【収蔵用外箱・表紙】 医者談義 五冊 【収蔵用外箱・背表紙】 医者談義 五冊       富士川本 イ 395 【収蔵用外箱・表紙】 医者談義 五冊 【整理ラベル・富士川本/イ/395】 【表紙 題箋】 医者談義  一 【貼紙ヵ、手書き文字】 イ一ヲモテ 【整理ラベル・富士川本/イ/395】 医者談義(いしやだんぎ)    目録 一 人(にん)参 好悪(よしあし)之(の)談義(だんぎ) 一 配剤(はいざい)大小之 談義(だんぎ) 一 加持祈祷(かぢきとう)之 談義(だんぎ) 一 病家(びやうか)需(もとむる)_レ医(いを)之 談義(だんぎ) 一 至賤中(しいせんのなかに)有(ある)_二殊常功(しゆじやうのこう)_一談義(だんぎ) 【朱印・京都帝国大学図書之印】 【朱印・富士川游寄贈】 【朱印・山口文庫】 【黒印・705823 昭和15.9.5】 一 疱瘡神(いものかみ)之(の)談義(だんぎ) 一 医者(いしや)発(はやり)不(はやら)_レ発(ざる)之(の)談義(だんぎ) 医者談義巻一   人参(にんじん)好悪(よしあし)之(の)談義(だんぎ) 夫(それ)医者(いしや)の起(おこ)りは天地ひらけて八十一万五千五 百八十二年にして今より算(かぞへ)て二万二千八百七十 七年 前(さき)にあたつて天竺(てんぢく)震旦(しんたん)我朝(わがてう)三国の真中(まんなか) の大唐(たいとう)に太昊伏義(たいかうふつき)氏(し)出たまひて八卦(はつけ)を開(ひら)き陰(いん) 陽(やう)五 行(ぎやう)の道をあきらかに教(をしへ)たまふこれを易(ゑき)と 名(な)付て上下二 巻(くわん)の書(しよ)と成て今につたはれり 伏義より一万七千七百八十七年にして炎帝(ゑんてい) 神農(しんのう)氏(し)出たまひて一 切草木(さいさうもく)の気味(きみ)を嘗(なめ)味(あぢは)ひて 一年の日の数(かず)に充(あて)て三百六十五 種(しゆ)の薬品(やくひん)を定(さだ)め られ上中下三巻の本経(ほんきやう)本草(ほんさう)をあらはして今に つたはれり神農氏(しんのうし)より五百年の後に黄帝有熊(くわうていゆういう) 氏(し)出たまひて岐伯(ぎはく)鬼曳区(きゆく)【鬼庾区ヵ】等の諸臣(しよしん)と人身(じんしん)の形(けい) 体(たい)五 臓(ざう)六 腑(ふ)十二 経絡(けいらく)等(とう)の理(り)を論(ろん)し一切諸 病(びやう)を治(ぢ) する法(ほう)を定められ素問(そもん)九 巻(くわん)霊枢(れいすう)九巻 合(がつ)して十 八巻 内経(だいきやう)といふ以上三 世(せい)の書(しよ)を学(まな)ぶを以て医は三 世ならずんば用ゆべからずといへり黄帝(くわうてい)より三千 年の後今より千五百年の先(さき)後漢(ごかん)の世(よ)にあたつ て長沙(ちやうしや)の太守(たいしゆ)張仲景(ちやうちうけい)出(いで)て傷寒雑病論(しやうかんざつびやうろん)十六巻 をあらはし一百十三 方(はう)の薬法三百九十七法の治法を定 められしなりこれより医道(いだう)盛(さかん)に成て隋(ずい)唐(とう)宋(そう) 元(げん)明(みん)にいたつて医書(いしよ)のおほくなりしこと牛(うし)に 汗(あせ)し棟(むなぎ)に庇(さしかけ)することに成しなり是は唐(から)の事日本 にしては大己貴命(おゝあなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)既(すで)に神代(かみよ)より和流(わりう)の 医法(いはう)伝りて和気(わけ)丹波(たんば)の二 流(りう)近代(きんだい)は半井家(なからいけ)道三 家の両流また盛(さかん)なり然れども慶長(けいちやう)以前は諸国に 医家(いか)幾許(いくばく)もなしいにしへは 天子より諸国へ施(せ) 薬院使(やくいんし)をくだされ民病(みんびやう)を救(すく)はせたまひしとなり 元和以来は太平の御代(みよ)となり馬(むま)の靴(くつ)ひらふ童(わつは)も 筆持(ふでもつ)すべをならひ墨(すみ)にて髭(ひげ)つくる奴(やつこ)の角内(かくない)角 介もいろは知らぬは稀(まれ)なる世(よ)と成て衆方(しゆはう)規矩(きく) 万病(まんびやう)回春(くわいしゆん)の仮名(かな)付あるを見て医者(いしや)の真似(まね)する 者(わろ)【注】が何(いつ)の間(ま)にやら頭(あたま)をまろめて長羽織(ながはおり)見る内に 駕籠(かご)乗物(のりもの)にとび上(あが)り昼夜(ちうや)いそがしげにはしり 廻(まは)り子孫(しそん)虱(しらみ)のわくがごとく分散(ぶんさん)して国々里々 【「わろ」=人をののしっていう時に使う】 【左ページは挿絵のみ】 【右ページは挿絵のみ】 村々に医者(いしや)のなき所なし此故に狂哥にはひがし しらみ日の出医者とよまれ絵馬(ゑま)には駒(こま)ざらへにて さらゆるていをゑがゝれ医道の昌(さかん)成に似(に)て衰(おとろへ)也 且(かつ)恥(はぢ)なり是よりして医者のふり売(うり)出来(でき)て棒(ぼう) 手(て)ふりも同しやうに卑(いや)しめらるむべなるかな此 比(ころ)の医者は何(なん)の御 存知(ぞんじ)もなふて人参(にんじん)さへ用(もち)ゆれ は病(やまひ)は愈(いゆ)るものとおぼへて外感(げかん)内傷(ないしやう)の別(わかち)もなく鼻(はな) 嗽気(がいき)の少し重(おも)く三日とも熱(ねつ)ねぢひけは傷寒(しやうかん)也 内傷(ないしやう)なりと劫(おび)やかしはや人参とすゝめかけ病家(びやうか) 【赤線や黒丸の書き込みがあるが翻刻には書かず】 も面扶持(つらふち)に百日取 小者(こもの)【左ルビ・ちうげん】の妻(さい)が今日(けふ)七日に成ます 少々人参を用ひて宜(よろ)しからば御入■■■といふ様(やう) になりしは世界(せかい)に人参が沢山(たくさん)に成しや銀(かね)が沢山 に成しや夫(それ)人参 伝(でん)に論(ろん)せしは用ゆべき用ゆべか らずの病証(びやうしやう)を明(あき)らかにし且(かつ)人参は遥光星(ようくわうせい)の精(せい)散(さん) して人参となるゆへに下(しも)に人参あれば上(うえ)に常(つね)に 紫気(しき)【左ルビ・むらさき】あり背陽向陰(はいやうかういん)に生じて自然生(じねんじやう)を以て好(よし)と す唐より渡る人参中にも上黨参(しやうたうじん)を最(さい)上とす新(しん) 羅(ら)高麗(かうらい)百済(はくさい)そ■三 韓(かん)といふ乃(すなはち)三 韓(かん)合して朝鮮(てうせん) といふ此三 韓(かん)の中にも新羅(しんら)を上とす高麗(かうらい)是に次(つげ) り百済(はくさい)また高麗の次なり三韓より猶奥(なをおく)唐(から)の北(きた) つゞきに遼東(りやうとう)といふ所あり是より出る参を遼東(りやうとう) 参(じん)といひて朝鮮にまさりて上黨に亞(つげ)りまた朝 鮮より北(きた)に遼東につゞきて女直(ぢよちよく)といふ嶋あり是 より出る人参を朝鮮に交(まじへ)又(また)女直(ぢよちよく)よりすぐに唐(から)の 南京(なんきん)に毎年二十万斤 