【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>近松門左衛門全集>第五巻>栬狩劍本地 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1884347/251】 ●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。 ●参照する翻刻本では、かなを漢字にしたり、濁点や句読点を付加するなど、読みやすさのために原書と異なる表記をしている場合があります。入力にあたっては、「みんなで翻刻」ガイドラインの規則に従い、原書の表記を優先し、見たままに翻刻して下さい。 ●参照する翻刻本と原書の間で、版の違いなどにより文章や構成が相違する場合があります。この場合も原書の状況を優先して翻刻して下さい。 【帙の題箋】 紅葉狩釼【注】本地 【注 「釼」は『大漢和辞典』に記載なし。「剣」の異体字ヵ】 【ちなみに「つるぎ」の漢字は多くの種類があり、整理してみます。現在の当用漢字は「剣」です。元略字だったものです。この字の旧漢字で正字が「劍」。「劒・劎」は古字。「劔」は俗字。コマ1の資料整理票の書名欄の表記は「劍」か「剣」とあってほしいところ「釼」は多分(辞書に記載なし)俗字と思われます。】 【帙を開き伏せた状態】 【帙の背】 紅葉狩釼本地 【帙の表の題箋】 紅葉狩釼本地 【ラベル整理番号】 大国 655 【題箋】 紅葉狩釼本地      近松門左衛門 【下部貼紙横書き】 紅葉狩釼本地      近松門左衛門 【右丁 朱印下と蔵書印内】 655 3250 【左丁】 【以下本文と振り仮名のみの入力です。】   栬狩釼本地  近松門左衛門作 比は冷泉(れいぜい)ゐんの御在位(こざいゐ)の御代。 案和(あんわ)二年の春主上夜な〳〵御 悩(なう) あり 有験(うげん)の高僧貴僧に仰せて 大法を修(じゆ)せられけれ共。其しるし更に なかりけり。御なふはうしみつ計にて有けるが。 神泉苑(しんせんえん)の森(もり)の方よ□【りヵ】。黒雲一む□【らヵ】 【右丁】 来つて。御 殿(てん)の上におほへば必〽おび□【へヵ】 給ひけり。則 公卿(くぎやう)せんぎ有て定て変化(へんげ) のわざ成へし。武士に仰せて警固(けいご)有べし とて源平藤 橘(きつ)の兵を撰(ぜん)ぜられ上総(かづさ) の介平の朝臣(あそん)惟茂(これもち)をぞ宿直(とのゐ)にゑら ひ召れけり。抑此惟茂は桓武(くはんむ)天皇の 後胤(こうゐん。)高 望(もち)の親王(おゝきみ)に三代の末葉(ばつよう)。民(みん) 【左丁】 部卿兼忠の嫡(ちやく)男生年廿五歳。うす 紅梅(かうばい)に若草すったる狩衣(かりきぬ)。弓は重藤(しげどう)山 鳥の真羽(まば)の鏑矢(かぶらや)只一筋かいこふたり。郎 等の茨菰(おもだか)次郎 黄(き)糸の腹巻(はらまき)赤銅作(しやくとうつくり) の打太刀。足 緒(を)ながにむすびさげ左 近(こん)の 陣(ぢん)のこなた成。桜の木かげにしきがはしかせ 月さへおそき雲井の庭(には)。衛士(ゑじ)のたく火の 薄(うす)けふり星(ほし)の光も朧(おほろ)夜や。じこく待 間(ま) のかたねふりさはかぬ有様ふてき也。御 格子(かうし)たかく 明渡し内侍(ないし)命婦(みやうふ)のおもと人。上日の上達部(かんたちめ) 几帳(きちやう)の物見みすのつま。のぞきざゝめきあつ はれゆゝしきころがらかな。此比召れし武士共 が誰か是に及ふべき。いか成 変化(へんけ)も恐(おそ)れんと 声もほのめくそらたき物。たてあかし【注】影(かげ)ほそく すでに夜半(やはん)の時申し。宮中ふけて物すごし 刻限(こくげん)いたれば案(あん)のごとく俄に風おちいな光(びかり) 黒雲うづまき震動(しんどう)し。すはや御 脳(なう)と立さはぐ 惟茂ちつ共さはがす。雲間をきつとねめつく れは形は四足のけだもの。つらは飛龍(ひれう)のごとく ほのほを吹てぞひらめいたり。ひざ立なをし大 音(おん)上。 従(じゆ)四位下 上総(かんづさ)の修良(しゆれう)平(たいら)の朝臣(あそん)。惟茂 【注 立明し。たいまつのこと。】 と名乗つて鳴弦(めいけん)し。矢取て打つがひよつひき はなせば手ごたへして。ひやうはつたとぞ当つたる ゑたりやおふと矢さけびの声。 蟇目(ひきめ)は御殿(ごてん)の 桧皮(ひわだ)にとまり変化(へんげ)はおめきくるしんで。おつる所を 茨菰(おもだか)次郎むんずとくんでしばしが程。ねぢあふ足 音大地もとゞろく計也。茨菰名におふ功(こう)の者ひつ かついて。どうとなげふせ打物ぬいて。さし通きりさば かれ首はちうにまひあがり。四足つばさもさん らんしこくうにとんでうせけれは。御脳 平癒(へいゆう)忽(たちまち)に 風おさまつてはるゝ夜の。廿日余の月きよく 夜の明たるがごとくにて。宮中悦び声々にいたり や惟茂したりやおもだか。こゝんぶさうの弓取やと いさみ賑(にぎは)ひ給ひけり。関白(くはんばく)教通(よしみち)公御はしにたち出 惟茂が弓箭(きうせん)の徳。ゑいかん浅からず将軍の官(くわん)に任(にん) せらる。汝は葛(かつら)原の親王五代の孫(そん)。先祖(せんぞ)よしもち 将軍が武勇(ぶゆう)の余慶(よけい)をつぎしゆへ。余五将軍(よごしやうぐん)と なのるべしとの宣旨(せんじ)成ぞとの給へは。惟茂左右の袂(たもと) をひろげ。烏帽子(ゑぼし)を地に付 拝賀(はいが)の体(てい)めんぼく あまつて見へにけり。爰に伊豫(いよ)の国のむしや所 太宰(だざい)の大弐 橘(たちばな)の諸任(もろとう)遠侍(とをさふらひ)に宿直(とのゐ)せしがゑ しやくもなくつゝと出。是々惟茂 御辺(こへん)将軍せんじ あれはとてお受申は心へず。将軍の職(しよく)といつは武 官(くはん)の棟梁(とうりやう)朝敵(てうてき)を征(せい)し。非常(ひぢやう)をいましむるを以(もつて) 規模(きぼ)とす。変化は当分さつたれ共あれ見よ。蟇(ひき) 目の鏑矢(かぶらや)御殿の桧皮(ひわだ)に射(ゐ)付たり。御殿にさび 矢を射(ゐ)つくるは天子にむかつて弓引道理。朝敵の なすわさ天理を恐れず。弓矢の法もしらぬ愚人(ぐにん) 武士の司(つかさ)と成べきか。かゝる御 僉議(せんぎ)もなくふか〴〵との 将軍 宣旨(せんじ)御 政道(せいたう)のくらき事末代のそしり。勿体(もつたい) なし〳〵と言(ごん)上すれは。諸卿(しよきやう)の面々げに是はことはりと 眉(まゆ)をひそめておはします。爰に侍(つき)所の預り鷹(たか)の巣(す) の帯刀(たてわき)太郎 広房(ひろふさ)。瀧(たき)口の陣(ぢん)よりつゝと出。御 政道(せいたう) くらしとは舌長(したなが)なる奏問(そうもん)。剰(あまつさへ)惟茂ゆみやの法を しらぬとは。尤わぬしに似合たる難勢(なんぜい)。事をしら ずは語つて聞せんよつくきけ。それ弓矢といつは 神武(じんむ)不殺(ふさつ)の威徳(ゐとく)を表(へう)し。物に疵(きつ)付 殺(ころ)さね共 弦音(つるおと)計にて。化生(けしやう)変化を亡(ほろぼ)す事。たとへば仏神 の札守にて悪魔(あくま)を払(はら)ふに事ならず。かたじけなく も天照(てんせう)太神 天(あま)のかご弓羽ゝ矢をもつて。悪神 をしづめおはします此理をさして神通(じんづう)の鏑(かぶら)矢と 号(がう)し。仏道にては大 悲(ひ)の弓 智恵(ちゑ)の矢共さとる也。 凡大将たる身の弓は袋(ふくろ)釼(つるぎ)を箱に治(おさめ)ながら。東南(とうなん) 西北(せいぼく)の敵をしづめしりぞくる。一 帳弓(ちやうきう)の理に至るを 精兵(せいびやう)の射(ゐ)手共。又は文武(ぶんふ)両道の。弓取共是を名 付たり。見よ〳〵今宵の変化 惟茂(これもち)矢さきの疵(きづ)は 付す。只一矢に射(ゐ)て落(おと)し郎等に切とめさせたる。これ もちの心底(しんてい)を察(さつ)するに射殺(ゐころ)すはやすけれ共。御殿 の棟(むね)に矢を射付 血(ち)をあやす恐(おそ)れを存し。矢の根(ね)は そつとぬき捨(すて)たると覚えたり。証拠(せうこ)にはあの矢を おろし見すべしと鞠垣(まりかき)の。棹(さほ)取のべてかりおとし見れは 詞にちがひなく。かぶら計に鏃(やじり)はなし惟茂ゑしやくし。 その矢の根是に有。惟茂が家の相伝(さうてん)弓矢の故(こ) 実(しつ)是御らんぜ。と鏑先の大 鳫俣(かりまた)くはい中より取出 せば。諸任(もろとう)一 句(く)に返答(へんとう)なくこぶしをにぎつて赤面(せきめん)す。 帝を始(はしめ)月卿雲客(けつけいうんかく)帯刀太郎が弓矢の評定(へうぢやう)。惟 茂がふるまひゆうにやさしき勇者共やと二たび あつとぞ感(かん)ぜらる。天気猶もうるはしく関白重て 勅(ちよく)を蒙(かうふ)り。柳の五つ絹(きぬ)きたる官女(くわんぢよ)をいざなひ御 釼(けん)を たづさへ出給ひ。惟茂がふるまひ仁義(しんぎ)の勇者と云つべし。 且神道にもたづさはり仏法をもうかゝふ事 。多能(たのう)は 君子(くんし)のはづる所 甚(はなはだ)かんじ思召。此御太刀は神代より 伝はりし平国(くにむけ)の御 釼(けん)とて。八幡宮の御母 神功皇后(じんぐうくわうこう) 異国(ゐこく)退治(たいぢ)の宝釼(ほうけん)也。然るに信州(しんしう)戸隠(とがくし)山に悪鬼(あつき) 化生(けしやう)し。民俗(みんぞく)をなやます由うつたふる。此度大内の 変化も正しく彼山の変化の余類(よるい)成べし。此太刀 を帯(たい)し戸隠山に駆(かり)入て悪鬼の根を立。国家 安(あん) 全(せん)の功(こう)を顕(あらは)し朝家(てうか)を守護(しゆご)し奉れ。且又汝にはいまだ 定まる妻なしとや。是こそ中宮の上わらは世継(よつぎ)御 前上より嫁(めあは)せ下さるゝ。此御太刀をみやげにて吉日ゑ らひ送らるべし。いかにたけきものゝふも情に□□□【ゆがむヵ】梓(あづさ) ゆみ。妹背(いもせ)の中に子をもうけ武勇(ぶゆう)を子孫(しそん)に伝へ との。ゑいりよ也との給へは。惟茂は身に余り冥加(みようが)にあ まる悦びを。何と奏(そう)せん詞もなく世継御前は嬉し げに。見かはすめもと色ふかき御所の女中の花心。うらやむ もあり妬(ねたむ)も有惟茂が矢さきには。変化は物か及び なき内裏(だいり)上らうしとめしは。げに精(せい)兵の手きゝやと 其名をあげし〽九重や。柳桜を。こきまぜて。錦の 小路(こうぢ)の中納言 冬通卿(ふゆみちきやう)のひとり姫。珍瓏(たまゆら)君はかくれなき 公家(くげ)一ばんの美人草(びじんさう)。くさのゆかりの草むすび。彼惟 茂といつの間についことづてのかけ橋を。渡りぞめせし文 玉づさ恋の山々かさなりて殿御(とのご)よ妻よの約束(やくそく)を。 つき〳〵お部(へ)やの人ならで人にもらさぬねやのとや。 一条 表(おもて)の物見の亭(ちん)気のむすぼれも時津(ときつ)風。 はれやかに見渡し給ひ。なふ〳〵能(よい)日和(ひより)ではないかひの。う つくしい男が空色(そらいろ)のうす物 着(き)て。にこ〳〵笑ふ様な気(け) 色(しき)東山も一目にて。惟茂様の吉田のおやかた。手に取 様に見ゆるれ共毎日 遠(とを)目に見る計。いつよびむかへ て下さるやらもしお心が替(かは)つても。世間忍びのけいやく なれば恨みいふてもはがきかぬ。ひとりしんきをやむ計。 四方の霞(かすみ)ははれたれどみづからが気ははれぬ。皆は心に苦(く) がなふて浦山しいなとの給へば。さえだの局(つぼね)聞もあへす。 それは案(あん)じ過しと申物。仲人(なかうと)なしの御 契約(けいやく)世間へしれ ぬと申せはとて。人にこそよれ惟茂様お詞といひ数通(すつう)の お文。うそが有て能(よい)物かお大名成 高家(かうけ)也。此度だいり のお手がら余五将軍(よごしやうぐん)に成給へは。関白様かどなたぞれ き〳〵のお仲人で。表向(おもてむき)の云入の有は定(ぢやう)追付あれ に。御祝言の御殿が立て御夫婦お顔をならへて。東山 の春秋をお庭に御らんなさるゝは今の事【注】。少いそ 【注 目の前迫ったこと。】 〳〵遊はせ。なんと腰元(こしもと)衆。あの景(けい)のよい吉田しら 川山。春はつゝじやわらび折。秋は栗(くり)などひろふたり 面白からふしや有まいか。いや申お局(つぼね)様。何よりかより 惟茂様の境内(けいだい)の松茸(まつたけ)が見事なげな。とにかくに 御 果報(くはほう)なお姫さまじやと笑ひける。姫君もにこ 〳〵とあれ人々。さきにから此 築地(ついじ)のまへいろ〳〵の。 進物持て行通ふけふはいか成 祝(いわひ)日ぞ。何事やらんと の給へはあれも皆惟茂様への進上 内裏(だいり)の変化(へんげ)を退(たい) 治(ぢ)有将軍の位(くらゐ)にのぼり給ふ御祝義。御一家は申に及ず 公家武家のもてはやし。お出入 商人(あきんど)御用聞。職(しよく)人迄我も〳〵 と進上物。此中から引もきらずと云所へ五十計の使者男いため 付たる出立のひんとそつたる朱(しゆ)ざやの刀 赤(あか)がね作の月代(さかやき)に。 白髪(しらが)まじりの五たい付下人に持せし折紙の。御太刀一 腰(よう)金 馬代(ばだい)【注】四百石は見へ渡り慥(たしか)に武家(ぶけ)とぞしられけるそれ〳〵 【注 金馬代(きんばだい)=献上馬の代りとして贈った大判一枚。】 そこへ絹(きぬ)上下のなで付男。年比はい【注①】も卅一 字(じ)進上物も 哥のだいにつがいすへて持せたる山鳥の尾のしだりをの。長袖 なりと見す〳〵も公家衆よりの。お使者ならん。平樽かた げてくる中間。是は武家(ぶけ)か公家(くげ)方か。されば樽が五升 樽(たる)御所方といふ心。公家衆で有ふか中間がやりおとがひ。【注②】 武家方でもあらふかと目利(めきゝ)する間にまたそこへ蟇(ひきがへる)に 似た魚五つ台(だい)に乗せたはありやなんぞ。あれは𫙠(ふぐ)と申 物五つならべた進上はお出入の呉服(ごふく)屋と。さいてからは 一寸もちがひはせまひと笑はるゝ。爰に一きはめにたつて 州浜形(すはまがた)の大 島台(しまだい)。松竹に鶴(つる)と亀(かめ)蒔絵(まきゑ)の文ばこ 紅(くれない)の。紐(ひぼ)なが〳〵とむすびあげ。仕丁(しちやう)二人が持舟にさな がら〽祭(まつり)の荷ひ物。往来(ゆきゝ)も見返る折から橘(たちはな)の諸任(もろとうは)郁(いう) 芳門(はうもん)【注③】の番替り油の小路の四辻。馬をはたと乗かけ たり。かちの者ひぢをはり。大道一はい是なんだ。はやく 【注① 年ごろばい=年かっこう。およその年齢。】 【注② 槍頤(やりおとがひ)=長くとがったあご。】 【注③ 平安京大内裏外郭門の一つ。】 持てかたづかずはふみくだいて捨べいと。すてに手をかけん とす仕丁共びく共せず。《割書:ハテ|》かや〳〵とやかましい道がせば くはのいて通れ。所も大内の女中世継御前より。