【表紙題箋】 勃那把爾帝始末  全 【右下に円形ラベル】 JAPONAIS 5333 【白紙】 勃那把爾帝始末  全 【白紙】 近頃欧邏巴諸国大ニ乱れし本末其治平後の光景 をいかにと尋るに我寛政の初拂郎察ローデウェイキ 第十六世の代に当りて《割書:按に拂郎察の始祖拂郎哥斯より|六十六代の孫をローデウェイキ第十四世王》 《割書:と云此王の時威名隆盛なりし由西史に|見ゆ此十六世王は乃て十四世王の孫ならん》政令正しからす国民 苛虐に堪すして盗賊蜂起せしに有司も制する 能はす千七百九十三年正月《割書:寛政四年|十一二月の交》国王遂に賊の為に 弑さる《割書:拂郎察に限り王の弑に逢及ひ病て|死するをさへ謹て他邦に告すと云》時に五人の諸侯 あり一人の名はバヲスと云四人の名は記せす此五侯力を 戮せて賊を討て是を平け各一致して国を治し かとも《割書:蓋各地を分|て領せしならん》互に地を広めんとて又軍起り或 は隣国と戦ひ国内静ならす是ゟ先ボナパルテ ナボレヨンなる者あり《割書:ボナバルテは名トボレヨンは性|なり凡て西夷の性名皆倒置す》父は裁 決所の下吏たり幼き時哥爾西加島《割書:地中海に有り拂|郎察に属す》 の学校に学ふ長して尤兵略に通す初て仕へて 【右2箇所のナボレヨンのヨをヲに朱記修正あり】 隊長たり此に至てボナパルテ兵を起し先哥爾西加 島を奪ひ進て馬児太島《割書:亦地中|海に在》を取り遂に阨入 多に渡らんとす《割書:阨入多は亜弗利加洲|に保【ヵ】り都児格に属す》諳厄利亜人早く 軍艦を備へてこれを俟つ守備甚厳なりボナパル テ風雨の烈しく其備の稍懈れるを覗ひ忽ち船装 して阨入多に渡りぬ其部下の後るゝ軍艦諳厄 利亜人に焼撃れて大に敗走せりボナバルテ既に 【哥爾西加=コルシカ】 【馬児太=マルタ】 【阨入多=エジプト】 【都児格=トルコ】 阨入多人都児格人と戦てこれに勝ち阨入多を奪 また進て意太里亜国を取んとす《割書:此時西斉里亜近傍|の地は既に奪しならん》 ナルローヲといへる橋あり意太里亜人橋北に軍たちし 銃手を伏て大軍の橋を渡らんとするを雨の如く連発 せしかはボナバルテが勢面を掩ふさへ隙なくて逡巡して 乱れんとすボナバルテ一騎馬に鞭て銃丸降か如き 橋上を駆通り大声を発して士卒を励すに大軍 【意太里亜=イタリア】 【西斉里亜=シシリア】 力を得て奮戦して勝利を得遂に意太里亜を取り 夫より拂郎察に至り五諸侯と戦て尽く是を亡し 《割書:拂郎察世襲の貴族をアヽドルと云ボナ|ハルテ皆是を廃し己か部下を以てアヽトルとせしと云》自立して王たり 実に千八百四年と覚へし《割書:文化元年に当り此時ボナバルテ|前王の弟ローテウェイキ第十七世》 《割書:を擄し獄に繋て|十四歳にして卒す》拂郎察東北に入爾馬泥亜和蘭 孛漏生波羅泥亜弟那瑪爾加蘇亦斉俄羅斯 等の大国あり西南に伊斯把泥亜波爾杜瓦爾北に 【拂郎察=フランス】 【入爾馬泥亜=ゼルマニア= ドイツ】 【和蘭=オランダ】 【孛漏生=プロイセン】 【波羅泥亜=ポーランド】 【弟那瑪爾加=デンマーク】 【蘇亦斉=スエーデン】 【俄羅斯=ロシア】 【伊斯把泥亜=イスパニア】 【波爾杜瓦爾=ポルトガル】 海を隔て諳厄利亜あり於是ボナパルテ兵を四方 に出して戦争止む時なく其殃を蒙さるなし 東の方三たひ戦て入爾馬泥亜を取りまた段【波=朱記修正】羅泥亜 和蘭と戦て皆是に勝つ和蘭の主父子諳厄 利亜に遁れ入爾馬泥亜の帝波羅泥亜さして出 奔せり是より先伊斯把泥亜王父子国を争て 乱起る父王戦敗れて意太里亜に弄【奔=朱記修正】る其子名は 【諳厄利亜=アンゲリア=イギリス】 ヘルヂナンド自ら国に王たりボナバルテ其虚に乗して 撃て是を敗りヘルヂナンドを擄し拂郎察に将ひ 去て獄に繋けり遂に進て波爾杜瓦爾を撃つ 国王禦く事能わす妻孥を率て伯西児(ブラシル)に遁る 《割書:伯西児は南亜墨利加洲に係る波爾|杜瓦爾人甞て併有せし所なり》弟那瑪爾加人はコフベン ハーカに於て戦て敗られたり蘇亦斉国王ホナバルテ は鉾を避〆とや其部下の将を請て己を嗣とす是を カーレル・ヤンと云《割書:ヤンはヨヤンの略|養子ゆへ復姓也》実にボナバルテか兵を 用る神の如く皆人意の表に出て千古以来いまた 曽て聞さる所なり既に欧邏巴三分の一を併呑し 自ら帝と称す己か兄ヨーセスサ【ナ=朱記修正】ボレヨ【ヲ=朱記修正】ンを以て伊斯 把泥亜に封して王とし弟ローデウェイキ・ナポレヨ【ヲ=朱記修正】ンを 