【製本表紙】 【題箋があるが文字なし】 【管理ラベル「807 1」】 【製本表紙】 【題箋】 「琉球入貢紀略 完」 【右丁】 山崎美成編輯 不許坊間散粥        入銀百部毀版 《題:琉球入貢紀略》 嘉永庚戌再雕 静幽堂梓 【朱楕円印「宍戸氏文庫 第1651号 共冊」】 【左丁】 【朱角印三つ、内二つ「宝玲文庫」「紀伊小原八三郎□良直蔵書之記」】 【本文】 琉球入貢紀略序【角印一つ】 海以外、作風潮而朝貢於我者、有琉球焉、有 朝鮮焉、若琉球、則以其為為朝之裔、相視若一 家、尓後或曠聘問、而自島津氏兵艦一西以来、 遂靡然従服、永為我之附庸、然後随時入朝、 脩明礼典、莫敢癈弛者、既二百有余年、猗戯 不亦為盛歟、余年已七十余、幸親見其入貢者 亦且亦矣、往年嘗述其梗概、作入貢紀略一巻、以 【甞は嘗の異字体】 上梓、今茲庚戌孟冬、中山王復使玉川王子貢方物、 謝其襲封之恩、於是余就前書、補闕拾遺、将 再刻之、而山崎北峰為之校訂、北峰余老友 也、博綜今古、最通国家之典故、今以其将伯之 助、而此書始成、豈非余之至幸耶、慶長間、我奥 岩城、有釈袋中者、嘗赴琉球、遂郡駕蛮船 以入唐山、蛮人憚之、峻拒不允、袋中因住琉球、 与縉紳馬幸朙交善、移居首里府桂林寺、 為幸明著琉球神道記、以記其立国巔末、又倣此 間庭訓往来、著琉球往来、以便還蒙、緇素饗 往、留之不還、閱三年乃帰、嗚乎、袋中以賤類一浮居、凌 波濤踰絶険、周遊尓最海孤島之間、使者候 戴依服不已、雖徳望之隆、抑右不可謂非 皇国之余烈所致、余生遭雍煕之曰、不敢飛舸 度険、而見中山儀典於輦轂咫尺之下、与袋 中同其応接、而貢其逸労、其為至幸也亦大 【賎は賤の異字体】 【右丁】 矣、遂併録以鳴昇楽之盛者、如此、 嘉永三年庚戌冬十月晶山老人時年七 十三題於木雞窩書屋       【落款二つ】【鍋田三善】           秋巌原筆書          【落款二つ】 【左丁】 引用書目  隋書       日本書紀  中山伝信録    琉球国志略  薩州旧伝集    諸国跡譜  分類年代記    中原康富記  京都将軍家譜   斉藤親基日記  和漢合運     異国往来記  系図       駿府政事録  南浦文集     元寛日記  輪池掌録     琉球事略  羅山文集     近世武家編年略  万天日記     暦代備考  甘露叢      琉球聘使紀事  文露叢      享保日記  歴史要略     三国通覧  速水見聞私記   琉球談  南島志      性霊集  今昔物語     中山世譜  保元物語     琉球奇譚  琉球神道記    琉球往来  琉球年代記    琉球雑話 【絵図あり】 【下面右下】英林【落款「英淋」】 里之子(さとのし) 琉球国王(りうきうこくわう) 【右丁】 【角印「富□漁翁」】 寿 【丸印一つ】 琉球国越来三明堂楽水一百十一歳書 【左丁】 【本文】 琉球入貢紀略目録(りうきうじゆこうきりやくもくろく)   琉球(りうきう)古(いにしへ)の朝献(てうけん)    古(いにしへ)琉球(りうきう)を掖玖島(やくじま)あるひは多祢島(たねしま)と云(いふ)   琉球使(りうきうし)来(きた)れる    琉球(りうきう)の名(な)載籍(さいせき)に見えたる   琉球国(りうきうこく)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる   永享以後(えいかういご)琉球人(りうきうじん)来(きた)る   薩洲大守(さつしうのたいしゆ)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す    琉球(りうきう)の守護神霊験(しゆごじんれいけん) 【右丁】    薩琉軍談(さつりうぐんだん)の弁(べん)   慶長以後入貢(けいちやういごじゆこう)  附録(ふろく)   琉球国全図(りうきうこくせんづ)   三十六島図(さんじふろくたうのづ)   中山世系(ちうざんせいけい)   鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)鬼(おに)が島(しま)へ渡(わた)る   位階(いかい)の次第(しだい) 【左丁】 増訂(ぞうてい)琉球入貢紀略(りうきうじゆこうきりやく)   琉球(りうきう)古(いにしへ)の朝献(てうけん) 琉球(りうきう)は吾邦(わがくに)の南海(なんかい)にあるところの一(ひとつ)の島国(しまぐに)なり、其(その) 国(くに)の風俗(ふうぞく)もとより質朴(しつぼく)にして文字(もんじ)に習(なら)はず、これに よりて国(くに)の名(な)は聞(きこ)えながら、開闢(かいひやく)より歴代(れきだい)の事実(じじつ)は、 史書(ししよ)などいふものもなければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て 考(かんが)ふべからず、唐土(もろこし)の書(しよ)には隋書(ずゐしよ)にはじめて見え たり、煬帝(やうだい)の大業元年(たいげふぐわんねん)海帥(かいすゐ)何蛮(かばん)というもの、春秋(はるあき)の ころ天気(てんき)晴(は)れて海上(かいしやう)風(かせ)おだやかなる時(とき)、東(ひがし)の方(かた)を見(み) 渡(わた)すに、かすかに煙霧(えんむ)の如(ごと)くに見ゆるの気(き)あり、その 遠(とほ)きこと幾千里(いくせんり)といふことをはかるべからずといへるによ りて、同(おなじ)き三年(さんねん)、帝(てい)羽(う)騎尉(きゐ)朱寛(しゆくわん)といふものをして、海(かい) 外(ぐわい)の異俗(いぞく)を訪(と)ひ尋(たづ)ねしむるにあたりて、何蛮(かばん)かねて いへることのあれば、倶(とも)につれ往(ゆ)きけるに、遂(つひ)に琉球国(りうきうこく) に至(いた)りけれども、言語(ことば)通(つう)ぜす、よつて一人(ひとり)を掠(かす)めて還(かへ) れり、その翌年(よくねん)再(ふたゝび)朱寛(しゆくわん)を琉球(りうきう)につかはして、慰撫(ゐぶ)せ しむといへども従(したが)はざれば、朱寛(しゆくわん)かの国(くに)に往(ゆき)たるしるし に、布甲(ふかふ)【左注「よろひ」】を取(と)りて還(かへ)れり、その頃(ころ)吾邦(わがくに)の使人(つかひ)、たま〳〵 唐土(もろこし)にありて、彼(かの)布甲(ふかふ)を見ていへるは、これは夷邪久(いやく) の国人(くにひと)の用(もち)ゆるところの物(もの)といへりとあり、吾邦(わがくに)に は、これらの事(こと)を記(しる)したるものなしといへども、これ によりて憶(おも)へば琉球(りうきう)の人(ひと)の、掖玖島(やくじま)の人(ひと)とともに、 吾邦(わかくに)へはやく往来(わうらい)したることゝは知(し)られたり、史(し)を 按(あん)ずるに、推古天皇(すゐこてんわう)二十四年(にじふよねん)に掖玖(やく)の人(ひ)【ママ】来(きた)ると 見えたり、この年(とし)隋(ずゐ)の大業(だいげふ)十二年(じふにねん)にあたれり、これ より先(さき)に掖玖(やく)の人(ひと)とともに琉球(りうきう)の人(ひと)の、吾邦(わがくに)に来(きた) りしことありしにやあらん、しからざれば大業(だいげふ)の初(はじめ)、吾(わが) 