東参名勝案内     藤波一哉編 【白紙】   ○東参名所案内目次 一地図 ○東参五郡名勝略図大判 一写真版 ○豊川閣、初八十五個卅五頁 一緒言(《割書:自一頁|至二頁》) 一渥美郡(《割書:自三頁|至二一頁》) ○起原、○豊川(歌(●)、  衣笠内大臣、贈大納言雅世卿。詩(●)、山崎暗  齋、林道春、柏如亭、関根痴堂) ○豊  橋(歌(●)、贈大納言雅世卿、尭孝法師、小野  通女、高原院大婦人、芝山宰相持豊卿、俳(●)  句(●)、芭蕉、越人、巴静、詩(●)、林道春、関根  痴堂、森春濤、)○歩兵第十八聯隊本部○第  十七旅団司令部○官衙と学校○新聞○料理  店○旅舘○病院○遊興所○関小万の墓○  悟眞寺(詩(●)、関根痴堂)○龍拈寺(詩(●)仝上)○  別院○観世左近太夫(暗殺)○吉田神社(詩(●)  関根痴堂)○神明社(詩(●)仝上)○弁天の蓮○  第十八聯隊紀念碑(御銅像)○関屋、新銭、  魚市、(詩(●)仝上)○狐塚、首斬地蔵、入道ヶ  淵○鹿子の振袖○豊橋産物  ○羽田文庫○牟呂渡場(歌(●)、正三位知家  卿、従二位行能卿)○岩屋観音(詩(●)、関根  痴堂)○二川駅(歌(●)、小堀宗甫、西行上人、俳(●)  句(●)、正貞、芭蕉、○二子塚(歌(●)、足利義教  公、尭孝法師)○未之復野(歌(●)、万葉集、前  中納言定家卿、光時峯寺入道、禅性法師○  峯野の原(歌(●)、源朝臣光行、鴨長明、○高  師村(歌(●)、前中納言雅孝卿、西行法師、正  二位為家卿、中納言雅康卿)○東観音寺(  歌(●)、清輔朝臣)○老津島(歌(●)、紫式部、俳(●)            甲            乙  句(●)、はせを)○田原町(華山翁碑)○蘆  ヶ池○鸚鵡石○杜国の墓(俳句(●●)、杜国、其  角、はせを、越人、春湖、蓬宇)○和地大  山(歌(●)、榊原民部少輔、酒井姫路城主)○常  光寺○中山試砲所○日出石門○伊良湖崎○  往昔の伊良虞(歌(●)、万葉集、前中納言匡房  卿、為忠朝臣、西行上人、鴨長明、俳句(●●)、  はせを、蓬宇)○伊良湖神社、 一八名郡(《割書:自二一頁|至二五頁》)○起原○皇居旧跡○  藤野村古歌、藤原朝臣家国、仝道経)○赤  岩山○多米瀧○蒜生神社(歌(●)、和泉式部、小  侍清、読人不知、契冲)○正宗寺○鳶巣山  ○阿寺七瀑○其他の瀑布○蜂の巣岩○名号  池と琵琶淵 一南設楽郡(《割書:自二五頁|至三三頁》)○起原○新城町○  ○富永神社○白雪旧居(俳句(●●)、轍士、白雪、  探水、芭蕉、)○桜淵○野田城趾(信玄狙撃  の記)○長篠古戦場(歌(●)、信長公、詩(●)、蘭  泉、俳句(●●)、蝶夢、乞喰、)○雁峯山(俳(●)句、  はせを)○鳥井勝商碑○甲州方の墓○鳥居  勝商烽火を揚ぐる記○牛瀧○鮎瀧○其他の  瀑○鳳来寺○東照宮○仏法僧鳥(歌(●)、  草鹿砥公宣卿、弁内侍、慈鎮和尚、俳句(●●)、  宗砥、芭蕉、其角、凉台、路通、嵐雪、乙  由、轍士、舎罷、只丸、蝶夢、 一北設楽郡(《割書:自三三頁|至三七頁》)○起原○川合石橋  (詩(●)、荘田元宣)○別所城趾○福田寺(信玄  墓)○御所貝津と御所平(歌(●)、尹良親王、  内親王女房紀伊○御殿村と園村○津具の里  (歌(●)、陽成天皇御製)○白鳥神社○十二景○  古橋翁の碑○段戸山○サンシヨウ魚其他○  瀑布と鉱泉 一宝飯郡(《割書:自三七頁|至五三頁》)○起原○御油(歌(●)  沢庵和尚、従二位泰邦卿)○三ツ河(歌(●)、  万葉集、民部卿為家)○御油停車場附近○  御津神社(御神詠)○新宮山紀念碑○海水浴  ○国府と赤坂○大江定基朝臣略伝(力寿姫)  (歌(●)、辞世、読人不知、寂照法師、前大言  公任卿○宮路山(歌(●)、読人不知、河内  朝臣躬恒、増基法師、中山美石、為家卿、  詩(●)、林道春、)○長福寺と正法寺○国分寺と  西明寺○財賀寺○財賀寺の田祭○本野原(  歌(●)、右大弁光俊卿、後京極良陸公、俳句(●●)、  宗長○豊川町(歌(●)、鴨長明、源朝臣光  行、仝親行○豊川閣○三明寺(俳句(●●)、宗長、  詩(●)、釈道岡)○本宮山○山本勘助晴幸略伝  (詩(●)、太田錦城)○葵御紋(花ヶ池)○万歳の  記○大神楽の記○和泉式部石塔○聖眼寺○  本郡内の芭蕉塚○前芝港(詩(●)、関根痴堂、大  田錦城、俳句(●●)、士朗)○御馬湊(歌(●)、万葉集、  俳句(●●)、宗長、白雪、轍士)○蒲郡町○  恋の松原(歌(●)、駿河、中納言雅康卿)○俊成  卿屋敷跡(歌(●)、藤原朝臣道経、俳句(●●)、士朗)  ○島嶼と海水浴○大島(歌(●)、俊成卿、清原  朝臣元輔、○竹島弁天社○楠公の猿楽○小  粟【栗?】判官潜居 一附録(《割書:自一頁|至九頁》) ○詩、歌、俳句、挿絵、  汽車時間表 一営業広告 ○文海堂初廿四頁              (目次終)            丙 【右頁】 【四隅丸囲み文字】山 田 旅 舘   【屋号:マルに浜】運輸 取扱             東海道豊橋船町               山七運輸店             仝線豊橋停車場前               山七運輸支店             豊川線舟町駅前               山七運輸出張店 左ノ山田旅舘ハ旧伊藤旅舘ト称シタレ𪜈弊運輸支店ノ隣家ナルヲ幸昨年十二月始テ其家 ヲ譲リ受ケ大ニ修繕ヲ加ヘ第一空気ノ流通ヲ能クシ剰サエ当駅真向ニシテ吉田駅ヘノ乗 替最近ノ場所ナレバ御乗降御休泊ニ付テハ極メテ御便利ナル而巳ナラズ諸般ノ事万事叮 嚀懇篤ニ御取扱可申上候得バ何卒御出豊ノ折又ハ豊川山御参詣ノ砌リニハ倍旧ノ御愛顧 ヲ以テ陸続御投宿アラン事ヲ希フ            謹白       東海道豊橋停車場前   【屋号:山形に七】山田旅舘 【左頁】 内外書籍雑誌 学校用文房具《割書:販|売》 洋服トンビ帽子 附属品調進処 兵書専売 陸軍御用書肆         豊橋呉服町北側          豊川堂本店         豊橋呉服町南側          豊川堂洋物店         豊橋中八町営門前          豊川堂竹内商店 【右頁】 森河商店  洋服調進。附属品。西洋小間物 弊店は世の流行に先ちて右の品々貴需に供し特  に洋服に至つては多年欧米にて丹精を凝し たる職工をして裁縫に従事せしむれば其確実な  ることは一度弊店に注文せられたる方々の 熟知する所なり        豊橋町大字西八町      店主 森河孝一 【左頁】 豊川閣総門 豊川閣本堂        赤岩山法言寺 豊川三明寺        豊橋別院 下地聖眼寺        豊橋悟眞寺 豊橋停車場        豊橋停車場通 神武天皇御銅像 鳳來寺         東上牛瀧 本宮山砥鹿神社         辨天の蓮 豐橋神明社         吉田神社 第十七旅團本部         第十八聯隊                渥美郡役所 羽田文庫       愛知縣第四中學校 神野新田碑       田原華山翁碑 渥美郡伊良湖崎 蒲郡辨天島       日出石門 日出石門(其二)         多米の瀧 中山試砲所         石卷山 豊橋病院 豊橋西八町山田眼科院 豊橋中八町岡田眼療院            豊橋札木町鍵屋小原藥店 外科内科婦人科小兒科 隨時入院治療之需メニ應ス 貧困者ハ當地之新聞捺印券持參者ハ施療   辻村醫院  豊橋町字呉服           呉服太物            洋反物小袖類           幷ニ各國漆器(唐木細工)            三州豊橋曲尺手町             八文字屋           高須■商店【■は八に●】            (電信畧號タカス) 豊橋港町原田萬久烟草製造塲           豐橋坂新道粟屋醫院病室 院長菅沼忠人 豊橋町大字中八町 菅沼眼科院 西尾銀行豊橋支店 A restauraut anb A hotel 【restaurant and の誤植】 Toyohashi. Senzairo. 料理店兼旅舘豊橋千歳樓 豊橋札木町錦光堂陶磁器店           豊橋停車塲通岡田屋旅舘 調劑藥舖 豊橋呉服町 大丈本店   藥劑師中村丈三  豊橋停車塲前大丈支店  豊橋花園町大丈支店  北設楽郡田口町大丈支店           呉服太物            豊橋町大字呉服           佐藤■呉服店【■は一+九】 料理店豊橋百花園更科   豊橋呉服町劇場東雲座 豊橋呉服町大谷屋   大谷屋呉服店は最も厚き   信用あり猶益々出精仕候   大谷屋呉服店の織物は御   為め向一方にして且つ其正札値   段は誠に安く候   大谷屋呉服店の織物は総   て其原産地より直取引也   大谷屋呉服店は御婚礼其   外晴れの御儀式服は別段に入念   調進致候   「営業案内書有之御望次第進上」 愛知銀行豐橋支店                   三河セメント會社          豐川鐡道株式會社 二川岩屋觀音        鮎瀧 阿寺七瀧 新城桜ケ淵       豊川駅停車場 琵琶ヶ淵       豊川閣(其三) 名号地岩石       仝上伝馬町通 長篠城跡       豊橋札木町通 吉田橋       豊橋悟眞寺       前ノ悟眞寺ハ龍拈寺ノ誤植 牟呂渡船場       小松原観音 和地大山       新宮山紀念碑 鸚鵡石       八幡国分寺 豊橋町旧大手織田写真舘撮影 東京京橋区卅間堀報文社製版 名古屋通信社印刷部長谷川活版所印刷       宮路山紅葉看覧 【上段】 豊橋旧大手 織田写真舘 【下段】    聞紙なり   ●参陽新報は三遠地方唯一の新  ○参陽新報発行所 参陽印刷合資会社  ○諸種活版印刷所   ●参陽印刷合資会社は豊橋西八    町にあり 芸妓美人鏡 (元山水)小八重 (福菱)お花 (浜松明石屋)小浜 (元山水)兼子 名古屋納屋橋東南詰 名古屋通信社印刷部 長谷川活版所印刷 【上段】 (新玉家)小半 (元山水)豆子 (新玉屋)小雪 【下段】 (浜松蔦屋)雪子 (福菱)のぶ (金花楼)〆子 (新玉屋)小園 (福菱)いろ   豐橋 旅館 小嶋屋     附 名産納豆製造販賣 【右頁】 改良農具 稲扱いろ〳〵并に保険附なをし 麦扱、麦打、麦摺 穀扱用除芥器、 千石通、籾摺、真棒 田の草取、ニカリ撰手 改良蚕具 養蚕室消毒兼用暖炉 よりまふし即製器 桑扱、桑摘、桑切鎌庖刀 寒暖計 大徳用炭焚富貴竈 大徳用石油瓦斯竈 大徳用軽便風呂釜 何レモ西洋竈ヨリ五割以上徳用 めがね、洋傘、足袋 ネル切、屑糸るい 大勉強卸小売   豊橋横町突当西詰   岩田屋 石田民作 【左頁】 【上図】 登録商標 TOYOKAWA MIKAWA JAPAN 御菓子 豊川名産 福寿石 三州豊川 岡田屋謹製 【下】   豊川山参詣者ヘ注意 豊川名産福寿石ハ豊川閣奥ノ院中門ノ内ニ敷キ詰メアル 小石ヲ摸造シマシタ菓子デ御座イマシテ豊川ヘ行キテ岡 田屋製福寿石ヲ求メザレバ参詣シタル印ナシ■【ト】迄空前ノ 大好評ヲ博シマシタノハ風味ガ高尚デ体裁ガ優美ナノハ 勿論登録商標ガ御宝珠ノ両側ヘ白キ狐ガ手ヲ掛ケ居ル所 デ真ニ土産物トシテハ唯一ノ品デアル夫レノミナラズ五 二会ヤ品評会デ賞状ヲ受ケタ様ナ訳デアルカラ実ニ弊店 ハ無上ノ光栄デアリマス故益々原料ヲ精撰シ職工ニ注意 ヲ与ヘ御厚意ニ反カザランヿヲ勉メマスカラ御愛評ヲ願 ヒマス ●近来粗製ノ類似品アリ御求メノ際ハ登録  商標ニ御注意目ヲ乞フ                  豊川在麻生田     福寿石製造元祖御菓子司  岡田屋                豊川停車場通リ     御土産菓子大販売所    岡田屋支店 ●販売所ハ御門前豊川停車場豊橋停車場等各所ニアリ 【右頁】 牛久保支店 国府出張店 三谷出張店 老津出張店 富岡出張店  株式 三遠銀行  会■【社】 【左頁】   和洋菓子調進    御注文ハ御好ニ応ズ  特製品受賞御披露 一鉢の木 香川県内国国益品博覧会      有功賞銀牌受領 一袖摸様 愛知県第五回五二会品評会 一柚香糖 二等賞銀牌受領          豊橋町 和洋菓子舗 【松葉菱に「若」】 若松園 【右頁】 東京王子製紙株式会社製紙 遠州気田製紙分社製洋紙 遠州中部製紙分社製洋紙 大阪阿部製紙所製紙 千寿製紙株式会社製紙   {其他   英米   独墺   各国   舶来   洋紙} 右特約格別廉価に販売可仕候別て新聞紙の如きは内外製共平判 並に臨転器械巻取紙其他印刷用紙煙草包紙等各位の御望に応じ 紙巾厚薄等別段抄造可致に付陸続御注文被下度奉希望候敬白               豊橋湊町  和洋紙卸問屋 【○に小】 小柳津伊三郎 【左頁】       三河豊橋 無限責任  合名会社   山乃内銀行《割書:豊|橋》支店       関屋町通 【右頁上】   株式会社 大野銀行豊橋支店   営業所 豊橋町大字船町 【右頁下】   御料理 豊川の水は清く楼下を流れ石巻の  山は近く目前に逼ひ堤防の楼【?】