宛(づゝ)貢(みつき)物とす朝鮮より劣(おとれ)り 是を商(かひ)唐(たう)人共か受得(うけゑ)て日本に売来りこれを唐(たう) 人参(にんじん)といひ又 判子(はんす)ともいふ元禄年中まで朝鮮(てうせん) および唐(から)より来れる人参は皆(みな)真(しん)の物(もの)にして偽(にせ) 物(ぶつ)なし此故にわづか寸(すん)にたらざる人参を噛(かむ)で卒倒(そつたう) したる者の面(おもて)に吹(ふき)かくれば忽(たちまち)蘇(よみ)がへり些少(すこし)の人参の 煎汁(せんじしる)を呑(のめ)ば立所に乱心(らんしん)す此ゆへに人参を恐(おそ)るゝ事 蛇蝎(しやかつ)のことし唐(から)にて人参の真偽(しんぎ)を試(こゝろみ)るには口にくわ つて走(はしる)事三五里にして息(いき)きれざるを真(しん)とす正 徳年中より以来は唐も日本も人 上手(じやうづ)に成て人 参を作(つく)り出せること夥(おびたゝ)し故に種々の似(に)よりもの 偽贋(ぎよう)の物おほく今の人参は口に頬(はう)はりて走(はし)り ても三町ともゆかずして息(いき)きれぬべし蓋(けだし)唐の 一里は日本の六町なり然れば唐の五里は日本の三十 町なり且又唐の独参湯(どくじんたう)は一両を以て独参湯(どくじんたう)とせ り唐の一両は十匁を以て一両とせりいかにも真(しん)の 人参十匁をもつて独参湯(どくじんたう)とせば起死回生(きしくわいせい)の功(こう)あ りて死(し)に垂(なん〳〵)たる者も元気(げんき)を無可有(ぶかゆう)の郷(さと)に回(かへ)す ことあるべし今見る所の独参湯は五分或は一匁 二匁三匁をかぎりとせり儀に奔哺(はんほ)【左ルビ・ふきだす】にたへたり且 元文の頃より広東(かんとう)といふ中(うち)にまきれもの出て卑賎(ひせん)の 者を惑(まどは)し家財(かざい)を費(ついやさ)しむるは人参人を助(たす)くるには あらで人を死(しな)すなり無用のものなれども遠鄙(ゑんひ)は なを取はやすよしなり近比時めく医者に本(ほん)の名 は白地(あからさま)にいはれぬ陰(かげ)の名(な)は人参(にんじん)牙人(すあい)といふげ也四枚 肩(がた)に常乗(ぢやうのり)薬箱(くすりはこ)持(もち)草履取(ざうりとり)若党(わかたう)かけて上下八人 鳴(なり)わたりてありくいしやどの薬店(やくてん)より安(やす)い大人 参をあづかりて病家(びやうか)へしたゝかなる朝鮮人参に してあてがふをたれも乗物(のりもの)のいきほひにて真(しん) の朝鮮とうけがへり■■【去々ヵ】年の事とや室(むろ)町に常(つね)に 在金(ありかね)千両の身代(しんだい)くつろがぬ者(もの)あり一人男子十八歳 陰虚(いんきよ)火動(くわどう)の症(しやう)にて肺火(はいくわ)高(たか)ぶりごほ〳〵と嗽(せき)す亭(てい) 主(しゆ)僭上(せんしやう)にて贅(ぜい)はる者(もの)ゆへ件(くだん)の乗物(のりもの)より外に医者 はないものゝのやうにおぼへ薬師(やくし)と崇貴(あがめたつと)ひて日の始よ り他医にみせす此乗物に取付(とりつい)て放(はな)さず乗物 どのも見懸(みかけ)家がまへ窯(かまど)のけふりの淋(さみ)しからぬに見 こみ随分(ずいぶん)見 廻(まは)り人参は手前が持料(もちりやう)を用ゆべしと 例(れい)のまぎら人参を一両代金十両とかき付てやる手■【にヵ】 受取 猿(さる)の餅(もち)一 服(ふく)に二分 宛(つゝ)入て一日に二 服宛(ふくあて)三年 【牙人=がじん、牙儈=すあい、どちらも売買の仲買人のこと】 に人参百八両 銀(ぎん)にして六十四貫八百目千両の身 代こ つ(ツ)きりや つ(ツ)てうわの四貫八百目諸道具売りて子(む) 息(すこ)の葬送(さう〳〵)やう〳〵仕(し)まふて百ヶ日の茶湯(ちやたう)に油揚(あぶらふげ)さへ ならぬやうにしたは彼(かの)人参牙人(にんじんすあい)のはぎむいたゆへ去(さり) とはむこい仕方(しかた)また一医是も本名はいはれぬ異名(いみやう) は投田簺庵(なげたさいあん)云(いふ)にいはれぬ名人(めいじん)人(ひと)の手にある双六(すごろく)の さいの目をも勘(かん)がゆること刺(さす)の巫(みこ)耆婆(ぎば)扁鵲(へんじやく)もおよ ばず胗脉(しんみやく)が此通りならば乗物はさておき輿車(こしくるま)に乗(のり) て天上までも引上られん山 祭(まつ)りにおゐては出合(であい) 【耆婆=古代インドの名医、扁鵲=古代中国の名医】 【左ページ・挿絵のみ】 【右ページ・挿絵のみ】 【左ページ】 つり者茶屋風呂屋晴屋 巾着(きんちやく)屋 背小路(ぜこうじ)かゝらぬ嶋 なく随分 昼夜(ちうや)我家(わがや)に居(を)らぬあそび好(ずき)の医者也 或(ある)たゝきやめば喰(くい)やむ貧(まず)しき薬鑵屋(やくわんや)あり母ひと り子ひとり四十におよんで妻もたず至て孝行(かう〳〵) 成こと世間に知られたり母 既(すで)に老病(らうびやう)におよびぬれば たゝきやめての看病(かんびやう)貧(まづ)しき中に心をつくせり仲(なか) 間(ま)の薬鑵(やくわん)屋より投田(なげた)をたゝき付(つけ)ければ生れてより つゐにくすり三昧(ざんまい)せぬものなればくすりさへ飲(のめ)ば 人は命(いのち)の百までもあるものとおもつてしがみつゐ ての頼(たの)み何とぞ今一たび本復(ほんぶく)いたさせたきとのこと ばに乗(のつ)て年よりての痰(たん)せきこしの痛(いたみ)是 本脾(もとひ) 胃(い)のよはみなれば帰脾湯(きひたう)でなければならず人参(にんじん) 黄芪(わうぎ)【黄耆】木香(もつかう)酸棗仁(さんそうにん)龍眼肉(りやうがんにく)の高貴(かうき)の薬品(やくひん)をとゝのへ 越(こ)されといへばつゐにくすりといふもの取扱(とりあつかひ)いたさね ば其許(そこもと)にて御調(おとゝのへ)くださるべし代物(だいもつ)は是よりといふ にまかせて三十日ばかりにやくわん屋の身代たゝ きつぶして母もむなしく鳥辺山(とりべやま)へやるやこのかた 人参代をせがまれ家(いへ)うり払(はら)いやう〳〵にして手と 身に成ていと不便(ふびん)にあはれなることは母の吞残(のみのこ)され しくすりに龍眼肉(りやうがんにく)とやらいふものことの外(ほか)高直(かうじき)なる物 のやうにお医者のいはれしなり三十 粒(つぶ)ほどあり今は これなりとも銭(ぜに)にして母の茶湯(ちやたう)にいたしたきと いふを見れば龍眼核(りやうがんかく)なりあゝふずることか投田(なげた)かいか に薬物(やくぶつ)しらぬものなればとて病家(びやうか)を欺(あさむき)て龍眼 肉の肉(にく)をおのれがくらい核(さね)を病家へつかはして薬に 入させしこと言語道断(ごんごだうだん)医中の横道者(わう?