてぶせなれども。妾(わらは)が心(こゝろ)の実(まこと)をよく〳〵告(つげ)きこ へて。せめて一目(ひとめ)あひ見る事(こと)をかなへて玉はれかしと。涙(なみだ)ながらにかき くどきければ。鹿蔵(しかぞう)もその志(こゝろさし)の実(まこと)を感(かん)じて。共(とも)に袖(そで)をしぼりぬ。葛城(かつらき) 又いひけるは。かたきは伴(ばん)左衛門といふ事(こと)。聞(きく)は今(いま)がはじめなり。さきほどの侍(さむらい) 【挿絵】 山城(やましろ)の国(くに) 小幡(こはた)の里(さと) 山三郎  貧家(ひんか)の   光景(ありさま) 鹿蔵 山三郎 のごとき。深編笠(ふかあみがさ)に顔(かほ)かくし。雲(くも)に稲妻(いなづま)の衣服(いふく)着(き)たる侍(さむらい)五人。一 様(やう)に打扮(いてたち)て。頃日(このごろ)かはる〴〵此(この)曲中(くるは)に往来(わうらい)す。そのうち一人はまことの 伴(ばん)左衛門なるべしといへば。鹿蔵(しかぞう)これを聞(きゝ)。五人の者(もの)一人は伴(ばん)左衛門にて。 残(のこ)る四人は。藻屑三平(もくすのさんへい)。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)といふ者(もの)に疑(うたかひ) なし。皆(みな)助太刀(すけだち)して三郎左衛門どのを打(うち)たる者(もの)ども也。正(まさに)是(これ)天(てん)の与(あた)へ なりと喜(よろこ)び。壁(かべ)に耳あり垣(かき)にぬひめありといへば。此(この)所(ところ)にて長物語(ながものがたり)は あしからん。かさねて又 相(あい)まみえ申さんといひて立上(たちあが)れば。葛城(かつらき)袖(そで)にすが り。今(いま)いひしことくれ〴〵たのむとありければ。鹿蔵(しかぞう)うなづき。又 編笠(あみがさ)に 顔(かほ)かくして出(いで)ゆけば。葛城(かつらき)は神林(かんばやし)が家(いへ)にかへりぬ      巻之五上冊終 【裏表紙】 《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 八 昔話(むかしがたり)稲妻(いなづま)表紙(べうし)巻之五下冊          江戸 山東京伝編    十九 刀剣(たうけん)の稲妻(いなづま) その時(とき)鹿蔵(しかぞう)は。たゞちに小幡(こはた)の里(さと)にかへりて。山(さん)三郎にその日の子細(しさい)をつ ぶさにかたり。葛城(かつらき)が誠心(せいしん)を告(つげ)。あまりにいとをしく存(ぞん)ずればせめて一度(ひとたび)は かの地(ち)におん越(こし)ありて。御対面(ごたいめん)あるべしとすゝめければ。山(さん)三郎いひけるは。 五条坂(ごじやうざか)に葛城(かつらき)といふ名妓(めいぎ)ありとは。かねてほのかに聞(きゝ)つるが。その者(もの)高間(たかま)粂(くめ) 右衛門の娘(むすめ)岩橋(いははし)にてあらんとは。夢(ゆめ)にだも思はざりき。かの者は親(おや〳〵)の得心(とくしん)にて。 某(それがし)といひなづけの女なりといへども。今(いま)花街(くわがい)におちくだりながれの身と なりたる女に対面(たいめん)せんは。武士(ぶし)の名(な)をけがすに似(に)たり。かれが志(こゝろざし)は不便(ふびん)なり といへども。対面(たいめん)はかなふべからずといへば。鹿蔵(しかぞう)いひけるは。はゞりながら そはたがへり。葛城(かつらき)どのゝ物(もの)がたりをきけば。頃日(このごろ)雲(くも)に稲妻(いなづま)の衣裳(いしやう)を着(き) たる侍(さふらひ)五人。かはる〴〵かの地(ち)に往来(わうらい)するよし。そのうち一人はかならず伴(ばん)左衛門 にて。外(ほか)は藻屑(もくづ)の三平(さんへい)等(ら)四人の者(もの)にうたがひなし。これはかねて御推量(ごすいりやう)の ごとく。相公(との)をつり出(いだ)してかへり打(うち)にせん謀計(ぼうけい)にきはまれり。先(さき)だちて御 父君(ちゝぎみ)夢中(むちう)に告(つげ)玉ひしは。此事(このこと)にて候はん。殊更(ことさあら)葛城(かつらき)どのゝ誠心(せいしん)うたがふ所(ところ) なければ。一度(ひとたび)かの地(ち)におんこしありて葛城(かつらき)どのをたのみ玉ひ。かれらが計(はかりこと) のうらをかき。内外(ないぐわい)より相図(あひづ)をさだめ。五人 一等(いつとう)に打取(うちとり)玉はん良計(れうけい)こそ あらまほしけれ。君父(くんふ)の讐(あた)には共(とも)に天(てん)を戴(いたゞか)ずと申せば。眼前(がんぜん)の敵(かたき)を見て 時(とき)を失(うしな)ひ玉はんこと。ゆめ〳〵あるべからず。復讐(ふくしう)の為(ため)花街(くわがい)にいたり玉ふ こと。いかでか恥(はち)玉はんやといさめければ。山(さん)三郎げにもさりと思ひ。その夜(よ)鹿(しか) 蔵(ぞう)を具(ぐ)ししのびやかにして五条坂(こじやうざか)にいたり。神林(かんばやし)がもとをたづねて葛(かつら) 城(き)に対面(たいめん)しければ。葛城(かつらき)が㐂(よろ)びいふべうもあらず。山三郎は露(つゆ)ばかりもあだ めきたる詞(ことは)はなく。終夜(よもすがら)只(たゞ)復讐(ふくしう)の計(はかりこと)を談(だん)じて朝(あさ)まだきにわかりれかへりぬ これより后(のち)葛城(かつらき)がもとより。金銀 衣服(いふく)をおくりて山三郎をみつぎ心の誠(まこと) をはこびければ。山三郎はたぐひまれなる女かなと感歎(かんたん)にたへざりけり葛(かつら) 城(き)は伴(ばん)左衛門が面(おもて)を見 知(し)らず。いづれをいづれとわかたねば。山三郎 毎夜(まいや)鹿(しか) 蔵(ぞう)をかの地(ち)につかはして。五人の者を打取べき便宜(びんぎ)をぞ待(まち)ける。鹿蔵(しかぞう)は深(ふか)き 笠(かさ)に顔(かほ)かくし袈裟衣(けさころも)を着(ちやく)し物乞(ものこひ)の道心坊(だうしんぼう)に打扮(いでたち)てしのびゆきける とぞ。しかりといへども五人の者かはる〳〵往来(わうらい)して。五人 一同(いちどう)に来(きた)ることなく もとよりその跡(あと)をつけゆくといへども。いつも帰路(きろ)をちがへてかへれは住所(ぢうしよ)も さだかならず。只(たゞ)心(こゝろ)せかるゝばかりなり。それはさておきこゝにまた不破(ふは)伴(ばん) 左衛門 重勝(しげかつ)は。浪々(ろう〳〵)の身(み)といへども。密々(みつ〳〵)父(ちゝ)道犬(だうけん)かたより扶助(ふぢよ)しけれはゝ 一点(いつてん)の不足(ふそく)なく。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづ)の三平。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬがみ)雁(がん)八 等(ら)四 人の者(もの)をかくまひおきて。父(ちゝ)が大望(たいまう)をとぐる時節(じせつ)を待(まち)。紀伊(きい)の国(くに)藤白(ふししろ) 山の奥(おく)に大なる居宅(ゐたく)を造(つく)り。野伏(のぶし)浪人(ろうにん)どもをあまた召抱(めかゝへ)て。すはといは ば。父(ちゝ)と共(とも)に浜名(はまな)入道(にうだう)に味方(みかた)すべき結構(けつかう)専(もつはら)なり。しかりといへとも名古(なご) 屋(や)山(さん)三郎 世(よ)にあるうちは寝覚(ねざめ)安(やす)からず。元来(ぐわんらい)かれに草履打(さうりうち)の遺恨(いこん) あればこそ。かれが親(おや)をも誤(あやま)りて打(うち)たれ。いかにもしてかれをかへり打(うち)にせば やと思ひけれども。そのゆくへ弗(ふつ)にしれされば。せんすべなく打過(うちすぎ)けるが 頃日(このごろ)京都(きやうと)に居住(きよぢう)するよし偶(ふと)聞出(きゝいだ)して。