【右側欄外 上部】極本細しらべ 【同 下部】近在難渋人大坂町内中より施行致候事誠におびたゞしく筆記かたく 【上段】 四月中旬より閏四月中旬迄雨天多く閏月十五日 入梅に相成候て七八日続て御天気の所廿日過より 五月八日迄大体雨天計り九日十日天気十一日より十五日 明方迄昼夜降通し候ゆへ堺大和橋より二三丁計り 川上にてうりの村南の方の堤十三日申上刻凡巾 四十間余切れ込其水勢三尺計りの波打うづ巻立て 水先戌の方へ押行其おそろしさ見る物目のまはるごと またゝく間に押流れ死人夥敷同所中程より北なにはや 松は申に不及住吉鳥居前より壱丁余北まて 往来にて四五尺の水ゆへ船にて見舞いたし候誠に 愁至極目もあてられぬ次第に候○又淀川筋は淀の 小橋落候ゆへ其材木天満橋へかゝり十二日夜七ツ時 天満橋中ほど卅間余流れ落候天神橋浪花橋は いまた無難なれ共十三日より往来とまり候又川上は平太と申 所にてきれ込み候ゆへ中嶋郷は江口三番新家新庄国じま 宗禅寺馬場其外村々一円家根迄水漬りに相成候○ 中津川に而は横ぜきと申所切れこみ三番村十三村ゑび江ひゑ 嶋浦江其余村々北野辺迄一円大洪水○東はとくあん堤 辺に而切れこみ候ゆへすみのどう辺より東の山ぎは申に 不及大坂より東の在一円のこらず白海のことくに有之候 ○西は下福島野田村伝法等に而堤小川所々切れこみ何れも 大水に御座候○大坂市中に而は北の新地三丁目より 西は往来にて深き所は壱尺四五寸水下 ̄タ ばらに而は【注】 床の上にて二尺三尺の水なり堂島の下も中の島 の下も其ほかすべて川々の水下も場所にては川と 往来と一流に相成候所有之候又往来にて所々より 壱尺或は二尺往来に穴あき候も有之死人けが 人等こゝかしこに有之候誠に八九十年来の間未聞の 大洪水にて中々筆紙に尽しがたくいまだ高水に而 諸方の往来とまり候ゆへ此外遠方之儀はおい〳〵 相知れ候はんあゝ誠に古今の大洪水なれかし 【下段】 《題:《割書:慶応四|戊辰年》大洪水細見図》  此外 近江 丹波 播州 阿州 讃岐 伊予 土佐 紀州 勢州 所国路 山城 大和 美濃 尾州 関東すしにいたるまで諸国 一円の大洪水のよしなれ共不便にてくわしくはしるしかたく略之 【注 東京大学情報学環本館蔵小野秀雄コレクション『大洪水細見図』慶応4年(1868)。の飜刻文は「下タばら之内は」とあり。一方、大阪市立図書館デジタルアーカイブの『大洪水の次第』(http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/viewer?cls=ancient&pkey=n0044001&lCls=media&lPkey=195975)は被害状況の記事部分が殆ど同文で筆跡も似ていることから恐らく同一人物の書いたものと思われる。それには該当部分がこの資料の様に行尾に詰めて書いたようではなく、行の中程にはっきりと「下タ(小さく) ばらニてハ」とありますのでそれに決定する。】