【表紙】 【蔵書票(横書):地誌1・3】 【蔵書票(縦書):第 号|南島紀事 下|冊数 天冊|著者 後藤敬臣|出所 刊年明治十九年六月】 【題箋】南島紀事    下 【1コマ目に同じ】 【4コマ目に同じ】 【蔵書票:琉球大学附属図書館|1966.12.20|No.】 【表紙裏】 【右上に蔵書番号:雑三一五ノ三】 【中央に蔵書票:仲原善忠文庫 琉球大学 志喜屋記念図書館】 【左下に蔵書印:仲原蔵書】 【左上に請求記号:K092.9|G72|3】 【左丁】 【右上に蔵書印:侯爵伊達家蔵書】 【右下に蔵書印:炭屋文庫】 【右下に蔵書印:史談会印】 南島紀事下巻           周防  後藤敬臣編  尚円前紀下   豊王 賢王 質王 貞王 益王 元和七年《割書:明天啓|元年》世子天喜也末按司立つ之を尚 豊王と為す《割書:尚豊ハ尚元ノ第三子尚久ノ第四子童|名思五郎金ナリ曩ニ家久照顧ニ依リ立ツ》 《割書:所ノ嗣|王是也》是年秋毛鳳儀葬堅を明国に遣し方物を 貢し尚寧の訃を告け且冊封を請ひ及ひ十年一 貢の例を止め二年一貢の旧例に復せんことを 請ふ明国議して五年一貢を定め冊使を行ふの 後尚議せんと約す九年進貢使を明に発す是よ り先き久米村の総菅に野国と云うものあり嘗 て閩州に至り蕃薯の種を得て還る儀間親方真 常其種を乞ひ栽培の法を学ひ之を試むること 数年果して其利あることを知り遍く国民に諭 して栽植せしむ是より凶荒の年といへとも餓 死するものなきに至れり《割書:蕃薯ハ本呂宗島ノ産|ナリ島人其種ヲ外ニ》 《割書:出スヲ禁シタリシカ明国晋安ノ人陳振龍ト云|フ者貿易ヲ業トシ久シク呂宋ニ留ル振龍利ヲ》 《割書:土人ニ□ハシメ其種ヲ得テ還ル時ニ万暦廿二|年ナリ支那蕃薯ヲ植ル之ヲ始トス琉球之ヲ得》 《割書:テ後六七十年薩摩国山川邑ノ農利右エ門ト云|フモノ琉球ニ至リ教茎ヲ得テ皈リ其圃ニ試植》 《割書:ス是ヨリ遠近争ヒ求メ遂ニ国中ニ伝播ス寛永|二年利右エ門死ス郷人其墓ヲ称シテ唐薯殿(からいもとの)ト》 《割書:曰ヒ春秋祭|祝スト云フ》又儀間親方麻平衡家人を使船に附 し閩州に抵り製糖の法を学はしむ家人其法を 得て還る人々伝習し遂に国中に遍し寛永元年 薩藩の老臣藩主の令を伝へて曰今より後官秩 刑罰王宜しく自ら制すへしと三年四月家久東 覲の時琉球の楽童子を携え江戸に至り楽を奏 す前将軍秀忠将軍家光之を聴き童子に物を賜 ふ是より先き琉球賦税を薩摩に納るに年々負 欠あり島津氏之を免し租税簿を致さしむ五年 薩藩琉球在番の官廨を那覇に建つ六年家久手 書を尚豊に贈り其菅地の石高を八万三千零八 十六石と定む八年九月家久其臣伊地知心悦に 命し髪を蓄へ姓名を変し装扮して琉人となり 銀両を齎らし琉使に交へ明国福州に入り通商 を為さしむ《割書:後薩藩毎年本那ノ物品ヲ航清ノ琉|人ニ付シ福建ニ於テ出売シ彼ノ帛》 《割書:布ノ類ヲ買入シム該藩称|シテ之ヲ御糸荷ト云フ》九年六月明主朱由検 戸科左給事杜三策を冊使とし琉球に至り尚豊 を封して中山王とす十月尚豊王舅鶴齢等を明 に遣し冊封の恩を謝し且貢例旧に復せんこと を請ふ明主之を許す是より復た二年一貢の旧 に依る十年那覇波之上山権現堂失火神像烏有 に属す天願筑登之親雲上薩摩に往き更に権現 の像を請ひ再ひ之を安置す天願神道を薩摩藩 士佐藤某に学ひ秘法を得て帰り七社の祝部に 伝習す此より神道盛に行はる十一年家久南島 に係る租税簿を幕府に呈す其石高は十二万三 千七百石余なり蓋し薩藩所轄の五島及琉球諸 島をも合算せしものなり是歳尚豊佐敷王子を 以て慶賀使とし金武王子を以て謝恩使として 来聘せしめ将軍家光の継統を賀し尚豊襲封の 恩を謝す此時家光京師に在り拝賀を二条城に 受く八月家光手書を家久に授く其書に曰く薩 摩大隅并日向国諸県群都合六十万五千石此外 琉球国十二万三千七百石全く領知有る可しと 十二年薩藩の議を以て石高を改め九万零八百 八十四石余とし貢租額《割書:草高一石ニ付七|升三合六勺五才》を増す 十五年八月韃靼琉球を襲ふの説あるを以て島 津光久其臣伊藤祐昌平田宗弘猪俣則康等を琉 球に遣し其動静を窺はしむ《割書:是ヨリ先キ寛永十|三年韃靼国号を清》 《割書:ト改|ム》十七年《割書:明崇禎|十三年》五月尚豊薨す歳五十一尚豊 温厚にして学を好み有功を賞し不能を矜れみ 政教復た興る尚豊の時服制を改定し王子按司 諸官の等級を分つ 寛永十八年第三子思松金立つ之を尚賢王と為 す正保元年尚賢金武王子国頭王子をして江戸 に遣し将軍家光の世子生るゝを賀し併せて尚 賢龍封の恩を謝す島津光久両使を率ゐて至り 礼畢り日光に詣して還る是秋尚賢金應元等を 明国に遣し尚豊か訃を告け併せて冊封を請ふ 時に明国兵乱海賊横行す應元等福州に留りて 旋るを得す《割書:是歳韃靼兵燕京ヲ陥レ清主福臨|皇帝ノ位ニ即キ順治ト改元ス》二 年明の福王《割書:明皇族朱由崧福建ニ拠リ帝位ニ|即キ弘光ト改元ス是を福王トス》福 州の左衛指揮花□を遣し琉球を招諭す尚賢毛 太用等をして表を呈し往て即位を賀せしむ三 年福王清に擒はれ更に明皇族朱聿鍵帝位に即 き隆武を改元し指揮閩那基をして書を齎らし 来らしむ尚賢王舅毛泰久等をして上表して即 位を賀す是時清将貝勒伝託既に福建を陥る是 に於て毛泰久及金應元等時制を察し伝託を見 遂に相従ふて北京に入り国王投誠の意を表し 冊封を請ふ礼部奏言す前朝の勅印未た繳還せ す遽かに封を授くへからす請ふ通事謝必振を 遣し往て旨を諭さしめんと清王之に従ひ必振 を琉使に付して琉球に遣す是歳光久明国大に 乱ると聞き琉球明国と交通するの処分を幕府 に請ふ松平信綱阿部忠秋阿部重次連署して命 を伝へて曰く二国の交通する故の如くし其の 為に所に任せよと四年《割書:明永歴元年|清順治四年》九月尚賢王 薨す歳二十三子無し尚賢の時□火を各所に設 け貢船の帰るを報す是歳島津光久其臣伊地知 知重に命し兵を率ゐ往て八重山島を成らしむ 外寇に備ふるなり《割書:明年|罷む》 慶安元年尚豊の第四子思徳金立つ之を尚質王 と為す二年六月清主福州の軍門に命し琉人の 明に留まるもの照屋牧志等五人を送り回らし む《割書:明ニ留マルモノ六十一人其内賊害ニ逢フモノ|二十八人病没スルモノ二十三人脇通事ナル》 《割書:モノ五人猶彼ノ地ニ|アリ余詳カナラス》九月尚質具志川王子《割書:尚|亨》を 江戸に遣し襲封の恩を謝す亦日光に詣す是月 通事謝必振清主の勅書及賜物を齎らして琉球 に至る尚質之を受け梁翰をして護送せしむ初 め尚質其臣周国盛等を清国に遣し冊封を請ふ 途にして謝必振勅書を齎らし至るに会ふ是に 