うもの)きつと恥(はぢ)しめ たいやつやゝもすれば見せ懸(かけ)花麗(くわれい)にする医者の中 に此類あるは六十六部の中に護摩(ごま)の灰(はい)あるがごとし 六十六部は世間になふても事かけず医者と金銀 は世間になふてかなはぬもの金銀の悪(わる)かねは石(いし)にて 見る医者の悪腸(わるわた)は人の眼鏡(めがね)にて見る是第一病 家の用心あるべきことなりと声はりあげ机(つくゑ)を叩(たゝき) いきまきて談(だん)じける所に勝手(かつて)より山の神間(かみあい)の 障子(しやうじ)をさらりとあけて又 糞得斎(ふんとくさい)の我(われ)しりがほ の講談(こうだん)勝手(かつて)にてきけばはあ〳〵とおもふて気(き)が升(のほ) りて頭痛(づつう)かする皆(みな)若(わか)い諸生衆(しよせいしゆ)あのやうなる講談(こうだん) を聞(きい)て心内(しんない)に秘(ひ)して居(い)るゝともかならず世間(せけん)に 出ていひひろめらるゝなあれにては医者ははやら ぬぞよ第一 薬店(やくてん)ににくまれて通(かよひ)がつかゆるたとへ 元禄年中の人参が今あればとて五十年以前 の古黴(ふるかび)たもの薬力(やくりき)があるべきか其上(そのうへ)金銀を車(くるま)に 積(つん)でもないものはないにして馬(むま)のないとき牛(うし)と いふ水(みづ)なき里山坂(さとやまさか)に渇(かつ)しては梅(むめ)といふ名(な)を聞(きい)て も口中(こうちう)に津(つ)がたまりて喉(のんど)をうるほすためしも あり大切至極(たいせつしごく)の親(おや)の今(いま)死(し)なれては跡(あと)はいかゞせん いとしかあい子の是が死(しん)では共(とも)に火(ひ)に入らんと思ふ 折節(おりふし)何(いづ)れのくすりもきゝめがない此うへは独参湯(どくじんたう) 補薬(ほやく)にあらざれはならすといふ段(だん)におよんではたとへ 桔梗(ききやう)でも干大根(ほしだいこん)でも是が人参といへばとび付程(つくほど) にたのもしく鰯(いわし)の首(かしら)も信心(しん〴〵)から奇妙不思議(きめうふしぎ)の 効験(こうげん)もあるものぞうたがふては阿毘羅牟件(あびらうんけん)も験(げん)が ない一心(いつしん)決定(けつでう)してはあぶらおけそわかとそんでもな いこととなへて呪(ましなひ)し婆々(ばゞ)疼(うつき)を止(やめ)し例(ためし)もありあな がち真(しん)の人参 似(に)より人参とて忌嫌(いみきらひ)あるべからす 【阿毘羅吽欠・あびらうんけん=大日如来の真言】 【左ページ・白紙】 【一巻の背表紙】 【二巻表紙】 《割書:養生|教訓》 医者談義  二 【整理ラベル・富士川本/イ/395】 【整理ラベル・富士川本/イ/395】 医者談義巻二    配剤(はいざい) 大小之 談義(だんぎ) 毎(いつ)も来(きた)る諸生(しよせい)の中に嶋村蟹蔵(しまむらかにぞう)とて横(よこ)に行(ゆく) 者(わろ)すゝみ出(いで)ていはく拙者(せつしや)此頃(このごろ)仲景(ちうけい)の傷寒論(しやうかんろん)を 読(よみ)候所に桂枝湯(けいしたう)麻黄湯(まわうたう)の分量(ぶんりやう)を見れば桂枝湯(けいしたう)は 桂枝(けいし)三両 芍薬(しやくやく)三両 甘草(かんざう)二両 生姜(しやうが)三両 大棗(なつめ)十 二 枚(まい)とこれあり宋元(そうげん)以来(いらい)明朝(みんてう)の方書(はうしよ)共に古(いにし)への 三両は今の一両とあり明朝(みんてう)の一両は十匁を一両とす 然れは桂枝湯(けいしたう)の薬品(やくひん)五 味(み)合(がつ)して四十二匁そこら 【朱印・京都帝国大学図書之印】 【朱印・富士川游寄贈】 【朱印・山口文庫】 【黒印・705823 昭和15.9.5】 なり水七升を以て煎(せん)じて三升を取(とつ)て三 服(ふく)と して一 服(ふく)にて汗(あせ)出(いで)たらば後服(ごふく)をやめるとあり 古(いにし)への一升は今の京升(きやうます)一合たらずとなり然れば七 升は七合たらずの水なり薬味(やくみ)四十匁 余(よ)あるを三合 にせんじつめてはあぶらのごとく蜜(みつ)のごとくなる べし傷寒論(しやうかんろん)に見ゆる所の薬方(やくほう)桂枝湯(けいしたう)麻黄湯(まわうたう) 以下一百十二法の内 湯薬(たうやく)の分(ぶん)何(いづ)れも皆(みな)薬剤(やくざい)多(おほ)く 水 多(おほ)し煎(せん)じつめてははなはだ厚濃(あつくこき)くすりなり 然(しかふ)して用ひやうは一服(いつふく)にして験(しるし)を取法(とるはう)なり然るに 当世(たうせい)のくすりは一ふくわづか一匁より一匁四五分 大服(おゝふく)なるは稍(やゝ)二匁に過(すぎ)ず水は一合半あるひは二合 反に過(すぎ)す然(しかふ)して病(やまひ)を治(ぢ)するに日(ひ)を経(へ)月(つき)を越(こゆ)る 是古への傷寒(しやうかん)と今の傷寒と異(こと)なるや又 唐(から)と日本(にほん) と人物(じんぶつ)ことなるや此義くわしく御 談(かたり)候へ糞得斎 つく〳〵聞て足下(そなた)は学頭(がくとう)ほどありて医家(いか)の肝門(かんもん) を問(と)はるゝよ内経(だいきやう)にいはく病(やまひ)に遠近(ゑんきん)あり證(しやう)に中外(ちうぐわい)あり 治(ぢ)に軽重(きやうちう)あり近(ちか)きものは之(これ)を奇(き)とし遠(とを)き者は これを偶(ぐう)にす汗(あせ)するには奇(き)をもつてせず下(くだ)す には偶(ぐう)をもつてせず上(かみ)をおぎなひ上(かみ)を治(ぢ)するには 制緩(せいくわん)をもつてし下(しも)をおぎなひ下(しも)を治(ぢ)するには制(せい) 急(きう)を以てし近(ちかふ)して偶奇(ぐうき)の制(せい)其服(そのふく)を小にす遠(とを)く して奇偶(きぐう)其 服(ふく)を大にす大なれば数(すう)すくなし小 なれば数多(すうおほ)し多ければ之(これ)を九ふく少ければこれを 一にす之(これ)を奇(き)にして去(さら)ざれば之(これ)を偶(ぐう)にし之(これ)を偶(ぐう) にして去(さら)ざれば反佐(はんさ)して以て取之(これをとる)所謂(いはゆる)寒熱温涼(かんねつうんりやう) 反(かへつ)てしたがふとあり仲景(ちうけい)の立方(りつはう)は医家(いか)治法(ぢはう)の元祖(ぐわんそ)病 に対(たい)して百発百中(ひやくはつひやくちう)にして病(やまひ)を治(ぢ)するの大法(たいほう)也 譬(たとへ)ば 聖人(せいじん)の書(しよ)にも刑罰(けいばつ)の大法(たいほう)あるがごとし其罪の者(もの)へ 其刑(そのけい)其罪(それのつみ)の者(もの)は其罰(そのばつ)かくのごとしそのほど〳〵の 法あるがごとしたとへば分(わ)れすまふの評(ひやう)に理(り)ありと 見ゆる者の無口(むくち)不弁(ふべん)にして非分(ひぶん)になるあり非(ひ)あり と見ゆる者の弁舌(べんぜつ)利口(りかう)にしていひまわしてかちに 成ありこゝにおゐて疑似不分明(ぎじふふんみやう)にして未決(みけつ)のときは 左右の頭取(とうとり)行事(きやうじ)こゝかしこをいひなためて勝負(しやうぶ)は おつてとのべて置(おく)は彼関取(かのせきとり)の重(おも)ければなりふりさはなし に前(さき)の伊州(いしう)後(のち)の防州(ばうしう)へいひおくりに惣而(そうじて)国民(くにたみ)の争(あらそ)ひは 【見開き挿絵】 小僧(こぞう)の三 