満次郎漂流記 全 【前コマと同じ写真】 漂流記 滄浪軒蔵板 【丸に】売【四角に】栄 【次コマ右ページを裏から見たもの】 【右ページは前コマを表から見たものだが仲原善忠文庫のしおりが載っている】 【左ページ】 【別の資料によれば紙が載っている場所に「アメリカ人」と書かれているようです】 中浜漁師 満次郎 アメリカ 蒸気船(じよきせん) 之 図(づ) 無人島(むじんじま)の トヲクロ鳥(どり) ワフ 国(こく)の 名(い)  石(し) ワフ国(こく)の田芋(たいも) 大日本土佐国漁師漂流記       肥前長崎 鈍通子記録 往昔(むかし)何れの御時にや有けん正月五日土佐の国西 三崎(みさき)といへるところにて 五人のり合の漁師(りよし)かの沖(おき)にて鱸(すゞき)といふ魚をはへ縄(なは)にて釣(つり)いたるに 此折船中に白米二斗 程(ほど)あり同月七日迄その所にをり縄はへ候処その日 午の刻(こく)ころ紅色の雲西にたち戌亥の方より風吹来り次第にはけ敷 ゆへにはへ置たるなはを手早く操(くり)【繰】あげ帰らんとするに風つのり地方へ よすへき事かなわずその儘(まゝ)辰巳の方へ吹流(ふきなが)されさま〴〵にはたらけども 詮(せん)かたなく其内にかぢも櫓(ろ)も折あるひはあわて櫓(ろ)五丁の内三丁は流て 残(のこ)る二丁は折れ只(たゝ)辰巳の方へ風と汐(しほ)とにまかせ吹流(ふきなか)され風はいよ〳〵は け敷吹けるゆへ何卒(なにとそ)日本の地につき度と諸神仏(しよしんふつ)を念するのみ此時白米壱 斗 程(ほと)残(のこ)りたるを少しづゝかゆに焚などしてわつかに腹(はら)をこやし漂流(へうりう)す 舟には汐(しほ)多(おほ)く入けるゆへ水をかへすて舟のかへらぬ様に帆柱(ほばしら)を舟ばたに ゆひつけ何卒?して陸(へが)?に上り心?よく水をのみ死たく思(おも)ひ風と汐(しほ)とに任(まか) せながれ行(ゆく)に九日の夕方より十日に至(いた)りては寒気はなはだしく肌(はだ)へを 通しその上 濡(ぬれ)たる衣類(きるい)は鉄(てつ)のごとく氷(こふ)り手あしこゞへはたらき自由(しゆう) ならず残りし箱など焚(たき)て水をあたゝめ聊(いさゝか)のんどをうるをし手足 をあたゝめなどして十一日は雨風はげ敷なりて此折は五人とも数日(すじつ)の 働(はたらき)につかれ一時も早く死度心なれ未(といま)だ死得す十二日は雨やみて 昼頃(ひるころ)にいたり沖(おき)を見ればトヲクロヲ【藤九郎=アホウドリ】といふ鳥多(おほ)く海上にむれ集(あつま)り 居(いる)を見て伝蔵いへるにはみな〳〵よろこひ候へ死(しす)べき処も近(ちか)よると見 へてトヲクロヲ多(をふ)く居る上はもはや近き処にしまあるにうたがひなしと 其日の暮頃に辰巳の方にあたりてしまならんと思ふものかすかに見へて 扨(さて)よく日にいたり嶋なるゆへみな〳〵悦(よろこ)ひ近(ちか)より見ればいそなみあらく打 あげ中〳〵舟のつくべきようなる処見へされどもその儘(まゝ)いそ際(きは)に船をよせ 二人はいそに飛(とび)上り残(のこ)り三人は数(す)日のなん船に飢(うへ)つかれ舟をいですその内ふ ねはくつがへりみぢんとなり三人ともやう〳〵板(いた)にすかりいそにつきその儘(まゝ)手に いそ草をにぎり喰(くら)ひける是にてうへたる事をしるべし扨(さて)五人ともやう〳〵 陸(くが)に上り見ればトヲクロヲあまた居るゆへ帆げたなどにて四五羽うち ころしこれを喰(くろ)ふ扨(さて)此しまは無にん嶋にて山の廻り一里はかりの小 しまにして竹木もなく茅(かや)あるひはくひみといふもゝのたぐひなとす こしづゝはへたれば人家を尋けるに人あとたへてなくかん気甚(はなはだ)しく水 漁師(りやうし) 難風之図(なんふうのづ) 火もなく只(たゞ)山の上に石塁?