十八   全五   温古集     五巻      目録 一天変季候之事     一大岩清水之事 一時鐘時太鼓    地水大風ノ内       大風之部 一寛政二戌年  八月廿日大風雨所々破損大橋欄干石之方  三拾八間吹倒れ木ノ方  倒木八千六拾七本溺死二人 一弘化三年【午】七月十八日八ツ半時ゟ前代未聞之大  風雨   一家中本家潰之分十八軒 一御徒壱軒焔硝蔵番壱軒餌刺二軒 一極大破十壱軒  一半潰四軒 一稽古所大破潰六軒 一本家大損十二軒 一長屋潰弐拾三軒  右之外塀屋根等ハ数多ニ付略 一大橋欄干石之方西側三拾間斗倒レ 一同木ノ方西側傾き 一勝見御門吹倒 一堂形御門傾き 一切手御門外腰掛潰れ 一御城廻り塀 千三拾間倒れ 一土居奉行支配立木五百九拾六本倒レ 一御座所廻り所々大破  寺院潰之分 一中野専照寺 野中妙蔵寺 愛宕下妙国寺  田原町本承寺 立矢恕相院 浜町宝蔵院  ■■■■【■田房院?】持分 観音寺 一町潰家百八拾弐軒怪我人四人死人一人 一勝見潰家拾壱軒 一金津五拾五軒死人三人 【右丁】  一御預所五拾六軒 一上領三百三拾軒《割書:怪我七人|死五人》  一中領三百七拾五軒《割書:怪我九人|死七人》  一下領百四拾九人《割書:怪我三人|死壱人》  一府中弐拾六軒寺一ヶ寺観音堂一ヶ所   社一ヶ所 右大風作体ニ聊も障なし 【左丁】     地水大風大変 一大地震之部     一通り之地震ハ不記 一洪水之部     右古事 一大火事之事     《割書:火之用心之事|五拾軒以下ハ除之但場所柄ハ此限ニあらす》 一大風之部 【右丁文字無し】 【左丁】   地水火風之内    大地震之部     一通り之地震ハ不記 一宝永四年亥十月十四日  大地震所々破損所夥敷  同年十一月数日江戸砂降富士山の脇ニ宝永山  涌出之所数日燃出砂を吹上近国へ降石川も  砂川ニ成田地砂地ニ依之砂除之為御入用高  百石二銀五匁宛上納被仰付 一天明三卯年  六月十六日夜白山ニ当り鳴強く夫ゟ打続き  度々鳴り七月六日七日昼夜雷之ことし別而  七日夜甚敷鳴動し立具等ハ昼夜がた〳〵  致候ニ付夜中寝候もの無し草履を腰ニ挟ミ  周章候処八日晩方ニ至り漸相止何之所業と  いふ事を不知  追而信州浅間燃強く大石  飛出人家過分潰れ埋り流失此砌天気  曇り九日夜ゟ十二日迄大雨ニて加州なとハ別而  洪水之よし其後追々江戸表ゟ申来浅間山  大変之趣 公儀へ注進書是ハ片聾記に  譲りて不記  右之趣ハ最初之達ニ而其後国々所々田畑損亡  村退転本川潰レ新川出来信州ニ而も五六  十ヶ村一円人家埋り人力ニ而永く難及所有之  よし 一安政元寅年  六月十五日夜八時頃大地震ニ而皆々驚き  軒を離れし地所へ飛出たりしが格別損亡  之害なく治れり 別而大津辺ハ損所有之由  此際おかしき咄あり橋南元寺町之役組家に  夫婦暮之家あり是も同じく表口へ  飛出しが動(ゆ)り治りて妻の声にてお前さん  〳〵〳〵〳〵と頻り呼わるをも亭主も転動  の折柄ゆへ周章廻りてつい聞得ざるニ猶々  苛立てお前さん〳〵〳〵と呼ふ故どこやらんと  尋しに木瓜棚の下タに湯巻もせでほんの  丸裸潜ミ居りし故ぬぎ捨の湯かたを  着せしとそ右ハ六月十五日満月一天曇り  なく照り渡らせ給ふ折柄ニて近所の人目ハなくも  恥入てかくせしと跡ゟ聞て皆々大笑せり 一同年十一月十四日朝四時前大地震翌五日又々  大地震其後引続き少々ツゝ動り候事     潰家  一土蔵一ヶ所家壱軒本田町組 一小屋一ヶ所本町組  一仮家壱軒土蔵指掛二ヶ所京町組   一家壱軒小屋五ヶ所土蔵廊下一ヶ所上呉服町組  一家一軒土蔵一ヶ所小屋一ヶ所廊下一ヶ所一乗町組  一家弐軒土蔵一ヶ所小屋四ヶ所室町組 一家二軒小屋三ヶ所土蔵指掛一ヶ所廊下一ヶ所下呉服町組 一家壱軒松本地方一家一軒土蔵一ヶ所松本地方 一家壱軒土蔵一ヶ所木田地方一土蔵一ヶ所畑方 一家壱軒小屋二ヶ所三ツ橋地方 此外御家中家大破有之在方も潰家数 多有之 右之節大坂ハ格別強く損所数多其上大津波 ニ而天保山崩レ難船夥敷溺死多有之 京大坂初諸国共数多損害有之別而 駿州筋ハ一入強く且大津波又豆州下田ハ  大津波ニ而七歩通り家店海中へ取行き候由 一安政四巳閏五月十日    大地震 一同五午二月廿五日夜八時前  大地震夫ゟ明ケ方迄数度余ゆり候得共強キハ  二三遍斗り右ニ付堂形并南三ノ丸前堀端  国枝藤兵衛前地破レ砂吹出し其外少々之損所  有之候得共為指義無之 此節丸岡大聖寺辺ハ  潰家数多有之飛州高山辺ハ山崩れ川々へ  落込ミ広大之湖水三ヶ所出来右ニ付人家  動り潰レ民家寺院等迄無難成ハ一軒も無之  尤死人ハ夥し然るに村々鎮守之社ハ損し無之  山之崩れ先キに低キ所之社ハ其所を余【餘】け  高き方へ押行候様ニ成是ハ実ニ不思議之  事と出役検査之人申候由   地水火風之内    洪水之部 明治十八年七月一日 一当年之洪水ハ古今未曾有と思ひしに  片聾記を繰返し穿鑿せし処左之通  一天明九閏六月四日五日頃ゟ無類之満水与力町   辺ハ北野新田堤大破ニ付屋敷ニより縁【椽ヵ】之上   弐尺五六寸上り候所も有之御堂町辺筏ニて   通用筋違橋辺抔ハ首ぎりにて舟往来   南川筋ハ毘沙門堤きれ水筋十九ヶ村損   亡町筋ハ御手当舟出尤在々過分之損亡   第一松岡上水口大破ニ而御普請奉行中彼   地へ引越九月下旬迄ニ出来中之馬場新屋   敷上之橋縁【椽】【椽のようにみえるが意味的に「縁」】之上へ上らぬ屋敷ハ珍敷よし  一又此以前   元禄十四巳年八月之留写   御国前代未聞之大水出従是後川々埋り   洪水毎度有之芦田図書屋敷縁【椽】之上江   乗けれハ此時迄ヶ様之水ハ無之処今度之   水ハ板敷之上へ不残上り候然処其後板敷へ   上り候事度々有之よし或人之家を寛文十一   年ニ普請致候節昔より大水を致吟味候処   其頃四十年以前大水出候程を考それ程の   水には板敷の上へハ上り不申様ニいたし候ニ此度   之水板敷へ八九寸上り申候然れハ七十年以来   の大水なるに其以後三十八九年之間ニ同様之   水三度も出申候川々高く成候も実説なるが 【新屋敷、上之橋は地区名、縁は椽とも書く】 【左丁上段】 ○足羽川之増水 一昨日/午後(ごゞ)の雨量(うりやう)はなか〳〵に劇(はげ)しく 忽(たちま)ち川々(かわ〳〵)満水(まんすい)ししばしの間(あひだ)とおもひしも足羽川(あすはがわ)のごとき は岸(きし)を噬(か)み堤(つゝみ)を蹴(け)り/幸橋以東(さゐわひばしゐとう)に繋(つな)ぎある数多(あまた)の材木(ざいもく)は みなかの繋綱(つなぎつな)を離(はな)れて浮(う)きつ沈(しづ)みつ押(お)し流(なが)さるゝにスワ とて警察署(けいさつしよ)よりは同夜(どうや)十二/時頃(じごろ)より高張提燈(たかはりてうちん)を出(いだ)し査公(さこう) の指揮(さしづ)に浜方(はまかた)二十人ばかり仲仕(なかし)二十人ばかりいづれも小 舟(ぶね)に乗組(のりく)みて急流(きうりう)を右(みぎ)に左(ひだり)に乗(の)り廻(ま)はし昨朝(さくてう)までに九十(つく) 九橋辺(もばしへん)にて引(ひ)き揚(あ)げしは桃畠(もゝばたけ)の方(かた)へ四十三本/北河原(きたかはら)の方(かた) へ二十本にして猶(な)ほ九十九/橋(ばし)の芥除杭(ごみよけぐひ)にかゝりびり〳〵 橋(はし)の妨(さまた)げ為(な)さんと横(よこた)はり居(ゐ)し大(たい)の材木五本は午前(ごぜん)の内(うち)に 引(ひ)き揚(あ)げたりと云(ゐ)ふ一寸(ちよつ)としてもかく水(みづ)の出(で)るには困(こま)つ たものと沿川(かわつゝき)の人々(ひと〴〵)は嘆息(たんそく)しあへり ○増水注進 前項次号(ぜんかうじがう)に悉(くは)しくと書(か)き終(おは)るところへサア 大変々々(たいへん 〳〵 )と探訪員(たんばういん)の注進(ちうしん)は外にはあらで出水(みづ)の景況(けいきやう)足羽(あしば) 川(かは)出水(みづ)溢(あふ)れて石場畑方(いしばはたかた)は茄子(なす)も木瓜(きうり)も不残(のこらず)濁水(だくすい)の底(そこ)にな り平一面(ひらいちめん)の海同様(うみどうやう)にて元浜町裏通(もとはまゝちうらとほ)りより元宇治田原辺(もとうぢたはらへん)は すべて溢水(いつすい)膝切(ひざきり)を浸(ひた)し既(すで)に九十九橋(つくもばし)の水標例(すゐへうれい)の半切(はんぎり)を出(いだ) さんとするに垂(なんな)んたりこは昨夕(さくゆう)七/時頃(じごろ)の事(こと)になんある 【左丁下段】 ○暴風強雨 そもこの回(たび)の雨(あめ)は去る三十一日に始(は)じまり 初(はじ)めはさして劇(はげ)しくも降(ふ)らさりしがたゞおやみなく降(ふ)り しきり翌(よく)一日の朝(あさ)よりしておひ〳〵に強雨(きやうう)と為(な)り正午頃 にては暴風(ばうふう)さへ吹き加へり気象台(きしやうだい)よりは北風強かる可き 旨の電報その筋へ到達(とうだつ)し家々の晴雨計(せいうけい)も恐る可き風雨の 現象(げんじやう)を示めせしにぞいづれも安き心の無きのみかわ川筋 辺の家々にては浸水(しんすゐ)の覚悟にてかの用意(やうゐ)にはとりかゝり たるが風雨は愈/劇(はげ)しく夜に入りては樹木(じゆもく)も抜げんばかり におもわれ足羽川の如きはすさましき勢(いきほ)ひをもて増水し はじめ橋々/防水(ぼうすい)の準備も風雨のうちにそれ〳〵為し始(はじ)め たり ○増水の現状 さて足羽川の水いかにもすさましくこん とは三大橋も迚(とて)も無難には過(す)ぎましとおもひし折柄(おりから)九十 九橋辺/俄(にわか)に退(ひ)きしほのたち橋々のおもりにと出だす半ぎ りに増しの懸念(けんねん)は無くてやむの有様(ありさま)と為りしは不思議(ふしぎ)々 々々とこの辺の人の怪(あやし)みしも道理なりかや足羽川上流勝 見出村の一軒茶屋と西潟との間に於て四十間余の堤防破 壊せしにぞなじかわ以てたまるべき瀧津瀬の勢ひにて奔 流/怒瀉轟然(どしやごうぜん)白波を躍(おど)らしつゝ福井市街をさして馳(は)せ来り 【右丁上段】 見る〳〵勝見城之端、新屋敷、瀧ヶ鼻、等へ浸(ひた)したるが猶(な) ほその水の四ッ井北野の方へ馳せ行きしものはドットお めいて志比口地蔵町の上水堤防(じやうすいていばう)へのしかゝり堤防(ていばう)の上を 超(こ)すこと尺余に及びしは一昨朝の五時ごろなりしが地蔵 町 堤防(ていばう)も堪(た)へきれずして破壊(はくわい)せしにぞ地蔵町は元より論(ろん) なく奥町お旗町お籠町等志比口の町々(まち〳〵)は一 面(めん)に水海(みづうみ)と為 りしより松本各町堺町油町稲荷町与力町鍛冶町子安町大 工町谷町寺崎町三好町神明町小田原町祝町江戸町土居の 内神明前お使番町馬場鷹匠町お泉水町八軒町大王町 辺(へん)残(のこ) らずかの筋違橋鍵町河南小路辺は尤(もつと)も劇(はげ)しき水勢(すいせい)にて床 上に九頭龍川の水勢(すいせい)を為し人々は天(てん)を仰(あを)ぎて長歎(てうたん)するの みかくのことく堤防(ていばう)の破壊(はくわい)より非常(ひじやう)の急俄に出しことあ れば畳(たゝみ)を濡(ぬ)らさぬ家(いへ)とては十中一二に過(す)ぎずかの十七八 年前 猶(な)ほ旧藩(きうはん)の頃(ころ)にありし大水(たいすい)といへとも松本 辺(へん)の家々(いへ〳〵) へ尺二尺と云へる大水(たいすい)の床上(しやうじやう)へ浸(ひた)することは無(な)かりし にこの度(たび)の如(ごと)きは老人(らうじん)といへども覚(おぼ)へぬことなりしとぞ その村落(そんらく)の蒙(かう)むりし水害(すいがい)は未(いま)だ詳(つまびら)かにせざれども蓋(けだ)し 福井市街のみにてもこの度(たび)の水(みず)の為(た)めに害(がい)せられし財産(ざいさん) は夥(おびたゞ)しきことなる可し 【右丁下段】 ○市中浸水の惨況 当市(とうし)勝見の出村なる一 軒茶屋(けんぢやや)より西 潟村の間(あひだ)なる堤防(ていばう)前項の如く破壊(はくわい)せしより直に和田中村 の堤防へ溢水(いつすい)囂々(がう〳〵)と北方へ向つて押(お)し出し城の橋なる下 町は一 面(めん)の海となり屋根(やね)の頂(いたゞ)きを僅(わづか)に八寸余り水面へ表(あら) はし同町より鵜匠町地蔵町 辺(へん)にて助(たす)けて呉(くれ)の叫声(きうせい)を聞く と雖も別(べつ)に為(な)すべき手術(てだて)もなければ査官(さくわん)には早速(さつそく)小舟を 漕(こ)ぎ出され屋根を破(め)くりて助(たす)け出されし者二三名あり又 志比口荒橋の上手(うわて)なる堤防(ていばう)が已に切(き)れんとするより此処(こゝ) を切られては松本荒町近町は溢(あふれ)て浸水(しんすい)の害(がい)を蒙(こふ)むる少な からざれば其傍(そのそば)なる宗吉某の方へ警官(けいくわん)は臨時(りんじ)出張せられ 百間斗り土俵(どへう)を積(つ)みあげ漸くに防(ふせ)きとめたりされどもこ の荒橋より来る上水(じやうすい)溢(あふ)れて元竪町は床上(とこうへ)より七八寸も浸(ひた) し之れより西方堺町室町は一 尺(しやく)より二尺江戸町 辺(へん)よりお 泉水町神明前辺一 列(れつ)は元ゟ地面(ぢめん)高(た)ければ安心(あんしん)して寝(しん)に着(つ) きしに何ぞはからん二尺より三尺 或(ある)は四尺も俄然(がぜん)溢水(いつすい)の 浸(ひた)す所となりたればかの周章狼狽(あわてふためき)譬(たと)ふるにものなく畳(たゝみ)を 揚(あ)ぐるひまもあらかなし溢水どつと押(お)しかけたれば下足(げそく) 流すもあり或は勝手道具(かつてどうぐ)を流して探(たづぬ)る中にはや宅(うち)へ戻(もど)る を遮(さへ)ぎられ茫然(ばうぜん)天を仰(あほ)ぎて歎息(たんそく)する中にも新屋敷鵜匠町 辺(へん)は旧時(むかし)毎々出水する故(ゆへ)家々 概(おゝむ)ね小舟を準備(じゆんび)しありたる も近年(きんねん)出水の少きより皆(みな)売却(ばいきやく)にて一舟だも用意(やうい)なきより 【左丁上段】 他(ほか)へ移(うつ)らんとするも其 便(たより)を得ず徒(いたづら)に浸水中に直立(ちよくりつ)して 引汐(ひきしほ)を待つ其 惨状(さんじやう)目(め)もあてられぬ次第(しだい)なり又牧の島口な る元米沢町辺は同く溢水 天井(てんじやう)を浸(ひた)し元呉服町より筋違橋 辺は巷街(かうがい)の溢水 首切(くひぎり)ありて非常燈(ひじやうとう)の高く釣(つ)りしと水面僅 に五寸を隔(へだつ)る程(ほど)なれば他は推(お)して知るべし既に本社前街 の如きは溢水(いつすい)四尺に余(あま)り一大舟を通(つう)するに及(およ)び社内すべ て溢水に浸(ひた)されたり ○書記官の巡視 本県令代理本部少書記官には警部(けいぶ)巡査(じゆんさ) を随(したが)へ小舟(こぶね)にて一昨日 風雨(ふうう)を冒(おか)して市中(しちゅう)各町(かくてう)を巡視(じゆんし)され たり ○諸官衙諸学校臨時の早引ならび休務 県庁には一昨日 第一に書記官君親より草鞋(わらんぢ)を穿(うが)ちて発られ続て警官方等 続々雨を衝いて発られしはまづ半分の員数て余は迚も浸 水の為めに動かれず昨日は浸水に関係(くわんけい)ある方々だけは臨(りん) 時(じ)早引にて賜暇せられたり又は両裁判所は一昨日昨日は 法官一名代書人一名願人六名の外宿直の受付官一名居ら れしのみ昨日は願人代書人を合せて二十人ばかりのみ依 て午前十時頃 休衙(きうが)せられたり郡役所は平生の如く師範学 校福井中学校福井小学校一昨昨両日とも休校市中の各小 【左丁下段】 学校は残らず休校病院は平生の如く医学校は一昨日は平 生のごとく昨日は十時ごろ臨時(りんじ)早引びきなど何分斯のごと きことは稀(ま)れに見るどころか福井にては近来 未聞(みもん)の事共 なり尤役場はなか〳〵大繁昌(おゝはんばう)の様(やう)に見受けたり ○警官の勉強 当警察署は溢水(いつすい)の浸(ひた)すところとなるも人 民を保護(ほご)しその困難(こんなん)を救助(きうじよ)せずんばあらずと数十の査(さ) 官(くわん)は草鞋を穿(うが)ちてかれ〳〵現場(げんじやう)へ出張せられ東(ひがし)に走(はし)りて 風(かぜ)を冒(おか)し西(にし)に馳(は)せて雨(あめ)を厭(いと)はず昼(ひる)となく夜(よ)となく力を尽(つく) されたれば署内(しよない)恰(あたか)も人なきがごとく其各地へ出張せられ し査官(さくわん)は漸々 昨朝(さくてう)帰署(きしよ)せらるゝ程(ほど)にてこれ又 非常(ひじやう)のこと ゝ云べし ○洪水避所 当市中に人民 溢水(いつすい)を避(さ)くる場所橋南にては 毛矢町の高田別院(たかだべつゐん)常盤木町(ときはぎてう)孝顕寺日ノ出中町戸長役場即 ち鎮徳寺乾町の東別院足羽吉田郡役所内の《振り仮名:数ヶ所|すかしよ》に設(もふ)け られそれ〳〵地掛戸長役場(ぢがゞりこてうやくば)及び有志(いうし)の助力を以て溢水を 避(さ)けて集(つど)ひ来る逢難者(あふなんじや)或は貧民(ひんみん)へは何れも数斗の炊(た)き出 ししてその餓(うへ)を救助(すく)はれたり中(なか)にも橋南常盤木町外二十 二ヶ町村の戸長役場にては何処の巷街(かうがい)も溢水(いつすい)湛々(たん〳〵)たれば 小舟(こぶね)を浮(うか)べて地掛内を通し多少の握飯(つくね)を施行されしと云 へり 【右丁上段】 ○堤防破壊人家漂流 当市八幡口なる明里の堤防三ヶ所 破壊(はくわい)し人家四戸 漂流(へうりう)し橋南立矢口小畑村の堤防十五間破 壊しかの下手なる下野村に於て人家二戸漂流したれども 何れも未だかの詳細(しやうさい)を知るに由なく猶ほこの他に漂流多 かりし由なれば次号を以て委(くは)しくすべし ○溢水の浸さゝる町 今回(こんど)の溢水(いつすい)は九十九橋南よりは橋 北もっとも甚(はか〴〵)しき中にも溢水の浸(ひた)さるゝは中筋(なかすじ)にては元京 町本町東西魚町一乗町片側長者町上呉服町板屋町西側に ては元木町山町𪉩町夷町靑屋町西山町木田地方にては元 石坂町より東二三ヶ町の各町にてありし嗚呼(あゝ) ○人家傾敗 當市元餌指町にては溢水(いつすい)直(たゞち)に押(お)しかけしに 付き三戸各々壹尺余りかたより元加賀口の提灯屋(てうちんや)某(それ)の家 は爲めに傾(かたむ)き鵜匠町の福某の家は見るかげもなく破壊(はくわひ)し たり然(さ)れども別(べつ)に怪我等(けがとう)は無(な)かりしよし ○漂流溺死 一昨二日幸橋邊にて一 隻(せき)の小舟 轉覆(てんぷく)し乗人 二名 漂流(へうりう)したり然(しか)れともなか〳〵泳水術(ゑいすいじゆつ)には熟錬(じゆくれん)したる ものと見へ逆卷(さかま)く波(なみ)を押(お)し切つて一名は九十九橋にて揚(あが) り一名は桃畠(もゝばたけ)にて揚(あが)り一命(いのち)に別條(べつじやう)なかりしも衣類(ゐるい)及び小 舟は悉皆(しつかい)流(なが)したりとは不幸中(ふこうちう)の幸いなりしがこゝに昨朝八 【右丁下段】 軒町に住(すま)はるゝ或(あ)る貴紳(きしん)の令息(れいそく)(七八年)には寓前(ぐうぜん)の上水 に渡(わた)せる橋邊にあゆまるゝとおもひし際(さい)あやまつて足(あし)ふ み外(はづ)し上水へ陥(はま)られしとは神(かみ)ならぬ身の家眷(かけん)には露知(つゆし)ら れずいままて此處(こゝ)にすがたの見へしにかげだに無きは不(ふ) 審(しん)なり若(も)しや上水へはまりはせぬかとそれより大騒(おゝさわ)ぎと 爲(な)りその川筋(かわすじ)を探(さぐ)られしに一 時間程(ぢかんほど)を經てお泉水町なる 原泉小學校の邊(へん)にて發見(はつけん)せられしも無慘(むざん)や既(すで)にこと切れて 再び逢(あ)はれぬ別(わか)れと爲(な)りしと云へり折角(せつかく)の男兒(おのこ)を空(むな)しく 非期(ひご)に失はれし親御(おやご)の心(こゝろ)嘸々(さぞ〳〵)おしはかられて涙(なみだ)のこぼ るゝなり ○市中各町の落橋 元大名町 通(とお)りなる新道(しんみち)の中にて小橋 三ヶ所元御使番町龜屋町のうちにて五ヶ所内一ヶ所は半(はん) 落(おち)寶永上町のうちにて二ヶ所 其他(そのた)各所(かくしよ)に於(おゐ)て小橋の落(お)ち たるヶ所あるも未(ま)だその細詳(さいしやう)を得ず何れ次号に委(くわし)くすべ し ○僵樹倒木 屋を破ぶり樹を抜(ぬ)きしは寧(む)しろ大風よりは 大水の爲めに多く則ち根ばりの少き杏ならび梅李の類(たぐ)ひ には水に浸たりし上風に吹かれしものなれば随分とも市 中おしなべて見れは尠(すくな)からざりしよし但し郡村の分は未 詳 【左丁上段】 ○【以下、綴代にて一行読めず】 五厘位が七錢 鯖(さば)一本一銭位が二銭に騰貴(とうき)し靑物は木瓜百 本に付八銭位なりしが俄然十本四銭となり茄子は僅か に昨朝七ッ出でたれとも何とも角とも定價なし抑も今回 の畑塲溢水に石方は無量(むりやう)の害(がい)を蒙(かふむ)りたれは木瓜茄子等は 先づ本年は之れ限り面の見納め否市へ持ち出づるは少な かるべしと云へり ○見舞人の東奔西馳 こんどの大水は福井市街中央をき りて北の部分が尤も困難(こんなん)を極(きわ)めしなれば握飯又たは燒(た)き 出しを爲して重に詰め煑(に)しめ、棒まき、燒き豆腐油揚、鮨 なんとを添(そ)へ水を侵(おか)し被害(ひがい)の家々持運ぶもの引きもきら す東西を馳(は)せ違(ちが)ひ酒樽も五つ六つ宛繋ぎて高くさしあげ 【続き不明】 ○城の端新屋敷下町百軒長屋 去る一日の夜(よ)おひ〳〵に 橋南(きやうなん)毛矢邊(けやへん)に水嵩(みづかさ)の増(ま)すも城(じやう)の端(はし)などは近頃(ちかごろ)水(みづ)の浸(つ)きし こと稀(ま)れなれば誰(た)れも寐耳(ねみゝ)に水(みづ)の來(こ)やうとは知(し)らぬもの から暴風(ぼうふう)猛雨(まうう)を氣(き)にしながら家々(いへ〳〵)ひつそと寐静(ねしづ)まり所謂(いわゆ) る同夜(どうや)の丑滿(うしみ)つごろ(昔(むかし)なら)一 層(そう)劇(はげ)しき大風(おゝかぜ)か但(たゞ)しは地(ぢ) 震(しん)の揺出(ゆりだ)すのか何(なん)にしても恐(おそ)ろしき響(ひゞ)きのするぞと疑(うたが)ふ 間(ま)もあらばこそ滔々(たう〳〵)として泥水(どろみづ)の床上(しやうじう)に馳上(はせのぼ)るにスワ西(にし) 潟邊(がたへん)の堤防(つゝみ)きれたなり起(お)きね〳〵と狼狽(うろた)へるうち畳(たゝみ)は 濡(ぬ)れて浮(う)きあがり蚊屋(かや)も蒲團(ふとん)も釣(つ)りたまゝ敷(し)いたまゝづ ぶ濡(ぬ)れにて水中(すいちう)に漂流(たゞよ)ふ有(あ)りさま主人(あるじ)も妻(つま)もどこから手(て) 【左丁下段】 を下さんや帳面籍同箱と早ふ二階へ持ていけ乳兒はどし たニリヤたまらぬ老母(おかあ)さんそんなことをして居(ゐ)るうち命(いのち) が危(あやう)いナニ箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)にても出(だ)したい出すにも出さぬに も火が風(かぜ)で消(き)へて仕舞(しま)ふたソレ椽板(ゑんいた)が浮(う)いたから落(おち)ると 仕方(しかた)が無いと云へる急水(きうすゐ)が十中の八九にてかの辛(か)らく夜(や) 具(ぐ)蒲團(ふとん)を仕舞ひ飯(めし)の一升も燒(た)き一 晝夜位(ちうやぐらゐ)籠城(ろうじやう)するも糧(かて)に つかへぬ謀(はかりごと)を爲したるは誠(まこと)に僅々の少數なりと云へり 則ち一 体(たい)床上三尺も四尺もあがり軒(のき)へ水の浸たるは僅(わづか)に 一尺位と云ふ《振り仮名:𪉩梅|あんばい》なればその家具(かぐ)家財(かざい)を顧(かへり)みるに遑無(ひまなか)き は勿論(もちろん)なるが甚(はなはだ)しきは火事に逢(あ)ふたよりは劣(おと)りにて地(ぢ) ぶくも椽板(ゑんいた)も横木 閾(しきゐ)も盡(こと〴〵)く逆(さか)卷く激波(げきは)に流(なが)されてかの 家 單(たん)に屋根と柱(はしら)を豫(あ)ますのみ迚(とて)もこんどは家と共に流(なが)さ れて命(いのち)も西の潟へ藻屑(もくず)と爲(な)して仕舞(しま)ふかと覺悟(かくご)はしたれ と夢(ゆめ)に夢見る惡夢(あくむ)の何故(なにゆへ)覺(さ)めぬから激波(げきは)怒濤(どとう)の上に揖(かぢ)【楫】失(うしなひ) し捨(すて)小舟 苦艱(くなん)の中に包(つゝ)まれながら猶ほ愚痴(ぐち)を溢(こ)ぼして居 る老人(ろうじん)あり下駄(げた)一足に釜(かま)一つどうぞこうぞ二階(にかい)へ持(もち)てあ がつたばかり昨夕 喰(た)べたきり未(いま)だに食(しよく)があたらぬから餓(ひも) じふてどうもならぬせめて飲(の)める清水など一 椀(わん)ありたら この苦(くる)しみはせぬものをと口説(くど)くも道理(どうり)奔波(ほんぱ)躍浪(やくろう)救舟(すくひぶね)も 達(たつ)する能(あた)はず顔(かほ)を見(み)ながらたゞ聲をかけて辛棒(しんぼう)せよ今に 行くと励(はげ)ますばかり舟の中にありて見るもたゞ涙(なみだ)のみ遥(はる) かに聞(きこ)へて悲(かな)しげに凄(す)さましきは救(たす)けてくれ今死ぬと叫(さけ) 【右丁上段】 ふ呼救の哀聲(あいせい)のみ修羅(しゆら)の巷(ちまた)とかねて聞く地獄(ぢごく)の呵責(かしやく)もこ れには過(す)ぎじと當日は探訪者もおほへす悚然(しやうぜん)肌膚粟(きふぞく)を生 