【表紙】 大口喜六述 《題:豊橋市史談》         序    言 明治四十四年二月から参陽新報の付録に掲載した豊橋市談は四ケ年半の長年月 に亘つて大正四年七月に至り幸に完結した そこで折角の長講演を其儘に放棄するのは惜い事であると云ふので今度同新聞 社に於て取纏め之を一冊子となして汎く一般に発行する計画を定めたのが此書 である 講述者たる小生に取りては寧ろ慚愧に堪へぬ次第であるが一面からは又た深く 之を喜ぶべき理由があると考へる 元来豊橋市には纏つた市史がない啻に市史がないのみならす豊橋市の歴史を知 るに足るべき書物は殆どないと云つてもよい状態であつた 之れは甚だ遺憾であると云ふのて先年豊橋市に於て市史編纂の企をなしたが市 史の編纂よりも先づ史料の蒐集が必要であると云ふ事になつた そこで当時の市参事会は相当の計画を立てゝ市会の協賛を得其目的を進むると 同時に市史資料の展覧会なども開いたが当時此事業に対する各方面の同情は容 易ならざりしもので特に時の助役永野武三君を初め市吏員諸君は勿論田部井市 立八町高等小学校長を初め市立各学校長並に職員諸君の如きも普通勤務の余暇 を以て非常の助力を与へられたものである 又資料の所有者にしても不思議な程喜むで其提供に応じたもので寧ろ進むで資 料を提出せられた向も少くなかつたのである此の如き訳で各神社並に寺院を初 め各個人の厚意を受けたるは枚挙に遑あらざりし次第であるが就中大河内子爵 家の如き三上文学博士の如き文学士渡邊世祐君等の如き孰れも貴重なる資料の 閲覧謄写を許されたるのみならず教示を与へられた事も亦た些少でなかつた かゝる事情によつて次第に曙光を認むるに至つたのが豊橋市市史あるから此豊 橋史談の如きも小生の手によつて成つたものには相違ないが其実は全く豊橋市 の力と之等同情者の余沢とによつて出来たので若しこれが社会に対して寸効で もありとすれば其功績は之れ等法人又は個人の力に帰せねばならぬと考へる 勿論此史談は其初めに申述べてある如くまだ資料の調査研究中に未定稿を発表 し大方の教を請はむとしたものであるのみならず四ケ年有余に亘つてボツ〳〵 と発表したものであるから実に出物としては体をなさぬ処がある此点に当事者 たる小生が不文無識の致す処に帰せねばならぬので如何にも愧入る次第である が只資料のあらむ限りを発表し頁数や月日に頓着なく委曲を画した点は到底再 びなし難い事業であつたと確信する 要するに豊橋市史資料の能く蒐集せられたのは或意味に於て豊橋市と之に同情 せる人々との力の塊である而して此史談は其外形こそ粗末であれ其内容に至つ ては全く其塊から発した余迸であるに相違ない小生が茲に巳れの不文無識をも 顧みず本社が汎く発行せられて永久に保存せられむとするのを喜ぶと云ふのは 実にこの此点を思ふからである 終に望むでて小生は参陽新報社が多年克く困難と戦つて此史談を完結せしめ更に 進むで冊子として発行せられむとするの拳を感謝して止まぬものである   大正五年四月十五日蓊山楼上に於て                   大  口  喜  六  識   付記   本書には印刷の際魯魚の誤をなしたものも多少あるが遺憾ながら今一々之を訂正して居る暇がない併し原稿の誤   もニ三ある間部詮房と詮勝との名を錯誤せしめたる処や吉祥院が田原一色氏の菩提所であつたのを牛久保一色氏   の菩提所であるとなしたなどは其著しきものであるこれ等は他日を俟つて詳しく訂正する考である 【右頁空白】 【左頁】 【欄外】 参陽新報五千二十一号附録   ( 大正四年七月十三日発行 ) 【本文】       豊橋市史談目次        築城以前の豊橋         初めて文書に残れる豊橋 飽海の地名 幡太の地名 渡津 三河古跡考 三河の国府幷に国         司 東海道通路の変更 志香須賀の渡し 豊川宿 源頼朝上洛 東海道通路の復旧 駅家郷         今橋之地名 神領地 薑の地名 浄業院の創立 悟眞寺二世慈智上人納経 足利義教の富士         遊覧 今橋の発展程度        今橋築城と牧野古白         群雄割拠 松平氏並に戸田氏 一色城 古白の研究 今橋時代に関する史料 三河物語 家         忠日記 松平記 大三河志 牛窪密談記 寛永系図 貞享書上 寛政重修諸家譜 古白の子         孫牧野子爵家 牧野成一氏 牧野系図 古白の素性 牧野成富 成富の墳墓 福昌寺 利業         の名 古伯の古白 宗長手記 馬見塚 牧野成勝        牧野古白の戦死         古白戦死の月日 吉田城主考 光輝庵過去帳 古白非戦死説の誤謬 今川氏親攻撃説 松平         長親逆襲説 今川松平二氏矢矧川合戦 岡崎古記 妙源寺文書 古白の人物 古白平姓を称         す 古白の墳墓 戸田金七郎        牧野成三と吉田の地名         牧野成三今橋城を復す 牧野信成 鵜津山 吉田の地名 天野文書 吉田山龍拈寺        牧野信成等の戦死         牧野氏の勢力 松平清康 吉田合戦の月日 享禄二年説の有力なる証拠 古河系図戦の状 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                        一 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      二 【本文】        祝 新蔵新次信成等の墳墓 信成等の戒名 龍拈寺文書       二連木城と戸田氏        戸田家系校正余録 寛正六年三河一揆 十田と戸田 宗光逝去の年月 全久院 光圀禅師        全久院と二連木城との関係 戸田憲光 戸田政光 戸田康光 戸田金七郎再び吉田城に拠る        今川義元吉田城を略取す 天野安芸守 康光竹千代を奪ふ 潮見坂 戸田堯光 田原落城        田原戸田と二連木戸田 浪の上戸田          ●補遺 牧野古白の戦死に就て       今川義元と吉田        松平広忠卒去 竹千代岡崎に帰り更に駿河に質たり 吉田城代 朝比奈岡部一氏 伊東左近        将監 小原肥向守 今川義元の実績 吉田神社 石田正利 石田正治 笹踊 熊野神社 石        田鈴木両家 魚問屋 伝馬定状 東三河の形勢 山家三方 東国紀行 牧野保成 菅沼織部        正 織部新城 竹千代名を元信と命ず 元信名を元康と改む 徳川家康大高城兵糧入 桶狭        間役 家康岡崎城に帰る       桶狭間役後の情況        岡崎城代 家康氏眞を促す 石瀬合戦 家康氏眞と絶ち信長と和す 中嶋の戦 小原鉄実東        三河諸将士の質を吉田城外に惨殺す 菅沼定盈の妹 家康東條義昭を攻む 牧野貞成西尾城        を守る 荒川甲斐守 貞成牛久保に退く 野田の戦 新城の戦 五本松 月谷 西郷正勝等        の戦死 定盈野田城を復す 鳥屋根の戦 鵜殿長照戦死 信康岡崎に帰る 家康一の宮の後        詰牧野保成戦死 牛久保の諸士 稲垣平右衛門 清洲の会見 家康改名 一向専修の乱       吉田合戦        御油の戦 八幡の戦 糟塚 喜見寺 戸田宜光の卒去 戸田重貞其質を奪ふ 本多忠勝牧野        宗次郎と一番鎗を合す 城所助之丞 峰屋貞次戦死 貞次の母 吉田城明渡の年月 合戦の        結末 家康吉田城を酒井忠次に賜ふ       酒井忠次と東三河の諸士        家康が家人に城主を命ぜし濫觴 本多広孝 田原城明渡し 豊河の架橋 忠次夫人寄進の画        像 里村紹巴の富士紀行 酒井氏系図 東三河に於ける諸士 戸田忠重 戸田康長 戸田氏        輝 戸田氏光 戸田一西 牧新兵衛 牛久保に於ける牧野党 牧野成定の墳墓 牧野新次郎        康成 牧野惣次郎康成 過銭の茶壺 金扇馬標 徳川家の具足祝日 牛久保に於ける牧野氏        の家系 段峯の菅沼 長篠の菅沼 野田の菅沼 菅沼氏系図 奥平氏 深溝松平氏 竹谷松        平氏 形原松平氏 伊奈の本多氏 葵紋の説       今川氏の衰亡と武田氏の侵入        小原鉄実の素性 三浦右衛門佐 駿河国政の紊乱 武田氏侵入の径路 武田信虎 甲陽軍鑑        山本勘介の子 武田今川二氏の連合 山本勘介 信玄自立 武田北条二氏の連合 信玄の信            濃侵略 上杉謙信 川中島合戦 北条氏 北条氏綱 北条氏康 北条氏康駿河に侵入す 今        川武田北条三氏の連合 善徳寺の会盟 北条氏の関東征略 武田氏の飛騨侵略 今川義元の        西上 桶狭間の敗死 武田氏駿河を窺ふ 北条氏今川氏を助く 徳川真田二氏の盟約 武田        氏駿河に侵入す 徳川氏遠江に侵入す 北条今川二氏援を謙信に求む 信玄家康の盟約破る        家康今川氏眞と和す 信玄の退軍 北条氏駿河を占有す謙信玄小田原に侵入す 信玄駿河の        諸城を略す 信玄遠江に侵入す 武田氏の兵三河を抄掠す 家康浜松の新城に移る 姉川の        合戦 山家三方武田氏に属す 信玄吉田城に迫る 二連木合戦 信玄の西上計画 信玄北条        氏と和す 信玄と里見佐竹両氏 謙信に対する方策 足利義昭と信玄 上杉織田徳川三氏の        連合 林十右衛門景政       三方ヶ原役前後の事情 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      三 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                       四 【本文】        信玄大軍を率ゐて再び遠江に入る 山縣昌景三河の北部に入る 遠江侵略 一言坂の戦 信        玄東三河に入らむとす 三方ヶ原の戦 信玄三河に入り野田城を囲む 大恩寺文書 野田城        落つ 信玄病を獲 信玄の卒去       長篠役と武田氏の滅亡        家康長篠城を復す 奥平貞能の帰降 家康長篠城を修し奥平貞昌をして之を守らしむ 高天        神城武田氏に降る 織田武田諸氏と足利将軍との関係 大賀弥四郎の叛逆 武田勝頼の侵入        二連木の戦 勝頼長篠城を包囲す 家康信康旗を野田に進む 織田信長の来援 鳥居弥右衛        門勝啇 長篠合戦 鳶巣山の襲撃 武田氏の大敗 家康三遠両国を平定す 上杉武田北条三        氏の同盟 武田氏の滅亡       松平信康の自刃並に厳龍和尚        信長の富士遊覧 信長の吉田宿営 築山殿前関口氏 信康夫人織田氏 織田氏書を父信長に        送る 厳龍和尚と大久保忠世との関係 信康と厳龍和尚       本能寺の変及び山崎役の大要        家康安土に至る 信長の勢力 家康の堺遊覧 信長の西征 本能寺の変 山崎役 光秀殺さ        る 家康の帰国       本能寺事変後の織田氏        清洲会議 信勝と信孝 勝家と秀吉 大徳寺の法会 秀吉岐阜を攻む 伊勢征伐 柳ケ瀬役        賤ケ岳 勝家亡ぶ 信孝自殺       小牧役と牧野成里        峰城 忠次桑名に陣す 犬城山陥る 忠次長可を羽黒に破る 家康塁を小牧山に構ふ 秀吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報五千三十八号附録   ( 大正四年八月三日発行 ) 【本文】        犬山に至る 長久手合戦 信輝支援を率ゐて西三河に侵入せむとす 篠木柏井 木幡城 岩        崎城 丹羽氏重戦死 家康の追撃 水野支援 白山林の戦 細ケ根 檜ケ根 富士ケ根 信        輝長可等の戦死       秀吉と信雄家康の媾和        秀吉信雄の媾和 矢田河原の会見 秀吉家康媾和成る 両雄の計策 豊臣徳川二氏の婚約        豊臣氏吉田に滞在す 大政所岡崎に来る 家康の上洛 酒井忠次の意見 家康の決心       酒井忠次の退隠        惣河原の宴 家康忠次の邸に猿楽を見る 忠次の退隠 忠次薙髪して一智と号す 忠次卒す        光樹夫人の卒年月日 忠次と吉田 東観音寺文書 普門寺文書 忠次と家康 酒井家次       小田原役        真田昌幸 北条氏上洛に肯せず 秀吉昌幸をして沼田を北条氏に致さしむ 氏直約に叛く        氏政氏直天下の大勢に通ぜず 家康長丸を質とす 家次の伝令 伊奈備前守忠次 征討軍の        兵站 豊臣秀長の兵吉田に駐屯す 酒井家次の従軍 秀吉の吉田逗留 山中城陥る 韮山の        孤立 小田原包囲攻撃 関東諸城の攻略 家次の戦功 氏政等の自裁氏直高野に放たる       徳川氏の関東移封        北条氏の籠城策 家康関東に移封せらる 織田信雄信濃に放たる 家康国替の迅速 秀吉の        諸侯配置策 東参河に於ける諸将士の分封 酒井家次上州碓井に移る 江戸は三河の粋を集        めたるもの 奥羽の平定 秀吉の検地 彦坂小刑部文書         ●補遺 酒井忠次夫人寄進の画像に就て       池田輝政と吉田 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      五 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                       六 【本文】        池田輝政吉田に封せらる 伊木清兵衛 荒尾平左衛門 二連木廃城となる 貫高と石高 輝        政の事業 豊河の橋梁 悟眞寺の移転を企つ 城池の拡張 柳生門 豊川の治水事業 輝政        の略歴 文禄の役 督姫輝政に嫁す 妙円寺 輝政と日円       池田輝政の人物        輝政の人物 輝政の幼時 輝政の質素 輝政士を愛す 克く過を改む 租税を軽くす 輝政        の寛大 伊木清兵衛の諫言 倭舞       関ケ原役        秀吉の晩年 秀吉関白職を秀次に譲る 淀君 秀頼生る 石田三成 秀次亡ぶ 戦勝と外交        桃山城 醍醐の花見 秀吉薨去 外征の師還る 文治武断両派の軋轢 家康私に婚を約す 前        田利家 三成屏居 家康大阪の西城に入る 家康質を江戸に収む 上杉景勝城塁を修す 家         康景勝の入観を促す 家康自ら会津を征す 鳥居元忠松平家忠等伏見城に留守す 京極高次        輝政家康を吉田に饗す 輝政の従軍 家康小山に於て伏見の警報に接す 諸客将等西上に決        す 松平家乗 東軍質を吉田に集む 三成兵を挙ぐ 大谷吉継 三成関門を愛知川に設く        毛利輝元 細川忠興の妻自刃す 田辺伏見両城の攻撃 鳥居元忠等の勇戦 島津惟新伏見城        を守らむと請ふ 小早川秀秋亦た城守を請ふ 元忠家忠等の戦死 東軍の先鋒清洲城に集合す        岐阜城の攻略 輝政の戦功 織田秀信の請降 東軍の諸将赤坂に集る 家康自ら西上す 秀        忠東山道を西上す 家康の吉田通過 上田城 真田信幸 東軍諸将の謀議 株瀬川の戦 西        軍諸将敵を関ケ原に扼せむとす 東軍の進撃 桃配山 輝政南宮山の敵に備ふ 両軍の決戦         小早川秀秋の応援 西軍の不統一 佐和山城攻略 秀忠草津に着す 家康秀忠大阪城に入        る 家康自ら賞罰を行ふ 輝政姫路五十二万石に移封せらる 輝政の卒年並に墳墓 国清寺       松平家清吉田に封せらる        家康の諸侯配置法 松平玄蕃頭家清 土地の発展と藩主 竹谷の松平 家清武蔵八幡山より        吉田に移封せらる 家康征夷大将軍に任ぜらる 家康軍職を秀忠に譲る 家清卒す 松平玄        蕃頭忠清 忠清卒す 松平清昌 家清忠清の病因 慶長九年の路次賃銭定状 寛政重修諸家        譜抄録       松平忠利の移封        松平主殿助忠利 深溝の松平 大炊助好景 主殿助伊忠 主殿助家忠 父祖三代相続で主家        の為に戦死す 鐘銘事件 大阪冬の役 家康大阪出征の途次吉田に着す 軍隊供給に関する        制法 林文書 秀忠の出発 和議成る 忠利の戦功 大阪の再挙 夏の役 豊臣氏亡ぶ 庄        九郎忠一 家康薨去 秀忠辞職 家光征夷大将軍となる 秀忠の上洛 林文書 寛永と改元        利忠卒す 子忠房襲封刈屋に移さる 徳川実記の記事 秀忠東帰吉田に過る 丙辰紀行 吉        田の大橋 あつまつ道の記 城の建築 小堀遠州と忠利の親交 鍛冶町の移転 元鍛冶町        水野忠清刈屋より此地に移封せらる       水野隼人正        水野隼人正忠清松平主殿頭忠房と交代す 水野忠政 家康の実母伝通院 水野信元 水野忠        重 忠清加増 将軍家光の上洛 吉田宿泊当時の出来事 家光の帰還 寛永新銭の鋳造 松        平伊豆守信綱 吉田の駒曳 新銭町 吉田大橋の架替 忠清松本に移封せらる       水野監物        水野忠膳善吉田に封ぜらる 水野忠政 水野忠守 水野忠元 忠善岡崎に移さる 忠善の言行        明良洪庵の記事       小笠原壱岐守        小笠原忠知 小笠原長時 小笠原秀政 魚町権現社の朱印請願 家光薨去家綱継ぐ 忠知の        卒去 臨済寺 日東玄暘禅師 神宮寺の寺格 瓦町開発の覚書 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      七 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                       八 【本文】       山田宗偏と小笠原忠知        山田宗偏 宗偏父 共に吉田に住す 小堀遠州に学ぶ 千宗旦の門に入る  口斉の号 宗         偏忠知に仕ふ 不審庵の号を継ぐ 利休茶道具図絵 茶道便蒙抄 宝永五年四月二日歿        茶道要録 港町神明社の庭園 呉竹の清水 宗偏自作の木像 宗偏と忠知       小笠原氏歴代と吉田の情勢        小笠原長矩 小笠原長定 小笠原長秋 長矩自写の経文 神明社の石華表 長矩卒す 小笠        原長祐 元禄時代 吉田の花火 笹踊の装束 貞享書上 市勢調査 元禄元年吉田の地図        橋梁の架替 井上通女の帰家日記 船町庄屋口上の覚 長祐卒す 小笠原長重 長重武蔵岩        槻城に移封せらる 補遺       久世出雲守        久世重之吉田に封せらる 久世広宣 久世広之 重之復■関宿に移封せらる 生類御憐み        孝子旌表       牧野備前守        牧野成春 長岡牧野家 牧野成貞 笠間牧野家 吉田の地籍図       牧野大学と其治蹟        牧野成春 寛永四年の大震災 吉田の被害数 震災の救済 造船の補助 用下水道の改修        松本信祝       土肥二三        土肥二三 【左頁】 【欄外】 参陽新報五千四十四号附録   ( 大正四年八月十日発行 ) 【本文】       大河内氏と其祖先        大河内氏と吉田 大河内氏の祖先 大河内顕綱 大河内卿 吉良荘 吉良長氏 大河内政顕        長縄の大河内氏 秋池窪田杉臥蝶の大河内氏 桃井の大河内氏 大河内元網 華陽院夫人        大河内政局 大河内光綱 大河内信政 義光院 大河内貞綱 大河内善兵衛政綱 大河内基        孝 大河内信貞 金剛院 大河内秀綱 臥蝶城 秀綱家康 仕へ遠江国稗原の地を領す 秀        綱参遠両国租税の事を司る 平林寺 大河内久綱 大河内政綱 正綱長沢松平氏を継ぐ 正        綱吏務に長ず 正綱の日光殖林 松平信綱 信綱の伝記 島原役 信綱別に一家を立つ 大        多喜の大河内氏 高崎の大河内氏 大河内輝綱 輝綱の人物 泰西学芸の先覚者 大河内信        輝 大河内輝貞 信輝の書状 於種夫人 龍泉院の書翰       松平信祝と其時代        松平信祝 元禄時代 幕府財政の紊乱 六代将軍家宣 信祝古河より吉田に移封せらる 吉        田城の授受 遊佐平馬 藩士並に寺社町在への触書 信祝移封当時の地図 七代将軍家継        将軍家宣と新井白石並に間部詮勝 八代将軍吉宗 信祝大阪城代に任ぜらる 信祝浜松に移        封せらる 信祝輝貞と同時に老中に擢用せらる       信祝の人物並に事蹟の一班        信祝の日記 大河内家譜 三浦竹渓 吉田刈谷交代参観の制 吉田藩主と新居の関所 吉田        藩表日記 大橋の修繕 仮橋の廃止 河川取締の制札 参観前信祝の発せし告示       京極氏と永井局        信祝夫人京極氏 永井局本名尼崎里也 尼崎里也父の仇を復す       松平資訓と其事蹟 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      九 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十 【本文】        松平信祝と松平資訓との交代 本庄宗資 本庄宗俊浜松に封せられ性松平を賜ふ 松平資訓        復び大河内氏と交代して浜松に封ぜらる 松平資訓在城中の事蹟 出火頻々 市中の困弊        都市と行政との関係 吉田神社の石華表 船町保存の文書類 孝子旌表       大河内氏復び吉田に転封せらる        松平伊豆守信復 天下の大勢 信復時代の吉田 謙光院       松平信復と其時代に於ける人物        信復の人格 林正森 僧教春 三河国二葉松の著者       松平伊豆守信禮        松平信禮       松平信明の幼時        松平信明の幼時 伊豆公の親和 十代将軍家治の治世 田沼意次       松平信明と白河楽翁公        松平定信 十一代将軍家斉 定信と信明 定信より信明に贈りし書簡 意次の解職 意次封        地を減ぜらる 天明の饑饉 定信信明の親交 信明の性行 定信の襟度 定信補佐職となる        信明老中に推挙せらる 寛政の政治       尊号事件と信明        尊号事件の端緒 定信の意見 尊号事件再燃 事件の落着 中山正親町二卿の東下 信明の        弁論 信明の上京 信明非礼を受けず       定信の退職            定信の退職       信明老中を辞す        信明の退職 信明の極諫 大御所問題 久田縫殿頭 久田等の専横 林述斉と信明 述斉と        書翰       信明再び老職に任ず        信明と和歌 さみだれの侍従 信明国に就く 久田立花の蟄啓 信明の復職       信明復職当時の形勢        我隻隠居 水野忠友 水野忠政 露国の使節レサノツトの来航 英艦長崎へ来る 松平康英        の憤死 深川八幡祭礼の珍事 述斉の予言       松平信明と外交関係        松本伊豆守 最上徳内 露国我が漂流民を送り来る 露国使節に信牌を与ふ 寛政九年の発        令 渡邊糺等を蝦夷に派遣す 近藤重蔵 箱松蝦深秘考 長島忠親 幕府自ら蝦夷開拓の事        を決す 本多忠籌辞職事件 松平信濃守 羽太正養の休明光記 間宮林蔵 伊能忠敬の地        図 伊能忠敬と松平信明 蝦夷奉行 露国使節レサノツト長崎に来る 露船北海に冠す 述        斉の信明に上りし意見 松前若狭守の転封 松前奉行 将軍の女浅姫を伊達政千代に嫁す        文化四年六月廿八日の対外命 幕吏露船の乗組員を擒にす 高田屋嘉兵衛 信明の対外政策        北海の警備 信明の卒去と共に政局一変す 蝦夷経営の廃止       松平信明の逸事        信明の性行に関する甲子夜話の記事 信明の仁慈 信明権威に屈せず 信明諫を容る 信明        の精力 信明の質素 信明の廉潔 文学の奨励 信明と古賀精里 寛政重諸家譜の編纂 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十一 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十二 【本文】        徳川実記並に朝野旧聞衰稿編纂 信明と伊能忠敬 日光山殖林 小金原の狩獲 信明の勤王        心       太田錦城と信明        太田錦城 錦城と信明 時習館 太田晴軒       信明と其城主時代に於ける吉田の情況        信明の体質 信明の葬儀 時習館の創立 信明時習館を拡張す 西岡善助 平民子弟の教育        文化十四年の触書 渡船に関する記録 領地の異動 安永八年の大火 火消組 四時庵北莱        恩田三省 佐藤南澗 服部弥助 刀工重喜       松平信順の襲職        松平信順 水野忠成の弊政 大阪城代としての信順 京都所司代としての信順 大阪入城の        絵巻 大久保忠眞 将軍家斉隠居 家慶襲職 水野忠邦の改革 渡邉崋山等の疑獄 蟄居中        の崋山 崋山の格天井 崋山の日記 家斉の薨去 矢部駿州の憤死 鳥居忠耀 忠邦の失敗        水戸斉昭の謹慎 信順の隠居 信順の卒去 信順隠居の事情       松平信順の人物並に其藩時代に於ける吉田の状況        信順の性行 山田洞雪 中山美石 公事記 大阪日記 京都日記 後撰集新抄の出版 本居        大平門人々名 鈴木土佐 鈴木陸奥 安永八年吉田大火に関する鈴木土佐の手記 山田洞雪        は横山文堂の誤 僧了願 大珍彭仙 大口三緘 四時庵北溟 孝子初蔵       松平伊豆守信宝        松平信宝 信宝卒去 信宝自書の仰渡 諸侯財政の窮状 時習館に関する触書 倹約に関す        る席触 信宝の逸事 【左頁】 【欄外】 参陽新報五千五十号附録   ( 大正四年八月十七日発行 ) 【本文】       松平伊豆守信璋と其時代        松平信璋 信璋襲職当時の仰渡書  外交問題の紛糾 尊王攘夷論の勃興 水野忠邦の復職と        罷免 信璋卒去 藩の財政内情 封事を徴す 太田晴軒 金子荊山 村井楽所 川西士龍        山田洞雪 山田香雪 恩田石峯 吉田名蹝踪録の著 佐藤大寛 福谷水竹 鈴木三岳 鈴木吉        兵衛 柴田猪助の米価記 弘化嘉永間の吉田の人口         ●正誤       松平信古の襲職        信古襲職後に於ける天下の形勢 米国使節リペー【ペリーの誤り】の来航 ペリー来航以前に於ける外交問題        の概要 ペリーの出発 ペリー琉球に至る ペリー浦賀湾に投錨す 与力中島三郎助 浦賀        湾頭の光景 久里浜の会見 幕府当局者と水戸斉昭 将軍家慶の薨去 世子家定の襲職       外交問題と吉田        和田肇 西村治右衛門 西岡翠園 児島閑牕 諸侯諸士等の建議 露国使節の来航 ペリー        の再航 神奈川条約の締結 英艦の来航 英国と協約成る 露使の再航 日露条約成る 外        船渡来が及ぼせる影響 江川太郎左衛門 高嶋秋帆 観光丸 海軍制設の端緒 講武所 彦        坂菊作 福谷啓吉 初期の海軍伝習生 咸臨丸の遠洋航海 福谷啓吉の渡米 穂積清軒 蘭        医坪井信道 村田蔵六 高畑五郎       攘夷論の勃興        外交と内治の紛糾 斉昭と伊賀守等の衝突 溜間詰諸侯の反抗 堀田備中守再び閣老となる        開国攘夷二党軋轢の原因 ハリスの来着 ハリスの要求 ハリスの登城謁見 列侯の異論        尾水両藩の態度 阿部伊勢守の卒去 斉昭の京都手入 蘭露両国と追加条約を締結す 藩書        調所の応接 諸侯の意見 外交に関し勅許を奏請すべしとの議起る 光圀の大日本史と山陽 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十三     【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十四 【本文】        の日本外史 幕末勢力の推移 斉昭の放言 朝議幕府を詰責す 堀田閣老の上京 将軍継嗣        問題の紛糾 一橋派と南紀派の確執 松平慶永の奔走 井伊直弼と南紀派 志士の京都入説        王室家 堀田閣老等の入京 朝議幕府をして再び諸侯の意見を徴せしめむとす 条約締結に        関する勅答 堀田閣老の帰東 南紀派と一橋派との軋轢 井伊掃部頭       井伊掃部頭の執政        松平伊賀守と井伊大老 井伊大老の果断 建儲の発表 各国軍艦の沓至 幕議条約に調印せ        むとす 堀田備中守松平伊賀守の免職 間部詮勝等老中となる 田安一橋両卿の大老を面折        す 水戸斉昭尾張慶怒の不時登城 紀伊慶福将軍の世子として発表せらる 水戸尾張越前の        厳譴       戊午の大獄と小野湖山        間部詮勝の上京 将軍家定薨去 水戸並に幕府に勅諚を下賜せらる 梅田源次郎等の奔走        幕府と水戸藩との乖離益甚しきを加ふ 九条関白の辞職 井伊大老等閣中の決心 梅田源次        郎の捕縛 幕府斉昭を朝廷に弾劾す 主膳下総守に会す 鵜飼父子の捕縛 下総守の入京        志士続々捕縛せらる 九条公の復職 連累者東送せらる 攘夷猶予の朝旨下る 下総守の帰        府 連累者の鞠間と其処罰 小野湖山 湖山の幽閉 吉田藩の青年と湖山 湖山時習館に教        鞭を執る       吉田に於ける国学者と羽田野敬雄        吉田に於ける国学者 岩上登波子 羽田野敬雄 敬雄と平田篤胤 佐野蓬宇 敬雄と志士        湖山と敬雄との交通 楠公の祭祀 湖南拙庵 三河古蹟考の著 逢宇の日記         ●補正 小野湖山に就て       桜田門外の変        別勅奉還事件の紛擾 桜田門外の変 松平信古寺社奉行に任ず       井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の       大阪坂城代就任        安藤対馬守信正 和宮の降嫁 水戸斉昭の薨去 薩長ニ藩漸く勢力を張る 坂下門外の変        勅使大原三位並に島津久光等の東下 慶喜後見職となり慶永政事総裁となる 信古大坂城代        に任ず 児島閑牕の御内命請書 信古の人材登用 慶喜慶永等大に幕政を改革せむとす         ●補遺 羽田野敬雄に就て       攘夷党の極盛と其蹉跌        勅使再東下 山内容堂の斡旋 長藩の公武合体論と尊王攘夷論 薩長二藩の不和 井伊間部        等の処罰 三職並に国事会議所の設置 浪士の暴行 松平容保京都守護職に任ず 新微組並        に壬生浪士 将軍家茂の上洛 慶永将軍を説く 慶永私かに国に就く 将軍吉田通過の日記        倒幕の計画漸く行はれんとす 開港論者と攘夷論者の種類 加茂並に男山行幸 将軍遂に攘        夷期限を奏上す 慶喜の東下 将軍大阪城に入り更に摂海を巡視す 生麦事件と小笠原図書        頭 将軍の東帰 急激派の蹉跌 文久三年八月十八日の政変 長藩の京師引き払ひ 七卿の        長州落 生野の挙兵 武田耕雲斎 元治と改元す 薩藩の意向 長藩士の入京 西郷隆盛の        卓見 蛤門の戦闘       大阪在府中の吉田藩と山本速夫        信古大阪に着す 攘夷の布告 幕府の指命と朝議との齟齬 松平相模守抗弁 八月十八日の        政変に関する通知書 十津川事件の報告 山本速夫 速男の脱藩 能勢辰蔵 坂部大作 森        暁助 物価高騰 心覚記       大阪坂城代の交代及び其後の形勢 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十五 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十六 【本文】        第一回長州征伐 信古の大阪城代交代 信古刑部大輔と改称 信古溜の間詰を命ぜらる 各        国軍艦摂海に入航す 朝廷阿部松前両閣老を罷免せらる 将軍家茂辞表を呈出す 長州再征        の挙 将軍家茂薨去 慶喜将軍に任ず       薩長二藩の連合        長州再征の止戦 幕長の消長と外交の関係 薩長二藩の連和成る       王政復古と吉田藩        孝明天皇の崩御 岩倉西郷等の計画 薩長芸三藩の大同盟 土佐藩の建白 大政の奉還 討        幕の密勅 徳川氏に対する処分 慶喜大阪城に退く 江戸に於ける薩邸の攻撃 慶喜上洛せ        んとす 伏見鳥羽の戦 慶喜海路江戸に皈る 吉田藩の動静 児島閑牕の意見書 穂積清軒        幕府の翻訳方に任ぜらる 清軒の建白書 清軒致堂の邂逅 致堂の出府に就ての詩 清軒洋        学塾を開く 清軒の帰藩 信古の下阪 君前会議の激論 信古亦た竊【蜜】に大阪を脱して吉田に        帰る 児島閑牕の夢物語 信古長岡侯と共に吉田城に入る 藩論帰順に決す 荒井関所に関        する問題 東征大総督宮任命 山本速夫の斡旋         ●補正        吉田藩東征総督府総軍兵糧並に輺重方を命ぜらる 吉田藩の従軍者 先鋒の東上 大総督府        の模様 総督府の駿府出発 兵食規則の改正 信古の西上 大阪親征 勝安房と西郷隆盛        江戸城の落着 彰義隊 彰義隊と藩邸 穂積児島等の厄 大総督宮江戸城に入る       吉田藩の大多喜出陣        吉田藩の大多喜出陣 楠光院の賊徒戦闘 猪俣一二三         ●補正       三河国裁判所の開始 【左頁】 【欄外】 参陽新報五千五十六号附録   ( 大正四年八月二十四日発行 ) 【本文】        三職七科の制 太政官代を置かる 三職八局の制 徴士貢士 山本速夫の帰藩 三河裁判所        の設置 平松甲斐権介 山本速夫権判事に任ず 三河裁判所の廃止と三政分掌の制 府        の地方三治 三河県の設置 藩知職制       車駕東幸と小野湖山の任官        江戸を改めて東京とす 年号を明治と改む 車駕東幸 吉田駐輦 木戸孝允と小野湖山の会        見 小野湖山徴士として召る 小野湖山権弁事に任ぜらる 大総督府付の吉田藩士人名        大総督廃止 車駕西還 車駕再び東京に行幸 小野湖山の辞職 羽田野栄木の任官       孝子旌表        孝子旌表 呉服町の七孝子安藤吉太郎の一家 中村しきの旌表 藩主信古羽田野栄木の家に        吉田の孝子を召す 孝子紋次郎与之助 鈴木虎吉       版籍奉還と地名の改称        版籍奉還の議起る 戊辰己巳の功績により大河内信古に賞詞を賜ふ 吉田の地名改称 改        の原因並に豊橋の地名       廃藩置県        廃藩置県 額田県の設立 照憲皇太后陛下御駐輦 本市史談は廃藩置県を以て一段落となす       信古が藩主時代に於ける吉田の人物        西村治右衛門 児島閑牕 穂積清軒 小野湖山 羽田野栄木 佐野蓬宇 福谷啓吉 山本速        夫 信古時代に於ける漢学者 中山繁樹 中村清行 鈴木玄仲 豊橋の三医 森暁助 坂部        大作 能勢辰蔵 福島献吉 橋本弘道 佐藤白磷 佐藤梅隣 稲田文笠 稲田文萊 原田圭        岳 榊原翠塘 山田永豊 松坂秀峯 金子竹四郎 金子荊山 山田太古 福谷水竹 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十七 【欄外】 豊橋市史談  (豊橋市史談目次)                      十八 【本文】       吉田藩制の大要        大河内家時代の職制 役扶持 各部の機関 藩士人名 伝馬役と平役 年寄と庄屋 御用達        本陣 租税 吉田の戸数 伝馬の賦課法 年貢地と町地 伝馬賃銭の定 運上 司法制度        吉田藩の学風 平民の教育 武道指南役 蔵米の取扱 商工業に対する政策 魚問屋 前芝        村の漁業 造船の補助 番中 米穀取引所 旧豊橋藩封土調         ●補正       市勢の変遷        飽海時代 街道が豊川宿に移した時代 今橋時代 築城以後の状況 正行寺悟眞寺の寺院続        々建立せせらる 装遊橋 改元紀行       豊橋市史談の終了に方りて 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千六百七十六号附録   ( 明治四十四年二月七日発行 ) 【本文】       豊橋市史談          本市史談は豊橋市長大口喜六氏が特に本社の為め講述せられたるものを筆記し同氏の厳密なる校訂を経て之を印刷に附し普く          本紙の受講者に領たんとするものなり         私(わたくし)が近来市(きんらいし)の事業(じげう)として調査(てうさ)しつゝある豊橋市史(とよはしゝ)の事(こと)に就(つい)ては其幾分(そのいくぶん)なりとも発表(はつぺう)して貰(もら)ひたいと         望(のぞ)む人(ひと)が多(おほ)く既(すで)に各地(かくち)の或(あ)る新聞記者(しんぶんきしや)諸氏(しよし)から其要求(そのようきう)があつたが尚(なほ)調査中(てうさちう)に属(ぞく)して居(を)るので公(おほやけ)にす        るの機(き)が熟(じゆく)しないと共(とも)に之(これ)を憚(はゞ)かつたのである然(しか)し追々(おひ〳〵)調査(てうさ)の進行(しんこう)するに従(したが)ひ今(いま)は未定稿(みていこう)ながら之(これ)を         発表(はつぺう)して広(ひろ)く世(よ)の識者(しきしや)に問(と)ひ其教(そのおしへ)を請(こ)ふのが利益(りえき)であると云(い)ふ考(かんがへ)から自分(じぶん)が信(しん)じて居(お)る所(ところ)だけを漸次(ぜんじ)         御話(おはな)しする事(こと)と致(いた)すのである。               ⦿築城以前の豊橋         豊橋(とよはし)の地(ち)は昔(むかし)吉田(よしだ)と称(せう)したので即(すなは)ち今(いま)の豊橋(とよはし)と改称(かいせう)するに至(いた)つたのは明治(めいじ)二 年(ねん)の事(こと)である、 吉田(よしだ)以前(いぜん)        は今橋(いまはし)と呼(よ)ばれた尚(なほ)其(その)以前(いぜん)にも飽海(あくみ)と云(い)ふ地名(ちめい)があつたのは明(あき)らかな事実(じじつ)である、 而(しか)して此(この)地方(ちほう)には         貝塚(かいつか)を初(はじ)め石器時代(せつきじだい)の遺跡(ゐせき)幷(ならび)に多数(たすう)の古墳(こふんが)があつて数多(あまた)の遺物(いぶつ)を発見(はつけん)する処(ところ)より見(み)れば余程(よほど)古(ふる)き時代(じだい)         に於(おい)て既(すで)に之等(これら)の遺物(ゐぶつ)に関係(かんけい)ある人々(ひと〳〵)が住居(ぢうきよ)して居(を)つた事実(じじつ)が分(わか)るが此(この)研究(けんきう)は所謂(いはゆる)考古学(こうこがく)の範囲(はんゐ)に属(ぞく)         する事(こと)と思(おも)ふから今度(このたび)の調査(てうさ)には加(くは)えぬのである、ソコデ此地方(このちほう)の事柄(ことがら)が最(もつと)も古(ふる)く確実(かくじつ)なる文書(ぶんしよ)に残(のこ) 《割書:初めて文書|に残れる豊》    つて居(を)るのは私(わたくし)の信ずる処(ところ)によれば類聚(るいしう)三 代格(だいかく)に載(の)せられてある太政官符(だじようくわんふ)であると思(おも)ふ、 此書(このしよ)は藤原(ふぢはら) 《割書:橋》        冬嗣(ふゆつぐ)等(とう)が勅(ちよく)を奉(ほう)じて撰(えら)んだ弘仁格(こうにんかく)十 巻(かん)と藤原氏宗(ふぢはらうぢむね)等(とう)の勅撰(ちよくせん)にかゝる貞観格(じようかんかく)十二 巻(かん)と藤原時平(ふぢはらときひら)等(とう)の勅撰(ちよくせん) 【欄外】 豊橋市史談  (築城以前の豊橋)                      一 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      二 【本文】        延喜格(えんきかく)十二 巻(かん)此(こ)の三 代(だい)の格(かく)を聚(あつ)めて之(これ)を各部類(かくぶるい)々々に区分(くわ)けをした所謂(いはゆる)類聚(るいしう)である、 此(こ)の三十四 巻中(かんちう)        年(とし)を経(ふ)るに従(したがつ)て湮滅(えんめつ)した処(ところ)があつて全部(ぜんぶ)は現存(げんぞん)して居(ゐ)ないが近年(きんねん)経済(けいざい)雑誌社(ざつししや)に於(おい)て出版(しゆつぱん)した国史(こくし)大系(だいけい)        本(ほん)の内(うち)には二十 冊(さつ)丈(だ)け納(おさ)められて居(を)る、 而(しか)して格(かく)とは何(なん)ぞやと云(い)ふに、律令(りつれい)を政府(せいふ)か出(だ)した後(のち)詔勅官(せうちよくかん)        符(ふ)を以(もつ)て律令(りつれい)の定法(ていほう)を改(あらた)め或(あるひ)は臨時(りんじ)の新制(しんせい)を設(もう)けたる類(るい)を彙集(ゐしう)したものである事(こと)は詳(くは)しく云(い)はずとも        既(すで)に諸君(しよくん)も知(し)らるゝ事(こと)と思(おも)ふ、此(この)類聚(るいしう)三 代格(だいかく)の中(うち)に船瀬(ふなせ)幷(ならび)に浮橋(うきはし)布施屋事(ふせやこと)と書(か)いた部類(ぶるい)がある、 浮橋(うきはし)       とは勿論(もちろん)橋梁(けうれう)の事(こと)で、 船瀬(ふなせ)は渡船(とせん)、 布施屋(ふせや)は一 般通行人(ぱんつうこうにん)が無代価(むだいか)で宿泊(しゆくはく)する事(こと)の出来(でき)る官立(かくりつ)の宿舎(しゆくしや)と        云(い)ふ様(よう)な性質(せいしつ)のもので渡船(とせん)のある辺(ほとり)に多(おほ)く設(もう)けられたのである、 其部類(そのぶるい)に承和(せうわ)二 年(ねん)(今(いま)を去(さ)る一千七       十七年)六月二十九日に発布(はつぷ)せられた太政官符(だじようくわんふ)が載(の)つて居(を)る、 而(しか)して其文中(そのぶんちう)に         加増渡船(かぞうとせん)十六 艘(そう) (中略)三河国(みかはのくに)飽海(あくみ)矢作(やはぎ)両河(れうが)各(かく)四 艘(そう)       と書(説説か)いてあつて其次(そのつぎ)に左(さ)の意味(いみ)の事(こと)が記(しる)されてある即(すなは)ち右(みぎ)の河(かは)は岸(きし)が広(ひろ)くして到底(たうてい)架橋(かけう)する事(こと)か不可(ふか)        能(のふ)である因(よつ)て其(その)渡船(とせん)を増(ま)すのである 、聞(き)く処(ところ)によれば此河(このかは)は東海道(とうかいどう)枢要(すうよう)の地点(ちてん)に該当(がいとう)して居(を)るのに橋(けう)        梁(れう)の設備(せつび)がなく之迄(これまで)渡船(とせん)が少(すくな)いので貢物(みつぎもの)を運搬(うんぱん)する人夫等(にんぷら)が何(いづ)れも河辺(かわべ)に寄(よ)り集(つど)い日(ひ)を累(かさ)ね旬(じゆん)を経(ふ)る       も渡(わた)る事(こと)が出来(でき)ぬ遂(つひ)には喧嘩口論(けんくわこうろん)が起(おこ)り貢物(みつぎもの)は流失(りうしつ)する動(やゝ)もすれば人命(じんめい)迄(まで)をも害(がい)する等(とう)の事(こと)があつて        宜敷(よろし)くない故(ゆへ)に国司(こくじ)初(はじ)め注意(ちうゐ)して此事(このこと)なきを期(き)せよと先(ま)づコウ云(い)ふ意味(ゐみ)である、 此記事(このきじ)から考(かんが)えて見(み)       るも今(いま)の豊橋(とよはし)の地(ち)は千 余年以前(よねんいぜん)の当時(たうじ)東海道枢要(とうかいどうすうよう)の場所(ばしよ)で河幅(かははゞ)は余程(よほど)広(ひろ)かつたものと思(おも)はるゝが今(いま)の        豊河(とよかは)に当(あた)るべきものが其頃(そのころ)飽海河(あくみかは)と云(い)つたものと信(しん)せらるゝ、 又(ま)た和名類聚抄(わめうるいしうしょう)と云(い)ふ書物(しよもつ)があるが之(こ)       れも諸君(しよくん)が既(すで)に知(し)つて居(を)らるゝ事(こと)であらう、 彼(か)の源順(みなもとのじゆん)と云(い)ふ人(ひと)の選(えら)んだもので延長年間(えんてうねんかん)の著述(ちよじゆつ)だ       と伝(つた)えられて居(を)る果(はた)して然(しか)りとすれば今(いま)を去(さ)ること九百八十 余年前(よねんぜん)である、 此書物(このしよもつ)の中(うち)の渥美郡(あつみごほり)の条(くだり)に 飽海の地名  郷名(ごうな)が列記(れつき)されてあるが其中(そのうち)に渥美(あくみ)(阿久美(あくみ))と云(い)ふ名(な)がある、 之(こ)れは即(すなは)ち類聚(るいしう)三 代格(だいかく)飽海河(あくみかは)とある飽(あく)        海(み)の名(な)に一 致(ち)するものと云(い)ふてよかろう、 今(いま)も尚(な)ほ豊橋市内(とよはししない)の字名(あざな)に飽海(あくみ)と云(い)ふのが残(のこ)つて居(を)るのは 幡太の地名  実(じつ)に其(その)名残(なごり)として面白(おもしろ)い事(こと)ではあるまいか、 又(また)仝書仝条(どうしよどうでう)の中(うち)に幡太(はだ)と云(い)ふち地名(ちめい)が記(しる)されてあるが之(これ)は        果(はた)して現在(げんざい)豊橋市(とよはしし)大字花田(おほあざはなだ)にある羽田(はだ)の地名(ちめい)に相当(さうとう)するや否疑問(いなぎもん)ではあるが羽田野敬雄翁(はだのたかををう)が考証(こうせう)せら       れた処(ところ)に依(よ)れば矢張(やはり)古(いにしへ)の幡太(はだ)は今(いま)の羽田(はだ)だとしてある、 又(ま)た近来(きんらい)吉田東伍氏著(よしだとうごしちよ)の地名辞書(ちめいじしよ)にも其通(そのとほ)       り認(したゝ)められて居(を)る、 或(あるひ)は奥郡(おくごほり)の福江町(ふくえてう)にも畠(はた)と云(い)ふ地名(ちめい)がある又(また)秦氏(はだうぢ)に因(ちな)むだ処(ところ)が外(ほか)にあるであろう       などの説(せつ)がないではないが之(これ)に就(つい)ては私(わたくし)は羽田野翁(はだのをう)の説(せつ)に従(したが)ふものである、 而(しか)して仝(おな)じ和名類聚抄(わめうるいしうしょう)の 渡津     宝飯郡(ほゐごほり)の条(でう)に渡津(わたんづ)(和多無都(わたむつ))と云(い)ふ地名(ちめい)がある此(この)渡津(わたんづ)と云(い)ふ処(ところ)が飽海(あくみ)と相対(あひたい)して河(かは)の両岸(れうがん)に当(あた)り其間(そのあひだ)       に渡船(とせん)したものであることは事実(じじつ)である、 而(しか)して渡津(わたんづ)と云(い)ふ処(ところ)は今(いま)の何処(どこ)に当(あた)るかと云(い)ふに小坂井(こさかゐ)以南(いなん)        平井前芝(ひらゐまへしば)の辺迄(へんまで)に亘(わた)り西(にし)は旧宿村(きうしゆくむら)の辺迄(へんまで)を称(せう)したものゝ様(よう)であるが応安(おうあん)三 年(ねん)元小坂井村(もとこさかゐむら)兎足神社(うかるじんしや)の洪(つり)        鐘(がね)にも矢張(やはり)渡津郷(わたんづごう)と書(か)いてあるのである、 又(また)牟呂(むろ)にも渡船場(とせんば)があつて渡津(わたんづ)から渡(わた)つたものだとの事(こと)が        伝(つた)はつて居(を)るが或(あるひ)はそれもあつたであらう、 併(しか)し東海道(とうかいどう)の本線(ほんせん)ではなかつたものに相違(さうゐ)ない。       一千 年以前(ねんいぜん)の豊橋(とよはし)の状態(ぜうたい)は以上(いぜう)説(と)いた処(ところ)の如(ごと)くであるが尚(な)ほ後世出来(こうせでき)た書物(しよもつ)で此(この)時分(じぶん)の事(こと)を書(か)いたも       のがないではない、 之等(これら)は大(おほい)に研究上(けんきうぜう)の参考(さんこう)となる事(こと)であるが中(なか)にも羽田野敬雄翁(はだのたかををう)の著書(ちよしよ)に三河古跡(みかはこせき) 三河古跡考  考(こう)と云(い)ふものがある事(こと)は是非(ぜひ)之(これ)を世間(せけん)に紹介(せうかい)したいと思(おも)ふ、 此書(このしよ)は総計(そうけい)十 冊(さつ)で三河国歴代事蹟考(みかはのくにれきだいじせきこう)四 冊(さつ)        参河国古歌名跡考(みかはのくにこかめいせきこう)二 冊(さつ)倭名抄三河国郡郷考(わめうせうみかはのくにぐんごうこう)一 冊(さつ)三河国官社私考(みかはのくにくわんしやしこう)二 冊(さつ)参河国総国風土記考(みかはのくにそうこくふうどきこう)一 冊(さつ)より成立(なりた)       つて居(ゐ)て多(おほ)くは古代(こだい)より鎌倉初期(かまくらしよき)迄(まで)の事(こと)が研究(けんきう)されてある、 元来(がんらい)羽田野敬雄(はだのたかを)と云(い)ふ人(ひと)は羽田八幡宮(はだはちまんぐう)の        神職(しんしよく)で国学家(こくがくか)であるが維新前参考書(ゐしんぜんさんこうしよ)を得(う)るに困難(こんなん)なる時代(じだい)に於(おい)て斯(か)くの如(ごと)き著書(ちよしよ)をする迄(まで)に研究(けんきう)した 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      三二 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      四 【本文】       のは実(じつ)に感服(かんぷく)の外(ほか)はないので私(わたくし)は常(つね)に翁(をう)の遺徳(ゐとく)に対(たい)して尊敬(そんけい)の念(ねん)を払(はら)つて居(を)るのである、 従(したが)つて其(その)遺(ゐ)        徳(とく)を永久(えいきう)に伝(つた)えたいと切望(せつぼう)するものである、 扨(さて)翻(ひるがへ)つて前(まへ)に述(の)べた時代(じだい)即(すなは)ち一千 余年(よねん)前(ぜん)から九百 余年(よねん)        前迄(ぜんまで)の頃(ころ)に於(お)ける我国(わがくに)の形勢(けいせい)は如何(いかゞ)であつたかと云(い)ふに、 類聚(るいしう)三 代格(だいかく)の太政官符(だじよううくわんふ)にある承和(せうわ)二 年(ねん)と云(い)       ふ年(とし)は恰(あたか)も仁明天皇(にんめいてんのう)の御宇(ごう)で彼(か)の橘逸勢(たちばなのはやなり)の乱(らん)のあつた承和(せうわ)九 年(ねん)より七 年前(ねんぜん)である、それから和名類(わめうるい)        聚抄(しうせう)の出来(でき)たと伝(つた)ふる延長年間(えんてうねんかん)は醍醐帝(だいごてい)の御代(みよ)で承和(せうわ)から延長(えんてう)の間(あひだ)は凡(およ)そ百 年内外(ねんないがい)を距(へだ)て文徳(ぶんとく)、 清和(せいわ) 《割書:三河の国府|幷に国司》    陽成(やうせい)、 光孝(こう〳〵)、 宇多(うた)の朝(てう)を経(へ)て平安朝(へいあんてう)の文物(ぶんぶつ)は方(まさ)に隆盛(りうせい)を極(きは)むるの時(とき)であつた、 而(しか)して其頃(そのころ)三河(みかは)の国府(こくふ)       は宝飯郡(ほゐぐん)に置(お)かれて今(いま)より云(い)へば其(そ)の所在地(しよざいち)に異説(ゐせつ)があるが大体(だいたい)に於(おい)ては現在(げんざい)の国府町(こふまち)から北(きた)にかけ       て八幡村(やはたむら)附近(ふきん)に位置(ゐち)してあつたことは事実(じじつ)と信(しん)でられる、 当時(とうじ)国司(こくし)となつて来(こ)られ人(ひと)を挙(あ)げて見(み)ると         橘本継(たちばなもとつぐ)、 豊前王(ぶぜんわう)、 管原継門(すかはらつぐかど)、 安部氏主(あべうぢぬし)、 同良行(どうよしゆき)、 藤原安棟(ふぢはらやすむね)、 長岡秀雄(ながをかひでを)、 藤原善友(ふぢはらよしとも)、 源進(みなもとのすゝむ)などで        之(これ)は続日本後記(ぞくにほんごき)、 文徳実録(ぶんとくじつろく)、三 代実録(だいじつろく)等(とう)に載(のつ)て居(を)る、 此時分(このじぶん)の国司(こくし)の年限(ねんげん)は四ケ年(ねん)であつたが中(なか)には        再任(さいにん)して八ケ年(ねん)乃至(ないし)十ケ年(ねん)も勤続(きんぞく)した人(ひと)がある。 《割書:東海道通路|の変更》   ソコで前(まへ)にも云(い)つた如(ごと)く今(いま)の豊橋(とよはし)の地(ち)は此頃(このころ)に於(お)ける東海道(とうかいどう)の要路(ようろ)であつたが何分(なにぶん)にも河巾(かははゞ)が広(ひろ)くて        通行(つうこう)に不便(ふべん)であつたが為(た)め其後(そのご)に至(いた)つて遂(つひ)に往来(おうらい)を変更(へんこう)して川(かは)を上流(ぜうりう)の処(ところ)より渡(わた)りて豊川宿(とよかはしゆく)即(すなは)ち今(いま)       の古宿(ふるじゆく)にかゝるに至(いた)つたものと思(おも)はれる、 今(いま)を去(さ)る九百二十四 年前(ねんぜん)永観元年(えいかんがんねん)一 条相国障子絵歌(ぜうさうこくせうじえうた)の中(なか)に 《割書:志香須賀の|渡し》    行(ゆ)き通(かよ)ふ船路(ふねぢ)はあれど志香須賀(しがすが)の渡(わた)しは跡(あと)もなくぞなりける       と云(い)ふのがある志香須賀(しがすが)の渡(わたし)とは即(すなは)ち此渡津(このわたんづ)と飽海(あくみ)との間(あひだ)を指(さ)したるもので清少納言(せいせうなごん)の枕草紙(まくらざうし)初(はじ)め古(ふる)       き撰集(せんしう)などにあるのが矢張(やはり)皆(みな)此処(ここ)を云(い)つたものと思(おも)はれる、 然(しか)るに更級日記(さらしなにつき)には此(この)志香須賀(しがすが)の渡(わたし)を尾(を)        張三河(はりみかは)の境(さかひ)のように記(しる)してあるが此(この)日記(につき)には錯誤脱漏(さくごだつろう)等(とう)が多(おほ)いから余(あま)り証拠(せうこ)にはならぬと思(おも)はれる、 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千六百八十二号附録   ( 明治四十四年二月十四日発行 ) 【本文】        此(この)日記(につき)は藤原孝標(ふぢはらこうひよう)の娘(むすめ)で橘俊道(たちばなとしみち)の妻(つま)になつた女(おんな)が書(か)いたもので八百四十 年許(ねんばかり)以前(いぜん)のものである、 中(なか)       に東(あづま)から京都(けうと)への帰途(きと)を書(か)いたものがあるが其間(そのあひだ)に右(みぎ)の記事(きじ)があるのである、 又(また)同(おな)じ条(くだり)に高師(たかし)の浜(はま)と       ある次(つぎ)に八橋(やつはし)の事(こと)がありそれより二 村山(むらやま)とありて後(のち)に宮路山(みやぢやま)とあるなど如何(いか)にも前後(ぜんご)を顛倒(てんとう)した処(ところ)が       ある、 併(しか)しながら二山村(ふたむらやま)の山中(さんちう)にて道辺(みちのべ)の家(いへ)に宿(やど)りたるに大(だい)なる柿(かき)の木(き)があつて其(そ)の実(み)が夜中(やちう)ポトリ       〳〵と落(お)ちたと云(い)ふ事(こと)が書(か)いてあるのは誠(まこと)に面白(おもしろ)いと思(おも)ふ、 徳川時代(とくがはじだい)には往来(おうらい)の両側(れうがは)に松杉(まつすぎ)又(また)一 里塚(りづか)       としては榎(えのき)等(とう)を植(う)へたものであるが、 奈良朝時代(ならてうじだい)には多(おほ)く菓物(くだもの)のなる木(き)を植(う)へて旅人(たびびと)が疲労(ひろう)を感(かん)じた        時(とき)随意(ずいゐ)に取(と)つて食(た)べるのを容(ゆる)したものである、 即(すなは)ち此(この)記事(きじ)はドウモ此事(このこと)が証拠(せうこ)立(た)てられるように思(おも)は       れて私(わたくし)は趣味(しゆみ)を感(かん)ずるのである、 扨(さ)て此(こ)の街道(かいどう)の変(かは)つた事(こと)を証拠(せうこ)立(だて)るには色々(いろ〳〵)のものがあるが茲(こゝ)に貞(てい)        応(おう)二 年(ねん)源光行(みなもとみつゆき)が書(か)いた海道記(かいどうき)と云(い)ふものがある、 今(いま)を去(さ)る六百八十七 年前(ねんぜん)の著(ちよ)で古来(こらい)鴨(かも)の長明(ちようめい)が書(か)       いたと伝(つた)へ長明海道記(てふめいかいどうき)と唱(とな)へられて居(を)るが其(その)光行(みつゆき)の著(ちよ)なる事(こと)は諸先輩(しよせんぱい)の説(せつ)がある、 此記(このき)の中(うち)には本野(ほんの) 豊川宿   ケ原(はら)を通過(つうくわ)して豊川宿(とよかはしゆく)に泊(とま)り深夜(しんや)に立出(たちい)でゝ見(み)れば川(かは)の流(ながれ)が広(ひろ)く誠(まこと)に豊(ゆた)かなる渡(わたし)である河(かは)の石瀬(いしせ)に落(おち)       る浪(なみ)の音(おと)は月(つき)の光(ひかり)に超(こ)へ川辺(かはべ)に過(すぎ)る風(かぜ)の響(ひゞき)は夜(よ)の色白(いろしろ)く渚(なぎさ)ひなの住家(すみか)には月(つき)より外(ほか)に詠(よみ)なれたるもの       はないとの意(い)が書(か)いてある、 即(すなは)ち光行(みつゆき)は此時(このとき)新街道(しんかいどう)を通(とは)りて豊川宿(とよかはしゆく)にかゝつたものであるが無論(むろん)其(その)当(とう)        時(じ)の河流(かりう)は今(いま)の状態(ぜうたい)とは違(ちが)つて居(を)つたもので、 今(いま)の流域(りうゐき)は明応(めいおう)八 年(ねん)の大震災(だいしんさい)に変(へん)じたものであるとの 源頼朝上洛  事(こと)である、 又(また)之(これ)より先(さ)き源頼朝(みなもとよりとも)が天下(てんか)を統(とう)一して今(いま)を距(さ)ること七百十二 年前(ねんぜん)建久元年(けんきうがんねん)の十月に鎌倉(かまくら)を        発(はつ)して京都(けうと)へ上洛(ぜうらく)した事(こと)がある、 其頃(そのころ)には弟(おとゝ)の範頼(のりより)が参河守(みかはのかみ)で安達盛長(あだちもりなが)か其(その)奉行(ぶげう)であつたが頼朝(よりとも)は其(その)        時(とき)にも遠州(えんしう)の橋本(はしもと)の宿(しゆく)から三河(みかは)の雲(う)の谷(や)に入(い)り普門寺(ふもんじ)を過(よ)ぎつて岩崎(いはざき)に出(い)で鞍(くら)を神社(じんしや)に奉納(ほうのふ)したと伝(つた)       へられて今(いま)も鞍掛神社(くらかけじんしや)と云(い)ふがある、 此(この)橋本(はしもと)と云(い)ふ処(ところ)は明応(めいおう)八 年(ねん)の大地震(だいぢしん)に陥落(かんらく)して海(うみ)となり今(いま)は跡(あと) 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      五 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      六 【本文】        方(かた)をも止(と)めぬが鎌倉幕府(かまくらばくふ)の日誌(につし)で其頃(そのころ)に於(お)ける大切(たいせつ)の史料(しれう)たる吾妻鏡(あづまかゞみ)には此時(このとき)の記事(きじ)に脱漏(だつらう)があつて       十月十八日に頼朝(よりとも)が橋本(はしもと)の宿(しゆく)に宿(とま)られたことを記(しる)せるより二十五日 尾張(をはり)の野間(のま)に至(いた)れる事を記(しる)せる迄(まで)は        記事(きじ)全(まつた)く欠(か)けて其前(そのあひだ)のこと事は何(なん)とも判(わか)らない、 併(しか)しながら二十五日には尾張(をはり)の野間(のま)に立(た)ち寄(よ)つて父(ちゝ)義朝(よしとも)       の墓(はか)を吊(とむ)らはれた事か記(しる)してあるから橋本(はしもと)から一 週間目(しうかんめ)で野間(のま)に到着(とうちやく)されたものと見(み)へる、 従(したが)つて其(その)        日数(にちすう)から推(お)して雲谷(うのや)の普門寺(ふもんじ)に一二日は滞在(たいざい)せられたものと思(おも)はれるが之(これ)は確証(かくせう)がなく此処(こゝ)には又(ま)た        之(これ)を詮索(せんさく)する必要(ひつよう)もなかろう、 然(しか)るに其(その)十二月 下落(げらく)の条(くだり)には吾妻鏡(あづまかゞみ)に            十九日巳亥入夜令宿宮路山中給       と書(か)いてある即(すなは)ち宮路山中(みやぢさんちう)に宿(やど)られたのであるから之(これ)より本野(ほんの)ケ原(はら)を通(とほ)り豊川(とよかは)の宿(しゆく)へ出(い)て川(かは)の上流(ぜうりう)を        渡(わた)られたものゝ如(ごと)く推定(すゐてい)せられる、 而(しか)して嘉禎(かてい)四 年(ねん)二月(距今(いまをさる)六百七十二 年(ねん))に至(いた)つて将軍(せうぐん)頼経(よりつね)上洛(ぜうらく)に        関(くわん)しては仝書(どうしよ)に二月八日 豊川(とよかは)の宿(しゆく)に宿(やど)した事が書(か)いてあり仝年(どうねん)十月十九日 其(その)下落(げらく)の条(くだり)に矢張(やはり)仝宿(どうしゆく)に        着(ちやく)した事が記(しる)されてある、 斯(かく)の如(ごと)く此(この)時代(じだい)には橋本(はしもと)から豊川(とよかは)を稍々(やゝ)上流(ぜうりう)の処(ところ)へ出(で)て豊川宿(とよかはしゆく)即(すなは)ち今(いま)の        古宿(ふるじゆく)にかゝり本野(ほんの)ケ原(はら)を通(とほ)つたもので羽田野翁(はだのをう)の三河古蹟考(みかはこせきこう)にも、 赤坂(あかさか)の北(きた)から鷺坂(さぎさか)にかゝり八幡(やはた)を        経(へ)て豊川宿(とよかはしゆく)に出(い)で今(いま)の三 明寺(めうじ)の辺(ほとり)から当古(とうご)、 和田(わだ)、 金田(かなだ)、 岩崎(いはざき)等(とう)を経(へ)て山坂(やまさか)を越(こ)へ雲(う)の谷(や)に出(い)で橋本(はしもと)       に至(いた)つたものとして古老(ころう)の説(せつ)が載(の)せてある。 《割書:東海道通路|の復旧》    然(しか)るに此(この)新街道(しんかいどう)も永続(えいぞく)しなかつたもので又(ま)た元(もと)の渡津道(わたんづみち)に復(ふく)したのである、 仁治(にんじ)三 年(ねん)(距今(いまをさる)六百廿 年(ねん)        前(ぜん))源親行(みなもとちかゆき)が書(か)いた東関紀行(とうかんきこう)と云(い)ふものがある其(そ)の中(なか)に、 豊川(とよかは)と云(い)ふ宿(しく)の前(まへ)を過(す)ぐるに近頃(ちかごろ)より俄(には)       かに渡津(わたんづ)の今道(いまみち)と云(い)ふが出来(でき)て旅人(たびびと)は多(おほ)く其(そ)の街道(かいどう)にかゝるので現今(げんこん)では豊川宿(とよかはしく)の住民(ぢうみん)は家居(いへ)をさへ        移転(いてん)せんと企(くわだ)つる模様(もよう)である、との意(い)を記(しる)されてある、 之(これ)を以(もつ)て見(み)ると既(すで)に其当時(そのとうじ)復(ふたゝ)び渡津(わたんづ)の方(ほう)へ街(かい)        道(どう)が開(ひら)かれたものであるのは慥(たしか)である、 然(しか)るに吾妻鏡(あづまかゞみ)寛文(かんぶん)四 年(ねん)(距今(いまをさる)六百六十六 年前(ねんぜん))の七月 大納言入(だいなごんにう)        道(どう)が鎌倉(かまくら)から京都(けうと)へ帰(かへ)られた時(とき)の記事(きじ)には、二十日の日(ひ)に豊川(とよかは)に宿(やど)つたと記(しる)してあるから此時(このとき)はまだ        旧道(きうどう)を通(とほ)られたものであるが、六百六十一 年前(ねんぜん)の建長(けんてう)三 年(ねん)三月に三 品親王(ほんしんわう)が鎌倉(かまくら)へ下(くだ)られた時(とき)には慥(たしか)       に新街道(しんかいどう)の渡津(わたんづ)に泊(とま)られたものゝように同書(どうしよ)見(み)へて居(を)る、 而(しか)して建治(けんじ)三 年(ねん)彼(か)の阿仏尼(あぶつに)の十六夜日記(いざよいにつき)       (距今(いまをさる)六百四十三 年前(ねんぜん))には、日(ひ)は入(い)り果(は)てゝ 尚(な)ほものゝあやめも分(わ)かぬ程(ほど)にわたうどとかや云(い)ふ処(ところ)に        宿(やど)りぬと記(しる)してある、 即(すなは)ち此頃(このころ)に至(いた)つては盛(さかん)に新街道(しんかいどう)たる渡津(わたんづ)を通行(つうこう)したものである事が確(たしか)まるので       ある、 然(しか)らば此(この)二 度目(どめ)に出来(でき)た渡津(わたんづ)は矢張(やはり)以前(いぜん)の処(ところ)であるかと云(い)ふに之(これ)には説(せつ)があるので此時分(このじぶん)には        漸(やうや)く豊川(とよかは)の瀬(せ)も変(かは)り地形(ちけい)も余程(よほど)異動(ゐどう)して来(き)たものであらうが、 吉田博士(よしだはかせ)の地名辞書(ちめいじしよ)には和名抄(わめうせう)の宝飯(ほゐ) 駅家郷    郡(こほり)駅家郷(えきかごう)と云(いふ)のは今(いま)の下地(しもぢ)附近(ふきん)の事で延喜式(えんきしき)の渡津(わたんづ)(ワタウド)は即(すなは)ち之(これ)であると書(か)いてある此説(このせつ)が或(あるひ)       は当(あた)つて居(を)る事であろうと思(おも)ふ、 元来(がんらい)此(この)駅家郷(えきかごう)は同(おな)じ和名抄(わめうせう)でも高山寺(こうざんじ)本(ほん)には載(の)つて居(を)ららぬので村岡(むらをか)        氏(し)の日本地誌料(にほんちしれう)には渡津郷(わたんづごう)の処(ところ)に小書(こがき)すべきものとしてある、 即(すなは)ち吉田氏(よしだし)の説(せつ)と異(ほ)ぼ一 致(ち)せるやうに        考(かんが)へられるのである而(しか)して此(この)街道(かいどう)の事に就(つ)いてはズント後世(こうせ)の書物(しよもつ)ではあるが元禄(げんろく)十二 年(ねん)法源(ほうげん)の著(ちよ)し       た武蔵野路草(むさしのみちぐさ)と云(い)ふ書(しよ)に、 古(いにし)へは三河(みかは)の二た見道(みみち)とて別道(べつどう)あれど末(すへ)は一つになるにや鴨長明(かもてうめい)は之(これ)より        本野(ほんの)ケ原(はら)にかゝり豊川(とよかは)に行(ゆ)くと見(み)へたり阿仏尼(あぶつに)は之(これ)より渡津(わたんづ)にかゝり志香須賀(しがすが)の渡(わたし)を越(こ)ゆなど見(み)へた       り今(いま)は御油(ごゆ)にかゝり吉田(よしだ)へ行(ゆ)くと記(しる)されてあるのは頗(すこぶ)る参考(さんこう)になると信(しん)ずる、 即(すなは)ち豊橋(とよはし)の地(ち)は壹千 年(ねん)        以前(いぜん)には東海道(とうかいどう)の本線(ほんせん)であつたのが九百廿 余年前(よねんぜん)永観(えいかん)の頃(ころ)には之(これ)が豊川宿(とよかはしく)の方(ほう)にかわり六百廿 年許前(ねんばかりぜん)        仁治(にんじ)の頃(ころ)から又々(また〳〵)此方(こちら)を通行(つうこう)するに至(いた)つたのであるが、 此(かく)の如(ごと)く再(ふたゝ)び街道(かいどう)が此処(こゝ)を通(つう)ずるに至(いた)つて以(い) 今橋之地名  来(らい)我(わが)豊橋(とよはし)の地(ち)は次第(しだい)に発展(はつてん)して古(ふる)く飽海(あくみ)、 幡太(はだ)なとの郷(ごう)のあつた間(あひだ)に初(はじ)めて今橋(いまはし)と云(い)ふ地名(ちめい)が起(おこ)つて 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      七二 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      八 【本文】       それが遂(つひ)には吉田(よしだ)となり豊橋(とよはし)となり今日(こんにち)の状況(ぜうけふ)に至(いた)つたのである。        ●補遺(●●)  続日本記(ぞくにほんき)聖武天皇(せいむてんくわう)天平(てんぺい)十二 年(ねん)六月の条(くだり)に牟礼大野(むれおほの)、 飽海古良比(あくみこらひ)が罪(つみ)を犯(おか)した事が載(の)つて居(を)         るが村岡氏(むらをかし)の日本地理史料(にほんちりしれう)には此(こ)の牟礼(むれ)とあるは渥美郡(あつみごほり)牟呂(むろ)の事で飽海(あくみ)とあるのは此地(このち)の古名(こめい)た         る飽海(あくみ)であるとしてある果(はた)して然(しか)らば飽海(あくみ)の地名(ちめい)は今(いま)を去(さ)る千二百七十二 年(ねん)の古(いにし)へにも既(すで)にあつ         たものであると云(い)ふ証拠(せうこ)になるのである此所(こゝ)に追補(つひほ)して諸君(しよくん)の御参考(ごさんこう)に資(し)せたいと思(おも)ふ。        以上(いぜう)述(の)べた処(ところ)が先(ま)づ今橋(いまはし)の起因(きゐん)とも云(い)ふべきものであるが、サテ 此地方(このちほう)は元来(がんらい)如何(いか)なる支配(しはい)を受(う)けた 神領地   ものであつたかと云(い)ふに古(ふる)くより大神宮(だいじんぐう)の神領地(しんれうち)であつたのである、 此(この)神領地(しんれうち)は戦国時代(せんごくじだい)に至(いた)つて武(ぶ)        家(け)の横領(わうれう)する処(ところ)となつたのである、 現(げん)に此地方(このちほう)には神明宮(しんめいぐう)が多数(たすう)にある之(これ)は全(まつた)く元(も)と神領地(しんれうち)であつた        結果(けつくわ)である、 又(ま)た今(いま)の豊橋(とよはし)の市内(しない)に古(ふる)くより薑(はぢかみ)と呼(よ)んだ地(ち)があつた、 之(これ)は恰度(てふど)今日(こんにち)で云(い)ふ二連木(にれんぎ)の地(ち) 薑の地名  に当(あた)るので今(いま)も尚(な)ほ薑(はぢかみ)と云(い)ふ字名(あざな)が残(のこ)つて居(を)るのである、 此(この)薑(はぢかみ)幷(ならひ)に飽海(あくみ)、 幡太(はだ)などが古(ふる)く大神宮(だいじんぐう)の        神領地(しんれうち)であつた事は大神宮(だいじんぐう)の事を記(しる)した神鳳抄(しんほうせう)の中(うち)にも其他(そのた)大神宮(だいじんぐう)雑例集(ざつれいしふ)は勿論(もちろん)吾妻鏡(あづまかゞみ)氏経記(うぢつねき)などに        見(み)へて居(を)るが今(いま)詳(くわ)しく此処(こゝ)に之(これ)を述(のべ)ることは余(あま)り必要(ひつよう)がなかろう。        扨(さ)て今橋(いまはし)の地名(ちめい)なるもの何年(なんねん)の頃(ころ)より起(おこ)つたものであるかと云(い)ふ確(たしか)なることに就(つい)ては残念(ざんねん)なが之(こ)れ       を証拠(せうこ)立(だ)つるものがないので明(あきら)かに云(い)ふ事が出来(でき)ぬのである、 此事(このこと)を記(しる)した書物(しよもつ)は沢山(たくさん)にあるが信用(しんよう)       を措(お)くに足(た)る程(ほど)のものがないから遺憾(ゐかん)である、 併(しか)し稍々(やゝ)参考(さんこう)に資(し)するの価値(かち)ありと思(おも)ふものは悟眞寺(ごしんじ)       の古記(こき)であつて此(この)書物(しよもつ)は貞享(じやうきよう)元禄(げんろく)時分(じぶん)に記(しる)したものであろうと察(さつ)せられる、と云(い)ふのは此書(このしよ)の初(はじ)めよ       り元禄(げんろく)近辺(きんぺん)迄(まで)の記事(きじ)は何(いづ)れも同(おな)じ手筋(てすじ)で同(おな)じ墨色(すみいろ)で書(か)いてある上(うへ)から観測(かんそく)したのであるが此(この)書物(しよもつ)の中(うち) 《割書:浄業院の創|立》   に、 善忠上人(ぜんちうせうにん)は東三河(ひがしみかは)の地(ち)に来(きた)り今橋(いまはし)に着(ちやく)し貞治(ていじ)五 年(ねん)に始(はじ)めて浄業院(ぜうげういん)と云(い)ふ寺(てら)を建立(こんりつ)した即(すなは)ち之(これ)が現(げん) 【欄外】           発行兼印刷所豊橋市西八町一番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野笹吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千六百八十八号附録   ( 明治四十四年二月二十一日発行 ) 【本文】        在(ざい)の悟眞寺(ごしんじ)の起(おこ)りであると記(しる)してある、 貞治(ていじ)五 年(ねん)は北朝(ほくてう)の年号(ねんごう)で南朝(なんてう)の正平(せいへい)二十一 年(ねん)(距今(いまをさる)五百二十       二 年(ねん)に当(あた)るが此(こ)の年(とし)に此(こ)の寺(てら)を建(た)てたと云(い)ふ事に就(つい)ては別(べつ)に屈竟(くつけう)の確証(かくせう)が遺(のこ)つて居(を)る、それは善忠上(ぜんちうぜう)        人(にん)の画像(ぐわぞう)で悟眞寺(ごしんじ)の所蔵(しよぞう)であるが全(まつた)く当時(とうじ)のものと鑑定(かんてい)せられる、 而(しか)して其(その)頭書(とうしよ)に「放行万木尽花開       地住于山却竾猜在寺春秋満三十天元不動地恢々肯応永貳暦八月二十八日」と云(い)ふ賛(さん)がある、 之(こ)れに依(よ)       れば悟眞寺(ごしんじ)の開山(かいざん)善忠上人(ぜんちうぜうにん)は応永(おうえい)二 年(ねん)に寂(じやく)せられて在寺(ざいじ)が三十ケ 年(ねん)であつた事が分(わか)る、 即(すなは)ち応永(おうえい)二 年(ねん)       から遡(さかのぼ)つて三十 年(ねん)は貞治(ていじ)五 年(ねん)に当(あた)るのであるから其年(そのとし)に上人(ぜうにん)が初(はじ)めて寺(てら)を此地(このち)に創(おこ)された事は確実(かくじつ)に       なるのである、 併(しか)し其頃(そのころ)果(はた)して悟眞寺(ごしんじ)旧記(きうき)にある如(ごと)く此地(このち)を既(すで)に今橋(いまはし)と云(い)ひしや否(いな)やは少(すこ)しく断定(だんてい)に        苦(くる)むのである。 《割書:悟眞寺二世|慈智上人納》    然(しか)るに仝寺(どうじ)二 代目(だいめ)の慈智上人(じちぜうにん)か宝飯郡(ほゐごほり)の御津神社(みとじんしや)へ納(おさ)めた経文(けふもん)があつた之(これ)には其(その)奥書(おくしよ)に応永(おうえい)十六 年(ねん)十 《割書:経|  》     二月二十九日 写(うつ)し終(をは)る参州(さんしう)今橋(いまはし)悟眞寺(ごしんじ)に於(おい)てと云(い)ふことが書(か)いてある、 応永(おうえい)十六 年(ねん)は今(いま)を去(さ)る五百〇三        年(ねん)の昔(むかし)で之(これ)は我(わが)豊橋(とよはし)に取(と)り大切(たいせつ)なものであるが惜(おし)いことには其(その)経文(けふもん)が今(いま)現存(げんぞん)して居(ゐ)ない、 併(しか)し羽田野敬(はだのたか)        雄翁(ををう)が生前(せいぜん)に実地調査(じつちてうさ)をされた時(とき)には実物(じつぶつ)を見(み)られたものゝ様(よう)で仝翁(どうをう)の遺著(ゐちよ)の記事(きじ)で察(さつ)せられるのみ       ならず宝飯郡(ほゐごほり)下地町(しもぢまち)の人(ひと)山本貞晨(やまもとていしん)の著(ちよ)吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)の中(うち)にも其(その)写(うつし)を載(の)せられて居(を)る処(ところ)より見(み)れば其(その)経(けふ)        文(もん)は嘗(かつ)て有(あ)つたものに相違(さうゐ)ない、 私(わたくし)も此頃(このころ)仝神社(どうじんしや)に就(つい)て調査(てうさ)して見(み)たが成程(なるほど)応永(おうえい)以前(いぜん)の納経(のうけふ)が三十 巻(くわん)        以上(いぜう)もあつて実(じつ)に珍重(ちんちよう)すべきものである、 其(そ)の中(なか)には七八 分(ぶ)通(とほ)りも腐朽(ふきう)してボロ〴〵に成(な)つたのがあ       る、 此点(このてん)から考(かんがふ)れば豊橋(とよはし)に取(と)つて大切(たいせつ)な右(みぎ)の経文(けふもん)も多分(たぶん)腐朽(ふきう)したものと思(おも)われる、 返(かへ)す〳〵も惜(おし)むべ       き事であるが兎(と)に角(かく)五百 余年前(よねんぜん)悟眞寺(ごしんじ)二 代目(だいめ)の時(とき)には明(あきら)かに此地(このち)を今橋(いまはし)と云(い)つたものであることは先(ま)づ        確信(かくしん)すべきものであると断(だん)じてよかろう、 降(くだつ)て永享(えいけう)四 年(ねん)九月(距今(いまをさる)四百八十 年前(ねんぜん))になつて将軍(せうぐん)足利義(あしかゞよし) 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      九 【欄外】 豊橋市史談   (今橋築城と牧野古白)                      十 【本文】 《割書:足利義教の|富士遊覧》    教(のり)が富士遊覧(ふぢいうらん)の為(た)め京都(けうと)より下向(げこう)の事があつた、 其時(そのとき)随行者(ずいこうしや)に藤原雅世(ふぢはらまさよ)と釈堯行(しやくぎようこう)と云(い)ふ二人(ふたり)があつた        両人(れうにん)共(とも)に道中記(どうちうき)を書(か)いた、 雅世(まさよ)のは富士記行(ふぢきこう)、 堯行(ぎようこう)のは覧富士記(らんふぢき)と称(せう)せられて居(を)る、 何(いづ)れも内容(ないよう)は大(だい)        同小異(どうせうゐ)で今橋(いまはし)と云(い)ふ地名(ちめい)は行(ゆ)き帰(かへ)りに記(しる)されてあるが茲(こゝ)に疑問(ぎもん)となつて居(を)るのは其当時(そのとうじ)に於(お)ける今橋(いまはし)       の発展(はつてん)程度(ていど)如何(いかん)である、 覧富士記(らんふぢき)の九月十四日の項(こう)に「今橋(いまはし)の御泊(おとま)りにてあかす明(あ)け行(ゆ)く月(つき)を見(み)て」       とあつて「夜(よ)と共(とも)に月(つき)澄(す)み渡(わた)る今橋(いまはし)や明(あ)け過(す)ぐるまでたちぞやすろう」と云(い)ふ歌(うた)が載(の)つて居(を)る、 此記(このき)        事(じ)から推(お)して此日(このひ)には将軍(せうぐん)が今橋(いまはし)に一 泊(ぱく)されたのであるとの説(せつ)がある、 殊(こと)に仝日(どうじつ)は其(その)朝(あさ)矢作(やはぎ)を出発(しゆつぱつ)さ       れたのであるから今橋(いまはし)に宿(やど)されるのに道程(みちのり)の上(うへ)より見(み)るも適当(てきとう)な様(よう)に思(おも)はれる、 処(ところ)が一 方(ぱう)富士記行(ふぢきこう)の        方(ほう)には 宿(やど)られた事が見(み)えぬのみならず今橋(いまはし)の事を書いた処(ところ)に一日の相違(さうゐ)がある、 又(また)帰途(きと)には二十四日       に此処(こゝ)を通過(つうくわ)せられたのであるが宿泊(しくはく)はされなんだ、 然(しか)るに吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)には前(ぜん)の覧富士記(らんふぢき)の歌(うた)を引(ひ)       ゐて義教公(よしのりこう)の宿泊(しくはく)せられたるに就(つい)ては当時(とうじ)此地(このち)に巍然(きぜん)たる城廓(ぜうくわく)と迄(まで)にあらずともかき上(あげ)如(ごと)きの城壁(ぜうへき)な       らんにはかりそめにも将軍(せうぐん)の御止宿(おんししく)あるべけんやと論(ろん)じて既(すで)に相当(さうとう)の城塁(ぜうるい)のあつたものだと説(と)いて居(を) 《割書:今橋の発展|程度》   るが此節(このせつ)は少(すこ)しく穿(うが)ち過(す)ぎては居(を)るまいか、 併(しか)し五百 年内外(ねんないがい)の以前(いぜん)に於(おい)て此地(このち)が既(すで)に宿駅(しくえき)の状態(ぜうたい)に迄(ま)       で発達(はつたつ)して居(ゐ)たと云(い)ふ事は判然(はんぜん)たるものであると思(おも)ふ、 以上(いぜう)述(の)べ来(きた)つた処(ところ)は今橋(いまはし)築城以前(ぜちくぜういぜん)の事に属(ぞく)す       るのであるが之(これ)より築城(ちくぜう)当時(とうじ)の事に就(つい)て御話(おはな)しする。              ⦿今橋築城と牧野古白        今橋(いまはし)の城(しろ)の出来上(できあが)つたのは永正(えいせう)二 年(ねん)(距今(いまをさる)四百〇七 年前(ねんぜん))で牧野古白(まきのこはく)と云(い)ふ人(ひと)によつて築(きづ)かれたのであ       る、 其頃(そのころ)の事情(じぜう)を詳(くは)しく御話(おはなし)するには先(ま)づ当時(とうじ)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)から説(と)き起(おこ)す必要(ひつよう)があると思(おも)ふ、        抑(そもそ)も其頃(そのころ)は将軍(せうぐん)足利義澄(あしかゞよしずみ)が職(しよく)を退(しりぞい)て足利義稙(あしかゞよしたね)が再(ふたゝ)び将軍職(せうぐんしよく)に就(つ)くと云(い)ふ時代(じだい)で西(にし)には大内義興(おほうちよしおき)が威(い) 群雄割拠  を振(ふる)ひ東(ひがし)には今川氏親(いまかはうぢちか)は勿論(もちろん)北条早雲(ほうぜうさううん)が斬(やうや)く関東(くわんとう)で巾(はゞ)を利(き)かせんとする有様(ありさま)で所謂(いはゆる)群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)して将(まさ)に        血腥(ちなまぐ)さき戦国時代(せんこくじだい)に入(い)らむとする時(とき)であつた、 其当時(そのとうじ)の三河(みかは)の守護職(しゆごしよく)は吉良氏(きらうぢ)であつて其(その)根拠地(こんきよち)は幡(は)        豆郡(づごほり)の今(いま)の西尾(にしを)であつたが西尾町(にしをまち)より約(やく)一 里(り)許(ばかり)の処(ところ)に駮馬村(まだらめむら)と云(い)ふ所(ところ)がある、 此処(こゝ)に其(その)新家(しんけ)が分(わか)れて        居(ゐ)て此(こ)の両家(れうけ)を東条家(とうぜうけ)西条家(せいぜうけ)と称(とな)へたのである、 此(この)両家(れうけ)は非常(ひぜう)な軋轢(あつれき)をして屡々(しば〴〵)擾乱(ぜうらん)を醸(かも)し到底(とうてい)国内(こくない)       が一 致(ち)しないので、 足利幕府(あしかゞばくふ)は更(さら)に細川讃岐守成之(ほそかはさぬきのかみしげゆき)を三河(みかは)の守護職(しゆごしよく)に任(にん)じたが此人(このひと)も矢張(やはり)京都(けうと)に居(ゐ)て        国内(こくない)を平定(へいてい)しようと仕(し)ない又(ま)た出来(でき)もしなかつたであらう国(くに)は益々(ます〳〵)乱(みだ)れて豪族(ごうぞく)は諸処(しよ〳〵)に割拠(かつきよ)し兵乱(へいらん)を        起(おこ)す様(よう)になつた、 其(その)乱(らん)が到底(とうてい)取鎮(とりしづ)められぬ処(ところ)から足利幕府(あしかゞばくふ)の伊勢貞親(いせさだちか)は寛正(かんせい)六 年(ねん)五月二十六日 附(づけ)(距(いまを) 《割書:松平氏並に|戸田氏》    今(さる)四百四十七 年前(ねんぜん))で三河(みかは)の豪族(ごうぞく)松平和泉守信光(まつだひらいづみのかみのぶみつ)及(およ)び十田弾正宗光(とだだんぜうむねみつ)へ手紙(てがみ)を以(もつ)て頼(たの)みに寄越(よこ)した現(げん)に        其(その)文書(ぶんしよ)の写(うつし)は今(いま)も確実(かくじつ)に遺(や)つて居(を)ることである、 此(この)十田(とだ)と云(い)ふのは当時(とうじ)田原(たはら)に居(を)つた戸田(とだ)の事(こと)で松平信(まつだひらのぶ)        光(みつ)は即(すなは)ち徳川家康(とくがはいへやす)六 世(せ)の祖(そ)である之(これ)より松平(まつだひら)、 戸田(とだ)の両氏(れうし)が世(よ)に現(あら)はるゝに至(いた)つたので特(とく)に松平信光(まつだひらのぶみつ)       と云(い)ふ人(ひと)は子(こ)が沢山(たくさん)あつて之(これ)を一々 分家(ぶんけ)したのであるが徳川氏(とくがはし)の基礎(きそ)は実(じつ)に此時(このとき)既(すで)に出来(でき)たものと云 一色城   ふてよかろうと思(おも)ふ、  当時(とうじ)宝飯郡(ほゐごほり)に一 色城(しきぜう)と云(い)ふのがあつたが、 今(いま)の牛久保(うしくぼ)に該当(がいとう)する、 古図(こづ)で見(み)る       と現今(げんこん)の牛久保(うしくぼ)停車場(ていしやぜう)以南(いなん)の地(ち)に当(あた)つて居(を)るけれども城跡(ぜうせき)は更(さら)に止(とゞ)めて居(ゐ)ない、 現(げん)に停車場(ていしやぜう)附近(ふきん)に城(ぜう)        跡(せき)と見(み)ゆる処(ところ)があるがあれは牛久保城(うしくぼぜう)となつてからのでなくてはならぬ  此(この)一 色城(しきぜう)と云(い)ふのは元(も)と鎌(かま)        倉(くら)足利氏(あしかゞし)の臣(しん)一色刑部(いしきけうぶ)某(なにがし)が来(きた)つて拠(よ)つた所(ところ)であるが文明年中(ぶんめいねんちう)其(そ)の臣(しん)秦野全慶(はたのぜんけい)と云(い)ふ者(もの)の為(た)めの横領(わうれう)さ       れた一色刑部(いしきけうぶ)の墓(はか)は現(げん)に牛久保(うしくぼ)の大聖寺(だいせいじ)にある、 其後(そのご)明応(めいおう)二 年(ねん)(距今(いまをさる)四百十九 年前(ねんぜん))に至(いたつ)て牧野古白(まきのこはく)は        宝飯郡(ほゐぐん)の牧野村(まきのむら)から起(おこ)つて此(この)全慶(ぜんけい)を誅(ちう)し一 色城(しきぜう)を掌握(せうあく)したのである。 【欄外】 豊橋市史談   (今橋築城と牧野古白)                      十一 【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十二 【本文】 古白の研究  扨(さ)て之(これ)からが此(この)牧野古白(まきのこはく)の研究(けんきう)であるが之(これ)が実(じつ)に困難(こんなん)であると云(い)ふのは、 其(その)時代(じだい)に於(お)ける此(この)地方(ちほう)に関(かん)       する史料(しれう)を得(う)るのが実(じつ)に六ケ 敷(しい)事業(じげう)で、 又(ま)た、 到底(とうてい)得(う)る事が出来(でき)ぬと云(い)ふのが其(その)原因(げんいん)である、 元来(がんらい)史(し)        実(じつ)の研究(けんきう)は其(その)当時(とうじ)に於(お)ける文書(ぶんしよ)を得(う)るのが第(だい)一の必要(ひつよう)であるが、 此(この)時代(じだい)に於(お)ける其種(そのしゆ)のものはニ三の        棟札(むねふだ)位(ぐらゐ)より外(ほか)には無(な)いのみならず之(これ)に関(かん)する書物(しよもつ)と云(い)ふものも沢山(たくさん)にはあるが殆(ほとん)ど材料(ざいれう)とすべきもの       が少(すくな)いと云(い)つてよい、一 例(れい)を挙(あ)ぐれば、 書物(しよもつ)として吉田城廓由来記(よしだぜうかくゆらいき)だの吉田城主記(よしだぜうしゆき)だの三 州吉田記(しうよしだき)だ       のと云(い)ふようなものは幾種類(いくしゆるい)もあるが、 皆(みな)後世(こうせい)好事(こうじ)の人(ひと)の作(つく)つたもので的(あて)にならぬ事(こと)が多(おほ)い、 又(また)其(その)時(じ) 《割書:今橋時代に|関する史料》    代(だい)前後(ぜんご)の事を書(か)いたもので三 河後風土記(かはごふうどき)の如(ごと)きものもあるが、 之(これ)は平岩親吉(ひらいはしんきち)の著(ちよ)だと称(せう)せられて居(を)る       にも拘(かゝは)らず其実(そのじつ)は全(まつた)く偽作(ぎさく)であることは伊勢貞丈(いせてんぜう)初(はじ)めが証拠(せうこ)立(だ)てゝ 居(を)る、 其他(そのた)創業記(さうげうき)を初(はじ)め三河記(みかはき)の如(ごと)       き数(かぞ)へ切(き)れぬ程(ほど)であつて、 此(この)三河記(みかはき)には更(さら)に三河記(みかはき)異本考(ゐほんこう)と云(い)つて其本(そのほん)の種類(しゆるい)に就(つい)て研究(けんきう)した本(ほん)があ       る位(くらい)で種類(しゆるい)の多(おほ)き事が分(わか)る、 又(また)三河後風土記(みかはごふうどき)にも成島司直(なるしまじちよく)等(ら)が校訂(こうてい)した改正(かいせい)三河後風土記(みかはごふうどき)と云(い)ふのが       あるし創業記(さうげうき)にも紀州家(きしうけ)で研究(けんきう)した創業記(さうげうき)考異(こうい)と云(い)ふのがある、 此(かく)の如(ごと)き状態(ぜうたい)であるから書物(しよもつ)の種類(しゆるい)       は成程(なるほど)少(すくな)くないが其(その)多(おほ)くは後世(こうせい)の作(さく)で到底(とうてい)直(たゞ)ちに史料(しれう)とすることの出来(でき)ぬのが当然(とうぜん)である、 只(た)だ大久保(おほくぼ) 三河物語   彦左衛門忠教(ひこざえもんたゞのり)の書(か)き遺(のこ)して置(お)いた三河物語(みかはものがたり)と云(い)ふのがある、 之(これ)にも同名(どうめい)異書(ゐしよ)があつて三河記(みかはき)の多(おほ)くは        之(これ)から出(で)たと云(い)ふ事であるが其(その)原本(げんほん)は今(いま)徳川公爵家(とくがはこうしやくけ)の所蔵(しよぞう)で確実(かくじつ)なものと認(みと)められる又(ま)た深溝(ふかみぞ)松平氏(まつだひらし) 家忠日記  の祖(そ)家忠(いへたゞ)の書(か)いた日記(につき)があつて其(その)原本(げんほん)は今(いま)尚(な)ほ松平子爵家(まつだひらししやくけ)に存(ぞん)して居(を)る此(この)家忠(いへたゞ)と云(い)ふ人(ひと)は慶長(けいてう)五 年(ねん)伏(ふし)        見(み)の戦争(せんそう)で鳥井元忠(とりゐもとたゞ)と共(とも)に討死(うちじに)した人(ひと)であるが日記(につき)は其(その)若(わか)い時(とき)から書(か)いたもので最(もつと)も確実(かくじつ)なものとし       て貴(たつと)ばれて居(を)る併(しか)し此(この)日記(につき)にも矢張(やはり)同名(どうめい)異書(ゐしよ)があつて其(その)異書(ゐしよ)の如(ごと)きは全然(ぜん〴〵)偽本(ぎほん)であるから注意(ちうゐ)を要(よう)す 松平記   る処(ところ)である尚(なほ)其他(そのた)に松平記(まつだひらき)なる書物(しよもつ)がある、 著者(ちよしや)は不明(ふめい)であつて之(これ)にも偽本(ぎほん)があるが其(その)原本(げんほん)は余程(よほど)確(かく) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千六百九十四号附録   ( 明治四十四年二月二十八日発行 ) 【本文】        実(じつ)なものとして信(しん)ぜられてある、 尤(もつと)も此(この)家忠日記(いへたゝにつき)松平記(まつだひらき)は孰(いづ)れも天文(てんぶん)以後(いご)の事を書(か)いたものであるか       ら、 今橋(いまはし)築城(ちくぜう)時代(じだい)より後(のち)のものであるが、 橋本(はしもと)にはズツト前(まへ)の今橋(いまはし)築城(ちくぜう)時分(じぶん)の事迄(ことまで)書(か)いてあるのであ       るから、 参考(さんこう)の為(た)めに此処(ここ)に掲(かゝ)げたのである、 又(また)後世(こうせい)三河(みかは)地方(ちほう)の事を調(しら)べたもので三河堤(みかはつゝみ)、 三河名蹤(みかはめいじう) 大三河志   綜録(そうろく)、 三河名所図会(みかはめいしよづえ)、 三河水(みかはみづ)、 三河船(みかはふね)、 三河志(みかはし)、 大三河志(たいみかはし)等(とう)色々(いろ〳〵)のものがある、 其中(そのなか)で 大三河志(たいみかはし)は寛(かん)        政(せい)年間(ねんかん)の著(ちよ)で西尾候(にしおこう)松平頼慎氏(まつだひららいしんし)の撰(えらみ)であるが頗(すこふ)る確実(かくじつ)なものであるとの評(へう)がある併(しか)し不幸(ふこう)にして私(わたくし)は        未(いま)だ見(み)た事がないのは遺憾(いかん)である、 又(また) 三河名所図会(みかはめいしよづえ)は吉田(よしだ)上伝馬(かみでんま)の金物商(かなものせう)で夏目重蔵(なつめぢうぞう)と云(い)ふ人(ひと)が全財(ぜんざい) 牛窪密談記  産(さん)を投(とう)じて熱心(ねつしん)に編集(へんしう)したものであるが如何(いかん)せむ引用書(いんようしよ)などが確実(かくじつ)でないから十 分(ぶん)なる参考(さんこう)に資(し)せら       れぬのは惜(おし)むべきである三河堤(みかはつゝみ)の如(ごと)きも矢張(やはり)同様(どうよう)で 今橋(いまはし)築城(ちくぜう)時代(じだい)の事などは多(おほ)く偽本(ぎほん)の家忠日記(いへたゝにつき)を唯(ゆ)       一の材料(ざいれう)として引用(いんよう)してあるから信(しん)ぜられぬ点(てん)が多(おほ)いのである然(しか)るに、 牛窪密談記(うしくぼみつだんき)と云(い)ふ書物(しよもつ)があつ       て単(たん)に牛久保記(うしくぼき)とも唱(とな)へられて居(を)るが古白(こはく)の事を主(しゆ)として其(その)以来(いらい)牛窪(うしくぼ)の事を書(か)いたものである之(これ)は元(げん)        禄(ろく)以後(いご)の著(ちよ)と思(おも)はるゝが続群書類従(ぞくぐんしよるいじう)の中(なか)にも納(おさ)められて参考(さんこう)とすべき点(てん)が多(おほ)いま又(ま)た宮嶋伝記(みやしまてんき)と云(い)ふも       のがあるか之(これ)は牛久保密談記(うしくぼみつだんき)に似寄(によ)つた者(もの)である外(ほか)に元文(げんぶん)年中(ねんちう)に著述(ちよじゆつ)された三河国二葉松(みかはのくにふたばまつ)幷(ならび)に後世(こうせい)之(これ)       が補正(ほせい)として作(つく)られた三河国刷補松(みかはのくにさつほまつ)と云(い)ふのがある、 又(また)三河雀(みかはすゝめ)と云(い)ふのがあるが之等(これら)は当時(とうじ)目撃(もくげき)した       る事 及(およ)び伝説(でんせつ)を正直(せうぢき)に記(しる)したものであるから却(かへつ)て材料(ざいれう)となるものが多(おほ)いのである其他(そのた)三河国古文書(みかはのくにこぶんしよ)三(み)        河雑書(かはざつしよ)などと云(い)ふ書物(しよもつ)は愛知県庁(あいちけんてう)の所蔵(しよぞう)で史料(しれう)となるべきことが少(すくな)くない三河聞書(みかはぶんしよ)、 田原近郷聞書(たはらきんごうぶんしよ)等(とう)も        捨(すて)られぬ処(ところ)があると思(おも)ふ。        右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)であるから到底(とうてい)此時代(このじだい)の古文書類(こぶんしよるい)は勿論(もちろん)此地方(このちほう)の事のみを書(か)き記(しる)した適確(てきかく)の材料(ざいれう)は得(え)ら       れぬ、 従(したがつ)て汎(ひろ)く一 般(ぱん)に渉(めくつ)て調(しら)べ出(いた)すより外(ほか)はない、ソコで一 般(ぱん)に通(つう)じたもので飯田氏(ゐゝだし)の野史(やし)の如(ごと)きも 【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十三 【欄外】 豊橋市史談   (今橋築城と牧野古白)                      十四 【本文】       のもがある、 又(ま)た武徳大成記(ぶとくたいせいき)の如(ごと)きものもある、 勿論(もちろん)前(まへ)に述(の)べた、 三河記(みかはき)の内(うち)には十 分(ぶん)なる校正(こうせい)を経(へ)       たるものがあるが之(これ)は殆(ほとん)ど同性質(どうせいしつ)のものである、 其他(そのた)武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)の如(ごと)きもあれば有名(いうめい)なる新井白石(あらゐはくせき)       の藩翰譜(はんかんふ)もある中井竹山(なかゐちくざん)の逸史(いつし)もある之等(これら)の類(るい)も亦(また)数(かぞ)へ切(き)れぬであろうが併(しか)し徳川幕府(とくがはばくふ)に於(おい)て史官(しかん)を 寛永系図   置(お)き多(おほ)くの時日(じじつ)を費(つひや)して調(しら)べ上(あ)げたものがある、三 代将軍(だいせうぐん)時代(じだい)の寛永系図(かんえいけいづ)は其(その)一であるが之(これ)はまだ十        分(ぶん)のものではない様(よう)に思(おも)はれる、 然(しか)るに五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の時代(じだい)には各大名(かくだいめう)幷(ならび)に旗本(はたもと)は勿論(もちろん)地方(ちほう)の郷士(ごうし)に 貞享書上   到(いた)る迄(まで)家系(かけい)の調査(てうさ)を命(めい)じ  祖先(そせん)以来(いらい)の事を書上(かきあ)げしめたので之(これ)は貞享書上(ていけうかきあげ)と称(とな)へて今(いま)東京帝国大学(とうけうていこくだいがく)の        史料編纂係(しれうへんさんかゝり)に保存(ほぞん)せられて居(を)る何処(いづこ)十 何騎(なんき)だとか云(い)つて頻(しき)りに家系(かけい)などを調(しら)べる事の流行(りうこう)したのも実(じつ)        に此時(このとき)が多(おほ)いので地方(ちほう)に流布(るふ)して居(を)るものゝ 中(なか)にはワザト拵(こしら)えたものも少(すくな)くないのであるから余程(よほど)注(ちう)        意(ゐ)を要(えう)する事と思(おも)ふが我地方(わがちほう)に於(おい)ても続々(ぞく〴〵)発見(はつけん)する記録(きろく)の類(るい)が段々(だん〴〵)研究(けんきう)して見(み)ると矢張(やはり)此時代(このじだい)以後(いご)に        於(おい)て出来(でき)たものが多(おほ)いのである、サテ其後(そのご)更(さら)に幕府(ばくふ)に於(おい)て歴史(れきし)の研究(けんきう)を初(はじ)めたのが例(れい)の寛政(かんせい)時代(じだい)で若(わか) 《割書:寛政重修諸|家譜》    年寄(としより)の堀田正敦(ほつたまさあつ)が総裁(さうさい)となつて文化(ぶんか)年間(ねんかん)迄(まで)かゝつて作(つく)り上(あ)げたのが彼(か)の寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)で壹千五百二       十五 巻(かん)と云(い)ふ大部(たいぶ)のものである、 之(これ)に続(つゞ)いて出来(でき)上(あが)つたのが彼(か)の徳川御実記(とくがはごじつき)幷(ならび)に朝野旧聞裒稿(てうやきんぶんほうこう)で何(いづ)れ       も千 有余巻(いうよかん)の大部(たいぶ)であるが之(これ)は林大学頭述斉(はやしだいがくのかみじゆつさい)の監督(かんとく)で成島司直(なるしまじちよく)等(ら)が編纂(へんさん)の任(にん)に当(あた)つたとのこ事である        此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから我地方(わがちはう)の史実(しじつ)を得(う)るには先(ま)づ之等(これら)の諸書(しよ〳〵)を初(はじ)め親元日記(ちかもとにつき)だの宗長手記(しうちうしゆき)の如(ごと)き当(とう)        時(じ)の日記(につき)随筆(ずゐしつ)などあらゆる方面(はうめん)に渉(わた)りて調(しら)べ出(だ)すより外(ほか)はない、コウなると専門的(せんもんてき)で到底(とうてい)私(わたくし)の如(ごと)き        浅学(せんがく)の者(もの)では及(およ)ばぬのである、 右(みぎ)は只(た)だ大要(たいえう)に就(つい)ての話(はなし)であるが兎(と)に角(かく)予(あらかじ)め此事(このこと)は御承知(ごせうち)置(お)きを願(ねが)       ひ度(た)いのである。 古白の子孫  此時代(このじだい)に於(お)ける参考(さんこう)材料(ざいれう)としては以上(いぜう)述(の)べた如(ごと)くであるが尚(な)ほ古白(こはく)を初(はじ)め牧野氏(まきのし)の事に就(つい)て研究(けんきう)する 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際  し■                          ■ 【左頁】 【本文】       には先(ま)づ其(その)子孫(しそん)を尋(たづ)ね其(その)家(いへ)に就(つい)て調査(てうさ)するのも至極(しごく)必要(ひつえう)なる事と思(おも)ふ、ソコデ試(こゝろみ)に現在(げんざい)の華族(くわぞく)の中(なか)で        牧野姓(まきのせい)を称(とな)へて居(を)らるゝのが何軒(なんげん)あるかと云(い)ふに、五 軒(けん)ある之(これ)は何(いづ)れも子爵家(しゝやくけ)であるが一々 挙(あげ)て見(み)る       と、 旧越後長岡藩主(きうえちごながおかはんしゆ)の牧野氏(まきのし)、 越後峰山藩主(えちごみねやまはんしゆ)の牧野氏(まきのし)、 信州小諸藩主(しんしうこもろはんしゆ)牧野氏(まきのし)、 常陸笠間藩主(ひたちかさまはんしゆ)の牧野氏(まきのし) 牧野子爵家  丹後田辺(たんごたなべ)現今舞鶴藩主(げんこんまいづるはんしゆ)の牧野氏(まきのし)であつて何(いづ)れも先祖(せんそ)は東三河(ひがしみかは)から出(いで)て宝飯郡(ほゐぐん)の牛久保(うしくぼ)を中心(ちうしん)として        勃興(ぼつこう)したものであるが、 右(みぎ)の内(うち)笠間(かさま)峰山(みねやま)小諸(こもろ)の三 家(け)は元(も)と長岡家(ながおかけ)から分(わか)れたものであるから祖先(そせん)は同(どう)       一であつて牧野新次郎(まきのしんじらう)後(のち)に右馬允成定(うまのすけなりさだ)と称(とな)へた人(ひと)を祖先(そせん)として居(を)る、 此(こ)の人(ひと)の伝記(でんき)に就(つい)ては後(のち)に詳(くは)し       く御話(おはな)しする事とするが此(こ)の人(ひと)は後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)に従(したが)つた人(ひと)である又(ま)た丹後田辺(たんごたなべ)の牧野氏(まきのし)は当主(とうしゆ)を弼成(すけしげ)        君(ぎみ)と云(い)はれるが此家(このいへ)は牧野(まきの)八 太夫(だいう)後(のち)に山城守(やましろのかみ)と称(とな)へた定成(さだしげ)を祖先(そせん)として居(を)る、 此人(このひと)は成定(なりさだ)よりは後(のち)に        至(いた)つて初(はじ)めて家康(いへやす)に仕(つか)へた人(ひと)で其(その)家系(かけい)に於(おい)ては古白(こはく)の孫(まご)であるとなつて居(を)る、 面白(おもしろ)いのは此家(このいへ)は代々(だい〴〵)        成(なり)と云(い)ふ字(じ)を「シゲ」と読(よ)むで居(を)るのに前(まへ)の長岡家(ながをかけ)一 統(とう)は必(かなら)ず「ナリ」と読(よ)むので自(おのづ)から其(その)系統(けいとう)を明(あきらか)にし       て居(を)る様(やう)に思(おも)はれる、 殊(こと)に古白(こはく)の名乗(なのり)は成時(しげとき)であつて「シゲトキ」を読(よ)むのであるから田辺家(たなべけ)の家系(かけい)に        如何(いか)にもと首肯(しゆこう)せられて其(その)古白(こはく)系統(けいとう)の家(いへ)たる事は疑(うたがひ)なき様(やう)に思(おも)はるゝのである、 併(しか)し長岡家(ながをかけ)一統(いつとう)にも        田辺家(たなべけ)にも其(その)祖先(そせん)に就(つい)ては旧来(きうらい)議論(ぎろん)があつて寛政重修譜(かんせいちようしうふ)又(また)は武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)などと異説(ゐせつ)が載(の)つて居(を)るが        之(これ)は後日(ごにち)論(ろん)ずる事とする、 而(しか)しで右(みぎ)の外(ほか)別(べつ)に古白(こはく)直系(ちよくけい)の子孫(しそん)として認(みと)められて居(を)る家(いへ)がある、 之(これ)は静(しづ) 牧野成一氏  岡県(をかけん)の士族(しぞく)で牧野茂一(まきのしげかづ)氏(し)である茂一(しげかづ)君(きみ)の父(ちゝ)は名(な)を茂行(しげゆき)と云(い)はれて今(いま)も存命(ぞんめい)で東京本郷区(とうけうほんごうく)の真砂町(まさごてう)に住(すま)       つて居(を)られるが維新(ゐしん)当時(とうじ)は伊予守(いよのかみ)と云(い)ひ三千 石(ごく)の旗本(はたもと)であつた此家(このいへ)は代々(だい〴〵)名(な)を伝蔵(でんざう)と称(せう)し矢張(やはり)成(なり)の字(じ)       を「シゲ」と読(よ)むで居(を)る、 又(ま)た浜松在(はままつざい)に住(ぢう)して維新(ゐしん)前(ぜん)五百 石(こく)の旗本(はたもと)であつた方(かた)で牧野斧之丞(まきのをののぜう)と云(い)ふ人(ひと)が       あるが之(これ)は成一君(しげかづくん)の家(いへ)から分(わ)かれたものである、 即(すなは)ち此(こ)の伊予守(いよのかみ)の家(いへ)は寛政重修家譜(かんせいちようしうかふ)にも亦(ま)た帝国大(ていこくだい) 【欄外】 豊橋市史談   (今橋築城と牧野古白)                      十五 【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十六 【本文】        学(がく)で出版(しゆつぱん)する大日本史料(だいにほんしれう)にも明(あきらか)に古白(こはく)直系(ちよくけい)の子孫(しそん)として確信(かくしん)されて居(を)る、 蓋(けだ)し古白(こはく)の後(あと)は其子(そのこ)成三(しげかづ)が        継(つゝ)いたが成三(しげかづ)は更(さら)に其弟(そのおとゝ)信成(のぶしげ)を養子(やうし)とした此(この)信成(のぶしげ)が松平清康(まつだひらきよやす)に攻(せめ)られて討死(うちじに)の時(とき)妊娠中(にんしんちう)の妻(つま)は尾張国(をはりのくに)        知多郡(ちたぐん)に逃(のが)れて後(のち)に生(う)んだ子(こ)が成継(しげつぐ)である、 成継(しげつぐ)の子(こ)を成里(しげさと)と称(とな)へたが此人(このひと)は頗(すこぶ)る武勇(ぶゆう)であつて池田(いけだ)        輝政(てるまさ)の紹介(せうかい)で徳川家康(とくがはいへやす)に召(め)されて二 代将軍(だいせうぐん)秀忠(ひでたゝ)付(づき)として仕(つか)へたのである之(こ)れが伊予守家(いよのかみけい)の祖先(そせん)になる 牧野系図  のであるから、 先(ま)づ同家(どうけい)に就(つい)て調査(てうさ)の必要(ひつえう)を認(みと)めたのであるが同家(どうけい)には新旧(しんきう)二つの系図(けいづ)が伝(つた)はつて居(を)       る、 而(しか)して其(その)古(ふる)い方(ほう)は多少(たせう)の相違(さうゐ)こそあれ大体(だい〳〵)に於(おい)ては寛永系図(かんえいけいづ)に一 致(ち)するもので又(ま)た野史(やし)に引用(いんよう)し       てある牧野系図(まきのけいづ)と云(い)ふのに一 致(ち)する点(てん)が多(おほ)い、 然(しか)るに新(あたらし)い方(ほう)のは余程(よほど)後世(こうせい)に出来(でき)たもので頗(すこぶ)る詳(つまびらか)に        調査(てうさ)されてあるが寛政(かんせい)以後(いご)に調(しら)べて作(つく)つたものと思(おも)はれる、 兎(と)に角(かく)之(これ)等(ら)の系図(けいづ)は勿論(もちろん)前(ぜん)にも述(の)べた長(なが)        岡(をか)、 田辺(たなべ)、 両家(れうけ)を始(はじ)め此(この)牧野氏(まきのし)一 統(とう)の家(いへ)に伝(つた)はれる記録(きろく)の類(るい)は寛永系図(かんえいけいづ)寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよけふ)等(とう)の諸書(しよ〳〵)と共(とも) 古白の素性 に大(おほい)に参考(さんこう)となるものであると信(しん)ずる、 扨(さて)牧野古白(まきのこはく)の出所(しゆつしよ)に就(つい)ては以上(いぜう)述(の)べた如(ごと)き事情(じぜう)で諸書(しよ〳〵)の記(き)す       る処(ところ)が一 致(ち)しないが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)の記(き)する処(ところ)によれば此(この)古白(こはく)と云(い)ふ人(ひと)は牧野成富(まきのしげとみ)の子(こ)で、 成富(しげとみ)と云(い)       ふ人(ひと)は一 名(めい)を頼成(よりしげ)と云(い)ひ左衛門尉(さゑもんのぜう)と称(とな)へたが応永(おうえう)年中(ねんちう)に将軍(せうぐん)足利義持(あしかゝよしもち)の命(めい)によつて初(はじ)めて三河国宝飯(みかはのくにほゐ) 牧野成富   郡(ぐん)中條郷(ちうぜうごう)牧野村(まきのむら)へ来(き)て牧野(まきの)の姓(せい)を名乗(なの)つたのである、 元(も)と此(こ)の人(ひと)は平家(へいけ)の士(し)田口重能(たぐちしげよし)(成能(しげよし))の末孫(ばつそん)で        重能(しげよし)の子(こ)に田内左衛門教能(たうちさゑもんのりよし)一に成直(しげなを)と云(い)ふ人(ひと)があつたが平家(へいけ)没落(ぼつらく)の後(のち)離散(りさん)して系図(けいづ)が分(わか)らなくなつた        然(しか)るに其(その)後胤(こういん)に田口左衛門尉成保(たぐちさゑもんのぜうしげやす)と云(い)ふ人(ひと)があり其子(そのこ)に田三左衛門成清(たみさゑもんしげきよ)と云(い)ふのがあつて、 之(これ)が即(すなは)ち        成冨(しげとみ)の親(おや)で此人(このひと)の代迄(だいまで)は讃岐国(さぬきのくに)に住(じう)して居(ゐ)たものであるが 成冨(しげとみ)の代(だい)に至(いた)つて讃岐国(さぬきのくに)から此(この)牧野村(まきのむら)へ来(き) 成富の墳墓 たものであるとなつて居(を)る現(げん)に成冨(しげとみ)の墓(はか)は牧野村(まきのむら)柳貝津(やなかいづ)と云ふ処(ところ)に遺(のこ)つて居(を)るが此(この)墓(はか)は確実(かくじつ)のものと       して認定(にんてい)が出来(でき)るのである、 又(ま)た牧野村(まきのむら)牧野(まきの)さち氏(し)の家(いへ)に福昌寺(ふくせうじ)の僧(そう)実山(じつざん)手写(てうつし)の経文(けうもん)と牧野村(まきのむら)の古地(こち) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百号附録   ( 明治四十四年三月七日発行 ) 【本文】 福昌寺    図(づ)とが蔵(ざう)せられてある、 此(この)経文(けうもん)は中々(なか〳〵)見事(みごと)なものであつて此(この)福昌寺(ふくせうじ)と云(い)ふのは成富(しげとみ)が深(ふか)く皈依(きえ)した寺(てら)       だと云(い)ふ事であるが、 其(その)古地図(こちづ)の中(なか)にも寺(てら)の跡(あと)は載(の)せられてある、ソコデ古白(こはく)が名乗(なのり)を成時(しげとき)と云(い)つた       事は前(ぜん)に述(の)べた通(とほ)りで又(また)左衛門尉(さえもんのぜう)と称(とな)へたのであるが、 初(はじ)め名(な)を利業(としなり)とも称(とな)へた形跡(けいせき)がある、ソレは        宝飯郡(ほゐぐん)財賀寺(ざいがじ)の棟札(むなふだ)に文明(ぶんめい)十五年 牧野修理進利業(まきのしゆりのしんとしなり)と書(か)いてあるのがあつて田辺牧野家(たなべまきのけ)の記録(きろく)及(およ)び宮嶋(みやじま) 利業の名   伝記(でんき)に利業(としなり)は古白(こはく)の若(わか)き時(とき)の名乗(なのり)にやとあり、 又(また)仝(どう)牧野家(まきのけ)の家譜(かふ)に成時(しげとき)初(はじめて)利成(としなり)とあるからである、 勿(もち)        論(ろん)古白(こはく)と云(い)ふ名(な)薙髪(ちばつ)してからの号(ごう)であるが藩翰譜(はんかんふ)には之(これ)を古柏(こはく)としてある、 又(また)古伯(こはく)と書(か)いた書物(しよもつ)は 古伯と古白  沢山(たくさん)あるが私(わたくし)は古白(こはく)と書(か)くのが確実(かくじつ)であると信(しん)ずる、 之(これ)に就(つい)て最(もつと)も証拠(せうこ)となるべきものは財賀寺(ざいがじ)明応(めいおう)       四 年(ねん)の棟札(むなふだ)並(ならび)に豊橋市(とよはしし)中(なか)八 神明社(しんめいしや)明応(めいおう)六 年(ねん)の棟札(むなふだ)で神明社(しんめいしや)のは今(いま)も現存(げんぞん)して居(を)るが何(いづ)れも古白(こはく)と書(か)い       てある又(また)連歌師(れんがし)宗長(そうてう)の宗長手記(そうてうしゆき)であるが此(この)宗長(そうてう)と云(い)ふ人(ひと)は今川義忠(いまがはよしたゞ)に仕(つか)へた小姓(こせう)であつて後(のち)に宗祇(そうぎ)の 宗長手記   門人(もんじん)となつて連歌(れんが)を学(まな)び再(ふたゝ)び氏親(うじちか)に召(め)され古白(こはく)とは最(もつと)も親密(しんみつ)な間柄(あひだがら)で当時(とうじ)屡々(しば〳〵)今橋(いまはし)に来(きた)り連歌(れんが)の相手(あひて)       をしたものである、 宗長手記(そうてうしゆき)は即(すなは)ち此人(このひと)の書(か)いたもので塙保巳一(はなわほきいち)の 群書類従(ぐんしよるいじう)の中(なか)に入(はい)つて居(を)る、 此(この)宗(そう)        長手記(てうしゆき)は大永(たいえい)四 年(ねん)より同(どう)七 年(ねん)迄(まで)の事を書(か)いた日記様(につきやう)のもので勿論(もちろん)古白(こはく)死去(しきよ)後(ご)の事ではあるが其中(そのなか)に古(こ)        白(はく)と交際(こうさい)のあつた事を明記(めいき)してある、 然(しか)るに之(これ)にも矢張(やはり)古白(こはく)となつて居(ゐ)て古柏(こはく)又(また)は古伯(こはく)とは書(か)いてな       いのである、 蓋(けだ)し此処(ここ)に一 問題(もんだい)として研究(けんきう)を要(えう)するのは財賀寺(ざいがじ)文明(ぶんめい)三 年(ねん)の棟札(むなふだ)に願主(がんしゆ)牧野古伯(まきのこはく)とした       のが存在(ぞんざい)せる事 である、 之迄(これまで)此(こ)の古伯(こはく)は古白(こはく)成時(しげとき)と同(どう)一人(にん)に見做(みな)されて居(を)るが此時代(このじだい)より推(お)して或(あるひ)は        別人(べつにん)ではなからうかと思(おも)はるゝのである、 如何(いかん)となれば古白(こはく)は永正(えいせう)三 年(ねん)に討死(うちじに)したので此(この)棟札(むなふだ)にある        文明(ぶんめい)三 年(ねん)とは相距(あいはな)ること卅六 年(ねん)目(め)になるのである、 而(しか)して古白(こはく)と云(い)ふ名(な)は前(ぜん)にも述(のべ)たる通(とほ)り薙髪(ちはつ)してか       らの号(ごう)であるから其(その)古白(こはく)と号(ごう)したのはマサカ十 代(だい)や廿 代(だい)ではなからう少(すくな)くも卅 歳(さい)以上(いぜう)でなくてはなら 【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十七 【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十八 【本文】       ぬと思(おも)ふ、 従(したがつ)て文明(ぶんめい)三 年(ねん)に古白(こはく)三十 歳(さい)たりしものとするも其(その)討死(うちじに)の時(とき)は六十六 歳(さい)となる訳(わけ)であるが此(この)        時(とき)に嫡子(ちやくし)の成三(しげかづ)が五 歳(さい)であつたと書(か)いたものがあるし又(また)其(その)弟(おとゝ)の信成(のぶしげ)があつたのあるから如何(いか)にも古(こ)        白(はく)の年齢(ねんれい)と不権衡(ふけんこう)の事になると思(おも)ふのである、 特(とく)に此(この)信成(のぶしげ)は後(のち)に至(いた)りて矢張(やはり)湖泊(こはく)と号(ごう)したのであるが        宗長(そうてう)にも亦(ま)た二 代目(だいめ)の宗長(そうてう)があつたのであるから古白(こはく)の号(ごう)も先人(せんにん)に古伯(こはく)と云(い)つた人(ひと)のあるのに因(ちな)むで        名(なづ)けたものと考(かんが)へても強(しい)て無利(むり)なる説(せつ)ではないと信(しん)ずる、 夫(そ)れのみならず豊川(とよかは)の花井寺(はなゐじ)に養林院(やうりんゐん)方順(はうじゆん)        大禅門(だいぜんもん)と云(い)ふ位牌(ゐはい)がある、 此人(このひと)は文明(ぶんめい)十四 年(ねん)七月七日に死(し)んだ人(ひと)であるが牧野村(まきのむら)牧野(まきの)さち氏(し)方(かた)の記録(きろく)       には之(これ)が古白(こはく)の戒名(かいめう)だと伝(つた)へられて居(を)るのみならず現(げん)に新(あた)らしき位牌(ゐはい)には古白(こはく)の二 字(じ)を加(くは)えて方順(はうじゆん)古(こ)        白(はく)と刻(こく)してある、 又(ま)た柳貝津(やながいつ)の成富(しげとみ)の墓(はか)の隣(とな)りに一 基(き)の古墳(こふん)があるが口碑(こうひ)には古白(こはく)の墓(はか)と伝(つた)へられて       ある、 然(しか)れ共(ども)古白(こはく)成時(しげとき)は前(ぜん)にも云(い)ひし如(ごと)く永正(えいせう)三 年(ねん)の死(し)で今橋城(いまはしぜう)に於(おい)て戦死(せんし)したのであるから此(この)位牌(ゐはい)       の人(ひと)とは年代(ねんだい)が違(ちが)ふのみならず牧野村(まきのむら)に墓(はか)のあるのは道理(どうり)に合(あ)はぬ、 従(したがつ)て此(この)位牌(ゐはい)又(また)は古墳(こふん)の人(ひと)が「コ       ハク」と云(い)つた人(ひと)であると云(い)ふ伝説(でんせつ)口碑(こうひ)は捨(す)てられぬが之(これ)と同時(どうじ)に此(この)「コハク」は今橋(いまはし)に築城(ちくぜう)した古白(こはく)        成時(しげとき)ではないと云(い)ふことも信(しん)ぜられるのである、 然(しか)らは此(この)位牌(ゐはい)の人(ひと)は古白(こはく)の父(ちゝ)成冨(しげとみ)であるかと云(い)ふに成(しげ)        冨(とみ)は文明(ぶんめい)より前(まへ)の文正(ぶんせい)三 年(ねん)に死(しん)で居(を)るから夫(そ)れでもない、 即(すなは)ち此(この)位牌(ゐはい)の人(ひと)は成冨(しげとみ)でもなく成時(しげとき)でもな       く別(べつ)に古伯(こはく)と号(ごう)した人(ひと)であつて文明(ぶんめい)三 年(ねん)財賀寺(ざいがじ)に棟札(むなふだ)を上(あ)げた願主(がんしゆ)ではなかろうか、 夫(そ)れ等(ら)こ之(こ)れ等(ら)の        点(てん)より考(かんが)へてドウモ古伯(こはく)と古白(こはく)とは仝(おな)じ牧野(まきの)の一 族(ぞく)ではあるが別人(べつじん)であるように信(しん)ぜられるのである        古白(こはく)の素性(すぜう)に関(くわん)しては大要(たいえう)以上(いぜう)述(のべ)た如(ごと)くであるが寛政重修諸家譜(かんせいしうしうしよかふ)に古白(こはく)は明応(めいおう)四 年(ねん)四月八日 足利義稙(あしかゞよしたね)       の命(めい)によつて三河国(みかはのくに)諸士(しよし)の旗頭(はたがしら)となつたとしてある、 蓋(けだ)し其頃(そのころ)の足利将軍(あしかゞせうぐん)の勢望(せいぼう)は頗(すこぶ)る衰(おとろ)へたもので       あるから、 仮令(たとへ)三河諸士(みかはしよし)の旗頭(はたがしら)を命(めい)ぜられた処(ところ)で、 事実(じじつ)に於(おい)ては余(あま)り巾(はゞ)の利(き)いたものでもなかつたで 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【本文】       あろうが兎(と)に角(かく)、 当時(とうじ)古白(こはく)が三河(みかは)に於(おい)て漸(やうや)く頭角(とうかく)を現(あら)はすに至(いた)つたことは事実(じじつ)である、 又(また)古白(こはく)が今(いま)の豊(とよ)        橋市(はしし)中(なか)八の神明社殿(しんめいしやでん)の造営(ざうえい)をしたのは此(この)明応(めいおう)の六 年(ねん)であるが、明応(めいおう)も 九 年(ねん)で文亀(ぶんき)と改(あらた)まり文亀(ぶんき)は僅(わづか)に       三 年(ねん)で四 年目(ねんめ)には永正(えいせう)となつたのである、 即(すなは)ち其(その)二 年(ねん)に今橋城(いまはしぜう)は落成(らくせい)したのであるが古白(こはく)が初(はじ)めて此(この)        今橋城(いまはしぜう)を築(きづ)いた時の事情(じぜう)に付(つい)ては矢張(やはり)色々(いろ〳〵)の説(せつ)がある、二 葉松(ばまつ)には今川氏親(いまがはうじちか)の命(めい)によつて築(きづ)いたもの       であるとしてあつて牛久保(うしくぼ)密談記(みつだんき)にも四月八日 古白(こはく)が牛窪(うしくぼ)の若宮(わかみや)八 幡(まん)に参詣(さんけい)の時に駿河(するが)から使者(ししや)が到(とう)        着(ちやく)して当国(とうごく)馬見塚(まみづか)辺(へん)に一 城(ぜう)を築(きづ)くべしとの命(めい)で、 古白(こはく)は身(み)の誉(ほま)れ何事(なにごと)か之(これ)に如(し)かんと喜(よろこ)んだとの事が        書(か)いてある、 併(しか)し此(この)築城(ちくぜう)が氏親(うじちか)の命(めい)であると云(い)ふことは今(いま)確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)がなく又(ま)た其他(そのた)の信(しん)ずべき書物(しよもつ)       には熟(いづ)れも認(したゝめ)めて居(ゐ)ないから先(ま)づ疑問(ぎもん)であるが、 同(おな)じ密談記(みつだんき)に築城(ちくぜう)当時(とうじ)の模様(もやう)を記(しる)して         牧野成時(まきのしげとき)は牛窪(うしくぼ)組与力(くみよりき)の面々(めん〳〵)召連(めしつ)れ給(たま)ひ、 馬見塚(まみづか)の岡(をか)を撿分(けんぶん)して入道(にうどう)ケ淵(ふち)と云(い)ふ所(ところ)を城地(ぜうち)に定(さだ)め数(すう)        千の人歩(にんぷ)を集(あつ)め、 此(この)淵(ふち)半(なか)ば埋(うづ)めんとし給(たま)へ共(ども)、 豊川(とよかは)の流岸(ながれきし)を洗(あら)ひ其上(そのうへ)差(さ)し来(きた)る潮先(しほさき)にて中々(なか〳〵)事(こと)ゆか        ず、かゝる深淵(しんえん)には主有(ぬしあ)るものなり之(これ)を蔑(ないがしろ)にする時(とき)は祟(たゝ)り障(さは)りをなすもの也、さらば仏神(ほとけかみ)の力(ちから)を        からむ幸(さいはひ)当国(とうごく)吉祥山(きちぜうざん)は霊地(れいち)也(なり)此山(このやま)の塊(つちくれ)を申下(もうしくだ)して、 之(これ)にて埋初(うめはじ)めそれより岡土(こうど)を運(はこ)ぶ、其外(そのほか)貴僧(きそう)         高僧(こうそう)の御祈祷(ごきとう)別(べつ)して天王宮(てんわうぐう)若宮(わかみや)熊野(くまの)大権現(だいごんげん)祈願(きがん)川社(かはやしろ)の祭(まつり)執行(しつこう)抽丹(たんぜい)誠(ぬきんで)給(たま)へは、 水筋(みづすじ)息(いき)ながらかに永(えい)         正(せう)二 丑年(うしのとし)成就(ぜうじゆ)し、 名(なづ)けて今橋城(いまはしぜう)と云(い)ふ       とあるのは俗間(ぞくかん)の伝説(でんせつ)を書(か)いたもので牽強附会(けんけうふくわい)の様(やう)ではあるが又(ま)た実(じつ)に味(あじは)ふべき点(てん)があると思(おも)ふ、 即(すなは)       ち古白(こはく)が此時(このとき)に築(きづ)いた城(しろ)は矢張(やはり)今(いま)の豊橋城址(とよはしぜうし)の地(ち)で歩兵(ほへい)第十八 連隊(れんたい)のある処(ところ)であるが、 勿論(もちろん)其(その)当時(とうじ)は        今日(こんにち)の如(ごと)く広大(こうだい)なる城(しろ)ではなかつたに相違(さうゐ)ない、 併(しか)し其頃(そのころ)此川幅(このかははゞ)はまだ中々(なか〳〵)広(ひろ)くて流(なが)れも激(はげ)しく深淵(しんえん)       であつたのは事実(じじつ)と信(しん)ぜられる、 又(また)馬見塚(まみづか)の地名(ちめい)であるが此(この)城(しろ)の築(きづ)かれた永正(えいせう)の頃(ころ)に果(はた)して此辺(このへん)を馬(ま) 【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十九 【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          二十 【本文】 馬見塚    見塚(みづか)と呼(よ)びしや否(いなや)は元(もと)より疑問(ぎもん)である、 併(しか)しながら此(この)記事(きじ)は却(かへつ)て牛久保密談(うしくぼみつだんき)の著(あらは)された元禄(げんろく)の当時(とうじ)       此地(このち)が吉田(よしだ)の内(うち)でも馬見塚(まみづか)に属(ぞく)した村地(そんち)であつて町地(てうち)の部(ぶ)ではなかつたと云(い)ふ参考(さんこう)となるものである       と信(しん)ぜられる、 又(ま)た、 此時(このとき)に吉祥山(きちぜうざん)の吉(きち)の字(じ)と牧野氏(まきのし)の本姓(ほんせい)たる田口(たぐち)の田(た)の字(じ)とを取(とつ)て、 此地(このち)を吉田(よしだ)       と命名(めい〳〵)したのであると云(い)ふ説(せつ)が伝(つた)はつて居(を)るが、 之(これ)は全然(ぜん〴〵)誤(あやまり)で今橋(いまはし)の地名(ちめい)を吉田(よしだ)と改(あらた)めたのは、之       より以後(いご)の事である、 之(これ)は後(のち)に至(いた)つて詳論(せうろん)する考(かんが)へである爾来(じらい)古白(こはく)は自(みづか)ら今橋城(いまはしぜう)に移(うつ)つたのであるが 牧野成勝  一 色城(しきぜう)をば牧野成勝(まきのなりかつ)に譲(ゆづ)つたと云ふ事は之(これ)亦(ま)た牛久保密談(うしくぼみつだんき)幷(ならび)にみ宮嶋伝記(みやしまでんき)に載(の)つて居(を)る処(ところ)である、 此(この)        成勝(なりかつ)と云ふ人(ひと)は初(はじ)め新次郎(しんじろう)と云ひ後(のち)に民部丞(みんぶのぜう)又(また)右馬允(うまのすけ)と云つたので宮島伝記(みやしまでんき)には、 古白(こはく)の子(こ)であると       してあるが其(その)新次郎(しんじろう)又(また)は右馬允(うまのすけ)と云つた処(ところ)より見(み)ると長岡(ながをか)牧野氏(まきのし)の祖先(そせん)成定(なりさだ)に関係(かんけい)のある様(やう)に思(おも)はれ       る即(すなは)ち成定(なりさだ)も亦(ま)た新次郎(しんじらう)右馬允(うまのすけ)と称(とな)へたのである、 従(したがつ)て私(わたくし)は其(その)古白(こはく)の子(こ)にあらざることを信(しん)ずるもの       であるが田辺(たなべ)牧野家(まきのけ)の調(しら)べによると果(はた)して成定(なりさだ)の養祖父(やうそふ)に成勝(なりかつ)と云ふのがある而(しか)して此(この)成勝(なりかつ)と云ふ人(ひと)       が享禄(けうろく)二 年(ねん)(今(いま)を距(さ)る三百八十三 年(ねん))に初(はじ)めて一 色(しき)を改(あらた)めて牛窪(うしくぼ)と命名(めい〳〵)したとの事であるから牛久保町(うしくぼてう)       に取(と)つては歴史上(れきしぜう)研究(けんきう)すべき人物(じんぶつ)であると思(おも)ふ。             ⦿牧野古白の戦死        此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で牧野古白(まきのこはく)は今橋(いまはし)の城主(ぜうしゆ)となつたのであるが其(その)翌(よく)永正(えいせう)三 年(ねん)には城(しろ)は遂(つひ)に陥(おちい)りて古白(こはく)を初(はじ)め 《割書:古白戦死の|月日》  其(その)一 類(るい)のお多(おほ)くは戦死(せんし)したのである、 然(しか)るに此(この)戦(たゝかひ)の事に就(つい)ても異説(ゐせつ)紛々(ふん〳〵)で、 頗(すこぶ)る困難(こんなん)なる研究(けんきう)である       が先(ま)づ、 此(この)古白(こはく)戦死(せんし)の月日(つきひ)に就(つい)ても之(これ)を十一月三日であると云(い)ふのと十一月四日であると云(い)ふのと、        仝(どう)十二日であると云(い)ふのと合(あは)せて三 説(せつ)あるのである、 此(この)十一月三日と云(い)ふ説(せつ)は寛政重修諸家譜(かんせいじうしうしよかふ)幷(ならび)に牧(まき) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百六号附録   ( 明治四十四年三月十四日発行 ) 【本文】 吉田城主考  野家譜(のかふ)を初(はじ)め書(か)いたものゝ 種類(しゆるい)が多(おほ)いのであるが十一月四日と云ふ説(せつ)は吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云(い)ふ書物(しよもつ)の説(せつ)で       ある、 此(この)吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云(い)ふ書物(しよもつ)は戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)と云(い)ふ書物(しよもつ)の中(なか)の一 部(ぶ)で、 之(これ)は二 連木戸田(れんぎとだ)即(すなは)ち、        維新前(ゐしんぜん)信州(しんしう)松本(まつもと)の藩主(はんしゆ)たりし戸田家(とだけ)の家臣(かしん)が主家(しゆか)の家系(かけい)を研究(けんきう)したもので、 天保年間(てんほうねんかん)の著書(ちよしよ)であるが        頗(すこぶ)る精細(せうさい)に調査(てうさ)したもので参考(さんこう)とすべき処(ところ)が多(おほ)いのである、 而(しか)して此書(このしよ)は何故(なにゆえ)に古白の死(し)を十一月の 《割書:光輝庵過去|帳》 四日であると断定(だんてい)したかと云ふに、 牛久保(うしくぼ)の光輝庵(こうきあん)の過去帳(くわこてう)に拠(よ)つたもので光輝庵(こうきあん)の過去帳(くわこてう)に月(げつ)誉(よ)古(こ)        白(はく)居士(こじ)とあつて十一月四日の条(くだり)に記入(きにふ)せられてあるからである、 因(よつ)て光輝庵(こうきあん)に就(つい)て調(しら)べて見(み)ると現在(げんぞん)       せる過去帳(くわこてう)では、 元禄(げんろく)四 年(ねん)と仝七年との序(ぢよ)と跋(ばつ)とのあるものが、 最(もつと)も古(ふる)いので成程(なるほど)其中(そのなか)には其通(そのとほ)りに        記(しる)されてある、 併(しか)し能(よ)く〳〵 研究(けんきう)して見(み)ると、それと仝月日(どうがつひ)の処(ところ)に古白(こはく)の子(こ)成三(しげかづ)信成(のぶしげ)等(ら)の浄土宗(ぜうどしう)にて        付(つ)けた戒名(かいめう)が列記(れつき)せられて居(を)る、 此(この)成三(しげかづ)信成(のぶしげ)の事に就(つい)ては、 後(のち)に詳論(せうろん)する考(かんがへ)であるから其時(そのとき)に会得(えとく)       せらるゝ事であろうと信(しん)ずるが、 如何(いか)にしても父(ちゝ)の古白(こはく)と仝月日の戦死(せんし)ではない、それのみならず六       日の処(ところ)に更(さら)に同(おな)じ成三(しげかづ)信成(のぶしげ)等(ら)の曹洞宗(そうどうしう)にて付(つ)けた戒名(かいめう)が記入(きにう)せられて居(を)る、 此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)であるから        吉田城主考(よしだぜうしゆこう)の著者(ちよしや)が調査(てうさ)した過去帳(くわこてう)が果(はた)して、 此(こ)の現存(げんぞん)せるものであつたならば、 殆(ほとん)ど証拠(せうこ)とする丈(だけ)       のものではなかろうと思(おも)ふ、 又(ま)た十二日 説(せつ)を取(と)つて居(を)るのは何(なん)であるかと云(い)ふに、 朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)であ       る此書(このしよ)は三 州本間氏(しうほんまし)の覚書(おぼへがき)と云ふものを主(おも)なる論拠(ろんきよ)として居(を)るのであるが、 此(この)覚書(おぼへがき)と云(い)ふものも直(たゞ)ち       に之(これ)を確信(かくしん)すべきものなるや否(いな)や、 大(だい)なる疑問(ぎもん)である、 従(したがつ)て私(わたくし)は他(た)に確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)を発見(はつけん)する迄(まで)は        今(いま)は広(ひろ)く伝(つた)はつて居(を)る、 第(だい)一 説(せつ)即(すなは)ち十一月三日 説(せつ)に従(したが)ふの外(ほか)はないと信(しん)するのである、 然(しか)るに牛久保(うしくぼ) 《割書:古白非戦死|説の誤謬》  密談記(みつだんき)には此時(このとき)古白は戦死(せんし)の事に偽(いつは)り其実(そのじつ)は宝飯郡(ほゐぐん)の瀬木(せぎ)に落(お)ち延(の)びたものであると記(しる)してあるが茲(こゝ)       に面白(おもしろ)いのは宮島伝記(みやしまでんき)幷(ならび)に享保(けうほ)十六 年(ねん)に牧野伊予守家(まきのいよのかみけ)からの依頼(いらい)でニ 葉松(ばまつ)の著者(ちよしや)佐野監物(さのけんもつ)渡邊自休(わたなべじきう)両(れう) 【欄外】 豊橋市史談     (牧野古白の戦死)         廿一 【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿二 【本文】        人(にん)より書(か)き上(あ)げた牧野家御由緒(まきのけごゆうしよ)と名(なづ)けられて居(を)る書物(しよもつ)があるが、 此等(これら)の書物(しよもつ)では例(れい)の豊橋市(とよはしし)中(なか)八 神明(しんめい)        社(しや)にある古白の棟札(むなふだ)を証拠(せうこ)として牛久保密談記(うしくぼみつだんき)の説(せつ)を是認(ぜにん)して居(を)る事である、それは如何(いか)なる処(ところ)から        間違(まちがつ)たものであるか右(みぎ)の棟札(むなふだ)は明応(めいおう)六 年(ねん)のものであるのに古来(こらい)之(これ)を永正(えいせう)六 年(ねん)と誤写(ごしや)し伝(つた)えたもので、        此(この)間違(まちがひ)は独(ひと)り宮島伝記(みやじまでんき)牧野家御由緒(まきのけごゆうしよ)のみでなくほ外(ほか)にも沢山(たくさん)あるのである、 然(しか)るに此(この)棟札(むなふだ)に永正(えいせう)六 年(ねん)と       あると云(い)ふので之(これ)を証拠(せうこ)に古白は永正(えいせう)三 年(ねん)に死(し)んだ筈(はず)はないと主張(しゆてう)して古白の戦死(せんし)を否認(ひにん)して居(を)るの       であるから、 此(この)古白非戦死(こはくひせんし)の説(せつ)は既(すで)に其(その)根本(こんぽん)に於て誤(あやま)つて居(を)ることとなるのである、 古白戦死(こはくせんし)の月日に        就(つい)ては大要(たいえう)前(まへ)に述(の)べた如(ごと)くであるがサテ此(この)戦(たゝかひ)に於(お)ける古白の相手(あひて)方(がた)は誰(たれ)であつたかと云(い)ふに、 不思(ふし)        議(ぎ)な事には之(これ)が亦(ま)た疑問(ぎもん)であつて、 旧来(きうらい)から解決(かいけつ)することの出来難(できがた)い問題(もんだい)になつて居(を)るのである、 即(すなは)ち        之(これ)には二 説(せつ)あるので、 《割書:今川氏親攻|撃説》   一、 田原(たはら)の戸田弾正憲光(とだだんぜうのりみつ)の讒(ざん)により今川氏親(いまがはうぢちか)の攻撃(こうげき)せりとなすもの 《割書:松平長親逆|襲説》   二、 松平長親(まつだひらながちか)の逆襲(ぎやくしう)によるとなすもの        此(この)両説(れうせつ)である、 現(げん)に牧野伊予守家(まきのいよのかみけ)の系図(けいづ)に於(おい)ても古(ふる)い方(ほう)には此(こ)の第二の説(せつ)が取(と)つてあるが新(あたらし)い方(ほう)に       は反(かへつ)て第一の説(せつ)が記(しる)されてあると云(い)ふ訳(わけ)で又(ま)た同(おな)じ時代(じだい)に同(おな)じ人の監督(かんとく)の下(もと)に出来(でき)たと云(い)ふのである       のに朝野旧聞襃稿(てうやきうぶんほうこう)と徳川実記(とくがはじつき)とは矢張(やはり)説(せつ)が違(ちが)つて前者(ぜんしや)は第一 説(せつ)を取(と)つて後者(こうしや)には第二 説(せつ)が載(の)つて居(を)る       のである而(しか)して同(おな)じ幕府(ばくふ)の編纂(へんさん)である寛永系図(かんえいけいづ)には第一 説(せつ)が記(しる)されてあつて寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には第二        説(せつ)を採用(さいよう)してある又(ま)た藩翰譜(はんかんふ)の如(ごと)きは創業記(さうげうき)を引用(いんよう)して第一 説(せつ)を取(と)つて居(を)るが野史(やし)の如(ごと)きは古(ふる)き牧野(まきの)        系図(けいづ)に重(おも)きを置(お)いて第二 説(せつ)を是認(ぜにん)して居(を)る、 此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)であるから其他(そのた)種々(しゆ〴〵)の記録類(きろくるい)は熟(いづ)れも区々(くゝ)      の説(せつ)をなして居(を)るのである、 然(しか)るに此事(このこと)に関連(かんれん)して茲(こゝ)に大(おほい)に考究(こうきう)を要(えう)するのは今川(いまがは)松平(まつだひら)二 氏(し)が此年(このとし)の 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【本文】 《割書:今川松平二|氏矢矧川会》  八月二十日から二十二日にかけて矢矧川(やはぎがは)に於(おい)て会戦(くわいせん)せしことである元来(がんらい)此(この)松平長親(まつだひらながちか)と云(い)ふ人は信光(のぶみつ)の孫(まご) 《割書:戦| 》     で親忠(ちかたゞ)の子(こ)であるが徳川家康(とくがはいへやす)から云(い)ふと曽祖々父(そうそゝふ)に当(あた)るのである此人(このひと)は中々(なか〳〵)人望(じんぼう)のあつた人で自(みづか)ら安(あん)        祥(じやう)の城(しろ)に居(を)つたが西(にし)三 河(かは)の将士(せうし)は次第(しだい)に皈服(きふく)して勢力(せいりよく)日(ひ)に盛(さかん)であつた、かゝる処(ところ)から駿河(するが)の今川氏親(いまがはうぢちか)       は兵(へい)を出(いだ)して之(これ)を攻(せ)めむとし伊勢新(いせしん)九 郎(ろう)(北条早雲(ほゝでうそううん))は其(その)将(せう)として先(ま)づ岩津(いわづ)の城(しろ)を犯(おか)さむとしたのであ       る、ソコデ長親(ながちか)は捨置(すてお)かれず安祥(あんじやう)より出(い)でゝ 之(これ)を救(すく)はむとし遂(つひ)に矢矧川(やはぎがは)の会戦(くわいせん)を見(み)るに至(いた)つたので此(この)        戦(たゝかひ)の事は詳(くは)しく彦左衛門(ひこざえもん)の三 河物語(かはものがたり)にも載(の)つて居(を)るが、 諸記録(しよきろく)の記(き)する処(ところ)も略(ほ)ぼ一 致(ち)して居(を)るので       ある、 結局(けつきよく)此(この)戦(たゝかひ)は今川方(いまがはかた)の不利(ふり)に終(をは)つたのであるが伊勢新(いせしん)九 郎(らう)は此時(このとき)田原(たはら)の城主(ぜうしゆ)戸田弾正憲光(とだだんぜうのりみつ)が長(なが)        親(ちか)に心(こゝろ)を寄(よ)せ反旗(はんき)を翻(ひるがへ)すべしと聞(き)き急(いそ)ぎ今橋城(いまはしぜう)に引揚(ひきあ)げたので此事(このこと)も同(おな)じ三 河物語(かはものがたり)に記(しる)してあるので       ある、 又(ま)た仝書(どうしよ)に此(この)戦(たゝかひ)に於(お)ける今川勢(いまがはぜい)の名前(なまへ)が列記(れつき)してあるが其中(そのなか)に吉田衆(よしだしう)と云(い)ふのがある即(すなは)ち之(これ)       は今橋(いまはし)の古白勢(こはくぜい)を指(さ)したものと思(おも)はれる、モツトモ其頃(そのころ)はまだ吉田(よしだ)の地名(ちめい)はなく今橋(いまはし)であつたに相違(さうゐ)       ないが、 之(これ)は彦左衛門(ひこざえもん)が此書(このしよ)を記(き)するに当(あた)り深(ふか)く前(まへ)の事迄(ことまで)も詮索(せんさく)せずに記(しる)したものと信(しん)じて疑(うたが)はぬの       である特(とく)に牧野家譜(まきのかふ)には        永正三年、伊勢新九郎代今川、帥五個国兵、発向三州、古白属今川、八月二十日、新九郎率東三河        国勢、於矢矧川辺、與松平長親大戦、勝負未決、日暮 明日約可遂一戦、入夜新九郎還吉田城、置        東三河制法、収兵而還駿河       とあるが寛永新田嫡流譜(かんえいしんでんちやくりうふ)には明(あきら)かに「 長親(ながちか)五百 余騎(よき)を引(ひき)ゐて矢矧川(やはぎがは)を渡(わた)り合戦(かつせん)す、 今川(いまがは)が兵(へい)破(やぶ)れ走(はし)る        夜(よ)に入(いり)て、 吉田(よしだ)の城(しろ)を引退(ひきしりぞ)き、 牧野古白(●●●●) をして(●●●) 是(●)を(●)守(●)らしめ(●●●)、 諸勢(しよぜい)を引(ひい)て駿河(するが)に帰(かへ)る」となつて居(を)る       ので之等(これら)の点(てん)から考(かんが)えて見(み)ると如何(いか)に戦国(せんごく)の事とは云(い)へ氏親(うじちか)が僅(わづか)か三四ケ月 前(ぜん)に敵(てき)に内通(ないつう)しはしまい 【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿三 【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿四 【本文】       かと疑(うたが)つた戸田(とだ)の讒言(ざんげん)を信(しん)じて忽(たちま)ち以前(いぜん)に信任(しんにん)した古白(こはく)を攻(せ)むるに至(いた)るとは少(すこ)しく受取(うけと)れぬ話(はなし)である       と思(おも)ふ、シテ見(み)ると前(まへ)に述(の)べた第一 説(せつ)は誤(あやまり)であつて第二の長親逆襲説(ながちかぎやくしせつ)が有理(ゆうり)であるようになるのであ       る、 然(しか)るに之(これ)にも亦(ま)た一つの反証(はんせう)とも見(み)るべきものがあるので当時(とうじ)長親(ながちか)に逆襲(ぎやくしう)などの意気込(いきごみ)のなかつ       た事は矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)初(はじ)め諸書(しよ〳〵)に見(み)ゆる処(ところ)であるが長親(ながちか)は到底(とうてい)勝(か)つことの出来(でき)まいかと心痛(しつう)した戦(たゝかひ)に首尾(しゆび)       よく勝(か)つたので長駆(てうく)なとする考(かんがへ)はなく翼(つばさ)を収(おさ)めて安祥(あんじやう)の城(しろ)に引(ひ)き籠(こも)つた様子(やうす)が見(み)えて居(を)るのである、 岡崎古記  それのみならず岡崎古記(をかざきこき)と云(い)ふ書に「 今川氏親(いまがはうぢちか)は三 河(かは)を従(したが)へん為(た)めに発向(はつこう)し東(ひがし)三 河(かは)の今橋(いまはし)に於(おい)て合戦(かつせん)      あり城主(ぜうしゆ)牧野氏(まきのし)討死(うちじに)し氏親(うぢちか)はそれより猶(なほ)進(すゝん)で西(にし)三 河(かは)に向(むか)ふ之(これ)に依(よつ)て山中妙大寺(やまなかめうだいじ)矢作寺(やはぎじ)所々(しよ〳〵)方々(はう〴〵)にて合(かつ)        戦(せん)あり此時(このとき)桑子村(くわこむら)明源寺(めうげんじ)の扱(あつかひ)にて和談(わだん)になり仝年十一月十五日 桑子村(くわこむら)明源寺(めうげんじ)え今川氏親(いまがはうぢちか)より制札(せいさつ)を出(いだ) 妙源寺文書 され今(いま)に所持(しよじ)す」と云(い)ふ事が記(し)るされて居(を)る、ソコで碧海郡(へきかいぐん)の矢作町(やはぎまち)大字(おほあざ)桑子(くわこ)の妙源寺(めうげんじ)に行(いつ)て見(み)ると        成程(なるほど)永正(えいせう)三 年(ねん)十一月十五日 付(つけ)の制札(せいさつ)がある併(しか)し此(この)制札(せいさつ)には氏親(うぢちか)の名前(なまへ)はなくて只(た)だ花押(くわこう)が一つある丈(だけ)       であるが、 此(この)花押(くわこう)は花押籔(くわこうそう)と云ふ書物(しよもつ)にある氏親(うぢちか)のとは少(すこ)しく違(ちが)ふ点(てん)がないではない併(しか)し決(けつ)して後世(こうせい)       の製作物(せいさくぶつ)ではないと信(しん)ずる、スルト氏親(うぢちか)が此日(このひ)に此処(ここ)に来(きた)つた事は事実(じじつ)であるとせねばならぬ朝野旧(てうやきう)        聞裒稿(ぶんほうこう)幷(ならび)に吉田城主考(よしだぜうしゆこう)は即(すなは)ち此点(このてん)によつて岡崎古記(をかざきこき)の説(せつ)を信(しん)じ所謂(いはゆる)第一 説(せつ)を取(と)つて居(を)るのである、 然(しか)       れ共(ども)之(こ)れも見様(みやう)によつてはコウもなるので即(すなは)ち古白(こはく)が長親(ながちか)の逆襲(ぎやくしう)によつて苦(くるし)められて居(を)ると云ふ事を        氏親(うぢちか)が聞(き)ゐて直(たゞ)ちに駿河(するが)から兵(へい)を率(ひき)ゐて来(きた)つたが長親(ながちか)は既(すで)に引(ひ)き還(かへ)つた後(のち)であつたから其後(そのご)を追(お)つて       十一月の十五日 桑子(くわ)迄(まで)達(たつ)したのである之(これ)でも理屈(りくつ)は合(あ)うのである要(えう)するに此(この)両説(れうせつ)は前(まへ)にも述(の)べたる如(ごと)       く古来(こらい)からの疑問(ぎもん)であるから今新(いまあらた)に確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)を発見(はつけん)するに至(いた)るまでは先(ま)づ不明(ふめい)である只(た)だ私(わたくし)は        説(せつ)としては暫(しばら)く寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)中(ちう)古白(こはく)の譜(ふ)に 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百十二号附録   ( 明治四十四年四月二十一日発行 ) 【本文】         永正(えいせう)三年 伊勢新(いせしん)九 郎(らう)長氏(ながうぢ)今川氏親(いまがはうじちか)に代(かは)り駿遠(すんえん)三及び豆相(づさう)五 箇国(かこく)の兵を率(ひき)ゐて三河国に発向(はつこう)す之の時         今川家(いまがはけ)に属(ぞく)す九月 長親(ながちか)数(すう)十 騎(き)を率(ひき)ゐて吉田城(よしだぜう)を攻(せめ)たまふ十一月三日 城中(ぜうちう)勢(いきほ)ひ屈(くつ)して士率(しそつ)散走(さんさう)し残兵(ざんぺい)         僅(わづか)に六七十人 城(しろ)を出(い)で相戦(あいたゝか)ひこと〴〵く討死(うちじに)す       とあるに従(したが)はむとするものである尚(なほ)参考(さんこう)の為(ため)に第一説に属(ぞく)するものゝ 内(うち)で藩翰譜(はんかんふ)の記事(きじ)を掲(かゝ)ぐれば左(さ)       の如(ごと)くである                (牧野氏(まきのし)の条(くだり))          初(はじ)め牧野古白入道(まきのこはくにふどう)今橋の城(しろ)にありて田原(たはら)の戸田(とだ)と心(こゝろ)よからず今川(いまがは)治部大輔(じぶたゆう)氏親(うぢちか)戸田を助(たす)けて今橋(いまはし)の          城(しろ)を攻(せ)む永正(えいせう)三年十一月 城(しろ)破(やぶ)れて牧野入道(まきのにふどう)腹切(はらきつ)て死(し)す城(しろ)をば戸田(とだ)で取(と)りたりける                (戸田氏(とだし)の条(くだり))          其(その)男(だん)弾正忠憲光(だんぜうたゞのりみつ)田原にあり同国(どうこく)今橋(いまはし)の住人(ぢうにん)牧野入道古白(まきのにふどうこはく)と互(たがひ)に地を争(あらそ)ふ今川(いまがは)治部大輔(じぶたゆう)氏親(うぢちか)戸田を助(たす)         く永正(えいせう)三年七月 駿河(するが)の国(くに)を立(たつ)て同き八月二十六日 今橋(いまはし)の城(しろ)に押(おし)よせ攻(せ)め戦(たゝか)ふ事六十余日 牧野(まきの)終(つひ)に打(うち)         まけて切腹(はらきつ)て死(し)す 古白の人物  次(つぎ)に古白(こはく)の人物(じんぶつ)に就(つい)ての話(はなし)であるが元来(がんらい)古白(こはく)と云ふ人は前(まへ)にも述(の)べた如(ごと)く連歌(れんか)の達人(たつじん)で宗長(そうてう)とは余程(よほど)        深(ふか)い交際(こうさい)があつたものである、 然(しか)るに古白(こはく)の書(か)いたものは全(まつた)く何(なん)にも今日に残(のこ)つて居(を)らぬので、 殆(ほとん)ど        其(その)人物(じんぶつ)如何(いかん)を知(し)るの材料(ざいれう)がないと云ふ訳(わけ)である、 只(たゝ)豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)龍拈寺(りうねんじ)に古白(こはく)内室(ないしつ)の画像(ぐわぞう)があるが之(これ)は        其子(そのこ)成三(しげかづ)が納(をさ)めたものに相違(さうゐ)なく思(おも)はるゝので其像(そのぞう)の人品(じんぴん)と云ひ服装(ふくそう)等(とう)から推(お)して当時(とうじ)に於ける牧野(まきの)        氏(し)の位置(ゐち)が中々(なか〳〵)低(ひく)からざりしものであつたことが思(おも)はるゝのである、 而(しか)して若(も)しも豊橋市中八の神明社 【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿五 【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿六 【本文】       にある棟札(むなふだ)が古白の自筆(じしつ)であると云ふならば面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふ、 此(この)棟札(むなふだ)の文字(もじ)は余(あま)り名筆(めいしつ)では       ないが無邪気(むじやき)な飾(かざ)り気(け)のない豪傑風(ごうけつふう)の書(しよ)であつて中々(なか〳〵)味(あじは)ふべきものがあるのである、 又(ま)た此(この)棟札(むなふだ)にも 《割書:古白平姓を|称す》  平朝臣(たひらのあそん)古白(こはく)とあるが其外(そのほか)にも平姓(たひらせい)を名乗(なの)つた証拠(せうこ)は三四あるので当時(とうじ)此(この)牧野家(まきのけ)が平姓(たひらせい)を名乗(なの)つた事       に付(つい)ては疑問(ぎもん)の様(よう)であるが其頃(そのころ)は所謂(いはゆる)戦国時代(せんこくじだい)で歴史(れきし)や系図(けいづ)の研究(けんきう)は行届(ゆきとゞ)かず其(その)祖先(そせん)が平家(へいけ)の士(し)であ       つた処(ところ)から単純(たんじゆん)に平姓(たひらせい)を称(せう)したものと思(おも)はれる、 其(その)田口氏(たぐちし)で紀姓(きせい)であるなどゝ云ふ事は寛永(かんえい)以後(いご)徳川(とくがは) 古白の墳墓  時代(じだい)に至(いた)つて系図(けいづ)調(しら)べの結果(けつくわ)分(はか)つたものであると信(しん)ずる、 又(ま)た古白(こはく)の墳墓(ふんぼ)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)な説(せつ)があるが        私(わたくし)の知(し)る処(ところ)によると豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)龍拈寺(りうねんじ)前(まへ)の墳墓(ふんぼ)、 宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(だいおんじ)の墳墓(ふんぼ)、 幷(ならび)に仝郡(どうぐん)牧野村(まきのむら)柳貝(やながい)        津(づ)の墳墓(ふんぼ)である、 而(しか)して三 州(しう)吉田記(よしだき)には豊橋市 上伝馬(かみでんま)興徳寺(こうとくじ)に葬(ほうむ)つたものゝ 如(ごと)く記(しる)してあつて新(あたらし)い        方(はう)の牧野家譜(まきのかふ)には赤岩法言寺(あかいわはうげんじ)に葬(ほうむ)ると記(しる)してある此(この)三 州(しう)吉田記(よしだき)と云ふ書物(しよもつ)は吉田呉服町の人で林自見(はやしじけん)       の著(ちよ)であるが此人(このひと)の事に就(つい)てはいづれ後(のち)に至(いたつ)て申上(まうしあ)ぐる考(かんがへ)である然(しか)るに此(この)興徳寺(こうとくじ)には今何(いまなん)にも残(のこ)つ       て居(を)らぬので一の証拠(せうこ)となるものもなく法言寺(はうげんじ)にも更(さら)に其(その)形跡(けいせき)がないのである、 又(ま)た牧野村(まきのむら)柳貝津(やながいづ)の        墳墓(ふんぼ)に就(つい)ては前章(ぜんせう)に評論(へうろん)した如(ごと)くで全(まつた)く別人(べつじん)のものと信(しん)ぜられる而(しか)して大恩寺(だいおんじ)の墳墓(ふんぼ)は後世(こうせい)に至つて        建(た)てたもので古白(こはく)の戒名(かいめう)は慥(たしか)に彫(ほ)り込(こ)むではあるが無論(むろん)当時(とうじ)のものではないのであるが独(ひと)り龍拈寺(りうねんじ)        前(まへ)の墓(はか)に至(いた)つては充分(じんぶん)信(しん)を置(を)くに足(た)るものであると思(おも)ふ併(しか)しながら其(その)時代(じだい)にはまだ龍拈寺(りうねんじ)と云ふもの     は建立(こんりう)されなかつたので寧(むし)ろ寺(てら)の方(はう)が後(あと)に出来(でき)た訳(わけ)になつて居(を)るのである即(すなは)ち寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)に         法名(はうめい)古白(こはく)其(その)地(ち)に葬(ほうむ)る乃(すなは)ち男伝左衛門(だんでんざゑもん)が時(とき)一寺を其辺(そのへん)に造立(ざうりつ)して龍拈寺(りうねんじ)と云ふ今(いま)其(その)墳(つか)を古白墳(こはくつか)と号(ごう)す       とあつて全(まつた)く今日(こんにち)残(のこ)つて居(を)る龍拈寺(りうねんじ)の伝説(でんせつ)とも一 致(ち)するのである従(したがつ)て古白(こはく)の墳墓(ふんぼ)に付(つい)ては私(わたくし)は深(ふか) 戸田金七郎 く此説(このせつ)を信(しん)ずるものである、ソコデ古白(こはく)戦死(せんし)の後(のち)は如何(いか)なる人が今橋城(いまはしぜう)を守(まも)つたかと云ふに戸田金(とだきん)七 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際  □               □ 【左頁】 【本文】        郎(らう)と云ふ人が居(を)つたと云ふことは諸説(しよせつ)の一 致(ち)する処である従(したがつ)て此(この)戸田金(とだきん)七 郎(らう)はどう云ふ人であつて当(とう)        時(じ)今川方(いまがはがた)に属(ぞく)してあつたか又(ま)た松平方(まつだひらがた)に属(ぞく)してあつたかと云(い)ふことが判然(はんぜん)すると自然(しぜん)前(ぜん)述(の)べた古白(こはく)の相(あひ)      手方(てがた)も分(わか)る理(り)であるが遺憾(ゐかん)な事には之(これ)も亦(また)明瞭(めいれう)ならぬのである藩翰譜系図(はんかんふけいづ)には此(この)金七郎を宣成(のぶなり)として       あつて憲光(のりみつ)の二 男(なん)だと書(か)いてあるが吉田城主考(よしだぜうしゆこう)には頗(すこぶ)る精細(せいさい)に考証(こうせう)して小松原(こまつばら)観音寺(くわんおんじ)を初(はじ)め大久保(おほくぼ)の        長興寺(てうこうじ)其他(そのた)高野山(こうやさん)平等院(へいどうゐん)等(とう)の文書(ぶんしよ)に橘(たちばな)七 郎(らう)宣成(のぶなり)と云ふのがあるがそれが此人(このひと)の事に相違(さうゐ)ないと記(しる)し       てある即(すなは)ち結局(けつきよく)は藩翰譜(はんかんふ)と仝論(どうろん)になるのであるが併(しか)し 尚(な)ほ疑問(ぎもん)は存(ぞん) せられて居(を)る然(しか)るに寛政重修諸家(かんせいぢうしうしよか)        譜(ふ)には宣成(のぶしげ)と云ふのは載(の)つて居(を)らぬので却(かへつ)て憲光(のりみつ)の孫(まご)で政光(まさみつ)の子(こ)の康光(やすみつ)が金七郎と云つた事が書(か)いて       ある而(しか)して全久院(ぜんきうゐん)の系図(けいづ)には康光(やすみつ)は政光(まさみつ)の弟(おとゝ)であつて其後(そのあと)を継(つ)いだものゝようになつて居(を)る処(ところ)かある       モツトモ此(この)戸田家(とだけ)に就(つい)ては後章(こうせう)に至(いた)つて詳説(せうせつ)する考(かんがへ)であるが此処(ここ)に以上(いぜう)の事を付説(ふせつ)して参考(さんこう)に資(し)せ       たいと思(おも)ふのである。              ⦿牧野成三と吉田の地名      扨(さて)戦死(せんし)の時(とき)古白には一人(ひとり)の男児(だんぢ)があつたが之(これ)が後(のち)に成三(しげかづ)と名乗(なの)つたのて牛久保密談記(うしくぼみつだんき)並(ならび)に寛永系図(かんえいけいづ)に       は落城(らくぜう)の当時(とうじ)僅(わづか)に五歳であつたとしてある又(また)外(ほか)の書物(しよもつ)にも幼少(ようせう)であつたとしてあるが之(これ)が家臣(かしん)の富田(とみた)        某(なにがし)と云ふのに扶(たす)けられて尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に逃(のが)れたのである之(これ)には又(ま)た一人の弟(おとゝ)があつて名(な)を信成(のぶしげ)と云(い) 《割書:牧野成三今|橋城を復す》  つたが成長(せいてう)の後(のち)共(とも)に今橋城(いまはしぜう)を復(ふく)し再(ふたゝ)び之(これ)に拠(よ)つたのである此(この)成三(しげかづ)と云ふ人は初(はじ)め田三と称(とな)へたのであ 牧野信成  るが多病(たびやう)の為(た)め弟(おとゝ)の信成(のぶしげ)を養(やしなつ)て子(こ)となし程(ほど)なく家(いへ)を譲(ゆづ)つて巳(おの)れは傳左衛門(ぜんざゑもん)と改(あらた)め信成(のぶしげ)は更(さら)に田三又       傳蔵と称(せう)した然(しか)るに両人(れうにん)が此(この)今橋城(いまはしぜう)を取(と)り返(かへ)した年月に就(つい)てはどの書物(しよもつ)にも記(しる)してない只(た)だ吉田城主(よしだぜうしゆ) 【欄外】 豊橋市史談    (牧野成三と吉田の地名)          廿七 【欄外】 豊橋市史談    (牧野成三と吉田の地名)          廿八 【本文】        考(こう)の著者(ちよしや)は之を大永元年(たいえいがんねん)の頃(ころ)であるとして居(を)る私(わたくし)も亦(ま)た大永(たいえい)の初年(しよねん)である事を信(しん)じて疑(うたが)はぬものであ       るが其(その)理由(りゆう)は前(ぜん)にも述(の)べた宗長手記(そうてうしゆき)大永六年三月の条(くだり)に「三河国(みかはのくに)今橋(いまはし)牧野(まきの)田三 彼(かの)父(ちゝ)おほぢより知人(ちじん)に       て国(くに)の境(さかひ)わづらはしきに人多(ひとおほ)く物(もの)の具(ぐ)などして迎(むかひ)にとてこと〴〵しくぞ覚(おぼ)えし此所(ここ)一日 熊谷越後守(くまがひゑちごのかみ)来(きた)り        物語(ものがたり)夜更(よふけ)侍(はべ)りし」とあり又(ま)た大永(たいえい)七年四月の条(くだり)に「今橋(いまはし)牧野(まきの)田三 宿所(しくしよ)一日 興行(こうぎよう)、こゝは古白(こはく)以来(いらい)年々(ねん〳〵)        歳々(さい〳〵)芳恩(ほうおん)の所(ところ)なり興行(こうぎよう)あはれにも昔(むかし)覚(おぼ)えて老屈(らうくつ)を忘(わす)るなるべし、けふ更(さら)に五月まつ花(はな)の宿(やど)りかな」と       ありて憾慨(かんがい)の情(ぜう)が溢(あふ)れて居る之(これ)によつて見(み)ると宗長(そうてう)が年々歳々 此(この)牧野家(まきのけ)に往来(おうらい)せるのは古白(こはく)以来(いらい)の事       で而(しか)も彼(かの)父(ちゝ)おほぢより知人(ちじん)であると云ふ処(ところ)から推及(すゐきう)すると其(その)おほぢと云ふのは古白(こはく)に当(あた)り父(ちゝ)と云ふの       は成三(しげかづ)に当(あた)るので今(いま)は田三信成(でんざうのぶしげ)の代(だい)であると云ふ事(こと)になるのである従(したがつ)て大永(たいえい)六年には既(すで)に信成(のぶしげ)が相(さう)        続(ぞく)して居(を)るのであるから成三(しげかづ)が僅(わづか)三四年で信成に譲(ゆづ)つたものと仮定(かてい)すれが成三(しげかづ)の此(この)城(しろ)を復(ふく)したのは大       永のニ三年に当(あた)るからで恰(あたか)も成三(しげかづ)廿一二歳の時(とき)になるのである序(ついで)だから申述(もうしの)べるが前(まへ)の熊谷越後守(くまがひゑちごのかみ)と 鵜津山   云ふのは宇理(うり)の城守(ぜうしゆ)であるが尚(なほ)宗長(そうてう)日記(につき)大永七年の条(くだり)の続(つゞ)きに「国(くに)の境(さかひ)の城(しろ)鵜津山(うづやま)に至(いた)りぬ此(この)鵜津山(うづやま)       の館(やかた)と云ふは尾張(おはり)三河 信濃(しなの)の境(さかひ)やゝもすれば競望(けうぼう)する族(やから)ありて番衆(ばんしう)日夜(にちや)無油断(ゆだんなき)城(しろ)なり東南北(とうなんぼく)浜名(はまな)の海(うみ)        廻(まは)りて山のあひ〳〵せき入(いり)堀(ほり)いれたる水の如(ごと)く城(しろ)の岸(きし)を廻(まは)る(中略)三ケ国の敵(てき)の境(さかひ)昼夜(ちうや)の太鼓(たいこ)夜番(よばん)の        声(こゑ)寸暇(すんか)なくきこゆ」と書(か)いてあるモツトモ此(この)鵜津山(うづやま)と云ふのは遠江国(とほとふみのくに)の内(うち)で三 河境(かはさかひ)に当(あた)るのである       から三 国(こく)の境(さかひ)とあるのは少(すこ)しく可笑(おか)しく思(おも)はるゝが兎(と)も角(かく)此(この)記事(きじ)は群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)当時(とうじ)に於(お)ける実況(じつけう)が忍(しの)ば       るゝようで面白(おもしろ)く感(かん)ずるのである。 