豊橋市教育會編 《題:小野湖山翁小傳》 小野湖山翁小傳 昭和六年十一月二十五日  小野湖山翁小傳      豊橋市教育会 【上段】  表題に就て (前略)嘗て豊橋市教育会報 発刊の時表題を小子に書け との事なりしが小子は湖山 翁に願ふが宜敷と存じ同翁 に懇願せしに喜で引受られ【上の行の右側に傍線あり】 それが今以て用ゐ居る表紙 に候然るに今度同翁の小伝 成るに方り小子が其表紙を【上の行の右側に傍線あり】 書くに至れるは不思議の因 縁と存候云々   (大口氏来書の一節) 【中段】           目      次   巻頭 教育勅語(湖山翁書)        序文 (正五位勲三等大口喜六氏)     同  (豊橋市教育会長福谷元次氏)   一 生 立 及 家 系・・・・・・・・・・一頁   二 立 志 苦 学・・・・・・・・・・五頁   三 勤 王 愛 国・・・・・・・・・一〇頁   四 戊 午 大 獄・・・・・・・・・一八頁   五 吉 田 城 幽 閉・・・・・・・・・二五頁    六 任 官 致 仕・・・・・・・・・二八頁    七 孝 養 隠 退・・・・・・・・・四〇頁    八 恩 賜 叙 位・・・・・・・・・四八頁    九 風 流 交 際・・・・・・・・・五二頁    十 作 詩 本 領・・・・・・・・・六一頁   十一 気 骨 徳 性・・・・・・・・・七八頁   十二 長 寿 上 仙・・・・・・・・・八四頁   【下段】 【四角の枠の中に「余談」】」  余 談 (一)楠公を祀る (二)翁の      改名 (三)尹良親王の事 (四)講書接客 (五)軍人を犒ふ (六)老後健 筆 (七)在豊中の詩 (八)翁と生地 頌詩及 歌句。 【四角の枠の中に「写真」】」  写 真  翁書教育勅語、翁九十六歳       真影、絶筆元旦詩、宇佐奉 幣図、拝維新詔勅、読楠公伝、加藤肥州、日 光山、謁水戸光圀墓、遊石巻山、源三位頼政 (以上詩幅)翁生家、翁及夫人墓、君ケ代国 歌、豊川閣起工式書、大河内信古像及筆蹟、 夫人元子、息正弘、孫竹三眞影、小華筆翁六 十六像、五歳の書、誦習学舎額、天地正気額、 福の字額、翁賛小華筆牡丹幅、扇面二、木戸 孝允書、豊橋孝子筆、百花園詩額、息正弘撰 楠公祠碑文、千歳樓額。 【左頁】 勅 語【「教育勅語」の文章の上部の横書き】 朕惟ふに我か皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり我か臣 民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を済せるは此我国体の精華 にして敎育の淵源亦実に此に存す爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し 朋友相信し恭倹己れを持し博愛衆に及ほし学を修め業を習ひ以持て智能を啓 発し德器を成就し進みて公益を広め世務を開き常に国憲を重し国法に遵ひ 一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すへし是の如きは 独り朕か忠良の臣民たるのみならす又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん  斯の道は実に我か皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すへき所之を古今に通して 謬らす之を中外に施して悖らす朕爾臣民と倶に拳々服膺して皆其徳を一にせんことを 庶幾ふ 明治二十三年十月三十日 同三十四年三月初吉 従五位小野長愿謹書時年八十八 ―――――――――――――――――――――――――――――  (本書は往年翁が其督学たりし藩黌時習館趾に設られたる豊橋高等小学校の改築を喜ばれ特に揮毫して時の町長福谷元次氏を  介し寄贈せられたるものにて今も同校に珍蔵す豊橋高等小学校は其前豊橋学校と称した) 【写真の下に横書き】(小野湖山翁九十六歳真影) 【上段-湖翁生家の写真】 (湖山翁の生家)【写真右側】 (琵琶湖北田根村高畑) 【横書き-写真下側】 湖山酔民墓(翁自書) 【写真左側、「翁自書」は横書き】 【下段-翁及夫人墓の写真】 湖山酔民墓(生壙) 【写真右側】 (京都妙心寺内翁及夫人墓) 【写真下側-横書き】 湖山配元子墓【写真左側】 翁の絶筆(逝去前二十三日)詩は元旦の作 【詩幅】 ―――――――――――――――――――――――――――――― 避寒東海値春陽轉覚乾坤帯瑞光 萬里水天金一色㬢輪徐/■(輾)【「車偏に辰」の右横に「輾」】太平洋  《割書:庚戌新正之一時在南総太東岬小庵 九十七叟湖山愿|                         ■明治四十三年三月廿■日■■■■■■■》 ―――――――――――――――――――――――――――――― (東京 小野竹三氏所蔵)【横書き-詩幅の下】 【詩幅の左】   寒を東海に避て春陽にあふ。うたゝ乾坤の瑞光を帯ぶを覚ゆ。万里水天金一色。㬢輪徐に輾す太平洋」庚   戌新正の一時南総大東岬の小庵にあり、九十七叟 湖山愿  【詩幅】 ―――――――――――――――――――――――――――――― 神勅堂々傳者誰一言能定萬年基 可憐吉備老名士靦在同朝稱帝師   《割書:題宇佐奉幣図舊作為|福谷君之嘱    九十六耄叟湖山愿》 ―――――――――――――――――――――――――――――― (豊橋 福谷元次氏所蔵) 【横書き-詩幅の下】 【詩幅の左】   神勅堂々伝ふる者は誰ぞ。一言能く万年の基を定む。憐むべし吉備の老名士。てんとして同朝にありて帝   師と称す」宇佐奉幣の図に題す旧作、福谷君の嘱の為めに、九十六耄叟 湖山愿 【詩幅】 ―――――――――――――――――――――――――――――― 唐室中興韓子筆淮西勲業號無雙 聖皇 宸斷真神武剿賊功成不殺降  《割書:戊辰十二月記事十首之一  湖山酔民愿|》 ―――――――――――――――――――――――――――――― (豊橋 五味為吉氏所蔵) 【横書き-詩幅の下】   唐室中興韓子の筆。わい西の勲業無双と号す。聖皇宸断真に神武。剿賊功成て降るを殺さず。」戊辰十二   月記事十首之一、湖山酔民愿 【詩幅】 ―――――――――――――――――――――――――――――― 有臣猶不死請莫悩 宸裏当時公亦匹夫耳能 出此言志何雄果然妙略奏奇捷手挽天日定 大業功臣賞薄姦臣尊再敗三敗嗟何及 唯公終始報國心長建萬世人臣法   讀楠公傳   湖山迂人愿 ―――――――――――――――――――――――――――――― (豊橋 山田芳蔵氏所蔵)【横書き-詩幅の下】   楠公伝を読む、湖山迂人愿(訳文は本編末章の楠公を祀る項中に載せあり。) 【詩幅】 ―――――――――――――――――――――――――――――― 孤軍決死據孤城俯瞰西明百萬兵應 援不通糧道絶毅然上下一忠誠   藤肥州   九十七叟湖山愿 ―――――――――――――――――――――――――――――― (豊橋 福谷藤太郎氏所蔵) 【横書き-詩幅の下】 【詩幅の左】   孤軍死を決して孤城に拠り。俯瞰す西明百万の兵。応援通せず糧道絶え。毅然たり上下の一忠誠」藤肥州   九十七叟 湖山愿(藤肥州は加藤清正詩は朝鮮籠城) 【詩幅】 ―――――――――――――――――――――――――――――― 三峯對峙勢嵯峨載筆日光山下過天地英 霊秘巌壑金銀楼閣照烟蘿頌言敢擬生 民什閑句聊賡撃壌歌霞宿雲遊是誰賜 千秋回首感恩波       《割書:晃山舊作   湖山愿時年九十有四|》 ―――――――――――――――――――――――――――――― (豊橋 大山銀蔵氏所蔵) 【横書き-詩幅の下】 【詩幅の左】   三峰対峙して勢ひ嵯峨たり。筆を載て日光山下に過ぐ。天地の英霊巌壑に秘し。金銀の楼閣煙蘿を照す。   頌言敢てならはんや生民の什。閑句聊かつぐ撃壌の歌。霞宿雲遊これ誰が賜ぞ。千秋かうべをめぐらして   恩波に感ず。晃山旧作湖山愿時年九十有四(此作は翁江戸追放の時である。) 【上段写真】 豊橋旧藩主 大 河 内 信 古 子【写真右側】 (東京 大河内家所蔵) 【写真下に側横書き】 (明治二十年撮影) 【写真左側】 風波不動影沈 々。樹色全凝 水色深。応是 天仙梳洗処。 一螺青黛鏡中 心。  湖上所見    松 峯  《割書:信古子は詩画も能くした|》 【上段色紙】 雄飛  松峯 (信古子書) 【色紙下側に横書き】 【中段】 ―――――――――――――――――――――――――――――― 天地正氣【横書き】 八十八翁湖山愿 ―――――――――――――――――――――――――――――― 《割書:八十八翁 湖山愿》 (豊橋 伊藤卯一氏所蔵)【下側に横書き】 【下段】 ――――――――――――――――――――――――――――――  福 因勤倹得 之 因怠倣失 之 今泉君清嘱  湖山愿時年九十有五 ―――――――――――――――――――――――――――――― 《割書:勤倹に因て之を得、怠倣に因て之を|失ふ」今泉君清嘱|      湖山愿 時年九十有五》 (豊橋 今泉福太郎氏所蔵)【下側に横書き】 【上段の色紙】 ―――――――――――――――――――――――――――――― 君か代は  千代に八千代に   さゝれいしの  巌となりて   苔のむすまて   九十二翁湖山 ―――――――――――――――――――――――――――――― 【色紙の下に横書き】(牛川 大河戸龍秀師所蔵) 《割書:国歌、九十二翁湖山》 【下段の色紙】 《割書:逝去前一月の揮毫》 ―――――――――――――――――――――――――――――― 荘厳殿堂 信之結晶  《割書:賀本殿改築起工式|》    《割書:庚戌三月| 九十七叟湖山愿》 ―――――――――――――――――――――――――――――― 【色紙の下に横書き】(豊川閣 福山界珠師所蔵) 《割書:荘厳殿堂、信之結晶、本殿改築起工式を賀す。| 庚戌年三月  九十七叟  湖 山 愿》 ―――――――――――――――――――――――――――――― 名賢遺跡在巌阿村逕迂餘入翁蘿茅舎 三間猶故搆庭池一断自清波道於稷契 迹非遠史継春秋功頗多誰念堂々宗 國主西山亦唱釆薇歌   西山二律之一  湖山僲史巻 ―――――――――――――――――――――――――――――― (豊橋 大岩一郎氏所蔵) 《割書: 名賢の遺跡巌阿にあり。村けい迂余としてへき蘿に入る。茅舎三間猶故搆。庭池一断おのづから清波。道| しよく契に於てあと遠きに非ず。史春秋をつぎて功頗る多し。誰かおもはん堂々宗国の主。西山亦唱ふ采| びの歌。」西山二律之一湖山仙史巻(此作始て水戸光圀の墓を拝した時である。)》 ―――――――――――――――――――――――――――――― 未見西師奏凱旋市街米價斗千銭 琴尊又趁遊山約可㐂吾曹厚得天  《割書:丙寅秋日同榮樹老人華陽畫史蓬宇詞宗秋夢雅友遊石巻山途中|口占         湖山楼主人》 ―――――――――――――――――――――――――――――― (豊橋 長坂理一郎氏所蔵) 《割書: 未だ西師の凱旋を奏するを見ず。市街の米価斗千銭。琴樽又遊山の約をおひ。喜ぶべし吾曹の厚く天に得| るを」丙寅秋日栄樹老人華陽画史蓬宇詞宗秋夢雅友と同く石巻山に遊ぶ途中口占 湖山楼主人(西師は長| 州征伐のこと)》        小 野 湖 山 先 生 の        伝 記 に 序 す  小野湖山先生は、独り我国に於ける一詩聖たるのみならず、実に我郷の有せる 一偉人にして、幕末に於ける憂国勤王の志士なり、而も其伝記にして、極めて世に 知られたるものゝ稀なるは、深く遺憾とするところとす。蓋し先生、居常自己の閲 歴を以て、人に語るを欲せず、たゞ幾多の詩集、能く時にそれが一斑を窺ひ得るに 足るのみ。たま〳〵蒲生重章氏の偉人伝中、狂々先生伝あり、先生の少壮時代を語 ること稍詳なるも、未だ以て尽せりと謂ふべからず。予も亦先年豊橋市史談の著 に方り、聊先生に遺関する資料の蒐集に勉めしも、事多くは志と違ひ、遂に所期の半 をも達成せずして止む。  曩に 芳水小野兄、先生の遺草につき深く討究する処あり、更に遺族に就きて世 間未知の秘稿を繙き、今茲先生の伝記を脱稿せらるゝに至る。思ふに、予先年故松 井讓翁を介し、其閲歴を語られむことを先生に請ひ、幸に略ぼ然諾を得たるも、幾                               一                               二 もなく先生は寒を房州に避け、次で病を獲て逝去せらる。当時讓翁の語るところ によれば、先生が壮時往復せる文書は、多く之を火中に投じ、蕩然一掃、今殆ど拠 るべきなし、而も居常手記せるところ、決して伝ふべきものなきにあらずと。其家 に伝ふる秘稿なるものゝ貴重なる、以て想到するに難からず。我が豊橋教育会 見るところあり、自らそれが発行の任に当り。予に需むるに序文を以てす。乃ち欣 然処感を記し以て応ふ。         昭和辛未秋日                 大 口 喜 六 識 由来三河は東海の中心に位し、幾多の史実に富み。就中明治維新 に際しては、能く勤王の大義を唱へ、方向を謬らざりし人才多し。 其最も著名の士に小野湖山翁あり。翁は実に年少身を素族より起 して、一代の大儒と成り。広く天下の志士に伍し。 皇権の恢復に尽瘁し、地方の文教に貢献し。且つ尾三各藩の大義 一致を全うせしめたる殊功者なり。 是に於てか今や我豊橋市教育会が新に翁の伝記を刊行し。