邦(くに)の人(ひと)の、隋人(ずゐひと)に答(こた)へし詞(ことば)にかなひがたし、かゝれば琉(りう) 球(きう)の名(な)は、史(し)にしるさずといへども、推古(すゐこ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)よ り、はやく已(すで)に彼国(かのくに)より朝献(てうけん)ありしこと知(し)るべし、  按(あん)ずるに、推古(すゐこ)天皇(てんわう)二十四年(にじふよねん)掖玖(やく)の人(ひと)来(きた)るよし見  えたり、《割書:史に掖玖(やく)、また邪久(やく)、益久(やく)、夜句(やく)、益救(やく)なども|かけるは、文字(もじ)の異(こと)なるまでにて同(おな)じことなり、》南島(なんたう)  の朝献(てうけん)は、この時(とき)より始(はじま)れるならん、この掖玖(やく)といへ  るは、即(すなはち)琉球国(りうきうこく)のことなりといへり、又(また)天武(てんむ)天皇(てんわう)十(じふ)  年(ねん)、多祢島(たねじま)へ使人(つかひ)をつかはして、その国(くに)の図(づ)を貢(みつが)し  むることあり、おもふにこの多祢島(たねじま)といふも、亦(また)琉球(りうきう)  のことなり、南海(なんかい)の島々(しま〴〵)の名(な)、いまだ詳(つまびらか)ならざるに  よりて、琉球(りうきう)へ通(かよ)ふ船路(ふなぢ)この多祢島(たねじま)を経(へ)て、往来(わうらい)  するをもつて、多祢島(たねじま)とも呼(よ)べるならん、《割書:この多祢|島といへ》  《割書:るは今云(いまいふ)|種(たね)が島(しま)なり》後(のち)元明(げんみやう)天皇(てんわう)和銅(わどう)七年(しちねん)、南海(なんかい)の諸島(しよたう)みな内(だい)  附(ふ)すと見えたり、《割書:南島|志》   琉球使(りうきうし)来(きた)れる 琉球(りうきう)は掖玖(やく)の島人(しまびと)とともに、推古(すゐてん)【ママ】天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)より 来(きた)りけんが、はやく朝貢(てうこう)怠(おこた)りしなるべし、かくてその 国(くに)と往来(わうらい)なければ、たま〳〵記載(きさい)に見えたるも、みな 県聞(けんぶん)【左注「きゝつたへ」】臆度(おくど)【左注「すゐりやう」】のみにて、たしかなることなきはその故(ゆゑ)なり とおもはる、その国(くに)もまたはるかの島国(しまぐに)にて、いづれ の国(くに)の附庸(ふよう)にもあらず通信(つうしん)もせざりしが、明(みん)の洪(こう) 武(ぶ)年間(ねんかん)、琉球(りうきう)は察度王(さつどわう)の時(とき)にあたりて冊封(さくほう)とて唐(もろ) 土(こし)より中山王(ちうざんわう)に封(ほう)ぜられて、彼国(かのくに)へも往来(わうらい)して、制(せい) 度(ど)文物(ぶんぶつ)すべて、唐土(もろこし)にならひてぞありける、明(みん)の宣(せん) 徳(とく)七年(しちねん)に、宣宗内官(せんそうないくわん)紫山(さいざん)といへる臣(しん)に命(めい)して、勅(ちよく) 書(しよ)を齎(もた)らしめ琉球国(りうきうこく)につかはし、中山王(ちうざんわう)より人(ひと)をし て、吾邦(わがくに)に通信(つうしん)せしむ、この宣徳(せんとく)七(ち)【ママ】年(ねん)は、吾邦(わがくに)の永(えい) 享(きやう)四年(よねん)にあたれり、これによりて考(かんが)ふるに、上古(しやうこ)よ りはやく往来(わうらい)絶(た)えて、後(のち)明(みん)宣宗(せんそう)のために、我邦(わがくに)へ使(つかひ) せしは、はるかに年(とし)を歴(へ)て、再(ふたゝ)び吾邦(わがくに)へ琉球使(りうきうし)の来(きた)れ る始(はじ)めなるべし、これより後(のち)も、明(みん)の正統(しやうたう)元年(ぐわんねん)英宗(えいそう)琉(りう) 球(きう)の貢使(こうし)伍是堅(ごしけん)をして、回勅(くわいちよく)を齎(もた)らして、日本国(にほんこく) 王(わう)源義教(げんぎけう)に諭(ゆ)すといひ、《割書:永享(えいきやう)八年|のことなり》嘉靖(かせい)三年(さんねん)、琉球(りうきう)の 長吏(ちやうり)【史】金良(きんりやう)のをして、日本国王(にほんこくわう)に転諭(てんゆ)す《割書:大永(だいえい)四年の|ことなり ○中》 《割書:山伝信録、琉|球国志略》といへることあれば、明(みん)の時(とき)より吾邦(わがくに)へ書(しよ)を贈(おく) るに、琉球使(りうきうし)に命(めい)ぜらるゝこともありしとぞおもは るゝなり  琉球(りうきう)はもとより吾邦(わがくに)の属島(ぞくたう)なりといへども、かけ  はなれたる島国(しまぐに)にて、その国(くに)往来(わうらい)することはやく  絶(たえ)ぬればたま〳〵載籍(さいせき)に見ゆるものも、僅(はづか)に一(いち)二(に)  条(てう)のみにして、その詳(つまびらか)なることを記(しる)したるものあ  ることなし、弘法大師(こうばふだいし)の性霊集(しやうりやうしふ)に凱風(ガイフウ)朝(アシタニ)扇(アフキ)摧(クタキ)_二肝(キモヲ)  耽羅(タンラ)之(ノ)狼心(ラウシンニ)_一、北気(ホクキ)夕(ユフヘニ)発(オコリ)失(ウシナフ)_二膽(キモヲ)留求(リウキウ)之(ノ)虎性(コセイニ)_一といへる  文(もん)あり、これは入唐(にうたう)大使(たいし)賀能(かのう)がために、代(かは)り撰(えら)み  て、福州(ふくしう)観察使(くわんさつし)に与(あた)ふるの書(しよ)にて、延暦(えんりやく)二十三(にじふさん)  年(ねん)の事(こと)なり、また今昔物語(こんじやくものがたり)、智証大師(ちしようたいし)の伝(でん)に、  仁寿(にんじゆ)三年(さんねん)八月(はちぐわつ)九日(こゝのか)、宋(そう)の商人(あきひと)良暉(りやうき)か、年来(としごろ)鎮西(ちんぜい)  にありて、宋(そう)にかへるにあひて、その船(ふね)に乗(の)り行(ゆ)  くに、次(つき)の日(ひ)辰(たつ)の時(とき)はかりに、琉球国(りうきうこく)に漂(たゞよひ)着(つ)く、  その国(くに)は海中(かいちう)にありて人(ひと)を食(くら)ふ国(くに)なり、その時(とき)  に風(かぜ)やみて赴(おもむ)かん方(かた)を知(し)らず、はるかに陸(くが)のうへ  を見(み)れば数十(すじふ)の人(ひと)鉾(ほこ)を持(もち)て徘徊(はいかい)す、欽良暉(きんりやうき)こ  れを見て泣(なき)悲(かなし)ぶ、和尚(をしやう)その故(ゆゑ)を問(と)ひたひたまふに、答(こたへ)て  云(いは)く、この国(くに)人(ひと)を食(くら)ふところなり悲(かなしい)かな此(こゝ)にして  命(いのち)を失(うしなひ)てんとすと、和尚(をしやう)これを聞(き)【ママ】て忽(たちまち)に心(こころ)至(いた)し  て不動尊(ふどうそん)を念(ねん)じ給ふ、《割書:三善清行(みよしのきよつら)が撰(えら)みし|伝(でん)にもおなじ趣なり》といへり、  