事(じ)鈴木(すゞき)か奥州(をうしう)くだりと意得(こゝろへ)らるべしと有 しとなり寺(てら)の小僧(こざう)か親(おや)の許(もと)へ逃帰(にげかへ)り父母(ふぼ)にいふやうは和(を) 尚(しやう)のきびしさいらひどさもはやこらへがたく候これ見さ しやれ頭(あたま)り生疵(なまきづ)たゆることなく殊(こと)に不自由(ふじゆう)なるは朝夕(てうせき) の飯(めし)を蓋(かさ)でくれやりますそして気短(きみじか)にせわしな く小僧〳〵といらへする間もござらぬ雪隠(せちん)に行(ゆけ)ば長居(ながい) するとて棒(ぼう)でみしらしやります是では命(いのち)もござ らぬと泣口説(なきくどけ)ば父(ちゝ)聞てまことくし扨〳〵不仁不慈(ふじんふじ)成 和尚(をしやう)見 懸(かけ)とは大にちがふたりいで隙(ひま)取(とつ)て得(ゑ)させん とて寺へ走行(はしりゆき)右の三事一々に云ひ立て述懐(しゆつくわい)す れば和尚(をしやう)大にけでんして先(まづ)あれなる雪隠(せちん)を見やし やれ手(て)ならひせよ経(きやう)よめよといへば其まゝ雪隠(せちん)へ走(はし)る 何をするやらと始のほとはおもひましたが壁(かべ)をむし り榀(こまい)を折取(をりとり)あのごとくあばれ雪隠(せちん)にして野中に 用(よう)に居(い)るやうに拙僧(せつそう)のなんぎ御 推量(すいりやう)あれ朝夕(てうせき)の飯(いひ) を炊(かし)かすれば飯揚(いひあぐ)るときに杓子(しやくし)にててんがうに鍋釜(なべかま) のふちをたゝいて御 覧(らん)候へ此ごとくと申に成たる杓子(しやくし) を十四五本出して杓子もとむる間(あいだ)にはせふ事なしに 飯椀(いひわん)の蓋(かさ)で■【たヵ】つさせます頭をそれといへば髪(かみ)おし みして月に一度も押(おし)てとらへて剃(そり)ますればはね まわりて是非(ぜひ)なく剃刀疵(かみそりきづ)がたへませぬこなたの子息(しそく)て ござれども何ともならぬあん■■【ばくヵ】者けれとも愚僧(くそう)が弟(で) 子(し)にいたしたれば不便(ふびん)に存(そんじ)年たけ成長(せいちやう)したらばよく ならんとだましすかしてそだてますと涙(なみだ)おとして 語(かたり)たまへば父(ちゝ)けうさめて小僧(こぞう)が口と大ちがひいひわけな くして帰(かへ)りしといふ世俗(せぞく)の諺(ことわざ)に和尚(おしやう)が和尚(おしやう)なれば小(こ) 僧(ぞう)が小僧(こぞう)とは片口問答(かたくちもんどう)をいましめたる古事(こじ)なり鈴木(すゞき)が 奥州(おうしう)くだりは義経(よしつね)は都(みやこ)より舟路(ふなぢ)よりこられしに大物(だいもつ)の 浦(うら)にて悪風(あくふう)にあい北国越(ほつこくごへ)に奥州(おうしう)へ三十 余日(よにち)で着(ちやく)せら れしに鈴木(すゞき)は跡(あと)じまいして京(きやう)かまくらの様子(やうす)聞合(きゝあはせ) せこゝかしこに遅滞(ちたい)逗留(とうりう)して東海道(とうかいだう)を七十五日かゝ りて奥州(おうしう)につきしとなり是月日を経(へ)て善悪(ぜんあく)の 表裏(へうり)を聞定(きゝさだ)むるの法(ほう)なり又 防州(ばうしう)の計略(けいりやく)に石地蔵(いしぢぞう)の木(も) 綿(めん)をぬすまれしを町内(てうない)数月(すげつ)の張番(はりばん)に困窮(こんきう)して終(つい)に盗人(ぬすびと) あらはれしは遷延(せんゑん)と日数(ひかづ)を経(へ)しゆへしれがたき盗賊(とうぞく)を 出(いだ)されたり医(い)の治法(ぢほう)も此通り仲景の立法は大法なり 凡 傷寒(しやうかん)の似より者二十四病あり六経(りくけい)の伝證(でんしやう)も太陽(たいやう) 陽明(やうめい)少陽(せうやう)太陰(たいいん)少陰(せういん)厥陰(けついん)の六経(りくけい)に渉(わた)るに伝本(でんほん)順経(じゆんけい) 越経(をつけい)誤下(ごげ)表裏(へうり)首尾(しゆび)の次第あり経病(けいびやう)府病(ぶびやう)併病(へいびやう)合病(がつびやう) 壊病(ゑびやう)の分別(ふんべつ)あり汗(あせ)するには早(はや)きをいとはず甚(はなはだ)はやき ことなかれ下(くだ)すには遅(おそ)きをいとはず甚おそきことな かれ桂枝(けいし)喉(のんど)にくだつて陽(やう)盛(さかん)なれば斃(たをれ)承気(じやうき)胃(い)に入て 陰(いん)盛(さかん)なれば亡(ほろぶ)とのいましめあり此ゆへに西晋(せいしん)以後 隋唐(ずいとう) 宋元明(そうげんみん)に至て仲景の立方を證(しやう)にして人(にん)々家(け)々 種(しゆ)々の変方(へんはう)を立て服(ふく)を小にし日数をのぶる事 医(い) 家の秘事(ひじ)なり明(みん)の王(わう)時勉(じべん)が常勲(じやうきん)の徐氏(ぢよし)が中気 不足(ふそく)の 症を療(りやう)ぜしときいへることあり不足虚分の症を補(おぎなふ)には 日 数(かず)を積(つむ)て治(ぢ)を緩(ゆる)くするにはしかじ家屋(かをく)を建(たつ)るが ごとし不日 急速(きうそく)にはなるべからずといひて百日を限り て治療(ぢりやう)するに十日ばかりにして何のしるしも見へざれ ば徐氏(じよし)性急(しやうきう)にして医を更(かへ)て利気のくすりを用ひし に甚(はなはだ)そむきければ立帰りて時勉(じべん)にあやまり乞(こふ)て終 に三 月(がつ)余にして本復平愈(ほんぶくへいゆ)せしとかや伝記(でんき)に此こと ありて医の日数を経(へ)る證(しやう)とせり又 効(しるし)を急(いそい)で命(めい)を促(ちゞめ) し證拠(しやうこ)には六朝(りくてう)のとき梁(りやう)の右僕射(ゆうぼくや)范雲(はんうん)九錫(きうしやく)の命(めい) あらんとする折ふし范雲傷寒を病(やめ)り名医 徐文伯(じよぶんはく) を邀(むかへ)てしか〳〵のことあり何とぞ此病を愈(しや)すことあ らんや此度 錫命(しやくめい)にはづれなば一生此 官(くわん)にいたりがた しとなげく文伯のいはく病を愈すことはいとやすし 今日(けふ)明日(あす)に愈(いや)すべけれども恐(おそ)らくは二年の後かなら す死なん范雲がいはく朝(あした)に道(みち)を聞て夕(ゆふべ)に死すとも 可(か)なりましてや二年をやはやく治したきといへり 文伯 止(やむ)事を得(ゑ)ずして地を焼(やい)て桃(もゝ)の葉を敷(しき)其上(そのうへ)に 范雲を伏(ふ)させあつく衣を着(き)せて蒸(むし)ければ暫時(さんじ)の 間に汗(あせ)出てくすりを用ひて翌日(よくじつ)平復(へいふく)し終(つい)に九錫(きうしやく)の 命(めい)にあづかり悦(よろこ)ぶことかぎりなし文伯のいはく喜(よろこ)ぶにたら ず人の重(おもん)ずる所は命なりといひしに終に翌年(よくねん)死せ しとなり又 明(みん)の孫景祥(そんけいしやう)は名医なり長沙の李文正公(りぶんせいこう) 二十九歳のとき脾病(ひびやう)を煩(わづら)ふて其證 能(よく)食して化(くは)す ることあたはず此故に食(しよく)を節(ほどよま)して多からず漸(やうやく)節(ほど)よく