未だ聞 えざりし、其光輝ある閲歴を世に紹介するは、只に一地方のみな らず、国家風教上に益する所、決して尠からざるべし。 予乏を豊橋市長の職に承く、偶々此挙に会し、寔に欣喜の念に耐 へず。尚希くは将来此地方より幾多の湖山翁を出し。以て君国の 為めに忠愛ならん事を。一言以て序すと云爾。      昭和六年季秋               豊橋市長 丸 茂 藤 平 我邦ありての鴻業たる、明治維新に際しては、其登場の人材、固よ り各地に尠からず。而して其一人者に我吉田藩士小野湖山翁ある ことを逸し難し。翁は実に勤王憂国の一偉人たりしと共に、我地 方教育のために功労ある一恩人なり。 罪を幕譴に獲て、我地に幽閉せらるゝや。藩黌時習館及宝飯郡国 府町に設られし、三河県修道館等の督学として数年に亘り。又常 に文武両道の為めに貢献し、上下の信望厚く。品性高厲。克く人の 儀表たり。宜なり明治元年始て 車駕の東幸に当たり、抽でられて 徴士となり、尋で権弁事に任せらる。乃ち一躍朝班に列したるが 如きは、単り藩地の誇なるのみならず。且つ天下の異数とす。 既にして隠退しては、詩壇の耆宿として其名内外に鳴り。文教風 化を益する吟詠甚だ多く。毎に尊貴の間に殊遇を享け。高齢九十                        三                          四 七を以て逝かる。真に明治聖代の一人瑞とも云ふべし。 これ我豊橋市教育会が、茲に翁の小伝を刊行し。曩に刊行せる翁 の親友、勤王家羽田野佐可喜翁小伝と共に世に伝ふるは、郷土 的に将た時代的に、最も有意義なる事と信ずる所以なり。    昭和六年十一月         豊橋市教育会長 福 谷 元 次 小 野 湖 山 翁 小 伝              豊 橋 市 教 育 会 編         一  生 立 及 家 系 小野長愿、名は巻、字は懐之、又士達、一字舒公、湖山と号し。旧名横山仙助。光格天皇の御代、徳 川第十一代将軍/家齊(イヘナリ)執政の時。文化十一年甲戌正月十二日を以て、今の滋賀県近江国東浅井郡田根村大 字高畑なる、横山玄篤(東湖と号す)の長子として生る。三姉二弟一妹あり。父玄篤は医を業とし農を 兼ね、妣を磯氏といつた。高畑近傍六ケ村壱万石程の地は、今の我愛知県三河国豊橋(旧称吉田)藩主 第十六代松平伊豆守/信復(ノブナホ)が、寛政二年十月松平/資訓(スケクニ)と入れ更り。遠江国浜松町より吉田へ転封せられし時 よりの、吉田領として伝へられ。翁出生の当時(今より百十二年前)吉田第十八代の藩主松平伊豆守/信(ノブ) 明(アキラ)之れを領し。郡代宮脇忠左衛門が督してゐた。廃藩置県の令出で、豊橋が額田県(岡崎市所在)に属 し、更に愛知県へ合併せられたる明治五年に至り、滋賀県へ移された。浅井郡は面積三十一方里、之れ を東西に分ち、東は美濃、西は琵琶湖、北は越前及若狭に接し。田根村は田根郷と呼び、中世種川と謂 ひ、大寄山と小谷山との渓間で、田川あり、東より南流して姉川に入る。東鑑に「建久元年近江国田根                        一                        二 庄は、按察使大納言朝房の領する所なり。地頭は佐々木左衛門定綱なり」と見ゆ。翁の生地高畑に近き 小谷山は、永正中浅井亮正が築城し。久正を経て長政に至り、元亀年間織田信長のために亡ぼされた古 城趾がある。 翁の家系は参議小野篁より出で、石川県金沢の藩老横山家(一万石)と同族である。故に翁は元横山姓 を称し、名を仙助と云た。第十二世の祖横山/掃部頭(カモンノカミ)家盛が、京極高次に仕へ戦功あり。感状が家に伝へ られてゐる。高次は近江の人、織田 豊臣 徳川の三氏に仕へ、大津城主と成た。其妻は淀君の妹なるを 以て、慶長の役に石田三成及び淀君より西軍に味方せんことを勧誘せられたが応ぜず。家康の東征中に 西軍に苦しめられ、一時高野山に遁避した事あり。横山家盛は高次臣下の驍将で高畑に館し、城州に戦 死し。一弟が帰農して世々館趾の家をまもり。今も二百余年を経た建物が存し、曩年翁の息正弘之を改修 した。(写真参照)其祖小野篁の古墳は京都紫野にあり。翁後年金沢の同族横山多門政和(蘭洲と号し 詩文を能くす)と謀り墓碑を修め、碑面の五大字を書し、息正弘の撰文なる「古墳之記」を石に刻して 建た。翁其時蘭洲の詩に和して三首あり。           頃者与加賀蘭洲謀、修参議小野公墓、           蘭洲有詩、余亦同作   半托村民半僧寺。擬防荊棘漫侵尋。敢揮凡筆題碑面。亦是区々念祖心。」  《割書:       半は村民に托し半は僧寺。荊棘の漫に侵尋するを防がんとはかる。敢て凡筆を揮て碑面に題す。亦是区々祖をおもふ心。|》 翁学成るにと及び、生地の関係より、江戸に於て吉田藩主松平伊豆守/信古(ノブヒサ)(後大河内刑部大輔)の聘に応 じ儒臣と成り。更に藩士(六十石)と成つた。安政五年戊午の大獄起るや、藩命に依り江戸より追放せ られ、更に幕命で吉田に幽閉(国元永押込)せられ、小野侗之助と改め、晏齋とも号し、湖山の号は始 終用ゐた。生地高畑は琵琶湖の北、小谷山の麓に位し、四面山を負ひ、湖山の号はそれより取つたので ある。江戸に出でゝ始て居住したるは神田お玉ケ池(神田川の南今の元岩井町)で、玉池仙史と称し、 後ち狂々生、侗翁等の別号あり。豊橋藩の儒臣より士族、更に東京府士族に改め、明治四十三年庚戌四 月十九日高齢九十七歳を以て病歿した。翁八十七歳の時大患に罹り、一時危篤の趣 宸聴に達するや。 特旨を以て従五位に叙せられ復た癒て、十年の寿を保つた。(恩賜叙位参照) 配元子は文政五年壬午七月三日を以て、長野県信濃国下伊那郡飯田藩(堀兵庫守一万七千石、後松本県) 士族加藤固右衛門の三女として生れ。翁三十六(元子二十八)の頃、翁の畏友安井息軒の媒する所にか ゝり。元子は翁に先立つ七年、明治三十七年甲辰一月二日八十三歳で歿した。元子の兄を加藤一介と称 し(名は信敏、三樵と号す)。業を古賀侗庵の門に受け、齋藤拙堂、安井息軒、昌谷精渓等と交はり。 謙遜朴実最も旧交に厚かつた。翁に四子あり、長正弘(初名亥之助、(双松と号す)嘉永四年辛亥十月十二 日を以て江戸に生る(翁三十八、元子三十)家督を嗣ぎ。明治五年仕官して左院掌記より正院に転じ、 内閣書記官、記録局次長に歴任し、致仕して一時啇社に携はつたが間もなく退き。昭和三年三月二十九 日七十八歳で病歿した。翁の二三子共に夭逝し、末子源太郎横山姓を冒【冐】し、東京に現住す。正弘子なく                        三                        四 同藩士關根錄三郎の二男竹三を養ひ嗣とす。竹三は明治十一年戊寅三月東京に生れ、三十六年東京帝国 大学文学部(英文科)を卒へ、長崎高等商業学校教授、学習院教授を経て、現に武蔵野女学院学監である。 【写真の下に横書き】          【写真の下に横書き】 (翁夫人 元 子)             (家 嗣 竹 三) 【上段】 同学院は都下に於ても頗  【写真の下に横書き】 る好評あり。高畑の横山  (息 正弘 号 双 松) 家は其後翁の末妹/梢(コスヱ)が守 り、七十六歳で歿したが 相続者なく一時親戚速水 宗太郎が管理し。後ち翁 の息正弘が、小野分家と 【下段】 して宗太郎の女静江を養女と し、同郡虎姫村農国友太兵衛 の二男寅三を養子として継承 せしめた。 翁の父玄篤は翁が十五歳の時 五十六歳で逝たが、母は八十 五歳で亡なり。翁の長姉波満 【左頁】 子は独身生活九十一歳の寿を保ち、第二の姉岸子も独身で九十歳に及んだ。両女は俗に云ふ負け嫌ひの 性質で、波満子は最も剛気であつた。岸子又何等特殊の事情とては無きも姉と共に独身で過たのであ る。第一の弟は傳兵衛と称し一旦速水家を継いだが再び実家に帰り又出でず。此人一見温和であつた が、苟くも道理と信じては枉げず、一時村庄屋を勤めた事あり。第二の弟は京都妙心寺内大龍院住職釋 東胤で、道心堅固の名僧と仰がれ、是又独身七十四歳で逝た(長寿上仙参照)。同胞七人中斯く四人の 独身者を出したのは一奇で。夫れが皆 長寿であつた事も亦奇である。翁の配 元子は婚嫁当時は体質弱 く、同胞も大抵早世し、兄一介も五十余歳で逝き、元子四十歳に達する迄は、長寿の望みなしとせられ たが漸次健康となり、八十三歳に達したのである。         二 立 志 苦 学 翁少年の頃家にありて、水戸中納言徳川光國の事蹟を編成したる「西山遺事」等の書を読み、又高山彦 九郎、蒲生君平等の事蹟を聞き、又本居宣長の著書に触れ、京都に起りたる王室家と称する一派の風を 慕ひ。頓に王朝の衰を嘆ずるの心を深めた。「西山遺事」は一に「桃源遺聞」とも云ひ、元禄三年光國 薨じて翌年継嗣綱條が、光國の近侍たりし三木之幹、宮田清貞、牧野和高其他より材料を得て、藩校彰 考館総裁安積覺(通称覺兵衛、澹泊と号す義公の大日本史編纂に与り元文二年八十二で歿す)が監修の 下に、中村顧言、粟山成信、酒泉弘等と共に「義公行實」を撰述したが。漢文にして読易からざるを遺                        五                        六 憾とし。牧野和高が三木宮田二人と謀り、仮名混り文に改めて五巻とし、更に光國の嘉言善行を補足し たものである。其後天明六年に同藩儒五原翠軒が前書に漏れた所の材料を集め三巻を作り、一々出典を 附してある。(市立豊橋図書館歴史部「偉人言行録」の一部にあり)。翠軒(名は萬、通称甚五郎)彰考 館一時の名総裁として頗る経世の卓見を備へ。寛政の初め其藩主治紀が松平定信を将軍家齊の補佐とし て推薦し、木村謙次を蝦夷地(北海道)に派して、露人の侵入状態を探らしめたるが如きは、皆翠軒の 献策に依ると云ふ。 翁父玄篤の命で彦根藩医某の許に寄宿し。医学に従つたが、其れは好む所でなく、去て隣村曽根村の儒 者大岡右仲(名は恭、字は士禮、松堂と号す)に就き経史を学んだ。右仲は龜井昭陽の門人で篤学の士 である。其弟寛(字は士栗、笙州と号す)性豪邁で足跡海内に遍く、遂に北海に客死したが、翁は笙州 と共に右仲の許に在て研学し、其業大に進んだ。後年翁の記したものゝ中に「余の笙州に於る、義は師 友を兼ぬ」とあるに依ても、其親愛の情や推知すべし。文政九年翁十三歳の時父に伴はれ京都に出で、 頼山陽に謁し再遊して業を其門に受んことを誓つたが果さず。(山陽此時四十七、翁十五)越て文政十一 年四月十九日父玄篤逝き、母屢々病み、長姉波満子専ら家事を督し、翁は同胞と共に其庇頼を受けた。 天保元年当世の大詩人梁川星巌が其妻紅蘭と共に九州漫遊を了へ、彦根の小野田簡齋の家に寓するに会 し其門に入た、時に翁十七歳、星巌は四十四歳である。星巌は妻を携へて各地に漫遊すること殆んど十 八年余其年また彦根を去つて江戸に入たので、翁は翌年十八歳の頃母と弟妹とを長姉波満子に託して、 単身決然江戸に入り諸家に就き学んだ。(山陽は其年歿す)其間最も眷顧を得たるは尾藤水竹に過たる はなく、梁川星巌、藤森弘庵之れに次ぎ、又林大学頭に就て得る所も多かつた。水竹(名は積高、字は 希大、別号絃庵、江戸人)星巌(名は孟緯、字は公圖、一字無象、新十郎と称す天谷、百峯、老龍庵と もいつた、美濃国安八郡曽根村の人)藤森弘庵(名は大雅、字は淳風、通称恭助、別号天山、江戸人、 土浦藩儒)林大学頭(名は煒、幕府の儒臣)。 翁都下にあり甚だ学資に乏しく、或は学僕と成り、或は筆耕を為し。東西寄寓具さに艱苦を嘗めた。星 巌は神田お玉ケ池に玉池吟社を起し、名声天下に昂り。当時文は山陽、詩は星巌とせられ、一面勤王の 志士と交わり、翁之れに参加して嶄然頭角を顕はした。旁ら旗本(ハタモト)松平丹後守白須甲斐守其他の聘に応 じ経史の講義を為し、生計の資を得た。之れ実に翁が二十五六の交で文字通りの俊才である。星巌は最 も望を翁に属し、奨励鼓舞した。詩あり   文運与時倶転回。英髦森起接踵来。尖新巧麗豈終乏。無此不覊豪宕才。」 《割書:       文運時と倶に転回し。英髦森起踵を接して来る。尖新巧麗は豈終に乏しからんや。此の不覊豪たうの才無し。》   慵求虚飾況求工。一気凛然金石融。九万鵬程吾望汝。不応窓下老彫虫。」 《割書:       虚飾を求むるにものうし況んや工を求むるをや。一気凛然として金石融る。九万鵬程吾れ汝に望む。窓下彫虫に老ゆべからず。》 木穌岐山が翁の「北遊剰稿」に跋を書した一節に。   「湖山寒門素族、其書生たりし時途中日暮る。逆旅に投ぜんとするも資斧無し。路傍の地蔵堂に入て                        七                        八   横卧す、夜寒耐ふべからず、戸扉を外して被に代ふと、湖山親しく余に語る所なり。」 と云ひ、大沼枕山が翁の下毛に遊ぶを送る詩に「酔て歓を為さず情惨憺。貧にして別を成し難く涙潺湲 たり」の句あり。翁之れを評して「余と枕老と青年の時貧困相似たり。故に其交情も亦相親し」といつ て居る。 枕山(名は厚、字は子壽、一字昌卿、別号煕堂仙史)文化十四年尾張の儒臣大沼竹溪の子として生れ、 翁と同じく星巌門下で翁より三歳若し、少時よ赤貧洗ふが如く粗服垢面更に介意せず、苦学のため江 戸に出で。或時有名の儒者菊池五山の門を叩き入学せんことを乞ふた。五山見て乞食児かと疑ふ。枕山 憤然色を正し、身に粗服を纏ふも心に錦を蔵すれば足ると、懐中より一詩稿を出し示す。五山見て其巧 妙に驚きしも、猶席間の瓶花を指し賦詩を命ず、枕山即座に七律一首を吟ず。