余五(よご) 将軍(しやうぐん)惟茂(これもち)公への御進物。ふみくだかは首から先へ。出して置と たつた一口にいひ返す。諸任くはつと腹を立《割書:ヤイヤイ|》。うぬらが 惟茂風聞たゝなし。其島だい打くだき青才六めらそれ ふみ殺(ころ)せ。承ると歩(かち)若党(わかとう)どつとよれは仕丁共。無法者(むほうもの)を 相手にするはかつたいと棒(ぼう)打。此お屋形(やかた)頼ますと門のう ちへかき入。御進物に疵(きづ)さへ付ねば面々はいひわけ立。いぬ 死すな《割書:サア|》こい〳〵と一さんかけて逃(にげ)てけり。よし〳〵いひ かいなき下主めらかまふな〳〵。惟茂がつらをふむどうぜん 門内へこみ入て島だいをふみくだけ。ふみひしやげと下知(げぢ) をなし乱(みだ)れ入らんとする所に。大 紋(もん)にゑぼしかけ大の男門 一はいにつゝ立て。より付者をひつつかみ〳〵弓手馬手へ 取てなげ。諸任が乗たる馬のむながいつかんでゑい〳〵〳〵 と二三間尻ゐにどうどねぢ付《割書:ヤイ|》見事馬にのつ たれば定て武士のきつはしならん。眼(まなこ)が見えぬか法式を 存せぬか。錦(にしき)の小路の中納言殿の御屋形。かくいふは御家 の雑掌(ざつしやう)金剛(こんごう)兵衛 利綱(としつな)。すいさん至極(しごく)な御門に馬を乗 かけ下人原にふみ立させ。ぬつくりと懐(ふところ)手で見ていよふと 思ふか。《割書:サア|》下馬せうかせまいか。但引ずりおろさふかと手ぐすね 引てせめつくる。《割書:ヤア|》公家侍め。太宰(だざい)の大弐橘の諸任を 見しらぬか。禁中(きんちう)の宝釼(ほうけん)平国(くにむけ)の御太刀を拝領(はいりやう) せんと。度々 奏問(そうもん)せし我願叶はず剰。心をかけし世継御 前迄惟茂に下され遺恨(ゐこん)ふかき惟茂が進物に。道をふさ がれ悪口(あつこう)させ。此門内へかき入しを堪忍(かんにん)する諸任ならず。 是へ出してふみくたかせい。否(いな)といはゞ公家でも御所で も乗こんで。やたい共に馬足にかけみぢんにするが《割書:サア|》 なんと。《割書:ハアヽ|》事おかし。馬の足にかけがへあらば一寸ても乗 入て見よ。《割書:ヲヽ|》所望(しよもう)ならば是見よと乗こむ馬のまへずね。 両手に取てこりや〳〵〳〵めよりたかくさしあぐれは。馬は さんたをするごとく諸任はあをのけに。ころびをうつては ね返しまつさか様にぞ落たりけり。顔(かほ)をしかめて。《割書:エヽ|》あ ほう力のくげ侍。何をくらいこんだやらくらいだをれ覚へて おれと。砂打ふるい腰(こし)をさすつて立帰る。跡からちが〳〵 ちんば馬見ぐるしかりける有様也。利綱とつと打笑ひ。御内の 者共此島だい。惟茂卿迄届申せといふ所へ。姫君いかれるかんばせ にてまちや〳〵利綱。世継とやらいふ女惟茂様を。我物がほに ほてくろい此長文。なんぼほうらいの島だいて祝ふても。相生 と契り置たは此玉ゆら鶴亀も引むしつて松竹もおつて すちや。追出されうが殺(ころ)されうかおやかたへかけこんで。一足成共みづ からが先へ嫁入(よめり)して見せうと。かけ出給ふをいだきとめて是姫君。 跡先何《割書:ン|》にも存ぜね共此体でかけこんでは。気 違(ちがひ)のさたに落 お家のお名お身の恥(はじ)。理が非に成と制すれ共。いや大事ない夫 ゆへの気違ひは女のうへに恥ならず。生をかへてもそはねば置ぬ 爰をはなせ利綱。やつてくれぬか利綱と声を上て泣給ふ。 金剛兵衛もてあつかひ。お局(つほね)はおそばにゐてかゝる大事をしらぬ かと。ねめ付られてふるひ〳〵。もとひよつとした御 縁(ゑん)にてお文の通 路たびかさなり。惟茂様もこれもち様来世かけて夫婦の。やがて呼(よび) むかよふのと神かけたお文にぎつてござるお姫様世つき御前お勅諚 にてお釼をみやげに。あすの晩(ばん)嫁入との文を見てお腹の立も お道理といふてあつちは勅諚也。たかはぬおなごの了 簡(けん)どふした 物であらふやら。胸(むね)がいたひといひければ。金剛兵衛横手を打扨々 始て承る。惟茂程の弓取直筆の契約(けいやく)は。仲人より猶慥な 事。中納言の姫君を傾城遊女のごとく。よも一時のたはふれには せられまじ。たとへ帝(みかど)より世継御前を給はる共錦の小路が娘。 玉ゆら姫とかき契り候と奏問(そうもん)するこそ道ならめ。長袖と 思ひあなどつたる仕かた。此利綱が有からはお家に疵(きづ)は付まじき。 《割書:サア|》御祝言は明晩半時成共此方のお輿(こし)を先へ入申さん然は姫君 御本望。此上に惟茂卿お心がはりか替らぬは脇(わき)からは見へぬことそれは 御夫婦しつほりと。おねまの勝 負(ぶ)に遊ばせと笑へは姫君たき立 計《割書:エヽ|》忝い。利綱様々様々じや。父上へも母上へもよい様に申てたも。《割書:アツア|》 去ながら盃(さかづき)事の最中に。世継御前が来たらはどふした物て有ふの。 《割書:ハテ|》何の事はない。赤まへたれをひつはらせ。はしり出て味噌(みそ)すらせ。釜 の下たかせたり世継の名をかへ台(だい)所の。食 継(つぎ)御前にしてくれんと たはふれ。用意を〽俄事 既(すでに)其夜は。きさらぎ下旬花の三月 よけぬれは。皆吉日ぞ其外にいむは申の日 猿(さる)の顔(ほう)をしてよ めりの御乗物御 輿(こし)ぞへには金剛兵衛。鶴亀か入たる対(つい)の挑灯(ちやうちん)供侍 が子持筋。追付 初(うゐ)子を御 懐妊(くわいにん)大原口にぞ着にける。金剛兵衛立 とまりなふ侍衆つく〳〵思案(しあん)をめぐらすにお輿をどつと持かけ。もし 違乱(ゐらん)有て姫君の御身の上いかゞ也某は二三町先へ参り事のやうを はからはん。お乗物に気を付られよといひ捨て只一人。先に立てぞい そぎける。はや法性寺(ほつしやうし)の四つの鐘はや瀬にひゞく賀茂川の。堤(つゝみ)の 影よりほうかぶりの男二人出ると見へしが挑灯持をはたと蹴(け)たおし。 挑灯みぢんにふみくだけばとこやみとこそ成たりけれ。供人是はと さはぐ所に。爰かしこより数十人が足音して星(ほし)にうつろふぬき身の光 太刀を渡せ〳〵といふ声計。姿(すがた)は見えずめくら打に切まくれは《振り仮名:轆■|ろくしやく》【車+勺】 中間青侍すねをながれ腕(うで)を落されなむさんみけんしてや られ胴骨(どうほね)腰骨(こしほね)こびん先。あいた〳〵痛(いた)手おはぬ者もなく 泣つわめいつ逃て行。姫君は乗物に生たる心地もなき悲しみの。 声をしるべに馳(はせ)あつまり太刀こそはとらず共。世継御前は是なるはと。 乗物手々に追取まき行方しらず落うせけり。金剛兵衛は五 六町行過見れは挑灯消て。人声遥に騒動(さうどう)すあら心えすきづかはし と。息(いき)をかぎり足 限(かき)り走(はし)つて帰る夜 ̄ルの道。何かはしらずふみすべり まあをのけにどうとふす。なむ三宝と起(おき)なをれば身もひ つたり。土も石もぬれ〳〵と手にさはるあたゝまり。是は扨。たつた 今切たる血(のり)草葉もひたる計也。すは事こそと気もさはぎすべる をふみとめ踏(ふみ)しめ。足にさはるをひつ抓(つかみ)すかして見れは。御家の挑灯 のちぎれ《割書:ハアヽ|》姫君をうばゝれた。《割書:エヽ|》利綱が一生のふかく。おのれ 何国迄とかけ出しが《割書:ハツ|》。我は狂気仕たそうな方角のわきまへなく。 どこをせうどに行事ぞ。先何者のわざならん。《割書:ムウ|》しれた世継御前 が妬(ねたみ)のわざ。《割書:イヤ|》諸任めがきのふの遺恨(ゐこん)と。思案する程気も混(こん) 乱(らん)分別いらぬ思案もない。京中九万八千 軒(けん)。一軒つゝさがせばとて取 かやさで置べきかと。北へ走れはみたらし川の川音の。しん〳〵としてあて もなく東はたつた今来た道。先洛中をとかけ出す足本くらく 賀茂川の。ふかみにだんふとひたつたり。《割書:エヽ|》しなしたりとかけあがり裙(すそ)に雫(しずく) のたるみなく。心計はせきのぼり行もはしるも同じ道。二三町の 間をいつゝもどつゝぐる〳〵と。さしもの利綱十方にくれ。物の見入 かばかされしかと歯(は)がみをなして。どうと座し。《割書:エヽ|》口 惜(おし)い〳〵と 石を取てかみくだき〳〵。無念涙にかきくれし。心の内こそ道理 なれ。かくては主君の云わけなしまだ〳〵つらをさらさんより。じがいせんと ひざ立なをし向(むか)ふを急と見渡せば。《割書:ヤアヽ|》さがり松の松影に挑灯(ちやうちん) ちらめき。人足あまた乗物もほの見ゆる。《割書:サア|》あれに極つた。一寸もや らふかとめさすもしらずくらき夜に。道も畠(はたけ)もわかちなくもみ にもふてぞ〽追かくり。世継御前は大内よりすぐに嫁入の行列(ぎやうれつ)。 【左丁は落丁ヵ・翻刻文は次コマ右丁】 功(こう)の武士さへ逃足にいはんやかひなき青女房。中間小者乗物捨皆 ちり〳〵に落うせけり世継御前は声を上 ̄ケ是はそも何ごとぞ何者 のしわざぞやたすけてくれよと泣給ふ走寄て《割書:ヲヽ》お道理〳〵。某が 有からは悲しい事はない。あれ月代(つきしろ)もあかつたり惟茂卿へも程ちかし。乗 物の一 挺(ちやう)などはひつかたげても参らふが。先お心をしつめられいさそろ 〳〵おかちでと。乗物の戸を明れば《割書:ヤヽ》こは。そなたは見しらぬ何者しや と二度びつくりに魂(たましい)きへ。利綱も横(よこ)手を打こりやちがふた。《割書:エヽ》せくまい〳〵 【右丁】 功(こう)の武士さへ逃足にいはんやかひなき青女房。中間小者乗物捨皆 ちり〳〵に落うせけり世継御前は声を上 ̄ケ是はそも何ごとぞ何者 のしわざぞやたすけてくれよと泣給ふ走寄て《割書:ヲヽ》お道理〳〵。某が 有からは悲しい事はない。あれ月代(つきしろ)もあかつたり惟茂卿へも程ちかし。乗 物の一 挺(ちやう)などはひつかたげても参らふが。先お心をしつめられいさそろ 〳〵おかちでと。乗物の戸を明れば《割書:ヤヽ》こは。そなたは見しらぬ何者しや と二度びつくりに魂(たましい)きへ。利綱も横(よこ)手を打こりやちがふた。《割書:エヽ》せくまい〳〵 【左丁】 と思へ共せいたそうな。口惜やと我身ながらも身にうろたへあきれて 空を見る顔(かほ)も。廿三夜のま夜中の月もきよろりと出にける。かゝる所 に匹夫(ひつふ)共七人計乗物かゝせ馳(はせ)来り。あれこそ金剛兵衛利綱。《割書:ヤイ|》うろ たへ者。主の娘は此乗物此方に入用なし。世継御前と平国の御太刀所 望ゆへ。取ちかへてこつちも麁相(そさう)そつちも麁相。太刀の行衛は追て の沙汰先此乗物とかへ〳〵すれは両方よし両徳渡せ〳〵と わめきける。利綱大きにいさみ出やれ〳〵よふ来たなあ。此金剛兵衛を 宵(よひ)からよふうろたへさせ。すでにじがいをせんとした。姫君にうきめを 見せ。此上 臈(らう)に狼藉(らうぜき)したもをのれら故。返報(へんほう)せずにおかふか。 前に立たは太宰の大弐が郎等。児玉(こだま)の忠太と目利(めきゝ)したかへ〳〵とは あたゝかな。金銀の両替も利をとられねは両替(りやうがへ)せぬ。豆板の児玉 首つりを取てかへんすとくはつと見出す両眼は。新吹のしろかねを みがき。出せるごとく也。《割書:ヤア|》両替にどとはかば姫が胴骨(とうほね)打おつて。疵(きづ) 物をつかませよと引出さんとする所を。もと首つかんでぬつとさし上 ̄ケ めのかるひわるがね。つぶしにせんといふまゝに石にかつはと打付れ ば。かうべひしげてうせにけり。いで残るやつはらに極(こく)印打てとら せんと。するりとぬいて二三人同じ枕に切たをせは。四方へばつとむら 〳〵雀(すゞめ)。鷲(わし)の蹴(け)立るごとくにて跡をも見せず〽逃うせけり。 立返つて乗物引寄しがいの上帯切ほどき〳〵。棒(ぼう)と棒とをしつかと しめて結(ゆひ)合せ。引上見れは《割書:ヲヽ|》天秤針(てんひんはり)口かるめなし。こなたもおもひかな たもおもひ主君の恋のおもにゝ小付。見捨ぬ義理は将のかた入□□□。 ゑいやつと荷ふてしゆく所に立帰る。四人のかたをひ□り して六尺。〳〵又六尺。二条川原は石たかくだつくり。ぼつくり【注】まが り道。車 大路(おほち)のまはり道今出川原くらま口。びしやもん 天も御 納受(なうじゆ)百足(むかで)の足取あしづかひ。引足五尺のび 足五尺一条大路柳原。やなぎがゆるぐ春の風乗物ゆら すなゆるがすな。雲も霞(かすみ)もはい〳〵〳〵はやしのゝめの朝 烏(からす)雀(すゞめ)はちう〳〵忠臣の誠を。ちからにあらはせり      第二 范蠡(はんれい)西施(せいし)を湖水(こすい)に沈(しず) ̄メ。呉起(ごき)が妻を害(がい)せしも勇者(ゆうしや)の おもんずへき道とかや。今度 橘(たちはな)の諸任(もろとう)狼藉(らうぜき)に及びし刻。平国(くにむけ)の 御太刀 紛失(ふんしつ)の事。永く平の御なをれと。洛中の口すさみ止(やむ)事 なく。惟茂卿の御館(みたち)には。老中 譜代(ぶだい)の御家人等気を失ひ色を 損じ。日々夜々に寄 集(あつまり)詮議(せんぎ)とり〴〵まち〳〵也。茨菰(おもだか)次郎 眉(まゆ)を ひそめ。誠に主君惟茂大内の変化をたいらげ。弓箭(きうせん)の徳に 【注 「だっくり、ぼっくり」=道などがでこぼこしているさまを表す語。】 よつて御悩(なう)平愈(へいゆう)の恩賞(おんしやう)として。世継御前を宿の妻になしくだ され。剰(あまつさへ)天下の重宝平国の御太刀迄。当家にくだし給はる事。弓 矢のほまれ時こそと御婚礼の日限も。急に急き待もふけし かひもなく。思ひがけなき路次(ろし)の騒動(さうどう)彼御太刀も行衛なく。世継ご ぜんも身の上あやうかりしかど。金剛兵衛とやらんが働(はたらき)にてつゝかなく。 則かれが館(たち)に忍びおはする由さりとは案(あん)に相違の事。世間の人口 且はお家の大事。此上は草を分ても。ふたゝひ御太刀をさがし 出す手だてこそあ□【らヵ】まほし。座中の面々 心底(しんてい)を残さす評義 有て然べしと。いわせもはてず客侍口々に。いやたゞ外をもとむる にも及ず。必定橘の諸任我君に将軍をこへられ。へんしうのうへ 多年所望の御太刀。当家にわたり無念とは思へ共。腕叶はねば一戦 迄に及ばす。御祝言の供先にて狼藉【左ルビ:らうせき】仕かけどやくやまぎれに 御太刀も。盗取たるに疑(うたかひ)なし。何条事か有らんきやつが館(たち)におし 寄。門も塀もふみやぶつて込入御太刀 詮義(せんぎ)する計。もし手むかひ せば太刀のかねのつゞかん程めつた切の一軍。つゞけや人々《割書:ヲヽ|》おもし ろし尤と。爰にはらつと座を立は。茨菰大手をひろげ。あゝそこつ なり旁(かた〴〵)しばし〳〵とをしとめ。橘の諸任がしわざと世上の噂。いづ れもの了簡(れうけん)さる事ながら。世継御前の御 輿(こし)には鷹巣(たかのす)の帯刀 太郎。禁(きん)中しゆごの武士多 ̄キ中に一人にえらはれたる勇者。御太 刀を預 ̄ツ てひつそふたれば。諸任がきつてかゝればとてみだりに おめ〳〵渡べき様なし。し□【かヵ】も彼帯刀その夜より行方なく。