【製本表紙】 【題箋】 「琉球入貢紀略 完」 【朱角印】 琉球入貢紀略序 【落款「晶山」】【角印「宝玲文庫」】 余友北峰山崎久郷、瑰瑋士也、博渉経史、 貫綜今古、海外典籍、無不通暁也、最精通 皇国之典故、着作汗牛、悉皆渉 国家之文為、実有用之学也、是以盛名伝 播一時、求之文壇、実罕輩儔、頃着琉球入 貢紀略、余訪北峰、得之凡案間、繙閲反覆、攬 要提綱、考拠精霰、援証詳審、如探珠 林、如泛玉海、真可謂会美矣、余濨慂之曰、 為斯書也、非国字以訳之、則児童走卒、不 能読之、請労高手更訳之、北峰唯諾、易以 国字、如大方君子、則就其原本、見之而可也、 書已成、受読之徒、日多一日、因命 剞劂、寿 諸■【棗ヵ】梨、省謄写之労、以応請求之士、嗚呼 北峰之於是挙、可謂勤矣、其稽古之博、考 証之詳、於是乎可窺其一斑矣、余竊雖琉球 入貢我 皇国、其来尚矣、況復慶元鞬囊、政治烋明、 徳化広被海内外、朝鮮聘問、琉球入貢、因襲故 常、修明礼典、二百有余年于茲、豈不盛大乎、 今歳壬辰仲冬、中山王使豊見城王子貢其 方物、謝襲封之恩、於是北峰有是撰、蓋掲 明 皇国之盛典者歟、亦用意之厚、学術之正、於 是乎可見矣、余幸遭逢昇平之世、親見琉 球使、四回于茲、見其人、想斯書、益信有裨 後昆矣、改嘗考之古、慶長年間、有釈袋中 者、我奥之岩城岩罡之人也、萍踪徧天 壌間、遂有航海之志、已到九州、欲与商舶注 唐山、以有縁故、先赴琉球、呂宋南蛮之夷 【棗(なつめ)ヵ、さらに梨棗の誤記ヵ】 【甞は嘗の異字体】 舶、通商西土者、羈在琉球、万祈請航海、彼 輩素畏憚我、 皇国之威武、峻拒不先、遂住錫琉球、其縉紳 黄冠馬幸明者、欽幕道範、䂁仰徳諠、使 袋中居於首里府桂林寺、国人無不欣戴 也、幸明語袋中曰、吾雖神国、昔未有其 伝記、䫟記之、袋中乃撰琉球神道記、復 為騞乱之徒、編琉球往来、其為体也蓋 模倣 皇国所謂逓訓往来云、袋中欲素志之不 済、頻発帰錫之情、而国俗繬素、懇請留 止、以故留連、応三寒暑矣、袋中亦屢辝浅、遂 解鑬、道俗餞送如市、充満海港、遥眺帆影、 惜錫跡之雖再云、袋中者、浄土教之徒、而所 謂名越派之臣擘也、着作凡二十有一部、余嘗 得窺其梗概、余也雖不同道、而同郷貫私汫 徳望、詳述如斯、碩乃北峰豈袋中之比哉、然 而於是書之成、掲示袋之有功於琉球、 亦余一片之婆心也、 天保玄黙執徐閏月、晶山間人書於木雞窩 【右丁】 南窓下、【落款二つ、「鍋田三善」】     読経斎主人書【丸印「原阿曽美」】 【左丁】 琉球(りうきう)入貢紀略(にふこうきりやく)目録(もくろく)   琉球/古(いに)しへ朝献(てうけん)ありし   琉球使(りうきうし)始(はじ)めて来(きた)る   琉球国/薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる   永享以後(えいかういご)琉球使の来(きた)る   島津氏(しまづうぢ)琉球を征伐(せいばつ)す   慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(にふこう)  附録(ふろく)   琉球(りうきう)の名(な)載籍(さいせき)に見えし 【右丁】   蛇海(じやかい) 鬼島(おにがしま)   舜天王(しゆんてんわう)は為朝(ためとも)の子(こ)  弁護(べんご)   海宮(わたつみのみや)今(いま)の琉球国といふの弁(べん)   宇留麻島(うるまのしま)琉球にあらざる弁   永享(えいかう)年間(ねんかん)琉球 始(はじ)めて入貢(にふこう)といふの弁   琉球の貢使(こうし)百余年(ひゃくよねん)絶(たえ)たりといふ弁   薩琉軍談(さつりうぐんだん)の弁   琉球(りうきう)国志略(こくしりやく)訛謬(くわべう)の弁 【左丁】 琉球入貢紀略(りうきうにふこうきりやく)   琉球 古(いに)しへ朝献(てうけん)ありし 琉球国(りうきうこく)は、吾邦(わがくに)の南海(なんかい)にあるところの一(ひと)ツの島国(しまくに)な り、いにしへその国(くに)の名(な)は聞(きこ)えざれど、もとより筑(つく) 紫(し)に隷(つき)たる島(しま)なり、唐土(もろこし)の書(しよ)には隋書(ずゐしよ)に始(はじ)め て見えたり、隋(ずゐ)の大業(たいげふ)三年に煬帝(やうだい)羽(う)騎尉(きゐ)朱寛(しゆくわん) といふ臣(しん)をして、海外(かいぐわい)の異俗(いぞく)を訪(とむら)はしめられし時(とき) に海帥(かいすゐ)【左注「せんとう」】の何蛮(かばん)という者(もの)いへるは、過(すぎ)し年(とし)より春秋(はるあき)の 天気(てんき)晴(は)れたるときに、東(ひがし)の方(かた)にあたりて海上(かいしやう)は るかに幾千里(いくせんり)ともしられず、煙霧(えんむ)【左注「けむりきり」】の如(ごと)くに見ゆる 島(しま)ありといへるによりて、朱寛(しゆくわん)とともに往(ゆか)しむる に、遂(つひ)に琉球国(りうきうこく)に到(いた)りぬ、されども言語(ことば)通(つう)ぜざるに よりて、その国(くに)の人(ひと)ひとりを掠(かす)めて還(かへ)れり、この時(とき) より後(のち)、また朱寛(しゆくわん)をつかはして慰撫(ゐぶ)せられしかども 