於て国盛梁翰と倶に北京に入る《割書:四年清主諭シ|テ前朝ノ勅印》 《割書:ヲ繳還|セシム》是歳明の皇族魯王舟山に在り人を琉球 に遣して好を修め且价して書を本邦に贈り兵 器を仮んことを請ふ尚質応せす三年尚質摂政 金武王子朝貞三司官大里良安宜野湾正成国頭 重仍大嶺象賢等に命し博古の旧僚を会し和文 を以て国史を編修せしむ題して中山世鑑と曰 ふ《割書:冊使除葆光琉球ニ至ル先ツ徴シテ此|書ヲ閲ス蓋シ其以前国史無キナリ》承応二 年九月尚質国頭王子を遣し将軍家綱の継統を 賀す島津光久琉球使臣を将ゐ江戸に造り礼成 るの後日光に詣し尋て国に還る是歳王舅馬宗 毅正儀大夫蔡柞階を清国に遣し方物を貢し福 臨か即位を賀し前明の勅印を繳還す三年夏尚 質使者を清国に遣し方物を貢し冊封を請ふ清 主尚質に蠎縀六、藍縀二、閃縀二、綿二、紬四、羅四、紗 四、を賜ふ明暦元年清主使者を琉球に遣すの聞 へあり薩摩国老議して曰く琉球は古来我か藩 の付庸たり今韃靼の為に其制度を改め其衣冠 を変せは帝に薩摩の恥辱のみならす大に我か 国体を失はんと人をして江戸に報す時に島津 光久藩邸に在り親ら閣老酒井忠勝に謀り又島 津久茂をして松平信綱に請はしむ閣老諭して 曰清国の使者琉球に来る敢て之を拒むに及は す他は領主薩摩の処分に任すと九月光久其臣 高崎能乗本多親武を琉球に遣し其旨を諭す二 年春尚質使を発し薩摩に請はしめて曰清主船 を艤し使臣を弊邑に遣さんとす或は其変なき を保ち難し請ふ大藩に頼て不慮に備へんと両 使既に発す別に警備を要ゐす是歳琉球銭を鋳 る初め明銭貨を用ゐ後自ら小銭を鋳る其制極 て軽少数百枚一貫して用を為す名けて鳩目(ハトメ)銭 といふ其数漸く減す是に至り復た鋳る《割書:中山伝|信録ニ》 《割書:曰平日皆寛永通宝ノ銭ヲ行ヒ臨時|之ニ易フ使還レハ則チ旧ニ復スト》万治三年首 里城四禄の災に罹る尚質移て大美殿に居る寛 文二年清主玄曄位に即き康煕と改元す翌年六 月兵科受惜喇庫吟番張学礼を正使とし行人司 行人王垓を副使とし琉球に遣し尚質を封して 琉球国中山王と為す《割書:此両使ハ承応三年ニ当リ|命ヲ受ケ巳ニ福建ニ到リ》 《割書:舟ヲ修造ス時ニ海気未タ靖マラサルヲ以|テ京ニ還リ命ヲ候チ此ニ至テ始テ至ル》其冊 文に曰く皇帝琉球国世子尚質に勅諭に爾か国 恩を慕ひ化に向ひ使を遣し入貢す世祖章皇帝 乃か誠を抒(モ)らすを嘉みし特に恩賚を頒ち兵科 副理官張学礼副使行人司行人王垓に命して勅 印を齎らし捧け爾を封して琉球国中山王と為 す乃ち海道未た通せす閩に滞る多年爾か使人 の物故を致す甚た多し学礼等制を奉し京に回 る日に及ひ又前情を将(モツ)て奏明せす該地方督撫 の諸臣亦奏請を行はす朕屢々旨して詰問する に迨ひ方さに此情を悉す朕念ふ爾か国心を傾 け貢を修む宜しく優䘏を加ふへし乃ち使臣及 地方各官逗留遅悞豈に朕か遠を柔んするの意 ならんや今巳に正副使督撫等の官を将て分別 処治せんとす特に恩賚を領ち仍ほ正使張学礼 副使王垓を遣し其をして自ら前罪を償はしむ 暫く現職に還し速に使人を送り国に帰し一応 の勅封事宣仍ほ世祖章皇帝の前旨を照して行 ふ朕爾か国末た朕か意を悉さゝらんことを恐 る故に再ひ勅諭を降し爾をして聞知せしむ爾 ち其れ益々厥の誠を殫し朕か命を替ること母 れ詔曰帝王徳を袛(ツヽ)み応に治上下に協ひ霊天地 に承くへし則ち薄海通道率ゐ俾(シタカ)ふて藩屏の臣 と為らさるなし朕愗めて鴻緒を纉(フ)き奄(オホ)ひに中 夏を有(タモ)つ声教の綏する所遐邇を間(ヘタテ)る無く炎方 荒略と雖とも亦遺すに忍ひす故に使を遣し招 来し仁風をして海澨に曁はしめんと欲す爾ち 琉球国号に南徼に在り乃ち世子尚質時に達し 勢を識り袛(ツヽシ)んて明倫を奉し則ち王舅馬宗毅等 をして方物を献し正朔を禀け誠を抒(■ラ)し表を進 め旧詔を勅印を繳上せしむ朕甚た之を嘉みす 故に特に正使兵科副理官張学礼副使行人司行 人王垓を遣し詔印を齎らし捧け往て封して琉 球国中山王と為す仍て錫(タマ)ふに文幣等の物を以 てす爾か国の官僚及爾か氓庶尚くは其れ乃の 王を輔け乃の侯度を飭のへ協へて乃の䀆を攄(ノ) へ乃の忠誠を守り慎て厥(ソノ)職を〆め以て休祉を 凝し来世に錦せよ故に茲に詔示し咸く聞知せ しむと仍て鍍金の銀印一顆を賜ふ其外皆前明 の故事の如し且令して曰二年一貢し進貢人員 一百五十人を過くへからす正副使二員従者十 五名を限り入京するを聴るすと島津光久冊使 の来るを聞き九月其臣桂忠保広瀬某を遣して 其状を視察せしむ十一月十四日冊使那覇を発 す十一月尚質王舅向国用等を清国に遣し冊封 の恩を謝す五年毛□承を以法司とす是歳諸間 切夫卒課役の制を定む歳十五より五十に至る を正丁とす盖し前例老幼強弱を問わす一概之 を課するの苛法を改むるなり六年法司向国用 罪有り謀せらる毛国棟続て其職に任す尚亨致 仕す向象賢続て国相と為る士族の子弟銀簪を 用ることを許す八年《割書:康煕|七年》十一月尚質薨す歳四 十一尚質為人恭倹克く祖業を守り唯善是れ務 む尚質の世国相尚亨向象賢等相尋て職に在り 尚質を翼賛し政教を敷き農務を起し国内太た 靖し 寛文九年世子思五郎金立つ之を尚貞王と為す 国相向象賢在職故の如し首里城災後正殿の工 事未た全く竣らす尚貞即位の礼を大美殿に行 ふ十一年宮殿始て落成す二月尚貞本城に移る 是歳尚貞金武王子を正使とし越来親方を副使 とし江戸に遣し襲封の恩を謝す十二年尚貞貢 使を清国に遣す其貢船洋中に賊船に遇ふ那覇 の人張沂といふもの在り船人に令して曰く生 を愉むことなかれと賊船砲を放ち来り侵す沂 屈せす船人を指揮し力を竭して防戦し朝より 晡時に至る賊克たさるを知り船を返す沂再ひ 来らんことを恐れ長刀を携へ船頭に立つ賊復 た銃を放つ丸沂か腰を洞つ船人扶けて艙内に 入る沂神色変せす問て曰賊船退きしや否やと 船人答へて曰去れりと沂喜ひて同僚に謂て曰 公事の為めに死を致す固に臣等の分なり吾遺 憾なしと細に後事を托して瞑目す是歳孔子の 廟を久米村に建て春秋二仲上丁の日を以釈尊 の礼を行う延宝元年琉球清国に進貢す明の遺 臣鄭経據りて台湾に在り経か兵卒琉船の台湾 海を過るを見て之を奪ひ人貨共に没す琉球之 を薩藩に訴ふ島津光久幕府に稟す後台湾の船 長崎に来る長崎奉行其船長を詰責して銀三百 貫目を出さしめ前日彼の兵士の掠奪せし罪を 償はしむ幕府其銀両を琉球に賜ふ九月尚貞薩 摩に由て恩を謝し方物を幕府に献す後奥州相 馬の漁船漂ふて台湾に到る鄭経厚く保護を加 へ人を副へて送還す幕府亦其厚諠を嘉し銀を 贈り且向きに奪う所の琉人を帰さんことを求 む四年明の遺臣靖南王耿精忠遊撃将軍陳應昌 