じたりと云へり ○竹ヶ鼻鵜匠町親【観】音町新屋敷北部(一番町二番町) 下町 城之端は町屋 造(つく)りの多(おゝ)く家々(いへ〳〵)大概(たいがい)は二 階(かい)のあるをもてか の老人子供又たは小道具(こどうぐ)など二階へあげれば置(お)きあげの 面倒(めんどう)を爲さゞるもまづ手廻(てま)はしに爲るの便利(べんり)あれど艸屋(くづや) 葺(ぶ)き無二楷(むにかい)なる《振り仮名:竹ヶ鼻|たけがはな》邊(へん)「家々に至りては二階と伝へる 避水所(ひすいじよ)も無く大抵(たいてい)床上二尺位と豫算(よさん)せし畳 目算(もくさん)も忽(たち)まち 外(はづ)れ置(お)き上げの枠共(わくども)疂(たゝみ)建具(たてぐ)の水に浸(ひた)りて押(お)し流され殆(ほと)ん ど増(ま)し水は破風(はふ)に及(およ)ばんとする勢(いきほ)ひ爲るにぞ根(こん)かぎり精(せい) 一杯(いつぱい)屋根を破(や)ぶり顔(かほ)を出し救(たす)けてくれと呼(よ)ばわるも船數(ふねかづ) の少(すくな)くてそんなに急(いそ)かる可きにあらされは暫(しばら)く待たれよ まだ其許(そこもと)は屋根は没(かく)れぬそれそこの家は既(すで)に屋根を没(かく)し たれは人死のありしと推(すゐ)さると流れ横ぎりて警官(けいくわん)の馳(は)せ 附(つ)けらるゝなど被害(ひがい)第一等は福井 市街(しがい)にても恐(おそ)らくはこ の部分(ぶぶん)に過(す)ぐるものはあらざる可しとの事なり ○足羽川堤防和田中村の切所 かくこの回福井を泥海(どろうみ)に 爲したる源(みなもと)即ち和田中村の堤防(ていぼう)切所(きれしよ)はかの實(じつ)六十間も あり水勢(すいせい)滔々(とう〳〵)として白沫(はくまつ)を散(さん)しかの音(おと)に名高(なだか)き米國のナ 【右丁下段】 イヤガラの大瀑布(だいばくふ)も是(これ)には過(す)ぎじとおもはるゝ思ひにて すさましなんと云(いふ)ばかり無(な)く昨日も猶(な)ほ勢(いきほ)ひ込(こ)んで馳(は)せ 込(こ)むを俵(たわら)又たは莚(むしろ)もて郷人足(ごうにんそく)百五六拾人が寄(よ)り集(あつま)りて防(ぼう) 禦(ぎよ)修繕(しうぜん)に取(と)りかゝれと今(いま)すこし人足(にんそく)を増(ま)したらんにはそ の効(かう)速(すみや)かなる可(べ)しと或人(あるひと)が云ひしが尤(もつと)もこの切所(きれしよ)を防(ふせ)ぐ に随分(ずいぶん)とも一 時(じ)は力(ちから)を盡(つく)したるものと見(み)へ靑疂(あほたゝみ)とおもへ るか若干(そこばく)切所(きれしよ)の傍(かたわら)に水(みづ)を防(ふせ)いて積(つ)み並(なら)べりと遥(はる)かに南(なん) 岸(がん)より望(のぞ)みしものゝ話(はな)したり ○郡衙 かくのごとく親(した)しく目覩せし被害(ひがい)の惨狀(さんじやう)はなか 〳〵筆紙の能く盡(つく)し得可きところにあらざるが流石(さすが)は郡 長德山繁樹氏には去る一日足羽川 滿水(まんすい)橋南 各所(かくしよ)溢水(いつすい)の危(き) 嶮(けん)ありと見るより(午後七時頃)自家の浸水(しんすい)はもとより問 ふに遑(いとま)あらず書記三人を連(つ)れて三大橋の落架(らくか)豫防(よぼう)に注意(ちうゐ) あり終夜 不眠(ねむらず)二日橋北北東部一 面(めん)水海(みづうみ)と爲りしよりは警 察署と相應(あいおう)じて萬事に注意(ちうゐ)し被難者(ひなんしや)救助(きうじよ)の方法(はう〳〵)ならび燒(たき) 出米(だしまい)等(とう)かす〳〵指揮(しき)し僅(わづ)かに昨朝 始(はじ)めて一 度(ど)自宅(じたく)へ歸(かへ)ら れしと云ふその鞅掌(わふしやう)鳴謝(めいしや)に堪(た)へず 【左丁上段】 ○又た 又た當郡役所よりは足羽郡に関(くわん)する足羽川筋 へ書記三名を派遣(はけん)しその實地(じつち)を巡撿(じゆんけん)せしめられしと云ふ 將(は)た洪水(こうずい)の盛(さかん)んに毒意(どくゐ)を逞(たくまし)ふする真最中(まつさいちう)より當郡役所 にて燒出(たきだ)しに爲りし白米は凡そ数十俵の多(おゝ)きに及び隈(くま)な く配(く)ばられしをもて親類(しんるゐ)縁者(ゑんじや)も水の中に埋(うま)り居(ゐ)て救(すく)ふに 道(みち)なく竈(かまど)は没(ぼつ)して蛙(かわず)を生じ前夜 饞餘(さんよ)の飯櫃(めしひつ)は流(なが)して仕舞 ひ饑(うへ)に泣(な)ける被難者(ひなんしや)へも三度とも團飯(にぎりめし)に有(あ)り附(つ)くを得能 く性命(せいめい)を繋(つな)きたりと云ふ ○嗚呼 嗚呼(あゝ)泥水(でいすい)海裏(かいり)に在(あ)りてはその情(じやう)こゝに至(いた)るは怒(ど) 然(ぜん)に堪(た)へずといへどもこれはとうしても無理(むり)なり一昨日 退(ひ)き潮(しほ)の立(た)ち當市街(たうしがい)家々(いへ〳〵)はそろ〳〵掃除(そうじ)にかゝると云ふ 順序(じゆんじよ)に運(はこ)びたるも一葦(いつゐ)の堤防(ていぼう)を隔(へだ)たて四ッ居村の方(かた)は泥(どろ) 海(うみ)依然(いぜん)たゞ其 水勢(すいせい)と上水(うはみづ)を減(げん)せし迄にてざんぶり田畑(たはた)も 家居(いへゐ)も水裏(すいり)にあるに堪(た)へずやありけんこゝに濫(かん)して無理(むり) にも中島の堤防(ていぼう)を切断(せつだん)して己(おの)か苦艱(くげん)を減(げん)せんとせしをこ れと見(み)るより竹ヶ鼻等この堤防(ていぼう)の西部(にしぶ)市内(しない)の方(かた)にては大 に驚(おどろ)き早太鼓(はやたいこ)を鳴(な)らして急(きう)を報(つ)け警察署へも注進(ちうしん)したる に前日の浸水(しんすい)に凝(こ)りたる市内(しない)の人心(じんしん)なればそれ切(き)らすな 防(ふせ)げと忽(たちま)ち人山を築(つ)きて殆(ほと)んど爭論(そうろん)にも爲(な)らんとせしと き恰(あたか)も好(よ)し警官の出張(しゆつてう)ありしに流石(さすが)の四ッ居村民も手を 出だすことの出來(でき)す空(むな)しく舟(ふね)を返(か)へしたる由(よし) 【左丁下段】 ○魚市の相塲 當市(とうし)魚市(うおいち)の相塲(そうば)は昨日 鯛(たい)十 貫目(くわんめ)に付十一 圓五十錢 鮑(あわひ)一箇小五六錢より大二十五錢までにて鰻(うなぎ)一尾 大拾錢より四十錢 位(ぐらゐ)にて洪水(こうずい)以來(ゝらい)魚が澤山(たくさん)出でたるより 烏賊(いか)なとは十杯に付壹錢五厘より二錢位なりと云へり 【飾り罫線】      縣下水難事件 ○四役塲の救濟 這回(こかひ)當市(とうし)浸水(しんすゐ)の爲(た)め今日の糊口(こゝう)に差支(さしつか) へる家數(いへかづ)は夥(おびたゞ)しきことの由(よし)なるが則(すなわ)ち一昨日より四 役(やく) 塲(ば)の戸長 用掛(やうがゝり)には町々 殘(のこ)る隈(くま)なく實査(じつさ)爲し尋常(じんじやう)床上 浸(ひた) した位(くらひ)はさて置(お)き疂(たゝみ)を濡(ぬ)らし夜具(やぐ)家財(かざい)を流(な)かしいかにも 困難(こんなん)骨(ほね)に入(ゐ)りし家(いへ)のみを記(き)し壹人につき白米三合 宛(づゝ)二十 日ばかり錢になほして濟施(さいせ)せらる可(べ)き筈(はづ)にとりかゝられ しと云(ゐ)ふ他役塲(たやくば)は詳(つ[ま]ひらか)にせぬが浪花町(なにはてう)役塲(やくば)(西北部)管内(くわんない) 二千四百戸中三百戸ばかりはこの濟施(さいせ)の數(かず)に入れらる可 しときく ○水害避難所 前説 附録(ふろく)に水害(すいがい)避難所(ひなんしよ)を橋南(きやうなん)孝顕寺(こうけんじ)と記 るせしを同寺にては施餓鬼會(せがきゑ)があるとかにて差當(さしあた)り謝斷(しやだん) されたるより石塲(いしば)畑方(はたがた)の人民は元横屋小路の眞淨寺(しんじやうじ)へ二 百名同町 德行寺(とくぎやうじ)へ百五十名元 神宮寺町邊(じんぐうじてうへん)は元西念小路(もとさいねんこうじ)の 善福寺(ぜんふくじ)へ百二十名 相生町(あひおひてう)の瑞應寺(ずいおうじ)へ五十名同町の淨願(じやうぐわん) 寺(じ)へ七十名 毛矢町邊(けやてうへん)は元二十三 軒町(けんてう)の教重寺(きやうじうじ)へ百名余り 【右丁上段】 それ〳〵水難(すひなん)を避(さ)けたり又 橋南(きやうなん)にて甚(はなはだ)しく溢水(いつ[す]ゐ)の浸(ひた)せし は元 其(その)矢町(やてふ)り一町 余(あま)り下手なる森巖寺(しんがんじ)近邊(きんへん)にて溢水(いつすゐ)中 に浸(ひた)され居(お)る人民を救(すく)はんとするも舟(ふね)もなく筏(いかだ)も無けれ ば地掛戸長役塲にては一月の日祭(ひまつ)りに立てる太鼓小屋(たいここや)の 柱(はしら)を各町より集(あつ)め一大筏を組(く)みこれに乗(じやふ)じて被難者(ひなんしや)を救(きふ) 助(しよ)されしと云へり ○なかにも困難 溢水床上を浸(ひた)せし各町内(かくてうない)の紺屋及び塗(ぬ) 師屋(しや)は疂(たゝ)みなとを揚(あ)ぐるひまに藍瓶(あいがめ)を水に浸(ひた)され之れを 揚(あ)げんと欲するも容易(やうゐ)の事には揚らす他器へ汲(く)み取(と)り抔 するうち多分は溢水に浸(ひた)され椽(ゑん)の下に備蓄して置きたる 漆(うるし)を漸々(やう〳〵)床上へ溢水(いつすい)のあがりてより氣が付き過半(くわはん)は流失(りうしつ) 或は浸水の入りたれはその損毛は少(すく)なからじといへり ○飯水の用意 急水(きうすい)の來(きた)りてその量(りやう)の多(おゝ)きときは竈(かまど)を沒(ぼつ) し火鉢(ひばち)を流(なが)し井を埋(うづ)め水瓶(みづがめ)を浮(う)かすなと殆(ほとん)ど臺所(だいどころ)を全沒(ぜんぼつ) し食事(しよくじ)は愚(おろ)か食水(しよくすゐ)にも差支(さしつか)へ忽(たちま)ち餓餲(きかつ)に迫(せ)まるも浸水(しんすい)は 見舞者(みまひしや)の道路(どうろ)を遮(さへ)ぎるものなればいかに親(した)しき姻者(ゑんじや)のあ りとも救(たす)けん工夫(くふう)の無(な)きものなりされば大雨(たいう)の意外(ゐぐわい)に續(つゞ) き川々の滿水(まんすゐ)と聞(き)くときはその幸(さゐわ)ひに空と爲ることある を覺悟(かくご)して二升なり三升なり直(たゞ)ちに飯(めし)を焚(た)き附(つ)け又た清(し) 水(みづ)を汲(く)み置(お)き二 階(かい)又たは高(たか)きところへ釣(つ)るす可(べ)し飯水(はんすい)の 【下段】 用意(やうい)さへ整(とゝの)へは塩(しほ)を添(そ)へてなりとも二三日は籠城(ろうせう)の出來(でき) るものなり現(げん)に新屋敷(しんやしき)鵜匠町(うじやうまち)城(じやう)の橋(はし)にて西方(にしがた)堤防(ていばう)の切(き)れ たりスワ大變(たいへん)ときくより何(なに)はさて急(いそ)いで清水(せひすい)を汲(く)み飯(めし)を 燒(た)きにかゝり傍(かたわ)ら置(お)き上(あ)げにかゝりし家は燒(た)き畢(お)はり未(ま) だ釜(かま)から櫃(ひつ)に移(うつ)さぬうちに水の來(きた)りて井に竈(かまど)を沒(ぼつ)したれ ども二日間の籠城(ろうじやう)に飯水(はんすゐ)に差支(さしつかへ)無(な)く気樂(きらく)に水の床上(しやう〴〵)を退(ひ) くを待(ま)ちたりと云(ゐ)ふいかにも慣(な)れぬものはこゝへは氣附(きづ) かぬなりゆへにその筋(すじ)より團飯(にぎりめし)を配(く)ばらるゝ舟(ふね)の廻(ま)はる まではひだるい腹(はら)をかゝへ昨夜(さくや)からまだ飯(めし)があたりませ ぬお救(たす)け〳〵と米櫃(こめひつ)に米もあり井も家にある人にして大(たい) 叫哀(きやあい)を乞(こ)ひしものも寡(かく)かゞざりし ○上水渇聲 福井市街北部の町々を流(なが)れてかの飲用水(いんやうすい)に 供(きやう)せらるゝものはその源(みなもと)を九頭龍川に取(と)りし芝原用水よ り分派(ぶんは)せらるゝものにしてこの流(なが)れに田面(たのも)を養(やしな)ふものは 足羽吉田二郎にはなか〳〵尠(すくな)からぬ村數(むらかづ)なるにこの回(たび)の 洪水(こうすい)にて九頭龍川の堤防(ていぼう)を潰決(くわいけつ)せし塲所(ばしよ)の多く水流こゝ へ決(けつ)して本流(ほんりう)に減(げん)じ且(か)つ芝原用水の分派口(ぶんはぐち)を損破(そんぱ)して土(ど) 砂(さ)を多(おゝ)く持來(もちきた)りしをもて志比境(しひざかひ)までは細々(ほそ〴〵)流(なが)るゝも其 以(ゐ) 西(せい)は悉皆(しつかひ)渇盡(かつじん)し市中上水の川々は雨溜(あまだまり)の外は一滴(いつてき)も流れ ぬと云ふ爲めに困艱(こんかん)するもの實(じつ)に夥(おびたゞ)しきをもて郡役所 【左丁上段】 よりも吏員(りゐん)の派出(はしゆつ)に爲りそれ〳〵修繕(しうぜん)して流(なが)れを來(ひ)く樣(やう) に盡力(じんりよく)せられ一両日中には舊(きう)に復(ふく)する筈(はづ)なりと云へど昨 朝の大雨にてはどうなりし歟 ○閉戸能く水を防ぐ 松本筋(まつもとすじ)にては餘程(よほど)水(みづ)に慣(な)れし氣轉(きてん) 者(しや)あり水來(みづ)と云(ゐ)ひ囃(はや)すとその儘(まゝ)表戸(おもてど)悉皆(しつかい)鎖(と)さし疂(たゝみ)を寄(よ)せ かけて重(お)もりと爲(な)し猶(な)ほ板(いた)など打(うち)つけて隙間(すきま)洩(も)れ來(く)る水 を防(ふせ)きたるに町屋(まちや)の雙方(そうほう)は壁(かべ)なり南向(みなみむ)きの家(うゐ)にてはこの 手段(しゆだん)を取(と)りしゝり同じ軒續(のきつゞ)きは浸(ひた)せるにひとり之(これ)を免(のが)れ し家もありと云ふ置(お)き上けのすみし上(うへ)手廻(てまわ)しの出來(でき)たら んにはこの方法(はう〳〵)また心得(こゝろゑ)て宜(よ)きこと也 ○樽桶等を置き上けにする時の心得 浸水(しんすい)はたび〴〵あ りてならぬことなれどもまだ何時(いつ)無(な)いとも云(ゐ)はれねば置(お) き上(あ)げするときの心得(こゝろゑ)そ肝要(かんえう)なり水(みず)慣(な)れぬ人々にては桶(おけ) なり樽(たる)なりをもて置(お)き上げ臺(だい)とするに仰向(あをむ)けて底(そこ)を下(した)に するが常(つね)なるが左(さ)するときは水の周圍(まわり)を充(み)たす頃(ころは)ひには 浮(う)きあげて折角(せつかく)骨折(ほねお)りて拵(こしら)へし置(お)き上げを顛(くつが)へし諸具(しよぐ)す べてざんぶり濡(ぬ)らすものなりされは仰向(あをむ)けにするときは 水を汲込(くみこ)んで浮(うか)まぬ樣(やう)の用意(やうゐ)を爲(な)すか又は俯向(うつむ)けて底(そこ)を 上にすれば決(けつ)して浮(うか)む氣遣(きづか)ひは無(な)しと云ふ今回(こんど)の浸水(しんすゐ)に 之(これ)を経験(けいけん)せしに水(みづ)入(い)れずして仰向(あをむ)けしはすべて顛(くつが)へせし ぞ道理(ことわり)なれ 【左丁下段】 ○浸水の舊町數 前號に記(し)るしたる當市(とうし)溢水(いつすい)の浸(ひた)せし各 町を舊名にする時は凡て二百七拾町にして其(その)溢水(いつすい)の浸(ひた)さ ゝる町は同く舊名 僅(わづ)かに四十七町なりと云ふ ○材木の漂流夥し 丹生郡末の谷郷の天野勝右衞門は同 郡 上戸(うわと)村の牧野市兵衛に運漕賣捌(うんそうゝりさばき)を委托(たのみ)し去月十六日日 野川を下り廿一日 漸(やうや)く足羽川と合流(こうりう)せる安居村(あごむら)に着(ちやく)せし かこゝより今(いま)一勉強(ひとべんきやう)と足羽川を遡(さかのぼ)り廿九日 晩(ばん)に當市(とうし)幸 橋へ着(ちやく)しこれより材木屋(ざいもくや)へ引合(ひきあ)わんとその手續(てつゝ)きに及ぶ 翌三十日より水嵩(みづかさ)の漸次(ぜんじ)に增(ま)し一日の激浪(げきりう)に支(さゝ)へとめる 隙(ひま)も無(な)く二百八十六本(代價(だいか)三百七拾圓)盡(こと〴〵)く之(これ)を流(なが)し 半月(はんつき)ばかり運漕(うんそう)の苦心(くしん)を無(む)にせしのみかわ材木原資(ざいもくもとで)なら び山より切(き)り出して日野川まで陸運(りくうん)したる運賃(うんちん)とも一 朝(てう) の泡(あわ)と消(き)へたるぞむざんなれしかるに同日九十九橋にて 濱方(はまかた)人足(にんそく)なんとが水を冒(おか)して拾(ひろ)ひあげしはその内四拾二 本なりときゝ市兵衛は相當(そうとう)の禮金(れいきん)を出して受取(うけと)らんと云(ゐ) ふに拾(ひろ)ひ主(ぬし)は二十圓で無(な)ければ渡(わた)せぬとか云ひ張(は)り目下(もくか) 談判(だんぱん)中なりと云ふ水上の拾(ひろ)ひ物はどうなるものにや ○鶏犬水に死す 這回(こたび)の洪水(こうずい)はあまりの火急(くわきう)にして疂(たゝみ)さ へ濡(ぬ)らす始末(しまつ)なれは家鶏(にわとり)飼犬(かひいぬ)の避水(ひすい)まではなか〳〵手の 届(とゞ)かす氣(き)も附(つ)かす必死(ひつし)と道具類(どうぐるい)の置(お)き上(あ)げにかゝりて居(ゐ) 【右丁上段】 しが稍(やう〳〵)手(て)のあきし頃(ころ)鶏(にわとり)は犬(いぬ)はと驚(おどろ)きて尋(たづ)ぬれども早(はや) 遠(とを)く流(なが)されて鶏(にわとり)は大半(たいはん)以上(いじやう)失(うしな)ひしもあり悉皆(しつかい)失(うしな)ひし もあり横町(よこてう)の大谷(おうたに)神明(しんめい)前(まへ)の水谷(みずのや)兩氏(りやうし)のごときは二十 餘羽(よは) 宛(づゝ)失(うしな)ひたるよし市中(しちう)を擧(あ)げては莫大(ばくだい)の數(かづ)ならんと云(い)ゝ 犬(いぬ)は飼犬(かいゝぬ)さへ失(うしな)ふ程(ほど)なれば野犬(やけん)の如(ごと)きは凡(すべ)て水を避(さ)くる ことの出來(でき)ず爲に浸水(しんすい)部分(ぶゝん)の犬は一 掃(そう)したるの姿(すがた)なりとか ○是れは果して流れしか 是(こ)れも同じく材木 漂流(へうりう)の話(はなし)に て武生幸町の山田玉藏と云へる丹生郡末の谷郷黒田七郎 右衛門に材木百八十一本(代價(だいか)百五十六圓)の運漕(うんそう)を爲し 日野川より福井へとおくらせしに廿九日までに幸橋(さゐわひばし)へ着 したれども卅日一日の增水(ぞうすゐ)に前同斷流して仕舞(しま)ひしとは 七郎右衛門の言葉(ことば)にて玉藏はいやとよ廿八日の晩(ばん)親(した)しく 幸橋に着したるを見しに十五本しかなかりしければ悉皆(しつかい) 揃(そろ)ひしを流(な)がせしとは不審(いぶかし)と是は委托者(たのみたもの)と受托者(たのまれたもの)との間 に談判中なりと云ふどちらが本統にや ○人家漂流 當市三ッ橋口に堺村と云へる小村(しやうそん)ありかの 村端(むらはづ)れに離(はな)れて建(た)ちし二軒(にけん)の村家(そんか)は市街(しがい)より押(お)しきりて 流(なが)るゝ激波(げきは)の衝(しやう)にあたりしものと見(み)へ去る二日午後を俟(ま) たず二 軒(けん)とも碎(くだ)けて漂流(へうりう)せしと云ふしかし人命(じんめい)には別段(べつだん) 恙(つゝが)なし 【右丁下段】 ○苗代(なわしろ)を搬運(うしうん)す 半夏生(はんげしやう)僅(わづ)か過(す)ぎの今日なりしをもてこ たびの水損(すいそん)は夥(おびたゞ)しとは云ふものゝまだ吉田郡 松岡在(まつをかざい)は 半夏生(はんげしやう)を期(き)として植附(うへつ)ける晩稻(おくて)なるともてこれへ馳(は)せ附(つ) け足羽郡 江端邊(えはたへん)以南(ゐなん)の村々より苗代(なはしろ)を買(かほ)ひに向(むか)ひ昨一昨 日なとは夥(おびたゞ)しく農夫(のうふ)が苗代(なはしろ)を檐(にな)ふて當市を通行(つうこう)するを 見(み)たり ○阪井港浸水の景況 去月三十日より本月二日にいたる 三日 間(かん)は終日(しうじつ)終夜(しうや)降(ふ)りしきりしかも猛烈(まうれつ)なる風(かぜ)さへ加(くわ)は り諸川(しよせん)は漸々(しだい)次々( 〳〵 )に澎漲(ほうちやう)し考古家(かうこか)の説(せつ)に據(よ)れば二十年以(い) 來(らい)未曾有(みぞう)の大洪水(たいこうすい)なりと云へりまづ當港(とうこう)にて浸水(しんすい)の箇所(かしよ) は岩崎町(いわさきてう)櫻谷町(さくらだにまち)及(およ)び平木町(ひらきてい)の内(うち)元木塲(もときば)泥原(どろはら)新保浦(しんぽうら)へ船(ふね)に て渡(わた)る渡船塲邊(とせんばへん)卽(すなは)ち電信分局(でんしんぶんきよく)の前(まへ)なれども當港 市街通(しがいとほり)街 西側(にしがわ)川方(かわかた)なる各商家(かくしやうか)裏手(うらて)に立列(たちつら)なりたる土藏(どぞう)は過半(くわはん)浸水(しんすい) と爲(な)り爲(た)めに各土藏(どぞう)の内(うち)へ納(い)れ置(お)きたる米穀(べいこく)商品(しやうひん)貨物(くわぶつ)を 始(はじ)め殘(のこ)らず水入(みづいり)に爲(な)るとて終日(しうじつ)終夜(しうや)右 防禦(ぼうぎよ)の人足(にんそく)雇人(やとひと)及(およ) び消防(せうぼう)夫等大 勢(せい)詰(つ)め駈(か)けるやら又た上 西町(にしてう)より汐見町(しほみてう)へ 架(か)したる港橋(みなとばし)が浮(う)き上(あ)がるとて橋上へ若干(そこはく)の半切(はんぎり)を積(つ)み 警部(けいぶ)巡査(じゆんさ)も非常(ひじやう)の繁忙(はんぼう)にて消防夫(せうぼうふ)數十人と共に高張提燈(たかはりてうちん) を點(とも)し不寐番(ねずばん)をせらるゝやう恰(あたか)も火事塲(くわじば)の如(こと)くなりしを 猶(な)ほ詳況(しやうけう)はおひ〳〵報道(はうだう)す可しと同港よりの通信(つうしん)なり 【左丁上段】 ○窮骨に入る 當市中(ふくゐぢう)溢水(みづ)の害(がい)を蒙(かうむ)りし中(うち)にも尤(もつと)も甚(はなはだ) しきは前號(せんこう)にも記(しる)せしことく東部(とうぶ)なる元中島餌指町(もとなかしまえさしまち)観音(くわんおん) 町(まち)お旗町(はたまち)竹(たけ)ヶ鼻(はな)新屋敷(しんやしき)一 番町(ばんてう)城(じやう)の橋(はし)小道具町(ことうぐてう)東光寺(とうかうじ)等(とう)の 各町(かくてう)にして寝耳(ねみゝ)に水(みづ)不意(ふゐ)の事故(ことゆへ)勝手(かつて)道具(どうぐ)は云(い)ふも更(さら)なり 戸(と)障子(せうじ)雨戸(あまど)小長持(こながもち)澤庵桶(たくわんおけ)等(とう)は凡(すべ)て流失(りうしつ)し衣類(いるい)は通常(つうじやう)の物(もの) を除(のぞ)く外(ほか)上下(かみしも)白無垢(しろむく)に至(いた)るまで殘(のこ)らず泥水(でいすい)の浸(ひた)すところ となり過半(くわはん)すたれ物(もの)となりたる程(ほど)の惨状(さんじやう)なれば歎聲(たんせい)益々(ます〳〵) 市街(しがい)に囂々(がう〳〵)するも先(ま)づ中等(ちうとう)以上(いじやう)は如何(どふ)なり斯(こ)ふなり其日(そのひ) を送(おく)るも余(よ)の細民(さいみん)に至(いた)りては常(つね)さへならぬ其中(そのなか)へかてゝ 加(くわ)へて溢水(みづ)に勝手(かつて)道具(どうぐ)は押(お)し流(なが)され業(わざ)をするにも便(たよ)り無(な) く饑餓(きが)亘(たん)【旦】夕(せき)に迫(せま)り人(ひと)の軒塲(のきば)に立(た)ちてなと少(すこ)しは餓(うゑ)を凌(しの)か んと親子(おやこ)共々(とも〴〵)袖乞(そでこひ)に出(い)づる者(もの)も數多(かづおほ)く目(め)もあてられぬ次(し) 第(だい)にて歎(たん)ずるにも猶(な)ほあまりあり ○一生を万死に得たり 當市(ふくい)元新屋敷(もとしんやしき)五番町(ごばんてう)の韮塚某(にらつかそれ)は 旅行中(りよこうちう)なれば留主(るす)には今年(ことし)七十路(なゝそぢ)の阪(さか)を越(こ)へし老母(らうぼ)一人(ひとり) 住居(すみゐ)の由(よし)なるが洪水(こうすい)の際(さい)は僅(わづか)に三尺余(さんしやくあま)りの囊棚(ふくろだな)へ漸々(やう〳〵)這(は) ひあがり出水(みづ)を避(さ)くるうち已(すで)に一命(いのち)危(あやう)きところを警官(けいくわん)の 爲(た)めに幸(さわい)ひ一命(いのち)は助(たす)かりたれども諸道具(しよだうぐ)其他(そのた)は先(ま)づ大畧(あらまし) 流失(りうしつ)せしとのこと 【左丁下段】 ○家屋の拾物 當市(とうし)毛矢町(けやてう)の西尾(にしお)初藏(はつぞう)と云(い)へるは元 観音(くわんおん) 町(まち)に貸家(かしや)一 棟(むね)を所持(しよじ)せるがこの程(ほど)の大水(たいすい)に同所(どうしよ)は水難(すいなん)の 津(つ)なれば見廻(みま)はらんと退潮(ひきしほ)のたつを待(ま)ち我(わが)貸家(かしや)のあると ころに至(いた)るにこわいかに基礎(ぢばん)だけを殘(のこ)して建物(たてもの)はその姿(すがた) だに無(な)しこれはと驚(おどろ)き近所(きんじよ)の人(ひと)に尋(たづ)ぬるにあまりの急水(きうすい) にて我(わが)家財(かざい)すら忘(わ)するゝ周章(しうしやう)どうなりしか氣(き)も附(つ)かざり