口承文芸     仲原善忠 口承文芸     仲原善忠 【表紙裏】 【左頁上段】  沖縄   口承文芸               仲原善忠     一 古い謡い物…………………………………175     二 古い唱え者…………………………………183     三 琉歌…………………………………………188    一 古い謡い物  1 おもろ  はじめに 沖縄の口承文芸を代表するものは、オモロと コイナであろう。いずれも一定のふしで謡(うた)われたもので、 いわゆる謡いものである。伊平屋島のテルコ口(ぐち)、島尻(しまじり)地方 のアマエーダもコイナに似た謡いものである。  沖縄に文字が伝わったのは、一三世紀ごろとみられる。 直接の証拠はないが、文永年間(一二六四―一二七五)に禅鑑(ぜんかん) という僧(日本僧?)が渡来して極楽寺を建てていることが、 【左頁下段】 文字伝来の年代を推定する手がかりとなる。  沖縄から、はじめて明に使いをやった時(文中元年=一三七二) の表文は、科斗(かと)文であったという。おそらく仮名文字であ ろうといわれる。最古の金石文、首里の安国山(あんこくざん)花木記碑は 漢文で応永二九年(一四二二)、真玉湊碑文(まだまみなとひもん)は琉球語の平仮 名文で大永二年(一五二二)、『田名(だな)文書』の発令【(1)】も前半は 同様な平仮名で、大永三年(一五二三)のが最も古い。真玉 湊碑文は格調の正しいみごとな筆跡で『日本名筆全集』に 収録されている。『田名文書』の文字もこれに劣らぬりっ ぱな筆跡である【(2)】。このような文字を書きこなすまでには、 文字が伝わってすでに相当の年月を経過していることと思 われる。「古来、琉球にはカイダー字とよぶ象形文字があ った」【(3)】と記した人がいるが、これは八重山の西端にある人 口六千余人の与那国島で使われた符号で、文字ではない。 文字は前記のように、一三―一四世紀ごろ、日本から沖縄 に伝わり、そのうちの仮名まじり文は、いち早く実用化し たとみられる。  口承文芸は、文字および文字の担(にな)った文化とは関係なし に発生し、独自の創造力をもって成長したものであるが、 もともと沖縄と日本とは、言語においても同じ祖語のわか 175 176 【右頁右下・図の説明】 □□本〈おもろさうし〉 □□□□□□ 〈おもろさうし〉は全22巻、歌数1554首、 重複をのぞくと実数1□43首、まれに漢字を まじえた平仮名である。1531年から1623年 までのあいだに3回にわたって集録された。 図は巻8おもろねやがり、あかいんこかお もろ御さうし。〈首里天きやすへあんじお そいかなし〉は尚豊王(1621―1647)の神 号である。       本田安次撮影 【右頁上段】 れであり、原始の産業も米作 であるから、習俗・文化が同 質的であったのはむしろ当然 の結果であろう。ことに中世 時代は、日本との交通がしだ いにひんぱんになってきたの で、オモロには本土の言語・ 文物・思想の影が濃厚に反映 している。  古いおもろ オモロは琉球 の古い歌謡で、二一巻の『オモロ草紙』に編集されている。 一二世紀ごろから一七世紀の初めにわたって、沖縄・大島 の両群島で謡われたもので、なにゆえか、宮古、八重山の ものは入っていない。  「オモロ」とは「思うこと」の意で、今でも首里以外の 地方では「ウムイ」といっている。「思い」はまた「恋人」 を意味する。「思い」を通名の上・下にそえると美称とな った。「オミツル」(思□)、「ツルモイ」(□思)などの「オ ミ」「モイ」がそれである。  『オモロ草紙』巻一は享禄四年(一五三一)に編集された。 【右頁下段】 内容はすべて聞え大君のもので、「あおりやへがふし」が 大部分を占めている。巻一の二のオモロを左に例示する。      あおりやへがふし   一、きこゑ大ぎみぎや、     おれて、あすびよわれば、     かみてだの、まぶりよわる、     あんじおそい、    又、とよむ、せだかこ【1】が、    又、首里もりぐすく、    又、まだまもりぐすく。 