瘡家示訓 全 瘡家示訓 凢(およ)そ億兆(をくてう)の人。病(やまひ)せるのくさ〴〵多(をほ)かる中に。 黴瘡(ばいさう)てふ悩(なやめ)るや。其(その)はじめ閨房(けいぼう)のみぞり かはしきる利發(をこ)り。父兄(ふけい)にはすたゝなり。同じ 家(いへ)なる人にも。深(ふか)く隠(かく)しつめるゝより。終身(しふしん)の 奇人(きしん)となり。果(はて)〳〵は魂(たま)の張(お)の。飯(ひえ)ぬるに至るも はた鮮(すゝれ)しとせず。醫又愈(いゆ)々の道(みち)し。わいため 【右】 ぬにしもあらあずど。うたゝ其功績(いさほし)の著明(じよめい)な るを見ず。こや労(らう)して功(かう)なしといはん。さるを 小川氏顕道(あきみち)のぬしなゝ。是(これ)を憐悃(れんこん)なせる事爰(こゝ) に年わり。その病(やまひ)しはじめに萌(きざす)す所を。誡(いましめ)の言(こと) 実(げに)〳〵至(いたり)ふかう。旦庸醫(りつやうゐ)心肝(しんかん)に。延(いしばか)するの言(こと)の 葉(は)。いと切(しきり)にして。こせひ瘡家示訓(そうかしくん)と号(がう)し。一名(いちめう) 瘡守土団子(かさもりつちだんご)と題し。梓(し)に壽(しゆ)し佛いる。世の永(なが)き 【左】 寳(たから)ともいふべし。此(この)小川のぬしは。醫員(ゐいん)何がしの■(ゐん)にて。 家(いへ)つ風吹絶(ふきたえ)ずして。御施薬院(おほんせやくゐん)になん。旧(ふる)く事業(ことはざ) つとめ怠(おこた)らて。齢古希(こき)より余(あま)れること四(よ)とせ。子孫(しそん)の 数多(かず)は廿余(はたちあま)り三(み)たつ。いさゝかの悩(なやめ)る事さへあらで。どのも〳〵 さかんに公(おふやけ)につかう結つるや。はた世に稀(まれ)なりと伝べし。 こたの此書(このしよ)を携(たづさへ)いく。吾に序せと需(もとめ)切(せち)なれど。己(をのれ)は 醫の道とては菽麦(しやくばく)をさへもしらねど。ひたふるに悩る事 【右】 露(つゆ)あれで。八十五とり巳の齢を保(たも)ちふるも。僥倖(ぎやうかう)なりとて。 いなひ参らすも。ゆるされねば。せんすべなみに固陋(ころう)寡聞(くわぶん) も厭(いと)いで。かゝるひかことの葉を。はじめにくはへぬる 雲しかいふじん。  文化七午年         硃川岱老士    陽■日        高元如 【花押】 【左】  瘡家示訓《割書:一名瘡守土団子|》 四海(しかい)波静(しづか)に。元和(けんわ)このかたの泰平(たいへい)なる 日本開(ひら)けしよりの 御代(みよ)にして。萬異(よろづ)ゆたかなることたうとぶに あまりあり。世人(ひと〳〵)かゝる未曾有(みぞう)のありがたき 世に鼓腹(こふく)【左ルビ ハラツゞミ】して。なをたれりとせず。たかきも いやしきも客氣(うはき)にまかせ。飲食(いんしよく)女色(ぢよしよく)の二つに 【右】 のみ心肝をうつすにより。遂(つい)には疾病(やまひ)おほく して命(いのち)みじかし。それ人のおもんずる所は 命(・)なり。命にまされる寳(たから)あらじ。命みじか なれば財(たから)の山に入ても更(さら)にかひなし。親(おや) もてる人主人(しやじん)もちし人は。ことに飲食(いんしよく)女色(ぢよしよく)に 陥溺(かんでき)【左ルビ オボレル】せぬやうに。深(ふか)くをそれつゝしむべき ことなり。それが中にも瘡毒(そうどく)ほど。世にいたましく あさましきものはなし。此病(このやまひ)によりて 【左】  痼疾(ほねがらみ)となり。なかくくるしみ。うまれもつかぬ 廃人(かたわ)となり。終(つい)には死(し)にいたる人おびたたし。 此病/高貴(かうき)の人にあることすくなく。