しが大方(おゝかた)流(なが)れて仕舞(しま)ふたのだろうと聞(きい)てがつかり初藏(はつぞう)は 猶(な)ほその町端(まちすじ)を尋(たづ)ね廻(ま)はれり話(はなし)かわりて元(もと)永平寺町(えいへいじまち)の田(た) 島(じま)音平(おとへい)が洪水(こうすい)の日(ひ)同町元 酒井邸(さかゐてい)の前(まへ)にて浮(う)きつ沈(しづ)みつ小(ちひ) さき貸家風(かしやふう)の建物(たてもの)の流(なが)れ來(く)るを惜(お)しきものなりとていろ 〳〵工夫(くふう)し拾(ひろ)ひあげしかすぐ警察署(けいさつしよ)へ届(とゞ)け置(お)き拾主(ひろひぬし)の顯(あら) はるゝを待(ま)ちたりしに初藏(はつぞう)とこでか聞(き)き附(つ)けて貰(もら)ひに向(むか) ひしより二人 伴(ともな)ふて警察署(けいさつしよ)へ出頭(しゆつとう)し授受(じゆじゆ)の手續(てつゞき)を濟(すま)せし とは大(たい)した拾(ひろ)ひ物(もの) ○火祭の具水に浸す 昨日(きのふ)稍(やゝ)十二 時(じ)とも覺(お)ぼしき頃(ころ)當市(ふくい) 城(じやう)の橋(はし)を通(とほ)りかゝると老(おひ)も若(わか)きも下婢(げじよ)も下男(げなん)も手(て)に手(て)に 手桶(ておけ)を携(たづさ)へて東奔西馳(やつさもつさ)と騒(さわ)ぐものから何事(なにごと)ならんと窺(うかが)へ ば今回(こたび)の出水(みづ)にみな我家(わがや)々々( 〳〵 )を守(まも)る爲(た)め誰一人(だれひとり)も氣付(きつ)か ざりし嘗(かつ)て新(あらた)に建築(けんちく)せし一月 火祭(ひまつ)りに立(た)てる太鼓小屋(たいこごや)の 藏(くら)に溢水(みづ)が入(い)りて泥塗(どろまみ)れに爲(な)りて居(ゐ)るときくよりサア大(たい) 【右丁上段】 變(へん)と町内中(てうないぢう)が一 丁(てう)或(ある)は二丁 外(ほか)より井戸(ゐど)の水(みづ)を汲(く)み例(れい)の太(たい) 鼓小屋(こごや)の藏(くら)を洗(あら)ふやら器物(やうき)を乾(ほ)すやら一 方(かた)ならぬ混雜(こんざつ)を 爲(な)せしとは是(こ)れも溢水(みづ)の餘災(よさい)なり ○猿猴失兒を哀む これは去る一日の夜(よ)の事(こと)なり足羽郡(あすはこふり) 江端福村(えばたふくむら)など水害(すいがい)に懸念(けねん)ある村々(むら〳〵)はいづれも浸水(しんすゐ)の用意(やうゐ) にとりかゝり堤防(ていばう)豫防(よばう)の外(ほか)誰(た)れ一人も家より外(そと)へ出(で)るも の無く世間(せけん)ひつそと靜(しづ)まりつ聞(きこ)ふるものは暴風(ばうふう)の樹枝(じゆし)を 吹(ふ)き紙(かみ)窓(まど)を撲(う)つと滔々(とう〳〵)たる激流(げきりう)の田面(たのも)を浸(ひ)たす響(ひゞ)きのみ なりしかるに福村(ふくむら)の田(た)の沖(おき)に當(あ)たり膓(はらわた)を斷(た)つおもひし て叫(さけ)び哀(かな)しむ聲(こゑ)の風波(ふうは)の響(ひゞ)きに連(つ)れて聞(きこ)ふるは必定(ひつでう)人(ひと)の 水(みづ)に溺(おぼ)れて苦(くるし)むならん救(たす)けられぬまでもどうとか工夫(くふう)を 爲(し)てやらんと云(ゐ)ひ合(あ)わさねとも福村(ふくむら)の家々(いへ〳〵)にては聲(こゑ)をし るべきいづれもその側(ほとり)までは近附(ちかつ)きたるもなか〳〵奔波(ほんぱ) 《振り仮名:□|□□□□》ふして進(すゝ)むを得(ゑ)すさるにても婦人(おんな)か男子(おとこ)か誰(た)れ人な □と熟視(じゆくし)すれば人にはあらぬ大猿(おゝざる)にてその兒(こ)とおぼしき 小猿(こざる)が十 間(けん)あまり先(さ)きに流(な)がるゝを救(たす)けんとしても水聲(すいせい) の速(はや)くして及(およ)びきれず山(やま)に在(あ)りて樹(き)を攀(こぢ)る手際(てぎわ)はなかゝ ゝ河獺(かはうそ)にあらね水(みづ)には出(い)でず頻(しき)りに之(こ)れを指(ゆび)さして人々(ひと〴〵) の方(はう)を向(む)き救(たす)けてやりてと拜(おが)むさまのいかにも不愍(ふびん)なる 【は焼野(やけの)の雉(きゞす)夜(よる)の鶴(つる)子(こ)を思(をも)ふ情(なさ)けは人畜(にんちく)□(かわ)りなしと□(なみだ)を□(□□) 一行不鮮明につき推測】 【右丁下段】 め救(たす)けてやらんと棹(さほ)なといだしたれども届(とど)くべきにもあ らずその中(うち)小猿(こざる)は水に沈(しづ)みて終(つひ)に空(むなし)く爲(な)りたるを見(み)るよ り大猿(おゝざる)狂氣(けうき)のことくあせりにあせりこれも何處(いづれ)へか姿(すがた)を 失(うしな)ひたるに人々(ひと〴〵)も是(こ)れまでなりと家路(いへぢ)に入(ゐ)りて再(ふた)たび浸(しん) 水(すゐ)の用意(やうゐ)にとりかゝれりと是(これ)は同村(どうそん)の親(した)しく見(み)た人(ひと)の實(はな) 話(し)なり ○船橋の流失 勝山(かつやま)街道(かいどう)九頭龍川(くづりやうがわ)に架(か)せる小舟戸(こぶねと)の舟橋(ふなばし) の船(ふね)數(かず)二十六 艘(そう)をもて組立(くみた)てしものなるが這回(こんど)の洪水(こうずい)に てその内(うち)十二 艘(そう)を殘(のこ)し他(た)は激波(げきは)怒濤(どとう)の中(うち)にその姿(すがた)を失(うしな)ひ たりと云(ゐ)へり又(ま)た同街(とうがい)に沿(そ)■勝山在(かつやまざい)光明寺村(こうめうじむら)なともその 田面(たのも)も浸(ひた)されし分(ぶん)は大石小石を瀉(そゝ)きしをもて四五年は舊(もと) に復(ふく)せぬとか ○福井港水門沖合の暴風激浪 去る二日越前三大川とも 非常(ひじやう)の漲水(ちやうすい)にてかの水門(みなと)へ流(なが)れ込(こ)む水勢(すいせい)のすさましきは 言語(げんご)の名狀(めうじやう)すべきにあらざるが沖合(おきあひ)の波浪(はろう)また甚(はなはだ)しく 忽(たちま)ち深谷(しんこく)に陥(おちい)り忽(たちま)ち大山(たいざん)を浮(うか)めかの怒濤(どとう)して岩礁(がんせう)に打附(うちつ) ける大潮(だいてう)はいかなる鐵艦(てつかん)も碎(くだ)けざらめやとおもわるゝ折(おり) 柄(から)檣(ほばしら)折(お)れ楫(かぢ)碎(くだ)け九死一生(きうしいつしやう)の有樣(ありさま)にて日本形(にほんかた)千貮百石よ り五百石までの廻漕船(くわいそうせん)八 艘(さう)が漂(たゞよ)ひ來(きた)り逆巻(さかま)く波浪(はろう)の中(なか)へ 見(み)る〳〵覆沒(ふくぼつ)し憐(あわれ)む可(べ)し滿舩(まんせん)の穀物(こくもつ)貨物(くわもつ)はすべて海底(かいてい)の 【□□(もくず) 以下一行見えず】 【左丁上段】 上陸(じやうりく)せしも怪我人(けがにん)は多少(たしやう)ありたる趣(おもむき)なり則(すなは)ち八 艘(そう)のう ち三 艘(そう)は阪井郡 米(こめ)ヶ(が)脇浦(わきうら)刀根其(とねそれ)同浦(それどうゝら)小問屋其(ことひやそれ)泥原新保浦(どろはらしんぽうゝら) 紙谷某(かみやそれ)の所有船(しよいうせん)にて他(た)の五 艘(そう)は他州(たしう)の廻船(くわいせん)なりときけり 陸上(りくじやう)の災難(さいなん)のみならず又(ま)た海上(かいじやう)の災難(さいなん)あるかくのごとし 何(なん)と云(い)ひてよからふやら旣(すで)に長歎(ちやうたん)に遠(とお)く幾歩(いくほ)を超(こ)へたり と謂(い)ふ可(べ)し ○大野郡勝山在の水況 九頭龍川(くづりやうがわ)の源(みなもと)は一に大野郡に在(あ) りて山々(やま〳〵)より出(いづ)る谷川(たにがわ)の數流(すりう)合(がつ)し勝山(かつやま)近傍(きんぼう)に至(いた)りて一 大(だい) 河(か)を爲(な)すものなるが霖雨(りんう)日(ひ)を經(わ)たり若(もし)くは强雨(ごうう)盆(ぼん)を傾(かたむけ) るがこときに逢(あ)へば忽(たちま)ち怒激(どげき)して奔流(ほんりう)巖石(がんせき)を嚙(か)み岡(おか)を碎(くだ) き谷(たに)を沒(ぼつ)することさして珍(めづ)らしとせざるなりその一 枝源(しげん) なる南山中東谷 鄕(ごう)なる上打波(かみうちなみ)の深山(しんざん)より落(お)ち來(きた)る溪流(けいりう)は 東西 勝原(かどはら)唯野(ゆいの)土打(つちうち)富島(とみしま)等(とう)諸村(しよそん)を經(へ)猶(な)ほ平泉寺谷(へいせんじたに)その他(た)大 野郡 諸山(しよざん)の溪水(けいすい)すべて之(これ)に合(がつ)し勝山にいたりたひ〳〵九 頭龍川を形るものにして則(すなは)ち去る一日二日の洪水(こうすい)にはこ の溪流(けいりう)尤(もつと)も甚(はなはだ)しく澎漲(ぼうちやう)し上下 打波(うちなみ)の諸谷(しよたに)に伐(き)りて積(つ)み 上(あ)げたる大材木(だいざいもく)はその幾許(いくばく)なるや數(かず)知(し)らぬ程(ほど)も奔波(ほんぱ)に巻(ま) かれて勝山(かつやま)をして押流(おしなが)し東西(とうざい)勝原(かどはら)のことき兩村(りやうそん)にて人家 七十戸ばかりあるがすべて床上(しやう〴〵)に激流(げきりう)を浸(ひた)しその内の二 【左丁下段】 戸は諸道具(しよどうぐ)を合(あわ)せ家居(いへい)盡(こと〴〵)く破碎(はさい)して押(お)し流(なが)されしは實(じつ)に すざまじき勢(いきほひ)なりと云(い)ふこの激流(げきりう)の積(つも)り〳〵て遙(はる)か下(か) 流(りう)恰(あたか)も勝山(かつやま)市街(しがい)の東南(とうなん)に當(あた)れる畔川(あぜかわ)上下 高島(たかしま)の諸村(しよそん)の堤(てい) 防(ばう)十丁ほとを潰決(くわいけつ)しこの邊(へん)一 時(じ)荒海(こうかい)を爲(な)し餘波(よは)勝山(かつやま)市街(しがい) に及(およ)び後町(うしろまち)川方(かはかた)の方(はう)は浸水(しんすい)床上(しやう〴〵)に尺餘(しやくよ)なりしとぞ概(がい)して 土地(とち)の高(たか)きが爲(た)め掃洒(はわくち)の早(はや)く水量(みづかさ)はさして高(たか)からぬも水(すい) 聲(せい)荒(あら)く又(ま)た大岩石(たいがんせき)ならび礫砂(れきさ)を激流(げきりう)の持來(もちきた)るが爲(た)め一 度(ど) 浸(ひた)されし跡(あと)はかの平時(へいぢ)に復(ふく)するは決(けつ)して福井 近傍(きんばう)の譯(わけ)に はゆかねと云(い)へりしかし打波邊(うちなみへん)より押流(おしなが)したる材木(ざいもく)は大(だい) 抵(てい)それ〳〵拾(ひろ)ひあげたりとはまだしも不幸中(ふこうちう)の幸(こう)と云(い)は ざるを得(ゑ)す ○大野郡大野在の水況 大野(おゝの)と勝山(かつやま)との距離(きより)は僅々(わづか)三 里(り) にしてその諸川(しよせん)は源を大野 部(ぶ)に發(はつ)するも多(おゝ)くは勝山(かつやま)へ灌(そゝ) ぐるものなれば分説(ぶんせつ)するは贅(ぜい)に属(ぞく)するがことしといへと もその尤(もつと)も大野(おゝの)に近(ちか)き部分(ぶゞん)にて去(さ)る一日二日兩日の洪水(こうすい) に害(がい)を及(およ)ぼしたるものを肥(こゑ)せば眞名川(まながわ)寶慶寺川等(ほうきやうじがわとう)の俄(にわか)に 暴漲(ぼうちやう)せしをもて御山鄕(おやまごう)富田鄕等(とみだこうとう)沿岸(ゑんがん)の村々(むら〳〵)すなわち稻鄕(たうこう) 据(しがらみ)友兼等(ともかねなと)の田面(たのも)又(ま)たは住地(じうち)を浸(ひた)したれとも大野(おゝの)市街(しがい)は さらに水難(すいなん)に關係(くわんけい)なしたゞ東在(とうざい)のみ右(みぎ)のごとしとの事(こと)な り 【右丁上段】 ○常置委員の出張 縣下(けんか)洪水(こうずい)にて堤防(ていばう)を破壊(はくわい)し田圃(でんぽ)を荒(あら) し道路(どうろ)を潰决(くわいけつ)する等(とう)の損害(そんがい)尠(すく)なからされば實地(じつち)見分(けんぶん)の 爲(た)め常置委員山口謙之助豐島新太郎の二氏には森山 驛(えき)へ 富田彌五平永田定右衛門の二氏には小濱へ向(む[か])い何(いづ)れも出(しゆつ) 張(てう)せられたり ○水難の製造せし赤貧者 今回(こんど)の水難(すひなん)に逢(あ)ふて西(にし)へも東(ひがし) へも行(ゆ)かれず目(め)もあてられぬ赤貧者(せきひんしや)は當市(とうし)橋南(きやうなん)常盤木町(ときはぎてう) 外(ほか)廿二ケ町村(てうそん)の戸長役場(こちやうやくば)部内(ぶない)にては合計(ごうけい)六百拾六人内男 百五十七人女二百 零(れい)七人十五歳以下の男女二百四十二人 何れも生計(せいけい)立(た)ちがたきを以(も)て御救助(ごきうじよ)を仰(あをぎ)たき旨(むね)を願(ねが)ひ出(い) でたる由(よし)又(また)同部内(どうぶない)に於(おひ)て洪水(こうずい)の爲(た)め家屋(やおく)を破壊(はくわい)し殆(ほとん)と居(すま) 住(ひ)爲(な)り難(が[た])きは二 戸(こ)及(およ)び土藏(どざう)一ケ(か)所(しよ)にして其他(そのた)は少(すこ)しく破(は) 壊(くわい)せし家屋(かおく)もあれど先(ま)づ修繕(しうぜん)を加(くわ)ふれば別條(べつじやう)なしと云(い)へ り ○疂三枚に十六人 かの當市(ふくゐ)洪水(こうすい)の砌(みぎり)注意(ちうい)の深(ふか)さ人々(ひと〴〵)は 去(さ)る一日の晩(ばん)は終宵(しうせう)眠(ねむ)らす水脚(みずあし)ばかり考(かんが)へしともてスワ と云(い)ふより早(はや)く飯(めし)を焚(た)き疂(たゝみ)を巻(ま)くり小道具(こだうぐ)を片附(かたつ)け溢水(いつすい) の津(つ)なる竹(たけ)ケ鼻(はな)観音町(くわんおんまち)にてもまづ〳〵さほとに困難(こんなん)せざ りし家(いへ)も少(すくな)からぬが寐入(ねい)り込(こ)んでかの和田(わだ)中村(なかむら)の堤防(ていばう)を 崩(くづ)す天地(てんち)に轟(とゞろ)く響(ひゞ)きして巨濤(きよとう)を先手(さきて)に襲(おそ)ひ來(きた)りし溢水(いつすい)を 【右丁下段】 知(し)らす障子(しやうじ)建具(たてぐ)に水(みづ)の瀉(そゝ)く聲(こゑ)と夜具(やぐ)の濡(ぬ)れて冷(ひやゝ)かなるに 始(はじ)めて目(め)が覺(さ)め周章(あわて)て避水(ひすい)の用意(ようい)にかゝりし連中(れんぢう)は火事(くわじ) に逢(あ)ひしも同様(どうやう)丸裸(まるはだか)とは爲(な)りたる中(なか)にも観音町(くわんおんまち)の士族(しぞく)藤(ふぢ) 田氏(たし)には早(はや)くも置(お)きあげを爲(な)し疂(たゝみ)三 枚(まひ)を敷(し)き避(のが)れ塲(ば)を爲(な) したるにかの遅(おく)ればせに周章(あわて)し連中(れんぢう)はどうもこうも爲(な)ら ぬより子(こ)を連(つ)れ親(おや)を連(つ)れ救(たす)けて呉(く)れと驅(か)け附(つけ)て來(き)しもの 十四人 此(この)夫婦(ふうふ)を合(あは)せて十六 人(にん)が疂(たゝみ)三 枚(まい)の上(うへ)に水(みづ)を詠(なが)めて 茫然(ぼうぜん)たるうち水(みづ)はます〳〵殖(ふ)へる波(なみ)はいよ〳〵强(つよ)くなる 其(その)すさましきこと言語(ごんご)筆紙(ひつし)に盡(つく)しがたく救(たす)けてくれ今(いま)死(し) ぬと呼(よ)べと叫(さけ)べと逆巻(さかま)く浪(なみ)の塀(へい)を流(なが)し門(もん)を破(やぶ)る勢(いきほ)ひなれ ば近所(きんじよ)の人(ひと)の之(これ)を見(み)ながらも救(すく)ひに行(ゆ)くことは迚(とて)も叶(かな)は ず食(しよく)には盡(つ)きる湯茶(ゆちや)どころか水(みづ)一 杯(はい)が手(て)に入(い)らず足(あし)すり して歎(な)げくうち置(お)き上(あ)げの疂(たゝみ)の上(うへ)へ水(みづ)のあがり子供(こども)の首(くび) ぎりと爲(な)り今(いま)は是(こ)れまでと覺悟(かくご)をさだめ南無阿彌陀佛(なむあみだぶつ)南(な) 無妙法蓮華經(むめうはふれんげきやう)と佛力(ぶつりき)に加護(かご)を仰(あを)がんと十六 人(にん)が異口同音(ゐくどうおん) 呼(よば)はる折柄(おりから)遙(はる)かに一 艘(そう)の船影(ふねかげ)が見(み)へるよりソレと聲(こゑ)かけ 救(すくい)をよぶに楫(かぢ)を速(はや)めて漕(こ)ぎ附(つ)けしは牛乳(ぎうにう)團野氏(だんのし)よりその 本家(ほんけ)なる柔術(じゆじゆつ)團野氏(だんのし)へ見舞(みまひ)を送(おく)ると乗(の)り來(き)し船(ふね)なりしに ぞ一同(い[ち]どう)には六(むつ)ケしまづ子供(こども)だけ受取(うけと)らんと子供(こども)九 人(にん)を乘(の) せて船(ふね)は郡役所(ぐんやくしよ)さしてかへらるゝを何分(なにぶん)お早(はや)くお願(ねが)ひ申(もうし) 【左丁上段】 升(ます)遅(おく)れ升(ます)と跡(あと)のもの共(とも)はこのまゝ流(なが)れて仕舞(しま)ひ升(ます)と恰(あたか)も 俊寛(しゆんくわん)の鬼界島(きかいじま)に殘(のこ)されしあわれのさまに救(たす)けてはやり たしみな載(の)せて船(ふね)がかへると見(み)かへり〳〵思案(しあん)の中(なか)今(いま)一 艘(そう)の船影(ふなかげ)は長谷部(はせべ)戸長(こちやう)巡回(じゆんくわい)の一 連(れん)なりしにぞ地獄(ぢこく)で佛(ほとけ) 手(て)まねきして船(ふね)を呼(よ)び殘(のこ)らずこれへ移(うつ)さるゝと間(ま)も無(な)く その置(お)き上(あ)げは浮(うか)びて下手(しもて)へ流(ながれ)たりとぞ嗚呼(あゝ)今一歩(いまいつぽ)この 船(ふね)の遲(おそ)からんには十 六人(ろくにん)はまたこの世(よ)の人(ひと)にあらざりし なる可(べ)し ○洪水餘况 本紙上(ほんしじやう)當市(たうし)溢水(いつすい)の惨况(さんきやう)は號を追(お)ふて記載(きさい)し 略(は)ぼかの概(あらまし)を盡(つく)したるが何分(なにぶん)市中(しちう)の東部(とうぶ)に属(ぞく)する元城(もとじやう)の 橋(はし)より新屋敷(しんやしき)中島邊(なかしまへん)は急中(き[う]ちう)の急水(きうすい)にてかの疂(たゝみ)のごときた ゞ流失(りうしつ)を免(まぬ)かれしと云(い)ふのみにしてすべて泥水(でいすい)の充分(じうぶん)浸(ひた) すところと爲(な)りたれば乾(ほ)さんとするもかな【なかヵ】〳〵容易(やうゐ)の事(こと) には乾(かは)かず加(くは)ふるに洪水(こうすい)以來(いらい)曇天(どんてん)或(ある)は細雨(さいう)降(くだ)りて日光(につかう)の 赫灼(くわくしやく)する尠(すく)なければ日(ひ)を重(かさ)ねるに隨(したが)つて表面(おもて)は僅(わづ)かに 乾(かは)くもなかはすべて腐敗(ふはい)爲(な)し惜(おし)いものとは思(おも)ひながらま た詮術(せんすべ)もあらざればかの表(おもて)のみを切(き)り取(と)り他(た)を或(ある)は街躍(がいとう)【頭ヵ】 の低地(ていち)などに敷(し)きて市街(しがい)の便利(べんり)を爲(な)すものもあれど大概(たいがい) はみな家屋(いへ)の軒塲(のきば)或(ある)は瀬戸(せと)などに積(つ)み置(お)くより追々(おひ〳〵)土用(どよう) 【左丁下段】 の候(こう)に及(およ)べば蒸(む)し腐(く)され臭氣(しうき)紛々(ふん〳〵)鼻(はな)を突(つ)き衛生上(ゑいせいじやう)弊害(へいがい)を 來(きた)す尠(すく)なからざれば如何(どう)せ無用(むよう)の物(もの)と思(おも)はるれば道路(どうろ)の 抵地(ていち)或(ある)は破壊(はくわい)せしところへ敷(し)きて行路(かうろ)の便利(べんり)をはかるか 何(なん)とか角(か)とか方法(はうほう)を設(もう)けたら宜(よろし)からふと或人(あるひと)の忠告(ちうこく)も至(し) 極(ごく)尤(もつと)もの様(やう)におもわるなり ○疊賣の谷廻り 則(すなは)ち前項(ぜんこう)のごとく溢水(いつすい)の浸(ひた)して家々(いへ〳〵)そ の疊(たゝみ)を或(あるひ)は流(なが)し或(あるひ)は濡(ぬ)らし新物(あらもの)を買取(かひと)らんと考(かんが)へこの機(き) をあやまらす早速(さつそく)疊(たゝみ)を賣(う)り捌(さば)きに奔走(ほんそう)して鋭利(ゑつり)をとらん と思(おも)ひ付(つき)たる奸商(かんしやう)にはあらぬ疊商(たゝみや)は數十(すじつ)の疊(たゝみ)を或(あるひ)は荷車(くるま) なとに積(つ)みて市中(しちう)を賣(う)り歩行(あるく)とか家財(かざい)を溢水(みづ)に浸(ひた)して歎(なげ) くものあり又(また)其(そ)を見かけて物品(ぶつぴん)を賣(う)り利(り)を儲(もふ)けて喜(よろこ)ぶ者(もの) あり世(よ)は千差萬別(さ ま  〴〵 )のものにぞゐると云(い)ひつ可(べ)し ○百間堀のぬし 去(さ)る三 日(か)の稍々(やゝ)正午(まひる)とも覺(おぼ)しき頃(ころ)當市(ふくゐ) 市端(まちはづれ)中島(なかじま)の宗福寺(そうふくじ)の留守居(るすゐ)比丘尼(びくに)が四方(しほう)洪水(こうずい)に圍(かこ)まれて 安(やす)き心(こゝろ)のなかりしが追々(おひ〳〵)引汐(ひきしお)となりたるに先(ま)づ安心(あんしん)と表(おもて) の方(かた)を何心(なにこゝろを)なくながめし折柄(おりから)四(よ)ツ井村(ゐむら)の方(かた)よりして大さ 三 尺(じやく)四 面(めん)もあるとも思(おも)はる大龜(おほがめ)が浮(う)きつ沈(しづ)みつ泳(およ)ぎ來(き)て 同所(どうしよ)の堤防(つゝみ)をひらりと乘(の)り越(こ)へ竹(たけ)ケ鼻(はな)の方(かた)へ行(ゐ)きしを見(み) 受(う)けしにぞそゞろ身(み)の毛(け)も戰慄(よだち)たりと話(はな)せしとかその邊(へん) の人(ひと)の噂(うわさ)にはコノ大龜(おほがめ)は豫(かね)て老人(ろうじん)の口唇(こうひ)に傳(つた)はるかの百 【右丁上段】 間堀(けんぼり)に住居(すまひ)して年(とし)に二三 度(ど)人目(ひとめ)に觸(ふ)れる怪物(かいぶつ)にて溢水(いつすい)の 爲(た)め田(た)も陸(おか)も一 面(めん)の海(うみ)となりしに遊(あそ)びかた〴〵餌(ゑ)をあさ りに所々(しよ〳〵)方々(はう〴〵)と回(め)ぐるうち追々(おひ〳〵)引(ひ)き汐(しお)となりたるより元(もと) の住家(すみか)卽(すなは)ち百間堀(ひやくけんぼり)へ歸(かへ)りがけ彼(か)の比丘尼(びくに)の目(め)に觸(ふ)れたる ならんと云へり ○勝山街道の破損 去(さ)る一日二日の洪水(こうずい)に郷村中(ごうそんぢう)特(こと)に街(かい) 道(だう)を傷(いた)めしは九頭龍川(くづりやうがは)吉田(よしだ)松岡(まつおか)以東(いとう)にして轟(どめき)北島(きたじま)市右衛(いちうゑ) 門島(もんじま)その他(た)沿川(ゑんせん)諸村(しよそん)の堤防(ていばう)切(き)れ込(こ)み耕地(こうち)の流亡(りうぼう)尠(すくな)からず 橋々(はし〴〵)すべて落失(らくしつ)せしをもて常置委員(じやうちいゐん)の巡回(じゆんくわい)にも頗(すこぶ)る困(こん) 難(なん)を極(きはめ)られたるよし尤(もつ)ともかの通行(つうこう)は人馬(じんば)とも山裾(やますそ)を縫(ぬ) ひ轟(どめき)淺(あさ)の谷(たに)野中村(のなかむら)等(とう)迂回(ゝくわい)して漸(やうや)く小船渡(こぶなと)に達(たつ)する都合(つごう)な りと云(い)ふ ○坂井郡千町ヶ沖 坂井郡(さかゐこほり)波寄村(なみよせむら)外(ほか)數(す)十ヶ村(そん)卽(すなは)ち字(あざ)千町(せんちやう) ケ(が)沖(おき)となん呼(よ)ぶところは去(さ)る明治(めいぢ)十四年より昨年(さくねん)まで用 水の都合(つごう)惡(あし)く各地(かくち)の豐年(ほうねん)なるも毎年(まゐねん)うち續(つゞ)きての惡作(あくさく)に 困難(こんなん)を極(きわ)めたれとも本年は雨(あめ)もあれば必(かなら)ず良作(りやうさく)ならんと 村民(そんみん)は喜(よろこ)びながら植付(うへつけ)しに何(なん)ぞはからん今回(このたび)の大水(たいすい)にて 千町(せんちやう)ヶ沖(おき)の田圃(でんぽ)は一 面(めん)に押(お)し流(なが)され見(み)る影(かけ)も無(な)き荒野(あれの)と なりたれば村民(そんみん)のぎ困難(こんなん)云(い)ふまでもなく加(くわ)ふるに不景気(ふけいき)も 【右丁下段】 出(で)かけたれば困難(こんなん)に困難(こんなん)を重(かさ)ね雇(やと)はれんとするも雇(やと)ふ者(もの) なくたま〳〵日雇(ひよう)する者(もの)もあれども僅(わずか)に三錢の支給(しきう)なれ ば食料(しよくりやう)を差引(さしひ)くときは二錢の不足(ふそく)を生(しやう)し徒(いたづ)らに骨(ほね)を折(お) りながら喰(く)ひ込(こ)みのたてば雇(やと)はるゝ者(もの)も無(な)く然(さ)りとて坐(ざ) して喰(く)ふわけにもいかず右(みぎ)へも左(ひだり)へも動(うご)かれぬ有様(ありさま)にて 已(すで)に窮(きう)して亂(らん)すの塲合(ばあい)にも致(いた)らんとする景况(けいきやう)にて同村内(どうそんない) の淨福寺(じやうふくじ)へ數(す)十ヶ村(そん)の細民(さいみん)は集(あつま)り生活(せいくわつ)の方法(はうはふ)を立(たて)て呉(く)れ と惣代(そうだい)に迫(せま)るより村々(むら〳〵)の惣代(そうだい)は過日(くわじつ)より夜(よ)の目(め)も寝(ね)ずに 如何(いかゞ)はせんと相談中(そうだんちう)の由(よし)なるが終局(つまり)其(その)筋(すじ)へ願(ねが)ひ出(い)でんと 欲(ほつ)する目論見(もくろみ)なりと云(い)ふ西(にし)を顧(かへり)みるも東(ひがし)をながむるも各(かく) 地(ち)至(いた)るところ洪水(こうずい)惨况(さんじやう)を聞(き)かざる所(ところ)なく實(じつ)に本年(ことし)は非(ひ) 常(じやう)の惡歳(あくさい)と云(い)わざるを得(ゑ)ず 【左丁上段】    悲惨ナリ縣下ノ商况 諸商况昨今ニ至リテ又タ一層ノ不景氣ヲ極メ各市恰 モ休商同様ノ有様ニ陷リ農之ヲ造クルモ需用者無ク 工之ヲ造クルモ需用者無ク三業共ニ手ヲ束ネテ浩歎 スルノ惨域ニ際シ客月中旬ヨリ各地非常ノ水害ヲ蒙 ムリ我縣下ノ如キマタソノ一部ニ數ヘラレ堤防ヲ潰 决シ橋梁ヲ落墜セシモノ夥シク本年土木ニ要スルト コロノ地方費モ恐ラクハ巨額ニ上リ吾人頭上ノ負擔 モマタ爲メニ増サヽルヲ得サル可シ負擔ハ増シテ家 計ノ入額ハ減ス人アリ将来ヲ豫想シテ爾来社會ノ景 氣ヲ徐々恢復スルニ近ツクト云ハンヨリハ寧シロ漸 々遠カルト云フモノアランニ吾濟ハ之ヲ駁破スルノ 明解無キニ苦シムナリ 春来福井市街ハ論ヲ俟タス坂井港ニ敦賀港ニ貧民ノ 日々ノ生計ニ苦シムモノ漸次増殖ノ姿顯ハシ一時 ハ有志ノ私金ヲ醵シテ施米施飯ヲ爲スモノ前後相繼 ギ辛クモ糊口ヲ爲サシムルノ計ヲ爲シタリト雖モソ ノ所謂ル有志ト稱スル豪農豪商モマタ著シク不景氣 ノ影響ヲ蒙ムリ貸金ハ戻ラス借金ハ迫マラレ商况ハ 衰ヘ農况ハ不作之ニ加フルニ這回ノ水害直間ニ接ニ ソノ毒ヲ縣下ニ逞フセンヲ以テ我身スラ容レラレス 【左丁下段】 他ヲ憂フルニ遑アランヤト謂フノ勢ニ馳致セシモノ ナレハ今ヤソノ施米施飯ニ熱心スルノ精神モ稍倦厭 ヲ生シタルノ色アルニ似タリ嗚呼左ナキダニ貧民ハ 依憑スルトコロ無キニ泣クノ今日新タニ水害ノ爲メ ニソノ田ヲ荒ラシソノ産ヲ流ガシ食ヲ人家ノ擔下ニ 乞フニアラサレハ寧シロ緑林梁上ノ影黨ニ入ラント スルノ窮况ニ迫マル果シテ之ヲ如何セバ可ナル乎吾 儕此頃經驗ニ冨メル老紳商ニ接シ當下悲惨ナル縣下 ノ商况ヲ詳カニシ得聞キシニ優サル慘狀ナルニ驚キ 殆ンド痛歎ニソノ膓ヲ断ツノ懐ヲ爲シタルニ今ソノ 略ヲ下條ニ述ベ聊カ讀者ニ憂ヲ分ツ可シ 麻荢ハ縣下ノ園圃作ラサルノ地無キガ如キ固有ノ産 物ニシテ之ヲ布ニ造リマタ之ヲ蚊帳ニ造リ遠ク縣外 ニ輸出シ以テ我冨豊ヲ維持スル重要ノ原品ナルガ這 回ノ洪水ノミナラズ種蒔ノ時節ヨリシテ霖雨屡ソノ 肥料ヲ洗ヒ且ツ泥水ノ之ヲ漬タスヲ以テ本年ノ生育 ハ例年ニ比シテ三分一ノ多量ニ肥料ヲ施シタルモ猶 ホ不作ノ顔面ヲ呈シ今日ノ處ニテハ昨年ノ貮歩作ニ モソノ収穫ハ覺束無カル可シトノ農家ノ鑑定ナリ原 品既ニ然リ之ニ加フルニソノ既製品ナル布蚊帳マタ 近年ソノ販賣路ヲ閉塞シテ輸出スルノ目的無キガ爲 【右丁上段】 メ當地ニ空シク積置スル者有リト雖トモソノ價格ノ 低廉ナルニ拘ハラス商機ノ運轉ニ知力ヲ奮ヒ能ク之 ヲ買取セントスルノ商賣ヲ生スル能ハス實ニコノ商 業上ノ困難ハ名狀ス可カラサルノ有様ナリ将タソノ 困難ニ痛歎スルハ獨リ布蚊帳商ニ止マラス普ク一般 ノ商業ニ及べルモノニシテ目下梅天ノ氣候諸種農作 品ノ作不作ハ大ニ商家ノ注意ヲ要スルトコロナルニ 茫然秦越ノ感ニ爲シ居ルモノマタ以テソノ概ヲ推ス ルニ足ル可シ 葢シ布蚊帳ハ前述セシガゴトク當地ノ産物ニシテ從 来年々他地方ヘ輸出シテ貨幣ト爲リ我購賣力ヲ養ヒ タル頗ル必要ノモノタリシニ似ス空シク當地ノ各商 店ニモ堆積シソノ得意先ナル他地方ノ各商店ニモ堆 積シアルハコノ釣合ナランニハ一二年ノ間ハ壹張ノ 蚊帳ヲ製造セサルモ之ヲ供給ニ告ケサル可シ《振り仮名:如何ニ|ヽヽヽ》 《振り仮名:不景氣ト云ヒ不捌ト云フモ斯ノ如キ惨狀ハ從来稀レ|ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 《振り仮名:ニ聞クトコロニシテソノ原因タル數種アルガ中ニモ|ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 《振り仮名:金融擁塞ノ上商家身代限ノ處分ヲ受ケ德義上辨濟ノ|ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 《振り仮名:義務ヲ果タサヾルヨリ信用ヲ以テ貸借スルノ危嶮ナ|ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 《振り仮名:ルガ爲メ商賈互ニ相疑ヒ現金ノ賣買ニアラサレハ取|ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 《振り仮名:引ヲ爲サヾルノ有様ト爲リソノ果終ニ國産ノ衰微ス|ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 【綴代により一行読めず、この行、傍点あり】 【右丁下段】 此ニ一歩ヲ進メテ布蚊帳ノ近年他地方ヘ輸出セシ跡 ヲ尋ネ以テ猶ホ一層悲惨ノ商况ヲ示メサンニ足羽吉 田二郡ヲ舉クレハ他九郡ハ推知セラル可キヲ以テ先 ツコノ二郡ヲ擧ケ他ハ之ヲ略スヘシ則チ足羽吉田二 郡ニシテ明治十二年十三年両年度ニ於テ他地方ヘ輸 出シタル惣髙ハ布蚊帳ハ貮千五百箇ニシテソノ代金 ハ凡ソ廿五萬圓ナリシガ十四年度ヨリ漸次減少ノ衰 况ヲ顯ハシ昨年度ニ至リテハ既ニ著シク減少シテ僅 々千二百箇ソノ代價四萬八千圓ニ過ギス越ヘテ本年 ニ至リテハ又タ言フニ忍ヒサルノ少數ニシテ前半季 ハ六百箇ニモ足ルヿ能ハスソノ代價モ遥カニ低落セ シヲ以テ二萬二千圓ノ少額ナルノミ之ニ例シテ後半 季ヲ想像スレハ猶ホ又タ減少シ大約二百五拾箇多シ トスルモ三百箇ニハ足ルヿ能ハスソノ代價モ之ニ從 フテ一般低落ヲ爲サスンバ止マサル可シ斯ノ如ク不 景氣ノ病痾吾人ノ膏盲ニ入リ物品ノ不捌ノミナラス 代價マタ低落セシヲ以テ仰テ十三年度ニ溯レハソノ 民間ニ於ケル金融ノ流通ハコノ二品ニ於テモ本年ニ 比シテハ霄壤ノ差アリ之ニ他諸種ノ物品ガ蒙ムリシ 前同様ノ惨狀ヲ加フルニ於テハ今日ニ民間ノ購買力 ヲ失ヒ何一品モ買控ヘシテ互ニ不景氣ニ勢力ヲ添フ 【左丁上段】 ノ不捌トソノ代價ノ低落ハ實ニ第一ニソノ商業家ヲ 苦シメ第二ニソノ製造家ヲ苦シメ第三ニソノ原資耕 作家ヲ苦シムルモノナレハ取リモ直サス之ニ聨絡ス ルトコロノ商工農ヲ苦シメ秋實工勞及ビ利潤ヲ倂セ 奪フノ姿ト爲ルニアラスヤ 之ニ加フルニ麻荢【苧】大兇作ニシテ麥菜種ソノ収穫薄ク 我地方ヨリ他地方ヲ指シテ輸出スルトコロノ貨幣ハ 年々歳々ソノ額ヲ増スト雖モ我商業ノ衰微コノ極ニ 達シタル上ハ農家ガ勞働モ以テ貨幣ヲ我地方ヘ招ク ニ足ラス工家ガ勞働モ以テ貨幣ヲ我地方ヘ招クニ足 ラス若シ十九年則チ斯ノ如ク二十年マタ斯ノ如クニ 十一年又タ復タ斯ノ如ク我地方ヨリ出ストコロハ限 リ無ク他地方ヨリ入ルトコロニ限リ有ラシメハ我商 業市塲ニ終ニ一片ノ貨幣ダモ見ル能ハサルノ曉アル ヲ致シコノ曉ハ則チ通衢大街ノ豪賈冨商若クハ隴畝 森林ノ間ニ白壁巨門ヲ隠顯スル豪農大家モ身代限ヲ 爲シ賣札ヲ貼スルノ陸續淳出スルハ葢シ免カル能ハ サルトコロナル可シ今ヤ本年ニ於テソノ第一着歩ヲ 現在ニ吾人ニ示シタルハ掩フ能ハサルノ事實ニシテ 試ニ市中各街ヲ歩シテ家毎ニ之レヲ探尋セヨ利ソノ 損ニ勝チ棚下(タナオ)ロシ喰ヒ込ヲ見ズシテ欣慶歡喜ノ神 【左丁下段】 酒ヲソノ守神ナル恵比壽神ニ捧クルノ家果シテ幾許 カアル十二分ニ歩ヲ譲リテ算粒ヲ彈スルモ恐ラクハ 一分通リニ過グル能ハサル可シ嗚呼悲惨ナル哉 則チ以上細說シ来レルトコロノ商况ハ老紳商ガ話頭 ニ吾儕ガ見聞ノ實際ヲ添ヘタルモノニシテ専パラ布 蚊帳ニ就テ說ヲ爲セリト雖𪜈是レ省繁採簡ノ論法ヲ 以テ特ニ布蚊帳ヲ舉ケテ他ヲ類例セシモノナレハ讀 者ハ生糸ニ於ケル奉書紬ニ於ケル木綿類ニ於ケル諸 ロ我地方ノ物産ハ皆是ニ一様ナル實况アルモノト推 案アリテ可ナリ今日ニ當リ理財ヲ以テ任スル トコロノ論者ハ果シテ何ノ論策カ計案シテ之 ヲ濟救シ景氣挽回ノ曙天ニハ向ハシメントス ル乎民間無用ノ奢侈ヲ癈シ一ニ之ヲ必需業務 ノ資本ニ當テ則チ儉シ則チ勤ムルハ因ヨリソ ノ一部ニ在ル可シト雖𪜈不景氣ノ極點ハソノ 勤メタルトコロノ勞ニ報酬スルトコロノ利潤 ヲソノ農商工業ノ上ニ與フル能ハス之ヲ節シ 之ヲ儉シソノ節儉ヨリ餘裕スルトコロノ財貨 ヲ以テ必需業務ノ資本ニ當テント欲スルモ節 儉ハ自カラソノ止ムヲ得サルノ塲合ヨリシテ 疾ヤク既ニ之ヲ行フテ十分ナレハ最早今日ニ 【右丁】 テハコノ上ニ節儉ヲ爲スヿ能ハスソレ然リ果 シテ然リトセハ論者ハ何ヲ以テ論策ヲ計案セ ントスル乎吾儕請フ論題ヲ改メテ更ニ詳述ス ルトコロアラン         [完] 【左丁】 一明治五壬申年武生ゟ引越之面々屋敷地被下  ニ付百間堀松原并外地蔵町辺取調旁旧  来ゟ洪水之節困難之所々向後水害無之様  志比口橋詰ゟ南之外中嶋宗福寺妙長寺  裏通り日ノ出門《割書:字|二ッ御門》迄五百廿五間新規堤  防大土手を築キ夫ゟ荒川筋元焔硝蔵桜之  馬場御藪跡土居續本【東】光寺小道具町迄  夫ゟ大川筋芦田邸表手折曲り幅五間  堤下三間低キ所々ハ盛土平等ニ築立酒井 外記表御門前惣堀の落シへ大水門を新築 又追々地蔵町口《割書:長谷川奥平|御門ト云》ゟ中嶋二ッ門迄 《割書:日ノ出御門|ト云》外ト堀御称への森々たる並木伐払 土居石垣取壊堀を埋田畑を開き尚漸々 開田之趣向二付志比口ゟ新堤添ひ堀川出来 外中島【見せ消ち】宗福寺妙長寺【三字見せ消ち】裏并元竹ヶ鼻通リ外中嶋へ橋を架 大堤防出来迄ハ川之満水之度毎足羽川ゟ 泉町外堀之落シ口并荒川逆流所々窪 所ゟはせ込ミ堂形より百間堀筋一面中之 馬場 割場内外 観音町 鵜匠町 新 屋敷白山堂 東光寺町 城之橋 小道具町 辺之屋敷々々土地之高低ニより毎々困難遁レ 難き面々ハ椽上ニ臨時浮上ヶ之床ヵを用意 致置又小身之面々を除之外大概小舟壱艘も 所持せり 又出水之分量定則ありて漆御門桝形之内へ 御水主組出張御用船と称し泉町勝見辺 川舟持之者課役として数艘漕寄《割書:相当の日雇|賃被下》 総而公私之往来諸用を便す 右水員災之面々親類知音之向ゟ水見辺廻として 【右丁】 清潔水酒飯菜の物等送り困難之労を 訪へり 【朱書】   別紙図面之外に   堂形御用船水見辺廻之気色を   入れ度心算 【左丁、地図】 新堤五百二十五間【朱書】  宗福寺 妙長寺          餌刺町通り  二ツ門 日ノ出御門ト云    芦田下ヤシキ  地蔵町御門           長谷川奥平             御門ト云 【この左右の丁、文字はありません】 【右丁、文字無し】 【左丁】    火の用心之事 一諺に焼け誇りと云ふ事あれども是ハ時  世が違へり従来非常之際ハ親戚知音相  俱に助勢又折柄を幸ひニ趣法立抔して苦労  を免かれ尚奮発し以前ニ引替盛なるもの  備へ有ゆへ斯くハ云へり  然るに近来の時体ニ至而ハ人の事ハ扨置り  銘々今日之活業二困難親子兄弟の間柄も  油断のならぬ不実の人気と成出店の白鼠  も忠を忘れ股肱の出入も互ニ薄情金を  借らんにも抵当なく又縋るへき得意なき  其日暮しの族ニ至り若今火難の災ニ罹り  家財道具ハ亡ふも更なり誇りの文字を  引替て埃程の品々たりとも失なわぬ様に  厳敷用心するが肝要也元来火之元ハはから  さる過とハ云ひながら皆失念之横着より出る  事ニて其身ハ自業自得と云わるゝも他人の  一大事ニ関る事なれハ念ニ念を入麁相せぬ様  注意を尽すへき事なり    地水火風ノ内       大火之部 五拾軒以下之分ハ除之            併場所柄之儀此限ニあらす 一寛文九酉年四月十五日  福井大火事御城御家中不残焼失  勝見川端永雲寺ゟ出火辰巳風烈敷川を  越鎮むる事不能   士大夫宅三百五軒 与力足軽五百五拾三軒  町数五十九町家数弐千六百七拾六軒  寺家三拾七軒焼失   御城内ニてハ三ノ丸筋御座所裏隅ノ門ノ櫓   山里御土蔵相残本多【二字見せ消ち】図書本多左近   之大屋敷残天王町ゟ松本八町相残候由  明暦年中之回禄【=火災】も辰巳風にて及大火候よし【二字見せ消ち】  依之辰巳風には火之用心別而厳敷可致事  之よし 一延宝九年酉四月十六日  八幡町出火家数七千三軒焼失 一享保ニ酉四月十六日下寺町  出火百七軒焼失 一明和二酉三月六日暮六半時頃  石場堂之後西源寺住人新助と申もの出火  翌七日明ヶ六時鎮火大橋詰木戸門下迄  久保町東西石場町両側神宮寺町不残  清水横小路愛宕坂茶屋不残彼岸寺  虚空蔵堂寺町小路ニて総光寺金  西寺本経寺夫ゟ西ノ方小路迄立矢町不残  仙福寺華蔵寺畑方町桶や小路辺不残  惣家数ハ百三軒蔵四十八ヶ所寺十八ヶ寺  堂宮三ヶ所出店四ヶ所小屋十二ヶ所焼失 一明和三戌三月五日午刻過  三ッ橋地方高須屋豊四郎後家出火南ハ  八幡町ゟ大橋御門際迄東ハ浜町北側  不残夫ゟ片町通り清や太右衛門迄下江戸町  林久太夫石川半十郎隣町家迄大工町両側  神明町南側庚申堂西隣迄北側一乗寺  東隣迄与部町南側松原次郎左衛門北側  岡田助右衛門迄御堂町南側茶屋出店迄  北川照慶寺迄西ハ三ッ橋口にて地方小家  七軒残る惣家数弐千七百五十三軒寺  四十三ヶ寺土蔵百三拾七ヶ所死人十四人 一明和八卯三月廿五日  三上町ゟ出火子安町大工町焼ㇽ■【江戸ヵ】町へ出  安原利右衛門ゟ中村太郎右衛門迄表町不残油町御杉  形組町ゟ油町不残乗久寺西御堂尤小堂町  不残神明町迄焼抜一乗寺木戸際迄  与部町不残妙法寺辺迄本覚寺千福寺    惣家数千軒斗 一同年七月五日   中立矢町米屋兵左衛門出火家数百八十七軒   土蔵三ヶ所小屋三ヶ所焼失 一安永四未年八月廿七日昼八時頃   万町六三郎と申者出火北風烈敷大火に成   万町十軒亀屋町廿四軒上谷町三軒   新片町十八軒小屋廿軒柳町弐拾軒小屋   五軒常盤町十三軒紺屋町七拾九軒板   屋町廿四軒下板屋町弐十軒長老町七拾   軒一乗町六十弐軒上下片原町廿四軒   西魚町三十九軒東大岩町廿軒伝馬町   廿六軒東米丁十三軒西米町西四軒西   本町弐拾四軒東本町五十三軒浜町三十軒  一下馬御門卯ノ方角御櫓   柳御門後櫓桜御門後櫓御作事所   下馬内御用屋敷御勘定所不残   大名町大身衆初木蔵町迄大屋敷   四拾五軒 一安永六酉年五月二日朝七ツ時松田町木や   六左衛門火元に而拝領屋敷共六拾壱軒焼失   同月八日夜五時神宮寺町多葉粉や善兵衛   出火家数百拾九軒焼失 一寛政三子十月三日   呉服町出火三百廿六軒焼失 一同六寅年   六月勝見出火五拾軒焼失   八月同断  六拾軒 同   同月廿一日立矢出火弐百四十余軒   運正寺華蔵寺罹災 一同九巳年   六月十九日刁刻前京町大加や藤右衛門出火   飛火牧嶋村焼失町家八百四十八軒   在家廿四軒土蔵十五寺社十七焼失 一享和元酉年   二月二十六日申刻外中嶋出火鷹匠町へ飛火   永平寺町ゟ表餌刺町辺松本四ッ辻辺油町に而留   侍屋敷四十六軒御扶持人弐百拾軒町家百三十   五軒寺社四ヶ所土蔵四ッ都合三百九十九軒   焼失 一文化元子年   三月廿六日廿三軒町ゟ出火百四十軒焼失 一文化六巳年   七月十日勝見川原口ゟ出火観音町法徳寺へ   飛火三百五十三軒焼失 一同八未年   閏二月十二日堂後ゟ出火寺町立矢不残御船町へ   飛火夜廻町明り村焼失 一文政元年寅年   七月十一日山奥ゟ出火山不残神宮町石場   久儀町辻町立矢寺町焼失夫ゟ御舟町   飛火銘廻り町上明里村焼凡千三百八十二軒 一同四巳年   五月十五日木田ゟ出火百三十五軒焼失 一同十二丑年   三月十三日暁樽井町ゟ出火百五十壱軒   仏福寺焼失 一同年   四月十三日暁京町ゟ出火米町本町塩町夷   町伝馬町大黒町一乗町片町長者町板屋町   呉服町都合家数四百九拾八棟右蔵九ヶ所   時鐘撞弐軒死人七人計有之由    木町本妙寺に而時鐘をつく 一天保八酉年   四月十四日木田堀町出火類焼家数四百拾六軒   潰家九拾九軒妙蔵寺成願寺徳願寺   持宝院金剛院満昌院専照寺菩提寺   慶覚寺惣木戸迄焼失 一同十四卯年   四月廿一日大名町狛帯刀屋敷出火柳御門焼失   類焼拾三軒 一嘉永六丑年   六月十二日昼九時過京町永宝や源助火元  一四拾八軒火元共内地名子六軒土蔵六ッ 京町  一拾三軒 土蔵二ッ 東米町  一三拾五軒 土蔵八ッ 西米町  一弐拾七軒 土蔵二十五 西本町  一六拾弐軒《割書:内地名子|廿六軒》 土蔵四ッ 東本町  一拾壱軒 土蔵二ッ 上片原町  一六軒 内潰家三軒 下片原町  一三拾八軒《割書:内地名子二軒|御屋敷四軒》 土蔵六ッ 浜町 一四拾軒 内地名子二軒 土蔵三ッ 西魚町 一弐拾四軒 土蔵七ッ 本魚町 一弐拾壱軒 内地名子弐軒 土蔵七ッ 伝馬町 一拾六軒 土蔵一ッ 西大黒町 一拾七軒 土蔵四ッ 東大黒町 一三拾弐軒 潰家一 土蔵十七 木町 一壱軒潰家 八幡町 一六軒 《割書:内地名子三軒| 潰家一》 長者町 一七拾五軒 《割書:内地名子十三軒|    土蔵一ッ》 一乗町 一三拾五軒 土蔵四ッ 木田新屋敷上町 一三拾六軒 土蔵五ッ 同中町 一三拾壱軒 内寺一ヶ寺 土蔵三ッ 同下町 一廿弐軒 土蔵一ッ 新町 一七軒 辻町 一四拾壱軒 寺二ヶ寺 土蔵五ッ 地方荒町 一九軒 畑方船場 新開町 一拾六軒 内一軒潰家 土蔵一 蓮如堂一 今坂  〆六百七拾一軒 内地名子五拾四軒《割書:潰家七軒| 御屋敷四ヶ所》   寺三ヶ寺 土蔵百十八 蓮如堂一 時鐘所一 一弐拾三軒 侍屋敷   一桜御門   一大橋御門 但木橋之方三ヶ二計   一御制札場   一郡方社倉一ヶ所 一安政元寅年    《割書: |京町組》   六月十三日巳ノ刻前塩町鍛冶屋次助出火   一拾壱軒火元共 土蔵二 塩町   一三拾八軒《割書:内地名子三軒 潰家二軒|    土蔵八ッ》 夷町   一五拾弐軒《割書:内地名子五軒|    土蔵四ッ》 下寺町   一拾三軒 上り地町     一拾壱軒 西方寺門前   一四拾弐軒 土蔵一 寺横町 一拾弐軒 順光寺門前   一拾三軒 隆松寺門前    一拾一軒 八幡門前   一潰家一軒 京町      一四拾軒 土蔵六ッ 山町   一成覚寺 隆松寺 順光寺        本町組   一拾三軒 内潰家三軒 木町 一廿九軒 土蔵四ッ 八幡町   一本妙寺        上呉服町組   一四拾弐軒 上呉服町組   一三拾壱軒 土蔵七ッ 同下町 一弐拾三軒 中呉服町  一三拾九軒《割書: |内地名子三軒》西山横町 一四拾三軒 内地名子三軒 土蔵三ッ     松屋町 一五拾軒 内地名子一軒 土蔵五ッ      上西山町 一六拾五軒 内地名子十五軒         下西山町 一七軒 土蔵四ッ              西厳寺門前 一三拾壱軒 土蔵三ッ            上高下町 一弐拾九軒 土蔵四ッ            同 上町 一四拾弐軒 土蔵七ッ            上三ッ橋町 一三拾三軒 土蔵三ッ            清涼寺門前 一七軒 土蔵一 内藤理兵衛地名子 一拾九軒 妙国寺門前 一八軒  西方寺門前  妙国寺 清涼寺 長運寺 本祐寺 法興寺  西厳寺 医王寺 妙楽寺 山伏山学院      一乗町組 一五拾五軒 内潰家拾軒 土蔵一       柳町 一三拾七軒 内地名子拾八軒         新片町 一三拾三軒 土蔵一ッ            妙国寺町      下呉服町組 一弐拾弐軒 土蔵七ッ           南下呉服町 一三拾九軒 土蔵十五 物置三    下呉服町組 一弐拾軒 土蔵五ッ         筋違橋丁 一弐拾五軒 土蔵十         田原町 一四拾八軒 土蔵十二        田原竪町 一六拾七軒 内地名子八軒 土蔵四ッ 祝町 一七拾七軒 内地名子六軒 土蔵十一 小田原町 一八拾七軒 内同十一軒 土蔵二ッ  大工町 一四拾四軒 内地名子五軒      上谷町 一四拾三軒 内同一軒 土蔵十一   下谷町 一弐拾六軒 内同弐軒        常盤町 一弐拾九軒 土蔵一ッ        万町 一四拾軒  土蔵三ッ        千日町 一弐拾三軒 土蔵一ッ        亀屋町 一三拾三軒 内地名子一軒 土蔵二ッ 鍵町 一弐拾三軒 土蔵二ッ        東御堂町 一拾三軒              正善寺門前 一寺十五ヶ寺 土蔵九ッ   願乗寺 普賢院 宗寿寺 善林寺 万徳寺   法養寺 浄慶寺 長堅寺 恵徳寺 正善寺   法円寺 勝楽寺 光明寺 大仙寺 恵雲寺   山伏歓行院  社一ヶ所 恵雲寺秋葉宮     宝町組 一拾弐軒            宝町 一九軒 内地名子一軒      大門町 一三拾三軒           寺崎町  一廿九軒 土蔵一ッ       三好町 一拾六軒 内地名子十二軒    神明町 一五拾六軒 《割書: 土蔵三ッ |内地名子廿三軒》     同中町 一四拾軒 内同五軒 土蔵一ッ  同下町 一四拾四軒 内同九軒 土蔵一ッ 西子安町 一潰家四軒所子安町 一五軒   下新町 一四軒 祐恩屋敷  一廿弐軒  乗久寺門前 一拾八軒  五ヶ寺門前 一拾三軒 土蔵一ッ  興宗寺門前 一四ヶ院   山伏常福院 持宝院 千養院 福寿院    松本町組 一拾軒  西中町   一潰家三軒 東中町 一七拾九軒 土蔵一ッ  上油町    三橋地方 一弐拾弐軒      三橋町 一拾六軒 土蔵一ッ  田原表町 一拾六軒       本承寺門前 一拾八軒 土蔵一ッ  田原下町 一四拾軒 土蔵一ッ  河南町 一弐拾九軒 土蔵七ッ 米沢町 一五拾軒       清源寺町 一拾三軒 土蔵一ッ  西厳寺表町 一拾三軒       下三ッ橋町 一拾四軒       三ッ橋町 一六ヶ寺  慶福寺 浄仏寺 本承寺 宗源寺 願照寺  了勝寺     山伏玉宝院   町外地方 一弐拾七軒 下三ッ橋町   一五軒 三ッ橋表町 一四軒 西山表町   松本地方 一三拾七軒 土蔵二ッ 西御堂町 一四拾五軒 土蔵二ッ 油表町 一 山伏 宝松院   家数〆弐千弐百六拾四軒 但町宅奉公人は此内   内地名子百三拾四軒 潰家廿弐軒    土蔵百九十三 寺四拾九ヶ寺 山伏八院    社二ヶ所 牢屋一ヶ所    西本願寺掛所 一本堂 対面所 御殿向不残 白書院 小仲居  台所 水屋 輪番所 香房 膳所 鼓楼  鐘楼堂 築地塀 法中并勘定所 伊賀 同役詰所  表門 台所門 供侍外番所 作事所  境内  谷寺 住相寺  衣番 恵光寺 唯専寺 帰命寺  還相寺 火番 松井粂右衛門 山川与三郎 山口新吾         増田金左衛門 渡辺常次 竹内宗十郎    東本願寺掛所  本堂広間 御殿廻り 台所并同所奥向  太鼓堂 鐘楼 表門 裏門 長屋廻り  塀不残 茶所 在寄進所 土蔵五ッ  飛担部屋    本覚寺  本堂 対面所 台所 表門 裏長屋門 屋敷二       興宗寺     本堂 台所 奥屋敷 表門 裏門       同寺末     観音堂 拝殿 表門 地蔵堂    右四ヶ寺町役所直支配    此外下与力町ゟ上与力町迄類焼下江戸町侍    屋敷三軒同断其余飛火にて幾久村も焼   一侍屋敷五拾四軒 侍以下屋敷百八拾三軒    足軽百九拾四軒 荒子部屋拾三棟 在家廿三軒    東西両御堂共寺五拾九ヶ寺 山伏八院 導場二軒     社二ヶ所 土蔵百九拾八     怪我人死人等も有之    大大火に付町方難渋小屋掛難出来者へ小屋    出来御貸渡 御救米被下町方所々におゐて    粥飯等出す 一同二卯年    六月十二日花堂村出火類焼百九拾軒    寺三ヶ寺 東雲寺 秘鍵寺 大円寺     此外土蔵 一安政五午年   正月廿四日四半時迄下呉服町堺屋喜左衛門   出火類焼六拾七軒 潰家拾弐軒 土蔵一ヶ所   焼失        明治廿一年迄を書落す    明治十四年 一 季候作体之事 一 二月七日福井設置之事 一 越前国主代々 一 加能越由来之事      并石高 一浄光公御代大臣名元 一隆芳公御代大臣同断 一明治二己巳年十一月版籍返上に付禄高改正  大臣名元并総計 一同七年七月市街町名改正に付新旧比較表 一慶長五子年後  北ノ庄御城下町数家数人員 一享保二丁酉年改同断 一寛延二午年改同断 一貞享年中改 一元誓願寺芝居之由来并古来ゟ御制禁之  娼妓客年許可十四年七月開店 一東照宮御宮跡へ監獄署新築之事 一同年九月国会   勅詔之事 一同年十月  福井新聞発刊之事 【右丁文字無し】 【左丁】    明治十四年季候 并諸事 舊臘ゟ下地雪壱尺余一月十二日大暴雪様夫ゟ 二月へかけ次第に積り郊外三里余は方角に より不同近郷は大概九尺余地方により一丈五六尺 実に近来稀成大雪に而三月十七日彼岸会も市中小路にて 日陰之所々は不消其後雨天勝に而平水少なく 川添之田畑は種蒔植付等困難五月七日 大雨に而出水夫ゟ折々天気能田植無難に済 七月三日暴雨に而三川共洪水下馬村堤切れ 