【表紙】 【題箋】 南島紀事    中 【前コマと同じ】 【表紙】 【右頁】 【蔵書票】 仲原善忠文庫 琉球大学 志喜屋記念図書館 【左頁】 【付箋】 【蔵書印 琉球大学附属図書舘藏書印】 【本文は次コマに翻刻】 【右頁 前コマに同じ】 【左頁】 南島紀事中巻        周防  後藤敬臣編  尚円前紀上   円王 宣威王 真王 清王 元王 永王 文明二年《割書:明成化|六年》鎖之側金丸を立て国統を継か しむ是を尚円王とす尚円名は思徳金と曰ふ金 丸は其別称なり伊平屋島伊是名首見村の人里 主尚稷《割書:本名不伝追|称ヲ以書ス》の子にして為朝の子尊敦の 孫義本の胤なり《割書:或は伝フ伊平屋ニ一岳アリ天|孫岳ト称ス因テ天孫氏ノ裔ト》 《割書:ス|ト》金丸生れて足底に痣あり其色金の如し泊村 【右頁】 の人大安里と云もの一見して曰此人後必す億 兆の上に立んと後故あり国頭に来り越来王子 泰久に依る泰久信して思達王に薦む思達用て 筑登之(チクドン)とす尋て筑登之親雲上(チクドンパイチン)に進む泰久王位 に即くに及ひ内間の地頭とに長禄三年鎖之側 官に任す初め尚徳の薨するに当り法司等世子 を奉せんとす仍て例に遵ひ群臣を集め牛耳を 切り此事を告く群臣皆法司の権勢を畏れ相顧 みて言ものなかりしか忽一人の老臣鶴髪を揮 ひ身を挺て出て高声に言て曰国家は万姓の国 【左頁】 家なり一人の国家に非す吾先王の所為を観る に暴虐無道なることは商紂にも勝り酒池肉林の 驕奢は夏桀も及はす祖宗の功徳を念はす臣民 の艱苦を顧み玉はさりき今又世子の幼沖を以 て之に継かは恐らくは生民塗炭の苦を救ふこと 能はさらん幸に内間の地頭御鎖之側金丸寛仁 大度四境其徳を称楊せさることなし民の父母と 為す此人を除き復た誰とかする是れ天我君を 生する也と言未た畢らさるに満廷の臣民異口 同音に其言の允とに当れるを言ふ貴族近臣は 【右頁】 早くも其変あるを察し先を争ふて逃走す夫人 乳母は世子を懐きて真玉城に匿れけれは城兵 之を追ひ遂に世子をそ殺しける是に於て群臣 鳳輿龍服を整へ内間《割書:内間ハ西原間切嘉手苅村|ニ在リ村ニ一殿アリ内間》 《割書:御殿ト曰フ即金丸ノ故宅也今存スルモノハ蓋|故墟ニ就テ再建スルノミ別ニ一厰アリ一大石》 《割書:碑ヲ置ク其文尚敬|王自撰并書ニ係ル》に至り金丸を迎ふ金丸大に 驚きて曰我聞く伯夷叔斉は武王を諫めて首陽 に餓へたりと我将た故山に隠れんのみ卿等急 き首里に還り宜しく賢徳の人を薦めて君とな すへしと固く辞して就かす去りて海岸に遁る 【左頁】 群臣追隨極言して請て曰君若し出てすんは天 下の蒼生を奈かんせんやと金丸天を仰き流涙 雨の如し竟に野服を脱し龍衣を着け首里に至 り大位を践む後其岸を呼て脱衣岩と曰ふ《割書:岩ハ|今海》 《割書:中ニ|アリ》三年長史蔡璟使者呉司馬、益周間、宋壁、《割書:三|員》を 明に遣し方物を貢し尚徳王の訃を告く尚円武 実を以て法司とす《割書:是歳島津忠国卒ス忠国老境|常ニ琉球ニ航スルノ志アリ》 《割書:遂ニ果サスシ|テ没スト云》四年正月島津立久使者を琉球に 遣し太刀を贈り来朝を勧め且符を尚円に授け 我々諸船の符を持せさる者は琉球に入ることを 【右頁】 許さゝらしむ是より先き立久其臣五代友平を 京師に遣し足利義政に請ふ所あり因て此に至 るといふ二月尚円金剛寺報恩寺の住持僧及里 主等をして薩摩に聘問せしむ立久待遇殊に渥 し是歳明主正副冊使を遣し尚円を封して中山 王と為す尚円即ち謝恩使を発す使臣武実等帰 途福建に次とる時に従者土人を殺し財を奪ふ 