美濃尾張大地震明細図 記事并細表 登録 【第一段】 【六字分ほど破れ】震は愛知岐阜両県下を限りて最も其強 【六字分ほど破れ】極めたる者の如く然り而して其震動線の 【五字分ほど破れ】震害地の概況を述れば名古屋市より南々東 【三字分ほど破れ】弱にして北々西に強猛なり茲に其実況視察の記を作す 【一字分ほど破れ】名古屋市を西北に去れは枇杷嶋町あり一里余に亘れる市街にし て其西側に櫛比したる人家は将基【棋】倒れとなり又は焼失す ●清洲町東入口の人家五六十戸を残して余は悉とく顚倒 破壊す是より一の宮に到る三里許此村落潰家多し ●一の宮町は戸数凡三千戸に近き地にして尾州第二の商業 地なりしが其十中の七八は倒潰したれど清洲の如く甚しからず 是より黒田停車場の近傍に来り見れば一戸の全き家あるを 見ず北方村より濃州笠松町至る木曽川の堤防は煨芋【焼芋】 を捻り潰したるが如き形状をなせり ●笠松町は商業繁華の地にして堤上堤下の人家焼失す 偶火災を免れたるものは顚倒狼藉一戸の全きものあるなし 一の宮より笠松に至る凡二里笠松より加納町に至る二里余 ●加納町は八分通り倒潰す同町に接して岐阜市あり ●岐阜市は濃州の首府戸数凡六千にして美麗繁華の 市街なりしが今回の震災により六ヶ所より発火し全市 十分の九を焼き払ひ一望灰燼の中に金華山の翠壁 を認む奇と云ふへきか惨と云ふへきか ●北方町は岐阜の西北二里余戸数千戸全潰半潰を合す れば其八分強を失ふに至ると云ふ 因に記す北方町の西端に糸貫川あり源を根尾谷に発し 本巣郡に属す此谷奥深きこと十里木材段木【つだ、薪のこと】を以て名あ り 此谷の中央に当り去月廿八日払暁より鳴動激発忽にして 轟然震動ありて処々の平野村落等陥落し峰巒は 没して幽谷となり或は深淵となるもの多し●此谷奥に 権現ヶ嶽あり〈今人白山と呼ふ〉海面を抜こと七千尺此髙山 震動の為め三段に折たり而して今回地震発源地は 【第二段】 全く此根尾谷の地盤陥没に原因したる者なりと云ふ ●大垣町は戸数四千余商業繁昌の地なりしが今回の 震災と火災により全市を払ひ尽して只旧城の天主閣 のみ残れり此町は先年の入水により市民困弊今復此災 害に遭ふては終に旧形に復すること能はずして全く滅 亡となるべし死傷殊多く惨中の惨たる者なり ●大垣町より今尾町髙須町及ひ竹ヶ鼻町に来り見 に孰れも七八分の破壊顚覆を蒙らさる者なく此間 の村落も亦同しく其震害を被れり乃ち木曽川を渡 り尾州起駅稲葉町を経て名古屋に帰る 因に記す名古屋より岐阜を経て北方 町に達するの方向は北々西に当る而 して名古屋岐阜間の鉄道線に沿ふ て縦形に亀裂し処々噴水せし為め 青色或は鼠色の砂を地表に吹き出せり殊に 岐阜金華山の如きは震動后一時間余其麓の 地処々に於て一升樽大の棒状をなしたる噴水 五六尺に及へりと云ふ 【第三段】 上に記したる事実は三日間の行程僅かに一目の看 過なれば其惨場の惨を写し得ること難く殊に此印行 は震害線の地図にありて叙事紀実にあらずと雖と