【左頁上段】      (訳)聞え大君が、        (天より)降りて遊び給えば、        神・太陽の、守り給う、        按司□い(王)       又、響む、せぢ高が           (以下くり返し)       又、首里杜城、       又、真玉杜城。  このオモロの形式は、古くからある平凡なものであるが、 内容は、聞え大君が王を祝福するものであるから、古いも のではない。  最初の聞え大君は尚真王(一四七七―一五二六)の妹である。 すなわち、王のおなり神が聞え大君ということになる。マ キヨ時代の根□と根神との関係は、そのまま続き、王□は 根□、根神は聞え大君、ということになっている。  古いオモロの形式は、対語・対句・くり返しがあり、好 んで古語を使用する。このオモロも、かみ―てだ・きこゑ・ とよむが対語、聞え大君ととよむせだかこ、首里もり城と まだまもりぐすくが対句をなしている。二・三・四節の二 行以下は略されているが、それぞれ、一節の二行以下をく り返すのである。  一首の意は、首里城内の祭場に、聞え大君という神が、 【左頁下段】 天降りし、□あそびをし給うと、天上の神も、太陽も、王 を守るのだ、というほどの意であろう。  1 セダカコ セジ(霊力)の豊かな人の意、聞え大君の□名。  古い内容をもったオモロの例をあげると      きみがなしふし(巻一五ノ一五)   一、ゑぞ、ゑぞのいしぐすく、     あまみきよ【1】が、たくだる、ぐすく、    又、ゑぞ、ゑぞのかなぐすく。      (訳)伊集、伊集の石城、        アマミキヨが、たくみし城、       又、伊集、伊集の金城。           (くり返し)  伊集は沖縄中部の浦添村にある集落で、ここを根拠にし て城をきずき、付近を支配した土豪がいた。古代の伝説の 霧の中から明瞭な姿を現わす実在人物が「ゑぞのいくさも い」という人である(巻一五ノ一八)。後世の史書に英祖王 といわれるのは、「ゑぞのいくさもい」の「ゑそ」のあて 字である。このオモロはかれの城をほめたものである。  1 アマミキヨ ― 伝説に、日神の命により沖縄の島を造った   といわれる神。ここでは単に城をほめて言ったものと解され   る。 沖縄 口承文芸 177 178 【右頁上段・写真の説明】 中頭郡勝連村平敷屋のエイサー 浦添市□コーンクールにて  本田安次撮影 【右頁下段】  『オモロ草紙』巻二は慶長一八年(一六一三)の編集であ る。慶長一八年といえば島津侵入から五年後で、島津の監 督政治が始まったばかりである。家々の日記をはじめ諸記 録が烏有(うゆう)に帰した、と『喜安日記』にあるが、せめて人び との記憶に残る歌を集録して、後世のために備えたのであ ろうか。  巻三以下の一六巻は元和九年(一六二三)、巻一一、一四、 一七、二二は不明である。  エサおもろ オモロは最初は歌謡の□称であった。一四 世紀末になると、新しい曲節と内容のものが現われた。巻 一四のエサオモロがそれである。エサオモロに謡われたも のは神への祈願ではなく、社会的な人物および事件である。 謡いの場は杜嶽(もりたけ)ではなく、祝い寿ぎなどの神とかかわりの ないところであった。  巻一四ノ一に収められたオモロの主人公は、中山王察度 といわれる人である。かれはシナ(明国)との交通を開いた 人で、オモロにはジャナモイと謡われている。ジャナ(謝 名)はかれの生れ故郷、浦添村の一部落である。ジャナモ イは、当時この島を三分して鼎立(ていりつ)していた一勢力の首領で、 その勢威は他を圧していた。明王の入貢のすすめに応じて 【左頁上段】 使いをやったのが文中元年(一三七二)で、足利義満の入貢 に先んずること三二年であった。  かれはいまだかつて試みたことのない冒険を敢行して、 みごとに成功した。弟泰期を使わしたと史書に記されてい るが、オモロは、オザノタチヨモイが行った、と謡ってい る。