東北海岸の海嘯 【以下、カタカナ表記はひらがなで翻刻】   明治廿九年六月十五日午後七時に始り   同十六日に至り激震三十一回被害の實況   岩手縣釜石は死亡   五千人斗流失 同 盛町附近は死亡四千人   流出家二千餘戸 同 大槌町附近は死亡六百人   流家五百餘戸 同 山田町大半流失其附近   合て流失三百餘戸   死者千人   宮城縣は死亡三千百三名   傷者五百五十流失及ひ   破損の家屋は九百七十三 同 本吉郡歌津村の如きは戸數   六百一は家屋悉く流失   死者六百餘負傷者二百   同唐桑村は戸數七百七十   の内流失二百六十死者   八百二十三人なり   青森縣は三戸部五十余   上北郡は二百五十餘戸   流失死者不詳 同 宮古町は流失家屋   不詳死者七十餘 右に付三縣下到る處 電信不通と相成る 陸中の國海岸には外國の 汽舩三隻も陸上へ打上け たり各國の公使よりは本國へ 向け不残電報相成る 岩手縣雄勝地方へ使役の 重罪人二百四十名斗は百名程は 死亡す并に出役人員も多く 殉難するあり又同縣湊町 邊は帆前舩并に大小百餘隻の 漁舩は舟の鼻先を家屋の内へ 付き込み羽目板を破り居る等誠に 言語同断の大變なり尚此の日は五月 節句の當日なれは各村各町は酒宴の 催し盛んなるに當り死人も殊の外夥しと云  図中○印は被害の尤甚き處なり  黒線は鐡道線なり又再三の報知に  よれは岩手縣の分は死者二萬二千百八十  六人負傷千二百四十四人なり青森縣死者  三百八人負傷百四十人なり家屋の流亡及破壊  四百八十なり宮城縣は未た詳ならす      ↘【十字の矢印】        附たり岩手縣にては被害の        當日大火もあり戸數詳ならすと        雖【ム+虫 】も水火両難恰も人間世界の        有様にてはなく海嘯の高きケ所は        五丈餘にて押寄せたる景況        實可驚の次第なりけり 明治廿九年六月廿 日印刷編輯發行兼 同年 同月  廿三日發行印刷者 東京本郷区丸山新町三十四番地     原田音十郎