下士以下(かしいか) 卑賎(ひせん)のものにあり。質朴(りちぎ)なる者の患(うれへ)るはほと ぬどまれなり。《割書:余(われ)|》犬馬(けんば)の齢(とそ)すでに七十三にして。 老廢(ろうはい)の身のうへ氣力(きりよく)うすくなり。近きころは佗(た)の 治療(ぢれう)もほどこあず。されども世に此病の多(おほき)をみるに なげかしく。今(こゝ)茲に瘡毒(そうどく)のみの薬(くすり)と病(やまひ)と醫(いしや)と 【右図中文字】 素山画 御休所 瘡守稲荷大明神 瘡守 【左図中文字】 守(しゆ)護(ご)神(かみ) 瘡守稲荷大明神 【右】 三ツの意味(いみ)を述(のべ)。名醫(めいい)のをしへを規矩(すみかけ)とし。 さとし易(やす)からんやうにしるして。年若(としわか)き人々の。 こゝろえとなるべきことを示(しめ)すなり 〇唐土(もろこし)の古(いに)しへは。此病を侵入淫瘡(しんいんさう)となづけし よし。元(げん)の世(よ)の初(はじめ)よりはじまり。明(みん)の世/萬暦(ばんれき)の 頃(ころ)にいたりて。さかんに流布(るふ)す。袁了凡(ゑんりようはん)が。痘疹(とうしん) 全書(ぜんしよ)に。楊梅瘡(ようばいさう)は近世(ちかきよ)広東(くわんとう)より傳染(でんせん)しきたる。 ゆへに広東瘡(くわんとうさう)となづくと見えたり。もろこしも 【左】 明(みん)の季(すへ)は泰平(たいへい)にて。繁華(はんくわ)にありけるにより。 都鄙(みやこいなか)ともに。酒肆(いざかや)女閭(ぢようろや)の類(るい)みち〳〵たりとうや。 今/我(われ) 邦のごとく盛世(さかんなるよ)にて。人民(にんみん)飲食(いんしよく)女色(ぢよしよく)に・ ふけりしにより。此病も多くありしなり。泰平(たいへい) 長久(ちやうきう)の世に時行病(はやるやまひ)なるべし。頗(すこぶ)るによりたる ことなり。 〇人は萬物(ばんもつ)の霊長(れいちゆう)にして。天地の間(あいた)に。人ほど たつとく智恵(ちゑ)あるものなし。故に一切(いつさい)の巧(たくみ)なる 【右】 わざは精妙(せいめう)をつくすなり。しかはあれど疾病(やまひ)の 事にいたりては。人ほど愚昧(をろか)なるものはなし。 禽獣(とりけだもの)のたぐひは。巣居(さうきよ)【「スニスムトリ」 左ルビ】知_レ風穴居知_レ雨(かぜをしりけつきよあめをしる)といひ。 牛馬(ぎうば)に護胎(ごたい)【「ハラミテツゝシム」 左ルビ】といふことあり。鷄犬(とりいぬ)の類毒物(るいどくなるもの)はくらはず。 みな己(をのれ)が身命(しんめい)を守(まもる)ことをしれり。人として 大切(たいせつ)の身命をまもることをしらず。飲食女色 に溺(おぼ)れやまひを生(しやう)じ。其(その)うへに庸平(よう)【「ヤブ」 左ルビ】醫(い)【「イシヤ」 左ルビ】にゆだね。 害(わざわい)をまねぎ。天年(てんねん)をたもたずして。夏(なつ)の虫(むし)の 【左】 ともし火に入ごとくに死するを見れば。萬物(ばんもつ)の 霊長(れいちやう)にして。智恵(ちゑ)ありといふのしるしさらになし。 禽獣(きんじう)にはをとりて恥(はづ)べきものなり。天地の間。たゞ 一氣の運行(うんこう)にて。萬物をの〳〵其生(せい)を保(たもつ)ことなり。 此氣は人の目に見えずして。いたらざる所なし。 故に天地の氣(き)に相応(さうをう)する人は。無病長命(むびやうちやうめい)なり。 天地の氣にそむける人は。多病短命(たびやうたんめい)なり。是みな 人間(にんげん)みづから得失(とくしつ)をなすこととこゝろえべし。 【右】 とりわき小児を生育(をいそだて)するには。天理(てんり)の自然(しぜん)を以(もつ)て やしなふ時は。