オザは読谷村の一部落で、タチは名、ヨモイは「思い」 で美称、「泰期」はタチのあて字である。弟、泰期という 表現は、後世、遣明正使を王□と称し、王□をよそおった のと同じ手法である。「おざの、たちよもいや、たうあき ない、はゑらちへ」(一五ノ六六)とあるごとく入貢・進貢 を「唐あきない」と謡っている。  泰期らは莫大な鍋釜、陶磁器を将来して、人民を利した。 明王は、ジャナモイに察度と中国名をつけ、中山王の王号 をおくった。      ジャナモイを謡ったエサ(巻一四ノ一)。  一、じやなもひや、たが、なちやる、くわが、     こが、きよらさ、こが、みぼしや、あよるな、   又、ももちやらの、あくて、おちやる、こちやくち、      じやなもいしゆ、あけたれ、   又、じやなもいが、じやなうへばる、のぼて、 【左頁下段】      けやげたる、つよハ、      つよからどかばしや、ある。      (訳)謝名どのは、誰(た)が生(な)した子か、        かく、美しく、かく、見まほしく、あるよな、      又、百按司の、開けあぐみたる庫裡口、        謝名どのこそあけたれ、      又、謝名どのが、謝名上原に登って、        蹴上げたる露は、        露さえも、芳はしくある。  この歌は今までのオモロと違い、土器と石器の□□た□ 村に光明と希望をもたらした英雄をたたえるにふさわしい □のこもったものである。集団舞踊の構成員は男性で、あ らあらしい足拍子をふみ、鼓(つづみ)に合わせて行進した。今も残 っている七月エイサーの先行形とみられる。  エイサーは囃子(はやし)で、エイサー・エイサー・サ・ニイサ ー・エイサーという。日本本土の民俗芸能にも類型が少な くないから、おそらく無関係ではないと考えられる。  エトオモロ 次に現われたのがエトオモロである。エト は、本来は掛け声の意であるが、労働歌となり、一五世紀 末から一六世紀にかけては歌謡の一般名となった。エトオ モロは、巻一〇の歩きエトと巻一三の□エトとに分れる。 沖縄 口承文芸 179 180 【右頁上段】 二つとも船歌で、歩きエトはおもに□行・□行の歌、□エ トは帆走歌である。  従来アリキエトは字づらから推して行□歌と規定されて いた。ところが巻一〇の四五首のうち三三首は船歌で「浦 まわりのお舟召し給い、東(あがり)に歩み給えや」(一〇ノ四)とか 「東に歩んで、てだ(太陽)のあなに歩んで」(一〇ノ□四・ 四二・四三)などと、舟の除行を意味している。帆走の船も 謡われているが、多くは□行である。  巻一三は帆走にかぎらず、進水式のものも多く出ている。 一五―一六世紀になると、エトが歌謡界を風靡(ふうび)したらしい。 「エトをしないのは□王の□□」という俚諺さえはやった といわれる。  尚真王(一四七七―一五二六)は英邁(えいまい)な国王であった。永正 一二年(一五一五)、セジアラトミ(船名)をマナンバン(真 南蛮=タイ国)につかわすとき、「おんみずから召され候ゑ と」、みずからエトを謡い、航海安全を祈求したのが巻一三 ノ一七である。次の王の尚清(一五二六―一五五三)に、那覇 港口にヤラザ杜城とよぶ要塞をきずいた。国王はじめ聞え 大君以下の神女たちが臨席し、ミセセルを賜わった。その とき王は、四人の役人に命じて「エト」を作らせた。これ 【右頁下段】 が巻一三ノ一八であることはその前文により明らかである。 尚真王の謡ったエトも、尚清王が作らせたエトも、同じく 「首里ゑとのふし」となっている。  次にエトオモロの例を一つあげよう。南蛮帰りの貿易船 が那覇港口に来たときの光景である。      しよりゑとのふし(巻一三ノ五)   一、すざべ、大ざと【1】が、     かぢ、とたる、こまさよ、     大ぎみに、まはい、こうて、     はりやに    又、よかる、大ざとに、    又、あぐて、おちやる、かうちちよ、     そでたれて、わたたる。      (訳)兄部(すざべ)、大里が        楫取りの、細さよ、        大君に、真/南風(はい)乞うて、        走(は)らないか、       又、よかる、大里が、           (以下くり返し)       又、待ちに待ったる、河内ぞ、        袖たれて、渡(わた)たる。 【左頁上段】  待ちあぐんでいた河内丸が、やっと帰って来た。埠頭(ふとう)に は出迎えの人が黒山をきずいている。風が真南にならない ので、船は港口を東に走り、西に走って、なかなか入って こない。「大里の兄さんよ」「楫取りが用心すぎるよ」「大 神に真南風を乞うて、走ってこいよ」と祈る心で呼びかけ たとたんに、船は帆いっぱいに真南の風をはらんで、走り こんできた。  1 スザベ、オオザト―スザは兄、ベは敬意を意味し、□□を   表わす。大里にかれ(□取り)の生れ島からきた□。  オモロの語彙(ごい)は約三五〇〇であるが、その中にウタまた はウタフという語はなく「オモロする」と表現されている。 オモロの語義も、時代により変遷があったと見なければな らない。  一六世紀に船の律動を基調としたエトが謡われると、た ちまちこれが流行し、当時の歌謡はエト一色となり、オモ ロは祭礼のもの、エトは一般のものと分れたと思われる。 このほか、コネリオモロ(巻九)、アスビオモロ(巻一二)が ある。前者は舞踊の手を記入したオモロ、後者は□遊び、 宴会その他のオモロで、分類の観点がちがっているから、 ここでは省略する。【(4)】 【左頁下段】  オモロの起原が神祭りであったことは肯定せられるが、 エサ、エトなどは、その内容から見ても神祭りのものでは ない。オモロはお杜で謡う歌の意味であるとする説は、こ の点からみても妥当ではない。  付 大島オモロ 大島オモロは大部分、巻一三「舟えとの おもろさうし」に入っている。一三ノ一一二―一一六、一 八三―二〇四、二一二―二一三の二九首は大島群島のもの である。その他にも大島オモロが散見する。オモロ研究の 開拓者伊波普猷氏もこれを指摘していない。故昇曙夢氏の 『大奄美史』も伊波説を引用しただけで、大島オモロには ふれていない。  大島の古代文化は沖縄のそれと一体をなし、沖縄対先島 (八重山・宮古両列島)との関係よりももっと密接であった といえる。言語・習俗・信仰はいうまでなく、文芸の面か らみても結論は同じであろう。  2 こいな  コイナもオモロの一種であったが、しだいに独自の形式 と内容をもつ歌謡として発達した。コイナは囃子(はやし)の名であ る。五、五を中心とした対句の連続する進行形の叙事歌で、 沖縄 口承文芸 181 182 【右頁上段・写真の説明】 コイナ    伊波普猷〈琉球古今記〉より 首里那覇では、だれかが□嫁に出た三日目の夜、親族縁者の女たちが集まって、□□ 平安を祈るコイナを踊った。今はこの習俗もすたれ、老婦人たちの記憶に残るのみ。 【右頁下段】 単純な集団舞踊を作っている。エサが活発な男性の非宗教 的集団舞踊であるのに対し、コイナは女性のもので、祝祭・ 祈願に結びついたものである。なかには征伐・凱旋などを 内容としたものもあるが、これとても、神女が呪術で敵を 調伏したことを謡ったものである。新築・進水式・旅立ち・ 雨乞い・稲穂祭りなど、あらゆる祭礼に謡われた。  中世の祭礼では、まず神女がオタカベ(またはノダテゴト) を奏し、つぎにオモロを謡い、最後にコイナを合唱した。 この時は神女ばかりでなく、別の女性も全員参加したので ある。  大雨乞いの時のコイナを例示すれば、古形のコイナの性 格がほぼ明らかになろう。   一、このおみや、このまみやに、むかしから、けさし    から、あすびおみや、おどりおみや、げにあるげに、    だにあるげに、雨乞うて、おどらしゆん、いぶ乞う    て、おどらしゆん。      (訳)このお庭、この真庭、昔から、けさしから、遊び       お庭、踊りお庭、実(げ)にある故に、□にある故に、雨       乞うて、踊らん、いぶ(雨)乞うて、踊らん。    