これや琉球国(りうきうこく)の名(な)、吾邦(わがくに)の書籍(しよじやく)に見えたる始(はじ)  めならん、さてこゝに琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふの国(くに)といへ  るも、もとより伝説(でんせつ)の訛(あやま)りながら、またその拠(よる)と  ころなきにあらず、隋書(ずゐしよ)に国人(コクジン)好相(アヒコノンデ)攻撃(コウゲキス)【左注「タヽカフ」】云々、取(トリテ)_二  闘死者(タヽカヒシスルモノヲ)_一共(トモニ)聚而(アツマリテ)食(クラフ)_レ之(コレヲ)とあるをおもへば、唐土(たうど)にて  ふるくより、琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふよしいひ伝(つた)へしを、吾邦(わがくに)  にもかたり伝(つた)へしなるべし、これによりてもその  国(くに)吾邦(わがくに)には近(ちか)けれども、絶(たえ)て往来(わうらい)せざることを  知(し)るべし、   琉球国(りうきうこく)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる 足利義満(あしかゞよしみつ)の男(なん)、大覚寺(だいかくじ)門跡(もんぜき)義昭(きせう)大僧正(だいそうじやう)、逆意(ぎやくい)の企(くわだ) てありて九州(きうしう)へ下(くだ)りたまふが、その事(こと)露顕(ろけん)し ければ、日向国(ひうがのくに)福島(ふくしま)の永徳寺(えいとくじ)に落下(をちくだ)り、野武士(のぶし)の者(もの) ども御頼(おんたの)み隠(かく)れ住(す)み給ひけるに、足利義教(あしかゞよしのり)これを 聞(きこ)し召(め)しつけられ、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)島津陸奥守(しまづむつのかみ)忠国(たゞくに)へ 【絵図あり、帆船八艘など】 【画面右上】     友野在易 ものゝふの手に  とり得たる     梓弓  やくの貢は   ひきも    たえ     せし 【画面右下】梅林【落款二つ】 討(う)ち奉(たてまつ)るべきよし命(めい)ぜられしかば、嘉吉(かきつ)元年(くわんねん) 三月十三日(さんくわつじふさんにち)、樺山某(かばやまそれがし)にあまたの兵士(へいし)を従(したが)はしめて 討手(うつて)に向(むけ)られ、永徳寺(えいとくじ)に於(おい)て、山田式部(やまだしきぶ)といふもの 僧正(そうしやう)を討(う)ち、御首(おんくび)をは将軍(しやうぐん)へ贈(おく)りけり、僧正(そうじやう)の役(やく) 人(にん)別垂 讃岐坊(さぬきばう)といへるものも、この時(とき)討(うた)れたりとぞ 聞(きこ)えしその恩賞(おんしやう)として、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)へ琉球国(りうきうこく) を賜(たま)はり、討手(うつて)に向(むか)ひし樺山(かばやま)その外(ほか)の兵士(へいし)へ、みな 感状(かんじやう)ならびに太刀(たち)を下(くだ)されたり、此時(このとき)よりして 琉球国(りうきうこく)年毎(としこと)の貢物(みつきもの)たえず、通信交易(つうしんかうえき)してながく 薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となるの始(はじ)めなり、《割書:旧伝集、諸|門跡譜、》   永享(えいかう)以後(いご)琉球人(りうきうじん)来(きた)る 文安(ふんあん)五年(ごねん)、琉球人(りうきうじん)来(きた)る、《割書:分類年|代記》 宝徳(はうとく)三年七月(さんねんしちくわつ)、琉球(りうきう)の商人(あきひと)の船(ふね)、兵庫(ひやうご)の津(つ)に着岸(ちやくがん) したるに、守護職(しゆごしよく)細川京兆(ほそかはけいてう)やがて人(ひと)をつかはして、 彼(かの)商物(あきなひもの)を撰(えら)み取り料足(れうそく)を渡(わた)さず、先々年々(せん〴〵ねん〳〵)の借(しやく)財 四五千貫(しごせんぐわん)に及(およ)べとも返弁(へんべん)なく、その上(うへ)売物(うりもの)をおさへ 留(とゞめ)られて、琉球人(りうきうじん)難義(なんぎ)のよし申しければ、時(とき)の公方(くばう) より、奉行(ぶぎやう)三人(さんにん)、布施下野守(ふせしもつけのかみ)、飯尾与三(いひをよさう)左衛門、同(おなじく)六郎(ろくらう) をつかはされて、糺明(きうめい)せられしにかの押(お)して取(と)りたる 物(もの)を京兆(けいてう)より返(かへ)されさるによりて、奉行(ぶぎやう)の上洛(じやうらく)延(えん) 引(にん)せり、《割書:康富|記》 文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)七月二十八日(しちぐわつにじふはちにち)、琉球人(りうきうじん)参洛(さんらく)す、これは足(あし) 利義政(かゞよしまさ)の世(よ)になりて六度目(ろくたびめ)なり、《割書:斉藤親|基日記》 天正(てんしやう)十一年(しふいちねん)、琉球国(りうきうこく)入貢(じゆこう)、《割書:和漢合運、異|国往来記》  按(あん)ずるに、宝徳(はうとく)三年(さんねん)、兵庫(ひやうご)に来(きた)る琉球(りうきう)の商物(あきなひもの)、先(せん)  先(ぜん)年々(ねん〳〵)の借財(しやくざい)といひ、また文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)の参洛(さんら )【ママ】六度(ろくたび)  目(め)、とあるによりておもへば、永享(えいきやう)以後(いこ)かの国人(くにひと)  の来(きた)れること、しば〳〵なりと見ゆれども、記載(きさい)に乏(とも)  しければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て考(かんが)ふべからず   薩州太守(さつしうのたいしゆ)島津氏(しまづし)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す 琉球国(りうきうこく)は、嘉吉年間(かきつねんかん)、足利義教(あしかゝよしのり)の命(めい)ありてよりこの かた、世々(よゝ)薩州(さつしう)の附庸(ふよう)の国(くに)たるところ、天正(てんしやう)の頃(ころ)群(ぐん) 雄(ゆう)割拠(くわつきよ)の時(とき)にあたりて、琉球(りうきう)の往来(わうらい)しばらく絶(たえ)たり、 その後(のち)世(よ)治(をさま)り士民太平(しみんたいへい)をとなふるに至(いた)りて、薩州(さつしう)の 太守(たいしゆ)島津家久(しまづいへひさ)より琉球(りうきう)へ使(つかひ)をつかはし、もとの如(ごと)く 貢使(こうし)あるべきよし再三(さいさん)に及(およ)ぶといへども、彼国(かのくに)の三司(さんし) 