醫者(いしや)をたよりにせず。薬を用ひずして。 病(やまひ)すうなく見つよきなり。すこしも天然(てんねん)の 道(みち)にそむき。わたくしの才覚(さいかく)を以てそだつれば。 此氣をそこなひ病おほくして。そだちがたし。 〇此病は飲食女色(いんしよくぢよしよく)の二慾(によく)より發(おこる)といへども。根本(こんほん)は 娼妓(ぢようち)と交接(かうせつ)するよりして。此病を受(うく)るなり。 それ娼妓は数千の人にまじはるにより。その汚精(をせい)を 【左】 うけて。下部(げぶ)に濕熱欝【?】滞(しつねつうつたい)してきよからず。これに 交接すれば。その濕熱の氣に觸感(しよくかん)【「フレテウツル」 左ルビ】して。下疳便毒(げかんべんどく)【「ラヤリヨコ子」 左ルビ】を はつし。それよりいろ〳〵の壊症(ゑしやう)と変(へん)じて。ながく 身をくるしめ。終(つい)に命(いのち)をうしなふなり。娼妓は 瘡毒(さうどく)の府(ふ)【「イチグラ」 左ルビ】といふべし。此病百人が百人大かた 娼妓よりつたふ。我身より發(はつ)せしを見ることすくなし。 《割書:余|》むかし女閭(ぢようろや)よりたのまれて。おほく此病を治療 せしことあり。いづれの家(いえ)も。娼妓十人あれば七八人は。 【右】 内々(ない〳〵)に此病あり。されども面(かほ)には紅粉(べにおしろい)を粧(よそほ)ひ外貌(かほかたち) に【「・」 左ルビ】てはさらに病妓(かさかき)とみえず。まことにばけものと いふべし。すでんい妖(ばけもの)といふ字(じ)は。夭(わか)き女(おんな)の二字を。一字と せしなり。豈(あに)おそるべきにあらずや 〇此病の症候(わづらひやう)いくばくといふことなし。はじめは みな下疳便毒(げかんべんどく)よりおこる。これこの病の苗芽(なへめだし)なり。 古語(こゞ)に苗芽(けうげ)にして去(さら)ざれば。ついには斧柯(おのまさかり)を用ひんと すといへり。樹木(じゆもく)の類も苗(なへ)のときにはさりやすし。 【左】 大木(たいほく)になりては去(さり)がたきをいふなり。されば下疳(かやく) 便毒(よとね)は痼疾廢人(ほねがらみかたわ)となるの苗芽(なへめだし)なりといおしれて。 良醫(よきいし)を聞(きゝ)たゞして療治をうけ。心(こゝろ)ながく服薬(ふくやく) すべし。若人(わかうど)はとかににはやくいやさんと速攻(そくこう)のみを いそげとも。此病にかぎり一朝一夕(いつてふいつせき)にはいへず。てまどる ものぞかかし。豪家(あきびと)の倉■(くら)を建るがごとくに。日数(ひかず)を へ(・)ずしては。いゑがたしと心得べし。 〇此病の一名を恥瘡(はぢがさ)といふ。はじめ下疳便毒の 【右】 ときは。みづから其(その)悪瘡(あくそう)なるを恥(はぢ)て人にかたらず。ひそかに 同(どう)【「・」 左ルビ】、氣(き)相求(あいもとむ)の友(とも)にのみ談(かた)り合奇薬妙方(あい◎きやくめいほう)ときけば みだりに服(ふく)し。或は庸醫(へたいしや)にゆだね。急迫(きうはく)【「イソギマハゝル」 左ルビ】にいやさん ことをもとむ。醫(いしや)も亦(また)眼前(かんぜん)の功(こう)を見せ利を求(もとめ)むと。 己(おのれ)が得(とく)とおぼえもなき峻剤(つよきくすり)をもちゆ。是すこしの 火災(てあやまち)を外(ほか)へしらせず。家内(かない)の者(もの)にて消止(けしとゞ)めんと して。かへつて大火災(おふくわじ)となすにをなじ。をろか なるのいたりなり。貝原先生(かいばらせんせい)の伝。諸病の甚 【左】 しくなるは。おほくは初發(しよほつ)の時薬(くすり)ちがへするに よれり。病症(びやうしやう)にそむける薬を用ゆれば治(ぢ)しがたし。 