【表紙】 三河国【國】古蹟考  中 【両頁文字無し】 倭名類聚鈔所載参河國郡郷考 三井家  大旨 /掛巻(カケマク)も/恐(カシコ)き /皇産霊(ミムスヒノ)大神 等(タチ)の。天上(アメ)より/照覧(ミソナハ)し/坐(マシ)て。 此 ̄ノ/浮漂(タダヨ)へる国を/修固(ツクリカタ)めなせと/詔(ノリ)給へる。/詔命(オホミコト)のまに〳〵。 /伊邪那岐(イサナギ)/伊邪那美(イサナミ)二柱 ̄ノ大神/乃(ノ)/生成(ウミナ)し給ひ。/大名持少彦(オオナモチスクナヒコ)/名(コナ) の二大神の。/葦(アシ)/菅(スゲ)を/殖生(ウエオフ)して/造固(ツクリカタメ)/竟(ヲヘ)給ひしは。大八島国と称(タヽヘ) 来(キ)つれど。後には数々に割(ワカ)れたるなり。そはまづ日本紀《割書:七之巻|廿六ノヒラ》成務 天皇 ̄ノ五年秋九月云々。則 隔(カギリテ)_二山河 ̄ヲ_一而 分(ワケ)_二国県(クニアガタ) ̄ヲ_一。随(マニ〳〵)_二阡(タヽサノミチ) 陌(ヨコサノミチ) ̄ノ_一以定 ̄ム_二 邑里(ムラ) ̄ヲ_一。因(カレ) ̄ヲ以_二東西(ヒカシニシ) ̄ヲ_一為_二日縦(ヒタヽシ) ̄ト_一。南北 ̄ヲ為_二【訓点の脱落】日横(ヒノヨコシ) ̄ト_一。山陽(ヤマノミナミ) ̄ヲ曰(イヒ)_二影面(カゲトモ) ̄ト_一。山陰(ヤマキタ)曰_二背(ソト)                  郡郷考 一 【右丁】 面(モ) ̄ト_一云々。《割書:古事記《割書:中ノ|五十九丁》同天皇 ̄ノ条(クダリ)に故(カレ)建内(タケウチ) ̄ノ宿祢 ̄ヲ為(シ玉ヒ)_二 大臣(オホオミ) ̄ト_一【訓点の脱落】定(サダメ)-_二賜(玉ヒ)大国小国(オホクニヲクニ) ̄ノ|之 国造(クニノミヤツコ) ̄ヲ_一亦定-_二賜 ̄ヒキ国々之 堺(サカヒ)及(マタ)大県小県之(オホアガタヲアガタノ)県主(アガタヌシ) ̄ヲ_一也。とあり。》とある ぞ。人の世となりて国所の境を定め給ふ事の見えたる始 ̄メ なる。 其 ̄ノ のち於(ニ)_二諸国(クニ〴〵)_一置(オキ) ̄テ_二国史(フビト) ̄ヲ_一記(シルシ) ̄テ_二言事(コトバトコト) ̄ヲ_一達(イタセ) ̄リ_二 四方志(ヨモノフミ) ̄ヲ_一と。日本紀《割書:十二ノ|六丁》履中 天皇 ̄ノ四年秋八月の条(クダリ)に見え。允恭天皇 ̄ノ御世 ̄ニ造 ̄リ_二立 ̄ツ国 ̄ノ境 ̄ノ之 標(シルシ) ̄ヲ_一 と新撰姓氏録《割書:上ノ|卅八丁》坂合部(サカヒヘ) ̄ノ連(ムラシ)の条(クダリ)に見え。孝徳天皇 ̄ノ大化二年 ̄ニ詔 ̄スラク 宜 ̄ベシ_下観(ミ) ̄テ_二国々 ̄ノ「土偏+畺」堺(サカヒ) ̄ヲ_一。或 ̄ハ書(フミニシ)し或 ̄ハ【書からここまで朱書きで挿入】図(カタヲカキ)持 ̄チ来 ̄テ奉 ̄ル_上_レ示(ミセ)。国県 ̄ノ之名 ̄ハ来 ̄ラム時 ̄ニ將(ス)_レ定 ̄メント云々。 また天武天皇 ̄ノ十二年。遣 ̄ハシテ_二伊勢 ̄ノ王云々等 ̄ヲ_一。巡(メグリ)-_二行 ̄テ天 ̄ノ下 ̄ヲ_一。限(サダメ)-_二分(シム)諸国 ̄ノ之 境界(サカヒ) ̄ヲ_一然 ̄レトモ是 ̄ノ年不_レ堪(アヘ)_二限分(エサタメ)_一。十三年遣 ̄シテ_二伊勢 ̄ノ王等 ̄ヲ_一定 ̄メシム_二諸国 ̄ノ境 ̄ヲ_一と。日 本紀《割書:廿五ノ廿ニ丁|廿九ノ卅五丁》等に見え。また聖武天皇 ̄ノ天平十年。令 ̄シテ【「令」の左横に「下」と訓点】_二 天 ̄ノ下 ̄ノ諸国 ̄ヲ_一 【左丁】 造 ̄テ_二国郡 ̄ノ図 ̄ヲ_一進 ̄ラシム_上と。続日本紀《割書:十三ノ|六丁》に見えたり。 〇【朱書き】さて国々の分属(キザミ)の古く見えたるは。古事記《割書:中ツ巻ノ廿八ノヒラ|崇神天皇ノ条》に。高志(コシ) ̄ノ道。 《割書:後の北陸|道の事也。》同《割書:中ノ廿八丁|同天皇 ̄ノ条》東(ヒムカシ) ̄ノ方 ̄ノ十二(トヲマリフタ)道(ミチ)《割書:東海道なり。|十二 ̄ハ国 ̄ノ数也。》日本紀《割書:五ノ六丁|同天皇条》北陸(クヌガノミチ) 東海(ウミツミチ)西 ̄ノ道《割書:山陽|道也。》また四(ヨツ) ̄ノ道《割書:北陸東海西 ̄ノ道|と丹波となり。》また《割書:七ノ二十三丁|景行天皇 ̄ノ条》東山(ヒムカシノヤマ) ̄ノ道十五 国なと見え。孝徳天皇の御巻《割書:廿五ノ|九丁》に畿内(ウチツクニ)の定 ̄メ見えて。持統天皇の 御巻《割書:三十ノ|廿二丁》に四畿内《割書:此 ̄ノ時はいまだ河内|和泉は一国なり。》天武天皇 ̄ノ御紀《割書:廿九ノ|四十二丁》に。山陽(カゲトモ) ̄ノ道 山陰(ソトモ) ̄ノ 道また東海(ウミツミチ)東 ̄ノ山(ヤマノミチ)山陽(カケトモノミチ)山陰(ソトモノミチ)南 ̄ノ海(ミチ)築紫(ツクシ)と。六道 並(ナラビ)て見え。七道の名 は。続日本紀《割書:二ノ五丁|文武天皇 ̄ノ条》に始て見えたり。さて諸国(クニ〴〵)の総(スベ)ての員数(カズ)は。古へに 幾許ともいへる事物に見えす。旧事記《割書:十之|巻》の国造本記には。百四十四              和考 二 【右丁】  国の国造(クニノミヤツコ)を挙(アゲ)たれど。古 ̄ヘ は今いふ郡里などをも。国 ̄と云ひしかば。  猶もれ洩たるも多かるべし。然れと孝徳天皇の御世には。慥(タシカ)に定まりつらむ。  さて其 ̄ノ後にも一国を二 ̄ツに分 ̄チ。また二国を一 ̄ツに合せなど。御々世々に彼此(カレコレ)  変(カハ)りしも有つること。嵯峨 ̄ノ天皇の御世。弘仁十四年三月に。越前 ̄ノ国を割(ワカチ)【原文の振り仮名は「カチ」】  て加賀 ̄ノ国を建(タテ)られて。《割書:此事日本後紀拾芥抄|当抄等に見えたり》六十六国二島と定まりたる也。  如此(カク)定りしは。既に続紀に国 ̄ノ守(カミ)に任(マケ)らるゝ事 数多(アマタ)見え。官位令に  大上中下の国の分(ワカチ)。其 ̄ノ国々の守介(カミスケ)掾目などの位階を分(ワカチ)記された  れば。早くより定まりしならむを。全く備りて物に見えたるは。延喜  民部式《割書:廿二|の巻》と当抄となり。《割書:上件の事どもは鈴 ̄ノ屋 ̄ノ大人の古事記伝の説によりて|いへり》 【左丁 行頭の〇は朱書き】 〇かくて此 ̄ノ参川 ̄ノ国の事の古く物に見えたるは。古事記《割書:中巻廿四丁|開化天皇条》に。  朝廷別王(ミカトワケノミコハ)三川 ̄ノ之 穂別之祖(ホノワケノオヤ也)。《割書:開化天皇の|玄孫なり。》また《割書:中ツ巻丗四丁|景行天皇条》落別王者(オチワケノミコハ)。  三川 ̄ノ之 衣君之祖也(コロモキミノオヤナリ)《割書:垂仁天皇 ̄ノ第|十二の皇子也》と見え。旧事記《割書:五ノ十六丁|天孫本紀》。宇麻志麻  治 ̄ノ命 ̄ノ四世孫。大水【「水」を朱で見せ消ちにして右横に「木」と朱書き】食 ̄ノ命 ̄ハ三河 ̄ノ国造祖(クニノミヤツコノオヤ)。出雲醜大臣(イヅモシコオミ) ̄ノ之子《割書:也》《割書:孝安天皇の|御世の人也。》  とあり。是等や古 ̄ル からむ。さて同書《割書:十ノ|四丁》国造本紀五。参河 ̄ノ国 ̄ノ造 ̄ハ志  賀 ̄ノ高穴穂 朝(ミカトニ)云々定 ̄メ_二-賜 ̄フ国 ̄ノ造 ̄ニ_一。また穂(ホノ)国 ̄ノ造 ̄ハ泊瀬(ハツセノ)朝倉 朝(ミカトニ)云々定 ̄メ賜 ̄フ  国造 ̄ノと見えたり。其 ̄ノ比は此 ̄ノ国内(クヌチ)の限 ̄リ も。参河 ̄ノ国とのみは云はす。今いふ  郡ほどの地(トコロ)をは。穂(ホノ)国と号(イヘ)る如く。何の国某の国と。いくつにも分(ワカ)れ  たりけむかし。 【右丁 行頭の〇は朱書き】 〇さて一国八郡の分(ワカチ)の。物に見えたるは。上にも云る如く。民部式と当抄  となり。 〇参河といへる名の由来(ユエヨシ)は。古風土記 絶(タエ)て物に見えざれど。 〇国名風土記《割書:上ノ|十二丁》 に。《割書:此 ̄ノ書宝永ノ刊本ニ此已有て。題号ニ日本風土記。巻ノ首に|日本記【ママ】之内国名と有て。国々の名の故(ユヘ)由をあら〳〵と記せり。》 〇【〇を見せ消ち】三河トハ。此 ̄ノ国 ̄ニ三ッノ河アリ。一《割書:ツ》ニハ男河(ヲトコカハ)。二《割書:ツ》ニハ豊(トヨ)河。三《割書:ツ》ニハ矢作(ヤハギ)河是也。  コノ三ツノ河ニ依テ。名(ナツケ)テ三河ト云。又 男(ヲツト)【左横に「男川イ本」と傍記】神トハ。河上 ̄ニ山神アリテ女神男神  一所(トコロ)ニハ栖(スミ)玉ハズ。立ヘダヽリテスミ玉フイ本。其名【「名」の左横に「処イ本」と傍記】ヨリ出ルヲ男神河ト云此 ̄ノ神世俗ニハ。  白鬚(シラヒゲノ)明神ト申ストカヤ。次ニ豊河トハ。市盛(イチモリ)【「市盛」の左横に「一リノ盛ナルイ本」と傍記】 ̄ノ長者アリケル。彼(カレ)ヲ  見レバ。此 ̄ノ河上ニスミ居玉フナリ。【「スミ居玉フナリ」の右横に「イ本ナシ」と記し線で見せ消ち】人屋サカンナル事廿里ナリ。彼 ̄ノ民家 豊(トヨ) 【左丁】  ニサカンナル故ニ。其 ̄ノ流を豊河ト号ス。又 矢作(ヤハギ)河ハ。日本尊【「尊」の右肩に挿入記号を付け、左肩に「武イ本」と傍記】。東〇【〇の左横に「征イ」と傍記】 ̄ニ下向シ  玉ヒシ時。夷(エビス)ノ兵ド【「ノ兵ド」を半丸かっこで括り「賊イ本」と傍記】モ。高石山(カウセキサン)ニテ《割書:按フニ傍(カタヘ)訓(カナ)のカウセキサンは誤にて。タカシ山と訓 ̄ム べし。|此事ハ古哥名積【注】考五いふべし。》 【注 「古哥名積」を朱で四角く囲んでいる。古哥名「蹟」とあるところか】  待カケ奉リシ由ニ聞召シ。彼 ̄ノ所ニテ多ク矢ヲ作リ【「リ」の右横に「ラセイ本」と傍記】玉ヒシ故ニ。其 ̄ノ所〇ヲ【左横に「名イ」と傍記】  矢作(ヤハギ)トモ。〇河【左肩に「メ或はヌ、イ」と傍記】 ̄ノ名ニモツケ玉フナリ。 〇また一本には。参河 ̄ノ国 ̄ニ有 ̄リ_二 三 ̄ツノ川_一。曰 ̄フ_二男川(ヲトコガハト)_一。二 ̄ノ曰 ̄フ_二豊(トヨ)川 ̄ト_一 三 ̄ヲ曰 ̄フ_二矢作川(ヤハキカハ) ̄ト_一。男川 ̄ハ者。  河 ̄ノ上 ̄ニ有 ̄リ_二山神_一。白髪明神 ̄ナリ也。豊川 ̄ハ者。北【「北」を見せ消ちにして右横に「此」と朱書き】河上。有 ̄リ_二長者_一。民屋豊饒 ̄ナリ。故(カレ)  曰 ̄フ_二 豊川 ̄ト_一。矢作川 ̄ハ者。日本武尊(ヤマトダケノミコト)【ママ】東征 ̄ノ時 ̄ニ。於 ̄テ_二【返り点「二」が脱落】河辺 ̄ニ_一。多(サハニ) 作(ハキ玉フ)_レ矢 ̄ヲ故(カレ)曰_二矢作  川 ̄ト_一【返り点「二」とあるは誤記】とあり。《割書:此一本ノ文。藤原惺窩主職原抄首書《割書:寛文|刊本》同参考《割書:宝永|刊本》等 ̄ニ。風土|記抄ニ云トテ引リ。伴信友主云。此本カナ書ノ方本ツ書ト見え【ママ】タリ。》  サテ此 ̄ノ書ムゲニ近 ̄キ世 ̄ノ物 ̄ニ ハアラズ。卜部家ヨリ出タル物ト見ユルコトアリ。中 ̄ニ ハ現(ウツヽ) ̄ノ古書 ̄ニ  記セル古伝【傳】ヲトリテ書キタルモ有レド。凡 ̄テ ハ国名 ̄ノ由緒ヲ。作者 ̄ノ私 ̄ノ押当 ̄ニ考タル            和考  四 【右丁 頭部】 〇按白鬚明神ノ社ノ設  楽郡長者 平(ヒラ)村ノ  隣村手【「手」の右横に「チ」と朱書き】洗所【「洗所」の左横に「ヤレイ」と朱書き】村ニアリテ  俗 ̄ニ本地(ホンヂ) ̄ノ宮 ̄ト称 ̄ス作手  郷三十六村 ̄ノ総社也 【右丁 文頭の〇は朱書き】  《割書:物ニテ。古ヘニ叶ハヌ|モノ也トイハレタリ。》〇二葉松等の書にも。此説に拠(ヨリ)て。矢矧川は。今も矢  矧川と称(トナ)ヘ。豊川は《割書:又姉(アネ)川|ともいふ》今の吉田川をいひ。男川は《割書:一名 扶止(ヲト)川。|又音川ともいへり》今の  大平(オホヒラ)川をいふとも。又は尾張との境なる川をいふとも云り。《割書:古事記伝【傳】にも。此の|説を挙られたり。》  また二葉松に。或説を載て。とゝ川は元来あと川也。大己貴 ̄ノ命諸国を巡り  給ふ時の。御足跡。今に諸国に在り。御足跡。池鯉鮒の野に在といふ。  菅清公 ̄ノ記に。足迹をトヽと訓にて。彼是引考るに。池鯉鮒宿の 《割書:ツネナリ云|三ツノ河ニヨリタル名ニハアラシ》いふなるべし。《割書:彼川の西。今岡村の西に又一流あり。これ境|川にて。彼 ̄ノ チリフ【知立】の西の流と共に海に入る。此》 《割書:等ノ口|三河 ̄ノ国》《割書:東二ケ口也サレハ豊川ハ田也今今岡村の続(ツヽキ)にイモ川の地名あり。今は芋川と訛り|西三河国ニアラズ。妹は女の通称にて。右の二流。女川男川なるべし。かゝれば》  《割書:チリフの西の流とつなく|男川なる事分明なるべし》といへり。 【左丁】 〇内山真竜の国号考《割書:予未 ̄タ その全|書を見ず》の説には。参河美濃尾張と共に一  国の地形なれど。別置く事物に見え【「人或はヘを見せ消ちにして右横に「え」と傍記】ず。上 ̄ツ代には参川 ̄ノ国とは云ずして。  許呂母高巣庶鹿穂飫(コロモタカスモロカホオ)。小月(ヲツキ)等いへり。古事記に三川之衣 ̄ノ君と  あるは。後を廻(メグ)らして記 ̄ル せし也。後 ̄ノ世に男川豊川矢作川。此以_レ称国号  といふは甚俗説なり。三川と書ても。加茂の御(ミ)川の意也。垂仁紀に大  中津日子 ̄ノ命 ̄ハ者許呂母 ̄ノ之 別(ワケ)。高巣庶鹿之別。落別王者(オチワケノミコハ)小月(ヲツキ)  之山之 祖也(オヤナリ)。これを始とす。小月は今賀茂郡に月原(クワチハラ)山の下に築山(ツキヤマ) ̄ノ  郷あり氏とす。姓氏録に小槻山 ̄ノ君 ̄ハ落別 ̄ノ命之後也とあり。凡  矢作川に属(ツキ)たる地。加茂郡衣 ̄ノ郷築山 ̄ノ郷。額田 ̄ノ郡山綱以北。古時       和考  五 【右丁 頭部の朱書き】 〇烏丸光広【廣】卿元和  四年東路記 ̄ニ を  と川ノ在処今ノ大平川  ノ如シ 〇山崎闇斎 ̄ノ画遊  記行 ̄ニ モ大平川  旧謂之男川  今俗亦曰_二夫川_一 【前のコマ(コマ7)と重複】 【右丁】 【行頭の〇は朱書き】  官道なり。加茂国号あるべきを。加茂郡を流るゝ河に基(モトヅキ)て。御川(ミカハ) ̄ノ国  といふ事になりけむと云り。《割書:中には信(ウケ)がたき事も多かり。こゝには|其の要(ムネ)とある事をつみ出て引り。》   〇斎藤彦丸の。諸国名義考にも。上に挙(アゲ)たる風土記の文を引て。信友    云。今遠江に《割書:タクヲ云フと|江ニハナラズ》二川といふ郷在てよ【「は」を見せ消ちにして右横に「よ」と朱書き】く似通ひて聞ゆ。彦丸思ふに    三大川に依て国 ̄ノ号としつるはかづなき物から。又思へば救をいはず。    たゞ大河を称(タヽ)へて。御(ミ)川と号(ナヅケ)け【「け」が重複】しにもあらむかといへり。 〇/因(チナミ)にいふ。二葉松 ̄ニ引る。菅 ̄ノ清 ̄ノ公 ̄ノ記とは。塵添壒嚢抄《割書:二ノ|七丁》云。尾張 ̄ノ国ニ  登々(トヽ)川 ̄ト云河アリ。菅清公記 ̄ニ云。大已貴少彦命ト巡国之時。往還足 ̄ノ  跡(アトナル)故 ̄ニ曰_二跡々 ̄ト_一。注 ̄ニ云俗 ̄ニ跡(アト)謂 ̄フ_二之■【文字を特定し難し】々(トヽ) ̄ト_一云へり。サレバトヽ ̄ト云フハ。足アトノ名 ̄ニ テアル 【左丁】  ヘキニヤとあり。此 ̄ノ書より取れるなるべし。 〇こは古事記《割書:上ノ|四丁五丁》に。大穴牟遅 与(ト)_二【「レ」点に見えるが「二」と有るところ】少名毘古那_一 二柱 ̄ノ神相 ̄ヒ並 ̄ヒテ作 ̄リ_二堅 ̄メ《割書:玉フ》此 ̄ノ国 ̄ヲ_一。【訓点脱落】  また大三輪鎮座次第記に。初 ̄ノ伊弉諾伊弉冉 ̄ノ二神(フタハシラノカミ)共 ̄ニ生_二 ̄ミ《割書:玉ヒキ》大八洲国  及(マタ)処々 ̄ノ小島 ̄ヲ_一而 ̄シテ地(クニ)稚(ウヒシク)如(ナス)_二水母(クラゲ)_一浮(ウキ)漂(タユタフ)之時 ̄ニ。大已貴 ̄ノ命与(ト)_二。少彦名 ̄ノ命_一【訓点脱落】  戮(アハセ)_レ力 ̄ヲ一(ムツビ)_レ心 ̄ヲ殖生(ウエオフ) ̄シ_二【訓点の脱落】薦葦菅(コモアシスゲ) ̄ヲ_一固 ̄メ_二造 ̄リ《割書:玉ヒキ》国地 ̄ヲ_一。【訓点の脱落】故(カレ)号(ミナヲ)曰 ̄ス_二国造 ̄リ大已貴 ̄ノ命 ̄ト_一。因以(コレニヨリ) ̄テ  称曰(イフ)_二【訓点脱落】葦原 ̄ノ国 ̄ト_一と見えたる時の事にして。伊予 ̄ノ国 ̄ノ風土記に。湯 ̄ノ郡 ̄ハ大(オホ)  穴持(ナモチ) ̄ノ命 見悔耻而(〇〇〇〇)。宿奈毘古那(スクナビコナ) ̄ノ命而 ̄メ 漬浴者(ソヽギシカバ)。蹔間(シマシホト) 有(アリ) ̄テ活起居然(サメマシテ)。  詠(ウタヒ) ̄テ_二曰 真蹔寝哉(マシバシネツルカモ) ̄ト_一。践健(フミタケビ) ̄シ跡処(アト)。今 ̄モ在 ̄リ_二湯 ̄ノ中 ̄ノ石 ̄ノ上 ̄ニ_一とあるも。其 ̄ノ跡所(アト)  の残れるなり。                      和考  六 【右丁】 【行頭の〇は朱書き】  当(コノ)【當】国の古老(オイビト)の口碑(クチヅタヘ)に。大古(オホムカシ)ダイダラボツチといふ神在りて。本宮山石巻山  等(ナド)を海原(ウナバラ)より荷(ニナ)ひ上 ̄ゲて作れり。また其神本宮山に尻掛 ̄ケ居て。海にて  其 ̄ノ足を洗ひしなどいう云 ̄ヒ伝【傳】へたり。今其 ̄ノ足跡といひ伝【傳】ふる地。所々に在(ア)り。  近くは予(オフ?)か此 ̄ノ羽田村の地内。字 ̄ノ西羽田といふ所より西南の畑 ̄ノ中 ̄ニ在 ̄リ て足の  形の如き窪(クボ)みたる空地(アキチ)ありて。草生てありしを。近 ̄キ年次々に埋(ウヅミ)て畑となし。  今は其形さへ残らずなれり。《割書:近き頃まで。其 ̄ノ跡ありし|と村老ともいへり。》また同郡高足村に右 ̄リ の  足跡。同郡小嶋村《割書:アタゴ山といふ地に在也。又|同村カホウヤト云処ニモアリト云リ》に左の足跡と云 ̄ヒ伝【傳】ふる所あり。  《割書:本宮山にも姥(ウバ)か足跡といひ|伝【傳】ふる跡岩の上にあり。》其 余(ホカ)【餘】にも処々にあるべし。 〇常陸国風土記に那賀郡平津駅【驛】家 ̄ノ西一二里 ̄ニ有 ̄リ_レ岡名(ナ) ̄ヲ曰 ̄フ_二大櫛 ̄ト_一 上古有 ̄リ_レ 人   【左丁】  躰(ムクロ) 極長大(キハメテオホキ)《割書:也》。身居(ミハヰテ)_二【訓点の脱落】丘壟(オカ)之上(ノウへ) ̄ニ_一手蜃【この二字の左に〇を付記】《割書:伸(ノベテ)_レ手 ̄ソ 捕(トレリ)_レ蜃 ̄ヲ ナトアリケンヲ。|伸捕字ノ脱タルヘシ。》其所食(ソノクラヒシ)貝(カヒ)積聚(ツモリテ)  成(ナレリ)_レ岡(ヲカト)。時人(ヨソヒト)不朽之義【この四字の左に〇を付記】《割書:由大朽之義謂大朽|ナド云文ノ脱タルナルベシ》今謂(イマイフ)_二大櫛之岡 ̄ト_一。其践 ̄シ跡長 ̄サ四十【表記は横一に縦線四本】余【餘】歩。  広【廣】 ̄サ廿余【餘】歩。尿穴住(イバリアナノアト)《割書:跡ノ|誤カ》可廿余歩許。 〇また榊原玄輔が。榊原談苑といふ書に。から国に巨人跡といふは。北方の俗 ̄ニ  大多法師の足跡といふもの也といへり。按(オモフ) ̄ニ此大多法師。ダイダラポッチなどいふは。  大已貴 ̄ノ命の御名を訛(ヨコナマリ)伝【傳】へたるにて。神代の古伝【傳】の遺(ノコ)れるなるへし。《割書:実にも|この》   《割書:大神。少彦名命ともろともに。からのえみしの八十国迄も造り堅め|たまひしなれば。かの国にも其跡所の遺り仕むかし。》                    和考  七 【右丁】 【行頭の〇は朱書き】 〇此書は醍醐天皇 ̄ノ第四 ̄ノ 皇女(ヒメミコ)勤子 ̄ノ内親王の命(オフセ)を承て。従五位上能登  守源 ̄ノ順(シタカフ)主の撰録されたるもの也。順主は。永観元年七十二歳にて卒(マガ)  られたる由。大日本史《割書:二百十八|文学 ̄ノ五》に。歌仙伝【傳】系図等を引て云はれたり。永観  元年より。今年天保十年まで。八百五十六年になれり。 〇此書の郡名を。延喜式《割書:廿二之巻|民部式》と比挍(クラブ)るに大かた合(ア)へり。 〇伴信友主の説に。和名鈔に収(イレ)たる郷名は。古への風土記などの如く。諸  国に課(オフセ)て。公(オホヤケ)に注進(タテマツ)らせ給へるものにて。其 ̄ノ国人の唱(トナヘ)伝【傳】へたるまゝを注(シル)  せるものと見えたり。故(カレ)唱注の仮【假】字の用ひさまもとり〳〵にて。大概等(オホクノヒト)  しからず。或は仮字(カナ)にて書る地 ̄ノ名に唱注を施(ツ)け。又 読(ヨメ)【讀】がたき地 ̄ノ名に。唱注の 【左丁】  なきもありて。さま〴〵なり。故 ̄レ古 ̄ヘの唱(トナへ)のまゝなるあり。古くより言(コト)の通へるあ  り。後に言の転(ウツ)【轉】り通へるあり。音便にて訛(アヤマ)れるあり。言を省(ハブ)けるあり。  名を換(カヘ)たるあり。訓 ̄ミ誤れるあり。字(モジ)音(コヱ)て唱(トナ)ふるあり。旧(モト)より字音に唱(トナ)  ふへきあり。韓(カラ)語なるあり。古へと仮字の違へるなど有て。とり〳〵なるは。  其国にて唱ふるまゝを録(シル)されたる也といへり。 〇さて出雲風土記《割書:上ノ|二丁》に。郷 ̄ノ字 ̄ノ者依 ̄リテ_二霊亀元年 ̄ノ式 ̄ニ_一改 ̄ニ_レ里為_レ郷 ̄ト と有て。  記 ̄ノ中所 ̄ノ名を悉(ミナ)郷としるせしを始 ̄メ。肥前豊後の古風土記はいふも  さらなり。後の総国風土記にも。悉く郷と記(シル)せれば。今はそれに。  拠(ヨリ)て。郡郷考とは号(ナヅ)けつ。                       和考  八 【右丁】  天保十年五月  賢木園主人羽田埜敬雄【花押】 【左丁】 【第一行目朱書き】 三川国古蹟考三之巻上之草稿 倭名荘鈔参河国【國】郡郷考              羽田埜敬雄 輯考 和名鈔五之巻国【國】郡部 参河《割書:三加|波》  《割書:〇日本紀《割書:廿五ノ|九丁》同《割書:三十ノ|廿一丁》続日本紀《割書:二ノ|十五丁》旧事記《割書:十ノ|四丁》|〇令義解《割書:一ノ|初丁》姓氏録《割書:上ノ|十一丁》万葉集《割書:一ノ》等ニ参河ト作(カケ)リ。》  〇古事記《割書:中ノ|廿四丁》同《割書:中ノ|卅四丁》旧事記《割書:五ノ|廿三丁》等三川ニ作(カケ)リ。旧事記《割書:五ノ|十六丁》日本紀《割書:廿五ノ|十六丁》続【續】紀   《割書:二ノ|十五丁》令義解《割書:二ノ|一丁》等 ̄ニ三河ト作リ。旧事記《割書:七ノ|卅四丁》続紀《割書:廿八ノ|十八丁》参川 ̄ニ作(ツク)レリ。   其 ̄ノ余(ホカ)余【餘】多アリ今略_レ之。 参河(ミカハ) ̄ノ国【國】《割書:国府在 ̄リ_二宝(ホ)【寶】飯 ̄ノ郡 ̄ニ_一【訓点脱落】|行程上十一日下六日。》                     和考  九 【右丁】 【行頭の〇は朱書き】 〇 皇孫(アマツカミノミコ)迩々芸(ニヽギ)【藝】 ̄ノ命の天降(アモリ)ました時。皇産霊(ミムスビ) ̄ノ大神。天照大御神の詔命(オホミコト)  もちて。諸部(モロトモ)の神 等(タチ)を副(ソヘ)たまひて。其 ̄ノ職(ツカサ)【左に「ワサ」と振り仮名】に傔(ツカヘ)奉(マツレ)ること。天上(アメ)の儀(ミワザ)の如く  せよと。御依(ミヨサ)し【おまかせに】坐(マセ)る詔命(ミコト)のまに〳〵【~に従って】。上つ御代には其 ̄ノ神裔(ミスヱ)の氏人たち。臣連(オミムラジ)  伴造(トモノミヤツコ) 首(オビト)を始 ̄メ。八十伴男(ヤソトモノヲ)の臣等(オミタチ)。歴世(ヨノツギ〳〵)に其家々の職掌(ナリハヒ)を守りて。神世人 ̄ノ世  の隔なく。神事公事(カムワザオホヤケゴト)の分別(ケヂメ)もなく。帷神(カムナガラ)に嗣(ツ)ぎ仕 ̄ヘ奉て。いはゆる世-官【せいかん=代々同じ官職をつぐこと】の  さまに。万 ̄ツ の御政事(ミヲサメゴト)仕 ̄ヘ奉り。また各国(クニ〳〵)県里(サト〳〵)に住(スメ)る国造(クニノミヤツコ)には。国 ̄ノー造。  君。別。県(アガタ)【縣】主(ヌシ)。村主(スクリ)。稲置(イナキ)。直(アタヘ)などの差別(ケヂメ)ありて。等(ミナ)正く其 ̄ノ所々  を領治(アツカリヲサ)め。神事をも兼て。皇祖神(スメミオヤカミ)等の神勅(オホミコト)のまに〳〵。これもいは  ゆる封建のさまに仕 ̄ヘ奉 ̄リ 来て。余(ホカ) 【餘】に吾(ワ) ̄ガ業(ナリ)に勝(マサ)りて利(クボサ)ある職(ワザ)あれとも。  其(ソ)を望み欲(ホリ)する事なく。掌(ミル)る事なかりし故に。各々其 ̄ノ職業(ナリワザ)に精(クハシ)く。  人々其 ̄ノ分々(ホド〳〵)に安居(ヤスヰ)して。紛(マキ)るゝ事なく。上を闚闞(ウカヾ)ひ他(ホカ)を冀望(コヒノソ)む事  などはかつてもあらずて。若干(コヽバク)の御々代々(ミヨ〳〵)を経(ヘ)て。御世は美(メデタ)く治まり 【左丁】  来(コ)しを。かの聖徳太子。ふかく儒仏の道を好(コノ)み給ひて。万 ̄ツ それに  倣(ナラ)【振り仮名は朱書き】はまほしく【朱で「ホシク」と注記しているが、原文が仮名なので仮名書きとした。】思召(オホシメ)し位 ̄ノ階(シナ)を定め。儀制(シワザ)を飾(カサ)りなど。強て戎風(カラブリ)に威(イキ)  儀(ホイ)【朱で注記】をもてつけ給む。また仏道の女々しき説(コト)をも畏(カシコ)み給ひて取 ̄リ用ひ  給へるより。世の人意 ̄カ それに移 ̄リ行て。うはべは雄々(をヽ)しく。裏(シタ)は女々(メヽ)しく  成ゆくまに〳〵。次々に上(ウハ)べを取 繕(ツクロ)へる彼 ̄ノ たちたき制(サダメ)をうつし給ひ。  且 御政事(ミマツリコト)を蘇我(ソガ)氏の己(オノ)が随(マニ〳〵)に為(シ)つるより。それ例(タメシ)となりて。後には  臣等(ヲミタチ)の権威(イキホヒ)のみ。大きく強(ツヨ)く成ぬべき有状(アリサマ)にて。世の人意わかつ賢(サカシ)く  変(ナ)【朱で注記】れる故に。孝徳天皇の御世。中大兄皇子(ナカノオホエノミコ)と中臣鎌子連(ナカトミノカマコノムラシ)と御心  を合せ給ひて。彼蘇我氏を滅(ホロホ)し給む。さて其 弊(ツヒエ)を直し臣(オミ)等の勢ひ  を強からしめじと【「シメジト」と朱で注記】。殊更に厳(キビシ)き制度(ミオキテ)を設(マケ)給ひて。かの世官なる諸  部の職(ツカサ)を廃止(ヤ)めて。百【「而」とある右横に朱で「百」と注記】 ̄ノ官(ツカサ)を立 ̄テ給ひ。其 部(ムレ)ならぬ人にても才(カド)あるをば  挙用ひて。其 ̄ノ職(ツカサ)を掌(シ)らしめ給ひ。また封建のさまなる。国々の国造等【「事」とある右横に「等」と朱書き】                 和考  十 【右丁】 【行頭の〇は朱書き】 をも停廃(ヤメ)て。郷県【縣】の制(サダメ)を用ひて。各国(クニ〳〵)に府を定て。国司(クニノミコトモチ)郡司等を 置て治めしめ給ふつとゝはなり給い。こは平田大人の古史徴開題記の意をうけていへり 〇此時までは。上つ御代より在来(アリコ)しまゝに。神事(カムワザ)国政(マツロヘコト)一つなりしかば。朝廷(ミカド)に  ては大臣大連(ヲホオミヲホムラシ)等を始。其 ̄ノ 神事を兼(カネ)掌(シ)り給ひ。各国(クニ〳〵)にては国 ̄ノ造その  上(カミ)として。神事を掌(シリ)しを。此 ̄ノ御制(ミサタメ)の時より。朝廷には。別(コト)に神祇官(カムツカサ)【振り仮名、「カ」の脱落】を  置て。其 ̄ノ官(ツカサ)の官人(ツカサビト)に神事を掌(シ)らしめ給ひ。各国(クニ〳〵)にては国 ̄ノ司 京(ミヤコ)より  下りては。国 ̄ノ改は国 ̄ノ司の知る事となりしかば。国の神事は旧(モト)のまゝ国 ̄ノ造  の知り行ふ御制(ミノリ)となれりし也。此 ̄ノ事諸書に見えて。官社私考【この四字を朱で四角く囲んでいる。】の  上ツ巻の大旨(オホムネ)にいへるが如し。 〇然して。国には守介掾目(カミスケマツリゴト人サクワン)の四等(ヨシナ)。郡には大領(コホリノミヤツコ)少領(スケノミヤツコ)主改(マツリゴト人)主帳(フミヒト)の  四等(ヨシナ)を定め給ひし也。《割書:郡司とは則此 ̄ノ四等|の郡領の総名(オナ)なり。》  〇孝徳天皇紀《割書:廿五ノ|廿七丁》大化二年八月 詔(ミコトノリ)に。郷大夫(マヘツギミタチ)。臣連(オミムラシ)伴造(トモノミヤツコ)氏々 ̄ノ人 等(トモ)。咸(ミナ) 【左丁】   可(ベシ)_二聴聞(ウケタマハル)_一【訓点の脱落】今 以(ヲ)_二汝等(イマシラ)_一使仕状者(ツカヘマツラシムサマハ)。改(メ)_二去(ステヽ)旧職(モトヨリノツカサ) ̄ヲ_一【訓点の脱落】新 ̄タニ設 ̄ケ_二【訓点の脱落】百官 ̄ヲ_一。及(マタ)著(ツケ)_二【訓点の脱落】位階(タノシナ) ̄ヲ。以 ̄テ_二官(ツカサ) ̄ノ   位_一【訓点の脱落】叙(ツイツ)云々。また罷(ヤメテ)_二昔(ムカシ) ̄ノ在 天皇等所立子代之(スメラミコトタチノタテタマヘルミコシロノ)民。処々 ̄ノ屯倉(ミヤケ)及(マタ)臣連伴造(オミムラシトモノミヤツコ)国(クニ) ̄ノ   造(ミヤツコ)村首(ムラオビト) ̄ノ所有(タテル)部曲(カキベ) ̄ノ之民。処々 ̄ノ田荘(タドコロ) ̄ヲ_一仍賜 ̄フ_二食封(ヘヒト)【「ヘビト」は正しくは「ヘヒト」】 ̄ヲ_一とあり。 〇職員令《割書:一ノ|八十丁》。守(カミ)一人。掌 ̄ル_下祠社戸-口簿帳字-_二養 ̄シ百-姓 ̄ヲ_一勧-_二課 ̄シテ農桑 ̄ヲ_一糺-_二察 ̄シ  所部 ̄ヲ貢 ̄ノ挙孝-義田-宅良-賤 ̄ノ訴-訟租調倉廩徭役兵 ̄ノ士器-杖鼓吹郵-  駅【驛】伝-【傳】馬烽-候城-牧過所公-私 ̄ノ馬-牛闌-遺 ̄ノ雑-物及 ̄ヒ寺 ̄ノ僧-尼 ̄ノ名籍 ̄ノ事 ̄ヲ_上。   祠社義解 ̄ニ。謂 ̄ル祠 ̄トハ者祭 ̄ル_二百神 ̄ヲ_一也(ナリ。)社 ̄トハ者検-_二校 ̄スルヲ《割書:云》諸社 ̄ヲ_一【訓点脱落】也(ナリ)。凡称 ̄スル_二祠社 ̄ト皆准 ̄ヒ_二此(ヨ) ̄ノ例 ̄ニ_一と   あり。  介(スケ)一人。掌 ̄ルコト同 ̄シ_レ守 ̄ニ。大掾(オホヒマツリコト)《割書:人》一人。掌 ̄ル_下糺判 ̄シ国内 ̄ヲ_一審-_二署 ̄シ文案 ̄ヲ_一句(カムカヘ)_二稽失 ̄ヲ_一察 ̄スルコトヲ_中非  違 ̄ヲ_上。少掾(スナイマツリコト)《割書:人》一人。掌 ̄ルコト同大掾 ̄ニ_一。大目(オホイサウクワン)一人。掌 ̄ル_下受 ̄ケテ_レ事 ̄ヲ上(ノセ)抄(シルシ)勘 ̄ヘ署 ̄シ_二【訓点脱落】文案 ̄ヲ_一検_二  出稽失 ̄ヲ_一【訓点脱落】読 ̄ミ-申 ̄スコト公(ク)文 ̄ヲ_上。少目一人。掌 ̄ルコト同大目 ̄ミ_一。史生(フムビト)三人。 〇光仁紀《割書:三十三ノ|十七丁》宝亀六年三月始 ̄ニ置 ̄ク_二参河 ̄ニ大少目員 ̄ヲ_一【訓点脱落】。               和考  十一 【右丁】 【行頭の〇は朱書き】 〇式部式《割書:十八ノ|十六丁》諸国史生は者云々。上国 ̄ニ四人云々。並 ̄ニ不_レ得_レ任 ̄スルコトヲ_二【訓点脱落】当【當】国 ̄ノ人 ̄ヲ_一 〇職員令《割書:一ノ|八十一丁》上国 ̄ノ守《割書:従五|位下。》介一人《割書:従六|位上。》掾一人《割書:従七|位上。》目一人《割書:従八|位下。》史生三人とあり。   当【當】国はいはゆる。上国なれは。上国の例(タメシ)のみ引い。其 ̄ノ意して見るべし。さて   後 ̄ノ世には。上国にも守介掾ともに。権官ある事。職原抄《割書:下ノ|廿三丁》に見ゆ。 〇さて守(カミ)は。一官の座上に在 ̄リ て惣裁たり。大政官の大臣の如く。今の老中の如し。  介(スケ)は。次官にて。守を介(タス)けて。手代(テガハリ)となる役なり。大政官の納言の如く。今の若年  寄の如し。掾は其 ̄ノ一官の事を執(トリ)て。其 ̄ノ務多く。下(シモ)の事を上(カミ)へ告(マヲ)し。上の事を下に  宣(ノリ)て。大政官の少納言。弁【辨】官等の如く。俗にいふ役所の世話やき也。目は一官中の  執筆(フテトリ)にて。大政官の史(フビト)の如く。今の祐筆の如しとぞ。 〇国 ̄ノ司は四年の任限にて交替する事なり。  〇続紀《割書:廿一ノ|十七丁》天平宝字二年九月 ̄ノ勅 ̄ニ。頃年【近年】国司 ̄ノ交替。皆以_二 四年 ̄ヲ_一為_レ限 ̄ト云々。  〇日本紀略 弘仁六年七月云々。諸 ̄ノ国 ̄ノ司 ̄ノ遷替 ̄ハ次_二 四年 ̄リ【この送り仮名「リ」は次の字「為」につけるのが妥当】_一為_レ限 ̄ト云々。《割書:日本後紀十二|逸史廿三 ̄ノ九丁》 【左丁】  〇類聚三代格 承和二年七月云々。諸国 ̄ノ守介 ̄ハ四年 ̄ヲ【「ヲ」は朱書き】為_レ歴 ̄ト云々《割書:此コト続後紀ニハ|見エズ》  〇官職難義 ̄ニ云。一任とは四ヶ年を申 ̄ス也。但 ̄シ陸奥出羽西海道は遠路たる間。   往還不便の故。一年延て一任五年なり。  〇さて戸令《割書:二ノ|廿丁》。凡国守毎年一 ̄タヒ巡-_二行 ̄シテ属郡 ̄ヲ_一観 ̄ル_二風俗 ̄ヲ_一云々。   職員令《割書:一ノ|八十三丁》国 ̄ノ博士(ハカセ)医師(クスシ) ̄ハ国 別(コト) ̄ニ一人。其 ̄ノ学生 ̄ハ云々。上国四十【横一に縦棒四本】人。医生減 ̄シテ_二 五分 ̄ノ   之一 ̄ヲ_一と見え。また国々に軍団といふ分ありて。兵士を数多置れし事也。 〇職員令《割書:一ノ|八十二丁》大郡。大領一人。掌 ̄ル_下撫-_二養 ̄シ所部 ̄ヲ_一検-_二察部領 ̄ヲ_一事 ̄ヲ_上△主政三人掌 ̄ル_下糺  判 ̄シ_二【訓点の脱落】郡内 ̄ヲ_一審-_二署 ̄シ文案 ̄ヲ_一句 ̄ヘ_二稽失 ̄ヲ_一【訓点の脱落】察 ̄スルコトヲ_中非違 ̄ヲ_上。主帳三人。掌_下受 ̄テ_レ事 ̄ヲ上 ̄セ抄 ̄シ勘-_二署 ̄シ文  案 ̄ヲ_一検-_二出 ̄シ稽失 ̄ヲ_一読- ̄シテ_中申 ̄スコトヲ公文 ̄ヲ_上△少領一人。掌 ̄ルコト同 ̄シ_二大領 ̄ニ_一。  〇当【當】抄《割書:五ノ|二丁》長官 ̄ヲ曰_二大領(カミ) ̄ト_一次官 ̄ヲ曰_二少領(スケ) ̄ト_一。判官 ̄ヲ曰_二【注】主政(マツリコトス) ̄ト_一。【注】佐官 ̄ヲ曰_二主帳(サクワン) ̄ト_一。 〇孝徳天皇紀《割書:廿五ノ|十丁》凡郡以_二 四十里 ̄ヲ_一為_二大郡 ̄ト_一。三十里以下四里以上 ̄ヲ為_二 中郡 ̄ト_一。 三里 ̄ヲ  為_二小郡 ̄ト_一。其 ̄ノ郡 ̄ノ司 ̄ハ並取 ̄テ_下国 ̄ノ造 ̄ノ性識清廉堪 ̄フト_二【訓点「一」は誤記】時務 ̄ニ_一者 ̄ヲ_上為_二 【訓点の脱落】大領(コホリノミヤツコ)少(スケ) ̄ノ領 ̄ト_一強_レ幹聰 【注 ここの訓点は朱書き】                和考  十二 【右丁】 【〇△は朱書き】  敏工 ̄ミサル_二書算 ̄ニ_一者 ̄ヲ為 ̄セヨ_二主政(マツリコト)《割書:人》主帳(フミビト) ̄ト_一。 〇元明天皇紀《割書:六ノ|四丁》和銅六年五月。制 ̄スラク夫郡司 ̄ノ大少領 ̄ハ以_レ【訓点の脱落】終 ̄ルヲ_レ身 ̄ノ為_レ【訓点の脱落】限 ̄ト。非 ̄ス_二遷代 ̄ル之  任 ̄ニ_一。云々〇類聚国史《割書:廿九|神祇十九》延暦十七年三月 ̄ノ詔 ̄ニ曰。昔 ̄ノ難波 ̄ノ朝廷始 ̄テ置 ̄ク_二諸郡_一。仍  択【擇】 ̄テ_二有労 ̄ヲ_一補 ̄ス_二於郡領 ̄ニ_一。子孫相襲 ̄テ永 ̄ク任_二其 ̄ノ官 ̄ニ_一なとあり。逸史七ノ四丁 ̄ニモ 〇かゝれは京より任に下れる。国 ̄ノ司等の官人は四ヶ年限に遷代(カハ)れど。郡 ̄ノ司等は。  其 ̄ノ国の住人を任(マケ)らるれは。身を終(オフ)ること替(カハ)らざる也。  〇国に大上中下の差別(ケヂメ)ある事。職員令を始 ̄メ。続紀《割書:十六ノ|十丁》に。大中上下の事   見えるれど。六十八ケ国国 毎(ゴト)に載(シル)したるは。民部式其 ̄ノ始也。後 ̄ノ世には   拾芥抄《割書:四》職原抄《割書:四》などに見ゆ。  〇桑家漢語抄 ̄ニ。領律 ̄ニ云。行程百五十里四囲【圍】 ̄ヲ為_二【訓点の脱落】大国 ̄ト_一【訓点の脱落】。百里四囲【圍】 ̄ヲ為_二【訓点の脱落】 上国 ̄ト_一。   八十里四圍 ̄ヲ為_二 中国 ̄ト_一。五十里四圍 ̄ヲ為_二 下国 ̄ト とあり。  〇民部式《割書:廿二ノ|二丁》参河 ̄ノ国上とあるは。上に挙(アゲ)たる如く。上国といふ事也。〇鴨 ̄ノ祐之郷 ̄ノ 【左丁】 △  大八州記《割書:六ノ|十九丁》当【當】国 ̄ノ条に。一 ̄ニ云山河多 ̄ク【「ノ」に見えるが誤記と思われる。】而【右下に〇 さらに注記あり[注]】浅 ̄キコト一尺。故 ̄ニ五穀不_レ熟 ̄ラ。国乏 ̄シ。下々 ̄ノ小   国也。とあるは。何等の書に出たるにや。 〇さて上つ御代は如(カヽル)御制(ミサタメ)にてありしを。鎌倉 ̄ノ二位頼朝 ̄ノ卿。平家を討(ウチ)たまひし  功(イサヲ)に依て。惣追捕使といふ職(ツカサ)に任(メサ)【左横に「ヨサヽ」と傍記】れ給ひてより。毎国(クニゴト)に守護をおき。郡 毎(ゴト)  に地頭を置て政事を執 ̄リ行はせけれは。いつとなく国司領家の威勢(イキホ)  うすらひゆき。其 ̄ノ上乱世打続きて。武家(モノヽフドモ) 威(イキホヒ)を檀(ホシキマヽ)にせしかば。後(ノチ)には国 ̄ノ司の  下り給ふ事等も絶て。遂には其 ̄ノ制(ミノリ)も立ずて。今 ̄ノ【「ヲ」の送り仮名を朱で消し「ノ」と朱書き】世の如くにはなりつる也。  されど自然(オノヅカラ)に封建の制(ミサダメ)なる古 ̄ヘ に復(カ)へるも。やがて神の御意にもあらむかし。 さて国府は。国 ̄ノ司の下りて舘せる処をいへり。いづれの国なにも。其 ̄ノ国の真中(モナカ) に在て。府また府 ̄ノ中ともいへり。  〇戎籍韻会【會】に。唐 ̄ノ制 ̄ニ大州 ̄ヲ曰_レ府 ̄ト。兵衛 ̄ヲ曰_レ府 ̄ト とありとそ。                 和考  十三 【注】土蔵宗歟【「土■宗」を見せ消ち】 【右頁上部欄外】 日本鹿子《割書:六ノ|六丁》 下々国四方一 日半 【左丁頭部欄外 朱書き】 塩尻云国府又 国衙ト称ス世説云 近代通謂府ノ述給 公衙即古之公朝也 ト然ルトキノ同事 ̄ニ シテ 異議ナシ 【行頭の○は朱書き】 指掌図云。古昔国司 ̄ノ居処 ̄ヲ謂 ̄府 ̄フ_二之官府 ̄ト_一《割書:今存府|中遺_レ名》後世戦国 ̄ニ有押領司。と いへり。此説いはく国府 古の府の地。今の八幡白鳥久保 ̄ノ辺(アタリ)より。今の国府の辺まで係(カケ)て悉(ミナ)其 ̄ノ所な るべし。古老の説云。古の街道は。今の赤坂の北を通りて。鷺坂に切たり。《割書:今も|八幡》 《割書:□□□□□□□□□【張り紙があり、その上の文字に隠れ、判読できず】小坂を。鷺坂といへり。太平記|□□□□【張り紙があり、その上の文字に隠れ、判読できず】。建武ニ年十月鷺坂合戦の事あり》上宿《割書:八幡ノ地内也。古ノ|御■宿也といへり。》八幡に係(カヽ) りて。豊川宿へ出。《割書:今ノ古宿村ヨリ豊川村カケテ|古ヘノ豊川宿ナルベシ。》今の三明寺の辺より。当古和田 《割書:建久年中。頼朝公上|洛ノ■ノ古跡アリ。》/橋下(ハシモト)にいたる。これ古への本街道なりといへり。 ○伊豆日記の。永暦元年二月。源 ̄ノ頼朝主。伊豆の配所に趣きゐぬ/条(クダリ)に廿五 日/矢作(ヤハギ) ̄ニ宿 ̄ス。廿六日大江 ̄ノ入道定厳 ̄ガ豊川 ̄ノ之舘 ̄ニ休息 ̄ス云う。同日浜名 ̄ニ宿 ̄ス 【右丁】 【行頭の〇は朱書き】  指掌図 ̄ニ云。古昔国司 ̄ノ居処 ̄ヲ謂 ̄フ_二之官府 ̄ト_一《割書:今存府|中遺_レ名》後世戦国 ̄ニ有_二押領司_一【訓点の脱落】。と  いへり。《割書:此説いろ〳〵》 〇古の府の地は。今の八幡白鳥久保 ̄ノ辺(アタリ)より。今の国府の辺まで係(カケ)て悉(ミナ)其 ̄ノ所な  るべし。古老の説に。古 ̄ヘ の街道は。今の赤坂の北を通りて。鷺坂にかゝり。《割書:今も|八幡》  《割書:村西明寺の門前なる小坂を。鷺坂といへり。太平記|十四ノ十二丁。建武二年十月鷺坂合戦の事あり》上宿(ウハジユク)《割書:八幡 ̄ノ地内也。古 ̄ノ|御油宿也といへり。》八幡に係(カヽ)  りて。豊川宿へ出。《割書:今ノ古宿村ヨリ豊川村カケテ|古ヘノ豊川宿ナルベシ。》今の三明寺の辺より。当-古 和-田  金-田 岩崎《割書:産土神クラカケノ社アリ。建久中|頼朝卿。鞍 ̄ヲ奉納ニフレタリ。》等を経(ヘ)て。山坂をこえて。雲谷(ウノヘ)【「ウノヤ」とあるところ】へ出て。《割書:普門|寺 ̄ニ》  《割書:建久年中。頼朝 ̄ノ卿上|洛ノトキノ古跡アリ。》橋下(ハシモト)にいたる。これ古 ̄ヘ の本街道なりといへり。  〇伊豆日記の。永暦元年三月。源 ̄ノ頼朝主。伊豆の配所に趣き給ふ条(クダリ)に。廿五   日 矢作(ヤハギ) ̄ニ宿 ̄ス。廿六日大江 ̄ノ入道定厳 ̄ガ豊川 ̄ノ之舘 ̄ニ休息 ̄フ云々。同日浜名 ̄ニ宿 ̄ス。  〇源平盛衰記《割書:廿三ノ|九丁》治承四年平家東征 ̄ノ条に。十月四日三川 ̄ノ国矢矧   ニ ツク。五日同豊川 ̄ニ ツク。六日遠江 ̄ノ国 橋下(ハシモト) ̄ニ ツク云々。 【左丁】  〇東鑑《割書:卅二ノ|五丁》嘉禎四年二月。将軍頼経 ̄ノ卿上洛 ̄ノ条 ̄ニ。七日癸未著_二【訓点脱落】御橋-本 ̄ノ   駅 ̄ニ_一云々。八日甲申云々著_二御豊河 ̄ノ宿 ̄ニ_一云々。九日乙酉矢作 ̄ノ宿 ̄ニ入御云々。  〇同書《割書:卅二ノ。|卅一丁》同十日御帰路 ̄ノ条に。十八日己未云々。入_二御矢作 ̄ノ宿云々。十九日庚   申云々。戌 ̄ノ一尅著 ̄ト_二御豊河 ̄ノ駅 ̄ニ_一。廿日辛酉云々。辰 ̄ノ尅出-_二【訓点「一」は誤記】御於 本野原(モトノハラ) ̄ニ_一。云々   酉 ̄ノ尅 橋下(ハシモト) ̄ニ御 宿(トマリ)云々。  〇同書《割書:十ノ|六十四丁》建久三年十二月。頼朝 ̄ノ郷関東下向 ̄ノ条に。十八日小熊十九日   宮路山中 ̄ニ宿《割書:シ玉フ》。廿日橋本云々。  〇貞応海道記 ̄ニハ稚鯉鮒(チリフ)か馬場(ウマバ)。八橋矢矯 ̄ノ宿泊。赤坂本野が原   豊川宿 ̄ニ泊。峯野原 高志(タカシ)山 等(ナド)を経て。橋本に泊りし趣(サマ)なり。  〇仁治道之記にも。二村山 八幡 矢はぎ泊。宮路山 赤坂 ほむのがはら   豊川 たかし山をへて橋本に泊(トマ)りしと見えたり。  〇これら皆今の鷺坂 ̄ノ辺より八幡(ヤハタ)へかゝり。豊川 ̄ノ宿を経(ヘ)て橋本へ出ける趣(サマ)也。                和考 十四 【右丁】 【行頭と一部文中の〇は朱書き】  されど仁治道之記の。豊川宿の条(クダリ)に。此道は昔よりよくる方なかりしかば。  近き頃俄にわたふづ《割書:渡津ノ|コトナルべシ》の今道といふかたに。旅人多くかゝるあひだ。  今は其 ̄ノ宿の人の家居をさへ。外にうつすなどぞいふなる云々。とあるは。其 ̄ノ  比より今の街道の方を。往かふ人多くなりて。つひに豊川は古宿(フルジユク)の名のみ  残れるなるへし。《割書:〇統叢考ニハ豊川ニカヽルヲ【「リ」は誤記と思われる】上ノ道トイヒ志賀須香ノ渡ニカヽルヲ下ノ道トイフ|其二道ニ分ルヽ処ヲ二見 ̄ノ道トイフト云リ》 〇されど。今の街道の道も。いと古くより有し事にて。まづ 〇延喜 ̄ノ兵部式《割書:廿八ノ|廿一丁》諸国駅馬 ̄ノ条に。渡津(ワタムツ)十疋とあり。 〇東鑑《割書:四十二ノ|五丁》建長四年三月。宗尊親王関東御下向 ̄ノ条に。廿三日丁未  昼 ̄ノ鳴海。夜 ̄ハ矢作。廿四日戊申昼 ̄ハ渡津《割書:渡草書ヨリ誤リ|ニテ渡津ナルベシ》夜 ̄ハ橋本とあり。  当抄宝飫郡条に。度津《割書:ワタ|ムツ》郷あり。扶桑略記《割書:二十九ノ|二十四丁》渡津郷と見え。  兵部式に駅馬をのせ。将軍宗尊親王昼 休(ヤスミ)し玉ひし地なれは。駅な  る事しるし。按 ̄フ に今の宿(シユク)村すなはち古 ̄ヘ の度津 ̄ノ駅にて。今の小坂井 ̄ノ辺か 【左丁】  けて其 ̄ノ地なるべし。さるは小坂井に坐(マ)す兎足(ウタリ) ̄ノ神社の。応安三年の古鐘 ̄ノ  銘に。宝飫郡渡津郷とあればなり。 〇増基法師ら遠江 ̄ノ道 ̄ノ記の趣(サマ)も。こふに泊り。しかすか【「ら」に見えるが「か」とあるところ】の渡をわたして。たか  し山をこえて。浜名の橋にいたるとあり。  阿仏尼の。いさよひの日記にも。二むら山をこえて八橋に泊り。宮ぢ山を  へて。わたら津に泊り。たかし山浜名の橋を経て。ひくまの宿に泊りし趣(サマ)也。 〇尭孝法師が。永享【「享」の右横に「亨」と傍記】四年冨士紀行の趣も。やはぎ宿泊《割書:おり【或は「か」?】より|十二里》う治川  の里《割書:藤川ナ|ルヘシ》山中の宿昼休。関口 今八幡を経て。今ばしに泊《割書:やはきより|八里》大いは  山をへて橋本《割書:今橋より|五里》とあり。〇《割書:此比 ̄ハ シカスカノ渡モ次々新田トナリテ今イフ吉田川|ヲ舟渡セシノミナルベシサレド吉田川ニ始テ土橋ヲカ》  《割書:ケシト云元亀元年ヨリハ百三十余年ノ昔ナレバ|川ハヾモ今ヨリイト〳〵弘カリケンコト思ヒヤルベシ。》 〇同時藤原雅世卿紀行。帰路の条にも。橋下に泊り。いま橋を経て。矢  はぎに泊りし趣なり。 【左丁 頭注】 〇山本氏綜録 ̄ニ ハ古 ̄ノ日下 部ヨリ又一流 ̄ノ大川有テ 豊川里 ̄ノ岸 ̄ヲ流シ故ニ 豊川 ̄ノ名アリ明応六 年(ネン) 八月十日 ̄ノ洪水 ̄ニ渕瀬カ ハリテ此川筋絶タリ 今モ其川筋ハ深田 ̄ニ テ 耕業 ̄ニ苦ムト云リ 【ここより朱書き】 佐野氏 ̄ノ三川国聞書云明応 七戊午年六月十一日天下同時 地震廿五日辰刻大地震 豊川之《割書:吉田|川》瀬替《割書:今之古|川ヲ》 同八己未年六月十日大地震 大山崩而成_レ湖在_二遠州_一名_二新居_一 穂国   東三河四郡ヲ云 三河国  西三河四郡ヲ云        庸業云 【右丁】 【行頭の〇は朱書き】  〇これら皆。今の街道の道を往(ユキ)かひせし趣(サマ)也。されど古 ̄ヘ は小坂井より吉田迄の   間は。一つらの入海にて。しかすかの渡といへる舟渡のさまなれば。   〇小坂井より吉田の関屋といふ処へわたせし共。また牟呂村なる坂津といふ    処まて渡せしともいひ伝【傳】へたり。此事は古哥名蹟考【「古哥名蹟考」を朱で四角く囲んでいる】志加須賀 ̄ノ条にいヘリ。 〇今も今切桑名の渡などは。貴人(ウマビト)たちはよけ給ふ如く。そを除(ヨキ)て。北の方に  廻(マハ)りて。豊川 ̄ノ宿へかゝりて。往かひせりしを。其後入海もつぎ〳〵新(ニヒ)はりの田と  なりて。渡りもせばく。かれこれ便宜(タヅキ)よければ。仁治道の記にいへる如く。  彼方(カナタ)は往(ユキ)がふ人少(スク)なく。此方(コナタ)を通ふ人は。つぎ〳〵多くなれるを。まして  元亀元年の頃。かの関屋の舟渡を廃(ヤメ)て。始て吉田川に土橋を架(カケ)てより。  猶たづきよければ。つひに東(アヅマ)路の本街道とはなれるなるへし。すべて  駅(ウマヤ)の事は古蹟雑考【「古蹟雑考」を朱で四角く囲んでいる】の宿駅の条にいへれど。こゝには。其大 旨(ムネ)をいふのみ也。 〇さて国司の住(スミ)たまひし舘(ミタチ)は何処(イツコ)に在りしにや。詳(サダカ)ならず。今の国-府には其 ̄ノ旧(ア) 【左丁】  跡(ト)と思ふ処なしといへり。故(カレ)按ふるに今 八幡(ヤハタ)村の内字は上宿といふ処に《割書:西明寺の|門前より。》  《割書:少し北の方■【修ヵ】験何がし|の北の方にあり。》舟山(フナヤマ)といふがあり。舟 ̄ノ形に築(ツキ)なしたる如き小山なり。これ  三河 ̄ノ守大江 ̄ノ定基の造られし築(ツキ)山也といひ伝【傳】へたれは。《割書:又久保村ノ庄号ヲ|大江庄トイヘリトゾ。》いかさまにも  其 ̄ノ辺に在りしなるべし。《割書:刪補松には。往古大江 ̄ノ定基。三州 ̄ノ刺史タルトキ。|愛妾カ哥ガ■ヲ以テ造レリトイヘリ。》平尾 ̄ニ住ス。財賀 ̄ノ文殊■ 〇類聚三代格《割書:七ノ》弘仁五年【右横に一千十九年と朱書き】六月戊戌。大政官 ̄ノ府【符】。禁-_二制 ̄スル国-司任 ̄テ_レ意 ̄ニ造 ̄ルコトヲ_一_レ館 ̄ヲ  事。右大政官 去 ̄ヌル四月廿六日。下 ̄ス_二 五畿内 ̄ノ諸国 ̄ニ_一府【符】 ̄ニ你 ̄ク。【意味不明】検 ̄ルニ_二 天平十年五月廿八日 ̄ノ  格 ̄ク_一伱 ̄ノ。国司任 ̄テ_レ意 ̄ニ改 ̄メ_二造 ̄リ館舎 ̄ヲ_一。儻(モシ)有 ̄レハ_二 一人病死 ̄スルコト_一諱 ̄ミ悪 ̄シテ不_二肯 ̄テ居住 ̄セ_一。自_レ今以後  不_レ得_レ除 ̄ク_下載_二国 ̄ノ図進上_上之外 ̄ハ輒 ̄チ擅 ̄マヽニ移 ̄シ造《割書:ルナリ|甲》。但随 ̄テ_レ壊 ̄ニ修理 ̄セシ耳者 ̄ト云リ。而 ̄ニ諸国之吏未_レ有_二  循 ̄ヤ行 ̄フコト_一。妄 ̄ニ称 ̄シ_二祟咎 ̄ト_一避 ̄ケ遷 ̄シテ無 ̄ク_レ定 ̄ルコト。或輒随_二情願_一改 ̄メ造 ̄ルコト弥々繁 ̄シ。百姓 ̄ノ労櫌莫_レ不 ̄ルコト_レ由_レ此 ̄ニ。今被 ̄ルニ_二右大臣 ̄ノ宣 ̄ヲ_一你 ̄リ。奉 ̄ル_レ勅 ̄ヲ宣 ̄ク_二更 ̄ニ下知 ̄シテ令 ̄ム_一_レ慎 ̄マ将来 ̄ヲ_一。自_レ今以後国-司  之館 ̄ハ附 ̄ケテ_二官舎帳。_一毎年令 ̄メテ_レ進 ̄セ。随 ̄テ_レ破 ̄ニ修理 ̄スルコト一 ̄ヲ依 ̄ル_二先格 ̄ニ_一若 ̄シ有 ̄テ_レ廃 ̄ルコト_二其本-館 ̄ヲ_一  更営 ̄シテ_二他処 ̄ニ_一乃増- ̄シ_二構 ̄ヘ屋宇 ̄ヲ_一令 ̄ル_レ致 ̄サ_二民 ̄ノ患 ̄ヲ_一者 ̄ハ科 ̄セン_二違勅罪 ̄ヲ_一。官僚而 ̄テ不_レ糾 ̄サ並 ̄ニ              和考 十六 【左丁 頭注 朱書き】 佐埜知尭三川国聞 書■【「伝」?】モノニ寛知【和カ】二年 国司大江定基云々 定基 ̄ノ館舎 ̄ハ住国府 ̄ノ 辺《割書:今八幡村ノ古|城旧跡也》トアリ 宣隆云此一張ノ御説 上ノ九張 ̄ノ程ヨリ十一丁ノ表マテノ内ヘ入レ玉ヒテハイカヽ  与 ̄ニ同_レ ̄クセシ 罪 ̄ヲ《割書:此コト【合字】日本後紀|十一ニモノセタリ》とあり。僅(ワヅカ)四年の年限(カギリ)なるに。死穢(シニケガレ)と忌避(イミサケ)て館(タチ)を造 ̄リ  替らるヽを見れハいとなりそめなる(又逸史サンノ十四丁ニモノセタリ)作 ̄リさまなるべし。当時(ソノカミ)の質素(サマ)。今に 比(クラ)べて思ひゆるべし。 ◯延喜雑式《割書:五十ノ|七丁》に。凡国司 ̄ノ遷代者(ハ)皆 ̄ナ給_二 ̄フ夫馬_一 ̄ヲ。