彼先之家十戸倒れ田面迄押流し村中 一同水つき溺死人有之家財流失之もの 数多又川北森田之近村八重巻村麻畑引 水之跡径り廿間計之池忽然と現れ衆人打 驚水練達者強壮之のもの水底を潜り見るに浅 深之程知れ難しとて遠近之もの群参不思議 之事成とて寄異の思ひをなせり右大水に而 地産之田畑は水損之所々数多なり 同月十日頃ゟ九月上旬迄長々天気続諸井 戸減水郷川用水乏敷旱魃之田面夥敷 大根胡羅蔔【人参】等之種贅して芽を不生水落 神明雨乞之祈祷境内池中のうしをひく  曰右うしと言伝ふるもの如何成古事之有にや  元の明たる木の根様之如き物鼻つる成とて人撰之上  神鬮を伺ひ身を清め水中に入て縄を繋き桟  敷を掛音頭を取郷中之もの群参うたひ囃して  是をひく 右炎暑に而幸福を得たるは交同社なり初春以 来之積り雪を旧御本城橋前馬場辺へ大造之 氷室を仕掛囲ひ置たるを請売のもの白山 氷と呼歩行福井市中は勿論在々之寄場 其余便利能所々は荷車にて積送れり故に 例年ところてん製出営業しものは心算を 違ひ心太(トコロテン)之名に引替て心細かりしとなり 九月十三日大雨にて出水耕作に不障折々夕立 に而自然と涼気を催し十月末ゟ苅田之天気 様能七月三日水損所之外去十三年には劣れる 由なれとも先つ上作之沙汰なり    明治十五年 一 季候作体之事 一 火事    六月廿九日県庁物置焼失    十一月十三日地理課事務所焼失    十二月十三日元京町出火三十四戸半焼三戸 一 八月十五日越陽絵入新聞発刊    十月解社 一 同年  北陸自由新聞発刊    六ケ月にて休業    明治十五年季候 客臘下旬より一月上旬へかけ降雪僅九寸余初 冬以来の寒中には珍敷軒端之垂氷并汲溜 手水鉢一度も凍らす寒暖計三十七八度 内外麦菜種等之冬作生立能二月上旬より 追々梅花笑みを含み次第に春色を催し四月 中旬桜桃李爛漫菜花黄金の莚を敷くが 如し夫ゟ五月上旬へかけ倍快晴打続魬鰯 大なぎ市中魚店車にて運ふ下旬田植晴雨 都合能無難に済六月上旬麦菜種刈上作 其後梅雨より引続七月下旬迄快晴少なく 曇天勝八月二日ゟ九日迄れつ風吹六時頃より 一時計快雨に而止廿五日迄曇天勝廿六日ゟ九月四日迄 快天其後十月七日迄晴曇に而八日ゟ廿三日迄快晴 廿四日ゟ段暖雨程能収穫済十一月下旬ゟ時雨 打続廿五六日雪風又時雨続十二月十七日ゟ十九日 より廿二日迄積雪弐尺五寸計所々屋根を掻く 大三十日迄曇雨 当十五年時候如此九月ゟ十月へかけ毎暁日の出前 東方に彗星現れ種々之説を成せしが天変 地妖の災なく全豊気星にや有けん春来田 畑五穀を初都而之諸色悉上作旧来斯る 豊年に土につきて悪しきものは角力取計りと 云へる古諺も有しが此言宜なる哉当秋川北 の村落に豊年祭を催し花角力興行負 たるものにも褒美花を与へたりと実に面白き 趣向なりき    明治十五年雑記         火事 一 六月廿九日御前三時前県庁物置所小屋   焼失 一 十一月十三日午後十二時地理課事務所焼失     右師範学校之隣元松葉邸北西の方 一 十二月十三日午後六時照手上町元京町泉谷煙草商   ゟ出火北の方米町角迄南本町東へ折曲り米町   出角迄南側橋本屋ゟ荒木元家北へ折曲り   大橋際迄西側駒屋無難木町口北角野村ゟ   北口境町出角之南隣迄焼失      全焼三十四戸 半焼三戸       越陽絵入新聞発行并解社 一 明治十五年八月廿五日旧大野藩士吉村貞一氏   発起にて越陽絵入新聞発刊記者は大阪府   朝日新聞にて有名之津田貞氏にて勧善懲   悪のため婦女子にも読み易き様美画を加わへ   三府へ恥しからぬ新聞成しに奈何せん津田氏は   急病にて黄泉の客となり殊に社も資金の   乏しきよりして終に十月に解社せり      北陸自由新聞発閲并休業 一 北陸自由新聞は北陸自由党ゟ組織し民権   家之有名なる杉田定一氏社長にて岡部広氏   幹事にて記者は永田一二山本憲の両氏にて   有名の文学士なり殊に武生の内田謙太郎   松村才吉大柳英二長谷川豊吉安立又三郎   等之諸氏非常尽力し諸方に政談演説会を   開き南越頑夢を覚させんと一は新聞を以てし   一は演説を以てせし又一時世上の高評を博せしに   何か社中の都合ありしにや六月にして休業せり 【右丁文字無し】 【左丁】     明治十六年 一 年中季候 一 暑中以来旱魃に付雨乞并大岩清水   由来之事 一 右同断に付上水之由来且後年存寄   之事 一 同年五月十七日   鎮徳寺之時鐘を西御堂前清円寺へ移す    附 旧来ゟ時鐘太鼓沿革之事 一 同年十月八日 裁判所移転県庁に隣りて新築     明治十六年季候 一一月元旦散雪々吹其後晴天二日之外曇雨降  勝十七日ゟ廿日迄雪吹五寸計廿九日迄曇天  三十日暴れ雪吹川々満水二月中晴天三日餘は  曇天又雨三月中晴四日餘は二月に仝し四月  一日夜雷鳴霰晴天十三日餘は曇雨廿日前後  桃李満開五月中快晴廿五日之暁雷鳴霰  降り七日朝十七日夜廿六日夜都合雷鳴四度下旬  田植天気都合能く六月中晴天十六日餘は曇  又雨六降七月十日ゟ九月三日迄五十五日之内 七月廿日夜暫時一雨八月廿日夜雨計りにて長々 旱天炎熱難堪身の置き所なく殊に田畑も 非常之旱魃にて村落処々に用水端あり 市中諸井戸渇水志地口ゟ之浄水筋川にも 一滴の水を見す《割書:右に付別紙|由来を認》又橋南清水にも 減水して樋口上り取井戸之面々は非常之困難 せり然るに神宮寺町大岩の清水は湧出し減 する事なく幸に橋南之者は大岩清水の為に助り しも過言にあらさるなり橋北も幸に足羽川の 中央の河原に忽然と清浄水を湧出せるを発 見し該水を以て橋北数千戸食用に供せし なり餘りの旱魃に付足羽神社におゐて七月十五日 より一週間雨乞の祈祷霊験にや十九日ゟ曇り 廿日快雨車軸を流し皆々蘓【蘇】生之心地をな せりと 然るに爰におかしき一話あり或村落に 一周間雨乞祈祷を請合て郷社の前へ席を 設け暑熱難堪に玉の汗を流し丹精を懲し 祈れとも寸毫も効なかりけれは神主気をいらち て言ふ様仮令一周間に降らずば二周間三周 間いつ迄成共降る時節の来る迄祈り通しふら せでは置かぬと言ひしと皆々大笑ひせし とそ九月四日ゟ廿日迄折々雨下旬晴天十月 晴三日余は曇天時々大雨出水十一月一日暴雨 夜初霰晴天三日曇勝に而折々雨漸々冷気 を増し十二月晴なく四日夕雷鳴初雪五寸計 其後時雨勝其内廿一日雪気又廿九日ゟ雪気丗一日 雪吹三寸計り 右年中気候七月以前は無端之陽気にて諸 作豊作植付刈揚共よし七月後之旱魃は他 県も同様にて不作之所々是ある趣伝聞せしが 当地は幸に損害の訴無之実に豊年の由なり    大岩清水由来 一大岩清水は神宮寺町と石場との境に有  当暑中之如き非常の旱魃にも依然として  湧出減ぜず実に重宝之清泉なり右名称は  慶長御築城之砌鉄御門桝形の石垣に用  られし大磐を掘出せし跡へ清水沸出せしゆへ  修繕をくわへ井戸となし斯く言い伝しとぞ 【左丁、石垣の大岩に両手を広げて大きさを示す二人】 二間二尺斗【横】 八尺斗【縦】 【右丁】 【鉄門と左横の大岩の大きさを示す男】 【鉄門】三尺五寸【縦】     三間【横】 【大岩縦】二間壱尺斗 【左丁】    明治十六年旱魃に付上水之由来 一 上水は城地第一之要害にて慶長御築城   之節名誉軍師之面々評定之上水路を   開き其頃福嶋正則公江戸往来之節被立寄   所々巡視格別上水の引方を感心せられし由   于今言伝へ尤莫太之田地用水とも相成事故   実に太切之川筋に付夫々役掛り之面々被差置   且破損所定請負之者等同様年中見廻り修   繕取計候処元来灤水急流川筋之事故出   水之節は度々破損有之に付大破之節は古来ゟ 別記洪水之部に出す如く天明度之通御普請 奉行定詰に而指揮取計軽きは見廻り役 掛り之面々人夫之差配尽力勉励為致事に候処 当十六年之季候に記す如く長々旱天之 折柄右上水口之上におゐて川北之者堰留仍而 福井市中食水之困難且芝原用水筋田 畑之旱魃不容易儀に付而は夫々歎情を訴 出尤先方へも種々掛合といへとも和談不調 旧来上水口之有無証拠物を出すべしと沙 汰有たる由 右は他之事と違ひ証拠の有無を論すへき 事にはあらずと思へり慶長之際一国一城の要 害にて有名之軍師築きたる水路方に福嶋 公も感せられし程の上水殊に御減禄に成て追々 同藩之諸侯領分入交りに成ても川筋之事は 公領他領に不限悉皆福井之支配にて御水主 方記録を以取扱于今古老存生之者も有之 判然たる事也 又川北丸岡領は度々不法之儀申立争論有之 候処嘉永四年辛亥年九月之両片聾之記写 近年東古市地上十郷用水其外にも丸岡領 之公事有之に付昨戌六月公儀地改役人相 見得候得共当夏も丸岡之者不法之儀有之候処 此度丸岡ゟ使者罷越相絶候間             左之通 近来御領分と私領分度々出入出来及公訴 之段百姓共不弁分限頑愚之所致在所役 人共話方不行届儀とは乍申畢竟私不徳 に而役事を不得其違故と赬尻之至奉存候就中 此節用水出入吟味中仮通水之儀に付領分 百姓共不傾前後に不法相働節郡方役人共取押 方不行届相成対公辺恐入候次第右等之事共 に付御領村方人気落着不申御国改に相障 候趣於私奉恐入候御隣領に而万事御庇護請 不申候に而は政事立兼候儀に付在所役人共 不行届之儀は取締申付に付前件之次第并 仮用水手差之儀御寛裕之御沙汰相蒙 度奉存候此以後郡方役人共屹度申付懸 氏共不法不相働御国改に不相障様為取計 可申候間何卒穏便事済に相成候様被成下度 右御願以使者申上候         有馬日向守  八月廿一日    使者 山内和十郎  丸岡百姓へ書下ヶ之写 近来度々御隣領村々方と申分出来既に及 出訴 公辺御苦に罷成候段役筋取計不 行届之筋にも相当り御上に而も御不本意 にも被思召候段は兼而乍相調居双方村 方之申立候事故不得止事右躰相運候 得共已来は他領村方と相互に礼義を 尽し諸事穏順之取引相成候様有之 度此段於江戸表福井役筋之者懇 談も相調万端無腹臓掛合有之筈候 依之御使者御取交有之候間此段村方 小前之者迄も右之趣意を相弁へ心得違 不致様一統へ可申付事   九月廿二日 又附言 上水之儀は林作平氏旧藩以来功者之  故を以水路関係之面々ゟ依頼取締世話  致候処猶又今度之一件に付旧記は勿論絵  図等に尽力委敷出来候間永々相続  保存して書継最早今度之如き渇水  困難論無之様と思ひ由来を認置   右に付而は廃藩之際尽力保存献納せし   上水之御記録外に絵図等も用に立てり 一治水堤防用水一件は矢野虎太氏旧藩  中格別尽力有功之人に候処今度旱天  にて前書上水を初諸方之用水困難を訴出  候に付而は掛り官員之衆中繁忙流出取計  有之と雖とも不容易儀に付旧藩以来之所置   矢野氏へ御調に付一層抽丹精勉励微  細之記録絵図等出来に付而は永々へ伝へ仮令  後世如何様之御趣意に成るとも太切に保存  有之度此段連々申伝へ其時節に当れる人  無油断取計あるべき事なり 【右丁文字無し】 【左丁】     明治十六年時鐘之事       并旧来の之沿革 一明治十六年五月十七日   鎮徳寺之時鐘を西御堂前清円寺へ               移す    従来之沿革 一元禄元戊辰年   吉江之時鐘を地蔵町口土居に移し   米町鐘と供に昼夜十二時を報す 一宝永五丁巳年   地蔵町口之鐘を観音町元割場へ               移す 一正徳三年   三ノ丸え太鼓を安し十二時を報し割場之   鐘を米町に移す 一明治四年   浜町木蔵造営役所内へ新規火之見   櫓兼大鐘楼建築米町之時鐘を   移す 一同年   三ノ丸時所を被廃割場へ移す 一同九年   本町青野屋出火之際木蔵之時鐘類   焼に付足羽山へ移す 一   割場之太鼓を廃し鎮徳寺にて鐘を     〆           報す    明治十六年十月八日裁判所の事    裁判所新築之事 裁判所は明治九年 石川県管轄之頃 支庁として旧大名町狛酒井両家之入隅砂 利原之所へ築造在しを又今度旧漆門内吉田 大野林三邸之跡へ県庁に隣りて盛太之造 営新築して十月八日開館      絵入 【朱筆】下絵図■    明治十七年 一年中季候 一同年一月八日馬威之事   右に付古事 一二月十三日出火之節打継喚鐘出来之事   附 火防改正に付旧来之大略 一五月三十日大和中町火事 一四月七日十楽温泉開業式に付由来  之事 一五月五日足羽吉田郡役所新築之事 一六月十六日  県庁邸内南の方へ警察本署新築落  成に付開館式有之諸人縦覧 一同十三日足羽山へ  大迹皇子記念碑建築之事 一八月  戸長所轄区御改正福井市街中に而四名  拝命之事 一同月廿七日  平岡山へ善光寺如来堂宇建立之事 一十二月  元御舟町之芝居小屋元柳御門内西の馬場へ  移転に付旧来ゟ之沿革由来之事 【右丁文字無し】 【左丁】      明治十七年季候 一一月元日みそれ二日ゟ五日迄折々時雨六日晴七日  快晴馬威首尾能済八日雨九十十一日雪吹七寸計  十二日晴十三四五雨十七日ゟ廿二日雪降屋根一尺四五寸  積雪廿五日ゟ三十一日迄雨勝二月一日晴二日ゟ十一日迄  雪最初より積雪二尺五寸計十二日ゟ十六日まて  曇天十七八日チラ〳〵雪十九廿廿一晴夕雨廿二日ゟ廿六日  迄曇雪早梅笑を含廿七日晴廿八廿九曇三月  一日晴二三曇四五晴天玉井新地梅林漸く開  春色を潤す六日ゟ十九日迄曇天折々雨廿日晴 廿一日ゟ廿八日迄曇雨勝三十日卅一日雪気四月一日雨 二日曇三日四日晴五日ゟ十四日迄曇雨勝十五六 晴十七雨十八九廿一晴廿日十楽温泉開業式廿二 夜雨廿三日雨廿四日ゟ廿九日迄曇折々雨三十日晴 五月一日晴二日曇夕雨三日ゟ九日迄晴魬大なぎ廿五も 鰯ヲ壱斗五勺車にて運ぶ十日ゟ十五日迄曇折々雨十五日 郡役所開館十六日晴引続魬大なぎ十七十八 晴両日共夕ゟ風十九日曇雨廿日晴廿一日ゟ五日迄 曇天廿四日夕あられ廿六日晴夕雷鳴雨廿七日ゟ 三十日迄曇三十日火事三十一日雨六月一日雨二日晴 夜大雷雨四日曇五日ゟ十五日迄晴十六日雨十七八九共晴内 十三日ゟ十七日迄足羽山記念標祭十六日警察本署普 請落成庶人縦覧廿一日曇廿二日二時頃暴風雨廿二日 雨廿三日ゟ七月四日迄曇湿雨五日六日七日晴八日ゟ十九日 迄曇雨廿日晴廿一廿二曇雨廿三日ゟ三十日迄晴三十日 五時ゟ雷大雨夜止三十一日晴夕立八月一日二日曇三日ゟ 十二日迄晴十三日ゟ十九日迄曇雨廿日ゟ廿五日迄晴 廿五日夜十時過ゟ大風雨様に不凌廿六日雨廿七日 廿八日晴平岡遷仏廿九日ゟ九月二日迄曇雨三日ゟ 十一日迄晴十二日ゟ廿九日迄曇雨三十日晴十月一日ゟ六日迄 曇雨追々苅田七日ゟ十一日迄晴十二日ゟ十六日迄曇雨 十七八九晴廿日ゟ廿九日迄曇内廿三四雨あられ三十日 より十一月三日迄晴四五六曇七八晴九日ゟ十四日迄 時雨十五六七晴十八日ゟ廿九日迄時雨廿六日ゟ折々水雪 三十日十二月一日晴二日ゟ十六日迄時雨水雪十七日ゟ     《割書:四日ゟ朝鮮騒| 》 雪気廿日二尺計り所々屋ねを捨其後三十一日にて 曇雨折々散雪車無指支 当十七年は日本全国洪水暴風雨にて種々 秋作に妨害難所夥敷由なるに幸に当国 之如く五穀を初め枇杷杏梅桃李梨子葡萄 柿栗等に至迄満熟又野菜も上作殊魚猟も 悉く大なぎにて近来珍敷豊年なりしにな 何せん金融よりして不景気之形勢に至れり 【右丁文字無し】 【左丁】    明治十七年一月八日     馬威之事 一古来ゟ例祭馬威之景況ハ初巻ニ言ひ 尽せし故略而不言往昔の初りハいつ頃の事 にやいまだ其御時代を不考     福井左義兆馬威     粟田部餅引     水落御らいし     大森神代の踊     金津の竹競 東郷安原大左義兆糶合 右類様古へゟ例祭なるに馬威の漸々盛ニ成しハ 佐佳枝廼神君御入国ゟ後と見へたり然るに 先年 御一新且つ其後陰陽改暦将タ 廃藩之御趣意等ニ而古記例祭廃すべしとの 命令ハあらざりしも左義兆も村落ニ而ハ総而 旧暦を用ひ矢張り正月十三日ニ立て十五日暁 はやせしが福井市街ハ新暦一月八日ニ可相 改との命令有之 且版籍返上之際ゟ旧藩 御厩を初高知寄合之大身諸物頭其余非 役三百石以上之面々等数多之持馬悉皆放遣 従来担当之御馬方師役之面々数多有しも 賛成周旋之族夫々目的之業ニ従事し 又攻防之ものも指支之廉あり又場所之義も 総而変革よりして御指令ハ勿論夫々協 議もなく廃止せり然る処万国比類なき勇々敷 例祭跡形ももなく廃絶せんハ歎ハしく思ひしに 有志輩非常之尽力例格之旧規を引興シ 従事し手続調練を整へ当十七年一月六日ゟ 下威し八日ニハ花々敷本おどし無故障目出 度相済右吉例を初とし永世不怠年々興 行せんとの趣向全成就を郷村落ハ勿論遠 方所々ゟ見物人群集賑々敷福井市中之 景気を引立実ニ幸福之吉兆なり必 足羽の御神を初 佐佳枝廼神社市中 諸社之御神慮ニ被為/応(カナハ)有志之方々 特別難有発起之趣向なり 希ハ今后如何様時体之変遷ありとも万 代不易連綿請継例祭執行あらん事を 明治十七年二月十三日   出火之節打続喚鐘出来之事 一古来ゟ出火之節ハ火元近所の寺院梵鐘  撞鳴せしのミなりし処中古報時鐘ニ而  遠近に不関打継候も防御之者不便之儀  間々有しに付今般左之ヶ所へ火之見梯子  喚鐘新規出来厳敷規則相定り之事   最初四ヶ所之処追々左之通相増  足羽山時所 三ッ橋 筋違橋 松本四辻  観音町 勝見 亀屋町 元柳門内警察署   警察本署 監獄署 松本時所 木田四ッ辻      火防改正に付旧来之大略を記す 一火防之儀は従来旧藩之高知序千五百石以上之  衆中御城下火消と称し銘々火之見櫓を上け  月番に而昼夜見張番を置鉦を打鳴し右相  図に而同役の面々を初町奉行其外火消役之諸  物頭之面々夫々人数組子引纏役々により火消  道具為持火事場え出張福井市中十二組  勝見共都合十三組火防鳶之者組合印之法  被着各纏梯子龍吐水総而夫々之道具を持  火元へ駈付臨機応変火消頭之指揮に随  相働互に消口之甲乙を争ひ鎮火之上  行列を正し引取候事   但 鎮火之節は火消月番之見櫓にて懲りの報知     板木を打   一 出馬頭役之面々は銘々鑓印旗を付夜中は馬挑灯     高張【提灯】等為持候事   一 出火之節諸役衆之面々は夫々掛り役所え何時に不寄     出動勿論其外御城曲輪御門にては方角詰寄     合番外三百石以上之非役且又御宮御菩提寺     明り御蔵等は高知序之内少禄之衆中并前書之     面々并前書之面々又所により物頭其外厳重之     御定則餅場所有之相詰候事   一 御一新之際右十二組に勝見并市街続之地方打込     十三組と成は区と成終に四組と改革せり 【右頁】      火事 十七年五月三十日午後六時大和中町広田 武平ゟ出火同長屋続三戸類焼都合四戸 半焼壱戸 【左頁】    明治十七年四月七日十楽温泉    開業式之事 一坂井郡十楽村は食水及び用水に乏しき  所にして殊に昨十六年の如き旱魃には非常之  困難せし故一村協議して該村の荒地へ堀  貫井を掘しに其穴ゟ焔々として蒸気の  発するより人々驚き汲取り早速試みしに  豈計らんや冷水にはあらで純然たる温泉  なれは雀踊して歓びけるより隣村田中々村も  掘貫し船津村も湯か出た二面村も百度内外の 温泉なれは其旨郡役所へ届出て不取敢仮浴 室を設け一時評判盛なるより諸方ゟ群集 見物に来り入浴を試み現効を覚へ且福井坂 井港両病院より医員派出検査せられしに 何れも劣らぬ良質の温泉なれば種々の原 索ありて諸病に効験疑なし故に有馬温泉の 右に出るも近き所々の温泉には中々劣るまじき 由沙汰せり右地所は四ケ村共屈曲入交りにして 其回辺は荒蕪不毛之地なりしも福井坂井港は 申に及ばず金津其地所之方々ゟ地所借受種々 様々の商法争ひ競ふて開店し四月七日開業 式を行へり   因に云古代いつの頃にや吉田郡岡保郷に温   泉出しを加州山中ゟ故障して湯本を穢せし   由言伝へあれとも慥成証跡もなき事故信し   難し又天保の末坂井郡天菅生村に温泉   湧出す迚大造なる湯小屋を建築し殊に   旅籠屋数軒寄麗に普請し種々の趣   向を設け暫時賑はしかりしに素々無実   之企事にや有けん程なくつぶれて今は 【右頁】    跡形もなくなれり    然るに今度之如き荒蕪不毛之地に温泉    湧出出るや殊に田畑の妨害にならず坂井    港へ一里余金津へも同様之里なれは便利    にして且新魚あり鴬時鳥も自由に聞    ゆる里へ斯る不思議の出来たるは土地の    仕合はいふに不及越前一国の幸福なれば    福井市外之事なれ共一筆を記す。 【左頁】 明治十七年五月五日    足羽吉田郡役所新築之事 一先般区長被廃更に御趣意を以徳山茂樹氏  足羽吉田郡長拝命之際孝顕寺に而事務取扱  其後大川端酒井嘉多志元上屋敷跡へ引移専ら  人望篤尽力有之今度旧城大手前檜葉  優之助元上屋敷西南の隅地租改正事務所焼失  跡へ新築盛太之開館式有之 同年六月十六日 一本県庁邸内南ノ方え警察本署新築落成 【右丁】  に付開館式有之諸人縦覧   六月十三日    大迹皇子紀念碑建築 一当国御開闢御神大迹皇子紀念碑  尊像を石工営業者発起に而奉彫刻  足羽山巓上に崇め又傍に西南之役殉難之族  招魂之碑建築有志輩各醵金助勢左之通  御碑銘御認六月十三日ゟ十七日迄賑々敷  御祭典 御由緒之儀は御碑文に譲りて不記  尚幾万世之末々迄不朽に伝へ畏而可奉祭御事也 【左丁】 偉蹟紀念碑 厚積嘗竊謂 圀朝之古史多編年以紀事而書 志獨闕故至往昔平水土開物産《見せ消ち:冨|足》圀利民之偉 蹟毎多湮没而不稱後世無由得考焉間或傳之 舊聞野乘之中誠爲可惜也謹按 皇朝第二十 六世継體天皇初稱男大迹皇子以 應神天皇 五世孫龍潛越前五十有八載及 武烈天皇崩 入《見せ消ち:績|纉[朱筆]》大統 帝性慈仁孝順豁達有大度興於閭 𨵻知民事之艱難勵精圖治弗敢逸豫即位之始 普詔天下勸課農桑在位二十五年天下安静海 【右丁】 内殷富至于末年尙詔挙廉莭之士叓見于圀史 當 皇子之在越前也洚水横流氾濫於圀中 朝廷詔 皇子治之 皇子乃疏鑿三圀港口瀹 日野足羽黒龍三大川導諸水注之北海以除下 民昏墊之害併以興後世漕運之利圀中永被其 澤《見せ消ち:爲|焉[朱筆]》臨發命 皇女馬来田姫配祀于足羽社曰 長護此土蓋以 皇子初祀水土神于此爾来一 千三百七十七禩矣距縣廳西南二百歩許有山 曰足羽山即配祀之地蜿蜒迤西二里餘至加茂 山有谷曰石谷又名酌谷相傳 皇子治水至此 【左丁】 時方大暑有伇夫渇将死求冷水不得 皇子以 所佩弓鑿巖隙忽霊泉涌出伇夫酌之得不死又 此地連山多石壙 皇子一日發見之教土人以 采石之業是二名所由起也石色青白質雖不甚 堅凡橋柱并甃碑碣塔像若水火器之材施工易 而為用大故居我越物産之一焉歴千有餘年之 久其所發掘製造以供國用及輸出于他邦者不 知大小幾千万億然未嘗窮竭今日圀中頼此以 衣食者亦無慮一千餘戸頃者石工等相謀欲俾 圀人奕禩無忘 皇子之澤亦追遠報本之意也 【右丁】 請于《見せ消ち:宮|官[朱筆]》𠜇 皇子持弓像建諸足羽山頭像長一 十四尺巖石受之縦一十二尺横稱之繚以石欄 高六尺周囘百十三尺其他諸材皆用此石鍥工 凡一千七百工運夫凡三千五百夫各出其私材 与労力為之而聞者相争醵金以助之亦可以見  皇子之澤入人之深矣既成側樹一石題曰偉 蹟紀念碑請文以記之乃謹叙其叓併為之銘 其([朱筆]) 《見せ消ち:其詞曰|詞曰[朱筆]》   於戯 皇子 北鄙潜居 洚水氾濫 大澤   似湖 皇子憂之 拝壅決游 以海為壑 【左丁】   三川一途 若微 皇子 下民其魚 大迹   之禰 洵然不虚 惜哉圀史 闕焉河《見せ消ち:■|渠[朱筆]》   巖々 石谷 其石如磲 采之采之 圀用以   輸 為桂為梁 惟汝所需 皇子之澤 永   垂千秋 巍峩 聖像 膽望山頭   紀元二千五百四十三載   明治十六年十一月穀旦     正二位勲二等松平慶永篆額      福井縣史誌御用掛富田厚積謹撰      仝       荻野秋雄謹書 【右丁文字無し】 【左丁】 西南之役殉難碑 予方修福井縣史追録往叓為縣内人民父兄若 子弟死于丁丑西南之役者作殉難傳越前國足 羽郡士族五十二人平民九人吉田郡士族三人 平民四人坂井郡士族一人平民十四人大野郡 平民十人丹生郡士族二人平民七人南條郡士 族六人平民七人今立郡士族三人平民十人敦 賀郡平民四人若狭圀三方郡平民《見せ消ち:二|一》人遠敷郡 士族十四人平民六人大飯郡平民一人二國十 一郡合百五十《見せ消ち:一|四》人皆勇往奮進多中銃丸若觸 【右丁】 刀鋒而斃于時軍中惡疫盛行然罹病而斃者僅 《見せ消ち:七|十二》人◦(矣)有尉官有曹長有軍曹有伍長有兵卒有警 部有巡査其嘗奉職役者或猝應招募者忘父母 棄妻孥競不顧身遂殉王事較諸死于戊辰東北 之役福井大野鯖江三藩士卒合二十三人頗夥 矣亦可以知當時官軍之苦戰也蓋此役也賊勢 逞猖獗故起於二月終於九月凡八閲月我兵経 寒暑《見せ消ち:胃|冐》風雨跋涉山海轉戦于所々其忠且勞誠 可感也哉  朝廷深憫之事平後論功行賞給 爵賜金各有差及撫恤孤寡以慰死者之魂可謂 【左丁】 至仁矣傳曰未有上好仁而下不好義者也比日 石工田中某等来謁曰吾黨嘗設一社名義盟相 謀欲為ニ圀士民曩歳死于西南之難者建碑於 足羽山上𠜇其姓名《見せ消ち:于|於》背以修冥福請為記此予 聽而大嗟賞且告曰在昔宋蔡京書元祐黨人碑 石工安民當鐫字民乞免鐫已【己ヵ】◦(姓)名《見せ消ち:于|於》石末後世傳 為義民今日汝輩亦石工而能景慕忠義之人 (為之)費 其資力以謀傳于不朽可謂好義者矣輒書其事 由繋之以《見せ消ち:以銘々曰|銘々曰 》  羽山之巓 招魂有壇 此祭殉國 生氣 【右丁】  凛然 西南之役 百五十人 誰傳不朽  安子䓁魂 石工慕義 《見せ消ち:|■勒》茲貞珉  維《見せ消ち:時|旹》明治十六年十月初吉    福井縣令従五位石黒務篆額     福井縣史誌御用掛主任冨田厚積撰     福井裁判所在勤判叓補寺田 遥書 【左丁】 明治十七年八月 一戸長之所轄区域御改正左之通拝命                