官(くわん)謝那(しやな)といふ者(もの)、ひそかに明人(みんひと)と事(こと)を議(はか)り、待遇(たいぐう)こと さらに礼(れい)なく貢物(みつぎもの)もせざりければ、なほ家久(いへひさ)使(つかひ)をつか はし、責(せめ)たゞすといへども従(したが)はざりけるによりて、止(やむ)こと を得(え)す征伐(せいばつ)して、その罪(つみ)を正(たゞ)さんと請(こ)ふに、慶長(けいちやう)十(じふ) 四年(よねん)の春(はる) 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り、樺山権(かばやまごん)左衛門 久高(ひさたか)を惣大(そうたい) 将(しやう)とし、平田太郎(ひらたたろ)左衛門 益宗(ますむね)を副将(ふくしやう)とし、龍雲和尚(りううんをしやう) を軍師(くんし)とし、七島郡司(なゝしまぐんし)を案内者(あんないしや)として、その勢(せい)都(つ) 合(がふ)三千余人(さんぜんよにん)、軍艦(いくさぶね)百余艘(ひやくよそう)を備(そな)へて、二月二十二日(にぐわつにじふにゝち)纜(ともつな) を解(とき)て、琉球国(りうきうこく)へ発向(はつかう)するにのぞみて、おの〳〵出陣(しゆつぢん)の 祝(いは)ひとして餞別(はなむけ)しける、中(うち)にも世(よ)に聞(きこ)えたる勇士(ゆうし)の、 新納武蔵守(にひろむさしのかみ)一氏(かずうぢ)、老後(らうこ)入道(にふだう)して拙斉(せつさい)と号(がう)したる が、樽肴(たるさかな)を持(もた)せられ、祇園(きをん)の洲(す)といふところまで見(み) 送(おく)り、諸軍勢(しよぐんぜい)なみ居(ゐ)けるが、樺山久高(かばやまひさたか)上坐(しやうざ)に居(ゐ)られ ず謙退(けんたい)せられしに、新納拙斉(にひろせつさい)申されけるは、今(いま)琉球(りうきう) 征伐(せいはつ)の大将(たいしやう)として渡海(とかい)あること、即(すなはち)これ君(きみ)の名代(みやうだい) なり、はやく大将(たいしやう)の坐(さ)になほり候へといはれしかば、其(その) まゝ上坐(しやうざ)につかれけり、かゝれば諸軍(しよぐん)の士卒(しそつ)も自(おのづから)心(しん) 服(ふく)し、号令(がうれい)行(おこな)はれたりとかや、夫(それ)より乗船(じようせん)し、山川(やまがは)の 湊(みなと)より順風(しゆんふう)に帆(ほ)をあげ大島(おほしま)に着岸(ちやくがん)し、この島人(しまひと) 防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ひけるによりて鉄砲(てつはう)をうちかけ、防(ふせ)ぐもの およそ千人(せんにん)ばかり、手向(てむか)ふ者(もの)どもは討取(うちと)り、首(くび)を獲(う)る こと三百余級(さんひやくよきふ)、他(た)はみな降人(がうにん)にぞ出(いで)にける、四月朔日(しぐわつついたち) 沖(おき)の永良部(えらふ)と与論島(よろしま)を攻取(せめと)り、運天(うんてん)の湊(みなと)に乗(の)り つけ、備(そなへ)をそろへ城(しろ)を攻(せ)めおとし、首里(しゆり)の王城(わうしやう)に取(とり) かゝらんと、およそい一里(いちり)ほどこなたなる、那覇(なは)の湊(みなと) におもむきけるに、湊(みなと)の口(くち)には逆茂木(さかもき)乱杭(らんくひ)すき間(ま) なく、水中(すゐちう)には鉄(てつ)の鎖(くさり)を張(は)り、これに船(ふね)のかゝりなば、 上(うへ)より眼下(めのした)に見おろしながら、射(い)とらんとの手(て)だて をかまへ、その余(よ)島々(しま〴〵)の要害(えうがい)いとおごそかにぞ待(まち)かけ ける、これによりて他(た)の港(みなと)より攻入(せめい)りて、三日(みつか)が間(あひだ)攻(せめ) たゝかひ、手負(ておひ)討死(うちじに)もなきにはあらねど、聊(いさゝか)ためらは ず直(たゞち)に進(すゝ)みて、首里(しゆり)に攻入(せめい)り、王城(わうじやう)を取(と)り囲(かこ)みける に、をりふく琉球(りうきう)の諸勢(しよぜい)、みな那覇(なは)の湊(みなと)なる城(しろ)にた て籠(こも)りて、王城(わうじやう)は無勢(ぶぜい)にて、防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふべき兵士(へいし)もな かりければ、薩州勢(さつしうぜい)の急(いそ)ぎもみにもんで、攻(せ)め破(やぶ)らん とするいきほひに、中山王(ちうさんわう)及(およ)び三司官(さんしくわん)等(ら)、なか〳〵敵(てき)す ることあたはず、避易(へきえき)【左注「おそれ」】【辟易】してみな降参(かうさん)に出(いで)て、落城(らくじやう)に及(およ) ひけり、さて那覇(なは)の城(しろ)には矢尻(やじり)をそろへ待(まつ)といへども、 敵船(てきせん)一艘(いつそう)も見えざれば、こはいかにとおもふところに、 不意(ふい)に後(うしろ)より押(おし)よせられ、王城(わうじやう)もはやく已(すで)に落城(らくじやう) と聞(きこ)えければ、一戦(いつせん)にも及(およ)はず落城(らくじやう)す、かゝれば速(すみやか)に 軍(いくさ)の勝利(しようり)を得(え)て、琉球(りうきう)忽(たちまち)に平均(へいきん)したれば、早船(はやふね)を 以(もつ)て将軍家(しやうぐんけ)へ注進(ちうしん)ありしかば、甚(はなはだ)称美(しようび)せさせたま ひけり、かくてその年(とし)は順風(じゆんふう)の時節(じせつ)におくれける故(ゆゑ) に、諸勢(しよせい)琉球(りうきう)に滞留(たいりう)して、翌年(よくねん)五月二十八日(ごぐわつにじふはちにち)、中山王(ちうざんわう) 尚寧(しやうねい)を召(め)しつれ軍士(ぐんし)凱陣(かいちん)す、同(おなじく )八月(はちぐわつ)薩州(さつしう)の大守(だいしゆ) 中山王(ちうざんわう)をともなひ、駿府(すんふ)に来(きた)りて登城(とじやう)す、時(とき)に中(ちう) 山王(ざんわう)、段子(どんす)【緞子】百端(ひやくたん)、猩々皮(しやう〴〵ひ)十二尋(じふにひろ)、太平布(たいへいふ)二百疋(にひやくひき)、白銀(はくぎん) 一万両(いちまんりやう)、大刀(たち)一腰(ひとこし)を献上(けんじやう)す、かゝれば御代始(ごよはじ)めに異(い) 国(こく)御手(おんて)に入(い)りしとて、ことの外(ほか)に御感悦(ごかんえつ)遊(あそは)され、其(その) 賞(しやう)として、御腰物(おんこしのもの)ならびに琉球国(りうきうこく)を賜(たま)はりけり、中(ちう) 山王(さんわう)にも拝領物(はいりやうもの)あり、これより琉球(りうきう)ながく薩州(さつしう)の 附庸(ふよう)とぞなりにける、それよりして江戸(えど)に至(いた)り、 将軍家(しやうぐんけ)に謁(えつ)しけるに、米(こめ)千俵(せんべう)をくだしたまふ、其年(そのとし) 帰国(きこく)ありて、翌年(よくねん)中山王(ちうざんわう)も本国(ほんごく)に帰(かへ)ることを得(え)たり、 《割書:系図、旧伝集、政事録、南|浦文集等に据(より)【拠】て記(しる)す》この時(とき)よりして、ながく吾邦(わがくに)の正(せい) 