【題字】 海外人物小伝・二 【表紙裏】 【資料整理ラベル】 JAPONAIS  615   2 【上部手書き文字】 Japon.615(■) 【下部手書き文字】 Don.F605. 《割書:海外|治乱》繍像人物小傳巻之二   第二回 去(さ)る程(ほと)に勃那把爾的(ほなはるて)は意太里亜(いたりや)の陣(ちん)を去(さ)り「マ スセナ」を大/将(しやう)として己(おの)れに代(かは)らしめ紀元(きけん)一千 八百年【注】我国の享和(きゃうわ)元(くはん)辛酉(かのととり)年(とし)彼(か)の七月/初一日(ついたち)巴(は) 里斯(りす)に返(かへ)る巴里斯府(はりすふ)人(じん)或(あるひ)は其(その)歸(かへ)るを喜(よろこ)ぶ者(もの)あ り或(あるひ)は又/其(その)驕慢(きやうまん)にして國(くに)を奪(うは)はんとする心(こころ)日(ひ)々 に盛(さか)んなるを嫉悪(しつを)【左るび:ニクニ(ニクミか)】し因(よつ)て之(これ)を害(がい)せんと欲(ほつ)する 者あり十月/乱(らん)を作(おこ)す者(もの)を捕(とら)へて禁獄(きんこく)せしむ十 二月/一声(てつほう)の(を)爆炸(まつて)の(あん)下(に)/勃那把爾的(ほなはるて)を弑逆(しいきやく)【左ルビ:コロス】せんと 【注 我国の享和元年は一千八百一年とされているので一年ずれている。以後西暦と和暦がずれたままで表記さる。】 謀(はか)る者あり然(しか)れども狙射(ねらいうち)中(あた)らず是(これ)も亦(また)發覺(はつかく)【左ルビ:アラハル】し て誅(ちう)に伏(ふく)す翌(あくる)一千八百一年/我國(わかくに)の享和(きやうわ)二/壬戌(みつのへいぬ) 年/彼(か)の一月/大(おほひ)に其(その)余党(よとう)を捜索(さか)し貴賤(きせん)を問はず 雅谷貌義團(やこつぷきだん)の人員(にんしゆ)一百三十名を緝捕(しゆほ)【左ルビ:カラメトリ】して其中(そのうち) 七十/名(にん)は放流(はうりう)し「アレナ」「セラッシ【」記号脱】等(とう)の人は初(はし)めの 乱(らん)に與(くみ)し此(こヽ)に至(いた)つて尚(なを)逆心(きやくしん)を挿(さしはさ)むを以(もつ)て「キュイ ルロッチネ」《割書:首を刎|る刑名》の刑(けい)に處(しよ)し且(か)つ「フレフェクヽ」《割書:廻|り》 《割書:役|人》をして遍(あまね)く人家(しか)を捜索(さか)して兵器(へいき)を匿(かく)す者は 盡(こと〳〵)く繳納(きやうのう)【左ルビ:■レカサル】せしめて宦庫(くわんこ)に鎖(とさ)す是(これ)より前(まへ)一千八 百年/我国(わかくに)の享和(きやうわ)元(くわん)辛酉(かのとのとり)年(とし)彼(か)の九月三日/北米里(きたあめり) 堅(か)国(こく)と和(くは)し両国(りやうこく)貿易(かうえき)の法制(はうせい)を約(やく)す窩々所徳礼(おゝすとれい) 畿(き)も亦(また)「モンアウ」為(ため)に破(やぶ)られて後(の)ち和(わ)を請(こ)ひ一 千八百一年 我国(わかくに)の享和(きやうわ)二 壬戌(みつのへいぬ)年(とし)彼(か)の二月九日 「リュネフィルレ」《割書:地|名》に盟(ちか)ひ列応河(れいんが)左岸(さがん)の地(ち)一帯(いつたい)和蘭(おらんだ) 土(とち)に至(いた)るまでこと〴〵く仏蘭西(ふらんす)に割(さき)与(あた)ふ但(たゝ)し英吉(えげれ) 利(す)は未(いまた)だ【衍】和(わ)を講(かう)せず三月二十八日 両(りやう)斉西里亜王(しゝりやわう) と和(くは)し七月十五日 宝帥(ぼうす)《割書:意太里|亜法王》と「コンコルダー ト」《割書:王侯宝帥|と盟ふ礼》を行(おこな)ひ八月二十四日「ハルツベイエ レン」国(こく)と別(べつ)に盟誓(ちがひ)を為(な)し同(おなし)く二十八日 故(もと)の抜(ば) 答肹亜義團(たあひやぎだん)と和(くは)し九月二十九日 葡萄牙(ぼるとがる)と多勒(まとりつ) 多(と)に和議(わぎ)を結(むす)び十月 初一日(ついたち)大貌利丹尼(えげれす)と和議(わぎ) を謀(はか)り同月八日 俄羅斯(おろしや)と和(くは)し其後(そののち)都爾其(とるく)と和(わ) を議(ぎ)す是(こゝ)に於(おい)て十一月九日 巴里斯(はりす)に於(おい)て諸国(しよこく) 講和(かうわ)偃武(えんふ)の祭祀(さいし)を行(おこな)ふ此(こ)れ第一位(だいいちい)「コンシュル」那(な) 波列翁(ぼれおん)の凱旋(かいせん)【左ルビ:イクサニカチカヘル】するを 祝(しゆく)するなりこれより前(まへ)六 月 阨日多(えしつと)の軍(いくさ)利(り)あらす僅(わつか)に仏蘭西(ふらんす)に属(そく)したる 地(ち)も尽(こと〴〵)く之(これ)を敵(てき)に割与(さきあた)へ既(すで)にして残兵(ざんへい)僅(わづか)に国(くに) に返(かへ)るを以(もつ)て臣民(しんみん)深(ふか)く是(これ)を慚愧(ざんき)【左ルビ:ハヂハツル】す此(こゝ)に至(いたつ)て人(ひと) 々(〴〵)初(はしめ)て阨日多(えじつと)の恥(はち)を遺(わす)れたり 是(こゝ)に於(おい)て勃那杷爾的(ぼなばるて)は諸(しよ)学術(がくじゆつ)を隆興(りうこう)【左ルビ:サカンニ オコシ】し交易(かうえき)を 盛(さかん)にし軍艦(くんかん)を修補(しゆほ)し植民(しよくみん)を弘恢(ひろく)せんと欲(ほつ)し殫(たん)【左ルビ:セイヲ】 精(せい)【左ルビ:ツクシ】焦思(せうし)【左ルビ:オモヒヲコガシ】専(もつば)ら其事(そのこと)を務(つと)む一千八百二年 我国(わがくに)の享(きやう) 和(わ)三癸亥年 彼(か)の一月「コンシュル」自(みづか)ら親衛(しんえい)の兵(ひやう)を 