弁 天の蓮本宮の雪など四季の眺望佳  絶にして特に料理の義は新鮮美 味のものを調進致すべければ幾重  にも御愛顧あらんことを希ふ   豊橋町大字船町        酔翁亭   豊川岸        仝支店 【左頁】 東参五郡略図 【下・凡例】 ・鉄道 ・国境 ・郡界 ・町村 ・名勝 ・河川 【図中地名は次頁を参照】 【表題】 東参五郡略図 【左下・凡例】  北 西 東  南 ・鉄道 ・国境 ・郡界 ・町村 ・名勝 ・河川 【図中地名】 美濃国 信濃国 遠江国  天竜川 ハマナ湖 東加茂郡 足助川 額田郡  岡崎 矢作川 幡豆郡 北設楽郡 ●津具 ●稲橋 ●田口 ●本郷      ▲段戸産馬場 ▲川合石橋 南設楽郡 ●海老 ●大海 ●新城      ▲鳳来寺 ▲長篠 宝飯郡  ●蒲郡 ●御油 ●豊川 ●牛久保 ●前芝      ▲弁天島 ▲宮路山 ▲本宮山 ▲三明寺       トヨ川 八名郡  ●大野 ●富岡      ▲阿寺七滝 ▲石巻山 渥美郡  豊橋 ●二川 ●牟呂 ●田原 ●伊良湖崎      ▲高師原 ▲岩屋観音 ▲鸚鵡岩 ▲中山試砲所 ▲日出石門 遠州灘 太平洋 衣ヶ浦       東参名勝案内                        編者 参洋子             緒言 参河国は上古穂の国、御川の国と唱へ後三河と改め又何時の頃よりか東三河西三河の区別を なすに至れり、蓋東参は豊橋を中心として南北設楽、八名、宝飯、渥美の五郡相接続し、西 参は岡崎を軌軸として東西加茂、額田、碧海、幡豆の五郡相連結するが故なり、而して参河 の地たる所謂名所旧蹟の伝ふべきものなしとせず、去れど未だ之れが案内記あるを聞かず、 思ふに名勝の地を弘く社会に紹介するは啻に歴史地理の参考となり探凉避寒の栞たるのみ ならず、交通の材料となり旅客の案内となりて、土地の繁栄を稗補すること尠少にあらざる べしと信ず、是に於て其第一着手として本編を発行するに至れり、然れども急速の編纂に係 り詳略其当を得ざるは編者が江湖に向つて予め謝する所なり、 本書を東参名勝案内と謂ふ、所謂名所旧蹟のみを蒐集せるものにあらずして、現時に於て有 名なる官衙、商店等をも弘く採録せり、是れ即ち名勝(●●)なる文字を選みたる所以なり、                                 一                                 二 東参五郡、曰く渥美郡、曰く宝飯郡、曰く、八名郡、曰く南設楽郡、曰く北設楽郡、此五郡 の内渥美、宝飯の二郡は海岸の地にして八名及び南北設楽の三郡は山間の地たり、去れど豊 川の流と鉄車の便とによりて海陸の交通は益発達し、山間の木材其他の貨物は直ちに豊橋市 場に集りて各地に輸送せられ、海岸の魚類は即時に運搬せられて南北設楽の山間に於ても其 日の膳部に上すを得、殆んと五郡は隣保の如し、 東参に於ける市街地は豊橋町(●●●)を首とす、蓋豊橋町の繁華は岡崎町及び遠州浜松町にも過ぎて 実に三遠両国中第一位に在り、而して東参に於て豊橋町に亜くの地は南設楽郡/新城町(●●●)にして 次は八名郡/大野町(●●●)、南設楽郡/海老町(●●●)、宝飯郡/豊川町(●●●)、渥美郡/田原町(●●●)等にて、宝飯郡の御油赤 坂町等は旧時の観だになし、次に所謂名所旧蹟にあらずして輓近の創設に係る北設楽郡段戸 山/産馬種蓄場(●●●●●)、渥美郡中山村/中山試砲所(●●●●●)は、何れも官設にして東参の地に幾多の光彩を添へ つゝあり。    《割書:東|参》名勝案内   ○渥美郡 ●起原 上古は豊川の水流今日の如くなら ず豊川町辺りが河口にて東は牛川村西は小坂 井、牛久保町北は一宮辺まて湾入し南は吉田 方、牟呂村より豊橋町大字飽海辺まて入海な りしなり万葉集に大舟乎(オホフネヲ)荒海爾(アラウミニ)䅭(コギ)【榜?】出(ダシ)云々又/白(シラ) 浪乃(ナミノ)高荒海乎(タカアラウミヲ)云々とあるは現今の豊橋町大字 飽海辺(アクミ)の波濤荒れたるより出たる名称にて荒 海の語転化して飽海と謂ふに至りたるものな らん而して和名抄に「阿豆美」と云ひ又は渥美 に「安久美」郷ありと云へるより考ふれば渥美 郡の起原は飽海の言葉の転化して自然と命名 せられたるものと云ふべし ●豊川 吉田川、又姉川とも謂ひしと水源 を北設楽に発して南設楽を貫流し八名、渥美、 宝飯三郡の界を流れて衣ヶ浦に注ぐ故に豊橋 の繁華否東参五郡の利便発達は此豊川の水流 に資する所多しと云ふべし、而して沿岸各地 の絶景は以下夫れ〳〵記する所の如くにて東 参の名勝は此水流に依りて名を著はす者多し    衣笠内大臣の詠  かり人のやはきにこよひやとりなば     あすや渡らんとよ川の波    贈大納言雅世卿の詠  かり枕いまいく夜へて十よ川や     あさたつ浪の末をいそがむ   吉田川旧謂之豊河今此川以北可二里有豊            三            四   川地名而非河矣蓋風土記所謂豊河長者住   処也        山崎暗齋  東西釣命置郵伝   表道青松成列連  風色正豊風水靖   吉田城下吉田川    癸已紀行     林道春  吉田昔日戦攻場   一旦功成洪祚長  行客憑誰誇子産   勝於港洧不橋梁    東遊紀行     山崎暗齋  扁舟一葉逐流謡   馬上暫看快短撓  漠帒薛張有遺諫   為君題去吉田橋    豊水観月(二首)  柏如亭  豊水橋西薄暮天   間登三五月明船  秋風不作思郷夢   且為鱸魚拚半年     ~~~~~~~~~~~  詩酒何妨為久留   又追佳興在軽舟  全虀玉鱠玻瓈月   併作中秋一夜遊    豊川竹枝(二首)  関根痴堂  髩雲梳月両嬋妍   花外楼台柳外船  不算維揚春廿四   一橋占此好風烟     ~~~~~~~~~~~  千戸繁華水一川   帆檣林立海門天  黄金撑斗如有術   鉄鋳長橋繋火船 ●豊橋 渥美郡の北端にて豊川の南岸 に臨む、往昔今橋と唱へ維新前までは吉田と 称せり、吉田城は後柏原天皇永正二年即ち四 百年前今川氏親の臣牧野成時の築きたるもの にて、其後松平信綱(智恵伊豆)の子孫大河内 氏藩封七万石にて明治の始めまで支配せし城 下なり、明治十八年旧城廓に歩兵第十八聯隊 を置き続いて第十七旅団司令部を設けらる、 目下市制を施行せんと之れが調査中なり    いまはしと云ふ所にて             贈大納言雅世卿  君がためわたす今橋いまよりは     いく万代をかけてみゆらん    いまはしの御泊りにて             尭孝法師   夜とともに月すみ渡る今橋や     明過るまで立そやすらふ    東海日記     小野通女  古郷の里の名なればなつかしや      よしや都のよしだならねど    廿九日ごゆといふ所にとまりぬ吉田と    いふ所を行にふるさとにてはきかざり    しほとゝぎすのおほくなきければ             高原院大婦人  はつ音だにまたよそなりし時鳥      しばなくこゑをきゝくらすかな    天明六年丙午閏十月三日女伕院芝山宰    相持豊卿関東より御上り大木十右衛門    宅に御とまりにて  たち出む名残ぞあかぬ旅のやど      あるじもふけのふかきなさけに    三河鳥巣にあふて  かくさぬぞ宿は菜汁に唐辛 はせを    越人と吉田の駅にて  寒けれど二人旅寐ぞ楽しき 仝人  旅寐して見しや浮世の煤払 越人    吉田酒屋巴牛に宿りて  酒蔵の窓の小春を見に起ん 巴静    丙辰紀行     林道春              五            六  行々何日窮 相送数州風 馬過暁霜上  龍横道路中 川流無昼夜 人物有西東  一枕還郷夢 家書久不通    豊橋四時雑詞(録三首) 関根痴堂  細腰低髩学江城   児女風姿艶更清  別有可隣山水在   媚煙明翠似西京     ~~~~~~~~~~~  花不招人人自来   今時春色勝当時  彩毫誰為翻旧曲   唱出豊橋新竹枝     ~~~~~~~~~~~  郎住源頭儂港頭   望郎日々使儂愁  相思欲寄双行涙   無奈豊川不倒流    豊橋竹枝(二首)   森春濤  招客古謡称吉田   楼佳妓妙久喧伝  倚欄長袖麑斑纈   露指掺々最可憐     ~~~~~~~~~~~  欲為情郎賽百面   攀縁有路苦無媒  霊源一帯豊川水   直自白狐廟下来 ○歩兵第十八聯隊営所(●●●●●●●●●) 西八町と中八町との 境界道路より本門に入る、東は練兵場に出で 西は関屋町に通する両門を控へ、北は豊川の 清流に沿ふ、 ○第十七旅団司令部(●●●●●●●●) 東八町の尽る所より北 に折れて約二町にして本門に入る、歩兵第十 八聯隊と静岡第三十四聯隊とを監す、 ○【傍点ここから】官衙と学校【傍点ここまで】 軍隊の外官衙は、渥美郡役所 と豊橋憲兵屯所は西八町に、豊橋区裁判所と 豊橋税務署は中八町に、豊橋郵便電信局は札 木町に在り、学校は愛知県第四中学校、高等 小学校、尋常小学校三個所、私立盲唖学校、 東海育児院、素修学校等あり、高等女学校商 業学校設立の計画中なれば遠からずして開校 せらるべし ○新聞(●●) 参陽新報、東海日報、社交新報の外 商況を報ずる二新聞あり ○料理店(●●●) 札木町千歳楼は高尚を以て船町酔 翁亭は廉直を以て百花園更科は風景を以て相 対峙せり ○旅舘(●●) 札木町桝屋最も古く仝町小島屋弘く 世間に聞へ停車場前にて岡田屋、壺屋、山田 館等最も著れ何れも兄たり難く弟たり難し ○病院(●●) 豊橋病院最も盛にして医学士二名外 医員数名ありて内科、外科、眼科等に分てり 河合病院、粟屋医院、辻村医院、は外科治療 に其名高く菅沼、岡田、山田、の各医院は眼 科専門にて治療を乞ふもの常に門に充ち其他 内科治療にては新藤、鈴木、久野、等評判宜 し ○遊興所(●●●) 吉田通れば二階から招くの俗謡に よりて吉田の遊里は古来名高きものなり現今 の遊廓(●●)は札木町と上伝馬町にて札木は上品に て上伝馬は軽便にて相譲らず又/劇場(●●)は三箇所 あり呉服町東雲座は株式会社組織にて新規宏 壮其第一位を占む上伝馬の弥生座庚申塚の豊 橋座之れに次ぐ其他遊興所と謂ふべきは上伝 馬に寄亭朝日座あるのみ    ○関小万の墓 (附略歴) 俗謡に「関の小万は亀山通ひ月に雪駄が廿五 足」又「馬が戻たに与作さんはまだか関の小 万が鳥渡とめるシヨンガイナ」と唱へられし 関小万の墓は豊橋町上伝馬賢養院境内墓所北 の隅なる五輪の石塔なりと云ひ伝ふされど夫 より南の方に山田平八代々の石碑あり其が中            七            八 に小万夫婦の石碑あり小万が夫は平八方の本 家なれど其家断絶せしかば別家の山田平八方 にて石碑を立て祭れるなるべしと而して前記 俗謡の来歴を案ずるに小万は勢州関の駅の妓 女なりしが丹波亀山の家臣に与作なるものあ り故ありて浪士となり零落して勢州亀山に住 せしが如何なる縁にや妓女小万と深く契を結 び小万毎夜忍びて亀山なる与作の許まで通ひ しとかや斯くて与作は主家へ帰参かなひける 折抦其頃三州吉田駅坂下町に山田市郎右衛門 と云ふ小間物商人仕入の為め京都へ往復する 都度彼の小万の艶麗なるを見染めて通ひ詰め たれば与作が迎へて妻女となさんとせしを断 りて遂に市郎右衛門の為に身受けせられ吉田 に連れ来られ家内睦まじく家業を励み享年六 十余才にて天和四年甲子六月三日死去せりと ぞ ○悟真寺(●●●) 豊橋関屋町に在り孤峰山浄業院と 号し浄土宗に属す、人皇五十九代後光厳 帝 御子、貞治五年善忠上生上人寂翁和尚将軍足 利義詮に乞ふて創建せし所なりと云ふ、明治 十一年十月 今上陛下御巡幸の砌当寺を以て 行在所と定めさらせれたり    御忌寒《割書:自正月十九日|至仝 廿五日》   関根痴堂  料峭寒威暁更濃   憐他群【草革ヵ】屐■【闌ヵ】春容  江雲黯澹天将雪   枕上風伝御忌鐘 ○龍拈寺(●●●) 豊橋吉屋町にあり曹洞宗にて郡中 屈指の巨刹なり旧吉田藩主の崇仰篤かりしと 又手間町西光寺にありし観世左近太夫の墓を 何時の頃か此境内に移せり    五百羅漢      関根痴堂  松寺無塵昼自間   納涼人去縁陰間  清風五百阿羅漢   不用尋仙向雪山 ○別院(●●) 豊橋花園町にあり西竺山誓念寺と称 し真宗大谷派の別院なり当山は往昔真言宗に て西竺寺と号せしが天文甲午歳本願寺十世前 大僧正証如上人懸所となす    ○観世左近太夫の墓 (暗殺) 豊橋吉屋町龍拈寺境内に在り案ずるに観世左 日太夫は元祖伊賀国服部氏の別れにて南部春 大明神の神楽役者衆となりいつの比よりか近 京都に移り住みて和楽謡曲の師となり門弟多 くありける中に妓女の容姿婀娜たるに馴染て 妻となせしが此女至つて嫉妬の念深かりけれ ば左近太夫も持てあまし妓女を振り捨て都の 住居を夜逃して吉田(豊橋)に来り猿屋小路 (中瀬古)に仮住居せり去る程に謡曲の門人も 数多出来て何不足なく暮せしが一朝日闌なる まで其門も蔀も開かざれば近隣の人々怪みて 誰彼立会戸を推明けて見るに左近太夫面部よ り手足に至るまで甚だしく疵つきて死し居た りければ人々其不思議なるを怪み門弟共は涙 と共に埋葬しけるとなん思ふに此頃は大阪と 関東との不和合中にて謡曲師殿中に往来して 内通をなせりと謂へば観世太夫の横死も亦之 れが為めならん然るに巷説に曰く左近太夫死 去数日を経たる後図らずも妻たりし妓女尋ね 来りて謂ふよう一夜嫉妬の余り太夫を惨酷な る目にあはし非命の最後を遂げしめたると夢 み都に留まり兼て遥る〳〵尋ね来りたりと告            九            十 げ惜げなくも緑髪を絶ちて太夫の後世を弔ひ たりと云ふ左近太夫の死去は天正五丁丑正月 廿九日法名浄光院殿玉庵宗金居士 ○吉田神社(●●●●)(烟火) 天王社と云ふ豊橋関屋町 百花園裏にあり素盞烏尊を祀る、創建の時代 は桓武天皇の御世ならんと云ふ、いつの比に や天より降たりとて影降石(●●●)と名づくる奇石鳥 居を入りたる十歩許りの所にあり、当社の例 祭は毎年六月十三、十四、十五、の三日にて 十三日十四日は烟火(●●)を打揚ぐ大梨(オホナシ)と称する神 前の烟火百雷の一時に鳴り渡るが如く又豊川 岸の打揚げ烟火は其千態万状見るものをして 快哉を叫ばしむ、彼の東京両国川開きの烟火 などの遠く及ぶ所にあらず、十五日は神輿(●●)の 渡御あり儀仗中/笹踊(●●)ありて異様の服装を為し 編笠をかぶりて大勢同音に唱歌をなす頗る奇 観なり    祇園神会烟火    関根痴堂  楼々煙戯闘豪奢   璧月珠星各自誇  小女十三多意気   柔荑能放大梨花     ~~~~~~~~~~~  水村烟戯是開頭   妝出豊川第一遊  橋上笑歌橋下舞   燈光酒影満中流 ○神明社(●●●)(鬼祭) 豊橋中八町に在り天照皇大 神を祭る例祭正月十四日社前に於て白帳烏帽 子着の神人立並び的を射る勝負を論ずるにあ らず神事なり而して鬼祭(●●)と称して市中は大賑 ひなり即ち神前に於て赤鬼は撞木を持ち猿田 彦は長刀にて闘をなし終れば産土子の大勢裃 をつけて赤鬼を追社【?】