弘化四丁未年五月廿八日新版 信越大地震場所   信州一ノ宮 諏訪大明神  水内郡  佐久郡  高井郡  安曇郡  埴科郡  小県郡  更級郡  伊奈郡  筑摩郡  諏訪郡 夫天地不時之変動は陰陽混して天にあれは雷雨なる 地にいれは地震なすこれ神仏の応護も是をおさむる事かたし 抑信州は日本高土第一の国也郡数十郡高五十五万七千三百石 及ひ上々国にして山川多く人はしつそにして名産多く五こく豊饒の地也然ルにいかなる時節にありけん弘化四年丁未三月廿四日の夜ゟ 古今未曾有の大地震ニ而山川変し寺々社地人家をつぶし人馬 亡失多く火災水なんにくるしむ事村里の凶へんつふさに爰に記し且は  上之御仁恵良民救助の御国恩後代にしらしめんか為にしめす尤も 三月陽気過度なること数日廿四日夜四ツ時俄に山なりしんとうなし  善光寺辺殊につよくそれ地しんといふより早く大山くつれおち水は あふれ地中めいとうなすより五寸壱尺又は五尺壱丈と大地さけて 黒赤のとろふき出し火ゑんのこときものもえ上り方丈客殿庫裏 宝蔵寺中十八ケ町の人々西八丁東八町岩石桜小路権堂丁あまねく ゆりつふされはたこや藤や平左衛門同平五郎両宿に止宿の男女凡 七百廿余人外はたこや止宿老若男女凡千八百余人所之者およそ 千七十余人権堂町遊女百八十四人なり皆即死なす其夜御堂に こもり居る者あるひは一生けんめい仏号をとなへ御堂へかけ入しもの 其夜の大なんをのかれし事是まつたく三国伝来ゑんふたこんの尊像の 利益広大なる事世の人のしる所也尊むへし〳〵 本堂広間十八間おく行 三十六けん東西南北四方表門にて寺号則四ツ有東は定額山善光寺西は 不捨山浄土寺南は南めい山無量寿寺北は北宝山雲上寺天台宗寺領千石 尼寺にて由来人しる所也大かん寺山門のこる此へん北は大峯戸かくし山植松小松 しんまん寺西条吉村田子平手室飯小平落かけ小島大島新町柏原のしり赤川 関川御関所東こんとう間の御所中御所あら木青木島大つか間島くしまた水沢西寺尾 田中南の方は北はら藤枝雨の宮矢代向八幡志川山田小松原こく蔵山茶臼山丹波島西は あら安かみや入山田中梅木此辺殊に夜中ゆへ其そうどう大かたならす大石にうたれ 谷川はあまり火ゑん天にのほりすさましかりけるありさま也都て乍恐 御代官御支配の分つふれ家五千三百九十軒半つふれ二千二百けん余 但し木品打くたかれ用に相立すつふれ家同様にて死人凡二千七百人 けか人九百人ほと馬百七十三疋牛二疋大地にめり込家数廿軒程 寺社四十六ケ所郷蔵廿二ケ所 是は六万石はかりのうちなり 扨又水内郡を尋るに小ふせ神代あさの大くちかに沢今井 赤沢三ツまたさかい村茂右衛門村駒たて戸隠小泉とかり 大坪曽根北条小さかゐわらひふかさハ第一飯山御城下至 てきひしきちしんにて逃んとしてはころひ足たゝすあほ のけにはふよりしかたもなく老人子供は泣叫ひ地はさけて砂を吹出し 山々はくつれ男女の死亡丁かたにて四百三十人其外在方多く此内丹波川 川付の村々一同に押なかし行方をしらす更級郡は内小しまはし本 大原和田古いちはかるい沢よしハら竹房今泉三水あんそこ小松原くほ寺 中のうしろ丁みな家々をこと〳〵くたおす中にも稲荷山にてつぶれたる 家々は廿八日には大水にておしながしゆくゑしれすこゝに岩倉山といふ高山 高サ十八九丈にて安庭村山平林むら両村の間に有此山めいとうなし あたかも大雷の如く半面両端くつれ一ケ所は三十丁一ケ所は八十丁丹波川の 上手へおし入近村一同にうつまりこう水あふれ七八丈も高く数ケ村湖水の如く 人馬の死亡数しれす同少し北の方に六丈はかりの岩山有しか是又ぬけおち 五丁ほと川中へ押出し土屋藤倉の両村水中へおし入¬あつみ郡の分新町と 申所三百八十軒の里こと〳〵くつふれ其まゝ出火にて焼失なし夫ゟ大水二丈 はかり高くみなきり目も当られぬ斗りにて宮ぶち犬かい小梅中曽根 ふみ入寺竹くまくら成金町ほそかしうら町とゞろき村ほり金村小田井 中ぼり上下鳥羽住吉長尾柏原七日市間々べきつね島池田町ほりの内 曽根原宮本草尾船場むら等大破に及ぶ¬小さがた郡は秋和生づる 上田御城下西は新丁上小島下こじま此辺山なりしんどうなし地中 めいどうす今にも大地かさけるかと此へんのものは生たる心ちなくされど 大地のさけるほとの事はなしといへど家々はつふれけが人多く前田 手つか山田別所米沢くつかけならもと一の沢凡百四十ケ村ほど ¬ちくま郡は八まんむら辺至てつよく度々ゆりかへし人馬損し 多くほうふく寺七あらし赤ぬた洞村をかた町松岡ありかし水くみ 松本御城下辺百二三ケむらふるひつよく庄内田貫ちくま新町 あらゐ永田下新上新三みぞ飛騨越中さかひにいたる  ¬佐久郡は小諸御城下西の方は滝原市町本町与良村四ツ谷 