【表紙】 【見返し 資料整理ラベル】 JAPONAIS  376 【もう片方の見返しと思われる  文字無し】 【白紙】 【白紙】 【白紙】 【題箋】 成田名所図会  Simosa【手書き】  四 【手書きメモ 1-3】 【白紙】 成田参詣記巻四目次  佐倉【四角で囲む】  佐倉城  八幡社  海隣寺《割書:古文書 千葉氏遺物 常胤木像 貞胤木像|永禄八年阿弥陀木像識 太鼓胴》  本佐倉町【四角で囲む】  佐倉故城址《割書:千葉系図二種|》 萬千代殿屋敷 長勝寺《割書:福徳二年鰐口》 清光寺《割書:大樹寺殿御歯骨墓 正安二年阿弥陀銅像識|古硯 無歳月観音銅像識》  大佐倉村【四角で囲む】                    勝胤寺《割書:千葉氏遺物》 印播沼    伊篠村【四角で囲む】        浄泉寺《割書:応永二十二年雲版 古文書|天文廿三年観音像》 【頭部欄外手書きメモ】 DON N°1012 N°376 【白紙】 成田参詣記巻四 佐倉城(さくらしやう) 印播(いんば)【旛の代用ヵ】郡(こほり)鹿島(かしま)山にあり《割書:今(いま)の城地(しやうち)を鹿島(かしま) ̄ノ郷と云は古きことゝ見えて|永禄八年海隣寺 仏識(ふつしき)に見えたり》街坊(かいはう)六ヶ町 《割書:田町《割書:・》新町《割書:・》弥勒町《割書:・》本町《割書:・》|本佐倉町《割書:・》酒々井町《割書:・》》江戸より十三里十八町余【餘】天正十六年七月 千葉(ちば) ̄ノ介 邦胤(くにたね) 率し十一月 北條氏政(ほうてううしまさ)かはからひにて新館(しんくわん)【舘は俗字】を此地(このち)に営(いとな)み邦胤(くにたね)の長女(ちやうしよ) 東(とう)をして居(をら)しむ家臣(かしん)中村雅楽(なかむらうた) ̄ノ介これに傅(かしつ)く同十八年七月 小田原(をたはら)落(らく) 城(しやう)の後(のち)は嗣(し)子 重胤(しけたね)流落(りうらく)し東(とう)は 大府(たいふ)の後宮(こうきう)に仕(つか)ふ是歳(このとし)八月に久野 三郎右衛門 ̄ノ尉 宗能(むねよし)封(ほう)せらる《割書:民部に任す|一万三千石》宗能率して子(こ)民部 ̄ノ少輔 宗秀(むねひて) 嗣(つ)く慶長七年宗秀 封(ほう)を遠江の国久野に転(てん)し廃城(はいしやう)となる同十六年 土井(とゐ)大炊頭(おほひのかみ)利勝(としかつ)改(あらた)め築(きづ)く元和元年 城溝(しやうこう)功(こう)成(なつ)て移居(いきよ)す是(これ)より本州(ほんしう) 要鎮(ようちん)の治城(ちしやう)となる 八幡社(はちまんのやしろ) 大佐倉(おほさくら)村にあり社領(しやりやう)廿石《割書:天正十九年|辛卯十一月》社(やしろ)の伝(つたへ)詳(つまひらか)ならす八月十二日 の祭祀(さいし)あり此日酒々井へ神幸競馬(しんかうけいは)の祭あり別当(へ[つ]とう)【注】を大桜山(たいおうさん)宝樹(ほうしゆ) 【注 「べっとう」の促音の無表記。】 【左横欄外】 ○成田参詣記巻四 【右丁】 佐倉城(さくらじやう)   乃 図(づ) 《割書:大手門をテウナ門と云は里見氏|の門にてはなく手斧(テオ)子の義な》 《割書:るへし三ノ門は千葉家の大手門|也とそ》 【左丁 左端 落款あり】 【右丁】 其二 【左丁】 《割書:佐倉の本町は元鹿島宿と云千|葉家本佐倉に治城のをりふり》 《割書:たしの宿なり今猶継場は此|宿にてつとむと云》 【同左下に落款あり】 【同左欄外】 成田参詣記巻四 院(いん)と云 開基(かいき)詳(つまひらか)ならす中興(ちうこう)は永徳(えいとく)三年なり《割書:什物に其年号をしるしあるよし|佐倉風土記にのすれと今は散(さん)失ぬ》 千葉山(ちばさん)海隣寺(かいりんし) 鏑木(かぶらき)村にあり寺 領(れう)三拾石《割書:慶安元|年八月》時宗(ししう)にて相模(さかみ) の当麻山(たへまさん)無量光寺(むりやうくはうし)末(まつ)なり本尊(ほんそん)は阿弥陀(あみた)如来寺の伝は千葉 ̄ノ介常 胤治承三年七月廿六日《割書:今も此日に|開扉あり》子孫(しそん)を具(ぐ)し海辺(かいへん)に出(いて)て月(つき)を観(み)し をり海上(かいしやう)異光(ゐくはう)ありけれは命(めい)して網(あみ)を打(うた)しむるに金色(こんしき)の阿弥陀 ̄ノ像(そう)を 得(え)たり文治(ふんち)三年に馬加(まくわり)の地(ち)に寺(てら)を建(たて)て其像(そのそう)を安(あん)す即(すなは)ち此寺(このてら)なり 元(もと)は真言(しんこん)の道場(とうしやう)なりしか貞胤(さたたね)一遍(いつへん)上人を帰依(きゑ)せし後(のち)は時宗(じしう)となり 他阿(たあ)上人 真教(しんきやう)大和尚を中興(ちうこう)とす《割書:一遍(いつへん)松寿丸(しやうしゆまる)智真(ちしん)は伊予(いよ)の河野通広(かうのみちひろ)の|二子なりと云 正応(しやうおう)二年八月廿日 示戚(ししやく)す》馬(ま) 加康胤(くわりやすたね)千葉(ちば) ̄ノ介(すけ)胤直(たねなほ)の後(のち)を受(うけ)千葉(ちば)より本佐倉(もとさくら)に移(うつ)りしをり此地(このち)に 引(ひき)寺(てら)となりしと云《割書:常胤(つねたね)貞胤(さだたね)の影像(えいそう)あり高五六寸 許(ばか)り|貞胤(さだたね)の影堂(えいたう)は慶長(けいちやう)に焼失(しやうしつ)すといふ》 本佐倉(もとさくら)故城址(こしやうのあと) 本佐倉(もとさくら)根古屋(ねこや)の地(ち)にあり《割書:根古屋を昔は柵戸(きべ)と云は孝徳|紀に造 ̄リ_二渟足柵(ヌタリノキ) ̄ヲ_一置 ̄ク_二柵戸(キベ) ̄ヲ【一点抜け】云々と見(み)ゆ》 即(すなはち)将門山(まさかとやま)の故城址(こじやうのあと)なり此城(このしろ)昔(むかし)のさまは大手(おほて)は今(いま)の穢多町(えたまち)の辺(へん)に 海隣寺(かいりんし)所蔵(しよさう)文書(もんしよ) 【この頁上段に大きく四角で囲んだ中】 奉寄進海上月越如来  下総国《割書:馬加郷 付除仏|椿田保神領等》事 右意趣者天長地久御願 円満殊平貞胤心中所願 決定成就故奉寄進之状如件  延文五年卯月廿八日宮内大輔             光胤【花押】 【同下段】  同 千葉氏(ちはうち)遺物(いもつ)   箱ノ識 千葉之介つは  紫銅ノ覆輪アリ地ハ鉄ナリ 【鍔の図の横に】 径二寸七分 【左欄外】 〇成田参詣記巻四 【上の図の説明】 同 鉄鍔(てつつは) 径二寸七分 【下の図の説明】 同 兜(かぶと) 外ニ鏡五面 方鏡一 裏ニ月星紋アルモノ二 亀形アルモノ二 杯二 一ハ亀隺ノ形一ハ尉ト姥ノ形アリ 霍亀ハ千葉ノ別紋ナリ 同寺(とうじ)千葉介(ちはのすけ)常胤(つねたねの)肖像(せうそう)《割書:丈ヶ八寸》   《割書:又貞胤像ト云アリサレド面貌同シテ|弁知シカタシ只両手ハナルヽノミ》 【左欄外の記載以後省略】 【上段】  敬白    奉刻彫阿弥陀  如来《割書:并》二菩薩像  厥造像意趣者  平朝臣親胤眼 阿弥陀仏為頓證仏果之 爰以則離三有繋縛■女 執速至安養無垢浄剰 無疑者也仍法界普利 下総国印東荘【「㽵」は「荘」の俗字】佐倉 長徳寺開山眼阿  仏師淨慶 于時永禄八年丑七月十四  於鹿島郷印旛郡        彫之 【下段】 以上ハ 同寺(どうじ)持仏(ぢふつ)阿弥陀如来(あみだによらいの)木像(もくさう)識(しき)《割書:丈ヶ一尺二寸》    千葉介(ちばのすけ)貞胤(さだたね)肖像(せうぞう) 大本山箱州無量光寺ニテ四十代 当寺従中興七世    本蓮社欣誉他阿          尊海上人代 此太鼓之木者御城主 稲葉丹後守様将門山ニテ 壱丈壱尺五寸廻之松木 被下是ニテ堀申候  宝永三丙戌歳六月日 【太鼓の図の右】 同寺蔵(どうじさう)太鼓胴(たいこどう) 二の門(もん)は今 神明社(しんめいのやしろ)の華表(くわへう)の所(ところ)なり長禄中 馬加(まくわり)康胤(やすたね)の子 輔(すけ)胤 千葉(ちは) より此(こゝ)に移(うつ)りしより九代 重胤(しけたね)に至(いた)り天正十八年七月小田 原(はら)と共(とも)に城(しろ) 陥(おちい)り八月久野三郎左衛 ̄ノ門尉 宗能(むねよし)《割書:今紀州家附也当時は|万千代殿附なりとそ》此地(このち)に封(ほう)せらる慶長 年中子 民部(みんふ)少輔宗秀 遠州(ゑんしう)久野(くのう)へ所替(ところかへ)して廃城(はいしやう)とある《割書:後慶長十四年土|井利勝此地に封》 《割書:せられしか城を鹿島の地に改め|築かる今の佐倉城これなり》 ○房総治乱記に天正十八年八月九日領地拝領四箇国の分云々佐倉《割書:三|浦》  《割書:監物茂次一万石|△本佐倉也》佐倉之内《割書:本多縫殿△佐倉の内蓋臼井なるべし康俊所領の地|助康俊 藩翰譜に下総国北條の地《割書:五千|石》とす》佐倉之内《割書:久能|三郎》  《割書:左衛門宗能任民部|一万三千石△即此地なり》佐倉之内《割書:山本帯刀頼重|△小金大矢口村也》と見ゆ ○将門(まさかと)山の地(ち)は承平の昔(むか)し平(たいら)の将門の構(こう)せし址(あと)なり普通本(ふつうほん)今昔物語《割書:和朝|巻五》  《割書:十四|ウ》に時(とき)に将門か舎弟(しやてい)將頼(まさより)將 平(ひら)安房守(あはのかみ)興世(おきよ)執事(しつじ)佐倉(さくら) ̄ノ太郎以下七百  余人を引具(ひきく)し落行方(おちゆくかた)を尻目(しりめ)ににらんて勝(かち)ほこつたる秀郷(ひてさと)か九千 余(よ)人  に会釈(ゑしやく)もなくかけあはせ云々《割書:△普通本は証とはなしかたけれと|佐倉太郎と云は故あることなるへし》とあり輔胤(すけたね)其(その)  故址(こし)によりしなるへし ○関東古戦録に下総 ̄ノ国印播 ̄ノ郡佐倉の城主《割書:△今本佐|倉なり》千葉 ̄ノ介 胤富(たねとみ)は往(いに)し乙(おつ)  酉(ゆう)《割書:天正十|三年》の歳五月七日 逝去(せいきよ)《割書:紀年誤|なるへし》子息(しそく)新助(しんすけ)邦胤(くにたね)二十六歳にして家(か)  督(とく)をつき今(いま)既(すて)に四年を経(へ)たり天正十六年《割書:房総治乱記十三年に|作るに従ふべし》戊子正月 初(しよ)  旬(しゆん)新正(しんせい)の嘉儀(かき)として旗下(はたもと)の士大将(さむらいたいしやう)六七人佐倉の城へ来て毎例(まいれい)のことく  礼式(れいしき)を整(とゝの)へ書院に於て饗応(きやうおう)ある時に鎌田《割書:△鎌田は鍬田の誤なるへし治乱記諸| 国廃城考等桑田に作る》  万五郎といへる近習(きんしゆ)の冠者(くわんしや)は八歳《割書:治乱記廿|一歳に作る》なりしか配膳(はいせん)を勤(つとむ)る間に放屁(はうひ)  する事両度におよふ邦胤大に怒(いかつ)て眼(め)をいらゝけ辱(はつか)しめて叱(しか)られけれは万五  郎 其坐(そのざ)の中 央(わう)に踞(ひさまつ)き卒尓(そつじ)の失礼(しつれい)は庸常(つね〳〵)有ぬべき事なるにかゝる晴(はれ)たる  坐中に於て形(かた)の如く靦面(てきめん)の辱(はつか)しめを蒙(かうむ)る条(せう)情(なさけ)なき仕合なりと憚(はゞかる)る処  なく申ける故(ゆゑ)邦胤いよ〳〵堪兼(たえかね)立掛(たちかく)りけたふして短刀(たんとう)に手(て)を掛(かけ)られし  を引立(ひきたて)て退去(たいきよ)なさしめ列坐(れつさ)の士大将 兎(と)に角(かく)に宥(なた)めて椎津(しいつ)主水(もんと)に  召預(めしあつ)けさし置(おき)けるか元(もと)より微若(びじやく)の者(もの)たるゆへ差異(さい)を弁(わきま)へるに及(およ)はすし  て不覚(ふかく)の答(こたへ)に至れる条 其咎(そのとか)を赦免(しやめん)あるへき旨(むね)連々(れん〳〵)各(おの〳〵)佗(わひ)けるまゝ閏  五月中旬 勘気(かんき)をゆるされ出勤(しゆつきん)して居(ゐ)たりけるか最初(さいしよの)首尾(しゆひ)無念(むねん)にお  もひつめて折(をり)あらは鬱憤(うつふん)【欝は俗字】を散(さん)すべしと二六 時中(しちう)隙(ひま)を伺(うかゝ)ひし程に七月四日  の夜半(やはん)計(はか)り竟(つひ)に邦胤の寐間(ねま)へ忍(しのひ)入り二 刀(かたな)刺(さし)て逃出(にけいて)たり千葉 ̄ノ介 起(おき)上りて  憎(にく)き小 世倅(せかれ)めか所為(しよい)哉(かな)と唯(たゝ)一 声(こゑ)申されし次(つき)の間(ま)に居(ゐ)たりし宿直(とのゐ)の者  とも聞(きゝ)付て走(はし)り入(いつ)て見侍(みはへ)れは邦胤 朱殷(あけ)に成(なつ)て鎌田めを脱(にか)さす打捕(うちと)れ  と漸々(やうやく)に云 捨(すて)て事(こと)切(き)れたり《割書:△本土寺過去帳に邦胤鍬田孫五郎狂乱して御額| を切付天正十三年五月七日廿九才にて逝去○治乱記》  《割書:七月五日|に作る》家人等(かにんら)仰天(きやうてん)して八方(はつほう)へ手分(てわけ)をなし捜(さが)し求(もとむ)れとも見えざりける鎌  田は夜中(やちう)の事なれは城門(しやうもん)を閉(とち)たり暗(くら)さは暗し洩出(もれいて)ん方(かた)なかりしまゝ物(もの)  陰(かけ)に隠(かく)れ居(ゐ)て暁天(けうてん)に至(いた)り塀(へい)を乗(のり)逃奔(にけはしつ)て菊間の台(たい)【䑓は俗字】まて落行(おちゆき)しか追(おつ)  手(て)の人 数(じゆ)前途(せんと)に充満(しうまん)して中々(なか〳〵)逃(のか)るべきやうなかりけれは林(はやし)の中(うち)へ分(わ)け  入て腹(はら)搔切(かききつ)て失(うせ)にける邦胤(くにたね)の息男(そくなん)千霍丸(せんくわくまる)僅(わつか)に六歳の義(き)なれは譜第(ふだい)  の家人等(かにんら)相議(あいき)して先(まつ)もつて南方(なんほう)へ注進(ちうしん)し氏政(うしまさ)父子(ふし)へ伺(うかゝ)ひけれは千葉(ちは)《割書:治乱記|千葉城》  《割書:は小田原|より持つ》佐倉(さくら)は敵地(てきち)にはさまり要枢(えうすう)の所(ところ)なりとて臼井(うすゐ)の城主(じやうしゆ)原(はら)式部(しきふ) ̄ノ少輔  胤成(たねなり)を佐倉(さくら)に移(うつ)し入(い)れて軍代(くんたい)に定(さた)め千鶴丸(せんくわくまる)【隺は鶴の俗字】をは小田原(をたはら)に招(まねき)て家臣(かしん)とも  の人質(ひとしち)とぞせられける後(のち)に新助(しんすけ)重胤(しげたね)と号(かう)せしは是(これ)なり老臣(ろうしん)設楽(したら)左衛  門尉 相従(あいしたかつ)て南方へ趣(おもむき)介輔(かいほ)してこそ居(ゐ)たりけれ千鶴丸の姉(あね)十二歳にて有(あり)  しを是(これ)も氏直(うしなほ)の下知(げち)として其年(そのとし)の十一月 総州(さうしう)加島(かしま)《割書:△加島は鹿島山のこと也| 今の佐倉城の地なり》と云  処に新(あらた)なる屋形(やかた)を補(こしらへ)移(うつ)されてけり中村雅楽(なかむらうた) ̄ノ介(すけ)介佐(かいさ)の臣(しん)と成(なつ)て養育(よういく)の功(こう)  をこそ励(はけ)みける云々 千葉家(ちはけ)に於て四老(しろう)といへるは原(はら)《割書:•》円城寺(えんじやうし)《割書:•》《割書:印播郡城村に円城寺|と云寺あり是千葉家の》  《割書:建るとこ|ろと云》木内(きのうち)《割書:•》鏑木(かふらき)《割書:•》これなり円城寺は武州(ふしう)石浜(いしま)の千葉(ちは)に属(ぞく)して総州(さうしう)を離散(りさん)  し其後(そのゝち)は三家老(さんかろう)となれり中(なか)にも原式部 ̄ノ少輔は元(もと)是(これ)当家(たうけ)の一族(いちそく)にて小金(こかね)  の高城(たかき)源二郎 胤則(たねのり)《割書:•》土気(とけ)の酒井 伯耆守(はうきのかみ)康治(やまはる)《割書:•》東金(とうかね)の酒井左衛門 ̄ノ佐 重政(しけまさ)  《割書:秩父|余流》なとゝて城持(しろもち)の旗下(はたもと)も手(て)に属(つ)け大身(たいしん)なる士大将(さむらひたいしやう)なりこの故(ゆへ)に関東(くわんとう)に  て下(しも)の上(かみ)に優(まさ)れるたとへに千葉は百騎原は千騎の大将とも千葉に原原に  高城両酒井とも里俗(りそく)の常談(しやうたん)ありしとそ天正十八年小田原 陣(ちん)のときは千(せん)  鶴丸(くわくまる)重胤(しけたね)の軍代(ぐんたい)として式部 ̄ノ少輔 胤成(たねなり)八千の人数(にんしゆ)を司(つかさとり)て相州 湯本口(ゆもとくち)を  守(まも)りけるか北條家 滅亡(めつばう)して千葉家も没落(ぼつらく)せしに 大神君 御入国(こにふこく)の  後(のち)式部 ̄ノ少輔か世倅(せかれ)主水佐(もんとのすけ)《割書:後平内|と改む》微弱(びしやく)たりしを御旗本(おんはたもと)に召出(めしいた)され御近習(ごきんじゆ)  の列(れつ)に加(くわ)へられしか天主教(てんしゆけう)の宗門(しうもん)を信仰(しんかう)するの科(とか)によりて慶長十九年  の秋 刑罪(けいさい)に処(しよ)せられ断絶(たんせつ)しけるとなり又千葉 ̄ノ介重胤幼少に付(つい)て家  臣等佐倉の城を抱(かゝゆ)る事(こと)能(あた)はす本多忠勝(ほんたたゝかつ)酒井家治(さかゐいへはる)に開渡(あけわた)しけるゆへ累(るい)  代(たい)の本領(ほんりやう)を離(はな)れて逐電(ちくてん)しけるか 大神君 関東(くわんとう)御入国(こにふこく)の後(のち)総州筋(さうしうすぢ)の案(あん)  内者(ないしや)にせらるべき賢慮(けんりよ)を以(もつ)て彼(かの)旧臣(きうしん)海上《割書:△海保な|るへし》三吉(さんきち)押田庄吉(おしたしやうきち)并 臼井(うすゐ)の  原(はら)式部 ̄ノ少輔 胤成(たねなり)か子主水 ̄ノ佐東金の酒井左衛門 ̄ノ佐重光《割書:前重政と有|誤りなるべし》か子金  三郎等を御旗本に召出(めしいた)され汝曹(なんちら)か本主(ほんしゆ)千葉家(ちばけ)には正統(しやうとう)の子孫(しそん)はなきか  と御 尋(たつね)ありしに海上押田 思案(しあん)を巡(めく)らし先年邦胤の家人(けにん)土方へ主用(しゆよう)これあ  り登(のほ)りける時 大神君の御使者(おんししや)上洛(しやうらく)せるとて途中(とちう)にて出会(しゆつくわい)口論(こうろん)して千  葉家人 以(もつて)の外(ほか)狼藉(らうせき)したりし事ありしか故(ゆへ)若又(もしまた)この義(き)を思召(おほしめし)出(いた)され御遺恨(ごいこん)  を果(はた)さるべき御存念(ごそんねん)にもやと心得(こゝろえ)違(たが)ふて邦胤(くにたね)若年(しやくねん)横死(わうし)に付(つい)て令嗣(れいし)なし  女子一人北條 氏康(うしやす)の息女(そくじよ)の腹(はら)にこれあるよし達聴(たつてい)しけれはさしもの豪家(かうか)  断絶(だんぜつ)の事(こと)不便(ふびん)の義(き)なりと仰(おほせ)られ件(くたん)の女子に扶助料(ふしよりやう)を下(くた)し賜(たまは)り重胤(しけたね)は  長(なか)く浪窂(ろう〳〵)したりける是(これ)併(しかし)押田海上か邪心(じやしん)に賢慮(けんりよ)を挹(はか)りて申なせしに  拠(よ)るところ也 良(まこと)に忠(ちう)の不忠(ふちう)となりし気数(きすう)の命(めい)こそ墓(はか)なけれ《割書:或云東金は左エ|門 ̄ノ尉政 辰(とき)也秩父》  《割書:の流(りう)にあらす家系遠江より出るとあれと大草紙の浜野 春利(はるとし)の後と見えたり|土気(とき)東金の先祖とあり○家系に重光なし政辰か子は金三郎政成といふ》 ○新編鎌倉志《割書:巻|五》ニ千葉屋敷(チバヤシキ)ハ天狗堂(テングドウ)ノ東ノ畠(ハタケ)ヲ云相 ̄ヒ伝 ̄フ千葉 ̄ノ介 常胤(ツネタネ)ガ  旧-宅ナリ 東鑑ニ阿静房安念 司馬(シバ)ノ甘縄(アマナハ)ノ家ニ向 ̄フ ト云ハ是ナリ司馬(シバ)  トハ千葉 ̄ノ成胤ヲ云ナリ成胤ハ常胤ガ嫡孫ニテ胤正(タネマサ)カ子ナリ《割書:△千学集 ̄ノ《割書:一ニ》弁 ̄カ谷殿|ト称ストアリ》 ○千葉氏系図二種《割書:△千葉系図数種あれとも善本まれなり余か所見にては香取田所本|水府松蘿館【舘】本頗る簡淨とす又鏑木本四巻あり詳明にして蓋》 《割書:雑をまぬかれす故に田所本松蘿館【舘】本を附刻す若その異同得失は言長けれは略す》       宮□郎     胤広     ■正□□五郎     胤幹□崎  六郎             内左衛門二郎             義胤     遠山方七郎   為胤小松一郎         神路左衛門尉        師時   南城八郎               胤俊           遠山半二郎   白井八郎  行胤     入道            胤時《割書:鏑木八郎| 》胤定 《割書:同七郎| 》胤泰《割書:同八郎》                                            《割書:同十郎》                  信清《割書:白井十郎》  《割書:相馬二郎| 》師常  《割書:同五郎| 》義胤 《割書:同左衛門尉| 》胤継  泰胤 《割書:同民部| 》入                   胤村《割書:孫五郎 左衛門尉| 》    《割書:同六郎| 》常家  胤宗       行常《割書:戸悵八郎| 》  武石三郎同高【二郎ヵ】入道同小二郎入道同太郎入道   胤盛  胤重  広胤  胤村           胤氏《割書:同四郎左衛門入道| 》 直胤  長胤                 宗胤《割書:同孫四郎左衛門| 》尉 胤信《割書:大須賀四郎| 》 通信《割書:同二郎左衛門尉| 》 胤氏《割書:同二郎左衛門尉| 》 朝氏時朝《割書:同新左衛門入道| 同二郎左衛門入道》宗朝《割書:同孫二郎左衛門尉》  胤秀《割書:日部多二郎| 》 時綱《割書:同左衛門尉入道| 》  胤村《割書:荒見| 》 朝村《割書:大須賀《割書:小|四郎》》 泰朝《割書:同太郎|同又太郎》《割書:同》孫四郎     同大【太】郎左衛門入道         《割書: |同大【太】郎》     重信    信常           奈古谷同二郎左衛門入道           貞康      《割書: |同左衛門太郎》                  貞宗     成毛   同八郎     範胤  則泰  国分五郎  同二郎   同小二郎入道  同大【太】郎  胤通   常通    常朝      重常                      松沢同孫二郎   同孫四郎                      朝胤      朝俊                     同孫二郎          国分尼       光胤          女子        同孫五郎  同四郎大夫              泰朝   親胤     胤通孫惣領     同孫六     時通              胤継  同小五郎   桜田同大【太】郎   有通     信胤         同二郎        有氏         桜田同孫五郎 此系天正以前ノモノナルコト必セリ惜ラクハ前後欠損シテ全カラス其全ヲ看シ人補テヨ 【線引きは省く】     千葉氏系図《割書:相馬 武石 大須賀|国分 東》《割書:△千学集云屋形サマ御紋ノ月星ノ以前ニハ松竹ニ|鶴ノ丸也松竹ヲ御家ノ紋ニナサレ鶴ノ丸ヲハ海上へ|進上セラレケルカ後ニハ鶴亀ニテオハシケル云々》  高棟王《割書:△久安二年文書又永暦二年二月廿七日平常胤文書ニ良文、経明、忠経、経政、経長、経兼、常重、トアリ|是千葉家相続ノ次第ナリ》  高見王    高望王  良望《割書:常陸大掾》                 将弘  良房《割書:常陸大掾》                 将門  良将《割書:鎮守府将軍》                 将頼《割書:御厨三郎|下総守》    女《割書:如蔵|禅尼》  良兼《割書:上総介|長田祖》   良定                 将平《割書:大葦原四郎|上野介》  良文《割書:村岡五郎|一名重門》                 将為《割書:将三郎》  良生《割書:常陸六郎》              将武《割書:伊豆守》  良繇《割書:従五位下上総介|鎮守府将軍》 忠光《割書:常陸掾》 常高   出現《割書:兄同誅》  良詮《割書:従五位下|上野介》  良持《割書:従五位下常陸少掾|孫在九州》  良海《割書:円満院|入道》   良兌  良広《割書:駿河十郎》            将国《割書:信田小太郎》 文国《割書:小太郎》                   景遠《割書:三郎》 朝義  忠通《割書:村岡小五郎|大場梶原祖》            景光   貞元《割書:  |子孫在九州》  為通《割書:駿河守》         千世丸《割書:父同誅 ̄ラル》  忠頼《割書:村岡次郎陸奥守従五位下|為将門婿継跡》    女《割書:如蔵禅尼卒年八十余号常念地蔵|世号地蔵尼》   《割書:三》将常《割書:秩父武蔵守》       頼望《割書:小太郎》   常望《割書:相馬小次郎》  《割書:一》忠常《割書:武蔵押領使|下総介》       兼頼《割書:小次郎|或作長望|子非》  将長    長望  《割書:二》頼尊《割書:山伏号山辺悪禅師|土肥祖大力》     重国《割書:小次郎|始号相馬》  胤国《割書:次郎》  師国《割書:相馬次郎》  《割書:二》常将《割書:千葉小次郎居総州千葉因氏焉|創建平山寺》  師常《割書:相馬小次郎 実千葉常胤二子養子|トナリ継相馬領奥州行方郡下総相馬|郡元久二年十一月卒六十七或婿ニ作ル》   恒親《割書:安房押領使》 恒仲    常永《割書:四郎大夫武蔵押領使源義家命名|法号覚永《割書:又永元》》   恒遠     頼任《割書:村上貫有》 恒直《割書:埴生次郎》   胤宗《割書:武蔵七党 ̄ノ内野与党ノ祖》  元宗  基永《割書:野与六郎》 【上段】  常兼  女《割書:佐竹左京大夫室》  常房  女《割書:結城隼人正室》  頼常《割書:原三郎》  常益《割書:岩部五郎|粟飯原家督》  女《割書:伊藤大セン室》  常慶《割書:匝瑳八郎》  女《割書:遠山小太郎室》  女《割書:里見新左エ門室》  常通《割書:父常長名代》  常景《割書:兄常兼上時打死》  常季《割書:長南左エ門尉婿》  常盛《割書:平山季高養子》  常時  元宗 【上段以下】  《割書:四》常兼《割書:従五位下総権介号千葉太夫|本郡検非違使所法名観宥》  常房《割書:鴨根三郎或称千田》                 常金《割書:原四郎》  常遠《割書:安西七郎》                    常益《割書:粟飯原》  常継《割書:大須賀八郎太夫》                  常能《割書:金原庄司》  常時《割書:相馬小次郎》        常尊《割書:相馬六郎》      胤隆《割書:武射七郎》  元宗《割書:周房八郎》         近永《割書:野与庄司》      胤光《割書:椎名八郎》  恒永《割書:奥州戦死》   常範《割書:佐賀次郎》    常国《割書:次郎》     常英《割書:次郎左エ門》  恒宗《割書:大蔵次郎》   常宗《割書:岡浜祖》     常定《割書:衣山弥平次郎》  常秀《割書:弥平次郎》    常行《割書:右京進》  常家  常勝《割書:多谷八郎》    常直《割書:近江守》  常信   忠家  勝家           常景     常定《割書:佐賀民部少輔》 勝重  常家《割書:上総介》      常時《割書:同》     常隆《割書:同》  常綱《割書:匝瑳八郎》          《割書:玄仙系| 臼井常安 臼井二郎成常》  常 賢(又広)《割書:逸見八郎|イコ小見九郎》 政胤《割書:飯高四郎》   《割書:六郎盛常 常清《割書:四郎》 太西胤常|左近将監興胤 某《割書:瑞渕山円応寺開山》|       某《割書:六郎尚胤》》  常安《割書:臼井六郎》   常忠《割書:臼井太郎》  《割書:左近将監包 太郎冬胤 石之佐之胤|左近将監 四郎持胤 備前守俊胤《割書:入道後直|為城主》》  常重《割書:従五位下下総介 法名照浄善応》    《割書: |左エ門幸胤 太郎幸胤 左近久胤《割書:結城ニテ|卒》》  常弘《割書:匝瑳八郎》           《割書:肥後二郎常■越後了明 朱右衛門常教|源右衛門宗悦 源左衛門常定 源左衛門常次》  常衡《割書:海上与市》   常幹《割書:海上》   常満《割書:同》   常継《割書:同》  常直《割書:同》     常清《割書:同》    常朝                         《割書: |千台ニモ臼井吉エ門ト云在》   常景《割書:伊北新介》  常仲          源左衛門常 林(上曽村)  源左衛門《割書:臼井氏》                 《割書:宇治会村ニテ|戦敗農人ト》    瓦谷(カハライ)村  源左衛門     常茂《割書:印東次郎》    小河原若狭《割書:ナル氏家ニ|小河原ヤ》 小河原常衛門昌俊                 《割書:シキアリ》                一郎左衛門某 某 某 小河原友十郎喜始   常範《割書:木内三郎》               女友十妻                       女源左衛門妻   盛常《割書:潤野四郎》               小河原縫殿之介常房                       千葉玄仙教美   維常《割書:大椎五郎》   直胤《割書:天羽庄司》  直常《割書:次郎》   広常《割書:上総権介梶原影時カ▢ニヨリ頼朝殺之|寿永二年十二月廿二日》       良常《割書:小権介|寿永二年十二月廿|二日鎌倉殿殺サル》   常清《割書:相馬九郎》  貞常《割書:左馬介》   胤親《割書:角田太郎》   親常《割書:向井十郎》          太郎    女《割書:小笠原次郎長清妻》   頼次《割書:一名康常金田小太夫|三浦大介義明婿【注】七十年絹笠籠城》次郎    女《割書:伯耆少将平時家妻》  《割書:六》常胤《割書:従五位下千葉介下総守護職母常陸大掾政幹女元永元年戊戌五月廿四日生|建仁元年三月廿四日卒八十四法名浄春貞見《割書:正六位上》》   胤隆《割書:小見六郎》   胤光《割書:椎名五郎》  有光《割書:太郎》  《割書:七》胤正《割書:千葉太郎新介法名常仙観宿母秩父重弘女建久中奉頼朝命伐奥州大河兼任有|功建仁二年七月七日卒六十一居鎌倉竹谷永治十一年壬戌生》   師常《割書:相馬小次郎 為師国養子元久元年九月十五日六十七念仏行者無病而卒|合手念仏如眠》 【注 聟は婿の俗字】    胤盛《割書:武石三郎》  胤信《割書:大須賀四郎》  胤通《割書:国分五郎》  胤頼《割書:東六郎太夫|従五位下》                  《割書: |高倉宮》         日胤《割書:居円城寺号律静坊為頼朝祷祠治承四年従以仁王軍奮撃力戦手殺六人|遂戦死於光明山頼朝公治世之後為法事領寄付伊賀山田郷三井寺畢》  《割書:北条九代曰嫡子式部大夫時二男修理亮政秀三男左エ門尉泰秀四男六郎景秀》  常秀《割書:上総介左エ門尉|源平盛衰記作|サカイノ平二》    秀胤《割書:上総介|堺右京次郎》       秀時《割書:式部大輔同父自殺》  観秀《割書:栗原禅師》      時常《割書:埴生次郎|一作植》        秀泰《割書:埴生修理介同父自殺|一作垣》              《割書:曽襲領父食邑埴生庄秀胤|奪之時常始而絶及聞秀胤|遭難忽入大柳館与兄同自殺》      能光                       秀綱《割書:五郎左エ門 同》 【頭部】 宝治元年六月五日三浦泰 村誅秀胤妻泰村女弟也 以故北条時頼命大須賀 左エ門尉胤氏東中務入道 泰暹等討之上総一宮大柳館 秀胤積炭薪於館外四 面及敵兵来襲縦火焼 之燄威甚熾不可嚮近 秀胤令兵士発矢自与其 四子入室読経而後自殺     胤忠《割書:千葉五郎|辺田》                 景秀《割書:六郎 同》  胤朝《割書:六崎六郎》     兵衛尉《割書:六崎》    太郎《割書:六崎》  胤広《割書:千葉四郎》              胤義《割書:千葉四郎太郎家号立沢》  師胤《割書:千葉七郎》              通胤《割書:三谷次郎》  胤時《割書:千葉八郎|家号白井》              胤村《割書:三谷四郎》 《割書:二》成胤《割書:千葉介建保六年四月十日卒|五十七法名正阿弥陀仏》        重胤《割書:孫四郎》                     小四郎太郎    師時《割書:千葉七郎》     師重《割書:千葉太郎|家号神崎》    行胤《割書:千葉七郎次郎|家号遠山形》    義胤《割書:次郎》    胤俊 《割書:平田左エ門尉》  胤信《割書:平田|次郎》    為胤《割書:四郎》            胤直《割書:中沢弥太郎》     資胤《割書:平田|四郎》    胤長《割書:六郎》     泰俊《割書:三谷四郎》  胤幹《割書:立沢又太郎》    胤與《割書:彦八|郎》    時綱《割書:七郎》     胤継《割書:三谷四郎太郎》 蓮心《割書:周防》      信胤《割書:平太》    時秀《割書:八郎》     義胤《割書:千葉弥|四郎》   弘胤《割書:法橋》     了意《割書:治部》    胤定《割書:千葉九郎入道信仏|鳴矢木(カフラキ)》 頼胤《割書:又四郎》   氏胤《割書:三谷彦四郎》   胤行《割書:立沢七郎》    信清《割書:千葉十郎|家号長吉》    小四郎     幹胤      胤義《割書:彦七》    定氏《割書:九郎次郎》  四郎        十郎      胤親《割書:余市》    行定《割書:六郎》      親胤《割書:孫太郎》   寂弁      平八    胤国《割書:七郎》      胤継      平兵衛尉    胤泰《割書:八郎|鳴矢木》          行胤《割書:孫次郎》    太郎丸    十郎          胤幹《割書:弥八郎》    彦八    理胤《割書:僧》     胤朝《割書:彦八郎》 胤高《割書:弥八郎》  胤継《割書:孫九郎》    五郎      円仁《割書:僧》   小八郎  《割書:三》胤綱《割書:千葉介承久乱|有功安貞二年》  胤鑑《割書:彦九郎》  余市     《割書:五月廿八日卒廿|一》  胤信《割書:彦十郎》 《割書: |後太平記》                   中祖白井小太郎胤宗                    《割書:承久二宇治川ヲ渡シ有功》   泰胤《割書:千葉次郎》    胤方《割書:余一》  《割書:【時ヵ】》    《割書:四》□胤《割書:千葉介仁治二|年八月廿七日》  胤友《割書:中務少輔 弟ト|家督ヲ争下総ニ奔》 胤通《割書:五郎兵衛》  胤経《割書:小太郎》   《割書:卒年四月二木像在千|葉寺有六家老所謂》   胤秋《割書:七郎》     胤栄《割書:判官》    道素入道   《割書:布施田谷大山鈴木|伊藤森也》 【頭部】 春胤 将国《割書:信田小二郎》 文国《割書:小太郎》 頼望《割書:小太郎》 常望《割書:小二郎》 将長            栓常《割書:長門守》    満常《割書:城介》   教常《割書:左馬介》     《割書:千葉介文永十|一年八月廿六日》  《割書:五|十》頼胤《割書:卒年三十七法名|長春常喜》 満宗《割書:二郎左エ門尉|義満将軍ニ属有功》      澄胤《割書:将監》  《割書:六|一》宗胤《割書:千葉太郎新介|大隅守建武二》   胤定《割書:長門守若州ニ蟄居ス後太平記|四十一巻将軍義昭信長ト確執|ノ段ニアリ》 胤時《割書:民部丞》    《割書:年戦死於三井寺建|武三年正月十六日三》  胤親           胤晴《割書:左馬介》    《割書:井寺戦千余キニ将|トシテ一二ノ木戸ヲ破細》 基胤           胤在《割書:若狭権介》    《割書:川郷定禅カ六千ニ囲|レ手勢ノ三百百五十|打ル》     胤貞《割書:大隅守属南朝従西征将軍赴九州領肥前|建武三年三月多々良浜戦属尊氏|イニ建武三年十一月廿九日住三河死四十九》  《割書:六|一》胤宗《割書:千葉介正和元年|三月廿日卒四十五》     女《割書:宇都宮公綱妻》   胤重《割書:五郎》         胤高《割書:千葉新介建武三正十六三井寺戦死》  《割書:七|二》貞胤《割書:千葉介元弘三五十六日始テ|義貞ニ属武蔵金沢貞》  日祐《割書:法花宗再興下総中山創建肥前松尾山|応安七十一十九七十三死》    《割書:将ト武州鶴見ニ戦有功建武二十一》 【頭部】 一本胤宗作時胤 云時胤卒時頼胤 三歳故胤宗介トナル    《割書:八日伐尊氏建武四年正十二日北国|下降義貞ノ後陣トナル五百キニテ》   胤鎮《割書:千田弥二郎》    《割書:打ケルカ雪ニ道ヲ迷ヒ御方ニハナレ敵|陣ヘ迷ヒ出尾張守高経インキンニ使》  胤継    胤朝《割書:肥前守》    《割書:ヲツカハスユヘニ高経ニ属スト参考太|平記十七巻八十九十ニ出観応二正》  干法師   胤盛    《割書:朔卒年六十一法名喜阿弥陀仏|号淨徳寺》  《割書:八|三》氏胤《割書:千葉介天龍寺供養為随|兵善和歌新千載集ニノス》     乙法師   次郎    《割書:貞治二九十三日病卒於美濃年|三十一イニ康永四八廿九日于時号|新介》    経胤    九郎    酉誉上人《割書:幼名徳千代了|誉上人弟子》      胤盛    元胤        《割書:武州伝通院|開山》             教胤  《割書:九四》満胤《割書:千葉介応永丗三六八日卒年六十四|法名道山弥阿弥陀仏号|常安寺》  胤資      胤勝    氏満《割書:千葉次郎》         興常《割書:実胤盛子》   胤繁   常光《割書:原次郎》   常重《割書:原次郎大夫》   善胤   胤治   清常《割書:五郎大夫》   胤重《割書:三郎左衛門》  胤頼《割書:実太宰少弐資光三男》   重綱《割書:三郎兵衛》   政常《割書:三郎大夫》   胤誠    勝利《割書:大和守》   常尊《割書:三郎左衛門》  貞常《割書:原新左衛門》   長良《割書:刑部太輔》 家良《割書:大炊介》  《割書:五》兼胤《割書:千葉介修理大夫永享二年六十七|日於鎌倉卒年三十九法名喜山》    常氏《割書:対馬守》    《割書:眼阿弥陀仏有四家老原円城寺|牛尾 高城也》      胤氏《割書:多古》  《割書:十》康胤《割書:馬加陸奥守法名相常応|享徳中源成氏与両上杉戦》      胤清《割書:千葉右京大夫延文四七月筑後新|少弐忠資ニ属》    《割書:属成氏有功任千葉介康正二十一朔|戦死上総八幡村年五十九首八》     義胤    《割書:送京梟東寺四塚》                              胤満《割書:法名日円》 胤春《割書:千田|応永十七日卒》  《割書:イニ》満胤《割書:常安寺殿》        胤幸《割書:千田弾正》  胤仲《割書:千田 力(中ヵ)務丞》    兼胤           胤範《割書:千田|法名道範》  胤親《割書:千田喜兵衛》    胤直    輔胤《割書:介道号|禾野寺》   胤嗣《割書:千田|法名日嗣》    自秀《割書:七郎千葉|介法名元三》孝胤    実胤    守胤      高胤《割書:小太郎|千葉介》     胤房                  胤連《割書:千葉常陸介|九州住》    胤平    胤直《割書:千葉介康正元八十五日為古河|成氏自殺於下総多湖年四十二》  胤親《割書:介》     《割書:法名常瑞臨阿弥陀号相応母管|領上杉右衛門佐氏憲禅秀女》   宗杲上座   《割書:六》賢胤《割書:中務丞同先死母同|法名了心》     