《題:産業の豊橋《割書:豊橋市役所編》》 昭和十年十月     《題:産業の豊橋》          豊橋市役所 【白紙】 【地図】 豊橋市全図 【地図】 【右下】 凡例 商業施設 工業地域 住居地域 未指定ノ部分 《割書:地域面積計算ヨリ|除外セル部分》 市郡界 土地計画街路 【地図】 豊橋市全図 【地図】 【右頁 白紙】 【左頁】 産業の豊橋 目次   一 総説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一     一 沿革・・・・・・・・・・・・・・・・・・一     二 気候・・・・・・・・・・・・・・・・・・二     三 位置と地勢・・・・・・・・・・・・・・・二     四 広袤と面積・・・・・・・・・・・・・・・二     五 人口と戸数・・・・・・・・・・・・・・・三   二 農業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三     一 耕地と戸数・・・・・・・・・・・・・・・三     二 農産物・・・・・・・・・・・・・・・・・四     三 養蚕・・・・・・・・・・・・・・・・・・五     四 畜産・・・・・・・・・・・・・・・・・・五     五 水産・・・・・・・・・・・・・・・・・・六     六 林産・・・・・・・・・・・・・・・・・・七     七 鉱産・・・・・・・・・・・・・・・・・・七   三 工業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八     一 工産品と其額・・・・・・・・・・・・・・八     二 工場と従業者・・・・・・・・・・・・・一〇   四 商業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一     一 概説・・・・・・・・・・・・・・・・・一一     二 市場・・・・・・・・・・・・・・・・・一二     三 米穀取引所・・・・・・・・・・・・・・一二   五 会社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二   六 金融と倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・一三   七 産業団体・・・・・・・・・・・・・・・・・一五   八 交通と運輸・・・・・・・・・・・・・・・・一七   九 結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一八    附録     市内及近郊の名勝旧蹟・・・・・・・・・・・一九          一 総説             一 沿革  豊橋市は古くから史籍に表はれ、和名抄に載せられた三河国渥美郡幡多郷及八名郡多米郷は今の市内 花田町及多米町である、又天慶三年平将門の乱平定の報賽として朝廷より皇太神宮へ奉献せられた飽海 新神戸も今の豊橋である、鎌倉時代に至り東国と京地との交通の要路となり、永正二年牧野古白が今橋 城即ち吉田城を築いてから俄に軍事上枢要の地となり、其後池田輝政の城地拡張によりて更に一段の進 歩を見、江戸時代には東海道五十三次の一である吉田の宿として著はれ、文政の初名優市川團十郎が演 じた三升猿の曲舞に歌はれた「吉田通れば二階から招く、シカモ鹿の子の振袖で」の俗謡と、浄瑠璃伊 賀越道中双六の中にある「又五郎が落付く先は九州相良、道中筋は参州吉田で逢うたと人の噂」等は人 口に膾炙せられて居る、又伊勢地方へ海運の便が開かれて東三河に於ける文化の中心地となつた。 地名も初は今橋と称せられ後に吉田と呼ばれ明治二年豊橋と改められた、明治四年三河県に属して居た が後伊奈県額田県と変遷して遂に愛知県となり大区会所が設けられた、明治三十九年八月に市制を布き 昭和七年隣接町村を併合して茲に愈々大豊橋市の建設を見るに至つたのである。                                      一                                      二             二 気候  気候は概ね温和であつて暑気もサシテ烈しからず、冬季厳寒の候でも雪や霜を見ることが稀であつて 寒暑中和といふ状態である、殊に天災地変の害殆んどなく従て近年本市に来住する者頗る多く、商工業 の繁栄を見るに至つたのは全く此が為である。             三 位置と地勢  本市は東経百三十七度二十三分、北緯三十四度四十五分の所にあり、愛知県の東部に位し東京と神戸 との殆んど中央である。  