【表紙】 沖縄  固有信仰のおとろえ      仲原善忠著 【表紙】 沖縄  固有信仰のおとろえ      仲原善忠著 【表紙裏】 【右頁上段】 沖縄   固有信仰のおとろえ                仲原善忠        はじめに…………………………………149      一 固有信仰と祖先崇敬……………………150      二 固有信仰圧迫政策………………………153      三 祖先崇敬と墓……………………………155      四 固有信仰の現状…………………………157     はじめに  固有信仰の要素として残存していたお嶽、火の神、ノロ (神女)などが、今次の戦争で大打撃をうけ、琉球四群島 中の沖縄群島では消滅の寸前にあるといってよい。  この信仰が、のちに述べるように、全群島の人のもので あったのは、一三―四世紀までで、文化の発達につれて、 しだいに力を失い、儒教倫理を中心思想とする祖先崇敬が、 【右頁下段】 勢力をもって来て、両者は徐々に入れ替ったのである。  固有信仰は、古代信仰で、祖先崇敬が、中世信仰であっ たといってもさしつかえない、と考えられる。  前者は、農業を主産業とする集落の共同祭祀を紐帯とし ており、その司祭者は女性であった。崇敬の対象は、集落 の守護神で、お嶽に天降る神、太陽=火の神が、中心であ った。  後者は封建社会のささえとなる儒教、とくに孝□を中心 とした□□で、男性優位の高文化社会の産物である。祭祀 の形式は仏教に則(のっと)るが、中味は祖先祭で、一五世紀の末か ら、しだいに□□を□がれた封建的の社会秩序の背骨とな った。  琉球の四群島(奄美、沖縄、宮古、八重山)は六〇余の島々 から成っている。それらの島々は、それぞれの□性を持つ とともに、文化段階も違っている。したがって、文化の中 心地では、すでに近代化しているのに、ある地方は中世的、 ある島はまだ古代的習俗が残存しているところがあっても 不思議ではない。  琉球の中世信仰は、仏教、儒教の伝来によって徐々に成 長し、初めは固有信仰を許容する寛容性をもっていたが、 149 150 【右頁上段】 一七世紀になると、□然態度を改め、これを迷信と決定、 圧力を加えた。このことはあとでまた触れる。     一 固有信仰と祖先崇敬  さて、琉球の宗教について、はじめて解説を加えたのは、 袋中の『琉球神道記』であろう。明治以後に、近代的解説 を試みたのは折口信夫氏の『琉球の宗教』および『続琉球 神記』であろう。もっとも、その前に、伊波普猷氏の『古 琉球の政有信仰治』があり、その中に、神女の制度の説明がある。 折口氏は、固につき全面的の解説を試みているが、 目標は古代□□にあるらしい。  これら先人の影響のためか、琉球の民間信仰といえば、 現在生きているものには着目せず、すでに残存物にすぎな いものを、生命のあるもののごとく思いこみ、あるいは島 嶼、僻地にある断片を一般化して記述し、世人の注目を引 く傾きがあるように感じられる。  折口氏は、しかし、祖先崇敬のことを見のがしてはいな い。   祖先崇拝の形の整ふ原因は暗面から見れば、死霊恐怖   であり、明るい面から見れば、巫女教に伴ふ自然の形 【右頁下段】   で、巫女をはらました神並びに、巫女に神性を考へる   所に始まるのである。……琉球の宗教思想に大勢力の   ある祖先崇拝も、琉球神道の根源とは見られないので   ある。【(1)】   祖先崇拝の盛んな事、其を以て、国粋第一と誇つてゐ   る内地の人々も及ばぬ程である。旧八月から九月にか   けて、一戸から一人づゝ、一門中一かたまりになつて、   遠い祖先の墓や、一族に由縁ある土地、根所、其外の   名所、故跡を巡拝して廻る神拝みといふことをする。   