て地を出で市中を駆け廻 る道路飴を投げ大声を揚げて呼ばり又稚児と 称する者ありて異風の踊あり後又赤鬼黒鬼榎 玉を争ふ    神明社鬼祭     関根痴堂  金輿照路彩幡新   赤鬼跳梁黒鬼瞋  不似送窮寒気象   満城笑語競迎春 ○弁天(●●)の(●)蓮(●) 豊橋港町神明社境内にあり池中 蓮華を植ゑ東京の上野弁財天の小なるもの夏 時遊客群をなす案するに正徳年中池中に島を 築きて蓬莱を形作り山田宗編が風流をすさび たるものなり ○第十八聯隊紀念碑(●●●●●●●●)(御銅像) 東八町北端練 兵場東南隅にあり神武天皇御銅像を安置す高 数丈弓箭を持して直立せり威儀厳然人自ら礼 拝す 毎年三月九日招魂祭を執行豊橋町挙て余興内 を催す烟火あり、山車あり、競馬あり、撃剣 あり、柔術あり、角力あり、弓術あり、手踊 あり、近在より老弱男女群集して流石に広き 練兵場も人の山を築く ○関屋(●●)、新銭(●●)、魚市(●●) 三河古老伝に曰く吉田川 に関ありしに永禄合戦の後廃して其所を旧城 内関屋門といふ蓋し関屋町(●●●)は之より起りしな らん、又/新銭町(●●●)の起原を索ぬるに往昔水野隼 人正忠清朝臣吉田在城の節寛永十三、十四二 ヶ年の内台命に依つて新銭を鋳る是に依て新 銭町の名あり(因に諸国に吉田駒位官駒の二 品あり是は新銭を鋳たる数を知らん為に十文 に一文づゝ駒引銭を鋳て通用したり其名残に て今も百文を十疋といふ是れ百文に駒引銭十            十一            十二 文ある故なり)魚町(●●)元魚屋町といふ同町の魚 市は古来諸国に稀なる繁昌にて片浜十三里は 夏にも謂はず衣ヶ浦及び遠州駿州の海浜より 送り来つて市をなす昼夜間断あることなし魚 町の称空しからず而して消防に於ては豊橋町 中に冠たり    防火夫之盛以魚街為最 関根痴堂  防火隊中年少郎   好身健手冠魚坊  生来不帯屠沽習   占断春風侠骨香 ○狐塚(●●)、首斬地蔵(●●●●)、入道(●●)が(●)淵(●) 狐塚は豊橋魚町 に首斬地蔵は仝中柴に入道が淵は豊川関屋河 岸上流にありて何れも奇談怪説を伝ふ ○鹿子(●●)の(●)振袖(●●) 「吉田通れば二階から招く加 かも鹿子の振袖で」と唄ひ初しは何れの頃に や判然せざれど鬼之の句などにあるを以て見 れば元禄以前なりしことは明なり而して其由 縁を尋ぬるに吉田駅呉服町に林某なるものあ り同家に艶姿婀娜たる娘ありけるが如何なる 事にや心そゞろになりて常に鹿子絞りの振袖 を着通行人を見れば一向二階より招きしより 此歌を作りたるなりと云ふ去れど吉田駅遊女 が二階から客人を招きしより起りたりとも又 は京の吉田御殿に令嬢ありて此状態をなした るより起りたりとも謂ふ何れが信か考証に苦 しむ ○豊橋産物(●●●●) 吉田芋、納豆、豆霰、竹輪、吉 田鎌、等は古来よりの産物なるが昨今国産と して益発達しつゝあるは原田工場製造烟草と 生糸産出は近国に誇るに足るべく次に醤油醸 造、蜜柑産出もまた産物として数ふべきもの なり ●羽田文庫(紅葉) 花田村字羽田八幡 宮境内に在りて神官羽田野氏之を管すこは吉 田駅福谷水竹外五六氏嘉永二年に造立したる ものにて三条実方公、水府源烈公の奉納書を 初め蔵書一万三千巻の多きに及び額幡太文庫 の四字和田氏の書、積中外諸典五大字三保右 大臣実万公の筆なり蔵書は弘く公衆の閲覧に 供す又境内に楓樹あり紅葉の名所を以て其名 著る豊橋停車場を距る僅かに五町、 ●牟呂渡船場(釣魚) 豊橋町を西に去 る約一里有名なる神野新田のある所なり田原 町へ海上四里毎日数回汽船の往復ありて旅客 の便をなす此海岸波穏かにして秋日釣魚の人 士群をなす 牟呂を称する所いづれにも海辺にありムロは 群の転語にて人民群居する意なり同所西南海 中に龍江と云ふ所あり往昔雨乞をなせし所な りと夫木集にある龍の細江と読める左の歌は 茲処を指したるものにはあらずや    正三位知家卿詠歌  沖つなみ龍のほそへの浦がくれ     風もふくやととまるふな人    従二位行能卿詠歌  興津風たつの細江のしきなみに     かさなるものは恨なりけり ●岩屋観音(つゝじ、茸狩) 大川町大字 大岩に属す大厳石高八丈幅十余丈岩上に正観 世音の銅立像鎮座す長一丈三尺銘に云明和二 乙酉年八月大吉日江戸下谷講中と同所は豊橋            十三            十四 町を趾る里余二川停車場より僅かに五町東海 道汽車の窓より眺むべし風景四時とも絶佳に して特に岩上に登れば遠く衣ヶ浦及遠州灘を 望み又桜躑躅茸■等の名所なれば春暖秋涼の 候遊覧の人士遠近より集る    窟観音       関根痴堂  石鏡峰前百尺梯   花晨月夕好攀躋  金仙【?】立在危巌上   導得遊人路不迷 ●二川駅 今は大川町の内に属す往昔二 川駅は其名最も著れ近来は生糸製造を以て其 名高し    後撰夷典集     小堀宗甫  国は三河里は二川あはすれば     いつかはかへりみやこなるらん    夫木集       西行上人  なかれてはいづれの世にかとまるべき     なみだをわくるふた川の関    明歴道中記     正貞  満月もはるゝ二川のなみ間かな    句集        はせを  紫陽花や藪を小庭の別座敷 ○二子塚(●●●) 二川駅の東並木左の方に富士の見 所ありそこを謂ひしなるべし    覧富士記     足利義教公   今日なむ遠江国塩見坂に至りおはします   云々二子塚と申侍りし所にて富士を御覧   じそめられたるよし仰せられて  たぐひなきふじをみそむる道の名を     ふたごづかとはいかでいはまし   これについて申侍し  尭孝法師  契なれやけふのゆくての二子づか     こゝより富士を相みそめぬる ○末之腹野(●●●●) 二川駅東南に在る下細谷の原野 を謂ふ    万葉集  梓弓末之腹野爾鷹田為(アヅサユミスヱノハラノニトガリスル)     君之弓食将絶念甕屋(キミノユヅルノタエントオモヘヤ)    続後撰集     前中納言定家卿  契りなきし末の原野のもとかしは    それともしらじよその霜がれ    続古今集      光時峯寺入道  ぬれつゝぞしひてとがりのあづさ弓    末のはらのにあられふるらし    夫木集       禅性法師  うづらなく末のはら野のはぎがへに    秋の色ある夕つくひかな ○峯野(●●)の(●)原(●) 二川駅近傍ならん未だ詳にせず    貞応海道記     源朝臣光行   十日豊川を立て野くれ里くれはる〳〵と   通れば峯野の原といふ所あり云々雲は峯   の松風にはれて山の色天とひとつに染た   り遠望の感心情つきがたし  山のはは露よりそとにうづもれて    野末の草にあくるしのゝめ    名寄        鴨長明  うづらふす峯野の原を朝行ば    いらこが崎にたづ鳴わたる ●高師村(原と山) 郡内最も古き村落に て和名抄に高蘆とあり又往古は皇太神宮の御 神領なりしと見へて神風抄に高足御厨とあり            十五            十六 而して古来高師山、高足原など唱へられて和 歌に詠せられたるが今は高師原は歩兵第十八 聯隊の演習地となりて日本全国中屈指の箇所 となり居れり    新続古今集    前中納言雅孝卿  くれやらでかげは猶もたかし山     思ふとまりやすぎてゆかまし    夫木集       西行法師  朝風にみなとをいづるともふねは     たかしの山のもみじなりけり    仝         正二位為家卿  たかし山夕立はてゝやすらへば     ふもとのはまにもしほやく見ゆ    富士歴覧記   入道中納言雅康卿  昔よりその名ばかりやたかし山     いづくを麓みねとしもなし ●東観音寺(●●●●) 小沢村大字小松原に在り豊橋を 距る二里余小松原観音と称し其名遠近に聞ゆ 臨済宗にして人皇四十五代聖武天皇御代天平 聖暦五年行基法師の建立に係る同帝勅願所の 綸旨并に宸筆の勅額二枚を下し玉ひ山門及本 門に掲ぐ古書画古器物等稀代のもの数多あり 土地高峻にして堂宇又観つべし    夫木集       清輔朝臣  行すへのはるかにみゆる小松はち     君がちとせのためしなりけり ●老津島(●●●) (海水浴) 老津村にある洲崎を云ふ 近年海水浴場を開く豊橋町より牟呂渡船場を 経て嘱目の内にあり風浪静にして網を投ずべ く魚を釣るべく好箇の避暑地なり往昔既に紫 式部の歌あり    家集        紫式部   三河海に老津島といふ洲にむかひて童部   の浦といふ入海のおかしきを口すさみに  おいつ島しまもる神やいさむらん     波もさわがぬわらはべの浦    天津縄手にて    はせを  すくみゆくや馬上にこほるかげ法師 ●田原町(華山翁碑) 郡の中央にありて 田原湾を抱き豊橋に次ての市街なり往古は皇 太神宮の御神領なりしと見へて神鳳抄に田原 御厨とあり其後年歴を経て明応年中戸田弾正 左右衛門宗光当所に築城して居住し後三宅氏 一万二千石の封地にて城主となり子孫相次ぎ 明治の初めに至る城趾は市街の北隅にありて 巴江神社及幕末の名士渡辺華山翁の碑あり風 光頗る佳なり ●蘆(●)ヶ(●)池(●)(阿志神社) 野田村大字芦に在り周 廻凡一里灌漑に便ずる為めに開鑿したるもの にて田園の景色又賞するに足る特に秋冬の候 鴨雁の群集するありて遊猟の好場所なり池の 近傍に阿志神社と称する古き郷社あり其名又 著る ●鸚鵡石(●●●) 泉村大字馬伏にあり田原町を去る 約三里の山中幽邃なる地にして三間に四間位 の岩石なり之に対し唱歌弾弦すれば反響して 恰も石中人ありて同様の弦歌をなすが如し依 て鸚鵡石の名あり春夏の候杖を曳くもの多し ●杜国(●●)の(●)墓(●)(俳人) 福江町大字畠にあり杜国 は元尾州の人罪ありて死刑に処せらるべきを            十七            十八    蓬莱や御国のかざり檜山 の句を国主聞かせられて御感のあまり罪一等 を減じて伊良湖崎にながされ程もなく茲に終 りたるなり   伊良虞の杜国例ならず失けるよし越人よ   り申こしけるに翁もむつまじくて「鷹ひ   とつ見附てうれしと尋ね逢れけるむかし   を思ひて  羽ぬけとり啼音ばかりぞいらこ崎              其角     杜国の菴を尋て  さればこそあれたるまゝの霜の庵              はせを     杜国の畠村の隠居にて  麦のびてよき隠家や畑村   芭蕉     冬をさかりに椿さく也 越人  昼の空蚤かむ犬の寐ころびて 杜国     いそがすばぬれまじものを旅人の  馬はぬれ牛は夕日の北時雨  杜国     窓にうごかぬ十月の蠅 越人   ~~~~~~~~~~~~~~  万菊の香もかれず畠村    春湖  新麦の入津盛りや畠村    蓬宇 ●和地大山(●●●●) 和地村に属す本郡第一の高山な るが中古起戸村と訴訟せしより俗に起戸大山 とも称す航海者の目標となり居れり此山を中 心として郡内の山脈東西に分る古来其名最も 著る     三日市城主榊原民部少輔歌  詠むればさるが岩谷に猪が城       和地大山の樫の木の峰     酒井姫路城主歌  すさまじや南長磯音高根     わじ大山の峰の高たう ●常光寺(●●●) 堀切村大字堀切にあり曹洞宗にし て応仁二年烏丸弐代准大臣資任卿の建立にか かる堂宇宏壮にして郡内有数の寺院なり蔵す る所の晁殿司筆竪八尺横五尺五寸涅槃大画像 弘法太師の観音立像其他什物数多あり ●中山試砲所(●●●●●) 中山村字小中山より伊良湖村 に亘りたる海岸に設置せる大砲試験場にして 昨今大砲二門あり屋舎の新築中にて未だ全く 竣功せず此沿海は衣ヶ浦にして直ちに伊勢の 海に連り伊良湖崎を志摩国との関門を過ぎて 太平洋に通す ●日出石門(●●●●) 伊良湖村大字日出にあり一は陸 に一は海にありて虎嘯龍蟠の巌石洞門をなす 歩して通ずべく棹して渡るを得其奇景絶勝容 易に需むべからず又夏時海水を浴するに足る 然れども土地辺陬にして豊橋を距る拾壱里此 絶景の世に知られざるは遺憾と云ふべし ●伊良湖崎 渥美郡の尽くる所遥かに尾 州知多郡の羽豆崎と相対して衣ヶ浦を抱擁す 岬頭小山の端より北に廻れば内海衣ヶ浦にし て海浅く白砂清く夏時遊泳に最も適当し僅弐 十余町にして中山試砲所に至るべく又南岸を 歩すれば奇巌怪石海中に蟠まり一里足らずし て日出石門に達するを得べし而して海岸釣を 垂るべく海馬島に遊猟すべく実に斯の如き風 光佳絶の地は東海道中見るべからざる所なり            十九            二十 ○往昔(●●)の(●)伊良虞(●●●) 昔は此地孤島にして伊勢国 に属したるが如し万葉集に曰く   麻続王(ヲシノオホキミ)(天武天皇々子)流於伊勢国伊良虞   島之時人哀傷作歌  打麻乎麻続王泉郎有哉(ウチソヲヲミノオホキミアマナレヤ)     