東は赤石山脈が連り南部に天伯原一帯の高地を控へ地勢概ね平坦である、豊川、梅田川及柳生川が市 内を貫流し渥美湾に注いで居る、地質は低部は沖積層であるが高地は洪積層より出来て居る。             四 広袤と面積  東西十四粁五一、南北十四粁二五、面積は百四粁五一即ち四方粁五一であつて、広さに於ては本邦都 市中東京、京都、大阪、名古屋、横浜及静岡に次ぐ大都市である。             五 人口と戸数  明治三十九年市制を施行した当時は僅かに人口三万七千六百三十五人、戸数九千九百戸に過ぎなかつ たが、其後漸次増加し、殊に昭和七年町村併合の結果急に膨脹して、昭和九年末では人口十四万七千七 百三十五人、戸数二万七千二百七十四戸を算するに至り、尚逐年増加しつゝあることは誠に喜ばしい現 象であると云はねばならぬ。          二 農業             一 耕地と戸数  昭和七年の町村併合によりて農家も耕地も共に急激なる増加を見たのである、現在では其戸数四千八 百九十一であり其面積は五十五万三千七百十七アール、内田三十万三千三百七十六アール、畑二十五万 三百四十一アールであるが、都市の発達するに伴うて農家及耕地も次第に減少することは免れ難い事実 であると思ふ、農業経営としても従来の如く米麦作を骨子として之に甘藷作を加味して居るのである、 又近年温室園芸が漸次発達し花卉蔬菜類の栽培も都市向農業として奨励せられて居るのである。                                      三                                      四             二 農産物  昭和九年中に於ける農産品は三百四十二万八千七百六十六円であつて、其中重なるものはヤハリ米麦 であり甘藷等之に亜ぐ、今最近一ヶ年の生産額の主なるものを挙ぐれば左の通である。     米        八、六四六、六〇〇瓩    一、五六九、五八一円     麦        三、三八四、〇八七       二八七、七六七     甘藷       七、一七八、四〇〇       一三三、九九七     生大根      四、〇一二、四七八        五五、四五〇     胡瓜         四三〇、四〇三        五二、八五四     蕃茄         三二八、九五〇        四〇、〇〇九     西瓜       一、二四五、四一六        三九、九五三     甘藍         七二〇、二八五        一九、二〇八     馬鈴薯        六九〇、八二五        一八、四二二     南瓜         七三三、〇五〇        一七、五九三  蔬菜類は漸次品質の優良なるものが生産せらるゝに至り、温室利用促成栽培はマスクメロン、トマ ト、胡瓜等であつて、明治四十年頃中島駒次氏が八坪の温室を経営したのに初まり、爾来長大足の進歩 をなし現に九千百四十三坪に達して居る、而して生産物は重に東京大阪等の中央卸売市場に出荷せられ 盛に北海道方面へも輸送せられる、殊に本市は甘藷の産地として有名であつて、風土と栽培法の宜しき 為め多額の生産をなし、京阪神は勿論遠く山陰地方へも廻送せられて居る。             三 養蚕  本市は一名「蚕都」と称せらるゝ位であつて養蚕に於ては全国第一と云はれて居る。蚕種製造家は九 戸あつて原蚕種及普通蚕種とも価格十四万四千九百四十二円に上つて居る。  養蚕家は現在二千三百九十八戸あり、蚕種掃立は四十五万四百四十一瓦である、其結果年産額は     上繭         七五七、四八九瓩    四九三、三八一円     玉繭          五〇、二一三      二三、二五八     屑繭          四九、九四七      一四、七一五      計         八五七、六四九     五三一、三五四 の多額を示して居る。             四 畜産  畜産年額は百六十九万五千十一円であつて家畜家禽の飼養は農業経営上決して忽諸に付すべからざる                                      五                                      六 ものである、本市としても此等奨励の結果近頃漸次其数を増加し、牛の飼養者千四百四十六戸であつて 千五百七十八頭あり、豚は飼養者五百八十一戸であつて其数千百九十一頭である。  