かの四人の者(もの)をしたがへて俄(にはか)に 上京(じやうきやう)し。伏見(ふしみ)の里(さと)に寓居(ぐうきよ)して。人の見 知(し)りたる一様(いちやう)の装束(しやうぞく)して五 条坂(じやうざか)に往来(わうらい)し。山三郎をつり出してかへり打(うち)にせばやとはかりけるが 前(さき)の日(ひ)犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)かの地(ち)にて。三本傘(さんぼんがさ)の紋(もん)つけたる侍(さふらひ)に出あひ。諠誮(けんくわ)に 事(こと)よせてこゝろみつるにまさしくかれが僕(しもべ)鹿蔵(しかぞう)と見つれば。山(さん)三郎 当国(とうこく)の うちに居住(きよちう)し。果(はた)して我等(われら)が計(はかりこと)におちて我(われ〳〵)をつけねらふにうたがひ なし。ついにはつりよせてかへり打(うち)にでばやと商議(しやうぎ)して。いよ〳〵曲中(くるは)に入(いり)こみける が。彼等(かれら)元来(ぐわんらい)好色(こうしよく)の輩(ともがら)なれば。伴(ばん)左衛門は茨木(いばらき)がもとの遠山(とほやま)といふ 阿曽比(あそび)になれそめ。その余(よ)の者等(ものら)もそれ〳〵になじみを得(え)て。のちには 山(さん)三郎を打(うた)ん計(はかりこと)はわきになり。一向(ひたすら)遊興(ゆうきよう)にのみひまをついやしぬ。誠(まことに)是(これ) 愚(おろか)なるふるまひなり。扨(さて)山(さん)三郎は専(もつはら)かれらを打(うつ)べき便宜(びんぎ)をまちける に。一日(あるひ)鹿蔵(しかぞう)かの地(ち)よりあはたゞしく帰来(かへりきた)りて。葛城(かつらき)が書(ふみ)をさし出(いだ)しければ。 山(さん)三郎いそがはしくこれを読(よむ)に。今夜(こんや)伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の者(もの)一等(いつとう)に茨木(いばらき)が もとに来(きた)るよし聞出(きゝいだ)しぬ。朝(あさ)は未明(みめい)にかへるよし聞(きゝ)ぬれば。堤(つゝみ)にかへりを待(まち) うけて討取(うちとり)玉へ。かならず此時(このとき)を過(すご)し玉ふべからずとことみじかに しるしたり。山(さん)三郎これを読(よみ)おはり。天地(てんち)を拝(はい)しおどりあがりて㐂(よろこ)び けるが。鹿蔵(しかぞう)もいさみたち。何(なに)とぞ主君(しゆくん)の敵(かたき)なれば。助太刀(すけだち)をおんゆる しくだされかしとねがへば。もつともなる望(のぞみ)なれども。敵(かたき)大勢(おゝぜい)なるに臆(おく) して助太刀(すけだち)をもちひしなんど。世(よ)の人口(じんこう)にかゝらんも口(くち)をしければ汝(なんぢ)をと もなはんことかなふべからずといへば。鹿蔵(しかぞう)涙(なみだ)をながし。しかるうへはせめて かの所(ところ)まで御供(おんとも)をゆるし玉はれかし。おん息(いき)つきの水(みづ)にてもまゐらせ度(たく) 候といへばそは勝手次第(かつてしだい)なるべしといふにぞ。鹿蔵(しかぞう)喜(よろこ)び。食事(しよくじ)を調(ちやう)じ てすゝめなどし。何(なに)くれと支度(したく)して時刻(じこく)のいたるをまつ。山(さん)三郎はわざ と曲中(くるは)に通(かよ)ふたはれ男(を)の体(てい)に打扮(いでたち)。父(ちゝ)のかたみの左文字(さもじ)の刀(かたな)をお びその夜の二 更(にこう)の頃(ころ)より五条坂(ごじやうざか)の長堤(ながつゝみ)にいたり。朧月夜(おぼろつきよ)を幸(さいはひ)に。鹿(しか) 蔵(ぞう)もろとも麦畠(むぎばたけ)のうちに身(み)をかくして。時(とき)のいたるを待(まち)にけり。此時(このとき)は 是(これ)いづれの時(とき)ぞや。寛正(くわんしやう)五年三月 下旬(げじゆん)とかや。折(おり)しも春雨(はるさめ)の晴間(はれま)にて 道(みち)あしけれども。常(つね)から往来(わうらい)しげき堤(つゝみ)なれば。しばらくも人(ひと)たえず。 おくりむかひの提灯(ちやうちん)星(ほし)のごとくにつらなり。駕篭(かご)はしらするかけ声(こゑ)は 帰雁(きがん)の音(こゑ)かとあやまたる。さて夜(よ)のふくるにしたがひて。人(ひと)のゆきゝも 漸々(しだい〳〵)にたえ。辻行灯(つぢあんどう)のともし火(び)もかすかにて。鮓(すし)めせ〳〵按摩(あんま)とらせ玉は ずやとよばふ声(こゑ)も已(すで)にたえ。小田(をた)の蛙(かいる)の声(こゑ)のみたかくきこえて。寺(てら〴〵) の鐘(かね)五更(ごかう)の時(とき)を告(つげ)わたり。月(つき)は山(やま)の端(は)におちかゝりければ。すは時(じ) 刻(こく)いたれりと。山(さん)三郎 目釘(めくぎ)をしめし鍔元(つばもと)をくつろげ。まくり手(で) して。待(まち)けるに。ほどなくかの雲(くも)に稲妻(いなづま)の衣裳(いしやう)を着(き)たる侍(さふらひ)一人(ひとり) 編笠(あみがさ)の下(した)に覆面(ふくめん)して。板金剛(いたこんがう)を踏(ふみ)ならしつゝ。あゆみ来(きた)る。まちまう けたる山(さん)三郎。堤(つゝみ)のうへに飛(とび)のぼり。めづらしや不破(ふは)伴(ばん)左衛門かくいふは 【挿絵】 名古屋山三郎 五条坂(ごしやうざか)の堤(つゝみ)麦(むぎ) 畠(はたけ)のうちにかくれて 伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の かへりを待(まち)父(ちゝ)の 仇(あた)をむくはん      とす しか蔵 山三郎 名古屋(なごや)山(さん)三郎なり。父(ちゝ)のかたき覚悟(かくご)せよとよばゝりつゝ。氷(こほり)なす刀(かたな)を抜(ぬき) はなせば。かの侍(さふらひ)高(たか〴〵)とあざみ笑(わらひ)て編笠(あみがさ)をぬぎすて。此方(このほう)よりたつねもと むる山(さん)三郎。こゝであひしは天(てん)の与(あた)へ。かへり打(うち)なるぞ観念(くわんねん)せよといひて 抜合(ぬきあは)せ。二太刀(ふたたち)三太刀(みたち)戦(たゝかひ)けるが。山(さん)三郎かするどき太刀(たち)をうけ損(そん)じ。左(ひだ)り袈(け) 裟(さ)に斬(きり)さげられて。地上(ちしやう)に撲地(はたと)たふれたり。山(さん)三郎 鹿蔵(しかぞう)をかへりみて。 彼奴(きやつ)が面(つら)をよく見よといふにぞ。鹿蔵(しかぞう)立(たち)より髻(もとゞり)をつかみてひきおこし。 月(つき)かげにすかしみて。此者(このもの)は土子(つちこ)泥助(でいすけ)にて候といふ。山(さん)三郎うなづく間(ま)もな く。又おなじごとくに打扮(いでたち)たる侍(さふらひ)一人(ひとり)のさばりかへりてあゆみ来(く)る。山(さん)三郎 むかふに立(たち)ふさがり。汝(なんぢ)は不破(ふは)伴(ばん)左衛門なるべし。これは山(さん)三郎 父(ちゝ)の仇(あた)を報(むくふ)也 といひつゝきりつくれば。此(この)侍(さふらひ)も笠(かさ)とりすてゝ刀(かたな)を抜(ぬき)。うけつながしつ七八 合(かう)戦(たゝかひ)けるが。泥(どろ)にすべりてよろめく所(ところ)を。山(さん)三郎 飛(とび)かゝりて胴(どう)ぎりに。陸(ばら) 離(り)ずんど斬(きり)はなし。腮(あぎと)を以(もつ)て下知(げぢ)すれば。しか蔵(ぞう)いそがはくし走(はし)りより。月(つき) の光(ひか)りに面(おもて)を見て。此者(このもの)は犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)にて候といふ。ほどなくおなじ打扮(いでたち)の 侍(さふらひ)一人(ひとり)すゝみ来(きた)る。山(さん)三郎ちか〴〵と立(たち)むかひ。いかに伴(ばん)左衛門これは山(さん)三郎 なるぞ。父(ちゝ)を打(うた)れし恨(うらみ)の刃(やいば)。思ひしれといひつゝ斬(きり)つくれば。編笠(あみがさ)を かなぐりすて。刀(かたな)を抜(ぬき)てきりむすび。丁々(ちやう〳〵)しとゝたゝかひけるが。運(うん)の尽(つき) にや堤(つゝみ)の端(はし)に足(あし)をふみながし。うつ伏(ぶし)にたふるゝ所(ところ)を。山(さん)三郎 一声(いつせい)さけび て斬(きり)けるが。たちまち首(かうべ)堤(つゝみ)の下(した)にまろびおちぬ。鹿蔵(しかぞう)つゞきてとび くだり。かの首(くび)をとりあげ見て。此(この)首(くび)片耳(かたみゝ)なければ藻屑(もくづ)の三平(さんへい)に 疑(うたがひ)なく候といふ。山(さん)三郎その者(もの)もまた伴(ばん)左衛門にてはなかりしかと。ほい なげにいひつゝ。刀(かたな)の血(ち)しほをぬぐひ。一息(ひといき)つくいとまもなく。又(また)来(き)かゝる 侍(さふらひ)もおなじ如(ごと)くの打扮(いでたち)なり。身材(たけだち)恰好(かつこう)此度(このたび)は正(まさ)しく伴(ばん)左衛門と思ひツ。 【挿絵】 五条坂(こじやうさか)の堤(つゝみ)に おいて名護屋(なごや) 山(さん)三郎 復讐(ふくしう) 五人 斬(ぎり)の図(づ) さゝのがい蔵 鹿ぞう 山三郎 もくづ三平 土子でい助 犬上がん八 前(さき)のごとくに名告(なのり)かくれば。かの侍(さふらひ)こゝろえたりといひながら。刀(かたな)の鞆(つか)に 手(て)をかくる所(ところ)を。山(さん)三郎をどりかゝりて腰車(こしぐるま)に斬(きり)けるが。直(じき)にたふれも せず。二三十 歩(ほ)あゆみゆく。鹿蔵(しかぞう)はかの者(もの)逃去(にげゆく)とこゝろえて。あとをおいへ てゆきけるに。かの者(もの)前(さき)にきられし者(もの)の死骸(しがい)につまづき。二ツになりて ぞたふれける。山三郎が刀(かたな)は父(ちゝ)のかたみの左文字(さもじ)の名作(めいさく)斬人(きりて)は剣法(けんほふ)手(しゆ) 練(れん)の早業(はやわざ)。かくあるもことわりと鹿蔵(しかぞう)心(こゝろ)に感(かん)じけるが。山三郎 心(こゝろ)せき。伴 左衛門かいかに〳〵ととへば鹿蔵 屍(しかばね)をあらためみて。此者(このもの)は笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)にて 候といへば。山三郎いひけるは。その者(もの)はまさしく伴(ばん)左衛門と思ひしに。それも 又かれにてはなかりしか。四人の者どもゝ伴(ばん)左衛門をたすけて。父(ちゝ)を打(うち) たる仇人(かたき)なりといへども。本人(ほんにん)を打(うた)ざるうちは安堵(あんど)ならず。つゞきて 来(く)べきはづなるにといぶかりつゝ。やゝしばらく待(まつ)といへども。人影(ひとかげ)も見へ されば。胸(むね)いとさはぎ。此(この)所(ところ)一方口(いつはうぐち)なれば。外(ほか)にかへるべき道(みち)もなきに。 こはこゝろえぬ事(こと)ならずや。我(われ)は出口(でぐち)までゆきて見べければ。汝(なんぢ)は こゝにありて心(こゝろ)をつけよといひ捨(すて)て。出口(でくち)の方(かた)へはしりゆく。時(とき)に むかふの方(かた)より。一乗(いちじやう)の駕篭(かご)をかゝげて馳来(はせきた)りけるが。駕篭(かご)かき ども山(さん)三郎が刀(かたな)の光(ひかり)のきらめくを見て仰天(ぎやうてん)し。駕篭(かご)を地上(ちしやう)に 打捨(うちすて)て。飛(とぶ)がごとくに逃去(にげさり)ぬ。山(さん)三郎 駕篭(かご)のうちうたがはしく思ひ つゝ。刀(かたな)のきつさきにて垂(たれ)をあげてうちを見れば。雲(くも)に稲妻(いなづま)の 衣裳(いしやう)着(き)たる侍(さふらひ)。編笠(あみがさ)をきたる侭(まゝ)にて駕篭(かご)のうちにありければ。 心(こゝろ)に喜(よろこ)び。いかに伴(ばん)左衛門 我(われ)は是(これ)山(さん)三郎なり。汝(なんぢ)を打(うち)て亡父(ばうふ)の宿(しゆく) 恨(こん)をはらさんと。これまで心(こゝろ)を尽(つく)せしかひありて。今日(こんにち)唯今(たゞいま)出会(しゆつくわい) する事(こと)。盲亀(まうき)の浮木(ふぼく)にあひ。優曇花(うどんげ)の花(はな)咲(さく)時(とき)を得(え)たるに 異(こと)ならず。とく〳〵出(いで)て勝負(しやうぶ)を決(けつ)せよとよばゝれば。伴(ばん)左衛門 一言(いちごん)を こたへず。何(なに)うろたへけん刀(かたな)も抜(ぬか)ず。駕篭のうちよりよろめき出(いで) て。山(さん)三郎が胸(むな)ぐらにとりつきけるにぞ。山(さん)三郎 刀(かたな)をあげて腕(かひな)をきり はなせば。手首(てくび)は胸(むね)に残(のこ)り。呀(あ)と一声(ひとこゑ)さけびてたふるゝ所(ところ)を。首(くび)ちうに 打落(うちおと)し。いそがはしく首(くび)をとりあぐる折(おり)しも。曲中(くるは)の方(かた)に人声(ひとごゑ)おひたゞしく きこえければ。若(もし)首(くび)を奪(うばゝ)れてはかなふまじと。手ばやく編笠(あみがさ)に包(つゝみ)て たづさふる間(ま)もあらせず。曲中(くるは)の者(もの)ども提灯(ちやうちん)をともしつれ。手に〴〵棒(ぼう)を おつとりて。大勢(おゝせい)四方(しほう)をとりかこみ。狼籍者(らうぜきもの)を打(うち)たふして。はやく縄(なは)を かけよとひしめきぬ。山(さん)三郎 声高(こゑたか)く。これは狼籍者(らうぜきもの)にあらず。大和(やまと) の国(くに)佐々木(さゝき)判官(はんぐわん)の家臣(かしん)。名古屋(なごや)山(さん)三郎 元春(もとはる)といふ者(もの)。父(ちゝ)の仇(あた)を打(うち) たるなり。かならずあやしむべからずといへども。曲中者(くるわのもの)どもしかいふは 【挿絵】 其二 山三郎 鹿ぞう 此場(このば)をのがれん為(ため)のいつはりならんといひて聞入(きゝいれ)ず。已(すで)に大勢(おゝぜい)棒(ぼう) を打(うち)ふりて。敵(てき)たはんとしたる所(ところ)に。鹿蔵(しかぞう)大勢(おゝぜい)をおしわけて山(さん)三郎が 前(まへ)にちかづき。相公(との)は大事(だいじ)のおん身(み)なれば。かれ等(ら)にかまひ玉はず。とく〳〵 おんかへり候へかし。あとは某(それがし)がよきにとりはからひ候べしとて大勢(おゝぜい)にむかひ。汝(なんぢ) 等(ら)かたがはしく思ふもことわりなれば。某(それがし)人質(ひとじち)となりてこゝにとゞまるべし。 此おん方(かた)をば道(みち)をひらきてとほし申すべしといふにぞ。曲中(くるは)の者(もの)どもやう〳〵 得心(とくしん)してかこみをひらきければ。山(さん)三郎 夜(よ)のあけはてぬ間(あひだ)にと。いそぎて 小幡(こはだ)にかへりけり。扨(さて)も山(さん)三郎は年来(ねんらい)の宿志(しゆくし)をとげ。いさみすゝみて小(こ) 幡(はだ)の里(さと)にかへりけるが。此時(このとき)已(すで)に夜(よ)はあけはてぬ。さて伴(ばん)左衛門が首(くび)を父(ちゝ) の位牌(いはい)に手向(たむけ)ばやと思ひ。汝(なんぢ)ゆゑにいく年月(としつき)又なき苦労(くろう)せしことよ といひつゝ。編笠(あみかさ)のうちより首(くび)を取出(とりいだ)して見れば。こはいかに伴(ばん)左衛門 にはあらずして。葛城(かつらき)が首(くび)なれば。こは夢(ゆめ)か現(うつゝ)かといひて。只(たゞ)あきれたる ばかりなり。さきには大勢(おほぜい)にとりかこまれて心(こゝろ)せはしき火急(くわきう)の時(とき)なれば。 心(こゝろ)づかざりしが。ゑりに残(のこ)りし手首(てくび)を見れば。何(なに)にかあらんにぎりそへたる ものあり。手(て)くびをもぎはなして見れば。一通(いつつう)の書(ふみ)をにぎりてぞ居(ゐ) たりける。いそがはしくひらき見れば。