率(ひき)ひて「レイヲン」に赴(おもむ)き意太里亜(いたりや)国内(こくない)「シスアル ベイン」《割書:地|名》義団(ぎだん)を復(ふく)す仏蘭西(ふらんす)の百宦(ひやくくわん)議(ぎ)して勃那(ぼな) 杷爾的(ばるて)を以(もつ)て之(これ)が総裁(そうさい)たらしむ三月 大貌利丹(だいぶりた)【左ルビ:エゲレ】 尼(に)【左ルビ:ス】と「アミインス」《割書:地|名》に会(くはい)して和議(わぎ)を定(さだ)む勃那杷(ぼなば) 爾的(るて)は既(すで)に土地(とち)を墾闢(こんへき)【左ルビ:ヒラク】し人民(にんみん)を蕃殖(はんしよく)【左ルビ:シケリフエル】し宝帥(ばうす)と 「コンコルダート」を挙行(あげおこな)ふて国法(こくほう)を正(たゞ)し継(つい)で仏(ふ) 蘭西(らんす)国内(こくない)寺院(じいん)の法制(ほうせい)を約(やく)し廃蕪(はいぶ)【左ルビ:スタレル】せる学校(がくかう)を興(おこ) し僧寺(そうじ)の祭祀(さいし)の廃(すた)れたるを挙(あ)げ興(おこ)し邦人(くにたみ)の他(た) 国(こく)に散在(さんざい)する者(もの)を処措(しよそ)【左ルビ:オリシク】する新法(しんばう)を建(たて)る等(とう)の善(ぜん) 政(せい)を施(ほどこ)すを以(もつ)て民心(みんしん)帰服(きふく)し人々(ひと〴〵)嘳々(み〳〵)【ヨロコビナク】として其(その) 徳沢(とくたく)の深(ふか)きを誦(しやう)す故(ゆへ)を以(もつ)て五月八日 議政宦(ぎせいくわん)勃(ぼ) 那杷爾的(なばるて)を冊(たて)て「コンシュル」の位(くらい)に居(お)らしめ政(まつりごと)を 行(おこな)ふこと更(さら)に十年を期(き)とす勃那杷爾的(ぼなばるて)は既(すで)に 其請(そのしやう)に允(したがふ)て其位(そのくらい)を践(ふ)み国政(こくせい)を躬(みづから)にす又(また)国民(こくみん)太(たい) 半(はん)勃那杷爾的(ぼなばるて)をして畢生(いつしやう)此位(このくらい)に在(あ)らしめんと 諮議(しぎ)【左ルビ:ハカリ】し因(よつ)て先(まづ)其(その)功勲(いさほし)を賞(ほ)め今(いま)別(べつ)に親衛(しんえい)の兵(ひやう)を 賜(たま)ふ勃那杷爾的(ぼなばるて)は新(あらた)に此(この)兵隊(ひやうたい)を得(え)て権勢(けんせい)倍々(ます〳〵) 昌(さかん)なり邪曲(じやきよく)を為(な)す諸宦人(しよくわんにん)を尽(こと〴〵)く籠絡(ろうらく)【左ルビ:オシコメシバル】す是(こゝ)に 於(おい)て衆(しゆ)民 連署上表(れんしよしやうひやう)【左ルビ:レンメイノシヨヲアゲル】して上(かみ)に云(い)へる如く勃那杷(ぼなば) 爾的(るて)を一生(いつしやう)「コンシュル」の位(くらゐ)に在(あ)らしめんと請(こ)ふ 八月二日 政宦(せいくわん)会議(くわいぎ)して衆(しゆ)の望(のぞみ)に任(まかせ)勃那杷爾的(ぼなばるて) を其(その)位(くらい)に冊立(さくりう)【左ルビ:タテル】し畢生(いつしやう)其(その)宦(くわん)に任(にん)ずるを命(めい)ず勃那(ほな) 杷爾的(はるて)が位爵(ゐしやく)今(いま)は則(すなは)ち諸政官(しよやくにん)の上(かみ)に在(あつ)て文武(ぶんぶ) 百宦(ひやくくわん)皆(みな)己(おの)れが指揮(しき)【左ルビ:サシツ】に従(したか)はざる者(もの)なく威権(ゐけん)赫奕(かくえき)【左ルビ:カ□ヤキ オホキ人】 たり八月二十七日 百宦(ひやくくわん)咸(こと〴〵)く忠義(ちうき)をつくし進(すゝん)で 他心(たしん)なく「コンシュル」を奉載(ほうさい)【左ルビ:ウケイタヾク】すべきの盟書(めいしゆ)を上(あげ)る 是(こゝ)に於(おい)て義団(ぎだん)の朝廷(てうてい)無事(ふじ)なるを以(もつ)て勃那杷爾(ぼなばる) 【右丁 挿絵のみ】 【左丁】 那波(なぼ)  列翁(れおん)を 嫉(ねた)み夜(よ)に 乗(じやう)して殺(ころ) さんと謀(はか)る     図(づ) 的(て)心(こゝろ)を専(もつぱ)らにして外国(ぐわいこく)を蕩平(とうへい)【左ルビ:ヒロクターラグ】する策(はかりこと)を施(ほどこ)し八 月二十六日「エルバ島(とう)を収(おさ)めて我(わが)共和義団(きやうわぎだん)に属(ぞく) す赫勿菱亜(へるへしや)の国民(くにたみ)乱(らん)を作(おこ)す是(これ)より前(まへ)は其(その)国(くに)独(どく) 立(りう)して属(ぞく)する所(ところ)なし此(こゝ)に至(いたつ)て仏蘭西(ふらんす)に属(ぞく)し其(その) 命令(めいれい)を聴(き)く比蒙突(ぴいもんと)を并(あわ)して仏蘭西(ふらんす)の郡県(ぐんけん)と為(なす) 又(また)新(あらた)に学校(かくかう)の制度(せいと)を定(さだ)め士民(しみん)の律令(りつれい)を刊(かん)し街(ち) 衢(また)を修(おさ)め溝渠(みぞ)を疏鑿(そさく)【左ルビ:ホル】す是(これ)に由(よつ)て民庶(みんしよ)の間曠(かんくわう)【左ルビ:ヒマムナシ】に して素業(そぎやう)なき者(もの)皆(みな)恒産(つねのさん)を得(え)たり此(この)諸仁政(しよじんせい)を行(おこな) ふ間(あいだ)英吉利(えげれす)勃那杷爾的(ぼなばるて)を疾(にく)む心(こゝろ)深(ふか)し時(とき)に英吉(えげれ) 利(す)の日刊朝報(につかんてうほう)【ヒヾニシタヽメテウニワク】を得(え)たり曰(いわ)く渠(かれ)今(いま)和議(わぎ)を講(こう)ずる 者は姑(しば)らく其 難(なん)を弭(ゆる)めて大に戦艦を修(しゆ)し海軍 の力能く我に敵(てき)するに足(た)るを須(まつ)て其和 