ゆへに療治(れうじ)の要(かなめ)は初發にあり。病おこらばはやく 良醫(よきいし)をめねぎて治(ぢ)すべし。病ふかくなりては治し がたし。扁鵲(へんじやく)が齊候(せいかう)に告(つげ)たるが如(ごと)しといへり。 よろずの事も始(はじめ)につゝしまざれば。後悔(のちぐえ)おほし。 ○最初(さいしよ)下疳(げかん)を生(しやう)じ。次に便毒(べんどく)となり。それより いろ〳〵に変(へん)じ。軽(かろ)き時は。頭痛(づつう)。耳鳴(みゝなり)。筋骨疼痛(すじほねいたみ)。 【右】 頭髪(あたまのかみ)脱落(ぬけおち)。楊梅瘡(とうがさ)。重(おも)き時は。内障(そこひ)失明(めみえず)。耳聾(つんぼ)。 鼻中濃汁(はなよりしみしるいづ)。鼻梁(はなばしら)崩隕(くづれおち)。痔疾(ちのやまい)漏瘡(しりばす)。嚢癰(きんたまくづれ)。陰莖(いんきやう) 潰触(くづれ)。喉癬(のどくづれ)。脛瘡(すねがさ)。多骨疽(かさよりほねのできものでる◎)失音聲啞(こゑいですこゑかれる)。水腫(ごたいはれる) 歯齦膿潰(はくきうみくさる)。頭痛如破(づつうわれるがごとし)。痿躄(こしぬけ)。吐血(ちをはく)。噎隔(ばきつかえる)の諸症(いろ〳〵のやまひ)と なり。或は面目(めかほ)腐爛(くづれたゞれ)して。殆(ほとん)ど癩病(うつはい)のごときあり。 鬱氣(うつき)して労咳(ろうがい)に似(に)たるあり。鼓脹中風(こちやうちうき)に類(るい)せる あり。此外あぐるにいとまあらず。中にも耳聾(つんぼ) 喉癬(のどくさる)の二症は。難治(なんぢ)の中の難治にして。大抵(たいてい)の 【左】 醫は手を下すことあたわざるの症(しやう)なり。偖(さて) 軽症(けいしやう)の時庸醫は。托出(たくしゆつ)の剤(ざい)を用ること過度(くわど)【「ホドニスギル」 左ルビ】するに より。或は眼目(がんもく)そんじ。或は耳聾(つんぼ)となり。又は毛髪(けかみ) 痜落(ぬけをつ)。すへて薬(くすり)といふ者は。皆(みな)偏性(へんしやう)有毒(うどく)の物ゆへ 其病に應(をう)ぜざれば。かへつて其ほど〳〵の害(かい)をなす。 さればはじめより醫をゑらびて。みだりなる 療治をうけじ。みだりなる賣薬(はいやく)などに迷(まよへ)じと 用心すべし。 【右】 ○此病に馬肉(ばにく)をくらふものあり。馬肉はもろ〳〵 の夲草に毒(どく)ありとみえたり。いまだ醫書の中(うち)に。 此病の薬(くすり)餌(くひ)に用ることを見ず。ことに馬は武用(ぶよう)に そなへ民力(みんりよくを)をたすけ国家の用をなすものなれば。 たとひ功験(こうげん)ありとても容易にくらふべきにあらず。 そのうへ馬肉は湿熱(しつねつ)大過(はいくわ)のものにして。ます〳〵 毒氣(どくき)をますものなれば。かならず。くらふまじきなり。 ○下疳(げかん)に膏薬(かうやく)油薬(あふらくすり)などみたりに敷(つく)るはよろしからず。 【左】 便毒(べんどく)には膏薬(こうやく)を敷(つけ)て。膿水(うみしる)をとらねばならず。 又此病温泉(とうじ)に入べからず。湯治(とうじ)して瘡傷(てきもの) だん〳〵と腐(くず)るゝあり。或は早(はや)くいえすぎて痿■(こしぬけ)と なるものあり。其(その)害(がい)あげていふべかるず。常(つね)の 入湯(いりゆ)も熱(あつ)きはわろし。其外庸醫の洗薬(あらひくすり)と 称(しやう)するものに。害(がい)をのこすも往々(おり〳〵)あるなり。 ○此病夫(おつと)にあれば妻(つま)妾(てかげ)に傳(つた)へ。妻妾にあれば夫に つたふ。又遺毒(ゆいどく)【「ヲヤユヅリノドク」 左ルビ】とて子孫にも流傅(りうでん)【「ウツシツタフ」 左ルビ】ス。