吉田の地名  此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)で牧野成三(まきのしげかづ)は再(ふたゝ)び此今橋城を復(ふく)したのであるがソコで申述(もうしの)べたいのは吉田(よしだ)の地名(ちめい)の事で       あつて私(わたくし)は此(この)吉田(よしだ)の改名(かいめい)を以(もつ)て実(じつ)に大永の初年(しよねん)成三(しげかづ)が此(この)城(しろ)を復(ふく)した当時(とうじ)に於て行(おこな)つたものであると 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百十七号附録   ( 明治四十四年四月二十八日発行 ) 【本文】        確信(かくしん)して疑(うたが)はぬのである即(すなは)ち牛久保密談記(うしくぼみつだんき)に         今橋城(いまはしぜう)古白(こはく)落失(らくしつ)の時 尾張(おはり)に隠(かく)れてをはせし御息(おんそく)今は星霜(せいさう)おし移(うつ)り牧野傳左衛門 三成(かづしげ)と号(ごう)し其子(そのこ)傳蔵(でんざう)         信成(のぶしげ)(実は弟)父子(ふし)時(とき)を待(ま)ち三州に起(おこり)て今橋の城元(しろもと)の如(ごと)く取立(とりたて)吉田(よしだ)と名(なづ)けゝる       とあるのは大(おほい)に参考(さんこう)になるものであると思(おも)ふ又(ま)た三 河聞書(かはきゝがき)の中(なか)にも        大永二壬午牧野傳蔵信成改今橋号吉田       とあるが大永(たいえい)二年には前(まへ)にも述(の)べた通(とほ)り未(いま)だ信成(のぶしげ)の代(だい)ではなく成三(しげかづ)の時でなくてはならぬ併(しか)し今橋を吉       田と改(あらた)めた年代(ねんだい)に就(つい)ては誠(まこと)に同感(どうかん)である蓋(けだ)し之にも古来(こらい)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があつて永正(えいせう)二年 古白(こはく)築城(ちくぜう)の時に改(かい)        名(めい)したのだと云ふものもある又(ま)たズツト後(のち)に至(いた)つて天文(てんもん)の中頃(なかごろ)に今川義元(いまがはよしもと)の命名(めい〳〵)したもので今橋(いまはし)と云       ふ名(な)は「イマワシ」と聞(きこ)ゆるから之(これ)を避(さ)けたものだと云ふ説(せつ)もあるモツトモ前(まへ)の永正二年説は何(なに)も深(ふか)き        根拠(こんきよ)はないのであるが後(のち)の今川義元(いまがはよしもと)改名(かいめい)説(せつ)は一ト通(とほ)り理由(りゆう)のある事で即(すなは)ち大永七年の頃(ころ)にはまだ宗長(そうてう)        手記(しゆき)にも此地(このち)を今橋と書(か)いてある又(また)其後(そのご)天文二年の尊海僧正(そんかいそうぜう)道(みち)の記(き)にも矢張(やはり)今橋の名(な)があるが殊(こと)に天       文十六年の天野文書(あまのぶんしよ)今川義元(いまがはよしもと)感状(かんぜう)の中(なか)に         今橋城(いまはしぜう)小口(こぐち)取寄(とりよせ)候(そうろう)時(とき)了念寺(れうねんじ)え可相移(あひうつるべき)之(の)由(よし)下知(げち)最前(さいぜん)馳入(はせいり)云々(うんぬん)       と云(い)ふことがある而(しか)して之と同年(どうねん)に義元(よしもと)の参謀(さんぼう)雪斎(せつさい)長老(てうらう)から此(この)天野(あまの)に与(あた)へた文書(ぶんしよ)の中には初(はじ)めて「吉田」       と云ふ名(な)があらはれて居(を)る又(ま)た豊橋市花田 字(あざ)羽田(はだ)の清源寺(せいげんじ)にも義元(よしもと)の寄付状(きふぜう)があつたが矢張(やはり)吉田の名       が記(しる)されて天文(てんぶん)中(ちう)のものであると云ふ処から此(この)吉田(よしだ)の地名(ちめい)は其頃(そのころ)初(はじ)めて現(あら)はれたものであると云ふの       が義元(よしもと)改名(かいめい)説(せつ)の論拠(ろんよき)になるのである併(しか)しながら茲(こゝ)に注意(ちうゐ)を要(えう)するのは豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)の龍拈寺(りうねんじ)と云ふ寺(てら)は 《割書:吉田山龍拈|寺》   寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)にも認(みと)めて居る通り牧野成三(まきのしげかづ)の建立(こうりう)であるが当時(とうじ)より之を吉田山(きちでんさん)と称(せう)して居るのであ 【欄外】 豊橋市史談    (牧野成三と吉田の地名)          廿九 【欄外】 豊橋市史談    (牧野信成等の戦死)          三十 【本文】       る元来(がんらい)此(この)寺(てら)の初祖(しよそ)は休屋宗官和尚(きうやそうかんおせう)と云つて豊橋市 上伝馬(かみでんま)興徳寺(こうとくじ)四代目の僧(そう)であるが爾来(じらい)此(この)興徳寺(こうとくじ)には        住職(ぢうしよく)を置(を)かず龍拈寺(りうねんじ)と兼務(けんむ)の事に定(さだ)められたのである而(しか)して此(この)興徳寺(こうとくじ)は今橋山(こんきようざん)と称(とな)へたものでる此(この)        事実(じじつ)から推(お)して考(かんが)えれば成三(しげかづ)が大永の初年に城(しろ)を復(ふく)した時 地名(ちめい)を吉田と改称(かいせう)し程(ほど)なく父(ちゝ)古白(こはく)の墓辺(ぼへん)に        龍拈寺(りうねんじ)を建立(こんりう)し興徳寺(こうとくじ)がこれ迄の地名(ちめい)によつて今橋山(こんきようざん)と号(ごう)した例(れい)により龍拈寺(りうねんじ)に新地名(しんちめい)を冠(かん)して吉田       山と命(めい)じたものと信(しん)ぜねばならぬのである然(しか)らば宗長(そうてう)手記(しゆき)を初(はじ)め前に述べた様に其後(そのご)の天文(てんぶん)年間(ねんかん)迄(まで)も      今橋の地名(ちめい)を記(しる)した文書(ぶんしよ)が残(のこ)つて居るのは如何(どう)かと云ふ疑問(ぎもん)が起(おこ)るであらうが此事(このこと)に付(つい)ては地名は改(かい)        称(せう)されても尚(なほ)何年(なんねん)かは旧慣(きうかん)によつて通(とほり)のよい名前(なまへ)を呼(よ)ぶのは世間(せけん)には沢山(たくさん)あることで現(げん)に江戸(えど)の地名(ちめい)の       如き旧習(きうしう)の人は何時迄(いつまで)も其名(そのな)を呼(よ)んで居つた事実(じじつ)があるので況(いはん)や当時(とうじ)の如き戦国時代(せんごくじだい)に於ては改名(かいめい)後(ご)       と雖(いへど)も尚(なほ)十年や十五年位は今橋(いまはし)の旧名(きうめい)が用(もち)ゐられたと云(い)ふのは敢(あへ)て怪(あやし)むに足(た)らぬ事(こと)であると思ふ因(よつ)て        前(ぜん)に述(の)べた龍拈寺の事跡(じせき)から考(かんが)へて私(わたくし)は深(ふか)く成三(しげかづ)の時代(じだい)に於て地名(ちめい)の改称(かいせう)があつたのであると云ふこと       を信(しん)ずるものである尚(なほ)之(これ)に就(つい)て龍拈寺に何(なに)かよい文書であると(ぶんしよ)は残(のこ)つて居(を)らぬかと云ふので十 分(ぶん)なる調査(てうさ)を遂(と)       げて見(み)たが此寺(このてら)は過去帳(くわこてう)の孰(いづ)れも元禄(げんろく)以後(いご)のもので記録(きろく)と云ふのも正徳(せうとく)二年 初(はじ)めて松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)が        此地(このち)に来(こ)られた時に書上(かきあげ)たものが最(もつと)も古(ふる)いので吉田城主記(よしだぜうしゆき)位(ぐらゐ)に拠(よ)つたものらしく証拠(せうこ)となるべき点(てん)が        少(すくな)い只(た)だ休屋宗官和尚(きうやそうかんおせう)の遺書(ゐしよ)は貴重(きてう)のものであるが之(これ)は此章(このせう)に関係(かんけい)がないから後(のち)に至(いたつ)て説(と)くこととする             ⦿牧野信成等の戦死        前章(ぜんせう)述(の)べたる如くで牧野成三(まきのしげかづ)が隠居(ゐんきよ)し其(その)弟(おゝと)信成(のぶしげ)が代(かはつ)て吉田城主となつたのは大永(たいえい)五六年の頃(ころ)と推測(すいそく)せ 《割書:牧野氏の勢|力》  らるゝのであるが信成(のぶしげ)相続(さうぞく)の後(のち)は牧野氏(まきのし)の勢力(せいりよく)は次第(しだい)に強大(けうだい)となつて東三河の諸豪傑(しよごうけつ)は皆(みな)其(その)下風(したかぜ)に立(た) 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】       つに至(いた)つたのである当時(とうじ)西三河に於(お)ける形勢(けいせい)は如何(いかん)であつたかと云ふに嘗(かつ)て古白(こはく)時代(じだい)にあつた松平長(まつだひらなが)        親(ちか)は最(もつと)も衆望(しうぼう)の帰(き)した人であつたにも拘(かゝは)らず夙(つと)に逃世(とうせい)の志(こゝろざし)があつて剃髪(ていはつ)して道閲(どうえつ)と号(ごう)し其子(そのこ)信忠(のぶたゞ)が        相続(さうぞく)したが此人は多病(たべう)で軍務(ぐんむ)に堪(た)へず人心(じんしん)漸(やうや)く離散(りさん)する処から之(こ)れ亦(ま)た碧海群(へきかいぐん)大浜(おほはま)の称名寺(せうめいじ)に退隠(たいゐん)し       て剃髪(ていはつ)し春夢(しゆんむ)と号(ごう)したのであるソコで其子(そのこ)の清康(きよやす)が其後(そのあと)を襲(つ)いだのであるがそれが恰(あたか)も大永三年四月 松平清康  四日の事で清康(きよやす)は時に年(とし)僅(わづか)に十三であつた此人(このひと)は即(すなは)ち徳川家康(とくがはいへやす)の祖父(そふ)であるが幼(よう)にして胆略(たんりやく)あり武勇(ぶゆう)        絶倫(ぜつりん)で其(その)翌年(よくねん)十四歳の時 曩(さき)に叛(そむ)いて居つた岡崎(をかざき)並(ならび)に山中城(やまなかぜう)を快復(くわいふく)し自身(じしん)は矢張(やはり)安祥(あんぜう)に居つて殆(ほとん)ど西三       河を平定(へいてい)したので恰(あたか)も牧野信成(まきののぶしげ)と東西(とうざい)相対(あひたい)して遂(つひ)に衝突(せうとつ)は免(まぬが)れぬ事になつたのであるソコで清康(きよやす)の方(はう)       から吉田の城に攻寄(せめよ)せて戦争(せんそう)となつたのであるが此(この)戦争(せんそう)は古来(こらい)有名(ゆうめい)のもので豊橋市史(とよはししゝ)の上(うへ)から云ふて 《割書:吉田合戦の|年月》  も大切(たいこう)【ルビママ】なる出来事(できごと)であるが之(これ)が又(ま)た異説(ゐせつ)があつて六ケ敷(し)き研究(けんきう)である即(すなは)ち此(この)戦争(せんそう)の時日(じじつ)は何時(いつ)であつ       たかと云ふに大体(だいたい)に於(おい)て三 説(せつ)に分(わか)れて居(を)るので        一、享禄(けうろく)二年 説(せつ)        二、天文(てんぶん)元年(がんねん)説(せつ)        三、戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)       である外(ほか)に明応(めいおう)二年 説(せつ)天文(てんぶん)十年 説(せつ)があるが之(これ)は論(ろん)ずる迄(まで)もなく原本(げんほん)謄写(とうしや)の誤(あやまり)より来(きた)つた間違(まちがひ)である       と思(おも)ふ而(しか)して一、二、の両説(れうせつ)は孰(いづ)れも其月日を五月廿八日であるとして居(を)るが第三の戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)にあ       りては其月日を判然(はんぜん)することが出来(でき)ぬ併(しか)し牛久保密談記(うしくぼみつだんき)は享禄(けうろく)二年の役(えき)を十一月四日であると記(しる)して居(を)       るかゝる次第(しだい)で何(いづ)れを是(ぜ)とすべきや疑問(ぎもん)であるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初め朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)当代記(とうだいき)牧野家譜(まきのかふ)        等(とう)有力(ゆうりよく)なる書物(しよもつ)は多(おほ)く此第一説を取(と)つて居る又た家忠日記増補(いへたゞにつきぞうほ)と云ふ書物(しよもつ)があるが之(これ)は家忠(いへたゞ)の孫(まご)忠冬(たゞふゆ) 【欄外】 豊橋市史談    (牧野信成等の戦死)          卅一 【欄外】 豊橋市史談     (牧野信成等の戦死)          卅二 【本文】       が書(か)いたもので参考(さんこう)となる点(てん)があるが之(こ)れ亦(ま)た第一説に従(したがつ)て居る而(しか)して第二説に属(ぞく)するものは藩翰(はんかん)        譜(ふ)三 河聞書(かはきゝがき)吉田城主記(よしだぜいしゆき)或種(あるしゆ)の三 河記(かはき)等(とう)で藩翰譜(はんかんふ)は矢張(やはり)創業記(そうげうき)を引用(いんよう)して居るのである又(ま)た第三説を取(と)       つて居(を)るのは牛久保密談記(うしくぼみつだんき)と宮島伝記(みやしまでんき)で吉田城主考(よしだぜいしゆこう)も亦(ま)た熱心(ねしん)なる戦争(せんそう)両度(れうど)論(ろん)である而(しか)して戦争(せんそう)一度       説から云ふと此(この)戦(たゝかひ)に於(おい)て牧野氏(まきのし)は敗北(はいぼく)し信成(のぶしげ)初(はじ)め一 族郎等(ぞくらうとう)多(おほ)くは戦死(せんし)し殆(ほとん)ど滅亡(めつぼう)に終(をは)つたと云ふの 《割書:享禄二年説|の有力なる》  であるが戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)から云ふと前(まへ)の戦(たゝかひ)に於て成三(しげかづ)は自殺(じさつ)し更(さら)に後(のち)の戦争(せんそう)に於て信成(のぶしげ)等(ら)一 族(ぞく)の多(おほ)くは 《割書:証拠| 》    敗死(はいし)したと云ふのである此点(このてん)より見(み)ると戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)は有理(もつとも)らしくも信(しん)ぜられるのであるが併(しか)し茲(こゝ)に第       一説の享禄(けうろく)二年説が有力(ゆうりよく)たる所以(ゆゑん)があるので夫(それ)は例(れい)の貞享書上(ていけうかきあげ)であるが渥美太郎左衛門(あつみたらうざゑもん)大岡忠(おほをかちう)四 郎(らう)、        小林惣兵衛(こばやしそうべゑ)等(ら)の書(き)上(あ)げたものゝ中(なか)に其(その)祖先(そせん)の功(こう)を書(か)いた処があるが孰(いづ)れも此(この)戦(たゝかひ)を享禄(けうろく)二年として       ある殊(こと)に佐野與(さのよ)八 郎(らう)書上(かきあげ)には五 代(だい)以前(いぜん)の與八郎と云ふ者(もの)は此(この)戦(たゝかひ)に一 番鎗(ばんやり)で牧野伝蔵(まきのでんざう)傳次(でんじ)を鎗付(やりつき)柴田(しばた)        中務(なかつかさ)大岡忠右衛門(おほかちううゑもん)に首(くび)を取(と)らせ云々と書(か)いてある又 大岡忠(おほかちう)四 郎(らう)の書上(かきあげ)の方(はう)にも同様(どうよう)五 代(だい)前(ぜん)の忠右衛門       が傳次(でんじ)を討取(うちと)つたと記(しる)してある其他(そのた)石川主殿頭(いしかはとのものかみ)の書上(かきあげ)にも柴田中務(しばたなかつかさ)が牧野傳蔵を打取(うちとつ)た事が記(しる)してあ 古河系図  ると云ふ訳(わけ)で傳蔵(でんざう)傳次(でんじ)等(ら)牧野(まきの)一 族(ぞく)の戦死(せんし)は享禄(けうろく)二年で動(うご)かすべからざるように見(み)へて居る只(たゞ)之(こ)れが反(はん)        証(せう)ともなすべきものは田辺牧野家(たなべまきのけ)の家臣(かしん)に古河勝通(ふるかはせうつう)と云ふ人があつて此人(このひと)は宝飯郡(ほゐぐん)古河村(ふるかはむら)(今の大村       附近)に住(すむ)で由緒(ゆうしよ)ある家(いへ)であつたが此(この)吉田落城(よしだらくぜう)の時に田辺牧野家(たなべまきのけ)の祖先(そせん)定成(さだしげ)が手疵(てきづ)を負(お)ふて落延(おちの)びた       のを救(すく)ふた縁故(ゑんこ)で遂(つひ)に其(その)家来(けらい)筋(すじ)として仕(つか)へたのである此家(このいへ)は今も連綿(れんめん)と継続(けいぞく)して居るので其家(そのいへ)に古河(ふるかは)        系図(けいづ)と云ふものが残(のこ)つて居る之(これ)は参考(さんこう)とするに値(あたひ)するのであるが此(この)系図(けいづ)には此(この)戦(たゝかひ)を以(もつ)て天文元年と       なして居(を)る事である併(しか)しながら多(おほ)くの家(いへ)に伝(つた)はつて居る記録(きろく)が大多数(だいたすう)享禄(けうろく)二年の戦争(せんそう)一 度説(どせつ)であるか       ら結局(けつきよく)今(いま)は此説(このせつ)に従(したが)ふの外(ほか)はないと信(しん)ずるのである 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百二十三号附録   ( 明治四十四年四月五日発行 ) 【本文】 戦の状況  ソコで此(この)戦(たゝかひ)の模様(もよう)であるが之(これ)は幸(さいはひ)に大久保彦左衛門(おほくぼひこざゑもん)の三 河物語(かはものがたり)に詳(くは)しくあるので大要(たいえう)の事情(じぜう)を明(あきらか)に       する事が出来(でき)ると思(おも)ふモツトモ此(この)物語(ものがたり)には年月日がないが兎(と)に角(かく)戦(たゝかひ)の事は一 度(たび)しか記録(きろく)してないの       である即(すなは)ち此(この)物語(ものがたり)によると清康(きよやす)は先(ま)づ岡崎(をかざき)を出発(しゆつぱつ)して赤坂(あかさか)に陣取(ぢんど)り先手(さきて)は御油国府(ごゆこうふ)に陣(ぢん)を構(かま)へたので       あるが明(あ)くれば赤坂(あかさか)を出発(しゆつぱつ)し小坂井(こさかゐ)に旗(はた)を立(た)て先手(さきて)は下地(しもぢ)に放火(はうくわ)したのである牧野方(まきのがは)は之(これ)を見(み)て茲(こゝ)に        雌雄(しゆう)を決(けつ)せんとの意気込(いきごみ)鋭(するど)く豊川を渡(わた)りて対岸(たいがん)に上陸(ぜうりく)し悉(こと〴〵)く舟(ふね)を押流(おしなが)して所謂(いはゆる)背水(はいすゐ)の陣(ぢん)を布(し)いた清(きよ)        康(やす)は依(よつ)て小坂井より進(すゝん)で下地の堤塘(ていとう)に於て衝突(せうとつ)し互(たがひ)に此(この)堤(つゝみ)を乗取(のりと)らむとして対抗(たいこう)したのである三 河物(かはもの)        語(がたり)には此(この)有様(ありさま)を記(しる)して         清康(きよやす)は下地の塘(つゝみ)へ押上(おしあが)らむとし給(たま)ふ傳蔵も塘(つゝみ)へ押上(おしあが)らむとす両方(れうはう)塘(つゝみ)の両(れう)の腹(はら)にしばづきて半日はか        り念仏(ねんぶつ)の声(こゑ)はかりして大事(だいじ)に思(おも)ひてシン〳〵と心(こゝろ)を静(しづ)め居(ゐ)たり       とある実(じつ)に此(この)時代(じだい)の戦争(せんそう)の状態(ぜうたい)を見る上に於(おい)て無限(むげん)の趣味(しゆみ)を感(かん)ずる記録(きろく)ではあるまいか而(しか)して清康(きよやす)は        家臣(かしん)の諌(いさめ)をも聴(き)かず自(みづか)ら松平内膳信定(まつだひらないぜんのぶさだ)と共に敵陣(てきじん)へ突貫(とつかん)したのであるが牧野(まきの)方(かは)の勢(いきほひ)鋭(するど)く一時は清康(きよやす)        方(かた)の敗(はい)となつた然(しか)るに再(ふたゝ)び逆襲(ぎやくしう)して遂(つひ)に牧野方を河(かは)に押(お)し蹇(ちゞ)め信成(のぶしげ)を初(はじ)め牧野の一 族(ぞく)は殆(ほとん)ど之(これ)に戦死(せんし)       し尽(つく)したのである蓋(けだ)し清康(きよやす)方(かは)に於ても容易(ようい)ならざる損害(そんがい)を蒙(こうむ)つたので貞享書上(ていけうかきあげ)に拠(よ)るも 相当(さうとう)の人々が        多数(たす)討死(うちじに)して居(を)るのである三 河物語(かはものがたり)に又た傳蔵(でんぞう)等(ら)打取(うちとり)当時(とうじ)の状況(ぜうけう)を書(か)いて         傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ)新蔵(しんぞう)新次(しんじ)兄弟(けいてい)四人を打取(うちと)る吉田の城には女房(にようはう)共(ども)出(い)で見(み)て下地をふうするに出(い)で見(み)よとて「        コンガウ」をはいて出(い)で堀(へい)より見越(みこえ)て見(み)る清康(きよやす)は思(おもひ)のまゝに合戦(かつせん)に打勝(うちかつ)て吉田河(よしだがは)の上(かみ)の瀬(せ)へまわり        て河(かは)を騎越(のりこえ)吉田の城へ即(すなは)ち責入(せめいり)給(たま)へば女房(にようばう)共(ども)は「コンガウ」をはきて田原(たはら)へ落行(おちゆく)       としてあるが私(わたくし)は此(この)城中(ぜうちう)にありし女房(にようはう)共(ども)が「コンガウ」をはいて田原(たはら)へ落行(おちゆ)くとあるのは実(じつ)に当時(とうじ)の 【欄外】 豊橋市史談     (牧野信成等の戦死)          卅三 【欄外】 豊橋市史談     (牧野信成等の戦死)          卅四 【本文】        風俗(ふうぞく)迄(まで)が目前(めのまへ)に見ゆる様(よう)で頗(すこぶ)る面白(おもしろ)い記事(きじ)であると感(かん)ずるのである「コンコウ」は恐(おそら) は金剛(こんごう)であつて        草履(ぞうり)の事であるが昔(むかし)は板(いた)で作(つく)つた履物(はきもの)があつたので今日の婦人(ふじん)が空気草履(くうきぞうり)でもはいたと云ふ様な訳(わけ)で       あつたのではあるまいかと思(おも)ふそれより清康(きよやす)は吉田に一日 滞在(たいざい)して直(たゞ)ちに田原に押寄(おしよ)せたが田原の戸田       は降参(こうさん)をしたので三日の後(のち)再(ふたゝ)び吉田に引返(ひきかへ)し更(さら)に十日 間(かん)此処(こゝ)に逗留(とうりう)されたとの事である此(この)戦(たゝかひ)に於て        牧野(まきの)方(かた)では所謂(いはゆる)背水(はいすい)の陣(ぢん)を布(し)いたのであるにも拘(かゝは)らず遂(つひ)に失敗(しつぱい)に終(をは)つたのは全(まつた)く河(かは)一つを隔(へだ)てゝ其(その)家(か)        族(ぞく)等(ら)がワイ〳〵と騒(さわ)いだので将士(せうし)は皆(みな)之(これ)に心を引(ひ)かされたが為(ため)であると云ふので此事(このこと)は三 河物語(かはものがたり)にも        記(しる)されてあるが誠(まこと)に味(あじは)ふべき事柄(ことがら)であると思(おも)ふのである        扨(さて)戦(たゝかひ)の話(はなし)はこゝに止(とゝ)むるとして尚(なほ)少(すこ)しく研究(けんきう)を要(えう)するのは前(まへ)の三 河物語(かはものがたり)の文中にもあつた傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ) 新蔵新次   新蔵(しんぞう)新次(しんじ)兄弟(けうだい)四人と云ふ事である傳蔵(でんぞう)は勿論(もちろん)信成(のぶしげ)の事であるが尚(なほ)之(これ)に傳次と云ふ弟(おとゝ)のあつた事は諸説(しよせつ)       の一 致(ち)する処で疑(うたが)ひはないが只(たゞ)新蔵新次の事に就(つい)ては大(たい)なる疑問(ぎもん)である殊(こと)に牛久保密談記(うしくぼみつだんき)には之(これ)を新       三郎新次郎としてあつて「新三郎は討死(うちじに)と云て赤岩(あかいわ)の法言寺(はふごんじ)に退(しりぞ)き後(のち)戸田家を続(つ)ぐ」とある之(これ)は益々(ます〳〵)疑(ぎ)        問(もん)である俗説(ぞくせつ)には之(これ)が大垣戸田氏(おほがきとだし)の祖(そ)であるようにも伝(つた)えるが全然(ぜん〴〵)誤(あやま)りで之に就(つい)ては後(のち)に研究(けんきう)の結果(けつくわ)       を申述(もうしの)ぶるであろうが私(わたくし)は大体(だいたい)に於て藩翰譜(はんかんふ)に         又(また)三 河物語(かはものがたり)に享禄(けうろく)の初(はじめ)に二郎三郎殿吉田の城を攻(せ)められしに牧野(まきの)傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ)新蔵新次 兄弟(けうだい)四人 戦死(せんし)し        て城(しろ)を取(と)られしと云ふ事あり康成(やすなり)の家(いへ)代々(だい〴〵)其(その)初(はじめ)名(な)を新次郎と云ひしかば傳蔵(でんぞう)が子(こ)の後(あと)たるにやあら        んされど傳蔵の後人云ふ所の如きは新三新二の事 詳(つまびらか)ならず吉田の城に戦死(せんし)せし者共(ものども)の事(こと)傳左衛門        尉 父子(ふし)三人 並(ならび)に新二新三と記(しる)せるものゝあれば新二新三二人は傳左衛門尉(でんざゑもんのぜう)が子とは見(み)えずと云ふな        り思(おも)ふに之(これ)等(ら)只(た)だ其(その)一 族(ぞく)にして正(たゞ)しき兄弟(けいてい)なりと云ふにはあらざるべし 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】       とあるのを当(あた)れりとなすものである蓋(けだ)し文中(ぶんちう)康成(やすなり)とあるのは長岡家(ながをかけ)の祖先(そせん)で成定(なりさだ)の子(こ)を指(さ)したもので 《割書:信成等の墳|墓》  ある次(つぎ)に信成(のぶしげ)等(ら)の墳墓(ふんぼ)の事であるが三州吉田記には宝飯郡(ほゐぐん)下地町(しもぢてう)水神社の傍(かたわら)に一 叢(むら)の小藪(こやぶ)があつて       之(これ)が即(すなは)ち傳蔵等の墓(はか)であると云ふ事が書(か)いてある成程(なるほど)実地(じつち)を調査(てうさ)して見ると豊橋城址(とよはしぜうし)対岸(たんがん)の地に今も       尚ほ其形(そのかたち)が残(のこ)つて居る又(ま)た吉田城主考(よしだぜうしゆこう)には著者(ちよしや)自身(じしん)其所(そこ)に大(たい)なる松樹(まつのき)があるのを見(み)たと記(しる)して居るが       豊橋市役所で模写(もしや)した元禄(げんろく)年間(ねんかん)の古図(こづ)にも松の木が画(ゑが)いてあるから当時(とうじ)は其通(そのとほり)であつたに相違(さうゐ)ない        併(しか)しながら之(これ)は必(かなら)ず当時に於ける戦死者(せんししや)の屍体(したい)を合埋(ごうまい)したものであろうと思(おも)ふ信成(のぶしげ)等(ら)の死体(したい)は後(のち)に火(くわ)        葬(そう)して龍拈寺(りうねんじ)前(まへ)の墓(はか)に葬(ほうむ)つたとい云ふ事は大恩寺(たいおんじ)の記録(きろく)にあるが此(この)記録(きろく)も割合(わりあひ)に新(あたら)しいもので深(ふか)い研究(けんきう)       をしたのでもないようである併(しか)し二葉松(ふたばまつ)にも        吉田龍拈寺前在牧野田三信成及田次成高小田次成国三墳       と書(か)いてあつて龍拈寺(りうねんじ)正徳(せうとく)二年の書上(かきあげ)にも        即当寺休屋和尚焼香之、為当寺開基、法名者以天清公居士、声外音公庵主、三休位公上座也、総而        牧野一統廟所厳然有寺前、御位牌御老母御影到今存在       とあるので墳墓(ふんぼ)としては此(この)龍拈寺(りうねんじ)のものを正(たゞ)しきものとせねばならぬと思(おも)ふモツトモ此(この)墓地(ぼち)には前(まへ)に        述(の)べた古白(こはく)墳(づか)の外(ほか)に五 輪(りん)の古塔(ことう)が三つ四つ並(なら)むで居(を)つたとの事(こと)で七十歳以上の人は今(いま)も尚(な)ほ記憶(きをく)して       居るとの事であるが今(いま)は只(た)だ朽(く)ちたる古松(ふるまつ)の株(かぶ)と一 個(こ)の石(いし)とが横(よこ)たはつて居るのみで近来(きんらい)何処(いづこ)からか 《割書:信成等の戒|名》  一基の古塔(ことう)を運(はこ)むで墓標(ぼへう)にしてあるが兎(と)に角(かく)三 間(げん)四 方(ほう)許(ばかり)の間(あひだ)は割然(くわくぜん)として旧態(きうたい)が忍(しの)ばるゝのみならず        近年迄(きんねんまで)三四百年にもなるべき大松(おほまつ)が生(お)ひ立(た)つて居(を)つたのである而(しか)して此以天清公、声外音公、三休位       公と云ふ戒名(かいめう)に就(つい)ては之れ亦た説(せつ)があつて少(すこ)しく定(さだ)め難(がた)い点があるが私(わたくし)は以天清公(いてんせいこう)が成三(しげかづ)、声外音(せいぐわいおん) 【欄外】 豊橋市史談     (牧野信成等の戦死)          卅五 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          卅六 【本文】        公(こう)が信成(のぶしげ)、 三 休位公(きうゐこう)が傳次(でんじ)成高(しげたか)であると信(しん)ずる勿論(もちろん)成高の戒名(かいめう)に就ては古来(こらい)から異説(ゐせつ)はない様(よう)である       が成三(しげかづ)と信成(のぶしげ)とに就ては何(いづ)れを何(いづ)れとも定(さだ)め難(にく)いように両説(れうせつ)になつて居(を)るのである然(しか)るに前章(ぜんせう)に述べ 龍拈寺文書 て置いた龍拈寺(りうねんじ)の始祖(しそ)休屋宗官和尚(きうをくそうかんおせう)自筆(じしつ)の遺書(ゐしよ)中(ちう)に同寺(どうじ)祠堂(しどう)の覚書(おほえがき)があつて「畠五貫文以天受清牧野       田三」と記(しる)してある之(これ)は其(その)当時(とうじ)のもので疑(うたがひ)なき処であるが元来(がんらい)以天受清(いてんじゆせい)が戒名(かいめう)であるのを其人(そのひと)を敬(けい)       して以天清公(いてんせいこう)と云ふので畠五貫文(はけかんもん)は此寺を創立(さうりつ)した時に寄進(きしん)したものと信(しん)せらるゝ点(てん)から考(かんが)ふれば之       は慥(たしか)に成三(しげかづ)に当(あた)ると思ふのである而(しか)して龍拈寺(りうねんじ)には今(いま)尚(なほ)                           声外音公居士           (表)    当寺開基     以天清公上座                           三休位公庵主           (裏)           享禄二巳丑年五月廿八日       と刻(こく)した位牌(ゐはい)があるので幸(さいはひ)に此(この)位牌(ゐはい)が当時(とうじ)のものであつたならば屈竟(くつけう)史料(しれう)であるが如何(いかん)せん時代(じだい)の       上から見て到底(とうてい)当時(とうじ)を去(さ)る遠(とほ)き後世(こうせい)の製作(せいさく)であろうと思(おも)はるゝのである但(たゞ)し正徳(せうとく)二年 書上(かきあげ)以前(いぜん)のもの       ではあると思(おも)ふ             ⦿二連木城と戸田氏        今回(こんかい)は二 連木城(れんぎぜう)と戸田氏の事に就(つい)て申述(もうしの)ぶる順序(じゆんじよ)であるが夫(それ)には又た自然(しぜん)今橋(いまはし)落城(らくぜう)後(ご)の概況(がいけう)から御話(おはなし)       する必要(ひつよう)があると思(おも)ふ扨(さて)前章(ぜんせう)に述(の)べたような訳(わけ)で今橋の築城者(ちくぜうしや)たる牧野氏は松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に一時 滅亡(めつぼう)       の状態(ぜうたい)となつたのであるが其後(そのご)清康(きよやす)は牧野傳兵衛(まきのでんべゑ)と云ふ人をして今橋城(いまはしぜう)を守(まも)らしめて置(お)いたのである 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百二十八号附録   ( 明治四十四年四月十一日発行 ) 【本文】       此(この)傳兵衛(でんべゑ)と云うふのは或(ある)記録(きろく)によると古白(こはく)の弟であるとしてあるが之(これ)は未(いま)だ疑問(ぎもん)と云はねばならぬ併(しか)し       傳蔵の一 族(ぞく)であるには相違(さうゐ)ないので初(はじ)め宝飯郡の益岡(ますをか)と云ふ処に居つたが其頃(そのころ)此人(このひと)が宝飯郡(ほゐぐん)八幡村(やはたむら)の       八 幡社(まんしや)に納(をさ)めた文書(ぶんしよ)があつて之(こ)にも矢張(やはり)平信成(たひらのぶしげ)と記(しる)されてあるが今(いま)も残(のこ)つて居る事と思ふ然(しか)るに宗家(しうか)       と不和(ふわ)の事が起(おこ)つて曩(さき)に款(かん)を松平氏に通じたのである当時(とうじ)田原(たはら)には戸田(とだ)弾正少弼(だんぜうせうしつ)康光(やすみつ)が居り牛久保に       は牧野新次郎貞成等が居つたが孰(いづ)れも和(わ)を清康(きよやす)に需(もと)めたので其他(そのた)西郷(さいごう)の西郷氏 田峯(たみね)野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)を初       め東三河の人々は概(おほむ)ね其(その)旗下(きか)に属(ぞく)するに至つたのである而(しか)して此(この)牧野貞成(まきのさだなり)と云ふ人は彼(か)の長岡(ながをか)牧野家(まきのけ)       の祖先(そせん)新次郎成定の養父(やうふ)であつてズツト前(まへ)に御話(はなし)して置いた牧野成勝(まきのしげかつ)と云ふ人の子であるモツトモ寛(かん)        政重修諸家譜(せいぢうしうしよかふ)には貞成(さだなり)の父を氏勝(うじかつ)としてあるが之(これ)は成勝(しげかつ)の別名(べつめい)であると思(おも)ふサテ清康(きよやす)の勢力(せいりよく)は此の如       き訳で中々(なか〳〵)強大(けうだい)のものであつたが天文四年十二月五日 例(れい)の尾張国(をはりのくに)森山(もりやま)の陣(ぢん)で其(その)臣(しん)の阿部弥(あべや)七と云ふ者       の為に年(とし)僅(わづか)に廿五歳で誤(あやまつ)て殺(ころ)されてしまつたので所謂(いはゆる)森山(もりやま)崩(くづ)れと云ふのは之(これ)であるが松平氏(まつだひらし)は茲(こゝ)に其(その)        主領(しゆれう)を失(うしな)つたのみならず内乱(ないらん)か起(おこ)つたソコで弥七の父(ちゝ)阿部定吉(あべさだよし)は実(じつ)に主家(しゆか)に対(たい)して申訳(もうしわけ)がないと云ふ       ので清康(きよやす)の子(こ)広忠(ひらたゞ)がまだ十歳で仙千代(せんちよ)と云つたのを一 身(しん)に引受(ひきう)け伊勢(いせ)に逃(のが)れて神戸(かんべ)の東條持広(とうぜうもちひろ)に依つ       たのである此(この)持広(もちひろ)と云ふ人は東條(とうぜう)の吉良氏(きらし)で広忠(ひろたゞ)には叔母(おば)の夫(おつと)に当(あた)るのであるが衷心(ちうしん)広忠(ひろたゞ)を庇護(ひご)して        援(えん)を今川義元(いまがはよしもと)に請(こ)つたのであるモツトモ之にも異説(ゐせつ)があつて持広(もちひろ)が死去(しきよ)して其子が広忠(ひろたゞ)に不利(ふり)である       ので広忠(ひろたゞ)は転(てん)じて遠江(とほとおみ)の掛塚(かけつか)に流寓(りうぐう)し遂(つひ)に今川氏に依(よ)るに至(いた)つたのであると云ふ説(せつ)もあるが持広(もちひろ)の死(し)       は実(じつ)は天文八年の十月で広忠(ひろたゞ)が義元(よしもと)に依つたのは天文五年の春であるからドウモ前(まへ)の説(せつ)が正(たゞ)しいよう       である蓋(けだ)し今川氏に於(おい)ても氏親(うじちか)は既(すで)に大永六年六月を以(もつ)て卒(そつ)し其子(そのこ)氏輝(うじてる)が相続(さうぞく)したか之(こ)れ亦(ま)た天文五       年三月を以(もつ)て卒(そつ)したので矢張(やはり)内(うち)に紛擾(ふんぜう)が起つた時に氏輝(うじてる)の弟(おとゝ)は二人共に僧(そう)であつたが終(つひ)に其(その)末弟(まつてい)の方 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          卅七 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          卅八 【本文】       が相続(さうぞく)するに至(いた)つたのが即(すなは)ち義元(よしもと)で其時(そのとき)年(とし)十九歳であつたが広忠(ひろたゞ)の今川氏に依(よ)つたのは此年(このとし)であるソ       コで義元(よしもと)は先(ま)づ広忠を輔(たす)けて牟呂(むろ)の城(しろ)に入れ其翌(そのよく)六年の六月 遂(つひ)に岡崎に迎(むか)へしめたのであるが此(この)牟呂(むろ)       の城(しろ)と云ふのは大概(たいがい)のものに渥美郡(あつみぐん)の牟呂(むろ)であると解釈(かいしやく)されて居る併(しか)し私は未(いま)だ研究(けんきう)を遂(と)げぬので明       言は出来(でき)ぬが其頃(そのころ)渥美郡の牟呂(むろ)の地(ち)にも砦(とりで)のようなものでもあつたのではなかろうかと思(おも)はるゝ記録(きろく)が        間々(まゝ)散見(さんけん)せらるゝ処であるのみならず豊橋市(とよはしゝ)守上(もりうゑ)の称名院(せうめうゐん)には此時(このとき)広忠(ひろたゞ)に従(したが)つて来た傅女(しうじよ)の墓(はか)があつ       てそれ故 其地(そのち)を守上(もりうゑ)守下(もりした)と称(とな)ゆるのであると云ふ伝説(でんせつ)がある此事(このこと)は吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)などにも記載(きさい)されて       居るが之(これ)は一寸 当(あ)てにならぬのである然(しか)るに朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には之は幡豆郡(はづぐん)の茂呂(もろ)で室(むろ)とも書(か)くが其処(そこ)       の事であるとしてある私(わたくし)は如何(いか)にも之が事実(じじつ)であると信(しん)ぜられるのである兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)で今       川松平二氏間の和親(わしん)は堅(かた)く成(な)つたので爾来(じらい)松平家は云はゞ今川氏の保護国(ほごこく)の様(よう)な形(かたち)となつたのである       が当時(とうじ)松平氏は勿論(もちろん)今川義元に於(おい)ても襲家(しうか)尚(な)ほ日が浅い場合(ばあひ)で十分に力(ちから)を遠(とほ)くまで伸(のば)すの暇(いとま)がなかつ       たのである此機(このき)に方(あた)つて漸(やうや)く羽翼(つばさ)を此(この)地方(ちほう)に張(は)らむとしたのは即(すなは)ち戸田氏(とだし)である        戸田氏(とだし)の根拠地(こんきよち)は元来(がんらい)渥美郡の田原であつて此(この)田原(たはら)の城(しろ)と云ふのは前章(ぜんせう)に御話(おはなし)した弾正左衛門宗光(だんぜうさゑもんむねみつ)が        築(きづ)いたものであるが宗光(むねみつ)の子は即(すなは)ち弾正忠憲光(だんぜうちうのりみつ)で憲光(のりみつ)の子が左近尉政光(さこんのぜうまさみつ)である全久院(ぜんきうゐん)の系譜(けいふ)中(ちう)には前       にも一寸 申述(もうしの)べて置(お)いた如く政光(まさみつ)は実(じつ)は憲光(のりみつ)の弟であるとしてあるが之(これ)は余(あま)り外(ほか)で見(み)ざる一 説(せつ)である       と思(おも)ふ而(しか)して其(その)政光(まさみつ)の子が弾正少弼康光(だんぜうせうしつやすみつ)で康光(やすみつ)の子が即(すなは)ち二 連木(れんぎ)戸田家 中興(ちうこう)の祖(そ)たる宜光(よしみつ)である、 今(いま)        試(こゝろみ)に寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)によつて其(その)系図(けいづ)の大要(たいえう)を示(しめ)せば左(さ)の通(とほり)である         ●宗光          憲光          政光          康光 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】          吉光       盛光                          忠政                   吉国                          光忠          宜光           重貞          女子           忠重      康長          政直          重眞       モツトモ此(こ)の中(なか)には異説(ゐせつ)もあるがそれは漸次(ぜんじ)に申述(もうしの)べる考である扨(さて)二 連木(れんぎ)と云(い)ふ処は前(ぜん)にも述(の)べた如       く古来(こらい)薑(はじかみ)と称(とな)へた処で後(のち)に之(これ)を橋上(はじかみ)と書し更(さら)に二連木の地名(ちめい)を生(せう)ずるに至つたのであるが宜光(よしみつ)と云       ふ人は初(はじ)め牛窪(うしくぼ)の加治村(かぢむら)に住(ぢう)して居(を)つたのを天文十年 此(この)二 連木(れんぎ)にやつて来(き)て城(しろ)を搆(かま)へたのである此事(このこと)       は寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)初(はじ)め戸田家譜 其他(そのた)二葉松(ふたばまつ)など諸書(しよ〳〵)の記(しる)する所であるが尚(な)ほ此処(こゝ)にはズツト以前(いぜん)から       戸田氏の城(しろ)があつたもので藩翰譜(はんかんふ)の如きは宗光(むねみつ)の時(とき)既(すで)に此地に城を築(きづ)いたものであるとして居る蓋(けだ)し       戸田氏の根拠地(こんきよち)たる田原と云ふ処は御承知(ごせうち)の如(ごと)く一方に僻在(へきざい)して居るから地形(ちけい)の上(うへ)からドウしても先(ま)       づ力(ちから)を今(いま)の豊橋方面に用(もち)ゐ此処(こゝ)と連絡(れんらく)を取(と)ろうとするのは当然(とうぜん)の勢(いきほひ)である而して宗光(むねみつ)が田原に城き住       したのは明応(めいおう)年間(ねんかん)であると云ふ事は諸書(しよ〳〵)に見る処であるがドウモ之(これ)は時代(じだい)が合(あ)はぬように思(おも)はれる宗(むね)        光(みつ)が田原に住(ぢう)したのはズツト其(その)以前(いぜん)て明応(めいおう)年間(ねんかん)と云ふのは却(かへつ)て此(この)二 連木城(れんぎぜう)を築(きづ)いた年ではあるまいか       と思(おも)ふモツトモ此事(このこと)に就(つい)ては藩翰譜(はんかんふ)幷(ならび)に戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)等(とう)に論(ろん)じてあるので頗(すこぶ)る参考(さんこう)になる点(てん)が多 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          卅九 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十 【本文】       いのである抑(そも〳〵)此(この)宗光(むねみつ)と云ふ人は三 条家(ぜうけ)の庶流(ちよりう)で内大臣(ないだいじん)公保(きみやす)の子であるが一 説(せつ)には大納言(だいなごん)公治(きみはる)の子に        実興(さねおき)と云ふのがあつて此人(このひと)が近江国(あふみのくに)に寓居(ぐきよ)し其子の実光(さねみつ)と云ふ人が初(はじ)めて三河に来(きた)り田原に住(ぢう)して外(がい)        家(け)の号(ごう)十田を冒(おか)し後(のち)に戸田と改(あらた)めたので之(これ)が即(すなは)ち宗光(むねみつ)の父(ちゝ)であるとしてある併(しか)し此説(このせつ)は公卿補任(くげほにん)など       の記事(きじ)から比較(ひかく)してドウモ事実(じじつ)と符号(ふごう)せぬので矢張(はやはり)前説(ぜんせつ)が正(たゞ)しいようである又(ま)た実光(さねみつ)と云ふ名は宗光(むねみつ)        最初(さいしよ)の名(な)であると云ふのは校正余録(こうせいよろく)の説(せつ)であるが之(これ)は従(したが)ふべきであると思(おも)ふ而(しか)して宗光(むねみつ)は最初(さいしよ)尾張国(をはりのくに)        海東郡(かいとうぐん)戸田に住(ぢう)したので戸田氏を名乗(なの)つたのであるという云ふ説(せつ)があるが之(こ)れ亦(ま)た全(まつた)く証拠(せうこ)がないので信(しん)       ずる事が出来(でき)ぬ然(しか)れ共(ども)宗光が三 河国(かはのくに)碧海郡(へきかいぐん)の上野(うへの)に来(きた)り戸田弾正(とだだんぜう)の後(あと)を襲(おそ)ゐて戸田孫次郎と称(せう)し後(のち)に        弾正左衛門尉(だんぜうざゑもんのぜう)と改(あらた)め松平和泉入道信光(まつだひらいづみにふどうのぶみつ)の女を娶(めと)つたと云ふ事は種々(しゆ〴〵)な証拠(せうこ)のある事で余(あま)り繁雑(はんざつ)に渉(わた)る       から一々 此処(こゝ)には論(ろん)ぜぬが信(しん)ずべきであると思(おも)ふ後(のち)宗光(むねみつ)は渥美郡の大津(おほつ)に移(うつ)り住(ぢう)したが之(これ)は浪上(なみのうへ)戸田       氏 家伝(かでん)及びニ三の記録(きろく)にあるので文明八年の事(こと)であるとなつて居る当時(とうじ)田原(たはら)には一 色兵部少輔義遠(しきへうぶせうゆうよしとほ)と       云ふが居(を)つて文明十三年四月朔日に死(し)した人で其事(そのころ)は渥美郡(あつみぐん)大久保(おほくぼ)の長興寺(てうこうじ)並に東観音寺(ひがしかんおんじ)等(とう)の記録(きろく)に       見ゆる処であるが宗光(むねみつ)は又(ま)た此(この)一 色氏(しきし)の後(あと)を享(う)けて初(はじ)めて田原に根拠(こんきよ)を搆(かま)へたのである即(すなは)ち長興寺(てうこうじ)と       云ふ寺(てら)は一色氏 菩提(ぼだい)の為(ため)に文明十四年 宗光(むねみつ)の建立(こんりう)したもので之(こ)れ亦(また)長興寺の記録(きろく)其他(そのた)に載(の)つて居る処       であるかゝる訳(わけ)であるから前(まへ)に述(の)べた如(ごと)く宗光が田原(たはら)に住(ぢう)したのを明応(めいおう)年中(ねんちう)となすのは当(とう)を得(え)ないので       ドウしても之(これ)は文明十三四年頃でなくてはならぬ道理(どうり)になるのである従(したがつ)て明応(めいおう)の初(はじめ)に至つて田原の城       を其子(そのこ)憲光(のりみつ)に譲(ゆづ)り宗光(むねみつ)自身(じしん)には更(さら)に二連木に築城(ちくぜう)して之(これ)に移(うつ)り住(ぢう)したのであると云ふ説(せつ)が有理(もつとも)と思(おも)は       るゝのである之(これ)は矢張(やはり)校正余録(こうせいよろく)の詳論(せうろん)する所であるが此(この)戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)と云ふ書物(しよもつ)は前(まへ)にも屡々(しば〴〵)申(もうし)        述(の)べた如くで吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云うふのも亦(ま)た此(この)書物(しよもつ)中(ちう)の一部であるが合計(ごうけい)十四 冊(さつ)ある総(すべ)て写本(うつしほん)で原本(げんほん)は戸(と) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百三十四号附録   ( 明治四十四年四月十八日発行 ) 【本文】 《割書:戸田家系|校正余録》    田子爵家(だしゝやくけ)(松本侯)の所蔵(しよざう)である天保(てんぽう)年間(ねんかん)戸田家の臣(しん)鈴木重諧(すゝきじうかい)と云ふ人の撰(せん)で十ケ年許りを費(つひや)して居る        様子(ようす)であるが実(じつ)に細密(さいみつ)に調査(てうさ)したもので議論(ぎろん)も概(がい)して正確(せいかく)と認(みと)められるので戸田氏の研究(けんきう)をする人は        是非(ぜひ)一度は参考(さんこう)とする必要(ひつえう)があると思(おも)ふ、サテ此(この)宗光(むねみつ)と云ふ人がまだ碧海郡(へきかいぐん)の上野(うへの)に居(を)つた頃(ころ)寛正(かんせい)六        年(ねん)に松平信光(まつだひらのぶみつ)と共(とも)に三河の一 揆(き)を平(たひら)げた事があるが之(これ)は有名(ゆうめい)な話(はなし)で前章(ぜんせう)にも一寸 申述(もうしの)べて置(を)いたので       ある然(しか)るに其時(そのとき)に述べたのは誠(まこと)に簡単(かんたん)であるのみならず筆記(しつき)の上(うへ)から見(み)ると少(すこ)しく語弊(ごへい)もあつたよう       に思(おも)ふから訂正(ていせい)旁々(かた〴〵)重(かさ)ねて此処(こゝ)に概説(がいせつ)したいと思(おも)ふ蓋し此事(このこと)を記(しる)せるもので最(もつと)も確実(かくじつ)なるは例(れい)の蜷川(にながは)        親元(ちかもと)の日記(につき)であるが此(この)日記(につき)中(ちう)寛正六の処に 親元(ちかもと)を初(はじ)め室町幕府(むろまちばくふ)の伊勢貞親(いせさだちか)並に蜷川淳親(にながはあつちか)等(とう)が宗光と        信光(のぶみつ)とに与(あた)へた奉書(ほうしよ)の文案(ぶんあん)が幾通(いくとほり)も載(の)つて居るのである而(しか)して其中(そのなか)には孰(いづ)れも被官(ひかん)十田弾正左衛門尉(とだだんぜうざゑもんのぜう)        宗光(むねみつ)又(また)は被官(ひかん)松平和泉入道(まつだひらいづみにふどう)と云ふように書(か)いてある然(しか)るに今川記(いまがはき)には此(この)両人(れうにん)の事(こと)を三河国の御家人(ごけにん)と        記(しる)してあるので藩翰譜(はんかんふ)などにも説(せつ)があるが兎(と)に角(かく)之(これ)は室町幕府(むろまちばくふ)から云ふと御家人(ごけにん)で而(しか)して伊勢貞親(いせさだちか)の        被官(ひかん)であつたと云ふのが定説(ていせつ)のようである殊(こと)に宗光(むねみつ)は寛正(かんせい)六年四月の十七日には京都(けうと)に上(のぼ)つて室町幕(むろまちばく)        府(ふ)の御供衆(おんともしう)伊勢兵庫貞宗(いせへうごさだむね)に行逢(ゆきあ)つて居る其時(そのとき)に蜷川掃部助淳親(にながはかもんのすけあつちか)から其(その)領地(れうち)三 河国(かはのくに)額田郡(ぬかたぐん)大平(おほひら)の代官(だいかん)を 《割書:寛正六年|三河一揆》    托(たく)せられたのである然(しか)るに三河の国侍(こくじ)丸山中務丞(まるやまなかつかさぜう)大庭次郎左衛門(おほばじらうざゑもん)などゝ云ふ者(もの)等(ら)が額田郡(ぬかたぐん)の井(ゐ)の口(くち)と       云ふ処に立(た)て籠(こも)つて狼藉(ろうぜき)を働(はたら)いたので当時(とうじ)の守護(しゆご)細川成之(ほそかはなりゆき)から兵を出して之(これ)を攻(せ)め落(おと)し丸山(まるやま)は此時(このとき)打(うち)        死(じに)したが其他(そのた)の大将株(たいせうかぶ)のものは勿論(もちろん)余党(よとう)が散乱(さんらん)して容易(ようい)に始末(しまつ)が付(つ)かぬ其上(そのうへ)宗光(むねみつ)と信光(のぶみつ)とは寧(むし)ろ之(これ)等(ら)       のものを隠匿(ゐんとく)する疑(うたがひ)があると云ふので細川成之(ほそかはなりゆき)から伊勢貞親(いせさだちか)の処へ依頼(いらい)になつたソコで五月の廿六日       付を以(もつ)て貞親(さだちか)から其(その)追捕(つひほ)の事を宗光(むねみつ)信光(のぶみつ)両人(れうにん)へ申送(もうしおく)り更(さら)に淳親(あつちか)からも宗光へ申送つたので余党(よとう)の内(うち)丸(まる)        山(やま)某(なにがし)は大平(おほひら)に於て宗光の為(ため)に討たれ大庭(おほば)は深溝(ふかみぞ)に於(おい)て信光の手で討取(うちと)られ宗光(むねみつ)信光(のぶみつ)から其(その)首(くび)を京都(けうと)に 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十一 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十二 【本文】        送(おく)つたと云ふのが事実(じじつ)の大要(たいえう)である余(あま)り複雑(ふくざつ)になるから一々 之(これ)に関(かん)する文書(ぶんしよ)は掲(かゝ)げぬが此事(このこと)に就ては        諸家(しよけ)の系図(けいづ)に事実の真相(しんさう)を間違(まちが)へて居る処が多いから其(その)大要(たいえう)を述(の)べたのであるモツトモ精細(せいさい)の事は直(ちよく)        接(せつ)親元日記にある文書(ぶんしよ)等(とう)に就て研究(けんきう)すれば自然(しぜん)分明(ぶんめい)になる事と思ふ又(ま)た宗光(むねみつ)の氏(うぢ)を十田と書(か)いてある 十田と戸田 事であるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)其他(そのた)にも之は初(はじ)め十田と称(せう)して後(のち)に戸田と改(あらた)めたのであると記(しる)してある併(しか)       し之は余(あま)り堅(かた)くなり過(す)ぎた説(せつ)であると思ふ当時(とうじ)はかゝる事には殆(ほとん)ど頓着(とうちやく)しなかつたもので勝手(かつて)に当(あ)て        字(じ)を用(もち)いたのである今川義元(いまがはよしもと)を吉光(よしみつ)と書いたのもあればモツト後世(こうせい)で池田輝政(いけだてるまさ)を照政(てるまさ)としたものもある        恐(おそら)くは此(この)類(るい)であろうと思ふ即ち校正余録(こうせいよろく)なども此(この)説(せつ)を取(と)つて居るのである尚(なほ)此処(こゝ)に一寸 御断(おことは)りして置(お)       きたいのは「今橋築城(いまはしちくぜう)と牧野古白(まきのこはく)」と云ふ処で私(わたくし)が此(この)件(けん)に就(つい)て一寸申述べた中(なか)に「此十田と云ふのは当(とう)        時(じ)田原(たはら)に居つた戸田の事(こと)で」となつて居(を)るが当時(とうじ)宗光(むねみつ)はまだ碧海郡(へきかいぐん)の上野城(うへのぜう)に居つたことは前(まへ)にも申述(もうしの)       べた通(とほ)りであるからそれは「当時(とうじ)」とあるのを「其後(そのご)」と訂正(ていせい)して貰(もら)ひたいのである然(しか)るに此(この)宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の年 《割書:宗光逝去の|年月》  月であるが之(これ)は疑問(ぎもん)であつて寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初め諸種(しよしゆ)の系譜(けいふ)には概(おほむ)ね永正五年六月十九日 田原(たはら)に於(おい)       て死(し)すとなつて居るが之(これ)は誤(あやま)りで明応(めいおう)八年五月三日より翌九年七月までの間(あひだ)に逝去(せいきよ)したものであると       云ふのが校正余録(こうせいよろく)の説(せつ)であるそれは何故(なにゆへ)であるかと云ふに明応(めいおう)八年五月三日にはまだ宗光(むねみつ)の名(な)を以(もつ)て        長興寺(てうこうじ)に出した文書(ぶんしよ)があるから当時(とうじ)宗光(むねみつ)は未だ生存(せいぞん)して居つたものと信(しん)ぜられる然(しか)るに其(その)翌年(よくねん)の七月       に其子の憲光(のりみつ)が同寺(どうじ)へ納(をさ)めた板本(はんほん)法華経(ほけけふ)の奥書(おくがき)に        先者全久、夙有願力関妙経之板、厥功末終逝矣、憲光紹家業、而護終其志也、盖酬罔極之恩者也         (下略)         明応九年七月  日                弾正忠藤原憲光敬誌 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際                    【左頁】 【本文】       とあつて尾張国(をはりのくに)知多郡(ちたぐん)羽豆神社(はねづじんしや)の棟札(むなふだ)にも         明応九年庚申八月十二日       願主  藤原朝臣田原弾正忠憲光       と云ふのがある之(これ)によつて見(み)れば明応九年七月には早や宗光(むねみつ)は逝去(せいきよ)した後で憲光(のりみつ)が其後(そののち)を継(つ)いたもの       であると云ふ事は証明(せうめい)さるゝのである私(わたくし)はまだ暇(ひま)がないので此(この)経文(けふもん)も棟札(むなふだ)も実見(じつけん)はせぬのであるが如(い)        何(か)にも此(この)説(せつ)は確(たしか)なるものと信(しん)ぜられる従(したがつ)て明応九年を去(さ)ること九年後の永正五年に宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)せりとの説(せつ)       は誤(あやまり)であると思(おも)ふのである 全久院   ソコで申述(もうしの)べたいのは全久院(ぜんきうゐん)と云ふ寺(てら)の事である全久院(ぜんきうゐん)と云ふ寺は今(いま)も尚(な)ほ二 連木(れんぎ)にあるが元来(がんらい)全久(ぜんきう)       と云ふ名(な)は宗光(むねみつ)の法名(はうめい)であるから此(この)寺(てら)が宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)其(その)菩提(ぼだい)の為に建立(こんりう)せられたものである事は推測(すいそく)       せらるゝのであつて之(これ)には異説(ゐせつ)はないが其(その)建立(こんりう)の時代(じだい)に就(つい)ては中々(なか〳〵)議論(ぎろん)がある寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には之       を冝光(よしみつ)の開基(かいき)としてあつて全久院(ぜんきうゐん)の記録(きろく)の或(ある)ものには弘治(こうぢ)二年 戸田全香(とだぜんこう)の創建(さうけん)であるとしてある全香(ぜんこう)       とは即(すなは)ち冝光(よしみつ)の法名(ほうめい)である然(しか)るに此(この)説(せつ)に就ては大(だい)なる疑問(ぎもん)を挟(さしはさ)まねばならぬと云ふのは元来(がんらい)宗光(むねみつ)の菩(ぼ)        提(だい)の為(ため)に寺を起(おこ)すなれば先(ま)づ其子(そのこ)の憲光(のりみつ)がなさねばならぬと思(おも)ふ殊(こと)に憲光(のりみつ)相続(さうぞく)の時代(じだい)は戸田氏は頗(すこぶ)る        勢(いきほひ)のよい時で寺(てら)の一つ位(ぐらい)建立(こんりう)するのは強(あなが)ちに困難(こんなん)なる事業(じげう)とも思(おも)はれない然(しか)るを五十余年の後(のち)に至       つて其(その)玄孫(げんそん)が初(はじ)めてこれ建立(こんりう)すると云ふのは如何(いか)にも受取(うけと)れぬ事である加之(しかのみならす)全久院(ぜんきうゐん)の記録(きろく)の或(ある)るも       のには大永三未年正月十一日の創建(さうけん)だと書(か)いてある之(これ)も到底(とうてい)信(しん)ぜられぬ説(せつ)であるが抑(そも〳〵)此(この)全久院(ぜんきうゐん)の住(ぢう) 光国禅師   僧(そう)と云ふのは最初(さいしよ)が光国禅師(こうこくぜんし)で此人は自(みづつ)ら二世と称(せう)して其師(そのし)の克補和尚(こくほおせう)を以て開山(かいざん)と呼(よ)むでは居るが        克補和尚(こくほおせう)は住職(ぢうしよく)したものではない而(しか)して光国(こうこく)の次(つぎ)が三世 巧安和尚(こうあんおせう)其(その)次(つぎ)が四世の栄歳和尚(えいさいおせう)であるソコで      三世の巧安(こうあん)は天文廿一年十月朔日の入寂(にふせき)であることは過去帳(くわこてう)の記する処である天文廿一年は弘治(こうぢ)二 年(ねん)よ 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十三 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十四 【本文】       り五年前であるから全久院(ぜんきうゐん)の創立(さうりつ)が弘治二年では三世 巧安(こうあん)の住職(ぢうしよく)した日はない訳(わけ)になるので従(したがつ)て此(この)説(せつ)       は益々(ます〳〵)信(しん)ぜられぬ事になるそれのみならず二世の光国(こうこく)は全久院(ぜんきうゐん)を三世の巧安(こうあん)に譲(ゆづ)つた後(のち)信濃国(しなのゝくに)に瑞光(ずゐこう)       院(ゐん)渥美郡(あつみぐん)振草(ふりくさ)に長養院(てうようゐん)と云ふ寺を開(ひら)いて居るがこ此(この)長養院(てうようゐん)にあつた古鐘(かね)は天文十一年 巧安(こうあん)の鋳(い)る処で光       国の銘(めい)であると云ふことが全久院(ぜんきうゐん)十七世 万里和尚(ばんりおせう)の説(せつ)に記(しる)されて居る而(しか)して信濃国(しなのゝくに)下伊那郡(しもいなぐん)新野村(にひのむら)の二        善寺(ぜんじ)と云ふ寺に存(ぞん)して居る棟札(むなふだ)には         肯天文二年癸巳菊月初六日前永平 瑞光現住光国舜玉叟書(●●●●●●●●●●)      と云ふのがある之等(これら)の事実(じじつ)に依(よ)れば長養院(てうようゐん)の出来(でき)たのが少(すくな)くも天文十一年 以前(いぜん)で光国(こうこく)が瑞光院(ずいこうゐん)に移(うつ)つ      たのは天文二年 以前(いぜん)になるので従(したがつ)て此時(このとき)全久院(ぜんきうゐん)は既(すで)に三世 巧安(こうあん)の代(だい)であるから全久院が天文二年より       も尚(なほ)ズツト以前(いぜん)から存在(ぞんざい)したものであると云ふ事は証拠(せうこ)立(だ)てられるのである尚(なほ)其上(そのうへ)に此説(このせつ)を有力(ゆうりよく)なら     しむるのは全久院(ぜんきうゐん)に現存(げんぞん)せる光国(こうこく)自写(じしや)の仏書(ぶつしよ)で其(その)多(おほ)くは永正(えいせう)年間(ねんかん)のものである之等の点から推測(すいそく)する       と矢張(やはり)全久院の建立(こんりう)は前に申述べた如く冝光(よしみつ)の創建(さうけん)ではなくて宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)其子(そのこ)の憲光(のりみつ)が父(ちゝ)の為に建(こん)        立(りう)したので其(その)年代(ねんだい)は明応(めいおう)の末年(まつねん)又は永正の初年にありとするのが穏当(おんとう)であると信(しん)ぜられるのである従(したがつ)       て此(この)事実(じじつ)から論及(ろんきう)する縁故(えんこ)のない処に寺を建(た)つる筈(はづ)はないから二 連木城(れんぎぜう)こそ全久院(ぜんきうゐん)の創建(さうけん)以前(いぜん)即(すなは)ち 《割書:全久院と二|連木城との》   少(すくな)く共(とも)明応(めいおう)の初年(しよねん)に方(あた)つて宗光の築(きづ)いたものでそれを天文十年に至(いた)つて冝光(よしみつ)が修築(しうちく)したのであると云 《割書:関係|  》    ふ説(せつ)が正(たゞ)しいように信(しん)ぜられるのであるモツトモ全久院(ぜんきうゐん)に対(たい)しても冝光(よしみつ)住居(ぢうきよ)の後(のち)大(おほい)に伽藍(がらん)を興(おこ)したも       ので夫(それ)は又た証拠(せうこ)のある事(こと)であるがら其(その)修築(しうちく)の時が即(すなは)ち弘治二年であつたものと信(しん)ぜられるのである       サテ宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)は前に述べた如く憲光(のりみつ)が田原を襲(つ)いだのであるが此人(このひと)は弾正忠(だんぜうちう)と称(とな)へたので永正三       年 今橋(いまはし)が落城(らくぜう)して牧野古白(まきのこはく)戦死(せんし)の時は即(すなは)ち此人(このひと)が田原の城主(ぜうしゆ)であつたのである然(しか)るに落城(らくぜう)後(ご)の今橋(いまはし)は 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百四十号附録   ( 明治四十四年四月二十五日発行 ) 【本文】       戸田金七郎と云ふ人が守(まも)つたので此(この)金(きん)七 郎(らう)は即ち憲光(のりみつ)の二 男(なん)であると云ふ事は諸種(しよしゆ)の記録(きろく)に見ゆる処 戸田憲光  であるが其頃(そのころ)の戸田氏は余程(よほど)盛(さかん)であつたもので藩翰譜(はんかんふ)にも創業記(さうげうき)を引(ひ)いて「田原(たはら)を初(はじ)め二 連木(れんぎ)今橋(いまはし)等(とう)       の城(しろ)を併(あわ)せ領(れう)して其(その)嫡男(ちようなん)右近尉(うこんのぜう)政光(まさみつ)は二連木にあり二 男(なん)金七は今橋(いまはし)にあり」と云ふように記(しる)されてあ       る而(しか)して此(この)憲光(のりみつ)と云ふ人は法名(ほうめい)を全忠(ぜんちう)と云つたが一 般(ぱん)に永正十年十一月朔日 田原(たはら)に於(おい)て逝去(せいきよ)し矢張(やはり)長(てう) 戸田政光   興寺(こうじ)に葬(ほうむ)つたことに伝(つた)へられて居る併(しか)し事実(じじつ)は永正十三年から仝十五年の間(あひだ)の頃(ころ)に田原城(たはらぜう)をば其子(そのこ)の右(う)        近尉(こんのぜう)政光(まさみつ)に譲(ゆづ)つて自(みづか)らは知多郡(ちたぐん)の河和(かはわ)に移(うつ)り住(ぢう)し其処(そこ)にて逝去(せいきよ)したもので少(すくな)くも大永七年迄は存生(ぞんせい)し       たのである今(いま)も尚(な)ほ河和(かはわ)に全忠寺(ぜんちうじ)と云ふのがあつて之(これ)は政光(まさみつ)が父(ちゝ)の為(ため)に建立(こんりう)したものであるとの事で       あるかゝる次第(しだい)で政光(まさみつ)は父に継(つい)で田原城(たはらぜう)の主(しゆ)となつたが程(ほど)なく渥美郡(あつみぐん)の仁崎(にさき)に隠居(ゐんきよ)して田原をば其子(そのこ) 戸田康光  の弾正小弼康光(だんぜうせうひつやすみつ)に譲(ゆづ)つたのである然(しか)るに前章(ぜんせう)にも申述(もうしの)へた如く大永の初年(しよねん)に当(あた)て古白(こはく)の子(こ)成三(しげかづ)等(ら)が起(おこ)       つて再(ふたゝ)び今橋城を取(と)つたので金七郎は止(や)むを得(え)ず此処(こゝ)を退(しりぞ)くに至(いた)つたのであるが其後(そのご)牧野氏(まきのし)の勢力(せいりよく)は        漸(やうや)く強大(けうだい)となつたので戸田氏に於(おい)ても寧(むし)ろ之(これ)と和(わ)を結(むす)むだ様子(ようす)が見へる然(しか)るに享禄(けうろく)二年に至つて牧野(まきの)        氏(し)の一 族(ぞく)は松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に敗亡(はいぼう)に皈(き)するに至つたのであるが元来(がんらい)此(この)田原(たはら)の戸田氏と松平氏(まつだひらし)とは親密(しんみつ)な       間柄(あひだがら)で前にも申述(もうしの)べて置いた通りであるから宗光(むねみつ)以来(いらい)両者(れうしや)間(かん)の和親(わしん)は変(かは)る事がなく現(げん)に文亀(ぶんき)元年(がんねん)大樹(だいじゆ)        寺(じ)の連書(れんしよ)と云ふ有名(ゆうめい)な文書(ぶんしよ)の中には田原孫次郎家光(たはらまごじらういへみつ)と云ふのが松平家(まつだひらけ)一 統(とう)の中に加(くは)はつて連署(れんしよ)して居       るのである此(この)家光(いへみつ)と云ふ人に就(つい)ては説(せつ)があるが憲光(のりみつ)の兄弟(けうだい)であると云ふのが正(たゞ)しい様(よう)に思(おも)ふ兎(と)に角(かく)此(かく)       の如(ごと)き訳(わけ)であつたが永正(えいせう)三年今川氏の侵入(しんにう)に方(あた)つては憲光(のりみつ)が初(はじ)めて之(これ)に加担(かたん)したので一時は松平氏と        敵味方(てきみかた)の事になつたが程(ほど)なく松平今川二氏の間(あひだ)が和睦(わぼく)になつたから松平(まつだひら)戸田(とだ)二 氏(し)の間(あひだ)も自然(しぜん)旧態(きうたい)に復(ふく)       したのである然(しか)るに松平氏は長親(ながちか)の子(こ)信忠(のぶたゞ)の代(だい)となつて国人(こくじん)が服(ふく)せざる状態(じやうたい)であつたから此(この)二 家(け)の間 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十五 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十六 【本文】       も多年(たねん)疎々(うと〳〵)しくなつて居(を)つたのであるが今度(このたび)清康(きよやす)が東三河に攻(せ)め入(い)りて吉田の牧野氏(まきのし)を敗(やぶ)つたので直(たゞ)       ちに田原に押寄(おしよ)せたのである併(しか)し旧交(きうこう)の厚(あつ)かりし此(この)二 家(け)の事であるから忽(たちま)ち樽俎折衝(そんそせつせう)の間(あひだ)に和親(わしん)が温(あたゝ)       まつたので清康(きよやす)は僅(わづか)三日の後に再(ふたゝ)び吉田に引返(ひきかへ)したのである併(しか)し何(いづ)れの記録(きろく)を見ても此時(このとき)の事に就(つい)て       は田原(たはら)の戸田は風(かぜ)を望(のぞ)むで降参(こうさん)したと云ふような事になつて居るから私(わたくし)も先(さ)きにソウ云ふ語気(ごき)を用(もち)い       たので筆記(しつき)に残(のこ)つて居るが之(これ)は矢張(やはり)語弊(ごへい)であるから茲(こゝ)に正(たゞ)して置(お)きたいと思(おも)ふ然(しか)るに天文四年には清(きよ)      康(やす)横死(わうし)の事がありそれから松平家(まつだひらけ)には内乱(ないらん)があつて清康(きよやす)の子(こ)広忠(ひろたゞ)は他国(たこく)に流寓(るぐう)し其六年 漸(やうや)く国に皈(かへ)る 《割書:戸田金七郎|再び吉田城》 を得(ゑ)たる事は之(こ)れ亦(ま)た先(さ)きに述(の)べた如(ごと)くであるが其年(そのとし)(距今三百七十四年)金七郎は謀略(ぼうりやく)を以(もつ)て復(ま)た吉 《割書:に拠る|   》  田城の守将(しゆせう)牧野傳兵衛を遂(お)つて之(これ)に代(かは)つたのである而(しか)して其十年には冝光(よしみつ)が二 連木城(れんぎぜう)を修築(しうちく)して之(これ)に        拠(よ)つたと云ふのであるから戸田氏(とだし)一 門(もん)の勢力(せいりよく)は復(ふたゝ)び此(この)地方(ちほう)に振(ふる)つた次第(しだい)である        尚(な)ほ此処(こゝ)に重(かさ)ねて御話(おはなし)して置(お)きたいのは此(この)金七郎と云ふ人の事で之(これ)は前(まへ)にも申述(もうしの)べて置(お)いた如く多(おほ)く       の書物(しよもつ)に憲光(のりみつ)の二 男(なん)であるとなつて居(を)るがドウモ系図(けいづ)の上(うへ)からは憲光(のりみつ)の二男に金七郎と云ふ人は見当(みあた)       らぬのである吉田城主考(よしだぜうしゆこう)の如きは橘(たちばな)七郎 宣成(のぶなり)の事であろうと記(しる)して居るが只(た)だ藩翰譜(はんかんふ)系図(けいづ)にのみは        明(あきら)かに宣成(のぶなり)を以(もつ)て金七郎として居(を)るのである然(しか)るに寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には却(かへつ)て康光(やすみつ)が金七郎と云つた事       が記(しる)してある併(しか)し此(この)金七郎は到底(とうてい)康光(やすみつ)では理屈(りくつ)に合(あ)はぬのである宣成(のぶなり)と云ふ人にしても矢張(やはり)天文十年       六月十八日に死去(しきよ)して居る処から見(み)ると齟齬(そご)する点(てん)がある様に思ふ併(しか)し朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)に「金七郎は渥(あつ)        美郡(みぐん)田原(たはら)の城主(ぜうしゆ)戸田弾正忠康光(とだだんぜうちうやすみつ)が一 族(ぞく)なれば康光(やすみつ)が指揮(しき)をうけて当城(とうぜう)を守(まも)りしなるべし」とあるは誤(あやま)       らざる処(ところ)である 《割書:康光の女婚|嫁   》 サテ以上(いぜう)述(の)べた如き有様(ありさま)で経過(けいくわ)したのであるが天文十年には康光(やすみつ)の女が松平広忠(まつだひらひろたゞ)に嫁(か)したので戸田 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際  □                       □ 【左頁】 【欄外】    豊橋市史談 【本文】       家と松平家(まつだひらけ)とは姻戚(ゐんせき)の関係(かんけい)を重(かさ)ねた訳(わけ)になつたのであるモツトモ広忠(ひろたゞ)は先(さ)きに刈谷(かりや)の城主(ぜうしゆ)水野忠政(みづのたゞまさ)の       女を娶(めとつ)て竹千代(たけちよ)を生(う)むだので之(これ)が即(すなは)ち後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)となつたのであるが忠政(たゞまさ)死去(しきよ)の後(のち)其子(そのこ)信元(のぶもと)は広忠(ひろたゞ)        内室(ないしつ)の兄(あに)であつたにも拘(かゝは)らず松平家(まつだひらけ)と絶(た)つて当時(とうじ)其(その)敵国(てきこく)であつた尾張(をはり)の織田氏(をだし)に欵(かん)を通(つう)じたのである       ソコで広忠(ひろたゞ)は怒(いか)つて遂(つひ)に其(その)妻(つま)水野氏を離縁(りゑん)したのであるソレは天文十三年の事であるが此(この)水野氏(みづのし)と云       ふ人は中々(なか〳〵)の女丈夫(ぢよぜうぶ)で之(これ)が後(のち)に至つて伝通院(でんつうゐん)と諡(おくりな)され東京(とうけう)小石川(こいしかは)の伝通院(でんつうゐん)と云ふ寺(てら)は其為(そのため)に建立(こんりう)され       たものである康光(やすみつ)の女は即(すなは)ち其(その)跡(あと)へ嫁(か)したので田原御前(たはらごぜん)と称(せう)せられたのであるが男子(だんし)はなかつたので 《割書:今川義元吉|田城を略取》  ある此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたが如何(いか)なる訳(わけ)か天文十五年の十月に今川義元(いまがはよしもと)は天野安芸守(あまのあきのかみ)と云ふ人などを 《割書:す|天野安芸守》   寄越(よこ)して此(この)吉田城(よしだぜう)を攻撃(こうげき)し戸田氏の手(て)から之(これ)を奪(うば)つたのである此事(このこと)は勿論(もちろん)藩翰譜(はんかんふ)などにも載(の)つて居る       が朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には        十月 戸田(とだ)金七郎 某(ぼう)吉田城(よしだぜう)に住(ぢう)して今川家(いまがはけ)に属(ぞく)せしが此頃(このころ)叛(そむ)くにより広忠(ひろたゞ)君(きみ)義元(よしもと)と共に御出陣(ごしゆつぢん)ありて         攻(せ)め給(たま)ふ此時(このとき)石川式部(いしかはしきぶ)某(ぼう)酒井将監忠賀(さかゐせうげんちうが)等(ら)はげしく戦(たゝか)ひ遂(つひ)に落城(らくぜう)す       とあつて此時(このとき)松平氏(まつだひらし)も亦(ま)た今川氏に加勢(かせい)して戸田氏を攻(せ)めた事になつて居る吉田城主考(よしだぜうしゆこう)にも矢張(やはり)之(これ)と        同(おな)じ説(せつ)が記(しる)されて居(を)るので当時(とうじ)既(すで)に松平戸田二氏の間(あひだ)は釁(きん)を生(せう)じたものと思(おも)はれる而(しか)して私が先(さ)きに       吉田の地名(ちめい)の事を説(と)いた時(とき)一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置いた天野文書(あまのぶんしよ)の内(うち)今川義元(いまがはよしもと)より此(この)天野安芸守(あまのあきのかみ)に与(あた)へた咸状(かんぜう)        即(すなは)ち「今橋城(いまはしぜう)小口(こぐち)取寄(とりよせ)候(そうろう)時(とき)了念寺(れうねんじ)え云々(うんぬん)」とあるのは実(じつ)に此時(このとき)のもので考証(こうしよ)に資(し)すべきものと思(おも)ふから        重複(ぢうふく)を厭(いと)はず此処(こゝ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)ぐる事(こと)とする        今度三州今橋之城小口取寄候時了念寺え可相移候由成下知候処不及異儀最前馳入堅固相踏候旨大功        之至感悦申候今月十五日辰刻同城外搆乗崩之刻不暁宿成へ乗入自身盡粉骨殊同名親類被官以下蒙疵 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十七 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十八 【本文】        頭可討捕之條各別紙遣感状申候誠以度々軍功神妙之至也弥可抽忠勤之状如件          十一月廿五日                    義    元(判)            天 野 安 芸 守 殿        此(この)文書(ぶんしよ)で見ると今川勢(いまがはぜい)は十一月の十五日に外搆(がいこう)乗(の)り崩(くづ)しの為(た)め黎明(れいめい)から吉田城(よしだぜう)の攻撃(こうげき)に取(とり)かゝつたも       のと見(み)へる然(しか)るに之(これ)に年号(ねんごう)がないので種々(しゆ〴〵)の説(せつ)がある吉田博士(よしだはかせ)の地名辞書(ちめいじしよ)の如きは之(これ)を天文十四年の       ものとなし尚(なほ)一 通(つう)の雪斎(せつさい)より送(おく)つた文書(ぶんしよ)と同時(どうじ)であるとして居(を)るが之(これ)は全然(ぜん〴〵)誤(あやまり)であると思(おも)ふ私は此(この)        義元(よしもと)の文書(ぶんしよ)は天文十五年 吉田城(よしだぜう)攻撃(こうげき)当時(とうじ)のものに相違(さうゐ)なく尚(なほ)一 通(つう)の雪斎(せつさい)の文書(ぶんしよ)は其(その)翌(よく)十六年で田原城(たはらぜう)        攻撃(こうげき)の時(とき)のものであると確信(かくしん)する雪斎(せつさい)の文書(ぶんしよ)に就(つい)ては後(のち)に詳説(せうせつ)するが此(この)義元(よしもと)の文書(ぶんしよ)に就(つい)ては朝野旧聞(てうやきうぶん)        裒考(ほうこう)にも天文十五年の条(くだり)に於(おい)て「按(あん)ずるに此(この)文書(ぶんしよ)年(とし)を記(しる)さゞれとも今橋(いまはし)落城(らくぜう)の時のものなれば今年(こんねん)な       るべし是(これ)による時(とき)は十一月に及(およん)で落城(らくぜう)ありしなり」と記(しる)されて居(を)るのであるモツトモ私(わたくし)が先(さ)きに吉田       の地名(ちめい)の事を御話(おはなし)した時 此(この)文書(ぶんしよ)を二 通共(つうとも)に天文十六年のものであると申述(もうしの)べたようになつて居(を)るのは        言葉(ことば)の足(た)らぬ所(ところ)であるから其事(そのこと)に御承知(ごせうち)を願(ねが)いたいのである 《割書:康光竹千代|を奪ふ》  ソコで其(その)翌(よく)天文十六年に至(いたつ)て更(さら)に一 事件(じけん)が起(おこ)つたのであるソレは有名(ゆうめい)な話(はなし)で竹千代(たけちよ)が今川氏(いまがはし)に質(しち)とな       つて駿河(するが)の国(くに)に行(い)かうと云ふのを此(こ)の田原(たはら)の戸田が途中(とちう)で奪(うば)つたと云ふ事抦(ことがら)であ る其時(そのとき)竹千代は六歳       であつたが之(これ)に就(つい)ても説(せつ)は色々(いろ〳〵)ある松平記(まつだひらき)には         田原(たはら)住人(ぢうにん)戸田弾正(とだだんぜう)弟(おとゝ)戸田(とだ)五 郎(らう)と申者(もをすもの)志本見坂(しほみざか)にて竹千代(たけちよ)殿(どの)の乗物(のりもの)を奪(うばひ)とり船(ふね)にて尾張(をはり)の国(くに)に参(まい)る       とあるが此(この)五郎と云ふのは政直(まさなほ)の事であるから実(じつ)は弾正少弼康光(だんぜうせうひつやすみつ)の子(こ)でなくてはならぬのである而(しか)し       て徳川実記(とくがはじつき)には 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百四十六号附録   ( 明治四十四年五月二日発行 ) 【本文】         竹千代(たけちよ)君(ぎみ)僅(わづか)に六歳にならせ給(たま)ふを駿河(するが)に質子(しちこ)たるべしとの事(こと)に定(さだ)まり(中略)すべて廿八人 雑兵(ざうへい)五十         余人(よにん)阿部(あべ)甚(じん)五 郎(らう)正宣(まさのぶ)が子(こ)徳千代(とくちよ)(《割:伊予守正|勝なり》)六歳なりしを御遊(おんあそび)の友(とも)として御輿(みこし)に同(おな)じく乗(の)せて遣(つかは)さるゝ        に田原(たはら)の戸田弾正少弼康光(とだだんぜうせうひつやすみつ)は広忠(ひろたゞ)卿(けう)今(いま)の北方(きたかた)の御父(おんちゝ)なれば此(この)御(おん)ゆかりをもて陸地(りくち)は敵地(てきち)多(おほ)し船(ふね)にて         我(わ)が領地(れうち)より送(おく)り申さんと約(やく)し西郡(にしのこほり)より吉田へ入(い)らせ給(たま)ふ所(ところ)を康光(やすみつ)と其子五郎 政直(まさなほ)と心を合(あは)せ御(お)         供(とも)の人々を偽(いつは)りたばかり船(ふね)に乗(の)せて尾州(びしう)熱田(あつた)におくり織田信秀(をたのぶひで)にわたしければ信秀(のぶひで)悦(えつ)大方(おほかた)ならず熱(あつ)         田(た)の加藤図書順盛(かとうとしよじゆんせい)が許(もと)へ預(あづ)けしとぞ       と記(しる)してあつて即(すなは)ち康光(やすみつ)が其子(そのこ)政直(まさなほ)と心を合(あは)せて此(この)吉田(よしだ)で竹千代を奪(うば)つた事になつて居る然(しか)るに彦左(ひこざ)        衛門(ゑもん)の三 河物語(かはものがたり)には         竹千代様(たけちよさま)。御年(おんとし)六歳の御時(おんとき)。シチ物(もつ)トシテ。駿河(するが)得(え)御下向(ごけこう)被成(なされ)ケリ。然(しかる)間(あひだ)西郡(にしのこほり)ニテ。御船(おんふね)ニ召(めさ)        シテ。田原(たはら)エ。アガラセ給日(たまひ)而(て)。田原(たはら)寄(より)駿河(するが)得(え)御下向(ごけこう)可被成(なさるべく)トノ儀(ぎ)成(なり)。田原(たはら)之 戸田弾正少弼(とだだんぜうせうひつ)殿(との)ハ。広忠(ひろたゞ)         之(の)御(おん)タメニハ。御婚成(おんしうとなり)。竹千代様之 御(おん)タメニハ。マヽ祖父(をうぢ)成(なり)。然供(しかれども)。少弼(せうひつ)殿(との)。小田(をだ)之(の)弾正之忠(だんぜうのちう)得(え)。        エイラク(永楽)。□(せん)【前の下に木】。千貫メニ。竹千代様ヲ売(うら)サセラレ給日(たまひ)而(て)。御舟(おんふね)ニ召(めし)而(て)。アツ田ノ宮(たのみや)得(え)。アガラセ給(たま)         日(ひ)。大宮地(だいぐうじ)馮給日(あづかりたまひ)而(て)。明ノ年(あけのとし)迄(まで)御(おはします)       とあつて竹千代(たけちよ)を永楽銭(えいらくせん)千 貫文(ぐわんもん)に売(う)つたと云ふのはドウであるかと思(おも)はるゝが其他(そのた)は先(ま)づ此(この)説(せつ)が事実(じじつ)       に近(ちか)いように信(しん)ぜられるのである殊(こと)に竹千代を奪(うば)つた場所(ばしよ)を汐見坂(しほみざか)となすの説(せつ)は朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)にも見       へて居るが之(これ)は地形上(ちけいぜう)到底(とうてい)信(しん)ぜられぬ事抦(ことがら)であると思(おも)ふ強(しひ)て潮見坂(しほみざか)と云ふのを臆測(おくそく)すれば今(いま)の豊橋市       外 高師村(たかしむら)福岡内(ふくをかない)に潮満(しほみち)の観音(くわんおん)と云ふのがあるがあの辺(へん)迄(まで)は旧来(きうらい)海(うみ)が入り込(こ)むで居つたのであるから其(その)        辺(へん)をでも呼(よ)むだものともなすべきであろうか元(もと)より之(これ)は当(あ)て推量(すゐれう)で何(な)にも論拠(ろんきよ)はないのであるが兎(と)に 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          四十九 【欄外】 豊橋市史談□□□□□(二連木城と戸田氏)□□□□□□□□□□五十 【本文】        角(かく)一 般(ぱん)に通(とほ)つて居る遠江(とほとふみ)の潮見坂(しほみざか)では全(まつた)く道理(どうり)に合(あ)はぬ事になると思(おも)はれる又(また)藩翰譜(はんかんふ)にも此時(このとき)の事情(じぜう)       は詳(くは)しく書(か)いてあつて中(なか)に竹千代を奪(うば)つたのは政光(まさみつ)であると云ふ一 説(せつ)も載(の)つて居るが浪(なみ)の上(うへ)戸田系譜(とだけいふ)       にも同様(どうよう)の記事(きじ)がある併(しか)し之(これ)亦(ま)た疑問(ぎもん)でドウしても時代(じだい)から推(お)して康光(やすみつ)と云ふ説(せつ)が事実(じじつ)であると信(しん)ぜ 戸田尭光  られるモツトモ校正余録(こうせいよろく)には康光(やすみつ)は其頃(そのころ)退隠(たいゐん)して家を其(その)長子(てうし)尭光(たかみつ)に譲(ゆづ)つたので即(すなは)ち此(この)事件(じけん)の当事者(とうじしや)は        尭光(たかみつ)であるが其(その)謀主(ぼうしゆ)たるものは矢張(やはり)康光(やすみつ)であると論(ろん)じて居る此(この)説(せつ)は一 層(そう)的確(てきかく)であると思(おも)はれるが一 方(ぽう)       には此(この)尭光(たかみつ)と云ふ人は冝光(よしみつ)の前名(ぜんめい)でソレと同一人であると云ふ説(せつ)が行(おこな)はれて居る寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)の如       きも前(まへ)に掲(かヽ)げた系図(けいづ)の如く康光(やすみつ)の長子(てうし)を冝光(よしみつ)として居るので尭光(たかみつ)と云ふ人は見(み)へて居らぬ併(しか)しながら        尭光(たかみつ)と冝光(よしみつ)とは何処迄(どこまで)も別人(べつじん)で之(これ)には種々(しゆ〴〵)な証拠(せうこ)のある事である現(げん)に渥美郡(あつみぐん)老津村(おひつむら)の太平寺(たいへいじ)に存(ぞん)せる       文書(ぶんしよ)に「天文十三年甲辰十二月十六日 孫(まご)四 郎(らう)尭光(たかみつ)」と云ふのがあるが此(この)孫四郎と云ふ名称(めいせう)は田原(たはら)戸田       氏の嫡男(ちようなん)が代々(だい〴〵)称(とな)へたもので冝光(よしみつ)は初(はじ)めから甚(じん)五 郎(らう)と云つたのであるからソレと之(これ)とは自(おのづか)ら違(ちが)はね       ばならぬ殊(こと)に冝光(よしみつ)は初(はじ)め牛久保の加治村(かぢむら)に住(ぢう)して後(のち)に二 連木(れんぎ)の城(しろ)を修築(しうちく)して移(うつ)つたのであるから田原(たはら)        城(ぜう)は長子(てうし)の尭光(たかみつ)が襲(つ)いで冝光(よしみつ)の方(はう)は二 男(なん)であつたと云ふ校正余録(こうせいよろく)の説が益々(ます〳〵)事実(じじつ)らしくなる又(ま)た康光(やすみつ)       は田原城(たはらぜう)をば其(その)弟(おとゝ)の光忠(みつたゞ)に譲(ゆづ)つたのであると云ふ説(せつ)があるが光忠(みつたゞ)と云ふ人は総左衛門(そうざゑもん)と称(せう)して別家(べつけ)の        筋(すじ)で右衛門光高(うゑもんみつたか)に至つて絶家(ぜつけ)したのであるから其(その)説(せつ)の誤(あやまり)なることは明(あきらか)であると思(おも)ふ又た此(この)光忠(みつたゞ)を庄左(せうざ)        衛門(ゑもん)と称(せう)したと記(しる)したものが多(おほ)くあつて校正余録(こうせいよろく)も亦(ま)た其(その)流(りう)であるが庄左衛門(せうざゑもん)と称(せう)したのは光忠(みつたゞ)の兄(あに)       で康光(やすみつ)の弟(おとゝ)に当(あた)る忠政(たゞまさ)の事である之(これ)は寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)の系図(けいづ)が正(たゞ)しいと信(しん)ずる而(しか)して当時(とうじ)戸田家と松       平家とは舅(しうと)姑(しうとめ)の間抦(あひだがら)であるのに戦国(せんこく)の習(ならひ)とは云ひながら何故(なにゆへ)に此(かく)の如(ごと)く竹千代を奪(うば)ふと云ふような        挙(きよ)に出(い)でたのであるか朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には天文十五年 吉田城(よしだぜう)合戦(かつせん)の条(くだり)に「此時(このとき)力盡(ちからつ)きて今川家に降(くだ)りし 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       かど翌(よく)十六年 竹千代(たけちよ)君(ぎみ)を奪(うば)ひ奉(たてまつ)りしは全(まつた)く此時(このとき)の鬱憤(うつぷん)より起(おこ)りしものにや考(かんが)ふべし」と記(しる)してある        然(しか)るに校正余録(こうせいよろく)に於(おい)ては当時(とうじ)康光(やすみつ)は到底(とうてい)今川氏の頼(たの)むに足(た)らざるを観波(くわんぱ)し自身(じしん)は勿論(もちろん)ドウかして松平       氏をも織田氏(をだし)の方(はう)に依(よ)らしめたいものであると云ふので遂(つひ)にかゝる挙(きよ)に出(い)でたのあろうと弁明(べんめい)して        居(を)る        兎(と)も角(かく)右(みぎ)の訳(わけ)で竹千代を奪(うば)ひ之(これ)を敵国(てきこく)たる織田氏(をだし)に送(おく)つたのは今川氏(いまがはし)に於ても打捨(うちす)て置(お)かれぬと云ふ 田原落城  事になつて又々(また〳〵)天野安芸守(あまのあきのかみ)を以(もつ)て其年(そのとし)の九月 田原(たはら)を攻撃(こうげき)せしめて五日に戦(たゝかひ)があつたのである而(しか)して       田原は遂(つひ)に落城(らくぜう)に及(およ)むだのであるが天野文書(あまのぶんしよ)の内(うち)に此時(このとき)義元(よしもと)の参謀(さんぼう)たる雪斎(せつさい)長老(てうらう)から安芸守(あきのかみ)に贈(おく)つた        書翰(しよかん)がある之(これ)は前(まへ)にも度々(たび〴〵)申述(もうしのべ)て置いたので其(その)全文(ぜぶん)は左(さ)の如(ごと)くである        其後は久不申通候仍今度於田原御働之様子承誠以無比類儀に候則御感状被遣候又去年於吉田之城御        粉骨之儀是又愚僧存知之分不残申上候三州御陣番御苦労無申計候今少之儀候間御奉公肝要存候猶重        而可申候恐惶謹言          十一月十四日                 駿州臨済寺住持                                     雪   斎             天 野 安 芸 守 殿                     御 宿 所        此(この)文書(ぶんしよ)にも亦(ま)た年号(ねんごう)がないので矢張(やはり)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があるが天文十六年の九月五日に田原(たはら)攻(ぜめ)のあつた事並(ならび)に        此(この)天野安芸守(あまのあきのかみ)が之に与(あづか)つた事は此時(このとき)別(べつ)に義元(よしもと)から天野に贈(おく)つた感状(かんぜう)か残(のこ)つて居るので証拠(せうこ)立(だ)てられる       モツトモ余(あま)り繁雑(はんざつ)に渉(わた)るから其(その)感状(かんぜう)は此処(こゝ)に掲載(けいさい)せぬが尚(なほ)其他(そのた)にも確実(かくじつ)なる根本史料(こんぽんしれう)があるのである 【欄外】 豊橋市史談□□□□□(二連木城と戸田氏)□□□□□□□□□□五十一 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          五十二 【本文】       からソレ等(ら)の事実(じじつ)と対照(たいせう)して右(みぎ)の文書(ぶんしよ)が天文十六年のものであると云ふ事は明(あきら)かである従(したがつ)て去年(きよねん)於吉(よしだ)        田城粉骨(ぜうにおいてふんこつ)の儀(ぎ)云々(うんぬん)とあるのは之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に述(の)べた十五年の吉田(よしだ)攻(ぜめ)と相対(あひたい)して益々(ます〳〵)其(その)事実(じじつ)を確(たしか)むること       が出来(でき)るのみならず三 州(しう)御陣な番(ごぢんばん)御苦労(ごくらう)云々(うんぬん)等(とう)の文意(ぶんい)より見れば昨年(さくねん)以来(いらい)安芸守(あきのかみ)は吉田城に留(とゞめ)て之(これ)を守(しゆ)        護(ご)して居つたものとも思(おも)はれるさサテ田原(たはら)に於(お)ける戸田氏は此(この)戦(たゝかい)に於て一 時(じ)敗亡(はいぼう)に皈(き)した状態(ぜうたい)となつた 《割書:田原戸田と|二連木戸田》  のであるが此処(こゝ)が田原(たはら)戸田と二 連木(れんぎ)戸田と判然(はんぜん)両家(れうけ)の相分(あひわか)れた処で其後(そのご)前(まへ)に述(の)べた康光(やすみつ)の弟(おとゝ)忠政(たゞまさ)が西       三河で松平氏の為(ため)に忠義(ちうぎ)を立(た)て子(こ)忠次(たゞつく)を経(へ)尊次(たかつぐ)の時に及び家康(いへやす)の為(ため)に再(ふたゝ)び田原に封(ほう)せられて諸侯(しよこう)の列(れつ)       に入つたのが所謂(いはゆる)後世(こうせい)の田原戸田になるので維新(ゐしん)の当時(とうじ)下野国(しもつけのくに)宇都宮(うつのみや)の城主(ぜうしゆ)であられたのは即(すなは)ち其(その)末(まつ)        孫(そん)である又(ま)た二 連木(れんぎ)に城(しろ)を搆(かま)へた冝光(よしみつ)は幸(さいはひ)に此(この)天文十五十六 両度(れうど)の戦(たゝかひ)に影響(えいけう)を受(うけ)なかつたので依然(いぜん)        其(その)城(しろ)を保(たも)つて居(を)つたのであるが此家(このいへ)が即(すなは)ち二 連木(れんぎ)戸田であるので其(その)子孫(しそん)は維新(ゐしん)当時(とうじ)信州(しんしう)松本(まつもと)の城主(ぜうしゆ)で       あつたのである尚(な)ほ申添(もうしそ)へたいのは政光(まさみつ)の弟(おとゝ)吉光(よしみつ)の事で此人(このひと)は天文十六年 田原(たはら)落城(らくぜう)後(ご)田原(たはら)在(ざい)の加治(かぢ)に 浪の上戸田 居つたが後(のち)又(ま)た二 連木(れんぎ)に移(うつ)つて永禄(えいろく)八年九月廿五日に死去(しきよ)したので八 名郡(なぐん)浪(なみ)の上(うへ)の正円寺(せうゑんじ)に葬(ほうむ)つたの       である俗(ぞく)に浪(なみ)の上(うへ)の戸田と呼(よ)ぶのは即(すなは)ち此人(このひと)の家(いへ)である       ● 補遺(●●) 牧野古白(○○○○)の(○)戦死(○○○)に(○)就(○)て(○)          牧野古白(まきのこはく)の戦死(せんし)は永正三年の十一月三日で之(これ)    に   就(つい)ては今川氏親(いまがはうぢちか)攻撃(こうげき)説(せつ)と松平長親(まつだひらながちか)逆襲(ぎやくしう)説(せつ)との二         説ある事は既(すで)に前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述べた如くであるが此年(このとし)の八月廿日から廿二日にかけて今川(いまがは)松平(まつだひら)         二氏の間(あひだ)に矢矧川(やはぎがは)の戦(たゝかひ)があつて今川(いまがは)勢(ぜい)が不利(ふり)となり遂(つひ)に軍(ぐん)を今橋(いまはし)迄(まで)収(をさ)め次で駿河(するが)に引退(ひきの)いたの         で此(この)戦(たゝかひ)に古白(こはく)は今川(いまがは)勢(ぜい)に属(ぞく)して居(を)るから寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)が古白(こはく)戦死(せんし)に関(かん)して松平長親(まつだひらながちか)逆襲(ぎやくしう)説(せつ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百五十二号附録   ( 明治四十四年五月九日発行 ) 【本文】         を取(と)つたのは従(したが)ふべきであると云ふ事も之(これ)亦(ま)た其(その)章(せう)に於て申述(もうしの)べた如(ごと)くである併(しか)し額田郡(ぬかたぐん)桑子村(くわこむら)          妙源寺(めうげんじ)の文書(もんしよ)を引(ひ)いて尚(な)ほ其(その)間(あひだ)に疑(うたがひ)の存(ぞん)することも又(ま)た当時(とうじ)申述(もうしの)べて置いた処である然(しか)るに其後(そのご)         三 上文学博士(かみぶんがくはかせ)並(ならび)に文学士(ぶんがくし)渡邊世祐氏の好意(こうゐ)によつて東京文科大学(とうけうぶんくわだいがく)史料編纂係(しれうへんさんかゝり)所蔵(しよぞう)の文書(もんしよ)で此(この)事実(じじつ)         に対し頗(すこぶ)る証拠(せうこ)となるべきものを見(み)ることを得(う)るに至(いた)つたのである之(これ)は史料編纂係(しれうへんさんかゝり)に於ても偶然(ぐうぜん)に          得(え)られた文書(もんしよ)で又た極(きは)めて最近(さいきん)の事である而(しか)して此(この)文書(もんしよ)の所持者(しよぢしや)は美作国(みまさかのくに)の人で伊達某(だてなにがし)と云つて          古(ふる)くは旧(きう)仙台侯(せんだいこう)の伊達氏(だてし)と祖先(そせん)を一にする家であると伝(つた)へられて居るが此(この)文書(もんしよ)は即(すなは)ち其(その)祖先(そせん)の伊(だ)          達蔵人丞(てくらんどのぜう)と云ふ人が永正(えいせう)年中(ねんちう)三河国に住(ぢう)して今川氏の為(ため)に働(はたら)いたので今川氏親(いまがはうぢちか)並(ならび)に北条早雲(ほうでうさううん)から          与(あた)へられた感状(かんぜう)である今(いま)其(その)全文(ぜんぶん)を掲(あ)ぐれば左(さ)の如(ごと)くである          於今度三州陣抽而令粉骨由候神妙尤感悦候於向後弥可走廻候段喜悦候猶朝比奈弥三郎可申聞候          恐々謹言            十一月十六日                  氏     親 (花押)               伊 達 蔵 人 丞 殿          今度於参州十月十九日合戦当手小勢之処預御合力候祝着候御粉骨無比類の段屋形様に申入候猶          ゟ朝比奈弥三郎方可有伝聞候恐々謹言            十一月十一日                    宗       瑞               伊 達 蔵 人 丞 殿          右(みぎ)の内(うち)宗瑞(そうずゐ)とある文書(もんしよ)は段々(だん〴〵)に調査(てうさ)して見ると不思議(ふしぎ)なことには既(すで)に三 河古文書(かはこぶんしよ)と云ふ書物(しよもつ)の中(なか)に          収録(しうろく)せられて居るので旧来(きうらい)既(すで)に世に知(し)られて居(を)つたものと見(み)ゆるのである而(しか)して前(ぜん)の氏親(うぢちか)の文書(もんしよ) 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          五十三 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          五十四 【本文】         には蔵人丞(くらんどのぜう)とあつて後(のち)の北条早雲(ほうでうさううん)の文書(もんしよ)には蔵人佑(くらんどゆう)とあるが之(これ)は此(こ)の文書(もんしよ)の連絡(れんらく)上(ぜう)同一人である         ことは疑(うたがひ)なき処(ところ)であると思(おも)ふ而(しか)して此(この)文書(もんしよ)には孰(いづ)れも年号(ねんごう)がないが旧来(きうらい)分(わか)つて居(を)る文書(もんしよ)其(その)          他(た)の記録(きろく)等(とう)と対照(たいせう)して研究(けんきう)した結果(けつくわ)永正三年のものでなくてはならぬと云ふことに皈着(きちやく)したので私         も深(ふか)く之(これ)を信(しん)ずるものであるソウなると此年(このとし)の十月十九日には今川(いまがは)勢(ぜい)が三河に攻(せ)め入(い)つて合戦(かつせん)の         あつた事が証拠(せうこ)立(た)てられるのであるが同(おな)じ永正三年のものとして朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には又(ま)た左(さ)の文書(もんしよ)         が記載(きさい)されて居(を)る          如来状近年は遠路故不申通候処懇切に〇給悦着候仍三州之義駿州へ被相談去年向彼国被走軍安          城之要害則時々被破候由候毎度御戦功奇特候殊岡崎之儀自其国就相押候駿州にも今橋被致本意          候其以後萬其国相違之候哉因茲彼国被相詰候由承候無余義趣候就中駿州此方間之儀預御尋候近          年雖遂一和自彼国疑心無止候間迷惑候抑自清須御使並預貴札忝候何様御礼自是可申入候委細は          使者可有演説候恐々今度氏親御供申三州罷越候節種々御懇切上意共忝令存候然は氏親被得本意          候至于我等式令満足候是等之儀可申上候処遮而御書誠忝令存候如斯趣猶巨海越中守方被露可被          申候也可預御披露候恐惶頓首謹言            閏十一月七日                  北 条 早 雲                                        宗    瑞               巨 海 越 中 守 殿         此(この)巨海越中守(きよかいゑつちうのかみ)と云ふのは織田家(をだけ)の人と察(さつ)せられるが文中(ぶんちう)には解(かい)し兼(か)ぬる事実(じじつ)もある併(しか)し閏(うるふ)とある          処(ところ)から推(お)すと朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)の説(せつ)の如(ごと)く永正三年のものであると信(しん)ずるの外(ほか)はないソコで之(これ)を前(まへ)の 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】          伊達文書(だてもんしよ)と対照(たいせう)すると愈々(いよ〳〵)今橋城(いまはしぜう)は此年(このとし)に今川勢(いまがはぜい)が攻(せ)め落(おと)したように見(み)ゆるのである尚(なお)それのみ         ならず前(まへ)に申述(もうしの)べた妙源寺(めうげんじ)文書(もんしよ)があるので之(これ)には明(あきら)かに永正三年十一月十五日とあるから益々(ます〳〵)之(これ)          等(ら)の文書(もんしよ)に依(よ)つて此年(このとし)の十月から十一月にかけて氏親(うぢちか)が三河に侵入(しんにふ)したものである事(こと)が証拠(せうこ)立(だ)て         られる従(したがつ)て之(これ)等(ら)の証拠(せうこ)によれば十一月三日の古白(こはく)戦死(せんし)は反(かへ)つて今川氏親(いまがはうぢちか)攻撃(こうげき)説(せつ)が事実(じじつ)であると         云ふように確(たしか)まる訳(わけ)になるのである併(しか)しソウなると更(さら)に新疑問(しんぎもん)として研究(けんきう)を要(えう)する事になるのが          例(れい)の矢矧川(やはぎがは)合戦(くわいせん)問題(もんだい)である此(この)合戦(くわいせん)の事は前(まへ)にも申述(もうしのべ)た如く三 河物語(かはものがたり)等(とう)にも記載(きさい)されてあるので事(じ)          実(じつ)として旧来(きうらい)疑(うたがひ)なき処であるが果(はた)して之(これ)が一 般(ぱん)にお行(おこな)はれて居る説(せつ)の如(ごと)く此年の八月二十日から         廿二日迄の出来事(できごと)であるとすると如何(いか)にも前(まへ)の事実(じじつ)と符号(ふごう)せぬ事となる、ト云ふのは此(この)矢矧川(やはぎがは)の          戦(たゝかひ)には古白(こはく)は今川方(いまがはがた)に属(ぞく)して居(を)つたのであるのみならず氏親(うぢちか)の将(せう)早雲(さううん)は利(り)あらずして此(この)今橋(いまはし)に          引取(ひきと)り更(さら)に駿河(するが)に引退(ひきしりぞ)いた事は度々(たび〴〵)申述(もうしのべ)た如くである然(しか)るに程(ほど)なく再(ふたゝ)び駿河(するが)より氏親(うぢちか)早雲(さううん)共(とも)に出(しゆつ)          陣(ぢん)して先(ま)づ此(この)古白(こはく)を攻(せ)め殺(ころ)し忽(たちまち)にして西三河迄 攻(せ)め込(こ)むだと云ふ事は如何(いか)に戦国(せんごく)の事と云つて         もドウも理屈(りくつ)が合(あ)はぬ況(いは)んや今橋城(いまはしぜう)は落城(らくぜう)までに六十日もかゝつたと記(しる)したものが多(おほ)いので之(これ)を          事実(じじつ)とすれば早雲(さううん)が一度軍(ひとたびぐん)を駿河(するが)に返(かへ)すや否(いなや)直(す)ぐに復(ま)た引(ひ)き返(かへ)して襲来(しうらい)した事にならねばならぬ         ので益々(ます〳〵)道理(どうり)に合(あ)はぬ事(こと)になるソコで一 層(そう)研究(けんきう)を進(すゝ)めて見(み)ると此(この)矢矧川(やはぎがは)の合戦(かつせん)に就(つ)いては文亀(ぶんき)元(がん)          年(ねん)説(せつ)かあるので此説(このせつ)が岡崎本松平系図(をかざきほんまつもとけいづ)及(および)浪上戸田氏記録(なみのうへとだしきろく)並(ならび)に高月院由緒書(こうげつゐんゆうしよがき)に載(の)つて居(を)ると云ふ事         は校正余禄(こうせいよろく)の記(き)する処である又(ま)た例(れい)の三 河後風土記(かはのちふうどき)にも記(しる)されて居(を)るが朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)にも亦(ま)た此(この)          戦(たゝかひ)に関(かん)して「大(おゝ)三 川志(かはし)文亀(ぶんき)元年(がんねん)九月にかけしは何(なん)に拠(よ)れるを知(し)らず」と記(しる)してある即(すなは)ち大(おゝ)三 川志(かはし)         は文亀(ぶんき)元年(がんねん)説(せつ)を取(と)つて居(を)るものと思(おも)はれるコウなれば総(すべ)ての事実(じじつ)が先(ま)づ対照(たいせう)宜(よろ)しきを得(う)るのであ 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)          五十五 【欄外】 豊橋市史談     (二連木城と戸田氏)                     五十六 【本文】         るが今橋城(いまはしぜう)は前(まへ)にも述(の)べた如(ごと)く永正二年に落城(らくぜう)したものであるから文亀(ぶんき)元年(がんねん)は築城前(ちくぜうぜん)四年に当(あた)る         ので前(まへ)の如(ごと)く矢矧川(やはぎがは)合戦(がつせん)を文亀(ぶんき)元年(がんねん)とすると当時(とうじ)今川氏(いまがはし)の軍勢(ぐんぜい)が此処(こゝ)迄(まで)引上(ひきあ)げたと云ふ時には果(はた)         して如何(いか)なる状態(ぜうたい)であつたか之(これ)に就(つい)ては又(ま)た更(さら)に新問題(しんもんだい)が起(おこ)る訳(わけ)であるモツトモ当時(とうじ)と雖(いへど)も既(すで)に          此地(このち)が古白(こはく)の勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)であつた事は事実(じじつ)でソレは明応六年に此地(このち)の神明宮(しんめいぐう)を古白が造営(ざうえい)して其時(そのとき)         の棟札(むなふだ)が今(いま)も尚(なほ)存在(そんざい)するのでも証拠(せうこ)立(だ)てらるゝのである右(みぎ)は尚(な)ほ余程(よほど)の研究(けんきう)を要(えう)する問題(もんだい)で速断(そくだん)         は出来(でき)ぬのであるが兎(と)に角(かく)之(これ)迄(まで)に調査(てうさ)した結果(けつくわ)は此際(このさい)申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ尚(な)ほ序(ついで)だか         ら申述(もうしの)ぶるが宗長手記(そうてうしゆき)に「義忠(よしたゞ)帰国(きこく)途中(とちう)の凶事(けうじ)廿余年にや氏親(うぢちか)入国(にふこく)静謐(せいひつ)とはいへども隣国(りんこく)の凶徒(けうと)          等(ら)絶(た)ゆることなし三 河国(かはのくに)境(さかひ)舟方(ふながた)と云ふ山に味方(みかた)あり田原弾正忠(たはらだんぜうちう)、 諏訪信濃守(すはしなのゝかみ)以下(いか)浪人衆(らうにんしう)催(もよほ)し舟方(ふながた)         の城(しろ)討落(うちおと)す城守(しろもり)多末又(たすえまた)三 郎(らう)討死(うちじに)す敵(てき)此(この)城(しろ)を持(も)つ泰以(やすゆき)時(とき)を移(うつ)さず浜名(はまな)の海(うみ)渡海(とかい)して則(すなはち)打落(うちおと)し数輩(すうはい)          討捕(うちとり)則(すなはち)奥郡(おくごほり)過半(くわはん)発向(はつこう)して懸川(かけがは)に皈城(きぜう)」と云ふことがある之(これ)は大永二年の条(くだり)に書(か)いてはあるが昔(むかし)          物語(ものがたり)として記(しる)されたものであるソコで此(この)事実(じじつ)に就(つい)て考(かんが)へて見(み)ると此(この)舟方(ふながた)と云ふ処は今(いま)の雲(う)の谷(や)の          普門寺(ふもんじ)のある山で其(その)当時(とうじ)其処(そこ)に今川氏(いまがはし)の城(しろ)があつたものである然(しか)るに今川氏親(いまがはうぢちか)の父(ちゝ)義忠(よしたゞ)は文明九         年 不慮(ふりよ)の凶変(けうへん)で討死(うちじに)し其後(そのご)国(くに)が乱(みだ)れたがヨウ〳〵 其子(そのこ)の氏親(うぢちか)が入国(にふこく)し漸(やうや)く静謐(せいひつ)に皈(き)したにも拘(かゝは)ら         ず尚(な)ほ隣国(りんこく)に国境(こくけう)を窺(うかゞ)ふものがあつて此(この)舟方(ふながた)の城(しろ)は陥落(かんらく)したものであると云ふことになるのである          而(しか)して此(この)田原弾正忠(たはらだんぜうちう)とあるのは勿論(もちろん)戸田憲光(とだのりみつ)の事で泰以(やすゆき)と云ふのは掛川(かけがは)の城主(ぜうしゆ)朝比奈泰能(あさひなやすよし)の叔父(おぢ)         で今川氏の将(せう)であつたが泰能(やすよし)がまだ年少(ねんせう)であつたので之(これ)を補佐(ほさ)して居(を)つたものである即(すなは)ち宗長手(そうてうしゆ)          記(き)の文(ふみ)と憲光(のりみつ)泰以(やすゆき)など関係者(かんけいしや)の時代(じだい)から推(お)すと此(この)事実(じじつ)は永正十二三年頃の事のように見(み)ゆるので         あるが宗長手記(そうてうしゆき)の記事(きじ)も年代(ねんだい)に関(かん)しては漠然(ばくぜん)として居るので確(たしか)には云ひ兼(か)ぬるのである兎(と)に角(かく)其(その) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百五十八号附録   ( 明治四十四年五月十六日発行 ) 【本文】          頃(ころ)憲光(のりみつ)は二 連木(れんぎ)城(ぜう)をも其(その)勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)として居(を)つたのであるから其(その)隣境(りんけう)なる舟方(ふながた)を攻(せ)めたものと信(しん)せ         られる従(したがつ)て前に述べた如く永正(えいせう)三 年(ねん)古白(こはく)の戦死(せんし)を以て今川氏親(いまがはうぢちか)攻撃(こうげき)説(せつ)に帰(き)し其(その)原因(げんゐん)を憲光(のりみつ)の讒(ざん)          言(げん)であつたと云ふ事にすると戸田氏(とだし)の今川氏(いまがはし)に対(たい)する態度(たいど)は永正(えいせう)の初年(しよねん)だけは相(あい)近(ちかづ)いて居(を)つたも         のと見(み)ねばならぬが其(その)前後(ぜんご)は孰(いづ)れも敵対(てきたい)して居(を)つたものとなすべきであると思ふう右(みぎ)は前(まへ)に述(の)べ         て置(お)いた各章(かくせう)に対(たい)して参考(さんこう)となる事であると思ふから茲(こゝ)に補遺(ほゐ)として付(つ)け加(くは)へた次第(しだい)である            ◉今川義元と吉田        扨(さて)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く吉田(よしだ)の城(しろ)は天文十五年に今川義元(いまがはよしもと)の為(た)めに領有(れうゆう)せられ次(つい)で其(その)翌(よく)十六年には田原(たはら)        城(ぜう)も亦(ま)た其(その)占領(せんれう)する処となつたので田原(たはら)戸田(とだ)の一 族(ぞく)は一 時(じ)離散(りさん)するに至(いた)つたのであるが今川家(いまがはけ)からは        新(あらた)に城代(ぜうだい)を此(この)吉田(よしだ)田原(たはら)両城(れうぜう)に置いて東三河を鎮圧(ちんあつ)したのである而(しか)して岡崎(をかざき)の松平氏(まつだひらし)は其(その)当時(とうじ)如何(いか)なる 《割書:松平広忠卒|去》   状態(ぜうたい)であつたかと云ふに天文十八年三月六日に当主(とうしゆ)松平広忠(まつだひらひろたゞ)は年僅(としわづか)に二十四で病(やまひ)を以て卒去(そつきよ)したので       あるが其子(そのこ)の竹千代(たけちよ)は尚(な)ほ尾張(をはり)に抑留(よくりう)せられて居(を)つたのである然(しか)るに今川義元(いまがはよしもと)は屡々(しば〳〵)兵(へい)をに西三河に出       して松平氏(まつだひらし)を助(たす)け尾張(をはり)の織田氏(をたし)と合戦(かつせん)をしたので其(そ)の年(とし)即(すなは)ち天文十八年の十一月には安祥(あんしやう)の城(しろ)に攻(せ)め        寄(よ)せて遂(つひ)に之(これ)を陥(おとしい)れたのである其時(そのとき)安祥(あんしやう)の城(しろ)には織田信広(をたのぶひろ)が居(を)つたが織田氏(をたし)に於(おい)ても信秀(のぶひで)は此春(このはる)既(すで)       に死(し)し信長(のぶなが)が相続(そうぞく)したので此(この)信広(のぶひろ)と云ふのは即(すなは)ち信長(のぶなが)の庶兄(しよけい)であるから此時(このとき)今川方の総将(そうせう)たる彼(か)の雪(せつ)       斎(さい)の計(はか)らいで其(その)信広(のぶひろ)と竹千代(たけちよ)とを互(たがひ)に交換(こうかん)しようと云ふ事を織田家(をたけ)に申込(もうしこ)んだのであるソコで信長(のぶなが)に 《割書:竹千代岡崎|に帰り更に》   於(おい)ても色々(いろ〳〵)考(かんが)ふる処(ところ)があつたのであろうが遂(つひ)に其(その)旨(むね)を承諾(せうだく)して竹千代と信広(のぶひろ)とを交換(こうかん)する事となつた 《割書:駿河に質た|り》  のである即(すなは)ち其(その)年(とし)の十一月十日に笠寺(かさでら)と云ふ処で引渡(ひきわたし)が済(す)むで竹千代は初(はじ)めて故郷(こけう)の岡崎(をかざき)に帰(かへ)る事が 【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)                      五十七 【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          五十八 【本文】        出来(でき)たのである然(しか)るに義元(よしもと)の請求(せいきう)で竹千代は又々(また〳〵)直(たゞ)ちに其(その)二十二日を以(もつ)て今川氏に人質(ひとしち)となつて駿河(するが)       に行(ゆ)く事(こと)となつた此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから其後(そのご)と云ふものは東(ひがし)三 河(かは)は勿論(もちろん)西(にし)三 河(かは)の大部分(だいぶぶん)迄(まで)も今川氏の        勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)となつたので松平氏(まつだひらし)の領分(れうぶん)は宛(さなが)ら今川の属国(ぞくこく)とも云ふべき観(かん)を呈(てい)するに至(いた)つたのである       ソコデ其頃(そのころ)駿河(するが)から吉田(よしだ)の城代(ぜうだい)に来(き)たのは如何(いか)なる人々であつたかと云ふに之(これ)は屡々(しば〳〵)交代(こうたい)したものゝ       ようである最初(さいしよ)は例(れい)の天野安芸守(あまのあきのかみ)であつたと推定(すゐてい)されるのであるが天文十九年の大字(おほあざ)中(なか)八 神明社(しんめいしや)の棟(むな) 吉田城代   札(ふだ)には今川義元(いまがはよしもと)の名(な)の下(した)に朝比奈(あさひな)筑前守(ちくぜんのかみ)輝勝(てるかつ)奉行衆(ぶげうしう)岡崎(をかざき)出雲守(いづものかみ)輝綱(てるつな)と云ふ名(な)が記(しる)されて居(を)る此(この)朝比奈(あさひな)        岡部(をかべ)の二 氏(し)は今川家(いまがはけ)重要(ぢうえう)の家臣(かしん)で其頃(そのころ)田原の城代(ぜうだい)であつた人にも朝比奈(あさひな)肥後守(ひごのかみ)元智(もととも)と云ふ人があつて 《割書:朝比奈岡部|二氏》   今(いま)も尚(な)ほ青津(あおづ)の傳法寺(でんぽうじ)外(ほか)一二ケ所(しよ)に其人(そのひと)の文書(もんしよ)が残(のこ)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の朝比奈(あさひな)は皆(みな)同族(どうぞく)で当時(とうじ)此(この)地方(ちほう)に        来(きた)つて事を執(と)つたものと見(み)える又(ま)た天文二十年 石巻神社(いしまきじんしや)の棟札(むなふだ)には「吉田(よしだ)城代(ぜうだい)駿河(するが)住人(ぢうにん)伊東左近将(いとうさこんせう) 《割書:伊東左近将|監》   監(げん)」と記(しる)してあるが此(この)伊東左近将監(いとうさこんせうげん)祐時(すけとき)と云ふ人の事は種々(しゆ〴〵)の記録(きろく)にも見(み)ゆるので之(こ)れ亦(ま)た其頃(そのころ)から        城代(ぜうだい)として此地(このち)に居つたものと信(しん)ぜられる而(しか)して彼(か)の有名(ゆうめい)なる小原(おはら)肥前守(ひぜんのかみ)鎮実(しげさね)は此地(このち)に於(お)ける今川(いまがは) 小原肥前守  氏(し)最後(さいご)の 城代(ぜうだい)であつたが此人(このひと)は余程(よほど)権勢(けんせい)があつたもので当時(とうじ)吉田の城は東三に於(お)ける重鎮(ぢうちん)であつたも       のである或書(あるしよ)には此人(このひと)の名字(めうじ)を大原(おほはら)と記(しる)し又(ま)た名乗(なのり)を資良(すけよし)としてあるが名字(めうじ)は小原(おはら)で最後(さいご)の名乗(なのり)は鎮(しげ)        実(さね)であつたものと思(おも)ふモツトモ此人(このひと)の事に就(つい)て詳(くは)しくは後章(こうせう)に申述(もうしのべ)る考(かんが)へであるから此処(こゝ)には大体(だいたい)に        止(とゞ)めて置(お)く事とする兎(と)に角(かく)天文十五年から永禄(えいろく)七年 迄(まで)は此(この)城(しろ)は全(まつた)く今川義元の勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)に属(ぞく)して居(をつ)た 《割書:今川義元の|事績》  のであるが此際(このさい)御話(おはなし)して置(お)きたいのは今川義元(いまがはよしもと)と云ふ人の此(この)地方(ちほう)に遺(のこ)した事跡(じせき)の一 端(たん)である元来(がんらい)此人(このひと)       は余程(よほど)行政(ぎようせい)上(ぜう)の事にも注意(ちうゐ)した人で且(か)つ豪邁(ごうまい)にして大将(たいせう)としても相当(さうとう)に器量(きれう)を備(そな)へた人であつたよう        に思(おも)はれる殊(こと)に今川家(いまがはけ)は其(その)以前(いぜん)からの名家(めいか)で公卿(くげ)の間(あひだ)にも姻戚(ゐんせき)関係(かんけい)があつて常(つね)に紳縉(しん〳〵)の間(あひだ)に往来(おうらい)した 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       ものであるから義元(よしもと)の如(ごと)きも自(みづか)ら歯(は)を涅(こん)して額髪(がくばつ)を蓄(たくは)へて居(を)つたので是非(ぜひ)上洛(ぜうらく)して京紳(けうしん)と伍(ご)し覇(は)を天       下に称(せう)せむと希(こひねが)つて居(を)つたものであるが之(これ)には先(ま)づ第一に尾張(をはり)の織田信長(をたのぶなが)を征服(せいふく)せねばならぬと云       ふので種々(しゆ〴〵)に意(こゝろ)を用(もち)いたものである即(すなは)ち天文十年五月には令(れい)を出(いだ)して領分(れうぶん)内(ない)に於(お)ける租税(そぜい)の法(ほふ)を改(あらた)め       て増税(ぞうぜい)を行(おこな)ひ又(ま)た撿地(けんち)を行(おこな)つた形跡(けいせき)がある従(したがつ)て吉田を掌握(せうあく)してからも頗(すこぶ)る民政(みんせい)に意(こゝろ)を用(もち)いたもので       第一に此(この)地方(ちほう)の神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に対(たい)しては盛(さかん)に造営(ざうえい)を行(おこな)つたものである又(ま)た社領(しやれう)寺領(じれう)をも寄進(きしん)したもので之(これ)       は実際(じつさい)敬神尊仏(けいしんそんふつ)の念(ねん)からも出(で)たものであろうが一 方(ぽう)には人心(じんしん)を収攬(しうらん)する一 種(しゆ)の政略(せいりやく)としても行(おこな)つたも       のであろうと思(おも)ふモツトモ此事(このこと)は啻(たゞ)に義元(よしもと)ばかりではない牧野(まきの)古白(こはく)なども之(これ)を行(おこな)つたものではあるが        義元(よしもと)のやり方(かた)は特(とく)に著(いちじる)しきものがあるのである現(げん)に寄附状(きふぜう)棟札(むなふだ)等(とう)の残(のこ)つて居(を)るのは此(この)附近(ふきん)で郷社(ごうしや)の        吉田神社(よしだじんしや)石巻神社(いしまきじんしや)中八の神明社(しんめいしや)幷(ならび)に全久院(ぜんきうゐん)花田(はなだ)の清源寺(せいげんじ)雲(う)の谷(や)の普門寺(ふもんじ)等(とう)であるが此寺(このてら)に対(たい)する寄付(きふ)        状(ぜう)などが普通(ふつう)の文章(ぶんせう)と違(ちが)つて居(を)るのが面白(おもしろ)いと思(おも)ふ現(げん)に普門寺(ふもんじ)に現存(げんぞん)して居(を)るのは天文十八年と同二       十四年のものであるが寄付状(きふぜう)と云ふよりは寧(むし)ろ寺法(じほう)の定状(さだめぜう)と云ふべきもので何(なん)となく法律的(ほうりつてき)に出来(でき)て 吉田神社   居(を)るのは義元(よしもと)の人物(じんぶつ)を知(し)る上(うへ)に於(おい)て最(もつと)も参考(さんこう)となるべきものであると思(おも)ふ又(ま)た吉田神社(よしだじんしや)にある棟札(むなふだ)は        神輿(みこし)の棟札(むなふだ)であつて大原雪斎(おほはらせつさい)の自筆(じしつ)で天文十六年のものであるが即(すなは)ち吉田城(よしだぜう)を取(と)つた翌年(よくねん)で田原(たはら)を取(と)       つた其年(そのとし)に当(あた)るのである且(か)つ六月十三日と云ふ日付(ひづけ)があるから其(その)祭礼(さいれい)に当(あた)つて寄進(きしん)をしたものである       と思(おも)はれる又(ま)た同社(どうしや)に木彫(ぼくてう)の獅子(しゝ)の頭(かしら)があるが之(こ)れ亦(また)義元(よしもと)が献納(けんなふ)したものであると云ふ事であるモツ       トモ之(こ)れには確(たしか)な証拠(せうこ)は無(な)いが時代(じだい)と云ひ彫刻(てうこく)と云ひ如何(いか)にも当時(とうじ)のものと信(しん)ぜられる果(はた)して然(しか)りと       すれば中八の神明社(しんめいしや)にも殆(ほとん)ど之(これ)と同様(どうよう)の獅子(しゝ)頭(かしら)があるが之(これ)亦(また)天文十九年に義元(よしもと)が同社(どうしや)を造営(ざうえい)した時に        寄進(きしん)したものではなかろうか兎(と)に角(かく)義元(よしもと)が盛(さかん)に神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に寄進(きしん)した事は見(み)るべきものがあると思(おも)ふソ 【欄外】 豊橋市史談     (今川義元と吉田)          五十九 【欄外】    豊橋市史談     (今川義元と吉田)          六十 【本文】       コで此(この)吉田神社(よしだじんしや)の事に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べたいのであるが元来(がんらい)同社(どうしや)は何時頃(いつごろ)からあつたものであるかと 石田正利   云(い)ふに元(もと)神官(しんかん)の家(いへ)であつた石田氏(いしだし)の家(いへ)に古縁起(こゑんき)が伝(つた)はつて居る之(これ)は石田正利(いしだまさとし)の書(か)いたものであるが此(この)        正利(まさとし)と云ふ人は石田家(いしだけ)の記録(きろく)によると所謂(いはゆる)元亀(げんき)天正(てんせう)時代(じだい)の人で父(ちゝ)を友利(ともとし)と云ひ叔父(おぢ)正治(まさはる)は天正十九年 石田正治   前田利家(まへだとしいへ)の召状(めしぜう)によつて上京(ぜうけう)せんとして途中(とちう)で病没(びやうぼつ)したと云ふ事であるが此(この)縁起(えんき)が此(この)正利(まさとし)の書(か)いたも       のであるとすると天文を去(さ)る事(こと)甚(はなは)だ遠(とほ)からぬ時代(じだい)のものである即(すなは)ち其(その)記(き)する処(ところ)によると此(この)社(やしろ)は天治元       年 崇徳院(すとくゐん)の時の創建(さうけん)であるが其後(そのご)源頼朝(みなもとよりとも)が天下を統(とう)一して鎌倉(かまくら)にあつた時 遥(はるか)に此(この)社(やしろ)の霊験(れいけん)著(いちじる)しき       を聞(き)き及(およ)んで神領(しんれう)を寄附(きふ)したものであるとなつて居(を)る又(ま)た伝説(でんせつ)には頼朝(よりとも)の臣(しん)安達盛長(あだちもりなが)が社殿(しやでん)を造営(ざうえい)し       たと称(とな)へられて居る成程(なるほど)盛長(もりなが)は三河の国の奉行(ぶぎよう)であつたので三河には処々(しよ〳〵)に其(その)造営(ざうえい)であると伝(つた)えられ       て居(を)るものがある鳳来寺(ほうらいじ)財賀寺(ざいがじ)の如きも其(その)類(るい)で鳳来寺(ほうらいじ)には現(げん)に鎌倉時代(かまくらじだい)の遺風(ゐふう)たる田楽(でんがく)の古式(こしき)が遺(のこ)つ       て居(を)るし財賀寺(ざいがじ)の山門(さんもん)は又(ま)た鎌倉時代(かまくらじだい)の建築(けんちく)として特別保護建築物(とくべつほごけんちくぶつ)になつて居る吉田神社(よしだじんしや)にも祭礼(さいれい)の 笹  踊   神事(じんじ)に頼朝(よりとも)を初(はじ)め鎌倉時代(かまくらじだい)の武士(ぶし)の装(よそおひ)をしたものが出(で)るし又(また)笹踊(さゝをどり)と云ふがあるが之(これ)は矢張(やはり)田楽(でんがく)の余(よ)        風(ふう)かとも思(おも)はれる此処(こゝ)から見(み)ると如何(いか)にも頼朝(よりとも)に関係(かんけい)がある様(よう)にも思(おも)はれるがドウモ之(これ)は少(すこ)しの根拠(こんきよ)       も発見(はつけん)することが出来(でき)ぬ然(しか)るに悟眞寺(ごしんじ)古記(こき)の中(なか)に吉田神社(よしだじんしや)は元(も)と悟眞寺(ごしんじ)の境内(けいだい)にあつたもので悟眞寺(ごしんじ)       は其(その)頃(ころ)今(いま)の城地(ぜうち)の処(ところ)にあつたものであるが永正(えいせう)二 年(ねん)牧野氏(まきのし)が今川氏親(いまがはうぢちか)の命(めい)で初(はじ)めて今橋城(いまはしぜう)を築(きづ)いた時(とき)        悟眞寺(ごしんじ)は今(いま)の処(ところ)に移転(いてん)せしめられた ので其(その)移転(いてん)費用(ひよう)の如(ごと)きは今川家(いまがはけ)から貰(もら)つたのである其(その)時(とき)牧野家(まきのけ)の        依願(いがん)に依(よ)つて吉田神社(よしだじんしや)のみは旧来(きうらい)の侭(まゝ)取遺(とりのこ)して置(お)いたのであると書(か)いてある如何(いか)にも之(こ)れは事実(じじつ)の様(よう)       に思(おも)はれるのであるが吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)に載(の)つて居(を)る義元(よしもと)幷(なら)びに其(その)子(こ)氏眞(うじさね)の文書(もんしよ)によると牧野田三(まきのでんざう)から神(しん)        領(れう)六貫百文が此(この)社(やしろ)に寄進(きしん)されて居(を)つた事が見(み)へる従(したがつ)て此(この)社(やしろ)は悟眞寺(ごしんじ)と共(とも)に古(ふる)くからあつたものに相(さう) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百六十四号附録   ( 明治四十四年五月廿三日発行 ) 【本文】        違(ゐ)ないが独立(どくりつ)の社(やしろ)として存在(ぞんざい)するに至つたのは今橋城(いまはしぜう)の出来(でき)た時で牧野古白は之(これ)を城(しろ)の鎮守(ちんじゆ)として祭(まつ)       り其(その)子(こ)の成三(しげかづ)又は信成(のぶしげ)の時に至つて一 層(そう)其(その)基礎(きそ)を定(さだ)めたものであると云ふのが最(もつと)も事実(じじつ)らしく思(おも)はる       ゝのである殊(こと)に此(この)祭神(まつりがみ)は素戔嗚尊(すさのうのみこと)であるが俗(ぞく)に牛頭天皇(ぎうとうてんのう)と呼(よ)ばれて居るので牧野氏(まきのし)は牛久保(うしくぼ)に居つた       時から尊敬(そんけい)して居つた神(かみ)である然(しか)るに其(その)後(ご)度々(たび〴〵)の兵乱(へいらん)で一時は頽廃(たいはい)にも及(およ)ばむとして居つたのを義元(よしもと)       が此処(こゝ)に大造営(だいざうえい)をして神輿(みこし)をも寄進(きしん)し祭典(さいてん)の式(しき)をも興(おこ)したものであると信(しん)ずる而(しか)して此(この)吉田神社(よしだじんしや)と云       ふ名前(なまへ)の如きも勿論(もちろん)此(この)地(ち)の地名が吉田と改(あらた)まつてから付(つ)けられたものであるに相違(さうゐ)ないから牧野成三(まきのしげかづ)       か然(しか)らざれば今川義元(いまがはよしもと)が命名(めい〳〵)したものでなくてはならぬと信(しん)ずるのである義元(よしもと)が吉田神社(よしだじんしや)を経営(けいえい)した 熊野神社  事は先(ま)づ一ト通(とほ)り右(みぎ)の如(ごと)くであるが大字(おほあざ)魚熊野神社(うをくまのじんしや)の元(もと)神官(しんかん)の家(いへ)である鈴木延路(すゞきのぶぢ)氏(し)の家(いへ)にも中々(なか〳〵)味(あぢは)ふ       べき古文書(こもんしよ)が伝(つた)はつて居(を)る之(これ)は天文廿三年のもので熊野神社(くまのじんしや)幷(ならび)に其(その)末社(まつしや)たる白山(はくさん)天白(てんぱく)両社(れうしや)の領地(れうち)を撿(けん)       して禰宜(ねぎ)の取(と)り分(ぶん)迄(まで)をも定(さだ)めた書付(かきつけ)であるモツトモ之(これ)は断簡(だんかん)ではあるが実(じつ)に義元(よしもと)が行政上(ぎようせいぜう)のヤリ口(ぐち)が        伺(うかゞ)ひ知(し)れるので大切(たいせつ)なものであると思(おも)ふ併(しか)し右(みぎ)の文書(ぶんしよ)は果(はた)して其(その)当時(とうじ)のものであるか又(また)は謄本(とうほん)である       か少(すこ)しく断(だん)じ兼(か)ぬる点(てん)があるが要(えう)するに後世(こうせい)の偽作(ぎさく)等(とう)でない事は云ふ迄もない尚(な)ほ序(ついで)たから御話(おはなし)する 《割書:石田鈴木両|家》  が前(まへ)に申述(もうしの)べた石田家(いしだけ)と此(この)鈴木家(すゞきけ)とは共(とも)に当(とう)市内(しない)の旧家(きうか)で其(その)家系(かけい)によると鈴木家の祖先(そせん)は文治年間に        紀伊(きい)の熊野(くまの)から此(この)地(ち)に来(き)たものだと伝(つた)へられて居(を)る又天文九年 龍拈寺(りうねんじ)宗官(そうかん)和尚(おせう)の遺書(ゐしよ)に依(よ)れば其(その)中(なか)に        石田家(いしだけ)一 統(とう)から興徳寺(こうとくじ)へ畠(はたけ)壱貫九百文を寄進(きしん)して居る事か載(の)せてある従(したがつ)て石田家も亦(ま)た天文(てんぶん)以前(いぜん)に       於て既(すで)に立派(りつぱ)なる家柄(いへがら)をなして居(を)つた事(こと)が分(わか)るのである        神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に対(たい)する事は大要(たいえう)右の如くであるがそれのみならず義元(よしもと)は市場(いちば)並(ならび)に駅馬(ゑきば)の法(ほう)をも定(さだ)めたもの       で今(いま)から云ふと余程(よほ)法律(ほうりつ)思想(しさう)のあつた人とでも云つてよかろうと思(おも)ふ当地(とうち)に於(お)ける魚問屋(うをとんや)の如(ごと)きも義 【欄外】    豊橋市史談     (今川義元と吉田)          六十一 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十二 【本文】       元が其(その)制法(せいほう)を定(さだ)めたものであると伝説(でんせつ)せられて居るが之(これ)も恐(おそら)くは事実(じじつ)であると信(しん)ぜられる元来(がんらい)今( いま)の大(おほ) 魚問屋    字(あざ)魚(うを)にある熊野権現社(くまのごんげんしや)は大字札木にあつたものでその其(その)境内(けいだい)で魚(うを)の市(いち)が立(た)つたものであるが其(その)口銭(こうせん)の二 割(わり)       は社殿(しやでん)の造営費(ざうえうひ)に充(あ)てる事になつて居(を)つたのである此事(このこと)は慶長(けいてう)六年に徳川家康(とくがはいへやす)の臣(しん)伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみたゞつぐ)が        此(この)権現社(ごんげんしや)の神官(しんかん)に与(あた)へた文書(ぶんしよ)にも記(しる)されてある此(この)文書(ぶんしよ)は本書(もとがき)が今(いま)存在(ぞんざい)せぬ併(しか)し其(その)文中(ぶんちう)に往古(わうこ)より云々(うんぬん)       と云ふ文句(もんく)があるので権現社(ごんげんしや)並(ならび)に魚市(うをいち)が義元(よしもと)の当時(とうじ)既(すで)に存在(ぞんざい)して居(を)つたものであることが認(みと)められるの       であるサスレば義元(よしもと)が此地(このち)を領(れう)するに及(およ)むで此(この)市場(いちば)に制法(せいほう)を設(もう)けたと云ふのは全(まつた)く信(しん)ぜられぬ説(せつ)では       ないと思ふ又(また)駅馬(えきば)の事であるが宝飯郡(ほゐぐん)御油町(ごゆまち)の林小次郎(はやしこじらう)氏(し)の家(いへ)に義元(よしもと)の定状(さだめぜう)が遺(のこ)つて居る之(これ)は永禄(えいろく)元(がん) 伝馬定状   年(ねん)のもので其(その)全文(ぜんぶん)は左(さ)の如(ごと)くである           (義元花押)        当宿伝馬之儀天文廿三年仁以判形五箇條議定之処一里十銭不及沙汰之由申條重相定條々       一雖為如何様之公方用並境目急用一里十銭於不沙汰者不可出伝馬事       一毎日五疋之外者可為一里十五銭事       一号此一返奉行人雖有副状可取一里十銭事         附一里十銭依不沙汰伝馬不立之上荷物打付雖有通過不可許容縦荷物雖失之不可為町人之誤事       右條々如先判不可有相違若於有違背輩者注進交名者也仍如件         永禄元戊午             八月十六日        之(これ)で見(み)ると天文廿三年 既(すで)に五個条の定法(ていほう)が発表(はつぴよう)されて居(を)つたのであるのを此年(このとし)重(かさ)ねて此(この)定状(さだめぜう)を交付(ここうふ)さ 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       れたものと見(み)える而(しか)して伝馬(てんま)は五 疋(ひき)迄(まで)は一里を拾銭と 定(さだ)め六 疋(ぴき)以上(いぜう)は十五 銭 宛(づゝ)取(と)ることを許(ゆる)したもので       あるが賃銭(ちんせん)を払(はら)はず荷物(にもつ)を押付(おしつ)けて通(とほ)り過(す)ぐるものがあつても其(その)荷物(にもつ)に対(たい)して伝馬(てんま)を扱(あつか)ふものに責任(せきにん)       はないと云ふことを定(さだ)めたのは頗(すこぶ)る味(あぢは)ふべきものがあると思(おも)ふ       サテ翻(ひるがへつ)て其(その)頃(ころ)に於(お)ける東三河(ひがしみかは)地方(ちほう)の形勢(けいせい)に就(つい)て少しく述(の)べたいと思(おも)ふが当時(とうじ)今(いま)の南北(なんぼく)設楽郡(したらぐん)の地に 《割書:東三河の形|勢》  は山家(やまが)三方(みかた)と呼(よ)ばれて頗(すこぶ)る勢力(せいりよく)ある家(いへ)があつた即(すなは)ち作手(つくて)の奥平氏(おくだひらし)田峯(たみね)の菅沼氏(すがぬまし)並(ならび)に野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)であ       るが其後(そのご)長篠(ながしの)にも城(しろ)が出来(でき)て田峯(たみね)の支流(しりう)が之(これ)に居(を)つたので或(あるひ)は作手(つくて)田峯(たみね)長篠(ながしの)を呼(よ)むで山家三方(やまがみかた)とも云 山家三方  つたようである兎(と)に角(かく)奥平(おくだひら)菅沼(すがぬま)の二 氏(し)は東三河の北部(ほくぶ)に於て優勢(いうせい)のものであつたが其他(そのた)設楽(したら)の設楽氏(したらし)        西郷(さいごう)の西郷氏(さいごうし)宝飯郡(ほゐぐん)では伊奈(いな)の本多氏(ほんだし)西郡(にしのこほり)の鵜殿氏(うどのし)並(ならび)に深溝(ふかみぞ)形原(かたのはら)竹谷(たけのや)等(とう)の松平氏(まつだひらし)は著名(ちよめい)のものであ       つた又(また)牛久保(うしくぼ)は牧野氏(まきのし)の拠(よ)る処(ところ)であつたが伊奈(いな)にも其(その)一 族(ぞく)が住(す)むて居(ゐ)たのである而(しか)して大塚(おほつか)に居つた        岩瀬氏(いわせし)と云ふのも其(その)一 類(るい)であつたと信(しん)ぜられる之(これ)等(ら)の人々は或(あるひ)は心(こゝろ)を今川氏に寄(よ)せ又(また)は全(まつた)く岡崎(をかざき)の松       平氏に服(ふく)して居る処から松平家(まつだひらけ)の再興(さいこう)迄(まで)は余儀(よぎ)なく今川(いまがは)の頤使(いし)に甘(あま)んじて居(を)つたと云ふ有様(ありさま)であつた        即(すなは)ち牛久保(うしくぼ)の牧野氏の如きは頗(すこぶ)る今川氏に接近(せつきん)して居つたが伊奈(いな)の本多氏 野田(のだ)の菅沼氏の如(ごと)きは夙(とつ)に       松平氏の為(ため)に忠勤(ちうきん)を擢(ぬきん)でゝ居つたものである然(しか)るに田峯(たみね)長篠(ながしの)の菅沼(すがぬま)並(ならび)に作手(つくて)の奥平氏(おくだひらし)の如きは寧(むし)ろ欵(かん)       を織田氏(をだし)に通(つう)づるのを得策(とくさく)とした様子(やうす)で之(これ)が為(ため)に今川氏から攻(せ)められた事(こと)もあつたと云ふのが先(ま)づ概(がい)        況(けう)であるが宗牧(しうぼく)と云ふ有名(いうめい)な連歌師(れんがし)の東国紀行(とうごくきこう)と云ふものにも当時(とうじ)に於(お)ける此(この)地方(ちほう)の事が書(か)いてある       モツトモ此(こ)の時代(じだい)には連歌(れんが)は尚(な)ほ頗(すこぶ)る流行(りうこう)したもので連歌師(れんがし)は絶(た)へず武家(ぶけ)の間(あひだ)を往来(わうらい)して興行(こうぎよう)が盛(さかん)に 東国紀行   行(おこな)はれたものである東国紀行(とうごくきこう)天文十三年十二月の条(くだり)に         牛窪(うしくぼ)より迎(むかひ)の人に逢(あ)ふまでと、 藤太郎(とうたらう)又(また)三 郎(らう)以下(いか)駒(こま)なべて行(ゆ)くに、 大塚(おほつか)といふ里(さと)あり、 此所(こゝ)に昔(むかし)逗(とう) 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十三 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十四 【本文】         留(りう)せし事など思(おも)ひ出(いで)て、 岩瀬式部(いわせしきぶ)方(かた)へ案内(あんない)しつゝ 行(ゆ)けば、 程(ほど)なく牛窪(うしくぼ)の迎(むかひ)来(き)たり、さらば是(これ)よりと        て西郡(にしのこほり)の衆(しゆう)は返(かへ)しつ、 又(また)牧野平(まきのへい)四 郎(らう)已下(いか)来(きたり)迎(むか)はれて、 田(でん)三 郎(らう)豊河(とよかは)の寺(てら)にて待(ま)たれけるよしなり、         長老(てうらう)も出座(しゆつざ)有(あつ)て、 盃(さかづき)たび〳〵歴々(れき〳〵)のしたて過分(くわぶん)なり、 酒(さけ)半(なか)ば無理(むり)にまかり立(た)ちたれば、 道迄(みちまで)色々(いろ〳〵)持(も)        たせられて、 平(へい)四 郎(らう)平(へい)三 郎(らう)其(その)外(ほか)同名(どうめい)中(ちう)、 富長(とみなが)近(ちか)くまで送(おく)られて、 織部入道息達(をりべにふどうそくたつ)、 今泉弥(いまいづみや)四 郎(らう)已下(いか)、         早々(さう〳〵)寄合(よりあ)ひ待(ま)ちたるよしなり、 去年(さるとし)以来(いらい)、 山家(やまが)国中(こくちう)とりあひ出来(でき)て、この道(みち)は一 向(こう)不通(ふつう)にて侍(はべ)るを         敵味方(てきみかた)送(おく)り迎(むか)ひ、 参会(さんくわい)して行別(ゆきわか)れたり、そのかみ鳳来寺(ほうらいじ)参詣(さんけい)して見(み)しわたりなり、 織部(をりべ)新城(しんぜう)目(め)を驚(おどろ)        かしけり、 年(とし)経(へ)て出頭 息(そく)新(しん)八 郎(らう)を始(はじ)め、 子供(こども)あまたいづれも器量(きれう)に見(み)えたり、 旅宿(りよしゆく)とても別(べつ)の搆(かまへ)も        なく、 数寄(すき)の座敷(ざしき)へむざ〳〵なる旅(たび)の具(ぐ)ども運(はこ)ばせ、 頓(やが)て風呂(ふろ)夕食(ゆうしよく)くらひ、 雁(かり)が音(ね)の料理(れうり)、 尾州(びしう)遠(ゑん)        の名酒(めいしゆ)、 路次(ろじ)不通(ふつう)の時分(じぶん)奇特(きとく)の事(こと)なり       とある此(この)中(うち)に藤太郎(とうたらう)とあるのは西郡(にしのこほり)の城主(ぜうしゆ)鵜殿(うどの)の事であるが牧野田(まきのでん)三 郎(らう)と云ふのは牧野出羽守保成(まきのではのかみやすなり) 牧野保成  の子(こ)で成元(なりもと)と云ふた人であると信(しん)ずる即(すなは)ち此(この)頃(ころ)牛久保(うしくぼ)では保成(やすなり)が勢力(せいりよく)を持(も)つて居つたものと思(おも)はれる       平四郎平三郎は勿論(もちろん)其(その)一 族(ぞく)で平三郎と云ふのは伊奈(いな)に住(ぢう)して居(を)つた人である宗長手記(そうてうしゆき)の中(なか)にも伊奈(いな)の        牧野平(まきのへい)三 郎(らう)と云ふこと事が書(か)いてあるが矢張(やはり)同(どう)一 人(にん)であると思(おも)ふ又(ま)た織部入道(をりべにふどう)と云のは菅沼織部正定則(すがぬまをりべのせうさだのり) 菅沼織部正 の事で其子(そのこ)が定村(さだむら)其孫(そのまご)が後(のち)に野田(のだ)の城(しろ)を守(まも)つて武田信玄(たけだしんげん)に当(あた)つた有名(ゆうめい)なる定盈(さだみつ)である而(しか)して此中(このなか)に織(をり)        部新城(べしんぜう)目(め)を驚(おどろ)かし云々(うんぬん)とあるのは果(はた)して何処(どこ)の事であるか少(すこ)しく疑問(ぎもん)であるが私(わたくし)は今(いま)の新城町(しんしろてう)の事に 織部新城   相当(さうとう)すると思(おも)ふ当時(とうじ)織部正(をりべのせう)の居城(きよぜう)は野田(のだ)にあつたのであるが其頃(そのころ)今(いま)の新城町(しんしろてう)の辺(へん)に新塞(しんざい)を築(きづ)いたので        之(これ)を新城(しんぜう)と呼(よ)むだものではあるまいか文中(ぶんちう)富長(とみなが)近(ちか)くまで送(おく)られてとあるが富長(とみなが)と云ふ処は今(いま)富永(とみなが)と書(か)       くが岩座村(いわくらむら)の内(うち)にあつて新城町(しんしろてう)と境(さかひ)を接(せつ)して居(を)るのである或人(あるひと)は嘗(かつ)て此(この)新城(しんしろ)と云ふのは野田(のだ)の城(しろ)を指(さ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百七十号附録□□□( 明治四十四年五月三十日発行 ) 【本文】       したので今(いま)の新城町(しんしろてう)ではない今(いま)の新城町に城(しろ)の出来(でき)たのは尚(なほ)其(その)以後(いご)の事であると云ふた事があるが此(この)        新城(しんしろ)と云ふ処に就(つい)ては旧来(きうらい)区々(くゝ)の説(せつ)があるが新城聞書(しんしろきゝがき)の如きは此(この)城(しろ)を以(もつ)て天文中 平井郷(ひらゐごう)大屋(おほや)の城主(ぜうしゆ)菅沼(すがぬま)        大膳亮定継(たいぜんのすけさだつぐ)の築(きづ)いたものであると書(か)いてあるが此(この)城(しろ)は頗(すこぶ)る多(おほ)くの変遷(へんせん)を受けて一時は荒廃(こうはい)に皈(き)した事       もあるので甚(はなは)だ明証(めいせう)を得難(えがた)い事情(じぜう)がある併(しか)し乍(なが)ら此(この)東国紀行(とうごくきこう)にある新城(しんしろ)と云ふ事に就(つい)ては此頃(このころ)吉田東       伍氏の地名辞書(ちめいじしよ)を見(み)るに矢張(やはり)前(まへ)に述(の)べた私の説(せつ)と同(おな)じ意見(いけん)が載(の)つて居(を)るのであるドウモ之(これ)は其説(そのせつ)がよ       いように信(しん)ぜられるのである 《割書:竹千代名を|元信と命ず》   扨(さて)天文(てんもん)の次(つぎ)が弘治(こうぢ)であるが今川家(いまがはけ)にある松平竹千代(まつだひらたけちよ)は其二年に至(いた)つて十五歳の正月十五日に加冠(かくわん)し義(よし) 《割書:元信名を元|康と改む》   元(もと)の偏諱(へんい)を貰(もら)つて名(な)を元信(もとのぶ)と命(めい)じたのである之(これ)にも弘治(こうぢ)元年(がんねん)三月 説(せつ)があるが余(あま)り必要(ひつよう)がないから今(いま)詳(くはし) 徳川家康  くは申述(もうしの)べぬ而(しか)して其翌(そのよく)三年には更(さら)に元康(もとやす)と改名(かいめい)したが諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の通(とほ)り之(これ)が後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)となつ       たのである然(しか)るに其(その)翌年(よくねん)に年号(ねんごう)が又た永禄(えいろく)と改(あらた)まつたが家康(いへやす)は其年(そのとし)十七歳で西三河へ出陣(しゆつぢん)したモツト       モ初陣(ういぢん)は弘治(こうぢ)二年二月 額田郡(ぬかたぐん)名之内(なのうち)の城(しろ)を攻(せ)めたのにあるが夫(それ)からは度々(たび〴〵)の戦争(せんそう)に与(あづか)つたのである例(れい) 《割書:大高城兵糧|入》  の大高城(おほたかぜう)の兵糧入(へうれうい)れなどと云ふのも其頃(そのころ)の事であるが彼(か)の永禄(えいろく)三年(距今(いまをさる)三百六十二年)の桶狭間(おけはさま)役(えき)に       方(あた)つては勿論(もちろん)今川軍(いまがはぐん)に加(くは)はつて先(ま)づ丸根(まるね)の城(しろ)を抜(ぬ)き鵜殿長助(うどのながすけ)に代(かは)つて大高城(おほたかぜう)に入つたのが恰(あだか)も五月十 桶狭間役  九日 桶狭間(おけはざま)合戦(かつせん)の当日である元来(がんらい)此(この)大高城(おほたかぜう)と云ふのは今(いま)の大高停車場(おほたかていしやぜう)の南方(なんぽう)に当(あた)る小丘(せうきう)の地(ち)にあつた       ので当時(とうじ)は海水(かいすゐ)が深(ふか)く鳴海(なるみ)附近(ふきん)まで灣入(わんにう)し且つ敵地(てきち)に突出(とつしゆつ)して居(を)つたのであるから頗(すこぶ)る守(まも)り難(がた)い処(ところ)で       あつた而(しか)して義元(よしもと)は五月の十日に駿府(しゆんぷ)を発(はつ)し十四日には此(この)吉田(よしだ)に陣(ぢん)し段々(だん〴〵)進(すゝ)むで其(その)十九日には桶狭間(おけはさま)       の傍(かたはら)の田楽狭間(でんがくはさま)と云ふ処に陣取(ぢんど)つたのである即(すなは)ち此日(このひ)織田信長(をたのぶなが)の為(ため)に襲撃(しうげき)せられて戦死(せんし)した事は普(あまね)      く人の知る処であるが余(あま)り突然(とつぜん)の事であつたので今川方(いまがはがた)は非常(ひぜう)に狼狽(ろうばい)して岡崎(をかざき)の守将(しゆせう)の如きも城(しろ)を捨(す) 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十五 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)                    六十六 【本文】 《割書:家康岡崎城|に帰る》  てゝ駿河(するが)へ逃(に)げ還(かへ)つたのであるソコで家康(いへやす)は初(はじ)めて岡崎(をかざき)の本城(ほんぜう)に入つたのであるが其(その)後(ご)義元(よしもと)の子(こ)氏真(うぢさね)       と云ふ人は到底(とうてい)頼(たの)み甲斐(かひ)のない人であると云ふので遂(つひ)に今川氏(いまがはし)と絶(た)つて織田氏(をたし)と相(あひ)提携(てうけい)するに至(いた)つた       ので徳川(とくがは)今川(いまがは)両氏(れうし)の間(あひだ)には之(これ)から戦争(せんそう)が絶間(たへま)のない事となつて此(この)豊橋(とよはし)地方(ちほう)も殆(ほとん)ど其(その)戦場(せんぜう)となつたので       あるそれ等(ら)の状況(ぜうけう)に就(つひ)ては追々(おひ〳〵)後章(こうせう)に於(おい)て申述(もうしの)べたいと思(おも)ふ             ⦿桶狭間役後の情況        扨(さて)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く家康(いへやす)は今川義元(いまがはよしもと)の戦死(せんし)した時 大高城(おほたかぜう)にあつたが其(その)戦死(せんし)を確(たしか)めて後(のち)其夜(そのよ)月(つき)の出(い)づ 岡崎城代  るを待(ま)つて軍(ぐん)を大樹寺(だいじゆじ)まで引上(ひきあ)げたのである然(しか)るに岡崎城(をかざきぜう)の城代(ぜうだい)は廿三日に至(いた)つて駿河(するが)に逃還(にげかへ)つたの       で家康(いへやす)は初(はじ)めて其(その)本城(ほんぜう)に入(い)つたのであるが其頃(そのころ)の城代(ぜうだい)は何(なん)と云ふ人であつたか審(つまびらか)でないが勿論(もちろん)今川       氏の家人(かじん)で三浦上総介義保(みうらかづさのすけよしやす)、 飯尾弥次右衛門(いゝをやじうゑもん)など云う人であつたようである最初(さいしよ)石川右近(いしかはうこん)と云ふ人(ひと)等(ら)       が居(を)つた事は諸種(しよしゆ)の記録(きろく)に見ゆる処であるが此時(このとき)は既(すで)に交代(こうたい)したものと思(おも)はれるソコで織田信長(をたのぶなが)に於 《割書:家康氏真を|促す》  ては義元(よしもと)も既(すで)に戦死(せんし)した事であるから家康(いへやす)は自然(しぜん)己(おの)れに従(したが)ふであろうと思(おも)ふて居(を)つたであろうが家康(いへやす)       は中(なか)々そうでない屡々(しば〳〵)使(つかひ)を駿府(すんぷ)に遣(つか)はして父(ちゝ)の為(ため)に吊(とむらひ)戦(いくさ)をするように義元(よしもと)の子(こ)氏真(うぢさね)に申送(もうしおく)つたので       ある然(しか)るに氏真(うぢさね)は一 向(こう)之(これ)に応(おう)ずる様子(ようす)が見(み)えぬにも拘(かゝは)らず家康(いへやす)は着々(ちやく〳〵)兵(へい)を出(いだ)して挙母(ころも)、 梅坪(うめつぼ)、 広瀬(ひろせ)、        刈谷(かりや)など織田氏(をたし)に属(ぞく)する諸城(しよぜう)を攻撃(こうげき)し其翌(そのよく)永禄四年には尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に攻(せ)め入(い)り二月の七日には石瀬(いしせ) 石瀬合戦  に於て水野信元(みづののぶもと)の兵(へい)と戦(たゝか)つたのであるケレども氏真(うぢさね)は相替(あひかは)らず之(これ)に応援(おうゑん)しようともせぬので徳川氏(とくがはし)に 《割書:家康氏真と|絶ち信長と》  於ては遂(つひ)に意(い)を決(けつ)して今川氏と絶(た)ち却(かへつ)て織田氏(をたし)と相和(あわ)するに至(いた)つたのである松平記(まつだひらき)で見(み)ると此事(このこと)は其 和す    年の初(はじめ)であつたようにも推察(すいさつ)せらるゝが兎(と)に角(かく)石瀬合戦(いしせかつせん)の後(のち)であつたに相違(さうゐ)ないのである又(また)かくなる 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       迄の事情(じぜう)に就(つい)ては種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があるが家康(いへやす)が今川氏に人質(ひとしち)となつて居(を)つた頃(ころ)の徳川氏の嶮岨艱難(けんそかんなん)と云ふ       ものは容易(ようい)ならぬ事で家人(かじん)等(ら)は毎度(まいど)の合戦(かつせん)に先鋒(せんぽう)に用(もち)ゐられて悪戦苦闘(あくせんくとう)を続(つゞ)けて少(しこ)しも怨(うら)む所(ところ)なく偏(ひとへ)       に主君(しゆくん)の成長(せいてう)を希(こひねが)つて居つたのであるのに家康(いへやす)が成長(せいてう)してからも義元(よしもと)はハカ〴〵しく其(その)領地(れうち)を返(かへ)さ       うともせず頗(すこぶ)る徳川氏をして疑(うたがひ)を大(だい)ならしめた点(てん)がある殊(こと)に氏真(うぢさね)の頼(たの)むに足(た)らざることは前(まへ)の如(こと)き事(じ)        情(ぜう)であるから最早(もはや)今日(こんにち)まで尽(つく)した以上(いぜう)は仮令(たとへ)盟(ちかい)をかゆるとも決(けつ)して武士(ぶし)の面目(めんもく)に背(そむ)く訳(わけ)ではないと云       ふのが一つの理由(りゆう)であつた事と思(おも)はれる且(か)つ此(この)水野信元(みづののぶもと)と云ふ人は前章(ぜんせう)にも申述(もうしのべ)た如く家康(いへやす)の生母(せいぼ)後(のち)       に伝通院(でんつうゐん)と云はれた人の兄弟(けうだい)であるので此(この)和議(わぎ)に就(つい)ては余程(よほど)斡旋(あつせん)の労(ろう)を取(と)つたものと見(み)ゑるソコで信(のぶ)        長(なが)と家康(いへやす)とは互(たがひ)に誓書(せいしよ)を取替(とりか)はしたのであるが之(これ)が駿府(すんぷ)へ知(し)れたから氏真(うぢさね)は大(おほい)に怒(いか)り使(つかひ)を以(もつ)て責問(せきもん)し 中島の戦  たが余(あま)り功能(こうのう)がなかつたのみならず家康(いへやす)は兵(へい)を出(いだ)して今川方の板倉弾正重定(いたくらだんじようしげさだ)を中島(なかじま)並(ならび)に岡(をか)(額田郡)と       云ふ処に攻(せ)め重定(しげさだ)は遂(つひ)に城(しろ)を捨(す)てゝ東三河に逃(のが)れたので中島(なかじま)をば深溝松平(ふかうづまつだひら)の大炊助好景(おほひのすけよしかげ)に賜(たまは)つたので       ある而(しか)して形原(かたのはら)の松平又(まつだひらまた)七 家広(いへひろ)、 竹谷(たけのや)の松平玄蕃允清善(まつだひらげんばのぜうきよよし)、 野田(のだ)の菅沼新(すがぬましん)八 郎定盈(らうさだみつ)、段峯(だんみね)の菅沼小法師(すがぬまこほうし)        定直(さだなほ)、 長篠(ながしの)の菅沼左衛門貞景(すがぬまさゑもんさだかげ)、 作手(つくて)の奥平(おくだひら)九八 郎貞能(らうさだよし)、 川路(かはぢ)の設楽越中守貞通(したらゑつちうのかみさだつう)、 西郷(さいごう)の西郷弾正左(さいごうだんぜうさ) 《割書:小原鎮実東|三河諸将士》   衛門正勝(ゑもんまさかつ)等(とう)は孰(いづ)れも旗幟(きしよく)を明(あきらか)にして徳川氏に属(ぞく)したので氏真(うぢさね)は小原鎮実(こはらしげさね)に命(めい)じて之(これ)等(ら)の人々の質(しち)が 《割書:の質を吉田|城外に惨殺》   吉田城(よしだぜう)に籠(こ)め置(お)いてあつたのを殺害(さつがい)せしめたのであるモツトモ此事(このこと)に就(つい)ては種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があつて永禄(えいろく)三 す     年の事であると云ふ説(せつ)も仝五年であると云ふ説(せつ)も又(ま)た七年であると云ふ説もあるが朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には        諸記録(しよきろく)を考証(こうせう)して此年(このとし)の事であるとしてある兎(と)に角(かく)惨酷(さんごく)極(きは)まる事をしたもので此時(このとき)殺害(さつがひ)されたのは松(まつ)        平家広(だひらいへひろ)、 松平清善(まつだひらきよよし)、 菅沼定盈(すがぬまさだみつ)、 菅沼定直(すがぬまさだなほ)、 菅沼貞景(すがぬまさだかげ)、 奥平貞能(おくだひらさだよし)、 西郷正勝(さいごうまさかつ)、 設楽貞通(したらさだつう)、 奥山修理(おくやましうり)、 水(みづ)       野藤兵衛(のとうべゑ)、 大竹兵右衛門(おほたけへうゑもん)、 浅羽(あさば)三 太夫(たいう)、 大竹麦右衛門(おほたけむぎうゑもん)、 梁田某(れうたなにがし)等(とう)の妻子(さいし)で十三人であると書(か)いたもの 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)                    六十七 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)                    六十八 【本文】       も十一人であると記(しる)したのもあるが此(この)人名(じんめい)で見(み)ると尚(な)ほ多数(たすう)であつたものと思(おも)はれる松平記(まつだひらき)には吉田(よしだ)        城(ぜう)外(ぐわい)龍念寺(りうねんじ)口(くち)にて串刺(くしざし)に致(いた)すと書(か)いてあるが龍拈寺(りうねんじ)と云ふのは即(すなは)ち龍拈寺(りうねんじ)の事で其頃(そのころ)龍拈寺(りうねんじ)口(くち)と云ふ       のは城廓(ぜうくわく)の一 方(ぽう)の口(くち)に当(あた)つて居(を)つたものであるが此(この)惨殺(ざんさつ)は頗(すこぶ)る史家(しか)の問題(もんだい)とする処で実(じつ)に今川氏の滅(めつ)        亡(ばう)は当然(とうぜん)の事であるとまで論(ろん)ぜられて居(を)るのである而(しか)して今(いま)も渥美郡(あつみぐん)高師村(たかしむら)福岡(ふくをか)の地内(ちない)に十三 本塚(ほんづか)と       云ふ処があるが之(これ)は其(その)質(しち)の屍体(したい)を葬(ほうむ)つたので其(その)名(な)があると伝説(でんせつ)せられて居る果(はた)して如何(いか)なるものか之(これ)       は少(すこ)しく当(あて)にならぬように思(おも)ふ又(ま)た此処(こゝ)に一つの話(はなし)があるが之(これ)は菅沼氏(すがぬまし)の貞享書上(ていけうかきあげ)にあるので悲惨(ひさん)な 《割書:菅沼定盈の|妹》  る事抦(ことがら)であるが此時(このとき)多(おほ)くの人質(ひとしち)の中(なか)に菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の妹(いもと)で「ヲミイ」と云ふのが十一歳であつたが矢張(やはり)串(くし)に        貫(つらぬ)いて殺(ころ)す事に定(さだ)まつたのを其(その)乳母(うば)が竊(ひそ)かに知(し)つて菅沼家(すがぬまけ)譜代(ふだい)の家人(けじん)の末流(まつりう)で寄田助(よりたすけ)四 郎(らう)と云ふもの       が城中(ぜうちう)にあつたのを頼(たの)むで夜中(やちう)に抜(ぬ)け出(い)でたのであるそれで此(この)妹(いもと)と乳母(うば)とは助(たす)かつたが寄田(よりた)は後(のち)に至(いた)       つて事が露顕(ろけん)して吉田(よしだ)城外(ぜうぐわい)で磔殺(けつさつ)せられたのである随分(ずいぶん)此(この)時代(じだい)には惨酷(ざんこく)の事が多(おほ)かつたものであるが        此(かく)の如(ごと)く其(その)質(しち)を殺(ころ)された将士(せうし)にありては益々(ます〳〵)今川氏に対(たい)して反抗(はんこう)の度(ど)を高(たか)め東三河の形勢(けいせい)は愈々(いよ〳〵)険悪(けんあく) 《割書:家康東条義|昭を攻む》  となり来(きた)つたのである此時(このとき)に方(あた)り西三河に於(おい)ては其四月 家康(いへやす)は自(みづか)ら兵(へい)を卒(ひき)ゐて東条(とうぜう)の吉良義昭(きらよしあきら)を攻(せ)め       たのであるが此(この)義昭(よしあきら)と云ふ人は左兵衛佐義尭(さへうえのすけよしたか)の子(こ)で義郷(よしさと)の弟(おとゝ)であつて義諦、義明、義顕など色々(いろ〳〵)に書(か)       いたものがあるが皆(みな)此(この)義昭(よしあきら)の事である元来(がんらい)吉良氏(きらし)は前章(ぜんせう)にも申述た如く足利氏(あしかゞし)の分(わか)れで長氏(てうし)の子(こ)の満(みつる)        氏(し)と云ふ人が三河の守護(しゆご)として幡豆郡(はづぐん)に居(を)り初(はじ)めて吉良氏(きらし)を称(せう)したのである義尭(よしたか)は即(すなは)ち其(その)八 世(せい)の孫(まご)に        当(あた)るのであるが天文五年 欵(かん)を織田氏(をたし)に通(つう)じ松平氏(まつだひらし)を図(はか)つて巳(おの)れの旧領(きうれう)を復(ふく)せんとしたので今川義元(いまがはよしもと)の        為(ため)に攻殺(こうさつ)せられたが其子(そのこ)の上野介義安(こうづけのすけよしやす)は義元(よしもと)の旨(むね)により駿河(するが)の薮田(やぶた)と云ふ処に居(を)つて其(その)弟(おとゝ)の義昭(よしあきら)をし       て西尾(にしを)の城(しろ)を守(まも)らしめたのである然(しか)るに此(この)義昭(よしあきら)も亦(ま)た弘治二年に義元(よしもと)に叛(そむ)きて欵(かん)を信長(のぶなが)に通(つう)じたが程(ほど) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百七十六号附録□□□( 明治四十四年六月六日発行 ) 【本文】 《割書:牧野貞成西|尾城を守る》  なく又(ま)た今川氏(いまがはし)に服従(ふくじう)したのである而(しか)して其頃(そのころ)義昭(よしあきら)は自(みづか)ら東條(とうぜう)の城(しろ)に移(うつ)り西尾の城をば牛久保(うしくぼ)の牧野(まきの)        新次郎貞成(しんじらうさだなり)を招(まね)いて守(まも)らしめたのであるが此(この)貞成(さだなり)は即ち長岡侯(ながをかこう)牧野氏の祖先(そせん)で既(すで)に前章(ぜんせう)に申述べて置       いた通(とほ)りであるトコロが此事(このこと)を以て貞成(さだなり)ではなく其子(そのこ)の成定(なりさだ)であるように書(か)いた記録(きろく)が沢山(たくさん)にあるの       で疑(うたがひ)を生(せう)ずるが之(これ)は父子(ふし)孰(いづ)れも初(はじ)めに新次郎と称(せう)した処(ところ)から来(きた)つた間違(まちがひ)である成定(なりさだ)ではドウしても時(じ)        代(だい)が合(あ)はぬので父(ちゝ)の貞成(さだなり)であるのが事実(じじつ)であるモツトモ義昭(よしあきら)が今川氏に叛(そむ)いた事 並(ならび)に貞成(さだなり)が西尾城(にしおぜう)に       入(い)つた事に就(つい)ては年代(ねんだい)に疑問(ぎもん)があつて牧野子爵家(まきのしゝやくけ)の調査(てうさ)で見(み)ても数説(すうせつ)あるし又(ま)た三 河物語(かはものがたり)で見ると桶(おけ)        狭間(はざま)戦後(たゝかひご)義昭(よしあきら)並に貞成(さだなり)は織田氏(をたし)に属(ぞく)して居つて織田(をた)徳川(とくがは)二 氏(し)の和(わ)する頃(ころ)より却(かへつ)て今川方に属(ぞく)したよう       に推及(すいきう)せらるゝのであるが三 河物語(かはものがたり)は只(た)だ其(その)記憶(きおく)によりて書(か)き列(つら)ねたものであるから論理的(ろんりてき)に之(これ)を研(けん)        究(きう)するのは少(すこ)しく無理(むり)であろうと思(おも)ふ従(したがつ)て私は前に述べた説(せつ)を信(しん)ずるものであるがサテ家康(いへやす)が愈々(いよ〳〵)        織田氏(をたし)と提携(ていけい)したのに義昭(よしあきら)等(など)今川方である処(ところ)から遂(つひ)に今度(このたび)之(これ)をせ攻(せ)むるに至(いた)つたのである即(すなは)ち幡豆郡(はづぐん)       の善明寺(ぜんみようじ)堤(つゝみ)に於(おい)て松平好景(まつだひらよしかげ)が討死(うちじに)したのも此時(このとき)の事であるが前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)き事情(じぜう)から此時(このとき)の事(こと)と弘       治二年の事とを混(こん)一した記録(きろく)が少(すくな)くないので此事(このこと)に関(かん)する松平記(まつだひらき)の記事(きじ)の如(ごと)きも矢張(やはり)同様(どうやう)であると信(しん) 荒川甲斐守 ずる然(しか)るに其頃(そのころ)義昭(よしあきら)の一 族(ぞく)に荒川甲斐守義広(あらかはかひのかみよしひろ)と云ふ人があつて此人(このひと)の名(な)は頼持(よりもち)、義等、 義虎(よしとら)など色々(いろ〳〵)       に書(か)くが義昭(よしあきら)と隙(げき)があつた結果(けつくわ)欵(かん)を徳川方(とくがはがた)に通(つう)じ力(ちから)を合(あは)せて西尾城(にしおぜう)を攻(せ)めたので牧野貞成(まきのさだなり)は遂(つひ)に守(まも)り 《割書:貞成牛久保|に退く》   切(き)れなくなつて牛久保(うしくぼ)へ引返(ひきかへ)つたのである夫(それ)より尚(な)ほ戦(たゝかひ)は継続(けいぞく)して九月十三日には藤浪畷(ふぢなみなはて)の戦(たゝかひ)などゝ       云ふのがあつたが力(ちから)及(およ)ばずして義昭(よしあきら)は遂(つひ)に徳川氏に降参(こうさん)したのである之(これ)で先(ま)づ西三河の方は一時 平定(へいてい)       に帰(き)したのであるが東三河に於(おい)ては前(まへ)にも申述(もうしのべ)た如(ごと)く小原鎮実(こはらしげさね)が此吉田城に居て所謂(いはゆる)今川氏(いまがはし)の重鎮(ぢうちん)と 野田の城  なり其年(そのとし)の七月廿九日に牛久保(うしくぼ)、二 連木(れんぎ)、 伊奈(いな)等(とう)の兵を率(ひき)ゐて野田(のだ)の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)を攻(せ)めたのであるソコ 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)                    六十九 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十 【本文】       で定盈(さだみつ)は西郷正勝(さいごうまさかつ)の子(こ)、 孫(まご)六 郎元正(らうもとまさ)と共(とも)に之(これ)を固守(こしゆ)したが敵(てき)から和(わ)を求(もと)められたので到底(とうてい)衆寡(しうくわ)敵(てき)せさ       る場合(ばあひ)であつたから遂(つひ)に之(これ)に応(おう)じ城(しろ)を明渡(あけわた)して自(みづか)らは元正(もとまさ)と共に正勝(まさかつ)の処へ引退(ひきしりぞ)いたのであるか鎮実(しげさね)       は更(さら)に新城(しんしろ)に菅沼定直(すがぬまさだなほ)を攻(せ)めたのであるモツトモ定直(さだなほ)は当時(とうじ)段峯(だみね)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へて居(を)つたのであるから 新城の戦   新城(しんしろ)には城代(ぜうだい)が居つた事であろうが菅沼伊賀守定勝(すがぬまいがのかみさだかつ)などが奮戦(ふんせん)したので鎮実(しげさね)は遂(つひ)に軍(ぐん)を退(しりぞ)けた其後(そののち)定(さだ)        盈(みつ)は自(みづか)ら西郷(さいごう)の高城(たかしろ)に砦(とりで)を設(もう)け正勝(まさかつ)は同(おな)じ八 名郡(なぐん)の堂山(どうやま)と云ふ所に居(きよ)を搆(かま)へたので今川方(いまがはがた)に於(おい)ては牛       久保の牧野出羽守保成(まきのではのかみやすなり)仝新次郎 貞成(さだなり)を先陣(せんぢん)として之(これ)を攻(せめ)しめたと云ふ訳(わけ)で戦争(せんそう)の絶(た)ゆる間(ま)はなかつた 《割書:五本松|月谷》   のである其後(そのご)正勝(まさかつ)は又(ま)た城(しろ)を中山(なかやま)の五 本松(ほんまつ)(八名郡)と云ふ処(ところ)と嵩山(すせ)の月谷(つきのや)と云ふ処に築(きづ)いて自(みづか)らは五       本松に居(を)り其子(そのこ)の元正(もとまさ)をして月谷(つきのや)に居(を)らしめたが此(この)年(とし)の九月廿六日に今川方(いまがはがた)の将(せう)朝比奈紀伊守泰長(あさひなきいのかみやすなが)が 《割書:西郷正勝等|の戦死》  やつて来(き)て西郷氏(さいごうし)が新(あらた)に搆(かま)へた此(この)五 本松(ほんまつ)の城(しろ)を攻(せ)め正勝(まさかつ)、 元正(もとまさ)は皆(みな)之(これ)に戦死(せんし)したので自然(しぜん)月谷(つきのや)の城(しろ)も 《割書:定盈野田城|を復す》   陥(おちゐ)つたのであるが其(その)翌(よく)永禄(えいろく)五 年(ねん)の六月二日には菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が夜(よ)に乗(ぜう)じて野田(のだ)の城(しろ)を襲撃(しうげき)し今川勢(いまがはぜい)を追(お)つ       て復(ふたゝ)び之(これ)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へたのであるソコで今川方(いまがはがた)に於(おい)ては又(ま)た之(これ)を攻撃(こうげき)したが今度(このたび)は到底(とうてい)抜(ぬ)くことが出来(でき)       ぬ新城聞書(しんしろきゝがき)によると新城(しんしろ)攻(せ)めのあつたのは此時(このとき)の事で当時(とうじ)、 新城(しんしろ)、 段峯(だみね)の菅沼氏(すがぬまし)は欵(かん)を武田氏(たけだし)に通(つう)じ       たものであると記(しる)してあるが此説(このせつ)は輙(たやす)く信(しん)せられぬように思(おも)ふ兎(と)に角(かく)其頃(そのころ)に於(お)ける此(この)地方(ちはう)と云ふもの       は紛乱(ふんらん)を極(きは)めたので史実(しじつ)の混淆(こんこう)は言(い)ふ迄(まで)もなく従(したがつ)て年月などの相違(さうゐ)は記(き)するものによつて異(ことな)つて居(を)       るのであるから研究者(けんきうしや)の最(もつと)も苦(くるし)む処(ところ)であるかゝる場合(ばあひ)に方(あた)つて家康(いへやす)は又た屡々(しば〳〵)兵(へい)を東三河に進(すゝ)めたの 鳥屋根の戦 で永禄(えいろく)四年四月十一日に牛窪(うしくぼ)に襲来(しうらい)したのであるが其(その)八月には長沢(ながさわ)の鳥屋根(とやね)の城(しろ)を陥(おとしゐ)れ更(さら)に十月 晦(みそ) 《割書:鵜殿長照戦|死》   日(か)には牛窪原(うしくぼはら)に於て合戦(かつせん)があつたのである而(しか)して仝五年の二月には宝飯郡(ほゐぐん)上郷村(かみごうむら)の鵜殿藤太郎長照(うどのとうたらうながてる)を        攻(せ)めて之(これ)を陥(おとしゐ)れ長照(ながてる)は討死(うちじに)をしたのであるが其(その)二 子(し)は遂(つひ)に徳川方(とくがはがた)に生擒(いけどり)となつたのである此(この)長照(ながてる)と 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】       云ふのは長持(ながもち)の子(こ)で三 河物語(かはものがたり)には此時(このとき)討死(うちじに)したのを長持(ながもち)であるとしてあるが松平記(まつだひらき)其他(そのた)にも擒(とりこ)となつ       たのを藤太郎(とうたらう)及(およ)び其(その)弟(おとゝ)であると記(しる)してある併(しか)し之(これ)に就(つい)ては前(まへ)に述(の)べたのが事実(じじつ)であると思(おも)ふ然(しか)るに当(とう)        時(じ)家康(いへやす)の長子(てうし)の信康(のぶやす)はまだ竹千代(たけちよ)と云つて居(を)つたが母(はゝ)関口氏(せきぐちし)と共に駿河(するが)にあつたので実(じつ)に危急(ききう)の有様(ありさま)で 《割書:信康岡崎に|帰る》  あつたソコで石川数正(いしかはかずまさ)の計(はか)らひで今川氏実(いまがはうぢさね)に説(と)ひて此(この)鵜殿(うどの)の二 子(し)と信康(のぶやす)とを交換(こうくわん)することが成立(なりた)つて信(のぶ)        康(やす)は初(はじ)めて国(くに)に帰(かへ)る事が出来(でき)関口氏(せきぐちし)も程(ほど)なく三河に来(きた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て家康(いへやす)は益々(ます〳〵)兵(へい)を東三河に        出(いだ)したが長岡牧野家(ながをかまきのけ)及(およ)び田邉牧野家(たなべまきのけ)に蔵(ぞう)する氏真(うぢさね)の感状(かんぜう)によると其後(そのご)永禄(えいろく)五年五月七日 富永(とみなが)、同九月       廿九日八 幡(はた)、同九月廿二日 夜(よ)より廿三日 大塚(おほつか)、同六年四月 牛窪(うしくぼ)に於(おい)て孰(いづ)れも徳川(とくがは)今川(いまがは)両勢(れうせい)の間(あひだ)に合戦(かつせん)       があつたものであるかゝる有様(ありさま)であるから今川方(いまがはがた)に於ては佐脇(さわき)八 幡(はた)に新砦(しんさい)を設(もう)け徳川方に於(おい)ても一の 《割書:家康一の宮|の後詰》   宮(みや)に砦(とりで)を搆(かま)へて本多(ほんだ)百 助信俊(すけのぶとし)をして之(これ)を守(まも)らしめたのである彼(か)の家康(いへやす)が一の宮(みや)の後詰(あとづめ)とて有名(ゆうめい)なる話(はなし)       も亦(ま)た其頃(このころ)の事で松平記(まつだひらき)によると永禄(えいろく)五年六月であつたと見(み)えるが此話(このはなし)は三 河物語(かはものがたり)にも記(しる)されて居(を)る       事である即(すなは)ち氏真(うぢさね)が一 万余騎(まんよき)を率(ひき)ゐて牛久保に張陣(てうぢん)し一の宮は僅(わづか)に五六百の人数(にんず)で実(じつ)に危急(ききん)を告(つ)げた       ので家康(いへやす)は自(みづか)ら手兵(しゆへい)三千 許(ばかり)を以(もつ)て八 幡佐脇(はたさわき)の敵前(てきぜん)を過(す)ぎて此一の宮に応援(おうえん)したあるが此時(このとき)老臣(ろうしん)等(ら)       は切(しき)りに其(その)危険(きけん)なることを諌(いさ)めたのである然(しか)るに家康(いへやす)が言(い)ふには家人(けじん)に敵地(てきち)の番(ばん)をさせて置(おき)ながら敵(てき)寄(よ)       せ来(く)ると聞(きい)て救(すく)はざらむには信(しん)も義(ぎ)もなきと云ふものなり万(まん)一 後詰(あとづめ)を仕損(しそん)じ討死(うちじに)せんも天命(てんめい)なり適(てき)の        大軍(たいぐん)も小勢(せうぜい)も云ふべき処(ところ)にあらずとて顧(かへり)みなかつたとの事である之(これ)は信義(しんぎ)を重(おもん)ずると云ふ事に就(つい)て一       の美談(びだん)として後世(こうせい)迄(まで)も伝(つた)はつて居(を)る処である而(しか)して牛久保密談記(うしくぼみつだんき)によると其翌(そのよく)六年の三月六日に又た        牛久保原(うしくぼはら)に合戦(かつせん)があつて家康(いへやす)自(みづか)ら千五百 余騎(よき)を率(ひき)ひて攻(せ)め来(きた)つたのであるが当時(とうじ)牧野新次郎(まきのしんじらう)は民部丞(みんぶのぜう)        成継(しげつぐ)と云つた頃(ころ)であるが既(すで)に心(こゝろ)を徳川方に傾(かたむ)けて居(を)つたから病(やまひ)と称(せう)して此(この)戦(たゝかひ)には加(くは)はらず其子(そのこ)の右(う) 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十一 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十二 【本文】 《割書:牧野保成戦|死》   馬允(まのじよう)をして出羽守保成(ではのかみやすなり)に従て戦(たゝか)はしめたのであるが此(この)戦(たゝかひ)に於て保成(やすなり)は遂(つひ)に戦死(せんし)したのであると云ふ       ことが記(しる)されてある或(あるひ)は之(これ)は保成(やすなり)が強硬(けうこう)で徳川氏に属(ぞく)することを承知(せうち)せぬ処から止(やむ)を得(え)ず右馬允(うまのじよう)が殺(ころ)した       ものであるそれ故(ゆゑ)に此(この)戦(たゝかひ)の後(のち)右馬允(うまのじよう)は暫(しばら)く遠江(とふとほみ)の鵜津山(うつやま)朝比奈紀伊守(あさひなきいのかみ)の処に退(しりぞ)いて居(を)つたのである       と云ふ伝説(でんせつ)がある併(しか)し之(これ)は全(まつた)く俗説(ぞくせつ)で到底(とうてい)信(しん)ずる事の出来(でき)ぬ話(はなし)であると思(おも)ふが此(この)保成(やすなり)と云ふ人は余程(よほど)       の勇者(ゆうしや)であつた様子(やうす)で殊(こと)に牛久保(うしくぼ)に於ては最(もつと)も勢力(せいりよく)のあつたものと信(しん)ぜられる宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(だいおんじ)阿(あ)        弥陀堂(みだどう)の棟札(むなふだ)にも                   牧野出羽守保成   家督伝三郎成元          大檀那                   牧野右馬允成守          天文廿二丑年五月十三日       と云ふのが残(のこ)つて居(を)る而(しか)して前(まへ)の密談記(みつだんき)にある民部丞成継(みんぶのぜうしげつぐ)及(およ)び其子(そのこ)の右馬允(うまのじよう)と云ふのは果(はた)して誰(たれ)を指(さ)       したものであろうか疑問(ぎもん)ではあるが長岡牧野家(ながをかまきのけ)に於ては祖先(そせん)以来(いらい)代々(だい〳〵)新次郎、 右馬允(うまのじよう)、 民部丞(みんぶのぜう)と称(とな)へ       たので此(この)時代(じだい)は丁度(てうど)貞成(さだなり)幷(ならび)に其子の成定(なりさだ)の時に相当(さうとう)するのである或(あるひ)は成継(しげつぐ)と云ふのは成勝(しげかつ)一に氏勝(うじかつ)と       