光胤《割書:原豊前 寛正七二七卒》    実胤《割書:千葉介後遁世卒於美濃|上杉政実ノ婿》   胤房《割書:越後守》   《割書:七》自胤《割書:千葉介 文明十年攻下総|臼井城取之遂領下総海上》  胤真《割書:式部大夫》   胤栄《割書:大蔵丞|豊前守》      《割書:武蔵葛西石浜赤塚》                胤将《割書:早世新介》   《割書:八》盛胤《割書:武州千葉中務|母上杉弾正》     宣胤《割書:五郎享徳四八十三日総州多胡阿弥|陀堂ニテ自殺》   《割書:九》良胤《割書:同次郎|号松月院》   《割書:十》惟胤   胤持《割書:康正二年六十二日卒年二十三|法名大覚興阿弥陀仏》   輔胤《割書:竹処岩橋殿 按ニ兼胤弟養子イニ介|延徳四二十五日卒年七十三法名常阿弥陀仏イニ明応元二五日七十七》 《割書:十一》孝胤《割書:千葉介 文安元生 永正二八十九日卒年六十二イニ三法名常輝眼阿弥陀仏|康正二父戦死ノトキ十三也按ニ輔胤ノ子カ孝胤ノ生輔胤ノ二十八ニ当ル》  《割書: |十二》   勝胤《割書:千葉介享徳五五廿一日卒六十三法名常歳其阿弥陀仏有三家老原鳴矢木木内也》   幹胤《割書:文明四生永正年四十二当ル|常陸人鹿島左エ門尉養子  兵法名人》   勝清《割書:常陸人椎崎五郎養子》   久胤《割書:勝胤同母生半身偏枯|家臣公津左近大夫養子》  信胤《割書:公津平内左衛門》  《割書: |十三》            《割書: |十四》   昌胤《割書:千葉介天文十五正七卒年五十一|法名常天法阿弥陀仏》  利胤《割書:千葉介弘治三八月七日卒年三十一法名|常賀覚阿弥陀仏》   胤定《割書:千葉鳴戸八郎|兵部少輔》  利胤《割書:大永五生》  親胤《割書:元亀三生》            胤富《割書:享禄四生|実利胤第三弟》 良胤《割書:千葉介多病ニ|ヨリ弟ニユツル》  当胤  知胤                    邦胤       重胤   親胤《割書:千葉介天正七五四為北条氏政害ラル年十七法名常円イニ依原逆心生害利胤第四弟|イニ舅小田原氏政命家臣生害》  《割書: |十五》   胤富《割書:千葉介天正十三五七日年五十五イニ三イニ利胤第三弟七年五月四日法号重アミ|イニ富胤》   邦胤《割書:千葉介|天正十六五月乗酔家士鍬田万五郎還テ創ラル病創死》   重胤《割書:千葉介介母上野岩松氏寛永十年六十六日卒江戸五十二》   女《割書:母小田原北条氏》    相馬   師常《割書:相馬小次郎》   義胤《割書:五郎》    胤綱《割書:小次郎|イニ継》    胤継《割書:同》   常家《割書:矢木六郎》   胤家《割書:矢木式部大夫》   行常《割書:戸張八郎》   春胤《割書:民部大夫入道》    《割書:四》忠胤《割書:九郎左エ門尉 上野介子二人》   頼泰《割書:次郎左エ門尉》    《割書:三》時綱《割書:七郎》   胤盛《割書:四郎左エ門尉》    《割書:二》胤景《割書:六郎左エ門尉》  胤宗   胤経《割書:五郎 佐兵衛尉|法名茂林》   《割書:一》胤村《割書:相馬孫五郎左エ門尉永仁二年卒|仕将軍頼嗣宗尊》            イ《割書:胤氏  胤忠 下総相馬祖|師胤  重胤 奥州相馬祖》   胤氏《割書:次郎左エ門尉下総相馬|又作氏胤》   胤顕《割書:彦三郎》       胤基《割書:次郎兵衛》   胤重《割書:四郎》        胤重《割書:四郎左エ門尉|射手》   有胤《割書:五郎》        胤忠《割書:次郎左エ門尉 下総相馬祖|上野介》   師胤《割書:松若丸彦二郎奥州相馬祖|左エ門尉》  胤長《割書:小次郎左エ門尉》   胤朝《割書:八郎》        忠重《割書:四郎左エ門尉勢兵精射建武二年|山門之役属官軍与本間孫四郎源資|氏同射賊兵大顕名》   胤実《割書:十郎》   胤通《割書:余市》        胤宗《割書:小次郎左エ門尉》  資胤《割書:上野介|月桂》   胤門《割書:彦五郎》       胤儀《割書:左エ門尉法名在桂》                    胤高《割書:左近大夫法名幸山|上野介》   行胤《割書:弥次郎》    朝胤《割書:次郎兵衛》   胤実《割書:弾正忠左エ門尉法名正安》   女《割書:号鶴夜叉治胤母也》          胤興《割書:三郎三田弾正常陸介 家紋巴》                    胤徳《割書:小次郎 下総守号宝珠庵 三子アリ》   重胤《割書:弥五郎孫五郎胤門養子建武|二年国司合戦属斯波三郎於》     《割書:▢葦堂忠死法名鉄叟》                    胤勝《割書:三田弾正武州三田庄将門宮建立》   親胤《割書:出羽守》             興秀《割書:師岡次郎》   光胤《割書:弥次郎|建武二五月奥州打死》         胤定《割書:三田弾正》   政定   胤頼《割書:治部少輔松鶴丸|讃岐守》          胤広《割書:修理亮因幡守法名天桂》   憲胤《割書:千代王治部少輔法名洞岩》     胤貞《割書:小次郎法名花桂世々総州相馬住》   胤弘《割書:孫次郎 讃岐守 法名道空》    胤清《割書:小次郎左近大夫|玉案》   重弘《割書:長門守》           整胤《割書:小次郎天正十七六月十八日為家臣生害|法名玉宗実山》   高胤《割書:出羽守法名大雄》        治胤《割書:左近大夫法名了山|天正ノ頃》   盛胤《割書:大膳大夫》          秀胤《割書:小次郎法名春山仕家康公|天正十八年召出サレ五千石》   顕胤《割書:讃岐守|天文十八二二死雄公莫宗》     胤信《割書:信濃守法名中岩》   盛胤《割書:弾正》            盛胤《割書:小次郎法名天崇斉》   義胤《割書:長門守》           政胤《割書:小次郎|大坂御供》   利胤《割書:大膳大夫》          貞胤《割書:同》     某《割書:小平二》   義胤《割書:大膳亮|慶安四三五日卒三十二》   勝胤《割書:長門守実土屋民部少輔|忠直次子後改忠胤》   貞胤《割書:出羽守》    武石   胤盛《割書:武石三郎》        胤重《割書:次郎入道》   広胤           胤村《割書:二郎左エ門》   朝胤《割書:三郎左エ門 文応ノ比》    長胤《割書:小二郎竜七郎入道|相模守時頼逝去弘長ノ比千葉介頼胤同時》   胤氏《割書:四郎左エ門》        宗胤《割書:弥四郎|イ肥前守佐々木遠江守氏信女嫁》   五郎   胤継《割書:孫四郎 左エ門尉|奥州船廻人戦討死》   胤道《割書:武石五郎 但馬守》    大須賀   旗紋【紋様二種描く】 幕紋《割書:スヽキ|鹿》【紋様描く】   胤信《割書:大須賀四郎 建暦年和田義盛乱有功賜甲州井上庄》  《割書: |イニ道》   通信《割書:太郎左エ門尉|早世》   胤季《割書:多部田次郎左エ門尉|イ秀》                 《割書: |イ胤朝》   胤村《割書:荒見小四郎》        朝胤《割書:同太郎》    朝村《割書:又五郎》    《割書: |イ胤》             《割書: |イ胤》   重信《割書:奈古谷七郎左エ門|宝治ノ乱三浦党於法花堂自害》   信常《割書:太郎| 》    泰胤《割書:孫四郎》   範胤《割書:成毛八郎改君島十郎左エ門嗣胤|移下野》  貞康《割書:二郎左エ門尉》  貞宗《割書:左エ門太郎》    《割書:宝治乱泰村打後奔下野依宇都宮頼|綱居本州君島郷改氏弘長元年辛酉》  時綱《割書:四郎左エ門尉 法名宝蓮》    《割書:八月七日卒五十八法号道昌》    胤光    《割書: |一本成胤元則泰アリ》   成胤《割書:左エ門尉三浦行泰女|永仁三乙未四四十二法号道忻》   常光   胤泰   胤元   貞範《割書:祖母井左京介》        胤兼《割書:五郎左エ門尉|法名宝胤》    宗兼《割書:又五郎》                  師胤《割書:弥五郎》      胤親《割書:左エ門四郎》   胤時《割書:十郎 正六位備中守六郎》     胤春《割書:彦四郎》    《割書:建武二十一月参河矢作戦 改(歿ヵ)義貞賜|感状暦応元八月十六日五十六卒号長基》  又五郎   富高《割書:岡本信濃守|六月十七日越後芳賀禅賀ニ属》    光胤《割書:三位房》    《割書:足利基氏ノ兵岩松持国ヵ郎等金井新|左エ門ト組テ刺違死》                  胤時《割書:掃部左エ門尉四郎》   綱胤《割書:備中守母宇都宮時綱女》      胤連《割書:四郎左エ門尉》 行胤《割書:左エ門太|郎》 胤義《割書:同|次郎》    《割書:観応二年薩唾山戦属尊氏有賜感|状十二月与桃井直常長尾左エ門尉戦死》  遠康            氏胤《割書:同|四郎》    《割書:上野那和郡死三十三号道慶》   胤重《割書:風見新右エ門尉》      頼孝《割書:孫四郎|イ秀》  胤頼《割書:四郎二郎》   胤景《割書:大宮兵部少輔》       貞泰《割書:五郎》    行泰《割書:四郎》   胤光《割書:延生二郎左エ門尉》      胤継《割書:左エ門二郎》    朝胤《割書:孫二郎》   女《割書:薬師寺三川守紀綱之妻》     胤頼《割書:六郎》       良胤《割書:郷房》                 春胤《割書:四郎》      胤盛《割書:又次郎》   泰胤《割書:四郎 従五位下備中守|母宇都宮氏家盛綱女》    氏頼《割書:金房丸|弥二郎》     《割書:延文三正月廿日二十八才卒道謹》   知胤《割書:四郎備中守母益子出雲守紀貞正女|明徳二十二月三十日四十一号道慶》 胤継                 胤房   胤元《割書:四郎備中守母備中守綱経妹|応永廿二六月十三日三十二号道清》  胤氏《割書:次郎右エ門尉法名信連 寛文(△△)五丁未六六日|上総介打手大将上総一宮大柳館ヲ攻秀胤|ヲ打取》   秀胤《割書:平次郎備中守母宇都宮基綱妹|応永三十四九月三日卒五十一号道喜》  師氏《割書:次郎》   貞久《割書:祖母井信濃守》        時通   光胤《割書:三郎備中守母梶原弾正女|長禄元五月十日四十九号道哲》    信康《割書:五郎左エ門》  宗常《割書:四郎左エ門》   女《割書:長山修理亮忠好妻》        為信《割書:六郎左エ門》  為胤《割書:二郎左エ門》   茂胤《割書:八郎備中守母塩谷左エ門大夫義孝女|文明十四三月十八日三十五聖高》  景氏   定胤《割書:七郎備中守母今泉但馬高光女|永正四六月廿四日四十二道白》    頼氏        朝泰《割書:左エ門尉》   胤家《割書:六郎備中守母壬生上総介義雄女|大永七七月八日三十二道高》             顕朝   女《割書:神山下総守綱藤妻》        朝氏《割書:新左エ門尉法名信円》   広胤《割書:太郎左エ門尉母壬生美濃守高宗女|天文十八九月廿七日那須戦死於》   胤泰      朝泰     《割書:五月女坂年三十三道栄》      時朝《割書:二郎左エ門尉法名禅信》   慶繁《割書:僧宇都宮光明寺及桂連寺開山》    宗朝《割書:下野前司|法名信宗》   宗時《割書:下総守》   女《割書:戸祭下総守妻》          宗信《割書:越後守|法名生応》   憲宗《割書:左馬助》   高胤《割書:五郎備中守母芳賀刑部大輔清高女|慶長二六月十五日五十八号道山》    高晴《割書:三(六)郎|慶長中於上三河戦死》   高範《割書:左馬亮》            晴胤《割書:久次郎|寛永元十月十三日三十八|道聚》   胤次《割書:太郎左エ門尉》   女《割書:益子左京亮妻》           照胤《割書:熊之介|母桜井氏》   興胤《割書:大須賀十郎|母高橋氏》   胤方《割書:君島六郎》    国分   胤通《割書:国分五郎》      常通《割書:同次郎》      常朝《割書:小次郎|法名悟連》   有通《割書:小五郎 号村田》      重常《割書:小次郎》   常義《割書:同六郎  大戸矢作領主》   朝胤《割書:孫二郎 号松沢》   胤実《割書:太郎》  胤長《割書:又太郎》   朝俊《割書:孫四郎》   常氏《割書:六郎》         光胤《割書:孫五郎》     胤秀《割書:又五郎》   胤義《割書:平太|号大戸川》 定胤《割書:平太六郎》  胤盛《割書:孫三郎》   行常《割書:六郎五郎》 行泰《割書:五郎七郎》  泰朝《割書:弥五郎》  《割書:十》七郎五郎  亀王丸    胤門《割書:六郎》     胤貞   竹王丸《割書:彦五郎》       弥五郎     鶴金丸   長胤《割書:又六法名了性》      朝綱《割書:弥五郎|松沢惣領》   胤村《割書:彦次郎就外戚所領》    余五   泰胤《割書:号春社彦六郎号矢作惣領》  胤重《割書:余五|法名蓮性》   通泰《割書:八郎》        道光《割書:僧》   胤氏《割書:孫六》        理法   治時《割書:十郎》        事法   氏胤《割書:余一》        胤連《割書:彦五郎|法名宗常》   胤任《割書:小六郎》       明鑑《割書:郷阿闍梨|又号公一》   幹胤《割書:太郎》          頼覚《割書:大進房|本名浄一》   胤幹《割書:彦二郎》   御房丸   信胤《割書:五郎太郎》   師泰《割書:孫五郎》   朝通《割書:彦五郎|法名信聖》         盛村《割書:小五郎》   胤幹《割書:六郎》          小六郎   頼泰《割書:七郎》          又五郎   胤頼《割書:孫七郎》         宗通《割書:彦六郎》   頼通《割書:十郎》          胤朝《割書:孫五郎》                   胤頼《割書:孫六》                   乙若丸                   千代若丸   東  《割書:一》胤頼《割書:東六郎大夫イニ従五位下》  《割書:二》重胤《割書:太郎兵衛尉法名覚然イニ平太武者所兵衛尉入道|太納言為家右大臣実朝歌道伝授》   《割書:元久二《割書:乙丑》正月廿二日畠山重忠討伐ノトキ大将北條義時先陣葛兵衛尉後陣堺平二 人(ム)常秀|大須賀四郎胤信国分五郎胤通相馬五郎義胤与重胤武蔵国二俣川ニ戦有功》   《割書:壬四月廿七日父弱冠ヨリ祗候ノ例ヲ以致望勤仕建保二甲戌七月廿七日大倉石大慈寺供養随|兵六年戊午五月廿七日右大将鶴岡拝賀随兵七年己卯正月廿七日将軍右大臣拝賀随兵》  胤朝《割書:木内下総守承久二年六月十四日戦有功但馬磯部在淡路由良庄惣領号次郎》  胤康《割書:風早四郎入道|承久二六十四宇治有功》    康常《割書:太郎左エ門|康元二丁巳十月八日大慈寺供養随兵》  胤光《割書:小見六郎》        為康《割書:次郎》    頼康《割書:孫四郎》  真舜《割書:金蓮房》         貞泰《割書:彦四郎》  栄尊《割書:胎蓮房》         時秀                泰宗  胤家《割書:木内次郎 磯部庄伝 寛元二甲辰八月十五日鶴岡供奉》   景胤《割書:弥次郎》  胤時《割書:同四郎号小見由良庄伝 按下総四郎可考|東鑑寛元四年ニ見ユ》     胤直《割書:同四郎|法名道源》  胤長《割書:同五郎》  氏胤《割書:六郎号虫幡》  胤盛《割書:本名時信号油田七郎法号道胤》  胤俊《割書:八郎》           成胤《割書:八郎太郎》  光胤《割書:九郎号田部》  泰胤《割書:弥九郎|法名一祥》  公胤《割書:八郎二郎》  九郎次郎  胤定《割書:十郎》           胤持《割書:彦五郎》     胤祐《割書:余次郎》  行胤《割書:同余一》   幹胤《割書:孫次郎》   惟胤《割書:彦次郎》     胤忠《割書:又次郎》  信元             胤長《割書:十郎元弘三五月廿二|日鎌倉葛西谷戦死》 満犬丸  義胤《割書:七郎次郎》         胤元《割書:小六郎》  胤継《割書:弥七郎未分配 田(△)立惣領》     胤信《割書:彦七郎》    胤持《割書:弥七|法名撰阿》  定胤《割書:式部房》          胤教《割書:孫八郎》  胤清《割書:小六郎法名良清》         祐胤《割書:六郎》     胤貞《割書:又六》  盛胤《割書:六郎四郎》           円胤《割書:少弐房》    祐潤《割書:大夫阿闍梨》  静胤《割書:郷房》            胤光       胤顕《割書:孫八》  胤次《割書:六郎太郎》       有胤《割書:四郎次郎》    胤貞《割書:小六郎|改胤勝》  胤義《割書:又次郎》        胤久《割書:六郎》  胤成《割書:弥九郎》       円祐《割書:大輔禅師》              楽胤《割書:弁禅師》  妙然《割書:六郎入道左エ門尉|黒衣》胤盛《割書:彦四郎》  胤景《割書:七郎》       胤氏《割書:中務丞》       胤継《割書:六郎》  宗源《割書:覚性房》      貞胤《割書:六郎右エ門尉|改清胤》     宣胤《割書:小次郎》  胤家《割書:弥六》       胤宗《割書:三位房》  胤勝《割書:八郎》       政胤《割書:八郎》  政胤《割書:孫四郎》         胤国《割書:彦次郎》  胤氏《割書:又四郎》  胤行《割書:イニ従五位下為家歌道相伝東鑑建長四中務少輔胤重可考|中務丞法名素暹イニ六郎中務入道|承久三辛巳六十四宇治戦美濃国郡賞ラル》泰行《割書:図書介法名行暹建長五七十七日雖撰随|兵先々帰国不如例》  《割書:三》胤方《割書:海上次郎法名道胤建長四十二月十七日|父子随兵胤方為後陣》    義行《割書:四郎建長三年辛亥二所進発随兵》  胤久《割書:四郎》                素源《割書:六郎左エ門入道》  胤有《割書:海上五郎 森戸領主》           顕信   《割書:安貞二戊子七月廿三日駿河前司義村田|村庄渡御随兵寛元二甲辰八月十五日》       盛義《割書:六郎》   《割書:頼嗣鶴岡放生会御覧供奉仁治四年|癸卯七月十七日御所詰番聚》        胤義《割書:孫六》  兼胤《割書:五郎九郎》               重義《割書:七郎》  胤見《割書:孫六》   治胤《割書:六郎》      九郎  胤豊《割書:兵庫介》           胤景《割書:阿玉郷主海上弥次郎左エ門尉備中守|建長四十二月十七日将軍鶴岡供奉先|陣随兵弘長三八月八日来十月二|日必定上洛ノ供奉随兵註文》  《割書:四》盛胤《割書:本庄トモ東七郎 法名妙覚》  長胤《割書:海上四郎》         《割書:一本》胤行  行胤《割書:中務丞 号船木|法名理一》        胤朝《割書:木内下総次郎》 胤方《割書:海上亦次郎|海上祖》  胤世《割書:七郎太郎 法名良円》       胤康《割書:風早四郎》  《割書:五》朝胤《割書:号辺田 六郎 法名慶胤》    胤景《割書:弥次郎備中守》  資胤《割書:高上弥七 法名理慶》       胤泰    女《割書:佐竹遠江守貞義妻|刑部大輔義篤女》  胤基《割書:松本九郎 法名善覚|建暦三五月三日和田義盛乱打死》   胤長    成胤  胤文《割書:馬場十郎法名見一》      教胤《割書:横根郷主太郎左エ門》  胤門《割書:弥十郎法名伴阿》       胤泰《割書:海上惣領六郎左エ門》  胤郷《割書:又次郎》          師胤《割書:筑後守法名理性》  秀胤    胤清       女《割書:佐竹義篤女》  親胤            公胤《割書:八郎法名理慶》  有胤《割書:七郎左エ門尉法名成高》     憲胤《割書:筑後守応永禅秀乱|属持氏有功》  胤俊《割書:叔父理慶跡続》        信濃守  《割書:六》胤茂《割書:法名定意|建武二宗胤ニ属為官軍有功》   胤貞《割書:長谷左エ門五郎》  《割書:七》直胤《割書:中務丞法名秀海》      胤忠     胤顕《割書:常陸介》  《割書:八》胤名《割書:六郎中務少輔》      胤広《割書:常陸六郎》    幹胤《割書:弥七》  胤国《割書:東孫太郎先父早世》  胤勝《割書:権太郎》  為胤《割書:小四郎|信阿》   胤名《割書:四郎左エ門尉|等阿》           《割書: 一 ̄ニ弟》  高胤《割書:孫次郎下総守実阿》  秀胤《割書:弥八郎掃部介宗永|粟野郷領主》  胤名《割書:弥七郎|一《割書:ニ》香》  朝胤        有胤《割書:弥七郎左エ門尉成高|叔父資胤養子》  資胤《割書:高上弥七| 理慶》     胤俊《割書:佐馬介|祖父実阿跡》   広胤《割書:七郎又阿弥土丸童名|阿土丸早世》  胤基《割書:松本》      胤家《割書:幸満丸|甥広胤跡》  胤文《割書:馬場承久元己卯|右京權太夫義時大|倉亭入御供奉随兵》 有胤《割書:七郎左エ門法名成高|実高胤子》  行長《割書:助二郎丹後守 先父死|八月六日佐兵エ尉弘長三素暹追善懐紙ウラニ経ヲ書ス将軍夢想ニヨツテ也》  胤長《割書:イ仲随兵ニ撰ルレトモ先帰国依テ不例》  胤是《割書:中務》            《割書:一本》胤行      胤重《割書:中務少輔|下野守素通|後行氏》  胤耀《割書:六郎》              泰行《割書:図書介》  胤秀《割書:次郎左エ門尉 ■(ム)【「宏」の誤記とその注記ヵ】覚》 胤元《割書:左京亮■(ム)【前注に同じ】全》 義行《割書:四郎》  胤氏《割書:出羽守》             氏村《割書:六郎左エ門入道素源》  胤光《割書:六郎 本満胤》           女《割書:歌人前刑部少輔忠成朝臣室忠成三浦|泰村一味毛利入道西阿為同意然レトモ|胤行一宮ノ功ヲ賞シ当歳ノ小児トトモニ|胤行ニ預ケラル》  亀寿丸《割書:六郎》           《割書:一本》胤行  行氏《割書:従五位下下野守|古今相伝 素道》   時常《割書:素阿ミ|新続撰作者》   常顕《割書:従五位下中務大輔下野守|法名素英天龍寺供養供奉人|》                     《割書:元弘三年四月六波羅籠城衆ニ東三郎左|エ門尉氏時アリ可考淡河左京亮通時|ニ属シ東寺西七條ニ陣シ赤松円心ヲ打》  女《割書:歌人|続拾遺作者》      氏村《割書:平大 素源|新続拾遺作者》  師氏《割書:従五位下下総守明徳三相国寺供養随兵|五人ノ内第二番応永廿九年卒》    胤綱《割書:改益之従五位下式部少輔下総守|素明》  氏数《割書:従五位下下野守宗玄》      元胤《割書:三郎早世|妙童院》    常慶《割書:下野守》  常庵《割書:和尚木蛇寺》         氏胤《割書:中務宮内少輔|素珃》  常縁《割書:従五位下下野守素暁又素伝》  《割書:一本| 》時常  氏村    常顕   師氏  《割書:総州東庄三十三郷并美濃郡上郡在城|自承久二至文明応仁乱ノトキ関東下向ノ間》 氏数  常縁    常慶  《割書:為斎藤妙椿攻落サル常縁詠和歌妙椿|ニ送ル敵感之以城テ帰ス古今集令伝|授公家無双歌人》   常縁《割書:前車後車語集ニ千葉|常兼十三代》 尚慶《割書:下総守》  頼数《割書:宮内少輔|素光》          頼数  元胤《割書:六郎》  常慶  常和《割書:左近大夫》 胤氏《割書:素純歌人入集|山里ハ心ツクシモ|ナクサミモヒトツ》 女《割書:盛数妻》       胤縁《割書:遠藤新兵衛|実盛数弟》  頼房      《割書:木ノ間ノ秋ノ|夜ノ月》   盛数《割書:実遠藤新兵衛胤好子|婿養子初東後遠藤》 尚胤《割書: |法名素経》  常氏   胤基《割書:遠藤大隅守|秀吉ニ仕文禄|四年朝鮮ニ病死》  胤直  慶隆        《割書:宮内少輔法名素山寿昌院|自為家郷古今相伝至永禄|年中十六代正統也》 【右丁】 千葉氏(ちばうし)故城(こじやう)     【落款ヵ】煙 址(し)の図(づ)     登戸村 【中央】 治承四年の菊月末の比武蔵国 勝呂の郷といへる所の住吉社に      千葉町 神拝しけるとてよみて奉侍る        千葉介平常胤  あとたれて    み世やふりぬ   すみよしの      宮ゐそこゝも    かみさひにけり 【左丁】                    猪鼻山    琴後集    こゝろあてに      みし白雲は     寒川村     ふもとにて       おもはぬかたに      はるゝふしのね          春海 ○千学集(せんかくしう)に大治元年丙午六月 朔(さく)はしめて千葉を立(た)つ凡(およそ)一 万(まん)【萬】六千 軒(けん)なり  表(おもて)八千軒 裏(うら)八千軒 小路(こうち)表裏(へうり)五百八十余 ̄ノ小路(こうぢ)也 曽場鷹(そはたか)大明神より御達報(こたつほ)  稲荷(いなり)の宮の御前(おんまへ)まて七里の間(あいた)御宿(おんしゆく)也曽場鷹より広小路(ひろこうし)谷部田(やへた)まて国中  の諸侍(しよさむらひ)の屋敷(やしき)なり是(これ)は池田鏑木殿の堀内(ほりうち)有(あり)御宿(おんしく)は御一門(こいちもん)也 宿(しく)の東(ひかし)は円城  寺 一門(いちもん)家風(かふう)おはしまし宿(しく)の西(にし)は原 一門(いちもん)家風(かふう)おはします橋【槗】より向(むかふ)御達報(こたつほ)まて  は宿人(とのゐのひと)屋敷(やしき)なりこれによつて河向(かはむかふ)を市場(いちば)と申なり千葉の守護神(しゆこしん)は曽場鷹  大明神 堀内(ほりうち)牛頭天王(ごつてんわう)結城(ゆうき)の神明(しんめい)御達報(こたつほ)の稲荷(いなり)大明神千葉寺の竜蔵(りうさう)【龍】  権現(こんげん)是(これ)なり弓箭神(ゆみやかみ)と申は妙見八幡 摩利支天(まりしてん)大菩薩(たいほさつ)【𦬇】是(これ)なり千葉 御神事(こしんし)  は大治二年丁未七月十六日より始(はしま)るなり常重(つねしけ)御代(おんたい)の事(こと)也 御幸(みゆき)仮屋(かりや)【假】は神(かん)  主(ぬし)八人 社家(しやけ)八人 乙女(おとめ)四人 御祭(おまつり)の御舟(みふね)は宿中(しくちう)の老者(ろうしや)の役(やく)なり供物(ぐもつ)は千  葉 中野(なかの)十三 貫(くわん)ところ也 同(とう)関銭(せきせん)諸侍衆(しよさむらいしゆ)上(あ)け申也 一関(いちのせき)は仮屋(かりや)【假】の供物(くもつ)を神  主にとらせ一関(いちのせき)は老者(ろうしや)にとらせて御祭(おまつり)を勤(つと)め申也 結城舟(ゆうきふね)は天福(てんふく)元年  癸巳七月廿日より始る也時胤の御代の事也御 浜下(はまおり)の御 送(おくり)の御舟なり  結城(ゆうき)の村督(そんとく)に宍倉(しゝくら)出雲守(いつものかみ)と申もの永鏡(えいきやう)のために取立しもの也結城は今  の寒川なり大治二年 御神事(こじんし)の始より天正二年甲戌まて凡三百四十三年也 ○東路のつとに十四日十五日千葉の崇神(そうしん)妙見の祭礼とて三百疋の早馬を  見物(けんふつ)也云々と見ゆ《割書:△千学集は信しかたきこともあれと当時|千葉家の大概を観るに足るへけれはあけつるなり》 亀沢山(きたくさん)清光寺(せいくわうし) 元(もと)佐倉(さくら)村にあり寺領(しりやう)五拾石《割書:天正十九年|辛卯十一月》浄土宗(しやうとしう)江府(こうふ)三縁山(さんえんさん) 末(まつ)なり本尊(ほんそん)は阿弥陀如来(あみたによらい)開山(かいさん)を月峰(けつほう)上人と云 寺(てら)の伝(つたへ)は天正中二世 無算師(むさんし) 大樹寺殿(たいじゆしてん)の御歯骨(おんはこつ)を負(おひ)関東へ下(くた)り所々(しよ〳〵)遍歴(へんれき)いたされし処(ところ)因縁(いんえん)ありて 当寺(とうし)に住(ぢう)せられ山内(さんない)清浄(しやう〴〵)の地(ち)を撰(えら)み埋葬(まいさう)せられける其後(そのゝち) 神君東金 へ鷹野(たかの)の節(せつ)無算和尚(むさんおしやう)当国(とうこく)在住(ざいちう)の由(よし)聞(きこし)召(め)され御尋(おんたつね)に付 即(すなはち)東金へ御 伺(うかゝひ) に罷(まか)りいでゝ御歯骨(おんはこつ)此地(このち)へ埋葬(まいさう)の旨(むね)申上候処 御感(こかん)の上(うへ)東金(とうかね)より当山へ 御入りこれあり御一宿(ごいつしゆく)遊(あそ)はされ御歯骨(おんはこつ)御廟(こへう)御参詣(こさんけい)御墓(おんはか)しるしに厚(こう) 朴(ほく)を植(うゑ)させられハウの木は子孫長久の基(もとい)瑞祥(すいしやう)の霊樹(れいしゆ)なりと仰られ候 よしと云々 玉垣(たまかき)は慶長中土井家にて建立(こんりう)せられしより代々(たい〳〵)佐倉領主持と なる《割書:域中大堀と字せる地に清水と云|あり万千代殿供御の用にてありしと云》  同(とう)所蔵仏(しよそうふつ)阿弥陀如来(あみたによらい)銅像(とうさう)背面識(はいめんのしき)《割書:長一尺|六寸許》     橘氏女橘 願智光念菅厚円阿定阿道阿 ■範并妙円感助■■【宗廮ヵ】《割書:手代 頓阿|同氏 生阿》      行阿来阿《割書:同氏》 正安二年九月日願阿 道円  ■【鋳ヵ】 モア 道阿 【中央下段】 同 観音(くわんおん)銅像(とうさう)背面識(はいめんのしき)《割書:長一尺一|寸五分》   順阿   沙■【弥ヵ】西心   平氏女  同所蔵古硯《割書:石質金眼アリ》    ウラ銘 【三日月形の枠の中】 杉本友石作 【硯の図の上と右】 四寸二分    八寸一分 常奯山(しやうくわいさん)勝胤寺(しやういんし) 大佐倉村にあり寺領(しりやう)廿石《割書:天正十九年|辛卯十一月》禅宗(せんしう)曹洞派(さうとうは)土室(つちむろの) 祥鳳院(しやうほういん)末(まつ)なり本尊(ほんそん)釋迦如来(しやかによらい)開基(かいき)享禄元年千葉 ̄ノ介 勝胤(かつたね)《割書:天文廿一年|五月廿一日卒》開(かい) 山(さん)華翁祖芳和尚(くわおうそはうおしやう)《割書:天文廿年十一月|八日示戚す》域中(いきちう)千葉家代々の墓碑(ぼひ)数基(すき)あり勝胤(かつたね)以(い) 来(らい)のものなるべし鐫字(けいし)なけれは其詳(そのつまひらか)なることは知(し)るへからす 庭内(ていたい)小池(しようち) あり千葉水と号(かう)す一(いつ)古松(こしやう)ありこれを掩(おほ)へり《割書:当時寺領七十五貫文附られしよし|残欠の古簿にのすと佐倉風土記に見ゆ》           総之下州印播郡大佐倉村常奯山境内地蔵堂   地蔵堂鰐口識  鰐口          壱箇           正徳五《割書:乙| 未》年六月吉日綿貫夏右衛門尉平政春 喜捨  所蔵教授文 黄銅筐ニ入此三行ハ其一斑也  八寸三分 【罫線で囲む】     教授文  夫諸仏 ̄ノ大戒者 ̄ハ諸仏之所_二護念 ̄スル_一也《割書:玉?》 ̄リ有 ̄リ_二仏-ヽ相  授_一有 ̄リ_二祗ヽ相伝_一嗣法超-_二越 ̄シ於三際 ̄ニ_一證 契(カイ)連-_二綿( メン) ̄ス  於古今 ̄ニ_一吾 ̄カ大師釋迦牟尼仏陀附_二授 ̄ス吾 ̄カ迦葉 ̄ニ_一 千葉家(ちばけ)陣皿(ちんさら)《割書:地金真鍮|至テウスシ》 【上段のお皿の説明】 真鍮八枚 二寸七分 径五寸五分 【中段容器の説明】 真鍮十枚 三寸三分 径五寸七分 【下段 お重の説明】 朱漆沈金三重ナリ高八寸径八寸 上唐絵楼閣人物中種々ノ絵アリ 組重 底 【八角形の枠の中】   従五位平朝臣 勝胤寺公用 径六寸   笏室置之 外ニ  九穴貝 石浜栗 龍馬角  天狗爪 染付細口等アリ 【箱の図の上部 逆様になっている文字】 千葉石  此石者祖先   良文以来當    家授受之重     器也天文壬      辰之春勝胤       寄納之於當       寺爾来踰十       紀矣方今與       常住村学和       尚胥議而命       鋳工伊藤光       信新製銅函【凾は俗字】       蓮座而安石       於其中以奉       納焉聊表追       遠之万乙者       也且系譜并       石證文者収 【箱の図の天板部】 三寸九分 寄納常奯山勝胤寺 醍醐天皇勅号 千葉石 千葉介平正胤 千葉介平尚胤 【箱の右側板部】 在予家《割書:尚胤 自|筆之》 寛文壬子仲春吉辰 千葉介平正胤 妻真壁氏女 嫡嗣千葉平尚胤 【箱の内側】 台【臺】座 ̄ノ裏  千葉石 千葉石  蓮座  蓮座   五寸三分  三寸九分 【蓋板の右】 蓋【盖は俗字】 ̄ノ裏  寄納銅函弌箇  千葉石   常奯山勝胤寺 【蓋】 無量寿仏 同木皿 【上部】 朱漆沈金《割書:径五寸》   六枚 【下部】 外六枚ハ底黒漆沈金絵亦異ナリ  底 【丸の中】     鏑木長門  勝胤寺     置之     径三寸二分 朱漆八枚《割書:径三寸四分》 底   径二寸六分 【丸の中】 勝胤寺  巽 鏑木長門置之 鏡《割書:径三寸九分|厚一分五厘》 【下部】 外ニ径一尺五寸ノ丸キ坐蒲団ノ如キ切レアリ当四銭形ノ 縫ツフシアリ祖芳ノ遺物ナリト云 【壷の説明】 瓶子   二尺 外径六寸五分 黄薬 【上段】 本佐倉町(もとさくらまち)正谷山(しやうこくさん) 長勝寺(ちやうしやうじ)鰐口(わにぐち)径八寸七分 福徳二年ハ延徳三年 ナリ頭白ハ常陸小田ノ 一族下総ニ掛錫シ香取 郡大根村ニ文明十八年 逆修ノ碑アリ頭白ノコト常 仙雑話ニ詳ナリ 或云瓜連常福寺過 去帳享禄元年戊子 三月朔日大田極楽寺 開山虚海寂 ̄ス虚海称 頭白上人トアルト和光 ̄ニ 院年代記ニ村松ヲ再 興セシトハ確説ナリ小田 ノ族タルコトハタシカナラズ 常仙雑話ハ東国戦記 ノ類ニテ証トハナシカタシ 【下段 円の外側】 下総国佐倉長勝寺鰐口  天文二十《割書:辛|井【ママ】》六月廿六日 大檀那吉岡源左衛門尉求之 【同 円の内側】 下総国 松沢大権現鰐口也 当社大工聖淨金福徳二年《割書:辛|卯》八月日 大旦那 頭白上人 本佐倉村(もとさくらむら)千葉家(ちばけ) 故城址(こじやうし)の図(づ) 【右丁】 酒々井駅(しゆすゐゑき)の図(づ) 【左丁】 【落款】 雪堤 酒々井駅(しゆすゐえき)妙見社(みやうけんしや)傍(ぼうの)老松(らうしよう) 俗(ぞく)に肥前坂(ひぜんさかの)八抱松(やかゝへまつ)と云 【落款】 雪堤 印播沼(いんばぬま)《割書:沼にはあらす湖なり江也なと|いへと姑く公行の文字に随ふ》郡名(くんめい)とおなしく沼(ぬま)の頭(ほと)りに稲葉(いなは)村あり《割書:物|井》 《割書:川の川上に|あり》是(これ)より負(おは)せたる名(な)也 源(みなもと)は数條(すてう)あり一(いつ)は戸神(とかみ)平戸(ひらと)の間(あいた)より来(きた) り一(いつ)は神佐山(かみさやま)の間(あいだ)より来り共(とも)に舟尾(ふなを)の下(もと)にて会(くはい)し広(ひろさ)六町(ろくてう)ばかり東(とう) 南(なん)の方(かた)へ一里(いちり)ほど流(なが)れ師戸(もろと)にいたり鹿島橋(かしまはし)の下(もと)にて物井川(ものゐかわ)を容(い)れ 広(ひろさ)拾二町(じうにちやう)許(ばかり)となり是(これ)より東北(とうほく)の方(かた)へ一里半(いちりはん)ほど流(なか)れ平賀(ひらか)にいたり是(これ)より 北(きた)に折(を)れ弥(いよ〳〵)張大(ちやうだい)になり其広(そのひろさ)二里(にり)ばかり印播(いんば)埴生(はふ)の二郡(にくん)に亘(わた)り安食(あしき)の 地(ち)にて利根川(とねかは)へ入(い)る其 入川(いるかは)の口(くち)は凡(およそ)はゞ三十間(さんじんけん)と云(いふ)沼中(せうちゆう)噴水穴(ふんすいけつ)多(おほく)あり土人(どじん) サクチ穴(あな)と云秋冬の交鯔魚(かうしぎよ)水(みづ)の温気(おんき)を好(この)み此(こゝ)に集(あつま)る故(ゆへに)名(な)つくと大なるは 吉高の下(もと)に二所(にしよ)安食(あしき)の下(もと)に七所(しちしよ)あり漁人(ぎよじん)試(こゝろみ)に竿(さほ)を竪(たて)にし力(ちから)を極(きは)めて投(とう)す るに水(みづ)清(きよ)みおれとも其 影(かげ)を見さる程(ほど)しづみ暫(しばらく)して浮出(うかみいづ)といかにも余程(よほど)深(ふか) きことゝ見(み)ゆ大さは孰(いづれ)も一二間(いちにけん)四方(よはう)なり常(つね)に水(みづ)をふき出(いだ)す事(こと)絶(たえ)され ども水(みづ)の上(うへ)へ揚(あが)る程(ほど)にはあらす夏日(かじつ)淫雨(いんう)のをり沼上(せうじやう)に陰火(いんくわ)あり或(あるひは)聚(あつま)り 【右丁】 中川台(なかかはだい)【臺】より 印播沼(いんはぬま)を 望(のぞ)むの図(づ)  苔清水   とゝまらぬ     水を見て       こそ    しられけれ     淀むは       濁る      はしめ也        けり        魚貫 【右下に落款】 雪堤 【左丁】 筑波山【四角で囲む】 中川【四角で囲む】  此地毎家井水  噴出清冽愛  すべし 或(あるひは)散(ち)り忽(たちま)ち遠(とほ)く忽(たちま)ち近(ちか)く亦(また)一(いつ)奇観(きくわん)也 ○佐倉風土記云江之為 ̄ル_レ景不_レ宜 ̄カラ_二于平 ̄ニ_一者蘆荻遮 ̄レハ_レ望 ̄ヲ也而宜 ̄シ_二于登覧 ̄ニ_一矣其  登覧者平賀 ̄ヲ為_レ佳 ̄ト飯野次 ̄ク_レ之烟 ̄リ-収 ̄リ水-澄 ̄ミ一-鑑萬-頃環-浦之山如_レ揖 ̄スル如  《割書: |レ》坐 ̄スル如_レ走 ̄ル如_レ駐 ̄ル翠屛画開 ̄スル者 ̄ハ平賀之望也浩々 ̄タル大江一條鎔 ̄シ_レ銀 ̄ヲ以為 ̄ル_二長  帯 ̄ノ水匹練 ̄ト_一沙禽飛鳴 ̄シ風和 ̄シ日斜 ̄ニ而面 ̄スル_二富士峰 ̄ヲ于其千里表 ̄ニ_一者 ̄ハ飯野之  眺也凡 ̄ソ環 ̄スル_レ江 ̄ヲ村三十 ̄アリ神也保品也青菅也先崎也臼井也土浮也萩  山也飯田也大佐倉也柏木也下方也北須賀也八代也大竹也酒  直也安食也俱 ̄ニ連 ̄シテ_二印東 ̄ニ_一而起 ̄リ_二於乾 ̄ニ_一繞 ̄ル_二于兌離震 ̄ニ_一以終 ̄フ_二于北 ̄ニ_一焉•船尾也  松崎也吉田也巌戸也師戸也鎌刈也瀬戸也松虫也萩原也中根  也笠神也皆連 ̄シテ_二印西 ̄ニ_一而起 ̄リ-終 ̄ニ回-_二繞 ̄ス於印東 ̄ニ_一焉 仏林山(ふつりんさん)浄泉寺(じやうせんじ) 印播 ̄ノ郡 伊篠(いしの)村にあり曹洞(さうとう)宗常陸 ̄ノ国多賀 ̄ノ郡 杉室(すきのむろの)大雄(たいゆう) 院(いん)に属(しよく)す開基(かいき)粟飯原(あいはら)胤光(たねみつ)開山(かいさん)断江周恩(たんかうしうおん)和尚(おしやう)《割書:明応四年乙卯|七月八日寂》本尊十一面観 音は粟飯原(あいはら)豊後守(ふんごのかみ)胤光(たねみつ)《割書:一胤長に作る又左|近将監と称す》か守本尊なり延徳二年庚戌八月 十八日 建立(こんりふ)す周恩をして寺主(じしゆ)たらしむ《割書:周恩は杉室の二世也|小栗周心院に転住す》此寺(このてら)其をりは周心(しうしん) 院(いん)と云しを千葉輔胤(ちはすけたね)の時(とき)《割書:此時馬加康胤千葉の家事を取りしと見え文書も康胤より|給りしなり康胤は明応四年乙卯十一月二十一日死年三十八法名月》 《割書:窓常輝|大居士》僧(そう)の寿星(しゆせい)住持す《割書:此僧もと大雄院に住持す|此をりより其末寺となると云》当時(たうじ)伊篠(いしの)は胤光(たねみつ)か居(を)りし 地(ち)と見(み)え胤光 死後(しご)子(こ)右衛門三郎 胤信(たねのふ)周心院を改(あらため)父(ちゝ)か法名(はふみやう)をもて寺号(しかう)とせ しと云《割書:胤光永正五年戊辰十二月十一日死年五十七法名寒翁浄泉居士○明和七年寺記に|本尊も寺号も小栗周心院より持来るよし識せり引寺なとにやそれゆへ周心院と号せしと見ゆ》 ○伊篠の並木を杢 ̄ノ進並木と云《割書:此地杢 ̄ノ進新田と称す此人は|土井家の代官なりしとぞ》  延喜式諸国騎路 ̄ノ辺 ̄ニ植 ̄テ_二果樹 ̄ヲ_一令 ̄テ_下_二往環 ̄ノ人 ̄ヲ_一得_中休息 ̄ヲ_上若無_レ水処 ̄ハ量 ̄テ_レ便 ̄ヲ掘 ̄シム_レ井 ̄ヲ  云々 ○甲斐叢記《割書:巻|三》北史韋孝寛為 ̄ル_二雍州 ̄ト_一改 ̄テ_下路測一里置 ̄ク_二 二土堠 ̄ヲ_一処 ̄ヲ_上植 ̄テ_レ榎 ̄ヲ代  焉周 ̄ノ文帝令 ̄ム_二 天下 ̄ニ效 ̄ハ_一_レ之一里植 ̄ヘ_二 一木 ̄ヲ_一 二里植 ̄ヘ_二 二木 ̄ヲ_一百里植 ̄ユ_二百木 ̄ヲ_一 浄泉寺(しやうせんじ)所蔵(しよさう)銅雲版(とううんはん)《割書:竪一尺五寸七分|横一尺四寸三分》 【雲版図の中】     応永二十二年 下野国那須栗山大雄禅寺     乙未十一月日   寛文十庚戌歳夷則日過去帳叙ニ天文廿三年甲寅七月吉日浄泉院寄進粟飯原イナノ 胤満開基寄附之守本尊之後世背ニ如是漆ニテ書付有之也トアリサレト今ハ差コミナシ 【本尊台座裏の拓本 右から横書き】 妙観禅尼 【拓本の左横】 台座ノ裏図ノコトキ 識アリ妙観ハ胤光カ 母堂ニヤ 【本尊右横】 長一尺許 【本尊下】 七寸許 【本尊左】 【図】背ニ図ノ如キ指口アリ 此処過去帳佐倉風土記等ニ挙タル識語ノ付シ サシコミ有シナルベシ 【右側欄外】 所蔵文書 【枠内上段】 印東庄伊篠北方村事 粟飯原豊後入道浄泉 任申上旨周心院於被成 菩提所候次普光寺 二宗比丘尼如毎々可加 扶持候此儀於子々孫々 不可有相違之状如件 明応四   十一月九日常輝【花押】    粟飯原豊後入道殿 【枠内下段】 相守実父左近将監遺 跡下金山并松崎郷神宮 寺任先例可令領知仍 広倉寺領伊篠北方之 事周心院《割書:江》寄進是 又不可有相違之状如件  永正六年九月廿八日輪覚【花押】    粟飯原右衛門三郎殿 【左側欄外】 成田参詣記巻四終        竹口貞斎刻 【白紙】 【裏表紙】 【表紙 題箋】 成田名所図会  【筆記体で】Simosa  一 安政戊午春三月刻成 成田参詣記   新勝精舎藏版 【白紙】 成田名所図会《割書:全|五|冊》 【四角の囲みの中】    《割書:名山閣|玉山堂》発兌 【白紙】 【資料整理番号】 DON ■■1012 序 吾山は霊験すくれて炳尊けれは 貴賤渇仰の首を傾け遠近信 心の歩を運ひ今は世にかくれなき 讃仏場となりぬれといまた其故 よし開基の上人の御伝なとは記 せる書もあらさりけるを故人中路 定俊かあらかしめおもひ立ありし にことはたさすして身まかりたりき その真子定得父の志をつきこれ かれといたつきもれたるをおきなひ かけたるをくはへてかうやうの 草子とはなしぬこの定得は世にへつ らはぬさかありてなへてのことゝも有を あるとし無をなきとして古書を 徴としかの将門か凶威をふるひし 所のかみより伝へ来にし重宝の あるかたちをさへ詳にうつし出 たるのみかは江考より此処まての 道すから神社仏寺の旧【舊】説をも 索りて露も浮たる事なく書 いてたるなりされは吾山はさるも のにてその所々のたよりにさへそ あるへき今此ふみのなれる悦に堪 ねは拙きをわすれて一言を巻の端に 添るになむ嘉永七年といふとしの五月   洛西嵯峨御所大覚寺宮御直末     神護新勝寺      伝灯【傳燈】権大僧都法印照嶽 【落款】 新勝   照 寺■   岳    石斎【齋】高橋圭書【落款】  例言(れいげん) 一 此編(このへん)は先人 定俊(さたとし)か遺稿を増補し成田(なりた)のことを洩(もら)さす記(しる)すはじめに  江戸(えと)より参詣(さんけい)の道中(たうちう)にある古跡(こせき)及(およひ)神仏(しんぶつ)の来由(らいゆ)雅俗(かそく)を論(ろん)せす路(みち)  順(じゆん)に随(したか)ひ書(か)きしるしぬ其(その)取捨(しゆしや)は観(み)ん人(ひと)の意(こゝろ)にあるへし 一 正行(せいきやう)は寺社(じしや)の伝(つたゆ)る所(ところ)なり引証(いんしやう)【證】は一字(いちじ)を低(さけ)書(しる)すその間(かん)已(やむ)を得(え)さる弁説(べんせつ)  も玉石(ぎよくせき)を論(ろん)するに非(あら)す事実(じじつ)の顛倒(てんたう)を正(たゝさ)んと欲(ほつ)するのみ 一 古器(こき)金石(きんせき)は真図(しんづ)を縮写(しゆくしや)し故城(こしやう)残塁(ざんるい)は其形勢(そのけいせい)の大略(たいりやく)を載(の)せて当時(とうじ)世(せい)  体(たい)【體】の一斑(いつはん)を窺(うかゝ)ひ故人(こじん)の往蹟(わうせき)を尋(たつぬ)る便(たより)とす 一 江戸名所図会(えとめいしよづゑ)に載(のす)る所(ところ)の真間(まゝ)国府台(こふのたい)【臺】及(およひ)舟橋(ふなばし)等(とう)のこと彼書(かのしよ)に今(いま)の真(しん)  図(づ)をあくれは此編(このへん)は古(いにしへ)の故事(こじ)戦闘(せんとう)をのせ彼書(かのしよ)に古来(こらい)の題詠(たいえい)を載(のす)れ  は此編(このへん)は近代(きんだい)の詩歌(しか)を取(と)るさるは雷同(らいとう)の慊(けん)をさくるのみ覧者(らんしや)怪(あやし)む 一 古文書(こもんじよ)を多(おほ)く載(のす)るは当時(たうじ)の事実(じしつ)を睹(み)且(かつ)其年(そのとし)を追(おひ)てちりぼひ行(ゆか)んも  歎(なけかは)しけれは也 中山(なかやま)舟橋(ふなばし)等(とう)の世(よ)に知(し)られたる所(ところ)は其書(そのしよ)数(かず)多(おほ)く又(また)散逸(さんいつ)  の憂(うれい)も少(すく)なけれは其要(そのえう)なる物(もの)を採(と)り其他(そのた)は目録(もくろく)のみをあぐ 一 引書(いんしよ)の孫引(まこひき)は本意(ほんい)ならねと書(しよ)に乏(とほし)けれは止(やむ)ことを得(え)ざるは其(その)引(ひき)た  る人の名(な)を挙(あ)く考証(かうしやう)【證】の書(しよ)大同小異(たいどうせうい)は数書(すうしよ)を挙(あけ)すして一書(いつしよ)にしたがふ  其(その)繁(はん)に過(すき)て観者(くはんしや)の煩(わつらは)しきをおもひてなり《割書:鄙案は△をしるして|諸説に別つ》 一 一社(いつしや)ことに伝(てん)つくり一寺(いちじ)ことに由来(ゆらい)をかくは限(かき)りもなけれは顕(あらはれ)たる所(ところ)  のみをあく典故(てんこ)は先哲(せんてつ)の既(すて)に引出(ひきいて)たるも尋常(よのつね)のは名氏(めいし)を標(ひやう)せす誰(たれ)  も引(ひく)へきものなれはなり創見(さうけん)の考(かんかへ)は片語(へんご)にても必(かならす)名氏(めいし)を挙(あ)けつと  めて人(ひと)の美(び)を成(な)すを要(えう)す元(もと)より疑(うたかは)しき事跡(じせき)は姑(しはらく)舎(おく)先輩(せんはい)の謬誤(びやうご)  はつとめて省(はぶ)き弁駁(べんはく)を好(この)ます傷徳(しやうとく)を恐(おそ)れはなり 一此編(このへん)は棠陰翁か下総旧【舊】事沢【澤】田氏か埴生郡明細記等を多(おほ)く取(と)れり されと例(れい)の煩(わつら)はしきをいとひて亦(また)名氏(めいし)を標(ひやう)せす体裁は名所図会に  倣(ならへ)とも考証【證】は一條も俗書(ぞくしよ)を挙けす且文外の余意は看官の 見解(けんかい)を仰のみ                  中路定淂【注】識 【注 コマ107に「定得なる人物が出ている。「得」の崩し字に「淂」が有るのでここは、或は「得」で同一人物か。】 蔵経乎不経 存用乎無用   澤俊卿題 成田参詣記巻一目次  小松川村【四角で囲む】   浮洲(うきす)浅間社(せんげんのやしろ)《割書:天平(てんひやう)十一年 八幡古鏡(はちまんのこきやう) 千葉国胤(ちばのくにたね)所(よする)_レ寄(ところの)古鏡(こきやう)》   善照寺(ぜんせうじ) 《割書:薬師菩薩(やくしぼさつ) 天平宝字(てんひやうほうじ)四年 光明皇后墓板(くはうみやうくわうごうのぼはん)》   市川駅【四角で囲む】   国府址(こくぶのあと) 《割書:養老(やうろう)五年 ̄ノ府印(ふいん)》 市川(いちかはの) ̄ノ城址(しろあと) 《割書:古戦場(こせんじやう)》 総寧寺(そうねいじ) 《割書:什物目録(しうもつもくろく) 小笠原侯(をかさはらこうの) ̄ノ碑(ひ)》   弘法寺(くはふじ)《割書:什物目録(しうもつもくろく) 古文書目録(こもんしよもくろく) 古文書(こもんしよ)|菊池武房(きくちたけふさ)旗(はた) 古碑(こひ)》 真間(まゝの) ̄ノ浦(うら) 《割書:継橋(つきはし) 真間井(まゝのゐ) 手児奈墓(てこなのはか)》  須和田村【四角で囲む】   六所明神社(ろくしよみやうじんのやしろ)《割書:貞治(ぢやうぢ)二年 ̄ノ経箱(きやうばこ)|古文書(こもんしよ)》 国分寺(こくぶんじ)《割書:釈迦如来(しやかによらい) 古瓦(こくわ) 礎石(そせき) 古笈(こきう)|古文書(こもんしよ)》 【系図に引かれているような線は略す】 ○日本橋《割書:ヨリ市川ヘ|四里》逆井 ̄ノ渡 ̄シ《割書:武蔵葛|飭 ̄ノ郡》  東小松川村     千住駅【四角で囲む】  新 ̄イ宿駅【四角で囲む】  小岩村   市川 ̄ノ渡 ̄シ  市川村《割書:ヨリ八幡ヘ|一里》須和田村《割書:以下下総葛|飭 ̄ノ郡》  八幡駅【四角で囲む】《割書:ヨリ舟橋ヘ|一里十八丁》行徳駅【四角で囲む】【左ルビ:八幡ヨリ行徳へ一里九丁】《割書:ヨリ三里|八丁》小網町  中山村        【八幡駅と船橋駅を結ぶ横線の側に記載】舟橋ヨリ行徳ヘ二里八丁  栗原本郷村  船橋駅【四角で囲む】《割書:ヨリ大和|田ヘ三里九丁》  正伯新田《割書:以下千|葉郡》       前原村  大和田駅【四角で囲む】《割書:ヨリ臼井ヘ|二里》  萱田駅【四角で囲む】  下市場村《割書:以下印|播郡》  井野新田  上座村  臼井駅【四角で囲む】《割書:ヨリ酒々井ヘ|一里廿八丁》  角来村  佐倉【四角で囲む】  本佐倉町  酒々井駅【四角で囲む】《割書:ヨリ寺台ヘ|二里八丁》  中川村          下岩橋村  上岩橋村         公津村  伊篠村          船方村  成木新田《割書:以下埴|生郡》  成田村【四角で囲む】  寺台駅【四角で囲む】 【白紙】 成田参詣記巻一 浮洲浅間社(うきすせんけんやしろ) 東小松川村(ひがしこまつかはむら)浅間崎(せんけんさき)と云(いふ)地(ち)にあり社領(しやりやう)六石(ろくこく)《割書:慶安元年十月廿四|日 武蔵(むさし)の国(くに)と記(しる)す》 《割書:是(これ)より以前(いぜん)は伊(い)|奈氏(なうじ)の墨付(すみつき)也と云》毎年(まいねん)五月(こくわつ)晦日(みそか)の神事(じんじ)あり神宝(しんはう)に古鏡(こきやう)二面(にめん)を蔵(ざう)す《割書:下に|見ゆ》祠官(しくわん) を杉山主膳(すきやましゆぜん)と称(しやう)す《割書:此家(このいへ)鴻台合戦(こうのたいかつせん)のをり里見氏(さとみうじ)の味方(みかた)某(それかし)をかくまひ|北条氏(ほふしやううじ)に滅(めつ)せられしか寛永(くわんゑい)二年に再興(さいこう)すと云》 ○或(あるひと)云(いふ)兵部式(へうぶしき)尾張国(をはりのくに)駅馬津(こまつ)今(いま)は松川(まつかは)と里諺(りけん)に云(いへ)るによれは小松川(こまつかは)は  駒津川(こまつかは)なるへし《割書:△相馬郡(さうまこほり)に配松(はいまつ)村あり配松(はいまつ)は駅馬津(はいまつ)なるへし小貝川(こかいかは)によりし村なり又(また)常(ひ)|陸風土記(たちふとき)に榎浦之津(ゑのうらのつ)便置(えきか)_二 駅家(をおく)_一と見ゆ是(これ)も川添(かはそひ)の地(ち)なり》  別当(へつたう)善照寺(ぜんせうじ)に鈴森八幡(すゝもりはちまん)と云(いふ)社(やしろ)あり駅路鈴(えきろのすゝ)に因(ちなみ)ある事(こと)ならん又(また)湊(みなと)村  にも善照寺(せんせうし)と云(いふ)寺(てら)ありて古鈴(これい)を蔵(さう)せり原(もと)は此(この)善照寺(せんせうし)の退老(たいらう)の寺(てら)にて  もありしなるへしそれ故(ゆへ)古鈴(これい)を伝(つた)へしと見(み)ゆ《割書:△湊(みなと)村 善照寺(ぜんせうし)の古鈴(これい)は故(ゆへ)ありて|今(いま)は北沢(きたさは)の森巌時(しんかんし)にありとそ》  又延喜式(えんきしき)駅馬(えきば)浮島(うきしま)五疋(ごひき)又(また)浮島(うきしまの)牛牧(うしまき)とあるは此地(このち)の事(こと)なるにや船堀村(ふなほりむら)  の南(みなみ)を浮洲(うきす)と云(いふ)も元(もと)は此村(このむら)の内(うち)にてありしならんと云(いへ)り《割書:猶(なほ)江府(こうふ)近郊(きんかうの)古(こ)|昔(せき)駅程(ゑきてい)地理(ちり)は》  《割書:巻四(くわんのし)に見(み)ゆ|見合(みあは)すへし》 【右丁】 小松川村(こまつかはむら)           【落款】雪堤 浅間(せんげん)の図(づ) 《割書:浅茅集》 のとかなる          善照寺【四角で囲む】   御代のためしに  ひきもみよ   小松の川の    はるの     すかり【注】は 祠寒官杉山氏【四角で囲む】 【注 すがり=盛りが過ぎて衰えかかること。】 【左丁】   浅間社【四角で囲む】 社蔵(しやさう)古鏡図(こきやうのつ) 【以下の文は見出しの下に書かれているがフォントサイズを小さくせず、行を改めて記載す。】 或云扶桑略記ニ延喜二年五月四日宇佐託宣《割書:云々》名曰大自在王菩薩トアリ是ヨリ四十四年前ニ大菩 薩トアルハ疑ハシ続紀ニモ天平十二年ノ条ト勝宝元年ノ条ト皆八幡大神トアリテ菩薩トハナシト云一ワタ リハサルコトナカラ此ハ天平己卯ニモノセシニテハナク後ニ鋳テ寄セシモノナルヘシ天平己卯ハ其祀リシ年ヲク リ上ケ識ルセシモノト見ユ日本紀ノ国々ノ名ナトモ後ノ分国ノ名ニテ当時ノコトヲ記シ古事記ト 合ヌナトノ類ナラン因リ按ニ八幡村ノ八幡鐘識ニ宇多天皇ノ寛平中石清水八幡ヲ移シ祀レルヨシ ヲ識ルセリ此鏡モ其時ナト寄セラレシニヤ字体ノ模様鎌倉以後ノモノトハ見エサルナリ 【上部鏡】  径七寸厚二分弱  背 南瞻部州大日本 総州葛飾郡府西 医王山国分尼寺 妙法華薬王品院 鎮守八幡大菩薩 天平己卯齊祀所 浅間ノ社ノ祀官ニテ八幡エ寄セシ鏡ヲ偽造モスマシナホ神 職ノ身ニテ菩薩ノ字ヲハ枉テモ用ユマシキヲシカ識ルシアルハ モトノマヽナルベシト或云リ 【下部鏡】 背 涇七寸厚一分許《割書:耳オレカ|エリナシ》 【鏡の下部外側】 此トコロキリコミ図ノコトキ識アリ             胡粉塗厚             一寸五分許 底ノホリコミノ識 四寸六分 【囲みの中】  永禄十二《割書:己|巳》年         千葉介平国胤   正月吉日 【囲みの上部】 一寸三分 ○南瞻部州(なんせんぶしう)は翻訳名義集(ほんやくめいきしう)に西域記(さいいきゝに)云 南瞻部洲(なんせんふしう)旧(もと)曰(ゑんぶ)_二閻浮提洲(たいしうといふ)_一云々 蔵鈔(さうせうに)  云(いはく)瞻部(せんふ)此土(このとには)無(さう)_二相当(たうなし)_一故(ゆへに)不(ほん)_レ翻(せす)唯(たゝ)西域記(さいいきゝ)音中(おんのうちに)翻(ほんして)為(ゑい)_二穢樹(じゆとす)_一南瞻部洲(なんせんふしう)北広(きたにひろく)南狭(みなみはせまし)  三辺(さんへん)量等(りやうとう也)其相(そのさう)如(くるまの)_レ車(ことしと)云々 洲(しう)を州(しう)に作(つく)れるは省文(せいぶん)なり」府西(ふさい)は此地(このち)国府(こくふ)の西(にし)に  在(あ)れはなり今(いま)は葛西(かさい)と称(しやう)す府西(ふさい)とはめつらしき書(かき)さまなり」医王山《割書:云々》  解(かい)後(のち)に見(み)ゆ」鎮守(ちんじゆ)は北山抄(ほくさんせう)に鎮守明神(ちんじゆみやうしん)位階封戸(いかいほうこ)の事(こと)と見(み)え加茂社(かもやしろ)桜(さくら)  会(ゑ)縁起(えんき)に朝家(てうか)鎮守皇(ちんじゆくわう)大明神なと見(み)えたり」八幡(はちまん)は続紀(しよくき)に天平勝宝(てんひやうしやうはう)元  年十二月丁亥奉_二 八幡大神 一品(いちほんを)_一と見(み)え《割書:△是神(これかみ)に位階(いかい)を|授るの始(はしめ)なり》海東諸国記(かいとうしよこくき)に 孝謙(かうけん)  天皇(てんわう)《割書:云々》 天平勝宝(てんひやうしやうはう)八年丙申 有(あり)_レ虫(ちう)蠱(はちまん)_二 八幡神祠殿柱(しんしのてんちうをこす)_一 為(てんか)_二 天下大平之字(たいへいのしをなす)_一とも  見(み)えたり当時(たうし)此神(このかみ)を崇敬(そうけい)ありしこと推知(おしし)らる」大菩薩(たいぼさつ)は延喜式(えんきしき)神名帳(しんみやうちやう)  に筑前国(ちくせんのくに)那珂(なか) ̄ノ郡(こほり)八幡大菩薩(はちまんたいぼさつ)筥崎宮(はこさきのみや)《割書:名神|大》と見(み)ゆ又(また)常陸国(ひたちのくに)鹿島(かしま)の郡(こほり)大(おほ)  洗(あらひ)磯前薬師(いそさきくすしの)菩薩 神社(しんしや)《割書:名神|大》ともありて神号(しんかう)にも菩薩(ぼさつ)の字(し)を用(もちひ)られたり」  天平(てんひやう)己卯(きほう)は十一年なり前(せん)の続紀(しよくき)に載(の)する所(ところ)より二年 以前(いぜん)なり寄田(きてん)の  ことはなけれとも国分(こくぶん)両寺(りやうし)の建立(こんりう)ありしは早(はや)くよりのことく見(み)え同書(とうしよ)  に神亀(しんき)五年十二月 己丑(きちう)金光明経(こんくわうみやうきやう)六十四帙(ろくじうよちつ)六百四十巻(ろくひやくしじつくわん)頒(しよこく)_二於諸国(にわかつ)_一国別(こくへつ)十  巻(くわん)天平(てんひやう)十二年六月 甲戌(かうしゆつ)毎(くに)_レ国(ことに)法華経(ほけきやう)十部(しうぶ)并(ならひに)建(しち)_二 七重塔(ちうとうをたつ)_一焉と見(み)えたれは  是(これ)より先(さき)既(すて)に定(さため)たることなるべしさて此 鏡(かゝみ)の葛(かつ)を■【脚部を「タ」にする】に分(ふん)を■【「分」の頭部を「ハ」のようには開けないで閉じて書く】に薩(さつ)を■【「産」の部分の垂れ(丿)を省いた形】に齋  を■【「齊」の最終画「二」に縦棒「丨」を引いた形】に作れる類字体(るいしたい)今(いま)のものともおもはれすと或人(あるひと)は云(いへ)り猶(なほ)よく考(かんかう)  べし《割書:△此社(このやしろ)今(いま)は鈴森八幡(すゝもりはちまん)とて善照寺字(せんせうじ)域中(いきちう)にある|小祀なるとそ鏡(かゝみ)は故(ゆへ)ありて浅間社(せんげんのやしろ)へ納(おさ)むと云》 ○千葉介(ちはのすけ)国胤(くにたね)《割書:或邦胤|に作る》は胤富(たねとみ)か長子(ちやうし)なり初(はしめ)新介(しんすけ)と称(しやう)し後(のち)千葉介(ちはのすけ)を襲(おそ)ひ  称(しやう)す天正(てんしやう)十三年 乙酉(おつゆう)五月朔日 家臣(かしん)鍬田萬五郎(くはたまんごろう)か為(ため)に刺(さゝ)れ是歳(このとし)七月  五日 竟(つい)に創(さう)を病(や)んて死(し)す年二十九 大佐倉(おほさくら)村 勝胤寺(しやういんじ)に葬(ほうむ)る法号(はふごう)傑心(けつしん)  常林法阿弥陀仏(しやうりんはふあみだぶつ)《割書:一云 快楽院殿(くはいらくいんてん)|安清浄岸(あんせいしやうがん)》と千葉大系図(ちばおほけいづ)関東古戦録(くわんとうこせんろく)佐倉風土記(さくらふどき)等(とう)に  見(み)えたり ○本土寺過去帳に七日千葉介邦胤鍬田孫五郎狂乱シテ御額ヲキリツケ  天正第十三《割書:乙》酉五月廿九歳逝去《割書:或云鏡識ノ国胤邦胤ト同人ナラハ永禄十二年ハ十三歳|ニテ父ノ富胤丗九ノ時ナリ未タ家督セス千葉新介トアルヘキハ》  《割書:ツナリ|ト云》 医王山(いわうさん)薬王院(やくわういん)善照寺(せんせうし) 同所(とうしよ)にあり《割書:浅間社(せんけんやしろ)の東北|六七丁 許(はかり)にあり》続紀(しよくき)に載(のす)る所(ところ)の下総国(しもふさのくに) 国分尼寺(こくふんにし)は即(すなはち)此寺(このてら)のことなり《割書:国分寺(こくふんじ)の條|見合(みあは)すへし》天平(てんひやう)の昔(むか)し 聖武天皇(しやうむてんわう)の勅願(ちよくくはん) にて建立(こんりう)ありし毎国(まいこく)一宇(いちう)の霊場(れいしやう)なり開山(かいさん)を全照尼(せんせうに)と云(いふ)《割書:銅牌(とうはい)の識(しき)に見(み)えたり善|照寺と云は此尼の法号を》 《割書:寺号とせしならん全(せん)と善(せん)とは一韵(いちいん)の転(うつ)りなり|○此寺(このてら)中興(ちうこう)は大永中隆範(たいえいちうりうはん)上人なりとそ》本尊(ほんぞん)の薬王菩薩(やくわうぼさつ)は天平(てんへう)の安置(あんち)なり 《割書:何(いつれ)の比(ころ)にや住持(ぢうじ)の僧(さう)其(その)古雅(こが)なるを嫌(きらひ)て是(これ)を末寺(まつし)の正徳寺(しやうとくじ)といふ寺(てら)に送(おく)り別(へつ)に新(あらた)に|造(つく)り替(かへ)たれと旧物(きうふつ)も今(いま)に存(そん)せり秘仏(ひふつ)なりとて容易(いようい)に見(み)せしめす》新義真(しんぎしん) 言宗(ごんしう)にて京師(けいし)醍醐(だいご)の三宝院(さんはういん)に属(しよく)す今(いま)は此地(このち)の浅間社(せんけんしや)の別当(へつたう)を兼(かね)勤(つと)む 《割書:按(あんする)に此寺(このてら)寺号(しかう)もかはらす銅牌(とうはい)も域内(いきない)より出(いて)たる|よしなれは寺地(しち)も元のまゝなること推知(おしし)らる》  文政十年丁亥七月寺普請に付地中を掘しに取出せしといふ墓版長一  尺二寸闊【濶は俗字】三寸厚五厘許《割書:按に皇朝金石編に船 ̄ノ史王 ̄ノ墓版を載たり銅牌長九寸七分|闊【濶は俗字】二寸二分厚五厘と当時墓版の制約略相似たり》   銅牌墓版図 或云皇大后ト云大夫人ト云ハ重言ノ上貴賎混合ス大法師ト云尼トアルハ男女分ラス捧腹スヘシト云々サレトコレカ当時ノ 【墓版】  【梵字】天平応真仁正皇大后正一位大夫人光明尊霊 真面目ナルベシモシ偽造ナラハコレホトノ間違ニ心付サルコトハアルマシキ也 【墓版】           下総国々分寺薬王品院  旦那堟銘天平宝字四年六月経王万部結願供養           別当伝灯大法師全照尼奉 ○【梵字】ハ梵(ほん)の阿字(あじ)なり大日経疏(たいにちきやうそ)に阿字(あし)是(これ)一切(いつさい)法教之本(はふきやうのもと)凡(およそ)最初(さいしよ)開口之(かいこうの)  音(いん)皆(みな)有(あせ)_二阿声(いあり)_一云々 故(ゆへに)為(しゆ)_二衆声之母(せいのはゝたり)_一と此(こゝ)に阿字(あし)を冠(かむら)せるもさることにや」続紀(しよくき)  正統記(しやうとうき)等(とう)の書(しよ)を参考(さんかう)するに太后(たいこう)名(な)は安宿姫(やすかへひめ)法号(はふがう)光明子(くわうみやうし)藤原不比等(ふぢはらのふひと)の  女(しよ)なり母(はゝ)は正一位(しやういちい)県犬養(あかたのいぬかひ)橘三千代(たちはなみちよ) 聖武帝(しやうむてい)東宮(とうぐう)のをり年十六にて  妃(ひ)となり神亀(しんき)元年 帝位(ていい)に即(つく)に及(およ)んて正一位を授(さつけ)らる大夫人(だいふしん)となり 高野天皇(こうのてんわう)及(およひ)  太子(たいし)を生(う)む天平(てんへう)元(くわん)年立て皇后となる《割書:△皇朝金石編に藤氏家牒を引て母は正四位下加茂|朝臣比売初県犬養宿祢東人に嫁し故ありて大》  《割書:帰す天平元年八月立て皇后となる|時年二十九とあるは異なる伝へなり》東大寺(とうたいじ)及(およひ)天下国分寺(てんかこくぶんし)は 聖武帝(しやうむてい)の建立(こんりう)なれ  と皆(みな)太后(たいかう)の勧(すゝ)むる所(ところ)なり 高野天皇(たかのてんわう)受禅(じゆせん)宝字(はうし)二年に尊号(そんかう)を上(たてまつ)り天(てん)  平応真仁正皇太后(ひやうおうしんしんしやうくわうたいかう)と称(しやう)す天平宝字(てんひやうはうし)四年六月 薨(こうす)年六十《割書:△聖武帝遜位のをり|帝と共に落飾す》  是月(このつき)癸卯(きばう)大和国(やまとのくに)添上郡(そふのかみこほり)佐保山(さほやま)に葬(はうふ)る」 光明(くわうめう)は金光明最勝王経(こんくわうみやうさいしようわうきやう)より取(と)    れる号(かう)なるべし然(しかる)に元享釈書(けんかうしやくしよ)光明子(くわうみやうし)の伝(てん)には体貌姝麗(たいはうことにうるはしく)以(くわう)_レ有(えうあるを)_二光耀(もての)_一故名焉(ゆへになつく)  とは附会(ふくわい)のことならむ」旦那(たんな)は檀那(たんな)の省文(せいふん)なり翻訳名義集(ほんやくみやうきしう)に檀那字(たんな)秦(しんに)言(ふせ)_二布(と)  施(いふ)_一若(もし)内(うち)有(しん)_二信心(〴〵あり)_一外(ほか)有(ふく)_二福田(でんあり)_一有(さい)_二財物(もつあり)_一 三事(さんじ)和合(わかふし)心(こゝろ)生(しやはふ)_二捨法(をしやうじ)_一能(よく)破(けんどん)_二慳貪(をやぶる)_一是(これを)為(たん)_二檀(なと) 【右丁】 光明皇后(くわうみやうくわうこう) 千人(せんにん)を浴(よく)す る図(づ) 【左丁】 大日本史天平 ̄ノ初僧 ̄ノ 玄昉自_レ唐還 ̄ル帝賜 ̄テ_二 紫袈裟 ̄ヲ_一以為 ̄ス_二僧正 ̄ト_一 安置 ̄ス_二内道場 ̄ニ_一后甚 寵異 ̄ス頗有_二醜声_一云云 当時のこと想ひ やられたり 小中村清矩云続紀廿二《割書:廿八|丁》に光明 皇后正一位を授らるゝよしみえ たれと誤なり其証は同書十《割書:五|丁》 に神亀四年十一月賜従三位藤原 夫人食封一千戸とみゆ同《割書:廿三|丁》天平 元年八月詔立正三位藤原夫人 為皇后とあり皇后に立たまひ し時正三位也△皇后に立玉ひし とき正三位なれは聖武帝即位 のをり正一位を授られしは誤 りなること明けし天平宝字に 至り正一位に進しを混したる 謬りなるへし 【左下 陽刻落款】  那(なす)_一《割書:云々》此旦那(このたんな)は光明皇后(くわうみやうくわうこう)を指(さす)なるへし」塚(つか)は桑滄(さうさう)の変(へん)にて平地(へいち)となりしにや  又(また)は塚(つか)といふは名(な)のみにて元(もと)よりの平地(へいち)にや」銘(めい)は韻(いん)あるものを云(いふ)是(これ)は誌(し)とか  識(しき)とかあるへきを昔(むか)しより金石(きんせき)に識(しる)せるものは一概(いちかい)に銘(めい)と心得(こゝろえ)しと見(み)え  てかく識(しる)せり」経王(きやうわう)とは法華経(ほけきやう)の事(こと)なり《割書:一部八巻|廿八品》其(その)第(だい)廿三 薬王菩薩本(やくわうぼさつほん)  事品(しほん)に此経(このきやう)諸経中(しよきやうちう)王(わう)の語(ご)あり是(これ)より出(いで)しならむ」下総国(しもふさのくに)国分尼寺(こくふんにし)は類(るい)  聚三代格(しうさんたいかく)に天平(てんひやう)十三年二月十四日《割書:続紀十三年|三月條同》の勅(ちよく)に毎(くに)_レ国(ことに)僧寺(そうじ)施(こ)_二封五(じつこを)  十戸(せほうし) ̄ヲ_一水田(すいでん)十町(じつちやう)尼寺(にしにも)水田(すいてん)十町(じつちやう)僧寺(そうじ)必(かならず)令(にじつ)_レ有(そう)_二 二十僧(あらしむ)_一其寺(そのてら)名(なつけて)為(こん)_二金光明四天(くわうみやうしてんわう)  王 護国之寺(ごこくのてらとなす) ̄ト_一尼寺(にし)一十尼(いちしうに)其寺(そのてら)為(ほつけ)_二法華滅罪之寺(めつざいのてらとす)_一両寺(りやうし)相去(あいさり)宜(よろしく) ̄シク_レ受(きやうかい)_二教戒(をうくへし)_一  《割書:云々》《割書:皇朝金石編に勝宝感神聖武天皇 ̄ノ銅版|詔書を引 ̄キ并 ̄ニ写_二 法蓮華経十部 ̄フ【ママ】_一と見ゆ》続紀(しよくき)に天平(てんひやう)十六年六月 甲申詔(かうしんのせうに)曰(いはく)  畿内(きない)七道諸国(しちとうのしよこく)国別(こくへちに)割(せい)-_二取(せい) ̄リ正税四万束(しまんそくをわりとり) ̄ヲ_一入(そうに)_二僧尼両寺各二万束(りやうしおの〳〵にまんぞくをいれ) ̄ヲ_一毎年(まいねん)出挙(しゆつこし) ̄シ  以(その)_二其息利(そくりをもつて)_一支(えい)_二永造寺用(そうじようにさゝへよ)_一とあり然(しか)るに延喜式(えんきしき)には国分寺(こくふんし)料(りやう)五万束(こまんそく)とある  は天平(てんひやう)のをりよりは又(また)一層(いつそう)の冗費(しやうひ)を加(くわ)へしことく見(み)ゆ」薬王品院(やくわうほんいん)は前(まへ)に  あけたる薬王菩薩本事品(やくわうほさつほんしほん)に女人成仏(によにんじやうぶつ)の文(ふん)あり此品(このほん)をとり院号(いんかう)と  せしならん」別当(へつとう)は一寺(いちし)の統領(とうりやう)にて寺職(じしよく)なり下文(かふん)伝灯大法師(てんとうたいはふし)は僧官(そうくわん)な  り分別(ふんへつ)して観(み)るへし冠位通考(くわんいつうかう)に続紀(しよくき)を引(ひい)て天平宝字(てんひやうはうじ)四年七月 庚戌(かうじゆつ)  大僧都(たいそうづ)良弁(りやうべん)等(ら)か請(こい)により四位(しい)十階 階(かい)の制(せい)を定(さため)らる伝灯(てんとう)修行(しゆきやう)誦持(じゆぢ)と  三色(さんしき)に分(わか)たれ各(おの〳〵)法師位(はふしい)満位(まんい)住位(しうい)入位(しゆい)の四階(しかい)あり別(へつ)に大法師位(たいはふしい)あり  て以上(いしやう)十三階(しうさんかい)なり」大法師位(たいはふしい)は四位(しい)の極位(こくい)にて法師位(はふしい)大法師位は勅授(ちよくしゆ)  満位(まんい)住位(しうい)入位(しゆい)は奏授(そうしゆ)なれは当時(とうし)大法師位(たいはふしい)の尊(たつとき)ことしるへし此尼(このに)の  位記(いき)は此制(このせい)の立(たち)し月(つき)より一月(いちけつ)前(ぜん)なり」 全照尼(せんせうに)のこと考得(うかへえ)す《割書:古鏡の条と|此条とは或記》  《割書:を摘取|せしなり》 国府址(こくふあと) 国府台村(こふのたいむら)にあり《割書:今(いま)総寧寺領(そうねいじりやう)百石の地を国府台(こふのたい)村と称(しやう)すれと元(もと)は市川村の|内なり古書(こしよ)に小符代(こふたい)鴻岱(こうたい)高野台(かうのたい)等に作(つく)るもあれと共に非なり》 今(いま)国府台(こふのたい)と称(しやう)する地(ち)是(これ)なり《割書:豆相記に険岸高聳下帯_二大河_一 と|は此地の形勢を尽せり》 ○江戸名所図会(えどめいしよつゑ)に国府(こくふ)葛西(かさい)の地にあり永正六年 宗長(そうちやうの)記行(きかう)東土産(あつまみやけ)に  隅田川(すみたかは)の河舟(かはふね)にて葛西(かさい)の府(ふ)の内(うち)を半日(はんにち)はかり葭(よし)あしをしのき今井(いまゐ)と  云(いふ)津(つ)より浄土門(しやうともん)の寺(てら)浄興寺(しやうこうし)に立(たち)よりてとあり証(しやう)とすへしと云《割書:△是は庄(しやう)を府(ふ)|と読(よみ)あやま》  《割書:りし|なり》 ○葛飾浦(かつしかうら)名勝志(めいしやうし)に葛西(かさい)を下総 ̄ノ国府(こふ)と云(いひ)たるよし然(しかれ)とも東鑑を考(かんかう)るに  頼朝卿(よりともきやう)下総の国府に九月十九日より十月二日まて御陣(ごぢん)を居(すえ)られ夫(それ)よ  り太井(ふとゐ)隅田(すみた)の両川(りやうかわ)をわたるとあれは国府(こくふ)は利根川(とねかは)より東(ひかし)の方(かた)なるへし  又(また)同書(どうしよ)に治承四年九月十七日不_レ待_二広常 ̄カ参入 ̄ヲ_一令 ̄メ_レ向 ̄ハ_二 下総国 ̄ニ_一給 ̄フ千葉 ̄ノ介  常胤相_二具 ̄シ子息六人 ̄ヲ_一参_二会 ̄ス于下総 ̄ノ国府 ̄ニ_一《割書:云々》廿八日遣 ̄シ_二御使 ̄ヲ_一被_レ召 ̄サ_二江戸 ̄ノ太  郎重長 ̄ヲ_一廿九日昨日雖_レ被_レ遣_二御書 ̄ヲ_一不 ̄ル_レ参 ̄ラ間被 ̄ル_レ遣 ̄ハ_二 中四郎惟重 ̄ヲ於葛西  三郎清重之許 ̄ニ_一 十月二日済 ̄ル_二太井《割書:利|根》隅田 ̄ノ両河 ̄ヲ_一精兵及_二 三万余騎 ̄ニ_一《割書:云々》  《割書:△東鑑一 條(ちやう)は略文(りやくふん)なり名(めい)|勝志(しよし)に引(ひき)たるまゝにあく》 ○和名類聚抄《割書:巻五国|郡部》下総 ̄ノ国《割書:国府在_二葛飾郡_一行程|上三十日下十五日》管十一《割書:田二万六千四百三十二|町六段二百三十四歩正》  《割書:公各四十万束本稲百二万七|千束雑稲二十二万七千束》葛飾(カトシカ)《割書:加止|志加》千葉《割書:知|波》印幡(インハ)匝瑳(サフサ)海上(ウナカミ)《割書:宇奈|加美》香取(カトリ)《割書:加止|里》埴(ハ)  生(フ)《割書:波牟|生》相馬(サウマ)《割書:佐宇|馬》狭島(サシマ)《割書:佐之|万》結城(ユフキ)《割書:由不|岐》豊田(トヨタ)《割書:止与|太》○《割書:延喜民部式上に大国とし|遠国とす拾芥抄に田数》  《割書:三万二千卅八町に作る豊田郡の下 ̄ト旧岡|田延喜廿年豊田に改む又千田郡あり》 ○延喜民部式下に下総 ̄ノ国《割書:布一千五百九十端啇布一万一千五十段鹿革|廿張皺文革十張紫草二千六百斤櫑子四合》  主計式上に調 ̄ハ絁二百疋紺布六十端縹布卌端黄布卅端自余 ̄ハ輸 ̄ス_レ布 ̄ヲ  庸 ̄ハ輸 ̄ス_レ布 ̄ヲ 中男 ̄ノ作 ̄リ物麻四百斤紙熟麻紅花○主税式上に正税公廨各  卌万束国分寺料五万束薬師寺料三万五千束文殊会料二千束  薬分料一万束修理池溝料四万束救急料七万束俘囚料二万束  兵部式に健児一百五十人○馬牛牧《割書:高津 ̄ノ馬牧大結 ̄ノ馬牧本島 ̄ノ|馬牧長洲 ̄ノ馬牧浮島 ̄ノ牛牧》駅馬  《割書:井上十疋浮島川曲各|五疋茜津於賦各十疋》伝馬《割書:葛飾 ̄ノ郡十疋千葉|相馬郡各五疋》典薬式進年料雑薬卅六  種 青木香一斤八両芎藭八斤前胡蓮翹黄精白芷藁【稾】本白薇各  二斤独活薺苨桔梗木斛白鮮大戟各五斤枸杞松脂各十斤白朮 【左丁 左上】 真間(まゝ)国府台(こふのたい) 略図(りやくづ)  《割書:当時国府ノ形勢|ヲ観ルカ為ニ今目|撃スル所を出ス》 【右丁 上部】 大学寮(たいかくりやう) 釈奠図(せきてんのつ) 釈菜ハ孔子顔 子ノミヲ祭ルト云」 弘安中釈奠供 物図ハ丹鶴叢 書ニ見ユ        学生《割書:十一|人》【四角で囲む】 【同 下部】 江次第五巻《割書:二|丁》仁平三年八月台記先聖先師九哲 ̄ノ像 巨勢 ̄ノ金岡所_レ写也《割書:云々》延久四年三月十四日甲午権大納言 源 ̄ノ隆俊卿着_二仗坐_一被_レ奏_下大学寮先聖先師九哲等 ̄ノ庿像 可_レ被_レ修補日時勘文_上 四月三日壬子 ̄ノ時也件 ̄ノ像 ̄ハ元慶四年 巨勢 ̄ノ金岡以_二唐本_一所_二図絵_一也《割書:云々》 又或説曰吉備 ̄ノ大臣入 ̄リ_レ唐 ̄ニ持 ̄テ_二弘文館之画像 ̄ヲ_一来朝 ̄シ安 置_二【「安-_二置」の誤記ヵ】大宰府学書院 ̄ニ_一大臣又命 ̄テ【二点脱】百済 ̄ノ画師 ̄ニ_一奉_レ図 ̄シ_二彼本 ̄ヲ 置_二大学寮 ̄ニ_一《割書:云々》      兵士【四角で囲む】 【左丁 上段】 兵士【四角で囲む】 【同 中段】 執羃 執篚     冪 執罍 執尊【この四語を田の字に囲む】 大祝《割書:二|人》【四角で囲む】 賛引《割書:五|人》【四角で囲む】 【同 下段】 南門【四角で囲む】 館官【四角で囲む】 学官【四角で囲む】 【右丁 上段】 庭燎【四角で囲む】 東門【四角で囲む】 【同 中段】 謁者《割書:三|人》     掃部寮【四角で囲む】     大蔵省【四角で囲む】 終献 大学博【四角で囲む】 大膳職【四角で囲む】 亜献 大学助【四角で囲む】 廟 司【四角で囲む】 初献 大学頭【四角で囲む】 郊社令【四角で囲む】                郊社令【四角で囲む】 【同 下段】 学生【四角で囲む】 楽懸【四角で囲む】   楽工【四角で囲む】 【左丁】 其二 新葉集  妙光寺内大臣 から人のむかしの かけをうつしきて 仰けはたかき秋の 夜のつき 郊社令【四角で囲む】 賛者《割書:二|人》【四角で囲む】            奉礼郎【四角で囲む】                          雅楽寮【四角で囲む】               東階【四角で囲む】               西階【四角で囲む】                    弾正忠【四角で囲む】                    弾正疏【四角で囲む】 【右丁】 其   協律郎【四角で囲む】 三 【四角の枠の中】 冉有 季路 仲弓 宰我 伯牛 子貢 閔子 子游 先師 子夏 先聖 【左丁】 菅家文草  讃岐聖廟釈奠有感 一趨一拝意如_レ泥 罇俎蕭疎 ̄トフ礼用迷              巌松斎再臨【陽刻印】 暁雨春風三献 ̄ノ後 若 ̄シ非 ̄レハ_二供祀 ̄ニ_一定 ̄テ児啼  三斤五両藍漆五斤𫇩茄一斤芍薬十両瞿麦六斤地楡十四両白  頭公九斤伏苓六斤 続断(ヤマアサミ)四両瓜蔕三両■【蒲ヵ】黄二斤榧子大一斗薯  蕷桃仁各一斗麦門冬蜀椒各四升附子大五升荏子二升地膚子  一升 獺肝(ウソノキモ)二具 ○同雑式に諸国釈奠二座《割書:先聖文宣王先師顔子但太宰|府者先聖先師閔子騫三座》祝文  維某年歳次月朔日守位姓名敢 ̄テ昭 ̄ニ告 ̄ク_二于先聖文宣王 ̄ニ_一維 ̄レ王固 ̄ト天 ̄ノ攸  《割書: |レ》縦 ̄ス誕降生知経_二緯 ̄シ礼楽 ̄ヲ_一闡_二揚 ̄ス文教 ̄ヲ【一点脱】余烈遺風千載是仰 ̄ク俾 ̄ム_二茲 ̄ノ末学 ̄ニ依 ̄リ  《割書: |レ》仁 ̄ニ遊 ̄ハ_一_レ芸 ̄ニ 謹 ̄テ以_二制幣犠齊粢盛庶品 ̄ヲ_一祗 ̄シテ奉_二旧章 ̄ヲ_一式 ̄テ陳 ̄ヌ_二明薦 ̄ヲ_一以_二先師顔子 ̄ヲ_一  配 ̄ス尚 ̄クハ饗 ̄ヨ【左に「乚」の印あり】維某年歳次月朔日守位姓名敢昭 ̄ニ告_二于先師顔子 ̄ニ_一爰 ̄ニ以_二仲  春 ̄ヲ_一《割書:仲秋》率 ̄ヒ_二遵 ̄ヒ故実 ̄ニ_一敬 ̄テ修 ̄ス_二釈奠 ̄ヲ于先聖文宣王 ̄ニ_一惟子庶幾 ̄クハ体 ̄シ_二 二徳 ̄ニ_一冠 ̄タリ_二 四  科_一服 ̄ス_二道 ̄ヲ聖門 ̄ニ_一実 ̄ニ臻 ̄ル_二壺奥 ̄ニ_一謹 ̄テ以_二制幣犠齋粢盛庶品 ̄ヲ_一式 ̄テ陳 ̄ス_二明献 ̄ヲ_一従祀配  神尚 ̄クハ饗 ̄ヨ《割書:△古は国々釈奠の礼ありしとみえ雑式にかく見えたり今は跡方もなく其ありし| 事さへ知れる人なしそれに引替堂塔は依然として現存す世体とは云なから》  《割書:歎かはしきことならすや猶釈奠のことは|大学寮式西官記北山抄江家次第等 ̄ニ見ゆ》 ○三代実録 ̄ニ曰 ̄ク貞観二年十二月八日新 ̄ニ修 ̄シ_二釈奠式 ̄ヲ_一頒_二 下 ̄ス七道諸国 ̄ニ_一_レ【レ点は不要ヵ】或  書に云菅家文草に仁和二年正月十六日任 ̄セ_二讃岐守 ̄ニ_一られしとき  州 ̄ノ廟 ̄ノ釈奠有_レ感の詩あり一趨一拝意如 ̄シ_レ泥 ̄ノ蹲俎蕭疎 ̄シメ礼用迷 ̄フ暁漏  春風三献 ̄ノ後若非_二供祀_一定 ̄テ児啼又慕京集に二月の釈菜金沢文庫  にて行ふよし三好日向守勝元の許より申こされけれは隣家 ̄ノ梅花  といふ題を聖供にそへてつかはし侍るとて。