猶(なほ)従(したが)はず、朱寛(しゆくわん)たゞその布甲(ふかふ)【左注「よろひ」】をとりて還(かへ)れるに、 そのころ我邦(わがくに)の使人(つかひ)たま〳〵唐土(もろこし)にありてその布(ふ) 甲(かふ)を見て、これは夷邪久(いやく)の国(くに)の人 用(もち)ふるものといへり、 我邦(わがくに)にこれらのこと記(しる)したるものなしといへど、これ によりておもへば、琉球(りうきう)も掖玖島人(やくしまのひと)とともに我邦(わがくに)へ はやく往来(ゆきゝ)せしことありしを知(し)られたり、史(し)に推古(すゐこ) 天皇(てんわう)廿四年に、掖玖人(やくのひと)来(きた)ると見えたり、この年(とし)隋(ずゐ)の大(だい) 業(げふ)十二年にあたれり、これより先(さき)に掖玖人(やくのひと)とともに琉(りう) 球人(きうじん)の我邦(わがくに)に来(きた)りしことありしにや、しからざれば大 業(げふ)の初(はじ)め、我邦人(わがくにのひと)の隋人(ずゐひと)に答(こた)へし詞(ことば)にかなひがたし、 かゝれば琉球(りうきう)の名(な)は国史(こくし)に載(の)せずといへども、推古(すゐこ)天(てん) 皇(わう)の御宇(ぎよう)より、已前(いぜん)已(すで)に朝献(てうけん)【左注「けんじやう」】ありしことをおもふべ し、   琉球使(りうきうし)の来(きた)れる 琉球(りうきう)は掖玖(やく)とともに推古(すゐこ)天皇(てんわう)以前(いぜん)より入貢(にふこう)しけ んが、はやく朝貢(てうこう)【左注「みつぎ」】怠(おこた)りて来(きた)らざりしなるべし、かくて その国(くに)と往来(ゆきゝ)なければ、たま〳〵記載(きさい)【左注「しよもつ」】に見えたるも みな懸聞(けんぶん)【左注「きゝつたへ」】臆度(おくど)【左注「すゐりやう」】のみにて、たしかなることなきはそ のゆゑなりとおもはる、その国(くに)もまたはるかの島国(しまくに) にて、いづれの国(くに)の附庸(ふよう)にもあらず、通信(つうしん)もせざりし が、明(みん)の洪武(こうぶ)年間(ねんかん)琉球(りうきう)は察度王(さつとわう)の時(とき)にあたりて冊封(さくほう) とて唐土(もろこし)より中山王(ちうざんわう)に封(ほう)ぜられて、彼国(かのくに)へも往来(ゆきゝ)し て、制度(せいと)【左注「おきて」】文物(ぶんふつ)【左注「かくもん」】すべてかの国(くに)にならひてぞありける、 明(みん)の宣徳(せんとく)七年に、宣宗内官(せんそうないくわん)紫山(さいさん)といふ臣(しん)に命(めい)じて、 勅書(ちよくしよ)を齎(もた)らしめ琉球につかはし、中山王(ちうさんわう)より人をし て、我邦(わかくに)に通信(つうしん)せしむ、この宣徳(せんとく)七年は我邦(わかくに)の永(えい) 享(かう)四年にあたれり、これによりて考(かんが)ふる、に【ママ】上古(しやうこ)【左注「おほむかし」】よ りはやく往来(わうらい)【左注「ゆきゝ」】絶(た)えて後(のち)、明(みんの)宣宗(せんそう)のために我邦(わかくに)へ 使(つかひ)せしは、はるかに年(とし)を歴(へ)て再(ふたゝ)び我邦(わかくに)へ琉球 使(し) の来(きた)れる始(はじ)めなるべし、これより後(のち)も明(みん)の正統(しやうとう)元年、 英宗(えいそう)琉球の貢使(こうし)伍是堅(こしけん)をして回勅(くわいちよく)を齎(もた)らし、 日本国王(にほんこくわう)源義教(けんきけう)に諭(ゆ)すといひ、《割書:これ永享八|年のことなり》嘉靖(かせい)三 年、琉球の長吏(ちやうす)【史】金良(きんりやう)の詞(ことは)に、これより先(さき)に正議(しやうぎ)大夫(たいふ) 鄭縄(ていしよう)といふものをして、日本国王(にほんこくわう)に転諭(てんゆ)す、《割書:これ大永|四年のこ》 《割書:となり○中山伝信録、|琉球国志略に見えたり》といへることあれば、明(みん)より我邦(わがくに)へ書(しよ) を贈(おく)るに、琉球 使(し)に命(めい)ぜしこともありしとぞお もはるゝ、   琉球(りうきう)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる 足利義満(あしかゞよしみつ)公(こう)の男(なん)、大覚寺(だいかくじ)門跡(もんせき)義昭(ぎせう)大僧正(だいそうじやう)、逆意(ぎやくい) の企(くわだ)てありて九州(きうしう)へ下(くだ)りたまふが、その事(こと)露顕(ろけん)【左注「あらわれ」】し ければ、日向国(ひうかのくに)福島(ふくしま)の永徳寺(えいとくし)に隠(かく)れて、野武士(のぶし)など 頼(たの)み居(ゐ)たまひけるに、足利義教(あしかゞよしのり)聞(きこ)しめし付(つけ)ら れ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津陸奥守(しまづむつのかみ)忠国(たゞくに)へ討(う)ち奉(たてまつ)るべき よし命(めい)ぜられしかば、嘉吉(かきつ)元年三月十三日、樺山某(かはやまそれかし) にあまたの兵士(へいし)を従(したか)はしめ討手(うつて)に向(むけ)られければ、僧(そう) 