盟(めい)を破 り以て仏蘭西(ふらんす)の宿世(しゆくせ)の讐(あだ)を報(ほう)せんとするなり と云(い)ふ勃那杷爾的(ぼなばるて)曰く然(しか)らば則ち英吉利(えげれす)は和 議に狃(なれ)安んじて我(わが)軍備(くんび)の全く成るを安間(あんかん)と俟(ま) つ心(こゝろ)なきこと明かなり宜(よろ)しく彼(かれ)に先だち発(はつ)す べしと俄(にはか)に軍(ぐん)議を定む是(こゝ)に於(おい)て両国 交々(かはり〴〵)書(しよ)を 遣(や)つて迭(たがい)に非義(ひき)を責(せ)め和議(わぎ)遂(つい)に又 破(やぶ)れ一千八 百三年 我国(わかくに)の文化元甲子年英吉利と戦(たゝかい)を交ゆ 「【「記号脱】ハノーフル」《割書:国|名》は両国の間に在て英(え)吉利に属(そく)す 故に先づ勃那杷爾的(ぼなばるて)大将「モルチール」を遣(やつ)て之 を伐(うた)しむ六月三日 早(はや)く既(すで)に其 城(しろ)を囲(かこ)む既にし て和を請(こ)ひ「スュリンケン」の地(ち)に盟(ちか)ふ故を以て仏(ふ) 蘭西(らんす)は手(て)を下(おろ)さずして「ハノーフル」を降(くだ)し一(いつ)切 武器(ぶき)銃(おほづつ)礮(いしびや)糧(かて)馬を繳納(きやうのう)【左ルビ:ツカネオサムル】せしむ英吉利(えげれす)は前(まへの)盟(ちかひを)《振り仮名:不_レ守|まもらず》 又今仏蘭西の「ハノーノル」を攻(せめ)取るを坐視(さし)【左ルビ:ヰナカラミテ】して 之を救(すく)ふこと能(あた)はず是に於(おい)て仏蘭西(ふらんす)は英吉利 を征討(せいたう)するに須(もちふ)る所(ところ)の兵 備(び)既に整(とゝの)ひ又 黄祁(どいつ)は 我に信従(しんじう)して英吉利を防禦(ぼうぎよ)【左ルビ:フセグ】する便宜(ひんき)を得(え)たり 是に於て欧邏巴大陸(えうろつぱたいりく)同盟(どうめい)諸侯(しよこう)尽(こと〴〵)く英吉利と交(まじはり) を絶(た)ち且(かつ)四 辺(へん)諸港(しよこう)【左ルビ:ミナト】に英吉利(えけれす)船(ふね)及(およ)び貿易(かうえき)貨物(くはふつ) を通(つう)ぜざるの法制(ほうせい)を定(さだ)め一千八百三年 我国(わかくに)の 文化元 甲子(きのへね)年 彼(か)の六月二十日 英吉利(えけれす)の百 貨(くは)を 仏蘭西(ふらんす)諸港(しよこう)に運(はこび)入ることを厳(きび)しく禁(きん)じ其英吉 利(す)海岸(かいかん)を掩撃(えんけき)【左ルビ:ワタリウツ】する軍艦(いくさぶね)は尽(こと〳〵)く之を「ハフレ」より 「ヲステンデ」に至るまでの諸港脚(しよみなと)にあつめ又其 全隊(せんたい)軍艦(くんかん)も皆(みな)未(いま)だ戦闘(たゝかひ)を始(はし)めず此時(このとき)英吉利(えげれす)は 兵(へい)を発(はつ)して仏蘭西(ふらんす)黄祁(どいつ)の諸海港(しよかいこう)及び「エルベ」「ウェ ーセル」二河の諸地(しよち)を襲(おそ)ひ撃(う)つ一千八百四年 我(わか) 国(くに)の文化二 乙(きのと)丑年 彼(か)の二月十五日 勃那杷爾的(ぼなばるて) を殺(ころ)し乱(らん)を作(おこ)さんと謀(はか)る者(もの)ありて其事(そのこと)発覚(はつかく)【左ルビ:アラハル】す 其 首謀(しゆばう)は「ヒセグリュ」「ゼヲルゲス」たり其 余(よ)の逆徒(ぎやくと) 四十三人 皆(みな)前後(ぜんご)捕(とらはれ)に就(つ)く「モレアウ」も亦(また)其 数(かす)の 中に在(あり)て生擒(いけと)らる又此 逆党(きやくとう)仏蘭西(ふらんす)人の避(さけ)て外(くはい) 国(こく)にある者(もの)及(およ)ひ英国(えいこく)の使節(しせつ)黄祁(どいつ)に居(お)る「アケン テン」等(ら)と密(ひそか)に書(しよ)を通(つう)じて内外(ないくはい)相応(あいおう)せんと謀(はか)る と告(つぐ)る者あり是(こゝ)に於(おい)て急(きう)に「コウリンコウルト」 に命(めい)じ二 隊(たい)の兵(ひやう)を統領(たうれう)せしめ三月十五日の夜 兵(へい)を潜(ひそ)めて列応河(れいんが)を渉(わた)り其(その)備(そな)へざるに乗(じやう)じて 「バアテン」部内(ぶない)に進(すゝ)み「ケール」「エツテンヘイム」囲(かこ)み 「エングイーン」の赫督(へると)撫を緝捕(しうほ)【左ルビ:カラクール】して巴里斯(はりす)に致(わた) し軍議(ぐんぎ)庁前(てうぜん)に引出(ひきいだ)し同二十日の夜(よ)之(これ)を炮(あぶり)殺(ころ)す 俄羅斯(おろしや)雪際亜(すうえしや)之を聞(き)き其(その)国法(こくほう)に背(そむ)き縦(ほしいまゝ)に公侯(こう〳〵) を誅戮(ちうりく)するを責(せ)め問(と)ふ仏蘭西(ふらんす)対(こたへ)て曰く其 反逆(ほんぎやく) 不(ふ)軌(き)【左ルビ:ノリ】を謀(はか)る大 罪(ざい)を犯(おか)すを以て已(や)むことを得(え)ず 之を戮 殺(さつ)するを辞(じ)し又 英吉利(えげれす)の使臣(ししん)「フランシ スタラーケ」は「ミッンセン」の地に在(あ)り「スペンセル スミット」は「ステュットガルド」の地に在てひそかに仏(ぶつ) 国(こく)の内乱(ないらん)を起(おこ)さんと謀(はか)る証拠(しやうこ)を以て告(つ)ぐ二人 は之(これ)を聞(き)き急(きう)に英(えい)国に返(かへ)りて其 由(よし)を訴(うつた)ふ因(よつ)て 英吉利(えげれす)は二人の為(ため)に其(その)罪(つみ)なきの状(よし)を仏国(ふらんす)に白(まう) す然(しか)れども此二人 実(じつ)は隠謀(いんぼう)なきにあらず是(こゝ)に 