はなゝれやよく友垣の近  きには遠きもなるゝ梅の下風。と見えたるはその頃静ならさりし  世 ̄ノ中にてたま〳〵釈菜行はれし事のいとめつらしくなんある新葉  和歌集に妙光寺内大臣の年中行事三百六十首の中に釈奠をよめる  歌。から人のむかしのかけをうつしきて仰げは高き秋のよの月。年  中行事歌合に二位中将《割書:四辻善|成卿》の釈奠をよめる。唐びとのかしこ  きかげをうつしとめひじりの時とけふまつる也。と見えたり ○後花園院康正元年《割書:乙|亥》八月十四日《割書:丁|亥》行_二釈奠 ̄ヲ_一  寛永十年癸酉二月十日始釈_二菜 ̄ス于忍岡孔廟 ̄ニ_一 幕府釈菜之典肪 ̄ス_二  於此 ̄ニ_一○旧儀称 ̄ス_二釈菜 ̄ト_一寛政丙辰改 ̄テ称 ̄ス_二釈奠 ̄ト_一昌平志云釈典旧儀据_二明  制_一《割書:云々》今儀《割書:寛政庚申|所_レ定》雖 ̄モ_三専倣 ̄ト_二【傚は倣の俗字】唐礼 ̄ニ_一而廟殿仍用 ̄ニ_二明制 ̄ヲ《割書:云々》要 ̄ニ_レ之 ̄ヲ均 ̄ク是 ̄レ  一代 ̄ノ制作也所_レ謂旧儀亦止謂_二寛政庚申以前 ̄ヲ_一已如 ̄ハ_二寛文元禄諸儀 ̄ノ_一  則旧之又旧 ̄ナル者○今儀専用 ̄ユ_二延喜式 ̄ヲ_一然 ̄トモ自_二謚号配享_一以至 ̄テハ_二祝文薦品 ̄ニ_一  其従 ̄ヒ_二時宜 ̄ニ_一且仍 ̄ル_二旧貫 ̄ニ_一者尚多 ̄シ今儀者寛政庚申二月始行之礼而未_二  更 ̄ニ審定_一者也○学校及釈奠之因年詳見于昌平志_一 ○大学寮(たいがくりやう)唐の国子監(こくしかん)に准(しゆん)して帝都の御学問所也遠近の諸生こゝに集  り食物 薪(たきゝ)等は 朝廷より賜(たま)ふ寮(りやう)の内には東西の二 曹(さう)あり東曹は  菅丞相の御流義なり西曹は大江維時(おほえこれとき)の流義也職原鈔 ̄ニ曰大学寮は  四道 ̄ノ儒士 出身(しゆつしん)の処也和漢 最(もつとも)重職(ぢうしよく)たり紀伝(きでん)明経(みやうきやう)明法(みやうほふ)算道(さんだう)これを四道(しだう)  といふ又 当寮(たうりやう)には先聖(せんせい)先師(せんし)九哲(きうてつ)を安置(あんち)し春秋二仲に釈奠す東西の  二曹は菅江(くわんこう)の二家其曹の主たり諸氏出身の儒道を此二家に訪(と)ふ  寮の頭(かみ)は儒中の撰(せん)也当寮の長官(ちやうくわん)を大学 ̄ノ頭(かみ)といふ《割書:唐名|国子監》助(すけ)《割書:唐名国|子司業》允(しよう)《割書:大少唐名|国子丞》  博士(はかせ)《割書:一人 唐名|大学博士》助教(じよきやう)《割書:二人|大学助》直講(ぢきかう)《割書:二人|直学士》音博士(おんはかせ)《割書:二人|音韻 ̄ノ儒》書博士(しよはかせ)《割書:二人|書学博士》明法博士(みやうほうはかせ)  《割書:二人|律学博士》算博士(さんはかせ)《割書:二人|算学博士》学生(がくしやう)《割書:四百|人》文章生(もんしやうしやう)《割書:二十人》得業生(とくこふしやう)《割書:十人》算生(さんしやう)《割書:三十人》《割書:云々》  延喜式 ̄ニ曰大学寮の博士に夏冬時服を給ふと《割書:云々》むかしは国毎(くにこと)に学  問所あり博士医師各《割書:々》一人其 学生(がくしやう)大国は五十人上国は四十人中国は三十人  下国は二十人《割書:ツヽ》也 医生(いしやう)は五分の四を減る《割書:大国は十人上国は八人|中国は六人下国は四人》と或書に見ゆ ○制度通《割書:巻十|一》に本朝之制毎歳春秋二仲上 ̄ノ丁 ̄ノ日釈_二奠 ̄ス于大学寮 ̄ニ_一祭 ̄リ_二先聖  先師 ̄ヲ_一従_二祀 ̄ス九哲 ̄ヲ_一釈奠のこと 文武天皇大宝元年二月丁巳の日はしめ  て行ふ是より以来御代々修し行はれて文明の比まてこれありと  云へり 続日本紀 光仁天皇宝亀六年冬十月右大臣吉備公薨《割書:云々》  先 ̄キ_レ是 ̄ヨリ大学釈奠其儀未備 ̄ハラ大臣依_二稽 ̄シ礼典 ̄ヲ_一器物始 ̄テ修 ̄リ礼容可 ̄シ_レ観 ̄ル ト云々  《割書:小中村清矩云此文は 孝謙帝の頃を指て云るなるへし然るを或書に宝亀三年の頃と|するは誤り也吉備公宝亀元年に大将を罷られ二年致仕されたるをや》  釈奠ノ式ハ享ノ日未明五刻ニ郊社会ソノ属及廟司ヲ率テ先聖ノ神座           ヲ廟堂ノ内ニ中楹ノ間ニ設ク先師顔子ヲ首座トシ           閔子騫以下冉有マテヲ併テ四座文宣王ノ東ニ設           テ西ヲ上座トス又季路已下子夏マデノ五座ヲ文           宣王ノ西ニ設テ東ヲ上座トス合テ十一座何レモ南ニ           向フ其牲ハ三牲并ニ兎アリ 三牲《割書:大鹿。小鹿。豕 。各五|加_二 五臓_一莵醢料》           漢土ニテ三牲ト云ハ牛羊豕ナリ           皇国ニテハ右ノ通リニ替用ヒラル又二仲ノ丁 ̄ノ日園 ̄ノ韓 ̄ノ  神并ニ春日祭ノ前ニアタリ又ハ某日ニ当レハ三牲並ニ莵ヲヤメラレテ 【囲みの中 上段右から】 本朝釈奠先聖先師九哲図 【同 中段】    冉有    仲弓    冉伯牛    閔子騫 【縦線あり】  先師顔子 先聖文宣王 【縦線あり】    季路    宰我    子貢    子游    子夏 【囲みの中 下段】 高野天皇 神護景雲 元年十二月 大学助 教膳大 丘上疏言 云々勅_二号 夫子_一称_二 文宣王_一  五寸以上ノ鯉鮒五十隻ヲ用ヒラル三牲並ニ魚イツレモ六衛府ヨリコレヲ進ム  又ソノ日国忌祈年祭日食ノ変ニアタレハ次ノ丁日ヲ用ユ諒闇ノトシニハ遺詔  吉服ニ従フノ類モ享ヲ停ラルヽナリ ○続日本紀に大宝三年七月甲午正五位上上毛野 ̄ノ朝臣男足 ̄ヲ為_二 下  総守 ̄ト_一《割書:△大宝三年より和銅元年にいたり在任六年なりこれ本州任守の首 ̄メなり是より|先にも国司のこと見ゆれと《割書:清寧紀遣_二 播磨国司|伊与部小楯_一求_二供物_一》臨時の宰官也後来守介掾目ともに通して 》  《割書:国司と|称す》 ○類聚三代格五《割書:五十三|左》に太政官謹奏 ̄ス諸国 ̄ノ守介四年 ̄ヲ為_レ歴 ̄ト事  右謹 ̄テ撿_二選叙令 ̄ヲ_一初位以上長上官 ̄ノ遷代皆以 ̄テ_二 六考 ̄ヲ_一為 ̄ス限 ̄ト慶雲三年二  月十六日改 ̄テ定 ̄ム_二 四年 ̄ニ_一大同二年十月十九日更 ̄ニ拠 ̄ル_二令文 ̄ニ_一弘仁六年七  月十七日復 ̄ス_二慶雲格 ̄ニ_一 天長元年八月二十日令 ̄ム_三介以上別処 ̄セ_二 六年之  秩 ̄ニ_一夫吏者民 ̄ノ之所_レ帰 ̄スル民者吏 ̄ノ之所_レ本 ̄ツク頃年良吏之風希 ̄ナリ_レ【「也」とあるが入力出来ず】聞 ̄コト窮民之憂  不_レ息 ̄マ臣等以為 ̄ク善人三年尚可_レ勝_レ残 ̄ニ四凶九載難 ̄シ_二復致_一_レ功 ̄ヲ然 ̄ラハ則治之 【右丁】 千載集雑下旋頭歌   下総のかみにまかりけるを任はて   のほりたりけるころ源の俊頼の朝臣   につかはしける    源仲正  あつまちのやへのかすみをわけきても  君にあはねはなほへたてたる心地こそすれ          返し  源俊頼朝臣         かきたえしまゝのつきはし         ふみ見れはへたてたる         霞もはれてむかへるが         こと 【左丁】 庁官(ちやうくわん) 国司(こくし) に謁(えつ) する図(つ)              武陵【瓢形の陽刻印】  能否非 ̄ス_二年 ̄ノ遠近代之清濁 ̄ニ_一賢将 ̄ヒ_二不肖 ̄ヲ_一伏 ̄シテ望 ̄ム国司之歴因_二循 ̄シ慶雲 ̄ニ_一 一 ̄ニ用_二  四年 ̄ヲ_一《割書:云| 々》承和二年七月三日 ○濫觴抄 ̄ノ下に国司任限同六年乙未《割書:弘仁|六》年定 ̄メ_二諸国司 ̄ヲ_一以 ̄テ_二 四年 ̄ヲ_一為 ̄ス_二任  限 ̄ト【一点脱】諸国 ̄ノ介仁明三年乙卯《割書:承和|二》七月三日勅_二諸国守介 ̄ニ_一 四年為 ̄ス_レ限 ̄ト但  陸奥出羽大宰府等僻 ̄シテ在 ̄リ_二千里 ̄ニ_一書来 ̄ル多 ̄シ_レ煩 ̄ヒ不_レ可_二更 ̄ニ定 ̄ム_一 【印の説明】 下総国印(しもふさのくにのいん) 養老五年戸籍(やうろうこねんのへふた) 集古十種(しふこじつしゆ)《割書:印章 ̄ノ部 ̄ノ二》                  下総国印 【「下総国印」の印影二種】  右見_二京師穂井田忠友埋麝発香一《割書:印部|一》   《割書:天平勝宝三年五月廿一日|下総国々司解所印》 市川故城址(いちかはこじやうのあと)  国府台(こふのたい)村なる総寧寺(そうねいじ)の域(いき)是(これ)なり ○鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)に《割書:巻|二》上杉憲忠(うへすきのりたゝ)より今度(こんと)中務入道了心(なかつかさにうたうりやうしん)の子息(しそく)実胤(さねたね)自(より)  胤(たね)二人(にゝん)を取立(とりたて)下総国(しもふさのくに)市川(いちかは)の城(しろ)に楯籠(たてこも)り康正(かうしやう)二年正月 南図書(みなみづしよ)梁(やな)  田(た)出羽守(ではのかみ)其外(そのほか)大勢(おほせい)指遣(さしつかわ)し数度(すと)合戦(かつせん)して同十九日 終(つひ)に城(しろ)を攻落(せめおと)す  梁田河内守(やなたかはちのかみ)は関宿(せきやと)より打(うつ)て出(いて)武州足立郡(ふしうあたちのこほり)を過半(くわはん)押領(あふりやう)し市川(いちかは)の城(しろ)を  とる云々《割書:△市川城(いちかはしやう)又(また)国府台城(こふのたいしやう)と称(しやう)せり然(しか)るを江戸名所図会(えとめいしよつゑ)に市川城址(いちかはしろあと)は今(いま)知るへ|からすとあるは国府台(こふのたい)ももと市川(いちかは)の内(うち)なるを知(し)らさるの誤(あやまり)なり○義経記(きけいき)に治(ち)》   《割書:承(しやう)四年九月十一日 武蔵(むさし)と下総(しもふさ)の境(さか)なるまつとの庄(しやう)市河(いちかは)と云所(いふところ)に着(つき)たもふとあり○市川(いちかは)は国(こく)|府(ふ)の辺(ほとり)にある地名(ちめい)と見(み)えて常陸府中(ひたちふちう)の傍(かたはら)にも市川(いちかは)といふ名(な)見(み)えたり其外(そのほか)にも猶(なほ)ある》   《割書:へし○夏目記(なつめき)景勝(かけかつ)利家(としいへ)奥羽(おうう)両国(りやうこく)検地(けんち)の事條(ことのてう)に武蔵(むさし)と下総(しもふさ)之 堺(さかい)|市川(いちかは)之 渡(わたり)を越(こえ)とあり此等(これら)により考(かんこうる)に江戸 川(かは)の西(にし)を武蔵(むさし)と称(しやう)せしも古(ふるき)き【ママ】ことゝ見(み)ゆ》 ○東鑑《割書:巻|一》治承四年九月十七日丙寅不_レ待_二広常 ̄ノ参入 ̄ヲ_一令_レ向 ̄ハ_二 下総 ̄ノ国 ̄ニ_一給 ̄フ【ヲは誤記ヵ】  千葉介常胤相-_二具子息太郎胤正次郎師常《割書:号相|馬》三郎胤成《割書:武|石》四郎 【右丁】 源右大将(げんのうたいしやう) 下総国府(しもふさのこくふ) に到(いた)るの     図(つ) 【左丁】 依古図    板橋貫雄筆【陽刻印 都良乎】  胤信《割書:大須|賀》五郎胤道《割書:国|分》六郎大夫胤頼《割書:東》嫡孫小太郎成胤等 ̄ヲ【一点脱】参_二会 ̄ス  于下総 ̄ノ国府 ̄ニ_一従軍及 ̄フ_二 三百余騎 ̄ニ_一也常胤先 ̄ツ召 ̄シ_二覧 ̄シ囚人千田 ̄ノ判官代親  政 ̄ヲ_一次献_二駄餉 ̄ヲ_一武衛令 ̄メ_レ招 ̄カ_二常胤 ̄ヲ於座右 ̄ニ_一給 ̄フ須 ̄ク_下【左ルビ:ヘキ】以 ̄テ_二司馬 ̄ヲ_一為 ̄ス_上_レ父 ̄ト之由被 ̄ル_レ仰 ̄セ《割書:云々》  常胤相 ̄ヒ_二伴 ̄ナヒ一 ̄ノ弱冠 ̄ヲ_一進 ̄テ_二御前 ̄ニ_一云 ̄ク以 ̄テ_レ之 ̄ヲ可 ̄シ_レ被 ̄レ_レ用 ̄ヒ_二今日 ̄ノ御贈物 ̄ニ_一《割書:云々》是陸奥 ̄ノ  六郎義隆 ̄ノ男号 ̄ス_二毛利 ̄ノ冠者頼隆 ̄ト_一也著 ̄キ_二紺 ̄ノ村濃 ̄ノ直垂 ̄ヲ_一加 ̄へ_二小具足 ̄ヲ_一跪 ̄ク_二常胤  之傍 ̄ニ_一見_二其気色 ̄ヲ_一給 ̄フニ尤可_レ謂 ̄フ_二源氏 ̄ノ之胤子 ̄ト_一仍感 ̄フ_レ之 ̄ヲ忽 ̄チ請 ̄シ_二常胤 ̄ノ之座上 ̄ニ_一給 ̄フ  父義隆者去平治元年十二月於_二 天台山龍華越_一奉_下為_二故左典厩_一棄_上  《割書: |レ》命于_レ時頼隆産生之後僅五十余日也而被 ̄レ_レ処 ̄セ_二件 ̄ノ縁坐 ̄ニ_一永暦元年二  月仰_二常胤_一配_二 下総国 ̄ニ_一《割書:云々》  十月二日辛巳武衛相_二乗 ̄リ于常胤広常等之舟棹 ̄ニ_一済 ̄リ_二太井隅田 ̄ノ両河 ̄ヲ_一  精兵及 ̄ヒ_二 三万余騎 ̄ニ_一赴_二武蔵国 ̄ニ_一《割書:云々》今日武衛 ̄ノ御乳母故 ̄トノ八田 ̄ノ武者宗  綱 ̄ノ息女《割書:小山下野大■【掾ヵ】政|光 ̄ノ妻号 ̄ス_二寒川尼 ̄ト【一点脱】》相_二具 ̄シ鐘愛 ̄ノ末子 ̄ヲ_一参_二向 ̄ス隅田 ̄ノ宿 ̄ニ_一《割書:云々》 ○相州兵乱記(さうしうひやうらんき)《割書:巻三小弓義|明合戦ノ条》に小弓(をゆみ)の御所(ごしよ)義明(よしあき)の威勢(いせい)広大(くわうたい)に成(なり)しかは本(もと)より  侈(おこ)る人(ひと)にて関東(くわんとう)を退治(たいち)して総領家(そうりやうけ)を差越(さしこし)関東(くわんとう)の長者(ちやうしや)となるべしと企(くはた)て  玉(たま)ふ由(よし)きこゑけれは古河殿(こかとの)より氏綱(うぢつな)を内々(ない〳〵)御頼(おんたのみ)ありて小弓殿(をゆみとの)対治(たいち)あるべ  きと也 氏綱(うちつな)も義明(よしあき)の威勢(いせい)強けれは吾(わ)か為(ため)まてもあしかりなんと兼(かね)て思(おも)はれ  けれは則(すなはち)御請(おんうけ)を被(まう)_レ申(され)分国(ぶんこく)の勢(せい)を合(あは)せ小弓(をゆみ)へ発向(はつかう)の用意(ようい)ありし処(ところ)に八州(はつしう)  諸家(しよけ)傾(かたむ)け申(まうし)けるは義明(よしあき)と申(まうす)は近代(きんたい)無双(ふそう)の名大将(めいたいしやう)にて公方(くはう)の御跡(おんあと)をも継(つき)  玉(たま)ふべき人(ひと)なれは御退治(こたいち)はいかゝあらん只(たゝ)和平(わへい)になされて末々(すえ〳〵)は御所(こしよ)に  とり立(たて)鎌倉(かまくら)にすえ被(まう)_レ申(され)候へと説(とき)けれとも氏綱(うちつな)終(つい)に用(もちゐ)給(たま)はす已(すて)に打(うち)  立(たち)と聞(きこ)えけれは義明(よしあき)聞召(きこしめし)て急(いそ)【「き」は誤記ヵ】き中途(ちうと)に馳向(はせむかつ)て防(ふせ)けとて御舎弟(こしやてい)基(もと)  頼(より)と御息(おんそく)小弓(をゆみ)の御曹司(おんさうし)を先駆(せんく)の大将(たいしやう)として里見義弘(さとみよしひろ)を副将軍(ふくしやうくん)に定(さた)  め房州(はうしう)両総州(りやうそうしう)の軍兵(くんひやう)を催(もよほ)し同国(とうこく)鵠(こふ)の台(たい)に陣(ちん)を張(はり)て市川(いちかは)を前(まへ)にあてゝ  待掛(まちかけ)たり此(この)国府台(こふのたい)の城(しろ)と申(まうす)は《割書:中|略》近国無双(きんこくふそう)の城郭(しやうくわくなり)去(さんぬ)る文明(ふんめい)十一年七月  十五日 上杉(うへすき)の家臣(かしん)太田道灌(おほたたうくわん)か臼井(うすゐ)の城(しろ)を責(せめ)しとき初(はしめ)て城(しろ)にとり立け  るなり義明(よしあき)も御馬(おんうま)を被(いた)_レ出(され)敵(てき)おそしと待玉(まちたま)ふ去程(さるほと)に氏綱(うちつな)は天文六年十  月四日 小田原(をたはら)を打立(うちたち)江戸の城(しろ)につき着到(ちやくたう)を付玉(つけたま)へは方(はう)々より大勢(おほせい)馳(はせ)加(くはゝ)  りて二万余騎(にまんよき)とそ記(しる)しける《割書:中|略》去程(さるほと)に明日(あす)五日(いつか)の朝(あさ)合戦(かつせん)と定(さたま)りしかは  先陣(せんちん)は宵(よひ)よりも河(かは)の端(はた)にしのひより明(あけ)なは松戸を越(こえ)んと堤(つゝみ)の下(もと)にそ  ひかえける夜(よ)已(すて)に明(あけ)けれは小田原勢(をたはらせい)川端(かははた)に打望(うちのそ)む一陣(いちゝん)は箱根殿(はこねとの)を初(はし)め  として松田(まつた)志水(しみつ)狩野(かの)笠原(かさはら)二陣(にちん)は遠山(とほやま)山中(やまなか)多目(ため)荒川(あらかは)金石斎(きんせきさい)以下(いか)の兵(へい)雲霞(うんか)  の如(こと)く押寄(おしよす)る小弓勢(をゆみせい)の先陣(せんちん)椎津(しいつ)村上(むらかみ)堀江(ほりえ)唐島(からしま)以下(いか)川端(かはゝた)にひかえて  待懸(まちかけ)たりしに物見(ものみ)の兵(へい)を御旗本(おんはたもと)へ参(まい)らせて申(まうし)けるは敵(てき)已(すて)に川(かは)を越(こえ)  候 其勢(そのせい)雲霞(うんか)の如(こと)し二三 万(まん)と見(み)え候 味方(みかた)の御勢(おんせい)にて常(つね)の如(こと)くに対(たい)やう  の御合戦(ごかつせん)叶(かな)ふべからす小(しよう)を以(もつ)て大(たい)を打(うつ)こと難(かなひ)_レ叶(かたし)只今(たゝいま)急(きう)に御旗(おんはた)を動(うこか)し  川中(かはなか)に勝負(しやうふ)を決(けつ)するか味方(みかた)引(ひき)やうにもてなし敵(てき)の先陣(せんちん)半(なかは)越(こ)さんとき  急(きう)にとりひしき川(かは)へ押(おし)はめ候はゝ必(かならす)御味方(おんみかた)の勝(かち)なるへしと委細(いさい)に申つ  かはしけれは諸軍(しよくん)此儀(このき)可(しかる)_レ然(べし)と云処(いふところ)に義明(よしあき)きこしめし大(おほひ)に笑(わら)ひ玉(たま)ひ合(かつ)  戦(せん)の習(ならひ)にて一足(ひとあし)も引(ひけ)は虎(とら)もねつみに成(なり)一足(ひとあし)もすゝめは鼠(ねつみ)も虎(とら)となると  云(い)へり引(ひく)まねせんは敵(てき)に利(り)をつくる端(はし)なるへし其上(そのうへ)勢(せい)の多少(たせう)に依(よ)るべ  からす兵(へい)の剛臆(こうおく)によるべし氏綱(うちつな)か武勇(ふゆう)我(わか)片手(かたて)にや及(およふ)へき何程(なにほと)の事(こと)か  あるべき川(かは)を渡(わた)らせ近々(ちか〳〵)と引寄(ひきよせ)吾手(わかて)に懸(かけ)て氏綱(うちつな)を討取(うちとつ)て後(のち)に東国(とうこく)を  安々(やす〳〵)と治(おさ)むへし歳月(さいけつ)の本望(ほんもう)爰(こゝ)にあり氏綱(うちつな)をにかすべからすと扇(あふき)を打振(うちふり)  り【語尾の重複】玉(たま)ふ運(うん)の尽(つき)ぬる浅間敷(あさましさ)さたとへていはん方(かた)もなし小田原(おたはら)の先陣(せんちん)一度(いちど)に  颯(さつ)と馬(うま)を打入(うちいれ)て弓(ゆみ)の本弭(もとはつ)末弭(すゑはつ)取違(とりちかへ)て匹馬(ひつは)に流(なかれ)をせき上(あけ)て向(むかふ)の岸(きし)にそ懸(かけ)  上(あか)る椎津隼人佐(しゐつはやとのすけ)鹿島(かしま)の郡司(くんし)以下(いか)散々(さん〳〵)に懸合(かけあはせ)命(いのち)を惜(おし)ます乱合(みたれあつ)て切(きつ)つ突(つき)つ  火(ひ)を散(ちら)して戦(たゝか)ひけるか懸立(かけたて)られて引退(ひきしりそ)く処(ところ)に里見義弘(さとみよしひろ)逸見山城(えちみやましろ)以下(いか)  強弓勢兵(つよゆみせいへい)おめき叫(さけん)て射立(ゐたて)けれとも小田原勢(おたはらせい)事(こと)ともせす進(すゝ)みけれは両方(りやうはう)  より射(ゐ)る矢(や)に先陣(せんちん)数百人(すひやくにん)痛手(いたて)負(おひ)て進(すゝみ)兼(かね)たり是(これ)を見(み)て先手(さきて)の大将(たいしやう)小弓(をゆみ)の  御曹司(おんさうし)と御所(こしよ)の御弟(おんおとゝ)基頼(もとより)おめいて切(きつ)てかゝり玉(たま)ふ氏綱(うしつな)御覧(こらん)して爰(こゝ)に  深入(ふかいり)するは先手(さきて)の大将(たいしやう)の旗(はた)とみるそ入立(いりたつ)て討取(うちと)れや者(もの)ともと下知(けち)すれ  は伊東(いとう)朝倉(あさくら)桑原(くははら)石巻(いしまき)の一人当千(いちにんたうせん)の兵(へい)とも両方(りやうはう)より取巻(とりまき)て散々(さん〳〵)に責(せめ)け  れは大将(たいしやう)の馬(うま)の平頭(ひらくひ)二太刀(ふたゝち)切(き)られ犬居(いぬゐ)に伏(ふせ)は下立(おりたつ)て戦(たゝかひ)しか脇(わき)の下(した)内冑(うちかふと)  吹返(ふきかへし)の迦の二(に)ヶ所(しよ)突(つか)れ気(き)尽(つき)力(ちから)たゆみて終(つい)に討死(うちしに)したまひける逸見入道(えちみにうたう)義(よし)  明(あき)の御前(おんまへ)に参(まゐ)りて申(まうし)けるは今朝(こんてう)の軍(いくさ)に御味方(おんみかた)の軍兵(くんへい)其数(そのかす)討死(うちしに)仕(つかまつ)りぬ  其上(そのうへ)先手(さきて)の大将(たいしやう)御馬(おんうま)しるしも不(み)_レ見(す)候(さうろう)若(もし)わつて御通(おんとほり)か亦(また)御討死(おんうちしに)かと如(い)  何様(かさま)味方(みかた)の負軍(まけいくさ)なるへし爰(こゝ)を落(おち)て重(かさね)て兵(へい)を催(もよほ)して今日(けふ)の恥(はじ)を清(きよ)め  んと云(いひ)けれは義明(よしあき)先(さき)かけして強勢(かうせい)の程(ほと)を汝等(なんちら)に知(し)らせんとてまつ先(さき)か  けて打(うつ)て出(い)つ其日(そのひ)の装束(しやうそく)には赤地(あかち)の錦(にしき)のひたゝれに桐(きり)のすそかな物(もの)  を打(うつ)たるからあやおとしの鎧(よろひ)きて来国行(らいくにゆき)三尺二寸の面影(おもかけ)と云(いふ)太刀(たち)二尺  七寸(しちすんの)赤銅作(あかゝねつくり)の重代(ちうたい)の御太刀(おんたち)二振(ふたふり)はいて法城寺(はうしやうし)の大長刀(おほなきなた)をくき短(みしか)に  取(と)り鬼月毛(おにつきけ)と云(いふ)名馬(めいは)に御紋(こもん)の梨地(なしち)の鞍(くら)置(おき)て紅(くれない)の大(おほ)ふさかけ白(しろ)あわか  ませ【注】唯(たゝ)一(いつ)しゆんに進(すゝん)てかけ玉(たま)へは佐々木(さゝき)少府(せうふ)二郎(じろう)以下(いか)馬廻(うままはり)二十四騎(にじうしき)を  そろへてかけ出(いて)たり義明(よしあき)の御馬(おんうま)は奥州(あうしう)の葛西殿(かさいとの)より六郡一(ろくぐんいち)の名馬(めいば)  とて去年(きよねん)進(まい)らせられたりける三戸(さんのへ)たちの早馬(はやうま)かけ馬(うま)の逸物(いちもつ)なれは  主(しゆ)は本(もと)よりくつきやうの乗手(のりて)にて人(ひと)より一(いつ)たん計(はかり)先立(さきたつ)て敵軍(てきくん)へ馳入(はせいり)  あぶみのはなへさはるを幸(さいはひ)と踏(ふみ)たふし切(き)り落(おと)す是(これ)そ大将(たいしやう)と見(み)てけれは  前後(せんこ)より取篭(とりこめ)吾(われ)討(うち)とらんと責(せめ)けれとも本(もと)より馬(うま)強(つよ)なる打物(うちもの)の達者(たつしや)  なれは自(みつから)武勇(ぶゆう)の人(ひと)に勝(すく)れたるを憑(たのみ)て軍立(いくさたち)大早(おほはや)りにて逃(にく)る敵(てき)を追立(おひたて)  々々切(きつ)て落(おと)し味方(みかた)の兵(へい)もつゝかさるに大勢(おほせい)の中(なか)に懸入(かけいり)ける小田原勢(をたはらせい)の  中(なか)に安藤(あんとう)と云者(いふもの)荒皮(あらかは)の黒(くろ)き鎧(よろひ)にくさりしころの甲(かぶと)に鍬形(くはかた)うつてき  たりけるか大長刀(おほたち)を抜(ぬい)てさしかさし義明(よしあき)を目(め)にかけ近々(ちか〳〵)とよりける 【注 白泡嚙ます=馬の口から白い泡を吹かせる。馬を勇みたたせるさまの形容。】 【右丁 右下】 探斎武一筆【陽刻印】武弌 【左丁】 小弓義明(をゆみよしあきら) 戦死(せんし)  の図  処(ところ)を義明(よしあき)御覧(こらん)して弓手(ゆんて)の方(かた)へおり立(たつ)て開(ひら)き打(うち)【注】にしとゝ打甲(うちかふと)のしこ  ろのくさりをかけて首(くび)を丁(ちやう)と打落(うちおと)し余(あま)る太刀(たち)にて左(ひたり)に懸(かく)る敵(てき)を払(はら)ふ  其(その)刃(やいは)に胸(むね)を冷(ひや)し敵(てき)敢(あへ)て不(ちかつか)_レ近さりけれは岡(おか)に打寄(うちよつ)て続(つゝ)く御方(みかた)を待(まち)  玉(たま)ひ鎧(よろひ)にあまる血(ち)を笠符(かさしるし)にて押拭(おしぬく)ひ息(いき)を休(やす)めて居(ゐ)たりける処(ところ)に義弘(よしひろ)  以下(いか)の兵(へい)ともは大将(たいしやう)の行衛(ゆくへ)も不(しら)_レ知(す)氏綱(うしつな)の旗本(はたもと)と懸合(かけあひ)けるか五十騎(こしつき)に  打(うち)なされ東(ひかし)の山(やま)きはへすちかひに落行(おちゆき)けれは猶(なほ)帰(かへ)りて義明(よしあき)を助(たすけ)んとす  る兵(へい)も少(すく)なしこはいかにと見(み)る処(ところ)に小田原(をたはら)の中(うち)に八州無双(はつしうふそう)の強弓(つよゆみ)と聞(きこえ)た  る横井神助(よこゐしんすけ)と云者(いふもの)其比(そのころ)三浦(みうら)の城代(しやうたい)なりけれは初(はしめ)め【語尾の重複】より房州勢(はうしうせい)と相戦(あいたゝか)  ひ手(て)の者(もの)多(おほ)く討(うた)れ不(やす)_レ安(からす)思(おも)ひて義明(よしあき)を目(め)にかけあやませ寄(よせ)けるか先度(せんと)  の合戦(かつせん)に先(さき)かけの兵(へい)義明(よしあき)に懸立(かけたて)られ魚鱗(きよりん)にも不(すゝま)_レ進(す)鶴翼(くわくよく)にも不(かこま)_レ囲(す)して  辟易(へきえき)して見(み)えける時(とき)いや〳〵此敵(このてき)を唯(たゝ)討(うち)とらんとせは討(うち)もらしなんよく〳〵  射(ゐ)て落(おと)さんとて馬(うま)より飛下(とひをり)て笠符(かさしるし)をかくし畔(くろ)を伝(つた)ひ藪(やぶ)をかたとり 【注 開き討ち=離れたところから攻撃すること。】  近付寄(ちかきよつ)て三人張(さんにんはり)【注①】十三束(しうさんそく)【注②】忘計(わするゝはかり)に引(ひき)しほり是(これ)は三浦(みうら)の守護代(しゆこたい)横井神助(よこゐしんすけ)と申(まうす)  者(もの)にて候 受(うけ)て御覧(こらん)せよと云(いひ)もはたさす丁(ちやう)と射(ゐ)る義明(よしあき)のせんたんの板(いた)【注③】を  かけて射通(ゐとほ)し矢先(やさき)三寸あまり射貫(ゐぬき)けれはさしもの猛将(もうしやう)なれとも一筋(ひとすじ)  にて目(め)くれ太刀(たち)を杖(つえ)につき立(たち)すくみにこそ死玉(しにたま)ふ横井(よこゐ)うつほをたゝいて  矢(や)さけひ【注④】し敵(てき)の大将(たいしやう)をは射留(ゐとめ)たりと叫(さけ)ひける処(ところ)に御所(こしよ)の御馬廻(おんうままわ)り三騎(さんき)  馳来(はせきた)り神助(しんすけ)を討(うち)とらんと切(きつ)てかゝる神助(しんすけ)か同心(とうしん)小林平左衛門(こはやしへいさゑもん)と云者(いふもの)馳来(はせきた)り  馬(うま)より飛下(とひお)り向敵(むかふてき)一騎(いつき)討(うつ)て落(おと)し二人を追散(おひちらし)ける間(あいた)に神助(しんすけ)馬(うま)にうちのり  打(うち)つれてこそ切合(きりあひ)ける其間(そのあいた)に松田弥二郎(まつたやじろう)直違(すぢかひ)に馬(うま)を馳懸(はせかけ)て一太刀(ひとたち)打(うつ)て  当倒(あてたふ)し義明(よしあき)の首(くび)をば取(とつ)てけりさしもの大将(たいしやう)なれとも運(うん)尽果(つきはて)てやみ〳〵【注⑤】と討(うた)  れ給ふ佐々木四郎(さゝきのしろう)逸見(えちみ)八郎 佐野藤三(さのとうさう)町野(まちの)以下(いか)御馬廻(おんうままわり)深入(ふかいり)して戦(たゝかひ)けるか  大将(たいしやう)の御討死(おんうちしに)と聞(きゝ)て今(いま)は誰(た)れか為(ため)にか軍(いくさ)をすへきと各々(おの〳〵)馬(うま)を乗放(のりはな)し大(たい)  将(しやう)の死骸(しかい)を枕(まくら)とし自害(じかい)する外(ほか)の事(こと)あらしと各々(おの〳〵)馳行(はせゆく)処(ところ)に逸見山城入(えちみやましろにふ) 【注① 三人がかりでなければ弦(つる)を張ることのできないほどの強弓。】 【注② 両手で交互につかんで十三を数える長さ。ふつう矢箆(やがら)の長さをはかる呼称に用いる。】 【注③ 鎧の右肩から胸に付ける板。】 【注④ 矢叫び=矢が命中した時にあげる射手の歓声。】 【注⑤ あっけないさま。】  道(とう)右(みき)のひぢきられくさずりに立(たつ)矢(や)少(せう)々おりかけ馳来(はせきたり)て申(まうし)けるは皆々(みな〳〵)自害(じがい)し  給ふ処(ところ)武士(ふし)の本望(ほんまう)なり然(しか)れとも小弓(をゆみ)に残(のこ)し置(おき)し若君達(わかきんたち)をは誰(たれ)かは隠(かく)し申(まうす)  べき定(さため)てやみ〳〵と生捕(いけとられ)申(まうし)て名将(めいしやう)の御一跡(ごいつせき)を匹夫(ひつふ)のひつめにかけん事(こと)口惜(くちおし)  かるべし歎(なけ)きてもあまりあり此度(このたひ)の命(いのち)を全(まつたう)し君達(きんたち)を落(おと)し申(まうす)謀(はかりこと)をなし時(じ)  節(せつ)を見合(みあは)せ先君(せんくん)の恨(うらみ)を死後(しこ)に報(ほう)し玉(たま)はゝ君(きみ)もうれしく思召(おほしめす)へしと理(り)を  尽(つく)て申(まうし)けれは此(この)人々(ひと〳〵)一同(いちとう)に申(まうし)けるは口惜(くちおしき)ことを宣(のたま)ふ物(もの)かな爰(こゝ)をのかれ  二度(ふたゝひ)誰(たれ)に面(おもて)を合(あは)すべき唯(たゝ)自害(じかい)せんと行処(ゆくところ)に山城(やましろ)重(かさね)て申(まうし)けるは是(これ)は各々(おの〳〵)  のあやまりなり死(し)を一途(いちづ)に定(さたむ)るは近(ちか)ふして安(やす)し謀(はかりこと)を万代(ばんだい)に残(のこ)すは遠(とほ)う  して難(かた)しと云へり唯(たゞ)とく〳〵と進(すゝ)められて此(この)人々(ひと〳〵)相伴(あひとまな)ひ小弓(をゆみ)へ帰(かへ)り若君(わかきみ)  を御供(おんとも)申(まうし)御宝物(ごほうもつ)をとり御殿(ごてん)に火(ひ)をかけ房州(はうしう)へこそ落行(おちゆく)けり山城守(やましろのかみ)主(しゆ)  従(しう)二騎(にき)義明(よしあき)の御死骸(おんしかい)の辺(ほとり)にて馬(うま)より飛下(とひお)り扇(あふき)を上(あ)け是(これ)は此(この)日比(ひころ)鬼神(きしん)の  やうに申(まうし)つる鎮東(ちんとう)の将軍(しやうくん)源義明(みなもとのよしあき)と聞(きこ)えさせ玉(たま)ひし御内(みうち)の侍(さふらひ)逸見山城守(えちみやましろのかみ)  と云者(いふもの)也(なり)小田原方(おたはらかた)に我(われ)と思(おも)はん者(もの)あらは押寄(おしよせ)て首(くひ)をとれと扇(あふき)を挙(あけ)て招(まね)き  けれは小田原(をたはら)の住人(ぢうにん)山中修理亮(やまなかしゆりのすけ)と名乗(なのり)て近々(ちか〳〵)と寄(よせ)けれは山城(やましろ)馳寄(はせよつ)て御辺(ごへん)【注】は  氏綱(うしつな)の家人(けにん)なにかしとみゆるそ吾首(わかくひ)とつて高名(かうみやう)にせよと打(うつ)てかゝる山城(やましろ)  か郎等(ろうとう)主(しゆ)を討(うた)せしと馳(はせ)双(なら)ふるところに修理亮(しゆりのすけ)か郎等(ろうとう)あまた馳来(はせきたつ)て取籠(とりこめ)  けれは終(つい)に山城守(やましろのかみ)修理亮(しゆりのすけ)に首(くひ)をとられけり彼(かの)義明朝臣(よしあきあそん)は久敷(ひさしく)両総州(りやうそうしう)に     振(きやくいを)_二逆意(ふるひ)_一諸人(しよにん)龍蛇(りやうじや)の毒(どく)を恐(おそ)れ万民(はんみん)虎狼(こらう)の害(がい)を歎(なけき)しに忽(たちまち)に被(ほろほ)_レ亡(され)て一跡(いつせき)永(なか)  く絶(たえ)しかは氏綱(うしつな)の武功(ぶこう)の程(ほと)感(かん)せぬ人はなかりける《割書:△法華経寺所蔵氏政文書に| 甲之台一戦之砌成_二陣所 ̄ト_一 云々》  《割書:十一月廿四日と見ゆ氏政|此地へも出張せしにや》本土寺過去帳《割書:七|日》に下総国相模台 ̄ノ合戦大弓上意御父子  基頼御三人始 ̄メ申 ̄シ千余人之打死也《割書:天文七年十月申酉二時之御|一戦也何茂為雖苦得楽而已》 ○同書(とうしよ)《割書:巻四高野|台合戦條》に武州(ぶしう)江戸(えと)の住人(しうにん)太田源六資高(おほたけんろくすけたか)其弟(そのおとゝ)源三郎(けんさふらう)源(けん)四郎と謀(はかり)  て房州(ばうしう)の里見義弘(さとみよしひろ)と引合(ひきあひ)江戸(えと)の城(しろ)を責落(せめおと)し永(なか)く豊島郡(としまこほり)を知行(ちきやう)し先祖(せんそ)  道潅(たうくわん)の跡(あと)をついて江戸の城(しろ)をとるべしと言合(いひあは)せ此程(このほと)の大事(だいじ)なれは左右(さう) 【注 貴殿。】  なくは云(い)はしとて源六(けんろく)か菩提(ぼたい)の寺(てら)法音寺(はふおんし)と云(いふ)法華寺(ほつけじ)の番神堂(はんしんとう)に集(あつま)り神水(しんすい)  を呑(の)み此事(このこと)思定(おもひさた)めぬれは二度(にと)返(かへ)すべからすと敬白(けいひやく)し扨(さて)同名(とうみやう)美濃守(みのゝかみ)入道(にふどう)三(さん)  楽斎(らくさい)方(かた)へ此由(このよし)を云(いひ)つかはす三楽(さんらく)大(おほい)に悦(よろこ)ひ則(すなはち)房州(ばうしう)へ使者(ししや)を立(たて)て里見殿(さとみとの)を招(まね)きしかは  義弘(よしひろ)一国(いつこく)の勢(せい)并(ならひに)総州(そうしう)の軍兵(くんひやう)を催(もよほ)して総州(そうしう)高野台(かうのたい)へ出張(しゆつちやう)すかゝりし程(ほと)に法(はふ)  音寺僧(おんしのさう)太田兄弟(おほたきやうたい)か密談(みつたん)を聞(きゝ)て檀師(たんし)の好(よし)みを忘(わす)れ此由(このよし)を小田原(をたはら)へ注進(ちうしん)す  依(これに)_レ之(よつて)江戸城主(えとのしやうしゆ)遠山丹州(とほやまたんしう)太田(おほた)誅伐(ちうはつ)の討手(うつて)を賜(たまは)り已(すて)に押寄(おしよせ)ける間(あいた)源六兄弟(けんろくきやうたい)  相図(あいづ)相違(そうゐ)して夜(よ)にまきれ岩付(いはつき)へ落行(おちゆき)ける氏康(うしやす)御父子(おんふし)不日(ふしつ)に打立(うちたち)玉(たま)ひ鵠(こう)  の台(たい)へ御発向(こはつかう)ある江戸(えと)遠山丹波守(とほやまたんはのかみ)富永三郎左衛門(とみなかさふろうさゑもん)小金(こかねの)高城胤辰(たかきたねとき)小田原(をたはら)  勢(せい)の不(みえ)_レ見(さる)先(さき)に早(はや)からめき川(かは)の端(はた)まて押寄(おしよせ)てそなへたり永禄(えいろく)七年 五(正イ)月七日  早朝(さうてう)氏康父子(うしやすふし)伊豆(いつ)相模(さかみ)中武蔵(なかむさし)の軍勢(くんせい)を引率(いんそつ)し押寄(おしよせ)玉(たま)へは暁天(きやうてん)に及(およ)ひ  房州(はうしう)の先手(さきて)ふもとよりくり入(いつ)て中(ちう)だんに備(そなへ)たり富永(とみなか)遠山(とほやま)高城(たかき)等(とう)敵(てき)の引(ひく)とや  思(おも)ひけんさしもに高(たか)き鵠(こう)の台(たい)を一文字(いちもんし)に押(おし)のほりて一息(ひといき)ついて見(み)へたり  けれはわざと難所(なんしよ)に引請(ひきうけ)んと中(ちう)たんにそなへたり去程(さるほと)に江戸(えと)の遠山丹波(とほやまたんばの)  守(かみ)父子(ふし)富永四郎(とみなかしらう)以下(いか)切(きつ)て入(いり)凱(とき)の声(こゑ)をあくるとひとしく責(せめ)のぼる房州方(はうしうかた)  には柾木大膳(まさきだいせん)先駆(せんく)にて黒川権(くろかはこん)右衛門 川崎(かはさき)なと云 大力(たいりき)の兵(へい)今度(こんと)敵(てき)にな  りし太田源六(おほたけんろく)同(おなしく)源五郎(けんころう)同(おなしく)源四郎(けんしろう)長南七郎(ちやうなんしちろう)なと云(いふ)はやりを【注①】の若(わか)ものとも一(いち)  面(めん)に打(うつ)てかゝる小田原衆(をたはらしゆ)は敵(てき)をかさに請(うけ)次第々々( したい〳〵  )に追登(おひのほ)らんとす房州衆(はうしうしゆ)  は敵(てき)を見(み)おろし大石(たいせき)を落(おと)すか如(こと)く一度(いちと)に叫(さけん)て切(きつ)て落(おと)す太田源六郎(おほたけんろくろう)遠山(とほやま)  丹波守(たんはのかみ)か父子(ふし)の勢(せい)を能(よく)みしりて打(うつ)てかゝり遠山(とほやま)を初(はじ)め進(すゝ)む兵(へい)六騎(ろくき)切(きつ)て落(おと)  し其比(そのころ)相州無双(さうしうふそう)の強兵(かうへい)ときこえし志水(しみつ)に渡(わた)り合(あひ)つけの棒(ぼう)にて太刀(たち)を打(うち)  おられかいふひて【注②】にけのびける余(あまり)に無念(むねん)なれは又(また)太刀(たち)にて打(うた)ばおれぬへしとて鉄(てつ)の  棒(ぼう)を八尺(はつしやく)に作(つく)り常(つね)に秘蔵(ひさう)しけるを後(のち)の軍(いくさ)にはとりよせ七寸(しちすん)まはりの大棒(たいぼう)を  打(うち)ふり〳〵打(うつ)て廻(まわ)り如何(いか)にもして志水(しみつ)めを打落(うちおと)さんと乗(のり)り【語尾の重複】まはる処に志水(しみつ)  終(つひ)に不(みえ)_レ見(す)依(これに)_レ之(よつて)口惜(くちおし)やとて甲(かふと)の鉢(はち)胴中(とうなか)をきらはすあたるを幸(さいわひ)に打(うつ)てまはる 【注① 逸り男=血気にはやる若者。】 【注② 「搔き伏して」の変化した語。姿勢を低くして。】 