和蘭国王とし姉聟ヨハツヘム・シユラを西斉里亜及 那布児斯(ナーフルシ)国王とし己か子を以て羅瑪の太子に 【那布児斯=ナポリ】 【羅瑪=ローマ】 立つ又弟あり此人軍旅を事とせす世を避て羅 瑪に在り《割書:此羅瑪は意太里亜国教皇の所都|にして四方ゟ来り学ふ者甚夥し》爾後ボナバル テ遠く兵を出して其いまた服せさるを征せんとす 自ら十五六万人を師て入爾馬泥亜波羅泥亜を 過て俄羅斯国に侵入し莫斯哥烏を囲めり 《割書:莫斯哥烏は俄羅斯の旧都にして城郭壮大なり|風説書には莫斯哥烏の都下を焼て攻むとありき》俄羅斯人奇 計を設け刃に血ぬらすして鏖にせんと先其近傍 【莫斯哥烏=モスクワ】 所在の粮穀を焼き又透く彼か糧道を絶ち 固く守て時日を過さしめ雪降り寒の至るを待 果して其策の如く大軍凍餒に堪すして死る 者多しボナバルテか漸く軍を還すと見て俄羅 斯人一時に兵を発してこれを敗りまた逐すかつて 大に敗りしかは死る者勝て計ふへからす俄羅 斯の人其屍を埋るにたへす皆焼捨たりボナバルテ 敗走して波羅泥亜に出る頃ほひ蘇亦斉王アーレル ヤン《割書:元ボナバルテか|部下の将》俟設けて撃而已ならす波羅泥亜 及サキセン《割書:国|名》の軍勢裏切せしかはホナバルテ勇なりと いへとも前後左右に当り難く又敗走して拂郎察 に帰るに其兵五万に過さりしと《割書:此事文化十一年|の冬なるへし》初め 和蘭の主ウイルレム第五世孛漏生王の女を娶て世子 フリンスハン・オラーニイを生り《割書:今の和蘭王 ブリンスハンオラ|-ニイは世子の封称なり》 嚮に和蘭の王ボナバルテに敗られ世子を率て諳厄 利亜に在し時諳厄利亜王女子一人ありて男無りし かは彼世子を養て嗣とし其女に配せんとす《割書:按に百八|十年前》 《割書:和蘭のウイルレム第二世諳厄利亜のカアレル第一世王の長女を娶て|ウイレレム第三世を生り第三世も又諳厄利亜のヤーコフブ第二世王の》 《割書:女を娶とり此時諳厄利亜嗣に乏しウイルレム第三世外孫の故にや|遂に諳厄利亜の王となり和蘭と兼治之事ありき》 嗣後和蘭の世子ボナバルテか弟和蘭国王《割書:名はローデウェ|イキナボレヨンと云》 乃国を得る事能わす国民服せし【せし→し】て遂に遁て 【国民服せすして=が文意か】 拂郎察に帰ると聞き自ら和蘭に至て精兵を 募りボナバルテか新に俄羅斯に敗られて勢始て 折けたるに乗して千八百十五年《割書:文化十|二年》諳厄利亜を 合従し孛漏生フリンスウェイキ《割書:伯爵|の国》蘇亦斉等諸 国と謀て拂郎察に侵入はボナバルテみず自ら大軍を 率ひハートルロー《割書:地|名》を去る事七八里に兵を伏せて是 を待六月十五日初夜の頃ゟ戦始り十六日孛漏生と 決戦してこれを敗れり十七日東西勝敗を決せす 十八日と所謂ワートルロトの大戦なり夜をこめて軍 始り遂に入乱れて戦ふ時和蘭の世子勇を奮て 指揮するに忽ち流丸来て肩に中つ幸に疵浅けれは 尚奮戦せしに諳厄利亜孛漏生の人共に力戦し ■大にボナハルテを敗れり《割書:按に風説書にも六月十六日和|蘭の世子カテレブラスの陣にて勇》 《割書:戦し人ワートルローにて奮戦せり|敵味方名誉の勝利を得たりと》ホナバルテたまり得す車 に乗て疾走せしに《割書:車に馬数匹を駕して駆しむ|走る事甚捷しとそ》孛漏生 人進すかへて既に車の牕より手をさし入て執んとす ボナバルテ身を翻して躍出し車を棄て走る事 共に百二十里計 把理斯(パレイス)に及ふに《割書:把理斯は乃|拂郎察の都府》尚遂 来つて事甚急なりホナバルテ川を隔て残兵を陣 し和を請す并に己か子を以位に立ん事を願ふ《割書:是は|己か》 《割書:蟄居せんとの|意なるへし》皆肯せす於是海岸さして走るに諳厄 【把理斯=パリ】 利亜の船数十艘既に備たりボナバルテ進退谷り終に 舶中に跳り入て役たり其舶の名をイルドコンボルト と云彼れ諳厄利亜に降かはロントン《割書:諳厄利亜|の都府》に将て 往き厚待せられんと思ひしに左はなくてシントヘルレ イナ島《割書:か|》《割書:按にシント|ヘレナ島なるへし》追放せられし欧邏巴中二十 余年の争乱此に至つて始て平治てしかは入爾馬 泥亜帝《割書:波羅泥亜地方に|出奔せし人也》伊斯把泥亜の王《割書:名はヘルヂドンド|拂郎察斯の獄》 《割書:中に繋|れし人》各国に帰り拂郎察の人前王の弟を迎て 立つ是をローデウェイキ十八世王とす諸国の王会盟 し信好を睦み法令を定めもし向来大砲一発 