比は安政二卯十月二日の夜四ッ時俄に大地震ゆり出し江戸廿里四方人家損亡おびたゞしく 北の■【方ヵ方はヵ】御府内千住宿大にゆりつふれ小塚原は家置残らす崩れて中程より出火して一軒も 残りなく焼失新吉原は一時に五丁まち残らず崩れ其上江戸丁一丁目より出火諸々にもへうつり又々 角丁より出火して大門口迄焼五十間西側半分残る也その先幸手辺まで花川戸山の宿聖天町【注】 此へん焼る芝居町三丁共残りなり【「く」の誤ヵ】焼る馬道大半崩れ焼る也浅草観音はつゝがなくかみなり門 崩れ地内残らず崩れ並木通り残らずすわ町より出火して夫より駒形迄焼る又田原丁三軒丁 辺は少々なり御蔵前通りかや町二丁目大にゆり浅草見附は石垣飛出る又馬喰丁辺横山町 大門通大伝馬町塩丁子伝馬丁へん裏表通り大半崩れ両国むかふ本所は石原より出火 して立川通り相生町林町緑町辺迄焼る又小梅通り引船へん迄出火深川は八幡の鳥居の 所より相川町蛤町まで一えんに焼る又下谷辺は坂本より車坂辺諸々崩三枚橋広小路伊東松坂 の所迄焼る夫より池の端仲町裏通り崩表通りあらまし残る御成道石川様焼る根津二丁茅屋町通り 壱丁目より二丁目迄焼るむゑん坂上は松平備後守様御屋敷焼る千駄木団子坂此辺三軒つぶれ谷中 善光寺坂上少々残るなり根津二丁共惣崩れ中程に而二三間残るなり又丸山向山けいせいがくほ辺大ぶ 崩れ本郷より出火して湯嶋切通しまで焼此所加州様御火消にて消口をとる湯嶋天神の社 少々いたみ門前は三組丁まで残らず崩れ両側土蔵残りなくもふ又裏通りはだるま横丁新町家大川 ばたけ横根坂此辺かるしむろわれて大地一尺程さけ妻恋坂は稲荷本社の土蔵少々崩れ御宮は つゝがなし町内は一軒も崩れず夫より坂下建部様内藤様御屋敷表長屋崩れ東えい山地中大半崩れ 本堂つゝがなし昌平橋通は神田同御台所町旅籠町金沢町残らずくずれ筋違御見附少々いたみ 内神田外神田共残らずふるふ也大通りは神田須田町新石町鍋町かぢ町今川橋迄裏町 表町百三十六ヶ所ほど残らずくずれ先は十間店より日本橋裏通り西川岸より呉服町近辺 東中通りは四日市魚がしよりくれ正町へん迄所々大くづれ又大通りは南かぢ町より出火して南伝馬町 二丁目南大工丁畳町五郎兵衛町東は具足町常磐町因幡丁しら魚屋西こんや丁迄焼る京橋 向ふは新橋辺まで崩れる夫より芝口は柴井町宇田川町残らず焼る也又神明前より□ へん残らず崩れ又金杉より芝橋までしよ〳〵崩れる高なわ十八丁のこらず大地壱尺 ほどわれたり品川までそんじ芝表通りは御浜御殿少々いたむ佃島も右同断夫より芝 赤羽根通りより麻布広尾へんまでしよ〳〵崩れ出火ありまた山の手は四ッ谷かうじ町 武家地寺院堂社のくづるゝことおびたゞしく御城内は寅の御門よりかすみが関は大小名 あまたそんずといへども安芸様黒田様は格別のことなし八代洲河岸はうへ村様 松平相模守様火消やしきのこらず焼るなり又和田倉内は松平下ふさの守様松平 肥後守様此へん大にふるふ夫より神田橋御門内は酒井左衛門様森川出羽守様大に崩れ小川 丁は本郷丹後守様松平紀伊守様榊原式部大輔様板くら様戸田様此へん残らず 焼る又牛込より小石川伝通院門前のこらず崩ればん町より飯田町お茶の水辺大に ふるふ筑地門跡本堂はつゝがなく地中過半崩る小田原丁よりあさりがし向は御はた本様方御家人衆御屋敷残り なくふるふおよそ町の間出火三拾七ヶ所家数寺院堂社の損亡いち〳〵かぞへあぐるにいとま あらず又東海道は川崎宿少々神奈川宿は大にふるひ大半崩れ程ヶ谷宿は少々戸塚 宿はしよ〳〵ふるふ又藤沢平塚大磯小田原辺迄格別の事なしといへども諸々ふるひいたむ仲仙道 は板橋よりわらび宿浦和あげ尾大宮迄は大にふるひ其先は熊が谷宿迄所々ふるふ日光街道は草加宿 越ヶ谷格別の事なしといへどもしよ〳〵いたみさ■づ大もりへん御府内四里四方五千七百余 諸々ふるふ又水戸街道は市川松戸うしく宿辺下総口は行徳船橋辺はわけておびたゞしくふるふ奥州街 道は宇都の宮辺までふるふ又青梅街道は半能■ざきちゝぶ大宮辺迄ゆりふるふかゝる凶変は 古今未曽有にして明暦火災の度にいやまして死亡おひたゞしくその数いくばくといふこと量しるべからす死人は車 馬につみ船にのせて寺院へ送る誠にめもあてられぬ形勢也かゝる大変も翌日になりては火も消地表も折〳〵ふるふど いへども格別の事なし一町数五千三百七十余崩一御屋敷弐千五百六十余軒損そ一寺院 堂社三万九千六百三十ヶ所一土蔵の数五億八万九千七百八十六ヶ所かく家中きを失 ひたる軽き者へはそれ〳〵御手当御救米被下置四民安堵に帰し鼓腹して御仁徳あふぎ 奉るは実に目出度事どもなり 【注 「丁」は「町」の略字ということもあり、江戸マップβ版等を参考にして添削しました。以下同断。】