【右丁 右下落款】 探斎武一筆 【陽刻印】武弌 【左丁】 其一 北條氏康(ほうでううじやす)里見(さとみ) 義弘(よしひろ)と国府台(こふのたい) にて合戦(かつせん)の図(づ)  渡頭雲気起軽  雷濁浪北来勢  欲頽鼓棹中流  思往事満天風  雨暗鴻台    無名氏  程(ほと)に人馬(にんは)多(おほ)く打(うち)ころさる太田下野守(おほたしもつけのかみ)と云人(いふひと)小田原勢(をたはらせい)の先手(さきて)なりしか源六(げんろく)  かありさまを見(み)て是(これ)は吾婿(わかむこ)の源六(げんろく)なるとや思(おも)ひけむ乗(のり)り【語尾の重複】よせ如何(いかに)に【語尾の重複】源六(げんろく)  は正(しやう)なき謀叛(むほん)をしけるものかな吾(われ)味方(みかた)にあれは如何(いか)にもして先非(せんひ)を悔(くひ)て降参(かうさん)  せよ命計(いのちはかり)は助(たす)くべし亦(また)今日(けふ)の振舞(ふるまひ)いかめしやさりなから馬(うま)は何(なん)の科(とか)によりて  打(うつ)そや人(ひと)こそ打(う)ため馬(うま)を多(おほ)く打倒(うちたを)す条(てう)罪作(つみつく)りなるべしと言葉(ことは)をかけれは  いしくも【注①】宣(のたま)ふものかな人計(ひとはかり)打(うつ)べし請(うけ)て見(み)玉(たま)へと開打(ひらきうち)【注②】にしうとの下野(しもつけ)を丁(ちやう)と  打(う)つ下野(しもつけ)も太刀(たち)にて打(うち)そむけんとしけれとも大力(たいりき)にうたれて何(なに)かはたまる  べき前(まへ)なる深田(ふかた)へころひ落(お)つ是(これ)を初(はしめ)て柾木大膳(まさきたいぜん)以下(いか)切(きつ)て懸(かゝ)り突(つい)て入(いり)ける程(ほと)  に富永三郎左衛門(とみながさふろうさゑもん)山角四郎左(やまかとしろうさ)エ(ゑ)門尉(もんのせう)中條出羽守(ちうてうてはのかみ)河村修理亮(かはむらしゆりのすけ)を初(はじめ)て小田(をた)  原(はら)の先勢(さきせい)百四十 騎(き)討死(うちしに)し已(すて)に引色(ひきいろ)に成(なり)し処(ところ)に北條上総介(ほうてうかづさのすけ)地黄八幡(ちわうはちまん)の旗(はた)  をなびかし横合(よこあひ)に切(きつ)てかゝる里見殿(さとみどの)の先陣(せんちん)荒手(あらて)に懸(かけ)たてられしとろに成(なつ)  て引(ひい)て入(いる)二陣(にちん)入(いり)改(あらため)て切(きつ)て出(いつ)る処(ところ)に氏政(うしまさ)御覧(ごらん)して上総介(かつさのすけ)討(うた)すなつゝけと 【注① よくもよくも。】 【注② 離れたところから攻撃すること。】  声(こゑ)をかけ御馬(おんうま)を一(いつ)さん【注】に懸出(かけいだ)し玉(たま)へは上総介(かづさのすけ)猶(なほ)気(き)を得(え)て敵(てき)の中(なか)へ打(うつ)て入(いり)太(た)  刀(ち)のつは音(おと)鉄炮(てつほう)の声(こゑ)山川(さんせん)に響(ひゞき)おひたゝし本(もと)より上総介(かづさのすけ)敵(てき)を目(め)にかけ猿(さる)の  林(はやし)を伝(つた)ひ龍(りやう)の水(みづ)を得(え)たるか如(ごと)く四方八面(しはうはちめん)に当(あた)り戦(たゝか)ひけれは房州勢(はうしうせい)五十騎(ごしつき)  計(はかり)討死(うちしに)し上総介(かつさのすけ)は木村(きむら)堀内(ほりうち)佐板(さいた)横江(よこえ)間宮(まみや)以下(いか)主従(しゆしゆう)十四五騎(しうしごき)に打(うち)なされ  たりしかは鎧(よろひ)の袖(そて)甲(かふと)の吹返(ふきかへし)に矢(や)三筋(みすじ)をりかけにくるを追(おひ)て進(すゝ)みける氏政(うじまさ)自(し)  身(しん)かけつけ玉(たま)ひ終(つい)に敵(てき)を追落(おひおと)し晩(はん)の戦(たゝかひ)には小田原勢(をたはらせい)打勝(うちかち)けるされとも  朝(あさ)の軍(いくさ)に利(り)なくして遠山(とほやま)を初(はじ)め討死(うちしに)しけれは房州勢(はうしうせい)は悦(よろこ)ふ事(こと)かきりなし  日(ひ)已(すて)に暮(くれ)けれは相引(あいひき)に引(ひく)く【語尾の重複】明(あく)る八日 房州衆(はうしうしゆ)は小田原勢(をたはらせい)定(さだ)めて昨日(きのふ)の戦(たゝかひ)  に随分(ずいぶん)の侍(さむらひ)大将(たいしやう)とも討(うた)れぬ亦(また)若干(そくはく)手負(ておひ)ぬれは今日(けふ)休息(きうそく)して手負(ておひ)を  助(たす)け明日(あす)こそ寄(よせ)んすらんとて油断(ゆたん)しけるに大将(たいしやう)より昼(ひる)の前(まい)は各(おの〳〵)鎧(よろい)ぬく  べからす馬(うま)の鞍(くら)をおろすへからすとふれけれとも夕陽(せきやう)に及(およ)びしかは戦(たゝかい)は定(さだめ)  て明日(あす)なるべしとて高(たか)ひほをはつして休(やす)みける大将(たいしやう)の陣屋(ぢんや)には小田原(をたはら) 【注 早く走ること。】 【右丁】 小田原方(をだはらかた)横江(よこえ) 忠兵衛(ちうべゑ)大橋山(おほはしやま) 城守(しろのかみ)里見(さとみ)の 陣中(ぢんちう) ̄え忍(しの)び 入(い)る図(づ) 其  二 【左丁 落款】 探斎武一筆 【陽刻印】武弌  方(かた)の先手(さきて)富永(とみなか)遠山(とほやま)を打取(うちとり)目出度(めてたし)とて盃(さかつき)を出(いた)し酒盛(さかもり)半(なかは)なりし処(ところ)に小田(をた)  原方(はらかた)の物見(ものみ)由井源三殿(ゆゐけんさうとの)の内(うち)横江忠兵衛(よこえちうへゑ)と大橋山城守(おほはしやましろのかみ)とてくつきやう一(いち)の  忍(しのひ)の上手(しやうつ)にて敵陣(てきちん)へ忍(しのひ)に入(いり)此体(このてい)を懇(ねんころ)に見(み)て帰(かへ)り申上(まうしあけ)けれは大将軍(たいしやうくん)氏政(うしまさ)  老軍(ろうくん)をめされ太公(たいこう)曰(いはく)兵勝之術(へいしようのしゆつ)密(みつに) 察(てき)_二敵人之機(しんのきをさつし)_一 而 速乗(すみやかにそのりに)_二其利(しやうす)_一復(また)疾(とく)撃(その)_二其不意(ふいをうつ)_一【「みつ」は誤記ヵ】と  云(い)へり今(いま)敵(てき)昨日(きのふ)の勝軍(かちいくさ)に悦(よろこ)び油断(ゆだん)して居(ゐ)酒盛(さかもり)を初(はじ)めて最中(さいちう)也(なり)折節(をりふし)雨降(あめふ)  り霞(かすみ)たなひき物(もの)の色(いろ)も不(み)_レ見(す)はや打寄(うちよせ)て責落(せめおと)さは何(なん)の子細(しさい)もなく味方(みかた)  の勝軍(かちいくさ)なるべし早々(はや〳〵)打立(うちたち)候(さうら)へとて氏康(うしやす)氏政(うしまさ)二手(ふたて)に成(なつ)て両方(りやうはう)より切(きつ)てか  かり射立(ゐたて)ときの声(こゑ)をあけておめき叫(さけん)て責(せめ)玉(たま)へば案(あん)の如(ごと)く房州勢(ばうしうせい)只今(たゝいま)敵(てき)寄(よせ)  んとは思(おも)ひもよらす多(おほ)く以(もつ)て油断(ゆだん)しける程(ほと)にあはてふためく亦(また)用心(ようしん)しける  も有(あり)けれとも味方(みかた)の兵(へい)ともに引立(ひきたて)られ散々(さん〳〵)に懸負(かけまけ)里見民部少輔(さとみみんふせうゆう)同(おなしく)兵衛(ひやうゑ)  尉(せう)柾木左近大夫(まさきさこんのたいふ)同(おなしく)平六(へいろく)同(おなしく)平七(へいしち)菅野甚五郎(すかのしんころう)切(きつ)て出(いて)突合(つきあひ)名乗(なのり)かけ一足(ひとあし)も  不(さら)_レ去(す)討死(うちしに)す小田原勢(をたはらせい)の中(なか)に山角伊予守(やますみいよのかみ)と云(いふ)もの申(まうし)けるは昨日(きのふ)の合戦(かつせん)に  柾木弾正左衛門(まさきたんしやうさゑもん)と名乗(なのり)り【語尾の重複】て度(たひ)々 乗(の)り出(いた)し味方(みかた)の兵(へい)を多(おほ)く突落(つきおと)す条(てう)口惜(くちおしく)  存候 今日(けふ)は柾木弾正(まさきたんしやう)が首(くひ)をとるべきものをとて皆々(みな〳〵)に語(かた)りけるが傍輩(はうはい)とも  わかき人(ひと)はさやうの言(こと)をいはさるものなりと制(せい)しけるか果(はた)して柾木弾正左(まさきたんしやうさ)エ(ゑ)  門(もん)か首(くひ)をとりける大将(たいしやう)義弘(よしひろ)散々(さん〳〵)に懸(かけ)なされ自身(ししん)太刀打(たちうち)し馬(うま)をも射(ゐ)られ  かちたち【注①】に成(なり)玉(たま)ひけるを見(み)て安西伊予守(あんさいいよのかみ)と云(いふ)人(ひと)吾馬(わかうま)より飛下(とひお)り義弘(よしひろ)を  乗(の)せ申(まうし)て歩立(かちたち)に成(なつ)てつき申(まうし)山中(さんちう)にあつまり上総(かつさ)の山(やま)へ落(おち)のびける義弘(よしひろ)の  御馬(おんうま)御紋(こもん)の鞍置(くらおき)射殺(ゐころ)してありなから主(しゆ)は無(なか)りけれは大将(たいしやう)の討死(うちしに)とや  思(おも)ひけん勝山豊前(かつやまふせん)秋元将監(あきもとしやうけん)加藤左馬允(かとうさまのせう)長南七郎(ちやうなんしちろう)鳥居信濃守(とりゐしなのゝかみ)子息(しそく)悪左(あくさ)エ(ゑ)  門(もん)佐貫伊賀守(さぬきいかのかみ)【「かかのかみ」は誤記】多賀越後守(たかゑちこのかみ)引返々々(ひきかへし〳〵 )三千余人(さんせんよにん)討死(うちしに)雑兵(さうへう)以上(いしやう)五千余騎(こせんよき)こそ  打(うた)れける今度(こんとの)張本(ちやうほん)太田美濃守(おほたみのゝかみ)同名(とうみやう)源六兄弟(けんろくきやうたい)のけ申(まうし)に戦(対ナシイ)とて薄手(うすて)【注②】少々(しよう〳〵)  負(おひ)けれは東西(とうさい)に分(わか)れて引(ひい)て行(ゆく)今度(こんと)里見殿(さとみとの)の重代(ちうたい)の重宝(ちようはう)大(おほ)きつ方(かた)小(こ)き  つ方(かた)と云(いふ)太刀(たち)此(この)合戦(かつせん)に失(うせ)にける此事(このこと)小田原(をたはら)に聞(きこ)えけれは分捕(ふんとり)の太刀(たち)刀(かたな)    【注① かちだち(徒ち立ち)=馬に乗らないで徒歩で行動すること。】 【注② うすで=軽い傷。】 【右丁】 其三              【落款】探斎武一筆 【陽刻印】武弌 【左丁】 如蘭詩集 城墟蕭寂 ̄タリ古禅宮 覇気消亡嵐気濃《割書:也》 徒見苔紋埋_二石槨 ̄ヲ_一 曽聞松樹掛_二銅鐘 ̄ヲ_一 菱花鏡暗龍池色 莎草茵留鶴駕 ̄フ?蹤 江水于_レ今惆悵 ̄トシテ在 ̄リ 東流日夜咽 ̄テ淙々  右国府台懐古      友野子玉  の内(うち)を様(さま)々 御尋(おんたつね)ありしかとも不(みえ)_レ見(さり)けるとそきこえし若(もし)打折(うちをり)やしけん終(つゐ)  に不(いて)_レ出(ず)となり《割書:云々》《割書:節文△からめき川はからめてかはの誤ならん今国府台の裏道をからめ|ての道と云此辺の川のことなるへし江戸名所図会に更級日記のかゝみの》  《割書:瀬の誤かとす|るは非ならん》 安国山総寧寺(あんこくさんそうねいし) 国府台村(こふのたいむら)にあり寺領(しりやう)百廿八石五斗余《割書:天正(てんしやう)十九年辛卯十一月 地(ち)は|国府台村(こふのたいむら)と八幡村(やはたむら)とにあり》 禅宗(せんしう)曹洞派(そうとうは)関東総録司(くわんとうそうろくし)三(さん)ヶ寺(じ)の一員(いちいん)なり本尊(ほんそん)釈迦如来(しやくかによらい)開基(かいき)佐々木氏頼(さゝきうしより)《割書:永(えい)|徳(とく)》 《割書:三年|創建(そうけん)》開山(かいさん)通幻寂霊和尚(つうけんしやくれいおしやう)此寺(このてら)もと近江国(あふみのくに)馬場村(はゞむら)にありしを天正(てんしやう)三年 北條(ほうしやう) 氏政(うしまさ)のはからいにて関宿(せきやと)宇和田(うゝわた)の地(ち)に移(うつ)り《割書:今(いま)臨川庵(りんせんあん)と云(いふ)|寺(てら)其址(そのあと)なり》元和(けんわ)三年 内町(うちまち)の地(ち)に 移(うつ)す然(しか)るに内町の地も屡(しは〳〵)洪水(こうすい)の患(うれい)ありけれは寛文(くわんぶん)三年 又(また)此地(このち)に移(うつ)れり 《割書:猶(なほ)創建(そうけん)以来(いらい)寺地(じち)の遷移(せんい)|後(のち)にあけたる鐘識(しやうしき)に詳(つまひらか)なり》 ○此地(このち)は往古(わうこ)国府(こくふ)の旧址(きうし)にて形勢(けいせい)斗絶(とせつ)境地(きやうち)広大(くわうたい)なり道傍(たうはう)に石(いし)の下馬(けは)  札(ふた)あり佐々木氏頼(さゝきうしより)の賜(たまふ)ところと云(いふ)《割書:弘治(こうち)の高札(かうさつ)ありて遠山弥二郎(とほやまやしろう)と記(しる)しあるよし|されと弘治には未(いま)た関宿(せきやと)に移(うつ)らす猶(なほ)熟(よく)考ふへし》小笠(をかさ)  原左衛門佐(はらさゑもんすけ)某(それかし)の墓(ぼ)石あり《割書:今(いま)越前(ゑちせん)勝山(かつやま)|の城主(しやうしゆ)なり》当時(とうし)関宿(せきやと)に封(ほう)せられしをり建(たつ)  るところなり○後(うしろ)の山(やま)に石槨(せきくわく)あり往古(むかし)国司(こくし)の物(もの)なるへし昔時(むかし)一(いつ)貴人(きにん)石(せき)  槨(くわく)を掘(ほ)らせ給ひしをり出(いて)たる茶釜(ちやかま)銀(きん)の鈴(すゝ)なと寺宝(じほう)になしあるよし  或書(あるしき)に見(み)えたり○此地(このち)に大田道潅(おほたとうくわん)の植(うゑ)しと云(いふ)榎(えのき)の大木(たいほく)二株(いつちう)あり下馬(げば)  石(いし)と相対(あいたい)せり  房総遊覧志(ほうそうゆうらんし)に載(の)する所(ところ)の什物目録(しうもつもくろく)  一南蛮鉄 ̄ノ茶釜   一金銀 ̄ノ鈴     一懐中 ̄ノ守毘沙門天  一七宝焼 ̄ノ茶椀   一赤栴檀 ̄ノ釈迦   一青江下坂 ̄ノ鑓  一白玉 ̄ノ水呑    一豹皮 ̄ノ陣太鼓   一古法眼元信 ̄ノ画《割書:松竹梅|三幅》  一水府義公 ̄ノ書   一酒井雅楽頭某 ̄ノ書 一隠元禅師 ̄ノ書  一西行法師 ̄ノ書  大日本国東海路総之下州葛飾郡風早庄市川郷国府台村安  国山総寧禅寺者 永平元禅寺六世 ̄ノ孫 通幻和尚開闢 ̄ノ陳迹四所之中 ̄ノ第三之道場  也原 ̄ルニ_二其濫觴 ̄ヲ_一永徳三癸亥之歳佐々木六角判官氏頼創_二建 ̄シ精舎 ̄ニ  於江州新庄樫原 ̄ノ郷 ̄ニ_一而屈_二-請 ̄シ我 通幻和尚 ̄ヲ_一住 ̄セシム焉百爾 ̄ノ器備 ̄リ僧宝  競 ̄ヒ集 ̄ル矣物換 ̄ハリ星移 ̄リ至 ̄テ_二 八世越翁 ̄ノ時 ̄ニ_一佐々木氏族滅 ̄ス矣惟時諸国争 ̄ヒ  《割書: |レ》国 ̄ヲ列国蜂 ̄ノ《割書:如》起 ̄ル因_レ茲享禄三庚寅駿州今川氏之家臣朝比奈備中  守教翁住 ̄スルコト_二于遠州懸川乗安寺 ̄ニ_一者年 ̄アリ_二于茲 ̄ニ_一是 ̄レ蓋 ̄シ【盖は俗字】避_レ兵 ̄ヲ之謂歟至 ̄テ_二 十  一世義翁 ̄ニ_一 天正三乙亥北條氏政仰 ̄テ_二翁之道徳 ̄ヲ_一於_二本州関宿 ̄ニ_一寄_二付_一【一点衍ヵ】  梵地 ̄ヲ_一越 ̄ニ聚 ̄メ_レ材 ̄ヲ命 ̄シ_レ工 ̄ニ殿堂玉 ̄ノ《割書:如ク》成 ̄リ再 ̄ヒ盛《割書:也》通玄道化大 ̄ニ振 ̄ヒ新 ̄ニ豊 ̄ス_二玄風 ̄ヲ_一至 ̄テ_二 十  七世骨山 ̄ニ_一元和三丁巳初夏中旬洪水逆流 ̄シ陸_二沈 ̄ス梵刹 ̄ヲ_一也達 ̄シ_二之 ̄ヲ  台聞 ̄ニ_一 台徳院殿大相国別 ̄ニ賜 ̄ヒ_二梵地 ̄ヲ_一賑 ̄スニ以 ̄ス_二米俵千 ̄ヲ_一於 ̄テ_レ茲 ̄ニ重 ̄テ建 ̄テ_二梵字 ̄ヲ_一而倍 ̄ス_二前規 ̄ニ_一  也然 ̄ルニ其境猶挟 ̄リ_二于二州之間 ̄ニ_一也洪水漲 ̄レハ則動 罹(カヽル)_二馮夷之《割書:災》 ̄ニ_一満堂毳  侶造次 ̄モ愁 ̄ヒ_レ之 ̄ヲ顛沛 ̄モ苦 ̄ム_レ之衆中議云前軍覆轍夫盍_レ鑑 ̄セ邪自_レ非 ̄ル_レ易 ̄ニ_レ 地 ̄ヲ  我果魚 ̄ナラン乎《割書:予》謂 ̄フ夫推 ̄ス_レ己 ̄ヲ之心啻 ̄ニ匪 ̄ス_二我 仏 ̄ノミニ_一仲尼亦好 ̄ム_レ之 ̄ヲ請 ̄フ移 ̄シテ_レ 地 ̄ヲ而令 ̄ン_二後之住者 ̄ニ_一無 ̄ヲ_レ愁便 ̄チ相攸於本州国府 ̄ノ台 ̄ヲ_一【「国府台」から続く二点脱。どこに続くがわからない】  訴 ̄フ_レ之 ̄ヲ 征夷大将軍源朝臣家綱公 ̄ニ_一於_レ茲寛文三癸卯仲秋下浣 台恩飛  下 ̄シ賜 ̄フ_レ 地 ̄ヲ者方二里程為_二此境_一也舞 ̄シ_二士峰於檐間 ̄ニ_一臨 ̄ム_二東海於階下 ̄ニ_一杜  翁所_レ謂窓 ̄ニハ含_二西嶺千秋 ̄ノ雪_一門 ̄ニハ繫 ̄ク_二東呉万里船 ̄ヲ_一者也実一方 ̄ノ勝概也  又境内有_二法王坂_一伝云往昔葬 ̄ル_二法王於此地 ̄ニ_一到 ̄リ于今 ̄ニ_一石棺猶存也  吁何 ̄ノ世邪雖_レ無_二伝記_一口碑所_レ伝夫豈空邪我室従来伝 ̄フ有_二法王三  昧 ̄ノ秘訣_一憶天機後熟者乎衆与歓抃而移 ̄ス_レ席 ̄ヲ矣夫 ̄レ以 ̄レハ 先仏所_レ庵皆設 ̄ク_二法器 ̄ヲ_一鐘為 ̄リ_二之先_一拘_二留 ̄シ石鐘 ̄ヲ祇園 ̄ノ金鐘寔 ̄ニ足 ̄ル_二亀鑑_一者也  故《割書:予》欲 ̄ス_レ建_二立 ̄ント一宇 ̄ヲ_一而預鋳 ̄ス_二梵鐘 ̄ヲ_一雖_レ然単力以 ̄テ_レ難_レ弁 ̄シ普 ̄ク叩_二真俗 ̄ヲ_一以 ̄テ成 ̄ス_二  其功 ̄ヲ_一叨 ̄ニ綴 ̄リ_二俚語 ̄ヲ_一以【㠯】充 ̄ツ_二其銘 ̄ニ_一云尓《割書:銘文|略》   寛文三龍輯昭陽単閼黄鎮吉蓂          前永平現総寧二十二世智堂叟《割書:光詔》謹誌               冶工 御釜屋 堀 山城守清光 真間山(まゝさん)弘法寺(くはふし) 真間(まゝ)にあり寺領(しりやう)三十石《割書:天正十九年|辛卯十一月》日蓮宗(にちれんしう)池上本門寺(いけかみほんもんし)に属(そく)す 六門家(ろくもんか)の一(いつ)なり本尊(ほんそん)釈迦如来(しやかによらい)《割書:富城常忍(ときしやうにん)の作(さく)なり 楼門(ろうもん)の金剛力士(こんかうりきし)は|運慶(うんけい)の作(さく)也 全体(せんたい)黒色(こくしよく)にして他(た)に異(こと)なり》開基(かいき)富城常忍(ときしやうにん)開(かい) 山(さん)は日頂上人(につてうしやうにん)《割書:伊与阿闍梨(いよのあしやり)山本坊(やまもとはう)と号(こう)す父(ちゝ)は橘伊与守定時(たちはないよのかみさたとき)母(はゝ)は駿州(すんしう)勢原弥四郎国重(せはらやしろうくにしけの)女(じよ)懐胎(くわいたい)の内(うち)定(さた)|時(とき)死去(しきよ)し富城五郎胤継(ときころうたねつく)に嫁(か)す正安(しやうあん)元年(くはんねん)養父(やうふ)常忍(しやうにん)《割書:胤|継》示寂(ししやく)す日頂(につてう)哀(かなしみ)に堪(たへ)すして》 《割書:八月十二日こゝを出(いて)さり終(つい)にかへらす其終(そのおは)る所(ところ)をしらす一説(いつせつ)に三月八日 弘通(くつう)の為(ため)に|出(いて)て返(かへ)らすと孰(いつれ)か是(ぜ)なるや墓(はか)は富士北山(ふしきたやま)本門寺(ほんもんし)より西北(にしきた)二三丁 計(はかり)正林寺(しやうりんし)にあり》○《割書:弘法寺(くはふし)過去帳(くわこちやう)に日頂(につてう)上人|嘉暦(かれき)三戊辰八月十二日 寂(しやく)》 《割書:年八十六|と見ゆ》此寺(このてら)元は密家(みつか)にて空海(くうかい)の旧跡(きうせき)なり故(ゆゑ)に弘法寺(くはふし)と号(こう)す《割書:弘法大師(こうほふたいし)の像(そう)西(にし)|新井(あらゐ)総持寺(そうちし)にあり》 《割書:改宗(かいしう)の頃(ころ)うつ|せしなるへし》○《割書:真間(まゝ)の地(ち)も元(もと)は市川村(いちかはむら)の内(うち)とみえて文明(ふんめい)|十一年 遠山某(とほやまなにかし)の文書(もんしよ)に市河(いちかは)の内(うち)真間(まゝ)とあり》 ○元享釈書《割書:巻|一》に釈 ̄ノ空海姓 ̄ハ佐伯讃州多度 ̄ノ郡 ̄ノ人父 ̄ハ田公母 ̄ハ阿部氏小字 ̄ハ貴  物年十八上_二大学 ̄ニ【一点脱】偶逢 ̄ヒ_二沙門勤操 ̄ニ_一受 ̄ク_二虚空蔵求聞持法 ̄ヲ_一延暦十四年登 ̄リ_二東 【絵図の上部】 市川城址図  康正中千葉実胤拠之  或書ニ総寧寺ヨリ  東ノ方往古国府  五郎某ナル人ノ居  城アリシカ《割書:云々》或云  国分ハ奥州ノ在名  ヲトレルナリ香取  郡大崎村ニ国  分五郎ノ城址  アリコノ地方ト関  係ナシ誤ナルヘシ」 ○千葉大系図ニ  下総国葛飾  郡国分郷ヲ分  与ストアリ何レ  カ是ナルヲシ  ラス 【絵図の下部】 相州兵乱記ノカラメテ川此コトヲ 云ナルベシ 鐘識ニ法王ヲ此ニ葬ル ト見ユサレト法王ヲ葬リシ ニテハナク逆修【注】ナルベシ当時 道鏡ニ媚テ国々国府ニ ソノ逆修ノ墓ヲ建シナ ラン可成談ニ国府台ト 云所ニ石槨アリカタワ ラニ車塚アリ法王塚ト 所モノヽミ云ナラハセルハ 道鏡ナルヘシ云々 江戸名所ニ上世ノ人ノ墓トス国司 任所ニテ死セシ人ノ墓ナトニヤ 【注 ぎゃくしゅ=生きているうちに、あらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行うこと。】 【絵図左側本文】 或書に鎌倉以降戦争の衢となりて公家赴任も止果て優なることの葉も伝はらす文明に太田道灌城に取 立て臼井を攻るつなきとせり天文に小弓公方の軍後は北条に属し其家臣加次氏城主たり加次五郎有久の時に 豊公小田原の軍ありて後 御当家に属し御家人豊島某城主たり其後に今の安国山総寧寺を関宿 より此に移せり《割書:云々》これによれは国分五郎と云は千葉の一族のことにてなく加次氏のことを云るにや猶しらぶべし 《割書:左側》  一世代置_レ之 《割書:一世は通幼なり永徳年中のものと見ゆ|近江より下総に運ひ来れるなるへし》 【碑文】下馬 【碑の左】四尺三寸許 【碑の台】一尺二寸 【碑の下側】 山城ノ井堤ノ 辺ニモ下馬石 アリト山州名跡 志ニ見ユ 伏 ̄テ以 ̄レハ 為 ̄ニ_二本慶良然 大姉 ̄ノ_一奉 ̄リ_三造立 ̄シ_二這 ̄ハ 塔 様 ̄ヲ_一以 ̄テ至心 ̄ニ合_二掌 ̄シ之 ̄ヲ_一【「ラ」は誤記ヵ】至 心 ̄ニ恭_二敬 ̄ス之 ̄ヲ_一御願是 ̄レ地 依 ̄リ善 ̄ク巧 ̄ニ速 ̄キ_二菩提 ̄ヲ_一到 ̄ンコト_二彼 岸 ̄ニ_一必 ̄フ【「ス」とあるところ】信《割書:也》良 ̄ヤ久 ̄ク而白 ̄ス 中在 ̄リ_二黄金_一充 ̄ツ_二 一国 ̄ニ_一 于時寛永十八《割書:辛|巳》暦卯月吉辰 【五輪塔の説明】 小笠原左衛門佐碑         碑高一丈許 空 風 火 水 地 外(ほか)一基(いつき)に為_二正山端雲居士_一とあり 左右(さいう)文字(もんし)分明(ふんみやう)ならす  大寺壇 ̄ニ_一受 ̄ケ_二具足戒 ̄ヲ_一 二十三年従 ̄ヒ_二遣唐使藤加能 ̄ニ_一到 ̄ル_二長安城 ̄ニ_一請_二青龍寺東塔  院内供奉慧果阿闍梨 ̄ニ_一果喜 ̄ンテ曰我先知 ̄リ_二汝来 ̄ヲ_一相待 ̄コト久 ̄シ矣両部 ̄ノ大法秘密 ̄ノ印  信皆悉付授 ̄ス又召_二供奉画工李真等十余人 ̄ヲ_一図 ̄ス_二金胎諸曼荼羅一十舗 ̄ヲ_一鋳  工楊忠信等新 ̄ニ造 ̄リ_二道具 ̄ヲ_一集 ̄メテ_二経生諸秘経 ̄ヲ_一大同元年 ̄ニ帰朝 ̄ス承和二年三月廿  一日入定 ̄ス年六十二 ○類聚国史《割書:百八|十》承和二年正月壬子大僧都伝灯大法師位空海奏 ̄シテ曰依 ̄テ_二  弘仁十四年 ̄ノ詔 ̄ニ_一欲_レ令 ̄ント_下真言僧五十人住 ̄シテ_二東寺 ̄ニ_一修 ̄セ_中 三密門 ̄ヲ_上今堂舎已 ̄ニ建 ̄テ修講  未_レ創 ̄セ願 ̄ハ且割 ̄テ被 ̄テ_レ入 ̄ㇾ_二東寺官家功徳料 ̄フ封戸千戸 ̄ノ之内二百戸 ̄ヲ_一《割書:甲斐国五十戸|下総国百五十戸》  以充_二僧供 ̄ニ_一為_二国家 ̄ノ_一薫修 ̄シテ利_二済 ̄セシメ人天 ̄ヲ_一許 ̄ス_レ之 ̄ヲ《割書:△以上二書により考(かんかふ)るに下総(しもふさ)に寺を創(はしめ)しこと|見(み)えされとも以_二百五十戸_一充 ̄ツ_二僧供 ̄ニ_一 といふ文あれは》  《割書:其(その)報恩(はうおん)の為(ため)後(のち)に寺(てら)を建(たて)弘法寺(くはふし)とも名(な)つけ|しにや此辺(このへん)古(いにしへ)の百五十戸の内(うち)ならん》 ○御書《割書:三十|七》真間釈迦仏御供養遂状  釈迦仏(しやかふつ)御造仏(こそうふつ)の御事(おんこと)無始(むし)曠劫(くわうこう)より未(いま)た顕(あらは)ましまさぬ已心(いしん)の一念(いちねん)三千(さんせん)  の仏(ふつ)造(つく)り顕(あらは)しましますか馳(はせ)参(まゐ)りておかみ参せ候はや欲_レ令 ̄ント_三衆生開 ̄カ_二仏 ̄ノ知見 ̄ヲ_一《割書:乃|至》  然 ̄ルニ我 ̄レ実 ̄ニ成仏已来は是也(これなり)但(たゝ)仏(ほとけ)の御開眼(こかいけん)の御事(おんこと)はいそき伊与房(いよはう)をもては  やし参(まい)らせさせ給(たまひ)候へ法 華経(けきやう)一部(いちふ)御仏(おんほとけ)の御六根(ころくこん)によみ入(いり)参(まいら)せて生身(しやうしん)の  教主(けうしゆ)釈尊(しやくそん)になし参(まいら)せてかへりて迎入(むかへいり)参(まい)らせさせ給(たま)へ自身(ししん)并に子に非さ  れは何んかと存(そんし)候 御所領(こしよりやう)の堂(とう)の事等(こととう)は大進(たいしん)の阿闍梨(あしやり)かきゝて候かへす〳〵  もおかみ結縁(けちゑん)しまいらせ候へしいつそや大黒(たいこく)を供養(くやう)して候し其後(そのゝち)より世  間(けん)なけかすしておはするか此度(このたひ)は大海(たいかい)のしほの満(みつ)るか如(こと)く月(つき)の満(まん)するか如  く福(ふく)きたり命(いのち)なかく後生(こしやう)は霊山(れいさん)と思(おほし)し【語尾の重複】召(め)せ 九月二十六日 日蓮 進上  富木殿御返事《割書:△什宝目録に生身仏御厨子入|高祖開眼富木殿造立と見ゆ》  録外御書《割書:巻|七》大黒送状 大黒供養料慥給候畢《割書:本文|略之》三月十二日 日蓮 富木殿 ̄え ○大黒は大己貴(おほなむち)の音(おん)也(なり)袋(ふくろ)を負(お)ひ玉(たま)ふ事([こ]と)は古(こ)事記に見え軍神たるは神功記  にみえたり伊勢(いせ)に大黒 谷(たに)あり類聚本源(るいしゆほんけん)に大国玉(おほくにたま)也といへり○大黒天  神(しん)は儀軌(ぎき)を考(かんこう)るに頭(かしら)に帽子(ほうし)を蒙(かふむ)り左手(さしゆ)に嚢(のう)をとり右手(うしゆ)に槌印(つちいん)をなすよ  しみゆ摩竭持槌(まかつちつい)飢餲持袋(きかつちたい)といへは此(この)二鬼(にき)を合(あは)せたる也(なり)荷葉(かやう)に載(のら)しむ  ○大黒天(たいこくてん)の事([こ]と)は南海寄(なんかいき)帰 伝(てん)【注①】仏祖通載(ふつそつうさい)【注②】等(とう)にくはしく新訳仁王経(しんやくにわうきやう)に祀塚(てうかん)  間摩訶羅大黒天神(まか[ら]たいこくてんしんをまつる)青龍疏(せいりやうそ)に大黒天神(たいこくてんしん)闘戦神也(とうせんのかみなり)と或書(あるしよ)に見(み)ゆ 子院(しいん)十余(しうよ)あり覚了坊(かくりやうほう)大林坊(たいりんほう)真浄坊(しんしやうほう)養善坊(やうせんほう)亀井坊(かめゐほう)松本坊(まつもとほう)東坊(ひかしほう)善(せん) 林坊(りんほう)浄蓮坊(しやうれんほう)外(ほか)に華蔵院(けそういん)又(また)寒室(かんしつ)といふ地(ち)に龍泉坊(りやうせんほう)安立坊(あんりうほう)安国院(あんこくいん)玄授(けんしゆ) 院(いん)等(とう)の門末(もんまつ)あり《割書:△市川村(いちかはむら)の小字(こあさ)に根本(ねもと)といふ地(ち)あり此地(このち)に根本寺(こんほんし)あり元(もと)は弘法寺(くはふし)の支院(しいん)とみ|永享(えいきやう)十二年 胤直文書(たねなほもんしよ)に真間(まゝ)根本寺(こんほんし)別当職(へつたうしよく)」享徳(きやうとく)五年 胤房文書(たねふさもんしよ)真間(ま)根本寺(こんほんし)》 《割書:同年(とうねん)輔胤書(すけたねしよ)真間(まゝ)法(ほつ)|華堂(けとう)根本寺(こんほんし)と見ゆ》 ○寺記(しき)に旧(もと)天台宗(てんたいしう)にてありしか権大僧都(ごんたいそうつ)了性(りやうせう)富木胤継(ときたねつく)の問難(もんなん)にまけ退(たい)  院せしかそれより日家(につか)となるといふ○寺社鑑に身延派《割書:也》献上 ̄ハ巻数《割書:也》住職  寺中《割書:并》末頭評議之上 ̄ニ相定 ̄ル住職御礼 ̄ハ無 ̄シ_レ之 ̄レ年頭御礼大広間《割書:也》独礼座一  同《割書:也》御暇 ̄ハ無 ̄シ_レ之 ̄レ 【注① 『大唐南海寄帰内法伝』の略。唐代の僧義浄が著した東南アジア諸国の旅行記。】 【注② 『仏祖歴代通載』の略。古代より元統元年(一三三三)に及ぶ仏教編年史。】 【右丁】 日頂上人(につちやうしやうにん)本(ほん) 尊(そん)を授(さつか)るの 図(づ) 【左丁 落款印】  都良            乎   什宝目録抄《割書:要を|摘む》  大黒天《割書:高祖作|厨子入》 頂師 ̄ノ剣 松虫 ̄ノ笙 袈裟《割書:往昔天台宗の時住僧権大|僧都了性法師の所持なり》  高祖一代五時之図《割書:二幅》 同御消息《割書:二幅》 同御消息《割書:五通》 尊師御  消息《割書:一通》 十六羅漢 ̄ノ図《割書:晁殿司|筆《割書:ト云》》 光圀卿 ̄ノ消息《割書:一通》 楓橋遺事《割書:一巻》 菊池  武房 ̄ノ旗《割書:并》由緒書写二巻 源義家弓伝書   古文書目録《割書:此年次違へるもあれと姑く古きにより改す》  元享三年五月一日下総国八幡庄蘇谷郷《割書:云々》       平花押【書】  大永七年卯月廿日古来之檀那之事《割書:云々》         沙弥祥仙    天文四年乙未菊月三日於当寺家以後々迄《割書:云々》      沙弥常舜  永禄十二己巳年二月十九日制札            花押【書】  無年号十月十三日制札                胤則  無年号辛巳九月十九日制札              胤辰  無年号丙子二月十四日制札              胤辰  享徳五年六月廿日下総国八幡之庄真間弘法寺《割書:云々》    胤房  享徳五年六月廿日下総国《割書:云々》散地如前々《割書:云々》      胤房  享徳五年十月廿五日下総国八幡庄真間法華堂根本寺領事 平輔胤  延徳四年九月一日下総国八幡庄之内《割書:云々》        勝胤  天文二年五月一日当寺之散地之事《割書:云々》         胤隆  天文七年六月廿八日下総八幡之庄之内《割書:云々》      祥仙        四月廿日御門前之御手作《割書:云々》《割書:天文八年己亥|ナルベシ》  遠山  無年号四月廿八日真間山弘法寺           原式部大夫胤清  無年号卯八月十五日真間御寺下之草刈《割書:云々》      杉左之外四人連名  無年号六月一日還往国府真間法堂事《割書:云々》       貞胤  嘉暦参年三月十四日真間御寺御寄進田地《割書:云々》     左衛門尉  観応元年七月十一日奉寄進下総国千田庄《割書:云々》     平胤継    三年卯月四日蘇谷郷秋山村内《割書:云々》        大隅守平胤▢  康暦三年二月二日国府真間法花堂地等事《割書:云々》     平花押【書】  永享十二年十月廿五日下総国真間根本寺別当職《割書:云々》  胤直  享徳五年六月十四日下総国葛飾郡八幡庄之内《割書:云々》   胤房  古碑七株 《割書:正和亖年《割書:乙|卯》七月日  暦応第五天  文和三年《割書:甲|午》七月  明応八天《割書:己|未》六月廿三日日隆|天文断碑  建武二年《割書:太才|乙亥》卯月  明徳三《割書:壬|申》五月七日》 真間浦(まゝのうら)《割書:又(また)入江(いりえ)。浜(はま)。井(ゐ)。於(お)|須比(すひ)。なといへり》継橋(つきはし)より上(かみ)真間にそひ須和田(すわた)へ打廻(うちまわ)しある所(ところ)の沼沢(しやうたく)是(これ)古(いにし) への真間の浦なり此(こ)の南(みなみ)の方(かた)に細流(さいりう)あり細流より猶(なほ)南の汚田(うてん)も昔(むかし)は真間 の浦の内(うち)なるべし《割書:△此辺(このへん)の村(むら)々も其(その)あとなりと云(いふ)説(せつ)は非(ひ)なるへしむかしのさまは土地(とち)を践(ふん)て論(ろん)すへきあり|○太井川(ふとゐかは)の川下に欠真間村(かけまゝむら)あり此地(このち)と因(ちなみ)あるにや○此地(このち)に溜井(ためゐ)あり行徳領(きやうとくれう)十》 《割書:二ヶ村に分注(ふんちう)す此(この)溜井(ためゐ)の東(ひかし)の方(かた)を堰向村(ゐむかふむら)と称(しやう)す元(もと)の字は|笹塚(さゝつか)と云(いふ)しよし旧(もと)千戸(せんこ)の住居(すまゐ)ありしとそ》  紅塵集上春部 真間の江や玉もかりけん面影もほのかにうかふ春のよの月 千蔭  同秋部   鳰とりのかつしかわせ【注①】のにひしほり【注②】くみつゝをれは月傾きぬ  真淵  琴後集秋  月にこそおもかけうかへむかしみし真間の入江の秋のうらなみ 春海 真間継橋(まゝのつきはし) 弘法寺(くはふし)の下(もと)の細(ほそ)き流(なかれ)に打渡(うちわた)せる二(ふた)ツの橋(はし)の中なる真間(まゝ)へよりし小橋(こはし) なり《割書:△南留別志(なるべし)に継橋(つきはし)を継橋と云(いふ)は継をまゝとよむゆへなるへしと云(い)へりされと摂津(せつつ)に淀(よど)の継橋(つきはし)|真野(まの)の継橋 越後(えちご)に奈(な)古の継橋の類(るい)もあれはやはり真間(まゝ)の継橋なるべし》 万葉集(まんようしふ)の安能於登世受(あのおとせす)と云 歌(うた)の意(こゝろ)にては馬(うま)なとも往来(ゆきゝ)せしことく見(み)ゆれは 古(いにし)へは余程(よほと)大(おほき)なる橋(はし)なりしにや ○安能於登世受(あのおとせす)由可牟古馬母我(ゆかんこまもか)可都思加乃(かつしかの)麻末乃都芸波思(まゝのつきはし)夜麻受可欲(やますかよ)  波牟(はん)《割書:万葉十四相聞往来歌○略解に足(あし)の音(おと)せす也川の狭(せま)きには板(いた)一(ひと)ひらうち渡(わた)して足(た)れと|少(すこ)し広(ひろき)には川中に柱(はしら)をむかへ立てそれに横木(よこき)をゆひて板を長(なか)く継(つい)て渡すを継橋(つきはし)と云》  《割書:めり其橋(そのはし)をわたりて忍(しのひ)て妹(いも)に行(ゆか)んに|足音(あしおと)せす渡(わた)らん馬(うま)もかなと云 願(ねか)ふ也》  紅塵集秋  しら浪に玉もかりけん人はいさ月すみわたる真間の継はし   枝直        いまも猶忍ひそわたるをとめ子かかよひ馴けんまゝのつきはし 千蔭  《割書:春台文集|巻三》継橋記《割書:江戸(えど)名所図会(めいしよづゑ)《割書:之》里諺(りけん)によるのみ|にして証(しやう)とするに足(た)らすと云り》 【注① 葛飾早生=下総国葛飾地方でとれた早生の稲。】 【注② 新搾り=新酒。】 【上】 去比申之御徳のたねの籾 弐石也遣候仏道をねかひ候上は 福智の二厳具足して菩提成熟 する斗にて候如此申候をはひとへに 十羅刹の仰と信仰せさせ給候て いかに事かくる■【事ヵ】候とも此物をは 堅固の思をなして十年はけみて 御覧候へ長者とならせ給へく候 方便かけては世間むせ【元は「け(遣)」ヵ】かなひ かたき事にて■【是ヵ】よく〳〵秘計を めくらさせ給候はゝ当於今世 得現果報無疑候し穴賢〳〵 【下】 雖為富士門弟背大聖人 之御法心都【元は「門被」ヵ】立邪義候間 於彼門流為大聖人之御 本意下総真間之奉正 義帰伏之事【元は「処」ヵ】也仍帰伏之状如件  康暦二年《割書:庚|申》三月廿三日         砂門日什【花押】 【上右】 永仁五  十二月三日 日常【花押】  此籾ふへ候てのち三分にわせ【元は「け(遣)」ヵ】候て一分を  もては身命をもあひたすけ候へり  二分をは三夜仏事につかふへく候仍仏物と  申て■■候後日のために此■【簡ヵ】を  かきのするところ如何【件ヵ】  此物所願のこと倍して日本国中の  法花経信■【者ヵ】と供養すへし本■三更 【上左】   立申起請文事 右日樹にむきたてまつり相互に御 志不浅思召奉存といへとも尚も相■【互ヵ】に心 安おもはれ申思まいらせ候はんために起請 文をかきちかへまいらせ■【給ヵ】候事真言■【悦ヵ】 令存候向後は殊更日樹にむきまいらせて うしろくらくはらくろなる事ある 【下】 【逆さ】 裏ニ《割書:菊池武房|文永十一弘安四》 【縦寸法】一尺三寸 【横寸法】六尺 【右端】板 【長手方向】阿蘇大明神       八幡大菩薩       天満大自在天神 【矢羽三枚の図】 【左端下】《割書:足シ紙ニ織アリ|・―切テ不見候也》 【裏】一ツ橋御殿     中川御女性     【上右】 ましく候又如仰若人なんとの讒言 の■【と】きは相■【互】にかくさす見参に■【入ヵ】候事■【被ヵ】■【乞ヵ】 可奉明者也若此よし■【と】も偽申■【候はゝヵ】 法花経十羅刹大聖人の御罰を日祐身にあつく 深かふむり永々御無間違仍起請文状如件   正和八年卯月十二日 日祐【花押】   真間日樹へ        参 【上左】  此又匣便宜次第に可給候 口切とて引茶又豆腐五丁 【下】 玉勝間七三十三丁九代隆泰 の子菊池十代武房《割書:一説に|康成》 文永弘安両度の合戦に 対馬筑前におゐて蒙古 人を討平け日本の武名 を異国に施せり十一代時 隆十二代武時法名寂阿十 三代武重十四代武士《割書:一説に|武俊》 《割書:又武|敏》十五代武光と見ゆ 【下底横倒し】 絹ノ名ハ目関文字ト云▢当家二十八代藤正仁■此御旗尺▢不知候享保十五年戌六月 【下左逆さ】 ○―切テ云々ト此トコロニ横識ルシアリ 語長ケレハ姑ク竪ニシルス 【上】 祝着候早々賞翫可申候 尤持院【不明】罷立候由笑止千万候 此曼荼羅書札之通慥         守源院へ 御届頼申候安国論□廿一日よし【不明】 講談候へと日亮御申候間其通 領掌申候かしく   十六日   日乾   善艆坊      几下 【下】 日頂上人所持剣 【剣の図】 一尺三寸七分 一尺六寸八分  東都之東 ̄シ入 ̄ル_二総州 ̄ニ_一 四十里許 ̄リ其地 ̄ヲ曰_二継 ̄ノ里 ̄ト_一因 ̄リ_レ橋 ̄ニ名 ̄ル也継之為 ̄ル_二名区_一尚 ̄シ  矣自_二山赤人橋虫生_一歴世詞人皆詠_二歌 ̄ス之 ̄ヲ_一何 ̄ヲ咏歌 ̄スル詠-_一【二点ヵ】歌 ̄ス氐胡 ̄ヲ_一氐胡者  何 ̄リ女子 ̄ノ名也曷 ̄ソ為 ̄ス_三詠歌 ̄スルヲ_二氐胡 ̄ヲ_一其説未 ̄タ_レ詳 ̄ナラ以 ̄スルニ_二里人所 ̄ヲ_一_レ伝氐胡早喪 ̄フ_レ母 ̄ヲ継  母不_レ慈氐胡事 ̄テ_レ之 ̄ニ孝《割書:也》継 ̄ノ里瀕 ̄シ_二海水 ̄ニ_一井皆不_レ食 ̄ハレ唯有_二 一井_一寒泉可_レ食 ̄フ氐  胡日汲 ̄ミ焉以養 ̄フ_二継母 ̄ヲ_一有_二少年_一見而従 ̄フ_レ之 ̄ニ閟 ̄ス_二其人 ̄ヲ_一就 ̄テ闚 ̄フ_二氐胡 ̄ノ家 ̄ヲ_一者数 ̄ノミ矣  継母覚 ̄シ_レ之 ̄ヲ以為 ̄ス_レ盗 ̄ト而氐胡為 ̄ニ_レ之 ̄カ内応 ̄ス於_レ是駆 ̄ス_二【敺は駆の古字】氐胡 ̄ヲ_一辞不_レ釈駆 ̄スル_レ之幾乎  死 ̄ントス氐胡乃走 ̄テ自投 ̄ン_二橋下 ̄ニ_一而死 ̄ス里人哀 ̄ミ_レ之 ̄ヲ収而葬 ̄ル_レ之 ̄ヲ封 ̄スルニ_レ土 ̄ニ樹 ̄へ_レ松 ̄ヲ以識 ̄ス_レ之 ̄ヲ  謂_二其橋 ̄ヲ_一【送り仮名「フ」はヲの誤記と思われる】曰_二継橋 ̄ト_一謂_二其井 ̄ヲ曰_二継 ̄ノ井 ̄ト_一以懲 ̄スル_二継母之悪 ̄ヲ_一也墓也橋也井也於  _レ今猶存 ̄ト云其後僧 ̄ノ空海東遊 ̄シ留 ̄シ_二乎此里 ̄ニ_一 人因 ̄リ造 ̄ル_レ寺 ̄ヲ焉海謚 ̄ス_二弘法 ̄ト_一故号 ̄ス_二  弘法寺 ̄ト_一後廃 ̄ス有_二僧 ̄ノ日蓮_一修 ̄ス_レ之 ̄ヲ今見存継橋在_二其下 ̄ニ_一継 ̄ノ井与_二胡 ̄ノ墓_一皆在 ̄リ_二  其東北百歩之内 ̄ニ_一自_二数百年之後_一海変為_レ田 ̄ト継 ̄ノ里今南去 ̄ルコト_レ海 ̄ヲ可_二 二十  里_一登 ̄ル_二弘法寺 ̄ニ_一則平野漫々東方不_レ見_二其所 ̄ヲ_一_レ極 ̄スル西望_二東都 ̄ヲ_一則城市人煙  廼在_二目中 ̄ニ_一実勝概也弘法之西北有 ̄リ_二総寧禅寺_一官刹也未 ̄タ_レ至_二弘法 ̄ニ_一里  所有_二関河_一焉東岸赤壁数仭可_レ観 ̄ル矣余与_二藤東壁_一以_二 丁酉之十月 ̄ヲ_一遊 ̄フ_二  継 ̄ノ里 ̄ニ_一東壁之季父為 ̄リ_レ僧 ̄ト在 ̄リ_二弘法寺 ̄ニ_一因宿 ̄シメ_二其房 ̄ニ_一而帰 ̄ル既悉 ̄ス_二故事 ̄ヲ_一矣於_レ是  乎記《割書:△或云此遊係_二| 享保二年_一》   鈴木長頼(すゝきなかより)所(たつる)_レ立(ところの)碑銘(ひめい)《割書:△長頼(なかより)は当時(たうし)日光奉行(につくはうふきやう)を勤(つと)めしと云(いふ)日家(につか)の信者(しんじや)| と見(み)ゆ其(その)子孫(しそん)今(いま)要人(かなめ)と称(しやう)す高(たか)五百石 山伏井戸(やまふしゐと)に住(ぢう)す》 【四角い囲みの中】    継紀奥廃 維文維橋        鈴長頼立碑勒銘【注】  継橋               元禄九丙子仲春    詞林千載 万葉不凋          住持上人日貞識 真間井(まゝのゐ) 同所(どうしよ)北(きた)の山陰(やまかけ)に鈴木院(れいぼくいん)と云(いふ)草庵(そうあん)の傍(かたはら)にあり古(いにしへ)のものなりや詳(つまひらか) 【注 ろくめい=銘文を金属や石に彫り付ける。】 