佐久良町外十七ヶ町   追而溝口兵三郎と交換被命  〇戸長 長谷部弘連△                浪花中町外廿二ヶ町                  戸長 皆川小太郎                日ノ出中町外廿四ヶ町村   追而七五郎と交換被命    〇戸長 溝口兵三郎△                常盤己木町外廿二ヶ町                  戸長 山田 博  十七年八月廿七日   元山町隆松寺講中先年願之上善光寺ゟ請待之   霊仏是迄同寺に安置有しを当住職     和尚   格別之信者に而衆人帰依種々尽力今度午岡山へ   堂宇建立安置す    右午岡山古代の事は略先年製産之趣法に而開墾茶園    と成又今度寺建立之地に焔硝蔵建築 北の方麓    砲術的場出来   さる雅翁の狂歌に     田の中に落したよふな一ッ山      人がひらおか午岡といふ    照手座移転并芝居小屋沿革  古来より芝居小屋は勝見にありて和田えの野合に  字残り今にあやつり場と云所あり貞享御太法  之後年号は今寄鑿すへき書を失へり  川下辺に定小屋有りて家中壮士輩数多見  物に罷越役者共贔屓男色の争ひにより楽屋に  於て大乱妨騒動を発し夫々重き罰則之  御処分ありて其後下立矢町外に定小屋出来 一大騒動よりして身分に不限総而帯刀以上之者  一統誓願寺町へ足踏堅く法度に成且芝居 見物も隠居婦女子之外禁制若し罷越候得は 家禄没収改易等之重き御所【処】分に相成候事 一勝見下川原之地先に当る小道具町川端市井氏  屋敷の言伝へに大騒動之節不時に追出し  の太鼓を打鳴し騒ヶ敷聞ゆる故優敷椽  側へ出しに川上より老若男女と群れ立倒るゝを  も不構我先と飛越へはね越へ逃走り  只事ならずと思ふ内血刀片手に生ま首提之  上下着之侍又紫縮緬長羽織之若衆  緋縮緬身内模様之上は着撫髪錦上着之  後室其外絡仕腰元女手に〳〵色ゝ携へつゝ  尻をつまげて渡り瀬ゟ木田堤へ逃行き去んに  初てさとる舞台の騒動追々聞こゆる  実説は妹背山狂言最中にて有しとなん 右下立矢ゟ浜町上川原へ移り数年来《割書:今和田や|の表手》 興行せし処度々の火災にて新築仮小屋等造作 せしに川添附き寄せ地取払之御趣法により 橋南堂の後口町表畑地新築《割書:今九十九|新地》然る処 十二年の秋楽屋ゟ出火焼失  十四年九月 元御舟町  新築町名照手町の故を以 照手座と称す十二月上旬舞台開其節大坂にて 日の出と称せし市川市十郎の座頭らにて来り 大当り其次古今無類と賞する尾上多見蔵 (音羽屋)一座来り其後実川八百蔵一座之興 行古今稀なる大当り成しが十七年都合に寄り 今の地へ移転せり  因に云右地所は元菅沼右近西横手西の馬場通り  表門続き塀の内薮の有し所也西の馬場気  色は初巻初巻に記せし故略す 一泰年座は元本多源四郎邸建家之侭買受け  修繕して常小屋とす其頃松本荒町にも  常小屋有し故中芝居と云へり 【右丁文字無し】 【左丁】     明治十八年 一 年中季候候 一 三月八日   元泉町続き小道具町ゟ木田堤へ新橋架設   渡り初之式執行豊橋と称す     古事 一同月廿三四五六日頃五穀降に付論説    但右証拠瓶に入残し置 一同年火事   一四月十七日佐久良上町五戸焼失之事 一 一八月廿二日上有屋町廿六軒同断   一九月廿一日元桜之馬場小屋同様之小家一戸    焼失 一 四月五日ゟ洪水又十三日同断   六月十三日出水 一 五月廿八日   旧御藩君上正四位様御来福泉邸に   御逗留六月十日北陸道通り御帰京 一 七月一日ゟ古今未曾有之洪水 一 春日野通り新規車道開鑿着手之事 一 山口透学士毛屋笹治氏邸譲請私   塾出来之事 一 九月前田農商務大書記官演説実に感   佩之余り御人為心得新聞を切抜張残す 一 十月廿日神明宮御祭礼に付能興行之事    由来は別記に出す 一 同廿三日東本願寺新御法主下向廿五日廿六日   吉崎別院にて恵燈大師諡号法会執行   廿七日廿八日福井別院に而同断廿九日説教三十日   御発車 一十一月三日招魂所花火      花火之由来別記に出す 一同廿七日旧下馬御門内へ中学校新築落成  に付開校式之事 一十二月廿三日福井小学師範校付属小学  狭隘に付右引移跡へ移転開校式之事     明治十八年季候 一一月一日旧臘廿二日之雪市街道路には更に無之折々  時晴雨気続七日曇天高咸八九十日晴天夫ゟ十八日  迄曇天散雪十九日雪翌朝にかけ三寸計廿日曇  其後時晴廿七日八日雪吹四五寸廿九日ゟ時晴二月  中は曇天散雪雪吹等に而一日七日両日之外晴天  なし三月四日ゟ七日迄晴八日豊橋渡り初門方ゟ  門方迄雪気十一二三四曇天十五日晴十六日ゟ月末迄  雨気雪気曇天計廿六日二三日前ゟ所々五穀降  廿七日雪雨廿八日ゟ丗一日迄曇四月一日ゟ連日曇 雨五日出水六日夜雷鳴七日増水所々橋落堂形 舟出す九日ゟ廿一日迄降勝其内十三日又出水廿二日 より廿六日午前迄晴桜桃李満開午後ゟ風 強夜雨廿七日雨廿八日晴廿九日曇雨三十日五月 一日二日晴三日ゟ晴三日ゟ廿日迄之内晴三日余は 曇雨勝廿一日午後ゟ廿四日午前迄晴午後ゟ 曇廿五日地震廿六日晴廿七日雨廿八日午前曇 廿九三十三十一日晴此節鯛魬大なぎ六月中旬後大鯛 壱枚十二三戔魬壱本廿戔之内一人居かれ十枚七八戔 こなご百目五六厘若和布一包六七厘六月一二三 曇雨四五六七晴八日ゟ三十日迄之内晴三日余は梅 雨気色にて曇雨中旬麦菜種苅不作廿一日 出水七月一日朝曇午後大風雨夜出水二日雨三日催  洪水前代未聞別替ヶ条出す四日五日晴「六日ゟ 廿一日迄之内晴四日余は曇雨廿一日夕大雷廿二日ゟ 八月四日迄晴天続熱暑五日雨六日ゟ廿四日迄 天気続午後夕立夜雨廿五六曇廿七日小雨廿九 三十日晴三十一日時雨九月一日ゟ十三日迄晴続大暑 暖計九十四度十四日曇風夜止十五日暁ゟ夕方雨 夜雷鳴十六日ゟ廿日迄曇内十七夜雨十九日廿日曇 廿一二晴廿三日夜ゟ雨廿四廿五廿九晴廿六七八 曇三十日朝雨午後曇廿四五日ゟ早稲苅 十月一日曇二日ゟ六日迄晴七八九十曇雨十一日ゟ 十九日迄之内晴七日曇二日十三日夜雨十五日小雨廿日雨 廿一二三晴廿四日暁前ゟ雨廿五日朝雨後曇廿六日 朝曇後雷鳴雨廿七日朝雨曇廿八廿九晴三十一日雨 此頃ゟ晩稲苅十一月一日晴二日曇雨三日曇 四日五日曇雨六日曇七日八日晴九十曇十一二三時雨 十四五晴十六十七曇十八晴十九雨廿日朝霧廿一日時雨 廿二三曇廿四五雨廿六時雨廿七曇廿八雷雨廿九霧 三十日時雨十二月一二晴三日時雨雷四日晴五六曇雨 七日晴八九曇雨十日晴十一二時雨十三日ミゾレ十四五六七 時雨十八九曇廿日一二時雨廿三日ゟ廿八日迄曇同夜ゟ 三十一日迄なら〳〵雪 右年中作体之模様は別部三月廿六日五穀 降る所に出す故略之 【右丁文字無し】 【左丁】   明治十八年豊橋渡り初 一泉町続き元小道具町川端榎明神前ゟ  木田堤へ新橋架設有志輩周旋尽力して  川上村々えも協議相整願上許可を得て全  成就豊橋と号て三月八日渡り初の式執  行せり此所は川手御茶屋と称して相撲  御覧を初め御遊慰の御邸有しが  御取払に成諸士屋敷建又川上の所へ小道具  之者小頭役宅又土着住居之者部屋被下  しより此辺を小道具町と称せり     右小道具之者と云は御供者之     鎗長刀等を持 組子なり    明治十八年三月五日五穀降事《割書:并年中之|景況》 一三月廿三四日頃坂井郡丸岡辺五穀降り  福井市中へも降たる所ある由沙汰せしが  其実証を見とむる迄は不審敷思ひしに  廿六日現在予か庭前へ夥敷降ける故後代  の人に見せばやと証拠のため聊拾ひ取瓶  に入れて残し置けり展覧の節見らるべし  右は古来ゟ折々例しのなきにあらざる由なれ共  是は如何成究理家の論説にも解し難き  事ならんか尤吉凶禍福何たる前兆かは議す へくもあらす全く天地護国 神仏不思   儀之御霊告にて必当年は五穀豊作客 年以来之不景気を取直し可申時節至らんと 歓ひしが春来降勝之処間もなく四月四日 より三川初諸川洪水所々之橋落堤切れ所 等にて麦菜種畑作之諸色損害夥敷又 七月一日ゟ古今未曾有之洪水困難之模様は 別部に出す通りにて何れ悪作飢饉と覚悟し 一時米價沸騰収穫取入時節は拝置 指向き如何成事やらんと貧冨となく世上一統 案事乱しに次第に天気之順候無論之気色に 取直し水害を遁れし所々は極上無類之満作 所によりては数倍之収獲取入所あり又堤防之 切れ所彼先に向ひ砂利馳せ込み泥冠り等にて田 畑を荒せし村々も高地之持主により幸不幸 あり一旦水に浸りしも生気を取直し以前に 倍して残れる稲株も十分豊り又粟桼 大豆小豆蕎麦菜大根迄悉皆備作右水 害なくんば難有尽年なり是全前書に演る 神仏の霊告にてや有けん   安政三卯年正月廿五日    坂井郡佐野大谷村に五穀降る 一明治十八年四月十七日暁   佐久良上町百番地開化場好川門太郎火元   に而類焼五軒半焼二軒 一同年八月廿二日暁参時三十分ゟ上青屋町五青子や  喜蔵火元に而下青屋町寺横町舟山町掛け  丸焼二十六軒半焼六軒 一同年九月廿一日暁   手寄上町元桜之馬場小屋門様之小家一戸   自火に而焼失 一明治十八年四月五日ゟ洪水又十三日同断   六月廿一日出水七月一日ゟ古今未曾之洪水   別部に出之 一同年五月廿八日   旧御藩君上正四位様東京ゟ御着泉邸に   御逗留御宮并御菩提寺へ御参拝六月   十日北陸道通御旧領地糸魚川へ御立寄に而   御帰京 一同年七月一日ゟ古今未曾有之洪水筆紙に   難尽に付新聞を其侭切抜て綴る《割書:又古来ゟ之|模様別部に出す》  明治十八年七月車道開鑿之事 一鉄道は去る十四年有志輩頻に周旋取調べ  東京え出府 旧御藩両君公え申上候処不容  易御尽力当国四藩華族方并武生本多  公も御熟談十月御来福之上夫々旧領之所々  御巡廻篤く趣意を御説諭有之壱株廿五円と  して百株以上を発起人の列に入其内に而担当  人其外役人撰挙之方法相定り元一乗町  山田慎持家に事務所相立彼是相整ひ候に付  右華族之御方々同年月廻迄に追々御帰府  相成尚福井出身諸官員夫々数多加入有之  尤県人会にも特別之御尽力有之既に  政府へ御届に相成鉄道課之官員方流出再懸  実地之見分有しに柳ヶ瀬ゟ今庄迄之道筋は  勿論外道へ易る共御見込無之哉 御指合  御六ヶ敷様子に付願下ヶに相成  然る処右鉄道に周旋之面々協議之上車道  開鑿に趣向を変し県下之所々不残巡  廻有志者を募り方法を談せしに各賛成  之意を表し尚東京へ出府して  小石川様え申上格別御尽力之故を以福井出身  之面々ゟも数多寄附金助勢あり有志者担  当者は言ふに不及各地之分限者相当之出金大  概見込之整ひしより議事堂にて論判有しも  三月廿七日愈開鑿之衆議一決  県庁に而も格別執持 政府之願無滞  七月 許可之御指令下されしより各有志者  一統志願満足開鑿工業に至るは悉皆  県庁え役場して各首尾能手を引けり 一柳ヶ瀬ゟ今庄え之街道は天正年中柴田 【右丁】 勝家公の開かれしゟ既に当年迄三百有余年 宿駅繁昌北陸道之虎口三ッ之峠を構へ し往還なり 【以下、上下二段の新聞切り抜き貼付け】 【上段】 「九月」福井新聞    新道ノ線路 新道開鑿ノ今日ニ止ム可カラサルハ寔ニ官民共ニ賛 成可認スルトコロト爲リ今ヤ既ニソノ工事ノ着手ヲ 見ルニ至リシハ當初ヨリ希望熱心シタル吾儕ニ在リ テハ欣喜雀躍ニ堪ヘサルトコロナリ而シテ今日ニ當 リ一種奇異ナル議論ヲ提出シテ専パラコノ工事ノ前 面ニ翻々タルモノハ新道ノ線路ニ對シテ是非スル一 派ナリ吾儕ノ之ヲ耳ニシタルハ固ヨリ本年ノ春初ニ 在リテソノ後コノ事ヲ論シタル投報ナキニシモアラ サリシト雖𪜈マタ此異説ヲ駁破シタル投書ヲ得彼是 計算スレハ異説ノ駁説ヨリ少數ナルヿ十ト一トノ比 例ナルヲ以テコノ説未タ問題トシテ筆ヲ社論ニ把ル ニ足ラスソノ中ニハ消滅スルナル可シト今日マテハ 【下段】 吾儕ノ論説コヽニ及バサリシガ今聞クトコロニ據レ ハ嶺南四郡ニコノ説無キハ論ヲ俟タス嶺北亦タ南條 郡中ノ一部分ヲ除クノ外ハコノ説無シト雖𪜈今庄湯 尾二驛ノ民人中ニハ只管此説ヲ唱道シ頻リニ春日野 線ノ非ヲ鳴ラシ新タニ今庄ヨリ海岸ヘ出テ是レヨリ 敦賀ニ達スルノ線路ニ改メラレンヿヲ企望スルノ餘 リ或ハ地方廰ニ或ハ縣會議員中ヘ或ハ中央政府ヘコ ノ是ヲ論陳シテ自家ノ所望ヲ遂ゲントスルノ精神猶ホ 未タソノ熱ヲ冷マサスト云ヘリ嗚呼自家利害ノ直接 ニ關スルトコロソノ眼闔地方ニ及バサルハ人情ノ免 カル能ハサルトコロナリトハ云ヘコノ觀易キ道理ヲ 洞見スルノ明無クシテソノ成ル能ハサルノ望ヲ遂ゲ ントスルニ汲々タルハ吾儕今庄湯尾二驛民人ノ爲メ ニ惜シムトコロナリ是ニ於テ乎吾儕ハ終ニコヽエ論 及シ断然此ノ如キ無効ノ企望ハ之ヲ廢止シ世ノ文明 【左丁上段】 ニ伴フトコロノ新産業ニ就キ更ニ二驛將來ノ福祉ヲ 増スノ企望ニ換ヘンヿヲ二驛民人ニ望マント欲スル ニハ立チ至レリ 虚心平氣以テ若越二州ヲ概視スレハ十二郡民人皆福 井縣ノ肩書ヲソノ姓名ニ冠スルモノナレハ均シク是 レ同胞ナリサレハ縣下ノ公益ニ眼ヲ注ギ新事業ヲ興 起シテ福祉ヲ永遠ニ垂レント欲スルモノ豈ニ互ニ厚 薄スルトコロアランヤ南條郡内今庄湯尾等ノ民人モ 福井縣民ナリ他各郡ノ民人モ福井縣民ナリ全地方ノ 公益ヲ謀ルモノニシテ私心アリ故意ニ線路ヲ枉ゲテ 今庄湯尾等ノ衰頽ヲ顧ミサルガ如キハ決シテ之アル可 キノ道理無キナリ否吾儕ガ今日新道開鑿ノ事業ニ於 テハ千萬ノ無キヲ保証スル所ナリ必ラスヤ北陸道ノ 幾驛ニテモ之ヲ國道ニ保存シ以テ新道ノ便益ヲ害セ サランニハ恐ラクハ當路者モ又發起有志者モ其線路 ヲ把リテ新道ノ計畫ヲ爲セシナラント雖𪜈コヽニ顧 ミズシテ武生驛ヨリ右折シ其以南ノ國道ヲ廢セント スルノ計畫ニ出ナシモノハ百利千益ノ萬々然ラサル ヲ得サルヲ以テナリ公平ナル眼界ニハ唯公益ヲ是レ 見ルノミソノ春日街道ト今庄線路トソノ利ヲ把ルニ 焉ンゾ一點私曲ノ存スルアランヤ春日街道ヲ把リシ ハソノ公益アルガ爲メナリ 【左丁下段】 抑モ全邦ノ損害ヲ救ヒ全邦ノ利益ヲ謀ルニハ一地方 ノ小關係ニハ切々スル能ハサル可ク全地方ノ損害ヲ 救ヒ全地方ノ利益ヲ謀ルニハ一郡ノ小關係ニハ切々 スル能ハサル可ク全郡ノ損害ヲ救ヒ全郡ノ利益ヲ謀 ルニハ一二村落ノ小關係ニハ切々スル能ハサル可シ 之ヲ擴充シテ既往ニ溯レハ我縣下近年ノ經驗ニ徴ス ルモ蓋シ思ヒ半バニ過ギルナラン乎福井ヨリ大野ニ 往復スル街道ハ北陸道ノ繁華ニハ及バサルモ日々ノ 往来ハ實ニ尠カラズソノ間ニ驛舎ノ位置ヲ爲シテ古 来利益ヲ得シモノ俄カニ之ヲ失ヒタランニハ随分ノ 困難ナル可シ而シテ新道ヲ開鑿スルガ爲メニ之ヲ顧 ルニ遑アラス前波ノ上流ヨリ直チニ川ヲ越ヘ足羽川 ノ南ニ沿フテ市波ヲ經ルヿト爲リ大窪等ノ舊道ハ全 ク廢シタルニアラスヤソノ北陸道ニ於ケルモ亦タ然 リ舊道ハ森田驛ヨリ長崎五本ヲ經金津ヨリ細呂木ノ 線路ヲ把リテ加賀路へ出テ金津ノ如キ福井大聖寺間 ノ中央ナルヲ以テ旅館軒ヲ並ベソノ街道タルヨリ受 クルトコロノ利益ハ實ニ多カリシモ新道開鑿ハコヽ ニソノ繁華ヲ減スルヲ顧ルニ遑アラス森田驛ヨリ僅 カニ北シテ右折シ丸岡へ出テ更ニ舊道ヲ把ラスシテ 牛谷ヨリ加賀路へ出ルヿトハ爲リシニアラスヤ而シ 【右丁上段】 テ金津大窪等ノ民人ノ一言不服ノ顔色無ク歓然トシ テ更ニ福祉ノ後圖ヲ慮カリシモノ則チ全地方ノ公益 ニハ一二驛村ノ小關係ニ切々スル能ハサルノ道理ヲ 看破シタレハナリ湯尾今庄等ノ民人ニ具眼者無キニ アラサルハ吾儕ノ豫テ聞知スルトコロナルニ今日ニ カノ噤々アルハ吾儕ノ殆ンド解スル能ハサルトコロ ナリ              以下次号 蓋シ新道ノ計畫ニ載リシモノ之ヲ今日ヨリ顧ミレハ 凡ベテ三條曰ク北陸道ヲ從来ノ國道ニ依リ柳ケ瀬ニ 出ルモノ曰ク武生驛ヨリ右折シテ北陸道ヲ離レ春日 野峠ヲ經太良村ヨリ元比田村ニ出テ海岸ニ沿フテ敦 賀ニ出ル現下着手ノモノ曰ク今庄湯尾民人ガ噤々ス ル今庄驛ヨリ右折シテ新道ヨリ大桐山中ヲ越ヘ元比 田村ニ出ルモノ是レニシテ今日ノ西街道木ノ芽峠ヲ 越ヘテ敦賀ヘ出ル一等縣道ハ其嶮峻到底開鑿スルニ 容易ナラサルモノトシテ此儀中ニハ入ラサリシナリ 今實際ノ測定ニ就テ前三道ノ利害ヲ討究センニハ新 道ハ實ニ將来鐡道架設ノ気運ニ達スルマテハ長ク吾 人ノ文化富豊ヲ支配スルモノナレハソノ便否ハ吾人 ノ命脈ニ關スト云フモ過言ニアラサル程ノ必要ヲ爲 スモノニシテ些少ノ費用ニ吝惜シ以テ功ヲ一責ニ闕 クハ當初ヨリ吾儕ノ企望セシトコロニアラズ否興論 【右丁下段】 ノ企望セシトコロニアラサルナリサレハ唯費用ノ一 點ニノミ汲々トシテソノ便否利害ヲ第二ニ置キ甲路 ヲ開クハ乙路ヲ開クヨリモ經濟上費用ヲ省ク可シ丙 路ヲ開クハ甲路ヲ開クヨリモ經濟上費用ヲ省ク可シ ト云ントナラハ寧シロ始メヨリ開鑿ヲ爲サヾルノ經 濟上費用ヲ要セサルノ優サルヽニ若カサル可シ而シ テソノ經濟上費用ヲ顧ミズ國庫ニ仰ギ地方税ニ仰ギ 猶ホ有志者ノ寄附金ニ依リ以テ新道ヲ開鑿セント欲 スルモノハ現下ノ小費用ハ以テ他日ニ直接ニ於テ文 化ヲ進メ富豊ヲ進メ年々歳々混々盡キサルノ大益ヲ 吾人ニ與フルノ望アレハナリ之ヲ譬ヘンニ種子ヲ田 畑ニ下タシテソノ秋獲アランヿヲ欲スルニ際シ頻リ ニ費用ノ一點ニ眼ヲ注テ肥料ヲ吝惜シ人糞ヲ用フル ヨリハ灰ニ砂ヲ交ヘシモノヲ用フルガ經濟上費用ヲ 省ク可シ灰ニ砂ヲ交ヘシモノヲ用フルヨリハ絶ヘス 水ノミヲ濺グガ經濟上費用ヲ省ク可シト云フガ如ク 秋獲ノ大量ハ第二ニ置キ唯之ヲ生育スルノ費用ニ汲 々タルト一般ナルニアラズ吾人ガ堪ヘサルトコロノ 費用ハ固ヨリ吾人ノ舌頭ニ上ボス可キ限リニアラズ ト雖𪜈吾人ニ左シタル痛療ヲ感セズシテ將来ニ大益 アルモノナランニハ一責ノ功ヲ少量ノ費用増減ニ向 【左丁上段】 フテ闕クガ如キハ吾儕ノ決シテ把ラサルトコロナリ 請フ之ヲ比準ト乄吾儕ハ是レヨリ三道ノ利害ニ論入 ス可シ然レ𪜈猶ホ一歩ヲ退ケテ吾人福井縣民ガ運輸 交通ニ對シテ最モ障碍ヲ爲スモノハ如何ナルモノソ ト云フヲ吟味スルハ本論ニ欠ク可カラサルヲ以テ之 ニ前ダチ一言ス可キモノアリ 抑モ冬春ノ候四五ケ月間湯尾以南ハ西街道ヲ眺ムル モ東街道ヲ眺ムルモ積雪万丈一面ノ銀世界ニシテ時 ニ「フブキ」ナルモノアリ降リ頻キル飛雪ノ嵐ニ捲カ レ谷々渓々ヨリ劇シキ勢威ヲ以テ吹キ下ロシ見ル々 々行旅人ヲ掩ヒ雪裡ニ埋メテ凍死スルヲ致タシ又タ 「ナダレ」ナルモノアリ雪後天晴レ日光ノ映斜山頂ノ 積雪ヲ融解シ少量ノ雪塊碎ケテ渓間ニ落チ轉々降下 スルノ間他ノ融雪ノ之ニ粘着スルガ爲メ一轉ハ一轉 ヨリ大キクソノ山ト山トノ間ヲ縫ヘルトコロノ街道 ニ落ルニ迨ンテハ小山大ノ大塊ト爲リ行旅人之ヲ避 クルニ遑アラスソノ「ナダレ」ノ下ニ壓死スルヲ致シ 又タ圓滑能ク物ヲ轉スルニ足ルノ狀況ヲ爲セシニ當リ 新タニ降下シタル淡雪ノソノ基礎ヲ爲ス能ハス摺リ テ山巓ヨリ一齊ニ瀉下シ終ニ行旅人ノ掩死ヲ致ス等 【左丁下段】 運輸交通ノ障碍ヲ爲スノ最モ甚シキモノハ實ニ雪中 ノ山間ニ在リトス現ニ新聞記者ノ如キ日々各地方ノ 通信ト各地發兌ノ新聞紙トヲ待テソノ新報ノ幾分ヲ 記載スルモノナルニ獨リ我地方ノミハ冬季ニ際スル 毎ニ三日乃至四日ノ間ハ一葉片紙モ来ラス而シテ五 日目六日目ニハ五六日分ノ通信新聞紙ヲ一度ニ郵送 セラルヽヿアリ折角ノ新報ヲ六日ノ菖蒲十日ノ菊ト 爲スヿハ殆ントソノ常ナリ新聞記者一業ニシテソノ 不便ヲコノ障碍ノ爲メニ感スルヿ斯ノ如シ他商工業 ニ及ボストコロノモノヲ合算スレハ恐ラクハ莫大ノ 數量ナル可シト雖トモ吾人ハ慣習性ト爲リ自カラ麻 醉シテ之ヲ感セサルノミ新道開鑿ノ最大要點ハ先ズ コノ點ヨリシテ観察シテ次第ニ他ノ利害ニ討尋セサ ル可カラサルナリ          以下次号 第一、北陸道ヲ從來ノ國道ニ依リ柳ケ瀬ニ出ルノ線 路ハ三等國道ニ位シ福井縣下ニテハ第一等ノ道路ナ ルヲ以テ當初ハ誰レシモ此ニ眼ヲ注ギ此線路ヲ改良 シテ坦道ト爲サンヿヲ欲シ種々ニ思ヲ苦シメ當路者 亦タ最先ニ測量ヲ着手セラレタルハコノ線路ナリシ 然レ𪜈湯尾峠ヲ越ヘ今庄ニ入ルニ迨ンテハ四面皆山 ニシテ曾テ舊藩侯ノ福井ヨリ江戸ニ参勤セラレシヤ 【右丁下段】 ソノ鹵簿ニ供セシ士人ノ家ニ在リテハ今庄ヨリ關ケ 原ニ出ル二十里間 柳ケ瀬以南ニ鉄道架設ノ擧アラ サリシ以前ハ越前街道ハ今庄、坂取、江州中ノ河内、 椿井、柳ケ瀬、木ノ本、小谷、春照、藤川、濃州關ケ原 椿井ヲ經是レヨリ東海道ヲ把ランニハ大垣墨俣尾越 ヨリ尾州名古屋ヲ經テ東海道宮驛ニ出テ中山道ヲ把 ランニハ赤坂、美江寺ヨリ直チニ木曽路ニ入ルナリ ヲ山ノ中ト稱シ特ニ降雨ノ旅行ヲ妨クル無カランヿ ヲ禱リシ程ナレハ千山萬嶽ノ裾ヲ迂回シ僅ニ後嶽ヲ 離レテ忽チ前嶽ニ入リ山嶽ヲ以テ道路ヲ圍メルノ景 狀ハコノ一事ヲ推シテ知ル可キナリ且ツヤ湯尾峠ハ ソノ山麓ヲ迂回シテ擧登ノ勞ハ避クヲ得可シトスル モ栃ノ木峠ヨリ椿井峠ニ至ル三里間ノ壹ハ之ヲ斜メ ニ夷ケテ車道ヲ築クモ容易ノ業ニアラス况ンヤ三里 間ノ隧道ヲ穿ツニ於テヲヤ蓋シ從来便道ヲ他ニ求メ ズシテコノ千山万嶽ヲ以テ圍メル險峻ニ依リシモノ ハ他無シ封建時代ノ精神要害ヲ護國ノ第一主義ト爲 セルヲ以テ幕府ハ關門ヲ柳ケ瀬ニ設ケ福井藩ハ關門 ヲ取扱ニ設ケ特更ニ旅人ノコノ嶮峻ヲ過クルヲ以テ 頗ル地形ノ冝シキヲ得タリト信シタレハナリ則チ舊 藩人ノ此土ヲ往来スルヤ夏秋雪ヲ見サルノ候ニ於テ 【右丁下段】 モ今庄ヨリ中ノ河内柳ケ瀬ヲ經テ木ノ本ニ至ル十餘 里ヲ以テ一日ノ行程ト爲シ木ノ本ヨリ小谷春照ヲ經 テ關ケ原ニ至ル十里ヲ以テ一日ノ行程ト爲シ飛脚ト 稱スルニアラサルヨリハ之ヨリ多キ行程ヲ貪ラスソ ノ産物ノ如キモ敢テ富豊ヲ競ハズ越前ハ越前若狭ハ 若狭ト各自ソノ小天地ヲ以テ甘ンゼシガ故ニコノ險 峻モ未タソノ痛療ヲ感セズ士民却テコヽニ揚々自得 ノ顔色アリシナリ今ヤ則チ然ラスソノ利害ハ全ク封 建時代ノ精神ト反對セルモノナレハ之ニ比ベテ他ノ 便道ヲ發見スルニ於テハ舊ヲ棄テヽ新ヲ把ルバ固ヨ リ其所ナリ請フ吾儕カ私見這回新道ノ線路當路者ノ 此ニ把ラレサリシ理由ト信セシ者ヲ左ニ開陳セン 湯尾山麓ヲ迂回シテ新道ヲ開鑿シ是レヨリ板取ニ進 ミ峻ヲ均ラシ嶮ヲ殺ギ栃ノ木ノ擧路ト椿井ノ降路ヲ 斜形ニ車道ヲ築造スルニ於テハ其費額ハ少𪜈三十四 五圓乃至四拾萬圓ヲ要セサルヲ得ズコノ巨額ハ之ヲ 國庫ニ補助ヲ乞フトシテモ地方税ニ負擔スルトシテ モ将タ有志者ノ寄附ヲ促ガストシテモカノ滊車賃ヲ 以テ償却ノ望ヲ将来ニ保テル鐡道費ノ如クニハ決シ テ容易ニ供給スルヲ得可キニアラス若シ将タ今日ノ 縣力或ハコノ巨額ヲ供給シ得ルト假定スルモソノ落 【左丁上段】 成後ノ結果ハ果シテ如何アラン嶮ハ實ニ之ヲ均スヲ 得峻ハ實ニ之ヲ殺ヲ得ルモコノ新道ノ幅員ハ今日ノ 三等國道ヨリ廣ムルハ僅々一二間ニ止マリ是レヨリ 以上ハ必スヤ廣ムルヲ得サル可ク而シテカノ千山萬 嶽ノ重疊トシテ前ニ顕ハレ後ヲ掩ヒソノ裾ノミヲ縫 過スルハ固ヨリ依然タラサルヲ得サル可ケレハ冬春 ノ候ニ於テ降雪頻同積雪萬丈以テ道路ヲ埋没スルト コロノ造化壓制ハ決シテ之ヲ免カルヲ得スカノ「フ テキ」モカノ「ナダレ」カノ「アハ」モ亦タ決シテ之ヲ 免カルヲ得サル可シ即チ是レコノ新道ハ三十四五萬 圓乃至四拾萬圓ノ巨額ヲ吾人粒々辛苦ノ膏血ヨリ供 給シテ漸クニ成就スルモ單ニ夏秋無雪ノ日ニノミ吾 人ノ便利ヲ與フルニ過ギス冬春受クルトコロノ不便 ニ於テハ毫モ舊時ニ換ハルヿ無ク即チ吾儕ガ前節ニ 述ヘシ新道線路ノ観察ニ最大要點タル雪中ノ山間ナ ルニアラスヤ况ンヤ嶺南四郡ヨリ嶺北七郡ニ往復シ ソノ脈胳ヲ貫通スルニ於テモ嶺北ヘハ向ハズシテ一 度敦賀ヨリ滊車ヲ以テ南ニ馳セ柳ケ瀬ニ達シ更ニ滋 賀縣管内ヲ經テ十餘里ノ行程以テ越前路ニ入ルモノ ナレハコノ新道ハ福井縣下十一郡ノ爲メニ開鑿セシ トハ謂フヲ得ズシテ徒ニ嶺北七郡ノ爲メニ開鑿セシ 【左丁下段】 ト謂フヲ得ルノミ之ヲ焉ンゾ聞縣ノ地方税ニ負擔シ テ十二分ノ穏當ヲ得シト謂フヲ得ンヤ嶺南ニ於テハ 有ルハ則チ無キニ優サルト謂フノ感想ニ止マルナリ 是レ第一線路ハ新道開鑿ヨリ擯斥セラレシ所以ナル 可ク而シテ闔縣ノ墺論一人ノ不可説ヲ唱フルモノ無 キ所以ナル可シ           以下次号 北陸道ノ國道ヲ開鑿担夷スルハ到底容易ノ業ニアラ サルノミナラス仮令土切成就スルトスルモ冬春積雪 ヨリ受クルトコロノ障碍ハ避ク能ハサルヲ以テ此ヘ 新道ヲ築造スルノ議ハ全ク廃業ニ属セリ然リ則チ他 ニ嶺南北ノ脈賂ヲ貫通シ且ツ上國へ馳聘スルノ揵徑 ヲ發見セサル可カラス是ニ於テ乎丹生南條ニ郡ノ山 脈ヲ跋歩シ當路者及ヒ有志者ハ細思緻考終ニ第二ノ 新道ノ最モ便利ナルヲ發見シタルナリ 第二武生驛ヨリ右折シテ北陸道ヲ離レ春日野峠ヲ經 太良村ヨリ元比田村ニ出テ海岸ニ沿フテ敦賀ニ出ル 現下着手ノモノ」抑モ越前ハ從来山國トサヘ稱セラ レシ山脈連環ノ土地ニシテ其隣州ニ界スルトコロハ 特ニ險峻ヲ極メ東北加賀境界ナル白山ノ髙嶽ヨリ起 伏シテ飛騨美農近江ノ境界盡ク千山万嶽ノ重疊セサ ル莫ク西南ニ流レシ一脈ハ近江境界ヨリ敦賀南條ノ 【右丁上段】 郡界ヲ切断シソノ交ヒヲ走リテ丹生郡ニ入リ恰モ敦 賀郡ト越前本部トノ脈胳ヲ妨過セリ斯ノ如キ地形ナ ルヲ以テ雪中ノ山間ヲ避ケテ四時往来ニ便利ナル新 道ヲ發見スルハ寔ニ難中ノ難ニシテソノ測量モ輕々 ノ事ニハアラサリシガ終ニ唯一路之ヨリ外ニ便道ナ カル可シトノ卓見ヲ以テ發見セラレシハ則チ前記第 二ノ線路ニシテ曾テ河野街道ト稱セラレシモノヲ改 架延長シテ海岸ヨリ敦賀港金ケ﨑停車塲ニ達スルモ ノナリコノ春日野街道即チ河野街道ハ世ニソノ名顕 ハレサルヲ以テ頗ル嶮峻ナル樵路ナル可シト想像セ ラルト雖𪜈些シク修繕ヲ加フレハ決シテ北陸本道ニ 敷ラサル可ク况ンヤ新道開鑿事業ヲ興シテ大ニ修繕 ヲ加フルニ於テヲヤ蓋シ聞ク舊越前大三世ノ藩主參 議忠昌卿ノ京都ニ朝セラレシヤソノ隨從ノ騎歩數千 ノ夥衆ナリシモソノ道ヲ今庄木ノ芽ニ把ラス乄府中 (今ノ武生)ヨリ直チニ河野街道ヲ經河野浦ヨリ乘舩 敦賀ニ出ナラレシト云ヘハ當時ヨリ既ニ隨分ノ街道 ニ數ヘラレシモノタルヤ顯然タルナリ 却説ス武生驛ヨリ春日野街道ヲ經テ太良浦ニ達スル ニハソノ行程四里ニシテコノ間ニ春日野ノ隆起セシ 山脈アリト雖モソノ距離極メテ短縮ソノ起伏亦タ得 【右丁下段】 大ナラサルヲ以テ之ヲ穿チ是ヲ変スル寔ニ容易ニシ テソノ太良浦ニ達セシ上ハ五里十里ノ行程一直線ニ 海岸ニ沿フテ敦賀港ニ馳騁スルヲ得ルヲ以テ冬春積 雪ノ候ニ際スルモ雪中ノ山間カノ「フブキ」カノ「ナ ダレ」カノ「アハ」ノ如キ困難ノ愚アルモノハ極メテ 稀レナリ且ツヤ海岸ハ降雪極メテ希薄ナルモノニシ テソノ融解モ極メテ神速ナルヲ以テ海岸五里十町ノ 行程ハ冬春積雪ヲ見ズトモ云ヒテモ可ナラン乎而シ テ春日野街道太良浦ニ出ル山脈ハ越前本部ヲ囲繞ス ル山獄中ノ最モ淺薄ナルトコロナルヲ以テ北陸道山 ノ中ノ積雪萬丈ナルノ日ニ際シテモソノ量ハ半バニ モ至ラズト云フソレ然リ今日ノ新道之ヲ棄テヽ馬ン ゾ他ニ求ムルヲ得可ケンヤ加之ナラズ太良浦ニ出ル ノ前ニ於テ新道線ヲ外(ハズ)シ河野浦ニ出ルニ於テハマタ 昨今敦賀港人ノ開創セシ滊舩往来ノ便利アリマタ航 路ハ北海沖ノ洋風ヲ受ケズシテ直チニ敦賀港ニ走ル モノナレハ海波穏妥颶風怒濤ヲ揚グ能ハサルヲ以テ 冬春ト雖トモ定期ヲ誤ラス乗客荷物ノ運送ヲ持續ス ルノ望ヲ有セリ則チ腕車海岸ヲ走ルモ可ナリ滊舩海 上ヲ走ルモ可ナリ只旅客ガ望ムトコロノ隨意ナレバ コノ新道ハ海陸ノ自由ヲ得ルト云ハンモ蓋シ溢言ニ 【左丁上段】 アラサル可シ而シテ其成就マデノ費用ヲ問ヘハ概額 十八萬圓ソノ支出ハ國庫六萬餘圓下附ノ許可アリ地 方税九萬餘圓負擔ノ議決アリ志士三萬餘圓寄附ノ望 アリ業ニ已ニ之ニ着手ス吾儕ハ唯ソノ工事ノ神速ナ ランヿヲ企望スルノ外豈ニ他アランヤソノ敦賀ヘノ 行程亦タ從来ノ十六里ナルモノ今コノ新道ニ就テ計 算スレハ十四里十町ニ過ギスソノ敦賀ニ達スルニ及 ンデハ東亰ニ上ラン乎滊車大垣ニ出ル可ク大阪ニ上 ラン乎滊車長濱ニ出ル可ク嶺南北ノ脈胳ハコヽニ十 分ニ貫通セリ是レ吾儕ガ與論ト𪜈ニ第二ノ線路ヲ以 テ唯一ノ便道ト稱シテ今日ノ着手ヲ歓喜スル所以ナ リ 第一線路既ニ十分ノ便道無ク將タ第二線路ヲ除テハ 南條郡ヨリ敦賀郡ニ達シ以テ直線東亰大阪ニ出テ若 クハ嶺南ト連貫スルノ便道無キヲ以テ第二線路ハ愈 世論ノ可認スルトコロト爲リ當局者之ヲ採用セラル ヽコトヽ爲リシニテ從来越前ノ國道トシテ北陸道ニ 連ラナレル武生以南即チ脇本鯖波湯尾今庄等ノ諸驛 ニハ懶眠一覺愕然トシテ其繁昌ヲ奪ハルヽノ心地シ 痛クコノ擧アルニ歎息セシガ今庄ハソノ驛路ノ順序 晝休又ハ泊宿ニ當スル武生ニ續テノ大驛ナルヲ以テ 【左丁下段】 特ニ痛心セル有様ニテ終ニ本年春初通常縣會開會ノ 前後ニ於テ第三線路ノ便道タルヲ噤々スルノ勢アル ヲ致セリ 第三、今庄驛ヨリ右折シテ大桐山中ヲ越へ元比田村 ニ出ルモノ」蓋シ本線ヲ便利トスル所ロノ惡説ハ武 生ヨリ湯尾山麓ヲ迂回乄今庄ニ出ルマデハ北陸道ヲ 保存シテ別線ヲ開鑿スルヲ要セス偖今庄ヨリ新道村 マテハ敦賀街道タル一等縣道ヲ沿フモノニシテソノ 山間ノ谿谷ヲ開鑿スルモノハ單ニ大桐山中ニ過ギス コノ山脈ヲ經過シテ元比田村若クハ杉津阿曽等ニ出 レハ是レヨリ海岸ナレハ其敦賀ニ達スルニ於テ經費 ヲ減スルヿ春日野街道ノ上ニ在リト謂フニ過ギザル ナリ讀者コヽニ緻思細考セラレヨ舊道ヲ保存スルト 云フノ便利ハ果シテ那點ノ目的ヨリシテ生出シ来ル 争經費ヲ減スルノ利益ハ果シテ那點ノ目的ヨリシテ 生出シ来ル乎コノ二個ノ論點ヲ講究スレハ第三線路 ヲ是説ナリトスルノ非ハマタ吾儕ガ下筆ヲ待タサル 可シ 新道ヲ開鑿スルモ之ヲ舊道ニ比シテソノ里程ヲ短縮 スルノ便利アラス且ツ吾人ガ最モ忌ミ最モ嫌フトコ ロノ積雪ヲ避クルノ便利アラサラシメハ舊道ノ保存 【右丁上段】 無シト謂フ可カラスト雖𪜈武生驛ヨリ直南態々今 驛ニ馳セ是レヨリ直西大桐山中ノ山間ヲ縫フテ海岸 ニ出テ更ニ轉シテ海岸ヲ馳スルヿナレハソノ行程ヤ 決シテ短縮スルヲ得サルノミナラス湯尾峠ヨリシテ 先ズ迂回ヲ始ムルヿナレハ之ヲ春日野街道ノ斜メニ 西南ニ馳セ之ニ隧シ之ニ橋シ直チニ四里ニ乄海里ニ 出ルモノニ比スレハ必ラズヤ同日ノ論ニアラサル可 シ而シテ大桐山中ハ名ニシ負フ木ノ芽嶺ノ上ニ聳フ ル鉢伏山ノ裾ヲ縫ヒ千山萬嶽ノ最モ重疊セルトコロ ヲ開鑿スルモノナレハ其雪量ヤ敢テ今庄坂取ニ譲ラ サル可ク或ハ是レヨリ數歩ヲ蹹スルモノナルヲ以テ 抑モ冬雪初メテ至レルノ時ヨリシテ往来交通ノ不便 ヲ訴ヘ延テ翌春三月猶ホ雪裏ニ道路ヲ埋没シ一年十 二ケ月ノ中凡ソ四五ケ月ヲ便利ノ目的ヨリ除却スル ハソレコヽニ免カルヽヲ得サルヤ疑無カル可シ講究 此ニ至ラハ舊道ヲ保存スルト云フノ便利ヲ以テハ春 日野街道新線ノ便利ハ掩フテ非ト爲スヲ得サル可ク 經費ヲ減スルト云フノ利益ヲ以テハ春日野街道工事 ノ必須ヲ掩フテ非ト爲スヲ得サル可ク况ンヤ舊道ヲ 保存スト云フモ單ニ脇本鯖波湯尾今庄ノ四驛ニ過キ ス板取ハ固ヨリ隣縣ナガラモ中ノ河内椿井皆以テ保 【右丁下段】 存セラレサルニ於テヲヤ又タ况ンヤ其經費ヲ減スト 云ヘルモ減シテ左シタル影響ヲ吾人負擔ノ上ニ見サ ルニ於テヲヤ吾儕ハ断シテ第三線路ノ第二線路ニ及 ハサルノ速キヲ保スルナリ加之ナラス行旅者武生驛 ヨリ進ンテ今庄ニ達ス是レヨリ新道ヲ七里餘敦賀港 ヘ出テ同港ヨリ更ニ滊車ニ搭シ柳ケ瀬驛ヨリ長濱ニ 出ルヲ便利トスル乎仮令栃ノ木峠ハ車ヲ下ダリテ歩 行スルモ八里ヲ直馳シテ柳ケ瀬ノ停車塲ヘ達シ是レ ヨリ滊車ニ搭シ長濱ニ出ルヲ便利トスル乎十中八九 ハ寧シロ後者ヲ便利トシテ之ヲ把ルナル可シ本論凡 ソ四稿讀者幸ニ前後對比シテソノ經費ニ於ケルソノ 積雪ニ於ケル孰レカ便孰レカ否精細ノ講究ヲ賜ハヾ 單ニ吾儕ノ本懐ノミニアラサルナリ滊車東亰横濱間 ニ通シテ東海道品川川﨑神奈川ノ諸驛寂寥ヲ告ゲ大 坂亰都間ニ通シテ伏見三十石ノ通舩衰微ニ泣ク之ヲ 我大野街道若クハ大聖寺街道ヨリ除却セラレシ金津 大窪ニ比スルニ或ハ甚シキモノアリ冀クハ我今庄湯 尾等ノ同胞兄弟豁然コヽニ貫通慧眼ヲ洞開シ断然無 欲ノ企望ハ之ヲ廃止シ世ノ文明ニ伴フトコロノ新産 業ニ就キ更ニ將来ノ福祉ヲ増スノ企望ニ換ヘラレシ ヿヲ吾儕切望ノ至リニ堪ヘサルナリ   畢 【左丁】 実ニ感佩之余り後の心得ニ新聞を張遺す 明治十八年九月新聞前田大書記官演説 【上段】    雑報 〇前田大書記官 同大書記官には本省より電信/頻々(ひん〳〵)と して帰を/促(うな)がされ且つ/宿痾(しゆくあい)癒へざるをもて大聖寺より阪 井港へ出でられ直ちに敦賀通ひの汽船に/搭(とう)して東帰せら る可き/筈(はづ)のところとほりがけ福井へ立寄られしなれは沿 道富山に於ける金沢に於ける各地のごとく/広(ひろ)く/演説(ゑんぜつ)せら るゝこと無くして止みたゞ昨朝旅館羽腰晴嵐亭におゐて 県令書記官警部長を初め警部残らすず勧業課員残らず庶務 課長各郡長 三潟郡長には代理として書記参館 へ何か/説(せつ) /述(じゆつ)せらるゝところあり昨日一日滞福今朝は直ちに滋賀県 へ向け福井を離(たゝ)れたり尤も一昨晩をもて阪井港より福井 へ/参(まひ)られしにて福井へは更に東帰の上改めて出張相成る 可しと/噂(うわさ)せり 〇前田大書記官金沢に於ての演説 前項/記載(きさい)せるがごと く同大書記官には東帰を/急(いそ)かれしをもて福井へは通りが 【下段】 けに立ち寄られしのみ/広(ひろ)く/演説(ゑんぜつ)せらるゝの事は無かりし をもてこの回は記者之を筆記して読者(どくしや)に報道するを得ず /遺憾(いかん)に/堪(た)へざりしところ幸に一昨々日本年八月廿九日 の加越能新聞に同君が同地公園の成巽閣に於て演説せら れ筆記を同県勧業課より寄せられしものなりとて/掲(かゝ)げあ るをもて/暫(しば)らく之を/借載(しやくさい)し以て読君の/渇望(くわつぼう)を/慰(ゐ)す  余や今回東海北陸の二能農区巡回に際し各郡区毎町村に  至り有志の諸氏は/勿論(もちろん)其他婦女子に至るまて親しく農  商務省の御趣意を/談話(だんは)せんと欲すと雖も巡廻地方の多  きと淹留期あるとに因り本意を/枉(ま)け諸君をして貴重の  光陰を費し来会せらるるゝを乞ふに至る其労は深く謝す  る所なり今や余か/陳述(ちんじゆつ)するに先ち一言以て諸君の/参考(さんこう)  に供すへきあり即ち今席は余を政府の官吏と/見做(みな)さす  諸君の友人に農工商の/衰頽(すいたい)を/憂(うれ)へ倶に一場の/懇話(こんは)を開  き以て諸君の/注意(ちうゐ)を/促(うなが)すものと見做されんことを要す而  て余は/訥弁(とつべん)なるを以て談話中悟了に易からさる事なき  を保せず若し談話の要旨或は解し難きことありては実に  千歳の/遺憾(いかん)なれは充分質問に応せんとす諸君夫れ之を  諒せよ   御趣意 御趣意は数年来国家今日の/衰頽(すいたい)に/陥(おちゐ)るの/危急(きゝう)  を救ふの点に外ならす即ち左の如し   第一 勉強之注意   第二 /倹約(けんやく)之注意   第三 /勉強(べんきやう)倹約により遂に/儲蓄(ちよちく)を為さしむること 以上列記する三要点の趣意は僅に一片の達を以て能く 其/深意(しんい)を/貫徹(くわんてつ)せしむる能はす故に農商務省に於ては重 なる官吏を各地方に派遣し其の精神の存する所を/親話(しんは) /懇談(こんだん)せしむるなり抑も士農工商共今日の現況且此の現 況を来したる原因并に此を/挽回(ばんくわい)するの方法は一言半句 の能く詳にする所にあらず故に大略其要旨を摘て演る 所あらんとす 夫れ今日士農工商は如何なる状況なるや思ふに士は十 中の八九皆既に産を/破(やぶ)り/殆(ほと)んど/餓(うへ)に/瀕(ひん)するの状を呈し 而して其/僅(わづ)かに残る一分と雖とも或は今后一ケ年又は 二三ケ年間にして将さに其/資産(しさん)尽きんとするの状況に 迫れり農家は租税賦課の/負担(ふたん)日に重り公売処分を受く 【右丁下段】 るもの日を追て/増加(ぞうか)せり尚未た表面に斯の如き/惨状(さんじやう)を /顕(あらは)ゝるものあるも其内幕に立入らは親族相互に/補翼(ほよ) し/漸(ようや)く今日を/凌(しの)ぐと雖とも常に/収支(しうし)/償(つくな)はす/畢竟(ひつきやう)全国を 挙て公売処分の/苦界(くがい)に/陥(おちい)るの/景況(けいきやう)なり商は金利高く資 本の/流通(りうつう)に苦しみ取引の信用を失して売路開けす只常 に不景気を/歎(たん)するのみ工は製品の使用者日に/減(げん)し/需用(しゆよう) /者漸々(しやよう〳〵)跡を/絶(た)たんとす故に物品は/堆積(たいせき)して賃金を得る の途なく他に従事せんとするも之れを/使傭(しよう)するものな く相率て業を/廃(はい)するの景況に陥り/茫然(ぼうぜん)徒手徒に如何と もするなきの状なり/嗚呼(あゝ)/痛歎(つうたん)■息の至ならすや而して 此の現況を来せる/源因(げんいん)は三種あり第一は全国より来せ しもの第二は一県より来せしもの第三は一郡或は一町 村より来たせしもの是れなり其第一は外国の交際鉄道 の/布設(ふせつ)電信の/架築(かちく)郵便の/開設(かいせつ)等其他各般の事業を起し 苟も一国の開明人民の/幸福(こうふく)を/謀(はか)らんか為め已に二億万 円の/巨額(きよがく)を/消費(しやうひ)せしによる第二は陶銅漆器或は砂糖又 は綿煙草等の如き各地著名物産の頓に/衰凋(すいちやう)せしにあり 第三は其郡其村に於て生産の/減退(げんたい)せしにあり従来官民 俱に不景気を/救(すく)はんと欲して却て/失敗(しつはい)せしことなきに非 らす/畢竟(ひつきやう)不/注意(ちうい)の然らしむるによるものなり既に斯く 【左丁上段】 の如き/種々(しゆ〳〵)の源因より来せる/衰頽(すいたい)は農商務省に於て挽 回の方法を已に/確立(くわくりう)せり然りと雖とも如何に善良の方 法成ると雖とも之れに/応(おう)する者なくんは亦た/効(こう)を見る 能はざるなり   勤勉 抑も今日の民況にては/勉強(べんきやう)は/飽(あく)まて勉強し/殆(ほと)んど其/極(きよく) /点(てん)に達したるものゝ如し尚此上の勉強は/到底(とうてい)望むへか らす然れども勉強の注意に至つては甚た不/充分(じうぶん)と謂は さるを得す今一例を/掲(かゝ)けて/詳説(しやうせつ)する所あらんとす/譬(たと)へ は吾か日本国の養蚕事業たる将来/改良(かいりやう)を加へざるも可 なるか/決(けつ)して然らす第一桑園蚕種繭生糸染法織法に至 るまて/悉(こと〴〵)く改良せさる可らす凡吾か国の桑樹にして 三年以上のものには悉(こと〴〵)く病あらさるなきか必らす否 と言はん蚕種も亦無病のものあるか必らすなしと答へ さるへからす已に病桑を以て病種の蚕を養ひ焉そ良繭 を得るの理あらんや故に本邦の生糸に於ける一として 外邦に/劣(おと)らさるものなし之を伊仏の両国に比すれは/恰(あたか) も霄壌の差あり今伊仏の如き無病の/良種(りやうしゆ)に改良せんか 一ケ年二千五百万円の増加を致すへきなり又た吾か国 の生糸上等のものは僅かに十分の一中等は十分の三下 【左丁下段】 等は十分の六の多きに居る何そ粗品の多き驚くに堪へ たり而して我か上等と称するもの之れを外国のものに 比すれは尚中等以下に位す然りと雖とも今や之れに改 良を加へ中等を上等に下等を中等に進るときは今後百 年の後に於ては百六拾二億万円の国力を増すへし実に /巨大(きよだい)の金額ならずや若し将来改良をなさゞれは空く此 の大益を失ふに至るへし豈願はさるへけんや実に其不 注意の恐るへき斯の如し彼の伊仏に於て養蚕事業今日 の盛大を極むと雖ども其昔之を伝しものは我国にあら すや彼僧某/僅(わづか)に/毫厘(ごうりん)の蚕種を竹杖に/蔵(おさ)め数千里の海路 /砂漠(さばく)を/渉(わた)り/渇(かつ)を/忍(しの)ひ/辛(からう)して本国に持帰り以て/増殖(ぞうしよく)を謀 り多年刻苦今日の地位を占むるものにして/所謂(いはゆる)/注意(ちうゐ)の 切なるものと云ふへし今や却に伊仏の吾か蚕種を見る こと恰(あたか)も虎列刺病のごとく大に/慊忌(けんき)せられ需用者日に 減せんとす今後両三年を経尚之を/挽回(はんくわい)する能はされは 日本蚕種の/輸出(ゆしゆつ)将に/命脈(めいみやく)を/絶(た)たんとす独り養蚕事業の みならす百般の事業皆然らざるはなし豈に/歎(たん)すへきの 甚しきにあらすや是れ全く不注意の致す所なり今我国 人をして欧米人に比するときは実に人にして人と云ふ へからす家屋の多きも/矮陋(わいろう)にして彼れの小屋に/劣(おと)れり 港あるも港あらす唯天然港湾の形を存するのみ道路あ 【右丁上段】 るか未た一も道路とすへき者なしに他事々物々皆然ら さるはなし只日本国に於て注意の/完全(くわんぜん)なるもの一ある のみ其一何そや横浜神戸長崎函館等の居留地是れなり 此の居留地に於ては衣食住の三者備具し自由の生計を 為せり是れ皆我か不注意者同胞の膏血を/絞(しぼ)られたるの /結果(けつくわ)にして而も居住地に於て衣食住を充すのみならす 彼れか本国へ/輸送(しゆそう)する金額幾千なるを知るへからす実 に/切歯(せつし)に/堪(た)へさるなり         未完 四民今日の/衰頽(すいたい)に及んては如何に/奢侈(しやし)を為さんとする も能はざるのみならす/直接(ちよくせつ)の/倹約(けんやく)は又た余地なきが如 し然れとも顧みて積年の/弊習(へいしう)を察すれは注意の/欠点(けつてん)指 を屈するに/遑(いとま)あらす茲に其の一二例を挙くるに/祭葬(さいそう)の 礼をなさんか従来の風習或は酒食を以て人を/饗(きやう)し/憂(うれ)ふ へきに喜ひ悲むべきに楽むか如き/悪弊(あくへい)あり実に人倫を 乱し礼を失するものと云ふへし又た子女の/新婚(しんこん)等に際 し或は/新履(しんり)若くは絹帯を求るあり是れ/富裕(ふうゆ)の日に於て 為すは尚少く恕すへきも今日/危急(きゝう)存亡の秋に於ては速 に/矯正(きやうせい)せさるへからす諸君帰郷せらるゝの後は一家挙 て茲に/注意(ちうゐ)し/延(のべ)て一村一郡の風習を改良せられんと切 に/企望(きぼう)の至に/堪(た)へさるなり 【右丁下段】    貯蓄 方今の/現状(げんじやう)に於て下等人民に在ては始より之を為さん とするも能はさるへし故に先つ中等以上の人より之を 実行し/殊(こと)に有志は/率先(そつせん)し此の目的を達せんことを望む凡 人を治んとする必先自ら治さるべからす本省に於ては 去年来/非常(ひじやう)の改革をなし/痛(いた)く/庁費(ちやうひ)を/節減(せつげん)し其目は馬車 なり馬なり官吏の/旅費(りよひ)茶等にして定額の凡三分一を/減(げん) したり是れ為し能はさる所のものにして実に能く為せ しものと謂ふへし其減したる/費額(ひがく)を以て/直接(ちよくせつ)は農工商 事業に資せんことを謀り且本省の官吏は一般/貯蓄(ちよちく)をな さんことを/規約(きやく)し現に之を実行せり就中各自亦務めて /冗費(ぢやうひ)を/省(はぶ)き若干を/義捐(ぎけん)□農商業に小補あらしめんとす 而して今や諸官員力を/協(あは)せ心を同ふし/黎明(れいめい)より省衙に 上り各其職を執るを常とし甚しきは夜を徹するもの亦 少なからず本省の如きは元来府県等に比すれば其事務 稍閑なりと雖今日に至りては各官の事務/繁劇(はんげき)にして/勉(べん) /励(れい)すること幾んと地方戸長役場に/譲(ゆづ)らさるなり余も又 た昨年来本省に宿泊し暁を/徹(てつ)して/繁務(はんむ)を庶理せり夫れ /勤勉倹約貯蓄(きんべんけんやくちよちく)の三点に注意するは尤も目下の/急務(きうむ)とな す然るに人或は云はん方今民間の/困難(こんなん)に際し既に節倹 【左丁上段】 を為さんと欲するも衣食尚足らす又勤勉の如きは為す べきの事業に乏しく況んや貯蓄に於てをやと/往々(あう〳〵)之を 口実となすものあり一理あるに似たりと雖も若し/頑然(ぐわんぜん) として勤倹貯蓄の道を怠らば全国皆な/飢餓(きが)の/域(いき)に陥り 亦た如何ともなす能はざるべし諸君は斯る/悲痛(ひつう)の時に 際し何を以て吾か国を/維持(いぢ)せんとするや 以上三要点に就き政府意のある所大略/説話(せつわ)する此の如 し更に一歩を退き是より一個の有志として/談話(だんわ)すると ころあらん               未完 余は多年来外国にありし/際(さい)其見聞上大ひに/感(かん)する所あり今其一 班を談話し国家に尽すべき注意を/促(うなが)し併て三要点の旨意を/補(おぎな)は んとす/抑(そもそ)も本邦に在ては本邦を思ふの情も亦た自つから/疎(そ)なる か如しと雖とも海外に在つては然らす吾国人を見れは互ひに相 /慕(した)ひ相助けるの念/倍々(ます〳〵)深く国家を想ふの情最も切なり故に/貴賤(きせん) を問はす一場に会し故国の事情を説話する等のことあるときは恰 も兄弟の思をなせり又偶々外人の本邦を評するや語中切歯に堪 へさる事少なからす又上海に於て士族の娘嬢か水兵等に身を/鬻(ひさ) ぎ以て生計を/営(いとな)むものあり吾日本人に於ては此の如き/醜体(しうたい)は決 してこれなきを信したり然るに豈計らん日本の婦女子にして此 【左丁下段】 の/醜業(しうぎやう)を/営(いとな)むものあり然るに吾人尚此日本の婦人を見る実に/姉(し) /妹(まい)の如き/感覚(かんかく)を/惹起(ひきおこ)す■て其心情を察するに必す甘んじて外人 の求めに身を売るを快とするものあらんや之れ/畢竟(ひつきやう)日本の/衰頽(すいたい) より終に爰に至るものならん実に悲歎に堪さるなり聞説吾か日 本人は事を為すに目的なく而して一小事に/論議(ろんぎ)/喧(かまびす)しく却て大 事に/恬然(くわつぜん)として顧みざるの状あり俗に折合の付かさる国と/嗤笑(しせう) せり所謂我国に在ては或は官吏と云ひ或は人民と云ひ或は何党 或は何派と互に其の趣を/異(こと)にするの/情態(じやうたい)あり然るに之を外国よ り見るときは一家の中父子夫婦の間に/紛紜(ふんうん)を起したと一般にし て畢竟一家/破産(はさん)の/兆候(ちうこう)と云はざるを得す実に/慚愧(ざぎ)の至なり豈に /鑑(かんか)みざるべけんや 却説今日は之れ如何なる時ぞ内は/凶歉(けうけん)の徴候あり又眼 を/転(てん)じて外国を見れば英国と云ひ仏国と云ひ澳国と云 ひ何れも軍備を/拡張(くわくちやう)す是に反して東洋の状況を/顧(かへりみ) れとも印度の如きは英国の所属となり又た朝鮮の如きは 既に他邦の為に砲台を/築(きづ)かれ実に印度と謂ひ朝鮮と謂 ひ支那と謂ひ危験(きけん)の至りならずや若し一朝朝鮮を/併呑(へいどん) し来りて我れに望まば我れ何を以て之を/防(ふせ)かんや実に /危急(ききう)存亡の秋と謂はさる可らす加旃一層/慷慨悲憤(こうがいひふん)に堪 【右丁上段】 へざるものあり何そや英国女皇は吾国をして彼れが隷 属と/見做(みな)すべきことを某に内調せしとかや/嗚呼(あゝ)吾国民た るもの此語を聞き誰か/奮激(ふんげき)せざるものあらんや又た或 る歴史を閲するに阿蘭佗王国の如き已に他の版図に帰 せしも尚一の阿蘭佗王国あり即ち我が長崎の出島之れ なりと彼の「ナポレオン」が我国旗を見る処は皆属邦と 云ひしによるものならんか       未完 〇前田大書記官■駅に於ての演説 前号の続 以上/述(の)ぶる所は則 ■ち本省趣旨の要目にして茲に会合せる諸君は能く了■せらるゝ 所ならん諸君郷に帰るの日/率先(そつせん)/誘導(いうどう)不/撓(たう)の精神を以て此の三者 を実施し農工商の/衰頽(すいたい)を/挽回(ばんくわい)し以て国力を増進すへし諸君請ふ 夫れ之れを勉めよ  又同官か旅宿に於て金沢石川河北一区二郡の有志及  び郡県吏と/対話(たいわ)ありたる其筆記は左の如し 余か今回巡回の趣旨は今日の最も/重要(ちやうよう)事件なれば又力 めて諸君の/質疑(しつぎ)に答んとす故に各自意見のある処は/遠(えん) /慮(りよ)なく充分陳述せられたし且農商務省に於ては先きに 演るか如く今日の衰頽を挽回するの/計画(けいくわく)已に確立せり 其/順序(じゆんじよ)方法に至ては言冗長に/渉(わた)れは茲に其大略を/述(の) へん 【右丁下段】 今日第一とする所は本邦の国力を養成する事是れなり 之れを養成し其国力を増んとするには既に一昨日も述 へし如く各般の事業を/改良(かいりやう)し専ら/勉強(べんきやう)/倹約(けんやく)に注意をな すにあり 抑も現今我国の状況を見れば農工商とも大ひに衰頽し /殆(ほと)んと其極に達し/恰(あたか)も平癒望みなき病人の如し而して 此病源は遠く天保年間に起り延て今日に及ふ是れ即ち 農工商勉強の不注意所謂不/摂生(せつせい)より起因するものにし て亦た如何ともなす能はさるものゝ如し然らば/最早(もはや)今 日に至りては其治療法なきか/否決(いなけつ)して然らす已に旧漢 法■即ち草根木皮を用ゆる昔日に於てすら之れを/治療(ちりやう) したるに非らすや況んや/救治法(きうぢはう)■開けたるの今日に在 ては之れか/回復(くわいふく)を謀る敢て難きに非らさるなり而して 斯の如き/困難(こんなん)は欧米各国に於ても其例又少しとせす已 に歴史に徴して明かなり是れ全く治療の宜しきと養生 怠らざるの/結果(けつくわ)にして今日大に/富饒(ふうじやう)を致し無病/健康(けんこう)の 身体となりたるにあらすや人誰か病者を好んで健者を 悪むものあらん豈に深く鑑みさる可けんや政府に於て は既に救治の方法を/確定(くわくてい)し即ち民間の/負担(ふたん)を軽くせら れん等のことを大に/配慮(はいりよ)せらる或は同業の組合/専売特許(せんばいとくきよ) 【左丁上段】 及ひ商標条例の発布巡回教師の/規則(きそく)等を設けらる是等 即ち救治方法中の一なり然るに民間に在ては未た養生 に注意せす恬として/毫(ごう)も/察(さつ)せさるものゝ如し斯の如く んば何を以てか之を■するを得んや/曩(さき)に本省に於ては 農工商の事業に就き/詳細(しやうさい)の/調査(てうさ)を各府県に/需(もと)めたり然 るに四十七地方中に於て最も緻密の調査を得たるもの 三地方あり而して当石川県の如き即ち其一なり夫れ政 府に於ても之れか/救済(きうさい)の方法は已に確定せし以上は爰 に会する諸君衆に率先し能く此の三要点の趣旨をして 普く実施せんことを/切望(せつぼう)の至に堪へさるなり  右演述畢り来会者中質問するもの数名あり今其/質疑(しつぎ)  の/要旨(ようし)を/掲(かゝ)くれは即ち実業に/疎(うと)きものは其業体上に  付勉強の注意を/諭(さと)すに苦しむ節倹の注意に於ける動  もすれは/吝嗇(りんしよく)に/陥(おちゐ)り其甚しきに至ては金を/懐(ふところ)にし  為めに質問の融通を/塞(ふせ)くの恐れなき能はす又金融閉  塞して百般の事業/渋滞(じうたい)すと云ひ又興業銀行設立如何  或は演説中に於て日本桑樹凡三ケ年以上のものは/悉(こと〴〵)  く病桑なりとの謂如何等の質疑に対し/答弁(と べん)せられた  る大意左の如し          未完 【左丁下段】 〇前田大書記官 前号同書記官の武生へ/着(ちやく)せられ/演説(えんぜつ)あ りし/概況(がいきやう)を/記(しる)したるが猶ほかの/細報(さいほう)を聞くに南條今立郡 