すれば漸々 食(しよく)減(げん)じて幾(ほとんど)不食の症と成て日々に痩(やせ) 憊(つかれ)て危症(きしやう)となれり月 重(かさな)りて年暮(ねんぼ)に及べり諸医 皆いふ労瘵(らうさい)なりこれを補(おぎな)はゞ病いよ〳〵劇(はげ)しかるべし 然して脾気(ひき)おとろへたり春(はる)になり木気(ぼくき)旺(わう)ずる時に 至りなば木尅土(もくこくど)と脾胃(ひい)いよ〳〵衰憊(すいはい)せんといふこれに よりて李子(りし)か父(ちゝ)大きに憂(うれい)て孫景祥(そんけいじやう)を邀(むかへ)て此(これ)を視(み) す祥脉(しやうみやく)を胗(しん)じて云はく此病(このやまひ)春(はる)にいたりて愈(いゆ)べし 父子(ふし)恠(あやし)みて是を問ふ孫(そん)が云はく此病 心火(しんくわ)にあり春に いたらば木(き)旺(わう)じて木生火(ぼくしやうくは)と心火(しんくは)生気(せいき)を得べし諸医の 脾病(ひびやう)といふものは其 本(もと)を揣(はから)ざるがゆへなり病者(びようじや)本(もと)憂鬱(ゆううつ) あらずやといへば李(り)氏が云はくあり我(われ)妻(さい)をうしなひ弟(おとふと)を 失(うしな)へり是より憂鬱(ゆううつ)すること久して積(しやく)と成れり 諸医は此 病因(びやういん)を察(さつ)せず我また其ことを忘れて云は ざるなり然らば治すべしやといへば薬(くすり)急(いそぐ)べからず五日に 一 服(ふく)して春にいたらばまさに愈(いゆ)べしといひしに果し て春にいたりて本復(ほんぶく)せしとなり是医は気候(きこう)を知り 運気(うんき)に達(たつ)し其日〳〵の支干(しかん)晴晦(せいくわい)気色(けしき)がらをかんがへ土(ど) 用(よう)八専(はつせん)の病気を犯(おかす)事知るべし既(すで)に脉学四言挙要(みやくがくしげんきよよう)に 春秋(はるしう)脉(みやく)を得れば死 金日(きんじつ)に有といふは医の常に記臆(きおく) する所ならずや然して補瀉損益(ほしやそんゑき)を旨(むね)とすべきに 当世は医者も病家も只補ふとさへいへば是(ぜ)なりと思ひ 不学(ふがく)の医(い)は補薬(ほやく)といへば人参ならで外になき物のやう にいへり人参は脾肺(ひはい)気分(きぶん)の補薬(ほやく)にして血分(けつぶん)の補薬に はあらず凡(およそ)気分の補薬人参の外に許多(そこばく)あり血分の補 薬もまた許多(そこばく)なり程明裕(ていめいゆう)がいへる今の人は補(ほ)の補た るを知つて補(ほ)の瀉(しや)たるを知らず瀉(しや)の瀉たるを知て 瀉(しや)の補たるを知らずとむべなるかな補中に瀉あり瀉中 に補ありといふ事をわきまへずして一向(ひたすら)補薬を要とす るは不学 /愚昧(くまい)のいたりならずや其もと薛氏(せつし)が医案(いあん) に朝(あした)には補中益気湯(ほちうゑききたう)夕(ゆふべ)には地黄丸(ぢわうぐわん)といふなり荒淫(くはういん) の輩(ともがら)皆是(みなこれ)に依て補薬を事とす薬(くすり)は事なきに用 ゆべからず地黄益気湯(ぢわうゑききたう)とても無事に用ゆれば暗(あん)に 害(かい)あるなり近世の学者(がくしや)は多(おゝく)は薛氏(せつし)によれり是より して医学(いがく)高(たか)ふして術(じゆつ)下(くだ)れり一渓翁(いつけいおう)道三は術(じゆつ)精(くはしう) して学(がく)は今の医におよばずしかし和国(わこく)は和学(わがく)を専(もつは)ら にすべきなり道三の医案(いあん)の堂上方(とうしやうがた)にありし古きを 見しに皆/假名書(かながき)にして婦人女子(ふじんぢよし)のよめやすく病家(びやうか) 看病(かんびやう)に便(たより)あり門人(もんじん)におしへらるゝ書(しよ)も全九集(ぜんくしう)は假名(かな)かき なり今時の医は文学(ぶんがく)をこのみて道三の切紙(きりかみ)全九集(ぜんくしう)は 手にもとらず唐本諸家(たうほんしよか)の大部(たいぶ)の書(しよ)をよむ事を要(よう)と すといへども病人に臨(のぞん)では明らかならず叔和(しゆくくは)がいへる意(こゝろ)には明らか にして指下(しか)に明らかならずとは此こと也殊に頃年の医者は新古(しんこ) の流義(りうぎ)あることをしらざるもの多し古流(こりう)といふは大己貴命(おほあなむちのみこと)よ り伝りて和気(わけ)丹波(たんば)の二流百王百代 相続(さうぞく)して近代(きんだい)和気丹 波一 家(け)と成て半井家(なからいけ)と称(しやう)す新流(しんりう)といふは道三家なり 此道三といふは信長公(のぶながこう)の時代なり其比天下に道三といふ 名三人あり一人は半井(なからい)通仙院(つうせんいん)驢庵(ろあん)五代 前(さき)の道三なり 一人は曲直瀬(まなせ)一渓翁(いつけいおう)道三なり今一人は斎藤(さいとう)山城守(やましろのかみ)道 三なり是は武士なり一渓翁(いつけいおう)道三は洛陽柳原(らくやうやなぎはら)の産なり 十歳にして相国寺(しやうこくじの)塔厨(たつちう)蔵集軒(ざうしうけん)に入て喝食(かつしき)と成 等(とう) 伯(はく)と号し東破山谷(とうばさんこく)等の詩集を諳(そらん)じ二十二歳にし て関東(くはんとう)におもむき足利(あしかゞ)の学校(がくかう)に寄宿(きしゆく)し文伯(ぶんはく)に師 として事(つか)へて博(ひろ)く群書(ぐんしよ)を学(まな)ぶ其比 鎌倉(かまくら)に久我三喜導(こがのさんきとう) 道(だう)とて大明(たいみん)に入て張月湖(ちやうげつこ)の医法を伝へ留学(りうがく)すること 十二年にして本邦(ほんはう)にかへり鎌倉(かまくら)に住(ぢう)し医業(いげう)をさかんに 行(おこな)へり等伯(とうはく)是にしたがふて医術(いじゆつ)の奥儀(おうぎ)を伝授(でんじゆ)し導(とう) 【挿絵のみ・地黄丸を売っている店先の様子】 道の道の字三喜の三の字を取てみつから道三と名 のり洛陽にかへり光源院(くはうげんいん)義輝公(よしてるこう)に謁(ゑつ)し寵遇(てうぐう)殊(こと)に渥(あつ) し且(かつ)細川勝元(ほそかわかつもと)三好修理(みよししゆり)及(および)松永弾正(まつながだんじやう)等に原(あつ)く遇(ぐう)じこゝ に於て其名天下に聞へたり今世上に用ゆる所の服薬(ふくやく)の分(ぶん) 量(りやう)水一 盃半(はいなから)入て一盃 煎(せん)法貴【常ヵ】のごとしといふ法は此道三より極(きわま) れりかるがゆへに新流を当流といひ古流を他流と云ふ包(つゝみ) 形(がた)も当流他流ともに昔は皆小包は香包にせしを片臂(てんぼ) 馿庵(ろあん)の片手(かたて)にてつゝまれしより半井流は山形(やまがた)つゝみなり 上包(うわつゝみ)を剣形(けんきやう)に包(つゝむ)に右は短(みぢか)く左は長(なが)くするは出(しゆつ)の字の形(かたち)也 発散(はつさん)催(はやめ)生一切病を去出(さりいだ)すに用ゆ左短く右長くす るは入の字の形なり反胃(ほんい)膈噎(かくいつ)不食(ふしよく)虫積(むししやく)等の病を治 