五山大に感服し、直に入 れて其塾長とした。後ち翁と共に星巌に就き学び、都下に於る詩壇の両大関と称さるゝに至り、明治二 十四年十月七十四歳で歿した。翁は一時枕山と貧苦を共にし同胞の如くした。 翁が貧境に処した詩は可なりあるが今左に数首を摘載する。           玉 池 寓 居   地蔵橋畔玉池西。小小門牌姓名題。有客経過豈難認。比隣第一我檐低」。 《割書:       地蔵橋畔玉池の西。小小たる門牌姓名を題す。客あり経過して豈認め難からんや。比隣第一我檐低し。》 佳譃も亦佳詩である。           俎 橋 僑 居   歳晩帰家笑口開。些々肴蔌洗塵杯。先生膽大守究苦。不築尋常逃債臺」。 《割書:       歳晩家に帰りて笑口開き。些々たる肴そう塵杯を洗ふ。先生胆大究苦を守り。築かず尋常逃債台。》           嗟 我 貧 無 書   嗟我貧無書。零砕二三冊。売余鉄厓詩。蠹残東坡策。誦之排憂悶。対之送朝夕。地下若有知。豈謂   非莫逆。昨日借一書。鴻文誠意伯。信哉古人言。奇書等趙壁」。 《割書:       あゝ我れ貧にして書無く。零砕二三冊のみ。売余す鉄がいの詩。蠹残す東坡の策。之を誦して憂悶を排し。之に対して朝夕を送|       る。地下若し知るあらば。豈莫逆に非ずと謂はんや。昨日一書を借る。鴻文誠意伯。信なる哉古人の言。奇書は趙壁にひとしと。》 名教中楽地あり。           麹 渓 寓 居 《割書:(折一)》   子瞻嘲子由。官舎小如舟。吾舎小殊甚。欠伸動打頭」。 《割書:       子瞻、子由を嘲る。官舎小なること舟の如しと。吾舎小殊に甚し。欠伸やゝもすれば頭を打つ。》           客 中 雑 感 八 首 《割書:(折二)》   不堪飄泊客天涯。暑往寒来似擲梭。敝帽経年貧太甚。濁醪三斗興如何。一時名姓真才少。   千古文章空論多。咄々厭聞浮世事。帰来擬着旧青蓑」。 《割書:       飄泊天涯に客たるに堪えず。暑往寒来擲さに似たり。敝帽経年貧甚しく。濁醪三斗興如何。一時の名姓真才少なく。千古の|       文章空論多し。咄々浮世の事を聞くを厭い。帰来旧青蓑を着んと擬る。》   満城歌笑漫紛然。酒幔高楼闘管絃。警戒漸亡無事日。飢荒多在太平年。強呑弱吐三千歳。   世態人情三百篇。自笑書生甚多口。要将鼇【鰲】足補天穿」。 《割書:       満城の歌笑漫に紛然。酒幔高楼管絃を闘はす。警戒漸く無事の日にうしなはれ。飢荒多くは太平の年にあり。強呑弱吐三千》                        九                        十 《割書:       歳。世態人情三百篇。自ら笑ふ書生甚だ多口。鼇【鰲】足をとつて天穿を補はんことを要す。》 安政五年戊午冬翁その四十五歳の時、東都に大火災あり類焼にあひ。多年心血を注ぎたる詩稿一千余首 を烏有に帰し。流石の翁も懊悩数日に及んだが。其後漸次旧作を追憶して一百三十余首を纏め「火後憶 得詩」として刊行した。翁自ら之れに序し  「吁古人一たび目を経れば、終身之を忘れざるものあり。(唐の学者王安石か?)今余自ら作る所のも  の猶ほ其十の二三だも記憶する能はず。衰病に因ると雖も亦賦性の然る所是れ嗟すべきのみ(中略)時  に新居経営未だ成らずして、箱崎邸の寓楼にあり。時恰も臘月二十八日、風雨寒甚しく、乳児は乳に  乏しく、夜間屢々泣く。頗る苦境なるも、亦詩人の常なるか。」 其困苦想ふべし。而も其詩や首々連城の珠玉たると、記憶力の偉大さとには只だ驚くの外もなし(作詩 の本領参照)         三 勤 王 愛 国 翁が熱烈なる勤王心を培つたのは、既に年少時代にあること、前章に述たる如し。長じて梁河星巌の衣 鉢を受るに至り、其の動かざる根柢は深きを致し。漸く生計の途の立てらるゝに及んで、始めて筆を載 せて漫遊の旅に就たのは天保九年二十五歳の時である、先づ筑波山に登り、水戸に出で同藩の志士會澤 正志と天下の事を論じ、太田に至り徳川光國及朱舜水の墓に謁した。水戸藩老會澤正志(名は安、字は 伯民、通称恒蔵、正志齋と号し、藩主徳川齊昭の殊遇を受け、藩校彰考舘総裁、郡奉行等を勤め、勤王 主義による新論及孝經考其他の著書あり)翁は其後屢々水戸に行遊し、藤田東湖、武田耕雲斎其他と親 交を厚ふし、藩主徳川齊昭の知遇を受るに至つた。           會澤先生席上同諸先輩賦   不知諸老是何人。酒落胸襟迥出塵。美酒千鍾能酔客。高談一坐欲回春。松標冒雪青々秀。   梅格吹香点々新。奇骨耐寒吾亦敢。歓談相見転相親。」 《割書:       知らず諸老は是何人ぞ。洒落胸襟はるかに塵を出づ。美酒千しよう能く酔はしめ。高談一座春を回さんと欲す。松標雪|       を冒して青々として秀で。梅格香を吹て点々として新なり。奇骨寒に耐るは吾も亦敢てす。歓談相見て転た相し。》 水戸齊昭(字は子信、初名敬三郎、景山と号し、烈公と諡す)水戸七代の藩主治紀(武公)の第三子、 寛政十二年庚申三月江戸小石川邸に生れ、幼にして頴敏、文政年中兄齊脩の後を襲ぎ、英明果断、最も 勤王心の深きこと、遠祖光國の風あり。天保十一年上皇の薨するや、山陵を修め資を献じ、幕府を敬す ると共に天朝に仕ふるは、之れ人臣たる者の最善の道なりと云ひ、上書して諡法を復し、光格天皇と称 するに至つた。また学校を起し大に皇漢学及武道の振興に努め、其治績少なからず。翁の齊昭に知られ たるは実に、二十七歳の頃で齊昭は四十二歳である。齊昭は嘉永元年に我が羽田文庫へ「破邪集」八巻 を寄附したが。是れ翁の斡旋に依り、羽田敬雄の文庫設立に賛してのためであつた。 凡そ明治の維新回天史を説くに水戸と薩長とを閑却し難いことは何人も之を知る。水戸の如きは幕府側 よりは獅子身中の虫として睨まれ、薩長諸藩よりは水戸は学問と言論とに長じて、実行に拙なりと見縊 られ。愈よ維新の大舞台が開かれた時。水戸は国内の党争に忙しくして、殆ど一人の元勲も中央政府へ                        一一                        一二 送らず、惨めな状態に陥つたが、苟も史眼ある者は先づ第一指を水戸に折るを躊躇せぬであらう。九 州地方諸有志の如きも、概して水戸諸先達の風を聴て興りたるものと云ふも過言ではあるまい。之を極 めて大つかみに評すれば、水戸人が供給した理想が薩長二藩の物質的勢力と抱合して維新の大業は進行 したのであつた。(徳富蘇峯氏明治維新史の一齣) 翁三十九歳の嘉永五年、対岸の北米合衆国は我国をして開港せしめんことを決議し。水師提督ペリーに 国書を齎らし、軍艦四隻を率て翌年癸丑六月浦賀に着し、通商を乞はしめた。幕府止むなくペリーを久 里濱に於て引見し、諸藩に警報して沿岸の防備を考へしめた。就中水戸齊昭は幕府の命に依り深く海防 の急を考慮し、已に天保三年に於ても寺院の梵鐘を鋳潰し大砲を造らしむ等の論を以て、海防策を考へ たのは有名な談である。ペリーは上陸して国書を幕府に呈し、一と先づ長崎へ去たけれども我国長夜の 鎖国の夢は爰に忽然として一朝に破られ、物情騒然、幕府は事状を朝廷に上奏し 孝明天皇いたく宸襟 を悩ましたまひ。従来幕府の専断にのみ出たる外交内治は、是より以後朝廷の議を経る事と成つた。同 時に攘夷論と開国論とは幕府を中心に交々論議せられ、夫れには幕府外交の軟弱を責る者続出して世論 は錯綜し。水戸齊昭は最も熱烈なる尊皇攘夷論の急先鋒である。其意見によれば  太平打続き候えば、当世の態にては戦ふは難く和は易く候え共。天下一統戦を覚悟致し候上にて和に  相成候はゞ夫程の事は無く、和を主に遊ばして万々一戦に相成候節は、当時の有様にては如何とも被  遊候様無之候。去八日(嘉永六年七月)御話致し候事は海防掛ばかりへ極密になされ、公辺に於ては  此度は実に御打払の御思召にて号令致されたく云々(下略、海防愚存より) と云ふに在り、然るに一方幕府は到底我国の武備を以てしては外国に当り難しと為し、就中老中井伊掃 部守直弼(小字鐵三郎、近江国彦根藩主第十七代直中の十四男)を筆頭として、開国論者の人々は攘夷党 に反対抗争した。一方ペリーの浦賀を去て間もなく。露国使節プーチアーチン軍艦を率て長崎に来り隣 交を乞ひ、樺太千島問題を提出し。安政元年にはペリー再び浦賀に来り上陸し、翌年二月まで幕府との 間を往来した結果、幕府の外交方針は軟化し、和親条約を結び。ペリーは又其五月下田に至り、附録条 約を締結して帰国したが、露使更に大阪湾に来た。其後幕府は相尋で和蘭、露西亜、英吉利、仏蘭西の 各国とも夫々の条約を多きは二十ケ条少きも十数ケ条に亘りて締結し。米国は安政三年更に総領事ハリ スを送り、将軍家定に謁せんことを乞ひ、水戸齊昭之を沮止せんため幕府に上書したが用ゐられず。齊 昭は逆に排斥せられ、ハリスは遂に将軍に謁し国書を呈し厚遇を受けた。是より先き幕府は米国の要求 に依る新通商条約を議定し、之れを実践せんとしたが、世の物議を怖れ調印せず、上奏して勅許を乞ふ ため、林大学頭及津田正路(名は半三郎)を京都に派し調印の勅許を乞はしめた。翁は林大学頭に学び たる事ある縁故で、長詩を賦し発途を送つた。其大意を記せば左の如し 《割書:  林君幕命を奉じ、条約調印の勅許を以て対外策を決せんとすと聞くも、夷虜(外人)は狡猾であるに幕政は振はず。漫に粉々たるの|  みである。宸衷を仰ぎ皇威の発揚を期せんとならば、宜しく真に忠義のこころを振ひ、英断以て攘夷の方針を立て、国防の完成を期すべ|  きである。》 林大学頭左右と共に之れを読み憮然たりしと云ふ。次で老中堀田正睦も亦上洛策動したが、朝議は遂に                        一三                        一四 幕府の乞ひを斥ぞけ、大学頭等は空しく帰東した。此時已に京都では尊皇攘夷党が漸次勢力を伸べ、幕 府倒すべしの声が高まつてゐたから、朝議は更に条約の事たる宜しく諸藩の公論に依り決すべしとの旨 を仰せ出され、調印の勅許は望み薄と成つた。併し幕府に於ても、当初ペリー来航し、其他諸外国艦船 の来た時には勿論一戦をも辞せぬ気分ではあつた事は、井伊直弼が、其臣宇津木大炊(五清と号す)をして 浦賀の防備を視察せしめたりやなどした事でも判るが。漸次外人の言を聞き外国の事情を知るに及んで 軟化の止むなきを知つたのである。翁亦大炊とは詩作の上で能く相知る間柄なるゆゑ、詩十二首を賦し 之れに寄せた。           有感寄宇津木大夫《割書:(折四)|》   策士紛々空守株。鎮邊指画等嬉娯。礮臺銃架供観美。不省縦横適用無」。 《割書:       策士紛々空しく株を守り。鎮辺の指画は嬉娯に等し。ほう台銃架は観美に供し。縦横適用の無きを省みず。| 》   人言大艦用之難。我言大艦是其要。記得周家学水軍。纔経数月已精妙」。 《割書:       人は大艦之を用ゆること難しと言ふ。我れは大艦是れ其要ありと言ふ。記し得たり周家水軍を学び。纔に数月を経て已に精|妙なりしを。| 》 後詩の後半は三国誌にある呉の周瑜が少数の海軍で赤壁の海戦に、魏の大軍を破つたことを吟じ、幕府 海防の軟弱を諷した。   夷舶蛮船来去頻。眼看瀛海結氛塵。戌楼近接鎌倉地。為弔弘安英断人」。 《割書:       夷舶蛮船来去頻りなり。眼にみるゑい海氛塵を結ぶを。戌楼近く鎌倉の地に接し。為めに弔す弘安英断の人。| 》 今昭和の六年は正に元寇役の六百五十年である。翁の此詩を服膺すべきもの有り。   不恃無来要有待。待之之策在平生。造為巨艦立軍號。教習海濱屯戌兵。 《割書:       来るなきをたのまず待つあるを要す。之をまつの策は平生にあり。巨艦を造為し軍号を立て。教習せよ海浜の屯戌兵。| 》 二十八字堂々たる海防論である。 是より先き翁の師星巌は俄に江戸を去り京都鴨川畔に移居し「鴨泝小隠」と称し、詩酒の間に逍遥し、 吟哦に耽つてゐた。而も裏面には幾多尊王攘夷党の志士と交はり、維新の気分養成に努めた。此時代又 我政局には一の複雑なる問題が考へさせられてゐた。それは将軍家定が病弱で子なく、継嗣を定むるの 急に迫られた一事である。尾張越前薩摩等を中心とする数藩は水戸齋昭の第八子一つ橋徳川慶喜を擁立 せんとし、幕府の中心人物井伊直弼以下の一派は紀州の幼主徳川慶福を挙んとして互に鏑を削り、彼是 の事情が外交問題と相錯綜した結果。幕府は遂に人才の聞え高かつた井伊直弼を、安政五年に老中の上 位たる大老職に就かしめ、直弼は先づ問題の対米条約につき、勅許を待たず断然調印して了つたので、 天下の志士猛然として違勅の罪を鳴らして起ち、事態は益々粉糾した。直弼は調印の止むなき次第を上 奏する一方、将軍の継嗣は徳川慶福を立てるに決心したゝめ、尊王攘夷論と倒幕攘夷論とが又錯綜し。 朝議は爰に公武合体して国事に当らんことを考へ、大老及三親藩中の上洛を促した。偶々将軍家定が薨 去し幕府は多事であつた為め、大老は上洛せず、老中間部下総守詮勝を上洛せしむるよし答奏し、サテ 大いに決する所あり。倒幕党乃ち水戸系を主とする志士に、一大弾圧を加ふる方針を立て之れを決行し                        一五                        一六 た。尾張越前両藩主は隠退、水戸父子は謹慎、一橋慶喜は登城を禁じ、六月二十五日紀伊宰相慶福(時 に十三歳)を将軍に立てゝ了つた。是れ第十四代徳川家茂である。爰に於てか幕府排撃の声は反動的に 益々熾んと成り。志士の策謀東西織るが如く、翁又身を忘れ、奔走日も亦足らず。