【見出し】 《割書:伊勢伊賀志摩|近江尾張美濃》大地震の図 【本文】 頃は嘉永七寅年六月十四日 夜八ツ時伊勢国は東海道 四日市宿をはしめとし て東は尾張西は近江国 北は美濃南は伊賀志摩 の国にいたるまて大地しん にて其ひゝき大かたならず 取わけ伊勢国四日市宿は 甚つよくしてまづ北町不残南川原 不残南町は半丁ほど打倒夫より 出火して砂けぶりをふきたてざん し【暫時】に家数九十軒余焼失すはま だ赤堀落合橋かはけばし【鹿化橋】長田 ばし加太夫ばし日永砂川うねめ 村つへつき村こと〴〵くあれ橋々は落流 れる也折から老若男女いかてあわてざらん ものはなく各々にけ出さんとなせども大地 大にわれ心当べき方角だに定めがたく してけが死亡の者凡五百人余となり牛 馬即死凡百六十疋余なりとかや又桑 名十一万石松平越中守様御領分在方【在所】甚つ よく御城下やた【矢田】町屋敷〳〵大門やす永村 町屋川辺土蔵大にそんじあるひはつぶれ 春日の社八幡はづ明神社いたむ二重 つゞみかねいば村みやつかいそ川辺七ツや みたき【三滝】川すへ土橋おちる也長島は二万石増山 河内守様御領分御城下大にそんじ在々【あちらこちらの村里】 こと〴〵くあれる石やくし【薬師】庄の【野】亀山は 六万石石川主殿頭【とのものかみ】様御城下并に在々 こと〴〵く【濁点の位置の誤記】大にそんじ又江近【ママ】路は関 坂の下すゞか【鈴鹿】山田村社そんじ土山 宿水口は二万五千石加藤越中守御城 下在々いしべ【石部】草津大津京都迄も 大方ならず相震中仙道はもり山 より大田辺迄都合十六宿間 大にふるう大垣高須御領分 尾張は津島佐や【屋】まんば【万場】みや【宮】 犬山辺迄伊せは神戸一万五千石 本多伊与【ママ】守様御領分甚しくふるう 白子津は卅二万三千石藤堂和泉守様 御領分御城下共いたつてつよく 所々そんじ夫より宿々山田近 辺大にそんずるといへども両宮 は別条なしあさま【朝熊】山大にあれ 田丸久居五万三千石藤堂佐 渡守様御領分八田辺つよく してそんず近江は彦根三十 五万石井伊かもん頭様御領分 すべて湖水のめぐりは甚 しく相震よく【翌】十五 日の朝よう〳〵慎り 諸人あんどをなし にける ○伊勢両宮近辺は殊 更あれるといへども両 御社はいさゝかも別 条なし御神 の尊こと是を もつて 知り  給ふべし