是(これ)乃(すなはち)かきおきの文(ふみ)なり。その文(ぶん)に いはく。妾(わらは)こと此度(このたび)不思議(ふしぎ)に殿(との)にめぐりあひ。おん父(ちゝ)の仇(あた)なる伴(ばん)左衛門 等(ら)を手引(てびき)して。うたせ申さんとうけがひけるに。前(さき)の日(ひ)伴(ばん)左衛門 妾(わらは)が もとに来(きた)りて申さるゝは。今(いま)まではしらざりしが。頃日(このごろ)偶(ふと)きけば汝(なんぢ)は和州(わしう) 子守町(こもりまち)の浪人(ろうにん)高間(たかま)粂(くめ)右衛門が娘(むすめ)幼名(ようみやう)を岩橋(いははし)といひつる者(もの)のよし。 しかとさあるや。いよ〳〵それにたがはずは。正(まさ)しく我(わが)別腹(べつふく)の妹(いもと)にて妾腹(てかけばら) なり。その妾(てかけ)ゆゑありて懐胎(くわいたい)のうちに粂(くめ)右衛門がもとに嫁(か)し ゆき。かの方(かた)にて汝(なんぢ)を産(うみ)つるよし。かねて父(ちゝ)道犬(だうけん)の物語(ものがたり)にてきゝぬ。其(その) のちはたえておとづれも聞(きか)ざりしが。此(この)くるはに身(み)を売(うり)しとは夢(ゆめ)にだ もしらざりき。此侭(このまゝ)おきては父(ちゝ)の恥(はぢ)我(わが)恥(はぢ)なれば。父(ちゝ)に此(この)事(こと)を告(つげ)て金(きん) 子(す)を調(ちやう)じ。とみにあがなひ出(いだ)しつかはすべしとてかへられ。已(すで)に昨夜(さくや) そくばくの金子(きんす)を以(もつ)て。我身(わがみ)をあがなひ玉はりぬ。伴(ばん)左衛門の申さ るゝ所(ところ)。いち〳〵我身(わがみ)におぼえあれば。別腹(べつふく)の兄(あに)なることうたがひなし。さて 伴(ばん)左衛門 密(ひそか)に申さるゝは。このごろ名古屋(なごや)山三郎といふ者(もの)。をり〳〵汝(なんぢ)が もとに通(かよ)ひ来(く)るよし。かれには我(われ)深(ふか)き遺恨(いこん)あれば。汝(なんぢ)手引(てびき)して打(うた)せ くれよとのたのみなり。これを聞(きゝ)て胸(むね)ふさがり。兄(あに)のたのみをうけがへ ば夫(をつと)を殺(ころ)す大罪(だいざい)なり。おん身(み)につきて兄(あに)を打(うた)するも又 大罪(だいざい)なり。かたき 同士(どうし)に縁(えん)つながりしは。いかなる宿世(すくせ)の因果(いんぐわ)ぞと。我身(わがみ)一つのかなしさを 御推量(ごすいりやう)くだされかし。とても生(いき)ながらへがたき身のうへと覚悟(かくご)をきはめお□ 身(み)のもとへは今宵(こよひ)伴(ばん)左衛門 等(ら)を打(うち)玉へと通(つう)じおき。伴(ばん)左衛門ど□ かの四人の者(もの)と共(とも)にかへらんと申すを。用(よう)ありとて別坐敷(べつざしき)にとゞ□ おき。家内(かない)の者(もの)には伴(ばん)左衛門どの深(ふか)く酔(ゑひ)たるよしを告(つげ)て。妾(わらは)が閨房(へや) まで駕篭(かご)をかき入(いれ)させ。妾(わらは)伴(ばん)左衛門どのゝ姿(すがた)に打扮(いでたち)て駕篭(かご)に乗(のり) 出(いで)しは。おん身の手(て)にかゝりて死(しな)ん為(ため)ぞかし。のぞみのごとくおん手(て)にかゝり はんべるならば。伴(ばん)左衛門を打(うち)しとおぼされて。かねての恨(うらみ)をはらし玉ひ 何(なに)とぞ兄(あに)の命(いのち)をおんたすけくだされかし。これのみ今生(こんじやう)の願(ねがひ)なり。敵(かたき)の妹(いもと) と聞(きゝ)玉はゞさぞ後悔(こうくわい)し玉はんが。せめて来世(らいせ)の夫婦(ふうふ)とおぼされて。をり〳〵一(いつ) 遍(へん)の御回向(ごゑかう)ねがひはべるぞかし。伴(ばん)左衛門どの已(すで)に妾(わらは)が身の代(しろ)をつく のひたれば。妾(わらは)死(し)すともあるじ道順(どうじゆん)の損(そん)とならず。おん身 手(て)にかけ 玉ふとも。原(もと)いひなづけの妻(つま)なれば。科(とが)となるべき事(こと)もなし。かきのこし 度(たき)ことおほかれども。仕損(しそん)ぜまじと胸(むね)とゞろきて筆(ふで)もたゝず。涙(なみだ)に墨(すみ) も散(ちり)はべれば。くさ〴〵申 残(のこ)し候と。こまやかに記(しる)しつけて。おくのかたに   壁(かべ)に生(おゝ)るいつまで草(ぐさ)のいつまでもつきぬ恨(うらみ)を思ひきり(斬)てよ といふ辞世(じせい)の歌(うた)をかきつけぬ。山(さん)三郎 読(よみ)おはりて十分(じうぶん)におどろき しばし思案(しあん)にくれたりけるが。良(やゝ)ありて葛城(かつらき)が首(くび)をとりあげてつら〳〵 見れば。鉄漿(はぐろ)をおとして白歯(しらは)となり。みどりの髪(かみ)をきりたちて。笑(ゑめ)る がごとき顔(かんばせ)なり。山(さん)三郎 落涙(らくるい)して思へらく。昔(むかし)袈裟御前(けさこぜん)髻(もとゞり)を きり。夫(をつと)の身(み)にかはりて遠藤武者(ゑんどうむしや)盛遠(もりとほ)に殺(ころ)されしは。母(はゝ)と夫(をつと)の命(いのち) をすくはん為(ため)なり。此 葛城(かつらき)は兄(あに)の命(いのち)をたすけん為(ため)に身代(みがはり)となりて 我(わが)手(て)にかゝりたる心庭(しんてい)。袈裟御前(けさごぜん)にもをさ〳〵おとるべからず。その志(こゝろざし) は不便(ふびん)なりといへども。晋(しん)の予譲(よじやう)が衣(ころも)を刺(さし)たるためしとは事(こと)かはれば。かれ がねがひのごとく。伴(ばん)左衛門をたすけおきては。我(わが)孝(かう)の道(みち)たちがたし。 さりながら伴(ばん)左衛門 昨夜(さくや)の事(こと)をきゝ。遠国(ゑんごく)に逃走(にげはしら)んは必定(ひつぢやう)也。畢竟(ひつきやう) 我(われ)心(こゝろ)せきたる侭(まゝ)に。名告(なのり)かけて返答(へんとう)をまたず。打(うち)あやまりしは一生(いつしやう)の疎(そ) 忽(こつ)なり。父(ちゝ)の仇(あた)をむくふべき者(もの)の所為(しよゐ)にあらず。世(よ)の人(ひと)にわらはれん ことのくちをしさよ。父(ちゝ)の霊魂(れいこん)夢中(むちう)に告(つげ)玉ひし時(とき)。いひなづけの女は かたきの妹(いもと)といふことを告(つげ)くださるべき理(ことはり)なるに。左(さ)もなかりしはよく〳〵まぬ かれがたき悪縁(あくえん)ならん。先年(せんねん)生駒山(いこまやま)の麓(ふもと)にて奥方(おくがた)をうばゝれし時(とき)。死(しな)ねばなら ぬ一命(いちめい)を。これまでいきながらへしも。御主人(ごしゆじん)がたのおんゆくへをたづね。父(ちゝ)の 仇(あた)をむくはん為(ため)ばかりなるに。今(いま)においておく方(がた)の御存亡(ごぞんばう)もさだかなら ず。父(ちゝ)の仇(あた)も打得(うちえ)ざる事(こと)。不忠(ふちう)とやいはん不孝(ふかう)とやいはん。我(わが)身(み)ながら 【挿絵】 心対鏡天昭白昼 節磨玉雪苦青春  葛城(かつらき)辞世(じせい) 壁(かべ)に生(おゝ)るいつまで草(くさ)の        いつまでも  つきぬ恨(うらみ)を思ひ斬(きり)てよ 愛想(あいそう)尽(つき)ぬ。とても武運(ぶうん)に尽(つき)たる身(み)なれば。腹(はら)かきさばきて冥途(めいと)に いたり。せめて親(おや)人に分説(いひわけ)せんと心を決(けつ)し。血刀(ちがたな)をとりなほして。ほど〳〵 腹(はら)につきたてんとしたる折(おり)しも。外(と)のかたよりやれはやまるな。しばし〳〵 と声(こゑ)かけて入来(いりきた)る人を見るに。是(これ)別人(べつにん)にあらず。則(すなはち)是(これ)梅津(うめづ)嘉門(かもん)景(かげ) 春(はる)なりあとにしたがひしは鹿蔵(しかぞう)が弟(をとゝ)猿(さる)二郎にぞありける。山三郎 あまりに思ひかけざればいぶかりつゝ。