養鶏は都市の膨脹に伴ひ益々其需用を増加し来たものであつて主として専業家の手によりて成つて居 る、飼養者三千四百四十五戸、五十万四千三百四十七羽、此価格五十万二千九百七十七円であつて、鶏 種の改良飼育の技術の進歩によつて今後益々発展せんとするの趨勢である、又鶏卵の年産額は五千二百 十四万三千四百五十五個であつて此価格百四万二千八百六十九円に達して居る、本市は三河鶏卵の集散 地で東京北海道方面へ輸送する数量は毎日平均二十八瓲を下らず、今や南洋フヰリツピンへも輸出する やうになつて居る。             五 水産  本市西部は渥美湾に臨んで居る関係上漁業は即ち浅海漁業である、水産業者は千百五十八人であつて 沿岸漁獲物としてはエビ一万二千七百二十円、ボラ九千八百五十五円、ウナギ六千三百五十八円等が其 重なるものである、製造品としては蒲鉾、竹輪類四十六万九千三百九十九円、乾海苔二十八万三千六百 四十六円其他である、焼竹輪は其味の美なる点に於て全国に卓越し本市の名物として有名である、蒲鉾 も其質に於て其量に於て先進各地を凌駕して居る、又海苔は浅草海苔の原料として東京方面に移出せら れたが、数年前より三河海苔として市場に売出され又加工して味附焼海苔として全国各地へ販売せらる ゝやうになり風味甚よく何人にも歓迎せられて居る。  池水を利用する淡水魚類の養殖にあつては鰻を第一として年額二十七万八千三百十円、鯉九万五千八 百六十円、アマノリ八万七千三百二十四円、アサリ五万六百七十六円等が主なるものである。  尚養殖場に於ける海苔の種篊、アサリの種苗は県下は勿論遠く三重県静岡県地方へも搬出せられて居 る、而して水産の年額は百三十六万千三百円に上つて居る。             六 林産  本市の林産は東部地方より産出する用材、竹材、薪炭材其他林野産物であつて其価格一万三千六百六 十五円である。             七 鉱産  此は主に石灰岩、砂利及瓦用原料の粘土等であつて、一ヶ年十三万六千六百八円の産額を有し、年々 増加するの傾向がある。                                      七                                      八          三 工業             一 工産品と其額  本市の工産額は一ヶ年二千六百十一万五千七百四十八円、其重なるものは生糸、玉糸、麻真田、毛筆、 衛生陶器、漁網、醤油及溜、木製品、清涼飲料水、菓子、飴、清酒、氷糖、皮革製品等であつて近来絹 織物及再製絹糸并に之が加工品著しく勃興しつゝある。  就中蚕糸業は其首位を占め、製糸場は九百十六、釜数一万五千六百五十一、職工数一万五千九百十一 であつて年産額は     生糸           一〇、九二八、四七八円     玉糸            四、七六五、三一七     座繰糸             六五一、九一八     屑物              九二〇、九一七      計           一七、二六六、六三〇 に上り、此原料として本邦各産地より市内に搬入せらるゝ繭は七千二百九十五瓲の多きに達して居る、 殊に玉糸は本場の上州を凌駕し所謂豊橋玉糸の特産地である、本市は長野県諏訪地方と共に我国製糸界 の二大中心地として内外に知悉せられて居る、市内花田町一帯の工場地域の如きは煙突林立黒烟常に天 に沖するを見るのである。  次に主なる工産品を列挙すれば即ち左の通である     麻真田           一、八三四、五〇四円     菓子類           一、四九七、三七〇     砂糖              七〇九、六六八     文房具             四一八、六二〇     木製品             四一三、八九四     機械器具            三九二、九〇六     味噌              三九二、〇三三     織物              三六三、六一五     醤油、溜            三五二、九二九     酒               三〇九、〇六七  右の内特色あるものに付て説明すれば  麻真田は本市に於ける重要物産の一である、南洋より輸入するマニラ麻を原料とし絹糸にて之を連接 して編製したるものであつて、製帽用として盛に欧米各国に輸出するのである、此は近年発達したもの                                      九                                     一〇 であるが、長足の進歩を遂げ全国的に有名になつて居る。  