或は同志と会合し或 は書を要路に呈し、或は藩主松平伊豆守信古に尊攘の議に賛加せられんことを勤め。摂政二条齊敬及び 阿部侍従(備後福山城主十一万石、従四位阿部伊勢守正弘)等に拠りて朝廷に建議する等大に努力した。 偶々一友人が私かに翁の危険を慮りて忠告し、其人を択ばずして妄りに発する勿れと咎めたるに対し、 翁答て「今や内外の事情切迫して、人心恟々国家の安危に繋るや大なり。何ぞ之れを択ぶの遑あらんや。 国家の外寇ある猶ほ父母の激疾あるがごとし、苟くも之れを救ふの途を求めんとせば、区々たる罪譴の 如きは顧みるにたらず」と更に屈するの色がなかつた。偶々幕府より列藩へ諭すの令を見て翁慨然たる こと数日に及び。二本松の同志中島長蔵(黄山と号す)浦賀より江戸に帰り翁と酒を汲み時局を談じ、 相共に悲歌激語し、遂に号泣するに至つた。 水戸の鵜飼吉左衛門父子、薩摩の日下部伊三次等の志士は京都に入りて梁川星巌、梅田雲濱其他と謀議 し、尊攘の目的を達せんために、井伊大老を斥け密勅を水戸に下されんことの運動を進め、鵜飼幸吉は それを携て江戸に下り。水戸其他十三藩と幕府との双方へ勅諚は下されたが、水戸藩等への賜勅は公武 合体の趣旨の如くして実は幕府排斥のものであつたので、莫部は大に狼狽し。愈々倒幕党検挙の臍を 固めて、老中間部詮勝を九月三日上洛せしめた。詮勝が上洛に際し、井伊大老へ送つた書面によると。  (前略)此度の事天下分け目の御奉公と存じ一命に掛け働く心得に候。水老(齊昭)慎みを免され登  城あらば、殿中にて召捕るか、又は殺すの外無之と迄思ひ詰め候も。是れは宜しからざるやも知れず  候云々(下略) 以て如何に幕府が大決心を以て水戸党に当つたかは推するに難からず。間部下総守詮勝(初名詮良、龯 之進と称し、松堂と号す、越前国鯖江城主五万石、実は一族詮凞の三男、藩主詮允の封を襲ぐ)此の大 使命を帯び入洛したのは、実に五十六歳の男盛りである。詮勝の東海道を通過したるに当りて。我吉田 (豊橋)藩主松平伊豆守信古は其二男なるを以て、或は城下の光景を一見せんとでも思つたものか。世 は勤王佐幕の両党紛争して囂々たる時代なるにも拘はらず、乗輿を駅の東端瓦町で下り、徒歩して西端 船町に至り、再び悠然と乗輿したるは、如何に其の胆気に富んでゐたかゞ窺はれる。詮勝は安政六年十 月辞職し、文久二年幕府は朝命で其封二万石を削り、明治十七年十一月二十八日歳八十三で逝た。松平 信古は(初名理三郎、文政十二年己丑四月廿三日詮勝の二男として鯖江城に生れ吉田藩に入り、嘉永 三年庚戌十一月十五日廿二歳で襲封。文久二年六月晦日大坂城代に任ぜられ、元治元年刑部大輔と改め 同二年二月溜間詰に転じ幕政に参与し、明治二年六月版籍奉還、太政官達に依り旧姓大河内に返り豊橋 潘知事と成り、維新の功績により朝廷より賞詞を賜はり、四年十一月廃藩と共に華族に列せられ、東京 下谷清水町の自邸に移住し、明治二十一年十一月廿五日六十歳で逝た。                        一七                        一八          四  戊 午 の 大 嶽 尊王倒幕、志士密謀の本拠は京都に在りと為し。その撲滅を期すべく、幕府が決心した夫れに際して、 幕府にも間部老中にも縁故の深い、吉田藩主松平伊豆守信古は、豫め慮る所あり翁を突如として江戸よ り追放するの命を下した。是れ実に安政六年己未五月二十一日の事で翁四十六歳の時である。此の前 已に翁の慷慨悲憤は熾烈を極め、左の如き作詩あり。           放  歌  行   殷憂過痛哭。作歌不成章。看花對月潜涕涙。何問佯狂將真狂。痛極如無痛。詩成轉豪縦。大酔放歌朝   又朝。是真被夢々非夢。鳴呼百歳空懐千歳憂。詩巻天地定長留。自吟自笑又自哭。如待知音休々々。」 《割書:       殷憂痛哭を過ぎ。歌を作れども章を成さず。花を看、月に対して涕涙をそゝぐ。何ぞ佯狂と真狂とを問はんや。痛極まつて|       無痛の如く。詩成て転だ豪縦。大酔放歌朝又朝。是れ真、夢に非ず、夢ゆめに非ず。アヽ百歳空しく千歳の憂をいだき。詩|       巻天地に定めて長く留めん。自吟自笑又自哭。知音を待が如きは休む〳〵〳〵。| 》 翁追放の命伝へらるゝも、平生交遊する所の者来り訪ふは稀である。偶々土佐の士松岡時敏(字は欲訥 毅軒又用拙と号す、翁と同年で、藩主山内豊信(容堂)の篤信を受け、随行して江戸に出れば、必ず先づ 翁を訪た、維新後土佐より徴士に任ぜらる)訪ひ来り「今日君の為めに謀る者それ只安井息軒先生か」 と息軒に事情を告ぐ、息軒(名は衡、字は仲平、日向国清武郷中野里の人、始め飫肥藩学の助教授後幕 府儒臣となる翁夫人の媒者)先づ翁の妻子を按排し、次で翁の北遊の地を考慮した。翁江戸を去つて両 毛信越の各地を漫遊し、後年「北遊剰稿」の著あり、小序に曰く。  「己未安政六年の北遊、実に已むを得ざるに出づ、盃酒を借りて憂悶を排し、詩も亦排遣の余に成る  故に作る所少からずと雖も、また稿を留めす、其偶々存するもの僅に三十首のみ」と           將北遊書示送行小山松渓加藤有功   送行有客酒盈樽。禍福人生不用論。自償平生水志。那知小謫是深恩。 《割書:       行を送る客あり酒樽にみつ。禍福人生論するを用ゐず。自ら平生山水の志を償ふ。那ぞ知らんや小謫は是れ深恩。| 》   孩嬰無智喩来難。問我遊山幾宿還。災後新居黔突未。又將行李試閑關。 《割書:       孩嬰は智なく喩し来ること難し。問ふ我れ遊山幾宿にして還るかと。災後の新居黔突未だし。また行李を将て閑関を試る。| 》 有功は義兄一介の義子である。翁放謫の人と成り前途の難関を試練せんとす、感慨は詩中にあふれ、人 の心肝を動かすものあり。東都を離れて先づ下毛足利に至り、其祖小野篁の遺像を由緒ある足利学校に 拝して   千古興衰不用論。猶欣小校故基存。飄零何面拝遺像。我是相公幾葉孫。 《割書:       千古の興衰論ずるを用ゐず。猶小校故基の存ずるを欣ぶ。飄零何の面か遺像を拝せん。我は是れ相公幾葉の孫。| 》 此地有志の大歓迎を受け、連日詩書の需に応じた。別宴に列する者五十四人、同地文墨の会として未曾 有とせらる。更に上毛の桐生、澁川を経て草津温泉に浴し、六月澁谷嶺を越て詩あり。   回首頽雲倚險巇。一枝健竹力相支。窮途豪語人應笑。獨立乾坤亦一奇。 《割書:       首を頽雲に回して険巇に倚り。一枝の健竹、力相支ふ。窮途の豪語人まさに笑ふべし。乾坤に独立するも亦一奇。                        一九                        二〇 信州に入越後小千谷、新潟に留泊した。          散歩海浜慨然成詠   漫遊擬忘人間事。未免仰天時慨然。目斷佐州青一点。鄂羅靺鞨阿那邊。 《割書:       漫遊人間の事を忘れんと擬る。未だ免れず天を仰いで時に慨然たるを。目は絶つ佐州青一点。鄂羅まつかついづれの辺ぞ。| 》 翁一刻の散歩にだも、対外の感を忘れず。           酔  中   酔中随處送居諸。自是昌朝放棄餘。狂放不成憔悴色。恐他漁父識三閭。 《割書:       酔中随処居諸を送る。おのづから是れ昌朝放棄の余。狂放憔悴の色を成さず。恐る他の漁父の三閭を識るを。》 《割書:右詩の後半ば周の屈平の事を云つたのである。屈平字は原、博学純真の人で懐王に仕へ三閭太夫と為り一時王の信用厚かつたが、同僚に|讒せられ、王死して其子襄王の為め放たれて山野に在り、文を作り弁疏したが容れられず。其時自ら「漁父の辞」といふを作り、一漁夫|(仮設)が見て三閭太夫にも成つた身が何故に放たれ顔色憔悴、形容枯稿しゐるかと問ふたに対し、世皆濁り我れ独り清み、人みな酔ひ|我れ独り醒めたる故に放たれたりと答へ。漁父笑つて滄浪の水清まば我が纓を洗ひ、濁らば我が足を洗ふべきでないかといつたが屈原は|終に汨羅の淵に投じて死した。| 》 翁も亦放たれて逆旅にあるが憔悴の色は見せないと云ひ。故事新用の妙と豪気の状想ふべきである。翁 又若松城下に蒲生氏郷の墓に展し、東奥より再び下毛に入り、後年武田耕雲齋の拠つた大平(オホヒラ)山を踏み杤 木町に滞留すること月余に及んだ。           杤 木 寓 舎 雑 題 (折一)   平生愛山水。况爲浪遊身。未得探一勝。壹欝過三旬。事閑体易嬾。興漫句難新。明日城中去。   何以誇故人。 《割書:       平生山水を愛す。况や浪遊の身たるをや。未だ一勝を探るを得う。壹欝として三旬を過ぐ。事閑にして体は嬾り易く。興漫|       にして句は新なり難し。明日城中に去り。何を以てか故人に誇らん。| 》 此時翁は俄に江戸藩邸へ招致せられ、江戸に帰れば藩主より、「容易ならざる風聞あるを以て国元へ送 る旨」を達せられ、其侭藩邸に拘置せられ、妻子も同様拘せられた。   放棄今纔数月間。水雲自喜了清閑。夜来急召關何事。藩吏抅吾不許還。 《割書:       放棄今わづかに数月の間。水雲おのづから清閑を了するを喜ぶ。夜来の急召何事にか関す。藩吏吾を拘して還るを許さず。| 》   薄衾互覆五更寒。不似炉頭對臥安。最是人間可憐事。妻兒亦解耐艱難。 《割書:       薄衾互に覆て五更寒し。爐頭対臥の安きに似ず。最も是れ人間可憐の事。妻兒も亦艱難に耐ゆることを解す。| 》   急召如有意。嚴譴殊堪驚。丘壑豈不戀。勞々歎吾生。早衰双鬢白。朴學一身輕。報國無寸効。捧日   抱微誠。得非萋斐錦。羅織何縦横。風聞不容易。五字確罪名。 《割書:       急召意あるが如し。厳譴殊に驚くに堪たり。丘壑豈恋せざらんや。労々吾生を歎ず。早衰双鬢白く。朴学一身軽し。報国寸|       効無く。捧日微誠を抱く。萋斐の錦に非ざるを得るも。羅織何ぞ縦横。風聞容易ならず。五字罪名確し。| 》   往事百可悔。雖悔復如何。天氣無定凖。人海足風波。吏卒交護我。不容別人過。黨禍同宋代。囚係   懐東坡。反省無所作。何須激悲歌。虚名招實禍。名言不可磨。 《割書:       往時すべて悔べし。悔ゆと雖復如何せん。天気定準なく。人海風波足る。吏卒交々我を護り。別人の過るを容さず。党禍宋代|       に同じく。囚係東坡を懐はしむ。反省はづる所なく。何ぞ悲歌に激するを須ひんや。虚名は実禍を招くと。名言磨すべからず。| 》 言々句々肺腑より流露す。古人の所謂「容れられずして後君子を見る」とは夫れ当時の翁を言ふか。越                        二一                        二二 えて二十二日江戸よりいはゆる軍鶏駕籠(トウマルカゴ)(一に網乗物(あみのりもの)ともいひ恰も軍鶏(シャモ)の如く其顔のみを出す駕籠)を 以て護吏を附し、吉田に送られた。吁忽にして追放、忽にして拘禁、更に遠く藩地へ幽閉せたれたるも 翁一笑に附して問はず。只此時郷里の母堂已に七十歳を過ぎ、旧居に在りて翁を憶ふこと切なるの一事 は翁たる者豈愴然たらざるを得んや。           輿 中 口 占 (折二)   帖然拜命發都城。護送猶何比遂臣。不似從前遠遊日。旗亭例會舊交人。     《割書:      帖然命を拝して都城を発す。護送猶何ぞ遂臣に比す。似ず従前遠遊の日。旗亭旧交の人を例会するに。| 》   吾意雖勞吾脚閑。睡過鈴語馬聲間。何思湖海豪遊士。隔着發興看遠山。     《割書:      吾意労すと雖も吾脚閑なり。睡過す鈴語馬声の間。何ぞ思はん湖海豪遊の士。発興を隔着して遠山を見んとは。| 》 翁の護送に関して一挿話あり。翁は吉田幽閉の稍緩めるに際し、人生五十の一劃期に達したるを以て、 横山仙助を自ら小野侗之助に改むと云ふも。実は江戸より護送の乗輿に当時の慣例として木札を附し 「松平伊豆守預り罪人小野侗之助」と記したるが故に、皆その如何なる人なりやを解せず。勤王党も佐 幕派も軽々に看過した。其裏面には、藩主信古及藩の心ある有志が翁の無事に吉田に達せんことを考へ 態と変名せしめた周到の用意であつて、翁在世中此事は少しも語られなかつた。又一説によれば翁は吉 田へ送られたる後、幕命で「国元永押込」と云ふ処分を受たが、已に江戸では斬首せらるべき一人に数 へられてゐたを、藩主信古そこに機宜の方策を講じ、一は自藩より重罪人を出さゞる希望より、又一は、 師弟であり、藩儒として惜むべき士たる等事情を綜合し、乞ふて藩地に送つた事は、一に幽閉乃ち保護 を加へたのである。其一証は、後章(気骨徳性の項)に述るが如く、翁が息正弘に向ひ寿莚開く可らず と云ふ意志を述た中に「余は已に梟斬の刑にも処せらるゝ筈であるを僥倖にして然らざることを得たと は、藩主親しく余に語る所である」の一言がある。(翁の改名参照) 偖翻つて当時大検挙の模様を見るに、此事は多くの維新史其他に掲げられて已に周知の事実ゆゑ、詳記 する要もあるまじきが。幕府の決意を齎らして入洛した間部詮勝は、先づ妙満寺に館し、病気と称して 出でず。関白九條尚忠を介して是より先き徳川慶福を家茂将軍として立てた勅許を乞ひ。且つ水戸へ攘 夷の密勅を下された事に就ての抗議を提出したる後。疾風迅雷的に大検挙にとは着手した。苟くも幕政 を非議し、皇権の回復を謀り、水戸に党するの徒は容赦なく捉へて其多くを江戸に拉致し、惨刑極罰殆 と到らざるなく、総計実に一百数十名に及んでゐる、実に安政五年九月より起つた出来事で、乃ち之を 戊午の大獄と云ふ。