ひとまづ刀(かたな)を□(さや)におさめていで むかへば。嘉門(かもん)上座(じやうざ)に打通(うちとほう)りていはく。猿(さる)二郎が案内(あない)にて此(この)かくれ家(が)へ まかり越(こせ)しは別事(べつじ)にあらず。某(それがし)しばらく河内(かはち)の国(くに)金剛山(こんがうせん)に世(よ)を避(さけ)。 仕官(しぐわん)の望(のぞみ)をたつといへども。官領(くわんれい)勝基公(かつもとこう)の懇望(こんはう)もだしがたく。去冬(きよふゆ)君(くん) 臣(しん)の契約(けいやく)をなし。上京(じやうきやう)して今(いま)已(すで)に勝基公(かつもとこう)の館(やかた)にあり。軍師(ぐんし)をもちゆる 礼義(れいぎ)あつければ。いにしへの貧(まづ)しさに引(ひき)かへて。何(なに)不足(ふそく)なき身となりぬ。 夫(それ)につけてかたるべきは。先年(せんねん)某(それがし)が母(はゝ)病(やまひ)になやみし時(とき)。御親父(ごしんふ)三郎 左衛門どの薬代(やくだい)の金子(きんす)をめぐみて母(はゝ)の命(いのち)を救(すくひ)くだされし洪恩(こうおん)心(こゝろ)に 銘(めい)じ。せめて露(つゆ)ばかりもその報(むくい)せんものと思ひしかひなく。三郎左衛 門どの闇打(やみうち)にあひ玉ひ。和殿(わどの)もゆくへしれずと聞(きゝ)て。ほいなくも打過(うちすぎ) しが。これなる猿(さる)二郎がかたるによりて。此(この)所(ところ)にかくれ住(すま)るゝよしうけ 玉はり。対面(たいめん)して某(それがし)が思ふ旨(むね)を告(つげ)ばやと忍(しのび)出立(でたち)にてまかりで来(き)つる が。途中(とちう)にて人(ひと)のかたるをきけば。和殿(わどの)五条坂(ごじやうざか)の堤(つゝみ)にて古傍輩(こほうばい)四人の者(もの) を打(うち)。人たがへにて葛城(かつらき)とやらんいふ阿曽比(あそび)を手(て)にかけられたるよし。 今(いま)腹(はら)きらんとせられしは。察(さつ)する所(ところ)人たがひの誤(あやま)りをはぢてのことゝ おぼふ。若(もし)さもあらば大なる心得(こゝろえ)たがひと思ふなり。そのゆゑいかにとなれ ば。おゝよそ君父(くんふ)の仇(あだ)をむくはんずるものいく度(たび)も恥(はぢ)を忍(しの)び。命(いのち)あらん かぎりはたとへ千万里(せんばんり)を走(はし)りても。たづね出(いだ)して仇(あた)をむくゆるが孝道(かうだう)の いたりなり。今(いま)自殺(じさつ)せんなどは疎忽(そこつ)のいたりならずやといへば。山(さん)三郎 其(その) 理(り)にふくし面目(めんぼく)なき体(てい)なりけり。嘉門(かもん)かさねていひけるは。桂(かつら)之助どのは 我(わが)為(ため)に主(しゆう)すぢなり。そのいはれは一席(いつせき)にかたりがたし。そのゆへにいてふの 前(まへ)どの。先年(せんねん)大和(やまと)の国(くに)岩倉谷(いはくらだに)にておん首(くび)打(うた)れ玉はんとしつるを。某(それがし)忍(しのび) 姿(すがた)に打扮(いでたち)てかしこにいたり。我(わが)家(いへ)につたはる火術(くわじゆつ)の具(ぐ)を以(もつ)て太刀取(たちどり)を打(うち) 殺(ころ)し。おく方(がた)を奪取(うばひとり)。今(いま)已(すで)に金剛山(こんがうせん)のかくれ家(が)に母(はゝ)もろとも恙(つゝが)なく おはすなり。桂(かつら)之助どのも同居(どうきよ)し玉ふ。佐々良(さゝら)三八郎が忠義(ちうぎ)によりて月(つき) 若(わか)どのも恙(つゝが)なく。御夫婦(ごふうふ)御親子(ごしんし)再会(さいくわい)の時(とき)を得(え)玉ひぬ。くはしき 事(こと)は猿(さる)二郎よくしりたれば。后(のち)にゆる〳〵聞(きゝ)候へ。されば一分(いちぶん)の心(こゝろ)を安(やす)んじ。 只(たゞ)此うへは復讐(ふくしう)の事(こと)のみに心(こゝろ)をゆだね候へかし。某(それがし)勝基公(かつもとこう)にきこえ あげて。伴(ばん)左衛門たとへ万里(ばんり)の外(ほか)に走(はし)るともたづね出(いだ)し。立合(たちあひ)の仇打(あだうち)を おんゆるしあるやうにはからふべし。これ三郎左衛門どのゝ洪恩(こうおん)をせめて 和殿(わどの)にむくはん為(ため)なりといへば。山(さん)三郎大に安堵(あんど)の思ひをなして喜(よろこ)ぶ 事(こと)かぎりなし。時(とき)に猿(さる)二郎おつ〴〵嘉門(かもん)が前(まへ)にはひ出(いで)て申しけるは。さき ほど途中(とちう)にてうけたまはれば。兄(あに)鹿蔵(しかぞう)人質(ひとじち)となりて。五条坂(ごじやうざか)に捕(とらは) れをるよし。気(き)づかはしく候。いかゞはからひしかるべうやとうかゞへば。嘉門(かもん)その 儀(ぎ)はすこしも気(き)づかふへからずとて。懐中硯(くわいちうすゞり)を取出(とりいだ)して一通(いつつう)の証書(しやうしよ) をかき。花押(かきはん)をすゑて猿(さる)二郎にあたへ。汝(なんぢ)此(この)一通(いつつう)をかの地(ち)の郡司(ぐんし)の □に持(もち)ゆけよ。しかる時(とき)は復讐(ふくしう)にまぎれなきことあきらかならん とい□に□猿(さる)二郎おしいたゞきてたゞちにかしこへいそぎゆく。嘉門(かもん)また 山(さん)三郎にむかひ。某(それがし)はからず一個(いつこ)の証人(しやうにん)を捕(とら)へて。佐々木(さゝき)の館(やかた)の䮴動(そうどう) 【挿絵】 山(さん)三郎 不破(ふは) 伴(ばん)左衛門を打(うち)て 父(ちゝ)の仇(あた)をむくふ 山三郎 伴左エ門 の根本(こんほん)は。執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん)が逆心(ぎやくしん)より出(いで)て。継母(けいぼ)蛛手(くもで)の方(かた)に悪意(あくい)を薦(すゝめ) て。実子(じつし)花形丸(はながたまる)を家督(かとく)とし。のち〳〵は母子(ぼし)ともにうしなひて。おのれ家(いへ)を うばひとり。浜名(はまな)入道(にうだう)に味方(みかた)せんたくみなる事(こと)あきらけし。不日(ふじつ)に某(それがし)勝基公(かつもとこう) の名代(みやうだい)としてかの館(やかた)に立越(たちこへ)。道犬(だうけん)を糺明(きうめい)して悪意(あくい)をあらはし。ふたゝび桂(かつら) 之助どのを世(よ)に出(いだ)し申さばやと思ふなりと。心底(しんてい)のこらずかたりければ。 山(さん)三郎 三拝(さんはい)してぞ㐂(よろこ)びける。嘉門(かもん)已(すで)に立(たち)あがり。忍(しのび)の他行(たぎやう)なればひま とりがたし。かさねてゆる〳〵まみゆべしといひつゝ。門口(かどぐち)に出(いで)てしはぶきすれば。 はるかあなたにひかへたる供(とも)まはり。忍(しのび)乗物(のりもの)をかき来(きた)る。山(さん)三郎 門(かど)おくり して礼(れい)をおこなへば。嘉門(かもん)会釈(ゑしやく)して乗物(のりもの)に乗(のり)うつり。別(わかれ)を告(つげ)て出(いで)ゆきぬ。 かくて山(さん)三郎は嘉門(かもん)が教誨(けうゆ)によりてやう〳〵心(こゝろ)ひらけ。葛城(かつらき)が首(くび)をとり。 手水盤(てうづばち)の水(みづ)をくみとり。血(ち)しほをあらひ。なく〳〵首(くび)を仏壇(ぶつだん)にすゑて。 香(かう)をたき水(みづ)を手向(たむけ)。鉦(かね)打(うち)ならして。南無(なむ)幽霊(ゆうれい)頓証仏果(とんしやうぶつくわ)菩提(ぼだい) 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)あみだ仏(ぶつ)と唱(となへ)て居(ゐ)たりけるに。思ひかけざる床(ゆか)の下(した) より。明(めい)晃々(くわう〳〵)たる剣(つるぎ)のきつさき危(あやう)く膝䯊(ひざがしら)を擦(かすり)てぞ閃(ひらめ)きいでぬ。 