単にこれだけで、醇化せられた祖先崇拝と言ふ事は出   来ない。常にその背後には、墓に対する恐怖と死霊に   対する諂び仕への心持ちが見える。【(2)】  折口氏は、祖先崇拝をもって、巫女教(神女)に伴ふ自 然の形で巫女をはらました神並びに巫女に神性を考へる所 に始まる」と説いているが、不可解の点がある。  古い時代の神はすべて女性として表現されている。また 巫女(神女)はいっさい、祖先の祭礼には関与しない。死は 神女らには穢(けが)れで、禁忌であった、と見られる。女神が神 女をはらますということはどういうことか。その点も不明 瞭である。 【左頁下段】  男性優位の時代になって、初めて男性の神が出現する。 オモロに現われる男性の神は(巻一一ノ七二)、たった一人で ある。他の神は不可視のもので、神女についた場合、その 女が「神ニナル」が、この男神は遠方から来た神で鈴をつ けた刀を佩(お)び、威風堂々たる神である。□のような超人的 な人間と解すべきかと思われる(拙著『おもろ新釈』P□□□)。一 八世紀初めに編集された『琉球国由来記』によれば、宮古、 八重山に多くの男性の神がおり、また神の子を生んだ□話 が出てくる。  古代に関するかぎり、折口説は首肯しがたく、ただその 結論「祖先崇拝も琉球神道(固有信仰)の根源とは見られな い」というのは正しい。固有信仰は、古代のもので、祖先 崇拝は中世のものだからである。中世のものが古代のもの の根源とはなりえないはずだ。  「旧八月から九月にかけて、一戸から一人づゝ、一門中 一かたまりになつて、遠い祖先の墓」など拝みまわる神拝 みというのがある。  門中のことについては、別項(親族集団の項)を参照され たいが、死霊恐怖は、祖先崇拝の根本の動機ではないと考 えられる。かりに、折口説のようなら、無知で迷信深い農 【左頁上段・写真の説明】 納骨式 首里市外      川平□□撮影 東京で死去した某氏の□□を□□の墓に納めた□□□□。墓に対する恐怖とか死 霊に対するこびへつらいよりも、□□と□□□の方が強いのではあるまいか。 沖縄 固有信仰のおとろえ 151 152 【右頁上段・写真の説明】 知念杜城 島尻郡知念村      川平□□撮影 城跡の一角の高地にお嶽がある。城の石門はアーチ形、15,6世紀の□□。城下の旧知念部 落跡には石垣、門のあとが残り、屋敷は畑になっている。現部落は東地に移っている。 【右頁下段】 村や、都市の下層階級にこそ盛んなはずであるが、事実は 逆である。だからといって、死霊に対する恐怖が全然な い、ともいえない。  民間にひそみ、死霊を利用して生活しているユタおよび 三世相(易者)の類も少なくなかった。迷信の内容は死霊 恐怖に関連してのことが多いから、折口説も全面的に否定 することはできない。ただし、ユタや三世相の顧客は婦人 が、大部分であることも無視できない。健全な常識をもっ ている者が、儒教道徳の孝道を基礎にしていることは、あ とで述べる。  固有信仰には、道徳的要素がなく、低文化社会の□□で あるから、文化の発達と並行して凋落し、道徳的のものが 力を得てくることは、自然のなり行きであろう。衰微の徴 候はすでに一二世紀の武人(アヂ)勃興の時から始まる。  武人の中には、聖なる杜(もり)と信じられていたお嶽を占領し て城を築いたものさえおり、各部落の支配権を従来の根人 から奪取した。知念/杜城(もりぐすく)とか首里杜城などは、山城を意味 するが、発生的には、お嶽を城に改築したものが多い。城 を築いたのちに、城内にお嶽を造ったのもある。その後、 神女らは支配者の奉仕者となった。もっとも、この信仰に 【左頁上段】 代るものが生れないかぎり、絶滅するはずはなく、農耕儀 礼をはじめ、あらゆる祭礼は彼女らによってとり行われた。 