正(しやう)は自害(じかい)せられける即(すなは)ち御首(おんくひ)をば将軍(しやうくん)へ贈(おく)られ たり、僧正(そうしやう)の役人(やくにん)別垂 讃岐坊(さぬきばう)といふもの、同(おな)じ時(とき)に 討(うた)れしとぞきこえし、この恩賞(おんしやう)として、薩州(さつしう)の 太守(たいしゆ)へ琉球国(りうきうこく)と通信(つうしん)【左注「ゆきかよひ」】交易(かうえき)なすべきよしの命(めい)あ り、これ琉球(りうきう)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となるの始(はじ)めなり、《割書:旧|伝》 《割書:集、諸門跡譜等|に据りてしるす》    永享(えいかう)以後(いご)琉球使(りうきうし)の来(きた)る 文安(ふんあん)五年、琉球人 来(きた)る、《割書:分類年|代記》宝徳(はうとく)三年七月、琉球 の商人(あきひと)の船(ふね)兵庫(ひやうご)の津(つ)に着岸(ちやくがん)したるに、守護職(しゆこしよく) 細川京兆(ほそかはけいてう)、やがて人(ひと)をつかはして、彼(かの)商物(あきなひもの)を撰(えら)み 取り料足(れうそく)を渡(わた)さず、先々年々(せん〳〵ねん〳〵)の借財(しやくさい)四五千貫(しこせんぐわん)に 及(およ)べども返弁(へんべん)なく、その上(うへ)売物(うりもの)をおさへ留(と)めら れて、琉球人 難義(なんぎ)のよしまうしければ、時(とき)の公方(くばう)《割書:義|政》 より、奉行(ぶきやう)三人(さんにん)、布施下野守(ふせしもつけのかみ)、飯尾(いひを)与三左衛門(よさうざゑもん)同(おなじく)六(ろく) 郎(らう)をつかはされて、糺明(きうめい)【左注「たゞす」】せられしに、かの押(お)して取(とり)た る物(もの)を、京兆(けいてう)より返(かへ)されざるによりて、奉行(ぶきやう)の上洛(しやうらく)延(えん) 引(にん)せしといふことあり、《割書:康富|記》同じ年(とし)の九月、琉球人(りうきうじん)の 献上(けんじやう)するところの、鳥目(てうもく)一千貫(いつせんぐわん)を、禁中(きんちゆう)に進献(しんけん)せ らる、《割書:京都将|軍家請》文正(ぶんしやう)元年七月廿八日、琉球人 参洛(さんらく)す、こ れは足利義政(あしかゞよしまさ)の世(よ)になりて、六度目(ろくたびめ)なりとぞ、《割書:斎|藤》 《割書:親基|日記》天正(てんしやう)十一年琉球 国(こく)入貢(にふこう)す、《割書:和漢合運、異|国往来記》おもふに 永享(えいかう)以後(いご)、琉球 使(し)の我邦(わがくに)に入貢(にふこう)するもの、これよ り猶(なほ)多(おほ)かるべけれど、その頃(ころ)世(よ)おだやかならず、記(き) 載(さい)もまたに乏(ともし)ければ、その詳(つまびらか)なることは知(し)りがたき なり、   薩州太守(さつしうのたいしゆ)島津氏(しまづうぢ)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す 琉球国は、嘉吉年間(かきつねんかん)足利義教(あしかゝよしのり)の命(めい)ありてより このかた、世々(よゝ)薩州(さつしう)に附庸(ふよう)の国(くに)たるを、天正(てんしやう)のころ 群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)【左注「てんかいつとうせず」】の時(とき)にあたりて、琉球の往来(わうらい)も姑(しはら)く絶(た) えたりければ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津家久(しまづいへひさ)より、もとの如(こと) く貢使(こうし)あるべきよしを、再三(さいさん)使(つかひ)をもていひつ かはしけれども、彼国(かのくに)の三司官(さんしくわん)謝那(しやな)といふ者(もの)、竊(ひそか)に明(みん) 人(ひと)と事(こと)を議(はか)りて、待遇(たいぐう)ことさらに無礼(ぶれい)なりしかば、 已(や)むことを得(え)ずして、慶長(けいちやう)十四年の春(はる)、台命(たいめい)を蒙(かうふり) 軍(いくさ)を起(おこ)し、樺山(かばやま)権左 衛門(ゑもん)久高(ひさたか)を総大将(そうたいしやう)とし、平(ひら) 田太郎(たたろ)左衛門(さゑもん) 益宗(ますむね)を副将(ふくしやう)とし、龍雲和尚(りううんをしやう)を軍(ぐん) 師(し)とし、七島郡司(なゝしまくんじ)を按内(あんない)として、その勢(せい)都合(つがふ)三千余(さんぜんよ) 人(にん)戦艦(いくさぶね)百余艘(ひやくよそう)を出(いだ)して、二月二十一日 纜(ともつな)を解(と)きて、琉 球国へ発向(はつかう)せしむ、樺山(かばやま)久高(ひさたか)総勢(そうぜい)を引卒(いんそつ)して、は じめ大島(おほしま)に著岸(ちやくかん)し、また徳島(とくしま)に赴(おもむ)きしに、島人(しまひと)こ れを防(ふせぐ)もの凡(およそ)千人(せんにん)ばかりなり、この戦(たゝか)ひに首(くび)を獲(う)る