ならす《割書:△手児奈(てこな)明神(みやうしん)略縁起(りやくゑんき)に亀井坊(かめゐはう)| の境内(けいたい)にありいま亀井(かめゐ)と称(しやう)すとみゆ》 【囲みの中】      瓶甕可汲 固志何傾        鈴長頼立碑勒銘   真間井                元禄九丙子仲春      嗚呼節婦 与水冽清           住持上人日貞識  名所今歌集上《割書:五十|一》 かつしかや亀井の清水万代にくむともつくることあらめやも  春郷  同        さみたれはくむ人もなしかつしかやにこりそめたるまゝのゐの水  芦【蘆】庵 手児奈墓(てこなのはか) 或書(あるしよ)に継橋(つきはし)より百歩(ひやくほ)許(はか)り東(ひかし)の方にあり墓表(ぼひやう)に松樹(まつのき)一株(いつちゆ)存(そん)せり 後(のち)に傍(かたはら)に祠(ほこら)を立(たて)手児奈明神(てこなみやうしん)と号(こう)す毎年(まいねん)九月九日を祭日(さいしつ)とすとあり何(なに)により たる事にや相伝(あいつた)ふ文亀(ふんき)元年九月九日 弘法寺(くはうし)在住(さいちう)日興(にちこう)《割書:一作|與》上人(しやうにん)此祠(このほこら)を創(はしめて) 建(たて)られし因(ちなみ)により其日(そのひ)を祭日(さいじつ)とすと云 ○手児奈別記(てこなへつき)に抑(そも〳〵)てこなか入江(いりえ)に身(み)を沈(しつめ)たるはいつの時代(じたい)にや有(あり)けん 【左丁】 手児奈(てこな) 真間(まゝ)の 入江(いりえ)に  身(み)を投(なぐ)る      図(づ) 桂園一枝拾遺《割書:野寒|草》 かつしかの  昔のまゝの   女郎花 そのかけ   さへも かれし  野辺かな   景樹 【右下 落款】 広信【印】 【左丁】  万葉集巻 ̄ノ九 鶏鳴(トリカナク)吾妻乃国爾(アツマノクニヽ)古昔爾(イニシヘニ)有家留(アリケル) 事登(コトト)至(イマ)_レ今(ヽテニ)不(タエ)_レ絶(ス)言来(イヒクル)勝牡鹿乃(カツシカノ)真(マ) 間乃手児奈我(マノテコナカ)麻衣尓(アサキヌニ)青衿著(アヲオヒツケ)【注①】直(ヒタ) 佐麻乎(サヲヽ)裳者織服而(モニハオリキテ)髪谷母(カミタニモ)掻者(カキハ) 不(ケツ)_レ梳(ラス)履乎谷(クツヲタニ)不(ハカ)_レ着(ズ)雖(ユケ)_レ行(トモ)錦綾之(ニシキアヤノ)中(ナカ) 丹裹有(ニツヽメル)斎児毛(イハヒコモ)妹尓(イモニ)将(シカ)_レ及(メ)哉(ヤ)望月(モチツキ) 之(ノ)満有面輪二(タレルオモワニ)如花(ハナノコト)咲而立有者(ヱミテタテレハ) 夏虫乃(ナツムシノ)入火之如(ヒニイルカコト)水門入尓(ミナトイリニ)船己(フネコ) 具如久(クコトク)帰香具礼(ヨリカクレ)【注②】人乃言時(ヒトノイフトキ)幾時(イクハク) 毛(モ)不(イケ)_レ生(ラヌ)物乎(モノヲ)【注③】何為跡歟(ナニストカ)身乎田名(ミヲタナ) 知而(シリテ)浪音乃(ナミノトノ)驟湊之(サワクミナトノ)奥津城尓(オクツキニ)妹(イモ) 之臥勢流(カコヤセル)遠代爾(トホキヨニ)有家類事乎(アリケルコトヲ)昨(キノ) 日霜(フシモ)将(ミ)_レ見(ケン)我其登毛(カゴトモ)所(オモホ)_レ念(ユル)可聞(カモ)           高橋連虫麿 蓑笠もとりあへぬ       まの     夕立は  しとゝにぬるゝ   まゝの継はし    よみ人      しらす 【注① 創元社刊『新校萬葉集』では「あをえりつけ」と振り仮名あり。(一八〇七)】 【注② 前記書には「ゆきかぐれ」とあり。】 【注③ 前記書に「いけらじものを」とあり。】  と尋(たつぬる)に万葉考(まうえうこう)六に赤人(あかひと)か手児奈(てこな)をよめる歌(うた)はならの朝(てう)に至(いた)りて天下(てんか)の  始(はじめ)の頃(ころ)の歌(うた)なるを其歌(そのうた)に古(いにしへ)にありけんなといひしからは此少女(このをとめ)は飛鳥岡(あすかのをか)  本(もと)の宮(みや)の頃(ころ)に有(あり)し成(なる)へしと云(いひ)て 舒明帝(しよめいてい)の時(とき)と治定(ちちやう)せり《割書:その証(しやう)【證】は巻十四 葛飾(かつしか)|のまゝの手児奈(てこな)をま》  《割書:ことかもわれによるとふまゝのてこなをといふ歌(うた)をてこな在世(さいせ)の時(とき)の歌(うた)として岡本(をかもと)の時(とき)と|治定(ちちやう)せり岡本(をかもと)の宮(みや)は 舒明天皇(しよめいてんわう)なりその元年(くはんねん)より天平元年(てんひやうくはんねん)にいたりて一百一年なり》又(また)万葉略(まんようりやく)  解(げ)に本居(もとおり)か説(せつ)を挙(あく)るには此歌(このうた)はてこな在世(さいせ)の時(とき)の事(こと)にあらす古(いにし)へのまゝの  てこなを吾(われ)に似(に)たりと人(ひと)のいふはまことかと悦(よろこ)へる女(をんな)の歌(うた)なりといふこの此説(このせつ)  のことくなれは古縁起(こえんき)に 允恭帝(いんきやうてい)の時(とき)にてこなは入江(いりえ)に身(み)を沈(しつめ)たりといふ  によく叶(かな)へり《割書:此(この)うたの様(やう)はいかにも飛鳥岡本(あすかのをかもと)の宮(みや)の頃(ころ)の調子(ちやうし)なれは 舒明帝(しよめいてい)の時(とき)の哥(うた)と定(さた)|めその元年より 允恭帝(いんきやうてい)元年(くはんねん)にさかのほれは二百十八年なりいにしへのてこな》  《割書:といはん事よく|聞(きこ)ゆるなり》又(また)そのかみ手児奈(てこな)か身(み)を沈(しつめ)たる時(とき)は此山(このやま)既(すて)に寺地(てらち)にや有(あり)けん  又(また)在家(さいけ)の地(ち)にや有(あり)けんと千載(せんさい)の後(のち)より千載(せんさい)の昔(むかし)を尋(たつぬ)るは実(まこと)に知(し)りかた  きことにはあれとも桑田碧海須臾(そうてんへきかいしゆゆ)にあらたまるは世(よ)の中(なか)の有(あり)さまにて  地主(ちぬし)度々(たひ〳〵)かはる時(とき)は墳墓(ふんぼ)もすかれて田畑(たはた)となりやすしいかて千載(せんざい)不(ふ)  改(かい)の地(ち)あらんされはてこなか身(み)を沈(しつめ)し已前(いせん)より此山(このやま)は寺地(てらところ)にてこそありけ  めと思(おも)はる《割書:推古帝(すいこてい)廿四年 帝(てい)不予(ふよ)【注】也 太子(たいし)精舎(せうしや)を営(いとなみ)て祈(いの)る|帝(てい)疾(やまひ)愈(いゆ)百僚(ひやくりやう)多(おほ)く寺塔(じたう)を建(たつ)といへり》推古三十三年に至(いた)りて寺(てら)  は僅(わつか)に四十六ヶ所(しよ)僧(そう)は八百十六人 尼(あま)は五百六十九人也といへる葛飾(かつしか)の真間(まゝ)は古(いにしへ)の  国府(こくふ)なり《割書:和名鈔(わみやうしやう)五(こ)《割書:七|ウ》下総国(しもふさのこく)国府(こくふ)在(かつしかに)_二葛飾(あり)_一 と云(いふ)今(いま)真間山(まゝさん)より一丁(いつちやう)ほとへたちて府中(ふちう)六所(ろくしよ)といふ社(やしろ)あり|また国府台(こふのたい)といふ所(ところ)あり五丁ほとへたちて国分村(こくふんむら)国分寺(こくふんし)ありいつれ真間山(まゝさん)も古(いにし)へは府中(ふちう)》  《割書:なること|しるし》国府(こくふ)は県(あかた)にて朝廷(ちやうてい)の御料地(こりやうち)なれは居付(ゐつき)て国政(こくせい)をとる国造(こくそう)県主(けんしゆ)な  とあれとも又(また)都(みやこ)よりも諸役人(しよやくにん)の往来(わうらい)することあれは鄙(ひな)にても至(いたつ)て繁華(はんくわ)の  所(ところ)にて《割書:古事記(こじき) 成務天皇(しやうむてんわう)の御代(みよ)に建内宿祢(たけのうちのすくね)為(たいしん)_二大臣(とし)_一定(おほ)-賜(くに)_二大国(をくにの)|小国之国造(みやつこをさためたまふ)_一亦(また)定(くに〳〵の)_二賜国々之堺及大県( さかいおよひお[ほ]かた)小県之小県(をかた[のをかた]ぬしを)_一【この一点衍字ヵ】主(さためたまふ)_一とあり》遠(とほき)朝廷(ちやうてい)とも鄙(ひな)の都(みやこ)とも  いふほとの土地(ところ)なれは《割書:略解(りやくげ)三上《割書:廿七|ウ》遠(とほき)朝廷(ちやうてい)は其(その)国々之(くに〳〵の)国府(こふ)又(また)西国(にしのくに)にては太宰(ださい)|府(ふ)をさす同十八《割書:十七|ウ》越前之(えちせんの)国府(こふ)を鄙(ひな)の都(みやこ)とよめり》推古(すいこ)卅三年  の後(のち)はもはや此山(このやま)寺地(てらち)となりしなるべし《割書:国史略(こくしりやく) 孝徳天皇(かうとくてんわう)の下(もと)に 推古(すいこ)以来(いらい)仏教(ふつきやう)壊(れいを)|礼(くわいし)礼典(れいてん)漸(やうやく)廃(はいす)とあるも一証(いつしやう)【證】とするにたる 推古(すいこ)》  《割書:三十三年 舒明(しよめい)元年|にいたり五年なり》或(あるひ)は 推古帝(すいこてい)の時(とき)はいまた寺地(てらところ)とはならすといふとも  聖武帝(せうむてい)の天平九年(てんひやうくねん)の後(のち)寺地(てらところ)となりしことは大地(たいち)を指(さす)かことし《割書:聖武帝(せうむてい)の天(てん)|平(ひやう)九年三月 詔(しやうす)》  《割書:毎(しう)_レ州(ことに)造(じやう)_二丈六釈迦像及菩薩像(りくのしやかそうおよひぼさつのそうをつくり)_一并(ならひに)写(たい)_二 大般若経一部六百巻(はんにやぎやういちふろくひやくくわんをうつさしむ)_一是(これ)国分寺(こくふんし)の 権輿(はしめ)なりとありされは|此頃(このころ)よりはなへて諸国(しよこく)に寺(てら)も多(おほ)くなりしことしるし 舒明帝(しよめいてい)元年より天平(てんひやう)九年にいたり一》 【注 ふよ=天皇・上皇の病気。】  《割書:百九年|なり》 推古帝(すいこてい)以来(いらい)漸々(やうやく)に僧尼(そうに)もおほく寺院(じいん)もあまたになり行(ゆけ)とも唯(たゝ)々  仏教(ふつきやう)を弘通(くつう)する霊場(れいじやう)にて何宗(なにしう)と治定(ぢしやう)したる事(こと)はなかりとみゆ当山(たうさん)も  延暦(えんりやく)二十四年の後(のち)に天台宗(てんたいしう)と定(さたま)りけんがその以前(いせん)何宗(なにしう)と定(さたま)りし事(こと)はなかり しとみゆ《割書:今(いま)謂(いふ)手児奈(てこな)か身(み)を沈(しづめ)たるは 允恭(いんきやう)の時(とき)とせは天平(てんひやう)九年に至(いた)り三百十六年なり|推古(すいこ)の時(とき)に寺地(てらところ)となるとも三十六年より 允恭(いんきやう)にさかのぼれは二百十七年也 地主(ぢぬし)定(さたま)》  《割書:らすして二百年 余(よ)の久(ひさ)しきをへて墳墓(ふんぼ)を守(まも)り失(うしな)はさらんことはいかゝあらんされは両説(りやうせつ)のうち 舒明(しよめい)|の時(とき)とするを勝(すく)れたりとすべし身(み)没(ぼつ)して百七十七年をへて此山(このやま)天台宗(てんたいしう)となり又四百六十 年(ねん)をへて法(ほつ)》  《割書:華宗(けしう)となる《割書:延暦(えんりやく)廿四年より文永(ふんえい)元年|に至り四百六十年なり》また二百三十八年を経(へ)て当山(たうさん)の守護神(しゆこしん)となる抑(そも〳〵) 舒明(しよめい)元年よ|り文政(ふんせい)十三年に至りて一千二百二年なりなへての人(ひと)は腐肉(ふにく)いまたつきさるに其名(そのな)はやく朽(くち)はつるを》  《割書:手児奈(てこな)かこときはひなにうまれて身(み)にまとふ衣(ころも)たにも乏(とほし)かりし少女(をとめ)なるかかく千載(せんさい)の後(のち)まても人(ひと)にし|られあふきたふとまるゝこと貞婦(ていふ)の徳(とく)とはいひなから豈(あに)凡人(ぼんにん)の及(およ)ふ所(ところ)ならんや千載(せんさい)の後(のち)名(な)をうし》  《割書:なはさるは実(じつ)に金仙(きんせん)【注】の道(みち)を得(え)たり|とす豈(あに)たふとまさらんや》  真間(まゝ)の手児奈(てこな)かおくつき所(ところ)《割書:楼門(ろうもん)に向(むか)ひて右側(みきのかたはら)に古松樹(こしやうしゆ)あり是(これ)てこなかおくつき所(ところ)のし|るし也ひとたび枯(かれ)て植替(うゑかへ)しにや今(いま)ある所(ところ)の松(まつ)は八百年もへぬ》  《割書:らんと|見ゆ》万葉集(まんようしふ)巻(くわん) ̄ノ三(さん)山部宿祢赤人(やまへのすくねあかひと)の歌(うた)に吾毛見都(われもみつ)人尓毛将告(ひとにもつけん)勝牡鹿之(かつしかの)  間間能手児奈之(まゝのてこなの)奥津城処(おくつきところ)《割書:万葉考(まんようかう)にてこなは果子(はてこ)のはを略(はふ)ける也といふ又(また)てこは愛児(あいじ)の|意(こゝろ)ほめたる称(しやう)なりなもほめていふ詞(ことは)也 略解(りやくけ)にてこなははて》  《割書:こと云(いふ)意(こゝろ)なは女(をんな)也 本居(もとおり)の説(せつ)てこは東(あつま)の方言(はうけん)にて三四才より人に嫁(か)するまての少女(おとめ)の通称(つうしやう)なり|菅麻呂(すかまろ)の説(せつ)てこは男女(なんによ)に通(かよは)して幼稚(ようち)の子とも母(はゝ)の手(て)をさらぬほとをいふ母(はゝ)の跡(あと)をおひ慕(した)ふも》 【注 仏の別称。】  《割書:のなれは手児(てこ)のよひ坂(さか)といふも有(ある)にてしるべしまたてこは男女(なんによ)に通(つう)する称(しやう)なれは女(をんな)にはなをつけて|よふへしまゝのてこなこれ也されともおほく通(つう)してよふ故(ゆゑ)石井(いはゐ)の手児(てこ)ともよめり○清矩云おく》  《割書:つき古事記伝にオクトハ地下ヲ云也ツハ助字也キトハ死人ヲ蔵ムル処ノ名也紀に|棺槨ノ字ヲキト訓シ和名抄ニ四声字苑云棺所_二以盛_一_レ屍也和名此止岐トミユ》 六所明神(ろくしよみやうしんの)社(やしろ) 同所(とうしよ)にあり《割書:此辺(このへん)金領(こかねりやう)風(かせ)|早庄(はやのしやう)といふ》社領(しやりやう)十石《割書:天正(てんしやう)十九年 辛卯(しんほう)十一月 此(この)朱印(しゆゆん)もと|は印旛(いんは)郡 須和田(すわた)村とあり延享(ゑんきやう)十四》 《割書:年八月十二日より葛(かつ)|飾(しか) ̄ノ郡(こほり)と改(あらた)まる》社(やしろ)の伝(てん)は正殿(せうてん)は大己貴命(おほなむちのみこと)合殿(あひてん)伊弉冉尊(いさなみのみこと)素戔嗚尊(すさのをのみこと)大宮売(おほみやめの) 尊(みこと)布留之御魂(ふるのみたま)彦火瓊々杵尊(ひこほにゝきのみこと)なりと云(いふ) 景行天皇(けいこうてんわう)四十一年五月五日の鎮坐(ちんさ) なり九月十九日二十日と両日(りやうじつ)の神事(じんじ)あり祠官(しくわん)を桑原和泉(くははらいづみ)と云《割書:市川(いちかはの)内根本 国分(こくふんの)内 六(ろく)|反田(たんた)須和田(すわた)村共に氏子なり》 ○東鑑《割書:巻|一》治承四年十月十六日 ̄ノ条に相模 ̄ノ国府六所 ̄ノ宮《割書:云々》《割書:△常陸(ひたち)六所(ろくしよ) ̄ノ社(やしろ)は国府(こくふ)よ| り三里(さんり)許(はかり)南(みなみ)の方(かた)筑(あ)【「つく」の誤記ヵ】》  《割書:波(は) ̄ノ辺(へん)にあり甲斐(かひ)の六所(ろくしよ) ̄ノ社(やしろ)は府中(ふちう)より十四五 里(り)をへたつと云|山州名跡志(さんしうめいせきし)巻五に六所社(ろくしよのやしろ)は諏訪(すは)稲荷(いなり)由木(ゆき)等(とう)の神(かみ)なり云々》  総社伝記考証(そうしやてんきかうしやう)【證】に六所(ろくしよ) ̄ノ社(やしろ)号(かう)は寛文(くわんふん)三年 卜部(うらべ) ̄ノ朝臣(あそん)兼蓮卿(かねつらきやう)より書(かい)て給(たまは)りし  ことあり云々《割書:和訓栞(わくんかん)に式(しきの)佐賀郷(さかのごう)六所(ろくしよ)の社(やしろ)は豊後国(ふんこのくに)海部郡(あまへのこほり)にあり早吸(はやすい)|日女神社(ひめのしんしや)にして神代紀(しんたいのき)の六神(ろくしん)を祭(まつ)るなりとみゆ猶(よく)よく考(かんこう)へし》   香取郡(かとりのこをり)並木村(なみきむら)神宮寺(しんぐうじ)大般若経(たいはんにやきやう)箱(はこ)《割書:文字(もんじ)は切付(きりつけ)なり三箱(みはこ)ともおなし外(うち)二箱に|三百 ̄ノ内六百 ̄ノ内とあり○按に府中(ふちう)六所(ろくしよ) ̄ノ社(やしろ)》    《割書:の社領(しやりやう)の朱印(しゆいん)に 有徳公(ゆうとくこう)まては印旛郡(いんはこほり)と記(しる)しありと此 塩古(しほこ)と因あること|なるへし塩古は印旛郡根古谷(ねこや)御門(みかと)用草(もちくさ)岡田(をかた)四ヶ村の地を称せり》             貞治二年【秊】《割書:癸|卯》六月 日 【箱の図の説明】 【蓋】 角は皆布キセ漆塗ノハケタルナリ 二尺五分 【身】 貞 一尺五寸五分  一尺三寸         初百内               此処               見ア               リシ               アト               アリ         二百内        下総国白井庄       塩谷六所社壇   今度小田原御普請并牛久御番同時被   仰付候間御普請之儀様々御侘言申上候処仰出趣   大切之儀ニ候間 早雲寺様をはしめ古来不入之所迄   無残所あひせ候ひ候其寺事も可為如此由被仰出候残之   当郷人足相へり候中に痛間敷候へ共当庄にはいくわい   の者は無拠何世も頼候遂分別無相違可走廻事   簡要に候尚口上に申付候以上             五月十五日【印】胤吉              須和田               寺社中 【下部】 牛久城番ハ天正ノ末ナリ 胤吉ノ印ナレドモ代々用シト 見ユ常陸江戸氏ノ文書ニ モソノ例アリ 春村云印二顆アリシト見エ一ハ 小一ハ大ナリ共ニ胤則代ニ通 シ用ヒラレタリ     制札   於于下総国諏訪田当手   軍勢甲乙仁濫妨狼   藉之事  右至于此旨違犯之輩者   可処罪科状如件  《割書: |未》   九月十七日【印】里見 府中六所宮       神主 【下部】 里見義通永正十八年高城越前守胤 広ヲ打テ胤広父子其臣畔蒜彦五郎 田島図書助等打死ノコト本土寺過去帳 里見系図等ニアリ後此地北条氏ニトラレ タリト見ユ 府中六所トアルニテ此地方ノ国府タルコト 瞭然タリ    禁制  右軍勢甲乙人等濫妨  狼藉堅令停止了若背  拉者有之者速搦捕御旗本へ  参可申上候可処厳科者也  仍如件   乙亥               奉之    八月十三日   山角刑部左衛門    下総府中     神主屋敷 【下部】 印文禄寿応穏 猶外ニ一通アリ同文ナレバ略ス但 名当ハ府中六所トアリ   六所之大明神御寄進之事  右神主居屋敷四百五拾坪  末代 令寄進者也仍如件     申      拾月廿一日  細井金兵衛               久光             細井喜三郎【良】                正成【花押】      須和田神主殿 【上部】   猶々御改替之  儀も御貴丈へ改右 急度申入候仍而  のろし【急報ヵ】申候御とくと公【公表ヵ】 六所之神主 被(こうむり)しは  頼入候以上 御神領拾石之由 御朱印被相出 御地■之【頭元ヵ殿元ヵ】へ御改替 〆て送も可申候へ共 尽地寸無候之由 【下部】 今度木村善兵衛と申者 御手前御所持之松之木 所望申候処御ほらせ可 被成旨申聞候其段中納言 申達候処御領掌欣然 之至如此御座候先為 御礼の子方ゟ可申入旨 被申候近日ほりに可被遣 之条内々は御心得被成可 被下候恐惶謹言     杉代【氏ヵ】宇左衛【エ】門  八月廿八日    ■【花押】 【上】 申候■【貴ヵ】所拾候上■【所ヵ】 の代にいゝ口【口上】記入候 地方御うけ取候はゝ 神主殿へ御わたし 頼申候■【是ヵ】又地■【頭ヵ】 者御【被ヵ】仰所候はゝ御意候 ■【是ヵ】可■■【早従ヵ】候恐々 謹言 九月七日大生【花押】 【下】 ろくせうの宮  御神主八左衛門様 此度小田原籠城候 付而為御立願来 夏野駒壱疋可奉 上者也仍如件  刁【寅】   卯月十五日  須和田  神主殿 【欄外下】 天正十 八年也 【上】     自胤 中七拾   人々中 此度棟別之儀者在々 為安全之候間古来之 不入も不入東西如此被 申付候於向後者如前 【下】 中条殿之御知行之 時分其方え百姓役 被仰付候て迷惑之由 詫■【言ヵ】被申候間旦那へ 得其意与候へは 六所之宮にて御奉公 斗蔵【おさめ】候扨亦余方之 田多前々ゟ抱 被来候分は有月 【上】 代也六所大明神支配 門前迄如古来之可為 不入候為後日一札進之候 仍如件 《割書:己丑》九月廿七日 胤則【花押】  神主殿《割書: |参》 【下】 御年貢被済尤に候 此上百姓役之儀 堅赦免之由候以上 酉    吉左太代  十二月五日吉佐内【花押】 【下枠外】 吉田佐太郎ハ国初ノ御代官也当時陣屋ハ欠真間村ニアリシ トノ欠真間ノ条見合スベシ 【枠外左】 高城家略伝ニ小金城三代下野守胤吉法名伝照玄心大居士《割書:永禄八乙丑年|六月十二日卒》四代下野守胤辰法 名関相玄酬大居士《割書:天正十壬午年|十一月十六日卒》五代源二郎胤則法名庭室玄柏大居士《割書:慶長八癸卯八月十七日|卒年三十三》 【左端本文】 国分山(こくふんさん)金光明寺(こんくわうみやうじ) 国分村にあり薬師堂領十五石二 斗(と)余(よ)《割書:慶安(けいあん)二年|己丑(きちう)八月》新義真(しんきしん) 言宗(こんしう)京師(けいし)醍醐(たいこ)三宝院(さんほういん)に属(しよく)す《割書:元(もと)ハ支院(しいん)廿六|宇(う)ありしとそ》本尊薬師如来《割書:立像(りふそう)六尺 余(よ)元地(もとぢ)ハ昔堂(むかしとう)と|字(あさな)する地(ち)なり》 聖武天皇(しやうむてんわう)の勅寄(ちよくき)なり又(また)釈迦堂(しやかとう)に丈六(しやうろく)《割書:丈六の尺は唐の小尺なりその一尺|は曲尺の六寸六分六厘に当る》の釈迦(しやか)の座像(ざそう) 并(ならひ)に左右(さゆう)の挟持(きやうち)二躯(にく)楼門(ろうもん)の上(うへ)の古(ふる)き釈迦(しやか)の像(そう)は共(とも)に此(この) 天皇(てんわう)の寄(よす)する所(ところ)と云 中興(ちうこう)は栄海法印(えいかいはふいん)と云《割書:寛永十八年十一月|廿四日示寂す》○《割書:寺記(じき)に瑠璃尊像(るりそんそう)長(たけ)一丈なるものを置(おく)とあり|続紀(しよくき)には観音菩薩像(くわんのんほさつのそう)一躯(いつく)高(たか)七尺と見ゆ》  続日本紀に神亀五年十二月金光明経六十四帙六百四十巻 ̄ヲ頒 ̄ツ_二  於諸国 ̄ニ_一国別 ̄ニ十巻《割書:中|略》経到 ̄ノ日即令 ̄ム_二転読_一 天平九年三月詔 ̄ス毎 ̄ニ_レ国令 ̄ム  _レ造 ̄ラ_二釈迦仏像一躯挟持菩薩二躯 ̄ヲ_一兼 ̄テ写 ̄サシム_二大般若経一部一十巻 ̄ヲ_一 十  二年九月国別 ̄ニ観音菩薩 ̄ノ像一躯高七尺并 ̄ニ写 ̄シム_二観世音経 ̄ヲ_一 十三年  正月故大政大臣藤原朝臣家返_二 上 ̄ス食封五千戸 ̄ヲ_一 二千戸返_二賜 ̄ス其家 ̄ニ_一  三千戸施_二入 ̄シ諸国分寺 ̄ニ_一以充 ̄ツ_レ造 ̄ルニ_二丈六 ̄ノ仏像 ̄ヲ_一 三月毎 ̄ニ_レ国僧寺施_二封 ̄ス五  十戸水田廿町尼寺水田十町 ̄ヲ_一其寺必令 ̄ム【レ点脱】有 ̄ラ_二 二十僧_一其寺名 ̄テ為 ̄ス_二金光  明四天王護国之寺 ̄ト_一尼寺必令 ̄ム_レ有 ̄ラ_二 十尼_一其寺名 ̄テ為 ̄ス_二法華滅罪之寺 ̄ト_一両  寺相去 ̄リ宜 ̄ク_レ【左に「シ」と傍記】受 ̄ク_二教戒 ̄ヲ_一若有_レ闕者即補満 ̄セヨ其僧尼毎月八日必応 ̄ニ_レ【左に「シ」と傍記】転_二読 ̄ス最  古笈(こきう)の図(づ) 此地昔堂ト字スル 林藪ノ中ニ夥シク 敗瓦ヲ山積スサレト 天平ノモノトハ見エス 又礎石各所ニ散在 ス其巨偉当時ノ 虚費想スルニ足レリ 可翁(かおう)滝見観音(たきみのくわんおん) 馬遠(ばゑん)花鳥(くはてう) 陶以政(たういせい)桃画(もゝのぐわ) 【古笈の説明 右肩】 長二尺七寸 【同 足元】 コノ観覚院ハ 中興ノ栄海ノ コトニヤ 二尺 九寸  勝王経 ̄ヲ_一毎 ̄ニ_レ至 ̄ル_二月 ̄ノ半 ̄ニ_一誦_二戒 ̄シ羯摩 ̄ヲ_一毎月六斎日公私不 ̄レ_レ得_二漁猟殺生 ̄ヲ_一国司  等宜 ̄ク_三【左に「シ」と傍記】恒 ̄ニ加 ̄フ_二検校 ̄ヲ_一《割書:△四天王(してんわう)とは多聞(たもん)天王 持国(ちこく)天王 増長(そうちやう)天王 広目(くわうもく)天王なり|持国(ちこく)は地名に残(のこ)れり其余(そのよ)の三所(さんしよ)は何方(いつかた)なりや今(いま)知(し)るへからす》十七年九  月甲戌令_三京師及諸国 ̄ニ写 ̄サ_二大般若経合一百部 ̄ヲ_一又造 ̄ル_二薬師像七躯 ̄ヲ_一高  六尺三寸并 ̄ニ写 ̄ス_二経七巻 ̄ヲ_一 天平勝宝元年秋七月乙巳定 ̄ム_二諸寺 ̄ノ墾田  地 ̄ヲ_一諸国分金光明寺寺別一千町諸国 ̄ノ法華寺別四百町 天平宝  字二年秋七月戊戌勅 ̄ス国別 ̄ニ奉_レ写 ̄シ_二金剛般若経三十巻 ̄ヲ_一尼寺十巻恒  例金光明最勝王経並 ̄ニ令 ̄ム_二転読_一《割書:△今昔物語(こんしやくものかたり)二十六に今昔(いまはむかし)薬師寺(やくしじ)《割書:大和|国》の最勝会(さいしやうゑ)を|行(おこなは)んために弁源(へんのけん)某(それかし)と云(いふ)人(ひと)下りて七日 終(おは)りて京にか》  《割書:へり登(のほ)るに《割書:云々》と見えたり|当時のさまおもひやられたり》 又《割書:巻廿|二》太后仁慈志在 ̄リ_二救物 ̄ニ_一創_二建 ̄スル東大寺及天  下国分寺_一者 ̄ハ本 ̄ト太后之所_レ勤 ̄ル也 ○延喜主税式に国分寺料五万束薬師寺 ̄ノ料三万五千束文珠会 ̄ノ料  二千束 ○類聚三代格《割書:巻|三》に国分寺 ̄ノ事 勅 ̄ス朕以 ̄テ_二薄徳 ̄ヲ_一忝 ̄ク承 ̄ケ_二重任 ̄ヲ_一未_レ弘 ̄メ_二政化 ̄ヲ_一窹   𥦤【𥧌は辞書になし】多慙古之明主皆能光 ̄ニス_レ業 ̄ヲ国泰 ̄ク人楽 ̄ム災除 ̄ケ福至 ̄ル何 ̄ヲ修 ̄メ何 ̄ヲ務 ̄ン能 ̄ク致 ̄ス_二此  道 ̄ヲ_一頃者年季穀不_レ登 ̄ラ疫癘頻 ̄ニ至 ̄ル慙懼交集 ̄ル唯労 ̄ス_レ罪 ̄ニ_レ己 ̄ヲ是以広 ̄ク為 ̄ニ_二蒼生 ̄ノ_一  遍 ̄ク求 ̄ム_二景福 ̄ヲ_一故前年馳 ̄テ_レ駅 ̄ヲ増_二-餝 ̄ス天下神宮 ̄ヲ_一去年晋 ̄ク令 ̄ム_下 天下 ̄ニ造 ̄リ_二釈迦牟尼  仏尊金像高一丈六尺 ̄ナル者各一舗 ̄ヲ_一【鋪】并 ̄ニ写 ̄サ_中大般若経各一部 ̄ヲ_上今春已来  至 ̄リ_二于秋稼 ̄ニ_一風雨順序五穀豊穣此乃 ̄チ微誠 ̄ノ啓願霊貺如 ̄シ_レ答 ̄ル載惶載懼  無_二以安寧_一案_レ経云若有 ̄ツ_二国土 ̄ヲ_一講宜読誦恭敬供養流_二-通 ̄スル此経_一王者 ̄ハ我  等四王常 ̄ニ来 ̄テ擁_二護 ̄シ一切 ̄ノ灾障 ̄ヲ_一皆使 ̄ム_二消殄 ̄セ_一憂愁疾疫 ̄ハ亦令 ̄ム_二除 ̄キ去 ̄ラ_一所 ̄ハ_レ願遂 ̄ゲ  心恒 ̄ニ生 ̄スル_二歓喜 ̄ヲ_一者宜 ̄ク《割書: |四》天下諸国 ̄ニ各《割書:々》令 ̄ム_三敬 ̄テ造 ̄リ_下 七重 ̄ノ塔一区 ̄ヲ_上并写 ̄サ_二金光明最  勝王経妙法蓮華経各十部 ̄ヲ_一朕又別 ̄ニ擬_レ写 ̄ニ_二金字金光明最勝王経 ̄ヲ_一毎 ̄ニ  _レ塔各令_レ置_二 一部 ̄ヲ_一所 ̄ハ_レ冀 ̄フ聖法之盛 ̄ハ与_二 天地_一而永 ̄ク流 ̄レ擁護之恩 ̄ハ被 ̄リ_二幽明 ̄ニ_一而  恒 ̄ニ満 ̄ン其造塔之寺 ̄ハ兼 ̄テ為_二国華 ̄ノ_一必 ̄ス択 ̄ミ_二好処 ̄ヲ_一実 ̄ニ可_二長久 ̄ナル_一近 ̄ハ_レ 人 ̄ニ則不_レ欲_二薫臭 ̄ノ  所 ̄ヲ_一_レ及遠 ̄ハ_レ 人 ̄ニ則不_レ欲_二労衆 ̄ノ帰集 ̄ヲ_一国司等各《割書:々》宜 ̄ク_三【左に「シ」と傍記】務在 ̄ル_二厳餝 ̄ニ_一兼 ̄テ尽 ̄シ_二潔清 ̄ヲ_一近 ̄ク感 ̄シ_二  諸天 ̄ヲ_一庶幾 ̄ス臨護 ̄シ布_二告 ̄シ遐邇 ̄ニ_一令 ̄メヨ_レ知_二我意 ̄ヲ_一又有 ̄ル_二諸願等_一条例如_レ左  一 毎_レ国僧寺尼寺各可_レ施 ̄ス_二水田一十町 ̄ヲ_一  一 毎_レ国造 ̄シ_二僧寺 ̄ヲ_一必令 ̄ヨ_レ有_二 二十僧_一其寺名 ̄テ為_二金光明四天王護国之寺 ̄ト_一    尼寺一十尼其寺名 ̄テ為_二法華滅罪之寺 ̄ト_一両寺相去 ̄リ宜 ̄ク_レ【左に「シ」と傍記】受 ̄ク_二教誡 ̄ヲ_一若有    _レ闕者即須 ̄ク_二【左に「シ」と傍記】補満 ̄ス_一其僧尼毎月八日必応 ̄ニ_レ【左に「シ」と傍記】転_二-読 ̄ス最勝王経 ̄ヲ_一至 ̄リ_二月 ̄ノ半 ̄ニ_一誦_二    戒 ̄セヨ羯摩 ̄ヲ_一  一 諸国置 ̄ク_二 上件寺 ̄ヲ_一者毎月六斎日公私不 ̄レ_レ得_二漁猟殺生 ̄ヲ_一国司等恒 ̄ニ加 ̄ヨ_二    検校 ̄ヲ_一  一 願天神地祇共 ̄ニ相和順 ̄シ恒 ̄ニ将 ̄テ_二福慶 ̄ヲ_一永 ̄ク護 ̄レ_二国家 ̄ヲ_一  一 願開闢以降先帝 ̄ノ尊霊長 ̄ク幸 ̄シ_二珠林 ̄ニ_一同 ̄ク遊 ̄へ_二宝刹 ̄ニ_一  一 願太上天皇大夫人藤原氏及皇后藤原氏皇太后子已下親王    及正二位右大臣橘宿祢諸兄等同 ̄ク資 ̄リ_二此福 ̄ヲ_一共 ̄ニ向 ̄へ_二彼岸 ̄ニ_一  一 願藤原氏先後太政大臣及皇后先妣従一位橘氏大夫人霊識    恒 ̄ニ奉 ̄シ_二先帝 ̄ヲ_一而陪_二遊 ̄シ浄土 ̄ニ_一長 ̄ク顧 ̄ミ_二後代 ̄ヲ_一而常 ̄ニ衛 ̄シ_二聖朝 ̄ヲ_一乃-至自_レ古已来至 ̄リ_二    於今日 ̄ニ_一身為 ̄リ_二大臣 ̄ト_一竭 ̄シ_レ忠 ̄ヲ奉 ̄スル_レ国 ̄ニ者及見在子孫倶 ̄ニ因 ̄リ_二此福 ̄ニ_一各継 ̄キ_二前範 ̄ヲ_一    堅 ̄ク守 ̄ル_二君臣之礼 ̄ヲ_一長 ̄ク紹 ̄キ_二父祖之名 ̄ヲ_一広 ̄ク洽 ̄クシ_二群生 ̄ニ_一通 ̄シ該 ̄ス_二庶品 ̄ヲ_一同 ̄ク解 ̄シ_二憂悩 ̄ヲ_一共 ̄ニ    出 ̄ヨ_二塵籠 ̄ヲ_一  一 願 ̄ハ若 ̄シ悪君邪臣犯 ̄シ_二-破 ̄ン此願 ̄ヲ_一者彼人及子孫必遇 ̄ン_二災禍 ̄ニ_一世々長 ̄ク生 ̄ン_下無_二    仏法_一処_上 天平十二年二月十四日 ○鍾識(しやうしき)に 清和天皇之世権少掾貞世新 ̄ニ鋳 ̄シ_二鴻鐘一口 ̄ヲ_一以簨簴【注】而后秘  密之教風盛 ̄ニ興 ̄ル《割書:云々》建長八年丙辰九月廿四日檀越平氏再 ̄ヒ獲_二梵鐘 ̄ヲ_一  聖武之世以来千有余年鋳 ̄スル_レ鐘 ̄ヲ三矣《割書:云々》宝暦三《割書:癸|酉》年三月沙門亮  英謹誌伝灯【燈】大阿闍梨法印勝快とあり古昔(こせき)香華(こうくわ)の盛(さかん)なること推知(おしし)  るべし寺内(しない)に礎石(そせき)数箇(すか)あり昔(むかし)堂(とう)と称(しやう)する地(ち)より堀出(ほりいた)せしと云《割書:昔(むかし)堂(とう)は|寺より》 【注 「簴は」「虚」に通ず。ゆえに簨簴(しゆんきょ)=簨虚。鐘・磬・鼓の類を懸けるつり木。簨は横木、虚はたてばしら。】 【上段】 所蔵 ̄ノ文書   制札 右軍勢甲乙人等濫 妨狼藉事堅令■【停ヵ】止了 若違犯輩有之者速可 被処罪科者也仍状如件  子正月十四日 遠山左衛門尉《割書:奉之》    【印】    金旧領       国分卿 金ハ小金ナルベシ 子ハ蓋天正六年ナラシ 【下段】 国分寺之事者一旦任置候上者毎事 仕置御堂之造営掃地勤行可被仰 付候然 ̄ニ対貴寺於違背之族者被遂 糺明不撰貴賎老善【若の誤記ヵ】追放可申候并如 前々守護不入之儀不可有相違候殊更 御祈念昼夜無怠慢有之而当庄磐栄 之御心懸専要候為後日以一札申展候 仍如件   天正十三年《割書:乙| 酉》     二月三日   胤則【花押】   国分寺      御同宿中    以書付申条々 一国分寺之事者古跡之儀候然近年者  御沙門之形儀無之一式をも不構庭之掃除  以下も無之誠在家同意無是非候事 一御堂造営以下供分衣不被態念是亦  大破之体候惣而伽藍所者思後代杉桧  植立其構仕候然処自下地有之竹木致  伐被下而聞届寔口惜存候事 一十二坊如前々可被立置候間断可被申事   付此外に古来其役々田畠可有之候間断可申事 一白玄厥当住仕付置被申候処漸一宗に  仕置堅固所他をも付寺塔之修理在之由  伝聞出此方満足候て当住建立候以然所  なと旧冬引破此外不足之筋目共永届絶言語候事 一所他衣被付置又行事作法其上掃除以下迄  厳密者且本尊之御威光且当庄御祈念  為御寺中候然如此之儀無心入者不及分別事 一惣而十二坊御住不経公儀而間向に而被相定間敷事 一此上毎事当住之仕置違背之族或掃除  等見除之方出家之形儀未断或寺塔者造営  於無其稼者速疾追放可申候為其兼而  申断候各為御塩味申候事  天正十三年乙酉         二月三日     胤則【花押】     国分寺      御門徒中           参  《割書:二丁 程(ほと)西北の方に|あり今(いま)畠(はた)となる》猶(なほ)残(のこ)れるもの散(さん)して隴圃(ろうほ)の中(うち)にあり当時(とうし)仏事(ふつし)の巨費(きよひ)想(そう)  するに足(た)れり《割書:三善清行か意見封事に上下競 ̄テ傾 ̄テ_レ産 ̄ヲ造 ̄リ_レ寺 ̄ヲ捨 ̄テ_レ田 ̄ヲ施 ̄ス_レ丁 ̄ヲ極 ̄ル_二 天平国分|二寺 ̄ニ_一各用 ̄ヒ_二其国正税 ̄ヲ_一而天下之費十之五とは言はれたることにこそ》持国坂(しこくさか)は国分(こくふん)  寺(し)より真間(まゝ)へ行方(ゆくかた)の坂(さか)を云 古(いにしへ)此地(このち)に国分寺(こくふんし)の持国天(ちこくてん)の堂舎(とうしや)ありし所(ところ)  なりといへり《割書:△貞世(さたよ)詳(つまひらか)ならす蓋(けたし)下総(しもふさ)の権少掾(こんしやうしやう)ならん|平氏(へいし)は頼胤(よりたね)なるへし》 成田参詣記巻一《割書:終》           江川仙太郎 刻 【白紙】 【裏表紙】 【表紙 題箋】 成田名所図会  二 【題箋の上に手書き文字】 Simo.Sa. 3 【白紙】 成田参詣記巻二目次   《割書:八幡駅》【四角で囲む 】    八幡社《割書:元享元年古鐘 古文書|正宗脇指 額字》八幡不知森   《割書:中山村》【四角で囲む】  《割書:栗原本郷村》【四角で囲む】    法華経寺《割書:古文書 富城常忍遺物|古文書目録 日高上人碑》総社明神社《割書:式内卜|社考》    宝成寺《割書:成瀬侯碑|葛飾六郷考》 【白紙】 成田参詣記巻二 八幡社(はちまんのやしろ)八幡(やはた)村にあり《割書:北(きた)の方(かた)に古八幡(こやはた)といふ|村あり元地(もとち)なるへし》社領(しやりやう)五十二石《割書:天正(てんしやう)十九年|辛卯十一月》社(やしろ)の伝(つたへ)は 宇多天皇(うだてんわう)の勅願(ちよくぐわん)にて寛平(くわんへう)中(ちう)石清水八幡(いはしみづはちまん)を移(うつ)し祀(まつ)られ《割書:或書(あるしよ)には 清和天皇(せいわてんわう)貞観(じやうぐわん)中(ちう)|八幡宮(はちまんぐう)を宇佐(うさ)の宮(みや)より山城(やましろの)》 《割書:国(くに)石清水(いはしみづ)に鎮座(ちんざ)ある時(とき)六十余州(ろくじうよしう)国(くに)ことに総社八幡(そうしやはちまん)を置(おか)ると云○江戸(えど)名所図会(めいしよづゑ)に当社(たうしや)は国分寺(こくふんし)と同(おなし)|く一国(いつこく)一宮(いちのみや)の八幡宮(はちまんぐう)にして往古(わうこ)府中(ふちう)におかれしなるへしと見ゆ○回国雑記標注(くわいこくざつきひやうちう)に八幡(はちまん)は源頼朝卿(みなもとのよりともけう)惣(そう)》 《割書:追補使(つひふし)として諸国(しよこく)に守護(しゆご)をおかれしとき源家(げんけ)崇敬(そうけい)の神(かみ)なれは六十余国(ろくじうよこく)に祭(まつ)られしものにや○|駿河風土記(するがふどき)に神護景雲(じんごけいうん)三年九月に大宰府(だざいふ)の神主(かんぬし)阿曽麿(あそまろ)勅(ちよく)を奉(うけたまはり)て五畿【幾は誤記】七道(しちだう)に誉田(ほんた)先君(せんくん)の宮(みや)》 《割書:を置(おく)とのす○一説(いつせつ)には天長(てんちやう)元年九月 和気朝臣(わけのあそん)真綱(まつな)に勅(ちよく)して諸国(しよこく)に祭(まつ)ると云(いふ)以上(いじやう)数説(すせつ)|孰(いづれ)か是(ぜ)なるを知(し)らされとも各(おの〳〵)拠(よ)る所(ところ)あるへし故(ゆへ)に並(ならべ)あけて参考(さんかう)にそなふ》建久(けんきう) 中(ちう)に至(いた)り源右将(げんのうしやう)修造(しゆそう)を加(くはへ)らる《割書:当社(たうしや)の伝(つたへ)は此(これ)を正説(しやうせつ)とす|元享(げんかう)中(ちう)鐘銘(しやうめい)拠(よ)るべし》正月十五日 筒粥(つゝかゆ)の神事(じんじ) 《割書:預(あらかじ)め本年(ほんねん)の豊凶(ほうきやう)を卜(ぼく)|するに必(かなら)ず験(しるし)ありと云》八月十五日 放生会(はうしやうゑ)の神事(じんじ)あり此日(このひ)神輿(しんよ)を出(いだ)せり《割書:つくまいと|戯 戯(たはむれ)あり》 《割書:長(なが)き柱(はしら)に白布(しろきぬの)を巻(まき)其布(そのぬの)を結合(ゆひあは)せて足(あし)をかくる代(しろ)とし祈願(きぐわん)ある人(ひと)件(くだん)の柱(はしら)へ登(のぼ)り社(やしろ)の方(かた)を拝(はい)し|次(つぎ)に四方(しはう)を拝(はい)し終(おは)りて下(くだ)る此事(このこと)猶(なほ)所々(しよ〳〵)にあり唐山(とうざん)の鞦韆(しうせん)に類(るい)なるべし勝鹿名所志(かつしかめいしよし)につく》 《割書:まいは筑波(つくば)より伝(つたへ)たる舞(まい)にて筑波をつめつくまいと云と《割書:云々》○八幡(やはた)まちは本州(ほんしう)香取神宮(かとりしんぐう)四月|五日の祭事(さいじ)に次(つぎ)たる大(おほ)まちなり十四日より十八日まで前後(ぜんご)五日 男女(なんによ)雑踏(ざつとう)【沓】麕集(きんしう)す此町(このまち)多(おほ)く》 《割書:生姜(しやうきやう)を鬻(ひさ)ぐ故(ゆへ)に|生姜町(しやうがまち)ともいへり》銀杏(いてう)の神木(しんぼく)あり《割書:粘合木(ねれあいぎ)と云 周囲(しうゐ)三丈(さんじやう)許(ばかり)此木(このき)|のうろに白蛇(はくじや)多(おほ)く住(す)めり》別当(べつとう)法漸寺(ほふぜんじ)といふ《割書:天台(てんだい)|宗(しう)寛(くわん)》 《割書:永寺(ゑいじ)末(まつ)なり本(ほん)|地(ち)阿弥陀如来(あみだによらい)》祠官(しくわん)を鈴木主馬(すゞきしゆめ)と称(しやうす) 《割書:五石(ごこく)の配(はい)|当(とう)あり》本社(ほんしや)の側(かたはら)に下馬札(げばふた)あり由来(ゆらい)を詳(つまびらか) 【右丁 落款】 武陵【印】 【左丁】 神功皇后(しんこうくはうこう)肥前(ひせん)松浦河(まつらかは)にて 鉤(つりはり)を投(な)け征韓(せいかん)の勝敗(しやうはい)を 預(あらはし)め卜(うらな)ひたまふの図(づ) 御髪ヲ海水ニヒタシ分チ束ネテ男装ヲ 成シ給ヒシハ橿日浦ニテノコトナレト此ニ其姿 ヲ画シハコトヲ省ケルナリ  或云熊襲ハ㹮襲ニテ屡々反セシモ高  麗新羅ノ外援ヲ頼ミマツロハサリシナリ 皇后  コレヲ悟シ其根本ヲタチシナルヘシ当時史文  曖昧特ニ 仲哀天皇ノ崩ノミナラスト云々ケニ  イハレタルコトニコソ然ルニ史ニ財宝ヲ得ントテ  他ノ国ヲ撃チシ趣ニ見エシハ大ニ非カコトナリ 【右丁】 神功皇后(じんぐうくはうごう) 征韓(せいかん)の図(づ) 住吉明神ノ神霊 【左丁】 御船ヲ守リ先駆【駈は俗字】シ 海中ノ大魚浮出テ フチハタヲサシハサミ行キ シ由史ニ見ユ当時 皇威夷狄ニカヽヤキ 謚シテ神功ト云モ ユヘアルコトナリ 【右丁 挿絵 文字なし】 【左丁 挿絵 落款】武陵【印】 にせず或(あるひと)云(いふ)此祠(このやしろ)の右(みぎ)の方(かた)に駒止石(こまとめいし)と云(いふ)あり是(これ)昔(むかし)の下場所(げばしよ)にて今(いま)の下馬札(げばふだ) はそれよりの故事(こじ)なりと云(いふ)《割書:蔵海代記録に延享五年二月三ヶ国御免勧化并 ̄ニ下馬札書替|願のおり大岡越前守へ右下馬札差上候処古きものゝよく》 《割書:大切に可致旨被仰付云|長二尺巾一尺五寸余》 ○寛文三年法漸寺仙栄宮社再造記に蓋 ̄シ【葢】往古▢文 ̄ハ謂応安六年事始永  和四年栄作而御遷宮有_レ之達_二 上聞_一之時管領円城寺図書 ̄ノ頭源 ̄ノ氏政 ̄ノ時、  侍所原孫三郎平 ̄ノ貞茂、同弾正左衛門尉平 ̄ノ氏春令_レ所_二当国之中六箇荘  之棟別銭 ̄ヲ_一為_二毎月無尽_一連々建_二立之 ̄ヲ_一畢 ̄ヌ時之入-足都 ̄テ而一千八十余貫文  矣云云 ○古鐘(こしやう)一口(いつこう)《割書:寛政(くわんしやう)五年の秋(あき)槻(けやき)の大木(たいぼく)風(かぜ)に吹倒(ふきたふ)れ枯木(こぼく)の根(ね)を穿(うが)ち堀出(ほりいだ)せり龍頭(りうづ)の側(かたはら)に応永(おうえい)|云云と鐫(けい)【鎸は俗字。