おどらば、あすはば、三日てばとうさ、四日てばと 【左頁上段】    うさ、夜くれのふが内に、夜すずめが内に、雨おろ    ちへたまふれ、いぶおろちへたまふれ、あばす風【1】乞    わぬ、しきよと風【2】くわぬ、きよらよね【3】ど乞れ、みな    よねど乞れ、やわやわと、たまふれ、なごなごと、    たまふれ。     (訳)踊らば、遊はば、三日では待ち遠し、四日では待ち       遠し。夕暮れのうちに、夕しじまのうちに、雨降ろ       し給われ、いぶ(雨)降らし給われ。あばす風は乞       わぬ。美(きよ)ら雨ぞ乞うれ、みな雨ぞ乞うれ、軟(や)わ軟わ       と給うれ、なごなごと給うれ。  12 アバスカゼ・シキヨトカゼ―語義不明。たぶん方向の   きまらぬ風のことであろう。  3 キヨラヨヌ―美しい□、そのような□□□。  このコイナは、記録されたものでは最も古いものの一つ である。といっても一七〇三年と推定される『仲里旧記』 に収録されている。それまで数百年の伝承を経ているから、 いろいろの脱落、変改は免れなかったはずである。  ねとり(音頭取り)が、鼓を打って音頭をとる。会衆は円 陣で行進しながら、足踏(よ)みまたは足拍子を踏み、手は合□ で拍子をとりつつ、「このおみやコイナ、このまみやにコ イナ……」というふうに謡いながら行進するのである。 【左頁下段】  一般に知られているものでは、(1)大城コイナ、(2)兼 城コイナ、(3)うりづむコイナ、(4)やらしコイナ、(5) 旅コイナ、(6)東(あが)り世などがあり、謡い方も囃子もそれぞ れ特徴がある。ただこれらのコイナ(「くゎいにゃ」「かぅい にゃ」などと表記する)は、古いオモロ時代のものではなく、 おそらく一七世紀以降のものであろう。  注(1)田名□□蔵の『辞令集』をいう。   (2)『日本名筆全集』(金石□之部)(昭和六年)   (3)『風土記日本』九州沖縄篇(昭和三二年)P□□4   (4)拙著『おもろ新釈』(昭和三二年)P45参照     二 古い唱え物  みせせる ミセセルは神のことば、または神語を意味す す。神女が神がかりして唱える文句で、「せせる」の上に 敬語の「み」を冠したものである。「せせる」は本来は「せ る」で、上の者が下の者に「告げる」「言う」の意。それ に「ささやく」などのごとく「せ」が重なったもので【(1)】、「み せる」は同義の話しことばであろう。  天文二二年(一五五三)、那覇港口に保塁(ほるい)が築かれた。倭(わ) 寇(こう)防御のためであった。五月四日、王をはじめ諸役人が列 沖縄 口承文芸 183 184 【右頁上段】 □し、聞え大君も神女たちを従えて臨席した。予定どおり 君真物(きんまもん)という神が聞え大君に憑依し、神女はミセセルをリ ズミカルに唱え、手にした魔よけの楚人木(ダシキャ)を つき立て、青木、すすきの束を打ちふり、打ちふって祓い きよめの動作を行ない、これを地に立ててとどめとした。 君真物というのはこの時代に信じられていた最高の神であ った。神がかりしたような気もちで、唱えおぼえた文句を もったいらしく述べたのであろう。その時のミセセルは次 のとおりである。   一、やらざもり、やへざもり、     いしらごは、ましらごは、     おりあげわちへ、つみあげわちへ、     みしまよねん、おくの世ねん、     世そおもり、国のまてや、     げらへわちへ、このみわちへ、     だしきやくぎ【1】、つきさしよわちへ、     あざかがね【2】、とどめわちへ、     もうはらて、みをはらて。      (訳)ヤラザ杜、ヤヘザ杜、        石らごは、真しらごは、 【右頁下段】        築き上げ給い、つみ上げ給い、        三島世にも、お国世にも、        世襲う杜、国の真手を        造り給い、たくみ給い、        楚人木、突き差し給い、        青木、すすきで、とどめ給い、        野を祓い、澪(みお)浄め。  