こと三百 余級(よきふ)、余(よ)はみな降人(がうにん)にぞ出(いで)にける、四月朔日 那(な) 覇(は)の港(みなと)に至(いた)らんと、かのところに赴(おもむ)くに、港口(みなとぐち)には 逆茂木(さかもき)乱杭(らんぐひ)をかまへ、水中(すゐちゆう)に鉄(てつ)の鎖(くさり)をはり、是(これ)に 船(ふね)のかゝりなば、上(うへ)より眼(め)の下(した)に見おろして、射(い)とる べき手(て)だてをかまへ、その外(ほか)の島々(しま〴〵)へも、用意(ようい)お ごそかにしてぞ待(まち)かけたる、これによりて他(ほか)の港(みなと)よ り攻入(せめい)りて、三日の間(あひだ)せめ戦(たゝか)ひ、手負(ておひ)討死(うちじに)少(すく)なから ずといへども、遂(つひ)に進(すゝ)みて首里(しゆり)に攻入(せめい)り、王城(わうじやう)を囲(かこ) みて、急(きふ)にもみにもんで攻破(せめやぶ)らんとす、琉球王(りうきうわう)及(およ)び三(さん) 司官(しくわん)等(ら)、薩州勢(さつしうぜい)の強大(きやうだい)にして、当(あた)るべからざるに避易(へきえき)【左注「おそれて」】【辟易】し、 みな出(いで)て降(がう)を乞(こ)ひけるによりて、軍(いくさ)の勝利(しようり)を得(え)て、 琉球 忽(たちまち)に平均(へいきん)【左注「たいらぐ」】せしよしを、速(すみやか)に駿府(すんふ)へ言上(こんしやう)【左注「まうしあげ」】ありしかば、 甚(はなは)だ称美(しようび)せさせたまひ、琉球を永(なが)く薩州(さつしう)の附庸(ふよう)と ぞせられける、かくて五月廿一日に、中山王 尚寧(しやうねい)及(およ)び 諸王子(しよわうじ)を擒(とりこ)にして、薩州(さつしう)の軍士(ぐんし)凱陣(かいぢん)せり、十五年八 月、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)中山王(ちゆうざんわう)をともなひ、駿府(すんふ)に来(きた)りて 登城(とじやう)す、中山王 段子(どんす)【緞子】百端(ひやくたん)、猩々皮(しやう〴〵ひ)十二尋(しふにひろ)、太平布(たいへいふ) 琉球(りうきう)  入貢(にふこう)の図(づ) 【行列の絵図あり】 二百 疋(ひき)、白銀(はくぎん)一万 両(りやう)、大刀(たち)一腰(ひとこし)を献上(けんじやう)す、それより 江戸(えど)に到(いた)りて、将軍家(しやうぐんけ)に謁(えつ)しけるに、米(こめ)一千俵(いつせんべう)を下(くだ) したまふ、さてその年(とし)帰国(きこく)ありて、翌(よく)十六年中山 王 琉球(りうきう)に帰(かへ)ることを得(え)たり、これによりて十二月十五 日、琉球人 駿府(すんふ)へ帰国(きこく)御礼(おんれい)のために参(まゐ)りて、薬種(やくしゆ)及(およ) び方物(はうぶつ)【左注「こころのしな」】くさ〴〵を貢献(こうけん)す、さて中山王 尚寧(しやうねい)降服(かうふく)し てより、永(なが)く吾邦(わがくに)の正朔(せいさく)を奉(ほう)じ、聘礼(へいれい)を修(しゆう)すべき よしの誓(ちか)ひをなしてけり、《割書:系図、旧伝集、政事録、南|浦文集等によりて記す、》これ 今(いま)の入貢(にふこう)の始(はじ)めなり、この後(のち)貢使(こうし)かつて闕(かく)ること なし、   慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(にふこう) 寛永(くわんえい)十一年閏七月九日、中山王(ちうざんわう)尚豊(しやうほう)、賀慶使(がけいし)佐敷王(さしきわう) 子(じ)、恩謝使(おんじやし)金武王子(きむわうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:元寛|日記》 この年(とし)、将軍家(しやうぐんけ)御上洛(ごしやうらく)ありて、京都(きやうと)にましますをも て、二条(にでう)の御城(おんしろ)へ登城(とじやう)す、このゆゑに二使(にし)江戸(えど)に来(きた)ら ず、 正保(しやうほ)元年六月廿五日、中山王 尚賢(しやうけん)、賀慶使 金武按(きむあん) 司(す)、恩謝使 国頭按司(くにかみあんす)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、七月 三日、下野国(しもつけのくに)日光山(につくわうざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、《割書:輪池|掌録》 慶安(けいあん)二年九月、中山王 尚質(しやうしつ)、恩謝使 具志川按司(くしかはあんす)等(ら) をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|事略》また日光山の御宮を拝(はい) す、 承応(じやうおう)二年九月二十日、中山王 尚質(しやうしつ)、賀慶使 国頭(くにかみ)按 司 等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:羅山文集、和漢合運、|近世武家編年略、》また日 