射等籠荷四間乃珠藻苅麻須(イラゴガシマノタマモカリマス)  空蝉之命乎惜美浪爾所湿(ウツセミノイノチヲヲシミナミニヌレ)     伊良虞能島之玉藻苅食(イラコガシマノタマモカリヲス)    続後拾遺     前中納言匡房卿  海士のかるいらこの崎のなのりその     名のりもはてぬほとゝぎす哉    夫木集       為忠朝臣  なぐさめにひろへば袖ぞぬれまさる     いらこが崎の恋わすれ貝    仝         西行上人    沖のかたより風のあしきとてかつをと    申いをつりける舟どものかへりけるを    見て  いらこ崎にかつをつる舟ならびうきて     はかちの波にうかびてぞよる    名寄        鴨朝臣長明  雲の浪いらこが嶋に分すてゝ     のどかにわたる秋の夜の月    伊良古崎は南の海の果にて鷹のはじめ    て渡る所といへりいらこ鷹など歌にも    よめりけると思へば猶あはれなる折ふ    し  鷹ひとつ見つけてうれし伊良古崎              はせを     ふたゝび同所にまかりて  いらこ崎ふるものはなし鷹の声              仝人  大沖の冬にさしでゝ伊良湖崎              蓬宇 ○伊良湖神社(●●●●●) 明神山の中腹に在り伊勢湾衣 ヶ浦を望みて風景殊に佳なり祭神は天照皇太 神にて毎年例祭(陰暦)四月十三日、十四日、 十五日埶行遠近より老弱男女群集す案するに 神名帳考に正三位伊良久大明神座渥美郡又東 鑑伊良湖御厨又神鳳抄外宮神領目録にも伊良 湖の御厨を載て御神領とす伊勢に属したる神 社なるべし   ○八名郡 ●起原(形勢) 此郡西豊川の流を帯び川上 より川下に至るまで川の流れをうけたる形ち 川魚を捕る梁(ヤナ)に似たり故に郡名を八名と云ふ か 郡役所は富岡村にあり町を称するは大野町あ るのみ元来本郡は三河の最東端にして東は遠 州敷知、引佐二郡北は北設楽、西は南設楽、 宝飯、南は渥美の各郡に接して繁盛の市街な きは地勢の然らしむる所なり ●皇居旧跡 下條村東下條字中屋敷に正 楽院あり境内に丸形五輪石塔(高八尺五寸)あ り文武天皇皇子竹内の陵なりと云ひ伝ふ旧記 に曰く文武天皇東夷を攻させ玉はんとて三州            二十一            二十二 星野郷に皇居を定め玉ふこと三年竹内皇子御 降誕程なく御不予にわたらせられ三明寺へ御 祈願あり又鳳来寺へも草鹿砥公宣卿を勅使と して遣はされ御祈祷の為め利修仙人へ護摩を 修せしめたりと皇子御陵の傍に十二后妃の石 塔あり又御所が池とて十二后妃が皇子の別れ を悲め身を投げたりと伝ふる池あれども真偽 判ずべからず文武天皇当国へ行幸の事史書に 見へず ○藤野村(●●●)の(●)古歌(●●) 何れを謂ふか判然せず下條 村に藤が池と謂ふあり茲を云ひしにや    夫木集(三河名所藤野村)              藤原朝臣宗国  むらさきのいとくりかくと見えつるは     ふぢのゝむらの花ざかりかも    仝上        藤原朝臣道経  きしなくてふぢのゝむらの藤浪は     松の木ずへにかゝるなりけり ●赤岩山(寺と桜) 多米村に在り法言寺 と称し真言宗にして蒲冠者範頼三河守たる時 藤九郎盛長をして造営せしめたる当国七堂の 一なり山上眺望幽邃にして門前の桜樹は東三 第一の美観なり尚渓流の瀧をなすありて春夏 の候騒人墨客の杖を曳くもの多く其名最も著 る豊橋を距る約一里半 ○多米瀧(●●●) 多米村にあり一に不動の瀧と云ふ 直下一丈二尺余幅三尺斗り此末流は朝倉川と なり豊橋に至りて豊川に入る夏時避暑の遊客 群集す ●石巻山(神社) 豊橋を東北に去る約一 里三輪村に属す頂上岩石を以て組織せられ山 容実に奇異なり四望濶達にして東南遠州灘浜 名湖を瞰下し東北は富嶽と相対し西方は又衣 ヶ浦より尾勢の山岳を全眸に収む其景色甚だ 雄大なり山腹に神社あり大巳貴命を祀る ●蒜生神社(緑野) 三上村字下屋敷に在り 大国主命を祀る宝物に印形石九顆を蔵し其一 個には  春ふかくなりゆくまゝに緑野の     池の玉藻もいろごとに見ゆ と和泉式部の詠を刻す夫木集に此歌を載す往 昔は三河守茲に出張して稲作の豊凶を撿分し 以て年貢を定めたり故に見取野と称せり中世 緑野と書し今三渡野と謂ふは此処なり又緑野 池みどり塚など謂ふ所あり    夫木集       小侍清  春雨のふりそめしよりみどりのゝ     池の汀もふかくなりゆく    仝         よみ人不知  みどりぬにうきたるはちす紅に     みづにごるなり波たつるゆめ  紅にはちすうきたるみどりぬに     しらなみ立てはこきまぜの花    漫吟集       契冲  みどり野の池への柳いざこゝに     春のものとて誰かうゑけん ●正宗寺(名画) 嵩山村に在り臨済宗妙 心寺派に属し土地高燥にして老杉古檜甚だ幽 趣なり往時応挙芦雪等の諸大家寄寓せしこと ありて染筆甚だ多く其他元信探幽兆殿司等の            二十三            二十四 名画を多く所蔵せり豊橋より殆んと二里半の 道程なり ●鳶巣山(●●●)(城趾) 乗本村にあり西方豊川を距 てゝ南設楽郡長篠の城趾と相対す此地は彼の 天正三年武田勝頼が一万五千の大兵を率ゐて 長篠城を襲ふに当り叔父武田信実をして此山 塁を守らしめたれども酒井忠次の襲撃する所 となりて敗北したる古城趾なり ●阿寺七瀑 山吉田村大字下吉田字阿寺 に在り絶崖の上より岩角に激し飛泉七折とな りて白布を垂るゝの状形容すべからず実に稀 有の絶景なり然れども道路険悪にして人の之 を賞するもの少なく弘く世間に知られざるは 遺憾と云ふべし昨今里人相謀りて保存会を起 し道路を開修し遊客の便を企てつゝあり又此 附近に子抱石(●●●)と称する奇石あり子なきもの之 を所持するときは其効ありとて遠方より来り て求むるもの多し今七瀑の直下を筭するに第 一瀑の高さ三間三尺、幅二間、第二瀑の高さ 七間、幅一間、第三瀑の高さ五間、幅三尺、 第四瀑の高さ十六間、幅一間、第五瀑の高さ 一間三尺、幅五尺、第六瀑の高さ三尺、幅三 尺、第七瀑の高さ一間、幅一間、総高三十四 間三尺なり豊橋より観瀑の順路は豊川鉄道に より新城駅に下車し大野町に出で高岡村巣山 に至り案内者を求めて山中に入る里程は新城 町より三里にして少しく遠し ●其他(●●)の(●)瀑布(●●) 大野町に不動瀧あり高岡村に 百間瀧、藤ヶ瀧、大久保瀧、等数多あり一々 記するに暇あらず ●蜂(●)の(●)巣岩(●●) 長部村大字庭野にあり豊川の沿 岸にして南設楽郡新城町桜ヶ淵と相対したる 石灰質の大巌なり岩面無数の小穴ありて恰も 蜂の巣に似たり故に其名あり風景頗る佳、観 花、納涼、垂釣、観月等に宜しく四時の遊客 新城町桜ヶ淵より船を出す ●名号池(●●●)と(●)琵琶淵(●●●) 大野町より阿寺の七瀧に 至る附近風光明媚にして賞すべきの地数ふべ からず特に名号村にある名号池(●●●)の内に直立す る長方形の巌石は奇形にして地質学者の好資 料に供せらる池底幾百尺なるを知らず而して 田園の水と共に清濁すと云ふ又/琵琶淵(●●●)は大野 町より北設楽郡川合村に通ずる途中久呂勢村 にあり土地僻遠なるを以て人の知るもの少な しと雖とも其碧渾幽邃の景山紫水明の文字も 形容し得ざるの地たり   ○南設楽郡 ●起原 当郡は元宝飯郡に属したるを分離 したるものなれば其吉祥をとり宝は即ち稲の 穂、穂のシタヽル(●●●●)郡と云ふ意にてシタヽル(●●●●)を 略転すればシタラ(●●●)となる故に設楽郡と呼びな すに至れりと而して維新前までは単に設楽郡 と云ひしを南北に分つに至れり ●新城町 往昔大野田と謂ひしを天文年 中当郡田峰の城主菅沼大膳亮定広郷ヶ原に一 城を築き即ち新城と名附けしとぞ其子小大膳 定則の代に至りて当城を掃地となして杉山村 に二ヶ城を築きたり其後天正三年長篠の勲功 によりて奥平信昌に当所を賜はり再びこゝに            二十五            二十六 新城を築きて新城の号古に復したる名邑にて 今は東参に於て豊橋に次ぐの市街たり郡役 所、区裁判所、警察署、税務署、郵便電信局 等あり、豊川にて漁する鮎は此地の名物なり ○富永神社(●●●●)(能楽) 須佐之男命を祀り八月十 五日例祭を行ひ能楽、烟火、山車等ありて前 後合せて三日間市中大に賑ふ又当所の能楽堂(●●●) は名高きものにて東海道中に幾個所もなしと 云ふ往昔鎌屋喜左衛門と云ふ皷打の名人あり 三都にも名を知られ京都に遊び天保中旅に死 せり ○白雪旧居(●●●●) 田町坂上り口に在り芭蕉翁の 門人にて俳諧の薀奥を極めたり  四月朔日鳳来寺に心ざす大木の原に足より  地するばかりのわたけなる馬にうちのりひ  とつ脱て鞍つほにうち敷此ねぶたさこらへ  がたく道も道わかで誰が家にか入らん寝ん  白雪が門にのりこむ   から尻のしりに敷なり衣がへ 轍士     今朝を莟めと分る蔦若葉 白雪   日われ戸に幾つも月の影落て 探水     太田白雪方にて  はせを   そのにほひ桃より白し水仙花 ○翁塚(●●) 同町庚申堂にあり左の句を刻す     菅沼耕月舘にて   京に飽て此木枯や冬住居  芭蕉 ○桜淵(●●)(桜花) 新城町南部豊川の沿岸なり対 岸蜂巣岩(八名郡参照)にて桜樹を以て著は る近時保存会を設けて更らに桜樹を植ゑ込み 公園となせり豊川の水清く両岸の絶景名状す べからず   ●野田城趾(●●●●)(信玄狙撃の記) 新城町の西南約三十町を去る千秋村大字野田 に在り、案するに野田城又は根古屋城と云ひ 其権輿詳ならずと雖ども往昔正平六年(北朝 観応二年)頃富永氏城主たりしこと明なり其 後百五十余年を経て永正年中菅織部定則入道 不春当城を築て居住す二世を経て彼の有名な る新八郎定盈の代となり信玄の攻撃を受く頃 は天正元年正月十一日武田信玄三万五千の大 兵を率ひて奥郡に赴く途中野田を攻む城主菅 沼新八郎定盈并に援将、桜井の松井与一郎忠 正、川路の設楽甚三郎貞通、四百余人の寡兵 を以て死守す信玄之を攻むること急なり城中 糧つき水渇して漸く急を浜松に告ぐ家康敵の 猛勢なるを以て敢て進まず小栗大六重通を以 て援兵を信長に請ふと雖とも遂に果さず是に 於て籠城かなひ難く二月十一日敵陣へ申送り ける様城将定盈援将忠正切腹して士卒の命に 代らんと信玄其義勇に感じ其望にまかす時に 城内に村松芳林と云ふ者ありて毎夜笛を吹く 其曲精妙なるを以て敵も味方も感聴す一夜信 玄其音曲を聞くに黄鐘の調にして明日落城す べきの笛音にあらず不審の余まり城下近く床 机を移して更に之を聴くに平調にして盤渉調 を交へ間々神仙調あり信玄益心魂を苦しめつ つ城内の容子を窺ひける折抦定盈時こそよけ れと鳥井三右衛門をして月影より信玄を砲射 せしむ、誤たずして左頬より後首骨を打ぬき たり敵兵之れが為めに大に周章し医療を加ふ            二十七            二十八 る為め城攻を中止し甲府へ引帰すことになり たるが疵傷益重く遂に同月十六日北設楽郡田 口村福田寺に於て逝去したり菅沼新八郎の名 是れより著はる ●長篠古戦場 史上に於て有名なる場所 なれば詳説するを要せざるべし城趾は豊川の 上流寒狭川と大野川と相合する所に沿ひて城 廓今尚歴然たり此古戦場は長篠村、信楽村、 平井村に跨りて新城町を距る東北約二里豊川 鉄道終点大海駅より拾余町にして達するを得 べし則此戦争は天正三年五月武田勝頼数万の 精兵を尽して奥平信昌を攻撃し信昌、孤城援 なく殆んど陥落せんとする際豪胆無双の鳥井 強右衛門ありて援を織田信長、徳川家康に乞 ひ同月十八日交戦数刻武田勢大敗北して宿将 多く斃れ頼勝纔かに身を以て免れたる大修羅 場なり    後撰夷曲集     信長公  勝頼と名乗る武田のかひやなき      軍にまけてしなのなければ    三河吟稿      蘭泉  古戦場頭翠篠長   三千銕騎一時込  嘯虫如怨孤墳廃   飛鳥無巣高塁荒  逐北奪来銀釘甲   争先揮得緑沈鎗  慢営勇士今何在   河水空流浪渺茫    ~~~~~~~~~~~~   麦菜種春をあらそふ色もなし 蝶夢   麦秋や笠をはゆるせ追手先き 乞喰 ●雁峰山(●●●) 新城より東北に見ゆる高山にて寒 防峠とも云ふ憶ふに衆山に抜き出たる高山な れば寒さ峠と云ふ意ならん此山は鳥井強右衛 門勝商が長篠城を脱れ出で水底の網をきりぬ け無事援を求め相図の烟を上げたる山なりと 云ふ併し又一説には鳥井が相図の火烟を上げ たるは舟着山なりとも鳥巣山なりとも云ふ  ひとゝせ芭蕉此山に登りて日も暮れ麓の門  谷にとまる白雪心して山に云やり臥具かり  もとめて夜寒をいたはるあした  夜着ひとついのり出して旅寐哉 はせを ○鳥井勝商碑(●●●●●) 信楽村大字有海にあり碑面智 海常通居士又裏に天正三年乙亥五月十六日俗 名鳥井強右衛門勝商行年三十六才五月十四日 の夜城をいづるとて   我君の命に代る玉の緒を     なにいとひけん武士の道 横に宝暦三癸未暮秋十六日建立とあり ○甲州方(●●●)の(●)墓(●) 長篠村(新城より長篠道を西 に岐る約一町)に馬場信房の墓、平井村大字 竹広に内藤昌豊及山県昌景の墓、又同村に高 阪昌宣の墓あり、長篠古戦場を吊ふものは此 等墳塋の地を訪ひて往事を追想するもの多し 其他尚大通寺杯井等遺蹟種々あり   ○鳥井勝商烽火(●●●●●●)を(●)揚(●)ぐる(●●)記(●) 鳥井強右衛門勝商は宝飯郡市田村の生れにし て奥平家に仕ふ天正三年武田勝頼長篠城を囲 む城中能く防戦すれども糧食乏しく纔かに四 五日分を残すのみ城主奥平信昌大に愁ひて善 後策を講ずれども衆議決せず時に勝商三十六 