文房具中に包含せらるゝ毛筆は此又本市の特産品であつて最古き歴史を有し、已に文化文政の頃吉田 藩足軽の内職として行はれ、爾来順調に発達して其名声漸く高まり、日清戦役後急激に進歩し、従て時 代の趨勢に順応し厳正なる製品検査を行ひ、優良品のみを市場に販売する目的を以て同業組合を組織す ることゝなり、昭和三年其設立を見るに至つたのである、今では全国第一の名声を博し、品質の優良と 価格の低廉とを以て断然頭角を表はすに至つたもので、其産額は四十万三千四百二十円を算する程であ る。             二 工場と従業者  本市の工業は製糸が第一位を占むる関係上、工場数も従業者も年々増加の傾向を有し、現今では五百 二十三工場があつて職工数一万五千二百四十二人である、其内男二千七百一人に対し女一万二千五百四 十一人であるのは製糸工場の多い結果である。  職工五人以上を使用する工場百八十、十人以上を有するもの二百十二、三十人以上のもの六十三、五 十人以上及百人以上のもの各三十四工場を算して居る。  今之を種類別にすれば、紡績工業は三百八十三工場であつて職工一万三千七百五十七人、食料品工業 は四十五工場であつて四百二十七人、製材及木製品等之に亜いで居る。  工場数五百二十三中原動力を使用するものは四百九十三であつて否ざるものは三十である、之により て近代工業の趨勢を略知することが出来ると思ふ。  本市の労働賃金は他都市に比すれば概して低廉である、今最多数を占むる製糸工場に付て見れば工賃 は日給最高一円五銭、最低二十五銭、普通六十銭位である。          四 商業             一 概説  市内に於ける商店の数は五千百十三戸であつて米穀、蔬菜、果実、魚類、肉類、調味料等の食料品を 初め、布帛等の生活必需品、繭、生糸、玉糸、木材、石炭、石油、セメント、銅鉄等の工業用品、肥料、 飼料等の生産用品の集散益々盛である。  本市の商取引は単に国内のみに止まらず、生糸、玉糸、麻真田、漁網、鶏卵、衛生陶器等は何れも海 外に輸出せられて其名声を博して居る。                                     一一                                     一二             二 市場  鮮魚介類其他の水産物を取扱ふ株式会社魚市場は其取引高一ヶ年七十一万五千四百二十円に上り、塩 干魚の丸一豊橋水産市場は六万九千五百八十一円に達し、豊橋委託運輸株式会社の青果市場は年額四十 万千円、東三青果市場は九万九千円の取引高を有して居る。  日用品小売市場としては新川及松葉の二公設市場があつて三十九万四千十八円の売上高あり、外に第 一豊橋、八町、高師、花田、東田の私設市場があつて一ヶ年に三十六万千四百五十四円の売上を有し直 接市民の需用に応じて居るが未だ十分なりと称し得ない程度である。             三 米穀取引所  其淵源最古く明和の頃の相場会所に其端を発し、爾来幾多の曲折を経て明治二十七年政府の免許を 得、株式会社として設立せられ、精算市場と倉庫業を併せ行ふやうになつたのである、最近一ヶ年の売 買高は実物取引三十九万九千五百二十六円に達し、市内は勿論東三地方の経済機関として重要視せられ て居る。          五 会社  産業の発達に伴ひ経営組織も個人経営より漸次会社組織に推移することは当然であるが、最近急激な る進展を示し、昭和九年末には合名会社四十四、合資会社百九十、株式会社七十九、合計三百十二にな つた、而して其資本額は三千五万八百五十円に達して居る、此等の会社を業態別にすれば     商業       一六八     資本金  一〇、〇四四、四五〇円     工業       一一七           五、一七七、五〇〇     運輸        二〇          一四、一六三、〇〇〇     農業         三              一〇、九〇〇     水産         二             一〇五、〇〇〇     鉱業         二             五五〇、〇〇〇  而して昭和九年中に新設せられた会社は六十五、此資本金三百三十三万六千三百円であつて、解散し たもの十七、此資本金五十三万四千四百円である、此によりても本市の産業が最堅実なる発達を為しつ つあることを知るに十分である。          