今其重立た部分を記せば粟田口青蓮院宮は慎み永蟄居、鷹司右大臣父子、近衛忠凞 三條實萬は辞官、落飾、慎み、一條忠香、二條齊敬、近衛忠房、廣橋光成は各遠慮引籠、徳川齊昭は永 蟄居、一橋慶喜、尾張義恕は隠居慎み、水戸慶篤は差控へ、越前松平慶永、土佐山内豐信、宇和島伊達 宗城、老中堀田正睦、元老中太田資始は隠居慎み、を始とし水戸藩では家老安島帯刀は切腹、茅根伊豫 之助、鵜飼吉左衛門の死罪、同幸吉の獄門、鮎澤伊太夫の遠島、其他各宮家及諸藩に亘りては橋本左内 、賴三樹三郎、飯泉喜内、吉田松陰の各死罪より、遠島、重追放、中追放、所払、御役御免、永押込押                        二三                        二四 込、慎み、減禄、差控、手錠、江戸払、お搆、などの罪名下に夫々刑せられたが。史上に記されない程 の者で、江戸に於て斬られたは頗る多数であつた。 是より先翁の親友勝野友【「友」を見せ消ち、右に「豊」】作(名は正道、字は仁卿、臺山と号し変名して仁科泰【「泰」を見せ消ち、右に「多」】一郎といひ、旗本阿部四 郎五郎家来、江戸人)一日翁を訪ひて謀る所あり、次で水戸の鵜飼幸吉来り密談屡々為し、友【「友」を見せ消ち、右に「豊」】作は翁の 添書を得て京都へ走り、幸吉も亦入洛した。間もなく密勅の水戸藩主へ下つた事は、勿論裏面に相当有 力なる援助者があつたであらうが。友【「友」を見せ消ち、右に「豊」】作が携へ入洛した翁の添書なるもの、亦一方の功力があつたこと は、当時私に同志者間に認められて居たとの事である。翁は壮時より前章にも記す如く水戸とは離れ 難い関係を有し、若し今日の言葉でいへば水戸藩は多大なる翁の勤王運動の背景であつた点が多い。友【「友」を見せ消ち、右に「豊」】 作は大獄の起ると共に行衛を晦して捕へられず。長男森之介は遠島、二男保三郎は押込と成つた。翁の 師星巖は検挙三日前暴疾にかゝり病むこと二日七十歳で逝き。妻紅蘭は一旦拉致せられたが、機智に富 み、弁疏して釈放せられた。翁の親善なる幾多の志士学者名流は此厄にあひ、翁の能く惨刑酷禍を免れ たるは、前章の如く藩主信古其他の庇護のあつたのも去る事ながら、翁は常に皇権恢復を唯一目的とし 敢て過激手段を取らず、浅慮は却つて自らを禍し国家を益せずと称し。仮令ば外人を斬るべしだの、義 兵を挙るだの、暗殺毒害を謀る等々は之れを避け。徒らに幕吏の憎悪を深からしめぬやうに洒然として 詩酒風流の交際をつゞけ、何人たるを辞せず。幕吏にも開国論者にも相当知己を有してゐたことは、最 も身の僥倖に与かつて功があつたとせられた。          五 吉 田 城 幽 閉 翁が幽閉せられた吉田城中とは、旧名/川毛(カハゲ)と呼び今の東八町北へ入る歩兵第十八聯隊射的場のある、元 柳生(ヤギフ)門趾ある処である。僅に三室の陋屋を所謂座敷牢として丸太の木柵をめぐらし。徒士目附(カチメツケ)及護卒の 人々数名更代で監守し、少数の藩士及び上司の許可を得た者に非ざれば面会を許さず。普通獄舎と何の 異る所がなかつた。           堂    々   堂々辜負丈夫身。一室幽囚已幾旬。忍使妻兒勞遠夢。空慚弟妹養慈親。世無智己作詩悔。心抱殷憂   思酒頻。却自苦中求樂地。東坡太白彼何人。     《割書:      堂々こ負す丈夫の身。一室幽囚已に幾旬。妻兒をして遠夢を労せしむるに忍びんや。空しく弟妹の慈親を養ふを慚づ。世に|      知己なく詩を作つて悔ゐ。心殷憂を抱きて酒を思ふこと頻なり。却て苦中より楽地を求め。東坡太白何人ぞ。》           庚 申 元 旦   欣々相賀太平春。想見都門風物新。吾子吾妻眞薄命。不知何狀過今辰。     《割書:      欣々相賀す太平の春。想ひ見る都門風物の新。吾子吾妻真に薄命。知らず何の状か今辰を過ぐ。| 》 翁泰然として獄中に坐し、絶て怨嗟の色なく、読書詩作に耽り。監守の人々語るに東西の変故を以てす れば黙して答へず、其態度の如何にも冷静なるには皆殆んど感服して了つた。日を経て愈々他志なきを 認められ。或は密かに詩書を乞ひ、詩文を学び、酒肴を贈りて慰さむる者あり。上司の人々も亦夫れに                        二五                        二六 動かされて遂に旅行の自由を許し、藩主は翁を召して講書せしむるに至つた。当時藩老 西村治右衛門 (峯庵と号す)和田肇(挑川)等の人々文武の志に厚く、以下の人々も俊才が乏しくなかつた、従つて 翁を見るの明あり。併し翁の幽閉の名は安政六年己未より慶応二年丙寅に亘る八年の長きに達し翁とし ては甚だ不幸であり、藩地としては学田の収穫が多かつた訳である。其三年目の文久元年辛酉春始めて 江戸より妻子を迎ふることを許され、吉田城中大手長屋の一家屋に住はせられた。           三月六日妻兒自江戸至   廿歳吟壇頗得名。花前豪侠動驚人。誰思斗室幽囚裏。迎得妻兒醉作春。     《割書:      廿歳吟壇頗る名を得。花前の豪侠やゝもすれば人を驚かす。誰か思はん斗室幽囚の裏。妻兒を迎へ得て春をなす。| 》  息正弘、後年その拘禁より幽閉迄の状況を敍して曰く。  「戊午の大獄起るや、共に謀る者相継で獄に下る。一夕藩吏突如として至り、家君を拉し去り、吉田  城に押送し、妻兒を谷中藩邸に幽し、両地の音耗【音信】全く絶ゆ。時に弘猶幼なり出でゝ群兒と戯る、輙ち  皆罵つて曰く汝の父は賊なりと、弘独り走り帰り泣いて母に訴ふ、母嗚咽対へず。年甫て十歳母に従  つて吉田に至らんとして偕に函嶺を踰ゆ。方に春寒、山雨衣袂に滴り、躓き且仆れんとするもの屡々  なりき、母輿中より之を覗ひ歔欷す。小弟は母の懐に在り、呱々として乳を索む、余亦母に向ひ頻に  阿爺を見る何れの日にあるかを問ふ、而も其幽囚にあるを知らざるなり。吉田に至れば則ち老屋一宇  監守する者六七人、儼として檻舎の如し、家君其中央に坐し、書巻数冊を左右にして、夷然として詩  を賦すること前日に異ならず。(下略) (原漢文) 一誦して惨然たるの状目に在り。翁漸く幽閉の緩むと共に藩校時習館の学事を督せしめらる。時習館は 遠州濱松より転封せられた松平伊豆守/信復(ノブナホ)に依つて、宝暦二年に起されたる古き歴史を有し、世間稀数 の藩校として幾多の人才を出し、学事は常に振つてゐた。其附近の大手長屋に翁を住しめた藩主の意向 も蓋し推し難からず、大手長屋は今の西八町市公会堂前「時習館趾」の南側で偶々關根痴堂が謫せら れて江戸より帰り、共に「菁々吟社」を起し我地方の文雅は大に振ひ、藩老西村、和田、松井等諸士の 如きも一時皆吟誦を事とするに至つた。           吉田城陰幽居雜吟 (折二)   風撼寒條日影沈。古松老柏碧蕭森。一窓亢座消朝暮。多汝小禽傳好音。     《割書:      風寒條を撼して日影沈み。古松老柏碧蕭森たり。一窓かう座朝暮を消し。汝小禽の好音を伝ふるを多とす。| 》   陶杜詩篇韓李筆。各家箋釋亦何心。眼前不見滄桑事。爭解前賢用意深。     《割書:      陶杜の詩篇韓李の筆。各家の箋釋亦何の心ぞ。眼前滄桑の事を見ずんば。いかでか前賢用意の深きを解せん。| 》 翁追放せられて北遊の途に上るや、予め心に警戒する所あり、努めて他人と政論を上下せず。偶々栃木 の客舎に於て、三河刈谷藩の志士松本奎堂(謙三郎)に邂逅す、奎堂は翁が一に盃酒の間に放浪し詩書 にのみ遊ぶの態度を見て、憤然として席を蹴つて去つた。而も其栃木より翁は間もなく容疑者の一人と して江戸藩邸に拘され、吉田に送られたるも一奇である。奎堂は後に中山父子を擁して和州天の川に事                        二七                        二八 を挙げ之れに死し。遺稿は曩年刈谷町有志者の手に於て刊行せられたが、翁その校閲を託されて為した も一寄縁である。           六 任 官 及 致 仕 其後幕政は日に不振に陥り、井伊大老は水戸烈士のために萬延元年三月三日といふに、四十六歳を一期 に桜田門外の雪と散りたること、余りにも有名な史実である。依て幕政は老中安藤對馬守信正(奥州磐 城平城主)久世大和守廣周(下総国関宿城主)等代つて之れに当つた。信正(字は君脩、幼名鐵之進、 欽齊及蟠翠と号す、信由を父とし才気頴敏、武芸和歌絵画等に長じ、其母は吉田藩主松平伊豆守信明の 女である)幕議先づ桜田事変に考へ、喧嘩両成敗の故智に因り。水戸藩主徳川慶篤の登城を沮止すると 共に井伊直憲(直弼の子)を譴責し、それに従つて処置されたる藩主及其他の者二十余名に及んだ。 更に尾張越前土佐三藩主の謹慎(戊午大獄参照)を解き、倒幕党の気勢を緩和せんとし公武合体を高唱 した結果は、皇妹和の宮の降嫁と成つたが、時局は予期に反し、益々紛糾を加へ。安藤老中の要撃事件 を生み、島津久光の上奏と成り、次では大原勅使の東下、将軍家茂の上洛、生麦の英人殺傷、攘夷論の 熾烈、薩海の英艦砲撃、蛤門の変、長州藩の内訌より征長役、水戸齊昭の薨去、長州の仏国船砲撃、聯 合外国艦隊の下関砲撃、等々々々、前後幾多の問題、重畳たる波瀾は渤然としれ湧出したのである。斯 くて慶応二年冬徳川慶喜が将軍職を襲だが、天下の大勢は益々幕府のために不利と成り、倒瀾を回すの 術なく、翌三年十月十三日サシモ七百余年を経過した武臣の政権は、乃ち第十五代将軍慶喜に依り奉還 せられ、王政復古の大号令は四海に轟き渡つたのである。誠に幕府衰亡の跡を考ふれば、其内政の紊乱 より延ては士民遊惰に流れ、奢侈に耽り虚偽を重んじ、実力の減退、それに加ふる外国の刺撃、又其反 動としての皇漢学の復起と勤王主義の勃興とは蓋し、見逃すべからざるものあり。経世家の正に考ふべ き所である。 翁五十四歳に達し友人等の劃策其宜しきを得て、朝廷より特に摂政二條齊敬の名を以て命を藩主信古に 伝へ「古書取調」の一員としてその上洛を促し来つた。爰に於てか始めて全く幕府の覊軛を脱し、先づ 母を湖北高畑村の旧居に省し次で入洛した。二條家では其別邸をその仮寓に充て款【欵】待すること十ヶ月。 同志の山中法橋(名は獻、字は子文、靜逸又は信天翁と号す、三河碧海郡の人、齊藤拙堂門下で始め本 願寺に仕へ、維新の際徴されて辨事と成り、石巻県知事に任じた。辞官後京都嵐山天龍寺村に住し明治 十八年五月年六十三で逝いた)膳所藩の岩谷修(一六居士と号す)等と共に「救荒時宜」の取調を命ぜ られ、(実は他の機密にも参与したといふ説あり)精励能くその使命を果して帰藩した。藩主信古は直 に邸宅数百坪を与へ(今西八町南側七十九、八十番地の大松ある処)翁之れを「松聲幽居」と称し、一 時晏齊の号を用ゐた。(息正弘が双松の号を用ゐたも、此巨松と時習館趾(公会堂前)にある巨松とより 取つたと聞く)。此時尚ほ各藩は勤王佐幕の両党、その帰趨に惑ひ鏑を削ること一通りならず。顧みて 我吉田地方の状勢如何と見るに、要するに勤王主義を取つて動かざる人々多数を占めて居たが、尾三両                        二九                        三十 州を通じては相当紛糾が多かつた。殊に、尾張の如きは其大藩であり人才も少なからぬため従つて紛糾 したので、京都に在つた翁は「国事掛」の一員として先づ尾張藩に出張し。同藩の人心を帰一せしむる と共に、三河各藩の重臣に参集を求め。大義名分のある所を力説して、能く動揺なからしめたのであつ た。当時朝廷には国事掛の外に御用掛を設けられ、二つの掛の人々は毎日今の御前十一時より午後三時 まで御所に出仕し、互に隔意なき意見を書面にしたゝめて提出し(今いへば原案)協議を為し。若し意 見の纏らざる場合は、陛下親しく小御所へ出御あり、摂政より事の次第を聞し召して御親裁を賜ふた とは、畏れ多き極みであつた。 尾張藩は幸ひにして藩主徳川慶勝穎敏にして、重臣に人才乏しからず。能く時勢の趣向を解したゝめ其 名を全うし、三河各藩も、之れと略ぼ歩調を同くして王政の化に翼賛し、翁の使命はすべて達成した。 此年九月八日慶應は明治と改元し間もなく 天皇の江戸行幸は仰せ出され、二十日車駕京都を発し、其 二十九日駕を我吉田に駐めさせたまひた(十月三日江戸御着、十七日江戸を東京と改めらる)吉田行在 所は札木町中央北側(今の新道の処)の本陣中西與右衛門(清洲屋)方で。(二回目行幸の時は關尾町 悟眞寺)供奉頭は参与木戸孝允、其外土佐少将、加藤遠江守、因幡中将、池田丹後守、加藤出雲守、平 野内藏頭、薩摩少将、長門宰相、肥前少将、彦根中将、犬山成瀬隼人正等が供奉した。孝允は札木町菊 岡を旅館に充て、其夜直ちに使を翁の邸に派して招致し、宴を張り。先づ以て王政復古の目的の成就し たるを互に喜祝して盃を挙げ、孝允は主人の請に任せ筆を揮つて「天地如一家」といふ五字の額面を書 【左頁下段】             した。翁乃ち翌日孝允の推挙に依り行在             所に候し 陛下に拝謁し徴士を拝命した。             陛下此時御歳十七であらせられた。             徴士とは此年より明治二年六月迄の間、             諸藩及都鄙の別なく有為の才を朝廷に抜             擢し、参与若くは各局の判事辨事に任じ、             在職四ヶ年で其退職せしめがたき事情ある             者は、更に四ヶ年を延期した。徴士の下             に貢士あり、是れは大藩(四十万石以上)             より三名、中藩(十万石以上三十九万石             以下)よりは二名、小藩(一万石以上九             万石)より各一名を採用し、人選と期間             は藩の意向に一任し、貢士中の人才は徴             士に進むることを得たが。