長官原良三郎氏には先般郡下各郷村を/巡回(じゆんくわい)の/砌(みぎり)/済急法(さいきうほう) の/必須(ひつすう)を/説諭(せつゆ)し且つその村々へ該委員を/設(もふ)けられしをも て今回同大書記官の来武を幸ひこの人々にもその演説を /親(した)しく/聴聞(ちやうもん)させんとかねて郡達ありしにぞ去る一日同大 書記官の若武あるや同地に有名なる大寺引接寺を集合場 と定め各村戸長及び各村済急委員を/集合(しうごう)し十分の演説を /乞(こ)はれん/積(つも)りの所ろ同大書記官には/帰省(きしやう)を急がれ/漸(やうや)く三 十分の時間をもてそれ〳〵面会を為さんとのことに集合 所は見合せと為り前号記したるごとく/近傍(きんぼう)戸長始め有志 者百名はかりへ/旅館(りよくわん)畳屋に於て済急方法の/趣意(しゆい)を演説あ りしが郡長か今日に先達て郡下を巡回せられそれ〳〵/説(せつ) /諭(ゆ)ありしことをも聞取られ一/層親切(そうしんせつ)に人民へ説話あり尚 ほ再来を約して発足せられしと云ふ尤も遠隔の委員等は 同大書記官発武の後おひ〳〵/到着(とうちやく)演説の間に合わざりし をもて/空(むな)しく望みを失ふて帰邑せしもの/夥多(あまた)あり 【右丁上段】 〇前田大書記官金沢に於ての演説 前号の続 今諸君の質問中或  は実業 疎きものは/勉強(べんきやう) 注意を諭すに苦しまるゝと云ふ説あ  り一理なきにあらすと雖/索(もと)より事業の/熟否(じゆくひ)によるにあらすして  /勤倹(きんけん)の事皆注意すへしとの謂にあり/仮令(たとへ)は養蚕事業の如きに於  るも桑苗仕立と云ひ移植と云原紙/精撰(せいせん)と云飼育改良と云ひ其注  意すへき/要点(ようてん)一にして足らす之独り養蚕の事業のみならす百般  のこと皆然り故に苟も事業の何たるを問はす勉強上に注意の/欠(か)く  へからさるを要旨とする謂也■倹納のことを云へは/漫(みた)りに衣食住  に/節略(せつりやく)を加へ反て/吝嗇(りんしよく于)に陥り或は金を懐にし空于徒然姑息の所  業あるは余か決して望む処にあらす故に興すへきの事業は之を  興す企つ可きの事は之を始むへし然れとも/冠婚葬祭(くわんこんそうさい)を/営(いとな)むに  当り多年の風習/冗費(じやうひ)を/浪費(ろうひ)すること甚多し今や之を矯正せは因て  得る所のもの甚多き■至るべし是れ之れ等を指して節倹の注意  と云ふへきなり又美濃紙に交ふるに半紙を以てし/絹(きぬ)を/変(へん)して/木(も)  /綿(めん)となす等其/需用(じゆよう)を節せは供給者益/困難(こんなん)を極むるとの説是れ又  余か取らさる処なり如何となれは已に供給者需用の乏しきに困  まは弥/競(きそ)ふて勤勉に注意せさるへからす何そ他を顧るに/暇(いとま)あら  んや假令は彼の細民の製する/草鞋(わらじ)の如きを見よ其の/稾(わら)の打ち方 【右丁下段】  /紐(ひも)の附方等に少く注意せは人皆な之れを/需(もと)むるに至るや必せり  諸君人民を/鼓舞(こぶ)/誘導(ゆうど)□/僅(わづ)かに弐厘六毛の注意をせば其の生する  処の利益三ケ年にして実に壱億弐千万円の国力を増進するに至  る注意の功実に至大ならすや又た金融/滑(なめら)かならされは事業おこ  らす事業起らされば勤勉をなす能はすと云ふか如きはそもゝゝ  も三要点の趣意にあらす元来勤勉は資本ありて生するにあらす  勤勉に因て始て資本を生するものなり勤勉の注意たるや何そ金  融の滑と不滑に■せんや假令は/爰(こゝ)に一反歩の地所あり/耕耘(こううん)■に  /拠(よ)りて改むること能はされは/収獲(しゆくわく)の減するあるも又増加を見るな  し今や勤勉に注意し/撰種(せんしゆ)/移植(ゐしよく)耕耘肥料等に/怠(おこた)らすして改良に吝  ならざれは/幾分(いくぶん)の収獲を増す正に/疑(うたがひ)を入るへからす之れ則ち  注意の/結果(けつくわ)なり敢て資金を要するにあらす又我国の桑樹は/悉(こと〴〵)  く病桑といひしは即ち桑の初年に在ては無病のものと雖とも次  年より之を/切断(せつだん)するに/際(さい)し其方法宜しきを得す加ふるに肥料と  いひ/培養(ばいよう)といひ一ツも完全なるものなし為めに/純桑(じゆんそう)の名を下す  を得す是を以て皆病あるものと称す之れ独り桑のみならす千百  の事皆然らさるはなし又質問中/偶々(たま〳〵)信用云々の言あり已に維新  前に於ては各其業により藩■の保護を受け自ら商法の/規律(きりつ)あり 【左丁上段】 左之ケ条ハ九月四日之処疎漏ニ而前後ニ成 〇前田大書記官金沢に於ての演説     前号の続き  古来凶歉の/臻(いた)る三十年/乃至(ないし)五十年にあり今や天保度の凶年を去  る正に五十年とす而て春来気候甚た/順(じゆん)ならず既に畿内九州等に  於ては水害を被り/懸念(けんねん)/措(お)く能はす夫れ昔日の凶歉たる/穀(こく)を/購(あがな)ふ  の金ありと/雖(いへ)ども売るべきものなきを以て其の/惨状(さんじやう)云ふに忍び  ざるものあり既に天保の凶歉にあつては本邦ニ三億万円の金な  りと雖とも一粒の食物を購ふ能はず金を懐にして/餓死(がし)せりと今  日は然らず一片の電報以て食を海外に購ふべけれは/假令(たとひ)不幸の  凶歉の来るも昔日の如く/餓莩(がう)路に横るの/惨状(さんじやう)はなきに似たりと  雖ども之を購ふの金に至ては亦た如何ともする能はす然らば外  債を/募(つの)らんか相当の/抵当(ていとう)なかる可らず今日/衰頽(すいたい)の極其の抵当と  なすべきものは唯土地あるのみ若し弁辞意の如くならすんは国  土挙て外人の有に帰し吾人は遂に外人の/奴隷(どれい)となるべし而して  彼れ其の得る所の金は/悉(こと〴〵)く其本国に/輸送(ゆそう)するを以て遂に云ふ  べからざるの/困難(こんなん)に/陥(おちゐ)るへし実に/危急(ききう)存亡の秋にあらずや  今明治十八年十九年廿年の三ケ年は維新已来既に/肥料(ひりやう)を加へ今  日/収獲(しうくわく)を得べき年ならずや其の肥料とは何ぞや曰く前に/述(のべ)たる  如く政府等に費したる/巨額(きよがく)の/資本(しほん)と及び有志の/膏血(こうけつ)是れなり請 【左丁下段】  ■              ■より頓に信用を失し遂に今  日に至る故に政府に於ては大に茲に/憂慮(ゆうりよ)せられ早晩商法規律を  発布せらるへきを信す然らは即ち信用回復するも亦或は難きに  あらさるへし諸君みるへし之れ此表は外国の国力を/増盛(ぞうせい)する十  年間の統計なり千八百七十一年より千八百八十年に至る十年間  に於て英国は三十二億一千万円仏国は十四億七千五百万円独逸  は三十六億二千五百万円の/巨額(きよがく)を増加するに至れり実に/驚(おどろ)くへ  きの歩ならすや此れ何によつて然るか唯該国人民注意の一点に  外ならす而して我国を/顧(かへり)みれは年一年に衰頽を来す是れ不注意  といはんか/無精神(むせいしん)といはんか斯の如きの景況も顧みす世人口を  開けは文明といひ開化といふ実に/慙愧(ざんき)も甚しいまや我々は諸君  も共に/必至(ひつし)/勉強(べんきやう)すへき時期といふはさるを得す今日之れか改良  をなす唯三要点の注意あるのみ又た前にも述ふる如く三要点は  決して金融や資本に拠らすして却て資本も金融も此三/要点(ようてん)に支  配さるゝといふへきなり彼の豪商鴻池と云三井と云ひ其祖先は  決して資本によらす総て一到の精神此三要点の注意に外ならす  且つ旧米澤鷹山侯の如きは僅かに五十両の資本を以て該地蚕業  今日の盛大を致せしなり旧各藩中に於て士族生計の/稍々(やゝ)全きを  得るものは独り該藩の一あるのみ之れ鷹山侯の/計画(けいくわく)宜しきを得  たるの報ひなり其注意願ふへし諸君亦/勉(つと)めざるへからす 畢 【右丁上段】 ふ見よ当時愛国有志は悉く父母妻子に/離(はな)れ家を棄て身を/擲(なけう)ち或 は甘じて獄に/繋(つな)かれ又は刀下の鬼となり此の開明の基を/築(きづ )きた るにあらずや然るに吾々か今日にして此の収穫見ずんば将た 何の面目あつて先の有志即吾々か朋友の/霊(れい)を/慰(ゐ)せんや 又た後世子孫の代に至り今日の吾々を評して如何の語 を下すや必す吾々か/不注意(ふちうゐ)を/責(せ)め/歎声(たんせい)を発するに至る や/疑(うたがひ)なし実に/勉(つと)めすんはあらさるなり幸に我か大輔 の如き/熱心(ねつしん)党ありて吾々を/鼓舞(こぶ)し/頻(しき)りに農工商/衰頽(すいたい)の 挽回を謀り吾々も亦た一昨年以来昼夜を別たす/孜々勉(しゝべん) /励(れい)すと雖とも/曩(さき)に国事に/斃(たを)れたるものに比すれは亦た 大に/耻(はづ)る所あり 偖日本の不景気を回復するは決して難きに非らす各/勤(きん) /勉(べん)して毎人一日弐厘六毛を/積(つ)むときは全国に於て一年 四千万円に至り三ケ年には即ち一億弐千万円の/巨額(きよがく)に /達(たつ)すへし今日我国の国力は一億弐千万円に過きす左れ は僅に三年の/貯蓄(ちよちく)にして已に国力に恰当すへき数年の 久しき之れか貯蓄に従事せは我国/富強(ふうきやう)/幾干(いくばく)そや今日世 人の云ふ所皆資本あれは事業を/興(おこ)し資本あらされは改 良する能はすと之れ何事そや資本は尚肥料の如し/譬(たと)へ 【右丁下段】 は肥料あれは耕すへし肥料あらされは耕すも/益(えき)なしと なすか如し実に無精神と云はさるへからす/畢竟(ひつきやう)今日の /衰頽(すいたい)は此の/無精神(むせいしん)即ち不注意より来■せ■/結果(けつくわ)なり今 其注意の一例を/挙(あ)くるに一時間に為すへきことを半時間 に為す又た一時間に十銭の利ありしも/注意(ちうゐ)以て同時間 に十五銭乃至二十銭を得る亦た甚だ難きに非さるなり 豈に/勉(つと)めさるへけんや        未完 〇前田大書記官 同書記官には去る一日当地晴嵐亭の/旅(りよ) /館(くわん)を/発足(はつそく)後武生へ/着(ちやく)せられその旅館畳屋へ同郡長は申す におよばず/近傍(きんぼう)村々の戸長ならび市中有志者百名ばかり を/招集(せうしう)せられ一場の/演説(ゑんぜつ)あり茶をも/喫(きつ)せられず直ちに出 立せられたるが当県庁よりは塚本庶務課長伊藤勧業課長 の二氏随行して見送られたり聞くところに拠れは南條郡 河野浦より/乗船(じやうせん)して敦賀へ出でそれより滋賀県へ入られ たる由序に訂す前号本県令には武生まで見送られしと記 したれども是は全くの/誤聞(ごぶん)にて当朝晴嵐亭にて別を叙で られしとの事    明治十八年九月南越義塾      私立学校之事 一是迄所々に私塾を立教授ありし山口透学士  今度有志輩之義金を以南越義塾発  起当分元舟場町笹治氏邸譲請  英学を専とし有名之大先生聘し尤総而  之学課普通之学校開塾ありし又最  初よりして数多書生入門且夜学をも  志願に任せ教授せられ尚往々隆盛なる  べしと見得て幸福なり 一同年十月廿日   神明宮祭礼に付能興行   右能之事は十九年追録に出之   今後は例年之儀に付不記 一同月廿三日東本願寺   新御法主下向廿五日廿六日吉崎別院にて   恵燈大師諡号法会執行廿七日廿八日は   福井別院にて右同断廿九日説教三十日        御発車 一明治十八年十一月三日     招魂所花火  今後例祭は不記     右花火之古事別部に出ス  明治十八年十一月廿七日旧下馬門内え中学  校新築落成に付開校式有之   右地所は元御城代役屋敷成しを中古   北川氏拝地に被下当御趣意前迄居住せし所なり   又東南の角に二重櫓あり是は御城代役之   記録類を悉皆納置 【上段】 〇中学校開校式 昨日は当中学校の新築/落成(らくせい)し其開校式 を執行せられしが連日降り続きし/霖雨(りんう)もこの日は■【朝ヵ】より 名残無く晴れ渡り/瑞気(ずいき)の靄然たりしは天また祝意を助け しに似たりさて午後零時三十分より来賓おひ〳〵参集/頓(やが) て午後三時第一柝にて一統用意第二柝にて本校生徒入場 着席第三柝にて雅楽始り諸賓入場着席県令公本校長の案 内にて入場着席一統立礼奏楽終る県令公告辞一統起立本 校長答辞一統起立生徒惣代答辞一統起立諸賓祝辞/畢(おは)りて 校長には式の畢はるを告げらる奏楽始まる一統立礼順次 【下段】 退場奏楽終はるかくて第四柝にて祝宴を開かれ第御柝に 退散ありしか/寔(まこと)に近来/稀(まれ)なる/盛式(せいしき)なりし則ち来賓には本 県令石黒君裁判所長中君始め大書記官収税長判事各郡長 諸課長県立学校長県会議員及び有志者等無慮三百人 我 旧藩主松平■公御代理席もあり 本社よりも山本は社務 多忙なりしにつき社員一名代理としてこの盛式を拝観せ り尤本校生徒へもそれ〳〵祝酒を分ち折詰を/配(くば)ばられい づれも/歓然(くわんぜん)として/退散(たひさん)したりと云へり今当日の/辞祝(しくし)を/左(さ) に/掲(かゝ)ぐへし 【右丁上段】 福井中学校舎構造始テ成ル乃チ本日ヲ卜シ開校ノ典ヲ 挙ク因テ聊所思ヲ陳ヘ以テ祝詞ニ代へ学生諸子ニ告ク 嚮ニ校舎構造ノ費ヲ以テ県会ノ讃ニ附セシニ当時財源 涸渇甘冀涸求ノ極ナリシモ県会ノ与論其費ヲ惜マスシ テ此構造ヲ可決セシモノハ蓋シ人材ヲ養育スルハ国家 ノ急務之ヲ躊躇ス可カラサルヲ以テ也諸子能ク此意ヲ 体シ益勤勉才徳ヲ研磨シ学成ルノ后其学フ所ヲ以テ家 ヲ利シ国ヲ益シ以テ県会ノ意旨ニ副ヒ并シテ公衆ノ与 望ニ報センヿヲ是余ノ深ク諸子ニ望ム所也  明治十八年十一月廿七日 福井県令従五位石黒務   〇 嘗福井中学校設置以来数年ヲ経ルモ学舎ヲ新築シ得サ ルハ県下有志諸氏ノ遺憾トスル所ナリキ然ルニ諸氏ノ 精神貫徹セシニヤ近来財政委靡不振ニモ拘ラス本年三 月県会諸氏奮ツテ学舎新築ノ商議ヲ一決セラレ其八月 新築ニ着手シ工事ノ竣ルヲ告ク乃本月本日ヲ卜シ開校 ノ式ヲ行フニ至レリ而テ我県令閣下親ク式場ニ光臨セ ラレ教育ノ要旨ヲ懇望シ賜フ其金言渾テ日常ノ肝ニ銘 ス抑是ノ挙独本校ノ光栄ノミナラス寔ニ当県下ノ幸福 ト謂フ可シ皆是レ県令閣下ノ県治ニ深切ナルノ致ス所 ナリ自今日常及ヒ本校教員ハ県令閣下ノ諭示ニ遵ヒ正 直ナル気象ヲ以テ志操ヲ清潔ニ研キ益精神ヲ堅硬ニシ 闔県諸氏ノ親愛セラルヽ子弟ヲ教育シ而シテ県下到ル 処良民ノ住家ナラシメンヿヲ希望ス謹ンテ答辞ヲ陳ブ 誠恐頓首  明治十八年十一月廿七日           福井県福井中学校長松田為常 【右丁下段】   〇 維明治十八年十一月福井県福井中学校建設功ヲ竣へ同 二十七日ヲ以テ開校ノ式ヲ挙行セラルヽノ慶報ヲ得タ リ夫レ熟々惟ユルニ県下教育ノ普及ナル寒村僻邑ト雖 モ到処庠序ノ設ケアラザルハナシ隋テ就学諸子ノ進歩 モ日ヲ遂ツテ著シク即今普通教育ノ業ヲ卒フル者陸続 絶ヘサルヿ豈昔日ノ比ナランヤ是レ此ノ校ノ建設ヲ急 ニシテ今日之盛儀アル以所也抑中学校ノ小学ヨリ難ク 大学ノ中学ヨリ難キ固ヨリ言ヲ俟タス今ヨリ本校ニ就 学スル諸子宜シク尚一層ノ精神ヲ励マシ百折不撓ノ忍 耐力ヲ有セスンハ争テカ専門大学ノ域ニ進入スルヿヲ 得ンヤ詩ニ云ハズヤ靡_レ不_レ有_レ始鮮_二克有_一_レ終ト誠ニ然 リ有_レ始テ不_レ有_レ終ルハ古今ノ通患也冀クハ諸子此レ ヲ是拳々服膺シテ愈々学ヒ愈々勤メ進テ休マサレハ其 終ヲ遂クル事復タ何ノ難キヿ之アラン期シテ待ツヘシ 慶永欣抃ニ堪ヘス是レヲ祝辞トス  明治十八年十一月廿七日  正二位 松 平 慶 永 〇中学校開校式    前号の続き 福井中学校ノ設置タル回顧スレハ今ヲ距ル五年前而来 来ツテ本校ニ入学ヲ請フ者年一年ヨリ増殖シ遂ニ校舎 ノ狭隘ヲ告ケ為メニ入学志願者ヲ謝絶スル其数亦鮮少 ナラス是今回本校新築ノ挙アル所以ナリ今ヤ土木功成 ルヲ以本日開校ノ盛典ヲ挙ケラル嗚呼中学科即チ普通 高等学科ヲ修ムル者ノ多キ茲ニ至ルハ教育進歩ノ兆候 ニシテ実ニ邦家ノ為メニ賀セサルヲ得ズ西哲云富国強 兵ハ■           ■庶幾ハ本校ニ学フノ 【左丁上段】 生員ハ骨格ヲ強固ニシ遺徳ヲ養成シ智力ヲ発育シ而シ テ各其長スル処ニ従テ一層高尚ノ学ヲ隆メ以テ 皇国 ノ富強ヲ全フシ其恩ニ酬ユルアランヿヲ聊カ蕪言ヲ陳 シ併セテ此典ヲ祝ス  明治十八年十一月廿七日 教育課長               六等属 萩原 縫   〇 福井中学校新築功ヲ竣フ規模宏壮我県教育上大ニ美歓 ヲ加ヘタリ方今人民疲弊ノ時ニ際シ数千金ヲ擲チテ此 建設アル所以ノモノハ他ナシ県下数万ノ子弟ヲシテ各 天稟ノ智徳ヲ琢磨シ其目的ヲ達セシメント欲スレハナ リ我県中学校ヲ剏始セシ以来教員已ニ其人ヲ得器械モ 亦略備ハリ奎運ヲ翼賛スル茲ニ年アリト雖トモ唯校舎ニ 至リテハ假借スル所ロノ物ナルヲ以テ装置宜シキニ適 セス頗ル隔靴ノ嘆キ無キ能ハサリシ然ルニ今ヤ一モ欠 ク所ナク養成ノ準備尽セリト云フベシ嗚呼盛ンナル哉 将来益子弟ヲ教養シ我県ヲシテ学士ノ淵叢ト称セシム ルノミナラス人物輩出シ此疲弊ヲ挽回スルモ亦タ日ヲ 刻シテ待ツ可キナリ因テ本日ノ盛式ヲ祝シ併テ将来ノ 成蹟ヲ翹望ス  明治十八年十一月廿七日 福井県会議員惣代                 竹尾 茂 【左丁下段】〇春嶽老公の書翰 左の書翰は我福井/旧藩主(きゆうはんしゆ)正二位松平老公の/深(ふかく) も福井中学校の/新築落成(しんちくらくせい)し/開校式(かいこうしき)の首尾よく執行なりしを/悦(よろこ)ばせ られ同/校長(こうちやう)へ/来贈(らいさう)せられしものにして校長もその/高意(こうい)の辱きに/感(かん) /銘(めい)あり/益(ます〳〵)校務■/黽勉(べんびん)し之に/奉酬(はう ゆ)せんと云ひ/居(お)らるゝよし  /蕪牘陳啓(ぶとくちんけい)寒威日々増之侯に候処先生愈御/健康(けんこう)不相替御勉強御  /奉職(ほうしよく)県下の為め/敬賀(けいが)候陳者去る二十七日之福井新聞/閲覧(えつらん)候処頗  る晴天にして中学校開校式無滞御整石黒君並に先生も御/臨場(りんじやう)の  よし近来の/美挙(びきょ)と感賞不少拙子に於ても安意/欣然(きんぜん)の至に候本年  は水害及/道路(だうろ)改良一條の多事に/際(さい)し石黒君の不容易御尽力/御奨(ごしょう)  /励(れい)にて県会も議決相成速に該校/建築(けんちく)落成遂に開校式/相済(あいすみ)十分の  幸福旧主拙生/雀躍(じやくやく)欣喜の至りに候全く石黒君の御尽力は/勿論(もちろん)な  れども先生の/兼(かね)て御/教諭(きやうゆ)御奨励之御/苦労(くろう)より/建校(けんこう)の美挙に至り  候事と信じ候当先生後来之御目的を以て御奨励生徒の奮発秀才  を可生/万端(ばんたん)御注意奉願候石黒君と申先生と申御祝辞頗/感佩(かんぱい)仕候  此祝辞は生徒後来までも/遵守(じゆんしゆ)さへすれば必/好結果(こうけつくは)を可得と辱奉  存候拙子愚文愚筆/御推読(ごすいどく)被降度先は右御礼且後来の御/依頼(いらい)まで  陳述候時下 雪霰(せつさん)御自愛祈候    二千五百四十五年即明治十八年十二月二日    於小石川区小石川水道町三十五番地                    松 平 慶 永         松田為常先生      君かため国のためにといそしみて                まなひの庭に歩みつゝゆけ      生したてしまなひの庭の民草は                わが大君のめくみなりけり 明治十八年十二月廿三日  福井小学師範学校附小学狭隘に付今度  中学校新築へ引移之跡へ移転開校式 【右丁上段】 〇/小学校移転(せうがくこうゐてん) /福井小学校(ふくいしやうがくこう)は/校舎(こうしや)の/狭隘(けうあい)なるより/従来(じうらい)元(もと) /鳩門内(はとのもんない)の/或(あ)る/民家(みんか)を/借(か)り/受(う)け分/教場(きやうじやう)として/生徒(せいと)の/幾分(いくぶん) を/茲(こゝ)にて/教授(けうじゆ)し/来(きた)りしが/今度(こんど)/中学校舎新築落成(ちうがくこうしやしんちくらくせい)して/該校(がいこう) は/其(そ)の/新築校舎(しんちくこうしや)へ/引(ひ)き/移(うつ)りしを/以(も)て/右(みぎ)/旧中学校跡(きうちうがくこうあと)へ/福井(ふくゐ) /小学校(しやうがくこう)は/移転(ゐてん)せり 〇当福井小学師範学校附属小学の/開校式(かいこうしき)は前号の紙上 にも記したるとほり昨廿三日午後三時より執行せられ 【右丁下段】 るが門には/国旗(こくき)を/交叉(こうさ)して祝意を表し校内にては生徒/溜(たま) り参観人/控所等(ひかへしよとう)それ〳〵教場をもて之に当てられ長官控 所県官控所来賓控所等は楼上南部の教場を用ひられ式場 ならび/動植(どうしよく)/理化学等(りくわがくとう)同校教授用/器械陳列場(きかいちんれつば)は同く北部の 教場を用ひられたるが壁面に掲げたる修身学教授用の図 /画軸(ぐわぢく)は本年七月東京におゐて初版に為りたるものにして 凡そ十五通りあり/頗(すこぶ)る人目を驚かせり斯(かく)て時刻にも為り 【左丁上段】 たれば第一柝にて一統用意第二柝にて生徒/着席(ちやくせき)第三柝に て来賓同校吏教員教生着席/案内(あんない)に依りて石黒県令/臨場(りんじやう)せ られ一同/立礼(りうれい)県令には懇切に本附属小学は久しく中止の /姿(すがた)なりしを本年の/県会(けんくわい)におゐて再たび/設置(せつち)することに/議(ぎ) /決(けつ)し今日この開校式を挙行するに至りしは/満足(まんぞく)の至りな るが本小学は各小学校の/模範(ぼはん)たるへきものなれば教員に おゐても十分に教育に/注意(ちうゐ)勉強せさる可からす生徒にお ゐてもまた校則を守り黽勉勧学せざる可からざるの意を 告諭せられ終はりて師範学校長松田為常氏には進んで告 /辞(じ)の辱きを謝し/将(は)た教員教生に向ひ生徒の父兄為る/参観(さんくわん) /人(にん)に向ひ/附属(ふぞく)小学の師範学校に必要なる附属小学は各小 学に模範たればその教育の/特(とく)に注意せざる可からざるこ の校に入るものゝ校則を/厳守(げんしゆ)し勉学す可きは勿論家に在 りても学を勉め身を脩めざる可からざるその父兄たるも の家庭に在りてはその師と為りて/黽勉(ひんべん)の注意を/等閑(なほざり)にす べからざる等/答辞(とうじ)にかねて演説せられ次に附属小学/訓導(くんだう) には左の答辞を/朗読(ろうどく)し  明治十八年十二月福井師範校ニ於イテ再ヒ附属小学ヲ  設ケ其廿有三日ヲ以テ開校ノ式ヲ挙ク県令石黒君辱ク  場ニ臨ミ且ツ懇切ナル告諭ヲ賜フ誠ニ感佩ニ堪ヘサル  ナリ夫レ千金ノ財ヲ積ムト雖モ之ヲ散スルユエンヲ知 【左丁下段】  ラスンハ則赤貧ト何ソ分タン万巻ノ書ヲ読ムト雖モ之  ヲ施スユエンヲ知ラスンハ則チ学ハサルト何ソ擇ハン  故ニ学ハズンハ則チ已マン学ハヽ則チ宜シク諸ヲ用ニ  施スヘシ師範校生徒諸子ノ本校ニ学ブヤ業已ニ成リ出  テヽ小学童蒙ノ師ト為ルニ及ヒテハ以テ其徳性ヲ涵養  シ其良知ヲ長育セント欲ス而シテ其授業■ハ之ヲ実際  ニ試ミルニアラスハ施用ノ宜シキヲ得ルヿ能ハス故ニ  師範校ニシテ而シテ附属小学ナクンハ遂ニ実際練習ノ  功ヲ欠カンヿ猶ホ龍ヲ画キテ睛ヲ点セザルガ如シ是レ  附属小学無カル可カラサルユエンナリ不肖又吉乏シキ  ヲ当学校教員ニ承ク其任ノ重キ責ノ大ナルヿ自ラ省ミ  ルニ固ヨリ之ヲ■【済?】スユエンヲ知ラス然レトモ已ニ■【罪?】ヲ茲  ニ待ツ豈ニ日夜ニ孜々黽勉シ閣下ノ高諭ヲ挙揚シテ而  シテ其■効ヲ計ラサル可ケンヤ謹ミテ答辞ヲ陳ス          福井師範学校附属小学校教員                  本 堂 又 吉 次に教生惣代には左の/答辞(とうじ)を朗読し  最者ニ文部省令ヲ下シ師範校ヲシテ必ス附属小学ヲ設  ケシム是ニ於イテ我福井県令石黒君之ヲ興サント欲シ  乃チ其要スル所ノ費目ヲ製シ県会ニ付シテ之ヲ議セシ  ム代議諸士亦其欠クヘカラサルヲ知リ異議ヲ其間ニ置  カズ遂ニ今月今日開校ノ式ヲ挙クルヲ致ス生等亦幸ニ  席末ニ班スルヿヲ得何ノ喜カ之レニ如カン生等師範校  ニ任ルヿ数年未タ敢ヘテ自ラ成ルヿアリト云ハスト雖  モ卒業ノ期方ニ迫レハ則チ出テ 小学ニ従事スルノ日  亦当ニ近キニアルベシ然リ而シテ其授業ヲ試ミル法ニ  至リテハ大ニ闕クル所アリ常ニ以テ遺憾トス今ヤ幸ニ  附属小学ノ設アリ教育ノ法ヲ実際ニ講習スルヲ■豈ニ  至幸ニアラスヤ乃チ自ラ幸トスル所以ノ者ヲ叙シテ以  テ県令閣下ト代議諸士トニ謝ス抑モ生等ノ幸トスル所  ノモノハ即チ県下小学子弟ノ幸トスル所ナリ然レバ則  チ此挙ノ澤独リ生等ニ止マルノミナラス其及フ所ノモ  ノ遠シ謹ミテ祝辞ヲ撰ス   附属小学教生惣代福井師範学校高等科第一級生                 小 林 政 次 郎 右 畢(お)はりて校長には式の終わるを告げられ長官退場せら るゝに/続(つ)き来賓吏教員/退場(たいじやう)あり控所におゐて/暫時(ざんじ)休憩の 間/茶菓(ちやくわ)の饗応ありかくて午後四時過いづれも退散なし が生徒にもそれ〳〵/前後(ぜんご)退散せり当日列席の方々は萩原 教育課長岡八田木下戸祭等の教育/課員(くわいん)ならび日置小林田 川柴田蘆田木下等の師範学校吏教員/等(とう)数十名なりしが記 し/洩(もら)せしこと少からす次号の紙上更に/委(くは)しく記載するところある可し 【裏表紙】