今に ありかしれざるとは爰にふしんの有所。諸任が多勢にかこまれ 御太刀をうばゝれたるやひとつ。まつた此 騒動(さうどう)をかこ付に帯刀が欲(よく) 心気ざし。御太刀を盗(ぬすみ)ちくてんしたるや一つ。有無(うむ)の両義しれざる 中一戦に及ばんこと。禁裏(きんり)の聞え然べからず。涯分(がいふん)先鷹巣めを尋 出し首をふまへて白状(はくでう)せさせんに。御太刀の有所しれぬ事や 有べき。かまへてせくまい〳〵と。いさむ諸武士を押とゞめゆう〳〵と 座したるは。さすが茨菰知行高家老の思案(しあん)ぞ格別(かくへつ)成。かゝる所へ 沼田(ぬまた)の七郎御 白州(しらす)に畏。さても錦(にしき)の小路の中納言殿より御使 者として。執権(しつけん)金剛兵衛利綱の妹。梅の井と申女中君に直 の見参か。さなくば御家老おもだか次郎殿に。直談(じきだん)との義に候とぞ 申ける。おもだか暫(しばら)く思案し。中納言家の御使者ならば人もこそあれ なまわかき女を使者とは。よし〳〵某直に対面(たいめん)せん。其使者 是へと座を改ゑもん〽つくろひ待宵や。いざよひ過の芘ゑくぼ にたまる愛敬(あいきやう)は。花の粧(よそほ)ひほつそりすうはり柳の間の。らうか づたひ。人中おめぬすり□【足ヵ】は。梅のながし枝梅の井と。えらはれしも げにことはり也。茨菰立合。黄門公(くはうもんこう)の御使者梅の井殿とは御じぶん の義候な。拙者は則おもだか次郎御口上の趣(おもむき)。いさゐ仰聞らるべし と。さもいんぎんに両手をつき。まき舌(じた)の挨拶(あいさつ)に梅の井くつ〳〵と 吹出し。《割書:ア|》そうかたい御挨拶ではどうも御口上も申されず。尤かた い御使者ならば十 面(めん)作つた侍衆もおほけれど。此梅の井が 参からは中納言様とは詞の品。誠は姫君玉ゆら様より使と申 せば使。お恨の品々おゆかしがる【注①】も第一。お咄も申せとて腰元衆 もおほき中に。梅の井まいれ。あいと申て参りしからは。ひつきやう 姫君の心をくんでのおもはく咄(はなし)。おまへも《割書:サア|》。其三つ指(ゆび)わりひざ 取置て。お姫様と惟茂様のたいこ持じやと思召せ。かたい顔(かほ)遊ばし ても。色ごのみの惟茂様につかはるゝお人しや者。それ髭(ひげ)のかゝりが すけべいの。べいの字成に見へますととんと扣(たゝい)て寄そへば。さすがの おもだか挨拶なく。軍兵の評判聞たる外。耳なれぬ恋ばなし。 まじめに成こそおかしけれ。梅の井かさねて。じたい帝(みかど)さまが 見かど様。変化(へんげ)退治(たいぢ)の御ほうびなら。大国小国馬物具でよい 事を。世継御前とはいな物。よくは宣旨(せんじ)にもせよ惟茂様御 心(しん) 底(てい)さへかはらずは。玉ゆら姫と申て契約(けいやく)の妻有と。達(たつ)て御しん しやくなさるゝに。いかな王様も押付わざはなされぬ筈(はづ)。根が 移(うつり)気な惟茂様跡先しらずぼか〳〵と【注②】。あだぼれして畏(かしこまつ)た とお請合。案(あん)じても御 覧(らん)なされ。男ひとりに女房ふたりそも 【注① 見たがる・知りたがる・聞きたがる等、心ひかれゆかしく思う気持ちを言動に表す。】 【注② 勢いの盛んなさま。急であるさま。】 や杵(きね)一本に臼(うす)二つで。いかなこれもちも搗(つく)には少しんどうにこざん しよ。此度 路次(ろし)の騒動(さうどう)も玉ゆら姫様の乗物を。世継御前と心へ 悪人共がひつかたげてはしるやら。わたしが兄の利綱もきのせく まゝに取ちがへて。世継様の供先で楚忽(そこつ)の働。一かたならぬ大もめ。 事のおこりは皆惟茂様の不心中ゆへ。され共兄の金剛兵衛。なん なら世継様もばい返し。おふた方共わたしがやしきに忍ばせ置参らせしが。 《割書:アヽ|》さすがは上人方案じたとは違(ちが)ふて。其むつまじさ中のよさ。琴 のつれ引ついまつの哥かるたもあふさか山のさねかづら。わるい所へ 気を廻しておふたりのこそぐり合。腰元衆の 囉(もら)ひ笑ひ。脇から 見ての見事さ。とふ共かう共いはれねど。悋気(りんき)妬(ねたみ)は女の役(やく)。そこ ゐにどふした無 分別(ふんへつ)もと油断ならず。剃刀(かみそり)はさみもおそばに置 ぬわたしら兄弟が気くばり。生(なま)物二疋預つてかふいふ内も気 遣 絶(たへ)ず。若(もし)何れにても御身の上にあやまち有ては金剛兵衛は せつふく。第一はお家の疵(きづ)。玉ゆらさまの仰を受て此うつふん云に来た 梅の井。おそらく恋の道の孫氏(そんし)呉子(ごし)。ぐんんばいふつて勝負(せうぶ)を つけねば帰らぬ。世継御前も宣旨(せんじ)なれは嫁(よめ)入せねばきかぬ 気。玉ゆら様も契約(けいやく)なればいきりきつて嫁入する気。おふたりの 上らうを何かなしに。此御屋形へむかへ取て其うへて埒(らち)を明(あけ)さんせ。是 御 家老(からう)此通りお取次。きり〳〵お返事〳〵とさし付様にせがま れ。おもだか次郎あたまをかきさりとは一世一 期(ご)のめいわく。第一われら ゆみや打物取て。誰にまけんと存ぜね共色ことかつふつぶゑ手 なり。いづれにても若手の武士にお頼なされあいた〳〵あいたしこ〳〵 又れいの疝気(せんき)。おんじやくあぶつて来る間。暫くそれにと 偽つて。走 ̄リ入らんとする所を。どつこいやらぬと袴(はかま)にすがり。《割書:エヽ|》手の わるひ御家老様。色事 不得(ぶゑ)手といふ下からうそつくすべはしつ てじやの。余の取次で済ことなら。あつたら口に風ひかせて こな様は頼まぬ。いやでもおふでもお取次ひとりわるくはふたり づれ。手を引あふて出たら女夫じやといはふぞへ。いふたら大事は。 私も定る男はなしうき名がたゝばそれかぎり《割書:サア|》。こざんせと 手を取て引ずれば。したゝるいなんのまね。ひげぐちそらして どうさんせかうさんせと。ひらたくたい口上がどふ主人へいはるゝもの。 一生の厚恩(かうをん)こらや〳〵とふり切て変化に恐(おそ)れぬおもだかも。 後(うしろ)を見せて逃つ。かくれつあなたへ追かけこなたへかゞみ。走廻つ て後成。一間にぐはたと行あたり。襖(ふすま)につれておもだか次郎 あをのけにどうとこけ。起あがれば惟茂卿 見台(けんだい)にむか わせ給ひ御 学問(がくもん)の最中(さいちう)。二人ははつと飛のいてせきめんしたる 計也。惟茂につこと笑はせ給ひ。さいぜんよりの有増(あらまし)聞たるぞ。 物がたきおもだかゞ取次しかぬるもことはり。お身は金剛兵衛が妹(いもと) 梅の井とや。兄利綱が働(はたらき)にて世継が身の上つゝがなく。玉ゆら 諸共かくまへ置たる由過分〳〵。我も飛立玉ゆら姫ゆかしさ かぎりあらね共。平国(くにむけ)の御太刀 紛失(ふんしつ)したる事いかゞと詮義(せんぎ)の 最中。世間のとなへを憚(はゞか)りふみをもつても音づれず。女ごゝろに 恨(うらみ)とはさこそ〳〵。両人共に惟茂見はなし捨(すて)ん様はなし。追付玉 ゆら世継御前諸共我方にむかへ取。兄弟が苦(く)をはらさん。 《割書:サア〳〵|》帰つて二人の姫にかくとつげ。此ふみ見せて悦ばせと 手づから結(むす)ふ御文箱。しんくの糸の末ながき。妹背(いもせ)のしるしと たびければ。梅之井悦び二つの文箱押いたゞき〳〵。又大将 の御 了簡(れうけん)は格別(かくべつ)じや。此文見せたら飛付て。玉ゆら様の玉の緒(お)も きゆる計のお嬉しがり。お笑ひ顔(かほ)見る様なはやお暇(いとま)と御文 箱。両手におもきいもせ山。あゆむはかるきちよこ〳〵はしり 宿所を〽さしてぞかへりける。茨菰次郎跡見送り《割書:エヽ|》出過たる 女めかな。是我君。あのめらうが弁 舌(ぜつ)に廻され。御一生の 浮沈(ふちん)たる御太刀の詮議(せんぎ)はわきになし一人計か二人の姫君む かへいれんなんどゝは。先此次郎めは呑こまず。急度御 心腹(しんふく)承は らんといへは。惟茂卿あたりを見廻し。次には誰もおらぬか。小姓共 抔(など) 聞てはいぬか。是へ〳〵と膝(ひざ)もとに招(まね)き。女の恨(うらみ)妬(ねたみ)には身を忘れ。恥(はぢ)を思はぬ ならひ太夫(だいふ)に二人の妻。少も心にかゝらぬ事。され共御太刀 詮(せん) 義の最中。梅の井とやらん先すかし返さんため。むかへとらんと口上 には偽つて。二通の文は同じぶんしやうに認(したゝ)めたり。兼々おとに語 ごとく。彼御太刀行廻つてもし諸任めが手に渡り。戸隠やまの 悪鬼 退治(たいぢ)。諸任にせんをこされては一人の恥辱(ちじよく)のみにあらず。 子々孫々ながく当家の瑕瑾(かきん)ならずや。さるによつて我ひそかに やかたを忍び出。日本国中浦々島々海はろかいのたゝんづ程。陸(くが)地は 足をかぎりに都もとめ御太刀なきに極らば。一人戸隠山に分入 悪鬼の復中に葬(ほうむ)るゝか。首取て立帰るかけふや思ひたゝん。 あすや思ひ立べきと日をかぞへて闇然(あんぜん)たり。今日只今ほつそく せん。世上は惟茂所労と披露(ひろう)し。留守を守つて帝都(ていと)のしゆご。 おこたり事なかれと御諚あれは横手を打。兼々さやうの仰 なれはかう申おもだかも御供とこそ存ぜしに。腰(こし)ぬけやくの 御留守思ひもよらずとかぶりふつてぞ申ける。いやさないひそ おもだか。主従都を出しと聞かは大悪不道の諸任。いか成ことをか 仕出し朝家の御為家のため。後悔(こうくわい)有らんは必定(ひつじやう)也。汝が家に残る こそ惟茂か身二つ有も同じなれど。主従心 隔(へだて)なくしたしみ ふかき言葉の花。築(つき)山の紬【岫ヵ】道を裏門よりと出給へは。おもだか次郎 も力なく跡にとゞまり御後見送れば見帰つて主従互の 御名残。つきせぬ月の都の空中に隔て〽別れ路と。神な らぬ身は白玉か。責て何ぞと我涙。とふ人もなきひとりね のうき身もつらく世もつらき。世継御ぜん玉ゆら姫。男ほしいも 床しいも。同じ思ひの同じ身を。同じすみかにむつまじく。御哥 合草むすび。悪性(あくしやう)咄とり〳〵に。乱れし髪(かみ)を二面の鏡向ふ 〽粧ひ誰が為につくろふ影ぞ仇(あだ)【徒ヵ】人に。かく共つげよ。つけの櫛(くし)腰 もと二人がすく髪に。あたりもかほる梅かほる庭のこち風ふん〳〵と 心ときめく御すまゐ。かゝる所へ梅の井惟茂卿の門外より。走やら こけるやら息を切て帰りしが。長廊下をぐはた〳〵〳〵障子(しやうじ)ひつ しやりあけるやいなや。《割書:サア》戻(もどつ)た〳〵わし一代のちゑ袋。ふるなも どきの上 唇(くちびる)咽(のど)のかきがね舌のつり緒(お)おとがひのおつる程。こつち からもしやべるあつちからもしやべる。そうしてかふしてどふしてと。 やり羽子(はご)のつめひらきかきあつめた咄も有。《割書:ヤア|》息(いき)がきれる水一つと。 跡先いはず真中へべつたりとすはるにぞ。世継ごぜん玉ゆら姫 両方より立かゝり《割書:コレ|》梅の井。おやかたのしゆびきづかひな。惟茂様に おめにかゝつてか。きしませずとはなしや早ふ聞たい〳〵。《割書:サア〳〵|》どふぞと ゆすり立られ。梅の井といきほつとつぎ。《割書:エヽ|》あんまりびろ〳〵遊 ばすな。聞まいと有ても是がいはいで済物か。まあとんと主様に 直にあふたと思はんせ。そして恨の山々おふたりに成かはつて。たくしかけ くなんなくこちの理潤にして。追付むかひの乗物おふたりながら おやかたへ。迎ひ取てだいてねてかはいがろとのお返事。別してあ なたの御念が入て。こしらへは何も入らぬお手道具より櫛笥(くしげ)より。 三百目入の地黄箱五六千も用意なされとの御口上。おふたり様へ のお文箱渡しますると指出す。二人の姫君飛立計。忝ないと 嬉しいと余りの事に手もふるひ。夢ではないか玉ゆらさま。《割書:マア|》お前 から御らんなされませ。《割書:ハアテ》時宜(じぎ)のない事そもじ様からよましやんせ。 そんならいつそ一時にと。文箱あくるも恋人に大だかのむすび文。 まいる身よりの御すさみひらく間おそしとくり返し。読返し巻 返し見れ共むかひの輿(こし)とはなく。御太刀尋出さん為やかたをも 忍び出。野山の起(おき)ふし此世のあふせ定なし。死せば未来と計 にて玉ゆら姫の文章(ぶんしやう)も。世継御前の御すさみも同じつらさの 筆の跡。はつと計に胸(むね)ふさがりさしうつ。むいておはします。梅の井 あきれた顔付にて是姫様がた。おてき様の千話(ちは)文おふたりな からおどつゝはねつ。お悦びて有ふときおひかゝつて戻つたに。 扨 ̄ツてもあてのちがふたあのすねくろしいお顔はい。世継様なんと 玉ゆら様こりやどふぞ。《割書:エヽ|》気がゝりなわけも聞せず。お意地(いぢ)の わるい中からわたしが読(よん)で見て。はんだんなさふと御文箱とらんと するを玉ゆら姫つきのけ。《割書:エヽ》なんじやの。我きげんのよいまゝに さは〳〵〳〵〳〵かしましい見たふない。おきやいのとひんとふつたる顔ばせに。 梅のい猶も合点ゆかず。こりやまあどういふせんさく一さいわしは のみこまぬ。世つぎさまけなお子じや。お文の通有様に読(よみ)成と咄 成と落つかして下さんせ。爰なお子もしぶといきり〳〵いはんせ どふぞいのと。せゝくり寄てといかくり。世つぎこぜんは文の表つゝまず あかさばこれもち様。御家出有しと口々に世間へしれてはお家 の御大じ。我身のだいじも此時とそらさぬふりにて。《割書:アヽ|》べしても ない【注】ことを。何がそれ程聞たい追付むかひに乗物やる。それ迄は まめでゐて随分きりやうあげておきや。女夫も〳〵二世三 世いとしいぞかはいぞと。したゝるい御文章我身でさへ恥しい。まし て他人に是がまあつがもないことばつかりと。詞にまぎらし御文 箱へおさめ入んとし給ふにぞ。玉ゆら姫は此咄聞よりむねも とき〳〵と。《割書:エヽ|》妬(ねたま)しや我方へは家出したりとうそついて。世継に 【注 べしてもない=たいしたこともない。】 乗かへくさつたか。人でなしのちく生と心にあまる腹立まぎ れ。むめのゐか首筋取て引のけ世つぎごぜんのひざもとへ どつかりとゐなをり。《割書:フウ〳〵|》今のは聞所。女夫も〳〵二世三世いとしい かはいとかいて有が定じやの。《割書:アヽクド|》なんのうそいふ物ぞ。そもじ 様の文章にはどふかいてござんすと。とはれて玉ゆらせきめんし。 文の通あらはさは見捨られしと腰元共に笑はれてはちじよく ぞと。心にそまぬけら〳〵と笑ひ。《割書:イヤ〳〵|》二世三世とは世間なみで あさいこと。わたしが文には五世六世みろくの出世もかはらぬ女夫身ふし がなへていとしいと。それは〳〵忝いうまいことじやとせかすにぞ。世つぎ御前 もせきのぼる悋気(りんき)のほむらに気を上て。《割書:エヽ|》我方へは他国するの太刀 尋るのと偽(いつわり)ごと。頼まれぬ男心いつそのことやぶれかぶれと玉ゆらの胸(むな) づくししつかと取何身ふしがなへる程かはいとの文章か。面白し〳〵身 ふしがなようがしびれうが。惟茂様には此世継御前といふおか様が有ぞ や。忝も仲人(なかうと)は帝(みかど)様りんげんは汗(あせ)のごとし。