才進み出て云ふ某今霄城を忍び出で急を浜松 に告げん無事志を達せば雁峰峠に登りて烽火            二十九            三十 を揚げんと信昌大に喜び直ちに用意をなさし む勝高雀躍一夜大水に乗し水底を潜り嗚子網 を切断して囲を脱し急を徳川家康、織田信長 に告げ無事使命を全うしたるを以て約の如く 烽火を上げたり是に於て城兵勇気益加りて孤 城を死守す勝商再び城内に帰らんとして敵兵 の為めに捕へられたり、勝頼勝商を見て曰く 一命を助くるを以て我れに属すべしと勝高忠 誠金鉄の如し如何で之れを肯はん佯はりて諾 す、勝頼更に曰く「援兵来らず早く降るべし」 と城兵に告げなば汝に重賞を与ふべしと勝商 機失ふべからずとなし其言葉に従ひ城下近く 打ち寄りて城兵を呼び大声を発して曰く「徳 川織田の援兵三日を出でずして来るべし諸氏 安堵せよ」と勝頼之を聞て大に憤り直ちに有 海原にて磔刑に処したりと云ふ勝商の豪胆忠 誠実に臣士の亀鑑と云ふべし ●牛瀧(藤) 千秋村大字川田と宝飯郡本茂 村大字東上との界にあり且豊川鉄道東上駅よ り下車し僅か五六町にて同所に至るを以て東 上牛瀧と云ふ直下五丈幅三間あり藤の名所な るのみならず数年来浴客の便を計りて茶亭を 設け又特に春夏の候豊川鉄道は臨時汽車を出 し割引等をなすにより笻を曳く者頗る多く東 参の一名勝たり ●鮎瀧(猴橋) 長篠村大字横川と信楽村大 字大海との間にあり豊川鉄道大海駅より五町 の所にあり、一の瀧、二の滝、鮎瀧の三つあ り鮎瀧を第一とす高さは三丈計りなるも其近 辺は奇岩怪石を以てなり殊に急流にて此瀧の 下人の容易に達すべからざる巌石に数多の文 字の書せるを見る此附近に猴橋あり昔し勅使 茲に来り渡らんとせしも橋なく時に群猿現は れ手足を繋ぎて橋となし渡したるが故此称あ りといふ今は二本の丸木橋にして一丈余もあ らんか、此瀑より上には鮎居らず蓋し遡ぼる こと能はざる也、茲にて鮎の瀧上りをなすを 「サデ」にてすくひとるの興味は遊泳温浴の 比にあらす好個の避暑地なり ●其他(●●)の(●)瀑(●) 鳴沢瀧は段戸山の南麓菅沼村大 字守義字小瀧にあり新城町を距る八里の僻地 なるを以て人の之を賞するものなしと雖とも 直下六丈松杉鬱蒼として真に別天地なり其他 石田瀧は千秋村大字石田にあり妙法瀧は鳳来 寺山中にありて何れも壮観なり ●鳳来寺(煙巌山) 同寺は古来遠く世間 に聞へたる寺院にて人皇卅四代推古天皇御宇 当国の国司奏し奉りて曰く参河国桐生に桐樹 あり鳳凰茲に来る祥瑞なりと依つて勅許を被 り寺を鳳来寺と称す其後文武天皇御悩あらせ 給ひ(八名郡皇居跡参照)草鹿砥公宣卿を勅使 として利修仙人を召給ひ加持を奉りたるより 仙人の意願御勅許ありて大宝三年伽藍を造営 し其後鳳来寺の額を賜ふ光明皇后の御筆なり と承る煙巌山と号し天台真言の二宗を兼修し 三河第一の霊場なりしが今は大に荒廃せり、 山中名蹟多し、奥の院、白山権現、不動尊、 六本杉、隠し水、高座石、巫女石、尼の行道、 行者帰、猿橋、篠谷、馬背、牛鼻、等数へ来 れば枚挙に遑あらず            三十一            三十二 ○東照宮(●●●) 寺院諸堂の上方に在り殿宇壮麗に して今尚旧形を変ぜず県社に列す案するに東 照公御慈父贈大納言広忠卿若君のなきを歎き 給ひ北の方と共に当山の薬師へ参詣ありて御 継嗣誕生の祈願あらせられければ不思議にも 霊験ありて天文十一壬寅年十一月廿六日御継 嗣家康公誕生あらせらる依て其後慶安元戍【戊の誤り】子 年将軍家光公阿部豊後守をして鳳来寺に東照 宮建立を仰せ出されたる也 ○仏法僧鳥(●●●●) 三宝鳥と云ふ鳳来寺山中にて三 月より九月の間に啼く奇鳥にして其形を見る べからず其声仏法僧と云ふが如し甚だ閑静な れば遠近より来りて其声を聞くもの多し此鳥 紀州高野山、山州醍醐山、松尾、和州室生山、 野州日光山等にも棲居せりと云ふ  勅使として登山為し玉ひし時              草鹿砥公宣卿  霧や海山のすかたは島に似て     浪かと聞けば松風の音   仏法僧となく鳥太政大臣殿よりまゐりた   るを常の御所のえむにおかれたりしが雨   などの降日はことに鳴くげにぞ名もさや   かにきこゆすがたはひめ鳥のやうにてい   ますこし大なり    弁内侍  とにかくにかしこき君が御代なれは     三のたからの鳥もなくなり    拾玉集       慈鎮和尚  後の世もたのしかるべき鳥なれや     みつの宝をこゑにまかせて  三河国鳳来寺にてある衆徒の所望し侍し   時   鳥のねの雲にしくるゝ深山哉 宗祇     鳳来寺坂中の吟   木殺風(こからし)に岩ふきとかる杉間哉 芭蕉     鳳来寺の山の辺を通る時   冷泉の珠数につなける茸かな 其角     名所小鏡   仙人の出そうな雲や秋のかせ 涼台   あれこへも吹雪岩根や夕薬師 路通   一もとのあふひを上る山路哉 嵐雪   茂りあふ木のま〳〵や坊の軒 乙由   竹の葉に落こむ音やあきの水 轍士   鐘こほる峰の薬師や薄くもり 舎罷   霧はれて六本杉のあさひかな 乙由   うくひすのつほ口見せよ鏡堂 只丸   かけろふや誰面影のかゝみ堂 蝶夢   ○北設楽郡 ●起原 南設楽郡の部に詳し本郡は三河国 東北端にして北は信濃国下伊那郡、美濃国恵 那郡、東は遠江国豊田、周智二郡に接して国 境をなせり地勢山岳連綿して耕地少し従つて 山水明媚の処多しと雖とも土地辺陬なるを以 て訪ふものなく世間に知られたる名勝の記す べきもの少なし 郡役所、警察署、税務署、郵便電信局等田口 町にあり ●川合石橋(八勝) 三輪村大字川合にあ り乳房山の中腹両崖に懸れる大岩石にして人 工を以て架設したるものゝ如し俗に之を川合            三十三            三十四 の石橋と云ふ此辺の風光最も絶勝にして遠く 雅客の笻を曳くものあり、乳岩、胎内竇、鬼 石、穴瀧、蝉ヶ瀧、百間瀧、妙見山、を合せ て川合の八勝と云ふ何れも川合の村落より一 里内外の距離にして奇巌絶壁名状すべから ず、八名郡大野町より馬車腕車の往来するが 故に近来遊覧の客跡を接すと云ふ    石橋        荘田元宣  石乳之山攀更難   青嵐翠霧旧中寒  到来人衆幽深処   但礼観音跌坐安 ●別所城趾(●●●●) 三輪村大字川合より別所街道を 北東に進むこと約三里にして本郷村夫れより 振草川を隔てゝ別所城の遺趾あり伝へ云ふ甲 州の武田信玄飯田方面より三河地方侵略防禦 の為め築きたるものなりと ●福田寺(信玄の墓) 田口村大字田口に あり臨済宗応永九年の創建にして本尊地蔵菩 薩は行基の作なり、前記南設楽郡野田城趾の 条に載せたる如く境内に武田信玄の墓あり又 長篠合戦に討死したる美濃守馬場信房を祭れ る墳あり五輪塔の蒼然たる古色掬すべし ●御所貝津(●●●●)と(●)御所平(●●●)(真弓山) 南朝一品征夷 大将軍兵部卿尹良親王兵を率ひて三河に赴か んと応永卅一年八月十五日飯田を経て駒場大 野を過ぎ給ふに野伏等所々より襲ひ来り士卒 大方討れしかば終に信州伊那郡浪合の民家に 入りて御自害ありしと旧記に見へたり親王は 宗良親王の御子にして御廟武節村字御所貝津 にあり又豊根村大字坂宇場に御所平と云ふあ り此所にも尹良親王を祀れる小祠あり花蘇枋 を以て其名顕る   尹良親王足利家に世をせばめられさせ給   ひ上野新田に赴せ給ふ時三河国武節郷に   入らせ給ひ真弓山の月を見たまひて  ほの〳〵と明ゆく空をなかむれは     月ひとりすむ西の山かけ    御辞世  おもひきや幾瀬の淵をのかれきて     この浪合に沈むへしとは    堀河百首     内親王女房紀伊  ひきつれてまとひせんとや思ふとち     秋は真弓の山に入らなん ○御殿村(●●●)と(●)園村(●●)(御遺跡) 村名のみにても何 か由緒あるが如し伝へ云ふ御殿村の西北に御 殿山あり文武天皇未た御位に就かせ給はざり し前此地に居給ひしにより此名起ると真偽寺 ずべからず又園村字東薗目に大入と称する地 あり往昔花山天皇藤原道兼に誘はれて元慶判 に入り落飾し給ひし後内々諸国に御行脚あり し時此地に暫く御足を止めさせ給ひしより王 入と書きしを憚りて大入と改め読様を花山(ハナヤマ)と 呼ぶなど口碑今に存せり此二村とも由緒ある が如くにして確証を得ず ●津具の里 今の上津具、下津具両村を 云ふ昔はビンカヾ原千具の里と称へしが何時 の頃よりかツグと呼び今は千の字を津の字に 改めぬと三代実録に見へたり、而して口碑の 伝ふる所によれば陽成天皇信濃国園原山に御 幸し給ふとき此三河路より御通輦ありて一夜 千具の里に御駐蹕あらせられしが恰も卯月の            三十五            三十六 ことゝて中空に時鳥の鳴つるを聞せ給ひて    御製  里の名にあてゝや鳴んほとゝきす     たゝ一声にかきるべきやは と御詠あり斯て天皇は信濃路より木曽の御坂 へ出でさせ給ひ都へ還御あらせられたりと ○白鳥神社(●●●●) 下津具村にあり明徳年間より創 設せられある最も古き神社にて特に明徳三年 の古鰐口を蔵するを以て其名頗る顕る ○十二景(●●●) 津貝【具の誤り】の里辺の十二景を見立てたる ものあり左の如し  金龍寺老桜 天神山鶯  高山早蕨  阿弥陀川蛍 鞍橋山時鳥 不動瀧納涼  愛宕山名月 前田稲刈  李嶽山麋鹿  萩垂山時雨 天狗岩深雪 木地山榾火 ●古橋翁(●●●)の(●)碑(●) 稲橋村にあり同村故古橋原六 郎(暉児)翁は夙に殖産興業の為めに尽砕し里 人を啓発誘導し国家の利を計りたる事尠少に あらずとして群民翁の為めに一大碑石を立て たり翁は明治二十五年十二月廿四日享年八十 にして逝けり碑は明治三十年十二月の建立に かゝる ●段戸山(産馬) 段嶺村にあり三河第一 の御料林にして樹木森々夏尚寒を覚ゆ彼の段 戸種畜場は此御料地内の一部を拝借して経営 しつゝあるなり現今同所の種牡馬は百数十頭 にして愛知県庁より毎年一千円の補助を受け つゝありて県下否我国に於て有数の事業たり ○サンショウ(●●●●●)魚其他(●●●) 段戸山の谷々には俗に サンシヨウ魚又アンコウと称する奇魚あり地 方の者之を捕獲して腹薬となす夏日此山に遊 べば興味頗る多く亦学術上の裨益を得ること も少からざるべし ○瀑布(●●)と(●)鉱泉(●●) 本郡は山嶽の地なるを以て至 る所瀑布のあらざるなく高きは五六十丈より 底きも一丈以上を直下するもの数十を以て筭 ふるに至る今一々之を記載せず又鉱泉は皆無 にして僅かに田口村大字清崎の清崎鉱泉と稲 橋村大字夏焼の夏焼鉱泉はあれども浴客を招 くに足らず   ○宝飯郡 ●起原 本郡は三河国に於て最も古く草創 せられたる所にして国府を置かれたる如き国 分寺の建立せられたる如き、砥鹿神社の一宮 の称ある如きは以て証とするに足る、又三河 を上古穂の国と謂ひ本郡をも上古穂の国と謂 ひしなぞ旧記に見へたるは、蓋し本郡が三河 国の基源なりしを知るに足る、而して宝飯郡 は穂の国より出でたる名称なるべし、延喜三 年本郡を割て設楽郡を置きしことは設楽郡の 条にも陳べたる所の如し ●御油 郡役所、税務署、警察署、郵便電 信局等あり、去れども東海道鉄道線路市街の 近傍を通過せず、御油停車場の名称はあるも のゝ壱里余を距つるを以て不便少なからず、 故に現今の形勢旧時に及ばず、当所は往昔中 五井と呼び同名の村三箇所あり曰く上五井、 中五井、下五井是なり、然るに乱雑なるを以 て上五井の上を除きて五井と称し中五井を改            三十七            三十八 名して御油と謂ひ、下五井は今に其儘なり、 而して世諺弁略に往昔当所より草壁親王行坊 所へ油を献ず(統叢考には持統天皇行在所と あり)故に後代駅号とすと見へたりいかゞの ものにや    東関記       沢庵和尚  あふごいつと定めなけれど定めあり     命の露の風のまなしさ    東行話説      従二位泰邦卿  遊女とは赤さかさまな偽りに     今の体とは御油るされませ ●三(●)ッ(●)河(●) 御津川、音羽川、是れなり此末流 を御所川と云ひ其界隈に御所宮など云ふ所あ り凡て此辺は名称の上に於て貴顕の古績なり しこと明なり    万葉集       春日  三河之淵瀬物不落左提刺爾(ミツカワノフチセモオチズサテサスニ)     衣手湖干児波無爾(コロモテヌレヌヲストハナシニ)    家集        民部卿為家  落たきついはせをこゆる三河の     枕をあらふあかつきの夢 ●御油停車場附近(●●●●●●●) 御油停車場の名称はあれ ども所在は御津村大字西方にして此附近には 遊覧の名勝少しとせず、御津神社、大恩寺山、 新宮山紀念碑、漣海水浴場笻を曳くべし案す るに往昔此御油停車場辺は入海にて所謂蒼海 変じて田圃となりしなり御津の庄又は御津 七郷、御津海、御津港など旧記に散見するは 以て之を証するに足る、景行天皇五十有五年 八月乗輿伊勢に幸し転して東海道に入ると史 書に記するは蓋此港に入りたるなり ○御津神社(●●●●) 御油停車場より三町斗りにして 達するを得べし当社は甚だ古き創建に係る神 詠なりと伝ふる和歌あり  大島や千代のまつはら石だゝみ     くづれ行くともわれは守らん 又大恩寺山は神社と数十歩を距つるのみ汽車 窓中より北方眼前に鬱蒼たる山を見る即ち是 れなり風景賞するに足る ○新宮山紀念碑(●●●●●●) 御津神社を去る一町斗りに して達すべし明治二十七八年日清戦争軍人招 魂紀念碑を建つ山高からず樹木繁くして眺望 甚だ佳なり ○海水浴(●●●) 停車場を去る南方約五町海岸潮浅 くして沙魚を釣り貝を拾ふべし、此頃海岸御 料林を拝借して豊橋千歳楼主人「さゞなみ」海 