丙【手書き風の赤い文字・以後本文は活字】       身体保全法(しんたいほぜんはふ)の実験二報(じつけんにほふ)  本年三月中(ほんねんさんぐわつちう)身体保全法(しんたいほぜんはふ)の一奇術(いつきじゆつ)を施印(せいん)に附(ふ)して世上(せじやう)識者(しきしや)の教(をしへ)を請(こひ)たりしが去月(きよげつ)八日 福岡県(ふくかけん) 筑後国(ちくごのくに)久留米市米屋町(くるめしこめやまち)二丁目吉川安吉氏より一報(いつぱふ)を辱(かたじけ)なふせり其(そ)の要(やう)に同月二日 久留米在(くるめざい) 御原郡追分村(みはらごほりおいわけむら)井上マツの家(いへ)に於(おい)ての講会(こうくわい)に十人計(ぢうにんばか)り集(あつ)まり吉川氏も出席(しゆつせき)したる故(ゆゑ)此奇術(このきじゆつ)を 試(こゝろ)むるの便(たより)もあらんと思(おも)ひ人々(ひと〳〵)に就(つい)て脈度(みやくど)を診(しん)せしに敢(あえ)て 異状(いじやう)もなかりしが只(たゞ)其中一人(そのうちいちにん)の脈度乱(みみやくどみだ)れ居(をる)あり此人(このひと)は同郡(どうぐん) 櫛原村(くしはらむら)松田吉太郎とて三十五歳になる強壮(きやうさう)の者(もの)なり此時(このとき)は 聊(いさ)さかも病気(びやうき)などの容子(ようす)なく飲食(いんしよく)も人並(ひとなみ)になし居(を)り其(その)の夜(よ) 十二 時過(じすぐ)る頃(ころ)俄(にわ)かに赤痢病(せきりびやう)に罹(かゝ)り翌日(よくじつ)十二時 過(すぎ)に至(いた)り遂に 死亡(しぼう)したり此事(このこと)を伝聞(つたへきく)者 皆(みな)奇術(きじゆつ)の玄妙(げんめう)なるを感歎(かんたん)せざるは なとしいへり然(しか)れば此(こ)の術(じゆつ)は只変死(たゞへんし)を前知(ぜんち)するのみならず 病災(びやうさい)の死(し)をも前知(ぜんち)することを得(う)べきものと思(おも)はる已(すで)に此理(このり) ありとせば医術(いじゆつ)の診断上(しんだんじやう)に取(と)りても亦簡便(またかんべん)の一奇法(いちきはふ)を発見(はつけん) したるものといふべし又(また)小生(せうせい)の知人(ちじん)に松嶋孫十郎氏と云人(いふひ) あり長野県(ながのけん)上伊那郡(かみいなごほり)手良村(てらむら)に住居(すまゐ)せり本年(ほんねん)の夏(なつ)所用(しよよう)ありて 筑摩川(ちくまがは)渡(わたり)しに折節(をりふし)洪水(こうすゐ)なるが為(た)め奔流激怒(ほんりうげきど)し其危(そのあやう)きこと 言(い)はん方(かた)なし水主二人(かこににん)ながら棹打折(さほうちを)りて水中(すゐちう)に陥(おちい)り生死(しやうし)の 程(ほど)も知(しれ)ざりき船客(せんかく)は十二人なりしが手足(てあし)と恃(たの)む水主(かこ)に別(わか)れ 各々(おの〳〵)為(せ)ん所(ところ)を知(し)らず皆 茫然(ぼうぜん)として色(いろ)を失(うしな)ふ船(ふね)は流(なが)れに漂(たゞよ)ひ 去(さ)り覆(くつが)へらんとするもの数回(すくわい)に及(およ)び水練(すゐれん)を知(し)る船客(せんかく)八人(はちにん)は 身(み)を躍(おど)らし辛(か)らふじて岸(きし)に泳(およ)ぎ着(つ)きしも氏 外(ほか)三人は水練(すゐれん)の 心得(こゝろえ)なきを以(も)て運(うん)を天(てん)に任(まか)せ船(ふね)の中(うち)に蹲(うづく)まり居(ゐ)るのみ氏は 兼(かね)て保全術(ほぜんじゆつ)を知(しり)たる故(ゆゑ)此所(こゝ)ぞ大切(たいせつ)の場合(ばあい)と思(おも)い屡々(しば〳〵)脈度(みやくど)を 試(こゝろむ)るに敢(あえ)て異状(ゐじやう)なりしかば少(すこし)く安堵(あんど)の思(おもひ)をなす然(しか)れとも 船(ふね) は益々(ます〳〵)危(あやう)く十中八九(ぢうちうはつく)は命助(いのちたす)かるべくも見(み)えざるより反(かへつ)て 此(こ)の術(じゆつ)も恃(た)のむに足(た)らずと疑念(ぎねん)を起(おこ)し今(いま)にも水藻(みくづ)に埋(うづ)まる ならんと打萎(うちしほ)れて待(ま)つ程(ほど)に船(ふね)は激波(げきは)に巻(まか)れて岸辺(きしべ)に近(ちか)づき 一叢(ひとむら)の竹林中(ちくりんちう)に流(なが)れ入(い)りたり水浅(みづあさ)きを見(み)るより三人は直(たゞち)に 竹藪(たけやぶ)の中(なか)に飛下(とびくだ)り氏一人 残(のこ)りしが漸(やうや)くにして船(ふね)を繋(つな)ぎ止(と)め たり折(を)りしも川向(かはむか)ふより助船(たすけぶね)来(きた)りて四人を打乗(うちのせ)たれば皆々(みな〳〵) 其無事(そのぶじ)を祝(しゆく)し合(あ)へり茲(こゝ)に於(おい)て氏は保全法(ほぜんはふ)の功益(こうえき)著(いちじる)しくして 斯(か)かる危難(きなん)の際(さい)にても狼狽(ろうばい)せざりしことを喜(よろ)こび去月(きよげつ)上旬(じやうじゆん) 懇(ねんごろ)に小生に謝(しや)せられたり前(まへ)の二報(にほふ)は各々(おの〳〵)実験(じつけん)に繋(かゝ)り空理(くうり)を 談(だん)ずるの比(ひ)に非(あら)ず変災(へんさい)を前知(ぜんち)せることは曽(かつ)て広告(くわうこく)せし陰医(いんい)を 初(はじ)め松嶋氏に於(おい)て毎々(まい〳〵)効(かう)を見(みた)れとも病災(びやうさい)を前知(せんち)することは 吉川氏の実験(じつけん)を始(はじめ)となすべし伏(ふし)て希(こひね)がはくは博識(はくしき)の諸君(しよくん)幸(さいわ)ひに教示(きやうじ)を賜(たま)はらんことを請(こ)ふ    明治二十五年壬辰九月七日  東京池之端仲町廿七番地                   寶丹本舗 守田治兵衛父                      守田長禄翁敬白(印) 【挿絵内】 筑摩川洪水難船の図