甲 【手書き風朱文字。以降本文は活字】 明治二十五年三月七日読売新聞に       震災(しんさい)予防(よほう)調査(てうさ)方法(ほう〳〵)取調(とりしらべ)委員(いゐん)の設置(せつち)                        (印)【□□寶丹施印?】 右(みぎ)の如(ごと)く題(だい)せる論説中(ろんせつちゅう)に(上略) 此震災(このしんさい)を前知(ぜんち)せんと欲(ほつ)することは実に困難(こんなん)なることに拘(かゝは)らず東西(とうざい)の学者(がくしや)が苦心(くしん)して 取調(とりしらべ)する所(ところ)なるが(下略 云々(うん〳〵))とあり其学理(そのがくり)に拠(よ)り之(これ)を発見(はつけん)することは学者(がくしや)に譲(ゆづ)り小生が弱年(じやくね)【かすれている部分は「ん」?】のころより試(こゝ)ろみ来(きた)り たる 一法(いつほふ)を記(しる)して世(よ)に問(と)はんとす若(も)し万一(まんいち)此理(このり)ありとせば震災(しんさい)及(をよ)び身体保全(しんたいほぜん)の 一奇術(いつきじゆつ)を得(う)るものと云ふべし◯江戸(えど) 芝(しば)土橋(どばし)丸屋町(まるやちやう)に質商(しちしやう)山田屋清助(やまだやせいすけ)と云(い)ふ人(ひと)あり小生 年(とし)十四 其家(そのいへ)の丁稚(でつち)となる安政(あんせい)二年(ねん)乙卯十月二日 夜(よ)江戸大 地震(ぢしん)あり 此時(このとき)小生 瘭疽(へうそ)を患(うれ)ひ主家(しゆか)の二 階(かい)に病臥(やみふ)せしに俄(ひはか)に震動(しんどう)劇(はげ)しく棚上(たなうへ)にある三四の衣(きもの)櫃(いれ)臥床(とこ)の上(うへ)に落(お)ちて身(み)を圧(お)す因(より)て 大に驚(おど)ろき声(こゑ)を発(はつ)し救(すく)ひを求(もと)む時(とき)に主人(あるじ)清助(せいすけ)五十余(よ)歳(さい)手(て)に雪洞(ぼんぼり)を提(さ)げ二 階(かい)に来(きた)り扶(たす)け起(おこ)す時(とき)に主人(あるじ)の客貌(かたち)を見(み)るに 土蔵(くら)の壁間(かべま)を過(すぎ)来(きた)り頭部(あたま)より全身(ぜんしん)土灰(つちはい)に埋(うづま)るが如き(ごと)きも挙止(きよし)泰然(たいぜん)言語(げんご)平日(へいじつ)に異(こと)なることなし小生ひそかに剛胆(がうたん)なるに 敬服(けいふく)す震後(しんご)人 猶(なほ)再(ふたゝび)震(ゆれる)を懼(おそ)れ地上(ちうへ)に小屋(こや)を設(まふ)け仮居(かりずまゐ)す主家々人(しゆじんけのひと)も亦(ま)た戸外(そと)に居(を)れり主人(しゆじん)大ひに叱咤(しかり)して曰(い)はく何(なん)ぞ 其(その)臆病(おくびやう)なる我れ誓(ちか)つて再(ふたゝび)震(ゆれる)なきを知(し)れり速(すみや)かに小屋(こや)を毀(こは)して本宅(ほんたく)に帰(かへ)るべし主人(しゆじん)の意決(いけつ)するを見(み)て家人(いへびと)恐懼(おそれ)未(いま)だ 止(やま)ざるも強(しひ)て内(うち)に入(い)る後(のち)果(はた)して強(つよ)き再震(さいしん)なし玆(こゝ)に於(おい)て皆(みな)主人(しゆじん)の英断(えいだん)に感服(かんぷく)せり後(の)ち日(ひ)を歴(へ)て主人(しゆじん)一夜(あるよ)家人(いへひと)を集(あつ)めて 曰(いは)く我(わ)れ弱冠(としわか)の時(とき)或(あ)る陰医(いんい)の為(ため)に横傷(わうしやう)の難(なん)を前知(ぜんち)するの術(じゆつ)を受(うけ)たり此術(このじゆつ)たる其(そ)の身(み)横死(わうし)せんとする凡(およ)そ一 