大意は、ヤラザ杜に石を積みあげて、(この杜は)首里 王の支配する世でも(三島□首里)、世を支配し、国の要害 として造り給うた。魔よけの楚人木を突き立て、青木・す すきで野を祓い、海を浄め、とどめをする。   1 ダシキャクギ―高さ二、三mの灌木で木質堅く、杖に    用いる。昔から魔よけとして持ち歩くという。クギは釘か    小木(灌木)か□□。   2 アザカガネ、トドメワチヘ―アザカは琉球青木の古名。    ガネは今はゲェーンといい、すすきのこと。この二つのほ    か、□□□□□□□□□□□□の先を□り、三つを束にし    たのが神女の繰り物であった。アザカガネ、トドメワチヘ    はアザカ・ガネをとどめるの意ではなく、アザカ・ガネで    悪魔の入らぬようにとどめをするの意。  韻文だから舌足らずの感じがするが、だいたいの意味は 表現されている。王はこのめでたいミセセルでエトを作れ と四人の役人に命じた。そのエトオモロが巻一三ノ一八で 【左頁上段】 ある【(2)】。  このほかミセセルは真玉湊碑文にも出ている。また『琉 球国由来記』(一七一三)に一〇、『久米島日記』(一七〇三) にも一つある。久米島のものはほとんど無意味なほどくず れており、伊平屋のものはノダテゴトの形に近くなってい る。  ただ伊平屋のミセセルおよびノダテゴトの終りに、「是 言葉ニテ□□也」とか、「此言葉ニテ謡ヒ□躍也」と記し ていることが注目される。  ミセセルは五語ずつの対句を重ねただけで□韻をふみ、 神語らしく荘重な空気をかもし出すが、好んで古語を用い たため、唱え物のなかではまっさきに滅びてしまった。  おたかべ言 オタカベはお崇べ言(ごと)の略で、ノダテゴトと もいう。神をたたえあがめる意で、ノダテは願意を宣(の)り立 てるの意である。ミセセルが神自身のことばであるのに対 して、これは神と対立する神女のことばである。古い時代 では神と神女とはほとんど一体をなしていたが、時代の下 るにつれてその□離は大きくなってくる。  オタカベの形式は、たとえば火の神へのオタカベでは、 (1)冒頭に火の神の名を唱え、(2)そのとうとい出自をた 【左頁下段】 たえて神の歓心を買い、(3)名のりをあげて自己紹介をし、 (4)願意を述べる、という四□□にわかれている。((1) (2)は「太陽崇拝と火の神」参照)  (3)(4)の例をあげると、「今日の吉き日に、押し分け の親ノロ、王人の神(女)七人の神(女)を引きつれて、神の まねをするのは、恐れあることなれど、村人たちに請われ て雨乞いを致します」と、自己紹介をし、オタカベの理由 を述べ(「神のまね云々」の神は、昔の人、神になった人びとをさ す。後世の人びとは、太古を神の世、次の時代を按司の世と称し た)、ついで「首里杜におわす王の御田が、雨欲しく、みな □れて、口をあけているから、雨をおろして給われ、田/毎(ごと) にやわやわと、なごなごとたまわれ、畔(あぜ)越すようにたまわ れ、ぼさつ花(菩薩)のおゆえ(お故)、金実(かねみ)入れるおゆえ、 石実(いしみ)入れるおゆえ」と願意を述べて終る。  また、他のオタカベでは、「田が水欲しくて、口をあけ 待っているから、三日とは待てない、四日では待ち遠しい、 今のまひるまに、雨ふらして賜われ」「ただし、雨に伴う 風はごめんだ、雨だけを、やわやわと降らして下さい」と、 台風地帯の農民の真情を無遠慮に吐露している。  オタカベで述べたことを要約したのがコイナで、その内 沖縄 口承文芸 185 186 【右頁上段】 容はほとんど同じである。ただ、オタカベはノロ一人で唱 えるが、コイナは村の女性たちの合唱で、舞い踊りながら 謡い、オタカベの趣旨を強調し、その効果をねらうのであ る。  まじない言 旧三月に行われた畔払い(あぶし払い)、すな わち虫送りの時のものである。稲が穂をはらんだころ、畔 の草を刈り、泥をぬりこめてねずみの穴をふさぎ、吉日を 選んでノロが害虫をのろい、□□の舟にのせて海に流し、 村方一同が浜に下りて遊ぶ。