翁が徴士の拝             命を行在所に於て為されたは蓋し異数と             せられた所である。 【左頁上段の額の横書き部分】 天地如一家 【額の下に横書き】 木戸孝允書 【中段】  此匾五大字故内閣顧問木戸君  眞跡也戊辰歳翠華東幸君扈従  驛次舘于豐橋菊岡樓々主請君  書酒間連數紙欣然揮毫此五字  不適其意故欠欵印然其揮毫之  際余亦在座親視之固不容疑者  主人珍藏十九年于茲請余一言  因題 明治丙戌清和莭 湖山  小野愿時年七十有三。印【正方形枠に中に「印」】 《割書:   此扁の五大字は故内閣顧問木戸君|   の真跡なり。戊辰の歳翠華の東幸|   君扈従し、駅次豊橋菊岡楼に館す|   楼主君の書を請ひ、酒間数紙を連|   ねて欣然揮毫し。此五字は其意に|   適せず、故に款印を欠けり。然れ|   ども其揮毫の際は余も亦座にあり|   親しく之れを観、固より疑ふをゆ|   るさゞるもの、主人珍蔵すること|   茲に十九年余の一言を請ふ。因つ|   て題す。》 《割書:   (翁は七十三は明治十九年である、|   豊橋市福谷藤太郎氏所蔵)》                        三一                        三二 維新の際我が吉田藩から徴士と成つたは翁の外に中村庄助(後に清行と改む)がある。翁とは深交が有 つたが其事情を異にするので一筆する、清行の家は今の東八町練兵場入口(小遊園南)の東側にあり。 禄五十石の藩士で征東総督有栖川宮熾仁親王殿下が吉田へ二三日御駐泊あり、彼の錦の御旗が始めて東 海道に光つた時。藩から一隊が出され庄助がその主役で殿下に拝謁したが、其後江戸に至り殿下に仕へ 徴士として会計局(後の大蔵省)統計頭と成り、銀行の勃興するや当時主として華族の出資である第十 五国立銀行支配人と成り。後宮内省御用掛とも成り都下で逝た。殿下が我地に御駐泊に成た事情は、京 都より我地迄は無事であるが、今の静岡県下には相当佐幕党があり。且つ山岡鐵太郎が折衝のため静岡 に来て官軍の先鋒西郷隆盛を待つて居た、ソレコレの事情で御駐泊に成つたのであつた。 孝允が菊岡で揮毫した扁額は二枚で、其一は今猶同家に所蔵し、他は落款(松菊生)が入れてなく、夫 れには翁が確実なる由の小書をして今はしない萱町福谷藤太郎氏の有に帰してゐる。 翁が深く孝允の知遇を得た事につき少しく記さんに。維新の元勲三傑として木戸 西郷 大久保と歌はれ た孝允は長州藩に生れ、本姓和田小五郎、幼にして同藩桂家に養はれ、青年不覊であつたが敢然として 悔ひ改め、江戸に出でゝ苦学し。且つ一代の剣豪齋藤彌九郎の門に入り剣を学んだ。当時齋藤が開いて ゐた神田の錬武館の道場には吉田(豊橋)魚町出身で都下での五指に屈せられるゝ金子健四郎が塾長で あつた。健四郎は彌九郎と同じく杉山東七郎の門弟で、一時彌九郎の道場を受持つて居たのである、杉 山は神道無念流の達人で、健四郎はそれに就て学び、後又同流岡田十松にも学んだ。桂小五郎の孝允も 同じ彌九郎の道場に在つて、多数の修業生の中で十指の中に居た。翁は健四郎と同じ吉田で関係深い所 より、時々彌九郎の門を叩き、三人鼎座或は時に酒家の本色も発揮したであらう。俊才青年小五郎も亦 必ずや其席に陪し、三先輩から将来を嘱望せられてゐたことも想像に難くない。翁は文化十一年甲戌生 れ健四郎が十年癸酉で一才長じ、小五郎は天保五年甲午なるを以て翁よりも二十、健四郎よりは二十一 才若年である。其後水戸藩では小石川舟河原橋の所属道場百錬館に一名の師範を聘する必要を生じ。藤 田東湖と武田耕雲齋とが相謀つて、都下を物色した末。神道無念流の金子健四郎か北辰一刀流の千葉周 作かの内をと云ふ事に成り、健四郎の手腕実見の上で、百石扶持で水戸へ抱へたは二十六歳の時である。 是より先き翁は筆を載せて屡々水戸へ遊んだのみならず、藩主齊昭との間に密接な関係も有たらしい。 故に同じ吉田出身の志友健四郎の水戸採用に就いては、華【蕐】山も喜んで配慮したが、翁との間にも何らかの 相通ずるものがあつたといふ事である。健四郎と孝允、水戸と長州、翁と水戸及び孝允と云つた連環的 の因縁も亦興味が多いではないか。孝允は参与を止め始めての内閣顧問といふ役割に廻つたが、明治十 年四十四歳で惜くも病没したのであつた。爰に又一挿話は翁と孝允との似通つた点である。 《割書:(一)孝允が多く水戸藩氏に知己を有し長州は水戸と提携し、長の伊藤俊助(後の博文)等数名の有望青年を水戸に派して交誼を結んだ事|(二)孝允は少時父母を失ひ、而も亡親に至孝で朝夕其霊を拝すること十年一日の如かりし事。|(三)孝允は広く賢才を愛し人を容れ交際に恬淡で、人の刺を通ずるあれば自ら迎送などし又朋友に誼が厚かつたこと。|(四)風流韻事に親しみ松菊と号し詩書を能くした事等である。》 已に維新大業の成るや、一意皇権の安泰をのみ思ひ。薩州の大久保利通と謀り、一時不和であつた二藩 の提携を為し。又「幕府を倒した雄藩が、敢て我意を恣にせば、是れ暴を以て暴に代ゆるの誹を免れず。 国民をして寧ろ封建の旧時に如かずとの念を抱かしめんか。一に天皇の御徳に因り成し遂げたる新政の 大本は覆へされ、慨嘆に耐ゆべからず」と説き。又一面には当時公卿中には、天子が諸侯と会盟するが 如きは国体の許さゞる所なりと云ひ。此説も仲々有力であつたので、之を憂ひて公卿の間に遊説し広く 諸侯を加へ、国是方針を一定すべしとの事に奔走した急先鋒であり。遂に其議が採用せられたるは、是                        三三                        三四 れ五ヶ条御誓文の出た素因で。又我国立憲政体の基礎であつた。孝允は又早きに藩籍奉還の事を断行し て蝸牛角上の小紛を絶つべく期し。洋行より帰りて後は更に一層挙国一致の発達を望み。征台役の尚早 を唱えて職を去つた其心理は、所謂藩閥専政を主張し、一意徳川系統を斥けて有頂天なる輩とは、自ら 異つた頭脳の持主であり。翁の如き亦その親み深かつた一人であらう。又翁が二條家にありて国事掛を 命ぜられた際、同じ国事掛には長州系の人多く、従つて翁は孝允と一再ならず接近したと思はるゝ点あ り。翁官を辞し母を省し、直に京都に在つた孝允を訪ふたが郷里に去つて会はず。後年翁の刊行した 「詩屏風」に左の一詩が載せられてゐる、此詩の如きも亦孝允の心理の一端が窺はれる。           大政一新之歳有感        松  菊   變遷恰似黄梅莭。半日晴陰不可知。七百年来時稍到。危疑又恐誤機宜。 《割書:      変遷は恰も黄梅の節に似たり。半日晴陰知る可らず。七百年来時やゝ到り。危疑又機宜を誤るを恐る。》 翁車駕に遅るゝこと三日、江戸城に至り、更に総裁局権辨事に任ぜられた、時に五十五歳である。此時 明治新政の中央政府は、始め太政官に七科を定め、各科に総督を置き庶政を分掌せしめたが。間もなく 七科を改めて八局とし(総裁、神祇、内国、外国、軍防、会計、刑法、制度)が設けられ。辨事は皆総 裁局に属し、参与の公卿及徴士中より任じ、宮中及内外の庶事を処理し。正は勅任、権は奏任で、翁は 今の奏任一等で、記録局主任と成つた。 偖又た事の序を以て剣豪健四郎の事を少し書かんに、金子健四郎/徳褒(ノリアツ)(豐水と号す)初名武四郎で吉田 魚町の魚商金子平五郎の二男に生れ、渡邊蕐山門人として画を学び、最も竹を描くに巧であつた。兼て 武芸を好み、蕐山は田原藩の剣術が従来直心流といふ型剣術で、一朝有事の暁に当り実用に適せずとの 見地から、藩士の柔弱に傾かんことを憂ひ。江戸の剣豪杉山東七郎、齋藤彌九郎等と相謀り、神道無念 流を自藩に入れんため健四郎を江戸に送り、一意剣を学ばしめた。其後健四郎が水戸へ抱へられた時の 藤田東湖の身元調査書を見るに 《割書:   金子武四郎廿六歳、右先祖は武家より医師に相成、其後三州吉田魚町に住居致居候。父は平五郎高|   政と申者にて、当六ヶ年以前相果、当時兄徳三郎と申者世話致候。武四郎幼少より武芸を好み、杉|   山東七郎へ随身諸国流浪、武を以て身を立る存念、吉田表人別相除候云々》 とあり、兄徳三郎は魚屋であるが、健四郎は変り者であつた。身の丈け五尺七寸、体重二十三四貫もあ りといつた偉丈夫で、田原にゐた頃これも長身の蕐山と共に豊橋に来れば、何れも人目を惹た、其妻幸 は水戸藩士安藤酒造之輔信明の子(彦之進信順の妹)で、藩主齊昭の殿中に仕へてゐた。彦之進は弘道 館武場掛であるが、武田耕雲齋の挙に与して脱藩の一人と成り。事敗れて敦賀で斬られ、安藤家は健四 郎の末子五郎三郎徳明が継で長州(周防)の人と成り。五郎三郎の長子は現に大阪に住し、其子徳噐は 広島陸軍幼年学校を出て一時軍人と成たが、志を転じて京都帝大文学部史学科に入り、現に国史の研究 中である。豊橋魚町の金子家は其後も久しく魚商であつたが、今は綿蒲団類を営業し、現代米三郎は養 嗣子で先代迄矢張り平五郎といひ、妻女は若干健四郎の廻縁者で、同家には健四郎の揮毫や門人名記や 其他数点の遺物が蔵されてある。                        三五                        三六 《割書:渡邊蕐山が慎機論を書て江戸で入牢し。其家宅捜索の際に幸ひ牢頭中島嘉右衛門は蕐山の画友高久靄涯の門人であつたので。私かに人を|以て予報した。依て書生の健四郎と山本琴谷が書類の始末最中へ嘉右衛門が乗込み、余り室内が混乱してゐるので、何か隠匿せざるかと|詰つた。健四郎答て自分は画を習ふ外何事も存ぜぬ、幸ひ揮毫を御覧に入れようと、全紙に竹を見事に描て見せ其場で嘉右衛門に贈り、|嘉右衛門は感心して持帰つた。後年健四郎が水戸藩剣道師範と成り、靄涯同伴で嘉右衛門を訪ひ、懐旧談に花を咲せたと云ふ。水戸では|耕雲齋が弘道館を監督し、藤田東湖、會澤正志諸藩老と共に、彌九郎の道場へも常に出入し、後年同藩の内訌に当り、齊昭擁護、慶喜擁立|などに彌九郎が健四郎と共に陰然尽した事も尠くなかつた。》 健四郎は水戸藩の道場である小石川舟河原橋 百錬館(後年砲兵工廠所在地)で教授し。耕雲齋の世話 に成た為め、武田を憚りて武四郎の武の字を健と改めた。道場の壁書(規則)七ヶ条は東湖の筆で、堂 々たるものであつた。当時都下では鏡心流の桃井春蔵、北辰一刀流の千葉周作、神道無念流の斎藤彌九 郎が鼎足の門戸を張り。彌九郎の次子勤之助は鬼勤と呼ばれたが、夫れを健四郎が小五郎(孝允)と謀          つて長州藩の明倫館へ師範にやり。小五郎は勤之助と五分々々に使つた腕で有た。          蕐山が幽居中より田原の江戸詰用人眞木定前へ送た書状中に「金子此機に乗じ、水          藩へ御世話被下候へば何とも申分無之、後来稽古のため御差留被成候事は、御手ご          ゝろ次第に可有之候」とあり、健四郎が愈よ水戸に抱られたを聞き喜んで「金子武          四郎水戸御抱に相成候者、伝より申来、依之吉田(豊橋)與兵衛、平五郎へも案内申          遣候」と書てゐる、去れば蕐山の一身幕府の疑惑愈々繁く成るや、健四郎は椿山、          半香等と共に、百方赦免の嘆願に尽し、蕐山も私かに感泣したと云ふ。或日蕐山は 健四郎と小酌した時、筆を走せて扁額を書し贈つたが、夫れは上記の如く「人に勝つ者は先づ己れに克 て――丁酉春日金子氏と小酌の余、之れを書す、登」で、丁酉は天保九年で蕐山四十五歳、健四郎が二 十六歳の時である。此額は現今豊橋市魚町佐藤善六氏所蔵に帰してゐる。 江戸町奉行池田播磨守の配下与力として働く、伊庭軍兵衛及び水戸藩士生方虎之助は、共に能く北辰一 刀流を使つたが、健四郎が水戸へ抱へられた際。藩主の前で晴の立合に惨敗したる上。健四郎は勤王、 二人は佐幕党といつた意見を異にし。殊更遺恨を含み。安政二年元旦健四郎が忠僕覺次郎を伴ひ、蕐山 の門人福田半香の許へ年賀に赴き、年酒の席で虎之助の父である幕府の祐筆生方貞齋と碁を囲み、健四 郎が勝つたのが因で、貞齋に散々侮辱せられ。能く忍耐し一笑に附して立去たが、忠僕覺次郎が義憤 の余り、道に擁して貞齋を斬たがため、健四郎も半香も召捕られた。かくて覺次郎は東海道藤沢の足袋 商三州屋といふ知るべに身を寄せて居たを、健四郎の門下で後ち桜田事件の烈士である關鐵之助、蓮田 市五郎、佐野竹之助らが捜し出し。自首せしめたので、奉行所では直に健四郎も半香も放免すべき筈だ のに然らずして、三日目に覚次郎が急死したのは、正に健四郎を罪に陥いれんず奸徒の策で、毒殺した らしくあつた。爰に於て耕雲齋、橋本左内、等は健四郎を救はんために動き。藩主齊昭も書を幕府に送 り藤田東湖は阿部老中(伊勢守)を訪て赦免を乞ふなどの事があつた。偶々安政の大地震で江戸の町が 大混乱に陥入つた機に乗じ。健四郎は姿を晦まして了つて、表面は水戸を永のお暇に成り。侠客新門辰 五郎なぞの庇護を得て、東海中山両道の間に暫らく隠顕して居たが。京都にいたり一時阿部侍従(伊勢 守)に庇護された事がある。水戸烈士として井伊大老を桜田門外に要撃した者は、大抵健四郎の門人で あつたから、其事件にも健四郎は黒幕と成り、何かと応援したと云ふ説がある。烈士の一人蓮田市五郎 【右頁扁額】 勝人者 先克己 《割書:丁酉春日與|金子氏小酌|之餘書之|   登 印【正方形枠の中に「印」の文字】》                        三七                        三八 の如きは十七歳で初段の腕があつたが、貧乏で道場へも通へなかつたを、健四郎が義侠心で無月謝で教 授し名人に仕立た。 