長官 ̄ニ夫三十人馬二十疋。  六位以下 ̄ノ【ヲを訂正】長官并 ̄ニ次官 ̄ニ夫。人馬十二疋。判官 ̄ニ夫十五人馬九疋。主典 ̄ニ夫  十二人馬七疋。史生以下 ̄ニ夫六人馬四疋。其 ̄ノ取_二 ̄ル海路_一 ̄ヲ者 ̄ハ水手 ̄ノ之数准_二 ̄ス陸道 ̄ノ■夫_一 ̄ニ。  云〃但 ̄シ依_レ ̄テ犯 ̄ニ解任之輩ハ不_レ在_二給 ̄フ限_一とあり。 長官 ̄ハ守次官 ̄ハ介。判官 ̄ハ掾。主典ハ  目の事也。これを今の大名たちの往(エキ)■ひ■ゐ【かひし玉ヵ】ふに。比(クラ)ぶれハ。いと人少の事  なり■【かヵ】し。  真竜の説五。国府ハ今の八幡 ̄ノ社地也。此 ̄ノ廃府 ̄ハ遠江国府の例にて。天  文十一年の頃也。諸国 ̄ノ廃府准_レ之とあり。 ◯此 ̄ノ国の国造(クニノミヤツコ)ハ国造本紀《割書:十ノ|四丁》二参河 ̄ノ国造(クニノミヤツコ)。志賀高穴徳朝(シカノタカアナトノミカド)。以_二 ̄テ物部連(モノベノムラジノ)  祖出雲(オヤイヅモ)色(シキ)大臣命(オホミノミコト)五世孫(イツツギノヒゴ)。知波夜命(チハヤノミコト)_一定_二 ̄ノ【メの間違いか】賜 ̄フ国 ̄ノ造_一トアリ。  ◯旧事記《割書:五ノ十六丁|天孫本紀》ニ宇麻志麻治 ̄ノ命 ̄ノ四世 ̄ノ孫大木食(オホキクヒ) ̄ノ命 ̄ハ《割書:孝安天皇ノ|御代ノ人ナリ》三河 ̄ノ国 ̄ノ   造 ̄ノ祖出雲(オヤイヅモ)醜大臣(シコオホキミ)子也◯姓氏録《割書:中ノ|八十一丁》長谷部(ハヤベノ)造 ̄ノ神饒速日(カムハヤビノ)命 ̄ノ   十二世 ̄ノ孫千速見(チハヤミノ)命 ̄ノ之後巴舎アリ ◯コハ古事記《割書:中ノ|五十九丁》故(カレ)建内(タケウチ)宿袮 ̄ヲ為_二 ̄テ大臣(オホオミ)_一 ̄ト。定_二 ̄メ賜 ̄フ大国(オホクニ)小国之(ヲクニノ)国 ̄ノ造_一 ̄ヲ云々トアル  時 ̄ノコト【合字】ナルベシ。サテ鈴 ̄ノ屋 ̄ノ大人 ̄ノ云シ名如ク。此 ̄ノ時初めメテ定メ玉フニハアラズ。是ヨリ  前(サキ)ニモ有レド。此 ̄ノ時サラニ広ク多ク。定メ玉ヘリシナルベシ。ソハ其 ̄ノ国造本紀 ̄ノ  首(ハジメ)ニ神武天皇御時。大倭 葛城 凡河内 山代 伊勢 紀伊等 ̄ノ国 ̄ノ造私  ヲ定メ玉ヒテ。又有_レ ̄ハ功(イサヲ)者(モノ)ヲト■【随ヵ】_二其 ̄ノ勇(イサ)能(ヲシニ) _一定 _一 ̄ノ【メの間違いか】賜 ̄フ国 ̄ノ造_一。誅(ツミ)_二 ̄ナヒ戮逆者(サカフモノ) ̄ヲ。量(ハカリ)_二 其ノ功(イサヲ)  能 _一 ̄シヲ定_二 ̄メ賜 ̄フ県主者総(スベテ)仔(マケ)【任ヵ】 ̄タル国 ̄ノ造百四十四国 ̄トイヒテ。大倭 ̄ノ国 ̄ノ造ヲ始メテ。  百三十五国 ̄ノ国 ̄ノ造ヲ戴(ノセ)タレバナリ。 ◯サテ当(コノ)国 国 ̄ノ造。大木食 ̄ノ命        和考   十七  知波夜 ̄ノ命ナドハ。宝飯郡大木村 ̄ノ辺(ホトリ)ニ住居(スマヤ)玉ヒケムト按(オモ) ̄フハ。既官社  私考【以上四字朱筆で囲み】下 ̄ツ巻 ̄ノ出雲天神 ̄ノ条(クダリ)。又附録総社 ̄ノ条 ̄ニイヘリ。  ◯カクテ  国司(クニノミコトミチ)【クニノミコトモチのことか】ノ事ハ孝徳天皇 ̄ノ御代。始リテ任(■■)【自信はありませんが素直に読むと「ヨシ」か】シ玉ヒシハ。何人ナリケム。詳(サダカ)ナラネド。 ◯続日本紀《割書:三ノ|廾三丁》慶雲三年九月申辰。以従五位 ̄ノ下坂合部 ̄ノ宿袮三田麻呂 ̄ヲ為_二 三河 ̄ノ守_一 ̄ト。◯同《割書:六ノ|四丁》和銅六年八月丁巳。従五位下榎井 ̄ノ朝臣  廣国 ̄ヲ為_二参河守_一 ̄ト トアルナド。正史(ミフミ)ニ見エタル始 ̄ノ ニテ。次〻ノ御世〻(ミヨ〻)数多見エ  タリ。コハ歴代事蹟考【以上五字朱筆で囲み】 ̄ノ其 ̄ノ御代ゝノ条ニイフへシ。  国造ハ国御臣(クニノミヤツコ)ノ意 ̄ニ テ。天皇 ̄ノ御臣トシテ。其 ̄ノ国 ̄ノ上(カミ)トシテ其 ̄ノ国 ̄ヲ治ムル人ヲ云ナリ。 ◯国司(クニノミコトモチ)ハ。守介掾目ナドヲ総(スベ)イフ也。コレヲミコトモチ【以上五字に傍線】云フハ。命持(ミコトモチ)ニテ。天皇 ̄ノ大命(オホミコト)ヲ  受賜(ウケタマハ)リ貧持(ナヒモチ)テ。其 ̄ノ国ノ政 ̄ヲ申ス由 ̄ノ名也。ト鈴 ̄ノ屋 ̄ノ大人云ハレタリ◯ 又目ノ官府 ̄ニ  ツキテ云ヒ。守ハ其 ̄ノ人ニツキテノイフ也。霊異記 ̄ニ国上(クニノカミ)ト云リト。谷川士清イヘリ。 ◯仙覚万葉抄《割書:十八ノ|八丁》云。みこともちとハ国司也。国の守ハ宣旨をもちて。任国 ̄ヲ下りて。  其宣旨を。国の庁の常の上にかけて。其 ̄ノ まへにして。政事をなす故也と云り。 ◯行程の事◯雑令《割書:十ノ|廿七丁》五。凡度 ̄ハ十分 ̄ヲ為_レ寸 ̄ト。十寸 ̄ヲ為_レ尺 ̄ト。《割書:一尺二寸 ̄ヲ為_二 ̄ス|大尺一尺_一 ̄ト。》十尺 ̄ヲ為  《割書: |レ》丈 ̄ト。 又云。凡/度(ハカ)_レ ̄リ地 ̄ヲ量_二 ̄ル銀銅穀_一 ̄ヲ者皆用_レ ̄フ大 ̄ヲ。此 ̄ノ外 ̄ハ官私悉 ̄ク用_レ ̄フ小 ̄ヲ。 又  凡度_レ ̄ル地 ̄ヲ五尺。為_レ歩 ̄ト。三百歩 ̄ヲ為_レ里 ̄トとあり。 ◯延喜雑式《割書:五十ノ|二丁》■【意味からすると「に」か】。凡度量権衡 ̄ノ者官私悉 ̄ク用_レ ̄フ大 ̄ヲ。但 ̄シ測_二 ̄リ晷景_一 ̄ヲ合_二 ̄スルト湯茶_一 ̄ヲ  則用_レ ̄フ小 ̄ヲ者。其 ̄ノ度 ̄ハ以六尺 ̄ヲ為_レ ̄ス歩 ̄ト。以外 ̄ハ如_レとあり。 ◯かゝれハ。地を度(ハカ)るハ。則 ̄チ大尺にして。小尺の一尺二寸にあたれり。小さ尺 ̄ハ今の曲尺の寸に  同じ。故に名 ̄ハ五尺六尺の違日あれ共。地に廣狭の異(カハリ)ハなしと。成形図説にいへり。  はれ皇朝古 ̄ヘ の一里ハ。今の五町程にあたる也。 ◯主計式《割書:廾四ノ|十四丁》参河 ̄ノ国行程。上十一日。下六日とあり。当抄ハ彼 ̄ノ書に拠(ヨリ)て記せる  なるべし。 ◯行程(ミチノリ)ハ京都より国府までといふ。今の三十六丁 ̄ノ一里にて積(ツモ)れハ四十六里半也。                 和者  十八 ◯公式令《割書:七ノ|卅九丁》凡 ̄ヲ行程 ̄ハ。馬 ̄ハ日 ̄ニ七十里。歩 ̄ハ五十里。車 ̄ハ三十里とあり。 ◯大塚氏の説あり【かヵ】。上 ̄ツ世 ̄ハ貴人と賤庶とにて。旅行の日数過半参差ありと  見えたり。貴人 ̄ハ輿馬五【にヵ】駕して行く故。其輿五【にヵ】役せらるゝ人夫の労煩【か】  を(ヲ)いとひ。其供奉 ̄ノ人多けれバ。休息旅粮等の義も区〻にて。はかどり  ■【かヵ】ぬるもの也。依て貴人の行程の日数多き定 ̄メと■■【見ゆヵ】といへり。 ◯此 ̄ノ説によれバ。上ハ一日に四里半程を行 ̄キ。下 ̄ハ八里程をゆく■【定メヵ】也。尚考  べし。 管八 田六千八百二十町七段三百十歩 ◯ 管八とハ。八郡を管流【るヵ】といふ事といふ事也。 ◯拾芥抄 ̄ニ 田数七千五十四町  運歩色葉集    田数 七千五十五丁 《割書:天文十六七年ニ|エラヒタル書也》 ◯以呂波字類抄  本田 七千五十四丁 ◯海東諸国記   三河洲。郡八。水田八千八百二十丁《割書:朝鮮 ̄ノ著書也|》 ◯江源武鑑《割書:天文廿二年日本国中ノ|知行ノ高寄ナリ》三河国総高二十九万七百十五町【斛ヵ】 ◯ 日本城主記   高三十三万六千石。田七千五十四町 ◯和漢三才図会  高三十五万八百八十五石餘 ◯三川雀     高三十五万八百八十五石九年【斗ヵ】二升 ◯二葉松     高三十五万八百八十石五升八合 ◯刪補松     古【「右」に見せ消ち】高三十五万石余。田数七千五十四丁。当代高          三十五万八百八十石余 ◯日本鹿子    知行高三十三万六千石           和考    十九 【左ページ朱筆部分】 ◯栗原信充ガ応仁武鑑《割書:一ノ|九丁》云。吉良左兵衛佐義真。居城吉良西条。三河八郡田七千五十四町。《割書:内一色保。千百七十|町一色家領之》ノ穫【獲ヵ】稲三百  五十二万七千束此 ̄ノ直  《割書:銭廿一万千六百|貫文ナリ》《割書:此呆量|十七万八》  《割書:百八十三石一斗|五升 ̄ ニアタル。》 米六万  七千七百六石 四斗五  升余《割書:四斗入十六万九千|二百六十六俵余》  吉良家領  米八千五百四十四石一  斗五升余《割書:四斗入二万千|三百六十俵余》  三河守護職料【䉼は料の異体字】 《割書:内千四|百十七》  石一斗六升二合五勺ハ  一色家ヨリ収ム ◯ 此氏【トキヵ】吉良左京大夫義膳  同国東条 ̄ニ居城三方【シテヵ】幡  豆郡千三百町 ̄ヲ領ス ◯一色左京大夫義真  丹後宮津 ̄ニ居城シテ  当国設東【楽ヵ】郡一色保  千百七十町ヲ領。 伊勢貞丈云 江源武鑑ト云書板行ニアリ京極家ノ古記録ヤウニ似セテ作リタル偽作物也用ユヘカラス 公各二十萬束 本稲四十七萬七千束 雑稲七萬二千束 ◯正とハ正税(オホチカラ)のこと【合字】也。正税ハ公田の祖。地子雑稲奉_二 ̄ル天子_一 ̄ニ者都 ̄テ曰_二正税 ̄ト【返り点「一」書き忘れか】とも。  また正税 ̄ハ田年貢也。少しも不足なく御倉へ納むる也といへり。  上つ代ハ。祖税(タノチカラ)みな刈穂のまヽにて上納(ヲサメ)し【「も」に見せ消ち】故。みな何束といへり。 ◯ 公とハ公廨のこと【合字】也。或設に公廨ハ畠年貢也。国司并諸役人の役科ハ。此  内にて賜ふなりといへり。◯制度通九云。公廨田ト云ハ。廨ハ官舎ノヿニテ役  屋鋪ナリ。其 ̄ノ所務ヲ所ノ公用ニ給スル也。続日本紀ヲ考フレバ。未進ヲ少ク  ナス【か】為ニ設ケラルヽト見エタリ ̄ト云リ。 ◯職員令義解《割書:一ノ|六十一丁》公廨云〻 考云国 ̄ノ守以下 ̄ノ役料ヲツクル田地ヲ支配スル役屋鋪也。 ◯主税式《割書:廿六ノ|二丁》諸国 ̄ノ出挙正税公廨雑稲 ̄ノ条たり【か】 ◯参河 ̄ノ国正税。公廨各二十万束。国分寺料二万束。修_二理 ̄スル志  摩 ̄ノ国分寺_一 ̄ヲ料三千束。文殊会 ̄ノ料二千束。修_二理 ̄スル池溝_一 ̄ヲ料三  万束。 救急料二万二千束とあり。 ◯按 ̄フに其 ̄ノ束数を数ふれバ。合て四十七万七千束ありて。当抄の本稲の員(カ)  数(ズ)等合(ア)へり。また当抄等雑稲七万二千束とある数。国分寺料 池溝料  救急料の三ツを合せら■【たヵ】る数を【にヵ】合へり。 ◯同式《割書:廾六ノ|廾二丁》凡公田 ̄ノ穫(ウル)稲 ̄ハ。上田 ̄ハ五百束。中田 ̄ハ四百束。下田 ̄ハ三百束。  下〻田 ̄ハ一百五十束。地子 ̄ハ各依_二 ̄テ田 ̄ノ品_一 ̄ニ令_レ輸_二五分 ̄ノ■【之ヵ】一_一 ̄ヲ《割書:中|略》其 ̄ノ祖 ̄ハ一段ニ  穀(モミ)一斗五升。まち別(コト) ̄ニ一石五年。皆令_三営(ツクリ)人_二 ̄ヲ輸_一レ ̄リ之 ̄ヲとあり。 ◯田令 ̄ノ義解《割書:三ノ|初丁》段 ̄ノ地穫_レ ̄ルヿ稲 ̄ヲ五十束。束 ̄ノ稲舂 ̄テ得(ウ)_二米五升_一 ̄ヲとあれば。  上田一段にて五十束とれるを。未に搗(ツキ)て二石五斗あり。此 ̄ノ内を一斗五             和考    二十  升。祖に奉りて。残米二石三斗五升/作人(ツクリテ)の物になる也五分一を輸た【さヵ】 し  ■【むヵ】とあれど。《割書:五分一ハ一斗二升|五合 ̄ニ ナル也。》五分一よりハ。少し重き祖【租ヵ】也。 ◯因(チナミ)云。租税(タチカラ)の事の始 ̄メ ハ須佐之男(スサノヲノ)命の御びによりて。宇気母智命乃  御体(ミミ)より生(ナリ)出つる五 ̄ノ穀(タナツモノ)を。天熊(アマクマ) ̄ノ大人(ウシ)悉(ミナ)取 ̄リ持 ̄チ て。天照大御神に奉りし  時に。此 ̄ノ物どもハうつしき青人葦の食(クヒ)て活(イク)べき物ぞと詔(ノリ)のひて。天邑君(アメノムラキミ)【朱筆で傍線】  を定めて。其 ̄ノ御田本【ヵ】殖(ウエ)始しめのひ。皇孫邇々芸(アマツカミノミコニ〻ギノ)命の天(アモ)降 ̄リ りし候【ヵ】時  天照大御神の詔命(オホミコト)に以_二 ̄ヲ吾高天原(アガタカマガハラ) ̄ニ所 御(キコシメ) ̄ス。斎庭(ニハ)之(ノ)穂(イナホ)_一亦 ̄モ当_二御(キコサシメウルベシ)於吾児(アガミコ)_一 ̄ニと  詔(ノリ)ゐひて。其 ̄ノ瑞穂(ミヅホ)をゐへり。故(カレ)そを持 ̄チたらして。天 ̄ノ下の万民(オホミタカラ)に 殖(ウエ)しめかへる  ぞ。租税(タノチカラ)また御調物(ミツキモノ)を貢(タテマツ)る其 ̄ノ根元(モト)なる。故御〻代〻の天皇尊(スメラミコト)。其 ̄ノ  大業(ミワザ)を継〻に聞食(キコシメシ)給ふに依て。先 ̄ツ御即位(アマツヒツキシロシメス)の始に。大嘗会(オオニヘマツリ)を。行ハせ給ひ 。  先 ̄ツ其 ̄ノ初穂(ハツホ)を天照大御神を始 ̄メ奉リ。天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)に奉り給ひて。残 ̄リ をバ  天皇尊の聞食し。并(マタ)百官(モヽノツカサ)等にも賜ひ。天 ̄ノ下の青人草に八十(ヤソ)の【「◯」に見せ消ち】禍事(マガゴト)  あら【ヵ】しめず。其 ̄ノ作 ̄リ とつくる百穀物(モヽノタナツモノ)を雨風の災(サハリ)あらしめず。豊登(ニタカニミソラ)【読みわからず】しめ給へ  と乞祈(コヒノミ)給ふ御事なり。また毎年(トシゴト)に行ハせ給ふ新嘗祭(ニヒナヘマツリ)といふも。此いハれ  にて。其 ̄ノ年の初穂を奉り給ひて。上 ̄ノ件の如く祈り給ふ御祭祀(ミマツリ)なり。 ◯かくて人の世となりてハ。崇神天皇紀《割書:五ノ|九丁》に其 ̄ノ十二年秋九月 始校(ニヽカムアヘテ)_二【読みわからず】人民 ̄ヲ更(サラ)_一 ̄ニ  科(オホ)_二 ̄ス調役(ミツギエタチ)_一 ̄ヲ此(コレ)謂(イ)_二 ̄フ男之弭(ヲトコノユハズ)調(ミツギ)。女之手末之調(ヲミナノタナスエノミツギ)_一 ̄ト と見え。神功皇后紀《割書:九ノ|七丁》新(シラ)  羅(キ) ̄ノ国の八十(ヤソ)船の調(ミヅキ)【「ミツギ」の間違いか】を貢(タテマツ)るる見え。異国(アハメシクニ)ともより朝(ミツギ)貢(マツ)るる。仁徳天皇  紀《割書:十一ノ|十一丁》雄略天皇紀《割書:十四ノ|廿四丁》等に見え。海表諸審(ワタノホカエミシドモ)遣_レ ̄テ使 ̄ヲ進_レ ̄ル調(ミツギワ)と清寧天  皇紀《割書:十五ノ|四丁》に見え。万民(オホミタカラ)に三載(ミトセ)の間悉 (コト〳〵ク)除(ユルシ)_二 ̄テ課役(エダチ)_一 ̄ヲ息(ヤス)_二 ̄メ百姓之(ノ)苦(クルシミ)_一 ̄ヲ給へるる  仁徳天皇紀《割書:十一ノ|七丁》に見えたり。 ◯さて郡県の制となりて後ハ。孝徳天皇紀《割書:廾五ノ|卅四丁》白雉三年正月。班田(アカチダ)既 ̄ニ                和考     廿一 三河国古蹟考   上 【文字無し】 【右丁 文字無し】 【左丁】 【この一行朱書き】三川国古蹟考三之下巻草稿 参河国総国風土記考   三井家【朱印】    大旨 大皇国(オホミクニ)は。何事(ナニワザ)にも狡意(サカシラ)なく強言(シヒゴト)なく。上つ御世より在来(アリコ) し古事(フルコト)を。繕(ツクロ)はず飾(カザ)らず。在(アリ)の侭(マヽ)に語継(カタリツ)ぎ書伝(カキツタ)【傳】ふる。大御手 ぶりにし有ければ。各国(クニ〳〵)に詔(ミコトノラ)して。其 ̄ノ国々に伝 ̄ヘ【傳】来(コ)し。古老(フルビト) の諸(カタリ)つぎかき伝【傳】へたる古伝(フルコト)【傳】等を書記(カキシル)して。奉らしめ給へるなん。 風土記の書(フミ)なる。そは我 ̄カ気【氣】吹舎【いぶきのや】翁の。古史徴開題記に云く。 諸国(クニ〳〵)この事を記せる事の見えたる始は。履中天皇 ̄ノ紀に四年 ̄ノ 秋八月 ̄ニ。始 ̄テ之於(ニ)_二諸国(クニ〳〵)_一置 ̄キテ_二国史(フビト) ̄ヲ_一記(シルシ) ̄テ_二言事(コトバトコト) ̄ヲ_一達(イタ) ̄セリ_二 四方志(ヨモノフミ) ̄ヲ_一とあり。此(コ)風 土記と言(イハ)されとも。諸国(クニ〳〵)の言(コトバ)と事(コト)とを記(シル)すと有 ̄ル もて其 ̄ノ記せる誌(フミ)                   風土記考 【右丁】 の風土記の躰(サマ)なり けむこと知るべし。  また推古天皇 ̄ノ紀二十八年の下(トコロ)に。録(シル) ̄ス_二【「シ」を朱で見せ消ちにして「ス」と記載】天皇記及国記 ̄ヲ_一とある国  記も。決(ウヅナ)く風土記の類なるべく所思(ヲボエ)たり。 其 ̄ノ後。元明天皇紀に。和銅六年五月甲子。制 ̄ス。畿-内七-道諸-国 ̄ノ郡 郷 ̄ノ名 ̄ニ著 ̄ケヨ_二好字 ̄ヲ_一。【訓点の一、二点の誤記】其 ̄ノ郡-内 ̄ニ所 ̄ノ_レ生。銀銅彩-色草-木禽-獣魚-虫等 ̄ノ物 ̄ハ 具 ̄ニ録 ̄シ_二色目 ̄ヲ_一。及 ̄ヒ土-地 ̄ノ沃﨏。山川原-野 ̄ノ名号 ̄ノ所由。又古-老 ̄ノ相- ̄ヒ伝 ̄ル旧-聞異- 事。載 ̄テ_二于史-籍 ̄ニ_一言-上 ̄セヨ とあるを奉(ウケタマハ)りて進(タテマツ)れる史籍(フミ)。即 ̄チ風土記なるべく 所思(オボエ)たり。 〇【朱書き】敬雄云。扶桑略記《割書:官板本|六ノ三丁》には。著好字 ̄ノ下(シモ)其 ̄ノ郡内云々の上(カミ)に。又令_レ作_二  風土記 ̄ヲ_一といふ六字あり。是にて風土記なる事いよゝ疑(ウヅ)なし。 【左丁】 〇【朱書き】後按 ̄ルニ【朱書き】大日本史十四元明天皇本紀 ̄ノ小注云 ̄ク要記皇記 並(ミナ)【「ミナ」は朱書き】曰五月  作風土記トアリ水鏡 ̄ニ 其国この郡の名をしるし。出くる物【「西」を見せ消ちにして右に「物」と朱書き】ともの数を目  録をさせしめ給ひき。云々トアリ そは仙覚が【「ガ」と朱書き。ここでは平仮名が妥当】万葉集抄に。大和国宇智 ̄ノ郡の事を説て和銅六年令 ̄ムル_レ 註進風土記之時。任大政官下之旨定二字用好字 ̄ヲ_二也と云るを思ひ 合せて弁ふべし。さてそれより後。醍醐天皇の延長三年に風土記を 召(メ)されし事は。朝野群代に載(シル)【振り仮名は朱書き】せる。延長三年十二月十四日の大政 官府に五畿七道 ̄ノ諸国司応【應】_二早速勘進風土記事。右如_レ聞諸国 ̄ニ 可_レ有風土記 ̄ノ文_一。今被 ̄テ左大臣 ̄ノ宣伱 ̄ク宣_レ仰_二国宰令勘進之若 ̄シ无-底 ̄ナラバ 探求郡内尋問右【「古」の誤記か】老早速言上者。諸国承【「求」を見せ消ちにして左に朱で「承」と傍記】知依宣不得遅迴符 【右丁 朱書きの頭注】  日本後期《割書:巻五|四丁才》 桓武天皇延暦十五年 是日勅諸国地鄙 事跡疎略加以年 序已久国字闕 逸宜更令_レ作_レ之 夫郡国郷邑騎 道遠近名山大川 形体【體】広【廣】狭貝【「目」か】録 無_レ漏焉 【右丁】 到 ̄テハ奉行 ̄セヨ とあり。此 ̄ノ府の旨(ムネ)は。諸国(クニ〳〵)に前(サキ)に進(タテマツ)れりし風土記の案有(ヒカヘアル) べきを。今度(コタビ)そを覆勘(カムカヘ)て進(タテマツ)るべし若(モシ)それ無底(ナク)ば郡内(クヌチ)を探(タヅネ)求め。 古老(オイビト) ̄ヲ尋問(タツネ)て更に撰 ̄ビ記 ̄ル して上(タテマツ)るへしとなり。此 ̄ノ官府に応(ヨリ)【應】て前(サキ)に 進(タテマツ)れりし風土記の案(シタガキ)を。更に勘 ̄ヘ進れる国々の多かるべく。また新(アタラ)に 古老の旧聞【「間」とあるは誤記と思われる】を探求めて上れるも有るべし。本朝書籍目録に。風 土記 ̄ハ々 ̄ス_二諸〳〵土地本縁と載たり故(カレ)古き風土記の趣を取総(トリスベ)て考 ̄フ るに 各国(クニ〳〵)にして。旧(ハヤク)より聞(キヽ)伝 ̄ヘ【傳】たる古老の説を専(ムネ)と記さしめ給へる物に て古事(フルコト)を証(アカ)す便(タヨリ)となる事多く。いとも珍重(メテ)たく貴(タフト)き籍(フミ)なるが。 古 ̄ヘ の真(マコト)のは多く失せて出-雲常-陸肥- 前豊-後の四国の風土記 のみ残れり。其中和銅の度(トキ)に注進(タテマツ)れる風土記の今 ̄ノ世に逸(ノコ)れるは。 【左丁】 常陸なるぞ其 ̄ガ中の一篇(ヒトツ)なるべき。そは其 ̄ノ発端(ハジメ)に常陸 ̄ノ国-司解- ̄シ 申 ̄ス古老相- ̄ヒ伝 ̄ル【傳】旧聞 ̄ノ事。問 ̄フニ_二国-郡 ̄ノ旧事 ̄ヲ_一古老合 ̄ヘテ曰 ̄ク云々と書 ̄キ出たるは。全(マタ)く 和銅の詔命の文を奉(ウケ)たる文なる事著く。また郡に隷て里と書 ̄キ たる も慥(マサシ)き証(アカシ)とぞ思はるゝ。また出雲のは。天平五年二月卅日勘- ̄ヘ慥 ̄ル とあ れば。かの和銅六年より廿年ばかり後に進(タテマツ)れる物なり此(コ)は和銅の詔(オホ) 命に依て進れりし後。故ありて再勘(マタカムカ)へて進(タテマツ)れる記(モノ)なるべし。また肥 前豊後のは大旨(オホムネ)出雲のと同じ体裁(サマ)なれば。同じ此に進れる物なるべし。 文のさま出雲のよりも後(オク)れて見ゆれど。延長のあなたより在 ̄リ来(コ)し記(モノ)な る由 證(ヨリトコロ)あり。其 ̄ノ余(ホカ)【餘】は悉(ミナ)夫たるにや。いまだ世に顕はれず。仙覚が万葉抄と。 釈日本紀とに引 ̄キ用 ̄ヒ たるを始め。其 ̄ノ余【餘】の古 ̄キ書等にも彼此 ̄レに引たるを               風土記 三 【右丁】 摭聚(ヒロヒアツ)めて見るより外なし云々 偖(サテ)又惣国風土記といふが有り。悉く欠(カケ) 残りたる篇(フミ)なるが。中にたゞ駿河 ̄ノ国ののみ大かた全(ソロヒ)たれど【「は」を見せ消ちにして「ど」を傍記】。其 ̄レ も虫くひ なとして欠(カケ)たる処あり。さて此 ̄ノ記ども既(ハヤ)【振り仮名は朱書き】くよ世に廃々(タエ〴〵)になり【「し」を見せ消ちにして「り」と朱書き】て少(イサヽカ)づゝ遺(ノコリ) たるも。虫喰などに【「も」を見せ消ちにして「に」と朱書き】損はれて全からぬよし。古くは文和の年間(コロ)に。中原 ̄ノ師行の奥(ホク) 書(カキ)せられたる本を始め其後嘉-慶文-亀弘-治天-正などの年間(コロ)。別人(ヒトヒト)の 奥書 ̄キ したるも。昔の奥書はなく【「ら」を見せ消ちにして「く」と朱書き】て寛文万治の比(コロ)に写たる本もあり。 さて其 ̄ノ本ども誤字脱字などの多有(ヲホカル)とは云も一史なり。甚く丈の錯乱(ミダレ) たる処もあるは。後に写 ̄シ誤れるなるべしさて其総国風土記はいつの比出 来たるにか知(シル)へからず上に論(アゲツラ)へる古風土記とは。遥(ハルカ)に後(ヲク)れて見ゆ。強(シヒ)て 考 ̄フ るに。後三条院 ̄ノ天皇の御代(ミヨ)に召(メサ)れたる物ならむと思はるゝ事 【左丁】 あり。さるは百練抄。愚管抄。続古事談などに天皇諸国 ̄ノ新奇庄園 を停止(トヽメ)て始て記録所。庄園券契所を置 ̄キ給ひて。国々の衰 ̄ヘ を直し 給へるなと見えたるを。考 ̄ヘ合せて察(オモヒ)上(タテマツル)事に。深き大御心 在(マシマ)して早速(ニハカ) に諸国に詔(ミコトノリ)ありて風土記を召(メサ)れたりけむがいまだ作例も整(トトノ)はず。 草案の如くなるを彼是より記録所へ上(タテマツリ)り【送り仮名「り」が重複】いまだ各国悉くは上り 終(ハテ)ぬほどに。崩(カムアガ)り給ひて。御政のさまも。万変りたりけれは彼記の 挙(コト)も廃(スタ)れたるまゝにて。官庫に埋れたるが残れるなるべし。さて此風 土記は今井似閑が万葉緯に。十四帖。取集めて収たりき。それと共に 今己が彼 ̄ノ国此 ̄ノ郡と取 ̄リ集 ̄メ たる。廿七国ばかりの記ぞある然はいへ此風土記の 体裁(サマ)。古 ̄ヘ のとは甚(イタ)く別(コト)にして文も拙(ツタナ)く劣(オト)りて後なるが上(ウヘ)に。いかにぞや思はるゝ             風土記考  四 【右丁】 事も見ゆれば。偽書(イツハリブミ)ならむと云ふ人もあれど。然(シカ)すがに。昔の物なれば。 よく採(トリ)り【送り仮名が重複】撰(エラバ)むには珍重(メデ)たき籍(フミ)なりかし。といはれたり。  こは伴信友主の説をも採(トリ)て。いと長き考説なるを此には要(ムネ)  とある事を摘出て記せり委くは本書に就きて見るべし さて此三川なるも八名宝飫両郡のみ在れとこれも残欠(カケノコリ)【缼】て二 ̄タ郡 ともに全き物には非ず異本三四部を得て此校せつれと。いたく 異(コト)なるはなしされと挙母記といふ書に。《割書:此書挙母 ̄ノ杉本 ̄ノ福敬と|いふ人の所蔵なり。》往古 挙母 ̄ト云 ̄ル文字始は風土記 ̄ニ云昔年三河 ̄ノ国衣川 ̄ノ水上ヨリ。美(ウツ)シキ【「本のマヽ」と挿入文有り】鴨(カモノ) 子一羽 游(オヨギ)【「淤」は誤記】下ル又水下ヨリ母鳥一羽游【「淤」は誤記】行テ近ヅクト見エシ程ニ子鴨 ̄ノ愛シ 頓テ翅(ツバサ)【「趐」は誤記】ノ内ニ抱キテ。汀 ̄ノ森 ̄ニ入ルト見エシガ。忽然トシテ神ト顕ハレ有カタキ託宣 【左丁】 有テ。後ニ母鳥遥 ̄ニ天ヘ上ルト見エシ。此 ̄ノ故 ̄ニ挙母ト云。其 ̄ノ後此処 ̄ニ社ヲ造営シ 鳥居ヲ建テ。児守明神ト崇奉ル。祭礼九月十九日也是ハ鴨ハ九月 十九日始テ豊年 ̄ノ方ヘワタル物ナレバ也。此 ̄ノ辺ヲ加茂郡ト名(ナヅ)クル初トカヤ。 《割書:按 ̄ニ是迄風土記 ̄ノ文なるべし。されと挙母の字義を解る。|後世の俗意(サトビ)なれば。