於(おい)て仏蘭西(ふらんす)の諸宦(しよくわん)相議(さうだん)して曰く是(かく)の如(ごと)く非分(ひぶん) を僥(いつわり)倖(さいわい)する者(もの)踵(くびす)を継(つい)で起(おこ)るは畢竟(ひつきやう)我国は共(きやう)【左ルビ:トモニ】和【左ルビ:クワシ】 義団(ぎだん)【左ルビ:ギヲムスブ】にして常主(じやうしゆ)なきを以てなり宜(よろし)く伝世(でんせ)の良 主(しゆ)を択(えら)び立て以て其 患(うれ)ひを除(のぞ)くべしと是(こゝ)に於(おい) て衆議(しゆぎ)一 決(けつ)して一千八百四年我国の文化二乙 丑年 彼(かの)三月三十日「トリビュナート」《割書:政令を領内へ|布施する宦名》 より諭文(さとしぶみ)を下す其(その)文に曰く我国(わがくに)共和義団にし て常主(じやうしゆ)なきを以て内 乱(らん)続(つゞ)き起(おこ)る故([ゆ]へ)に新(あらた)に皇帝(くわうてい) 【右丁】 を冊立(さくりう)【左ルビ:タテル】し万機(ばんき)を一身(ひとり)に任(にん)じ其位(そのくらゐ)は世(よ)々 勃那把(ぼなば) 爾 的(て)姓(せい)の親族(しんぞく)に嗣(つが)しめば如何(いかに)と国中に布告(ふかう)す【左ルビ:シキツグ】 諸州(しよしう)よりも各々(おの〳〵)上 疏(しよ)【左ルビ:ウハベ ツクロフ】して固(もと)より願(ねが)ふ所(ところ)の幸(さいわ)ひ なりと陳(ちん)【左ルビ:ノブ】ず是(こゝ)に於(おい)て五月十八日「セナート」《割書:議政|大宦》 又躬(み)自(みづか)ら会議(くわいぎ)の席(せき)に臨(のぞ)む既(すで)にして衆心(しゆしん)一 致(ち)し 百 議(ぎ)咸(みな)同(おな)じく本月(ほんげつ)二十日又 諭(さとし)文を下し盛儀(せいぎ)を 具(そな)へて勃那把爾的(ぼなばるて)氏(し)名は那波列翁(なぼれおん)を奉(ほう)じて伝(でん) 世(せ)皇帝(くわうてい)の位(くらゐ)に即(つか)しめたるを国中に布告(ふかう)【左ルビ:シキツグ】す 是(こゝ)に於て国内(こくない)処々(しよ〳〵)に分鎮(ぶんちん)する諸将(しよしやう)咸(みな)相会(あいくわい)して 曰く今度の即位(そくい)恐(おそ)らくは却(かへつ)て後来(のち)の大禍(わざはひ)を引 【右丁】 出さんと先(せん)見を述(の)べ眉(まゆ)を攢(ひそ)めて私言(しげん)【左ルビ:サヽヤク】せり然る に勃那把爾的は新(あらた)に大位に升(のぼ)り初めて天 威(ゐ)を 振(ふる)ふて下 民(みん)を懾服(せうふく)【オトシ ナツク】せんと欲(ほつ)し逆党の刑(けい)を正(たゞ)す 「ピセグフ《割書:コ》」《割書:人|名》は是より前四月六日 擒(きん)【トリコ】せられて獄(こく) 中に死(し)し「モレアウ」《割書:人|名》は反逆の事を知(し)れども党(く) 與(み)せざるを以て多年 獄(ごく)中に幽囚(ゆうしう)すべしと既(すて)に して恩典(おんてん)を蒙(かふむ)り米里堅(あめりか)に遯(のが)れしむ「セヲルゲ」《割書:人|名》 は其党九人と倶(とも)に六月二十五日誅せらる其 余(よ) 或(あるひ)は赦(ゆる)され或は寺(じ)院に徙(うつ)され逆党(ぎやくとう)尽(こと〴〵)く平(たい)らぐ 勃那把爾的(ぼなばるて)は天子の位(くらい)に即(つ)く後 覇(は)【トル】心(しん)昌熾(しやうし)【左ルビ:マス〳〵 サカン】し欧(えう) 邏巴(ろつぱ)全洲(せんしう)を奄有(えんゆう)【左ルビ:オホヒ タモツ】する志(こゝろざし)あり此時(このとき)仏国(ふらんす)は兵馬(ひやうば)精(せい) 練(れん)向(むか)ふ所(ところ)必(かなら)ず克(か)ち加(くは)ふるに皇帝(くはうてい)英武(えいふ)にして他(た) 国(こく)みな望(のぞん)で之(これ)を懼(おそ)るゝを以(もつ)て国勢(こくせい)自(おのづか)ら強大(きやうだい)と なり近国(きんごく)は士気(しき)懈惰(おこたり)兵制(ひやうせい)弛(ゆるみ)弱(よわ)し其余(そのよ)諸国(しよこく)も率(おほむ) ね皆(みな)大平(たいへい)に慣(な)れあだかも睡漢(ねふれるおとこ)の如(ごと)く一人も目(め) を張(は)り気(き)を鼓(こ)【左ルビ:ウツ】【皷は俗字】中原(ちうげん)に抗衡(たゝかはんと)【左ルビ:ウチタイラゲント】する志(こゝろざ)しを抱(いだ)く者(もの) なし是(こゝ)を以(もつ)て勃那把爾的(ぼなばるて)縦(ほしいまゝ)に近隣諸国(きんりんしよこく)を劫略(こうりやく)【左ルビ:オヒヤカシカスメル】 する事(こと)【叓は古字】を得(え)たりと云(いふ)其年(そのとし)十二月二日 宝師(ぼうす)。巴里(はり) 斯(す)府(ふ)に於(おい)て勃那把爾的(ぼなばるて)に皇帝(くはうてい)の金冠(きんのかんむり)を賜(たま)ふ此(この) 大礼(たいれい)已(すで)に畢(おは)るのち先(ま)づ意太里亜(いたりや)を討(う)ち先(さき)に建(たて) 【右丁 挿絵 文字無し】 【左丁 挿絵】    赫督撫 那波(なぼ)  列翁(れおん) 怒(いか)つて エングイーン 国(こく)の  赫督撫(へるとぶ)【左ルビ:コクシユ】を 炮(あぶ)り殺(ころ)  す図(づ) たる義団(ぎだん)を滅(めつ)す一千八百五年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)三 丙(ひのへ) 寅年(とらとし)彼(かの)三月十五日 国人(くにたみ)勃那把爾的(ぼなばるて)の義子(ぎし)【左ルビ:ヤシナヒ ゴ】「エウ ゲニュベアウハルナイス」《割書:人|名》を立(たて)て意太里亜王(いたりやわう) と為(な)し皇(わう)の妹(いもと)「エリサ」《割書:女|名》を「ピヲムピノ」《割書:地|名》の布綸(ぷりん) 錫帥(せす)《割書:女の|官名》に封(ほう)じ其夫(そのおつと)「ハッシヲシ」《割書:人|名》を「リェツカ」《割書:地|名》の布(ぷ) 綸帥(りんす)《割書:官|名》に封(ほう)ず其(その)熱弩亜(せ▢ゆあ)「パルマ」「ピアセンサ」《割書:以上|地名》 及(およ)び古(いにしへ)の比蒙突(ぴいもんと)諸国(しよこく)は皆(みな)仏蘭西(ふらんす)に併(あわ)す既(すで)にし て軍(いくさ)を班(あつ)めて意太里亜(いたりや)より返(かへ)る此時(このとき)に方(あた)つて 窩々所徳礼畿(おゝすとれいき)新(あらた)に英吉利(えげれす)。