六 金融と倉庫  本市の産業が日進月歩の勢を以て隆盛に赴くと共に金融機関の利用も著しく増加して居る、其重なる                                     一三                                     一四 ものは、特殊銀行支店一、普通銀行支店五、貯蓄銀行本店一、支店二、合計九である、唯普通銀行の本 店一ヶ所をも有せざる豊橋市として誠に遺憾千万と云はねばならぬ、今此等銀行の預金高を見るに年内 に取扱ひたる預金は二億五百六十九万七千六十四円、払戻は二億七十八万四千百三十五円であつて、昨 年末現在高は三千百四十六万五千五百四十四円である、又貸付高は年末現在では千二百六十万九千百七 十二円になつて居る、昨年中の手形交換所の交換高は十万六百一枚、三千四百七十七万二千五百九十九 円であるが、不渡手形は六十三枚、一万七千三百八十三円である。  外に無尽会社の本店一、出張所一あつて其口数七千四百八十九である、又信用事業を行ふ産業組合は 十六であり組合員数六千三百一人、公益質屋一、私設質屋二十八戸等である。  尚本市に於ける郵便貯金は昨年中の預入口数二十九万四千七百八、此金額三百六十八万二千八十一円 であつて新規預入人員は一万二千四百六十五人である、而して年内払戻口数は十一万六千二百三十、金 額四百十四万三千五百四十一円である。  次に本市内に於ける倉庫業者は東陽倉庫株式会社支店、マルケイ東海倉庫株式会社、相信倉庫合資会 社及共益運輸倉庫株式会社の四会社であつて倉庫の棟数四十七、戸前数七十一、建坪一万三千六百八十 七平方米である、昭和九年中に於ける入庫高は五十七万四千五百五十五個、千八百三十一万千六百五十 円であり、出庫高は五十二万九千百二十一個、千八百九万千三百五十五円であつて、年末現在では十二 万八千五百五十二個、三百二十五万五千六百八十九円である、今之を種類別にすれば、年末現在高の重 なるものは繭二百三十五万三千八百四十六円、内地米五十六万七千三百十五円、絹糸十八万八千二百七 円其他である。          七 産業団体  市内には豊橋商工会議所、市農会、商工協会を初め各種の団体組合等があつて農工商の指導奨励に努 め、産業施設の発達、生産品の販路拡張斡旋、博覧会共進会見本市等の出品勧誘、調査研究、質疑応答、 講習講話会の開催、其他産業の振興に関する各種の施設経営に不断の努力を払うて居るのである、而し て市内に於ける組合を類別すれば左の通である     産業組合           二〇     同業組合            九     漁業組合            五     準則組合            四     蚕糸業組合           三     組合聯合会           一     工業組合            一                                     一五                                     一六     畜産組合            一     商業組合            一     其他              二      計             四七  産業団体にして市役所内に事務所を置くものは     豊橋市農会     豊橋市養蚕業組合     豊橋市茶業組合     豊橋市商工協会  商工会議所内に事務所を置くものは     豊橋市広告協会     豊橋市商店聯盟会     豊橋経済座談会     東三醤油同業組合     豊橋市観光協会  等である。          八 交通と運輸  交通運輸が都市の発展に多大の関係を有することは今更贅言するの必要はない。  豊橋市は東海道の要衝に当り東三河に於ける文化と経済の中心点である、即ち東海道本線は市の南西 部を貫通し豊橋駅には一日百二十二回の発着列車がある。  岡崎市を通じて本市と名古屋市とを連絡する名古屋鉄道があり、東三河北部を結付くる豊川鉄道、田 口鉄道、鳳来寺鉄道等があつて三信鉄道と握手せんとし、中部日本に於ける連絡機関として重大なる任 務を持つて居るのである、別に渥美半島を縦貫する渥美電鉄があり、市内を疾走する豊橋電軌鉄道があ る。  豊橋駅に於ける発着貨物は昭和九年中には発送八万九千十一瓲、到着十万五千九百四十八瓲であつて、 一日平均前者は二百四十四円、後者は二百九十円の割合である、乗降客の数は乗客七十九万六千三百四 十七人、降客七十九万八千七百十一人であり一日平均各二千百八十人である、尚郊外電車によるものは 乗客二百七万三千八百五十三人、降客二百八万二千四百五十七人であり、貨物は発送十九万千二百三十 八瓲、到着二十四万六千九百六十三瓲である、其他自働車による貨客の出入は挙げて数ふべからざるも のがある。  