海外人物小傳 三 《割書:海外|治亂》繍像人物小傳巻之三    第三囬 紀元一千八百十三年我國の文化十一甲戌年彼 の十二月初一目諸國會議して那波列翁を誅せ んことを盟ひ則ち同盟諸國「フランキフヲルー」《割書:地|名》 に在て書を那波列翁に遣る那波列翁を披覽 すれとも悛むる心なし然れとも同盟諸國の兵 已に列應河を濟て來り迫り英吉利の兵將「ウェル リングトン」《割書:人|名》は北勒搦何山を踰へて「ガロン子」 《割書:地|名》の野に陣す那波列翁は是に至て「ファレンシア」 《割書:地|名》に幽囚せる是班牙王「ヘルヂナント」を赦して 和好を結び此を以て同盟諸國に和議を謀り軍 を退ることを請はゞ同盟諸國兵を退くべく那 波列翁が威力此時猶大國を保有して富貴を失 はざるに足る然るに那波列翁が策此に出ずし て一千八百四年我國の文化十二己亥年彼の 一月二十五日巴里斯府を去りて竟に自ら零落 を招くに至れり爾後少しく戰捷と虽へども録 するに足らず一千八百十四年二月初一日「ブリ ーン子」に於て又武略舎爾が為に破らる勢ひ已 是に至ると雖ども和を請けし猶敵を退くべし 然れとも彼猶己れか驍勇を特み一時の小利を 見て恢復を謀んと欲し自ら省ることを知らす 三月三十日同盟諸國勢を合して那波列翁が全 軍を破て盡く之を降し武略舎爾は「モントマル トレ」《割書:地|名》を取り俄羅斯帝孛漏生王及ひ同盟諸矦 の前軍皆進んて巴里斯に入て血戰し四月初一 日城兵和を請ひ門を開て降る敵兵巴里斯を取 とき那波列翁逃て「ホンタイ子フレアウ」《割書:地|名》に至 る四月二日同盟諸國及び佛蘭西民庶頭領皆會 議して那波列翁を廢し「ボウボン家の宗室を立 て再び佛蘭西王と為す《割書:羅德勿吉|十八世王》五月十一日那 波列翁をして大位を避しむるの表文を遣る那 波列翁之を准し位を避るの詔を書し自ら姓名 を署して之を還す是に由て「エルハ島を那波列 翁に與へて此に君とし臨ましむ二十八日「シン トラヘアウ」より舟に乗して「ヘルハ島に到る此 地は「フレイュス港の近傍にあり是より十五年前 那波列翁□日多より凱旋せしときフレイュス港 より上陸して佛蘭西に返る威勢烜赫たり人皆 望(のぞん)で驚歎(きょうたん)せり今は則(すなは)ち帝(てい)位(ゐ)を避(さけ)て孤島(ことう)に入に 復(また)此地(このち)を過(す)ぐ《割書:盛衰(せいすい)起伏(きふく)|サカリオトロヘカコリフス》の狀(さま)酸鼻(まさになかんと)すべし那(な)波(ぼ)列(れ) 翁(おん)「エルバ」島(とう)に在(あつ)て佛蘭西(ふらんす)の人民新政(まんみんしんせい)に服(ふく)せず 士庻(ししよ)及(およ)び有土(ゆうど)名族(めいぞく)皆(みな)那波列翁(なぼれおん)を懐(おも)ふ心深(こころふか)く且(かつ) 勿能の㑹盟(くわいめい)の後は諸國(しよこく)平(へい)治(ち)して武(ぶ)を偃(ふ)するの 告文(つげ)を得(え)て竊(ひそ)かに喜(よろこ)び又 恢復(くわいふく)を謀(はか)る志(こころざし)あり 千八百十五年 我國(わがくに)の文化(ぶんかは)十三 丙(ひのえ)子 彼(か)の二月 二十六日 僅(わづか)に一千百人を率(ひき)ひて「ブリッキ舩(ぶね)に《割書:駕(か)|ノリ》 し三月 初(つい)一(た)日(ち)佛蘭西(ふらんす)部内(ぶない)の地中海(ちちうかい)に面(めん)する港(みなと) 「フレイ|ス」の近傍(きんほう)「アン子ス」の地に《割書:上陸(しようりく)| アガリ》し急(きう)に内 地に進発す「グレンブレ」《割書:地|名》の途にして「ラベドイェ ーレ」《割書:人|名》が統帥せる一旅の兵馬に遇ふ初は那波 列翁を遮り伐ち已にして戈を倒にして之を援 く其晩「グレンブレ府に抵り十日「レイフン」に進 入る佛蘭西新帝羅德勿吉十八世王那波列翁が 報を聞き速に出奔す是を以て一礟彈をも費さ ずして二十日巴里斯を取る 勿能の㑹に臨みたる帝王公矦此事の急なる告 文を得て大に驚き新に令を発して兵馬を徴し 五月下院進で討征せんとす此時那波列翁が兵 卒次第に増多し六月十三日「サムブレ河を踰て ウェルリンクトン」《割書:人|名》武畧舍爾《割書:人|名》二大將か統帥せ る孛漏生英吉利涅垤爾蘭甸の陣を擊んとす十 六日「フレウリュス」「リク子イ」の二地にて兩軍血戰 す那波列翁が兵利あり此時其將「子エイ」《割書:人|名》左翼 の兵を率ひて「クヮトレフラス」《割書:地|名》に在て「フリュツスル」 《割書:地|名》の途を支へて健闘す孛漏生の兵は佛蘭西の 兵鋒を避て陣を退く英吉利涅垤爾蘭甸の軍も 同じく「ワイク子ル」林の側に卻き曠野に陣す初 め大將武畧舍爾二國に約し此地にて三國兵を 那波列翁 亜弗利加洲の 属島聖意勒納 に流竄の圖 英吉利 警固の兵士 合(あわ)し那波列翁(なぶれおん)が《割書:掩擊(えんけき)|サヘギリウツ》するを待(まつ)て之(すれ)をと討(うた)んと謀(はか) るを以(もつ)て今兵(いまひゆう)を退(しりぞ)くるなり那波列翁(なふれおん)は英國(えいこく)の 後(こ)隊(たい)「ブリュッスル」の道(みち)を支(さヽ)ふと謂(い)ひ必死(ひつし)の勢(せい)を率(ひき) ひて「ワートルロー」の髙処(たかきところ)に陣(ちん)する「ウェルリング トン」《割書:人|名》が勇悍(ゆうかん)の兵(へい)を擊(う)つ英吉利(えげれす)の餘隊(よたい)《割書:涅(ね)垤(で)爾(る)|オラン》 《割書:蘭(らん)|ダ》甸(でん)の兵(ひゆう)は當時(とうじ)の太子(たいし)微爾斂(ういるれむ)一 世王(せおう)自(みずか)ら將(しゆう)と して師(いくさ)に臨(のぞ)む日(ひ)已(すで)に昏(く)るくに及(およ)んで大將(たいしゆう)武略(ふりつ) 舍爾(でる)兵(へい)を反(かへ)して來(きた)り援(たす)け佛蘭西(ふらんす)の右翼(みぎぞろえ)を擊(う)つ 是(ここ)に於(おい)て戰(たヽか)ひ極(きわ)めて劇(はげ)しく而(しか)して《割書:涅(ね)垤(で)爾(る)蘭(らん)|オラ  タ》甸(でん) の太子(たいし)は必死(ひつし)となりて敵(てき)に中(あた)り驍勇(きゆうゆう)比(たぐ)ひなし 是に於て那波列翁が兵盡く敗れて巴里斯に向 つて潰れ走る二十一日那波列翁巴里斯に卻く 次の日民庻㑹合し大將「ソリクナック」も亦共に那 波列翁を諭して大位を其子に讓らしむ是に於 て那波列翁再び其位を去る然れども此策こと 成らず終に国祚を永ふすること能はず那波列 翁は「マルマイソン」《割書:地|名》に流落し「ロセフヲルト」に赴 き海に航して米里堅に到らんとす英國の巡哨 舩《割書:海上を縦横十文字|に自由に往来する舩》其去路を遮る七月十四日 英吉利の甲必丹《割書:宦|名》「マイトランド」に降る次の日 「ベルレロホン」と名づくる舩に徒して英吉利に 輸り聖意勒納島に流竄し「ロングウヲールド」《割書:意勒|納島》 《割書:内の|地名》に幽し英吉利の兵士嚴しく呵衛す然り共 一身康强にして病む所なし其後六年を經て一 千八百二十一年我國の文政五壬午年彼の五月 五日病で没す壽を享ること五十一歳是に於て 那波列翁が遺言に遵うて島内の溪に葬る其墓 の碣には一兵將に謚るべき剛勇等の字面を鐫 ると云 那波列翁没して二十年の後ち即ち一千八百四 十年我國の天保十二辛丒年に皇帝の礼を以て 佛蘭西本都巴里斯府に歸葬す初め佛蘭西の民 庻訛言して曰く那波列翁未だ意勒納島内に存 命して一千八百四十に丁つて再び兵を舉げ來 て佛蘭西に災異ありと人心之が為に洶々とし て安かうず那波列翁を慕ひ今王の政に心服す る者少し是に於て議政大臣㑹議して那波列翁 の霊柩を聖意勒納島より巴里斯に搬運し皇帝 の礼を用て厚く葬り以て民心を綏服せんと請 ふ乃ち使を英吉利に遣り歸葬を准すを請ひ王 子命を下して「ヨインフィルレ」《割書:地|名》の布綸帥《割書:宦|名》名は 「ロエイスフィリッペ」を以て「デヘルレホュレ」《割書:舩|名》の總督た らしめ帝の霊柩を海運して本國に返らしむ七 月七日「トウロン」《割書:地|名》を発し十月八日意勒納島に 到り十五日の夜葬宅を発掘す英吉利佛蘭西二 国の「コミサリス」《割書:監察|宦名》之に臨む黎明棺をひらく 其屍二十年を經といへとも少しも腐壊せず十 六日午後柩車溪内を發す一聲煩を打放して暗 號を為す既に舩に至れば日已に晩る携る所の 僧侶諷經して霊柩を守衛す