の墓(はか)二ツあるのみにていづれも日本の墓に似(にた)り これこそ我々(われ〳〵)同様?の漂流(へうりう)じん此処にて死たる墓ならんとそゞろな みだに沈(しづみ)つゝこの墓をよく〳〵弔(とむら)ひ夫より食物をもとめんと所々をか け廻(まは)るに辰巳の方に五人もいるべき岩洞(いわや)あり此処にて五人とも月日を 送(をく)り寒気たへがたき時は五人とも丸 裸(はだか)にて背(せ)なかを合せより合て 着(き)のものをあつめうちかつきて只々(たゝ〳〵)ふるひ居(い)たりける扨(さて)五人とも陸(くが)に 上りし時は雨あかりゆへ岩間より雨の落(をつ)るをすくひとり呑(のみ)けれとも 一両日にてこの水もなくなりけるゆへいよ〳〵水にうへ草(くさ)の葉なともみて 其しるをすい折々(をり〳〵)は小べんをのみしとなり彼(かの)穴(あな)の近辺にもトヲクロヲ の巣ありて子をかへしたる時節(じせつ)ゆへ親鳥(をやとり)雑魚(ざこ)?のたぐひなとくわへ来 たり子に喰(くわ)せるを追(をい)落?し是?など喰(しよく)とし後(のち)には子も取て喰し 親(をや)もとつてくらひし四月ころにいたりては子は巣(す)を立ておやも地に子よらず此 時にいたり五人とも喰(くひ)ものなく大ひに飢(うへ)いそ草あるひはよし茅(かや)の根くひ みの根または草の葉など取てはらを養(やしな)ひけり五月頃にいたりては ます〳〵飢(うえ)つかれ此とき重助病気はつし穴よりいてはたらく事 かなはず穴にのみ打臥(うちふし)伝蔵もよほど労(つかれ)重助の介抱(かいほう)のみにてこれも はたらく事かなはず五右衛門寅右衛門満次郎ばかり穴より出て喰(くひ)ものをひ ろひ病人にあたへ月日を送(おく)りけるに六月上旬の頃にいたりはるかに 辰巳の方沖にあたりて大舟の帆(ほ)かけてはしるを見つけ三人とも是?を見 て大によろこび着(き)ものを帆(ほ)けたに結(むすび)つけ是をあげて声(こへ)をたてよば われけれどもはるかに沖(をき)の事ゆへその大舟につうせず船は次第に戌亥の方 へのり行(ゆく)にぞ五人のものはなをこへをふりたてさけべとも聞(きゝ)えす舟は三りば かり戌亥の沖(をき)合へいかりを下(をろ)し小船 二艘(にそう)をろしてかの嶋さして漕(こぎ)来 りければ三人とも大ひに悦(よろこ)ひ近く来るゆへ満二郎穴のかたに招きけるゆへ 舟も又是に随(したが)ひ廻りける扨この舟一そうにのり組?六人つゝ内五人はアメリカ 人にて一人はクロンホヲなり三人のもの共はよろこびにたへず指(ゆび)さして寝 たるものを見せけるにぞ異国人(いこくじん)うちうなづき病人二人を抱(かゝへ)あげ 舟にのせ三人のものも舟に飛(とび)のり本船のかたへのりゆきけり○夫よ り右の大舟へ漕(こぎ)つけいづれも是にのりうつりけり此船長さ四十五 間 外(そと)は赤銅(あかゝね)にてつゝみいたつて堅固(けんご)なり此舟はアメリカ州の鯨(くしら) 船にて日々 世界(せかい)の海原をのり廻り鯨(くしら)を見つけては彼(かの)小船 八 艘(そう)を下し追かけもりにて突(つき)とめたる時クロンボヲ海中に飛(とび) いり綱(つな)にてくゝり留(とゝめ)大せんに引あけ肉(にく)はすてゝ皮(かは)をはぎとり あぶらをとるなりアメリカ州にてはかくのことき船は沢山(たくさん)に出?