朔(さく)を奉(ほう)じ、聘礼(へいれい)を修(しゆ)して、今(いま)の入貢(じゆこう)の始(はじ)めなり、この後(のち) 将軍(しやうぐん)宣下(せんげ)、若君様(わかぎみさま)御誕生(ごたんじやう)、および彼国(かのくに)中山王(ちうざんわう)継目(つぎめ)の 度毎(たびこと)には、必(かならず)貢使(こうし)かつて闕(かく)ることなし、  慶長(けいちやう)十四年(じふよねん)、琉球(りうきう)征伐(せいばつ)の時(とき)、雨不見の渡(わた)りの中(なか)  ほどにて、容顔(ようがん)美麗(びれい)なる尋常(じんじやう)ならぬ婦人(ふじん)の、小(こ)  舟(ぶね)に乗(の)りて来(きた)り、大将(たいしやう)樺山氏(かばやまうぢ)の舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)り  ていへるやう、我(われ)は琉球国(りうきうこく)の守護(しゆご)弁才天女(べんざいてんによ)なり、  この度(たび)征伐(せいばつ)せらるゝに、ねがふところは、多(おほ)くの人民(じんみん)  を殺(ころ)し、国(くに)を悩(なやま)し給ふことなかれ、さあらば我(われ)案内(あんない)し  て、速(すみやか)に琉球国(りうきうこく)を御手(おんて)に属(ぞく)し申すへし、といひ終(をは)  りて坐(ざ)したまふと見れば、そのまゝ木像(もくざう)の弁才(べんさい)  天(てん)なり、さて乗(の)り来(きた)りし舟(ふね)と見えつるは、簀(す)の  板(いた)なりけり、神霊(しんれい)のいちじるしく、国(くに)を護(まも)り給ふ  の厚(あつ)きを感(かん)じ、舟中(ふねのうち)に安置(あんち)し、帰陣(きぢん)の後(のち)、事(こと)の  よしを申し立(た)て、池(いけ)の中(なか)なる島(しま)に祠(ほこら)を建(たて)て、いつ  き祭(まつ)りけるとなり、《割書:旧伝|集》  因(ちなみ)に云(いふ)、世(よ)に薩琉軍談(さつりうぐんだん)といふ野史(やし)あり、その書(しよ)の  撰者(せんじや)詳(つまびらか)ならずといへども、あまねく流布(るふ)して、二(に)  国(こく)の戦争(せんさう)をいふものは、かならず口実(こうじつ)とす、その  いふところ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津(しまづ)兵庫頭(ひやうごのかみ)義弘(よしひろ)の代(よ)  に、惣大将(そうたいしやう)新納(にひろ)武蔵守(むさしのかみ)一氏(かつうぢ)、その外(ほか)種島(たねがしま)大膳(たいせん)、佐(さ)  野帯刀(のたてはき)等(とう)、士卒(しそつ)惣人数(そうにんず)十万(しふまん)千八百(せんはちひやく)五十四人(ごじふよにん)  渡海(とかい)せしといへり、又(また)かの国(くに)の、澐灘湊(うんだんそう)、竹虎城(ちくこじやう)ある  ひは、米倉島(べいさうたう)、乱蛇浦(らんじやほ)などいへる地名(ちめい)あり、その将士(しやうし)  には、陳文碩(ちんぶんせき)、孟亀霊(まうきれい)、朱伝説(しゆでんせつ)、張助昧(ちやうぢよまい)等(とう)の名(な)をしる  したり、実(まこと)にあとかたもなき妄誕(まうたん)にしてその書(しよ)の  無稽(ふけい)論(ろん)を待(また)ずしてしるべし、   慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(しゆこう) 寛永(くわんえい)十一年(しふいちねん)閏七月九日(うるふしちぐわつこゝのか)、中山王(ちうさんわう)尚(しやう)、豊賀慶使(ほうがけいし)佐敷(さしき) 王子(わうじ)、恩謝使(おんしやし)金武王子(きぶわうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:元寛|日記》 この年(とし)将軍家(しやうぐんけ)御上洛(ごしやうらく)ありて、京都(きやうと)にましますをも て、二条(にでう)の御城(おんしろ)へ登城(とじやう)す、このゆゑに二使(にし)江戸(えど)に来(きた) らず、 正保(しやうほ)元年(くわんねん)六月(ろくくわつ)二十五日(にしふこにち)、中山王(ちうさんわう)尚賢(しやうけん)、賀慶使(かけいし)金武按(きむあん) 【右丁、右下】 英林【角印「英琳」】 【絵図の札二枚に「中山王府」】 【左丁、左上】 紫瀾星極仲朝威万里東来 貢献時莫笑蛮邦尤蠢爾衣 冠猶見漢官儀 九州百変典刑空絶島猶能 見古風魋結碧臚雖陋俗先 王鼓楽在其中    枕山大沼厚【落款「枕山」】 【大沼枕山、江戸時代後期から明治前期の漢詩人(ウィキペディア)】 司(す)、恩謝使(おんしやし)国頭(くにかみ)按司(あんす)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、七月三日(しちぐわつみつか) 下野国(しもつけのくに)日光山(につくわうざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、《割書:輪池|掌録》 慶安(けいあ )【ママ】二年(にねん)九月(くくわつ)、中山王(ちうさんわう)尚質(しやうしつ)、恩謝使(おんしやし)具志川(くしかは)按司(あんす)等(ら) をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|事略》また日光山(につくわうさん)の御宮(おんみや)を拝(はい) す、 承応(しやうおう)二年(にねん)九月二十日(くぐわつはつか)、中山王(ちうさんわう)尚質(しやうしつ)、賀慶使(かけいし)国頭(くにかみ)按(あん) 司(す)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:羅山文集、和漢合運、|近世武家編年略、》また日光(につくわう) 山(ざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、 寛文(くわんぶん)十一年(しふいちねん)七月二十八日(しちくわつにしふはちにち)、中山王(ちうさんわう)尚貞(しやうてい)、恩謝使(おんしやし)金武(きふ) 王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:万天|日記》また日光山(につくわうざん)の御(おん) 宮(みや)を拝(はい)す、《割書:琉球事略、|歴代備考》 天和(てんわ)二年(にねん)四月十一日(しくわつじふいちにち)、中山王(ちうざんわう)尚貞(しやうてい)、賀慶使(がけいし)名護(なご)按(あん) 司(す)、恩納(おんな)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:万天日記、|甘露叢》 宝永(はうえい)七年(しちねん)十(じふ)一(に)【ママ】月(くわつ)十八日(じふはちにち)、中山王(ちうさんわう)尚益(しやうえき)、賀慶使(がけいし)美里(みさと)王(わう) 