云つた人の事であるとの説(せつ)があるが果(はた)してソウなると時代(じだい)が合(あ)はぬから密談記(みつだんき)の記事(きじ)が誤(あやまり)であると       云ふ事になるのである又た此(この)棟札(むなふだ)に成守(なりもり)とあるのは牛久保密談記(うしくぼみつだんき)によれば貞成(さだなり)に当(あた)るようでもあるが 《割書:牛久保の諸|士》   併(しか)し之(これ)は成定(なりさだ)の事であるとの説(せつ)が正(たゞ)しいと信(しん)ずる而(しか)して当時(とうじ)牛窪(うしくぼ)には如何(いか)なる人々が主(おも)なるものであ       つたかと云ふに永禄(えいろく)八年の二月 氏真(うぢさね)が出した吉田城中取替兵糧(よしだぜうちうとりかへへうれう)の文書(ぶんしよ)があつて左(さ)の連名(れんめい)が記(しる)されて居(を)       るのである              吉田城中取替兵糧之事 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百八十二号附録□□□( 明治四十四年六月十三日発行 ) 【本文】         合参百俵         右此内貮百俵者鵜殿休庵大原弥左衛門相残百俵ハ隠岐越前守立合城中江入候間忠節之至也然レバ         此返済之事於望之地申付者也           永禄八乙丑二月二日                牧野右馬允殿                牧野山城守殿                野瀬丹羽守殿                岩瀬和泉守殿                眞木越中守殿                眞木善兵衛殿       これ等(ら)の人々は皆(みな)牛久保(うしくぼ)に居(を)つたので此時(このとき)はまだ孰(いづ)れも今川方であつたものと見(み)へる勿論(もちろん)保成(やすなり)は既(すで)に        戦死(せんし)の後(のち)であるが此(この)右馬允(うまのぜう)と云ふのは即(すなは)ち前(まへ)にも申述(もうしの)べた成定(なりさだ)の事で山城守(やましろのかみ)と云ふのは之(これ)亦(ま)たズツト        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖先(そせん)定成(さだしげ)の事である而(しか)して其他(そのた)の人々は其後(そのご)孰(いづ)れも長岡牧野家(ながをかまきのけ)の家臣(かしん)と       なつたので今日も尚(な)ほ子孫(しそん)が長岡(ながをか)の家中(かちう)に遺(のこ)つて居(を)るとの事である尚(なほ)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいのは其(その) 《割書:稲垣平右衛|門》   頃(ころ)牛久保(うしくぼ)に稲垣平右衛門(いながきへいうゑもん)と云ふ人があつた事である此人(このひと)は亦(ま)た余程(よほど)の勇者(ゆうしや)で保成(やすなり)戦死(せんし)の時(とき)部下(ぶか)の者(もの)十       六人は悉(こと〴〵)く討死(うちじに)し自分(じぶん)も深手(ふかで)を負(あ)ふたが幸(さいはひ)に全快(ぜんかい)して後(のち)に長岡牧野家(ながをかまきのけ)が上州(ぜうしう)の大胡(おほご)に移封(いふう)せられて       から其処(こそ)で終(をはり)を全(まつた)ふしたのであるが当時(とうじ)氏真(うぢさね)から此人(このひと)に与(あた)へた感状(かんぜう)は幾通(いくつう)もあつて今(いま)長岡(ながをか)の牧野子爵(まきのしゝやく)        家(け)に遺(のこ)つて居るが毎度(まいど)激賞(げきせう)の意味(いみ)が書(か)かれて居(を)るのである又た牛窪(うしくぼ)に今(いま)も「ウブメ塚」と云ふのが残(のこ)つ 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十三 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十四 【本文】       て居(を)るが之(これ)は右(みぎ)の十六人を合葬(がつさう)した処(ところ)だとい云ふことである 清洲の会見  扨(さて)家康(いへやす)に於ては之(これ)より先(さ)き永禄(えいろく)五年の正月に清洲(きよす)へ行(い)つて信長(のぶなが)に対面(たいめん)したのであるが引続(ひきつゞ)いて信長(のぶなが)か       らも使者(ししや)が来(き)たと云ふ訳(わけ)で其翌(そのよく)永禄(えいろく)六年三月には信長(のぶなが)の女徳姫(ぢよとくひめ)を以て信康(のぶやす)に配(はい)することに定(さだ)まつたので 家康改名  ある而(しか)して其秋(そのあき)家康(いへやす)は之(これ)迄(まで)元康(もとやす)と称(とな)へて居(を)つたのを茲(こゝ)に家康(いへやす)と改(あらた)めたのである此(この)改名(かいめい)に就(つい)ても説(せつ)は区(まち)        区( まち)であるが此年(このとし)の六月 松平(まつだひら)三 蔵信次(ざうのぶつく)に与(あた)へられた文書(ぶんしよ)にはまだ元康(もとやす)とあつて其(その)十月廿四日 松平亀千代(まつだひらかめちよ)        松井左近(まつゐさこん)に賜(たまは)つた文書(ぶんしよ)には家康(いへやす)と署名(しよめい)されてあるのだから此(この)改名(かいめい)は必(かなら)ず其(その)間(あひだ)でなくてはならぬと云ふ       のが正(たゞ)しい説(せつ)であると思(おも)ふ然(しか)るに此(この)年(とし)の九月徳川氏に取(と)りては実(じつ)に不慮(ふりよ)の災難(さいなん)とも云ふべき大事件(だいじけん)が        起(おこ)つたのである之(これ)は外(ほか)でもない彼(か)の一 向専修(こうせんしう)の乱(らん)である 《割書:一向専修の|乱》   此(この)乱(らん)の起(おこ)りは実(じつ)に一寸(ちよつと)した事で永禄(えいろく)六年の九月に菅沼藤(すがぬまとう)十 郎定顕(らうさだあき)が家康(いへやす)の旨(むね)を受(う)けて碧海郡(へきかいぐん)佐崎(ささき)と云       ふ処に砦(とりで)を搆(かま)へたのであるが兵糧(へうれう)の乏(とぼ)しい処から上宮寺(ぜうぐうじ)と云ふ寺(てら)に蓄(たくわ)へて居つた籾(もみ)を強(しひ)て徴発(てうはつ)したの       であるソコで寺僧(じそう)は怒(いかつ)て野寺(のでら)の本証寺(ほんせうじ)、 針崎(はりざき)の勝曼寺(せうまんじ)などと云ふ同宗(どうしう)の寺(てら)を語(かた)らつて衆徒(しうと)を催(もよほ)し定顕(さだあき)       が砦(とりで)に狼藉(らうぜき)したのである之(これ)が原因(げんゐん)となつて徳川方(とくがはがた)の将士(せうし)の中(なか)でも一向宗(こうしう)を信(しん)ずることの厚(あつ)きものは皆(みな)此(こ)       の寺(てら)の方(ほう)に党(とう)して之(これ)を取鎮(とりしづ)めようとする家康(いへやす)に向(むかて)鉾(ほこ)を向(む)けるに至(いた)つたのである従(したがつ)て味方(みかた)同志(どうし)が互(たがひ)に        入乱(いりみだ)れて戦(たゝか)ふこととなつたのであるから西(にし)三 河(かは)の天地(てんち)と云ふものは実(じつ)に鼎(かなへ)の沸(わ)くが如(ごと)くで吉良義昭(きらよしあきら)の如       きも矢張(やはり)寺方(てらがた)の党(とう)に組(く)みし曩(さき)には義昭(よしあきら)に隙(げき)があつたと云ふ荒川義広(あらかはよしひろ)さへも之(これ)と相(あい)党(とう)するに至(いた)つたので       あるが竹谷(たけのや)、 形原(かたのはら)、 深溝(ふかうづ)の松平氏(まつだひらし)の如きは東(ひがし)には長沢(ながさわ)御油(ごゆ)を界(さかひ)に今川方を扣(ひか)へ西(にし)には土呂(とろ)、 針崎(はりざき)の反(はん)        徒(と)と相対(あひたい)した訳(わけ)であるから腹背(ふくはい)敵(てき)を受(う)けて屡々(しば〳〵)苦戦(くせん)したのである実(じつ)に三 河国内(かはこくない)の擾乱(ぜうらん)した事は前代未(ぜんだいみ)        聞(ぶん)の事で恐(おそら)くは上神代(ぜうかみよ)から今日に至(いた)る迄(まで)にもあるまいと思(おも)ふのであるモツトモ此(この)一 揆(き)の起(おこ)りに就(つい)ては 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談 【本文】        矢張(やはり)異説(ゐせつ)があつて永禄(えいろく)五年の事であると云ふ説(せつ)がある三 河物語(かはものがたり)にも         永禄(えいろく)五年 壬戌(みずのえいぬ)に野寺(のでら)の寺内(じない)に徒者(いたづらもの)の有(あり)けるを坂井雅樂助(さかゐうたのすけ)押(をし)コ見(み)てケンダンシケレバ永禄(えいろく)癸亥(みづのとゐ)正月        に各々(おの〳〵)門徒衆(もんとしう)寄合(よりあひ)て土呂(とろ)、 鍼崎(はりさき)、 野寺(のでら)、 佐々起(さゝき)に取(とり)コモリて一 揆(き)をヲコシて御敵(おんてき)となる       と記(しる)してあるが社領(しやれう)寺領(じれう)の地(ち)には如何(いか)なるものが入(い)つても武家(ぶけ)が直(たゞ)ちに之(これ)を逮捕(たいほ)することが出来(でき)ぬのは        古(ふる)くよりの掟(おきて)であるが之(これ)で見(み)ると其(その)習慣(しうかん)の遺(のこ)つて居る処から此(この)一 揆(き)を惹起(ひきおこ)したようである兎(と)に角(かく)僅(わづか)の       事から大事件(だいじけん)となつたもので翌(よく)七年の初迄(はじめまで)は此(この)紛乱(ふんらん)が継続(けいぞく)されたのである然(しか)るに一時は宗教(しうけう)の為(ため)に主(しゆ)        君(くん)に反対(はんたい)した将士(せうし)等(ら)も次第(しだい)に其(その)非(ひ)を悔(く)ゐて或(あるひ)は改宗(かいしう)し或(あるひ)は詫(わび)を入(い)れて帰参(きさん)したので漸(やうや)く此(この)一 揆(き)も静(しづ)ま       るに至(いた)つたのであるがソコで家康(いへやす)は更(さら)に之(これ)より兵(へい)を東三河に出(いだ)して其(その)中堅(ちうけん)たる此(この)吉田城(よしだぜう)を攻撃(こうげき)するに        至(いた)つたのである             ⦿吉田合戦       サテ永禄(えいろく)七年の初(はじめ)に至(いたつ)て一 向専修(こうせんしう)の一 揆(き)も平定(へいてい)に皈(き)したので家康(いへやす)は其三月兵を東(ひがし)三 河(かは)に出(いだ)して先(ま)づ長(なが)       沢(さわ)の城(しろ)を破(やぶ)つたのである此(この)城(しろ)は前章(ぜんせう)に申述べた通(とほ)り永禄(えいろく)四年八月 既(すで)に徳川方(とくがはがた)に於て攻取(せめと)つたのである       が其後(そののち)西三河の紛乱(ふんらん)に際(さい)して再(ふたゝ)び今川方の勢(せい)が籠(こも)つたものと見(み)ゆるそれを今度(このたび)又々(また〳〵)徳川方(とくがはがた)に於て打破(うちやぶ)       つたのである徳川方(とくがはがた)に於(おい)てはそれから次第(しだい)に牛久保に攻寄(せめよ)せて来(き)たのであるが此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ても異説(ゐせつ)が       あつて此時(このとき)には長沢(ながさわ)の戦(たゝかひ)を載(の)せざる記録(きろく)が多(おほ)い又た前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた牛久保に於(お)ける牧野保成(まきのやすなり)戦死(せんし)の戦       を以て却(かへつ)て今度(このたび)の事であると記(しる)して居(を)るものがある即(すなは)ち朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)の如きも此点(このてん)に関(かん)しては其説(そのせつ)を        取(と)つて居(を)るが永禄(えいろく)四年 以来(いらい)徳川方が牛久保(うしくぼ)まで攻寄(せめよ)せて来(き)たのは度々(たび〳〵)の事で両(れう)牧野家(まきのけ)並(ならび)に其(その)家中(かちう)に伝(つた) 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十五 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十六 【本文】       はつて居る感状(かんぜう)によるも慥(たしか)に其事(そのこと)が証拠(せうこ)立てられるのである従(したがつ)て相互(さうご)の事実(じじつ)は錯雑(さくざつ)して前後(ぜんご)を混淆(こんこう)し       た記録(きろく)も少(すくな)くない事であるが兎(と)に角(かく)孰(いづ)れにも戦(たゝかひ)はあつたに相違(さうゐ)ない従(したがつ)て氏真(うじさね)が八 幡佐脇(はたさわき)に砦(とりで)を設(もう)け       た事 並(ならび)に家康(いへやす)か一の宮の後詰(あとづめ)の事をも矢張(やはり)今年ので出来事(できごと)であると記(しる)したものがある私は前章(ぜんせう)に此事(このこと)を        松平記(まつだひらき)並(ならび)に牧野家文書(まきのけぶんしよ)等(とう)に拠(よつ)て御話(おはなし)したのであるが朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には官本三河記等を引用(ゐんよう)して右(みぎ)の説(せつ)       を取(と)つて居(を)るから之(これ)も御参考(ごさんこう)までに申述(もうしの)ぶるのである 御油の戦  かくて徳川方(とくがはがた)に於ては同(おな)じ永禄(えいろく)七年の三月に兵(へい)を出(いだ)して御油(ごゆ)に攻(せ)め寄(よ)せ今川方に於ては御油(ごゆ)の東台(とうだい)に       陣取(ぢんど)つて之(これ)と戦(たゝか)つたのであるが此時(このとき)は徳川方の形勢(けいせい)が非(ひ)であつたので家康(いへやす)は又た自(みづか)ら出馬(しゆつば)して味方(みかた)を 八幡の戦   援(たす)けたのであるソコで今川方の勢(せい)は兵を八 幡(はた)に引退(ひきしりぞ)けたが家康は進(すゝん)で之(これ)を攻撃(こうげき)した然(しか)るに当時(とうじ)八 幡(はた)の        砦(とりで)には板倉弾正重定(いたくらだんぜうしげさだ)が居つて城(しろ)を突(つい)て赤坂(あかさか)に出で奮戦(ふんせん)したので徳川方の先鋒(せんぽう)酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゝつぐ)の兵は       多く討死(うちじに)して一時は敗北(はいぼく)に及(およ)むだが此時(このとき)彼(か)の渡邊半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)が徳川方に後殿(しんがり)して取(とつ)て返(かへ)し勇戦(ゆうせん)したので       味方(みかた)は之(これ)に力(ちから)を得(え)て遂(つひ)に重定(しげさだ)を討取(うちとつ)て八 幡(はた)並に佐脇(さわき)の砦(とりで)を陥(おとしゐ)れたのである此時(このとき)八 幡村(はたむら)西明寺の住僧(ぢうそう)        快翁(くわいおう)と云ふ人が粥(かゆ)を煮(に)て徳川方の将士(せうし)を労(らう)し又た凱陣(がいぢん)の時(とき)家康は此寺(このてら)に宿(しゆく)したので家康(いへやす)が天下を平定(へいてい)       してから此寺(このてら)には朱印(しゆいん)廿石を与(あた)へたと云ふ話(はなし)があるソコで家康は愈々(いよ〳〵)敵(てき)の重鎮(ぢうちん)たる此(この)吉田城(よしだぜう)を攻略(こうりやく)し       ようと云ふので先(ま)づ小坂井(こさかゐ)牛久保(うしくぼ)並(ならび)に吉田へ向(むか)つて砦(とりで)を搆(かま)へ再(ふたゝ)び岡崎より出馬(しゆつば)して小坂井に於(おい)て吉田(よしだ)        城兵(ぜうへい)と衝突(せうとつ)したのであるが此時(このとき)渡邊半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)蜂屋半之亟貞次(はちやはんのぜうさだつく)等(ら)は先(ま)づ鎗(やり)を合(あは)せ平岩(ひらいは)七 之助親吉(のすけちかよし)等(ら)も力(りき)        戦(せん)したので城兵(ぜうへい)は遂(つひ)に利(り)あらずして退(しりぞ)いたのであるモツトモ之(これ)等(ら)の事は三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)等(とう)にも詳(くは)し       く記(しる)されて居るから此処(こゝ)には大要(たいえう)の筋(すぢ)だけを申述(もうしの)ぶるに留(とゝ)めておきたい置(お)きたいと思ふが之(これ)より家康(いへやす)は砦(とりで)を糟     塚 並(ならび)に喜見寺に設(もう)けて漸(やうや)く吉田城に肉薄(にくはく)せむとしたので其事は種々(しゆ〳〵)の記録(きろく)に記(しる)されて居る然(しか)るに此糟 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百八十八号附録□□□( 明治四十四年六月二十日発行 ) 【本文】 糟塚    塚と云ふのは小坂井(こさかゐ)の内(うち)にあるのであるが喜見寺(きけんじ)と云ふのは頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)である今(いま)の豊橋市内大字新銭に 喜見寺    喜見寺(きけんじ)と云ふ寺(てら)があるが此(この)寺(てら)は古(ふる)くは鎌倉(かまくら)の建長寺(けんてうじ)門末(もんまつ)で規摸(きぼ)も宏大(くわうだい)であつたと伝(つた)へられて居る此時(このとき)        家康(いへやす)が砦(とりで)を搆(かま)へたのは即(すなは)ち此(この)寺内(じない)であると云ふ説(せつ)がある併(しか)し之(これ)は甚(はなは)だ確実(かくじつ)でない又た地形(ちけい)から推(お)して       見ても疑(うたがひ)を容(い)るべき余地(よち)があると思(おも)ふ兎に角此の如き形勢(けいせい)で吉田城は徳川勢(とくがはぜい)の攻(せ)め寄(よ)する処となつ       たのであるが当時(とうじ)二 連木(れんぎ)の戸田は宜光(よしみつ)の子(こ)重貞(しげさだ)の時で重貞(しげさだ)は主殿助(とのものすけ)と称(せう)し一に尚舎(せうしや)、 光成(みつなり)などゝ書(か)い 《割書:戸田宜光の|卒年》  たものがあるモツトモ父(ちゝ)の宜光(よしみつ)は其(その)没年(ぼつねん)が不明(ふめい)で多(おほ)くは永禄三年の卒去(そつきよ)であると伝(つた)へて居(を)るが此(この)年(とし)(       永禄七年)には未(いま)だ慥(たしか)に生存(せいぞん)して居つた証拠(せうこ)があるので戸田家系校正余録(とだかけいこうせうよろく)には永禄十一年の死(し)である       と論(ろん)じてある従(したがつ)て此時(このとき)には未(いま)だ存命(ぞんめい)であつたものと信(しん)ずるのであるが此(この)戸田氏(とだし)と徳川氏(とくがはし)との関係(くわんけい)は        前章(ぜんせう)に屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)りであるから之(これ)迄(まで)は拠(よんどころ)なく今川方に従属(じうぞく)して居(を)つたものゝ時もあらば欵(かん)を徳       川方に通(つう)せむと望(のぞ)むで居つたものであると思(おも)はれる然(しか)るに一の困難(こんなん)と云ふのは重貞(しげさだ)の母(はゝ)が吉田城に人(ひと)        質(しち)となつて居る事である凡(およ)そ人質(ひとしち)と云ふものは多(おほ)く目下(めした)のものを遣(つか)はすので其(その)母(はゝ)を質(しち)とすると云ふが 《割書:戸田重貞其|質を奪ふ》  如き事は殆(ほとん)ど稀(まれ)なる事であるから之(これ)は宜光(よしみつ)の時に於て遣(つか)はしたものに相違(さうゐ)ないと思(おも)ふが重貞(しげさだ)としては        先(ま)づ之(これ)を奪(うば)ひ返(かへ)すのが差当(さしあた)り講究(こうきう)すべき処であつたソコで重定(しげさだ)は勉(つと)めて鎮実(しげさね)に接近(せつきん)して其(その)歓心(くわんしん)を求め        弐心(ふたこゝろ)なきことを示(しめ)したが此年(このとし)(永禄七年)の五月十二日 重定(しげさだ)は例(れい)の如く吉田城(よしだぜう)に鎮実(しげさね)を訪(と)ふて共に双六(すころく)の        遊(あそび)をなし其(その)隙(すき)に従者(じうしや)をして母を盗(ぬす)み出(いだ)さしめて二 連木(れんぎ)につれ帰(かへ)つたのである此事(このこと)は古来(こらい)有名(ゆうめい)な話(はなし)であ       るから伝説(でんせつ)なども色々(いろ〳〵)であるが松平記(まつだひらき)及(およ)び三 河物語(かはものがたり)に記(き)する処は略(ほ)ほ相似(あひに)て居るので此時(このとき)重定(しげさだ)は家臣(かしん)       に長持(ながもち)を持(も)たせて之(これ)に風流(ふうるう)の道具(どうぐ)菓子(くわし)などを入(い)れ入門(にふもん)の際(さい)能(よ)く〳〵門番(もんばん)に断(ことは)つて置(お)いたので帰途(きと)には       之(これ)を咎(とが)めず通(つう)した然(しか)るに重定(しげさだ)の方(ほう)では予(かね)て計(はか)つてあることであるから家臣(かしん)等(ら)は途(みち)に之(これ)を迎(むか)へて無事(ぶじ)に 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十七 【欄外】    豊橋市史談     (吉 田 合 戦)                    七十八 【本文】       二 連木城(れんぎぜう)に引取(ひきと)つたとの事であるモツトモ母(はゝ)を容(い)れたものに就(つい)ては長持(ながもち)ではなく具足櫃(ぐそくひつ)であると云ふ        説(せつ)があつて現(げん)に戸田子爵家(とだしゝやくけ)には今(いま)尚(な)ほ其(その)櫃(ひつ)が所蔵(しよぞう)せられてあるとの事であるが或(あるひ)は初(はじ)め長持(ながもち)に入れて        盗(ぬす)み出(だ)し途中(とちう)から具足櫃(ぐそくひつ)に入(い)れ替(か)へて遁(のが)れたものであろうと云ふような事は雑話筆記(ざつわひつき)と云ふ本にも書(か)       いてある又(ま)た三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)は孰(いづ)れも此事に就て戸田丹波守(とだたんばのかみ)を当事者(とうじしや)として記(しる)して居る丹波守(たんばのかみ)と云へ       ば宜光(よしみつ)の事になるのてあるが此時(このとき)宜光(よしみつ)はまだ存命(ぞんめい)であつたにしても既(すで)に重貞(しげさだ)が当主(とうしゆ)であつたのである       から之(これ)は重貞(しげさだ)説(せつ)が正(たゞ)しい事と信(しん)ずる兎(と)に角(かく)此の如き訳(わけ)で首尾(しゆび)克(よ)くは母を奪(うば)ひ返(かへ)したから重貞(しげさだ)は直(たゞ)ちに火       を放(はな)つて之(これ)を徳川方(とくがはがた)に報(ほう)じ翌日 家康(いへやす)から三千貫の地 幷(ならび)に誓書(せいしよ)を与(あた)へられたのであるかくて徳川方(とくがはがた)に於       ては愈々(いよ〳〵)此(この)吉田城(よしだぜう)を包囲(はうゐ)して攻撃(こうげき)にかゝつたが今川方に於(おい)ても城(しろ)を突(つい)て出戦(しゆつせん)し五月十四日に下地(しもぢ)に於 《割書:本多忠勝牧|野宗次郎と》  て合戦(かつせん)があつたのである此時(このとき)家康(いへやす)の将(せう)本多平(ほんだへい)八 郎忠勝(らうたゞかつ)はまだ十七歳であつたが今川方(いまがはがた)の牧野宗次郎(まきのそうじらう)と 《割書:一番鎗を合|す》  一番に鎗(やり)を合(あは)せたのである武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)などには此(この)牧野宗次郎(まきのそうじらう)と云ふのも矢張(やはり)此時(このとき)十七歳であつたと        記(しる)してあるが此人(このひと)に就(つい)ては旧来(きうらい)から疑問(ぎもん)があつて参謀本部(さんぼうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)桶狭間役補伝(おけはざまえきほでん)には本多家武功聞(ほんだけぶこうきゝ)        書(がき)を引き牧宗次郎(まきそうじらう)の立志(りし)と題(だい)して此(この)宗次郎(そうじらう)は牧孫左衛門(まきまござゑもん)と云ふ人の子(こ)であるが父(ちゝ)の同僚(どうれう)城所助之允(きどころすけのぜう)の        武勇(ぶゆう)を聞(き)いて志(こゝろざし)を起(おこ)して遂(つひ)に此(この)吉田合戦(よしだかつせん)に於て本多忠勝(ほんだたゞかつ)と鎗(やり)を合(あは)するに至(いた)つたと云ふ事が詳説(せうせつ)してあ      る然(しか)るに寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)幷(ならび)に牧野家々譜(まきのけかふ)によると田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)定成(さだしげ)の子(こ)康成(やすしげ)は恰(あたか)も此(この)宗次郎(そうじらう)に相当(さうとう)       するのである元来(がんらい)此(この)康成(やすしげ)と云ふ人は本多忠勝(ほんだたゞかつ)と同年の生(うま)れで此頃(このころ)父(ちゝ)と共(とも)に牛久保(うしくぼ)に居つたが此(この)戦(たゝかひ)には        牛久保(うしくぼ)を引上(ひきあ)げて吉田城中(よしだぜうちう)に籠(こも)つたのである而(しか)も武勇抜群(ぶゆうばつぐん)の人で能(よ)く忠勝(たゞかつ)と角(かく)したのである而(しか)して城(き) 城所助之丞  所助之丞(じよすけのぜう)と云ふのは康成(やすしげ)の家臣(かしん)であつて曩(さき)に牛久保(うしくぼ)に於て一 度(ど)忠勝(たゞかつ)と鎗(やり)を合(あは)せた事があるが此時(このとき)も亦(ま)       た互(たがひ)に鎗(やり)を合(あは)せたのである然(しか)るに忠勝(たゞかつ)の家臣(かしん)が横合(よこあひ)から助之丞(すけのぜう)の腕(うで)に斬付(きづつ)けたので康成(やすしげ)は直(たゞ)ちに進(すゝ)む 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際                               【左頁】 【欄外】    豊橋市史談            □□□□ 【本文】       で自(みづか)ら忠勝(たゞかつ)と力戦(りきせん)し共に創(きづ)を被(かうむ)つたが時に康成(やすしげ)は既(すで)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)したいと云ふ志(こゝろざし)があつたので竊(ひそか)に       其(その)志(こゝろざし)を忠勝(たゞかつ)に告(つ)げて引退(ひきしりぞ)いたとのことである之(これ)は前(まへ)にも申述(もうしのべ)た通(とほ)り寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)等(とう)の説(せつ)であるが康(やす)        成(しげ)は初(はじ)め惣次郎(さうじらう)、 半右衛門(はんうゑもん)と称(せう)し後(のち)に讃岐守(さぬきのかみ)となつたので宗(そう)と惣(さう)と字(じ)の違(ちが)ひはあるが時代(じだい)其他(そのた)の事情(じぜう)       から推(お)して私(わたくし)は此(この)一番 鎗(やり)の宗次郎(そうじらう)と云ふのは前(まへ)に述(の)べた康成(やすしげ)の事であると信(しん)ずるものであるサテ此時(このとき) 《割書:蜂屋貞次戦|死》   徳川方の蜂屋半之丞貞次(はちやはんのぜうさだつぐ)も真先(まつさき)に進(すゝ)むだが忠勝(たゞかつ)の為(ため)に一番 鎗(やり)の功(こう)を得(え)られたと云ふので鎗(やり)を捨(す)て刀(かたな)を        抜(ぬ)いて敵陣(てきじん)に切(き)り込(こ)むだ然(しか)るに今川方の河合正徳(かあひせうとく)と云ふものゝ為(ため)に鉄砲(てつぽう)に打(う)たれて疵(きづ)を被(かうむ)つたのであ        る多(おほ)くの記録(きろく)には此時(このとき)半之丞(はんのぜう)は即死(そくし)したとも云ひ陣営(じんえい)に皈(かへ)つて死(し)むだともあるが寛永譜(かんえいふ)には故郷(こけう)三 州(しう)       ムツナ村に於(おい)て其(その)疵(きづ)の為(ため)に死(し)すと記(しる)してある年(とし)は僅(わづか)に廿六であつたが其(その)母(はゝ)か実(じつ)に女丈夫(ぢよぜうぶ)である三 河物(かはもの) 貞次の母   語(がたり)によると半之丞(はんのぜう)が討死(うちじに)したと云ふ事を母(はゝ)の方(ほう)へ知(し)らせた時(とき)其(その)母(はゝ)は半之丞(はんのぜう)が打死(うちじに)の事は承知(せうち)しました       が扨(さて)最後(さいご)の様(さま)は如何(どう)であつたかと云つて問(と)ひ返(かへ)したソコで其(その)者(もの)から比類(ひるい)なき働(はたらき)であつた事を話(はな)した       処が母は誠(まこと)に安心(あんしん)してソレでこそ嬉敷(うれしく)思(おも)ふのである打死(うちじに)は武士(ぶし)の習(ならひ)であるから悔(くや)むには及(およ)ばぬが若(も)し        半之丞(はんのぜう)が最後(さいご)悪(あ)しくと聞(き)くならば我(われ)も命(いのち)長(なが)らへて詮(せん)もなきことであると云つたとの事である実(じつ)に当時(とうじ)の        武人(ぶじん)の母を代表(だいひよう)して居(を)るものと云つてよいと思(おも)ふ其他(そのた)此(この)合戦(かつせん)に於ては敵味方(てきみかた)共(とも)に数多(あまた)の死傷(しせう)があつた      が五月廿日には家康(いへやす)自(みづか)ら出馬(しゆつば)して益々(ます〳〵)此(この)城(しろ)を攻撃(こうげき)し殊(こと)に先手(さきて)の大将(たいせう)たる酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の鉾先(ほこさき)は中(なか)        中(なか)鋭(するど)かつたもので鎮実(しげさね)も遂(つひ)に力(ちから)及(およ)ばずなつたのである然(しか)るに此(この)戦(たゝかひ)の始末(しまつ)は何時(いつ)ついたか其年月に関(くわん) 《割書:吉田城明渡|の年月》  しては頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)がある即(すなは)ち此(この)城(しろ)の明渡(あけわた)しとなつたのは此年(このとし)の五月廿日であると云ふのと六月であると       云ふのと其翌(そのよく)八年の五月であると云ふのと大体(だい〳〵)に於(おい)ても既(すで)に三 説(せつ)あるモツトモ家康(いへやす)が酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に此(この)城(しろ)       を与(あた)へた文書(ぶんしよ)が諸書(しよ〳〵)に載(の)つて居るのでそれが永禄(えいろく)七年六月廿二日 付(づけ)であるから此(この)城(しろ)の明渡(あけわたし)はむ無論(むろん)其(その)以(い) 【欄外】    豊橋市史談     (吉 田 合 戦)                    七十九 【欄外】    豊橋市史談   (吉 田 合 戦)                    八十 【本文】        前(ぜん)であると云ふのが普通(ふつう)行(おこな)はるゝ説(せつ)であるがよく〳〵考(かんが)へて見(み)ると此(この)城責(しろせめ)が五月の十四日に初(はじ)まつて       廿日に片付(かたづ)いては余(あま)りに早過(はやす)ぐる様(よう)である其上(そのうへ)二 連木(れんぎ)の戸田重貞(とだしげさだ)は永禄(えいろく)七年十一月十二日 吉田(よしだ)に於て        戦死(せんし)して居(を)るのである併(しか)し之(これ)は戦死(せんし)ではないように記(しる)したものもあるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初(はじ)め比較的(ひかくてき)        信(しん)ずべきものには多(おほ)く戦死(せんし)となつて居(を)るのであるサスレが此(この)城責(しろぜめ)はまだ其頃(そのころ)迄(まで)も続(つゞ)いたものと思(おも)はね       ばならぬ又(ま)た前章(ぜんせう)に申述べた取替兵糧(とりかへへうれう)の書付(かきつけ)の如きは果(はた)して当時(とうじ)のものであるか否(いな)や元(もと)より疑問(ぎもん)では       あるが若(も)し之(これ)を事実(じじつ)のものとすれば永禄(えいろく)八年二月のものであるから其頃(そのころ)までは今川方(いまがはがた)に於て吉田城(よしだぜう)を        保(たも)つて居(を)つた事に見(み)ねばならぬ一 説(せつ)には此城(このしろ)の明渡(あけわたし)に就(つい)ては戸田丹波守(とだたんばのかみ)が主(おも)に双方(そうはう)の間(あひだ)に立(た)つて斡旋(あつせん)       の労(らう)を取(と)つたものであるが此(この)丹波守(たんばのかみ)と云ふのは重貞(しげさだ)を指(さ)したものでなくてはならぬ従(したがつ)て其(その)結末(けつまつ)は重(しげ)        貞(さだ)死去(しきよ)以前(いぜん)の事であるべき道理(どうり)であると云つて居る勿論(もちろん)此(この)論者(ろんしや)は重貞(しげさだ)の死(し)を以(もつ)て戦死(せんし)でないとして居(を)       るのであらうが私は此(この)城明渡(しろあけわたし)の斡旋者(あつせんしや)は重貞(しげさだ)でなくて其(その)父(ちゝ)の宜光(よしみつ)であると信(しん)ずるのである前(まへ)にも申述(もうしの)       べた如く宜光(よしみつ)は多(おほ)く永禄(えいろく)三年に死(し)むたものとして伝(つた)へられては居(を)るが其実(そのじつ)は永禄(えいろく)十一年まで生存(せいぞん)して        居(を)つたのであるから重貞(しげさだ)戦死(せんし)の後(のち)宜光(よしみつ)の斡旋(あつせん)になつたものであるとするのは強(あなが)ちに理(り)のない説(せつ)ではな       いと思(おも)ふ其他(そのた)以下(いか)に述(の)ぶるような種々(しゆ〳〵)の事情(じぜう)から推測(すゐそく)すると益(ます〳〵)此城(このしろ)の明渡(あけわたし)は永禄(えいろく)八年五月 説(せつ)が正(たゞ)し       いように信(しん)ずるのである 合戦の結果 サテ合戦(かつせん)結末(けつまつ)の時日に就(つい)ては右(みぎ)の如(ごと)くであるが戸田丹波守(とだたんばのかみ)の外(ほか)に本多彦(ほんだひこ)八 郎忠次(らうたゞつぐ)等(ら)も鎮実(しげさね)に勧告(かんこく)して        結局(けつきよく)城(しろ)を明渡(あけわた)さしむることとなつたのである然(しか)るに鎮実(しげさね)に於(おい)ては和議(わぎ)を取結(とりむす)むで城(しろ)を明渡(あけわた)す事には異議(ゐぎ)       がないが其(その)替(かは)りとして人質(ひとしち)を得(え)たいものであると云ふ要求(えうきう)をしたのであるソコで徳川方(とくがはがた)に於(おい)ては家康(いへやす)       の異父弟(いふてい)松平源(まつだひらげん)三 郎勝俊(らうかつとし)並(ならび)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の女阿風(ぢよおふう)と云ふのを人質(ひとしち)として今川方(いまがはがた)に遣(つか)はすことなつて之(これ)で 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百九十四号附録   ( 明治四十四年六月二十七日発行 ) 【本文】 《割書:家康吉田城|を酒井忠次》  一 段落(だんらく)を告(つ)げ城(しろ)は全(まつた)く家康(いへやす)の手(て)に帰(き)して家康(いへやす)は之(これ)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に賜(たま)はつたのであるが此城(このしろ)を賜(たま)はるに就 に賜ふ   て家康(いへやす)が忠次(たゞつぐ)に与(あた)へたと云ふ文書(ぶんしよ)は松平記(まつだひらき)に載(の)つて居(を)るものと治世元記(ぢせいもとき)に載(の)つて居(を)るものとは文句(もんく)に        多少(たせう)の相違(さうゐ)がある併(しか)し日付(ひづけ)は孰(いづ)れも前(まへ)に申述(もうしの)べた如く永禄(えいろく)七年六月廿二日 付(つけ)であるソウすると此(この)城(しろ)の        明渡(あけわたし)を以(もつ)て永禄(えいろく)八年であるとなすのは不合理(ふごうり)であるようであるが戦国時代(せんごくじだい)にあつては其(その)城(しろ)を取(と)る事(こと)を        予期(よき)してまだ之(これ)を取(と)り終(をは)らざる以前(いぜん)に其(その)授与(じゆよ)を家臣(かしん)に約(やく)したことは外(ほか)に例(れい)のない事ではないのでかゝる        文書(ぶんしよ)を俗(ぞく)宛文(あてぶみ)と称(せう)するそうであるが私(わたくし)は此時(このとき)家康(いへやす)が忠次(たゞつぐ)に与(あた)へた文書(ぶんしよ)の中(なか)に「到吉田小郷一円出置       候其上於入城者新知可申付」 云々(うんぬん)となる処などから考(かんが)へて之(これ)も矢張(やはり)其(その)類(るい)のものであると信(しん)ずる次第(しだい)で       ある松平記(まつだひらき)所載(しよさい)の文書(ぶんしよ)は其(その)全文(ぜんぶん)左(さ)の如(ごと)くである        吉田東三河之義申付候異見可仕候到吉田小郷一円出置候其上於入城者新知可申付之由来如承山中之        義可有所務之縦借銭等向候共不可有異議者也仍如件           永禄七甲子                     蔵  人             六月廿二日                     家    康            酒井左衛門尉殿        尚(な)ほ此処(こゝ)に御断(おことは)りして置(お)きたいのは前(まへ)に此(この)吉田城(よしだぜう)明渡(あけわたし)の時日に就(つい)て永禄(えいろく)八年 五(〇)月を正(たゞし)いように申上げ       て置いたのであるが之(これ)は全(まつた)く永禄(えいろく)八年 三(〇)月の誤(あやまり)で私の申違(もうしちが)ひである而(しか)して此説(このせつ)は藩翰譜(はんかんふ)元禄随筆(げんろくずゐしつ)三        河紀聞(かはきぶん)岡崎古記(をかざきこき)吉田城主考(よしだぜうしゆこう)等(とう)の説(せつ)であるから其事(そのこと)に御承知(ごせうち)を願(ねが)ひたいのである 【欄外】    豊橋市史談   (吉 田 合 戦)                    八十一 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十二 【本文】            ◉酒井忠次と東三河の諸士 《割書:家康が家人|に城主を命》   前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べたような訳(わけ)で吉田の城は永禄(えいろく)八年三月 家康(いへやす)の有(ゆう)に帰(き)し家康(いへやす)は之(これ)を其(その)臣(しん)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に与(あた)へた ぜし濫觴  が徳川実記(とくがはじつき)には此事(このこと)に就(つい)て「之(こ)れ当家(とうけ)の御家人(ごけにん)に始(はじめ)て城主を命(めい)ぜられたる濫觴(らんてう)とぞ」と書(か)いてある之(これ)よ 本多広孝  り先(さ)き家康(いへやす)は本多豊後守広孝(ほんだぶんごのかみひろたか)をして田原(たはら)の城(しろ)を攻(せ)めしめたのであるがこゝに至(いた)つて城兵(ぜうへい)力(ちから)尽(つ)きて矢張(やはり)        城(しろ)を明渡(あけわたし)たのである当時(とうじ)田原(たはら)の城(しろ)には今川氏の城代(ぜうだい)として朝比奈肥後守元智(あさひなひごのかみもととも)と云ふ人が居(を)つたのであ       るが此人(このひと)の寄附状(きふぜう)で永禄(えいろく)八年二月九日付のものが田原神明宮(たはらしんめいぐう)の神主(じんしゆ)金田氏の家(いへ)に遺(のこ)つて居(を)ると云ふ事 《割書:田原城明渡|し》  が戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)に書いてある果(はた)して然(しか)らば田原城(たはらぜう)の明渡(あけわたし)は其(その)以後(いご)の事でなくてはならぬ事(こと)になる       ので結局(けつきよく)田原城(たはらぜう)明渡(あけわた)しに続(つづ)いての事であると信(しん)ずる而(しか)して田原(たはら)の城(しろ)は勿論(もちろん)加治(かぢ)仁崎(にさき)などの砦(とりで)をも合(あは)せ       て此(この)本多広孝(ほんだひろたか)に賜(たまは)つたのであるが牛久保(うしくぼ)の牧野成定(まきのなりさだ)牧野定成(まきのさだしげ)等(ら)の一 統(とう)も亦(ま)た公然(こうぜん)家康(いへやす)に従(したが)ふ事となり        其他(そのた)東三河の諸士(しよし)は悉(こと〴〵)く之(これ)に帰(き)したので三河一国は茲(こゝ)に初(はじ)めて家康(いへやす)の統(とう)一する処となつたのであるソ       コで酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は此(この)吉田城(よしだぜう)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へ東三河に於(お)ける旗頭(はたがしら)となつて采配(さいはい)を揮(ふる)つたのであるが先(ま)づ此(この)吉(よし) 豊河の架橋  田城(だぜう)を修築(しうちく)して市区(しく)の整理(せいり)をも行(おこな)つた様子(やうす)であるそれのみならず初(はじ)めて橋(はし)を豊河(とよかは)に架(か)したので之(これ)は元(げん)        亀(き)元年(距去(いまをさる)三百四十二年)の事であると云ふ説(せつ)が正(たゞ)しい様(やう)に思(おも)ふ元亀(げんき)と云ふ年号(ねんごう)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の通       り永禄(えいろく)の次(つぎ)に当(あた)るので永禄(えいろく)が十二年 其(その)十三 年目(ねんめ)は即(すなは)ち元亀元年であるから此(この)架橋(かきよう)は忠次(たゞつぐ)が吉田城(よしだぜう)に来       つてから六年目に当(あた)るのである当時(とうじ)架橋(かきよう)の地点(ちてん)は今(いま)の関屋(せきや)の処から対岸(たいがん)の下地へ向(むか)つたもので此事(このこと)に       就ては宝暦(ほうれき)十年大字船町の記録(きろく)にも書(か)き遺(のこ)されて居(を)るのであるが御名誉聞書(ごめいよきゝがき)幷(ならび)に甲陽軍鑑(こうようぐんかん)には元亀二       年四月 甲斐(かひ)の武田信玄(たけだしんげん)が三河に攻(せ)め入(い)つて此(この)吉田城(よしだぜう)に攻(せ)め寄(よ)せた事が記(しる)されてある其(その)中(うち)御名誉聞書(ごめいよきゝがき)の       方には武田方(たけだがた)が土橋(どばし)まで進(すゝ)み来(きた)つたと云ふ事が書(か)いてあり又(ま)た甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の方には武田勢(たけだぜい)が総軍(そうぐん)を以て        大手(おほて)へ押寄(おしよ)せ其(その)上(うえ)搦手(からめて)の方(ほう)へも回(まは)つた事が載(の)つて居るので之(これ)を子細(しさい)に対照(たいせう)して考(かんが)ゆると此(この)土橋(どばし)と云ふ       のは所謂(いはゆる)搦手(からめて)に当(あた)るので豊河(とよかは)の架橋(かきよう)を指(さ)したものに相違(さうゐ)なく信(しん)ずるのである、シテ見(み)ると忠次(たゞつぐ)が初め       て此(この)豊河(とよかは)に架(か)したのは土橋(どばし)であつて此(この)戦(たゝかひ)の以前(いぜん)既(すで)に出来上(できあが)つて居つたものでなくてはならぬから前(まへ)       に申述(もうしのべ)た如く此(この)架橋(かきよう)を以(もつ)て元亀元年とする説(せつ)は先ず(ま)づ当(あた)つて居(を)るとせねばならぬモツトモ此(この)甲陽軍鑑(こうようぐんかん)と       云ふ書物(しよもつ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如く主(おも)に武田家(たけだけ)の兵法(へいほう)などを記(しる)したものであるが之(これ)を全然(ぜんぜん)信用(しんよう)することは如(ど)        何(う)であると思(おも)ふ併(しか)し前(まへ)の記事(きじ)に就ては御名誉聞書(ごめいよきゝがき)と対照(たいせう)して大(おほい)に参考(さんこう)となると信(しん)ずるから此処(こゝ)に申述       べた次第(しだい)である又(ま)た忠次(たゞつぐ)は頻(しき)りに此(この)地方(ちほう)の神社仏閣(じんしやぶつかく)を経営(けいえい)し之(これ)に寄進(きしん)したもので今尚(いまな)ほ其(その)棟札(むなふだ)寄付状(きふぜう) 《割書:忠次夫人寄|進の画像》  などの遺(のこ)つて居(を)るものが少(すくな)くない殊(こと)に龍拈寺(りうねんじ)の什物中(じうぶつちう)に忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)から寄付(きふ)になつた其(その)母堂(ぼどう)の画像(ぐわぞう)が       ある之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので大(おほい)に歴史(れきし)の参考(さんこう)となるものであると思(おも)ふが元来(がんらい)忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふのは松平(まつだひら)        清康(きよやす)の女で広忠(ひろたゞ)の妹(いもと)であるから家康(いへやす)から云ふと叔母(おば)である世(よ)に光樹夫人(こうじゆふじん)と呼(よ)ばれた人であるが此(この)清康(きよやす)       と云ふ人(ひと)は三たび夫人(ふじん)が替(かは)つたので光樹夫人(こうじゆふじん)の母(はゝ)は果(はた)して其(その)何(いづ)れであるかゞ一寸(ちよつと)分(わか)らぬのである従(したがつ)       て此(この)画像(ぐわぞう)の主(ぬし)は今(いま)明言(めいげん)が出来(でき)ぬので後日(ごじつ)調査(てうさ)して之(これ)を明(あきらか)にする考(かんがへ)であるが兎(と)に角(かく)頗(すこぶ)る貴重(きちよう)のものであ 《割書:里村紹巴の|富士紀行》  る事を信(しん)ずるのである又(ま)た話(はなし)は少(すこ)し違(ちが)ふが例(れい)の連歌師(れんがし)に有名(ゆうめい)な里村紹巴(りそんそうは)と云ふ人がある此人(このひと)は慶長(けいてう)七       年四月七十九 歳(さい)で没(ぼつ)したが此人(このひと)の永禄十年に書(か)いたので富士紀行(ふじきこう)と云ふのがあつて之(これ)は京都(けうと)から富士(ふじ)        遊覧(ゆうらん)の為(ため)に東海道(とうかいどう)を下(くだ)つた時の紀行文(きこうぶん)である其(その)中(なか)には丁度(てうど)尾張(をはり)に戦争(せんそう)があつて兵火(へいくわ)天(てん)を焦(こ)がす如き処       を望(のぞ)むで通行(つうこう)したなどゝ云ふ事が書(か)いてあるので中々(なか〳〵)参考(さんこう)となるものであるが又(ま)た其中(そのなか)に此(この)吉田(よしだ)の事       を書(か)いた処がある即(すなは)ち「同国(どうこく)吉田(よしだ)と云ふ城主(ぜうしゆ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんのぜう)、 同臨川(どうりんせん)、 風呂(ふろ)に入(い)り山海(さんかい)の景(けい)二 階(かい)にて眺(なが) 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十三 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十四 【本文】       め釣竿(つりさを)を取(と)り寄(よ)せ来(く)る湊(みなと)なれば味(あぢ)一入(ひとしほ)なり」と記(しる)してあるが文章(ぶんせう)は極(きは)めて簡短(かんたん)である併(しか)し当時(とうじ)に於け       る此地(このち)の状況(ぜうけう)が何(なん)となく窺(うかゞ)ひ知(し)られるように思(おも)はれるので当時(とうじ)既(すで)に此地(このち)は湊(みなと)として余程(よほど)繁盛(はんせい)の状態(ぜうたい)を        示(しめ)して居(を)つたものではなかろうかと思(おも)ふ又(ま)た之迄(これまで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べてある家忠日記(いへたゞにつき)と云ふ書物(しよもつ)は天正(てんせう)以後(いご)の       事を書(か)いたものであるが其中(そのなか)にも此(この)記者(きしや)たる家忠(いへたゞ)が数々(しば〳〵)吉田へ来(きた)つた事が載(の)つて居る殊(こと)に其中(そのなか)に「吉(よし)        田(だ)へ借銭納所(しやくせんのうしよ)へ人(ひと)をつかはし候」などゝ云ふ記事(きじ)がある即(すなは)ち其頃(そのころ)忠次(たゞつぐ)が東三河の旗頭(はたがしら)であつて此(この)城(しろ)が       東三の重鎮(ぢうちん)たりし有様(ありさま)が推察(すいさつ)さるゝように思(おも)はるゝのである 酒井氏系図  以上(いぜう)は忠次(たゞつぐ)が吉田在城(よしだざいぜう)の頃(ころ)に於ける状況(ぜうけう)の大要(だいえう)であるがサテ此処(こゝ)に忠次(たゞつぐ)の系図(けいづ)に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)して       置く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ元来(がんらい)酒井氏(さかゐし)は徳川家(とくがはけ)に取(と)つては容易(ようい)ならぬ関係(くわんけい)のある家である併(しか)し徳川家の系(けい)        図(づ)と云ふものに就(つい)ては旧来(きうらい)疑問(ぎもん)であつて容易(ようい)に解決(かいけつ)する事は出来(でき)ぬのである従(したがつ)て酒井氏(さかゐし)の系図(けいづ)も同様(どうよう)       であるが旧来(きうらい)伝(つと)ふる処(ところ)によれば此(この)両家(れうけ)の関係(くわんけい)は先(ま)づコウである徳川氏(とくがはし)は元(も)と新田氏(につたし)で新田氏(につたし)と云ふの       は即(すなは)ち源義家(みなもとよしいへ)から出(い)でたのである義家(よしいへ)の子(こ)の義国(よしくに)が上野国(かうづけのくに)に居つて新田(につた)足利(あしかゞ)両邑(れうゆう)を領(れう)したが其子(そのこ)に        義重(よししげ)義康(よしやす)の二人があつて義重(よししげ)は新田(につた)の邑(ゆう)を領(れう)し義康(よしやす)は足利(あしかゞ)の邑(ゆう)を領(れう)した之(これ)が孰(いづ)れも新田(につた)足利(あしかゞ)両氏(れうし)の祖(そ)       である而(しか)して義重(よししげ)の第四子に義季(よしすへ)と云ふ人があつたが其(その)六 世(せい)の孫(そん)に有親(ありちか)と云ふ人があつて之(これ)が足利(あしかゞし)       の為(ため)に窮追(きうつひ)せられて遂(つひ)に三河に来(きた)つた其之(そのこ)に親氏(ちかうぢ)泰親(やすちか)の二人があつて親氏(ちかうぢ)は酒井家(さかゐけ)の養子(やうし)となり泰親(やすちか)       は松平家(まつだひらけ)の子(こ)となつたが之(これ)が酒井(さかゐ)松平(まつだひら)両家(れうけ)の祖(そ)となつたのであると云ふのが一 説(せつ)で之(これ)は日本外史(にほんぐわいし)にも        記(しる)されてある然(しか)るに他(た)の説(せつ)は親氏(ちかうぢ)と云ふ人が初(はじ)めて三河に来(きた)つたので初(はじ)め酒井家(さかゐけ)に入(い)つて男(だん)広親(ひろちか)を生(う)       み更(さら)に松平家(まつだひらけ)に入つて男(だん)泰親(やすちか)を生(う)むだのであると云つて居る尚(な)ほ藩翰譜(はんかんふ)などには酒井家(さかゐけ)に就(つい)ても異説(ゐせつ)       を並(なら)べて記(しる)してある如く何(いづ)れが確実(かくじつ)やら私共(わたくしども)では元(もと)より断定(だんてい)し兼(か)ぬるのである而(しか)して此(この)忠次(たゞつぐ)の家(いへ)に 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百号附録   ( 明治四十四年七月四日発行 ) 【本文】        就(つい)て寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には左(さ)の如(ごと)くに載(の)せられてある         親氏二男        〇広 親《割書:徳太郎|小五郎》    氏 忠 小五郎     忠 勝《割書:小五郎|左衛門尉》                  政 親 雅樂頭の祖        康 忠《割書:小五郎|左衛門尉》   忠 親 左衛門尉    忠 善 左衛門尉                             忠 次《割書:小平次|小五郎》                                《割書:左衛門尉|    》        然(しか)るに此(この)系図(けいづ)が又た酒井雅樂頭(さかゐうたのかみ)の家(いへ)の系図(けいづ)とは符号(ふごう)せぬ点(てん)があるので之(これ)に就ては寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)にも        疑(うたがひ)が存(ぞん)してある次第(しだい)である        忠次(たゞつぐ)の系図(けいづ)に就(つい)ては先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)くであるが忠次(たゞつぐ)の兄(あに)忠善(たゞよし)の子に忠尚(たゞなほ)と云ふ人があつて此人(このひと)は徳(とく)        川氏(がはし)が今川方と離(はな)れて織田氏(をたし)と提携(ていけい)するのを危(あやぶ)むだので遂(つひ)に徳川氏に叛(そむ)いて駿河(するが)に奔(はし)るに至(いた)つたので       あるが忠次(たゞつぐ)は徳川氏に取(と)りては終始(しうし)一 貫(くわん)無(む)二の忠臣(ちうしん)で兄(あに)の家(いへ)が右(みぎ)の如(ごと)くであるから其(その)後(のち)を受(う)けて家(いへ)を        継(つ)いだのである而(しか)して忠次(たゞつぐ)は大永(たいえい)七年に生(うま)れ慶長(けいてう)元年(がんねん)十月 年(とし)七十で卒去(そつきよ)したので吉田城主(よしだぜうしゆ)となつたの       は恰(あたか)も其(その)三十九 歳(さい)の時に相当(さうとう)するのであるモツトモ忠次(たゞつぐ)の戦功(せんこう)に関(くわん)しては一々 茲(こゝ)に申述(もうしのぶ)るのは余(あま)り長(なが)       くなることであるから之(こ)れ以後(いご)の事柄(ことがら)は追々(おい〳〵)に其(その)時代(じだい)々々に当(あた)つて御話(おはなし)することに致(いた)したいと思(おも)ふが尚(な)ほ 《割書:東三河に於|ける諸士》   此処(こゝ)に東三河に於(お)ける諸士(しよし)の家(いへ)に就(つい)て稍々(やゝ)申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ 戸田忠重  前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)り吉田(よしだ)の城(しろ)に接近(せつきん)して二 連木(れんぎ)の城(しろ)があつたので此(この)二 連木(れんぎ)の戸田氏は爾来(じらい)酒井氏(さかゐし)       に属(ぞく)して徳川家(とくがはけ)の為(た)めに尽(つく)したのであるが前(まへ)に御話(おはなし)した戸田主殿助重貞(とだとのものすけしげさだ)は永禄(えいろく)七年十一月 吉田城下(よしだぜうか)の 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十五 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十六 【本文】        戦(たゝかひ)に打死(うちじに)したので其(その)当時(とうじ)は父(ちゝ)の宜光(よしみつ)はまだ生存(せいぞん)して居(を)つたが結局(けつきよく)重貞(しげさだ)の後(あと)は弟(おとゝ)の忠重(たゞしげ)が継(つ)いだので       ある此人(このひと)は初(はじ)め甚平(じんぺい)後(のち)に弾正(だんぜう)と称(せう)したが永禄(えいろく)十年五月廿五日二 連木(れんぎ)に於て没(ぼつ)したので其子(そのこ)の虎千代(とらちよ)が 戸田康長   後(あと)を継(つ)いだのである此(この)虎千代(とらちよ)は後(のち)に康長(やすなが)と称(せう)し丹波守(たんばのか)と云つたが家康(いへやす)から特(とく)に松平(まつだひら)の姓(せい)を賜(たまは)つたので       ある然(しか)るに相続(さうぞく)の当時(とうじ)はまだ六歳であつたので戸田伝(とだでん)十 郎吉国(らうよしくに)が陣代(ぢんだい)の役(やく)を勤(つと)めて此(この)康長(やすなが)を補佐(ほさ)して        居(を)つたのである蓋(けだ)し此(この)康長(やすなが)は多(おほ)くのものに忠重(たゞしげ)の子(こ)であると記(しる)してあるが実(じつ)は重貞(しげさだ)の子で重貞(しげさだ)戦死(せんし)の       時はまだ生(うま)れなかつたものであるとの説(せつ)がある之(これ)は戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)の説(せつ)であるが甚(はなは)だ耳新(みゝあたら)しい説(せつ)であ       るから申添(もうしそ)へて置(お)きたいと思(おも)ふ尚(な)ほ此処(こゝ)に御話(おはなし)したいのは維新前(ゐしんぜん)大垣(おほがき)の藩主(はんしゆ)であられた今(いま)の戸田伯爵(とだはくしやく)        家(け)祖先(そせん)の事である此(この)家(いへ)は一西(かづあき)と云ふ人を以(もつ)て中興(ちうこう)の祖(そ)として居(を)るが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)には一西(かづあき)の祖父(そふ)氏(うぢ) 戸田氏輝   輝(てる)から系図(けいづ)が起(おこ)してある此(この)氏輝(うじてる)と云ふ人は新(しん)二 郎(らう)又(ま)た孫右衛門(まごうゑもん)と称(とな)へ享禄(けうろく)二年から松平清康(まつだひらきよやす)に仕(つか)へ後(のち)       に至(いた)つて広忠(ひろたゞ)にも仕(つか)へたのである弘治(こうぢ)三年七月六十五歳で没(ぼつ)したのであるが戸田宗光(とだむねみつ)四世の孫(そん)である       と伝え(つた)へられて居る何分(なにぶん)にも古(ふる)く吉田(よしだ)に於(おい)て火災(くわさい)に罹(か)つて系図(けいづ)類(るい)を悉(こと〴〵)く失(うしな)つたから寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)に 戸田氏光  も詳(くは)しく分(わか)り難(がた)いと記(しる)してあるが此人(このひと)の子の吉兵衛氏光(きちべゑうぢみつ)と云ふ人は永禄(えいろく)七年 家康(いへやす)が此(この)吉田城(よしだぜう)を攻(せ)む       るに当(あた)つて其(その)母(はゝ)が今川方に質(しち)となつて城中(ぜうちう)にあるにも拘(かゝは)らず累世(るいせ)の恩義(おんぎ)を重(をも)むじて力(ちから)を徳川方に尽(つく)し        其(その)後(のち)も屡々(しば〳〵)戦場(せんぜう)に臨(のぞ)むで凡(およ)そ三十六所に疵(きづ)を被(かうむ)るに至(いた)つたとの事である天正(てんせう)十五年(或(あるひ)は十七年とも 戸田一西  云ふ)九月八日に年(とし)七十五で没(ぼつ)したが其子(そのこ)が即(すなは)ち一西(かづあき)である此(この)一西(かづあき)と云ふ人は初(はじ)め政成(まさなり)、 信世(のぶよ)、 康次(やすつぐ)       などゝ名乗(なの)り又(ま)た新二郎、十 兵衛(べゑ)、 左門(さもん)、 采女正(うねめせう)と称(とな)へ天文(てんぶん)十年 此(この)吉田(よしだ)に於(おい)て生(うま)れたのである徳川氏(とくがはし)       の為(ため)には頗(すこぶ)る戦功(せんこう)のあつた人で最後(さいご)に近江国(あふみのくに)膳所(ぜぜ)に城(きづ)いて之(これ)に居(を)り三万石を領(れう)したが慶長(けいてう)八年七月廿       五日六十二 歳(さい)で卒去(そつきよ)したのである然(しか)るにズツト前章(ぜんせう)に申述べて置いた通(とほ)り牧野傳蔵信成(まきのでんぞうのぶしげ)が松平清康(まつだひらきよやす)の 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】        為(ため)に敗亡(はいぼう)した時 其(その)弟(おとゝ)に新次(しんじ)、 新蔵(しんぞう)と云ふのがあつて新次(しんじ)は牛久保(うしくぼ)に退(しりぞ)いたが新蔵(しんぞう)は八名郡(やなぐん)赤岩(あかいわ)の法言(ほうげん)        寺(じ)に逃(のが)れて後(のち)に戸田氏を継(つ)ぎ戸田左門(とださもん)と云ふたとの事を書(か)いたものがある戸田左門(とださもん)と云へば此(この)一西(かづあき)の       事に当(あた)るのであるが併(しか)し此(この)説(せつ)は到底(とうてい)取(と)るに足(た)らぬ説(せつ)であると思(おも)ふ時代(じだい)も合(は)はず其他(そのた)反証(はんせう)もあつて前(まへ)に 牧新兵衛   御話(おはなし)した如(ごと)く藩翰譜(はんかんふ)にも論評(ろんひよう)がある通(とほ)りである只(た)だ此(この)戸田氏(とだし)は代々(だい〴〵)幼名(ようめよう)を新(しん)二 郎(らう)と称(とな)へた事と氏光(うぢみつ)の        弟(おとゝ)氏好(うぢよし)が牧新兵衛(まきしんべゑ)と称(とな)へて子孫(しそん)が宗家(そうけ)の家臣(かしん)となつた事などから引(ひ)き付(つ)けて右(みぎ)の様(よう)な伝説(でんせつ)が起(おこ)つたも       のではなかろうか兎(と)に角(かく)此(この)伝説(でんせつ)は法言寺(ほうげんじ)なとには今(いま)尚ほ伝(つた)はつて居(を)るのであるから一 言(げん)付加(ふか)して置(お)き       たいと思(おも)ふ此(この)一西(かづあき)の事に就(つい)てはまだ御話(おはなし)したい事もあるが追々(おい〳〵)に申述(もうしの)ぶる事としてサテ当時(とうじ)牛久保(うしくぼ)の 《割書:牛久保に於|ける牧野党》   方(ほう)は如何(どう)であつたかと云ふに之(こ)れ亦(ま)た前章(ぜんせう)に度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如く長岡牧野家(ながをかまきのけ)の祖(そ)、 成定(なりさだ)と田邊牧野家(たなべまきのけ)の        祖(そ)、 定成(さだしげ)とが其(その)主(おも)なるもので 成定(なりさだ)は既(すで)に吉田(よしだ)合戦(がつせん)の当時(とうじ)から竊(ひそか)に欵(かん)を徳川氏に通(つう)じて居つた様子(ようす)に信(しん)       ぜられるが而(しか)して吉田城(よしだぜう)明渡(あけわたし)後(ご)は両家(れうけ)共(とも)に公然(こうぜん)徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)するに至(いた)つたのである成定(なりさだ)は初(はじ)め新次郎(しんじらう)と       云ひ後(のち)に民部丞(みんぶのぜう)又は右馬允(うまのぜう)と云つたが頗(すこぶ)る勢力(せいりよく)のあつたもので牧野党(まきのとう)の領袖(りようしゆ)であつた然(しか)るに永禄(えいろく)九年 《割書:牧野成定の|墳墓》  十月廿三日 牛久保(うしくぼ)に於て年(とし)四十二で卒去(そつきよ)したのである今(いま)も其(その)墳(つか)が牛久保(うしくぼ)の光輝庵(こうきあん)の裏手(うらで)にあるモツト       モ成定(なりさだ)の墓(はか)は上州(ぜうしう)大胡(おほご)の養林寺(やうりんじ)と云ふにもあると云ふ事であるが之(これ)は恐(おそら)くは天正(てんせう)十八年 牧野家(まきのけ)が大胡(おほご)       に封(ほう)ぜられてから後(のち)に移(うつ)されたもので事実(じじつ)に葬(ほうむ)られたのは此(この)牛久保(うしくぼ)であるに相違(さうゐ)ない光輝庵(こうきあん)の墓表(ぼひよう)は        貞享(ていけう)元年其三世の孫女(そんぢよ)の建(た)てられたもので松(まつ)の大木(たいぼく)も残(のこ)つて居る然(しか)るに此(この)成定(なりさだ)卒去(そつきよ)の後(のち)遺領(ゐりよう)の争(あらそひ)が 《割書:牧野新次郎|康成》  あつた様子(やうす)で之(これ)は前(まへ)に申述(もうしの)べた出羽守保成(ではのかみやすしげ)の子(こ)出羽守成元(ではのかみなりもと)から起(おこ)つた訴訟(そせう)であるが結局(けつきよく)家康(いへやす)の裁断(さいだん)で        成定(なりさだ)の子(こ)新次郎康成(しんじらうやすなり)が之(これ)を続(つ)いだのである此時(このとき)水野下野守信元(みずのしもつけのかみのぶもと)から贈(おく)つた文書(ぶんしよ)が今(いま)も長岡牧野家(ながをかまきのけ)に保(ほ)        存(ぞん)されて居るが其中(そのなか)に「就其出羽殿父子従何方帰宅有度之由訴訟候共云々」と云ふ事が書(か)いてあるので 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十七 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十八 【本文】        先(さ)きに御話(おはなし)した出羽守保成(ではのかみやすなり)は牛久保原(うしくぼはら)の合戦(かつせん)で打死(うちじに)したものでなくまだ生存(せいぞん)して居(を)つたものであると       云ふ説(せつ)をなすものがあるが之(これ)は其(その)文書(ぶんしよ)をヨク〳〵翫味(ぎんみ)すれば決(けつ)してソウ云ふ訳(わけ)でない事が分(わか)る即ち此       出羽殿父子と云ふのは出羽守成元(ではのかみなりもと)と及び其子を指(さ)したものであると信(しん)ずる併(しか)し此事(このこと)は余(あま)り本市史(ほんしし)には        関係(くわんけい)が少(すくな)いからこの位(くらゐ)で止(と)めて置(お)きたいと思(おも)ふ次(つぎ)に田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)定成(さだしげ)の話(はなし)であるが此人(このひと)は前(まへ)にも申(もう)        述(しのべ)た如く同家(どうけ)の系譜(けいふ)に古白(こはく)の孫(そん)と記(しる)してある而(しか)して古河系図(ふるかはけいづ)に拠(よ)ると松平清康(まつだひらきよやす)が吉田城(よしだぜう)を攻(せ)めて牧野(まきの)        傳蔵信成(でんぞうのぶしげ)等(ら)が戦死(せんし)した時(とき)定成(さだしげ)は吉田城軍(よしだぜうぐん)の中(なか)にあつて創(きづ)を被(かうむ)り古河村(ふるかはむら)(《割書:今の大村|付近》)辺(へん)まで退(しりぞ)いたが此時(このとき)古(ふる)        河家(かはけ)の祖先(そせん)古河勝通(ふるかはかつみち)と云ふ人が之(これ)を援(たす)けて牛久保城(うしくぼぜう)に入(い)れたとのことである爾来(じらい)此(この)勝通(かつみち)は定成(さだしげ)に属(ぞく)して        家臣(かしん)同様(どうやう)になつたのである定成(さだしげ)は初(はじ)めは八 太夫(たゆう)と称(せう)し後(のち)に山城守(やましろのかみ)と云つたが之れ亦(ま)た牛久保(うしくぼ)に於(おい)て錚々(そう〳〵) 《割書:牧野惣次郎|康成》  たるものとなつたのである此人(このひと)は天正(てんせう)元年(がんねん)八月十三日に没(ぼつ)し其(その)子(こ)の康成(やすしげ)と云ふのは初(はじ)め惣次郎(そうじらう)半右衛(はんうゑ)        門(もん)後(のち)に讃岐守(さぬきのかみ)と云つたので頗(すこぶ)る武勇(ぶゆう)の人であつた即(すなは)ち永禄(えいろく)八年に父(ちゝ)と共(とも)に徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)し爾来(じらい)戸田康長(とだやすなが) 過銭の茶壺  牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)等(ら)と共(とも)に数(しば〳〵)の戦功(せんこう)を尽(つく)したのであるが此人(このひと)に就(つい)ては一つ面白(おもしろ)い話(はなし)があるそれはズツト        晩年(ばんねん)の事であるが嘗(かつ)て高価(こうか)の茶壷(ちやつぼ)を買入(かひい)れたのを豊太閤(ほうたいこう)が聴(き)き込(こ)まれて一つには欽羨(きんせん)の余(あま)り戯(たはむ)れにか       ゝる翫物(がんぶつ)に高価(こうか)を払(はら)ふのは益(えき)もないことであるから過銭(くわせん)として黄金(おうごん)一 枚(まい)を出(だ)して罪(つみ)を贖(あがな)へと云はれて遂(つひ)       に過料(くわりよう)を取(と)られたのである其後(そのご)数々(しば〳〵)家康(いへやす)が此事(このこと)を話(はな)し出(だ)しては笑(わら)ひ興(けう)じたとの事で今(いま)も其(その)壷(つぼ)は田邉牧(たなべまき)        野家(のけ)に蔵(ぞう)せられて過銭(くわせん)の茶壷(ちやつぼ)と名(な)づけられて居(を)るのである而(しか)して当時(とうじ)牛久保(うしくぼ)の牧野氏(まきのし)には前述(ぜんじゆつ)の如く        同時代(どうじだい)に同(おな)じ名乗(なのり)の人やよく似(に)た名前(なまへ)の人があつたのである即(すなは)ち長岡牧野家(ながをかまきのけ)に於ては貞成(さだなり)、 成定(なりさだ)、 康(やす)        成(なり)と続(つゞ)いて此(この)康成(やすなり)も初(はじ)めは祖父(そふ)と同(おな)じく貞成(さだなり)と云つた而(しか)も田邉牧野家(たなべまきのけ)に於ても定成(さだしげ)、 康成(やすしげ)と続(つゞ)いたの 金扇馬標  であるから間々(まゝ)その事蹟(じせき)の混淆(こんこう)されて居る事があると思(おも)はれる現(げん)に家康(いへやす)の馬標(うまじるし)たる金扇(きんせん)の出所(でどころ)に就(つい)ても 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六号附録   ( 明治四十四年七月十一日発行 ) 【本文】        種々(しゆ〳〵)な説(せつ)があるので頗(すこぶ)る惑(まどひ)を生(せう)ずるのである此(この)金扇(きんせん)の事に就(つい)て牛久保密談記(うしくぼみつだんき)には前後(ぜんご)二ケ所(しよ)に記(しる)され       てあるので最初(さいしよ)には永禄(えいろく)八年 家康(いへやす)が吉田城(よしだぜう)を攻(せ)めた時 下地(しもぢ)の聖眼寺(せうげんじ)に休憩(きうけい)したのであるが其(その)時(とき)成定(なりさだ)は        家康(いへやす)に属(ぞく)してから初(はじ)めての軍(いくさ)であるから一 手抦(てがら)なくてはとて聖徳太子(せうとくたいし)の尊前(そんぜん)で祈念(きねん)して金扇(きんせん)二 本(ほん)を籠(こ)       め置(お)いて退(しりぞ)いたが此事(このこと)は誰(だれ)も知(し)るものがなく後(のち)に至(いた)つて寺僧(じそう)が此(この)金扇(きんせん)を発見(はつけん)して家康(いへやす)に告(つ)げたので不(ふ)        思儀(しぎ)の事である吉兆(きつちよう)だと云ふので此時(このとき)から家康(いへやす)は之(これ)を馬標(うまじるし)に用(もち)ゆる事となつた又(ま)た成定(なりさだ)は家康(いへやす)の命(めい)で        小原鎮実(をはらしげさね)に城(しろ)の明渡(あけわた)しを交渉(こうせう)して大(だい)なる手抦(てがら)を現(あら)はしたのであると書(か)いてあるが前(まへ)にも申述(もうしの)ぶる如く        当時(とうじ)成定(なりさだ)は裏面(りめん)は兎(と)に角(かく)表向(おもてむ)きはまだ今川方であつたのであるからドウモ此(この)記事(きじ)には疑(うたがひ)なき事(こと)能(あた)は       ずであ■併(しか)し乍(なが)ら此時(このとき)扇(あふぎ)の吉兆(きちちよう)があつて家康(いへやす)が此(この)戦(たゝかひ)に金扇(きんせん)を以(もつ)て採配(さいはい)の代(かは)りとなしたと云ふ事は徳(とく) 《割書:徳川家の具|足祝日》   川家(がはけ)にも伝(つた)へられて居る説(せつ)で朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)にも之(これ)が廿日の日であつたから爾来(じらい)家康(いへやす)は廿日を以(もつ)て具足(ぐそく)        祝(いはひ)の日(ひ)と定(さだ)められたと記(しる)してあるシテ見(み)れば当時(とうじ)成定(なりさだ)は既(すで)に欵(くわん)を家康(いへやす)に通(つう)ぜる場合(ばあひ)で竊(ひそ)かに一 身(しん)の前(ぜん)        途(と)を太子(たいし)の尊前(そんぜん)に祈(いの)つたと云うふ事は強(あなが)ちに捨(す)つべからざる説(せつ)であるソレに密談記(みつだんき)がイロ〳〵と説(せつ)を付(ふ)        加(か)したから反(かへ)つて疑(うたがひ)を増(ま)した訳(わけ)ではなかろうかと思(おも)ふ又(ま)た密談記(みつだんき)に記(しる)してある第二の説と云ふのは       天正十八年 小田原(おだはら)攻(ぜめ)の時 家康(いへやす)は牧野半右衛門(まきのはんうゑもん)が巳(おの)れに遠慮(えんりよ)して其(その)家(いへ)伝来(でんらい)の扇(あふぎ)の馬標(うまじるし)を用ゐて居らぬの       を見(み)て曩(さき)に下地(しもぢ)聖眼寺(せうげんじ)太子堂(たいしどう)にての事を話(はな)し出(だ)して決(けつ)して苦(くる)しからぬから汝(なんぢ)も亦(ま)た扇(あふぎ)の馬標(うまじるし)を用ゆる       ようにせよと云はれたとの事柄(ことがら)である因(よつ)て考(かんが)ふるに此(この)半右衛門(はんうゑもん)と云ふのは即(すなは)ち田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)康成(やすしげ)の       事で長岡牧野家(ながをかまきのけ)の成定(なりさだ)とは自(おのづか)ら別人(べつじん)である然(しか)るに此処(こゝ)に太子堂(たいしどう)云々(うんぬん)の事を持(も)ち出(だ)してあるのは疑(うたがひ)に        堪(た)へぬが併(しか)し半右衛門康成(はんうゑもんやすしげ)が家康(いへやす)の為(ため)に金扇(きんせん)を請(こ)はれたのは永禄(えいろく)八年の事で吉田合戦(よしだかつせん)の後(のち)康成(やすしげ)は家康(いへやす)       に属(ぞく)し其(その)十二月 初(はじ)めて岡崎(をかざき)へ行(い)つて面謁(めんえつ)した時の話(はなし)であるモツトモ此時(このとき)は成定(なりさだ)も同行(どうこう)したので公儀(こうぎ)日(につ) 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 八十九 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 九十 【本文】        記(き)には此(この)話(はなし)も亦(ま)た成定(なりさだ)であるように記(しる)してあるが之(これ)は康成(やすしげ)であると云ふ説が有力(ゆうりよく)であるように思ふ之(これ)       に拠(よ)れば馬標(うまじるし)の起(おこ)りは田邉牧野家(たなべまきのけ)の方(ほう)にあるとなすのが穏当(おんとう)であると思(おも)ふが同家(どうけ)の伝説(でんせつ)も亦(ま)た之(これ)と同(どう)        様(よう)である而(しか)して其後(そのご)康成(やすしげ)は徳川氏のものと区別(くべつ)する為(ため)に従前(じうぜん)五本 骨(ほね)であつた金扇(きんせん)を七本 骨(ほね)に改(あらた)め作(つく)つ       て指物(さしもの)に用(もち)ゐたとの事で今(いま)も尚(な)ほ同家(どうけ)に所蔵(しよぞう)せられて居る之(これ)と同時(どうじ)に私(わたくし)は前(まへ)に申述(もうしの)べた家康(いへやす)の具足(ぐそく)        初(はじ)めに関(くわん)する起因(きゐん)と云ふものは却(かへつ)て長岡牧野家(ながをかまきのけ)の成定(なりさだ)より出(い)でたもので之(これ)にも矢張(やはり)金扇(きんせん)が伴(ともな)つて居(を)る       ものであると云ふ事を信(しん)ずるのである 《割書:牛久保に於|ける牧野氏》   尚(な)ほ此処(こゝ)に此(この)両(れう)牧野家(まきのけ)の家系(かけい)に就(つい)て少(すこ)しく申述べたいのであるが元来(がんらい)此(この)両家(れうけ)は屡々(しば〳〵)前章(ぜんせう)に申述べた如 の家系   く平家(へいけ)の士(し)田口成能(たぐちしげよし)から出(い)でたので牧野古白(まきのこはく)の家(いへ)とは全(まつた)く同系統(どうけいとう)であることに伝(つた)へられて居(を)る然(しか)るに古(こ)        来(らい)其(その)由(よつ)て来(きた)る処(ところ)に分明(ぶんめい)ならざる点(てん)があつて寛永系図(かんえいけいづ)及(およ)び寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)にも共に其(その)流(ながれ)を異(こと)にして掲載(けいさい)       してある殊(こと)に武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)の如きは此(この)両(れう)牧野氏(まきのし)を以て孰(いづ)れも元(もと)と眞木氏(まきし)であつて後(のち)に牧野(まきの)に改(あらた)めたも       ので古白(こはく)の家(いへ)とは自(おのづか)ら其(その)系統(けいとう)を異(こと)にするものであるとなして居る併(しか)し乍(なが)ら此(この)説(せつ)は余程(よほど)離(はな)れた説(せつ)で容(よう)        易(い)に断(だん)ずることは出来(でき)ぬ兎(と)に角(かく)其(その)祖先(そせん)が孰(いづ)れの家(いへ)も成能(しげよし)であると云ふことは先(ま)ず争(あらそ)はれぬ事と信(しん)ずるがサ       テ其後(そのご)初(はじ)めて三 河国(かはのくに)に来(きた)つたのは果(はた)して誰(たれ)であつたかと云ふ事に就(つい)ては各々(おの〳〵)家伝(かでん)に相違(さうゐ)があつて頗(すこぶ)る        研究(けんきう)を要(えう)することと思ふ寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)によると古白(こはく)の家(いへ)は前章(ぜんせう)に詳(くは)しく御話(おはなし)して置(お)いた通(とほ)り成能(しげよし)の子       に教能(のりよし)と云ふ人があつて其(その)後胤(こうゐん)成保(しげやす)の子 成清(しげきよ)までは代々(だい〳〵)讃岐国(さぬきのくに)に居つたが其子(そのこ)成富(しげとみ)が初(はじ)めて三河国に        来(き)たので之(これ)が即(すなは)ち古白(こはく)の父(ちゝ)であると云ふ事になつて居る田邉牧野家(たなべまきのけ)の譜(ふ)は略(ほ)ほ之(これ)と同(どう)一であるが長岡(ながをか)        牧野家(まきのけ)の譜(ふ)は少(すこ)しく之(これ)と違(ちが)つて成能(しげよし)が後胤(こうゐん)成朝(しげとも)に至つて初(はじ)めて三河国に来(きた)つたが成朝(しげとも)から成定(なりさだ)の父(ちゝ)氏(うぢ)        勝(かつ)までは世系(せいけい)が詳(つまびらか)でないとしてある然(しか)るに此(この)長岡(ながをか)田邉(たなべ)両牧野家(れうまきのけ)に就(つい)て其(その)家譜(かふ)を調(しら)べて見(み)ると頗(すこぶ)る精密(せいみつ) 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】       なものがあるのみならず旧来(きうらい)余程(よほど)研究(けんきう)が重(かさ)ねてあるように見(み)ゆる殊(こと)に長岡牧野家(ながをかまきのけ)の御系図類記(おんけいづるいき)と云ふ       ものは考証(こうせう)も正確(せいかく)で拠(よ)るべき点が少(すくな)くないと思うふ之(これ)等(ら)に就(つい)て見(み)ると成朝(しげとも)と云ふ人は成能(しげよし)の嫡孫(ちやくそう)で教能(のりよし)       の子であると記(しる)してあるスルト此(この)牧野氏(まきのし)と云ふものは余程(よほど)古(ふる)くから三河国に来(きた)つたもので此(この)説(せつ)は実(じつ)に        研究上(けんきうぜう)価値(かち)あるものであると信(しん)ずる如何(いかん)となれば古白(こはく)の父(ちゝ)成富(しげとみ)が始(はじ)めて三河国へ来(きた)つたにしては古白(こはく)        時代(じだい)に於ける牧野党(まきのとう)の繁殖(はんしよく)が余(あま)りに過大(くわだい)であると信(しん)ずるのであつて之(これ)は私(わたくし)の常(つね)に疑(うたがひ)を懐(いだ)いて居つ       た処である又(ま)た此(この)両牧野家(れうまきのけ)の調査(てうさ)によると古白(こはく)の父(ちゝ)成富(しげとみ)と成清(しげきよ)との間(あひだ)に成方(なりかた)と云ふ人が一 代(だい)あるので       あるが之(これ)も或(あるひ)は其(その)方(ほう)が正(たゞ)しいであろうと思(おも)ふ要(えう)するに牧野(まきの)の一 党(とう)と云ふものは宝飯郡(ほゐぐん)牧野村(まきのむら)から起(おこ)つ       て後(のち)に牛久保(うしくぼ)に拠(よ)つたのであるが当時(とうじ)其(その)一 族(ぞく)中(ちう)の主(おも)なるものであつた古白(こはく)は城(しろ)を今(いま)の豊橋の地に築(きづ)い       て之(これ)に移(うつ)り牛久保は長岡牧野家(ながをかまきのけ)の祖先(そせん)初(はじ)めが守(まも)つたのである然(しか)るに豊橋の方は前(まへ)に申述べた如く一 時(じ)        敗亡(はんぼう)に皈(き)したが牛久保(うしくぼ)の方(ほう)は継続(けいぞく)して今日に至(いた)つたと云ふ次第(しだい)であるサテ其(その)次(つぎ)が菅沼氏(すがぬまし)の話(はなし)である前(まへ)       に申述(もうしの)べて置いた通(とほ)り有名(ゆうめい)なる東三河の山家(やまが)三 方(ほう)と云はれたのは当時(とうじ)段峯(だみね)(《割書:一に|田峯》)に居つた菅沼氏(すがぬまし)並(ならび)に 《割書:段峯の菅沼|長篠の菅沼》   長篠(ながしの)に居つた菅沼氏(すがぬまし)及(およ)び作手(つくて)の奥平氏(おくだひらし)であるモツトモ野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)をも之(これ)に加(くは)へた記事(きじ)が朝野旧聞裒(てうやきうぶんほう) 《割書:野田の菅沼|     》   稿(こう)の中(なか)に見(み)へて居(を)るがそれは同(おな)じ菅沼氏(すがぬまし)の一 族(ぞく)であるから右(みぎ)の如き場合(ばあひ)もあつたかと思(おも)ふ兎(と)に角(かく)菅沼(すがぬま)        氏(し)と云ふものは段峯(だみね)が元(もと)でそれから長篠(ながしの)野田(のだ)などゝ分(わか)れたものである今(いま)寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)によつて系図(けいづ) 菅沼氏系図 の大要(たいえう)を示(しめ)せば左(さ)の通(とほり)である         〇資長《割書:伊賀守|田峯に住す》         定成 文明七年十一月十五日死                         満成《割書:三郎左衛門|長篠に住す長篠菅沼と称す》 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 九十一 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 九十二 【本文】         元成 新九郎       俊則 下野守      元直                      俊弘 《割書:次郎右衛門|伊予守が祖》     満直 武田勝頼に仕ふ                      貞吉         貞景 《割書:新九郎、三郎右衛門、左衛門尉|家康に仕へ永禄十二年正月廿三日遠江天王山に打死》     正貞 《割書:新九郎|初め家康に仕へ後武田信玄に属す》         貞俊         正勝 《割書:紀伊徳川家に仕へ二千|五百石を与へらる》         貞行 伊賀守         定家 伊賀守         定信 《割書:新三郎信濃守 刑部少輔|田峰に住し田峰菅沼と称す》          定忠 《割書:大膳太夫 新三郎|一に大膳亮新八郎に作る》                               定房         定廣 《割書:新三郎 大膳亮|今川氏親に属し父と共に水巻の城を守る》         某  ■雲 文翼         定則 《割書:竹千代新八郎織部正|野田に住し野田の菅沼と称す》   定村 《割書:竹千代新八郎|織部正》         某  新七              《割書:弘治二年八月奥平監物貞勝宝飯郡雨山に砦を搆へ今川義元|に抗す義元東三河の諸士をして之を攻めしむ定村先登之に》                            《割書:討死す年三十六法名道雲野田の道雲寺は男定盈の開基なり|    》         定盈 《割書:竹千代 新八郎 織部正|天文十一年野田に生る永禄四年家康に属し爾来戦功多く後》    定仍            《割書:伊勢国長島城に封せられ一万石を領し六十三歳を以て卒す|   》 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百十二号附録   ( 明治四十四年七月十八日発行 ) 【本文】                                   定成                                   定芳 《割書:伊勢国亀山にて|四万千余石を領》                                      《割書:す| 》         定昭 嗣なし         定実 《割書:定昭死し嗣なきを以て兄|の後を分ちニ千石を賜ふ》         定継 《割書:新太郎大膳亮|弘治二年奥平貞勝等と共に》             某 《割書:小法師刑部少輔|父が遺跡を継ぎ田峯新城武節三城を守る》            《割書:今川義元に抗し為に自殺す| 》               《割書:永禄四年家康に属し数々戦功あり元亀二|年奥平貞能と共に武田信玄に属し勝頼敗》         某                          《割書:後降を請ひしも許されず天正十年五月十|七日徳川氏の為に殺さる》         定直 弥三右衛門         定氏 《割書:十郎兵衛信濃守|清康広忠家康に歴仕し戦功あり》           定吉 《割書:新三郎藤十郎|越後守》            《割書:慶長九年七月廿六日死年八十四| 》         定仙 《割書:八右衛門常陸介|初今川氏に属し後家康に従ひ又た武田》            《割書:信玄に属し元亀二年再び家康に従ふ| 》         定俊 藤十郎           定政 藤十郎         定利 《割書:小大膳|元亀二年田峯を退き菅沼定盈に》     忠政 《割書:実は奥平信昌の三男|美濃加納十万石》            《割書:依て家康に仕へ後上野国吉井二|万石に封せらる》         忠種      某 嗣なく家絶ゆ 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                 九十三 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)              九十四 【本文】         定盛 伊賀守          定勝 《割書:久■伊賀守入道源長井道の砦に住し|永禄四年小原鎮実小法師が新城を来》                            《割書:り攻むる時一族と共に之を拒ぎ敵兵|松井某を打取る》         某  《割書:孫太夫|弘治元年大膳亮 ■と共に奥平貞勝に与》            《割書:みし今川氏に叛き二年八月廿一日定継と|同じく自殺す》         三照              定房         某               定重         三春              以下略       ザツト右(みぎ)の通(とほり)であるが頗(すこぶ)る入り組むだ系図(けいづ)である従(したがつ)て文明(ぶんめ)の頃(ころ)から元亀(げんき)天正(てんせう)の頃(ころ)に亘(わた)つて此(この)菅沼氏(すがぬまし)       の一 族(ぞく)と云ふものは東三河の山方(やまがた)へは瀰満(びまん)したものである然(しか)るに地勢(ちせい)の関係(くわんけい)から常(つね)に大勢(おほぜい)に逆(さから)ふ事が        多(おほ)く不幸(ふこう)に陥(おちゐ)つて居る状態(ぜうたい)である独(ひと)り野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)は終始(しうし)一 貫(かん)克(よ)く徳川氏の為(ため)に忠勤(ちうきん)を尽(つく)して今川氏(いまがはうぢ)        実(さね)や武田信玄(たけだしんげん)などに容易(ようい)ならず苦(くるし)められたが遂(つひ)には最後(さいご)の勝利者(せうりしや)となつたのである然(しか)るに田峯(たみね)長篠(ながしの)な       どの菅沼氏(すがぬまし)は頗(すこぶ)る大勢(たいせい)に通(つう)せず又は到底(たうてい)独立(どくりつ)の出来(でき)難(がた)い処(ところ)から初(はじ)め今川義元(いまがはよしもと)に叛(そむ)いて失敗(しつぱい)し永禄(えいろく)四年       の変(へん)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)して幸(さいはひ)に好都合(こうつごう)であつたものも後(のち)には又た武田信玄(たけだしんげん)に従(したが)つて其身(そのみ)を亡(ほろぼ)すに至つた       ものがあるので実(じつ)に気(き)の毒(どく)千万に思(おも)はるゝのである殊(こと)に徳川氏が天下(てんが)を平定(へいてい)してから後(のち)幸(さいはひ)に諸侯(しよこう)の        列(れつ)に加(くわ)はつた家(いへ)も悉(こと〴〵)く嗣(よつぎ)なくして断絶(だんぜつ)に及(およ)ぶなど菅沼氏(すがぬまし)の一 族(ぞく)に対(たい)しては同情(どうぜう)に堪(た)へぬのである 奥平氏   ソコで此(この)菅沼氏(すがぬまし)と共に山家(やまが)三 方(はう)の中に数(かぞ)へられて居る奥平氏(おくだひらし)は如何(いか)なる筋合(すじあひ)の家(いへ)であるかと云ふに其(その)        出所(しゆつしよ)に就(つい)ては之にもイロ〳〵の説があるが貞能(さだよし)四 世(せ)の祖(そ)の左衛門尉貞俊(さゑもんのぜうさだとし)と云ふ人が初(はじ)めて上野国(かうづけのくに)から 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【本文】       此三河国に来(き)て作手(つくて)を領(れう)したとの事である貞能(さだよし)の子は後(のち)に長篠籠城(ながしのろうぜう)で有名(ゆうめい)なる信昌(のぶまさ)であるが貞能(さだよし)の父       と云ふのは監物貞勝(かんもつさだかつ)で後(のち)に入道(にふどう)して道文(どうもん)と云つた人である此(この)道文(どうもん)と云ふ人は初(はじ)め松平清康(まつだひらきよやす)に従つた事       があるが後(のち)に今川氏に属(ぞく)した然(しか)るに貞能(さだよし)は永禄(えいろく)八年の頃(ころ)から再(ふたゝ)び今川氏真(いまがはうぢさね)に叛(そむ)いて徳川氏に従(したが)ひ中々(なか〳〵)        戦功(せんこう)があつたが元亀(げんき)二年に至(いた)つて父(ちゝ)道文(どうもん)初(はじ)め一 族(ぞく)と共に武田信玄(たけだしんげん)に属(ぞく)したのであるトコロが中途(ちうと)にし       て志(こゝろざし)を決(けつ)して一 族(ぞく)のものと別(わか)れ再(ふたゝ)び家康(いへやす)に属(ぞく)したのである之等(これら)の事に就(つい)ては詳(くは)しい話(はなし)もあるがソレ 《割書:深溝松平氏|竹谷松平氏》  は追々(おひ〳〵)に申述(もうしの)ぶる事として次(つぎ)に深溝(ふかふづ)、  竹谷(たけのや)、 形原(かたのはら)などの松平氏(まつだひらし)の事を申述べたいと思(おも)ふ此(この)三 松平家(まつだひらけ)は 《割書:形原松平氏| 》   前章(ぜんせう)にも申述(もうしの)べたと通(とほ)り松平和泉守信光(まつだひらいづみのかみのぶみつ)から出(で)たものであるが信光(のぶみつ)の子 親忠(ちかたゞ)其子(そのこ)の長親(ながちか)及(およ)び其子(そのこ)の信忠(のぶたゞ)       の代(だい)にもそれ〳〵分家(ぶんけ)したもので之(これ)が孰(いづ)れも松平(まつだひら)を名乗(なの)つたのである今(いま)多(おゝ)く人(ひと)の知(し)つて居るものに就(つい)       て其(その)流(ながれ)を分(わか)つて見(みる)ると大略(たいりやく)左(さ)の如(ごと)くである       〇信光の流         竹 谷   形 原   大 草    深 溝   能 見   長 沢       〇親忠の流         大 給   西福釜   安 祥   瀧 脇       〇長親の流         福 釜   桜 井   東 條   藤 井       〇信忠の流         三 木   鵜 殿        而(しか)して度々(たび〳〵)引(ひ)き合(あ)ひに出(だ)される家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)松平家忠(まつだひらいへたゞ)と云ふ人は此(この)深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)であるが御承知(ごせうち)の宝(ほ) 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)              九十五 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次と東三河の諸士)                九十六 【本文】        飯郡(ゐぐん)深溝(ふかうず)に城(しろ)を搆(かま)へて居つたのである祖父(そふ)大炊助好景(たいすいのすけよしかげ)は前にも申述べた如く曩(さき)に幡豆郡(はづぐん)善明寺(ぜんめうじ)堤(つゝみ)に於       て吉良義昭(きらよしあきら)の兵と戦(たゝかつ)て打死(うちじに)し父の伊忠(これたゞ)は長篠合戦(ながしのかつせん)で打死(うちじに)したが自分(じぶん)も亦(ま)た後(のち)に鳥居元忠(とりゐもとたゞ)と共に伏見(ふしみの)        城(しろ)を守(まも)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのである即(すなは)ち三 代(だい)引(ひ)き続(つゞ)いて徳川家(とくがはけ)の為(ため)に忠死(ちうし)したので之(これ)も亦(ま)た実(じつ)に同情(どうぜう)す       べき家(いへ)であると思(おも)ふ又(ま)た竹谷(たけのや)の松平氏(まつだひらし)は彼(か)の肥後守清善(ひごのかみきよよし)の家(いへ)で清善(きよよし)は信光(のぶみつ)から凡(およ)そ五 代(だい)に当(あた)るのであ       るが此人(このひと)が初(はじ)めて竹谷(たけのや)に住(ぢう)したのである而(しか)して孫(そん)の玄蕃頭家清(げんばのかみいへきよ)は後(のち)に此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)に封(ほう)せられたので        詳(くは)しい事は其(その)時代(じだい)に当(あた)つて申述(もうしの)ぶる考(かんがへ)である又た形原(かたのはら)松平(まつだひら)と云ふのはの信光(のぶみつ)の第五子 佐渡守興嗣(さどのかみおきつぐ)か       ら出でゝ居るので初(はじ)め岩津殿(いわづどの)と云はれたのであるが吉田合戦(よしだかつせん)の頃(ころ)は紀伊守家嗣(きいのかみいへつぐ)と云ふ人の頃(ころ)である此(この)        人(ひと)は興嗣(おきつぐ)五代の孫(そん)で父を紀伊守家忠(きいのかみいへたゞ)と云ひ其子(そのこ)は紀伊守家信(きいのかみいへのぶ)である此(この)人々(ひと〳〵)も亦(ま)た徳川家の為(ため)には忠勤(ちうきん)       を尽(つく)したもので此(この)家(いへ)も矢張(やはり)後(のち)に諸侯(しよこう)の列(れつ)に加(くは)はつたのである 《割書:伊奈の本多|氏》   其(その)次(つぎ)が伊奈(いな)の本多氏(ほんだし)に就(つい)てであるが本多氏(ほんだし)は元来(がんらい)藤原氏(ふぢはらし)で九 条関白師輔(じょうくわんぱくもろすけ)十二世の孫(そん)助秀(すけひで)と云ふ人が        豊後国(ぶんごのくに)本多(ほんだ)と云ふ処に住(ぢう)して本多(ほんだ)を氏(うぢ)としたのが始(はじめ)であると云ふ事である其子(そのこ)に助定(すけさだ)と云ふ人があつ       て尾張国(をはりのくに)に来(きた)りそれから六 世(せ)の孫(そん)に助時(すけとき)と云ふひと人があつたが之(これ)が初(はじ)めて三河国に来(きた)つて松平長親(まつだひらながちか)に仕(つか)       へたのであると云ふのが普通(ふつう)に伝(つた)はつて居る説(せつ)である即(すなは)ち平八郎 忠勝(たゞかつ)の家(いへ)も、 前(まへ)に御話(おはなし)して置(お)いた豊(ぶん)        後守広孝(ごのかみひろたか)の家(いへ)も、 作左衛門重次(さくざゑもんしげつぐ)の家も皆(みな)同族(どうぞく)で元(もと)は互(たがひ)に分(わ)れたものである而(しか)して伊奈(いな)の本多氏(ほんだし)は正時(まさとき)       と云ふ人を祖(そ)として居つて其子(そのこ)が正助(まさすけ)其孫(そのそん)が即(すなは)ち縫殿助正忠(ぬひどのすけまさたゞ)である此人(このひと)は天文二十二年に卒去(そつきよ)した人       であるが松平清康(まつだひらきよやす)が吉田城(よしだぜう)に牧野傳蔵信成(まきのでんぞうのぶしげ)等(ら)を攻(せ)めた時には最初(さいしよ)から清康(きよやす)に属(ぞく)して戦功(せんこう)が多(おほ)くあつた 葵紋の説  のである世(よ)の伝(つた)ふる所によると此時(このとき)正忠(まさたゞ)は巳(おの)れが伊奈(いな)の城(しろ)に清康(きよやす)を請(こう)じて酒肴(しゆこう)を進(すゝ)め肴盤(こうばん)に池(いけ)なる水(みづ)        葵(あふい)の葉(は)を藉(かり)て出(だ)したのである清康(きよやす)は之(これ)を見て立葵(たちあふひ)は本多家(ほんだけ)の紋(もん)であるのに今度(こんたび)の勝利(せうり)は正忠(まさたゞ)が最初(さいしよ)に 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百十八号附録   ( 明治四十四年七月廿五日発行 ) 【本文】        味方(みかた)したからである之(これ)は誠(まこと)に吉例(きちれい)であると云ふので之(これ)から徳川氏(とくがはし)に於ては三 葵(あほひ)の紋所(もんどころ)を用ゆることにな       つたのであると云ふ事である然(しか)るに徳川家の三 葵(あほひ)の紋所(もんどころ)に就(つい)ては古来(こらい)紛々(ふん〳〵)の説(せつ)があつて殆(ほとん)ど確実(かくじつ)なる       ものがない即(すなは)ち右(みぎ)の説(せつ)の外(ほか)に此(この)葵(あほひ)の紋(もん)は最初(さいしよ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんのぜう)の家(いへ)から上(あ)げたものであるとも云ひ又(ま)た酒(さか)        井雅樂頭(ゐうたのかみ)家(け)からであるとも云ひ其他(そのた)本多中務大輔(ほんだなかつとたいゆう)の家(いへ)からであるとか高力村(たかりきむら)の老翁(らうおう)から献(けん)じたもので       あるとか種々(しゆ〳〵)な説(せつ)が行(おこな)はれて居るが元来(がんらい)新田家(につたけ)には古(ふる)くから葵(あほひ)の紋(もん)を用ゐた流(ながれ)があると云ふ説(せつ)がある        又(ま)た松平氏(まつだひらし)にも矢張(やはり)清康(きよやす)以前(いぜん)から既(すで)に葵(あほひ)を紋(もん)となした流(ながれ)があると云ふ説(せつ)があるので文政(ぶんせい)年間(ねんかん)に竹尾次(たけをつぐ)        春(はる)と云ふ人が著(あらは)した旧考余録(きうこうよろく)と云ふ書物(しよもつ)などには頗(すこぶ)る精細(せいさい)に此事(このこと)が考証(こうせう)してある従(したがつ)て葵(あほひ)の紋(もん)の事は        尚(な)ほ余程(よほど)研究(けんきう)の余地(よち)があるもので世(よ)の伝説(でんせつ)のみに拠(よ)り得(え)らるべきものではあるまいと信(しん)ずるのである       サテ正忠(まさたゞ)の子は忠俊(たゞとし)で忠俊(たゞとし)の子が光忠(みつたゞ)と忠次(たゞつぐ)とであるが光忠(みつたゞ)の所労(しよろう)によりて弟(おとゝ)の忠次(たゞつぐ)が父(ちゝ)の後(あと)を相続(さうぞく)       したのである兎(と)に角(かく)此家(このいへ)は歴代(れきだい)徳川氏の為(た)には忠勤(ちうきん)を励(はげ)むだものであるが忠次(たゞつぐ)の子の康俊(やすとし)と云ふのは        実(じつ)は酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の子で本多家(ほんだけ)の養子(やうし)となつたのである此(この)人々(ひと〳〵)の事に付ても話(はなし)は沢山(たくさん)にあるが矢(や)        張(はり)追々(おひ〳〵)折(をり)に触(ふ)れて申述ぶることに致(いた)したい考(かんがへ)である尚(な)ほ右(みぎ)諸家(しよけ)の外(ほか)にも西郷氏(さいごうし)の如(ごと)き御話(おはなし)したいもの       もあるが前章(ぜんせう)に於て既(すで)に略(ほ)ぼ申述(もうしの)べてあるように思(おも)ふから先(ま)づ此話(このはなし)はこゝに止(とゞ)めて酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が吉田城(よしだぜう)       に入(はい)つてより後(のち)の状態(ぜうたい)に立戻(たともど)つて次章(じせう)から申述(もうしの)べたいと思(おも)ふのである             ⦿今川氏の衰亡と武田氏の侵入        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く吉田(よしだ)の城(しろ)は永禄(えいろく)八年三月 遂(つひ)に徳川家康(とくがはいへやす)の手に帰(き)し家康(いへやす)は之(これ)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に与(あた)へたの       であるが今川方(いまがはがた)の小原鎮実(をはらしげさね)は此城(このしろ)を明渡(あけわた)して後(のち)暫(しばら)くは遠江(とほとふみ)鵜津山(うつやま)の城(しろ)に居(を)つたのである後(のち)に駿河国(するがのくに)花(はな) 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)             九十七 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                  九十八 【本文】        沢(さわ)の城(しろ)に籠(こも)り武田氏(たけだし)の為(ため)に攻(せめ)られて高天神(たかてんじん)に走(はし)りて討死(うちじに)したのであるが元来(がんらい)此(この)鎮実(しげさね)と云ふ人は如何(いか)な 《割書:小原鎮実の|素性》  る素性(すぜう)のものであるか種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があつて甚(はなは)だ確(たしか)でない併(しか)し今川家(いまがはけ)に於ては中々(なか〳〵)勢力(せいりよく)のあつたもので松(まつ)        平記(だひらき)に拠(よ)ると初(はじ)め近江(あふみ)の住人(ぢうにん)で小倉(をぐら)三 河守(かはのかみ)と云ふ人が伊豆(いづ)の熱海(あたみ)に湯治(とうぢ)をした時(とき)図(はか)らず義元(よしもと)に遇(あ)つて        召抱(めしかゝ)へられる事になつたが自分(じぶん)は老人(らうじん)であると云ふので其子(そのこ)の與助(よすけ)と云ふものを薦(すゝ)めたのである鎮実(しげさね) 《割書:三浦右衛門|佐》  も亦(ま)た近江(あふみ)の人で即(すなは)ち此(この)與助(よすけ)の紹介(せうかい)で今川家に仕(つか)ゆるに至(いた)つたのである而(しか)して其子(そのこ)の右衛門佐(うゑもんすけ)と云ふ       のは今川家(いまがはけ)の家老(からう)三浦次郎右衛門(みうらじらううゑもん)の遺跡(ゐせき)を継(つ)いで武勇(ぶゆう)もあつたが特(とく)に美男(びだん)であつたので氏真(うぢさね)の嬖臣(へいしん)で       あつたと云ふ事である又(ま)た同書(どうしよ)によれば永禄(えいろく)十年の頃(ころ)から駿河国(するがのくに)には風流(ふうりう)の踊(おどり)が流行(りうこう)して氏真(うぢさね)は之(これ)等(ら) 《割書:駿河国政の|紊乱》  の嬖臣(へいしん)と踊(おど)り囃(はや)して日夜(にちや)遊宴(ゆうゑん)に耽(ふけ)つて居つたと云ふ事である併(しか)し之(これ)等(ら)の事柄(ことがら)に就(つい)ては頗(すこぶ)る他(た)に説(せつ)があ       るから深(ふか)き研究(けんきう)もなくて断定(だんてい)はし兼(か)ぬるが兎(と)に角(かく)駿河(するが)の国政(こくせい)と云ふものは其頃(そのころ)に至(いた)つて大(おほい)に紊乱(びんらん)し人(じん)        心(しん)は漸(やうや)く離反(りはん)せむとしたのである此機(このき)に乗(ぜう)じて逸早(いつはや)く駿河(するが)を窺(うかゞ)つたのは甲斐(かひ)の武田信玄(たけだしんげん)であつた 《割書:武田氏侵入|の経路》   之(これ)より武田氏(たけだし)侵入(しんにふ)の事を申述(もうしのべ)るに就(つい)ては其(その)経路(けいろ)として武田氏(たけだし)の事は勿論(もちろん)関東(くわんとう)諸将(しよせう)の事に就(つい)て少(すこ)しく申       述べねばならぬと思(おも)ふが武田信玄(たけだしんげん)の事に就(つい)ては私(わたくし)が申上(もうしあ)ずとも既(すで)に諸君(しよくん)が能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも) 武田信虎  ふ元来(がんらい)信玄(しんげん)の父(ちゝ)信虎(のぶとら)と云ふ人は頗(すこぶ)る武威(ぶゐ)を振(ふる)つたもので甲斐国内(かひのこくない)の諸族(しよぞく)を威服(ゐふく)したのである此人(このひと)は実(じつ)       に強暴(けうぼう)不慈(ふじ)の行(おこない)が多(おほ)く国人(こくじん)の怨望(えんぼう)が甚(はなはだ)しかつた処から天文(てんぶん)十年六月四十八歳の時(とき)に駿河(するが)に退隠(たいゐん)し 甲陽軍鑑  たのであるが此(この)事(こと)に関(くわん)し従来(じうらい)甲陽軍鑑(かうようぐんかん)などの説(せつ)が最(もつと)も世(よ)に流布(るふ)せられて居るので信玄(しんげん)が父(ちゝ)を遂(を)つて自(じ)        立(りつ)したものであるように伝(つた)へられて居る併(しか)し前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く甲陽軍鑑(かうようぐんかん)と云ふ書物(しよもつ)は十 分(ぶん)に信用(しんよう)す       ることの出来(でき)ぬもので其(その)著者(ちよしや)に就(つい)ても色々(いろ〳〵)の説(せつ)がある史家(しか)の通説(つうせつ)としては木幡勘兵衛景憲(こはたかんべゑかげのり)と云ふ人が武(たけ)        田家(だけ)の兵法(へいほう)を寓(ぐう)し合戦(かつせん)の輸嬴韜略(ゆえいたうりやく)の得失(とくしつ)などを述(の)べて信玄(しんげん)の遺風(ゐふう)を伝(つた)へむが為(た)めに高坂弾正(たかさかだんぜう)の遺記(ゐき)だ 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談         □□□□ 【本文】 《割書:山本勘介の|子》  の山本勘介(やまもとかんすけ)の子(こ)関山(せきやま)僧(そう)学文(がくぶん)の覚書(おぼえがき)だのを斟酌(しんしやく)し之(これ)に仮托架空(かたくかくう)の潤飾(じゆんしよく)を加(くは)へたものであると云ふ事で       ある従(したがつ)て其(その)書(しよ)に拠(よ)れる説(せつ)は信(しん)じ難(がた)いのみならず西原文書(にしはらぶんしよ)幷(ならび)に妙法寺記(みようほうじき)などによると信虎(のぶとら)退隠(たいゐん)に就(つい)て       は武田家(たけだけ)の老臣(らうしん)と今川家(いまがけ)の家老(からう)岡部美濃守(をかべみのゝかみ)幷(ならび)に雪斎(せつさい)長老(てうらう)などとの計(はか)らひで先(ま)づ信虎(のぶとら)を駿河(するが)に招(まね)いて退(たい)        隠(ゐん)を勧(すゝ)めたので信虎(のぶとら)も遂(つひ)に之(これ)を承諾(せうだく)したものであると云うのが事実(じじつ)であるように思(おも)ふモツトモ当時(とうじ)駿(する) 《割書:武田今川二|氏の連合》   河(が)に於(おい)ては今川義元(いまがはよしもと)が盛(さかん)な時代(じだい)で義元(よしもと)の妻(つま)は即(すなは)ち信虎(のぶとら)の女(ぢよ)であるので武田(たけだ)今川(いまがは)二 氏(し)の間(あひだ)は和親(わしん)が固(かた)か 山本勘介  つたのであるからかゝる計(はか)らひに出(い)でたものと信(しん)ぜられるのであるソコで一寸(ちょつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは        山本勘介(やまもとかんすけ)の事であるが今日の研究(けんきう)によると此人(このひと)にはドウモ旧来(きうらい)世(よ)に称(せう)せられて居(を)るような形跡(けいせき)はない       ので此人(このひと)は全(まつた)く山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべうゑまさかげ)の一 兵卒(へいそつ)であつたに過(す)ぎなかつた様子(やうす)である然(しか)るに前(まへ)に申述(もうしの)べた        如(ごと)く其子(そのこ)の学文(がくぶん)と云ふ僧(そう)が稍々(やゝ)文筆(ぶんひつ)のあつたもので父(ちゝ)の事蹟(じせき)を色々(いろ〳〵)と潤飾(じゆんしよく)して記録(きろく)して置(お)いたので       あるが甲陽軍鑑(かうようぐんかん)の著者(ちよしや)が更(さら)にソレを材料(ざいりよう)に架空(かくう)の説(せつ)を加(くは)えたので遂(つひ)に今日(こんにち)行(おこな)はれて居(を)るような伝説(でんせつ)を        生(う)み出(いだ)したものであると云ふ説(せつ)が正(たゞし)い事(こと)と信(しん)ずる例(れい)の東海道名所図絵(とうかいどうめいしよづゑ)などには恰(あたか)も劉元徳(りうげんとく)が孔明(こうめい)の処       へ三 顧(こ)せる図(づ)のようなものが載(の)せてあつて信玄(しんげん)が勘介(かんすけ)を牛久保(うしくぼ)の僑居(きようきよ)へ訪問(ほうもん)した様(さま)が書(かい)いてあるが之(これ)        等(ら)は無論(むろん)仮托(かたく)の説(せつ)で取(と)るに足(た)らぬにも拘(かゝは)らず却(かへつ)て世(よ)に誤(あやま)れる伝説(でんせつ)の流布(るふ)せる原因(げんゐん)ともなつて居(を)る事と 信玄自立   思(おも)ふサテ信玄(しんげん)は大永(たいえい)元年(がんねん)巳(み)の歳(とし)の生(うまれ)であるから父(ちゝ)信虎(のぶとら)に替(かは)つて甲斐国主(かひのこくしゆ)となつた時は廿一歳であつた 《割書:武田北条二|氏の連合》  が夙(つと)に旗(はた)を京畿(けいき)に立(た)つる志(こゝろざし)があつたソレには路(みち)を信濃(しなの)飛騨(ひだ)に取(と)るより外(ほか)には差当(さしあた)り方法(はうほう)がないと云       ふので却(かへつ)て関東(くわんとう)の北条氏(ほうじようし)とは和親(わしん)を結(むす)むで専(もつぱ)ら信濃(しなの)攻略(こうりやく)に力(ちから)を用(もち)ゐたのであるソコで天文十一年に兵(へい) 《割書:信玄の信濃|侵略》  を信濃(しなの)に出(いだ)して己(おの)れの妹聟(いもとむこ)である諏訪頼重(すはよりしげ)を亡(ほろ)ぼしたのを初(はじ)めとして十二年には深志(ふかし)の城主(ぜうしゆ)(《割書:今の松|本の地》)小(を)        笠原長時(がさはらながとき)を破(やぶ)り十四年十五年には引続(ひきつゞ)いて兵(へい)を伊奈(いな)佐久(さく)の両地方(れうちはう)に出(いだ)したが十六年には二 回(くわい)の出兵(しゆつへい)を 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                  九十九 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百 【本文】       したのみならず漸(やうや)く北進(ほくしん)して十七年二月には埴科郡(はにしなぐん)葛尾(かつを)の城主(ぜうしゆ)村上義清(むらかみよしきよ)と上田原(うへだはら)に対陣(たいぢん)し其(その)七月には        小笠原勢(をがさはらぜい)を塩尻峠(しほじりとほげ)に破(やぶ)つたのであるかゝる次第(しだい)で村上(むらかみ)小笠原(をがさはら)二 氏(し)も其(その)勢(せい)漸(やうや)く慼(ちゞ)まつて長時(ながとき)は廿一年十 上杉謙信  二月 義清(よしきよ)は廿二年八月に孰(いづ)れも越後(えちご)に逃(のが)れて上杉謙信(うへすぎけんしん)に依(よ)つたのであるが之(これ)が抑(そもそ)も川中島合戦(かはなかじまかつせん)の起(おこ)る 川中島合戦  原因(げんゐん)である此(この)川中島合戦(かはなかじまかつせん)に就(つい)ても旧来(きうらい)多(おほ)く甲陽軍鑑(かうようぐんかん)又(また)は甲越軍記(かうえつぐんき)川中島(かはなかじま)五 戦記(せんき)などの説(せつ)が行(おこな)はれて居       るので甚(はなは)た誤(あやまり)を伝(つた)へられて居る事が多い然(しか)るに近来(きんらい)は段々(だん〳〵)之(これ)に関係(くわんけい)ある根本史料(こんぽんしりよう)も発見(はつけん)され田中義(たなかよし)        成(なり)博士(はかせ)などの考証(こうせう)もあるが之(これ)等(ら)は余(あま)り本史談(ほんしだん)に関係(くわんけい)もないように思(おも)ふから私(わたくし)の如(ごと)き専門(せんもん)の智識(ちしき)がない       ものが此処(こゝ)に申述(もうしの)ぶるのは却(かへつ)て宜敷(よろし)くあるまいかと思(おも)ふ        兎(と)に角(かく)川中島合戦(かはなかじまかつせん)の初度(しよど)は弘治(こうぢ)元年(がんねん)七月であるが此時(このとき)は其(その)年(とし)の閏(うるふ)十月 迄(まで)相対峙(あひたいじ)したものである併(しか)し今(いま)        川義元(がはよしもと)の調停(てうてい)で一たびは解(と)け去(さ)つたが其(その)後(ご)七年を経(へ)て永禄(えいろく)四年十月 再(ふたゝ)び相衝突(あひせうとつ)して激戦(げきせん)があつたので       あるモツトモ其七年間には尚(な)ほ幾多(いくた)の小戦(せうせん)はあつた様子(やうす)であるが此(この)間(あひだ)に双方(そうはう)が他(た)の方面(はうめん)に向(むかつ)て活動(かつどう)し       た事は又(ま)た格別(かくべつ)であつたのである 北条氏   ソコで少(すこ)しく北条氏(ほうじようし)の話(はなし)を述(の)べねばならぬ事になつたのであるが初(はじ)め北条早雲(ほうじようさううん)と云ふ人は今川氏(いまがはし)の将(せう)       で遂(つひ)に自(みづか)ら伊豆(いづ)を定(さだ)め小田原(おだはら)を略(りやく)し将(まさ)に関東(くわんとう)八 州(しう)を席巻(せきくわん)せむとする勢(いきほひ)で屡々(しば〳〵)甲州(かうしう)へも攻(せ)め入(い)つたの 北条氏綱  である永正(えいせう)十六年八月に卒(そつ)したが其子(そのこ)の氏綱(うぢつな)は父のあと後(あと)を嗣(つ)いで益々(ます〳〵)版図(はんと)を拡張(くわくてう)し大永(たいえい)四年正月 江戸城(えどぜう)       を抜(ぬ)き天文六年七月 河越(かはごゑ)を陥(おとしい)れ七年十月 鴻(こう)の台(だい)に勝(か)つて既(すで)に伊豆(いづ)相模(さがみ)武蔵(むさし)を併(あは)せ上総(かづさ)下総(しもおさ)の一 部(ぶ)を        略(りやく)し次第(しだい)に上州(ぜうしう)に及(およ)ばむとしたのであるトコロで武田信虎(たけだのぶとら)は当時(とうじ)到底(とうてい)之(これ)に抗(こう)することの出来(でき)ぬのを慮(おもんば)つ       て深(ふか)く今川氏(いまがはし)に結(むす)むで防禦(ぼうぎよ)の策(さく)を立(た)てたのあるが氏綱(うぢつな)に於(おい)ては此(この)二 氏(し)の連合(れんごう)を以(もつ)て己(おの)れに不利(ふり)であ 北条氏康  るとなして更(さら)に駿河(するが)に攻(せ)め入(い)つたのである然(しか)るに氏綱(うぢつな)も天文(てんぶん)十年七月に卒去(そつきよ)したので其子(そのこ)の氏康(うぢやす)が嗣(し) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百三十号附録  ( 明治四十四年八月八日発行 ) 【本文】        立(りつ)したが此(この)氏康(うぢやす)と云ふ人は文武両道(ぶんぶれうどう)に達(たつ)した人で有名(ゆうめい)なる武将(ぶせう)であつた此(この)人(ひと)の著(ちよ)で武蔵野紀行(むさしのきこう)などゝ       云ふものがあるが之(これ)は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の事と思ふ而(しか)して氏康(うぢやす)嗣立(しりつ)の時は恰(あたか)も二十六歳であつたが前(まへ)にも        申述(もうしのべ)た如く丁度(ちようど)此年(このとし)に武田信玄(たけだしんげん)は二十一歳で自立(じりつ)したのである而(しか)も信濃(しなの)攻略(こうりやく)忙(せわ)しかつたから寧(むし)ろ北(ほう)        条氏(ぜうし)と和(わ)するに如(し)かずと考(かんが)へたので天文十三年十二月 小林宮内助(こばやしくなひすけ)と云ふものに旨(むね)を啣めて欵(くわん)を通(つう)ぜん        事(こと)を求(もと)めしめたのであるが其頃(そのころ)今川義元(いまがはよしもと)は上杉憲政(うへすぎのりまさ)と相約(あいやく)して北条氏(ほうぜうし)を爽撃(さうげき)せむとし兵(へい)を出(いだ)したので        信玄(しんげん)は却(かへつ)て其間(そのあひだ)にあつて調停(ちようてい)したと云ふ訳(わけ)で之(これ)も一時は相和(あひわ)するに至(いた)つたのである然(しか)るに其後(そののち)氏康(うぢやす)は 《割書:北條氏康駿|河に侵入す》   益々(ます〳〵)関東(くわんとう)に志(こゝろざし)を得(え)て天文二十三年二月 今川義元(いまがはよしもと)が自(みづか)ら三河に出陣(しゆつぢん)した其(その)隙(げき)に乗(じよう)じ復(ま)た兵(へい)を遣(つか)はして        駿河(するが)に侵入(しんにふ)したのである此時(このとき)信玄(しんげん)は義元(よしもと)の請(こひ)に依(よつ)て出(い)でゝ刈屋川(かりやがは)に陣(ぢん)し河(かは)を隔(へだ)てゝ相(あひ)戦(たゝか)つたが北条勢(ほうぜうぜい) 《割書:今川武田北|条三氏の連》  の破(やぶ)る処(ところ)となつて退却(たいきやく)したのである此際(このさい)瀬古(せこ)の善徳寺(ぜんとくじ)の和尚(おしよう)は雪斎(せつさい)長老(ちようらう)の兄弟(けいてい)であつたので今川(いまがは)武田(たけだ) 《割書:合|善徳寺の会》   北条(ほうぜう)の三 氏(し)の間(あひだ)に奔走(ほんさう)して更(さら)に調停(ちようてい)の労(らう)を取(と)り三 氏(し)も各々(おの〳〵)利害関係(りがいくわんけい)の上(うへ)から之(これ)を承諾(しようだく)して互(たがひ)に相連合(あひれんごう) 《割書:盟| 》    するのを望(のぞ)むだので其三月三人の大将(たいしよう)は此(この)善徳寺(ぜんとくじ)に相会合(あひくわいごう)して盟約(めいやく)を結(むす)むだのである之(これ)より武田(たけだ)今川(いまがは)        北条(ほうぜう)の三 氏(し)は各々(おの〳〵)後顧(こうこ)の患(うれい)を去(さ)つたのでソレ〴〵向(むか)ふ処(ところ)に突進(とつしん)したのであるが氏康(うぢやす)は其年(そのとし)の十月 兵(へい)を 《割書:北条氏の関|東征略》   発(はつ)し下総(しもふさ)の古河城(こがじよう)を攻(せ)め遂(つひ)に足利晴氏(あしかゞはるうぢ)を虜(とりこ)にし之(これ)を相州(さうしう)の波多野(はだの)に幽閉(ゆうへい)した併(しか)し後(のち)に其子(そのこ)の義氏(よしうぢ)を        奉(ほう)じて古河城(こがじよう)に復(ふく)し晴氏(はるうぢ)の幽閉(ゆうへい)をも解(と)いて下総(しもふさ)の関宿城(せきじくじよう)に居(を)らしめたが此(かく)の如(ごと)くして一方には関東(くわんとう)     の人心(じんしん)を収攬(しうらん)し一方には勢力推移(せいりよくすゐい)の方法(はうほう)となしたのである而(しか)して武田氏(たけだし)に於(おい)ては前(まへ)にも御話(おはなし)した通(とほ)り 《割書:武田氏の飛|騨侵略》   之(これ)から川中島(かはなかじま)の合戦(かつせん)が起(おこ)つたにも拘(かゝは)らず着々(ちやく〳〵)信濃(しなの)を平定(へいてい)することを勉(つと)めたので遂(つひ)には兵(へい)を飛騨(ひだ)に出(いだ)して      永禄(えいろく)七年七月には其(その)将(しよう)山縣政昌景(やまがたまさかげ)を遣(つか)はして千光寺(ちくわうじ)と云ふ有名(ゆうめい)なる寺院(じゐん)を焼(や)いて大(おほい)に松倉城主(まつくらじようしゆ)三木自綱(みきよりつな)       の勢力(せいりよく)を殺(そ)いだのである又(ま)た今川義元(いまがはよしもと)の方(はう)はドウであるかと云ふに之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に申述べた如く今(いま)は後(こう) 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百一 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百二 【本文】 《割書:今川義元の|西上》   顧(こ)の患(うれひ)も少(すくな)く準備(じゆんび)も十 分(ぶん)であると云ふので愈々(いよ〳〵)西上(せいじやう)の目的(もくてき)を達(たつ)せむとの意気込(いきこみ)から尾張(をはり)に入つたが永 《割書:桶狭間の敗|死》  禄三年五月 桶狭間(おけはざま)に於(おい)て織田信長(をだのぶなが)の為(ため)に敢(はか)なく最後(さいご)を遂(と)げたのである        之(こ)れが先(ま)づ話(はなし)の大要(たいえう)であるが当時(とうじ)は言(い)ふ迄(まで)もなく戦国(せんごく)策士(さくし)の集(あつま)りで由来(ゆらい)多(おほ)く術数(じゆつすう)の行(おこな)はれた時代(じだい)であ 《割書:武田氏駿河|を窺ふ》  るから今川氏真(いまがはうぢさね)の国政(こくせい)が紊(みだ)るゝに方(あたつ)ては三 氏(し)の盟約(めいやく)も決(けつ)して此(この)まゝに継続(けいぞく)さるゝ筈(はづ)はないので武田氏(たけだし)       は漸(やうや)く其機(そのき)に乗(じよう)じて爪牙(さうが)を駿遠(すんゑん)の地(ち)に逞(たくまし)ふせむと企(くはだ)てたのであるモツトモ当時(とうじ)信虎(のぶとら)はまだ駿河(するが)に居(を)       つて常(つね)に今川氏(いまがはし)の内情(ないじやう)を信玄(しんげん)に報(ほう)じ又た将士(しようし)の内応(ないおう)を媒介(ばいかい)して先(ま)づ氏真(うぢさね)を追(お)はむとしたのである然(しか)る       に庵原安房守(あんばらあはのかみ)と云ふ人があつて其(その)才略(さいりやく)を以(もつ)て却(かへつ)て信虎(のぶとら)を斥(しりぞ)けたので信虎(のぶとら)は一たび京都(きようと)に逃(のが)れたのであ       るが連(しき)りに謀(はかりごと)を信玄(しんげん)に通(つう)じて駿河(するが)に侵入(しんにふ)せしめたのである之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)は使(し)を北条氏(ほうぜうし)に遣(つか)はして        駿河(するが)を分取(ぶんしゆ)せる事を申込(もうしこ)むだのであるが北条氏(ほうぜうし)に於(おい)ては之(これ)に応(おう)ぜざるのみならず今川氏(いまがはし)は自家防禦(じかぼうぎよ)の 《割書:北条氏今川|氏を助く》   前衛(ぜんゑい)とでも云ふべき訳(わけ)であるから寧(むし)ろ前約(ぜんやく)を守(まも)り氏真(うぢさね)を助(たす)けて武田氏(たけだし)に当(あた)るの策(さく)に出(い)でたのである併(しか)       しソレが中々(なか〳〵)旨(うま)いので一 方(ほう)には今川氏(いまがはし)の嬴弱(えいじやく)なるに乗(ぜう)じて恩(おん)を施(ほどこ)し義(ぎ)を結(むす)び勉(つと)めて懐柔(くわいじう)の策(さく)を取(と)り而(しか)       して一方には陰(ゐん)に術策(じゆつさく)を施(ほどこ)して其(その)領土(れうど)を得(え)む事(こと)を計(はか)つたのである又(ま)た信玄(しんげん)に於(おい)ては徳川氏(とくがはし)に対(たい)しても       永禄七年十一月 既(すで)に下條弾正信氏(しもぢようたんぜうのぶうぢ)を使(し)として酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の処(ところ)まで書(しよ)を送(おく)つて好(よしみ)を求(もと)めたのであるが十一 《割書:徳川真田二|氏の盟約》  年二月に至(いた)り更(さら)に大井河(おほゐがは)を境界(けうかい)として駿遠(すんゑん)分割(ぶんかつ)の事を徳川方(とくがはがた)と盟約(めいやく)し互(たがひ)に誓書(せいしよ)を交換(こうくわん)するに至(いた)つたの       である其(その)時(とき)信玄(しんげん)から家康(いへやす)に送(おく)つた文書(ぶんしよ)は左(さ)の通(とほ)りである        聊雖不存疑心候、誓紙之儀所望申候処則調給候祝着候、信玄事茂如案文書写於使者眼前致血判進之        候弥御入魂所希候恐々謹言          二月十六日                        信   玄   判 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□□□□□□□□□ 【本文】            徳   川   殿 《割書:武田氏駿河|に侵入す》  ソコで信玄(しんげん)は其(その)十二月の六日に甲府(こうふ)を出発(しゆつぱつ)して駿河(するが)に攻入(せめい)り家康(いへやす)も亦(ま)た十二月十一日 吉田城(よしだじよう)に於て諸(しよ)        将(しよう)を部署(ぶしよ)し兵(へい)を遠江(とふとうみ)に進(すゝ)めて其(その)西北部(せいほくぶ)を略(りやく)し井伊谷(いゐのや)、 鵜津山(うづやま)、 刑部(おさかべ)、 白須賀(しらすが)等(とう)の地を占領(せんれう)したのであ 《割書:徳川氏遠江|に侵入す》  るが此際(このさい)に於ける菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の周旋(しうせん)は最(もつと)も有功(ゆうこう)のものであつたのである此(こゝ)に於(おい)て北条氏(ほうぜうし)は坐師(ざし)する訳(わけ)に        行(ゆ)かぬので氏康(うぢやす)は其(その)子(こ)氏政(うぢまさ)と共(とも)に兵(へい)を駿河(するが)に出(いだ)して信玄(しんげん)に対抗(たいこう)したのであるが氏真(うぢさね)は遂(つひ)に武田勢(たけだぜい)の為 《割書:北条今川二|氏援を謙信》  に破(やぶ)られて遠江(とふとほみ)掛川(かけがは)の城(しろ)に逃(のが)れ更(さら)に家康(いへやす)の為に囲(かこ)まるゝに至(いた)つたのであるかゝる始末(しまつ)であるから今川 《割書:に求む  | 》  氏 並(ならび)に北条氏(ほうぜうし)に於ては孰(いづ)れも援(ゑん)を越後(えちご)の上杉氏(うへすぎし)に求(もとむ)るより外(ほか)にはないと云ふので連(しき)りに使(し)を謙信(けんしん)に送(おく)       つたのであるがサテ謙信(けんしん)に於ては之(これ)よりズツト以前(いぜん)天文廿一年正月に上杉憲政(うへすぎのりまさ)が来(きた)り投(とう)じたので之(これ)を        輔(たす)け兵(へい)を上野(うへの)に出し厩橋(うまやばし)に牙城(がじよう)を保(たも)つて屡々(しば〳〵)北条氏(ほうぜうし)と戦(たゝか)つたものであるそれのみならず憲政(のりまさ)と父子(ふし)の        約(やく)を結(むす)むで上杉氏(うへすぎし)を冒(おか)し一方には信玄(しんげん)と信濃(しなの)に対峙(たいじ)せるにも拘(かゝは)らず永禄二年四月 入京(にふきよう)して天子(てんし)、 将軍(せうぐん)       に謁見(えつけん)し関東管領(くわんとうくわんれう)の命(めい)を拝(はい)し永禄四年三月には十一万の兵を率(ひき)ひ遂(つひ)に長駆(ちようく)して北条氏(ほうぜうし)の根拠(こんきよ)たる小(お)        田原(たはら)に迫(せま)つたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)は武田(たけだ)北条(ほうぜう)二 氏(し)の連合(れんごう)が成(な)つて居(を)つたのでサスガの謙信(けんしん)も志(こゝろざし)を得       る事が出来(でき)なかつたのであるが今度(こんど)却(かへつ)て北条氏から頻(しき)りに連合(れんごう)の事を申込(もうしこ)むだと云ふ訳(わけ)である併(しか)し当(とう) 《割書:信玄家康の|盟約破る》   時(じ)は恰(あたか)も雪(ゆき)が深(ふか)くて謙信(けんしん)も容易(ようい)に之(これ)に応(おう)ずる事が出来(でき)なかつたのである然(しか)るに一方に於(おい)て信玄(しんげん)家康(いへやす)二       人の関係(くわんけい)は右(みぎ)の如(ごと)くであつたにも拘(かゝは)らず動(やゝ)もすれば信玄(しんげん)の方で約(やく)を破(やぶ)つて遠江(とふとほみ)に迄(まで)も切(き)り込(こ)む形勢(けいせい)が       あるので家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を怒(おこ)つて相絶(あひた)つに至(いた)つたのである而(しか)も之(これ)と同時(どうじ)に氏真(うぢさね)に勧告(くわんこく)して遠江(とふとほみ)全国(ぜんこく)を譲(ゆづ) 《割書:家康今川氏|眞と和す》  り受(う)くる約束(やくそく)を結(むす)むで之(これ)と講話(こうわ)し之(これ)も亦(ま)た使(し)を謙信(けんしん)に送(おく)つて相連合(あひれんごう)せむことを申込(もうしこ)むだのみならず武田(たけだ)        氏(し)の将(せう)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(ろべゑまさかげ)を府中(ふちう)に攻(せ)めてこ之(これ)を追(お)ひ更(さら)に北条氏とも結(むす)むだのであるソコで信玄(しんげん)は全(まつた)く四 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百三 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百四 【本文】 信玄の退軍  面(めん)に敵(てき)を受(うけ)る事となつて止(やむ)を得(え)ず翌年四月の廿七日夜を以(もつ)てに竊(ひそか)に軍(ぐん)を甲州(こうしう)へ引(ひ)き退(しりぞ)けたのであるトコ       ロが北条氏(ほうぜうし)の遣(や)り方(かた)と云ふものは中々(なか〳〵)上手(ぜうづ)なので氏政(うぢまさ)の子(こ)氏直(うぢなを)を以(もつ)て今川氏真(いまがはうぢさね)の養子(やうし)となして自然(しぜん)に        其(その)領土(れうど)が己(おの)れに転(ころが)り込(こ)むで来(く)るように仕向(しむ)けたのである且(か)つ氏真(うぢさね)をば沼津城(ぬまづのしろ)に置(お)いて其(その)監視(かんし)の下(もと)にあ       らしめたのである 《割書:北条氏駿河|を占有す》   要(えう)するに武田氏(たけだし)が今度(このたび)の挙(きよ)は徳川氏(とくがはし)に遠江(とふとほみ)を取(と)らしめ北条氏(ほうぜうし)をして漁夫(ぎよふ)の利(り)を占(し)めしめたのに終(をは)つて        自己(じこ)は全然(ぜん〴〵)失敗(しつぱい)となつたので到底(とうてい)此(この)まゝ黙止(もくし)する訳(わけ)に行(ゆ)かぬのは当然(とうぜん)であるソコで永禄十二年六月 信(しん) 《割書:信玄小田原|に侵入す》   玄(げん)は再(ふたゝ)び兵を率(ひき)ゐて駿河(するが)の東部(とうぶ)に攻(せ)め入(い)つたが八月下旬には更(さら)に佐久郡(さくぐん)から西上野(にしうへの)に出で武蔵(むさし)に入り       十月には遂(つひ)に小田原(をたはら)に迫(せま)り一 色(しき)、 酒匂(さかわ)の近邑(きんゆう)に火(ひ)を放(はな)つたのである併(しか)し氏康(うぢやす)氏政(うぢまさ)父子(ふし)は既(すで)に謙信(けんしん)侵入(しんにふ)       の時に於て経験(けいけん)があるので背(そむい)て出(い)で戦(たゝか)はなかつたのである而(しか)も信玄(しんげん)に於ては小田原(をたはら)を攻(せ)むるのが目的(もくてき)       ではなく結局(けつきよく)駿河(するが)を侵略(しんりやく)する為(た)めの索制(さくせい)手段(しゆだん)であつたのだから幾何(いくばく)もなく兵を甲斐(かひ)に班(はん)したが十一月 《割書:信玄駿河の|諸城を略す》   直(たゞ)ちに又た兵を駿河(するが)に出(いだ)して北条氏(ほうぜうし)の属城(ぞくぜう)を攻(せ)めたのである然(しか)るに此方(このほう)略(りやく)か着々(ちやく〳〵)成功(せいこう)して続(つゞ)いて府中(ふちう)       を略(りやく)し蒲原城(かんばらぜう)を陥(おとしゐ)れ翌(よく)元亀元年には更(さら)に進(すゝ)むで志太郡(したぐん)花沢城(はなざわぜう)を攻(せ)めたが此(この)城(しろ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた如       く当時(とうじ)小原肥前守鎮実(をはらひぜんのかみしげさね)が居(を)つたのである併(しか)し之(これ)も亦(ま)た到底(とうてい)支(さゝ)ゆることが出来(でき)なくて鎮実(しづさね)は城(しろ)を捨(す)てゝ逃(のが)       れ続々(ぞく〳〵)藤枝(ふぢえだ)、 徳野(とくの)、一 色(しき)などの城(しろ)も信玄(しんげん)の占領(せんれう)する処(ところ)となつたのである信玄(しんげん)は乃(すなは)ち藤枝城(ふぢえだぜう)を修築(しうちく)して        田中城(たなかぜう)と名(な)つけ馬場信房(ばゞのぶふさ)をして之(これ)を守(まも)らしめ更(さら)に江尻(えじり)にも城(しろ)を築(きづ)いて山縣昌景(やまがたまさかげ)を之(これ)に置(お)いたのである       がかゝる有様(ありさま)で僅(わづか)の間(あひだ)に駿河国(するがのくに)は大半(たいはん)信玄(しんげん)の占有(せんゆう)する処となつたので氏康(うぢやす)父子(ふし)は小田原(をだはら)にあつて遂(つひ)に        之(これ)を救(すく)ふに遑(いとま)あらざりしのみならず連(しき)りに謙信(けんしん)に向(むかつ)て応援(おうゑん)を請(こ)つたのであるが当時(とうじ)まだ雪(ゆき)の深(ふか)かつた        為(ため)か将(は)た其他(そのた)に理由(りゆう)のあつたものか謙信(けんしん)は遂(つひ)に一兵をも動(うご)さなかつたのであるかくて武田(たけだ)徳川(とくがは)二 氏(し)は 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百三十六号附録    ( 明治四十四年八月十五日発行 ) 【本文】        自然(しぜん)に又(ま)た大井河(おほゐがは)を境(さかひ)して相対峙(あひたいたいじ)するに至(いた)つたのである        此(こゝ)に於(おい)て信玄(しんげん)は愈々(いよ〳〵)遠江(とふとほみ)三河(みかは)に侵入(しんにふ)して徳川氏の腕前(うでまへ)を試(ためし)みようとしたのであるが之(これ)には先(ま)づ後顧(こうこ)の        患(うれひ)を少(すくな)からしむる為(ため)に北条氏を脅(おびや)かして十分に其(その)勢力(せいりよく)を殺(そ)いで置(お)く必要(ひつえう)があると云ふので元亀元年四       月 伊豆(いづ)に攻(せ)め入(い)つて韮山城(にらやまぜう)を囲(かこ)み氏政(うぢまさ)と三 島(しま)に相峙(あひぢ)して軍(ぐん)を退(しりぞ)けたのである然(しか)る後(のち)イヨ〳〵兵(へい)を遠江(とふとほみ)       に入(い)れたのであるが之(これ)が即(すなは)ち信玄(しんげん)が初(はじ)めて三河に侵入(しんにふ)するに至(いた)れる経路(けいろ)である而(しか)して其(その)侵入(しんにふ)の順序(じゆんじよ)と 《割書:信玄遠江に|侵入す》  云うふものは先(ま)づ元亀二年二月に兵(へい)を出(いだ)して遠江(とふとほみ)の小山(こやま)、 相良(さがら)に城(しろ)を築(きづ)き三月には進(すゝ)むで高天神城(たかてんじんのしろ)に徳       川氏の将(せう)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)を攻(せ)め一 方(ぱう)には水軍(すゐぐん)を編成(へんせい)して天龍川口(てんりうがはぐち)に当(あた)る掛塚(かけつか)を侵(をか)さしめたのである而(しか)して 《割書:武田氏の兵|三河を抄掠》  其四月には遠江(とふとほみ)の土兵(どへい)を煽動(せんどう)して西三河に入らしめ岩津(いわづ)、 岡崎(をかざき)二 城(ぜう)を脅(おびや)かし次(つい)で兵(へい)を率(ひき)ゐて信州(しんしう) 《割書:す    |     》  から三河の西部(せいぶ)に入(い)り先(ま)づ足助城(あすけぜう)を抜(ぬ)き更(さら)に東(ひがし)に転(てん)じて作手(つくて)方面(はうめん)から南下(なんか)して野田(のだ)、 牛久保(うしくぼ)、 長沢(ながさわ)、 《割書:家康浜松の|新城に移る》  二 連木(れんぎ)を抄掠(せうれう)して此(この)吉田城(よしだぜう)に迫(せま)つたのである之(これ)より先(さ)き元亀元年正月に浜松(はままつ)の新城(しんぜう)が落成(らくせい)して家康(いへやす)は 姉川の合戦  岡崎(をかざき)から移(うつ)つて之(これ)に居(を)り岡崎(をかざき)の城(しろ)には其子(そのこ)の信康(のぶやす)を置(お)いたのであるが其年(そのとし)の六月には有名(ゆうめい)なる姉川(あねがは)の        合戦(かつせん)があつたので織田信長(をたのぶなが)の請(こひ)によつて家康(いへやす)は勿論(もちろん)徳川氏(とくがはし)の将士(せうし)は酒井忠次(さかゐたゞつぐ)等(ら)を初(はじ)め多(おほ)く之(これ)に参加(さんか)し       て孰(いづ)れも殊功(しゆこう)を顕(あらは)したのであるモツトモ当時(とうじ)武田信玄(たけだしんげん)は前に申述べた通り恰(あたか)も伊豆(いづ)に攻(せ)め入(い)つて北条氏(ほうぜうし)       の軍(ぐん)と対峙(たいじ)せる時(とき)であつたから其後(そののち)を窺(うかゞ)ふの暇(いとま)がなかつたのであるがイヨ〳〵今度(このたび)信玄(しんげん)自(みづか)ら三河に攻(せめ) 《割書:山家三方武|田氏に属す》   入(い)つて来(く)るに就(つい)ては先(ま)づ遠江(とふとほみ)の秋山信友(あきやまのぶとも)等(ら)をして東三河の北部(ほくぶ)に於(お)ける山家(やまが)三 方(ほう)の人々を誘致(ゆうち)せしめ       たのであるソコで野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)並(ならび)に菅沼定氏(すがぬまさだうぢ)等(ら)の一 類(るい)を除(のぞ)くの外(ほか)は奥平道文(おくだひらみちぶみ)等(ら)を初(はじ)め菅沼(すがぬま)の一 族(ぞく)は徳(とく)        川氏(がはし)に叛(そむ)きて武田氏(たけだし)に属(ぞく)したと云ふ訳(わけ)であるがこ之(これ)等(ら)の人々の手引(てびき)によつて遂(つひ)に吉田城(よしだぜう)に迫(せま)るに至(いた)つた 《割書:信玄吉田城|に迫る》  のである此時(このとき)二 連木(れんぎ)の城主(ぜうしゆ)戸田康長(とだやすなが)はまだ虎千代(とらちよ)と云つた頃(ころ)で僅(わづか)に十歳であつたが戸田吉国(とだよしくに)が陣代(ぢんだい)を 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)                   百五 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)               百六 【本文】       して居(を)つて之(これ)を拒(ふせ)いだのである又(ま)た此時(このとき)家康(いへやす)は浜松(はままつ)から出陣(しゆつぢん)して此(この)吉田城中(よしだぜうちう)にあつたのであるが前に 二連木合戦 も一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く徳川実記(とくがはじつき)には御名誉聞書(ごめいよきゝがき)を引(ひ)いて此時(このとき)の戦(たゝかひ)の様(さま)が載(の)せてある後其(その)原文(げんぶん)は左(さ)       の通(とほ)りである        元亀(げんき)二年四月 武田信玄(たけだしんげん)三 州(しう)へ攻入由(せめいりしよし)聞取(きゝとり)浜松(はままつ)より吉田城(よしだぜう)へ御皈座(ごきざ)あり信玄(しんげん)の先鋒(せんぱう)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべゑまさかげ)         多勢(たぜい)率(ひ)きつれ攻(せ)め来(きた)る君(きみ)三の輪(わ)の櫓(やぐら)に扇(あふぎ)の御馬標(おうまじるし)立(た)て敵陣(てきぢん)の様(さま)つく〳〵御覧(ごらん)あり酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)        が打(うつ)て出(いで)むと云(い)ふを制(せい)し給(たま)ひ敵陣(てきぢん)の様(さま)を見(み)るに城(しろ)を責(せ)むとにあらず我(われ)をおびき出(だ)し彼(か)の松原(まつはら)にて伏(ふく)         兵(へい)もて打(う)たむとするならんよく見(み)よ今(いま)に彼方(かなた)より武功(ぶこう)の者(もの)を出(いだ)して戦(たゝかひ)を挑(いど)むべし此方(こなた)よりも一 騎(き)         当千(とうせん)の者(もの)出(いだ)して鎗(やり)ばかり合(あは)せしめよと宣(のたま)ひしが果(はた)して敵方(てきがた)より廣瀬郷右衛門(ひろせごううゑもん)、 三枝伝右衛門(さいぐさでんうゑもん)、 孕石(はらみい)         源右衛門(しげんうゑもん)など土橋(どばし)まで進(すゝ)み来(きた)りしかば城中(ぜうちう)よりも酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)、 戸田左門一西(とださもんかづあき)、 大津土左衛門(おほつどさゑもんの)         尉時隆(ぜうときたか)等(ら)打(う)つて出(い)で互(たがひ)に詞(ことば)をかはして渡(わた)り合(あ)ひしが頓(やが)て彼方(かなた)より引(ひ)き取(と)りしなり        而(しか)して試(こゝろみ)に甲陽軍鑑(かうようぐんかん)の記事(きじ)を掲(かゝげ)て見(み)ると之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く         元亀(げんき)二年四月、 信玄(しんげん)吉田(よしだ)へ御馬(おんうま)を向(むけ)らる、二 連木(れんぎ)と云所(いふところ)に取出仕(とりいでつかまつり)、 家康(いへやす)衆(しう)防居(ふせぎを)る、 総軍(そうぐん)を以(もつ)て大(おほ)         手(て)へ被寄(よせられ)其上(そのうへ)搦手(からめて)へ山家(やさか)三 方(ぱう)、 小笠原(をがさはら)、 山縣衆(やまがたしう)働(はたらく)、 之(これ)を見(み)て、城(しろ)を明け、 引取(ひきとり)也       とあるのである又(ま)た当時(とうじ)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべゑまさかげ)から孕石主水(はらみいしもんど)へ贈(おく)つた文書(ぶんしよ)があるが之(これ)に拠(よ)るも亦(ま)た其時(そのとき)の        状況(ぜうけう)が分(わか)ると思(おも)ふから其中(そのなか)で必要(ひつえう)なる処(ところ)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することとする        一、足助之地、以_二御先衆_一去十五日被_二取詰_一候処、城主鈴木越後父子様々就_二懇望_一、被_レ助_二身命_一、十          九日被_レ立候、彼地一段堅固之間、御抱之為御番勢、伊奈之下條被_二指置_一候、        一、近辺之小城為_レ始浅賀井、阿須利、八桑、大沼、田代等自落、彼筋被_レ明御隙之条、至_二東三河_一 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □□□豊橋市史談□□□□□□□□□□□□□ 【本文】          被_レ遂_二御陣_一候、野田築_二執出(トリデ)_一菅沼新八郎居住候、因_レ茲山家三方衆為_二案内_一者、小笠原掃部大          夫拙者人数相添、作手を打立、夜中働候処、旗先を見付、明城城罷退候、追懸悉討取候、雖_レ然          新八郎討漏無念、(下略)        一、昨廿九日向_二吉田_一被_レ及_二御行_一候処、号_二 二連木_一 地相蹈候間、三方衆小掃拙者廻_二搦手_一、作を見          届、明_レ城敗北、切所故不_二打留_一、口惜存候、        一、後刻家康自身従_二半途_一出備候間、御屋形様御眼前之事候条、右之衆申合、二連木之際押崩、吉          田城内迄追入候、敵二千余之人数に候間、執_二切所_一退散候条、不_二討留_一、所存之外候           (前後省略)            卯 月 晦 日                山 三 兵 昌 景              孕  主  殿 (孕石主水)                    御   報        此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で信玄(しんげん)は三河に入(い)つて諸方(しよほう)を抄掠(しようれう)したが此(この)時(とき)は遂(つひ)に大合戦(たいかつせん)もなくて程(ほど)なく退軍(たいぐん)したのであ       る併(しか)し信玄(しんげん)の方(ほう)から云ふと此(この)時(とき)の戦(たゝかひ)は先(ま)づ斥候戦(せつこうせん)とも云ふべきもので所謂(いはゆる)信玄(しんげん)が西上(せいぜう)の計画(けいくわく)は之(これ)より 《割書:信玄の西上|計画》   益々(ます〳〵)進抄(しんしよう)したのである而(しか)して其(その)計画(けいくわく)と云ふものが又(ま)た中々(なか〳〵)の大仕掛(おほしかけ)であつて今度(このたび)は東(ひがし)、 北条氏(ほうぜうし)に対(たい)す 《割書:信玄北条氏|と和す》  る方策(ほうさく)を一 変(ぺん)し第一に後顧(こうこ)の患(うれひ)なからしむる為(ため)には之迄(これまで)の行(ゆ)き掛(がゝ)りがあるにも抅(かゝは)らず寧(むし)ろ之(これ)と講話(こうわ)す       るに如(し)かずとなしたのであるが北条氏(ほうぜうし)に於(おい)ても其後(そのご)謙信(けんしん)が到底(とうてい)十 分(ぶん)なる後援(こうえん)をしてくれぬ処(ところ)から矢張(やはり)        此(この)講話(こうわ)を以(もつ)て止(やむ)を得(え)ざるものとなして遂(つひ)に断然(だんぜん)武田氏(たけだし)に和(わ)を求(もと)むるの決心(けつしん)をしたのであるモツトモ当(とう)        時(じ)恰(あたか)も氏康(うぢやす)が卒去(そつきよ)したので却(かへつ)て其(その)話(はなし)が早(はや)く熟(じゆく)して元亀三年正月 氏政(うぢまさ)は其(その)二 弟(てい)氏忠(うぢたゞ)、 氏堯(うぢゆき)を甲斐(かひ)に質(しち)た 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)               百七 【欄外】    豊橋市史談  (今川氏の衰亡と武田氏の侵入)               百八 【本文】 《割書:信玄と里見|佐竹両氏》  らしめて愈々(いよ〳〵)親厚(しんこう)を堅(かた)むる事となつたが之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)は安房(あは)の里見氏(さとみし)並(ならび)に常陸(ひたち)の佐竹氏(さたけし)にも好(よしみ)を通(つう)       じて居(お)つたので此(こゝ)に至(いた)つて尚(なほ)相(あひ)結托(けつたく)して此上(このうへ)にも北条氏(ほうでうし)万一の場合(ばあひ)に備(そなへ)むとしたのであるが之(これ)で先(ま)づ        北条氏(ほうでうし)に対(たい)する政策(せいさく)は立(た)つたのであるサテ北方(ほつほう)上杉謙信(うへすぎけんしん)に対(たい)する方策(ほうさく)は如何(どう)であるかと云ふに之(これ)には 《割書:謙信に対す|る方策》   大(おほい)に本願寺(ほんぐわんじ)を利用(りよう)したのである元来(がんらい)信玄(しんげん)と本願寺(ほんぐわんじ)とは深(ふか)き縁故(ゑんこ)があるのであるが其他(そのた)にも種々(しゆ〴〵)なる理(り)        由(ゆう)を付(つ)けて其(その)力(ちから)を藉(か)りソレデ加賀(かが)越中(ゑつちう)に於(お)ける一 向宗(こうしう)の一 揆(き)を煽動(せんどう)し尚(な)ほ椎名(しゐな)、 神保(しんほ)の両氏(れうし)と結(むす)むで        謙信(けんしん)に当(あた)らしめ以(もつ)て其(その)西上(せいぜう)の途(と)を壅塞(えうさい)せしめんとしたのである加之 近江(あふみ)の浅井(あさゐ)越前(ゑつぜん)の朝倉(あさくら)二 氏(し)とも連(れん) 《割書:利足義昭と|玄信》   合(ごう)して織田信長(をたのぶなが)を牽制(けんせい)し松永久秀(まつながひさひで)と通(つう)じて将軍(せうぐん)足利義昭(あしかゞよしあきら)に取(と)り入(い)り且(か)つ義昭(よしあきら)と信長(のぶなが)との間(あひだ)を離間(りかん)せむ       ことを計(はか)つたのであるモツトモ松永久秀(まつながひさひで)の方(ほう)でも依(よつ)て以(もつ)て己(おの)れの後援(こうゑん)となさむと考(かんが)ふる処から旨(うま)く信玄(しんげん)       と義昭(よしあきら)との間(あひだ)を取(とり)なし文書(ぶんしよ)の往復(おうふく)も度々(たび〴〵)あつたもので信玄(しんげん)は遂(つひ)に駿河(するが)に於(おい)て地(ち)を義昭(よしあきら)、 久秀(ひさひで)に贈(おく)るに        至(いた)つたと云ふ訳(わけ)であるかゝる状況(ぜうけう)であつたが織田信長(をだのぶなが)と云ふ人は初(はじ)めから頗(すこぶ)る信玄(しんげん)を恐(おそ)れた様子(やうす)で之(これ) 《割書:上杉織田徳|川三氏の連》   迄(まで)勉(つと)めて其(その)歓心(くわんしん)を得(え)むことを計(はか)つたのであるが今度(このたび)も連(しき)りに家康(いへやす)に勧告(くわんこく)して浜松(はままつ)を退(しりぞ)き復(ふたゝ)び岡崎(をかざき)に拠(よ)る 合     ようにせしめむとしたのである然(しか)るに家康(いへやす)は之(これ)を肯(がへん)せざるのみならず反(かへつ)て深(ふか)く上杉謙信(うへすぎけんし)とむ結(むす)むで武田(たけだ)        氏(し)に対(たい)する策(さく)を講(こう)じたのであるソコで元亀(げんき)元年(がんねん)七月 使(し)を越後(ゑつご)に遣(つか)はしたのであるが爾来(じらい)は数々(しば〳〵)参越(さんゑつ)       の間(あひだ)に往復(おうふく)があつて其(その)翌(よく)二年には徳川氏(とくがはし)から遠州(ゑんしう)秋葉山(あきはさん)権現堂(ごんげんどう)加納(かのう)坊(ぼう)浄全(ぜうぜん)と云ふものに熊谷直高(くまがいなをたか)を副(そ)       へて越後(ゑつご)に使(つか)はし締盟(ていめい)を堅固(けんご)にせしめたのである而(しか)して信長(のぶなが)に於(おい)ても其翌三年十一月廿日 遂(つひ)に誓書(せいしよ)を        謙信(けんしん)に入(い)れ益(ます〳〵)其(その)連合(れんごう)は鞏固(けうこ)となつたので茲(こゝ)に三国の攻守同盟(こうしゆどうめい)は確立(かくりつ)するに至(いた)つたのであるが之(これ)は全(まつた)       く信玄(しんげん)が劃割策(くわくさく)の反応(はんおう)とも云ふべきもので茲(こゝ)に至(いた)つては早晩(さうはん)武田氏(たけだし)と徳川(とくがは)織田(をだ)両氏(れうし)との間(あひだ)に一 大衝突(だいせうとく)が 《割書:林十右衛門|景政》   起(おこ)らねばならぬ道理(どうり)と相成(あひな)つたのである尚(な)ほ此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付(つ)け加(くは)へて置(お)きたいのは此(この)吉田(よしだ)に其(その)頃(ころ)林(はやし)十 右(う) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百四十二号附録    ( 明治四十四年八月廿二日発行 ) 【本文】        衛門(ゑもん)と云ふ人があつて弓(ゆみ)の達人(たつじん)であつたが此(この)元亀(げんき)二年四月 武田勢(たけだぜい)の攻入(せめいり)に際(さい)して吉田勢(よしだぜい)に加(くは)はり殊功(しゆこう)       を著(あら)はしたと云ふ事である此(この)人(ひと)は即(すなは)ち三 州(しう)吉田記(よしだき)の著者(ちよしや)林弥次右衛門(はやしやじうゑもん)一(いち)に自見(じけん)と号(ごう)した人の祖先(そせん)で右(みぎ)       の話(はなし)は其(その)吉田記(よしだき)に記(しる)されて居(を)る事であるが林家(はやしけ)は代々(だい〳〵)吉田(よしだ)の年寄役(としよりやく)又(また)は庄屋(せうや)などを勤(つと)めたので其(その)子孫(しそん)       は今(いま)も当市(とうし)に残(のこ)つて居(を)つて旧記(きうき)なども所持(しよぢ)して居(を)るのである             ⦿三方ヶ原役前後の事情        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)き次第(しだい)で武田信玄(たけだしんげん)は元亀(げんき)一年三月 兵(へい)を遠江(とふとほみ)に出(いだ)して徳川氏(とくがはし)の領地(りようち)を攻撃(こうげき)し更(さら)に其四       月には山家(やまが)二 方(ほう)を服従(ふくじう)せしめて三河の北部(ほくぶ)に攻(せ)め入(い)り足助(あすけ)方面(ほうめん)から東三河(ひがしみかは)に転(てん)じて遂(つひ)に此(この)吉田城下(よしだじようか)迄(まで)       も侵入(しんにふ)したのであるが之(これ)は先(ま)づ斥候戦(せきこうせん)とも見(み)るべきもので信玄(しんげん)が西上(せいじよう)の計画(けいくわく)は爾来(じらい)益々(ます〳〵)進抄(しんしよう)せられた       のであるソコで徳川方(とくがはがた)に於(おい)ても之(これ)に対(たい)するの策(さく)を怠(おこた)らなかつたので織田氏(をたし)とは勿論(もちろん)深(ふか)く上杉氏(うへすぎし)とも結(けつ)        托(たく)したのであるが其(その)五月には家康(いへやす)も駿河(するが)に攻(せ)め入(い)つて島田(しまだ)附近(ふきん)に放火(はうくわ)し其翌二年三月には謙信(けんしん)も亦(ま)た        兵(へい)を武蔵(むさし)に出(いだ)して武田方(たけだがた)の同盟国(どうめいこく)たる北条氏(ほうでうし)を侵(をか)し更(さら)に信濃(しなの)に入(い)りて武田氏(たけだし)の領地(りようち)を攻撃(こうげき)したのであ       る此(こゝ)に於(おい)て家康(いへやす)は遥(はるか)に之(これ)に声援(せいゑん)して其五月 兵(へい)を東三河の北方(ほくぶ)に出(いだ)し其(その)叛将(はんせう)たる菅沼氏(すがぬまし)の長篠城(ながしのじよう)附近(ふきん)を        攻撃(こうげき)し又(ま)た岡崎(をかざき)の守備(しゆび)を増(ま)し砦(とりで)を遠江(とふとほみ)の掛塚(かけつか)附近(ふきん)に築(きづ)いて武田氏(たけだし)の水軍(すいぐん)に備(そな)ふるなど防備(ばうび)おさ〳〵怠(おこた)       らざる有様(ありさま)であつた然(しか)る処(ところ)武田信玄(たけだしんげん)に於(おい)ては準備(じゆんび)愈々(いよ〳〵)成(な)つたと云ふので今度(このたび)こそ兼(かね)ての素志(そし)である        西上(せいじよう)の目的(もくてき)を達(たつ)せむと云ふ意気込(いきご)みで先(ま)づ途(みち)を遠江(とふとほみ)参河(みかは)に取(と)ると云ふ方針(ほうしん)から元亀(げんき)三年の十月三日 愈(いよ) 《割書:信玄大軍を|率ゐて再び》   愈(いよ)自(みづか)ら兵(へい)二万を率(ひき)ひ別(べつ)に北条氏(ほうぜうし)よりの援兵(ゑんぺい)二千余人を加(くは)えて甲州(かうしう)を発(はつ)し信濃(しなの)上伊奈郡(かみいなごほり)から青崩峠(あおくずれとほげ)を越(こ) 《割書:遠江に入る|     》  えて所謂(いはゆる)秋葉路(あきはぢ)を経(へ)遠江(とふとほみ)へ侵入(しんにふ)したのであるモツトモ其(その)外(ほか)に兵(へい)五千を山縣昌景(やまがたまさかげ)に付(ふ)して九月廿九日を 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)               百九 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                   百十 【本文】 《割書:山縣昌景三|河の北部に》   以(もつ)て甲州(かうしう)を発(はつ)せしめ先(ま)づ上伊那郡(かみいなごほり)から東三河の北部(ほくぶ)に入(い)らしめ山家(やまが)三 方(はう)の兵(へい)を合(あは)せしめて更(さら)に遠江(とふとほみ)に 《割書:入る   |遠江侵略 》   出(い)で本軍(ほんぐん)に会(くわい)せしめたのであるが信玄(しんげん)は十月十日 遠江(とふとほみ)に入(い)り只来(たゞらい)飯嶋(ゐゝしま)の二 城(じよう)を攻(せ)め降(くだ)し更(さら)に南下(なんか)して        太田川(おほたがは)の左岸(さがん)木原(きはら)、 西島(にしじま)幷(ならび)に袋井(ふくろゐ)地方(ちほう)に分屯(ぶんとん)しそれから久野(くの)の城(しろ)を攻(せ)めたのであるソコで家康(いへやす)は十三       日に大久保忠世(おほくぼたゝよ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)内藤信成(ないとうのぶなり)の三人に兵(へい)三千を率(ひき)ゐて敵(てき)の様子(やうす)を偵察(ていさつ)せしめたのであるが之(これ)が三 一言坂の戦 ケ野原(のはら)の高地(こうち)に於(おい)て敵軍(てきぐん)に発見(はつけん)され退(しりぞ)いて見付(みつけ)の一 言坂(ことざか)に来(きた)つた処(ところ)で両軍(れうぐん)衝突(せうとつ)したので徳川方(とくがはがた)は殆(ほとん)ど        衆寡(しうくわ)敵(てき)せざる場合(ばあひ)であつたが本多忠勝(ほんだたゞかつ)の働(はたらき)と云ふものは実(じつ)に目覚(めざ)ましかつたもので遂(つひ)に全隊(ぜんたい)を傷(きづゝ)け       ずして偵察(ていさつ)の任務(にんむ)を終(を)えて浜松(はままつ)に皈(かへ)つたのである有名(ゆうめい)なる見付一言坂(みつけひとことざか)の戦(たゝかひ)と云ふのは即(すなは)ち之(これ)であるが       かくて信玄(しんげん)は本軍(ほんぐん)を進(すゝ)めて二 俣城(またじよう)を攻(せ)め山縣昌景(やまがたまさかげ)も亦(ま)た東三河から来(きた)り会(くわい)したので家康(いへやす)は松平清善(まつだひらきよよし)を       して宇津山(うつやま)の砦(とりで)を守(まも)らしめて遠参(ゑんさん)の連絡(れんらく)を保(たも)ち又た松平忠正(まつだひらたゝまさ)設楽貞通(したらさだみち)を野田(のだ)に遣(つか)はして菅沼定盈(すがぬまさだみつ)を輔(たす)       けしめたが自(みづか)らは兵を率(ひき)ゐて二 俣城(またじよう)に声援(せいゑん)したのである然(しか)るに二 俣城(またじよう)は遂(つひ)に支(さゝ)ふる事が出来(でき)なくて開城(かいじよう)       するに至(いた)つたのであるが之(これ)で信玄(しんげん)は殆(ほとん)ど徳川氏(とくがはし)を牽制(けんせい)するに足(た)るべき手段(しゆだん)を終(をは)つたので此(この)新占領地(しんせんれうち)は       一々 其(その)部下(ぶか)の将士(せうし)をして之(これ)を守備(しゆび)せしめ十二月廿二日を以(もつ)てイヨ〳〵其(その)営(えい)を撤(てつ)して路(みち)を祝田(しゆくだ)刑部(をさかべ)に取(と) 《割書:信玄東三河|に入らむと》  り井伊谷(いゐのや)を経(へ)て遂(つひ)に東三河に出(い)でむとしたのである元来(がんらい)信玄(しんげん)が今回(こんくわい)の挙(きよ)は前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如く其 《割書:す    |     》   目的(もくてき)は旗(はた)を京師(けうし)に樹(た)つるにあるので強(しい)て徳川氏(とくがはし)を滅亡(めつぼう)して其(その)領地(れうち)を併(あは)せむとするが如き訳(わけ)ではない殊(こと)      に武田方(たけだがた)の偵察(ていさつ)では此際(このさい)織田(をた)の援軍(ゑんぐん)と云ふものは数隊(すうたい)既(すで)に浜松(はままつ)に到着(とうちやく)し居(を)つて且(か)つ此(この)吉田(よしだ)から白須(しらす)        賀(が)にかけては其(その)兵(へい)が充満(じうまん)して居(を)ると云ふ事を信(しん)じて居(を)つたので漫(みだ)りに徳川氏の根拠(こんきよ)たる浜松城(はままつじよう)などを        攻撃(こうげき)して日数(につすう)を取(と)つて居(を)る内(うち)には益々(ます〳〵)織田(をた)の援軍(ゑんぐん)が集(あつま)つて我(わ)が疲労(ひらう)に乗(ぜう)ずる事になるであろうソウす       ると西上(せいぜう)の目的(もくてき)は大(おほい)に此処(こゝ)で阻害(そがい)せれる事になるから寧(むし)ろ無益(むえき)の攻戦(こうせん)は避(さ)けて最後(さいご)の目的(もくてき)に急(いそ)いだ方(ほう) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       がよいと云ふのが信玄(しんげん)の意見(いけん)であつたものと思(おも)はれる然(しか)るに家康(いへやす)に於(おい)ては如何(いか)に衆寡(しうくわ)敵(てき)せざる場合(ばあひ)な       るにもせよ敵軍(てきぐん)が近(ちか)く城外(じようくわい)を踏藉(とうせき)するのに之(これ)に一 矢(し)をも加(くは)へぬと云ふのは武士(ぶし)の面目(めんもく)でない勝敗(せうはい)は        天(てん)に在(あ)ると云ふので老臣(らうしん)等(ら)の諌(いさめ)をも斥(しりぞ)けて遂(つひ)に出戦(しゆつせん)に決(けつ)したのであるが徳川方(とくがはがた)の兵数(へいすう)は此時(このとき)織田氏(をたし)の        援軍(ゑんぐん)約(やく)三千を加(くは)ふるも尚(な)ほ一万 内外(ないぐわい)しかなかつたのである 《割書:三方ヶ原の|戦》  ソコで家康(いへやす)は兵(へい)を三方(みかた)ヶ原(はら)に出(いだ)して犀(さい)ケ崖(くぼ)の北方(ほくほう)に布陣(ふぢん)し武田方(たけだがた)の通過(つうくわ)を待(ま)つて居(を)たのであるが此時(このとき)        酒井忠次(さかゐたゝつぐ)は吉田衆(よしだしう)を率(ひき)ゐて織田氏(をたし)の援将(ゑんせう)佐久間(さくま)平手(ひらて)瀧川(たきがは)等(ら)と共(とも)に其(その)右翼(うよく)となり石川数正(いしかはかずまさ)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)松(まつ)        平家忠(だひらいへたゞ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)は其(その)左翼(さよく)となり家康(いへやす)は自(みづか)ら予備隊(よびたい)を率(ひき)ゐて横隊(わうたい)に陣取(ぢんど)つたのである然(しか)るに信玄(しんげん)は之(これ)       を見(み)て尚(な)ほ二三の武将(ぶせう)に其(その)要撃(えうげき)を拒(ふせ)がしめつゝ本隊(ほんたい)は行進(こうしん)を続(つゞ)けようとしたのであるが連(しき)りに其(その)偵察(ていさつ)       が徳川方(とくがはがた)の微弱(びじやく)なるを報(ほう)じた処から遂(つひ)に会戦(くわいせん)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)結果(けつくわ)は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の通(とほ)       り武田方(たけだがた)の勝利(せうり)と相成(あひな)つたのであるが併(しか)し信玄(しんげん)の立(た)ち場(ば)から云ふと結局(けつきよく)此(この)戦(たゝかひ)は余(あま)り利盛(りえき)ではなかつ       たものと信(しん)ずるのである       サテ此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ては色々(いろ〳〵)書(か)いたものがあつて三 河物語(かはものがたり)の如(ごと)きにも頗(すこぶ)る味(あぢは)ふべき記事(きじ)があるが茲(こゝ)には余(あま)       り必要(ひつえう)がないと思(おも)ふから只(た)だ其(その)経路(けいろ)だけを申述ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふ而(しか)して此(この)戦(たゝかひ)のあつたのは諸君(しよくん)       も知(し)らるゝ通(とほ)り十二月の廿二日で午後(ごゞ)四時 頃(ごろ)から始(はじ)まつて仝六時頃には既(すで)に終(をは)つたのであるが戦(たゝかひ)終(をは)       つて家康(いへやす)は城中(じようちう)に退(しりぞ)いた後(のち)城廓(じようくわく)の各(かく)入口(いりぐち)を鎖(とざ)さしめずに置(お)いたので武田方(たけだがた)から追撃(つひげき)して来(き)た馬場(ばゞ)、        山縣(やまがた)などの将(せう)が却(かへつ)て躊躇(ちうちよ)してそれより内(うち)には攻(せ)め入(い)らなかつた事(こと)並(ならび)に此夜(このよ)天野康景(あまのやすかげ)、 大久保忠世(おほくぼたゝよ)等(ら)が        銃手(じうしゆ)を集(あつ)めて武田方(たけだがた)の陣(ぢん)を犀(さい)ケ崖(くぼ)に射撃(しやげき)して奇捷(きせう)を得(え)た等(とう)の事(こと)があるが之(これ)は有名(ゆうめい)なる話(はなし)であるから言(い)       ふ迄(まで)もなく諸君(しよくん)は既(すで)に御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふソコで其(その)翌(よく)廿三日 武田方(たけだがた)に於(おい)ては色々(いろ〳〵)評議(ひようぎ)があつたの 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                   百十一 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                   百十二 【本文】       であるが此際(このさい)一 層(そう)の事に浜松城(はままつじよう)をも攻略(こうりやく)しようではないかと云ふ議論(ぎろん)も起(おこ)つたのであるトコロが独(ひと)り        高坂昌宜(たかさかまさのぶ)は之(これ)を不可(ふか)として一日も早(はや)く兵(へい)を上国(じようこく)に進(すゝ)むるのを得策(とくさく)としたので信玄(しんげん)も初(はじ)めからの意志(いし)が        其処(そこ)にあるのであるから深(ふか)く其説(そのせつ)に同意(どうい)して即(すなは)ち廿四日には兵(へい)を刑部(をさかべ)に移(うつ)し遂(つひ)に此処(こゝ)に越年(ゑつねん)することと 《割書:信玄三河に|入り野田城》  なつて兵馬(へいば)の休養(きうやう)をなしたのであるが其(その)翌(よく)天正(てんせう)元年(がんねん)の正月には愈々(いよ〳〵)三河に侵入(しんにふ)して十一日 野田(のだ)の城(しろ)を 《割書:を囲む  | 》   攻撃(こうげき)するに至(いた)つたのである此時(このとき)山縣昌景(やまがたまさかげ)は矢張(やはり)先鋒(せんはう)として正月 早々(さう〳〵)三河に入(い)つたので昌景(まさかげ)が正月三日 大恩寺文書 付で出(いだ)した宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(たいおんじ)の制札(せいさつ)か今(いま)も同寺(どうじ)に保存(ほぞん)されて居(を)るのは実(じつ)に珍(ちん)とすべきものであると        思(おも)ふ       サテ此(この)野田(のだ)の城(しろ)には前(まへ)に申述(もうしの)べた如く当時(とうじ)菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が援将(ゑんせう)松平忠正(まつだひらたゞまさ)等(ら)と見兵(けんぺい)僅(わづか)に四百余人を以(もつ)て守備(しゆび)       して居(を)つたのであるが之(これ)を固守(こしゆ)すると共(とも)に急(きう)を浜松(はままつ)に報(ほう)じたのであるソコで家康(いへやす)は赴援(ふゑん)して八 名郡(なぐん)の        八名井(やなゐ)まで来(き)て笠頭山(りうづさん)に陣取(ぢんど)つたが何分(なにぶん)にも兵数(へいすう)が少(すくな)いので如何(いかん)ともすることが出来(でき)ぬ依(よつ)て使(し)を岐阜(ぎふ)に       やつて援(ゑん)を求(もと)めたが信長(のぶなが)は辞(じ)して之(これ)に応(おう)ぜない拠(よんどころ)なく書(しよ)を謙信(けんしん)に送(おく)つて兵を信濃(しなの)に出(いだ)し以(もつ)て信玄(しんげん)を        牽制(けんせい)せむことを請(こ)ふに至(いた)つたのである其(その)内(うち)に城(しろ)は遂(つひ)に支(さゝ)ふる事が出来(でき)ぬ処から定盈(さだみつ)等(ら)は止(やむ)を得(え)ず自(みづか)ら屠(と)        腹(ふく)して部下(ぶか)の士卒(しそつ)を宥(ゆる)さむことを武田方(たけだがた)に求(もと)めたのであるが信玄(しんげん)が之(これ)を許(ゆる)したので二月十日に定盈(さだみつ)等(ら)二 野田城落つ  将(せう)は城(しろ)を出(い)で潔(いさぎよ)く自殺(じさつ)せんとしたのである然(しか)るに信玄(しんげん)は頻(しき)りに之(これ)に降(こう)を勧(すゝ)めたが二 将(せう)は之(これ)に応(おう)ぜぬ       ので遂(つひ)に長篠(ながしの)に幽閉(ゆうへい)されたトコロが例(れい)の山家(やまが)三 方(はう)の人々(ひと〴〵)の質(しち)と云ふものはまだ浜松(はままつ)にあつたので此(この)人(ひと)        人(〴〵)から己(おの)れ等(ら)の質(しち)と此(この)二 将(せう)との交替(こうたい)をしたいと云ふ事を信玄(しんげん)に申出(もうしい)でた而(しか)して此事(このこと)は徳川方(とくがはがた)とも交渉(こうせう)       が纏(まとま)つて其(その)月(つき)の十五日に俘虜(ふりよ)の交替(こうたい)が出来(でき)たと云ふ訳(わけ)で定盈(さだみつ)等(ら)は幸(さいはひ)に一 命(めい)を全(まつた)ふして浜松(はままつ)に皈(かへ)る事       になつたのである私(わたくし)は実(じつ)に此(この)定盈(さだみつ)の忠節(ちうせつ)と云ふものに対(たい)しては常(つね)に何(なん)とも云へぬ感嘆(かんたん)の意(い)を表(ひよう)して居(を) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百四十八号附録    ( 明治四十四年八月廿九日発行 ) 【本文】 信玄病を獲 るのである蓋(けだ)し此(この)際(さい)に於(お)ける徳川方(とくがはがた)の逆境(ぎやくけう)と云ふものは頗(すこぶ)る甚(はなはだ)しかつたものであると思(おも)ふが信玄(しんげん)も        亦(ま)た此(この)野田(のだ)の城攻(しろぜ)めに於(おい)て病(やまひ)を獲(ゑ)たので之(これ)が原因(げんゐん)となつて遂(つひ)に大志(たいし)を齎(もたら)したるまゝ不皈(ふき)の客(きやく)となつた       のである兎(と)に角(かく)定盈(さだみつ)は僅(わづか)に四百余の手兵(しゆへい)を以(もつ)て三万の大軍(たいぐん)を引受(ひきう)け渺(ひよう)たる野田(のだ)の城(しろ)に籠(こも)つて三 旬(じゆん)余(よ)を        支(さゝ)えたと云ふものは莫大(ばくだい)の功(こう)で私(わたくし)は信玄(しんげん)から云ふと実(じつ)に余計(よけい)な事をして不慮(ふりよ)の大害(たいがい)を受(う)けたような       ものであると思(おも)ふのである三 河物語(かはものがたり)には        (信玄(しんげん))そこを引(ひき)のけ給(たま)ひて伊(い)の谷(や)へ入て長篠(ながしの)へ出(で)給(たま)ふ其(それ)よりおくかうりへはたらかんとて出(いで)させ給(たま)        ふ所(ところ)に爰(こゝ)にやぶの内(うち)に小城(せうじよう)有(あり)ける何城(なにじよう)ぞととはせ給(たま)へば野田之城(のだのしろ)と申(もうす)信玄(しんげん)はきゝ及(および)たる野田(のだ)は是(これ)に        て有(ある)か其(その)儀(ぎ)ならはとおりがけにふみちらせと仰(あふせ)あつて押寄(おしよせ)給(たま)へば       と書(か)いてあるが之(これ)で見(み)ると少(すくな)くとも此(この)時(とき)此(この)吉田城(よしだじよう)をば攻略(こうりやく)して然(しか)る後(のち)西上(せいぜう)せむとしたものと思(おも)はれる       モツトモ此(この)記事(きじ)が果(はた)して事実(じじつ)であるかどうか確証(かくせう)はし兼(か)ぬる事と思(おも)ふが兎(と)に角(かく)文中(ぶんちう)には如何(いか)にも信玄(しんげん)       の性格(せいかく)と其(その)新勝気鋭(しんせうきえい)の有様(ありさま)が見(み)ゆるようであるのみならず如何(いか)に野田城(のだじよう)の小(せう)なるものであつたかゞ分(わか) 信玄の卒去 るようである果(はた)して此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたものとすれば遺憾(ゐかん)ながら信玄(しんげん)が大志(たいし)を抱(いだ)いて而(しか)も遂(つひ)に成功(せいこう)       する事が出来(でき)なかつたのも当然(とうぜん)であるとなさねばならぬのであるサテ又(ま)た此(この)信玄(しんげん)の死(し)であるが之(これ)にも        旧来(きうらい)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があるので松平記(まつだひらき)には         家康(いへやす)も後詰(あとづめ)として笠頭山(りうづさん)迄(まで)御出張(ごしゆつちよう)有(あり)しかとも城中(じようちう)にては是(これ)をしらす水(みづ)を呑(のま)す数日(すうじつ)過(すぎ)し程(ほど)に軍勢(ぐんぜい)人馬(じんば)         何(なん)とも不叶(かなはず)菅沼方(すがぬまがた)より敵(てき)へ使(し)を以(もつ)て申(もうし)けるは我等(われら)一 人(にん)罷出(まかりいで)腹(はら)を可切(きるべく)候間(そうろうあひだ)軍勢(ぐんぜい)をは助(たす)けのかさせ給(たまへ)        と信玄(しんげん)聞(きゝ)尤(もつとも)きとくの被申様成(もうされやうなり)とて軍勢(ぐんぜい)をはのかせ可申(もうしべく)と堅(かた)く契約(けいやく)にて菅沼新(すがぬましん)八 郎(らう)城(しろ)を出(いで)る処(ところ)に信玄(しんげん)         衆(しう)待請(まちうけ)生捕(いけどり)にしける此(この)間(あひだ)城中(じようちう)の者(もの)ともは過半(くわはん)出(いで)るを甲州衆(かうしうしう)とゝめんとすそのせり合(あひ)に信玄(しんげん)鉄砲(てつぽう)に 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                   百十三 【欄外】    豊橋市史談  (三方ヶ原役前後の事情)                    百十四 【本文】        あたり給(たま)ひ山城(やまじろ)なれば誰(たれ)か打(うち)けん落矢(おや)に打(うたれ)けるそれより色々(いろ〳〵)養生(やうぜう)有(あり)しと聞(きこ)えし      とあるが武徳編年修成(ぶとくへんねんしうせい)には又(ま)た其(その)頃(ころ)の伝説(でんせつ)を記(しる)して        爰(こゝ)に勢州(せいしう)山田(やまだ)の住人(ぢうにん)村松芳休(むらまつほうきう)と云者(いふもの)適々(たま〳〵)野田(のた)の城内(じようない)に在(あ)りて毎夜(まいよ)笛(ふえ)を吹(ふき)其(その)音(ね)精妙(せいみよう)なるゆへ敵軍(てきぐん)喜(よろこ)び         聞(きく)一日 兵士(へいし)来(きたり)て紙(かみ)を竹竿(たけさを)に掲(かゝげ)て丘上(きゆうぜう)に建置(たてをき)けるを城中(じようちう)鳥居(とりゐ)三 左衛門(ざゑもん)是(これ)を見咎(みとが)め疑(うたが)ふらくは蜜々(みつ〳〵)主将(しゆせう)         来(きたつ)て笛(ふゑ)を聞(きく)の符(ふ)ならん歟(か)と彼(かの)竹竿(たけざを)を標的(ひようてき)として火砲(くわはう)を備(そな)へ相待処(あひまつところ)に其(その)夜(よ)果(はた)して芳休(ほうきう)笛(ふゑ)を吹(ふき)けれは信(しん)         玄(げん)彼(かの)丘上(きうぜう)に来(きた)りて笛(ふゑ)を聞処(きくところ)鳥居(とりゐ)火砲(くわはう)を発(はつ)し其(その)耳(みゝ)の際(きは)をかすり打殪(うちなほ)し即(すなはち)絶入(ぜつにふ)す敵(てき)大(おほい)に周章(しうせう)し陣営(ぢんえん)に         携(たづさ)へ皈(かへ)り医療(ゐれう)を尽(つく)す       としてある然(しか)るに文学士(ぶんがくし)渡邊世祐君(わたなべせゆうくん)の安土桃山時代史(あづちもゝやまじだいし)には右(みぎ)の両説(れうせつ)を評(ひよう)して         前者(ぜんしや)は余(あま)りに詩的(してき)後者(こうしや)は実際(じつさい)あり難(がた)き不合理(ふごうり)の事たり元来(がんらい)両説(れうせつ)とも当時(とうじ)の伝説(でんせつ)なれは直(たゝち)に否定(ひてい)し難(がた)        きも尚(な)ほ彼(か)の武家事記所載(ぶけじきしよさい)の御宿大監物(みしゆくだいけんもつ)の書中(しよちう)の説(せつ)史料(しれう)として前(ぜん)二 者(しや)より正確(せいかく)にして又(また)実際(じつさい)の事実(じじつ)        と思(おも)はるゝには若(し)かざるなり監物(けんもつ)の書中(しよちう)に「元来玄公懸_二望干天下_一胸呑_二於四海_一巻_二舌於九河_一振_二家        名於海内_一可_レ被貽_二名於後代_一襟懐徹_二骨髄_一由_レ苦_二肺肝_一病患忽萌腹心不_レ安切也由_レ是尽_二倉公華佗        術_一雖_レ用_二君臣佐使之薬_一業病更不_レ愈追_レ日沈_二病枕_一」と云ふ文(ぶん)あり此(これ)に依(よ)り其(その)病気(びようき)なりしを知(し)るを         得(え)ん       と記(しる)してあるのである之(これ)は如何(いか)にも正(たゞ)しき説(せつ)であると思(おも)ふサテ信玄(しんげん)は病(やまひ)起(おこ)るの後(のち)二月十六日を以(もつ)て鳳(ほう)        来寺(らいじ)に移(うつ)つて療養(れうやう)したが当時(とうじ)将軍(せうぐん)義昭(よしあきら)は織田信長(をだのぶなが)と不和(ふわ)で之(これ)を除(のぞ)かむ事を画(はか)つて居(を)つたのであるから        従(したがつ)て信玄(しんげん)の上京(ぜうけう)を促(うなが)すことが急(きう)であつたそれのみならず伊勢(いせ)の北畠具教(きたはたけとものり)の如(ごと)きは信玄(しんげん)の上洛(ぜうらく)に就(つい)ては        船(ふね)を此(この)吉田(よしだ)まで回(まわ)してもよいと云ふ事を申送(もうしおく)つた位(くらゐ)であるソコで信玄(しんげん)は一 度(ど)は勝頼(かつより)をして徳川方(とくがはがた)に当(あた) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       らしめて本軍(ほんぐん)をば直(たゞ)ちに西(にし)へ進(すゝ)ましめむとしたのであるが再(ふたゝ)び病(やまひ)が重(おも)つたので遺憾(ゐかん)極(きはま)りない事であつ       たであろうが遂(つひ)に国(くに)に引返(ひきかへ)す事となつて其(その)途中(とちう)四月十二日を以(もつ)て信州(しんしう)駒場(こまば)に於(おい)て卒去(そつきよ)したのである併(しか)       し之(これ)にも旧来(きうらい)波合(なみあひ)に於(おい)て卒去(そつきよ)されたと云ふ説(せつ)があるが今(いま)は前説(ぜんせつ)が先(ま)づ確(たしか)な事となつて居(を)る様(やう)である             ◉長篠役と武田氏の滅亡        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く武田信玄(たけだしんげん)は天正(てんせう)元年(がんねん)四月 卒去(そつきよ)し其(その)子(こ)の勝頼(かつより)が其(その)後(あと)を襲(つ)いたが父(ちゝ)の遺命(ゐめい)によりて固(かた)       く其(その)喪(も)を秘(ひ)したのである然(しか)るに徳川家康(とくがはいへやす)はイヨ〳〵武田勢(たけだぜい)が東三河を去(さつ)つたのを見(み)て其(その)翌月(よくげつ)には兵(へい)を        駿河(するが)に出(いだ)して岡部(をかべ)附近(ふきん)に放火(はうくわ)し更(さら)に自(みづか)ら此(この)吉田(よしだ)の城(しろ)に屯(たむろ)して東三河の北部(ほくぶ)に於(お)ける敵状(てきぜう)を偵察(ていさつ)し又(ま)た 《割書:家康長篠城|を復す》   遠州(ゑんしう)二 俣(また)の敵城(てきぜう)に対(たい)しても社山(やしろやま)、 合代島(あひしろじま)、 渡島(どんど)などゝ云ふ処(ところ)に砦(とりで)を設(もう)けて之(これ)に備(そな)へ七月に至(いた)つて長篠(ながしの)        城(じよう)を攻撃(こうげき)したのである此(この)長篠城(ながしのじよう)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り菅沼(すがぬま)三 郎左衛門満成(らうさゑもんみつなり)が初(はじ)めて住(ぢう)した処(ところ)で之(これ)は田(た)        峯(みね)の支流(しりう)であるが其(その)年代(ねんだい)は詳(つまびらか)でない併(しか)し文明(ぶんめい)年間(ねんかん)の頃(ころ)であると推定(すいてい)せられるモツトモ此処(こゝ)に城(しろ)の出(で)        来(き)たのは永正(えいせう)五年の五月で其(その)子(こ)元成(もとなり)の時(とき)であると云ふ説(せつ)があるが当時(とうじ)は今川氏(いまがはし)に属(ぞく)したものである然(しか)       るに永禄(えいろく)四 年(ねん)満成(みつなり)五 世(せ)の孫(そん)貞景(さだかげ)に至(いた)つて初(はじ)めて徳川家康(とくがはいへやす)に属(ぞく)したのである此(この)人(ひと)は其(その)十二年正月に家康(いへやす)       か今川氏真(いまがはうぢさね)を遠江国(とふとほみのくに)掛川城(かけがはじよう)に攻(せ)むるに方(あた)つて徳川氏(とくがはし)の為(ため)に天王山(てんわうざん)に於(おい)て討死(うちじに)したのであるが其(その)子(こ)の        新(しん)九 郎正貞(らうまささだ)は元亀(げんき)二年に至(いた)つて武田信玄(たけだしんげん)の誘導(ゆうどう)に応(おう)じ家康(いへやす)に叛(そむ)いて遂(つひ)に之(これ)に属(ぞく)するに至(いた)つたので今度(このたび)        却(かへつ)て家康(いへやす)の攻撃(こうげき)を受(う)くることとなつたのである此(この)時(とき)徳川方(とくがはがた)に於(おい)ては試(こゝろみ)に火箭(くわせん)を放(はな)つて城(しろ)を攻(せ)めたので       あるが之(これ)が予想外(よそうぐわい)に成功(せいこう)し城兵(じようへい)は遂(つひ)に支(さゝ)へ兼(か)ねて降伏(こうふく)したので三 河物語(かはものがたり)には七月十九日に徳川方(とくがはがた)に於(おい)       て城(しろ)を受取(うけと)つたと書(か)いてあるモツトモ武田勝頼(たけだかつより)は城兵(じようへい)の応援(おうゑん)として其(その)族将(ぞくせう)武田信豊(けだのぶとよ)幷(ならび)に馬場信春(ばゞのぶはる)小山(こやま) 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百十五 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百十六 【本文】       田信義(だのぶよし)等(ら)を寄越(よこ)して鳳来寺(ほうらいじ)の黒瀬(くろせ)辺(へん)迄(まで)入(い)り来(きた)つたのであるが遂(つひ)に及(およ)ばなかつたのである。