水浴場を新設せり夏時浴客群集す ●国府(●●)と(●)赤坂(●●) 往昔の国府と赤坂は吾々が今 想象する能はざる所にして随分繁昌したる者 なり去れど今は殆んと名のみにして僅かに町 名を附するのみ、時世の変遷も亦甚だしと云 ふべし    ●大江定基朝臣略伝(●●●●●●●●)(力寿姫) 前参河守大江定基入道寂照は平城天皇の後胤 諫議太夫大江齋光朝臣第三子なり早く祖業を 嗣て栄爵を受け三河守となる文章に長し書を 能くす去れど性狩猟を好み優遊自適しければ 人皆其器をあやふむ而して一条天皇の御宇当 国の刺吏として赴任せり当時赤坂の長者宮路 弥太郎長富方に一人の娘あり力寿姫といふ深            三十九            四十 窓に養はれて嬋娟たる粧ひは大液の芙蓉未央 の柳に比したる貴妃の容貌にも劣らず定基朝 臣何時の隙にか垣間見けん終に船山の舘に迎 へて偕老の契り深かりける、会者定離は人世 の免れざる所力寿姫不■病にかゝり打臥しけ れば定基初め侍女奴婢に至る迄いたく歎き薬 餌介抱限りなく尽したれど其功なく終に黄泉 の客となりけり、定基朝臣是に於て浮世の味 気なきを悟り一向仏道に志を進む、かくて一 七日の後文珠菩薩の夢中の告を蒙り即ち力寿 姫の舌根を抜て当郡陀羅尼山の境内に埋め、 其上に姫が在世中信仰深かりし文珠菩薩を安 置す、亦其傍に一宇の道場を創建して力寿山 舌根寺と号し財賀寺の南にありしが今を去る 八百有余年なり其後彼寺院は頽廃して今は唯 山上に文珠堂のみを存す堵定基朝臣任満て京 師に帰り永延元年三月の頃上状して入道を請 ふ同二年望の如く冠纓を脱して寂照と改め源 信僧都の室に投して早く講学に名あり長保四 年再び上状して宋国に向ふ時に長保五年秋八 月廿五日にて宋暦景徳三年なり宋帝寂照を召 見て装衣束帛を賜ひ上寺に舘せしむ次て錫を 呉門寺に止む姑蘇人丁謂寂照の為めに甚だ勤 む景祐元年抗州清涼山の麓に於て正念端座し て遷化す  茅屋無人扶病起   香炉有火向西眠  笙歌遥聴孤雲上   聖衆来通落日前  雲のうへはるかに楽の音すなり     人やこくらんひか耳そも と末期の詩歌を詠せられぬ追号して円通大師 といふ    新古今集      読人不知   寂照上人入唐し侍けるに装束おくりける   にたちけるをしらでおひてつかはしける  きならせと思ひし物を旅衣     たつ日を知らず成にけるかな    返し        寂照法師  これやさは雲のはたてにおるときく     たつことしらぬ天のは衣    詞花        仝人  とゞまらん止まらじとも思ほえず     いつくもおなじ住かならねば    後拾遺      前大納公任卿   寂照法師入唐せんとてつくしへまかりく   だるとて七月七日船にのり侍けるにつか   はしける  天河の天の宮だにはるけきを     いつくもしらぬ舟出かなしな    仝         寂照法師  そのほとゝちぎれるたびの別だに     あふ事まれにありとこそきけ ●宮路山(皇居趾紅葉) 御油停車場より 約三里赤坂、御油、長沢、御津の四村に跨る 高山にして大宝二年十月持統天皇当国御巡幸 の際此山に行宮を定め玉ひしを以て其名高し 頓宮旧跡は山嶽の西嶺に在り土人二の丸の趾 なりといふ去れど狭隘にして二の丸と云ふ備 にあらず山上より別に高き事六尺余新に土を 設て図形に築きし一堆の岳あり是れぞ頓宮の 跡ならん南海を直下に臨み尾濃の山岳を西北            四十一            四十二 に控へ其眺望謂はん方なし特に一体の山脊に 霜葉花よりも紅なれば晩秋の候遠近賞覧の人 士踵を接す実に東参の名勝地なり又妙音院太 政大臣師長公尾張国井戸田へ配流の節配所の 徒然を慰まんとて此山に分け入り木々の紅葉 を遊覧せられたりとぞ往昔は藤と紅葉の名所 なりしが如し    後撰集       読人不知  君があたり雲井にみつゝ宮路山     うちこへゆかん道もしらなく    家集        河内朝臣躬恒   左馬のかみの家にて三河のかみのむまの   はなふけせしによめる  なにしおへばとほからぬとも宮路山     越へん手向のぬさにせよきみ    夫木集       増基法師  紫の雲と見つるはみやち山     名高き藤のさけるなりけり    鰒玉集       中山美石  あたひなきみやち山のにしきかな     矢矧の市の何にかふへき    家集        為家卿  うちひさすみやちの野辺の朝霞     つかへし道をなとへたつらん    丙辰紀行      林道春  先王若要慰民生   定有壺醤箪食迎  遺恨翠華巡狩跡   未聞行在頓宮名 ●長福寺(●●●)と(●)正法寺(●●●) 赤坂町大字西裏にあり一 条院の御宇当国の長者宮路長富其女力寿の死 を哀み一宇を創建せしものにて長富寺と号す 其後火災に罹り廃寺となりしを大永二年善誉 印上人宮路氏の宅趾に堂宇を建立し長福寺と 改称す浄土宗京都知恩院末なり正法寺(●●●)も亦同 所にあり真宗大谷派にして太子山と号す推古 天皇御宇聖徳太子諸国を遊化し給ひし時此地 に来り自ら木像を刻して草堂に安置し給ひし が開基となり其後幾多の変遷あり源範頼の長 子範円了信坊と称し中興の祖となす ●国分寺(●●●)と(●)西明寺(●●●) 国府町の東北十余町平幡 村大字八幡にあり古へ国分寺の一なり今は頽 廃して西明寺の末寺に属せり近傍四五町の間 古瓦の砕片を出す西明寺(●●●)も同村にあり長徳年 中三河太守大江定基の開基にして六光寺と号 し其後北条時頼来りて此寺に寓し最明寺と改 む延徳年中大素和尚開山となりて曹洞宗に改 む家康公亦当寺を巡視して西明寺と改めしめ たりと ●財賀寺(●●●) 平幡村大字財賀にあり行基の草創 に係り空海を中興の開基とす源範頼三河守た りし時帰依せし三河七御堂の一なり古義真言 宗なり    ○財賀寺の田祭 昔時は盛に行はれしを維新後暫らく中絶せし が近年又之を行ふ毎歳正月五日財賀寺村中の 者観音堂に於て之を行ふ拾数人種々の形容を なす其歌に曰く  ヨウシンヤ(善哉) タヲツクル(作田) カ  ドタンヲツクル(作前田) ヨウシンヤ(善哉  ) カドタンヨリ(自前田) イリマンスルト  ホモニ(入遠田) ヨウシンヤ ユクトコロ            四十三            四十四 (所徂) ヨウシンヤ タハサウノコダン(桑 麻実種) ネヲヒロメ(滋) ヨウシンヤ マイモマイ(繭与麻) マイモキヌウンナ( 麻繭可織) ヨウシンヤ タゴロモニキス( 田衣繭) ウンナ(可織) ヨウシンヤ シ ロカネノツボヲナラベ(陳銀壺) ヨウシン ヤ ミズクウメバ(水酙) ミズモツトウモ ニ(水倶) ヨウシンヤ トミゾアルンヤ( 富有)「色々所作ありて又) ハルタニヲ リルナラ(下于春田) トウミヤウサノハヲ (稲苗其葉) ミヤウテニツミレテノ(摘入 于両手) ミヤヘマヰルヨノ(詣社) ルス モトヨリモ(自壟上) ウラヲミヤレバノ( 看裏田) トウミヤウカツラノナ(稲苗彼 面) ネサストコヲノ(所滋蔓)   猶祝言所作種々あり又此祭は砥鹿神社(   正月三日)兎足神社(正月七日)にても行   ふとなり ●本野原(●●●) 豊橋より西北へ二里半御油町より 東の方白鳥村の東より豊川町附近は往昔原野 にて本野原と云ひ鎌倉街道にて引馬野へ続き たるならん今は民家相接して原野の面影更に なし    新撰六帖      右大弁光俊卿  住なれしもとのゝ原や忍ぶらん     うつすむしやにむしのわぶるは    月清集       後京極良陸公  うつしかゝる庭の小萩のつゆしづく     もと野の原の秋や恋しき   八幡ちかき所牧野四郎左衛門野宿本所原 といふ野をり分作たてりい一日連歌の【?】  ゆく袖を草葉のたけの夏野哉  宗長 ●豊川町 東鑑嘉禎四年正月将軍頼経卿 上洛の条に「七日着御豊河宿」又同書同十月同 卿皈路の条に「十八日入御矢宿十九日着御 豊河駅二十日出御本野原」云々又貞応海道記 に「豊川の宿にとまりぬ深夜立出で見れば此 川は流ひろく水深くして云々」又仁治紀行に 豊川といふ宿の前を打過るにぞ」など見へた り憶ふに豊川は往昔宿駅にて今の古宿より東 の方同村坂口まで北は今の豊川町辺かけて駅 中なりけん且前文にある深夜に立出でなどの 記事を思へば当時豊川の流れは牛久保篠束豊 川辺の岸通りを流れし事明なり斯れば豊川の 流をかゝへし所なるゆゑ豊川駅と呼びしなり 現時は豊川鉄道の豊川停車場を設置す    名寄        鴨長明  風わたる夢のうきはしつたへして     袖さへふかき豊川の里    貞応海道記     源朝臣光行  しる人もなきさに浪のよるのみそ     なれにし月のかけはさしくる    仁治紀行      源朝臣光行  おほつかないさとよ川のかわる瀬を     いかなる人の渡り初めけん ●豊川閣(吒枳尼天) 豊川町大字豊川に 在り寺院にして神社を擬す円福山妙厳寺は嘉 吉元年の創建にて僧義易の開基曹洞宗に属す 堂宇広大壮厳にして境内に安置せる豊川吒枳 尼天は其名遠近に聞へ参拝の客常に絶ゆるこ            四十五            四十六 となく実に日本全国に於て屈指の寺院なり世 俗豊川稲荷と称す ○三明寺(●●●)(弁天) 龍雲山三明寺は豊川閣を距 る僅か数町の所にあり開基は大江定基にて境 内に安置せる弁財天女は由緒あるものにて賽 客に絶へず案するに此弁財天女の持ち玉ふ琵 琶は大江定基朝臣所持の名弦なりしと云へば 当時開基の時定基朝臣愛妾力寿姫の像を彫刻 して納め置かれしならん殊に和装を着し面姿 仏像にあらざるなど思ひ合すべし正月と七月 の十六日は例大祭に賑ふ   三明寺の弁財天に詣でゝ   宗長  しるしある池のこゝろや秋の月    石梁随筆      釈道岡  高聳三明古梵宮   華鯨声動晩風中  雖非悟道発明客   不免一時証性空 ●本宮山(砥鹿神社) 桑富村大字一宮に あり豊川鉄道長山駅より登るを最近とす此山 は海面を抽くこと二千五百十二尺山頂の風景 は東参第一の眺望なるのみならず全国無比の 絶景なり連山は波濤の如く遠洋内海は足下に 迫まり豊川の水は田園を縫ふて繞るなど名状 すべからず又た山中老樹鬱蒼として天を覆ひ 其新城に下るの岨道は奇石怪岩ありて学術の 資に供するもの多しと云ふ山上に鎮座する砥 鹿神社は古来当国の一の宮と称し古書に正一 位砥鹿大明神とあるは此社なり文武天皇勅使 公宣をして建立せしめたるものにて公宣卿に 草鹿砥氏を賜ひ神職とし其子孫相続せり祭神 大已【己】貴命にして今国幣小社に列す    ●山本勘助晴幸略伝(●●●●●●●●)(故居) 外史云晴信挙山本勘介三河人眇目痿躄甞学兵 於尾形某云々案するに山本勘助晴幸は明応九 年八月十五日八名郡加茂郷に生れ幼名源助と 称す十五歳の春牧野家士大林勘左衛門真【貞?】次養 子として牛久保に来り大林勘助貞幸に改む廿 六歳武者修行に出三十五歳冬養家の縁を断つ て山本勘助となり母方の従第庵原安房守方に 行き駿府に在ること九年四十五歳にて甲州武 田大膳太夫晴信(信玄)に召さる天文地理に精 はしく軍学に長じ晴信の為めに用ゐられしこ とは人の知る所なり五十歳入道して道鬼と号 し五十七歳にして初めて男子を挙ぐ勘助の故 居は牛久保に在りて第跡今田圃となれるを此 頃有志茲に石碑を立てたり豊川鉄道牛久保駅 を下り僅かに三町又同地長谷寺に勘助の守仏 摩利支天の小像を安置す    白湯集       太田錦城   過牛窪山本道鬼旧居  英雄潜匿野村傍   一出能教甲府強  今日経過旧居地   寒煙涼草帯秋陽 ●葵御紋(花ヶ池) 牛久保停車場を去る 二十町計り伊奈村に花ヶ池と云ふ小池あり往 昔本多伊奈城主徳川家康公に此池の葵の葉を 取り肴を盛りて献じたるを吉例とし徳川家代 々葵の御紋を使用するに至れるなり、世人之 を知るもの少なく此名勝の地の埋没せんとす るは惜みても余りあることなり外史云亨【享】禄二 年吉田城主牧野伝蔵(中略)岡崎公将兵撃之出 伊奈城主本多正忠迎降正忠之先曰助秀居後豊            四十七            四十八 本多卿子孫邑于尾張尋従参河挙族仕徳河氏而 正忠尤大(中略)平東三河而還会飲于伊奈正忠 献盤殽籍用葵岡崎公視而悦曰吾凱旋得此自今 当以此為徽号初徳川氏因宗族以中黒為号於是 兼用三葉云々    ●万歳(●●)の(●)記(●) 世に三河万歳と云ふ蓋し其権輿は六十六代一 条天皇の御宇長徳年中大江定基三河守に任じ て当国に来りけるが定基朝臣は心を仏乗に寄 せて横川の源信僧都に法を受られ釈氏の学び 深かりける程に仏教伝来の因縁を述べて苅谷 の庄司吉良太夫といふものに千歳楽万歳楽な どの舞を授けて歳の首の祝ひに舞せけり是三 河万歳の初にて現今の如き卑きものにはあら ず宝飯郡伊奈村より舞子出づ而して万歳の濫 触は京中より起りたるものにて昔正月十四日 十五日京中の遊士等月に乗じて彼方此方歌ひ 舞ひ歩きし遺風ならん即ち十四日殿上地下四 位以下の輩しかるべき所を繞りて催馬楽を唱 ひ舞ひかなでたり此頃は千秋万歳と云ひける を後世略して万歳とは謂ふなり    ●大神楽(●●●)の(●)記(●) 小坂井、伊奈村の大神楽と称して当今遠近に 聞ゆ昔は毎歳正月より二月に係りて市中に出 て歌舞せしなり其舞ひ様歌ひ様笛の吹き様昔 も今も変りたることなきが如し憶ふに是は天 照皇太神天の石窟に幽居ましませし時八十万 神達石窟戸の前に立て巧に俳優すなど神代巻 に見ゆるより取たる舞踏なるべし又太平記に 桂明院殿吉野へ遷幸獅子田楽を召れ日夜に舞 歌せしめ給ひしなどあり大神楽は此等の変化 せしものなるべし ●和泉式部石塔(●●●●●●) 伊奈村大同山報恩寺境内に あり小野小町の墓といふ伝へて曰く小野小町 