子(じ)、富盛(とみもり)親方(おやかた)、恩謝使(おんじやし)豊見城(とよみくすく)王子(わうじ)与座(よさ)親方(おやかた)等(ら)をして、 方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球聘|使紀事》また東叡山(とうえいさん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、中(ちう) 山使(ざんし)の日光山(につくわうざん)に至(いた)らずして、東叡山(とうえいざん)に来(きた)ること この時(とき)を始(はじめ)とす、 正徳(しやうとく)四年(よねん)十二月(じふにぐわつ)二日(ふつか)、中山王(ちうさんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(かけいし)与那城(よなくすく)王(わう) 子(し)、恩謝使(おんしやし)金武(きふ)王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:文露|叢》 享保(きやうほ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)十三日(じふさんにち)、中山王(ちうざんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(がけいし)越来(こえく) 王子(わうじ)、西平(にしひら)親方(おやかた)等(ら)して、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:享保|日記》 寛延(くわんえん)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)十五日(じふごにち)、中山王(ちうさんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(がけいし)具志(くし) 川(かは)王子(わうじ)、与那原(よなはら)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:歴史|要略》 宝暦(はうりやく)二年(にねん)十二月(じふにくわつ)十五日(じふごにち)、中山王(ちうざんわう)尚穆(しやうぼく)、恩謝使(おんしやし)今帰(いまき) 仁(じん)王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:歴史|要略》 明和(めいわ)元年(ぐわんねん)十一月(じふいちぐわつ)、中山王(ちうざんわう)尚穆(しやうほく)、賀慶使(がけいし)読谷山(よみたんざん)王子(わうじ)、 等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:三国通覧|速水私記》 寛政(くわんせい)二年(にねん)十二月(じふにくわつ)二日(ふつか)、中山王(ちうさんわう)尚穆(しやうぼく)、賀慶使(かけいし)宜野湾(きのわん) 王子(わうし)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|談》 寛政(くわんせい)八年(はちねん)十二月(じふにくわつ)六日(ろくにち)、中山王(ちうざんわう)尚成(しやうせい)、恩謝使(おんしやし)大宜見(おほぎみ) 王子(わうじ)、安村(やすむら)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:輪池|掌録》 文化(ぶんくわ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)二十三日(にじふさんにち)、中山王(ちうざんわう)尚顥(しやうかう)、恩謝使(おんしやし)読谷(よみたん) 山(さん)王子(わうじ)小録(をろく)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、 天保(てんほ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)中山王(ちうざんわう)尚育(しやういく)恩謝使(おんしやし)豊見城(とよみくすく)王子(わうし) 沢岻(たくし)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す 【右丁】 天保(てんほ)十三年(じふさんねん)十一月(しふいちくわつ)中山王(ちうさんわう)尚育(しやういく)賀慶使(がけいし)浦添(うらそひ)王子(わうじ) 座喜味(ざきみ)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す 嘉永(かえい)三年(さんねん)十一月(じふいちくわつ)中山王(ちうざんわう)尚泰(しやうたい)恩謝使(おんしやし)玉川(たまがは)王子(わうし)野(の) 村(むら)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す 【左丁】 附録(ふろく)   琉球国(りうきうこく)全図(ぜんづ) 琉球国(りうきうこく)に三省(さんせい)あり、中山(ちうざん)は、中頭省(なかかみせう)、山南(さんなん)は島■【耑ヵ】省(しまじりせう)、 山北(さんほく)は国頭省(くにがみせう)なり、この属府(ぞくふ)すへて三十六(さんじふろく)、これを 間切(まぎり)といふ、《割書:間(ま)ぎりとは、城下(しやうか)といふが如し、|あるひは郡県(くんけん)をさしていへり、》その間切(まぎり)の 領主(りやうしゆ)を、おの〳〵按司(あんす)といふ、三十六(さんじふろく)の属島(えだじま)あり、鬼界(きかい) が島(しま)は、十二(じふに)の島(しま)なり、即(すなはち)これを五島七島(いつしまなゝしま)といへり、こ れらの島々(しま〴〵)に、産(さん)するところの物(もの)は、蕃薯(りうきういも)、草薦(りうきうおん)、蕉(ばせを) 絲(ふのいと)、五色魚(ごしきうを)、螺魚(らぎよ)、瑇瑁(たいまい)、海参(なまこ)、石芝(せきし)等(とう)、三十種(さんじふしゆ)に余(あま)る、 琉球国図(りいきうこくのづ) 【右丁】 七島は宮古の支 配にて琉球  の持なり 三十六島(さんじふろくしま)の図(づ) 【左丁】 奇界より渡名喜まで十一島みな大島の 支配なり上島の村数すべて二百六十村 あり土人は小琉球と称す   南方台陸の南に小琉球山ありこれと同じ                   からず       沖のゑらぶ         琉球の持なり 【大島の左】 是より琉球の地  五間切あり 口(くち)のゑらぶ   中山世系(ちうさんせいけい) ∴天孫氏廿五紀(てんそんしにじふごき)─────────────────────┐                        【英祖王へ】   宋(そう)の淳煕(しゆんき)年間(ねんかん)、天孫氏廿五紀(てんそんしにじふごき)の裔孫(えいそん)徳微(とくび)、   その臣(しん)利勇(りゆう)、権(けん)を専(もつはら)にして位(くらゐ)を奪(うば)ふ、故(ゆゑ)に浦添(うらそひ)   