父母の此病を 【右】 胎内(たいない)よりうけて出生(しゆつしやう)し。いとけなき時頭面(つむりかほ)其外へ 瘡瘍(できもの)を發(はつ)し。鼻梁(はなばしら)崩隕(かけおつる)のたゞひもあり。世人は 小児の胎内(たいない)よりうけきくる瘡瘍(そうよう)ゆへ。胎毒(たいどく)〳〵と 一様(いちゆう)に称(ぜう)すれども。其中に瘡毒の胎毒おひほき なり。かく子孫(しそん)につたふる所は。まつたく癩病(らいびやう)の 血脉(ちづぢ)をひき傳(つた)ふにひとし。又瘡毒病人を看病(かんびやう) して傅染(てんせん)【「ウワリウツル」 左ルビ】することあり。此病ほどうるさきものは あらじ。實(まこと)におそろしき病なり。家に一人(ひとり) 【左】 疥癬(ひぜんがさ)を病(やむ)ものあれば。挙家(いひのうち)のこりなく傅住(てんぢう) するにより。世人疥癬を忌(いみ)きらへども。此病の 傍人(しばにいるひと)に傳染(でんせん)することをさとさず。すべて瘡汁(うみしる)の ある病。臭気(わるきかほり)のある病は傅染することあり。これ氣の 憑依(ひやうい)【「トリツク」 左ルビ】するところ。をづくべからず。 〇此病を世醫の療治(れうじ)するを見るに。表裏虚実(ひうりきよじつ)を 分別(ふんべつ)せず。山帰来(さんきらい)を主薬(しゆやく)とし。補器補血(ほきほけつ)の剤(くすり)を 用ることは。かりにもなきことのおもひ。此病といへば 【右絵の文字】    素山戯尽 即席 御料理  御吸物  丼もの  大平  御取肴 【左】 萬病(まんびやう)の基(もとい) 【右】 峻劑(つよきくすり)ならで。外に治法(ぢはふ)のなきやうにこゝろえ。標的(めあて) なしに。一時(いつとき)に毒(どく)を一掃(いつそう)せんことのみを要領(かなめ)とし。 或は速(すみやか)【「イソグ」 左ルビ】にすべきことをゆるくし。緩(ゆる)くすべきことを いそぎて終(はて)は沈痾痼疾(ちんあこしつ)となるなり。峻劑を用ひ 當分(とうぶん)いゆるに似(に)たりといへども。毒氣(どくき)内陥(ないかん)して骨髄(こつずい)に 沈(しみこ)み害(わざわひ)をなす。俗に佛(ほとけ)たのみて地獄(ぢごく)に堕(おつる)といふが ごとし。都(すべ)てれやうじの法は。病ひ表(うへ)にあれば 表(うへ)を治(ぢ)し。裏(うち)にあれば裏(うち)を療(れう)し。上(かみ)にあれば上(かみ) 【左】 下(しも)にあれば下。病のある所にしたがひて藥を ほどこす。これ醫師の法則(すみかね)にして。其間に臨機(りんき) 應変(おうへん)あり。しかるを庸醫は。病人の安逸労苦(らくにくらすくるしみくろう)。 資稟(うまれつき)の充實虚弱(つよきよはき)にもとんぢやくせず。便毒(よこね)に 此薬。楊梅瘡(とうがさ)に此薬と。わづかに四五方の薬劑(くすり) のみを施(ほどこ)して其餘(よのよ)をしらず。十人に一人(ひとり)二人(ふたり) 瘳(いゆ)ることをうれども。偶中(まぐれあたり)にして醫の功(こう)に あらず。病人の幸(しやはせ)にして瘳(いへ)たるなり。其外は 【右】 壊病(ゑびやう)となして。終身(みをおゝかまで)人をなやまさしむ。 それ壊病といふは。誤治(くすりちがい)によりて毒氣百骸(どくきからだうち)に 結伏(むすびかくれ)し。連綿(れんめん)といへざるなり。始(はじめ)より壊病と なるの症(しやう)とてはさらになし。雜治(わるき之じ)のたりを なして。人をそこなひなやますなり。壊病に なりては。愈ることも遅(おそ)く死(しぬ)ることも速(すみやか)ならず。 年(とし)を積(つ)み月(つき)をかされて。いかばかり苦(くる)しむ ことなり。