を遣して琉球を□諭す尚貞応せす六年冬尚貞 耳目官陸承恩等を清国に遣し船一隻を増し貢 使の往来を便にせんことを請ふ清王之を許る す之を接貢船と称す盖し進貢の船隔年二隻を 発し福州に留ること二年次の貢船交換出入す るを例とす是に於て一隻を増し毎年船を替へ 役者を継き傍ら通商に便にすと云ふ天和二年 尚貞名護按司を正使とし恩納親方を副使とし て将軍綱吉の継統を賀す三年清主翰林院検討 汪楫を正使とし内閣中書舎人林麟焻を副使と して琉球に遣し尚貞を封して琉球国中山王と 為す清主自ら中山世土の四字を書して之を贈 る尚貞か請に応するなり是より正使は必す翰 林院より選出するを例とす元禄元年向煕を国 相とし毛国瑞を法司とす尚貞耳目官毛起龍等 をして清国に入貢せしめ貢船の定員を増し関 税を免さんことを請ふ清主許して五十人を加 へ二百人を以て定数とし接貢船貿易の税を免 す《割書:五事略曰康煕三十七年巡撫官張中挙一概ニ|蠲免セシカハ其国ノ人彼徳ニ感シテ今ニ至》 《割書:ル迄コレ|ヲ祀ルト》二年尚弘才向煕に代りて国相となる 四年尚巴志尚円の二霊を祀る是より先き舜天 英祖察度尚質の四王人民に功徳あるを以て礼 を備へて之を祀る此に至り二王を加ふ始めて 王族は尚姓を用ひ朝の字を以て偏名とす五年 六月尚貞孫尚益《割書:世子尚|純ノ子》を遣して薩摩に聘問す 尚益駐まること十余月にして還る六年馬廷駿 を法司とす七年十一月尚貞北谷按司等を薩摩 に遣し鋳銭を請ふ許さす薩摩令を下し寛永通 宝を清国に輸すを禁す十二年二月尚貞其統祖 尚円の父尚稷を追尊して王と称し円覚寺に配 祀す十四年尚貞東風平王子尚弘徳紫金大夫蔡 鐸等に命し漢字を以て中山世譜を修せしむ宝 永二年尚綱尚弘才に代りて国相となる三年十 二月世子卒す歳四十七《割書:世譜曰尚純世子ヲ以テ|卒ス未タ即位ニ及ハス》 《割書:止タ王考正統ノ重ヲ以テ追尊シテ王|ト称ス故ニ王統国中敢テ王ト称セス》五年耳目 官馬元勲正議大夫程順則を清に遣し方物を貢 す六年大風樹を抜き屋を倒すこと七次に及ふ 歳飢へて人民樹皮を食ひ餓死するもの甚多し 島津吉貴銀を贈り窮民を救助せしむ七月尚貞 薨す歳六十五尚貞天資温恭道を崇ひ礼を重ん し学を好み徳を養い文風大に興る 寛永七年《割書:清康煕四|十九年》故世子尚純の嫡を立て位に 即かしむ是を尚益王とす尚綱国相たること故 の如し去年十一月首里城火災に罹るを以て島 津吉貴材木一万九千五百本を贈る是秋尚益美 里王子を慶賀使として江戸に遣し将軍家宣の 継統を賀し豊見城王子を謝恩使として襲封の 恩を謝す正徳元年具志頭親方蔡温を以て世子 の師伝と為し近習職を兼しむ二年二月首里城 落成す尚祐を国相とし翁自道を法司とす七月 尚益薨す歳三十五清国の冊封を受けすして没 せり  尚円後紀上   敬王 穆王 温王 成王 灝王 育王 正徳三年《割書:清康煕五|十二年》世子位に即く是を尚敬王と 為す始めて法司の職を分ちて三とす其一を天 曹司と称し礼を司とり其一を地曹司と称し農 を司り其一を人曹司と称し元を司る之を三司 官と称す四年尚敬与那城王子を正使とし知念 親方を副使として将軍家継の継統を賀し金武 王子を正使とし勝連親方を副使として其襲封 の恩を謝す幕府島津吉貴に命し琉球開国以来 の沿革職制服制土宜物産等を勘査せしむ琉使 具録して之を呈す名護親方程順則使節員中に 在り屡々新井筑後守荻生惣右衛門等と会し 文事を討論し互に得る所ありと云《割書:順則ハ程朱ノ|学を講シ嘗》 《割書:テ清国に遊ヒ諸学士ノ為ニ重セラル順則六諭|行儀ヲ著ハスヤ清国学士取テ之ヲ梓ニ上ス伝》 《割書:ヘテ本邦ニ至ル将軍吉宗深ク之ヲ喜ヒ室直清|ニ命シ国字ヲ以テ訳述セシメ之ヲ民間に頒ツ》 《割書:ニ至|ル》享保元年毛応鳳を法司とす冬耳目官夏執 中正議大夫蔡温等を遣し清国に入貢し兼て襲 封を請ふ三年尚敬越来王子を正使とし西平親 方を副使として将軍吉宗の継統を賀す是歳久 米村聖廟の北に明倫堂を建て程順則に命して 聖論十六条の演義を刊刻せしむ又聖廟を首里 に建つ釈莫の式久米村に同し四年夏清主翰林 院検討海宝翰林院編修徐葆光に命し琉球に来 り尚敬を封して中山王と為す五年春王舅向龍 翼紫金大夫程順則等をして冊使を送り清国に 到り恩を謝す七年尚徹を国相とし向龍翼を法 司とす八年毛承詔を法司とす十年蔡温等に命 し中山世譜を改修せしむ十二年薩藩議して寛 永度の例に依り琉球石高盛増の事を令す人民 訴る所あり更に之に換ふるに掛増米草高台石 に付四合七勺弐才を以てして之を加徴せり十 三年蔡温を法司とす盖し異数なり《割書:温ハ久米村|人ナリ其本》 《割書:土固有ノ種族ニアラサルヲ以未嘗テ久米村人ヲ|用テ法司ト為サス唯温ニ至テ始テ登庸ス其人》 《割書:才知ル|ヘシ》師伝を兼ること故の如し十五年尚敬恩 納王子を薩摩に遣し島津継豊の婚礼成る《割書:故将|軍綱》 《割書:貴ノ養女|ヲ娶ル》を賀す十七年尚倹徳を法司とす尚敬 法司蔡温等に命し教条を作らしめ国中に頒布 す元文元年五月尚敬孟宗竹数竿を薩摩に贈る 藩主鹿児島礒の別第に栽う盖し嘗て琉使の福 建より齎らし帰り国王の園中に栽ゑ之を分て 贈るものなり《割書:本邦孟宗竹ヲ栽|ウルノ始トス》寛延元年尚敬具 志川王子を正使とし与那原親方を副使として 将軍家重の継統を賀す三年毛恭倹を法司とす 宝暦元年《割書:清乾隆|十六年》十月尚敬薨す歳五十二尚敬天 資英明徳を修め礼を重し精を励し政を勤め治 績大に挙り国民悦服す尚敬の時人才輩出す内 には程順則《割書:名護|親方》の忠節道徳を以て士民を薫陶 し政教を賛敷するあり外には蔡温《割書:末吉親方丈|若初具志頭》 《割書:ト称|ス》の慧悟豁達にして制度を改良し経済を講 し山川を経緯するあり啻に当時に功あるのみ ならす後世士人の模範たる此二人に若くはな し明良相遇の時といふへし 宝暦二年第二子立つ是を尚穆王と為す法司祭 温致仕す尚傑を以て法司とす秋尚穆今帰仁王 子を正使とし古波藏親方を副使として江戸に 遣し襲封の恩を謝す六年夏清主翰林院侍講全 魁仝編修周煌を正副使として琉球に至る尚穆 出て迎恩亭に迎ふ冊使乃ち尚穆を封して中山 王とす《割書:此行全魁請テ王|文治ヲ従客トス》国王送迎の礼此に始ま る明和元年尚穆読谷山王子を正使とし湧川親 方を副使とし将軍家治の継統を賀す七年馬国 器を法司とす《割書:沖縄志曰馬国器三司官ト為ル令|□□然君子ノ称アリ赫々ノ功ナ》 《割書:シトイヘトモ時人|愛敬シテ巳□スト》安永二年尚穆世子尚哲を遣 して薩摩に聘問し明年春に至り還る天明二年 向天廸を法司とす六年尚穆向天廸等に命し賞 