昼夜(ちうや)前(まえ)に    於(おい)て必(かなら)ず兆候(きざし)を顕(あらは)すも   のなりこれを試(こゝ)ろむる   に先(ま)づ左(ひだ)りの手(て)を以(もつ)て    奥歯(をくば)の下(した)にある動脈(どうみやく)を    診(しん)し次(つぎ)に右(みぎ)の手(て)を以(もつ)て    左手(ひだりのて)の動脈(どうみやく)を診(しん)するな   り抑々(そも〳〵)人体(ひとのからだ)の脈一身(みやくいつしん)    悉(こと〳〵)く同(おな)じく動(うご)くを以(もつ)て    常(つね)とすこれ平日無事(へいじつぶじ)の※     ※脈度(みやくど)なり若(も)し此(こ)の頬(ほふ)と       手(て)との脈度(みやくど)を乱(みだ)るとき      は必(かな)らず一昼夜(いつちうや)の内(うち)に       身命(しんめい)を失(うし)なふべき大 難(なん)      あるの兆(きざし)なりとす陰医(いんい)       常(つね)に言(いへ)ることあり我(わ)れ       壮年(さうねん)より日夜(にちや)此(こ)の術(じゆつ)を       試(こゝろ)む数年(すうねん)の後(の)ち相模(さがみ)の       海浜(かいひん)に一泊(いつぱく)し将(まさ)に臥所(ねどこ) に就(つ)かんとするに先(さきだ)ち此術(このじゆつ)を施(ほど)こすに既(すで)に脈動(みやくどう)の乱(みだ)れたるあり大(おほ)ひに驚(おどろ)き従僕(じうぼく)の脈(みやく)を診(しん)す是又同体(これまたどうたい)なりいよ〳〵 驚(おどろ)き旅店(りよてん)の主人(しゆじん)及(およ)び其(そ)の家族(かぞく)を試(こゝろ)みるに皆共(みなとも)に変動(へんどう)を呈(てい)せり時正(ときまさ)に天晴(てんは)れ月光昼(げつくわうひる)の如(ごと)し海状(かいじやう)常(つね)に異(こと)ならず然(しか)れども 何(なに)か変(へん)あらんことを察(さつ)し速(すみや)かに荷物(にもつ)を負(おふ)て出(い)で店後(みせのうしろ)の山(やま)に登(のぼる)こと凡(およ)そ三五 町(ちやう)脈始(みやくはじ)めて平日(へいじつ)に復(ふく)す因(より)て此処(このところ)に休息(きうそく)す 旅店主人(はたごやのあるじ)も亦共(またとも)に来(きた)る暁(あけ)に及(をよ)び風無(かぜな)きに海中忽(かいちうたちま)ち大濤(おほなみ)を起(おこ)し山(やま)の如(ごと)く来(きた)りて海浜(はまべ)を浸(ひた)し人家(じんか)三五を漂流(なが)し去(さ)る既(すで)に 之(これ)を目撃(もくげき)せし以来(いらい)いよ〳〵その恐(おそ)るべきを信(しん)じ日夜(にちや)三四 回(ど)此(こ)の試験(しけん)を怠(おこた)ることなし我れ此(こ)の陰医(いんい)の言(こと)を信(しん)じ今日迄(けふまで) 之(これ)を行(おこな)へり故(ゆへ)に十月二日の震災(しんさい)に遭(あ)へるも決(けつ)して変死(へんし)の患(うれい)なきを確知(かくち)し敢(あへ)て怖懼(おそれ)の念(ねん)を生(しやう)ぜざりしなり小生 此事(このこと)を 聞(き)き直(たゞ)ちに之(こ)れを筆記(ひつき)し爾来(じらい)三十七八 年(ねん)一日も此(こ)の試験(しけん)を行(おこ)なはざる日なし幸(さいは)ひに心志泰然(しんしたいぜん)常(つね)に怖懼(おそれ)を覚(おぼ)へず既(すで)に 客歳(きよねん)濃尾震災(のうびしんさい)の同刻当地(どうこくたうち)も亦(また)強震(つよきゆれ)あり小生 忽(たちま)ち脈度(みやくど)を験(けん)して異変(いへん)なきを知(し)り静(しづ)かに他人(たにん)の狼狽(うろたへる)するを見て気(き)の毒(どく)に 