光山の御宮を拝す、 寛文(くわんぶん)十一年七月廿八日、中山王 尚貞(しやうてい)、恩謝使 金武王(きむわう) 子(じ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:万天|日記》また日光山の御 宮を拝す、《割書:琉球事略、|歴代備考、》 天和(てんわ)二年四月十一日、中山王 尚貞(しやうてい)、賀慶使 名護按司(なごあんす) 恩納親方(おんなおやかた)等をして方物を貢す、《割書:万天日記、|甘露叢、》 宝永(はうえい)七年十一月十八日、中山王 尚益(しやうえき)、賀慶使 美里(みさと)王 子 富盛(ともり)親方、恩謝使 豊見城(とみくすく)王子 与座(よさ)親方等を して方物を貢す、《割書:琉球聘|使紀事》また東叡山(とうえいさん)の御宮(おんみや)を 拝す、中山使の日光山(につくわうさん)に到(いた)らずして、東叡山に来 ることこの時を始とす、 正徳(しやうとく)四年十二月二日、中山王 尚敬(しやうけい)、賀慶使 与那城(よなくすく) 王子、恩謝使 金武(きむ)王子等をして方物を貢す、 《割書:文露|叢》 享保(きやうはう)三年十一月十三日、中山王 尚敬(しやうけい)、賀慶使 越来(こえく) 王子 西平(にしひら)親方等をして方物を貢す、《割書:享保|日記》 寛延(くわんえん)元年十二月十五日、中山王尚敬、賀慶使 具志(くし) 川王子 与那原(よなばる)親方等をして方物を貢す、《割書:歴史|要略》 宝暦(はうりやく)二年十二月十五日、中山王 尚穆(しやうぼく)、恩謝使 今帰(いまき) 仁(じん)王子等をして方物を貢す、《割書:歴史|要略》 明和元年十一月、中山王尚穆、賀慶使 読谷山(よんたんざん)王 子等をして方物を貢す、《割書:三国通覧、|速水私記、》 寛政(くわんせい)二年十二月二日、中山王 尚穆(しやうぼく)、賀慶使 宜野湾(ぎのわん) 王子等をして方物を貢す、《割書:琉球|談》 寛政八年十二月六日、中山王 尚成(しやうせい)、恩謝使 大宜見(おほきみ) 王子 安村(やすむら)親方等をして方物を貢す、《割書:輪池|掌録》 文化(ぶんくわ)三年十一月廿三日、中山王 尚灝(しやうかう)、恩謝使 読谷(よんたん) 山(ざん)王子 小禄(をろく)親方等をして方物を貢す、 【右丁、文字なし】 【左丁】 附録(ふろく)   琉球(りうきう)の名(な)載籍(さいせき)に見えし 琉球はもとより我邦(わがくに)の属島(ぞくたう)なりといへども、かけ はなれたる島国(しまぐに)にて、その国(くに)の往来(わうらい)【左注「ゆきゝ」】することはやく 絶(た)えぬれば、たま〳〵載籍(さいせき)【左注「しよもつ」】に見ゆるもの、僅(わづか)に一(いち)二(に)条(でう) にして、その詳(つまびらか)なることかつて考(かんが)ふべからず、弘法大(こうぼふだい) 師(し)の性霊集(しやうりやうしふ)に、颽風朝扇(がいふうあしたにあふき)、摧肝耽羅之狼心(きもをたんらのらうしんにくだき)、北気(ほつき) 夕発(ゆふべにおこり)、失膽留求之虎性(きもをりうきうのこせいにうしなふ)、《割書:これは入唐大使賀能のために、代撰|せられて、福州観察使に与ふるの》 《割書:書の文|なり》と見ゆ、これ延暦(えんりやく)廿三年のことなり、今昔物(こんじやくもの) 語(かたり)智証大師(ちしようたいし)の伝(でん)に、仁寿(にんじゆ)三年八月ノ九日、宋(そう)ノ(の)商(あき) 人(ひと)良暉(りやうき)カ(が)、年来(ねんらい)鎮西(ちんぜい)ニ(に)有(あり)テ(て)、宋(そう)ニ(に)返(かへ)ルニ(るに)値(あひ)テ(て)、其(そ)ノ(の)船(ふね)ニ(に) 乗(のり)テ(て)行(ゆ)ク(く)、東風(ひがしかぜ)忽(たちまち)ニ(に)迅(とく)シテ(して)船(ふね)飛(と)フ(ぶ)カ(が)如(ごと)ク(く)也(なり)、而(しか)ル(る)間(あいだ)、十 三日ノ申時(さるのとき)ニ(に)、北風(きたかせ)出来(いでき)テ(て)流(なが)レ(れ)行(ゆ)クニ(くに)、次(つぎ)ノ(の)日(ひ)辰時(たつのとき)計(ばかり)ニ(に) 琉球国(りうきうこく)ニ(に)漂(たゞよひ)着(つ)ク(く)、其国(そのくに)ハ(は)海中(かいちう)ニ(に)有(あ)リ(り)人(ひと)ヲ(を)食(くら)フ(ふ)国也(くになり)、 其時(そのとき)ニ(に)風止(かぜやみ)テ(て)趣(おもむ)カム(かん)方(かた)ヲ(を)不知(しら)ラ(ず)、遥(はるか)ニ(に)陸(くが)ノ(の)上(うへ)ヲ(を)見(み)レハ(れば)、 数十(すじふ)ノ(の)人(ひと)鉾(ほこ)ヲ(を)持(もち)テ(て)徘徊(はいかい)ス(す)、欽良暉(きんりやうき)是(これ)ヲ(を)見(み)テ(て)泣悲(なきかなし) フ(ぶ)、和尚(をしやう)其故(そのゆゑ)ヲ(を)問(と)ヒ(ひ)給(たま)フニ(ふに)、答(こたへ)テ(て)云(いは)ク(く)、此(こ)ノ(の)国(くに)人(ひと)ヲ(を)食(くら)フ(ふ) 所也(ところなり)、悲(かなしい)哉(かな)此(こゝ)ニシテ(にして)命(いのち)ヲ(を)失(うしなひ)テムトスト(てんとすと)、和尚(をしやう)是(これ)ヲ(を)聞(きゝ)テ(て)、 