山(さん)三郎 仡(きつ)と見て。手(て)ばやく手向(たむけ)の水(みづ)をとりて剣(つるぎ)にそゝぎ。刀(かたな)をとり 身(み)をそばめてうかゞひ居(ゐ)たるに。床(ゆか)の下(した)には仕(し)すましたりとや思ひ けん。板敷(いたしき)をめり〳〵とおしやぶりて躍出(をどりいで)たるは何人(なにびと)ぞや。是(これ)則(すなはち)別(べつ) 人(じん)にあらず。不破(ふは)伴(ばん)左衛門 重勝(しげかつ)なり。伴(ばん)左衛門 声(こゑ)たかく。かくあらん と思ひしゆゑ。今朝(こんちやう)いまだ闇(くら)きを幸(さいは)ひ。汝(なんち)があとをつけ来(きた)りて 床(ゆか)の下(した)にかくれ。始終(しゞう)のことをくはしく聞(きゝ)ぬ。草履打(ざうりうち)の宿恨(しゆくこん)といひ 妹(いもと)のかたきかへり打(うち)なるぞ観念(くわんねん)せよといひつゝ。斬(きり)つくれば山(さん)三郎 刀(かたな)を抜(ぬき)て丁(ちやう)とうけとめおのれと来(きた)りて灯火(とうくわ)に飛入(とびいる)夏(なつ)の虫(むし)。これ 天(てん)のたまものなりとよはゞりて十 余合(よがう)戦(たゝかひ)けるが。伴(ばん)左衛門 運命(うんめい)尽(つき) たる時(とき)にやあらん簀(す)の子(こ)に足(あし)をふみぬきて。よろめく所(ところ)を山(さん)三郎。はや 足(あし)を飛(とば)せて合破(がば)と踢(け)たふし。乗(のり)かゝりて刀(かたな)をとりなほし。首(くび)を弗(ふつ)と かき斬(きり)たるはこゝちよくぞ見えたりける。かゝる折(をり)しも猿(さる)二郎 廓(くるは)の 事(こと)をすまして。恙(つゝが)なく鹿蔵(しかぞう)をともなひて立(たち)かへり。此 体(てい)を見て両人(りやうにん) ともに天(てん)を拝(はい)し地(ち)を□(はい)して。㐂(よろこ)びなきに泣(なき)けるは。げにたのもしき ものどもなり   二十 積善(しやくぜん)の余慶(よけい) 扨(さて)も大和国(やまとのくに)佐々木(さゝき)の館(やかた)には。家督(かとく)さだめの事(こと)につき。官領(くわんれい)由理之助(ゆりのすけ)勝基(かつもと) 公(こう)の名代(みやうだい)として。梅津(うめづ)嘉門(かもん)景春(かげはる)今日(こんにち)着駕(ちやくが)のよし。さきだちて沙汰(さた)あり ければ。判官(はんぐわん)貞国(さだくに)みづから下知(げぢ)して広坐敷(ひろざしき)を掃除(さうぢ)させ。礼服(れいふく)を着(ちやく)し て相待(あひまち)けるに。ほとなく来駕(らいが)ときこえしかば。みづから玄関(げんくわん)に出(いで)て相(あひ)むかふ。 梅津(うめづ)嘉門(かもん)。金紋紗(きんもんしや)の道服(たうぶく)に。白精好(しろせいごう)の長袴(ながばかま)を曳(ひき)。海老鞘巻(ゑびざやまき)をおび。 中啓(ちうけい)の扇(あふぎ)を把(とり)。烕儀(いぎ)堂々(だう〳〵)として入来(いりきた)り。安内(あない)につきて広坐敷(ひろざしき)にうち とほり。設(まふけ)の席(せき)に居(ゐ)なほりければ。判官(はんぐわん)恭(うや〳〵)しく礼(れい)をおこなひ。長路(ちやうろ)の 所(ところ)御苦労(ごくろう)のいたりに候と相(あひ)のぶれば。梅津(うめづ)景春(かげはる)一回(いつくわい)の挨拶(あいさつ)おはり。此度(このたび) 官領(くわんれい)の名代(みやうだい)として某(それがし)まかりこしたるは別儀(べつぎ)にあらず。先(さき)だちて次男(じなん) 月若丸(つきわかまる)家督(かとく)の願(ねがひ)を出(いだ)されつるが。其(その)儀(ぎ)につきおん疑(うたがひ)のすぢありて。 某(それがし)にゆきむかひ糺明(きうめい)せよとの厳命(げんめい)なり。先(まづ)内室(ないしつ)蛛手(くもで)の方(かた)。花形丸(はながたまる)。執(しつ) 権(けん)不破(ふは)道犬(だうけん)をこれへよび出(いだ)されよといふにぞ。貞国(さだくに)かしこみ候とて。かく といひつがせければ。ほどなく蛛手(くもで)の方(かた)礼服(れいふく)をつけ。花形丸(はながたまる)もろともに 出来(いできた)り。はるかに下(さが)りて礼(れい)をなす。不破(ふは)道犬(だうけん)も礼服(れいふく)にて。椽(えん)がはに平伏(へいふく) すれば。海津(うめづ)景春(かげはる)まづ貞国(さだくに)にいひけるは。先(さき)だちて子息(しそく)桂(かつら)之助 在京(ざいきやう)の 刻(きざみ)。放佚(はういつ)無慙(むざん)の不行跡(ふこうせき)。おん館(やかた)《割書:義政公(よしまさこう)|をさす》のおん聞(きゝ)に達(たつ)し。官領(くわんれい)浜名(はまな)入道(にうだう) を以(もつ)て内命(ないめい)あり。已(すで)に勘当(かんどう)の身(み)となりしが。今(いま)にいたりてふかく先非(せんぴ)を 悔(くひ)。おん館(やかた)に対(たい)し奉(たてまつ)り。一㓛(いつこう)をたてたるにより勘当(かんどう)をゆるし。家(いへ)をゆづ りておん身(み)は隠居(いんきよ)あるべしとの内命(ないめい)なり。桂(かつら)之助 勘当(かんどう)許免(きよめん)のうへ は。いてふの前(まへ)月若(つきわか)をも共(とも)にゆるしてよびむかへ候べしと相(あひ)のぶれば。貞国(さだくに) いまだ答(こたへ)もせざるに道犬(だうけん)いざり出(いで)。おそれおほ〱は候へども。いてふの前(まへ)月(つき) 若(わか)は現在(げんざい)母(はゝ)の蛛手(くもで)を呪咀(しゆそ)したる罪人(つみんど)に候へば。たとへ桂(かつら)之助はおんゆるし あるとも。かの母子(ぼし)両人(りやうにん)をおんゆるしありては。御政道(ごせいだう)たちがたく候はん。殊(こと) 更(さら)かれら両人(りやうにん)ゆくへしれ申ず候といひければ。蛛手(くもて)の方(かた)いかにもさ あり。かれら両人(りやうにん)妾(わらは)と花形丸(はながたまる)を呪咀(しゆそ)したる事(こと)は。官領職(くわんれいしよく)にはいまだ しろしめさゞるならん。貞国(さだくに)どのくはしくきこえあげ候へと。かたほに笑(ゑみ)ていひけれ ば。景春(かげはる)居(ゐ)たけだかになりて両人(りやうにん)をはたとにらみ。世俗(せぞく)の常言(じやうけん)に盗人(ぬすひと)猛々(たけ〴〵) しといふは正(まさ)に汝等(なんぢら)が事(こと)ならん。道犬(だうけん)蜘手(くもで)に悪意(あくい)をすゝめ。花形丸(はながたまる)の代(よ)に なさんと。両人(りやうにん)はかりて月若(つきわか)を呪咀(しゆそ)し。そのうへ奸計(かんけい)を以(もつ)ていてふの前(まへ)月(つき) 若(わか)を罪(つみ)におとし。貞国(さだくに)どのゝ命(めい)といつはり月若(つきわか)の首(くび)を打(うた)せんとし。いてふ前(まへ) を岩倉谷(いはくらだに)に引出(ひきいだ)して首(くび)打(うた)んとせしこと。皆(みな)汝等(なんぢら)が仕業(しわざ)ならずや。桂(かつら) 之助 放埓(はうらつ)の根本(こんほん)も汝(なんち)児子(せかれ)伴(ばん)左衛門にいひつけてすゝめたるにうたがひ なし。たゞし分説(いひわけ)ありやといへば。胆(きも)ふとき道犬(だうけん)少(すこ)しもひるまずそら笑(わらひ)し 当時(とうじ)官領職(くわんれいしよく)の軍師(くんし)と尊敬(そんけう)せられ玉ふ景春公(かげはるこう)のおん詞(ことば)ともおぼえ はべらず。いてふの前(まへ)母子(ぼし)蛛手(くもで)の方を呪咀(しゆそ)したるには自筆(じひつ)の願書(ぐわんしよ)。たしか なる証拠(しやうこ)あり。某等(それがしら)が奸計(かんけい)と申すには何等(なにら)の証拠(しやうこ)ありや。おそれ ながらうけたまはり度(たく)候といひければ。蜘手(くもで)の方(かた)もその尾(を)につき。