出て二度返らねば未来(みらい)かけ ての我夫を。横どりせうとはあたゝか【注①】な。手柄(てがら)に成ならそふてみや 《割書:サア|》そやらぬかと声もわな〳〵身をふるはして責(せめ)かくれば玉ゆらも云 まけじとおんでもない【注②】ことそふて見しよ。綸言(りんげん)ごかしおいてたも。帝 の仰の汗よりもこつちの汗はしめあふて互の肌の汗雫。すふても 見ること成まい。此道計はけん付【注③】におせどおされぬ茨(いばら)の枝。名付計 のわかくさの【注④】下 紐(ひほ)一夜ときもせで。肌(はだ)のあぢはいしりぬいた此玉ゆら をさし置夫婦とはどの口でむすぶの神も御せうらん。日月地に 落 駒(こま)に角はへ鼠が猫をくい殺(ころ)す。うき世に成たらしらぬこと。命 の内は姫ごせの一分立て【注⑤】立ぬいて。世間広ふそふてみしよ。《割書:アヽ|》あの口 はい云そみない顔付して。ほんにつべこへ〳〵とよいかげんてやみやらぬと。 はしやいだちよほ〳〵口つめつて〳〵つめり上て置ぞや。《割書:イヤ|》舌(した)ながし【注⑥】胸紐(むなひぼ) からかく様にさへつめられぬ大じの身。そなたが仕付せうとはわが身つめ つて人のいたさ。思ひしれと飛かゝり世継御前のかた先をほつかりとかみ付ば 《割書:アヽイタ|》もう堪忍(かんにん)せぬ腹立や口惜やと涙つらぬく玉くしげ。そばに有しを 【注① いい気なさま。ずうずうしくこしゃくなさま。】 【注② おんでもない=いうまでもない。】 【注③ 権付=権力にまかせて言動すること。】 【注④ みずみずしい、新鮮なものにかかる(妻、新(にひ)等)枕詞。】 【注⑤ 「一分(ぶん)立てる」=一身の面目を立てる】 【注⑥ 言葉が過ぎる。言い方が生意気である。】 幸とかんざしかうがい油つぼ。打付るやら踏(ふみ)わるやらやくたい更になかりけり。 梅のいを始腰元 端(はした)女。驚(おどろ)きさはぎ真(まん)中へ分入て。是はまあはした ない。つかみ付の扣(たゝく)のとは下々の悋気(りんき)ごと。上つかたの有まいこと玉ゆら様 からおしづまり。世つぎ様御かんにん腰元中間へ此けんくは。もらひましたと せなかをさすりすかしてもたらしても。いや〳〵けもない【注】かんにんせぬ。 はなしてぞん分いはしやいのと。泣さけびのび上り飛(とび)出〳〵し給へ共。腰 もと四方に取かこみ無理(むり)むたいに両手を取引つれ〽おくにぞ入にける。 玉ゆら姫は。只一人跡に残て立つゐつ畳(たゝみ)にかつはと身をなけふし わつとさけびおはせしが。はかなの女の身や口先て云 勝(かつ)ても。世継御 ぜんは帝から。勅諚(ちよくぢやう)のふうふこちの契りは内證(ないしやう)ごと。どふこけても世継 めが大じの男を我物顔。とかくせんをこされぬ先おやかたへかけこんで。 惟茂様にひつたりとしがみ付てゐましよ。《割書:ムヽ|》よい思案と裾(すそ)かい取かけ 出てはかけ戻り。《割書:アヽ|》是ても世継が此世にあれは怨のあた。妬(ねたま)しやつら にくやと。すつくと立つどふとゐつはがみはたゝきがた〳〵〳〵。今のまに 【注 気もない=とんでもない。】 世継めがしねがな〳〵天もおちよ地もさけよ。山も崩(くずれ)ておちかゝり世 つぎが五 体(たい)くだけよかし。につくし〳〵のみだれ髪。かもじほどけてちはやふる 悋気(りんき)の神はなき世 彼(かの)。庭(には)の植込(うへこみ)松杉も神木と観念(くはんねん)し。しんゐのかな 釘心のかなづち打 殺(ころ)したや殺したや。くしげ見れ共 刃物(はもの)はなし。《割書:エヽ|》何とせん。 是よ〳〵二面の鏡思ひ付たりあら嬉し。鏡は女の魂(たましい)武士のたちかたな。 本望とげん銘(めい)の物。ゑたりや嬉しと走よれは柳の髪も我涙も 共にはら〳〵はら〳〵〳〵腹立や此かゞみ。世つぎごぜんか朝夕にべに白粉(おしろい)の ときみがき。粧(よそほ)ひ作て主の有男をね取第一のにくいやつは此鏡。みる も恨のますかゞみと踏付。〳〵取て投(なげ)。是は又我姿見くもらぬ物を かゞみ山。心ぞ霞(かすむ)悋気(りんき)の雲霧(くもきり)誰とぎたてん水銀(みづかね)の。水もらさじとち かひてし地かねをあだに捨られし。此恨は生々世々つきせぬ物といか ればいかり。笑へは笑ふ正 直(ぢき)の姿のかゞみまるく共れんぼのかどひし【注】忽に。剣【釼】 となして我念力思ひはらさで置べきかと。小脇にかい込 踊(おどり)出 築(つき)山の岩角 に。押当ては押戻し。恋と妬(ねたみ)と浮(うき)世のつらさ三つの袷砥(あわせど)しんゐのめらと。 【注 「角菱」=態度や言葉などが角ばっていること。】 生れてなれぬ力声庭も春風とう〳〵〳〵。共にゑい〳〵さら〳〵 さつとちるは桜か越路(こしぢ)の雪。顔は上気の高尾山もみち袋に置露や。 五つの指(ゆび)のいつのまに。枝さんこじゆにことならず。ねたは【注①】や付しとすかしみれば。 《割書:アヽ|》嬉し切 刃(は)【注②】も付たりかん将ばくや【注③】が名作も是には過しと押いたゞき。 奥をめがけてかけ出しがいやまてしばし大じの敵。一打に切やきれずや ためしてみんと走寄。二かい余りの古木の梅。下へふつたる一枝は世継が 腕(かいな)と心に込。ゑいや《割書:ツ|》と打ばあやまたず。枝は中よりずつはときれ。念力 岩を通す成紅梅 血汐(ちしほ)と乱れたり。天晴(あつはれ)切 ̄レ物切入らん。いや〳〵此気色 を悟(さと)られし損(そん)じては無念也。だまし切にと上がへ下がへ押つくろひかみ撫(なで)付んと 鏡にむかへば《割書:アヽ|》こはこりや何《割書:ン|》じや。藪(やぶ)の後(うしろ)の松の木に六尺ゆたかの大男。 内を見込《割書:ン|》でねらふ体あり〳〵と移(うつ)《割書:ツ|》たり。玉ゆらきつと心付。南天(なつてん)林の木 影よりすかし見れは人音の。藪 垣(がき)廻つて泉水(せんすい)の板橋(いたはし)より忍ひ込。昼 中によもや盗人でも有まい。扨は世継めが此玉ゆらをかへり討に殺(ころ)さん ため。頼めばとて頼るゝ蠅(はい)同前の下々。待て見よめに物見せんと猶も 【注① 寝刃(ねたば)=切れ味のなまった刃。】 【注② きりは=よく切れる刃】 【注③ 干将莫耶=中国、春秋時代の有名な刀鍛冶の名。干将は夫、莫耶はその妻だという。】 木影(こかげ)に身を忍ぶ。かく共しらず両人さゝやいてはうなづき合。奥をめがけ て行所を玉ゆらかゞみ追取のべ。走 ̄リ かゝつて切付ればさしつたりと ふり返り。両方より切りくる刀の光かゞみの影。でんくはう撃(げき)するごとく からり〳〵と切結び。受つながしつしばしが程刀に向ふかゞみの刃。念力込 ̄メ てはつしと打ば。真甲(まつこう)より立 割(わり)に二つに成てぞ卧(ふし)たりける。すきを あらせず今一人 畳(たゝみ)かけて打太刀に。女力の手もよはりかゞみをからつと 打落され。逃入らんとし給ふを。さもしや上らうあまさじと。取てひつふせ 既(すでに)両手を捻あぐる。狼藉(らうぜき)者が入たるぞ出あへ〳〵とさけび給へは。金剛兵衛 戸障子(としやうじ) 蹴破(けやぶ) ̄リ飛で出。もとくびつかんで引上 ̄ケ どうど打付腰の骨(ほね)ゑいやうんと踏(ふみ)付。おのれ つらを見しつた。諸任が郎等 猿胯(さるまた)与一よな。是姫君惟茂公は御太刀を尋ん 為ひそかに都を御出。此留主を伺(うかゞい)いか成 悪事(あくし)か仕出さん。御両人に用心いたせと しつけんおもだか次郎只今しらせに参りし所。扨々こらへぜいなくはやまつた悪人 すぐに此足てふみ殺さうか。但恥をかいても生たいかぬかせ〳〵といへ共更に返(へん) 答(とう)せず。腰より鼻笛(はなふゑ)取出しふかんとするをひつたくり。《割書:ヤア|》扨は相図(あひづ)のふへか能物(よいもの) くれた忝い。はなぶへの返礼(へんれい)は咽(のど)ぶへに受とれと。引起してさか手に取 息(いき)のつがひ むな板を。続(つゞけ)様に七つ八つ突(つか)れてあへなくしゝてけり。相図(あいづ)のふへのかくし勢取 まかれてはことやかましし。打ちらして埒明んと垣(かき)にむかつてふへ取 直(なお)し。高音(たかね)を吹 て吹そらす諸任すはやしすましたり。時分はよしと十人計打つれてとつといる。思ひの外 に金剛兵衛が力士立はつと計にげてんしてすゝみ兼てひかへしが。《割書:エヽ|》口 惜(おし)くもし 損(そん)ぜし。某は無体(むたい)に込入世継ごぜんをばいとらん。金剛兵衛を討とれと云捨 おくに飛で入らんとする所へ。おもだか次郎ぬか〳〵と出諸任がむなくら取 て突(つき)のけ。《割書:ヤア|》珍しい諸任。世継ごぜんは勅諚によつて主くん惟茂のつまじや 人と存ぜしに。扨は御辺のおか様か。めでたい〳〵祝(いわ)ふて水を参らせんと。五尺計 掘入たる小山のごとき手水鉢(てうづはち)かろ〳〵と指上る。金剛兵衛声をかけ暫く候 おもだか殿。水祝より先御 祝言(しうげん)の夜の石のいわひ。我から先といふよりはやく。 八尺余りの立石ゑいといふてすつと上《割書:サア|》水からか石からか但水石一時かと。追廻し追 まくり声を合て投付れば。先にすゝみし十余人みぢんに成てそ失せにける。 さすがの諸任気を失ひ女房いらぬ女房も去(さる)。こつちもさる去とはゆるせ と逃て行。あまさし物と金剛兵衛追かけ出ればおもだかをさへ。おもだかかくれば利 綱をさへこつちにけがのない上は。先何こともをん便〳〵茶びん茶 碗(わん)の割物かけ物。一所 に置はあぶな物世つぎ御前は主君のやかた。こつちの姫はこつちの御殿惟茂 帰洛(きらく) 遊(あそば)して。嫁入の前後は仕合しだいおねまのやりくり御きてん次第上十五日の長枕下 十五日のお手枕。談合次第と二人の姫を二人かせなかにしつかとあふせの夫(それ)迄はおさらば。さら ば〳〵腰元はしたもめをくばれ。道の用心敵のすいさんふみ立。〳〵ふみちらす。落花(らつくわ)狼藉(らうぜき) ゆるすなゆるさし。《割書:ヲヽ〳〵〳〵〳〵|》おふたは木男松の木 樫(かた)木。おはれし花は梅桜盛を。待てぞ別れける    第三 帰去来(かへんなんいざ)とて古郷(こきやう)へ遁(のが)れしは。彼天命を楽(たのしみ)て禄を捨 たり古人の心。鷹巣(たかのす)の帯刀太郎広 房(ふさ)は。去(さんぬる)世継御 前の婚礼(こんれい)に武士一人にえらはれ。御 剣(けん)の役を蒙(かうふり) ̄リ 【衍】ながら 太刀風に恐(おそ)れ。一番に逃(にげ)失せて。御太刀ともにゆきがた なく洛(らく)中の物笑ひ。毎日 押(おし)紙 張(はり)札して狂哥(きゃうか)狂(きやう)句の 悪(わる)口に。落書(らくしよ)を立る門 柱(はしら)殊に逆鱗(げきりん)甚(はなはだ)しく。事 落居(らつきよ) の間妻子 閉(へい)門。屋敷の口々 釘(くぎ)付にして戸びらに樫(かし)の木 丸太。十文字にやりちがへ大 釘(くぎ) 鉸(かすがい)うらかゝせ。ひつそぎ竹にて高 垣(かき)付。乱杭(らんぐい)打 ̄ツたる世の掟(おきて)見るめもいぶせくいま〳〵し痛はしや 北の方籠中の鳥のうき思ひ。一子房若の手を引て門の影 にてうかゝへは。往来(ゆきゝ)の貴賤(きせん)立つどひ。是々此屋敷が腰ぬけ侍。 鷹巣(たかのす)の帯刀太郎 閉(へい)門のざま見ぐるしい。あの落書(らくしよ)見よ〳〵と ゆびざしあざけり読(よむ)哥に。恥しらず何国(いづく)で武士を帯刀が。 つらのかはむけ平国の太刀。出来た〳〵よい口にやりおつた。是見よ 爰にも又一首。鷹巣も鼠の巣(す)やら子をおゐて。穴浅まし の親の逃ざま。鼠とはよふいふた御蔵より下されし。御知行盗の 米の封。舛落しにかゝらふぞと笑ひどよめき通りけり。聞に付 ても北の方悲し共口惜共思ひ乱れておはせしが。なふ房若。父御は 弓馬を嗜(たしなみ)て誉(ほまれ)有武士なれ共。弓矢の冥加につきはてかゝる 不覚を取給ふ。其恥を返り見てよもながらへてはおはすまし。され共 預りの御太刀は日本の名剣。尋出して惟茂卿へ渡たふおもへ共。 家は閉(へい)門とぢめられ譜代の郎等小者迄皆あなどりて逃 はしる一門家は不通なり。男とてはそもじばつかり三年立ば 十 ̄ヲ じやぞや。命をかけ身をくだき御太刀を取出し。父の恥すゝぎ 落書を立て笑はれた。親子の面をぬいでたも。早ふおとなに したいなふとくどき給へは《割書:アヽ|》かゝさまなかしやんな。何の事其お太刀を取 出して。笑ふたやつらが首ぶち切 ̄ツ てくれうぞ。かゝ様おれは兵じや。 おれは樊噲(はんくわい)長【張】良じやと裙ひつからげかけ出る。いだきとゞめて《割書:ヲヽ|》 出かした〳〵。去ながらなんぼ心が功成共。門は釘付高い声もかな はぬぞ。思へは妻の帯刀殿子迄けなげに産(うみ)付る。魂すはりし弓 取が其夜にかぎつておくれを取。諸万人の口の葉に。うたはれ給ふ うらめしさよ。妻子の恥辱は思はずかと歎給へは房若も。かなしそふ につく〳〵見て。おりや樊噲じやといふ顔に貝(かい)をつくる【注】そ哀成。 《割書:ヲヽ|》道理いとおしや。せめて御身に御 慈悲(じひ)くだり。罪(つみ)ゆるさるゝ為 【注 貝を作る=(泣き出す時の口つきがハマグリの形に似ているところから)べそをかく、泣き顔をする、意。】 なれば。万事家内をつゝしめと。親子一間に引こもり。いつを昼(ひる) 共夜もすがら。ねもせぬ夢に時さるゝ心の〽内ぞ痛(いた)はしき。 汨羅(べきら)の潭(ふち)も水あせてしづみもはてずなからふる。帯刀太郎ひろ ふさは心の外の誤(あやまり)も。運の不 祥(しやう)に近郷の国伊吹山の片影にしるべ もとめし隠家も浮には。たへぬ。身の成はて。妻子に一め対面し 御太刀の有かを語。とにもかくにもならばやと。やつし果たるやふれ蓑 身をしる雨【注①】はいとはねど。月にもはづる夜るの笠。梅が小路の 我宿の門に入らんと立寄ばこはいかに逆茂(さかも)木【注②】打て釘付に戸 じめたり。帯刀はつと。眼もくらみなむ三宝。代々 朝家(てうか)のかためと して。武勇(ぶゆう)の名を得し親 祖父(おうぢ)のしかばね。名字に釘をうたるゝ かと《割書:やゝ》涙くみ立たりしが。今は何をか期(ご)すべき門前にて腹(はら)かき切。 腸(はらわた)つかんで扉(とびら)に打付しなん物と。どうと座を組刀をすはと ぬきけるがいや〳〵。我心 底(てい)をしる人なく身の置所なきまゝに。狂ひ 死にしたりなんといはれんは。一子房若が恥辱(ちじよく)よん所なし。妻子に 【注① 身を知る雨=わが身の上の幸、不幸を思い知らせて降る雨。】 【注② 逆茂木=敵の侵入にそなえて、とげのある木の枝を立て並べ、結び合わせて作った柵。】 所存(しよそん)を語る迄。しばしなからふ命共。心を隔(へだつる)る高塀(たかへい)の腰板(こしいた) に刀を当。我家へ我身としてさながら盗賊(とうぞく)の。わざもけや けき欅(けやき)板めつき〳〵と切やぶる。北の方 障子(しやうじ)を明(あけ)。耳(みゝ)をすまして 《割書:ヤア|》扨は盗人ごさんなれ。閉門(へいもん)の家女子わらべとあなどる共一打に 切とめて房若に手柄(てがら)させ。