俄羅斯(おろしや)と合従(がつしやう)するを 聴(き)き急(きう)に兵(へい)を興(おこ)して黄祁(どいつ)を伐(う)つ九月二十五日 列応河(れいんか)を済(わた)り「バーテン」「ウュルテムベルグ」《割書:以上|国名》と 和(わ)を結(むす)ふ此時(くのとき)俾粤連(ぺいえれん)《割書:地|名》黄祁(どいつ)をはなれて仏蘭西(ふらんす) に付(つ)く既(すで)にして向(むか)ふ所(ところ)皆(みな)克(か)ち遂(つい)に兵(へい)を窩々所(おゝす) 徳礼畿(とれいき)《割書:則ち|黄祁》に進(すゝ)め一千八百五年 我国(わかくに)文化(ぶんくは)二 丙寅(ひのへとら)年(とし)彼(か)の十一月十三日 大将(たいしやう)「ミュラット」早(はや)く既(すで)に 勿能府(う▢▢ゐんふ)に入(い)る那波列翁(なほれおん)陣(ちん)を進(すゝ)めて「スコンブリュ ン」《割書:地|名》に到(いた)る十二月二日 俄羅斯(おろしや)の兵(ひやう)を「アウステ ルリッツ」《割書:地|名》に破(やぶ)る黄祁(どいつ)帝(てい)弗郎氏(ふらんす)和(わ)を講(かう)じ兵(ひやう)を止(やめ) んと請(こ)ふ同二十六日「フレスビュルグ」《割書:地|名》に会(くはい)して 盟(ちか)ふ是(これ)に由(よつ)て黄祁(どいつ)は数州(すしう)饒沃(にようよく)【左ルビ:ユタカ】の地(ち)を喪(うしな)ひ俾粤(ぺいえ) 連(れん)「バーデン」「ウュルテンベルク」の三国(さんこく)は数州(すしう)を益(まし) 封(ほう)じて爵(しやく)を王国(わうこく)に晋(すゝ)む又(また)孛漏生(ぷろいせん)と和(わ)を結(むす)ぶ孛(ぷ) 漏生(ろいせん)「ハノーフル」《割書:地|名》を仏国(ふらんす)に割与(さきあた)ふ「ハノーフル」 は故と英吉利(えけれす)親戚(しんせき)の国(くに)なり今(いま)孛漏生(ふろいせん)縦(ほしいまゝ)に仏国(ぶつこく) に割与(さきあた)ふるを以(もつ)て英吉利(えけれす)是(これ)を悪(にく)み交々(こも〳〵)兵(へい)を構(かま) ふ一千八百六年 我国(わかくに)の文化(ぶんくは)四 丁卯年(ひのとうどし)群臣(ぐんしん)奏議(そうぎ) して仏蘭西(ふらんす)皇帝(くはうてい)に「デンゴローテン」《割書:大帝と|云義也》の別(べつ) 号(がう)を上(たてま)つる是(こゝ)に於(おい)て帝(てい)の志(ころさ[し])倍々(ます〳〵)侈大(したい)【左ルビ:ヲコリオホヒ】なり俾粤(へんえ) 連(れん)王(わう)の女(むすめ)を以(もつ)て帝(てい)の義子(きし)意太里亜(いたりや)王(わう)「ベアウハ ルナイス」に配(はい)し帝(てい)の正妃(きさき)の姪女(めい)は「ハーテン」の 太子(たいし)に婚(こん)し三月 帝(てい)の僚姻(あいむこ)「ミュラヮト」《割書:人|名》を「セレーヘ」 「ベルグ」両地(りやうち)の赫督撫(へるとぶ)に封爵(ほうしやく)す皇弟(わうのおとゝ)「ヨセフ」《割書:人|名》を 那波里(なぼり)。斉西里亜(しりや)《割書:以上|国名》の王(わう)に封(ほう)ず勿搦祭亜(へねしや)は仏(ふ) 蘭西(らんす)版図(はんと)に合(あわ)す「ギュアスタルラ」《割書:地|名》は皇(わう)の妹(うと)「パウ リネ」」《割書:女|名》に与(あた)へ「ネラフカーテル」《割書:地|名》は「ヲゝルロフ スミニストル」《割書:軍政都|指揮》名は「ベルニィール」に賜(たま)ふ「タ ルレイランド」「ベルナドヮテ」《割書:人|名》の二人を封(ほう)じて各(おの) 々(〳〵)赫督撫(へるとふ)となす其余(そのよ)将軍(しやうぐん)《割書:レーゲル|ーフデレ」》等 都指揮(としき)《割書:ミ|ニ》 《割書:スト|ル》等(ら)は其(その)軍功(ぐんこう)の勝劣(しやうれつ)に応(おう)じて戦(たゝか)ひ取(と)る処(ところ)の 国(くに)に於(おい)て采邑(さいゆう)【「さつ」は誤ヵ】恩賞(おんしやう)を賜(たま)ふこと差(しな)あり一千八百 六年 我国(わかくに)の文化(ぶんくは)四 丁(ひのと)卯年(うどし)彼(か)の七月十二日 列応(れいおん) 義団(ぎだん)【左ルビ:ギヲラスラ】を建(た)つ那波列応(なぼれおん)之(これ)が防衛(ぼうえい)たり乃(すなは)ち之を天(てん) 下に布告(ふこく)す八月 黄祁帝(どいつてい)仏朗氏(ふらんす)羅瑪(ろをま)帝位(ていゐ)を去(さ)る 是(こゝ)に於(おい)て古(いにし)へよりの黄祁(どいつ)国制(こくせい)尽(こと〴〵)く瓦解(ぐはかい)【左ルビ:クガケル】【ガはダの誤ヵ】す孛漏(ぶろい) 生(せん)は一旦(いづたん)仏国(ふらんす)と和(くは)すと雖ども其(その)凌轢(れうれき)【左ルビ:シノギ シノク】に堪(タケ)るこ と能(あた)はず又(また)兵(へい)を挙(あげ)て仏蘭西(ふらんず)【ママ】と「エナ」及(およ)び「アウェル スタット」《割書:地|名》に戦(たゝかふ)て皆(みな)敗(やぶ)られ其(その)堅固(けんご)なる城(しろ)寨(とりで)数所(すしよ) 