せんものあらは諸国挙て粉斉せんと約しぬ先和蘭 の世予を以大勲労とし入爾馬泥亜拂郎察の人地を 割て賞与し王国たらしむ和蘭の地古に復せり 《割書:按に和蘭もと十七州惣称してネーテルランドと云文明中全く|入爾馬泥亜に属し後又伊斯把泥亜に属せり此時伊斯把泥亜の》 《割書:守令其人を虐使せしかは諸部是を怨み師を興し屡伊斯|把泥亜を敗りしに又ナランエ国侯兵を出して是を援しかは》 《割書:国勢大に張り遂に天正六年和蘭七州の酋長共にオランエ侯を|推て主長とす是をウイルレム第一世と云遂に一致したり此後伊》 《割書:斯把泥亜の人前後八十年和蘭と強戦して遂に勝事能はすはすと云|へり東十州の地は大半入爾馬泥亜に属し小半拂郎察と和蘭とに》 《割書:属せしに此に至つて十七州全く|和蘭の有となり古に復せし也》和蘭の世子王位に即く是 をウイルレム第一世と云《割書:天正中ウイルレム第一世は一致国たりし|始祖なり今は王国たりし第一世なれは前》 《割書:称に碍かす|といへり》尋て俄羅斯帝の女を娶て妃とす《割書:按に我(ママ)|羅斯》 《割書:帝ナレキサン|テルの女なるへし》王国孛漏生は入爾馬泥亜の藩屏にして 和蘭諳厄利亜に次て勲功あり蘇亦斉王カーレルヤン は期に後れて至て会盟に与れりビユルデンブルグの大公 及サキセンのケウルホルスト《割書:爵|名》共に王爵と降りぬ嚮に 和蘭世子の国に帰る頃ほひ諳厄利亜王の女子立 て王たり《割書:按に前王卒|せし故なるへし》幾もなふして卒す於是入爾馬 泥亜のプリンスバン・ワルレスを迎て嗣王とす《割書:フリンスハン・ワルレ|スは入爾馬厄亜》 《割書:王子の|封称也》是をジヨルセ第四世と云今の王なり文政七年 拂郎察のローデウェイキ十八世王卒す弟嗣く是を カーレル第十世と云乃今の王なり 衣冠の制も改革このかた諸国多く改りしなり 和蘭にては肩に金絲の徽章を付て俄羅斯の 制の如し是俄羅斯に傚てかくせしにはあらす各 其宜に随て制せしなり殊に其瑣細なる飾は 時に改むる事なりき但今の王の服も甲比丹の服 制と異らす只色は花色を用ひ手先と肩には 猩々緋を入れ左の胸辺に銀の星を付る而已 右ことし入貢和蘭甲比丹スツルレル予か問も 答しまゝを綴りしなりスツルレル歳十四炮 手と成り十八隊長え擢られ拂郎察の役に 屡功あるをもて出身せしとそ惜らくは接話の 際余詻【裕ヵ】なく問を遺せる甚多したゝ和蘭と 諳厄利亜と睦ひ俄羅斯婚し諸邦と和親し 国勢大に張て復疇昔の比にあらさるを 識る耳   丙戌四月  右甲比丹スツルレルか話説に就て鄙懐の黙止し  難きもの有よりて愚蒙の微志を贅する事左の  如し 一凡て西洋の歴史は彼暦数千七百六十九年《割書:明和|六年》和 蘭にて刊行せし万国地誌中に載て詳なり 其後の事は我 邦にて識よしなくまして近時改革せる光景をや 適々杳かに伝へ聞へしも異説区々にして定りならす 蓋し西洋中昔より通商を免させられし和蘭 のみにて他の国ゟ聞識ん由なけれは長崎在晋の 和蘭人己か憚りあるより当時の模様程よく云なして 実事は秘して告さりし也《割書:我 邦の就中諳厄利亜|俄羅斯の二国を厳禁せら》 《割書:るゝ事情をは和蘭人曽て知れる事なれは彼か拂郎察に奪れ|て諳厄利亜に遁れ諳厄利亜に号泣して和蘭を興復し俄羅斯》 《割書:と婚する等の事を秘して|是迄語る事なきも宜なり》西洋の習ひにて諸国の風説 を日々刊行して世に顕す事なるに其風説書を も渡さす又長崎の通詞等間々其あらましを聞 知るも有へけれとも亦憚りてや実をは語らさりき 三十年このかた彼諸国の形勢いかんを知らす彼暦史 の起【記ヵ】略をさへ追補せん便もなかりしと今スソルレルか 話説ゟ依て其大略を補ふことを得んとす《割書:スツル|レルと》 《割書:砲手より屡軍功にて漸く進てコロネルに擢られしとの由|ネルは武官にして乕頭の顕甲比丹より位貴し今甲比丹を》  《割書:兼て来れるよし甲比丹は文官に属し舶に在ては舶中の|事を指揮し商館に居ては交易の事を掌る彼和蘭の》  《割書:マスタクと云へる処にて生れ今年五十一歳性質文事に疎く|武事には長せりと見へて軍事を問は彼か得意にて陸て》  《割書:語れるより終に|嫌疑を明せしならん》 一凡十年来和蘭斉来の貨物何故旧時と品多く  替り《割書:其品過半諳厄利亜の産物又は印度の産|物有之和蘭属島になき品々多しと覚ゆ》衣服冠  帽の製もほとなく改りし様子覚へていふかしかりしか  