次に水運に付て述ぶれば市の北部を流るる豊川は延長六十六粁に亘りて渥美湾に注いで居る、河口に                                     一七                                     一八 豊橋港を控え船舶常に輻輳して居る、水概して深からず満潮時僅かに丈余に達するばかりである、従て 船舶交通上不便尠なからざるに鑑み今や豊川改修工事を実施するの議が進んで居る、遠からずして之が 実現を見るに至るであらふ、臨海都市として且近く三信鉄道によりて表日本と裏日本とを連絡する豊橋 市として完全なる一大港湾をも有せざるは寧ろ不可思議の事実であると云はねばならぬ、従て近来新に 適当なる個所を選定して築港を設くるの計画があるが、之が完成の暁は海陸交通の便最も開け本市の面 目更に一新するものあるは疑を容れない所である。  水運としては別に柳生川運河があり河口に牟呂港があつて専ら渥美半島方面の物資を取扱ひつつあ る。  本市貨物集散の状況は昭和九年中に於て鉄道による輸移入は千八百四十一万三千百二十二円、輸移出 は二千七百七十九万七千六百十七円、船舶による輸移入は千十五万七千六百九十五円、輸移出は二百二 十四万六千五百三十九円、又自働車による移入千四百一万五千五百十六円、移出七百二万二百十三円で あつて総計輸移入は四千二百五十八万六千二百八十六円であり、輸移出は三千七百三十八万二千四百四 十九円である。          九 結論  前述の如く我豊橋市は中部日本に於ける枢要の地位を占め、人口は日を逐うて益々増加し、産業は年 と共に隆盛に赴き、殊に文化的機関は愈々整備し、交通は四通八達し、海陸施設の完成と相俟つて将に 一大飛躍を試みんとし、市勢の進展刮目して観るべきものありと信ずるのである、殊に本市は気候温和 なること、生活が簡易質素なること、市民は勤勉着実なること、克く時勢の進運に順応して進取の気象 に富めること等の条件を具備するを以て、将来は各種の産業勃興し名実相共に大豊橋市の実現を見るに 至るの日は決して遠からざるものありと固く信ずるのである。          附録            市内及近郊の名勝旧蹟 (市内) 吉田城址   今歩兵第十八聯隊の営所となる。 県社吉田神社 七月に行はれる花火祭、笹踊で有名である。 今上陛下 御野立の聖蹟 向山にありて今公園となる。 正林寺    市内に於ける最古の寺院であつて鎌倉初期の創建であるといふ。 龍拈寺    曹洞宗の巨刹である。                                     一九                                     二〇 東本願寺別院 吉田御坊又豊橋別院ともいふ。 悟真寺    明治大帝御巡幸の際の行在所である。 県社神明社  天慶の乱後其報賽として創建せられたるもの。 八町練兵場  神武天皇御銅像を奉安せる勝地である、又 今上陛下特別大演習御統監の際御親閲の聖        蹟である。 仁連木城址  明応中戸田宗光の築く所で、城外は古の薑原にして徳川武田両氏交戦の地である。 鞍掛神社   鎌倉街道に当る、源頼朝上洛の際通過して其鞍を奉納したる所で、東一町許に駒止桜が        ある。 赤岩山法言寺 初夏の新緑、晩秋の紅葉、都人の杖を曳くべき勝地である。 (近郊) 弁天島    白砂青松の海水浴場であつて浜名湖に臨み形勝の地である。 岩屋観音   岩上に聖観音の銅像を安置し風光絶佳 今上天皇御登臨の聖蹟である。 蒲郡     有名な海水浴場であつて前面に大小幾多の島影を望み天然の勝景である、鳥羽二見への        連絡汽船がある。 田原町    田原城址、巴江神社、偉人渡邊崋山玉砕の址、墳墓其他の遺蹟がある、又附近に貝塚が        散在する。 伊良湖岬   太平洋と伊勢内海との関門、風光雄大にして壮麗、俳人杜国、歌人磯丸の遺蹟がある、        日出の石門又有名である。 豊川稲荷   参詣する者日夜に絶えず、其名天下に著はれて居る。 長篠城址   天正三年武田織田徳川三氏の古戦場である、当時の砦址、鳥居強右衛門墓、甲将の墳墓        等弔古の士の袖を霑ほすものがある。 鳳来寺    古来有名なる巨刹であつて夏季霊鳥仏法僧啼く、山下に鳳来峡の勝景がある。                                     二一 【奥付】 昭和十年九月三十日印刷 昭和十年十月五日 発行          豊 橋 市 役 所               豊橋市西八町八十六番地   印刷者            藤  田   庄  太  郎               豊橋市西八町八十六番地   印刷所           《割書:合 名|会 社》 藤  田  印  刷  所 【白紙】 【白紙】