決(ウツナ)く総国風土記の文なるべし。》川下 ̄ニ鴛鴨(ヲシカモ)村川上 ̄ニ鴛 沢村アレモ此イハレナラムカとあり。また元禄の年間(コロ)。度会【會】 ̄ノ直方の。大木大 明神の事を考 ̄ヘ記せる文書(モノ)に《割書:大木村 ̄ノ冨田 ̄ノ|■信 所蔵(モテリ)。》大木食 ̄ノ命。御母ハ出雲色 多利姫。三河風土記 ̄ニ アリ。など見えたりかゝれば其頃はかゝる異(コト) 本も有しにこそ。いかで〳〵得まほしと其 ̄ノ本 ̄ツ書ありやとかの両(フタ)氏から たづねつれど。ふつう知れされば今は其 ̄ノ本ともの出なむをも待あへ ずて。かく愚(オロカ)なる考 ̄ヘ をものしつるになも【「れ」の右横に「も」と朱で傍記】そは其 ̄ノ本とも得たらむ時つ               風土記考  五 【右丁】 き〳〵に書改むべければ見む人其こゝろしてよむべし。さて 国名風土記といへる物のと。またそを真字(マナ)【「チ」を見せ消ちにして「ナ」と朱書き】にて書るものなど の事は既に和名鈔三河郡郷考【和名鈔・・・郷考」までを四角く囲んでいる】の巻首(ハジメ)にいへれば今また さう【「ら」とあるところか】にはものせずなれ。  天保十年三月月立之日  羽田埜敬雄 【左丁】 日本総国【總國】風土記第四十  三河国【國】八名郡   海浦《割書:六箇所》   湊 《割書:三箇所》   泉《割書:二礒》     寺院《割書:六宇》   墳墓《割書:三基》    岡 《割書:五箇所》   名山《割書:七箇所》   淵 《割書:三箇所》   宮祠《割書:八前》 〇【朱書き】《割書:按 ̄ニ当【當】郡式内社一座神明名帳 ̄ノ社|廿六座アリ》                 風土記考  六 参河国古歌名蹟考    下巻目録 、豊川(トヨカハ)《割書:一ノ|ヒラ》    、本野原(モトノヽハラ) 《割書:五ノ|ヒラ》   、末野原(スヱノヽハラ) 《割書:六ノ|ヒラ》 、緑埜池(ミドリノヽイケ)《割書:十ノ|ヒラ》  、藤野村(フヂノヽムラ) 《割書:十一ノ|ヒラ》  、嶺野原(ミネノヽハラ) 《割書:十二ノ|ヒラ》 、老津島  《割書:十三ノ|ヒラ》   童部浦(ワラハヘノウラ) 《割書:十三ノ|ヒラ》  、伊良虞(イラゴ) 《割書:十四ノ|ヒラ》 、高師山(タカシヤマ) 《割書:廿三ノ|ヒラ》   小松原(コマツバラ) 《割書:卅三ノ|ヒラ》 、智(チ) 立(リフ) 《割書:卅四ノ|ヒラ》  、岡(ヲカ) 崎(ザキ) 《割書:卅五ノ|ヒラ》  、藤(フヂ)川(カハ) 《割書:卅五ノ|ヒラ》                      古歌考下目録一 、山(ヤマ) 中(ナカ)《割書:三十六|ノヒラ》   、出生寺(イデヽウマルヽテラ)《割書:三十六|ノヒラ》  、関(セキ) 口(グチ)《割書:三十七|ノヒラ》 、長(ナカ) 澤(サハ)《割書:三十八|ノヒラ》   、赤(アカ) 坂(サカ)《割書:三十八|ノヒラ》     御(ゴ) 油(ユ)《割書:四十二|ノヒラ》  今八幡(イマヤハタ)《割書:四十三|ノヒラ》   、今(イマ) 橋(バシ)《割書:吉田|四十二ノヒラ》  、大(オホ) 岩(イハ)《割書:四十五|ノヒラ》 、二(フタ) 川(ガハ)《割書:四十六|ノヒラ》   、大(オホ) 濱(ハマ)《割書:四十六|ノヒラ》     佐久嶋(サクノシマ)《割書:四十七|ノヒラ》  鷲(ワシ) 塚(ヅカ)《割書:四十七|ノヒラ》   、星(ホシ) 越(ゴエ)《割書:四十八|ノヒラ》     御(オム) 馬(マ)《割書:四十八|ノヒラ》  御(ミ) 津(ツ)《割書:四十九|ノヒラ》    本宮山《割書:四十九|ノヒラ》     、煙巌山《割書:五十|ノヒラ》  櫻井寺(サクラヰノテラ)《割書:五十一|ノヒラ》  、星野池(ホシノヽイケ)《割書:五十一|ノヒラ》    、真弓山(マユミヤマ)《割書:五十三|ノヒラ》  生駒山(イコマヤマ)《割書:五十三|ノヒラ》                篠(シノ) 束(ツカ)《割書:五十四|ノヒラ》  八名瀬川(ヤナセガハ)《割書:五十五|ノヒラ》  、依網原(ヨサミノハラ)《割書:五十五|ノヒラ》    、志波都山(シハツヤマ)《割書:五十七|ノヒラ》  子持山(コモチヤマ)《割書:五十八|ノヒラ》    星(ホシ) 河(カハ)《割書:五十九|ノヒラ》                          古歌考下目録二 参河国古歌名蹟考 下之巻           羽田埜敬雄 輯考 ○豐川  ●和名抄宝飯 ̄ノ郡 ̄ノ条、豊川《割書:止與|加波》      ●国名風土記《割書:上ノ|十二丁》云、豊川トハ市盛(一リノイ)ノ長者アリケル、カレヲ見レバ   是河上ニ栖居玉フナリ、人屋サカンナルコト廿里ナリ、彼 ̄ノ民 ̄ノ家豊ニサカンナル故ニ   其流レヲ豊河ト号ス、  ●名所方角抄《割書:五十|九丁》云、豊河世俗の今橋といふ宿よりも北也、星野などゝ云所   に近し、三河の北は山つゞき也、今橋の宿より高師原へゆく也、北に大山あり、   其梺に豊川あり、 ●藻塩草《割書:五ノ|七丁》三河同《割書:六ノ|廿丁》豊川郷《割書:三河|》 【「○」「●」「、」は朱】                          古歌考 下 一  ●三川藻塩草云、豊川ノ里の旧跡、中古田地になり、字御世板といふ也、むかし   しかすかの渡場の岸今に存(ノコ)れり、此所より渡舟にのり今橋の里へ   わたりたる也、豊川の地縁【脈?】にて三明寺の西南のあたれり、  ●綜録云、水源は段戸(タンド)山及ひ名倉津具等の水、黒瀬川作手川と合し、   滝川となる又/川合(カハヒ)山より出る水は、八名と設楽の二郡を分ち、大野の西を   ながれ、長篠にて会するものを美和川といふ、宝飫八名の二郡を隔流て、   末は宝飯郡前芝にて海に、入、これ今の吉田川にて今これを豊川また、   姉川ともいふ、古へは日下部(クサカベ)より、又一流の大川ありて豊川の里の岸を流れし故、   又豊川といふ然るを明応六年八月十日の洪水に、渕瀬かはりて、此 ̄ノ川絶たり   今も其川筋のあとは深田也といふ、  ●夫木《割書:廿四|雑六》  六帖題とよ川 《割書:三川|》      衣笠内大臣    かり人のやはぎにこよひやどりなば【「ぶ」を見せ消ち、右に朱字「バ」に】あす/や(ハ松)わたらむ豊川の浪《割書:名松外|秋モ》【「名松外秋モ」は朱字】    《割書:たび新六帖|》        水《割書:松秋|名》         ●かくて本野か原を過れば懶(モノウ)かり【「う?」を見せ消ち、朱字「り」に】し、蕨は春の心を生かはりて、秋の色うとけ      れども、分ゆく駒は鹿の毛に見ゆ、時に日重山にかくれて月星/躔(コマヤカ)に      あらはれ、時【明?】暁をはやめて豊川の宿にとまりぬ、深夜に立出て見れば、      此河は流広く水ふかくして、まことにゆたかなる【「る」を見せ消ち、朱字「か?」に】わたり也、川の石瀬      に落る【「に」見せ消ち、朱字「る」に】浪の音は、月の光りにこえたり、川辺に過る風の響(ヒヾキ)は夜の      色【「辺」を見せ消ち、朱字「色」に】白しまたみきはひなの栖には、月より外に詠(ナガメ)なれたるものなし、  ●貞応海道記    しる人もなぎさに波のよるのみぞなれにし月のかげはさしくる《割書:白|モ》【「白モ」は朱字】     豊河《割書:扶桑拾葉本|》    ●よかはといふ宿の前を打過るに、あるものゝいふをきけば、此道はむ 【「○」「●」「、」は朱】                          古歌考 下 二     かしよりよくるかたなかりし程に、近き頃俄にわたふづの今道     といふ方に、旅人多くかゝるあいだ、今は其宿は人の家居をさへ外(ホカ)に     のみうつすなどぞいふなる、ふるきを捨てあたらしきにつく     ならひ、定まれる事と云ながら、いかなる故【「故」見せ消ち、朱字「故」に】ならんと覚束     なし、昔よりすみつきたる里人の、今さらゐうかれんこそ、     かの伏見の里ならねとあれまくをしくおぼゆれ、  ●仁治道之記     おぼつかなよかはの【「よかはの」の右に「いさ豊 扶桑拾葉本」】川のかはる瀬をいかなる人のわたりそめけむ《割書:モ|》【「モ」朱字】          廿ニ日のあかつき夜ぶかきあり明の          かげに出て行いつよりも物かなし  阿仏尼  ●十六夜日記    すみわびて月の都を出しかどうき身はなれぬ有明の影《割書:モ|》【「モ」朱字】        十四日こゝの御とまり《割書:矢バキ|ナリ》【「バ」の濁点「〟」は朱字】を立侍りしに河あり  ●富士紀行 これや豊【「尽?」を見せ消ち朱字「豊」に】川と申わたりならんとおぼえて  藤原雅世卿    かりまくら今いく夜ありて十よ川やあ【「の」を見せ消ち、朱字「あ」に】さたつ浪のすゑをいそがむ《割書:モ|》【「モ」朱字】  ○名寄  ○夫木廿四外【「○夫木廿四外」朱字】     鴨長明                             里《割書:松|秋》    風わたる夢のうきはしとだえして袖さへふかき豊川の 水《割書:白松外|モ秋》【「白松外モ秋」朱字】                             波《割書:夫|》【「波夫」朱字】    ●按ニ此歌印本長明歌集には見えず、    ●白云豊川寺とは三明寺の事也、夢のう【「夢のう」の右横に朱の二重線あり】き橋とは、弁天の前の端をいふ、     宗牧紀行にさま〳〵の事あれど略之、 【「○」「●」「、」は朱】                         古歌考 下 三  ○伊豆日記云、永暦元年三月二十日云々、出_レ ̄テ都趣_二 ̄ク伊豆 ̄ノ配所_一 ̄ニ云々、三月廿五日   矢作(ヤハギニ)宿 ̄ス、二十六日大江 ̄ノ入道定厳 ̄カ豊河 ̄ノ館 ̄ニ休息 ̄ス云々、同日浜名 ̄ニ宿 ̄スとあり、   これ源頼朝 ̄ノ卿、伊豆に流され給へりし時の記にて其時御供にさむらひ   ける伏見 ̄ノ廣有が記せるもの也、  ●源平盛衰記《割書:廿三ノ九丁平|家東征ノ条》云、治承四年十月四日、三川 ̄ノ国矢矧ニツク、五日 同   豊川ニツク、六日遠江 ̄ノ国橋本ニツク、  ●吾妻鏡《割書:卅二ノ五丁将軍|頼経卿上洛ノ条》云、癸未著⁻御橋本 ̄ノ駅_一 ̄ニ云々、八日甲申云々、著_二-御《割書:シ玉フ》   豊河 ̄ノ宿_一 ̄ニ云々、九日乙酉/矢作(ヤハギノ)宿入御云々、  ●同書《割書:卅二ノ卅一丁|御帰路ノ条》云、十月十八日己未云々、入_二-御矢作 ̄ノ宿_一 ̄ニ云々、十九日庚申云々、戌 ̄ノ一   尅著_二‾御 ̄ス豊河 ̄ノ駅_一 ̄ニ、廿日辛酉風雨辰 ̄ノ尅出_二‾御《割書:シ玉フ|》於/本野原(モトノハラニ)_一甚雨【「両?」を見せ消ち、右に朱字「雨」】暴風、然 ̄シトモ【レトモ?】而御輿 ̄ノ   前後 ̄ノ人々 ̄ハ者不_レ及_レ擁_レ ̄スルニ笠 ̄ヲ、皆以/舐(スヽル)_レ鼻(ハナヲ)、午 ̄ノ尅 ̄ヨリ以後属_レ ̄ス晴 ̄ニ、酉 ̄ノ尅 ̄ニ橋本 ̄ニ御/宿(トマリ)云々、 ●これらの事跡によりて考ふるに、往古(イニシヘ)の道は、矢矧《割書:此間に宮|路山アリ》、豊川《割書:前後ニ本|野原アリ、》橋本と  つゞきたりそは古老の説に、古へは今の赤坂 ̄ノ宿の北を廻りて、鷺坂へ出、上宿(ウハジユク)《割書:古への御油ノ|宿也トイヘリ》  八幡(ヤハタ)《割書:此辺【■を見せ消ち、朱字「辺」に】すべて|古ノ府ノ地也》にかゝりて豊川へ出、今の三明寺の辺より、当古和田神田岩崎等を  経て山坂をこえて雲谷(ウノヤ)へ出て、橋本にいたる、これ古の海道也といへり、これに  つきて按ふに、貞応海道記、仁治道之記などには、京より東に下る道程に、  本野原は豊川の西にある由【「田」を朱で「由」に】なれど吾妻鏡には、東にあれば、古への野はいと〳〵  広くて、今の野口といふ辺西より入る野の口にて、今いふ諏方(スハ)ぶろ蔵子(ゾウシ)山/佐脇(サワキ)  原(バラ)《割書:こは末のはら野か|ひくま野なるか》又かけて南にいたり、北もいと〳〵広く今いふ本野原の辺より、  豊川 ̄ノ宿の東までかゝりたる野とおぼし、そは今本野原近辺の村名に、長艸  西原/篠(シノ)田松原牧野などいへる、野によしある村号(ムラノナ)あまた【「ふ」を見せ消ち、朱字で「た」に】あれば也、  さて、豊川 ̄ノ宿といふは、今の古宿村其 ̄ノ本土(モト)にて今の豊川村 ̄ノ辺かけて、いと広く賑し 【「○」「●」「、」は朱】                         古歌考 下 四  き宿とおぼしきを、仁治之道之記に、近き頃【「ひ」を見せ消ち、右に朱字「頃」】俄にわたふづ《割書:渡津ノ|コト也》の今道といふ  方に旅人多くかゝるあひだ、今は其宿の人の家居をさへ外にのみうつすな  とそいふなる云々、とある如く其頃より往来(ユキヽ)の人少くして、つき〳〵に今のさ  まとなりて、つひに古宿の名のみ残れるなるべし、此 ̄ノ事は古蹟雑考【「古蹟雑考」を朱の四角枠で囲】宿駅 ̄ノ  条/及(マタ)和名抄郡郷考【「和名抄郡郷考」を朱の四角枠で囲】府 ̄ノ下にいへればこゝには、其/大旨(オホムネ)をいふのみ也、 ○本野原(モトノノハラ)【左ルビ「ホンノガハラ」】  ●三川モシホ草云、宝飯郡ニあり、此野に属する村里多し、         ●和訓栞 云、本野原は宝飯郡より転(ウツリ)し名にて今も本野 村本   坂の名あり、砥鹿明神の本宮山も同事なるべし、といへり、  ●按ニ宝飫郡はもと穂(ホノ)郡なれば、吾妻鏡《割書:卅二ノ|卅一丁》に本野原をモトノハラト訓み、月清【「旦清」を見せ消ち、右に朱字「月清」】   集にもとのゝ原とよめるは非(ヒガコト)にて、旧く。ホノハラと唱へて、穂之原(ホノハラ)の意なるべしかゝれば   本野村ば、此 ̄ノ郡の本土(モト)なるべきカ此事は、和名抄郡郷考【「和名抄郡郷考」を朱の四角枠で囲】宝飫 ̄ノ郡 ̄ノ条に委くいへり、  ○承久記《割書:上|廿三丁》之海道先陣相模守遠江 ̄ノ橋本ニ著キケルニ十九騎つれたる勢、高師山   に入ヌト申ケレバ相模守(北条時房也)如何ナルモノナレバ、先陣ヲ越テ先様ニ通ルヤラン《割書:中|略》トゾ仰ケル内田四郎同   六郎新野右馬允、是レヲ始メトシテ六十余騎追カケタリ、十九騎続イタル勢、高師山ヲモ馳   通(、)テ宮路山ヘ打カヽリ、音羽川《割書:白雲云御油|川ナルベシ》ノ端(ハタ)に下リタチテ、今ハサリトモ続(ツヾ)く敵   ヨモアラジトテ、馬ノ足冷サ【「サ」朱字】セテ片ナル岳ニ扇ツカフテ、休ミケル処ニ内田 ̄ノ モノ馳来リテ、谷ヲ【「ニ」を見せ消ち、右に朱字「ヲ」】隔   テ扣(ヒカヘ)ツヽ、使者ヲ以テイハセケルハ如何ナル人ナレハ、先陣ヲ越テ通リ給フゾ、敵カ御方 カ承レトテ、相模守   殿ノ御使、遠江国ノ住人内田ノ者共ガ参テ候也【■を見せ消ち、右に朱字「也」】、トイハスレハ、マコト候下総守ノヤカラニ三浦筑井   四郎太郎ト申スモノニテ候、《割書:中略|》内田ノ者共、六十余騎ニテ押寄セタリ、筑井トアル小家ニ走入テ、四   方ノ垣切ツテ、押立六人楯籠リテ、矢タバネトイテ推シクツロゲ指攻(サシツメ)々々、是ヲ射ル内田ノ者共、谷 【「○」「●」「、」は朱】                         古歌考 下 五   ヲヘダテヽ扣ヘタルガ、被射落_一モノモアリ、目ノ前ニ疵ヲ蒙リ、失_レ命【𫝇】者数多アリ、筑井   矢種スクナク、射成シテ、今ハ如何ニカスベキ可_二打勝_一、軍サニモ非スサノミ罪ツクリテモ、センナシ、   イサヤ、思ヒ切ントテ、後見安房郡司ト差シ違テゾ臥ニケル、残リ【「ヲ」を見せ消ち、朱字「リ」に】四人モ親タシウサシ■(、)テケリ、十三騎   ノ郎等共《割書:中略|》大勢ノ中へ噢テカケ入、一騎ニ四五騎推 ̄シ双へ々々、クミケレバ无勢多勢ニ可_レ ̄キ勝ヤウ   ナクシテ、皆々被打取_一ヌ、十九騎ガ首、本野ガ原ニゾ、懸ケタリケル《割書:云| 云》、 【貼紙あり 朱字】            ●ほむの川原《割書:按ニ川原ト書ルハ筆者ノ|誤ニテ が原 ナルベシ、》にうち出たれば、四方のうみかすかにして     山なく岡なし、秦甸の一千余里を見わたしたらん心ちして草土     ともに、蒼茫たり、月の夜ののぞみいかならんとゆかしく覚ゆ、     筿(サヽ)原の中にあまた踏分たる道ありて、ゆく末もまよひぬべき     に、故武蔵のつかさ《割書:平泰時|ノコト也》道のたよりの輩におほせて、植おかれたる     柳もいまだ蔭と賴むまではなけれども、かつ〴〵まづ道のしるべ     となれるもあはれなり、云々  ●仁治道之記    うゑおきし主なきあとの柳ばらなをその蔭を人やたのまん《割書:白|モ》【「白モ」朱字】      よかはといふ宿の前をうち過るに云々    ●按ニ豊川村に千本(チモトノ)社といふ有て、柳の古木一株あり、これ其 ̄ノ旧跡也と     或人いへり、 ●白云東三川 ̄ノ千本ノ柳トハ、本野が原 ̄ノ柳 ̄ノ コト也、文台ニ用 ̄ノ? ル由《割書:ニ|》【「ニ」朱字】テ、     或 ̄ル大名衆御アツラヘ有テ調進シヽコトアリ、此 ̄ノ柳は武蔵 ̄ノ守 ̄ノ植ラレシ柳ナリ、于_レ今ト     ヨ川林ニ柳アリト云リ、 【貼紙あり】   ●月清集上               後京極良経公    うつしうゝる庭の小萩の露しづくもとのゝ原の秋やこひしき《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ○                   光俊卿    住なれしもとのゝ原やしのぶらんうづむ虫にやむしのわぶるは《割書:モ|》【「モ」朱字】 【右頁貼紙 朱字】 ○宣光按ニ音羽川ハ今長沢村関屋ノ少シ  東ニ川アリコレヲ音羽川トイヒテ其川上ニ音羽  塚トイフモアリ《割書:此川ノ末流ハ|御油ヘ出ル》コレナルベシサラバ  承久記ナル宮路山ヘ打カヽリ音羽川ノ  端ニ下リタチテトアルニモアヘルヤウナリ此  辺スベテ昔ハ音羽郷トイヘリトオボシタテ  同村《割書:中ノ|田?丁》産神嶽大明神ノ古キ棟札 《割書:足利家中ツ代ノ年|ナリキ今ワスレタリ》ニ音羽ノ郷トアリシヤ  ウニ覚エタリ 【左頁貼紙】 《割書: |長■【貴・央】云》 此二首の歌もとのゝ原トよまれしは本野原の ことにはあらじ歌の趣意を考れば すみなれしもとの原の恋しきやトいふ 意とおもはる出所はたしかに覚へねと 雑木抄ニう/つ(ツ)【「徒」の右に朱字「ツ」】す虫屋にむしのわふるはと あり尚よくかんがへたまふべし 【「○」「●」「、」は朱】                         古歌考 下 六 【144コマと同じ】 ○末腹野(スヱノハラノ)  ●三川モシホ草云、設楽郡市場村の地中にあり、俗呼て          はらふ野といふ、藻塩艸には末原野と書り、   ●白云、一説、碧海郡の野原といふ不審也、本野が原に対し末の原野は海    際をいふにはあらぬにや考べし、   ●刪補松云、本野が原に対し海手の方を末野といふ、昔の街道也、   ●按ニこれらの説ニよれば、今の佐脇原(サワキバラ)なるべし、又按に渥美 ̄ノ郡二川の北に、    原また中原といふ村あり、本中末と対するならば、かの中原より東南なる    小松原辺の野にはあらざるが、そは末(マツ)原/松(マツ)原字音通へり、こは試みにいふのみ    也、尚よく考べし、   ●松葉集《割書:十五|》末 ̄ノ腹野、三河、八雲御抄并藻塩当国とあり、   ●按ニ八雲御抄《割書:五ノ|十七丁》に、すゑのはらの《割書:万あつさゆみ|とかりする》とのみありて、国をば記し給はず   ●類字名所補翼抄《割書:七|》未勘トアリ、●藻塩草《割書:三ノ二|九丁》国名なし   ●本居翁の古事記伝《割書:七ノ|四十丁》云、振山を未通女子之袖振山、奈良 ̄ノ里を旧(フル)    衣着(コロモキ)楢(ナラノ)里とよめる例にて、末之といふ迄は序にて腹野ぞ地名にはあ    るべき、末のはら野と云る名所いかに【「わ」見せ消ち、右に朱字「に」】ぞやと云れたり、  ●万葉《割書:十一|》    梓弓(アヅサユミ)、末之腹野尓(スヱノハラヌニ)、鷹田為(トカリスル)、君之弓食(キミガユツル)【「ル」の右に書入れ「テ」】之(ノ)、将絶跡念甕屋(タエムトオモヘヤ)《割書:白モ|松秋》【「白モ松秋」は朱字】    ●此歌新勅撰十四恋四には、二 ̄ノ句すゑ野の原とありて、題不知よみ人不知とあり、    ●万葉略解《割書:十一ノ|》云、大和国添 ̄ノ上 ̄ノ郡/陶(スヱ)の原野なるべし といへり●万葉見安《割書:二 ̄ノ|五十二丁》     又は上総の周/准(稚歟)【「稚歟」朱字】郡の原野かといへり、  ●続後撰《割書:七|秋下》   題しらず    なが月のすゑのはら野【「はら野」の左に書入れ「のはらイ」】のはじ紅葉しくれもあへず色づきにけり《割書:松|モ》【「松モ」朱字】 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 七  ●続古今 《割書:六|冬》 建保内裏歌合に冬野霰を     光明峰寺前摂政左大臣    ぬれつゝぞ【「ぞ」の左に「も松」】しひてとかりの梓弓すゑの原野にあられふるらし【「らし」の左に「らん松」】《割書:白モ|松》【「白モ松」は朱字】  ●新後撰 《割書:五|秋下》 建保四年百首歌めしけるついでに 後鳥羽院御製    をしめども秋は末野の霜のしたにうらみかねたるきり〳〵すかな  ●同   《割書:同|同 》 暮秋のこゝろを         院御製    長月のすゑ野のま葛霜がれてかへらぬ秋を猶うらみつゝ  ●新拾遺 《割書:五|秋下》 《割書:いまだこのみこの宮と申ける時十首歌めし|けるついでに暮秋霜といふ事をよませ給ける》 後醍醐院御製    ゆく秋の末野のくさ【「くさ」の左に「はらイ」】はう【「か?」見せ消ち、右に朱字「う」に】らがれて霜に残れる有明のつき《割書:モ|》【「モ」は朱字】  ●新後拾遺《割書:一|春上》 弘長元年百首歌奉りける時春雪 衣笠前内大臣    さらにまたむすぼゝれたる若草の末野のはらに雪【「雪」の右に朱字「雪」】はふりつゝ  ●同   《割書:十五|恋五》  題しらず          参議経宣    身を秋の末のゝ 原の霜がれに猶吹きやまぬ葛のうら風  ●続後拾遺《割書:五|秋》  秋霜をよませ給ふける     御製    今よりの秋の色こそさびしけれ末野の尾花霜むすぶなり  ●新続古今《割書:一|春上》 承久元年内裏十首歌合に野経霞【野径霞?】 