サテ其(その)頃(ころ)作(つく) 《割書:奥平貞能の|帰降》   手(て)の城(しろ)には武田氏(たけだし)の将(せう)甘利左衛門清吉(あまりさゑもんきよよし)と云ふ人が居(を)つたが其(その)後(ご)黒瀬(くろせ)に屯(たむろ)して居(を)つた土屋右衛門直村(つちやうゑもんなをむら)も        之(これ)に移(うつ)つたのである而(しか)して兼(かね)て申述(もうしのべ)てある山家(やまが)三 方(はう)の一なる例(れい)の奥平父子(おくだひらふし)は其(その)外廓(ぐわいくわく)に居(を)つたのであ       るが奥平貞能(おくだひらさだよし)の子(こ)九八郎 貞昌(さだまさ)は後(のち)に信昌(のぶまさ)と改名(かいめい)した人であるが之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)死去(しきよ)の事を知(し)つて頻(しきり)り       に父(ちゝ)貞能(さだよし)に向(むか)つて徳川氏(とくがはし)へ帰降(きこう)する事を勧(すゝ)めたのである家康(いへやす)も亦(ま)た本多広孝(ほんだひろたか)仝(おなじく)信俊(のぶとし)等(ら)から勧告(くわんこく)せし       めたので貞能(さだよし)も遂(つひ)に其(その)事(こと)に決心(けつしん)したのであるが武田方(たけだがた)に於(おい)てはドウモ此(この)頃(ころ)貞能(さだよし)の挙動(きよどう)が怪(あやし)いと云ふの       で今度(このたび)黒瀬(くろせ)に滞陣中(たいぢんちう)の信豊(のぶとよ)は之(これ)を招(まね)いて詰問(きつもん)せしめたのである然(しか)るに此(この)時(とき)貞能(さだよし)は神色自若(しんしよくじじやく)として其(その)異(ゐ)        心(しん)なき旨(むね)を答(こた)へたのみならず緩々(ゆる〳〵)碁(こ)を囲(かこ)むだり茶漬(ちやづけ)を馳走(ちさう)になつたりして落付(おちつ)き払(はら)つて居(を)つたのであ       るそれのみならず貞能(さだよし)の従者(じうしや)が門外(もんぐわい)に蹲踞(そんきよ)して主人(しゆじん)の出(い)づるのを待(ま)つて居(を)つたのに向(むかつ)て御前方(おまへがた)の主人(しゆじん)       は今(いま)其(その)叛逆(はんぎやく)が現(あら)はれて討(う)たれたぞと嚇(おど)したトコロが従者共(じうしやども)は驚(おどろ)かない一 向(こう)平気(へいき)で微笑(びせう)して居(を)つたとの       事である之(これ)は貞能(さだよし)が平常(へいぜう)従者(じうしや)に向(むかつ)て武田方(たけだがた)のものから何(なん)と申掛(もうしかけ)らるゝ事があつても決(けつ)して自分(じぶん)の首(くび)を        見(み)ぬ中(うち)は驚(おどろ)くではないぞと申付(もうしつ)けて深(ふか)く戒(いまし)めてあつた結果(けつくわ)であると云ふ事であるが此(この)事(こと)は武徳編年集(ぶとくへんねんしう)        成(せい)などにも記(しる)してあるかゝる様(さま)であつたから武田方(たけだがた)に於(おい)ても半信半疑(はんしんはんぎ)の中(うち)に此(この)時(とき)貞能(さだよし)を皈(き)したのであ       るが貞能(さだよし)は作手(つくて)に皈(かへ)るや否(いな)や今(いま)は猶予(ゆうよ)すべきではないと云ふので直(たゞ)ちに一 族郎党(ぞくらうとう)を挙(あ)げて瀧山(たきやま)の砦(とりで)に走(はし)       つたので家康(いへやす)は兵(へい)を遣(つか)はして之(これ)を迎(むか)へしめたのであるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては之(これ)を追(おつ)て小戦争(せうせんさう)があつた 《割書:家康長篠城|を修し奥平》  が悉(こと〴〵)く打(う)ち退(しりぞ)けられたので遂(つひ)に怒(いかつ)て貞能(さだよし)の質(しち)子(こ)仙千代(せんちよ)初(はじ)めを鳳来寺(ほうらいじ)に於(おい)て磔殺(ろころ)したのである此(かく)の如(ごと) 《割書:貞昌をして|之を守らし》  き訳(わけ)で貞能(さだよし)は勿論(もちろん)信昌(のぶまさ)も亦(ま)た益々(ます〳〵)家康(いへやす)に重(おもん)せらるゝに至(いた)つたのであるが特(とく)に信昌(のぶまさ)は弱年(じやくねん)ながら大(おほい)に見(みど) 《割書:む    | 》  処(ころ)のあるものであると云ので其(その)翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち天正三年の二月 長篠城(ながしのじよう)の改築(かいちく)が成(な)つてイヨ〳〵此(この)城(しろ)を以(もつ)て 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百五十四号附録    ( 明治四十四年九月五日発行 ) 【本文】        甲信軍(かうしんぐん)侵入(しんにう)の要衝(えうしよ)に当(あた)らしめむとするに方(あた)つて其(その)守将(しゆせう)を命(めい)ぜられたのである       サテ長篠城(ながしのじよう)が家康(いへやす)の手に入つて後(のち)の事(こと)であるが遠江(とふとほみ)方面(ほうめん)に於(おい)て数々(しば〴〵)徳川(とくがは)武田(たけだ)二 氏(し)の間(あひだ)にセリ合(あ)ひがあ 《割書:高天神城武|田氏に降る》  つたが天正二年五月 勝頼(かつより)は兵(へい)三万を率(ひき)いて高天神城(たかてんじんのしろ)を包囲(はうゐ)したのであるソコで家康(いへやす)は急(きう)を聞(き)いて援(ゑん)を        信長(のぶなが)に求(もと)めたので信長(のぶなが)は之(これ)を援(たす)くる為(ため)に自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ひて其(その)先鋒(せんはう)は六月十八日に今切(いまぎり)の渡(わたし)までやつて来(き)       たが高天神(たかてんじん)の守将(しゆせう)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)は其(その)以前(いぜん)遂(つひ)に勝頼(かつより)に降(くだ)つたので信長(のぶなが)は途中(とちう)から引(ひ)き返(かへ)したのである此(この)時(とき)        家康(いへやす)は之(これ)を出迎(でむか)へたが酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)は此(この)吉田(よしだ)の城(しろ)に於(おい)て信長(のぶなが)を饗(けう)し信長(のぶなが)は又(ま)た此(この)城(しろ)の広間(ひろま)に於(おい)て        黄金(わうごん)一 袋(ふくろ)を家康(いへやす)に贈(おく)り貞宗(さだむね)の刀(かたな)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に授(さづ)けたと云ふ事である之(こ)れ亦(ま)た松平記(まつだひらき)及(およ)び武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)       などに記(しる)されてある 《割書:織田武田諸|氏と足利将》   然(しか)るに当時(とうじ)上方(かみがた)に於(おい)ては既(すで)に前(まへ)にも申述(もうしのべ)た通(とほ)り信長(のぶなが)と将軍(せうぐん)義昭(よしあきら)との間柄(あひだがら)が益(ます〳〵)険悪(けんあく)となつて頗(すこぶ)る危急(ききう) 《割書:軍との関係| 》  に迫(せま)つて居(を)るので義昭(よしあきら)は又た屡々(しば〳〵)書(しよ)を勝頼(かつより)に送(おく)つて一日も早(はや)く上京(ぜうけう)して己(おの)れを助(たす)くる様(やう)にと申送(もうしおく)つた       のであるソコで勝頼(かつより)は父(ちゝ)の志(こゝざし)を継(つ)いで是非(ぜひ)共(とも)其(その)旗(はた)を京師(けうし)に立(た)てたいものであると云ふ志(こゝろざし)は益々(ます〳〵)盛(さかん)       になつて来(き)たものに相違(さうゐ)ないが其(その)頃(ころ)の形勢(けいせい)に就(つい)ては徳川実記(とくがはじつき)の註(ちう)に於(おい)て既(すで)に成島司直(なりしましちよく)も左(さ)の如(ごと)く論(ろん)じ       て居(を)るのである         当時(とうじ)天下(てんか)の形勢(けいせい)を考(かんが)ふるに織田殿(をたどの)足利義昭(あしかゞよしあきら)将軍(せうぐん)を̪翅戴(したい)し三好(みよし)松永(まつなが)を降参(こうさん)せしめ佐々木(さゝき)六 角(かく)を討(う)ち亡(ほろ)        し足利家(あしかゞけ)恢復(くわいふく)の功(こう)をなすに至(いた)り強傲専肆(けうがうせんし)かぎりなく跋扈(ばつこ)のふるまひ多(おほ)きを以(もつ)て義昭(よしあきら)殆(ほとんど)これにうみ         苦(うる)しみ陽(やう)には織田殿(をたどの)を任用(にんよう)するといへどもその実(じつ)は是(これ)を傾覆(けいふく)せんとして潜(ひそか)に越前(ゑつぜん)の朝倉(あさくら)近江(あふみ)の浅井(あさゐ)         甲州(かうしう)の武田(たけだ)に含(ふく)めらるゝ密旨(みつし)ありこれ姉川(あねがは)の戦(たゝかひ)起(おこ)る所以(ゆゑん)なりその明証(めいせう)は高野山(かうやさん)蓮華定院(れんげてうゐん)吉野山(よしのやま)勝(せう)         光院(こうゐん)に存(ぞん)する文書(ぶんしよ)に見(み)ゑさ又(また)其(その)後(のち)に至(いた)り甲州(かうしう)の武田(たけだ)越後(ゑつご)の上杉(うへすぎ)相模(さがみ)の北条(ほうでう)は関東(くわんとう)北国(ほくこく)割拠(かつきよ)中(ちう)最(もつとも)第 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百十七 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百十八 【本文】        一の豪傑(ごうけつ)なる由(よし)聞(き)きてこの三国へ大和淡路守(やまとあわぢのかみ)等(ら)を密使(みつし)として信長(のぶなが)誅伐(ちうばつ)の事をたのまれけるその文書(ぶんしよ)        も又(また)吉野山(よしのやま)勝光院(せうこうゐん)に存(ぞん)す然(しか)れば織田氏(をたし)を誅伐(ちうばつ)せんには当時(とうじ)徳川家(とくがはけ)興国(こうこく)の第一にて織田氏(をだし)のたのむ所(ところ)        は徳川家(とくがはけ)なり故(ゆへ)に先(まづ)徳川家(とくがはけ)を傾(かたむ)けて後(のち)尾州(びしう)へ攻(せ)め入(い)りて織田(をだ)を亡(ほろぼ)し中国(ちうごく)へ旗(はた)を挙(あ)げんとて信玄(しんげん)盟約(めいやく)        を背(そむ)き無名(むめい)の軍(いくさ)興(おこ)し遠(ゑん)三を侵掠(しんれう)せんとす是(これ)三方ヶ原の大戦(たいせん)起(おこ)る所以(ゆゑん)なり勝頼(かつより)が時(とき)に至(いた)り又(また)義昭(よしあきら)より         北条氏(ほうでう)謀(はかりごと)を同(おな)じくして織田(をた)を滅(ほろぼ)すべき事を頼(たの)まるゝその使(つかひ)は眞木島玄蕃允(まきしよげんばのすけ)なり此(この)文書(ぶんしよ)又(また)勝光院(せうこうゐん)に         伝(つた)ふ是(これ)勝頼(かつより)がしば〳〵三 遠(ゑん)を襲(おそ)はんとする所(ところ)にて長篠大戦(ながしのたいせん)の起(おこ)る所以(ゆえん)なり義昭(よしあきら)終(つひ)に本意(ほんい)を遂(と)げず後(のち)        に芸州(げいしう)へ下(くだ)り毛利(もうり)を頼(たの)まるこれ豊臣氏(とよとみし)中国(ちうごく)語征伐(ごせいばつ)の起(おこ)る所(ところ)なり然(しか)れば姉川(あねがは)三 方(かた)ヶ原(はら)長篠(ながしの)の三 大戦(たいせん)は         当家(とうけ)においては剣難危急(けんなんききう)なりといへどもその実(じつ)は足利義昭(あしかゞよしあきら)の作謀(さくぼう)に起(おこ)り朝倉(あさくら)武田(たけだ)等(ら)巳(おのれ)が姦計(かんけい)を以(もつ)て         又(また)簒奪(さんだつ)の志(こゝざし)を成就(せうじゆ)せんとせしものなりすべて等持院(とうぢゐん)将軍(せうぐん)よりこのかた室町気(むろまちけ)は人の力(ちから)をかりて功(こう)        をなしその功成(こうな)りて後(のち)又(また)他人(たにん)の手(て)をかりてその功臣(こうしん)を除(のぞ)くを以(もつ)て万古不易(ばんこふえき)の良法(れうほう)として国(くに)を建(た)てし         余習(よしふ)十五 代(だい)の間(あひだ)其(その)故智(こち)を用(もち)ひざる者(もの)なし終(つひ)に其(その)故智(こち)を以(もつ)て国家(こくか)をも失(うしな)ひしこと豈(あに)天(てん)ならずや 《割書:大賀弥四郎|の叛逆》   此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるが其(その)頃(ころ)徳川氏(とくがはし)の代官(だいくわん)に大賀弥(おほがや)四 郎(らう)と云ふものがあつて奥郡(おくごほり)廿 余郷(よこう)の賦租(ぶそ)を支配(しは)して        何不足(なにふそく)もないのに頗(すこぶ)る非望(ひぼう)を懐(いだ)いて竊(ひそか)に武田氏(たけだし)に内応(ないおう)し岡崎城(をかざきじよう)を奪略(だつりやく)しようと云ふような事を謀(はか)つた 《割書:武田勝頼の|侵入》  のであるが之(これ)等(ら)も一つの近因(きんゐん)となつたので天正(てんせう)三年の四月 勝頼(かつより)はイヨ〳〵一万二千余の大軍(たいぐん)を率(ひき)ゐて        信濃(しなの)から三 河(かは)に攻(せ)め入(い)つたのである然(しか)るに之(これ)に先(さきだ)つて大賀(おほが)は事が露顕(ろけん)に及(およ)むで一 類(るい)孰(いづ)れも捕(とら)へられた       ので勝頼(かつより)も此(この)事(こと)は少(すこ)しく当(あ)てがはづれた形(かたち)であつたがソレ等(ら)には頓着(とんちやく)なく直(たゞ)ちに二千 余(よ)の兵(へい)を分(わか)つて        先(ま)づ長篠城(ながしのじよう)を囲(かこ)ましめ自(みづか)らは其(その)余(よ)の大軍(たいぐん)を引連(ひきつ)れて五月六日 牛久保(うしくぼ)並(ならび)に二 連木(れんぎ)に放火(はうくわ)し此(この)吉田城(よしだじよう)に攻(せ)       め寄(よ)せたのである 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 二連木の戦   此(この)時(とき)家康(いへやす)は浜松(はままつ)から来(きた)つて吉田城(よしだじよう)にあつたのであるが先(ま)づ武田氏(たけだし)の兵(へい)と二 連木(れんぎ)の兵(へい)との戦(たゝかひ)があつた       もので二 連木(れんぎ)城主(じようしゆ)戸田康長(とだやすなが)はまだ幼少(ようせう)であつたが其(その)家臣(かしん)等(ら)ハ敵(てき)の首(くび)十八 級(きう)を獲(ゑ)て家康(いへやす)の台覧(たいらん)に供(そな)へた       と云ふ事は寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)中(ちう)康長(やすなが)の譜(ふ)に載(の)つて居(を)る処(ところ)である又(ま)た三 河物語(かはものがたり)にもは薑(はじかみ)ケ原(はら)に於(おい)て戦闘(せんとう)が       あつた事が記(しる)してあるが此(この)薑(はじかみ)ケ原(はら)と云ふのは即(すなは)ち今(いま)の二 連木(れんぎ)の地(ち)である其(その)時(とき)家康(いへやす)は五千の兵(へい)を以(もつ)て        吉田(よしだ)の郊外(こうぐわい)に陣(ぢん)したが酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の意見(いけん)で兵(へい)を城中(じようちう)に引(ひ)き入(い)るゝ事となつて忠次(たゝつぐ)が殿(しんがり)の役(やく)を勤(つと)めたの       であるトコロで武田方(たけだがた)の先鋒(せんぽう)山縣昌景(やまがたまさかげ)は之(これ)を追撃(つひげき)したので忠次(たゝつぐ)は馬(うま)を返(かへ)して之(これ)と戦(たゝか)ひ全軍(ぜんぐん)を傷(きづゝ)けずし       て兵(へい)を城中(じようちう)に収(をさ)めたが其(その)翌日(よくじつ)も亦(ま)た両軍(れうぐん)の戦(たゝか)ふことが三度(みたび)で忠次(たゝつぐ)と昌景(まさかげ)とは互(たがひ)に言(げん)を交(か)はして戦(たゝかひ)を決(けつ)す 《割書:勝頼長篠城|を包囲す》  ることか再度(さいど)に及(およ)むだとの事である然(しか)るに勝頼(かつより)は敢(あへ)て城(しろ)に逼(せま)ることをなさず其(その)翌(よく)八日には全軍(ぜんぐん)を長篠(ながしの)に集(あつ) 《割書:家康信康旗|を野田に進》  めて茲(こゝ)に長篠城(ながしのじよう)を重囲(ぢうゐ)するに至(いた)つたのである其(その)時(とき)家康(いへやす)の長子(てうし)信康(のぶやす)は出(い)でゝ山中(やまなか)の法蔵寺(ほうざうじ)に陣取(ぢんど)つて居(を) 《割書:む    | 》  つたが三 河物語(かはものがたり)によるとそれより家康(いへやす)、 信康(のぶやす)両旗(れうき)にて野田(のだ)へ押寄(おしよ)させ給(たま)ふとなつて居(を)るが一 方(はう)には又(ま) 《割書:織田信長の|来援》  た十日に早馬(はやうま)を以(もつ)て援軍(ゑんぐん)を織田信長(をたのぶなが)に請(こ)つたと云ふ事が松平記(まつだひらき)に書(か)いてあるソコで信長(のぶなが)は応援(おうゑん)の為(ため)に        岐阜(ぎふ)を出立(しゆつたつ)したのが十三日で其(その)夜(よ)は熱田(あつた)に宿(しゆく)し翌(よく)十四日 其(その)子(こ)信忠(のぶたゝ)が岡崎(をかざき)に到着(とうちやく)した頃(ころ)自分(じぶん)は知立(ちりう)に来(きた)       つたのである松平記(まつだひらき)には信長(のぶなが)の岡崎(をかざき)到着(とうちやく)は十五日だと書(か)いてあるが参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)長篠役(ながしのえき)に十       四日の内(うち)に着(ちやく)した事になつて居(を)る兎(と)に角(かく)信長(のぶなが)が十五日に岡崎(をかざき)にあつた事は事実(じじつ)と信(しん)ぜられるのである        此(この)時(とき)に当(あた)つて長篠城中(ながしのじようちう)の有様(ありさま)は如何(どう)であつたかと云ふと奥平信昌(おくだひらのぶまさ)(貞昌)が大将(たいせう)で松平景忠次(まつだひらかげたゞ)伊昌(いせう)父子(ふし)並(ならび)       に松平親俊(まつだひらちかとし)が之(これ)を輔(たす)けて居(を)つたが兵数(へいすう)は僅(わづか)に五百 内外(ないぐわい)で兎(と)に角(かく)一万参千の大軍(たいぐん)を敵(てき)に扣(ひか)へて(《割書:勝頼の兵|数は二万》       《割書:であると称して居るが事実は一|万三千余であつた事と信ずる》)糧食(れうしよく)は此(この)上(うへ)僅(わづか)に四五日 分(ぶん)より外(ほか)ないと云ふ始末(しまつ)であるから是非(ぜひ)此(この)事情(じぜう)を家(いへ)        康(やす)に報(ほう)じ更(さら)に織田(をた)の援軍(ゑんぐん)が何(いづ)れの辺(へん)まで来(き)たかを確(たしか)めたいと云ふので武田方(たけだがた)の総攻撃(そうこうげき)のあつた十四日 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百十九 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百二十 【本文】 《割書:鳥居強右衛|門勝商》  の夜(よ)彼(か)の有名(ゆうめい)なる鳥居強右衛門勝商(とりゐすねうゑもんかつあき)が其(その)使命(しめい)を帯(お)むで城(しろ)を抜(ぬ)け出(い)でたのである而(しか)して直(たゞ)ちに家康(いへやす)の陣(ぢん)       に使(つかひ)したのであるが此(この)時(とき)の家康(いへやす)のあつた位置(ゐち)と云ふものが旧来(きうらい)疑問(ぎもん)である文部省(もんぶせう)で出来(でき)た国定教科書(こくていけうくわしよ)       の高等小学読本(かうとうせうがくどくほん)には之(これ)が浜松(はままつ)だとしてあつたが其(その)後(のち)改正(かいせい)せられたものには岡崎(をかざき)だとなつて居(を)る前(まへ)に申(もうし)        述(の)べた参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)にも亦(ま)た同様(どうやう)に岡崎(をかざき)だとしてあるが之(これ)に就(つい)ては私(わたくし)は別(べつ)に説(せつ)があるのであ       る武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には十五日の処(ところ)に勝商(かつあき)が岡崎(をかざき)に行(い)つて家康(いへやす)に遇(あ)つたように書(か)いてあるかと思(おも)ふと十六       日の処(ところ)には家康(いへやす)が宝川(たからがは)まで信長(のぶなが)を迎(むかひ)に出(い)て対顔(たいがん)ありて出馬(しゆつば)の事を謝(しや)したと書(か)いてある宝川(たからがは)と云へば無(む)        論(ろん)南設楽郡(みなみしたらぐん)で野田(のだ)の手前(てまへ)であるから家康(いへやす)が十五日に岡崎(をかざき)に居(を)つたものなれば其(その)時(とき)既(すで)に信長(のぶなが)に遭(あ)つて居(を)       らねばならぬ訳(わけ)で其(その)翌日(よくじつ)更(さら)に事々(こと〴〵)しく宝川(たからがは)まで迎(むかひ)に出(で)て対顔(たいがん)したと云ふ記事(きじ)を載(の)するのは甚(はなは)だ不合理(ふごうり)       の事と思(おも)ふ又(ま)た津坂孝綽(つさかかうしやく)の勝商伝(かつあきでん)には此(この)事(こと)を吉田(よしだ)であると記(しる)してあるが私(わたくし)の説(せつ)と云ふのは外(ほか)ではない       ので矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)の記事(きじ)に重(おも)きを置(お)くに過(す)ぎぬのである即(すなは)ち仝書(どうしよ)の勝商(かつあき)が武田方(たけだがた)に捕(とら)はれて愈(いよ〳〵)最後(さいご)       の時に城中(じようちう)の者(もの)に向(むかつ)て大音声(だいおんぜう)に呼(よは)はつたと云ふ言葉(ことば)の中(なか)に         信長(のぶなが)は岡崎(をかざき)迄(まで)御出馬(ごしゆつば)あるぞ城(しろ)の介殿(すけどの)は八幡(やはた)迄(まで)御出馬(ごしゆつば)なり先手(さきて)は一の宮(みや)本野(ほんの)ケ原(はら)にまん〳〵ト陣取(ぢんどつ)て        あり家康(いへやす)信康(のぶやす)は野田(のだ)へ移(うつ)らせ給(たま)ひてあり城(しろ)堅固(けんご)に持給(もちたま)へ三日の内(うち)に御運(おんうん)を開(ひら)かせ給(たま)ふべし       とあるが私(わたくし)はドウモ之(これ)が事実(じじつ)であると信(しん)ずるのである前(まへ)にも申述(もうしのべ)た如(ごと)く勝商(かつあき)が城(しろ)抜(ぬ)け出(い)てたのは十       四日の夜(よ)であるが其(その)夜(よ)直(たゞ)ちに家康(いへやす)には野田(のだ)の陣(ぢん)で逢(あ)つたものであると思(おも)ふ而(しか)して家康(いへやす)の指図(さしづ)で直(す)ぐに        又(ま)た岡崎(をかざき)に向(むか)つたので其(その)翌(よく)十五日の夜(よ)更(さら)に其処(そこ)で信長(のぶなが)に逢(あ)つて城中(じようちう)の事情(じぜう)を述(の)べたのであるに相違(さうゐ)な       い同(おな)じ三 河物語(かはものがたり)に         然(しか)る所(ところ)信長(のぶなが)御出馬(ごしゆつば)ありて先手(さきて)の衆(しう)は早(は)や八幡(やはた)一の宮(みや)本野(ほんの)ケ原(はら)に陣(ぢん)をとれば城(しろ)の介殿(すけどの)は岡崎(をかざき)へ着(つ)か 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六十号附録    ( 明治四十四年九月十二日発行 ) 【本文】        せ給(たま)へば信長(のぶなが)は知立(ちりう)へ着(つ)かせ給(たま)ふ然(しか)れ共(ども)長篠城(ながしのじよう)はきつく攻(せめ)られ早(は)や殊(こと)の外(ほか)つまりければ忍(しの)びて鳥(とり)         居強右衛門(ゐすねうゑもん)と申者(もうすもの)出(いだ)して信長(のぶなが)は御出馬(ごしゆつば)か見(み)て参(まい)れとて出(いだ)す城(しろ)よりはやす〳〵と出(いで)て此(この)由(よし)を家康(いへやす)へ申(もうし)         上(あ)ければ信長(のぶなが)へさし越(こ)されければ信長(のぶなが)御悦(おんよろこ)びなされて御出馬(ごしゆつば)の由(よし)仰(あふせ)遣(つかは)されければ       とあるのは実(じつ)に其(その)消息(せうそく)を漏(もら)して余(あま)りがあるものと思(おも)ふ然(しか)るに武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には前(まへ)に申述(もうしのべ)た通(とほ)り此(この)時(とき)勝(かつ)        商(あき)は家康(いへやす)に岡崎(をかざき)で面会(めんくわい)したとしてあるのに却(かへつ)て信長(のぶなが)には牛久保(うしくぼ)で逢(あ)つたように記(しる)してあるが之(これ)は順序(じゆんぢよ)       としても信(しん)ぜられぬ説(せつ)であると思(おも)ふ又(ま)た文部省(もんぶせう)の国定読本(こくていどくほん)や参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)は何(なに)に拠(よつ)て此(この)時(とき)家康(いへやす)        信長(のぶなが)共(とも)に岡崎(をかざき)にあつたと云ふ説(せつ)を採(と)つたものか浅学(せんがく)の私(わたくし)共(ども)が彼是(かれこれ)評(ひよう)するのは善(よ)くあるまいと思(おも)ふが        併(しか)し家康(いへやす)の性格(せいかく)及(およ)び之(こ)れ迄(まで)の経歴(けいれき)から推(お)しても自(みづか)ら七日 迄(まで)吉田(よしだ)に於(おい)て武田(たけだ)の大軍(たいぐん)と対陣(たいぢん)し其(その)大軍(たいぐん)が八       日に長篠(ながしの)方面(ほうめん)に引(ひ)き退(しりぞ)いたのであるから其(その)日(ひ)から長篠(ながしの)が重囲(ぢうゐ)された事を知らずに居る筈(はづ)はないと信(しん)ず       る之(これ)を知(し)りつゝ巳(おのれ)の股肱(ここう)とも頼(たの)むもの等(ら)の危急(ききう)を顧(かへり)みず兵(へい)を岡崎(をかざき)に収(おさ)むるが如きは断(だん)じてあり得(う)べか       らざる事と思(おも)ふ従(したがつ)て此処(こゝ)は矢張(やはり)前(まへ)に申述(もうしの)べた三 河物語(かはものがたり)の記事(きじ)の如く家康(いへやす)は其(その)時(とき)吉田(よしだ)から直(たゞ)ちに長篠(ながしの)の        後詰(あとづめ)をせんとして野田(のだ)迄(まで)出陣(しゆつぢん)したものであるが武田方(たけだがた)の大勢(たいせい)に対(たい)して軽率(けいそつ)の事は出来(でき)ぬと云ふ処から        急(きう)に使(つかひ)を信長(のぶなが)に派(は)して加勢(かせい)の来(く)る迄(まで)は此処(こゝ)で持長(ぢちよう)して居(を)つたのであると云ふのが事実(じじつ)でなくてはなら       ぬと確信(かくしん)する松平記(まつだひらき)にも亦(ま)た其(その)時(とき)の事を記(しる)して         家康(いへやす)一 手(て)にて後詰(あとづめ)せんと用意(ようい)有(あり)しかとも奥平方(おくだひらがた)忍(しのび)を以(もつ)て内通(ないつう)申(もう)すは甲州(かうしう)勢(ぜい)大勢(たいせい)にて中々(なか〳〵)一 手(て)計(ばかり)に        ては御合戦(ごかつせん)あやうし信長公(のぶながこう)を引出(ひきいだ)し申(もう)され早々(さう〳〵)御後詰(おんあとづめ)下(くだ)さるべく候(そろ)さなくは城中(じようちう)兵糧(へうれう)尽(つ)きて頓(やが)て落(らく)         城(じよう)疑(うたがひ)なしと申(もうす)間(あひだ)五月十日 早馬(はやうま)を以(もつ)て信長(のぶなが)へ注進(ちうしん)あり       とあるのは誠(まこと)によく実情(じつぜう)を穿(うが)つて居(を)るものと思(おも)ふのである併(しか)し此処(こゝ)には一つの説(せつ)があつて家康(いへやす)は矢張(やはり) 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百廿一 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百廿二 【本文】       十四日 迄(まで)は野田(のだ)に居(を)つたが十五日に信長(のぶなが)を迎(むかへ)の為(ため)に岡崎(をかざき)に行(い)つたものであると云ふのである之(これ)は強(あなが)ち       に非認(ひにん)の出来(でき)ぬ説(せつ)ではあるが仮令(たとへ)それを事実(じじつ)であつたとしても長篠城中(ながしのじようちう)に於(おい)ては当時(とうじ)加様(かやう)な細(こま)かい処(ところ)        迄(まで)分(わか)つて居(を)る筈(はづ)はない而(しか)も三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)等(とう)の記事(きじ)を味(あじは)つて見(み)ても家康(いへやす)が野田(のだ)あたりまで来(き)て居(を)る事       は信(しん)じて居(を)つたものと思(おも)はれる即(すなは)ち強右衛門(すねうゑもん)の出(で)た目的(もくてき)は先(ま)づ家康(いへやす)に逢(あ)つて信長(のぶなが)の消息(せうそく)如何(いかん)を聴(き)くの       にあつたものと確信(かくしん)せねばならぬので何(いづ)れにしても強右衛門(すねうゑもん)か初(はじめ)から岡崎(をかざき)へ行(ゆ)くのを目的(もくてき)として城(しろ)を        出(い)でたように云ふのは結局(けつきよく)間違(まちがひ)を惹起(ひきおこ)す源(みなもと)であると信(しん)じて疑(うたが)はぬのであるサテ信長(のぶなが)は十六日 岡崎(をかざき)か       ら直(たゞ)ちに軍(ぐん)を進(すゝ)めて牛久保城(うしくぼじよう)に到着(たうちやく)し十七日に野田(のだ)に至(いた)つたのであるが勝商(かつあき)は信長(のぶなが)の勧告(くわんこく)があつたに       も拘(かゝは)らず一 刻(こく)も早(はや)く此(この)赴(おもむき)を城中(じようちう)に知(し)らせたいと云ふので十五日の夜(よ)直(たゞ)ちに岡崎(をかざき)を立(たつ)て長篠城(ながしのじよう)附近(ふきん)に        着(ちやく)し武田方(たけだがた)の担夫(たんふ)の中(なか)に混(こん)じて城(しろ)に近(ちか)づくの機会(きくわい)を俟(ま)つて居(を)つたのであるが遂(つひ)に穴山勢(あなやまぜい)の為(ため)に発見(はつけん)せ       られて捕(とら)へられたソコで勝頼(かつより)の前(まへ)に引出(ひきいだ)されて勝頼(かつより)から懇々(こん〳〵)と城兵(じようへい)をして断念(だんねん)せしめ巳(おの)れに降伏(こうふく)する       ように伝(つた)へよと云ふ事を説(と)かれたのであるが勝商(かつあき)は佯(いつはつ)て其(その)旨(むね)に従(したが)ひ幸(さいはひ)に城(しろ)に近(つか)づくの機会(きくわい)を得(え)て大(だい)        音声(おんせい)を張(は)り上(あ)げ前(まへ)にも三 河物語(かはものがたり)の文章(ぶんせう)を引用(いんよう)して申述(もうしのべ)た如く信長(のぶなが)家康(いへやす)の援兵(ゑんぺい)は近(ちか)づいて居(を)るから城(しろ)を        堅固(けんご)に守(まも)り給(たま)へ三日 間(かん)には必(かなら)ず開展(かいてん)の道(みち)があると云ふ事を叫(さけ)むだのであるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては驚(おどろ)き        且(か)つ怒(いか)つたので遂(つひ)に勝商(かつあき)を殺(ころ)したのである之(これ)も篠場野(しのばの)で磔殺(ろくさつ)したと云ふ説(せつ)があるが実(じつ)は其(その)場(ば)で直(たゞ)ちに        刺殺(しさつ)されたもので私(わたくし)は矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)に         却(かへつ)て敵(てき)の強(つよ)みを云(い)ふやつなれば早(はや)くとゞめを刺(さ)せとてとゞめをぞ刺(さ)しける       とあるのが如何(いか)にも事実(じじつ)であると信(しん)ずるのである 長篠合戦  かくて十八日には信長(のぶなが)家康(いへやす)共(とも)に陣(ぢん)を設楽原(したらばら)に張(は)つたのであるが特(とく)に信長(のぶなが)の考案(こうあん)で厳重(げんぢう)なる搆(かま)へをした 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ので長柵(てうさく)を樹(た)て銃手(じうしゆ)中(ちう)より選手(せんしゆ)を出(いだ)して之(これ)を前列(ぜんれつ)に配置(はいち)し又(ま)た長柵(てうさく)の間(あひだ)には三十 間(けん)乃至(ないし)五十 間(けん)位(ぐらゐ)づゝ       の門戸(もんこ)を置(お)いて進撃(しんげき)便(べん)に供(けう)したと云ふ事であるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては十九日に諸将(しよせう)を会(くわい)して進撃(しんげき)の        方略(ほうりやく)を定(さだ)め廿日には勝頼(かつより)自(みづか)ら全軍(ぜんぐん)を率(ひき)ゐて瀧川(たきがは)を渡(わた)り廿一日には愈(いよ〳〵)両軍(れうぐん)の会戦(くわいせん)と相成(あひな)つたのである       が此(この)時(とき)勝頼(かつより)の寵臣(ちようしん)長坂釣閑(ながさかこうかん)、 跡部大炊介(あとべおほいのすけ)の両人(れうにん)が信長(のぶなが)の将(せう)佐久間信盛(さくまもりのぶ)の為(ため)に利(り)を以(もつ)て喰(くら)はされ其(その)計策(けいさく)       に陥(おちい)つて為(ため)に武田方(たけだがた)の方略(ほうりやく)を誤(あやま)らしめたと云ふ説(せつ)がある併(しか)し長坂(ながさか)は此(この)戦(たゝかひ)に参加(さんか)せなかつたのが事実(じじつ)       で其(その)証拠(せうこ)となるべき文書(ぶんしよ)は今日(こんにち)既(すで)に発見(はつけん)されて動(うごか)すべからざる事(こと)となつて居(を)る之(これ)は嘗(かつ)て文学士(ぶんがくし)渡邊世(わたなべせ)        祐(ゆう)君(くん)が新城町(しんしろてう)で長篠(ながしの)に関(くわん)する講演(こうゑん)をせられた時(とき)にも論(ろん)ぜられた様(やう)に思(おも)ふ兎(と)に角(かく)此(この)戦(たゝかひ)に於(おい)ては織田(をた)徳(とく)        川(がは)二 氏(し)は共(とも)に出来得(できう)るだけの力(ちから)を挙(あ)げて之(これ)に対(たい)したので両氏(れうし)の兵数(へいすう)は殆(ほとん)ど武田方(たけだがた)に三 倍(ばい)し殊(こと)に前(まへ)に申(もうし)        述(の)べた如(ごと)く多数(たすう)の銃手(じうしゆ)があつたので此(この)点(てん)に於(おい)て既(すで)に勝敗(せうはい)の数(すう)は歴然(れきぜん)たるものがあつたように思(おも)はるゝ 《割書:鳶巣山の襲|撃》  のであるが廿日の夜(よ)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が鳶巣山(とびのすやま)の敵塁(てきるい)に襲撃(しうげき)したのは又(ま)た武田方(たけだがた)の勇気(ゆうき)を挫折(ざせつ)せしめた事が       ドノ位(くらゐ)であつたか分(わか)らぬと思(おも)ふ従(したがつ)て忠次(たゞつぐ)は此(この)戦(たゝかひ)に於(おけ)る織田(をた)徳川方(とくがはがた)の殊功者(しゆこうしや)であるのは云ふ迄も       ない事であるが之(これ)に就(つい)てコウ云ふ話(はなし)がある初(はじめ)め忠次(たゞつぐ)が此(この)鳶巣(とびのす)襲撃(しうげき)の計(けい)を信長(のぶなが)に建議(けんぎ)したのは軍議(ぐんぎ)の席(せき)        上(ぜう)であつたが此(この)時(とき)信長(のぶなが)は以(もつ)ての外(ほか)の立腹(りつぷく)で之(これ)を斥(しりぞ)けた然(しか)るに軍議(ぐんぎ)が果(は)てゝ諸将(しよせう)が退(しりぞ)いた後(のち)信長(のぶなが)は改(あらた)め       て極(ごく)内密(ないみつ)に家康(いへやす)と忠次(たゞつぐ)とを側近(そばちか)く呼(よ)むで大(おほい)に先(さ)きの献策(けんさく)を賞賛(せうさん)し早速(さつそく)之(これ)を実行(じつこう)せしめたが蓋(けだ)し前(まへ)に佯(いつは)       り斥(しりぞ)けたのは全(まつた)く謀(はかりごと)の漏泄(ろうせい)せむことを恐(おそ)れたからであると云ふ事であるが如何(いか)にも之(これ)は作(つく)り物語(ものがたり)にで       もありそうな話(はなし)であるが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)などにも載(の)つて居(を)る説(せつ)で一 概(がい)に非認(ひにん)も出来(でき)ぬと思(おも)ふ而(しか)して此(この)        鳶巣(とびのす)の襲撃(しうげき)と云ふものは実(じつ)に奇捷(きせう)を得(ゑ)たもので織田方(をたがた)からは金森(かなもり)五 郎(らう)八 長近(ながちか)、 佐藤(さとう)六 左衛門方秀(ざえゑもんのりひで)、 徳(とく)        川方(がはがた)では本多豊後守広孝(ほんだぶぶんごのかみひろたか)、 松平主殿助伊忠(まつだひらとのものすけこれたゞ)、 松平周防守康親(まつだひらすほうのかみやすちか)、 牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)、 菅沼新(すがぬましん)八 郎定盈(らうさだみつ)、本(ほん) 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百廿三 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百廿四 【本文】       多彦(だひこ)八 郎忠次(らうたゞつぐ)、 西郷孫(さいごうまご)九 郎家貞(らういえさだ)並(ならび)に戸田一西(とだかづあき)等(ら)二 連木(れんぎ)戸田(とだ)の勢(せい)など三千 余人(よにん)が之(これ)に従(したが)ひ云(い)ふ迄(まで)もなく        忠次(たゞつぐ)が総指揮者(そうしきしや)で夜(よ)に乗(ぜう)じ竊(ひそか)かに敵塁(てきるい)に近(ちか)づき払暁(ふつけう)を以(もつ)て之(これ)を襲(おそは)つたのであるが武田方(たけだがた)に於(おい)ては全(まつた)く        不意打(ふいうち)に過(あ)つたので之(これ)が為(ため)に其(その)一 根拠(こんきよ)を失(うしな)つた訳(わけ)であるから大(おほい)に前軍(ぜんぐん)の士気(しき)に関(くわん)した事(こと)は云(い)ふ迄(まで)もな       い而(しか)も一 方(はう)に於(おい)て勝頼(かつより)は此(この)時(とき)全軍(ぜんぐん)に進撃(しんげき)を号令(ごうれい)したのであるが織田(をた)徳川方(とくがはがた)では前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)り長柵(てうさく)       を列(つら)ねて待(ま)ち搆(かま)へて居(を)つたのであるから武田勢(たけだぜい)は先(ま)づ之(これ)に迫(せま)つて却(かへつ)て多(おほ)く銃手(じうしゆ)の為(ため)に打(う)ち仆(たほ)され尚(な)ほ        奮闘(ふんとう)するものは側面(そくめん)攻撃(こうげき)を受(う)けたのである勿論(もちろん)武田方(たけだがた)の将士(せうし)と雖(いへど)も決(けつ)して弱(よわ)かつた訳(わけ)ではない実(じつ)に勇(ゆう)        敢(かん)の働(はたらき)が多(おほ)かつたのであるが何分(なにぶん)にも武器(ぶき)が十 分(ぶん)でなかつたと云ふ事は第一の不利益(ふりえき)であつたと云       はねばならぬソコで織田(をた)徳川氏(とくがは)二 氏(し)に於(おい)ては十 分(ぶん)に機(き)の熟(じゆく)した処(ところ)を察(さつ)して全軍(ぜんぐん)の総進撃(そうしんげき)をやつたもので 《割書:武田氏の大|敗》  あるから武田方(たけだがた)は遂(つひ)に大敗(たいはい)して支離滅裂(しりめつれつ)馬場信房(ばゞのぶふさ)、 山縣昌景(やまがたまさかげ)等(ら)を初(はじ)め精鋭(せいえつ)の将士(せうし)は多(おほ)く之(これ)に殪(たほ)れたの       である実(じつ)に武田氏(たけだし)滅亡(めつばう)の原因(げんゐん)は既(すで)に茲(こゝ)にありと云ふも過言(くわげん)ではあるまいと思(おも)ふ尚(な)ほ此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ては申(もうし)        述(の)ぶべき話(はなし)は沢山(たくさん)にあるが成(な)るべく経過(けいくわ)の大要(たいえう)を摘(つま)むで進行(しんこう)したいと思(おも)ふから之(こ)れ位(くらゐ)で止(とゞ)めたいと思(おも)       ふが兎(と)に角(かく)此(この)戦(たゝかひ)は午前(ごぜん)五 時頃(じごろ)から初(はじ)まつて午後(ごゞ)三 時頃(じごろ)に畢(をは)つたと云ふ事で頗(すこぶ)る長時間(てうじかん)であつた而(しか)し       て徳川方(とくがはがた)の斬獲(ざんくわく)した首級(しゆきう)は一万余で其(その)死傷(しせう)も亦(ま)た六千を下(くだ)らなかつたと云ふのであるから其(その)激烈(げきれつ)であ       つた事も分(わか)るのである 《割書:家康三遠両|国を平定す》  かくて勝頼(かつより)は一 時(じ)武節(ぶせつ)の城(しろ)に遁(のが)れたのであるが遂(つひ)に敗軍(はいぐん)を纏(まと)めて甲州(かうしう)に引(ひ)き退(しりぞ)いたのであるソコで織(を)        田(た)徳川(とくがは)二 氏(し)に於(おい)ては大(おほい)に進取(しんしゆ)の方針(ほうしん)を定(さだ)め家康(いへやす)は凱旋(がいせん)後(ご)直(たゞ)ちに武田方(たけだがた)に属(ぞく)する諸城(しよじよう)の攻略(こうりやく)に勉(つと)めたの       であるが其(その)月(つき)には直(たゞ)ちに足助(あすけ)を取(と)り六月には作手(つくて)田峯(たみね)七月には武節(ぶせつ)と云ふように続々(ぞく〴〵)三 河(かは)の北部(ほくぶ)を征(せい)      服(ふく)し更(さら)に六月から遠江(とふとほみ)の二 俣城(またじやう)を攻(せ)めて其(その)十二月 之(これ)を復(ふく)し又(ま)た七月から八月にかけて遠江(とふとほみ)諏訪原(すぼうはら)の城(しろ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百六十六号附録    ( 明治四十四年九月十九日発行 ) 【本文】       を攻(せ)めて之(これ)を取(と)り松井忠次(まつゐたゞつぐ)及(およ)び牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)をして之(これ)を守(まも)らしめたが周(しう)の武王(ぶわう)が殷(ゐん)の紂王(ちうわう)を牧野(まきの)に        討(う)つたと云ふ故事(こじ)に倣(なら)つて此処(こゝ)の名(な)を牧野原(まきのはら)と改(あらた)め又(ま)た松井忠次(まつゐたゞつぐ)を周防守(すぼうのかみ)と称(せう)せしむる事にしたとの       事である其(その)後(のち)も駿河(するが)遠江(とふとほみ)の間(あひだ)には武田(たけだ)徳川(とくがは)二 氏(し)の間(あひだ)に連年(れんねん)小戦争(せうせんそう)は絶(た)へなかつたが独(ひと)り高天神(たかてんじん)の城(しろ)は        中々(なか〳〵)の要害(えうがい)であつたので武田方(たけだがた)の守将(しゆせう)岡部長教(をかべながのり)が固守(こしゆ)して容易(ようい)に下(くだ)らなかつたヨウ〳〵天正九年三月       に至(いた)つて落城(らくじよう)したが之(これ)と相前後(あひぜんご)して乾(いぬゐ)、 小山(こやま)等(ら)の城(しろ)も家康(いへやす)の手(て)に皈(き)したので遂(つひ)に遠江(とふとほみ)も亦(ま)た全(まつた)く徳川(とくがは)        氏(し)の平定(へいてい)する処(ところ)となつたのである        此(かく)の如(ごと)き情況(じようけう)で三 遠(ゑん)両国(れうこく)に於(お)ける武田氏(たけだし)の勢力(せいりよく)は全(まつた)く減退(げんたい)したのであるが之(これ)より先(さ)き越後(ゑちご)の上杉謙信(うゑすぎけんしん)       は多年(たねん)の行掛(ゆきがゝ)りを捨(す)てゝ武田氏(たけだし)と和(わ)し之(これ)と同時(どうじ)に織田氏(をたし)とは相絶(あひた)つに至(いた)つたのである天正五年 信長(のぶなが)の        伊達右京太夫(だてうけうたいう)に送(おく)つた文書(ぶんしよ)には謙信(けんしん)を呼(よ)むで悪逆(あくぎやく)となした位(くらひ)であるが此(かく)の如(ごと)き事情(じじよう)に立至(たちいた)るには種々(しゆ〴〵) 《割書:上杉武田北|條三氏の同》  なる原因(げんゐん)があつたので一 言(げん)には申述(もうしの)べ兼(か)ぬるが蓋(けだ)し前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如(ごと)く将軍(せうぐん)足利義昭(あしかゞよしあきら)の勧誘(くわんゆう)と云 《割書:盟    | 》  ふものが大(おほい)に與(あづか)つて力(ちから)あつたことと思(おも)ふソコで謙信(けんしん)は一 方(ほう)には武田(たけだ)、 北條(ほうでう)と三 国同盟(ごくどうめい)を形成(かたちずく)つて自(みづか)らは       其翌天正六年三月を以(もつ)て越後(ゑちご)を出発(しゆつぱつ)し大(おほい)に兵(へい)を上国(じようこく)に動(うご)かして信長(のぶなが)と雌雄(しゆう)を決(けつ)せむとしたのであるが        其(その)出発(しゆつぱつ)に先(さきだ)つ僅(わづか)に二日、三月十三日に中風(ちうふう)に罹(かゝ)つて遂(つひ)に年(とし)四十九を以(もつ)て春日山城中(かすがやまじようちう)に卒(そつ)したのである        之(これ)は誠(まこと)に謙信(けんしん)の為(ため)には遺憾(ゐかん)極(きはま)りなき事であるが信長(のぶなが)に取(と)つては寧(むし)ろ僥倖(げうこう)ともなすべきもので之(これ)よりは        上杉氏(うゑすぎし)の振(ふる)はざるのは勿論(もちろん)の事であるが北條氏(ほうでうし)も亦(ま)た徳川氏(とくがはし)によつて欵(くわん)を織田氏(をたし)に通(つう)ずるに至(いた)つたの       で武田氏(たけだし)は遂(つひ)に孤立(こりつ)の勢(いきほひ)となつたのであるソコで信長(のぶなが)は天正十年二月イヨ〳〵武田氏(たけだし)を滅亡(めつばう)せしむ 《割書:武田氏の滅|亡》  べきの時機(じき)が至(いた)つたものとなして兵(へい)を信濃(しなの)から進(すゝ)め自身(じしん)も亦(ま)た出陣(しゆつぢん)して其(その)根拠(こんきよ)に侵入(しんにふ)したのである此(こゝ)       に於(おい)て家康(いへやす)は之(これ)に応(おう)じて二月十八日 浜松(はままつ)を発(はつ)して二十日 駿河(するが)の田中城(たなかじよう)を攻(せ)め廿一日には府中(ふちう)に入(い)り三 【欄外】    豊橋市史談  (長篠役と武田氏の滅亡)                    百廿五 【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿六 【本文】       月八日 興津(おきつ)に次し十一日に甲斐(かひ)の古府(こふ)に於(おい)て信長(のぶなが)の先鋒(せんぱう)信忠(のぶたゞ)に会(くわい)したのである此(この)時(とき)信長(のぶなが)は信濃(しなの)の上諏(かみす)        訪(わ)まで来(き)て居(を)つたのであるが結局(けつきよく)勝頼(かつより)は其(その)日(ひ)に哀(あは)れなる最後(さいご)を遂(と)げ武田氏(たけだし)は茲(こゝ)に滅亡(めつばう)の運命(うんめい)と相成(あひな)つ       た事は之(こ)れ亦(ま)た諸君(しよくん)か既(すで)に御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふソコで家康(いへやす)は其二十日に上諏訪(かみすわ)まで出掛(でか)けて信長(のぶなが)       に面会(めんくわい)したが信長(のぶなが)が武田氏(たけだし)の故国(ここく)を諸将(しよせう)に分配(ぶんぱい)するに方(あた)り家康(いへやす)は更(さら)に駿河(するが)一 国(こく)を得(う)ることとなつたので       ある            ⦿松平信康の自刃並に厳龍和尚        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く武田氏(たけだし)は遂(つひ)に天正十年三月十一日を以(もつ)て滅亡(めつばう)に帰(き)したのであるが夫(それ)より信長(のぶなが)は四       月二日 信濃(しなの)の諏訪(すわ)を発(はつ)して甲州(かうしう)に入(い)り武田氏(たけだし)滅亡(めつばう)の跡(あと)を検分(けんぶん)して駿河(するが)に出(い)で富士(ふじ)を遊覧(ゆうらん)して東海道(とうかいどう)に 《割書:信長の富士|遊覧》  かゝり岐阜(ぎふ)に帰(かへ)つたのであるが徳川氏(とくがはし)に於(おい)ては沿道(えんどう)を修(しう)し河(かは)には舟橋(ふねはし)を架(か)するなど注意(ちうい)周到(しうとう)で特(とく)に陣(ぢん) 《割書:信長の吉田|宿営》   営(えい)仮舘(かりやかた)などの設備(せつび)には意(い)を用(もち)ゐたものである而(しか)して信長(のぶなが)が其(その)途次(とじ)此(この)吉田(よしだ)に宿(しゆく)したのは四月十七日で酒(さか)        井忠次(ゐたゞつぐ)は饗(けう)を尽(つく)し信長(のぶなが)も亦(ま)た眞光(さねみつ)の太刀(たち)並(ならび)に黄金(おうごん)二百両を忠次(たゞつく)に与(あた)へたのであるが之(これ)は種々(しゆ〴〵)の記録(きろく)に        散見(さんけん)する処(ところ)であるサテ之(これ)で先(ま)づ長(なが)い間(あひだ)結(むす)むで解(と)けなかつた武田氏(たけだし)との関係(くわんけい)は一 段落(だんらく)を告(つ)げたので之(これ)か       らは専(もつぱ)ら徳川氏(とくがはし)と織田(をた)夫(それ)からは豊臣氏(とよとみし)との関係(くわんけい)に説(と)き及(およは)すべきであるが此処(こゝ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(を)きたい       のは家康(いへやす)の子(こ)信康(のぶやす)が最後(さいご)の話(はなし)で之(これ)が又(ま)た龍拈寺(りうねんじ)の住僧(ぢうそう)白州(はくしゆう)厳龍和尚(げんりうおせう)の話(はなし)に関連(くわんれん)するのである 《割書:築山御前関|口氏》   信康(のぶやす)は御承知(ごせうち)の通(とほ)り家康(いへやす)の長子(てうし)で家康(いへやす)の夫人(ふじん)関口氏(せきぐちし)の出(しゆつ)であるが此(この)関口氏(せきぐちし)は今川義元(いまがはよしもと)の姪(めい)に当(あた)るので        関口刑部少輔親永(せきぐちけいぶのせうゆうちかなが)の娘(むすめ)である即(すなは)ち家康(いへやす)がまだ今川家(いまがはけ)に世話(せわ)になつて居(を)る頃(ころ)に義元(よしもと)の意(い)によつて之(これ)を迎(むか)       へたのであるが家康(いへやす)が三 河(かは)に帰(かへ)つて後(のち)も人質(ひとしち)として長(なが)く駿河(するが)に留(とゝ)まつたので其(その)後(ご)三 河(かは)に迎(むか)へらるゝに 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        及(およ)むではドウモ家康(いへやす)との間(あひだ)が面白(おもしろ)く行(ゆ)かなかつたのであるソコで之(これ)を築山(つきやま)と云(い)ふ処(ところ)に置(お)いたので世(よ)に        築山御前(つきやまごぜん)と称(せう)するのであるが其(その)後(ご)関口氏(せきぐちし)の嫉妬(しつと)は益々(ます〳〵)募(つの)つたのみならず乱行(らんぎよう)があつた事は松平記(まつだひらき)など       に記(しる)されてある而(しか)も遂(つひ)には武田氏(たけだし)に内通(ないつう)して家康(いへやす)を殪(たほ)し信康(のぶやす)を擁立(えうりつ)せむとする計画(けいくわく)があつたとまで伝(つた)       へられ居(を)る而(しか)して信康(のぶやす)も亦(ま)た剛勇(ごうゆう)の人(ひと)ではあつたが数々(しば〳〵)残酷(ざんこく)非道(ひどう)の行(おこなひ)があつて人心(じんしん)の離反(りはん)を招(まね)いて        居(を)つたこと事が記(しる)されてある併(しか)しサスがは徳川氏(とくがはし)柱石(ちうせき)の臣(しん)だけあつて大久保彦左衛門(おほくぼひこざゑもん)は其(その)三 河物語(かはものがたり)に於(おい)て 《割書:信康夫人織|田氏》  もそれ等(ら)の事は明記(めいき)して居(を)らぬが信康(のぶやす)の夫人(ふじん)は即(すなは)ち織田信長(をたのぶなが)の娘(むすめ)で此(この)人(ひと)と関口氏(せきぐちし)とは又(ま)た余程(よほど)中(なか)が悪(わる)       かつたのである之(これ)に反(はん)して信康(のぶやす)は能(よ)く其(その)母(はゝ)関口氏(せきぐちし)に仕(つか)へた様子(やうす)である而(しか)も信康(のぶやす)と其(その)夫人(ふじん)とは之(これ)亦(ま)       た次第(しだい)に夫婦(ふうふ)仲(なか)が悪(わる)くなつたのであるソコで此(この)夫人(ふじん)織田氏(をたし)は十二ケ条(ぜう)の意見(いけん)を書(か)いて父(ちゝ)信長(のぶなが)に送(おく)つた 《割書:織田氏書を|父信長に送》  のであるがソレは天正七年六月の事で之(これ)が原因(げんゐん)となつて関口氏(せきぐちし)は討(う)たれ信康(のぶやす)遂(つひ)に自害(じがい)するに至(いた)つたの 《割書:る    | 》  である而(しか)して三 河物語(かはものがたり)によると此(この)十二ケ条(でう)の意見書(いけんしよ)を信長(のぶなが)の処(ところ)へ持(も)つて行(ゆ)つた使(つかひ)は酒井忠次(さかゐたゞつぐ)であつた       としてある其(その)時(とき)信長(のぶなが)は此(この)織田氏(をたし)から送(おく)つた手紙(てがみ)を読(よ)み下(くだ)して十ケ条(でう)まで忠次(たゞつぐ)に対(たい)し一々 其(その)実否(じつひ)を質問(しつもん)       したが忠次(たゞつぐ)は孰(いづ)れも之(これ)を事実(じじつ)なりと答(こた)へたので信長(のぶなが)は遂(つひ)に最後(さいご)二ケ条(でう)は披(ひら)き見るに及(およ)ばずに家(いへ)の重臣(ぢうしん)       が一々 之(これ)を承知(せうち)して居(を)る以上(いぜう)は最早(もはや)疑(うたが)ふ処(ところ)はないから此(この)上(うへ)は信康(のぶやす)に切腹(せつぷく)させるように家康(いへやす)へ申伝(もうしつた)へて        呉(く)れと云はれたが忠次(たゞつく)は之(これ)をも御受(おうけ)をしたと書(か)いてある併(しか)し松平記(まつだひらき)の記(き)する処(ところ)は少(すこ)しく違(ちが)ふので其(その)時(とき)       の事情(じじよう)に就(つい)ては左(さ)の如(ごと)くに書(か)いてある        三 郎殿(らうどの)の御前(ごぜん)其(その)比(ころ)三 郎殿(らうどの)と御中(おんなか)悪敷(あしく)おはしければ此(この)由(よし)一つ書(しよ)になされ御父(おんちゝ)信長(のぶなが)へ遣(つか)はさるゝ先(まづ)第(だい)一        は御鷹野場(おんたかのば)にて出家(しゆつけ)を縛(しば)り殺(ころ)し給(たま)ふ事(こと)又(また)踊(おど)り悪敷(あしく)候(そそろ)とて弓(ゆみ)にて町(まち)の踊子(おどりこ)を射(ゐ)給(たま)ふ事(こと)其(その)外(ほか)あらき御振(おんふる)         舞(まひ)家康(いへやす)と御不審(ごふしん)の事(こと)人(ひと)の申(もうす)より過(あやまつ)て仰(あふせ)遣(つかは)さる御母儀(おんはゝぎ)の不行儀(ふぎようぎ)又(また)は甲州方(かうしうがた)より唐人(からびと)を召(めし)よせ御謀(ごむ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿七 【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿八 【本文】         反(ほん)の沙汰(さた)ある事(こと)色々(いろ〳〵)細(こまか)に遊(あそば)され岐阜(ぎふ)へ御越(おこし)あり信長(のぶなが)驚(おどろ)き給(たま)ひ則(すなはち)浜松(はままつ)へ御使(おつかひ)ありて酒井左衛門尉(さかゐさえもんのぜう)大(おほ)         久保(くぼ)七 郎右衛門(らううゑもん)を呼(よび)て三 郎殿(らうどの)へ内々(ない〳〵)酒井(さかゐ)を初(はじめ)て皆々(みな〳〵)家老衆(からうしう)数度(すうど)異見(ゐけん)ありしかども用給(もちゐたま)はず其(その)比(ころ)酒井(さかゐ)        とも大久保(おほくぼ)とも三 郎殿(らうどの)不快(ふくわい)にて御座候(ござそろ)時分(じぶん)なりし間(あひだ)信長(のぶなが)御腹立(おんはらたち)加様(かよう)の悪人(あくにん)にて家康(いへやす)の家(いへ)を何(なん)として         相続(さうぞく)あらん後(のち)には必(かならず)家(いへ)の大事(だいじ)と成(な)らんと怒(いか)り給(たま)ふ両人(れうにん)の者共(ものども)爰(こゝ)にて申分(もうしぶん)を致(いた)し何様(なにさま)にも陳答(ちんとう)に及(およぶ)        ならは是程(これほど)の大事(だいじ)には及(およぶ)ましきに日比(ひごろ)三 郎殿(らうどの)と中(なか)悪(あ)しくて両人(れうにん)なからあきはて尤(もつとも)御意(ぎよい)の通(とほり)悪逆(あくぎやく)人(にん)        にて御座候(ござそろ)御前(ごぜん)の御恨(おんうらみ)尤(もつとも)なりと申(もうし)家康(いへやす)も御腹立(おんはらだち)あり然(しかる)者(もの)生害(せうがい)に又(およ)ふへきとの事(こと)にて天正七年八月        朔日 信長(のぶなが)へ此(この)由(よし)被仰上(あふせあげらる)信長(のぶなが)も内々(ない〳〵)御腹立(おんはらたち)の事(こと)なれは如何様(いかよう)にも存分(ぞんぶん)次第(じだい)と御返事(ごへんじ)あつて八月五日 家(いへ)         康(やす)岡崎(をかざき)へ御越(おんこし)あり三 郎殿(らうどの)を大浜(おほはま)へ出(いだ)し被申(もうされ)岡崎(をかざき)へは本多作左衛門(ほんださくざゑもん)を移(うつ)し給(たま)ふ三 郎殿(らうどの)は当座(とうざ)の御勘気(ごかんき)        と思召(おばしめし)けるに家康(いへやす)は西尾(にしを)の城(しろ)へ御座候 而(しかし)三 郎殿(らうどの)をは遠州(ゑんしう)堀江(ほりえ)へ移(うつ)したてまつり同九月十五日 遠州(ゑんしう)二        俣(また)にて生害(せうがい)し奉(たてまつ)る御母(おんはゝ)築山殿(つきやまどの)も日比(ひごろ)の御悪逆(おんあくぎやく)有(あり)しとて同(おなじく)生害(せうがい)に及(およ)ふ        之(これ)で見(み)ると忠次(たゞつぐ)が織田氏(をだし)の使(つかひ)をしたと云ふ訳(わけ)ではないようであるモツトモ此(この)時(とき)会々(たま〳〵)忠次(たゞつぐ)は家康(いへやす)の用事(ようじ)       で安土(あづち)へ行(い)つたのであるがソレを信長(のぶなが)が呼(よ)んで竊(ひそ)かに十二ケ 条(でう)の手紙(てがみ)に就(つい)て尋(たづ)ねたものであると云ふ        説(せつ)もある其(その)外(ほか)此(この)事(こと)に就(つい)ては未(いま)だ種々(しゆ〳〵)の穿(うが)つた説(せつ)も伝(つた)はつて居(を)るが一々 此処(こゝ)にそれを申述(もうしの)ぶる必要(ひつえう)はな       かろうと思(おも)ふ併(しか)し何(いづ)れの方面(はうめん)から観察(くわんさつ)しても結局(けつきよく)此(この)時(とき)忠世(たゞよ)、 忠次(たゞつぐ)両人(れうにん)の取計(とりはか)らひ方(かた)如何(いかん)によつては信(のぶ)        康(やす)は死(し)なぬでもよかつた様(よう)に見(み)ゆるのである又(ま)た家康(いへやす)も此(この)時(とき)信康(のぶやす)をして死(し)にまで至(いた)らめたのは余義(よぎ)な       き事情(じじよう)とは言(い)ひながら何(なん)となく残(のこり)多(おほ)く思(おも)つて居(を)つたように伝(つた)へられて居(を)る夫(それ)に就(つい)て二三の話(はなし)を申述(もうしのべ)る       と始(はじ)め野中(のなか)三五 郎重政(らうしげまさ)と云ふものが言付(いひつけ)られて関口氏(せきぐちし)を打取(うちと)つたのであるが之(これ)を家康(いへやす)に復命(ふくめい)した処(ところ)が        家康(いへやす)は女(おんな)の事(こと)であるから討取(うちと)れと言付(いひつ)けはしたものゝ何(なん)とか中(なか)に這入(はい)つた者(もの)で取計(とりはか)らひようもあつた 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百七十二号附録    ( 明治四十四年九月廿六日発行 ) 【本文】       であろうに心(こゝろ)幼(おさ)なくも遂(つひ)に討取(うちと)つたかと云はれたので重政(しげまさ)は実(じつ)に恐縮(けうしゆく)して爾来(じらい)蟄居(ちつきよ)したと云ふ事が其(その)        家伝(かでん)に見(み)へて居(を)ると云ふ事である又(ま)た信康(のぶやす)の傅(ふ)平岩親吉(ひらいわちかよし)が信康(のぶやす)の罪(つみ)を獲(え)た事を聞(き)いて大(おほひ)に驚(おどろ)き早速(さつそく)家(いへ)        康(やす)に面(めん)して信康(のぶやす)に不行跡(ふぎようせき)があつたと云ふなれば其(その)傅(ふ)たる自分(じぶん)の責任(せきにん)であるからドウカ自分(じぶん)の頸(くび)を刎(は)ね       て信長(のぶなが)に謝(しや)して下(くだ)さいと願(ねが)つた処(ところ)が其(その)時(とき)家康(いへやす)の言ふには信康(のぶやす)が武田(たけだ)に加担(かたん)して謀反(ほうはん)をするなどゝ言(い)ふ       ことは信(しん)ぜぬが我(われ)は今(いま)乱世(らんせ)に当(あた)り強敵(きようてき)の間(あひだ)に夾(はさ)まつて頼(たの)む処は独(ひと)り信長(のぶなが)であるのに今(いま)其(その)後援(こうゑん)を失(うしな)ふ事と       なれば我国(わがくに)は明日(あす)を出(い)でずして亡(ほろ)ぶべきである父子(ふし)の恩愛(おんあい)の捨(す)て難(がた)い為(た)めに累代(るいだい)の家国(かこく)を亡(ほろぼ)すと云ふ       事は子(こ)を愛(あい)する事を知(し)つて祖先(そせん)を思(おも)はざるものである此(この)点(てん)がなければ罪(つみ)なき子(こ)を失(うしな)つて我独(われひと)りつれな       き生(せい)を貪(むさぼ)ると云ふ事は忍(しの)ばるゝ処でない今(いま)汝(なんぢ)の頸(くび)を刎(はね)たとて到底(とうてい)それで信康(のぶやす)が助(たす)かるとは思(おも)はぬから        今(いま)汝(なんぢ)を殺(ころ)すのは無益(むえき)に一人の忠臣(ちうしん)を死(し)せしむるのであると云つて涙(なみだ)を流(なが)されたと云ふ事である尚(な)ほ其(その)        外(ほか)にも此(この)信康(のぶやす)を最後(さいご)に二 俣(また)に移(うつ)して忠世(たゞよ)に預(あづ)けられたと云ふものは深(ふか)き意味(いみ)のあつた事であるのに忠(たゞ)        世(よ)は終(つひ)に其(その)意(い)を解(かい)せなかつたのであるが其(その)後(のち)幸若舞(こうじやくまひ)を見(み)られた時(とき)満仲(みつなか)が家人(けにん)の仲光(なかみつ)に向(むか)つて其(その)子(こ)美女(みめ)        丸(まる)を討(う)てと命(めい)じたのに仲光(なかみつ)は反(かへつ)て我子(わがこ)を殺(ころ)して其(その)身替(みがは)りとしたと云ふ処に至(いたつ)て家康(いへやす)は忠世(たゞよ)を顧(かへり)みて能(よく)        能(よく)此(この)舞(まひ)を見(み)よと云はれたので忠世(たゞよ)は大(おほい)に恐懼(きようく)したと云ふ事も伝(つた)へられ居(を)る兎(と)に角(かく)此(この)事(こと)に就(つい)ては忠次(たゞつぐ)と        忠世(たゞよ)の行動(こうどう)が余程(よほど)の疑問(ぎもん)となつて居(を)るので研究(けんきう)の余地(よち)あるものと思(おも)ふが之(これ)に関連(くわんれん)して此処(こゝ)に申述(もうしの)べた       いと思(おも)ふのは白州(はくしう)厳龍和尚(げんりうおしよう)の事柄(ことがら)である 《割書:厳龍和尚と|大久保忠世》   厳龍和尚(げんりうおしよう)は前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述(もうしの)べてある彼(か)の龍拈寺(りうねんじ)の住僧(ぢうそう)で龍拈寺(りうねんじ)の開山(かいざん)休屋宗官(きうやそうくわん)和尚(おしよう)から云ふと四代 《割書:との関係 | 》  目の人であるが此(この)人(ひと)は所謂(いはゆる)名僧(めいそう)智識(ちしき)であつて後(のち)に法輝円明禅師(はうきゑんめいぜんし)と云ふ勅賜号(ちよくしごう)を下(くだ)された程(ほど)の人である        龍拈寺(りうねんじ)歴代(れきだい)三十六 世(せ)中(ちう)で勅賜号(ちよくしごう)の下(くだ)つたのは此(この)人(ひと)只(た)だ一人であるが此(この)人(ひと)が龍拈寺(りうねんじ)に住職(ぢうしよく)の頃(ころ)は即(すなは)ち忠(たゞ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿八 【欄外】    豊橋市史談  (松平信康の自刃並に厳龍和尚)                  百廿九 【本文】        次(つぐ)が吉田城主(よしだじようしゆ)たるの時(とき)で忠次(たゞつぐ)も亦(ま)た此(この)厳龍和尚(げんりうおしよう)に帰依(きえ)して其(その)夫人(ふじん)からも母堂(ぼどう)の画像(くわぞう)などを此(この)寺(てら)に納(をさ)め       それが今(いま)も保存(ほぞん)してある事は前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べた如(ごと)くである而(しか)して大久保忠世(おほくたゞよ)は実(じつ)に此(この)人(ひと)に対(たい)する絶大(ぜつだい)       の帰依者(きえしや)で常(つね)に此(この)和尚(おしよう)を請(しよう)じて参禅(さんぜん)したと云ふ事は龍拈寺(りうねんじ)の記録(きろく)にも載(の)せられてある其(その)後(のち)忠世(たゞよ)が二 俣(また)        城(じよう)に移(う)つてからは久遠治寺(きうゑんじ)と云ふ寺(てら)を建(た)てゝ其処(そこ)に此(この)和尚(おしよう)を招(せう)じ又(ま)たズツト後(のち)に小田原(をだはら)に封(ほう)せられてか       らは其(その)近在(きんざい)の風祭村(ふうさいむら)と云ふ処(ところ)に万松院(ばんせうゐん)と云ふ寺(てら)を建(た)てゝ更(さら)に之(これ)へ此(この)人(ひと)を連(つ)れて行(い)つたものである此(この)両(れう)        寺(じ)は今(いま)も尚(な)ほ存在(ぞんざい)して相変(あひかは)らず龍拈寺(りうねんじ)の末寺(まつじ)になつて居(を)るのであるが此(この)万松院(ばんせうゐん)は即(すなは)ち厳龍和尚(げんりうおしよう)最終(さいしう)の        住所(ぢうしよ)であるから此(この)寺(てら)に当時(とうじ)の文書類(ぶんしよるい)が残(のこ)つて居(を)れば頗(すこぶ)る有益(いうえき)な事であると思(おも)ふが惜(おし)い事(こと)には忠世(たゞよ)の子(こ)        忠隣(たゞちか)の時(とき)大久保氏(おほくぼし)は一 時(じ)不首尾(ふしゆび)で寺(てら)も亦(ま)た荒廃(こうはい)に皈(き)せむとしたのであるから宝物(ほうもつ)等(とう)の殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)は湮(ゑん)        滅(めつ)したのであるが只(た)だ信康(のぶやす)が生前(せいぜん)に信仰(しんこう)した弥陀(みだ)三 尊(そん)の画像(くわぞう)が遺(のこ)つて居(を)る此(この)画像(くわぞう)は信康(のぶやす)死亡(しばう)の後(のち)忠世(たゞよ) 《割書:信康と厳龍|和尚》  から其(その)菩提(ぼだい)の為(ため)に納(をさ)めたものであるが此(この)寺(てら)頽廃(たいはい)の頃(ころ)は一 時(じ)龍拈寺(りうねんじ)に於(おい)て保存(ほぞん)して居(を)つたものである然(しか)       るに大久保家(おほくぼけ)が再(ふたゝ)び小田原(おだはら)へ封(ほう)せられて後(のち)正徳(せうとく)二年に当主(とうしゆ)忠増(たゞます)の時(とき)龍拈寺(りうねんじ)から伺済(うかゞひすみ)の上(うへ)で再(ふたゝ)び之(これ)を        万松院(ばんせうゐん)に返(かへ)したもので之(これ)には其(その)裏面(りめん)に信康(のぶやす)の自筆(じしつ)で「三尊弥陀現光不思儀在松平三郎矣」と書(か)いてあ       る筈(はづ)である併(しか)し私(わたくし)はまだ之(これ)を実見(じつけん)した事(こと)がないから何(なん)とも云へぬが正徳(せうとく)二年に龍拈寺(りうねんじ)から大久保家(おほくぼけ)へ        出(だ)した伺書(うかゞひしよ)の写(うつし)と云ふものは今(いま)尚(な)ほ龍拈寺(りうねんじ)に残(のこ)つて居(を)る又(ま)た寛政(かんせい)九年五月に龍拈寺(りうねんじ)の旧記(きうき)から此(この)        事(こと)に関(くわん)して抜萃(ばつすゐ)したものも残(のこ)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の記事(きじ)によると厳龍和尚(げんりうおしよう)と云ふ人は独(ひと)り忠世(たゞよ)の皈依(きえ)した       のみではなくて信康(のぶやす)も亦(ま)た皈依(きえ)参禅(さんぜん)したものである而(しか)して前(まへ)に申述(もうしの)べた万松院(ばんせうゐん)は信康(のぶやす)菩提(ぼだい)の為(ため)に建立(こんりう)       したものであると云ふ事である又(ま)た龍拈寺(りうねんじ)には信康(のぶやす)忠世(たゞよ)の位牌(ゐはい)があつて今(いま)も尚(な)ほ祀(まつ)つてあるが孰(いづ)れも        当時(とうじ)の製作(せいさく)と覚(おぼ)しく決(けつ)して後世(こうせ)のものとは思(おも)はれぬ必(かなら)ず厳龍和尚(げんりうおしよう)との関係(くわんけい)から此処(こゝ)に安置(あんち)してあるも 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       のと思(おも)ふ兎(と)に角(かく)夫(それ)等(ら)の事に就(つい)て能(よ)く研究(けんきう)を重(かさ)ね而(しか)して一 方(はう)に三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)などの説(せつ)と対照(たいせう)して見(み)る       と何(なん)となく信康(のぶやす)最後(さいご)の事情(じぜう)に関(くわん)して多少(たせう)の消息(せうそく)が得(え)らるゝような心持(こゝろもち)がするがまだ私(わたくし)もそれまで深(ふか)き        調査(てうさ)をする暇(いとま)がないので茲(こゝ)には只(た)だ不(ふ)十 分(ぶん)ながら大体(だいたい)を申述(もうしの)べて諸君(しよくん)の御参考(ごさんこう)に供(けう)するに止(とゞ)めて置(お)く       のである尚(な)ほ申添(もうしそへ)て置(お)きたいのは信康(のぶやす)自刃(じじん)の年(とし)で之(これ)は三 河物語(かはものがたり)には天正六年の事としてあるが松平記(まつだひらき)        初(はじ)め種々(しゆ〳〵)の記録(きろく)には仝七年であると記(しる)してあるのみならず家忠日記(いへたゞにつき)によれば確(たしか)に其(その)事(こと)が信(しん)ぜられる即(すなは)       ち信康(のぶやす)は二十一 歳(さい)であつた訳(わけ)である而(しか)して自刃(じじん)の日(ひ)は九月十五日で異説(ゐせつ)はない様(よう)に思(おも)ふ又(ま)た厳龍和尚(げんりうおしよう)       は慶長(けいてう)七年二月に寂(じやく)したが其(その)画像(ぐわぞう)は元和六年の賛(さん)のあるものが今(いま)龍拈寺(りうねんじ)に保存(ほぞん)されて居(を)つて頗(すこぶ)る資料(しれう)       となるべきものである             ⦿本能寺の変及び山崎役の大要       サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで信長(のぶなが)は武田氏(たけだし)を亡(ほろ)ぼして天正十年の四月 皈城(きじよう)したが其(その)後(のち)徳川家康(とくがはいへやす)は武田氏(たけだし) 《割書:家康安土に|至る》  の降将(こうせう)穴山信君(あなやまのぶきみ)を伴(ともな)つて安土(あづち)に至(いた)り謝意(しやい)を表(ひよう)したのである勿論(もちろん)其(その)頃(ころ)の信長(のぶなが)の勢(いきおひ)と云ふものは容易(ようい)なら 信長の勢力 ぬものて家康(いへやす)に於(おい)ても殆(ほとん)ど之(これ)を主家(しゆけ)同様(どうよう)に崇(あが)めたのであるが当時(とうじ)松平家忠(まつだひらいへたゞ)の手記(しゆき)した家忠日記(いへたゞにつき)にも家(いへ)        康(やす)の事をば却(かへつ)て明(あきらか)に家康(いへやす)と記(しる)してあるのに信長(のぶなが)に対(たい)しては上様(うへさま)又(また)は信長様(のぶながさま)と敬称(けいせう)が加(くは)へてある又(ま)た        家康(いへやす)の一 行(こう)が安土(あづち)に到着(とうちやく)したのは其(その)年(とし)の五月十五日であつたが酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は無論(むろん)随行(ずいこう)したのである此(この)時(とき)        信長(のぶなが)は其(その)臣下(しんか)に接待役(せつたいやく)を命(めい)じて盛(さかん)に之(これ)に饗応(けうおう)したが家康(いへやす)の膳(ぜん)は手(て)づから之(これ)を据(す)へ忠次(たゞつぐ)等(ら)将士(せうし)にも自(みづか)ら        肴(さかな)を取(と)つて授(さづ)けたとの事で此(この)事(こと)に就(つい)ては随行(ずいこう)の鵜殿善(うどのぜん)六から態々(わざ〳〵)飛脚(ひきやく)で折紙(をりがみ)を寄越(よこ)した中(なか)に書(か)いてあ       つたと云ふ事が家忠日記(いへたゞにつき)五月廿日の条(くだり)に記(しる)してある即(すなは)ち当時(とうじ)に於(お)ける徳川氏(とくがはし)が信長(のぶなが)に対(たい)する観念(くわんねん)幷(ならび) 【欄外】    豊橋市史談  (本能寺の変及び山崎役の大要)                  百三十 【欄外】    豊橋市史談  (本能寺の変及び山崎役の大要)                  百卅一 【本文】 《割書:家康の堺遊|覧》  に信長(のぶなが)自身(じしん)の性行(せいこう)等(とう)が見(み)ゆるようで面白(おもしろ)いと思(おも)ふが夫(それ)より家康(いへやす)一 行(こう)は京都(けうと)に出(い)で堺湊(さかひみなと)の繁栄(はんえい)を遊覧(ゆうらん) 信長の西征 すると云ふ事になつて先(ま)づ信忠(のぶたゞ)と共(とも)に京都(けうと)に出(い)で信忠(のぶたゞ)は妙覚寺(みようかくじ)に陣(ぢん)したが家康(いへやす)等(ら)は更(さら)に堺(さかひ)に下(くだ)つたの       である然(しか)るに当時(とうじ)信長(のぶなが)に於(おい)ては西(にし)毛利氏(もうりし)を攻撃中(こうげきちう)で之(これ)には羽柴秀吉(はしばひでよし)が大将(たいせう)として出征(しゆつせい)てし居(を)つたが恰(あたか)       も備中(びつちう)の高松城(たかまつじよう)水責(みづぜめ)の最中(さいちう)であつたソコで信長(のぶなが)は之(これ)を応援(おうゑん)する為(ため)に五月の廿九日に入京(にふけう)して六 角油小路(かくあぶらこ) 本能寺の変  路(ぢ)の本能寺(ほんのうじ)に舘(くわん)し諸国(しよこく)から将士(せうし)の集(あつま)るのを待(ま)つて居(を)つたのであるが其(その)六月二日の黎明(れいめい)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)       の如(ごと)く其(その)臣(しん)明智光秀(あけちみつひで)の叛逆(はんぎやく)に遭(あ)ひ手兵(しゆへい)僅(わづか)に二三十人で如何(いかん)ともすることが出来(でき)ず遂(つひ)に自殺(じさつ)し信忠(のぶたゞ)も亦(ま)た        之(これ)に殉(じゆん)じたのであつたが実(じつ)に意外(いぐわい)の一 大変事(だいへんじ)と云ふべきで信長(のぶなが)は時(とき)に年(とし)四十九 信忠(のぶたゞ)は二十六歳(一に       二十八に作る)であつたのである元来(がんらい)此(この)光秀(みつひで)と云う人は次第(しだい)に信長(のぶなが)の任用(にんよう)を蒙(かうむ)つて遂(つひ)に丹波(たんば)及(およ)び近江(あふみ)        滋賀郡(しがごほり)の領主(れうしゆ)となつて最(もつと)も恩恵(おんけい)を受(う)けて居(を)る訳(わけ)であるがドウモ性行(せいこう)が信長(のぶなが)と相合(あひあ)はぬ処(ところ)から屡々(しば〳〵)信長(のぶなが)       の為(ため)に侮辱(ぶじよく)を受(う)けて怨憤(えんふん)を積(つ)み殊(こと)に家康(いへやす)等(とう)の来土(らいど)に就(つい)ては初(はじ)めに接待役(せつたいやく)を云ひ付(つ)かつたから熱心(ねつしん)に其(その)        準備(じゆんび)をした処が突然(とつぜん)中国行(ちうごくゆき)の先鋒(せんぽう)を命(めい)ぜられて急(きう)に出帥(しゆつすゐ)準備(じんゆび)の為(ため)に国(くに)に就(つ)かねばならぬ事に至(いた)つたの       で益々(ます〳〵)其(その)叛意(はんい)を決(けつ)せしめた形(かたち)がある兎(と)に角(かく)一万の大軍(たいぐん)を以(もつ)て全(まつた)く備(そなへ)のなき信長(のぶなが)を襲(おそは)つたのであるから        光秀(みつひで)は容易(ようい)に目的(もくてき)を達(たつ)した訳(わけ)であつたが夫(それ)より近畿(きんき)の諸将(しよせう)へ使(つかひ)を発(はつ)して応諾(おうたく)を需(もと)めた処(ところ)かドウモ思(おも)ふ       ように行(ゆ)かぬ夫(それ)のみならず信長(のぶなが)の第二子 信雄(のぶを)は伊勢(いせ)の松(まつ)ヶ島城(しまじよう)にあり其(その)弟(おとゝ)信孝(のぶたか)は恰(あたか)も四 国征伐(こくせいばつ)の途(と)に        上(のぼ)らむとして大坂(おほさか)にあり孰(いづ)れも凶変(けうへん)を聴(き)いて立(たゝ)むとし其(その)他(た)光秀(みつひで)と共(とも)に中国軍(ちうごくぐん)の先鋒(せんはう)として出発(しゆつぱつ)せんと       して居(を)つた丹後(たんご)宮津(みやず)の城主(じようしゆ)細川藤孝(ほそかはふぢたか)幷(ならび)に其(その)子(こ)忠興(たゞおき)は姻戚(ゐんせき)の関係(くわんけい)があるにも拘(かゝは)らず絶縁(ぜつゑん)を示(しめ)したと云       ふような訳(わけ)であるから光秀(みつひで)は益々(ます〳〵)急(きう)に其(その)根拠(こんきよ)を堅(かた)くすることに勉(つと)めたので五日 安土(あづち)に到(いた)つて其(その)城(しろ)を収(おさ)め        又(ま)た長浜(ながはま)、 佐和山(さわやま)の二 城(じよう)をも取(と)つたのである然(しか)るに羽柴秀吉(はしばひでよし)は三日の夜(よ)其(その)出征地(しゆつせいち)に於(おい)て此(この)変報(へんはう)を得(え)た 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百七十八号附録   ( 明治四十四年十月三日発行 ) 【本文】       が急(きう)に復讐(ふくしう)の師(し)を起(おこ)さむことを計(はか)つて翌日(よくじつ)直(たゞ)ちに毛利方(もうりがた)との媾和(こうわ)を成立(せいりつ)せしめ五日より兵(へい)を班(はん)して六日       には其(その)居城(きよじよう)姫路(ひめぢ)に帰(かへ)り夫(それ)より池田信輝(いけだのぶてる)、 中川清秀(なかがはきよひで)、 高山長房(たかやまながふさ)、 神戸信孝(かんべのぶたか)《割書:織|田》丹羽長秀(にはながひで)、 蜂屋頼隆(はちやよりたか)六 氏(し) 山崎役   の軍(ぐん)を合(あは)して光秀(みつひで)と十三日に山崎(やまざき)に於(おい)て決戦(けつせん)したのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)の年(とし)は四十六 歳(さい)光秀(みつひで)は五十五        歳(さい)であつた勿論(もちろん)諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)戦(たゝかひ)は光秀(みつひで)の敗北(はいぼく)となつて光秀(みつひで)は其(その)夜(よ)深更(しんこう)従者(じんしや)僅(わづか)に数人(すうにん)と共(とも)に        遁(のが)れて近江(あふみ)の坂本城(さかもとじよう)に入(い)らむとしたが途中(とちう)小栗栖(をぐりす)附近(ふきん)に於(おい)て土寇(どこう)の為(ため)に要撃(えうげき)せられて刺(さ)し殺(ころ)されて仕(し) 光秀殺さる  舞(ま)つたのである而(しか)も其(その)翌日(よくじつ)及(およ)び翌々日(よく〳〵じつ)二日 間(かん)に其(その)一 類(るい)も亦(ま)た殆(ほとん)ど打(う)ち平(たひら)げられたので誠(まこと)に脆(もろ)い訳(わけ)であ       つたのであるがサテ話(はなし)は少(すこ)し前(まへ)に戻(もど)つて六月二日 本能寺(ほんのうじ)の事変(じへん)に方(あた)つて家康(いへやす)は前(まへ)に申述(もうしのべ)た通(とほ)り丁度(ちようど)堺(さかひ)        湊(みなと)にあつたのである此(このひ)再(ふたゝ)び入京(にふきよう)せむとした処(ところ)此(この)凶報(けうほう)に接(せつ)したのであるが従者(じうしや)は勿論(もちろん)少数(せうすう)であるので 家康の帰国  殆(ほとん)ど進退(しんたい)に苦(くるし)むだ様子(ようす)が見(み)ゆる併(しか)し幸(さいはひ)に伊賀(いが)を経(へ)間道(かんどう)を抜(ぬ)け通(とほ)してヨウ〳〵四日に《割書:家忠日記|による》伊勢(いせ)の        白子(しらこ)に着(ちやく)し夫(それ)から船(ふね)にて三 河(かは)の大浜(おほはま)へ着(ちやく)することを得(え)たのであるが道中(どうちう)は頗(すこぶ)る困難(こんなん)したので種々(しゆ〳〵)な話(はなし)が       あるが穴山信君(あなやまのぶきみ)は途中(とちう)から家康(いへやす)に別(わか)れた為(ため)に遂(つひ)に伊賀(いが)に於(おい)て土寇(どこう)の為(ため)に殺(ころ)されたと云ふような事もあ       るソコで家康(いへやす)は皈国(きこく)早々(さう〳〵)兵(へい)を募(つの)つて再(ふたゝ)び西上(せいぜう)を企(くわだ)て酒井忠次(さかゐたゞつぐ)等(ら)は矢張(やはり)先鋒(せんぽう)となつて十七日には尾張(をはり)の        津島(つしま)に陣(ぢん)したが十九日に秀吉(ひでよし)から光秀(みつひで)等(ら)平定(へいてい)の報知(ほうち)があつたので遂(つひ)に軍(ぐん)を班(はん)したのである以上(いぜう)は余(あま)り        本市史(ほんしし)に直接(ちよくせつ)の関係(くわんけい)はないようであるが兎(と)に角(かく)天下(てんか)の一 大事変(だいじへん)で時代(じだい)を区割(くぐわく)する出来事(できごと)であるのみな       らず酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の履歴(りれき)の上(うへ)にも関連(くわんけい)することであるから大要(たいえう)の筋道(すぢみち)だけを申述(もうしの)べた次第(しだい)であるが尚(なほ)之(これ)に続(つゞい)       て小牧役(こまきえき)の原因(げんゐん)結果(けつくわ)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ              ⦿本能寺事変後の織田氏 【欄外】    豊橋市史談  (本能寺事変後の織田氏)                  百卅三 【欄外】    豊橋市史談  (本能寺事変後の織田氏)                  百卅四 【本文】       豊橋市史(とよはししゝ)には直接(ちよくせつ)関係(くわんけい)を持(も)たぬようであるが話(はなし)の連絡上(れんらくぜう)から此処(こゝ)に信長(のぶなが)が弑逆(しいぎやく)に遇(あ)つてから後(のち)の織(を)        田氏(たし)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ       サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで光秀(みつひで)の一 族(ぞく)は僅(わづか)の間(あひだ)に打(う)ち平(たひら)げられたのであるが秀吉(ひでよし)信孝(のぶたか)等(ら)は光秀(みつひで)を亡(ほろ)ぼ       して後(のち)共(とも)に安土(あづち)に入(い)つて当時(とうじ)恰(あたか)も伊勢(いせ)から来(きた)つた織田信雄(をたのぶを)とも会合(くわいごう)しそれから美濃(みの)尾張(をはり)に入(い)つて織田(をた)        氏(し)の旧国(きうこく)を平定(へいてい)したが更(さら)に清須(きよす)に至(いた)つて信忠(のぶたゞ)の嫡子(ちやくし)三 法師(ほうし)に謁(えつ)したのである三 法師(ほうし)は即(すなは)ち信長(のぶなが)から云       ふと嫡孫(ちやくそん)であるが信忠(のぶたゞ)打死(うちじに)の時(とき)二 条城(でうじよう)に於(おい)て之(これ)を前田玄以(まへだげんい)に托(たく)し玄以(げんい)は其(その)遺命(ゐめい)を奉(ほう)じて岐阜(ぎふ)に至(いた)りそ 清須会議  れより此(この)清須(きよす)の城(しろ)に入(い)つたのである然(しか)るに秀吉(ひでよし)等(ら)が此処(こゝ)に到着(とうちやく)すると殆(ほとん)ど同時(どうじ)に柴田勝家(しばたかついへ)等(ら)は越中(えつちう)か       ら又(ま)た瀧川一益(たきがはかずます)等(ら)は上野(うへの)から、 森長可(もりながよし)等(ら)は信濃(しなの)からと云ふ訳(わけ)で遠征(ゑんせい)の諸宿将(しよしゆくせう)は続々(ぞく〳〵)本能寺(ほんのうじ)の変報(へんはう)を聞(き)       いて此処(こゝ)に集(あつ)まつて来(き)たのであるソコで先(ま)づ起(おこ)つたのが織田氏(をだし)の継嗣(けいし)問題(もんだい)であつたが信雄(のぶを)信孝(のぶたか)は共(とも)に 信雄と信孝  信長(のぶなが)の子(こ)で恰(あたか)も両人(れうにん)の生年月(せいねんげつ)は仝(おな)じであるが信孝(のぶたか)の方(ほう)が二十 余日(よにち)先(さ)きに生(うま)れたにも拘(かゝは)らず其(その)生母(せいぼ)が卑(ひ)        賎(せん)であつたのと生誕(せいたん)の報知(ほうち)が後(あと)になつた為(ため)に信雄(のぶを)の方(ほう)が兄(あに)となつて居(を)るのである其(その)上(うへ)今度(このたび)光秀(みつひで)征討(せいとう)に        就(つい)ては信孝(のぶたか)の方(ほう)が頗(すこぶ)る功(こう)があつたのであるから無論(むろん)信孝(のぶたか)に於(おい)ては己(おの)れが継嗣(けいし)たるべしとの志(こゝろざし)があつ       たのであるが之(これ)に対(たい)して信雄(のぶを)と雖(いへど)も決(けつ)して相(あひ)下(くだ)らないので其(その)間(あひだ)は中々(なか〳〵)六ケ敷(し)き状態(ぜうたい)となつた而(しか)も諸宿(しよしゆく)        将(せう)の間(あひだ)にもま亦(ま)た此(こ)の両党(れうとう)に分(わか)れたので議論(ぎろん)は数日(すうじつ)にも亘(わた)つたのであるが結局(けつきよく)三 法師(ほうし)が嫡孫(ちやくそん)であると云       ふ処(ところ)から之(これ)を継嗣(けいし)とすることに決(けつ)し当分(とうぶん)は岐阜(ぎふ)に置(お)いて信孝(のぶたか)が之(これ)を預(あづか)ることとなり信雄(のぶを)も共(とも)に補佐(ほさ)すると       云ふので事(こと)は落着(らくちやく)したのであるが之(これ)と同時(どうじ)に柴田(しばた)、 羽柴(はしば)、 丹羽(には)、 池田(いけだ)の四 氏(し)は互(たがひ)に交代(こうたい)して京師(けうし)に吏(り)       を置(お)き庶務(しよむ)を決行(けつこう)することとなつたのであるソコで光秀(みつひで)の旧領地(きうれうち)並(ならび)に信長(のぶなが)の遺領(ゐれう)を戦功者(せんこうしや)に分配(ぶんぱい)すること       となつたが信雄(のぶを)は尾張(おはり)、 信孝(のぶたか)は美濃(みの)、 秀吉(ひでよし)は山城(やましろ)、 勝家(かついへ)は江州(ごうしう)の長浜(ながはま)、 池田信輝(いけだのぶてる)は大阪(おほさか)、 尼(あま)ケ崎(さき)、 兵(へう) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 勝家と秀吉  庫(ご)、 丹羽長秀(にはながひで)は江州(ごうしう)の高島(たかしま)、 志賀(しが)の二 郡(ぐん)と云ふような工合(ぐあひ)に各(おの〳〵)得(う)る処(ところ)があつたのである然(しか)るに其(その)中(なか)       で勝家(かついへ)の得(え)た長浜(ながはま)と云ふものは元来(がんらい)秀吉(ひでよし)領地(れうち)であつたのを請(こ)ひ求(もと)めた訳(わけ)で之(これ)は暗(あん)に己(おの)れの本領(ほんれう)越前(えちぜん)       との連絡(れんらく)を取(と)つて秀吉(ひでよし)を索制(さくせい)する為(ため)の手段(しゆだん)であつたのである勿論(もちろん)秀吉(ひでよし)は之(これ)を知(し)らぬではないが将来(せうらい)に        大企望(だいきぼう)を包蔵(ほうぞう)して居(を)る処(ところ)から唯々(ゆゝ)諾々(たく〳〵)として此(この)事(こと)を聴(き)いたのみならず今度(このたび)の偉功者(ゐこうしや)であるにも拘(かゝは)らず        只(た)だそれに替(か)ゆるに山城(やましろ)一 国(こく)を以(もつ)てして一 向(こう)所領(しよれう)を争(あらそ)はなかつたのは大(おほい)に他(た)に期(き)する処があつたもの 《割書:大徳寺の法|会》  と信(しん)ぜられるのである兎(と)に角(かく)諸宿将(しよしゆくせう)は此(この)時(とき)互(たがひ)に誓紙(せいし)を交換(こうくわん)し親密(しんみつ)を約(やく)して各(おの〳〵)其(その)国(くに)に就(つ)いたのである       が秀吉(ひでよし)はそれから京都(けうと)に入(い)つて先(ま)づ信長(のぶなが)の法会(ほうゑ)を紫野(むらさきの)の大徳寺(だいとくじ)で営(いとな)むだのであるソレは其十月十一日       から十七日 迄(まで)七日 間(かん)で十五日の葬式(そうしき)と云ふものは実(じつ)に前代未聞(ぜんだいみぶん)の盛儀(せいぎ)であつたと云ふ事であるそれの       みならず時(とき)の天子(てんし)からも勅命(ちよくめい)が下(さが)つたと云ふ訳(わけ)で何(なに)につけ秀吉(ひでよし)の勢力(せいりよく)を増(ま)すような事(こと)が多(おほ)く其(その)威望(ゐぼう)と       云ふものは爾来(じらい)益(ます〳〵)旭日沖天(きよくじつちうてん)の様(さま)であつた、サア、ソーなると不平(ふへい)で堪(たま)らないのが信孝(のぶたか)であつたが勝(かつ)        家(いへ)、 一益(かづます)も亦(ま)た頗(すこぶ)る面白(おもしろ)くなく感(かん)じたので遂(つひ)に此(この)両人(れうにん)は信孝(のぶたか)と通(つう)じて竊(ひそ)かに秀吉(ひでよし)を除(のぞ)かむ事を図(はか)つた       のである然(しか)るに之(これ)は反対(はんたい)に秀吉(ひでよし)の方(ほう)から先(さき)んぜられたと云ふ事実(じじつ)になつたのであるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた        如(ごと)く三 法師(ほうし)は一 時(じ)岐阜(ぎふ)に置(お)く事(こと)にはなつて居(を)るが岐阜(ぎふ)は結局(けつきよく)信孝(のぶたか)の居城(きよじよう)であるから安土城(あづちじよう)の修築(しうちく)が出(で)        来上(きあが)つた以上(いぜう)は之(これ)に移(うつ)るのが相当(さうとう)なので又(ま)た其(その)筈(はづ)に決定(けつてい)して居(を)つたのであるソコで秀吉(ひでよし)は頻(しき)りに安土(あづち)        城(じよう)の修築(しうちく)を急(いそ)がしたのであるが其(その)出来上(できあが)るに及(およ)むで三 法師(ほうし)の移住(いぢう)を促(うなが)したのであるトコロが胸(むね)に一 物(もつ)       ある信孝(のぶたか)は之(これ)に肯(がゑん)ぜないので之(これ)が直接(ちよくせつ)の問題(もんだい)となつて反(かへつ)て秀吉(ひでよし)から先(ま)づ旗(はた)を揚(あ)げられたのである即(すなは)ち 《割書:秀吉岐阜を|攻む》   秀吉(ひでよし)は信雄(のぶを)の認諾(にんだく)を得(ゑ)て此(この)年(とし)(天正十年)の十二月 兵(へい)を起(おこ)し先(ま)づ近江(あふみ)に入(い)つて勝家(かついへ)の長浜城(ながはまじよう)を攻(せ)めて之(これ)       を降(くだ)し更(さら)に転(てん)じて美濃(みの)に向(むか)ひ岐阜(ぎふ)に迫(せま)つたが之(これ)には丹羽長秀(にはながひで)、 筒井順慶(つゝゐじゆんけい)、 細川忠興(ほそかはたゞおき)、 池田信輝(いけだのぶてる)、 蜂屋(はちや) 【欄外】    豊橋市史談  (本能寺事変後の織田氏)                  百卅五 【欄外】    豊橋市史談  (本能寺事変後の織田氏)                  百卅六 【本文】        頼隆(よりたか)等(ら)が従(したが)つたので兵数(へいすう)は約(やく)三万余もあつたのであるから信孝(のぶたか)は到底(とうてい)支(さゝ)ゆることが出来(でき)なくて老母(らうぼ)並(ならび)に       三 法師(ほうし)を出(いだ)して和(わ)を請(こ)つたのであるソコで秀吉(ひでよし)は之(これ)を許(ゆる)し三 法師(ほうし)をば目的(もくてき)通(とほ)りに安土(あづち)へ移(うつ)して此(この)時(とき)は        先(ま)づ之(こ)れで一 段落(だんらく)を告(つ)げたのであるが到底(とうてい)之(こ)れだけでは事(こと)が済(す)まぬので其(その)翌(よく)天正(てんせう)十一年の正月 秀吉(ひでよし)は 伊勢征伐   更(さら)に信雄(のぶを)と相図(あひはか)つて瀧川一益(たきがはかずます)を伊勢(いせ)に攻(せ)むる計割(けいくわく)を進(すゝ)めたが遂(つひ)に自(みづか)らも兵(へい)を率(ひき)ひて伊勢(いせ)に入(い)りイヨ       〳〵一益(かづます)の根拠(こんきよ)たる長島城(ながしまじよう)に迫(せま)らむとしたのであるトコロが此(この)時(とき)忽(たちま)ち飛報(ひほう)があつて越前(えちぜん)から柴田勝家(しばたかついへ)       が兵(へい)を出(いだ)して北近江(きたあふみ)に侵入(しんにふ)したと云ふので秀吉(ひでよし)は急(きう)に守兵(しゆへい)を置(お)いて一益(かづます)に備(そな)へしめ己(おの)れは直(たゞ)ちに近江(あふみ)       に引(ひ)き返(かへ)して勝家(かついへ)と雌雄(しゆう)を決(けつ)せむとしたのである初(はじ)め勝家(かついへ)が前田利家(まへだとしいへ)、 佐々成政(さゝなりまさ)、 佐久間盛政(さくまもりまさ)等(ら)と共(とも) 柳ケ瀬役  に兵(へい)を率(ひき)ゐて近江(あふみ)に入(い)り柳(やな)ケ瀬(せ)附近(ふきん)に陣取(ぢんど)つたのは二月の朔日(つひたち)の事(こと)であつたが秀吉(ひでよし)が賤(しづ)ケ岳(たけ)に至(いた)り天(てん)        神山(じんやま)に陣取(ぢんど)つたのは其(その)十七日である然(しか)るに勝家(かついへ)は固(かた)く持(じ)してドウしても応戦(おうせん)しないので秀吉(ひでよし)は一 時(じ)持(ぢ)        久(きう)の策(さく)を設(もう)けて其(その)廿七日 己(おの)れは長浜(ながはま)に退(しりぞ)き四月 中旬(ちうじゆん)まで其処(そこ)に居(を)つたが此(この)時(とき)信孝(のぶたか)は岐阜(ぎふ)に居(を)つて曩(さ)き       の媾和(こうわ)に反(そむ)き勝家(かついへ)等(ら)に応(おう)じて又(ま)た秀吉(ひでよし)の背後(はいご)を襲(おそ)はむとしたのであるソコで秀吉(ひでよし)は四月十七日 長浜(ながはま)か       ら美濃(みの)に入(い)つて十九日には一 挙(きよ)に岐阜(ぎふ)を屠(ほう)らむとしたのであるが丁度(ちようど)其(その)前夜(ぜんや)から大雨(たいう)で河水(かすゐ)の氾濫(はんらん)が        甚(はなはだ)しく遂(つひ)に其(その)目的(もくてき)を達(たつ)し得(ゑ)なかつたのである然(しか)るに勝家(かついへ)の方(ほう)では此(この)秀吉(ひでよし)の留守(るす)を窺(うかゞ)つて廿日の黎明(れいめい)        大岩山(おほいわやま)の砦(とりで)に向(むかつ)て奇襲(きしう)を試(こゝろ)み秀吉(ひでよし)の守将(しゆせう)中川清秀(なかがはきよひで)は遂(つひ)に之(これ)に戦死(せんし)したのであるが元来(がんらい)此(この)襲撃(しうげき)は佐久間(さくま) 賤ケ岳    盛政(もりまさ)のやつた事で勝家(かついへ)は最初(さいしよ)から之(これ)を危(あや)むだのであるが盛政(もりまさ)は遂(つひ)に勢(いきほひ)に乗(ぜう)して勝家(かついへ)の命令(めいれい)をも顧(かへり)み       ず益々(ます〳〵)深入(ふかい)りをしたのであるトコロが秀吉(ひでよし)は大垣(おほがき)に居(を)つて廿日の正午(せうご)頃(ころ)此(この)事(こと)を聞(き)いたのであるか直(たゞ)ち       に馳(は)せて近江(あふみ)に皈(かへ)つたのである其(その)時(とき)の従者(じうしや)は選抜兵(せんばつへい)僅(わづか)に五十 余人(よにん)に過(す)ぎなかつたと云ふ事であるが行(ゆ)       く〳〵兵(へい)を集(あつ)めて此(この)日(ひ)の午後(ごゞ)九時には既(すで)に木(き)の本(もと)に達(たつ)し田上山(たがみやま)に上(あが)つて盛(さかん)に喊声(かんせい)を発(はつ)せしめたのであ 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百八十三号附録   ( 明治四十四年十月十日発行 ) 【本文】       るドウモ其(その)敏速(びんそく)なることと云ふものは驚(おどろ)くの外(ほか)はないと思(おも)ふのであるが果(はた)して盛政(もりまさ)は其(その)形勢(けいせい)を偵察(ていさつ)して        大(おほい)に驚(おどろ)き急(きう)に兵(へい)を退(しりぞ)くる事に決(けつ)して十一時頃から退却(たいきやく)を初(はじ)めたが遂(つひ)に秀吉(ひでよし)の為(ため)に追撃(つひげき)を蒙(かうむ)つて廿一日       の午前六時頃には頗(すこぶ)る激戦(げきせん)となつたのである例(れい)の賤(しづ)ケ岳(たけ)七 槍(そう)の話(はなし)のあるのは此(この)時(とき)の事(こと)であるが秀吉(ひでよし) 勝家亡ぶ  は勢(いきほひ)に乗(ぜう)じて勝家(かついへ)が柳(やな)ケ瀬(せ)の本陣(ほんぢん)に向(むかつ)て総攻撃(そうこうげき)を開始(かいし)し此(この)日(ひ)の正午(せうご)勝家(かついへ)は大敗(たいはい)して越前(ゑつぜん)の北荘城(ほくせうじよう)に        遁(のが)れ遂(つひ)に窮追(きうつひ)せられて廿四日 午後(ごゞ)自(みづか)ら火(ひ)を放(はな)つて自殺(じさつ)したのである此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)は越前(ゑつぜん)の府中城(ふちうじよう)に於(おい)て前(まへ)        田利家(たとしいへ)と和(わ)し又(ま)た佐々成政(さゝなりまさ)の降(こう)を許(ゆる)し使(つかひ)を越後(ゑちご)に遣(つか)はして上杉景勝(うへすぎかげかつ)の盟約(めいやく)を徴(ちよう)し五月五日に至(いた)つて長(なが)        浜(はま)に皈(かへ)つたのである       ソコで信孝(のぶたか)の事であるが岐阜(ぎふ)に於(おい)ては既(すで)に柳(やな)ケ瀬(せ)の敗報(はいほう)を得(え)て将士(せうし)は離散(りさん)し勢(いきほひ)益(ます〳〵)窘窮(くつきう)せる処(ところ)へ信(のぶ)        雄(を)が伊勢(いせ)から攻(せ)め来(きた)つて之(これ)を囲(かこ)むだので又(ま)た如何(いかん)ともすることが出来(でき)ず進退(しんたい)維(こ)れ谷(きはま)つたのであるが遂(つひ)に 信孝自殺   誘(さそ)はれて長良川(ながらがは)を下(くだ)り尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に船行(せんかう)して内海(うつみ)に上陸(ぜうりく)した処を信雄(のぶを)は其(その)士(し)中川雄忠(なかがはたけたゞ)を遣(つか)はして処(しよ)        決(けつ)を迫(せま)つたので之(こ)れ亦(ま)た自殺(じさつ)するに至(いた)つたのであるがソレは恰(あたか)も五月二日の事である其(その)後(のち)六月 中旬(ちうじゆん)に        至(いた)つて瀧川一益(たきがはかづます)も亦(ま)た力(ちから)屈(くつ)して降参(こうさん)したが秀吉(ひでよし)は特(とく)に其(その)武勇(ぶゆう)を惜(おし)むで之(これ)を越前(ゑつぜん)に置(お)き五千石を給(きう)した       のである而(しか)して長島城(ながしまじよう)には之(これ)より信雄(のぶを)が移(うつ)り居(を)つたのである             ⦿小牧役と牧野成里        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く信長(のぶなが)の弑逆(しいぎやく)に遇(あ)つた後(のち)上方(かみがた)に於(おい)ては種々(しゆ〴〵)の紛乱(ふんらん)があつて独(ひと)り秀吉(ひでよし)の威忘(いぼう)は益(ます〳〵)熾(さかん)       になつたのであるが此(この)間(あひだ)に於(おい)て三 河(かは)遠江(とふとほみ)駿河(するが)を領有(れうゆう)して居(を)つた徳川家康(とくがはいへやす)は如何(いか)なる行動(こうどう)をなしたか之(こ)       れ亦(ま)た先(ま)づ此処(こゝ)に申述(もうしの)べねばならぬのである 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百卅七 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百卅八 【本文】       本能寺(ほんのうじ)事変(じへん)の時(とき)家康(いへやす)は会々(たま〳〵)摂津(せつゝ)の堺(さかひ)に居(を)つたが急(きう)に伊賀越(いがごゑ)の難(なん)を冒(おか)して伊勢(いせ)に出(い)で三 河(かは)に上陸(ぜうりく)し夫(それ)よ       り直(たゞ)ちに兵(へい)を集(あつ)めて光秀(みつひで)征討(せいとう)の軍(ぐん)を出(いだ)し尾張(をはり)まで出陣(しゆつぢん)したのである然(しか)るに光秀(みつひで)は既(すで)に山崎(やまざき)に敗(やぶ)れ誅戮(ちうりく)       されたと云ふ報知(ほうち)を得(え)て軍(ぐん)を班(はん)した事は前(まへ)に申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)くである然(しか)るに当時(とうじ)甲州(かうしう)には河尻肥後(かはじりひごの)        守鎮吉(かみしげよし)があつて織田氏(おだし)の為(ため)に守衛(しゆゑい)して居(を)つたが家康(いへやす)は直(たゞ)ちに本多百助(ほんだもゝすけ)を遣(つかは)して之(これ)を見舞(みま)はしめたので       あるモツトモ此(この)河尻(かはじり)と本多(ほんだ)との間(あひだ)は従来(じうらい)別懇(べつこん)であつたが此(この)時(とき)河尻(かはじり)は大(おほい)に本多(ほんだ)の来意(らいい)を疑(うたが)つて其(その)寝込(ねごみ)に        付(つ)け入(い)つて之(これ)を刺(さ)し殺(ころ)したのであるトコロが州人(しんにん)は最初(さいしよ)から河尻(かはじり)に快(こゝろよ)くなかつたので諸方(しよほう)に一 揆(き)が        起(おこ)つて遂(つひ)に此(この)河尻(かはじり)をも撃殺(げきさつ)して仕舞(しま)つたので甲州(かうしう)には全(まつた)く主(ぬし)がなくなつたのであるソコで国(くに)は大(おほい)に乱(みだ)       れたが家康(いへやす)は此(この)機(き)に方(あた)つて大須賀康高(おほすがやすたか)等(ら)を遣(つか)はして兵(へい)を率(ひき)ゐ国内(こくない)を徇(したが)へしめたのである続(つゞい)で大久保忠(おほくぼたゞ)        世(よ)石川康通(いしかはやすみつ)本多広孝(ほんだひろたか)父子(ちし)等(ら)をも出陣(しゆつぢん)せしめたので程(ほど)なく国内(こくない)は平定(へいてい)し武田氏(たけだし)の故旧(こきう)にして来(きた)り属(ぞく)する       ものが多(おほ)かつた然(しか)るに其(その)頃(ころ)信濃(しなの)を守(まも)つて居(を)つた織田氏(をだし)の将(せう)森長可(もりながよし)も亦(ま)た本能寺(ほんのうじ)の変(へん)を聞(き)いて西上(せいぜう)した       ので矢張(やはり)国内(こくない)は乱(みだ)れて統(とう)一する処(ところ)がないソコで越後(ゑちご)の上杉景勝(うへすぎかげかつ)は兵(へい)を出(いだ)して川中島(かはなかじま)四 郡(ぐん)の地(ち)を占領(せんれう)し       たが家康(いへやす)も亦(ま)た兵(へい)をを甲州(かうしう)から入(い)れて之(これ)を平定(へいてい)せむことを計(はか)つたのである、かくて其(その)(天正十年)七月には        家康(いへやす)自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ゐて甲州(かうしう)に入(い)り新府(しんぷ)に居(を)つて甲州(かうしう)二 州(しう)の軍事(ぐんじ)を督(とく)したのであるトコロが此(こゝ)に至(いた)つては        隣国(りんごく)の北條氏政(ほうでうぢまさ)が黙(だま)つては居(を)らぬので子(こ)氏直(うぢなほ)をして兵(へい)を率(ひき)ゐて碓氷峠(うすゐとほげ)から信州(しんしう)に入(い)らしめ徳川氏(とくがはし)の軍(ぐん)       と屡々(しば〳〵)衝突(せうとつ)したのである此(この)時(とき)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)も亦(ま)た東(ひがし)三 河(かは)の諸将士(しよせうし)を率(ひき)ゐて信州(しんしう)に入(い)り戦功(せんこう)が多(おほ)くあつたが       北條氏(ほうでうし)の兵(へい)と梶(かぢ)ケ原(はら)に対陣(たいぢん)の時(とき)大久保忠世(おほくぼたゞよ)と意見(いけん)が合(あ)はなくて相争(あひあらそ)つたと云ふような話(はなし)もある併(しか)し之(こ)       れ等(ら)は余(あま)り冗長(じようてう)に渉(わた)ると思(おも)ふから総(すべ)て略(りやく)して申述(もうしの)べぬ考(かんがへ)であるが結局(けつきよく)其(その)十月に至(いた)つて家康(いへやす)と氏直(うぢなほ)と       は和睦(わぼく)が出来(でき)て北條氏(ほうでうし)は上州(ぜうしう)を収(おさ)め家康(いへやす)は甲州(かうしう)二 州(しう)を併(へい)する事(こと)となつて氏直(うぢなほ)に嫁(か)するに家康(いへやす)の女督姫(ぢよとくひめ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       を以(もつ)てすることを約(やく)したのであるかくの如(ごと)き訳(わけ)で家康(いへやす)は遂(つひ)に三 遠駿(ゑんすん)三 国(こく)の外(ほか)は甲州(かうしう)二 州(しう)の大略(たいりやく)を有(ゆう)する       こととなつたので其(その)十二月 平岩親吉(ひらいわちかよし)をして甲府(かうふ)を守(まも)り鳥居元忠(とりゐもとたゞ)をして甲州(かうしう)の都留郡(つるごほり)を鎮(ちん)せしめ成瀬(なるせ)一 斉(さい)       を甲州奉行(かうしうぶぎよう)として更(さら)に信州(しんしう)衛備(ゑいび)の為(ため)に大久保忠世(おほくぼたゞよ)菅沼大膳(すがぬまだいぜん)等(ら)を甲州(かうしう)に残(のこ)して自(みづか)らは浜松(はままつ)に皈(かへ)つたので       あるが此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で家康(いへやす)の勢(いきほひ)は漸(やうや)く東海(とうかい)を圧(あつ)し威望(いぼう)益(ます〳〵)加(くは)はつたのである        先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で織田氏(をだし)に於(おい)ては継嗣(けいし)問題(もんだい)から信雄(のぶを)信孝(のぶたか)等(ら)の内訌(ないこう)でゴタ〳〵して居(を)る間(あひだ)に家(いへ)        康(やす)は新(あらた)に甲州(かうしう)二 州(しう)を平定(へいてい)して己(おの)れの領分(れうぶん)としたので云(い)はゞ漁夫(ぎよふ)の利(り)を得(え)たようなものであるが其(その)頃(ころ)秀(ひで)        吉(よし)との関係(くわんけい)は至極(しごく)円満(ゑんまん)に見(み)えて居(を)つたのである即(すなは)ち秀吉(ひでよし)が柴田勝家(しばたかついへ)に克(か)つた時(とき)にも家康(いへやす)は石川数正(いしかはかずまさ)を        使(つかひ)にやつて初花(はつはな)と云(い)ふ名器(めいき)(茶碗(ちやわん))を贈(おく)つて戦勝(せんせう)を賀(が)せしめ秀吉(ひでよし)も亦(ま)た家康(いへやす)の為(ため)に奏請(さうせい)して己(おの)れより上(ぜう)        位(ゐ)である処(ところ)の従(じゆう)三 位(ゐ)に叙(ぢよ)し参議(さんぎ)に任(にん)ぜしむるなど頗(すこぶ)る其(その)歓心(くわんしん)を求(もと)めたる様子(やうす)が見(み)ゆるのである然(しか)るに        此処(こゝ)に一つの葛藤(かつとう)を生(せう)ずるに至(いた)つた原因(げんゐん)と云(い)ふものは信雄(のぶを)と秀吉(ひでよし)との関係(くわんけい)である初(はじ)め信孝(のぶたか)が秀吉(ひでよし)を図(はか)       つて反(かへつ)て其(その)窮迫(きうはく)する処(ところ)となつた頃(ころ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く信雄(のぶを)は寧(むし)ろ之(これ)を以(もつ)て己(おの)れに利(り)なるものとな       して信孝(のぶたか)を匡救(きようきう)せざるのみならず其(その)滅亡(めつぼう)を容易(ようい)ならしめたのであるがサテ信孝(のぶたか)滅亡(めつぼう)の今日(こんにち)に至(いた)つて見(み)       ると所謂(いはゆる)唇亡(くちびるほろ)びて歯(は)寒(さむ)しで頗(すこぶ)る孤立(こりつ)の境遇(けうぐう)に立(た)つに至(いた)つたのである秀吉(ひでよし)も亦(ま)た信孝(のぶたか)の事情(じぜう)に鑑(かんが)みて其(その)       二の舞(まひ)をするものは信雄(のぶを)であると思(おも)ふ処(ところ)から何(なん)とかして之(これ)を除(のぞ)きたいものであると云(い)ふので一 策(さく)とし       て其(その)老臣(らうしん)岡田重孝(をかだしげたか)、津川義冬(つがはよしふゆ)、 浅井長時(あさゐながとき)との間(あひだ)を離間(りかん)したのであるが信雄(のぶを)と云ふ人は頗(すこぶ)る思慮浅薄(しりよせんぱく)で       あつたので遂(つひ)に此(この)策(さく)に乗(の)せこれて此(この)三 老臣(らうしん)を殺(ころ)した上(うへ)に秀吉(ひでよし)と絶(た)つに至(いた)つたのであるトコロが信雄(のぶを)の        力(ちから)では到底(とうてい)秀吉(ひでよし)に敵(てき)すべくもあらぬので応援(おうゑん)を家康(いへやす)に請(こ)つたのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)からも家康(いへやす)に向(むかつ)ては        種々(しゆ〳〵)と勧誘(くわんゆう)する処(ところ)があつたのである然(しか)るに家康(いへやす)は秀吉(ひでよし)の申込(もうしこみ)を斥(しりぞ)けて一には旧誼(きうぎ)一には隣国(りんこく)と云(い)ふ地(ち) 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百卅九 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十 【本文】        理(り)の関係(くわんけい)から遂(つひ)に信雄(のぶを)を援(たす)くる事(こと)に至(いた)つたので之(これ)が即(すなは)ち小牧役(こまきえき)の発端(はつたん)とも云(い)ふべきである       ソコで家康(いへやす)が自(みづか)ら浜松(はままつ)を発(はつ)して尾張(をはり)に向(むか)つたのは天正(てんせう)十二年の三月七日であるが浜松(はままつ)には大久保忠世(おほくぼたゞよ)       を留守居(るすゐ)に置(お)き又(ま)た近来(きんらい)姻戚関係(ゐんせきくわんけい)は出来(でき)たものゝ最(もつと)も疑惧(ぎぐ)したのは北條氏(ほうでうし)であるから駿相(すんさう)の境(さかひ)に当(あた)る        長窪(ながぐは)に牧野右馬允康成(まきのうまのぜうやすなり)を置き(お)興国寺城(こうこくじじよう)には天野康景(あまのやすかげ)を置(お)くと云(い)ふ工合(ぐあひ)に注意(ちうゐ)を怠(おこた)らなかつたのみなら       ず北條氏(ほうでうし)から云ふと敵(てき)に当(あた)る処(ところ)の佐竹氏(さたけし)にも好(よしみ)を通(つう)ぜむとしたのであるが此(この)佐竹氏(さたけし)は恰(あたか)も秀吉(ひでよし)からも        礼遇(れいぐう)を受(う)けて殆(ほとん)ど双方(そうほう)から引張(ひつぱ)り合(あ)ひに遇(あ)つたと云ふ状態(ぜうたい)であつた其(その)他(た)此(この)東軍(とうぐん)の側(がは)に於(おい)ては先(ま)づ佐々(さゝ)        成政(なりまさ)に通(つう)じて加賀(かゝ)越前(ゑつぜん)を図(はか)らしめ長宗我部元親(ちようそがべもとちか)に結(むす)むで四 国(こく)から大阪(おほさか)を窺(うかゞ)ふ事(こと)を計(はか)り紀州(きしう)雑賀党(ざうがとう)や本(ほん)        願寺(ぐわんじ)一 派(ぱ)をも誘(いざな)つて秀吉(ひでよし)の後(あと)を衝(つ)かしめむとするなど外交政策(ぐわいこうせいさく)は中々(なか〳〵)広(ひろ)く行(おこな)はれたもので之(これ)に向(むか)つて       は秀吉(ひでよし)も亦(ま)たヌカらず対抗策(たいこうさく)を弄(ろう)したのであるが一 方(ぽう)には大垣(おほがき)の池田信輝(いけだのぶてる)並(ならび)に金山(かなやま)に居(を)つた森長可(もりながよし)を        誘(いざな)つて味方(みかた)となし更(さら)に瀧川一益(たきがはかづます)をも起(おこ)して伊勢(いせ)五 郡(ぐん)を与(あた)へ之(これ)に伊勢(いせ)の故旧(こきう)を集(あつ)めしめて第一に信雄(のぶを)の        所領(しよれう)を掠奪(れうだつ)せしめたのである       ソコで戦(たゝかひ)は先(ま)づ伊勢(いせ)から始(はじ)まつたのであるが信雄(のぶを)は三月九日に其(その)将(せう)佐久間正勝(さくままさかつ)等(ら)をして関信盛(せきのぶもり)父子(ふし) 峰城    の籠(こも)れる亀山(かめやま)の城(しろ)を攻(せ)めしめ別(べつ)に峰(みね)の故城(こじよう)を修築(しうちく)して秀吉(ひでよし)の来攻(らいこう)に備(そな)へたが秀吉(ひでよし)は蒲生氏郷(がまふうぢさと)瀧川一益(たきがはかづます)        等(ら)をして急(きう)に此(この)峰城(みねのしろ)を攻(せ)めしめたので信雄(のぶを)は犬山城主(いぬやまじようしゆ)中川貞成(なかがはさだなり)等(ら)をして正勝(まさかつ)に応援(おうゑん)せしめたが遂(つひ)に支(さゝ)       ゆることが出来(でき)なくて孰(いづ)れも長島城(ながしまじよう)まで引退(ひきしりぞ)かむとしたのである然(しか)るに追撃(つひげき)が急(きう)で貞成(さだなり)は途(みち)に敵(てき)の為(ため)に 《割書:忠次桑名に|陣す》   要撃(えうげき)せられ頗(すこぶ)る苦戦(くせん)に陥(おちい)つたのであるが此(この)時(とき)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は家康(いへやす)の命(めい)により東(とう)三の諸勢(しよぜい)を率(ひき)ゐ援軍(ゑんぐん)として        桑名(くわな)まで出陣(しゆつぢん)したので氏郷(うぢさと)一益(かづます)等(ら)も一 時(じ)兵(へい)を退(しりぞ)くるに至(いた)つたのである之(これ)より尾張(をはり)の西南部(せいなんぶ)並(ならび)に伊勢(いせ)地(ち) 犬山城陥る  方(ほう)に大小(だいせう)の数戦(すうせう)があつたが更(さら)に尾張(おはり)の東北部(とうほくぶ)に於(おい)ても別(べつ)に戦端(せんたん)が開(ひら)かれたのでそれは今度(このたび)秀吉(ひでよし)方(がた)に属(ぞく) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百八十九号附録   ( 明治四十四年十月十七日発行 ) 【本文】       した池田信輝(いけだのぶてる)が犬山城(いぬやまじよう)を襲(おそ)つたからである元来(がんらい)信輝(のぶてる)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り大垣(おほがき)に居(を)つたのであるが犬(いぬ)        山(やま)の城主(じようしゆ)中川貞成(なかがはさだなり)は峰城(みねのしろ)に応援(おうゑん)の為(た)め其(その)居城(きよじよう)をば叔父(おぢ)の僧(そう)清蔵主(せいぞうしゆ)に任(まか)せて伊勢(いせ)に出陣(しゆつぢん)したので此(この)事(こと)を        偵知(ていち)した信輝(のぶてる)は其(その)機(き)乗(ぜう)すべしとなしたのである殊(こと)に信輝(のぶてる)は嘗(かつ)て犬山城(いぬやまじよう)に居(を)つた事があるので勝手(かつて)の明(あきら)       かである事から三月十三日の夜陰(やいん)自(みづか)ら大垣(おほがき)を発(はつ)して直(たゞ)ちに襲撃(しうげき)を試(こゝろ)みたのであるが果(はた)して城(しろ)は忽(たちま)ち陥(おちい)       り清蔵主(せいぞうしゆ)は戦死(せんし)したので信輝(のぶてる)は其(その)子(こ)之助(やすすけ)と共(とも)に城(しろ)に入(い)り十五日 更(さら)に小牧山(こまきやま)附近(ふきん)に進(すゝ)むで近郷(きんごう)に放火(はうか)し       たのである此(この)時(とき)信雄(のぶを)は長島(ながしま)から清洲城(きよすじよう)に移(うつ)つて居(を)つたが家康(いへやす)も亦(ま)た十三日に此処(こゝ)に到着(とうちやく)して信雄(のぶを)に会(くわい)        見(けん)し且(か)つ右(みぎ)の報知(ほうち)を得(え)たので直(たゞ)ちに忠次(たゞつぐ)等(ら)を桑名(くわな)から呼寄(よびよ)せて其(その)衛(ゑい)としたのであるが前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(もうしのべ) 《割書:忠次長可を|羽黒に破る》  た如(ごと)く此(この)時(とき)信輝(のぶてる)の聟(むこ)森長可(もりながよし)も亦(ま)た秀吉(ひでよし)に応(おう)じたので美濃国(みのゝくに)金山(かなやま)の城(しろ)から出(い)でゝ尾張(おはり)の羽黒(はぐろ)を掠(かす)めたが        家康(いへやす)は忠次(たゞつぐ)の意見(いけん)を容(い)れて先(ま)づ之(これ)を攻(せ)めしめたのである即(すなは)ち忠次(たゞつぐ)は奥平信昌(おくだひらのぶまさ)松平家忠(まつだひらいへたゞ)等(ら)を初(はじ)め東三の        諸士(しよし)を率(ひき)ゐて之(これ)に当(あた)り大(おほい)に長可(ながよし)の軍(ぐん)を敗(やぶ)つたのである其(その)時(とき)信昌(のぶまさ)が勇敢(ゆうかん)の働(はたらき)をした事は色々(いろ〳〵)の記録(きろく)に        載(の)つて居(を)る事であるが此処(こゝ)には只(た)だ其(その)大要(たいえう)を申述(もうしの)ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふ而(しか)して此(この)時(とき)信輝(のぶてる)は長可(ながよし)の敗(はい)を        聞(き)いて之(これ)を援(たす)けむとしたのであるが諌(いさ)むる者(もの)があつて果(はた)さなかつた而(しか)も家康(いへやす)も亦(ま)た直(たゞ)ちに忠次(たゞつぐ)等(ら)を呼(よ)       び返(かへ)したのである 《割書:家康塁を小|牧山に搆ふ》  ソコで家康(いへやす)は先(ま)づ小牧山(こまきやま)に陣(ぢん)を搆(かま)へたのであるが此処(こゝ)には本多広孝(ほんだひろたか)を主将(しゆせう)として準備(じゆんび)オサ〳〵怠(おこた)りな       かつたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)秀吉(ひでよし)は大坂(おほさか)に築城中(ちくじようちう)で其処(そこ)に居(を)つたのであるが三月十九日に大坂(おほさか)を発(はつ)し尾(お)        張(はり)に向(むか)はむとしたトコロが紀伊(きい)雑賀(ざつが)根来(ねごろ)の一 揆(き)が信雄(のぶを)家康(いへやす)の誘導(ゆうどう)に応(おう)じて大坂(おほさか)に攻(せ)め寄(よ)せんとしたの 《割書:秀吉犬山に|至る》  で其(その)意(い)の如(ごと)くに運(はこ)ぶ事が出来(でき)ずヨウ〳〵廿一日に至(いた)つて大坂(おほさか)を発(はつ)し廿七日に犬山(いぬやま)に来(きた)つて楽田(がくでん)、 羽黒(はぐろ)        返(へん)を巡視(じゆんし)し小牧山(こまきやま)に対(たい)して塁(るい)を搆(かま)へしめたのである此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)の兵力(へいりよく)は十二万五千と称(せう)したとの事であ 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十一 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十二 【本文】       るが互(たがひ)に動静(どうせい)を窺(うかゞ)つて共(とも)に兵(へい)を動(うご)かさなかつた然(しか)るに信輝(のぶてる)長可(ながよし)は頻(しき)りに此(この)虚(きよ)に乗(ぜう)じて三 河(かは)を衝(つ)かむと 長久手会戦 云ふので其(その)実行(じつこう)を秀吉(ひでよし)に強請(きようせい)したから秀吉(ひでよし)も遂(つひ)に之(これ)を許(ゆる)したのであるが之(これ)が長久手(ながくて)会戦(くわいせん)の起(おこ)つた所以(ゆえん)       で結局(けつきよく)西軍(せいぐん)は賤(しづ)ケ岳(たけ)の時(とき)柴田勢(しばたぜい)のやつた覆轍(ふくてつ)を踏(ふ)むだ訳(わけ)になつたのである 《割書:信輝支隊を|率ゐて西三》  サテ池田信輝(いけだのぶてる)は其(その)頃(ころ)薙髪(ちはつ)して勝入(かついり)と称(せう)して居(を)つたが森長可(もりながよし)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く其(その)聟(むこ)である之(これ)に同(おな)じ 《割書:河に侵入せ|むとす》   女婿(ぢよせい)の三好秀次(みよしひでつぐ)が加(くは)はつて更(さら)に秀吉(ひでよし)から軍監(ぐんかん)とも云ふべき訳(わけ)で寄越(よこ)した堀秀政(ほりひでまさ)を加(くは)へ之(これ)を四 隊(たい)に分(わか)ち       第一 隊(たい)は総指揮者(そうしきしや)たる勝入(かついり)が自(みづか)ら之(これ)を率(ひき)ひ兵(へい)凡(およそ)六千人第二 隊(たい)は森長可(もりながよし)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)三千人第三       隊は堀秀政(ほりひでまさ)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)三千人第四隊は三好秀次(みよしひでつぐ)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)八千人と云ふのでイヨ〳〵一       支 隊(たい)を編成(へんせい)して四月六日の夜半(やはん)から其(その)陣地(ぢんち)、 小口(おぐち)、 楽田(がくでん)附近(ふきん)を出発(しゆつぱ)して潜(ひそ)かに西三河に入(い)り岡崎(をかざき)を撃(しう) 篠木柏井   撃(げき)すると云ふ目的(もくてき)で行進(こうしん)を初(はじ)めたのであるが七日は関田(せきだ)から篠木(しのぎ)、 柏井(かしわい)地方(ちはう)に至(いた)り砦(とりで)を築(きづ)いて各(かく)隊(たい)宿(しゆく)        営(えい)に就(つ)いたのである而(しか)して八日は早朝(さうてう)に令(れい)を伝(つた)へてイヨ〳〵明(めう)九日は遥(はる)かに東軍(とうぐん)即(すなは)ち徳川(とくがは)織田(をだ)方(がた)の右(う)        翼(よく)を回(まは)つて潜(こつそ)りと長久手(ながくて)藤島(ふじしま)附近(ふきん)から西(にし)三 河(かは)に侵入(しんにう)するのであると云ふことを告(つ)げ其(その)夜(よ)十時 頃(ころ)に至(いた)つて       一 同(どう)宿営(しゆくえい)を撤(てつ)し全軍(ぜんぐん)を二 縦隊(じうたい)に分(わ)けて各(おの〳〵)庄内川(せうないがは)を渡(わた)り再(ふたゝ)び第一隊から順次(じゆんじ)単縦列(たんじうれつ)をなして諏訪(すわ)ケ原(はら)       を過(す)ぎ平子山(ひらこやま)を越(こ)へて印場(いんば)に出(い)で瀬戸街道(せとかいどう)を横(よこ)ぎつて矢田川(やだがは)を渡(わた)つたのであるトコロで此(この)平子山(ひらこやま)の西(せい) 木幡城    麓(ろく)瀬戸街道(せとかいどう)を北(きた)に去(さ)ること遠(とほ)からざる処(ところ)に小幡(こはた)の城(しろ)があつて此処(こゝ)には本多広孝(ほんだひろたか)等(ら)が小牧(こまき)から移(うつ)つて守備(しゆび)       して居(を)つたので云はゞ徳川方(とくがはがた)の最右翼(さいうよく)の後部(こうぶ)に当(あた)つて居(を)つたのであるそれ故(ゆへ)に勝入(かついり)の支隊(したい)は之(これ)に覚(さと)ら       れぬように注意(ちうい)しつゝ更(さら)に香流川(かなれがは)を渡(わた)つて其(その)第一隊は九日の未明(みめい)長久手(ながくて)を過(す)ぎて藤島(ふじしま)方面(はうめん)に進(すゝ)むだの 岩崎城   である然(しか)るに其(その)西北(せいほく)に岩崎城(いわざきじよう)と云ふのがあつて之(これ)には丹羽氏次(にはうぢつぐ)の弟(おとゝ)氏重(うぢしげ)が徳川方(とくがはがた)の為(ため)に留守(るす)をして居(を)       つたので兵数(へいすう)は長久手(ながくて)の領主(れうしゆ)加藤忠景(かとうたゞかげ)を初(はじ)め僅(わづか)に二百三十九人であつたモツトモ城主(じようしゆ)氏次(うぢつぐ)は小牧(こまき)に出(しゆつ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        陣中(ぢんちう)であつたのであるが氏重(うぢしげ)は此(この)際(さい)敵兵(てきへい)の城下(じようか)を前進(ぜんしん)するのを見(み)て傍観(ばうくわん)すべきにあらずとなして急(きう)に        出撃(しゆつげき)したのであるソコで勝入(かついり)も初(はじめ)は前途(ぜんしん)に大目的(だいもくてき)があるのであるから之(これ)等(ら)には頓着(とんちやく)なく前進(ぜんしん)する考(かんが)で       あつたが城兵(じようへい)の攻撃(こうげき)が余(あま)りに激(はげ)しいので遂(つひ)には大(おほい)に怒(いか)つて此(この)城(しろ)を屠(ほうむ)らむとしたのである即(すなは)ち前衛(ぜんえい)に命(めい) 《割書:丹羽氏重戦|死》  じて之(これ)を攻(せ)めしめたが午前(ごぜん)四時 頃(ごろ)から同(どう)六 時(じ)頃(ごろ)迄(まで)の間(あひだ)に城兵(じようへい)は遂(つひ)に衆寡(しうくわ)敵(てき)せぬので丹羽義次(にはよしつぐ)をして事(じ)        情(ぜう)を小牧(こまき)に報(ほう)ぜしめ其(その)余(よ)は殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)戦死(せんし)したのである此(かく)の如(ごと)く此(この)城(しろ)は忽(たちまち)の中(うち)に勝入(かついり)の手(て)に皈(き)したので       はあるが併(しか)し其(その)間(あひだ)に容易(ようい)ならぬ時間(じかん)と手数(てすう)とを要(えう)することとなつたので此(この)岩崎城(いわさきじよう)に対(たい)する始末(しまつ)の付(つ)く間(あひだ)       は各隊(かくたい)皆(みな)行進(こうしん)を休(やす)むで縦列(じうれつ)のまゝ第一第二 両隊(れうたい)は生牛原(ふぎうばら)、第三隊は金萩原(かねはぎばら)(《割書:孰れも長久|手の南方》)第四隊は白山林(はくさんりん)       (《割書:長久手|の北方》)と云ふように長久手(ながくて)を隔(へだ)てゝ駐屯(ちうとん)して居(を)つたのであるトコロが東軍(とうぐん)即(すなは)ち徳川(とくがは)織田(をた)方(がた)に於(おい)ては七       日の午後四時頃に篠木(しのぎ)の農民(のうみん)から敵兵(てきへい)の其処(そこ)に屯営(とんえい)せる報知(ほうち)を得(え)たのであるが当時(とうじ)家康(いへやす)は遽(にはか)に之(これ)を信(しん)       ぜなかつた然(しか)るに其(その)後(ご)続々(ぞく〴〵)其(その)報告(ほうこく)があるので八日 朝(あさ)に至(いた)つて家康(いへやす)はイヨ〳〵敵兵(てきへい)の目的(もくてき)が岡崎(をかざき)辺(へん)を脅(けう) 家康の追撃  威(い)するにあることを覚(さと)つたので直(たゞ)ちに之(これ)を追撃(つひげき)せむことを欲(ほつ)して先(ま)づ小牧(こまき)の留守(るす)としては酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と石川(いしかは)        数正(かづまさ)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)を置(お)いて織田勢(をたぜい)を合(あは)せて兵(へい)凡(およ)そ六千五百余人を残(のこ)し自(みづか)らは信雄(のぶを)と共(とも)に兵(へい)九千三百余       を率(ひき)ゐ井伊直正(ゐいなほまさ)を前衛(ぜんえい)として此(この)日(ひ)の午後八時 潜(ひそか)に小牧(こまき)を発(はつ)して勝川(かつがは)を経(へ)夜半(やはん)十二時頃には既(すで)に小幡城(こはたのしろ) 水野支隊  に入(い)つたのであるモツトモ家康(いへやす)は別(べつ)に水野忠重(みづのたゞしげ)等(ら)に兵(へい)三千を随(したが)へて己(おの)れに先(さきだ)つこと一時間前に小牧(こまき)を発(はつ)       せしめたが之(これ)は午後十時頃には小幡城(こはたのしろ)に達(たつ)したので直(たゞ)ちに守将(しゆせう)本多広孝(ほんだひろたか)と議(ぎ)して斥候(せつこう)を放(はな)ち敵情(てきぜう)を探(さぐ)       らしめて大略(たいりやく)其(その)進路(しんろ)並(ならび)に勢力(せいりよく)等(とう)を知(し)つたのであるソコで家康(いへやす)は先(ま)づ此(この)水野隊(みづのたい)をして敵(てき)の後列(こうれつ)を襲(おそ)はし       め己(おの)れは敵(てき)の中央(ちうおう)に出(い)でゝ其(その)兵力(へいりよく)を両断(れうだん)し而(しか)して先頭(せんとう)部隊(ぶたい)に当(あた)らむと決心(けつしん)し其(その)手筈(てはづ)を定(さだ)めて其(その)夜(よ)午前       二時頃 水野隊(みづのたい)をして先(ま)づ出発(しゆつぱつ)せじめたのであるが水野隊(みづのたい)は又(ま)た之(これ)を三 隊(たい)に区分(くぶん)して右翼隊(うよくたい)は大須賀康(おほすがやす) 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十三 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十四 【本文】        高(たか)之(これ)を率(ひき)ゐ左翼隊(さよくたい)は榊原康政(さかきばらやすまさ)が率(ひき)ゐて忠重(たゞしげ)は自(みづか)ら予備隊(よびたい)を率(ひき)ゐたのである而(しか)して初(はじ)めから郷導(きようどう)の任(にん)に 白山林の戦  当(あた)つた岩崎城主(いわさきじようしゆ)丹羽氏次(にはうじつぎ)は尚(な)ほ之(これ)が郷導(きようどう)をなしたのであるソコで此(この)右翼隊(うよくたい)と予備隊(よびたい)とは猪子石原(ゐのこいしはら)を経(へ)       て直(たゞ)ちに白山林(はくさばやや)にある敵(てき)の後列(こうれつ)第四隊に逼(せま)つたのであるが左翼隊(さよくたい)は瀬戸街道(せとかいどう)を通(とほ)つて稲葉(いなば)に出(い)で迂回(うくわい)       して敵(てき)隊(たい)の左側(さそく)に当(あた)つたので此(この)戦闘(せんとう)の開始(かいし)は九日の黎明(れいめい)であつたが敵(てき)の第四隊は実(じつ)に不意(ふい)の襲撃(しうげき)で殊(こと) 細ケ根   に夾撃(きうげき)の状(ぜう)に陥(おちい)つたのであるからサン〴〵の体(てい)で敗走(はいそう)し隊長(たいてう)秀次(ひでつぐ)は香流川(かなれがは)を渉(わた)つて長久手(ながくて)附近(ふきん)の細(さい)ケ        根(ね)と云ふ処に拠(よ)つたが東軍(とうぐん)の追撃(つひげき)が激(はげ)しくて纔(わづか)に身(み)を以(もつ)て逃(のが)るゝに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)ては所謂(いはゆる)騎(き)        虎(こ)の勢(いきほひ)で東軍(とうぐん)支隊(したい)は何処(どこ)迄(まで)も前進(ぜんしん)するので忠重(たゞしげ)は之(これ)を制(せい)したが到底(とうてい)号令(ごうれい)が行(おこな)はれぬ然(しか)るに此(この)時(とき)西軍(せいぐん)        即(すなは)ち勝入(しようにう)の率(ひき)ゆる支隊(したい)の第三隊は方(まさ)に金萩原(かねはぎばら)に休憩中(きうけいちう)であつたが後隊(こうたい)に方(あた)つて銃声(ぢうせい)が聞(きこ)ゆるので恠訝(けゞん)       し斥候(せきこう)を派(はつ)した処(ところ)が東軍(とうぐん)の襲撃(しうげき)である事が分(わか)つたのみならず第四隊からも続々(ぞく〳〵)急報(きうほう)に接(せつ)したので隊長(たいてう) 檜ケ根   の堀秀政(ほりひでまさ)は直(たゞ)ちに隊(たい)を回(くわい)して長久手(ながくて)に至(いた)り檜(ひのき)ケ根(ね)と云ふ高地(こうち)を占領(せんれう)して之(これ)に兵(へい)を配列(はいれつ)し香流川(かなれがは)を前(まへ)に       して陣取(ぢんど)つたのであるが恰(あたか)も其処(そこ)へと東軍(とうぐん)の支隊(したい)は一 処(しよ)になつて攻(せ)め寄(よ)せて来(き)たのであるソコで西軍(せいぐん)の        堀隊(ほりたい)は高地(こうち)から之(これ)を俯射(ふしや)したのであるから今度(こんど)は東軍(とうぐん)の方(ほう)が大敗(たいはい)したので其(その)予備(よび)及(およ)び右翼隊(うよくたい)は猪子石(ゐのこいし)        方面(ほうめん)に左翼隊(さよくたい)は岩作(いわさ)方面(ほうめん)に退却(たいきやく)したのである秀政(ひでまさ)は因(よつ)て兵(へい)を分(わか)つて之(これ)を追撃(つひげき)したが其(その)時(とき)丁度(ちようど)家康(いへやす)信雄(のぶを) 富士ケ根  は共(とも)に東軍(とうぐん)の本隊(ほんたい)を率(ひき)ゐて瀬戸街道(せとかいどう)に沿(そ)ひズツト西軍(せいぐん)の右翼(うよく)(《割書:初めの|左翼》)を迂回(うくわい)して檜(ひのき)ケ根(ね)の裏手(うらて)に当(あた)る富(ふ)        士(じ)ケ根(ね)と云ふ処に現(あら)はれたので驚(おどろ)いたのは秀政(ひでまさ)である遂(つひ)に稲葉(いなば)から楽田(がくでん)の本陣(ほんぢん)に向(むか)つて逃(に)げ皈(かへ)つたの       であるが結局(けつきよく)取残(とりのこ)されたのか西軍(せいぐん)の第一第二 両隊(れうたい)で孰(いづ)れも後隊(こうたい)警報(けいほう)を聞(き)いて隊(たい)を回(くわい)した処(ところ)が既(すで)に皈(き)        路(ろ)は家康(いへやす)の為(ため)に遮断(しやだん)せられたと云ふ訳(わけ)で余義(よぎ)なく長久手(ながくて)に於(おい)て会戦(くわいせん)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)結(けつ) 《割書:信輝長可等|の戦死》   果(くわ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く池田勝入(いけだかついり)並(ならび)に其(その)子之助(このすけ)及(およ)び森長可(もりながよし)の主将(しゆせう)は孰(いづ)れも討死(うちじに)し之助(ゆのすけ)の弟(おとゝ)輝政(てるまさ)独(ひと)り逃(のが) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千八百九十四号附録   ( 明治四十四年十月二十四日発行 ) 【本文】       れたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は追撃(つひげき)を矢田川(やだがは)までに止(とゞ)めしめ午後一時には戦闘(せんとう)を終(をは)つて四時頃には既(すで)に小(を)        幡城(はたじよう)に入(い)たのである       トコロで秀吉(ひでよし)である自(みづか)ら楽田(がくでん)の陣(ぢん)に居(を)つて信輝(のぶてる)等(ら)の運動(うんどう)を容易(ようい)ならしむる為(た)めに六日 及(およ)び九日に小牧(こまき)       の塁(るい)を攻撃(こうげき)せしめたが余(あま)り功(こう)がなかつた然(しか)るに九日の正午(せうご)に至(いた)つて先(ま)づ白山林(はくさんばやし)の敗報(はいほう)が至(いた)つたので大(おほい)       に驚(おどろ)き急(きう)に応援(おうゑん)の方針(ほうしん)を定(さだ)め午後一時頃には自(みづか)ら兵(へい)二万許を率(ひき)ゐて出発(しゆつぱつ)したが途中(とちう)で岩崎城(いわざきじよう)攻撃(こうげき)に関(かん)       する報告(ほうこく)を得(え)たので益(ます〳〵)前途(ぜんと)を気遣(きづか)つて急行(きうこう)したのであるが此(この)時(とき)小牧山(こまきやま)に留守(るす)をして居(を)つた徳川方(とくがはがた)で       は諜(しゆ)して此(この)事(こと)を知(し)つたので評議(ひようぎ)をした処が酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は此(この)機(き)に乗(ぜう)じて前面(ぜんめん)の敵塁(てきるい)を突(つ)くならば敵(てき)は必(かなら)ず        敗軍(はいぐん)するであろうと云ふので之(これ)を主張(しゆてう)し本多忠勝(ほんだたゞかつ)も同意(どうい)であつたが独(ひと)り石川数正(いしかはかづまさ)は之(これ)に同意(どうい)せぬので        忠次(たゞつぐ)は非常(ひじやう)に残念(ざんねん)がつたが到底(とうてい)打捨(うちす)てゝ置(お)く訳(わけ)に行(ゆ)かぬと云ふ処から本多忠勝(ほんだたゞかつ)は石川康通(いしかはやすみち)と共(とも)に手兵(しゆへい)        僅(わづか)に五百人を率(ひき)ゐて秀吉(ひでよし)の大軍(たいぐん)に尾(び)し遂(つひ)に其(その)本部(ほんぶ)と駢行(へいこう)して行(ゆ)く〳〵之(これ)を銃撃(じうげき)したのである之(これ)は忠勝(たゞかつ)       が抜群(ばつぐん)の功(こう)として有名(ゆうめい)なる事であるが此(この)時(とき)の事情(じぜう)に付(つい)ても種々(しゆ〴〵)の説(せつ)がある例(しか)私(わたくし)は今(いま)三 河物語(かはものがたり)に拠(よ)       つたので同書(どうしよ)には左(さ)の如(ごと)くに記(しる)されてある         然(しかる)処(ところ)に小牧山(こまきやま)に相残(あひのこり)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)申(もうし)けるは関白殿(くわんぱくどの)押(おし)て出(いで)られければ小幡筋(をはたすぢ)の儀(ぎ)を心元(こゝろもと)なく存(ぞん)ずれ         之(これ)より二 重堀(ぢうほり)を押破(おしやぶ)りて悉(こと〴〵)く陣屋(ぢんや)に火(ひ)を掛(か)けて焼払(やきはら)ふものならば関白殿(くわんぱくどの)も敗軍(はいぐん)有(あ)るべしとすゝみ         給(たま)へ共(ども)其(その)比(ころ)より石川伯耆守(いしかはほうきのかみ)は関白殿(くわんぱくどの)へ心(こゝろ)のある間(あひだ)其(その)儀(ぎ)然(しか)るべからずとて伯耆守(ほうきのかみ)一ゑんに進(すゝ)まざれば         左衛門尉(さゑもんじよう)は手(て)に汗(あせ)を握(にぎ)つて白沫(はくまつ)をかみて伯耆守(ほうきのかみ)進(すゝ)まざれば打(うち)おきぬ本多中務守左衛門尉(ほんだなかづかさのかみさゑもんじよう)と同意(どうい)なれ        ば伯耆守(ほうきのかみ)進(すゝ)まぬと見(み)さらば我等(われら)は小幡(をはた)へ迎(むかへ)に参(まゐ)らむと五百 計(ばかり)にて関白殿(くわんぱくどの)のそないの下(した)を推(おし)て通(とほ)り        小幡(をはた)の城(しろ)へ行(ゆ)きて御供(おんとも)を申(もうし)て小牧山(こまきやま)へ来(きた)る敵味方(てきみかた)共(とも)に本多中務(ほんだなかづかさ)を褒(ほ)めたり 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十五 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十六 【本文】        兎(と)に角(かく)右(みぎ)の様(よう)な訳(わけ)であつたが秀吉(ひでよし)は之(これ)等(ら)には一 向(こう)頓着(とんちやく)なく偏(ひとへ)に急行(きうこう)して午後五時には小幡城(をはたじよう)の直(す)ぐ東(とう)        北(ほく)に当(あた)る龍泉寺(りうせんじ)と云ふ処まで到着(とうちやく)し先(ま)づ長久手(ながくて)の様子(ようす)を探(さく)らしめた処が戦争(せんそう)は既(すで)に終(をは)つて己(おの)れの軍(ぐん)が        敗北(はいぼく)し家康(いへやす)等(ら)は小幡城(をはたじよう)に入(い)つた後(のち)であると云ふので速(すみやか)に其(その)城(しろ)を攻撃(こうげき)せようとしたのであるが日没(にちぼつ)に        近(ちか)いので明朝(みようてう)を俟(ま)つことになつたのであるトコロが家康(いへやす)は長居(ながゐ)は無用(むよう)であると云ふので兵(へい)二百 余人(よにん)を此(こ)        処(こ)に留(とゞ)めて午後八時頃から信雄(のぶを)と共(とも)に潜(ひそか)に兵(へい)を収(おさ)めて小牧(こまき)の塁(るい)に皈(かへ)つて仕舞(しま)つたので秀吉(ひでよし)も実(じつ)に其(その)迅(じん)        速(そく)なる事に一 驚(けう)を喫(きつ)したのであるが今更(いまさ)ら仕方(しかた)がなく自分(じぶん)も其(その)翌日(よくじつ)楽田(がくでん)に皈(かへ)つたのである之(これ)より両軍(れうぐん)       は益々(ます〳〵)守備(しゆび)を厳(げん)にして再(ふたゝ)び対峙(たいじ)の形勢(けいせい)を持続(ぢぞく)するに至(いた)つたのである        先(ま)づ小牧山(こまきやま)対陣(たいぢん)並(なら)びに長久手(ながくて)会戦(くわいせん)の話(はなし)はザツト右(みぎ)の如(ごと)くであるが此処(こゝ)に少(すこ)しく御話(おはなし)したいのは彼(か)の牧(まき)        野成里(のしげさと)の事である茂里(しげさと)は即(すなは)ち傳蔵(でんざう)と称(せう)した人でズツト前(まへ)に御話(おはなし)した豊橋(とよはし)の築城者(ちくじようしや)牧野古白(まきのこはく)の子(こ)傳蔵信(でんざうのぶ)        成(しげ)と云つた人の孫(まご)に当(あた)るのである信成(のぶしげ)は御承知(ごせうち)の通(とほ)り享禄(けうろく)二年(《割書:一に天文元|年に作る》)松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に攻(せ)められて        戦死(せんし)したが其(その)時(とき)妻(つま)が妊娠中(にんしんちう)で里方(さとかた)の知多郡(ちたぐん)へ逃(のが)れたが後(のち)に生むだのが傳蔵成継(でんざうしげつぐ)と云ふ人である然(しか)るに        此(この)人(ひと)は廿九歳の時(とき)知多郡(ちたぐん)師崎(もろさき)の城主(じようしゆ)石川筑後守(いしかはちくごのかみ)と云ふ人と囲碁(ゐご)の事で争論(そうろん)をして遂(つひ)に殺害(さつがい)せられたが       其(この)成継(しげつぐ)の子(こ)が即(すなは)ち成里(しげさと)で幼少(ようせう)の時から旧臣(きうしん)に養育(やういく)せられ長(てう)ずるに及(およん)で復讎(ふくしう)の志(こゝろざし)があつたのである然(しか)       るに仇(かたき)の筑後守(ちくごのかみ)は其(その)事(こと)を聞(き)いて人に語(かた)つて云(い)ふには我(われ)は既(すで)に老衰(らうすい)に及(およ)むで家督(かとく)を子(こ)の隼人佑(はやとのすけ)に譲(ゆづ)つた       のであるソレにも拘(かゝは)らず成里(しげさと)が壮年(さうねん)の隼人佑(はやとのすけ)を差置(さしお)いて此(この)老衰(らうすい)の我(われ)をねらふと云ふのは実(じつ)に勇(ゆう)なきも       のであるとコウ云つたのを成里(しげさと)が聞(き)き込(こ)むで然(しか)る上(うへ)は隼人佑(はやとのすけ)を父(ちゝ)の仇(かたき)として討(う)つべきであると云ふの       で元亀二年 遂(つひ)に知多郡(ちたぐん)大野(おほの)宮山(みややま)の狩場(かりば)に於(おい)て之(これ)を殺(ころ)し父(ちゝ)の復讎(ふくしう)をしたのであるが其(その)時(とき)成里(しげさと)は年(とし)僅(わづか)に十       六歳であつた然(しか)るに当時(とうじ)伊勢(いせ)の長島城(ながしまじよう)に居(を)つた瀧川一益(たきがはかずます)が此(この)事(こと)を知(し)つて家来(けらい)を寄越(よこ)して之(これ)を助(たす)け無事(ぶじ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       に長島(ながしま)に引取(ひきと)つたのであるそれより成里(しげさと)は一益(かづます)近侍(きんじ)の臣(しん)となつて伊勢国(いせのくに)片岡(かたはま)、 浅香(あさか)、 大河内(おほかうち)並(ならび)に三河(みかは)        国(くに)長篠(ながしの)の合戦(かつせん)などに数々(しば〳〵)功(こう)があつたが一益(かづます)が一 時(じ)没落(ぼつらく)した時に初(はじ)めて織田信雄(をたのぶを)に仕(つか)へたのである而(しか)し       て今度(このたび)の小牧(こまき)の役(えき)には常(つね)に信雄(のぶを)の軍中(ぐんちう)に加(くは)はり又(ま)た長久手(ながくて)の会戦(くわいせん)には家康(いへやす)の金扇馬標(きんせんうまじるし)の後(あと)に従(したがつ)て働(はたら)       いたのである今(いま)尾張(おはり)の徳川侯爵家(とくがはこうしやくけ)に長久手(ながくて)と長篠(ながしの)の戦争(せんそう)とを画(えが)いた六 枚折(まいをり)の屏風(びようぶ)が一 双(そう)あるが之(これ)は其(その)        当時(とうじ)を去(さ)ること余(あま)り遠(とほざ)からざる時代(じだい)に出来(でき)たもので且(か)つ調査(てうさ)が能(よ)く行届(ゆきとゞ)いて居(を)ると云ふので相当(さうとう)に歴史(れきし)       の参考(さんこう)になるものであると云ふ事であるが之(これ)にも長久手(ながくて)の役(えき)で山(やま)の間(あひだ)から家康(いへやす)の金扇馬標(きんせんうまじるし)が躍(おど)り出(い)づ       る其(その)後(あと)に成里(しげさと)の幟印(のぼりじるし)が継(つ)いて来(く)る処(ところ)が書(か)いてある其(その)後(のち)此(この)成里(しげさと)は長谷川秀一(はせがはひでかづ)に属(ぞく)して文禄(ぶんろく)の役(えき)には朝鮮(てうせん)       に渡(わた)つて戦功(せんこう)があり皈朝(きてう)後(ご)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に仕(つか)ゆることとなつたが秀次(ひでつぐ)滅亡(めつぼう)後(ご)は石田三成(いしだかづしげ)に属(ぞく)したので関(せき)ケ原(はら)        敗北(はいぼく)の後(あと)は池田輝政(いけだてるまさ)に依(よ)つたのである然(しか)るに其(その)紹介(せうかい)で最後(さいご)に家康(いへやす)に謁(えつ)して秀忠(ひでたゞ)の近侍(きんし)に採用(さいよう)せられ釆(さい)        地(ち)三千石を下野市(しもつけ)の梁田郡(れうだごほり)に貰(もら)つたのである之(これ)が即(すなは)ち先(さき)にも御話(おはなし)して置(お)いた静岡県(しづをかけん)士族(しぞく)牧野成一(まきのしげかづ)君(くん)の祖(そ)        先(せん)になるので成里(しげさと)の肖像(せうぞう)は今(いま)も同君(どうくん)の家(いへ)に蔵(ざう)せられてあるが狩野安信(かのをやすのぶ)の筆(ふで)で最(もつと)も資料(しれう)となるべきもの       である尚(な)ほ成里(しげさと)が文禄(ぶんろく)の役(えき)に朝鮮(てうせん)の晋州(しんしゆう)から持(も)ち皈(かへ)つた鼓(つゝみ)と貨狄(くわてき)の像(ぞう)とがあるが之(これ)は下野(しもつけ)梁田郡(れうだごほり)羽田(はだ)        村(むら)の龍江院(りうこうゐん)と云ふ寺(てら)に遺(のこ)つて居(を)るとの事(こと)である此(この)寺(てら)は即(すなは)ち成里(しげさと)を葬(ほうむ)つた処で成里(しげさと)は慶長(けいてう)十九年四月廿       三日 年(とし)五十九で没(ぼつ)したのであるが此(この)人(ひと)には成信(しげのぶ)成従(しげよれ)成純(しげすみ)成常(しげつね)と云ふ四人の男子(だんし)があつて家督(かとく)は三 男(なん)の        成純(しげすみ)が継(つ)いだのである然(しか)るに成純(しげすみ)は兄(あに)成信(しげのぶ)に対(たい)する義理(ぎり)の上(うへ)から自分(じぶん)は終身(しうしん)娶(めと)らずして特(とく)に成信(しげのぶ)の子(こ)        成勝(しげかつ)を養(やしなつ)て子(こ)としたが成常(しげつね)も亦(ま)た終身(しうしん)娶(めと)らなかつた人で之(これ)も矢張(やはり)成信(しげのぶ)の二 男(なん)成喬(しげたか)を養(やしなつ)て子(こ)とした       との事である又(ま)た成信(しげのぶ)と云ふ人は後(のち)に禅門(ぜんもん)に入(い)つて諸国(しよこく)を遊歴(ゆうれき)し一 時(じ)京都(けうと)の東山(ひがしやま)に閑居(かんきよ)して風車軒(ふうしやけん)と        称(せう)したが其(その)幽栖(ゆうす)の風雅(ふうが)なる処から後水尾帝(ごみづのをてい)の叡聞(えいぶん)に達(たつ)し御落飾後仙駕(ごらくしよくごせんが)を抂(まげ)られて叡覧(えいらん)があつたと云ふ 【欄外】    豊橋市史談  (小牧役と牧野成里)                    百四十七 【欄外】    豊橋市史談  (秀吉と信雄家康の媾和)                    百四十八 【本文】       事が武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)に記(しる)してある次第(しだい)である今(いま)此(この)人(ひと)の画像(ぐわぞう)も狩野尚信(かのをなほのぶ)の筆(ふで)で同家(どうけ)に伝(つたは)つて居(を)るのである              ⦿秀吉と信雄家康の媾和        話(はなし)は又(ま)た前(まへ)に戻(もど)つて秀吉(ひでよし)は小牧(こまき)の対陣(たいぢん)に於(おい)て到底(とうてい)東軍(とうぐん)に乗(ぜう)ずべき隙(すき)がないのを見(み)て堀秀政(ほりひでまさ)加藤光泰(かとうみつやす)等(ら)       をして楽田(がくでん)犬山(いぬやま)等(とう)に駐屯(ちうとん)せしめ自(みづか)らは五月朔日兵六万を率(ひき)ゐて美濃(みの)に退(しりぞ)き更(さら)に西尾張(にしをはり)に入(い)つて丹羽郡(にはぐん)        加賀野井(かゞのゐ)の城(しろ)を攻(せ)め更(さら)に竹(たけ)ケ鼻(はな)の城(しろ)を攻(せ)めて孰(いづ)れも之(これ)を取(と)つたのであるがそれより大垣(おほがき)に出(い)で廿一日       には西近江(にしあふみ)に入(い)り廿八日 遂(つひ)に大坂(おほさか)に皈(かへ)つたのであるソコで東軍(とうぐん)の方(ほう)でも信雄(のぶを)は五月三日一たび長島城(ながしまじよう)       に帰(かへ)り家康(いへやす)独(ひと)り留(とゞまつ)て小牧山(こまきやま)にあつたが六月十二日に至(いた)り酒井忠次(さかゐたゞつぐ)を留(とゞ)めて己(おの)れは清洲城(きよすのしろ)に入(い)つたの       である然(しか)るに蟹江城(かにえのじよう)の留守(るす)前田種利(まへだたねとし)が東軍(とうぐん)に叛(そむ)いて瀧川一益(たきがはかづます)を引(ひ)き入(い)れ長島(ながしま)清洲(きよす)間(かん)の連絡(れんらく)を絶(たゝ)むとし       たので家康(いへやす)信雄(のぶを)は此(この)城(しろ)を攻撃(こうげき)して種利(たねとし)は殺(ころ)され一益(かづます)は伊勢(いせ)に走(はし)つたと云ふような騒(さわ)ぎもあつたが結局(けつきよく)        尾張(をはり)は東軍(とうぐん)の平定(へいてい)する処となつたのであるトコロで秀吉(ひでよし)は再(ふたゝ)び八月の十五日を以(もつ)て大坂(おほさか)を発(はつ)し尾張(をはり)に        入(い)つたが此(この)時(とき)も家康(いへやす)信雄(のぶを)は出陣(しゆつぢん)した併(しか)し両軍(れうぐん)は相対峙(あひたいじ)せるのみで秀吉(ひでよし)は又(ま)たも志(こゝろざし)を得(う)る事(こと)が出来(でき)な       かつたのである当時(とうじ)両軍(れうぐん)の間(あひだ)に和議(わぎ)が起(おこ)つたが成立(せいりつ)しなかつた然(しか)るに秀吉(ひでよし)は九月十七日 大垣(おほがき)に移(うつ)り十       月六日には大坂(おほさか)に皈(かへ)つたのである而(しか)して家康(いへやす)信雄(のぶを)も亦(ま)た九月廿七日に清洲(きよす)に入(い)り十七日 家康(いへやす)は岡崎(をかざき)信(のぶ)        雄(を)は長島(ながしま)へ各々(おの〳〵)帰還(きくわん)したのである        此(かく)の如(ごと)く秀吉(ひでよし)は屡々(しば〳〵)来(きた)つて尾張(をはり)に陣(ぢん)したがドウモ志(こゝろざし)を得(う)る事(こと)が出来(でき)なかつたので十月に至(いた)つて今度(このたび)       は路(みち)を転(てん)じて伊勢(いせ)に出(い)で其廿三日 羽津(はづ)に陣(ぢん)したのであるソコで長島(ながしま)に居(を)つた織田信雄(をだのぶを)は之(これ)を聞(き)いて大(おほい)に        驚(おどろ)き急(きう)を清洲(きよす)に告(つ)げたのであるが当時(とうじ)清洲(きよす)には酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が留守(るす)をして居(を)つたので直様(すぐさま)其(その)事(こと)を岡崎(をかざき)の家(いへ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百号附録      ( 明治四十四年十月三十一日発行 ) 【本文】        康(やす)に知(し)らせたのである因(よつ)て家康(いへやす)は十一月九日に清洲(きよす)に出陣(しゆつぢん)して信雄(のぶを)を赴援(ふゑん)する為(ため)に忠次(たゞつぐ)等(ら)を桑名(くわな)まで        出陣(しゆつぢん)せしめたのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)は再(ふたゝ)び富田知信(とみたとものぶ)津田信勝(つだのぶかつ)の両人(れうにん)を使(し)として信雄(のぶを)に媾和(こうわ)の事を交渉(こうせう)せ 《割書:秀吉信雄の|媾和》  しめたのである而(しか)して信雄(のぶを)は遂(つひ)に之(これ)を諾(だく)するに至(いた)つたのであるが此(この)事(こと)に就(つい)ても異説(ゐせつ)があつて此(この)媾和(こうわ)は        信雄(のぶを)の方(ほう)から秀吉(ひでよし)に申込(もうしこ)むだものであるとの説(せつ)がある併(しか)し当時(とうじ)秀吉(ひでよし)は海内(かいない)の統(とう)一を図(はか)ることに急(きう)であつ       た処から自(みづか)ら之(これ)を促(うなが)したものであると云ふ説(せつ)の方(ほう)が有力(ゆうりよく)のように思(おも)はるゝのである兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き訳(わけ) 