忽(たちまち)ニ(に)心(こころ)至(いた)シテ(して)、不動尊(ふどうそん)ヲ(を)念(ねん)ジ(じ)給(たま)フ(ふ)、《割書:三善清行が撰みし|伝にも、同じ趣きなり、》とい へり、これや琉球(りうきう)の我邦(わがくに)の書籍(しよじやく)に見えたる始(はじ)めなら ん、さてこゝに琉球は人(ひと)を食(くら)ふの国(くに)といへるも、もとより 伝説(でんせつ)【左注「いひつたへ」】の誤(あやま)りなることは、弁(べん)【左注「ことわる」】をまたずといへども、またそ の据(よる)ところなにあらず、隋書(ずゐしよ)に国人好相攻撃(こくじんこのんであひこうげきす)【左注「たゝかふ」】云々、 取闘死者共聚而食之(たゝかひしするものをとりてともにあつまりてこれをくらふ)とあるをおもへば、唐土(もろこし)にて ふるくより琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふよしいひ伝(つた)へしを、我(わが) 邦(くに)にもかたりつたへしなるべし、これによりてもそ の国(くに)我邦(わがくに)には近(ちか)けれども、絶(た)えて往来(わうらい)【左注「ゆきゝ」】せざるをし るべし、   蛇海(じゃかい) 鬼島(おにがしま) 唐僧(たうそう)鑑真和尚(がんじんをしやう)の我邦(わがくに)に来(きた)られしは、唐(たう)の天宝(てんはう)十 二年なり、それより先(さき)ひとたび出帆(しゆつはん)して、難風(なんふう)に 逢(あ)ひて渡海(とかい)なりがたかりし時(とき)のことなるが、天宝(てんはう)七 載(さい)十月十六日、蛇海(じやかい)を過(す)ぐ、その蛇(じゃ)長(なが)きものは一丈(いちちやう) 余(よ)、小(せう)なる者(もの)は三尺(さんじやく)余(よ)、色(いろ)みな斑(まだら)にして、海上(かいしやう)に満泛(みちうか) ぶといふことあり、《割書:鑑真東征伝、また宋の高僧伝|に見えたることも、同じおもむきなり》元享釈(げんかうしやく) 書(しよ)には、この鑑真(がんじん)のことを記(しる)して、日南(じつなん)に漂(たゞよ)ひ竜宮(りうぐう)に 赴(おもむ)くといへり、これは何(なに)によりて記(しる)せしにか、日南(じつなん)のこと 竜宮(りうぐう)のこと、上(かみ)の二書(にしよ)には見えず琉球神道記(りうきうしんたうき)に、毒蛇(どくじや) を恐(おそ)るゝよし記(しる)したれば、この蛇海(じやかい)といふは、琉球の ことにもやあらん、《割書:琉球|状》また鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)、伊豆(いづ)の大(おほ) 島(しま)に流(なが)されしが、永万(えいまん)元年三月、白鷺(しろさぎ)の沖(おき)の方(かた) へ飛(とび)行(ゆ)くを見て、定(さだめ)て島(しま)ぞあらんとて、舟(ふね)に乗り て馳(は)せ行(ゆ)くに、ある島(しま)につきて廻(めぐ)り見たまふに、田(た) もなし、畠(はたけ)もなし、汝等(なんぢら)何(なに)を食事(しよくじ)【左注「くひもの」】とすると問(と)へば、 魚鳥(うをとり)とこたふ、その鳥(とり)は鵯(ひよどり)ほどなり、為朝(ためとも)これを見(み) 鎮西八郎(ちんぜいはちらう)為朝(ためとも) 翔鳥(かけとり)を射(い)るの 図(づ) 【絵図あり】 【画面右下、署名「雪堤」、落款「長谷川」】 たまひて、大鏑(おほかぶら)の矢(や)にて木(き)にあるを射落(いおと)し、空(そら)を 翔(かけ)るを射殺(いころ)しなどしたまへば、島(しま)のものども舌(した)を振(ふるひ) ておぢ恐(おそ)る、汝等(なんぢら)も我(われ)に従(したが)はずは、かくの如(ごと)く射殺(いころ)す べしと宣(のたま)へば、みな平伏(ひれふし)て従(したが)ひけり、島(しま)の名(な)を問(とひ)たま へば、鬼(おに)が島(しま)と申(まう)すといへり、《割書:保元|物語》この為朝(ためとも)の渡(わた)りし鬼(おに) が島(しま)といふも、即(すなはち)今(いま)の琉球国(りうきうこく)のことなり、《割書:琉球|事略》いま已(すで) に琉球の東北(ひがしきた)にあたりて、鬼界島(きかいがしま)といふ名(な)のあるも、 そのなごりなりといへり、《割書:南島|志》  舜天王(しゆんてんわう)は為朝(ためとも)の子(こ)なり 為朝(ためとも)、伊豆(いづ)の大島(おほしま)より、流(なが)れに随(したが)ひ国(くに)を求(もと)めて、琉 球国に至(いた)り、大里按司(おほさとあんす)の妹(いもと)に相具(あひぐ)して一子(いつし)を生(う)む、 名(な)を尊敦(そんとん)といふ、後(のち)浦添按司(うらそひのあんす)となる、そのころ 琉球の国王(こくわう)、天孫氏(てんそんし)の廿五世(にじふこせ)の裔孫(えいそん)、権臣利勇(けんしんりゆう)と いふものゝ為(ため)に滅(めつ)【左注「ほろぶ」】せらる、この時(とき)浦添(うらそひ)の按司(あんす)尊敦(そんとん)、 