例及ひ科律を編修せしめ国中に頒布す八年八 月世子尚哲没す《割書:追尊シテ王ト称スル|コト尚純ノ例ニ同シ》寛政二年 尚穆宜野湾王子を正使とし幸地親方を副使と し将軍家斉の継統を賀す六年《割書:乾隆五|十九年》四月尚穆 王薨す歳五十六尚穆為人温恭能く位に称なひ 忠孝を以て民を道き国内晏如たり 寛政七年故世子尚哲の第三子を立つ是を尚温 王と為す八年尚温大宜味王子を正使とし安村 親方を副使として江戸に遣し襲封の恩を謝す 十年尚周を国相とし馬文瑞毛国棟を法司とす 十一年四月尚温有司に諭して国学を建て並に 郷学を設けしむ明年国学奉行以下諸職員を置 く《割書:諭書温ノ自撰ニ係ル|文書□美今猶存セリ》十二年《割書:嘉慶|五年》清主翰林院 修撰趙文楷内閣中書李鼎元等を琉球に遣し尚 温を冊封す十二月那覇に来り翌年十一月福州 に還る享和元年国学始て成る《割書:首里城下聖廟|域内ニ在リ》又 郷校を三/平等(ヒラ)其外首里の各村に設け教導頗る 普し昨秋閩に到る所の貢船洋中賊に遇ふ銃槍 能く防御す今年免れて還る但回棹の時福建総 爺に請ひ哨船数十隻を以て護送せしめ以て恙 なきを得たり二年《割書:嘉慶|七年》七月尚温王薨す歳僅に 十九尚温資稟敦厚仁義道徳を重んし最も学を 好み能く文を属し傍ら書を善くす《割書:海邦□秀ノ|遍今猶掲テ》 《割書:首里中学|校ニ在リ》惜哉弱齢にして世に即く若し天假す に年を以てせ書文物の盛、古に尚ふるや亦知る へからさるなり 享和三年《割書:嘉慶|八年》世子思徳金を立て位に登らしむ 是を尚成王と為す王其歳十二月病て薨す年甫 めて四歳なり 即日諸臣議して尚哲の第四子思次良金を立て 統を承かしむ是を尚灝王と為す文化三年尚灝 襲封謝恩の為め読谷山王子を正使とし小禄親 方を副使として江戸に遣す五年《割書:嘉慶十|三年》清国使 者翰林院編修斉鯤工科給事中費錫章等琉球に 至り故世子尚成を封し故王尚温及尚成を諭祭 し尚灝を冊封す文政四年尚灝使を清国に遣し 清主の即位を賀し方物を貢す五年八月和蘭商 船琉球に至る八年歳登らす国民飢うるもの多 し十年四月英吉利商船至る歳大に飢う 文政十一年《割書:道光|八年》尚灝位を世子に譲る世子位に 即く是を尚育王とす天保三年尚育豊見城王子 沢岻親方等を江戸に遣し襲封の恩を謝す七月 英船復た来る五年《割書:道光十|四年》五月尚灝薨す歳四十 八性質純厚賢を親しみ耄を恤み農務の艱難を 察し民間の不給を助く歳屡しは飢うといへと も野に餓孚あることを免れたり八年《割書:道光十|七年》六 月英国の商船又来る九年尚育齢八旬以上に至 るものに物を給す是歳清主翰林院修撰林鴻年 同編修高人鑑を遣して尚育を冊封す十一年英 国船又来る十三年尚育浦添王子座喜味親方の 両使を江戸に遣し将軍家慶の継統を賀す弘化 元年三月仏郎西国商船琉球に来り互市を乞ふ 琉球は絶海の貧国物産の交易すへきもの無き を以て応せす仏人不得止教師一人清人一人を 留めて去る此二人は真和志間切天久村の聖現 寺に寓せしむ三年四月仏船復た来り更に一人 の教師を留め前きの一人と交代し清人と二人 を載せて去る是月英船復た来り通商を乞ふ亦 応せす英人医師伯徳令夫妻及其子男女各一人 清人一人を留めて去る五人を若狭町村護国寺 に置く後ち徳令か妻分娩女子を挙く七月仏船 又来り一名を留む四年毛恒徳を法司とす九月 尚育王薨す歳三十五尚育人と為り純厚儒を崇 ひ道を重んし能く先王の志を継くと云ふ  尚円後紀下   泰王 嘉永元年《割書:清道光二|十八年》第二子思次良金立つ是を尚 泰王と為す是年尚惇を国相とし毛増光章鴻勲を法 司とす六月在琉仏人一命病死す七月仏船来り 他の一名を乗せて去る三年尚泰玉川王子を正 使とし野村親方を副使とし江戸に遣し襲封の 恩を謝す四年始めて種痘の法を伝ふ渡嘉敷親 雲上を薩摩に遣し種痘の法を得て帰る尚泰医 員を選ひ之に伝習せしむ六年向統績を法司と す六月北亜米利加合衆国の水師提督たる彼理 と云もの巨艦に駕し来り互市を琉球に乞ふ初 め応せす談判数回の後遂に彼理は琉球国大臣 尚宏勲大夫馬良才との間に於て七項の条約を 結ふ時に安政元年六月十七日なり彼理那覇を 去りし時英人伯徳令か妻子四人清国人一名と を載て還る六月英船又来り其国人冒耳敦夫妻 及其男子を留めて去る又護国寺に処く是歳十 月十五日仏国の水師提督于爾杏来り合約章程 十一款を頒つ琉官の署名するものは馬良才尚 景保翁徳裕なり二年正月仏国の船又来り教師 三名清国人一名を聖現寺に留む後仏船来り請 ふて曰屋社を久米村松尾に営し居留人を処か んと琉球乃ち之を聴す其教師一名は乗せて去 る三年馬克承向汝礪を法司とす六年荷蘭国の 欽差全権加白良来り条約八款を定め六月七日 那覇に於て交換す是歳伊江王子朝忠《割書:尚健》を総 横目総奉行とす万延元年尚允譲を国相とす文 久二年向有恒《割書:宜野湾|親方》を法司とす八月仏船来り 前きに留めし所の人員を尽く乗せて去る初外 国船の琉球に来るや薩摩藩主島津斉興藩吏数 十名を遣し輪番那覇に駐在せしめ士族二名を 以て琉人に扮し応接毎に必す其座に参して情 実を探らしめ別に兵士を大島に発し以て非常 の変に備ふ幕府西洋各国と条約を結ふに及ひ 始めて戒厳を解く慶応二年《割書:清同治|五年》清主冊使翰 林院検討趙新及編修子光甲を遣し尚泰を封し て琉球国中山王と為す慶応三年将軍徳川慶喜 政権を奉還し 皇政古に復りしより百度維新 明治四年諸侯版籍返上の事あり七月十四日藩 を廃し県を置かる是に於て琉球始めて島津氏 の所轄を離れ鹿児島県の管下に属す五年正月 鹿児島県は其貫属奈良原幸五郎伊地知貞馨の 良名を琉球に遣し該地政事上時勢適当の改革 を為すへき旨を伝えしむ琉官乃ち其命を奉し 政革する所あり従前島津氏より琉球政府に貸 出したる負債金五万円は此改革に際し特に棄 □し該地士民救恤の資に充てしむ是より先き 昨年十一月琉球属島宮古島人六十余名台湾に 漂到し小田県の平民と前後残害せられたる事 に関し是歳七月廿八日鹿児島県参事大山綱良 は問罪出師の議を立て以て上書す其文大意曰 琉球国昔より本邦に服属し甚た恭順を尽す然 れとも其国遠く南海の中にあり其俗固陋を免 れす  皇朝一新の時に至り至其風花及ひ難 きを以て今春県下士族伊地知某等として諭す に  朝廷の意を以てし陋習を変革せしむ国 王亦能く其意を奉体し日に開化に赴く然るに 該属島宮古島人去冬台湾に漂流し舟中六十人 の中別紙報告の如く《割書:別紙此|ニ略ス》暴殺せらる残虐の 罪暫くも容すへからす因て今伊地知某に命し 上京して詳かに其事を奏問を伏して願くは綱 良  