明の礼部奏して曰琉球毎年入貢す故に動れは 奸弊を生す請ふ二年毎に一貢せしめんと明主 之に従う(是より清代に至り恒例と為る)五年六 【左頁】 月尚円長慶院の住持僧を薩摩に遣し書を其国 老に致し太刀を贈りて恩を謝し且船符及聘使 の二事謹て命に遵ふへしと報す又使を発し足 利義尚の継統を賀せんと欲し遂に果すこと能 はすと云ふ八年《割書:明成化|十二年》七月尚円薨す歳六十二 臣民哀号悲泣すること父母を喪ひたるか如し とそ尚円の大位に登るや苛政を除き寛政を設 け仁を以て民を育し礼を以て人を待つ先世遁 隠の士争ふて仕を願ふ君子進み小人退き風俗 雍変し百姓業を楽み復た怨嗟の声なしと且巴 【右頁】 志王の制に倣ひ大臣を遣して北山を監守せし め大に昇平の治を致せり金丸年二十にして父 母共に喪ふ時に弟宣威年甫めて五歳家貧にし て養育甚た困しめり金丸益々農事を務む会ま 大旱し田水皆涸る但金丸の田水満て漫々たり 村人皆疑ふて水を盗むものとし将に害を加へ んとす金丸弁すること能はす竟に田園を棄て 妻及ひ弟を携へ海を渡り国頭に来り居ること数年 畢に王叔泰久の信する所と為る応仁文明の頃 《割書:明成|化年》寺を首里城外に建て天王と号け家廟の所 【左頁】 と為す《割書:明応三年円覚寺ヲ以テ宋廟ト為スニ及|ヒ天王寺ヲ以テ王妃ノ廟ト為シ尚稜王》 《割書:妃以下諸妃ノ神|位ヲ奉安スト云》又地を泊村の東南に卜し中山 の国王廟を建て舜天以下世々国王の神位を置 き寺を建て崇元と曰ふ《割書:冊封の時諭祭ノ礼此ニ|行フ又春秋二仲祭ルニ》 《割書:西土ノ礼ヲ以テス沖縄志ハ尚真ノ時明応|三年ノ創建ト為ス今世譜ニ従テ此ニ糺【紀ヵ】ス》又一 寺を浦添村に創め龍福と号す《割書:旧ト極楽寺ト曰|フアリ英祖ノ家》 《割書:廟ナリ後祝融ノ災に罹ル尚円因テ改建|今ノ号ニ更メ歴代ノ王朝ト為スト云》 文明九年春尚円の弟西之世主立つ之を尚宣威 王と為す蓋し世子幼冲法司相議して之を立つ 宣威恭謙にして篤行あり祚を践みしより僅か 【右頁】 く父業を紹き精を励まして治を図り曽て百僚 に職を授け臣民に簪冠を班つ是を以て百姓命 に安し分を守る尚真諸按司の采地に住するこ とを止め皆聚めて首里に居らしめ遥に其地を 領し毎歳督官を遣し之を治むるの制を定む嘗 て謂へらく旧制は地を画して按司を封す按司 各々城地に拠り互に争闘し兵乱息む時なし若かす力 を聚め兵柄を収むるの全きにはと乃ち按司を 聚め遂に刀劔弓矢の属悉く之を府庫に蔵め以 て護国の具と為すに及へり但王子を今帰仁に 【左頁】 遣し北門を監守せしむるの制は猶旧に依る又 三府三十六島に令し重て経界を正し納税の法 を定む又旧制国君の薨するや侍臣 ̄ノ寵を受るも の皆殉死す尚真曰彼も亦人の子なり豈に忍ふ へけんやと遂に之を禁す治道大に明に政刑咸 く備り国内始めて晏如たり尚真の生るゝや父 尚円卜部に命して之を筮せしむ卜部曰く某の 日城を出て南行し始めて逢ふ者を以仮父とな さす福寿彊りなからんと尚円其言に従ひ左右 に命して世子を抱き南行せしむ途に阿擢莘と 【右頁】 いふものに逢ふ携へて城に帰り仮父と為す尚 真の位に即くや士籍に列し宅を賜ふ永正六年 阿擢莘紫金官を以て没す尚真厚く之を葬る 大永七年第五子天続之按司添明立つ是を尚清 王と為す盍し世子尚維衡父王の意に■【愜】はさる を以立つことを得す享禄三年足利義晴尚清に 託し書を明国に致して使臣の暴行を謝し勘合 金印を更めて再ひ交通せんことを請ふ明主左 給事中陳侃などを使とし書を齎して琉球に来り 尚清を价して旨を義晴に伝へ福建を騒擾せし 