義(ぎ)を唱(とな)へ兵(へい)【左注「いくさ」】を起(おこ)して利勇(りゆう)を誅(ちゆう)【左注「ころす」】す、これにより て国人(くにびと)推(お)し尊(たふと)みて尊敦(そんとん)を君(きみ)とす、これ即(すなはち) 舜天王(しゆんてんわう)なり、舜天(しゆんてん)より義本(ぎほん)に至(いた)りて、三伝(さんでん)【左注「さんだい」】共(とも)に七 十三年にして、天孫氏(てんそんし)の裔(えい)、英祖(えいそ)に位(くらゐ)をゆづれりと 【右丁】 かや、《割書:中山世譜、中山伝|信録、琉球国志略》 【左丁】 弁誤(へんこ)   海宮(わたつみのみや)今(いま)の琉球国(りうきうこく)といふの弁(へん) 或説(あるせつ)に、史所謂海神宮(しにいはゆるわたつとのみやは)、今南海諸島琉球是也(いまのなんかいのしよたうりうきうこれなり)、按海(あんするにかい) 神和多都美者(しんわたつみは)、本于諾尊之所生(そくそんのしよせいにもとつく)、少童命蓋海神(わたつみのみことはけたしかいしん)、豊(とよ) 玉彦者海島酋主(たまひこはかいたういうしゆ)焉、故云海神日向国宮崎辺人(ゆゑにいふかいしんはひうかのくにみやさきへんのひと)、依(とん[ママ]) 天神勅御海事也(しんのちよくによりてかいしをきよするなり)、然則如諸島琉球(しかるときはしよたうりうきうのこときも)、当時係海神豊(たうしかいしんとよたまひこ) 玉彦之管轄(のくわんくわつにかゝる)、といへり、かゝる説(せつ)の已(すて)にありし故(ゆゑ)にや、 日本書紀通証(にほんしよきつうしよう)にも、海宮(かいくう)の条(てう)に琉球(りうきう)なるよしを いひたり、しかれども本居宣長(もとをりのりなか)が古事記伝(こしきてん)、荒木(あらき) 田久老(たひさおい)が日本紀(にほんき)歌廼解等(うたのかいとう)に云(いふ)、海神(かいしん)の宮(みや)を今(いま)の琉 球国なりといひて、その証(しよう)などをとかくいへるは、古(こ) 伝(てん)を信(しん)せずして、みだりにいへる私(わたくし)のさかしら言(こと)なり といへるぞ、実(け)に至当(したう)の論(ろん)といふべし、古来(こらい)より事(こと)の たえて相似(あひに)たるをもて、附会(ふくわい)することいと多(おほ)か【*】り、 すべてみな臆度(おくと)に出(いて)でたる妄説(まうせつ)なれば信(しん)ずべ からず、   うるまの島(しま)琉球(りうきう)にあらざるの弁 笈埃(きふあい)随筆(すゐひつ)、夏山雑談等(かさんさつたんとう)に、うるまの国(くに)とは琉球なり といへり、これはもと狭衣(さころも)といふ冊子(さうし)に、うるまの島(しま)と いふことのあるを、紹巴(せうは)の下紐(したひも)といふ注釈(ちゆうしやく)に、琉球なり といへるによると見ゆれども謬(あやま)りなり、うるまは新羅(しらき)《割書:今|の》 《割書:朝鮮|なり》の属島(そくたう)にして、琉球にはあらず自(おのつか)ら別(へつ)なり、そ の証(しよう)は大納言(たいなこん)公任集(きんたうのしふ)に、しらきのうるまの島人(しまひと) 来(きた)りて、こゝの人(ひと)のいふことも聞(きゝ)しらずときかせたま ひて、返(かへ)りごと聞(きこ)えざりける人(ひと)に、と詞書(ことはかき)ありて、 おぼつかなうるまの島(しま)の人(ひと)なれやわが恨(うら)むるを しらずがほなる、《割書:千載集には、四の句を|わがことのはをに作る、》また本朝(ほんてう)麗藻(れいさう) 【影印は「ノ」に似ている、版木の欠損ヵ】 に、新羅国(しらきのくに)迂陵島人(うるまのしまひと)とも見えたり、これにて琉球 ならざることいと分明(あきらか)なり、前田夏蔭云、うるまは 迂陵(うりよう)の韓音(かんおん)なりといへり、   永享年間(えいかうねんかん)琉球使(りうきうし)来(きた)るの弁(べん) 室町紀略(むろまちきりやくに)云(いふ)、永享(えいかう)十一年七月、是歳(ことし)琉球国 入貢(にふこう)、《割書:琉|球》 《割書:入貢|始見》また琉球事略(りうきうしりやく)に、後花園院(ごはなそのゐん)宝徳(はうとく)三年七月、 琉球人 来(きた)りて、義政将軍(よしまさしやうくん)に銭千貫(せにせんくわん)と方物(はうもつ)【左注「そのくにのもの」】を献(けん) ず、これよりしてその国人(くにのひと)兵庫(ひやうご)の浦(うら)に来(きた)りて交易(かうえき) すといふ、しからば彼国(かのくに)の使(つかひ)本朝(ほんてう)に来(きた)ることは、尚金(しやうきん) 福(ふく)が時(とき)をもて、その始(はじ)めとすべきかといへり、これら の説(せつ)みな誤(あやま)りなり、按(あん)ずるに中山伝信録(ちゆうざんでんしんろくに)云(いはく)、宣徳(せんとく)七(しち) 年(ねん)、宣宗以外国朝貢独日本未至(せんそうぐわいこくのてうこうひとりにつほんいたらざるをもて)、命内官柴山齎(ないくわんさいさんにめいじてちよくを) 勅至国(もたらしくにいたる)、令王遣人(わうをしてひとをつかはし)、往日本諭之(につほんにゆいてこれをさとさしむ)と見えたり、これ実(じつ) に我(わが)永享四年(えいかうよねん)にあたれり、かゝれば二書(にしよ)にいふと