皇威に□り問罪の師を興し謹て軍艦を 借り直に彼か巣窟を指し其巨魁を殲し上みは    皇威を海外に張り下は島民の怨恨を慰 せんと欲す云く《割書:因ニ云先是井上大蔵大輔琉球|ノ版籍ヲ収ムルハ当務ノ急タ》 《割書:ル旨ヲ建議ス正院之ヲ左院ニ下問セラ|ル其答議数条アリ其文爰ニ略ス》九月 泰伊江王子を正使とし宜野湾親方を副使とし て 今上天皇の申請を東京に賀し奉る《割書:外務省琉球|接封ノ事ヲ》 《割書:官掌|ス》十四日 聖上使臣を内廷に召見す使臣等国王尚泰の上 表を奉す其文に曰く恭しく惟みるに 皇上登極依頼乾綱始めて張り庶政一新黎庶  皇恩に浴し歓欣鼓舞せさるなし尚泰南陬に在 りて伏して盛事を聞き懽扑の至りに勝へす今 正使《割書:尚健》副使《割書:尚有恒》賛議官《割書:向維新》を遣し謹て 朝賀の礼を修め且方物を貢す伏して奏問を請 ふ《割書:壬申七月|十九日》琉球尚泰謹奏と又 皇后宮に上る其文に 皇后位を中宮に正し徳 至尊に配し天下の母 儀となり四海日に文明の域に進み黎庶生を楽 み業に安んす尚泰海陬に在て伏して盛事を聞 き懽扑の至りに勝へす今正使《割書:尚健》副使《割書:尚有恒》 賛議官《割書:向維新》遣し謹んて慶賀の礼を修め且 方物を貢す伏して奏問を請ふ《割書:月日署|名同上》其貢物は 唐筆《割書:三|箱》唐墨《割書:一|箱》唐硯《割書:二|方》唐画手巻《割書:二巻一ハ劉松|年一ハ趙中□》紺 地縞細上布《割書:十|端》紺縞細上布《割書:十|端》白大綸子《割書:五|本》縮緬《割書:十|巻》 《割書:紅|白》金入龍文純子《割書:一|本》青貝料紙硯箱《割書:一|匣》焼酒《割書:十壺(以|上聖上》 《割書:へ)| 》紺地縞細上布《割書:五|端》紺縞細上布《割書:五|端》白大綸子《割書:五|本》紗 綾《割書:十巻|紅白》縮緬《割書:十巻|紅白》金入龍文純子《割書:一|本》金入龍文紗《割書:一|本》 焼酒《割書:五壺(以上|皇后宮へ)》此時 勅語あり琉球の薩摩に付庸たる年久し今維新 の際に会し上表且方物を献す忠誠無二 朕之を嘉納すと使臣等も各自物を献す伊江王 子は紺地縞細上布以下五品宜野湾親方も亦同 し喜屋武親雲上は四品を以てす 勅語あり汝等入朝し能く汝の主の意を奉して 失ふなし自ら方物を献す深く嘉納すと詔して 尚泰を封して藩王と為し華族に列す其文に曰 朕上天の景命に膺り万世一系の帝柞を紹き奄 に四海を有ち八荒に君臨す今琉球近く南服に 在り気類相同しく言文殊なるなく薩摩付庸の 藩たり而して爾尚泰能く勤誠を致す宜しく顕 爵を予ふへし昇して琉球藩主と為し叙して華 族に列す諮爾尚泰其れ藩屏の任を重し衆庶の 上に立ち切に 朕か意を体して永く 皇室に輔たれ欽よ哉と外務卿奉して之を宣読 し正使尚健に授く健拝受し使臣磬折謹拝して 尚泰に代り詔命の恩を謝す上書曰臣健等謹て 白す臣等寡君の命を奉し 天朝に入貢す今寡君を封して藩王とし且華族 に班せしむ 聖恩思渥恐感の至に堪へす健等代りて詔命の 辱きを拝す(明治五年壬申九月十四日正使尚健 副使向有恒賛議官向維新)次に賜賚あり大和錦 《割書:五|巻》遊猟銃《割書:三|挺》鞍鎧《割書:一具以上|尚泰へ》大和錦《割書:五|巻》七宝焼大花 瓶《割書:一|双》新製紙敷物《割書:三枚(以上尚|泰夫人へ)》又 皇后宮より賜ものあり金地織天鵞絨《割書:五|巻》博多織 《割書:三|巻》西洋敷物《割書:三巻(以上|尚泰へ)》天鵞絨《割書:五|巻》西洋敷物《割書:三巻(以|上尚泰》 《割書:夫人|へ)》使臣等之を拝す他の隋員に至るまて物を 賜ふこと各差あり十八日三使臣 皇太后宮皇后宮に謁す物を献し物を賜ふ各差 あり此日吹上御苑瀧見の茶亭に於て歌会を設 けられ三使臣を徴して此に列せらる 聖上及皇后宮御製宸筆を使臣に賜ふ使臣も亦 詠進す《割書:宜野湾朝保カ幸逢太平代ノ制二応シテ|古の人はまさりてうれしきと此大御代》 《割書:に逢へるなりけり其他|詠スル所ノ歌尚ホ多シ》二十日琉球藩内融通の 為め通用金銀貨及紙幣取交せ三万円を下賜せ らる廿二日天長節に当り在京琉使も奏任官の 格を以参朝を許さる《割書:使臣滞留中日記ニ依レハ|三使共下賜ノ冠服着用参》 《割書:朝殊典ヲ以華族ノ序|ニ被列云々トアリ》二十八日嘗て琉球米仏蘭 三国と各取結ひたる条約並に交際の事務等都 て外務省に於て管理する旨を達せらる《割書:琉球此|回ノ冊》 《割書:封等ニ付テハ西洋各国公使ヘモ外務卿ヨリ通|牒セリ是ニ於テ米国「シーイーデロング」ヨリ外》 《割書:務卿ヘ問合ノ略ニ曰琉球ハ日本帝国ノ一部分|ト相成候就テハ先年取結ヒタル諸条目を貴政》 《割書:府ニテ維持セラルヽヤ云々ト外務卿之ニ答ヘ|テ曰同藩ハ数百年前ヨリ我国ノ付属ニ有之此》 《割書:度改テ内藩ニ定ムルマテニテ申越サレタル如|ク我帝国ノ一部分ナリ故ニ貴国ト琉球トノ間》 《割書:ニ取極メタル規約ノ趣ハ当政府ニ|テ維持スルハ勿論ノ儀ナリ云々》二十九日尚 泰を以て准一等官とし東京府下飯田町に邸宅 一区を賜ふ十月二日使臣東京を発し藩に還る 十月十三日外務省六等出仕伊地知貞馨琉球藩 在勤を命せられ戸籍寮七等出仕根本茂樹貞馨 と同行出張の命あり且藩政上に就き委任せら るゝ件あり尋て両人東京を発し鹿児島に至り 先つ該地滞在の藩吏に達して曰従来鹿児島へ 在勤せしめたる琉球藩吏は自今引拂はせ在来 の琉球館取締等の為め小吏数名を置くは其便 宜に任すへしと又令して曰年々鹿児島へ納め 来りし貢米及砂糖は以来都て其藩役々にて取 立直に大蔵省租税寮へ上納すへしと是より先 き琉球使臣は帰藩の途次鹿児島に在ること数 月年を踰へて藩に還る伊地知貞馨根本茂樹等 も亦船を同ふして往く時に六年三月三日なり 四月国旗大小七流を琉球藩に付与し久米宮古 石垣入表与那覇五島の廰に掲示すへき旨を令 したり又改定律令二部を下付し右に基き施行 せしめ特に死以上の刑は司法省に稟請施行す へき旨を令せり《割書:二件共ニ夫々|請書ヲ呈ス》是月琉球藩を鹿 児島県の次に列す十七日摂政三司官等政府の 旨を奉し表を呈して曰形勢一変開明の今日に 臨み各刮目の在るなり百事煩を去り簡に就き 朝旨導奉闔藩の庶民を教育すへしとの高諭謹 領深く朝旨奉戴永年違反せさるへしと伊江王 子を以て摂政と為す二十五日尚泰の謝恩書至 る其文に曰く謹て白す尚泰向に正使尚健副使 向有恒賛議官向維新を遣し入貢す不図も藩王 華族並に一等官の顕爵を賜ふ 天恩至渥恐感の至りに勝へす爰に表疏を具し 謹て謝恩の礼を修む伏して奏聞を請ふ明治六 年三月廿八日琉球藩王尚泰謹奏すと又別箋に 曰く謹て白す尚泰向に正使尚健副使向有恒賛 