《割書:矢田河原の|会見》  で其十一日に秀吉(ひでよし)と信雄(のぶを)とは共(とも)に矢田河原(やだかはら)に会見(くわいけん)し秀吉(ひでよし)からは礼(れい)を厚(あつ)ふして信雄(のぶを)を遇(ぐう)したのであるト       コロで信雄(のぶを)は頻(しき)りに家康(いへやす)と媾和(こうわ)するように秀吉(ひでよし)に熱望(ねつぼう)したのであるが秀吉(ひでよし)も元(もと)より家康(いへやす)との和親(わしん)を欲(ほつ)       したのであるソコで自身(じしん)は其十七日に坂本(さかもと)に帰(かへ)り尋(つい)で京師(けうし)に入(い)つたのであるが其(その)使(し)は廿一日に浜松(はままつ)に        至(いた)つて家康(いへやす)に会見(くわいけん)し和談(わだん)をしたのである之(これ)より先(さ)き家康(いへやす)は十二日に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)から秀吉(ひでよし)信雄(のぶを)間(かん)に和(わ)の成(な)       つたと云ふ知(し)らせを得(え)たのであるが十六日に石川数正(いしかはかづまさ)を信雄(のぶを)及(およ)び秀吉(ひでよし)の陣(ぢん)に遣(つかは)して賀詞(がし)を述(の)べしめ自(じ) 《割書:秀吉家康の|和成る》   身(しん)は其(その)日(ひ)岡崎(をかざき)に入(い)り廿一日に至(いた)つて浜松(はままつ)に帰(かへ)つたのである然(しか)るに此(この)秀吉(ひでよし)家康(いへやす)間(かん)の和(わ)も成立(なりた)つて家康(いへやす)か       ら其(その)子(こ)於義丸(おぎまる)を秀吉(ひでよし)の養子(やうし)として遣(つか)はす事になり家康(いへやす)は十二月の十二日に石川数正(いしかはかづまさ)をして於義丸(おぎまる)を大(おほ)        坂(さか)に送(おく)らしめたのであるが此(この)事(こと)に就(つい)ては信雄(のぶを)も大(おほい)に中間(ちうかん)で斡旋(あつせん)の労(らう)を取(と)つたと云ふ事である併(しか)し此(この)間(あひだ)       に於(お)ける秀吉(ひでよし)家康(いへやす)両雄(れうゆう)間(かん)の魂胆(こんたん)と云ふものは実(じつ)に味(あじは)ふべきもので双方(そうほう)共(とも)に中々(なか〳〵)巧(たくみ)なものであると思(おも)ふ 両雄の計策  元来(がんらい)此(この)度(たび)の戦争(せんそう)と云ふものは前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り最初(さいしよ)秀吉(ひでよし)と信雄(のぶを)との争(あらそひ)から起(おこ)つたもので家康(いへやす)は信(のぶ)        雄(を)からの依頼(いらい)であるから義(ぎ)の為(ため)に之(これ)を援(たす)けたと云ふ訳(わけ)になつて居(を)るのである然(しか)るに信雄(のぶを)は困(こま)つた時分(じぶん)       には家康(いへやす)の力(ちから)を借(か)りて秀吉(ひでよし)に対抗(たいこう)し和(わ)を結(むす)ぶに方(あた)つては家康(いへやす)にロク〳〵協議(けうぎ)をも遂(と)げず勝手(かつて)次第(しだい)に敵(てき)       と握手(あくしゆ)すると云ふが如(ごと)き事をなすのは私(わたくし)共(ども)から考(かんが)ふると随分(ずゐぶん)虫(むし)の善(よ)い話(はなし)であると思(おも)ふがソコは家康(いへやす) 【欄外】    豊橋市史談  (秀吉と信雄家康の媾和)                    百四十九 【欄外】    豊橋市史談  (秀吉と信雄家康の媾和)                    百五十 【本文】       である戦(たゝかひ)の張本人(てうほんにん)たる信雄(のぶを)か秀吉(ひでよし)と和(わ)した以上(いぜう)は自分(じぶん)はトチラにも関係(くわんけい)はない筈(はづ)である只(た)だ双方(そうほう)仲(なか)        善(よ)くなるのは御目出度(おめでた)い事であると云ふので苦情(くぜう)や利屈(りくつ)を云ふトコロが却(かへつ)て賀詞(がし)を述(の)べしめて自身(じしん)は       ドン〳〵兵(へい)を引(ひ)いて帰国(きこく)して仕舞(しま)つたと云ふのは誠(まこと)に味(あぢは)ふべき処で実(じつ)に家康(いへやす)の人(ひと)となりが見(み)ゆる様(よう)で       あると思(おも)ふ併(しか)し秀吉(ひでよし)も亦(ま)たサルものである直(たゞ)ちに家康(いへやす)の後(あと)を追掛(おつか)けて使(し)を浜松(はままつ)にやり和(わ)を講(こう)せしめ其(その)        上(うへ)家康(いへやす)の子(こ)於義丸(おぎまる)を養(やしなつ)て子(こ)と致(いた)したいと云ふ事を申込(もうしこ)むで結局(けつきよく)は家康(いへやす)を征服(せいふく)した形(かたち)に推移(すゐい)せしめよ       うとした手際(てぎは)は巧(たくみ)なものと云はねばならぬ然(しか)るに此(この)事(こと)に対(たい)しては家康(いへやす)は又(また)一 段(だん)其(その)上(うへ)を謀(はか)つたので於義(おぎ)        丸(まる)一人は止(やむ)を得(え)ず之(これ)を犠牲(ぎせい)としても何処(どこ)までも己(おの)れの勢(いきほひ)を支持(しぢ)することを勉(つと)めた遣(や)り方(かた)は之(こ)れ亦(ま)た英(えい)        雄(ゆう)の英雄(えいゆう)たる処とも云ふべきであろうか此(この)点(てん)がドウ見(み)ても両雄(れうゆう)の性格(せいかく)を丸出(まるだ)しにして居(を)るように思(おも)は       るゝのである       サテ此(この)於義丸(おぎまる)に対(たい)して秀吉(ひでよし)は羽柴氏(はしばし)を称(せう)せしめ名(な)を秀康(ひでやす)と命(めい)じ頗(すこぶ)る優遇(ゆうぐう)したのであるが両雄(れうゆう)の間(あひだ)には       ドウもまだ融和(ゆうわ)せざる処があつて家康(いへやす)は敢(あへ)て膝(ひざ)を屈(くつ)して大坂(おほさか)至(いた)らず又(ま)た秀吉(ひでよし)が浜松(はままつ)に出掛(でか)けて来(く)る       ような筈(はづ)もなく双方(そうほう)共(とも)に腹(はら)と腹(はら)とで睨(にら)め合(あ)つて居(を)ると云ふ形勢(けいせい)であつたが其(その)間(あひだ)に秀吉(ひでよし)は北陸(ほくりく)及(およ)び中国(ちうごく)         四国(しこく)を定(さだ)め関白(くわんぱく)に任(にん)せられて位(くらゐ)は従(じう)一 位(ゐ)の高(たか)きに至(いた)つたのであるトコロが家康(いへやす)は信州(しんしう)に真田昌幸(さなだまさゆき)の反(はん)        抗(こう)などの事はあつたが一 方(ぽう)には益(ます〳〵)北條氏(ほうでうし)と懇親(こんしん)を重(かさ)ねて秀吉(ひでよし)を防御(ばうぎよ)するだけの策(さく)は立(た)てゝ居(を)つたの       で其(その)威望(ゐばう)東海(とうかい)を圧(あつ)し容易(ようい)に秀吉(ひでよし)に下(くだ)らぬので秀吉(ひでよし)はドウカして之(これ)を服従(ふくじう)せしめたいと云ふので之(これ)には        余程(よほど)苦(くるし)むだ様子(ようし)で之(これ)は私(わ)が申述(もうしの)べずとも諸君(しよくん)のよく御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふが遂(つひ)に家康(いへやす)をして大坂(おほさか)に 《割書:豊臣徳川二|氏の婚約》   至(いた)らしむる一 策(さく)として其(その)妹(いもと)を家康(いへやす)に嫁(か)する事にしたいと云ふので天正十四年二月廿二日 使者(ししや)羽柴雄親(はしばたけちか)       土方雄久(ひぢかたたけひさ)の両人(れうにん)は先(ま)づ此(この)吉田(よしだ)に来(きた)つて酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に面(めん)して此(この)事(こと)を談(だん)じそれより忠次(たゞつぐ)も共(とも)に浜松(はままつ)に至(いた)つて 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:豊臣氏吉田|に滞在す》   熟談(じゆくだん)した結果(けつくわ)婚約(こんやく)が成(な)つたのである而(しか)して其(その)年(とし)の四月十四日に浜松(はままつ)へ入輿(にうよ)があつたが十一日に三 河(かは)の        西野(にしの)まで忠次(たゞつぐ)の子(こ)の家次(いへつぐ)が迎(むかひ)に出(い)て輿(こし)を請取(うけと)つたのである十二日には即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)されて十三日は        滞在(たいざい)されたのであるが此(この)時(とき)忠次(たゞつぐ)は其(その)一 行(こう)を饗(けう)したのである其(その)時(とき)随行(ずいこう)して来(き)た人々(ひと〳〵)並(ならび)に其(その)宿所(しゆくしよ)などに関(くわん)       し家忠日記(いへたゞにつき)には左(さ)の如(ごと)く記(しる)してある        十二日丙午 御輿吉田迄御着候吉田にて酒左馬寄之国衆上方尾州衆振舞候浅野弥兵衛と奥平九八郎        富田平右衛門は野田西郷瀧川喜太夫は下形の原伊藤太郎左衛門は深溝五井小田源吾殿瀧川三郎兵は        二連木飯田半兵衛は設楽也女房衆は酒左衛門也いづれも金銀の仕立や伊藤殿太刀折紙杉原二束下さ        れ候此方よりは太刀折紙計進し候伊藤殿宿は戸田左門所也        即(すなは)ち此(この)時(とき)は浅野長政(あさのながまさ)が一 行(こう)を監督(かんとく)して来(き)たのである此(かく)の如(ごと)く豊臣(とよとみ)徳川(とくがは)二 氏(し)は姻戚関係(ゐんせきくわんけい)が出来(でき)たのであ 《割書:大政所岡崎|に来る》  るが家康(いへやす)は尚(なほ)容易(ようい)に大坂(おほさか)に出向(しゆつこう)がないので秀吉(ひでよし)は益(ます〳〵)苦心(くしん)して遂(つひ)に其(その)母(はゝ)大政所(おほまんどころ)をして其(その)娘(むすめ)面会(めんくわい)の為(ため)       と言(い)ふ事で岡崎(をかざき)に至(いた)らしめたので言(い)はゞ質(しち)のような訳(わけ)であつたのであるが其(そ)の上(うへ)で更(さら)に家康(いへやす)の出頭(しゆつとう)を 家康の上洛  促(うなが)したのであるから家康(いへやす)もイヨ〳〵決心(けつしん)して十月十四日を以(もつ)て浜松(はままつ)を発(はつ)し初(はじ)めて上洛(ぜうらく)の途(と)に就(つ)いたの       である然(しか)るに此(この)時(とき)徳川家(とくがはけ)の重臣(じゆうしん)と云ふものは孰(いづ)れも之(これ)を危(あやぶ)むだもので或(あるひ)は家康(いへやす)が大坂(おほさか)に入(い)つたならば 《割書:酒井忠次の|意見》   暗殺(あんさつ)でもされはしまいかと心配(しんぱい)した様子(ようす)である酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は最(もつと)も其(その)上洛(ぜうらく)を不可(ふか)とした論者(ろんしや)であつたよう       に見(み)ゆるが三 河物語(かはものがたり)に左(さ)の記事(きじ)がある         坂井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)被申(もうされ)けるは御上洛(ごぜうらく)之(の)儀共(ぎども)さりとはゆわれざる思召(おぼしめし)立(たて)にて御座候(ござそろ)兎角(とかく)に思召(おぼしめし)とゞまら        せ給(たま)へ御手(おんて)ぎれに罷(まかり)成申(なりもうす)共(とも)兎角(とかく)に御上洛(ごぜうらく)之(の)儀(ぎ)はふんべつに及不申候(およびもうさずそろ)何(なん)と御座候(ござそうら)へても今度(このたび)の御上(ごぜう)         洛(らく)は是非共(ぜひとも)に思召(おぼしめし)とゞまらせられ可被成(なされべく)と各々(おの〳〵)もしきつて申上(もうしあげ)給(たま)へば左衛門尉(さゑもんじよう)を初(はじ)め各々(おの〳〵)は何(なん) 【欄外】    豊橋市史談  (秀吉と信雄家康の媾和)                    百五十一 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次の退隠)                    百五十二 【本文】         左様(さよう)には申(もうす)ぞ我(われ)一 人(にん)腹(はら)を切(きつ)てばんみんをたすけべし我(わ)が上洛(ぜうらく)せずむば手(て)ぎれ可有(あるべく)然共(しかれども)百万 騎(き)にて寄(よせ)        くる共(とも)一合戦(ひとかつせん)にて打(うつ)はたすべけれ共(ども)陣(ぢん)のならいはさもなきものなり我(われ)一 人(にん)の覚悟(かくご)を以(もつ)て民百姓(たみひやくせう)諸(しよ)         侍(さむらひ)共(ども)を山野(さんや)にはめて殺(ころ)すならば其(その)もうれいのおもわくもおそろしき我(われ)一 人(にん)腹(はら)を切(きる)ならば諸人(しよにん)の命(いのち)        たすけおくべし其(その)方(ほう)なども必(かなら)ず何(なに)かの義(ぎ)不申共(もうさずとも)わひ事(こと)をして諸人(しよにん)の命(いのち)を助(たす)けおけと被仰(あふせられ)ければ左衛(さゑ)         門尉(もんじよう)も左様(さよう)にも思召(おぼしめし)に付(つい)ては御尤(ごもつとも)なり御上洛(ごぜうらく)可被成(なされべく)之(の)由(よし)申被上(もうしあげられ)けるをさすがにおとなの御返事(ごへんじ)には        にあひたりと申(もうし)ける 家康の決心  之(これ)で見(み)ると実(じつ)に家康(いへやす)の決心(けつしん)と云ふものは立派(りつぱ)なもので何(なん)とも敬服(けいふく)の外(ほか)はないのであるが結局(けつきよく)前(まへ)にも申(もうし)        述(の)べた如(ごと)く家康(いへやす)は遂(つひ)に上洛(ぜうらく)と決(けつ)して其(その)月(つき)の廿六日に大坂(おほさか)に着(ちやく)し更(さら)に秀吉(ひでよし)と共(とも)に京都(けうと)に出(い)でゝ大(だい)なる優(ゆう)        遇(ぐう)を受(う)けたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は志(こゝろざし)を屈(くつ)して秀吉(ひでよし)の為(ため)に一 歩(ぽ)を譲(ゆづ)つたのである蓋(けだ)し前(まへ)にも申述(もうしの)ぶる        通(とほ)り此処(ここ)が両雄(れうゆう)の性格(せいかく)を現(あら)はして居(を)る処(ところ)で若(も)しも此(この)時(とき)家康(いへやす)が何処(どこ)迄(まで)も硬骨(こうこつ)であつて上洛(ぜうらく)せなかつたな       らば其(その)結果(けつくわ)は如何(いかゞ)であつたであろうか徳川氏(とくがはし)の将士(せうし)は武骨(ぶこつ)一 偏(ぺん)で云(い)はゞ世間(せけん)狭(せま)い処(ところ)がある豊臣氏(とよとみし)の方(ほう)       は中々(なか〳〵)宏量(くわうれう)大度(たいど)で広(ひろ)く天下(てんか)の大勢(たいせい)に通(つう)じて居(を)る処(ところ)はあるがさりとてまだ種々(しゆ〴〵)なる事情(じぜう)が周囲(しうゐ)に蟠(わだかま)つ       て居(を)るので根本的(こんぽんてき)に徳川氏(とくがはし)を打(う)ち破(やぶ)ると云ふが如(ごと)き事は容易(ようい)でない或(あるひ)は徳川氏(とくがはし)仆(たふ)るゝか豊臣氏(とよとみし)破(やぶ)るゝ       か何(いづ)れにしても天下(てんか)は再(ふたゝ)び一 擾乱(ぜうらん)を醸(かも)した事と思(おも)ふのである此処(ここ)等(ら)の事情(じぜう)から両氏(れうし)の関係(くわんけい)を討究(とうきう)する       のは歴史上(れきしぜう)最(もつと)も趣味(しゆみ)のあることではあるまいかと思(おも)ふが余(あま)り長(なが)くなる事でもあるから此(この)話(はなし)は先(ま)づ此処(ここ)ら       で止(とゞ)めたいと思(おも)ふ             ⦿酒井忠次の退隠 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六号附録      ( 明治四十四年十一月七日発行 ) 【本文】       サテ家康(いへやす)が上洛(ぜうらく)して之(これ)が却(かへつ)て豊臣氏(とよとみし)との間(あひだ)に長(なが)く和親(わしん)を固(かた)むるの原因(げんゐん)となつた事は前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)       くであるが併(しか)し其(その)上洛(ぜうらく)に当(あたつ)ては徳川氏(とくがはし)は頗(すこぶ)る大決心(たいけつしん)を以(もつ)てしたものでイヨ〳〵上洛(ぜうらく)すると云ふ前(まへ)には        尚(な)ほ一 層(そう)東(ひがし)北條氏(ほうでうし)との間(あひだ)に懇親(こんしん)を温(あたゝ)めて置(お)く必要(ひつえう)があると云ふので天正十四年三月 家康(いへやす)は態々(わざ〳〵)自身(じしん)に 惣河原の宴  北條氏(ほうでうし)の領地(れうち)なる伊豆(いづ)の三島(みしま)まで出張(しゆつてう)して北條氏政(ほうでううぢまさ)と会見(くわいけん)したのであつたが其(その)時(とき)惣河原(そうがはら)と云ふ処で酒(しゆ)        宴(えん)があつて其(その)席上(せきぜう)で酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は戯(たはむれ)に舞(まひ)を舞(ま)ひそれがタイソウ氏政(うぢまさ)の気(き)に入(い)つて悦(よろこ)ばれたと云ふ話(はなし)が 《割書:家康忠次の|邸に猿楽を》  ある之(これ)は只(た)だ忠次(たゞつぐ)の履歴(りれき)として御話(おはなし)する丈(だけ)の事であるが又(ま)た其(その)翌年(よくねん)の天正十五年十一月十五日には家(いへ) 《割書:見る   | 》   康(やす)が忠次(たゞつぐ)の邸(てい)に臨(のぞ)み終日(しうじつ)猿楽(さるがく)の催(もよほし)があつて家康(いへやす)も歓(くわん)を尽(つく)して皈(かへ)つたと云ふ事である然(しか)るに其(その)又(ま)た翌(よく) 忠次退隠  の天正十六年十月に至(いた)つて忠次(たゞつぐ)は遂(つひ)に退隠(たいゐん)して嫡子(ちやくし)家次(いへつぐ)に家督(かとく)を譲(ゆづ)つたのである其(その)家督(かとく)相続(さうぞく)の時(とき)の事       が矢張(やはり)家忠日記(いへたゞにつき)に書(か)いてあるが甚(はなは)だ味(あぢは)ふべき節(ふし)があると思(おも)ふから左(さ)に抄録(しようろく)する        五日 乙酉(きのととり)吉田(よしだ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)隠居(ゐんきよ)宮内(くない)家督(かとく)祝言(しゆうげん)に吉田(よしだ)へ越(こ)し候 宮内所(くないところ)に振舞(ふるまひ)候(そろ)城(しろ)へ三百 疋(ぴき)樽(たる)肴(さかな)隠居(ゐんきよ)へ        百疋 樽(たる)肴(さかな) 《割書:忠次薙髪し|て一智と号》   右(みぎ)の内(うち)に宮内(くない)とあるのは家次(いへつぐ)の事であるが忠次(たゞつぐ)はそれより薙髪(ちはつ)して一 智(ち)と号(ごう)し京都(けうと)桜井(さくらゐ)の邸(てい)に住(ぢう)して 《割書:す    |忠次卒す》   慶長(けいてう)元年十月廿八日 天寿(てんじゆ)を以(もつ)て其(その)地(ち)に於(おい)て卒(そつ)した年(とし)は七十歳で(《割書:一に七十二歳となす今寛|政重修諸家譜等に従ふ》)法名(ほうみよう)を天誉高月縁(てんよかうげつゑん)        心先求院(しんせんきうゐん)と称(せう)して知恩院(ちおんゐん)に葬(ほうむ)つたのである蓋(けだ)し其(その)桜井(さくらゐ)の邸(てい)と云ふのは忠次(たゞつぐ)が家康(いへやす)の上洛(ぜうらく)に従(したが)つた時(とき)秀(ひで)        吉(よし)の与(あた)へたもので其(その)時(とき)には秀吉(ひでよし)から家康(いへやす)に邸宅(ていたく)を贈(おく)り又(ま)た湯沐(とうもく)の邑(ゆう)として近江国(あふみのくに)守山(もりやま)附近(ふきん)で三万石の       地(ち)を贈(おく)つたのであるが忠次(たゞつぐ)には此(この)桜井(さくらゐ)の邸(やしき)と矢張(やはり)近江(あふみ)で千石 許(ばかり)の地(ち)を与(あた)へたのである而(しか)して前(まへ)にも申(もうし)        述(の)べて置(お)いた如(ごと)く此(この)忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふのは碓井姫(うすゐひめ)後(のち)に光樹夫人(くわうじゆふじん)と云ふので松平清康(まつだひらきよやす)の女(じよ)であるが即(すなは)ち 《割書:光樹夫人の|卒年月日》   家康(いへやす)から云ふと叔母(おば)に当(あた)るのである此(この)人(ひと)も頗(すこぶ)る長寿(てうじゆ)で慶長(けいてう)十七年十一月廿七日に卒(そつ)し法名(ほうみよう)は九 心窓月(しんそうげつ) 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次の退隠)                    百五十三 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次の退隠)                    百五十四 【本文】       三 河国(かはのくに)額田郡(ぬかたぐん)の法蔵寺(ほうぞうじ)に葬(ほうむ)つたのであるモツトモ此(この)人(ひと)が卒(そつ)した月日に就(つい)ては十月の十七日であると云       ふ説(せつ)があるが寛政重修諸家譜(かんせいじゆうしうしよかふ)などには前(まへ)の説(せつ)を採(と)つてあるのである 忠次と吉田 ソコで此(この)忠次(たゞつぐ)と豊橋(とよはし)即(すなは)ち吉田(よしだ)との関係(くわんけい)であるが之(これ)は前(まへ)にも段々(だん〴〵)と章(せう)を重(かさ)ねて申述(もうしの)べた通(とほ)りの次第(しだい)で永       禄八年 忠次(たゞつぐ)が年(とし)三十九でこの此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)となつてから天正十六年の退隠(たいゐん)までは其(その)間(あひだ)約(やく)二十四年で忠次(たゞつぐ)が三       方(かた)ケ原(はら)長篠(ながしの)などの戦役(せんえき)を初(はじ)め大小(だいせう)幾多(いくた)の戦(たゝかひ)にイツモ東(ひがし)三 河(かは)の諸将(しよせう)を統率(とうそつ)して参加(さんか)した事は御承知(ごせうち)の        如(ごと)くであるが其(その)頃(ころ)は家康(いへやす)の命(めい)によつて東(ひがし)三 河(かは)の旗頭(はたがしら)となつて居(を)つたので東三河の諸将(しよせう)へ号令(ごうれい)を伝(つた)ゆる       には必(かなら)ず忠次(たゞつぐ)からなしたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから都会(とくわい)としての吉田(よしだ)の地(ち)も自然(しぜん)東三河の中心(ちうしん)       となつたので漸々(ぜん〳〵)と発達(はつたつ)したものであるが前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く里村紹破巴(りそんせうは)の記行(きこう)などは頗(すこぶ)る参(さん)        考(こう)となるべきものであると思(おも)ふ其(その)後(のち)信長(のぶなが)の宿泊(しゆくはく)した時(とき)の事情(じぜう)又(また)は家康(いへやす)の夫人(ふじん)豊臣氏(とよとみし)入輿(にふよ)の時(とき)の模様(もよう)な       どから推測(すいそく)しても当時(とうじ)の城郭(じようくわく)と云ふものも相当(さうとう)の規模(きぼ)をなして居(を)つたに相違(さうゐ)ないと信(しん)ぜらるゝので       ある而(しか)して忠次(たゞつぐ)は入城(にふじよう)後(ご)此(この)吉田(よしだ)の市街(しがい)を整理(せいり)したもので豊河(とよかは)の橋(はし)と云ふものも初(はじ)めて忠次(たゞつぐ)が今(いま)の関屋(せきや)       の辺(へん)から対岸(たいがん)へ架(か)したものであるが当時(とうじ)は土橋(どばし)であつたと云ふ事も之(こ)れ亦(ま)た前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと) 《割書:東観音寺文|書》  くであるが此(この)豊橋(とよはし)近傍(きんばう)に遺(のこ)つて居(を)る忠次(たゞつぐ)の文書(ぶんしよ)では渥美郡(あつみぐん)小松原(こまつばら)東観音寺(ひがしくわんおんじ)に永禄八年七月五日付の制(せい) 普門寺文書  札(さつ)並(ならび)に雲(う)の谷(や)の普門寺(ふもんじ)に天正十三年六月廿五日付の制札(せいさつ)があるが之(これ)には孰(いづ)れも花押(くわおう)があつて其(その)文字(もんじ)の        形態(けいたい)は何(なん)となく謹慎(きんしん)に見(み)ゆる中(なか)に延び〳〵とした処(ところ)があつて如何(いか)にも其(その)人物(じんぶつ)の幾分(いくぶん)を現(あら)はして居(を)るよ       うに思(おも)はるゝのであるモツトモ忠次(たゞつぐ)の経歴(けいれき)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)段々(だん〴〵)申述(もうしの)べた話(はなし)の中(なか)で御承知(ごせうち)の事と思(おも)ふが此(この) 忠次と家康  人(ひと)は元来(がんらい)智勇兼備(ちゆうけんび)で而(しか)も其(その)遣(や)り口(くち)の或点(あるてん)は大(おほい)に家康(いへやす)に似(に)て居(を)る処があると思(おも)ふ蓋(けだ)し家康(いへやす)青年時代(せいねんじだい)の動(どう)        作(さ)は却(かへつ)て多(おほ)く忠次(たゞつぐ)の謀策(ちうさく)から出(い)でたものが多(おほ)くはなかろうかと思(おも)ふのであるが特(とく)に忠次(たゞつぐ)は毎戦(まいせん)必(かなら)ず家(いへ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        康(やす)に従(したが)つたもので家康(いへやす)が進(すゝ)もふと云へば忠次(たゞつぐ)か抑(おさ)へ忠次(たゞつぐ)が進(すゝ)もふと云へば家康(いへやす)が抑(おさ)ゆると云ふ工合(ぐあひ)に        互(たがひ)に軽挙(けいきよ)を戒(いまし)めて慎重(しんちよう)に慎重(しんちよう)を重(かさ)ねた形(かたち)がある即(すなは)ち大事(だいじ)の上(うへ)にも大事(だいじ)を取(と)つて急進(きうしん)せなかつた徳川流(とくがはりう)       の筆法(ひつほう)と云ふものは誠(まこと)に此(この)忠次(たゞつぐ)の人物(じんぶつ)に於(おい)て見(み)るような心地(こゝち)がするのであるソウカと云ふて忠次(たゞつぐ)は又(また)        決(けつ)して引込(ひきこ)み思案(しあん)の人(ひと)ではない一 朝(てう)機(き)の熟(じゆく)するを見込(みこ)むか又(ま)た止(やむ)を得(え)ざるに出(い)づる場合(ばあひ)は所謂(いはゆる)勇猛(ゆうもう)奮(ふん)        進(しん)の態度(たいど)で実(じつ)に其(その)武勇(ぶゆう)を現(あら)はして居(を)るのである勿論(もちろん)中年(ちうねん)以後(いご)の家康(いへやす)は頗(すこぶ)る甲州流(かうしうりう)の兵法(へいがく)に学(まな)ぶ所(ところ)があ       り又(ま)た段々(だん〳〵)老練(らうれん)の功(こう)を積(つ)むだので自(みづか)ら計画(けいくわく)判断(はんだん)した事が多(おほ)かつたのであるが其(その)以前(いぜん)の事に至(いた)つては此(この)        忠次(たゞつぐ)の力(ちから)が頗(すこぶ)る与(あづか)つて居(を)る事と思(おも)ふモツトモ忠次(たゞつぐ)以外(いぐわい)にも家康(いへやす)には智勇(ちゆう)の将士(せうし)が多(おほ)かつたのでそれ等(ら)       の力(ちから)によつた事も亦(ま)た決(けつ)して少(すくな)くはないのであるが私(わたくし)は常(つね)に徳川氏(とくがはし)が後(おく)れて天下(てんか)を取(と)るに至(いた)つた所以(ゆゑん)        又(ま)たそれが却(かへつ)て長(なが)く持続(じぞく)した所以(ゆゑん)であると云ふことを思(おも)ふ毎(つね)に其(その)因(よつ)て来(きた)る所(ところ)には無論(むろん)徳川氏(とくがはし)代々(だい〳〵)の修養(しうやう)       と云ふものゝあつた結果(けつくわ)ではあるが又(また)以(もつ)て家康(いへやす)青年時代(せいねんじだい)に忠次(たゞつぐ)等(ら)の輔翼(ほよく)が大(おほい)に源(みなもと)をなして居(を)るもの       であると思(おも)ふのである従(したがつ)て家康(いへやす)の研究(けんきう)に方(あた)つては此(この)忠次(たゞつぐ)に関(くわん)する調査(てうさ)と云ふものが最(もつと)も等閑(なほざり)になら       ぬ大切(たいせつ)な事ではあるまいかと思(おも)ふのである然(しか)るに今(いま)此(この)地(ち)に忠次(たゞつぐ)の施設(せせつ)した事物(じぶつ)に就(つい)て一二の外(ほか)具体的(ぐたいてき)       に遺(のこ)つて居(を)るものがなく其(その)委細(ゐさい)を知(し)る事の出来(でき)ぬのは誠(まこと)に遺憾(ゐかん)に堪(た)へぬのである 酒井家次  ソコで家次(いへつぐ)の話(はなし)であるが家次(いへつぐ)は初(はじ)め小五郎と云(いつ)て忠次(たゞつぐ)の嫡子(ちやくし)であるが母(はゝ)は即(すなは)ち光樹夫人(くわうじゆふじん)で永禄七年の        生(うまれ)である天正三年 長篠(ながしの)の役(えき)には年(とし)十二で父(ちゝ)に従(したがつ)て出陣(しゆつぢん)したと云ふ事であるが仝十六年十月に父(ちゝ)の後(あと)       を襲(つ)ゐで此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)となり十七年十一月廿九日 従(じゆ)五 位(ゐ)下(げ)宮内(くない)大輔(たゆう)に叙任(ぢよにん)せられたのであるが其(その)翌(よく)十       八年には御承知(ごせうち)の小田原役(おだはらえき)が起(おこ)つたのであるから此処(こゝ)には其(その)事(こと)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)がある       と思(おも)ふ 【欄外】    豊橋市史談  (酒井忠次の退隠)                    百五十五 【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百五十六 【本文】            ⦿小田原役       サテ前章(ぜんせう)に述(の)べた如(ごと)く豊臣秀吉(とよとみひでよし)は徳川家康(とくがはいへやす)と和(わ)したのみならず其(その)後(のち)北陸地方(ほくりくちほう)は勿論(もちろん)四 国(こく)九 州(しう)をも次第(しだい)       に征略(せいりやく)して其(その)勢(いきほひ)は殆(ほとん)ど日本(にほん)六十 余州(よしう)を配下(はいか)たらしめむとし天正十五年には京都(けうと)聚楽(じゆらく)の邸(やしき)も出来上(できあが)つ       て其(その)翌年(よくねん)四月には時(とき)の天子(てんし)が行幸(ぎようこう)給(たまは)つたと云ふ訳(わけ)であつたが只(た)だ関東(くわんとう)八 州(しう)と奥羽(おうう)二 州(しう)は未(いま)だ秀吉(ひでよし)の        武(ぶ)を用(もち)ゆるに至(いた)らなかつたのである勿論(もちろん)此(この)関東(くわんとう)八 州(しう)の大略(たいりやく)は北條氏(ほうでうし)の割拠(かつきよ)する処で氏政(うぢまさ)並(ならび)に其(その)子(こ)氏直(うぢなを)       は小田原(をだはら)に鎮(ちん)して兎(と)に角(かく)一 方(ぽう)に覇(は)を称(せう)して居(を)つたのであるが之(これ)より先(さ)き徳川家康(とくがはいへやす)が天正十年十月に北(ほう) 真田昌幸   條氏(でうし)と媾和(こうわ)した時(とき)家康(いへやす)は信州(しんしう)を取(と)り北條氏(ほうでうし)は上野(こうづけ)の利根(とね)、 吾妻(あづま)二 郡(ぐん)を取(と)る事を約(やく)したのであるが此(この)時(とき)        上州(ぜうしう)沼田(ぬまた)の城(しろ)は信州(しんしう)上田(うへだ)の城主(じようしゆ)真田昌幸(さなだまさゆき)の領(れう)であつたが此(この)人(ひと)は頗(すこぶ)る驍勇(けうゆう)で容易(ようい)に家康(いへやす)の命(めい)を聴(き)いて之(これ)       を北條氏(ほうでうし)に明(あ)け渡(わた)さないので家康(いへやす)及(およ)び北條氏(ほうでうし)は共(とも)に兵(へい)を沼田(ぬまた)並(ならび)に上田(うへだ)に出(いだ)して昌幸(まさゆき)を攻(せ)めたが志(こゝろざし)を        得(う)ることが出来(でき)なかつたのである余義(よぎ)なくいしは其(その)侭(まゝ)になつて居(を)つたのであるが秀吉(ひでよし)がイヨ〳〵四 海(かい)を        圧(あつ)するの勢(いきほひ)を得(え)た処で是非(ぜひ)北條氏(ほうでうし)をも服従(ふくじう)せしめたいものであると云ふ処から最初(さいしよ)は先(ま)づ家康(いへやす)によつ       て北條氏(ほうでうし)に上洛(ぜうらく)するように説(と)かしめたのであるが御承知(ごせうち)の通(とほ)り家康(いへやす)の娘(むすめ)督姫(とくひめ)は北條氏直(ほうでううぢなを)の室(しつ)であるの       だから其(その)姻戚関係(ゐんせきくわんけい)の上(うへ)に於(おい)て家康(いへやす)も其(その)利(り)なる所以(ゆえん)を通(つう)じたのであるが氏政(うぢまさ)氏直(うぎなを)は之(これ)に応(おう)ぜないので天 《割書:北條氏上洛|を肯せず》  正十六年 閏(うるふ)五月 秀吉(ひでよし)は更(さら)に相国(さうこく)妙壽院(みようじゆゐん)惺窩(せいくわ)を遣(つか)はして諭(さと)さしめたのである然(しか)るに氏直(うぢなを)はだ上京(ぜうけう)せない       のみならずヨウ〳〵北條氏規(ほうでううぢのり)を西上(せぜう)せしめたが併(しか)し前(まへ)に申述(もうしの)べた沼田(ぬまた)の地(ち)を是非(ぜひ)己(おの)れに返(かへ)して貰(もら)ひた 《割書:秀吉昌幸を|して沼田を》  いと云ふ事を秀吉(ひでよし)に要求(えうきう)し其(その)地(ち)を返(か)して呉(く)れるならば上京(ぜうけう)もしましうと云ふ事を申込(もうしこ)むだのであるソ 《割書:北條氏に致|さしむ》  コで秀吉(ひでよし)は段々(だん〳〵)事情(じぜう)を調査(てうさ)した上(うへ)で其(その)翌(よく)天正十七年 遂(つひ)に昌幸(まさゆき)に命(めい)じて沼田領(ぬまたれう)の内(うち)其(その)墳墓(ふんぼ)の地(ち)奈胡(なくる) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百十一号附録      ( 明治四十四年十一月十四日発行 ) 【本文】        桃(み)と云ふ処(ところ)丈(だけ)を残(のこ)して其(その)余(よ)は之(これ)を北條氏(ほうでうし)に差出(さしいだ)さしめたのであるコーなつて見(み)ると氏直(うぢなを)はモーどうし 《割書:氏直約に叛|く》  ても上京(ぜうけう)せねばならぬ訳(わけ)になつたのであるが其(その)十二月には屹度(きつと)上洛(ぜうらく)しますと云ふことを約(やく)して置(お)きなが       ら之(これ)を無視(むし)したのみならず奈胡桃(なくるみ)の地(ち)までも不意(ふい)に兵(へい)を出(いだ)して横領(わうれう)したのである此(こゝ)に至(いた)つて遂(つひ)に秀吉(ひでよし)       の怒(いかり)に触(ふ)れたので結局(けつきよく)小田原征伐(おたはらせいばつ)の事は起(おこ)つたのであるが実(じつ)は氏政(うぢまさ)氏直(うぢなを)は久(ひさ)しく関東(くわんとう)八 州(しう)の小天地(せうてんち)に 《割書:氏政氏直天|下の大勢に》  のみ割拠(かつきよ)して群雄(ぐんゆう)を凌駕(れうが)し全(まつた)く天下(てんか)の大勢(たいせい)に通(つう)ぜざる処から所謂(いはゆる)世間(せけん)見(み)ずの蛮勇(ばんゆう)で尊傲(そんごう)自(みづか)ら諮(はか)らず遂(つひ) 《割書:通ぜず  | 》  に其(その)家(いへ)をも身(み)をも亡(ほろぼ)すに至(いた)つたのは返(かへ)す〳〵も気(き)の毒(どく)の次第(しだい)である而(しか)して家康(いへやす)は初(はじ)め秀吉(ひでよし)と対抗(たいこう)する       に方(あた)つては後顧(こうこ)の患(うれひ)を除(のぞ)く必要(ひつえう)から北條氏(ほうでうし)と相和(あひわ)したのであるが時世(じせい)の推移(すゐい)は其(その)関係(くわんけい)にも次第(しだい)に変化(へんくわ)       を来(きた)したので巳(おの)れは遂(つひ)に秀吉(ひでよし)の妹婿(いもとむこ)となり次(つい)で上洛(ぜうらく)した結果(けつくわ)は却(かへつ)て両氏(れうし)の間(あひだ)に堅固(けんご)なる攻守同盟(こうしゆどうめい)が出(で)        来(き)たのである然(しか)るに氏政(うぢまさ)氏直(うぢなを)は尚(な)ほ時勢(じせい)を達観(たつくわん)する事(こと)能(あた)はず我(われ)には箱根(はこね)碓井(うすゐ)の険(けん)あり秀吉(ひでよし)何(なに)をか能(よ)く       なすものぞと家康(いへやす)から再(さい)三の忠告(ちうこく)があつても之(これ)を耳(みゝ)にも入(い)れなかつたのであるが今度(このたび)イヨ〳〵秀吉(ひでよし)か       ら書面(しよめん)によつて家康(いへやす)は天正十七年十一月廿九日 駿府(すんぷ)を発(はつ)して又々(また〳〵)大坂(おほさか)に向(むか)つたので初(はじ)めて北條氏(ほうでうし)に於(おい)       ては狼狽(ろうばい)を極(きはむ)るに至(いた)つたがソレでも尚(な)ほ自(みづか)ら上洛(ぜうらく)する事をなさぬので遂(つひ)に敵兵(てきへい)をして城下(じようか)に侵入(しんにふ)せし       むるに至(いた)つた次第(しだい)である        併(しか)し乍(なが)ら又(ま)た一 方(ぱう)から考(かんが)へて見(み)れば此(この)時(とき)の行掛(ゆきがゝり)と云(い)ふものはドウしても遂(つひ)に北條氏(ほうでうし)をして戦(たゝか)ふより外(ほか)       には仕方(しかた)のない事に至(いた)らしめたので云はゞ北條氏(ほうでうし)に於(おい)ても男(おとこ)の意気地(いきぢ)で余義(よぎ)なくされた処がある此(この)点(てん)       は実(じつ)に同情(どうぜう)すべき処で私(わたくし)は頗(すこぶ)る此(この)男(おとこ)らしき武士的(ぶしてき)の動作(どうさ)に対(たい)しては北條氏(ほうでうし)の為(ため)に大(おほい)に弁護(べんご)せねばなら       ぬ処であると思(おも)ふ只(た)だ開戦(かいせん)に至(いた)るまでの名分(めいぶん)と云(い)ふものが誠(まこと)に立(た)ち兼(か)ぬるので其(その)上(うへ)父祖(ふそ)の故智(こち)に倣(なら)つ       て只(た)だ〳〵籠城(ろうじよう)の一 点張(てんばり)と極(き)め込(こ)むだのは実(じつ)に蛮勇無智(ばんゆうむち)の形(かたち)があるので慥(たしか)に失敗(しつぱい)の原因(げんゐん)であると信(しん)ず 【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百五十七 【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百五十八 【本文】       るのである       サテ家康(いへやす)が大坂(おほさか)に至(いた)つて秀吉(ひでよし)に面会(めんくわい)したのは天正十七年の十二月十日で其(その)途次(とじ)二日に此(この)吉田(よしだ)に一 泊(ぱく)し       たのであるが秀吉(ひでよし)は大(おほい)に家康(いへやす)の来坂(らいはん)を喜(よろこ)むで共(とも)に京都(けうと)に入(い)つて聚楽(しうらく)の邸(やしき)で北條氏(ほうでうし)討伐(とうばつ)の事を評議(ひようぎ)した       のである勿論(もちろん)家康(いへやす)は之(これ)に同意(どうい)したのであるがそれのみならず己(おの)れは前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く北條氏(ほうでうし)とは姻(ゐん) 《割書:家康長丸を|質とす》   戚関係(せきくわんけい)があるのであるから特(とく)に疑(うたがひ)を避(さ)くる為(ため)に其(その)子(こ)長丸(ながまる)(《割書:秀|忠》)を質(しち)とせむとして之(これ)を酒井忠世(さかゐたゞよ)等(ら)に送(おく)       つて早速(さつそく)長丸(ながまる)を京都(けうと)に上(のぼ)らしむる用意(ようい)をせしめたのである然(しか)るに秀吉(ひでよし)は此(この)厳寒(げんかん)の候(こう)に幼児(ようぢ)をして上洛(ぜうらく)       せしむるのは不憫(ふびん)であると云ふので明春(めうしゆん)を俟(ま)つて上洛(ぜうらく)せしむることとなつたが家康(いへやす)は其(その)十二日に皈国(きこく)の 家康の伝令  途(と)に上(のぼ)る事となつたのである此(この)時(とき)酒井家次(さかゐいへつぐ)は家康(いへやす)に随行(ずゐこう)したのであるが命(めい)を受(う)けて小田原征伐(をたはらせいばつ)の時期(じき)        並(ならび)に軍備(ぐんび)に関(くわん)することを国元(くにもと)え伝令(でんれい)したのである其(その)使(つかひ)が東(ひがし)三 河(かは)へは十三日に着(ちやく)したものと見(み)へて家忠日(いへたゞにつ)        記(き)十三日の条(くだり)には左(さ)の如(ごと)く記(しる)されてある         酒井宮内(さかゐくない)より京(けう)よりの御(おん)ふれ相州(さうしう)御陣(ごじん)候事(そうろこと)申来(もうしきたり)候(そうろ)関白様(くわんぱくさま)は明(みよう)三月朔日 尾州(びしう)大府様(おいふさま)は二月五日 家(いへ)         康様(やすさま)は正月廿八日 御出馬(ごしゆつば)之由候(のよしにそうろ)       ソコで家康(いへやす)は十八日に吉田(よしだ)へ着(ちやく)し夫(それ)より駿府(すんぷ)へ皈(かへ)つたのであるがイヨ〳〵出師(しゆつすゐ)準備(じゆんび)に取(とり)かゝつて翌(よく)天 《割書:伊奈備前守|忠次》  正十八年の二月に至(いた)り軍制(ぐんせい)十三 条(でう)を定(さだ)め秀吉(ひでよし)の征討軍(せいとうぐん)が其(その)領内(れうない)を通過(つうくわ)するのであるから伊奈備前守忠(いなびぜんのかみたゞ)        次(つぐ)に命(めい)じて舟梁(せんれう)を富士河(ふじかは)に架(か)せしむるやら其(その)他(た)駿遠参(すんゑんさん)三 国(ごく)に於(お)ける沿道(えんどう)各駅(かくえき)に茶店(ちやみせ)を設(もう)け休憩所(きうけいしよ)とな       さしむるなど用意(ようい)周到(しうとう)であつたが特(とく)に岡崎(をかざき)、 吉田(よしだ)、 浜松(はままつ)、 掛川(かけがは)、 田中(たなか)などの城(しろ)は綺麗(きれい)に掃除(そうぢよ)をして秀(ひで)        吉(よし)の至(いた)るのを待(ま)たしめたのである然(しか)して秀吉(ひでよし)に於(おい)ては天正十七年十二月の十三日に出師(しゆつすゐ)命令(めいれい)を発(はつ)し夫(それ)       より江州(ごうしう)水口(みづぐち)の城主(じようしゆ)長束正家(ながつかまさいへ)をして糧食(れうしよく)の事を司(つかさど)らしめ海路(かいろ)駿河(するが)の清水港(しみづこう)へ輸送(ゆそう)して江尻(えじり)に倉庫(そうこ)を置(お) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:征討軍の兵|站》  いて征討軍(せいとうぐん)へ兵站部(へいたんぶ)の根拠(こんきよ)となしたのである又(ま)た京都(けうと)の留守居(るすゐ)には毛利輝元(もうりてるもと)を置(お)き大坂(おほさか)は羽柴秀長(はしばひでなが)をし 《割書:豊臣秀長の|兵吉田に駐》  て守(まも)らしめ小早川隆景(こはやかはたかかげ)、 吉川広家(きつかはひろいへ)等(ら)及(およ)び秀長(ひでなが)の兵(へい)をして沿道(えんどう)の諸城(しよじよう)を守(まも)り駅伝(えきでん)兵犓(へいすう)の事を司(つかさど)らしめ 《割書:屯す   | 》  たが此(この)吉田城(よしだじよう)には秀長(ひでなが)の兵(へい)が来(きた)つて駐屯(ちうとん)したのである而(しか)して徳川方(とくがはがた)の将士(せうし)は天正十八年二月 家康(いへやす)の命(めい)       によつて駿府(すんぷ)へ集(あつま)つたが松平家忠(まつだひらいへたゞ)は其(その)五日に着(ちやく)し即日(そくじつ)江尻(えじり)まで出陣(しゆつぢん)したのである其(その)翌(よく)六日には家康(いへやす)も 《割書:酒井家次の|従軍》   出発(しゆつぱつ)する筈(はづ)であつたが大雨(たいう)の為(た)め延期(えんき)となつた然(しか)るに先鋒(せんはう)七 将(せう)即(すなは)ち酒井家次(さかゐいへつぐ)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)、 榊原康政(さかきばらやすまさ)、        平岩親吉(ひらいわちかよし)、 鳥居元忠(とりゐもとたゞ)、 大久保忠世(おほくぼたゞよ)、 井伊直正(いゐなをまさ)等(ら)は七日にまだ雨(あめ)の止む(や)まぬのを冒(おか)して江尻(えじり)まで出発(しゆつぱつ)し家(いへ)        康(やす)は十日に至(いた)つて由井(ゆゐ)まで出陣(しゆつぢん)したのであるモツトモ此(この)時(とき)の事について就(つい)ては家忠日記(いへたゞにつき)に詳(くは)しく書(か)いてある 《割書:秀吉の吉田|逗留》  から子細(しさい)に事実(じじつ)を研究(けんきう)する方(かた)はそれを熟覧(じゆくらん)されたいものであると思(おも)ふが尚(な)ほ同日記(どうにつき)に秀吉(ひでよし)は三月の十       日に吉田(よしだ)へ着(ちやく)して其十三日まで逗留(とうりう)された事が記(しる)されてある之(これ)は雨(あめ)の為(ため)に豊川(とよかは)の水(みづ)が汎濫(はんらん)したからで        逗留(とうりう)されたのは今(いま)の下地(しもぢ)であると思(おも)ふが此(この)事(こと)に関(くわん)し徳川実記(とくがはじつき)には左(さ)の記事(きじ)が載(の)つて居(を)るのである         関白(くわんぱく)は十一日に三 河(かは)の吉田川(よしだがは)をおし渡(わた)らんとありし時(とき)この渡場(わたしば)の奉行(ぶぎよう)せし伊奈(いな)といふ男(おとこ)この程(ほど)日数(ひかず)        へし長雨(ながあめ)に川水(かすゐ)いたく水(みづ)かさそいてうづまき流(なが)るれば軍勢(ぐんぜい)をわたされん事かなふべからず今(いま)しばし         此所(こゝ)にとまらせらるべくもやと聞(きこ)えあくる関白(くわんぱく)軍法(ぐんはふ)に前(まへ)に川(かは)あらん時(とき)雨降(あめふ)りて渡(わた)らざれば後(あと)に渡(わた)る        ことを得(え)ずといへり何(なに)かくるしかるべき必(かならず)渡(わた)りなむと仰(あふ)せけるに伊奈(いな)眼(め)に角(かど)をたてこは殿下(てんか)の仰(あふせ)        とも覚(おぼ)えず雨(あめ)をいとはず川(かわ)を渡(わた)すは小軍(せうぐん)の事なり大軍(たいぐん)暴漲(ばうてう)を冒(おか)し川(かは)を渡(わた)らんとすれば人馬(じんば)沈溺(ちんでき)少(すくな)か        るべからず敵(てき)この風説(ふうせつ)を聞(き)かんに十人を百人百人を千人といひつたへ敵(てき)の心(こゝろ)には勇(ゆう)をそへ味方(みかた)には         臆(おく)をまねくものに候はんかといふ関白(くわんぱく)手(て)を拍(う)ちて亜相(あさう)の家(いへ)には賤吏(せんり)といへども皆(みな)軍旅(ぐんりよ)の智識(ちしき)多(おほ)しと         感(かん)じ給(たま)ふ事 大方(おほかた)ならずその諫(いましめ)を用(もち)ひこゝに三日 滞留(たいりう)あり十九日に駿府(すんぷ)につかせらる 【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百五十九 【欄外】    豊橋市史談  (小田原役)                       百六十 【本文】        右(みぎ)の中(なか)で伊奈(いな)とあるのは無論(むろん)伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみたゞつぐ)の事であると思(おも)ふ然(しか)るに武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には此(この)事(こと)に就(つい)て之(これ)       を伊奈忠政(いなたゞまさ)であると書(か)いてあつて其(その)他(た)一二の書(しよ)にも同様(どうよう)に記(しる)してあるのを見(み)るが忠政(たゞまさ)と云へば忠次(たゞつぐ)の        子(こ)であるので忠次(たゞつぐ)は此(この)年(とし)恰(あたか)も四十歳であるから之(これ)はドウモ忠次(たゞつぐ)となすのが正(たゞし)い事と思(おも)ふのである蓋(けだ)し        忠次(たゞつぐ)は其(その)頃(ころ)熊藏(くまざう)と称(せう)したので備前守(びぜんのかみ)に叙任(ぢよにん)せられたのはズツト後(あと)の事(こと)であるが此(この)人(ひと)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く才(さい)        量(れう)のあつた人で徳川氏(とくがはし)の吏(り)となつて初(はじ)めから省歛開墾(せうれんかいこん)等(とう)の事を司(つかさど)り決断(けつだん)絶倫(ぜつりん)と云はれたのである関(せき)       ケ原(はら)の役(えき)後(ご)慶長六年付で此(この)人(ひと)の名前(なまへ)を署(しよ)した寄附状(きふぜう)だの貢税(こうぜい)などの事を定(さだ)めたものが三四 当市内(とうしない)及(およ)び        近傍(きんばう)に残(のこ)つて居(を)る又(ま)た其(その)前後(ぜんご)のものも余程(よほど)見当(みあた)る事であるが之(これ)等(ら)は孰(いづ)れも当時(とうじ)の民政(みんせい)に関(くわん)する資料(しれう)と       なるものであるから何(いづ)れ其(その)時代(じだい)に就(つい)て申述(もうしのべ)る時(とき)には引用(いんよう)する事があるであろうと思(おも)ふ又(ま)た此(この)人(ひと)は後(のち)に        家康(いへやす)の為(ため)に一万石に取立(とりたて)られ慶長(けいてう)十二年五十七歳で没(ぼつ)したので武州(ぶしう)鴻巣(こうのす)の勝願寺(せうがんじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)つてあ       ると云ふ事である       かくて秀吉(ひでよし)は其(その)十九日に駿府(すんぷ)へ着(ちやく)したのであるが家康(いへやす)は時(とき)に長久保(ながくぼ)の興国寺城(こうこくじじよう)に在(あ)り自(みづか)ら駿府(すんぷ)に皈(かへ)つ       て秀吉(ひでよし)に面会(めんくわい)し饗応(けうおう)をしたのであるそれより秀吉(ひでよし)は廿七日に沼津(ぬまづ)の三 枚橋城(まいばしじよう)に入(い)つて段々(だん〳〵)地理(ちり)を視察(しさつ) 山中城陥る し諸将(しよせう)と相議(あひぎ)して部署(ぶしよ)を定(さだ)めたのであるが此(この)時(とき)北條氏(ほうでうし)に於(おい)ては前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く全(まつた)く退嬰主義(たいゑいしゆぎ)を取(と) 韮山の孤立 つたので箱根(はこね)山中(やまなか)の城(しろ)は直(たゞ)ちに破(やぶ)れ伊豆(いづ)の韮山城(にらやまじよう)のみ独(ひと)り最後(さいご)まで維持(ゐぢ)はしたものゝ全(まつた)く孤立(こりつ)して北(ほう) 《割書:小田原包囲|攻撃》   條氏(でうし)の根拠(こんきよ)たる小田原城(をたはらじよう)は忽(たちま)ちに重囲(ぢうゐ)の内(うち)に陥(おちゐ)つたのである此(この)包囲(はうゐ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)年(とし)の七月       に及(およ)むだのであるが秀吉(ひでよし)は飽(あく)まで持久(じきう)の策(さく)を設(もう)けたので本営(ほんえい)は石垣山(いしがきやま)に置(お)き長囲(てうゐ)の徒然(とぜん)を慰(なぐさ)むる為(ため)に        根府川(ねふがは)に茶室(ちやしつ)を設(もう)けて茗嘸(みようむ)を楽(たのし)み又(ま)た諸将(しよせう)をして陣中(ぢんちう)に妻妾(さいせう)を招(まね)かしめ自(みづか)らも夫人(ふじん)に書状(しよぜう)を送(おく)りて淀(よど)        君(ぎみ)を寄越(よこ)さしめたと云ふ訳(わけ)で随分(ずゐぶん)気楽(きらく)な城責(しろぜ)めをやつたのである之(これ)より先(さ)き一 方(ぱう)に於(おい)ては小田原(をだはら)の包(はう) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百十七号附録     ( 明治四十四年十一月廿一日発行 ) 【本文】 《割書:関東諸城の|攻略》   囲(ゐ)が初(はじ)まると同時(どうじ)に北越(ほくゑつ)及(およ)び信州(しんしう)の兵(へい)は上野(こうづけ)より侵入(しんにふ)して北條氏(ほうでうし)管内(くわんない)の属城(ぞくじよう)を攻(せ)め落(おと)したのであるが 家次の戦功  徳川氏(とくがはし)に於(おい)ても之(これ)等(ら)の諸軍(しよぐん)に応援(おうゑん)する為(ため)に将士(せうし)を其(その)方面(はうめん)に派遣(はけん)したのである藩翰譜(はんかんふ)に拠(よ)ると酒井家次(さかゐいへつぐ)       は此(この)時(とき)長沢(ながさは)仁連木(にれんぎ)の兵(へい)をも率(ひき)ひて先陣(せんぽう)の第一として下野国(しもつけのくに)碓井(うすゐ)の城(しろ)を攻(せ)めて之(これ)を降(くだ)したとしてあるの       である勿論(もちろん)此(この)役(えき)に於(おい)て家次(いへつぐ)が徳川方(とくがはがた)の先鋒(せんぽう)であつた事は前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)りで長沢(ながさは)の松平康直(まつだひらやすなほ)、 二連木(にれんぎ)       の松平(まつだひら)(戸田)康長(やすなが)が之(これ)に属(ぞく)し小田原(をだはら)に進(すゝ)み其(その)四月 更(さら)に本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)と共(とも)に上州(ぜうしう)に入(い)つたのであるが惜(おし)む       らくは此(この)碓井(うすゐ)の戦(たゝかひ)に関(くわん)しては外(ほか)に詳録(せうろく)したものを見当(みあた)らぬのである而(しか)して家忠日記(いへたゞにつき)によると五月二日       には家次(いへつぐ)が小田原(をだはら)攻囲(こうゐ)軍(ぐん)の中(なか)に居(を)つた事に見(み)ゆるので且(か)つ其(その)十八日には「酒宮内地城取候」と記(しる)されて       あるが此(この)戦功(せんこう)は果(はた)して何(いづ)れを指(さ)したものであるかまだ十 分(ぶん)なる調査(てうさ)が出来(でき)兼(か)ねて居(を)るが兎(と)に角(かく)此処(こゝ)に       は御参考(ごさんこう)迄(まで)に申述(もうしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである然(しか)るに七月六日に至(いた)つて小田原城(をだはらじよう)もイヨ〳〵開城(かいじよう)する 《割書:氏政等の自|裁氏直高野》  事となつたので氏政(うぢまさ)及(およ)び其(その)弟(おとゝ)氏照(うぢてる)は其(その)十一日 小田原(をだはら)の医師(ゐし)田村長伝(たむらてうでん)の宅(たく)で自裁(じさい)し氏直(うぢなを)は十二日 高野山(かうやさん) 《割書:に放たる | 》  に放(はな)たれて事は落着(らくちやく)するに至(いた)つたのであるが之(これ)等(ら)に関係(くわんけい)の事に就(つい)てはまだ申述(もうしの)ぶべき事も沢山(たくさん)にある       と思(おも)ふ併(しか)し余(あま)り長(なが)くなるのと本市(ほんし)の市史(しし)に直接(ちよくせつ)の必要(ひつえう)がない処から先(ま)づ此処(こゝ)らで省略(せうりやく)するが先年(せんねん)歴史(れきし)        地理学会(ちりがくくわい)で出版(しゆつぱん)せられた戦国時代史論(せんごくじだいしろん)などは其(その)中(なか)に随分(ずゐぶん)参考(さんこう)となるべき事が多(おほ)く記(しる)してあるように思(おも)       ふから或(あるひ)は之(これ)に就(つい)て見(み)らるゝのも強(あなが)ちに無益(むえき)ではなかろうと思(おも)ふのである             ⦿徳川氏の関東移封        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べたような次第(しだい)で早雲(さううん)以来(いらい)殆(ほとん)ど一百年の間(あひだ)関東(くわんとう)に雄視(ゆうし)した北條氏(ほうでうし)も遂(つひ)に五 代目(だいめ)の氏直(うぢなを)に 《割書:北條氏の籠|城策》   至(いた)つて滅亡(めつばう)の悲運(ひうん)に遭遇(そうぐう)したのであるが元来(がんらい)籠城(らうじよう)などゝ云ふものは消極的(せうきよくてき)の戦略(せんりやく)で、 之(これ)が何(な)にか後詰(あとづめ) 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                      百六十一 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十二 【本文】       を待(ま)つとか、 兎(と)に角(かく)一 時(じ)敵軍(てきぐん)を此処(こゝ)に噛留(くいとめ)むればよいとか、 云(い)ふような他(た)に目的(もくてき)のある場合(ばあひ)は相当(さうとう)に        功(こう)を奏(そう)するのであるが外(ほか)に何(な)にも当(あ)てのないのに只(た)だ〳〵籠城(らうじよう)の一 点張(てんば)りは結局(けつきよく)座(ざ)して滅亡(めうばう)を待(ま)つに        外(ほか)ならぬ事となるのである御承知(ごせうち)の通(とほ)り曩(さき)に謙信(けんしん)が小田原(をだはら)に侵入(しんにふ)した時(とき)又(ま)た其(その)後(のち)信玄(しんげん)が来(きた)つた時(とき)は全(まつた)       く今度(このたび)とは事情(じぜう)が違(ちが)ふので之(これ)は孰(いづ)れも北條氏(ほうでうし)が籠城策(らうじようさく)で成功(せいこう)したのであるが其(その)時(とき)は云(い)ふ迄(まで)もなく謙信(けんしん)        信玄(しんげん)共(とも)に其(その)計画(けいくわく)が深(ふか)く敵地(てきち)に侵入(しんにふ)する程(ほど)の仕組(しくみ)でなかつたので、 云(い)はゞ深入(ふかい)りを仕過(しす)ぎたのであるか       ら敵(てき)に籠城(らうじよう)せられても糧食(れうしよく)は続(つゞ)かず後顧(こうこ)の患(うれひ)は益々(ます〳〵)多(おほ)いと云(い)ふので到底(とうてい)長居(ながゐ)は出来(でき)ぬ始末(しまつ)であつたが        今度(このたび)秀吉(ひでよし)は既(すで)に殆(ほとん)ど満天下(まんてんか)を切(き)り従(したが)へ只(た)だ残(のこ)す所(ところ)は関東(くわんとう)と奥羽(おうう)のみであるので更(さら)に後顧(こうこ)の患(うれひ)はないの       みならず上天子(かみてんし)を戴(いたゞ)き天下(てんか)の大軍(たいぐん)に指揮(しき)して押寄(おしよ)せたのであるから云(い)ふ迄(まで)もなく其(その)準備(じゆんび)は十 分(ぶん)である        従(したがつ)て今日(こんにち)となつては到底(とうてい)北條氏(ほうでうし)の籠城(らうじよう)によつて他(た)から急(きふ)に秀吉(ひでよし)の虚(きよ)を窺(うかゞ)ふが如(ごと)きものが出(い)でそうな       事はないのである然(しか)るにソンナ事を当(あて)にして居(を)つたならばそれこそ実(じつ)に空頼(そらだの)みと云(い)ふもので結局(けつきよく)滅亡(めつばう)       の外(ほか)はないと思(おも)ふのであるが独(ひと)り戦争(せんそう)の事のみならず世間(せけん)の事(こと)皆(みな)此(かく)の如(ごと)くならざるはないので歴史研(れきしけん)        究(きう)の趣味(しゆみ)は誠(まこと)に無限(むげん)のものであると信(しん)ずるのである 《割書:家康関東に|移封せらる》  サテ小田原(をだはら)滅亡(めつばう)の後(のち)一 変動(へんどう)とも云ふべきのは徳川氏(とくがはし)の移封(いほう)である独(ひと)り之(これ)は徳川氏(とくがはし)に取(と)つて変動(へんどう)である       のみでなく我(わが)豊橋(とよはし)を初(はじ)め此(この)地方(ちほう)の歴史(れきし)に取(と)つて一 大区画(たいくぐわく)をなすものであると思(おも)ふ即(すなは)ち徳川氏(とくがはし)が今度(このたび)駿(すん)        遠(ゑん)三 甲信(かうしん)の五 国(こく)から関東(くわんとう)八 州(しう)へ移封(いほう)されるに就(つい)ては私(わたくし)が之(こ)れまで長(なが)き間(あひだ)史談(しだん)を継続(けいぞく)して来(き)た中(なか)に段(だん)        段(だん)と申述(もうしの)べた武将(ぶせう)等(ら)も悉(こと〴〵)く同時(どうじ)に此(この)地方(ちほう)と関係(くわんけい)が離(はな)るゝ事(こと)になるのであるから何(なん)だか歴史(れきし)の上(うへ)が新(あらた)に       なるような心持(こゝろもち)がするのである実(じつ)は前(まへ)にも申述(もうしの)ぶるのを漏(もら)したようであるが家康(いへやす)は曩(さき)に駿遠(すんゑん)三三ケ国(こく)の        外(ほか)に甲信(かうしん)二 国(こく)を得(え)たに就(つい)ては其(その)根拠(こんきよ)が浜松(はまゝつ)では都合(つごふ)がよくないと云ふ処から天正十四年の九月 頃(ごろ)より 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        今川氏(いまがはし)の旧居(きうきよ)たる駿河(するが)の府中(ふちう)に移転(いてん)する準備(じゆんび)をして同(どう)十五年には城(しろ)の修築(しうちく)を初(はじ)め其(その)五月 頃(ごろ)には出来上(できあが)       つたと云ふ次第(しだい)で之(これ)を以(もつ)て五ケ国の根拠(こんきよ)としたのである然(しか)るに今度(このたび)イヨ〳〵小田原城(をだはらじよう)滅亡(めつばう)に就(つい)て秀吉(ひでよし)       は家康(いへやす)を封(ほう)ずるに関東(くわんとう)八 州(しう)を以(もつ)てしたので徳川氏(とくがはし)の一 類(るゐ)は此(この)父祖(ふそ)の国(くに)を離(はな)れねばならぬ事となつたの       である之(これ)には徳川方(とくがはがた)に於(おい)ても余程(よほど)弱(よは)つたものと思(おも)はれるのであるか三 河物語(かはものがたり)にも此(この)事(こと)に就(つい)て         又(また)家康(いへやす)は国(くに)かへ可成被(なさるべく)におひては関東(くわんとう)にかへ給(たま)へ、いやに思召(おぼしめさ)が御無用成(ごむようなり)、 何(なん)となり共(とも)御存分(ごぞんぶん)次第(しだい)        と被仰(おほせられ)ければ尤(もつとも)かへ可申(もうしべく)と被仰(おほせられ)て三 河(かは)遠江(とほとふみ)駿河(するが)甲州(かうしう)信濃(しなの)五ケ国(こく)に伊豆(いづ)相模(さがみ)武蔵(むさし)上野(こうづけ)下総(しもをさ)上総(かづさ)六ケ国(こく)        にかへさせられて関東(くわんとう)へ庚寅(かのへとら)の年(とし)うつらせ給(たま)ふ       と書(か)いてある之(これ)で見(み)ると此(この)時(とき)の秀吉(ひでよし)の権幕(けんまく)と云ふものは余程(よほど)エラかつたものと見(み)えるのであるが御承(ごせう) 《割書:織田信雄信|濃に放たる》   知(ち)の如(ごと)く当時(とうじ)織田信雄(をたのぶを)は尾張(おはり)伊勢(いせ)に替(か)ゆるに徳川氏(とくがはし)の旧領(きうれう)駿遠参甲信(すんゑんさんこうしん)の五ケ国(こく)を以(もつ)てせられたのであ       る然(しか)るに之(これ)に不服(ふゝく)を唱(とな)へたので秀吉(ひでよし)は怒(いか)つて直(たゞ)ちに信雄(のぶを)に与(あた)へんと言(い)ふた五ケ国(こく)までも没収(ぼつしう)して之(これ)を        信濃(しなの)に逐(お)つたと云ふ訳(わけ)であるから此(こ)の勢(いきほひ)では家康(いへやす)に対(たい)しても三 河物語(かはものがたり)に書(か)いてある位(くらゐ)の事(こと)は云つた       ものであると思(おも)はれる、トコロがソコは家康(いへやす)である快(こゝろよ)く国替(くにがへ)を承知(せうち)したのみならず根拠地(こんきよち)に就(つい)ては        秀吉(ひでよし)の意見(いけん)を聴(き)いて初(はじ)めて江戸(えど)と定(さだ)めたのであるが其(その)上(うへ)に着々(ちやく〳〵)国替(くにがへ)の手続(てつゞき)を運(はこ)むで早速(さつそく)旧領(きうれう)五ケ国(こく)を 《割書:家康国替の|迅速》   引渡(ひきわた)したので秀吉(ひでよし)も其(その)迅速(じんそく)なる事に驚(おどろ)いたと云ふ事であるが兎(と)に角(かく)其(その)将士(せうし)一 同(どう)も父祖(ふそ)伝来(でんらい)の故国(ここく)を去(さ)       つて新領地(しんれうち)に就(つ)く事であるから其(その)混雑(こんざつ)と云ふものは名状(めいぜう)すべからざるものがあつたであろうと思(おも)ふ家(いへ)        忠日記(たゞにつき)の記事(きじ)によるも当時(とうじ)の有様(ありさま)は目(ま)のあたり見(み)るようであるが家忠(いへたゞ)の如(ごと)きも七月十一日に北條氏政(ほうでううぢまさ)       兄弟(けうだい)の自裁(じさい)したのを見(み)て其(その)十六日に江戸(えど)へ向(むか)ひ十八日に着(ちやく)したが廿一日には直(す)ぐに故国(ここく)参河に引(ひ)き返(かへ)       したのである其(その)廿日の記事(きじ)に 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十三 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十四 【本文】         雨降(あめふり)明日三州へ帰候(かへりそろ)へし由(よし)御意候(ぎよいそうろ)御国(おんくに)かはり女子(ぢよし)引越(ひきこし)の事也(ことなり)       としてある即(すなは)ち此(この)時(とき)は既(すで)に国替(くにがへ)の事が定(さだ)まつて引越(ひきこし)の用意(ようい)で急(きう)に帰国(きこく)する事となつたものと見(み)へる然(しか)       るに家忠(いへたゞ)は途中(とちう)で病気(びようき)であつたのに途(みち)を急(いそ)いで八月五日 己(おの)れの城地(じようち)なる三 河(かは)の深溝(ふかうず)に着(ちやく)して居(を)る而(しか)し       て其十八日には既(すで)に用意(ようい)を整(とゝの)へて関東(くわんとう)へ出発(しゆつぱつ)したのであるが廿六日ヨウ〳〵江戸(えど)に着(ちやく)した処で使(し)を以(もつ)       て忍(おし)の城(しろ)を仰付(おほせつけ)られたとある而(しか)も廿九日には自(みづか)ら忍(おし)に入(い)つて松平周防守(まつだひらすばうのかみ)から城(しろ)を受取(うけと)つたのであるか       ら其他(そのた)の諸将(しよせう)も大概(たいがい)は先(ま)づコンナ模様(もよう)で大急(おほいそ)ぎに移転(いてん)し終(をは)つたものと思(おも)はれるモツトモ家康(いへやす)の新領地(しんれうち)       は関東(くわんとう)八 州(しう)とは云ふものゝ安房(あは)には里見氏(さとみし)あり下野(しもつけ)には宇都宮氏(うつのみやし)があつて家康(いへやす)の直轄(ちよくかつ)は六 州(しう)丈(だけ)である       が其(その)内(うち)にも尚(な)ほ結城(ゆうき)とか佐野(さの)とか皆川(みながは)とか云ふような諸氏(しよし)が割拠(かつきよ)して其(その)上(うへ)に北條氏(ほうでうし)の残党(ざんとう)は諸方(しよはう)に潜(せん)        伏(ぷく)して居(を)るので実(じつ)に統括(とうかつ)には困難(こんなん)したものであつたろうと思(おも)ふ併(しか)し秀吉(ひでよし)から云ふと頗(すこぶ)る妙策(みようさく)を行(おこな)つた 《割書:秀吉の諸侯|配置策》   訳(わけ)で家康(いへやす)には関東(くわんとう)を与(あた)へたものゝ会津(あひづ)に蒲生氏郷(かばふうぢさと)を封(ほう)じて其(その)背後(はいご)を押(おさ)へ徳川氏(とくがはし)の故国(ここく)には己(おの)れが腹心(ふくしん)       のものを配置(はいち)して尾張(をはり)伊勢(いせ)をば秀次(ひでつぐ)に与(あた)へ近江(あふみ)の佐和山(さわやま)に石田三成(いしだかづしげ)を置(お)き大和(やまと)には秀長(ひでなが)を置(お)くと云ふ        次第(しだい)で其(その)配置(はいち)と云ふものは実(じつ)に用意(ようい)周到(しうとう)を極(きは)めたものである 《割書:東参河に於|ける諸将士》  ソコで家康(いへやす)は其(その)将士(せうし)に此(この)六 州(しう)の地(ち)を分与(ぶんよ)したのであるがそれは此(この)八月廿三日に発表(はつぴよう)したようである其(その) 《割書:の分封| 》 《割書:酒井家次上|州碓井に移》   内(うち)で東(ひがし)三 河(かは)に関係(くわんけい)のある人々に就(つい)て申述(もうしの)べて見(み)ると先(ま)づ此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)であつた酒井家次(さかゐいへつぐ)は上州(ぜうしう)碓井城(うすゐじよう) 《割書:る    | 》  三万石に封(ほう)せられ二連木(にれんぎ)の城主(じようしゆ)松平(まつだひら)(《割書:戸|田》)丹波守康長(たんばのかみやすなが)は武蔵国(むさしのくに)東方(ひがしかた)壹万石に其(その)頃(ころ)吉田(よしだ)に居(を)つた戸田左(とださ)        門一西(もんかづあき)即(すなは)ち今(いま)の戸田伯爵(とだはくしやく)(《割書:旧大|垣侯》)の祖先(そせん)は武蔵国(むさしのくに)久志羅井(くしらゐ)五千石に又(ま)た牛久保(うしくぼ)の牧野右馬允康成(まきのうまのぜうやすなり)は上州(ぜうしう)大(おほ)        胡(ご)弐万石に仝(どう)牧野讃岐守康成(まきのさぬきのかみやすなり)は武蔵(むさし)石戸(いしど)五千石に封(ほう)せられ其(その)他(た)深溝(ふかうず)の松平家忠(まつだひらいへたゞ)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く        武蔵(むさし)の忍(おし)一万石に又(ま)た奥平信昌(おくだひらのぶまさ)は上州(ぜうしう)宮崎(みやざき)弐万石、 本多広孝(ほんだひろたか)は上州(ぜうしう)白井(しらゐ)二万石、 菅沼小大膳定利(すがぬませうだいぜんさだとし)は上(ぜう) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百二十二号附録    ( 明治四十四年十一月廿八日発行 ) 【本文】        州(しう)吉井(よしゐ)二万石、 松平玄蕃頭清宗(まつだひらげんばのかみきよむね)は武蔵(むさし)八 幡山(はたやま)一万石、 菅沼山城守定政(すがぬまやましろのかみさだまさ)は下総(しもをさ)相馬(さうま)一万石、 菅沼新(すがぬましん)八 郎(らう)        定盈(さだみつ)は上州(ぜうしう)阿布(あふ)一万石、 本多縫殿助康俊(ほんだぬひどのすけやすとし)は下総(しもをさ)佐倉領(さくられう)五千石、 戸田(とだ)三 郎右衛門忠次(らううゑもんたゞつぐ)は伊豆(いづ)下田(しもだ)五千石        西郷孫(さいごうまご)九 郎家員(らういへかづ)は下総(しもをさ)小弓(こゆみ)五千石、 設楽甚(したらじん)三 郎貞通(らうさだみつ)は武蔵(むさし)礼羽(れは)三千石と云(い)ふような訳(わけ)に封(ほう)せられたの       である尚(なほ)其(その)外(ほか)に井伊直政(ゐいなをまさ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)などを初(はじ)め孰(いづ)れも相当(さうとう)に領地(れうち)を与(あた)へられたのであるが兎(と)に角(かく)前(まへ)に申(もうし)        述(の)べた人々は此(この)豊橋(とよはし)の地(ち)を中心(ちうしん)として之(こ)れ迄(まで)東(ひがし)三 河(かは)の内(うち)に根拠(こんきよ)を置(お)き又(また)は終始(しうし)此(この)地方(ちほう)に関係(くわんけい)のあつた       もので之迄(これまで)長々(なが〳〵)私(わたくし)の申述(もうしの)べ来(きた)つた各種(かくしゆ)の戦役(せんえき)を初(はじ)め東三河の歴史(れきし)に関係(くわんけい)を有(ゆう)せる人々であるが之(これ)等(ら)       が多年(たねん)住(す)み馴(な)れた三河を去(さ)つて之(これ)から関東(くわんとう)の開拓(かいたく)にかゝつたのであるから三河と関東(くわんとう)との関係(くわんけい)と云ふ 《割書:江戸は三河|の粋を集め》  ものは誠(まこと)に浅(あさ)からざる次第(しだい)であると思(おも)ふ従(したがつ)て其(その)中心(ちうしん)たる今(いま)の東京(とうけう)即(すなは)ち当時(とうじ)の江戸(えど)と云ふものは実(じつ)に 《割書:たるもの | 》  三河の粋(すゐ)を集(あつ)めた処であると云つても差支(さしつかへ)なき状態(ぜうたい)であつた事と信ずるのである 奥羽の平定 サテそれより秀吉(ひでよし)は自(みづか)ら進(すゝ)むで奥羽(おうゝ)に臨(のぞ)むだのであるが伊達政宗(だてまさむね)の如きは秀吉(ひでよし)が小田原(をだはら)対陣中(たいぢんちう)既(すで)に伺(し)        候(こう)して皈服(きふく)したと云ふ次第(しだい)であるから此(この)方面(はうめん)も忽(たちまち)の中(うち)に平定(へいてい)し其(その)処分(しよぶん)をも終(をは)つて八月廿三日に凱旋(がいせん)       の途(と)に就(つい)き江戸(えど)鎌倉(かまくら)を経(へ)夫(それ)より矢張(やはり)東海道(とうかいどう)を上(のぼ)つて九月に至(いた)り京師(けうし)に皈(かへ)つたのである其後(そのゝち)奥羽(おうゝ)地方(ちほう)に       は又々(また〳〵)小乱(せうらん)があつたが蒲生氏郷(がまふうぢさと)浅野長政(あさのながまさ)等(ら)が豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に従(したがつ)て之(これ)を征服(せいふく)し之(これ)で先(ま)づ天下(てんか)は初(はじ)めて平定(へいてい)       したと云ふ訳(わけ)になつたので実(じつ)に長(なが)い間(あひだ)の戦国(せんごく)状態(ぜうたい)も此処(こゝ)に一 大段落(だいだんらく)を告(つ)げた次第(しだい)であるが尚(なほ)此処(こゝ)に少(すこ)       しく御話(おはなし)して置(お)きたいのは秀吉(ひでよし)の検地(けんち)であるモツトモ検地(けんち)の事は織田信長(をたのぶなが)が既(すで)に之(これ)を行(おこな)つたと云ふ説(せつ)       があるが之(これ)には明瞭(めいれう)なる証拠(せうこ)がないようである然(しか)るに秀吉(ひでよし)は漸(やうや)く天下(てんか)を一 統(とう)せむとするに方(あた)つて全国(ぜんこく) 秀吉の検地 に亘(わた)つて此(この)検地(けんち)を行(おこな)つたもので旧来(きうらい)諸国(しよこく)に於(おい)て区々(くゝ)なる算法(さんぽう)を以(もつ)て土地(とち)又(また)は貢米(ぐまい)等(とう)を計算(けいさん)して居(をつ)たの       を同時(どうじ)に一 定(てい)しようと計(はか)つたものであるが其(その)時(とき)の新法(しんぽう)は曲尺(かねじやく)六尺三寸を以(もつ)て一 歩(ぶ)とし三十 歩(ぶ)を一 畝(せ)と 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十五 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十六 【本文】       し三百 歩(ぶ)を一 段(たん)とし十段を以て一町としたのである併(しか)し尚(な)ほ旧来(きうらい)の久(ひさ)しき因襲(いんしう)の為(ため)にドウモ一時には        改革(かいかく)が出来(でき)なかつたものゝようであるが此(この)吉田(よしだ)地方(ちほう)へは天正十七年の十一月頃に彦坂小刑部(ひこさかこぎようぶ)と云ふ人 《割書:彦坂小刑部|文書》  が来(き)て久(ひさ)しく滞在(たいざい)し検地(けんち)をもし又た年貢(ねんぐ)の納方(おさめかた)などをも触(ふ)れたのである此(この)彦坂小刑部(ひこさかこぎようぶ)の文書(ぶんしよ)は今(いま)小松(こまつ)        原(ばら)の東観音寺(ひがしくわんおんじ)に三 通(つう)残(のこ)つて居(を)るが其(その)中(うち)二 通(つう)は東観音寺(ひがしくわんおんじ)の住職(じうしよく)に当(あ)てた手紙(てがみ)で一 通(つう)は定法(でうはう)を書(か)いたもの       である而(しか)して孰(いづ)れも当時(とうじ)の事情(じぜう)が分るので参考(さんこう)になるべきものであると思(おも)ふ        ●補遺(●●)   酒井忠次夫人寄進(●●●●●●●●)の(●)画像(●●)に(●)就(●)て(●)          曩(さき)に「酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と東(ひがし)三 河(かは)の諸士(しよし)」と云ふ処で酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の夫人(ふじん)が寄進(きしん)せられた其(その)母堂(ぼどう)の画像(ぐわぞう)が豊橋市         吉屋 龍拈寺(りうねんじ)に遺(のこ)つて居ることを一寸申述べて置いたか其(その)時(とき)にも述(の)べ置(お)いた如く忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふの         は世(よ)に光樹夫人(くわうじゆふじん)と呼(よ)ばれた人で松平清康(まつだひらきよやす)の女であるから此(この)画像(ぐわぞう)は即(すなは)ち清康(きよやす)の夫人(ふじん)であることは明(あきらか)で         あるが清康(きよやす)の夫人(ふじん)と云ふのは三 度(たび)替(かは)つたので先(ま)づ第一は松平弾正左衛門入道昌安(まつだひらだんぜうさゑもんにふどうまさやす)の女であるが之(これ)         は大永四年 清康(きよやす)十四歳の時(とき)に此(この)昌安入道(まさやすにふどう)の山中(やまなか)の城(しろ)を抜(ぬ)き更(さら)に岡崎城(をかざきじよう)を攻(せ)めた時(とき)に昌安(まさやす)は遂(つひ)に敵(てき)         し難(がた)くて城(しろ)を明渡(あけわた)して和(わ)を請(こ)ひ其(その)女(ぢよ)春姫(はるひめ)を以(もつ)て清康(きよやす)に娶(めやは)したと云ふのが之(これ)である然(しか)るに琴瑟(きんひつ)の和(わ)         せざるものがあつて清康(きよやす)は後(のち)に青木筑後守貞景(あおきちくごのかみさだかげ)と云ふ人の女(ぢよ)を以(もつ)て夫人(ふじん)とせられたが其(その)腹(はら)に広忠(ひろたゞ)         が生(うま)れたのであるトコロが此(この)夫人(ふじん)は産後(さんご)がよくなくて遂(つひ)に逝去(せいきよ)せられたので清康(きよやす)は更(さら)に大河内左(おほかうちさ)          衛門尉元網(ゑもんじようもとつな)の養女(やうぢよ)を以(もつ)て夫人(ふじん)とせられたのが三 人目(にんめ)の夫人(ふじん)である此処(こゝ)から推及(すゐきふ)すると光樹夫人(くわうじゆふじん)の          母(はゝ)と云ふのは即(すなは)ち此(この)人(ひと)であると云ふ事を確信(かくしん)せらるゝのであるが併(しか)し確実(かくじつ)にそれと記録(きろく)したもの         は見当(みあた)らぬのであるモツトモ此(この)元網(もとつな)の養女(やうぢよ)と云ふ人に就(つい)ては旧来(きうらい)種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があつて俗説(ぞくせつ)には色々(いろ〳〵)         な事を伝(つた)へて居(を)るが初(はじ)め水野忠政(みづのたゞまさ)に嫁(か)して離縁(りえん)となりそれから清康(きよやす)の処(ところ)へ嫁(か)せられたのは事実(じじつ)で 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         あると信(しん)ずる而(しか)して彼(か)の伝通院(でんつうゐん)即(すなは)ち水野忠政(みづのたゞまさ)の女で初(はじ)め広忠(ひろたゞ)の夫人(ふじん)となつて家康(いへやす)を生(う)まれた方(かた)は          矢張(やはり)此(この)人(ひと)の所生(しよせい)であると云ふ説(せつ)が多(おほ)く記(しる)されてある且(か)つ此(この)人(ひと)は世(よ)に秀(ひい)でたる美人(びじん)であつたので清(きよ)          康(やす)は巳(おの)れより四歳も年長(ねんてう)であつたのに此(この)夫人(ふじん)を懇望(こんぼう)し尾張国宮(をはりのくにみや)の城主(じようしゆ)岡本善七郎秀成(をかもとぜんたらうひでなり)の計(はか)らひで          娶(めと)つたのであると云ふ説(せつ)も伝(つた)はつて居(を)るが三 河志(かはし)の中(なか)に将軍(せうぐん)外戚伝(ぐわいせきでん)を引用(ゐんよう)して頗(すこぶ)る此(この)人(ひと)の事に就(つい)         て要領(えうれう)を得(え)たる記事(きじ)があるそれに依(よ)ると此(この)人(ひと)は名(な)を於富(おとみ)の方(かた)と云つて清康(きよやす)に嫁(か)せられた後(のち)一女一         男を生(う)まれたと記(しる)してある併(しか)し此(この)人(ひと)の養父(やうふ)たる大河内元網(おほかうちもとつな)と云ふ人は桃井(もゝゐ)の大河内系(おほかうちけい)であるが大(おほ)          河内(かうち)子爵家(ししやくけ)に伝(つた)はつて居る系譜(けいふ)によると元網(もとつな)の養女(やうぢよ)を満姫(みつひめ)としてあつて其(その)経歴(けいれき)の中(なか)には往々(おう〳〵)将軍(せうぐん)          外戚伝(ぐわいせきでん)にある於富(おとみ)の方(かた)の記事(きじ)と齟齬(そご)する点(てん)がある此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)でドウモ未(いま)だ十 分(ぶん)なる事が申述(もうしのべ)ら         れぬのであるが兎(と)に角(かく)龍拈寺(りうねんじ)の画像(ぐわぞう)なるものは容貌(やうばう)其(その)他(た)種々(しゆ〳〵)の関係(くわんけい)から推(お)すも只今(たゞいま)申述(もうしの)べた如(ごと)く          元網(もとつな)の養女(やうぢよ)たりし人で清康(きよやす)最後(さいご)の夫人(ふじん)であるに相違(さうゐ)ないと思(おも)ふ殊(こと)に其(その)画像(ぐわぞう)と云ふものは大(おほい)に見(み)る         べきものであつて貴重品(きちようひん)たるを失(うしな)はぬ事と思(おも)ふが此頃(このごろ)私(わたくし)は岡崎町(をかざきてう)に催(もよほ)された教育品展覧会(けふいくひんてんらんくわい)に参(まゐ)         つて同町(どうてう)の隨念寺(ずいねんじ)から出品(しゆつひん)した清康(きよやす)の画像(ぐわぞう)を郷土史料(けうどしれう)の部(ぶ)に於(おい)て見(み)たが之(これ)は彼(か)の清康(きよやす)が是(ぜ)の字(じ)の          夢(ゆめ)を見(み)た時(とき)に画(ゑが)かしめたものであるとの事であるから恐(おそら)くは其(その)二十三歳頃の像(ぞう)であろうが其(その)時代(じだい)         は勿論(もちろん)画風(ぐわふう)が龍拈寺(りうねんじ)所蔵(しよざう)夫人(ふじん)の像(ぞう)と最(もつと)も相類(あひるい)して居(を)るので実(じつ)に云(い)ふべからざる感想(かんさう)に打(う)たれたの         であるモツトモ清康(きよやす)像(ぞう)の方(はう)が余程(よほど)古(ふる)いので無論(むろん)同時(どうじ)に出来(でき)たものでない事は明(あきらか)であるがサリト         テ又(ま)た其(その)間(あひだ)に大(たい)なる年代(ねんだい)の相違(さうゐ)がないものと思(おも)はるゝのみならず或(あるひ)は同(どう)一 画家(ぐわか)の筆(ひで)になつたもの         ではなかろうかと思(おも)はるゝ程(ほど)であつて此(この)両者(れうしや)を対照(たいせう)するのは無限(むげん)の趣味(しゆみ)があるものと思(おも)ふのであ         る 【欄外】    豊橋市史談  (徳川氏の関東移封)                    百六十七 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政と吉田)                    百六十八 【本文】             ⦿池田輝政と吉田       サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く徳川氏(とくがはし)は関東(くわんとう)に移封(いほう)せらるゝ事となつて東(ひがし)三 河(かは)に長(なが)く根拠(こんきよ)を搆(かま)へて居(を)つた処 《割書:池田輝政吉|田に封せら》  の其(その)諸将(しよせう)も悉(こと〳〵)く関東(くわんとう)に移転(いてん)したのであるが其(その)後(のち)此(この)吉田城(よしだじよう)には酒井氏(さかゐし)に代(かは)つて池田輝政(いけだてるまさ)が封(ほう)せられて 《割書:る    | 》   美濃(みの)の岐阜(ぎふ)から移(うつ)り来(きた)つたのである其(その)時(とき)の禄高(ろくだか)は十五万二千石であつたが吉田城(よしだじよう)は云ふ迄(まで)もなく其(その)根(こん) 伊木清兵衛  拠(きよ)で田原(たはら)牛久保(うしくぼ)などの城(しろ)も亦(ま)た領内(れうない)であつたが田原城(たはらじよう)には家臣(かしん)伊木清兵衛(いきせいべゑ)と云ふ人を置(お)き牛久保城(うしくぼじよう)に 《割書:荒尾平左衛|門》  は又た同(おな)じ家臣(かしん)の荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)と云ふ人を置(お)いたのである而(しか)して此(この)時(とき)輝政(てるまさ)が荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)に与(あた)へた知(ちぎ)        行方目録(ようかたもくろく)の写(うつし)と云ふものが牛久保密談記(うしくぼみつだんき)の中(なか)に載(の)つて居(を)るが左(さ)の通(とほ)りである              知 行 方 目 録         一六百八十四石七斗五升            牛 久 保         一千百二石八斗四升              長   山         一六百三十六石七斗二升            多   米         一六十七石一斗九升              赤   岩         一四百三十七石一斗九升            大   草         一七十八石一斗三升              手   洗           都 合 三 千 石 余         天正十八年十月廿八日                   照    政           荒 尾 平 左 衛 門 殿 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百二十八号附録    ( 明治四十四年十二月五日発行 ) 【本文】 《割書:二連木廃城|となる》   之(これ)で見(み)ると以上(いぜう)の諸村(しよそん)を平左衛門(へいざゑもん)が知行(ちぎよう)として居(を)つたものと見(み)へるが兼(かね)て御承知(ごせうち)の二 連木城(れんぎじよう)には此(この)時(とき)        別(べつ)に人を置(お)いた様子(ようす)が見(み)へぬので其(その)廃城(はいじよう)となつたのは此(この)時(とき)からであると信(しん)ぜられるのであるソコで一 貫高と石高 寸 御話(おはなし)して置(お)きたいのは石高(こくだか)の事であるが前(まへ)の輝政(てるまさ)が荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)に与(あた)へた書付(かきつけ)には御覧(ごらん)の如(ごと)く石高(こくだか)       が記載(きさい)してあるのである然(しか)るに此(この)石高(こくだか)と云ふものは天正(てんせう)の中程(なかほど)以後(いご)から称(とな)ふる処で其(その)以前(いぜん)と云ふもの       は御承知(ごせうち)の通(とほり)何貫文(なんくわんもん)と云ふように貫高(くわんだか)を用(もち)ゐ来(きた)つたのであるが此(この)貫高(くわんだか)と石高(こくだか)とは如何(いか)なる処に相違(さうゐ)       があるかと云ふ事に就(つい)ては旧来(きうらい)頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)となつて居(を)るのである此(この)事(こと)に関(くわん)しては之(これ)迄(まで)著(あらは)されて居(を)る書物(しよもつ)       の内(うち)にも区々(くゝ)の説(せつ)が記(しる)されてある次第(しだい)であるが此処(こゝ)に私(わたくし)の如(ごと)き浅学(せんがく)の者(もの)が之(これ)を詳論(せうろん)する必要(ひつえう)もないの       であるから後日(ごじつ)必要(ひつえう)となつた場合(ばあひ)は兎(と)に角(かく)今(いま)は只(たゞ)貫高(くわんだか)と石高(こくだか)の移(うつ)り替(かは)の時期(じき)に就(つい)て諸君(しよくん)の御注意(ごちうゐ)まで       に申述(もうしの)べた訳(わけ)である 輝政の事業 サテ輝政(てるまさ)は此(この)吉田(よしだ)に来(き)て爾来(じらい)市街(しがい)の改正(かいせい)を行(おこな)ひ大(おほい)に城廓(じようくわく)の拡張(くわくてう)を計(はか)つたのであるが先(ま)づ其(その)著(いちじる)しいも 豊河の橋梁 のを挙(あ)ぐれば第一に豊河橋梁(とよかはけうれう)の移転(いてん)である此(この)橋梁(けうれう)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く之(これ)迄(まで)は今(いま)の関(せき)        屋(や)の処から対岸(たいがん)に懸(か)けてあつたもので土橋(どばし)であつたが少(すこ)しく洪水(こうすゐ)があれば直(たゞ)ちに流失(りうしつ)した位(くらゐ)の一寸し       たものであつたように思(おも)はれる然(しか)るに輝政(てるまさ)は城地(じようち)の拡張(くわくてう)を計画(けいくわく)する上から此(この)橋梁(けうれう)を移(うつ)す必要(ひつえう)を認(みと)めた       ので初(はじ)めて之(これ)を船町(ふなまち)に移(うつ)して且(か)つ完全(くわんぜん)なる板橋(いたばし)となしたのである而(しか)して其(その)位置(ゐち)は現今(げんこん)の橋(はし)のある処よ       り大約(たいやく)四十間許り下流(かりう)で今(いま)も尚(な)ほ其(その)遺跡(ゐせき)が分(わか)るのであるが現今(げんこん)の橋(はし)は明治十二年三月に至(いた)つて初(はじ)めて        今(いま)の位置(ゐち)に架(か)せられたものでそれ迄(まで)はズツト引続(ひきつゞ)いて輝政(てるまさ)架設(かせつ)のまゝの位置(ゐち)に継続(けいぞく)し来(きた)つた次第(しだい)であ 《割書:悟眞寺の移|転を企つ》  る次(つぎ)に市区(しく)の改正(かいせい)の事であるが之(これ)も亦(ま)た余程(よほど)の大計画(だいけいくわく)を企(くわだ)てたものと見(み)ゆる即(すなは)ち今の処に悟眞寺(ごしんじ)があ       つては市区(しく)の整理上(せいりぜう)不便(ふべん)であると云ふので之(これ)を羽田(はだ)の地(ち)に移転(いてん)せしめむとして之(これ)に土地(とち)を与(あた)へたが未(いま) 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政と吉田)                    百六十九 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政と吉田)                    百七十 【本文】       だ其(その)移転(いてん)を実行(じつこう)せない前(まへ)に輝政(てるまさ)の方(ほう)が姫路(ひめぢ)に移封(いほう)となつたので悟眞寺(ごしんじ)は其(その)替(か)へ地(ち)の貰(もら)ひ徳(とく)となつたよ       うな訳(わけ)であるが其(その)後(ご)移転(いてん)は遂(つひ)に沙汰止(さたや)みとなつたが輝政(てるまさ)から貰(もら)つた敷地(しきち)は今(いま)も尚(なほ)大字(おゝあざ)花田(はなだ)字(あざ)築地(ちくじ)に九       千七百余圷の地を所有(しよいう)して居(を)ると云ふ結果(けつくわ)となつたのである其(その)外(ほか)にも市内(しない)の鍛冶職(かぢしよく)を今(いま)俗(ぞく)に元鍛冶町(もとかぢまち)       と称(せう)する処に移(うつ)し集(あつ)めたのも矢張(やはり)輝政(てるまさ)であると云ふ伝説(でんせつ)がある併(しか)し之(これ)も種々(しゆ〳〵)の事情(じぜう)から推及(すゐきふ)すると確(たしか) 城地の拡張 に信(しん)が措(お)けるように思(おも)はれるソコで城廓(じようくわく)であるが之(こ)れ亦(ま)た現今(げんこん)に残(のこ)つて居る状態(ぜうたい)は確(たしか)に輝政(てるまさ)の計画(けいくわく)       に成(な)るものが大部分(だいぶぶん)であると信(しん)ぜられるモツトモそれも「三河国二葉松(みかはのくにふたばまつ)」や「三河堤(みかはつゝみ)」などに伝説(でんせつ)が記(しる)し       てあるのと口碑(こうひ)に伝(つた)はつて居る位(くらゐ)に過(す)ぎぬのではあるが酒井氏(さかゐし)在城(ざいじよう)時代(じだい)の城地(じようち)は到底(とうてい)今日の如き大さ       のものではなかつたと云ふ事は当時(とうじ)の戦(たゝかひ)を記(しる)したものだの前(まへ)に申述(もうしの)べた橋梁(けうれう)の位置(ゐち)などでも分(わか)ると思(おも)       ふ而(しか)して輝政(てるまさ)後(のち)には余(あま)り大(たい)なる普請(ふしん)を此(この)城(しろ)に加(くは)へた事実(じゞつ)がないので又(ま)た徳川時代(とくがはじだい)となつては濫(みだ)りに城(じよ)        地(うち)の拡張(くわくてう)は許(ゆる)しもしなかつたのであるから矢張(やはり)前(まへ)に述(の)べた伝説(でんせつ)口碑(こうひ)は全(まつた)く事実(じゞつ)であるものと信(しん)ずるの 柳生門   であるが兎(と)に角(かく)当時(とうじ)十五万二千石の大名(だいみよう)としては比較的(ひかくてき)に大規模(だいきぼ)の計画(けいくわく)であつたものと云ふべきであ       る又(ま)た旧(きう)柳生門(やぎゆうもん)と云ふものは元(も)と長篠城(ながしのじよう)の大手門(おほてもん)であつたのを此(この)城(しろ)に移(うつ)したのであると云ふ伝説(でんせつ)口碑(こうひ)       があるが之(これ)は果(はた)して酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の時であるか輝政(てるまさ)の時であるか移転(いてん)の時代(じだい)に就(つい)て少(すこ)しく明瞭(めいれう)を欠(か)く所(ところ)が       あると思(おも)ふ併(しか)し「三河国二葉松(みかはのくにふたばまつ)」には「或云往古大手門ト云飽海門也、次柳生門大手通ニ用、池田三左       衛門ノ時有城普請ト云」とあつて初(はじ)めは飽海門(あくみもん)が大手(おほて)であつたが後(のち)に柳生門(やぎゆうもん)を大手通(おほてとほり)となしたもので       あると云ふ説(せつ)であるが之(これ)は確(たしか)であるに相違(さうゐ)ない結局(けつきよく)輝政(てるまさ)が此(この)吉田城(よしだじよう)を初(はじ)め市街(しがい)に向(むか)つて比較的(ひかくてき)大規模(だいきぼ)       の拡張(くわくてう)を行(おこな)ひそれが今日に残(のこ)つて居る総(すべ)て基礎(きそ)となつて居る事は事実(じゞつ)と信(しん)ずべきであると思(おも)ふソコ 《割書:豊川の治水|事業》  で私(わたくし)が常(つね)に思(おも)ふのは此(この)豊河(とよかは)の治水事業(ちすいじぎよう)と云ふものは元来(がんらい)誰(たれ)が行(おこな)つたであろうかと云ふ事である即(すなは)ち此(この) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        河(かは)が古来(こらい)崖岸(がいがん)広遠(くわうゑん)で渡船(とせん)さへ困難(こうなん)であつた事からそれが次第(しだい)に土砂(どしや)の為(ため)に埋(うま)つて遂(つひ)には土橋(どばし)さへ架(か)せ       らるゝに至(いた)つた事は前(まへ)にも段々(だん〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)りであるが現(げん)に残(のこ)つて居る治水事業(ちすゐじぎよう)と云ふものは中々(なか〳〵)工風(くふう)       したもので今日の学術(がくじゆつ)から見(み)たらばドウデあるかそれは私(わたくし)共(ども)には分(わか)らぬ事であるが兎(と)に角(かく)到底(とうてい)大事業(だいじぎよう)        家(か)でなければ成(な)し能(あた)はざる事であると思(おも)ふ彼(か)の上流(ぜうりう)にある宮井戸(みやゐど)の乗(の)り越(こ)しから箕堤(みのつゝみ)の工事(こうじ)などと云       ふものは当時(とうじ)にありては余程(よほど)工風(くふう)したものと云はねばならぬ之(これ)等(ら)はドウモ歴代(れきだい)の城主中(じようしゆちう)で此(この)輝政(てるまさ)より        外(ほか)に之(これ)を成(な)すべき適当(てきとう)の人はなかつたであろうと思(おも)ふ特(とく)に此頃(このころ)私(わたくし)は播州(ばんしう)の姫路(ひめぢ)に立寄(たちよ)つて輝政(てるまさ)の事蹟(じせき)       を見(み)たのであるか輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)より姫路(ひめぢ)に移(うつ)つてからなした事業(じぎよう)の中(なか)で彼(か)の白鷺城(しらさぎじよう)の建築(けんちく)と云ひ三 左(ざ)        衛門堀(ゑもんほり)の計画(けいくわく)と云ひ又(ま)た市街(しがい)を米字形(べいじがた)に区画(くぐわく)したと云ふ事などは頗(すこぶ)る思(おも)ひ当(あた)る処(ところ)があるように感(かん)じた       のである併(しか)し之(これ)は只(たゞ)私(わたくし)の臆説(おくせつ)であるが兎(と)に角(かく)茲(こゝ)に意見(いけん)を申述(もうしの)べて諸君(しよくん)の高教(かうけう)を仰(あふが)むとする次第(しだい)である        以上(いぜう)の如く輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に施(ほどこ)した事業(じぎよう)と云ふものは遺憾(ゐかん)ながら細密(さいみつ)には分(わか)り兼(か)ぬるが兎(と)に角(かく)大体(だい〳〵)の上(うへ)       から見(み)ても此(この)土地(とち)に対(たい)しては空前(くうぜん)の計画(けいくわく)をなしたもので又(ま)た其(その)後(ご)今日までには到底(とうてい)之(これ)に及(およ)ぶべき企画(きくわく)       をなしたものはなかつた事と思ふ而(しか)も此(この)地(ち)に於(お)ける計画(けいくわく)と云ひ姫路(ひめぢ)に於ける遣(や)り口(ぐち)と云ひ孰(いづ)れも猷大(ゆうだい)       なる規模(きぼ)であるが例(たと)へば加藤清正(かとうきよまさ)が熊本(くまもと)の経営(けいえい)をなした様(よう)な工合(ぐあひ)で如何(いか)にも豊臣時代(とよとみじだい)於(お)ける勇将(ゆうせう)の        遣(や)り前(まへ)を現(あら)はして居るのは誠(まこと)に壮快(さうくわい)の感(かん)に堪(た)えぬのである而(しか)して輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に来(き)たのは其廿七歳の       時でまだ青年時代(せいねんじだい)と云つてもよいのであるが之(これ)より慶長(けいてう)五年まで殆(ほとん)ど十個年の間(あひだ)此(この)地(ち)に居つたのであ 輝政の略歴 る而(しか)して輝政(てるまさ)が之(これ)迄(まで)の経歴(けいれき)であるが之(これ)をザツト申述(もうしの)べて見(み)ると御承知(ごせうち)の通(とほり)池田信輝(いけだのぶてる)の次男で幼名(えうめい)を古(こ)        新(しん)と呼(よ)び初(はじ)めは照政(てるまさ)と書(か)いたが後(のち)には輝政(てるまさ)と書(かい)たのである兄(あに)を之助(ゆきすけ)と云つたが父(ちゝ)信輝(のぶてる)は織田信長(をたのぶなが)乳母(うば)       の子(こ)であるので信長(のぶなが)の父(ちゝ)信秀(のぶひで)の代(だい)から織田氏(をたし)に仕(つか)へ頗(すこぶ)る功名(こうみよう)を現(あら)はした人である然(しか)るに信長(のぶなが)薨去(こうきよ)の後(のち) 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政と吉田)                    百七十一 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政と吉田)                    百七十二 【本文】        薙髪(ちはつ)して勝入(しようにふ)と号(ごう)し後(のち)秀吉(ひでよし)に属(ぞく)して美濃国(みのゝくに)大垣城(おほがきじよう)に居り子(こ)の之助(ゆきすけ)は岐阜(ぎふ)の城(しろ)を領(れう)したのであるが前章(ぜんせう)       に詳(くは)しく申述(もうしの)べた如く小牧(こまき)の役(えき)に於て遂(つひ)に家康(いへやす)信雄(のぶを)の為(ため)に破(やぶ)られて信輝(のぶてる)は四十九歳 之助(ゆきすけ)は廿六歳で共(とも)       に打死(うちじに)したのである当時(とうじ)輝政(てるまさ)は年廿一歳であつたが亦(ま)た従軍(じうぐん)したのである然(しか)るに従士(じうし)等(ら)の諌(いさめ)によつて        独(ひと)り身(み)を免(のが)れて引退(ひきしりぞ)いたのであるが後(のち)父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を継(つ)ぎ(《割書:岡山池田家譜には天正十二年四|月廿八日父の遺領を継ぐとあり》)天正十三年 更(さら)に大垣(おゝがき)を        改(あらた)めて岐阜城(ぎふじよう)に移(うつ)つたのである(《割書:仝家譜には天正十二年の事となし|又た此時十二万石を領すとあり》)それよりは常(つね)に秀吉(ひでよし)に従(したがつ)て数々(しば〳〵)功名(こうみよう)を現(あら)       はし天正十五年 羽柴(はしば)の姓(せい)を与(あた)へられ其翌(そのよく)十六年四月 更(さら)に豊臣氏(とよとみし)を与(あた)へられたのであるが小田原征討(をだはらせいとう)の        際(さい)には早川口(はやかはぐち)を囲(かこ)み其(その)落城(らくじよう)後(ご)は陸羽(りくう)の征伐(せいばつ)に向(むか)ひ其(その)先鋒(せんぽう)となつたのであるソコデ其(その)年(とし)即(すなは)ち天正十八年       七月十三日に酒井家次(さかゐいへつぐ)に代(かは)つて岐阜(ぎふ)から此(この)地(ち)に移封(いほう)せられ更(さら)に在京(ざいけう)の料(れう)として伊勢国(いせのくに)小栗栖(をぐりす)の庄(せう)を与(あた)       へられたのが先づ其(その)経歴(けいれき)の大要(たいよう)であるが其(その)年(とし)又(ま)た陸奥(むつ)に一 揆(き)の起(おこ)つた事があつて輝政(てるまさ)は此(この)時(とき)蒲生氏郷(がまふうぢさと)       の加勢(かせい)の為(ため)に出陣(しゆつぢん)したのである程(ほど)なく此(この)乱(らん)も平(たひら)いだが其翌(そのよく)十九年には秀吉(ひでよし)は輝政(てるまさ)の邸(やしき)に臨(のぞ)むで数種(すうしゆ)の        引出物(ひきでもの)を与(あた)へ秀次(ひでつぐ)からも亦(ま)た茶入(ちやいれ)を贈(おく)つたと云ふ訳(わけ)で其(その)信任(しんにん)は頗(すこぶ)る厚(あつ)かつたものと思(おも)はれるかくて天 文禄の役  正廿年は文禄元年(ぶんろくがんねん)と改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)例(れい)の朝鮮征伐(てうせんせいばつ)の軍(ぐん)は初(はじ)まつたのであるモツトモ此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)       の意見(いけん)と云ふものは明国(みんこく)を打(う)ち従(したが)へるにあつたと云ふ事であるから後世(こうせい)の人が此(この)役(えき)を以(もつ)て朝鮮征伐(てうせんせいばつ)な       どと云つたらば秀吉(ひでよし)は地下(ちか)で苦笑(くせう)するであろうと思(おも)はるゝが一 般(ぱん)に朝鮮征伐(てうせんせいばつ)で通(とほ)つて居るから私(わたくし)も今(いま)        仮(か)りに左様(さよう)に申述(もうしの)ぶるのであるが此(この)役(えき)輝政(てるまさ)は命(めい)を受(う)けて吉田(よしだ)に皈(かへ)り関東(くわんとう)の守備(しゆび)に任(にん)じ又(ま)た糧食(れうしよく)を備前(びぜん)       の名護屋(なごや)に送(おく)つたのである之(これ)は寛政重修諸家譜(かんせいじゆうしうしよかふ)其(その)他(た)にも記(しる)されてある事である而(しか)して輝政(てるまさ)は又(ま)た文禄       三年の八月に家康(いへやす)の二 女(ぢよ)督姫(とくひめ)を迎(むか)へて妻(つま)としたのであるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く此(この)督姫(とくひめ)と云ふのは初(はじ)め 《割書:督姫輝政に|嫁す》   北條氏直(ほうでううぢなほ)の処へ嫁(か)したのであるが小田原落城(をたはららくじよう)の時(とき)家康(いへやす)の陣(ぢん)に送(おく)り届(とゞ)けられたので自然(じぜん)氏直(うぢなを)とは離婚(りこん)の 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百三十四号附録    ( 明治四十四年十二月十二日発行 ) 【本文】        訳(わけ)になつて居(を)つたのであるが今度(このたび)秀吉(ひでよし)の謀(なかだち)によつて之(これ)を輝政(てるまさ)のところへ嫁(か)したのであるモツトモ輝政(てるまさ)は       前(まへ)に中川清秀(なかがはきよひで)の女を娶(めと)つて子(こ)利隆(としたか)を生(う)むだのであるが之(これ)が病死(びようし)したので其(その)後(あと)へ此(こ)の督姫(とくひめ)を迎(むか)へた次第(しだい)       である然(しか)るに此(この)督姫(とくひめ)が吉田(よしだ)へ入輿(にふよ)の時の逸事(いつじ)とも云ふべきものが武将感状記(ぶせうかんぜうき)の中に載(の)つて居(を)つて頗(すこぶ)る        興味(きようみ)のある事と思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することにする         池田(いけだ)三 左衛門尉輝政(ざゑもんしょうてるまさ)ノ家礼(かれい)伊庭総兵衛(いばそうべゑ)ハ手前(てまへ)中(あた)リ矢業(やわざ)モノニ勝(すぐ)レタル弓(ゆみ)ノ上手(ぜうづ)ナリ輝政(てるまさ)参州(さんしう)吉田(よしだ)ヲ居(きよ)         城(じよう)トス源君(げんくん)ノ婿(むこ)トナリテ御輿入時(おんこしいれどき)諸士(しよし)今切(いまきれ)に出迎(でむか)ヘ伊庭(いば)弓(ゆみ)ヲ持(もた)セタリ輿副(こしそへ)ノ人(ひと)使(つかひ)ヲ以(もつ)テ人多(ひとおほ)キ中(なか)ニ         独(ひとり)弓(ゆみ)ヲ持(もた)セラレタルハ承(うけたまはり)及(および)シ伊庭殿(いばどの)ニテヤ候(そうろ)ト問(と)フ御尋(おんたづね)ハ何故(なにゆへ)ゾ伊庭(いば)ニテ候ト答(こた)フ又(また)以使(つかひをもつて)サ        ラハ此(この)洲崎(すさき)ニ羽白(はしろ)一番(ひとつがひ)浮(うかん)テ候 願(ねがは)クハ一 矢(や)遊(あそ)ハサレ候ヘカシ見物(けんぶつ)仕(つかまつ)ラハヤト云(いふ)伊庭(いば)難議(なんぎ)ノ所望(しよもう)カ        ナ両家(れうけ)ノ諸士(しよし)ノ前(まへ)ニテ遠慮(ゑんりよ)アルヘキ事ナルヲト心中(しんちう)ニハ思(おも)ヒナカラ心得候(こゝろへそうら)ヌトテ矢(や)ヲツカヒテ前(すゝみ)ヨ        ル其(その)間(あひだ)三十 間(けん)ホトニテナレハ羽白(はしろ)漸(やうや)ク沖(おき)ニ出(い)テ遠(とほ)サカル伊庭(いば)満引(まんびき)シ余(あま)リ久(ひさし)クタモチケレハ是(これ)ハイカ        ニト見(み)ル所(ところ)ニ忘(わする)ルハカリアリテ放(はな)ツ矢(や)其(その)雄(おす)ノ胴中(どうなか)ヲ貫(つらぬ)キ其(その)雌(めす)ノ尻(しり)ヲ射切(ゐきり)タレハ両家(れうけ)一 同(どう)ニ誉(ほめ)ル声(こゑ)海(かい)         涛(どう)ニ響(ひゞき)所望(しよもう)シタル人(ひと)其(その)矢(や)トモニ羽白(はじろ)ヲ請(こひ)テ取(とつ)テ帰(かへ)レリ伊庭(いば)カ友(とも)何(なん)トシテシホヌケタルホトハ不放(はなたず)ヤト         問(とひ)ケレハ同(おなじく)ハ番(つがひ)ナカラ射(ゐ)ント思(おも)ヒ相並(あひならぶ)ヲ待(まち)タレトモ終(つひ)ニ不並(ならばず)少(すこ)シ並(なら)フヤウナルヲ幸(さいはひ)ニ放(はな)チ候故(そろゆへ)番(つがひ)ナ        カラ射(ゐ)トラデ残念(ざんねん)ナリトソ語(かた)リケル伊庭(いば)鉄砲(てつぽう)ト争(あらそ)ヒ矢(や)モ玉(たま)モ十ニテ小鳥(ことり)ヲ射(ゐ)ルニ負(まけ)タル事ナシ結立(むすびたて)        タル大巻藁(おほまきわら)ニ左(ひだり)ノ拳(こぶし)ヲサシツケ強(つよ)カラヌ弓(ゆみ)ニテ射之(これをゐ)厚(あつ)ミ一 寸(すん)ハカリノ裏板(うらいた)モ透(とほ)ルハカリナリ放(はな)レ殊(こと)        ニヨキ時(とき)ハモトユヒ其(その)勢(いきほひ)ニハラリトキルヽ事(こと)度々(たび〳〵)アリ灰(はい)ヲカキ挙(あげ)土器(かはらけ)ヲ立(たて)的(まと)トシテ射之(これをゐる)ニ貫之(これをつらぬき)テ         土器(かわらけ)ノワレサル事モ亦(また)度々(たび〳〵)ナリ鳥(とり)ヲ射(ゐ)ルニ弓(ゆみ)ヲ引設(ひきもうけ)スラスラト歩(あゆ)ミヨリ羽(は)ヲワランスル時(とき)歩(あゆむ)ナリニ         足(あし)ヲ不止(とゞめず)放(はな)ツニ外(そ)ル事ハ鮮(すくな)シ強力(きようりよく)壮碩(さうせき)時人(じゞん)ニ知(し)ラレタル男夫(をとこ)也 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政と吉田)                    百七十三 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政の人物)                    百七十四 【本文】       ソコで輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に残(のこ)した事柄(ことがら)で尚(な)ほ一つ諸君(しよくん)に御紹介(ごせうかい)せねばならぬのが妙円寺(みようゑんじ)建立(こんりう)の事である妙(みよう) 妙円寺    円寺(ゑんじ)は日蓮宗(にちれんしう)の寺(てら)で今(いま)も尚(な)ほ当市(とうし)大字(おほあざ)清水(しみづ)に現存(げんぞん)して居(を)る此(この)寺(てら)は初(はじ)め妙立寺(みようりうじ)と云つて文禄(ぶんろく)二年の建立(こんりう)       であるが元(も)と遠江国(とふとうみのくに)吉美(よしみ)の妙立寺(みようりうじ)から別(わか)れたもので当時(とうじ)其(その)妙立寺(みようりうじ)の僧(そう)に日円(にちゑん)と云ふ人があつて余程(よほど)の 輝政と日円  名僧(めいそう)であつたが輝政(てるまさ)は此(この)吉田(よしだ)にあるの時に深(ふか)く日円(にちゑん)を信(しん)じて数々(しば〳〵)招(せう)じて教(おしへ)を聴(き)いと云ふ事が妙円寺(みようゑんじ)       の記録(きろく)に残(のこ)つて居る即(すなは)ち此(この)人(ひと)の為(ため)に一 寺(じ)を現今(げんこん)の処に創立(そうりつ)して初めて矢張(やはり)妙立寺(みようりうじ)と称(せう)したのであるが        其後(こののち)輝政(てるまさ)は姫路(ひめぢ)に移封(いほう)になつて又(ま)た此(この)日円(にちゑん)を呼(よ)び寄(よ)せたので姫路(ひめぢ)にも妙立寺(みようりうじ)と云ふ寺(てら)を建立(こんりう)したので       あるソコで当市(とうし)の方(はう)は妙円寺(みようゑんじ)と改称(かいせう)し今(いま)に至(いた)つたものであるが私(わたくし)は此(この)頃(ころ)姫路(ひめぢ)に参(まゐ)つた時(とき)態々(わざ〳〵)其(その)妙立(みようりう)        寺(じ)を尋(たづ)ねて見(み)たが惜(おし)い事に僧侶(そうろ)が皆(みな)不在(ふざい)で何等(なんら)得(う)る処がなかつたのである併(しか)し規模(きぼ)は余(あま)り大(おほき)な寺(てら)では       なく締(しま)りのよい一寸(ちよつと)したものであるモツトモ輝政(てるまさ)は姫路(ひめぢ)に於(おい)て卒(そつ)したが其(その)地(ち)の龍峯寺(りうはうじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)り        後(のち)に至(いた)つて儒礼(じゆれい)を以(もつ)て備前国(びぜんのくに)和気郡(わきこほり)敦土山(つるどやま)に改葬(かいそう)したのであるから此(この)妙立寺(みようりうじ)は元(もと)より池田家(いけだけ)の菩提寺(ぼだいじ)       などと云ふ訳(わけ)ではなく只(た)だ輝政(てるまさ)が日円(にちゑん)を信(しん)ずるの余(あま)り其(その)人(ひと)の為(ため)に特(とく)に建立(こんりう)したものであると云ふ事が        分(わか)るのである当市(とうし)の妙円寺(みようゑんじ)も亦(ま)た右(みぎ)と同様(どうよう)の次第(しだい)であるが只(た)だ当時(とうじ)の日円(にちゑん)と輝政(てるまさ)とに関係(くわんけい)せる文書(ぶんしよ)な       どが少(すこ)しも今日に残(のこ)つて居(を)らぬのは遺憾(ゐかん)とする処(ところ)である             ⦿池田輝政の人物        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた外(ほか)に輝政(てるまさ)の人物(じんぶつ)に就(つい)ては大(おほい)に伝(つた)ゆべきものがあると思(おも)ふ名将言行録(めいせうげんこうろく)の中(なか)には其(その)人(ひと)とな 輝政の人物 りに就(つい)て「輝政(てるまさ)幼(よう)にして倜儻(てきたう)長(てう)ずるに及(およ)びて雄偉人(ゆうゐじん)となり剛直(がうちよく)にして下(した)に臨(のぞ)むに寛(かん)なり多(おほ)く名士(めいし)を招(せう)        致(ち)し孝悌(かうてい)を旌表(せいひよう)し上(かみ)に勤(つと)めて夙夜(しゆくや)懈(おこた)らず卒(そつ)するに及(およ)び上下駭惋(ぜげがんゑん)せざるものなし」としてあるが実(じつ)に其(その) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 輝政の幼時  通(とほ)りであつた事と思(おも)ふ元来(がんらい)輝政(てるまさ)と云ふ人は小供(こども)の時から剛気(がうき)であつたが之(これ)は其(その)十歳の時の話(はなし)である父(ちゝ)        勝入(しようにふ)が囲炉裏(ゐろり)に栗(くり)の実(み)を入(い)れて焼(や)いて居(を)つたが輝政(てるまさ)が其(その)側(かたはら)に居寄(ゐよ)つたので勝入(しようにふ)は此(この)栗(くり)が欲(ほ)しいかと        尋(たづ)ねたスルト輝政(てるまさ)は欲(ほ)しいと答(こた)へたので其(その)胆力(たんりよく)を試(こゝろ)みむと思(おも)ふたものかソレと云ふので勝入(しようにふ)は火(ひ)の中(なか)       にあつた栗(くり)を其(その)まゝ箸(はし)で挟(はさ)むで輝政(てるまさ)の手(て)の上(うへ)に与(あた)へたのである普通(ふつう)ならば小供(こども)でなくても之(これ)は熱(あつ)いと       云ふので驚(おどろ)くべき処であるが此(この)時(とき)輝政(てるまさ)は驚(おどろ)かない一 向(こう)平気(へいき)で押(お)し戴(いたゞ)いて之(これ)を食(た)べたと云ふ事が備前老(びぜんらう)        人物語(じんものがたり)と云ふものゝ中(なか)にあると云ふので色々(いろ〳〵)の書物(しよもつ)に引用(いんよう)せられて居(を)るモツトモ此(この)類(るい)の話(はなし)は如何(いか)にも        東西(とうざい)の英雄伝中(えいゆうでんちう)によくある事であるが兎(と)に角(かく)輝政(てるまさ)が幼少(ようせう)の頃(ころ)から非凡(ひぼん)の剛気(ごうき)であつた事が分(わか)ると思(おも)ふ 輝政の質素  然(しか)るに此(この)輝政(てるまさ)と云ふ人は勢力(せいりよく)を得(え)て後(のち)も実(じつ)に質素(しつそ)の人で思(おも)ひ出草(いでぐさ)と云ふものゝ中(なか)に輝政(てるまさ)の事を記(しる)して         姫路(ひめぢ)の城(しろ)に住給(すみたま)ひし時(とき)居間(ゐま)の竹水筒(たけすゐとう)しば〳〵損(そん)しけるゆへ有司(ゆうじ)とも今世上(いませぜう)にて水筒(すゐとう)を銅(あかがね)にて作(つく)る        事はやり申なり一 度(ど)拵(こしら)へ候へは何時(いつ)迄(まで)も損(そん)せぬゆへに倹約(けんやく)にもなるへしと乞(こ)ひければ其(その)方(はう)とも云ふ         如(ごと)く一 度(ど)に物(もの)を入(い)れて後(あと)の為(ため)にはなるへけれと今(いま)費(つひや)す所(ところ)竹(たけ)とは大(おほい)に相違(さうゐ)あるべし何事(なにごと)も世(よ)につれて         旧(きう)を改(あらた)むるよからぬ事なりと仰(あふ)せられて其(その)儀(ぎ)止(や)みぬ       と書(か)いてあるような次第(しだい)であるトコロが巳(おの)れの此(こ)の質素(しつそ)倹約(けんやく)なるに似(に)ず其(その)家直(いへなほ)に対(たい)しては頗(すこぶ)る厚遇(こうぐう)を 《割書:輝政士を愛|す》   与(あた)へたもので又(ま)た名士(めいし)とあれば勉(つと)めて之(これ)を召抱(めしかゝ)へたのである即(すなは)ち自(みづか)ら奉(ほう)ずるに薄(うす)く人を遇(ぐう)するに厚(あつ)し       と云ふ事を能(よ)く実行(じつこう)した人であるが或時(あるとき)老臣共(らうしんども)が輝政(てるまさ)の余(あま)りに倹素(けんそ)であるのを見兼(みか)ねて少(すこ)しは寛(かん)にせ       られたらば如何(いかゞ)であろうかと云ふ事を申上(もうしあげ)た処が輝政(てるまさ)が云ふには成程(なるほど)自分(じぶん)にも倹(けん)に過(す)ぐると云ふ事は        知(し)つて居(を)るが如何(いかん)せん斯(か)くあらでは家来(けらい)を多(おほ)く召抱(めしかゝ)ゆることは出来(でき)ぬ今(いま)は世(よ)が静(しづか)であつても何時(いつ)乱(みだ)るゝ       事があるかも分(わか)らぬ此(この)上(うへ)にも欲(ほ)しきものは武士(ぶし)であるから無益(むえき)の入費(にふひ)を省(はぶ)いて人を多(おほ)く抱(かゝ)ゆるのが予(よ) 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政の人物)                    百七十五 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政の人物)                    百七十六 【本文】       の楽(たのし)みであると答(こた)へたと云ふのであるが有斐録(ゆうひろく)の中(なか)にも輝政(てるまさ)が平素(へいそ)身分(じしん)には極(きは)めて質素(しつそ)な暮(くら)しをして        居(を)つた事を記(しる)した後(あと)に         是(こゝ)にて当時(とうじ)御質素(おんしつそ)なる事 思(おも)ひ知(し)るべし唯(たゞ)武備(ぶび)御人数(ごにんずう)にのみ御心(おこゝろ)を用(もち)ひ給(たま)ひ世(よ)に名(な)ある浪士(らうし)をは高知(かうち)        にて被召出(めしいだされ)御忠節(ごちうせつ)を被励(はげまされ)或時(あるとき)厠(かはや)に被為入(いらせられ)けしからぬ御声聞(おんこゑきこ)へける故(ゆゑ)御側(おそば)の人々 驚(おどろ)き走(はしつ)て奉伺(ほうし)御機(ごき)         嫌(げん)は郷御笑(けいおんわらひ)被遊候(あそばされそうろ)て我(われ)常(つね)に軍旅(ぐんりよ)の事のみ工夫(くふう)を凝(こら)す今(いま)も図(づ)にあたりたると思(おも)ふとあるに付(つき)我(われ)なら        ず斯(か)く之 有(あり)つらめあやしむことなかれ沙汰(さた)なし〳〵と御意被遊(ぎよいあそばされ)と老人(らうじん)の語(かた)り伝(つた)ふるあり       と云ふ事が載(の)せてあるソウ云ふ訳(わけ)であるから関(せき)ヶ原(はら)の役(えき)後(ご)などは特(とく)に浪人共(ろうにんども)が輝政(てるまさ)の処へ行(い)つて住(す)み        込(こ)むだもので前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べて置(お)いた牧野傳蔵成里(まきのでんざうなりさと)の如(ごと)きも矢張(やはり)此(この)人(ひと)に依(よ)つたのであるが輝政(てるまさ)は頗(すこぶ)る之(これ)       を優遇(ゆうぐう)し飽(あ)くまでも其(その)世話(せわ)をして遂(つひ)に家康(いへやす)に面会(めんくわい)せしめ旗本(はたもと)にまで引立(ひきたて)つるようにしたのであるそれ        等(ら)の親切(しんせつ)と云ふものは到底(とうてい)普通(ふつう)では出来(でき)ぬ事であると思(おも)ふがこう云ふ風(ふう)であるから輝政(てるまさ)は又(ま)た人に向(むか) 《割書:克く過を改|む》  つては頗(すこぶ)る寛大(かんだい)で自身(じしん)には克(よ)く過(あやまち)を改(あらた)めたと云ふ人であるソレにも種々(しゆ〳〵)なる資料(しれう)がある事であるが 《割書:租税を軽く|す》   先(ま)づ租税(そぜん)の幾分(いくぶん)を免除(めんぢよ)した事蹟(じせき)が諸処(しよ〳〵)に残(のこ)つて居(を)るのは其一である常山記談(じようざんきだん)にある左(さ)の記事(きじ)なども甚(はなは)       だ面白(おもしろ)い事であると思(おも)ふから抄録(しようろく)する        輝政(てるまさ)公(こう)武将(ぶせう)の重宝(じゆうほう)とすべきは領分(れうぶん)の百 姓(せう)と譜代(ふだい)の士(し)と鶏(にはとり)と三品なりそれを如何(いかん)と云ふに百 姓(せう)は田(た)         畑(はた)を作(つく)りて我上下(わがぜうげ)の諸卒(しよそつ)をやしなふ是(こ)れ一つの重宝(じようほう)なり譜代(ふだい)の士(し)たとへ気(き)に不応(おうぜず)して扶持(ふち)を放(はな)すと        いへども敵国(てきこく)にて彼者(かのもの)を実(じつ)に扶持(ふち)放(はなし)たると不思(おもはず)して間(ま)にも入(い)るゝかと思(おも)ふて疑(うたが)ふゆへに敵国(てきこく)に逗留(とうりう)        することあたはずして終(つひ)には我国(わがくに)へ帰(かへつ)て我兵(わがへい)となるゆへこれ二つの宝(たから)なり又(また)目(め)に見(み)ゆる相図(あひづ)耳(みゝ)に聞(きこ)ゆ        る相図(あひづ)は敵(てき)の耳目(じもく)にかゝることゆへにたやすく敵国(てきこく)にてなしがたし鶏鳴(けいめい)は唯(たれ)もその相図(あひづ)ぞと知(し)らざる 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百四十号附録    ( 明治四十四年十二月十九日発行 ) 【本文】        ゆへに即(すなは)ち敵国(てきこく)の鶏鳴(けいめい)にて一 番鳥(ばんどり)にて人衆(じんしゆう)を起(おこ)し二 番鳥(ばんどり)にて食(しよく)し三 番鳥(ばんどり)にて打立(うちたつ)などゝ相図(あひづ)を究(きはめ)て         敵(てき)もその相図(あひづ)を知(し)らざるの徳(とく)ありこれ三つの重宝(じゆうほう)なり是(これ)を三の重宝(じゆうほう)と立(たて)しと宣(のたま)ふなり 輝政の寛大  又(ま)た大日本史料(だいにつぽんしれう)の内(うち)に池田家履歴略記(いけだけりれきりやくき)を引(ひ)いて左(さ)の記事(きじ)があるが其(その)内(うち)の一つは此(この)吉田(よしだ)に於(おい)てあつた事       らしいから尚更(なほさ)ら好資料(こうしれい)だと思(おも)ふのである         参河(みかは)にての事成(ことなり)しが或時(あるとき)御祝(おんいはひ)の申楽(さるがく)を設(もう)けられしにけふは何(なに)ほと大音(だいおん)にてもほめん事(こと)苦(くる)しからず若(もし)         諍論(そうろん)などする者(もの)あらば理非(りひ)の弁(わきまへ)なく罪(つみ)すべしと令(れい)ありみつからも其技(そのぎ)をし給(たま)ふ折(をり)ふし拝見(はいけん)の中(なか)に         口論(こうろん)起(おこ)りすでに掴合(つかみあひ)ける故(ゆへ)八田八蔵 梶浦太郎兵衛(かじうらたろべゑ)など走(はし)り行(ゆき)て取静(とりしづ)め双方(そうほう)をあづけ置(おい)て御前(ごぜん)に帰(かへ)り        しかば先(さき)にさわがしきは何事(なにごと)ぞと御尋有(おたづねあり)太郎兵衛(たろべゑ)あれは山椒(さんしよ)にむせ候を傍(かたはら)ゟ介抱(かいほう)いたし候也 遠(とほ)く         見候(みそうら)へは誠(まこと)に喧嘩(けんくわ)の様(やう)に見(み)え候と申(もう)す国清公(こくせいこう)聞(きこ)し召(めし)それははや快(よき)か汝(なんぢ)見(み)て帰(かへ)れと仰(あふせ)ければ太郎兵衛(たろべゑ)         参(まゐ)りはやよく候と申(もうす)晩(ばん)に件(くだん)の両人(れうにん)御前(ごぜん)に伺公(しこう)しければけふの山椒(さんしよ)は出来事(できごと)ぞやと仰(あふせ)あり同公(どうこう)常(つね)に芹(せり)        を嗜(たしな)み給(たま)ひ備前国(びぜんのくに)御野郡(みのごほり)に生(せう)ずるを上品(ぜうひん)とせられ此(この)芹(せり)をとる事を禁(きん)じ給(たま)ふ或士(あるし)是(これ)を盗(ぬす)む百 姓共(せうども)其(その)旨(むね)        を萩田庄助(はぎたせうすけ)に訴(うつた)ふ庄助(せうすけ)又(また)其(その)由(よし)を申(もうし)ければ扨々(さて〳〵)にくき事かな夫(それ)は只(たゞ)取(とり)たるか但(たゞ)しは盗(ぬす)みたるかと仰(あふせ)け        る庄助(せうすけ)盗候(ぬすみそうろ)と申(もう)す重(かさね)て仰(あふせ)に我等(われら)より留置(とめおき)たるをおして取(とり)たらば一入(ひとしほ)にくき事ぞ盗(ぬすみ)たるは必定(ひつでう)我等(われら)        にひとしき芹(せり)すきにてや有(あり)けん其(その)侭(まゝ)にして置(おく)へしとぞ仰(あふせ)ける 《割書:克く過を改|む》   此(かく)の如(ごと)く輝政(てるまさ)は民(たみ)を恤(めぐ)み士(し)を愛(あい)し最(もつと)も寛大(かんだい)の行(おこなひ)か多(おほ)かつたが又(ま)た克(よ)く過(あやまち)を改(あらた)めたと云ふ例(たとへ)としては        備陽武義雑談(びやうぶぎざつだん)の中(なか)に左(さ)の記事(きじ)がある         八田豊後郷(はつたぶんごごう)の刀(かたな)を所持(しよじ)す無銘(むめい)二尺三寸のよしなり播磨姫路(はりまひめぢ)にて国清公(こくせいこう)右(みぎ)の刀(かたな)を指上(さしあげ)よと度々(たび〳〵)仰(あふせ)らる        れども奉(たてまつ)らすある夜(よ)御酒(ごしゆ)の後(のち)豊後(ぶんご)をめし度々(たび〳〵)所望(しよもう)する刀(かたな)を出(いだ)せと仰(あふせ)らる豊後(ぶんご)云(いふ)度々(たび〳〵)御断(おんことはり)申上候(もうしあげそうろ)通(とほり) 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政の人物)                    百七十七 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政の人物)                    百七十八 【本文】         代々(だい〳〵)所持仕候(しよじつかまつりそうろ)刀(かたな)是(これ)を以(もつ)て御馬先(おんうまさき)を仕(つかまつ)るへしと心懸(こゝろがけ)居申(おりまうし)候へは指上(さしあげ)る事(こと)罷(まかり)ならすといふ其(その)時(とき)に国(こく)         清公(せいこう)怒(いか)りたまひてなげしにある薙刀(なぎなた)を取(とり)たまふ所(ところ)を豊後(ぶんご)扇(あふぎ)を以(もつ)て御顔(おんかお)をしたゝかに打奉(うちたてまつ)りて退出(たいしゆつ)        す元来(がんらい)御酒酔(おんさけよひ)の後(のち)の事(こと)なれは御側(おそば)の衆(しゆう)取鎮(とりしづ)め豊後(ぶんご)はわれ等(ら)に仰付(あふせつけ)られ候へと押留(おしとゞめ)奉(たてまつ)る其(その)後(のち)良(よく)あり        て御酔醒(おんよひざめ)の後(のち)深更(しんかう)に及(およ)ふといへとも豊後(ぶんご)を召(めさ)る豊後(ぶんご)御手討(おてうち)ならんと覚悟(かくご)して即(すなは)ち登城(とじよう)す直(たゞち)に御寝所(ごしんじよ)        へ召(めし)て仰(あふせ)には我(われ)酒(さけ)に酔(よひ)て其(その)方(ほう)を手討(てうち)にせんと仕(し)たりき我(われ)誤(あやま)れり其(その)方(ほう)少(すこし)も心(こゝろ)にかくるなと仰(あふせ)らる豊後(ぶんご)         不覚(おぼへず)落涙(らくるい)して退出(たいしゆつ)す国清公(こくせいこう)の御行跡(おんぎようせき)大(おほ)かた此(この)類(るい)多(おほ)しとかや 《割書:輝政士を愛|す》  モツトモ此(この)話(はなし)は八田豊後(はつたぶんご)と云ふ士(し)の剛直(がうちよく)な処も味(あぢは)ふべきであるが兎(と)に角(かく)輝政(てるまさ)が善(よ)い家臣(かしん)を多(おほ)く持(も)つて        居(を)つたと云ふ事は敬服(けいふく)すべき処で池田家履歴略記(いけだけりれきりやくき)にある左(さ)の話(はなし)などは誠(まこと)に其(その)由(よつ)て来(きた)る処が伺(うかゞ)ひ知(し)らる       ゝように思(おも)ふのである         山脇源太夫(やまわきげんだいう)《割書:はしめ荒木摂津守村重につかへ荒|木滅亡の後池田家に来りつかふ》播州姫路(ばんしうひめぢ)にて煩(わずら)ひ薬師(やくし)手(て)を尽(つく)しけれとも其(その)験(しるし)なしされは京師(けうし)        にのほりて保護(ほご)を加(くは)ふへしと国清公(こくせいこう)の仰(あふせ)にて都(みやこ)に上(のぼ)り僑居(きようきよ)にて医療(ゐれう)せり此(この)時(とき)御見舞(おんみまひ)として山脇市太(やまわきいちだ)         夫(いう)に御直筆(おんぢきしつ)の御書(おんしよ)を持(もた)せて病(やまひ)を問(とひ)給(たま)ふ御書(おんしよ)の詞(ことば)には彼(かれ)か病(やまひ)の躰(てい)委(くわし)く御尋(おんたづね)ありしうへに近々(きん〳〵)旅宿(りよしゆく)へ御(おん)         出有(いである)へきとの御事(おんこと)也(なり)やかて姫路(ひめぢ)を御発駕(ごはつが)ありはる〳〵と山脇源太夫(やまわきげんだいう)か都(みやこ)の宿(やど)に入(い)らせ容躰(ようたい)いとねん        ころに訪(とひ)給(たま)ひ申置(もうしおき)たき事(こと)あらば申(もうす)べしと再(さい)三 仰有(あふせあり)けれは山脇(やまわき)答申(こたへもうし)けるは何申置事(なにもうしおくこと)も候(そうら)はず只(たゞ)某(それがし)         手前(てまへ)に年頃罷在候者(としごろまかりありそうらうもの)六 人(にん)毎度(まいど)いくさに私(わたくし)為(ため)に働(はたらき)たる者共(ものども)に候(そうろ)彼(かれ)をめし出(だ)され候はばやと申(もうし)        けれはいとやすき望也(のぞみなり)とて御落涙(ごらくるい)ありし扨(さて)御手水(おてふづ)に立給(たちたま)ふ西村小兵衛(にしむらこへゑ)御手水(おてふづ)まいらすれは汝(なんぢ)も六人        の内(うち)かと仰(あふせ)けれは西村(にしむら)平伏(へいふく)して罷在(まかりあ)るかくて源太夫(げんだいう)は日(ひ)にましよはりゆき終(つひ)に八月十九日 京師(けうし)に死(し)        す五十四歳也 此(この)源太夫(げんだいう)は雄功(ゆうこう)の士(し)にて三十三の首供養(くびくやう)せし程(ほど)の者也(ものなり)《割書:中|略》国清公(こくせいこう)山脇(やまわき)か遺言(ゐげん)にまかせ西(にし) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         村小兵衛(むらこへゑ)、 岡島新兵衛(をかじましんべゑ)、 古澤源之丞(ふるさはげんのじよう)、 福島(ふくしま)四 郎左衛門(ろざゑもん)、○○○○○六人を召出(めしいだ)されしと云(いふ) 《割書:伊木清兵衛|の諫言》  トコロが輝政(てるまさ)も初(はじ)めは成(な)るべく少(すくな)い扶持(ふち)で割合(わりあひ)によい士(し)を召拘(めしかゝ)へたいと思(おも)つたがそれは大(だい)なる誤(あやまり)で       あると云ふ事を覚(さと)つたものと見(み)ゆるので其(その)動機(どうき)とも云ふべき左(さ)の話(はなし)は矢張(やはり)備前老人物語(びぜんらうじんものがたり)の内(うち)にある事       であるが之(これ)亦(ま)た甚(はなは)だ味(あぢは)ふべきものであると思(おも)ふ         池田(いけだ)三 左衛門殿(ざゑもんどの)の家老(からう)伊木清兵衛(いきせいべゑ)病(やまひ)にふしてすてに末期(まつご)に臨(のぞみ)しに我(われ)今生(こんぜう)の望(のぞみ)ある也 今(いま)一 度(ど)君(きみ)の御目(おめ)        にかゝりたき也とありけれは三 左衛門殿(ざゑもんどの)きこしめし驚(おどろき)給(たま)ひいそきその家(いへ)にいたり枕(まくら)にちかつき給(たま)        ひいかに清兵衛(せいべゑ)心(こゝろ)はなにとあるそかほとの事ともしらさりしこそ疎(うとく)なりけれおもふ事あらはいひを        くへしその望(のぞみ)にしたかふへし本(もと)より跡目(あとめ)相違(さうゐ)あるましきとはいふにおよはすといとねんころに仰(あふせ)ら        れけり其(その)時(とき)清兵衛(せいべゑ)頭(かしら)をあけ両手(れうて)を合(あはせ)これ迄(まで)の入御(にふぎよ)ありかたし〳〵冥加(めいが)至極(しごく)せり遺跡(ゐせき)のことは愚息(ぐそく)か        覚悟次第(かくごしだい)に仰付(あふせつけ)らるへしとにもかくにも御(おん)はからひによる事(こと)なれはいさゝかも心(こゝろ)にかゝる事候(ことそうら)はす        たゝ一つ申(もうし)たき事候(ことそうら)へはこれを申(もう)さすしてむなしくなりなん事(こと)忘執(ぼうしつ)なるべけれは乍恐申(おそれながらもう)す也 公(こう)常(つね)        に物(もの)ことにほり出(だ)しをこのませ給(たま)ふ御病(おんくせ)あり中(なか)にも士(し)のほり出(だ)しを専(もつぱら)とし給(たま)ふことよからぬ御病(おんくせ)也 士(し)        はその分限(ぶんげん)よりは一 際(きは)よろしくあてかはせ給(たま)ひてこそ長(なが)く御家(おいへ)を不去(さらず)忠節(ちうせつ)を存(ぞん)ずへけれと申(もう)しけれ        は三 左衛門殿(ざゑもんどの)つく〳〵と聞給(きゝたま)ひ只今(たゞいま)の諫言道理至極(かんげんどうりしごく)せり其(その)志(こゝろざし)山(やま)よりも高(たか)く海(うみ)よりも深(ふか)し生前(せいぜん)にお        ゐて忘却(ぼうきやく)すへからすこゝろやすくおもふへしとて清兵衛(せいべゑ)か手(て)をとりなみだを流(なが)しなごり惜(おし)けにわか        れ給(たま)ひたりけり君臣(くんしん)の情(じよう)あわれなりしありさま也そののち家風(かふう)ます〳〵よくなりしとそ 矮 舞    其(その)他(た)輝政(てるまさ)の逸話(いつわ)に関(くわん)してはまだ〳〵沢山(たくさん)に伝(つた)へられて居(を)るのであるが大日本史料(だいにつぽんしれう)第(だい)十二 編(へん)の十一 輝政(てるまさ)        卒去(そつきよ)の処(ところ)に参考(さんこう)として諸種(しよしゆ)の書物(しよもつ)からも抄出(しようしゆつ)せられてある特(とく)に岡山市(をかやまし)国清寺(こくせいじ)所蔵(しよざう)の肖像(せうぞう)並(ならび)に其(その)自筆(じしつ)の 【欄外】    豊橋市史談  (池田輝政の人物)                    百七十九 【欄外】    豊橋市史談  (関ケ原役)                   百八十 【本文】        文書(ぶんしよ)なども掲載(けいさい)になつてあるから詳(くは)しい事(こと)は先(ま)づ之(これ)等(ら)に就(つい)て見(み)られたいものであると思ふが尚(なほ)一つ御(お)        話(はなし)して置(お)きたいのは輝政(てるまさ)が頗(すこぶ)る矮小(わいせう)なる人であつたと云ふ事である或俗書(あるぞくしよ)には其丈(そのたけ)四尺に満(み)たずとし       てあるが之(これ)は余(あま)りに信(しん)ぜられぬように思(おも)ふモツトモ其頃(そのころ)の寸尺(すんしやく)と云ふものは今日(こんにち)のものとは違(ちが)つて居(を)       るであろうから何(なん)とも云へぬが思(おも)ひ出草(いでぐさ)の中(なか)にも         輝政卿同輩(てるまさきやうどうはい)の大名宴会(だいみようえんくわい)の座(ざ)にしてその矮人(わいじん)たるを笑(わら)ふものありけれはさらは予矮舞(よぜいびくまい)といふ新曲(しんきよく)をな        すへしとつと立(たち)あかりたまひ自(みづか)らせいひく舞(まひ)を見(み)さいなと打返(うちかへ)し囃(はや)したまひ播磨(はりま)、備前(びぜん)、淡路(あはぢ)と三         箇国(かこく)のぬしなれはせいほしとも思(おも)はすとうたひなから舞(まひ)たまひしかは座中興(ざちうけう)に入(いり)たりといひ伝(つたひ)たり       と云(い)ふ事(こと)があるから其(その)躯幹(くかん)は人並外(ひとなみはづ)れて低(ひく)かつたものであつた事は事実(じゞつ)であると信(しん)ずるのである之(これ)か       ら関(せき)ケ原(はら)役(えき)に関(くわん)して御話(おはなし)したいと思ふ             ◎関ケ原役        之(これ)から関(せき)ケ原(はら)役(えき)に関(くわん)して少(すこ)しく申述(もうしの)べたいと思(おも)ふのであるがそれには先(ま)づ遡(さかのほつ)て秀吉(ひでよし)晩年(ばんねん)の事柄(ことがら)を概(がい)        説(せつ)する必要(ひつよう)があると思(おも)ふ 秀吉の晩年  前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べた如(ごと)く秀吉(ひでよし)は天正(てんせう)十二年に大阪城(おほさかじよう)が出来上(できあが)つて之(これ)に住(す)むだのであるが此年(このとし)から又(ま)た京(けう)        都(と)聚楽(しうらく)の邸(てい)を造営(ぞうえい)し其(その)十五年に至(いた)つて落成(らくせい)したのである而(しか)も其(その)十八年には小田原(をだはら)の北条氏(ほうでうし)を亡(ほろ)ぼし続(つゞ)       いて東北(とうほく)を平定(へいてい)し全(まつた)く天下(てんか)を掌握(せうあく)したのであるが天正(てんせう)は十九年まで続(つゞ)いて其(その)廿年に至(いた)つて文禄(ぶんろく)と改元(かいげん)       されたのである即(すなは)ち朝鮮征伐(てうせんせいばつ)の軍(ぐん)は此年(このとし)に起(おこ)されたので小西(こにし)行長(ゆきなが)加藤清正(かとうきよまさ)等(ら)を初(はじ)め中国(ちうごく)四 国(こく)九 州(しう)の諸(しよ)        候(こう)は皆之(みなこれ)に従軍(じんぐん)し秀吉(ひでよし)は自(みづか)ら肥前(ひぜん)の名護屋(なごや)に出張(しゆつてう)して之(これ)を指揮(しき)したのである之(これ)より先(さ)き秀吉(ひでよし)は天正(てんせう)十 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百四十六号附録    (明治四十四年十二月二十六日発行) 【本文】 《割書:秀吉関白職|を秀次に譲》  九年に其異母妹(そのゐぼまい)の子(こ)秀次(ひでつぐ)を養(やしなつ)て子(こ)となし之(これ)に関白職(くわんぱくしよく)を譲(ゆづ)つて自(みづか)らは太閤(たいかう)と称(せう)したのであるが元来(がんらい) 《割書:る    | 》         秀吉(ひでよし)には正妻(せいさい)に子(こ)がなかつたのである然(しか)るに織田信長(をたのぶなが)の妹(いもと)で浅井長政(あさゐながまさ)に嫁(か)した人(ひと)があつて之(これ)が三人の        女子(ぢよし)を生(うそ)むだが浅井氏(あさゐし)滅亡後(めつぼうご)柴田(しばた)勝家(かついへ)に再嫁(さいか)した時(とき)此(この)三人の女子(ぢよし)をも連(つ)れて行(い)つたのである其後(そののち)御承(ごせう)        知(ち)の通(とほ)り勝家(かついへ)も亦(ま)た滅亡(めつほう)したので織田氏(をたし)は自刃(じじん)したが三 女子(ぢよし)は秀吉(ひでよし)の養(やしな)ふ処となり後(のち)に秀吉(ひでよし)は其長女(そのてうぢよ) 淀君    を容(い)れて己(おの)れの妾(めかけ)となしたのである之(これ)が即(すなは)ち有名(ゆうめい)なる淀君(よどぎみ)であるが天正十七年五月 此(この)淀君(よどぎみ)の腹(はら)に初(はじ)め       て鶴松(つるまつ)と云ふ子(こ)が生(うま)れたのである然(しか)るに其翌年(そのよくねん)の八月に夭(よう)したので秀吉(ひでよし)は一 方(かた)ならず哀(かなし)むで前(まへ)に申述(もうしの)       べた如(ごと)く其年(そのとし)の十一月 秀次(ひでつぐ)を養子(やうし)とし十二月 直(たゞ)ちに内大臣(ないだいじん)に任(にん)じ関白(くわんぱく)となさるゝに至(いた)つたのであるト       コロで其翌文禄元年(そのよくぶんろくがんねん)外征(ぐわいせい)の師(し)が起(おこ)つて秀吉(ひでよし)は名護屋(なごや)へ出張(しゆつてう)することとなつたのであるが此時(このとき)亦(ま)た小田原(をだはら)        征伐(せいばつ)の吉例(きちれい)に倣(なら)ひ淀君(よどぎみ)を伴(ともな)つたのであるトコロが其内(そのうち)に妊娠(にんしん)したので大坂(おほさか)に還(かへ)し文禄(ぶろく)二年八月三日 男(だん) 秀頼生る  子(し)を出生(しゆつせい)したのが秀頼(ひでより)であるソコで秀吉(ひでよし)の愛(あい)は偏(ひとへ)に此(この)秀頼(ひでより)に集(あつ)まる事となつたので此児(このこ)を見(み)る為(ため)に態(わざ)       態(わざ)名護屋(なごや)から大坂(おほさか)に皈(かへ)つたと云ふ位(くらひ)であるモツトモ秀吉(ひでよし)は時(とき)に五十七歳で追々(おひ〳〵)老年(らうねん)に近(ちか)づく処から情(ぜう)        愛(あい)も濃厚(のうこう)となつた事であろうが兎(と)に角(かく)此児(このこ)の為(ため)にはあらゆる方法(はうほう)を以(もつ)て福利(ふくり)を増(ま)さむ事を計(はか)つた様子(やうす) 石田三成  が見(み)ゆるのであるソコで此(この)弱点(じやくてん)に付(つ)け入(い)つたのが石田三成(いしだみつなり)である三成(みつなり)と云ふ人は頗(すこぶ)る才気(さいき)に余(あまり)あつた       ので淀君(よどぎみ)の甘心(かんしん)を得従(えしたがつ)て秀吉(ひでよし)にも気(き)に入(い)られたのであるが世(よ)の伝(つた)ふる如(ごと)き小人(せうにん)でもなかつたであろう       と思(おも)ふ併(しか)し淀君(よどぎみ)の参謀(さんぼう)となつて秀頼(ひでより)を世(よ)に立(た)つる為(た)めに秀次(ひでつぐ)を除(のぞ)く事を計(はか)つたものであるのは事実(じじつ)の        上(うへ)から観測(くわんそく)し得(え)らるゝ事と思(おも)ふのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く此事(このこと)に就(つい)ては秀次(ひでつぐ)の方(ほう)にも大(たい)なる欠点(けつてん)がある       ので其後(そののち)と云ふものは一 層(そう)自暴自棄(じばうじき)の様子(やうす)があつて無辜(むこ)を殺(ころ)し残忍(ざんにん)の所為(しよゐ)が多(おほ)く世(よ)に殺生(せつせう)関白(くわんぱく)と噂(うはさ)せ       られた程(ほど)であるから何(なん)と云はれても致方(いたしかた)はないのであるが其処(そこ)には又(ま)た讒間(ざんかん)が巧(たく)みに入(い)つたので秀吉(ひでよし) 【欄外】    豊橋市史談  (関ケ原役)                   百八十一   【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                         百八十二 【本文】 秀次亡ぶ  は全(まつた)く之(これ)が為(ため)に誤(あやま)られて直(たゞ)ちに秀次(ひでつぐ)を以(もつ)て己(おの)れに対(たい)する謀逆人(ぼうぎやくにん)となして実(じつ)に残酷(ざんこく)なる処置(しよち)をなしたの       である之(これ)も諸君(しよくん)の御承知(ごせうち)の通(とほ)りで秀次(ひでつぐ)は文禄(ぶんろく)四年七月 高野山(かうやさん)に於(おい)て自殺(じさつ)し其(その)妻妾(さいせう)等(ら)は残(のこ)らず京都(けうと)洛中(らくちう)       を引廻(ひきまは)されて三 条河原(でうがはら)で斬(き)られたのであるが夫(それ)のみならず近臣(きんしん)のものも彼所(かしこ)此所(こゝ)で段々(だん〳〵)と誅(ちう)せられ殊(こと)       に秀次(ひでつぐ)と親密(しんみつ)の交際(こうさい)があつたものは遠流(ゑんりう)に処(しよ)せられ又(また)は厳譴(げんせき)を蒙(かうむ)つたのである而(しか)して秀吉(ひでよし)の命(めい)を受(う)け       て此(この)事(こと)を決行(けつこう)したのは三成(みつなり)等(ら)で当時(とうじ)京都(けうと)の辻々(つじ〳〵)には誰(たれ)がなしたとなく左(さ)の如(ごと)き貼札(はりふだ)があつたと云(い)ふ事(こと)       である         天下(てんか)は天下(てんか)の天下(てんか)なり関白家(くわんぱくけ)の罪(つみ)は関白家(くわんぱくけ)之(の)例(れい)を引(ひき)可被行之事(これをおこなはれべきこと)         尤理之正当(もつともりのせいとう)なるべきに平人(へいじん)の妻子(さいし)などのやうに今日(こんにち)狼藉(らうぜき)甚(はなはだ)以(もつて)自由(じゆう)なり行末(ゆくすへ)めてたかるべき政道(せいどう)に         非(あら)ず吁(あゝ)因果(ゐんぐわ)のほど御用心(ごようじん)候(そうら)へ〳〵         世中(よのなか)は不昧(ふまい)因果(ゐんぐわ)の小車(こぐるま)やよしあしともにめぐりはてぬる       かくの如(ごと)き訳(わけ)でよく〳〵考(かんがへ)て見(み)ると天下(てんか)の英雄(えいゆう)秀吉(ひでよし)の晩年(ばんねん)も実(じつ)に寒心(かんしん)すべき運命(うんめい)であると思(おも)ふが此(この)時(とき)       に方(あた)つて外征(ぐわいせい)の情況(ぜうけう)は如何(いかゞ)であるかと云ふに之(これ)亦(ま)た御承知(ごせうち)の如(ごと)くで出征(しゆつせい)早々(さう〳〵)我(わが)陸軍(りくぐん)は連戦連勝(れんせんれんせう)の勢(いきほひ)       で平壌(へいぜう)まで進入(しんにふ)し清正(きよまさ)の如(ごと)きは咸鏡道(かんきようどう)にまでも攻(せ)め入(い)つたのであるが其(その)中(うち)に明国(みんこく)から和議(わぎ)の申込(もうしこみ)があ 戦勝と外交 つて戦(たゝかひ)には勝(か)つたが外交(ぐわいこう)には負(ま)けた形(かたち)があつて出征(しゆつせい)の将士(せうし)は遂(つひ)にべん〳〵と月日(つきひ)を送(おく)つた様(やう)な訳(わけ)とな       つたのである文禄(ぶんろく)五年は即(すなは)ち慶長(けいてう)元年(がんねん)と年号(ねんごう)が改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)和議(わぎ)も漸(やうや)く成立(せいりつ)する事となつ       て諸将(しよせう)は一たび皈朝(きてう)したのであるが明国(みんこく)から贈(おく)つた封冊(ふうさつ)の事から秀吉(ひでよし)の怒(いかり)に触(ふ)れ其(その)年(とし)九月 再(ふたゝ)び外征(ぐわいせい)の        師(し)を起(おこ)す事となつたので之(これ)に関係(くわんけい)の人々も遂(つひ)には在陣(ざいぢん)の久(ひさ)しき戦(たゝかひ)に倦(う)むようなこと事にもなつたのであ       る此(かく)の如(ごと)き間(あひだ)に秀吉(ひでよし)自身(じしん)も亦(ま)た漸(やうや)く安慰(あんい)の念(ねん)が生(せう)して奮励(ふんれい)の勇気(ゆうき)が失(うしな)はれ段々(だん〳〵)と驕奢(きようしや)に流(なが)れて逸楽(いつらく)を 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       事とするに至(いた)つたのである先(ま)づ文禄(ぶんろく)三年二月から三月にかけての吉野観桜(よしのくわんわう)並(ならび)に高野詣(かうやまうで)の如(ごと)きは有名(ゆうめい)の 桃山城   ものであるが例(れい)の伏見桃山城(ふしみもゝやまのしろ)の造営(ざうえい)と云ふものも亦(ま)た此(この)頃(ころ)であつて之(これ)は文禄(ぶんろく)三年の正月から初(はじ)まつて       其四年三月に竣工(しゆんこう)したのであるが其(その)規模(きぼ)並(ならび)に結構(けつこう)と云ふものは実(じつ)に雄大(ゆうだい)のもので頗(すこぶ)る豪邁(ごうまい)の風(ふう)を帯(お)び       て居(を)つたが又(ま)た最(もつと)も数寄(すき)を凝(こ)らしたもので今日(こんにち)では詳(つまびらか)に其(その)位置(ゐち)なども分(わか)らぬようになつて居(を)       るが今(いま)の伏見町(ふしみまち)などは殆(ほとん)ど其(その)郭内(くわくない)に当(あた)るので京都(けうと)宇治(うぢ)の間(あひだ)にあつて淀川(よどがは)を扣(ひか)へ其(その)趣味(しゆみ)眺望(てうぼう)と云(い)ふもの       も思(おも)ひやらるゝのであるが今(いま)の西本願寺(にしほんぐわんじ)の唐門(からもん)、 飛雲閣(ひうんかく)、 浪(なみ)の間(ま)、 客殿(きやくでん)、 豊国神社(ほうこくじんしや)の唐門(からもん)、 其(その)他(た)江州(こうしう)        竹生島(ちくぶじま)の観音堂(くわんおんどう)、 都久夫須麻神社(つくふすまじんしや)の拝殿(はいでん)、 紫野(むらさきの)の大徳寺(たいとくじ)の唐門(からもん)などは其(その)一 部分(ぶぶん)を移転(いてん)したものである       と云ふ事であるから之(これ)でも当時(とうじ)の趣致(しゆち)が如何(いか)に一 種(しゆ)の特長(とくてう)を発揮(はつき)して居(を)るかゞ分(わか)ると思(おも)ふのである其(その) 醍醐の花見  後(のち)秀吉(ひでよし)は慶長(けいてう)三年三月 又(ま)た醍醐(だいご)の三 宝院(ほういん)に花見(はなみ)をやつたが之(これ)が中々(なか〳〵)盛(さかん)な事で云(い)はゞ最後(さいご)の催(もよほし)であつた 秀吉薨去  のである即(すなは)ち此(この)花見(はなみ)の後(のち)僅(わづか)に二ヶ月で端(はし)なく病気(びやうき)となつて其(その)年(とし)の八月十八日には遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つた 《割書:外征の師還|る》  のであるがソコで外征(ぐわいせい)の師(し)も遂(つひ)に召(め)し還(かへ)す事となつて順次(じゆんじ)撤兵(てつぺい)に取(とり)かゝり此(この)年内(ねんない)に孰(いづ)れも帰朝(きてう)して伏(ふし)        見(み)に至(いた)つたので此(この)問題(もんだい)丈(だけ)は先(ま)づ此処(こゝ)に其(その)局(きよく)を結(むす)ぶに至(いた)つたのである        然(しか)るに此(この)秀吉(ひでよし)の末期(まつご)と云ふものは実(じつ)に悲惨(ひさん)な訳(わけ)のもので前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り慶長(けいてう)三年の五月から病(やまひ)が起(おこ)       つて伏見(ふしみ)の桃山城(もゝやまのじよう)で療養(れうやう)して居(を)つたが其(その)世嗣(よつぎ)たる秀頼(ひでより)はまだ六歳で其(その)行末(ゆくすゑ)は頗(すこぶ)る案(あん)じられる事であつ       たのである其上(そのうへ)前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)き事情(じぜう)で石田三成(いしだみつなり)等(ら)の一 派(ぱ)は深(ふか)く淀君(よどぎみ)の勢力(せいりよく)に頼(よ)つたので文治派(ぶんぢは)とも 《割書:文治武断両|派の軌轢》  云ふべきものである而(しか)して加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)浅野長政(あさのながまさ)などと云ふような人々は所謂(いはゆる)武断派(ぶだんは)で之(これ)とは容(よう)        易(い)ならず相(あひ)反目(はんもく)する処があつたのである其(その)部下(ぶか)の事情(じぜう)が此(かく)の如(ごと)くであるのに又(ま)た秀吉(ひでよし)の最(もつと)も苦心(くしん)した       のは家康(いへやす)に対(たい)する関係(くわんけい)であつた事と思(おも)ふソコで病中(びようちう)六月十四日に当時(とうじ)の五 奉行(ぶぎよう)たる前田玄以(まへだげんい)浅野長政(あさのながまさ) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                      百八十三 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十四 【本文】        増田長盛(ますだながもり)石田三成(いしだみつなり)長束正家(ながつかまさいへ)に命(めい)じ諸将(しよせう)をして同心協力(どうしんけうりよく)以(もつ)て秀頼(ひでより)に事(つか)ふることを誓(ちか)はしめたが之(これ)も誠(まこと)の表(ひよう)        面(めん)で諸将(しよせう)の内心(ないしん)に至(いた)つては到底(とうてい)相融和(あひゆうわ)するに至(いた)らなかつたのである従(したがつ)て其(その)間(あひだ)には色々(いろ〳〵)な事情(じぜう)も起(おこ)つた       が結局(けつきよく)秀吉(ひでよし)は家康(いへやす)をして天下(てんか)の政務(せいむ)を裁決(さいけつ)せしめ前田利家(まへだとしいへ)をして秀頼(ひでより)の傅(ぶ)とならしめ毛利輝元(もうりてるもと)上杉景(うへすぎかげ)        勝(かつ)宇喜多秀家(うきたひでいへ)等(ら)は其(その)間(あひだ)にあつて政治(せいぢ)を助(たす)くるようにと云ふので種々(しゆ〳〵)画策(くわくさく)命令(めいれい)する処があつたが秀吉(ひでよし)が        薨去(こうきよ)して外征(ぐわいせい)諸将(しよせう)が皈朝(きてう)した後(のち)は益々(ます〳〵)円滑(ゑんかつ)を保(たも)つ事が出来(でき)ない状態(ぜうたい)であつた慶長(けいてう)四年正月十日 秀頼(ひでより)は        大坂(おほさか)に移(うつ)る事になつて家康(いへやす)以下(いか)諸将(しよせう)は悉(こと〳〵)く之(これ)に従(したが)つたのであるが十一日の夜半(やはん)何者(なにもの)か家康(いへやす)の旅舘(りよくわん)を        窺(うかゞ)つたものがあつたと云ふので家康(いへやす)は翌日(よくじつ)早々(さう〳〵)伏見(ふしみ)に皈(かへ)つたのである爾来(じらい)伏見(ふしみ)にあつて政務(せいむ)を視(み)利家(としいへ)       は大坂(おほさか)にあつて秀頼(ひでより)の後見(こうけん)をして居(を)ると云ふ訳(わけ)になつたのであるが所謂(いはゆる)文治派(ぶんぢは)と武断派(ぶだんは)の軌轢(あつれき)は益々(ます〳〵)        止(や)まざるのみならず武断派(ぶだんは)のものは自然(しぜん)に家康(いへやす)に頼(よ)ることとなつて家康(いへやす)の勢威(せいゐ)が高(たか)まるに従(したが)ひ形勢(けいせい)は愈(いよ)        愈(〳〵)険悪(けんあく)と相成(あひな)つたのであるソコで三成(みつなり)等(ら)は家康(いへやす)を除(のぞ)かねば到底(とうてい)豊臣氏(とよとみし)の天下(てんか)は安穏(あんをん)でないと云ふので 《割書:家康私に婚|を約す》   毛利(もうり)宇喜多(うきた)上杉(うへすぎ)等(ら)と結(むす)むで之(これ)を計(はか)つたが其(その)頃(ころ)家康(いへやす)が公(おほやけ)の許(ゆるし)を得(え)ずに私(わたくし)に伊達(だて)、 福島(ふくしま)、 蜂須賀(はちすか)三 家(け)       へ婚約(こうやく)をしたと云ふので大坂(おほさか)から之(これ)を詰(なじ)つたので物情(ぶつぜう)は頗(すこぶ)る拘然(けうぜん)としたのである此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)は矢張(やはり)        伏見(ふしみ)にあつて加藤清正(かとうきよまさ)、 浅野幸長(あさのゆきなが)、 福島正則(ふくしままさのり)、 黒田如水(くろだぢよすゐ)、 並(ならび)に其(その)子(こ)長政(ながまさ)、 蜂須賀家政(はちすかいへまさ)、 細川忠興(ほそかはたゞおき)(《割書:長|岡》)、        森忠政(もりたゞまさ)加藤嘉明(かとうよしあき)、 藤堂高虎(とうどうたかとら)、 京極高次(けうごくたかつぐ)、 金森長近(かねもりながちか)、 織田長益(をたながます)、 有馬則頼(ありまのりより)等(ら)の諸将(しよせう)と共(とも)に家康(いへやす)の邸(てい)を護(ご)        衛(ゑい)したのであるが遂(つひ)に大坂方(おほさかがた)と伏見方(ふしみがた)との対抗(たいこう)の如(ごと)き事情(じぜう)となつて一 方(ぽう)は利家(としいへ)を推(お)し一 方(ぽう)は家康(いへやす)を戴(いたゞ)       くと云ふような始末(しまつ)で遂(つひ)に細川忠興(ほそかはたゞおき)の如(ごと)き其(その)間(あひだ)に仲裁(ちうさい)を試(こゝろ)むるものあつて程(ほど)なく利家(としいへ)家康(いへやす)両人(れうにん)は和(わ) 前田利家  したが閏(うるふ)三月三日 利家(としいへ)は遂(つひ)に病(やまひ)の為(ため)に大坂(おほさか)に薨(こう)じたのであるソコで加藤(かとう)、 黒田(くろだ)、 細川(ほそかは)、 福島(ふくしま)、 浅野(あさの)等(ら) 三成屏居  の人々は三成(かづしげ)を除(のぞ)かむことを計(はか)つて之(これ)を家康(いへやす)に申出(もうしい)でたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は三成(みつなり)をして其(その)領地(れうち)佐和山(さわやま) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百五十一号附録   (明治四十五年一月三日発行) 【本文】       に蟄居(ちつきよ)せしめたので事は一 時(じ)落着(らくちやく)したのであるが此(この)六月 家康(いへやす)は大坂(おほさか)に至(いた)つて秀頼(ひでより)に謁(えつ)し諸将(しよせう)をして多(おほ)       く国(くに)に就(つ)くのを許(ゆる)したので秀家(ひでいへ)、輝元(てるもと)、 如水(によすゐ)、 清正(きよまさ)、 忠興(たゞおき)等(ら)は相前後(あひぜんご)して国(くに)に皈(かへ)り上杉景勝(うへすぎかげかつ)、 前田利(まへだとし) 《割書:家康大坂の|西城に入る》   長(なが)も亦(ま)た国(くに)に就(つ)いたのである而(しか)して其(その)九月 家康(いへやす)は又(ま)た大坂(おほさか)に至(いた)つたのであるがそれより遂(つひ)に其(その)西城(せいじよう)に        入(い)つて住(ぢう)する事となつたのである        爾来(じらい)家康(いへやす)の声望(せいぼう)が益々(ます〳〵)盛(さかん)になるに従(したがつ)て讒誣疑惑(ざんぶぎわく)と云(い)ふものは諸方面(しよはうめん)に起(おこ)つて来(き)たのであるが家康(いへやす)も 《割書:家康質を江|戸に収む》   亦(ま)た漸々(ぜん〳〵)と専断(せんだん)の処置(しよち)が多(おほ)く遂(つひ)に前田利長(まへだとしなが)の母(はゝ)を初(はじ)めとして独断(どくだん)で質(しち)を江戸(えど)に収(おさ)むるに至(いた)つたのであ       る而(しか)して前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く石田三成(いしだみつなり)は一 度(ど)其(その)胸算(きようさん)が齟齬(そご)して反(かへつ)て家康(いへやす)の為(ため)に佐和山(さわやま)へ屏居(へいきよ)せしめられ       たが決(けつ)して其(その)侭(まゝ)に小(ち)さくなつて居(を)るべきものではない又(ま)た家康(いへやす)に於(おい)ても初(はじ)めから其(その)事(こと)は予期(よき)して居(を)つ       たもので其(その)時(とき)三成(みつなり)を殺(ころ)さずして態(わざ)と佐和山(さわやま)に屏居(へいきよ)せしめて置(お)いたのは深謀(しんぼう)のある処で之(これ)は家康(いへやす)の謀臣(ぼうしん)        本多正信(ほんだまさのぶ)の叡策(えいさく)になつたものであると歴史家(れきしか)が評論(ひようろん)する所であるが果(はた)して三成(みつなり)は上杉景勝(うへすぎかげかつ)の老臣(らうしん)直江(なをえ) 《割書:上杉景勝城|塁を修す》   兼続(かねつく)と堅(かた)く約(やく)した処があつたので景勝(かげかつ)は其(その)国(くに)に就(つ)いた後(のち)着々(ちやく〳〵)城塁(じようるい)■修繕(しうぜん)をするやら浪士(らうし)を召抱(めしかゝ)ゆる       やら糧食(れうしよく)を集(あつ)むるやらで徳川氏(とくがはし)に対(たい)する敵意(てきい)は次第(しだい)に明(あきらか)になつて来(き)たのであるモツトモ景勝(かげかつ)の国(くに)と        云(い)ふのは御承知(ごせうち)の通(とほり)陸奥(むつ)の会津(あひづ)で今(いま)の岩代国(いはしろのくに)若松市(わかまつし)に城(しろ)を構(かま)へて居(を)つたのである此(この)会津(あひづ)と云ふ処は前(まへ)       にも申述(もうしの)べた如(ごと)く初(はじ)め蒲生氏郷(かばふうぢさと)が封(ほう)ぜられたのであるが慶長(けいてう)三年三月 氏郷(うぢさと)は宇都宮(うつのみや)に移(うつ)されて其(その)後(あと)へ        景勝(かげかつ)が其(その)故国(ここく)越後(ゑちご)から移封(いほう)になつたのであるトコロで景勝(かげかつ)の動静(どうせい)と云ふものは手(て)に取(と)るように江戸(えど)並(なら)       びに東北(とうほく)の将士(せうし)から家康(いへやす)の許(もと)へ報告(ほうこく)があるので慶長(けいてう)五年三月 家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を征(せい)せむとしたのであるが        宇喜多秀家(うきたひでいへ)毛利輝元(もうりてるもと)等(ら)の意見(いけん)もあつたので使者(ししや)を会津(あひづ)に遣(や)つて景勝(かげかつ)の入覲(にふきん)を促(うなが)し且(か)つ其(その)近状(きんぜう)に就(つい)て詰(なじ) 《割書:家康景勝の|入覲を促す》  る処があつたのみならず特(とく)に直江兼続(なをえかねつぐ)と別懇(べつこん)である僧(そう)承兌(しようだ)をも遣(や)つて速(すみやか)に景勝(かげかつ)の行為(こうゐ)に就(つ)き西上陳謝(せぜうちんしや) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十五 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十六 【本文】       すべき事を勧(すゝ)めしめたのである然(しか)るに景勝(かげかつ)兼続(かねつぐ)の答(こたへ)は孰(いづ)れも恭順(きようじゆん)陳謝(ちんしや)ところか寧(むし)ろ故(ことさ)らに暴慢(ぼうまん)嘲侮(てうぶ)       の辞(じ)を以(もつ)てしたので益々(ます〳〵)家康(いへやす)を激怒(げきど)せしめた次第(しだい)であるモツトモ家康(いへやす)は最初(さいしよ)から此(この)事(こと)あるは能(よ)く知(し)つ       て居(を)つたもので使者(ししや)を会津(あひづ)に遣(つか)はして其(その)復命(ふくめい)がない内(うち)から既(すで)に出兵(しゆつぺい)の準備(じゆんび)をしつゝあつたのである即(すなは)       ち右(みぎ)の返事(へんじ)を得(う)るや直(たゞ)ちに会津(あひづ)出征(しゆつせい)の事を発表(はつぴよう)するに至(いた)つたのであるが之(これ)には諸奉行(しよぶぎよう)三 中老(ちうらう)等(ら)から諌(いさめ) 《割書:家康自ら会|津を征す》  もあつたが家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を容(い)れなかつたのである而(しか)して其(その)年(とし)六月十六日 麾下(きか)の士(し)佐野綱正(さのつなまさ)をして兵(へい)僅(わづか)       に五百 余人(よにん)を以(もつ)て西城(せいじよう)の留守(るす)をせしめて遂(つひ)にみず自(みづか)ら 麾下(きか)の将士(せうし)三千余人を率(ひき)ゐて大坂(おほさか)を発(はつ)し東下(とうか)の途(と)に        就(つ)いたのである此(この)時(とき)御承知(ごせうち)の酒井家次(さかゐいへつぐ)戸田一西(とだかづあき)並(ならび)に其(その)子(こ)氏鉄(うぢてつ)等(ら)も之(これ)に従(したが)つたのであるが此(この)日(ひ)薄暮(はくぼ)に伏(ふし) 《割書:鳥居元忠松|平家忠等伏》   見城(みじよう)に着(ちやく)して家康(いへやす)は其(その)留守居役(るすゐやく)を定(さだ)めたのであるが鳥居元忠(とりゐもとたゞ)を以(もつ)て之(こ)れが司令(しれい)となし内藤家長(ないとういへなが)其(その)子(こ)元(もと) 《割書:見城に留守|す》   長(なが)、 松平家忠(まつだひらいへたゞ)、 松平近正(まつだひらちかまさ)等(ら)を副(そ)へて其(その)任(にん)に当(あた)らしめたのである右(みぎ)の内(うち)で 松平家忠(まつだひらいへたゞ)と云(い)ふのは之(これ)迄(まで)屡々(しば〳〵)        話頭(わとう)に上(あが)つた彼(か)の家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)で例(れい)の深溝(ふかうず)の城主(じようしゆ)であつた人で当時(とうじ)は武蔵(むさし)忍(おし)の城主(じようしゆ)であつた事は之(これ)        亦(また)前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くであるが此(この)鳥居元忠(とりゐもとたゞ)も矢張(やはり)諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の如(ごと)く家康(いへやす)幼少(ようせう)の時き(とき)から近仕(きんし)して居(を)つ       た人で家康(いへやす)が駿河(するが)に質(しち)となつて居(を)つた頃(ころ)から共(とも)に辛苦艱難(しんくかんなん)を甞(な)めたのである今年(こんねん)六十二 歳(さい)であるが此(この)        時(とき)は既(すで)に家康(いへやす)東上(とうぜう)の後(のち)必(かなら)ず上国(ぜうこく)に事変(じへん)が起(おこ)るべきを察(さつ)して居(を)つたのでイヨ〳〵其(その)場合(ばあひ)は只(たゞ)戦死(せんし)の外(ほか)は       ないのであるから寧(むし)ろ家忠(いへたゞ)家長(いへなが)等(ら)は東征(とうせい)に従(したが)へられるようにと云ふ事を勧(すゝ)めたのであつたが家康(いへやす)はそ       れでは余(あま)りに人少(ひとすこし)になるからと云ふので之(これ)を留(とゝ)めたのである且(か)つ万(まん)一 事変(じへん)があつて弾丸(だんぐわん)が欠乏(けつぼう)したら       ば天主閣(てんしゆかく)に金銀塊(きんぎんくわい)が蔵(ざう)してあるからそれを鋳(いつ)て補充(ほじう)せよと云ひ付(つ)けたとのことであるがソンナ弾丸(だんぐわん)なら       ば私(わたくし)はいくらでも打(う)つて貰(もら)ひたいように思(おも)ふのでありますソコで元忠(もとたゞ)と家康(いへやす)とは到底(とうてい)再会(さいくわい)は期(き)せられ       ぬと云ふので共(とも)に昔時(せきじ)を語(かた)りて涙(なみだ)を流(なが)したと云ふことであるが元忠(もとたゞ)は此(こゝ)に於(おい)て右(みぎ)の諸将(しよせう)と共(とも)に僅(わづか)に千八 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       百余人を以(もつ)て此(この)城(しろ)の留守(るす)をなすことになつたのである 京極高次  かくて家康(いへやす)は十八日 伏見(ふしみ)を発(はつ)し大津城(おほつじよう)に過(よぎ)つて城主(じようしゆ)京極高次(きようごくたかつぐ)に会(あ)ひこれより次第(しだい)に伊勢(いせ)に入(い)つて廿 《割書:輝政家康を|吉田に饗す》  日 四日市(よつかいち)に至(いた)り同夜(どうや)船(ふね)に乗(の)つて廿一日 佐久島(さくしま)に達(たつ)し廿二日 此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのである之(これ)より先(さ)き池田輝(いけだてる)        政(まさ)は既(すで)に国(くに)に帰(かへ)つて出師(しゆつし)準備(じゆんび)をして居(を)つたので此(この)時(とき)城中(じようちう)に於(おい)て家康(いへやす)等(ら)を饗(けう)したのであるが此(この)日(ひ)家康(いへやす)は        饗応(けうおう)終(をは)つて後(のち)白須賀(しらすが)まで出陣(しゆつぢん)し夫(それ)より漸々(ぜん〳〵)と東海道(とうかいどう)を進(すゝ)むで沿道(えんどう)の諸城主(しよじようしゆ)即(すなは)ち浜松(はまゝつ)の堀尾忠氏(ほりをたゞうぢ)、 掛(かけ)        川(がは)の山内一豊(やまうちかづとよ)、 府中(ふちう)の中村一氏(なかむらかづうぢ)、 沼津(ぬまづ)の中村一栄(なかむらかづひで)、 小田原(おだはら)の大久保忠隣(おほくぼたゞちか)などゝ連絡(れんらく)を取(と)つて藤沢(ふぢさは)から 輝政の従軍  鎌倉(かまくら)に過(よぎ)つて放鷹(はうよう)し七月二日に至(いた)つて江戸城(えどじよう)に着(ちやく)したのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く池田輝政(いけだてるまさ)は此(この)時(とき)其(その)弟(おとゝ)長(なが)        吉(よし)と共(とも)に之(これ)に従軍(じうぐん)したのである而(しか)して家康(いへやす)は其(その)廿一日を以(もつ)て更(さら)に江戸(えど)を発(はつ)して廿四日 下野(しもつけ)の小山(こやま)に至(いた)       つたのであるが前軍(ぜんぐん)は秀忠(ひでたゞ)が之(これ)を指揮(しき)して宇都宮(うつのみや)にあつたのである此(この)時(とき)伊達政宗(だてまさむね)は家康(いへやす)に応(おう)じて兵(へい)を        