武力者は、自分の血縁者、または親族の者を、高位の神女 に任じ、祭礼を主宰させた。  前代の神女を根神(ねがみ)とよび、この時代の神女をノロとよん だ、根神は自然発生的のもので、その担当地域は一部落で あった。これに反し、ノロの担当は数部落で、その発生は、 上部の支配者の任命であった。すでにノロに任命されると、 あとは血縁者がその□を世襲的に相続した。  妹は独特の感受性によって、神意を会得し、兄の事業を 助けるという習俗、いわゆるおなり神(ウナイ神)の信仰を 捨て去ることはできなかった。【(3)】  けれども、彼女らは、武力者の支配下におかれ、自己の □□を否認したもので、すでに凋落の一歩手前に立たされ ているといってよい。     二 固有信仰圧迫政策  沖縄島に仏教が伝わったのは一三世紀の半ばごろで、最 初の統一王国ができたのが一四二九年である。  この王朝の時に仏寺、神社の建立が盛んに行われた。中 【左頁下段】 国との交通もひんぱんとなり、道教を信奉する中国人も移 住して来た。  次の王朝も、前王朝と同じく、仏教の興隆に力をつくし た。尚真王(一四七七―一五二六)は、全群島を統一し、中 央集権的政治を行なった。かれは、円覚寺・崇元寺などの 仏寺を建て、仏教に帰依した。  かれの功業を記した百浦添之欄干之銘がある。その功業 は第一に、「信_レ仏而造_レ像、建_レ寺而布_二金仏閣_一、……古 ̄ノ漢 明梁武二帝之心也」。第二に、「臨_レ民正_二礼儀_一、利_レ民□_二 □□_一……□□吝□之事。是故、□民□_レ之如_二□□_一、千官 親_レ之如_二父母_一也、上下和睦、其□_レ之乎」。とある。  すなわちかれは仏教に帰依し、かつ儒教倫理を政治上の 指標とした、と考えられる。銘文の末尾に、「君、聖而有_レ □、臣、忠而有_レ功」と記し、儒教的な君臣の理想像をうち □してある。その後も、沖縄の政治担当者は、武力を背景 とした英雄豪傑または、それの神格化した者でもなく、聖 人君子をもって理想とした。聖人按司(尚質王の摂政尚享) 君子親方(尚穆王の三司官、与那原良矩)などが、それである。【(4)】  いっぽうにおいて、尚真王は、全群島のノロを組織し、 妹を「聞え大君」とし、その下に三人の神女を任命、全琉 沖縄 固有信仰のおとろえ 153 154 【右頁上段】 球のノロを統轄(とうかつ)させた。ノロ以上の神女は、国王から御印 判とよぶ辞令をもらい、知行所、俸米または嶽田をもらい、 官女的性格をおびた。聞え大君は、知念/間切(まぎり)の総地頭(知 行高二百石)となる例であった。政庁の政務的□□は男性の 領分であるが、神祭り、祈り祓いは、依然として彼女らに よってとり行われたわけである。二代までの聞え大君は独 身で、その位も王の次であったが、三代目は王妃が兼任し、 その後は独身者は一人もいなかった。信仰の純粋性は、最 高の神女からくずれて、形骸化してきたのである。  一七世紀はじめの、島津侵入は、固有信仰に打撃をあた えた。島津軍を退けるため、祈祷・調伏を行なったにかか わらず、何の効果もなかった。島津は一五ヵ条の政治□領 を手交し、その中に「女房衆に知行やるまじきこと」とう たい、この官女制度を否認した。それまで、聞え大君のほ かにも、首里大君、オオリヤヘ、サスガサ、その他種々の 名の神女が、王族の中から任命されていた。彼女らは、特 別の□責があるわけではなく、俸禄を□するためのもので あった。いわゆる三十三君の多くは、この□の者であった が、しだいに整理され、尚豊王(一六二一―四〇)以後、こ れらの神女はほとんど姿を消した。しかし、聞え大君と司(つかさ) 【右頁下段】 雲上(くもい)按司という王□内に常住する神女だけは最後まで残っ た。  固有信仰を迷信とよび、公然と圧迫の態度をとったのは、 尚質尚貞王の摂政(一六六六―七五)羽地朝秀(唐名、向象賢) であった。