振り仮名は「せん」とあるところ】せり江戸名所図会に古昔(こせき)戦争(せんさう)のをり土人(どじん)掠奪(りやうだつ)せらるゝを恐(おそ)れ土中(どちう)へ》  《割書:埋(うづめ)しときの歳月(さいげつ)なるべしと云されどそのをりなど年月をしるせるいとまありとも思はれず按に|元享の鐘は火 災(さい)にかゝりて応永中 改鋳(かいとう)せし年月なるべし但(たゞし)識文(しふん)は原(もと)のまゝによられしならん》 八 幡(まん)不知森(しらずのもり)同所(どうしよ)南(みなみ)の方(かた)にあり方(はう)二十歩(にしつほ)許(ばかり)往古(わおご)八幡宮(はちまんぐう)鎮座(ちんざ)の地(ち)なりと云(いひ) 伝(つた)ふ《割書:今も法漸|寺持なり》森(もり)の中(なか)に小石(せうせきの)祠(ほこら)あり稲荷(いなり)を祭(まつ)れり里人(りじん)云(いふ)若(も)し人(ひと)此中(このうち)に入(いる)時(とき)は 古鐘(こしやう)一口(いつこう)   《割書:東鑑治承四年十一月十日以武蔵国丸子庄|賜葛西三郎清重此地ノ人ニヤ》 【鐘の図の外側上から】 七寸五分   三尺   径二尺一寸 【鐘の図 上から】 応永二十八 年三月 廿一日 敬  奉冶鋳銅鐘 大日本国東州下総第一鎮守 葛飾【餝】八幡是大菩薩伝聞寛平 宇多天皇勅願社壇建久以来 右大将軍崇敬殊勝天長地久 前横巨海径連遠村魚虫性動 鳬鐘暁声人獣眠覚金啓夜響 永除煩悩証【證】菩提 元享元年《割書:辛|酉》十二月十七日  願主右衛門尉丸子真吉 別当法印智円 【上部】  禁制 右軍勢甲乙人等濫妨 狼藉堅令停止畢若 背拉者有之者速からめ 取御旗本 ̄え参可申上候可処 厳科者也仍如件  乙亥   八月十二日    奉之             遠山 【下部】  制札 右於寺内乱妨狼藉 横合等之儀堅令停止畢 若違犯背有之者速可処 罪科者也仍如件   《割書:子》正月十五日  奉之           山角弥十郎【良】  八幡    別当坊 【上部】 下総国葛餝八幡宮別当 職事以大輔僧正上智 跡所被補任也者仰旨 如此仍執達畢  正和五年閏十月五日 左馬権頭 花押            武蔵守  同    大輔法印御房 【下部】 此文書は或人の所蔵なれと何方より 写せしにや出所を記さゝれは分明ならす 且原本と写の文字も違ひしやしるよし なしされと河内の金剛寺文書を写せる 後にあれは是も同寺の所蔵にや原書を 見ん人正してよ○正和五年より元享元年ま ては僅に六年なり鐘銘の智円と云し僧は 此上智の跡なるへし上智と云智円と 云も因あることに覚ゆ○左馬権頭は 高時也武蔵守は金沢貞顕也 法漸寺所蔵                  心三寸九分   刃長一尺一寸四分        五○○【○は染め抜き模様】入道正宗   巾一寸一分   奉修○八○【○は染め抜き模様】播宮            勅額ナリト云 光明皇后 経切     【勅額の文字】 伝教大師 同         八播宮 智証【證】大師 同   【額の上】一尺三寸五分 弘法大師 同      【額の左側】二尺九寸許 必(かなら)ず神(かみ)の祟(たゝり)ありとて垣(かき)を繞(めく)らして入(いる)ことを許(ゆる)さず《割書:一説(いつせつ)に此森(このもり)の辺(へん)は幡(はた)の地(ち)|にして森(もり)のみ行徳(ぎやうとく)の地(ち)なり》 《割書:故に八幡(やはた)しらすと云とそされとそれのみなれは垣(かき)を繞(めく)らして人(ひと)を入(いれ)さることやはある必(かならす)官社(くわんしや)|の址(あと)か又(また)は国司(こくし)なとの塋域(えいいき)ならんか里説(りせつ)に昔(むかし)平将門(たいらのまさかど)の余類(よるい)の霊(れい)の土偶人(とくうじん)とあらはれたること》 《割書:ありしなと云(いふ)を思(おも)へは墳墓(ふんぼ)の地(ち)|にて土偶(とくう)は殉葬(じゆんさう)のものなるべし》 八幡駅(やはたえき)は房総(はうそう)の路頭(ろとう)にて千住(せんしゆ)新井宿(にゐしく)八幡(やはた)の三宿(さんしゆく)は道中奉行(たうちうぶぎやう)の支配(しはい)なれは 昔(むかし)も駅場(ゑきば)にてありしならん今(いま)の古八幡(こやはた)を昔(むかし)の駅(ゑき)と見(み)れは延喜式(ゑんぎしき)の井上(ゐのうへ)も 是地(このち)なるべしそは船橋(ふなばし)を大日(おほひ)と称し《割書:大 井(ゐ)とも大 堰(ゐ)|とも通ふなるべし》大日(おほひ)は大堰(おほゐ)にて古(いにし)へ真間(まゝ) の浦(うら)を堰(せき)て用水(いようすい)とせしならんされは井上(ゐのうへ)とも呼(よび)しなるべし《割書:按(あんずる)に中古(ちうこ)以来(いらい)は日(ひ)|と井(ゐ)と相(あい)混(こん)ず大(おほ)》 《割書:日河(ひかは)を大井河(おほゐかは)と云の|類(るい)枚挙(まいきよ)に堪(たへ)へす》   辛酉随筆にゐといふは田にまかす【注①】料の水の事也《割書:今尾張国美濃国なとにて|一《割書:ツ》水口より七村八村ほとツヽ》  《割書:水を沃(まか)す【注①】其村を井組といひ其事につきたる雑費(ざつひ)を賄(まかな)ふ米を|井料米といふそれを石高にわりつくるを井高といふ》さるは山田は山の尾さき  と尾さきとの間を築(つき)とめてその山のたり水【注③】雨水なとをためて池として  《割書:万葉集九につくはねのすそわ【注②】の田ゐと|あるにても其さまをしるべし》ひの口より水をかよはして其下なる 【注① まかす=田や池などに水をひく。】 【注② 一七五八番 万葉集の裾廻(すそみ)を平安朝以後に誤読して「すそわ」が生じた。】 【注③ 垂水=したたり落ちる水滴。】  田にそゝく事也《割書:哥に池水の言(イヒ)と|かゝるはこれなり》これを池ともいひ沼ともいへり《割書:名所の池沼|みな此事也》  《割書:今も中国にては池といひ|東国にては沼といふ》打まかせては池沼といふものなれと田に沃す料の  水なるゆゑ井とも《割書:井ともとは|所のこと也》山ゐとも田ゐともいふ也さて又平なる地にて  は大井河なとやうの河をせきわけて《割書:ゐせきといふは川の底に杭をうち土石を|あつめてそのかみに水のよとむやうにし》  《割書:て其淀より水をせきわくる也田に|まかす水をせきわくるゆゑゐせきといふ》細き渠(カハ)をほりてその流の末よりまか  すなりその堤を井手といふ《割書:手は畷(ナハテ)のてなりていふ|土手もその詞の遺れるか》今尾張美濃なとにて  井桁といふ《割書:けたはゆけたのけたと同しかるべしこれは温泉を人のあむ|へき浅深をはかりてつきとめし土手の事にやあらん》山城の井手  もさる堤のありし故所の名にもおひし也玉川やかてその流なるべし  飛鳥井もせかゐも数々の某(ナニ)井もみな此渠と池との事なるを近き世の  先達は井を堀井戸のみの事と心えたるにやさては尾花ちるしつくの  田ゐに雁かねも寒来鳴ぬ《割書:万葉|九》【一七五七番】又伏見か田ゐに雁渡らし《割書:万葉|九》【一六九九番】又朝霧の  たなひくたゐも【「に」とあるところ】啼雁も【「を」とあるところ】《割書:万葉|十九》なとあるを井戸の底にて雁のなかむ  事いかゝとおもひて田つら【注①】の家の事とそいふなるさらは山里を山ゐ  とも浦さとをうらゐともいふへきをさるたくひ一ツもきこえさるは  いかゝすへて居の字をゐとよむは起居(タチヰ)の居なり居所の居はすまゐ  と読へき意はへ也《割書:もしと訓とかたへはあひてかたへはあはさる常ある事也居の|字古くすまゐとよみし事ありやなしやなとはおほえねと体》  《割書:の語にてしかよ|むへき意はへなり》ゐとよむへきよしなしもとゐといふ物をしらてしひ  たる説なりゐを堀井戸の事としてかなはぬは田ゐに限りたる事  かは飛鳥井にやとりはすへしもせかゐ【注②】の水をひさこもても似つかは  しくもきこえす結ふての雫に濁る山のゐのとある堀井戸の水手  に結ふへきやうもなく雫に濁らむやうもなし走井のこかや【小茅】よりも  堀井戸の底にかやのおひんやうあらましや池と渠との事としては  一も滞所なしさて又此田ゐといふ詞後々にはたゝ田の事と心えてよ  めるか撰集にもいれり続千載集にあし引の山した水をひきわ 【注① たづら(田面)=田のほとり。】 【注② 水をせきとめてくむようにためた井。】 【右丁】 八幡駅(やはたゑき)  の図 【同 右下落款】雪堤 【挿絵】 其二  きわけしすそわの田ゐにさなへとる也新拾遺集につくはゐのしつ  くの田ゐの秋の庵このもかのもにけふり立なり新千載集くれ竹の  ふしみのころのかりのよにおもひしくれてもりあかすらむなとの類  猶多かり《割書:亀井といふ井戸を真間井也と云説は|此の一則にて弁をまたすして其非をしるへし》 ○武蔵国の住人に葛西三郎清重といふ人ありよりて葛飾をむかしより  武蔵国の属郡と心得たる人有そはあやまりなり和名鈔にも拾芥抄  にも葛飾は下総の国に出たり吾妻鑑巻一に治承四年十一月十日戊  午次_二武蔵国丸子庄_一賜_二葛西三郎清重_一今夜御止_二宿 ̄ス彼宅 ̄ニ_一と有されば清  重を盛衰記に武蔵国の住人とかけり生国は下総の西葛飾なれど  も武蔵の丸子の庄に居住せられし故武蔵国の住人とはいへり《割書:云云》  《割書:野々舎|随筆》○《割書:元享鐘識の右衛門尉丸子真吉は|清重の子孫にや猶考ふへし》 正中山(しやうちうざん)本妙法華経寺(ほんめうほつけきやうし)《割書:応永二十七年千葉介兼胤文書云下総国は幡庄本妙寺法華|経寺弘法寺三ヶ所寺務職《割書:云云》今は両寺の号を合せて本妙法華》 《割書:経寺と|いふ》中山村にあり寺領(じりやう)五十石(こしつこく)一斗(いつと)余(よ)《割書:天正十九年|辛卯十一月》日蓮上人(にちれんしやうにん)最初(さいしよ)転法輪(てんほふりん)の道(だう) 場(しやう)なり開基(かいき)土岐(とき)播磨守(はりまのかみ)はもと因幡国(いなばのくに)富城(とき)の産(さん)なり《割書:富城は因幡国巨濃郡の|郷名なり和名類聚抄には》 《割書:罵城に作る或云罵は富|にて草体の誤なるへし》此地(このち)に移住(いじう)して後(のち)鎌倉(かまくら)に仕(つか)へしが弘安(こうあん)の昔(むか)し日蓮上人(にちれんしやうにん) に帰依(きゑ)し薙染(ちせん)して日常(にちじやう)と号(がう)す《割書:正安元年己亥三月二十日示寂|年八十墓碑奥の院の地にあり》忽(たちま)ち己(おのれ)か居(きよ) 宅(たく)の地(ち)を喜捨(きしや)し《割書:或書(あるしよ)に云(いふ)太田(おほた)五郎左衛門(ころうざゑもん)乗明(しようみやう)日常(にちじやう)の教(をしへ)をうけ自(みづか)ら宅地(たくち)を転(てん)して仏宇(ぶつう)|とし正中山(しやうちうざん)本妙寺(ほんみやうじ)と号(がう)すと云々 乗明(しようみやう)は中山(なかやま)民部少輔(みんぶのせうゆう)康連(やすつら)の子(こ)なり》 《割書:今(いま)の本堂(ほんどう)の地(ち)は此(この)乗明(しようみやう)か宅地(たくち)にて本妙寺(ほんみやうじ)址(あと)なり○法華(ほつげ)堂の元地(もとち)は東(ひかし)の方(かた)三町(さんちやう)程(ほど)にあり|土手(どて)形(かた)猶(なほ)存(ぞん)す富城(とき)の宅地(たくち)なり今(いま)奥(おく)の院(いん)と称(しやう)せり此地(このち)にありし法華堂(ほつけたう)を俗(ぞく)に四貫堂(しくわんたう)と云(いふ)》 《割書:今(いま)は本堂(ほんたう)の|後(のち)に移(うつ)せり》法流(ほふりう)広宣(くわうせん)の大道場(だいだうしやう)となしぬ二祖(にそ)を日高上人(につかうしやうにん)《割書:正和三年四月二十|六日 示寂(ししやくす)年五十六》三(さん) 祖(そ)を日祐上人(にちゆうしやうにん)と云(いふ)《割書:大輪(たいりん)阿闍梨(あしやり)と称(しやう)す応安(おうあん)七年五月十九日 示寂(しじやくす)年七十八 今(いま)の本堂(ほんたう)より西(さい)|南(なん)の方(かた)二 町(ちやう)程(ほど)に祐師山(ゆうしやま)と云ありその墳墓(ふんほ)なり此処(このところ)に二世 日高上人(にちかうしやうにん)の》 《割書:碑(ひ)も|あり》其後十二世日珖上人のとき今の朱章は賜りしと云《割書:日珖は慶長三年戊戌八|月二十七日示寂》 ○鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)《割書:巻下|二十八丁》に千葉介(ちばのすけ)宗胤(むねたね)は三井寺にて討死(うちしに)し貞胤(さたたね)は北国 落(おち)まては宮方(みやかた)にて新田(につた)  義貞(よしさた)の御 供(とも)にてありしか共 心(こゝろ)ならすして尊氏(たかうち)の味方(みかた)になりけるか弟(おとゝ)胤貞(たねさた)は宮方にて  千葉(ちば)に有けるか宗胤(むねたね)の子息(しそく)日祐(にちいう)上人 法華宗(ほつけしう)学匠(がくしやう)にて下総国(しもふさのくに)中山(なかやま)の法華経寺(ほけきやうじ)  の中興(ちうこう)開山(かいさん)なり是(これ)により胤貞(たねさだ)より中山(なかやま) ̄ノ七堂(しちたう)建立(こんりう)あり五重(ごぢう)の  塔婆(とうは)を建(たて)らる其後(そのゝち)胤貞(たねさだ)上洛(しやうらく)して吉野(よしの)へ参(まい)り西征将軍(さいせいしやうぐん)の宮(みや)御下向(おんけこう)の  時(とき)御供(おんとも)して九州(きうしう)へ下(くだ)り大隅守(おほすみのかみ)に補任(ふにん)し肥前(ひせん)の国(くに)をも知行(ちきやう)しけり日(にち)  祐上人(ゆうしやうにん)も九州(きうしう)に下向(げかう)し肥前国(ひぜんくに)松王山(まつをやま)を建立(こんりう)して総州(そうしう)の中山(なかやま)を  引(ひき)て末(すえ)の代(よ)まて此所(このところ)を中山(なかやま)と両山一寺(りやうざんいちし)と号すと云々 支院(しいん)二十四(にじうし)あり《割書:浄光院法宣院本行院安世院○智泉院遠寿院○玄授院久城房陽雲|房福寿房本光房正善房山本坊氏本房蓮経房本妙房善心房玉樹》 《割書:房善蔵房玄養房延寿房恵雲房|清水房常経房等なり》 ○寺社鑑云献上二束一本住職泉州堺妙国寺輪番付兼帯住  職御礼無之年頭御礼大広間独礼坐一同御暇無之《割書:京都頂妙寺|本法寺堺妙》  《割書:国寺三ヶ寺三年|代 ̄り 輪番住職》   所蔵文書目録  《割書:天文十四年正月廿日一宗之元祖云云     晴氏|十月六日制札               清原》  《割書:二十四年六月廿三日千田北条両庄《割書:云云》        胤貞|永禄十二年二月廿三日制札              印》  《割書:無年号十一月廿四日当寺之事甲之台《割書:云云》       氏政|無年号五月十日禁制                 花押》  《割書:天正七年六月末寺之仕置《割書:云云》            原胤栄|十五年十一月廿四日当寺内如先規           花押》  《割書:天正十七年二月十四日今度法華経寺就訴状《割書:云云》    評定衆|十九年十一月日 日下御印》  《割書:永禄七年正月廿五日於当寺横合非分之儀《割書:云云》     氏政|無年号九月三日依遼遠《割書:云云》中山殿          平胤泰》  《割書:無年号十一月十六日真間本尊座光事《割書:云云》本妙寺    前筑前守胤康|無年号八月十三日肥前国小城郡《割書:云云》中山殿      平高胤》  《割書:無年号三月十八日日■【現ヵ】上人逝去《割書:云云》本妙寺 花押|無年号夷則【注】廿五日硯到来《割書:云云》本妙寺     高基》  《割書:無年号九月廿六日至于当鎌倉《割書:云云》          義氏|無年号正月廿七日為改年之祝儀《割書:云云》         義氏》  《割書:無年号五月廿一日悃切被申之条《割書:云云》         晴氏|無年号七月廿三日索麺一折《割書:云云》           印 太閤》    《割書:以上二十葉》  《割書:正和三年四月廿一日譲渡所々堂宮《割書:并》田地等事     日高胤貞|四月廿一日譲渡三谷堂免壱町事            日高胤貞》  《割書:四月廿六日定置条々事                平胤貞|永享三年十二月廿四日為後証《割書:云云》          花押|元応二年十二月一日奉寄進十羅刹御神田壱町《割書:云云》   平胤貞》 【注 イソク=陰暦七月の別名。】  《割書:嘉暦四年七月八日依有要用云云            沙弥寂恵|元応二年十二月廿一日寄進妙見御神田令弐町事     平胤貞》  《割書:嘉暦元年七月廿一日敬白立願之事           平花押|四年七月八日奉寄進下総国八幡庄云云         沙弥寂恵》  《割書:元徳三年九月四日 譲与下総国千田庄云云       平胤貞|三年九月四日譲与師匠大輔阿闍梨日祐云云       平胤貞》  《割書:建武元年十二月朔日譲与所領事            胤貞|二年二月六日八幡庄云云               貞胤》  《割書:三年四月三日寄進中山御本尊云云           平胤貞|無年号十一月十二日相伝仕候云云           僧昌▢》  《割書:観応元年七月十一日奉寄進下総国千田庄云云      平胤継|三年卯月廿五日奉寄進中山本妙寺云云         大隅守平胤継》  《割書:六月廿九日譲与所領事                大隅守平胤継|無年号二月廿九日御領中棟別事云云         ┌左衛門尉行俊》【以下3名の頭部を線で繋ぐ】  《割書:                         ├左衛門尉氏俊|                         └兵衛尉政秀》  《割書:応安五年二月日下総国八幡庄云云           図書左衛門尉源胤朝|永和二年六月六日八幡庄云云             氏政》  《割書:三年三月十七日中山法花堂云云            沙弥希朝|同                         希朝》  《割書:康暦二年六月廿六日寄進本妙寺云云          左衛門尉清貞|同任此状                      平花押》  《割書:三月四日奉寄付本妙寺下総国臼井庄云云        平胤清|永徳二年十二月晦日中山本妙寺弁法印日尊云云     平胤清》  《割書:三年十二月廿四日下総国八幡庄云云         平満胤|明徳五年六月廿九日中山本妙寺云云         平満胤》  《割書:晦日下総国八幡庄云云               右衛門尉胤家|七月二日下総八幡庄云云              沙弥道窓》  《割書:応永四年十二月廿三日治部卿大僧都日暹申云云    氏満|十七年三月二日畏令申候云云            沙弥▢越》  《割書:十三年五月七日合直銭三十二貫文者云云       千田道胤|廿七年十二月廿一日中山本妙寺云云         兼胤》  《割書:廿九年七月七日中山本妙寺雑掌申云云        左衛門尉定忠|八月晦日下総国八幡庄云云 本妙寺         修理大夫花押》  《割書:永享三年十二月二十四日売渡申云云 本妙寺     原宮内少輔胤義|八年五月九日下総国八幡庄云云           胤直》  《割書:永正十一年二月七日▢▢卿総【惣】導師云云    平胤隆|永正十二年五月九日前々▢文云云 本妙寺      右衛門尉隆敏》    《割書:以上三十二葉》  《割書:文永十年五月廿六日惟一云云            日蓮|自相州鎌倉云云                  日蓮》  《割書:無年号正月廿七日大田入道殿御返事         日蓮|無年号五月廿六日立正安国論云云          日蓮》  《割書:無年月下春十日曽谷入道殿太田入道殿        日蓮|慶長六年卯月七日此御遺状云云           本法寺日近》  《割書:無年号七月二日八月分米云云            日蓮|文《割書:五》九《割書:廿》五小▢米                六之介》  《割書:無年号十月廿二日 今月十四日御札云云       日蓮》  《割書:無年号十月廿二日今月十日云云           日蓮|無年号十一月廿九日鵞目云云            日蓮》  《割書:正安四年三月日日蓮上人遺弟日高謹申|文永六年十二月八日去見正嘉元年云云》  《割書:文応元年立正安国論                ▢▢▢▢|嘉元四年正月十三日日蓮上人云云          沙弥道正》  《割書:元応二年卯月廿六日故僧云云            日明|暦応二年十一月廿六日奉伝授大聖人云云       大法師日忍》  《割書:康永四年二月二日大聖人御自筆云云         日遍|至徳元年九月日弁法印日尊謹言上》  《割書:慶長六年正月廿日大宝塔一幅云云          日暁|十二月廿七日右之入日記云云            日通》    《割書:以上二十一葉》 【次の手書き文書は『立正安国論』の跋文(奥書)で、かなり誤字脱字が多いです。】    【一行抜け。略之。】    文応元年■( △)【訖の誤記ヵ】勘畢   去見正嘉元年《割書:太歳|丁巳》八月廿三日戌亥 弐( △)【別資料、之】尅大地震勘之【文は誤記】其後以【ハは誤記】文応元年 《割書:太歳|庚申》七月十二日 月(△)【別資料、十六日】付宣 命(△)於向【別資料、宿谷禅門】奉故【概は誤記】 最明寺入道殿其後文永元年《割書:太歳|甲子》 七月五日大明星之時弥々知此災根源 自文応元年《割書:太歳|庚申》至于文永五年《割書:太歳|戊辰》 後正月十八日 経(へ)于九ケ年自西方大 蒙古国可襲我朝之由牒状渡之 又同六年重牒状渡之既勘文時令【別資料、叶之】 浚(△)【準】之尽【別資料、思之】未来亦可然歟 止(△)【別資料、此】書 ■(△)厳(△)冬【別資料、有徴文也】進(△)【是】偏非日蓮之力    法花経之真文所至感応歟      文永六年《割書:太歳|己巳》十二月八日写之     《割書:此書影写ニアラス原書ト字体違ヒシヤ知ルヘカラス》 ○馭戎慨言《割書:下ノ|上巻》に 亀山天皇の御世文永六年に蒙古の国の使 高麗(コマ)の使  と共に参りて対馬に着て其王の書を奉るその程は征夷大将軍の相模  国鎌倉にまし〳〵て天下の大御政(オホミマツリゴト)は申 ̄シ給ふ御代なりければ其書大宰府  より鎌倉に奉りかまくらよりぞ 朝廷(ミカド)へは奉られける御答(ミコタヘ)あらんかなと  いふさたも有しかどもかの書の詞例のゐや【注】なかりし故になくてやみにき  同しき八年に又その国の使趙良弼といふ者参りて筑前国今津といふ 【注 うやまうこと。】  所につきぬそも〳〵此時もろこしの国は此蒙古すでに金といふ国をほ  ろぼしほと〳〵宋をもとらんとするころほひにてその王が名は忽必烈  元の世祖といふ是也かたはらなる国々をもみなうちしたがへていみし  くいきほひ盛(サカリ)なるあまりにおふ気なく皇国(ミクニ)をもうかゞふ心有てかく  度々使をば奉りしなりけり元史を考るにまづこの世祖が至元三  年といふに兵部侍郎黒的礼部侍郎殷弘といふ二人の者を使にさし  て書を奉る其書にいはく大蒙古国 ̄ノ皇帝奉 ̄ル_二書 ̄ヲ日本国王 ̄ニ_一《割書:云| 云》日本開  国以来亦時 ̄ニ通 ̄ス_二 中国 ̄ニ_一至 ̄テ_二於朕 ̄カ躬 ̄ニ_一而無_三 一乗之使以通 ̄スル_二和好 ̄ヲ_一《割書:云| 云》冀 ̄クハ自_レ今以  往通 ̄シ_レ問 ̄フ結 ̄ヒ_レ好 ̄ヲ以相親睦 ̄セヨ《割書:云々》以至 ̄ランコト_レ用_レ兵 ̄ヲ夫 ̄レ孰 ̄レカ所 ̄ナラント_レ好 ̄ム王其図 ̄レ_レ之 ̄ヲ といへり高麗(コマ)  国王にいひつけて此使をしるべせさせけるを高麗国王とかくいひの  かれてみちびかさりしかばむなしくて帰りしを同五年に又しも  おこせしかども御国に受入ざりしによりて又つしまよりいたづらに   かへりぬかの文永六年に参りしはこの使之此ほど高麗よりも度々つ  かひを奉りなとして此事をとかくはからひけれ共大宰府にてとゞめて  うけいれず同しき至元七年二月に又この趙良弼をおこせて書を奉る  その書には云々如 ̄シ即 ̄チ発 ̄セハ_レ使 ̄ヲ與_レ之偕 ̄ニ来 ̄レ其或 ̄ラハ_二猶予 ̄スルコト_一以至 ̄ラン_レ用 ̄ルニ_レ兵 ̄ヲ往其 ̄レ審 ̄ニ図 ̄レ_レ之 ̄ヲと  いへり同八年九月に高麗の使此使をみち引て皇国に来りしといへ  りすち【「な」の誤記ヵ】はち文永八年にあたれり大宰府のつかさ此使をめして  蒙古国王より奉る書を見んといひしに京に参りてたゞに 天皇  に奉らんといひて出さずされど蒙古の使京に入べきにあらず  猶こゝにて奉れとしひてせめたれは別に写して出しけるを鎌  倉におくり鎌倉より 皇朝に奉り給ひきこれを或人のもろ  こしより御国の大将軍へ書おくれりといひ又此時の将軍は親  王にまします故に国王と申せりといへるはひがこと也大将軍の御政  申給ふ事は此時かの国にてはいまだしらぬほどなれはたゞ御国の  君へとて奉れる也さて此蒙古か書のおもむきいみしくゐやなし  とて御答なくしてまたかゝること申て参らんにはかならす命い  けてはかへさじ此よしたしかに汝が王にかたれといひてかへされきか  くてまかりかへりて かむ(上)の くだり(件)かたりければ其王いたく怒りて軍を  おこし御国をおかし奉らんとぞ思ひかまへけるそも〳〵この趙良弼  が参りしことは文永八年の十月にてかへしやりしは同九年の冬より十  年の春までの間なるべし元史の此良弼が伝に居 ̄ルコト_二日本 ̄ニ_一歳余とあれば  也さてその文永十年は蒙古の至元十年にてその五月にかの国には  かへりつきしよし同伝に見え又世祖が本紀にも十年六月にかへれ  るよししるせり然るを同じ元史のうちに日本伝には至元十年六月  復使 ̄ス_二日本 ̄ニ_一と二度来しがごとくしるせるは帰れる事を誤りて又   つかはすよしにしるせる也その上(カミ)の詞を考るにはじめ来りてよりこ  れまてかへれりとは見えず其間は御国にとゝまれりしさまに聞ゆ  れは此日本伝はひがこと也又皇国の近き代の書ともにも文永八年と  十年と二たび来つるよししるせるはかの日本伝によりて誤れるか  又は年をこえて久しく筑紫にとゝめられゐたりたりしかば二度来つる  がごと世には聞えしにも有べしさて同しき十一年十月五日に蒙古  の船おほくむらがり来て対馬の浅茅が浦につきてあ た(寇)なふ其  島のもののふ共ふせき戦ひしか共力及ばであまたうたれぬ同十  三日あだ共壱岐島まで入たちけるをその島にてもふせきかねて  同十九日の夜筑前国までせめ来つるをあくる廿日の日筑紫の  ものゝふどもおほく出て戦ひけるにぞ あた(賊)の軍みたれて退き  ぬるをりしも霜月廿一日の夜雨風いみしくおこりて其船と  もあまたやふれぬるはもはら皇神(スメカミ)たちの御守り也けり一代要記には  同廿日 ̄ニ始 ̄ム_二合戦 ̄ヲ_一宰府軍等敗北 ̄シ了 ̄ヌ爰 ̄ニ同日亥 ̄ノ刻 許(ハカリ)兵船二艘出来 ̄リ晴天 ̄ニ  合戦 ̄ス非_二凡慮之 ̄ノ所 ̄ニ_一_レ及側 ̄ニ知 ̄ル是神明 ̄ノ之化 儀(  也)也即異国 ̄ノ軍兵退散 ̄スとしる  せり元史に至元十一年三月忻都洪茶丘といふものらを将軍と  して大小九百艘の船に一万五千のつはものをのせて日本をせめ  しむ冬十月其国に入《割書:云々》といへるこれ也かくてあくるとしは  後宇多天皇の御世建治元年其冬蒙古の国より杜世忠といふ者  を使として書を奉りける此度も御こたへなく使をも京へは入れら  れす また(翌)の年の正月に鎌倉にめさるその とも(従)人どもなどはみな  大宰府にとゝめてつかひざね【注】四人と道のほどもたゝ とらへ(囚)人のこと  くしてきひしく守りつゝゐてゆきて九月六日に鎌倉の龍の口  といふ所にて殺して由井の浜といふに首(カウベ)を かけ(梟)られき元史に至 【注 使実=使の中の主だった人。正使。】  元十二年二月杜世忠何文著撒都魯丁を遣はし又書をいたす又こ  たへなし同十七年二月日本殺 ̄ス_二国使杜世忠等 ̄ヲ_一といへる是也かの国の  至元十二年は即建治元年にあたれりさて杜世忠を殺されしはそ  の また(翌)の年なるを同十七年といへるはかの国にては此事を久しくし  らさりしか始めて聞へたりし時也然るを皇国の近き代の書共  に建治二年九月に蒙古の使を殺すとしるして又弘安三年二月  に杜世忠を殺せるよししるせるはかの元史に至元十七年といへるを  見てゆくりなく其年の事と思ひ誤れる物なりさて弘安四年六  月蒙古の あた(ぞく)どもおびたゝしくおしよせ来つ皇国にも年ごろそ  の心せられてふせきのまうけおごそかにてつくしの御軍(ミイクサ)所々にし  て防さ戦ひければあたのいくさつよしとはいへども筑紫の国内(クヌチ)に  入ことあたはず閏七月朔日 天皇神祇官に行幸まし〳〵中御門大  納言経任卿を勅使として発遣せられ此事を大神宮に祈り申  給ひ又国々の社々にも御いのり共有けるにそのしるしの御さとし  共おほかりける中にも伊勢の風の神の御さとしなどいちじる  かりしにすなはちその閏七月朔日の日の午の時ばかり あから(暴)  しま(風)風おこりて あた(賊)の船三千五百艘たちまちに浪にたゞよひ  うちやぶられておぼれ死き残れるあたども鷹 ̄ノ島といふ島に有  て船をつくろひかへらんとせしをも又御軍おしよせてこと〳〵く  うちたひらげてけり元史に至元十八年正月命_二日本行省右丞相阿刺  罕右丞范文虎及忻都洪茶丘等 ̄ニ_一率 ̄ヒテ_二 十万人 ̄ヲ_一征 ̄ス_二日本 ̄ヲ_一《割書:云云》六月阿刺罕  以 ̄テ_レ病不_レ能_レ行 ̄クコト命 ̄シテ_二阿搭海 ̄ニ_一代 ̄テ総 ̄ヘシム_二軍事 ̄ヲ_一 八月諸将未_レ見_レ敵 ̄ヲ喪 ̄ヲ_二全帥 ̄ヲ_一以還 ̄ル乃  言 ̄フ至 ̄リ_二日本 ̄ニ_一欲_レ攻_二大宰府 ̄ヲ_一暴風破 ̄ル_レ舟 ̄ヲ《割書:云々》未_レ幾 ̄ナラ敗卒于閶脱 ̄レ帰 ̄テ言 ̄ク官軍  六月入_レ海 ̄ニ七月至_二平壺島 ̄ニ_一移 ̄ル_二 五龍山 ̄ニ_一 八月一日風破 ̄ル_レ舟 ̄ヲ五日文虎等  諸将各自択 ̄テ_二堅好 ̄ノ船 ̄ニ_一乗 ̄リ_レ之棄 ̄ツ_二子卒十余万 ̄ヲ于山下 ̄ニ_一《割書:云々》七日日本人  来戦 ̄フ尽 ̄ク死 ̄ス余 ̄ノ二三万為_二其虜_一《割書:云々》久 ̄シメ_レ之 ̄ヲ莫青与_二呉万五_一者亦逃 ̄レ還 ̄ル十  万之衆得 ̄ル_レ還 ̄ヲ者三人 耳(ノミ)といへる此時の事也平壺島とは平戸島を云  五龍山とはかの鷹島をいふなるべし鷹島はいま玄海といふ島也  閏七月朔日の風を八月一日といへるは皇国と閏月のたがへる故也然  るを皇国の書どもにもおほく八月しるせるは元史によりて誤  れる物そさてかく俄にはげしき風のおこりてたやすく あた(賊)の軍(イクサ)  のほろびうせぬるは世にも語り伝ることくまことに皇(スメ)神たちの御力  也かくて此度のあやまちに深くこりて後はなく から(戎)国(狄)より  いさゝかもえうかばすなりぬる神の御国の御 いきほひ(威徳)よかしこ  しともたふとしともいへばさら也然るをもろこし人は此神の  道の くしび(霊異)なることわりをばえしらで後世まで此 やぶれ(敗)を只(タヽ)  あしき風の吹べきをりをはからはざりし故と思ひ ある(或)は蒙古 陸(クヌガ)  の戦ひは得たれ共船いくさにつたなかりし故といひあるは御国の国(クニ)  形(ガタ)の海をへだてゝおかしかたきことなどをのみ思ひをるはいとも  おろかなりけり《割書:云々》《割書:弘安四年十月廿二日日蓮富城入道への返書に去後七月御状|之内去鎮西には大風吹候て浦々島々破損船充満之間《割書:云々》是》  《割書:歳七月置閏のこと益証すへし◦使者四人|とするは撒都魯丁を二人と読違しなり全は三人也》   譲与    下総国千田庄原郷阿弥陀堂職田地柒【七の代用】段在家壱宇    同庄中村郷三谷堂職田地弐町五段在家壱宇同郷    辻堂職田地五段在家壱宇同郷田地五段在家壱宇同    庄金原郷内田地五段在家壱宇同国臼井庄島田村内    又三郎名柒【七】段在家壱宇同真木野村神田五段在家    壱宇同平戸村田地五段在家壱宇同古牟呂村以下所々    神田同国八幡庄蘇谷郷秋山村内田地弐町在家参宇肥    前国小城郡光勝寺職同妙見座主職同乙犬名等《割書:坪付別紙|在之》    本妙寺職所々《割書:注義別紙|在之》等事  右所々田畠等々ハ胤貞相伝私領也然彼所々堂職等《割書:江》為中山  堂免師匠大輔阿闍梨日祐《割書:仁》永代奉譲処実也天長地久  御祈祷《割書:於》能々可被懸御心代々殊者胤貞後生菩提《割書:於》可有御  訪者也若子々孫々中致違乱競望退転法花経信心違背  中山者為不孝仁胤貞跡《割書:於》壱分不可知行仍為後日譲状如件      元徳三年九月四日   平胤貞【花押】  千田の庄は香取郡に千田村あり其近辺は十四ヶ村を千田の庄といふ原の郷匝  瑳郡に原方村あり中村の郷香取郡中村也金原の郷同郡に金原村あり臼  井の庄印幡郡に臼井村あり其近辺二十ヶ村を臼井の庄といふ島田村真木野村平  戸村小室村千葉郡にあり八幡の庄葛飾郡には八幡駅あり其近辺▢▢▢村を八幡    の庄といふ曽谷村秋山村同郡にあり光勝寺は松尾山と号し日祐開山也事前に引  ところ大草紙の条に詳なり本妙寺また前に見ゆ胤貞は宗胤の子千田太郎と  称す大隅守となる元弘元年千葉介貞胤に従ひ肥州に進叢して軍功あり  建武三年尊氏に従ひ関東に下向す途中病にけり参州に卒す年四十九法号俊徳  院日叡と云三谷堂は香取郡法輪寺のことなり飯高村は根小屋谷中台谷松和田  谷と三ツに分る所謂三谷なり   譲与所領事    可令大輔僧都日祐領知下総国八幡庄内    各中郷事 右当郷内於中山堂敷地并免田畠等者亡父胤貞 就猶子契約譲与畢仍被成公方之安堵上者 不及子細其外所【元は不ヵ】残一円《割書:但真間堂寄進八幡|社家知行分除之》大輔僧都 日祐 永代所譲与実也是則且為訪代々之菩提 殊者為胤継現当二世所願成就也然者子々孫々等之 中至背此趣致違乱競望輩者永為所【元は不ヵ】孝之仁不 可知行胤継跡仍為後日譲状如件     観応三年壬辰六月廿九日             大隅守平胤継                  在判  《割書:真間堂は弘法寺なり八幡社家知行分とあれは古は祠官ありし事しらる今は|法漸寺と云寺にて別当職をつとむ社人あれと近来法漸寺の立るところ也胤継は》  《割書:胤貞の子也》 ○大僧正行基を菩薩といふはわたくし事也勅許にあらす続紀聖  武巻《割書:天平勝宝元二月|丁酉行基仏化の処》に豊桜彦 ̄ノ天皇甚敬重 ̄ス焉詔 ̄テ授 ̄ク_二大僧正之位 ̄ヲ_一并施 ̄シテ_二  四百人 ̄ヲ_一出家 ̄セシム和尚霊異神験触 ̄テ_レ類 ̄ニ而多 ̄シ時又号 ̄テ曰 ̄フ_二行基菩薩 ̄ト_一《割書:云々》され  ども法徳あり衆人菩薩と称するは勅許よりも猶たふとし釈書に  賜 ̄フ_二号 ̄ヲ菩薩 ̄ヲ_一とあるは非なり《割書:野々舎|随筆》○《割書:此は国分寺の下に入るへきを|余紙あれはこゝにのす》   中山本妙寺弁法印日尊申    下総国八幡庄真間弘法寺本尊    聖教御堂并敷地等事付諸末寺  右日満背代々先師置文引分 門徒向背師匠之条希代所行也 所詮任去永徳二年十二月晦日 御教書之旨可沙汰付所持物所帯 於《割書:於》本妙寺之状如件    明徳五年六月廿九日    平 満胤【花押】  《割書:日尊は中山四世応永六年九月七日示寂年七十七日満は弘法寺四世明徳四年正月十一日|示寂年▢▢▢平満胤は氏胤の子千葉介と称す応永三十三年六月八日卒年六十四法名》  《割書:道山徳阿弥陀仏常安寺と号す》  中山本妙寺別当治部卿法印日暹雑掌申  下総国八幡庄法花寺弘法寺三ヶ所寺務職  同寺領谷中郷并北方村内田畠在家同庄曽谷  郷田畠在家同郷秋山村内田畠在家臼井庄神保郷  小室村同伊毛窪島田平戸真木野等村々田畠在家  千田庄原郷内所々堂免同庄中村郷内田畠在家堂内  同郷三谷村内田畠坊田慶光内千葉庄堀籠郷内屋敷  壱ヶ所葛西御厨篠崎郷内田畠在家等事去元徳  三年解題安堵去応安 永徳明徳証文以下並  去応永四年三月廿三日 御判等明白上者領掌不  可有相違之状如件    応永廿七年十二月廿一日   兼胤【花押】     当寺別当御房  《割書:日暹中山五世応永廿九年六月七日示寂年七十四谷中村北方村葛飾郡にあり神保村千葉|郡にあり伊毛窪は同郡 神窪(イモノクボ)なり三谷村は香取郡飯高村なり千葉庄は千葉郡堀籠村は》  《割書:匝瑳郡宝米村なるべし葛西篠崎は武蔵国葛飾郡にあり御厨の事神鳳抄東鑑等に見ゆ|余は説前に出たり兼胤は満胤の子千葉介又修理太夫と称す永享二年六月十七日鎌倉》  《割書:に卒年三十九法名喜山眼阿弥陀仏》 日常(にちじやう)所持(しよぢの)鞍(くら)鐙(あぶみ)太刀(たち) 日常(にちじやう)日祐(にちいう)等(とうの)法衣(ほふい) 古笙(こしやう)五管(ごくわん)《割書:一は加州侯より二は薩州侯よ|り寄らるゝ所と云二は古来所伝也》 外(ほか)霊宝(れいはう)等(とう)数(かず)多(おほ)けれと容易(いようい)に見(み)ることを許(ゆる)さゝれは洩(もら)しぬ  祐 師 山 日 高 上 人 碑 《割書:祐師山日高上人 ̄ノ碑は右の方にあり文字剝落して読難|しからうして図の如きを読得たり好古の士の考証【證】の|一端にもと全文を具録しぬ》                  《割書:祐師の碑は正面にあり新碑なり古碑はいかゞなりしや|○祐師は鬼越村常開寺にて示寂し火化して此地に葬ると云》       《割書:四尺四寸》        大持国天王 【梵字=不動明王】大広目天王        《割書:南無无辺行菩薩 《割書:阿修羅王|転輪聖王|大日天王》 天照太神》       《割書: 南無上行菩薩  第六天王 南無天台大師|南無多宝如来  大梵天王 鬼子母神》      南無妙法蓮華経       《割書:南無釈迦如来 釈帝桓因天王 十羅刹女| 南無浄行菩薩 大月天王 南無法王聖人         日祐筆之》        《割書:南無安立行菩薩 《割書:明星天王|八大龍王》 八幡大菩薩        日源彫之》        大毘沙門天王【梵字=愛染明王】大増長天王  日祐    弁書日尊 沙弥妙法 豊前阿闍梨日礼弁口阿闍梨日施尼妙蓮 出雲阿闍梨日宗観照房日勝 道円 出羽阿闍梨日源 伊賀阿闍梨日栄妙円 円覚房日永 上総阿闍梨日心 三崎女 大成阿闍梨日昭浄顕房日仁 同叔母 伊予阿闍梨日礼式部房日政藤原氏室 大和公日用一円房日便   妙空 甲斐公日賢 安芸公日賀 妙性 日恵 日寂日禅日良  源氏室 比丘尼妙日藤原氏女清原氏女 妙理 妙忍 日尊悲母 大相尼 藤原氏女尼妙性  俗守吉氏女 覚祐 俗忠女 三郎二郎 是空 平氏女 平氏女源氏女源氏女大工貞弘 藤原氏女妙円 藤原氏女又三郎 【左下部横に】一尺八寸  外に応永廿四天十一月八日延文六年辛丑三月三日正和三年十一月日の古碑あり四貫堂の後の方に建り ○御伝記(ごでんき)《割書:巻|一》第廿四 下総(しもふさ)の国(くに)富木常忍(ときしやうにん)初(はじめ)て聖人(しやうにん)の旦那(だんな)と成事(なること)《割書:付》常忍(じやうにん)  堂(だう)を作(つく)り聖人(しやうにん)を置(おき)奉(たてまつ)る事《割書:并》一尊(いつそん)四菩薩(しぼさつ)の事の条(でう)に下総(しもふさ)の国(くに)中山(なかやま)の住人(じうにん)  富城(とき)の常忍(じやうにん)は本(もと)は因幡(いなば)のくに富城(とき)の人(ひと)なりしか後(のち)に中山(なかやま)に住(じう)し富木(とき)  殿(どの)とそ申(まうし)けるしかるに常忍(じやうにん)鎌倉(かまくら)へ参勤(さんきん)の時(とき)来(きた)りすてに船(ふね)に乗(のり)今(いま)や  漕出(こきいて)ぬらんとおもふ所(ところ)に聖人(しやうにん)もかまくらへ渡(わた)り給ふに常忍(じやうにん)か船(ふね)に打(うち)む  かひなふ便船(びんせん)とそ仰(あふせ)ける下部(しもべ)の侍(さふらひ)安(やす)からすは思(おも)ひしか共 此(この)よし富木(とき)殿(どの)  へ申入(まうしいれ)ければ出家(しゆつけ)のこと苦(くる)しかるまじきとゆるし給ひ船(ふね)のしりへにのせ  奉(たてまつ)るもとより法花(ほつけ)弘通(ぐつう)の聖人(しやうにん)舟(ふね)にましませば龍神(りうじん)も加護(かご)有(あり)ける  にや逆風(ぎやくふう)忽(たちまち)順(じゆん)に変(へん)し船(ふね)はほどなく鎌倉(かまくら)に着(つき)しかば皆々(みな〳〵)舟(ふね)よりぞ上(あが)  りける聖人(しやうにん)もつゞいて上(のぼ)らせ給ひ此(この)ほとの御(おん)いたはりかたじけなく  侍(はべ)ると互(たがい)によそほひ引(ひき)つくろひわかれ〳〵に成(なり)たまふしかるに常忍(じやうにん)は  かまくらをつとめられ御(おん)いとま下(くだ)し給(たま)へば本国(ほんごく)中山(なかやま)にぞ帰(かへ)らるゝ  日蓮(にちれん)上人(しやうにん)土岐(とき)常忍(しやうにん)  か船(ふね)へ便船(びんせん)を乞(こ)ひて  鎌倉(かまくら)より中山(なかやま)に到(いた)り  給(たま)ふ図  註画讃 たちわたる   身のうき      雲も  はれぬへし   たえぬは法の    わしの山かせ       日蓮 【右下 落款】武陵【印】 【左丁 文字無し】 【右丁 陽刻落款印】亀? 