スツルレルか話を聴き始て疑念を解きぬ抑和蘭 もと諳厄利亜俄羅斯と親しからす此二国常に和蘭 の我 邦に通商するを嫉み仇敵たりしか《割書:先年松|前に囚》 《割書:し俄羅斯の甲比丹ゴロウキンが著する遭厄紀事に文化元年|俄羅斯の使レサノフ長崎に至て日本の信牌を得け交易を》 《割書:乞しに許容なかりしは全く和蘭人の間せし|故なりとさま〳〵和蘭人を誹謗せし事見ゆ》俄羅斯と諳 厄利亜とは原ゟ婚親し《割書:漂客元太夫か俄羅斯に|在し時俄羅斯より諳厄利》 《割書:亜に養子|たりしと云へり》事なれは互に相助け官士も互に入れて使 へり《割書:今年入貢の和蘭人フルケルの話に松前に囚れし|俄羅斯のフロウサンは諳厄利亜の人なりといへる也》殊に俄 羅斯の舶司は皆諳厄利亜人を使ふよし其人尤 航海に熟すれはなり《割書:諳厄利亜人性智巧勇悍にして|尤航海水戦に長せるよし西史に見ゆ》 《割書:五百年来数々世界を航海し万国の|地勢を審にし彼か奪併■所又多し》固り俄羅斯と諳厄 利亜は同胞の国なるに今和蘭をはしめ欧邏巴 諸国の盟て倍好を結ひ合従の勢なれるは 豈悪むへく懼るへき事ならすや スツルレル云へるは改革この方欧邏巴へ統和平し 和蘭も静謐に目出たき事なれ共治平続きなは 武備必衰へて後来事あらん時一支もならさるに 至らんかと却てあやふみぬ貴邦は自然の要害に拠 国を鎖して海外と通せしめす其鎖国の意は固に 感服する処あれとも海国にして艦軍に習はす好を 隣国に結はされは外患を禦くに利あらし然るを まして治平久しく武備漸く衰へなんと若外寇 【海国にして艦軍に習はす=各文字に朱記傍点】 の難あらん亦危からすやと是甚憎ひへきの悪 言なれとも我に取ては亦良薬の口に苦きに似り 大凡欧邏巴の人は無事安閑として日月を過るを 恥ち《割書:諳厄利亜人性情志に就中諳厄利|亜の人は無事安逸を好さる由見ゆ》各其業をつと免め 励む事和漢の如くならす《割書:故に逸民乞丐|稀なりといふ》されは彼武官 等二十年干戈の中に老練し治平後十年為へき 業なれは《割書:スツルレルか甲比丹を兼て来れる|も畢竟為すへき業成れはなり》或は閑暇に 【無事安閑~如くならす=割書きを除き朱記傍点】 【閑暇に=朱記傍点】  堪す外国を襲んなと謀るも有ん歟故に彼国の  治平は余国の患なり 一先年俄羅斯より頻に我邦へ交易を願しは  畢竟ヤムシヤツカ《割書:蝦夷千島の北に連れる大国にして|近世ロシヤ人併拓せし所なり》  を賑さん為なりと松前に囚へしコロウヰン等か語  れりと聞及しに今年和蘭人ブルゲルも左なりと  語りぬ遭厄記事を按るに近来俄羅斯より 【堪す~謀るも=朱記傍点】 西北亜墨利加の地を開発併有し其地の産物を カムシヤツカに送れり依てカムシヤツカとオボーツガ の両所に奉行を置き亜墨利加地方交易進 貢の事を掌らしめ今は両地より亜墨利加へ 往来の船漸く緊【繁ヵ】くと見ゆ《割書:因て七年前和蘭出板の蛮|書を閲すに天明八年に》 《割書:当りて俄羅斯人西北亜墨利加の浜地北極土地五十八九度の間|と八ケ村を設く毎村家数百十六軒或は百廿軒ありて人前記》 《割書:俄羅斯の人四百六十二人亜墨利加の人六百人計ツヽ住す又寛政|五年此地の戸口を増んとて俄羅斯ゟ多く人数を送り既に》 《割書:学校をも設けて其土民に書を読□事を|書する事を教ゆと物産は諸獣の皮革極て夥し》彼西北亜墨 利加の地は更なり都て俄羅斯の蚕食せし 亜細亜の東北部皆冱寒不毛の地なれは食糧 極て乏し故にカムシヤツカ、オボーツカを初め此地 方諸堡営の食糧は悉く遙遠なる本国より 送れるなり仍て近隣なる我 邦と交易して 一は貨物の利を得一は輸糧の労を省んとなれは  文化中の一件復【後=朱記】絶て来らされとも終に我北陸  の患ならん 一文化元年長崎へ来りし我羅斯人の紀行書  四冊あり此頃《割書:は享保か|》手に入りぬ《割書:此書我羅斯語なるを|和蘭に訳せしなり》  《割書:内一冊は長崎在留中の日記にて都て 本朝の事情を書き|載て頗詳々なり既に訳者に投けて起稿せしむ訳成は奉んとす》  其書中 本邦蝦夷及近傍諸国の地図ありて  其時往返せし舟路を記せり長崎ゟ帰路は壱岐 対馬の間より北海を経て出羽より津軽海岸近く 乗通り西蝦夷海岸通りソウヤと北蝦夷との 間を過て北蝦夷の東岸を測りカムシヤツカに至れり 且 日本蝦夷の周囲海の浅深等は往返共に 測しと見へて精く載ぬ又文化八年俄羅斯人 