議官向維新を遣し入貢す不図も数種の重品大 金及ひ東京府下へ邸宅等下し賜り寡妾へも珍 品を下され尚健等も 天顔を拝し陪従の者に至り寵恩を蒙るの由奉 承し 天恩至渥恐縮の至りに勝へす爰に表疏を具し 謝恩の礼を修む伏して奏聞を請ふと《割書:月日署|名同上》又 皇后宮に上る其書に曰く謹て白す尚泰向に正 使尚健副使向有恒賛議官向維新を遣し 皇后へ献貢す辱くも尚泰及ひ寡妾へ数種の重 品を下し賜は且り尚健等も 聖顔を拝し 寵恩を蒙るの由委曲奉承し恐縮 の至りに勝へす爰に表疏を具し謹て謝恩の礼 を修む伏して奏聞を請ふと《割書:月日署|名同上》五月尚泰藩 東与那原親方及ひ属吏五人従者三十人を具し 来りて東京□藩邸に在勤せしむ八月琉球藩の 印《割書:銅|□》一顆を下付す十二月琉球藩の申請を酌量 し貢納の内賦米並に代糖納の項を廃し自今米 八千二百石を常額とし毎年十月十五日より十 二月十五日迄大阪市中平均相場を取り石代を 以て上納すへき旨を指令せり七年一月令して 日摂政三司官任免の儀は自今人選の上具状を 待ち宣下あるへし又両官は奏任官に準し摂政 は四等官三司官は六等官に準すへしと五月十 九日台湾蕃地処分の儀に付六十五号を以て院 省使府県へ達せられて曰明治四年十一月琉球 蕃人民台湾蕃地へ漂到し土人の為めに刧殺せ らるゝ者五十四名同六年三月小田県人民四名 漂到し又兇暴の所為に罹りし事共有之去歳全 権大使清国に於て一件談判に及へり抑々台湾 島の儀我国に接近し往々漂流する者あり殊に 方今我か航海の道漸く盛なるの際向後我か人 民彼地方へ航するものあらん然るに前件の如 き所為屡々有之に於ては甚以て憂慮に堪へす 依て今四陸軍中将西郷従道を都督に任せられ 該地に発向の上曩きに我人民を暴害せし罪を 問ひ相当の処分をなし且は後来我か人民航海 の安寧を保護せんか為め屹然取締の道相立へ き朝意なり云々と乃ち西郷中将は会陸軍若干 の隊兵を督し軍艦数隻を以て蕃地に進軍あり 数合戦伐の末賊巣を衝き島首を伏し平定の功 を奏して凱旋せり政府は七月十七日を以て琉 球藩に達して曰本年第六十五号達の如く陸軍 中将西郷従道を以て都督に任せられ台湾蕃地 処分仰出され都督渡蕃の後勦撫其所を得漸次 軍門に降伏し即今殆んと平定に及ひ曩に其蕃 人民を劫殺せし兇徒は専ら捜索中なり尚都督 兵を率ゐ在蕃すへし若し横死の親族共彼地に 就き遺骸を祭り度志願の者あらは聚掛念なく 渡蕃せしむへし航海船便の如きは長崎出張蕃 地事務局へ申立つへしと又九月廿八日院省使 府県に達せられて曰本年五月六十五号を以て 達したる台湾蕃地問罪の件五月廿二日都督西 郷従道蕃地へ到着其数日前参軍既に入蕃水陸 巡察の間卒然蕃人より発砲狙撃す故に再度進 撃し之を破り十八社の首長相踵て降伏し全蕃 殆んと平定す尋て向来防制の方法相設くへき 順序に立到りたる折柄清国政府意義を主張す るに依り同国駐箚特命全権公使柳原前光をし て同国政府へ照会せしめ往復弁論を重ね尚ほ 得旨を以て参議大久保利通を全権弁理大臣に 任じ同国へ差遣はされ談判上固平穏を期し交 和を保全するの朝旨なれとも将来の都合に因 り事止むを得さるに出る時は臨機の変に応す るの設備あるへし向後彼の国派遣の我全権使 臣等より談判の結局に因り更に何分の仰出さ れあるへし云々と尋て十一月十七日を以て台 湾蕃地処分の件清国政府と左の如く訂約整ひ たる旨布告あり其互換条款曰条款を会議し互 に弁法の文據を立んに各国人民応さに保護し て害を受るを致さゝるへき所あれは応さに各 国に由り自ら法を設け保全を行ふへし何国に 在て事有るの如きは応に何国に由り自ら査弁 を行ふへし茲に台湾生蕃曽て日本国の属民等 を将(モツ)て安に害を加ふることを為すを以て日本国 の本意は該蕃を是れ問ふか為め遂に兵を遣り 彼に行き該生蕃等に向ひ詰責をなせり今清国 と兵を退き並ふ後を善くする弁法を議明し三 条を後に開列す其一は日本国此次弁する所は 原と民を保つ義挙の為めに見を起す清国指て 以て不是と為さす其二は前次有る所の害に遭 ふ難民の家は清国定て撫卹銀両を給すへし日 本有る所の該処に在て道を修め房を建る等件 は清国留めて自ら用ゐるを願ひ先つ籌補を議 定するを行ひ銀両は別に議弁するの據あり其 三は有る所の此の事につき両国一切来往の公 文は彼此撤回して註鎖し永く為めに論を罷む 該処の生蕃に至ては清国自ら宣く法を設け妥 く約束を為すへし以て永く航客を保し再ひ兇 害を受しむる能はさるを期す《割書:明治七年十月日|同治十三年九月日》 其互換憑単曰憑単を会議する為めの事台蕃の 一事現在今業に英国威大臣両国と同(トモ)に議明し 並に本日弁法文據を立るを経たり日本国従前 害を被むる難民の家清国先撫卹銀十万/両(テール)を す又日本兵を退くや台地に在て有る所の道を 修め房を建る等件清国留て自ら用る事を願ひ 費銀四十万/両(テール)を給す亦議定を経て《割書:日本|清》国《割書:「全ク|退兵》 《割書:ヲ行フヲ「全数|付給スルヿ【コト】ヲ」》准す均く期を愆つを得す日本国 兵未た全数退き尽すを経さるの時は清国銀両 も亦全数付給せす此を立て據と為し彼此各一 紙を執て存照す《割書:明治七年十月|同治十三年九月》両軍は大日本 欽差全権大使柳原署名加押し大日本全権弁理 大臣参議兼内務卿大久保大清欽命総理各国事 務和碩恭親王軍機大臣大学士管理工部事務文 等十人と互換する所のものなり是より先き七 月十三日琉球藩を以て内務省の管理に属せら る《割書:従前外務|省管理》十月十六日蕃地よりは牡丹社首長 か差出したる琉球人髑髏四十四頭高砂丸に託 し長崎に送致せり是に於て内務卿は在鹿児島 該蕃役員へ達し琉球表に回送せしめられたれ は該地摂政伊江王子三司官宜野湾親方等連署 を以て内務卿に謝礼状を呈して曰く台湾に於 て暴殺に遭ひたる琉球人髑髏在鹿児島役員を 経て当藩へ下付せられ至仁の程各親族等拝聞 深く感佩云々と又前きに上京せし使臣尚健等 懇請して曰毎歳新正 天長節等鹿児島県庁に由て慶賀の礼を修むる ことを得せしめられたれとも書翰のみにては 誠を表するに足らす願くは土産の軽品たも献 上することを許され給まはんことを是れ藩主 の□裏なりと外務省は即ち許可するの指令を 下せり又是年十月琉球藩の負債二十万円は政 府に於て員担せんことを諭す藩吏は一旦其旨 を拝し更に東京に於て借り替へ其弁償は猶藩 の引受とし政府の保証を得は却て便宜なる旨 を申す政府之を聴し即ち大蔵省に於て保証を 興へらる本年征蕃の挙たる畢竟琉球難民の為 め保護上止を得さる義務に出て巨万の軍費を 