るなり此 大船あぶらを五三年もとりあつめ夫よりワフ国といふ所に持出 交易(こうへき) するとなり扨五人のものは大船にのりうつりたるに異人(いじん)りうきうい り【も:りうきういも、薩摩芋】をもちきたりあたへけるゆへ喰(しよく)し居たる処へ船主(せんどう)とをほしき人 怒(いか)りたる躰(てい)にて出来り何とかいふて此いもを引とり奥(をく)へもち 行(ゆき)けり是にをそれて居たる所へパン【パレにしか見えない。以下同様】といへる餅(もち)をもちきたりこ れを喰(くら)ひ恐(をそ)るゝはやみたれども勿(もち)ろん腹(はら)にたらざる事なり是にて思 ひ合すれば日本にてもなん舟に逢(あい)しものなどはかくのごとくして介(かい) 抱(ほう)の事思ひいだし猶あん心(しん)に及びけり扨よく日には豕(ふた)の干肉(ほしにく)あぶり たるをもらひ是とパンにて早〳〵力(ちから)つき候事此舟の真中(まんなか)に大なる桶(をけ) 三つ重(かさ)ね外に小き桶(おけ)沢山(たくさん)又いんきんのごとくなる小舟八そう入これ 無人嶋(むじんじま)にて トヲクロ鳥(どり)を 取喰(とりくら)ふの図 ありクロンボヲも沢山(たくさん)に居候舟の食(くい)ものはみなパンさつまいもなり    考へるにパンと申ものは麦の粉に砂(さ)とう入仕なしたるも    のなり 扨同年霜月の頃ワフ国へつきけるに此ワフ国と申所はアメリカより 渡海(とかい)六七百にして人物 言語(ごんご)アメリカに同じ近年この所はん花(くわ)の 地なり日本にて大坂の川口のごとし諸国(しよこく)の交易(こうへき)所にて国々の 問屋(といや)多く又茶屋 女郎屋(しよろうや)などもあり此国 寒暑(かんしよ)なく春秋とも日本 の八月のごとし米麦等はなくりう球(きう)いも田芋(たいも)等は年中よく出来る 所にてこやし等はする事なし田芋一もと取(とれ)は国人一ツ荷(に)にもち得(へ)ず となり仕なしは焼(やく)歟(か)又は餅(もち)又は焚(に)たるもあり喰(しよく)ものは芋(いも)るい外 なし家は日本によくにたり茅葺(かやぶき)近年は板屋根(いたやね)多(をふ)く其国に へける石あり是をとつてかわのごとくなして屋根(やね)にする処もあり此 所の人 貴賎老若(きせんろうじゃく)にかぎらずしたん黒たんの杖(つへ)をつく往来す又す こしでも身もち重(おも)きともがらは刃(けん)付づゝ又たもと鉄砲(てつほう)等持往来 す又 刃(けん)なしの筒(つゝ)もありみな火打仕かけなり騎(き)?しや【綺しや:奇妙なことに?】笠(かさ)のこと くなるものをかむり其 笠(かさ)の真中(まんなか)に穴あり夫より髪(かみ)を通し居るな り女はかみ天神 結(ゆい)のことく衣類(きるい)は男 筒袖(つゝそで)にして是に股引(もゝひき)の 如くなるを着し沓(くつ)をはき居なり雨具(あまぐ)なくして雨天の時は 家より出ず此処の人朝昼夕と喰(くい)もの違(ちご)ふ芋(いも)のたぐひゆへはしちや わんなくいく色(いろ)も風味(ふうみ)よくこしらへ飯台(はんたい)にかの芋のるいのせ腰(こし) かけにこしをかけ喰(くろ)ふあさは大豆を黒くいりてせんじのむなり又 昼飯(ひるめし)の時は水をすくひて呑(のむ)夕めしの時は日本のごとき茶をのむ 此国 死失(ししつ)の時王は山王に蔵のごときものありその中に大なる穴あり 是に葬(ほふむ)る惣して重役人は日本のことく寝棺(ねくわん)又いやしきものは火 そうなり又此処へヲランダより近頃 医(い)しや来りせん薬なく煉(ねり) 薬又は散薬(さんやく)用ゆ又 針(はり)にて血をとる事多し又じゑき【時疫】などの時は 居風呂(すへふろ)桶のごとくなるをけに水沢山に入右病人をはだかにしていれ 