信越大地震 水内郡 高井郡 埴科郡 更級郡 筑摩郡 佐久郡 安曇郡 小県郡 伊奈郡 諏訪郡 一ノ宮 諏訪大明神 松代十万石真田信濃守 松本六万石松平丹波守 上田五万三千石松平伊賀守 高遠三万三千石内藤駿河守 高島三万石諏訪因幡守 飯山二万石本多豊後守 飯田一万七千石堀兵庫頭 小諸一万五千石牧野遠江守 岩村田一万五千石内藤豊後守 須坂一万五十二石堀長門守      抑信陽は 郡数十郡高五十 四万七千三百石に及ひ 日本高土第一の国にて尤 山川多く四方に水流なし 上々国にて人はしつそにして名産多 五こく豊ぎようの国也然るにいかなるじ せつにや有けん弘化四年丁未三月廿四日の 夜より古今未曾有の大地しんにて山川へんじ 寺社人家をつぶし人馬の亡失多く火災 水なんに苦しむ事村里の凶へんつぶさに記し 且は 御上の御仁恵良民救助の御国恩 を後代にしらしめんが為こゝにしるす もつとも 三月陽気過度なること数日廿四日夜四つ 時より山なりしんどうなし善光寺の辺別 してつよく夫ぢしんと□より早く大山は くづれおち水はあぶれ地中めいどうなす より五寸壱尺又は五尺壱丈と大ちさけ 黒赤のどろ吹出し火炎のごとき物もへ 上り御殿宝蔵寺中十八ケ町の人〳〵は おし潰され大ちにめり込男女らう少泣声 天にひゞき殊にやちうといひにげ迷ひ大石にう たれ谷川にはまりらうばい大方成らず 其内 八方に火ゑん起りせうしつせり此辺の村々には北 は大峰戸がくし山上松北松しん光寺西条吉村田子 平手室飯小平落かけ小島大島あら町柏原のじり 赤川せき川の御関所東はこんどう間の御所中の 御所あらき青木島大つか間島こしまた水沢西寺尾 田中南の方は北ばら藤枝雨の 宮矢代向八まん志川山田小松 はらこくウ蔵山茶臼山丹波島 西はあら房かみや入山田中橋 木辺都て乍恐御代官様 御支配の分潰家五千三百 九十軒半潰れ二千二百 軒余但し木品は打 くたけ用には相立す 潰家同様にて死人は凡二千七百人けが人 九百人程馬百七十三疋牛二疋大ち にめり込家数廿軒ほと宮寺四十 六軒郷蔵廿二ケ所是は六万石ば かりの内也中にもあはれ成は此度善 光寺かいちやうにて諸国参詣の男女 同所止宿の者不知案内にてとほうに くれ二百人余もおしうたれて即死 なす一生けんめい御仏に願はんと所の者 旅人本堂にかけ入一心にねんじたる者 七百八十余人かゝる大災別而此辺つ よく災難の中に本堂山門けう蔵のみ 破損なくさすが末世の今に至る迄三国 でんらいゑんぶたこんの尊ぞう恩利 益の福恐れ尊むべし本堂は広間 十八間奥行三十六間東西南北 四方表門にて寺号は則四ツ有 東は定額山善光寺西は不捨山 浄土寺南は南めい山無量壽寺 北は北空山雲上寺天台宗ニ而 寺領千石庵寺にて由来は人 のしる所也□□「水内郡を聞 に小ふせ神代あさの大くち かに沢今井赤沢三ツ又 さかい村茂右衛門村駒たて 戸隠小泉とかり大坪曽 根北条小さかゐわらひふか さは第一飯山御城下至て きびしきちしんにて逃ん としてはころび足たゝず あをのけにはうより仕方 もなく老子供は泣叫び 地はさけ土砂を吹出し山々 はくつれ男女の死亡丁方 にて四百三十人其外在方 多く此内丹波川かは付村 一同に押ながし行方をしらず 更級郡は内小 じ島はし本大原 和田古いちばかる い沢よしはら竹房 今泉三水あんぞこ 小松原くぼ寺中の うしろ丁皆家々をた をす中にも稲荷山ニ而 廿八軒つぶれたる家は廿 八日には大水におしながし ゆくゑ不知こゝに岩倉山 といふ高山高サ十八九 丈にて安庭村山平林 むら両村の間に有 此山めいどうなし あたりも大雷の ごとく半面両端崩れ壱ケ所は三十丁壱ケ所は八十丁丹波川の上手へおし入近村一同にうづまりこう水 あぶれ七八丈も高く数ケ村湖水のごとく人馬の死ぼう数しれず同少し北の方に六丈ばかりの岩山 有しが是又ぬけおち五丁程川中へ押出し土屋藤倉の両村水中へおし入¬あつみ郡の分新町と申 所三百八十軒の里こと〴〵く潰れ其侭出火にて焼失なし夫ゟ大水二丈ばかりみなぎり目も 当られぬ斗りにて宮ぶち犬かい小梅中曽根ふみ入寺竹くまくら成金町ほそかへしうら町とゞろき村 堀金村小田井中ぼり上下鳥羽住吉長尾柏原七日市間々べ狐島池田町堀の内曽根原宮本 草尾船場むら等大破に及ぶ¬小さがた郡は秋和生づか上田御ぜうかにしは新丁上小じま下 こじま此辺山なりしんとうなし地中めいどうす今にも大ちがさけるかと此辺のもの共生たる 心ちなくされど大ちのさける程のことはなしといへど家々はつぶれけが人多く 