弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 〇三代実録《割書:五|十》曰 光孝天皇仁和三年丁未七月晦日《割書:辛|丑》申 ̄ノ時地大 ̄ニ震動 ̄シ経_二歴 ̄シテ数剋_一 ̄ヲ震 ̄コト猶不_レ止 天皇出_二 ̄テ仁寿殿_一 ̄ニ御_二 ̄ス 紫宸殿 ̄ノ南庭_一 ̄ニ命_二大蔵 ̄ノ省_一 ̄ニ立_二 ̄テ七丈幄二_一 ̄ツ為_二 ̄ス御在所_一 ̄ト諸司 ̄ノ舎屋及東西 ̄ノ京盧舎往々 ̄ニ顚覆圧殺 ̄スル者衆 ̄シ或 ̄ハ有_二失_レ ̄ヒ神 ̄ヲ頓死 ̄スル者_一亥ノ 時亦震三度五畿七道 ̄ノ諸国同日 ̄ニ大震 ̄ヒ官舎多 ̄ク損 ̄シ海潮漲_レ ̄リ陸 ̄ニ溺死 ̄スル者不_レ ̄ト可_二勝 ̄テ計_一 ̄フ云_二 〇扶桑略記《割書:廿|二》曰《割書:上略|如録文》今日信乃国大山頽崩 ̄レ巨河溢流 ̄シ六郡城盧払_レ ̄テ地 ̄ヲ漂 ̄ヒ流 ̄ル牛馬男女流死成_レ ̄スト丘 ̄ヲ云_二    私考_レ之距_二 ̄コト於今弘化丁未_一凡九百六十一年矣然シテ仁和丁未ノ変我国六郡ミナ以テ蕩尽スト史籍スデニソノ    地名ヲ不_レ戴暦数僅ニ千年口碑伝ルコトナシ偏ニ雖_レ不_レ可_レ徴(チヤウ) ̄ス按ルニ六郡ヲ貫通スル巨河恐クハ犀千隈ノ    雨流ニ過ズ《割書:岐蘇天龍大井|姫川等不及之》這回(コノタビ)ノ大変最甚キモノ水内(ミヌチ)更級(サラシナ)ニシテ上ハ筑摩(ツカマ)安曇(アヅミ)ヲ浸淩シ下ハ埴科(ハジナ)高井ヲ漂    蕩ス概(オホムネ)水災ノ所_レ及殆 ̄ト六郡人畜圧溺セラルヽ者亦仁和ノ厄ノ如シ今俗以為古今未曽有ナリト僕コヽニ有_二    微志_一即ソノ境ニ到リ攀渉スルコト数次シ後遂ニ是図を製シ竊ニ家筺ニ蔵シテ聊 ̄カ後戒ニ便ゼントス事倉卒    ニ出 ̄ヅ精粗マタ見聞ニ任スト云        信中      平昌言識【落款】 【上下二段の内上段】 〇古伝 ̄ニ曰 推古帝十五年大仁《割書:六位|官名》鳥臣(トリノオミヲ)往_二 ̄シニ東国 ̄ニ【一点脱ヵ】廻_二 ̄リ箕野(ミノ)_一 ̄ニ至_二 ̄リ科野(シナノ)_一 ̄ニ治_二水内(ミヌチノ)海_一 ̄ヲ至_二 上毛(カミツケ)_一 ̄ニ 治_二 ̄ム利根(トネノ)海_一 ̄ヲ乃 ̄チ割_二 ̄リ戸河 ̄ノ瀧磐(イハ)_一 ̄ヲ入_二雁越(カリコシ)_一 ̄ニ開_二 ̄ク栗柄 ̄ノ路及 上邑(アゲロノ)路_一 ̄ヲ云_二        按るに水内郡水内邑は本郡初発の地にして上古に   水内の海と聞へしも此辺をいへるにや今なを北の郡に大沼あまたあり   これそのなごりなるべしこの地北は戸隠の峻嶮(けはしき)により東南に犀川を   帯ひ西に境川あり東に澣花川(すゝはな)川ありいはゆる島をなせり実に水内   橋の奇巧(たくみ)なかりせは便りなかるべしおもふにみぬちの谷こゝに出し   