コロウヰン等捕れて害訊せられし時コロウヰン詭 りて薪水食糧尽し故止ことを得す舟を寄せし なりとて実は島々の形勢海港の深浅等 測量せよとの王命なる事は秘して告さりしと 彼か遭厄記事に述たり《割書:他国の島々を測量|せよとは何の心そや》又文政元年 諳厄利亜の漁船浦賀へ来りし後は年々我東 海へ来り鯨漁をなせり類船数十艘なりと聞ゆ 《割書:十年来此事あるは彼国兵乱治りて無事|を得且東海の舟路既に熟すれはなり》彼等一万里の 波濤を経て我東海に来ること隣浦に往て  漁するか如し終に何等の点計をか企ん亦悪むへく  懼るへき事ならすや 一前に述し如く西洋諸国治平一致して無事閑暇  なるは余国の患にして《割書:諳厄利亜の漁船数十艘我東海|に来て漁し我海浜の船子を》  《割書:親み懐んとにや数々物を与へ或は邪教の書を与へ又運送|の船を脅して掠め取又岸に来て薪水蔬菜を乞の類我患也》  オホーツカメカムシヤツカの繁盛は偏に我蝦夷の  患なり《割書:蝦夷ゟカムシヤツカに至る迄庭の踏石を並し如く小島|数十連続せり所謂千島にして大なるもの廿四島有》 《割書:其中廿二島は俄羅斯|人既に併奪せり》抑諳厄利亜人の東海浜に 来て薪水蔬菜を乞ふは禍浅して制し易く 俄羅斯人の西北亜墨利加を開発してカムシヤ ツカ、オホーツカを繁盛にせんは毒深くして見へ 難し如何となれは此両所繁盛を以輸量の費甚 しからん然らは終に我 邦に向て望を絶こと 能はすもし来て交易を乞すんは窃に千島の夷 人をして交易せし免歟はた奇計を設けて我虚に 乗せん歟《割書:嚮に官地の時すら一商船に|攔妨せしこときなり》先年蝦夷地 官領たりし故ヱトロフ、クナシリの二島は奪とれ すもし嚮に 官地とならすんは此二島も既に俄 羅斯に属して蝦夷の北部は危からす北部陥らは 禍終に解さらん 一夫蝦夷の地百年を顧して余に是を開かは弊  なからんに連に成を欲して費多く利少く無用  の地とするに至れり蝦夷の地勢は  本邦の後陣たり利のみを以て事を論する  は恐くは国家の為に取らさる所なり惜かな  大日本四国の内最心を用ひすんは有へからさる  蝦夷の要地をして小身の松前氏に復させ 給ふ世以ていふからすや必 神慮あるあらんと照して筆を絶ぬ  文政九年四月  高橋景保謹述 【白紙】 別埒阿利安設(ベレアリヤンセ)戦記    第一 勿能(ウエーネン)の会    《割書:吉雄宜|青地盈》全訳              高橋景保校                  千八百十四年《割書:我文化十|一年甲戌》第五月三十日同盟の諸国の 軍既にボナバルテを把理斯(ハレイス)に討て之に捷ち凱旋し 彼を執へてヱルバ島《割書:意太里亜|の属島》に流竄しローテウェーキ 第十八世王を再その国王に即かしめ諸国始て拂郎 察に和睦し諸国の軍士各本国に帰り万民安 堵の思をなせり扨此年秋同盟の諸王侯 勿能(ウエーナン)に 会集して猶和平の盟約定議すへしとて第九月 廿五日には魯西亜帝孛漏生王勿能に至れり其衆 都て一万人に余り旅舎する所なく野陣を張りて 之に舎す又ベイエレンの女王ウェルゲンブルグ《割書:共に独乙都|国の諸王》 及ひ弟那瑪爾加等の王侯も来会し第十月一日 已に諸国の執事集りて評議はしまりける元此 会議は欧邏巴中にかゝはる大事なれは数月を経る に非れは定議すへしとは思はさる所に卒にボナハルテ 彼配所を遁れ出て兵を募りて把理斯を襲ふ の風聞ありて会議は半はに廃し同盟の諸国 再ひ軍を引て彼敵を討へしとて陣鐘打て 此会議は後日に延へられたり   第二ボナバルテヱルハ島を逃拂郎察を襲ふ事 同盟の諸王侯は会議して天下万民の治安を謀る に引かへてボナバルテはヱルバ島にて新に暴虐の 企を起し私にヱルハ島を出て把理斯に襲入の 急報至り人々実にその悪逆を驚歎せさるはなし 斯て又天下和平の日は雲に掩はれ再危懼の世の中 となりぬさて千八百十五年《割書:文化十二|年乙亥》第二月廿六日の夜 九時にボナバルテは舟を装ひ与党の拂郎察波羅 泥亜 克爾西革(コルシカ)《割書:意太里亜|属島の名》の兵千許を卒てポルトヘ ラヨより開帆し三月一日拂郎察の南方カンネス に着岸し翌朝進てゲレノブレに至るに拂郎察 の反賊ラベドイヱレ其部属す卒て彼に属と此ゟ 直ルリラン《割書:拂郎察|国中》に赴て三月十日其党兵已に九万 より十万に及ひネイ《割書:人|名》等の悪徒皆彼に属し第 三月廿日の夕八時に把理斯に至る其途中人々を