「当春、久高島之祭礼(の)事に付、国司被_レ参 筈に而候故、愚意了簡之所_レ及申入候」と、次の意味を国王 に申し入れた(国司は国王のこと。島津の命で、国司とよんでい たが、あとで王号に覆す)。  「久高祭礼の趣旨をきくに、聖賢の儀式でもない。薩摩 人が聞いたら、女性、巫女の参会で、かえって物笑いにし かならない、と考えられる」云々。【(5)】  右の提言が採用されて、国王および聞え大君の久高島参 拝は、この年(一六七三)から廃止された。この事件は、聖 賢之道すなわち儒教主義の勝利を意味する。羽地は摂政就 任の翌年(一六六七)聞え大君の位を王妃の次におとし、改 革の第一歩をふみ出したが、かれの在職一〇年は、王宮の 奥に巣食う迷信との闘争で終始した。このたたかいは、一 面から見れば、古代と中世との闘争で、古代を背負う女性 群と、中世意識にめざめた男性政治担当者との□□であっ た。換言すれば、固有信仰と儒教道徳との争いであった。 【左頁上段】  羽地についで名高い政治家蔡温も、固有信仰の圧迫に力 を用いた。羽地は、薩摩仕込みで、日本的教養を身につけ た人であったが、蔡温は福州に学び、儒教主義をいっそう □明にした人であった。かれは、国民教科書ともいうべき 教条を作り(一七三三)孝道をもって道徳の基本をさだめ、 前代に発生した「時(とき)」「ユタ」の類を禁じた。時は、吉日を 選ぶ職能者である。固有信仰では、吉日は、吉時を選ぶこと が、成功の条件で、あらゆる儀礼、行事はこれに□約され た。ユタは、幽界のことを説いて、治病、除災のマジナイ を行う者で、時よりもさらに悪質の者であった。     三 祖先崇敬と墓  古代には、これらの者は、神のわざを行う超俗的なもの と信じられていたと見られる。しかるに羽地・蔡温らを頂 点とする儒教的教養を身につけた者から見れば、かれらは 無学文盲の輩(やから)で、そのいうところは「聖賢の道」にもとる 邪道で、かれらの言を信じることは迷信とされた。このよ うな趨勢は、中央から地方に拡がり、固有信仰はしだいに 形骸化し、農耕儀礼と結びついたものだけが、残存するよ うになった。 【左頁下段】  島津侵入により、封鎖的、孤立的の障壁が取り去られ、 先覚者の自己反省となり、政治・教育の面における一連の 改革となったわけである。結果的に見れば、一七―八世紀 に至り、神治から徳治にかわった、との奥野氏の見解は尊 重さるべきであろう(奥野彦六郎『沖縄人事法制史』)。羽地と 蔡温は徳治の推進者と見られる。  祖先崇拝は、男系優位がはじまる一三世紀ごろからであ ろう。このころから仏教・儒教・□教が浸透したことは前 にふれた。固有信仰では、死をけがれと見たためか、オモ ロには、死と墓に関するものは絶無である。石造の墓で現 存するものは、一三世紀以降のもので、□形の石棺の側面 には、仏像の彫刻があり、一五世紀に建てられた王家の墓 はすぐれた石造建築として名高い。奥野氏は、仕置のなか に、正月、国王の祖先の□□参拝の規定があるのに着目、 「この頃から一国祖先の祭を重厚にしたことがわかる」と 説いている(前掲書)が、正しい見解と思う。近世の沖縄の 墓は、石造、漆喰(しっくい)ぬりの豪華なものが多く、特殊な景観に 数えられていた。一四―五世紀ごろは上層階級に限られて いたこのような墓が、しだいに中□階級にも及び、同族の 寄り合いで巨大な墓を作り、祭祀も同族中心となってきた 沖縄 固有信仰のおとろえ 155 156 【右頁上段・写真の説明】 王族の墓 文亀2年(1502)尚真王の時に創建      □□□□・□□□(□□□□)より 王家の墓。玉陵と書きタマオドンと呼ぶ。オドンはお殿、タマは霊か□□としての玉 なのか不明。規模絶大、□厳閑寂。石造建築の傑作である。