出(いだ)し廿四日 既(すで)に白石城(しらいしじよう)を攻陥(こうかん)したと云(い)ふような次第(しだい)であるが此(この)夜(よ)家康(いへやす)は小山(こやま)にあつて伏見城(ふしみじよう)が三成(みつなり)等(ら) 《割書:家康小山に|於て伏見の》  の為(ため)に攻撃(こうげき)を受(う)くる警報(けいほう)に接(せつ)したのであるモツトモ家康(いへやす)は江戸(えど)出発前(しゆつぱつぜん)既(すで)に上国(ぜうこく)に事(こと)の起(おこ)つたのは知(し)つ 《割書:警報に接す| 》  て居(を)つたのであるが時機(じき)がまだ至(いた)らなかつたので遂(つひ)に此処(こゝ)まで出陣(しゆつぢん)したのである然(しか)るに其(その)後(のち)続々(ぞく〳〵)上国(ぜうこく)       からの警報(けいほう)が到着(とうちやく)し廿四日には前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く小山(こやま)の陣(ぢん)へ右(みぎ)の報告(ほうこく)が来(き)たので遂(つひ)に意(い)を決(けつ)して秀忠(ひでたゞ)         並(ならび)に諸客将(しよきやくせう)を集(あつ)めて協議(けふぎ)をしたのであるが結局(けつきよく)福島正則(ふくしままさのり)等(ら)を初(はじ)め客将(きやくせう)等(ら)の意見(いけん)が家康(いへやす)にして秀頼(ひでより)に対(たい) 《割書:諸客将等西|上に決す》  すること秀吉(ひでよし)の遺命(ゐめい)の如(ごと)くであるならば三成(みつなり)には何処(どこ)までも反対(はんたい)して家康(いへやす)を助(たす)くべしと云(い)ふことになつて        茲(こゝ)に軍(ぐん)を西(にし)に班(かへ)すことを定(さだ)めたのである而(しか)して福島正則(ふくしままさのり)と池田輝政(いけだてるまさ)とは之(これ)が先鋒(せんぽう)となつて廿六日から更(さら)       に続々(ぞく〳〵)西上(せいぜう)することとなつたのである又(ま)た徳川(とくがは)の世臣(せしん)としては井伊直正(いゐなをまさ)が此(この)先鋒(せんぽう)に従(したが)ふ筈(はづ)であつたが急(きふ)       に病(やまひ)が起(おこ)つて差支(さしつかへ)たので本多忠勝(ほんだたゞかつ)が之(これ)に代(かは)つて八月八日 先(ま)づ尾州(びしう)の清洲(きよす)に向(むか)つて出発(しゆつぱつ)したのである其(その) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十七 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十八 【本文】 松平家康   時(とき)山内一豊(やまうちかづとよ)の主唱(しゆせう)で沿道(えんどう)の各城(かくじよう)を家康(いへやす)に致(いた)し且(か)つ質(しち)を出(いだ)して二心(ふたごゝろ)なきを明(あきらか)にすることとなつたので此(この)吉(よし) 《割書:東軍質を吉|田に集む》   田城(たじよう)には松平家乗(まつだひらいへのり)が来(きたつ)て之(これ)を守(まも)り且(か)つ沿道(えんどう)諸将(しよせう)の質(しち)も亦(ま)た此(この)城(しろ)に集(あつ)め置(お)くここととなつたのである 《割書:三成兵を挙|ぐ》  サテ此(こ)の時(とき)に方(あた)つて上国方(ぜうこくがた)の形勢(けいせい)は如何(いかゞ)であるか之(これ)を申述(もうしの)べて見(み)ると初(はじ)め家康(いへやす)がイヨ〳〵会津(あひづ)征伐(せいばつ)の        為(ため)に出発(しゆつぱつ)することとなつた時(とき)三成(みつなり)は之(これ)を聞(き)いて我計(わがけい)成(な)れりとして喜(よろこ)むだのであるが早速(さつそく)之(これ)を会津(あひづ)の景勝(かげかつ)       に報知(ほうち)し又(ま)た頻(しき)りに同志(どうし)を糾合(きゆうごう)して事を挙(あ)げんと図(はか)つたのである然(しか)るに大谷吉継(おほたによしつぐ)の如(ごと)きは三成(みつなり)とは廿 大谷吉継   年来(ねんらい)の親友(しんゆう)であつたが切(せつ)に其(その)計(けい)を非(ひ)なりとした一人で家康(いへやす)に従(したがつ)て東征(とうせい)の軍(ぐん)に加(くが)はらむとしたのであ       る然(しか)るに三成(みつなり)の決心(けつしん)が堅(かた)いので遂(つひ)に之(これ)に党(とう)するに至(いた)つたのであるが此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で其(その)素志(そし)ではないけれ       ども拠(よんどころ)なく之(これ)に党(とう)せねばならぬことになつたものは西国(さいこく)の大名(だいみよう)中(ちう)には少(すくな)からざる事であつたが三成(みつなり)等は 《割書:三成関門を|愛知川に設》   更(さら)に近江(あふみ)の愛知川(ゑちがは)に関門(くわんもん)を設(もう)けて東征(とうせい)諸将(しよせう)を扼止(やくし)したので後(おく)れて出発(しゆつぱつ)したものは此処(こゝ)に嚙(く)ひ留(と)められ 《割書:く     | 》  て余義(よぎ)なく大坂(おほさか)に皈(かへ)つたものも又(ま)た少(すくな)からなかつたのである而(しか)して三成(みつなり)等(ら)は一 方(ぱう)に広島(ひろしま)に皈(かへ)つて居(を)る 毛利輝元   毛利輝元(もうりてるもと)の処(ところ)へ使(し)をやつて遂(つひ)に此(この)人(ひと)を大坂(おほさか)に引(ひ)き出(だ)して盟主(めいしゆ)の位置(ゐち)に据(す)へ家康(いへやす)の罪条(ざいでう)を数(かぞ)へて檄(げき)を諸(しよ)        侯(こう)に伝(つた)ふるに至(いた)つたのであるが当時(とうじ)大坂(おほさか)に集(あつま)つた処(ところ)の兵数(へいすう)は実(じつ)に九万三千に上(あが)つたと云ふことである其(その)        勢(いきほひ)で先(ま)づ西城(せいじよう)の留守役(るすやく)佐野綱正(さのつなまさ)に逼(せま)つて之(これ)を開(あ)け渡(わた)さしめ又(ま)た諸侯(しよこう)の妻子(さいし)を城中(じようちう)に収(おさ)めて質(しち)とせむ 《割書:細川忠興の|妻自刃す》  としたので東征(とうせい)諸将(しよせう)の妻子(さいし)は勿論(もちろん)心(こゝろ)を家康(いへやす)方(がた)に属(ぞく)するものゝ家族(かぞく)には一 大騒擾(だいさうぜう)が起(おこ)つて彼(か)の細川忠興(ほそかはたゝおき) 《割書:田辺伏見両|城の攻撃》  の妻(つま)明智氏(あけちし)の如(ごと)きは自尽(じじん)するに至(いた)つたのであるが七月十八日イヨ〳〵兵(へい)を出(いだ)してた丹波(たんば)田辺城(たなべじよう)と並(ならび)に彼(か)       の伏見城(ふしみじよう)とを囲(かこ)むに至(いた)つたのである        此(この)田辺(たなべ)の城(しろ)と云ふのは当時(とうじ)細川忠興(ほそかはたゝおき)の父(ちゝ)幽斉(ゆうさい)か留守(るす)をして居(を)つたので忠興(たゞおき)は云(い)ふ迄(まで)もなく東征軍(とうせいぐん)に従(したが)       つて不在(ふざい)であつたが事(こと)急劇(ききふげき)に起(おこ)つたので其(その)部下(ぶか)を悉(こと〳〵)く城中(じようちう)に集(あつ)めて僅(わづか)に五百人 許(ばかり)の外(ほか)なかつたので 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百五十五号附録   (明治四十五年一月九日発行) 【本文】       ある然(しか)るに此(この)幽斉(ゆうさい)と云ふ人は歌道(かどう)の達人(たつじん)であるので遂(つひ)に勅命(ちよくれい)によつて此(この)城攻(しろぜめ)を解(と)くに至(いた)つたと云ふヤ       カマシイ話(はなし)があるのであるが此処(こゝ)には関係(くわんけい)が少(すくな)いから詳(くは)しくは申述(もうしの)べぬのであるサテ伏見(ふしみ)の城(しろ)も前(まへ)に 《割書:鳥居元忠等|の勇戦》   申述(もうしの)べた通(とほ)り兵数(へいすう)僅(わづか)に千八百余人で四万余の大軍(たいぐん)を引受(ひきう)けて戦(たゝか)つたのであるが此(この)時(とき)元忠(もとたゞ)初(はじ)め諸将士(しよせうし)の 《割書:島津惟新伏|見城を守ら》   勇壮(ゆうさう)にして義心(ぎしん)に満(み)ち〳〵て居(を)つた有様(ありさま)は実(じつ)に三河武士(みかはぶし)の善(よ)き標本(ひようほん)であると思(おも)ふのである初(はじ)め島津惟(しまづゐ) 《割書:むと請ふ | 》   新(しん)も家康(いへやす)からの依托(いだく)があつたので此(この)時(とき)伏見城(ふしみじよう)に入(い)つて共(とも)に守備(しゆび)に任(にん)ぜむとしたのであるが元忠(もとたゞ)は之(これ)を        詭計(きけい)なりと疑(うたが)つて聴(きか)なかつたので更(さら)に其(その)臣(しん)の新納旅庵(にひのりよあん)と云ふ人が元忠(もとたゞ)に懇意(こんい)なので之(これ)を遣(つか)はして其(その)事(こと)       を計(はか)らしめむとしたが元忠(もとたゞ)は又(ま)た之(これ)を間諜(かんちやう)なりとして銃撃(じうげき)したのであるソコで惟新(ゐしん)も止(やむ)を得(え)ず西軍に 《割書:小早川秀秋|亦た城守を》   属(ぞく)するに至(いた)つたと云ふ事であるが小早川秀秋(こはやかはひであき)も亦(ま)た心(こゝろ)を家康(いへやす)に属(ぞく)して居(を)つた一人で此(この)時(とき)矢張(やはり)使(し)を遣(や)つ 《割書:請ふ   | 》  て共(とも)に城守(じようしゆ)したいと申述(もうしの)べたのみならず躬(みづか)らも城外(じょうぐわい)に至(いた)り元忠(もとたゞ)に面(めん)して旧誼(きうぎ)を縷述(るじゆつ)し其(その)事(こと)を請(こ)つた       のであるが元忠(もとたゞ)は中々(なか〳〵)承知(せうち)しない夫程(それほど)に思(おも)ふならば直接(ちよくせつ)に関東(くわんとう)の許可(きよか)を得(え)られたいものであると断(ことは)つ       たのであるまだ其(その)前(まへ)に増田長盛(ますだながもり)が使(し)を以(もつ)て穏(をだやか)に城(しろ)を明渡(あけわた)すように元忠(もとたゞ)を諭(さと)した事(こと)があるが元忠(もとたゞ)は怒(いか)       つて余(よ)は徳川氏(とくがはし)の為(ため)に此(この)城(しろ)を守(まも)るものである他人(たにん)の言(げん)を聴(き)いて去(さ)るべきでないから重(かさ)ねてソンナ事を       云つて来(き)たならば斬(き)つて仕舞(しま)うぞと云つたとの事であるが如何(いか)にも其(その)決死(けつし)の様(さま)と律義(りつぎ)な処(ところ)が現(あら)はれて        居(を)ると思(おも)ふのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で全(まつた)く外部(ぐわいぶ)の応援(おうゑん)を謝絶(しやぜつ)し克(よ)く少人数(せうにんず)を以(もつ)て大軍(たいぐん)に当(あた)つたが八月朔日 《割書:元忠家忠等|の戦死》  に至(いた)つて遂(つひ)に落城(らくじよう)し元忠(もとたゞ)家忠(いへたゞ)家長(いへなが)等(ら)諸将(しよせう)を初(はじ)め殆(ほとん)ど其(その)全部(ぜんぶ)が奮戦力闘(ふんせんりきとう)して悉(こと〳〵)く戦死(せんし)したのは誠(まこと)に勇(いさ)       ましき最後(さいご)であつたと思(おも)ふのである 《割書:東軍の先鋒|清洲に集合》  それより大坂(おほさか)方(ほう)即(すなは)ち西軍にありては兵(へい)を伊勢地方(いせちほう)に出(いだ)して諸城(しよじよう)を攻略(こうりやく)し又(ま)た美濃(みの)に出陣(しゆつぢん)して家康(いへやす)方(がた)即(すなは) 《割書:す    | 》  ち東軍の動静(どうせい)を窺(うかゞ)つて居(を)つたのであるが東軍の先鋒(せんぽう)たる諸将(しよせう)は八月十四日に至(いた)つて尾張(をはり)の清洲(きよす)に集合(しうごう) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百八十九 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十 【本文】       したのであるトコロが家康(いへやす)から何等(なんら)の命令(めいれい)がないので十九日まで此処(こゝ)に滞在(たいざい)して居(を)つたのであるが其(その)        日(ひ)家康(いへやす)の慰問使(ゐもんし)として村越直吉(むらこしなをよし)が来(きたつ)て家康(いへやす)の意(い)を伝(つた)ふる処があつたので廿日 諸将(しよせう)は相会(あひくわい)して進軍(しんぐん)を議(ぎ)       したのであるが当時(とうじ)岐阜城(ぎふじよう)は織田秀信(をたひでのぶ)が居(を)つたので其(その)家臣(かしん)の中(なか)には熱心(ねつしん)に家康(いへやす)を助(たす)けねばならぬと主(しゆ)        張(ちよう)したものがあつたにも拘(かゝは)らず三成(みつなり)の為(ため)に説(と)き付(つ)けられて遂(つひ)に西軍の為(ため)に此(この)城(しろ)を守(まも)ることに決(けつ)したので 《割書:岐阜城の攻|略》  あるから東軍にあつては先(ま)づ差当(さしあた)り此(この)岐阜城(ぎふじよう)を攻略(こうりやく)する必要(ひつよう)があるのである然(しか)るに岐阜城(ぎふじよう)の前衛(ぜんゑい)とも       云ふべき処に御承知(ごせうち)の如(ごと)く犬山(いぬやま)、 竹(たけ)ケ鼻(はな)等(とう)の城(しろ)があるので先(ま)づ犬山城(いぬやまじよう)を攻(せ)むるように見(み)せかけて置(お)い       て其(その)実(じつ)岐阜城(ぎふじよう)に突進(とつしん)するのが利益(りえき)であると云ふので其(その)事(こと)に決定(けつてん)したのであるトコロで岐阜(ぎふ)に行(ゆ)くには        木曽川(きそがは)を渡(わた)るので上流(ぜうりう)は河田(かわだ)下流(かりう)は尾越(をごし)を経(ふ)るのであるが上流(ぜうりう)の方(はう)は捷路(ちかみち)であつて両(れう)先鋒(せんぽう)の中(うち)正則(まさのり)が        之(これ)を進(すゝ)みたいと云つたのであつた然(しか)るに輝政(てるまさ)は中々(なか〳〵)承知(せうち)せぬ余(よ)も亦(ま)た先鋒(せんぽう)の任(にん)であるから迂路(うろ)に依(よ)る       事は出来(でき)ぬと云ふのであつたが其(その)頃(ころ)は井伊直正(ゐいなをまさ)も既(すで)に着(ちやく)して居(を)つたので直正(なをまさ)と忠勝(たゞかつ)とが其(その)間(あひだ)へ入(い)つて        調停(てうてい)し遂(つひ)に輝政(てるまさ)が捷路(ちかみち)を取(と)り正則(まさのり)が迂路(うろ)を取(と)ることになつたのである併(しか)し捷路(ちかみち)を取(と)るものは迂路(うろ)よりす 輝政の戦功 るものゝ合図(あひづ)があるまでは戦(たゝかひ)は交(まじ)へぬと云ふことを定(さだ)めたのであるソコで輝政(てるまさ)の方(はう)は浅野幸長(あさのゆきなが)、 山内(やまうち)        一豊(かづとよ)、 堀尾忠氏(ほりをたゞうぢ)、 有馬豊氏(ありまとようぢ)、 一柳直盛(いちやなぎなをもり)、 戸川達安(とがはさとやす)等(ら)兵(へい)凡(およ)そ一万八千人で廿二日の払暁(ふつけう)木曽川(きそがは)の上流(ぜうりう)河(かわ)        田(だ)附近(ふきん)に至(いた)つたのであるが此処(こゝ)で敵軍(てきぐん)と衝突(せうとつ)したのである此(この)時(とき)輝政(てるまさ)は令(れい)してまだ下流(かりう)の味方(みかた)から合図(あひづ)       はないが敵(てき)から戦端(せんたん)を開(ひら)く以上(いじよう)は躊躇(ちうちよ)すべきでないと云ふので遂(つひ)に応戦(おうせん)せしめたのであるソコで伊木(いき)        忠政(たゞまさ)は先(ま)づ河(かは)を渡(わた)つて戦(たゝか)つたが輝政(てるまさ)初(はじ)め諸将(しよせう)も之(これ)に次(つ)ぎ初(はじ)めは殺傷(さつせう)相当(あひあた)つたのであるが午前(ごぜん)六時から       八時 頃(ころ)迄(まで)約(やく)二時間の戦(たゝかひ)で東軍は遂(つひ)に西軍を破(やぶ)り其(その)岐阜城(ぎふじよう)に向(むか)つて退却(たいきやく)するのを追撃(つひげき)したが後(のち)兵(へい)を収(をさ)       めて新加納(しんかのう)、 芋島(いもじま)、 平島(ひらじま)附近(ふきん)に宿営(しゆくえい)し輝政(てるまさ)は其(その)夜(よ)捷報(せうほう)を江戸(えど)に発(はつ)したのである 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        然(しか)るに正則(まさのり)等(ら)下流(かりう)に向(むか)つた一 隊(たい)は竹(たけ)ケ鼻城(はなじょう)の兵(へい)に妨(さまた)げられたので之(これ)と戦(たゝかつ)て廿二日の午後(ごご)遂(つひ)に其(その)城(しろ)を        陥(おとしい)れたのであるが其夜(そのよ)輝政(てるまさ)から捷報(せうほう)があつて且(か)つ既(すで)に岐阜城(ぎふじよう)に迫(せま)れる旨(むね)を申送(もうしおく)つたのであるから正(まさ)        則(のり)は其(その)約(やく)に背(そむ)いたのを怒(いか)つたが細川忠興(ほそかはたゞおき)の説(せつ)で即夜(そくや)急行(きうこう)して岐阜(ぎふ)に向(むか)ふこととなつて直(たゝ)ちに出発(しゆつぱつ)したの       であるソコで其翌(そのよく)廿三日は早朝(さうてう)から岐阜城(ぎふじよう)を攻撃(こうげき)したのであるが正則(まさのり)は前日(ぜんじつ)の事があるから使(し)を輝政(てるまさ)       の処に寄越(よこ)して其(その)約(やく)に背(そむ)いた事を詰(なじ)つて決闘(けつとう)を申込(もうしこ)むだのである然(しか)るに輝政(てるまさ)は之(これ)に答(こた)へて余(よ)が敢(あへ)て約(やく)       に背(そむ)いたと云ふ訳(わけ)ではない敵兵(てきへい)が我(われ)より先(さ)きに右岸(うがん)にあつて銃(じう)を発(はつ)して戦(たゝかひ)を挑(いど)むだのであるから止(やむ)を        得(え)ず進(すゝ)むだまでであるそれ故(ゆゑ)今日(こんにち)は貴隊(きたい)に於(おい)て追手口(おゝてぐち)を攻(せ)められたい我隊(わがたい)は搦手(からめて)へ廻(まは)るであろうと云       つたので先(ま)づ事(こと)は無事(ぶじ)に落着(らくちやく)して其(その)事(こと)に定(さだ)まつたのであるがソコで輝政(てるまさ)は約(やく)の如(ごと)くに進(すゝ)むだ処が正則(まさのり)       の兵(へい)が市街(しがい)に放火(はうくわ)して通行(つうこう)することが出来(でき)ないヤツトの事で迂回(うくわい)して本丸(ほんまる)に逼(せま)つたのであるが前章(ぜんせう)にも        申述(もうしの)べた如(ごと)く輝政(てるまさ)は嘗(かつ)て此(この)城(しろ)に居(を)つた事があるので地理(ちり)に明(あきら)かな処から大(おゝい)なる便宜(べんぎ)を得(え)た事であつた 《割書:織田秀信の|請降》  のであるトコロで輝政(てるまさ)も亦(ま)た火(ひ)を本丸(ほんまる)に放(はな)ち門内(もんない)に投(とう)じて先登(せんとう)と称(せう)したのであるが秀信(ひでのぶ)は遂(つひ)に降(こう)       を請(こ)ふて上加納(かみかのう)の円徳寺(ゑんとくじ)に入(い)り薙髪(ちはつ)するに至(いた)つたのである其(その)落城後(らくじようご)又(ま)た輝政(てるまさ)と正則(まさのり)との間(あひだ)に先登(せんとう)の争(あらそ)       ひがあつた併(しか)し之(これ)も亦(ま)た直政(なをまさ)と忠勝(たゞかつ)とが其(その)間(あひだ)を調停(てうてい)して双方(そうほう)同時(どうじ)に城(しろ)の前後(ぜんご)から之(これ)を陥(おとしい)れた事に落(らく) 《割書:東軍の諸将|赤坂に集る》   着(ちやく)せしめたのであるかくて東軍は破竹(はちく)の勢(いきほひ)で合渡(あひわたり)に捷(か)ち呂久川(ろくがは)に逼(せま)り廿四日には諸将(しよせう)悉(こと〳〵)く赤坂(あかさか)に        集(あつま)つたのである此(この)時(とき)三成(みつなり)は大垣城(おほがきじよう)にあつて頻(しき)りに西軍(せいぐん)諸将(しよせう)を招致(せうち)して居(を)つたのであるが東軍(とうぐん)に於(おい)ても        亦(ま)た家康(いへやす)が到着(とうちやく)しないので双方(そうほう)先(ま)づ対峙(たいじ)の有様(ありさま)で日数(にちすう)を経過(けいくわ)したのである 《割書:家康自ら西|上す》  かくてイヨ〳〵九月朔日に至(いた)つて家康(いへやす)は江戸(えど)を出発(しゆつぱつ)することとなつて麾下(きか)の士(し)凡(およ)そ三万二千百余人を率(ひき)       ゐて東海道(とうかいどう)を西上(さいぜう)したのであるが之(これ)より先(さ)き結城秀康(ゆうきひでやす)を宇都宮城(うつのみやじよう)に留(とゞ)めて上杉氏(うへすぎし)に当(あた)らしめ別(べつ)に秀忠(ひでたゞ) 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十一 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十二 【本文】       をして譜代(ふだい)の将士(せうし)凡(およ)そ三万八千余人を率(ひき)ゐて東山道(とうさんどう)から西上(せいぜう)せしむる事としたので秀忠(ひでたゞ)は八月廿四日 《割書:秀忠東山道|を西上す》   既(すで)に宇都宮(うつのみや)から直(たゝ)ちに信濃(しなの)に向(むか)つたのである即(すなは)ち之(これ)には大久保忠隣(おほくぼたゞちか)、 本多正信(ほんだまさのぶ)、 酒井家次(さかゐいへつぐ)、 奥平家昌(おくだひらいへまさ)        菅沼忠政(すがぬまたゞまさ)、 牧野康成(まきのやすなり)(《割書:右馬|允》)戸田一西(とだかづあき)を初(はじ)め三河以来(みかはいらい)徳川氏(とくがはし)の為(ため)に忠勤(ちうきん)を擢(ぬきん)でた人々は多(おほ)く之(これ)にしたが従(したが)つた       のであるが之(これ)が先鋒(せんぽう)としては榊原康政(さかきばらやすまさ)が其(その)任(にん)に当(あた)つたのである然(しか)るに家康(いへやす)の方(はう)は前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)り九 《割書:家康の吉田|通過》  月朔日に江戸(えど)を発(はつ)して東海道(とうかいどう)を上(のぼ)り此(この)吉田(よしだ)をば八日に通過(つうくわ)して十一日 清洲(きよす)に入(い)り十四日 赤坂(あかさか)に到着(たうちやく)し       て初(はじ)めて金扇馬標(きんせんうまじるし)を岡山(おかやま)の営(えい)に立(たつ)たのであるが秀忠(ひでたゞ)は遂(つひ)に此(この)期(き)に後(おく)れてまだ到着(たうちやく)するに至(いた)らなかつた 上田城   のであるそれはドウ云ふ訳(わけ)であるかと云ふに御承知(ごせうち)の如(ごと)く信州(しんしう)上田(うへだ)の城主(じようしゆ)真田昌幸(さなだまさゆき)並(ならび)に其(その)二男(じなん)幸村(ゆきむら)は       西軍に応(おう)ずることとなつたので其(その)居城(きよじよう)上田(うへた)に拠(よつ)て此(この)秀忠(ひでたゞ)の一 行(こう)を拒(こば)むだのであるモツトモ秀忠(ひでたゞ)に於(おい)ても        家康(いへやす)の江戸(えど)出発(しゆつぱつ)を知(し)つたならばドウ都合(つごう)しても前進(ぜんしん)したのであつた事と思(おも)ふが此(この)家康(いへやす)の通報(つうほう)を齎(もた)らし       た使者(ししや)が秋瞭(しうれう)の為(ため)に遅延(ちえん)してヨウ〳〵九日に致(いた)つて秀忠(ひでたゞ)の許(もと)に達(たつ)した次第(しだい)であつたからそれまでは秀(ひで)        忠(たゞ)に於(おい)ても家康(いへやす)の方(はう)の消息(せうそく)が分(わか)らなかつた為(ため)にベンと〳〵上田(うへだ)の城攻(しろぜ)めに時日(じじつ)を遷(うつ)したような訳(わけ)であ       つたのである此処(こゝ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのは此(この)真田氏(さなだし)の事であるがそれがズツト以前(いぜん)に武田(たけだ) 真田信幸   氏(し)に属(ぞく)して居(を)つた時分(じぶん)の関係(くわんけい)などは既(すで)に屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べた如(ごと)くで諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふから        此処(こゝ)には略(りやく)するが此(この)昌幸(まさゆき)には信幸(のぶゆき)、 幸村(ゆきむら)の二 子(し)があつて当時(とうじ)信幸(のぶゆき)は上州(ぜうしう)沼田(ぬまた)の城(しろ)に居(を)つたのであるト       コロが此(この)信幸(のぶゆき)は之(これ)迄(まで)に頗(すこぶ)る徳川氏(とくがはし)の世話(せわ)になつて居(を)るのみならず其(その)妻(つま)は本多忠勝(ほんだたゞかつ)の娘(むすめ)で家康(いへやす)の養女(やうぢよ)と       して嫁(か)したものであるそれ故(ゆゑ)に最初(さいしよ)三成(みつなり)から兵(へい)を挙(あ)ぐるの報知(ほうち)を得(え)た時(とき)に昌幸(まさゆき)は其(その)二 子(し)に向(むか)つて向背(こうはい)       を擇(えら)ばしめたのであるが信幸(のぶゆき)は東せむと請(こ)ひ幸村(ゆきむら)は西せむと願(ねが)つたので昌幸(まさゆき)は双方(さうはう)共(とも)に其(その)願意(ぐわんい)を容(ゆる)し       て己(おの)れは幸村(ゆきむら)を伴(ともな)つて西軍に属(ぞく)した次第(しだい)で云はゞ親子(おやこ)兄弟(けうだい)が敵(てき)と味方(みかた)とに別(わか)れた訳(わけ)であるが此(この)時(とき)信幸(のぶゆき) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六十一号附録   (明治四十年一月十六日発行) 【本文】       は秀忠(ひでたゞ)に属(ぞく)して攻城軍(こうじようぐん)の中(なか)にあつたのであるソコで話(はなし)は前(まへ)に戻(もど)つて家康(いへやす)の方(はう)であるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた 《割書:東軍諸将の|謀議》   如(ごと)く九月十四日に家康(いへやす)は赤坂(あかさか)に着(ちやく)して岡山(をかやま)の上(うへ)に陣(ぢん)を取(と)つたが更(さら)に諸将(しよせう)を会(くわい)して謀議(ぼうぎ)を凝(こ)らしたので       ある此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)と井伊直正(ゐいなをまさ)とは急(きう)に大垣城(おほがきじよう)を攻取(こうしゆ)すべしと云ふ論者(ろんしや)であつたが福島正則(ふくしままさのり)と本多忠勝(ほんだたゞかつ)       とは先(ま)づ大坂(おほさか)に上(のぼ)つて毛利輝元(もうりてるもと)と決戦(けつせん)して諸将(しよせう)の質(しち)を復(ふく)すべしと云ふ論者(ろんしや)であつた然(しか)るに家康(いへやす)は一 隊(たい)       を以(もつ)て大垣(おほがき)に当(あた)らしめ其余(そのよ)の大部隊(だいぶたい)をして進(すゝ)むで佐和山(さわやま)を屠(ほうむ)り大坂(おほさか)に向(むか)ふべきことを命(めい)したので直(たゞ)ちに 株瀬川の戦  其(その)用意(ようい)に取(とり)かゝつたのであるが此(この)夕(ゆう)大垣(おほがき)と赤坂(あかさか)との間(あひだ)にある株瀬川(かぶせがは)と云ふ河(かは)の辺(ほとり)で両軍(れうぐん)の小衝突(せう〳〵とつ)があ       つたのである之(これ)には西軍(せいぐん)の方(はう)が何分(なにぶん)の勝利(せうり)とも云ふべき結果(けつくわ)を得(え)たのであつたが其(その)夜(よ)西軍(せいぐん)では東軍(とうぐん)の        謀(はかりごと)を偵知(ていち)したので之(これ)は打棄(うちすて)て置(お)けぬと云ふので遂(つひ)に之(これ)を関(せき)ケ原(はら)で扼(やく)することに決(けつ)したのである蓋(けだ)しそ     れは全(まつた)く家康(いへやす)の計略(けいりやく)の嵌(はま)つた訳(わけ)で東軍(とうぐん)に於(おい)ては元(もと)よりそれを望(のぞ)むで居(を)つたのであるから家康(いへやす)はワザワ 《割書:西軍諸将敵|を関ケ原に》  ザ其(その) 謀(はかりごと)を西軍(せいぐん)に知(し)れるように云ひ触(ふ)れしめたとの事であるかくて西軍は福原長堯(ふくはらながたか)以上七千五百 余人(よにん) 《割書:扼せむとす| 》  を大垣城(おほがきじよう)に留(とゞ)めて石田三成(いしだみつなり)、 島津惟新(しまづゐしん)、 小西行長(こにしゆきなが)、 宇喜多秀家(うきたひでいへ)と云ふような順序(じゆんじよ)で夜(よ)に乗(ぜう)じて敵(てき)の耳(じ)        目(もく)を避(さ)け関(せき)ヶ原(はら)に向(むか)つて行進(こうしん)したのであるが御承知(ごせうち)の通(とほ)り大垣(おほがき)と赤坂(あかさか)とは其(その)間(あひだ)僅(わづか)に五十 余町(よてう)を距(へだ)て       ゝ一は中山道(なかせんどう)に当(あた)り一は伊勢(いせ)に通(つう)ずる街道(かいどう)に当(あた)つて居(を)るのであるが此(この)両路(れうみち)は西方(せいはう)垂井(たるい)に至(いた)つて相合(あひがつ)し       て居(を)るのであるそれから又(ま)た僅(わづか)に西して関(せき)ヶ原(はら)に至(いた)ると路(みち)は北国街道(ほくこくかいどう)と中山道(なかせんどう)とに分(わか)るゝのであるか       ら此(この)間(あひだ)と云ふものは最(もつと)も要衝(ようせう)の地(ち)と相成(あひな)つて居(を)るのである且(か)つ垂井(たるい)の南方(なんぱう)にある南宮山(なんぐうさん)には既(すで)に毛利(もうり)        秀元(ひでもと)、 長宗我部盛親(ちようそがべもりちか)、 安国寺恵瓊(あんこくじゑけい)、 長束正家(ながつかまさいへ)、吉川広家(よしかはひろいへ)などが屯(たむろ)して居(を)り又(ま)た関(せき)ヶ原(はら)の西南(せいなん)に当(あた)る松(まつ)        尾山(をやま)には小早川秀秋(こはやかはひであき)が屯(たむろ)して居(を)るので三成(みつなり)等(ら)は十五日の午前一時から五時 頃(ごろ)迄(まで)の間(あひだ)に此(この)関(せき)ヶ原(はら)に到着(たうちやく)       して中山道(なかせんどう)と北国街道(ほくこくかいどう)との衝路(せうろ)に当(あた)つて陣(ぢん)したのであるが三成(みつなり)の隊(たい)と最左翼(さいさよく)に島津(しまづ)、 小西(こにし)、 宇喜多(うきた)と 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十三 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十四 【本文】       云ふように相並(あひなら)むだのである而(しか)して其(その)右(みぎ)には大谷吉継(おほたによしつぐ)等(ら)が来(きた)つて陣(ぢん)し又(また)其(その)右翼(うよく)に連(つらな)り斜(なゝめ)に松尾山(まつをやま)の麓(ふもと)       に方(あた)つて脇坂安治(わきさかやすはる)、 朽木元網(くちきもとつな)等(ら)が陣(ぢん)したのである然(しか)るに東軍の方(はう)でも逸早(いちはや)く此(この)模様(もよう)を偵知(ていち)したので家(いへ)        康(やす)は時機(じき)の到来(とうらい)を喜(よろこ)むで蹶起(けつき)して出発(しゆつぱつ)を命(めい)じたのであるが此(この)時(とき)福島正則(ふくしままさのり)と黒田長政(くろだながまさ)とは其(その)先鋒(せんぽう)となつ 東軍の進撃 たのである即(すなは)ち福島(ふくしま)の隊(たい)は真先(まつさき)に関(せき)ヶ原(はら)に進(すゝ)むでだのであるが此(この)朝(あさ)は細雨(さいう)尚(なほ)止(や)まず霧(きり)が深(ふか)かつたので黎(れい)        明駅中(めいえきちう)に於(おい)て敵(てき)の最後部隊(さいこうぶたい)と相遇(あひあ)つても咫尺(しせき)をも弁(べん)せぬと云ふような訳(わけ)であつたが両隊(れうたい)相(あひ)混乱(こんらん)して双(そう)        方(はう)共(とも)に驚(おどろ)いたといふことであるソコで東軍は黒田長政(くろだながまさ)を最右翼(さいうよく)として細川忠興(ほそかはたゞおき)、 加藤嘉明(かとうよしあき)、 田中吉政(たなかよしまさ)、        筒井定次(つゝゐさだつぐ)、 松平忠吉(まつだひらたゞよし)、 井伊直正(いゐなをまさ)と云ふような順序(じゆんじよ)で駅(えき)の北方(ほくはう)に陣(ぢん)して敵陣(てきぢん)と相対(あひたい)し金森長近(かねもりながちか)、 生駒一(いこまかづ)        正(まさ)等(ら)は其(その)後(あと)に陣(ぢん)したが藤堂高虎(とうどうたかとら)、 京極高知(きようごくたかとも)等(ら)は駅(えき)の南方(なんはう)にあつて松尾山(まつをやま)の敵(てき)と対(たい)し独(ひと)り福島正則(ふくしままさのり)は進(すゝ) 桃配山   むで松尾山麓(まつをさんろく)から宇喜多(うきた)の陣(ぢん)へ迫(せま)つて陣取(ぢんど)つたのである其(その)内(うち)に家康(いへやす)も麾下(きか)を率(ひき)ゐて関(せき)ヶ原(はら)の東方(とうはう)桃配(もゝくばり)        山(やま)に陣(ぢん)を取(と)つたと云ふ次第(しだい)であるが此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)は浅野幸長(あさゆきなが)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)と共(とも)に初(はじ)め大垣城(おほがきじよう)に当(あた)る筈(はづ) 《割書:輝政南宮山|の敵に備ふ》  であつたが転(てん)じて家康(いへやす)の後方(こうはう)に連絡(れんらく)して垂井駅(たるいえき)の西南(せいなん)に陣(ぢん)し専(もつぱ)ら南宮山(なんぐうさん)の敵(てき)に備(そな)へたのであるモツト       モ此(この)時(とき)も輝政(てるまさ)は切(しき)りに其(その)先鋒(せんぽう)たらむことを請(こ)つたのであるか家康(いへやす)は諭(さと)して此(この)衝(せう)に置(お)いたとの事であるサ       テ戦端(せんたん)ハイヨ〳〵午前七時 過(すぎ)に至(いた)つて先方(せんはう)に初(はじ)まつたのであるが最初(さいしよ)は井伊直政(ゐいなをまさ)が松平忠吉(まつだひらたゞよし)を輔(たす)けて       宇喜多(うきた)の陣(ぢん)に当(あた)り福島正則(ふくしままさのり)も亦(ま)た同様(どうよう)宇喜多(うきた)隊(たい)を攻撃(こうげき)したのであるが続(つゞ)いて藤堂(とうどう)、 京極(きようごく)の隊(たい)は大谷(おほたに)の        陣(ぢん)を攻(せ)め細川(ほそかは)、加藤(かとう)等(ら)の後方(こうはう)に陣(ぢん)して居(を)つた織田有楽(をたゆうらく)、 古田重勝(ふるたしげかつ)、 佐久間安政(さくまやすまさ)等(ら)の諸将(しよせう)は小西(こにし)の隊(たい)に        向(むか)ひ黒田(くろだ)は勿論(もちろん)田中(たなか)、 細川(ほそかは)、 加藤(かとう)、 金森(かねもり)、 生駒(いこま)等(ら)の諸隊(しよたい)は孰(いづ)れも石田隊(いしだたい)に向(むか)つたのであるかくて戦闘(せんたう) 両軍の決戦 は漸(やうや)く激烈(げきれつ)となつたが西軍(せいぐん)も中々(なか〳〵)能(よ)く戦(たゝか)つて容易(ようい)に勝敗(せうはい)は決(けつ)せられぬソコで家康(いへやす)は午前九時 過(すぎ)に至(いた)つ       て本隊(ほんたい)を進(すゝ)めて駅(えき)の東口(ひがしぐち)に至(いた)つたが其(その)時(とき)本多忠勝(ほんだたゞかつ)は後部(こうぶ)にあつたので自(みづか)ら請(こ)つて前進(ぜんしん)し遂(つひ)に小西(こにし)、宇(う) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        喜多(きた)両隊(れうたい)と戦(たゝか)つて之(これ)を挫(くじ)き更(さら)に島津(しまづ)の前隊(ぜんたい)に向(むか)つたのである然(しか)るに尚(な)ほ勝敗(せうはい)は容易(ようい)に決(けつ)せぬので西軍       の方(はう)でも烽火(ほうか)を挙(あ)げて松尾(まつを)、 南宮(なんぐう)両山(れうさん)の諸隊(しよたい)に下撃(かげき)を促(うなが)したが応(おう)じないトコロで早(は)や正午(せうご)にも近(ちか)づく 《割書:小早川秀秋|の応援》  ようになつたので東軍(とうぐん)の方(はう)からも切(しき)りに秀秋(ひであき)の応援(おうゑん)を促(うなが)したのである元来(がんらい)小早川秀秋(こはやかはひであき)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)       の如(ごと)く最初(さいしよ)から欵(かん)を家康(いへやす)に通(つう)じて居(を)つたのであるモツトモ伏見城(ふしみじよう)の攻撃(こうげき)には余義(よぎ)なく西軍に加(くは)はつた       が其(その)時(とき)とても種々(しゆ〳〵)に苦心(くしん)をした事実(じじつ)があるのである殊(こと)に今度(このたび)は屡々(しば〳〵)東軍と連絡(れんらく)を通(つう)じて東軍からは内(ない)        内(ない)奥平貞治(おくだひらさだはる)を松尾山(まつをやま)の陣(ぢん)へ遣(や)つてあつた位(くらゐ)であるから此(こゝ)に至(いた)つて遂(つひ)に西軍に対(たい)し公然(こうぜん)叛旗(はんき)を翻(ひるがへ)す事       となつて忽(たちま)ち山(やま)を馳(は)せ下(くだ)り直(たゞ)ちに大谷(おほたに)の陣(ぢん)に向(むか)つて突撃(とつげき)するに至(いた)つたのである結局(けつきよく)之(これ)が西軍 敗北(はいぼく)の        動機(どうき)となつたので家康(いへやす)は即(すなは)ち麾下(きか)を放(はな)つて総攻撃(そうこうげき)を命(めい)じたのであるが西軍は果(はた)して支離滅裂(しりめつれつ)となつて        其(その)諸将(しよせう)は或(あるひ)は死(し)に或(あるひ)は逃(にげ)るゝに至(いた)つたのである独(ひと)り島津惟新(しまづゐしん)は最後(さいご)まで踏(ふ)み止(とゞま)つたが遂(つひ)に支(さゝ)ふることが        出来(でき)ぬようになつたので東軍を突(つ)き切(き)つて牧田路(まきたぢ)から逃(のが)れたのであるが福島(ふくしま)、 小早川(こはやかは)、井伊(ゐい)、 本多(ほんだ)諸(しよ)        隊(たい)の追撃(つひげき)に遭(あ)つて其(その)子(こ)豊久(とよひさ)は戦死(せんし)したのであるソコで南宮山(なんぐうさん)の西軍も戦(たゝか)はずして退却(たいきやく)するに至(いた)つたの       であるが先(ま)づ関(せき)ヶ原(はら)戦争(せんそう)の大体(だいたい)は右(みぎ)申述(もうしの)べたような訳(わけ)で終(をは)つたのである而(しか)も此(この)時(とき)両軍(れうぐん)の兵力(へいりよく)から云へ       ば初(はじ)め西軍は総勢(そうぜい)七万九千余人 東軍(とうぐん)七万人 許(ばかり)であるから其(その)点(てん)は西軍が優勢(ゆうせい)な訳(わけ)であつたが如何(いかん)せむ 《割書:西軍の不統|一》  西軍には統(とう)一 者(しや)がない三成(みつなり)は云はゞ謀主(ぼうしゆ)ではあるが参謀(さんぼう)の位置(ゐち)で総指揮者(そうしきしや)としてはまだ貫目(くわんめ)が足(た)らむ       のであるトコロが東軍は之(これ)に反(はん)して家康(いへやす)がシツカリと之(これ)を統(とう)一して居(を)る其(その)本隊(ほんたい)を扣(ひか)へて敢(あへ)て動(うご)かず前(ぜん)        隊(たい)の戦期(せんき)が熟(じゆく)した処(ところ)で先(ま)づ秀秋(ひであき)の去就(きよじゆう)を試(こゝろ)みイヨ〳〵敵軍(てきぐん)にはモウ後続部隊(こうぞくぶたい)がないと云ふのを見(み)るや        否(いな)直(たゞ)ちに麾下(きか)の総攻撃(そうこうげき)を命(めい)じた処などは私(わたくし)共(ども)少(すこ)しも戦術(せんじゆつ)を知(し)らぬ者(もの)にも何(なん)となく其(その)整(とゝの)つて居(を)る様子(ようす)       が分(わか)るのである特(とく)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く東軍には秀秋(ひであき)は勿論(もちろん)毛利秀元(もうりひでもと)の一 類(るい)たる吉川(よしかは)、 福原(ふくはら)の如(ごと)き内応者(ないおうしや)が 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十五 【欄外】    豊橋市史談  (関 ケ 原 役)                    百九十附録 【本文】       あつたので之(これ)等(ら)から見(み)れば西軍の敗(やぶ)れたのは誠(まこと)に余義(よぎ)なき次第(しだい)であると思(おも)ふのであるサテ此(かく)の如(ごと)く西 《割書:佐和山城攻|略》  軍は遂(つひ)に大敗(たいはい)したが家康(いへやす)はスカサず小早川秀秋(こはやかはひであき)等(ら)をして佐和山(さわやま)の城(しろ)を攻取(せめとら)せしめ又(ま)た一 方(はう)には正則(まさのり)、        長政(ながまさ)等(ら)をして書(しよ)を大坂(おほさか)の毛利輝元(もうりてるもと)に贈(おく)らしめて其(その)意(い)を通(つう)せむとし自(みづか)らも廿日に大津(おほつ)まで進(すゝ)むで秀頼(ひでより)母(ぼ) 《割書:秀忠草津に|着す》   子(し)に申通(もうしつう)ずる処(ところ)があつたが此(この)時(とき)秀忠(ひでたゞ)は草津(くさつ)に到着(たうちやく)したので東軍の兵威(へいゐ)は益々(ます〳〵)強盛(きようせい)となつた訳(わけ)である而(しか) 《割書:家康秀忠大|坂に入る》  も朝廷(てうてい)からは勅使(ちよくし)が下(くだ)ると云ふ次第(しだい)で家康(いへやす)の声望(せいぼう)は愈々(いよ〳〵)揚(あが)るここととなつたのであるが幸(さいはひ)に輝元(てるもと)が大坂(おほさか)       の西城(せいじよう)を明渡(あけわた)すこととなつたので廿七日 家康(いへやす)は之(これ)に入(い)つて秀忠(ひでたゞ)を二の丸(まる)に置(お)くこととなつたのである結局(けつきよく)        之(これ)で東軍は戦(たゝか)はずして克(よ)く大坂(おほさか)を占領(せんれう)した訳(わけ)となつたのであるが此(この)落着(らくちやく)を見(み)るに就(つい)て池田輝政(いけだてるまさ)は正則(まさのり)        長政(ながまさ)、 幸長(ゆきなが)、 高虎(たかとら)等(ら)と共(とも)に種々(しゆ〳〵)斡旋(あつせん)の労(らう)を取(と)つたのである        以上(いじよう)述(の)べたような次第(しだい)で大坂(おほさか)は東軍の勢力範囲(せいりよくはんゐ)となつたが此(こゝ)に至(いた)つては自然(しぜん)の勢(いきほひ)として天下(てんか)の実権(じつけん) 《割書:家康自ら賞|罰を行ふ》  は全(まつた)く家康(いへやす)に帰(き)せざるを得(え)ざる訳(わけ)で云はゞ当然(たうぜん)の結果(けつくわ)であるソコで家康(いへやす)は大(おほい)に諸将士(しよせうし)に対(たい)して賞罰(せうばつ)を        行(おこな)ひ三成(みつなり)、 行長(ゆきなが)、 恵瓊(えけい)等(ら)主謀者(しゆばうしや)の縛(ばく)に就(つ)いたものは之(これ)を誅(ちう)し其他(そのた)流刑(りうけい)褫封(ちほう)等(とう)に処(しよ)せられたものも少(すくな)く       なかつたのであるが一 方(はう)には又(ま)た九月廿七日の日から既(すで)に論功行賞(ろんこうぎうせう)の調査(ちようさ)にかゝつて十月十五日 其(その)大(だい) 《割書:輝政姫路五|十二万石に》   部分(ぶゞん)を発表(はつぴよう)したのである一々 之(これ)を申述(もうしの)ぶるのは繁雑(はんざつ)に亘(わた)るから此処(こゝ)には略(りやく)するが其(その)結果(けつくわ)此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ) 《割書:移封せらる| 》  たる池田輝政(いけだてるまさ)は一 躍(やく)して五十二万石に封(ほう)せられ播磨(はりま)の姫路(ひめぢ)に移(うつ)ることとなつたのである即(すなは)ち前章(ぜんせう)にも申(もうし)        述(の)べた如(ごと)く輝政(てるまさ)は之(これ)より姫路(ひめぢ)に移(うつ)つて姫路城(ひめぢじよう)の建築(けんちく)だの市街(しがい)の改正(かいせい)等(とう)を行(おこな)つたのであるか其(その)遺跡(ゐせき)は今(いま)       も尚(な)ほ其地(そのち)に見(み)るべきものがあるのである従(したがつ)て今(いま)数年間(すうねんかん)輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に居(を)つたならば前(まへ)に述(の)べた通(とほ)       り悟真寺(ごしんじ)の移転(いてん)を初(はじ)め市区(しく)の改正(かいせい)は余程(よほど)断行(だんこう)したものであつた事であると思(おも)ふが当市(たうし)の為(ため)には誠(まこと)に惜(おし)       い事をした次第(しだい)である尚(なほ)輝政(てるまさ)一 代(だい)の事に就而(ついて)は之(これ)から申述(もうしの)ぶべきことが多(おほ)いのであるが遺憾(ゐかん)ながら本市(ほんし) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百六十七号附録   (明治四十年一月廿三日発行) 【本文】        史(し)に関係(くわんけい)が少(すくな)いから之(これ)にて後(のち)の話(はなし)に移(うつ)りたいと思(おも)ふのである而(しか)して其(その)後(のち)輝政(てるまさ)は慶長(けいてう)十八年正月廿五日 《割書:輝政の卒年|並に墳墓》   姫路(ひめぢ)に於(おい)て病(やん)で卒(そつ)し行年(ぎようねん)は五十歳 国清院泰叟玄高(こくせいゐんたいさうげんこう)と諡(おくな)して龍峯寺(りうほうじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)つたが後(のち)儒礼(じゆれい)を以(もつ)て備(び)        前国(ぜんのくに)和気郡(わきごほり)敦土山(あつちやま)に改葬(かいそう)した事は之(これ)亦(ま)た前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)くである今(いま)岡山(をかやま)にも鳥取(とつとり)にも国清寺(こくせいじ)と云ふ寺(てら) 国清寺   があるが之(これ)は後(のち)に至(いたつ)て輝政(てるまさ)菩提(ぼだい)の為(ため)に建立(こんりう)したものであるは云ふまでもないが鳥取(とつとり)のは此(この)龍峯寺(りうほうじ)を姫(ひめ)        路(ぢ)から移転(いてん)したものであると伝(つた)へられてある             ⦿松平家清吉田に封せらる        前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述(もうしの)べた如(ごと)く家康(いへやす)は関(せき)ヶ原(はら)に勝(か)つてそれより事実上(じじつぜう)に於(おい)て天下(てんか)の政権(せいけん)を一 身(しん)に握(にぎ)るに至(いた)       つたのであるが之(これ)は自然(しぜん)の情勢(ぜうせい)として当(まさ)に然(しか)るべきの事であつたのであるソコで家康(いへやす)が先(ま)づ第一の急(きう) 《割書:家康の諸侯|配置法》   務(む)としたのは天下(てんか)諸侯(しよこう)の配置(はいち)であつたが慶長(けいちよう)五年の十一月と同六年の二月とに於(おい)て自(みづか)ら関(せき)ヶ原(はら)役(えき)に関(くわん)       する賞罰(せうばつ)を行(おこな)ひ其(その)後(のち)も其(その)世臣(よしん)に増侯(ぞうこう)し又(また)は其(その)治城(ぢじよう)を更迭(こうてつ)した事が殆(ほとん)ど虚月(きよげつ)なき有様(ありさま)で翌(よく)七年に及(およ)んだ       のである而(しか)して此(この)家康(いへやす)の諸侯(しよこう)配置法(はいちはう)と云ふものは秀吉(ひでよし)の時代(じだい)に比(ひ)して更(さら)に一 層(そう)進歩(しんぽ)したとも云つてよ       いので頗(すこぶ)る巧妙(こうみよう)なものであつたのであるが先(ま)づ此(この)東海道(とうかいどう)と云ふものは己(おの)れの根拠地(こんきよち)たる江戸(えど)と京都(きようと)及(およ)       び大坂(おほさか)間(かん)を通(つう)ずる大切(たいせつ)の道筋(みちすぢ)であると云ふ処から之(これ)には悉(こと〳〵)く譜代(ふだい)の大名(だいみよう)を配置(はいち)して双方(さうほう)間(かん)の連絡(れんらく)を        保(たも)たしめ特(とく)に此(この)三 河地方(かはちはう)は己(おの)れの故国(ここく)であると云ふ処から一 層(そう)注意(ちうい)して其(その)世臣(せしん)を封(ほう)じたものと思(おも)はれ       る而(しか)も豊臣秀頼(とよとみひでより)の為(ため)には只(た)だ摂津(せつゝ)、 河内(かはち)、 和泉(いづみ)の内(うち)で凡(およ)そ六十五万七千四百石 許(ばかり)の知行(ちぎよう)を充(あ)てゝ其他(そのた)        諸国(しよこく)に旧来(きうらい)あつた処の御蔵入(おくらいり)と称(せう)する収入(しうにふ)は悉(こと〳〵)く江戸(えど)又(また)は諸侯(しよこう)の収入(しうにふ)となして豊臣氏(とよとみし)からは取(と)り去(さ)       つた訳(わけ)になつたのであるかくて家康(いへやす)は慶長(けいちよう)六年の三月 大坂(おほさか)を去(さつ)て伏見(ふしみ)に居(を)つたがそれよりは江戸(えど)大坂(おほさか) 【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                    百九十七 【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                  百九十八 【本文】       の間(あひだ)を屡々(しば〳〵)往来(おうらい)して其(その)都度(つど)京都(きようと)にも立寄(たちよ)り頗(すこぶ)る朝廷(ちようてい)の優遇(ゆうぐん)を受(う)けたのである而(しか)して先(さ)きに申述(もうしの)べた如(ごと) 《割書:松平玄蕃頭|家清》  く池田輝政(いけだてるまさ)が此知(このち)から播州姫路(ばんしうひめぢ)へ栄転(えいてん)したのは慶長(けいてう)五年十一月の事であるが其跡(そのあと)へ封(ほう)ぜられて此(この)吉田(よしだ)       へ来(き)たのは即(すなは)ち松平玄蕃頭家清(まつだひらげんばのかみいへきよ)であつて之(これ)は慶長(けいてう)六年二月に発表(はつぴやう)されたのである此(この)家清(いへきよ)と云ふ人はズ       ツト先(さ)きに申述(もうしの)べて置(お)いた松平清善(まつだひらきよよし)の孫(まご)で父(ちゝ)は清宗(きよむね)と云ふ人であるが之(これ)も前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く天正十八       年 家康(いへやす)が関東(くわんとう)へ移封(いほう)せられた時に武蔵(むさし)の八 幡山(はたやま)一万石に封(ほう)せられたのであつたが今度(このたび)此(この)家清(いへきよ)は此地(このち)三       万石に封(ほう)せられたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから此(この)松平氏(まつだひらし)の為(ため)には勿論(もちろん)家康(いへやす)の政策上(せいさくぜう)から云つても之(これ)       は誠(まこと)によい事であつたに相違(さうゐ)ないが実(じつ)は我(わが)豊橋(とよはし)の発展上(はつてんぜう)から云ふと頗(すこぶ)る不幸(ふこう)な事で之(これ)迄(まで)十五万二千石 《割書:土地の発展|と藩主》  の池田輝政(いけだてるまさ)が種々(しゆ〳〵)に計割(けいくわく)を仕掛(しか)けて置(お)いた事も急(きふ)に此(この)小禄(せうろく)なる譜代(ふだい)の大名(だいみよう)に代(かは)つた為(ため)に一 頓(とん)        挫(ざ)と相成(あひな)つた次第(しだい)であるそれのみならず此(この)後(のち)藩主(はんしゆ)に交迭(こうてつ)はあつても其(その)方針(はうしん)と云ふものは先(ま)づ徳川(とくがは)三百       年 間(かん)変(かは)る処はなかつたのであるから独(ひと)り我(わが)豊橋(とよはし)のみでなく東海道(とうかいどう)の各城下(かくじようか)と云ふものは名古屋(なごや)駿府(すんぷ)位(ぐらゐ)       を除(のぞ)くの外(ほか)は何(いづ)れも同様(どうやう)の訳(わけ)で誠(まこと)に土地(とち)の発展(はつてん)をする上(うへ)から云ふと遂(つひ)に宜(よ)き機会(きくわい)を得(え)なかつたのであ       る之(これ)は今日(こんにち)から見(み)ると甚(はなは)だ不仕合(ふしあは)せな事であつたと信(しん)ずるのである 竹谷の松平 サテ此(この)家清(いへきよ)の家(いへ)と云ふのは所謂(いはゆる)竹谷(たけのや)の松平氏(まつだひらし)で其(その)祖(そ)は兼(かね)て申述(もうしの)べてある和泉入道信光(いづみにふどうのぶみつ)であるから結局(けつきよく)        徳川氏(とくがはし)とは其(その)系統(けいとう)を一にして居(を)る訳(わけ)であるが信光(のぶみつ)の二 男(なん)守家(もりいへ)から清喜(きよよし)に至(いた)るまで凡(およ)そ四 代(だい)の間(あひだ)は岡崎(をかざき)       の城(しろ)に居(を)つたのである然(しか)るに清喜(きよよし)の代(だい)になつて竹谷(たけのや)に移(うつ)つたので竹谷與二郎(たけのやよじらう)と名乗(なの)つたが其(その)娘(むすめ)は嘗(かつ)て        此(この)吉田城(よしだじよう)に人質(ひとじち)となつて居(を)つて家康(いへやす)が今川氏真(いまがはうぢさね)と絶縁(ぜつゑん)の時 小原鎮実(をはらしげさね)の為(ため)に龍拈寺(りうねんじ)口(ぐち)で惨殺(ざんさつ)せられた事       は之(これ)亦(また)既(すで)に其(その)時代(じだい)に於(おい)て申述(もうしの)べた如(ごと)くであるそれより此(この)清喜(きよよし)は益々(ます〳〵)徳川氏(とくがはし)の為(ため)に忠勤(ちうきん)を尽(つく)したのであ       るが天正十五年に八十三歳で卒(そつ)し子(こ)の清宗(きよむね)が後(あと)を継(つ)ぎ之(これ)も戦功(せんこう)によつて遠江(とほとふみ)に所領(しよれう)を与(あた)へられたので 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ある其(その)後(のち)家清(いへきよ)は又(ま)た其(その)後(あと)を襲(つ)ぎ父(ちゝ)清宗(きよむね)と共(とも)に駿河(するが)の興国寺城(こうこくじじよう)を守(まも)つて居(を)つたのであるが家康(いへやす)関東(くわんとう)移封(いほう)       に方(あた)つて前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り武蔵(むさし)の八幡山(やはたやま)一万石に封(ほう)せられたのである而(しか)して此(この)家清(いへきよ)も亦(ま)た初(はじめ)は與二(よじ) 《割書:家清武蔵八|幡山より吉》   郎(らう)と云つて屡々(しば〳〵)戦功(せんこう)があつたが関(せき)ヶ原(はら)役(えき)当時(とうじ)には尾張(をはり)の清洲城(きよすじよう)を守(まも)り今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)せられて其(その)領(れう) 《割書:田に移封せ|らる》   地(ち)は従前(じうぜん)に三 倍(ばい)の三万石と相成(あひな)つた次第(しだい)である併(しか)し家清(いへきよ)も此(この)吉田(よしだ)に来(き)て見(み)れば兎(と)に角(かく)以前(いぜん)が十五万二       千石と云ふので池田輝政(いけだてるまさ)の城下(じようか)であつた事であるから直(たゞ)ちに新計画(しんけいくわく)をする必要(ひつよう)をも認(みと)めなかつた事で       あろうが又(ま)た余(あま)之(これ)をなしたと云ふ事績(じせき)も残(のこ)つて居(を)らぬように思(おも)ふのである従(したがつ)て遺憾(ゐかん)ながら此(こゝ)に申(もうし)        述(の)ぶる事も甚(はなは)だ少(すくな)き次第(しだい)である 《割書:家康征夷大|将軍に任せ》  サテ諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く家康(いへやす)は慶長(けいてう)八年二月十二日を以(もつ)てイヨ〳〵征夷大将軍(せいいたいせうぐん)に任(にん)せられ茲(こゝ)に名実共(めいじつとも) 《割書:らる   | 》  に天下(てんか)の政権(せいけん)を握(にぎ)る事となつたのである此(この)時(とき)家康(いへやす)は六十二歳であつたが其(その)十年四月に至(いた)つて軍職(ぐんしよく)を秀(ひで) 《割書:家康軍職を|秀忠に譲る》   忠(たゞ)に譲(ゆづ)らむことを奏請(さうせい)し勅許(ちよくきよ)を得(え)たのであるソコで自分(じぶん)は駿府城(すんぷじよう)の修築(しうちく)をして十二年七月を以(もつ)て之(これ)に        移(うつ)り秀忠(ひでたゞ)は江戸(えど)に居(を)つたのであるが家康(いへやす)は常(つね)に其(その)間(あひだ)を往来(おうらい)して将軍(せうぐん)の後見(こうけん)をして居(を)つたのであるかゝ 家清卒す  る有様(ありさま)で二三年を経過(けいくわ)したのであるが慶長(けいてう)十五年十二月廿一日に至(いた)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)たる家清(いへきよ)は行年(ぎようねん) 《割書:松平玄蕃頭|清忠》  四十五歳で急(きふ)に病(や)むで卒(そつ)したのである即(すなは)ち其子(そのこ)の忠清(たゞきよ)が相続(さうぞく)したのであるが家清(いへきよ)の夫人(ふじん)と云ふのは家(いへ) 忠清卒す   康(やす)の同母妹(どうぼまい)で忠清(たゞきよ)は其出(そのしゆつ)であつたが此人(このひと)も亦(ま)た慶長(けいてう)十七年四月廿日を以(もつ)て相続後(さうぞくご)間(ま)もないのに卒去(そつきよ)せ       られたのである行年(ぎようねん)は僅(わづか)に廿八歳で不幸(ふこう)な事には男子(だんし)がなかつたので其家(そのいへ)は遂(つひ)に断絶(だんぜつ)に及(およ)むだのであ 松平清昌  る併(しか)し徳川家(とくがはけ)から特(とく)に其弟(そのおとゝ)庄次郎清昌(せうじらうきよまさ)に西郡(にしのごほり)五千石の地(ち)を与(あた)へて其(その)後(あと)を継(つ)がしめたのであるが此(この)事(こと)       に就(つい)ては慶長見聞書(けいてうけんぶんしよ)の中(なか)に左(さ)の記事(きじ)がある         松平民部少輔(まつだひらみんぶのせうゆ)《割書:忠|清》子(こ)なし跡目(あとめ)無之候間(これなくそろあひだ)弟(おとゝ)内記(ないき)せかれも御座候(ござそろ)又(また)民部(みんぶ)弟(おとゝ)松平庄次郎(まつだひらせうじらう)と申(もうし)て御書院番(ごしよゐんばん)仕(つかまつり) 【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                  百九十九 【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                    二百 【本文】         候(そろ)て罷有(まかりあり)候 内記(ないき)せかれは松平紀伊守(まつだひらきいのかみ)女(ぢよ)の腹(はら)の外孫(ぐわいそん)に候へは紀伊守(きいのかみ)是非(ぜひ)是(これ)を名跡(なあと)にと申候(もうしそろ)然共(しかれども)庄次郎(せうじらう)         最早(もはや)御番(ごばん)をも仕(つかまつり)罷有(まかりあり)候間(そろあひだ)そしに候(そうら)へ共(ども)是(これ)にと有儀(ありぎ)にて今迄(いままで)主殿(とのも)知行(ちぎよう)仕候(つかまつりそろ)西郡(にしのこほり)にて五千石 庄(せう)         次郎(じらう)に被下(くだされ)松平玄蕃助(まつだひらげんばのすけ)と申候(もうしそろ)内記(ないき)子(こ)は玄蕃(げんば)扶助(ふじよ)仕置(つかまつりおく)のよし 《割書:家清忠清の|病因》   又(ま)た此(この)家清(いへきよ)、 忠清(たゞきよ)父子(ふし)は孰(いづ)れも卒去(そつきよ)の場合(ばあひ)俗(ぞく)に云ふ頓死(とんし)であつたものと見(み)へて駿府記(すんぷき)、 当代記(たうだいき)などに       も        [駿府記(すんぷき)]四月廿二日 今晩(こんばん)三 河国(かはのくに)吉田城主(よしだじようしゆ)松平玄蕃頭(まつだひらげんばのかみ)昨日(さくじつ)頓死(とんし)の由(よし)申来(もうしきたり)云    々(うんぬん)        [当代記(たうだいき)]卯月(うつき)廿日 亥刻(ゐのこく)三 河国(かはのくに)吉田(よしだ)玄蕃(げんば)気相(けそう)悪(あし)キ由(よし)ニテ則(すなはち)無言(むごん)子刻(ねのこく)俄(にはかに)死去(しきよ)去年(きよねん)父(ちゝ)玄蕃頭(げんばのかみ)《割書:家|清》如此(かくのごとく)頓死(とんし)         躰(てい)ナリ可謂奇特(きとくといふべし)       と記(しる)してある而(しか)して今(いま)当市(たうし)大字(おほあざ)中(なか)八の神明社(しんめいしや)と赤岩(あかいは)の法言寺(はうげんじ)とに家清(いへきよ)の名(な)の記(しる)されてある棟札(むなふだ)が保存(ほそん)      されて居(を)るが孰(いづ)れも之(これ)は慶長(けいてう)九年のもので中々(なか〳〵)趣味(しゆみ)のあるものである又(ま)た家清(いへきよ)が此(この)吉田(よしだ)在城(ざいじよう)当時(とうじ)のも 《割書:慶長九年の|路次賃銭定》  ので徳川氏(とくがはし)の奉行(ぶぎよう)が裏書(うらがき)をして居(を)る御油(ごゆ)赤坂(あかさか)並(ならび)に此(この)吉田(よしだ)間(かん)の路中駄賃(ろちうだちん)を定(さだ)めた書付(かきつけ)が今(いま)も尚(な)ほ宝飯郡(ほゐぐん) 《割書:状    | 》   御油町(ごゆまち)の林小次郎(はやしこじろう)氏(し)方(かた)に保存(ほぞん)されて居(を)るが之(これ)亦(ま)た頗(すこぶ)る面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふから参考(さんこう)の為(ため)に左(さ)に全(ぜん)        文(ぶん)を掲(かゝ)げて見(み)よう         (表)               定路次駄賃の覚          一こいより赤坂まて荷物壱駄四拾貫目ニ付びた銭十五文同吉田へも五拾文の事          一乗尻一人ハ拾八貫目ニ定候並少々のりが気荷成共はかりニかけ右の積を以無遅候様ニ早々付           送可被申事 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百七十三号附録   (明治四十年一月三十日発行) 【本文】         一 びた銭ハ永楽ニ六文立ニ取引可被成事         右の条々御奉行所ゟ被仰付候間如此書付置申者也如件              慶長七暦              奈  良  や               六月十日               市 右 衛 門 (花押)                                 樽     や                                  三  四  郎 (花押)               こ  い  町  中          (裏)                                  大久保十兵衛(印)                                  板倉聞右衛門(印)                                  加藤喜左衛門(印)                                  伊奈備前守(印)        此(この)定状(さだめじよう)は当時(たうじ)に於(お)ける駅伝(えきでん)の模様(もやう)を知(し)る事の参考(さんこう)となるのみならず鐚銭(びたせん)と永楽銭(えいらくせん)との差額(さがく)も分(わか)るの       で甚(はなは)だ味(あじわ)ふべきものがあると思(おも)ふモツトモ奈良屋(ならや)某(なにがし)樽屋(たるや)某(なにがし)とあるのは江戸(えど)の問屋(とんや)で東海道(とうかいどう)の駅伝(えきでん)を        請負(うけお)つて居(を)るものであると思(おも)ふが定状(さだめじよう)の裏面(りめん)に伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみたゞつぐ)を初(はじ)め役人(やくにん)の証印(せういん)があるのは其(その)当時(たうじ)       の行政(ぎようせい)の様(さま)が伺(うかゞ)ひ知(し)れるように思(おも)はれるので私(わたくし)は特(とく)に趣味(しゆみ)を感(かん)じた次第(しだい)である尚(な)ほ家清(いへきよ)忠清(たゞきよ)父子(ふし)の系(けい) 《割書:寛政重修諸|家譜抄録 》   図(づ)並(ならび)に履歴(りれき)に就(つい)て寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)の記事(きじ)は拠(よ)るべきものであると思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に抄録(しようろく)する 【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                    二百一   【欄外】    豊橋市史談  (松平家清吉田に封せらる)                    二百二 【本文】         清 宗 《割書:與二郎玄蕃允|備後守》            家 清 《割書:與二郎玄蕃頭|従五位下》            清 定 《割書:内記|松平石見守貴強か祖》            忠 清 《割書:萬之助 民部大輔|玄蕃頭 従五位下》           女 子 本多豊後守康紀か室           女 子 松平主殿頭忠利か室           女 子 成田左馬助泰高か室           女 子 浅野采女正長重か室           清 昌 《割書:初清成 庄次郎 玄蕃頭|従五位下》           家清(いへきよ) 母(はゝ)は松平大炊助好景(まつだひらおほゐのすけよしかげ)が女(ぢよ)永禄(えいろく)九年 竹谷(たけのや)に生(うま)る天正(てんせう)九年 東照宮(とうせうぐう)の御諱字(おんゐみな)を賜(たまは)り家清(いへきよ)とめさ         れ異父(ゐふ)の御妹(おんいもと)をめあはせたまふ《割書:時に十|六歳》十年 父(ちゝ)が譲(ゆづり)を受(うけ)て竹谷(たけのや)を領(れう)す十八年 小田原陣(をだはらぢん)に供奉(ぐぶ)し御凱(ごがい)          旋(せん)の後(のち)武蔵国(むさしのくに)児玉郡(こたまごほり)八幡山(やはたやま)に於(おい)て一万石の地(ち)を賜(たま)ふ此(この)時(とき)千貫文の地(ち)を弟(おとゝ)内記清定(ないききよさだ)に分(わか)ち与(あた)ふ十九         年九 戸(へ)一 揆(き)の時(とき)陸奥国(むつのくに)岩手沢(いわてざわ)まで従(したが)ひたてまつる慶長(けいちよう)五年 関(せき)ヶ原(はら)の役(えき)に石川長門守康通(いしかはながとのかみやすみつ)と共(とも)に尾(を)          張国(はりのくに)清洲(きよす)の城番(じようばん)をつとめ又(また)同国(どうこく)犬山(いぬやま)の城(しろ)を受取(うけと)る六年二月 八幡山(やはたやま)を転(てん)して三河国(みかはのくに)吉田城(よしだじよう)をたまひ         加恩(かおん)ありて三万石を領(れう)し其(その)収納(しうのう)のうち三千二百石を清定(きよさだ)に分(わか)ち与(あた)ふ此(この)年(とし)従(じゆ)五 位下(ゐかげ)玄蕃頭(げんばのかみ)に叙任(ぢよにん)す         八年二月 将軍(せうぐん)げはいが)の御参内(ごさんだい)に供奉(ぐぶ)す十年 清定(きよさだ)死(し)するの後(のち)其(その)采地(さいち)をかへしおさむ十五年十二月 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         二十一日 卒(そつ)す年(とし)四十五 葉雲全霜清宝院(よううんぜんさうせいほんゐん)と号(ごう)す吉田(よしだ)の全栄寺(ぜんえいじ)に葬(ほうむ)り男(だん)清昌(きよまさ)か時(とき)寺(てら)を西郡(にしのごほり)に移(うつ)して          改葬(かいそう)す室(しつ)は久松佐渡守俊勝(ひさまつさどのかみとしかつ)が女(ぢよ)東照宮(とうせうぐう)異父(ゐふ)同母(どうぼ)の御妹(おんいもと)なり天正(てんせう)十八年十月十七日 逝(せい)す年(とし)二十二 月(げつ)          窓貞心天桂院(そうていしんてんけいゐん)と号(ごう)す武蔵国(むさしのくに)八幡山(やはたやま)に葬(ほうむ)り一 宇(う)を建(た)て天桂院(てんけいゐん)と名(なづ)く後(のち)三河国(みかはのくに)吉田(よしだ)に移(うつ)して其(その)地(ち)に改(かい)          葬(そう)し慶安(けいあん)二年 清昌(きよまさ)が時(とき)に西郡(にしのこほり)の全栄寺(ぜんえいじ)を合(あは)せて龍台山(りううんざん)天桂院(てんけいゐん)と云(い)ふ即(すなはち)其(その)地(ち)に改葬(かいそう)す大猷院(だいゆうゐん)より          寺領(じれう)十石余を寄附(きふ)せらる          忠清(たゞきよ)  母(はゝ)は俊勝(としかつ)《割書:久松佐|後守》か女(ぢよ)天正(てんせう)十三年 竹谷(たけのや)に生(うま)る慶長(けいちよう)十五年 遺領(ゐれう)を継(つぐ)《割書:時に十|六歳》後(のち)台徳院殿(だいとくゐんでん)の御前(ごぜん)に         於(おい)て元服(げんぷく)し御諡字(おんゐみな)を賜(たま)ひ忠清(たゞきよ)と名(な)のり従(じゆ)五 位下(ゐか)民部大輔(みんぶたゆう)に叙任(ぢよにん)す此(この)時(とき)左文字(さもんじ)の御刀(おんかたな)を賜(たま)ふ後(のち)玄蕃(げんばの)          頭(かみ)にあらたむ十七年四月二十日 卒(そつ)す年(とし)二十八 機叟勝全忠功院(きさうせうぜんちうこうゐん)と号(ごう)す嗣(よつぎ)なきにより所領(しよれう)をおさめら         る室(しつ)は亀井武蔵守茲矩(かめいむさしのかみこれのり)か女(ぢよ)             ⦿松平忠利の移封        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)であつた松平忠清(まつだひらたゞきよ)は慶長(けいちよう)十七年四月二十日 年(とし)僅(わづ)かに廿八歳で頓死(とんし)し子(こ)       がなかつたので其(その)家(いへ)は断絶(だんぜつ)に及(およ)むだのであるが仝年(どうねん)十一月十二日 其(その)弟(おとゝ)清昌(きよまさ)が更(さら)に西郡(にしのこほり)五千石を与(あた)へ 《割書:松平主殿助|忠利》  られて家名(かめい)を継(つ)ぐ事(こと)となつたのである而(しか)して此(この)吉田(よしだ)には之(これ)と同時(どうじ)に深溝(ふかうず)の城主(じようしゆ)松平主殿助忠利(まつだひらとのものすけたゞとし)が移(い)        封(ほう)せられて来(き)たので之(これ)も之迄(これまで)一万石であつたのを三万石に加増(かぞう)せられたのであつたが此(この)忠利(たゞとし)と云(い)ふ人(ひと) 深溝の松平 は之迄(これまで)数々(しば〳〵)申述(もうしの)べた彼(か)の家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)松平家忠(まつだひらいへたゞ)の子(こ)であつて即(すなは)ち世(よ)に深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)と云ふ家(いへ)である此(この)        家(いへ)も矢張(やはり)前(まへ)に御話(おはなし)した如(ごと)く松平信光(まつだひらのぶみつ)の流(りう)で忠利(たゞとし)は其(その)五 世(せい)の孫(そん)に当(あた)るのであるが信光(のぶみつ)の孫(まご)大炊助忠定(おほゐのすけたゞさだ)       と云ふ人が初(はじ)めて宝飯郡(ほゐぐん)深溝(ふかうず)の城(しろ)を取(と)つて之(これ)に住(ぢう)したので深溝(ふかうず)松平(まつだひら)の名(な)が起(おこ)つたのであるが此(この)人(ひと)は享(けう) 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                     二百三 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                     二百四 【本文】 大炊助好景  禄(ろく)四年六月九日に卒(そつ)して其(その)嫡子(ちやくし)大炊助好景(おほゐのすけよしかげ)が其(その)後(あと)を継(つ)いだのである此(この)人(ひと)も前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べてある如(ごと)く        徳川氏(とくがはし)の為(ため)には中々(なか〳〵)戦功(せんこう)のあつた人であるが永禄(えいろく)四年四月 年(とし)四十四歳で吉良義昭(よらよしあき)との戦(たゝかひ)に幡豆郡(はづぐん)善(ぜん) 主殿助伊忠  明寺(みようじ)の堤(つゝみ)に於(おい)て打死(うちじに)し其(その)子(こ)が即(すなは)ち主殿助伊忠(とのものすけこれたゞ)であるが此(この)人(ひと)も亦(ま)た中々(なか〳〵)の勇者(ゆうしや)で永禄(えいろく)七年 此(この)吉田(よしだ)の合戦(かつせん)       には鵜殿(うどの)八郎三郎 長照(ながてる)と共(とも)に喜見寺(きけんじ)の砦(とりで)を守(まも)つた事が記(しる)されてあるが之(これ)も長篠(ながしの)の合戦(かつせん)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と共(とも)       に鳶巣(とびのす)の砦(とりで)を攻(せ)めに行(い)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのであつて孰(いづ)れも既(すで)に諸君(しよくん)の能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふ此(この) 主殿助家忠  時(とき)伊忠(これたゞ)は年(とし)三十九であつたが其(その)子(こ)が彼(か)の家忠(いへたゞ)で此(この)人(ひと)も徳川氏(とくがはし)の為(ため)には殆(ほとん)ど数(かぞ)えられぬ程(ほど)の功名(こうみよう)手柄(てがら)を 《割書:父祖三代相|続で主家の》   現(あら)はし慶長(けいちよう)五年八月朔日 伏見城(ふしみじよう)に於(おい)て鳥居元忠(とりゐもとたゞ)等(ら)と共(とも)に勇戦(ゆうせん)して打死(うちじに)した事は矢張(やはり)前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと) 《割書:為に戦死す| 》  くである此(かく)の如(ごと)く父祖(ふそ)二代(だい) 揃(そろ)ひも揃(そろ)つて同(おな)じく主家(しゆか)の為(ため)に殉(じゆん)じたと云ふ事は仮令(たとへ)当時(たうじ)戦国(せんごく)の時代(じだい)であ       つたとしても随分(ずゐぶん)珍(めづ)らしい事であると思(おも)ふ而(しか)して忠利(たゞとし)は当時(たうじ)まだ又(また)八 郎(らう)と称(せう)して居(を)つたが父(ちゝ)家忠(いへたゞ)戦死(せんし)       の時(とき)は関東(くわんとう)に従(したがつ)て下総国(しもふさのくに)小美川城(おみがはじよう)を守(まも)つて居(を)つたのであるソコでイヨ〳〵関(せき)ケ原役(はらえき)が済(す)むで慶長(けいちよう)六       年の二月 再(ふたゝ)び父祖伝来(ふそでんらい)の旧領(きうれう)たる当国(たうごく)の深溝(ふかうず)を与(あた)へられ一万石を領(れう)したのであるが其(その)九年の夏(なつ)叙任(ぢよにん)し       て主殿助(とのものすけ)と称(せう)し今度(このたび)竹谷(たけのや)松平氏(まつだひらし)の後(あと)を享(う)けて終(つひ)に此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)と相成(あひな)つた次第(しだい)である 鐘銘事件  サテかくの如(ごと)き訳(わけ)であつたが其(その)十九年に至(いた)つて駿府(すんぷ)と大坂(おほさか)との間(あひだ)に彼(か)の鐘銘事件(せうめいじけん)が起(おこ)つたのである之(これ)       は御承知(ごせうち)の如(ごと)く慶長(けいちよう)元年七月の大地震(おほぢしん)に破摧(はさい)した京都(けうと)の大仏殿(だいぶつでん)に対(たい)し家康(いへやす)から秀頼(ひでより)母子(ぼし)に向(むか)つて其(その)再(さい)        建(こん)を勧(すゝ)め且(か)つそれは豊太閤(たいこうかく)の宿願(しゆくぐわん)であるから其(その)遺志(ゐし)を継(つ)いで冥福(めいふく)を資(たす)くるようにと申送(もうしおく)つたので秀(ひで)        頼(より)母子(ぼし)は大(おほい)に喜(よろこ)むで慶長(けいちよう)七年十一月に其(その)工(こう)を起(おこ)したが途中(とちう)に故障(こせう)があつて一 時(じ)中止(ちうし)したのである然(しか)る       に再(ふたゝ)び工(こう)を起(おこ)して十七年の春(はる)に至(いた)りヨウ〳〵落成(らくせい)したのであるが十九年三月 更(さら)に其(その)鐘(かね)を鋳(い)る事となつ       て程(ほど)なく之(これ)も出来上(できあが)つたのでイヨ〳〵其(その)落成式(らくせいしき)を挙(あ)げようと云ふ処で其(その)鐘銘(せうめい)の中(なか)に国家安康(こくかあんこう)と云ふ文(もん) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百七十九号附録   (明治四十五年二月六日発行) 【本文】        字(じ)があるのは之(これ)は家康(いへやす)と云ふ二 字(じ)を態々(わざ〳〵)中断(ちうだん)したものであるから不祥(ふせう)であるそれのみならず文章(ぶんせう)の中(なか)       にも呪詛(じゆそ)と見(み)るべき点(てん)があると云ふので突然(とつぜん)家康(いへやす)から異議(ゐぎ)の申立(もうしたて)が起(おこ)つたので之(これ)が中々(なか〳〵)の大事件(だいじけん)とな       つて其(その)極(きよく)は遂(つひ)に大坂(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)と云ふ大戦争(たいせんそう)を惹起(ひきおこ)すに至(いた)つたのである元来(がんらい)関(せき)ヶ原役(はらえき)以来(いらい)と云ふものは前(まへ)       にも申述(もうしの)べた如(ごと)く関東(くわんとう)と大坂(おほさか)とは特(とく)に其(その)間(あひだ)に隔壁(かくへき)がある様(やう)で表面(ひようめん)こそ互(たがひ)に姻戚(ゐんせき)となつて親密(しんみつ)のようで       はあるが決(けつ)して快(こゝろよ)い訳(わけ)のものではない又(ま)た関東(くわんとう)から云ふと豊臣氏(とよとみし)は誠(まこと)に目(め)の上(うへ)の瘤(こぶ)で之(これ)があつては        到底(たうてい)枕(まくら)を高(たか)ふする訳(わけ)に行(ゆ)かぬと云ふ処から何(なん)とか折(をり)があつたならば之(これ)を除(のぞ)きたいと云ふ考(かんがへ)は断(た)へな       かつたに相違(さうゐ)ない其(その)上(うへ)家康(いへやす)も其(その)齢(よはひ)が次第(しだい)に高(たか)まつて来(く)るに従(したがつ)て自然(しぜん)に事を急(いそ)いだ様子(やうす)が見(み)へるので       あるが其処(そこ)には又(ま)た本多正信(ほんだまさのぶ)などを初(はじ)め中々(なか〳〵)の策士(さくし)があつたので色々(いろ〳〵)と苦肉(くにく)の策(さく)を割(くわく)したのであるが        之(これ)に引(ひ)き替(か)へ大坂方(おほさかがた)にあつては其(その)大将(たいせう)とも云ふべき淀君(よどぎみ)は兎(と)に角(かく)婦人(ふじん)であるからドウモ思慮(しりよ)が浅(あさ)い処 大坂冬の役 があるのみならず其(その)臣下(しんか)のものにも調和(ちようわ)を欠(か)き遂(つひ)に片桐且元(かたぎりかつもと)などと云ふ主家(しゆか)思(おも)ひのものをも斥(しりぞ)けてか       ゝる些細(ささい)な事が端緒(たんちよ)となつて戦端(せんたん)を開(ひら)くに至(いた)つたのは誠(まこと)に豊臣氏(とよとみし)の為(ため)に気(き)の毒(どく)な至(いたり)であると思(おも)ふ而(しか)し       て此(この)大坂役(おほさかえき)の事に就(つい)ては詳(くは)しく御話(おはなし)すれば随分(ずいぶん)長時間(ちようじかん)を要(よう)する事であるから此処(こゝ)には其(その)必要(ひつよう)もなかろ  《割書:家康大阪出|征の途次吉》  うと思(おも)ふので出来(でき)る限(かぎ)り略(りやく)する考(かんがへ)であるが結局(けつきよく)家康(いへやす)が遂(つひ)に大阪(おほさか)に向(むか)ふ事となつて駿府(すんぷ)を発(はつ)したのは 《割書:田に次す | 》   其(その)年(とし)十月の十一日で其(その)十五日には此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのである此(この)時(とき)此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)忠利(たゞとし)は此(この)役(えき)に従軍(じうぐん)したの       であるが当時(たうじ)東海道(とうかいどう)の城々(しろ〳〵)には城兵(じようへい)の外(ほか)に守備(しゆび)として衛兵(えいへい)を添(そ)へられたものである然(しか)るに此(この)吉田城(よしだじよう)に       は其(その)必要(ひつよう)がないと認(みと)められて其(その)こ事(こと)がなかつた事と見(み)へる即(すなは)ち寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)の忠利譜(たゞとしふ)の中(なか)に         此(この)役(えき)に東海道(とうかいどう)所々(しよ〳〵)の城(しろ)に守衛(しゆゑい)を副(そ)へらる戸田土佐守尊次(とだとさのかみたかつぐ)に岡崎城(をかざきじよう)を守(まも)らしめ給(たま)ひ浜松(はままつ)吉田(よしだ)の両城(れうじよう)に        も加勢(かせい)を置(お)かれむとて家臣(かしん)松平勘解由左衛門康定(まつだひらかげゆうさへもんやすさだ)を岡崎(をかざき)に召(め)して忠利(たゞとし)誰(たれ)を留(とゞ)めて守(まも)らするぞと問(とは)せ 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                     二百五 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百六 【本文】         給(たま)ひければ康定(やすさだ)及(およ)び松平与(まつだひらよ)五 右衛門(うえもん)某(それがし)、 大原修理久信(おほはらしゆりひさのぶ)、 酒井善(さかゐぜん)五 左衛門(ざゑもん)某(それがし)、 岡田孫左衛門(をかだまござゑもん)某(それがし)         板倉(いたくら)七 兵衛(ひようゑ)某(それがし)等(ら)なりと答(こた)へ奉(たてまつ)りしに彼等(かれら)は皆(みな)かねてしろしめされしもの共(ども)なりとて別(べつ)に兵士(へいし)を副(そ)        へ給(たま)はず       と云ふ事が書(か)いてあるのである又(ま)た此(この)日(ひ)堺(さかひ)の市人(しじん)柏尾宗具(かしをそうぐ)と云ふものが此(この)吉田(よしだ)に来(きたつ)て此処(こゝ)で家康(いへやす)に謁(えつ)       して大阪(おほさか)及(およ)び堺(さかひ)の情況(ぜうけう)を告(つ)げた事が駿府記(すんぷき)の中(なか)に記(しる)してあるが家忠日記(いへたゞにつき)増補(ぞうほ)などに依(よ)ると此(この)日(ひ)矢張(やはり)蜂(はち)        須賀家政(すかいへまさ)が阿波(あは)から海路(かいろ)を此地(このち)に着岸(ちやくがん)して家康(いへやす)に謁見(えつけん)を請(こ)つたが謁見(えつけん)には及(およ)ばぬから直(す)ぐ江戸(えど)に行(ゆ)け       との事で直(たゞ)ちに江戸(えど)に出立(しゆつたつ)したと云ふ事が記(しる)してあるのである        而(しか)して家康(いへやす)は其(その)翌(よく)十六日に岡崎(をかざき)に着(ちやく)し漸次(ぜんじ)西上(せいじよう)して廿三日には京都(けうと)の二 条城(じようじよう)に入(い)つたのであるが将軍(せうぐん) 《割書:軍隊供給に|関する制法》   秀忠(ひでたゞ)も亦(ま)たイヨ〳〵西上(せいじよう)することとなつて此(この)十月の十八日 幕府(ばくふ)から沿道(えんどう)諸駅(しよえき)に向(むか)つて軍隊供給(ぐんたいけうきう)に関(くわん)する        制法(せいはふ)を出(いだ)したのである其(その)中(なか)で御油町(ごゆまち)に向(むか)つて発(はつ)せられた当時(たうじ)の文書(ぶんしよ)が幸(さいはひ)に前(まへ)にも申述(もうしの)べた林小次郎(はやしこじらう)        氏(し)の処に遺(のこ)つて居(を)るのであるモツトモ之(これ)と略(ほ)ぼ同文(どうぶん)のものが杉浦文書(すぎうらぶんしよ)《割書:遠|江》として大日本史料(だいにつぽんしれう)の同日(どうじつ)の条(くだり)       に載(の)せられてあるのみならず此(この)御油町(ごゆまち)に当(あたつ)てたるものも御庫本古文書纂(みくりほんこぶんしよさん)の中(なか)に載(の)せられてあると記(しる)し       てあるが実(じつ)は其(その)原本(げんぽん)が前(まへ)に申述(もうしの)ぶる如(ごと)く林氏(はやしし)に現存(げんぞん)して居(を)ることであるから今(いま)其(その)全文(ぜんぶん)を左(さ)に掲(かゝ)ぐることと       する 林文書      今度(こんど)御陣(おんぢん)ニ付(つい)而 米大豆(こめだいづ)ぬかわら薪(たきゞ)雑事(ざつじ)以下(いか)在々(ざい〳〵)へ申触(もうしふれ)道通(みちとほり)へ持出(もちだし)売買(ばい〳〵)いたし諸人(しよじん)ことかけ候はぬ         やうに可申付事(もうしつけべくこと)        一 御陣衆(おんぢんしゆう)宿賃(やどちん)の儀(ぎ)壱人ニ付而(ついて)鐚(びた)二 文(もん)馬(うま)壱 疋(ぴき)ニ鐚(びた)六 文(もん)但(たゞし)陣衆(ぢんしゆう)自分(じぶん)の薪(たきゞ)を焼候(やきそろ)ハヽ宿賃(やどちん)者(は)有間(ありま)しく事(こと)        一 代物(だいもつ)よりひきの儀(ぎ)此(この)以前(いぜん)如法度(はふとのごとく)可申付候事(もうしつけべくそろこと)外(ほか)よりまし取沙汰(とりさた)〇 可有其心得事(そのこゝろえあるべきこと) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        一 在々(ざい〳〵)へ申触(もうしふれ)道通(みちとほ)りへ馬(うま)を出(いだ)し駄賃馬(だちんうま)御陣衆(おんぢんしゆう)事欠候(ことかきそうろ)はぬ様(やう)に可申付候(もうしつくべくそろ)陣衆(ぢんしゆう)馬無之候(うまこれなくそうろ)とて追返(おひかへ)し          候共(そろとも)前々(ぜん〳〵)ゟ御(おん)さための所(ところ)にて次其(つぎそれ)ゟとをし申(もうし)ましく候たとへ馬草臥候共(うまくたぶれそろとも)御定(おんさだめ)の所(ところ)迄(まで)は荷物(にもつ)つかへ         候はぬ様(やう)に駄賃付可申候(だちんつけもうすべくそろ)駄賃銭(だちんせん)前々(ぜん〳〵)御定(おんさだめ)のことくたるべく候(そろ)以上(いじよう)          十月十八日                                 土大炊(印)                                 安対馬(印)                                 酒備後守(印)                                 酒雅樂頭(印)          ご   い           庄 屋 年 寄 中        右(みぎ)の内(うち)で土大炊(どおゝゐ)は土井大炊頭利勝(どゐおゝゐのかみとしかつ)、 安対馬(あんたじま)は安藤対馬守重信(あんどうたじまかみしげのぶ)、 酒備後守(さけびんごのかみ)は酒井忠利(さかゐたゞとし)、 酒雅樂頭(さかゐうたのかみ)は酒井(さかゐ)        忠世(たゞよ)で孰(いづ)れも当時(たうじ)幕政(ばくせい)を統括(とうかつ)して居(を)つた人々であるが此(この)外(ほか)にも尚(な)ほ軍令(ぐんれい)を頒(わか)ち制法(せいはふ)を榜示(はうじ)したのであ 秀忠の出発 る其(その)間(あひだ)に関東(くわんとう)の後事(こうじ)をも処分(しよぶん)し終(おは)つたので秀忠(ひでたゞ)は二十三日に兵(へい)五万余人を率(ひき)ゐて江戸(えど)を発(はつ)し此(この)吉田(よしだ)に       は廿九日に着(ちやく)したのであるが之(これ)も亦(ま)た行(こう)を急(いそ)いで十月の十日に伏見城(ふしみじよう)に入(い)つたのである当時(たうじ)大阪方(おほさかがた)に       あつては大野治長(おほのはるなが)などが先(ま)づ参謀(さんばう)の位置(ゐち)で頻(しき)りに檄(げき)を四 方(はう)に伝(つた)へて太閤恩顧(たいかうおんこ)の人々を招(まね)いたのである       が只(たゞ)真田幸村(さなだゆきむら)、 後藤基次(ごとうもとつぐ)位(ぐらゐ)の外(ほか)は孰(いづ)れも浪士(らうし)ばかりで之(これ)と云ふ大名(だいみよう)には応(おう)ずるものはなかつたのであ       る併(しか)し之(これ)等(ら)の人々が死(し)を期(き)して天下(てんか)の名城(めいじよう)に楯籠(たてこも)つた事であるから如何(いか)に家康(いへやす)、 秀忠(ひでたゞ)が百三十万の寄(よせ)        手(て)で攻(せ)めても容易(ようい)には抜(ぬ)く訳(わけ)にいかなかつた事と思(おも)はれる蓋(けだ)し家康(いへやす)は十一月の十五日に二 条城(じようじよう)を発(はつ)し 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百七 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百八 【本文】       て奈良(なら)に出(い)でそれより住吉(すみよし)に陣(ぢん)したのであるが秀忠(ひでたゞ)は枚方(ひらかた)枚岡(ひらをか)を経(へ)て平野(ひらの)に至(いた)り十八日に家康(いへやす)と天王(てんわう)        寺(じ)に於(おい)て相会(あひくわい)し軍議(ぐんぎ)をなしたのであるトコロがそこは家康(いへやす)の家康(いへやす)たる所以(ゆゑん)で却(かへつ)て此方(こちら)から大阪方(おほさかがた)に向(むか)      て和議(わぎ)を起(おこ)すに至(いた)つたのであるがそれが此(この)廿日であつたと云ふ事である然(しか)るに一 方(ぱう)には又(ま)た頻(しき)りに対(たい) 和議成る   城策(じようさく)を講(こう)じて守衛(しゆゑい)を厳(げん)にせしめたのであるがヨウ〳〵十二月廿ニ日に至(いた)つて媾和成立(こうわせいりつ)と相成(あひな)つたので 忠利の戦功  一先(ひとま)づ落着(らくちやく)を告(つ)げたのである之(これ)が即(すなは)ち世(よ)に称(せう)する大阪(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)の大体(だいたい)であるが此(この)役(えき)に吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)松平(まつだひら)        忠利(たゞとし)が従軍(じうぐん)した事は既(すで)に前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで十一月十一日に家康(いへやす)の命(めい)を受(う)けて伊奈忠政(いなたゞまさ)《割書:忠次|の子》と共(とも)に        鳥飼(とりがひ)附近(ふきん)対岸(たいがん)の堤(つゝみ)を決(けつ)して淀川(よどがは)の水(みづ)を削減(さくげん)することを計劃(けいくわく)し又(ま)た対城中(たいじようちう)は尼(あま)が崎城(さきじよう)を守(まも)つた事が種々(しゆ〳〵)の        記録(きろく)に記(しる)されて居(を)る兎(と)に角(かく)以上(いじよう)述(の)べたような訳(わけ)で大阪(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)は一 時(じ)落着(らくちやく)したが其(その)媾和条件(こうわじようけん)の中(なか)に城(じよう)        廓(くわく)の一 部(ぶ)を破却(はきやく)すると云ふ箇条(かじよう)があつて之(これ)は外堀(そとぼり)だけを埋(う)める協約(けうやく)であつたのを徳川方(とくがはがた)ではドシ〳〵       二の丸(まる)の堀(ほり)までも埋(う)めて行(ゆ)くので大阪方(おほさかがた)から其(その)違約(ゐやく)を責(せ)めたのであるトコロが之(これ)は本多正純(ほんだまさずみ)の専断(せんだん)で       あると云ふので不得要領(ふとくようれう)の間(あひだ)に矢張(やはり)工事(こうじ)はズン〳〵進行(しんこう)して遂(つひ)に之(これ)を埋(う)め終(おは)つたと云ふ次第(しだい)であるが 大阪の再挙 それのみならず矢張(やはり)媾和(こうわ)の一 条件(じようけん)として大阪城中(おほさかじようちう)の浪士(らうし)扶助(ふじよ)の事があつたが其後(そのご)此(この)事(こと)を大阪(おほさか)から関東(くわんとう)       へ交渉(こうせう)した処(ところ)家康(いへやす)は却(かへつ)て大立腹(おほりつぷく)で其(その)使者(ししや)を退(しりぞ)けたので之(これ)では詮方(せんかた)がないと云ふ処から大阪(おほさか)に於(おい)ては遂(つひ) 夏の役   に再挙(さいきよ)を図(はか)るに至(いた)つたのであるが之(これ)が即(すなは)ち大阪(おほさか)夏(なつ)の役(えき)で慶長(けいちよう)は十九年までゞ元和(げんわ)と年号(てんごう)が改(あらた)まつたの       であるから此(この)役(えき)は元和(げんわ)元年(がんねん)の事になるので初(はじ)め家康(いへやす)は其(その)四月四日 其(その)子(こ)義直(よしなを)の婚儀(こんぎ)をなす為(ため)と称(せう)して駿(すん)        府(ぷ)を発(はつ)し八日に此(この)吉田(よしだ)に泊(はく)して十日 名古屋(なごや)に着(ちやく)したのであるが十五日 更(さら)に名古屋(なごや)を発(はつ)し十八日に二 条(じよう)        城(じよう)に入(い)つたのである又(ま)た秀忠(ひでたゞ)は其(その)月(つき)の十日に江戸(えど)を発(はつ)して十八日に吉田(よしだ)を通過(つうくわ)し廿一日 伏見城(ふしみじよう)に入(い)り       それより家康(いへやす)と共(とも)に大阪(おほさか)に押(お)し寄(よ)せたが今度(このたび)は諸君(しよぐん)が既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く頗(すこぶ)る激烈(げきれつ)なる戦闘(せんたう)もあつたの 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百八十四号附録   (明治四十五年二月十三日発行) 【本文】 豊臣氏亡ぶ であるが結局(けつきよく)大阪方(おほさかがた)の敗(はい)となつて此(この)年(とし)の五月八日 秀頼(ひでより)母子(ぼし)を初(はじ)め火(ひ)を大阪城(おほさかじよう)に放(はな)つて自殺(じさつ)し茲(こゝ)に全(まつた)く 庄九郎忠一  豊臣氏(とよとみし)も滅亡(めつぼう)するに至(いた)つたのである而(しか)して此(この)役(えき)にも矢張(やはり)松平忠利(まつだひらたゞとし)は従軍(じうぐん)し徳川頼宣(とくがはよりのぶ)の軍(ぐん)に属(ぞく)したので       あるが此(この)時(とき)忠利(たゞとし)の弟(おとゝ)に庄(せう)九 郎忠一(らうたゞかづ)と云ふのがあつて此(この)人(ひと)は遂(つひ)に戦死(せんし)を遂(と)げたのである其(その)状態(ぜうたい)が実(じつ)に勇(いさ)       ましく思(おも)はるゝのであるから藩翰譜(はんかんふ)の記事(きじ)の内(うち)から其(その)条(くだり)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することとする         忠利(たゞとし)が弟(おとゝ)を庄(せう)九 郎忠一(らうたゞかづ)と云ふ将軍家(せうぐんけ)に仕(つか)ふ大阪(おほさか)兵乱(へいらん)再(ふたゝ)び起(おこ)りし時(とき)同僚共(どうれうども)に申(もうし)けるは此度(このたび)の軍事(ぐんじ)終(おは)ら        ば天下(てんか)再(ふたゝ)び兵革(へいかく)の事(こと)あるべからず忠一(たゞかづ)将軍家(せうぐんけ)の先陣(せんぢん)に従(したが)ひまゐらせしこそ幸(さいはひ)なれ必(かなら)ず先懸(さきが)けして         父祖(ふそ)の忠死(ちうし)に次(つ)ぐものぞと云ひけるが五月七日の戦(たゝかひ)に申(もう)しゝに違(たが)はず最先(さいさき)かけ生年(せいねん)廿六歳にて討死(うちじに)        をぞ遂(と)げにける        此(この)父祖(ふそ)の忠死(ちうし)と云ふのは前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く好景(よしかげ)、 伊忠(これたゞ)、 家忠(いへたゞ)と此(この)家(いへ)が三 代(だい)打継(うちつ)いて此家(しゆか)の為(ため)に打死(うちじに)し       た事を云つたもので其(その)家忠(いへたゞ)の子(こ)である処の忠一(たゞかづ)は実(じつ)に其処(そこ)に感奮興起(かんふんこうき)したものと見(み)へる私(わたくし)は元(もと)より死(し)       を軽(かろ)むずると云ふ事をのみ奨励(せうれい)せむとするものではないが兎(と)に角(かく)此(この)家(いへ)の歴史(れきし)が能(よ)く此(この)子(こ)を生(う)み出(いだ)した       と云ふ事と此(この)忠一(たゞかづ)の意気(いき)とは誠(まこと)に教訓(けふくん)に資(し)すべきであるとして之(これ)を表彰(ひようせう)したく思(おも)ふのである       サテ右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で豊臣氏(とよとみし)は遂(つひ)に亡(ほろ)びて兵革(へいかく)は漸(やうや)く釐(おさ)まるに至(いた)つたのであるが其(その)翌(よく)二年三月廿七日 家(いへ) 家康薨去   康(やす)は太政大臣(だじようだいじん)に任(にん)じたのである然(しか)るに其(その)翌月(よくげつ)十七日 病(やまひ)を以(もつ)て駿府(すんぷ)に薨去(こうきよ)し年(とし)は七十五歳であつたが其(その) 秀忠辞職  九年七月廿七日に至(いた)つて秀忠(ひでたゞ)も亦(ま)た征夷大将軍(せいいたいせうぐん)の職(しよく)を辞(じ)して子(こ)家光(いへみつ)が其(その)後(あと)を襲(つ)ぎ将軍(せうぐん)に任(にん)ぜられたの 《割書:家光征夷大|将軍となる》  であるモツトモ此(この)時(とき)秀忠(ひでたゞ)は上京(ぜうけう)して参内(さんだい)したのであるが江戸(えど)を出発(しゆぱつ)したのは五月十二日で六月朔日に 秀忠の上洛  此(この)吉田(よしだ)に宿(しゆく)した此(この)時(とき)にも随行者(ずいこうしや)並(ならび)に在京(ざいけう)のものなどに向(むかつ)て幕府(ばくふ)から種々(しゆ〳〵)の令条(れいじよう)は発(はつ)したものであるが 林文書    矢張(やはり)前(まへ)に申述(もうしの)べた林氏(はやしし)の処に此(この)時(とき)御油(ごゆ)赤阪(あかさか)両町(れうてう)の庄屋(せうや)に宛(あ)てた文書(ぶんしよ)が今(いま)も保存(ほぞん)せられて居(を)る之(これ)亦(ま)た甚(はなは) 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百九 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百十 【本文】       だ趣味(しゆみ)のあるものと思(おも)ふから左(さ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)げることとする         御油(ごゆ)赤阪(あかさか)両町(れうてう)の駄賃馬(だちんうま)申合(もうしあはせ)一ツに被致(いたされ)御登(おんとほり)の時(とき)は赤阪(あかさか)の馬(うま)御油(ごゆ)まて参(まゐり)藤川(ふぢかは)迄(まで)付可申候(つけもうすべくそろ)御下向(ごけこう)の時(とき)        は御油(ごゆ)ノ馬(うま)赤阪(あかさか)まて参(まゐり)吉田(よしだ)迄(まで)付可申候(つけもうすべくそろ)往還(わうくわん)の衆(しう)駄賃馬(だちんうま)借候(かりそうら)ハぬ様(やう)ニと従御公儀(ごこうぎより)被仰付候間(あふせつけられそろあひだ)如此(かくのごとくに)         候(そろ)以上(いじよう)          元 和 九 亥             五月廿九日              御  油  町              赤  阪  町                   庄     屋        右(みぎ)の内(うち)で庄屋(せうや)と云ふ事のあるのは頗(すこぶ)る注意(ちうい)すべきで庄屋(せうや)と云ふ事は此(この)時代(じだい)より余(あま)り古(ふる)くは見当(みあた)らぬ事       であると思(おも)ふ 寛永と改元  而(しか)して此(この)元和(げんな)と云ふ年号(ねんごう)は九年迄で寛永(かんえい)と改(あらた)まつたのであるが之(これ)からが即(すなは)ち三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)の代(だい)と相成(あひな) 利忠卒す  つた訳(わけ)で吉田城主(よしだじようしゆ)の忠利(たゞとし)は其(その)寛永(かんえい)九年の五月五日に至(いた)つて病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)したのである其後(そののち)は仝年の八月 《割書:子忠房襲封|刈屋に移さ|る》  十一日に子(こ)の忠房(たゞふさ)が相続(さうぞく)したが同時(どうじ)に刈屋(かりや)へ移封(いほう)せらるゝ事となつて此(この)深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)も亦(ま)た僅(わづか)に在城(ざいじよう)廿       一年 許(ばかり)で吉田(よしだ)を去(さ)るに至(いた)つたのであるソコで此(この)忠利(たゞとし)の略歴(りやくれき)は徳川実記(とくがはじつき)寛永(かんえい)九年八月十一日の条(くだり)に記(しる)し       てあるが之(これ)は甚(はなは)だ簡明(かんめい)であると思(おも)ふから亦(ま)た此処(こゝ)に抄出(しようしゆつ)する事とする 《割書:徳川実記の|記事》   十一日  三河国(みかはのくに)吉田城主(よしだじようしゆ)松平主殿頭忠利(まつだひらとのものかみたゞとし)卒(そつ)しけば其(その)子(こ)五郎八 忠房(たゞふさ)遺領(ゐれう)三万石をつぎて吉田(よしだ)を転(てん)じ         同州(どうしう)刈屋城主(かりやじようしゆ)とせらる此(この)忠利(たゞとし)は庚子(こうし)の乱(らん)に伏見城(ふしみじよう)にて討死(うちじに)せし主殿頭家忠(とのものかみいへたゞ)が子(こ)なり慶長(けいちよう)元年(がんねん)台徳院(たいとくゐん) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         殿(でん)御前(おんまへ)にて元服(げんぷく)し御(おん)一 字(じ)賜(たま)はり忠俊(たゞとし)と名乗(なの)り後(のち)に忠利(たゞとし)に改(あらた)む父(ちゝ)が討死(うちじに)せしときは未(いま)だ又(また)八 郎(らう)とて関(くわん)         東(とう)の御陣(ごぢん)に随(したが)ひて小美川(こみがは)の城(しろ)を守(まも)り明(あけ)る慶長(けいちよう)六年二月 深溝(ふかうず)を賜(たまは)りて再(ふたゝ)び累代相伝(るいだいさうでん)の地(ち)に移(うつ)り一万石        を領(れう)す九年六月廿二日 叙爵(ぢよしやく)し主殿頭(とのものかみ)と称(せう)し十七年十一月十二日 今(いま)の城(しろ)賜(たまは)り加恩(かおん)ありて三万石になさ        る十九年 大坂(おほさか)の戦(たゝかひ)に従(したが)ひ奉(たてまつ)り尼崎城(あまがさきじよう)を守(まも)り元和(げんな)元年(がんねん)大坂(おほさか)の役(えき)には頼宣卿(よりのぶきよう)に付(つき)そひまいらせ出陣(しゆつぢん)        し七年 女御入内(ぢよごにふない)の供奉(ぐぶ)を勤(つと)めその年(とし)御上洛(ごじようらく)に従(したが)ひ奉(たてまつ)り還御(くわんぎよ)の時(とき)閏(うるふ)八月十四日 居城(きよじよう)吉田(よしだ)に至(いた)らせ給(たま)        ひ忠利(たゞとし)国次(くにつぐ)の脇差(わきざし)を献(けん)じ此(この)年(とし)五十一歳にて卒(そつ)せしなり        右(みぎ)の内(うち)でその年(とし)御上洛(ごじようらく)に従(したが)ひ奉(たてまつ)りとあるが之(これ)はこの年(とし)即(すなは)ち元和(げんな)九年を指(さ)したものでなくてはならぬ        将軍(せうぐん)秀忠(ひでたゞ)の女(ぢよ)が女御(ぢよご)として入内(にふない)したのは元和(げんな)七年で当時(とうじ)忠利(たゞとし)は其(その)供奉(ぐぶ)として随行(ずゐこう)したものに相違(さうゐ)ない 《割書:秀忠東帰吉|田に過る》  のであるが秀忠(ひでたゞ)の上洛(じようらく)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く元和(げんな)九年の事で之(これ)にも矢張(やはり)忠利(たゞとし)は随行(ずゐこう)したのである而(しか)し       て秀忠(ひでたゞ)東帰(とうき)の時(とき)は閏(うるふ)八月十四日に此(この)吉田城(よしだじよう)に過(よぎ)つて其(その)節(せつ)忠利(たゞとし)からは国次(くにつぐ)の刀(かたな)を献(けん)じたものと見(み)へる元       和九年の八月には閏(うるふ)があつたが元和(げんな)七年の八月には閏(うるふ)はなかつたのであるからドウしても此(この)事(こと)は元和       九年の事で徳川実記(とくがはじつき)に「その年」としてあるのは何(なん)だか前文(ぜんぶん)の続(つゞ)きから見(み)て元和(げんな)七年の事(こと)のように見(み)へ       るがそれは事実(じゞつ)の上(うへ)からそうではない事が分(わか)ると信(しん)ずるのである 丙辰紀行   次(つぎ)に此(この)忠利(たゞとし)が吉田城主(よしだじようしゆ)たりし時代(じだい)に於(お)ける此(この)地(ち)の状況(ぜうけう)等(とう)に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)したく思(おも)ふのであるが先(ま)づ        元和(げんな)二年 林道春(はやしどうしゆん)の丙辰紀行(へいしんきこう)の中(なか)に         吉田(よしだ) 江戸(えど)より京(けう)までの間(あひだ)に大橋(おほはし)四あり武蔵(むさし)の六 郷(ごう)、 三河(みかは)の吉田(よしだ)、 矢矧(やはぎ)、 近江(あふみ)の勢多(せた)なり独(ひと)り矢矧(やはぎ)        のみ土橋(どばし)なれば洪水(こうすゐ)によりて絶(たへ)る事もあり此(この)比(ころ)新(あらた)に板橋(いたばし)となりけるにや 吉田の大橋 と云ふ事が書(か)いてあるモツトモ其(その)頃(ころ)東海道(とうかいどう)の大河(たいが)は孰(いづ)れも渡(わた)しで橋(はし)と云ふものはなかつたのであるが 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百十一 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百十二 【本文】        橋(はし)の有(あ)つたのは只(たゞ)武蔵(むさし)の六 郷(ごう)と三河(みかは)の吉田(よしだ)、 矢矧(やはぎ)と近江(あふみ)の勢多(せた)の橋(はし)との四つ丈(だけ)であつた而(しか)して此(この)四 大(だい)        橋(けう)は徳川時代(とくがはじだい)となつては孰(いづ)れも公儀(こうぎ)の普請(ふしん)で所在地(しよざいち)の領主(れうしゆ)丈(だけ)の負担(ふたん)ではなかつたのであるから中々(なか〳〵)「       ヤカマシイ」ものであつたのである即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)の大橋(おほはし)と云ふものは当時(とうじ)天下(てんか)に能(よ)く知(し)られたもので譬(たと)       へば名古屋(なごや)が城(しろ)で代表(だいひよう)して居(を)る如(ごと)く此(この)吉田(よしだ)は大橋(おほはし)で代表(だいひよう)したものである従(したがつ)て此(この)橋(はし)の歴史(れきし)に就(つい)ての研(けん)        究(きう)並(ならび)に将来(せうらい)に於(お)ける保存(ほぞん)等(とう)に関(くわん)しては頗(すこぶ)る考慮(こうりよ)を要(えう)すべき事で郷土史(けうどし)に取(と)つては中々(なか〳〵)関係(くわんけい)の深(ふか)いもの       であると思(おも)ふ併(しか)し此(この)橋(はし)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べてあるので之(こ)れまでの来歴(らいれき)は大概(たいがい)御承知(ごせうち)になつて居(を)る       事であると思(おも)ふが徳川時代(とくがはじだい)に入(い)つてから橋普請(はしふしん)のあつた其(その)都度(つど)々々の事は幸(さいはひ)に大字(おほあざ)船町(ふなまち)に其(その)記録(きろく)が残(のこ) 《割書:あつまの道|の記》  つて居(を)るから漸次(ぜんじ)其(その)時々(とき〳〵)に方(あた)つて詳(くは)しく申述(もうしの)ぶる事に致(いた)したい考(かんがへ)である又(ま)た元和(げんな)四年 烏丸光広卿(からすまるみつひろけう)が        記(しる)されたもので「あつまの道(みち)の記(き)」と云ふのがあるが其(その)中(なか)にも         大岩(おほいは)といふ所(ところ)を通(とほ)る山上(さんぜう)に大(たい)なるいはほありよりて名(な)つくも見(み)えたり海道(かんどう)の坤(ひつじさる)にあたりて吉田(よしだ)の         大橋(おほはし)といふ九十八 間(けん)あり城(しろ)は外(そと)へ見(み)えず大岩(おほいは)に行(ゆく)ほと山(やま)の頭(あたま)にえほうしを着(きせ)たるやうなるあり其(その)山(やま)        の東(ひがし)に比叡山(ひえいざん)に其(その)まゝ似(に)たる山(やま)あり南(みなみ)は志賀(しが)北(きた)は比良(ひら)のすこしたひなるものなり 城の建築  と云(い)ふ事(こと)が記(しる)してあるが之(これ)で見(み)ると此(この)当時(とうじ)は城中(じようちう)の建物(たてもの)は外(ほか)から見(み)へなかつたものと思(おも)はれるモツト       モ当時(とうじ)の橋(はし)の位置(ゐち)は兼(かね)て申述(もうしの)べて置(お)いた通(とほ)り今日(こんにち)の位置(ゐち)からは二三丁も下流(かりう)の処であつたのではある       が維新前(ゐしんぜん)などにハ橋(はし)の上(うへ)から吉田城(よしだじよう)の入道櫓(にふどうやぐら)が見(み)へた筈(はづ)である又(ま)た今日(こんにち)でも旧城(きうじよう)の本丸(ほんまる)に当(あた)る処の陸(りく)        軍倉庫(ぐんさうこ)ハ橋(はし)から明(あきらか)に望(のぞ)み得(う)るのであるから結局(けつきよく)此(この)当時(とうじ)と云ふものは此(この)あつまの道(みち)の記(き)によると後世(こうせ)       のものとは余程(よほど)城(しろ)の建築(けんちく)が違(ちが)つて居(を)つたものである事が分(わか)ると思(おも)ふ而(しか)して尚(なほ)一つ此処(こゝ)に御紹介(ごせうかい)申(もう)して 《割書:小堀遠州と|忠利の親交》   置(を)きたいのは彼(か)の小堀遠江守宗甫(こぼりとほとふみのかみそうほ)の紀行(きこう)で之(これ)は元和(げんな)七年九月の記(き)であるが其(その)中(なか)に左(さ)の如(ごと)き事(こと)がある 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百九十号附録  (明治四十五年二月二十日発行) 【本文】         風(かぜ)はけしければこしに乗(のつ)て一 睡眠(すゐみん)夢(ゆめ)さめて問(と)はばや吉田(よしだ)の里(さと)にも着(つき)ぬと云ふ夢中(むちう)にはる〳〵の道(みち)を        も来(き)ぬる事よと思(おも)ひて             夢(ゆめ)とてもよしや吉田(よしだ)の里(さと)ならん                 さめてうつゝもうきたひの道(みち)         此(この)宿(しゆく)に知(し)る人ありてしは〳〵語(かた)る此(この)所(ところ)の城主(じようしゆ)ことに我親(われした)しき人なれば立寄(たちより)て対面(たいめん)せむ事をいひやる         城守(ぜうしゆ)例(れい)ならぬによりて京(けう)へといふそこを過(すぎ)て橋(はし)を渡(わた)りてこさかひと云(い)ふ所(ところ)に着(つき)ぬ        之(これ)で見(み)ると此(この)小堀遠州(こほりゑんしう)と忠利(たゞとし)とは余程(よほど)親交(しんかう)のあつたものと見(み)へる従(したがつ)て忠利(たゞとし)の平生(へいぜい)も何(なん)となく想像(さう〴〵)が出(で)        来(き)るように思(おも)はるゝのである 《割書:鍛 冶 町|の 移 転》   又(ま)た鍛冶町(かぢまち)の事であるが幸(さいはひ)に当市内(たうしない)の大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)には色々(いろ〳〵)古(ふる)い書付(かきつけ)が残(のこ)つて居る其中(そのなか)に鍛冶町覚書(かぢまちおぼへがき)と云       ふものがあつて之(これ)は延享(えんけう)頃(ころ)の記録(きろく)であるが兎(と)に角(かく)其中(そのうち)に左(さ)の記事(きじ)があるのである        当町(たうてう)義(ぎ)は鍛冶(かぢ)二十 軒斗(けんばかり)元鍛冶町(もとかぢまち)に住居(ぢうきよ)仕候処也(つかまつりそろところなり)百弐拾 余年(よねん)戊午年(つちのえうまとし)の御城主(ごぜうしゆ)松平主殿守殿(まつだひらとのものかみどの)為御(ごぜう)         上意(いのため)通(とほ)り筋(すぢ)え罷出候様(まかりいでそろやう)にと被為仰付(おほせつけられ)依之(これによつて)御助米(おんたすけまい)頂戴仕候(てうだいつかまつりそろはゞ)又(また)為御褒美(ごほうびのため)当町(たうてう)へ月(つき)六 斉(さい)の市(いち)を被(おほ)        為仰付候(せつけられそろ) 元鍛冶町   之(これ)で見(み)ると今(いま)の鍛冶町(かぢまち)と云ふものは此(この)忠利(たゞとし)が経営(けいえい)せしめたものゝようであるが其内(そのうち)に元鍛冶町(もとかぢまち)とある       のは即(すなは)ち今(いま)の大字(おほあざ)吉屋(よしや)で初(はじ)め其処(そこ)に鍛冶職(かぢしよく)を多(おほ)く集(あつ)め住(じう)せしめたのは即(すなは)ち池田輝政(いけだてるまさ)であると云ふ事は        伝説口碑(でんせつこうひ)に伝(つた)へられて居(を)る事である成程(なるほど)之(これ)は如何(いか)にもと思(おも)はれるが輝政(てるまさ)は前(まへ)にも数々(しば〳〵)申述(もをしの)べた如(ごと)く今(いま)       の八 町通(てうとほり)を開鑿(かいさく)して士族町(しぞくまち)を拡張(くわくてう)し従(したがつ)て鍛冶職(かぢしよく)の如(ごと)きはズツト片隅(かたすみ)に寄(よ)せて集(あつ)めたものであつた事(こと)と        思(おも)はれる然(しか)るに其後(そのご)譜代(ふだい)の小(ちい)さい諸侯(しよこう)が此(この)地(ち)に来(き)た処(ところ)で輝政(てるまさ)の計劃(けいくわく)した如(ごと)き大規模(だいきぼ)の城廓(ぜうくわく)は不用(ふよう)と相(あひ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平忠利の移封)                    二百十三 【欄外】    豊橋市史談  (水野隼人正)                    二百十四 【本文】        成(な)つたのであるから延(し)いては市中(しちう)の計劃(けいくわく)にも多少(たせう)の変化(へんくわ)を認(みと)むるに至(いた)つたのである従(したがつ)て鍛冶職(かぢしよく)に対(たい)し       ても段々(だん〳〵)と大通(おほどほ)りへ出(で)る事を許(ゆる)したものと信(しん)せられるのであるモツトモ此(この)鍛冶職(かぢしよく)を今(いま)の大通(おほどほ)りへ出(だ)し       たのは水野監物(みづのけんぶつ)の時代(じだい)であると云(い)ふ説(せつ)が三 州吉田記(しうよしだき)に記(しる)してあるが之(これ)は果(はた)して何(なに)に拠(よ)つて記(しる)したもの       であるか分(わか)り兼(か)ぬるのである因(よつ)て私(わたくし)は更(さら)に此(この)鍛冶町(かぢまち)に伝(つたは)つて居る説(せつ)を申述(まをしの)べて諸君(しよくん)の御参考(ごさんかう)ニ供(けう)せむ       とした次第(しだい)である       サテ松平忠利(まつだひらたゞとし)は寛永(かんえい)九 年(ねん)五月五日に病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)し其(その)八月十一日 子(こ)の忠房(たゞふさ)が遺領(ゐれう)二万 石(ごく)を続(つ)いだが仝時(どうじ)       に刈屋城(かりやぜう)に移封(いほう)された事は前(まへ)に申述(まをしのべ)た如(ごと)くであるが之と交代(かうたい)に此(この)吉田城(よしだぜう)に来(き)たのは矢張(やはり)之迄(これまで)刈屋(かりや)に居(を) 《割書:水野忠清刈|屋より此地》  つた水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)である即(すなは)ち忠房(たゞふさ)と忠清(たゞきよ)とは全(まつた)く其(その)領地(れうち)を交代(かうたい)した訳(わけ)であるが之(これ)から此(この)水野隼人正(みづのはやとのせう) 《割書:に移封せら|る》  と其(その)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の状況(ぜうけう)に就(つい)て少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したいと思(おも)ふ            ⦿水野隼人正 《割書:水野隼人正|忠清松平主》   前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べました如(ごと)く寛永(かんえい)九年八月十一日 松平主殿守忠房(まつだひらとのものかみたゞふさ)は亡父(ぼうふ)松平忠利(まつだひらたゞとし)の後(あと)を継(つ)ぐと同時(どうじ)に同(おな)じ 《割書:殿頭忠房と|交代す》   三河国(みかはのくに)の刈屋(かりや)に移封(いほう)せられ之と交代(かうたい)に水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)は刈屋(かりや)より来(きた)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)に封(ほう)ぜられたの 水野忠政  であるが此(この)忠清(たゞきよ)と云ふ人は諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)である彼(か)の水野右衛門太夫忠政(みづのうゑもんたいふたゞまさ)の孫(そん)であつて和泉守忠重(いづみのかみたゞしげ) 《割書:家康の実母|伝通院》  の末子(ばつし)である即(すなは)ち此(この)忠政(たゞまさ)は徳川家康(とくがはいへやす)の実母(じつぼ)水野氏(みづのし)の父(ちゝ)であるが当時(たうじ)忠政(たゞまさ)は矢張(やはり)刈屋城(かりやぜう)に居(を)つたので天(てん)        文(ぶん)十二年七月 卒去(そつきよ)したのである然(しか)るに其(その)嫡子(ちやくし)の信元(のぶもと)が家(いへ)を継(つ)いで之(これ)が尾張(をはり)の織田信秀(をだのぶひで)の方(かた)へ欵(くわん)を通(つう)ず       ることとなつたので家康(いへやす)の父(ちゝ)広忠(ひろたゞ)は其(その)頃(ころ)今川氏(いまがはし)無(む)二の方人(かとうど)であつた処(ところ)から甚(はなは)だ安(やす)からざる振舞(ふるまひ)であると       なして遂(つひ)に其(その)妻(つま)たる水野氏(みづのし)を離別(りべつ)し之を刈屋(かりや)へ送(おく)り皈(かへ)したのである之が久松家(ひさまつけ)に再嫁(さいか)したが前(まへ)にも度(たび) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 水野忠重   度(〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く後(のち)に伝通院(でんだうゐん)と云はれたのである而(しか)して此(この)隼人正忠清(はやとのせうたゞきよ)の父(ちゝ)忠重(たゞしげ)は云ふ迄(まで)もなく其(その)兄弟(けだうい)で        信元(のぶもと)には弟(おとゝ)になるのであるが余(あま)り兄弟(けうてい)中(なか)がよくなく自(みづか)らは鷲塚(わしづか)と云ふ処(ところ)に居(を)つたが常(つね)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)し       て殊(こと)に家康(いへやす)には忠勤(ちうきん)を尽(つく)したのである其後(そのご)天正(てんせう)三年に至(いた)つて信元(のぶもと)が討(う)たれたので其(その)八 年(ねん)九月 父祖累代(ふそるゐだい)       の地(ち)刈屋城(かりやぜう)に居ることとなつたが晩年(ばんねん)に何故(なにゆゑ)か豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従(したが)ひ慶長(けいてう)五 年(ねん)石田三成(いしだみつなり)が兵(へい)を挙(あ)げた時(とき)池鯉鮒(ちりう)       の宿(しゆく)で加々井彌(かがゐや)八 郎秀盛(らうひでもり)の為(ため)に打(う)たれて年(とし)六■歳(さい)で死(し)むだのである忠清(たゞきよ)は其(その)四 男(なん)で末子(ばつし)であるが慶長(けいてう)       七年の春(はる)徳川秀忠(とくがはひでたゞ)に附(ふ)せられ御書院番頭(ごしよゐんばんがしら)となり叙爵(ぢよじやく)して奏者(そうしや)の事を兼(か)ね大坂(おほさか)の両役(れうえき)に従(したが)つたが元和(げんわ)二       年四月三日 家康(いへやす)が病(やまひ)愈々(いよ〳〵)急(きふ)であつた時(とき)忠清(たゞきよ)を召(め)して父祖累代(ふそるゐだい)の旧領(きうれう)であるからと云(い)ふので刈屋城(かりやぜう)二万        石(ごく)を与(あた)へたのである而(しか)して今度(こんど)イヨ〳〵此(この)吉田城(よしだぜう)四万 石(ごく)に移封(いほう)せられたと云ふ訳(わけ)であるのである 忠清加増   程(ほど)なく寛永(かんえい)十一年八月十一日に領地(れうち)五千 石(ごく)の加増(かぞう)があつたが之(これ)より先(さ)き此年(このとし)の六月廿日に将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は 《割書:将軍家光の|上洛》   江戸(えど)を発(はつ)して上洛(ぜうらく)したのであるが其時(そのとき)の供奉(ぐぶ)と云ふものは中々(なか〳〵)盛(さかん)なもので六月 朔日(つひたち)には既(すで)に伊達政宗(だてまさむね)       が先発(せんぱつ)として出発(しゆつぱつ)し大名(だいめい)小名(せうめう)前後(ぜんご)の士卒(しそつ)は凡(およ)そ卅 万(まん)七千 余人(よにん)と云ふのであつたが水戸(みと)の頼房卿(よりふさけう)が後陣(ごぢん)       で例(れい)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづみのかみのぶつな)は此(この)時(とき)既(すで)に宿老(しゆくらう)の列(れつ)に入(い)つて居つたので道中(だうちう)に於(お)ける種々(しゆ〳〵)の事を指揮(しき)したので 《割書:吉田宿泊当|時の出来事》  ある此(この)時(とき)将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は七月 朔日(つひたち)に浜松(はままつ)に宿(しゆく)し二日には其(その)諏訪神社(すはうじんしや)を拝(はい)して新(あらた)に神領(しんれう)二百 石(こく)を寄附(きふ)し此夜(このよ)        吉田(よしだ)に宿泊(しゆく)したのである此(この)時(とき)の事に就(つい)て徳川実記(とくがはじつき)に左(さ)の記事(きじ)がある         申刻(さるのこく)吉田城(よしだぜう)に至(いた)らせられ城主(ぜうしゆ)水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)饗(けう)し奉り左文字(さもんじ)の御刀(おんかたな)を下(くだ)さる夜(よ)に入(いり)て尾張大納言義(をはりだいなごんよし)         直卿(なほけう)より家司(かし)竹越山城守正信(たけこしやましろのかみまさのぶ)をして御迎(おんむかひ)の為め奉(たてまつ)らる又(また)水戸中納言頼房卿(みとちうなごんよりふさけう)へは昨日(さくじつ)太田備中守資宗(おほたびつちうのかみすけむね)        もて御存問(ごぞんもん)ありしかば今日(こんにち)使(つかい)奉(たてまつ)り謝(しや)せらる又(また)大宮御使(おほみやおんつかい)とて参(まゐ)りし高橋九兵衛(たかはしきうべゑ)吉田(よしだ)にて発狂(はつけう)し行人(かうじん)        を刃傷(にんぜう)すること三人に及(およ)ぶと雖(いへど)も大宮(おほみや)の御消息(ごせうそく)を持(も)たるにより衆人(しうじん)敢(あゑ)て進(すすみ)よらず時(とき)に加賀瓜甲斐守直(かがうりかひのかみなほ) 【欄外】    豊橋市史談  (水野隼人正)                    二百十五 【欄外】    豊橋市史談  (水野隼人正)                    二百十六 【本文】         澄(すみ)御先(おんさき)に登(のぼ)るとて其所(そこ)行(ゆき)かゝりしかば土人(どじん)等(ら)直澄(なほすみ)が従者(じうしや)両(れう)三 人(にん)留(とゞめ)て久兵衛(きうべゑ)を守(まも)らせ給(たま)へと云ふ直(なほ)         澄(すみ)止(やむ)を得(え)ず歩行(ほかう)士人(しじん)三 人留(にんとゞ)めて守(まも)らせしに久兵衛(きうべゑ)又(また)三 人(にん)斬(きつ)てかゝりしかば次太夫(じだいふ)と云(い)ふもの久兵(きうべ)         衛(ゑ)を伐取(きりとり)たり依(よつ)つて直澄(なほすみ)御勘気(ごかんき)を蒙(かうむ)り永井監物(ながゐけんもつ)白元(はくげん)を京(けう)に馳(は)せて此(この)変(へん)を告(つ)げしめらる大内日記(おほうちにつき)による        に久兵衛(きうべゑ)御使(おつかひ)果(はて)て帰(かへ)るさ廿九日の夜(よ)吉田(よしだ)のあなたにて馬夫(ばふ)を切(き)りしにより土人(どじん)多勢(たせい)起(おこ)りて取囲(とりかこ)みし         処(ところ)へ加賀瓜(かがうり)行(ゆき)かゝりしが是(これ)を見(み)て加賀瓜(かがうり)が家士(かし)久兵衛(きうべゑ)を伐(き)りしとあり 家光の皈還  而(しか)して其(その)帰還(きくわん)の時(とき)は如何(いかゞ)であつたかと云ふに将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は其(その)年(とし)八月十日に岡崎(をかざき)在(ざい)の伊賀(いが)八 幡(まん)に百 石(こく)の加(か)        増地(ぞうち)を寄付(きふ)し十一日に此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのであるが此(この)日(ひ)に隼人正(はやとのせう)に五千 石(ごく)を加増(かぞう)したと云(い)ふことが紀年録(きねんろく)        並(ならび)に寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を引(ひ)いて徳川実記(とくがはじつき)に記載(きさい)してある然(しか)るに藩翰譜(はんかんふ)には此(この)加増(かぞう)の事を此(この)年(とし)の十月十七       日であると記(しる)してある其(その)相違(さうゐ)は何(なに)によつて来(きた )つたものか能(よ)く分(わか)らぬが私(わたくし)は今(いま)徳川実記(とくがはじつき)の記(き)する処(ところ)に従(したが)       はむと欲(ほつ)するものである 《割書:寛永新銭の|鋳造》  サテ其(その)翌年(よくねん)幕府(ばくふ)は江戸(えど)及(およ)び近江(あふみ)の坂本(さかもと)で新銭(しんせん)を鋳造(ちうざう)し十三年の七月から之(これ)を一 般(ぱん)の通用銭(つうようせん)として旧銭(きうせん)       と引替(ひきか)へしめたが之(これ)が即(すなは)ち寛永通宝(かんえいつうほう)である当時(たうじ)幕府(ばくふ)の執政(しつせい)は土井大炊頭利勝(どゐおほいのかみとしかつ)と酒井讃岐守忠勝(さかゐさぬきのかみたゞかつ)とで之(これ) 《割書:松平伊豆守|信綱》  に十年の五月から前(まへ)に述(の)べた松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)と阿部豊後守忠秋(あべぶんごのかみたゞあき)、 堀田加賀守正盛(ほつたかがのかみまさもり)の三 人(にん)が加(くは)はつて事       を総攬(そうらん)して居つたのであるが其(その)通用(つうよう)が未(いま)だに分(ぶん)に周(あまね)からぬ処(ところ)があると云ふので十四年八月 更(さら)に鋳銭所(ちうせんじよ)       を諸国(しよこく)に置(お)いて新銭(しんぜん)を鋳(い)せしめたのである其(その)時(とき)の公文(こうぶん)に        銭 鋳 所  水  戸   仙  台   吉  田   松  本   高  田               長  門   備  前   豊  後  中川内膳領内        一 只今迄(たゞいままで)仰付候分(おほせつけそろぶん)ニテハ諸方(しよはう)へ弘(ひろま)り兼候之間(かねそろのあひだ)代物(だいもの)沢山(たくさん)鋳(い)サセ其(その)国(くに)ハ勿論(もちろん)他国(たこく)ヘモ御定(おさだめ)ノ如(ごと)ク金(きん)壱 両(れう) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千九百九十六号附録  (明治四十五年二月二十七日発行) 【本文】         ニ四 貫文(くわんもん)壱 分(ぶ)ニ壱 貫文(くわんもん)宛(づゝ)払候様(はらひそろやう)ニ可申付候(もをしつくべくそろ)        一 寛永(かんえい)之(の)新銭(しんせん)本(もと)ヲ越候而(こへそろて)如此(かくのごとく)イタサセ可申事(もをすべくこと)        一 銭鋳申候者(ぜにいもをしそろもの)聞立(きゝたて)領内(れうない)勝手(かつて)ヨキ所々(ところ〴〵)ニ而 可被申付候事(もをしつけられべくそろこと)          寛永十四年丑八月       とあつて此(この)時(とき)此(この)吉田(よしだ)でも新銭(しんぜん)を鋳(い)たものであるが此処(こゝ)で鋳(い)た銭(ぜに)の何文(なんもん)かの数(かず)を取(と)る為(ため)に特(とく)に絵銭(ゑぜに)を鋳(い) 吉田の駒曳 たのが彼(か)の吉田(よしだ)の駒曳(こまひき)と云ふ有名(ゆうめい)なる銭(ぜに)であると云ふ事である而(しか)して其(その)鋳銭(ちうせん)の場所(ばしよ)は今(いま)の新銭町(しんせんまち)であ 新銭町   るが其(その)銭(ぜに)の鋳型(いがた)が先年(せんねん)まで鈴木延路氏方(すゞきのぶぢしかた)の蔵(くら)に残(のこ)つて居(を)つたと云ふ話(はなし)がある然(しか)るに今(いま)ドウしてもそれ       が見当(みあた)らぬのは誠(まこと)に遺憾至極(ゐかんしごく)であると思(おも)ふ而(しか)して其(その)年(とし)の十月には例(れい)の肥後(ひご)天草(あまくさ)の一 揆(き)が起(おこ)つたのであ       るが之(これ)が翌年(よくねん)の二月までかゝつてヨウ〳〵平定(へいてい)したのである此(この)時(とき)彼(か)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)が打手(うちて)の大将(たいせう)と       して向(むか)つた事は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の通(とほ)りであるが此(この)事(こと)は何(いづ)れの後(のち)に大河内家(おほかうちけ)の事を申述(もうしの)ぶる時(とき)に尚(なほ)御話(おはなし)する 《割書:吉田大橋の|架替》   機会(きくわい)があることと思(おも)ふサテ又(ま)た其(その)十八年には此(この)豊川(とよかは)の大橋(おほはし)の架替(かけかへ)があつたのであるが宝暦中(ほうれきちう)船町(ふなまち)の記録(きろく)       には        寛永十八年丑年        一御掛直シ無仮橋古橋御用                               御  城  主                                   水 野 隼 人 正 様 御 代      と書(か)いてあるのである然(しか)るに此(この)隼人正忠清(はやとのせうたゞきよ)の此地(このち)在城(ざいじよう)は僅(わづか)に十一年で寛永(かんえい)十九年九月六日(《割書:藩翰|譜》)更(さら)に 《割書:忠清松本に|移封せらる》   加増(かぞう)になつて同時(どうじ)に信濃国(しなのゝくに)松本城(まつもとじよう)七万石に移封(いほう)せられたのであるが其(その)後(のち)に移(うつ)り来(きた)つて此(この)城主(じようしゆ)となつた 【欄外】    豊橋市史談  (水野隼人正)                    二百十七 【欄外】    豊橋市史談  (水 野 監 物)                    二百十八 【本文】       のが水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)である此(この)人(ひと)の事に就(つい)ては次章(じせう)に申述(もをしのべ)ることに致(いた)したいと思(おも)ふ             ⦿水野監物 《割書:水野忠善吉|田に封せら|る》   寛永(かんえい)十九年九月六日 之(これ)まで此地(このち)の城主(じようしゆ)であつた水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)は信州(しんしう)松本(まつもと)の城(しろ)に移転(いてん)になつて其後(そののち)に        此地(このち)の城主(じようしゆ)となつたのが水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)であることは前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)くであるが此(この)忠善(たゞよし)と云ふ人も亦(ま)た 《割書:水野忠政 |水野忠守 》   水野左衛門太夫忠政(みづのさゑもんたゆうたゞまさ)の後裔(こうえい)である即(すなは)ち忠政(たゞまさ)の四 男(なん)に織部正忠守(おりべのせうたゞもり)と云ふ人があつたが其(その)又(ま)た二 男(なん)に監物(けんもつ) 水野忠元   忠元(たゞもと)と云ふのがあつて其(その)忠元(たゞもと)の嫡子(ちやくし)が此(この)忠善(たゞよし)である忠元(たゞもと)は若(わか)き頃(ころ)より二 代将軍(だいせうぐん)秀忠(ひでたゞ)に仕(つか)へて大坂(おほさか)両度(れうど)       の役(えき)にも従(したが)つたが忠善(たゞよし)は父(ちゝ)に継(つ)いで寛永(かんえい)七年十二月二十六日に叙爵(ぢよしやく)したのである徳川実記(とくがはじつき)には其日(そのひ)の        条(くだり)に「水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)従(じゆ)五 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ左近将監(さこんせうげん)に改(あらた)む」と記(しる)してある其後(そののち)同(どう)十二年十一月二十二日 駿(する)        河国(がのくに)田中城(たなかじよう)四万石に封(ほう)せられたが此(この)田中城(たなかじよう)と云ふのは御承知(ごせうち)の通(とほ)り今(いま)の藤枝(ふぢえだ)町の東(ひがし)に接(せつ)して居(を)る処で        尚(な)ほ城趾(じようし)が残(のこ)つて居(を)るのである其処(そこ)から忠善(たゞよし)は今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)せられて四万五千石に加増(かぞう)になつた 《割書:忠善岡崎に|移さる》   次第(しだい)であるが此人(このひと)は此地(このち)に在城(ざいじよう)せること僅(わづ)かに五 箇年(かねん)で正保二年正月十一日 岡崎城(をかざきじよう)五万石に移封(いほう)せられた       のである其後(そののち)延宝(えんほう)四年八月二十九日 年(とし)六十四で卒去(そつきよ)されたのであるが右(みぎ)の次第(しだい)であるから此(この)忠善(たゞよし)の事       に就(つい)ては余(あま)り申述(もうしの)ふることもないが只(ただ)た此(この)人(ひと)の代(だい)に民屋(みんをく)を移転(いてん)して総門(そうもん)を取拡(とりひろ)げ番所(ばんしよ)を設(もを)けたと云ふ事 忠善の言行 が三 州吉田記(しうよしだき)に記載(きさい)されて居(を)る又(ま)た此(この)人(ひと)の言行(げんこう)に就(つい)ては彼(か)の幕臣(ばくしん)の真山増誉(まなやまぞうよ)が著(ちよ)の明良洪範(めいれうこうはん)と云ふ書(しよ)        物(もつ)の中(なか)に少(すこ)しく載(の)せられて居(を)るので甚(はなは)だ味(あぢは)ふべきものがあると思(おも)ふから其(その)二三を抄録(しやうろく)して見(み)ようと思(おも)       ふモツトモ之(これ)は岡崎(をかざき)に転(てん)じてから後(のち)の話(はなし)ではあるが其(その)続篇(ぞくへん)の巻(まきの)一に 《割書:明良洪範の|事記》    水野監物忠善(みづのけんもつたゝよし)兵学(へいがく)は小幡景憲(こはたかげのり)が軍法(ぐんはう)の書(しよ)に水野抄(みづのしやう)と号(ごう)せし一 巻(くわん)を家(いへ)の兵書(へいしよ)とし剣術(けんじゆつ)は一 刀流(たうりう)小野家(をのけ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        の至極(しごく)を伝(つた)へ弓馬(きうば)は元(もと)より達人也(たつじんなり)或時(あるとき)唯(たゞ)一 人(にん)尾州(びしう)名古屋(なごや)へ行(ゆ)き城中(じようちう)へ忍(しの)び入(い)りをちこち見(み)て歩(ある)きけ        るを尾州公(びしうこう)見付(みつ)けられ何者(なにもの)なるか召捕(めしと)るべしと下知(げち)し給(たま)ふ是(これ)は矢倉(やのくら)より見付(みつけ)られて下知(げち)し給(たま)ふ也(なり)水(みづ)         野監物(のけんもつ)其(その)様子(やうす)を早(はや)くも察知(さつち)して直(たゞち)に城中(じようちう)を出(い)で立置(たておき)し駿馬(しゆんば)に打乗(うちの)り一さんに馳出(はせいた)し終(つひ)に岡崎(をかざき)へ帰(かへ)ら        れける尾州公(びしうこう)大(おほ)ひに怒(いか)り残念(ざんねん)に思召(おぼしめ)され此(この)返報(へんほう)をいかにしてかせんと御工夫(ごくふ)有(あ)らせられて先(ま)づ忍(しの)ひ        に達(たつ)したる者(もの)を三 人撰(にんえら)み出(だ)され其(その)者共(ものども)に御内意(ごないゝ)を仰聞(あふせきけ)られて岡崎(をかざき)へ遣(つか)はされける三 人(にん)の者(もの)は岡崎(をかざき)へ         行(ゆ)きとくと城中(じようちう)の様子(やうす)をうかゞひ置(お)きて或夜(あるよ)風雨(ふうゝ)はげしき夜(よ)密(ひそ)かに城内(じようない)へ忍(しの)び入(い)り城内(じようない)に在(あ)る所(ところ)の         武器(ぶき)を密(ひそ)かに城外(じようぐわい)へ取出(とりいだ)し大手(おほて)の前(まへ)へ積置(つみお)きてやがて名古屋(なごや)へ帰(かへ)りけるさて岡崎(をかざき)にては夜中(やちう)とい        ひ殊(こと)に風雨(ふうゝ)烈(はげ)しき晩(ばん)の事故(ことゆゑ)誰一人(たれひとり)知(し)る者(もの)も無(な)ければ翌日(よくじつ)夜明(よあ)けてより衆人(しうじん)見付(みつ)け大(おほ)ひに驚(おどろ)きける中(なか)        に水野監物(みづのけんもつ)一 人(にん)は心附(こゝろづ)きたる事(こと)あれば一 言(げん)の詮議(せんぎ)もせず早々(さう〳〵)城内(じようない)へ取入(とりい)れさせ必(かなら)ず沙汰(さた)すべからず        と衆人(しうじん)を制(せい)しける此(この)岡崎(をかざき)は尾州(びしう)の押(おさ)へなれば種々(しゆ〳〵)の手当(てあて)ありけると也       と云(い)ふような事(こと)がある今日(こんにち)から見(み)ると随分(ずゐぶん)滑稽(こつけい)な話(はなし)であるが当時(たうじ)尾州公(びしうこう)は将軍(せうぐん)の叔父(おぢ)たるにも拘(かゝは)らず        江戸(えど)に於(おい)ては万(まん)一それが異心(ゐしん)でもあうた場合(ばあひ)にはと云ふので此(この)水野忠善(みづのたゞよし)を岡崎(をかざき)に封(ほう)じて所謂(いはゆる)尾張(をはり)の押(おさ)       へとしたものであると見(み)へる殊(こと)に其(その)後半(こうはん)の話(はなし)の如(ごと)きは如何(いか)にも当時(たうじ)に於(お)ける武家(ぶけ)の裏面(りめん)が分(わか)るようで        甚(はなは)だ面白(おもしろ)く覚(おぼ)ゆるのであるが尚(なほ)其(その)後(のち)に左(さ)の如(ごと)き記事(きじ)がある         又(また)水野監物(みづのけんもつ)同国(どうこく)西尾(にしを)の城主(じようしゆ)増山正利(ますやままさとし)に無礼過言(ぶれいくわげん)を申(もを)せし事あり其(その)時(とき)増山正利(ますやままさとし)さだめて憤発(ふんぱつ)するなら        んと人々(ひと〳〵)思(おも)ひ居(ゐ)たるに正利(まさとし)一 向取(かうと)り合(あ)はず莞爾(につこ)として監物殿(けんもつどの)の武辺話(ぶへんばな)しはいつも勇々(ゆう〳〵)しき事(こと)に候と         賞(せう)して居(を)られければ水野(みづの)あひ手(て)の無(な)き喧嘩(けんくわ)はできざれば自然(しぜん)と水野(みづの)謷(そし)り止(や)みぬ其(その)後(のち)正利(まさとし)云(いひ)けるは監(けん)         物(もつ)事(こと)もし尾州勢(びしうぜい)何万人なりとも岡崎(をかざき)より先(さき)へは一 寸(すん)も入(い)れずなとゞ平生大言(へいせいだいげん)をはけど近郡隣国(きんぐんりんこく)の者(もの) 【欄外】    豊橋市史談  (水 野 監 物)                    二百十九 【欄外】    豊橋市史談  (水 野 監 物)                    二百二十 【本文】        も不和成(ふわなり)水野(みづの)いかで大言(たいげん)の如(ごと)くなるべきや又(また)城内(じようない)に蓄(たく)はへ有(あ)る所(ところ)の武器(ぶき)他(た)の及(およ)ぶ所(ところ)に非(あら)ずと監物(けんもつ)常(つね)        に申(もを)せど是(これ)監物(けんもつ)心得違(こゝろえちが)ひ也(なり)何程(なにほど)武器(ぶき)が有(あ)るとも人和(じんわ)を得(え)ざれば役(やく)に立(たゝ)ず無(な)きも同然也(どうぜんなり)監物(けんもつ)は巳(おの)れが         武勇(ぶゆう)に誇(ほこ)り人(ひと)を侮(あなど)り失礼過言(しつれいくわげん)をかへりみず言(い)ひ度(たき)まゝの大言(だいげん)をはくゆへ近郡隣国(きんぐんりんこく)の将士(せうし)みな不和(ふわ)な        り其上(そのうへ)領地(れうち)の土民(どみん)まで信伏(しんふく)するもの一 人(にん)もなし監物(けんもつ)の大言(だいげん)は無益(むえき)のみならず却(かへつ)て害(がい)を求(もとむ)る所(ところ)也(なり)とい        はれたり       之(これ)に依(よ)ると忠善(たゞよし)と云ふ人(ひと)は余程(よほど)剛情不遜(ごうぜうふそん)で思(おも)ひ切(き)つた事を云ひ放(はな)つ性質(せいしつ)であつたと見(み)へる併(しか)し乍(なが)ら主(しゆ)        家(け)に対(たい)しては誠忠(せいちう)を尽(つく)したもので其(その)結果(けつくわ)尾張家(をはりけ)などに向(むか)ても前(まへ)に申述(もをしの)べた話(はなし)の如(ごと)く偵察(ていさつ)を怠(おこた)らなかつ       た事と思(おも)はるゝが一 方(はう)には又(ま)た頗(すこぶ)る快豁(かいかつ)の処(ところ)があるので何処迄(どこまで)も捨(す)てられぬ人物(じんぶつ)であつた事と思(おも)ふ矢(や)        張(はり)同書(どうしよ)の官巻(くわん)十三と巻(くわん)二十とに見(み)ゆる話(はなし)であるが左(さ)の記事(きじ)の如(ごと)きは其(その)真面目(しんめんもく)が躍如(やくぢよ)として見(み)られるよう       に思(おも)ふのである         水野監物(みづのけんもつ)は青山大膳(あおやまだいぜん)と至(いたつ)て懇意(こんい)にて平生(へいぜい)互(たがひ)に武道(ぶどう)の義(ぎ)を語(かた)り合(あ)ひけるが或時(あるとき)大膳(だいぜん)云(いひ)けるは拙者(せつしや)帰国(きこく)        の節(せつ)は貴殿(きでん)の御城下(ごじようか)を通行致候(つうこういたしそうろ)其節(そのせつ)何卒(なにとぞ)御城内(ごじようない)拝見申度候(はいけんもをしたくそろ)と云(いふ)監物(けんもつ)答(こたへ)て拙者(せつしや)より望(のぞ)む所也(ところなり)必(かならず)御(おん)         立寄有(たちよりある)べし麁茶(そちや)一 服進(ぷくしん)ずべしと云(いふ)其後(そののち)大膳(だいぜん)其(その)城下(じようか)を通行(つうこう)の時(とき)案内(あんない)申入(もをしいれ)けれ監物(けんもつ)在城(ざいじよう)にて悦(よろこ)び城内(じようない)        へ入(い)れ厚(あつ)くもてなして後(のち)二の丸(まる)の櫓(やぐら)へ同道(どう〴〵)し監物(けんもつ)やがて太鼓(たいこ)を三つ打(うち)ければ武者(ぶしや)百 騎(き)ばかり城内(じようない)よ        り大手前(おほてまへ)へ一 連(れん)に乗出(のりいだ)す其(その)時(とき)貝(かい)を吹(ふか)ければ其(その)武者(ぶしや)即時(そくじ)に搦手(からめて)の方(ほう)へ廻(まはつ)て陣取(ぢんど)る其(その)速(すみや)かなる事(こと)飛鳥(ひてう)        の如(ごと)し大膳(だいぜん)大(おはい)に感(かん)じける此(この)時(とき)監物(けんもつ)是(これ)が今日(こんにち)の馳走(ちさう)也(なり)と云(いひ)ければ貴殿(きでん)は拙者(せつしや)が城下(じようか)を通行(つうこう)する事なけ        れば何(なに)も見(み)せ申(もを)す事できず残念(ざんねん)の至(いた)り也(なり)と大膳(だいぜん)いはれける由(よし)米津(よねづ)十 太夫(だゆう)物語(ものがた)り也(なり)         水野監物(みづのけんもつ)下屋敷(しもやしき)へ行(いつ)て家中(かちう)の者(もの)の乗馬見物(ぜうばけんぶつ)すべしと馬場(ばゞ)に出(いで)られける時(とき)に中小姓(なかこせう)の挟箱持(はさみばこもち)一 人馬場(にんばゞ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二号附録   (明治四十五年三月五日発行) 【本文】         辺(へん)を徘徊(はいかい)しけるが監物(けんもつ)出(いで)られし音(おと)に驚(おどろ)き挟箱(はさみばこ)を馬場(ばゞ)に捨置(すておき)逃去(にげさり)けり監物(けんもつ)是(これ)を見(み)て此(この)挟箱(はさみばこ)は誰(たれ)のかは         知(し)らねどもかり申(もをす)とて手(て)にて戴(いただ)き会釈(ゑしやく)して腰(こし)を掛(かけ)られける時(とき)にふたを明け(あ)けさせて見(み)られしに焼飯(やきめし)三        つ反古(ほぐ)に包(つゝみ)草鞋(わらぢ)二 足(そく)あり監物(けんもつ)見(み)られて殊(こと)の外(ほか)機嫌(きげん)よく其(その)挟箱(はさみばこ)の主(ぬし)を呼出(よびいだ)し其(その)方事(はうこと)心掛(こゝろがけ)よき武士也(ぶしなり)侍(さむらひ)        は腹(はら)へりては武辺(ぶへん)もならず然(さ)れば食物(しよくもつ)草鞋(わらぢ)は武士第(ぶしだい)一のものなり其(その)方(はう)不勝手(ふかつて)と見(み)へて焼飯(やきめし)の色黒(いろくろ)し         精(しら)けにいたし候(そうら)やうに加増(かぞう)申付(もをしつく)べしとて其場(そのば)にて米(こめ)三石 加増(かぞう)致(いた)しけるとなり             ⦿小笠原壱岐守 小笠原忠知  正保(せうほ)二年正月十一日 水野監物忠喜(みづのけんもつたゞよし)が岡崎城(をかざきじよう)に移封(いほう)になつた代(かは)りとしてこの此(この)吉田(よしだ)に封(ほう)せられて来(き)たのは小(をが)        笠原壱岐守忠知(さはらいきのかみたゞとも)で矢張(やはり)四万五千石を領(れう)したのである此(この)人(ひと)は彼(か)の信濃守長時(しなのゝかみながとき)の曾孫(そうそん)であるが其(その)家(いへ)は元来(がんらい) 小笠原長時  源氏(げんぢ)で源頼義(みなもとよりよし)の三 男(なん)新羅(しんら)二 郎義光(らうよしみつ)から出(い)でゝ居(を)ると云(い)ふことである世々(よゝ)信濃(しなの)の国(くに)に居(を)つたが長時(ながとき)は天(てん) 小笠原秀政  文中(ぶんちう)深志(ふかし)の城(しろ)(《割書:今の|松本》)にあつて武田信玄(たけだしんげん)の為(ため)に敗(やぶ)られ越後(ゑちご)に逃(のが)れたのである其(その)孫(まご)秀政(ひでまさ)は後(のち)に徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)       し慶長(けいてう)十八年 再(ふたゝ)び父祖累代(ふそるいだい)の所領(しよれう)である松本(まつもと)に封(ほう)ぜられたが元和(げんな)元年(がんねん)五月七日 年(とし)四十七で大坂役(おほさかえき)に於(おい)       て天王寺(てんわうじ)の戦(たゝかひ)で討死(うちじに)したのである其(その)三 男(なん)が即(すなは)ち此(この)忠知(たゞとも)で寛永(かんえい)三年十二月 大番頭(おほばんがしら)に任(にん)し同(どう)九年四月二十       四日 奏者(そうしや)の事(こと)を兼(か)ね仝年(どうねん)十月十一日 豊後国(ぶんごのくに)杵築(きづき)の城(しろ)を賜(たまは)つて譜代(ふだい)の列(れつ)に加(くは)はつたのであるが今度(このたび)杵築(きづき)       から此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)になつた次第(しだい)である        元来(がんらい)寛永(かんえい)と云(い)ふ年号(ねんごう)は二十年 迄(まで)続(つゞ)いて其(その) 二十一 年目(ねんめ)に正保(せうほ)と改(あらた)まつたのであるが正保(せうほ)は僅(わづか)に四年で其(その) 《割書:魚町権現社|の朱印請願》  五 年目(ねんめ)が慶安(けいあん)となつたのである其(その)慶安(けいあん)の二 年(ねん)四月に魚町権現社(うをまちごんげんしや)の為(ため)に祠官信徒(しくわんしんと)等(ら)から朱印(しゆいん)の下付(かふ)を寺(じ)        社奉行(しやぶぎよう)に請願(せいぐわん)した事(こと)があつたが其(その)扣書(ひかへしよ)は今(いま)も尚(なほ)鈴木延路氏(すずきのぶぢし)の倉車(そうこ)に遺(のこ)つて居(を)るが之(これ)は頗(すこぶ)る参考(さんこう)となる 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原壱岐守)                    二百廿一 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原壱岐守)                    二百廿二 【本文】 《割書:家光薨去家|綱継ぐ》  べき点(てん)があるものであると思(おも)ふ然(しか)して其(その)四年四月には将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は薨去(こうきよ)せられて家綱(いへつな)が其後(そのあと)を継(つ)ぎ四 代(だい)        目(め)の将軍(せうぐん)に任(にん)せられたのである例(れい)の由井正雪(ゆゐせうせつ)の変(へん)のあつたのは此(この)年(とし)で御承知(ごせうち)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)が漸(やうや)く        全盛(ぜんせい)の時代(じだい)とも云(い)ふべき時(とき)に相成(あひな)るのであるサテ慶安(けいあん)も四年 継(つゞ)いて承応(せうおう)と改(あらた)まり之(これ)も僅(わづか)二年で明暦(めいれき)と       なり明暦(めいれき)も三年で万治(まんぢ)、 万治(まんぢ)も同(おな)じく三年で寛文(かんぶん)となつたのであるが其(その)寛文(かんぶん)三年七月廿六日(《割書:藩翰譜二十|九日となす》) 忠知の卒去 に忠知(たゞとも)は六十五 歳(さい)で卒去(そつきよ)せられたのである今(いま)も其(その)墳墓(ふんぼ)は二 連木(れんぎ)の臨済寺(りんざいじ)に存在(そんざい)して居(を)ることであるが元(がん) 臨済寺    来(らい)此(この)臨済寺(りんざいじ)と云(い)ふ寺(てら)は忠知(たゞとも)がまだ杵築(きづき)に居(を)つた頃(ころ)に建立(こんりう)したもので吉田(よしだ)に移封(いほう)になつて間(ま)もなく此(この)寺(てら)       をも此処(こゝ)に移転(いてん)したのであるが三 河聞書(かはきゝがき)にはそれを承応(せうおう)二年の事(こと)であると書(か)いてある而(しか)して此(この)寺名(じめい)を        初(はじ)めは宗玄寺(そうげんじ)と云(い)つて飽海(あくみ)に置(お)いたものであるが忠知(たゞとも)卒去(そつきよ)の翌年(よくねん)即(すなは)ち寛文(かんぶん)四年に嫡子(ちやくし)長矩(ながのり)が父(ちゝ)菩提(ぼだい)の 《割書:日東玄陽禅|師》   為(ため)に今(いま)の位置(ゐち)に移転改築(いてんかいちく)したものであると伝(つた)へられて居(を)るトコロで又(ま)た此(この)臨済寺(りんざいじ)の開山(かいざん)と云(い)ふものが        日東玄陽禅師(につとうげんようぜんし)と云(い)ふ人(ひと)で頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)なものである此(この)人(ひと)は肥前国(ひぜんのくに)白石(しらいし)の生(うまれ)で九 才(さい)の時(とき)其(その)郷(きょう)の福泉寺(ふくせんじ)と云(い)ふ        寺(てら)に入(い)つて僧(そう)となつたが後(のち)四 方(はう)を遊歴(ゆうれき)して伊勢国(いせのくに)龍光寺(りうくわうじ)に入(い)つて虎伯大宣(こはくだいせん)と云(い)ふ僧(そう)の教(おしへ)を受(う)くること七       年一日 円覚経(えんかくけふ)を読(よ)むで大悟(たいご)する処(ところ)があつて其(その)師(し)の虎伯(こはく)は遂(つひ)に之(これ)に印可(いんか)を授(さづ)けたと伝(つた)へられてある而(しか)し       て其(その)印可(いんか)は今(いま)も尚(な)ほ臨済寺(りんざいじ)に保存(ほそん)せられて居(を)るのであるが其後(そののち)禅師(ぜんし)は江戸(えど)に出(い)で駒込(こまごめ)の龍光寺(りうくわうじ)に住(ぢう)し        頗(すこぶ)る三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)の帰依(きえ)を受(う)けたのであるソコで小笠原忠知(をがさはらたゞとも)が前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く初(はじめ)て宗玄寺(そうげんじ)を杵築(きづき)に        建立(こんりう)した時(とき)に此(この)人(ひと)を招(せう)じて其(その)始祖(しそ)としたのであるが寺(てら)が此(この)地(ち)に移転(いてん)せられた時(とき)禅師(ぜんし)も亦(ま)た来(きた)り住(ぢう)した       のである寺伝(じでん)によるを寛文(かんぶん)七年十月 年(とし)七十七で寂(じやく)されたと云(い)ふことである序(つひ)でだから此処(こゝ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べ 《割書:神宮寺の寺|格》  て置(お)きたいと思(おも)ふが大字(おほあざ)紺屋(こんや)の神宮寺(じんぐうじ)と云(い)ふ寺(てら)は寺伝(じでん)によると慶長(けいてう)元年(がんねん)重信(ぢうしん)と云(い)ふ僧(そう)が古(ふる)くからあつ       た長禅寺(てうせんじ)と云(い)ふ寺(てら)を再興(さいこう)して改宗改名(かいしうかいめい)したものである而(しか)して重信(ぢうしん)と云(い)ふ僧(そう)は本姓(ほんせい)は小久保氏(こくぼし)尾張国(をはりのくに)知(ち) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       多郡(たぐん)の生(うまれ)で寛文(かんぶん)廿年二月 寂(ぢやく)した人(ひと)であるが承応(せうおう)二年六月二日 付(つけ)で毘沙門堂(びしやもんどう)門跡(もんぜき)公海大僧正(こうかいだいせうぜう)から此(この)寺(てら)の        寺格(じかく)を定(さだ)めた文書(ぶんしよ)が今(いま)も寺(てら)に遺(のこ)つて居(を)ることである即(すなは)ち此(この)事(こと)のあつたのは忠知(たゞとも)城主(じようしゆ)たるの当時(たうじ)になるの       であるが寺歴(じれき)の上(うへ)には大(おほい)に資料(しれう)となるべきものであるから此処(こゝ)に吹聴(ふいてう)して置(お)く次第(しだい)である 《割書:瓦町開発の|覚書》   又(ま)た大字(おほあざ)瓦町(かわらまち)に「瓦町開発覚(かわらまちかいはつおぼへ)」と云(い)ふ記録(きろく)が遺(のこ)つて居(を)るが之(これ)は延享(えんけう)以後(いご)に書(か)き留(と)めたものであると思(おも)は       るゝが其(その)中(なか)には頗(すこぶ)る参考(さんこう)になるべき記事(きじ)がある此(この)記事(きじ)はツマリ瓦町(かわらまち)の開(ひら)け初(はじ)めからの事(こと)を細(こま)かに書(か)い       たものであるが其(その)中(なか)に        一寛文弐年寅年小笠原先壱岐守様御代仁連木村親弥八郎新村御願仕候処新村御立候儀不相叶無是非         罷在候翌卯年壱岐守様御逝去被遊山城守様御家督相渡寛文四辰年仁連木村ニ御菩提所臨済寺御建         立被遊候ニ付其時之御代官合澤勘右エ門殿ゟ当村御菩提所御建被遊候ニ付何にても願之義有之候         ハヾ相叶可被下由に被仰出候故右奉願候新村御立被下候様にと奉願候得者難叶義に候得共此度々         願に候間勝手次第相立候様にと被仰付辰年切除いたし屋敷割仕十王坂上ゟ東坂口迄両側に百姓弐         拾人斗出し往還ゟ少引込居屋敷広囲申筈に仕候処町在方ゟ屋敷望申者多罷成御地頭様え御願申上         候故被仰出候者往還並に家を作り町に相建申様にと被仰付候而屋敷割三度迄割直町並に仕候       とある之(これ)によると初(はじ)めて瓦町(かわらまち)を起(こ)こした時(とき)の事情(じぜう)が明(あきらか)に分(わか)るのであるが同時(どうじ)に其(その)頃(ころ)は新(あらた)に村(むら)を起(おこ)すと        云(い)ふことは容易(ようい)に許(ゆる)さなかつたものであると云(い)ふ様子(やうす)も伺(うかゞ)ひ知(し)ることが出来(でき)るのみならず急(きふ)に新開地(しんかいち)が出(で)        来(き)て盛(さかん)に移住者(いぢうしや)のあつた有様(ありさま)などが知(し)られるのである其(その)他(た)此(この)記録(きろく)の中(なか)にはまだイロ〳〵参考(さんこう)となるべ       き事(こと)があるのであるが余(あま)り細密(さいみつ)に過(す)ぐるように思(おも)ふから話(はなし)は之(これ)に留(とゞ)めて之(これ)より彼(か)の茶道(ちやどう)に於(おい)て有名(ゆうめい)な       る山田宗徧(やまだそうへん)と云(い)ふ人(ひと)のことに就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)ぶることに致(いた)したいと思(おも)ふのである 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原壱岐守)                    二百廿三 【欄外】    豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知)                   二百廿四 【本文】             ⦿山田宗徧と小笠原忠知 山田宗偏   山田宗偏(やまだそうへん)と云(い)ふ人(ひと)は前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く茶道(ちやどう)の達人(たつじん)で其(その)流(りう)は宗偏流(そうへんりう)として一つの流派(りうは)に一 般(ぱん)から認(みと)め       られて居(を)る位(くらゐ)有名(ゆうめい)なものであるが此(この)人(ひと)は元(もと)京都(けうと)二 本松(ほんまつ)長徳寺(てうとくじ)と云(い)ふ真宗大谷派(しんしうおほたには)の寺僧(じそう)道玄(どうげん)の子(こ)で名(な)は        周覚(しうかく)後(のち)に周学(しうがく)と称(せう)したが本姓(ほんせい)は仁科氏(にしなし)である其(その)山田(やまだ)と云(い)ふのは後(のち)に母方(はゝかた)の姓(せい)を冒(おか)して称(せう)したものであ       るが出生(しゆつせい)は寛永(かんえい)元年(がんねん)である其(その)後(のち)父(ちゝ)道玄(どうげん)は摂津(せつゝ)の茨木御坊(いばらきごぼう)に転住(てんぢう)したが老後(らうご)其(その)寺(てら)を養子(やうし)の周恵(しうけい)と云(い)ふ人(ひと)       に譲(ゆづ)つて自(みづか)らは如何(いか)なる縁故(ゑんこ)があつたものか今(いま)分(わか)り兼(か)ぬるが宗偏(そうへん)が廿六 歳(さい)の時(とき)に此(この)吉田(よしだ)へ隠居(いんきよ)したの 《割書:宗偏父と共|に吉田に住|す》  であるソコで宗偏(そうへん)も亦(ま)た父(ちゝ)に従(したがつ)て此(この)地(ち)に住(ぢう)した併(しか)し之(これ)より先(さき)宗偏(そうへん)は六 歳(さい)の時(とき)から茶道(ちゃどう)に入(い)つて小堀(こほり)        遠州(ゑんしう)の門人(もんじん)となり其(その)印可(いんか)を受(う)けたのは十六 歳(さい)の時(とき)であつたとも亦(ま)た廿二 歳(さい)であつたとも両様(れうやう)の記録(きろく)が 《割書:小堀遠州に|学ぶ》  あるが其(その)後(のち)遠則(ゑんしう)の師匠(しせう)たる古田織部(ふるたをりべ)にも就(つ)ひて学(まな)むだに拘(かゝは)らずドウモ意(い)に満(み)つる処(ところ)がなかつたので正(せう)        保(ほ)四年 即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)に転住(てんぢう)する二ケ年 程(ほど)以前(いぜん)から更(さら)に千宗旦(せんそうたん)の門(もん)に入(い)つたのである此(この)宗旦(そうたん)と云(い)ふ人(ひと)は諸(しよ) 《割書:千宗旦の門|に入る》   君(くん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の如(ごと)く彼(か)の千 利休(りきう)(宗易)の孫(まご)で利休(りきう)の長子(やうし)は道安(どうあん)次男(じなん)は宗淳(そうじゆん)之(これ)は少庵(せうあん)と云(い)つた人(ひと)であ       るが此(この)少庵(せうあん)の嫡子(ちやくし)が即(すなは)ち此(この)宗旦(そうたん)である之(これ)より宗偏(そうへん)は其(その)教(おしへ)を受(う)くる事(こと)九 年(ねん)であつたから其(その)間(あひだ)は此(この)吉田(よしだ)に        転住(てんぢう)はしたものゝ矢張(やはり)多(おほ)くは京都(けうと)に出(い)でゝ鳴瀧(なるたけ)及(およ)び衣棚(きぬだな)の辺(へん)に庵(いほり)を設(もを)けて居(を)つたと云(い)ふ事(こと)であるが遂(つひ)       に利休(りきう)茶道(ちやどう)の薀奥(うんおう)を究(きは)め皆伝(かいでん)となつたのである其(その)時(とき)利休(りきう)的伝(てきでん)の印証(いんせう)として伝来(でんらい)の四 方釜(ほうがま)を与(あた)へられた 力口斉の号 ので爾来(じらい)其(その)庵(いほり)を四 方庵(ほうあん)と号(ごう)した又(ま)た力口斉(りきゐさい)一に如竿子(じよかんし)とも号(ごう)したが其(その)力口斉(りきゐさい)と号(ごう)した訳(わけ)は咄々(とつ〳〵)力囲(りきゐ)希(き)       と云(い)ふ語(ご)から出(い)でたもので利休(りきう)辞世(じせい)の喝(かつ)の中(なか)にも力囲希咄(りきゐきとつ)の語(ご)があるのである即(すなは)ち師匠(しせう)の宗旦(そうたん)が咄々(とつ〳〵) 《割書:宗徧忠知に|仕ふ》   斉(さい)と号(ごう)した処(ところ)から宗徧(そうへん)は力口斉(りきゐさい)と号(ごう)することになつたのであるが口(ゐ)の字(じ)は即(すなは)ち囲(ゐ)の字(じ)の略(りやく)である 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千八号附録   (明治四十五年三月十二日発行) 【本文】       かくて明暦(めいれき)元年(がんねん)宗徧(そうへん)は其(その)三十二 歳(さい)の時(とき)に初(はじ)めて茶道(ちやどう)を以(もつ)て此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)小笠原忠知(おがさはらたゞとも)に仕(つか)ゆることとなつた       のであるが其(その)紹介人(せうかいにん)は吉良上野介(きらかうづけのすけ)であつたと云(い)ふ事(こと)である此(この)時(とき)宗偏(そうへん)は三十 石(こく)五 人扶持(にんふち)であつたが其(その)二        男(なん)宗屋(そうをく)は後(のち)に百 石(こく)を与(あた)へられて江戸本所(えどほんじよ)三ツ目(め)に住(ぢう)したのである宗偏(そうへん)は当時(たうじ)此(この)地(ち)悟眞寺内(ごしんじない)の竹意軒(ちくゐけん)に        居(を)つたと伝(つた)へられてあるが勿論(もちろん)江戸(えど)にも多(おほ)く出(い)で遠江(とふとうみ)浜名郡(はまなぐん)の大福寺(たいふくじ)などにも久(ひさ)しく滞留(たいりう)して居(を)つた 《割書:不審庵の号|を継ぐ》  との事(こと)である而(しか)して宗偏(そうへん)は曩(さき)に其(その)師(し)宗旦(そうたん)から利休(りきう)以来(いらい)千家(せんけ)累代(るゐだい)の庵号(あんごう)たる不審庵(ふしんあん)並(ならび)に宗旦(そうたん)の用(もち)ゐたる        庵号(あんごう)今日庵(こんにちあん)とを共(とも)に譲(ゆづ)られたのであつて此(この)事(こと)は茶家(ちやけ)の間(あひだ)に宗旦(そうたん)没前(ぼつぜん)四 年(ねん)の事(こと)であると伝(つた)へられてある        果(はた)して然(しか)りとすれば明暦(めいれき)元年(がんねん)頃(ころ)の事(こと)で丁度(ちようど)宗偏(そうへん)が其(その)師(し)から皆伝(かいでん)を許(ゆる)された当時(たうじ)の頃(ころ)であるように推断(すゐだん)      せられるのである併(しか)し千家(せんけ)に其(その)子孫(しそん)があるにも係(かゝは)らず宗徧(そうへん)が特(とく)に此(この)利休(りきう)の正系(せうけい)を継(つ)いで不審庵(ふしんあん)を名乗(なの)       るに至(いた)つたに就(つい)ては後(のち)に彼之(かれこれ)と唱(とな)へたものもあつた様子(やうす)で今尚(いまなほ)当市(たうし)曲尺手(かねんて)の高須芳(たかすよし)三 郎氏方(らうしかた)に蔵(ざう)せら 《割書:利休茶道具|図絵》  れてある宗偏(そうへん)が当市(たうし)の浄円寺主(ぜうゑんじしゆ)に贈(おく)つた書状(しよぜう)に徴(ちよう)しても其(その)何分(なにぶん)を窺(うかゞ)ひ知(し)る事(こと)が出来(でき)るのであるモツト       モ宗徧著(そうへんちよ)の利休茶道具図絵(りきうちゃどうぐずゑ)と云(い)ふ書物(しよもつ)に元禄(げんろく)十五 年(ねん)素堂(そどう)と云(い)ふ人(ひと)が書(か)いた叙文(ぢよぶん)があるが其(その)中(なか)に        宗偏夫何人也、曰、千氏宗旦老人之高弟、而究宗易居士少庵翁所授受之道、以譲於不審庵之人也、        雖然、以旦老之子孫有数多、漫不新其号、因旧呼四方庵有年干茲矣、 去甲寅之冬(●●●●●)、応或人之需、而        昇四方庵之額、且依門人之勧、而茶亭挑不審庵之額、従是号宗易居士四世之不審庵者也       とあるので宗偏(そうへん)が公然(こうぜん)不審庵(ふしんあん)を称(せう)したのは延宝(えんほう)二 年(ねん)の冬(ふゆ)からであるのを知(し)ると同時(どうじ)に其(その)事情(じぜう)も大(おほい)に分(わか) 茶道便蒙抄 るように思(おも)はるゝのである又(ま)た同(おな)じ茶道便蒙抄(ちやどうべんもうしよう)と云(い)ふ書物(しよもつ)の叙(ぢよ)の中(なか)にも        中世有紹鷗、以点茶法鳴干世、紹鷗以是伝之利休、利休滋添潤色、其法隆盛、所重干列国諸侯、児        童踊利休、走卒知千氏、世以為点茶百世宗師也、利休伝之少庵、少庵伝之嗣子宗旦、宗旦性好隠逸 【欄外】    豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知)                   二百廿五 【欄外】    豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知)                    二百廿六 【本文】        不慕栄利、祇甘淡泊以点茶為楽矣、宗偏遊彼門有年干茲、直伝其衣鉢、而以得継利休家法之正脉也 《割書:宝永五年四|月二日歿》  とあるのである而(しか)して宗偏(そうへん)は宝永(ほうえい)五年四月二日八十五 歳(さい)を以(もつ)て江戸(えど)に於(おい)て歿(ぼつ)し浅草東本願寺(あさくさほんぐわんじ)中(ちう)の願龍(ぐわんりう)        寺(じ)に葬(ほうむ)つたが今(いま)も其(その)墓(はか)は現存(げんぞん)して居(を)るモツトモ名人忌辰録(めいじんきしんろく)には善龍寺(ぜんりうじ)に葬(ほうむ)るとしてあるから私(わたくし)も此(この)頃(ごろ)        上京(ぜうきよう)を幸(さいはひ)に浅草(あさくさ)の東本願寺(ひがしほんぐわんじ)に行(い)つて尋(たづ)ねて見(み)たが矢張(やはり)善龍寺(ぜんりうじ)ではなくて願龍寺(ぐわんりうじ)の方(はう)に墳墓(ふんぼ)があるの       である併(しか)し現在(げんざい)のものは明治(めいじ)廿九年七月 福島良(ふくしまれう)三 郎(らう)と云(い)ふ人(ひと)の建立(こんりう)したもので基石(きせき)丈(だけ)は古(ふる)くて当初(たうしよ)か       らのものと思(おも)はるゝが墓碑(ぼひ)は全部旧形(ぜんぶきうけい)を認(みと)むる事(こと)の出来(でき)ぬのは甚(はなはだ)以(もつ)て遺憾(ゐくわん)に思(おも)ふのである而(しか)して宗(そう) 