して唱へしめけるは此王再国に入て三色の幟章 を建て新に富貴を得て更に二十五年の栄華を 収むへきとそ扨ローデウェーキ王は把理斯に在て 自ら守らんと心を砕きボナバルテは罪悪その党 類の不臣の罪を国人に説き聞せて兵卒を集め 彼を防んと欲れとも勢弱く却て其部下の兵も王を 棄て遁れ去けれは王は詮なく十九日の夜把理斯の 王城を棄てケントに遁れ行たり勿能には第三月 十三日始て此乱の急報至りけれは同盟の王侯直に ボナバルテの信義を棄て人民を残害する罪状を 挙て国人に触れ天下治安を致さんとて諸軍一同 速に拂郎察に馳向て兇賊を征伐すへきを命したり   第三ヲクシヨベルロ橋頭の合戦 ぼボナバルテが再ひ拂郎察王位に復ると聞へけれは那 波里王ムラトは彼か姉婿なれは直に貪利の企を起し 意太里亜の諸地を掠取らんとて部下の兵八万を 擁し不意に羅瑪所属 都斯加能(トスローネン)所属の地に 乱入し其土人を挑撥し己に与る者は国法を離 れ自由の栄華を得せしむへしと云はせ第四月三日 已にボログナの辺に至る扨此手の討手として独逸 都の大将ヨハロン・ビアンシ兵を総て之に向ひ戦ける がムラトが勢に敵し難くポー河の辺に退きし故に 那波里の兵はフヱルラヨを過てオクシヨベルロの橋 頭に到る此時ヒアンシは加勢の兵を得てムラトと 戦ひ之を破り遂に威を奮て頻りに戦ひ第五 月二日朝より夜に至りて彼を追払ひしに三日朝 ムラト又寄来りしを遂に大に之を撃て彼か兵 二千を俘にし燌【熕ヵ】炮数多を奪ひムラト敗走して 那波里に引返しぬ   第四独乙都の兵那波里に乱入す トレンチノ《割書:意太里亜|国中》の戦《割書:前の合|戦を云》に独乙都の軍勝利 を得て大将ビアンシ進てカプアに到りけれは那波 里の大臣デーユカガルロ来て和を請けれともビアンシ 肯せすムラトと和を講するの義なしとて彼を 返しけれは又彼の総督コレツタ那波里の兵を収めて 降参し那波里城は独乙都方のヘルヂナント第四世 王に属すへきを約す然るに那波里府に内乱 起りて管領ネイベルグ其部下を率て之を制するに 鎮る事能はす終に独乙都の兵を以て之を 平定す此日総兵ビアンシは斉西里亜王子レヲポ ルトを伴ひ兵二万を以て那波里に入ムラトは前 已に拂郎察に走り其婦人は諳厄利亜の舶にて テリヱストに送り遣りぬ爾後ムラツト私に克爾西 革に拠らんとし事あらわれて執はれフーヱルテーイ ナンド王命して之を斬しめぬ   第五ベルレアリアンセ《割書:地|名》に於てブルセル」ウェルリ   ングトン《割書:供に|人名》の勇戦 此時ボナバルテ把理斯に入て軍備を整へ兵卒を 四境に出し守らしむアンコウレメの侯は拂郎察国 南部の人民を以てホナバルテを防んと欲すれとも 彼か勢強きを以て避て舟にてセツトに退去す斯て ボナバルテは自ら兵をマイの野に集めて点検す るに一万八千なり二万許は已に諸方に遣りけれとも残 る所調練の強兵四五万ありけれは第六月十二日自ら 其軍を総て和蘭国境に向ひ其処に在孛漏生 諳厄利亜の軍に敵せんとし十四日其地に着し 十五日サムデレ河をカルレロイより渡りけれは孛漏生方 に其聞へありてブルセル及ウェルリングトン其軍を纏 たるに十二日拂郎察は歩兵十二万騎兵二万二千を 張て孛漏生方に突懸りける孛漏生の兵力を奮 て血戦せしか拂郎察方に利多くブルンスウェーキの侯 も爰に戦死し大将ブルセルも馬より落て已に危 きを辛ふして救ひ去れり十七日も終日戦止す十八 日朝十一時《割書:四半|時》よりベレアリアンセにて戦ひたるか爰に 諳厄利亜人の一手にて血戦せしかとも雌雄なく 夕七時に至れり其時ブルセル再孛漏生の兵を卒て 敵の背後より撃て此戦遂に大勝利を得たり   第六拂郎察兵の引口 此戦味方は血に染み敵は鏖となりたるかボナバルテ 猶残兵を引て隊伍を乱さす退きけるけるか孛漏生の兵 奮激して之を追撃せしに由て遂に彼か兵卒乱 れ走りその途に燌炮装菓車桑車諸兵具等 を土地の見へさる計棄て散したりブルセルは此夜 月の明なるを幸とし敵を村里より駆出すへしと 命し兵を進めてゲナツぺに入しにボナバルテの乗 車を奪ぬ此時ボナパルテは帽子を脱し劔を失ひ 狼狽して遁れ去ブステロース《割書:人|名》辛ふして彼に従ひ 走りぬ残る所の拂郎察勢僅に四万許にして尽く 城営の方に遁失せり此戦に味方に得たる熕炮 三百門余あり此日ボナパルテの本陣ヘレアリアンセと 名る砦の高処に置たりホルストブルセルとウーエルリン