頭計りだして熱気(ねつき)をさますなり是等の病気くわいきしたる はなし扨船頭ワフの問屋(といや)役のものへ右五人の者を連行(つれゆき)此問屋役の 名ブチイヱと云(いふ)船頭(せんとう)の名はタブタヂヨン其とき船頭問屋役人へ申は 此人いづくの人かしれず無にん嶋と申所にて数(す)日の間なんぎいたし 候を見つけ連来りと申ければ彼(かの)役人種々の銭をもち来りて 五人の者へ見せければ其中に日本の寛永銭(くわんへいせん)あり是にゆひさしければ扨 は日本人なるべしと此時よう〳〵知るなる扨満二郎はもとの船にのり伝 蔵重助五右衛門寅右衛門はこの所役人に預(あづ)け手あつく介抱(かいほう)いたし呉(くれ) 候様 頼置(たのみおき)船頭(せんどう)は万二郎を召(めし)つれ船にのり本国へかへりける残(のこ)り四人は長々(なが〳〵) 世話(せわ)に預りけるを気のどくに思ひ役所へいとまを頼(たの)み夫より自分(じぶん)〳〵 の渡(と)せいをし扨 用(よう)つかい又田はたなど手入方 或(あるい)は大せんのみなといりを 聞ては荷(に)あけなどいたし国人よりは達(たつ)しやにしてかの国の調法(ちやうほう)となり 又道を行にも二日 程(ほど)に往来の所は日帰りにしよほど銭金の出来(でき)家 抔(など) 造(つく)り安気(あんき)にくらしける此国ちう夜刻々(やこく〳〵)に大 筒(づゝ)をうつ然るに重助は ふと煩(わづら)ひつき終(つい)に病死(べうし)いたしけるこのもの日本人なりとて其所の役人よ り寝棺(ねくわん)にして葬式(そうしき)も手 重(をも)くいたし呉(くれ)るなり扨日本の己【巳?】の年に いたり其所の役人へいとまを乞(こひ)日本へ帰(かへ)り度(たく)段(だん)申出るに夫より役所へ頼(ねがひ)【願】 無人嶋(むじんじま)にて アメリカの 漁船(りやうせん)を まねく図 セメンへ頼みセメンのゆるしをうけずんは帰る事かな□すよし申《割書:此所より|アメリカ》 《割書:さして|セメンと云》夫よりセメンのゆるしをうけ出帆(しゆつはん)して日すう経 程(ほど)なく一(とう)に つき是こそ日本なるべしと此湊に上る是 則(すなはち)蝦夷(へぞ)の国なりヱブ人【ヱゾ人?】みな 逃(にげ)ちり其夜(そのよ)たいまつ焚(たき)もやしあいづの篝(かゞり)火と見へてなか〳〵よるべきべ きようなく早々(そう〳〵)船を出し逃(にげ)帰りしなり扨満二郎北アメリカへ連(つれ)か へり手ならい学文(がくもん)等いたし年たけるにしたがひ天文(てんもん)等ならひちやうあ ひに預(あづか)りける此国はワフ国と違(ちか)ひ時候(じこう)日本とをなじかき?家(いへ)の障子(しやうじ)は 硝子(ひいとろ)にて張(はる)なり惣じて家(いへ)は広(ひろ)く美々敷(ひひしく)ぞうさくしたり又作物 は麦(むぎ)多く米も少々つくる然(しかれ)ども米を食(くう)もの賎(いや)しきといふ麦を上 品とす喰物(しよくもつ)又 人物男女(じんぶつなんによ)ともワフ国と同じなり此国に王七人あり 王四年づゝにてかわる次の王は人をゑらみて王とす故(ゆへ)あらは八年もつも あり王八年持(もつ)時はをびたゞしき金もちとなる万二郎 数年(すねん)居る 内王とをぼしき人を見ず又男女とも馬にのる又 車(くるま)にのり【る?】行?両?