現在は戦禍により破損。 【右頁下段】 のである。  久高島という周囲一里の小島は、古来、神ながらの島と して、異風奇俗をもって聞えている。その一つに風葬のな ごりらしく、他地方のごとき墓を造らず、死骸を□□のま ま、自然洞穴に安置するという。島人はここを「後生」と よぶ由である。  「沖縄には今でも風葬の習俗が残っている。各部落にグ ショウヤマ(後生山)があり、古くはそこの洞穴を墓にして いた」(『風土記日本』沖縄篇P□□□)、というが、一つの小島に 残っている古代の遺習が、各部落にあるように誤解してい る。各部落にグショウ山があるというのも誤りである。  一般に厚葬のふうがあり、あの巨大な墓□があるのに対 し、右のような質□なものがあることは、一般人の感□と 一致しない。その極端な対比が、この島をいっそう名高く したものであろう。「後生」ということばも内容も、仏教 伝来後のもので、古代ものもではないはずだ。  分家は別として、二代以上を経た家には、必ず仏壇と位(い) 牌(はい)をそなえ、香花を供え、仏式の祭祀を行う。葬礼も一七 日の祭り、三・七年の年忌もすべて仏式であるが、内容は 祖先祭である。一周忌以上の年忌、清明祭、彼岸祭などに、 【左頁上段】 紙銭をたくことは、道教のそれを取ったものと見られる。  このような習俗が固定したのは、おそくも一八世紀の半 ばごろで、それと並行して、固有信仰は、しだいに影がう すくなり、ことに農業と無縁な都会では急速におとろえた。  祖先祭の担当者は本家の当主で、固有信仰のように女性 がこれに当ることはなかった。ただし、七世を経た遠祖は 神になると信じられているので、古い歴史を背負う門族で は、一族から選ばれた二人の女性が、男女の神の奉仕者と なる。コデとよばれる。この神は古代信仰の神ではなく、 祖先が神に化したものをさし、前記の門中の□拝と共通の ものであろう。  台所の火の神を祭るのは、その家の主婦で、コデとは関 係がない。     四 固有信仰の現状  このように、古代的なお嶽神や火の神の信仰は、一七世 紀以降、孝道を□□とする祖先祭にその位置をゆずってい る。男性は火の神に無関心で、むしろ迷信と考えたのも理 由のあることである。  しかしながら、固有信仰は、農村の行事、芸能、娯楽と 【左頁下段・写真の説明】 門中墓 島尻郡糸満町      安田□□撮影 沖縄 固有信仰のおとろえ 157 158 【右頁上段】 からみあい、民衆の生活と密着しているため、内容的には 空虚なるにかかわらず、執拗(しつよう)に生きつづけた。  王朝末期の宗教を鳥瞰(ちょうかん)的に見れば、政治、教育の理念は 儒教で、家々の宗教は、仏教的外衣をまとった儒教的祖先 崇拝といえよう。仏教も信じられ、日本本土の神社も崇敬 されているが、その侵透度は稀薄(きはく)であった。  固有信仰は、前述のように、政治の面では無力化され、 排斥されたにかかわらず、官女制度は存続し、特に文字と 縁のない婦人の社会および農村社会では、その後進性をさ さえとして、残存した。袋中の『琉球神道記』は、固有信 仰は簡単な記述にとどめてあるが、明治以降の視察者、研 究者は、生きた信仰には着眼せず、ことさら形骸化したも のに執着した恨みがある。  明治一二年の廃藩置県で、四百余年の伝統をもつ聞え大 君以下の高級神女は廃止され、三百余人の地方のノロも、 明治二六年の土地整理を機会に、その官吏的性格を失った。 ただし、その後も諸行事を行うことにはかわりないが、租 税その他における特権はなくなった。明治・大正・昭和の 時代に、固有信仰はしだいにおとろえてきたが、今度の大 戦において徹底的打撃を受け、沖縄本島ではほとんど滅亡 【右頁下段】 し、周辺の諸島および宮古・八重山群島に、余命を保って いるにすぎない。