此ゆへに貧賤(ひんせん)の者は生業(いとなみ)をうし 【左】 なひ無告(むこく)【「ヤドナシ」 左ルビ】の者となり。果(はて)は道路(だうろ)にさまよひ 斃(たふ)れ死す。あはれなる事ならずや。 〇峻劑(しゆんざい)といふは。正々乳(せい〳〵にう)。七寳丸(しつはうぐわん)。梅肉丸(はいにくぐわん)。薫藥(いふしぐすり)。 膽礬(たんはん)。水銀(みづかね)。生漆(きうるし)。巴豆(はづ)。などの加入藥。法外 いろ〳〵のけやけき藥をいふ。皆それ〳〵の効験(しるし) あれど。其病に應(をう)ぜざれば。大(おほい)に元氣を損傷(そんしやう)す。 實(じつ)に殺人剣(さつじんけん)【「ヒトヲコロスツルギ」 左ルビ】ともいふべし。世醫の中には。此病を 一か年に十人か二十人療治をなして。是等(これら)の 【右】 方劑(くすり)のみを。此病のくすりとこゝろえ。方意(はうい)に 通【「・」 左ルビ】ずることもなければ。用(もちひ)かた混雜(ごたませに)して。角(つの)を 直すく牛(うし)を殺(ころ)すたぐひあり。これ用ひまじき 時に峻劑をみだりに用ひ。元氣を衰(おとろ)へしむるに より。病を追去(おひさる)ことならず。難治の症となりゆく なり。古人(こじん)も病(びやう)傷易_レ治(ぢしやすく)。藥(やく)傷難_レ療(れうししがたし)といひり。 すべて。諸藥は毒物(どくぶつ)なれば。人の身に用べき物に あらず。故に藥をあたにして。かひつて病を 【左】 まうくる人世におほし。平和(ゆはりなる)の藥なりとも。 ふくするは大切(たいせつ)の事なりとこゝろへべし。 古語(こゞ)に藥(くすり)と兵(へい)とは凶器(わるきだうぐ)なりといふ。つね〴〵醫師を よく〳〵えらび。正(たゞ)しき療治の藥をのむべし。 もつとも正道(しやうたう)なる醫の療治かたは。迂遠(うゑん)【「マハリドヲし」 左ルビ】のやう にて速(すみやか)に藥(くすり)の効(しるし)見えがたければ。始終(しじう)は かへつてはかどること。急(いそ)がばまはれといふがごとし。 かくいへばとてやはらかにけがのなきやう 【右】 にとばかりげらづゝき。虻(あぶ)もとらず。蜂(はち)もとらぬ醫者 の藥はのむべからず。 〇庸醫(ようい)の藥をふくして後(のぢ)。口中たゞれ。歯牙(はきば)ゆるがば。 輕粉劑(けいふんさい)とこゝろえべし。軽粉は。毒烈(どくれつ)の物。肌表(はだへ)を 乾燥(かんそう)するものゆへ。血液(けつゑき)をかはかし。槁(から)たる木のうるほひ なきがごとくにて。津液(しんゑき)の流通(るつう)とゞこほり。口(くち)へばかり 出るがゆへに痰嗽(たんそう)をうれへ。はなはだしきは晝夜(ちうや) 涎沫(よだらあは)をはきつゞけ。唾壷(はいふき)を傍(そば)にはなさずくるしむ 【左】 なり。津液(しんゑき)は一身の潤(うるほ)ひにして。化(くわ)して精血(せいけつ)となる 大切のものなり。しかれば庸醫にまかぜ。かゝる峻劇(しゆんげき)の 藥劑(くすり)をのむべからず。もし軽粉入の藥をふくし 口中そんじ。其外いろ〳〵のたゝりをなさば。白梅(むべぼし)を 煎(せん)じてのむべし。或はそれに黒豆(くろまめ)を加入(くわへいる)もよろしき なり 〇庸醫の中には。前銀(まへがね)とて諸病ともに。藥をあたへぬ まへに。藥料(かひあわせ)となづけ、金銀をむさぼる惡習(わるきしわざ)あり。 【右】 わけて此病には此事おほし。これ醫たるの 主意(しゆい)をしらざるの所醫為(しわざ)にして。醫道のうへの 罪人(つみんど)なり。心のけがれたること言語(ごんご)にたえたり。 これがために財(ざい)を費(ついや)しうしなふ人おほくあり。 しかはいへど。醫者のふとゞきのみにもあらず。