するに用ゆ惣して医薬は病家の禁忌祝表(きんきしゆくへう)を専(もつは)らと すればなり凡(およそ)薬(くすり)に甘草(かんざう)の入は峻(するど)なる薬味(やくみ)のあるには和(くは)【左ルビ・やわ】 緩(くはん)【左ルビ・らけん】ならしめんがためなり生姜(しやうが)の入は表達引用(へうたついんよう)のためなり 棗(なつめ)の入は脾気(ひき)を助養(じよよう)するがためなり道三の撮甘草(つまみかんざう)片生姜(つぎしやうが) 一粒棗(ひとつぶなつめ)といふは甘草多ければ和(くわ)し過(すご)して余薬(よやく)のちから うとし生姜(しやうが)多ければ逆上(ぎやくじやう)の害(かい)あり棗(なつめ)多けれは胸膈(きやうかく)に 恋(もたれ)て不食することあればなり薬(くすり)の拵(こしらへ)やうも麻豆(まづ)のごとく とは麻(ま)はあさだねなり豆(づ)はあづきなり薬のつぶの大き さ麻(あさ)だね小豆(あづき)のふとさなり粗(あら)からず細(こまか)ならず中庸(ちうよう)の刻(きざみ)か げん是当流の法なり古流は細末(こまか)【左ルビ・さいまつ】を用ゆるなり然るに此 頃は薬品(やくひん)の彩色(いろどり)を好(このん)で角(かく)こしらへにするは病家に衒(てろう)也 煎湯は粗(あら)ければ薬汁(やくじう)うすし薄(うす)ければ薬力(やくりき)弱(よは)し細(こまか)なれ ば薬汁(やくじう)濃(こし)濃ければ胸膈(けうかく)に停滞(ていたい)す故にあつからずうす からず是また中庸を用ゆ蓋(けだし)水加減(みつかげん)のこと近代 宋元(そうげん) 明(みん)より来れる方書(はうしよ)に或(あるい)は一 鍾(しやう)あるいは一 盞(さん)とあり鍾(しやう)も 盞(さん)も觴(さかづき)のことなりひらきてうすきを盃(はい)といふつぼみて ふかきを 盞(さん)といふ方(はう)■(しよ)【書ヵ】に只一 鍾(しゅ)一 盞(さん)とあれば何ほどの 觴(さかづき)やら測(はかり)がたし道三の切紙に一番に水 天目(てんもく)に一ッ半(なから)入て 一ッにせんじ二番は一ッ入て半(なから)にせんずとあり此天目と いふものむかし高麗(かうらい)の天目山(てんもくざん)にて焼し茶(ちや)わん也これ にも大小ありといへども大(おゝ)やう水八十目入を正とせり八 十目は明朝(みんてう)の半斤(はんぎん)なり明(みん)の一 斤(きん)は百六十目なり是を広(くわう) 秤(しやう)といひ又 大秤(だいしやう)ともいふ半斤を半秤と云ひ小秤と云ふ 故に水は半秤を用ゆ天目に一盃は京 升(ます)に二合入京升一 合に水清上なるもの四十目入る然れば天目に一 杯(はい)半は 水目百二十目京升に三合入なり天目といふは茶わんの 出所なりわんといふは飯器(はんき)なり字 椀(わん)なり今茶わんといふは 非なり茶盞(ちやさん)なり故に方(はう)■(しよ)【書ヵ】に白茶盞(はくちやさん)と往々にあり然 して当家の配剤(はいざい)の服量(ふくりやう)二■【匁ヵ】五分をかぎりとせり是 両(りやう) の四分の一水 広秤(くわうしやう)の四分の三と配合(はいがう)すかるがゆへに紫(し) 蘇(そ)薄苛(はつか)軽葉(けいよう)の薬(くすり)は服(ふく)がさ大なり当皈(とうき)地黄(ぢわう)土石(どせき)の入 薬は服がさ小なり然れども煎じてあちはひ等(ひとしく)なるなり 然るに近年 清水焼(きよみづやき)の薬盞(やくさん)少(ちいさ)く成てやう〳〵京升に 一合入これに準(じゆん)じて薬(くすり)も少服になれば病人の平愈(へいゆ) もすくなし依て病家の謝礼(しやれい)も少哉(すくないかな)礼銀 医者談義巻二終 【白紙】 【貼紙に イ二ウラ の書き込みあり】 【二巻の背表紙】 【整理ラベル・富士川本/イ/395】 【三巻表紙 題箋】 《割書:養生|教訓》 医者談義  三 【整理ラベル・富士川本/イ/395】 医者談義巻三   加持祈禱(かぢきたう)之談義 諸生の内に一人すゝみ出ていふやう只今 爰許(こゝもと)へ 来る道に或(ある)病家に立ちより候所に日蓮宗の僧徒(そうと) 多く並居(なみい)て読経(どくきやう)することすさまじ扨は病人 埒明(らちあき)たるやとおもへばさにあらず血狂(けつきやう)の病人を 物の怪(け)成と云ひて千巻陀羅尼(せんぐはんだらに)を異口同音(いくどうおん)に 呉音鄭声(ごおんていせい)奇(き)なるこゑを張上(はりあげ)て町内もひゞく ばかりに候ひけり何と血狂の病人を物の怪(け)にして 【朱印・京都帝国大学図書之印】 【朱印・富士川游寄贈】 【朱印・山口文庫】 【黒印・705823 昭和15.9.5】 祈(いの)り加 持(じ)して治する理も候やと問けれは糞 得斎聞おはりて成程物の怪(け)にもせよ血狂(けつきやう)にも せよ祈(いの)り加持して治するに験(しるし)ありと本皆(もとみな)陰(いん) 陽(やう)動静(どうじやう)二 儀(ぎ)の妙用なり儒者(じゆしや)の天に祈り地を祭(まつ) り医家の移精変気(いせいへんき)の法あるも同じ 諸生いはく しかれば仏法の地獄極楽(ぢごくごくらく)の沙汰も実語(じつご)に候や 云はく仏法の事は寺庵(じあん)に入て尋らるべし礼儀(れいぎ) の事は儒学者(じゆがくしや)に問はるべし我医道に預(あづか)る事なら ねば一 向(かう)に貪着(とんじやく)いたさず我医道は陰陽二儀の妙 用 高(たか)ふして上(うへ)なきは天 下(ひき)ふして底(そこ)なきは地 然れば上(うへ)なき上を尋ぬるにおよばず底なき底 を探(さぐ)るにおよばず天地 一太極(いつたいきよく)の内にしてこと 足(たり)ぬ夫(それ)太極(たいきよく)は大にしては天地小にしては毛(もう)微(ほ) 塵(こり)のうちに陰陽(いんやう)の二儀 極(きはま)れり故に太極(たいきよく)と云ふ 今聞所の天台(てんだい)真言(しんごん)の大般若(だいはんにや)日蓮(にちれん)浄土(じやうど)の題(だい) 目(もく)責念仏(せめねんぶつ)は戦場(せんじやう)の鬨声(ときのこゑ)陣貝(ぢんがい)のひゞきに敵(てき)の恐(おそれ) 退(しりぞ)くは陽動陰静(やうどういんじやう)の相(あい)せめぐに同じ真言宗(しんごんしう)の 印相(いんそう)は喑聾(いんりやう)の指摩(しま)に似たり唖聾(おしつんぼ)は手まねをし て事通ず天台真言の僧は絵像(ゑざう)木像(もくさう)に我(わが)心(しん) 霊(れい)を移(うつ)して指(ゆび)を曲(まげ)手(て)を叩(たゝい)て理(り)を通(つう)ずるも 陰陽動静の二儀ならずや我医道の書(しよ)素問(そもん)に 移精変気(いせいへんき)の法あるは伏義(ふつき)より前(まへ)の人間(にんげん)は穴(あな)に 住(すみ)木(き)の葉を着(き)て動(とう)にしては寒(かん)をしのぎ静(じやう)に しては暑(しよ)を凌(しの)ぐと云て冬天(とうてん)には走(はし)り狂(くる)ふて 汗(あせ)をながして寒(かん)を凌(しの)ぎ極暑(ごくしよ)には木陰(こかげ)に静(しづ)まり 