糜し処分せられたるものなれは該藩王始め 朝旨拝載速に上京謝意の礼を修むるは当然の 事なり然るを従来清国との関係あるに泥み知 てしらさるの姿に因循せり此際藩王の上京を 命せられ諸般の教諭をもあらせられ度場合な れとも固□因習急速の運に至るましく因て先 つ時世に通達せし重役両三名召し寄せられ征 蕃の顛末より清国談判の委曲方今宇内の形勢 名分条理のある所等懇篤諭示し其者等帰藩の 上藩王に伝示し藩王自ら奮て上京謝意の都合 に至らしむるに若かすと廟議の末三司官一名 及与那原親方等明年一月上京すへき旨該藩へ 達せられたり八月二月右達に依り三司官池城 親方及ひ与那原親方鎖の側幸地親雲上等上京 せり是に於て内務省は今日の適度を考え着手 の科目五条を以て懇篤説諭す其目に曰従前の 職制可成体裁を改め先つ急務の件々に着手し 結局府県一致の制度に復すへし其目途左に掲 く其一は藩王謝意として上京 天機を伺はしめ爾後朝覲の規則を治定すへし 其二は管内一般に明治の年号を奉し年中の儀 礼等布告通り遵奉せしむへし其三は刑法は司 法省の定律通り施行致さすへし依て刑律取調 の為め担人の者両三輩出京せしむへし其四は 藩治職制適宜改正の節内地より人選を以て官 員赴任せしむへし其五は学事修行時勢通達の 為め少壮の輩十余名出京致さすへし云々尋て 三月三十一日琉官池城与那原幸地三名を呼出 し大久保内務卿説諭せられて曰く今般征蕃の 原由は明治四年其藩管内の島民六十余名台湾 島へ漂流土蕃の為めに殺害せられ其残暴を極 めたる始末 聞食され人民保護上捨置き難く 政府の義務たるを以て遂に談判の為め公使を 清国に差し巨万の国費を出し問罪の師を出さ るゝに及ひ幾多の将士身を瘴烟癘霧の中に投 し尸を絶域に暴せしもの鮮なからに其際に当 り清国政府意義を生しけれは更に弁理大臣を 発せられ弁論の末幸にして和議に決し征蕃の 事清国も亦認めて義挙となし将来蕃民を化育 し航客の安寧を護すへしとの旨を盟ひ彼国よ り撫卹銀両を差出たる都合に到れり此間 聖上深く叡慮を悩まされ政府大臣諸公の苦心 如何はかりならんか是れ偏に其藩管内人民の 為めに起りたる一事なり斯くまて其藩の為め に尽され斯る好結果を得たる事は藩王及ひ各 員は如何心得られしかと問はれしかとも琉官 は唯其厚恩を謝するのみにて到底即答に苦し み退て評議し尚伺ひ奉るへしと答ふ又諭して 曰開国の機運に際会し旧弊一掃万機 親裁の 世となり欧米及ひ清国とも条約を結ひ彼此公 使を派遣し互に在留交際し大に昔日の面目を 改め百事宇内の公法に基き四海一家の如く人 民を相護し相侵さゝるの同盟を為す是れ今日 の世態なり柳琉球は従来我か薩摩の付庸たり 然るを世人或は所属未定の如く皮相するもの あるか為か外人は亜細亜航海の便路を開と称 し該地に拠り修航場とせんと企図するものも ある由なれは予め公法に照し我か保護上の任 を尽すに足るへき備なけれは其時に臨み其藩 より何程の訴を起すも遽かに之を治むるの術 なかるへし旁深遠の廟議に出て其藩保護の為 め鎮台支営を那覇港上に建設せらるゝの内議 なり且其藩民曩に台湾に漂到し禍害を受け非 常の事変を醸し及一昨年七月漂航洋中困難の 際米船扶助して清国に到り我領事に交付し近 くは昨年五月には定海に漂着し又七月には五 島玉の浦肥前蠣ケ浦へ漂着し其他近日其藩近 海に於て五六隻の難破に遭い貴重の人畜産物 を海底に沈没せしむるも皆是堅牢の船無きか 致す所す所なれは 上にも深く憫然に 思食され蒸気船一隻下賜 せられ彼の受害難民の家には撫卹米をも賜興 せらるへけれは 朝旨の程厚く心得あるへし尚ほ他に内達の件 あれとも後日に付すへしとあり□□は琉官は 篤と評議の上伺奉へしとて退散せり四月八日 琉官三名内務省に出頭し内務卿に面謁し前日 の内諭に封し奉答して曰琉球の国たる南海に 僻在し僅かに周廻百余里の小島にて従来寸兵 を備えす専ら礼儀を以て維持の道を立て外国 船来航の節も偏へに言辞の応接のみにて今日 まて無異に治り来りし事なれは今新に兵営を 設けられは随て外国も強迫し却て困難を生せ ん蒸気船下賜の事誠に恩恵の厚き謝する所を 知らす但近年来他の事項に封し巳に至渥の愛 顧を賜り官費の夥しき小国実に報ゆるに道な し撫卹米恩賜の件藩王も亦既に扶助の施行を 了したり因て三件共し辞奉り万旧に依り閣れ たしと演説して書面を呈せり因て又諭して曰 今や郡県の制となり全国画一の政を敷かれた るに琉球に限り今猶藩に列せられしは畢竟特 殊の訳なり世上の沿革は機運の然らしむる所 時に応じて措置を為さすんはなるへからず因 て其藩の儀も名分条理に関し差置き難き事の み改正を行はるゝなり支営設置の事も多少の 手数に渉れとも公法上閣き難く遠大の廟議に 出て着手せらるゝ所なり蒸気船下賜の事撫卹 米恩賜の事共 朝旨を蔑如し筋なき故障申立 るは甚た不都合といふへし云々説諭あり猶十 八日二十八日五月二日同三日と反覆説諭の末 爰に二項を限り命を奉すへき旨申し出たり曰 新年起源説 天長節等の祝賀布告通遵奉すへ し刑律取調として担任の者両三名且学業及ひ 形勢熟知の為め少壮の者十名許人選を以て上 京せしむへしと是に於て五月七日琉球藩へ其 藩保護の為め第六軍管熊本鎮台分営被置云々 又先年台湾島へ漂流惨毒に罹りたる難民六十 六名の内殺害に遭ひたるもの五十余名の家へ 一家毎に三十石生還を得たるもの拾二名へ一 家毎に十石合せて千七百四十石を賜はる云々 又其藩堅牢の船無の往々風浪の難に遭ひ物産 等沈没せしめ憫然の至りに依り人民保護の為 め特別の訳を以て蒸気船一艘下賜せらるゝに 依り将来航海の道に熟達し海路災難を免るゝ 様注意すへし云々相達せられたれは在京藩吏 は一応の書面を以て藩王に相達すへしと申出 後撫卹米の事賜船の事共藩王の意を以て三司 官より恩賜拝謝の旨を表したり是に於て政府 は琉球処分に就き廟議を立られ官員を派し直 に藩王に諭さしむる所あらんおす盖し琉球の 国たる地勢人種風俗言語現状は勿論之を古史 に徴するも我か版国たること論を待たす中古 国主自ら民の冊封を請ひ継て清国に通するも 常時政権武門に帰し兵馬草々の際遐方綏撫す るに遑あらす措て問はさる此に五百年今や 皇政維新百事改良の今日に至り曖昧の姿を存 するか如きは本庁の国体に於て最も等閑に付 すへからずと漸次改良の廟議に出て明治五年 国主を藩王に封するの際会ま征蕃の事起りし か談判の末清国も亦我か政府の義挙と視認め 若干の銀両を我に償うに至れり然は即世人の 所謂両属なるものは業に巳に其実なきに帰し たり今にして名分条理を正さゝれは何れの時 