妾(わらは)が悪(あく) 意(い)などゝは思はぬ濡衣(ぬれぎぬ)きる事(こと)よと。つぶやきてぞ居(ゐ)たりける。時(とき)に景(かけ) 春(はる)つとたちて椽(えん)さきに出(いで)。先刻(せんこく)申しつけおきたる縄(なは)つきをとく〳〵 これへ引(ひき)いだせとよばゝりければ。庭(には)ずゑに梅津(うめづ)が従者(じゆうしや)大勢(おゝぜい)ひかへたる 背後(うしろ)より。名古屋(なごや)山(さん)三郎 礼服(れいふく)を着(ちやく)し。修験者(しゆけんじや)頼豪院(らいごういん)を高手小(たかてご) 手(て)にくゝりあげ。鹿蔵(しかそう)猿(さる)二郎 両人(りやうにん)に縄(なは)をとらせて庭上(ていしやう)にひきすへ たり。胆(きも)ふとき蜘手(くもで)の方(かた)強悪(かうあく)の道犬(だうけん)もこれを見て仰天(ぎやうてん)し。なげ首(くび)して ぞしほれける。景春(かげはる)のいひけるは某(それがし)ゆゑありてかの者(もの)を捕(とら)へ。悪人(あくにん)ともの奸(かん) 計(けい)をちくいちに糺明(きゆうめい)せしが。此場(このば)に於(おき)ていはさねば証拠(しやうこ)にならず。山(さん)三郎 それはからへと命(めい)じければ。山(さん)三郎 立(たち)より。刀(かたな)の璫(こじり)をもつて頼豪院(らいごういん)がいま しめの縄(なは)を。しめあげ〳〵とく〳〵白状(はくじやう)仕(つかまつ)れといへば。頼豪院(らいこういん)面(おもて)をしはめ 蜘手(くもで)の方(かた)道犬(だうけん)がたのみによりて月若(つきわか)を呪咀(しゆそ)したるより。詐筆(にせふで)の願書(ぐわんしよ)を 以(もつ)ていてふの前(まへ)母子(ぼし)を罪(つみ)におとしたる本末(もとすへ)を。こまかに白状(はくじやう)しければ。判官(はんぐわん)貞(さだ) 国(くに)はじめてこれを聞(きゝ)。只(たゞ)あきれて居(ゐ)たりけるが。たちまち怒気(どき)天(てん)にさかのほ り。道犬(だうけん)が髻(もとゞり)つかみてねぢたふし。我(われ)多病(たびやう)なるを以(もつ)て家事(かじ)を汝(なんぢ)にゆだね たるに。思慮(しりよ)浅(あさ)くして汝等(なんぢら)にあざむかれたるくちをしさよ。肉醤(しゝひしほ)になす ともあきたるべからず。たとへ我(われ)をばあざむくとも。いかでか青天(せいてん)をあざむく べきやとて。大小(たいしやう)をとりあげ。庭上(ていしやう)に踢(け)おとしければ。山(さん)三郎 飛(とび)かゝりて おさへつけ。高手小手(たかてこて)にぞくゝりける。蜘手(くもで)の方(かた)此(この)体(てい)を見て。積悪(せきあく)の罪(つみ) のがれがたしとや思ひけん。懐剣(くわいけん)を抜(ぬく)よりはやくのんどぶえにつきたてゝうつ ぶしにぞ伏(ふし)たりける。思ふに年来(ねんらい)の隠悪(いんあく)かく一時(いちじ)にあらはるゝも。総(すべて)是(これ)皇(くわう) 天(てん)の罰(ばつ)し玉ふ所(ところ)也。豈(あに)おそれざらんや。時(とき)に花形丸(はながたまる)蜘手(くもで)の方(かた)の死骸(しがい)に 【挿絵】 梅津(うめづ)嘉門(かもん) 善悪(せんあく)邪正(じやしやう) を糺明(きうめい)して 忠臣(ちうしん)孝子(かうし)に 賞(しやう)を玉ひ 積悪(せきあく)の 徒(ともがら)に罰(ばつ) をくわふ 月若 いてふのまへ 貞国 かつらの助 梅津嘉門 花形丸 くもでの方 いそな かへで 山三郎 三八郎道心 道犬 頼豪院 さる二郎 しか蔵 とりつき。さばかりあしきおん志(こゝろざし)あらんとは。露(つゆ)ばかりも思ひはべらず。親(おや)の悪(あく) 意(い)を子(こ)の身(み)としていさめ申さぬ不孝(ふかう)の罪(つみ)。おんゆるしくだされかし。あさま しきおん身(み)の果(はて)やとて。悲歎(ひたん)の涙(なみだ)にむせびけるが母(はゝ)の悪意(あくい)も畢竟(ひつきやう)は。某(それがし)を 世(よ)にたてんと思はれしより事(こと)おこれば。某(それがし)とても同罪(どうさい)なり。分説(まうしわけ)はかくのとほ りといひつゝ。母(はゝ)が自害(じがい)の懐剣(くわいけん)をひろひとり。已(すでに)に腹(はら)につきたてんとしたるを。 梅津(うめづ)景春(かげはる)おしとゞめ。和殿(わどの)はかねて実義(じつぎ)ある事(こと)聞(きゝ)およびぬ。あたら若者(わかもの)に 武士道(ぶしだう)をすてさするはおしむべき事(こと)なれども。悪意(あくい)の母(はゝ)につながるゝ縁(ゑん) なればせんすべなし。自殺(じさつ)をとゞまり剃髪(ていはつ)染衣(ぜんえ)に姿(すがた)をかへ。母(はゝ)の菩提(ぼだい)を とむらはれよ。某(それがし)先祖(せんぞ)梅津(うめづ)豊前(ぶぜんの)左衛門 清景(きよかげ)より伝来(でんらい)の。大幢(たいどう)国師(こくし)の 法語(ほふご)一巻(いちくわん)あり。某(それがし)今(いま)は官領(くわんれい)につかへて軍務(ぐんむ)に管(あづか)る身(み)なれば。禅法(せんほふ)を修(しゆ) すべきいとまなし。かの法語(ほふご)を和殿(わどの)に附与(ふよ)すべければ。今(いま)より禅学(ぜんがく)をはげみ 教外別伝(きやうげべつでん)の妙(みやう)をきはめ。直指人心(じきしじんしん)の奥(おく)をさだめて。のち〳〵は名僧(めいそう)知識(ちしき)と名(な) をあげて。今(いま)の汚名(おめい)をすゝがれよといひければ。花形丸(はながたまる)感佩(かんはい)しやう〳〵自殺(じさつ) をとゞまりて。髻(もとゞり)弗(ふつ)とおしきりぬ。花形丸(はながたまる)剃髪(ていはつ)して法名(ほふみやう)を胸月(けふげつ)といひ。 のち〳〵一休(いつきう)禅師(ぜんじ)の弟子(でし)となりて。ついに大悟(たいご)有徳(いうとく)の知識(ちしき)となり   西(にし)てらす月(つき)のひかりをその侭(まゝ)に因果(いんぐわ)がつひのすみかなりけり といふ歌(うた)を詠(ゑい)じて。世(よ)に因果(いんぐわ)禅師(ぜんじ)と称(しやう)ぜられけるとかや。さて景春(かげはる)蜘手(くもで) の方(かた)の屍(しかばね)をとりのけさせ。貞国(さだくに)にいひけるは。道犬(だうけん)が悪意(あくい)の源(みなもと)は浜名(はまな)入(にう) 道(だう)にこびへつらひ。入道(にうだう)の権威(けんい)を以(もつ)ておん身(み)を押篭(おしこめ)。一且(いつたん)花形丸(はながたまる)の世(よ)となし。 ついには父子(ふし)ともにうしなひて。おのれ家(いへ)をうばひ。浜名(はまな)入道(にうだう)に一味(いちみ)すべき 結構(けつかう)なる事(こと)あきらけし。今(いま)已(すで)に勝基公(かつもとこう)と浜名(はまな)と碓執(くわくしつ)におよび。世(よ)の中(なか) わけめの時節(じせつ)なれば。浜名(はまな)にくみしたる道犬(だうけん)わたくしのはからひにしがたし。官領(くわんれい) の館(やかた)にひきて。今出川相公(いまでがはどの)の命(めい)をうけて誅戮(ちうりく)をくはふべし。いかに山(さん)三 郎 先刻(せんこく)某(それがし)同伴(どうはん)して。東(ひがし)の殿(でん)にひかへさせおきつる。桂(かつら)之助 夫婦(ふうふ)を是(これ)へ いざなひ来(きた)るべしといふにぞ。山(さん)三郎かしこみ候とて。行廊(ほそどの)のかたにゆき。 いざこなたへとよばゝれば。かねて用意(ようい)やしたりけん。佐々木(さゝき)桂(かつら)之助 国知(くにとも)。 折烏帽子(をりゑぼし)に大紋(だいもん)の直垂(ひたゝれ)を着(ちやく)し。右鞘巻(みぎざやまき)をおびていで来(きた)る。つゞきて いてふの前(まへ)。纐纈(かうけち)の小袖(こそで)に摺箔(すりはく)の袿衣(うちき)をかけ。とめ木(き)のかほり馥郁(ふくいく)とし て蓮歩(れんほ)をうつす。次(つぎ)に月若(つきわか)此時(このとき)に十三 歳(さい)。