世上の聞にせん物と。長刀かいこみ 房若にそつとさゝやけば。どつこいやらぬ《割書:アヽ|》高い〳〵合点か。《割書:ムヽ〳〵|》う なづき押肌(おしはだ)ぬぎ。高からげする足だけ【注①】も九寸五分をするりと ぬき親子さし足 息(いき)をつめそろり〳〵とねらひよせ待かくるとは 白壁(しらかべ)を一尺余り切やぶり。身をほそめて這(はい)入かたちつらも 頭もひつつゝみ。ちぎれしとふのすかこも【注②】に。只みの虫の蠢(うご)めく ことく書院(しよいん)をさして忍び入やり過してきたの方。長刀取のべ腰の つがひをはらりとなげば。うんと計にかつはとふす。房若打物以 ひらいて飛かゝれは。やれ房若なつかしやと。むつくと起(おき)しを能々(よく〳〵) 見れば父の帯刀。《割書:ハアヽ〳〵|》と計に親子の人あきれて。詞もなかりけり。 【注① 足丈=足の高さ。脚のたけ。】 【注② とふの菅薦=スゲで編んだむしろ。「とふ」は「十編・十布・十符」と表記され、編み目が十筋もある幅の広い菅薦。「古くは諸国で産したが、中でも陸奥産のものは「とふの菅薦」とて和歌によまれている」とあります。】 やゝ有て帯刀。《割書:ヲヽ|》思ひかけぬは道理〳〵。妻子の手にかゝりしは。責(せめ) ても天のめくみとしれ。かたるもめんほくなけれ共。某ふかくの名を とる事 臆病(おくひやう)に似て臆病ならず。彼祝言の供先無二無三に 切かけしを。諸任がわざと心し。只一筋に御太刀を大事にかけ。 前後をわかず落程に物にさそはる心地にて。そこ共しら ぬ山々を二三日はさまよひしか。漸(やう〳〵)夢(ゆめ)のさめたるごとく。始て驚(おどろ)く かひもなし。此云わけは私ごと。五十歩をもつて百歩を笑ふとかや。逃るは 同じ逃る也。帯刀太郎広房かつらかひ拭(のこ)ふても出られずじがい せばやといく度か柄(つか)に手をかけしが。日本 不双(ぶさう)の宝の御太刀。朽(くち) はてん勿体(もつたい)なさ。浮世にまだ〳〵ながらふか心底思ひやつてたべ。 今は近郷の国伊吹山の麓(ふもと)。久作といふ土民(どみん)の家にかくまはれて 日を送る。此久作は御身もおぼへ有べし。先年家に奉公(はうこう)し。沢と いふ腰元と密通(みつつう)して欠落(かけおち)せし。九郎といひしわつはかこと。むかしの 恩(おん)を忘れもせぬ。夫婦が誠頼もしく御太刀を預(あづけ) ̄ケ置く。《割書:サア|》片時(へんし) もはやく房若をつれ行。太刀を受取惟茂に参らせ。始 終(じう)打あかし歎(なげき)なば仁心ふかき惟茂卿。品よろしく奏問(そうもん)あり 鷹巣の家を立。房若武門をつがん事 疑(うたがひ)なし。此ことくはしく しらせ置心やすふ腹(はら)切らんと。非(ひ)人にやつし来りしにやしきは 釘付戸しめられ。塀(へい)切やふりし某を盗人と思ひ心はしかき 長刀。房若が働(はたらき)あつはれ帯刀が妻子成ぞ嬉しや死後(しご)に 案(あん)じもなし。やれ夜明も近付外へもれては詮(せん)もなしとゞめを さいて一足も。急げ〳〵といふ声も喘(すだき)せぐりて玉の緒(を)も引入 ごとく見えければ。北の方涙にくれ。御太刀さへ有からは御身の うへはいひ分(わけ)たつ。いかに姿かはればとておつとを見ちがへ手にかけて。 何とながらへあられふぞなふ房若。父の敵は母成ぞ寄てきれと 泣給へば。今はの眼をくはつとひらき。《割書:ヤイ|》うろたへ者。武士すたつた おつとを指殺([さ]しころ)して。あの世 忰(せがれ)世にたてうといふ性念(しやうね)はなく。共 にしんで房若を誰がもり立て家はつぐ。今の間に夜があけ 御とがめの塀(へい)は切やふり。見ぐるしき此ざまを御所の役人 検非違(けびい) 使(し)共に見付られ。恥に恥(はぢ)をかさぬるが房若つれてはやい そげ。詞をそむかば生々世々妻でない夫でないともだゆれ ば。《割書アヽ:|》是々何 ̄ン の詞をそむかふぞ。房若おじやと出んとすれど 後がみ。思ひ切かねすみかねあふみの国がどつちやら。伊吹山 とは何国ぞと。口にくと〳〵くどきごと涙が足を引戻す。房 わかもうろ〳〵と戸じめし門を押て見て。爰が明ねば 出られぬとかこ付泣こそ哀なれ。《割書:エヽ|》塀のやぶれがめに見へぬ かぐどんながきめとしかられて。なく〳〵くゞる四つばいはてゝ親しらぬ ゑのころ【注①】や。母もつゞいて出給へはなふ〳〵是々。とゞめをさいてく れぬかとゞめをさせとゞめをさせ。《割書:イヤ|》もうそれはゆるして下され かし。なふ曲(きよく)もない【注②】苦痛(くつう)させんといふことか。夫婦のよしみ頼む〳〵と くるしめば思ひ定て立帰り。刀おつ取涙ながら日比ねんずる 観世音(くはんぜおん)。われ世の中に有らんかぎりはたゞたのめ。御 誓願(せいぐわん)あや 【注① 犬の子。いぬころ。】 【注② つれない。情けない。】 またず一門 蓮(はちす)に道引給へ。なむあみだ仏と引 起(おこ)しとゞめをぐつと さしもくさ。伊吹山へとこがれ行道たと。〳〵し《割書:エイ〳〵|》。手枕〳〵 かたたるござるにひと火すへたや切もぐさ。《割書:サンヤレ〳〵|》。のぼりか下りか 飛脚(ひきやく)文箱足に三 里(り)のたゆる間も。《割書:サンヤレ〳〵|》さんさつけやれ。 手杵(てぎね)かちきね気がるな男の。気もあさ〳〵につれそへば。 かくが心ももみぬきもぐさ。伊吹の里にむかしより。刈(かれ)共つきぬ させもぐさ身 過(すぎ)は草の種(たね)ならし。夫婦 臼(うす)ばたに息やすめ。 なふ久作さま。こなたひとりは何してもゆるりつと過かねぬ身を持 て。女房子ゆへにかんぱうくづし浮くらう。去ながらまあ四五年。 あの万虎が十二三に成迄じや。持て出た果報(くはほう)でなん万両 もうけふやら。かねとて名ざして持ね共あの子があればこちや かね持。あまり身体(しんだい)に気をもんで煩(わづら)ふて下さんなと。せなかさす つていひければ。ほんにあのよな子をうむはかねうむとおなじ事。 そなたの胎内(たいない)は銀山じや。おれも随分(ずいぶん)せい出して。まひとり ふたり掘(ほり)出さうそちも手の物 灸(やいと)して。山の腰(こし)あたゝめや久々 まぶがとぎれたに。少山入致さうか何と山はさからふて。しなだ れよれはしなだれて。うそ恥らい昼(ひる)日なか女房の口からそれが まあ。えやは伊吹のもぐさやが。女夫中 能(よい)くらしこそ所帯(しよたい)のくすり もぐさなれ。是じやらくらもよいかげん。旅人衆が大勢門に立て じや。おつとがてんと見世先にすゝみ出。いぶきもぐさの効能(こうのう)を 商(あきな)ひ口にぞのべにけり。凡(およそ)諸国に蓬おほしと申せ共もろこし にては𣃕(きん)州四明が洞(ほら)。我朝にては当国江州伊吹山周の幽王 の吉例(きちれい)を以て。三月三日に刈(かり)始五月五日の露を請日にさ にさらし月にほし。桑(くわ)の杵(きね)は男を表(へう)し柳の臼(うす)は女を表し陰陽(ゐんやう)和(わ) 合(がう)に搗(つき)ぬくもみぬく白もぐさ。今年 艾(もぐさ)ひねもくさ廿年から 百年迄代物わづか六 銭(せん)にて。人の命はあたひ疝気(せんき)や寸白 や万病の根(ね)を切もぐさ。臍(へそ)をふすべる薫臍(くんさい)もぐさ霜に かじけし老木のふしの筋やはらくるむしもぐさ。まだいとけなき 児(ちご)桜花のちりけ【注①】や筋かい【注②】や赤(あか)子にすへてもあつからず。ちゑ なひ子には智(ち)を生し子のなひ女中は子をはらむ。此もぐさの ゐとくには時をゑらはず日をきらはず思ひ立日に人神(にんじん)なし。土 用【注③】八 専(せん)【注④】かまひなし前(ぜん)三後七つゝしみなし灸した夜ても恋 衣 夜着(よぎ)の下から手を入て。せゝり起(おこ)すにふつつかとひねりも くさのなまやいと跡もうぐはす【注⑤】痛なし。引 灸(きう)【注⑥】禁(きん)灸【注⑦】たゝりなし 養生(やうじやう)やいと押(おし)やいとくすし入らずの御重宝捨るとおもふて 只六銭。巾着(きんちやく)のかはきり【注⑧】こらへれは年中の後薬(のちくすり)めしてござれと 売立る。弁舌(へんぜつ)からに上下の旅人 皆(みな)家〽づとにともとめけりあゆみほ つれしわらんづ【注⑨】や。房若はすご〳〵とおしよぼからげ【注⑩】にやぶれ笠。見世 先に立やすらひ【注⑪】手をのばして。艾(もぐさ)の袋ひつつかめば万とらがはした なく。あれとつさま乞食(こじき)がもぐさぬすむぞや。すりめやらぬととんて おり小 腕(かいな)ねぢあげ。見世の物かけて取。道中の小 鳶(とんび)。かさねて爰へ うせうかとあらき風にも当ぬ身を。握(にぎ) ̄り こふし七 ̄ツ八 ̄ツ うんといふほど 【注① 「ちりけ」或は「ちりげ」=灸点の名。項(うなじ)の下。ぼんのくび。子供の諸病には、ここに灸をすえる。】 【注② 「筋違」=背中の一部で、灸をすえる場所。小児の風邪や胃腸病予防に効果があるとする。】 【注③ 陰暦で、立春・立夏・立秋・立冬の前各十八日間の称。】 【注④ 八専=壬子(みずのえね)の日から癸亥(みずのとい)の日までの十二日間のうち丑辰午戌の四日を間日(まび)として除いた残りの八日をいう。】 【注⑤ 「うぐは(わ)ず」 「うぐう(燌)」は、灸のあとが腫れ、膿みただれること。】 【注⑥ 腫物、痔漏などの患部に蒜(ニンニク)・韭(ニラ)・生薑・味噌などを載せた紙を敷、その上に艾を置いて灸をし、紙を引き去って患部を温める方法。】 【注⑦ 体の、ある部分にすえると害やたたりがあるとして禁じられている灸。】 【注⑧ 皮切り=最初にすえる灸。】 【注⑨ 草鞋(わらじ)に同じ。「わらぐつ」の変化したもの。】 【注⑩ おしょぼからげ=着物の、背後の裾をからげ、下から帯に差し込むこと。】 【注⑪ やすらひ=気がすすまずぐずぐずしていること。】 たゝかれて。涙はら〳〵こほしながらいたいとだにも声立ず。いや盗(ぬすみ)は せぬ母様の足いたい。あるかれぬと有ゆへに。やいと■(もら)ひに来た はいや。こらへてくれとへつらわぬ。詞にすじやう顕(あらはれ)てめも当られ ぬ次第也。女房見かねいとしやさんぐうかなする人。お袋はとこにぞ鞵(わらぢ) か足をくふたか。艾ほしくばやらふかといたはれば。いやおきや〳〵。親を だしにつかふは。物取のおくの手。《割書:ヤイ|》小ぢよく【注】。こんどは是をくらふかと。杵 ふりあぐれは旅人共《割書:アヽ|》是々。爰は我々が噯(あつかひ)。うそにも親とは きどく也。こりや艾とらせんと一袋 投(なげ)出し。はやふ帰つてすへてやれ と皆々通れば房若。大へいらしく押 戴(いたゞき)。いたさこらへて泣た顔せまいと すれどないじやくり笠かたぶけて立帰る。門見廻して女房おつとを 招き。今の子を合思か。なんほうよごれやぶれても衣裳(いしやう)つきに 見所有。物いひの大やうさ目元口もと帯刀様にいきうつし。疑(うたかい) もなき房若様とやらにまがひはない。おいとしやたてはき様今度 の恥辱(ちじよく)すゝがれす。都へ帰つて切腹する妻子が是へ来るならば。 【注 子供をののしっていう語。】 御太刀を渡し二たび家をつがせてくれとの御頼み。其御詞にちがは ず若君うろたへ給ふ体(てい)。帯刀様は 御 切腹(せつふく )に極つた。追ついでおく様も お供せうとかけ出る。《割書:アヽ|》是て〳〵此久作もそうは見たがさりな がら。此の嚚(ひす)ひ【注】人心語りの有まい物でもなし。殊に預り置た宝 の御太刀。彼橘の諸任とやら望をかけ。是からおこつたさうどう 念にも念を入たがよい。旦那の妻子に 極(きはま )れはもぐさのふくろに 隠(かく) れもない。久作都て御出なされう。惣じて 此事 隣(となり) かぎつ て 隠密(おんみつ)。 ざは〳〵して近所にふしん立られな。 けさから【右:どふやら】もう〳〵と 頭痛(づつう) であたまがくだける。旅人はなし日はくれるとのうれん はづし 看板(かんばん) 仕廻。見世かた付て 蔀(しとみ) をおろし一ね入して 汗あせ してくれう。 門口しめて用心しやと 頭巾(づきん) 鉢巻(はちまき) 高枕。こりや万とら。房若の 帯刀のと国人にいふまいぞ。ねむたそうなめもとじやだいてね よふと引よせて。うん〳〵うめいてひつかぶるもめんふとんのうら 表(おもて) 。 背戸(せど) かどしめて女わざ。夜なべ取つく 行燈(あんどう) の。光 ̄リ もほそき忍び 【注 ひすい ずるい。心がひねくれている。】 声。久作は爰か都からきた明てたもと。表をひそかにたゝくおと 応(おう)と答(こた)へてかけ出る。ふとんの下から裙(すそ)ひつとらへ。米やか味噌 屋か留守じやといへ留守じや〳〵と引とむる。《割書:エイ|》物 負(おふ)た覚へは ないとふり切て門口の。とらやおそしと走出なふおくさまかおゆかしや。 おいとしやさいぜん此お子をそれ共存ぜす。慮外(りよくわい)致せし勿体(もつたい)なや とすがり付は北の方。むかしにも似ぬ此有様身のうき時の人頼み。 恥しさよと計にて涙に。くれておはします。《割書:ヲヽ|》お力ないは御尤 され共大事の此わこ様お気ばししなせ給ふな折ふし夫は風心地 先々是へと痛(いた)はりてぬき捨わらぢ洗足の。床(ゆか)は簀(すの)子のわら葺(ぶき) や。洩(もり)て袂(たもと)に露霜も奥の間にこそ請しけれ是久作殿聞 てか。かゝ様親子御お出なされた。ちよつとおまへゝ出られぬか。ヲヽ聞 てはゐたがどふもあたまがあがらぬ。熱(ねつ)がつよふて気がちうをとぶ様 な。随(すい)分御 馳走(ちそう)〳〵といひ捨ふとん引かつく。《割書:アヽ|》時もときの煩ひ やとおくに出れは北の方。なふ久作の病気とはさぞやそもじの 気あつかひ。高きもひくきも女のならひ。妻子□□□□□□□□【のうへは我身にも。】 かへて心をいたむるぞや。是に付ても帯刀殿そなた夫婦の心 ざし。くれ〳〵も悦びてあへなきさいごをとげ給ふ。預おかれし 宝の御太刀此子に持せ。惟茂卿へ参らせ父の家をつがせてたべ。 世が世ならば御身立に頼るゝこそ道ならめ。返つてたのむ身 と成し。哀と思ふてたもやとてさめ〳〵と泣給へは。《割書:アヽ|》冥加(めうが)ない。こし方 の御 厚恩(かうをん)。久作もいひかいなき商(あきな)ひは致せ共。背にかはらぬ 男気。ふうふが命を投(なけ)打ても御世に立でおかふか。お屋形を出し時 身に持た子も成人いたし。房若様のよいおとぎ御世にお出 なされての。家老殿にして下されませ。《割書:アヽ|》おとなし様に。おめがかた い少お休(やすみ)あそばせ。何ぞお裙(すそ)に置ましよと。恥ぬ心のおく そこを明ていぶきの山おろし。落くる軒(のき)の月受てふさわかは ふら〳〵と。いねぶりこけしあぢきなさ北の方も旅づかれ。咄 ね入の袖枕前後も〽しらずふし給ふ。痛(いた)はしやすきまの風も 【虫損部は東京藝術大学附属図書館蔵本を参照し注記】 いとはれしに。夜寒(よさむ)を何とせんたゞ物恐れながらと打きせ〳〵。 