か国権を恢復せんと今回三司官以下枢機の官 吏を召し内務卿をして庿謨の在る所を説諭せ しめられたるに藩吏頑固陳情百出悉く命を奉 するに至らす依て此に一議あり五月十三日内 務大丞松田道之に琉球藩差遣の命を下された り松田大丞は廟議の在る所を領し六月十二日 副官内務省六等出仕伊地知貞馨随行官中田鴎 隣種子島時恕河原田盛美等と大有号《割書:今般下賜|ノ蒸気船》 に搭し横浜を発し七月十日琉球那覇港に着し 十四日首里城に入り藩王代聴人今帰仁王子及 ひ摂政伊江王子三司官浦添親方池城親方富川 親方等を召し琉球藩への達書を宣旨せり又四 条の命令を伝へて曰藩内一般明治の年号を奉 し年中の儀礼等総て布告の通遵奉すへし刑法 定律の通施行すへし因て取調の為め担当の者 両三名上京せしむへし藩政改革左の通施行す へし学事修行時情通知の為め人選の上少壮の 者十名許上京せしむへしと其職制は藩王を一 等官に置き勅任官とす大参事権大参事各一員 少参事権少参事各二員を置き其参事は四等官 より順次七等官に列し各奏任とす大属権大属 中属権中属少属権少属史生藩掌を置き其属以 下は八等官より十五等官に列し判任とす等外 吏を置き一等より四頭とす而して其俸給は都 て藩費を以て適宜給与すへしと定めらる松田 大丞は更に今回令達の主意廟議の在る所琉球 の古来我か版国たるの證徴より時勢の沿革万 国の公法に及ひ名分条理の以て匡正せさるへ からさるの所以反覆丁寧に演説したり十七日 伊江王子浦添親方池城親方富川親方等松田大 丞の旅館に来り藩王気弱胸塞種々の病あり今 遽かに起て上京する能はす依て暫く延期を乞 ひ取敢へす謝恩の為め今帰仁王子を名代とし て上京差許されたき旨口上手控を以て請求せ り松田大丞は之を聴し其発途の期限及ひ今回 達書の請書を督促す廿六日学事修行時情通知 の為め上京人員《割書:六|名》刑法定律取調の為め上京人 員《割書:二|名》人選の上申出たれとも中に三十以上の者 もあり適当ならさるを以て改選を命したれは 更に知花安村松島知念津波古大里の六命を以 て学事修行のものとし祝嶺比屋根を以て刑法 取調のものとし差出したり大丞は事情を酌み 之を聴す九月十一日松田大丞一行は池城親方 随行与那原幸地両親方喜屋武内間親里の三親 雲上等と同船那覇を発し廿五日帰京同廿七日 顛末を具し復命あり十一月十八日藩王名代今 帰仁王子《割書:尚弼| 》随行小禄親方《割書:馬周|詢》及刑法取調の 者学事修行の者等同船上京せり今帰仁王子は 廿二日を以て拝謁を許され藩王よりの謝表を 呈し藩王及ひ今帰仁王子より 聖上及ひ両皇后宮に土宜崇品を奉献す待遇向 は壬申年伊江王子等上京の時の儀注を酌量し て取計はれたり是より先き十月十五日旧例据 置の一条歎願の為め上京せし池城親方外五名 より歎願書を差出したるに因り十一月十七日 を以て指令せられて曰歎願の趣は前日松田大 丞其藩へ出張の上具さに  朝旨を伝宣し丁 寧説諭を加へ猶疑問の件々に封し反覆弁解に 及ひたる如くなれは今般書面を以て縷々申立 つといへとも渾て聴許すへからす去る九月九 日其藩王より松田大丞へ贈りたる證書の旨趣 を践み廟議確定の条々当地に於て速に遵奉す へしと其後猶歎願書を呈せしこと数回に及ひ けるか一切聴許せられさりけりその翌九年五 月十日其藩官員の内昨年上京せし一行の向早 々帰藩すへしと達せられたり尋て藩王へ達せ らるへき旨あり該藩内務省出張所在勤を命せ られたる内務少丞木梨精一郎を以て其旨を藩 王へ達せしむ同月十七日警察事務及裁判事務 等内務省出張所に付せられ裁判区域は大阪上 等裁判所分轄内に属せられたり又外務省より 琉球藩管下の者商用或は事故あり清国其外へ 航海せんとする時は巳己年四月中の布告に基 き普通の免状渡すへきに依り航海の時々免状 願受け必す携帯すへき旨予め達置れたく乃ち 免状廻送云々《割書:十一年四月海外|旅券ト交換ス》内務省へ照会あ り因て航海の者は内務省出張所へ願出へき旨 同省より琉球藩及ひ出張所へ達せられたり十 一年十二月廿七日を以て松田大書記官《割書:道|之》をし て再ひ琉球に出張せしむるの命あり盖し同氏 既に帰京復命する所あり然るに彼れ約に背き 尚ほ歎願と称し命を奉せさるのみならず裁判 権を侵して藩民を死刑に処し或は藩吏等屢隠 匿の所為等あり国権上不問に措き難き場合に 至り遂に復た此命を下されたり同日東京琉球 藩邸の在番廃止の命あり松田大書記官は随行 官荒木章蔵及ひ帰藩を命せられたる三司官富 川与那原等と共に十二年一月八日を以て東京 を発し海路十七日を経て二十五日琉球に達し 廿六日首里城に入り藩王《割書:病猶|未癒》代人今帰仁王子 を召し政府の督責書《割書:八年五月廿九日達ニ封シ|遵奉書ヲ呈セサルヲ督シ》 《割書:且裁判事務于今引|渡サヽル件ヲ責ム》を渡し且此上遵奉せさるに 於ては相当の処分に及はるへき旨を説諭し期 日を立て其奉命を責む藩王猶依達して遵はす 因て書記官は該藩吏等誤解又は違背の処を指 摘し及ひ大小藩吏の上京は勿論他の旅行とい へとも内務卿に願の上出発すへき旨等を掲け 一書を贈りて帰京を告げ二月四日那覇を発し 十三日帰京翌日内閣に復命せり是に於て廟議 遂に廃藩置県藩王東京住居を命するの処分に 決し政府は内務卿に命し処分方案を草せしめ られ同年三月三日松田内務大書記官へ琉球藩 へ差遣《割書:第三|回》の命を下し十一日該藩処分条々達 書を渡されたり同時内務省書記官木梨精一郎 に県令の心得を以て事務取扱ふへき旨及警視 官派遣の命を下されたり尋て十二日横浜抜錨 の汽船高砂号を以て松田書記官一行発行に随 行の内務属官には遠藤達種田邁早瀬則敏後藤 敬臣熊谷薫郎村木良蔵西村義道荒木章蔵内務 省御用係には吉田市十郎在勤官には御用係俟 野景明以下三十二名警視官には二等警視園田 安賢以下警部巡査合せて百六十余名なり熊本 鎮台よりは分遣隊大隊長波多野少佐《割書:鹿児島分|営ニ在リ》 明治十九年六月     後藤敬臣□      【落款:□□□□】【落款:後藤敬臣】 明治十九年二月四日版権免許 明治十九年六月出版  編者    山口県士族 後藤敬臣         宿所東京牛籠区通寺町廿八番地  出版人   東京府平民 大澤銭三郎         同四谷区伝馬町二丁目十九番地  発兌人   同   上 石川治兵衛         同日本橋区馬喰町二丁目一番地 【61コマ目に同じ】 【蔵書票:琉球大学附属図書館|1966.12.20|No. 112925】 【蔵書票に書き込み:価格は上巻に含む】 【裏表紙】 【所蔵ラベル:092.9|G72|3】