思(おも)ひたる程(ほど)なり夫(そ)れ真(しん)に此(こ)の理(り)の有無(あるなし)は愚考(ぐかう)の及(お)よぶべき所(ところ)にあらざれども嘗(かつ)て我(わ)が主人(しゆじん)の平素剛胆(ふだんがうたん)にして百事(ひやくじ)に 驚懼(おどろきおそれ)せざりしは必(かな)らず中心信(こゝろにしん)ずる所(ところ)あるに因(よ)りしならん蓋(けだ)し濃尾(のふび)の一震(ぢしん)は実(じつ)に天下人心(てんかじんしん)を鳴動(うごか)したり此時(このとき)に当(あた)り 我(わ)が主人(しゆじん)の如(ごと)く又陰医(またいんい)の術(じゆつ)ありて之(こ)れを前知(ぜんち)せし人(ひと)ありや小生 好(このん)で奇言(きげん)を吐(はい)て世(よ)を弄(もてあそ)ぶものにあらず毫釐(がうりん)も人(ひと)に 益(ゑき)せんとするは平生(へいぜい)の願(ねがい)なり区々(くゝ)の微哀謹(びちうつゝしん)て識者(しきしや)の教(おしへ)を請(こは)んと欲(ほつ)し聊(いさゝ)か見聞(けんぶん)せしものを記(き)せり博雅(はくが)の君子(くんし)是非(ぜひ)の 報知(ほふち)を賜(たま)はらは幸甚(かうじん)  明治二十五年壬辰三月 日    十世 守田治兵衛父       東京市下谷区池之端 宝丹本舗 守田長禄翁敬白(朱印)        ーーーーーーーーーーーーーーーー      前文に対し親友 野口勝一(○○○○)君の意見書 震災前知奇術(しんさいぜんちきじゆつ)御銘作拝承(ごめいさくはいしよう)御説(おせつ)の如(ごと)く学理(がくり)の如何(いかん)は何人(なにびと)も未(いま)だ発見致(はつけんいた)さゞるべく候へ共 洪水(おほみづ)ある年(とし)には鳥(とり)は巣(す)を高樹(たかきゝの) 頂(いたゞき)きに作(つく)り火災(くわじ)あるに先(さき)だちては鼠(ねづみ)先(ま)づ逃(のが)れ強風(つよきかぜ)ある秋(あき)には鳳仙花等(ほうせんくわなど)は根多(ねをゝ)く生(しやう)ずと申す類(るい)は総(すべ)て動植物(どうしよくぶつ)にも自然(しぜん) 感通力(かんつうりよく)あるものゝ如(ごと)し然(さ)れば人(ひと)は萬物(まんもつ)の霊物(れいもの)を前知(ぜんち)する事(こと)あるべきに然(しか)らざるは理(り)また盡(つく)さゞる所(とこ)ろあるに因(よ)れる ならん私(わたくし)曽(かつ)て或人(あるひと)に聞(きゝ)しことあり人 瞑目(めをふさき)し手(て)を以(もつ)て静(しづか)に目(め)を推(おす)ときは電光(でんくわう)の如(ごと)きもの見(み)ゆ然(しか)るに将(まさ)に死(し)すべきの 禍変(わざわひ)あるの人は此 彩光(さいくわう)を見ず或(ある)人 曽(かつ)て獄中(ごくちう)に在(あ)り将(まさ)に死刑(しけい)に処(しよ)せられんとする罪人(ざいにん)の上(うえ)に試(こゝろみ)んと欲(ほつ)せしに真逆(まさか)に 気(き)の毒(どく)に思(おも)ひ止(やみ)たりと此等(これら)の事(こと)も蓋(けだ)し何(なに)か拠(よ)る所(ところ)ありしならん是(こ)れも略(ほゞ)脈度説(みやくどせつ)と似(に)たる所(ところ)あり世(よ)に試(こゝろみ)し人ありや なしや兎(と)に角(かく)に御説(おせつ)御広(おんひろ)め被遊(あそばされ)候はゞ種々(しゆ〴〵)の説(せつ)も自然(しぜん)の実験(じつけん)より発見(はつけん)し学理(がくり)未到之説(いまだいたらざるのせつ)もあるべき事(こと)と思(おも)はれ候 【続く「乙」の資料は別ページにて翻刻対象の為、ここまで】