この日から稲穂祭りまでは、 音楽歌□をやめ、山の木さえきらず、風雨のないように静 かにして、物忌(ものい)みをした。  マジナイゴトの構造は、第一に呪う相手の正しい出自を 暴露して恥ずかしめ、第二にかれらの悪業を述べて非難し、 第三に呪いのことばを並べて、かれらの悪業を封じこむの である。  マジナイゴトは『仲里旧記』に一つ残っているだけであ るが、オタカベ言と題するもののうちに六つのマジナイ言 があり、合計七つあることになる。『仲里旧記』編集のと き(一七〇三)、伝承者が少なくなっていたため、次々とオ タカベに吸収されていったと考えられる【(3)】。 【右頁下段】 □・□□□、畔払いの時のまじない言               (伝承者は城ノロ) 一、天のてだの、よばいくわの、ふれくわの、大しま  におれて、たいくにおれて、□くらになたうて、あ  よくらになたうて、ひびきやになたうて、尾長にな  たうて。   (訳)天の太陽の、夜這い子(妾の子)が、狂れ子がこの     島におりて、馬鹿になって、野ねずみになって、尾     長になって。  いしきよら、ぼさつのふ、さつかいしゆもの、たた  らしゆもの、     稲穂(ぼさつ花)の害をするから、たたりをするから、  ひびきやも、尾長も、かなかはと、かなかけて、か  けてひかは、かけ死にしめて、乞て引かは、乞死し  めて、にかもしや【2】、からもしやも、だかばだき死に  しめて、乞らは乞死しめて、にがさいも、からさい  も、ほくさばいも【3】、つるおてしめて、羽おてしめて、  なかばい、とひつかんやうに、ち中とびつかんやう  に。     野ねずみが、手をかけて引かば、かけ死にさせて、咬(かも) 【左頁上段】     うて引かば咬死にさせて、苦虫も辛虫も、抱かば抱     き死にさせて、咬まば咬死させて、苦さいも、辛さ     いも、ふく錆(さび)(?)も、ツル落ちさせて、羽落ちさ     せて、中空に、とびつかんように。  1 ニガモシャ、カラモシャ―どんな虫か不明。  2 ニガサイ、カラサイ―サイは小形の川えび、他のマジナ   イゴトでは□イヅチャすなわち□□□のバッタになっている。  3 フクサバイ―サバイは□のような□□。フクは色の名前   だが、何色か不明。 以上のように呪い終ってから、あとのしまつについて次の ように言っている。  「この馬鹿どもは、今から、小舟にのせて、はるか遠く に追いやり、にるや・かなやに届けると、にるや大司(おおつかさ)、 かなや大司が、よしみ□をつけて、あぐら(胡□)の□□、 こめておけば、今日から、稲穂は、ふさふさとさかえて、 むら人たちも、心のうち、たのしく、やすらけく」  オタカベと違って、敬語はいっさい使っていないが、オ タカベにまぎれこんだ六つのマジナイゴトは、神への願い であるから敬語になっている。  仲里間切には四人のノロがいた。城ノロ、宇根ノロ、比 嘉ノロ、儀間ノロで、城ノロだけはマジナイゴトを覚えて 【左頁下段】 いたが、他の三人はそれぞれ火の神の前と浜との二ヵ所で オタカベをあげている。火の神の前でオタカベをあげるの はよいとしても、浜には神はいないから、お□の神を呼び だし、いきなり害虫どもの悪口をいい立てている。これに は神々も面くらっただろうと思う。今のノロたちの謡うオ モリはみなこんなものである。  野ねずみの出自についても、城ノロが、上述のごとく、 天の太陽の夜這い子・狂れ子だというのに対して、他の三 人は野ねずみを「天のてだのなちやるくわの、おとじちよ が、なしやぶりくわが、ひびちやになり云々」(天の太陽が 生んだ子の月が、生みそこねた子が云々)といっているように、 両者の間に相違があるが、要するに、野ねずみをなんとか して恥ずかしめればよかったのではあるまいか。  