従三位範宗    宿からむ末野の里のしるべだに霞(カスミ)【「カスミ」朱字】にまがふ夕けぶりかな 【「○」「●」「、」は朱】                         古歌考 下 八  ●同   《割書:十二|恋二》  貞和百首歌に         前大納言実教    契おくすゑの原のゝあづさ弓引わたるともたえむなり【「か」見せ消ち、右に「か」】かは  ●同   《割書:十七|雑上》  冬の御歌の中に        後鳥羽院御製    ひと年もいまは末野のむらすゝき霜ふく夜半の風の寒けき  ●夫木  《割書:十一|秋二》  寛喜元年五十首恋歌      衣笠内大臣    ちぎりおきし末のはら野の萩の露うつろふ色【「色」の右に、朱字「色」】に消かへりつゝ《割書:松|白》【「松白」朱字】  ●同   《割書:同|同》   喜多院入道二品親王家五十首  禅性法師    うづらなく末のはら野の萩がえに秋の色ある夕つくひかな《割書:松|白》【「松白」朱字】  ●同   《割書:十二|秋三》  御集羇中鹿          鎌倉右大臣    秋もはやすゑのはら野になく鹿の声きく時ぞ旅はかなしき《割書:白|》【「白」朱字】  ●同   《割書:十四|秋五》  千首歌            民部卿為家    ゆく秋の末野のはらのさゝのやに夜を寒からしころもうつなり《割書:白|》【「白」朱字】  ●同   《割書:十五|秋六》  家集秋歌           同    こがらしの末の原野の櫨(ハジ)【「ハジ」朱字】紅葉かつさそはれて暮る秋かな《割書:松|白》【「松白」朱字】  ●壬二集                    藤原家隆卿    神なづきすゑ野の草葉かれはてゝしくれにまじる霰ふる也《割書:白|》【「白」朱字】 【「●」は朱】                         古歌考 下 九  ○同                      同    しくれゆく末野の山の木の葉までを遠こち人の袖やぬるらむ《割書:白|》【「白」朱字】  ○拾遺愚草                   藤原定家卿    秋来ぬと手【「手」の右に朱字「手」】ならしそめしはし鷹もすゑ野の鈴の声ならす也《割書:白|》【「白」朱字】  ○同                      同    あづさ【「さ」の右に「さ」】弓すゑのはら野に引すゑてとかへる鷹をけふぞあはする《割書:白|》【「白」朱字】  ○同                      同    契りおきしすゑの原野の もと(玉イ)かしはそれともしらじよその霜がれ《割書:白|》【「白」朱字】  ○新六帖    あつさ弓すゑのゝ草のいやおひに春さへふかくなりそしにける《割書:白|》【「白」朱字】  ○類題                     範宗    なか月や末の原野の風よりも猶かれまさるむしの声々《割書:松|》【「松」朱字】  ○七帖抄  ●藻塩草《割書:一ノ|九丁》日てり雨ノ条ニ出所をしるさず此歌をのす《割書:○夫木十九|  光俊イ》【「○夫木~光俊イ」迄は朱字】    とにかくに御笠とまをせ夏ふかき末の原野に【「末の原野に」の右に「末野の原の モシホ」】日てり雨 降【「降」の右に「ふる モシホ」】《割書:白|》【「白」朱字】  《割書: |享保十四年酉三月十九日》  ○南殿御当座                  閑宮院直仁親王    くるゝとも行てや見まし霞たつ末野の原のはるの木のもと《割書:白|》【「白」朱字】 【「○」「●」は朱】                         古歌考 下 十 ○緑野池(ミドリノノイケ)  ●松葉集《割書:云三河夫木ニ当国トアリ|》 ●秋の寝覚 ●類聚名所外集 等当国とせり         ●三川モシホ草云、碧海郡 粟寺(アハデラ)村ノ地中にあり、俗呼て    鷺草ノ池といふ、東海道/宇頭(ウトウ)村より西北也、此池に鷺草おふる故に異名とす、   ●二葉松云、或岩堀池也といふ未詳、●刪補松云、菱池也とも、粟(アハ)寺村の    池也ともいふ、白云もし小坂井の辺にてはなき歟といへり、   ●按ニ八名郡三渡野村の川東ニ、権現山といふあり、其北の方に小き野    原有て、其辺の田の中に字(アザナ)はミドリ塚といふ小き塚有て、榎(エノキ)一本/立(タテ)り    村人の説に、むかし公家(ヲホヤケ)より田地(タトコロ)改むる司人/此(コヽ)所ニ来ましけるをこゝより    向ひは深田にて畔(ア)なれば、畝歩改むる事なりがたし、見取(ミドリ)にせよといへりし    より、しか号(ナヅケ)けたる也といへり、されどこは後ノ人の訛説にて、ミドリ塚はみどり野    の古名の残れるにて、ミドノはミドリノの略語なる事しるし、そは倭名抄ニ    上野ノ国の郡ノ名、緑野を美止乃と訓(ヨメ)り、民部式《割書:廿二ノ|二丁》拾芥抄《割書:四ノ|六十二丁》なる    傍訓(カタヘガナ)もミドノとあれば、三度野はミドリノなる事うづなし、    ●夫木《割書:廿三|雑五》  明玉               御(、)御厳子女王    ことしおひのみかはの池のあやめぐさ長きためしに人はひかなむ《割書:松イセ|》【「松イセ」朱字】 ●同   《割書:同|》  康平四年三月祐子内親王家名所歌合《割書:伊勢又|山城》和泉式部    春ふかくなりゆくまゝにみどり野の池の玉藻も色ことに見ゆ《割書:白松外|秋モ》【「白松外秋モ」朱字】  ●同   《割書:同|》    はる雨のふりそめしよりみどりのゝ池の汀もふかくなりゆく《割書:松|外》【「松外」朱字】 【「●夫木」の上辺に書入れ】 《割書:●此歌ノコト里野池ノ|下ニイヘリ》 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 十一 ○藤野村(フヂノノムラ) ●三川モシホ草云、八名 ̄ノ郡下条郷藤ケ池むらをいふ、村        老の口碑に、古へ帝へ藤の花を奉りけると、今も色こ        となる藤多し、●白云もし八幡村の事にてはなきか、    ●刪補松云八幡のしもといふ、又藤ケ池ともいふ、●藻塩草《割書:六ノ|廿四丁》藤のゝ里《割書:三河|》  ●夫木  《割書:三十一|雑十三》  為忠朝臣三河国名所歌、藤野村《割書:三河|》 藤原宗国   むらさきのいとくりかくと【「かくと」の左に「かくてイ」、「を」見せ消ち、右に朱字「と」】見えつるは藤野のむらの花さかりかも《割書:白松|秋モ》【「白松秋モ」朱字】  ●同   《割書:同|同》              藤原道経   きしなくて藤野のむらの藤なみは松のこすゑにかゝるなりけり《割書:白外|松》【「白外末」朱字】 ○嶺野原(ミネノノハラ)  ●松葉集《割書:十三|》三河●類字名所外集《割書:同【「内」を見せ消ち、右に朱字「同」】|》●藻塩草【「草」の右に書入れ「また六ノ廿三丁峯野里 三河トアリ」】《割書:三ノ|十三丁》同        ●三川モシホ草云、八名郡石巻山 ̄ノ麓、嵩(スセ)山村 ̄ノ地中、爰(コヽ)に竹   箆山普門寺といふ古寺、観音を安置す、古への嶺野寺也といへり、《割書:刪補松|同之、》   上に所謂、嶺野【■を見せ消ち、右に「野」】は豊川の渡をこえて川東也、これは志賀須賀の渡頭を、   今【■を見せ消ち、右に「今」】橋、望ます【■を見せ消ち、左に「ます」】して豊川の向の岸へ直にわたして、今の本坂越の道也、関東へ   通行に嵩山村を出て、三川と遠江の堺本坂をこえ、三ケ日の駅にして出合、   また【「〻」を見せ消ち、右に朱字「た」】しかすかの渡を今橋里につきて、高師山の麓にかゝり、遠江国三ケ日   宿へゆく也、今の東海道二川白須賀よりは、左の山手に鎌倉道とて古への   道條あり、三ケ日宿の南に、浜名橋の旧跡あり今の東海道白すが新居の間   にいへるは、昔の旧跡にあらず鴨長明山の端の歌は、本坂越の時よみしと見えたり、  ●白云二川の北東にあたりて【「一」見せ消ち、右に朱字「て」】、一里半はかり行て、神座(カンザ)村の内俗ニ素山(スヤマ)といふ大山の半 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 十二     腹を峰の野原といふ《割書:刪補松|同之》いらごもよ【「子」を見せ消ち、右に朱字「よ」】く見ゆる処也、され共遠江の内なり   これなるべし、     豊川を立て野くれ里くれはる〴〵と過れば、峰野の原といふ所     あり、日野の草の露より出て、若木の枝にのほらず、雲は峰の松風にはれ     て山の色天とひとつに染たり、遠江の感心情尽【「春」を見せ消ち、右に朱字「尽」】しかたし、【『参河国古歌名蹟考再稿』では「遠江」は「遠望」に】  ●貞応海道記    山のはは露よりそこにうづもれて野末の草にあくるしのゝめ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】     やがて高志(タカシ)山にかゝりぬ云々  ●夫木《割書:卅一|雑十三》《割書:万代|》 みねのゝ里       祝部成茂    たれかいま思ひおこさむあづまぢやみねのゝ里の夕暮れの空《割書:外|》【「外」朱字】  ○名寄                 鴨 長明    鶉/ふす(なく 外)【「なく外」朱字】嶺野の原を朝(けさイ)ゆけはいらごが崎にたづなきわたる《割書:白松外|秋モ》【「白松外秋モ」朱字】    ●此歌松葉集《割書:十三|》に越【載カ】て、三川 ̄ノ国みね【見年】野といふ所をうち過侍りけるに、    いらごの方に靏の鳴をよめるとなんとあり、 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 十三 ○老津島(オイツシマ)  童部浦(ワラハヘノウラ)●吾妻鏡《割書:十六ノ|四丁》大神宮御神領参河国             ・大津(オホツ)神戸 ●神鳳抄 同、    ●名所方角抄《割書:印本|六十丁》云、わらはへの浦 在所不分明、老津島のあたりと云、是も     在所不知也、 ●三川モシホ草云、渥美郡大津村大崎村の海辺にむら     むらと生茂れる小松原の島也、按に今地境を争ひ、大崎村に向ふ所を     大崎島といひ、大津村に向ふ処を大津島といへと、みな古への老津島     なり、わらはへの浦は、たつ江口に入て老津島に近しといふ、    ●二葉松云、渥美郡笠島の梺、今は浦村といふ、老津島は浦村よりつゞ     きたる洲崎をいふ、 ●藻塩草《割書:五ノ|卅八丁》三河     三川海(三河 名)に老津島といふ洲さきにむかひて童部の浦と     いふ入海のをかしきを口すさ/みに(ひて松)  ●紫式部家集               紫式部    おい津島しまもる神やいさむ【「いさむ」の左に「います 松」】らむ波/も(はイ)さわか【「さわかぬ」の左に「さはらぬ 松」】ぬ(すイ)【「すイ」の右に書入れ「モシホ草五ノ卅八丁」】わらはへの浦(さき イ名)《割書:白名|秋モ|松》【「白名秋モ松」朱字】    ●按ニ歌枕名寄《割書:十九|》三河 ̄ノ部に老津島并童部浦《割書:江州|》奥津島 同之、と有て此     歌を載て、右三河においつ島といふ洲崎にわらはへの浦といふ入海のをかしき     を口すさひにと家集にいへり」とあり、●松葉集《割書:三|》には、童部浦近江名寄     にあり、といひて詞書、みつ海に云々とあり、《割書:ホヨク外集三|同之、》●又家集のイ本に     湖にとあり、みつを三川に誤れるか、三川を三つと誤れるかよく可考、 【「○」「●」「、」「」」は朱】                        古歌考 下 十四 ○伊良虞崎(イラゴサキ)  ●渥美郡伊良胡村は当国西南方のはて也、         ●吾妻鏡《割書:十六ノ|四丁》大神宮御神領、参河 ̄ノ国伊良胡 ̄ノ     御厨、●神鳳抄《割書:又|》外宮神領目録ニ伊良胡御厨、●国内神名帳云     正三位伊良久 ̄ノ大明神 ̄ハ坐(マス)_二渥美郡_一、    ●此所万葉《割書:一|》【「一」朱字】の詞書に、伊勢国とあるに依て、伊勢国と誤リ記せるものあり、    ●そは八雲御抄《割書:五ノ卅四丁|同卅六丁》いらこが島《割書:伊勢万|》清輔抄三河か云り《割書:松|》と見え     また●古今著聞集《割書:十二ノ|十七丁》に、正上座といふ弓の上手、若かりける時、参河     の国より熊野へ【「人」でなく「へ」、古今著聞集確認】わたりけるに、伊勢 ̄ノ国いらこのわたりにて海賊にあひ     けり、云々とある類也、    ●また松葉集には、伊良虞島志摩と記せり、●藻塩草《割書:五ノ|卅三丁》にも志摩国志摩郡トセリ、    ●日本紀通証《割書:三十五|十七丁》云、関氏分域指掌図 ̄ニ曰、按ニ続日本紀 ̄ニ分_二 ̄テ志摩 ̄ノ国答志 ̄ノ     郡_一 ̄ヲ始 ̄テ置_二 ̄クト佐藝 ̄ノ郡_一 ̄ヲ、此 ̄ノ郡今 ̄ハ則亡 ̄シ、伊良胡 ̄カ崎存_二 ̄ス名 ̄ヲ于参河_一 ̄ニ錦島 ̄ハ接_二属     于伊勢_一 ̄ニ、其 ̄ノ余 ̄ノ名勝混_二 ‾入 ̄スル勢紀_一 ̄ニ者亦多 ̄シ矣、或 ̄ハ曰志摩 ̄ハ本 ̄ト在_二伊勢 ̄ト三河 ̄ト     之間_一 ̄ニ、歴世既久而為_二海水_一 ̄ノ所_二淪没_一、後来割_二【「二」朱字】伊勢 ̄ノ東偏_一 ̄ヲ為_二 一国_一 ̄ト也、    ○志陽志略に、伊良湖崎 ̄ハ在_二 ̄リ伊良湖村_一 ̄ニ、此 ̄ノ地 ̄ハ者三河 ̄ノ国渥美 ̄ノ郡也、此 ̄ノ     地去_二 ̄ルコト神島_一 ̄ヲ一里、以_レ ̄テ近 ̄ヲ混_二 ̄ス志摩 ̄ノ国_一 ̄ニ云々とあり、  ●万葉《割書:一|》    幸(イデマシヽ)于【「幸」の左下に「于」、「幸」の下へ導く線あり】伊勢国_一 ̄ニ時/留(アリテ)_レ京(ミヤコニ)柿 ̄ノ本 ̄ノ朝臣(アソミ)人麻呂/作(ガヨメル)歌    潮左為二(シホサヰニ)、五十良児乃島辺(イラゴノシマベ)、榜舩荷(コグフネニ)、妹乗良六鹿(イモノルラムカ)、荒嶋(アラキシマ)廻(ワ)乎(ヲ)、《割書:白ホ|モ|松》【「白ホモ松」朱字】    ●此歌人丸集には〽しほさひにい つし(とこイ)の浦にこぐ舟にいものるらんかあらき浜べに    ●夫木廿三雑五には〽しほさゐにいらこの島へこく舟のいものるらんかあらき島間をとあり 【「○」「●」「、」「〽」は朱】                        古歌考 下 十五    ●按ニ日本紀《割書:三十ノ|廿一丁》持統天皇六年三月に、伊勢に行幸(ミユキ)ありて同五月志摩の     阿胡(アゴノ)行宮(カリミヤ)におはせしと見えたり此時の事也    ●加茂翁の万葉考《割書:一ノ|十九丁》云、いらごは三川 ̄ノ国の崎也、其崎いと長くさし出て、     志摩のたぶしの崎と遥に向へり、其間の海門(ウナト)に神(カミ)島大つゞみ小つゝみなど     いふ島どもあり、それらかけて古はいらごの嶋といひし、か、されど此/島門(シマド)あたりは、     世に畏(カシコ)き波の立まゝに、常の船人すら漸に渡る所なれば、官女などの船遊     びする所にあらず、こは京にて大よそを聞ておしはかりによみしのみ也、●《割書:万葉|略解》     《割書:一ノ卅六|丁同之、》●久老神主の万葉考、《割書:三ノ別記|廿一ノヒラ》にも此行幸の事をくさ〴〵いひて伊勢国河口 ̄ノ     行宮より、大淀のかたにいでまし、二見がうらを御船にめして、いらご崎を背向(ソガヒ)に見給ひ     て、答志(タブシノ)崎を、南にをれて、阿胡(アゴノ)行宮には至りましゝなるへしといへり、  ●万葉《割書:一|》   麻續王(ヲミノオホキミ)流(ナガサレシ)_二於伊勢 ̄ノ国伊良虞 ̄ノ島_一 ̄ニ之時人(トキトキノヒト)哀傷作歌(カナシミテヨメルウタ)   打麻乎(ウチソヲ)、麻讀王(ヲミノオホキミ)、白水郎有哉(アマナレヤ)、射等籠荷四間乃(イラコガシマノ)、玉藻苅麻須(タマモカリマス)、《割書:白松ホ|秋モ》【「白松ホ秋モ」朱字】  ●同     麻讀王(ヲミノオホキミ)聞(コレヲ)_レ之(キヽテ)感傷(カナシミテ)和歌(コタヘタマフウミ)【「ミ」の右に朱字で「タ」と、左に「〇」】    空蝉之(ウツセミノ)、命乎惜美(イノチヲヲシミ)浪尓所湿(ナミニヌレ)、伊良虞能島乃(イラゴノシマノ)玉藻刈食(タマモカリヲス)【「久」を見せ消ち、右に朱字「ス」】、《割書:ホ|》【「ホ」朱字】    ●左注ニ云右案_二 ̄スルニ日本紀_一 ̄ヲ曰、天皇《割書:天武天|皇ナリ》四年乙亥四月戊戌朔乙卯、三品      麻讀 ̄ノ王有_レ罪流_二于因幡_一 ̄ニ、一 ̄ノ子 ̄ヲ流_二伊豆島_一 ̄ニ、一 ̄ノ子 ̄ヲ流_二血鹿(チカノ)島_一 ̄ニ也、《割書:チカノシマハ|肥前ナリ、》     是 ̄ニ云_レ ̄フハ配_二 ̄ト于伊勢 ̄ノ国伊良虞 ̄ノ島_一 ̄ニ者、若 ̄シ疑 ̄クハ後人/縁(ヨリテ)_二歌辞_一 ̄ニ而誤 ̄リ記 ̄ス乎(カ)、とあり、    ●按 ̄ニ日本紀《割書:廿九ノ|七丁》天武天皇四年四月甲戌朔辛卯 ̄ノ条 ̄ニ載 ̄テ三位麻讀王云     云とあり此 ̄ノ王ハコヽニ見エタルノミニテ、皇統紹運録及帝皇系図又大日本史等 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 十六     ニも載ざれは、何なる人にや考る所なし、    ●賀茂翁の万葉考《割書:一ノ|十二丁》にも、左注の説をよしといひて、さていらごの崎を、    伊勢 ̄ノ国また志摩 ̄ノ国と思へるも誤也、後の物ながら古今著聞集に、伊与国     にもいらごてふ地有といへり、因幡にも同名あるべしと云れたり●《割書:万葉略解《割書:一ノ|廿三丁》ニモ【「ニモ」朱字】|此説によれり、》    ●契冲の万葉代匠記《割書:一ノ下|》には、此注不審残れり、実に日本紀はこゝに引る如くなれ     共、玉もかりますとも故なくしてはよむべからず、若始 ̄メ は伊勢 ̄ノ国へ流し遣はされ     けるを、後に改て因幡へ移されけるを、日本紀には後をとりて記し給へるか、     大神宮の神衣奉るにつきて麻讀(ヲミ)氏/服部(ハトリ)氏 ̄ノ者、彼 ̄ノ国ニあり、麻讀 ̄ノ王といふ     名につきて因幡なれ共、いらご嶋といへるか、とあり、    ●三川藻塩草にも、いらご嶋に配せらるといふは、歌辞によりて後人誤記すか、     又因幡に配せられて後、いらこの嶋に移さるゝか云々といへり、    ●さて此歌、夫木廿三雑五ニも載て題不知、なみわ【「に」見せ消ち、右に朱字「わ」。夫木集は「に」】ひぢいらこか嶋のたまもかり     しくとあり、    ●白云、此歌今世いらごにては、〽あさをうつ臣の大君あまなれや、いらこの     濱の玉もかりしく、と唱へて、烏丸殿の御詠といひ【「ふ」見せ消ち、右に朱字「ひ」】伝ふといへり、    ●按ニ烏丸殿といふは、麻讀王を誤伝へたるなるべし、委くは官社私考【「官社私考」を朱の四角枠で囲】     下つ巻伊良久 ̄ノ社の下にいへり、 【「○」「●」「、」は朱                        古歌考 下 十七  ●千載  《割書:十六|雑上》  百首の歌の中に松をよめる 修理大夫顕季    玉藻かるいらごが崎の岩根松いくよまでにか年 の(をイ)へるらむ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】    ●此歌堀川百首下にも載て題松とあり、  ●続後撰 《割書:十二|恋二》  題しらず       藤原道経    たまもかるいらごの海士も我ごとやかわく間な【「お」見せ消ち、右に朱字「な」】くて袖はぬるらむ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ●続後拾遺《割書:三|夏》   郭公早過といへることを 前中納言匡房    海士のかるいらこが崎のなのりそのなのりもはてぬほとゝぎすかな《割書:白松|モ》【「白松モ」朱字】    ●此歌夫木廿六雑八ニも載て郭公 ̄ノ歌 ̄ノ中とあり、  ●同   《割書:十五|雑上》  海辺松といふことを  入道二品親王覚性    風わたるいらごが崎のそなれ松しつえは波の花さきにけり《割書:白|モ》【「白モ」朱字】    ●此歌夫木廿六雑八ニも載て、三百六十番歌合、㐂多院入道二品のみことあり、  ●堀川百首《割書:下|》   海路         中納言国信    浪のを【「を」の左に朱字「よホ」】るいらごが崎を いづる船(いるふねは)はや漕わた せ(れ)しまき/り(も 夫)ぞする《割書:白モ|松ホ》【「白モ松ホ」朱字】    ●此歌夫木廿六雑八ニ載て、堀川 ̄ノ院 ̄ノ御時百首、〽波のをるいらごが崎を      いる船ははやこぎわたれしまきもぞする、とあり、           いらごへわたりけるに、井かひと申はまぐりにあこやの           むねと侍るなり、それをとりたるからをたかくつみ           おきたりけるを見て  ●山家集                西行法師    あこやとる井かひのからをつみおきてたからの跡を見する也けり 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 十八           沖のかたより風のあしきとてかつをとまうす           魚つりける舟どものかへりけるを見て   同  ●同    いらご崎にかつをつ り(る夫)船ならびうきてはか ち(け夫)の浪にうかびてぞよる《割書:白松|モ》【「白松モ」朱字】    ●此歌夫木廿六雑八ニも載て、家集西行上人、二 ̄ノ句かつをつる舟四 ̄ノ句はかげの波にとあり、           ふたつありける鷹のいらご渡りすると申けるがひとつの           たかはとゞまりて木のすゑにかゝりて侍と申けるを聞て、  ●同                  同    巣鷹わたるいらごが崎をうたがひてなほ木にかへる山 かへり(からす夫)かな《割書:白松|モ》【「白松モ」朱字】    ●此歌夫木廿七雑九ニも載て家集五 ̄ノ句山からすかなとあり、  ●同                  同    はし鷹のすゝろかさでもふるさせてすゑたる人のありがたのよや  ●壬生集 《割書:上|》     しまひゞくいらごか/さき(しま 夫)のしほさゐにわたる千鳥 は(の)こゑ のほる(かすか 夫)【「のほる」の左に「ほのか松」】なり《割書:白|松》【「白松」朱字】    ●此歌夫木廿三雑五には為忠卿の百首とありて二 ̄ノ句いらごかしま四五 ̄ノ句千鳥     のこゑかすかなりとあり ●松葉集には声ほのかなりとありて玉吟とあり  ●同   《割書:イ呉竹集|》            同    ひきすえよ【「に」見せ消ち、右に朱字「よ」】いらこの鷹の山がへりまだ日はたかしこゝろそらなり《割書:白|モ》【「白モ」は朱字】  ●夫木  《割書:八|夏二【■の上に朱で重ね書き「夏」に】》 後九条内大臣家百首 蛍   隆祐朝臣    島ひゞくいらごが崎の波間にもこたえぬ玉はほたるなりけり《割書:白|》【「白」は朱字】  ●同《割書:廿三|雑五》  家集 《割書:伊勢|》         基俊 【右頁最初の行の上に書入れ】 《割書:類字名所外集ニ|波加知濱 志摩トシ|テ此歌ヲノセタリ》 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 十九    白なみのいらごか嶋(崎 松)のわすれ貝人わするとも我わすれめや《割書:白|松ホ》【「白松ホ」朱字】  ●同   《割書:廿六|雑八》  家集         西行法師    浪もなしいらごが崎にこぎ出てわれからつげるわかめかれ海士《割書:白|松》【「白松」朱字】  ●同   《割書:廿六|雑八》  雑歌中        よみ人不知    みさごゐるいらごが崎のはなれ松幾世の波のしほれきぬらむ《割書:白|松》【「白松」朱字】  ●同   《割書:廿六|雑八》  参河国名所歌合、伊良古賀崎 為忠朝臣    なぐさめにひろへば袖ぞぬれまさるいらごが崎の恋わすれがひ《割書:松|外》【「松外」朱字】  ●同   《割書:同|》              清輔朝臣    岩におふるいらごかさきの松よりもつれなき人はねがたがりけり《割書:松|外》【「松外」朱字】  ●同   《割書:同|》              参西法師    我こひはいらごがさきの海人なれややく塩がまのけふりたえねは《割書:松|外》【「松外」朱字】  ●同   《割書:廿七|雑九》  正治二年百首     正三位季経卿    あさりするいらごが崎のあまの子はうか【「け」見せ消ち、右に朱字「か」】ぶかもめを友と見るらむ《割書:白|松》【「白松」朱字】  ●名寄                 鴨長明    雲の波いらごか崎に分捨て長閑にわたる秋の夜の月《割書:松|》【「松」朱字】  ●同                  同 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 二十    鶉ふす嶺のゝ原を朝(けさイ)ゆけばいらこが嶋【「崎」見せ消ち、右に朱字「島」】にたづなきわたる《割書:松|》【「松」朱字】    ●此二首歌枕名寄を校【挍?】るに見えず、●鶉ふすの歌は松葉集十三に載たり、                      よみ人不知   ○風さむみいらごが嶋【「崎」見せ消ち、右に朱字「嶋」】になく千鳥波のたちゐにこゑさわぐなり《割書:白|モ》【「白モ」朱字】    ●此歌白雪本に風雅集とあれど、今其集を校【挍?】