グトン此夜の大戦の後相会し互に勝利を賀して ブルセル云けるは此戦はベレアリアンセの戦と名けて後 まて記念にすへしと云り   第七ウレーデ王の兵サールゲムンデン」サールブルゲン   を攻取る事 同盟の諸軍は各レイン河より拂郎察に進みブル セル及ウェルリングトンは拂郎察の北辺に軍す爰に ウレーデ王は第六月廿四日サール河を越て彼孛漏生の 軍に合し働人と約せしにサールゲムンデンの傍に て敵に逢て遂にはけしき戦となり味方はサールの 橋頭に攻寄んとし敵はサール橋にて防きしか 督将ベクケルス已に進み前郭と橋とを攻取敵を進 て兵に府中に押入たり又ベイヱレンの兵はルネヒルレ 《割書:地|名》を攻取りぬかくて二十八日ウレーデ王本陣をナンセイ の内に布きてメウラ及ムーセに河浜の敵を攻且スタ ラーツブルグに在る敵将ラツプか把理斯に退く帰路 を絶ち又敵将レコウルベを打破らんと備へたり然るに 又ウーエルテンブルグの王子廿二日にゲルメルスヘイムより レイン河を渡し来りラツプをフタラーツブルグに攻囲み レコーベをボウルグリブレ「ブルグヘルド「ネウドルブの処とに 撃破り彼をヒユンニンゲン城に追入たり其他の総兵 フリモントは意太里亜よりシンブロンを越来りビブナ はモレトセニスを越来り諸方より攻入んとせり   第八魯西亜の軍カロンス府に乱入す 第七月二日魯西亜の総兵ヱーセルニツセフ兵を督して カロンス《割書:拂郎察|の地》府に入んとせしに府人誤て此を敵とし 防人に企ける故にヱーセルニツセフ怒て兵に令し彼等 無益の敵対なす懲しめに其人を殺し其家を 壊て■て兵を放にし乱入せしに其危懼の内にも おかしき事のありし府中にミニスクテウル「カウヒンと云 者ありて其家綺麗に見へけるか一人のコサック《割書:魯西亜|兵隊の名》 其家に蒸餅を求め飢を療んとし入て之を請ふ にその家人蒸餅及火酒をも与へけれはコサッケン其 家婦家族の悲歎のありさまを見て已に掠奪に 逢し者なけんと憐みを起しフレデリキデラル《割書:貨錢|の名》 二枚を出して其婦に与ふ其婦敢て是を取らす コサッケル其甚寡きを嫌ふて取さると思ひ又十四 枚を出し与へと云貢婦之を収めるアレキサンデル 《割書:魯西亜|帝の名》の兵は貨を惜ますして去りぬ又府中の老氏 リクテルといふ者頭に創を受て血に染て途に倒れ けれは一人のコサック之を追て忽ち馬より飛下り己か 襦祥【ママ】を裂て其疵を縮縛し遣りたり但此老 人は遂にその疵にて死したり又総兵エーセルニツ セフ此処を出去る時郊外の一酒店の主ニカイセ といふ者総兵の過るを伺ひ已に家の破壊されたる を嘆きけれはヱーセルニツセフ云けるは是は我過に非す 府人の無益の敵対をなせし故なりとて自ら十二 ジユカトン《割書:貨錢|の名》を彼に与へ是はヱーセルニツセフが汝に 致す志なりとて去れり   第九同盟の諸軍把理斯に入 第六月二十一日ボナバルテはベレアリテンセの敗績の後 把理斯に帰り至り自ら位を退き其子を嗣とし て二十四日把理斯を出去りたり其間フルセル及ウェルリン グトンは勝に乗し直に兵を進め敵地の諸城を攻 降し第七月一日已に把理斯に入んとす爰にボナバルテ の残党猶ダホウスト《割書:人|名》の麾下に集りて三度イスセ ー《割書:地|名》の味方の軍を襲ひけれとも味方の兵之を打 破りけれはダホウスト力屈して和を乞へりかくて味 方の軍兵五万を率て第七月六日昼十時《割書:四|時》把理 斯に入同十八日ローデウェーキヱも返り来り廿日孛漏生土 独逸都帝魯西亜帝と共に陣を把理斯の内に 移しぬ如此く把理斯再ひ味方に属しけれとも 諸軍治定の間を此国の政庁の興行するまて諸軍 は此に留り守れり   第十ボナバルテ諳厄利亜人に投す ボナバルテは把理斯を出て第七月三日ボセホルトに 至り此より亜墨利加に往んと欲し大舶フレカトを 装ひ之に乗て順風を俟つ所に諳厄利亜の巡海の 軍艦之を見付て放さす殊に月夜なれはボナバルテ も夜にまきれ遁れへきやうなく十五日終に自ら小舟 に乗りヘルトラント「サハレイ」ランマント等四十人許を従へ 諳厄利亜人に身を委ぬベルレロボン舶に移れり諳厄 利亜人彼等を執へ二十四日トルバーイ《割書:諳厄利|亜の地名》に至る 其途中彼等の身の果を見んとて遠近群聚せり とて同盟の諸王侯相議しボナバルテをはシントヘ レナ島に流竄すへきに極り舶将マツクブルンの支 配にてノルツムベルランド《割書:舶|名》に乗せ送りぬ此と共に島に 