注(1) 伊波普猷『古琉球』P□□□   (2) 拙著『おもろ新釈』P□□□   (3) 伊波普猷『日本文化の南漸』P□□□以下に、『仲里旧記』    の内容を「祝呪二十四篇、神歌三篇、くわいにや十三篇、    みせせる一篇、まじなひごと一篇」とし、火の神に関する    七篇は形式内容から新古の二類に□□るとして、甲類四    篇(古いもの)、乙類三篇(新しいもの)とに分類してい    る。 沖縄 口承文芸 187 188 【右頁上段】    しかし、甲類は四つとも比嘉ノロのもの、乙類三つは城ノ    ロ、宇根ノロ、儀間ノロのそれぞれ一つずつであり、□□    に採集したものゆえ、新旧の問題ではなく伝承の□□から    きた違いである。伝承者が急死して口伝が滅びたり、伝え    そこねてつぎつぎにゆがんでいったりして、数世代の間に    は原形をとどめなくなる。明治二九年に田島利三郎氏が採    □したオモロも、ほとんど昔の原形をとどめていない、□    後も採集がつづけられているが、あまり利用価値はないと    思う。     三 琉歌  口承文芸のなかに琉歌(琉球歌)を入れるべきかどうか問 題である。琉歌という名称も和歌との区別のために生れた もので、古いものではない。前述のようにオモロにはウタ またはウタフという語がなく、オモロ、エトなどを謡うこ とはオモロするといい、コイナもコイナするまたはコイナ をよむといわれた。オモロ、コイナの概念のなかには謡う という要素が入っていたといえる。『大島筆記』(一七六二) に、「琉球歌、うたひ物也、これに琴三絃、鼓弓(胡弓)な どを入るゝ曲なり、(中略)この歌のふしばかりは往古より かわらず、このふしにうたはるゝ様に新歌をつくる也」と して例にあげた三十余首の歌は、いわゆる琉球歌である。 【右頁下段】  琉歌は周知のごとく三〇字で八八八、八六と上下二句か らなっている。その発生についてはまだ定義がないが、は っきりいえることは、オモロの慣用手段であり、またすべ ての口承文芸に共通する対語・対句がなく、くり返しもな い。また、一六世紀には一般人にはすでに難解なものとな っていた古語の使用もない。対語・対句・くり返し・古語 の使用は、一六世紀にはすでに一般人にとって重荷となっ ていた。そういうときにこれらの拘束(こうそく)を捨てて、民の思い を端的に表現したのが琉歌で、無意識に作られたにしても 革新的な文学であったといえる。  オモロその他を通じて、三・五―八音は句の基本数をな しており、ことにエトオモロではこれがやや固定的になっ てきている。たまたま一六世紀前半に、中国あるいは南方 から伝わった三味線に合わせて謡われるようになって、一 般の創作欲はウタに向かい、オモロは□事の謡いものとし て残存するにすぎなくなった。  この時代にはすでに日本の文学も支配階級に浸透してい たので、和歌の影響も強く出ている。しかし、一般庶民は まだ文学とは縁のない時代であったにかかわらず、歌の名 人といわれるほどの人はこの階級の人びとで、その伝統が 【左頁上段】 いまなお続いている。  □□の歌のなかには、□、用語、風物など、日本文学か らの借用の明らかなものが少なくない。たとえば、   常盤なる松の、かわることないさめ、いつも春来れば   色どまさる という北谷王子の歌があるが、『古今和歌集』の   常盤なる、松のみどりも、春来れば、今一しほの、色   まさりけり の翻案であることは明白である。この類のものは少なくな い。和歌を学び、『源氏物語』『伊勢物語』などに親しん でいた人びとの作である。  これに反し、恩納なべという百姓娘の歌は、   恩納嶽(おんなだけ)、彼方(あがた)、里(さと)(恋人)が生れ島、森もおしのけて、   此方(こがた)なさな のように、だれにでもわかる歌である。恩納嶽のあなたは あの人の村だ、あの山をおしのけて、その村を山のこなた にしよう、と大胆に真情を吐露している。聞きなれ、言い なれたことばで、しかも無用な対句・対語を切り捨て、す っきりした形にしたものが、オモロの古い株から生れた若 若しい琉歌である。 沖縄 口承文芸 189 【裏表紙裏】 【裏表紙】