按司(あんす)尊敦(そんとん)、義兵(ぎへい)を起(おこ)し利勇(りゆう)を討(う)つ、国人(くにたみ)尊敦(そんとん)   を推て位(くらゐ)に就(つ)く、これを舜天王(しゆんてんわう)と云(いふ)、 ○舜天王(しゆんてんわう)――――舜馬順煕(しゆんばじゆんき)――――義本王(ぎほんわう)   姓(せい)は源(げん)、名(な)は尊敦(そんとん)、父(ちゝ)は鎮西(ちんぜい)八郎(はちらう)為朝公(ためともこう)、母(はは)は大(おほ)   里(さと)按司(あんす)の妹(いもと)、宋乾道(そうけんだう)二年(にねん)丙戌(ひのえいぬ)降誕(がうたん)、《割書:乾道(けんだう)二年(にねん)は、|六条院(ろくてうゐん)仁安(しんあん)》   《割書:元年に|あたる》淳煕(じゆんき)十四年(じふよねん)丁未(ひのとのひつじ)則位(そくゐ)、嘉煕(かき)元年(くわんねん)丁酉(ひのとのとり)薨(がう)   在位(ざいゐ)五十一年(ごじふいちねん)、寿(じゆ)七十二歳(しちじふにさい)といへり、又(また)云(いふ)義本王(ぎほんわう)   童名(どうみやう)神号(しんがう)伝(つた)はらず、在位(さいゐ)十一年(じふいちねん)、歳(とし)五 十四(じふし)の時(とき)、英(えい)   祖(そ)に諭(ゆ)して曰(いはく)、今(いま)汝(なんぢ)政(まつりごと)に乗(じやう)せば、年(とし)豊(ゆたか)に民(たみ)泰(やす)   からん、宜(よろし)く大統(たいとう)を承(う)けつぎて、民(たみ)の父母(ふぼ)たる   べしといへるに、固(かた)く辞(じ)しけれども、群臣(ぐんしん)みな共(とも)   に勧(すゝ)めて位(くらゐ)に即(つか)しむ、義本(ぎほん)位(くらゐ)を譲(ゆづ)るの後(のち)、其(その)   隠(かく)るゝところを知(し)らず、故(ゆゑ)に寿薨(しゆがう)伝(つた)はらず、今(いま)   考(かんが)ふべからず、《割書:為朝公(ためともこう)の血統(けつたう)、舜天王(しゆんてんわう)より義本(ぎほん)まで|三代にして絶(た)ゆ、三王(さんわう)およそ七十三年、》 ┌────────────────────────────┘ └英祖王(えいそわう)──────────大成王(たいせいわう)───────────┐   英祖(えいそ)は、天孫氏(てんそんし)の裔(えい)、恵祖(けいそ)の孫(そん)、         │ ┌────────────────────────────┘ └英慈王(えいじわう)──────────王城王(わうじやうわう)───────────┐ ┌────────────────────────────┘ └西威王(せいいわう)──────────察度王(さつとわう)───────────┐ ┌────────────────────────────┘ └武寧王(ぶねいわう)──────────尚思紹王(しやうしせうわう)──────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚巴志王(しやうはしわう)─────────尚忠王(しやうちうわう)───────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚思達王(しやうしたつわう)─────────尚金福王(しやうきんふくわう)──────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚泰久王(しやうたいきうわう)───────────────────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚徳王(しやうとくわう)────────────────────────┐                        【尚稷王へ】   神号(しんがう)八幡(はちまん)按司(あんす)、又(また)世高王(せいかうわう)と称(しよう)す、明(みん)の正徳(しやうとく)六(ろく)   年(ねん)辛酉(かのとのとり)降誕(がうたん)、《割書:義教(よしのり)将軍(しやうぐん)嘉吉(かきつ)|元年にあたる》在位(さいゐ)九年(くねん)、寿(じゆ)二十(にじふ)   九(く)時(とき)に、世子(せいし)幼(いとけなく)しを立(たゝ)んとせしに、国人(くにたみ)どもこれ   を弑(はい)し、御鎖官金丸《割書:即位(そくゐ)して|尚円王と云(いふ)》を立(たて)て君(きみ)とす、   これより中山(ちうさん)万世(ばんせい)王統(わうとう)の基(もとゐ)を開(ひら)くといへり、《割書:尚思(しやうし)|紹(せう)よ》   《割書:り尚徳(しやうとく)まて、七|主六十四年》 ┌────────────────────────────┘ └尚稷王(しやうしよくわう)────────────────────────┐                        【尚円王へ】   尚稷(しやうしよく)未(いま)た位(くたゐ)に即(つか)ず、たゞ王祖(わうそ)正統(しやうとう)の重(おもき)により   追尊(つひそん)して王(わう)と称(しよう)す、 ┌────────────────────────────┘ └尚円王(しやうゑんわう)────────────────────────┐                        【尚宣威王へ】   童名(どうみやう)忠徳(ちうとく)、名(な)は金丸、明(みん)の永楽(えいらく)十三年(じふさんねん)乙未(きのとのひつし)降(がう)   誕(たん)、生得(しやうとく)儼然(げんぜん)として龍鳳(りうほう)の姿(すがた)あり、ならびに足(あしの)   下(こう)に痣(ほくろ)あり、色(いろ)金( がね)【ママ】の如(ごと)し、いまだ位(くらゐ)に即(つか)ざるの   時(とき)、泊村の人(ひと)安里(あんり)といふ者(もの)、一(ひと)たび見て、この人(ひと)は億(おく)   兆(てう)の上(かみ)に居(を)るべきの徳(とく)ありといへり、明(みん)の成化(せいくわ)   十二年(じふにねん)七月(しちぐわつ)二十八日(にじふはちにち)薨(がう)、在位(さいゐ)七年(しちねん)寿(じゆ)六十七歳(ろくじふしちさい)、 ┌────────────────────────────┘ └尚宣威王(しやうせんいわう)─────────尚真王(しやうしんわう)───────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚清王(しやうせいわう)──────────尚元王(しやうげんわう)──────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚永王(しやうえいわう)────────────────────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚寧王(しやうねいわう)────────────────────────┐                        【尚豊王へ】   童名(とうみやう)思徳(しとく)、明(みん)の嘉靖(かせい)四十三年 