趣し者はベルトラント「モントロン管領フカサス兵将コル ガント等其妻子及■人婢三人なり嗚呼万人を 残虐し万人に怒り罵られたる魁首たるボナパルテ も終にヘレナ島を以て結果の所とせり   第十一独逸都フンニンゲン城を抜く フンニンゲン城は敵将バルバネゲレなる者守れり寄 手はアールツヘルトグヨハン君にて第八月二十二日大砲を 放ち攻けるに城中ゟ熕砲を放て防けれとも味方 を損するに至らす昼後已にその城門及廓道を焼払 ひ二十二日の夜より廿三日に至り城の外なる砲台を 奪へり二十三日二十四日昼夜大砲を放て焼たてけるに 城兵力屈し白幟《割書:帰降の|印なり》を揚て降を請ひハル バネゲル部卒千九百人を引兵を伏て城を開て 出けれはアールツヘルトク降を受て城に入に長吏 これを迎入り其民をは各其郷里に還らしめ 本兵をバロイン河の背後に遣りて平定せり   第十二シントヘレナ島 此島はアーランチセ海《割書:一に波爾杜|瓦爾海と云》の南辺に孤立する 巌礁島にして地下の大坑ありと見ゆ島の長さ 四爾時程《割書:凡五|里程》幅三爾時程《割書:凡四|里》高峰多くピーキ」 ハン」テ。イアナ」は二千六百九十尺《割書:凡七|町余》に及ふ全島の平 地僅に十二モルゲン《割書:一モルゲン凡千|三百二十六坪余》に過す礁上に僅に 土を敷甚脆疎なれとも能物を生長す田圃 とする所七八千モルゲンに過きされとも其余三 【爾時=レゴア(蘭語)リーグ(英語)】 万モルゲン許は不毛の礁石なり其田圃は肥潤な れとも鼠甚多く穀種を下すを妨るか故に 土人唯畜牧里蔬を以て養とす野牛肉尤美 とし又野獣禽鳥多くあり但樹木に走しとす 温泉数所あり時気は良善清浄なり一府 ヤーメスストウン又ヤコーブススタードと名くヤコーフ 谷といふ処に置その処は島中最広平の地なれ 敵に当り諸軍を励まし昔より伝る和蘭国 の武威を輝せしは初め王子自ら進て強く敵 を打払しか忽ち敵兵の中に包まれ殆と危かり けるに従騎之に衝入り力戦して之を救ふ其 苦戦の中に流丸王子の左肩に当り味方色を失 へかりしに王子之に辟易せす却て味方の 勇気激発して遂に敵を打払ひし故に 拂郎察人も始て和蘭国の勇威を感称せし とそ此に由て王子の勇名高くあらわれ其創 も恙なく治しけれは国民王子は天の加護を得 たる事を嘆称せり   第十四ベレアリアンセ府 ベレアリアンセ府は元世人のしらさる所なれとも此戦 再ひ欧邏巴諸州の治平を興せしか故に是府 とも僅に一条の街にして其家屋稠密にして 街の両側の房室直に巌崖に迫り雨時には その崖礁砕落て屋を破る事屡々なりヤコー ブスボクトと名る海湾ありホルトヤメスの砦を 要害とす海舶の破泊の常処とせり府と七十 余の村落とを総て口数三千許なり此島は 千五百の二年《割書:文亀二|年壬戌》波爾杜瓦爾のカハンイは始て 之を見出し其日のヘレナ《割書:古哲|の名》の祭日なるを以て 島の名とせり後千六百年《割書:慶長五|年庚午》に諳厄利亜人 之を取れり   第十三和蘭の王子ボストレスロクツテレブラ   ス《割書:初|名》ベレアリナンセ《割書:地|名》に於勇戦 第六月十八日ベレアリアンセの戦に和蘭の王子クツ ルテレブラス一名ニールスプロングと云処にて勇を奮て も亦大に名を顕せり夫悪虐終に幸を得は 天日永世に暗からん然とも英雄フラセル及ウェル リングトンの二人相助て兇賊を撃て再万民 和平の勲を建しは正に此府と同しく不朽 の名を伝へ人々をして天道善に帰るを 鑑せしむ豈無量価の宝ならすや 右一巻和蘭人近時撥乱及正の盛を記して 其世子奮戦図の週に掲鏤せしものなり蓋 彼の功烈を後世に輝さんとなるへし故に唯其 挭概を述るのみ此ころ桂川氏か所蔵なる を乞ふて訳せしめ甲比丹スツルレルか説話と 併せて当時の光景を観るの一助に備と云  文政九年丙戌初秋 橘景保誌 【白紙】 【白紙】 【白紙】 【裏表紙】 【帙の背の画像 下部に附番】 JAPONAIS 5333 【帙への収納状態の画像】 【帙を閉じた状態の画像】 【帙への収納状態の画像】 【帙の上面 題箋部に文字なし】 【帙を開き表紙を見せた画像】 【題箋】 勃那把爾帝始末  全 【右下円形ラベル】 JAPONAIS 5333 【帙の内面のみの画像 文字なし】 【帙を開いた画像】 【帙内面後端部の東京神田一誠堂書店の票】 高橋景保訳編 ナポレオン伝 勃那把爾帝始末  《割書:文政九年成| 文政頃新写》 【表側、背の画像は前出】