車 は一つに三十人 位(くらい)のる焼(やけ)たる鉄(てつ)をいれ火気(くわき)にて自分(じぶん)と廻りゆく■し 如何(いかゞ)の工風(くふう)にやしれず多分 蒸気船(ぜうきせん)のたぐひなるべし又王の往来に は一 僕(ぼく)なり又貴人は劔付(けんつき)の筒(つゝ)をもつ劔なしもありたもと鉄砲(てつほう) もあり是ワフに同じこの国の人 貞実(ていじつ)にして悪心(あくしん)しらずらし やなどは至て沢山(たくさん)できるなり    説(せつ)に曰(いわく)羊(ひつじ)を家毎(いへこと)にかひをき秋のせつにいたつて    其 毛(け)をとつて羅(ら)しやにをるといふ 扨(さて)此国 毎月(まいつき)七日に先祖の祭(まつり)とて家々にこれを■ふる其日は 家の戸を立て内には家ない【家内=家族】しづまり居るなり又 縁組(へんぐみ)【ゑんぐみ?】は日本に てのし取かはせの【熨斗取り交はせ、の意味にとってみました】処は聟嫁(むこよめ)よりあいて互(たがい)□□一礼し又パンな ど喰して是よりむつまじく交(ましわ)りありといふ双方(そうほう)今日より夫婦(ふうふ)と なりしとて所々の神々へ詣(もふで)なりすべて盃(さかつき)の義はなく酒気(さけき)あらくな るものゆへ呑(のま)ずといふ平生(へいせい)はのむ事もあり葬式(そうしき)の事は多分ワフ国と同し 扨満二郎は次第に天文の事に上達して所々の鯨(くじら)船にやとわれ此鯨舟(くじらふね) は天文者(てんもんしや)一人これなくては海上(かいしよう)広くのるゆへ方角(ほうがく)立ざるよしにて天文者 一人づゝ居(い)る又舟の具(ぐ)は桶箭(をけひせん)のごとく大筒(をふづゝ)も多(おふ)く仕(し)こみある是は海賊(かいぞく) 舟に行あいし時の■【為ヵ】なり他国(たこく)を打立る事にあらずといふ万二郎此舟に 三四年も居(いる)内に日本の沖(をき)も四五 度(たび)通る又イギスス国へも本 唐(から)【19コマに本唐あり】へも行扨またこ ふりの海(うみ)といふ処もあり此処は海(うみ)氷(こふ)りて上に雪(ゆき)多くつもり又 雪(ゆき)薄(うす)き 所を見合てゆく此所はたして大 鯨(くじら)こゞへ居(い)るゆへ氷(こふり)を破(やぶ)りてとるこの鯨(くじら)手安(てやすく) 取ゆへこの所へ諸こくより多く取に来るよし又クロンボヲ国へもゆくこの所 の人何(いづ)れもはだかにて衣(い)るいはなく喰(しよく)もつは塩(しほ)ばかりくふ色(いろ)は黒(くろ)くしてつやは なしこの所を鬼国(きこく)といふ又はだか国ともいふ女はこしに柴(しば)の葉(は)をあて居(いる)也 此処は遊(ゆう)女ともありアヘンタバコ又パンなどつかわしけれはよろこんで舟にきた るといふ扨夫より諸国 遍環(へんくわん)して四五年を経(へ)てワフにゆき日本人を尋(たつね)見れ ば寅右衛門一人ありて重助は死し伝蔵五右衛門は日本へ帰り候といへる満二郎は四人に 別れ是六年目なり其 傍(かたわら)に聞居候 異人(いじん)其二人も帰る事かなはず夜前(やぜん)舟 湊(みなと)へかへ り来ると申はよろこび湊(みなと)へ尋ゆき二人に会(あふ)て以前(いせん)の通り物がたり兎(と)かく帰朝(きちやう)の 事を四人とも申合せ万二郎は右の舟にのりアメリカへかへり夫より南アメリカの境(さかへ) にキヤラホネ【キャラホネ=カルフォルニア】といふ所ありこの地は日本の浅間(あさま)山に似(に)たる処にて土中(どちう)に火気(くわき)立て 金など自然(しぜん)とわきいづる万二郎この所へ金掘(きんほり)に行度(ゆきたく)旨をじ?つて暇(いとま)を願(ねがひ)数日(すじつ) ワフ国(こく)の 湊(みなと)の図 の間によほど金掘?あつめむ是にも多く善悪(せんあく)あるよしアメリカに帰へり物(もの)がたり し日を経(へ)て又キヤラホネに行度と偽(いつわ)り是酉の年の頃ワフに来りて帰朝(きちやう) 申合 本 唐(から)へゆき売舟(ばいせん)に頼けれども日本へは未(いま)だ渡海(とかい)いたさざる国につき 連行(つれゆく)事かなはずむ?