皆(みな)守(まも)ること能(あた)はずして仏蘭西(ふらんす)に降(くだ)る沙瑣泥亜(さきそにや) は孛漏生(ぶろいせん)との通路(つうろ)を断(た)たれ救援(すくひたす)くることあた はす「ヘスセン」《割書:地|名》の鳩児豊瑟督(きうるほるすと)《割書:豊瑟督は爵内|の尤も貴き者》は 連戦(たゝかふことに)皆(みな)敗(やぶ)れ其国を出奔(しゆつぽん)す十月二十七日 那波列(なぼれ) 翁(おん)兵を引てベルレイン」に入(い)り十一月 初(つい)一日 英(えけ) 国(れす)を囲(かこ)み攻(せめ)るの軍令(ぐんれい)を下(くだ)し且(か)つ彼(かれ)と交易(かうえき)し相 親(した)しみ交(まじは)るを厳禁(げんきん)す仏蘭西帝(ふらんすてい)波羅尼亜(ぼろにや)の俄羅(おろ) 斯(しや)。孛漏生(ぷろいせん)等の為に国(くに)を削(けづ)られたるを憐(あわれ)み其 版(はん) 図(と)を故(もと)に復(ふく)せんと約(やく)す俄羅斯(おろしや)急(きう)に孛漏(ぶろい)生を救(すく) ふ一千八百六年 我国(わがくに)の文化四丁卯年彼の十二 月二十六日 仏蘭西(ふらんす)と「ビュルュスキ」の地に戦(たゝか)ふて俄(お) 羅斯(ろしや)の兵 敗(やぶ)れ走(はし)る明年(あくるとし)二月七日「エウラウ」《割書:地|名》に 戦(たゝか)ふて又大に敗北(はいぼく)す爰(こゝ)に又 都爾其(とるく)の兵 俄羅斯(おろしや) を犯(おか)す是を以て兵力分れて益々 弱(よわ)し加之(しかのみならず)「ヘイ ルスベルグ」「ヲストロレンカ」《割書:以上|地名》の二地の軍利 なく「フリーーランド?」の戦(たゝか)ひも亦 敗(やぶ)る是(こゝ)を以て 俄羅斯(おろしや)。孛漏生(ぷろいせん)終(つい)に和(わ)を仏蘭西(ふらんす)に請(こ)ふ七月七日 「チルシッー【トヵ】」の地に盟(ちか)ふ孛漏生(ぷろいせん)は兵 卒(そつ)を亡(うしな)ふこと 四百万 余(よ)且(か)つ累万(るいまん)の煙土(えんと)銀を貢納(かうのう)するを約(やく)し 其銀 両(りやう)斉足(さいそぐ)【左ルビ:スミケリ】するに至(いた)るまて堅固(けんこ)の城寨(しやうさつ)【ママ】数(す)所を 仏蘭西(ふらんす)に典当(てんとう)【左ルビ:アヅケ アフル】す是(こゝ)に於て仏国(ふらんす)皇帝(くはうてい)は赫督撫(へるとぶ)国 「ワルスカウ」の一部(いちぶ)を沙瑣尼亜王(さきそにやわう)に賜(たま)ひ新王(しんわう)国 「ウェストファーレン」の一(いち)部を「ヒーロニミュス」《割書:人|名》に賜 ふ「ヒトロニミュス」は帝の同胞(とうはう)【左ルビ:ヲナジハラ】なり是(これ)より前(まへ)「ウュル テムベルグ」《割書:国|名》の王女(わうぢよ)に婚(こん)せり 是(こゝ)に於(おい)て那波列翁(なぼれおん)は巴里斯(はりす)に凱帰(かいき)し一千八百 七年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)五 戊辰(つちのへたつ) 年(どし)彼(か)の十月二十七日「フ ̄ヲ レタイネブレアウ」の地(ち)にて窃(ひそ)かに是班牙(いすはにや)と和(わ) 睦(ぼく)して葡萄牙(ほるとがる)を救(すく)はざらしめ即(すなはち)兵(へい)を率(ひき)ひて 葡萄牙(ほるとがる)を伐(う)ち又(また)是班牙(いすはにや)とは陽(おもて)に和睦(わぼく)の状(ふり)を為(な) し却(かへつ)て潜(ひそか)に兵(へい)を発(はつ)して之(これ)を攻(せか)【ママ】て「ヘトリュリエ」《割書:地|名》 を取(とつ)て仏蘭西(ふらんす)に併(あわ)す大(おほひ)に厳令(げんれい)を出(いだ)して英吉利(えげれす) の互市(かうえき)を禁(きん)ず此(こ)れ大害(たいがい)を彼(か)れに生(しやう)じて困迫(こんはく)【左ルビ:クルシミセマル】せ せ【衍】しめんとする謀(はかり)ことなり那波列翁(なぼれおん)は既(すで)に諸(しよ) 国(こく)を兼(かね)併(あわ)して兵力(へいりき)日々(ひゞ)に強大(きやうだい)となり勢(いきほひ)に乗(じやう)じ て猶(なを)近国(きんごく)を合(あわ)して仏蘭西(ふらんす)国域(こくいき)を開(ひら)き大(おほひ)にせん と欲(ほつ)し一千八百八年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)六 己巳(つちのとみ)年(どし)彼(か)の 一月一日 今(いま)。近隣(きんりん)の諸国(しよこく)我(われ)に順従(しゆんじう)【左ルビ:シタガフ】するを時(とき)とし て「ケル」「カステル」「ウェセル」「フリッシンケン」《割書:以上|地名》を收(おさ) めて仏国(ふらんす)に併(あわ)す此時(このとき)是班牙(すはにや)に内乱(ないらん)あり党(とう)を分(わけ) て相攻(あいせ)む仏蘭西帝(ふらんすてい)之(これ)を利(り)し遂(つい)に其国(そのくに)をうばひ 皇(わう)の弟(おとゝ)那波里王(なぼりわう)「ヨセフ」を徙(うつ)し封(ほう)じて是班牙王(すはにやわう) となし帝(てい)の義弟(ぎてい)「ミュラット」をうつして那波里(なぽり)に王(わう) たらしめ大 赫督撫地(へるとぶち)「ベルグ」《割書:地|名》を和蘭王(おらんだわう)の幼子(ようし)【左ルビ:オサナコ】 に賜(たま)ふ俄羅斯帝(おろしやてい)。