我身は次の片角(かたすみ)に子の有中は男にも。常が丸ね【注①】をけふは猶 帯引しめてぞ卧(ふし)にけり。阮【既】燈(ともしひ)【灯】 半点(はんてん)して。三 更(かう)にともなふ鐘(かね) の声。深夜(しんや)の雲に埋(うつも)れて。四方に人音しづまりたる。久さく そつと起(おき)出そろり〳〵とあたりを見廻し。奥をのぞいてさし足 に雨戸の枢(くるゝ)かけかねを。しめて廻す帯刀女房が口に手を当。 鼻息(はないき)伺(うかゞふ)こせうの粉 薬研(やけん)鍔(つば)の二尺一寸するりとぬき。奥をさし て入所をむつくと起(おき)て女房膝ふしにしがみ付ふつても引ても はなさばこそ。片足とびにやの内を引ずり廻れはついて廻り。戸 棚(だな)の角にどうど引すへ是此ぬき身は何 ̄ン じや。熱気におかされ た体でもない。お主様の寝(ね)所へ誰を切刀ぞ。《割書:ヤイ|》やかましい 音ぼね【注②】立な。《割書:エヽ|》しおふせて後にいはふと思ひしに。こりや太宰 ̄ノ 大弐諸任公より内通有。帯刀に預 ̄リ置平国の。宝の太刀 持参するにおゐては。領分(りやうぶん)伊豫(いよ)の国の内 桑村郡(くわむらこほり)三十町を。永代 【注① まるね=まろね。(丸寝)・・・帯も解かないで着物を着たままで寝ること。】 【注② 音骨=声】 扶持(ふち)せられんとの契約(けいやく)。かう近道に持て来た仕合。此刀でふさ わかをしてやつて。今のまに黒縁(くろぶち)の乗物にのせるそ。老入の栄(えい) 花迄此比 思案(しあん)しめおいた。声立てめをさますなだまれ〳〵と つゝと立。先待てくだされと引すへて興(けう)さめ顔。ため息(いき)ついてゐたりしが。 やゝ有て涙をはら〳〵とながし。情なやいつの間に魂(たましい)が入かはつたぞ。お主様 の御 厚恩(かうおん)七年はまだきのふけふ。よもや忘れは有(さつしやる[朱書き])まい。ふたりが不義の 忍び合あの万とらがおなかにやどり。身はおもふ成と云お家の法度を そむくといひ。親請人のめいわく子はをろそうかながそうか。ふたりが 首は縊(くゝら)ふかと内 玄関(けんくはん)の外絆(とつなぎ)に。なは迄かけたをおぼへてか。それにお主 のじひ心おく様のめ【あヵ】ひけんにて。お袖の下よりかねいたゞき夫婦つれ てお家を走(はしり)。あの子を悦ひ三人の命。生ながらへたは誰が影ぞ。 わしやけふか日迄お主の方へ。足をむけてもねぬはいの。たがいの 性念(しやうね)見とゝけていひかはした程にもない。きたないさもしい心 根(ね)や 持仏(ぢぶつ)にこざる如来様。つい木のされと思ふてかわしやなんにも しらね共。地 獄(ごく)も此世に有そうなむくひがなふてかなはふか。 女房子かはいが定(ぢやう)ならは分別しかへて下されと。夫の膝(ひざ)にもたれ ふし。声をたてじと我袖を口に。くはえてしめなきにかこち。くどく ぞ不便成《割書:エヽ|》馬鹿(ばか)律義(りちぎ)な。仕 替(かへ)るふん別こつちにないわごりよ【注】が 分別出なをせとつゝ立はつきはなしよい〳〵そつちの分別極まれば わしも思案極たと。膳棚(ぜんたな)の包丁(ほうちやう)追取我子の万虎引 起(おこ)し。 心もとに指あつれば《割書:ヤレ|》女め気ちがひめ。恨が有らは口でぬかせ。科(とが) もせぬ子に刃物(はもの)を当。大事の子にけがさせたら堪忍(かんにん)せぬとね めつくる。女房涙せきくれど。にくいながらも夫の悪事。高声も せず。かこち泣。なふ科(とが)せぬ者は殺(ころ)さぬとは。御身も見ごとしつてか。 我子大事と思ふ程人の子は猶大事。殊に御 恩(おん)のお主の子殺 してそもや其 報(むく)ひ。我子にあたらで有物か此子がゆく末 お主の罰(ばち)。ういつらい報ひ見せうより一思ひに今 殺(ころ)す。皆御身の 悪心からお主と我子を右左の両手で殺と同じこと是。包丁と 【注 わごりょ(我御寮)=対等もしくはそれ以下の相手に対して親しみを持って用いる語。そなた。】 思ふてかこなたの心の剣(つるぎ)ぞや。《割書:サア|》房若様から殺(ころ)しやるか此子から殺 そうか。生としいける身の上に命を大事とする故に。あつい灸(やいと)も 堪忍するくすりあきなふ魂(たましい)に。あくまが入かはつたか地ごくの迎ひか ゆかしいか。むごい悲しい心やと声を立ねはめで恨む。うらみはおつと 思ふは主人歎一つを二筋に。こほす涙は組(くみ)糸をたぐり。出すがごとく也。 久作はつと得心(とんしん)【注】し。《割書:アワヤ|》そうじや誤た。お主は根本こちとは枝 葉。根さへかれねば枝葉は立。お主がもとじや合点したぞ女房共。 《割書:ムウ|》あまり急なおれ様 真実(しんじつ)の発起(ほつき)か。《割書:ハテ|》木石ならぬ久作。てき めんの道理を聞て合点せいで能(よい)物か。未来迄たすかるいけん 女房と思はぬ善知識(ぜんちしき)と。手を合すれは嬉しさの猶も涙にむせびし が。かまへて〳〵其心を跡へ戻(もと)して下さんな。されば〳〵。我身ながら 此心めがじゆうにならぬ。少も心に油断(ゆだん)させず善はいそげあす早(さう) 天。都へお供惟茂卿を頼むべし。御両人のかご二 挺(ちやう)お太刀持する 人足今宵からやくそくせう。御身もやすんで七 ̄ツに出立の用 【注 「とくしん」の誤記】 意しや。それなら早ふ戻(もど)つてや。《割書:ヲウ|》火の用心よふしやと門の戸明て 跡を又。さすとは見へしかたを波。足も音なく見かくれて縁(ゑん)の下 にて這(はい)入ける。見るよりぞつと身もふるはれ扨も〳〵恐ろしや。 得心(とくしん)も偽り。かゝる邪見(じやけん)の悪人に。夫婦の枕をならべたる。我も さき世の因果(いんくは)の業(ごう)。破れかぶれ奥様にしらせ。いつそわれて出 よふか《割書:イヤ〳〵|》年月かさねし我夫。罪に落すも本意でなし。やるかた しらぬ我身やと。むせ返り〳〵ふししつむこそむざんなれ。さては 簀(すの)子の下から突殺(つきころ)さふといふたくみ。《割書:エヽ|》罰(ばち)もむくひもかみわけぬ。 愚痴(ぐち)共悪共恐ろしや浅ましや。とかく我子をかはりに立我も 死んて見せたらは。恥入て悪をひる返しお主のために成へしと。おもひ 定て万とらをねながらそつとだき起(おこ)せは。昼の跑(あがき)に草臥(くたびれ)て たはい性念(しやうね)も長 欠(あくび)。母にじつといだき付を。いだきしめ。先年万年と思へ 共さだまる業(ごう)は詮方(せんかた)なし。房若さまにかはつてそなたの命を母 にたも。時にはとつさまのどうよく心もひる返り。お主様へは御奉公 未来(みらい)ではのゝさま【注】に。ほめらるゝぞと身をそへてせくりあげて 歎(なげき)しが。おそなはつては詮(せん)なしとそつと立てあゆめ共。畳(たゝみ)もう すき竹すの子下へしられじ聞せじと。火焔(くはゑん)の渕(ふち)の薄(うす)こほりふむ かと計わな〳〵〳〵。ふるふ足を漸(やう〳〵)にしづめ。我子をそつとおくの間 の親子のそばにねさせ置。我身は房若だき取てそろり〳〵と いざりのく。跡のたゝみをつらぬきて氷のきつ先つきぬき。〳〵ひら めいたり。ひらり〳〵と火にうつろひ。万とらがみゝのきは枕もとは《割書:ア|》 は《割書:ア|》あぶなや。今迄は刃物(はもの)持なげがすなと。世話やいた物かわい げに剣の山に捨るかと。思へばめもくれ冷汗(ひやあせ)に心も。きゆる計 なり。刀の切さき万とらがせぼねに突当(つきあて)。むないたかけてつら ぬかれ。ぎやつと計にそり返れはめもあてられず身もちゞみ。 しらずに殺(ころ)すてゝ親と見てゐて殺す母親と。つれない親 を持た子やと。思へはぜんごも打 忘(わす)れ母はわつとさけぶ声。北のかた 驚(おどろ)き起(おき)あがつてなふ悲しや。房若が殺された久作なふとさはぎ 【注 幼児語。すべて尊ぶべきものをいう語。】 給へは。是々申其久作が悪心からなすわざ。され共房若様は つゝがなし。殺されたは我子の万とら。くはしきしさいは申されずまづ 奥様此お子つれ。早ふ爰を落給へ。《割書:ヲヽ|》心へたと懐(くわい)中のまもり刀 房若に。さゝする間に女房 戸棚(とだな)の封(ふう)捻(ねじ)切。是此袋はたからの お太刀是が大事渡します。《割書:ヲヽ|》合点と太刀袋追取出んとする 所へ。縁の下より久作 危神(やくじん)のあれたるごとく飛で出。《割書:ヤア|》罪(ざい)人共 昔はむかし今は今。主つらひろぐがふがわるい。面々の立身づく 義理も仁義も入物か。飼(かい)かふ犬に手をくはれ女めゆへに子を 殺した。其上に此太刀ぬつくりと渡さふかと飛けつてひつ たくる。女房すかさずつかみ付申おくさま。此お太刀は此女房が跡から 持て追つかふ。辻(つじ)迄のいて待たつしやれ。早ふ〳〵と気をせけば。 心えたりと親子の人はしつて表に出給ふ。夫婦太刀を引合 夫は片手。女は両手太刀を下にひつすへ。久作ゑせ笑ひ。おのれ がよし千人力あればとてこりや。此脇指て腕(うで)ぶしをきり おとすが放(はな)さぬか。なふ命捨た此女 腕(うで)切らるゝをいとはふか。八年 九年つれそふて其様な根性(こんじやう)と。しらなんだが口おしい。いとしひ かはいひ子を殺さば。邪見(じやけん)の角もおれふかと。かはいや万とらに むだ死にさせた悲しやな。大事の子を殺させて男でもなん でもない。あつたら月日をそなたの様なむごいこはい恐(おそ)ろしい。浅 ましいちく生とはだをふれて腹が立と。顔を見上つ見おろし つ恨てにらむめの中に涙の。海を湛(たゝ)へけり《割書:エヽ|》あたやかましいと ふり上て。右の腕(かいな)を肩(かた)口よりはらりずんと切落す。左の手は猶はなさす。 これ異国(いこく)の眉間尺(みげんじやく)【注①】とやら首を討れて。剣の先くひ切ふくんで本望を とげしと聞。唐(から)日本も同じ人女で社(こそ[朱書き])有ふつれ。五たいの内一寸でもつゞいた所 に魂(たましい)こもり。此太刀は渡さぬと云より早く左の腕(かいな)切おとせば。飛ついて 紐(ひぼ)付にしつかとくひ付。うなりうめいて引たりけり《割書:ハアヽ|》徳利(とくり)子は見たれ共徳利 女房今 見始(みはしめ)。腕(うで)なしのふりずんばい【注②】とは此こと。すしな女の酢(す)徳利とつきはなして。 ほそ首水もたまらず【注③】打おとす。首は太刀にくひ付ながら両眼くはつと舞 【注① 古代中国の説話に見える勇士のあだ名。】 【注② ふりずんばい(振飄石)=竿の先につけた糸に小石をつけて遠くへ振り飛ばすもの。】 【注③ 水も溜らず=刀剣であざやかに切ること。】 上り夫をおつ立追廻り太刀の鞘(さや)にて打立る。音は千声万声の 碪(きぬた) をおくる夜嵐の空物すごき雲に入。つばさの有がごとくにてこくうにかけり 失にけり。かく共しらずおやこの人待かねて立帰り。内を見れば女房のむ くろはあけに横たわる。なむ三宝とめもくらみあきれはてゝ立給ふ。久作 も半 狂乱(はんきやうらん)。《割書:ヤア|》愚人(ぐにん)夏(なつ)の虫。おのれらゆへに女房子をよふ殺させた。かたき とらんと切かくるもふ叶はぬ是迄と。房若は縁(ゑん)の下。北の方は門の口逃 出れは追返し。はしり【注】の下竈(へつい)の影夢におはるゝ心地して。かくるゝに所 なく納戸(なんど)をさして逃入れば。久作二人を見失ひ爰や。かしこと尋るゝ足も。自(じ) 業(ごふ)自縛(じばく)の因果(いんくは)歴然(れきぜん)おのれが刀に切さきし。すの子の破れに両足 ぐつと踏こんたる。ぢごく落しと云つべしぬかん。ひかんともがきすがきのなはしまり。 竹のそげにて脚(すね)の肉(にく)熊手にかいて取ごとく。くるしむ所を下にかくれし 房若。守刀取なをし。股(もゝ)もこぶらも覚たり〳〵。覚ておれをよふぶつた 切たりそいだりつき通され《割書:ヤレ〳〵》いたいは〳〵。あんまりむごいゆるしてくれと泣 さけぶ。北の方走出 脇指(わきざし)もぎ取。切つついつの恨の太刀。房若も顕(あらはれ)出 【注 台所の流し。】 づた〳〵に切さいなむなぶり殺しののたれ死。天のにくしみ 主人のばち。妻子の罰も一時に報(むく)ひの剣ぞ心地よき。今は 是迄これよりは頼むは仏神天道次第。いそかれふさわかいざ 給へ母上。親はそれたか鷹(たか)の子の心はとや出の大鷹【注】 鶻鳫(はやぶさ)。 取 靏(つる)取 白鳥(はくてう)取。手に取小 鷹(たか)手なれだり。やがて名を取 知行(ちぎやう)取ほまれを取と気逸物(きいちもつ)。心計はいさめ共。身は落草(おちくさ) に影(かげ)隠(かく)す返つてきじと鷹の巣(す)や都の古巣(ふるす)に帰りけり   第四信濃くだり 今年わたりの。きやらではないがとめてねまきの 一かさね。ねまきの。とめて。とめてねまきの一かさね。 ともにかさねて二かさねいざやしなのゝ雪国の。雪 のはだへをあたゝめて。同じちぎりをかさねんと。世 継(つぎ)御 前も玉ゆらも。心おれあふ花の枝。つゑにきりつゝ。 たび衣。世のうゐつらいしらぬ身は。うしろづよしや後 【注 「とやでのたか(鳥屋出の鷹)」=鳥屋ごもりの後、羽も抜けかわって鳥屋を出る元気のいい鷹。】 には。金剛(こんがう)兵衛 茨菰(おもだか)次郎つはものふたりつるゝとは誰 も成まい。まねてみや。まねて都の町の中。さながら 〽人め恥しと笠かたぶけて。杖つきののゝ字やたれが 手ならひに。いろはちりぬるあはた山。候へく候に見えたるは 雪折。竹のかげやらんわらやのけふり一筋を。候へく候によみ なして。玉づさつもるせき守に。小町おどりのなりふり残す。 霜(しも)の小きくの狂(くる)ひ咲(さき)狂ひ咲。嵐(あらし)に狂ふ秋の空雲に。 うもれてかすか成三井のお寺はあれとかや彼秀郷 と中よしの龍宮かいのおと姫の。人の待よひわかれ ぢは。いかにせよとの鐘(かね)の声つがもながらの山つゞきこずへ まばらに染なして。のこんの月のもん所。木の葉(は)衣の もやうよくしやんと立たるみかみ山。いつかひよくのとこの山。 すそは萩(はぎ)原小松原待とたがいふた妻戸。をあけて。 月に枕。の宿かした。宿かしは木の森(もり)ならで。あはづの 森にやすらひてそれから。さきを見渡せば。沖のかも めや磯辺(いそべ)のちどり。羽(は)音さびしきさゞら波きけばさな がら。夜の雨。たが中立の。文づかひ。花にをりはへ行 鳫(かり)も。 爰の気色(けしき)をわすれかたゝにおち返り。飛かふつばさほの 〳〵と帆(ほ)かけてはしる。とも船も恋の道かやかぢをたへ。 ゆくゑしらはのやばせに渡る。からろのひやうしがかくり。 ころり。から衣。打出(うちで)のはま打出て。見ればゆきゝの袖 しけく人や見しらん見られじと。笠をそらせてよそめ ふる。空にはにじの。色どりて花のゑ付の。鏡山。顔にほ や〳〵秋の日の。さして誰とて恥もせず。かまひはせね ど旅(たび)なれぬ身はとりなりもなをさんとみだけし髪(かみ)の 柳かけしばし。立より給ひしに。是もやつれし旅人の 七つ計のおさなひの手を引あゆみつかれしは母ぞと見えし 柞原(はゝそはら)。