伏(ふ)して暑(しよ)を凌(しの)ぐ是よりして移精変気(いせいへんき)の術(じゆつ) あり人の病める所の痛(いたむ)と云ひ痒(かゆ)しと云ひ腫(はる)ると 云ひ痩(やせ)るといひ塞(ふさが)ると云ひ撒(ひらく)といひ閉(とづ)るといひ泄(もる)る といひ升(のぼ)るといひ下(さが)ると云ひ熱(あつし)と云ひ寒(さむ)しと云ふ 是皆 気血(きけつ)水火(すいくは)陰陽(いんやう)升降(しやうがう)の相(あい)せめぎ戦(たゝ)かふ也 平(たいら)かなるときを無事といふ是を平(たいら)ぐるに草根(さうこん) 樹皮(じゆひ)の薬を用ゆ寒(かん)ずるものには温熱(うんねつ)を用ひ 熱(ねつ)するものには寒涼(かんりやう)を用ひ鬱(うつ)するものには灸(きう) して散(さん)じ滞(とゞこる)ものには針(はり)してめぐらす是 陰陽二儀の妙用なり夫陰陽の気を霊と云ふ 霊(れい)のすめる正(たゞ)しき 者を神(しん)といふ濁(にご)りて不正(ふせい) 【右挿絵・祈祷の様子】 【左挿絵・薬屋の店先ヵ】 【衝立】本家 黒丸子 【暖簾】香具屋 合薬 なるものを鬼(き)と云ふ此鬼神の霊は用ゆる所の医(い) 者(しや)坊(ぼん)祈(いの)る所の僧法師にあり神(しん)は陽(やう)なり清(せい)なり 鬼(き)は陰(いん)なり濁(だく)なり彼(かの)物の怪(け)は陰(いん)にして濁(だく)なり僧 は清にして陽なり陽すみて清(きよ)ければ濁(にご)れる陰(いん) に勝(かつ)濁陰 清陽(せいやう)に伏(ふし)してにごれるものゝ澄(すむ)は必(ひつ) 然(ぜん)の理なれば千巻陀羅尼(せんぐはんだらに)の著(いちしる)きことうたがふ べきにあらずされども一僧に一 封(ふう)の御布施(おふせ)が いやぢや是より僧法師の心中の霊(れい)が濁出て 何(なん)どもかへるさまは石かけ縄手(なはて)と出かけぬと 胸中(けうちう)に海老(ゑび)のむき身 章魚(たこ)の吸(すい)もの飛躁(とびさわぎ)て 物の怪(け)よりは坊(ぼん)さまの心中の材木(ざいもく)がまぎれる也 医者のくすりを用ゆるもさのことし陰陽(いんやう)升(しやう) 降(がう)寒熱(かんねつ)温涼(うんりやう)の理を明弁(めいべん)することはなくて古 人の世話(せわ)をやきたる薬方を何のわけしらず に間(ま)に合てあてがひ薬あたれば呀唅(はじかみ)のくひ合せ 多くは矢路(やぢ)のちがふた空矢胗脉(そらやしんみやく)するにも指下(しか) に意(こゝろ)なく世事が心中に滔(はび)こりて雑談(ざうたん)挨拶(あいさつ)に 浮沈(ふちん)遅数(ちさく)もわきまへざるは常に陰陽五行の 理をわきまへざるがいたす所なり加持祈禱(かぢきたう)は効(しるし) なしといへども害(がい)なし医薬の誤(あやま)ることあれば 不尽(ふじん)の命を立所に殺(ころ)すおそろしきは不学の 医者のくすりなり諸生のいはく加持祈禱は害(かい) なしといへとも女の嫉妬(しつと)の祈り丑(うし)のとき詣(もふ)で して神木(しんぼく)に釘(くぎ)うつ事あり其 験(しるし)現(げん)にして人を 病しめ多くは詛殺(のろひころす)ことありといへるは如何(いかん) 糞 得斎から〳〵と笑(わらつ)ていはく其事あつてその応(おう) ■てなし元来女のはかなき手わざに神木に 釘打(くぎうつ)て其 応(おう)をたのむといへども木魂(こたま)【左ルビ・きのかみ】何ぞ 其 願(ねがひ)にしたがふて彼(かの)当人に仇(あた)をなさんや立木(たちき) に釘(くき)うたれなば打人をにくみて却(かへつ)て其人に 仇(あだ)すべし是を還着於本人(げんぢやくをほんにん)といふ医はやゝも すれは薬事に託(かこつけ)て人を害することあり天文 の頃にや江戸本丁筋の裏屋(うらや)に牢人(らうにん)者あり一 人の娘(むすめ)を持(もつ)はなはだ美色(びしよく)なり屋主(やぬし)是に心を かけて兼て妻(さい)にせんとおもひける所に芝筋(しばすぢ)の 薬種屋の富家(とみけ)より媒(なかだち)を以てよめにせんと拵(こしらへ) 料(りやう)をつかはし近月何時に嫁聚(かじつ)せんと定(さだ)む屋主(やぬし) 此 沙汰(さた)聞て大きにほ本意(ほい)なきことにおもひて胸(むね) こがし常に入魂(じゆこん)にする医者にかたらひけるはしか 〳〵のことなり何とぞ薬種屋の婚礼(こんれい)を婆羅(ばら)す る方便(てだて)あるまじやと相談しければ医者しばら くさしうつむき何ごとやらん工夫してやす〳〵 とばらしてのけん金子二十両出せといふいとや すしと金子を渡しければ医者彼薬種屋の店(たな) に行てべいさらばさらを買わんといふ薬種屋の 手代共候とて出しければひたもの【注】ひねくり廻し て見居たりければ手代どもいひけるはそも此べい さらばさらと申物いかなる病を治する薬にて候 哉近年黒舟に始て渡り候ゆへ親方(おやかた)共 買置(かいおき)候 得(へ)ども効能(こうのう)をうけたまはり伝へずと云ふ医者の いはく成程さあるべし此薬種■て珎物(ちんぶつ)なりまた 此物にて治する病(やまひ)も千人万人の中にあるやなし といふ手代共いよ〳〵訝(いぶ)かしくおもひてさやうに 大切(たいせつ)なる病(やまひ)は何と申病に候やといへば聞及たまふ 【虫損部は山口大学図書館所蔵本を参照 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100269851/viewer/46】 ことはあるべけれども近く見聞したまふことは有 まじ轆轤首(ろくろくび)といふ病なり手代共大きにおどろき 咄(はなし)にては異国(いこく)にろくろくび嶋とやら候よしうけ たまはり候へども日本にはなきものゝやうに存候 ところに然れば現在(げんざい)当地にも御座候や何れ の方にあたり候やといへばあまり遠(とを)からず本丁(ほんてう) 筋(すじ)の裏店(うらだな)に牢人(らうにん)の娘(むすめ)なるがきりやうはよけれ どもいやな病あり聞ば近月に縁組(ゑんぐみ)これあるに 付て何とぞ此病を治する医者やあるとたづね ける所に拙者一 家(け)一 流(りう)にて此病を治すること数 代 相伝(さうでん)せるを聞出して頃日しきりにたのむゆへ に此すくりをもとむ然れども此薬に真偽(しんぎ)あり 黒舟に渡(わた)りしは皆 偽物(ぎぶつ)なり真(しん)の物は慶長(けいちやう)年中 に少く渡りたれども今はたへてなし残念(ざんねん)なるは 彼病人治する手がきれたり今見る所は偽物(ぎぶつ)な れば所用になしとて既(すで)に立んとしければ番頭(ばんとう) ことの外いぶかしくおもひてなを〳〵其病人の 親(おや)の名は御 存知(ぞんじ)あるべけれども仰聞られまじ くるしからずはちらとおしらせくだされかしと いへば医者心中にしてくれたりとおもひかなら ず他言(たごん)は無用 何(なに)の何がしといひすてゝ去ぬ是に よりて薬種屋の婚礼(こんれい)ばれて媒(なかだち)の者をよびに やり此 様子(やうす)ありて変改(へんがい)いたすといひやりければ 件(くだん)の牢人(らうにん)大きにげうてんしいかなる様子にて か程事極り結納(けつなう)まで相済変改は以て離別(りべつ)同 