小舟一 艘(そう)求(もと)めこの舟にのせ置日本近き処より其舟に のせ渡すべしと申に舟一艘もとめ右の舟に入る然るに万二郎其?舟の頭ダブチヨ と?寵愛(ちやうあい)して養子(ようし)の約束(やくそく)相 済(すみ)けれども未た神参り等はせさるゆへ夫婦(ふうふ)と 申には是なくよつて右のチヨンへも縁女(へんぢよ)へも書面(しよめん)をもつて約束(やくそく)断遣?し ける夫より出舟して同年琉球(りうきう)沖にて右の小ぶねをろし是にのつて琉球(りうきう) へ渡るこの時万二郎は一礼をのべ又一 通(つう)手紙(てがみ)をしたゝめ寅右衛門は此時ワフに残り 居るゆへ右 書面(しよめん)にこの度 首尾(しゆび)よく日本へ帰り候に付よき便(たよ)り次第(しだい)早々かへ られと認(したゝ)め大船へ頼みつかわしける夫より伝蔵五右衛門万二郎三人は琉球(りうきう) 国へちやく船すされば琉球(りうきう)人大にあやしみけるゆへ早〳〵日本の髪(かみ)にならん と三人ともやつことなり是にてよう〳〵日本人としれにける然其髪 以前(いせん)のことくいたさずては薩州(さつしう)へ渡(わた)す事相ならずと申につき又えのごとく髪(かみ)をは や一 年(とし)程(ほど)経(へ)てさつ州に御渡しに相なる夫より御 請取(うけとり)あつく【て?】又々?長崎へ御渡り【に?】 相なるをしむべし長崎にて万二郎 所持(しよじ)の本るい天文(てんもん)の土産(みやけ)の心 さしにて彼(かの)掘たる金一寸四方の金二つ是も共に長崎にて御取上になり 御帰しに成たるは三人の衣(い)るい外に一 枚(まい)き?たるもの有よし又三人とも長(なが)もち一つ づゝ持(もち)帰国いたし扨夫より長崎より御渡の時御役人より請取の役人 へいわれしは先(まづ)この度は御渡しに相なり候へともとう地へめしかゝへをきて 調法(ちやうほう)のものとて其だん土州へ御届のよしなりめてたし〳〵 満次郎漂流記終 天明二年壬寅十二月十三日勢州(せいしう)白子(しらこ)神昌(しんしやう)丸の船頭大黒屋幸太夫水主磯吉同所を 出帆(しゆつはん)して駿州(すんしう)の沖より吹流(ふきなが)され同三年卯七月廿日 魯西亜(おろしや)の属島(ぞくとう)○アミシツカといふ地(ち)に漂着(ひやうちやく)し諸島を経暦(へめぐり)魯西亜(おろしや)国の都(みやこ)へ出(いで)女帝(によてい)にまみへ寛政四年 九月三日蝦夷(ゑぞ)の○ネモロといふ地に送りかへされ同五年癸丑九月十八日 富貴揚(ふきあけ) 御物見において    上覧ある ○寛政五丑年奥州(おふしう)宮城郡(みやきこふり)寒風沢(さむかせさは)浜(はま)若宮(わかみや)丸のり組十六人同年十一月廿七日なん 風に逢(あい)魯西亜国(おろしやこく)へ吹流(ふきなが)され右十六人の内左平津太夫(つだゆう)茂平太十良【郎】文化二乙丑 年長崎表へおくり届る    右 漂流譚(きやうりうはなし)一 巻(くわん)好古(こうこ)の友人(友人)におくり売買(はいかい)をきんじ深(ふか)く秘(ひ)す           滄浪軒蔵板 重助墓之図 ふるいんといふ はち へる ちやん こん らよて はろ 右ヱよこに よむなり 土佐国宇佐郡漁師  船頭 五十歳  伝蔵  乗組 弟    重助  同  二十八才 語右ヱ門  同  三十八才 寅右ヱ門 同国旙多郡中の浜  伝蔵召仕漁師     二十四才 満次郎 重助は異国にて身まかり寅右ヱ門は ワフ国に止り内三人帰国に及ぶ 【前コマと同じ写真】