も蓋し其概況は尽くし得たる心得なり只名古屋市の 記事は此に載せざるも郵便局紡績所の顚倒せしも のに就て之を見ば其震害の強烈なるを知らん然れ とも岐阜県の如きは其死傷愛知県に倍するを以て考ふ れは其惨烈なる知るへきなり 嗚呼去月二十八日午前六時三十八分は如何なる時そ実に此 瞬間四セコンドの間に祖先伝来の蓄積も十年辛苦 の経営も轟然一倒の中、柱梁瓦壁百槌乱降の下に葬 られ或は□【鰥】寡孤独廃疾の者となる其数幾千万なる を知らす吁々痛哉哀哉請ふ 願くば四千万の同胞よ互 に矜恤の心を起し糸銖其少を問はす各自相沙汰して 此憫むべき者に恵まれんことを 【附表】 【表をそのまま再現できないので、表中の各項目に①、②などの番号を付し、その番号に対応する各市郡の数値を示した。①総戸数、②家屋全潰、③家屋半潰、④総人戸[口?]、⑤死亡、⑥負傷、⑦火災戸数】 岐阜県各郡震災統計表 明治廿四年十一月一日正午十二時迠其筋へ届け出た□ 岐阜 ①五、八五二、②九百四十八戸、③二千九百十六戸、④二五、六七六、⑤二百五十人、⑥七百 〇〇(ママ)人⑦二千二百廿五戸 厚見 ①七、八三五、②四千八百四十戸、③千百七十〇、④ 四一、九五五、⑤六百廿一人、⑥五百九十八人、⑦三十四戸 各務 ①四、二一五、②千二百十八、③五百卅三、④二〇、〇三七、⑤四十九人、⑥百二十三人、⑦〇 方県 ①五、七七九、②二千四百八十五、③〇、④二八、七一九、⑤二百九十三人、⑥六十八人、⑦三戸 中島 ①四、六一五、②三千五百五十八、③三百〇四、④二二、六六六、⑤三百五十六人、⑥五百八十六人、⑦五百七十戸、 羽栗 ①六、三一一、②四千五百〇〇、③六百二十五④三二、四〇二、⑤三百四十三人、⑥六百八十二人、⑦五百四十七戸 下石津 ①三、〇七五、②六百六十五、③〇、④一四、一二五 、⑤二十七人、⑥三十四人、⑦〇 海西 ①一、九二二、②九百七十五、③〇、④八、八五〇、⑤四十二人、⑥五十六人、⑦〇 多芸 ①五、八三四、②一千五百五十七、③五百四十二、④二八、〇八一、⑤八十五人、⑥百二十四人、⑦二戸 不破 ①六、六八九、②四百十〇、③百二十五、④三〇、〇八二、⑤二十人、⑥三人、〇 安八 ①一五、二九二、②五千二百七十七、③八百五十三、④七三、三六七、⑤九百九十六人、⑥千八百十九人、⑦二千九十戸 大野 ①七、一一四、②千八百十二、③〇、④三四、〇三二、⑤七十四人、⑥九十九人、⑦〇 池田 ①六、一〇九、②七十四、③百〇四、④二八、九七五、⑤一人、⑥四人、⑦〇 本巣 ①六、五九二、②五千六百三十、③七十、④三一、八六〇、⑤五百六十人、⑥六百〇〇人、⑦〇 席田 ①七一四、②六十、③二十五、④三、五一九、⑤五人、⑥十五人、⑦〇 山県 ①五、五一四、②二千五百〇〇、③三百〇〇、④二六、九五〇、⑤二百二十七人、⑥三百八十人、⑦〇 武儀 ①一六、一六五、②五百四十四、③三百九十二、④八五、六二一、⑤百〇〇人、⑥百廿二人、⑦九十二戸 加茂 ①一二、七四二、②三百〇七、③〇、④六一、九五六、⑤十四人、⑥四十一人、⑦〇 