那波列翁(なぼれおん)と「エルフュルト」の地(ち)に 会(くはい)して更(さら)に前盟(ぜんめい)を申(まうし)固(かた)む又 英吉利(えげれす)は仏蘭西(ふらんす)の 是班牙(いずはにや)を奪(うばふ)を見(み)て之を疾(にく)み兵(へい)を挙(あけ)て仏蘭西を 討(う)つ十月二十九日那波列翁 其地(そのち)に赴(おもむ)き英吉利(えげれす) を破(やぶ)る窩々斯徳礼畿(おゝすとれいき)又兵を挙(あげ)て来(きた)り冠(かた)するを 聞(き)き急(きう)に兵(へい)を旋(めぐ)らして之を拯(すく)ふ黄祁帝(といつてい)弗朗氏(ふらんす) は仏国(ぶつこく)の為(ため)に数々(しば〳〵)敗(やふ)らるを以て尚(なを)兵(へい)を起(おこ)して 宿仇(しゆくきう)を雪(すゝ)がんと欲(ほつ)し一千八百九年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは) 七 庚午(かのへむま)彼(か)の四月九日 戦書(せんしよ)を那波列翁(なぼれおん)に贈(おく)る 既(すで)にして戦(たゝか)ひに及(およ)ぶ黄祁(どいつ)の兵(ひやう)終(つい)に亦(また)敗(やぶ)る五月 十二日 和(わ)を請(こ)ひ勿能府(うえいねんふ)を仏蘭西(ふらんす)に付(ふ)す七月十 二日 兵(ひやう)を徹(てつ)し十月十四日仏蘭西 窩々所徳礼畿(むゝすとれいき)【注】 勿能府(うえいねんふ)に盟(ちか)ひ更(さら)に数州(すしう)を割(さい)て仏蘭西(ふらんす)にあたへ 且(かつ)鉅万(きよまん)の煙土銀(えんどぎん)を献貢(けんかう)【左ルビ:オサメル】す又 那波列翁(なほれおん)の元妃(もとのきさき)「ヨ セフィネ」《割書:女|名》子(こ)なし因(よつ)て那波列翁(なぼれおん)之(これ)を廃(はい)せんと欲(ほつ) す一千八百九年 我(わか)文化(ぶんくは)七 庚(かのへ)午年 彼(かの)十二月十六 日 遂(つい)に之(これ)を廃(はい)す初(はじ)め那波列翁(なぼれおん)「マリアロユィセ」《割書:女|名》 を窩々所徳礼畿(おゝすとれいき)《割書:即ち|黄 祁(イツ)》の亜鴉爾都赫督(あゝるにへると)■(ひん)《割書:女宦|の名》に 封(ふう)ず是(こゝ)に至(いたつ)て立(た)てゝ継妃(けいき)【左ルビ:ニトメノキサキ】とす此際(このあいだ)又(また)意太里亜(いたりや) 【注 ここでの振り仮名は「むゝすとれいき」とあるが、前コマでは「おゝすとれいき」とある。】 小王(しやうおう)を「ホルストプリマート」《割書:第一位|ホルスト》より陞(のぼ)して 「フランキホルト」《割書:地名ドイツの|中央にあり》の伝世(でんせ)赫督撫(へるとぶ)【左ルビ:シヨコウ】と なす「ハノーフル」を「ウェストファーレン」《割書:以上|地名》に合(あわ)し て一州(いつしう)となす七月 初一日(ついたち)和蘭王(おらんだわう)を廃(はい)し又(また)之(これ)を 仏蘭西(ふらんんす)に合(あわ)す又「ワルリッセルラント」及び「エムス」 「ウェセル」「エルベ」《割書:以上|河名》此(この)三(さん)河口辺(かこうへん)の列応義団(れいんぎたん)諸地(しよち) 「ハンセー【」脱ヵ】府「ヲルテンビュルグ」大赫督撫領(だいへるとぶれう)【「脱ヵ】ベルグ」 の一部(いちぶ)及(およ)び「ウェストファーレン」《割書:以上|地名》等(とう)の諸地(しよち)を割(さい) て仏蘭西(ふらんす)に幷(あわ)す 是(こゝ)に於(おい)て那波列翁(なぼれおん)が威勢(ゐせい)已(すで)に其(その)隆盛(りうせい)【左ルビ:サカン】を極(きわ)め欧(えう) 【右丁 挿絵】 俄羅斯の大将 【左丁】 俄羅斯(おろしや)  仏蘭西(ふらんす)と   大(おほひ)に莫斯(もす)    科窪(こう)に戦(たゝかふ)図(づ) 邏巴(ろつぱ)を蚕食(さんしよく)【左ルビ:ダン〳〵キリトル】して大半(たいはん)其(その)号令([が]うれ[い])に従(したか)へども是班牙(いすはにや) との戦(たゝか)ひ未(いま)だ終(おは)らず而(しか)して英吉利(えげれす)も未(いま)だ愈々(いよ〳〵) 戦(たゝか)ひ克(か)つの利(り)を收(おさ)むること能(あた)はず俄羅斯(おろ[し]や)も亦(また) 今(いま)我(われ)に和(くは)すと雖(いへ)ども其心(そのこゝろ)測(はか)るべからず然(しか)るに 一千八百十一年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)九 壬申(みづのへさる)年(とし)俄羅斯(おろしや)雪(すう) 際亜(えしや)再(ふたゞ)【ママ】ひ兵(ひやう)を挙(あげ)て仏蘭西(ふらんす)を伐(う)つ仏蘭西(ふらんす)大(おほ)ひに 兵(ひやう)を備(そな)へて之(これ)を防(ふせ)ぐ雪際亜(すうえしや)の兵(ひやう)速(すみやか)に黄祁(どいつ)の数(す) 州(しう)を下(くだ)す但(たゞ)し孛漏生(ぷろいせん)の諸城塞(しよじやうさい)及(およ)び「ダンチフ」は 尚(なを)仏蘭西(ふらんす)に属(ぞく)す此時(このとき)黄祁(どいつ)。