髪(かみ)を生立(おひたて)て総角(あげまき)にむすび。 小素襖(こずおう)に烏帽子(ゑぼし)かけて相(あひ)したがふ。はるか下(くだ)りて佐々良(さゝら)三(さん)八郎。剃髪(ていはつ)の 姿(すがた)となり。僧衣(そうい)を着(ちやく)し。妻(つま)礒菜(いそな)。娘(むすめ)楓(かへで)を具(ぐ)していて来(きた)り。かの百蟹(ひやくがい)の 巻物(まきもの)をうや〳〵しくさゝげて貞国(さだくに)に呈(てい)し。おの〳〵座(ざ)をさだめければ。梅津(うめづ) 嘉門(かもん)景春(かげはる)威儀(いぎ)をつくろひ。いかに国知(くにとも)ぬし。今(いま)志(こゝろざし)をあらためられたるに より。家(いへ)相続(さうぞく)の儀(ぎ)を命(めい)ぜられて。御教書(みぎやうしよ)をたまはりぬ。いざうけとり候へとて 相渡(あひわた)せば。桂(かつら)之助おし頂(いたゞ)き。館(やかた)のおん慈悲(じひ)官領(くわんれい)の御仁心(ごじんしん)世(よ)にありがたく候 といひておさむれば。判官(はんぐわん)貞国(さだくに)をはじめとして皆(みな)一同(いちどう)に㐂(よろこ)ぶ事(こと)限(かぎ)りなし。 さて桂(かつら)之助 父(ちゝ)にむかひ。佐々良(さゝら)三八郎 夫婦(ふうふ)の忠義(ちうぎ)。兄弟(きやうだい)の児等(こどもら)が孝心(かうしん)を ものがたりければ。名古屋(なごや)山(さん)三郎は。不破(ふは)伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の者(もの)を打(うち)て父(ちゝ)の 仇(あた)をむくいたる始末(しまつ)。ならびに鹿蔵(しかぞう)猿(さる)二郎が忠義(ちうぎ)の子細(しさい)をかたりけるにぞ。 貞国(さだくに)打聞(うちきゝ)て転(うたゝ)感嘆(かんたん)に堪(たへ)ざりけり。時(とき)に梅津(うめづ)景春(かげはる)いひけるは。悪人(あくにん)亡(ほろび)忠(ちう) 臣(しん)孝子(かうし)あらはるれば。当家(とうけ)益(ます〳〵)繁昌(はんじやう)し子孫(しそん)長久(ちやうきう)うたがひなし。時刻(じこく)うつれば 某(それがし)ははやまかりかへるべしといひて立(たち)あがり。従者(じゆうしや)に命(めい)じて道犬(だうけん)ならびに 頼豪院(らいごういん)を。檻車(かんしや)に乗(のせ)てかきいださしむれば。貞国(さだくに)国知(くにとも)をはじめとして皆(みな)一(いち) 同(どう)に景春(かげはる)をおくり出(いで)て。恭(うや〳〵)しく礼(れい)をおこなふ景春(かげはる)つひにわかれを告(つげ)て 【挿絵】 五条坂(こじやうさか)神林(かんばやし)のあるじ 名古屋(なごや)山(さん)三郎が帰参(きさん)を 祝(しゆく)してあまた の舞妓(まひひめ)を おくる 山三郎 銀子(ぎんす) 衣服(いふく)を つみて 神林(かんばやし)夫婦(ふうふ) ならびに 舞人(まひて)ども にあたふ 此一図 模擬英 一蝶所 画名古 屋山三 給巻物 之図 神林夫婦 山三郎 八重垣 乗物(のりもの)に打(うち)のり。行列(ぎやうれつ)うたせてかへりけり。さるほどに官領(くわんれい)の館(やかた)において。 再(ふたゝび)又(また)道犬(だうけん)を糺明(きうめい)あり。一味(いちみ)の輩(ともがら)を尽(こと〴〵)く捕(とら)へて頼豪院(らいごういん)と共(とも)に誅戮(ちうりく)し 玉ひ。道犬(だうけん)は殊(こと)に大罪(だいざい)の者(もの)なればおもき刑(けい)をくはへ玉ふ。さて名古屋(なごや)山(さん)三 郎。並(ならび)に佐々良(さゝら)三八郎 夫婦(ふうふ)。娘(むすめ)。鹿蔵(しかぞう)猿(さる)二郎 等(ら)までめされて。その忠義(ちうぎ) 孝行(かう〳〵)貞節(ていせつ)を御賞美(ごしやうび)あり。それ〳〵にそくばくの賞金(しやうきん)をたまはり ければ。皆(みな〳〵)感涙(かんるい)をおとしてかへりぬ。さて判官(はんぐわん)貞国(さだくに)薙髪(ちはづ)して桂(かつら)之助に家(いへ) をゆづり。平郡(へぐり)の別館(べつくわん)にうつり住(すみ)。名古屋(なごや)山(さん)三郎を執権(しつけん)とし父(ちゝ)三郎左 衛門が禄(ろく)に。道犬(だうけん)が禄(ろく)をくはへて与(あた)へければ。昔(むかし)に十 倍(ばい)して富(とめ)る身(み)と成(なり)。 鹿蔵(しかぞう)猿(さる)二郎に禄(ろく)をわかちとらしめて忠義(ちうぎ)を賞(しやう)じければ。両人(りやうにん)面目(めんぼく)を 施(ほどこ)して㐂(よろこ)びぬ。扨(さて)又 浮世(うきよ)又平(またへい)は。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を一覧(いちらん)して画道(ぐわだう)の奥(おく) 妙(みやう)をきはめ。師匠(しゝやう)戸佐(とさ)正見(しやうけん)の勘気(かんき)をゆるされ。戸佐(とさ)又平(またへい)重起(しげおき)と 名告(なのり)。梅津(うめづ)嘉門(かもん)の吹挙(すいきよ)によりて義政公(よしまさこう)の絵所(ゑどころ)となり。妹(いもと)於竜(おりう)は曽(かつ)て兄(あに)に 学(まな)びて自然(しぜん)と画道(ぐわだう)の妙(みやう)をきはめたれば。世(よ)におりう絵(ゑ)と称(しやう)じてその名(な) 高(たか)くきこえぬ。佐々良(さゝら)三八郎は抜群(ばつくん)の忠臣(ちうしん)なれば。桂(かつら)之助ぢもく禄(ろく)を あたへんとおぼされけるが。今(いま)は桑門(よすてびと)の身(み)なればとて禄(ろく)をうけざればせん すべなく。唯(たゞ)数百金(すひやくきん)をあたへけるに。身(み)に応(おう)ぜざるたまものなりとて再(さい) 三(さん)辞(じ)しけれども。しひてたまはりければ。その金(かね)を以(もつ)て長谷部雲六(はせべのうんろく)が 妹(いもと)八重垣(やへがき)をあがなひ出(いだ)して家(いへ)に養(やしない)おきぬ。これはその誠心(せいしん)を感(かんじ)ての 事(こと)とぞ。さて山(さん)三郎は葛城(かつらき)が志(こゝろざし)をあはれみ。神林(かんばやし)がもとに金(かね)あまたおく りて追福(つひふく)をいとなませ。一生(いつしやう)妻(つま)をめとらじとちかひけるよしを。三八郎 打(うち) 聞(きゝ)て。のちなきは不孝(ふかう)の第一(だいいち)なりとすゝめ。かの八重垣(やへがき)をおくりて妾(てかけ)と なさしむ。ほどなく男子(なんし)をまうけ。後(のち)にこれを名古屋(なごや)小山三(こさんざ)と称(しやう)す。 此(この)小山三(こさんざ)出雲(いづも)の神子(みこ)阿国(おくに)といふ舞姫(まひひめ)を妻(つま)として。歌舞妓躍(かぶきをどり) 狂言(きやうげん)といふ事(こと)を始(はじめ)たるゆゑよしは。後編(こうへん)に詳(つまびらか)なり。発兌(はつだ)の時(とき)を 待得(まちえ)て見るべし。不破(ふは)名護屋(なごや)の文字(もんじ)に。自然(おのづから)不(ず)_レ破(やぶら)_レ名(な)護(まもる)_レ屋(いへを)と云(いふ) 訓(くん)あるも。此(この)稗史(はいし)におきていみじき吉兆(きつちやう)ならずや 昔話稲妻表紙巻之五下冊終 大尾    醒醒斎山東京伝著 江戸    一陽斎歌川豊国絵 書賈 本所松坂町 平林庄五郎蔵梓 教訓 浪華樹下翁 絵入 心のゆくゑ      初篇全二冊           《割書:夫人の欲する所は家業繁栄子孫永続富貴を|願はざるはなし譬は過て悪道へ趣く人も此書を|見れは忽善道に志し主家大切父母孝養家内|和合にして自ら家業繁栄子孫長久の世道を述》 教訓 同 著 絵入 心のゆくゑ 二編 全二冊 教訓 同 著 絵入 心のゆくゑ 三編 全三冊 弘化三丙午年 浪華書肆   大坂心斎橋南本町            河内屋平七 【裏表紙】