此病を 患(うれひ)るものは。みな無頼放蕩(はふしらずどうらく)もの。或は卑賎(ひせん)の者 なれば。醫者の身心(しんじん)を労(ろう)せし事はこゝろづかず。 謝禮(ゆくれい)といふこともをろそかなるよりをこりし 【左】 ならん。それはともあれ是等(これら)につきても。醫の良拙(よしあし)を うかゞひゑらぶこと簡要(かんゑう)なり。今の世平々(へい〳〵)【「ナミ〳〵」 左ルビ】たるの醫は。 もつはら商人(あきびと)の心根(こゝろね)にして。みなわがために 利養(りやう)をもとめ。人のうれひを憂(うれい)とせず。不学無術(もんまうなにもしらず)の うはべを飾(かざ)り。臆度(をくたく)【「スイリヤウ」 左ルビ】の療治をほどこすがおほし。 世人(ひと〴〵)の醫をみる眼(まなこ)は。腐女(おんな)の刀脇差(かたなわきざし)の飾りを 見たるにおなじ。羊質虎皮(やうしつこひ)【「ヒツジガトラノカワヲキル」 左ルビ】の醫なれば。こゝろ 賢(かしこ)き人も良拙をみわくることかたかるべし。偖(さて)時醫(はやりい)を 【右】 みるに。家居作事分際(いへゐさくじぶんざい)より華麗(りつは)にして。辞氣(ものいひ) 容貌(なりかたち)は武家(ぶけ)の風体(ふうてい)をなし。衣服(いふく)腰物等(こしのものとう)の 飾りを美(び)にし。肩輿(かご)を飛(とは)しはな〳〵敷歩行(あるく) あり。此黨(このともがら)の中にとりわき庸醫あり。其うへ これも分際より物入(ものいり)おほく。をのづから心むさく 利欲(りよく)にはしり。仁慈(じんじ)の心をうしなふことは。前銀(まへがね)とる 醫に異(こと)なることなし。今(いま)大路家(おほじけ)にて門人(でし)への 制條(いましめ)の中に。好_二華麗_一則欲心甚而(くわれいをこのむときはよくしんはなはだにして)。失_二慈仁之道_一 (じしんのみちをうしなふ)。 【左】 只宜_レ守_二倹約_一 (たゞよろしくけんやくをまもるべし)との規則(きそく)あり。実(げ)にもつともなる カ條(かでう)なり。 〇唐土(もろこし)に戴元禮(たいげんれい)といふ人。醫学修行(いがくしゆげやう)に出て。 楊州(やうじう)にいたる所。門前(もんぜん)に人の市(いち)をなす醫あり。これぞ たづぬる良醫ならんと。うれしくおもひ寄宿(きしゆく)しけり。 此【「・」 左ルビ】醫病人に藥をわたすに。鉛(なまり)を入てせんずべしと いふことあり。元禮ふしぎに思ひて何とまうす藥方(やくはう) にやあと問ければ。建中湯(けんちうとう)なりと言(こと)ふ。これ飴(あめ)の字(じ)を 【右】 鉛の字と。とりちがへたる文盲(もんまう)さに。元禮も興(きよう)を さまし。そう〳〵其家を立/去(さり)たるとぞ。飴は脾胃(ひい)を やしなふもの鉛は脾胃をそこなふもの。雲泥(うんでい)の違(ちがひ) なり唐土は文字の國(くに)なるにかゝることあり。まして 我(わが) 邦(くに)には。あさましき醫者おほく。しらざる ことおも曲理(こじつけ)にいひまぎらかし。萬病(まんびやう)しらざること なき顔(はほ)をして。今日を渉(わたる)がおほし。又此病を わづが十人二十人治療(ぢれう)して。たゞ紙上(しじやう)のはしくれを 【左】 おぼへたるまゝ。鏡(かゞみ)にうつし見るがごとく廣言(くわうげん)を 吐(はき)ちらし。いまだ經験(けいげん)もせざる藥を投(とう)ずるも あり。或は家方(かほう)秘方(ひはう)などゝとなへ。奥(おく)ゆかしく おもはせて。たぶらかすたぐひもあり。人民(にんみん)の為(ため)に する藥なるに。何がゆへに秘方/秘傅(ひでん)といふことあらん。 此黨(このともがら)を小人醫(せうじんい)となづけて醫師の中(うち)の蛇蝎(どくむし)なり。 