にやあらん《割書:壒襄鈔 善光寺 ̄ノ来由ノ条 ̄ニ云信乃ハ高キ地ナルニ殊ニコノ郡ノ高ケレハ水落ノ郡也トイヘレド我国|十郡ノ地最厚高ニシテ天下ノ上流タリナンゾ是郡ヲ以テ高シトセンオボツカナシ》 水内の曲橋《割書:又久米路ノ橋トモ云歌枕名寄ニ信乃トス又来目ノ岩橋ナド詠ルハ大和ノ葛城ニ在ト|拾遺集 埋木は中むしはむといふめればくめぢの橋は心してゆけ よみ人しらす》 〇日本紀曰 推古天皇二十年自_二百済国_一有_二化来者_一其面身皆班白巧 ̄ニ掛_二長橋_一 ̄ヲ時 人號_二 ̄シテ其人_一 ̄ニ曰_二路子工_一 ̄ト又号_二 ̄クト芝耆麻呂_一 ̄ト云_二 〇古伝 ̄ニ曰 推古帝二十年百済国 帰化(オノヅカラクル) ̄ノ人《割書:中略|如紀文》巧(タクミ) ̄ニ掛_二長橋_一令_レ造_下遣_二 ̄シテ諸国_一 ̄ニ三河国 八 脛(ハギノ)長橋水内 ̄ノ曲橋 木襲(キソノ)梯(カケハシ)遠江国浜名 ̄ノ橋会津 闇(クロ)川 ̄ノ橋 兜岩(カヒノ)猿橋等其外一百八十橋_上 ̄ヲ 云_二これらの説出処詳ならざるのよしは先輩已に考按あれは今更に  贅(ぜい)するに及はずたゞその一二を抄略してこゝに掲(かゝぐ)るのみ 此地両山はなはだ狭り犀河の水たぎりて落かの北 涯(きし)の半腹(なかば)を うがちて酉(にし)より卯(ひかし)へゆく事五丈四尺曲て南へ大橋をわたす長 ̄サ十丈 五尺広 ̄サ壱丈四尺 欄(らん)基の高 ̄サ三尺橋と水との間尋常にて凡 十五丈《割書:或云三|十三尋》碧潭(あをきふち)のみなぎるさまみるに肝(きも)すさまし 心してゆけとよみしいにしへにそもなをかはらざりける  しかるに今災(こんさい)《割書:弘化|丁未》三月下旬 湛(たゝへ)水既に橋上数丈に及ひ  橋梁(はしげた)さかしまに浮みながれて穂刈(ほかり)《割書:村|名》の水面に漂(たゝよ)ふ  四月十三日崩流してゆく処をしらす《割書:下流奥郡に|漂着するもの》  《割書:徑り三尺余長 ̄サ十丈余|これその橋材なるにや》此頃歩を徙(うつ)してかの遺跡に臨(のそ)み  里人についてこれを尋るに両岸《割書:立|岩》こと〴〵く  崩れ落残水たゝへてなを数丈 再架(ふゝたひかくる)の  術(てだて)ほとんど絶たりと嗚呼陵谷の変ある  千載の名蹟こゝにほろびん欤又をしむ  へき事ならすや 穂高(ホタカ)神社《割書:延喜式神名帳名神大|安曇郡穂高邑に坐す》 〇古事記曰 綿(ワタ)津見 ̄ノ神は阿 曇連(ツミノムラシ)等之(ノ)祖 ̄ト云_二 〇姓氏録曰安曇 ̄ノ宿祢 ̄ハ海 ̄ノ神綿 積(ツミ)豊玉  彦 ̄ノ子穂高見 ̄ノ命 ̄ノ後 ̄ト云_二  此地草昧の時水を治め玉ひし神に  ませはその勲功(みいさほ)かしこみて仰べし 【下段】 いはゆる川中島四郡ははじなさらしな みぬちたかゐなり盛衰記東鑑等 ̄ニ云 しなの奥郡にして今も里言おくの郡といふ