甲子(きのえね)降誕(がうたん)、万(ばん)   暦(れき)十七年(じふしちねん)即位(そくゐ)、同(おなじく)四十 八年(はちねん)九月(くぐわつ)十九日(じふくにち)薨(かう)、在位(ざいゐ)   三十三年(さんじふさんねん)、寿(じゆ)五十七歳(ごじふしちさい)、慶長(けいちやう)十五年(じふこねん)入貢(じゆこう)す、 ┌────────────────────────────┘ └尚豊王(しやうほうわう)──────────尚賢王(しやうけんわう)──────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚質王(しやうしつわう)──────────尚貞王(しやうていわう)──────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚純王(しやうしゆんわう)──────────尚益王(しやうえきわう)──────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚敬王(しやうけいわう)──────────尚穆王(しやうほくわう)──────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚成王(しやうせいわう)──────────尚顥王(しやうこうわう)──────────┐ ┌────────────────────────────┘ └尚育王(しやういくわう)──────────尚泰王(しやうたいわう)───────   右(みぎ)中山(ちうざん)世系(せいけい)の略(りやく)なり、これは琉球(りうきう)尚貞王(しやうていわう)の時、   尚弘徳(しやうこうとく)と云(いふ)ものに命(めい)じて、撰(せん)するところの、中山   世譜(せいふ)に据(よ)りて記(しる)すところなり、   鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも) 鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)、伊豆(いづ)の大島(おほしま)に流(なが)されしが、永(えい)万 元年(ぐわんねん) 三月(さんぐわつ)、白鷺(しろさぎ)の沖(おき)の方(かた)へ飛(とび)行(ゆ)くを見(み)て、定(さだ)めて島ぞ あるらんとて、舟(ふね)に乗(の)りて馳(は)せ行(ゆ)くに、ある島(しま)に 着(つき)てめぐり給ふに、田もなし畠(はた)もなし、汝(なんぢ)等(ら)何(なに) を食事(しよくじ)とすると問(と)へば、魚(うを)鳥とこたふ、その鳥(とり)は鵯(ひよどり) ほどなり、為朝これを見(み)給ひて、大鏑(おほかぶら)の矢(や)にて、木(き) にあるを射(い)落(おと)し、空(そら)を翔(かけ)るを射殺(いころ)しなどし給へば、 島(しま)のものども舌(した)をふるひておぢ恐(おそ)る、汝(なんぢ)等(ら)も我(われ)に 従(したが)はずは、かくの如(ごと)く射殺(いころ)さんと宣(のたま)へば、みな平伏(ひれふし) て従(したが)ひけり、島(しま)の名(な)を問(とひ)たまへば、鬼(おに)が島(しま)と申す、《割書:保|元》 《割書:物|語》この為朝(ためとも)の渡(わた)りし鬼が島といふは、即(すなはち)今(いま)の琉(りう) 球国(きうこく)のことなり、かくて国人(くにたみ)その武勇(ぶゆう)におそれ服(ふく)す、 つひに大里(おほさと)按司(あんす)の妹(いもと)に相(あひ)具(ぐ)して舜天王(しゆんてんわう)をうむ、為 朝(とも)この国(くに)にとゞまること日(ひ)久(ひさ)しく、故土(ふるさと)をおもふこと 禁(やみ)がたくして、つひに日本(にほん)に帰(かへ)れり、《割書:琉球|事略》  按(あん)ずるに、今(いま)已(すで)に琉球(りうきう)の東北(とうほく)にあたりて、鬼界島(きかいがしま)  といふ名(な)のあるも、その名残(なごり)なりといへり、   位階(ゐかい)の次第(しだい) 中山王(ちうさんわう)《割書:国王(こくわう)を|いふ》中城(なかくすく)《割書:春宮(とうぐう)をいふ、○中(なか)くすくは、城(しろ)の名(な)|なり、世子殿(せいしでん)といふありて、王子 即位(そくゐ)》 《割書:あるのとき、|大礼(たいれい)を行(おこな)ふ、》中婦(ちうふ)《割書:王后(きさき)をいふ、○君万物(きんまもん)に仕(つか)ふ、○中婦君(ちうふくん)の|名(な)は、神(かみ)に仕(つか)ふる、巫 女(ぢよ)三十三人ある、その中(うち)》 《割書:に居(ゐ)るといふ|の義(き)なり、》王子(わんす)《割書:王子(わうじ)|なり、》王女(わんによ)《割書:王(わう)の女(むすめ)|なり、》 官位(くわんゐ)の品級(ひんきふ)は正従(しやうじやう)すべて九等(くとう)あり 国相(こくさう)、親方(おやかた)《割書:国(くに)の大臣(たいじん)なり、すべて|政事(せいし)を司(つかさ)どるなり》  元侯(げんこう) 正一品、法司(はふす) 正二品、紫巾官(しきんくわん) 従二位、   《割書:これを三司官(さんしくわん)と称(しよう)し、または何々(なに〳〵)の地(ち)の|親方(おやかた)と呼(よ)ぶものは、即(すなはち)この重官(ちようくわん)なり、》 耳目令(じもくれい)《割書:又 御鎖側(ぎよさそく)と云(いふ)、|正三品なり》謁者(えつしや)《割書:又 申口者(まうしつぎ)、|従三品也》賛議官(さんぎくわん)《割書:正四|品》 那覇官(なばくわん)《割書:なばは地名(ちめい)、|従四位なり、》察侍紀官(さじきくわん)《割書:さじきは地名(ちめい)、|従四位なり》当坐官(あたりくわん)、《割書:正五|位》 勢頭官(せかみくわん)《割書:正六|位》、親雲上(ばいきん)《割書:正七|位》、掟牌金(ていはいきん)《割書:従七|位》、里之子(さとのし)《割書:正八|位》 里之子佐(さとのしのすけ)《割書:従八|位》、筑登之(ちくとし)《割書:正九|位》、筑登之佐(ちくとしのすけ)《割書:従九|位》 紫金大夫(しきんたいふ)、正議大夫(せいぎたいふ)、長吏(ちやうり)、都通奉(とつうし)、度支官(としより)、王法宮(わうはふきう) 【右丁】 九引官(きういんくわん)、内官(だいくわん)、近習(きんじふ)、内厨(ぜんぶ)、国書院(こくしよゐん)、良医寮(くすしどころ)、茶道(さだう)、 祝長(はふり)、無瀬人(むせし)、武卒(ふんぞう)、 里(さと)の子(し)は小姓(こしやう)なり、美少年(びせうねん)をえらぶ、年(とし)をとりて髭(ひげ)生(おい)れ は親雲上(ばいきん)となる、親雲上(ばいきん)は官名(くわんみやう)なれども、彼国(かのくに)の風俗(ふうぞく)にて、 武士(ぶし)をすべて親雲上(ばいきん)といへり、  嘉永三年庚戌十一月     【印「美成」ヵ】   【角印】 【左丁】 嘉永三庚戊【ママ】十一月  発行書林 日本橋通貳丁目         山城屋佐兵衛 【裏表紙見返し、白紙】 【製本裏表紙】 【ラベル一枚、判読不能】