中山聘使略 全 中山聘使略 全 不許路上行販 天保壬辰新鋟 中山聘使畧 永齋藏板 其國薩州の南一千六百里福州の正東一千七百里あり北極出地二十六度二分三釐偏度 北極の中線を去り東に偏る事五十四度   牛女の野にあたる其 地の形ち角なき竜の流れたるがことし 因て流虬といふ東西の廣さ数十里 南北四百四十里中山の■こ首里より 南ハ喜屋武の海辺まで■里北ハ國 頭の海辺まで三百八十里 ○ 我正和中國分れて三と成 中山、山南、山北といふ我 永享年中又併  せて一統し 三省に 分つ 中山を中 頭省と△ △す首里泊那覇真和志南風原東風平 國王のみやこ する処を首里と云 湊を那覇と云大湊也 琉球属島全図(りうきうぞくとうぜんづ) 属島三十六あり遠近(ゑんきん)つら なりめぐる海上の里数南北 三千里東西六百里なり 諸島は察侍紀(ざしき)官を遣して 治しむ此を奉行といふ大平山 八重山大島は島大なるゆへ三 人/馬歯(ばし)は二人其外は各 一人也只/巴馬(はま)伊計(いけ)椅山(いへしま) 硫黄(いわう)の四島は尤小なれば 官(やくにん)をおかず土着(ゐつき)の 頭目(やくにん)官をして 治めしむ 帰仁(きしん)本部/大宜味(おほきみ) 国頭(くにきや)の諸府此 に属す 此二図伝信録の図を縮小す里数その外 も悉く伝信録に拠る 去る□後舜天浦漆の按司と□る雄偉度量父の□あり後遂に王となる□よ□ 以来ハ彼朝貢□との浪花兵庫等に来て京師不達ぜ□□えたり将軍 家譜義改宝徳三年七月りゅう琉球人来る九月琉球人献る所の鳥目丁十貫を 禁中に進らせ□と□康富記宝徳三年八月十三日の下に云或説日琉□舩商