【左丁】 日蓮(にちれん)上人法華堂(ほつけとう) にて法談(はふだん)の図(づ)  兼(かね)て用意(いようい)の船(ふね)なればすぐにとも綱(つな)をとき出(いだ)しけるに聖人(しやうにん)以前(いぜん)の舟(ふね)  ともしろしめさず時(とき)あしゝてはせ向(むか)ひ便舟(びんせん)と仰(おふせ)有(あり)けれは常忍(じやうにん)これ  を見(み)参(まいら)せあれこそいつそや舟(ふね)かしたりし客僧(きやくそう)也まことによの常(つね)な  らぬえにしとて又(また)おなし舟(ふね)にのせ参(まい)らせ席(せき)ちかく招(まねき)奉(たてまつ)り折(をり)にふ  れたる海士(あま)の舟(ふね)をのが友(とも)々あさりして浮世(うきよ)を渡(わた)る釣(つり)の糸(いと)浅(あさ)ましさよと  打物語(うちものがた)り常忍(じやうにん)また聖人(しやうにん)にとひ参(まい)らする事(こと)あり御僧(おんそう)は此比(このころ)かまくらに  渡(わた)らせたまふとやしからは日蓮(にちれん)と云 法師(ほふし)出(いて)かまくらの諸宗(しよしう)をさま〳〵に  いひちらし法華経(ほけきやう)を説(とき)し事(こと)しろしめさんさあらはすこし其(その)趣(おもむき)を語(かた)  らせたまへ我(われ)はしゆつしいとまなくとくと事(こと)をもしらぬで侍(はべ)ると有(あり)  ければ聖人(しやうにん)聞(きこ)しめししからば聞(きゝ)覚(おぼ)えし物語(ものがたり)申入(まうしいる)べしと仰(おふせ)られ居(ゐ)だけ  だかに座(ざ)を組(くみ)給ひ諸経(しよきやう)に法華経(ほけきやう)のすくれたること十界(しつかい)皆成仏(かいしやうふつ)のむね  経(きやう)を引(ひき)論(ろん)を引(ひき)まことにふるな【注】のべんぜつをもつてこまやかに此(この)趣(おもむき)也(なり) 【注 富楼那=雄弁をもって知られる、釈迦の十六人の弟子の一人。】  と申(まうし)のべさせたまへば常忍(しやうにん)つく〴〵と御物語(おんものがたり)を聞(きゝ)わけ扨(さて)々しゆせうな  るをしへかな其(その)日蓮(にちれん)はたゞ人にてはましまさじ先(まづ)は御僧(おんさう)もよく聞(きゝ)おぼへ  られし物(もの)かなとしばらくかんじけるかいかゞおもはれけん其(その)日蓮(にちれん)はいかなる人  とおもひしに正(まさ)しく御僧(おんさう)こそ日蓮聖人(にちれんしやうにん)にて御座(ござ)有(ある)らめ此世(このよ)ののりのえん  くちずは我(われ)もまた彼岸(ひがん)へ御渡(おんわた)したまへとふかく御契(おんちぎり)を結(むす)びそめ舟(ふね)  よりあがりそれよりも聖人(しやうにん)をいさなひ奉(たてまつ)り中山(なかやま)にうつし置(おき)参(まい)らせいと  ねんごろに仕(つか)へける其後(そのゝち)聖人はたよりにつけ常忍(じやうにん)が宅(たく)にいらせ給(たま)へば有(あり)  がたしと随喜(ずいき)し常(つね)の屋形(やかた)のうしろにまはり百間(ひやくけん)ばかり堤(つゝみ)を築(つき)其中(そのなか)に  すこしたかく土(つち)をかさね堂(だう)をしつらひ聖人(しやうにん)の御まうけにそ立(たて)られ  ける其時(そのとき)聖人(しやうにん)みづから一尊(いつそん)四菩薩(しぼさつ)を御(おん)きざみなされ此(この)所(ところ)に安置(あんち)し  法華堂(ほつけだう)と名付(なつけ)百日(ひやくにち)の御法談(ごはふたん)なされしなりしかるに常忍(じやうにん)は聖人(しやうにん)入(にう)  滅(めつ)の後(のち)出家(しゆつけ)し中山(なかやま)の開山(かいさん)富木日常(ときにちじやう)と申(まうす)なり ○高祖年譜に蓮師(れんし)姓(せい)は貫名(ぬきな)氏 安房国(あはのくに)長狭郡(なかさのこほり)小湊(こみなとの)人(ひと)なり父(ちゝ)は次郎重忠(じろうしげたゞ)  母(はゝ)は清原氏(きよはらうじ)貞応(じやうおう)元(くわん)年二月十六日に生(うま)る名(な)は善日麿(せんにちまろ)年(とし)十二にて郡(ぐん)の清(せい)  澄寺(ちようじ)に入(い)り道善(だうぜん)を師(し)とし学(まな)ふ名(な)を薬王麿(やくわうまろ)と更(あらた)む年十六 薙染(ちぜん)受戒(じゆかい)す  名(な)は蓮長(れんちやう)字(あざな)を是生(ぜしやう)と号(がう)す後(のち)日蓮(ににちれん)に改(あらた)む真言義(しんごんぎ)を学(まなび)尚(なほ)諸宗(しよしう)の学(がく)を究(きわめ)  んと欲(ほつ)し年(とし)十七 鎌倉(かまくら)に遊(あそ)ぶ年廿一 復(また)房州(ばうしう)に帰(かへ)る再(ふたゝひ)鎌倉(かまくら)に如(ゆ)き尊海(そんかい)に随(したかつ)  て叡山(ゑいさん)に登(のぼ)り東塔(とうたう)の円頓房(えんとんばう)に住(じう)す留学(りうがく)十二年 此間(このあいだ)を以(もつて)京師(けいし)泉涌寺(せんゆじ)三(み)  井寺(ゐでら)南都(なんとの)諸大刹(しよたいせつ)紀州(きしう)高野山(かうやさん)摂州(せつしう)天王寺(てんわうじ)科長(しなかの)聖徳太子堂(しやうとくたいしだう)男山八幡(おとこやまはちまんの)祠(し)等(とう)  に遊(あそ)ひ各所(かくしよ)の所学(しよがく)を伺(うかゞ)ひ頗(すこぶ)る其(その)要領(えうれい)を得(え)たり時(とき)或(あるひは)儒家(じゆか)に就(つき)講説(こうせつ)を  聴(き)き又(また)藤原(ふぢはらの)為家(ためいへ)に謁(ゑつ)して和歌(わか)を受(うけ)叡山(えいさん)に帰(かへ)る年(とし)三十一 其業(そのげう)既(すでに)成将(なりまさ)に  房州(ばうしう)に帰(かへら)んとす伊勢(いせ)を過(すき)天照(あまてる)大神(おほんかみの)祠(みや)を拝(はい)して清澄寺(せいちやうじ)に帰(かへ)る時(とき)年(とし)三十二  是歳(このとし)四月廿八日 初(はじめ)て法華(ほつけ)題目(だいもく)を唱(となへ)且(かつ)四言(しけん)の規(き)を建(たて)て云(いふ)念仏無間(ねんぶつむけん)禅天(せんてん)  摩(ま)真言(しんごん)亡国(はうこく)律国(りつこく)賊邑主(ぞくゆうしゆ)平景信(たいらのかげのぶ)道善(たうせん)と謀(はか)りこれを逐(おふ)浄顕(じやうけん)義浄(きじやう)窃(ひそか)【竊】に青(せい)  蓮房(れんばう)に寓(ぐう)せしむ五月 鎌倉(かまくら)に入(いり)十一月 台家(たいか)の僧(さう)成弁(じやうべん)投化(とうくわ)す日昭(につせう)と号(がう)  す年三十三 日朗(にちろう)弟子(ていし)となる年三十七 父(ちゝ)を喪(もす)年(とし)三十九 鎌倉(かまくら)松葉谷(まつばがや)に在(あ)り  立正安国論(りうしやうあんこくろん)を著(あらは)す是歳(このとし)八月二十七日の夜(よ)宗化(しうくわ)を憎(にくむ)の徒(と)僧(そう)俗(ぞく)数百人(すひやくにん)師(し)  の丈室(じやうしつ)を襲(おそ)ひこれを焚(や)く師(し)傍(かたはら)の窟(くつ)に匿(かく)れて免(まぬが)る総州(そうしう)に遊(あそ)び富城氏(ときうち)に  寓(ぐう)す一尊(いつそん)四菩薩(しぼさつ)と鬼子母神(きしもじん)とを手(てづから)刻(こく)す年(とし)四十 武州(ぶしう)恩田(おんだ)に如(ゆ)く吉田(よしだ)大祝(おほはふり)  兼益(かねます)に就(つい)て神道(しんとう)の秘奥(ひおう)を問(と)ふ遂(つい)に鎌倉(かまくら)に還(かへ)る是歳(このとし)五月十二日 平長時(たいらのながとき)師(し)  の異教(いきやう)を唱(となふる)を悪(にく)み豆州(づしう)伊東(いとう)に竄(ざん)す移(うつゝ)て和田(わだ)に居(お)る年(とし)四十二平時頼(たいらのときより)師(し)  を赦(ゆる)して鎌倉(かまくら)に反(かへ)らしむ又(また)松葉谷(まつばがや)に居(お)る年(とし)四十三 宗教一策(しうかういつさく)を著(あらは)し  法華(ほつけ)真言(しんごん)を優劣(ゆうれつ)す八月 房州(ばうしう)に帰(かへ)り母(はゝ)を省(せい)す華傍房(くわばう)蓮華寺(れんげじ)に寓(ぐう)す十一月  師(し)小松原(こまつばら)にあり景信(かげのぶ)浄土(じやうと)を信(しん)じ党(たう)を率(そつ)して師(し)を囲(かこ)む弟子(ていし)鏡忍(きやうにん)これに死(し)  す師(し)亦(また)傷(きづゝ)く天津(あまつの)城主(じやうしゆ)工藤氏(くとうし)来(きた)り救(すくつ)て闘死(とうし)す師(し)因(よつ)て免(まぬが)ることを得(え)たり年(とし)  四十四 総州(そうしう)に如(ゆ)き常州(じやうしう)筑波(つくば)を過(す)き野州(やしう)那須(なす)の温泉(おんせん)に浴(よく)し宇都宮(うつのみや)にい  たる再(ふたゝ)び総州(そうしう)に遊(あそ)ふ年四十六 母(はゝ)清原氏(きよはらうし)没(ほつ)す富木氏(ときうじ)の子(こ)祝髪(しゆくはつ)弟子(ていし)となる  是(これ)を日頂(につてう)とす年(とし)四十七 蒙古(もうこ)の書信(しよしん)ありと聞(きゝ)て書(しよ)を鎌倉(かまくら)の士(し)宿屋(やとや)光則(みつのり)に  托(たく)して外寇(ぐわいかう)あらんことを論(ろん)ず又(また)執権(しつけん)時宗(ときむね)に上書(じやうしよ)して諸宗(しよしう)の僧侶(さうりよ)と法問(ほふもん)  の是非(しひ)を官庁(くわんちやう)に論(ろん)ぜん事(こと)を請(こ)ふ年(とし)四十八 甲州(かうしう)に如(ゆ)き相州(さうしう)に帰(かへ)る年五十  極楽寺(ごくらくじ)良観(りやうくわん)等(とう)か訴(うつたへ)によつて師(し)を官(くわん)に召(めし)験問(けんもん)すその事(こと)を仏法(ぶつほふ)に託(たく)し  国家(こくか)を乱(みだす)を以(もつ)て斬(ざん)に当(たう)す是歳(このとし)九月十三日 時宗(ときむね)家臣(かしん)頼綱(よりつな)に命(めい)して師(し)を  捕(とら)へ街路(かいろ)に徇(とな)へ又(また)朗公等(ろうこうら)六人を囚(とら)へ即(そく)夜師(やし)を龍口(たつのくち)に斬(き)らしむ既(すで)にして  赦(ゆる)して佐渡(さど)に謫(たく)す年(とし)五十一 佐州(さしう)大野(おほの)に在(あ)り四月 移(うつり)て石田郷(いはたのこう)一谷(いちのや)に居(お)  る年(とし)五十三 是歳(このとし)三月 罪(つみ)ゆるされて二十六日 鎌倉(かまくら)に帰(かへ)る遂(つひ)に甲州(こうしう)身延山(みのぶさん)に退(たい)  隠(ゐん)す法華取要(ほつけしゆえう)を著(あらは)す四方(しはう)の僧(さう)俗(ぞく)欽慕(きんぼし)来(きた)り帰(き)する者(もの)益(ます〳〵)多(おほ)く教化(きやうけ)日々(ひゞ)に  盛(さかん)なり年(とし)五十八 弟子(ていし)日興(につこう)に命(めい)し駿州(すんしう)に行(ゆき)教化(きやうけ)せしむ宗(しう)を改(あらたむ)る者(もの)衆(おほ)し  実相寺(じつさうじ)厳誉(けんよ)等(とう)妒忌(とき)して官(くわん)に讒(ざん)す官吏(くわんり)其徒(そのと)二十四人を捕(とら)へ鎌倉(かまくら)に送(おく)り  地牢(つちのろう)に下(くだ)す師(し)書(しよ)を贈(おく)りてこれを諭(さと)す是歳(このとし)弟子(ていし)日法(につほふ)師(し)の像(さう)を刻(こく)して後世(のちのよ)  に貽(のこ)さん事(こと)を請(こ)ふ像(ざう)成(な)る師(し)自(みづか)らて点眼(てんがん)【注】す年(とし)六十 身延山(みのぶさん)に新(あらた)に一堂(いちだう)を構(かま)へ  身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ)と号(がう)す年(とし)六十一四月 手(てづ)から宝塔会(はうたふのゑ)を図(づ)す師(し)素(もと)より書画(しよぐわ)  を善(よく)す尤(もつとも)書(しよ)に工(たくみ)なりと云(いふ)此(この)秋風(あきかぜ)を患(うれ)ふ九月 諸徒(しよと)に告(つげ)て曰 吾(われ)思(おも)ふ所(ところ)あ  りて武州(ぶしう)池上(いけがみ)に往(ゆか)んと即(すなはち)延山(えんざん)を発(はつ)し十八日 池上(いけがみ)の宗仲(むねなか)にいたる二十  五日 安国論(あんこくろん)を講(こう)す畢(おはり)て衆(しゆ)に告(つげ)て曰三七日中 吾(われ)化(くわ)せんとす十月八日 上(しやう)  足(そく)六人(ろくにん)胎(しやう)。朗(ろう)。興(こう)。向(かう)。頂持(ちやうじ)を定(さだめ)て衆(しゆ)に遺命(いめい)して六子(ろくし)を見(み)ること吾(わ)が如(こと)くせしむ  十三日 衆(しゆ)と俱(とも)に方便品(はうべんほん)を誦(じゆ)し入仏(にうぶつ)知見(ちけん)道故(だうこ)の句(く)に至(いたり)て遂(つひ)に示寂(しじやく)す寿(じゆ)六  十一 法臘(ほふろう)四十六 葬儀礼(さうぎれい)に遵(したが)ひ山中(さんちう)に闍維(とい)す十六日 遺骨(ゆいこつ)を収(おさめ)て遺命(ゐめい)を以(もつ)  て延山(えんさん)に送(おく)る其(その)明年(みやうねん)正月 別(べつ)に一堂(いつたう)を営(えい)し遺骨(ゐこつ)を安(あん)す後(のち)七十年 暦応(りやくおう)中(ちう)  詔(みことのり)ありて大菩薩(だいぼさつ)の号(かう)を賜(たま)ふ《割書:以上要|を摘》 高石(たかいし)明神 ̄ノ社 高石村(たかいしむら)にあり神功皇后(しんくうくはうこう)を祀(まつ)れり神体(しんたい)石(いし)なりと云九月九日を祭(さい) 【注 正しくは「てんげん」。新たに出来上がった仏像などに入魂の作法をすること。】  高石神(たかいしかみ)村に泰福(たいふく)  寺(じ)と云(いふ)日家(につか)の寺(てら)あり  此(この)寺(てら)に日寂(につしやく)の碑(ひ)あり  域中(いきちう)朝比奈氏(あさひなうち)の碣石(かつせき)          あり 《割書:竪三尺七寸二分横一尺一寸三分》                 銘日祐書之【花押】   南無多宝如来  南無法主聖人  南無妙法蓮華経 《割書:為光師日寂|聖霊成等正覚》   南無釈迦牟尼仏  南無日高聖人          元弘二年《割書:壬|申》七月八日 日(じつ)とす別当(べつたう)泰福寺(たいふくじ)なり ○阿須波 ̄ノ神社 万葉集《割書:巻二十|廿四丁》上総国防人歌に爾波奈加能(ニハナカノ)阿須波乃可美(アスハノカミ)  爾(ニ)古志汶佐之(コシハサシ)阿(ア)■(レ)【示偏+列 注】波(ハ)伊波波牟(イハヽム)加倍理久麻(カヘリクマ)■(テ)【イ偏+弖】尓(ニ) 古事記に大年 ̄ノ神の子  に庭津日 ̄ノ神次 ̄ニ阿須波(アスハ) ̄ノ神《割書:云々》とありて竃 ̄ノ神也 祈年祭(トシコヒマツリ)祝詞に座摩(サノスリ)【「ヰカスリ」の誤記ヵ】の御巫(ミカムノコ)の  称辞(タヽヘコト)《割書:竟奉》皇神等(スメカミタチ)《割書:能》前《割書:尓》白《割書:久》生井(イクヰ)栄井(サクヰ)津長(ツナカ)井阿【河は誤記】須 波(ハ)婆比支(ハヒキ)《割書:登》御名者白  《割書:氐》云々と見ゆ是は庭の中に小柴もて神籬(ひもろき)をかり初に造るなるべしそれ  をこしばさしとはいへりあれはは吾者也■【イ偏+弖】元暦本に泥に作る」右一首 【注 『新校万葉集』(創元社)の四三五〇に、「例」とあり。】  帳丁 若麻続部(ワカヲミヘ) ̄ノ諸人(モロヒト)」 帳丁は主帳丁也按に此哥防人が父母か妻のよめる  歌とみゆ諸人の下字の脱たるかと以上略解の説なり按に式神名帳に越  前 ̄ノ国 足羽(アスハ)郡足羽 ̄ノ神社あり古事記伝に阿須波神名義未 ̄タ考得すされど嘗(コヽロミ)  に強(シヒ)て云 ̄ハ ば足場(アシバ)の意にや、足(アシ)を阿須(アス)と云は、左に引 ̄ク地 ̄ノ名の足(アス)羽など是なり、  凡て何処(イヅク)にまれ、人の足(アシ)踏立(フミタツ)る地を足(アシ)場と云、今 ̄ノ世の言にも、足場(アシバ)の好悪(ヨキアシ)き  なと云此 ̄レ なり、さて凡て場(バ)と云は、庭(ニハ)の略(ハブキ)にて、大庭を意富婆(オホバ)と云類多し、  又場 ̄ノ字をも尓波(ニハ)と訓 ̄ム こともあり、何(ナニ)にまれ事を為(ナ)す地(トコロ)を、某場(ナニバ)と云、さて  某場(ナニハ)と云ときは、音便にて濁れども、もと尓波(ニハ)の略なれば、波(ハ)と清(スム)言なり、故 ̄レ  此(コヽ)の神 ̄ノ名の波(ハ)は、清音に唱ふるなり、さて此 ̄ノ神は、人の物閉? 行(ユク)とても、万 ̄ツ の事(ワ)  業(ザ)をなすとても、足(アシ)踏立(フミタツ)る地を守 ̄リ坐 ̄ス神なるが故に、家毎(イヘゴト)に祭 ̄リ しにや、袖中  抄に上 ̄ノ総 ̄ノ国に阿須波と申神おはすと云るは非なり又 尓波奈加(ニハナカ)を彼 ̄ノ国の  地名とする説もわろし此 ̄ノ哥に庭中之(ニハナカノ)とよめるを以て当首(ソノカミ)民家(タミイヘ)の庭に  竃 ̄ノ神などゝ共に此 ̄ノ阿須波(アスハ) ̄ノ神をも祭しこと知 ̄ル へし云々さて右の哥は  末二句を味(アチハ)ふるに彼 ̄ノ阿須波 ̄ノ神は己(オノ)が家に非(アラ)で行前(ユクサキ)の宿々(ヤト〳〵)の家に祭れ  るを伊波比(イハヒ)つゝ行(ユカ)むとよめるなれば何国(イツレノクニ)にても家ことに祭事しられ  たり」或云庭中之 麻(アサ)と云あの文字にかゝりし枕詞にて庭中に祭れるに  てはなかるへし足羽は足早の義也 浪速(ナミハヤ)をなにはと云とおなし小柴は来(コ)  といふもしにかゝれり一首の意足早くゆきて帰りこよと云義なるべし  と云へりさて以上の説にては禁中に祭りし神を越前にも祭りまた国々  にも祭れるならん上総とするは防人の歌によりしことく見ゆ歌林良材に  下総とするは上を下と誤れるによられしなるべし上総下総の錯誤は  往々物に見えたり江都名所図会に海神村の龍王のことくするはあたら  ぬしひことなり《割書:阿須波 ̄ノ社は公津村麻賀多 ̄ノ神社の末社にあり|此外も猶ありや識者の考をまつ》 ○勝間田 ̄ノ池 万葉集《割書:巻拾六|廿七丁》献_二新田部親王_一歌一首 勝間田之(カツマタノ)池者我知(イケハワレシル)  蓮無(ハチスナシ)然言君之(シカイフキミノ)鬚無如之(ヒケナキカコト)【注】 左註に右或有_レ 人聞_レ之曰新田部親王出_二遊于堵  裡_一御_二見勝間田之池_一感_二緒御心之中_一還_レ自_二彼池_一不_レ忍_二憐愛_一於_レ時語_二婦人_一曰今日  遊行見_二勝間田池_一水影涛々蓮花灼々可_レ憐断腸不_レ可_二得言_一爾乃婦[人]【注】作_二此戯  歌_一專輙吟詠也とあり勝地吐懐編にも《割書:勝地吐懐編標注云《割書:蒿|蹊》契沖説全袖中抄|の意を略して挙られしなり美作下総》  《割書:と云説も非なるよし|彼抄にあり》今日遊行見_二勝間田池_一と云又出_二遊于堵裡_一御_二見勝間田  之池_一とあり按に万葉集堵の字数所にあり皆都の字に通したり《割書:鈴屋云都堵|の音通万葉》  《割書:に往々あり古事記に復奏を覆奏書紀に|復命を服命と書ける類ありと云々》然れは堵裏と云るは都裏にて奈良近  き所なるへし今日遊行と云にて余国に出ぬこと知るへきなり奥儀抄歌  枕名寄等の書には美作国なりとするは和名類聚抄に美作国 勝田(カツマタ)郡勝  田郷あるによりしならん同書に加都多と訓すれと三代実録貞観二年八  月の条に美作国勝間田郡とあり又遠江国蓁原郡勝田郷あり此段に  は和名抄にも加都萬多と訓す勝田と書て加都万田と訓する事とみゆ 【注 『新校万葉衆』(創元社) 三八三五番】  勝間田を勝田とのみ書は諸国郡郷の名二字に限るへき制め出しをり  より後の事なるへし八雲御抄範兼郷上代集類聚名寄和歌集等の  書には下総とす是は印播郡に勝田(カツタ)村《割書:上下に|分つ》ありこれによられし説な  らん《割書:斎藤氏の説に葛飾郡本郷の溜池|とするは土人の率合(ヒキアハセ)ことを信せしなるへし》勝間田と云地につき歌なとよみ出ん  は右の外にも其名ある地あらんにはあしきにはあらねと万葉集のは  かならす大和の国なるへし  勝間田の池を千載集にのする池もふり堤くつれて水もなしむへ勝  間田に鳥も居さらんと云歌により水なき池とすれと万葉集の左  注には水影涛々とあれは元より水なき池にあらぬなるへし伊能  頴則云勝間田は籠(カタマ)田と云義にて今云さる田也たとつとは親しく通へ  り其田より地名となり其地にある池をかつまたの池と云なるへし  新拾遺集以下の集にも多く水なき池とよめるもこのこゝろなる  へしと云へり ○盃の井へ藻塩草に東路にさしてこんとは思はねと盃の井に影をうつ  して」とみゆ此歌秋の寐覚《割書:巻之|六》に下総とす土人の伝に酒々井村の栄福  寺の寺内にある井是なりと云《割書:今埋れて|なし》或云千葉郡に坂月村あり此村  にある堰のことなるへしと云共に顕証もなけれは何れとも定めかた  し東路といへはひろきことはにて必下総ともおもはれねは疑をかくに  しかされと姑く秋の寐覚により考るに坂月の方なるべし酒々井はしゆ  すいと文字音によひさけゐとは言はすこはもと主水(モント)と云人なと居りし  地なりし故ならんか猶思ふに懐中抄に水くきのうきなかせともなかれ  ぬはふみまき川といへはなるへしと云歌あり是も寐覚に下総とし  或人は文間(モンマ)川のことにて《割書:即小貝|川なり》その文字音を訓によみふみまきと云  なるへしと云《割書:松戸を更級日記にまつさとし印播沼を回国雑記には|いなほのうみとするの類にてきもしをたしたるならん》この類にて酒々  井を酒次井ともかきしをさかつきと訓(クン)よみにせしにや猶考ふへし  盃の井の一条は酒々井駅の下に  出すへきを叙なれはこゝにのす 総社(そうしや)明神社(みやうしんのやしろ) 栗原(くりはら)本郷(ほんごう)村にあり社(やしろ)の伝(でん)詳(つまびらか)ならす別当(べつたう)を神司院(しんしいん)万善寺(まんせんし)と 云(いふ)《割書:新義(しんき)真言宗(しんごんしう)小作(こさく)|村 妙応院(みやうおういん)末(まつ)なり》九月十五日の神事(しんじ)あり社(やしろ)の東(ひかし)の方(かた)に稲荷(いなり)の祠(やしろ)あり此祠(このほこら) の傍(かたはら)に葛(くず)の井(ゐ)と云(いふ)あり《割書:銘文(めいふん)後(のち)に|見ゆ》何の謂(いひ)なるを詳(つまびらか)にせす ○或(あるひと)云(いふ)総(そう)【惣】社(しや)は昔(むか)し国守(くにのかみ)の其国(そのくに)の官社(くわんしや)を府中(ふちう)の辺(ほとり)り【語尾の重複】へ合祭(あはせまつ)られ参詣(さんけい)の便(たより)に  せられしものなり武蔵(むさし)常陸(ひたち)上総(かつさ)等(とう)皆(みな)府中(ふちう)の辺(ほとり)に総(そう)【惣】社(しや)あり其外(そのほか)国々(くに〳〵)  も同(おな)しことなるへしと云 ○古本今昔物語集《割書:巻十九|卅二段》今 ̄ハ昔 ̄シ陸奥 ̄ノ守トシテ平 ̄ノ維叙ト云者有ケリ貞盛朝臣ノ  子也任国ニ始テ下テ神拝ト云事ストテ国ノ内ノ所々ノ社ニ参リ行キケ  ルニ▢▢ノ郡ニ道 ̄ノ辺ニ木三四本有ル所ニ小サキ仁祠有リ云々是ヲ見テ共ニ  有ル国ノ人々ニ此ニハ神ノ御(オハ)スルカト問ケルニ国ノ人ノ中ニ年老テ旧キ  事ナド思ユラムカシト見ユル庁官ノ云ク此ニハ止事无キ神ノ御(オハシ)マシケ  ルヲ昔シ田村ノ将軍ノ此ノ国守ニテ在マシケル時ニ社ノ祢宜祝ノ中ヨ  リ思ヒ不_レ懸ヌ事出来テ大ニ罷成テ公ケニ被_レ奏ナドシテ神拝モウカレ  朔幣ナドモ被_レ止テ後社モ倒レ失テ人参ル事モ絶テ久ク罷成ニタル也  ト祖父ニ侍シ者ノ八十許ニテ侍シカ然ナム聞シト申侍シ也云々守此ヲ  聞テ極テ不便ナリケル事カナ神ノ御錯ニハ非ジ物ヲ此ノ神本ノ如ク  崇メ奉ラント云テ云々其郡ニ仰テ忽ニ社ヲ大ニ造ラセテ朔幣ニ参リ  神名帳ニ入奉リナトシケリ云々《割書:神拝のこと猶袋草子更科日記其外の書にも|多く載たれと例の煩しさを厭ひて此のみをあく》 ○東鑑《割書:巻|六》に文治二年五月廿九日条 ̄ニ神社仏寺興行 ̄ノ事二品日-来思-食立  由 ̄シ且所_レ被_レ申 ̄サ_二京都 ̄ニ_一也且於_二東海道 ̄ニ_一者仰 ̄セテ_二守護人等 ̄ニ_一被_レ注 ̄セ_二其国総社《割書:并 ̄ニ》国分  寺 ̄ノ破壊及尼寺 ̄ノ顛倒 ̄ノ事_一等 ̄ヲ是 ̄レ重 ̄テ被_レ経_二 奏問 ̄ヲ_一随 ̄テ_二事 ̄ノ体 ̄ニ_一為 ̄メ_レ被 ̄カ_レ加 ̄ヘ_二修造 ̄ヲ_一也《割書:云々》  同書《割書:巻廿|六》貞応三年二月廿二日条云一昨日《割書:廿日》丑刻当国総社并 ̄ニ富士  新宮等焼失 ̄ス神火《割書:云々》同書《割書:巻十|二》建久三年八月九日条総社《割書:柳田》 ○河内志志紀郡条に総社在_二国府村 ̄ニ_一古昔国府必建_レ社 ̄ヲ有_レ事_二于国内官社 ̄ニ_一  則国司率_二僚属 ̄ヲ_一先修_二典礼 ̄ヲ於此 ̄ニ_一其儀猶 ̄ク_二京師 ̄ノ神祇官 ̄ノ_一然 ̄リ《割書:総社伝考|証所引》 ○総社伝記考証に国府の総社は朝廷の神祇官に擬したる一国の神  祇官也といふよしは四時祭式上 ̄ノ巻二月祈年祭の条に祈年祭神三千一  百三十二座大四百九十二座《割書:三百四座案上官幣一|百八十八座国司所祭》小二千六百四十座《割書:四百卅三|座案下官》  《割書:幣二千二百七|座国司所祭》と見え神名帳に入たる神社はすべて祈年祭に預り給はぬ  はなしと《割書:云々》 高二尺八寸        巾九寸 【四角い囲みの中】 葛羅之井 【囲みの上部 横向き】 横一尺 《割書:山州名跡志葛野郡葛井アリ上ニ社アリ明星天ヲ祭ルト云|イカナルワケアルニヤ共ニ郡名ト因アルヤウニ思ハル》 《割書:右| 》文化九年《割書:壬| 申》春三月建 《割書:左| 》下総葛鹿郷隷栗原神祀瓊杵  地出醴泉豊姫所鑑神龍之淵  大旱不涸湛乎維円名曰葛羅  不絶綿々  太田覃撰 ○名所今歌集上《割書:五十|一丁》葛飾《割書:野》  野あそひ       いさけふは東をとめに立ましりかつしか野へに若菜つまはや  古道  秋のはしめの歌    にほ鳥のかつしかわさ田露ちりてほのへに秋の初風そふく  春郷  雁【鳫】      秋風に海山こえてにほとりのかつしかわせをかりそ鳴なる  枝直  冬のはしめのうたとて しくれつゝあさち色つく鳰鳥のかつしか野辺に冬はきにけり  茂子 ○香取神宮(かとりのしんぐう)は香取(かとり) ̄ノ郡(こほり)にあり○寒川神社(さんかはじんしや)は千葉郡(ちはこほり)三山村(みやまむら)にあり説本編(せつほんへん)に  詳(つまびらか)なり○蘇我叱咩神社(そかひめしんしや)は同郡(どうぐん)蘇我野(そかの)村にあり璽地(じち)十石(しつこく)祠官(しくわん)中村氏(なかむらうじ)  今(いま)家(いへ)絶(たえ)たり別当(べつたう)春光院(しゆんくわういん)○老尾神社(おいをのじんしや)匝瑳(さふさ)【𪻡は誤記ヵ 注】郡(こほり)生尾(おひを)村にあり祠官(しくわん)香取氏(かとりうし)別当(べつたう)  神宮寺(しんぐうじ)今(いま)絶(たえ)たり西福寺(さいふくじ)にてつとむ○麻賀多神社(まかたのじんしや)印幡郡(いんばのこほり)公津(かうつ)台方(たいかた)村に  あり祠官(しくわん)太田氏(おほたうじ)別当(べつたう)船方(ふなかた)村 薬師寺(やくしじ)○高橋神社(たかはしのしんしや)璽地(じち)三拾石(さんじつこく)下野国(しもつけのくに)都賀(つか)  郡(こほり)高橋(たかはし)村にあり祠官(しくわん)持田氏(もちたうじ)別当(べつたう)神宮寺(しんぐうじ) 健田神社(こんたしんしや)結城郡(ゆうきのこほり)小塙(こはなは)にあ  り祠官(しくわん)絶(たえ)たり別当(べつたう)乗国寺(じやうこくじ)○桑原神社(くははらじんしや)岡田郡(をかたのこほり)国生(こつちやう)村にあり今(いま)祠官(しくわん)別(べつ) 【注 「𪻡」は『大漢和辞典』には不記載。】 【右丁】 国司(こくし)部内(ふたい)の 官社(くはんしや)を祀(まつるの)図(づ) 延喜式神名帳     健田 ̄ノ神社 香取 ̄ノ神宮      桑原 ̄ノ神社 寒川 ̄ノ神社      茂侶 ̄ノ神社 蘇我比咩 ̄ノ神社    意富比(オホヒ) ̄ノ神社 老尾 ̄ノ神社      螭螭(ミツチ) ̄ノ神社 麻賀多 ̄ノ神社     式外三代実録 高椅(タカハシ) ̄ノ神社      小松 ̄ノ神社 【同右下 落款】武陵【印】 【左丁 挿絵文字無し】  当(たう)とも絶(たえ)たり横関氏(よこせきうし)奉幣(ほうへい)せり○茂侶神社(もろのじんしや)璽地(じち)二十五石 葛飾郡(かつしかこほり)三輪山(みやま)  村にあり説本編(せつほんへん)に詳(つまびらか)なり○意富比神社(おほひのじんしや)同郡(だうくん)舟橋(ふなばし)村にあり本編(ほんへん)に詳(つまびらか)なり  ○螭蛟神社(みつちのじんしや)相馬郡(さうまのこほり)立木(たつき)村にあり璽地(じち)五十石 祠官(しくわん)友野氏(とものうじ)海老原氏(ゑびはらうじ)別当(べつたう)  神宮寺(じんぐうじ)○小松神社(こまつのじんしや)香取郡(かとりのこほり)神崎(かうさき)村にあり璽地(じち)二十石 祠官(しくわん)神崎氏(かうさきうじ)別当(べつたう)  神宮寺(じんぐうじ)以上(いしやう)本国(ほんごく)官社(くわんしや)の大概(たいがい)なり其(その)詳(つまびらか)なることは拙著(せつちよ)下総式内神社考(しもふさしきないじんしやかう)  にのす 茂春山(もしゆんざん)宝成寺(はうしやうじ)同所(どうしよ)にあり寺領(じりやう)三十石《割書:慶安(けいあ)元(ぐわん)年戊子七月 地(ち)は|原木(はらき)村 印内(いんない)村にあり》禅宗(ぜんしう)曹洞派(さうとうは)臼井(うすゐ) 宗徳寺(そうとくじ)に属(しよく)す本尊(ほんぞん)正観音(しやうくわんおん)開基(かいき)成瀬(なるせ)伊豆守(いづのかみ)之成(ゆきなり)開山(かいさん)大誉(たいよ)和尚(おしやう)《割書:承応(しやうおう)元|年壬辰》 《割書:九月十日|示寂》《割書:此寺(このてら)印内(いんない)村 木戸内(きとのうち)にあり|しか後(のち)今(いま)の地(ち)に移(うつ)れり》域中(いきちう)成瀬氏(なるせうじ)の碑(ひ)あり殉死(じゆんし)三人の名を題(だい)せり ○栗原本郷(くりはらほんこう)は和名類聚抄(わみやうるいじゆせう)に載所(のするところ)の栗原の郷(ごう)なるべし同書(どうしよ)に葛飾郡(かつしかこほり)の  郷名六(こうみやうろく)を載(の)す度毛はトケにて今の戸(と)ヶ 崎(さき)なるべし《割書:今(いま)武蔵国(むさしのくに)葛飾郡(かつしかこほり)に属(しよく)す」|伊勢(いせの)度会(わたらへ)はワタラヱと訓(くん)すれと》  《割書:河内国(かはちのくに)古市(ふるいち) ̄ノ郡(こほり)尺度(しと) ̄ノ郷(ごう)はサカトと訓(くん)し駿河(するが) ̄ノ国(くに)有度(うと) ̄ノ郡(こほり)はウドと訓(くん)すれは此(これ)もトの訓なるべし毛(け)は|モにてはなくケの訓(くん)ならん上毛(かみつけ)下毛(しもつけ)の類(るい)なるへし総社伝記考証に毛(け)は多(おほく)裳(も)の仮名(かな)に用(もち)ひたれ》  《割書:と万葉(まんよう)四の巻(まき)に保抒毛友(ほとけとも)《割書:云々》七の巻(まき)|に名毛伎世婆(なけきせは)《割書:云々》なと見(み)えたり》八島は京師(けいし)穂井田忠友(ほゐだたゞとも)の所蔵(しよそうの)養老(やうろう)五年の戸(こ)  籍(しやく)に下総国(しもふさのくに)葛飾郡(かつしかこほり)大島郷(おほしまのこう)河和里(かはわのさと)《割書:云々》とあり忠友(たゝとも)の説(せつ)に和名抄(わみやうせう)の八(や)  島(しま)は大島(おほしま)の誤(あやまり)ならんと云(い)へり大島村(おほしまむら)は杉戸(すぎと)の辺(へん)にあり是(これ)ならん《割書:伴(はんの)信(のふ)|友(とも)云》  《割書:江戸(えど)砂子六(すなごろく)に葛飾郡(かつしかこほり)本所(ほんしよ)に大島(おほしま)あり此(これ)かさらは八(はち)は大(たい) ̄ノ訛(あやまり)なるへし云々 八(はち)を大の|訛(あやまり)とするは忠友(たゞとも)の説と符合(ふがふ)すされと大島 町(ちやう)とするはいかゝあらん》 新居は新井宿(にゐしゆく)  なるべしと或(あるひと)は云(い)へと新井(あらゐ)村なるべし武蔵国(むさしのくに)崎玉郡(さきたまこほり)の此村(このむら)へ近(ちか)き所(ところ)に  中新井(なかあらゐ)下新井(しもあらゐ)新井新田(あらゐしんでん)等(とう)あり昔(むかし)は共(とも)に一郷(いちこう)にてありしならん桑原  は桑崎新田(くはさきしんでん)と云 続(つゝ)きに本郷(ほんこう)村《割書:共に今(いま)武蔵(むさし)国|葛飾郡(かつしかこほり)に属(しよく)す》あり是(これ)なるべし都(すへ)て旧郷(きうごう)の  地(ち)を尋(たつぬ)るには本郷(ほんごう)といふ字(し)に心(こゝろ)を付(つく)べし栗原は栗原(くりはら)本郷村(ほんこうむら)なるへし《割書:武(む)|蔵(さし)》  《割書:国(くに)崎玉郡(さきたまこほり)の葛飾(かつしか) ̄ノ郡(こほり)へ接(つゝき)し所(ところ)に栗原(くりはら)|村と云(いふ)あれと是(これ)にてはなきなり》豊島は田島(たしま)村ならむ《割書:今(いま)武蔵国(むさしのくに)葛(かつ)|飾郡(しかこほり)に属す》余戸(よこ)《割書:い|ま》  《割書:た考(かんがへ)|得(え)す》駅家(ゑきか)《割書:今(いま)の新井宿(にゐしく)なるへし壬午 ̄ノ五月九日 直景文書(なほかけもんしよ)に《割書:壬午は天正十|年なるへし》 《割書:江戸| 》浅草《割書:葛西| 》新井宿 是(これ)より臼井(うすゐ)|まてとあり浅草(あさくさ)は今の千住(せんじゆ)ならん新井宿(にゐしく)は即(すなはち)新井宿也 鴻(こふ)の台合戦草紙(たいかつせんさうし)に▢▢》  《割書:の宿みゆこは青戸(あをと)村なるへし新井宿と云|名は青戸の新井宿といふことならん》 成田参詣記巻二終             江川仙太郎刻 【白紙】 【文字無し】 【白紙】 【右肩に外字】 GARDIEN1870 【白紙】 【見返し】 【見返し】 【裏表紙】 【冊子の背表紙】 【冊子の天或は地】 【冊子の小口】 【冊子の天或は地】