【左頁】 首罪者を求天文六年尚清兵を発して大島を 討し与湾大親を殺す与湾は大島酋長の一人な り与湾純正にして職務を守る侘の酋長之を妬 み事に托して異志ありと讒言す尚清大島の遠 く海を隔て虚実弁し難きの故を以遂に其讒を 信じて事此に及べり尚清の兵至るや与湾は敢 て抗せす天を仰き嘆して曰吾何の罪ありて歟 此に至る吾を知るものは唯天乎と自ら縊れて 死に此役其子糠中城を擄へて還る《割書:其裔孫馬氏|今猶存ス盍》 《割書:シ与那原良傑小禄|某等ノ始祖ナリ》十一年長史蔡延美明国漳州 【右頁】 の人陳貴等を招引し舩に駕して国に還る適 潮陽の舩と利を争い互に相殺傷す延美は貴等 を旧王城に置き尽し其貨■【貲】を没入す貴等夜奔 り逃れんとせしか守者に捕へられ遂に殺さる るもの多し是に於て貴等を誣ひて賊となり械 繋して福建に送る延美表を■【賫(賷)】らし明国に赴き 陳せんとす時に明国巡按御徐宗魯等会同し て訳審し別に状し以て明主に聞し延美等を留 めて命を待たしむ後ち旨を得たり其処兮に曰 貴等法に違ひて番に通す宜しく国典に遵ひ重 【左頁】 治すべし琉球既に屡々与に交通し今敢て貨利 を攘奪し檀に我が民を殺し且誣ふるに賊を以 てす詭逆不恭此より甚しきはなし蔡延美本宜 しく拘留して重く処すべしといへとも素朝貢 の国に係ることを念ひ姑く放ち回すべし後若 し悛めされば即ち其朝貢を絶んと福建の守臣 をして備へて国に至り之を知らしめたり十三 年首里城の東南壁を築く其高さ五丈長さ百五 十丈十六年大美殿を造る二十三年二砲台を那 覇港口に築く盍し我ら邉民明の江浙を侵すこ 【右頁】 とを聞き此備へあり弘治元年尚清薨す歳五十 九尚清為人英邁政を為して倦ます弊事を■■【𨤲(釐)革】 する所多し尚清疾篤きに臨み法司毛龍吟和為 美葛可昌を召して謂て曰吾れ将さに逝んとす らすして瞑す為美可昌二人群臣に謂て曰世子 柔弱人君の任に勝へず四子尚鑑頴敏なり宜し く立て王と為すべしと群臣敢て可否するもの なし龍吟曰世子は正妃の生む所長を立つるは 古今の常典況んや遺命をや諸君若し遺命に背 【左頁】 かば吾れ自殺して先王に地下に訴んのみと声 色特とに励しければ二人畏縮して復た誣ふる 能はず議遂に定まる是より先き伊江島毎夜奇 光を放つ人を遣して視せしむるに一古鏡を獲 たり老僧を召して之を問ふ対へて曰是天照太 神の垂跡なりと即ち祠を島中に建て鏡を奉安 し老僧をして看護せしめ其寺を照大山と号く と云ふ 弘治二年世子日始按司添立つ是を尚元王と為 す是歳我邉民の明の江浙を侵す者敗れて琉球 【右頁】 に入る尚元兵を出して之を撃つ永禄二年法司 和為美を久米島に葛可昌を伊平屋島に流す是 より先き薩日隅三国大に乱れ島津隆久父忠良 と謀り国難を掃蕩し人民を綏撫す尚元之を聞 き天界寺僧登叔及与那城良仲を薩摩に遣し黄 金五十両真南蛮香五十斤紅糸白糸各五十斤線 織物白布各五十端砂糖緑■【醑】の類五十種を貢す 貴久使者を召して之を饗し多く物を与え且尚 元に答書を贈る十二年尚元天龍寺僧を薩摩に 遣し方物を貢す元亀元年正月島津義久広済寺 【左頁】 の僧雪岑を琉球に遣し答書を贈り併せて其父 貴久の翰を付す二年大島を討す与湾大親讒死 の後侘の酋長叛を謀り貢舩を絶つ是に於て尚 元親ら兵舩五十艘を率ゐ伐て之を平く之より 毎歳那覇人を差し更番在勤せしむ尚元大島の 役疾を得て還り三年四月遂に薨す歳四十五尚 元性質仁愛臣民心服す政を為す皆旧章に遵依 す尚元好んで本邦の風俗を慕い模倣すること 甚多し当時久米島村林某の如き村中に天満宮 建つるに至る