時 身不肖(みふせう)に候へども士(さふらひ)の事に候へば娘(むすめ)も貞列(ていれつ)を 守(まも)り両夫(りやうふ)にまみゆる所存なきものに候へば様子の 子細(しさい)をうけたまはり届(とゞけ)て父子(ふし)ともに存より候と ことむつかしく尋ければ媒(なかだち)当惑(とうわく)して薬種やの 手代共にぬげくなく問ひ尋ければ止(やむ)事を得ず してしか〳〵の事ありしとべいさらばさらの 事をくわしくかたりければ媒(なかだち)彼牢人(かのらうにん)につぶさに 談しけるに牢(ろう)人のいはく医者の名を聞きとゞけ けるやといへば媒其義はうけたまはらずといふに付 て牢人あやしくおもひて手代共定て聞 留(とめ) たるべし委細(いさい)たしかに聞来れといへは媒是は御 尤とまた薬種やへ走り行て尋れば手代共 されば其ときにたれも気が付ずして医者 の名を尋ざりしと是よりむつかしく成て 薬種屋 変改(へんがい)すべきいひ立の作り事のやうに成 て薬種や甚(はなはだ)迷惑(めいわく)して毎日手代共をおして彼 医者を尋しに果(はた)して本丁筋の裏店(うらたな)に借宅し て居ける所を尋付て何ごとなきていてにて先日 は始て心意を得候御宿は是にて候哉と名札し かと見とめて帰(かへ)りけり牢人方へ委細(いさい)に名も 宿もいひつかはしければ牢人けでんしてそれは 屋主(やぬし)へ昼夜(ちうや)出入医者なり打て捨んとおもひし がきつと思案(しあん)して定てふかき子細ぞあるべしと 日を経(へ)て様子(やうす)を聞つくらいけるに屋主の所為(しよい)な る事を知りて下(した)にて事すましがたしとて沙汰(さた) 所(ところ)へ訴(うつたへ)ければこと〴〵く御吟味ありしに屋主と 医者との所為成事白状しければ屋主は退出(たいしゆつ) にて江戸追ひはらはれ家財を牢人に下され 医者は賄賂(まいない)を取て前代未聞(ぜんだいみもん)の悪事を巧(たくみ)し とて町中にもばつと沙汰有程になりけるとなり 是等は此類なき悪事なり又あるべきことならず而(のみ)巳 ならずやともすれば医薬に便(たよ)りて悪事(あくじ)に荷担(かたん)す ることありまのあたり見るに堕胎(だたい)【左ルビ・こおろし】のくすりを出 す医者あり不仁至極(ふじんしごく)第一の悪事なり小の虫(むし)を 殺(ころ)して大の虫を助くるとの利口をいふといへども 子をおろすは多くは密通(みつつう)の不義の中にあり是不義 に荷担(かたん)するなり或は夫婦の中にも子共大勢に成て なんぎするとて堕胎(だたい)するあり是また父子 人倫(じんりん)の 不仁(ふじん)なり大名高家には一向なきことにして正月 餅(もち)を人なみに搗(つく)ほどの者(わろ)にやゝもすればあること あり親(した)しき朋友(はうゆう)主人(しゆじん)たりとも悪(にく)むべき事也 且くすりにては効(しるし)なきもの也 陰戸(いんこ)より刺針(さしはり)して おろすはなを刃(やいば)を以て人を殺(ころす)なり然れば不義に 荷担(かたん)し不仁(ふじん)に処(しよ)し天にうくる所の人命を断(たつ)は まことに龕霊(がんれい)の巨賊(こぞく)なり名医録(めいいろく)にいへる京師(けいし)に 白牡丹(はくぼたん)といふ子おろし婆(ばゞ)あり或日(あるひ)忽(たちまち)頭痛(づつう)し次 第につよく打くだくごとくに成て日数つもりて 【挿絵】 いよ〳〵つよく疼痛(うづきいたみ)日夜 啼喚(なきさけび)声(こへ)隣家(りんか)を驚(おどろか)し 諸医を招(まねき)て治すれどもさらに効(しるし)なく後は膿爛(うみたゞれ) 腐潰(くさりついゑ)て痛(いたむ)ことなを劇(はげ)し既(すで)に死におよんで子共を 集(あつめ)て堕胎(だたい)の方書をとりよせて我前にて焼捨(やきすて)よ 汝等(なんぢら)かならず此薬を伝ふべからすといふ子共のいはく 此 方(はう)を家業(かげう)として今日まで大勢(おゝぜい)富有(ふゆう)にくら せる所いかなる子細ぞといへば其母のいはく我 発病(はつびやう) の始より日夜 夢中(むちう)に数百(すひやく)の小児(こども)来りて我(わが)頭(づ) 脳(のう)を噛(かむ)こと隙(ひま)なし是に因(よつ)て叫喚(けうくわん)するなり是我 平常(へいぜい)常(つね)に堕胎(だたひ)を家業(かげう)としたる報(むくひ)なりといひ終(おは) りて死せしとなり孔子(こうし)も俑(よう)を作るものは後(のち)なから んかとのたまへり古(いに)しへは人死すれば従者(しうじや)を殉(した)がへ て生(いき)ながら人をうづみしなり後(のち)には藁人形(わらにんぎやう)を作り人 に代(かへ)て埋(うづみ)しとなり藁(わら)人形を俑(よう)といふ是を作りて 売(うる)ものあり此者は後絶(あとたへ)なんと孔子 歎(たん)じたまへり ましてや陰陽(いんやう)和合(わがう)して命(めい)を天に受(うけ)て人 体(たい) と成ものを堕殺(ださつ)するはむくふべきこと更(さら)なり此薬 を施(ほどこ)し行(おこな)ふ医者は其むくひ現(げん)に見へずといふとも 自然(しぜん)に貧災(ひんさい)あることまぬかれがたし又其 親(おや)も おのれか恥(はぢ)をかくさんため子を殺(ころす)の不仁(ふじん)いふばかりなし しりぞいて見れば婦女(ふぢよ)の陰悪(いんあく)男子(なんし)にまされり 其 本(もと)不義におこりて然して亦是を殺す無慚(むざん) 無愧(むぎ)なることおそるべしにくむべし或は多産(たさん)を いとふて夫(おつと)是をすゝむといふとも女はおそれかな しむべきに多くは女よりすゝんで子を堕(おろ)すを見 れば其 残忍(ざんにん)成ことはなはだし医は仁術(じんじつ)を表(おもて)とす るに裏(うら)に残害(ざんがい)の事あるは医道の冥理(みやうり)に背(そむく)べし 医家(いか)十禁(しつきん)の第一に女室(によしつ)に入て他意(たい)をなすべから ずとあるは仮(かり)にも病婦(びやうふ)病女に対(たい)して妄(みだり)に戯(たはふれ)ごと いふべからず傍人(ぼうじん)なくては胗脉(しんみやく)すべからずと禁(いまし)めた り唐(から)の法には大夫(たいふ)以上の脉(みやく)を胗(しん)するには 簾(れん)をへだてまくをへだて婦女の手に羅(うすもの)を覆(おほ)ふ て脉を胗すとなり此故に中華(もろこし)には腹胗(ふくしん)【左ルビ・はらをみる】の法なし 和邦(わはう)は腹(はら)を胗(み)ざれば医の粗末(そまつ)なるやうに言へり かるがゆへに男女おしなへて腹胗(ふくしん)するといへど も相かまへて臍下丹田(さいかたんでん)より下(しも)の胗脉は無用〳〵 【右ページ】 医学談義巻三終 【左ページ・手書き文字】 イ三ウラ 【裏表紙】 【整理ラベル・富士川本/イ/395】 【四巻表紙 題箋】 《割書:養生|教訓》 医者談義  四 【整理ラベル・富士川本/イ/395】 医者談義巻四    病家 需(もとむる)_レ医(いを)之談義 【朱印・京都帝国大学図書之印】 【朱印・富士川游寄贈】 【朱印・山口文庫】 【黒印・705823 昭和15.9.5】 ()