波羅尼亜(ぽろにや)の地方(ちはう)には 諸国(しよこく)の軍勢(ぐんぜい)雲(くも)の如(ごと)く集(あつま)り那波列翁(なぼれおん)の大纛偈(たいとうか)【左ルビ:[ハ]タシタ】に 在(あり)て俄羅斯(おろしや)と戦(たゝかは)んとす一千八百十二年 我国(わがくに)の 文化(ぶんくは)十 癸酉(みづのととり)年(どし)彼(か)の五月九日 那波列翁(なぼれおん)は聖格琭(しんとろろう) 徳(ど)を発(はつ)し六月二十五日 其(その)軍勢(ぐんぜい)「ニイメン」河(が)を済(わた) り九月十五日 俄羅斯(おろしや)の旧(きう)都府(とふ)莫斯科窪(もすこう)に兵(へい)を 進(すゝ)む此時(このとき)俄羅斯(おろしや)人(じん)自(みづか)ら火(ひ)を五百 所(ところ)に放(はな)ち市街(しかい)【左ルビ:マチ】 を焼(や)く風(かぜ)烈(はげ)しく火(ひ)盛(さかん)にして其(その)煙炎(えん〳〵)滅(めつ)せさる事(こと) 七日 是(これ)に依(よつ)て那波列翁(なぼれおん)が総(そう)【惣】軍(ぐん)大(おほい)には敗衄(はいじん)し其(その)罷(ひ)【左ルビ:ツカレ】 弊(へい)したる兵(へい)を莫斯科窪(もすこう)に屯(たむろ)して冬月(ふゆ)を渉(わた)【左ルビ:コヘ】り春(はる) の来(きた)るを待(また)んと欲(ほつ)すれとも今(いま)其(その)府城(ふじやう)尽(こと〴〵)く焼夷(せうい)【左ルビ:ヤキタイラグ】 せるを以(もつ)て兵馬(ひやうば)を休息(きうそく)するに地(ち)なく進退(しんたい)窘迫(きんばく)【左ルビ:クルシミセマル】 し十月十七日 已(や)むことを得(え)す兵(へい)を退(しりぞ)くこの時(とき) 大雪(おほゆき)降布(ふりしい)て大軍(たいぐん)の兵士(へいし)凍死(こゞへじに)相(あい)望(のぞ)み生て還(かへ)る者(もの) 二三千にすぎず那波列翁(なぼれおん)已(すで)に大兵(たいへい)を挫折(ざせつ)【左ルビ:クジキ ヲレ】し又(また) 「マレット」と云(いふ)者(もの)乱(らん)を作(おこ)し仏蘭西(ふらんす)の帝位(ていゐ)を傾覆(けいふく)【左ルビ:カタムケクツガヘサン】せ んと謀(はか)る急報(きうほう)【左ルビ:■■ケ】を得(え)て「スモログノ」《割書:地|名》に於(おい)て那波里(なぽり) 王をして己(おの)れに代(かは)つて残兵(ざんへい)を指揮(しき)せしめ十二 月十八日 自(みづか)ら巴里斯(はりす)に返(かへ)る此時(このとき)是班牙(いすはにや)の兵乱(ひやうらん) 熾(さかん)にして亦(また)仏蘭西(ふらんす)の為(ため)に甚(はなは)だ利(り)あらず初(はじ)め宝(ほう) 帥(す)是班牙(いすはにや)の動乱(どうらん)を鎮(しづ)めんと欲(ほつ)し両国(りやうごく)の中(なか)に居(ゐ) て之(これ)を和解(わかい)【左ルビ:ヤハラゲトク】す其(その)言所(いふところ)那波列翁(なぼれおん)の為(ため)に不便(ふべん)なる を以(もつ)て聴(きか)れず宝帥(ほうす)憤(いきどふ)つて那波列翁(なぼれおん)を罰(ばつ)して法(はう) 縁(えん)を断(たゝ)んとす那波列翁(なぼれおん)怒(いか)つて之(これ)を擒(とら)へ巴里斯(はりす) に送(おく)りて幽囚(ゆうしう)【左ルビ:オシ コメル】す是(こゝ)に至(いたつ)て是班牙(いすはにや)の人心(じんしん)を収(おさめ)ん と欲(ほつ)し一千八百十三年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)十一 甲戌(きのへいぬ)年(どし) 彼(か)の一月二十八日「フヲ【小文字】ンターネブレァゥ」の地(ち)に て宝帥(ほうす)の囚(とらはれ)を釈(と)き旧盟(もとのちかひ)を尋(つ)き其(その)盟(ちかひ)を十全(じうぜん)完成(くはんせい) 【「脱ヵ】コンコルダート」と名(な)づけて以(もつ)て新(あらた)に其(その)乱(らん)を戡(うち) 靖(やすん)ず三月二十七日 孛漏生(ふろいせん)戦書(せんしよ)を那波列翁(なぼれおん)に贈(をく) る那波列翁(なぼれおん)進(すゝ)んで黄祁(といつ)の中央(ちうわう)に陣(ぢん)す五月二日 「リュッツェン」の地(ち)に戦(たゝか)ひ二十日二十一日「バッツェレ」「ウェ ルセン」両地(りやうち)に戦(たゝかふ)て皆(みな)之(これ)に克(か)ち転(てん)じて「シンシア」 に攻入(せめい)る「ダホウト」《割書:人|名》は「ハムビュルク」の地(ち)を復(かへ)し 六月四日 兵(へい)を止(やめ)るを約(やく)す窩(お)々 所徳礼畿(すとれいき)は仏蘭(ふらん) 西(す)孛漏生(ぷろいせん)両国(りやうごく)の兵(へい)を和(くは)せんと欲(ほつ)し「プラーグ」の 地(ち)に於(おい)て和議(わぎ)を謀(はか)る和議(わき)ならず既(すで)にして八月 十日 窩々所徳礼畿(おゝすとれいき)又(また)反(はん)して戦書(せんしよ)を仏蘭西(ふらんす)に贈(おく) る遂(つい)に「デレステン」に戦(たゝか)ふ窩々所徳礼畿(おゝすとれいき)の兵(ひやう)戦(たゝか) ひ破(やぶ)る仏将(ぶつしやう)「モレアウ」《割書:人|名》重創(おもきず)を蒙(かふむ)る此(これ)を那波列(なぼれ) 翁(おん)が最(もつと)も後(のち)の勝(かち)とす八月二十六日【「脱ヵ】カイスパグ」 《割書:地|名》に武略舎爾(ぶりつせる)《割書:人|名》勇戦(ゆうせん)して仏蘭西(ふらんす)の軍(いくさ)を破(やぶ)り全(ぜん) 軍(ぐん)敗走(はいそう)す二十九日「ビュトヲド」《割書:人|名》が一軍(いちくん)皆(みな)反(はん)す雪 際亜太子(えしやたいし)兵(みやう)を率(ひきひ)て黄祁(どいつ)に入(い)る九月六日 那波列(なぼれ) 翁(おん)「デレスデン」の兵(ひやう)を徹(おさ)めて「レイプシフ」に入(い)る 是(こ)れ敵に仏蘭西(ふらんす)の帰路(きろ)を断(たゝ)るゝを懼るればなり 仏蘭西(ふらんす)の軍(いくさ)戦(たゝか)ふ毎(こと)に利(り)なく十六日 両軍(りやうぐん)交綏(あいびき)し 十八日仏蘭西全軍又敗れ十九日 其(その)兵(ひやう)過半(くははん)列応(れいん) 河(が)を済(わた)りて郤(しりそ)く那波列翁「ハナウ」の大敗(たいはい)の後(の)ち 遂(つい)に聖格琭徳(しんとこらうど)に返(かへ)る 《割書:海外|治乱》繍像人物小伝巻之二《割書:終》 【裏表紙】 【背】 【天(地)小口】 【小口】 【天(地)小口】