木影(こかげ)にお休みなされしは都人と見参らす。ちか比 そさう【注】な事ながら。余五将軍(よごしやうぐん)惟茂(これもち)様は御在京にて ましまする。若御存しもさふらはゞをしへてたべとそ尋ける。 金剛(こんけう)兵衛心付。そも何ゆへに尋給ふ。則我々は惟茂の 郎等共。あなたはいづれも御れん中。主君(しゆくん)惟茂は公用 有て信州(しんしう)へ下かうに付。只今いづれもくだる折から用事 あらば同道せん。誰人成ぞと問ければ。扨は聞及し 旁(かた〳〵)にてましますか。我妻は御太刀ゆへ身をはたし世を さりて羽かびしほれし鷹のへをふさ若とは 此子が事。おなさけあれや人々よ。扨は聞及ぶ たてわき太らうの妻や子か。いざともなはんいたはしや。 あわれみ給へもろともに。おなじくしほる袖の 露。野路のしのはら。わけゆけはぢんばにつゞくお のゝしゆく。なじまぬなかもとひとはれすれつもつ れつ。〽すりはりのとうげはるかに見おろせば今こそ 【注 粗相】 秋にあふみぢの。めいしよ〳〵をそのまゝに。こすいにう つすうつし絵とうつして人にかたる迄。我あふぎにも かしははらあふ夜の夢はいつ迄も。さまさで見ばや さめがゐの水はせかれてよどむ共。我はとゞめじふはの せき。たび行人も立わかれ。いなばの山や。みやぢやま 草木もそめしあさぎぬの。きそのみさかに さしかゝりしなのぢ。にこそ〽つきたまふ 面白や比は長月はつか余り。四方のこずゑも色々 ににしきを色どる夕しぐれ。ぬれてや鹿のひとり なく声をしるべの狩衣(かりころも)げにおもしろきけしきかな。 花のふゞきの雪ならではらはぬ袖につもりては。五色の 雪とふる紅葉。わけつゝ行は錦(にしき)着(き)て家に帰ると。 人や見るらんと。朱買臣(しゆばいじん)がむかしを読(よみ)し。哥の心に 似たるぞや。それはもろこし会稽(くはいけい)山爰は信州(しんしう)戸隠(とんかく)【?】 山。今惟茂が身にたぐへのぞみをかなへ二度都に帰るべき。 しるしを染てますらをか。やたけ心の梓(あつさ)弓。ゑびらの矢さへ 紅葉して。ともにそめ羽とならの葉の。帝の御めには。龍田 川の秋のゆふへにしき共御覧有。渡らば中や絶(たへ)なんと。 おしみ給ひし御 製(せい)も有。又は古言の。花をふんではおなじ くをしむ花もみぢ。たへず紅葉 青苔(せいたい)の地。ふまではゆかん 方もなしあら。〳〵面(海道)白やな。行ももみぢ葉 戻(もど)るももみぢ 葉。こゝろをそむるも。もみぢ葉。もみぢ葉(は)の影にや どれは。雨にもあらず。雪にもあらず。まして露霜 霰(あられ)にあ らず。乱れて吹おろし袂(たもと)にはらり烏帽子(ゑぼし)にはらり。 はらり〳〵。はら〳〵はつと。風のよせたる朽葉(くちば)落葉の色 も珍らし。《割書:ハアヽ|》聞しにまさつてけはしき山かな。たにふかく。岸 高く。屏風を立たるごとく成に。櫨(はぢ)楓(かへで)蔦(つた)紅葉(もみぢ)。紅錦(こうきん) 繍(しう)の山 黄纐纈(くはうかうけつ)の林(はやし)。錦上(きんしやう)に花をしくとはかやうのことをや 申つらん。《割書:ヤ》是成紅葉の下枝に盃(さかづき)をかけ。かなへの下に落葉かき よせ薪となしてくゆらせ。酒あたゝむる此ふせい。林間(りんかん)に。酒 をあたゝめて紅葉を焼(たく)といふ。詩(し)の心をうつせしは詩人(しじん)か哥人か 扨は又。恋する人のたのしみか。花に鶯(うくひす)紅葉に鹿(しか)。こぶに 山桝(さんせう)恋に酒。げにさけは曲物(くせもの)更にゑこそこらへね。絵(ゑ)に かく鶴(つる)も酒に舞(まひ)。蓑(みの)を酒にもかへしそかし。主は誰共 しらね共風流人のなすわざ。とがめはあらじ立寄てくまふか。 《割書:ヤア|》むかふの紅葉の木影(こかげ)を見れは。さもやごとなき上らうの 紅葉にたはふれ遊覧(ゆうらん)有。此人々の酒なんめり。よし誰にも せよ上らうの。深山がくれの紅葉狩。かた〳〵すいさん叶(かな)ふましと。 道を隔(へだ)て山影の。岩のかけぢを過行は。〽げになふ虎渓(こけい)を 出し賢人(けんじん)も。なさけは捨ぬ盃をいかでか見 捨(すて)給はんと。いふ声遠く いつの間に姿(すがた)は爰に忍ぶ摺(すり)。乱れをゆるす竹の葉の。便(たより)に 立寄給へかし。〽思ひよらずや数ならぬ。深山(みやま)にたてる木の下露 しづくもならず御 免(めん)あれ〽情しらずや一 樹(じゆ)の影。一 河(が)のながれを 汲酒も。縁(ゑん)あれはとて引とむる〽ひかるゝ袖も〽ひかふる我 も〽さすが岩木にあらざれは。心よはくも立帰る。所は山路のきく の酒何かは。くるしかるべき。〽およそ酒には威徳(いとく)有。うれへを 払ふ玉はゝき。詩を釣(つる)つり針思ふことなくおることなし。ことさら。 秋の葉の。色汲かはす山水に。弓矢は何の御ためぞ思ひ付たり 此山に。鬼すむ成といひなすを。誠と心へたいらけんためな。恐ろし やそれは人のそらこと。又は御身のそらみゝかそもや鬼すむ。 山ならば女をたすけ入べきか。誠や鬼のこもるは安達(あだち)が原 の黒塚(くろづか)。葎(むぐら)生(お)ひてしぐれる宿(やど)の。うれたきに。かりにも 鬼の。すだく【注①】成とは。むかし男のこはざれ【注②】に。女を鬼との捨 ことば。普天(ふてん)の下 卒土(そつと)の中 何国(いづく)か鬼のすみかならん。弓 をも矢をも打折て。捨させ給へまれ人よ。《割書:アヽ|》〽しばらく。 さやうの義にてはなし。落来る鹿(しか)を射(ゐ)とめんための弓矢 【注① 多数が群がる。】 【注② 「強戯れ)=悪ふざけ。】 ぞうよ〽扨は御身は狩(かり)人か〽狩(かり)人ならねば射(ゐ)ぬ物か。花 ふみちらす鶯(うくひす)をうたんといひし人も有。猿丸(さるまる)太夫か悲(かな)しみし。 色よきもみぢをふみちらす鹿ゐとめんための弓ぞとよ。異(ゐ) 国の楊雄(よゆう)は百歩に柳の葉をたれて。百矢をはづさず 空とぶ鳫(かり)を射ておとす〽それは柳〽是は栬〽それは鳫 かね〽是はさをしか。名を聞よりもいで物見せんさおしか とて。はいたる沓(くつ)をふんぬいで大口のそばたかく。狩衣(かり)の袖を うつかたぬいて。紅葉の木影(こかけ)にねらひ寄て。よつひきひやう どゐはやと思へ共。仏のおしへの殺生戒(せつしやうかい)をばやふるまし。 打とけて酒をくまふよ〽おもしろや劉伯倫(りうはくりん)がもて遊(あそ)び。 今爰に汲やくめ〽晋の七 賢(けん)がたのしみ〽かさねて爰に汲 やくめ。〽是成山水の岩ほにかゝる瀧(たき)の白糸くるり〳〵と。 山もめくるや雲もくる〳〵。めぐる盃(さかづき)数も忘るゝ我身 も忘(わす)れて酔(ゑひ)心地。只おもしろいよの木の葉のいろより お顔のもみぢ。紅葉たかふより柴めさんか。ぢんやじやかうは もたね共。匂ふてくるはたき物。おはら木。〳〵。おはら木かは い〳〵黒木めさんか。峠(とうげ)の茶屋で。だんごばしかふな。松の木 はだをそろりと撫(な)で。其手でだんこを。まろまかす〳〵。まん 丸まる〳〵丸やのかもじがまん丸けな顔て。月見よとお しやる。かとやのかもじはまつ四角な顔で。火燵(こたつ)にあたろ。 ながいさゝぎが花はみじかふてみじかい栗(くり)の。花のながさよ花 のながい小てんぐ。しこのばいこのけち〳〵。爰を明さい明ずは戻 ろ。はいたる太刀に露がうく〳〵くはんこや〳〵。したんにたるほゝ《割書:エイ|》。はら 〳〵にはら〳〵は。きり〳〵〳〵しつちよん〳〵。ちやうりやうふりやう らりつろゝ。とうらいりやろらりつろゝちやうらにひよ〽よろり 〳〵とよろほひ卧(ふし)たる枕のうへに。らい火みたれて天地もひゞ き。酒もかなへもほのほと成て梢(こずへ)にさはぐ山おろし。かん やうきうの煙(けふり)の中に〽不思議や今迄有つる女。とり〳〵化生(けしやう)の 鬼形(ききよう)とへんしおろか也惟茂。大内にて我けんぞくを矢先 にかけし其恨。みぢんになさんと踊(おどり)かゝるを太刀ぬきそばめ。 切はらへ共事共せず。かうべをつかんであがらんとす引おろしてつ かんとす〽山谷一どに鳴動(しんどう)して雲きりくらきその中に。月共 なく星共なく一団の野火(やくは)顕(あらは)れ出。こがね作の太刀一ふり 紅葉の枝にかゝると見へしが。此太刀みづからぬけ出て。鬼神 のうへにはためき渡りひらめきかゝつて〽追散らし追はらふ 剣(つるぎ)の光 紅葉(かうよう)八葉みほこのはさき。やいばのけんそう威力(ゐりき)に 恐(おそ)れて飛行を失(うしな)ひ〽朝日に霜と消(きへ)行鬼神。剣は 鞘(さや)におさまる山風。梢(こずへ)に其まゝ残りし太刀のかざりの 金玉。紅葉のてり葉もかゝやき渡つて山路の草木かくや くたり〽惟茂ぼうぜんとしてあら浅ましや我ながら。無明(むみやう) の酒の酔(ゑひ)心 現(うつゝ)共なき変化(へんけ)の形(かたち)。あらたなりける利剣(りけん)の徳 と。梢をみれは有つる太刀のましますそや天のさづくる名 剣ならん嬉しやとらんと立よれは〽なふ〳〵其太刀な取給ひ そ。それには運の候そや〽扨はおことは此太刀の主成か〽いや此 女が身にそひはつる物ならねと。我身はかろき水のあは。うか むはおもき水鳥のお主のためとうきせをふみ。心をくだき くるしむる。ひとつの望有太刀を。人手に渡し参らせは。思ふ お主の出世(しゆつせ)の日を。いつかはみほの松原に天の羽衣(はころも)ぬすまれし。 彼天人の浮思ひはねなき鳥のことくにて。天上せんにも 羽衣なし。地にまたすめは下男也とやせんかくや詮方(せんかた)も。涙の 露の玉かつら。かさしの花もしほ〳〵と。三づに迷(まよ)ふとつたへきく。 其天人の五 蓑(すい)より人間に八 苦(く)有。ましてや女は五 障(しやう)の雲。 三従の霧(きり)ふかきにしたかふべき夫にはなれ。いとしかなしとそ だてつる子を失(うしな)ひし芦辺(あしべ)の鶴。よしあし二つに迷ひぬる。 来世のやみをいかゞせんと只さめ〳〵とぞ泣ゐたり〽にげなき 賤(しづ)の女の身心えがたき詞のすへ。扨は一つの望(のぞみ)とは価(あたい)がほしいと いふ事な。我こそかくれもなき余五将軍平の惟茂。価(あたい)は 望にまかすべし〽うたての事なの給ひそ。あまたの命にかへし 太刀。たとへ千金万金も命にあたひの有べきか。のぞみとは 影たのむ。譜代(ふだい)のお主の身のうへと。いひさしてこそ歎けれ。 〽猶もふしんは晴(はれ)やらす我も太刀を尋る身。おことが主人の氏 名乗妻や子の身のうへくはしくかたれとの給へは〽とはれてかくと かたるにもいとゝお主の櫨(はぢ)紅葉(もみぢ)色に出すもつゝましく。わき てそれとは伊吹山。蓬に麻(あさ)の夫婦の中。あたりにちかき不 破(は)のせき。人めの関をしのぎこしもとは互(たがひ)の忍ひ合。狂ひ合たる から猫(ねこ)の。お主の膝(ひざ)もとなつかしく。御 恩(おん)をいつかおくらんと身こそ まつしき暮しにも。心をすくに世をわたる。竹の子は猶おやま さり鳶(とび)が産(うん)だる鷹(たか)の羽の。はがひの下に立返り奉公(はうこう)さ せんおとなになれと立年月もたくりくる。三 ̄ツ で髪置五 ̄ツ で袴(はかま) 着。六 ̄ツ で寺入あげる手本の数々は。七 ̄ツ いろはの手よは七つ。 撫(なで)つさすりつなでし子の花のゑかほの。あひらしさ父と。母と がたのしみは。吉野 初瀬(はつせ)の花見にも。おとるまいぞやまさるぞや。 おとるましきとそだてあげ志賀(しが)のからさき一 ̄ツ 松外にならびも。 なかりしに。てうあひあまつて我妻の主人の子をきり殺(ころ)し。我子の 末の栄花(えいぐは)にせんと悪心たゝむうらめしや。いんくは〳〵のおない年この 手かしはの二面。一葉をわけて身かはりに立を夢にもしらはの刃。 はかなや親の手にかゝり胸(むね)のあたりを。さし通し指通さるれば気も 魂も。きへ〳〵と成 果(はて)し其 俤(おもかげ)の身に添(そひ)てながき闇路(やみぢ)に。迷ひし也かゝる 歎(なげき)に沈(しつみ)しも哀お主を世に立て。つみをつくりし夫の後世ひごうのしにのみ とり子も。母がしゆらをもたすからん願ひの糸は一筋と。玉をつらぬく涙の露 〽見れはしほるゝ惟茂卿〽山の紅葉も一しほに〽歎の色をや添ぬらん〽心よ はくて叶はしといかに女。おことが歎も不便ながら。惟茂が尋る太刀はのぞみ をかくる人おほし。何者かうばひ取何者の手にわたりしやらん。其 主(ぬし)の名を聞 ては望かなはん様もなし。太刀を改(あらため)ことをたゞし奏問(そうもん)してゑさすへし。都へ 尋来れやと太刀を取てぞ出給ふ〽走かゝつてたちもぎ取小 脇(わき)に かい込。なふ心つよやつれなや。ほまれ有主君ならば大音上てなのらん物。 ふかくを取しお主の名 何(なに)面目(めんぼく)に名のれとや。園(そのを)に植(うへ)ても紅の色にもそれ としろしめせ。願ひ叶はぬ其中は此太刀我身はなさぬとよ 〽げに〳〵是もことはり也。扨日本には名剣おほし。此太刀の銘(めい) 太刀の威徳(ゐとく)。聞及びてもしつはらめ語れきかんと仰けり〽さ れは主君の物語。御太刀の御本地聞 伝(つた)へし趣(おもむき)を。あら〳〵語申べし。      剣の本地 先あしはら大日本。神武三ふりの宝剣有。一つは天の はぎり共。又は十握(とつか)の剣(つるぎ)共申。大和の国 石上(いそのかみ)の御神 体に立給ふ。又一ふりは八雲たつ。八 股(まだ)の蛇(おろち)が尾さきより 顕(あらは)れし天の村雲の宝剣。そさのおの尊(みこと)ぎをん 牛頭(ごづ)天王の御剣なり。今一ふりはそさのおの尊の御子。 日吉山王 権現(ごんげん)共。三輪(みわ)の明神共おかまれたまふ。 大あなむちの尊の御剣。事もおろかや是。此。この御太 刀にてまします也それより代々の帝(みかど)に伝はりて。人王 十五代の姫みかど。神功皇后(しんぐうくわうぐう)神風や天てらす。太神宮の 告(つげ)によつて。新羅(しんら)のゑびすを討べしと。御身もさすが只なら ぬこもち月の中空に韓国(からくに)さして。責(せめ)入給へは。中臣のいかつ の臣。吉備(きび)のかもわけ両大将。兵船軍船凡三万八千 艘(ぞう)。順(じゆん) 風に帆(ほ)を上てさながらゆう〳〵平地を行。扨 皇后(くぁうぐう)の御座船は。 楯籏弓。鑓鉾鎧かふと腹巻をかざり立。〳〵錦をつゝんで つゝみ立たる屋形には襴(らん)のとも綱(つな)綾(あや)の帆を上きぬ笠 御(み)笠 せい〳〵と。あをきが原の波間より。住吉の神 楫(かぢ)を取。龍女は みちひの玉をさゝげ。けい〴〵りうしやをさきとして。八尺(やひろ)の鰐(わに) やしやちほこや。鯛(たい)にすゞきに鱧(はも)鰹(かつを)。あらゆるうろくす鱗(うろこ)をな らべ。君が御舟をしゆごしつゝ。三日三夜はみつばの征矢(そや)とふ鳥より 猶はやく。七千余(よ)里を漕(こぎ)渡り百済(はくさい)国の大 湊(みなと)ふうとうの津(つ)にぞ 御船つく。百済王伝へ聞。小国なれ共日本の神軍。士卒(しそつ)の力を はげますべしと金城。