るに見えず、                      藤原家経   ○玉藻かるいらごが嶋【「崎」見せ消ち、右に朱字「嶋」】の秋のつきなれぬる海士も袖はほさじを《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ○信太社    玉藻かるいらごが崎のなのりその名さへかひなし浪の下くさ《割書:白|》【「白」朱字】  《割書: |正徳五年八月廿一日》  ○大神宮千首 恋  寄崎恋       後水尾院天皇御製    なびくやと人のなのり そ(・)かりて見むいらごが崎の海士ならぬ身も《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ○万代集                六条入道    朝ほらけ霧たちわたるしほさゐのいらごの嶋【「崎」見せ消ち、右に朱字「嶋」】に船よばふなり 【「○」「●」「・」は朱】 ○高師山(タカシヤマ)  ●松葉集《割書:五|》●類子【字】名所集《割書:二|》●歌枕秋の(・)寝覚●藻塩草《割書:四ノ|廿三丁》        ●歌枕名寄《割書:十九|》●類字名所補翼抄《割書:三|》等遠江とせり    ●三川藻塩草云、八名 ̄ノ郡 嵩(スセ)山村 ̄ノ地脉也、一説ニ立岩 ̄ノ東 ̄ノ山をいふ、     古記によりて考ふるに、八名郡嵩山村の地にありて、遠江三川の境山なり、     西表を三川国の名所とし、本表を遠江国の名所とす、両国ともに名所     の歌あり、口伝、国名風土記三川の部には作_二 ̄ル高石山_一 ̄ニ、他の国にも同名     所あり、或人云高師山は遠江の名所也、同名所国々【「と」見せ消ち、右に朱字「々」】に多き事をしらず、     国異にして名所同じきあり、此類いと多し先いはゆる高師山、同名所     四ケ国にあり、三川遠江摂津和泉也、いづれも名所和歌有て、和歌浦友     千鳥集に出、●刪補松の説同之 ●二葉松には高師山をのせず、    ●日本鹿子《割書:六|》云高師山、二川 ̄ノ宿と白すか ̄ノ宿との間也、北は山南は海也、 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 廿三    ●名所図会云白菅より続きて北山《割書:地|名》までの間をいふ、又或云高師山は今     天神祠より白須賀迄つゞきし山をいふ、海中の眺望旅中の奇観也    ●按ニ高師山は、其もと当(コノ)国の山より出たる称(ナ)にて、今の渥美郡 高足(タカシ)     村の辺(ホトリ)の山より、火打坂、松明峠(タイマツタフゲ)、潮見坂(シホミザカ)、それより東北に続きたる、     遠江の山かけて総いへる大号(オホナ)なるべし、そはまづ当(コノ)国なる証(アカシ)【「証」の左に朱字「証」】は、源 ̄ノ順 ̄ノ朝臣の、  ●倭名抄 当国渥美 ̄ノ郡の条(クダリ)も、高蘆《割書:多加|之》郷あり、また  ●大神宮神鳳抄に、参河 ̄ノ国高足 ̄ノ御厨、また  ●同宮建久年中行事《割書:二ノ|七十丁》に、三河 ̄ノ国高師 ̄ノ御厨とあり、《割書:此全文神戸考【「神戸考」を朱の四角枠で囲む】ニ引テ|委クイヘリ、》     今も高足(タカシ)といふ村ありて、其 ̄ノ辺(ホトリ)二三里にわたれる、平(ヒラ)山の大号(オホナ)を、すべて     高足山といひ、其 ̄ノ辺(アタリ)の村々、赤_沢伊‾古‾部 高_塚 七_根 寺_沢 小_島 細(ホソ)_谷(ヤ)     大_岩 二_川、それより遠江 ̄ノ国なる白_須賀 長(ナガ)_谷(ヤ)辺(アタリ)までを悉(ミナ)高足 ̄ノ庄と称(イ)ひ、  ●菅原 ̄ノ孝標 ̄ノ朝臣 ̄ノ女の、更級 ̄ノ日記に、それよりかみは、ゐのはなといふ坂のえも   いはずわびしきをのぼりぬれば、三河の国高しの濱といふ、と見え、  ●増基法師が、遠江 ̄ノ道 ̄ノ記に、たかし山にて、すゑつきつくるときゝて、   〽たゞ【『増基法師集』では「たつ」】ならぬたかしの山のすゑつくり物思ひをぞやくとすときく   とよめるは、今もたかし山の内、大津村と植田(ウヱタ)村との間(アヒ)に、字(アザナハ)ダイゼンと   いへる所、また大崎村の山なる、字はひろ嶋といふ所などより、素焼(スヤキ)の陶器   の破れたるを数多ほり出すを見れば、こゝにて造れるなるべし、  ○藤原 ̄ノ雅経 ̄ノ卿 ̄ノ家集に、火うち坂といふ所にて、沓かくるとて、雑人の中に   かくいふものゝありしを、歌の末にきゝなして、もとをつく、    〽石のかど高師の山のこれならむ火【「大」見せ消ち、右に朱字「火」】うち坂にはくつをかくるぞ 【「○」「●」「、」「〽」は朱】                        古歌考 下 廿三   とあり、これ火打坂の辺をもいへりし明証(アカシ)なり、  ●源平盛衰記《割書:四十五|二十》、平 ̄ノ宗盛 ̄ノ大臣関東下向の条(クダリ)に、高師山ヲモ過ヌレバ   遠江 橋本(ハシモトノ)宿ニツキタマフ、とあり、こは其前(ソノサキノ)文に、二村山ヲモ過ヌレバ、三川国    八橋ヲワタリタマフとあるにて、三河 ̄ノ国内(クヌチ)をいへるなることをしるべし、  ●また同書《割書:廿七ノ|四丁》矢橋川軍 ̄ノ条に、後陣は橋本 ̄ノ宿見附国府ニツク、程チカ   キ高志二村(タカシフタムラ)は軍兵野ニモ山ニモヒマアリトモ見エズ、とあり、こも橋本 ̄ノ宿云々    といひて、程近きとあれば、橋本のつゞきならぬ証(アカシ)なり、  ●藤原 ̄ノ雅世 ̄ノ卿の永享四年 ̄ノ富士紀行に、高師山と申すもこの辺にてや   と見えて、    〽富士の根におよばぬ名のみたかし山高しと見るもふもとなるらし   十五日遠江 ̄ノ国塩見坂にて云々、とあり、こも此 ̄ノ前文に、参河 ̄ノ国八橋にて云々、   十四日こゝの御とまり《割書:矢矧ヲ|イフ》【「ツ」を朱で「フ」に】を立侍りしに云々、と有て、遠江国塩見坂云々と    いへるにて、当国内(コノクヌチ)なることしるし、  ●藤原 ̄ノ雅康卿の、明応八年 ̄ノ関東海道記に、廿五日 佐久(サクノ)嶋といふ所に船   よせて云々、廿八日船を出し侍るに、右の方にあたりて、高師(タカシ)山なりといふを   見れば、山としもなき岡のはるかに見わたされて、    〽むかしよりその名ばかりや高し山いつくをふもと峰としもなし、   とあり、これまさしく今の高芦(タカシ)村の辺(アタリ)のひら山のことゝきこえたり、   こも此 ̄ノ次(ツキ)の詞に、六月一日今橋《割書:今イフ吉田|宿ノコトナリ》のさとを立侍るに云々と、ある   にて、いよ〳〵しるし、   これらみな三河 ̄ノ国内なるたしかなる証拠(ヨリドコロ)なり、  ●また貞応二年の海道記、《割書:コハ俗ニ鴨 ̄ノ長明海道|記トイヘルモノナリ》に豊(トヨ)川を立て、野くれ里くれ 【「●」「、」「〽」は朱】                        古歌考 下 廿四   はる〳〵と過れば、峰野の原といふ所あり、云々やがて高志(タカシ)山にかゝに【「り」カ】ぬ   石利を踏(フム)て大敵(タイテキ)山をうち過れば、焼野が原に草葉もえ出て梢の   色煙をあぐ、此 ̄ノ林地をはるかに行ば、山中に堺(サカヒ)川あり、こゝより遠江 ̄ノ国   にうつりぬ    〽くだるさへ高しといはゞいかゞせむのぼらぬ旅の東路の関   此 ̄ノ山のこしを南にくだりて、はるかに見おろせば青海浪々として   白雲沈々たり、といひ、  ●源 ̄ノ光行の仁治三年の道之記に《割書:コハ俗(ヨ)ニイフ長明|道之記ナリ、》参河遠江のさかひに   たかしの山と聞ゆるあり、山中に越かゝるほどニ【「ニ」の右に書入れ「に フサウ拾葉本」】、谷川のながれ落て岩瀬    の波こと〳〵しく聞ゆ、堺川とぞいふ、    〽岩づたひ駒うちわたす谷川のおとも高しの山二来にけり、   《割書:●按ニ此歌夫木廿 ̄ノ【「ノ」朱字】雑 ̄ノ二ニモ|ノセテ源光行トアリ、》とあるは、両国(フタグニ)の堺にかゝれる山ときこえ、  ●宗祇法師が名所方角抄に高師(タカシ)山北は山、南は海也、中間原也、過れば   しほみ坂也、富士見ゆる也、此坂下の渚(ナギサ)に世俗にしらすかとて宿あり、   白菅のみなとなり、 とあるは、塩見坂のこなたの山をいへる証(アカシ)也、    また今の汐見坂の辺をもいへりしと思ふよしは、  ○雅経 ̄ノ卿 ̄ノ家集《割書:下|》に高師山をうちおりて白すか濱にて    〽おきつ風おとも高しの山こえて打よする波のしらすかの濱、    といひ不二 ̄ノ山の見ゆるよしは、《割書:コハ汐見塚【「塚」の右に朱字「板歟」】ノコナタニテ今モヨク|彼山ノ見ワタサルヽユヱニイフ、》  ●夫木集《割書:廿ノ|雑二》  《割書:みやこにかへりのぼらせ給うけるに【「の」見せ消ち、右に「に」】|たかし山にて》 中務卿宗尊親王    〽ふじの根はこゝをかぎりの名ごりとて、たかしの山にかへり見る哉、《割書:ホ|》【「ホ」朱字】 【「○」「●」「、」「〽」は朱】                        古歌考 下 廿五  ●同集  《割書:同|》   建長五年毎日一首中           あづまへくだりける道にて 民部卿為家    〽たかし山はるかに見ゆるふじの根を行なるヽ人に尋ねてぞしる、   とある歌どもにてしるし、   海辺(ウミベ)にちかきよしは、  ●続古今 《割書:十|》   覊旅百首 ̄ノ歌 ̄ノ中に    中納言為氏    〽猶しばし見てこそゆかめ高師山ふもとにめくる浦の松ばら  ●新後拾遺《割書:十六|》  雑 ̄ノ上          津守国冬    〽浦路よりうちこえくれば高師山みねまでおなじ松風ぞふく  ●風雅  《割書:十六|》  雑 ̄ノ中          祝部成茂    〽しら波の高師の山のふもとより真砂ぞ吹まき浦風ぞふく  ●新拾遺 《割書:十八|雑中》  題をさくりて名所の歌よみ侍りけるに高師山                        寂恵法師    〽秋風によわたる月の高師山ふもとの波の音ぞふけぬる  ●夫木  《割書:十二|秋ノ三》              為相卿    〽たかし山夕なみむかふ/しほ(松ホ)【「松ホ」朱字】風にかはりてくだるさを鹿のこゑ《割書:小》【「ホ」ヵ。「小」朱字】    ●此歌藤谷殿集には、高瀬山と誤れる由     今案名積考 にいへり、  ●同   《割書:二十|雑二》  百首歌          西行法師    〽朝風にみなとを出る友船はたかしの山のもみちなりけり 【「●」「、」「〽」は朱】                        古歌考 下 廿六  ●同   《割書:同巻|同部》              慈鎮和尚     風ふけばたかしの山にしら波のひとあたりしてたれかこゆらむ  ●同   《割書:同巻|同部》              雅有卿     高師山松なきかたのまつ風やふもとの里の磯なみの声《割書:ホ|》【「ホ」朱字】  ●同   《割書:同巻|》  貞応三年 百首     為家卿     たかし山夕こえはてゝやすらへばふもとの浜にもしほ焼見ゆ  ●同   《割書:廿三|雑ノ五》 家集永仁六年覊中眺望  法眼慶融     たかし山こえ来て見ればはま松のひとすぢ遠きうらの入海《割書:ホ|》【「ホ」朱字】    《割書:●同集此歌のならびに〽たかせ山朝こえくれば浜松の入海かけて波ぞいさよふ、| 前中納言為兼とある、たかせ山はたかし山の誤なるべしと、今案名蹟考| にいへり、●契冲ノ補翼抄ニは高瀬山高師山同とあり【「●契冲ノ~同とあり」朱字】》   とある歌ども、みな海辺なる証(アカシ)なり、《割書:此ノ海は今の元白菅(モトシラスカ)などの海辺(ウミベ)をいへ|るなるべし、また昔は高足村と植田村》   《割書:との間(アヒ)は、東へ入る事凡一里あまりの入海にて、もしほなども|焼しと云伝ふれば、其ノ辺をいへるにもあるべし、尚よく考て定むべし、》   また湖(ミヅウミ)にもほど近きよしは、  ●阿仏尼の十六夜 ̄ノ日記に、たかし山をこえ、水うみ見やるほどいとお   もしろし、浦風あれて松のひゞきすごく、波いとたかし、     わがためや波も高しの浜ならむ袖の湊の風はやすまて  ●続古今 《割書:十|旅》  《割書:あづまにまかりける時はまなの橋の|やどりにて月くまなかりけるを見て、》平政村朝臣     たかし山夕こえ暮てふもとなるはまなの橋を月に見る哉 【「●」「、」「〽」は朱】                        古歌考 下 廿八  ●夫木  《割書:廿一|雑ノ三》  家集        権中納言長方     沖つ風高師の浦の夕がすみいづら浜名のはしも見ゆらむ  ●同   《割書:廿三|雑ノ五》  冬 ̄ノ歌 ̄ノ中      土御門院小宰相     浜名川入しほ寒き山おろしにたかしの奥もあれまさる也《割書:ホ|》【「ホ」朱字】  ○名寄                 五条内府     たかし山松に夕ゐるかさゝぎの橋もとかけて月わたる見ゆ《割書:ホ|》【「ホ」朱字】     ●此歌松葉集 に名寄、後九条内大臣、類聚に基家【「類聚に基家」の右に朱字「ホ同」】とあり、      といへりされど歌枕名寄には見えず考べし、   とあるにてしられたり、   たしかに遠江 ̄ノ国とよめるは、  ●夫木  《割書:二十|雑ノ二》  たかし山 《割書:高士|遠江》   よみ人しらず  ●六帖  《割書:二|》       逢ふことはとほた海【「はとほおた海」の左に「を遠江●六帖二」】なるたかし山高しやむねにもゆるおもひは《割書:ホ|》【「ホ」朱字】   とあるのみ也、かゝれは上 ̄ノ件に引出たる、古へ書古歌どもを考へわたして、   其もとは当(コノ)国の山より出たる号(ナ)にて、後には遠江の山迄をもかけて、   しかいへるにて、両(フタ)国の山にわたりたる大称(オホナ)なることをしるべくなむ、     そは岐蘇(キソ)山は今はもはら信濃なる山をしかいへれど続日本紀二の巻大宝二     年十二月の条に、始 ̄テ開_二 ̄ク美濃 ̄ノ国 ̄ノ岐蘇道_一 ̄ヲとあるがもとにて両(フタ)国の山にわ     たれる大号(オホナ)なる事をも按(オモ)ふべし、はた旧(モト)は三河 ̄ノ国より出たる号(ナ)な     りといへるは、和名抄をはじめ古へ書どもに三河にいへる例(タメシ)はあまた     なるを、遠江にいへるは、いと〳〵まれなるをもてわきまふべし、 【「○」「●」「、」は朱】                        古歌考 下 廿九    ●此高師山考の一条は、いにし天保の四とせといふ霜月のころ、おのが考の     したかまへの事、人づてにきゝたる由にて、ある遠江人のもとよりかの、山は遠津     淡海の国内なる事はいとしるきを、その国内なりとのたまふは、いと〳〵     いぶかしいかでその御考ぶみ見まほしといひおこせければ、いまだ片なりの     愚考にはあれど、其/草稿(シタガキ)を取出て再考をものして、彼方(カナタ)へおくれる也、かれ余(ホカ)の     条々(クダリ〳〵)と体裁(サマ)ことにていかゞなれど、書改めんもいとまいるわさなれば、其まゝ     こゝには挙(アゲ)つるになん、    なほたかし山をよめる古歌どもは  ●新勅撰 《割書:五|秋ノ下》             鎌倉右大臣     雲のゐる梢はるかに霧こめて高師の山に鹿ぞなくなる《割書:名|》【「名」朱字】  ●新千載 《割書:八|旅》  東へまかりける時高師山にてよめる 法眼行濟     越かぬる高師の山は明やらで霧のうへなる峰のよこ雲  ●新続古今《割書:十|旅》  貞和二年百首歌奉りけるに 前中納言雅孝     暮やらで日影は猶も高師山思ふとまりや過てゆかまし  ●夫木  《割書:四|春四》 家集泊舟尋花      西行上人     こき出てたかしのおきに見わたせばまた一むらもさかぬ白くも 【「●」「、」は朱】                        古歌考 下 三十  ●同   《割書:同|同》              藤原為実朝臣     うつりゆく桜にそらはあひそめて花もたかしの嶺のしら雲  ●同   《割書:同|同》   建長八年百首歌合   後九条内大臣     岩づたふ花のあだ波いくかえりこえてたかしのはるの山かぜ  ●同   《割書:同|同》   名所歌中       参議為相卿     高師山花だにやどををしまずはただ越のこせけふのゆくすゑ  ●同   《割書:九|夏三》  永久四年百首蝉    仲実朝臣     東路を今朝立くれば蝉の声たかしの山に今ぞなくなる《割書:名|ホ》【「名ホ」朱字】     ●ホ 堀後百首トアリ【この一行朱字】  ●同   《割書:同|同》   久安百首       左京大夫顕輔卿     はる〴〵とたかしの山になく蝉の声は雲井のものにぞ有ける《割書:松|ホ》【「松ホ」朱字】  ●同   《割書:十二|秋三》  家集鹿歌中      増基法師     たかし山松のこずゑにふく風の身にしむ時ぞ鹿も鳴なる《割書:ホ|》【「ホ」朱字】     ●此歌遠江道記に載たり、又新拾遺秋下にも載て、      上ノ句高砂やとあり、  ●同   《割書:同|同》   名所歌 高瀬山秋   為相卿     たかし山ゆふなみむかふしほ風にかはりてくだるさを鹿の声  ●同   《割書:同|同》              藤原為顕 【「●」「、」は朱】                       古歌考 下 三十一     さと遠みきく人なしにさを鹿のこゑはたかしの山の秋風     ●此両首藤谷殿集にはたかし山をたかせ山とせれど誤なるよし、      今案名蹟考《割書:二ノ|十一丁》に委くいへり また       ●玉葉  旅            大江頼重        わけゆけどまだ峯遠し高瀬山くもはふもとの跡にのこりて      ●風雅  旅            前大納言為兼        たかせ山松の下みちわけゆけは夕風ふきてあふ人もなし      此/両首(フタウタ)も、たかし山の誤なるべしと同考にいへり、    ●同   《割書:十五|秋六》               前大納言為氏卿     たかし山もみち【ちに半濁点】をうらに吹風はいまひとしほの色そめよとや《割書:松|》【「松」朱字】  ●同   《割書:廿三|雑五》  高瀬山歌         藤原為守     吹おろすふもとの草に露おちてこゑもたかしの峰のまつ風《割書:ホ|》【「ホ」朱字】  ○拾玉集 《割書:五|》     はるの月をおなし空にやながむらむ高しの山の雲井はるかに《割書:松|》【「松」朱字】  ○名寄     分のぼる行手の峯の高師山手をらで見つる岩つゝじかな  ○同                    寂阿     みかは船いつかよひける宿なれや高師の浦につゞく白波《割書:松|秋》【「松秋」朱字】 【右頁貼紙】 《割書:●夫木                  為相| よそに見てやすく【「う」見せ消ち、右に朱字「く」】は過じ高瀬山紅葉のかたの道はなくとも|●同十二                 為実| たかせ山すそ【「ミ」見せ消ち、右に朱字「そ」】のゝましばかたよりに鹿の音こゆる峯の秋風《割書:ホ|》【「ホ」朱字】|●同十二                 仲正| 雲かゝる高師の山の明くれにつままとはせるをしかなく也《割書:ホ|》【「ホ」朱字】|●同廿一  関霧             知家【「知家」朱字】| 関といふ名こそ高しの浦人の霧を分てもゆきかよひつゝ《割書:ホ|》【「ホ」朱字】|●夫木《割書:六|春六》  名所歌中         参議為相卿| 分のほる行てのきしの高せ山たをらで見つる岩つゝじかな|●同 同                 為実| たかせ山道の行ての花つゝじおりゐてこふる古郷の春》 【「●」「○」は朱】                       古歌考 下 三十二 【170コマと同じ】  ●国名風土記《割書:上ノ|十二丁》三河 ̄ノ条云/矢作(ヤハギ)河ハ日本武 ̄ノ尊東ニ下向シ給ヒシ時   夷(エビスノ)兵ドモ高石(タカシ)山ニテ待カケ奉リシ由ヲ聞(キコシ)召シ、彼所ニテ多ク矢ヲ   作り玉ヒシ云々、  ●平家物語《割書:十二ノ廿一丁|六代 条、》文覚上人が語ニ聖(ヒジリ)鎌倉殿ヲ世ニアラセ奉ントテ、   院宣伺ヒニ京ニ上ルガ云々、高市(タカシ)山ニテ引剥(ヒキハキ)ニ逢ヒ、辛(カラ)キ命計リ生ツヽ、福   原ノ篭ノ御所ニ参テ、院宣申出テ奉ツレ云々、  ●源平盛衰記《割書:四十七ノ廿三ノヒラ|文覚関東下向ノ条》云、富士川大井河ニテ水ニ溺レ、宇津 ̄ノ山高   師山ニテ疲ヲノゾミ侍リシコト、一度ニアラズ云々、  ●太平記《割書:三ノ|十一丁》云、前陣已ニ美濃尾張両国ニツケバ、後陣ハナホイ   マダ高志二村ノ峠ニサヽヘタリ云々、  ○続草庵集《割書:雑|》  雲中旅           頓阿法師     末になをこゆへ【倍】き嶺のたかし山わけつる雲もふもとなりけり 【「●」「○」「、」は朱】                       古歌考 下 三十三 ○小松原(コマツハラ)  ●渥美 ̄ノ郡にあり        ●秋の寝覚云、小松が原夫木ニ歌あり、近江ニあり●按ニ契冲の   補翼抄ニモ 正安 〽緑なる同しふた葉を引そへ【「つ」見せ消ち、右に「へ」】て小松か原に若葉をそつむ、   近江、と、挙たれど、こゝにのせたる二首は、三河国名所歌合とあれは、慥に当国   のをよめるなり、敬雄按にみとりなるの歌は夫木廿二に此二首の次【■を見せ消ち、右に「次」】にのせたり 詞書ニ           正安大嘗所々名を大蔵卿隆教とあれば近江のをよめるなるべし  ●夫木  《割書:廿二|雑四》  為忠朝臣参河国名所歌合、小松原《割書:近江又|備中》 清輔朝臣    行末のはるかに見ゆる小松原君が千とせのためしなりけり《割書:外》【「外」朱字】  ●同   《割書:同》               藤原道経    神代より生ひやそめけん小まつ原いく千世経ぬとしる人ぞなき《割書:外》【「外」朱字】 ○池鯉鮒(チリフ) ●三川モシホ草云、碧海郡なり、和名抄には知立とあり、       ●世諺弁略《割書:二ノ|廿三丁》云、知立社の御手洗に、鯉鮒多く有ゆゑ、中        古池鯉鮒と書改む  ●黄葉集 《割書:五》  ちり/ふ(う)といふ所にとまりて 烏丸光廣卿    ことの葉のかけ/て(と 名所ツエ)たのまむ/ちりう(。。。)せぬ松がねまくらひと夜なれども《割書:白|モ》【「白モ」朱字】     按ちりうのうはふ也かな違へり  ●春曙      池鯉鮒にてみさかなに鯉の見えければ                        同    この里の名におひたりとみさかなに料理をしたる池の鯉鮒  ○紀行                   同 《割書:よみ人しらす イ》【「よみ人しらすイ」朱字】    此/里(池イ)の鯉さへ鮒さへすめる世にあふやうれしき水のこゝろに《割書:白|モ》【「白モ」朱字】 【右頁上の貼紙】 《割書:安全云| 補翼抄ニ》   小松原 近江 《割書:正安|緑なる同しふた葉を引そへて小松カ原に若菜をそつむ|トアリサレド小松原トアル下近江トアリ又因ニ云|名所外集ニ|  長等岡 未勘|   承徳二年正月庚申ノ夜当座探題名所歌合》 《割書:夫木廿一          藤原実樹| 子日する長等の国の小松原きみ万代は引とつきせし| トアリ按ニ此承徳二年云云トアルハ為忠朝臣家参河ノ国| 名所歌合トアルト同シ時ノコトニテハアラザルカソハ為忠朝| 臣ノ卒セラレシ保延二年ト此承徳二年トサルコト三十| 九年バカリニシテサノミ遠カラザレバナリ サレドコハタヾコヽロミ| ニイフノミナリ尚ヨク考ヘタマヘ》 【「●」「○」「、」「〽」は朱】                       古歌考 下 三十四 【173コマと同じ】  ●同       池鯉鮒のさとにて     同    秋過て春にはなれとこの里に米/いち(一)里ふ(粒)ももたぬ民かな ○岡崎(ヲカザキ)  額田郡にあり ●世諺弁略《割書:二ノ|廿三丁》云、当宿北東の方は山也、       南西ニ矢作菅生の両川あり、此宿岡の出崎故に、之と号す、  ○紀行      城主よりいとねむごろに聞えければ文の返事に 小堀宗甫    けさはなほ【「なほ」の左に「まづイ」】いそぎ出ぬる【「ぬる」の左に「けりイ」】草まくら我をかざきに人のまつとよ【「とよ」の左に「やとイ」】《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ○紀行                   沢庵    鉢ぶくろ手をさしいれてさがせども何をかさきの茶の銭もなし《割書:モ》【「モ」朱字】 【「○」「●」は朱】                       古歌考 下 三十五 ○藤川(フヂカハ)  ●三川モシホ草云、額田郡なり、昔はうち川ともいひしとなん、       ●世諺弁略《割書:二ノ|廿三丁》云、もと宇治川といふ、駅の北うらに川あり、又南 ̄ノ        方ニ大平川の流(ナガレ)等ニ、藤の花多く有て、旅人の壮観とす故ニ【「、」を朱で加筆し「ニ」に】之と改む今は         藤絶たり、  ●富士紀行  うち河【「うち河」の右に「宇治八十八本」】のさとゝ申所にて 尭孝法師    誰かすむみやこのたつみしかはあらでこや東路のうち川のさと《割書:白|モ》【「白モ」朱字】     此歌名所図会ニ古詠ありよみ人不知として出せるはいかゞ  ●方与                   好忠    ふち河のふち瀬もしらずさでさして衣の袖をぬらしつるかな  ●紀行                   浄友【「浄」の右上に朱字「山形」】    かはれどもむかしの宿のゆかりぞとむらさきにほふ花の藤川 ○山中(ヤマナカ)  ●三川モシホ草云、額田郡也、藤川宿と赤坂宿との間なり、       ●吾妻鏡《割書:十ノ|六十四丁》建久元年源頼朝 ̄ノ卿上洛 ̄ノ条ニ、十二月十九日入_レ ̄テ        《割書: |レ》夜ニ令_レ《割書:シメ玉フ》宿_二 ̄サ宮路山中(ミヤヂヤマナカ)_一 ̄ニ とあるは、今の山中の元宿(モトジユク)也といへり、  ●富士紀行  山中の宿にて御ひるまの程にぎはゝしきも限りなし尭孝法師    旅ごろもたづきなしともおも/ほえ(はれ八十八本)ず民もにぎはふ山中のき【「さ」ヵ】と《割書:モ》【「モ」朱字】  ●富士紀行  山中と申所あり折ふし鹿の声ほのかに聞えければ藤原雅世卿    おぼつかなこの山中になく鹿のたづきもしらぬこゑの聞ゆる《割書:モ》【「モ」朱字】 【「○」「●」「、」は朱】                       古歌考 下 三十六 ○出生寺(イデヽウマルテラ)  ●名所方角抄《割書:印本|五十九丁》云、然菅渡《割書:付》あれの崎出生寺細          ■【■の右に「此字キエテ不分」】不用之      ●藻塩草《割書:六ノ|十八丁》三河          ●松葉集《割書:参河|藻塩》歌枕名寄《割書:十九》●秋の寝覚 等当国とせり  ●三川モシホ草云、方角抄の説を考るに、宝飯郡海辺近き処と見えたり   一説ニ御津郷と云り、然るに近年山中法蔵寺境内に、《割書:享保|年中》六角堂を   建て其旧跡也といふ不審  ●白云山中法蔵寺也、出生寺は旧(モト)法相宗也、後小松院/至(明イ)徳二年京円福   寺龍藝上人より、浄土宗となり法蔵寺と改む、と寺記ニ見エタリ、  ●名寄《割書:出書ナシ》 ●藻塩草《割書:六ノ|十八丁》出所ナシ たのむぞよ我【「ぞよ我」の右に「かけなほ モシホクサ名」。