此外に見聞(みきく)に忍(しの)びざるのてだてをなして。 俗人をたらすあり。今の世天理を恐(おそ)れ。心力(しんりよく)を 【右図中文字】 素山戯画 【左図中横文字】 瘡病人(そうびやう)の府(くら) 【右】 盡(つく)して治療する醫者は希(まれ)なり。病人の大なる 不幸(ぶしあはせ)にして。嘆(たん)ずべきことそかし。因(ちなみ)に載(の)す。或人 時めく醫者に。火消壷(ひけしつぼ)に火を納(いれ)るに。たち まちに消(きゆ)るはなにがゆへと問(とい)けれは。蓋(ふた)して火氣(くわき) をもらさぬにより消(きゆ)るといひけり。醫として これらの理にくらきは捧腹(ほうふく)【「ヲゝワラヒ」 左ルビ】すべきことなり。そも〳〵 人間(にんげん)は天地の正氣をうけてうまれ。天地は父母に してこれを生育(せいいく)す。故に水土によりて人の 【左】 氣象(きしやう)もひとしからず。其/生(しやう)ずる物も差別(しやべつ)あり。 醫の病を療するも。万物造化(ばんもつぞうくわ)の理(り)に殫思(たんし)【「ヲモヒヲツクス」 左ルビ】して 後(のち)。人の病を治療すべし。萬(よろづ)の藝術のごとくに。 容易(ようい)にあきらめがたき藝(しわざ)なり。しかるを世人は。たゞ 頭(あたま)が丸(まる)く竹箟(ちつへい)を挾(はさ)み。口辨(こうべん)【「クチリコウ」左ルビ】よく阿順(あじゆん)【「ヘツラヒ」 左ルビ】なる者を。 良拙(じやうずゝた)のわきまへもなく用(もちひ)るにより。形容(なりかたち)さへ 醫/体(てい)をそなへて。人の氣に入やうにすれば。今日を おくるに渡世(とせい)ができるゆへに。家産(すぎわい)を破(やぐ)りし者。 【右】 剃髪(ていはつ)して醫者と化(ばける)がおほし。さればこそ 世の中に。庸醫みち〳〵て人をそこなふこと 甚大(はなはだおほい)なり。顯道(あきみつ)弱冠(をさなき)より先(ちゝ)考/家兄(あに)の膝下(しつか)に 侍(はべ)りて。治療を傍観(ぼうくわん)【「ソバニミル」 左ルビ】すること久しく。又みづ から治療せし所も万を以てかぞふべし。 其あいだ此病を療することもつともおほし。 その聞えありてや。異(こと)なる術(じゆつ)もあらんかと。 遠方(ゑんほう)よりも訪(とひ)きたりて。診視(しんし)治療を乞(こひ)もとむ。 【左】 それが中におり〳〵しるしを得(ゑ)たるもあれど。 大かたは偶中(まぐれあたり)にて。内にみづから顧(かへり)みれば。背中(せなか)に 汗(あせ)することおほし。その手近(てぢか)きにいたりては。附子(ぶし) 石膏(せきこう)の二症(にしやう)だにわかつこともあたはずして。 おほくの月日をすぐし待りぬ。今や稀古(きこ)の 齢(とし)をこえて。拙(つたな)きむかしの問(と)はずがたりも はづかしけれど。醫業(いぎやう)はかたきことにして。凡庸(ぼんよふ)【「ナミ〳〵ノヒト」 左ルビ】の なすべき藝(しわざ)にあらず。故に庸醫は常(つね)に多し。 【右】 病よりこはきものは。醫者なることを。若人(わかうど)の こゝろえにもと書(かき)のす。此外/小児(みどりこ)の生育(をいそだて)の ■に。書しるしたき事もあれど。老(おい)の氣根(きこん)の ものうくて。筆をとゞむといふ。 巳   文化六年巳己仲冬   小川巳疎齋書 瘡家示訓《割書:終|》 【左】 文化七年庚午仲冬       江戸湯島切通町下           須原屋文五郎       同 神田鍛冶町二丁目           中村屋善 藏 小川先生著書目 養生囊   四冊 四十首遺藻 一冊 泰山遺説  一冊 御しも艸  三冊 瘡家示訓  一冊 【裏表紙 文字無し】