《題:/種痘(うゑはうさう)/諭(さとし)/文(ぶみ)》 嘉永二酉年/痘苗(はうさうゝね)長崎に渡りしより後御府内はしめ京大坂 其外国々において年々うゑ/試(こゝろみ)るに実に/夭行痘(はやりはうさう)を/防(ふせ)く無類の 良法なる事/疑(うたがひ)なく/明(あき)らかなり是に因て去安政五午年春 有志の者も/鳩(より)/合(あひ)て神田お玉ヶ池に/種痘(うゑはうさう)/所(ところ)を/経営(とりたて)て専らうゑ /施(ほとこ)し来れるに同年の冬火災に類焼せしにより同六未年春 /奇(き)/特(とく)の人々/費(つひえ)を助け力をあはせて又々下谷和泉橋通り藤堂家の 北の方に種痘所を/再営(ふたゝびとりたて)て爰にて/愈(いよ〳〵)/弘(ひろ)くうゑ施せるに昨万延元 申年冬 官の種痘所となれるにより御府内其外近在近郷の 小児一人たりとも/痘斑(あばた)/畸形(かたは)夭札(はやしに)のうれひなからしめて 御仁恵の厚き御主意に/協(かな)はんことをこひねかふのみ  凡種痘は/老弱(としよりわかき)を/撰(えら)はすといへとも/大抵(おおかた)/出生(うまれて)/後(のち)百日前後に  うゑるを尤(もつとも)/佳(よし)とす/後来(このゝち)/小児(こ)を/育(そたつ)る人々は/期(とき)を/忘(わす)れす来り/種(うゑ)へき也   文久元辛寅年三月 《割書:下谷和泉橋通り|種痘所》【印】