ころ、この時より後(おく)れたれば、その始(はじめ)にあらざる をしるべし、   琉球(りうきう)の貢使(こうし)百余年(ひやくよねん)絶(たえ)たりといふ弁(べん) 嘉吉年間(かきつねんかん)、京都(きやうと)将軍家(しやうぐんけ)の命(めい)にて、琉球国を薩(さつ) 摩(ま)の附庸(ふよう)とせられしより、宝徳(はうとく)に来聘(らいへい)して後(のち)、百(ひやく) 余年(よねん)貢使(こうし)来(きた)らざりしかば、慶長(けいちやう)十四年、島津家(しまづけ)より その罪(つみ)を正(たゞ)さんために、軍(いくさ)をおこしてかの国(くに)を討(うた)れ しよしいふは非(ひがごと)なり、琉球事略(りうきうしりやく)に、近年(きんねん)その国(くに)の三司(さんし) 官(くわん)邪那(しやな)といふもの、大明(たいみん)と相議(あひぎ)して、その国王(こくわう)を勧(すゝ)め て、日本人(につほんじん)の往来(わうらい)をとゞむといひ、また定西法師(ぢやうさいほうし)物語(ものかたり) にも、定西(ちやうさい)いまだわかゝりしころ、薩州(さつしう)に琉球の王子(わうじ) の来(きた)り寓(ぐう)せられしに従(したが)ひて、かの島(しま)にわたりて寵(ちよう) を得(え)て、後(のち)我邦(わがくに)にかへりしが、慶長(けいちやう)の征伐(せいばつ)に、その王(わう) 子(し)も擒(とら)はれて駿府(すんふ)に来(きた)りしに、はからず定西(ちやうさい)に逢(あ) へりといふこと見えたり、これらにてもその往来(わうらい)百余(ひやくよ) 年(ねん)絶(た)えしにはあらざるをおもふべし、   薩琉軍談(さつりうぐんだん)の弁(べん) 世に薩琉軍談といふ野史(やし)あり、その書(しよ)の撰者(せんじや)詳(つまびらか)な【ママ】 ずといへども、あまねく流布(るふ)して、二国(にこく)の戦争(せんさう)【左注「たゝかひ」】をい ふものはかならず口実(こうじつ)とす、そのいふところ、薩州(さつしう)の 太守(たいしゆ)島津(しまづ)兵庫頭(ひやうごのかみ)義弘(よしひろ)の代(よ)に、惣大将(そうたいしやう)新納(にひろ)武蔵(むさし) 守(かみ)一氏(かずうち)、種島大膳(たねがしまたいぜん)佐野帯刀(さのたてはき)等(とう)、士卒(しそつ)惣人数(そうにんず)十 万千八百五十四人 渡海(とかい)せしといへり、又かの国(くに)の澐灘(うんだん) 湊(そう)、竹虎城(ちくこぢやう)、あるひは米倉島(べいさうたう)、乱蛇浦(らんじやほ)などいふ地名(ちめい)あり、 その将士(しやうし)には、陳文碩(ちんぶんせき)、孟亀霊(まうきれい)、朱伝説(しゆでんせつ)、張助昧(ちやうじよまい)等(とう)の名(な) をしるしたり、まことにあとかたもなき妄誕(まうたん)にして、 その書(しよ)の無稽(ぶけい)、論(ろん)を待(また)ずしてしるべし、慶長征伐(けいちやうせいばつ) のこと、已(すで)に本編(ほんへん)に詳(つまひらか)なれば更(さら)にこゝにいはず、   琉球国志略(りうきうこくしりやく)の訛(くわ)謬(べり[ママ])【左注「あやまり」】を弁(べんず) 琉球国志略云(りうきうこくしりやくにいはく)、万歴間(ばんれきかん)浦添孫慶長(うらぞひのそんけいちやう)即察度王後(すなはちさつとわうののち)、興(につ) 於日本(ほんにおこり)、自薩摩州挙兵入中山(さつましうよりへいをあげちゆうざんにいり)、執王及群臣以帰(わうおよびぐんしんをとらへもつてかへる)、留(とゞまる) 二年(ことにねん)、迵不屈被殺(たうくつせずころさる)、王危坐不為動(わうきざしてためにうごかず)、慶長異之卒送王(けいちやうこれをことなるとしてつひに) 帰国(わうをおくりくにゝかへす)と見えたり、唐土(もろこし)の人(ひと)もとより我邦(わがくに)の事実(しじつ)に 疎(うと)し、島津氏(しまづうぢ)をもて琉球 察度王(さつとわう)の裔(えい)とし、慶長(けいちやう) は我邦(わがくに)の年号(ねんがう)なることを知(し)らずして島津氏(しまづうぢ)の 名(な)とす、その訛謬(くわべう)尤笑(もつともわら)ふべし、この事(こと)已(すで)に中山(ちゆうざん) 伝信録(でんしんろく)に世纘図(せいさんづ)を引(ひき)ていへりといへども、国史略(こくしりやく)は伝(でん) 信録(しんろく)に比(ひ)【左注「くらべ」】すれば頗詳(すこぶるつまびらか)にして且(かつ)正(たゞ)し、ゆゑに今(いま)国史 略につきてこれを弁(べん)ず、さて因(ちなみ)に云(いふ)初学(しよがく)の輩(ともがら)、 我邦(わがくに)の事蹟(じせき)たま〳〵唐土(もろこし)の載籍(さいせき)に見ゆるとき は、かならず引(ひき)て証(しよう)とす、我邦(わがくに)の人(ひと)我邦の事(こと)を 記(しる)すに、猶誤(なほあやま)りなきことあたはず、況(いはん)や唐土(もろこし)の書(しよ) にいふところ、多(おほ)くはみな懸聞(けんぶん)の訛(あやま)り臆度(おくど)の妄(まう) のみ、  天保三年歳次壬辰十一月   【落款「美成」ヵ】 【製本裏表紙、文字なし】