《割書:明|治》地震之図 百度(ひやくたび)之を聞(きく)は一度(ひとたび)之を 見(み)るに如(し)かず遠(とふ)く火(ひ)災を望(のぞめ)ば 只(たゞ)赤(あか)きを以(もつ)て見(み)るのみ近付(ちかづ)いて 之(これ)を見(み)る其(その)思(おもひ)必(かなら)ずや増(ま)さん如(いか)何なる 悲哀(ひあい)の事柄(ことがら)たり共(とも)現在(けんざい)自己(おのれ)の見(み)ざる ものは其(その)感情(かんせう)薄(うす)し岐阜愛知両県の 震災(しんさい)は実(じつ)に明治廿四年十一月廿八日午前 六時三十分の地変(ちへん)にして安政二年十月二日 の大 地震(ぢしん)以来 未(いま)だ嘗(かつ)て聞(き)かざる所(ところ)就中(なかんづく) 岐阜(ぎふ)大垣(おふがき)名古屋(なごや)の如(ごと)きはそも/\中心(ちうしん)にして 潰(つぶれ)家(や)死傷(しせう)幾万(まん)を以て算(かぞ)へ父母(ふぼ)妻子(さいし)全(まつた) きものなし其 甚(はなはだ)しきに至(いた)つては首足(しゆそく)ちぎれ 身肉(にく)たゞれ一見(いつけん)胸(むね)塞(ふさ)がり魂(こん)飛(と)び眼(まなこ)暉するに 至(いた)る故(ゆへ)を以て全(ぜん)国の慈善家(じぜんか)続々(ぞく/\)義捐(ぎけん)の金 円を喜捨(きしや)す今(いま)や時(とき)は酷寒(こくかん)の候(こふ)に向(むか)ひ地面(ちめん)潰(くわい) 裂(れつ)家財(かざい)烏有(うゆう)食(しよく)するに物(もの)なく買(か)ふに貨(くわ)なし 嗚呼 亦(また)惨状(ざんせう)の極(きよく)と謂(い)ふ可(べ)し此度同 地方(ちほう)の人(ひと) 齋藤彰一山口定雄の両氏其 現状(げんぜう)を実見(じつけん)し 予(よ)に語(かた)る且ツ演劇(ゑんげき)に脚色(きよくしよく)せられんことを嘱(ぞく)せらるゝ 予 其(その)拙(つたな)きを顧(かへり)みず一夕(いつせき)之(これ)を三幕に編(あ)み其 実況(じつきやう) を写出(しやしゆつ)し名題(なづけ)て大地震(おうぢしん)岐阜(きふの)実況(じつきやう)といふ蓋(けだ)し大(たい) 方(ほう)の慈善家(じぜんか)をして益々(ます/\)喜捨(きしや)の義挙(ぎきよ)ならん事(こと)を勧(すゝむ) るも亦(ま)た同胞(どうほう)罹災(りさい)死亡者(しぼうしや)追善(ついぜん)の為(ため)に幾(ちか)からん乎 明治廿四年十一月中浣金林堂主人村上氏の需に応ず           牛島の牧士             川 村 鴉 江                       秀嶺                         《割書:彫|工》高木金