《割書:井伊大老殺され、次に来たのが、安藤閣老の坂下門外要撃で、此挙には下野の河野顯三、越後の川本杜太郎が主だけれども、水戸浪士と|して平山平介以下五名あり。悉く是亦健四郎の門人である。其一人の内田萬之介が時間に遅れた為め、桂小五郎(木戸)を桜田の長州藩|邸に訪ひ、自刃して果てたといふ挿話なぞも、伊藤博文の懐旧談の一節にあり。其後健四郎は有賀平彌、岡見次郎等と共に高輪東禅寺の|英国公使アルコツクの帰途を襲つた事もある。勤王の志士続々京都に集まるに及んで、健四郎は薩州邸に入り、西郷吉之助(隆盛)のた|めにも援助せられたとの事である。又長州の世■をして水戸藩主に代り、攘夷党の牛耳を取らしめんとした一派の運動にも参加したと伝|へらるゝが。惜い哉元治元年四月、年五十で京都に客死した。》 若し彼をして尚ほ十余年の寿を保たしめたならば。亦是れ我が東三に、痛快なる一士人の噂を留めたで あらう。話は大へん岐路に亘つたが翁の健四郎と意気投じ、親しかつたことは、文武両道の差こそあれ 決して偶然に非ず。されば翁が福山侍従を経て朝廷に書を奉つたといふ事にも、其間に健四郎の介在し た様子がある。 翁徴士として江戸に召さるゝや、其前後の詩作は少くないが、今その数首を左に録す。           恭讀十二月七日詔   唐室中興韓子筆。淮西勲業號無雙。聖皇宸斷眞神武。剿賊功成不殺降。」 《割書:      (訳文は巻頭写真に添へあり)| 》           戊辰十月朔恭拝東幸儀仗 鸞輿遠度幾山川。文武衣冠儀燦然。北狩南巡徴古史。未聞盛典似今年。」 《割書:      鸞輿遠く幾山川をわたり。文武の衣冠儀燦然。北狩南巡古史を徴し。未だ盛典の今年に似たるを聞かず。| 》 二十八字能く前人の詩史に愧ぢず。           蒙 徴將赴東京有作   幾歳棲遲臥敝盧。忽驚檐際鶴銜書。稍聞寰海妖氛滅。便覺寒林和氣舒。節後菊猶凝色處。   至前梅已放香初。出門一笑別兒輩。敢借恩輝誇里閭。」 《割書:      幾歳か棲遅敝盧に臥す。忽ち驚く檐際に鶴の書をふくむを。稍寰海妖氛の滅するを聞き。便ち寒林和気の舒るを覚ゆ。節後|      菊猶ほ色を凝らす処。至前梅已に香放つ初め。門を出でゝ一笑兒輩に別れ。敢て恩輝を借て里閭に誇る。》 翁時に五十五歳、半生の事跡了りて新生面を開かんとす。後聯の妙、等閑に読み難し。           凾    嶺   錦斾揚々照薜蘿。群靈掃路百神呵。翠華不用六龍駕。如此關山容易過。」 《割書:      錦はい揚々へき蘿を照し。群霊路を掃ふて百神呵す。翠華六龍の駕を用ゐず。此の如き関山容易にすぐ。| 》           明治二年元旦朝東京城 (折一?)   眼看祥光耀大瀛。嵩呼華祝頌昇平。政權復古三千載。征討宣威十萬兵。恩賜盃深増喜色。   陽和氣暢足歡聲。迎鸞有日知非遠。到底新京勝旧京。」 《割書:      眼に祥光の大瀛に輝くを看。嵩呼華祝昇平を頌す。政権古に復す三千載。征討威を宣ぶ十万兵。恩賜盃深くして喜色を増し。|      陽和気暢て歓声足る。迎鸞日あり遠きに非ざるを知り。到底新京は旧京にまさる。》 此詩七八の二句は、鳳輦再び東京に幸し、遂に千秋の台を奠め給ひしを指たのである。 当詩都下に集まつた上下の有志は、創始の事業に鋭意なるを以て。翁は記録局主任たる外、要路に対し                        三九                        四十 種々の意見を述た。又廟堂の諸高官が、多く西国出身で関東の事情に通せず。依てそれに精通した翁に 就き、諮詢すること最も繁く、斯くと知りて翁に拠り、推挙せられた人物少なくなかつたが。翁は又意 外なる、反抗にも遭遇した事が多かつた。翁の要路に向つて述た意見中には、徳川氏の政治と雖も、取 るべきものは須らく取り用ゆべし。必ずしも一概に排すべからずと云ひ。又国家学事の一日も忽諸に附 すべからざるを思ひ、上野東台へ速かに、大学校を起すべしとの建議、其他幾多の意見を開陳したが。 用ゐられなかつた。           七 孝 養 隠 退 此時湖北にある母堂、已に八旬の老齢に達し。翁の立身出世を喜ぶこと深からざるに非ざるも、実は既 往の遭厄に懲り。私かに憂慮を増すこと一通りならず。頻に病を称し、翁の帰去来を促して止まず。翁 止むを得ず帰郷の意を決し、骸骨を乞ひ。二年二月遂に允許を得たので、即日帰郷の途に上つた。吁在 官僅かに三ヶ月余。時に翁五十六歳である。           二 月 十 二 日 紀 恩   幾回回首出城門。不覺衣襟點涙痕。歸去只期圖報効。賜還恩勝特徴恩。」 《割書:      幾回か首を回して城門を出で。衣襟の涙痕を点ずるを覚ず。帰去只だ報効を図らんことを期し。還るを賜ふ恩は特徴の恩|にまさる。》 大沼枕山は送別の詩に   見機為隠是常事。得意辭榮獨此翁。 《割書:      機を見て隠を為すは是れ常時。得意栄を辞するは獨り此翁》 と云つた一句あり。翁又帰省して           帰    家 (折一)   名在朝班僅十旬。鶯花風暖故鄕春。老親喜我歸來早。談笑如忘病在身。」 《割書:      名朝班にあること僅に十旬。鶯花風暖なり故鄕の春。老親我が帰来の早さを喜び。談笑病の身にあるを忘るゝが如し。》 忠臣は必ず孝。孝子は必ず忠なりの慨あり。翁の友人碩学中村敬宇(正直)は後年「湖山近稿」の序 に於て翁の談片を引き「世遂に詩人を以て我を目す、我豈巳を得んや、先生の言此の如し。余を以て之 を観れば、先生は学に根柢あり、師友に乏しからず、志し経済に存し、多く実効を見たり。獨り其大用 を得ざるを憾むなり」と云ひ。大口蓊山氏著豊橋市史談の一節には此文を引用し。翁辞官の事に及び 「翁が敬宇の序文を自ら其詩集に載せたるは、翁乃ち其意を首肯したるものと見るを得んや、」といつた意 味の一言あるは、筆者亦その着眼に同感を禁じ得ないものがある。是より先き大沼枕山が翁の任官を賀 した詩の句中に   文章於道寧無補。經濟逢時乃有成。退伏幾年甘驥櫪。飛騰今日就鵬程。」 《割書:     文章道に於て寧ぞ補ひ無らんや。経済時に逢て乃ち成すあり。退伏幾年驥れきに甘んじ。。飛騰今日鵬程に就く。》                         四一                        四二 があり。翁が前章の如く徴士と成り、権辨事と成た時。我が東海地方で参与に抜擢せられたは、尾張 藩に田中國三(後の不二麿)田宮如雲、大垣藩老小原仁兵衛(鐵心)等あり。其他奏任官としての若干 は有たが、ヨリ上位の多数は九州四国で占め、僅かに中国地方人あるのみ、薩の西郷(隆盛)大久保(利 通)岩下(方平)長の木戸(孝允)廣澤(兵助)井上(馨)揖取(素彦)土の 後藤(象二郎)福岡(孝悌)板 垣(退助)を筆頭に、大藩に多く、小藩に少なかつたのみならず、徳川に因縁深く、徳川系地方より出 た者は、(関ヶ原以来のイキサツもあるか?)西国系より大に睨まれ、自然平らかならぬ気分の有た事 は否めず。夫に対して翁の大志あり、抱負の尋常で無かつた事も、一の対照として見るべきであらう。 併し一面翁が孝心の非凡に厚く、母堂を懐ふ念の尋常でなかつたことは所在に現はれ、年少故郷を去り 中興国事に携はりつゝも、其忙しき日月を割き、屡々母姉を郷里に省し。母亡き後も七十歳位迄は殆ん ど年々展墓の礼を欠かず。六十七歳の時の帰展日記によれば「帰路三島にて竹輿を買はんとして得ず、 草鞋を着け嶮路(函嶺)を攀ぢ老脚を試み未だ甚だ遅々たらず、兒源(二男横山源太郎)大に喜ぶ」な どの一節あり。以て如何に翁が親に仕ふる念の深かつたかゞ窺はれる。壮年の詩に           丙 午 元 旦   柳金梅玉又新春。寧説覊栖單且貧。手把屠蘇林下立。一杯遥獻北堂親。」 《割書:      柳金梅玉又新春。なんぞ覊栖の単且つ貧なるを説かんや。手に屠蘇を把て林下に立ち。一杯遥に北堂の親に献ず。》 翁獨り母堂のみならず、長姉波満子を懐ふ心も亦一通りでなかつた。   吾親雖歿有吾姉。吾姉恩同吾母恩。」 《割書:      吾親なしと雖も吾姉あり。吾姉の恩は吾母の恩に同じ。》 翁八十三歳(明治二十九年三月)姉波満子八十八歳に達し。翁自らは其高寿を賀しての祝筵を一回も開 かしめ無かつたが。姉のためには米寿杯(木製朱ぬり直径二寸余)を製し、自ら金泥で米壽の二字及び 号を書し、親戚友人知己等へ贈り家姉を喜ばせた。 藤森弘庵は早きに翁の詩集に序して「其得る所を以て後進に授け、以て衣食に貧し、苟くも余裕あれば 則ち必ず千里齎らし帰りて北堂の献と為す、此の若きもの数々なり。余恒に其為す所を以て、人の子の 情に厚き者と為すなり」と云ひ。又翁の辞官に関して三島中洲は「予僻陬に在り、翁が皇政一新に際し 位を得て志を行ふべきに、何の不平ありてか、早きに辨官せしやを疑ひ。既にして上京し屡々翁と往来 し、翁の詩稿を読み、上は皇猷の休美を賛頌し、下は風俗の開明を記述し。皥々凞々太平の気象を表章 【左頁中央の詩幅】 狂■【髠?】恣威福幽君古殿 中 我愛源三位勤王首 唱功《割書:源三位》 八十六齢湖山叟 【角印 角印】 【詩幅の下】 《割書:狂こん威福を恣にし。君を幽す古殿の中。我|は愛す源三位。勤王首唱の功。」源三位。八|十六齢湖山叟………源三位頼政は豊橋藩祖で|城東の豊城神社は夫れを祀り。松平伊豆守信|綱が合祀せられてゐる。(豊川閣所蔵)》                        四三                        四四 せざるはなく、之れ一部中興の頌と謂ふも可なるを知り。翁の辞官の意は、中興の業既に成り、儕々た 【右頁上段】 る多士其守成の才に乏から  ざるを以て。超然退隠する の勝れるに如かずとせしも のならん」と云た。 一旦帰郷孝養の心を表した 翁も、母堂の病気漸次快復 に向ひ、翁の永く山陬閑村 に在るを許さず。藩籍奉還 の制布かれて明治二年各藩 主を改め潘知事に任ずる や、藩士中より大少権の三 参事を任用し、地方政務に 当らしむる事と成り、翁亦 藩主信古の召に依り吉田藩 【右頁下段】 権少参事に任ぜられた。何がさて明治新政府の権辨事 に任ぜられながら惜気なく其地位を去り。更に再び一 藩の権少参事に就職した事の如き。尋常一様の思想な らば、兎角の体面論なぞもせらるべきであるが。予て より藩地の教育に深く留意し。藩主の知遇に感じつゝ あつた翁は、快然一諾信認に応ふべく、急遽藩地へ帰 り。更に藩校時習館の学事を督し。鋭意学制を改め、 文武の道を激励し、新たに寄宿舎の制を設け、教育の 面目を一新せんと期した。惜むべし事業未だ其緒に就 かざるに四年廃藩置県の発令と成り。従つて時習館も 其業を休止するに至つた。此時吉田悟眞寺内に設けて あつた三河裁判所が三河県と改称せられ。其監督下に 寶飯郡国府町へ修道館なる皇漢学校が開かれ、翁其の 学頭に任ぜられ。自らは漢学部を擔任し、友人羽田村 【右頁下段の続き】 (今花田)神職羽田野敬雄(後佐可喜)を起して皇学部を擔任せしめ、相携へて地方教育のため尽瘁し たが。是亦僅かの時日で廃止せられた。翁が前後を通じ我が時習館の学事に携はつた当時、俊才は可な り多く、我藩の学事は振つた。敬雄も当時自邸に「誦習学舎」といふを建て、翁之を応援して教育のた めに尽さんとしたが、一般の学制が変つたので、挙て幡太学校へ譲つた。誦習学舎の木額は翁の揮毫で 今も花田尋常小学校に保存せられ、掲げられあるのが思出深し。当時我が地方は東西来往の学者志士等 の翁を訪ふ者多かつたが、敬雄の邸をも矢張り訪ふ者多く。共に其名を知られ共に欵待した。 【左頁下段】 明治元年車駕の東幸に当り朝廷よ り沿道各藩主へ命あり。高齢者、 孝子、節婦、義僕等を表彰せられ 吉田領内で合計三十六人夫れに与 かつたが。それに先立ち翁は敬雄 及び佐野蓬宇等と謀り、吉田附近 の孝子六人を敬雄の邸に招じ、藩 主信古が臨席饗応し褒美をあたへ 【左頁下段の続き】 た。其一人の今新町(今の西新町)牧野與之助(六十四)は、老母たつ(八十七)に孝養厚く。藩主よ り褒美に米五俵及び一代一人扶持を賜はり面目を施した。同人は素人画を能くし、藩主の面前で喜びの 余り、半截紙に鯛と笹葉の画を揮毫し。翁その上に左の一詩を賛した。 【右頁中段の横書きの木額】 誦習学舎 【額の外、左側】 明治五年五月   湖山学人 【額の外、下側。横書き】 豊橋市花田尋常小学校所蔵  (木 額) 【左頁中央上部、笹に鯛の画と賛。翻刻は次頁に有り】 翁賛孝子與之助筆 【画の外、下側。横書き】(豊橋 佐藤前六氏所蔵)                               四五                         四六   巧拙不須論。珍重孝子筆。古人作人帖。其意今可述。」 《割書:      巧拙は論ずるをもちゐず。珍重す孝子の筆。古人人帖を作る。其意今したがふべし。》 與之助は性温順で、人を敬ひ物を愛し、其言語動作は有道の士人と雖も及ばざるものあり。自身は襤褸 を纒ふも、父母の衣食に不足を感ぜしめず。和気常に家に満ち、見る者感心せぬは無かつた。同人の孫 を重作といひ、現に渥美郡二川町の岩屋山下に商ひをしてゐる。同時に賞せられたるは瓦町現市会議員 丸地清次氏の祖父丸地紋次郎及妻ちゑ長男勇作三人が、和合一致して母りのに能く仕へ米三俵を。船町 中村しきは六歳で母を喪ひ継母に育てられ、父も尋で死し、妙齢で聟を迎へたが、夫れでは十分に孝行 が出来ぬと云て聟と別れて、継母を大切にした廉で金二千疋(五両)を。