「ぞよ」の左に「かな 秋松」】まよはず/ば(な 松モシホ名)有為の世/を(にモシホ)出て生る寺とこそきけ《割書:白秋外|松|名モ》【「白秋外松名モ」朱字】    ●此歌名所図会ニハ紀行宗尊親王、とありてたゞ頼めなほまよはんはとあり、  ○紀行                 小堀宗甫    三河なる二むら山をはこにして中へいれたる法蔵寺かな《割書:モ|白》【「モ白」朱字】    ●刪補松云此狂歌より誤て法蔵寺を二村山といふ  ●あづまの道記             烏丸光廣卿    貧僧の住よき寺かほふざうしはつちの里をたよりにはして 【「○」「●」「、」は朱】                       古歌考 下 三十七 ○關口(セキクチ)  ●三川モシホ草云宝飯郡長沢村関屋といふ所也、  ●富士紀行  山中の宿にて御ひるまの程にぎはゝしきも         かぎりなし云々、此つゞきに関口と申所あり、 尭孝法師    道びろくをさまれる世の関口はさすとしもな/く(し水戸本)もるとしもな/く(し水戸本)《割書:モ》【「モ」朱字】 ○長澤(ナガサハ)  ●宝飫郡赤坂宿の西なり  ○紀行                 小堀宗甫      雲はれて日はあかさかの里とへば旅のゆくへの道の長さは 【「○」「●」「、」は朱】                       古歌考 下 三十八 ○赤坂(アカサカ)  ●三川モシホ草云、宝飫郡なり、上古赤坂といふ旧跡、宮 ̄ノ路 ̄ノ山 ̄ノ       中にあり、東鑑《割書:十ノ|六十四丁》に見えたり、●世諺弁略《割書:二ノ|廿三丁》云、天武天皇、       の皇子、草壁親王、行在所、宮路山といふ其山坂によつて明坂と     号す元ト藤川の東ニ在、故所を今、本宿といふ云々、  ●夫木  《割書:廿一|雑三》  《割書:みかはにくだりける時おなじ国の|名所歌合にあかさか》為忠朝臣    赤坂をすみのぼる夜の月かげに光りをそふる玉ざゝのつゆ《割書:松|白》【「松白」朱字】  ●同   《割書:同|同》              盛忠      秋来てぞ見るべかりけるあか坂の紅葉の色も月のひかりも《割書:松|白》【「松白」朱字】  ●夫木《割書:六|春ノ六》  海道宿次百首あかさか   参議為相卿    外山【「外山」の左に「にほふ イ 夫木ナシ」】なる花はさながらあか坂の名をあらはして咲つゝじかな《割書:松|白|モ》【「松白モ」朱字】  ○家集                 俊賴    古もなみだとともにちらしてきあか坂にしも名をながしけむ《割書:松》【「松」朱字】    ●松葉集十一ニ赤坂美濃と標て、右の歌四首を載たり、されど赤坂をすみ     のぼる云々の歌の詞書に、みかはに下りける時云々とあれば、当国なる事しるし、    ●秋の寝覚にも、古も泪とともにの歌を出して、美濃とあり、  ○紀行                 平斉時    ひと夜逢ふゆきゝのひとのうかれつまいくたびかはる契りなるらむ  ○紀行                 小堀宗甫    雲はれて日はあか坂の里といへば旅のゆくへの道の長さは《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ○                   よみ人不知《割書:二葉松ニ沢菴トアリ》【上記割書は朱字】    白妙の雪も埋【「埋」と「ぬ」の間の右に書入れ「まイ」】ぬ赤さかや名にさく花のつゝじならまし《割書:白|モ》【「白モ」朱字】 【「○」「●」「、」は朱】                       古歌考 下 三十九  ○                   沢庵    ことの葉にむかしおぼえてをりにあふ名もあか坂につゝじさく頃《割書:モ》【「モ」朱字】  ○御道中記  寛永年中上洛之時     源家光公    草まくら露けき宿をたち出て夜はほの〴〵とあか坂のそら《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ○紀行    赤坂のうまやにて     近衛関白基凞公    赤坂ときゝつるさとは紅葉して夕日かゞやく名にや有けむ《割書:モ》【「モ」朱字】  ●貞應海道記       九日矢/橋(矯カ)を立て、赤坂の宿を過ぐ、昔此宿の遊君、花の顔ばせ       春こまやかにして、蘭質秋かうばしき女ありけり、㒵を潘安仁       が弟妹にかりて、契りを三州吏の妻妾にむすべり、妾は良人に       先て世を早うし、良人は妾におくれて家を出、しらず利生のぼさつの       化現して、夫を導 ̄ビけるか、又しらす円通大師の発心して妾を救へ       るか、互の善知識大なる因縁なり、彼 ̄ノ旧室妬が呪詛に■【扞?】舞悪       怨かへりて善教の礼をなし、異域朝嘲の軽仙に、鼻酸持鉢忽に       智行の徳に巨唐に名をあげて、本朝に誉 ̄レを留る、上人誠に       貴し、誰かいはむ初発心の道に入 ̄ル聖(ヒジリ)なりとは、是則本来仏の       世に出て人を化するにあらずや行〳〵昔を談してなほ〳〵       今にあはれむ、 【「○」「●」「、」は朱】                       古歌考 下 四十    いかにしてうつゝが道をちぎらまし夢おどろかす君なかりせば《割書:モ|白》【「モ白」朱字】  ●仁治道之記       矢はぎといふ所を立て、みやぢ山を越過る程に、赤坂といふ宿       あり、ここに有ける女ゆゑに、大江の定元が家を出けるもあはれ       なり、人の発心する道、其縁一【「へ」を見せ消ち、右に朱字「一」】にあらねども、あかぬわかれををし       みし、まよひの心をしもかへし、実の道におもむきけむもありかたくおぼゆ、    わかれ/じ(ち 扶桑拾葉本)にしげりもはてゝくずの葉のいかでかあらぬかたにかへりし《割書:モ|白》【「モ白」朱字】    ●源平盛衰記《割書:四十五ノ|二ノヒラ》、宗盛 ̄ノ大臣関東下向 ̄ノ条ニ云、宮路山ヲモ越ヌレバ赤坂ノ     宿ト聞エタリ、三_川入道、大江定基ガ、コノ宿ノ遊君力壽トイフニオクレテ、真 ̄ノ     道ニ入ルコトモアラマホシクヤ思召ケン云々、同書《割書:七ノ|廿三丁》ニモ大江 ̄ノ定基三河 ̄ノ守ニ     任シテ赤坂ノ遊君力壽ニ別レテ道心出家シテ云々ト見エタリ、    ●宇治拾遺物語《割書:四ノ|十一丁》、三河入道遁世々ニ聞ル事、といふ条に云、参河入道い     まだ、俗にてありけるをり、もとのつまをば、さりつゝわかくかたちよき女に     思つきて、それを妻にて三河へゐてくだりけるほどに、その女久しくわづ     らひてよかりけるかたちもおとろへてうせにけるを、かなしさのあまりに     とかくもせで、よるもひるもかたらひ、くちをすひたりけるに、あさまし     き香の口より出来りけるにぞ、うとむ心いできて、なく〳〵はふり     てける、それより世うき物にこそありけれと思ひなりけるに《割書:中|略》やがて     その日国府をいでゝ京にのほりて、法師になりにけり、《割書:下略》      此事旧本今昔物語第十九ニ載テ、今昔円融院天皇 ̄ノ御代ニ、参河守      大江定基ト云人アリレ【「ケ」ヵ】リ、云々トノセタリ、文ハ異シテ、事実ハ同シ可考合、 【「●」「、」は朱】                       古歌考 下 四十一    ○続世 ̄ノ継物語《割書:九ノ| 丁》【「五」見せ消ち、右に朱字「九」】、まことの道の段ニ云、其三河の/ひしり(定基)も、はかせにおはして、     大江のうちかんだちめの子におはしけるが、三河のかみになりて、国へ下りたまひけるに、た     ぐひなくおほえける女をぐしておはしけるほどに、女身まかりければ     かなしびのあまり、取すつることもせ、で、なりさがるさまを見て、心をおこし     て、やかて頭おろして都にのぼり、物などこひあるきけるに、もとの女     にて有ける女、われを捨たるむくひにてかゝれとこそ思ひしに、かくみなし たる事など申ければ、さとくぞ仏になりなんとて、手をすりて悦び けるとつたへかたりつる    ●扶桑略記《割書:廿七ノ|廿七丁》云、一條 ̄ノ天皇長保五年秋 ̄ノ時参河 ̄ノ守大江 ̄ノ貞基、出家    ●入道法号寂照云々、    ●元亨釈書《割書:十六ノ|十三丁》云、釈寂昭ハ諫議大夫江斉光 ̄ノ之子也 ̄リ、俗名定基仕_レ ̄テ官 ̄ニ至_二     至参州 ̄ノ剌吏_一 ̄ニ会_レ ̄ヒテ失 ̄フニ配 ̄ヲ以_二愛厚_一 ̄ヲ緩_レ喪(ソ)、因観_二 九相_一、深生_二厭離_一、乃割_二冠     纓_一投_二睿【𥈠】山 ̄ノ源信之室_一云々、    ●豊川三明寺縁起ニ大江定基 ̄ノ愛妾力壽ハ二村郷赤坂長弥太次良ガ     子也ト云リ、《割書:三河名所|記ニ引リ、》又彼弁天ハ力壽ガ像トモイヘリ、    ●又財賀村、力壽山舌根寺 ̄ノ文殊ハ力壽 ̄ノ骨ニテ作レリト云リ    ●又赤坂駅、三頭山長福寺《割書:又妙壽|院トモ云》ニ、力壽 ̄ノ化石墓アリ、俗ニ女良石トイヘリ、     女良石ノコト斎諧俗談《割書:四ノ|十三丁》ニモ挙タリ、委クハ旧寺旧墓考【「旧寺旧墓考」を朱の四角枠で囲】ニ云ベシ、    ●按ニ力壽ハ、貞應海道記、源平盛衰記等ニヨレバ、赤坂ノ人ト見エタリサレド、     宇治拾遺、続世継ニヨレバ、京ヨリ具シテ下レル女也可考、 【右頁朱字貼紙】 《割書: 宣光按|○大日本史《割書:二百十七|文学ノ部》定基ノ伝曰定基斉光子也夙ニ継_二家業_一 ̄ヲ善_二 ̄ス詩文_一《割書:続往|生伝》天元中以_二 ̄テ父祖功労_一 ̄ヲ| 擢 ̄テ、補_二 ̄セ蔵人_一 ̄ニ《割書:小右|記》尋任_二 ̄ス参河守_一 ̄ニ《割書:小右記 続往|生伝 系図》初得赤坂倡力壽寵_レ ̄ス之遂為妻而遂_二其婦_一 ̄ヲ| 力壽病死ス《割書:力壽ハ拠|盛衰記》 定基抱屍号哭不歛葬者数日既而稍厭_二 ̄ヒ悪之_一乃座焉因テ悟トシ人間之無| 足為会有女子売鏡定基匣開見之有和歌曰/計布麻氐登美留珥奈美駄能(ケフマテトミルニナミタノ)| 麻須加我美奈礼珥志加計乎比登珥加太留奈(マスカヽミナレニシカケヲヒトニカタルナ)定基心深愍之給物振其| 窮益有遁世之志《割書:十訓抄箸【著ヵ】聞集今昔|物語抄【新ヵ】一代要記》 永/延(エン)二年遂ニ下髪為僧《割書:百練抄一代|要記》 投如意| 輪寺_一 ̄ニ師_二 ̄トシ事僧寂心_一 ̄ニ改_二 ̄ム名寂昭_一 ̄ト《割書:中略》長保四年遂如_レ ̄ク宋 ̄ニ《割書:中略》長元七年ニ卒_二 ̄ス| 于宋_一 ̄ニ《割書:帝王編年記為_二八年ニ卒ス|年七十七_一 ̄ニ今従_二続往生伝_一》云々下略》 【「○」「●」「、」は朱】                       古歌考 下 四十二 【182コマと同じ】 ○御油  ●宝飯郡ニあり、今八幡村ノ内、字ハ上宿といへる所古の宿也といへり、      ●三川雀云、三河ニ上中下三ケ所の五井あり、中の五井より禁中   へ御調(ミツギ)の油を献るなり、二百五十年已前御油と改め星野 ̄ノ池の水   禁中御鬢水ニ、御油の油と一所ニ献りたりと申し伝ふ、●世諺弁略《割書:二ノ|廿四丁》云、   もと五井と書、同名の村三ケ所あり、此所中五井なり、草壁親王の行坊所へ、当   所の油屋、灯明の油を御用立し故、後代駅号とす、  ○紀行                 沢庵    ことの葉にむかしおぼえてをりに/お(あ歟)ふ名もあか坂のつゞしさくころ《割書:モ》【「モ」朱字】    ●按ニ此歌御油には縁(ヨシ)なけれど、先達の挙たるまゝこゝに記しつ、 ○今八幡(イマヤハタ)  ●富士紀行  今八幡と申鳥居の/ほとり(程 八十八本)にて 尭孝法師    君まもるちぎりしあれば今やはたいま迄こゝにあとやたれけむ         いづくのほどにて侍しやらん社壇あり人に問侍れば八幡宮と         申鳥井の前にて今度の御旅のめでた/き(さ 八十八本)御神慮も殊に  ●富士紀行  掲焉【けちえん】におぼえ侍て     藤原雅世卿    いはし水君が旅行すゑもなほまもらんとてや跡をたれけん 【「○」「●」「、」は朱】                       古歌考 下 四十三 ○今橋(イマバシ)  ●渥美郡吉田駅の旧名なり、天文の頃今川義元、今橋の        名/忌(イマ)はしと相通ふをいみて、吉田と改めしといへり、  ●牛久保密談記には、吉田と号(ナヅケ)らるゝいはれは、此城築始し時、吉祥山   の奇瑞あればとて、吉字と牧野は本名田内なれば、其田字と合てかく   名づけし也といへり、  ●宮島伝記には、永正年中牧野三成、天文儒者布施兵庫太夫泰   長といふものに、吉凶を考しむるに、易 ̄ノ爻辞に田(カリニ)穫_二 ̄タリ三狐_一得_二 ̄タリ黄矢_一 ̄ヲ貞 ̄シテ   吉 ̄ナリといへる上下の字を用て改むといへり、●世諺弁略《割書:二ノ|廿四丁》云、元 ̄ト豊川の流、   関屋口ニ始て土橋を架したる故、今橋と号す、其後街道かはり、今の所ニ板   橋を架す是より 佳名をとりて――と号す、  ●富士紀行  今橋の御とまりにてあかず明ゆく月を見て尭孝法師    夜とともに月すみわたる今ばしや明すぐるまで立ぞやすらふ《割書:モ》【「モ」朱字】  ●富士紀行  今橋と申所にて      藤原雅世卿    君がためわたすいま橋いまよりはいく万代をかけて見ゆらむ  ○東之道記  今橋といへる所にとまりてうき世の         ことゞもおもひつらねて  仁和寺尊海僧正    人なみにたゆたふことはいにしへもうき世わたりのかくる今ばし  ○紀行    慶長十年のはる吉田のわたりにて          ひるまのやどりせし時   近衛信尹《割書:三藐院》    水かひて(駒かへてイ)またまくさかふたよりよし田のもに近き宿のわたりは《割書:白|モ》【「白モ」朱字】     白云此御自筆吉田札木町鍋屋ニ持伝ヘタリ  ○紀行                 小野於通女    我【「我」の左に「ふるイ」】里のさとの名なればなつかしやよしや都のよしだならねど《割書:白|モ》【「白モ」朱字】 【右頁頭註朱字】 《割書:佐埜知尭ガ三川国聞書云|大永二壬午年牧野傳蔵|信成改_二今橋_一 ̄ヲ号吉田_一傳蔵|文字又改_二田三_一 ̄ト。牧野民部|亟成勝改_二 ̄テ一色ノ城 ̄ヲ号_二 ̄ス牛窪|城_一 ̄ト》 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 四十四  ○紀行                 小堀宗甫    夢とてもよしや吉田の里ならむさめてうつゝもうき旅の道《割書:白》【「白」朱字】  ●黄葉集《割書:五》  吉田といふところにて   烏丸光廣卿    おもひやるけふは都の神まつりこゝを吉田のさとゝきくにも《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ○武蔵野艸    みやこをは思へば遠しおなし名のよし田につきしつゑもたゞれて    ●按ニ拾遺集、神楽歌、〽名にたてる吉田の里の杖なればつくとも     つきじ君が万代とあり、●勝地吐懐篇云、此歌は天禄元年大嘗會     風俗 ̄ノ歌にて、近江 ̄ノ国吉田也、●同首書云、此外吉田 ̄ノ里とも村ともいへる歌、     皆近江なり、山城の吉田に村里をよめるはいまだ見ず、森とも野とも     すべて神社のことをよめるは、山城也、 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 四十五 ○大岩(オホイハ)  ●三川雀云昔は■(カラ)【木偏に覀、柄?】沢(サハ)トテ二村ナリシヲ中古大岩        一村トナレリ渥美郡ニあり     十五日大いは山とかやのふもとを過侍るにふりたる     寺見え侍り、本尊は普門示【「尓」見せ消ち、右に「示歟」】現の大士にておはし     ますよし申侍りしかは、しばし法施など奉りし次  ●富士紀行               尭孝法師    君が代は数もしられぬさゞれ石。(の八十八本)み/な(る同本)大いはの山となるまで《割書:モ》【「モ」朱字】 ○二川(フタカハ)  ●渥美郡なる駅なり●世諺弁略《割書:二ノ|廿四丁》云、三川の端にて、大        岩と両所并ある故、二川といふ  ○紀行                 小堀宗甫    国は三河さとは二川あはすればいつかは、かへりつかむふるさと《割書:白|モ》【「白モ」朱字】  ○                   烏丸光廣卿    玉くしげけふふた川のあけゆけばこれもみかはの内とこそきけ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】   ●夫木  《割書:廿四【「廿四」朱字】》〽ながれてはいづれの瀬にかとまるべき涙をわたる二川の関、西行、とあり   ●秋の寝覚ニ未勘とあり可考、《割書:●外ニモ未勘トアリ》【「●外ニモ未勘トアリ」朱字】 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 四十六 ○佐久島(サクノシマ)  ●三川モシホ草云幡豆 ̄ノ郡に属す勢尾三の海島三国         三島の其ひとつ也、●按ニ同郡宮崎村より、南 ̄ノ方■【海ヵ】     上一里程に在、島大サ縦廿一丁横三丁二村アリ、    ●三国三島とは、日間賀(ヒマカ)島は尾張に属、篠(シノ)島は伊勢に属り      佐久嶋といふ所/に(へ 八十八本)舟よよせて【「よよせて」は『参河国古歌名蹟考再稿下』では「よせて」】、以(八 八十八本)徳庵といふ小庵にやどりて見るに      山水のたえ〴〵なるをうけて、まことに山/居(の井 八十八本)の体にさびしく/て(見え侍れば 八十八本)、  ●関東海道記              藤原雅世卿    かくしても世はすまれけり山/水(住 八十八本)のしづくをさへにまたでやはくむ    ●按ニ今作嶋にかゝる名の寺なし、志(シ)【「志(シ)」朱字】の嶋に《割書:イトク》寺といふがありといへり、     かゝればしの嶋を、さくの嶋と思ひ誤り給へるなるか可考、 ○大濱(オホハマ)  ●碧海郡にあり       ●三川モシホ草ニ云、此 ̄ノ村ニ称名寺といふ時宗の古寺あり、是を         さすならん、         大濱といふ所へ舟よせて、道場(ある堂舎 八十八本)にしばらく         やすみて本尊の御前にて。(よめし 八十八本)  ●関東海道記              藤原雅世卿    大はまのなみ路わけぬと思ひしにはやかのきしに舟よせにけり《割書:モ》【「モ」朱字】         こよひは船中に。(て 八十八本)あかし侍りて。(夜)【「。夜」朱字】ひと夜船子ともの         枕のうへを往還し侍れば思ひつゞけ侍る  ●同    難波江にあらぬ船ちもあま人のあしのしたにぞ一夜あかせる 【「○」「●」「、」「。」は朱字】                       古歌考 下 四十七 ○鷲塚(ワシヅカ)  ●碧海郡にあり         この里まで大濱称名寺住持某【「甚?」見せ消ち、朱字「某」】         見【「王」見せ消ち、右に朱字「見」】おくりければよめる  ○紀行                 宗牧    君をおくるけふのわかれは駒とめしうち出の浜のこゝち【「ろ」見せ消ち、朱字「ち」】こそすれ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】         称名寺かへし  ○同    君にけふあふ坂山は遠ければこのわかれ路に関守もがな《割書:白|モ》【「白モ」朱字】 ○星越(ホシゴエ)  ●宝飫郡にあり、       ●三川モシホ草云、美/養(容 イ)郷三谷村と、大塚村との堺なる少        き山坂なり、  ○紀行    西郡藤助旅宿を出て    宗牧    次か【「次か」の右に書入れ「さまが イ」】人のなくてわかれし旅寝にもなごりはさぞな老のほしこえ《割書:モ|白》【「モ白」朱字】  ○同     また           同    立かへりまたもあはまくほしこえやかず〳〵あかぬ老の坂かな《割書:モ|白》【「モ白」朱字】 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 四十八 ○御馬(オムマ)  ●宝飫郡にあり  ○東国紀行               宗牧    野がひする時し待えて名にしあふ御馬の里にいさみやすらむ《割書:モ》【「モ」朱字】        おなじ里の浜辺にてよめる題しらず  ○                   同    わたつみのかざしにさせる白たへの波もておくれおきつしま山【「おくれおきつしま山」の左に「ゆへる淡路しま見む 六帖三」】《割書:モ》【「モ」朱字】    ●三川モシホ草云、此歌古今十七雑部ニ入、歌のさまさも似たり、書違へたるにや、然共     多年此通りにて書伝へたれは其まゝしるす、    ●牛【「井」見せ消ち、右に朱字「牛」】久保密談記云、柴屋紀行ニ、西 ̄ノ郡 ̄リ鵜殿三郎宿所昼通り、湯漬あり、伊奈と     いふ所牧野平三郎家城一日逗留、又興行〽卯の花や波もておくれ沖津嶋、     宗長、此城上嶋といふ名をよそへて、後、〽わたつみのかさしにさせる白妙の波もて     ゆする淡路しま山、宗長、とあり、 ○御津(ミツ)  ●倭名鈔云宝飯 ̄ノ郡御津《割書:美|都》今御津 ̄ノ庄/廣石(ヒロイシ)村をいふ、       官社御津 ̄ノ神社も此 ̄ノ所に坐(マ)せり、  ●三川モシホ草云、御津山 ̄ノ西南の麓に、岩ほの石畳あり、昔此所に別   宮あり、今大恩寺のうら山也、●按ニ御津山の西南 ̄ノ方に在て、泙野(ナギノ)村   の地内にて、自然(オノヅカラ)の石窟の如き石がまへありて、小社あり、石(イシ)たゝみの荒神   と称す、海を眼下(マシタ)に見はらして景色いとよき処也、  ○    大嶋や千世の松ばら石だゝみくづれゆくとも我は守らむ《割書:モ》【「モ」朱字】    ●三川モシホ草に此歌大明神の御神詠といひ伝ふといへり、    ●東海道名所図会にもしかいへり、 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 四十九 ○本宮山  ●三川モシホ草云宝飯郡長山村地中、山上ニ社あり、砥鹿神        社といふ、●按に当国第一の高山にて、高サ五十町あり、   社説には本茂山(モトシゲヤマ)と称すといへり、●類聚国史《割書:九十二|漁猟部|漁》に、砥鹿山とあり、   《割書:全文官社私考|上巻ニヒケリ可見、》【「官社私考」を朱の四角枠で囲】  ●社記    しるやいかに我名をとはゞちはやぶる神の始の神とこそいはめ    ●草鹿砥公宣卿、勅使として鳳来寺へまゐり給ひ当山にて道に迷ひ給ひし時、老翁の神     詠也と社説にいへり、  ○紀行  菅沼織部入道にあふて挨拶して別れ本宮嵩の雪を見て詠る 宗牧    ながめつゝわかれんかたもなかりけむ汀の氷みねのしらゆき《割書:モ|白》【「モ白」朱字】            《割書:イ 冨長の城を出とて本宮山の雪によすトアリ》  ○   かへし             楠千/世(代 イ)    立わかれゆくらんかたの峰の雪みぎはの氷おもひこそやれ《割書:モ|白》【「モ白」朱字】 ○煙巌山  ●三川モシホ草云、設楽郡鳳来寺山の総名則彼寺の山        号とす、●按ニ緑【縁ヵ】起ニ先代旧事本紀を引テ、桐生山        といへり《割書:偽書先代旧事|大成径文ナリ、》委くは旧寺考【「旧寺考」を朱の四角枠で囲】にいふべし、 ●鳳来寺縁起    霧や海やまのすがたは嶋に似て浪かとこさ【「こさ」は『参河国古歌名蹟考再稿下』では「き」】けば松風のおと《割書:モ》【「モ」朱字】    ●按ニこの歌、文武天皇御脳あらせ給ふにより、大宝二年に、草鹿砥公宣(クサカドキンノブ)     卿を勅使として、利修仙人を召給へる時当山の風景を詠る彼 ̄ノ卿の    歌也と縁起にいへり、    ●藩幹譜《割書:七ノ下|二丁》云、中納言政宗、八代の祖をも、伊達大膳大夫政宗     とぞ申た【「た」は『参河国古歌名蹟考再稿下』では「け」】る云々、敷島の道に心をよせ、詠る歌秀逸多し、云々、     