茶道要録   偏(へん)の著書(ちよしよ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた茶道便蒙抄(ちやどうべんもうしよう)、 利休茶道具図絵(りきうちやどうぐづゑ)と並(ならび)に茶道要録(ちやどうえうろく)などがあるが孰(いづ)れも茶道(ちやどう)に        関(くわん)する事(こと)を詳録(せうろく)したもので従来(じうらい)極秘口伝(ごくひこうでん)であつたものゝ大部分(だいぶゞん)を此(この)人(ひと)が初(はじ)めて之等(これら)の書物(しよもつ)で開放(かいはう)した       もので其(その)道(みち)の人(ひと)には勿論(もちろん)普通人(ふつうじん)に対(たい)しても容易(ようい)ならざる便宜(べんぎ)を与(あた)ふる事(こと)であるが此処(こゝ)らは大(おほい)に宗偏(そうへん)の        主義(しゆぎ)を知(し)る事(こと)が出来(でき)るのである又(ま)た宗偏(そうへん)が此(この)地(ち)に遺(のこ)した事柄(ことがら)を調査(てうさ)して見(み)るのに遺憾(ゐくわん)な事(こと)には矢張(やはり)湮(ゑん) 《割書:湊町神明社|の庭園》   滅(めつ)に皈(き)したるものが多(おほ)いのであるが先(ま)づ本市(ほんし)大字(おほあざ)湊(みなと)の神明社(しんめいしや)境内(けいだい)大字(おほあざ)飯智光庵(ゐちくわうあん)の境内(けいだい)などは其(その)設計(せつけい)に 呉竹の清水  成(な)つたもので今(いま)でも多少(たせう)其(その)面影(おもかげ)が忍(しの)ばるゝのである又(また)大字(おほあざ)松山(まつやま)正林寺(せうりんじ)前(まへ)にある呉竹(くれたけ)の清水(しみづ)と云(い)ふのは        宗徧(そうへん)遺愛(ゐあい)の清水(しみづ)であるが今(いま)は其(その)痕跡(こんせき)があるかドウか殆(ほとん)ど分(わか)らぬ位(くらゐ)である併(しか)し宗偏(そうへん)遺愛(ゐあい)の器具(きぐ)では今尚(いまな) 《割書:宗偏自作の|木像》  ほ当市内(たうしない)の諸家(しよけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るものが少(すくな)からぬ事(こと)であるが其(その)中(なか)でも大字(おほあざ)札木(ふだぎ)小原卯平氏(をはらうへいし)所蔵(しよざう)の宗偏(そうへん)        自作(じさく)弥陀(みだ)の木像(もくざう)は最(もつと)も見事(みごと)な物(もの)で其(その)背後(はいご)に「貞享(ていきよう)五年戊辰六月下旬六十二 歳(さい)作之(これをつくる)宗徧(そうへん)」と彫刻(てうこく)して       ある又(ま)た同人所用(どうにんしよよう)のもので伝来(でんらい)の正(たゞ)しきものが妙円寺(みよいゑんじ)にも保存(ほぞん)されて居(を)る尚(なほ)茲(こゝ)に一つ申述(もうしの)べたいと思(おも)       ふのは大日本人名辞書(だいにほんじんめいじしよ)宗偏伝(そうへんでん)の中(なか)に当時(たうじ)茶道(ちやどう)が流行(りうこう)して殊(こと)に遠州流(ゑんしうりう)の如(ごと)きは利休(りきう)の素志(そし)に反(はん)し茶道(ちやどう)を        以(もつ)て一 種驕奢(しゆきようしや)の媒介(ばいかい)となして珍器珍宝(ちんきちんほう)を弄(もてあそ)ばねば茶人(ちやじん)でないようにするので宗旦(そうたん)は深(ふか)く之(これ)を歎息(たんそく)し 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       て或時(あるとき)書面(しよめん)を以(もつ)て此(この)事(こと)を小堀遠州(こほりゑんしう)へ談(だん)じた処(ところ)が遠州(ゑんしう)の答(こたへ)にそれは尤(もつとも)ではあるが之(こ)れ決(けつ)して私意(しゐ)ではな       い内命(ないめい)の出(い)づる処(ところ)があつて治国平天下(ぢこくへいてんか)の基礎(きそ)を堅(かた)むる為(ため)であるとの事(こと)であつた然(しか)るに宗旦(そうたん)は飽(あ)くまで       も之(これ)では茶道(ちやどう)の本旨(ほんし)に反(はん)すると云(い)ふので真(しん)の茶道(ちやどう)を江戸(えど)に流布(るふ)せむことを欲(ほつ)したのであるが恰(あたか)も其(その)時(とき)小(を) 宗偏と忠知  笠原忠知(がさはらたゞとも)は大(おほい)に天下(てんか)の悪弊(あくへい)を矯正(きようせい)するのに志(こゝろざし)があつて宗旦(そうたん)を召(め)したのである然(しか)るに宗旦(そうたん)自(みづから)は老年(らうねん)で       あるからと云(い)ふので其(その)高弟(かうてい)たる宗偏(そうへん)を以(もつ)て小笠原家(をがさはらけ)に薦(すゝ)むるに至(いた)つたのであると云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある       のである其(その)説(せつ)の出所(でどころ)は何(いづ)れであるか今(いま)能(よ)く分(わか)らぬから直(たゞ)ちに之(これ)を信(しん)ずる事(こと)も出来(でき)ぬではあるが私(わたくし)は        頗(すこぶ)る趣味(しゆみ)を以(もつ)て此(この)説(せつ)を迎(むか)ふる者(もの)である如何(いか)にも当時(たうじ)に於(お)ける徳川幕府(とくがはばくふ)の政策(せいさく)としては小堀遠州(こほりゑんしう)の答(こた)へ       たような事(こと)もあつたであろうと思(おも)ふ又(ま)た之(これ)と同時(どうじ)に忠知(たゞとも)及(およ)び宗偏(そうへん)が当時(たうじ)茶道(ちやどう)の上(うへ)に取(と)つた処(ところ)の方針(はうしん)も        分(わか)るように思(おも)ふのである従(したがつ)て宗偏(そうへん)は今日(こんにち)尚(な)ほ茶道(ちやどう)に於(お)いては利休(りきう)正統(せいとう)の極秘(ごくひ)を伝承(でんしよう)せるものと称(せう)せら       れて居(を)る次第(しだい)である尚(なほ)宗偏(そうへん)の茶道(ちやどう)に於(お)ける系統(けいとう)を知(し)る上(うへ)には幸(さいはひ)に大日本人名辞書(だいにほんじんめいじしよ)の巻首(くわんしゆ)に其(その)系図(けいづ)が掲(かゝ)       げてあるから就(つい)て見(み)られたならば概要(がいえう)を会得(ゑとく)する上(うへ)には好都合(こうつごう)であろうと思(おも)ふ尚(なほ)序(ついで)だから一寸(ちよつと)申添(もうしそ)へ       て置(お)くが宗徧(そうへん)の「ヘン」の字(じ)は徧(へん)が正当(せいたう)であるようであるが自筆(じしつ)のものにも偏(へん)の字(じ)を書(か)いたのがあるか       ら双方(そうほう)孰(いづ)れをも用(もち)ゐた事(こと)と思(おも)ふ現(げん)に前(まへ)に申述(もうしの)べた浅草(あさくさ)の墓標(ぼひよう)には偏(へん)の字(じ)が刻(ほ)つてあるのである            ⦿小笠原氏歴代と吉田の情勢 小笠原長矩 サテ忠知(たゞとも)は寛文(かんぶん)三 年(ねん)の七月に卒(そつ)して其(その)家督(かとく)を継(つ)いだのが嫡男(ちやくなん)の長矩(ながのり)であるが其(その)年(とし)十月九日 付(づけ)で父(ちゝ)の遺(ゐ) 小笠原長定  領(れう)の内(うち)四万石を領(れう)し残(のこり)五千石は其(その)内(うち)弟(おとゝ)の丹後守長定(たんごのかみながさだ)に三千石、 外記長秋(げきながあき)に二千石を分(わか)ち与(あた)へたのである 小笠原長秋 る此(この)事(こと)に就(つい)て三 河聞書(かはきゝがき)に 【欄外】    豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百廿七 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百廿八 【本文】        今年吉田城主分知舎弟二人、小笠原丹後守長定領三千石、於長山村庁屋、家老吉田八兵衛住吉田        城内、代官後藤金太夫住長山、小笠原外記領二千石、於西川村定庁屋       とあるから此(この)時(とき)長定(ながさだ)の方(はう)は宝飯郡(ほゐぐん)の長山村(ながやまむら)外記(げき)の方(はう)は八 名郡(なぐん)の西川村(にしかはむら)に新(あらた)に分与(ぶんよ)された領地(れうち)の役所(やくしよ)を        設(もを)けたものと思(おも)はれる而(しか)して長矩(ながのり)と云(い)ふ人(ひと)は寛永(かんえい)元年(がんねん)の生(うまれ)で幼名(ようめい)千勝丸(せんかつまる)夫(それ)から名(な)を忠根(たゞもと)と云(い)ひ長頼(ながより)と        改(あらた)め更(さら)に長矩(ながのり)と変(へん)したのであるが最初(さいしよ)民部(みんぶ)と称(せう)し正保(せうほ)元年(がんねん)十二月廿九日 従(じゆ)五 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ山城守(やましろのかみ)に 《割書:長矩自写の|経文》   任(にん)せられたのである此(この)人(ひと)がまだ廿七 歳(さい)の時(とき)に亡母(ぼうぼ)の十七 回忌(くわいき)に方(あた)つて其(その)功徳(くどく)の為(ため)に自写(じしや)して納(をさ)めた法(はふ)        華経(けきよう)が今(いま)も尚(なほ)臨済寺(りんざいじ)に遺(のこ)つて居(を)るが其(その)奥書(おくがき)に        慶安三年歳在庚寅十月初八日値予慈母法源院日心大師淑霊十七回諱之辰要酬乳恩之万一手自漸写法        華八軸金文了謹奉献真前伏冀頓証仏果及一切群生出離苦海直上覚場                               小笠原山城守源忠根焼香謹書之       とある而(しか)も其(その)経文(きようもん)を見(み)るに毎巻(まいくわん)頗(すこぶ)る細密(さいみつ)で全(まつた)く謹書(きんしよ)してあるのみならず其(その)後(のち)寛文(かんぶん)三年七月に其(その)父(ちゝ)忠(たゞ)        知(とも)が卒(そつ)した時(とき)も長矩(ながのり)は亦(ま)た今(いま)の臨済寺(りんざいじ)を移転(いてん)改築(かいちく)して其(その)菩提(ぼだい)を吊(ともら)ひそれが為(ため)には村(むら)の百 姓(せう)にも特典(とくてん)を        与(あた)ふる事(こと)を触(ふ)れしめた事(こと)は前章(ぜんせう)既(すで)に瓦町開発(かわらまちかいはつ)の条(くだり)で申述(もうしの)べた如(ごと)くである之(これ)等(ら)から推(お)して考(かんが)へて見(み)ると       長矩(ながのり)と云(い)ふ人(ひと)は余程(よほど)心(こゝろ)の優(やさ)しい孝心(かうしん)の深(ふか)い人(ひと)であつたと推断(すゐだん)する事(こと)が出来(でき)ると思(おも)ふ其(その)他(た)此(この)人(ひと)は神仏(しんぶつ)に        対(たい)する崇敬(すうけい)も厚(あつ)かつた様子(やうす)で其(その)頃(ころ)今(いま)の大字(おほあざ)中(なか)八の神明社(しんめいしや)は勿論(もちろん)まだ城内(じようない)にあつたのであるが之(これ)に初(はじ)め 《割書:神明社の石|華表》  て石(いし)の鳥居(とりゐ)を寄進(きしん)したのも矢張(やはり)此(この)長矩(ながのり)であるそれは寛文(かんぶん)十三 年(ねん)九月廿八日の事(こと)であるが現今(げんこん)の鳥居(とりゐ)は        其(その)後(のち)地震(ぢしん)の為(ため)に仆(たほ)れて修理(しうり)したものであるモツトモ当時(たうじ)の寄進札(きしんふだ)は今(いま)も尚(なほ)同社(どうしや)に保存(ほぞん)されて居(を)るので       ある 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千十四号附録   (明治四十五年三月十九日発行) 【本文】       サテ長矩(ながのり)は相続後(さうぞくご)間(ま)もなく奏者番(そうしやばん)となり(《割書:寛文三年|十月廿六日》)寛文(くわんぶん)六 年(ねん)七月十九日から寺社奉行(じしやぶぎやう)を兼(か)ねたが寛文(くわんぶん) 長矩卒す  は十三 年目(ねんめ)に延宝(えんほう)と改(あらた)まり其(その)六 年(ねん)二月八日 病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)したのである年(とし)は五十五 歳(さい)で矢張(やはり)臨済寺(りんざいじ)に葬(ほうむ)ら       れたのであるが泰雲院宝峯正印居士(たいうんゐんほうほうしやうゐんこじ)と号(ごう)するのである而(しか)して其後(そのご)は嫡男(ちやくなん)の長祐(ながのり)が相続(さうぞく)したのである        元来(がんらい)此(この)小笠原氏(をがさはらし)は前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く忠知(たゞとも)が初(はじ)めて宗家(しうけ)から分(わか)れたような訳(わけ)であるから云(い)はば忠知(たゞとも)が        其(その)祖(そ)であるが其(その)人(ひと)以来(いらい)四 代(だい)の間(あひだ)相継(あひつ)いで此(この)地(ち)の城主(ぜうしゆ)であつたので前後(ぜんご)通(つう)じて凡(およ)そ五十三 年(ねん)になるので       ある即(すなは)ち其後(そのご)の大河内家(おほかうちけ)を除(のぞ)いては此(この)家(いへ)が最(もつと)も長(なが)く此(この)地(ち)を治(おさ)めて居(を)つた訳(わけ)である然(しか)るに当時(たうじ)は御承知(ごしやうち)       の如(ごと)く徳川(とくがは)の天下(てんか)も極(きは)めて太平無事(たいへいぶじ)の時(とき)であるから波瀾(はらん)と云(い)ふような事(こと)は全(まつた)くないので御話(おはなし)すべき事       も甚(はなは)だ少(すくな)いのであるが併(しか)し民政上(みんせいじやう)に関(くわん)しては稍々(やゝ)残(のこ)つて居(を)ることもあるので之(これ)から追々(おひ〳〵)に申述(まうしの)ぶる考(かんがへ)で 小笠原長祐 あるがサテ此(この)長祐(ながすけ)は正保(しやうほ)元年(ぐわんねん)の生(うまれ)で幼名(ようめい)は千 代松(よまつ)後(のち)長治(ながはる)長教(ながのり)などゝ名乗(なの)つた寛文(くわんぶん)三 年(ねん)十二月廿八日 従(じう)       五 位下(ゐげ)能登守(のとのかみ)に叙任(ぢよにん)し延宝(えんほう)六年三月 晦日(みそか)父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を襲(つ)いで七 年(ねん)九月 朔日(ついたち)に壱岐守(いきのかみ)と改(あらた)めたのである然(しか)       るに其(その)翌年(よくねん)将軍(せうぐん)家綱(いへつな)は薨(こう)じて御承知(ごせうち)の五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)が舘林(たてばやし)から入(はい)つて宗家(しうけ)を襲(つ)いだのであるが此(この)年(とし)か       ら年号(ねんがう)が天和(てんわ)と改(あらた)まり天和(てんわ)は四 年目(ねんめ)に貞享(ていけう)となり貞享(ていけう)は又(また)五 年目(ねんめ)に元禄(げんろく)となつたのである 元禄時代   蓋(けた)し先(ま)づ之(これ)が徳川時代(とくがはじだい)に於(お)ける天下太平(てんかたいへい)の極度(きよくど)で風俗(ふうぞく)は頗(すこぶ)る華美(くわび)に流(なが)れ元禄時代(げんろくじだい)と云(い)へば誰(たれ)も知(し)らぬ 吉田の花火 ものゝない江戸全盛(えどぜんせい)の時(とき)であるが其(その)驕奢(けうしや)の風(ふう)は地方(ちはう)までも流(なが)れ来(きた)つたもので御承知(ごせうち)の吉田(よしだ)の花火(はなび)な       ども全(まつた)く此(この)頃(ころ)から盛大(せいだい)になつたのである勿論(もちろん)此(この)花火(はなび)は吉田神社(よしだじんしや)の祭礼(さいれい)に於(おい)て行(おこな)はれたのであるが元(もと)同(どう)        社(しや)の神官(しんくわん)であつた石田家(いしだけ)に遺(のこ)つて居(を)る記録(きろく)に依(よ)つて見(み)ると初(はじ)めて建物(たてもの)(《割書:花火の|一 種》)の大(おほ)きなのが出来(でき)たのは      元禄(げんろく)十三 年(ねん)の事で長(ながさ)拾三 間(げん)幅(はゞ)三 間半(げんはん)で其(その)費用(ひよう)は廿四 両(れう)かゝつたとしてある又(また)同(どう)祭礼(さいれい)に要(えう)する大字(おほあざ)本町(ほんまち) 笹踊の装束 の山車(だし)に幕(まく)の出来(でき)たのも元禄(げんろく)十六年の事(こと)であるとしてあるが萱町(かやまち)から出(で)る笹踊(さゝをどり)の装束(せうぞく)も元(も)と木綿(もめん)の浴(ゆか) 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百廿九 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百三十 【本文】       衣(た)であつたのを元禄(げんろく)に入(はい)つて絹(きぬ)のサラサ染(そめ)に改(あらた)め其(その)十七年に至(いた)つて緞子(どんす)のものが出来(でき)た様子(やうす)であるそ       れのみならず右(みぎ)の記録(きろく)の中(なか)には其(その)頃(ころ)此(この)笹踊(さゝおどり)を噺(はや)す為(ため)に大太鼓(おほたいこ)や小太鼓(こだいこ)の打手(うつて)の中(なか)に頗(すこぶ)る名人(めいじん)が出来(でき)た       と云ふ事が詳(くわ)しく記(しる)してあるが今日(こんにち)それを読(よ)むで見(み)ると如何(いか)にも当時(たうじ)が太平無事(たいへいぶじ)であつて其(その)極(きよく)一 般(ぱん)の        風潮(ふうてう)が遊佚(ゆういつ)に傾(かたむ)いた様子(やうす)が伺(うかゞ)ひ知(し)られるように思(おも)ふのである然(しか)るに此(この)時代(じだい)と云ふものは之(これ)と同時(どうじ)に又(ま)       た一 方(ぱう)に於(おい)て文物(ぶんぶつ)の隆盛(りうせい)を極(きは)めたもので殊(こと)に将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)と云(い)ふ人(ひと)は学問好(がくもんづき)であつた処(ところ)から種々(しゆ〴〵)の計画(けいぐわく)を 貞享書上  も試(こゝろ)みたが兼(かね)て申述(まうしの)べてある如(ごと)く各(かく)諸侯(しよこう)は勿論(もちろん)麾下(きか)の士(し)より郷士(がうし)などに至(いた)るまで其(その)家系(かけい)の調査(てうさ)をなさ       しめたのである其時(そのとき)諸侯(しよこう)旗本(はたもと)などから書(か)き上(あ)げたものが所謂(いはゆる)貞享書上(ていけうかきあげ)と称(せう)するので今日(こんにち)も尚(なほ)頗(すこぶ)る史料(しれう)       となるものとなつて居(を)るかゝる様(やう)であつたから此(この)風(ふう)も亦(ま)た当時(とうじ)各地方(かくちはう)に波及(はきう)したものであるが長祐(ながすけ)が 市勢調査   貞享(ていけう)五年 即(すなは)ち元禄(げんろく)元年(ぐわんねん)に町奉行(まちぶげふ)西脇清次郎(にしわきせいじらう)と云ふ者(もの)に命(めい)じて吉田市中(よしだしちう)の市勢調査(しせいてうさ)をなさしめたのも亦(また)       何分(なにぶん)は其(それ)が影響(えいけう)とも見(み)るべきもので其時(そのとき)の取調書(とりしらべしよ)の写(うつし)と云(い)ふものは今(いま)も幸(さいはひ)に残(のこ)つて居(を)るのであるが此(この)       時(とき)には吉田(よしだ)市街(しがい)各町(かくちやう)の地図(ちづ)をも調製(てうせい)せしめたのである其事(そのこと)は矢張(やはり)調書(てうしよ)の中(なか)に記録(きろく)してあるが之(これ)に就(つい)て 《割書:元禄元年吉|田の地図》   甚(はなは)だ愉快(ゆくわい)なる話(はなし)があるのは先年(せんねん)大字(おほあざ)曲尺手(かねのて)の大辻太平君(おほつぢたへいくん)が或(ある)古物商(ふるものしやう)で本具(ほんぐ)の中(なか)に吉田(よしだ)の古地図(ふるちづ)十 余枚(よまゐ)       があるのを見(み)て之(これ)を購(あがな)はれた併(しか)し当時(たうじ)はそれ程(ほど)古(ふる)い大切(たいせつ)のものと思(おも)はれなかつた様子(やうす)であつたが        其話(そのはなし)を私(わたし)は市会議員(しくわいぎゐん)の若杉房次郎君(わかすぎふさじらうくん)から伝聞(でんぶん)したから早速(さつそく)人(ひと)を大辻君(おほつぢくん)の処(ところ)へやつて其(その)地図(ちづ)を借覧(しやくらん)し段(だん)        段(〴〵)と取調(とりしら)べて見(み)ると之(これ)こそ全(まつた)く此(この)元禄(げんろく)元年(がんねん)のものであると云(い)ふことが分(わか)つたのであるかく断定(だんてい)するには       勿論(もちろん)色々(いろ〳〵)な拠(よりどころ)のある事であるが大字(おほあざ)船町(ふなまち)にも旧来(きうらい)其(その)町(まち)丈(だけ)の古地図(ふるちづ)の写(うつし)が保存(ほぞん)されて居(を)つて之(これ)には庄屋(せうや)        藤(とう)十 君(くん)の副書(そへがき)があるそれに拠(よ)ると其(その)原図(げんづ)は本町(ほんまち)問屋(とんや)七 郎右衛門(らうゑもん)の所有(しよゆう)で寛政(くわんせい)十二 年(ねん)八 月(ぐわつ)船町(ふなまち)に借受(かりう)け       て複写(ふくしや)したものであるが当時(とうじ)の鑑定(かんてい)では少(すくな)くも元禄(げんろく)以前(いぜん)のものであろうと記(しる)してあるのである而(しか)も此(この) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        図(づ)と大辻氏(おほつぢし)所有(しよゆう)の地図(ちづ)の中(うち)船町(ふなまち)の部(ぶ)と合(あは)せて見(み)ると一二の精粗(せいそ)はあるが全然(ぜん〴〵)一 致(ち)するものであるモツ       トモ庄屋(せうや) 藤(とう)十 氏(し)が之(これ)を複写(ふくしや)した当時(たうじ)は元禄(げんろく)元年(ぐわんねん)に市勢調査(しせいてうさ)のあつた事(こと)も分(わか)らず従(したがつ)て西脇清次郎(にしわきせいじらう)の調査(てうさ)        書(しよ)と云(い)ふものをも見(み)られなかつた事(こと)であろうから只(たゞ)漠然(ばくぜん)と少(すくな)くとも元禄(げんろく)以前(いぜん)のものであろうと鑑定(かんてい)さ       れたのである併(しか)し今日(こんにち)此(この)西脇(にしわき)の調査書(てうさしよ)と此(この)地図(ちづ)とを比較対照(ひくわくたいせう)して見(み)ると右(みぎ)私(わたくし)の申述(まうしの)べた事(こと)は動(うごか)すべか       らざるものがあることを信(しん)ずるのであるモツトモ右(みぎ)申述(まうしの)べた大辻氏(おほつぢし)の地図(ちづ)とても果(はた)して其(その)当時(たうじ)の原本(げんほん)な       るや又(また)は後(のち)の複写(ふくしや)になつたものなるやは少(すこ)しく明言(めいげん)に苦(くるし)む処(ところ)であるが兎(と)に角(かく)右(みぎ)の如(ごと)くとすれば此(この)地(ち)に        於(お)ける各町分図(かくちやうぶんづ)で今(いま)残(のこ)つて居(を)るものゝ内(うち)では最旧(さいきう)のものとなすべきであると思(おも)ふサテ此(この)話(はなし)は以上(いじやう)の如       くであるが右(みぎ)調書(てうしよ)と地図(ちづ)とに拠(よ)れば当時(たうじ)吉田(よしだ)の総町数(そうちやうすう)は廿四ケ町(ちやう)で戸数(こすう)は僅(わづか)に壱千しかなかつたもの       であるが各町(かくちやう)の延長幅員(えんちやうふくゐん)其他(そのた)総門(そうもん)大手門(おほてもん)などの位置(ゐち)並(ならび)に豊川橋梁(とよかはけうれう)の有様(ありさま)等(とう)も歴々(れき〳〵)分明(ぶんめい)である併(しか)し乍(なが)ら        一々(いち〳〵)之(これ)を茲(こゝ)に掲(かゝ)ぐることは到底(とうてい)困難(こんなん)であるから成(な)るべくは実物(じつぶつ)に就(つい)て御覧(ごらん)になれば誠(まこと)に好都合(こうつがふ)であると        思(おも)ふ        又(ま)た元禄(げんろく)二年には大橋(おほはし)の架替(かけかへ)もあつたのであるが矢張(やはり)此時(このとき)の工事(こうじ)は中々(なか〳〵)の大仕掛(おほじかけ)であつて幸(さひはひ)に大字(おほあざ)船(ふな) 橋梁の架替  町(まち)には当時(たうじ)の設計書(せつけいしよ)が保存(ほぞん)されて居(を)るが其(その)書類(しよるい)の表題(へうだい)は「元禄(げんろく)二年五月三 州(しう)吉田大橋(よしだおほはし)新規(しんき)御掛直(おんかけなほし)入札(にうさつ)        帳(ちやう)」としてあるのである之(これ)で見(み)ると其時(そのとき)の設計(せつけい)と云(いふ)ものは明(あきらか)に分(わか)るのであるが先(ま)づ予(あらかじ)め旧橋(きうけう)と相並(あひなら)む       で新橋(しんけう)を造営(ぞうえい)し其(その)成(な)るに及(およ)むで旧橋(きうけう)を取毀(とりこは)つたものである勿論(もちろん)其(その)構造(こうぞう)は高欄(かうらん)に「ギボシ」を付(つ)けたもの 《割書:井上通女の|帰家日記》  で今日(こんにち)に見(み)る瀬田(せた)の長橋(ながはし)と同(どう)一のものであつた事(こと)と思(おも)ふ茲(こゝ)に面白(おもしろ)いのは彼(か)の井上通女(いのうへつうぢよ)の皈家日記(きかにつき)であ       るが此人(このひと)は御承知(ごしやうち)の如(ごと)く有名(ゆうめい)なる賢女(けんぢよ)で京極家(けうごくけ)に仕(つか)へて居(を)つたのであるが此(この)帰家日記(きかにつき)と云(い)ふものは元(げん)        禄(ろく)二年の六月に江戸(えど)から其(その)本国(ほんごく)讃岐(さぬき)の丸亀(まるがめ)に皈(かへ)る道中記(どうちうき)で丁度(ちようど)其(その)日記(につき)の六月十七日の条(くだり)に 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百卅一 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百卅二 【本文】         吉田(よしだ)の市店(してん)を通(とほつ)て、いと長(なが)き橋(はし)に到(いた)る、 只今(たゞいま)渡(わた)る橋(はし)、 漸(やうや)く古(ふる)くなれりとて作(つく)りかへらるゝなり、 大(おほい)        なる木(き)とも引(ひき)かけ、けづりまろばして、 工匠(たくみ)ども初(はじ)め人多(ひとおほ)く集(つど)ひて、どよみあへり、 今(いま)渡(わた)る橋(はし)にも         人々(ひと〴〵)集(あつま)りて之(これ)を見(み)る       と云(い)ふことが書(か)いてあるのである成程(なるほど)此時(このとき)には慥(たしか)に此(この)橋(はし)が普請(ふしん)最中(さいちう)であつた事(こと)と思(おも)ふが文章(ぶんしやう)は簡短(かんたん)であ       つても実(じつ)に能(よ)く其(その)真相(しんそう)を言(い)ひ現(あら)はして居(を)る記事(きじ)であると云(い)ふべきであるモツトモ此(この)橋普請(はしぶしん)の事(こと)に就(つい)て       は前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く船町(ふなまち)に善(よ)き記録(きろく)が遺(のこ)つて居(を)るのみならず嘗(かつ)て渥美郡(あつみぐん)役所(やくしよ)に於(おい)ても其筋(そのすぢ)の照会(せうくわい)に       よつて調査(てうさ)したものがあるので御話(おはなし)すべき材料(ざいれう)も少(すくな)くないのであるが何(いづ)れ此(この)史談(しだん)の終(おはり)に特(とく)に纏(まと)めて       申述(まうしの)ぶる事(こと)にするか又(また)は年表(ねんへう)にして発表(はつぺう)する考(かんがへ)であるから今(いま)は其(その)節(ふし)〳〵を御話(おんはなし)するに止(とゞ)むる考(かんがへ)である 《割書:船町庄屋口|上の覚》   尚(なほ)一つ此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)き度(た)いと思(おも)ふのは大字(おほあざ)船町(ふなまち)が旧来(きうらい)渡船(とせん)の役(やく)を勤(つと)めた事(こと)で其代(そのかは)りには地子御免(ちごごめん)       と相成(あひな)つて居(を)つたものであるが丁度(てうど)此(この)長祐(ながすけ)の時代(じだい)に其(その)家臣(かしん)の笹野杢右衛門(さゝのもくゑもん)と云(い)ふ人(ひと)が之等(これら)の事(こと)を船町(ふなまち)       の庄屋(せうや)に就(つい)て取調(とりしら)べて藩(はん)の勘定所(かんぜうしよ)へ差出(さしだ)した書付(かきつけ)があつて今(いま)も残(のこ)つて居(を)ることである之(これ)は種々(しゆ〴〵)の点(てん)に於(おい)       て参考(さんこう)ともなるべきものであるから試(こゝろみ)に其(その)全文(ぜんぶん)を左(さ)に示(しめ)すことに致(いた)したいと思(おも)ふ               三州吉田宿船町庄屋口上之覚        一船町之儀右者河原同前ニ而家居まばらに御座候処池田三左衛門様当御城主ニ被為成堤等丈夫ニ被         仰付船町家居町並ニ罷成船之運送仕致渡世候処慶長庚子之年関ケ原御陣之節御城主三左衛門様ゟ         舟役被仰候其節舟役相勤候覚        一勢州津之御城主富田信濃守様江戸ゟ御城元エ御登被成候尅舟数弐拾三艘ニ而御渡海之御用相勤         候 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千七十九号附録   (明治四十五年六月四日発行) 【本文】        一同国松坂之御城主古田兵部様江戸ゟ御城元え御登被遊候節舟数拾六艘に而勢州大湊まで御渡海之         御用相勤候        一志州鳥羽之御城主九鬼大隅守様御逆心に而御息長門守様為御討手御登被遊候尅舟数三拾六艘に而         勢州あのが浦迄御渡海之御用相勤候         右之通騒敷時節船手之御用相勤候付御城主三左衛門様ゟ向後舟役相勤候様にと被仰付只今に至迄         地子御免に而当所湊舟に差引仕舟役相勤申候         先年者御証文も頂戴仕罷在候共申伝候へ共五拾五年以前寛永拾三子之年大洪水津浪に而家居打つ         ふれ死人数多有之候其節書物とも流失仕只今は御証文も無御座候        一御上洛之節は勢州桑名え舟拾八艘廻御用相勤申候当所ゟ壱里半河上当古村と申所に而船橋之御用         をも相勤申候        一弐拾六年以前寛文五乙巳年岡野孫九郎様為御上使紀州え御趣被成候節当所より勢州松崎浦迄御渡         海之御用相勤候        一前々ゟ只今に至洪水之節往還留候得ば当所御橋近所ゟ小坂井村と申所弐拾丁之内舟渡に而御上使         御継飛脚之御用無遅滞相勤申候延宝八庚申之年洪水津浪にて往還留候処為御上使藤堂主馬様御登         被遊候節小坂井村迄舟渡之御役相勤候御継飛脚運送仕候儀者度々御座候去巳之七月洪水に而当所         御橋破損仕往還留候節舟渡に而往還無滞日数九日之間舟越仕候前々ゟ洪水之節者御橋え竹木材木         等流掛候付洪水之度々御橋際え不限昼夜相詰取除申候        一御城主御代々御城廻石垣御普請之節者御用次第舟差出石積廻申候 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百卅三 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百卅四 【本文】        一当湊舟王吟味之儀御高札之通大切ニ奉存舟番所を相立無懈怠相勤申候弐拾四年以前酒井八郎兵衛         様伴作平様諸国浦々為御順見御越被遊候節当湊前々ゟ之わけ御尋被成右之段々申上候得者舟手之         吟味弥入念候様にと被仰御高札之御写被下置候以上         右船町地子御免之儀且又御役之品々吟味仕候処先年ゟ申伝候由に而今以勤来候趣右之通御座候以         上           元禄三午年正月十六日                          小笠原壱岐守内                                笹野杢左衛門 (印)               御  勘  定  所 長祐卒す  サテ長祐(ながすけ)は其(その)翌(よく)元禄(げんろく)三 年(ねん)の六月十七日四十七 歳(さい)を以(もつ)て卒(そつ)し法号(はふごう)は弾指院別峯宗見居士(だんしゐんべつほうそうけんこじ)と号(ごう)したが之(こ)れ 小笠原長重  亦(ま)た墓(はか)は臨済寺(りんざいじ)にあるのである然(しか)るに長祐(ながすけ)の男子(だんし)は先(さ)きに早世(さうせい)したので貞享(ていけう)二年七月七日を以(もつ)て己(おの)れ       の舎弟(しやてい)長重(ながしげ)を養(やしな)つて子(こ)となしたのであつたが此人(このひと)が今度(このたび)相続(さうぞく)する事(こと)となつて元禄(げんろく)三年十月十日を以(もつ)て        養父(やうふ)の遺領(ゐれう)を賜(たま)はるに至(いた)つたのである而(しか)して此(この)長重(ながしげ)は慶安(けいあん)三年の生(うまれ)で寛文(かんぶん)十年七月十一日 中奥(なかおく)の御小(おこ)        姓(せう)となり十二月 八日 廩米(りんまい)五百 俵(ぴよう)を賜(たま)はり十二年四月廿五日 御側小姓(おそばこせう)に転(てん)じ十二月廿八日 従(じゆ)五 位下(ゐげ)佐(さ)        渡守(どのかみ)に叙任(ぢよにん)したが天和(てんわ)元年(がんねん)七月六日に至(いた)つて御書院番頭(ごしよゐんばんがしら)となり二年五月廿一日千五百 俵(ぴよう)を賜(たま)はる事(こと)に       なつたのである然(しか)るに前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く兄(あに)長祐(ながすけ)に実子(じつし)がなくなつたので其(その)養子(やうし)となり遂(つひ)に相続(さうぞく)をした       のであるが其後(そののち)元禄(げんろく)三年十二月三日を以(もつ)て奏者番(そうしやばん)となり寺社奉行(じしやぶげう)を兼(か)ね四年 閏(うるふ)八月廿六日に京都所司(けうとしよし)        代(だい)に進(すゝ)み従(じゆ)四 位下(ゐか)侍従(じじう)に昇(のぼ)つたのであるトコロで其(その)十年四月十九日 老中(らうちう)に任(にん)せられ壱万石の加増(かぞう)とな 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:長重武蔵岩|槻城に移封|せらる》  つたが之(これ)と同時(どうじ)に武蔵国(むさしのくに)岩槻城(いはつきじよう)に国替(くにがへ)を仰(あふ)せ付(つけ)らるゝ事(こと)に成(な)つて茲(こゝ)に比較的(ひかくてき)稍々(やゝ)久(ひさ)しく此地(このち)の城主(じようしゆ)と 補遺    して継続(けいぞく)した処(ところ)の小笠原氏(をがさはらし)も又々(また〳〵)他(た)に移転(いてん)することと相成(あひな)つたのであるソコで尚(な)ほ一寸(ちよつと)補遺(ほゐ)として申述(もうしの)       べて置(お)きたいことがあるがそれは外(ほか)でもない前章(ぜんせう)小笠原壱岐守(をがさはらいきのかみ)と云(い)ふ処(ところ)で其(その)系図(けいづ)を御話(おはなし)した中(なか)に忠知(たゞとも)の        曽祖父(そうそふ)長時(ながとき)が天文中(てんぶんちう)深志(ふかし)の城(しろ)にあつて武田信玄(たけだしんげん)の為(ため)に破(やぶ)られ越後(ゑちご)に逃(のが)れたと云ふことを申述(もうしの)べて置(お)いた        事(こと)であるモツトモ之(これ)は主(おも)に藩翰譜(はんかんふ)の記事(きじ)に拠(よ)つたのであつたが其後(そののち)段々(だん〳〵)調査(てうさ)して見(み)ると其(その)深志(ふかし)の城(しろ)と        云(い)ふのは誤(あやまり)で当時(たうじ)長時(ながとき)の居(を)つたのは中塔(ちうたう)と云(い)ふ処(ところ)であつたのが事実(じじつ)である即(すなは)ち小笠原氏(をがさはらし)が初(はじ)めて深志(ふかし)      の城(しろ)を得(え)たのは長時(ながとき)の子(こ)貞慶(さだよし)の時(とき)であつて天正(てんせう)十年の事である其時(そのとき)貞慶(さだよし)は深志(ふかし)の名(な)を改(あらた)めて松本(まつもと)と       なしたと云ふ事が伝(つた)へられてある元来(がんらい)此(この)貞慶(さだよし)と云ふ人(ひと)は長時(ながとき)の三 男(なん)であるが此人(このひと)が一 時(じ)父(ちゝ)の後(あと)を起(おこ)し      たのである然(しか)るに最後(さいご)には復(ふたゝ)び逆境(ぎやくけう)であつたが其子(そのこ)の秀政(ひでまさ)は後(のち)に徳川家康(とくがはいえやす)に従(したが)つて戦功(せんこう)が多(おほ)かつたの       で慶長(けいてう)十八年十月 旧領(きうれう)松本(まつもと)を得(う)るに至(いた)つたのであるが惜(おし)い事には元和(げんわ)元年(がんねん)五月七日 大坂(おほさか)の役(えき)天王寺(てんわうじ)に        於(おい)て遂(つひ)に戦死(せんし)を遂(と)げたのである而(しか)して此人(このひと)の妻(つま)は兼(かね)て御承知(ごせうち)の岡崎(をかざき)三 郎信康(らうのぶやす)の女(ぢよ)で家康(いへやす)から云ふと孫(まご)       であつたが秀政(ひでまさ)には男子(だんし)が何人(なんにん)もあつて嫡男(ちやくなん)の忠(たゞ)脩は矢張(やはり)大坂陣(おほさかぢん)に於(おい)て父(ちゝ)と共(とも)に打死(うちしに)した然(しか)るに二 男(なん)      の忠真(たゞさね)は其時(そのとき)重傷(ぢうせう)を蒙(かうむ)つたが幸(さいはひ)に命(めい)を全(まつた)ふしたので此人(このひと)が父(ちゝ)の後(あと)を相続(さうぞく)したのである併(しか)し忠(たゞ)脩の子(こ)長(なが)        次(つぐ)も亦(ま)た後(のち)に至(いた)つて諸侯(しよこう)の列(れつ)に加(くは)へられて一 家(か)をなしたのであるが此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)となつた忠知(たゞとも)は前(まへ)に       も申述(もうしの)べた如(ごと)く即(すなは)ち此(この)秀政(ひでまさ)の三 男(なん)であるから秀政(ひでまさ)の系統(けいとう)に於(おい)て小笠原家(をがさはらけ)には諸侯(しよこう)に列(れつ)したものが三 軒(げん)        出来(でき)た次第(しだい)である今日(こんにち)から云ふと忠真(たゞさね)の後(のち)は維新(ゐしん)当時(たうじ)の小倉侯(をぐらこう)で今(いま)の伯爵家(はくしやくけ)であるが其他(そのた)は共(とも)に子爵(ししやく)        家(け)である而(しか)して吉田侯(よしだこう)の後(あと)はと云へば維新当時(ゐしんたうじ)の唐津侯(からつこう)で今(いま)海軍大佐(かいぐんたいさ)であられる小笠原長生氏(をがさはらちようせいし)である       尚(な)ほ此(この)小笠原家(をがさはらけ)で出来(でき)たもので笠系大成(りうけいたいせい)と云ふ書物(しよもつ)があつて頗(すこぶ)る大部(たいぶ)であるが中々(なか〳〵)詳(くは)しく能(よ)く同家(どうけ)の 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百卅五 【欄外】    豊橋市史談  (久世出雲守)                   二百卅六 【本文】       事を調(しら)べたものである此事(このこと)は茲(こゝ)に付言(ふげん)して置(お)きたいと思(おも)ふ             ⦿久世出雲守        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く小笠原家(をがさはらけ)は壱岐守忠知(いきのかみたゞとも)以来(いらい)長矩(ながのり)、 長祐(ながすけ)、 長重(ながしげ)と四 代(だい)相継(あひつ)いで此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)と成(な)つ       て居(を)つたが長重(ながしげ)の時(とき)に至(いた)り元禄(げんろく)十年四月十九日 京都所司代(けうとしよしだい)から老中(らうちう)に昇任(せうにん)せられ領地(れうち)壱万石を加増(かぞう)せ       られて同時(どうじ)に武蔵国(むさしのくに)岩槻城(いはつきじよう)に国替(くにがへ)を命(めい)ぜられたのである而(しか)して其後(そののち)に此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)として封(ほう)ぜられた 《割書:久世重之吉|田に封せら|る》  のが久世出雲守重之(くぜいづものかみしげゆき)であるが此(この)人(ひと)は元禄(げんろく)十年六月十日に丹波国(たんばのくに)亀山(かめやま)から此処(こゝ)に移(うつ)さるゝ事となつたの 久世広宣  で五万石を領(れう)したのである元来(がんらい)此(この)久世家(くぜけ)は太政大臣(だぜうだいじん)道博(みちひろ)の後裔(こうゑい)であると伝(つた)へられて居(を)るが重之(しげゆき)の祖父(そふ)        広宣(ひろのぶ)と云ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)の家人(かじん)で初(はじ)め大須賀康高(おほすがやすたか)に属(ぞく)し後(のち)屡々(しば〴〵)戦功(せんこう)があつたので家康(いへやす)は之(これ)に上総国(かづさのくに)望陀(ぼうだご) 久世広之   郡(ほり)で三百石の采地(さいち)を与(あた)へたのである然(しか)るに其後(そののち)も度々(たび〳〵)加封(かほう)せられて七千石を領(れう)するに至(いた)つたが其(その)三 男(なん)       に広之(ひろゆき)と云ふ人(ひと)があつて此人(このひと)は累進(るいしん)して大和守(やまとのかみ)に叙任(ぢよにん)せられ遂(つひ)に老中(らうちう)にまで昇(のぼ)り下総国(しもふさのくに)関宿(せきじゆく)の城主(じようしゆ)       となつたが重之(しげゆき)は即(すなは)ち此(この)広之(ひろゆき)の三 男(なん)で延宝(えんほう)七年八月六日 父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を襲(つ)ぎ天和(てんわ)三年八月廿一日 備中国(びちうのくに)広(ひろ)        瀬(せ)に移(うつ)され貞享(ていけう)三年正月廿六日 更(さら)に丹波(たんば)の亀山(かめやま)に移封(いほう)せられたが今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に来(く)る事(こと)と相成(あひな)つた次第(しだい)       である然(しか)るに元禄(げんろく)と云ふ年号(ねんごう)は十六年 迄(まで)で其(その)十七年目には宝永(ほうえい)と改(あらた)まつたのであるが重之(しげゆき)は其年(そのとし)十月 《割書:重之復た関|宿に移封せ|らる》  九日 寺社奉行(じしやぶげう)を兼(か)ね其(その)二年九月廿一日 少老(せうらう)の職(しよく)に任(にん)ぜられ其(その)十月晦日 復(ふたゝ)び旧領(きうれう)関宿(せきじゆく)に移封(いほう)せられたの       で結局(けつきよく)此地(このち)在城(ざいじよう)は僅(わづか)に十年に過(す)ぎなかつたのである       サテ重之(しげゆき)は其後(そのご)正徳(せうとく)三年八月三日を以(もつ)て老中(らうちう)の職(しよく)に進(すゝ)み在職(ざいしよく)八年で享保(けうほ)五年六月廿七日 年(とし)六十一を以(もつ)       て卒(そつ)した人であるが此人(このひと)は実(じつ)に忠正(ちうせい)にして剛気(ごうき)のあつたので老中(らうちう)在職(ざいしよく)中(ちう)にも頗(すこぶ)る逸事(いつじ)があるのである 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千七十九号附録   (明治四十五年六月四日発行) 【本文】       モツトモ之(これ)は本市史(ほんしし)には直接(ちよくせつ)関係(かんけい)のない事(こと)であるが兎(と)に角(かく)其(その)老中(らうちう)となつたのは五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の没後(ぼつご)で        家宣(いへのぶ)が六 代将軍(だいせうぐん)となつて間(ま)もない事であるが所謂(いはゆる)正徳(せうとく)の政治(せいぢ)に参与(さんよ)して劃策(くわくさく)した事が少(すくな)くない而(しか)も晩(ばん)       年(ねん)は八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の享保(けうほ)の政事(せいじ)に与(あづか)つて頗(すこぶ)る幕府(ばくふ)に重(おも)きをなしたのである序(ついで)だから此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付言(ふげん)し       て置(お)くが今(いま)の子爵(しゝやく)久世広業氏(くぜひろなりし)は即(すなは)ち其(その)後裔(こうゑい)に当(あた)るのである        又(また)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたい一二の事(こと)があるそれは外(ほか)でもないが此(この)重之(しげゆき)が当地(たうち)在城(ざいじょう)時代(じだい)に前(まへ)にも申述(もうしの)べ 生類御憐み た如(ごと)く五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)治世(ぢせい)の当時(たうじ)で殊(こと)に元禄(げんろく)の頃(ころ)は諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の通(とほ)り例(れい)の生類御憐(せいるいおんあはれ)みで鳥類獣(てうるいじう)        類(るい)を傷害(せうがい)したものは厳刑(げんけい)に処(しよ)せられると云ふ過酷(くわこく)な処罰(しよばつ)の行(おこな)はれた時代(じだい)であつたが元禄(げんろく)十四年三月 足(あ)        助町(すけまち)の市兵衛(いちべゑ)と云ふものが如何(いか)なる原因(げんゐん)であつたか此(この)吉田(よしだ)の札木町(ふだぎまち)で馬(うま)を斬(き)つたと云ふので大騒(おほさわぎ)とな 孝子旌表  り遂(つひ)に此者(このもの)は捕(とら)へられて斬罪(ざんざい)に処(しよ)せられたのである之(これ)は三 州吉田記(しうよしだき)に記(き)する処(ところ)であるだ尚(なほ)一つ同書(どうしよ)に        記(き)する事で宝永(ほうえい)元年(がんねん)孝子旌表(かうしせいへう)の事(こと)がある即(すなは)ち         世古町平作者、家貧而有能孝養親、因賚之麦六俵       と書(か)いてあるが之(これ)が徳川時代(とくがはじだい)になつてから当(たう)吉田(よしだ)に於(おい)て孝子(かうし)の旌表(せいへう)せられたもので明(あきらか)に記録(きろく)に遺(のこ)つ       て居(を)るのでは先(ま)づ最(もつと)も古(ふる)いように思(おも)ふのである            ⦿牧野備前守        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く久世出雲守重之(くぜいづものかみしげゆき)は此地(このち)在城(ざいじよう)僅(わづか)に十ケ年(ねん)許(ばかり)で復(ま)た旧領(きうれう)の下総国(しもふさのくに)関宿(せきじゆく)へ移封(ゐほう)になつ 牧野成春  たのであるが其後(そのゝち)を継(つ)いで此地(このち)に封(ほう)ぜられたのが牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)である此人(このひと)の祖先(そせん)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く先(さ)       きに屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べてある牧野新次郎成定(まきのしんじらうなりさだ)であつて即(すなは)ち牛久保(うしくぼ)出身(しゆつしん)であるが成定(なりさだ)の子(こ)は康成(やすなり)で此人(このひと)の事も 【欄外】    豊橋市史談  (牧野備前守)                   二百卅七 【欄外】    豊橋市史談  (牧野備前守)                    二百卅八 【本文】        矢張(やはり)ズツト前章(ぜんせう)で度々(たび〳〵)御話(おはなし)にしてある訳(わけ)であるから今(いま)再(ふたゝ)び詳(くは)しくは申述(もうしの)べぬのである併(しか)し此(この)康成(やすなり)と云       ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)の為(ため)には容易(ようい)ならぬ戦功(せんこう)のあつた人で中々(なか〳〵)履歴(りれき)も多(おほ)いのであるが天正(てんせう)十八 年(ねん)家康(いへやす)関東(かんとう)移(ゐ)        封(ほう)の後(のち)は上野国(かうづけのくに)太胡(おほご)弐万石に封(ほう)せられたのである而(しか)して此人(このひと)の室(しつ)は彼(か)の酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の女(ぢよ)で此(この)康(やす) 長岡牧野家  成(なり)には三 人(にん)の男子(だんし)があつたが長男(てうなん)は忠成(たゞなり)と云(い)つて之(こ)れが家督(かとく)を相続(さうぞく)したが其後(そののち)が即(すなは)ち所謂(いはゆる)長岡(ながをか)の牧野(まきの)        家(け)で維新(ゐしん)前(ぜん)越後(ゑちご)の長岡(ながをか)を領(れう)されたのであるが当主(たうしゆ)は今(いま)貴族院議員(きぞくゐんぎゐん)の子爵(しゝやく)牧野忠篤氏(まきのちうとくし)であるソコで忠成(たゞなり)       の弟(おとゝ)が秀成(ひでなり)其(その)又(また)弟(おとゝ)が儀成(のりなり)であるが此(この)儀成(のりなり)と云ふ人(ひと)は別(べつ)に一 家(か)をなしたので万治(まんぢ)三年三月五日五十五歳       で卒去(そつきよ)された方(かた)であるが美濃守(みののかみ)に任(にん)じ禄(ろく)五千石を食(は)むで居(を)つた然(しか)るに卒去(そつきよ)の後(のち)其(その)遺領(ゐれう)を二 子(し)に分与(ぶんよ)す 牧野成貞  ることになつて長子(てうし)成長(なりなが)に三千石 次子(じし)成貞(なりさだ)に二千と云ふ様(やう)に給(きう)せられたが此(この)成貞(なりさだ)と云ふ人は五 代将軍(だいせうぐん)綱(つな)        吉(よし)がまだ舘林(たてばやし)に居(を)つた頃(ころ)から之(これ)に仕(つか)へ綱吉(つなよし)がイヨ〳〵将軍(せうぐん)と相成(あひな)つてからは段々(だん〳〵)と其(その)引(ひ)き立(た)てを蒙(かうむ)つ       て遂(つひ)に諸侯(しよこう)の列(れつ)に入(い)り下総国(しもふさのくに)関宿城(せきじゆくじよう)七万三千石を領(れう)するに至(いた)つたのであるトコロで此人(このひと)は実子(じつし)がな 笠間牧野家 かつたので家人(かじん)大戸半弥(おほどはんや)の子(こ)式部(しきぶ)と云ふ人(ひと)を養(やしな)つて嗣(し)となしたが之(これ)が即(すなは)ち備前守成春(びぜんのかみなりはる)であつて其(その)子孫(しそん)       は維新当時(ゐしんたうじ)常陸(ひたち)笠間(かさま)の藩主(はんしゆ)で今(いま)の貴族院議員(きぞくゐんぎゐん)子爵(ししやく)牧野貞寧氏(まきのていねいし)である而(しか)して成春(なりはる)は元禄(げんろく)八年十一月 養父(やうふ)        成貞(なりさだ)隠居(ゐんきよ)の後(あと)を受(う)けて相続(さうぞく)し宝永(ほうえい)二年十月 晦日(みそか)久世重之(くぜしげゆき)に代(かは)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)となつたのである其時(そのとき)        領地(れうち)を加増(かぞう)せられて八万石を領(れう)したのであるが此人(このひと)は城主(じようしゆ)たること僅(わづか)に一ケ年半(ねんはん)許(ばかり)で同(おな)じ宝永(ほうえい)の四年三       月廿六日 年(とし)廿六で卒去(そつきよ)せられた併(しか)し此(この)僅(わづか)の間(あひだ)であるが我(わが)橋(とよはし)に取(と)つては中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものを残(のこ)されたの 《割書:吉田の地藉|図》  であるそれは外(ほか)でもないが此人(このひと)が此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)となられた翌年(よくねん)此(この)吉田(よしだ)の市中(しちう)を調査(てうさ)して精密(せいみつ)なる地藉図(ちせきづ)       を製(せい)せしめられた事(こと)である今(いま)も幸(さいはひ)に其中(そのなか)の船町(ふなまち)の分(ぶん)と鍛冶町(かぢまち)の分(ぶん)とは当時(たうじ)のものが各(かく)其(その)大字(おほあざ)に保存(ほぞん)       せられて居(を)る之(これ)は今日(こんにち)に於(おい)ても容易(ようい)ならぬ参考品(さんかうひん)であると思(おも)ふ其(その)実物(じつぶつ)は嘗(かつ)て本市(ほんし)の史料展覧会(しれうてんらんくわい)にも出(しゆつ) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        品(ぴん)されたから諸君(しよくん)の中(なか)でも既(すで)に能(よ)く御承知(ごせうち)の方(かた)があることと信(しん)ずるのである             ⦿牧野大学と其治績 牧野成春   牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)卒去(そつきよ)の後(のち)は其子(そのこ)七 之助成央(のすけなりひで)が相続(さうぞく)して名(な)を大学(だいがく)と改(あらた)め此地(このち)の城主(じようしゆ)となつたのである此(この) 《割書:宝永四年の|大震災》   人(ひと)も後(のち)に備前守(びぜんのかみ)に任(にん)ぜられたのであるが相続(さうぞく)の時(とき)はまだ幼少(ようせう)で僅(わづか)に九 歳(さい)であつた然(しか)るに其年(そのとし)即(すなは)ち宝永(ほうえい)       四年の十月四日に例(れい)の大震災(おほしんさい)が起(おこ)つたのであるが之(これ)が所謂(いはゆる)宝永(ほうえい)の大地震(おほぢしん)である其時(そのとき)諸国(しよこく)の災害(さいがい)は非常(ひぜう)       なもので其月(そのつき)の廿三日からは富士山(ふじさん)が焚(や)けて廿七日に至(いた)るも震動(しんどう)が止(や)まず山腹(さんぷく)新(あらた)に一 峯(ほう)を出(いだ)したので       あるが之(これ)が即(すなは)ち宝永山(ほうえいざん)である此(この)時(とき)の模様(もやう)が一寸(ちよつと)徳川実記(とくがはじつき)の中(なか)にも見(み)えて居(を)るが左(さ)の如(ごと)くである         豆川(づしう)【豆州の誤り】下田港(しもだこう)四日の地震(ぢしん)に高潮(たかしほ)押上(うちあ)げ各所(かくしよ)破損(はそん)の注進(ちうしん)あり甲州(かうしう)見延山(みのぶさん)富士川口(ふじかはこう)崩(くづ)れ遠州(ゑんしう)荒井(あらゐ)の海口(かいこう)も         損(そん)じ其他(そのほか)三 州(しう)城々(しろ〳〵)宿々(しゆく〳〵)此禍(このくわ)にかゝらざるはなし大阪(おほさか)は民屋(みんをく)一万六百 転覆(てんぷく)し生口(せいこう)三千廿人ほど死失(しにう)せ         土佐(とさ)は田圃(でんば)多(おほ)く海(うみ)に入(い)りしと聞(きこ)ゆ        而(しか)して当時(たうじ)に於(おけ)る此(この)吉田(よしだ)の実況(じつけふ)を記録(きろく)したもので宝永(ほうえい)七年四月十二日と日付(ひづけ)のあるのが今(いま)大字(おほあざ)船町(ふなまち)       の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)されて居(を)るが私(わたくし)も幸(さいはひ)に宝永(ほうえい)七年十月に記録(きろく)されたものを蔵(ざう)して居(を)る然(しか)るに此(この)二 者(しや)は孰(いづ) 《割書:吉田の被害|数》  れも大同小異(だいどうせうゐ)で文章(ぶんせう)も殆(ほとん)ど同(どう)一であるがそれに拠(よ)ると当時(たうじ)吉田(よしだ)の戸数(こすう)は一千十一 戸(こ)であつたが此(この)震災(しんさい)       に関(くわん)して全潰家屋(ぜんかいかをく)三百十 戸(こ)半潰(はんかい)二百六十六 戸(こ)で死者(ししや)十一 人(にん)としてある又(ま)た曩(さき)に小笠原長矩(をがさはらながのり)が寄進(きしん)した        城内(じようない)神明社(しんめいしや)の石(いし)の鳥居(とりゐ)も矢張(やはり)其(その)十月四日 未(ひつじ)の刻(こく)の大地震(おほぢしん)に倒潰(たうかい)したのであるが之(これ)は其(その)翌年(よくねん)の六月廿日        成央(なりひで)が家臣(かしん)の奥平(おくだひら)七 郎左衛門(らうざゑもん)に命(めい)じて再建(さいこん)せしめたので其時(そのとき)の棟札(むねふだ)は今(いま)も同社(どうしや)に保存(ほぞん)されて居(を)る兎(と)に 災害の救済  角(かく)此(この)時(とき)の災害(さいがい)は非常(ひぜう)なもので之(これ)が救済策(きうざいさく)として成央(なりひで)は金(かね)を城下(じようか)に貸(か)し下(さ)げ又(ま)た租税(そぜい)を省(はぶ)いたものであ 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百卅九 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十 【本文】       る私(わたくし)の蔵(ざう)して居(を)る記録(きろく)の中(なか)にも        右地震之節従御城主様惣町中え金千両本陣二軒並旅籠屋三十七軒へ金子千両合弐千両十年賦に拝借        被仰付候       とあるが此事(このこと)は市民(しみん)が深(ふか)く之(これ)を徳(とく)としたものと見(み)へて三 州吉田記(しうよしだき)の中(なか)に左(さ)の如(ごと)き事(こと)が書(か)いてある        宝永五年十二月廿一日為祈城主牧野氏之長久総町者於清州屋会合号大日待作謡音曲等遊舞也是依客        年地震諸民所及困窮趣領主以憐愍有租加賑恤是故有此等之事        之(これ)で見(み)ると市民(しみん)は牧野侯(まきのこう)賑恤(しんしゆつ)の恩沢(おんたく)を感謝(かんしや)する為(ため)に大日待(おゝひまち)をやつて其(その)武運長久(ぶうんてうきう)を祈(いの)つたものと見(み)える 造船の補助  地震(ぢしん)の話(はなし)は先(ま)づ之(これ)で止(と)めるが尚(な)ほ此処(こゝ)に申述(もうしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのは造船補助(ざうせんほじよ)の問題(もんだい)である御承知(ごせうち)の        如(ごと)く徳川幕府(とくがはばくふ)は島原(しまはら)の役(えき)あたりから余程(よほど)外国(ぐわいこく)との交渉(かうせう)は懲(こ)りたもので堅(かた)く鎖国(さこく)の方針(はうしん)を採(と)るに至(いた)つた       のであるから其(その)主義(しゆぎ)の上(うへ)より造船(ざうせん)に就(つい)ては厳(げん)に干渉(かんせう)を加(くは)へて五百石 以上(いぜう)の大船(たいせん)と云(い)ふものは之(これ)を製造(せいざう)       することを許(ゆる)さなかつたものである然(しか)るにダン〳〵と江戸(えど)も開(ひら)けて来(き)て諸国(しよこく)から物産(ぶつさん)の輸入(ゆにふ)を促(うなが)さねば       ならぬ事(こと)となつたのであるが交通(かうつう)の便(べん)が少(すくな)い当時(たうじ)の事であるから之(これ)には実際上(じつさいぜう)困(こま)つたので今度(このたび)綱吉(つなよし)の        時代(じだい)となつて遂(つひ)に造船(ざうせん)の制限(せいげん)を緩(ゆる)めて商船(せうせん)に限(かぎ)つては千 石(ごく)までは製造(せいざう)して差支(さしつかへ)ないことにしたのである       ソコで諸侯(しよこう)は往々(おう〳〵)名(な)を商船(せうせん)にかりて大船(たいせん)を製造(せいざう)せしめ各々(おの〳〵)封内(ほうない)の物産(ぶつさん)を江戸(えど)に輸出(ゆしゆつ)することを計(はか)つたの       であるが成央(なりひで)も亦(ま)た数々(しば〳〵)金(かね)を市民(しみん)の船(ふね)を造(つく)るものに借(か)して之(これ)を奨励(せうれい)したのである従(したがつ)て大字(おほあざ)船町(ふなまち)のもの       では此(この)恩沢(おんたく)に浴(よく)したのがイクラもある此事(このこと)は仝町(どうてう)の記録(きろく)にも明(あきらか)に残(のこ)つて居(を)る事であるが寛延(かんえん)三年に        船町(ふなまち)から時(とき)の城主(じようしゆ)に差出(さしいだ)した記録(きろく)の中(なか)に宝永(ほうえい)五年 即(すなは)ち此(この)成央(なりひで)の時代(じだい)の事(こと)として        江戸廻船作事仕候節ハ従御城主様為御救船壱艘に金百両宛御拝借被仰付一ケ年に弐拾両宛五年之内 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千十九号附録    (明治四十五年六月十八日発行) 【本文】        上納仕来り難有奉存候       と云(い)ふ事(こと)が載(の)つて居(を)る即(すなは)ち此(この)造船奨励(ざうせんせうれい)の方法(はう〳〵)は初(はじ)めて成央(なりひで)の時代(じだい)に起(おこ)つたものであるが爾来(じらい)歴代(れきだい)の藩(はん)        主(しゆ)は皆(みな)此(この)方法(はう〳〵)を襲踏(しうたう)したもので我豊橋市民(わがとよはししみん)は其(その)恵沢(けいたく)を蒙(かうむ)つた事(こと)が少(すくな)くない特(とく)に船町(ふなまち)は唯(ゆう)一の湊(みなと)と相成(あひな)       つて居(を)つたのであるから大小(だいせう)の船舶(せんぱく)は皆(みな)大橋(おほはし)の下(もと)に輻輳(ふくそう)して物貨集散(ぶつくわしうさん)の場所(ばしよ)となり次第(しだい)に賑盛(しんせい)を極(きは)む       るに至(いた)つた事(こと)は今(いま)も残(のこ)つて居(を)る諸種(しよしゆ)の記録類(きろくるい)によつて分明(ぶんめい)なる次第(しだい)である        此(かく)の如(ごと)く成央(なりひで)の時代(じだい)には民政上(みんせいぜう)に関(くわん)して中々(なか〳〵)称(せう)すべき事柄(ことがら)があるが現在(げんざい)我豊橋市内(わがとよはししない)に残(のこ)つて居(を)る下水(げすゐ) 《割書:用下水道の|改修》   道(どう)と云(い)ふものも矢張(やはり)宝永(ほうえい)五年 此(この)成央(なりひで)の時代(じだい)に改修(かいしう)を加(くは)へられたものである元来(がんらい)我豊橋市(わがとよはしし)現在(げんざい)の下水道(げすゐどう)       は頗(すこぶ)る古(ふる)くからあるものでイヅレ酒井忠次(さかゐたゞつぐ)なり池田輝政(いけだてるまさ)なりの各時代(かくじだい)に渉(わた)つて次第(しだい)に計劃(けいくわく)されたもの       であろうと信(しん)ずるが一 方(ぱう)には之(これ)に瓦町(かわらまち)大池(おほいけ)の水(みづ)を引(ひ)いて水田(すいでん)の灌漑(かんがい)に供(けう)する用水(ようすゐ)としたものであつて       ソレが市中(しちう)を幾筋(いくすぢ)も通過(つうくわ)して用水(ようすゐ)と下水(げすゐ)との兼用(けんよう)をなして居(を)ると云(い)ふ事(こと)は頗(すこぶ)る研究(けんきう)されたものと思(おも)ふ       のであるが而(しか)して元禄(げんろく)六年八月 小笠原佐渡守長重(をがさはらさどのかみながしげ)の時(とき)に一 度(たび)其(その)整理(せいり)をして規定(きてい)を設(もう)けたが今度(このたび)成央(なりひで)の        代(だい)に又(ま)た其(その)改修(かいしう)を試(こゝろ)みて一 層(そう)其(その)整頓(せいとん)を図(はか)つたのである幸(さいはひ)に当時(たうじ)の絵図面(ゑづめん)が今(いま)も大字(おほあざ)指笠町(いしかさまち)に保存(ほぞん)せら       れて居(を)るが之(これ)は最(もつと)も珍重(ちうじやう)すべきもので今日(こんにち)の行政上(ぎようせうぜう)にも頗(すこぶ)る参考(さんこう)となるべき地図(ちづ)である又(ま)た之(これ)に対(たい)す       る記録(きろく)も残(のこ)つて居(を)つて大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)富田直平氏(とみたなほへいし)の所蔵(しよざう)であつたが当市役所(たうしやくしよ)にも一 部写(ぶうつ)し取(と)らして置(を)いたの       である余(あま)り冗長(ぜうてう)にはなるが目下(もつか)当市(たうし)の下水改良(げすゐかいれう)を急務(きうむ)とする場合(ばあひ)であつて最(もつと)も趣味(しゆみ)のある事(こと)であると       思(おも)ふから之(これ)に関(くわん)する全文(ぜんぶん)を左(さ)に掲(かゝ)ぐることとする                 町々水道筋之事        一此町中水払水道之儀者従先規有来候得共猶以末々迄水道に付違論為無之今度改致絵図水道堀幅町 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十一 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十二 【本文】         裏境迄致吟味絵図之表ニ書付置候事        一町中水払之儀者東方者龍拈寺前へ落合末者田へ払申候事        一西之水道者大工町裏ニ而落合末者新銭町伝次郎田へ掃申候得共其田近年者畑にいたし候ニ付大雨         之節者往還筋迄水払かね町々難儀仕候ニ付御奉行様へ御断申上候得者御役人様御出被遊御見分之         上右之畑之内長四拾四間幅壱間通り合壱畝廿四歩内拾歩者羽田村仁兵衛分此御年貢元禄六年酉之         年ゟ永引ニ被遊水道水払之ために被成下事        一年々水道さらへし節者御奉行様へ御断申上候て御組下之衆中御出し被成見分被仰付候人足之儀者         水流に応じ絵図面之町々ゟ出候てさらへ申候事           元禄六年酉八月         町中水道水払之儀先年小笠原佐渡守様御代御願申上絵図之通水払御改被為遊羽田村地之内稗田         え水善落申候処其巳後稗田埋り畑ニ罷成申候付水先指支え町裏水支つかへ迷惑仕候間此度御願申         上牧野大学様御役人須藤文太夫様御見分之上宝永五子年九月羽田村仁兵衛所持之内稗田九拾弐間         同村善右衛門所持之畑之内拾七間両え合百九間巾六尺通り水道ニ被為仰付永々畝歩御引被為下水         道堀立為永々之堀端青木を植置候様被為仰付難有奉存候事依之今度水道絵図書加改置候           宝永五子年九月廿八日                堀  幅  之  覚 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        一西粗壱番町中程通榎ゟ南角迄堀巾三尺五寸        一萱町西裏羽田村地境堀三尺        一同西角ゟ石橋迄三尺五寸堀三尺        一同石橋ゟ御堂裏石橋迄堀巾壱間        一本町角ゟ石橋迄三尺境橋三尺南へ曲り両町境壱番町迄二尺        一同石橋ゟ東堀角迄堀巾三尺五寸        一四町落口ゟ御堂裏門石橋迄堀巾三尺五寸        一本橋両裏近江屋敷ゟ西萱町角迄堀巾三尺《割書:六寸|五寸》        一近江屋敷北神輿休町界堀二尺同町西境堀巾二尺        一近江屋敷裏西指笠町境三尺五寸堀        一指笠町下石橋ゟ御堂裏迄堀巾三尺五寸        一御堂裏通り堀巾四尺歟御堂裏門ゟ口口壱間堀        一指笠町裏出合より垉六町通り出口迄堀巾三尺        一魚町角ゟ垉六町下り町両側堀巾三尺 但喜美寺前迄        一喜美寺前土橋より西裏通畑境西水落石橋迄堀巾四尺        一本町御門口両側堀巾三尺        一魚町石橋ゟ札木町境迄堀巾三尺五寸        一札木町魚町北裏油屋世古迄堀巾二尺五寸 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十三 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十四 【本文】        一油屋世古東者利町界迄堀巾三尺五寸《割書:季少々曲り札木町|利町境堀巾四尺》        一利町西裏出口迄堀巾三尺        一利町両側紺屋町境迄堀巾二尺五寸        一魚町九郎左衛門前石橋ゟ呉服町裏角迄堀巾四尺        一呉服町裏元鍛冶町北裏堀巾西四尺五寸中四尺末三尺五寸        一龍拈寺森西堀巾四尺 但末田迄        一魚町九郎左衛門前石橋ゟ紺屋町境迄堀巾四尺        一元鍛冶町南裏手間町紺屋町裏西角に少し五尺堀巾有夫ゟ世古町迄堀巾三尺        一神宮寺北裏魚町南裏堀巾三尺五寸        一魚町半兵衛裏ゟ吉祥院前迄二尺末三尺五寸        一権現東ゟ天神北裏迄堀巾三尺五寸        一田町代南堀巾 但三尺        一魚町南裏妙立寺境堀巾二尺歟        一垉六町東裏妙立寺西境堀巾尺世古出合迄三尺        一天神北裏三尺五寸《割書:但両方共に下り町|     新銭町》堀出口迄        一油屋世古中程札木町境ゟ権現前之堀迄二尺五寸        一上伝馬町西裏光明寺地境同門前外ゟ西壱番町榎水落迄堀巾二尺五寸歟        一指笠町両裏立町地境観音寺裏魚町境見通し迄堀巾弐尺右之通り垉六町地境堀巾同断 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千九十六号附録    (明治四十五年六月廿五日発行) 【本文】        一垉六町世古口ゟ南屋敷西裏浄円寺境堀巾三尺         〆水道人足之帳《割書:宝永五年|子十月十三日》但拾弐町        一町裏水道年々十月中之内割付之通町々ゟ人足出し浚させ可申候当年御見分之上羽田村地内堀長サ         百九間二尺余堀巾壱間此畝歩三畝拾九歩畑成田此度御引被下候         堀惣間千弐百七拾九間但拾弐町之間裏人足百人つゝ年々差出し浚可申候               人足割付之覚        一上伝馬町《割書:家数四十二軒|堀間百十四間》             但し天王町ゟ南薬師世古迄半間に用る         庄屋屋敷除之                人足九人宰領組頭壱人        一本町《割書:屋敷二十六軒|堀間百弐間》               但し北側加兵衛ゟ但シ西七軒ハ半間用         庄屋屋敷除之                人足八人宰領組頭壱人        一札木町《割書:家数三十軒|堀間百三十八間》             但し南側斗也此内屋敷問屋会所         長十郎除之                 人足拾壱人銭十九文取        一呉服町《割書:家数弐軒|堀間十四間》               〆人足拾壱人十文出        一萱 町《割書:家数四十六軒  但シ庄屋屋敷除之|堀間百八十一間》       人足十四人《割書:銭廿五文出|宰領壱人》          一指笠町《割書:家数廿八軒   但シ寺方庄屋屋敷除之|堀間百六間》      人足八人《割書:銭廿二文出|宰領壱人》         一神輿休町《割書:家数十二軒  但シ庄屋々敷除之|堀間三十間》       人足弐人銭卅三支出        一魚 町《割書:家数百六軒   但シ右ニ同断|堀間三百五十六間》       人足弐拾八人《割書:銭十七文取|宰領弐人》        一垉六町《割書:家数十四軒   但シ右ニ同断|堀間六十間》       人足五人銭卅壱文取 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十五 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十六 【本文】        一下り町《割書:家数十五軒   但シ右ニ同断|堀間十五間》       人足六人銭十五文        一紺屋町《割書:家数十五軒   但シ右ニ同断|堀間五十七間》      人足四人銭四十一文出        一利 町《割書:家数十八軒   但シ右ニ同断|堀間四十六間》      人足四人銭四十文出         〆人足百人但壱人ニ付百文宛之割         右之通此度相改申向後右之通人足出し浚可申候         水道堀筋破損人足余慶之節者此割合にて可申候         水道に付入用等有之候ハヾ此割合を以用可申候以上           宝永五年子十月十三日              組合町拾弐町庄屋改       此(かく)の如(ごと)く成央(なりひで)の時代(じだい)にはイロ〳〵と治績(ぢせき)の見(み)るべきものがあるが成央(なりひで)は前(まへ)にも御話(おはなし)した如(ごと)くまだ九        歳(さい)の少年(せうねん)で相続(さうぞく)した訳(わけ)であるから其(その)家老(からう)と云(い)ふものに余程(よほど)確(しつか)りした人(ひと)があつて政治(ぢせい)を切(き)り盛(も)りしたも       のと見(み)なければならぬ然(しか)るに当時(たうじ)其(その)衝(せう)に当(あた)つた人(ひと)は誰(たれ)であつたか今(いま)一寸(ちよつと)分(わか)り兼(か)ぬるのである併(しか)し種々(しゆ〳〵)       の資料(しれう)から考(かんが)へて見(み)ると其頃(そのころ)の家老(からう)には藤江竹右衛門(ふぢえたけうゑもん)、 樋口市左衛門(ひぐちいちざゑもん)、 牧野斉(まきのひとし)などゝ云(い)ふ人(ひと)があつた       ので之等(これら)の人(ひと)の中(なか)に然(しか)るべき人材(じんざい)があつて其(その)任(にん)に当(あた)つたものと思(おも)はれるかくて宝永(ほうえい)六年正月には将軍(せうぐん)        綱吉(つなよし)の薨去(こうきよ)があつて六 代目(だいめ)の家宣(いへのぶ)は之(これ)に襲(つい)で征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜられたのであるが宝永(ほうえい)は其(その)八 年目(ねんめ)に正(せう)        徳(とく)と改(あらた)まり其(その)二年の七月十二日を以(もつ)て成央(なりひで)は日向国(ひふがのくに)延岡城(のべをかじよう)に移封(いほう)になつたのである此(この)時(とき)成央(なりひで)は十四 歳(さい)       で父子(ふし)通(つう)じて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)たりし事は僅(わづか)に八年(ねん)に過(す)ぎなかつたのであるが此(この)牧野氏(まきのし)に代(かは)つて此(この)吉田城(よしだじよう) 松平信祝  に来(きた)つたのが即(すなは)ち松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)で今(いま)の大河内子爵家(おゝかうちしゝやくけ)の祖先(そせん)である従(したがつ)て之(これ)から此(この)大河内家(おゝかうちけ)の事に就(つい)      て段々(だん〳〵)と申述(もうしの)ぶる事に仕(し)たいと思(おも)ふのであるが尚(なほ)茲(こゝ)に一つ土肥二三(どひにざう)の事に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)きた 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       いと思(おも)ふ             ⦿土肥ニ三 土肥二三   土肥二三(どひにざう)と云(い)ふ人(ひと)は茶道(ちやどう)の仲間(なかま)に於(おい)ては有名(いうめい)なものであるが其(その)伝記(でんき)の確実(かくじつ)で詳密(せうみつ)なものがドウも得(う)る        事の出来(でき)ぬのは誠(まこと)に遺憾(ゐかん)である併(しか)し此人(このひと)は前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた牧野氏(まきのし)家臣(かしん)で牧野氏(まきのし)が此(この)吉田在城中(よしだざいじようちう)は矢(や)        張(はり)従(したがつ)て此地(このち)に住(ぢう)したのであるが当時(たうじ)其(その)一 子(し)を失(うしな)ひて隠逃(ゐんとう)の志(こゝろざし)を生(せう)じ遂(つひ)に致仕(ちし)して薙髪(ちはつ)し京都(けうと)の岡(をか)        崎(ざき)に隠居(ゐんきよ)したのは事実(じゞつ)である而(しか)して其(その)大要(たいえう)は先(ま)づ伴嵩渓(ばんすうけい)の近世畸人伝(きんせいきじんでん)にあるのが最(もつと)も人(ひと)は知(し)られて居(を)       ることと思(おも)ふからこれを左(さ)に抄録(しようろく)する        (近世畸人伝)  二三は俗称(ぞくせう)土肥孫兵衛(どひまごべゑ)といふ《割書:茶人花押籔に土岐|といへるは誤也》三 州吉田府(しうよしだふ)牧野侯(まきのこう)に仕(つか)へ禄(ろく)二百石を食(は)          む一 子(し)を失(うしな)ひて忽(たちまち)隠心(ゐんしん)を生(せう)しつかへを辞して頭(つもり)おろしける時(とき)とく聞(きゝ)つけて文(ふみ)おこせたる人々(ひと〳〵)          あり其(その)かへりことを人よりおほせて出(いだ)するに今(いま)まての名(な)は似(に)つかはしからず法師(はふし)の名(な)は何(なん)とかい          ふにいなまだ名(な)はなし二とも三ともかけかしといふにやかて二三と書(かき)たればこれよき名(な)なりと          てそれにしたるなり後(のち)都(みやこ)の岡崎(をかざき)に住(すん)て自在軒(じざいけん)といふ纔(わづか)に膝(ひざ)を容(いる)る斗(ばかり)也(なり)                火宅(くわたく)ともしらで火宅(くわたく)にふらめくは                    直に自在(じざい)の鑵子(かんし)也(なり)けり           是(これ)より軒(けん)の名(な)によひける茶(ちや)は織田(をだ)の風(ふう)を学(まな)ひまた香(かう)をこのむ平家(へいけ)をかたり琵琶(びは)はしかも上手(ぜうづ)な          りしとそ常(つね)におとろく斗(ばかり)の美服(びふく)を着(き)たりしがある時(とき)古下駄(ふるげた)を縄(なわ)につなきてもたるをいかにとと          へはかりし人(ひと)にかへすなりといひしこともあり物(もの)ことに心(こゝろ)をとゝめず往来(あうらい)する所(ところ)さだめなしふとこ 【欄外】    豊橋市史談  (土 肥 二 三)                    二百四十七 【欄外】    豊橋市史談  (土 肥 二 三)                    二百四十八 【本文】           ろに金弐ひらをたくはへて其(その)包紙(つゝみがみ)にいつこにてもたふれなん所(ところ)にて體(からだ)をかくし給(たま)はれ是(これ)は其(その)費(ひ)           に充(あて)るなりと書付(かきつけ)しは伯偏(はくへん)が鋤(すき)を荷(にな)はせたるよりもかやすきわさなりされどすくよかなる人(ひと)に           て齢(よはひ)九十に近(ちか)づきて足駄(あしだ)はきて黒谷(くろだに)の茶店(ちやみせ)へ物喰(ものくひ)にゆくこと日(ひ)に三たひ三十 文銭(もんせん)一 日(にち)を過(すご)すに            足(た)るといはれしとなん始(はじめ)に火(ひ)けし壺(つぼ)といふものに米(こめ)をたくはへぬるよしそれも物(もの)うく成(なり)けんか           し杜鵑(とけん)と銘(めい)ある琵琶(びは)一 面(めん)平家(へいけ)二 巻(かん)を三 河(かは)の士(し)山田氏(やまだし)にあたへて今(いま)なほ其家(そのいへ)に蔵(ざう)せりとなん        之(こ)れで大要(たいえう)其(その)人物(じんぶつ)は分(わか)ることと思(おも)ふか此人(このひと)が吉田(よしだ)に居(を)つた当時(たうじ)は牧野氏(まきのし)の頭役物(ものがしらやく)で今(いま)の西(にし)八 町(てう)で悟眞寺(ごしんじ)       の前(まへ)に当(あた)る南側(みなみがは)の角屋敷(かどやしき)が即(すなは)ち其(その)住居(ぢうきよ)であつたと云(い)ふ事(こと)である元来(がんらい)琵琶(びは)の名人(めいじん)であつたが其(その)邸内(ていない)に林(りん)        泉(せん)を構(かま)へ妙音(みようおん)天(てん)を勧請(かんせい)して一の塚(つか)を作(つく)り之(これ)を琵琶塚(びはづか)と名(な)づけたと云ふ事で先年(せんねん)まで其(その)遺跡(ゐせき)は存(ぞん)して居(を)       つたのである又(ま)た此(この)二三がイヨ〳〵吉田(よしだ)を去(さ)つて隠逃(ゐんとう)する時(とき)に其(その)愛器(あいき)にして吐鵑(とけん)と銘(めい)のある琵琶(びは)を此(この)        地(ち)の山田氏(やまだし)に贈(おく)つたと云ふことが畸人伝(きじんでん)にもあるが此(この)山田氏(やまだし)と云ふのは此地(このち)の本陣(ほんぢん)であつた江戸屋(えどや)と称(せう)       した家(いへ)であるが今(いま)其(その)琵琶(びは)はドウなつて居(を)るか家(いへ)も絶(た)えた様(やう)な形(かたち)になつて居(を)るから分(わか)らぬのである又(ま)た        今(いま)の小野道平君(おのどうへいくん)の家(いへ)は余程(よほど)の旧家(きうか)であるが既(すで)に此頃(このころ)は此地(このち)に於(おい)て盛(さかん)にやつて居(を)られたもので当時(たうじ)の主(しゆ)       人(じん)久兵衛(きうべゑ)と云(い)はれた人(ひと)は此(この)二三とは親友(しんいう)のあつたもので二三が京都(けうと)の岡崎(をかざき)に隠居(ゐんきよ)してから寄越(よこ)した書(しよ)        翰(かん)は今(いま)も同家(どうけ)に保存(ほぞん)されて居(を)る其他(そのた)此(この)二三の自画賛(じくわさん)の像(ぜう)と云ふのが畸人伝(きじんでん)にも載(の)つて居(を)るが其(その)実物(じつぶつ)が        大字(おほあざ)曲尺手(かねんて)の加藤彌太郎氏(かとうやたらうし)に蔵(ざう)せられて居(を)る併(しか)し此(この)両者(れうしや)に殆(ほとん)ど同(どう)一 筆法(ひつぱふ)ではあるが余程(よほど)相違(さうゐ)の点(てん)があ       る処(ところ)から見(み)ると此(この)自画賛(じくわさん)はイクラも書(か)いたものと見(み)える而(しか)して其(その)像(ぜう)と云ふものは誠(まこと)の一 筆書(ふでが)きで坊主(ぼうづ)       の後(うし)ろ向(む)きを簡略(かんりやく)に画(ゑが)いたものに過(す)ぎぬが其(その)筆力(ひつりよく)と云ひ画風(ぐわふう)と云ひ又又(ま)た賛(さん)と云ひ誠(まこと)に脱俗(だつぞく)の処(ところ)が見(み)え       て面白(おもしろ)く感(かん)せられるのである其(その)賛(さん)と云ふのは歌(うた)であつて左(さ)の如(ごと)くである 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百号附録    (明治四十五年七月二日発行) 【本文】           山風のたゝく夕部は聴すたゝ              おとなき月にあくる柴の戸             ⦿大河内氏と其祖先        前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く牧野氏(まきのし)に代(かは)りて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)に封(ほう)ぜられたのは松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)であるが此(この)松平伊(まつだひらい) 《割書:大河内氏と|吉田》   豆守(づのかみ)の家(いへ)は即(すなは)ち今(いま)の大河内子爵(おゝかうちしゝやく)の家(いへ)で此事(このこと)は諸君(しよくん)が既(すで)に御承知(ごせうち)であると思(おも)ふ而(しか)も此家(このいへ)は我(わが)豊橋(とよはし)に於(おい)て        最(もつと)も長(なが)き間(あひだ)城主(じようしゆ)であられたのであるから其(その)治世時代(ぢせいじだい)に於(お)ける事柄(ことがら)は随分(ずゐぶん)研究(けんきう)すべき資料(しれう)として今(いま)も        尚(な)ほ残(のこ)つて居(を)るのであるモツトモ此(この)信祝(のぶとき)と云(い)ふ人(ひと)は後(のち)に浜松(はままつ)へ移封(いほう)になつて其後(そのあと)へ暫(しばら)くの間(あひだ)松平(まつだひら)(本       庄)資訓と云ふ人が城主(じようしゆ)となつて来(き)たので此事(このこと)に就(つい)ては後章(こうせう)で詳(くは)しく申述(もうしの)ぶる考(かんがへ)であるが信祝(のぶとき)の子(し)信(のぶ)        復(なほ)と云ふ人が其後(そののち)復(ふたゝ)び本庄氏(もとぜうし)の後(あと)を受(う)けて浜松(はままつ)から此地(このち)に来(きた)りそれからと云ふものは子々孫々(しゝそん〳〵)維新(ゐしん)当(たう)        時迄(じまで)居座(ゐすは)りであつた即(すなは)ち我豊橋市(わがとよはしし)と云ふものは此(この)大河内氏(おゝかうちし)治世時代(ぢせいじだい)の後(あと)を承(う)けて之(これ)に維新後(ゐしんご)の変化(へんくわ)を        蒙(かうむ)つたと云ふのが今日(こんにち)の状態(ぜうたい)あるから今(いま)の豊橋市(とよはしし)を研究(けんきう)する為(ため)には特(とく)に此(この)大河内氏(おゝかうちし)治世時代(ぢせいじだい)の研究(けんきう)       が必要(ひつえう)であるソコで之(これ)から次第(しだい)を追(お)つて諸君(しよくん)と共(とも)に此(この)研究(けんきう)を進(すゝ)めて見(み)たいものであると思(おも)ふ 《割書:大河内氏の|祖先》  トコロで先(ま)づ申述(もをしの)べたいと思(おも)ふのは大河内家(おゝかうちけ)の系統(けいとう)であるが此(この)信祝(のぶとき)と云ふ人は彼(か)の有名(いうめい)なる松平伊豆(まつだひらいづの)        守信綱(かみのぶつな)の四 世(せい)の孫(そん)であつて信綱(のぶつな)の子(こ)は輝綱(てるつな)其子(そのこ)が信輝(のぶてる)而(しか)して其子(そのこ)が此(この)信祝(のぶとき)であるが元来(がんらい)其家(そのいへ)の伝(つた)ふる        処(ところ)に拠(よ)ると此家(このいへ)と云ふものは清和源氏(せいわげんし)であるから言(い)う迄(まで)もなく彼(か)の六 孫王(そんわう)経基(つねもと)の末裔(まつえい)で諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)       の源(げん)一 位(ゐ)頼政(よりまさ)から出(い)でゝ居(を)るのである即(すなは)ち頼政(よりまさ)の二 男(なん)兼綱(かねつな)と云ふ人は治承(ぢせう)四年五月 宇治川(うぢがは)の合戦(かつせん)で父(ちゝ) 大河内顕綱  頼政(よりまさ)と同(おな)じく平氏(へいし)の軍(ぐん)と戦(たゝか)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのであるが其子(そのこ)の顕綱(あきつな)と云ふ人は其時(そのとき)まだ二 歳(さい)の幼児(ようぢ)で 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百四十九 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十 【本文】       あつた然(しか)るに母親(はゝおや)が之(これ)を抱(いだ)いて尾州(びしう)の中島(なかじま)に遁(のが)れ後(のち)三 河(かは)額田郡(ぬかたぐん)の大河内郷(おゝかうちげう)に移(うつ)り匿(かく)れたソコで顕綱(あきつな)成(せい) 大河内郷   長(てう)の後(のち)初(はじ)めて自(みづか)ら大河内源太(おゝかうちげんた)と称(せう)したと云ふ事(こと)になつて居(を)る併(しか)し此(この)大河内郷(おゝかうちげう)と云ふのは旧来(きうらい)余程(よほど)の疑(ぎ)        問(もん)と相成(あひな)つて居(を)るので信祝(のぶとき)自撰(じせん)の大河内家譜(おゝかうちかふ)の中(なか)には三 河国(かはのくに)幡豆郡(はづぐん)西長縄村(にしながなはむら)に大河内(おゝかうち)の家舗跡(やしきあと)と云ふ       のがあるが反(かへ)つて額田郡(ぬかたぐん)に於(おい)ては大河内郷(おゝかうちげう)と云ふのが分明(ぶんめい)でない只(た)だ中根村(なかねむら)大橋村(おほはしむら)の隣郷(りんげう)だと伝(つた)へら       れて居(を)る許(ばかり)で何(な)にも拠(よ)るべきものがないと記(しる)してある而(しか)して顕綱(あきつな)の子(こ)が政顕(まさあき)其子(そのこ)が行重(ゆきしげ)夫(そ)れから宗綱(むねつな)        貞綱(さだつな)、 光将(みつまさ)、 国綱(くにつな)、 眞綱(さねつな)、 信政(のぶまさ)、 信貞(のぶさだ)、秀綱(ひでつな)、 久綱(ひさつな)と相続(さうぞく)して久綱(ひさつな)の子(こ)が即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べた信綱(のぶつな)であ       る併(しか)し此(この)歴代(れきだい)に就(つい)ても種々(しゆ〳〵)な疑問(ぎもん)もあるが信祝(のぶとき)自撰(じせん)の家譜(かふ)には色々(いろ〳〵)と考証(かうせう)を重(かさ)ねた結果(けつくわ)右(みぎ)の如(ごと)くに断(だん)        定(てい)されてあるのである        大河内氏(おゝかうちし)の系統(けいとう)は先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)であるが其(その)初(はじ)めて大河内姓(おゝかうちせい)を名乗(なの)つたと云ふ顕綱(あきつな)と云ふ人は        如何(いか)なる人であつたかと云ふに此人(このひと)は成長(せいてう)の後(のち)足利義氏(あしかゞよしうぢ)に属(ぞく)して其(その)被官(ひくわん)となつたのである最も此(この)足利(あしかゞ)        義氏(よしうじ)と云ふのは御承知(ごせうち)でもあろうが足利氏(あしかゞし)の祖(そ)義康(よしやす)の孫(そん)で父(ちゝ)は義兼(よしかね)であるが後(のち)に源頼朝(みなもとよりとも)の女婿(ぢよせい)とな 吉良荘   つたので名族(めいぞく)の上(うへ)に頗(すこぶ)る関東(くわんとう)に於(おい)ては勢威(せいゐ)のあつたものであるが之(これ)が三 河国(かはのくに)吉良荘(きらそう)の地頭職(ぢとうしよく)を領(れう)して        居(を)つたのである当時(たうじ)の吉良荘(きらそう)と云ふのは殆(ほとん)ど今日(こんにち)に於(お)ける幡豆郡(はづぐん)一 帯(たい)の地(ち)とも見(み)るべきものであるが 吉良長氏   此(この)義氏(よしうぢ)の長子(てうし)長氏(ながうぢ)と云ふ人は病身(びようしん)であつたので父(ちゝ)の家督(かとく)は其(その)弟(おとゝ)の泰氏(やすうぢ)に譲(ゆづ)つて自身(じしん)は遂(つひ)に此(この)吉良荘(きらそう)に        隠居(ゐんきよ)し西條(さいじよう)に住(ぢう)したのである西條(さいじよう)は即(すなは)ち今日(こんにち)の西尾町(にしをまち)附近(ふきん)であるが之(これ)が抑(そもそ)も吉良氏(きらし)の起(おこ)りである従て        此(この)大河内氏(おゝかうちし)は之(これ)より歴代(れきだい)吉良家(きらけ)の被官(ひくわん)として之(これ)に属(ぞく)したのであるが顕綱(あきつな)は寛喜(かんき)二年十月二十日 年(とし)五十       二で病没(びようぼつ)したのであるから丁度(ちようど)此年(このとし)は長氏(ながうぢ)十九 歳(さい)の時(とき)である併(しか)し之(これ)が既(すで)に長氏(ながうぢ)三 河(かは)居住(きよぢう)の後(のち)なるや否(いなや) 大河内政顕 は今(いま)少(すこ)しく分(かは)り兼(か)ぬるのであるが顕綱(あきつな)の子(こ)政顕(まさあき)は此(この)長氏(ながうぢ)に属(ぞく)して幡豆郡(はづぐん)の内(うち)、 寺津(てらつ)、 江原(えはら)両郷(れうげう)を領地(れうち) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       したのである此人(このひと)は木工之助(かくみのすけ)と称(せう)し弘安(こうあん)九年八十六 歳(さい)で卒去(そつきよ)して法名(はふめい)を円通(ゑんつう)と号(ごう)したが其(その)弟(おとゝ)に貞顕(さだあき)と 《割書:長縄の大河|内氏》  云ふのがあつて左衛門尉(さゑもんぜう)と称(せう)した之(これ)は所謂(いはゆる)長縄(ながなは)の大河内氏(おゝかうちし)の祖(そ)であるが此(この)大河内氏(おゝかうち)の一 族(ぞく)と云ふものは 《割書:秋池窪田杉|臥蝶の大河|内氏》   其後(そののち)段々(だん〴〵)と此(この)地方(ちはう)に繁延(はんえん)したもので其他(そのた)にも秋池(あきいけ)の大河内(おゝかうち)、 窪田(くぼた)の大河内(おゝかうち)、 杉(すぎ)の大河内(おゝかうち)、 臥蝶(ふせちよう)の大河(おゝかう) 《割書:桃井の大河|内氏》   内(ち)など種々(しゆ〳〵)に分岐(ぶんき)したものである又(ま)た右(みぎ)の外(ほか)にまだ桃井(もゝゐ)の大河内(おゝかうち)と云ふのがあるが此(この)系統(けいとう)は旧来(きうらい)少(すこ)し       く疑問(ぎもん)で其先(そのさき)は矢張(やはり)源氏(げんじ)には相違(さうゐ)ないが果(はた)して兼綱(かねつな)の血統(けつとう)なるや否(いなや)は明瞭(めいれう)せぬようである兎(と)に角(かく)此(この)桃(もゝ)        井系(ゐけい)は彼(か)の波合記(なみあいき)で能(よ)く人に知(し)られては居(を)るが其(その)波合記(なみあひき)と云ふ記録(きろく)が既(すで)に疑問(ぎもん)のものであるから到底(たうてい)        当(あ)てにはならぬのでる併(しか)し此(この)桃井系(もゝゐけい)には中々(なか〳〵)有名(いうめい)な人物(じんぶつ)を出(いだ)して居(を)る彼(か)の清康(きよやす)最後(さいご)の妻(つま)であつて家(いへ) 《割書:大河内元網|華陽院夫人》   康(やす)から言(い)ふと祖母(そぼ)に当(あた)る処(ところ)の華陽院(かようゐん)と云ふのは此(この)桃井(もゝゐ)大河内元網(おゝかうちもとつな)の養女(やうぢよ)であるが此人(このひと)は初(はじ)め水野忠政(みづのたゞまさ)       の妻(つま)となつて一 女(ぢよ)を生(う)み離別後(りべつご)清康(きよやす)に嫁(か)したのである而(しか)も其(その)一 女(ぢよ)と云ふのが後(のち)に清康(きよやす)の先妻(せんさい)青木氏(あおきし)の        出(しゆつ)である処(ところ)の広忠(ひろたゞ)の妻(つま)となつて其(その)間(あひだ)に家康(いへやす)を生(う)むだのであるが此(この)女(ぢよ)が之迄(これまで)も度々(たび〳〵)申述(もをしの)べてある彼(か)の伝(でん)        通院(つうゐん)である而(しか)して此(この)華陽院(かようゐん)は清康(きよやす)に再嫁(さいか)してからも又(ま)た一 女子(ぢよし)を挙(あ)げたが私(わたくし)は此(この)女子(ぢよし)が即(すなは)ち後(のち)に酒井(さかゐ)        忠次(たゞつぐ)に嫁(か)した光樹夫人(くわうじゆふじん)であると信(しん)ずるのである果(はた)して然(しか)りとすればズツト初(はじ)めに申述(もをしの)べてある当市(たうし)吉(よし)        屋(や)龍拈寺(りうねんじ)に蔵(ざう)せる忠次夫人(たゞつぐふじん)の寄付(きふ)にかゝる其(その)母堂(ぼどう)の肖像(せうざう)と云ふのは全(まつた)く此(この)華陽院(かようゐん)の画像(ぐわぜう)であると信(しん)じ       て疑(うたが)はぬのであるが其(その)容貌(ようばう)と云ひ又(ま)た岡崎(をかざき)隨念寺(ずゐねんじ)にある清康(きよやす)の像(ぜう)との対照(たいせう)から考(かんが)へても之(これ)は蓋(けだ)し誤(あやま)ら 大河内政局 ざる鑑定(かんてい)であると確信(かくしん)して居(を)るのである又(ま)た此(この)元網(もとつな)の孫(そん)に大河内源(おゝかうちげん)三 郎(らう)政局と云ふのがあつたが此人(このひと)       の伝記(でんき)に就(つい)ても亦(ま)た実(じつ)に伝(つた)ふべきものがあるのでソレは天正(てんせう)二年 武田勝頼(たけだかつより)が遠江(とほとふみ)の高天神城(たかてんじんじよう)を攻(せ)めた        時(とき)家康(いへやす)の守将(しゆせう)小笠原與(をがさはらよ)八 郎長忠(らうながたゞ)は遂(つひ)に力(ちから)及(およ)ばずして勝頼(かつより)に下(くだ)つたのであるが独(ひと)り其(その)軍監(ぐんかん)たりし此(こ)の大(おゝ)        河内(かうち)政局は降(こう)を肯(がえん)ぜなかつたソコで勝頼(かつより)は怒(いか)つて之(これ)を城後(じようご)の石牢中(いしろうちう)に幽閉(ゆうへい)したが政局は遂(つひ)に最後(さいご)まで 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十一 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十二 【本文】        節(せつ)を変(へん)ぜなかつた然(しか)るにヨウ〳〵八 年目(ねんめ)で再(ふたゝ)び高天神城(たかてんじんのしろ)が家康(いへやす)の手(て)に復(ふく)するに至(いた)つて初(はじ)めて牢(ろう)から出(で)       る事が出来(でき)たが長々(なが〳〵)の幽閉(ゆうへい)で腰(こし)が抜(ぬ)けて立(た)つ事が出来(でき)なかつたとの事(こと)である此(この)義心(ぎしん)に就(つい)ては家康(いへやす)は勿(もち)        論(ろん)敵(てき)も味方(みかた)も感(かん)ぜざるものはなかつたと云(い)ふ事(こと)であるサテ話(はなし)は大層(たいそう)横道(よこみち)に入(い)つたが復(ま)た初(はじ)めに戻(もど)ること       として此(この)大河内家(おゝかうちけ)の系統(けいとう)と云ふ者は政顕(まさあき)から行重(ゆきしげ)、 宗綱(むねつな)、 貞綱(さだつな)、 光将(みつまさ)、 光綱(みつゝな)と相継(あひつ)いだ事は前(まへ)に申(もをし) 大河内光綱  述(の)べた如(ごと)くであるが此(この)光綱(みつつな)の時代(じだい)に至(いた)つては室町幕府(むろまちばくふ)も既(すで)に衰運(すいうん)に皈(き)して天下(てんか)は殆(ほとん)ど乱(みだ)れむとしたが 大河内信政  此人(このひと)は文明(ぶんめい)元年(がんねん)七月十八日 幡豆郡(はづぐん)山王山(さんわうざん)の戦(たゝかひ)で戦死(せんし)したのである而(しか)して其子(そのこ)が眞綱(さねつな)又(また)其子(そのこ)が信政(のぶまさ)であ       るが此(この)信政(のぶまさ)と云ふ人(ひと)は初(はじ)め五郎三郎 後(のち)に大蔵少輔(おゝくらせうゆう)と称(せう)し一に信綱(のぶつな)とも名乗(なの)つたものと信(しん)ぜられる而(しか)し       て此人(このひと)の事(こと)からは稍々(やゝ)分(わか)るように思(おも)はれるのであるが其(その)遺蹟(ゐせき)も尚(な)ほ幡豆郡(はづぐん)の寺津(てらづ)に残(のこ)つて居(を)るのであ 義光院   る第(だい)一に同村(どうそん)の義光院(ぎくわうゐん)と云ふ寺(てら)は永正(えいせう)十年の草創(さう〳〵)で最初(さいしよ)信定(のぶさだ)の建立(こんりう)したものであるが同寺内(どうじない)に其(その)墓(はか)も        残(のこ)つて居(ゐ)て表面(ひようめん)に大河内大蔵少輔義光院殿正儀大禅門(おゝかうちおゝくらせうゆうぎくわうゐんでんせいぎだいぜんもん)と刻(こく)してあるモツトモ之(これ)は至(いた)つて小(ち)さなもので        何時頃(いつごろ)に建(た)てたものか余(あま)り古(ふる)いものとは思(おも)はれぬ又(ま)た同寺(どうじ)の鐘(かね)にも銘(めい)があつて其(その)草創(さう〳〵)の略歴(りやくれき)が記(しる)して       ある之(こ)れ亦(ま)た後世(こうせい)のもので文政(ぶんせい)二年 再鋳(さいちう)の節(せつ)に鋳込(いこ)むだものではあるが之等(これら)は孰(いづ)れも多大(ただい)の参考(さんこう)とな       るものである其他(そのた)同村(どうそん)の八 幡社(まんしや)にも同(おな)じ永正(えいせう)十年 卯月(うづき)十二日に信政(のぶまさ)が納(おさ)めた棟札(むねふだ)がある之(これ)にも矢張(やはり)名(な)        乗(のり)は信綱(のぶつな)と記(しる)してある而(しか)して義光院(ぎくわうゐん)の過去帳(くわこてう)によると此人は永正(えいせう)十七年八月二十二日 逝去(せいきよ)とあるので       ある 大河内貞綱  又(ま)た其頃(そのころ)大河内氏(おゝかうちし)の一 属(ぞく)に大河内備中守貞綱(おゝかうちびちうのかみさだつな)と云ふ人があつたが此人(このひと)の系統(けいとう)は甚(はなは)だ明(あきら)かでない併(しか)し臥(ふせ)        蝶(ちよう)の大河内氏(おゝかうちし)の流(りう)であると云ふのが確実(かくじつ)であると思(おも)ふ即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べて置(お)いた長縄(ながなは)の大河内貞顕(おゝかうちさだあき)の二        男(なん)に三 郎左衛門尉貞康(らうさゑもんぜうさだやす)と云ふ人があつたが此(この)貞綱(さだつな)は実(じつ)に其(その)末裔(まつゑい)であつて大河内家譜(おゝかうちかふ)に欠綱(かけつな)とあるのは 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百八号附録    (明治四十五年七月二日発行) 【本文】        確(たしか)に此人(このひと)の事(こと)であると信(しん)ずる而(しか)して永正中(えいせうちう)尾張(をわり)の斯波義遠(しばよしとう)が丁度(てうど)遠江(とほとふみ)の守護(しゆご)であつたが吉良氏(きらし)は此(この)貞(さだ)        綱(つな)をして遠江(とほとふみ)浜名荘(はまなそう)に籠(こも)らしめて義遠(よしとう)と相応(あひおう)じ以(もつ)て当時(とうじ)漸(やうや)く爪芽(さうが)を西(にし)に伸(のば)さむとしつゝある今川氏親(いまがはうぢちか)       の兵(へい)と相戦(あひたゝか)つたのである其頃(そのころ)今川方(いまがはかた)では朝比奈備中守(あさひなびつちうのかみ)泰凞と云(い)ふ人(ひと)が駿河(するが)の宇津山(うつやま)の城(しろ)に居(を)つて永正(えいせう)       九 年(ねん)五月 貞綱(さだつな)等(ら)と相戦(あひたゝか)つたが貞綱(さだつな)は遂(つひ)に之(これ)が為(ため)に敗(やぶ)られたのである然(しか)るに其後(そのご)十 年(ねん)に至(いた)つて貞綱(さだつな)は        再(ふたゝ)び兵(へい)を集(あつ)めて天龍川(てんりうがは)近傍(きんばう)を攻略(こうりやく)し勢(いきほひ)頗(すこぶ)る猖獗(せうけつ)であつたので其頃(そのころ)泰凞は早(は)や病没(びやうぼつ)し其子(そのこ)泰能(やすよし)がまだ        幼少(ようせう)である処(ところ)から叔父(おぢ)の泰以が専(もつぱ)ら軍国(ぐんこく)の事(こと)を決(けつ)して居(を)つたが永正(えいせう)十二 年(ねん)今度(このたび)は氏親(うぢちか)自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ゐて        攻(せ)め来(きた)つたので其(その)八月十九日 貞綱(さだつな)は復(ま)た又(ま)た敗(やぶ)られて其(その)弟(おとゝ)巨海新左衛門貞政(こみしんざゑもんさだまさ)と共(とも)に打死(うちじに)をして仕舞(しま)つ       たのである此(この)時(とき)独(ひと)り義遠(よしとう)は今川方(いまがはかた)に降参(こうさん)したが氏親(うぢちか)は之(これ)を剃髪(ていはつ)せしめて名(な)を安心(あんしん)と改(あらた)め尾張(をわり)に送還(そうかん)し       たのである此話(このはなし)は一寸(ちよつと)著(いちじる)しきものであるから茲(こゝ)に其(その)大要(たいえう)を申述(まうしの)べて置(お)く次第(しだい)であるが尚(なほ)其外(そのほか)に今(いま)一 《割書:大河内善兵|衛政綱》  つ御話(おはなし)して置(お)きたいのは其頃(そのころ)長縄(ながなは)の大河内(おほかうち)一 統(とう)にも大河内善兵衛政綱(おほかうちぜんべゑまさつな)と云(い)ふ勇士(ゆうし)があつた事(こと)である此(この)        人(ひと)は前(まへ)にも申述(まうしの)べた大河内左衛門尉貞顕(おほかうちさゑもんのぜうさだあき)十四 世(せい)の孫(そん)で父(ちゝ)を基孝(もとたか)(一に基高(もとたか))と云(い)つたが此(この)基孝(もとたか)と云(い)ふ人 大河内基孝 は永正(えいせう)十二年の生(うま)れで先(さき)に申述(まうしの)べた幡豆郡(はづぐん)の西長縄村(にしながなはむら)に住(ぢう)し慶長(けいちやう)十七 年(ねん)十二月五日 年(とし)九十八で卒(そつ)した       のである而(しか)して晩年(ばんねん)には剃髪(ていはつ)して出雲守入道古顕(いづものかみにうどうこげん)と号(ごう)したが初(はじ)めは矢張(やはり)吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)し刈屋(かりや)、 上野(うへの)、        東條(とうぜう)などの戦(たゝかひ)に与(あづか)つて頗(すこぶ)る戦功(せんこう)があつたが最後(さいご)には家康(いへやす)に属(ぞく)するに至(いた)つたのであるソコで此(この)政綱(まさつな)も亦(ま)       た初(はじ)めは吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)し永禄(えいろく)四年 並(ならび)に其(その)七年に家康(いへやす)が東條(とうぜう)を攻(せ)めた時(とき)には政綱(まさつな)は吉良勢(きらぜい)の中(なか)にあつて        力戦(りきせん)した事(こと)は頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)な話(はなし)であるモツトモ永禄(えいろく)四年の時(とき)には政綱(まさつな)年(とし)僅(わづか)に十六 歳(さい)であつたと記(しる)してある       ものが多(おほ)いが政綱(まさつな)は寛永(かんえい)四 年(ねん)二月廿三日八十三 歳(さい)で卒去(そつきよ)した人(ひと)であるからそれから推(お)すと永禄(えいろく)四年に       は十七 歳(さい)であつた訳(わけ)である其後(そのご)義昭(よしあき)が遂(つひ)に降(こう)を請(こう)つて国(くに)を去(さ)るに及(およ)むで政綱(まさつな)は徳川家(とくがはけ)に質(しち)となつたの 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十三 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十四 【本文】       であるがそのまゝ遂(つひ)に徳川氏(とくがはし)に任(つか)へて家康(いへやす)の信任(しんにん)を得(う)るに至(いた)つたのである爾来(じらい)は各戦役毎(かくせんえきごと)に徳川氏(とくがはし)の        為(ため)に功労(こうろう)のあつた人(ひと)で其(その)伝記(でんき)を述(の)ぶれば長(なが)くもなるが直接(ちよくせつ)本史談(ほんしだん)に関係(かんけい)も少(すくな)いから今(いま)は大要(たいえう)のみを申(まうし)        述(の)ぶるに止(とゞ)むる事(こと)とする 大河内信貞 サテ話(はなし)は復(ふたゝ)び前(まへ)に戻(もど)つて大河内信政(おほかうちのぶまさ)の後(あと)を継(つ)いだのは其子(そのこ)の信貞(のぶさだ)であるが信政(のぶまさ)は初(はじ)め孫太郎(まごたろう)と称(せう)し寺(てら) 金剛院    津(つ)の金剛院(こんがうゐん)と云(い)ふ寺(てら)は即(すなは)ち天文(てんぶん)二年に此(この)信貞(のぶさだ)が大河内氏(おほかうちし)の菩提寺(ぼだいじ)として創立(そうりつ)したもので今(いま)も存在(ぞんざい)して        居(を)るが此(この)信貞(のぶさだ)の墓(はか)も其(その)境内(けいだい)にあるのである而(しか)して此人(このひと)逝去(せいきよ)の時(とき)は永禄(えいろく)元年(がんねん)九月八日であるが其子(そのこ)が即       ち彼(か)の大河内金兵衛秀綱(おほかうちきんべいひでつな)である 大河内秀綱   秀綱(ひでつな)も亦(ま)た幼名(ようめい)を孫太郎(まごたろう)と称(せう)し天文(てんぶん)十五 年(ねん)の生(うまれ)である之は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)なる人(ひと)で今(いま)の 臥 蝶 城  寺津城址(てらつじようし)は此(この)秀綱(ひでつな)が居(を)つた処(ところ)であると伝(つた)へられてあるが元来(がんらい)此寺津の城(しろ)は臥蝶城(ふせてふぜう)と呼(よ)ばれたので先(さき)に        申述(まうしの)べた貞綱(さだつな)の如きも諸記録(しよきろく)に臥蝶地頭(ふせてふぢとう)をして散見(さんけん)さるゝ処(ところ)である従(したがつ)て大河内氏(おほかうちし)の一 族(ぞく)と云(い)ふものは        旧来(きうらい)寺津附近(てらつふきん)を中心(ちうしん)として構(かま)へて居(を)つたものである事は確(たしか)であるが併(しか)し現存(げんぞん)して居る城址(じようし)が果(はた)して秀(ひで)        綱(つな)以前(いぜん)よりのものなるや否(いなや)はドウモ分(わか)り兼(か)ぬる処(ところ)である而(しか)して此秀綱は頗(すこぶ)る智勇(ちゆう)のあつた人(ひと)であるが        大河内家譜(おほかうちかふ)によると吉良(きら)の家士(かし)と争論(そうろん)の事があつて家士(かし)十三 人(にん)が相党(あひとう)して秀綱(ひでつな)を襲(う)つたが秀綱(ひでつな)は単騎(たんき)        薙刀(なぎなた)を揮(ふる)つて悉(こと〴〵)く此(この)十三 人(にん)を殪(たほ)し遂(つひ)に吉良家(きらけ)を脱(だつ)して伊奈備前守忠政(いなびぜんのかみたゞまさ)に寄(よ)つたのが因縁(ゐんねん)となつて家康(いへやす) 《割書:秀綱家康に|任へ遠江国》  の為(ため)に召(め)し抱(かゝ)へられ遠江国(とほとふみくに)稗原(ひえばら)に領地(れうち)を賜(たまは)つたと記(しる)してある然(しか)るに此事(このこと)に就(つい)て色々(いろ〳〵)な異説(いせつ)がある野(や) 《割書:稗原の地を|領す》   史(し)には稗原(ひえばら)の地(ち)を賜(たまは)つたのは父(ちゝ)の信貞(のぶさだ)で秀綱(ひでつな)は終始(しうし)吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)して義昭(よしあき)の出奔(しゆつほん)に至(いた)るまで義節(ぎせつ)を守(まも)       り沈淪(ちんりん)四十四年 晩年(ばんねん)に及(およ)むで窮蹙(きうしゆく)して伊奈忠政(いなたゞまさ)に寄(よ)つたのであると記(しる)してあるが之はドウモ不条理(ふぜうり)な        説(せつ)であると思(おも)ふ家康(いへやす)が遠江(とほとふみ)を取(と)つたのは御承知(ごせうち)の如く永禄(えいろく)十二年の事で無論(むろん)信貞(のぶさだ)逝去(せいきよ)以後(いご)であるから 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        家康(いへやす)が遠江(とほとふみ)の稗原(ひえばら)を信貞(のぶさだ)に与(あた)へたと云(い)ふのは受取(うけと)れぬ説(せつ)である又た吉良義昭(きらよしあき)が一 向専修(かうせんしう)の乱(らん)に与(く)みし       て再(ふたゝ)び家康(いへやす)に反(そむ)き遂(つひ)に戦敗(いくさやぶ)れて近江国(あふみのくに)に出奔(しゆつぽん)したのは永禄(えいろく)七年の事であるから秀綱(ひでつな)は此時(このとき)年(とし)僅(わづか)に十九        歳(さい)である仮令(たとひ)其後(そのご)吉良(きら)の残党(ざんとう)が残(のこ)つて居(を)つて徳川氏(とくがはし)に服従(ふくぢう)しなかつたとしても沈淪(ちんりん)四十四年は少(すこ)しく        受取(うけと)れぬ処(ところ)である併(しか)し初(はじ)め一 向専修(かうせんしう)の乱(らん)が起(おこ)つて義昭(よしあき)が之に与(くみ)せんとした時には秀綱(ひでつな)は政綱(まさつな)と共に其        不可(ふか)を主張(しゆてう)して義昭(よしあき)を諌(いさ)めたのみならず永禄(えいろく)七年二月に家康(いへやす)が松井忠次(まつゐたゞつぐ)をして東條(とうぜう)を攻(せ)めしめた時(とき)に       は秀綱(ひでつな)、 政綱(まさつな)は共(とも)に吉良勢(きらぜい)にあつて奮戦(ふんせん)して居る処(ところ)から推(お)すと秀綱の忠政(たゞまさ)に寄(よ)つたのは無論(むろん)其後(そのご)の事       で種々(しゆ〴〵)なる材料(ざいれう)から推断(すゐだん)するとドウモ元亀(げんき)の末年(まつねん)か天正(てんせう)の初年(しよねん)の事と思(おも)はれる而(しか)して家康(いへやす)から稗原の       地を貰(むら)つたのは言(い)ふ迄(まで)もなく此(この)秀綱(ひでつな)であると信(しん)ずるのであるソコで此(この)稗原(ひえばら)と云(い)ふ処(ところ)であるが旧来(きうらい)ドウ       モ判然(はんぜん)たる記録(きろく)がないのである併(しか)し今(いま)遠江(とほとふみ)磐田郡(いはたぐん)の袖浦村(そでうらむら)の中(うち)に稗原(ひえばら)と云ふ大字(おほあざ)が残(のこ)つて居るが私は        此附近(このふきん)の地(ち)である事を信(しん)ずるものである 《割書:秀綱参遠両|国租税の事|を司る》  サテ此(この)秀綱(ひでつな)と云(い)ふ人は一 方(ぱう)に智勇(ちゆう)であつたのみならず頗(すこぶ)る吏才(りさい)にも長(てう)じて居(を)つたものと見(み)えて家康(いへやす)に        仕(つか)へてからは参遠両国(さんえんれうこく)租税(そぜい)の事を司(つかさど)つて居たが勿論(もちろん)之は専務(せんむ)ではなかつた晩年(ばんねん)には江戸神田(えどかんだ)の鷹(たか)        匠町(せうてう)(《割書:今の小川町|なりと伝ふ》)に邸宅(ていたく)を賜(たまは)つて之に居つたが隠居後(ゐんきよご)は剃髪(ていはつ)して休心(きうしん)と称(せう)した元和(げんわ)四 年(ねん)九月十三日 年(とし)七 平 林 寺 十三で卒去(そつきよ)し武蔵国岩槻(むさしのくにいはつき)の平林寺(へいりんじ)に葬(ほうむ)つたのであるモツトモ此(この)寺(てら)は其後(そのご)同国(どうこく)の野火留(のびどめ)に移(うつ)されたので        今(いま)も尚(な)ほ墓(はか)は其処(そこ)に残(のこ)つて居(を)るが寺津(てらつ)の金剛院(こんごうゐん)にも亦(ま)た信貞(のぶさだ)の墓(はか)と相並(あひなら)むで墓標(ぼへう)が立(た)てられてあるの       である 大河内久綱  秀綱(ひでつな)には男子(だんし)が四 人(にん)あつたが長男(てうなん)が久綱(ひさつな)で二 男(なん)が正綱である而(しか)して久綱(ひさつな)は父(ちゝ)秀綱(ひでつな)の後(あと)を襲(つ)いで矢張(やはり)大 大河内正綱 河内金兵衛と名乗(なの)つたが幼名(ようめい)も亦(ま)た父祖(ふそ)と同じく孫太郎(まごたろう)であつた元亀(げんき)元年(がんねん)十二月十五日三 河(かは)に於(おい)て生(うま) 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十五 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十六 【本文】       れ後(のち)に家康(いへやす)に仕(つか)へて租税(そぜい)の事を掌(つかさど)つたのである然(しか)るに正綱(まさつな)の方(はう)は天正(てんせう)四年六月十二日 遠江国(とほとふみのくに)長江村(ながえむら)に 《割書:正綱長沢松|平氏を継ぐ》   於(おい)て生(うま)れたのであるが十七 歳(さい)の時より家康(いへやす)の側近(そばちか)くに召仕(めしつかは)れたので其命(そのめい)によつて松平甚右衛門(まつだひらじんゑもんの)尉 正次(まさつぐ)       の後(あと)を継(つ)いだのである此(この)甚右衛門(じんえもん)尉と云(い)ふのは即(すなは)ち長沢(ながさは)の松平氏(まつだひらし)で其先(そのさき)は嘗(かつ)て申述(まうしの)べた如く松平和泉(まつだひらいづみの)        守信光(かみのぶみつ)から出(い)でて居(を)るのであるから所謂(いはゆる)徳川家の連枝(れんし)である従(したがつ)て当時は中々(なか〳〵)喧(かまひ)しい家筋(いへすぢ)であつた特(とく)に 《割書:正綱吏務に|長ず》  此正綱には頗(すこぶ)る伝(つた)ふべき事が多(おほ)いのであるが此人(このひと)は最(もつと)も吏務(りむ)に長(てう)じて居つた人で家康(いへやす)がまだ僅(わづか)に関東       八州を領(れう)して居(を)つた頃(ころ)から遂(つひ)に天下(てんか)を平定(へいてい)するに至つた後(のち)までも徳川氏(とくがはし)の財政(ざいせい)一 切(さい)と云ふものは其一        人(にん)の手(て)によつて処理(しより)せられたのである而(しか)も一時の淹滞(あんたい)することがなく常(つね)に軍国多端(ぐんこくたたん)の間(あひだ)にあつて能(よ)く経(けい)        済(ざい)を支(さゝ)え遂(と)げたのであるから其(その)功績(こうせき)と云ふものは実(じつ)に偉大(いだい)であつて徳川氏(とくがはし)に於ける蕭何(せうか)とは実(げ)に此人       の謂であろうと思(おも)ふ晩年(ばんねん)には伊丹播磨守康勝(いたみはりまのかみやすかつ)が之に加(くわ)はつたが其内(そのうち)に正綱(まさつな)も老(を)いて隠居(ゐんきよ)するに至(いた)つた       ので寛永(かんえい)十九年三月三日 初(はじ)めて勘定頭(かんぜうがしら)と云(い)ふ役(やく)を置(お)いて前(まへ)の播磨守(はりまのかみ)と酒井紀伊守忠吉(さかゐきいのかみただよし)、 杉浦内蔵允正綱(すぎうらくらのすけまさ)        友(とも)三 人(にん)をして其事に当(あた)らしむるに至(いた)つたが実(じつ)は之迄(これまで)長(なが)い間(あひだ)正綱(まさつな)一人で処理(しより)して居つた仕事(しごと)である右(みぎ)の       如き訳(わけ)であるから徳川氏(とくがはし)初期(しよき)の財政(ざいせい)と云ふものは先(ま)づ悉(こと〴〵)く此人の計画(けいくわく)せるものと見(み)てよいのであるが 《割書:正綱の日光|殖林》  其中にも特(とく)に伝(つた)へたいと思(おも)ふのは此人の殖林事業(しよくりんじげふ)である       此人の殖林事業(しよくりんじげふ)の中でも最(もつと)も有名(ゆうめい)なのは箱根山(はこねやま)と日光山(につこうざん)とに杉(すぎ)を植(う)へ付(つ)けた事であるが特(とく)に日光山(につこうざん)の        殖林(しよくりん)は大に研究(けんきう)するの価値(かち)あるものと思ふ御承知(ごせうち)の通(とお)り徳川家康(とくがはいへやす)が薨去(こうきよ)されたのは元和(げんな)二年の四月十       七日であるが幕府(ばくふ)ではイヨ〳〵其(その)廟所(びやうしよ)を下野国(しもつけのくに)日光山に建設(けんせつ)することとなつて早速(さつそく)工事(こうじ)に着手(ちやくしゆ)したが其      成つたのは翌(よく)二 年(ねん)の三月であるソコで諸侯(しよこう)からは金銭(きんせん)に厭(いと)はず競(きそ)つて種々(しゆ〴〵)の物(もの)を寄進(きしん)したが当時(たうじ)正綱(まさつな)       は未(いま)だ僅(わづか)に四千六百七十石 許(ばかり)の小禄(せうろく)であつたので到底(とうてい)諸大名(しよだいめう)と同(おな)じ様(よう)に物品(ぶつぴん)を寄進(きしん)した処(ところ)がタイシた 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百十四号附録    (明治四十五年七月十六日発行) 【本文】        事(こと)も出来(でき)ぬそれよりは日光山(につこうざん)及び其(その)沿道(ゑんどう)に杉苗(すぎなへ)を植(う)へ付(つ)けて之を寄進(きしん)した方(はう)が遥(はる)か後世(こうせい)の為に有益(ゆうえき)で       あると云ふので其(その)殖林(しよくりん)に取(とり)かゝつたのであるが之が実(じつ)に大事業(だいじげふ)であつた実(じつ)はそれを完成(くわんせい)する迄には約       廿余年の歳月(さいげつ)を費(つひや)したのである併(しか)し正綱(まさつな)は其後(そのご)寛永(くわんゑい)二年七月に至(いた)つて秀忠(ひでたゞ)から領地(れうち)の加増(かぞう)を仰付(おほせつけ)られ       て都合(つごう)二万二千百二十 石(こく)となり三 河(かは)、 相模(さがみ)、 武蔵(むさし)三国の内(うち)に領地(れうち)を得(う)るに至(いた)つたので此殖林の財源(ざいげん)に       取つても大(おほい)に便利(’べんり)を得た事であつたろうと思(おも)はれるが兎(と)に角(かく)一 小諸侯(せうしよこう)で此(この)大事業(だいじげふ)を仕遂(しと)げたと云ふ事       は今日(こんにち)から見(み)て何(なん)とも敬服(けいふく)の外(ほか)はないのである今日 其地(そのち)へ行(い)つて見(み)ると先(ま)づ宇都宮市(うつのみやし)から日光山(につこうざん)に到       る道路(どうろ)の両側(れうがは)は勿論(もちろん)日光(につこう)の山中(さんちう)にはイクラと云(い)ふ杉(すぎ)の老大木(ろうたいぼく)が森々(しん〳〵)として生茂(おいしげ)つて居(お)るが若(も)し之を価(か)        格(かく)に積(つも)つたならば幾何(いくばく)であろうか誠(まこと)に計(はか)り難(がた)い程(ほど)で当時(たうじ)金銀財宝(きんぎんざいはう)を寄進(きしん)したものよりも今日(こんにち)に於(おい)ては       ドレ位(ぐらゐ)勝(まさ)つたものであるか分(わか)らない事(こと)であるモツトモ此(この)森林(しんりん)が今日の如く繁殖(はんしよく)するまでには其後(そのご)歴代(れきだい)       の子孫(しそん)が常(つね)に手入(ていれ)や植継(うへつ)ぎを怠(おこた)らなかつた事も容易(ようい)ならぬ仕事(しごと)であつたが実(じつ)にあれ丈(たけ)の林相(りんそう)は容易(ようい)に        他(た)に見(み)られぬ事であると思(おも)ふ此(この)殖林(しよくりん)に関(かん)する碑石(ひせき)は幸(さいはひ)に今(いま)も尚(な)ほ日光山(につこうざん)山菅橋(やますがばし)の側(そば)に残(のこ)つて居るが其        碑(ひ)の全文(ぜんぶん)は左(さ)如(ごと)くである        自下野国日光山山菅橋至同国都賀郡小倉村同国河内郡大沢村同国同郡大桑村暦二十余年植杉於路辺        左右並山中十余里以奉寄進        東 照 宮         慶安元年戊子四月十七日        従五位下  松平右衛門太夫源正綱        又(ま)た右(みぎ)と同時(どうじ)に左(さ)の碑石(ひせき)が鹿沼(かぬま)、 宇都宮(うつのみや)、 奥州(おうしう)の三 街道(かいどう)にも立てられたがそれ等(ら)の碑石(ひせき)が今日も尚(な)ほ        存在(ぞんざい)せるや否(いなや)実見(じつけん)せぬから慥(たしか)には申上(まうしあげ)兼(か)ぬるのである但(たん)し其(その)全文(ぜんぶん)は左(さ)の通(とほり)である 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十七 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                   二百五十八 【本文】        下野国都賀郡小倉村同国河内郡大沢村同国同郡大桑村自此三所至日光二十余年間植杉於路傍左右並        山中十余里以奉寄進        東 照 宮         慶安元年戊子四月十七日      従五位下  松平右衛門太夫源正綱       トコロで其(その)慶安元年(けいあんがんねん)と云ふ年(とし)は恰(あたか)も正綱(まさつな)が逝去(せいきよ)の年(とし)で正綱(まさつな)は其年(そのとし)の六月二十二日 年(とし)七十三で卒去(そつきよ)せら       れたのである即(すなは)ち此碑(このひ)の建設(けんせつ)は其(その)逝去(せいきよ)前(ぜん)僅(わづか)に二ヶ月 許(ばかり)に当(あた)るのであるが其(その)当時(たうじ)は丁度(てうど)正綱(まさつな)の養子(やうし)信綱(のぶつな)       が三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)に従(したがつ)て日光山(につこうざん)にあつたのである蓋(けだ)し建碑(けんひ)の日付(ひづけ)四月十七日は前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く家康(いへやす)        薨去(こうきよ)の忌日(きにち)であるから三 代将軍(だいせうぐん)は此日 東照廟(とうせうびやう)に参詣(さんけい)の為(ため)信綱(のぶつな)等(ら)を従(したが)へて日光山(につこうざん)にあつたのであるが総(すべ)       て此(この)建碑(けんひ)の事は信綱(のぶつな)が養父(やうふ)正綱(まさつな)の為に斡旋(あつせん)したものであると信(しん)せられるのである又(ま)た植林(しよくりん)の事でもそ       うである正綱(まさつな)が段々(だん〳〵)老年(ろうねん)となつてから信綱(のぶつな)は次第(しだい)に全盛(ぜんせい)の地位(ちゐ)にあつたので信綱(のぶつな)は養父(やうふ)の意志(いし)を継(つ)い       で大(おほい)に其(その)計画(けいくわく)の実行(じつこう)を助(たす)けた事と思(おも)ふ併(しか)し今日(こんにち)世人(せじん)が此植林を以て全(まつた)く信綱(のぶつな)の事業(じげふ)のように伝(つた)へて居       るものがあるが之は却(かへつ)て其(その)真相(しんそう)を誤(あやま)つて居(を)るものと云(い)ふべきである尚(な)ほ正綱(まさつな)に就(つい)て伝(つた)ふべき事は中々(なか〳〵)        多(おほ)く大坂役(おほさかえき)に従軍(じうぐん)して功績(こうせき)のあつた事などは既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の事であると思ふ 松平信綱  サテ正綱(まさつな)には利綱(としつな)、 隆綱(たかつな)(《割書:後に|正信》)、 正光(まさみつ)、 秀綱(ひでつな)(《割書:後に|正朝》)の四 男(なん)があつたが夫等(それら)がまだ生(うまれ)なかつた頃(ころ)に前(まへ)にも        申述(まうしの)べた如(ごと)く兄(あに)久綱(ひさつな)の長子(てうし)信綱(のぶつな)を以(もつ)て養子(やうし)としたのであるモツトモ之には事情(じぜう)があつたので信綱(のぶつな)と云       ふ人は御承知(ごせうち)の如く後(のち)には智恵伊豆(ちゑいづ)とまで云(い)はれた小供(こども)の時分(じぶん)から容易(ようい)ならず怜悧(れいり)であつたが此人(このひと)は慶(けい)        長(てう)元年(がんねん)十月 晦日(みそか)の生(うま)れである大河内家譜(おほかうちかふ)によると其(その)六 歳(さい)の時(とき)正綱(まさつな)の養子(やうし)となり八 歳(さい)の九月 初(はじ)めて将軍(せうぐん)        秀忠(ひでたゞ)に謁(ゑつ)し其十一月 伏見(ふしみ)に於(おい)て家康(いへやす)に謁(ゑつ)したが九 歳(さい)の七月十七日 家光(いへみつ)が生(うま)れたので其(その)二十五日(《割書:或廿|三日》)そ       れに奉仕(ほうし)することになつたと記(しる)してある併(しか)し或説(あるせつ)によると信綱(のぶつな)は小供心(こどもごゝろ)ながら是非共(ぜひとも)将軍(せうぐん)の御側(おそば)に仕(つか)へ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       て出世(しゆつせ)をしたいと望(のぞ)むだが何分(なにぶん)にも大河内(おほかはち)の家(いへ)であつては急(きう)に其(その)望(のぞみ)が達(たつ)し難(がた)いので叔父(おぢ)の正綱(まさつな)は徳川(とくがは)       の連枝(れんし)たる松平(まつだいら)の家(いへ)を襲(つ)いで居(を)るので万事(ばんじ)に都合(つがう)がよい処(ところ)から具(つぶさ)に其(その)心情(しんぜう)を物語(ものがた)つたのであるソコで        正綱(まさつな)は遂(つひ)に其(その)志(こゝろざし)を憫(あはれ)むで巳(おの)れが養子(やうし)とし以(もつ)て将軍(せうぐん)並(ならび)に前将軍(ぜんせうぐん)に謁(えつ)せしめたのであると伝(つたへ)られて居る 信綱の伝記  而(しか)して此(この)信綱(のぶつな)の経歴(けいれき)に就(つい)ては諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如くで申述(まうしの)べ尽(つく)せぬ程(ほど)の材料(ざいれう)があるのであるが幸(さいはひ)近来(きんらい)        大河内子爵家(おほかはちしゝやくけ)に於(おい)て当主(たうしゆ)の正敏君(まさとしぎみ)が其伝記の編纂(へんさん)を企(くわだ)てられて昨年(さくねん)信綱(のぶつな)卒去(そつきよ)の二百五十年に相当(そうとう)する       を機(き)として専門家(せんもんか)を聘(へい)されて目下(もつか)其(その)編纂中(へんさんちう)である従(したがつ)て此人の伝記(でんき)に就(つい)ては遠(とほ)からず完全(かんぜん)なるものが出(で)        来上(きあが)る事と信(しん)じ私(わたし)は満腔(まんくう)の喜(よろこび)を以(もつ)て迎(むか)へて居る次第(しだい)であるから詳伝(せうでん)は夫(それ)に譲(ゆづ)り今(いま)は極(きは)めて其(その)大要(たいえう)を申(まうし)        述(の)ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふが先(ま)づ其(その)要点丈(ようてんだけ)をザツト申述(まうしの)ぶると九 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて家光(いへみつ)に仕(つか)へ元和(げんわ)九年 家光(いへみつ)       が将軍(せうぐん)に任(にん)ぜられるに及(およ)むで御小姓組番頭(おこせうくみがしら)に任(にん)じ叙爵(じよしやく)して伊豆守(いづのかみ)となり二千 石(ごく)を領(れう)したが寛永(かんえい)九年十      一月十八日 老中格(ろうちうかく)となり十年五月五日 老中(ろうちう)に任(にん)じ三 万石(まんごく)に加増(かぞう)せられて武州忍(ぶしうおし)の城主(ぜうしゆ)となつたのであ 島 原 役 る十四年 例(れい)の九 州(しう)島原(しまばら)の乱(らん)が起(おこ)るに方(あた)つて追討(ついとう)の目代(さかんだい)として之に向(むか)つたが此話(このはなし)は特(とく)に有名(ゆうめい)なるもので       ある此時(このとき)戸田左門氏鉄(とださもんうじてつ)(《割書:戸田一|正の子》)も共(とも)に追討(ついとう)に向(むか)つたのであるが信綱(のぶつな)の率(ひき)ゐた兵(へい)は約(やく)千三百 人(にん)与力(よりき)同心(どうしん)二       百 余人(よにん)で勘定組頭(かんぜうくみかしら)能勢(のせ)四 郎右衛門(ろえもん)、 勘定(かんぜう)山中喜兵衛(やまなかきへえ)の両人(れうにん)は粮米(ろうまい)の事を司(つかさど)り其(その)出発(しゆつぱつ)は十二月の三日で       あつたが現在(げんざい)残(のこ)つて居(を)る処(ところ)の豊橋藩士(とよはしはんし)の家(うち)に就(つい)て云ふても其(その)祖先(そせん)は概(おほむ)ね之に従軍(じうぐん)したもので其時の分(ぶん)        捕品(どりひん)で刀釼(とうけん)、 銃(ぢう)、並びに油画(あぶらえ)など実(げ)に珍重(ちんぢう)すべきものが今(いま)も各家(かくか)に保存(ほぞん)されて居(を)るのである其(その)中(なか)には歴(れき)        史上(しぜう)から見(み)ても中々(なか〳〵)大切(たいせつ)のものがあるので嘗(かつ)て史料展覧会(しれうてんらんかい)に出品(しゆつぴん)せられたのも少(すく)なくないのであるが        追(おつ)て之等(これら)は一々(いち〳〵)写真(しやしん)とし又は模写(もしや)して別(べつ)に一 冊子(さつし)を編纂(へんさん)する考(かんがへ)である       サテ島原役(しまばらゑき)は翌年(よくねん)の二月に終(をわ)つて信綱(のぶつな)は遂(つひ)に賊城(ぞくぜう)を陥(おとしい)れ賊(ぞく)三万七千人を斬(き)り平(たいら)げたのである其四月 皈(き) 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                   二百五十九 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十 【本文】        府(ぷ)し十五年には老中(ろうちう)の上座(ぜうざ)となり十六年 正月(せうがつ)六 万石(まんごく)に加増(かぞう)になつて武州(ぶしう)河越城(かはごゑぜう)に移封(いほう)せられたのであ       る二十年九月 侍従(じじう)に進(すゝ)むだが正保(せうほ)四年 更(さら)に一 万石(まんごく)を加増(かぞう)せられたのである而(しか)して慶安(けいあん)四年 家光(いへみつ)薨去(こうきよ)の        後(のち)は更(さら)に其(その)遺托(ゐたく)によつて将軍(せうぐん)家綱(いへつな)を補佐(ほさ)し益々(ます〳〵)天下(てんか)の重(おも)きをなしたのであるが寛文(かんぶん)二年三月十七日年        六十七を以(もつ)て卒去(そつきよ)したのである而(しか)して信綱(のぶつな)が在職中(ざいしよくちう)には例(れい)の由井正雪(ゆゐせうせつ)の事件(じけん)もあり玉川上水(たばがはぜうすゐ)の新設(しんせつ)や       ら江戸大火(えどたいくわ)の後始末(あとしまつ)などがあり特(とく)に徳川氏(とくがはし)が天下(てんか)を取(と)つてから初(はじ)めて其(その)基礎(きそ)の定(さだ)まる大切(たいせつ)の時期(じき)であ       つたから種々(しゆ〳〵)の出来事(できごと)も多(おほ)かつたが三 代将軍(だいせうぐん)の初(はじ)めにはまだ土井利勝(どゐとしかつ)が老中(ろうちう)の中(なか)に居(を)つて重(おも)きをなし        家光(いへみつ)薨去(こうきよ)の後(のち)四 代(だい)の家綱(いへつな)となつては彼(か)の保科正之(ほしなまさゆき)が補佐(ほさ)の任(にん)に当(あた)つた併(しか)し当時(たうじ)は此(この)信綱(のぶつな)が酒井正勝(さかゐまさかつ)、        阿部忠秋(あべたゝあき)等(ら)と共(とも)に多(おほ)くは事の衝(しよう)に当(あた)つたので其(その)中(なか)でも信綱(のぶつな)の明敏(めいびん)にして果断(くわだん)であつた事は世(よ)既(すで)に定評(ていへう)       があるのである併(しか)し世(よ)に有名(ゆうめい)なる殉死(じゆんし)の禁(きん)並(ならび)に諸侯(しよこう)から幕府(ばくふ)に出(いだ)してあつた証人(せうにん)を還付(かんぷ)した事及び京(けう)        都(と)の大仏(だいぶつ)を鎔(よう)して銭(ぜに)を鋳(い)た事などは孰(いづ)れも信綱(のぶつな)卒去(そつきよ)後(ご)に実行(じつこう)せられた事であるがそれが果(はた)して信綱(のぶつな)の        生前(せいぜん)に計劃(けいくわく)して置(お)いたものであるや否(いなや)其実(そのじつ)は疑問(ぎもん)となつて居(を)るのであるが一 般(ぱん)には之れをも皆(みな)信綱(のぶつな)の       なせる処(ところ)と伝(つた)へて居(を)るのである       信綱の事歴(じれき)並に其(その)性行(せいこう)等(とう)を述(の)べ尽(つく)さむには別(べつ)に一 冊子(さつし)となすも尚(な)ほ余(あま)る位(くらゐ)である事は前(まへ)にも申述(まうしの)べた       如くであるが茲(こゝ)に今(いま)一つ参考の為に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは大河内子爵家(おほかはちしゝやくけ)には信綱(のぶつな)が島原役(しまばらえき)へ着用(ちやくよう)       して出掛(でか)けた鎧(よろい)を初(はじ)め諸種(しよしゆ)の遺物(ゐぶつ)が沢山(たくさん)に保存(ほぞん)されてある事である又(ま)た同家(どうけ)の家扶(かふ)小畠延衛氏(こはたけのぶゑし)の祖先(そせん)        助右衛門(すけゑもん)と云(い)はれた人(ひと)は親(した)しく信綱に仕(つか)へたのであるが信綱が常(つね)に幕府(ばくふ)の殿中(でんちう)にあつて用事(ようじ)があると        其事を葉紙(はがみ)を記(しる)して渡(わた)したものが数(すう)十 葉(よう)之れ亦た同家(どうけ)に保存(ほぞん)されて居(を)る事である其中には実(じつ)に信綱の       性格(せいかく)を眼前(がんぜん)に見(み)るが如き心地(こゝち)のするものが少(すくな)くない一々 之(これ)を茲(こゝ)に御紹介(ごしようかい)する暇(いとま)もないから申上(まうしあげ)ぬが之(これ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百二十号附録    (明治四十五年七月廿三日発行) 【本文】        等(ら)のものは孰(いづ)れも大切(たいせつ)なる史料(しれう)であつて信綱(のぶつな)研究(けんきう)の為(ため)には諸君(しよくん)にも是非(ぜひ)御(ご)一 覧(らん)を願(ねが)ひたいものである       と思(おも)ふ       サテ信綱(のぶつな)が養子(やうし)となつた後(のち)元和(げんわ)六年十二月に至(いた)つて正綱(まさつな)には実子(じつし)利綱(としつな)が生(うま)れたのである元来(がんらい)信綱(のぶつな)は初(はじ) 《割書:信綱別に一|家を立つ》  め名(な)を正永(まさなが)と云(い)つたのであるが此(こゝ)に至(いた)つて名(な)を信綱(のぶつな)と改(あらた)め自立(じりつ)の志(こゝろざし)を明(あきらか)にしたのであるソコで愈(いよ)        愈(いよ)慶安(けいあん)元年(がんねん)七月 正綱(まさつな)卒去(そつきよ)に当(あた)つて信綱(のぶつな)は自(みづか)ら請(こ)ふて正綱(まさつな)の遺領(ゐれう)を受(う)けず之(これ)を正綱(まさつな)の二 男(なん)隆綱(たかつな)及(およ)び四 男(なん) 《割書:大多喜の大|河内氏》  の季綱(すゑつな)に分与(ぶんよ)したのであるが(《割書:正綱の長男利綱及び三男|正光は此時既に逝去せり》) 此(この)隆綱(たかつな)が即(すなは)ち正綱(まさつな)の後(あと)を襲(つ)いだので其(その)子孫(しそん)は維新前(ゐしんぜん)        常陸(ひたち)大多喜(おほたき)の城主(じようしゆ)で維新後(ゐしんご)之(これ)も亦(ま)た大河内姓(おほかうちせい)に復(ふく)し今現(いまげん)に子爵(ししやく)であられるが実(じつ)は之(これ)が正敏君(まさとしくん)の御実家(ごじつか)       で此家(このいへ)の今(いま)の御主人(ごしゆじん)正倫君(せいりんくん)は即(すなは)ち正敏君(まさとしくん)の御実弟(ごじつてい)であるのである而(しか)して話(はなし)は又(ま)た初(はじ)めに戻(もど)つて信綱(のぶつな)は此(この)        時(とき)松平(まつだひら)の姓(せい)は隆綱(たかつな)に継(つ)がしむるのであるから巳(おの)れは大河内姓(おほかうちせい)に復(ふく)したいと云(い)ふ事(こと)を申出(もうしい)でたが将軍(せうぐん)の       特旨(とくし)によつて矢張(やはり)引続(ひきつゞ)いで松平氏(まつだひらし)を称(せう)することになつたのである此(かく)の訳(わけ)であるから今(いま)の大河内氏(おほかうちし)では此(この)        信綱(のぶつな)を以(もつ)て第(だい)一 世(せい)の祖(そ)となして居(を)るのであるが信綱(のぶつな)には輝綱(てるつな)、 吉綱(よしつな)、 信定(のぶさだ)、 信興(のぶおき)、 堅綱(かたつな)の五 男(なん)があつ       たのである而(しか)して輝綱(てるつな)が其後(そのあと)を継(つ)いだのであるが信興(のぶおき)も亦(ま)た累進(るいしん)して三万二千石に至(いた)つてた人(ひと)であるが 《割書:高崎の大河|内氏》   其(その)子孫(しそん)も亦(ま)た段々(だん〴〵)と加増(かぞう)を蒙(かうむ)つたので其家(そのいへ)が即(すなは)ち維新前(ゐしんぜん)上州高崎(ぜいしうたかさき)の城主(じようしゆ)であつて矢張(やはり)今(いま)は大河内姓(おほかうちせい)を        名乗(なの)つて子爵(ししやく)であられるのである 大河内輝綱 サテ信綱(のぶつな)の跡(あと)相続(さうぞく)をした長子(てうし)の輝綱(てるつな)と云ふ人は又(ま)た中々(なか〳〵)の人物(じんぶつ)であつた此人(このひと)は元和(げんわ)六年八月五日の生(うまれ) 輝綱の人物 で寛永(かんえい)十二年十二月廿八日 年(とし)十六 歳(さい)で従(じゆ)五 位下(ゐげ)甲斐守(かいのかみ)に叙任(ぢよにん)せられたのであるが其(その)翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち寛永(かんえい)十       四年の十二月には彼(か)の島原追討(しまばらついとう)の役(えき)に父(ちゝ)信綱(のぶつな)に随行(ずいかう)したのである然(しか)るに此人(このひと)は其(その)性格(せいかく)に於て父(ちゝ)信綱(のぶつな)と       は頗(すこぶ)る異(ことな)る処(ところ)があつたので其後(そのご)父(ちゝ)の如く表立(おもてだ)つた役目(やくめ)に就(つ)いて天下(てんか)の政治(せいじ)に参与(さんよ)すると云ふが如(ごと)きこと 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十一 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十二 【本文】       はなさなかつた従(したがつ)て余(あま)り汎(ひろ)く世(よ)に知(し)らるゝには至(いた)らなかつたが能(よ)く〳〵其(その)事歴(じれき)を調査(てうさ)して見(み)ると頗(すこぶ)る        剛毅(ごうき)の性質(せいしつ)で最(もつと)も勤勉(きんべん)の人であつた事が分(わか)る而(しか)して其(その)一 生(せい)を全(まつた)く軍法(ぐんほう)と兵器(へいき)の研究(けんきう)とに捧(さゝ)げたのであ       る其(その)材料(ざいれう)は今(いま)も沢山(たくさん)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る事であるが之等(これら)の材料(ざいれう)は歴史上(れきしぜう)には勿論(もちろん)学術上(がくじゆつぜう)に取(と)つても        稗益(ひえき)する事が決(けつ)して少(すくな)くない特(とく)に輝綱(てるつな)は年少(ねんせう)の頃(ころ)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く島原役(しまばらえき)に従(したがつ)て実戦(じつせん)を目撃(もくげき)して居(を)ら       るゝから其(その)研究(けんきう)が頗(すこぶ)る適切(てきせつ)である今(いま)一二の例(れい)を挙(あ)げて御話(おはなし)すれば大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るものゝ内(うち)に此(この)        輝綱(てるつな)が弾丸(だんがん)の力(ちから)を試(こゝろ)みた鎧(よろひ)がある即(すなは)ち鉄製(てつせい)の胴(どう)へ鉄砲(てつぽう)を打(う)つて其(その)丸(たま)がドレ位(くらゐ)鉄胴(てつどう)へコタへるものか実(じつ)        験(けん)をしたものである島原(しまばら)の役(えき)では無論(むろん)盛(さかん)に鉄砲(てつぽう)は行(おこな)はれたものであるが其内(そのうち)でも敵(てき)の方(はう)は外国(ぐわいこく)との交(かう)        通(つう)に就(つい)て便利(べんり)の位置(ゐち)にあつたものであるから却(かへつ)て味方(みかた)のよりは鋭利(えいり)のものがあつた事と思(おも)ふ輝綱(てるつな)は此(こ)        処(こ)らの経験(けいけん)から鉄砲(てつぽう)の事に就(つい)ては余程(よほど)の研究(けんきう)を重(かさ)ねたものであると思(おも)ふが大河内家(おほかうちけ)御当主(ごたうしゆ)の正敏君(まさとしくん)は        諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く東京帝国大学(とうけうていこくだいがく)出身(しゆつしん)の俊才(しゆんさい)で工学士(こうがくし)であられるが矢張(やはり)造兵専門(ざうへいせんもん)で目下(もくか)大学教授(だいがくけふじゆ)であ       られる此頃(このころ)も私(わたくし)は正敏君(まさとしくん)を大学(だいがく)の教室(けふしつ)に御訪問(ごほうもん)申上(もうしあ)げて色々(いろ〳〵)其(その)実験(じつけん)の様子(やうす)を拝見(はいけん)したのであるが矢張(やはり)        松(まつ)の木(き)の一 寸板(すんいた)で作(つく)つた箱(はこ)の中(なか)へ砂(すな)を一ぱいにツメて之(これ)へ鉄砲(てつぽう)を打込(うちこ)むでは試験(しけん)をして居(を)られる古今(ここん)       の時代(じだい)こそ異(こと)なれ如何(いか)にも御祖先(ごそせん)の英姿(えいし)を拝(はい)するようで偶然(ぐうぜん)とは云(い)ひながら私(わたくし)は一 種(しゆ)ナツカしき感(かん)じ       がしたのである之(これ)も何(な)にかの因縁(ゐんねん)とも言(い)ふべきであろうがサテ輝政(てるつな)は又(ま)た弾薬(だんやく)に就(つい)ても種々(しゆ〴〵)の研究(けんきう)を       せられたもので弾薬(だんやく)を計(はか)る竹筒(たけつゝ)なども手(て)づから作(つく)られたのが今(いま)も残(のこ)つて居(を)る又(ま)た軍法(ぐんぽう)を制定(せいてい)して之(これ)を        自書(じしよ)せられたものがあるが面白(おもしろ)いのは軍歌(ぐんか)の制定(せいてい)である之(これ)は軍法(ぐんぽう)を愉快(ゆくわい)に歌(うた)いながら人(ひと)の記臆(きをく)に留(とゞ)ま       るようにしたものであるまだ感心(かんしん)なのは此人(このひと)が陣中(じんちう)に用(もち)ゆべき薬法(やくはふ)の研究(けんきう)をした事で当時(たうじ)は今(いま)の様(やう)に        軍医(ぐんい)と云ふものはなくタマに医者(ゐしや)を召連(めしつ)れた処(ところ)が漢法(かんはふ)の藪先生(やぶせんせい)で到底(とうてい)軍隊(ぐんたい)の間(ま)には合(あ)はなかつたに相(さう) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        違(ゐ)ないソコで輝綱(てるつな)は深(ふか)く之(これ)は感(かん)じたものと見(み)へて陣中薬(ぢんちうくすり)の研究(けんきう)をしたが其中(そのなか)に「サフラン」を用(もち)ゆる処(しよ)        法(はふ)があるのみならず「サフラン」の実物(じつぶつ)を大切(たいせつ)に紙(かみ)に包(つゝ)むで保存(ほぞん)してあるが今(いま)も尚(な)ほ筺底(けうてい)に残(のこ)つて居(を)る        今日(こんにち)から考(かんが)へれば「サフラン」はそれ程(ほど)貴(たつと)いものでもなかろうがまだ三十年 位(ぐらゐ)以前(いぜん)ですら舶来品(はくらいひん)として        中々(なか〳〵)貴重(きちよう)されたものである然(しか)るに今(いま)を去(さ)ること二百七八十年 以前(いぜん)に此(この)舶来薬品(はくらいやくひん)に注目(ちうもく)したことは島原征伐(しまばらせいばつ)       の賜(たまもの)でもあつたであろうが最(もつと)も注意(ちうい)すべき事柄(ことがら)であると思(おも)ふ其他(そのた)輝綱(てるつな)自身(じしん)に劃(ゑが)かれた日本(にほん)の地図(ちづ)が       あるが其(その)角度(かくど)の取(と)り方(かた)は勿論(もちろん)製図法(せいづはふ)が全(まつた)く泰西(たいせい)の方法(はふ〳〵)であるのは深(ふか)く味(あじは)ふべき事で其外(そのほか)にも航海術(かうかいじゆつ)の        研究(けんきう)されたものがあるし騎馬(きば)の法(はふ)や水戦砲術(すいせんほうじゆつ)などの研究(けんきう)されたものがあるモツトモ之等(これら)は今日(こんにち)から見(み)       たならば幼稚(ようち)なる事も多(おほ)いであろうが兎(と)に角(かく)宛然(えんぜん)たる西洋学術(せいようがくじゆつ)の研究者(けんきうしや)で特(とく)に和蘭語(おらんだご)などを一つ二つ        書(か)き留(とゞ)めて注釈(ちうしやく)をした自筆(じしつ)の記録(きろく)も残(のこ)つて居(を)るまだ面白(おもしろ)いのは其(その)記録(きろく)の中(なか)に和蘭(おらんだ)で船(ふね)を東西(とうざい)に出(だ)した        処(ところ)が此(この)両船(れうせん)は三 年目(ねんめ)に途中(とちう)で行逢(ゆきあ)つた即(すなは)ち世界(せかい)を一 周(しう)するには六ヶ年を要(えう)するものであると云ふ事が 《割書:泰西学芸の|先覚者》   書(か)き付(つ)けてあることである二百七十 年前(ねんぜん)に於(おい)て既(すで)に此等(これら)に着眼(ちやくがん)して居(お)つた輝綱(てるつな)は実(じつ)に我国(わがくに)に於(お)ける泰西(たいせい)        学芸(がくげい)の先覚者(せんかくしや)として私(わたくし)は我国(わがくに)の文明史上(ぶんめいしぜう)に大書(たいしよ)するも憚(はゞか)る処(ところ)のない人(ひと)であると思(おも)ふ       サテ輝綱(てるつな)が父(ちゝ)信綱(のぶつな)の後(あと)を受(う)けて川越城主(かはごへじようしゆ)となつたのは寛文(かんぶん)二年四月十八日であるが家督後(かとくご)十 年(ねん)を経(へ)て        寛文(かんぶん)十一年十二月十二日 年(とし)五十二で卒去(そつきよ)されたのである智光院(ちくわうゐん)と謚(おくりな)し父祖(ふそ)と同(おな)じく平林寺(へいりんじ)に葬(ほうむ)つたの       である 大河内信輝  輝綱(てるつな)には多数(たすう)の子(こ)があつたが四 男(なん)の信輝(のぶてる)と六 男(なん)の輝貞(てるさだ)とを除(のぞ)くの外(ほか)は女子(ぢよし)又(また)は早世(さうせい)であつた即(すなは)ち信輝(のぶてる)       は寛文(かんぶん)十二年二月九日 父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を相続(さうぞく)し輝貞(てるさだ)は後(のち)に叔父(おぢ)信興(のぶおき)の養子(やうし)となつたのである而(しか)して信輝(のぶてる)の幼(よう) 大河内輝貞  名(めい)は亀千代(かめちよ)と云(い)つて後(のち)に晴綱(はれつな)と称(せう)し更(さら)に信輝(のぶてる)と改名(かいめい)したのであるが万治(まんぢ)三年四月八日の生(うまれ)である寛文(かんぶん) 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十三 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十四 【本文】       十二年十二月廿八日 従(じゆ)五 位下(ゐげ)伊豆守(いづのかみ)に叙任(ぢよにん)し元禄(げんろく)七年正月七日 川越(かはごへ)の城(しろ)から下総国(しもふさのくに)古河城(こがじよう)へ移封(ゐほう)にな       つたのであるが宝永(ほうえい)六年六月十八日 願(ねがひ)に依(よつ)て家督(かとく)を其子(そのこ)信祝(のぶとき)(《割書:当時|信高》)に譲(ゆづ)り自身(じしん)は隠居(ゐんきよ)して髪(かみ)を剃(そ)り名(な)       を宗見(そうけん)と称(せう)した享保(けうほ)十年六月十八日六十六で卒去(そつきよ)し矢張(やはり)平林寺(へいりんじ)へ葬(ほうむ)つたが神龍院(しんりうゐん)と謚(おくりな)したのである 信輝の書状  尚(な)ほ此(この)信輝(のぶてる)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)きたいが私(わたくし)は此人(このひと)が実(じつ)に情愛(ぜうあい)の深(ふか)い人(ひと)で特(とく)に下(しも)を憐(あわれ)むの情(ぜう)に富(と)む 於種夫人  で居(を)つたことを思(おも)ふのである今(いま)大河内家(おほかうちけ)に此人(このひと)の手紙(てがみ)が二 通(つう)残(のこ)つて居(を)るがそれは孰(いづ)れも其子(そのこ)信祝(のぶとき)の夫人(ふじん)       へ送(おく)つたもので実(じつ)に情愛(ぜうあい)の厚(あつ)き掬(きく)すべきものがあると思(おも)ふ其中(そのなか)の一 通(つう)を掲(かゝ)ぐると左(さ)の如(ごと)くである        廿三日の御文(おんふみ)ことに一 種(しゆ)給(たまはり)満足(まんぞく)申候(もをしそろ)まつ〳〵其元機嫌(そのもごきげん)よくゆる〳〵と入湯(にふたう)のよし悦(よろこび)申候(もをしそろ)被申越(もをしこされ)         候通(そろとほり)伊豆守(いづのかみ)も首尾能(しゆびよく)帰府(きふ)の         御目見(おんめみ)へも申上大悦申候(もをしあげたいえつもをしそろ)大塚(おほつか)今里(いまさと)其(その)兄弟衆(けうだいしう)も御息災候間(ごそくさいそろあひだ)気遣被申間敷(きづかひもをされまじく)此方(こちら)は此頃(このごろ)天気不同(てんきふどう)にて候(そろ)        か其元(そのもと)はいかゝ候哉(そろや)昨日(さくじつ)より晴(はれ)にて満足申候(まんぞくもをしそろ)ほう〳〵珍敷所(めづらしきところ)見物(けんぶつ)慰候(なぐさみそうろ)て一 段(だん)の事(こと)に候(そろ)殊(ことに)湯(ゆ)も相(さう)         応(おう)にて食(しよく)もこゝろ能(よく)すゝみ候(そろ)よし何(なに)より満足(まんぞく)申候(もをしそろ)爰元替事(こゝもとかわること)なく居申候(をりもをしそろ)まゝ気遣被申間敷候(きづかひもをされまじくそろ)被申越(もをしこされ)         候通(そろとほり)久々(ひさ〴〵)逢候(あひそうら)はて床敷存候(ゆかしくぞんじそろ)猶(なほ)めてかく かしく          卯月廿七日                 松  平  宗  見            於  種  と  の                   御 返 事        此(この)手紙(てがみ)は其(その)長子(てうし)信祝(のぶとき)の夫人(ふじん)種(たね)と云(い)ふのが当時(たうじ)温泉(おんせん)に行(い)つて居(を)つて其処(そこ)から手紙(てがみ)を寄越(よこ)した其(その)返事(へんじ)であ       るが文中(ぶんちう)に伊豆守(いづのかみ)とあるのは即(すなは)ち信祝(のぶとき)の事で於種夫人(おたねふじん)から云(い)へば其夫(そのおつと)であるが其(その)文意(ぶんい)と云(い)ふものは実(じつ)      に平民(へいみん)も及(およ)ばぬ程(ほど)に情(なさけ)の厚(ふか)い処(ところ)があつて如何(いか)にも親切(しんせつ)であると思(おも)ふ又(ま)た一 通(つう)の方(はう)の手紙(てがみ)は信輝(のぶてる)が国(くに)に 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百二十六号附録    (明治四十五年七月三十日発行) 【本文】       あつた時(とき)で未(いま)だ隠居前(ゐんきよまへ)の事(こと)であるが当時(たうじ)江戸(えど)にあつた此(この)於種夫人(おたねふじん)に向(むかつ)て送(おく)つたものである其中(そのうち)に小供(こども)       の成長(せいちやう)の様子(やうす)を知(し)らせるとて        かんさいは中々(なか〳〵)いたつらいたし候(そうろう)て高(たか)き木(き)へあかり候(そろ)て遊申候(あそびまうしそろ)わらい申事(まうすこと)にて候(そろ)       と云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある此(この)かんさいと云(い)ふのは誰(たれ)の事(こと)かドウモ分(わか)り兼(か)ぬるので遺憾(いかん)であるが其(その)手紙(てがみ)の懇(こん)        切(せつ)なる書(か)き方(かた)が却(かへつ)て当時(たうじ)に於(お)ける大名(だいめう)の小供(こども)の生活状態(せいくわつぜうたい)を物語(ものがたる)ようで実(じつ)に愉快(ゆくわい)に堪(た)へられぬのである 《割書:龍泉院の書|翰》  まだ其外(そのほか)に一つ大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る手紙(てがみ)で輝綱(てるつな)の夫人(ふじん)即(すなは)ち此(この)信輝(のぶてる)の母(はゝ)龍泉院(りうせんゐん)から信輝(のぶてる)に送(おく)つたもの       があるが之(これ)は信輝(のぶてる)が丁度(てうど)国(くに)に就(つ)いて居(を)つた時(とき)で即(すなは)ち当時(たうじ)は古河城(こがぜう)に居(を)つたものと想像(そうざう)さるゝが江戸(えど)に       あつた龍泉院夫人(りうせんゐんふじん)から送(おく)つたもので其(その)母子(おやこ)の真情(しんぜう)と云(い)ふものは誠(まこと)に見(み)るが如(ごと)くである之(これ)も中々(なか〳〵)当時(たうじ)の        状態(ぜうたい)を知(し)る上(うへ)に於(おい)て参考(さんこう)となるものであると信(しん)ずるから左(さ)に掲載(けいさい)することとする           返(かへす)〳〵きげんよく候(そろ)よしまんそく申候(まうしそろ)やかて〳〵あいまいらせ候はんと御(お)うれ敷(しく)そん申候(まうしそろ)めてたく           かしく         御(おん)ふみ御(お)うれ敷(しく)そん申候(まうしそろ)仰(おほせ)のことくいまたことの外(ほか)あつさニ候(そうら)へともそこもとき嫌(げん)よく申候(まうしそろ)よし        まんそく申候(まうしそろ)こゝもとかはる事(こと)なく我身(わがみ)もたつしやに上屋敷(かみやしき)にも亀千代(かめちよ)そくさ井ニ候 右京方(うけうかた)ニも弐         所(しよ)そくさ井ニ御座候(ござそろ)浅草(あさくさ)にもそくさ井ニ候(そろ)さんきんもしたいニちかより御(お)うれ敷(しく)あいまいらせ候はんと        まち入申候(いりまうしそろ)此事(このこと)は我身(わがみ)も右京方(うけうかた)へまいり遊(ゆ)る〳〵ととうりうゐたしよろこひ申候(まうしそろ)あなたニい申候内(まうしそろうち)         亀千代(かめちよ)もよひおとなしく遊(ゆ)る〳〵とおりよろこひ申候(まうしそろ)出羽殿(でばどの)おく方(がた)き色(しよく)す幾(き)〳〵とよく候(そろ)よし我身(わがみ)        もあすは出羽殿(でばどの)おく方(がた)へよろこびニまいり候(そろ)はんとそんし申候(まうしそろ)此(この)くわしかすつけのうきき一をけ出(で)         羽殿(ばどの)ゟもらひ申候(まうしそろ)まゝまいらせ候めてたくかしく 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十五 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百六十六 【本文】          十八日ノ夕方                 龍  せ  ん  院           松  平  伊  豆  守  殿                       御  返  事        右(みぎ)の内(うち)亀千代(かめちよ)とあるは即(すなは)ち幼年時代(ようねんじだい)の信祝(のぶとき)が事(こと)右京(うけう)とあるのは右京太夫輝貞(うけうだいふてるさだ)(《割書:高時の大|河内氏》)を指(さ)したもので       あるのは勿論(もちろん)であるが出羽(でば)とあるのは柳澤出羽守保明(やなぎさはでばのかみやすあき)の事(こと)であると信(しん)ずる而(しか)も其家(そのいへ)から到来(とうらい)した菓子(くわし)       とうききの粕漬(かすづけ)とを「出羽(でば)よりもらひ申候(まうしそろ)まゝ参(まい)らせ候(そろ)」として江戸(えど)から古河(こが)まで送(おく)つたものと見(み)へ       る其(その)心情(しんぜう)は実(じつ)に掬(きく)すべきものがあつて母子(おやこ)の情愛(ぜうあい)何(なん)とも言(い)へぬ味(あぢ)があると思(おも)ふ       サテ信輝(のぶてる)の後(のち)は其子(そのこ)の信祝(のぶとき)が襲(つ)いだのであるが此(この)人(ひと)が即(すなは)ち初(はじ)めて此(この)吉田(よしだ)に移封(いふう)になつて来(き)た人(ひと)である       のでイヨ〳〵後章(ごせう)からは以前(いぜん)に継続(けいぞく)して此(この)信祝(のぶとき)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)に就(つい)て申述(まうしの)ぶる順序(じゆんぢよ)に致(いた)したいと思(おも)       ふのである             ●松平信祝(まつだひらのぶとき)と其(その)時代(じだい) 松平信祝   前章(ぜんしよう)に申述(まうしの)べた如(ごと)く松平信祝(まつだひらのぶとき)は信輝(のぶてる)の長男(ちやうなん)で母(はゝ)は井上中務少輔正任(ゐのうへなかつかさせうゆうまさとう)の女(むすめ)である天和(てんわ)三 年(ねん)十一 月(ぐわつ)六日 武(ぶ)        州(しう)に生(うま)れたが初名(ようめい)は亀千代(かめちよ)で元禄(げんろく)六 年(ねん)八 月(ぐわつ)九日十一 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて名(な)を信高(のぶたか)と命(めい)じたのである其(その)時(とき)林大(はやしだい)        学頭(がくのかみ)が名(な)を選(えら)むだ勘書(かんしよ)が今(いま)も残(のこ)つて居(を)るが左(さ)の如(ごと)くである               御   名   乗         信   高    艘ノ字ニ反ル          元禄六年癸酉八月佳辰            大学頭林信篤勘 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】             松  平  亀  千  代  殿       ソコで元禄(げんろく)十 年(ねん)十二 月(ぐわつ)十八日 従(じゆ)五 位下(ゐげ)甲斐守(かひのかみ)に叙任(じよにん)したが宝永(ほうえい)六 年(ねん)六 月(’ぐわつ)十八日 父(ちゝ)信輝(のぶてる)が隠居(ゐんきよ)聴許(てうきよ)と相(あい)        成(な)つたので信祝(のぶとき)は即(すなは)ち其後(そのあと)を襲(つ)いで古河城(こがぜう)七 万石(まんごく)を賜(たまは)つたのであるモツトモ父(ちゝ)信輝(のぶてる)といふ云(い)ふ人(ひと)は元来(がんらい)虚(きよ)        弱(じやく)な質(ひつ)であつたものと見(み)へて之迄(これまで)も信祝(のぶとき)は数々(しば〴〵)父(ちゝ)病気(びやうき)の故(ゆへ)を以(もつ)て其(その)代理(だいり)として公儀(こうぎ)の用向(ようむき)を勤(つと)めて居(を)       つたものであるが今度(このたび)イヨ〳〵家督相続(かとくそうぞく)の事(こと)と相成(あいな)つて信祝(のぶとき)は其(その)月(つき)の廿一日 更(さら)に伊豆守(いづのかみ)と改(あらた)めたので 元禄時代  あるサテ其頃(そのころ)に於(お)ける徳川(とくがは)の時勢(じせい)と云(い)ふものは如何(いかゞ)であつたであろうか此処(こゝ)には少(すこ)しく其事(そのこと)に就(つい)て        申述(まうしの)べなければならぬ順序(じゆんじよ)と相成(あひな)つたのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)と云(い)ふ人(ひと)は天性(てんせい)の        学問好(がくもんづき)でソコには勿論(もちろん)時代(じだい)の要求(えうきう)と云(い)ふものもあつたではあるが先(ま)づ入(い)つて将軍(せうぐん)と相成(あひな)つた初(はじ)めは着(ちやく)        着(〳〵)諸政(しよせい)を革新(かくしん)し大(おほい)に文学(ぶんがく)の隆盛(りうせい)を図(はか)つたものである之迄(これまで)数々(しば〳〵)申述(まうしの)べた如(ごと)く徳川時代(とくがはじだい)に於(お)ける歴史(れきし)の        編纂事業(へんさんじげふ)は勿論(もちろん)新暦(しんれき)の領布(れうふ)などを行(おこな)つたが彼(か)の林信篤(はやしのぶあつ)(鳳岡)の如(ごと)きは最(もつと)も其(その)信任(しんにん)を得(え)て今迄(いまゝで)儒服(じゆふく)て法       体てあつた此(この)儒官(じゆくわん)は遂(つひ)に蓄髪(ちくはつ)して従(じゆ)五 位下(ゐげ)大学頭(だいがくのかみ)となり三 河記(かはき)の校訂(かうてい)や武徳大成記(ぶとくたいせいき)の編纂(へんさん)なども皆(みな)此(この)        人(ひと)の手(て)になつたのである其他(そのた)綱吉(つなよし)は又(ま)た大成殿(だいせいでん)を建(た)てゝ儒学(じゆがく)を勃興(ぼつこう)せしめ更(さら)に国学(こくご)をも講(こう)ぜしめたの       で彼(か)の北村季明(きたむらすへあき)、契仲、 阿閣梨(あじゃり)などの出(で)たのも此時(このとき)であるが又(ま)た民間(みんかん)の文学者(ぶんがくしや)としては近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)        井原西鶴(ゐばらせいかく)、 松尾芭蕉(まつをばせう)などの徒(やから)も輩出(はいしゆつ)したと云ふ訳(わけ)で文運(ぶんうん)の隆盛(りうせい)と相成(あひな)つた事(こと)は諸君(しよくん)も十 分(ぶん)御承知(ごせうち)の事(こと)       であると思(おも)ふそれのみならず綱吉(つなよし)が京都(けうと)に対(たい)する体度(たいど)は頗(すこぶ)る恭順(けうじゆん)なるものがあつて大嘗会(おほなめゑ)の再興(さいこう)やら        山陵(さんりよう)の修繕(しうぜん)など奉公(ほうこう)の至誠(しせい)を輸(いた)せる事(こと)も少(すくな)くない此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから公武(こうぶ)の親和(しんわ)は頗(すこぶ)る円満(えんまん)で天(てん)        下(か)は実(じつ)に太平(たいへい)であつたがサテ其(その)裏面(りめん)から観察(くわんさつ)すると中々(なか〳〵)表面(へうめん)で見(み)たようにソウうまくは参(まい)らぬので一        方(ぽう)には又(ま)た実(じつ)に弊政(へいせい)が多(おほ)かつたのである先(ま)づ風俗(ふうそく)は華(くわ)奢に流(なが)れ淫靡(ゐんぴ)に陥(おちい)り所謂(いはゆる)元禄時代(げんろくじだい)の本色(ほんしき)を発揮(はつき) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百六十七 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百六十八 【本文】       するに至(いた)つたのであるが今日(こんにち)でも彼(か)の菱川師宣(ひしかはもろのぶ)など一 派(ぱ)の浮世絵(うきよゑ)を見(み)ると実(じつ)に当時(たうじ)の有様(ありさま)が想像(さうざう)さる       ゝように思(おもふ)のである夫(それ)のみならず幕府(ばくふ)に於(おい)ては元来(がんらい)財政窮乏(ざいせいきうばう)の場合(ばあひ)に綱吉(つなよし)の母(はゝ)桂昌院(けいせうゐん)の願(ねがひ)によつて護(ご)        国寺(こくじ)、 護持院(ごじゐん)などの建立(こんりう)を初(はじ)め全国(ぜんこく)有名(ゆうめい)なる寺院(じゐん)の修築(しうちく)を行(おこな)ふ事(こと)となつたので今日(こんにち)美術保存(びじゆつほそん)の上(うへ)から 《割書:幕府財政の|紊乱》  見ると頗(すこぶ)る都合(つごふ)のよかつたと思(おも)ふことも多(おほ)いのであるが兎(と)に角(かく)国用(こくよう)は益々(ます〳〵)不足(ふそく)を感(かん)ずることとなつたので       ある茲(こゝ)に於(おい)て止(やむ)を得(え)ず遂(つひ)に家康(いへやす)以来(いらい)非常(ひぜう)の為(ため)に備(そな)へられてあつた大坂城(おほさかぜう)の金(きん)の分銅(ふんどう)をも鋳潰(いつぶ)して貨幣(くわへい)       となし尚(な)ほ不足(ふそく)なので次第(しだい)に金貨(きんくわ)には多(おほ)く銀(ぎん)を混(こん)し銀貨(ぎんくわ)には銅(どう)を混(こん)すると云(い)ふ様(やう)に性質(せいしつ)の悪(わる)い新貨幣(しんくわへい)       を鋳(い)るに至(いた)つたので益々(ます〳〵)財政(ざいせい)の紛乱(ふんらん)を来(きた)し たのである殊(こと)に綱吉(つなよし)の晩年(ばんねん)と云(い)ふものは彼(か)の生類御憐(せいるいおんあはれ)みで        燕(つばめ)一 羽(は)を殺(ころ)したが為(ため)に斬罪(ざんざい)になつたものがあると云(い)ふ有様(ありさま)で弊政(へいせい)は実(じつ)に其(その)極(きよく)に達(たつ)したのであるが而(しか)も        其間(そのあひだ)にあつて独(ひと)り威権(ゐけん)を弄(ろう)し一 層(そう)其(その)弊政(へいせい)を助長(ぢよちやう)せしめたのが彼(か)の柳沢吉保(やなぎざわよしやす)であつた吉保(よしやす)は初(はじ)め名(な)を保(やす)        明(あき)と云(い)つて綱吉(つなよし)の小姓(こせう)であつたがそれが側用人(そばようにん)となり次第(しだい)に大老格(たいろうかく)となつたので遂(つひ)に其子(そのこ)吉里(よしさと)と共(とも)       の権(けん)を専(もつぱら)にするに至(いた)つたのであるが会々(たま〳〵)元禄(げんろく)十五 年(ねん)十二 月(ぐわつ)十四日には彼(か)の赤穂(あかう)の浪士(らうし)大石良雄(おほいしよしを)等(ら)四十       七 士(し)の復讐事件(ふくしうじけん)があつて此(この)事件(じけん)は稍々(やゝ)人心(じんしん)を刺激(しげき)したのである然(しか)るに元禄(げんろく)は十六 年迄(ねんまで)で宝永(ほうえい)と年号(ねんごふ)が        改(あらた)まり其(その)宝永(ほうえい)に入(はい)つてからは天災(てんさい)頻(しき)りに至(いた)つて国内(こくない)に災害(さいがい)の続(つゞ)いた事(こと)はズツト前章(ぜんしよう)にも申述(まうしのべ)た如(ごと)くで       ある従(したがつ)て幕政(ばくせい)と云(い)ふものは愈紊乱(いよ〳〵びんらん)を重(かさ)ねたのは云(い)ふ迄(まで)もないがかゝる間(あひだ)に宝永(ほうえい)六年(ねん)正月(せうぐわつ)綱吉(つなよし)は薨去(こうきよ) 《割書:六代将軍の|家宣》  と相成(あひな)つたのである然(しか)るに御承知(ごせうち)の如(ごと)く綱吉(つなよし)には子(こ)がなかつたので甲府(こふ)から入(はい)つて其後(そのご)を襲(つ)いだ六 代(だい)        将軍(せうぐん)の家宣(いへのぶ)で此人(このひと)は将軍(せうぐん)となるや否(いなや)先代(せんだい)の弊政(へいせい)を改革(かいかく)せむことを図(はか)つて先(ま)づその吉保(よしやす)父子(ふし)を斥(しりぞ)け甲府(こふ)        以来(いらい)師事(しじ)して居(を)つた新井白石(あらゐはくせき)を引張(ひつぱ)つて来(き)て幕政(ばくせい)の顧問(こもん)としたのであるが之(これ)が又(ま)た一 方(ぱう)には林家(はやしけ)に於(お)       ける不平(ふへい)とも相成(あひな)つた次第(しだい)である而(しか)して前(まへ)に申述(まうしの)べた如(ごと)く松平信輝(まつだひらのぶてる)か隠居(ゐんきよ)して信祝(のぶとき)が其(その)家督(かとく)を継(つ)いだ 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百三十一号附録    (大正元年八月六日発行) 【本文】       