呉服町の提灯屋安藤吉太郎は 同胞の二女しう、三男利兵衛、四女けい、五男太兵、六男治吉、七男末吉の七人極めて和合して父母に 孝養した廉で、是亦二千疋を賜はつた。吉太郎は長貴と号し蓬宇門下で俳句を嗜み、三男利兵衛も樗心 と号し同様嗜んだ、渥美郡二連木(今市内)農五郎七の娘ませは年少で父を喪ひ、附近某家に奉公し盲 目の母を能く孝養し極貧の状を母に知らせず、日夜慰め満足せしめた廉で是も二千疋を。又渥美郡小池 村(今市外)勘左衛門の妻みきは、其夫夙く死し三人の子と病中の姑とをかゝへ、姑が短気で困りたる も能く孝養し、郷人を感動せしめた廉で米二俵を賜はつた。 敬雄(佐可喜)の伝は豊橋市教育会より大正十四年十月刊行せられ、遺墨展覧会を高等小学校に開いた。 既にして藩主信古は廃藩置県と共に華族に列せられ、東京谷中清水町の藩邸に移住し。翁それを送り共 に東上し邸内に寄寓した。   遠携兒輩入京華。寓舎迎春笑語譁。憶得蒼山詩句好。不成孤客不成家。」 《割書:      遠く兒輩を携て京華に入り。寓舎春を迎て笑話かまびすし。蒼山詩句の好きを憶ひ得たり。孤客と成らず家を成さず。》   不須江上着漁簑。不用山中鎖薜蘿。老卜閑居何處好。東京城裏故人多。」 《割書:      江上漁簑をつくるをもちゐず。山中へき蘿に鎖すを用ゐず。老て閑居を卜する何れの処か好き。東京城裏故人多し。》 爾後截然として復再び出仕せず。詩酒風流の間に逍遥し。旧藩主信古は、翁を其賓師として欵待した。 四年八月十七日湖北の母堂八十五歳を以て歿し、(当時翁五十八歳)、越て五年壬申二月に豊橋の邸を息 正弘に伝へ、翁本籍を東京に移した。あゝ大隠は市に隠るとは夫れ翁の謂か。此年正弘(二十二歳)仕 官して左印掌記と成り、翁詩あり。           誌    喜   兒年纔過冠。名籍列朝官。天恩如許大。莫忘報酬難。」 《割書:      兒年わづかに冠を過ぎ。名籍朝官に列す。天恩許の如く大なり。報酬の難きを忘るなかれ。》 斯くて全家は豊橋より東京に移り。翁翌六年上野山下不忍池畔に一邸を搆へ。「湖山小隠」と称し、日 夕吟哦に懐を遣り、詩名益々内外に高まつた。           不忍池畔新居十二首 (折二)   起臥煙光水色間。小樓恰好匾湖山。蓮塘欲繼梁翁集。也是吾家消暑灣。」 《割書:      起臥す煙光水色の間。小楼恰も好し湖山とへんするに。蓮塘梁翁の集を継んと欲す。また是れ吾家の消暑湾。》 梁翁は師梁川星巖である、星巖嘗て此処に寓して詩社を結び、翁それを継いだのである。   殊色高情自有眞。偶然相見便相親。幽篁翠柏非其匹。到底荷花是可人。」 《割書:      殊色高情おのづから真あり。偶然相見て便はち相親む。幽篁翠柏は其匹に非ず。到底荷花は是れ可人。》                       四七                        四八 山谷の詩に「軟鷗白鷺皆吾友。幽篁翠柏是可人」がある。宋の周茂叔は蓮を花の君子といつたが。翁は 之を可人とやつてのけた。荷の字の冠を省けば可人と成る。文字と句搆と共に巧妙と云ふべし。此詩十 二首満都の詩家和韻多く。後「蓮塘唱和集」が刊行せられた。翁六十一歳の還暦に達して。   吾生之歳在甲戌。今歳重逢甲戌春。雖然老矣不須嘆。百歳壽猶餘四句。」 《割書:      吾生の歳甲戌にあり。今歳重て甲戌の春にあふ。然く老ゆと雖も嘆ずるをもちゐず。百歳の寿は猶ほ四旬を余す。》 百歳の寿猶四旬を余すと倣語した翁は、正に九十七齢に及んだので倣語でも無し。           池塘栽花四首 (折一)  酒旆招々夕照斜。此  生随處弄春華。種花  只種路傍地。不要風  光屬一家。」 《割書:    酒はい招々夕照斜な|    り。此生随処春華を弄|    す。花を種ゆ只路傍の|    地に種え。風光の一家|    に属するを要せず。》 花を種ゆる只だ路傍に うゑ。風光の一家に属 するを要せず。娯楽を衆と共にせんとする博愛心の閃きが見ゆる。 【右頁、小華筆翁六十六歳肖像画】 小華 諧 【丸印】 【横書き】 湖山先生六十六歳肖像 【画の外、右側下】 (渡邊小華筆) 【画の下】   己夘新年六首 (折一) 六十又添六。今吾非故吾。 吟情歸冷淡。春夢入虚無。 挂壁祖先筆。附兒朝賀圖。 梅花眞我友。風骨自清癯。」 《割書:  六十又六をそへ。今吾は故吾に|  非ず。吟情冷淡に帰し。春夢虚|  無に入る壁ないかく祖先の筆。|  兒に附す朝賀の図。梅花は真に|  我友。風骨おのづからせいく。》           八 恩 賜 叙 位 翁曽て山中弘庸(香村と号す)の嘱に応じ、山本琴谷が描く所の「窮民図鑑」なるものを見て、深く感 ずる所あり。其図は十二枚で飢荒窮民の悲惨極まる状態を、巧みに写し出したるものである。乃ち其 項目を記せば 《割書: (一)霖雨田疇渺として大湖の如し (二)麦実化して蝶と成る (三)旱魃に苦しみ雨を祈る (四)大風禾稼を傷す (五)蝗を駆る| (六)洪水の暴漲 (七)流民食を乞ふ (八)草根を堀り樹皮を剥ぐ(九)盗賊群を為す (十)餓者相尋ぎ食と為す (十一)病苦凍餒其惨|   を極む (十二)穀粟を施し究困を賑はす」》 之に対して翁則ち毎図に一長詩を賦し、題して「鄭絵余意」と云ひ、一巻として刊行した。其三首を掲 げんに。           第九図  盗 賊 成 群   小盗事穿窬。大盜事強奪。暴横欺孤寡。抄掠恣桀黠。汝輩亦人耳。稟性何險猾。纍々就拘囚。後先   係刑辟。我思罔民語。緣由殆難説。盜祿私妻子。恣權禍家國。滔々天下是。誰能行其罰。」 《割書:      小盗は穿ゆ事とし。大盜は強奪を事とす。暴横孤寡を欺き。抄掠桀黠を恣にす。彼輩も亦人のみ。稟性何ぞ険猾なる。る|      い〳〵として拘囚に就き。後先して刑辟に係る。我れ罔民の語を思ひ。縁由殆ど説き難し。禄を盗んで妻子を私し。権を恣|      にして家国に禍す。滔々天下是れなり。誰か能く其罰を行わんや。》 末句の数字何等の痛快ぞや、時人三誦を要す。           第十図  餓 者 相 奪 為 食   人生食爲命。無食斯無人。宜哉先王政。食在喪祭先。後世重貨財。視食如輕然。不重奪農時。不難   廢民田。一旦逢凶荒。餓者紛成群。攘臂相奪食。聲厲色怒瞋。已無隣里好。豈知弟兄親。痛哉萬物                        四九                        五十   靈。不及鳥與鷺。」 《割書:      人生は食を命と為す。食無ればこゝに人なし。宜なる哉先王の政。食は喪祭の先に在り。後世貨財を重んじ。食を視ること|      軽き如く然り。農時を奪ふことを重しとせず。民田を廃することを難しとせず。一旦凶荒に逢ば。餓者粉として群を成す。臂|      をはらひて相奪食し。声厲み色怒しんす。已隣里の好無し。豈弟兄の親みを知らんや。痛ましい哉万物の霊。烏と鷺とに|      及ばず。》           第十一図  病 苦 凍 餒 極 其 惨   手脚瘦如柴。顔面垢如土。有病不得藥。無家何處歸。叩門索餕餘。挽袂訴困苦。唇焦而口燥。所得   果幾許。安知惰農徒。化爲飢寒旅。或恐脧削餘。子父失其所。一飽終無期。在世亦何補。似聞鬼啾   喞。自覺神凄楚。不見互市場。酒肉飽黠賈。」 《割書:      手脚痩て柴の如く。顔血あかつきて土の如し。病ありて薬を得ず。家なく何の処にか帰らん。門を叩てしゅん余をもとめ。|      袂をひきて困苦を訴ふ。唇うるほひ尽て口かわき。得る所果していくばくぞ。いづくんぞ知らんだ農の徒。化して飢寒の旅|      と為る。或は恐るしゆん削の余。子父その所を失はんを。一飽ついに期なく。世に在るも亦何の補ぞ。鬼のしゆう喞するを|      聞くに似て。おのづから神の凄楚たるを覚ゆ。見ずや互市場。酒肉黠賈を飽かすを。》 一結妙にして諷意多し。其他毎首能く下民の難苦を写し。真に有韻の一大政策である「政の本は民を養 ふに在り」の本領を叙し、昭和の今日と雖も宜しく箴銘とする価値あり。此書刊行に当り、三條實美宰 相は題字に「視民如傷(民を視ること傷の如し)」と書した。明治八年、翁之を 明治天皇陛下に献じた るに。其十六年七月九日、時の内閣書記官たる息正弘を宮中に召され、御硯一面及京絹一疋を賜ふた。 御硯は長さ一尺余、濶【闊】さ七寸、厚さ之に合ひ。清人鄧石如の銘ある見事なる端渓石である。翁感泣の余 詩を賦し特恩を謝した。   紫石瑛々異彩浮。餘輝照映古牀頭。只言林下世榮薄。豈料天邊恩露優。靜壽之稱非一日。貞堅其質   自千秋。從今藝苑添佳話。野老新營賜研樓。」 《割書:      紫石瑛々異彩浮び。余輝照り映ず古床のうへ。只林下世栄薄しと言ふ。豈料らんや天辺恩露優る。静寿の称一日に非ず。貞|      堅その質おのづから千秋。今より芸苑佳話を添え。野老新に営む賜研楼。》 翁乃ち一屋を設け「賜研楼」と称し、又「御賜端研」と彫刻した一印を作らしめて用ゐた。此盛事四方 に喧伝せられ和韻の賀詩を寄せ来る者多数に及び「賜研楼詩集」が刊行せられた。翁の親友元老院議官 福羽美靜は和歌をよせた。     君よ君ふかき誠もあらはれて        すゝりの海のけふのたまもの 明治大帝より端研を賜はつた者は、翁の外に伊豫宇和島の旧藩主伊達宗城が一人ある。宗城も亦有名な 勤王家で博学長寿にして、詩を能くし、翁と深交があつた。 翁は斯の如き特恩に与かつたのみならず。東都より一旦京洛に移り、三度京都に帰りて巣鴨妙義坂に居 を搆へたる後、明治三十三年二月その八十七歳の時、感冒より肺尖を起し、大患にかゝり。医学博士佐 藤進の治療を受け、十余日にして又癒たが。一時危篤の趣 宸聴に達するや、同月二十五日特旨を以て 従五位に叙せられた。古来我国詩人にして生前叙位の恩命に接した者は稀である。時々刊行せる翁の詩 集は 明治大帝天覧の栄に浴し。長寿の故を以て銀盃を賜はり。濱離宮に於て始て天覧相撲のあつた際 は特に陪覧を許されて詩を賦し。其他の盛事にも屡々陪観を許された。高官上位の人々にして翁の吟社 に加はり。詩作の刪評を乞ひたるは頗る多く。有栖川熾仁親王殿下(霞堂)三條實美宰相(梨堂)は共                        五一 に時々其邸に招聘せられ且つ詩集の題字を揮毫せられ、岩倉(右大臣)土方(区内大臣)山田顕義(司法大臣)田中不二麿(文部大臣)杉孫七郎(宮内大輔)伊藤博文(後の首相)邸などへは、屡々招宴に列して詩作があり。当時世は維新聖明の天下泰平を謡ひ。東都は一入繁盛で、詩歌風流の宴至る処に開かれ。苟くも地位名誉ある人士として、詩歌を作らねば巾の利かざる状況であつた為め。翁の如きは実に詩壇の大耆宿として、交際に多忙を極めたのである。 九 風流交際 翁常に朋友に誼厚く侠骨あり能く他人の世話を為し、時としては痛快な意気を示した事もあるが。流石に一代の名流名士に伍し。その交際は頗るひろかつた。青年時代より国事を語るは、先づ水戸藩老藤田東湖あいざわせ相沢正志、安島帯刀等を算へ。(勤王愛国参照)大垣老として有名の小原寛(字は栗卿、仁兵衛と称し、鉄心と号す斎藤拙堂門下)の如きも親しかった。維新に際し大垣藩の如きも相当波瀾が有たが、賢才小原鉄心ありて能く帰趨を誤らなかつたのである。梁川星巌には師事し、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉田松陰、橋本佐内、武富圯南、藤森弘庵、勝野台山、安井息軒、塩谷宕陰、安積懇艮齋、芳野金陵、大槻磐渓、齋藤竹堂と云ふ一代の鴻儒碩学は、先輩若くは親友として交はり。詩友には菊地五山、大沼枕山、岡本黄石、大橋訥庵、同陶庵、佐久間象山、藤本鉄石、松本奎堂、後藤松陰、森春濤、遠山雲如、鱸松塘といつた諸大家あり。方外には梅痴上人、松靄道人最も親善とせられ。中興前後を通じては鷲津毅堂、松岡毅軒、中村敬宇、川田甕江、向山黄村、股野藍田、木村芥舟、南摩羽峯、重野成齋、岡鹿門阪谷朗盧、三島中洲、依田百川、信夫恕軒、長松宜軒、関根痴堂、永阪石埭、成島柳北、末広鉄腸、神波即山、杉山三郊、野口寧齋、山田新川等の如きに上り。上位高官に有栖川宮熾仁殿下、三条、岩倉、二条、木戸、土方、伊藤、山田(顕義)、田中(不二麿)、細川(潤三郎)、杉(孫七郎)、秋月種樹、三浦梧楼、中島錫胤其他あり。緇流には増上寺行誡、知恩院徹定、輪王寺湛厚、永平寺黙堂より各宗に及び。詩書家としては秋巌、正齋、雪城、半仙、半嶺、潭香、雪江あり。長三洲父子、岩谷一六、信仰を日下部鳴鶴、金井金洞等は親交を結び、或は詩の評を為し。書家には椿山、隆古、草雲、柳圃、小華、少蘋をかぞへ。刀圭界では箕作浣圃、赤松元松、浅田宗伯。実業家方面にては、岩崎弥太郎、渋沢栄一同喜作、広瀬宰平、田島弥平等と深く相知り。渋沢栄一同喜作の両名は翁が吉田幽閉中に打伴れて慰問のため来た事がある。翁京都に在るの日、二条摂政の知遇を蒙り、後其薨去当り詩を賦して哭した。  忽地朝来訃音。哀々鳴く雁感人深。懐恩有涙禁難得。落日西山一片心。」 忽ち朝来訃音を聞き。哀々鳴雁人を感ずること深し。恩を懐ふて涙あり禁じ得難し。落日西山一片の心。 又木戸孝允の逝去を悼て詩あり。  曾把安危繫一身。維新功績古無倫。至尊肝食今猶昨。誰與夫君為替人。」 曾て安危を把て一身に繫ぐ。維新の功績古ち倫なし。至尊肝食なほ昨のごとし。誰か夫君と替人たらんや。 翁の親友で夫人の媒者たる安井息軒は、天資剛介で軽々しく人に容さ無かったが、翁は其知遇を得。吉