可児 ①七、二三七、②六十二、③百五十〇、④三三、七五三、⑤十五人、⑥六十一人、⑦〇 土岐 ①九、〇三二、②四十五戸、③四百八十、④三九、九五四、⑤一人、⑥七人、⑦〇 上石津郡、上恵那、《割書:  |飛ダ》盆田、大野、吉城等ハ被害ナシ 合計総戸数十八万二千四百九十三戸、総人口九十一万六千六【「百」脱カ】三十九人アリ 震災概表 明治廿四年十一月三日正午十二時調 【①死亡、②負傷、③潰家、④半潰家、⑤摘要】 名古屋市 ①百七十一人、②二百七十一人、③一千五十二戸、④八百一戸、⑤市内家屋ノ被害夥シ 愛知郡 ①百五十一人、②三百〇八人、③千三百廿九、④未詳、⑤熱田及下ノ一色甚シ 東春日井郡 ①十七人、②二十六人、③六百十六、④九百五十一、⑤瀬戸赤津品野ノ諸村《割書:陶器竈ハ悉|皆破壊セリ》 西春日井郡 ①三百十一人、②四百十八人、③《割書四千〇五十七:但シ半潰家共|》、④【空欄】、⑤《割書:枇杷島清洲ノ惨状最トモ【合字】甚シク家|屋ノ存スルモノ殆ド稀ナリ》 丹羽郡 ①百七十六人、②八十四人、③三千四百六十九、④九百九十五、⑤《割書:岩倉犬山小折最モ甚シ而シテ此調査|ハ当郡卅九村ノ内卅村調査ニシテ残九村ハ未詳ス》 葉栗郡 ①二百三十六人、②五百人、③三千九百四十二、④一千五百五十五、⑤《割書:大田島村以西黒田、北方、玉ノ井最モ甚シ|瑞穂村潰家半潰家佐千原村半潰未詳》 中島郡 ①九百五十七人、②九百二十五人、③一万六千六百六十、④五千七百四十八、⑤奥田、起、一ノ宮近辺最モ甚シ 海東郡 ①二百八十八人、②三百〇五人、③七千七百廿五、④二千五百九十八、⑤津島、蟹江等最モ甚シ 海西郡 ①三十三人、②三十三人、③千九百〇九、④四一四、⑤【空欄】 知多郡 ①〇、②十六人、③三十六、④九十七、⑤《割書:被害ノ個所ハ概シテ本郡ノ西海岸ニ沿ヒタル|各町村ニ多ク常滑陶器カマド損害夥シ》 碧海郡 ①三人、②十人、③百五十八、④三十二、⑤【空欄】 幡豆郡 ①四人、②三十三人、③百五十六、④三十二 額田郡 ①〇、②〇、③五、④〇、⑤【空欄】 西加茂郡 ①〇、②〇、③二十五、④二十七、⑤【空欄】 宝飯郡 ①一人、②二人、③九、④二十七、⑤【空欄】 渥美郡 一人、②〇、③十五、④十六、⑤【空欄】 合計 ①二千三百五十一人、②二千九百 卅一人、③四万一千四百九十九、④壱万三千三百四十一、⑤【空欄】 備考 本表ノ数ハ未ダ詳細ヲ得ス概況ヲ掲ケタルモノニ付尚精査ノ上ハ増減有ベシ 人畜死傷家屋倒潰ノ惨状加フルニ名古屋市及西春日井郡枇杷島并清洲丹羽郡岩 倉并犬山葉栗郡北方海東郡津島等出火諸所ニアリ又地盤ノ壊裂堤塘ノ滔崩橋梁 ノ破損等枚挙スヘカラス要スルニ今廻ノ地震ハ尾張地方ニ最モ強クシテ三河地 方ハ弱ナリ 明治廿四年【三字分ほど破れ、十二月】 日 【九字分ほど破れ、印行】 愛知県名古屋市鶴重町六十八番戸 著者兼発行人 近藤寿太郎 同県同市中市場町五番戸 印刷人  大月勒二 名古屋市隺重町六十八番戸 発行所 秀文