その原因として次のことがあげられる。  一、神聖な所と考えられていたお嶽が、ほとんど壊滅し  たこと。砲弾によるもの、軍用地になったため樹木が伐(き)  りとられたものなど。  二、部落の移動、離合集散により、神女中心の祭礼が実  施不可能になったこと。  三、稲の品種が一変し、従来の年中行事がすたれたこと。  右のような外部条件のほかに、教育の普及による、固有 信仰に対する批判と不信感の増大が根本的のものである。 顕著な例を二、三あげてみよう。  琉球第一の霊地と考えられていたサイハお嶽(知念村)は、 カメラを肩にし、携帯ラジオをさげた遊覧者の拠点となり、 城内の平地は甘藷(かんしょ)畑にかわっている。畑で働く青年男女と 問答を試みたが、かれらにとって霊地云々は不合理な昔話 にすぎなかった。  今帰仁アオリヤエ(今帰仁村)は、北部地方における高位 の神女で、戦前まで、独身の神女がいた。その写真は島袋 源七『山原の土俗』、伊波普猷『古琉球の政治』に出てい る。今度の大戦で、アオリヤエの家は焼け、屋敷あとは甘 【左頁上段】 藷畑となり、本人は市街地に退散している。味気ない生活 から解放され、人間的幸福を享受しているだろうとの観測 である。  今帰仁ノロの家は戦禍を免れ、伝来の勾玉(まがたま)なども所持し、 今帰仁城の祭礼も行うという。夫は農業、妻たるノロは、 依頼によって城址の案内をつとめ、多少の収入がある。け れどもこの夫婦は長く大阪で生活し、終戦後の引揚者だと のことである。  古代のマキヨのあとに居住し、独身ノロとして珍しがら 【左頁下段】 れている名護村のナングスクのノロ、これは鉄工所に勤務 している。  戦後、筆者は十数人のノロに面接したが、彼女らをささ えているものは、伝統的な慣習を破る勇気のないことと、 祭礼における若干の収入である。  沖縄島は、全島軍事基地化し、それと並行して急速度に 近代化しつつある。もとは、古代的祭祀と連結していた芸 能・娯楽が、祭祀から分岐し、独立した形で生き残り、ま たは新装をこらして再生しつつあるものもある。 【左頁上段・写真の説明】 遊園地と化したお嶽  島尻郡知念村 サイハお嶽は琉球第一の聖地とされていたが、 今は半ば遊園地と化している。しかし今でも □□、□□、お□をたずさえた中年以上の婦 人などが参詣する。     川平□□撮影 【左頁下段・写真の説明】 サイハお嶽にかぎらず、お嶽の中の平地は開 墾されて畑になっている。青年がかついでい る□□は、□の畑から搬出したもの。□って いるトラックに□みこむ。入口の木は防風林 の□□□。成長が早いので□□がられている。 沖縄 固有信仰のおとろえ 159 160 【右頁上段】  沖縄群島の信仰は祖霊信仰で、お嶽の神、火の神などの 信仰は、すでに過去のものであることを、くりかえし強調 しておきたい。  宮古・八重山群島は、異質的文化の侵透も稀薄であった 上に、今次大戦の被害も少なかったため、固有信仰は依然 として生きつづけ、これとからみあった芸能・娯楽が半世 紀前の沖縄と同じ形で残っている。これはまた農耕ともつ ながっている。  宮古には、粱・麦の畑作が多く、今は甘蔗・甘藷がおも で、八重山に米作が盛んである。米の品種転換、栽培技術 の進歩、教育の普及、外部との交通の激化など、固有信仰 衰亡の条件は十分にある。したがって、民俗芸能も島人の 個性の問題として楽観することは許されないであろう。  (注)   1 折口信夫『琉球の宗教』(『世界聖典全集』外纂所載)   2 同   『続琉球神道』(島袋源七『山原の土俗』序文)   3 伊波普猷『おなり神の島』、仲原善忠『おもろ新釈』   4 仲原善忠『琉球王国の性格と武器』   5 『仕置、羽地摂政時代の命令、上申書』などの集録 【裏表紙裏】 【裏表紙】