前田手つか山田別所 米沢くつかけならもと一乃沢凡百四十ケ村ほど¬ちくま郡は八まんむら辺至てつよく度〳〵ゆり返し にんばそんじ多くほうふく寺七あらし赤ぬた洞村おかだ丁松岡ありかし水くみ松本御ぜう下辺 百二三ケ村ふるひつよく庄内田貫ちくま新町あら井永田下新かみ新三みぞ飛騨ゑつちうさかいに至る¬佐久郡は小諸御ぜう下西ノ方は瀧原市町本町与良村 四ツ谷間瀬追分かり宿右宿くつかけかるいざは赤沢峠町矢さき山浅間山より上しう口度〳〵つよくゆり川附の方至てひどく夫より¬諏訪郡は高島御せうか 大水高木は少〳〵にて八重ばら大日向細谷平はやし布引此辺は少〳〵強くゆる ¬はにしな郡は松代御ぜうか近へん廿四日よりゆりはじめ廿九日朝晦日夕 かたまで三度つよくふるひ大いしをおし出し山〳〵くずれやしろへんことにきひしく人家多くつぶれ川附下手のかた山〳〵岩はなくずれ人家をそんじ平 はやしかけむら赤しバ関屋西条せきや川上下とくら中条よこ尾いま井祢川之宿上下しほじりむら等同やう¬高井郡のぶん丹波川の東にて すさか御ぜうか中じま御じん屋川へりの村〳〵ふくしまたかなし中じま別府いゝ田羽場くり林大俣辺ゟ田上岩井安田坂井等つよくふるい家をたおす 事少なからずそれよりゑちご路に至りて廿四日よりゆりはじめ段〳〵つよく廿□日の牛【ママ】の上こくは大へんのおゝちしんにて松ざきあら井辺より くびき郡高田の御ぜうかよりいま丁中屋しき春日辺人家をくずしにんばのけがとくに多く其内しんしうよりの方きびしく山〳〵は一どうに くずれ水はあぶれ大ばんじやくをころがし中にもながさはむらと申す小村はなさけなくも大山の為につぶれ七十人ほとちゝうにうずまりわずか 手足のみ相みへたりあはれと申すも中〳〵おろかなれ其上廿九日は今町辺大なみに引入られ家〳〵流しつすくなからず 此度信越二ケ国の 大ちしんは実にもきたいの珍事にていにしえよりぢしんも数度有之といえどもたいちさけ泥砂をふき出しかくの山〳〵にんばの死亡に及 ひ前代未聞の凶へんなりぜんこうじ辺は廿四日より廿五日迄きびしく松代ゑちご路は廿九日三十日に至て東西廿里南北三十里山川をくずしよう〳〵 ちしんはしずまれども山〳〵崩れこうすいあぶれわうぐはんにん馬の通路をふさぎ且ぢめんわれさけたる所十間位ひ筋つきくろ赤のどろみづ ふき出し山〳〵くずれ大石ころばり落田畑こと〳〵く変地いたし用水所は欠崩れ谷川等ふるひうづまり一面にどろみずふき出し貯への 俵物はのこらずくずれどろ水を冠り地中にうづまり別して川中島は大水人力にて防く事難く一方ニ而水を落し候得は一方は水なんにていか やうにも相成も不知西の方にて防水致せば東の方ののこる村々おしながし双方共に大変にていかさま騒動にも及ばんくらいの仕合にて然る所御見分 の上御下知無之内は双方共手出し致し候事御差留にて早速掘割人足共さしむけられ候へとも弥こう水溢れみなぎり此辺の者は親にはなれ 子にわかれ夫婦の所在もしれず庄屋村役人其外本心を取失ひ候ごとく跡片付の心得もなく潰家の前に家内一同雨露の手当もなくとほうにくれ只々頻りに 落涙に及ひ相悪みくらして米こくは土をかぶりどろ水に入食物の手たてもなく 小者なんぎの者はたゞ打ふしてなき入ては死かいにすかりけが人はおびたゝしく苦つうにたへかね罷あり何レのむら〳〵 同様にてたがひにたすけ合ちからもなく さしあたり食事にさしつかへ呑水もかねて用水を持い候間皆とろ水にてきかつに及びあわれといふもおろかにて水内高井両郡田畑 七八分はつぶれ家をつぶし道具を失い候ぶん八分斗りにて此上いかようのまん水にも相成候やもはかりがたく川ぎしの村々山林に退去いたし候やはり山々も日々鳴といたし水勢 【右下】 らいのことくにていち時に切候へは又々水災わかりかたく諸方御手配りこれありしに 四月十三日夕七ツ時にはかに山谷鳴働なし水押ぬき左右の土手を切り 堤の上をのりこし川中島は申不及さい川へ逆水押入中々防くことかな わず松代御代下辺迄水みちて川そへ村々を押ながし高サ二丈斗作物はもち ろん溺死人けが人多く村々古今希なる事にて凡三百余ケ村おながし廿四日 ゟ大災にて又々かく水なんはたとへんかたもなくいかに天へんとは申なからかくの 災害良民とりつゝき成兼候ほとの仕合 然は御代官様御地頭様は慈母之 子をあはれむがごとく御すくい小屋を立 米銭はもちろん御手あてあつく 御れんみんにて御すくひあそはされ候段 泰平の御めくみありかたきといふも恐有 然は諸人御こくおんわすれんかため一紙につゝるのみ