系譜いはく、新続古今集撰せられし時、二首の歌を奉る、その 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 五十     山家霧、〽山あひの霧はさながら嶋(海)【「海」朱字】に似て波かときけは松風の音、     其後応永二年/九(四イ)月十 /八(四イ)日ニ卒とあり、よく似たる歌也けり、《割書:松田秀任が|武者物語》     《割書:にも、此政宗の|歌をのせたり、》 ○櫻井(サクラヰ)寺 ●三川モシホ草云、額田 ̄ノ郡なる真言宗の古梵刹なり、        寺号ヲ村の名とせり、此寺に名井あり、       ●刪補松云碧海 ̄ノ郡にも同名の寺あり、額田 ̄ノ郡を正しとす、《割書:白同、》    ●三川雀ニ云、弘法大師桜 ̄ノ枝をたづさへ、東嶺地をつき給へば、霊【㚑】泉涌出す、桜     枝をば井の辺に立給へば、生付て年々花咲出と云り●三才図会ニもしかいへり、    ●和名抄碧海郡櫻井 ̄ノ郷あり、●藻塩草《割書:六ノ|廿三丁》桜井里《割書:山城或云三河》  ○                   弘法大師    ちれはうかひちらねば花の影さしていつもたえせぬ桜井の水【「水」の左に「寺イ」】《割書:白|モ》【「白モ」朱字】    ●白云、桜井寺といふ処二処あり、いづれにやしらず、東の桜井寺に残る歌也、    ●三川雀云、大和国桜井にも此歌石に彫てあり、    ●按ニ夫木丗一雑 ̄ノ十三に、さくら井【「井」朱字】の里の歌四首ありて、山城また摂津とあり    ●《割書:秋の寝覚にも|山城とあり》、また山家集こぜりつむ沢の氷のひま見えて春めきそむる桜井のさと                       古歌考 下 五十一 ○星野池(ホシノノイケ)  ●三川モシホ草云星野 ̄ノ池は、八名 ̄ノ郡下条の地脈【脉】也、星野と         いふ時は宝飯 ̄ノ郡行明村也、星野某居舘の地と見えたり、  ●二葉松云、行明村ニ星野の旧跡あり本歌不見、●刪補松云下条村ニあり、   星野とばかりは行明也、●今行明村に星野大明神の社あり、星野行明   の墳に垂(サガリ)松といふ験(シルシ)松ありしが、此木をれて後社を建つといへり、●日本鹿子《割書:六|卅丁》   にも、星野は豊川より東方にある名所也といへり、  ●和漢三才図会《割書:六十九》にも、星野 ̄ハ在_二 ̄リ豊川 ̄ノ之東_一 ̄ニ昔自 ̄リ此献_二 三河水_一 ̄ヲ也とあり、  ●白云或書ニ帝王の御鬢水に三河 ̄ノ国星野の池の水を朝ごとに汲て宮古に   登すといへり、此事ふるくより、いひ伝へし説とおぼしくて、  ●名所方角抄《割書:六十ノ|ヒラ》豊川 ̄ノ条に、星野などゝいふ所に近し、星野とは名所也、   昔みかは水を奉るといふ説有之、帝の御びん水といふ説いかゞと見えたり、  ●星野といふも古き地と見えて、太平記《割書:卅五ノ|卅一丁》に【「に」朱字】大島左エ門 ̄ノ佐義高、当国 ̄ノ守   護ヲ給テ、星野行明等ト引合セテ、国ヘ入ケル云々《割書:●続太平記《割書:十六ノ|四丁》相模国早川|尻戦ノ条にコヽニ三川 ̄ノ国足》   《割書:助西条 ̄ノ星野 ̄ノ者共、コレヲ|小㔟ト見ナシテ云々、》とあり、今も行‐明 柑‐子 正_岡辺を、星野 ̄ノ庄と   いへり、 ○三河双紙    世にてらす星野の池の三河水君がくらゐの御調(ミツキ)とぞなる    ●御帝御元服の時、御鬢水に、参河国よりまゐらする水をいふ、と     三河双紙ニいへり、又みかは水といふ事大内にもありとなん、と三川モシホ草にいへり    ●されど     斎宮家集に、ためちゝがはらから為国さい宮のかみ也、五月五日まゐ     りて宮の御まへのやり水を、みかはの池となんいふなる、だいばん所に、 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 五十二    〽ことしおひのみかはの池のあやめ艸長きためしに人もひかなむ と【「と」朱字】     あり、《割書:●此歌松葉集十三に載て|参河池伊㔟藻塩とあり》●また続千載集《割書:賀ノ|部、》禁中のこゝろをよみ給へる、     後京極大臣の御歌に、〽萩の戸の花の下なるみかは水ちとせ     の秋の影ぞうつれる、《割書:藻塩艸云、三河の名所には|あらず、禁中の歌なるへし、》また古今集《割書:二|春下》の詞書に【「右に」を見せ消ち、右に朱字「書に」】、     東宮の雅【「稚」を見せ消ち、右に朱字「雅」】院にて桜の花の/みかは(御溝)水にちりて流れくるを見てよめる、と あると●八雲御抄《割書:五ノ|廿六丁》に、みかは水《割書:多くはだいりの|御溝をいふ》中殿前也、などあるにて     三河にはあらず、禁中の御溝(ミカハ)の意なる事をさとるべし、    ●藻塩草《割書:五ノ|四丁》にみかは水、いく秋も君そうつしてみかは水雲ゐにたへぬ     星合の影、多くは内裏の溝を云也、中殿の前也、《割書:中|略》又八雲御説に禁中     ニ不可限云々、●同書《割書:五ノ|五十三丁》三河池伊㔟、とあり、 ○真弓山(マユミヤマ)  ●三川モシホ草云、設楽郡/武節(ブセツ) ̄ノ郷ニあり、        ●二葉松云、武節郷/生駒(イコマ)山ニ並びたる山とぞ、  ○                   之(ユキ)【「ユキ」の右に朱字「コレ」。「之」の左に「尹イ」】義(ヨシ)親王    ほの〴〵とあけゆくそらをながむれば月ひとりすむ西の山か/げ(なイ)《割書:白|モ》【「白モ」朱字】    ●三川モシホ草云、吉野 ̄ノ宮、尹義親王、足利家に世をせばめられさせ給ひ、     上野 ̄ノ国新田ニおもむかせ給ふ時、三河 ̄ノ国武節の郷に入せ給ひて、真弓山     の月を見給ひてよめる、といへり、    ●按ニ尹良親王は、後醍醐天皇 ̄ノ皇子宗良親王の御子也、応永/四(卅一)年八月     十五日信濃 ̄ノ国大川原にて自殺し給ふと、浪合 ̄ノ記また藤嶋私記に見えたり、  ●堀川百首《割書:下》 山 祐子内親王女房紀伊 〽ひき入て【「入て」の左に「つれて 秋」】まとゐせむとや思ふどち秋は   まゆみの山に入るらむ、 此歌秋の寝覚等ニは下野国とせり、 【右頁頭註朱字】 《割書:統叢考ニ云星野の池水|帝の御髪水の朝な〳〵献|せし事諸記所見中何れ|の帝といふ事を不記不審|按るに持統帝宮路山引馬|野幸の時名水なれは其?行|在所へ朝な〳〵献せしを|いふならん彼【傳ヵ】行在所へはほど|ちかけれはさも有へし》 《割書:可【一ツヵ】待【彼ヵ】三河歌集の|飫【「飫」の左に「下」】宝【「宝」の左に「上」、「宝飫」】郡の条合見るへし》 【左頁朱字貼紙】 《割書:●将軍御外戚伝一云宗良親王 ̄ノ御子尹良親王御母ハ| 遠州井谷城主井谷遠江守道政女也元中三年| 八月八日平姓ヲ玉フ正三位権中納言右近衛大将征夷| 大将軍応永二十一年八月十五日信州波合戦ニ| 討死シ玉フ号大竜寺殿永享八年六月十四日| 祠堂ヲ建立大橋大明神ト祭リテ尾州津島 ̄ノ| 牛頭天王 ̄ノ若宮ト称スルハコレナリ》 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 五十三 【194コマと同じ】 ○伊駒山(イコマヤマ)  ●三川モシホ草云、賀茂郡/足助(アスケ)より六里程北東牛【「午」見せ消ち、右に朱字「牛」】地村の地         脈【脉】高山なり、俗称て駒山といふ、  ●三川雀云、牛地村円通山生馬寺、猿曳の生馬山の札これ也、名所の生   駒山はこれをいふにや、●刪補松云、足助の北東又設楽郡ともいふ、  ○                   よみ人不知    しばしとてとゞまるみかはいこま山こえもやゆかむ遠きあづまぢ《割書:モ》【「モ」朱字】  ●新勅撰《割書:十九|雑四》  百首歌よみ侍ける    後京極摂政前太政大臣    久【「久」朱字】かたの雲井に見えしいこま山はるはかすみの【「ゐ」見せ消ち、右に朱字「の」】ふもとなりけり《割書:モ》【「モ」朱字】    ●按に古歌に詠る、伊駒山は八雲御抄《割書:五ノ|三丁》に、いこま山《割書:大和 河内国近歟|両国名所歟》とある     如ク大和また、河内にて、すべて三川のにはあらじ、そは     万葉《割書:廿》 〽難波つをこぎ出て見れば神さぶるいこまの山をこえてぞ我か来る     夫木  〽高安にうつりにけりな時鳥いこまの山をこえてかたらふ     名寄  〽なには人ふりさけ見らんふる里のいこま高根のはつ桜花      これらは河内国也猶万葉十同十五同廿等に歌あり     新古今 〽秋しのや外山の【「の」朱字】里やしぐるらん生駒のたけに雲のかゝれる     玉葉  〽朝日さすいこまのたけはあらはれて霧たちのぼる秋しのゝ里      これらは大和なるべし、 【「○」「●」「、」「〽」は朱字】                       古歌考 下 五十四 ○篠束(シノヅカ)  宝飫郡にあり ●契沖の類字名所外集二に当国の名       所とせり ●秋の寝覚は陸奥とせり      ●和名抄 寶飫郡篠束郷 ●総国風土記ニ篠塚郷アリ  ●大和物語《割書:上ノ|廿丁》云、忠文が陸奥の将軍になりて下りける時、それがむすこなり   ける人を、監の命婦しのびてあひかたらひける、《割書:中|略》かくて此男、みちのくにへ   くたりけるたよりにつけて、あはれなる文どもおこせけるを、道にて病して   なん死けるときゝて、女いとあはれとなん思ひける、かくて後しのづかのう   まやといふ所より、便につけてあはれなる事どもを書たる文を【「を」衍字ヵ】をなん   もて来たりける、いとかなしくて、これをいつのぞと問ければ、使のいとひさ   しくなりもて来たるとなん有ける、女  しのつかのうまや〳〵と待わびし君はむなしくなりぞしにける《割書:外》【「外」朱字】   とあるをなんよみてなきける、わらはにて殿上して大七といひける【「と」の上に「る」導く線あり「る」は朱字】と、冠り   して蔵人所に居(ヲ?)りて、金の使かけて親の供にいくになん有ける、 ○八名瀬川(ヤナセガハ) ●三河総国風土記、八名 ̄ノ郡八名 ̄ノ庄 ̄ノ ツヾキ、《割書:ニ》八名瀬川         産_二 ̄ス鮮魚桑柳_一 ̄ヲとあり、其所未詳可考、        ●類字名所外集《割書:五ニハ》魚梁瀬川未勘《割書:トアリ》  ●古今六帖《割書:三》    やな瀬川ふむ【「む」の左に「ちイ」】瀬さだめぬ世ときけば我【「な」見せ消ち、右に朱字「我」】身もふかく頼まれぞする    ●按此歌秋の寝覚等ニ未勘とあり、 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 五十五 ○依網原(ヨサミノハラ)  ●契冲の類字名所外集ニ云、八雲美濃、和名三河云々、淡海縣をあふみのかたと         点したるは誤歟、縣はあかたは常の事にて、日本記にはコホリと点せり、碧海は阿         乎美淡海は阿不三、仮名たかひたれど、ものくるはしを物くるをしといふ         類になずらへは、三河なるべし、淡海によさみ聞えず、又近江ならば近江 ̄ノ国のと         よむべしあふみあがたといふべからすや」  ●万葉《割書:七》                 柿本朝臣人麻呂    青角髪(アヲミヅラ)、依網原(ヨサミノハラニ)、人相鴨(ヒトニアハスカモ)、石走(イハヾシ ノ)【イハヾシル?】、淡海縣(アフミアガタノ)、物語為(モノカタリセム)、《割書:外》【「外」朱字】    ●本居大人云、和名鈔三河国碧海郡依網《割書:与佐|美》郷あり、此歌は遠江国司     の下る道、三河のよさみの郷にてよめる也、淡海縣とは、任国の遠江をさして     いへりと云れたり、●万葉略解《割書:七ノ|四十七丁》には、近江国 ̄ノ司の下る道、三川の     よさみの郷にてよめる也といへり    ●按ニ淡海縣とは、碧海郡をさしていへるにはあらざるか、仮名は違へ     れどよしありげ也、可考、  ●夫木《割書:廿二|雑四》 建保三年内大臣家百首寄名所恋《割書:依網近江(よさみのはら)》 従二位家隆卿    行くらすよさみの原のよそにしてたれかあふみに人をちぎらむ《割書:松》【「松」朱字】  ●同 《割書:同|同》 宝治二年百首歌寄原恋    信実朝臣    あふみてふよさみのはらにゆく人は妹があたりのことかたらむ《割書:松》【「松」朱字】      ●松葉集《割書:五》には近江として右の三首を載たり    ●岩瀬尚則云、万葉なる、青角髪を、冠辞考に天 ̄ノ吉葛(ヨサヅラ)の意に冠     らせたりと云はれたれど、こは青海面(アヲミツラ)の意にて当国碧海郡の海辺/面(ツラ)【「ツラ」朱字】を     いへるなるべし、是は古へは今の矢矧川の上長瀬辺迄入海にて、西も尾張     川入海にて、青海 ̄ノ郡は海へさし出たる郡にて、何処も海づらなれば也殊ニ     古の海(街)道は、額田 ̄ノ郡生田より小豆坂ニかゝり明‾大‾寺《割書:古ノ矢|矧ノ庄也》六名(ムツナ)辺を 【「○」「●」「、」「」」は朱字】                       古歌考 下 五十六     通りて、渡(ワタリ)村にて矢はぎ川をこし、桑子(クハコ)《割書:一向宗ノ柳堂トイヘルハ|桑子ノ明眼寺ノコト也》より安祥の北     上‾条を過て、安‾祥_原へ出、それより笹目重原(サヽメシゲハラ)を経て、知立へ出し也、かゝ     ればよさみの原は今の安‾城_原にて、サヽメはヨサミを訛(ヨコナマ)れるなるべし、     また桑_子より上‾条へゆく田の中の道いと広き道にて、今/呼(ヨビ)て大(オホ)     道(ミチ)といふ、これ往古の街道なるべし、其近村新堀に古き地蔵有りて、     地蔵祭といへる祭あり、これ古の官道の道祖神《割書:タムケ|ノ神》なるを、後に地     蔵となしたるなるべしといへり ○志波都山(シハツヤマ)  笠縫島(カサヌヒノシマ) ●万葉《割書:三》  高市 ̄ノ連黒人羇旅 ̄ノ歌八首 ̄ノ中    四極山(シハツヤマ)、打越見者(ウチコエミレバ)、笠縫之(カサヌヒノ)、島榜隠(シマコギカクル)、棚無小船(タナナシヲブネ)、    ●此歌古今集には、大歌所御歌 〽しはつ山打出て見れば笠ゆひの     しまこぎかくるたなゝし小船とあり、    ●契冲の古今集餘材抄云、万葉の此歌の前に年魚(アユチ)市がたをよめり     尾張也、此歌の次に枚(ヒラ)の湖、高島の勝野が原をよめり、共に近江也、終に山(ヤマ)     背(シロ)の高槻 ̄ノ村とよめり、然ればあづまより都へ帰り上り来る道にてよめる     次第也、和名鈔を考見るに、参河 ̄ノ国幡豆 ̄ノ郡/磯泊(シハト)《割書:之波|止》あり、此磯泊 ̄ノ郷に 【「○」「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 五十七     四極(シハツ)山あるべし、注に之波止とあれど、トとツとは五音通【「通」朱字】て同じこ【「こ」朱字】と也、     《割書:葛野ヲ日本記ニ加豆怒、万葉ニ|高円ヲ高松ト書ル類也、》孝徳紀に河辺 ̄ノ臣/磯泊(シハツ)といふ人名あり、笠ゆひ     も三河なり云々といへり、《割書:●勝地吐懐篇《割書:上ノ|廿六丁》|もはら同し、》笠縫島 ̄ノ条    ●荒木田久老神主の万葉考《割書:三ノ上|十八丁》云、四極(シハツ)山参河 ̄ノ国也、和名抄に云々ト見       えたり、是なるべし、笠縫は、ある人美濃国なる由いへり、さも有べしと云り    ●渡辺政杳【『参河国古歌名蹟考再稿下』では「香」】神主/消息(セウソコ)して云おこせけらく、おのれ若き頃幡豆 ̄ノ郡しはつ     山に登り、海を見るに、笠の形したる島あり、渥美 ̄ノ郡に属せり、此/傍(カタハラ)を老     津嶋童部の浦といふ、薪こる翁に、彼 ̄ノ島と此山の名は、いかにと問へば、島は     笠嶋、山は歯津(ハツ)山と答へり、はつといふによし有りやと打かへして問へば、古へはしはつ山     といひしを、上を省(ハブキ)てはつ山と呼ふよし答ヘたり、彼 ̄ノ島をめぐる小ふねは、     万葉の歌によめる景色目 ̄ノ前にあれば、ふと契冲法師の説磯泊山は     三河也と有しを思ひ出して此 ̄ノ辺なる角平(ツノヒラノ)里《割書:津ノ平|とも書》志波都(シハツ) ̄ノ社にまゐるに、     山の木立神さびて、いと古き土地なれば、和名称に磯泊 ̄ノ郷といへるは、なべて此     辺をいひけむ、しはつの郷にある山なればしはつ山といふはむべ也、笠嶋も古は     笠縫 ̄ノ嶋といひしを、後世に略して二字に約て呼ぶ例外にもあれば、一字中     略せるか」といへり、    ●されど●八雲御抄《割書:五ノ|七丁》しはつ山《割書:豊前》同《割書:五ノ|卅四丁》く(か)【「か」朱字】さゆひ《割書:豊前》かさぬひ《割書:豊後》     《割書:ゆひと同所歟|但入別也》と見え●名所方角抄《割書:百四十|ノヒラ》豊前国の分に、柴津(シバツ)山笠結島を                         《割書:●藻塩草《割書:四ノ|四丁》四極山豊前》     出せり、又●類字名所集●松葉集《割書:四|大分郡》●秋の寝覚等豊後国とせり、    ●また本居大人の玉勝間《割書:六》●勝地吐懐篇 ̄ノ伴蒿蹊が首書●橘千蔭の万葉     略解《割書:三ノ上|十六丁》等ニは、しはつ山笠縫嶋ともに、摂津国なる由にいはれたり、猶よく     考て定むべし 【「●」「、」「」」は朱字】                       古歌考 下 五十八 ○子持山(コモチヤマ)  ●契冲の類字名所外集ニ参河《割書:但東国トアリサレド》●万葉略解《割書:ニ地名也|ト見エ》        ●同見安ニ国郡不知の部ニ入とありまた●秋寝覚ニハ未勘とあり尚よく考べし ●万葉《割書:十四》    児毛知夜麻(コモチヤマ)、和可加敝流氐能(ワカカヘルデノ)、毛美都麻氐(モミヅマデ)、宿毛等和波毛布(ネモトワハモフ)、汝波安杼可毛布(ナハアトカモフ)、《割書:外》【「外」朱字】 ○散木 ●夫木《割書:四春ノ四》               俊頼朝臣    こもち山谷ふところにおひた/ち(て夫木)て木々のは/ご(く夫木)くむ花をこそ見れ《割書:外》【「外」朱字】 ●六帖《割書:六》 かへて             忠房    こもち山わかかへるでのもみづまでねんと思ふを妹はいかにぞ《割書:外》【「外」朱字】 ○星河(ホシカワ)  ●類字名所外集《割書:二》に三河《割書:夫木廿四》とあり ●夫木《割書:廿四雑ノ六》 ほしかは 未国         光俊朝臣    明ぬとて空さかりゆくほし川に我さへ影や見えすなるらむ《割書:外》【「外」朱字】     左注云此歌鹿嶋社にまうでゝかへりけるに星川といふところに     とまりてあかつきたつとてよめるとあり    ●和田安全云外集の星川は細川の誤かと思へどそはまた別に載て    〽細川の《割書:中略》峰のかすめるの歌を記せりまた秋の寝覚には星川伊勢     と有て 名寄〽かきりあれは橋とぞならぬかさゝぎの立るしるしに星川     の水 長明とありこれも外集にのせて夫木廿四とありて二 ̄ノ句橋とは     ならぬ又四ノ句たてるしるしとあり されば伊勢を誤りしにもあらじ考べしと 【「○」「●」「、」「〽」は朱字】                       古歌考 下 五十九     いへり、    ●敬雄按に、宗祇の方角抄《割書:四十|七丁、》伊勢国分に、星河山は【「ハ」朱字】、遠し、朝気の里、     海辺の宿也、日永川は南へ流れたり、浦遠し〽桑名よりくはへて来れば     星川の朝気は過ぬ日永なりけり、云々とあれば、星川は伊勢なる事     しるし、契冲は何の拠ありて、当国とせられたるや後人猶よく考ふべし、    ●安全云、名所外集に、催馬楽の、ぬき川のやはらたまくら、といふ歌を     挙て、貫川を当国とせり、されど梁塵愚按抄に、貫川は美濃国に     伊豆貫川といふ所あり、伊豆を略していへり、とあれば、此国にはあらじ、     按ニやはぎの市にくつかひにかん、またうはもとり着てみやぢかよはん、     なとある故に、当国とは思ひ誤りしならん、考べしといへり、    ●上に挙たる、八名瀬川、依網原、志波都山、伊駒山、篠束、     子持山、星河などは、後 ̄ノ人なほよく考へて、正しき拠を得て定むべし、    ●また藻塩草《割書:三ノ|十二丁》に、いはしの原、同《割書:五ノ|丗二丁》に はゝこ崎を、当国と     せり、されど証歌及在所詳ならず、    ●また三河刪補松には、はゝこ崎《割書:二葉松に或云いらこの事|にや、母子(イロコ)崎なるべし、》いはしの原、     《割書:二葉松云、此所未詳、按に|額田郡上地ノ原アリ、》かつまた(勝俣)の池、野嶋か崎、此ら【分ヵ】名所たりといへ共、     一向在所知れず、太田白雪、佐野監物等、種々尋索せしかども、在所     不知なりといへり、    ●按に勝間田池は、万葉十六に歌あり、秋の寝覚、類字名所集等には、     下総とし、名所詠格には、清輔説には美作国といへり、顕仲の良玉集には、     大和国と見えたり、諸説ありといへり、契冲の吐懐篇《割書:上ノ廿|四丁》には、万葉 ̄ノ左注に、 【「●」「、」「〽」は朱字】                       古歌考 下 六十     新田部 ̄ノ親王出_二遊于/堵裡(ミヤコノウチヲ)_一御(ミ)_二_見(タマフ)勝間田之池_一とあるを引て、大和 ̄ノ国     にて添上(ソフノカミノ)郡《割書:薬師|寺ノ辺》なりといへり、また野嶋が崎は、同篇に類字集に安房     《割書:近江淡路|有_二同名_一》とあれど、万葉三、人丸 ̄ノ歌に、粟路之野島之前、同六ノ赤人の     歌に淡路の野島之海子の、など有て淡路也、さるを千載にあづま路とかへ     られたるより、粟路(アハヂ)は安房道(アハミチ)といふ義と思ひて安房とし、また粟路(アハミチ)を淡(アフ)     海路(ミヂ)と意得損して、風雅集には近江ともよまれたるなり、と猶委く     いへり、本篇を見るべくなん、    ●また藤原 ̄ノ雅康 ̄ノ卿、明応八年 ̄ノ関東海道記、しほ見坂の歌の     つゞきに、  恋の松原といふ所の松かげにしばし休みて、      むかしたれ恋のまつばらまつ人のつれなき色に名づけそめけん     といふ歌ありて、其次に矢はぎの里の歌をのせたり、其所詳ならず、     刪補松に、  大嶋や小嶋がさきの仏じま/すゝめ(あはずイ)の森に恋の     松原といふ歌を出して、俊成卿 詠ナリトテ民人伝 ̄フ、とあり、按に     今/不相(フサウ)の西の海辺に恋の松原といふ処ありて、かの大嶋小嶋仏嶋     なども眼(マ)の前に見わたされたり、此所ならんかとも思へど、其辺その     かみの官道ならねばいかゞあらんよく考て定むへし、    ●また藤原雅世卿、并堯行法師の富士紀行に、二子つかといふを     よめる歌三首あり、これも塩見坂のつゞきにありて、此国内ならん 【「●」「、」は朱字】                       古歌考 下 六十一     とも思へど、いづれも富士を見そめたるよしをよまれたれば、遠     江の国内にてもあるべし、こもよく考索ふべし、     三栗のなかいまの世にわか 三河国の     名所の歌ともあつめしるしゝ ふみは     あまたあれともむらさき生るむさし野の     広くゆきいたらす青柳のいとみたり     にしてもれたるも誤れるもあるを     あかぬ事におもへりしにあら玉のとし     ころわかむつましきかたらひ人いれ     ひものおなしまなひのはらから羽田野敬雄     かそをかたはらいたく思ひてあけくれ 【「、」は朱字】                       古歌考 下 六十二     皇神のみ【「く」見せ消ち、右に朱字「ミ」】ちにこゝろさしこゝら【「ろ」見せ消ち、右に朱字「ら」】のいにし     へ書ともよみわたすちなみに歌ふみ道の     記なとより四百余首の歌をぬき出して     玉さゝ【「〳〵」見せ消ち、右に朱字「、」】の露のはえあるめつらしき考説を     さへかたはらにかきしるし 古歌名跡考     と名つけうたよむ人の手つきとしも     なしたるは山田のくろにはふまめの     まめやかなるわさになん有けるそも〳〵     松かねの遠きむかしに名所といひ     たるもしらま弓 いまの 世には 雲にほふ     暁のさたかならすしてうませこしに     むきはむ うまの うまくしられかたく     たれも〳〵くらふの山ち やみにこゆらむ     やう におもひたとる めるをわたつみの         うみゆく舟の 追風のたより よきこの     書のかく なり いて たる 事のうれし     きか あまり さし出の 磯の さし 出て     たみたること葉をかきしるすになむ                       古歌考 下 六十三了      天保十五年八月          阿波守従五位下大伴宿禰宣光