京都大火之略圖 元治元年甲子七月十九日朝五ツ時と思敷ころ 川原丁二条下ル長州屋家内出火暫時に火鎮る 同しく四ツ半時烏丸中立売辺ゟ【より】又々出火いたし、 人々驚きアハヤト見る間に又堺丁丸太丁辺ニテ黒 煙立登り折節南風つれ両口の火四方に 焼広かり寺町通り町家を始寺院のこらず 焼失其外寺町ゟ西は堀川迄敷浪のことくに 焼行堂社小宮の分ちなく皆一時に火灰となる 南は七条のはづれ迄焼行、所々に飛火数多 にして東願寺仏光寺周幡堂六角堂誓願 寺は勿論、和泉式部ゟ錦天神まて焼行金蓮寺 ゟ南は東側無別条西は堀川迄諸御大名屋舗 一軒ものこらずやけつくし松原通は東へ焼込み それより南は加茂川筋西側のこらずやけ行 又山崎伏見嵯峨天龍寺に出火市中の人民 四方に走り八方に立まよひ東山山科醍醐大津 近江路辺に逃行男女うしほ のわくがごとくあられの玉ちる ごとく立さわぐありさま誠ニ 前代未聞之次第なり火は やう〳〵と廿一日朝五ッ時ニ鎮り 申候◯ 町数凢一千余町、家数 凢六萬余軒といふ未た委 敷は相不分何分古今の大火也、 此印●大名御やしき方