間瀬追分かり宿右宿くつかけかるい沢赤沢峠町 矢さき山浅間山ゟ上しう口度々つよくゆり 川付のかた至てひどく夫ゟ¬諏訪郡は 高島御城下大水高きは少々とて 八重ばら大日向細谷平はやし 布引此辺は少々つよくゆる  ¬はにしな郡は松代御じやう下 近へん廿四日ゟゆりはしめ 廿九日朝晦日夕方迄 三度つよくふるひ 大石をおし出し 山々くづれやしろ へんことにきびしく 人家多くつぶれ 川付下手の方山々 岩はなくづれ人家を そんじ平林かけむら 赤しば関屋西条 せきや川上下とくら 中条よこ尾いま井 祢づ之宿上下塩尻 村等同様¬高井郡の 分丹波川の東にて須坂の御じやうか中じま御ちん屋川 へりの村々ふくしま高なし中じま別府いゝ田羽場くり林 大俣辺ゟ田上岩井安田坂井等つよくふるひ家をたほす事少なからすそれゟへちご路にいたりて 廿四日よりゆりはじめ段々つよく廿九日の丑の上こくは大へんの大ぢしんにて松さきあらゐへんより くびき郡高田の御城下ゟいま町中やしき春日辺人家をくづし人馬のけが等多くそのうち 信州寄の方きびしく山々は一同にくずれ水はあぶれ大ばんじやくをころがし中にも ながさは村と申す小村はなさけなくも大山の為につぶれ七十人ほと地中にうつまりわずか 手足のみ相見へたりあはれと申もおろかなれ其上廿九日は今町辺大なみに引入られ家 流す事少からす此たび信越二ケ国の大ぢしんは実もきたいの珍事にていにしへより ぢしんも数度有之といへども大地さけ泥砂をふき 出しかくの山々人馬の死亡におよひ 前代未聞の凶へん也善光寺辺ハ廿四日ゟ廿五日迄きびしく松代ゑちご路ハ廿九日三十日に 至て東西廿里南北三十里山川をくづしよう〳〵地しんはしづまれども山々くづれこう水あふれわうくはん人馬の通路をふさぎ且地めんさけたる所十間位 筋つき黒赤のどろ水ふき出し山々くつれ大石ころばりおち田畑こと〴〵く変地いたし用水所は欠くづれ谷川等ふるひうづまり一面にどろ水ふき出し貯への 俵物はのこらすくづれどろ水をかぶり地中にうつまり別て川中じまは大水人力にて防く事あたはす一方にて水を落し候へは一方は水なんにていかやうにも 相なるも不知西の方にて防水致せは東の方のこる村々おしながし双方とも大変にていかさま騒動にも及ばんくらゐの仕合にて然ル所御見分の上御下知無之うちは双方共 手出しいたし候事御差留にて早速ほり割人足共さし向られ候へどもいよ〳〵洪水みなきり此辺の者は親にはなれ子にわかれ夫婦の所在もしれす庄や村役人 其外本心を取失ひ候如く跡片付の心得もなく潰家の前に家内一同雨露の手当もなくとほうにくれ只々しきりに落涙に及相応に□□□【くらせ】しも米こくは 土をかぶりどろ水に入食物の手だんもなく小者、なんぎの者はたゝ打ふしてなき入ては死かいにすがりけが人はおびたゝしく苦つうにたへかね罷在いづれの村々も同ようにて たがひにたすけ合ちからもなく差当り食事にさしつかへ呑水もかねて用水を持居ても皆どろ水にてきかつに及あはれといふもおろか也水内高井の両郡田畑七八分 つぶれ家をつぶし道具を失ひ候分八分にて此上いかやうの満水にも成へくもはかりかたく川つきの村々山林に退去いたし候やはり山々も日々鳴どういたし水勢雷 のことくにて一時に切候へは又々水災わかりかたく諸方御手配有之しに四月十三日夕七時俄に山谷めいとうなし水おしぬき左右の土手を切堤の上をのりこし川中島は 申に不及さい川へ逆水おし入なか〳〵防事かなはす松代御代下辺迄水みちて川そへ村々を押ながし高サ二丈斗り作物はもちろん溺死人けか人多く村々古今 まれなる事ニて凡三百余ケ村をながし廿四日ゟ火災又々斯水なんはたとへんかたもなく男女死亡惣高二万余人也けが人其数しれす馬五百七十二疋牛 二十二疋也いかに天へんとは申なからかくの災害良民取つゞき成かね候程の次第然は御代官様御地頭様は慈母の子をあはれむごとく御すくひ小家を立  米銭はもちろん御手当あつく御れんみんの御すくひあそはされ候段泰平の御めくみありかたきといふも恐有されば諸人御国恩をわすれんがため一紙につゞるのみ 信越御代官 石原清左エ門 高木清左エ門 川上金之助 松代十万石真田信濃守 松本六万石松平丹波守 上田五万三千石松平伊賀守 高遠三万三千石内藤駿河守 高島三万石諏訪因幡守 飯山二万石本多豊後守 飯田一万七千石堀兵庫頭 小諸一万五千石牧野遠江守 岩村田一万五千石内藤豊後守 須坂三万五千二石堀長門守 爰に弘化四丁未年 正月十三日松平 伯耆守様御領分 丹後国竹野郡幾野村 百姓権左衛門ト云大百姓 所持地めんのうち 一夜のうち大山出来 又其下に大穴あり わたり十間余深サ 三十五けん外に青石大サ 三間九尺高サ壱丈 二尺八寸是も一夜の内 同時にふき出す