伊勢国土田の浦より舟にのりて小坂井口に渡 りたりと考証詳ならず ●聖眼寺(●●●) 下地町にあり浄土真宗高田派にし て開山は行円上人なり本尊阿弥陀如来は聖徳 太子の御作なりと云ふ本堂より申酉の方に聖 徳太子堂あり立像は太子自作の霊像なりと又 本堂の後竹藪の中に家康公御陣所の時の風呂 屋の跡あり    ●本郡内(●●●)の(●)芭蕉塚(●●●) 宝飯郡内に数個の芭蕉塚あり其一(●●)は下地町聖 眼寺境内太子堂の南側に在り芭蕉翁貞享四丁 卯歳東行の際此郷茶店にて吟ぜし句を刻せり 世人松葉塚と号す明和六年吉田俳友の輩蕉門 風雅の跡を慕ふて碑石を建つ裏面に也有の記 文あり   ごを焼て手拭あふる寒さ哉 はせを  往昔芭蕉翁斯地に杖を停て遺せる一句あり  爰に住けれたれかれ深く蕉門の風雅を貴ぶ  余りはるけき近江の義仲寺に詣て古翁の墳  の土を取来り此所に塚を築き此石を建て白  隠老師に三大字を請得て石面に写し猶いろ  迄も旧蹤の紛なからむ事を思へり此事成て  其趣を石脊に記さむ事を予に求む吁夫遠き  世にかく慕はるゝは翁の徳にしてかく慕ふ  は其人々の誠なるをや辞し得すして拙き筆  を採も不𣏓の盛事に感あればなり            四十九            五十   明和六歳次己丑夏四月 尾陽隠士也有誌 其二(●●)は八幡村西明寺門前本坂街道の側にあり   かげろふの我肩にたつ紙子哉 はせを 其三(●●)国府町観音堂境内にあり平松喜春之を建 つ   紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ  はせを 三河藻塩草に云ふ往昔芭蕉翁我国府の邑白井 梅可の許に暫し客たりし時此里の何某が井の 中へ鳴神落下りしを人々集りてあやしき麫板 ようの物にて葢して置ぬ此事近きあたりに隠 なく雷を生捕にせしと聞ければ翁が梅可の案 内にて此に来り井の下に立寄り葢を除き見る に一物もなし主と共に三人手を打ちて笑ひ俳 諧一首をつくられて帰りける  あかるべき便りなけれは鳴神の     井戸のそこにて相はてにけり ●前芝港(●●●) 豊川の河口前芝村大字前芝にあり 豊橋を距る一里強船舶の出入頻繁にして港に 燈台あり又た白魚は当地の名産にして其の名 著はる    前芝白魚      関根痴堂  玲瓏白小落■初   一撮論銭珠不如  卓氏壚頭春可画   玉繊筭売水晶魚    白湯集       太田錦城  危檣掛繊月 帰艇帯微風 漁火在何処  明滅荻花中    枇杷園句集     士朗  浮出てうきともかかぬなまこ哉 ●御馬湊(●●●) 前芝に続きたる海岸にして往昔は 崎にて万葉集の安礼乃崎は此御馬湊のことな らん   大宝二年壬寅太上天皇幸于参河国時歌  何所再可船泊為良武安礼乃崎(イヅクニカフナハタスラムアレノサキ)     榜多味行之棚無小舟(コギタミユカンタナナシヲブネ) 口碑の伝ふる所に曰く人皇四十二代文武天皇 大宝二年太上皇持統帝此邑に行幸ありて暫時 行在所を設けらる其比は引馬野と号し小民此 処彼処に茅舎を結びて住居せり太上皇還幸の 後四百余年を経て八十二代後鳥羽天皇文治年 中源二位頼朝卿幕下の士比企藤九郎盛長禄を 宝飯郡にはむ頼朝卿伊豆国に配流せらるゝ時 当郡丹野村保国山全福寺大然大士に源家再興 の祈誓をかけ玉ふ頼朝再挙の後盛長をして鞍 馬を粧ひ御堂に奉る彼馬騰々として村里に出 で当村に止りて引馬の嫩草を喰ふ事数月なり 村人此馬をさして御馬と称せしより御馬の名 称起れりと云ふ    名所小鏡   若草のいまや御馬のいはふ声 宗長   霜雪や御馬の里に飼馬なき  白雪    白眼集   浦冷し御坊も塩を手伝ふか  轍士 ●蒲郡町 東海道鉄道停車場のある所に して近年海岸に海水浴場を設け豪家別邸など ありて夏時甚だ雑踏す此地方を昔は蒲形と称 せり此名称は源範頼が三河守となり茲に居城 せしに起りしにあらずや範頼は遠江国蒲に生 れて蒲冠者と称せしなり ○恋(●)の(●)松原(●●) 蒲郡より形原に至る海浜の松原 を云ふ南に渥美郡の山々を見渡し末は伊良湖            五十一            五十二 崎より勢州朝熊嶽など見へ甚だ絶景なり    夫木集       駿河  ほのかにもなほ会ふことを頼みてや     こひの松原しげりそめけん    富士歴覧記     中納言雅康卿  むかしたれ恋の松原まつ人の     つれなきいろに名つけそめけん ○俊成卿屋敷跡(●●●●●●) 小江村シヤグジの森か其処 也と元暦以前皇大后宮太夫俊成卿当所に住し 玉ひて竹屋、浦形、両庄を開発せしとぞ    夫木集       藤原朝臣道経  みどりなる色もかはらでよのつねに     幾代かへぬる竹の屋の里    三河にて      士朗  生海鼠ほす袖の寒さよ鳴千鳥 ○島嶼(●●)と(●)海水浴(●●●) 三谷町の沖に大島小島仏島 あり竹島は蒲郡に属して弁天あり又形原村海 上に亀岩ありて何れも風景佳良舟に棹し魚を 釣るなど遠近より来りて舟楫の遊びをなす者 甚だ多し特に海岸各地は蒲郡を初め三谷、御 馬、前芝等海水を浴するに適すれが夏期盛暑 の候避暑の遊客群をなす ○大島(●●)(天日製塩) 三谷に属す昔時より村内 の困窮に迫りし者村中に頼みて此島へ移り渡 世す薪炭、田圃、魚貝の利ありて必ず其家貧 を免る今尚之を行ふ此辺にて俊成郷【卿】の歌なり とて専ら左の歌を伝ふ  大島や小島が先の仏島     雀のもりに恋の松原    夫木集       清原朝臣元輔  みやはまのいさごのこずな我君の     宝のくらゐかぞへ見むかし 近年此島に於て農商務省特許に係る日乾式製 塩場(長さ九十間幅二十四間)を開く頗る好成 績を奏しつゝあり ○竹島弁天社(●●●●●) 当国三弁天の一なり又相州江 の島、芸州安嶋、紀州天の川、江州竹生島、 常州布施、野州野尻、三州竹島之を日本七天 女と云ふ、往古俊成卿江州竹生島の竹を此島 に移したる故に竹島と云ふよしに伝ふ ●楠公(●●)の(●)猿楽(●●) 元享元年楠正成赤坂城没落後 恩地左近太郎と共に広石と国府との境にある 猿楽山に来りて猿楽をなし往来の人に見せし め関東の武威を窺ひたりと伝ふ ●小栗判官潜(●●●●●)居 小栗判官照姫と唄はれたる 小栗小次郎助重は鎌倉より遁れ来り縁者なる 赤根村の郷士惣兵衛の許に寓居せりと云ふ                (完)            五十三     五十四   豊橋停車場前 岡田屋旅舘     五十四   豊橋停車場前 岡田屋旅舘  豊橋停車場前 旅舘 つぼや庄六 【右頁上段】 絵具染料 染工用品 工業薬品 薬種売薬 寒暖計類     豊橋魚町     守田屋     藤田保吉 清水種兎販売並ニ兎毛買受  清水兎毛紡績会社代理店    藤田保吉 【右頁下段】 勉強旅舘     ○豊川閣南側     伊勢屋       豊次郎     ○仝停車場前     伊勢屋       支店 【左頁】     豊橋停車場前       河合病院 ○診察時間 《割書:午前八時ヨリ|正午十二時マデ》   但シ往診午後日曜大祭日ハ医員診察 ○入院治療  従来病室狭隘ニ付入院往々謝絶致居候場合有之候処今回一  大病室新築落成候間以来入院治療御随意ノ事             《割書:院 長|医学士》 河合 清 【右頁】 東海道中最もふるく       最も篤実なる  ますや旅舘       豊橋札木町 【左頁】    芳川銀行浜松支店   遠江国浜名郡芳川村  《割書:株式|会社》 芳川銀行    芳川銀行豊橋支店 【右頁】  資本金八拾万円   《割書:株式|会社》亀崎銀行  積立金拾四万円余       常滑出張店       大野出張店       小鈴谷出張店       半田出張店       岡碕出張店     豊橋出張店       西尾出張店       新川出張店       知立出張店       足助出張店       挙母出張店 【左頁上段】 旅舘   豊川門前    若葉屋初蔵   仝ステーション前    若葉屋支店 避暑地   東上牛瀧    若葉屋支店 【左頁下段】 《割書:和洋|菓子》製造販売  祝言儀式其他如何程  の御注文にも応じ大  勉強調進可致候     豊橋呉服町   菓子舗 風月堂与平 【右頁上】 ぼたん ふぢ もみぢ 景色うるわし 鳥料理 豊橋停車場通 旭庵 尚御料理御好次第 調進可仕候 【右頁下】 和洋 各銘酒  大販売所    豊橋船町  紙市事   佐藤市十郎 東三名勝案内附録    〇東三名勝雑詩   竹本 穂山    宮路山 登臨萬樹染来新。 四面猩紅媚小春。 不識 天公是何宴。 能教青女酔山神。 千古金鑾跡己徴。 蹰躇回首対斜暉。 風流 不惜採紅葉。 看做人々賜錦歸。    赤阪 壽姫遺跡淡烟遮。 孤驛春風感旧多。 千古 香魂不飛散。 猶留長福寺邊花。    新春登本宮山 回頭灜海現芙蓉。 眺望無疆是此峰。 細水 清泉流脉々。 老杉長檜影重々。 春風深感 神明徳。 残雪猶留鬼女蹤。 百穀并烹投管 竅。 々【?】中多少卜豊凶。    国分寺 夕陽敲報老華鯨。 一吼猶存千古声。 可憫 金仙金剥落。 不如施主有光明。    御津山 名山亭在翠層々。 風入松篁涼景興。 咫尺 煙波衣浦舫。 西東鉄路御油燈。 閑雲来伴 題詩客。 幽鳥馴親煎茗僧。 七八州皆帰一 望。 心神快極欲飛昇。    豊川山 金猊不断篆煙斜。 春暖来参人益加。 鶯囀 狐王祠畔樹。 万燈光映紺園花。 訝聴奔雷出梵城。 丈余太皷報時声。 林泉 如錦花開処。 啼鳥游魚慣不驚。    阪本瀑布            一            二 観音山上発泉源。 水落観音山下村。 高樹 千章緑陰合。 飛流百尺雪花翻。 欣求霊境 清涼酔。 解脱人間炎熱煩。 一浴三杯再三 浴。 快遊又是大悲恩。    蒲郡雑詩 吟遊意不在温潮。 楼上吾嫌浴客囂。 好買 扁舟維竹島。 龍燈松下欲開瓢。 午天風穏欲無波。 游泳相呼浴客多。 独棹 軽舟遊仏島。 拾来奇介似蓮花。    前芝白小魚 都人争賞水晶鱗。 声価如珠色似銀。 今夜 芝川波上躍。 明朝京国膳頭珍。    春日財賀寺 静坐看花世慮空。 残瓢相酌酔春風。 上方 欲謁観音去。 寺在香雲暖雪中。 独趁春晴試一遊。 桜花爛熳圧枝稠。 千年 古仏開龕処。 簇々香雲護寺楼。    砥鹿神社 霊境無炎暑。 森々百尺杉。 一塵曽不到。  涼気滴吟衫。    東上妙劉寺 松間浄刹去求茶。 一杵鐘声出晩霞。 水碓 涓々舂不息。 泉流亦自助香華。    白鳥村総社 国司班幣祭神祇。 総社名存伝口碑。 秋老 霜林彩如錦。 想看千古整威儀。    豊川三明寺弁財天     世伝云力寿姫之遺像也葢又可真乎 浮屠崇做弁財天。 又是此心非偶然。 玉貌 端正兼福徳。 花顔愛敬見嬋姸。 何思雲雨 為哀別。 遂使縉紳結道縁。 国司舘邸人去 尽。 名姫遺像独千年。    下地烟花 霹靂声々西又東。 錦雲玉雨蓋青空。 夜来 更有呈奇技。 幾隊金魚躍水中。    遊竹島 点塵此際不来妨。 緑樹清陰天女堂。 亀嶼 烟波連鹿島。 聖山嵐翠接神郷。 人皆閑雅 舟猶穏。 魚是新鮮酒亦香。 尋得詩為他日 料。 絶佳一々歛奚嚢。    長山松源院 偶因官事到祇園。 多謝山僧礼遇敦。 利爪 千年天狗恠。 妙容一寸地蔵尊。 閑雲曳々 過牀上。 清水涓々洗石根。 晋代桃源虚誕 耳。 不如今日入松源。            三            四    阿寺子抱石 七層瀑畔石形奇。 石々皆抱一石児。 救幼 主趙将軍貌。 奉胎皇武大臣姿。 可憐到底 雖頑性。 堪愛従来似善慈。 妙用此留人父 道。 磊然砂礫却人師。    大野硯川 川形似硯碧泓中。 恰好雲烟淡又濃。 香墨 研磨花樹影。 翠毫揮掃柳条風。 文房知是 神仙物。 雅致尤成造化工。 借問当年何所 画。 鳳来山上利修翁。    鳳来寺 覇業終時金碧荒。 禅宮亦自見滄桑。 不知 何処仙翁去。 欲問当年鳳鳥翔。 十二支神 空黙々。 一千石禄遂茫々。 攀登行者嶺頭 路。 依旧山亭納豆香。    長篠拝鳥井勝商之墓 一心不可奪。 磔上殺其身。 義烈如金鉄。  千秋泣鬼神。    桜淵 水暖垂揚睡。 風軽小舫通。 桜花影沉処。  魚躍錦雲中。    蜂窠巌 蜂窠巌下水。 可汲此清流。 借問新城酒。  醸来似蜜不。    ○東参八景     作者不明   何時の頃の作なるやも知れず熊野大権現   八景詩歌として長山久保西郷神社に納す   るものゝ内より和歌一首宛抜粋したり蓋   し徳川前慶長年間の作ならんか    豊川帰帆  さそいては思ふかた帆に豊川の     波のまに〳〵にかへる船人    星野落鴈  天津空是もほしのに影さへて     池の水かくれ雁落るなり    石巻秋月  動きなき山のいわかね明かに     月に見へける秋の夜すがら    本宮暮雪  嶋に似し山の姿は埋れて     峯おもしろき雪の夕栄    本野晴嵐  ふかみどり嵐も色になびくなり            五            六     本野の原の青柳の糸    宮路夕照  えならずも千枝の栬の紅は     宮路の山の夕日さす比    渡津夜雨  終夜心もはれず降る雨に     世をしかすかの渡りいふせき    三明晩鐘  妙なれやみつのさかひもたとゝまし     世に古寺の入相のかね    ~~~~~~~~~~~~~    ○桜淵       織田清  咲つゞく桜が淵に来て見れば     花見の舟も盛なりけり    ○牛瀧       仝人  涼さの風さへ落て牛の瀑     夏をうしとも思はざりけり    ○東参四季(六首)  福井義真    衣浦の新年  肌寒き衣が浦のけさははや     千代の年浪立初めにけり    飛馬島の霞  ひめしまの霞かくれになりにけり     汐干にあさる賤が小舟は    伊良湖崎時鳥  いらこ崎松に一声鳴きすてゝ     伊勢海遠く行く郭公    宮路山紅葉  みやち山麓は霧に暮そめて     峯の紅葉に夕日てるなり    長篠嵐  矢さけひの声【?】