鉄城四百余か所にかきならべせきるいせきたい 山のごとく。鉾(ほこ)先そろへ矢先をみがいて待かくる〽日本せいは事共 せず船を洲崎(すさき)に乗捨〽のり捨〽乗すて〽乗なし駒(こま) の手綱をかいくつて。鞍こす波を乗すかしむかふ波をさんづに さがり。一 鞭(むち)くれてさつ〳〵と乗はなしのりうかめ。むかふのきしに あがるも有。又は遠矢にゐておとす。矢先はふる雨 降(ふる)あられ おめきさけんで戦ひしは百獣の洞の中虎のかけるにことな らず。敵(てき)も味方も入乱れ。切つきられつ追つまくつゝ 鎧(よろひ)の袖を。汗(あせ)にひたしてやれ。扨さて〳〵〳〵〳〵。《割書:ホヽ〳〵〳〵〳〵|》暫時(ざんじ) の隙もなかりけり。されば日本神力の。住吉現し給へは。八百 万神七千余社 籏(はた)の手に顕(あらは)れ出。神明かぶら矢(や)射(ゐ)かけ 給へは。此太刀おのれとぬけ出て。ひらりひら〳〵切立〳〵三十 余ケ(よか)度の。戦(たゝか)ひに味方は討れず手もおはず《割書:ヲヽ。〳〵〳〵〳〵|》 新羅(しんら)百済(はくさい)高麗(かうらい)国の。あらきゑひすを爰に追つめかしこに おひ。追つめ〳〵責(せめ)ほろほして。帰る波風やす〳〵と。正八幡をうみ給ふ。 扨こそ三国和合(わがう)して。龍宮城(りうぐうじやう)より嫁(よめ)君めとり狛(こま)の冷人(れいじん)舞楽(ぶがく)を 奏(そう)しくれは〽あやはの二人の織(をり)姫きたりんりんず。きんらん どんすを織ひろめ。詩書(ししよ)礼楽(れいがく)の道ひろき。聖(ひじり)のふみも渡りきて。 上にめくみのまつりごと万民徳にうるをひて。風雨(ふうう)随時(ずいじ)に治(おさま)る事 此御太刀の威徳(いとく)ぞとて。太平国の文字によつて平国の。御剣と申奉る。 実有がたや是ぞ我尋る太刀。のぞみをかなへ得さすへし。たのむ 主君の名乗はいかに〽今は何をかつゝむへき侍所の預(あつかり)鷹巣(たかのす)の 帯刀太郎 広房(ひろふさ)。主君の若君房若殿 麓(ふもと)にたゝずみおはし ます。今爰にさそふべし世にたてゝたべ惟茂卿〽正八幡もせう らんあれ此 契約(けいやく)はたがふまし〽嬉しや有がたや。今は迷ひの霧 はれて〽さとりにいれや戸隠(とがくし)山〽山かせ〽谷風さ。さ。さつとし て。木の葉かくれをよく見れば形(かたち)は。秋の露きへ。〳〵として かんはせ木すへに莞爾(かんじ)たり〽房若親子二人の姫。二人の郎等 いざなひてたがよぶこ鳥そことなく。分入給へば惟茂卿。たがひに 始終(しじう)の物語〽房若が父帯刀は勅勘(ちよくかん)の者なれば。奏問(そうもん)経(へ)ん も事むつかし。惟茂が家臣(かしん)として過分の所領(しよりやう)を安堵(あんど)せん。元服 くはへ名を改。鷹巣の小太郎 広文(ひろぶん)と名乗べしと御諚有。はつとかうべ を地に付て悦の色浅からぬ〽女が首は嬉しげにゑみをふくみし 梢(こずえ)の色。もみじもをなじ形見ぞと。請たる袖の広文が。末たの もしく頼み有此御太刀の御威光に金剛兵衛が金剛力。おもだか 二郎と仁王力。戸隠山の大明神天の岩戸を天の原。取てなげたる 手力雄(たちからお)其大力くはゝつて。鬼神忽亡ひ失せ八嶋の外に波もなく。 のゝめき渡り雲井の空へ。やがて二度帰洛せんなむやとがくし大明神。はやく 瑞相見せしめ給へと一心に御祈誓有扨こそ。広文成長して。頼光 に奉り酒呑どうじを退治有。源平両家の宝の太刀せうこも 今も末代も。ためしすくなき御神力と紅葉を。ぬさとぞ奉る    第五 賢者(けんしや)を得(ゑ)たる渭水の狩にたとへは恐れ紅葉 狩(がり)。宝剣を求(もとめ)しも 自の徳によつて也。太宰の大弐諸任。思ひ立旨有て戸隠山に せこを入。我身は山の半腹にしきがはしかせ休らひける。せこの大ぜい かけ来り昼前より只今迄。狩暮仕候へ共しゝ猿うさきは存もよらず。 野鼠一疋出申さず。弁当たへた手前も有いかゞはせんとぞ申ける。諸 任打笑ひ《割書:ヲヽサ|》其筈〳〵。しる通り当山には鬼神すんで人間をさへ取 くらふ。うさき狸をいけておかふか某山狩とは偽り。汝等にかくといはゞ腰をぬかして 一人も。供する者は有ましと思ひ山狩とは触たれ共。誠は鬼神 退治(たいぢ)成と いふよりせこ共ふるひ出し。後を見ては前へ出前へ〳〵とこみ出ける。扨そろふ たる臆病者。某数年願ひをかけし。平国の御太刀惟茂か拝領し。恋こ かれたる世継御前迄かれに下され。かた落の御沙汰と思へ共。上へ恨も 申されす。そのうへに此山鬼神退治の勅諚。何もかもかれにしまけ ては諸人につらも合されず。鬼神退治と有からは出立も有へきに。おさめ 過た惟茂かすはう長袖長袴で。毎日山を廻ると聞。諸任が下心鬼は 付たり惟茂退治の合点《割書:サア|》侍から足軽中間奉公とは此度。命を主に くれたと思ひ。惟茂とひつくんで指ちがへ。此無念をはらさせよ頼む 〳〵といひけれは。せこの者共猶ふるひ鬼とはいへどめに見ぬ事。第一 すかぬは惟茂。其上に金剛兵衛おもだか次郎なふいやゝ。鬼にかな棒惟茂 にぼた餅。さい〳〵てなみたべ付た《割書:ハアヽ》悲しや。俄に虫くいばがいたんできた。 お暇申上ますと一人逃て立けれは。持病の中風がおこつたと口をゆがめ て立も有。当月老母 産(うみ)月の《割書:ヤ|》。今日は我等がおぢ桓武(くはんむ)天皇の命日の。 なむさん跡の煮売(にうり)屋の。銭忘れたやつてこふ。旦那(たんな)寺の長老が欠落(かけおち)しられた。 船頭(せんどう)がやねから落た馬子が川へはまつた。何 ̄ン のかのとかこ付に皆々はつし逃にけり。 郎等(らうとう)楠辺(くすべ)の平蔵立あがり《割書:ヤレ|》臆病(おくびやう)者。一足ても立さらば一々首を討べきと よばつても聞入ず。あれ御らん候へ残らす落失せ主従(ししゆ)二人鬼住山にあんかんとして 手 柄(から)にならず。あやまつては御ちじよく。麓(ふもと)へ一先さがりあれかしといへは《割書:ヲヽ|》我もさ は思へ共。さいぜん麓にて金剛兵衛とおもだか次郎がちらりつと見へたれは此道下るは 無用心おく山は又鬼の気遣。今では鬼と惟茂と両方に敵がふへて来た。 どふぞ脇(わき)道は有まいかと。夕日も年もかたふきて。七十余りの柴(しば)人の。腰もねぢ れし山道を。たゝぼくほく〳〵あゆみくる。こりや〳〵おやち。何と此山にわき道はない か。鬼がすむとはいへ共。定て劫(こう)へた熊かいのしゝかを。鬼と云なす物ならん有 やういへと有けれは。扨々々。疑(うたがひ)ふかいお侍必油断なさるゝな。有時は女共成有時は ちつほけな小坊主(ばうず)で出ることも有。時によつては鼠衣にづだ袋道心者共 顕るゝ。彼 世話(せわ)に申鬼に衣といふ事は此山からおこつたげな御用。心とそこたへける。 さすがの諸任聞たびにびく〳〵〳〵して。《割書:サア〳〵|》どふぞきづかいない道があらば教てくれ。 《割書:サア》そこが変化(へんげ)の通(つう)力。けふ来た道があすはなく。きのふ迄ない大石が夜の間 にぬつと出来るやら。大木かはへ出山入を迷(まよ)はずやら。道とて更に定まらず 《割書:ヲヽ》こはいこと〳〵。去ながら忝い余五将軍惟茂様。鬼神退治なさるゝよし国中の 悦び。是をねたんで。橘の諸任とやら。惟茂様をねらふとの風説。此諸任めを 見付次第。打ころいてのけうと国中のわかい者。手くすね引て待かけると。いはせ も果すむなぐらつかんでどうど投(なげ)《割書:ヤイ|》ちいめ。うぬは惟茂に何 ̄ン ぞ囉(もら)ふたな あ。此諸任を見しつて。きづかひさせて笑はん為の偽り。誠鬼のすむ山におのれは 何 迚(とて)柴(しば)を刈(かる)。但うぬは鬼の一門か。有様云すは踏殺(ふみころ)すとはつたとにらんで責(せめ)つくる。《割書:ムヽ|》 いか様御ふしん尤鬼神に横道(わうだう)なし迚。当山とがくし大明神の氏子の分は指(ゆび)もさゝす返 つてしゆご致ゆへ。氏子にわるふあたれはめのまへにあたをなす。惣して氏子にかぎらす 山を住家(すみか)の山人柴でも木でも肩に置て通れは。夜るても昼ても恐なしとぞ 語ける。主従㒵を見合こりやかうも有ふ事。《割書:ヤイ|》ぢいめ。此しば身かかたける。おのれは 道の案内(あんない)先へ立て失せおれと。乗取てかたぐれば。《割書:エイ|》おまへがおかたげなさるゝか。《割書:アヽ|》 是は御太儀な。慮外ながらお先へ参ますと。樵路(せうろ)に肩を休たる。年のこうとて 山人が。鬼にとられし荷ひこぶ麓をさして。〽下りける。房わかは只一人長かたなの一本ざし。 股引かるき山づたひ母うへ追かけなふ房若。云事聞ずにとこへ行。姫君達のお伽(とぎ)はせず。 おとな衆とおなじ様に山へのぼつて何をする。戻らぬか房若と引とめ給へは是かゝ様。なぜ 房若とおつしやる。わしが名は小太郎広文もうおとなじや。鬼神退治のお供して。鬼の子 ても殺さねは父の恥かすゝがれぬ。やつて下されかゝ様と踏(ふみ)しまれば母うへも《割書:ヲヽ|》けなげな 事よふいふた。ちゝごを無事で置まして今の詞をきかせたい。悦ひ給はん物を迚 又嬉しきも涙成。諸任は坂中にておもだか次郎に追立られ。峯共わかず逃 のぼり。草にやかくれん土にや入らんとうろたゆる。小太郎は味方と心へ是なふ〳〵と呼 かくる。諸任見付なむ三宝。早鬼が顕たと地にくひ付てぞ卧いたる。親子の人も 興さまし。《割書:アヽ|》是々麁相な。そなたはそも誰人ぞ。こちは鬼ではないわいの。顔上て念を入 これよふ見やと笑ひ給へは。《割書:イヤ 》念入て見るに及ませぬ。有時は小坊主有時は女とお化なさるゝ 由。お噂とつくと承る。一時に二色は御念入程めいわく。鬼神退治致は平の惟茂。我等はけつく 其惟茂を亡(ほろほ)す橘の諸任。お恨請ん覚なし助給へとふるひける。おやこめぐはせおと に聞諸任。父のるらうもきやつ故久作一家がほろびし遺恨(いこん)鬼より大じの敵ぞと。心 さかしき小太郎大音上《割書:ヤイ〳〵|》。己を橘の諸任とは我通力でしつている。惟茂殺すは己(おのれ)を 頼まず。鬼一口にかんでやる。どうでも己が太刀かたなの指様。此鬼共を退治するつら付じや。 待てをれがり〳〵とかんでくれよ。うたがはしくは誠の姿を顕(あらは)そか。わん〳〵〳〵と云けれは。《割書:アヽ〳〵|》 どふよくなこと御意なされな。退治する気みじんもなし。たち刀がきづかいならはこれ御らん あれと大小からりと投(なげ)出す。おやこ追取するり〳〵とぬきはなしおろか也諸任。誠は我 こそ帯刀太郎広房が一子房若丸。惟茂将軍の家臣と成。元服して高巣の小 太郎広文。父の恨世の敵めのまへ主君に敵するやつ。あますましきと両方より打て かゝれは。諸任しゝのいかりをなし。ひらりとはつしひらりとぬけ。かいくゝつて北の方を小脇にかいこみ 太刀もぎ取。寄な世忰(せがれ)め一討と八方払ふきつ先にさうなくも寄つかず。母は悲しみ声を上。我 を捨て早逃よ。大しの身じやとあこがるゝあやうかりけるまつさい中。金剛兵衛おもだか次郎。 敵の郎等 楠辺(かすへ)平蔵をひつつかみ。打立〳〵来りしがやれでかいた小太郎。しつはと討小太郎と 力を付ておがみ打。胴は一つに二人の太刀。平蔵がかうべより十文字にそ切 割(わつ)たり。諸任 是はと見返る間に小太郎すざさずつゝと入り。たゝみかけ〳〵。太刀打おとし。まうつむけ にたゝきふせのつかつて。《割書:ヤイ|》なこなりや今じや〳〵と。むな板を。ゑぐりくり〳〵首打落し 《割書:アヽ》よい気味しやと笑ひしは。天晴(あつはれ)武功の親ぞんと母は悦びかきりなし。両人悦ひお手 柄〳〵。鬼の首同前の高名弥君の御仕合。麓へさがつて先御らんに入られよ。母御 の満足。さこそ〳〵といひけれは。されは御 推量(すいりやう)なされませ。あの親程な諸任を。鬼に成 てたました云廻しの弁舌(べんぜつ)。後には人も売ましよと笑ふて〽打つれさがりけり。金剛 おもだか息をつき。扨何 ̄ン てもないやつによつほとの骨折たり。かんじんの鬼にあふた 時くたびれては詮もなし。暫(しばら)く休息(きうそく)せまいと。十かい余りの榎(ゑのき)の古根(ふるね)横たは つてこけむせり。《割書:ヤア》くつきやうの休所と両人あげ足腰打かけ。心そろひしふてき 者。鬼神退治は事共せず世間咄 恋咄(こひはなし)。是に酒が有てはと紅葉をながめ ゆう〳〵と気をのはしてぞ休ける。不思議やこくうの霧(きり)の中うす引ごときしはが れ声。何物なれは推参な。足をのはしてまとろむ所ひざの上てやかましい。 けちらしてのけうずやつとよばゝる声。ふり上見れは一丈計の鬼のつら。角は 柯木(かぼく)頭(かしら)は茅(ちかや)。まなこの光は饒鉢(にようはち)を打て付たることく也。二人太刀に手をかけ下を 見れはこはいかに。木の根と身へしは鬼のすね。朱(しゆ)ぬりの岩共いひつべくさすが のもの共はつとせしか。《割書:ヤア》不行義(ふきやうぎ)な鬼殿。人のまへにすねをのばして見くる しゝ。足かながふてくにならば切こまげてとらせんと。切つけんとする所を乗 せながらぬつと上。おうとおめくはね足に百間計けちらしてけすが。 ごとくに失せにけり。金剛兵衛すつくと立。是おもだか。さぞや鬼が心には 我々をけちらしたとおもふらめ。我々は又鬼のすねを下じきにしたからは。 勝負(せうぶ)は五分〳〵《割書:サア》。是からは鬼にも人にも気が出来て面白い。おく山ふかく 切入らんいざこいといふ所へ。そりさげ野郎(やらう)の小やつこが。だいなしの裙(すそ)ちりけ 迄又からふし山見へ申。 関(せき)内角内 可(べく)内よ。とつたりとらんかとら 藏よ。やつこ〳〵小やつこに。山の手やつこ〳〵ゑ。せき内角内可内よ。 とつたりとらんかとら蔵よ。やつこ〳〵小やつこに山の手やつこのふり出し ておとりくるひてあそびけり。金剛おもだかめを見合せ。変化が我々 引て見るあなどつたるふるまひ。あつちからあなどらばこつちも鬼 をなぶり物。なぶり殺しにしてくれんと《割書:ヤア|》小りこうなやつこ殿是へ とまねけばちよこ〳〵〳〵。爰へとよべばちよこ〳〵〳〵。扨もふつたり まだふれ〳〵。おどる所をとびかゝり。うたんとすれはひしりととび。 きらんとすればはつときへ。かげろふいなづま水の月。めにさゑ ぎつて手にとられすあきれ。はてゝ立たりし二人のかうべを 両手につかみ。すねはそらに引あぐる。切てもついてもたゞ雲水 を切ごとく。ふみとゞめふみしめても大ざうにひかるゝごとく。おぼへす ちうに引あげらるれは。てんちにはかにしんどうして山河もさ くることく也。聞とひとしく。これもちしやうぐん山上にかけあがり。 なむや八まん大ほさつと。心に念しかのくにむけの御剣 をぬいて。切はらひ給へは二人を天地にかつはと投(なげ)。剣に恐れて雲 井にあがるを。引おろしさし通し切ふせ給へは。其たけ一丈の鬼神の 正 体(たい)忽(たちまち)悪鬼をほろほし給ひ。ゐせい日に増(まし)所領(しよりやう)もまして。 二人の姫に数々の子孫はんしやう国はんしやう。民はんじやう 五こくふにようの大日ほん神と。君とのめぐみ有御代 に。すむこそたのしけれ 【裏表紙】