かあらぬかとはかりに     吹く風すこき長篠のはち    鳳来寺雪  登りゆく御坂も雪に埋もれて     仰げとわかぬ峰の御薬師     ~~~~~~~~~~~~    ○東三名勝雑詩   角煙巌    豊川閣 紅裙賽罷白狐祠。 林外春風■酒■。 箇々 玉繊恣酔劇。 争抽緑麦做笳吹。    煙巌山 夕陽嘯破古煙巌。 敢使巨霊恣■■。 斜抱 青琴攀石桟。 忽麾白鹿叱瑤銜。 諸天日月 環金粟。 極浦雲霞現錦帆。 手折蟠桃花一            七            八 朶。 天風吹海濺春衫。    宮路山 瑤姫廟古夢依稀。 翠羽明璫薄暮輝。 繊月 忽飛楓樹外。 寒山一路伴猿帰。    牛瀧 誰劈銀河■【穴+桂?】九青。 渓山此処走神霊。 懸崖 松籟半天浪。 飛沫藤蘿満袖星。 万丈蛟龍 闘不歇。 百年肝胆忽然醒。 月明洗髪空潭 曲。 欲伴羽人敲石扃。    七瀧 潭雲弄影為誰容。 落葉空山看欲冬。 莫是 蒼猿断腸涙。 飛流乱灑夕陽松。    桜淵 豊川一瀉一百里。 拖眉側髩両岸山。 山碧 花白人如玉。 玉山倒偎香雲間。 半生錦嚢 貯金石。 驚天裂石抂自惜。 乾坤如此吾如 此。 醒眼読騒亦何益。 摘青人帰摘星家。  仙凡隔断片夢遐。 回首万嵐斜陽紫。 金 雞啼度満潭花。    長篠城跡 寒雲何処古城台。 燕麦萋々連碧崔。 蛮触 夢醒春幾度。 梅花又照髑髏苔。    雁峰山 雁峰之山自西来。 劈吾馬頭秋翠堆。 不妨 終日相趁笑。 我有瑤琴有雲罍。    蒲郡竹枝 窓外潮生開碧奩。 金梭札々髩鬖々。 児郎 奪去機中錦。 直作長風破浪帆    竹島 潮煙巌雨碧淋冷。 竹気颯々灑廟扃。 忽地 魚龍歇噴躍。 夕陽浦上数峰青。    日出石門 臣霊劈後幾千年。 潮窟汐厓蟠九淵。 半夜 老龍已擎日。 金鱗砕作海天煙。    鸚鵡石 沈香亭北牡丹前。 色即是空春似煙。 緑羽 孤飛化成石。 啼雲語雨二千年。            九 【右頁上】 明治三十四年十二月二十五日印刷 仝    年十二月二十八日発行   不許   複版     (定価金拾五銭)      豊橋町大字呉服町 大売捌所  豊川堂      豊橋町大字札木町 大売捌所  文海堂 【右頁下】   愛知県渥美郡豊橋町大字西八町六十二番戸 編纂兼 発行人  藤波一哉   愛知県渥美郡豊橋町大字西八町六十二番戸 発行所  参陽新報編輯局   愛知県名古屋市内屋敷町甲三十二番戸 印刷人  東崎作蔵   愛知県名古屋市天王崎町番外三十六 印刷所  長谷川活版所 【左頁】 東京(新橋)神戸間汽車時刻表 下り列車 駅名   横須賀行                  神戸行急行       大垣行  国府津行  浜松行   神戸行   浜松行  神戸行急行 神戸行      後                     前           前    前     前     後     後    後     後 新橋発  二、二五    …     …     …  六、二〇    …  七、二〇  八、四五 一〇、一〇 一二、二〇 一、四〇  六、〇五 一〇、〇〇                前 神戸行 大垣行            …       後                             静岡発  ▲弁当     …  六、四〇  八、三五 一一、五二 名古屋行  二、一二 ◎三、二三  五、一三  六、五六 九、四〇  二、四〇【一一、四〇の誤りか】  四、四〇 浜松発  ▲弁当  五、一〇  九、二〇 一一、二六  一、四六 ◎二、二五 四、四八  六、五〇     …  九、二四    …  一、四三  七、一二  舞阪発    … 五、二六  九、三六 一一、四二     …  二、五〇 五、〇四  七、〇九     …  九、四一    …     …  七、二八  鷲津発    … 五、四二  九、五二 一一、五八     …  三、〇六 五、二〇  七、二九     …  九、五六    …     …  七、四四  二川発    … 五、五九 一〇、〇九 一二、一五  二、二六  三、二三 五、三七  七、四八     … 一〇、一三    …     …  八、〇一 豊橋着  ▲弁当  六、一二 一〇、二二 一二、二八  二、三六  三、三六 五、五〇  八、〇三     … 一〇、二五    …  二、二九  八、一四           前    前     後     後     後     後    後           後          前      豊橋発     … 六、一七 一〇、二七 一二、三二  二、三八  三、四三 五、五二  八、〇八     … 一〇、二八    …  二、三三  八、一六  御油発    … 六、三二 一〇、四二 一二、四七     …  三、五九 六、〇八  八、二九     … 一〇、四二    …     …  八、三一  蒲郡発    … 六、四九 一〇、五九  一、〇四  三、〇三  四、一九 六、二四  八、五三     … 一〇、五八    …     …  八、四七  岡崎発 ▲弁当  七、一七 一一、二八  一、三一  三、二五  四、五〇 六、五一  九、二九     … 一一、二三    …  三、一八  九、一三      前                                                                    名古屋発 六、二〇 八、五〇  一、〇五  三、〇五  四、三五  六、三〇 八、二五     …     … 一二、三五    …  四、二六 一〇、三七 神戸着  二、五九 四、五四  九、二一 一〇、二七 一〇、四七     …    …     …     …  七、五〇    … 一一、一九  六、三六 上り列車 駅名                           新橋行急行       浜松行  静岡行  姫路ヨリ直通 新橋行   新橋行急行 新橋行                              前           前    前    前      後     後     後 神戸発     …     …     …      …  六、〇〇     … 六、二五 八、四〇   九、五〇 一二、〇五  六、〇〇 一〇、〇〇                 新橋行   前静岡行         後沼津行            後 名古屋発 ▲弁当      …  七、五四 ◎一〇、〇八 一二、二六 ○一、〇八 二、三二 四、三八  ◎五、五五  八、一〇 一二、四六  五、四八  岡崎発 ▲弁当      …  九、一八  一一、三一  一、二八  二、三五 三、五二 六、〇〇   七、三〇  九、三二  一、四八  七、一三  蒲郡発 ▲弁当      …  九、四三  一一、五六     …  三、〇二 四、一八 六、二五   七、五九  九、五七  二、〇九  七、三八  御油発    …     …  九、五九  一二、一三     …  三、一八 四、三四 六、四一   八、二五 一〇、一三     …  七、五四 豊橋着  ▲弁当      … 一〇、一三  一二、二七  二、一三  三、三二 四、四八 六、五五   八、四二 一〇、二七  二、三三  八、〇八           前沼津行  前     後      後     後     後    後    後      後     前     前 豊橋発  国府津  ○五、四〇 一〇、二二  一二、三三  二、一六  三、三七 四、五〇 六、五八   九、〇七 一〇、二九  二、三五  八、一五  二川発 迄一等   五、五八 一〇、三六  一二、四七  二、二七  三、五一 五、〇四 七、一三   九、二三 一〇、四三     …  八、三〇  鷲津発 客車ナ   六、二七 一〇、五四   一、〇四     …  四、〇八 五、二一 七、三〇   九、五五 一一、〇〇  二、五九  八、四七  舞阪発 シ    ◎六、四六 一一、一〇   一、二〇     …  四、二四 五、三七 七、四七  一〇、一六 一一、一六     …  九、〇三      前 浜松発  六、〇〇  七、二〇 一一、五四   一、四五  三、〇八  四、四五    … 八、一一      … 一一、四〇  三、三〇  九、二三 静岡発  八、三五 一〇、四〇  二、二五      …  五、一二  七、五〇    …    …      …  二、〇五  五、二九 一二、〇五 新橋着  三、三〇  六、二八  九、二三  一〇、〇八 一〇、三一 一二、二〇    …    …      …  八、五〇 一〇、四八  六、五三 十一 【右頁】                      十二 ◎豊川鉄道(吉田「豊橋」、大海間)発着時刻表 【右上段】 下り       午前                   午後              吉田発   五、四〇 七、〇□ 八、四□ 一一、〇〇 一、〇〇 二、五□ 五、〇五 《割書:自吉田|賃 金》  小坂井発 五、五一 七、一□ 八、五□ 一一、一一 一、一一 二、五□ 五、一五   六  牛久保発 五、五七 七、一□ 八、五七 一一、一七 一、一七 三、〇五 五、二一   八 豊川発   六、〇五 七、二□ 九、〇六 一一、二六 一、二六 三、一四 五、三〇  一一  一宮発  六、一二 七、三□ 九、一三 一一、三三 一、三三 三、二一 五、三七  一四  長山発    …  七、三□ 九、一九 一一、三九   …  三、二七 五、四五  一七  東上発  六、二五 七、四□ 九、二七 一一、四七 一、四五 三、三五 五、五一  二〇 新城発   六、三五 七、五□ 九、四□ 一二、〇一 一、五五 三、四九 六、〇四  二六  川路発    …  八、〇□ 九、五□ 一二、一〇   …  三、五□ 六、一三  三〇 大海着     …  八、一□ 九、五□ 一二、一七   …  四、〇五 六、二〇  三三 【右下段】 下り【「上り」の誤りか】                       午後              大海発     …  八、二〇 一〇、四〇 一二、四〇   …  四、三三 六、四〇 《割書:自大海|賃 金》  川路発    …  八、二七 一〇、四七 一二、四七   …  四、四〇 六、四七   三       午前 新城発   六、四五 八、三六 一〇、五六 一二、五六 二、三五 四、五〇 六、五六   七  東上発  六、五六 八、四七 一一、〇七  一、〇七 二、四六 五、〇一 七、〇七  一三  長山発  七、〇五 八、五四 一一、一四  一、一四   …  五、〇八 七、一四  一六  一宮発  七、〇九 九、〇〇 一一、二〇  一、二〇 二、五八 五、一四 七、二〇  一九                       午後 豊川発   七、二〇 九、一〇 一一、三一  一、三一 三、〇九 五、二五 七、三〇  二二  牛久保発 七、二七 九、一五 一一、三七  一、三七 三、一四 五、三〇 七、三五  二五  小坂井発 七、三一 九、二一 一一、四四  一、四四 三、二〇 五、三六 七、四一  二七 吉田着   七、四〇 九、三〇 一一、五二  一、五二 三、二八 五、四四 七、五〇  三三 【左段】 ◎汽車賃金表  自豊橋至新橋及神戸        □          □【銭?】 二川     七   御油     八 鷲津    一七   蒲郡    一六 舞阪    二四   岡崎    三〇 浜松    三四   安城    三七 中泉    四四   苅谷    四五 袋井    五二   大府    四□ 掛川    六〇   大高    五六 島田    七九   熱田    六三 藤枝    八五   名古屋   六七 静岡  一、〇一   一ノ宮   八二 興津  一、一四   木曽川   八七 蒲原  一、二二   岐阜    九三 沼津  一、四四   大垣  一、〇四 三島  一、四八   関ヶ原 一、一五 御殿場 一、六一   米原  一、三二 国府津 一、八六   彦根  一、三七 大磯  一、九二   八幡  一、五三 藤沢  二、〇四   草津  一、六四 大船  二、〇七   馬場  一、七二【馬場=現在の膳所駅】 戸塚  二、一一   京都  一、八三 横浜  二、二一   高槻  一、九八 神奈川 二、一九   大坂  二、一二 品川  二、三四   住吉  二、二八 新橋  二、三七   神戸  二、三五 【左頁】 蜂印香竄葡萄酒   蜂印香竄葡萄酒の品質純   良にして滋養分に富み春   夏秋冬の差別なく日需の   好飲料たることわ世人の   既に了知せらるる処なり   売捌元 東京 近藤利兵衛     本店 浜松町連尺 堺屋 木村庫太郎     分店 静岡市札辻 堺屋 木村陸平     支店 豊橋呉服町 堺屋 木村連作 【82 393】 【裏表紙】