のは即(すなは)ち此(この)宝永(ほうえい)六年のことであるが宝永(ほうえい)と云(い)ふ年号(ねんごう)も七年で正徳(せうとく)と改(あらた)まり其(その)正徳(せうとく)二年十月には折角(せつかく)此(この)改(かい) 《割書:信祝古河よ|り吉田に移|封せらる》   革(かく)を企(くはだ)てた処の将軍(せうぐん)家宣(いへのぶ)も在職(ざいしよく)僅(わづか)に四年に過(す)ぎずして亦(ま)た遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたのであるトコロで此(この)        信祝(のぶとき)が下総(しもふさ)の古河城(こがじよう)から吉田(よしだ)に移封(いほう)になつたのは実(じつ)に此(この)年(とし)七月十二日の事(こと)で信祝(のぶとき)が前城主(ぜんじようしゆ)の牧野大学(まきのだいがく) 《割書:吉田城の授|受》   成央(なりひで)から此(この)吉田城(よしだじよう)を受取(うけと)つたのは実(じつ)に其(その)年(とし)の十一月二日である而(しか)して当時(たうじ)吉田城主(よしだじようしゆ)の所管(しよくわん)であつた遠(ゑん)        州(しう)新居(あらゐ)の関所(せきしよ)の引渡(ひきわたし)を請(う)けたのは其(その)前日(ぜんじつ)であつたが恰(あたか)も将軍(せうぐん)薨去(こうきよ)の時(とき)に際会(さいくわい)したので頗(すこぶ)る混雑(こんざつ)した事(こと)       であつたと思(おも)ふ今此(いまこの)所替(ところがへ)に関(くわん)しては大河内家(おほかうちけ)に其(その)時(とき)の記録(きろく)が五 冊(さつ)残(のこ)つて居(を)る之(これ)は頗(すこぶ)詳密(せうみつ)を極(きは)めたも       のであるが今(いま)から考(かんが)へて見(み)ると仮令(たとへ)特別(とくべつ)の場合(ばあひ)でなくとも概(がい)して大名(だいみよう)の国替(くにがへ)と云(い)ふものは混雑(こんざつ)を極(きは)め 遊佐平馬  たもので此(この)時(とき)大河内家(おほかうちけ)の城受取役(しろうけとりやく)は遊佐平馬(ゆさへいま)と云(い)ふ人(ひと)であつたが其(その)行列(ぎようれつ)などもタイシタものであつた 《割書:藩士並に寺|社町在への|触書》   事(こと)が分(わか)る而(しか)して城(しろ)の受渡(うけわたし)が済(す)むだ後(のち)に遊佐平馬(ゆさへいま)が江戸(えど)から齎(もた)らした藩(はん)の注意書(ちういしよ)並(ならび)に寺社(じしや)、 町在(まちざい)への触(ふれ)        書(がき)と云(い)ふものを発表(はつぴよう)したのであるがそれは当時(とうじ)に於(お)ける民政資料(みんせいしれう)として中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものであるから先(ま)       づ其(その)全文(ぜんぶん)を左(さ)に抄録(しやうろく)したいと思(おも)ふ          御家中(おんいへちう)エ        一 法度(はふと)兼(かね)て相定候趣(あひさだめそろおもむき)弥(いよ〳〵)以堅(もつてかたく)相守(あひまもり)猥成儀(みだりなるぎ)致(いた)すましき事(こと)        一 諸役人(しよやくにん)公事訴訟之儀(くじそせうのぎ)正路(せいろ)に相計(あひはからふ)へし家中(かちう)並(ならびに)町在(まちざい)より賄賂(わいろ)の品々(ひな〴〵)受用(じゆよう)の儀(ぎ)弥(いよ〳〵)堅禁止(かたくきんし)すへき事(こと)        一 所替(ところがへ)何(いづれ)も物入等(ものいりとう)有之間(これあるあひだ)以後(いご)万端(ばんたん)つゝまやかにいたし少(すこし)の失墜(しつつひ)無之様(これなきやう)肝要(かんえう)に候(そろ)吉田(よしだ)は諸事(しよじ)御花麗(ごくわれい)         の様子(やうす)に相聞候間(あひきゝそろあひだ)其(その)風俗(ふうぞく)にうつるましき事        一 城下町(じようかまち)諸家(しよけ)通行(つうかう)の場所(ばしよ)に候間(そろあひだ)通(とほ)りの衆中見物(しうちうけんぶつ)として出(いで)ましき事        一 兼(かね)て定置候通(さだめおきそろとほり)領内(れうない)たりとも遠方(えんはう)へ相越事(あひこすこと)役人(やくにん)の外(ほか)無用(むよう)たるべし子細(しさい)あらは支配(しはい)々々へ相断可任(あひことはりさし) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百六十九 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百七十 【本文】          指図(づにまかせべく)寺社(じしや)並(ならびに)町在(まちざい)へ振廻等(ふれまはしとう)相越候儀(あひこしそろぎ)わけなくして無用(むよう)寺社(じしや)町在(まちざい)へも其(その)趣(おもむき)触置候事(ふれおきそろこと)          附(つけたり)町在之者(まちざいのもの)少(すこし)も慮外(りよぐわい)がましき事 有之(これあり)は 密(ひそか)に役人(やくにん)え達(たつ)すへし家中下々(かちうしも〳〵)かさつ成事(なること)あらは其所(そこ)よ           り訴出候様(うつたへいでそろやう)に町在(まちざい)へ触置候間(ふれおきそろあひだ)此段(このだん)下々(しも〳〵)へ可申含事(もうしふくむべきこと)        一 居宅住(ゐたくぢう)あらさゝるやうに心懸(こゝろがく)へし若先主居(もしせんしゆゐ)あらし候はゝ相応(さうおう)に速(すみやか)に修理(しうり)をくわふへき事        一 火(ひ)の本(もと)念入分限相応(ねんいりぶんげんそうおう)に為火消道具(ひけしのためどうぐ)を貯(たくは)へ屋敷(やしき)々々に水籠釣置(みづつるべおく)へき事        一 狩猟(しゆれう)の事(こと)構無之候(かまへこれなくそろ)しかれ共遠方(どもえんぽう)へ行其事(ゆきそのこと)に耽(ふけ)り家業忘失(かげふぼうしつ)すへからさる事          附(つけたり)猥成(みだりなる)遊興(ゆうけう)酒及沈酒(さけおよびちんすい)の儀(ぎ)勿論不可有之(もちろんこれあるべからず)殺生(せつせう)の鉄砲(てつぽう)公儀御法度(こうぎごはふと)の事候間(ことそろあひだ)かたく停止之(これをていし)此等(これら)の            儀(ぎ)下々迄(しも〳〵まで)急度申含(きつともをしふくめ)且又(かつまた)博奕禁止(ばくゑききんし)の段(だん)きひしく可申付置事(もをしつけおくべきこと)        一 勤番(きんばん)として交代(かうたい)の道中万般相慎(どうちうまんぱんあひつゝしみ)下々(しも〳〵)かさつに無之(これなく)馬銭旅籠銭等(ばせんはたごせんとう)廉直(れんちよく)に相済通行(あひすましつうかう)すへき事         右之通(みぎのとほり)堅可相守旨也(かたくあひまもるべきむねなり)          正徳二年十一月            寺社方(じしやかた)え              覚(おぼえ)        一 檀方(だんぽう)たりとも家中(かちう)の者訳(ものわけ)なくして招入振廻等無用(まねきいれふれまはりとうむよう)に候(そろ)此儀家中(このぎかちう)へも相達置候間(あひたつしおきそろあひだ)其旨(そのむね)可心得候(こゝろべくそろ)尤(もつとも)          他所(たしよ)より知人来候共(ちじんきたりそろとも)役人(やくにん)え訴(うつた)へすして宿(やど)をかし或(あるひ)は浪人等(らうにんとう)かくまひ置候儀無用(おきそろぎむよう)たるへし様子正(やうすたゞ)し         く指置候(さしおきそろ)ても不苦(くるしからず)趣有之(おもむきこれあり)は役人(やくにん)え可達之事(これをたつすべきこと)          附(つけたり)火(ひ)の本大切(もとたいせつ)にいたし下々(しも〳〵)博奕諸勝負(ばくゑきしよせうぶ)堅禁止可有之事(かたくきんしこれあるべきこと)        一 古来(こらい)の宝物(ほうぶつ)は各別(かくべつ)新規(しんき)に武具(ぶぐ)を貯(たくは)へへからす家中(かちう)又(また)は近郷(きんごう)より寄進(きしん)あらは役人(やくにん)え可申達事(あひたつすべきこと) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        一 公事訴訟等(くじそせうとう)の儀有之(ぎこれあり)江戸(えど)へ出候節(いでそろせつ)は一 応役人(おうやくにん)え可断之(これをことはるべく)此段品(このだんしな)により候(そろ)とも抑留(よくりう)すへき為(ため)にては         無之候(これなくそろ)一 且不聞置(たんきゝおかず)しては如何(いかゞ)に候間(そろあひだ)慥(たしか)に可相断事(あひことはりべきこと)        一 公事訴訟人(くじそせうにん)或(あるひ)は罪科有之(ざいかこれある)ものを加(か)くまひ又(また)は取持等無用(とりもちとうむよう)たるべし無拠儀(よんどころなきぎ)あらは品(ひな)によるへき事        一 勧進奉加正(かんじんほうがたゞ)しきいわれ有之(これあり)は各別(かくべつ)に候若猥(そろもしみだり)に出(いだ)し候共品(そろともひな)により町在共(まちざいとも)に勧進奉加(かんじんほうが)に付(つけ)さるやうに          可申付(もをしつくべき)の条無詮事(ぜうせんなきこと)に成(なる)へく候(そろ)其旨(そのむね)可心得事(こゝろえべきこと)          附(つけたり)神託夢想(しんたくむさう)と号(ごう)し雑説(ざつせつ)不申出様(もをしいでざるやう)に下々(しも〳〵)へ可申含事(もをしふくむべきこと)         右(みぎ)の趣(おもむき)可相心得者也(あひこゝろえらるべきものなり)          正徳二年十一月            町在(まちざい)え             定(さだめ)        一 公儀御法度(こうぎごはつと)堅相守(かたくあひまもり)親類縁者(しんるいゑんじや)むつましく召仕(めしつかへ)に至(いた)るまても愛憐(あいりん)を本(もと)とし借宅鉢(かりたくはつ)の者(もの)まても渡世相応(とせいさうおう)         に続(つゞ)くやうにすへし一 町(てう)一 村(そん)にをひておもさちたる者共(ものども)の心得(こゝろえ)にて非人宿(ひにんやど)なし等(とう)無之様(これなきやう)にすへき          事(こと)        一 徒党(ととう)むすひ万端争論功成儀(ばんたんさうろんたくみなるぎ)いたすましき事        一 扶持人(ふちにん)如何様(いかやう)の軽(かる)きものに対(たいし)ても慮外(りよぐわい)かましき儀(ぎ)なすへからさる事        一 用事有之(ようじこれあり)遠方(えんぱう)へ相越(あひこす)にをひては其所(そこ)のおもたちたる者(もの)へ相断(あひことはる)へし若他領(もしたれう)と出入有之(でいりこれあり)江戸(えど)へ相越(あひこす)          事(こと)あらは地方町方向々(ちはうまちかたむき〳〵)へ相達罷出(あひたつしまかりいづ)へき事           附(つけたり)さし紙(がみ)にて出(いづ)る時(とき)は勿論(もちろん)事 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百七十一   【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百七十二 【本文】        一 通(とほ)り町(まち)公儀御定(こうぎおんさだめ)堅相守(かたくあひまもり)旅人(たびびと)に対(たい)し少(すこし)も猥成儀(みだりなるぎ)すへからす若左様(もしさやう)の者有之(ものこれある)は町内(てうない)より早速(さつそく)奉行(ぶぎよう)へ          可訴之(これをうつたへべく)かくし置後日(おきごにち)に顕(あら)はれは可為越度事(こさせたるべきこと)        一 旅人(たびびと)の外知人(ほかちじん)たりとも疑敷者(うたがはしきもの)宿(やど)すへからす親類(しんるい)又(また)は由緒正(ゆうしよたゞ)しき近付指置(ちかづきさしおき)は役人(やくにん)え相達(あひたつ)し指図(さしづ)を          得(う)へし常々(つね〳〵)旅宿(りよしゆく)をつとめさる所(ところ)にては子細(しさい)なくして旅人(たびびと)に宿借(やどかす)へからす他領(たれう)の者(もの)無拠儀(よんどころなきぎ)にて指(さし)          置(おく)は是又(これまた)役人(やくにん)え相達(あひたつし)可任指図事(さしづにまかせべくこと)        一 諸商売物(しよあきないうりもの)高直(たかね)にすへからす尤(もつとも)無詮売物無用(せんなくうりものむよう)たるへし質物(しちもの)にうたかわしき物(もの)不可取之(これをとるべからず)若盗物(もしぬすみもの)に         て後日(ごにち)に相知(あひし)るにおゐては本人同罪(ほんにんどうざい)たるへき事           附(つけたり)諸商売(しよあきなひ)道路往還(どうろわうくわん)の障(さけり)にならさるやうに心得(こゝろえ)へき事(こと)        一 博奕(ばくゑき)諸勝負(しよせうぶ)堅停止(かたくていし)の事(こと)           附(つけたり)人集(ひとあつめ)はなし猥(みだり)に近隣迄(きんりんまで)も騒敷体(さはがしきたい)無用(むよう)たるへき事(こと)        一 家中(かちう)の者(もの)を振廻事(ふれまはすこと)一 切(さい)すへからす家中(かちう)へも此段(このだん)触置(ふれおき)の間(あひだ)其旨(そのむね)を存(ぞんず)へし家中猥(かちうみだり)に徘徊(はいかい)下々(しも〴〵)等(とう)かさつ         の儀有之(ぎこれある)は奉行(ぶぎよう)へ可訴之(これをうつたへべく)後日(ごにち)に其者(そのもの)へあたなき様(やう)に相計(あひはから)ふへき事(こと)        一 町在共(まちざいとも)に猥(みだり)に武具(ぶぐ)をたくわへ浪人等(らうにんとう)かくまひ置(おく)へからさる事(こと)          附(つけたり)火(ひ)の本(もと)随分念入(ずいぶんねんいり)一 町(てう)一 村(そん)云合(いひあは)せ火(ひ)を消道具相応(けすどうぐさうおう)に用意(ようい)し一 軒(けん)々々 水籠釣置(みづつるべおく)へき事(こと)        一 嫁娶(よめとり)の義(ぎ)又(また)は寺社(じしや)の寄進(きしん)法事(はうじ)等(とう)分限相応(ぶんげんさうおう)に執行(しつかう)すへし          惣(そう)して衣服等(いふくとう)不依何事(なにごとによらず)驕奢(きよしや)花麗(くわれい)の体無用(ていむよう)たるへき事(こと)          附(つけたり)雑説風聞等(ざつせつふうぶんとう)堅停止(かたくていし)の事(こと)         右(みぎ)條々(でう〳〵)町在共(まちざいとも)堅可相守之(かたくこれをあひまもるべし)若違犯於有之者(もしいはんこれあるにおいては)急度(きつと)可所罪科者也(ざいくわにしよせらるべきものなり) 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百三十七号附録    (大正元年八月十三日発行) 【本文】           正徳二年十一月 《割書:信祝移封当|時の地図》   又(また)其当時(そのたうじ)のもので頗(すこぶ)る興味(けうみ)のある地図(ちづ)が今(いま)も幸(さいはひ)に大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るがそれは牧野氏時代(まきのしじだい)のものへ        朱書(しゆがき)を以(もつ)て新(あらた)に大河内家(おほかうちけ)即(すなは)ち松平氏(まつだひらし)の家来(けらい)の宿所(しゆくしよ)を割(わ)り付(つ)けたものである如何(いか)にも転封当時(ていほうたうじ)の状態(ぜうたい)と        云(い)ふものが目前(もくぜん)に見(み)る如(ごと)くで最(もつと)も史料(しれう)となるべきものと思(おも)ふが其中(そのなか)で一二の例(れい)を挙(あ)げて見(み)れば之迄(これまで)牧(まき)        野氏(のし)在城時代(ざいじようじだい)に其(その)家老(からう)の藤江竹右衛門(ふぢえたけうゑもん)が居(を)つた屋敷(やしき)へは朱書(しゆがき)で大河内家(おほかうちけ)の西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)の名(な)が書(か)き込(こ)       むであり又(ま)た牧野家(まきのけ)の樋口市左衛門(ひぐちいちざゑもん)と云(い)ふ人(ひと)が居(を)つた屋敷(やしき)には同(おな)じく大河内家(おほかうちけ)の遊佐平馬(ゆさへいま)の名(な)が書(か)き        入(い)れてあると云(い)ふ訳(わけ)で其外(そのほか)実(じつ)に細(こまか)い処(ところ)まで一々 朱書(しゆがき)がしてあるのは甚(はなは)だ面白(おもしろ)く感(かん)ずるのである       サテ大体(だいたい)右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)で信祝(のぶとき)は初(はじ)めて此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)と相成(あひな)つたのであるが話(はなし)は再(ふたゝ)び前(まへ)に戻(もど)つて当時(たうじ)前将(ぜんせう) 《割書:七代将軍家|継》   軍(ぐん)家宣(いへのぶ)は薨(こう)じて其(その)嗣子(ちやくし)鍋松君(なべまつぎみ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)くまだ四 歳(さい)の幼童(ようどう)であつたが之(これ)が七 代将軍(だいせうぐん)家継(いへつぐ)となつたの 《割書:将軍家宣と|新井白石並|に間部詮勝》  である然(しか)るに此人(このひと)も亦(ま)た正徳(せうとく)六年 僅(わづか)に八 歳(さい)で薨去(こうきよ)されたので徳川家(とくがはけ)に取(と)つては不幸(ふかう)が相継(あひつ)いだのであ       つたが併(しか)し先(さき)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く前将軍(ぜんせうぐん)家宣(いへのぶ)と云(い)ふ人(ひと)は実(じつ)に人物(じんぶつ)であつて特(とく)に新井白石(あらゐはくせき)を用(もち)ゐ又(ま)た彼(か)の        間部詮勝(まなべのりかつ)に信頼(しんらい)したが其(その)在職(ざいしよく)は僅(わづか)に四年であつたにも拘(かゝは)らず成蹟(せいせき)は頗(すこぶ)る挙(あが)つて所謂(いはゆる)正徳(せうとく)の政(まつりごと)は行(おこな)は       れたのである従(したがつ)て其(その)薨去(こうきよ)後(ご)も此(この)両人(れうにん)は幼主(ようしゆ)家継(いへつぐ)を扶(たす)けて誠意熱心(せいいねつしん)に天下(てんか)の事(こと)を行(おこな)つた勿論(もちろん)此両人(このれうにん)に対(たい)       しては当時(たうじ)幼主(ようしゆ)を擁(えう)して大政(たいせい)を左右(さゆう)した事(こと)であるし殊(こと)に詮勝(のりかつ)は其(その)位置(ゐち)が側用人(そばようにん)と云(い)ふのであつたから        多少(たせう)の批難(ひなん)もないではなかつたが併(しか)し此(この)両人(れうにん)がいづれも私心(ししん)なく誠意(せいい)であつた事は後世(こうせい)の認(みと)むる処(ところ)で       かゝる訳(わけ)であつたから徳川(とくがは)の天下(てんか)も先(ま)づ乱(みだ)るゝ事(こと)なく都合(つごう)よく経過(けいくわ)したのである又(ま)た前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた        如(ごと)く嘗(かつ)此(この)吉田(よしだ)に城主(じようしゆ)たりし久世重之(くせしげゆき)が若年寄(わかとしより)から老中(らうちう)の列(れつ)に入(い)つたのも此(この)正徳(せうとく)三年の八月三日であ 《割書:八代将軍吉|宗》  るがサテ家継(いへつぐ)薨去(こうきよ)の後(あと)を受(う)けて八 代将軍(だいせうぐん)と相成(あひな)つたのは諸君(しよくん)も御存(ごぞんじ)の如(ごと)く徳川吉宗(とくがはよしむね)で此人(このひと)は紀州家(きしうけ)か 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百七十三 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百七十四 【本文】       ら入(い)つて宗家(しうけ)を襲(つ)いだのであるが中々(なか〳〵)の英主(えいしゆ)で殊(こと)に武家主義(ぶけしゆぎ)を鼓吹(こす)した人(ひと)であるから之迄(これまで)綱吉(つなよし)以来(いらい)の        公武親和主義(こうぶしんわしゆぎ)とは自(みづか)ら相反(あひはん)する方針(はうしん)であつたソコで前代(ぜんだい)に於(おい)て新井白石(あらゐはくせき)等(ら)の計画(けいくわく)した事(こと)は大概(たいがい)気(き)に入(い)      らなかつたのである従(したがつ)て就職(しゆしよく)早々(さう〳〵)白石(はくせき)をも詮勝(のりかつ)をも斥(しりぞ)けて仕舞(しま)ひ復(ふたゝ)び林信篤(はやしのぶあつ)が用(もち)いらるゝ様(やう)に至(いた)つた      のであるが前(まへ)に御話(おはなし)した久世重之(くせしげゆき)は此間(このかん)に立(た)つて享保(けうほ)五年六月廿七日 其(その)卒去(そつきよ)まで職(しよく)を継続(けいぞく)し頗(すこぶ)る此(この)享(けう)        保(ほ)の政治(せいぢ)には尽(つく)したものである尚(なほ)念(ねん)の為(ため)に申述(もをしの)ぶるが正徳(せうとく)と云(い)ふ年号(ねんごう)は六年目に享保(けうほ)と改(あらた)まつたので       ある而(しか)して此(この)享保(けうほ)年代(ねんだい)は即(すなは)ち吉宗(よしむね)が盛(さかん)に幕政(ばくせい)の改革(かいかく)を行(おこな)つた時(とき)で吉宗(よしむね)と云(い)ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)に取(と)つては実(じつ)       に中興(ちうこう)の祖(そ)とも云(い)ふべきであろうと思(おも)ふ而(しか)して此(この)享保(けうほ)四年四月 信祝(のぶとき)は初(はじめ)の名(な)信高(のぶたか)を今(いま)の名(な)に改(あらた)めたの 《割書:信祝大阪城|代に任ぜら|る》  であるが此(この)時(とき)も亦(ま)た林信篤(はやしのぶあつ)が其(その)名(な)を勘定(かんてい)して居(を)るのである夫(それ)から十四年の二月二日に至(いた)つて信祝(のぶとき)は大(おほ) 《割書:信祝浜松に|移封せらる》   阪城代(さかじようだい)に任(にん)ぜられたのであるが之(これ)と同時(どうじ)に遠江(とほとふみ)の浜松(はままつ)に移封(いほう)せられ同城主(どうじようしゆ)松平豊後守(まつだひらぶんごのかみ)資訓が代(かは)つて        此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)と相成(あひな)つたのである       トコロで私(わたくし)は今少(いますこ)しく便宜上(べんぎぜう)から引続(ひきつゞ)いて信祝(のぶとき)の事(こと)に付(つい)て尚(なほ)此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである       が先(ま)づ此(この)信祝(のぶとき)が大阪城代(おほさかじようだい)となつて赴任(ふにん)の時(とき)の事(こと)である之(これ)が矢張(やはり)大河内家(おほかうちけ)には詳(くは)しい日記(につき)として其(その)当時(たうじ)       のものが残(のこ)つて居(を)るのである江戸出発(えどしゆつぱつ)から此(この)吉田(よしだ)へ立寄(たちよ)つた事(こと)並(ならび)に大阪(おほさか)に着(ちやく)する迄(まで)の事柄(ことがら)は孰(いづ)れも大(だい) 《割書:信祝輝貞と|同時に老中|に擁用せら|る》   小(せう)となく記録(きろく)されて居(を)るので史料(しれう)となるべき点(てん)が少(すくな)くない然(しか)るに信祝(のぶとき)は其(その)翌年(よくねん)の七月十一日 分家(ぶんけ)の松(まつ)        平右京太夫輝貞(だひらうけふだいふてるさだ)と共(とも)に老中(らうちう)に擁用(てきよう)せられたのであるが之(これ)に就(つい)ては多少(たせう)の事情(じぜう)がなくてはならぬように        思(おも)はれる前(まへ)に申述(もをしの)べた如(ごと)く此(この)輝貞(てるさだ)と云(い)ふ人は輝綱(てるつな)の子(こ)で信輝(のぶてる)の弟(おとゝ)であるから信祝(のぶとき)から云(い)ふと叔父(おぢ)に        当(あた)る人であるが此(この)人(ひと)は彼(か)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)とは至(いた)つて親密(しんみつ)の間柄(あひだがら)で五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の為(ため)には大(おほい)に信用(しんよう)を得(え)たも       ので三万二千石から七万二千石 迄(まで)に加増(かぞう)せられ上州高崎(ぜうしうたかさき)の城主(じようしゆ)であつたが吉保(よしやす)が斥(しりぞけ)られた時には輝貞(てるさだ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       も亦(ま)た幕府(ばくふ)に疎(うとん)せらるゝに至(いた)つて一たび越後(ゑちご)の村上(むらかみ)に転封(てんほう)せられたのである然(しか)るに此(この)本家(ほんけ)たる信祝(のぶとき)の        家(いへ)に於(おい)ても当時(たうじ)柳沢家(やなぎさはけ)とは親密(しんみつ)の間柄(あひだがら)であつた事は先(さ)きに輝綱夫人(てるつなふじん)の書翰(しよかん)を御紹介(ごせうかい)申上(もをしあげ)た時(とき)に於(おい)ても        略(ほ)ぼ御了解(ごれうかい)の事であつたと信(しん)ずるソコで私(わたくし)は信祝(のぶとき)の父(ちゝ)信輝(のぶてる)の隠居(ゐんきよ)に就(つい)ても常(つね)に何分(なにぶん)疑(うたがひ)を抱(いだ)いて居(を)る       ものであるが併(しか)し此(この)信輝(のぶてる)と云ふ人は病気勝(びようきがち)であつた様(やう)に推定(すいてい)さるゝから全(まつた)く其(その)為(ため)の隠居(ゐんきよ)かとも思(おも)はる       ゝが丁度(ちようど)其(その)隠居(ゐんきよ)が六 代将軍(だいせうぐん)家宣(いへのぶ)就職(しゆしよく)の時で恰(あたか)も吉保(よしやす)輝貞(てるさだ)等(ら)の斥(しりぞ)けられた当時(たうじ)であるから何(なん)だかソコに        意味(いみ)ありげなので疑(うたが)つて見(み)れば疑(うたが)はれもするのである然(しか)るにイヨ〳〵八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の就職(しゆしよく)となつて俄(にはか)       に模様(もやう)が変(かは)つて而(しか)も同日(どうじつ)に此(この)叔甥(おぢおい)か共(とも)に老中(らうちう)に擁用(てきよう)されたと云ふ事は当時(たうじ)頗(すこぶ)る人心(じん〳〵)を驚(おどろ)かした事であ      つたろうと思(おも)ふが輝貞(てるさだ)は吉宗(よしむね)がまだ紀州家(きしうけ)の庶子(しよし)として僅(わづか)に越前(ゑちぜん)丹生三万石の小禄(せうろく)であつた時(とき)其(その)地(ち)は        礎角(ぎようかく)であるから追(お)つては村替(むらがへ)の儀(ぎ)を取計(とりはから)ふべしと切(せつ)に懇志(こんし)を通(つう)じ又(ま)た己(おの)れが側用人(そばようにん)の位置(ゐち)にあつた処(ところ)       から時(とき)の将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)に拝謁(はいえつ)の時(とき)などは勉(つと)めて吉宗(よしむね)に便宜(べんぎ)を与(あた)へ之(これ)を執成(とりな)したので吉宗(よしむね)は深(ふか)く之(これ)を喜(よろこ)むで        先(さ)きに此(この)輝貞(てるさだ)を高崎城(たかさきじよう)に復(ふく)し今(いま)亦(ま)た之(これ)を老中(らうちう)に擁用(てきよう)したのは酬(むく)ゆる処(ところ)があつたのであると云ふ説(せつ)があ       る兎(と)に角(かく)輝貞(てるさだ)の登用(とうよう)に至(いた)つては当時(たうじ)慥(たしか)に世人(せじん)をして一 驚(けう)を喫(きつ)せしめたと云ふ事(こと)である而(しか)して信祝(のぶとき)は        爾来(じらい)輝貞(てるさだ)と共(とも)に幕政(ばくせい)に参与(さんよ)して享保(けうほ)から元文(げんぶん)、 寛保(かんぽ)、 延享(えんけう)と吉宗(よしむね)在職中(ざいしよくちう)勤続(きんぞく)し延享(えんけう)元年(がんねん)四月十八日を        以(もつ)て卒去(そつきよ)した次第(しだい)であるが其(その)在職中(ざいしよくちう)の記録類(きろくるい)は今(いま)も多数(たすう)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので所謂(いはゆる)享保(けうほ)の政治(せいぢ)を        講究(こうきう)する上(うへ)には大切(たいせつ)なるものが少(すくな)くないのである             ⦿信祝の人物並に事蹟の一班 信祝の日記  信祝(のぶとき)と云ふ人は余程(よほど)緻密(ちみつ)な性質(せいしつ)で特(とく)に親切丁寧(しんせつていねい)な人であつたと信(しん)ずる現(げん)に大河内家(おほかうちけ)には信祝(のぶとき)の日誌(につし)が 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百七十五 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百七十六 【本文】       五十五 冊程(さつほど)保存(ほぞん)されてあるが之(これ)が毎日(まいにち)自筆(じしつ)で緻密(ちみつ)に其日(そのひ)々々の出来事(できごと)を記録(きろく)したものである而(しか)も之(これ)が        享保(けうほ)から初(はじ)まつて元文(げんぶん)、 寛保(かんぽ)と継続(けいぞく)して居(を)るが丁度(ちようど)信祝(のぶとき)が老中(らうちう)在職中(ざいしよくちう)のものであるから子細(しさい)に之(これ)を調(てう)        査(さ)したならば所謂(いはゆる)享保(けうほ)の政治(せいぢ)即(すなは)ち八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の政治(せいぢ)と云ふものに対(たい)して研究(けんきう)の材料(ざいれう)となるものが多(おほ) 大河内家譜 い事と思(おも)ふ又(ま)た此人(このひと)の撰(せん)で大河内家譜(おほかうちかふ)と云ふものがあるが之(これ)は伝来(でんらい)の家譜(かふ)を考証(かうせう)して大成(たいせい)したもので        家譜(かふ)、 支流譜(しりうふ)、 付録(ふろく)、 余裔譜(よえいふ)、 別録(べつろく)と分(わか)つてあるが今(いま)大河内家(おほかうちけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るものゝ内(うち)家譜(かふ)五 巻(かん)、        支流譜(しりうふ)七 巻(かん)、 付録(ふろく)九 巻(かん)、 余裔譜(よえいふ)八 巻(かん)、 別録(べつろく)四 巻(かん)と云(い)ふものは孰(いづ)れも其(その)自筆(じしつ)であつて享保(けうほ)十九年の自序(じぢよ)       があるのである兎(と)に角(かく)之(これ)が老中職(らうちうしよく)にある間(あひだ)の余業(よげふ)であるとしては実(じつ)に其(その)勤勉(きんべん)であつた事(こと)が思(おも)ひやられ       るのである其(その)家譜(かふ)の自序(じぢよ)の内(うち)にも        吾嘗聞、諸先祖有善而弗知不明也、知而弗伝不仁也。吾難不敏也、盖恥焉。故毎退食須臾遑舎、黽        勉有所識、積成巻若干、所以従俗而不敢修之辞者、欲事蹟務実且人易膮也、尚子子孫孫、永纂輯、        以称揚美後世、是吾之所以恥君子之所恥也。       とある如(ごと)くで誠(まこと)に信祝(のぶとき)の人(ひと)となりが分(わか)ると思(おも)ふのである且(か)つ其(その)日記(につき)又(また)は家譜(かふ)などの装釘(そうてい)から見(み)ても実(じつ)       に簡短(かんたん)なもので殊(こと)に日記(につき)の如(ごと)きは竹紙(ちくし)を四ツ折(をり)にして之(これ)を紙縒(かうより)で綴(つゞ)つただけである処(ところ)などは如何(いか)に信(のぶ)        祝(とき)が質素倹約(しつそけんやく)を旨(むね)とした人(ひと)であつたかが窺(うかゞ)ひ知(し)らるゝ事(こと)と思(おも)ふ又(ま)た信祝(のぶとき)は歌(うた)を読(よ)み画(ぐわ)を画(ゑが)いたが之(これ)は        何方(どちら)も忌憚(きたん)なく言(い)へば余(あま)り名人(めいじん)と云ふ程(ほど)ではなかつた事(こと)と思(おも)はれる併(しか)し其(その)画(ぐわ)には密画(みつぐわ)が多(おほ)く緻密(ちみつ)にし       て親切(しんせつ)な人であつた事(こと)は画面(ぐわめん)の上(うへ)にも現(あら)はれて居(を)るのである今(いま)豊橋市(とよはしし)の神宮寺(じんぐうじ)に遺(のこ)つて居(を)る観音(くわんをん)の像(ぞう)       の如(ごと)きは出来(でき)も中々(なか〳〵)善(よ)く最(もつと)も其(その)真相(しんさう)を発揮(はつき)して居(を)るものと思(おも)ふが龍拈寺(りうねんじ)にも亦(ま)た信祝(のぶとき)が寄進(きしん)した紺紙(こんがみ)        金泥(きんでい)の仏像(ふつぞう)がある之(これ)も緻密(ちみつ)な事(こと)に至(いた)つては実(じつ)に他(た)に遜(くだ)らざる処(ところ)のものである和歌(わか)に於(おい)ても同様(どうよう)で古今(こきん) 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百四十四号附録    (大正元年八月二十日発行) 【本文】        集秘伝(しうひでん)と云ふ書物(しよもつ)の如(ごと)きは矢張(やはり)之(これ)を自写(じしや)したもので今(いま)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのである右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で 三浦竹渓  あるから勿論(もちろん)学問(がくもん)に就(つい)ては特志(とくし)のものであつたが彼(か)の三浦竹渓(みうらちくけい)と云ふ学者(がくしや)を招聘(せうへい)したのは信祝(のぶとき)が浜松(はままつ)        城主(じようしゆ)となつてからの事(こと)でそれは丁度(ちようど)享保(けうほ)十八年の事(こと)である此(この)竹渓(ちくけい)と云ふ学者(がくしや)の伝記(でんき)は先哲叢談後編(せんてつさうだんこうへん)の       五にあるので此(この)事(こと)に就(つい)ては愛知県史編纂係(あいちけんしへんさんがゝり)の田部井鉚太郎君(ため いりうたらうくん)の注意(ちうい)を受(う)けたる事(こと)が少(すくな)くないから一 言(げん)        茲(こゝ)に御礼(おんれい)を申述(もをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふが此(この)竹渓(ちくけい)と云ふ人は名(な)を義質、 字(あざな)を子彬(しさし)、 幼名(しよめい)を良能、 通称(つうせう)を平(へい)        太夫(だいう)と云つて江戸(えど)の人であつたが父(ちゝ)を平右衛門(へいざゑもん)と云つて其(その)曾祖(そうそ)甚右衛門尉為重(じんうゑもんぜうためしげ)は嘗(かつ)て織田信雄(をたのぶを)に仕(つか)へ       た人である竹渓(ちくけい)は若冠(じやくかん)にして豪気撓(ごうきたわ)まず嬌俊(けうしゆん)にして節(せつ)ある処(ところ)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に仕(つか)へて恩寵(おんてう)特(とく)に厚(あつ)かつた       のであるが宝永(ほうえい)二年 時(とき)の将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)が吉保(よしやす)の邸(てい)に臨(のぞ)むだ時(とき)竹渓(ちくけい)は年(とし)十七で其(その)前(まへ)に孟子(もうし)の道在邇(みちはちかきにあり)の章(せう)を        進講(しんかう)し大(おほい)に賞賛(せうさん)されたと云ふ事(こと)である中年(ちうねん)に至(いた)つて更(さら)に業(げう)を荻生徂徠(をぎうそらい)に受(う)けたが天資穎脱(てんしゑいだつ)で数歳(すうさい)なら       ずして群経(ぐんけう)を究(きは)め見解(けんかい)が奇抜(きばつ)で往々(わう〳〵)人(ひと)の意表(いへう)に出(い)でた又(ま)た楷書(かいしよ)を善(よ)くし頗(すこぶ)る徂徠(そらい)の為(ため)には親愛(しんあい)せられ       たものであるが儒者(じゆしや)を以(もつ)て世(よ)に立(た)つことは好(この)まなかつたので自(みづか)ら今日(こんにち)の所謂(いはゆる)政治家(せいぢか)を以(もつ)て任(にん)じて居(を)つ       たのである従(したがつ)てこ此(この)松平家(まつだひらけ)に聘(へい)せらるゝにも儒官(じゆくわん)としてではなく士分(しぶん)として招(せう)されたのであるが信祝(のぶとき)の        世子(せいし)信復(のぶなほ)の傅(ふ)をも兼(か)ねたのであつて後(のち)信復(のぶなほ)が復(ふたゝ)び此(この)吉田(よしだ)に移封(ゐほう)せらるゝに至(いた)つて竹渓(ちくけい)も亦(ま)た従(したが)つたの       である併(しか)し多(おほ)くは江戸(えど)に住居(ぢうきよ)したもので吉田(よしだ)には余(あま)り来(き)た事(こと)がなかつたように思(おも)はれる従(したがつ)て今(いま)も豊橋(とよばし)       の地(ち)には此(この)人(ひと)の遺墨(いぼく)など殆(ほとん)ど見(み)ざる処である又(ま)た此(この)人(ひと)は性頗(せうすこぶ)る執強(しつけう)で慷慨(かうがい)の意気(いき)に富(と)み談(だん)偶(たまた)ま節義(せつぎ)の       事に及(およ)べばた忽(たちま)ち潜然(せんぜん)とし涙下(るいか)したが其(その)代(かは)り一たび意見(いけん)の合(あ)はぬ人に向(むか)つては遠慮(ゑんりよ)なく之(これ)を罵倒(ばたう)した       ので反対者(はんたいしや)も少(すくな)くなかつたと云ふ事(こと)である宝暦(ほうれき)六年五月五日 享年(けうねん)六十八 歳(さい)で没(ぼつ)し江戸(えど)市(いち)ヶ谷(や)蓮秀寺(れんしうじ)に        葬(ほうむ)つたのであるが其(その)著書(ちよしよ)には射学正宗国字解、律学正宗国字解、明律訳義、竹渓文集等がある 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百七十七 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百七十八 【本文】        先(ま)づ信祝(のぶとき)の性行(せいこう)等(とう)に就(つい)ては大要(たいえう)右(みぎ)に申述(もをしの)べた如(ごと)くであるがサテ此(この)信祝(のぶとき)が吉田(よしだ)に城主(じようしゆ)たりし時代(じだい)の事蹟(じせき)       は如何(どう)かと云(い)ふに信祝(のぶとき)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く正徳(せうとく)二年七月十二日 此(この)吉田(よしだ)に封(ほう)せられてから享保(けうほ)十四年       二月二日 遠江国(とほとふみのくに)浜松(はままつ)へ転封(てんほ)になるまで十七年 余(あま)り此(この)地(ち)に城主(じようしゆ)たりし訳(わけ)であつたが当時(たうじ)は一ケ年 置(お)き 《割書:吉田刈谷交|代参觀の制》  に参觀(さんきん)する規定(きてい)で特(とく)に正徳(せうとく)四年四月十二日 付(づけ)を以(もつ)て此(この)参遠(さんえん)の地(ち)は最(もつと)も要害(ようがい)の処であるから吉田城主(よしだじようしゆ)と        刈谷城主(かりやじようしゆ)とは互(たがひ)に交代(かうたい)し浜松城主(はままつじようしゆ)と掛川城主(かけがはじようしゆ)とは之(これ)も互(たがひ)に交代(かうたい)して参觀(さんきん)する様(やう)にと命(めい)ぜられたのであ       る其後(そのご)将軍(せうぐん)吉宗(よしむね)の時代(じだい)となつて一 時(じ)半年(はんねん)毎(ごと)に参觀(さんきん)する制(せい)と改(あらた)められたが右(みぎ)の訳(わけ)であるから信祝(のぶとき)は城主(じようしゆ)       たるの当時(たうじ)刈谷城主(かりやじようしゆ)と交代(かうたい)に一ケ年又(また)は半ケ年づゝ在職(ざいしよく)又(また)は在府(ざいふ)したものである尚(な)ほ余談(よだん)のようでは 《割書:吉田藩主と|新居の関所》  あるが彼(か)の新居(あらゐ)の関所(せきしよ)と云ふものは代々(だい〳〵)此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)の担任(たんにん)で徳川氏(とくがはし)が京都(けうと)と江戸(えど)との交通上(かうつうぜう)最(もつと)も重(おも)き       を置(お)いた要害(えうがい)であつたが従(したがつ)て此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)が老中(らうちう)となれば勿論(もちろん)京都所司代(けうとしよしだい)とか大坂城代(おほさかじようだい)とかに就職(しゆしよく)して       も必(かなら)ず他(た)に移封(てんほう)されるのが之(これ)迄(まで)の例(れい)であつた即(すなは)ち信祝(のぶとき)が浜松(はままつ)に転封(てんほう)されたのも矢張(やはり)之(これ)と同(どう)一 理由(りゆう)であ 《割書:吉 田 藩|表 日 記》  つたがサテ信祝(のぶとき)が此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)たりし時代(じだい)の事柄(ことがら)に就(つい)ては幸(さいはひ)に今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に其(その)当時(たうじ)に於(お)ける藩(はん)の表日(おもてにつ)        記(き)が殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)保存(ほぞん)されて居(を)るから之(これ)で見(み)ると容易(ようい)ならぬ便宜(べんぎ)を得(う)る事(こと)である併(しか)し当時(たうじ)の出来事(できごと)に就(つい)て       は殆(ほとん)ど細大共(さいだいとも)に書(か)き付(つ)けてある訳(わけ)であるから実(じつ)は其(その)目録(もくろく)を一 覧(らん)するだけでも容易(ようい)の仕事(しごと)ではない私(わたくし)は        此頃(このごろ)其内(そのうち)の正徳(せうとく)三年の分(ぶん)だけを熟覧(じゆくらん)するのに全(まつた)く二日を要(えう)した次第(しだい)であるかゝる訳(わけ)であるから一々 当(たう)        時(じ)の出来事(できごと)を茲(こゝ)に御話(おはなし)して参(まい)る訳(わけ)には行(ゆ)かぬが其(その)中(なか)に就(つい)て一二 主(おも)なるものを申述(もをしの)べようトコロで先(ま)づ        此(この)吉田(よしだ)の大橋(おほはし)と云ふものは前章(ぜんせう)にも度々(たび〴〵)申述(もをしの)べた如(ごと)く東海道(とうかいどう)四 大橋(だいけう)の一で幕府直轄(ばくふちよくかつ)のものであつたか       ら頗(すこぶ)るヤカマシかつたもので此(この)表日記(おもてにつき)の中(なか)にも最(もつと)も多(おほ)く此(この)橋(はし)の事(こと)が散見(さんけん)されるのである殊(こと)に正徳(せうとく)三年 大橋の修繕 には此(この)橋(はし)の大修繕(だいしうぜん)があつたのであるが元来(がんらい)此(この)大橋(おほはし)を架替(かけかへ)又(また)は修繕(しうぜん)する時(とき)には前章(ぜんせう)にも御話(おはなし)して置(お)いた 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        如(ごと)く旧橋(きうけふ)と相並(あひなら)むで新橋(しんはし)又(また)は仮橋(かりはし)を作(つく)たもので通行(つうかう)には少(すこ)しも障碍(せうがひ)を与(あた)へなかつたのであるが此(この)事(こと)は        元禄(げんろく)十六年の修繕(しうぜん)迄(まで)で宝永(ほうえい)四年の修繕(しうぜん)の時(とき)は如何(どう)であつたか之(これ)は小破修繕(せうはしうぜん)であつたから少(すこ)しく不明(ふめい)で 仮橋の廃止 あるが其(その)次(つぎ)の宝永(ほうえい)六年の修繕(しうぜん)の時(とき)には初(はじ)めて仮橋(かりばし)を廃(はい)し普請中(ふしんちう)は渡船(とせん)によつて通行(つうかう)せしめたものであ       るソコで吉田宿中(よしだじゆくちう)のものは頗(すこぶ)る恐惶(けうこう)を来(きた)したのであるが其(その)頃(ころ)の橋普請(はしぶしん)などと云ふものは最(もつと)も緩慢(くわんまん)なも       ので江戸(えど)から大勢(おほぜい)役人(やくにん)が来(き)て掛(かゝ)りばかり大(おほ)きくて仕事(しごと)は中々(なか〳〵)埒(らち)の明(あ)かぬ事(こと)であつたから往来(わうらひ)のものゝ        難義(なんぎ)は実(じつ)に容易(やうい)ならざりし事(こと)と思(おも)ふ以前(いぜん)に遡(さかのぼ)る話(はなし)ではあるが誠(まこと)に当時(たうじ)の事情(じぜう)が能(よ)く分(わか)ると思(おも)ふから        其(その)当時(たうじ)宿中(じゆくちう)の庄屋(せうや)年寄(としより)等(ら)連署(れんしよ)で願出(ねがひい)でた書付(かきつけ)を左(さ)に抄録(しようろく)したいと思(おも)ふ           乍恐以書付奉願上候御事               訴詔人三州吉田宿中         一吉田宿大橋去夏ゟ舟渡ニ被為仰付往還上下之御衆中様末々之者共迄難儀仕別て吉田宿中ひしと困          窮迷惑仕候前々之通御橋ニ被為仰付被下候ハヾ往還之御衆中様無難儀宿中諸商売前々之通ニ仕          難有可奉存候御事         一吉田川満水之節又者風烈敷御座候時分宿継御飛脚御用物等舟渡故剋限相滞難儀仕候去年六月廿二          日洪水之節舟渡故京部江御登御状箱三時程遅滞同日岐阜ゟ御江戸江上り申候御鮨川向に一夜遅滞          被成候其外雨中之節吉田宿之人馬御油宿江御役に越帰候節川水増舟渡不罷成川向ニ逗留仕度々難          儀仕候御事         一前々満水之節川上之堤きれ水押入申候其畑者川向定助大助村之者共も橋を越吉田宿江退参候向後          満水ニて堤きれ候ハヾ舟渡も通路不罷成大勢之者共牛馬に至迄難儀可仕と奉存候御事 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百七十九 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百八十 【本文】        一去十二月五日之夜往来之旅人弐拾人余当所之者茂乗合舟渡仕候処風烈敷川上え十丁計吹上られ危         御座候付舟中ゟ声を上呼申候故聞付驚船町より助船二艘出し乗移らせ申候同廿日之夜より翌廿一         日九ツ時迄川水凍渡舟通路悪敷馬越無御座往来難儀仕候御事        一吉田宿中手作之田畑川向ニ多御座候作毛取納こやし等持運ひ候節難儀仕候御事        一吉田宿御伝馬百疋之役人甚外定助大助之在々馬士給金去年迄者壱ケ年給金壱両壱弐歩宛にて召抱         候所ニ舟渡シ罷成荷物付をろし寒中水ニ入難儀多御座候付当年給金弐両ゟ弐両壱弐分にて召抱申         候此給金ニテ茂不達者成ものは於舟場荷物付おろし成不申候間馬士奉公人不自由にて難儀仕候御         事        一宿中え川向之在々ゟ持来候質物等舟渡不由ニテ隙を障迷惑ニ存川向之所々え持参仕候間吉田宿え         川向ゟ之質物商売すきと止り難儀仕候御事        一宿中え買ニ参候田畑こやしの干鰯油粕等之物舟渡不自由故川向之所々ニテ相調宿中之商売すきと         止り迷惑仕候御事        一宿中え川向之在々ゟ参候雑穀類薪干葉飼葉其外之物舟賃掛り申候付前々ゟ高直ニ罷成別テ薪等ハ         前方百銭位仕候物品今ハ百四五拾銭罷成候尤当宿ニハ壱ケ月ニ十二斉之市御座候得共舟渡以後市         日潰れ売買薄く宿中難儀申上難尽候御事        一吉田宿出火之節川向之在々ゟ欠付申候得共舟渡ニ罷成通路悪敷欠付遅滞可仕旨難儀奉存候御事        一往還之御衆中武家様方之外舟賃銭荷物壱駄ニ付三拾銭乗下荷物拾九銭歩行人拾弐銭此外小揚賃取         申候付参宮人以下之者別テ難儀仕候故本坂通り多当宿弥衰微仕候御事 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百五十号附録    (大正元年八月二十七日発行) 【本文】        右以書付奉願上候通吉田宿之儀末々迄舟渡にて御座候得者ひしと潰れ申候以御慈悲前々之通御橋に        被為仰付被下候者難有可奉存候以上           宝永六寅年三月二日                          三州吉田宿                           問  屋  與右衛門(印)                           年  寄  彌次右衛門(印)                           庄  屋  與次右衛門(印)           御  奉  行  様        右(みぎ)の書付(かきつけ)で見(み)ると全然(ぜん〴〵)橋梁(けうれう)を廃(はい)したものゝようであるが其(その)実(じつ)宝永(ほうえい)六年には幕府(ばくふ)がら前澤藤兵衛(まへざはとうべゑ)と云ふ        役人(やくにん)が出張(しゆつてう)して橋普請(はしぶしん)をやつて居(を)るソコらから見(み)ると幕府(ばくふ)では最初(さいしよ)より全然(ぜん〴〵)橋梁(けうれう)を廃(はい)する所存(しよぞん)ではな       かつた事と思(おも)ふがそれであるのに前年(ぜんねん)の夏(なつ)から既(すで)に旧橋(きうけう)の通行(つうかう)を止(と)めて渡船(とせん)に改(あらた)めしめ其侭(そのまゝ)翌年(よくねん)の三       月まで普請(ふしん)にも取掛(とりかゝ)らず打捨(うちす)てゝ置(お)いたからかゝる歎願(たんぐわん)も出(で)た事(こと)と思(おも)ふ然(しか)るに今度(このたび)(正徳三年)又々(また〳〵)其(その)        修繕(しうぜん)をすることとなつた処(ところ)が矢張(やはり)其(その)時(とき)の如(ごと)く仮橋(かりばし)を廃(はい)して渡船(とせん)にすると云(い)ふので宿中(しゆくちう)のものは又々(また〳〵)恐惶(けうこう)       を来(きた)し早速(さつそく)船町(ふなまち)庄屋(せうや)浅井與次右衛門(あさゐよじうゑもん)を初(はじ)め年寄(としより)等(ら)連署(れんしよ)で仮橋設置(かりばしせつち)の事(こと)を願出(ねがひいだ)したが此(この)時(とき)吉田藩(よしだはん)に於(おい)て       は最至極(もつともしごく)の事(こと)として幕府(ばくふ)に向(むかつ)て種々(しゆ〳〵)懇願(こんぐわん)する処(ところ)があつたのである然(しか)るに又(また)も此(この)事(こと)は聞届(きゝとゞ)けられずに渡(と)        船(せん)と定(さだ)まつたがドウ布告(ふこく)しても此(この)渡船(とせん)の請負人(うけおひにん)がながつたので幕府(ばくふ)ではトウ〳〵船町(ふなまち)と下地(しもぢ)とへ賦役(ぶえき)       を課(くわ)して渡船(とせん)せしめたのであるがそれで渡船賃(とせんちん)は取(と)つたのであるから往来(わうらい)の人は頗(すこぶ)る困難(こんなん)した様子(やうす)で       ある之(これ)と云ふのも御承知(ごせうち)の如(ごと)く元禄(げんろく)以来(いらい)は次第(しだい)に幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)が窮乏(きうばう)に傾(かたむ)いて来(き)たので家宣(いへのぶ)の時代(じだい)に之(これ) 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百八十一番 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百八十二 【本文】       が救済策(きうざいさく)に力(ちから)を注(そゝ)いだが此(この)吉宗(よしむね)の時(とき)に方(あた)つても矢張(やはり)幕政(ばくせい)の主(おも)なるものは此(この)財政救済(ざいせいきうざい)の問題(もんだい)であつた従       て経費節減(けいひせつげん)が主要(しゆえう)と相成(あひな)つて居(を)る処(ところ)よりかゝる辺(へん)まで影響(えいけう)し来(きた)つた訳(わけ)で其(その)因(よつ)て来(きた)る所(ところ)と事実(じゞつ)に於(お)ける        結果(けつくわ)とを比較対照(ひかくたいせう)すると随分(ずゐぶん)趣味(しゆみ)のある事であると思(おも)ふ然(しか)るに此(この)橋普請(はしぶしん)の役人(やくにん)と云ふものは幕府(ばくふ)から        出張(しゆつてう)するのであるから其(その)待遇(たいぐう)に就(つい)ては吉田藩(よしだはん)に於(おい)ても最(もつと)も注意(ちうい)したのであるが之(これ)が亦(また)表日記(おもてにつき)正徳(せうとく)三年       二月廿三日の條(くだり)に左(さ)の如(ごと)く記(しる)してある        一吉田橋御普請御奉行近日当地御発足に付為御暇乞御両所様え昨日御使者被遣之於吉田御馳走之趣         先達而申遣之左之通                          木原因幡守様                          西山十右衛門様         一吉田御着之節町へ町奉行可罷出事         一御着之時分御料理之品見計ひ御旅館え可遣置事         一家老壱人宛御着之時と御逗留中二度ほと御帰府以前一度御見廻可申事         一御音物御着之節一度此外一ヶ月に一度つゝ其品見計ひ可指遣事         一安松金右衛門堀江儀右衛門折々御見廻可申勿論御用等有之節者可相達之事         一御両人様御家来へも金右衛門儀右衛門ゟ見計音信有之可然事         一御普請相済候節御両人様え御酒御肴可遣之事                         御   徒   目   付                         御  小  人  目  付 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】                         町     棟     梁         一旅宿へ遣し物並音物等御奉行方に準し似合敷可有之事         一安松金右衛門堀江儀右衛門見廻可申事         一家老共見廻之儀見はからひ様子次第の事             以 上        今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)ると誠(まこと)に可笑(おかし)い事(こと)のように思(おも)はるゝがサテ今日(こんにち)と雖(いへど)も尚(な)ほ往々(わう〳〵)片田舎(かたいなか)などに行(ゆ)くと        之(これ)に類似(るいじ)した事(こと)がないとも限(かぎ)らぬので政治(せいぢ)の衝(せう)に当(あた)る人は能(よ)く下情(かぜう)に通(つう)じ其(その)弊(へい)なからむことを勉(つと)めねば       ならぬ事(こと)と思(おも)ふ 《割書:河川取締の|制札》  サテ橋普請(はしぶしん)の話(はなし)が大層長(たいそうなが)くなつたが序(ついで)に今(いま)一つ申述(もをしの)べたいと思(おも)ふのは享保(けうほ)六年に此(この)河(かは)の取締(とりしまり)其他(そのた)橋梁(けうれう)       の事に就(つ)き吉田藩(よしだはん)に於(おい)て制札(せいさつ)を掲(かゝ)げた事であるが此(この)制札(せいさつ)は大橋(おほはし)の傍(かたはら)に立(た)てられたものである幸(さいはひ)に今(いま)其(その)        実物(じつぶつ)が船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)されて居(を)るので之(これ)も所謂(いはゆる)民政史料(みんせいしれう)ともなるべきであるから左(さ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲載(けいさい)       する              覚   桧板《割書:長五尺八寸厚正四分上り|巾尺五分》        一川筋満水之砌兼て申付置候通り船町庄屋並組頭舟合畑中人足共召連大橋に罷出尤橋杭へかゝり候         竹木取のけ候様可相心得候        一不意ニ川水まし川上より流来候竹木其外何ニても人足共出之早速取揚させ是又本主尋来候ハヾ庄         屋組頭立合古法之通ニて相対引渡可申候若其主相しれ不申候はば役所へ訴可受下知事        一大橋下より横須賀川上の内毎年六月中ニ至庄屋組頭立合見分之上通船留滞無之様ニ致させ可申事 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百八十三 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                 二百八十四 【本文】        一惣て船荷物出入共ニ其品悉改船番所ニ於て帳面へ記置候様ニ舟役之者可相心得候若うろんらしき         荷物於有之は庄屋組頭立合可遂吟味事        一他所船はけなくして数日逗留仕帰帆及延引候はヽ庄屋組頭立合可遂吟味事        一船町ゟ舟乗候旅人日和待は各別左もなく一切宿かし申ましく候        一伊勢参宮其外他所え参候もの船ニ乗候はゞ其宿々より国所改員数書付船役之者付届可仕候惣て利         欲にかゝはり過分ニ賃銭取不申候様茶屋共又は船主共其旨可相心得事        一あやしきもの其所独り旅人船乗せ申間敷候然共国所慥成ものに候はゝ庄屋組頭立合遂吟味可加了         簡事        一川岸上又は船荷物等小揚人足廉未不在候様是又頭分の者紛失不仕様ニ可相心得事        一旅船逗留の内橋杭其外石垣なと片取船をつなき不申候様可相心得事        一川岸揚場へ竹木板薪等数日さし置川岸場妨ニならざる様ニ是又庄屋組頭心掛吟味可仕事        一船荷物私欲ニかゝはり多積過船足深く無之様ニ出船の度々心を附可申事        一旅船共風雨の節あやうく見へ候ニ於ては早速人足共出之助力をくはへ様子よき方へつつなき留可申         事        一近辺出火ニ及び候はゝ組頭共早速かけ付御高札はづし火の元遠き方へ形付慥成番人付置可申候        一大橋不掃除無之様ニ庄屋組頭共精々見廻り橋掃除之者ニ可申付事        一銭抔かくし当所之者船之下積ニ仕他所へ遣候由此段別て船役の者相改可申若見のかし聞のかしニ         仕候ニ於ては其改候もの詮議の上急度曲事可申付事 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百五十六号附録    (大正元年九月三日発行) 【本文】        右之外従公儀被仰出候川並之御作法急度相守可申候別て六月中伊勢参の者船方共かさつ我儘ヲ申船        中之者難儀仕候由粗相聞候此段船主共向後急度可相慎候惣て平生旅人船ニ乗せ候儀船頭と乗候もの        と相対ニて乗せ候事可為停止候右之通互ニ吟味仕船番所へ断帳面ニ記出船為致候様可相心得候如此        申付候品於相背者可為曲事者也           享保六辛巳年十月                町    役    所        尚(な)ほ此(この)信祝(のぶとき)の時代(じだい)に於(お)ける事(こと)に就(つい)ては申述(もをしの)ぶればイクラもあるがさりとて大事件(だいじけん)と云(い)ふ程(ほど)の事(こと)もなか 《割書:参觀前信祝|の発せし告|示》  つたのである併(しか)し幸(さいはひ)に正徳(せうとく)四年七月 信祝(のぶとき)が江戸(えど)へ参觀(さんきん)すると云(い)ふ時(とき)に留守中(るすちう)の心得(こゝろゑ)を藩中(はんちう)に申渡(もをしわた)した       ものが此(この)表日記(おもてにつき)の中(なか)に書(か)いてあるが実(じつ)に用意周到(よういしうとう)なもので之(これ)は是非(ぜひ)申述(もをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである        而(しか)して此(この)心得書(こゝろゑがき)には各(おの〳〵)城門(じようもん)の門番(もんばん)から奥向(をくむき)の者(もの)並(ならび)に出産(しゆつさん)の時(とき)の心得(こゝろゑ)迄(まで)をも示(しめ)して居(を)るので実(じつ)に信祝(のぶとき)       が平常(へいぜう)の方針(ほうしん)を見(み)るようであるそれ故(ゆへ)余(あま)り長文(てうぶん)のものではあるが今(いま)此処(こゝ)に其(その)全文(ぜんぶん)を記載(きさい)する之(これ)だけで       も信祝(のぶとき)が方針(はうしん)の一 班(ぱん)は了解(れうかい)することが出来(でき)ると思(おも)ふ                覚        一所々城領主留主之節を見聞するに毎事ニ付ておのつから怠懈する事多し当家中領中のもの心付留         守中之勤仕猶以可励事       一上たる職より奉行頭人下々之役者迄諸事念を入領中鰥寡孤独等迄それ〳〵に心を付飢寒之憂無之        様に取計公事訴詔之儀弥以廉直に沙汰すべし乍去卑賎のものは恩恵に誇り却て害をなす事有もの        也法を背かば速に可処厳科事         附諸役評議一決をば家老共江戸え諸事不及相達可申付事 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                 二百八十五 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百八十六 【本文】        一不依何事諸役立合之遂吟味其上ニて家老共え達し可請差図役々不穿鑿にて上のさはきのみを待時         者下に役々無之に等し予役人内々之詮議不可怠事          附役人其身は勿論妻子等え其向々之支配組下より音信贈答有之といふとも訳正しからすは一切          為致受納へからす尤以支配組下よりもケ様之一切すへからす請候ものも遣候ものも同然に越度          たるへし後日に相知るといふとも急度可申付下役のものにも堅此旨申聞置諸事私なく致さすへ          し頭之役替以後下役組頭等先々私有之趣相聞之は年月を以詮議之上当時之頭と同然に先役のも          のも急度可申付事        一郭内守衛者勿論其外口々しまり〳〵の役所番所堅固にしうろんなるもの出入無之様ニ可致旨組々         支配〳〵え急度可申渡置事        一人々分限相応に家従を抱へ弓馬等之稽古無油断武具修補を加へ万端倹約にすへし若不守之ものあ            らは目付異見を加猶不用して財を費し勤難成に至らは急度可及沙汰事          附馬仕替候節無子細して替馬遅ク求候者可為越度且又家作相応に修理し家作無之屋敷は定のこ          とく急度造作すへき事        一家中を始町在火之元念を入下々博奕かましき儀無之様可申付若下々右之類有之は支配或は組附者         頭家従之主人町在は重立候もの越度に候条急度可申付候出火地震大風雨等之変或者騒動之節定之         場え相集それ〳〵の防油断有へからざる事        一元且者いふに及はす節句月次又は於江府吉凶之告有之時別に記之趣相心得二丸屋形え相集家老共         え謁すへし惣て上たる役人え各礼儀厚くすへく候且又領内といふとも其支配々々へ不相達猥に妻 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         子等遠方へ差趣義停止之或は漁猟に耽り無僕等にて所々徘徊し危キ場へ相越怪我あらは越度たる         べし万一死に至らは跡目立へからす尤□駅宿茶店の猥なるものに会し遊興かたくすへからす若於         其所事を仕出さは理共に非たるべき事        一宗門並に新地之寺社且又品々之鉄炮之儀従公儀御改之事候宗門之儀少も疑敷儀無之様ニ念を入べ         し古より有楽寺社之境内ならすしては軽キ堂社といふとも造立無之様に改め庵も古跡にまかはさ         るほとらいに穿鑿し町在鉄炮年々指出帳面相違無之様に相改猟師之外殺生の鉄炮一切不放様ニ急         度可申付事        一所々普請修覆之儀強に先規之軽重を可守儀にもあらす却て竹木瓦石之類に改修理するといふとも         依其場苦しからす吟味之上当時之宜しき随ひ不及相達失墜無之様ニ可申付乍去城普請は品により         公儀御制禁之事茂候之条其品に依て相達可得差図事        一常々町在駅宿市店騒しからさるやうに申渡猥なるもの不指置商売之品無用之物改之高直ニ無之様         ニ申付且又道路掃除念を入並木等枯倒者早速植替橋渡之所不賑様ニ心付公用者勿論通之衆中を始         如何様之軽きもの迄茂人馬無滞旅籠等御定を守り都て旅人の煩なく家中求之用物不自由に無之様         ニ其役々無油断可申付事        一永荒之地といへとも年をかさぬる時は其土地元にかへる事歴然也其場者勿論新開之田畠速ニ見立         之堤川澤溜等之普請農時に相障らす人夫猥に不懸様に丈夫に可申付事          附山方竹木得失を考或者植或は伐取候事油断有間敷事        一貢税之儀常に考之免之儀古田新田共に過不及を改糺し検見に到り中分に取計ふへし収納多からん 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百八十七 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百八十八 【本文】         事のみを思ひ百姓困窮に至らしむへからす乍去税うすきは百姓の好む所にて種々事を巧み役人を         惑はし或は賄賂をもつて下役へ有無を隠する類有事也能々可改之若ケ様之類有之者其役人下役且         又本人は不及申所々重立候百姓不残仕置ニ可申付之条役人百姓共に急度此旨相守事          附収納之儀極月中に限るべし俵入等下役私曲無之様可改旨急度可申含置候且又物成札家中より          其役人え申遣といふとも其者親疎に依て遅速有時は家中之害をなす事甚し其役人無滞様ニ可心          懸候申趣候ものも自分〳〵訳正しく遂吟味候上可申遣事        一入用之金銀米穀絹布器物魚鳥野菜及其外之雑用少茂費無之様ニ可相改乍去倹約を用候茂公用之為         に候条表立候用事手支不見苦様ニ念を入通之衆中えの音物等茂先々の人品を考相応にいたすへし         此等之詮議勝手向之役人油断有間敷事        右之条目者勿論先々出之制法無忘却堅可相守者也           正徳四甲午年七月  日        御目付以上之御役並吟味札元山方大書院へ集御用役並も出之各列座中老侍座縁頬ニ御小姓頭御用人        列座右御条目伊澤平蔵読之御役人以下之者共へは御目付共ゟ触之                  覚        一留守中節句月次四時前二丸え罷出弓之間鑓之間玄間迄之内家中表向之もの不依高下打込ニ相集年         寄共罷出候を相待可申候近習は中小姓之席中小姓者供小姓之席へ相集右同然ニ相心得可申候事        一年寄共大書院滑敷居之内ニ列座同所ニ中老待座滑敷居外ニ用人列座縁頬に目付使番可相誥奏者番         不残旅奉行加り罷出礼可仕候退座之後鑓奉行者頭一同ニ罷出右之趣ニて退り次ニ馬廻一番切ニ罷 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百六十二号附録    (大正元年九月十日発行) 【本文】         出右之通ニテ退リ次ニ城番一同ニ罷出右之通ニテ退リ次ニ大納戸小納戸吟味打込ニ罷出退ク次ニ         書物方近習不残打込ニ罷出退ク次ニ中小性櫓方打込ニ罷出退ク次ニ医師罷出退ク次ニ札本山方打         込ニ罷出退ク畢而不残相済候段申達之壱方ニ目付使番一同ニ罷出退ク右済了之間ニ小役人並居年         寄共中老用人誘引候て通中央ニテ中座之節一同ニ礼可仕候但郡奉行町奉行用役用役並は用繁之事         候間用部屋へ年寄共罷出候節於用部屋礼可仕候        一文殊院並目見斗之子共不及出之勿論病気等之故障ニテ不罷出時者其向々え断書可差出候於用部屋         不落様ニ留付可申事          附元日ニ者目見之子共罷出勤之もの礼済候跡にて一同罷出謁可申候其跡ニテ文殊院罷出謁可申          候        一勿論退出之砌家老中老用人共迄相廻リ可申候事        一次月之間一度宛役人之外のもの兼テ日を不定前日目付共ニ申付為触之右之通ニ集置謁之時相応之         挨拶可申候其当日は月番之役人共可罷出候目付使番少々罷出諸事指引可仕候尤侍座之役人可罷出         候勿論病気障有之もの断入候事          附役人者於会所茂切ニ逢候間急度不及罷出勝手次第たるへき事        一従江戸吉凶之告有之節前日目付共ニ申付触させ月次之通集之謁可申候勿論病気等故障之義可及断         候        一右退出之節家老中老用人共迄相廻可申候        一月次其間之出仕之外ニ家老中老用ともへ繁々見廻可申候 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百八十九 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百九十 【本文】        一重キ儀者二丸え罷出軽キ儀者年寄共へ可相廻候其節年寄共差図可有之条守其旨可申候        一大番所当番のものは元日節句月次共ニ不及出仕人入込候節候間別て大切ニ番可仕候二丸番所のも         のは年寄共出入之節番所前へ罷出謁可申候尤夕飯の代りに罷出候ものは両所共ニ二丸屋形へ可罷         出候従江戸吉凶之事告来候付テ相廻候儀是又代り合之節相廻可申候        一右退出之跡二丸火之元念入目付徒目付下目付立合改させ可申候多葉粉湯茶之類一切無用之事礼未         相済内下々猥なる事無之様供 者集居候所へ徒目付下目付罷出制之可申事        一自江戸来居候用役次ニ楠本八十次長塩又市両人は奥向に付て用繁候事候間闕候ても不苦事             以  上           午 七 月        右之通書付御目付共へ相渡触之               諸口番所留守中勤方之覚        一本丸火番所      馬廻六人此内ニテ鍵番も可相勤候                    中間壱人        一同出番所       足軽四人        一六人のもの三人宛昼夜不明様に食代等可仕候足軽四人之内弐人宛不明様に食代可仕候裏之窓より         塩焇蔵之方折々心付見可申候        一風雨其外心付候事有之節は馬廻壱人足軽壱人召連中間ニ提灯もたせ新口より二之丸屋形裏廻金閑         丸木戸際迄見廻り可申候 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        一冠木門昼夜共に錠おろし鍵は大番所ニ可指置候普請等付テ大勢人入込不明して不叶時者大番所之         もの壱人立合可明之無左して猥に明へからす潜茂昼之内斗明暮六時ゟ仕廻鍵は大番所に可指置候         本丸門之大門右同意に相心得可申候潜は昼夜ともに貫木不指して外より錠掛之鍵は大番所ニ指置         用事之節は可明之昼夜共ニ右之通可相心得候                定        一胡乱なるもの一切通すへからさる事        一当番之外一切人集すへからさる事        一高咄尤音曲碁将棊停止之事          附大酒すへからさる事        一寒気之節に候共障子たて暑気之節に候共下座薄縁之上なとへ罷出涼候義仕間敷候事          附家老中老通候節下座敷之上迄罷出逢可申候事        一若違変之事あらば早々月番之者頭目付え可相達候事        右之通堅可相守者也           午 七 月        一二丸侍番所              井口才兵衛         藤井弥太夫         岡田卯右衛門              本多仁左衛門        宇佐美兵蔵         村嶋案右衛門              福岡喜平次         大嶋杢右衛門        安松金太夫                                    三番添番 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百九十一 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百九十二 【本文】          一番添番 鋤柄與一右衛門  二番添番 寺尾理太夫       吉田藤蔵               田沼平吉          柏木徳兵衛       清水彌五太夫               平嶋七兵衛         庄司幾右衛門      若原九郎兵衛               山本半右衛門        今村十五郎         右一組之事内ニテ食代泊等仕三人程宛不明様相勤可申候尤右之内ニテ鍵番も不相勤候        一番所明置出入心付胡乱なるもの一切通すへからす上之間ニ罷有窓之簾より通之者見透し可申候見         へ候所へ出居候には不及候事        一同足軽番所足軽四人食代ともに可相勤候大門昼夜共に錠かけ鍵は大番所に可指置候昼之内は潜明         置夜は潜も仕廻鍵は大番所に可指置候尤本丸番所同前之法度書張置可申候事        一帯曲輪新番所足軽四人食代共に帯曲輪へ入候口常に錠おろし置可申候川筋帯曲輪も見へ候番所に         候間両様とも胡乱なる事も候哉常に心懸見可申候        一本丸両裏口冠木門帯曲輪入口同埋門同埋門金閑丸門同所木戸二丸西之門三丸埋門右之所々常に錠         おろし鍵は大番所に可指置候右所々之鍵月番之者頭封印ニテ指置之入用之節は封を切候テ仕廻候         節は又如元月番之者頭封印ニテ可指置候        一本丸新口昼夜共に錠懸置廻り之節は可明之外之錠は常ニおろさす鍵は月番之者頭封し置大番所に         可指置之金閑丸木戸潜外之錠もおろし置鍵は是又月番之者頭印封にて大番所に可指置所々犬走え         出候口之錠尤おろし急に明候用も無之候付テ鍵は増井岡右衛門宿ニ可指置候関谷口之鍵も同前ニ         可心得候 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百六十七号附録    (大正元年九月十七日発行) 【本文】        一二丸裏門番留守中番人不入門は潜共ニしめ置尤右之鍵月番之者頭印封にて二丸侍番所ニ可指置候        一城米蔵番置附番弐人        一三丸大手足軽番所足軽四人食代共ニ但門錠之事二丸表門同意に相心得鍵は二丸侍番所ニ可指置候        一三丸米蔵只今之通置附番人可指置候        一川毛門昼夜共ニしめ置鍵は二丸侍番所ニ指置月番之者頭封印可仕候番人は四人指置食代ともに仕         可申候        一門天王口しめ切大鼓之もの指置之足軽不及指置候鍵は二丸侍番所に指置月番之者頭印封可仕候        一大手外天王口本町口曲尺手口両町口神明口常々之通可相心得候        一柳生門足軽四人新規に指置之食代共に可為仕候        一新町口置附番人弐人        一外飽海口置附番人弐人        一内飽海口置附番人四人内弐人宛不明様可為仕候        一入道淵より関谷口曲輪之角迄用之外泊船一切懸置へからす只今迄泊り候船も相見へ候向後右之通         無之様に可仕候寄々役人共改可申候                定        此札場より下之札場迄之内夜中一切船懸へからさるもの也           午七月   日        右之通札ニ書上は入道淵川下は関谷口之角ニ建可申候尤下々方ニ建候札は此札場より上之札場迄と 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百九十三 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百九十四 【本文】        認可申候        一二丸え之用向を始三丸より内え之用入三丸大手一口にいたし火事等又は無拠事之外一切出入無用         ニ候収納之節蔵へ郷方のもの罷越候も三丸大手より出入可為致事        一広敷向用事付て楠本八十次長塩又市より申越次第二丸裏門川毛門両所共ニ明可申候鍵は二丸表門         之足軽ニもたせ遣し用事無滞様ニ可心得事        一二丸玄関者常に仕廻置可申候目付共勿論岡右衛門折々罷越破損等相改可申候事        一近習向之義小納戸之者折々罷越右同断ニ心得可申候勿論岡右衛門義同前ニ心得可申候事        一火之番定之通親規ニ中間小頭壱人中間相応に火消道具之手当いたし置可申候其外之勤之義先規之         通に可相心得事        一庭向樹木等之義只今迄之通儀左衛門金助世話可仕候事        右之通留守申堅可相守者也           午 七 月                定                          用 人 以 上                           安  松  金  右  衛  門                           石  井  権  左  衛  門                           安    松    金    助                          用 之 節 斗 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】                           増  井  岡  右  衛  門                          目     付                          用  役  並                          小  納  戸                          吟  味  役                          徒  目  付                           小  林  彌 五 左 衛 門                          普 請 方 之 者                          火 之 廻 之 者                          下  目  付        右之外一切広敷に出入停止之佐野恵左衛門海法小隼萩原小門次者可為制外者也           正徳四年七月  日                定        一惣女ともなに事もいちやさしつそむき申へからすかつまた家中より出候女ともおやこきやうたい         といふともしけ〳〵につかいつかはしふみのとりかはしいたすへからさる事        一火ところ並ニへや〳〵の火のもとすいふんねんを入すこしにてもした〳〵ばくゑさかましき儀こ        れなきやうに可申付候事         附何事によらすふれいふさほうなる義これなきやうにたしなみ可申事 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百九十五 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百九十六 【本文】        一次の女はかくへつそれより上の女一切すゑへまかり出へからす惣してさわかしからさるやうこゝ         ろへ可申事          附いちやけんはかくへつ次の女はもちろんはした下女等にいたるまてしめきりより外へ一切出          へからすもしようの事これあるともしめきりのしきゐをへたてようむきたし可申候事        一やとおりの事一しゆくにかきるへしもしよりところなきわけこれあるか又はわつらひニてかへり         かたき時は八十次又市両人のうちへやとよりことわり申こしそのものはいちやかたへとゝけさし         すしたいにいたすへく候事        一いちやはかくへつやとおりの外一切ほかへまかり出へからさる事          附けんはいちやさしすしたいいつかたへもまかり出へき事        右の通かたく相まもるへきもの也           正徳四年七月  日                條 々        一門々其外切手類且又広敷へ請取候品々楠本八十次長塩又市両判にて請取可申候臨時之事は用役共         へ相談可申事          附門或は役所等へ両人判鑑出し置可申候        一男女入交はらさる儀専一ニ候錠口朝六時明之暮六時急度仕廻私之用として一切明へからさる事          附下男下女博奕かましき儀一切無之様に相改可申候        一火之元別て念を入折々錠口之内え両人之もの罷越火之元相改風吹候節は両人立合にて所々相廻可 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百七十三号附録    (大正元年九月廿五日発行) 【本文】         改之且又折々屋作破損等も無之哉座敷向部屋方等迄相改破損有之候はゞ増井岡右衛門え可申達候         口々只今迄之通錠之印封両人にて可仕候座敷庭共ニ折々掃除為致へし座敷之内常ニ立込置不申風         入候様ニいたし尤晩々に仕廻可申事        一不依何事不及了簡儀者用役並用懸之ものへ可申請料理之義入候節は小林弥五左衛門呼候て可申付         候事        一奥之ものへ音信贈答有之者当番のもの相改之若疑敷音信等も候はゞ用懸のものへ早速相達得差図         可申候寺社郷方町々之音信一切不留置返し可申候札守は天王秋葉金閑丸之外差越候共返し可申事        一病人有之医者入候節は八十次又市より申越左近は物縫所其外者火燵之間にていちやと立合逢せ可         申候次之女老女下女等者けんと立合にて末ニて逢せ可申候尤両人のものも壱人立合可申候事        一若表向之者共猥に広敷へ相越候者蜜に用懸のものへ可申達候事          附商売人も定り候者之外一切広敷へ呼申間敷候事        右之條々堅可相守之者也           正徳四年七月  日        右三品御発足之翌日ゟ懸置可申候                用懸之者え申渡覚        一用懸之もの折々罷越いちや八十次又市ニ逢諸事念入候様可申渡候乍去いちや壱人ニて用繁候事候         間罷資候ても不出事も可有之候内々之義者諸事用役へ申含置候相談し可申候尤重キ儀は助左衛門         え達し差図次第ニ可仕事 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百九十七 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百九十八 【本文】        一目付共折々広敷え罷越被火之元可申付候風吹候節は猶以火之元大切ニ可申付候事        一内田宇平次儀留主之内者広敷向之用事書物等佐野恵左衛門可申付候若故障之節はいつれニても勘         定人之内恵左衛門用向之書物為勤可申候尤書物之儀恵左衛門得指図不依何事違背不仕様可申付候         事        一広敷より出候切手事は楠本八十次長塩又市両人出し申候間其通ニ相心得可申候門或は役所へ両人         判鑑為出可置事        一出産之節之儀別紙之通ニ相心得可申候條目等之儀惣様相心得可罷有事        一料理等入候節は小林弥五左衛門ニいたさせ可申候事        一広敷へ出入之定寄々可申達候且又商売人も用懸之者立合致吟味広敷之用向相達候もの定置之外者         広敷へ一切不参候様相定置可申候出入之町人用向ニて罷越候儀者格別に候惣て雑用等不自由ニて         無之様ニ専一ニ可申付候事        一節分ニ者増井初左衛門例年之通祝儀之式初させ可申候其節いちや八十次又市両人之内壱人立合奥         座敷所々打せ可申候用懸之者不残広敷へ相詰可申候事          但煤竹入候事右同前ニ可相心得事        一万歳例年之場ニて祝儀之式可申付候此節権左衛門歟金助両人之内立可申候事             以  上           午 七 月                出産之節之覚 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        一出産候者二日半限之飛脚ニて年寄共より申越筈候其旨相心得可申事        一出産之節者用懸之もの早々相集可申事        一山中江庵小池一庵早速相詰させ可申候品により岡山一友呼ニ遣可申候平井作庵も小児の方心得候         用様ニ相聞候間此節相詰させ可申候事        一取揚のもの其月に至候はゞ広敷へ相詰さすへく候来月より一切他え不罷出様に可申付置事        一門々其節無滞何茂罷出候節明候様ニより〳〵可申達置事        一七夜之内は金右衛門権左衛門金助壱人つゝ代々昼夜不明様罷有諸事可申付事        一能程らい迄用懸のもの毎日罷越機嫌伺諸事可申付候相止候儀助左衛門へ相伺指図次第たるべき事        一出産之事ニ付人入候はゞ用懸のもの致相詰之助左衛門へ相達宜取斗可申候事        一出産の悦用人以上江戸え書状差越尤家老中老用人共迄相廻可申候用役用役並右同断用懸の者不及         書状家老中老用迄相廻可申候近習不残右同断候間寄々可申達置候事        一江戸え相聞候以後追て弘め可有之候間其節迄者役人たりといふとも表向之もの祝儀として相廻候         に不及候是又寄々可申達置事        一此外内々之儀恵左衛門ニ申含置候間所持諸事可申請候事             以  上           午七月   日        尚(な)ほ此処(こゝ)に付加(つけくは)へて置(お)くが此(この)信祝(のぶとき)が寄進(きしん)したものでは吉田神社(よしだじんしや)に自筆(じしつ)の絵馬(ゑま)並(ならび)に石(いし)の手水鉢(てうづばち)之(これ)は現今(げんこん)        使用(しよう)されて居(を)るのがそれであると記臆(きをく)する其他(そのた)社寺堂塔(しやじどうたう)を修繕(しうぜん)した棟札(むなふだ)などは甚(はなは)だ少(すくな)くないが一々は 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百九十九 【欄外】    豊橋市史談  (京極と永井局)                    三百 【本文】        申上(まおしあげ)ぬのである又(ま)た之(これ)は信祝(のぶとき)に関係(くわんけい)のない事(こと)であるが享保(けうほ)二 年(ねん)に今(いま)の湊町(みなとまち)神明社(しんめいしや)境内(けいだい)にある弁天祠(べんてんし)の        建立(こんりう)があつて船町(ふなまち)のものが寄付金(きふきん)を集(あつ)めて之(これ)を建(た)てたのである無論(むろん)現今(げんこん)の堂(どう)ではない併(しか)し此(この)園池(えんち)と云(い)       ふものは先(さき)にも申上(まおしあ)げて置(を)いた如(ごと)く山田宗偏(やまだそうへん)の設計(せつけい)であるから既(すで)に其(その)時(とき)弁天(べんてん)の堂(どう)はあつたものに相違(さうゐ)       ないそれが今度(このたび)破損(はそん)でもした為(ため)に改築(かいちく)した事(こと)であると思(おも)ふが今(いま)から見(み)ると其(その)寄付帳(きふてう)と云(い)ふものが実(じつ)に        面白(おもしろ)く感(かん)ぜられるのである此(この)寄付帳(きふてう)は今(いま)も船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に残(のこ)つて居(を)る 《割書:信祝夫人京|極氏》        ⦿京極と永井局        茲(こゝ)に是非(ぜひ)御話(おはなし)して置(お)きたいのは信祝(のぶとき)の夫人(ふじん)京極氏(けうごくし)の事(こと)である此(この)京極氏(けうごくし)は前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く名(な)を        種(たね)と云(い)つて讃岐丸亀(さぬきまるがめ)の城主(じようしゆ)京極備中守高豊(けうごくびちうのかみたかとよ)の女(ぢよ)であるが祖父(そふ)に当(あた)る酒井雅樂守(さかゐうたのかみ)忠挙の養女(やうぢよ)となつて宝(ほう)        永(えい)元年(がんねん)四月十日 此(この)信祝(のぶとき)の処(ところ)へ嫁(か)したのである此(この)人(ひと)は七十三 歳(さい)まで存生(ぞんせい)で宝暦(ほうれき)十一年十二月十六日の卒(そつ)        去(きよ)であるが松泉院(せうせんゐん)と云(い)はれたのである此(この)人(ひと)の手蹟(しゆせき)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に多数(たすう)残(のこ)つて居(を)るが特(とく)に書簡(しよかん)が三十        余通(よつう)もある其(その)壮年時代(さうねんじだい)のものは如何(いか)にも名筆(めいひつ)で孰(いづ)れも其(その)夫(おつと)信祝(のぶとき)が国(くに)にあつた頃(ころ)に江戸(えど)から送(おく)り越(こ)した       ものである而(しか)も文中(ぶんちう)実(じつ)に情愛(ぜうあい)の籠(こも)つつて居(を)る間(あひだ)に凛(りん)とした処(ところ)があつて頗(すこぶ)る模範(もはん)とすべきものがある併(しか)し        其(その)晩年(ばんねん)のものは病気(べようき)ででもあられたものか孰(いづ)れも手蹟(しゆせき)が震(ふる)へて居(を)つて甚(はなは)だ読(よ)み難(にく)いが之(これ)は多(おほ)く其(その)子(こ)信(のぶ)        復(なほ)が既(すで)に城主(じようしゆ)となつてから其(その)国(くに)に就(つ)いて居(を)つた処(ところ)へ送(おく)られたもので之(これ)は又(ま)た其(その)子(こ)に対(たい)する情愛(ぜうあい)の掬(きく)す 《割書:永井局本名|尼崎里也》  べきものが少(すくな)くないのである兎(と)に角(かく)貞淑(ていしゆく)にして尋常(じんぜう)一 様(よう)の婦人(ふじん)でなかつた事(こと)が分(わか)るが京極家(けうごくけ)から此(この)夫(ふ)        人(じん)に付(つ)いて来(き)た女(おんな)に永井局(ながゐのつぼね)と云(い)ふのがあつて之(これ)が又(ま)た容易(ようい)ならぬ履歴(りれき)のある婦人(ふじん)である此(この)永井局(ながゐのつぼね)の伝(でん)        記(き)に就(つい)ては先年(せんねん)東京(とうけう)の時事新報(じゞしんぽう)にも小説体(せうせつてい)に綴(つゞ)つて記載(きさい)された事(こと)があるが讃岐丸亀(さぬきまるがめ)の津田壽盛君(つだじゆせいくん)が此(この) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百七十八号附録    (大正元年十月一日発行) 【本文】        頃(ごろ)著(あらは)された讃岐(さぬき)の佳人(かじん)と云(い)ふ書物(しよもつ)の中(なか)にも記(しる)されてあるのである今(いま)其(その)大要(たいえう)を茲(こゝ)に御話(おはなし)したいと思(おも)ふが        此(この)永井局(ながゐのつぼね)は本名(ほんめい)を尼崎里也(あまざきさとや)と云(い)つて丸亀(まるがめ)風袋町(かぜふくろまち)の生(うまれ)である父(ちゝ)は京極家(けうごくけ)弓組(ゆみぐみ)の足軽(あしがる)で尼崎幸右衛門(あまざきかううゑもん)と云(い)       ふ人(ひと)であつたが当時(たうじ)幸右衛門(かううゑもん)の同僚(どうれう)に岩淵伝内(いはぶちでんなん)と云ふ者(もの)があつて性質(せいしつ)甚(はなは)だ宜(よろし)からぬ無頼(ぶらい)の奴(やつ)であつた       が之(これ)が深(ふか)く里也(さとや)の母(はゝ)に懸想(けさう)して或時(あるとき)夫(おつと)幸右衛門(かううゑもん)の留守(るす)を窺(うかゞ)つて其(その)家(いへ)に来(きた)り初(はじ)めは甘言(かんげん)を以(もつ)て之(これ)を挑(いど)む       だが遂(つひ)には暴力(ばうりよく)に訴(うつた)へむとしたのである其(その)時(とき)恰(あたか)も夫(おつと)の幸右衛門(かううゑもん)が外(そと)から皈宅(きたく)したので里也(さとや)の母(はゝ)は早速(さつそく)        夫(おつと)を別室(べつしつ)へ呼(よ)むで其(その)暴状(ばうぜう)を告(つ)げたのであるソコで幸右衛門(かううゑもん)は非常(ひぜう)に立腹(りつぷく)して其(その)無礼(ぶれい)を伝内(でんない)に詰(なじ)つたが        伝内(でんない)は元来(がんらい)腹黒(はらくろ)い白奴(しれもの)であるから遂(つひ)に刃傷(じんせう)に及(およ)むで幸右衛門(かううゑもん)を其(その)場(ば)に殺害(さつがい)したのである里也(さとや)の母(はゝ)は之(これ)       を見(み)て大(おほい)に驚(おどろ)いたが其(その)時(とき)伝内(でんない)は既(すで)に屋外(をくがい)十 数歩(すうほ)の処(ところ)まで逃(に)げ行(ゆ)く処(ところ)であつたから止(やむ)を得(え)ず後(あと)から夫(をつと)の        刀(かたな)を取(と)つて之(これ)を伝内(でんない)に投(な)げ付(つ)けたのであるが之(これ)がウマく其(その)肩(かた)を傷(きつゝ)けた併(しか)し伝内(でんない)は其(その)侭(まゝ)遂(つひ)に逃(のが)れ去(さ)つて        踪跡(さうせき)を晦(くら)ましたのである藩(はん)に於(おい)ても此(この)訴(うつたへ)によつて伝内(でんない)の行衛(ゆくえ)を尋(たづ)ねたが遂(つひ)に見出(みいだ)す事(こと)が出来(でき)ず里也(さとや)       の母(はゝ)は当時(たうじ)二 歳(さい)になる此(この)里也(さとや)を連(つ)れて余儀(よぎ)なく夫(をつと)の妹婿(いもとむこ)関根元右衛門(せきねもとうゑもん)と云ふ人の家へ寄食(きしよく)するに至(いた)つ       た然(しか)るに日夜(にちや)の苦心(くしん)は遂(つひ)に身体(しんたい)をも痛(なや)めたものか之(これ)と云(い)ふ病源(びようげん)もなかつたのに之(こ)れ亦(ま)た半歳許(はんとしばかり)の後(のち)に       千万 無量(むれう)の怨(うらみ)を含(ふく)むで病死(びようし)するに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て此(この)里也(さとや)は不幸(ふかう)なる孤独(こどく)となつたが叔父(おぢ)元右(もとう)        衛門(ゑもん)は爾来(じらい)里也(さとや)を己(おの)れの子(こ)の如(ごと)くにして養育(やういく)したのである       かくて里也(さとや)が十三 歳(さい)となつた時(とき)元右衛門(もとうゑもん)は初(はじ)めて其(その)事情(じぜう)を里也(さとや)に明(あ)かしたのであるが里也(さとや)は之(こ)れ迄(まで)只(た)       だ己(おの)れは元右衛門(もとうゑもん)の実子(じつし)であるとのみ思(おも)つて居(を)つたのであるから殆(ほとん)ど悶絶(もんぜつ)せむ計(ばか)りに驚(おどろ)いた併(しか)し心(こゝろ)を        取(と)り直(なほ)して爾来(じらい)は一 層(そう)忠実(ちうじつ)に叔父(おぢ)に事(つか)ゆるに至(いた)つたが此(この)時(とき)里也(さとや)の心中(しんちう)には既(すで)に仇討(あだうち)の決心(けつしん)があつたの       であるかくて里也(さとや)は十八 歳(さい)と相成(あひな)つた時(とき)遂(つひ)に叔父(おぢ)に請(こ)つて江戸(えど)へ出(い)でたのであるが之(これ)が実(じつ)に仇討(あだうち)の門(かど) 【欄外】    豊橋市史談  (京極と永井局)                    三百一 【欄外】    豊橋市史談  (京極と永井局)                    三百二 【本文】        出(で)とも云(い)ふべきもので其(その)時(とき)里也(さとや)は叔父(おぢ)の尽力(じんりよく)で同藩(どうはん)の士(し)村瀬藤馬(むらせとうま)と云(い)ふ人(ひと)に伴(ともな)はれて江戸(えど)に下(くだ)つたの       であつたが藤馬(とうま)は更(さら)に里也(さとや)を麾下(きか)の士(し)永井源介(ながゐげんすけ)と云(い)ふ剣客(けんかく)の処(ところ)へ世話(せわ)をしたのであるソコで里也(さとや)は此(この)        家(いへ)の炊掃(すゐさう)の婢(ひ)として住(す)み込(こ)むだが元(も)と目的(もくてき)が目的(もくてき)であるから暇(ひま)さへあれば剣術(けんじゆつ)の道場(どうぜう)へ行(い)つては熱心(ねつしん)       に其(その)仕合(しあひ)を見(み)て居(を)つたのであるこれが遂(つひ)に主人(しゆじん)永井(ながゐ)の為(ため)に恠(あやし)まるゝに至(いた)つたので永井(ながゐ)は一 日(にち)里也(さとや)を己(おの)       れの膝下(ひざもと)に呼(よ)むで其(その)志(こゝろざし)を問(と)つたのであるが里也(さとや)は今(いま)は包(つゝ)むによしなく遂(つひ)に其(その)志(こゝろざし)を永井(ながゐ)に明(あ)かした       ソコで永井(ながゐ)は之(これ)を聞(き)いて深(ふか)く感激(かんげき)し遂(つひ)に誓(ちか)つて其(その)宿志(しゆくし)を遂(と)げしむる事(こと)を約(やく)したのである之(これ)より永井(ながゐ)は        竊(ひそ)かに里也(さとや)に教(おし)ゆるに武技(ぶぎ)を以(もつ)てし丹誠(たんせい)を凝(こ)らして其(その)研磨(けんま)を積(つ)ましめたが熱心(ねつしん)は恐(おそ)ろしいもので僅(わづ)か       二ケ 年(ねん)の間(あひだ)に里也(さとや)の技(ぎ)は大(おほい)に進(すゝ)むだのであるソコで永井(ながゐ)は或日(あるひ)里也(さとや)に諭(さと)して速(すみやか)に其(その)家(いへ)を去(さ)り此上(このうへ)は        仇(あだ)伝内(でんない)を尋(たづ)ね出(いだ)すべき方略(はうりやく)を講(こう)ぜよと勧告(くわんこく)したが之(これ)より里也(さとや)は各処(かくしよ)に流寓(るうぐう)し爾来(じらい)十二ケ 年(ねん)の間(あひだ)主人(しゆじん)を        易(か)ゆること七十四 具(つぶさ)に辛苦(しんく)を甞(な)めて只管(ひたすら)其(その)仇(あだ)を尋(たづ)ね出(いだ)す事(こと)を勉(つと)めたのである其(その)堅忍不抜(けんにんふばつ)の精神(せいしん)と云(い)ふも       のは実(じつ)に聞(き)くものをして感泣(かんきう)せしむるものがある       トコロで里也(さとや)が最終(さいしう)に住(す)み込(こ)むだのが坂根安兵衛(さかねやすべゑ)と云ふ旗本(はたもと)の邸(やしき)で本所(ほんじよ)に住(す)むで居(を)つたのであるが其(その)        家(いへ)に小泉文内(こいづみぶんない)と云ふ一人(ひとり)の若党(わかとう)があつた年(とし)は五十 余(あま)りで頗(すこぶ)る酒好(さけずき)であつたが一 夕(せき)酔余(すゐよ)の雑談(ざつだん)として物(もの)        語(がた)つた話(はなし)の内(うち)に里也(さとや)はドウも之(これ)が仇(あだ)の伝内(でんない)ではないか知(し)らぬと思(おも)はるゝ節(ふし)を発見(はつけん)したソコで里也(さとや)は轟(とゞろ)       く胸(むね)を押(お)し鎮(しづ)めて段々(だん〴〵)と話(はなし)を導(みちび)き出(だ)して見(み)た処(ところ)が文内(ぶんない)も遂(つひ)には調子(てうし)に乗(の)つてありし昔語(むかしがたり)を繰(く)り返(かへ)し        己(おの)れが其(その)岩淵伝内(いはぶちでんない)なる事(こと)をも告(つ)げて往年(おうねん)里也(さとや)の母(はゝ)が怨(うらみ)を籠(こ)めし刀(かたな)の痕(あと)までをも示(しめ)したのである里也(さとや)は        実(じつ)に優曇華(うどんげ)の花待(はなま)ち得(え)たる心地(こゝち)したが翌日(よくじつ)早速(さつそく)永井源介(ながゐげんすけ)の処(ところ)へ馳付(はせつ)けて事(こと)の顛末(てんまつ)を告(つ)げたのであるソ       コで永井(ながゐ)は丁度(ちようど)在勤中(ざいきんちう)の村瀬藤馬(むらせとうま)にも計(はか)つて之(これ)を公儀(こうぎ)に訴(うつた)へ出(い)で直様(すぐさま)伝内(でんない)を召取(めしと)つて丸亀藩(まるがめはん)に護送(ごそう)し 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       たが程(ほど)なく丸亀藩(まるがめはん)に於(おい)ては式(かた)の如(ごと)く仇討(あだうち)の場所(ばしよ)を設(まを)けて伝内(でんない)里也(さとや)両人(れうにん)をして雌雄(しゆう)を決(けつ)せしめたのであ 《割書:尼崎里也父|の仇を復す》  る此(この)時(とき)村瀬藤馬(むらせとうま)は里也(さとや)の差添(さしそへ)として出頭(しゆつとう)したが里也(さとや)の孝心(かうしん)は凝(こ)つて此(この)悪漢(あくかん)伝内(でんない)を切(き)り伏(ふ)せ他(た)の助太刀(すけだち)       をも要(えう)せず見事(みごと)に復仇(ふくきう)をなし遂(と)げたとの事(こと)である蓋(けだ)し里也(さとや)は二 歳(さい)の時(とき)に父(ちゝ)を喪(うしな)ひ三 歳(さい)で又(ま)た母(はゝ)に別(わか)れ       十八 歳(さい)にして初(はじ)めて仇討(あだうち)の門出(かどで)をなしたが爾来(じらい)苦辛惨憺(くしんさんたん)十七 年目(ねんめ)で初(はじ)めて其(その)目的(もくてき)を達(たつ)したのである之(これ)       が恰(あたか)も元禄(げんろく)十三 年頃(ねんごろ)の事(こと)であるが京極家(けうごくけ)に於(おい)ては此(この)里也(さとや)の孝烈苦節(かうれつくせつ)を感(かん)じて士分(しぶん)に取(と)り立(た)て其(その)愛女(あいぢよ)の        傅(ふ)たらしめたのであるが里也(さとや)は其(その)後(のち)恩人(おんじん)源介(げんすけ)の厚情(かうぜう)を忘(わす)れぬ為(ため)とあつて永井(ながゐ)を称(せう)したので遂(つひ)に永井(ながゐ)の        局(つぼね)と呼(よ)はるゝに至(いた)つたが此(この)京極家(けうごくけ)の愛女(あいぢよ)と云(い)ふのは即(すなは)ち信祝(のぶとき)夫人(ふじん)となられた於種殿(おたねどの)で此(この)人(ひと)が松平家(まつだひらけ)       に輿入(こしいれ)の時(とき)は矢張(やはり)永井局(ながゐのつぼね)も御付人(おつきひと)として随従(ずいじう)したのである其(その)後(のち)松平家(まつだひらけ)に於(おい)ては此(この)永井局(ながゐのつぼね)の為(ため)に一 家(か)を        起(おこ)さしめたと云(い)ふ事(こと)であるが無論(むろん)江戸(えど)住居(すまゐ)であつたから此(この)豊橋(とよはし)には何等(なんら)遺(のこ)つたものもないのみならず        其(その)跡(あと)と云(い)ふものが甚(はなは)だ不明(ふめい)であるのは遺憾(ゐかん)である私(わたくし)も平常(へいぜう)其(その)後(のち)の経歴(けいれき)に就(つい)ては心掛(こゝろが)けて研究(けんきう)して居(を)る       ものであるが「讃岐(さぬき)の佳人(かじん)」の著者(ちよしや)からも数々(しば〳〵)申越(まをしこ)された事(こと)もあるのである幸(さいはひ)に諸君(しよくん)の中(なか)に何分(なにぶん)にても        此(この)人(ひと)の事(こと)に関(くわん)して御承知(ごせうち)の方(かた)があつたならば平(ひら)に御教示(ごけふじ)を請(こ)ひたいものであると思(おも)ふ併(しか)し私(わたくし)は此(この)信祝(のぶとき)        夫人(ふじん)京極氏(けうごくし)が前(まへ)にも申述(まをしの)ふる如(ごと)く尋常(じんぜう)一 様(やう)の婦人(ふじん)でないと云(い)ふのを見(み)るに付(つ)けても其(その)半面(はんめん)には又(ま)た何(なん)       となく此(この)永井局(ながゐのつぼね)が面影(おもかげ)を見(み)らるゝように思(おも)つて居(を)るのである             ⦿松平資訓と其事蹟 《割書:松平信祝と|松平資訓と|の交代》   前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)は享保(けうほ)十四年二月二日 大坂城代(おほさかじようだい)に任(にん)ぜられたが其(その)月(つき)の十五日 遠江(とほとふみの)        国(くに)浜松城(はままつじよう)に移封(いほう)と相成(あいな)つたのである而(しか)して之(これ)と相(あい)交代(かうたい)して浜松(はままつ)から此(この)吉田城(よしだじよう)に転封(てんほう)と成(な)つたのが松平(まつだひら) 【欄外】    豊橋市史談  (松平資訓と其事蹟)                    三百三 【欄外】    豊橋市史談  (松平資訓と其事蹟)                    三百四  【本文】 本庄宗資   豊後守(ぶんごのかみ)資訓であるが此(この)資訓の家(いへ)と云ふのは元(も)と二 條家(でうけ)の家人(けにん)で其(その)本姓(ほんせい)は本庄(ほんぜう)である而(しか)して其祖(そのそ)因幡守(いなばのかみ)         宗資(むねすけ)と云ふ人(ひと)は彼(か)の五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の母(はゝ)桂昌院(けいせうゐん)の弟(おとゝ)で綱吉(つなよし)がまだ舘林(たてばやし)に居(を)つた頃(ころ)から之(これ)に仕(つか)へて段々(だん〴〵)と        引立(ひきた)てられたものである初(はじ)めは廩米(りまい)僅(わづ)かに五百 俵(ぺう)であつたが遂(つひ)には五万 石(ごく)の大名(だいみよう)とまで相成(あひな)つたのであ 《割書:本庄宗俊浜|松に封せら》  る其(その)子(こ)の宗俊(むねとし)は又(ま)た早(はや)くから綱吉(つなよし)に仕(つか)へ元禄(げんろく)十五年九月七万石に加増(かぞう)せられて遠州(ゑんしう)浜松(はままつ)の城主(じようしゆ)に封(ほう)ぜ 《割書:れ姓松平を|賜ふ》  られ且(か)つ又(ま)た宝永(ほうえい)二年三月廿三日 初(はじ)めて松平(まつだひら)の姓(せい)を賜(たまは)つたのであるが其(その)子(こ)が即(すなは)ち此(この)資訓である資訓は        元来(がんらい)佐野信濃守勝由(さのしなのゝかみかつよし)の末子(まつし)で本庄家(ほんぜうけ)へは養子(やうし)したものであるが幼名(えうめい)は捨(すて)五 郎(らう)と云つて初(はじ)め宗惇(そうじゆん)、 資惇(しじゆん)       とも称(せう)した享保(けうほ)八年 家督(かとく)を相続(さうぞく)し其(その)十四年二月 前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く浜松城(はままつじよう)から此(この)吉田(よしだ)へ移封(いほう)になつた 《割書:松平資訓復|び大河内氏》   次第(しだい)である此(この)人(ひと)は寛保(かんぽ)元年(がんねん)四月十二日 奏者衆(そうしやしう)となり寛延(かんえん)元年(がんねん)十二月 従(じゆ)四 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ其(その)二年十月十 《割書:と交代して|浜松に封せ》  五日 京都所司代(けうとしよしだい)に補(ほ)せられたが此(この)時(とき)再(ふたゝ)び大河内氏(おほかうちし)と交代(かうたい)して此(この)吉田(よしだ)から浜松城(はままつじよう)へ移(うつ)されたのである宝(ほう) 《割書:らる   |》   暦(れき)二年三月廿六日五十三 歳(さい)で京都(けうと)に於(おい)て卒去(そつきよ)したが此(この)人(ひと)は中々(なか〳〵)和歌(わか)を能(よ)くし絵画(くわいが)も相当(さうたう)には出来(でき)たも       のである渥美郡(あつみぐん)牟呂吉田村(むろよしだむら)大字(おほあざ)西豊田(にしとよだ)の植田(うえだ)七三 郎君(らうくん)は其(その)祖先(そせん)が此(この)本庄家(ほんぜうけ)の御用達(ごようたつ)であつて資訓が浜(はま)        松(まつ)から吉田(よしだ)へ移封(いほう)になつた時(とき)付(つ)いて来(き)たものであるから今(いま)も多(おほ)く資訓の遺墨(ゐぼく)を蔵(ざう)して居(を)られるが之(これ)で        見(み)ると絵画(くわいが)は狩野家(かのけ)を学(まな)むだものでカナリには画(か)いたのである又(ま)た和歌(わか)は其(その)書風(しよふう)が中々(なか〳〵)見事(みごと)で推重(すいてう)す 《割書:松平資訓在|城中の事蹟》  るに足(た)ると思(おも)ふがサテ此(この)資訓が吉田在城(よしだざいじよう)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く享保(けうほ)十四年から寛延(かんえん)二年まで約(やく)廿一年        間であるが其(その)間(あひだ)に於(お)ける出来事(できごと)に就(つい)て申述(まをしの)ぶれば先(ま)づ享保(けうほ)は廿年で元文(げんぶん)となり元文(げんぶん)は五年で寛保(かんぽ)とな       り寛保(かんぽ)は三年で延享(えんけう)と成つたが其(その)二年九月朔日 徳川中興(とくがはちうこう)の祖(そ)と云(い)はれた八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)は自(みづか)ら隠居(ゐんきよ)して        其(その)子(こ)家重(いへしげ)が代(かは)つて征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜられたのである而(しか)して吉宗(よしむね)は西丸(にしまる)に居(を)つて大御所(おほごしよ)と称(せう)したがそれ       より七年目で宝暦(ほうれき)元年(がんねん)の六月廿日 年(とし)六十八を以(もつ)て薨去(こうきよ)されたのであるソコで此(この)家重(いへしげ)の治世(ぢせい)に就(つい)ても尚 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百八十四号附録    (大正元年十月八日発行) 【本文】       ほ少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる必要(ひつえう)の事柄(ことがら)もあるが後章(こうせう)に於(おい)て追々(おい〳〵)に御話(おはなし)する考(かんがへ)であるから此処(こゝ)には之(これ)を略(りやく)する 出火頻々   事(こと)とするが此(この)資訓(すけのり)が吉田在城(よしだざいじよう)中(ちう)に於(おい)て吉田(よしだ)に起(おこ)つた事柄(ことがら)では最(もつと)も人(ひと)の注意(ちうい)を惹(ひ)くのが甚(はなは)だ出火(しゆつくわ)の多(おほ)か       つた事(こと)である旧記(きうき)に拠(よ)ると先(ま)づ享保(けうほ)十七年十二月晦日に中柴(なかしば)に出火(しゆつくわ)があつて三十六 戸(こ)焼失(せうしつ)したが其(その)頃(ころ)       の中柴(なかしば)はまだ誠(まこと)の村落(そんらく)で記録(きろく)にも中柴村(なかしばむら)と記(しる)してある位(くらゐ)であるからかゝる処(ところ)で卅六 戸(こ)の焼失(せうしつ)は中々(なか〳〵)大(たい)        火事(くわじ)と云(い)つてもよかつたであろう又(ま)た其(その)次(つぎ)が元文(げんぶん)元年(がんねん)十二月廿四日の火事(くわじ)で之(これ)は札木町(ふだぎまち)から初(はじ)まつて       五十九 戸(こ)焼失(せうしつ)したのであるそれからが新銭町(しんせんまち)の火事(くわじ)で之(これ)は元文(げんぶん)三年五月五日の事(こと)であるが焼失(せうしつ)戸数(こすう)は       十九 戸(こ)である其(その)次(つぎ)が寛保(かんぽ)二年十月廿七日 飽海(あくみ)の火事(くわじ)で其(その)焼失(せうしつ)戸数(こすう)は十四 戸(こ)であるが尚(な)ほ延享(えんけう)三年八月       九日には垉(はう)六 町(まち)、 下(くだ)り町(まち)に出火(しゆつくわ)があつたので之(これ)は今(いま)の花園町(はなぞのてう)であるが四十四 戸(こ)焼失(せうしつ)したのであるそれ       から寛延(かんえん)元年(がんねん)十二月六日には田町瀬古(たまちせこ)に七 戸(こ)の焼失(せうしつ)があり同(どう)二年正月朔日には又々(また〳〵)新銭町(しんせんまち)に廿四 戸(こ)の        焼失(せうしつ)があり而(しか)して同年(どうねん)同月(どうげつ)の十六日には田町(たまち)即(すなは)ち今(いま)の湊町(みなとまち)に廿四 戸(こ)の焼失(せうしつ)があつたのである随分(ずゐぶん)能(よ)く        出火(しゆつくわ)が続(つゞ)いた事(こと)であると思(おも)ふが藩主(はんしゆ)は其(その)都度(つど)罹災者(りさいしや)に対(たい)して米麦(こむむぎ)並(ならび)に松木(まつき)などを救恤(きうしゆつ)して居(を)るのである       が又(ま)た年賦(ねんぷ)を以(もつ)て金(かね)をも貸下(かしさ)げて居(を)るのである而(しか)も此(この)金(かね)は後(のち)に至(いた)り其(その)大部分(だいぶぶん)を棒引(ぼうびき)にして拝借者(はいしやくしや)へ下(か)        付(ふ)したのである此(かく)の如(ごと)く火事(くわじ)の続(つゞ)いた結果(けつくわ)として罹災者(りさいしや)に困難(こんなん)のものが出来(でき)たのは当然(たうぜん)であるが此(この)罹(り) 市民の困弊  災者(さいしや)以外(いぐわい)にも当時(たうじ)市中(しちう)には頗(すこぶ)る生計困難(せいけいこんなん)のものが多(おほ)かつたのである其(その)原因(げんゐん)は言(い)ふ迄(まで)もなく決(けつ)して出火(しゆつくわ)       の為(ため)のみではなかつたのであるが藩主(はんしゆ)は度々(たび〳〵)金穀(きんこく)を之(これ)等(ら)市内(しない)の住民(ぢうみん)に貸下(かしさ)げて助成(じよせい)した事実(じじつ)があるそ       れのみならず一度(いちど)徴収(てうしう)した炭(すみ)の運上(うんぜう)を免(めん)じ又(ま)た高足村(たかあしむら)から収納(しうのう)する処(ところ)の運上(うんぜう)を此(この)吉田(よしだ)の宿駅(しゆくえき)に下付(かふ)し       たなどの事実(じじつ)から推(お)しても当時(たうじ)宿駅(しゆくえき)の住民(ぢうみん)と云(い)ふものは一 方(ぽう)に商工業(せうこうげふ)の発展(はつてん)などは思(おも)ひも寄(よ)らざるの       みならず却(かへつ)て過重(くわぢう)の賦役(ふえき)に堪(た)へ兼(か)ねたものである事(こと)が歴々(れき〳〵)として見(み)へるのである此(この)救済(きうざい)に対(たい)しては前(まへ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平資訓と其事蹟)                    三百五 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏復び吉田に転封せらる)                三百六 【本文】 《割書:都市と行政|との関係》  にも申述(もをしの)べた如(ごと)く資訓(すけのり)は頗(すこぶ)る力(ちから)を用(もち)ゐたものであるが到底(たうてい)政治(せいぢ)の根本(こんぽん)と云(い)ふものが今日(こんにち)とは違(ちが)ふので       あるから市街地(しがいち)の発展(はつてん)は決(けつ)して望(のぞ)むべからざる状況(ぜうけふ)であつたのである然(しか)るに之(これ)を今日(こんにち)農村(のうそん)が自然(しぜん)に衰(おとろ)       えて農民(のうみん)が都市(とし)にのみ集(あつま)る状況(ぜうけふ)があると云(い)ふので大(おほい)に研究(けんきう)を要(えう)してる居(を)る時代(じだい)と比較対照(ひかくたいせう)したならば諸(しよ)        君(くん)は如何(いかん)の感(かん)を起(おこ)さるゝか其(その)原因(げんゐん)に就(つい)て研究(けんきう)するのは特(とく)に都市(とし)行政(ぎようせい)に心(こゝろ)を寄(よ)する者(もの)に取(とつ)ては好題目(かうだいもく)で       はあるまいかと思(おも)ふのである        其他(そのた)此(この)資訓(すけのり)の時代(じだい)には享保(けうほ)十七年と元文(げんぶん)五年とに大橋(おほはし)の普請(ふしん)があり又(ま)た下地(しもぢ)の水神祠(すいじんし)と云(い)ふものは元(げん) 《割書:吉田神社の|石華表》   文(ぶん)三年十一月の建立(こんりう)であるが資訓(すけのり)も亦(ま)た赤岩寺(あかいわでら)を初(はじ)め領内(れうない)寺社(じしや)を造営(ざうえい)した事(こと)が少(すくな)くなく現(げん)に吉田神社(よしだじんしや)       の石(いし)の鳥居(とりゐ)は此(この)人(ひと)の建立(こんりう)である尚(な)ほ一つ御紹介(ごせうかい)して置(お)きたいのは此(この)時代(じだい)のもので享保(けうほ)十九年 榎川岸(えのきかはぎし)の 《割書:船町保存の|文書類》   絵図面(ゑづめん)、 並(ならび)に元文(げんぶん)五年三月 船町(ふなまち)各戸(かくこ)の絵図類(ゑづるい)、 同町(どうてう)庄屋(せうや)浅井與次右衛門(あさゐよじうゑもん)が記録(きろく)せる船倉(ふなくら)附近(ふきん)の図面(づめん)な       どが今(いま)尚(な)ほ船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)してある事(こと)である之(これ)は孰(いづ)れも市史(しし)の一 部分(ぶぶん)として大(おほい)に参考(さんかう)となるもので 孝子旌表  あると信(しん)ずる又(ま)た享保(けうほ)十五年 魚町(うをまち)に孫市(まごいち)と云(い)ふ親孝行(おやかう〳〵)の者(もの)があつて資訓(すけのり)は之(これ)に米(こめ)弐 俵(へう)を褒賞(ほうせう)して表奨(へうせう)       したが之(これ)も茲(こゝ)に伝(つた)ふべきものであると思(おも)ふ             ⦿大河内氏復び吉田に転封せらる        右(みぎ)の如(ごと)く吉田城主(よしだじようしゆ)であつた松平資訓(まつだひらすけのり)は寛延(かんえん)二年十月十五日 京都所司代(けうとしよしだい)に補(ほ)せられ同時(どうじ)に遠江国(とふとほみのくに)浜松城(はまゝつぜう)       に転封(てんほう)せられたが之(これ)と交代(かうたい)に浜松城(はまゝつじよう)から此(この)吉田(よしだ)へ移封(いほう)せられて来(き)たのは松平伊豆守信復(まつだひらいづのかみのぶなほ)である此(この)信復(のぶなほ)       は前(まへ)にも申述(もをしの)べてある如(ごと)く資訓(すけのり)の前(まへ)に此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)であつた伊豆守信祝(いづのかみのぶとき)の長子(てうし)であるが信祝(のぶとき)は享保(けうほ)十四        年二月二日 大坂城代(おほさかじようだい)に任(にん)ぜらるゝと同時(どうじ)に資訓(すけのり)と交代(かうたい)して浜松城(はまゝつじよう)に移封(いほう)となり延享(えんけう)元年(がんねん)四月十九日 年(とし) 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:松平伊豆守|信復》  六十二で卒去(そつきよ)したが信復(のぶなほ)は其(その)時(とき)年(とし)廿六で家督(かとく)を相続(さうぞく)し同年(どうねん)六月四日を以(もつ)て父(ちゝ)の遺領(ゐれう)七万石を其侭(そのまゝ)に賜(たまは)       つて浜松城主(はまゝつじようしゆ)となつたのである而(しか)して今度(こんど)寛延(かんえん)二年十月に至(いた)つてそれが又々(また〳〵)資訓(すけのり)と交代(かうたい)して此(この)吉田城(よしだじよう)      主(しゆ)と相成(あひな)つた次第(しだい)であるが当時(たうじ)は前章(ぜんせう)に於(おい)ても略(りやく)御承知(ごせうち)の如(ごと)く徳川将軍(とくがはせうぐん)は九 代家重(だいいへしげ)の時代(じだい)で丁度(ちようど)老中(らうちう)        上座(ぜうざ)の酒井雅樂守忠恭(さかゐうたのかみたゞやす)が引退(ゐんたい)して堀田相模守正亮(ほつたさがみのかみまさすけ)が老中上座(らうちうぜうざ)となつた頃(ころ)であるモツトモ其(その)頃(ころ)はまだ八 天下の大勢  代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)が西(にし)の丸(まる)に隠居(ゐんきよ)して大御所(おほごしよ)と称(せう)して居(を)つたが之(これ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く寛延(かんえん)四年 即(すなは)ち宝暦(ほうれき)元年(がんねん)の六       月廿日に薨去(こうきよ)となつたのである元来(がんらい)九 代将軍(だいせうぐん)の家重(いへしげ)と云(い)ふ人(ひと)は性質(せいしつ)惰弱(だじやく)で疳癖(かんぺき)が強(つよ)く且(か)つ極(きは)めて内行(ないかう)      が修(おさ)まらなかつたのみならず言語(げんご)が甚(はなは)だ不明瞭(ふめいれう)であつたので老中(らうちう)が其(その)意見(いけん)を承(うけたまは)るにも一々 側用人(そばようにん)の        大岡忠光(おほかたゞみつ)に通辞(つうじ)をして貰(もら)つたと云(い)ふ事(こと)であるが此(この)忠光(たゞみつ)は独(ひと)り能(よ)く家重(いへしげ)の言語(げんご)を解(かい)したので老中(らうちう)等(ら)も常(つね)       に忠光(たゞみつ)に対(たい)しては贈(おく)り物(もの)などをして只管(ひたすら)其(その)取(とり)なしを求(もと)めたとの事(こと)であるかゝる様(さま)であつたから政網(せいもう)は        次第(しだい)に乱(みだ)れ特(とく)に当時(たうじ)の人物(じんぶつ)であつた松平乗邑(まつだひらのりむら)を老中(らうちう)から斥(しりぞ)けて以来(いらい)は折角(せつかく)先代(せんだい)の吉宗(よしむね)が振興(しんこう)した幕政(ばくせい)       も益々(ます〳〵)紊乱(びんらん)するに至(いた)つたのである然(しか)るに之(これ)に反(はん)して其(その)当時(たうじ)又(ま)た一 方(ぱう)に於(おい)ては大(おほい)に学問(がくもん)の隆興(りうこう)を来(きた)した       ので之(これ)は誠(まこと)に不思議(ふしぎ)な事(こと)の様(やう)であるが其(その)学問(がくもん)と云(い)ふのが実(じつ)に勤王論(きんわうろん)の源泉(げんせん)を形造(かたづく)つたものである即(すなは)ち        御承知(ごせうち)の竹内式部(たけうちしきぶ)が京都(けうと)に於(おい)て堂々(どう〳〵)王政復古(わうせいふくこ)の説(せつ)を唱(とな)えたのも其(その)頃(ころ)であるが山縣大(やまがたたい)弐が柳子新論(りうししんろん)を        著(あら)はして大(おほい)に時弊(じへい)を論(ろん)じたのも其(その)当時(たうじ)である此(かく)の如(ごと)く東西(とうざい)に勤王論(きんわうろん)の鼓吹者(こすいしや)が現(あら)はれたが其(その)中(なか)でも特(とく)       に国学(こくがく)の勃興(ばつこう)を見(み)たのは大(おほい)に注意(ちうい)すべき事(こと)で彼(か)の荷田春満(かたはるみつ)の養子(やうし)在満(ありみつ)は江戸(えど)に出(い)でゝ将軍(せうぐん)の弟(おとゝ)田安宗(たやすむね)        武(たけ)に国学(こくがく)を講(かう)じ其(その)推薦(すゐせん)によつた加茂真淵(かもまぶち)の門人(もんじん)に村田春海(むらたはるうみ)、 加藤千蔭(かとうちかげ)の如(ごと)き秀才(しうさい)や本居宣長(もとをりのりなが)の如(ごと)き大(だい)        人物(じんぶつ)を出(いだ)したと云(い)ふのは或(あるひ)は時代(じだい)の反響(はんけう)とも見(み)るべきものではなかろうか兎(と)に角(かく)之(これ)等(ら)の事(こと)が結局(けつきよく)明治(めいぢ)        維新(いしん)の遠因(ゑんいん)となつて居(を)るとすれば実(じつ)に何(なん)とも云(い)へぬ味(あぢ)のある事(こと)ではあるまいかと信(しん)ずるのである先(ま)づ 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏復び吉田に転封せらる)                三百七 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏復び吉田に転封せらる)                三百八 【本文】        之(これ)が信復(のぶなほ)の吉田城主(よしだじようしゆ)たりし時代(じだい)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)でズツト後章(こうせう)に至(いた)つて必要(ひつえう)の事(こと)もあるから少(すこ)しく        此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)くのであるが之(これ)より信復(のぶなほ)の治世(ぢせい)当時(たうじ)に於(お)ける此(この)地方(ちはう)の事柄(ことがら)に就(つい)て大要(たいえう)申述(もをしの)べたいと        思(おも)ふのである        信復(のぶなほ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く先代(せんだい)伊豆守信祝(いづのかみのぶとき)の長子(てうし)で幼名(ようめい)は泉(せん)四 郎(らう)と云(い)つたが享保(けうほ)四年四月四日 江戸(えど)谷(や)        中(なか)の下屋輔(しもやしき)で生(うま)れたのである十五 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて将軍(せうぐん)吉宗(よしむね)並(ならび)に世子(せいし)家重(いへしげ)に謁(えつ)したが延享(ゑんけう)元年(がんねん)四月十八日        夜(よ)父(ちゝ)信祝(のぶとき)が卒去(そつきよ)したので同年(どうねん)六月四日 其(その)遺領(ゐれう)を相続(さうぞく)したのであるモツトモ此(この)事(こと)だの又(ま)た寛延(かんゑん)二年十月       十五日 松平資訓(まつだひらすけのり)と交代(かうたい)して此(この)吉田城(よしだじよう)に移封(いほう)せられた事(こと)は既(すで)に只今(たゞいま)も申述(もをしの)べたのであるから御存(ごぞんじ)の事(こと)と        思(おも)ふ而(しか)して其(その)領地(れうち)の朱印(しゆいん)と云(い)ふものは寛延(かんゑん)四年三月十一日 付(づけ)で下(くだ)つたのであるが其(その)全文(ぜんぶん)は大(おほい)に参考(さんかう)と       なるから左(さ)に掲較(けいさい)することとする        三河国渥美郡之内弐拾八箇村八名郡之内参拾九箇村宝飯郡之内四拾五箇村額田郡之内五箇村加茂郡        之内四拾七箇村遠江国敷知郡之内拾七箇村城東郡之内加茂村近江国浅井郡之内弐拾箇村伊香郡之内        弐箇村高島郡之内下開田村高七萬石《割書:目録在|別 紙》事宛行之訖可領地之状如件           寛延四年三月十一日                             松平伊豆守とのへ 《割書:信復時代の|吉田》 かくて信復(のぶなほ)が吉田(よしだ)に移封(いほう)されて後(のち)寛延(かんゑん)と云(い)ふ年号(ねんがう)は四年目に宝暦(ほうれき)と改(あらた)まり宝暦(ほうれき)は又(ま)た十三年で明和(めいわ)と        改(あらた)まつたが其(その)宝暦(ほうれき)の元年(がんねん)には前将軍(ぜんせうぐん)吉宗(よしむね)の薨去(こうきよ)があり六年と十年には江戸(えど)に大火(たいくわ)があつたが其(その)年(とし)将軍(せうぐん)        家重(いへしげ)は隠居(ゐんきよ)し子(こ)家治(いへはる)が襲(つ)いで征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜられたのである然(しか)るに家重(いへしげ)は其(その)翌(よく)十一年の六月に薨去(こうきよ)       し十四 年(ねん)には又(ま)た年号(ねんがう)が明和(めいわ)と改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)の二月に朝鮮国(てうせんこく)の使節(しせつ)が来朝(らいてう)した御承知(ごせうち)の通(とほ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百九十一号附録    (大正元年十月十五日発行) 【本文】       り徳川幕府(とくがはばくふ)に於(おい)ては初(はじめ)より朝鮮国(てうせんこく)に対(たい)しては実(じつ)に好意(かうい)を表(へう)したもので其(その)使節(しせつ)に対(たい)しても大切(たいせつ)なる賓客(ひんかく)       の取扱(とりあつかひ)をしたものである現(げん)に豊橋市(とよはしゝ)大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)には朝鮮人御来朝(てうせんじんごらいてう)に付(つき)云々(うんぬん)と記(しる)して取調(とりしら)べた地図(ちづ)が残(のこ)       つて居(を)る位(くらゐ)である併(しか)し之(これ)は此(この)明和(めいわ)のではないまだ後(のち)のものではあるが兎(と)に角(かく)朝鮮人(てうせんじん)の来朝(らいてう)に就(つい)ては藩(はん)        主(しゆ)から各(かく)町々(まち〳〵)へ命(めい)じて此(その)地図(ちづ)を差出(さしだ)さしめ之(これ)を朝鮮人(てうせんじん)宿泊(しゆくはく)の時(とき)に見(み)せたものと思(おも)はれる此(この)明和(めいわ)の来朝(らいてう)       の時(とき)は二月の五日に関屋(せきや)の悟眞寺(ごしんじ)へ宿泊(しゆくはく)したが其(その)当日(たうじつ)は同寺(どうじ)に於(おい)て其(その)翌日(よくじつ)は新居(あらゐ)の休憩所(きうけいじよ)に於(おい)て大(おほい)に        饗応(けうおう)をしたもので其(その)皈路(きろ)にも同年(どうねん)の三月廿七日に矢張(やはり)此(この)悟眞寺(ごしんじ)に宿泊(しゆくはく)したが饗応(けうおう)は前(まへ)の如(ごと)くであつた        事(こと)が大河内家(おほかうちけ)の記録(きろく)の中(なか)に載(の)つて居(を)るのであるそれのみならず船町(ふなまち)の記録(きろく)によると既(すで)に宝暦(ほうれき)元年(がんねん)には        朝鮮人(てうせんじん)来朝(らいてう)の為(ため)に両度(れうど)も大橋(おほはし)の検分(けんぶん)として幕吏(ばくり)を此(この)吉田(よしだ)に差向(さしむ)けたもので両度(れうど)共(とも)作事奉行(さくじぶぎよう)を初(はじ)め其(その)役(やく)        人(にん)並(ならび)に下(し)タ方(がた)の者(もの)で総計(そうけい)廿四五 人宛(にんづゝ)も来(き)て居(を)るのである実(じつ)に之(これ)で見(み)ても徳川時代(とくがはじだい)の政治向(せいぢむき)と云(い)ふもの       は伺(うかゝ)ひ知(し)れるように思(おも)ふのである夫(それ)から宝暦(ほうれき)二年と同(どう)四年同十年同十三年と明和(めいわ)五年とに橋普請(はしふしん)のあ       つたものであるが其(その)中(なか)で宝暦(ほうれき)二年と明和(めいわ)五年とは架替(かけかへ)で其(その)他(た)のは修理(しうり)であるが其(その)都度(つど)検分役(けんぶんやく)を大勢(おほぜい)江(え)        戸(ど)から寄越(よこ)したのであるから随分(ずいぶん)大袈裟(おほげさ)な事(こと)であつたと思(おも)ふ        信復(のぶなほ)時代(じだい)の出来事(できごと)で御話(おはなし)すべき事(こと)は大略(たいりやく)之(こ)れ位(くらゐ)の事(こと)であるがサテ明和(めいわ)五年九月 信復(のぶなほ)は吉田(よしだ)在城中(ざいじようちう)に病(やまひ)       に罹(かゝ)り其(その)十九日 正午(せうご)遂(つひ)に年(とし)五十 歳(さい)で卒去(そつきよ)されたのである遺骸(ゐがい)は武州(ぶしう)に送(おく)つて野火止(のびとめ)の平林寺(へいりんじ)先塋(せんけい)の列(れつ) 謙光院   に葬(ほうむ)つたのであるが謚号(いつごう)が謙光院(けんくわうゐん)と号(ごう)するのである             ⦿松平信復と其時代に於ける人物 信復の人格 ソコで此(この)信復(のぶなほ)の人物(じんぶつ)に就(つい)て尚(な)ほ少(すこ)しく御話(おはなし)したいのであるが先(さき)にも一寸(ちよつと)申述(もをしの)べた如(ごと)く信復(のぶなほ)が幼時(えうじ)から 【欄外】    豊橋市史談  (松平信復と其時代に於ける人物)              三百九 【欄外】    豊橋市史談  (松平信復と其時代に於ける人物)                三百十 【本文】       の漢学(かんがく)の師範(しはん)は彼(か)の三浦竹渓(みうらちくけい)であつて竹渓(ちくけい)の性格(せいかく)が前(まへ)に御話(おはなし)した如(ごと)くであるから信復(のぶなほ)は余程(よほど)刻苦(こつく)して        勉学(べんがく)したものと思(おも)はれる今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に其(その)自筆(じしつ)の漢籍(かんせき)を訓解(くんかい)したものが大部(だいぶ)残(のこ)つて居(お)るが一々 難解(なんかい)の        処(ところ)へ注釈(ちうしやく)を加(くは)へて厳正(けんせい)に筆記(しつき)したもので其(その)着実(ちやくじつ)に苦学(くがく)した有様(ありさま)が伺(うかゞ)へるのである又(ま)た其(その)当時(たうじ)の日課表(につかへう)       も残(のこ)つて居(お)るが之(こ)れ亦(ま)た信復(のぶなほ)自(みづか)ら毎日(まいにち)自身(じしん)の勉学(べんがく)する時間(じかん)と課目(かもく)とを定(さだ)めて自制(じせい)したものである此処(こゝ)       らは其(その)師(し)たる竹渓(ちくけい)の性格(せいかく)と比較対照(ひかくたいせう)して見(み)ると実(じつ)に趣味(しゆみ)のある問題(もんだい)だと思(おも)ふ又(また)信復(のぶなほ)は詩歌(しか)を善(よ)くし画(ぐわ)       をも書(か)いた其(その)遺墨(ゐぼく)は同家(どうけ)に数点(すうてん)保存(ほぞん)されてあるが決(けつ)して俗(ぞく)に云(い)ふ殿様(とのさま)の製作品(せいさくひん)ではない大河内家譜(おほかうちかふ)に       は信復(のぶなほ)に関(くわん)して左(さ)の如(ごと)く記(しる)してあるが以(もつ)て其(その)人物(じんぶつ)の大要(たいえう)が分(わか)ると思(おも)ふ        平日詩歌書画鼓琴以為娯、大好古楽、尤善横笛、弱冠師平義質《割書:物徂徠|門人》、研究六経、該覧古文辞十三家        博渉百家、精於歴史廿一史、以疾故止於宋史、雖疾篤、手不軽巻、所撰則有橋上集六巻、添削集二        巻、文集一巻、詩集五巻、和歌集廿巻、楽譜筌蹄二巻矣、為政清静、士民寧一、卒之日、関境如喪        考妣、願言擡昇霊柩護送東都者、都三百余人、有司節為六十人東道、以為美称矣        右(みぎ)の内(うち)で平義質(たひらよしかた)とあるのは即(すなは)ち三浦竹渓(みうらちくけい)の事(こと)であるが只(た)だ私(わたくし)はまだ右(みぎ)に書(か)いてある信復(のぶなほ)の著書(ちよしよ)の実見(じつけん)       する暇(いとま)のないのを遺憾(ゐかん)とすることである        又(ま)た此(この)時代(じだい)に於(おい)て現(あら)はれたる当地方(たうちはう)の人物(じんぶつ)に就(つい)て一二 御話(おはなし)したいと思(おも)ふのであるが三浦竹渓(みうらちくけい)の事(こと)は既(すで) 林正森   に先(さき)にも申述(もをしの)べた如(ごと)くであるから之(これ)は別(べつ)として此(この)吉田(よしだ)の一 市人(しじん)であつて稍伝(やゝつた)ふべきのは林弥次右衛門(はやしやじうゑもん)       と云(い)ふ人(ひと)の事(こと)である此(この)人(ひと)は吉田町(よしだまち)の年寄役(としよりやく)で利町(とぎまち)と中世古(なかせこ)の庄屋(せうや)を兼(か)ねて居(ゐ)たのであるが名乗(なのり)を正森(まさもり)       と云(い)ひ号(ごう)を自見(じけん)と称(せう)した其(その)祖先(そせん)に林(はやし)十 右衛門景政(うゑもんかげまさ)と云(い)ふのがあつて射(しや)を善(よ)くし元亀(げんき)三年 武田信玄(たけだしんげん)が此(この)        地(ち)に攻(せ)め寄(よ)せた時(とき)に之(これ)を飽海口(あくみぐち)に防(ふせ)いで功(こう)があつたので時(とき)の城将(じようせう)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)から賞(せう)せられたと伝(つた)へられ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       て居(お)ることは前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もをしの)べて置(お)いた如(ごと)くである而(しか)して其(その)弟(おとゝ)助兵衛正秀(すけへうゑまさひで)と云(い)ふ人(ひと)は池田輝政(いけだてるまさ)に仕(つか)へて長(なが)        久手(くて)の役(えき)で戦死(せんし)したが其(その)子孫(しそん)が遂(つひ)に此(この)吉田(よしだ)に在住(ざいぢう)するに至(いた)つたものであるとは其(その)家伝(かでん)であつて今(いま)御話(おはなし)       する正森(まさもり)は其(その)正秀(まさひで)の六 世(せい)の孫(そん)であると称(せう)されて居(お)る併(しか)し今(いま)は一 市人(しじん)たるに過(す)ぎぬのであつたが最(もつと)も篤(とく)        志(し)の人(ひと)で独力(どくりよく)以(もつ)て三州吉田記(さんしうよしだき)と云(い)ふものを著(あらは)して居(お)るのである其(その)序文(ぢよぶん)には寛延(かんえん)三年九月とあるが一 市(し)       人(じん)として其(その)当時(たうじ)之(こ)れ丈(だけ)の事(こと)を調(しら)べ上(あ)げるには頗(すこぶ)る年月(ねんげつ)を費(つひや)したものでなくてはなるまいモツトモ今日(こんにち)       から見(み)れば別(べつ)に貴重(きてう)とすべき程(ほど)の値(あたひ)はなかろうが又(また)其(その)内(うち)には参考(さんかう)となるべき節(ふし)も少(すく)なくないのである       而(しか)して此(この)人(ひと)は余程(よほど)熱心(ねつしん)に旧事古跡(きうじこせき)の討究(とうきう)をしたもので彼(か)の龍拈寺(りうねんじ)の開基塚(かいきつか)の処(ところ)に牧野古白(まきのこはく)の碑(ひ)を建立(こんりう)       したのも此(この)人(ひと)であるが其(その)碑文(ひぶん)の写(うつし)は今(いま)も同寺(どうじ)に伝(つた)はつて居(お)るのである然(しか)るに何故(なにゆゑ)か其(その)実物(じつぶつ)が存在(そんざい)して        居(お)らぬのは遺憾(ゐかん)とする処(ところ)である尚(な)ほ其(その)他(た)にも此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)で上梓(ぜうせう)したものが一二あるが之(これ)は孰(いづ)れも随筆(ずゐしつ)       であつて殆(ほとん)ど今日(こんにち)に伝(つたは)つて居(お)らぬのは惜(おし)い事(こと)であると思(おも)ふ 僧教春    尚(な)ほ之(これ)に関連(くわんれん)して一つ申述(もをしの)べたいのは此(この)正森(まさもり)の叔父(おぢ)に教春(けうしゆん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)があつた事(こと)である此(この)人(ひと)は正森(まさもり)の        祖父(そふ)弥次右衛門景品(やじうゑもんかげしな)の十三 男(なん)で珍(めつ)らしく男子(だんし)の兄弟(けうだい)が多(おほ)くあつたものであるが幼(えう)にして渥美郡(あつみぐん)雲(う)の谷(や)       の普門寺(ふもんじ)に入(い)つて僧(そう)となり一 時(じ)其(その)住職(ぢうしよく)となつたが後(のち)高野山(かうやさん)に登(とは)つて北宝院(ほくほうゐん)の門主(もんしゆ)となり大教正(たいけうせい)にまで       なつたのである宝暦(ほうれき)元年(がんねん)十二月十二日八十三 歳(さい)で寂(じやく)したが碩学(せきがく)の聞(きこゑ)が高(たか)かつた人(ひと)である其(その)筆蹟(しつせき)は今(いま)も        其(その)子孫(しそん)に当(あた)る当(たう)船町(ふなまち)の林佐平(はやしさへい)氏(し)方(かた)に蔵(ざう)されて居(お)るが最(もつと)も脱俗(だつらく)の風(ふう)が見(み)える       尚(な)ほ此(この)際(さい)序(ついで)に一つ補(おぎな)つて置(お)きたい話(はなし)があるが夫(それ)は例(れい)の三河国二葉松(みかはのくにふたはまつ)と云(い)ふ著書(ちよしよ)に関(くわん)してである此(この)書(しよ)が 《割書:三河国二葉|松の著者》   出来(でき)たのは元文(げんぶん)年中(ねんちう)の事(こと)で恰(あたか)も松平豊後守資訓(まつだひらぶんごのかみすけのり)在城(ざいじよう)当時(たうじ)であるが其(その)著者(ちよしや)は宝飯郡(ほゐぐん)長山村(ながやまむら)の人(ひと)佐野監物(さのけんもつ)       と云(い)ふ者(もの)で吉田城内(よしだじようない)の小笠原(をがさはら)大弐(だいに)仝田町(どうたまち)の渡邊体伯(わたなべたいはく)外(ほか)四 人(にん)が加筆(かしつ)したものである其(その)加筆者(かしつしや)の中(なか)に牛久(うしく) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信復と其時代に於ける人物)                三百十一 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信礼)                    三百十二 【本文】        保(ぼ)の渡邊自休(わたなべじきう)と云(い)ふ人(ひと)もあるが之(これ)等(ら)の人々(ひと〴〵)は当時(たうじ)に於(お)ける此(この)地方(ちほう)の地理歴史研究家(ちりれきしけんきうか)であつたものと見(み)       へて本史談(ほんしだん)の最初(さいしよ)に申述(もをしの)べてある如(ごと)く彼(か)の牧野成行(まきのしげゆき)氏(し)の家(いへ)に伝(つた)はつて居(お)る牧野氏御由緒書(まきのしごゆうちよしよ)と題(だい)する記(き)        録(ろく)は享保(けうほ)十六 年(ねん)に佐野監物(さのけんもつ)と渡邊自休(わたなべじきう)との両人(れうにん)が同家(どうけ)からの依頼(いらい)を受(う)けて取調(とりしら)べたものである同書(どうしよ)は        主(おも)に牧野氏(まきのし)の祖先(そせん)の事(こと)特(とく)に古白築城(こはくちくじよう)の当時(たうじ)より其(その)子(こ)信成(のぶしげ)等(ら)の戦死(せんし)などに関(くわん)して取調(とりしら)べたものであるが       其(その)中(なか)には参考(さんかう)となるべきものが少(すくな)くないのである之(これ)等(ら)著者(ちよしや)の伝記(でんき)などが誠(まこと)に分(わか)り兼(か)ぬるのは遺憾(ゐかん)であ       るが責(せ)めては此(この)際(さい)其(その)名前(なまへ)丈(だけ)なりとも此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのである            ⦿松平伊豆守信礼 松平信礼   前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く吉田城主(よしだじようしゆ)松平伊豆信復(まつだひらいづのかみのぶなほ)は明和(めいわ)五 年(ねん)九月 吉田在城中(よしだざいじようちう)病(やまひ)で卒去(そつきよ)されたが仝年(どうねん)十一月       十六日を以(もつ)て其(その)長子(てうし)信礼(のぶいや)が家督(かとく)を相続(さうぞく)して父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を継(つ)いだのである        信礼(のぶいや)幼名(えうめい)は音之助(おとのすけ)初(はじ)め甲斐守(かひのかみ)に叙(ぢよ)せられたが家督(かとく)相続(さうぞく)と同時(どうじ)に伊豆守(いづのかみ)に改(あらた)まつたのである元文(げんぶん)二年八       月十一日の生(うまれ)であるから三十二 歳(さい)で家督(かとく)を相続(さうぞく)した訳(わけ)であるが此(この)人(ひと)は在職(ざいしよく)僅(わづか)に一ケ年有余(ねんいうよ)で明和(めいわ)七       年六月廿二日を以(もつ)て卒去(そつきよ)せられたのである従(したがつ)て此処(こゝ)に申述(もをしの)ぶべき事蹟(じせき)も誠(まこと)に少(すくな)いのであるが併(しか)し領(れう)        地(ち)の内(うち)遠江国(とふとほみのくに)城東郡(じようとうごほり)加茂村(かもむら)の地(ち)を返納(へんのう)して其(その)代(かは)りに三河国(みかはのくに)加茂郡(かもごほり)で五ケ村(そん)宝飯郡(ほゐごほり)で御馬村(おんまむら)外(ほか)一ケ        村(そん)を賜(たまは)つたのは明和(めいわ)七 年(ねん)五月の事(こと)で此(この)信礼(のぶいや)の時代(じだい)である而(しか)して信礼(のぶいや)は幼時(えうじ)より父(ちゝ)と同(おな)じく学(がく)を三浦竹(みうらちく)        渓(けい)に受(う)けたのであるが頗(すこぶ)る国史漢籍(こくしかんせき)に通(つう)じ特(とく)に武芸(ぶげい)には堪能(たんのう)であつたのである嘗(かつ)て鳥銃(てうじう)の試射(ししや)をやつ       て二十 発(ぱつ)二十 中(ちう)したと云(い)ふので其(その)的(まと)は大河内家(おほかうちけ)に保存(ほぞん)されてある筈(はづ)である又(ま)た詩歌(しか)並(ならび)に絵画(くわいが)を能(よ)くし        詩集漫筆(ししふまんひつ)なども遺(のこ)されて居(お)る其(その)仁慈(じんじ)の心(こゝろ)が深(ふか)かつた事(こと)は嘗(かつ)て其(その)侍臣(じしん)が誤(あやま)つて信礼(のぶいや)の居間(ゐま)にあつた新製(しんせい) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百九十六号附録    (大正元年十月廿二日発行) 【本文】       の大小(だいせう)を刀掛(かたなかけ)から落(おと)して瑕(きづ)を拵(こしら)へたが侍臣(じしん)は実(じつ)に恐入(おそれい)つて有体(ありてい)に自分(じぶん)の粗忽(そこつ)を謝(しや)し只管(ひたすら)罪(つみ)を待(ま)つたの       である然(しか)るに信礼(のぶいや)は甚(はなはだ)しく之(これ)を咎(とが)めむともせず此(この)事(こと)は決(けつ)して他人(たにん)に語(かた)るなと命(めい)じて自(みづか)ら其(その)刀(かたな)を其(その)筋(すぢ)       のものに渡(わた)して修理(しうり)せしめたので侍臣(じしん)は誠(まこと)に有難(ありがた)い事(こと)に思(おも)つて恐縮(けうしゆく)したと云(い)ふ事(こと)が藩主(はんしゆ)柴田善伸(しばたぜんしん)の聞(きゝ)        書(がき)にあるのである之(これ)等(ら)の話(はなし)は稍々(やゝ)信礼(のぶいや)の人格(じんかく)を窺(うかゞ)ふ上(うへ)に於(おい)て面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふ信礼(のぶいや)の遺骸(ゐがい)は矢(や)        張(はり)武州(ぶしう)野火留(のひどめ)の平林寺(へいりんじ)に葬(はうむ)つて慈雲院(じうんゐん)と諡(おくりな)したのである             ⦿松平信明の幼時 《割書:松平信明の|幼時》   明和(めいわ)七 年(ねん)六月 松平伊豆守信礼(まつだひらいづのかみのぶいや)卒去(そつきよ)に付(つき)其(その)後(あと)を襲(つ)いで吉田城主(よしだじようしゆ)となつたのは其(その)長子(てうし)信明(のぶあき)であるが信明(のぶあき)は        宝暦(ほうれき)十三年二月十日の生(うまれ)であるから其(その)家督(かとく)を相続(さうぞく)したのは恰(あたか)も八 歳(さい)の時(とき)であつた然(しか)るに此(この)人(ひと)は実(じつ)に稟(りん)        性(せい)穎悟(えいご)で幼少(えうせう)の時(とき)から既(すで)に非凡(ひぼん)であつたが其(その)当時(たうじ)は名(な)を春(はる)之 丞(じよう)と云(い)つて書(しよ)を三井親和(みつゐしんな)に就(つい)て学(まな)むだ然(しか)       るに如何(いか)にも能書(のうしよ)で親和(しんな)も敬服(けいふく)の余(あま)り恐(おそ)れながら君(きみ)の筆道(ひつどう)を善(よ)くせらるゝ事(こと)到底(とうてい)愚老(ぐらう)の及(およ)ぶ処(ところ)でない        去(さ)れば愚老(ぐらう)の印(いん)を御貸(おか)し申上(もをしあ)ぐるから之(これ)を御押(おんお)しなされと云(い)ふので印(いん)を差出(さしだ)した信明(のぶあき)は之(これ)を興(けう)ある事(こと) 《割書:伊豆公の親|和》  に思(おも)つて自分(じぶん)の書(か)いた書(しよ)へベタ〳〵と親和(しんな)の印(いん)を押(お)したのである之(これ)が伊豆公(いづこう)の親和(しんな)と唱(とな)えて珍重(ちんぢゆう)さる       ゝ 処(ところ)となつて居(を)るが今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に其(その)六 歳(さい)頃(ころ)の書(しよ)が残(のこ)つて居(を)る又(ま)た豊橋市(とよはしゝ)本町(ほんまち)の兼子洋平(かねこようへい)氏(し)の家(いへ)にも       其(その)八 歳(さい)頃(ころ)に書(か)いたものと思(おも)はるゝ富士(ふじ)の画(ぐわ)が蔵(ざう)されて居(を)るが孰(いづ)れも上出来(ぜうでき)で到底(たうてい)小供(こども)の書(か)いたものと       は思(おも)はれぬ位(くらゐ)のものである其他(そのた)詩(し)をも能(よ)くし篆刻(れいこく)も上手(ぜうづ)であつたがサテ其(その)頃(ころ)は恰(あたか)も十 代将軍(だいせうぐん)家治(いへはる)の治(ぢ)        世(せい)であつて前章(ぜんせう)にも申述(もをしの)べて置(お)いた如(ごと)く九 代将軍(だいせうぐん)の家重(いへしげ)と云(い)ふ人(ひと)は頗(すこぶ)る惰弱(だじやく)の性(せい)であつたから風紀(ふうき)は 《割書:十代将軍家|治の治世》   紊(みだ)れる財政(ざいせい)は益(ます〳〵)窮乏(きうばう)すると云(い)ふ状勢(ぜうせい)であつたが宝暦(ほうれき)十年 隠居(ゐんきよ)して此(この)家治(いへはる)が代(かは)つて征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜ 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の幼時)                    三百十三 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                  三百十四 【本文】       られる事(こと)と相成(あひな)つたのであるソコで此(この)家治(いへはる)も最初(さいしよ)は大(おほい)に治世(ぢせい)に志(こゝろざし)があつて頗(すこぶ)る勉強(べんけう)した様子(やうす)が認(みと)め       られるのであるが程(ほど)なく其(その)成績(せいせき)が挙(あが)らぬようになつたのみならず要職(えうしよく)に然(しか)るべき人物(じんぶつ)が居(ゐ)なかつたの 田沼意次  で次第(しだい)に例(れい)の側用人(そばようにん)政治(せいぢ)の弊(へい)に陥(おちゐ)つて遂(つひ)に御承知(ごせうち)の田沼主殿頭意次(たぬまとのものかみおきつぐ)が独(ひと)り威権(ゐけん)を弄(ろう)するに至(いた)つたの       である元来(がんらい)此(この)田沼意次(たぬまおきつぐ)と云(い)ふ人(ひと)は八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の小姓(こせう)で享保(けうほ)二十年に家督(かとく)を継(つ)ぎ其(その)際(さい)は知行(ちぎよう)僅(わづか)に六百        石(こく)の小身(せうしん)であつた然(しか)るに其(その)後(のち)家治(いへはる)の御側衆(おそばしう)に付(つ)けられ次第(しだい)々々(しだい)に親任(しんにん)せられて宝暦(ほうれき)八年には一万石に        取立(とりた)てられて諸侯(しよこう)の列(れつ)に加(くは)はり明和(めいわ)四年には更(さら)に二万石を加増(かぞう)せられて遠江国(とふとほみのくに)相良(さがら)の城主(じようしゆ)となり新城(しんじよう)       を築(きづ)いて之(これ)に根拠(こんきよ)を構(かま)え程(ほど)なく安永(あんえい)元年(がんねん)には遂(つひ)に老中(ろうちう)に任(にん)ぜられ五万七千石に迄(まで)至(いた)つたと云(い)ふ男(おとこ)であ       る此(かく)の如(ごと)きわ訳(わけ)であるから此(この)家治(いへはる)の時代(じだい)殊(こと)に明和(めいわ)安永(あんえい)の間(あひだ)にあつては意次(おきつぐ)の権勢(けんせい)と云(い)ふもの頗(すこぶ)る強大(けうだい)       なもので士気(しき)は堕落(だらく)し賄賂(わいろ)横行(おうかう)の事実(じじつ)なとも一 般(ぱん)に認(みと)めらるゝ処(ところ)である先(ま)づ之(こ)れが其(その)当時(たうじ)に於(お)ける事(じ)        情(ぜう)の大要(たいえう)であるが松平信明(まつだひらのぶあき)は実(じつ)に此(かく)の如(ごと)き時世(じせい)にあつて成長(せいてう)したもので之(これ)が後(のち)に松平定信(まつだひらさだのぶ)即(すなは)ち白河(しらかは)        楽翁公(らくおうこう)と云(い)はれた人(ひと)の推挙(すいきよ)を受(う)けて幕府(ばくふ)重要(ちようえう)の地位(ちゐ)に当(あた)り弊政改革(へいせいかいかく)の衝(せう)に当(あた)る事(こと)になつたのであるが之(これ)       より順(じゆん)を追(お)ふてそれ等(ら)の事柄(ことがら)を段々(だん〴〵)申述(もをしの)べたいと思(おも)ふのである             ⦿松平信明と白河楽翁公 松平定信   世(よ)に白河楽翁公(しらかはらくおうこう)と云(い)つて尊敬(そんけい)せらるゝ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた通(とほ)り松平越中守定信(まつだひらゑつちうのかみさだのぶ)と云(い)つた人(ひと)の事であ       るが私(わたくし)がクダ〳〵しく申(もを)す迄(まで)もなく実(じつ)に非凡(ひぼん)の人物(じんぶつ)で後世(こうせ)迄(まで)も推重(すゐちよう)せられて居(お)る処(ところ)の名臣(めいしん)である之(これ)等(ら)       の事(こと)は諸君(しよくん)は既(すで)に能(よ)く御承知(ごせうち)の事(こと)であるとは思(おも)ふが此(この)人(ひと)は元(も)と田安中納言宗武(たやすちうなごんむねたけ)の第(だい)三 子(し)であるから八        代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)から云(い)ふと其(その)実孫(じつそん)である然(しか)るに色々(いろ〳〵)の事情(じぜう)から奥州白河(おうしうしらかは)の城主(じようしゆ)松平定邦(まつだひらさだくに)の養子(やうし)となつて 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        其(その)家(いへ)を襲(つ)いだのであるが元来(がんらい)此(この)十 代将軍(だいせうぐん)家治(いへはる)には家基(いへもと)と云(い)ふ実子(じつし)があつたが安永(あんえい)八年二月 急病(きうびやう)で逝去(せいきよ)       せられてより子(こ)がなかつたので遂(つひ)に一ツ橋家(はしけ)から養子(やうし)することとなつて入(い)つて継嗣(けいし)となつたのが後(のち)に十 《割書:十一代将軍|家斉》  一 代将軍(だいせうぐん)と云(い)はれた家斉(いへなり)であるトコロが此(この)家斉(いへなり)は吉宗(よしむね)から云ふと曽孫(そうそん)に当(あた)るのみならず其(その)祖父(そふ)一ツ橋(はし)        宗尹(むねたゞ)は定信(さだのぶ)の父(ちゝ)宗武(むねたけ)に対(たい)して弟(おとゝ)であるから全体(ぜんたい)徳川将軍家(とくがはせうぐんけ)に取(と)つては家斉(いへなり)よりは定信(さだのぶ)の方(はう)が余程(よほそ)重(おも)い        事(こと)になるのである其(その)上(うへ)定信(さだのぶ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く幼少(えうせう)より聡明(そうめい)の人(ひと)であつたから当時(たうじ)権勢(けんせい)を専(もつぱら)にし       て居(お)つた意次(おきつぐ)は出来(でき)得(う)る限(かぎ)り定信(さだのぶ)を遠(とほ)ざくる事(こと)に焦慮(せうりよ)したものと信(しん)ぜられる今(いま)一々は申述(もをしの)べぬが之(これ)に       は随分(ずゐぶん)穿(うが)つた説(せつ)も伝(つた)はつて居(お)るのである而(しか)して此(この)定信(さだのぶ)は宝暦(ほうれき)八年十二月廿七日の生(うまれ)であるから信明(のぶあき)に        比(くら)ぶれば恰(あたか)も五 歳(さい)の年長者(ねんてうしや)であるが青年時代(せいねんじだい)から頻(しき)りに有為(いうゐ)の友人(いうじん)を集(あつ)めて精神(せいしん)の修養(しうやう)に勉(つと)め時世(じせい)を 定信と信明  慨嘆(がいたん)して世(よ)の為(た)め国(くに)の為(ため)には大(おほい)に貢献(こうけん)せむとしたものである信明(のぶあき)は蓋(けだ)し此(この)時分(じぶん)から既(すで)に定信(さだのぶ)に知(し)られ       て居(お)つたもので彼(か)の定信(さだのぶ)の自筆(じしつ)にかゝる「宇下(うか)の人言(じんごん)」と云(い)ふ書(しよ)の中(なか)には信明(のぶあき)を評(へう)して松平伊豆守(まつだひらいづのかみ)は        明敏(めいびん)で能(よ)く人(ひと)を遇(ぐう)す才(さい)は徳(とく)に勝(かつ)ると云ふべきである又(ま)た予(よ)には何事(なにごと)も包(つゝ)まず赤心(せきしん)を明(あ)かしてくれるが        屡々(しば〴〵)予(よ)の足(た)らざる処(ところ)をも補(おぎな)つてくれると云ふ意(い)が記(しる)してあるとのことであるモツトモ此(この)書(しよ)は他見(たけん)を許(ゆる)さ       ぬ秘書(ひしよ)であつたから私(わたくし)はまだ実見(じつけん)する機会(きくわい)を得(え)ぬのであるが右(みぎ)の話(はなし)は此(この)頃(ころ)某(ぼう)先輩(せんぱい)から聞(き)く事(こと)を得(え)た次(し) 《割書:定信より信|明に贈りし|書簡》   第(だい)であるそれのみならず今(いま)大河内家(おほかうちけ)には其(その)頃(ころ)定信(さだのぶ)から信明(のぶあき)に贈(おく)つた書簡(しよかん)が幸(さいはひ)五 通(つう)保存(ほぞん)されて居(お)る       のである之(これ)は維新後(ゐしんご)本具(ほんぐ)の中(なか)に入(い)れられて殆(ほとん)ど顧(かへり)みられずに埋没(まいぼつ)されて居(お)つたのであるが旧臣(きうしん)の長尾(ながを)        清江(きよえ)君(くん)が虫干(むしぼし)の際(さい)兎(と)に角(かく)格別(かくべつ)に保存(ほぞん)して置(お)かれたので今日(こんにち)容易(ようい)ならざる資料(しれう)として世(よ)に紹介(せうかい)することが       出来(でき)るのである長尾氏(ながをし)が逝去(せいきよ)せられた今日(こんにち)となつては私(わたくし)は一 言(げん)長尾氏(ながをし)の功績(こうせき)を此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)きた       いと思(おも)ふのである 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                  三百十五 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                  三百十六 【本文】       サテ右(みぎ)の五 通(つう)の書簡(しよかん)と云ふのは独(ひと)り定信(さだのぶ)信明(のぶあき)両人(れうにん)が青年時代(せいねんじだい)に於(お)ける親交(しんかう)を現(あら)はせるのみならず実(じつ)に        当時(たうじ)の情況(ぜうけふ)が分(わか)るので甚(はなは)だ貴重(きちよう)のものであると思(おも)ふが前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く独(ひと)り当世(たうせい)に権勢(けんせい)を専(ほしいまゝ)にし       て田沼意次(たぬまおきつぐ)も安永(あんえい)年間(ねんかん)を過(す)ぎて世(よ)は天明(てんめい)と相成(あひな)つた其(その)四年三月廿四日に子(こ)田沼山城守意知(たぬまやましろのかみおきとも)が営中(えうちう)に於 意次の解職 て佐野善左衛門(さのぜんさゑもん)政言の為(ため)に刃傷(にんぜう)せられてから甚(はなは)だ不首尾(ふしゆび)の端緒(たんちよ)を開(ひら)いたので其(その)六年八月廿七日 遂(つひ)に職(しよく)       を解(と)かるゝに至つたのであるモツトモ時(とき)の将軍(せうぐん)家治は当時(たうじ)重病(じゆうびよう)であつて其(その)年(とし)の九月八日を以(もつ)て薨去(こうきよ)       せられた事(こと)に相成(あひな)つては居(お)るが其(その)実(じつ)は其(その)年(とし)の八月廿日 既(すで)に薨去(こうきよ)せられたものであると云ふのが事実(じゞつ)と        信(しん)ぜられる然(しか)るに三 家(け)並(ならび)に諸閣老(しよかくらう)は堅(かた)く喪(も)を秘(ひ)して置(お)いて先(ま)づ台命(たいめい)と称(せう)して田沼(たぬま)を黜(しりぞ)け然(しか)る後(のち)漸(やうや)く喪(も)       を発(はつ)したものと思(おも)はれる蓋(けだ)し家治(いへはる)の病(やまひ)革(あらたま)るや近臣(きんしん)の者(もの)は堅(かた)く意次(おきつぐ)の疾(やまひ)に侍(じ)するのを拒(こば)むだもので若(も)       し意次(おきつぐ)が強(しゐ)て将軍(せうぐん)の病(やまひ)に侍(じ)せむと云(い)ふならば刺(さ)し殺(ころ)してもそうはさせまじと謀(はか)つたので意次(おきつぐ)も之(これ)には        恐(おそ)れをなして遂(つひ)に内(うち)に入(い)ることを敢(あへ)てせなかつたが其(その)内(うち)に台命(たいめい)であると云(い)ふので解職(かいしよく)を仰付(あふせつ)けられたと        云(い)ふ次第(しだい)である       かくて家治(いへはる)の喪(も)が発(はつ)せらるゝと共(とも)に即日(そくじつ)家斉(いへなり)は本城(ほんじよう)に移(うつ)りて其(その)後(あと)を襲(つ)いだのであるが十月四日には家(いへ) 《割書:意次封地を|減ぜらる》   治(はる)の葬式(そうしき)を上野東叡山(うへのとうえいざん)に於(おい)て営(いとな)まれ閏(うるふ)十月の五日には田沼意次(たぬまおきつぐ)の封地(ほうち)の内(うち)二万石を収(おさ)め大坂蔵屋敷(おほさかくらやしき)並(ならび) 天明の饑饉 に江戸神田橋(えどかんだばし)の上屋敷(かみやしき)を収(おさ)められたのである而(しか)も其頃(そのころ)は所謂(いはゆる)天明(てんめい)の饑饉(ききん)と云(い)はれた凶歳(けうさい)続(つゞ)きで特(とく)に其(その)       四年五年 即(すなは)ち辰年(たつとし)巳年(みのとし)の不作(ふさく)は甚(はなはだ)しきものであつたが其(その)最中(さいちう)へ此(この)騒(さわぎ)であつたから都下(とか)の人心(じんしん)は恟々(けう〳〵)       たる有様(ありさま)であつた即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べた定信(さだのぶ)が信明(のぶあき)に寄越(よこ)した書簡(しよかん)と云(い)ふのは此(この)頃(ころ)の情況(ぜうけう)が分(わか)るので其(その)五        通(つう)は孰(いづ)れも天明(てんめい)六年の九月より閏(うるふ)十月に掛(か)けてのものであるが先(ま)づ最初(さいしよ)のは九月九日 付(づけ)で其(その)次(ころ)のは日(ひ)        付(づけ)がないが事実(じゞつ)から推(お)して之(これ)はドウしても其(その)月(つき)の中旬(ちうじゆん)のものに相違(さうゐ)ないのである夫(それ)から十月十八日 付(づけ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百二号附録    (大正元年十月廿九日発行) 【本文】        閏(うるふ)十月十八日 付(づけ)同月(どうげつ)廿一日 付(づけ)のものである而(しか)して九月九日 付(づけ)のものには将軍(せうぐん)家治(いへはる)薨去(こうきよ)の事(こと)に就(つい)て「大(たい)        方(かた)の君(きみ)の恵(めぐみ)を思(おも)ふ身(み)は落涙(らくるゐ)も置所(おきところ)なき程(ほど)に日夜(にちや)恐入奉(おそれいりたてまつ)り候(そろ)今日(こんにち)節句(せつく)と申候(まをしそろ)ても扨々(さて〳〵)心痛(しんつ)恐入(おそれいり)候(そろ)義(ぎ)幾(いく)        千代(ちよ)と祈(いの)りし事(こと)もあやなくて涙(なみだ)くみそふ菊(きく)の盃(さかすき)にて御座候(ござそろ)」と書(か)いてある又(また)其(その)頃(ころ)定信(さだのぶ)は領地(れうち)白河(しらかは)を検(けん)        分(ぶん)する為(ため)に発向(はつこう)する筈(はづ)で幕府(ばくふ)の許可(きよか)をさえ得(え)たのであつたが自分(じぶん)の都合(つごう)で一二日 延引(えんゐん)して居(お)る処(ところ)へ将(せう)        軍(ぐん)の喪(も)を聞(き)いて遂(つひ)に発足(はつそく)を見合(みあは)せた事(こと)が書(か)いてある其(その)文意(ぶんい)から見(み)ると家治(いへはる)の薨去(こうきよ)は九月八日を以(もつ)て発(はつ)        表(ぺう)せらるゝ迄(まで)は定信(さだのぶ)と雖(いへど)も一 向(こう)に知(し)らなかつたものと信(しん)ぜられる果(はた)して将軍(せうぐん)の薨去(こうきよ)が事実(じじつ)に於(おい)て前(まへ)に        申述(もをしの)べた如(ごと)く八月の廿日 頃(ごろ)であつたとすれば余程(よほど)厳重(げんじう)に秘(ひ)せられたものであると思(おも)はれる又(また)此(この)書簡(しよかん)中(ちう)       には奥州地方(おうしうちはう)連年(れんねん)不作(ふさく)の情況(ぜうけう)も書(か)いてあるが特(とく)に田沼(たぬま)の退職(たいしよく)となつた結果(けつくわ)は賄賂横行(わいろわうかう)の事実(じじつ)が止(や)むに        至(いた)るであろうと云(い)ふのを喜(よろこ)むで特(とく)に諧謔(かいぎやく)の口調(くてう)を用(もち)ゐ         権門(けんもん)は止(や)みそうと人々(ひと〴〵)申候(もをしそろ)之(これ)はまづ結構(けつかう)至極(しごく)と難有奉存候(ありがたくぞんじたてまつりそろ)弥々(いよ〳〵)止(や)み候(そうろ)はゞ私儀(わたくしぎ)守銭(しゆせん)の奴(ど)は別(べつ)し        て大慶(たいけい)仕(つかまつり)○(コレ)をたくはへ可申(もをすべく)と存候(ぞんじそろ)諸大名(しよだいめう)の勝手(かつて)にとり候(そろ)ても大分(だいぶん)の事(こと)と被存候(ぞんじられそろ) 《割書:定信信明の|親交》  と書(か)いてあるが之(これ)に依(よ)れば当時(たうじ)の様子(やうす)は勿論(もちろん)如何(いか)にも定信(さだのぶ)信明(のぶあき)の両人(れうにん)が交情(かうぜう)極(きは)めて親密(しんみつ)であつて互(たがひ)に        相容(あひよう)して居(お)つた状態(ぜうたい)が躍如(やくぢよ)として見(み)ゆるように思(おも)はるゝのである        而(しか)して十月十八日 付(づけ)の書簡(しよかん)は定信(さだのぶ)が既(すで)に其(その)領地(れうち)奥州(おうしう)の白河(しらかは)へ到着(たうちやく)して其処(そこ)から送(おく)り越(こ)したものである       が其(その)中(なか)にも         都下(とか)先比(さきごろ)巷説如沸候(こうせつわくがごとくにそろ)よしけしからぬ事(こと)に御座候(ござそろ)嘸々(さぞ〳〵)御痛心(ごつうしん)の御事(おんこと)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)御(ご)三 家方(けがた)御居(おんゐ)         残(のこ)り等(とう)も度々(たび〴〵)になどゝ風説相聞(ふうせつあひきこ)へ申候(もをしそろ)あなた方(がた)の御寄合(おんよりあひ)などと申(もをす)は御大切(ごたいせつ)の義(ぎ)       云々(うんぬん)と云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある之(これ)は前(まへ)に申述(もをしの)べた田沼意次(たぬまおきつぐ)が其(その)封(ほう)二万石を収められ大坂蔵敷(おほさかくらしき)並(ならび)に神田橋(かんだばし)の 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                  三百十七 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                    三百十八 【本文】        上屋敷(かみやしき)を収(をさ)められた所謂(いはゆる)田沼処分(たぬましよぶん)当時(たうじ)の情況(ぜうけう)を窺(うかゞ)ふべきもので此(この)田沼(たぬま)が神田橋(かんだばし)上屋敷(かみやしき)引(ひ)き揚(あ)げの際(さい)は        中々(なか〳〵)喧(やかま)しかつたものであるが此(この)言渡(いひわたし)は閏(うるふ)十月五日の事(こと)で閏(うるふ)十月廿一日 付(づけ)の書簡(しよかん)の中(なか)にも         田沼(たぬま)御寛怒(ごかんぢよ)の義(ぎ)難有義(ありがたきぎ)いづれ無事(ぶじ)の方(はう)可然哉(しかるべきや)引越(ひきこし)の節(せつ)乱雑(らんざつ)の事(こと)承伝(うけたまはりつた)へ候(そろ)       と云(い)ふ事(こと)が見(み)える又(ま)た前記(ぜんき)十八日の書簡(しよかん)の中(なか)には信明(のぶあき)に対(たい)して左(さ)の如(ごと)き事(こと)も記(しる)してある 信明の性行   不絶御力行(たへすごりきかう)の義(ぎ)奉感候(かんじたてまつりそろ)随分(ずゐぶん)御出精(ごしゆつせい)可被成候(なされべくそろ)戸田(とだ)も貴君(きくん)の御才徳(ごさいとく)に感(かん)し候(そろ)と申越候(もをしこしそろ)御明敏(ごめいひん)は御油(ごゆ)         断(だん)被成(なされ)まじく候(そろ)御書物(おんしよもつ)御出精(ごしゆつせい)のよし何(なに)より〳〵珍慶(ちんけい)に奉存候(ぞんじたてまつりそろ)不学(ふがく)おもてに牆(かき)するが如(ごと)くとも申(もをし)         候(そろ)よし不学無術(ふがくぶじゆつ)にては難奏功(こうをそうしがたく)奉存候(ぞんじたてまつりそろ)        之(これ)で見(み)ると誠(まこと)に信明(のぶあき)が当時(たうじ)才気横溢(さいきおういつ)の青年(せいねん)であつた事(こと)が窺(うかゞ)はるゝのみならず同時(どうじ)に定信(さだのぶ)の人(ひと)となりも        分(わか)るが又(ま)た此(この)両人間(れうにんかん)の交情(かうぜう)が一 層(そう)明瞭(めいれう)になるように思(おも)はるゝのであるが尚(なほ)其(その)事(こと)に就(つい)ては閏(うるふ)十月廿一日       の書簡(しよかん)の中(なか)にも        しかしそれは大(おほい)に〳〵〳〵秘(ひ)し候事(そろこと)たとひ加納氏(かのうし)へも御内見(ごないけん)は大(おほい)に御無用(ごむよう)〳〵〳〵御他見(ごたけん)御他言(ごたごん)は         無用(むよう)〳〵〳〵に奉願候(ねがひたてまつりそろ)左様(さやう)無之(これなき)と私(わたくし)の寸志(すんし)水(みづ)に罷成申候(まかりなりもをしそろ)(中略(ちうりやく))御独覧(ごどくらん)のうへ直(たゞち)に御(おん)かへし可(くだ)         被下候(されべくそろ)御他言(ごたごん)は御無用也(ごむようなり)貴君(きくん)へ入貴覧申度(きらんにいれもをしたく)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)趣意(しゆい)は御要用(ごえうよう)の御役(おんやく)に御進(おんすゝ)み被成(なされ)て享保(けうほ)慶(けい)         長(てう)のむかしへ御返(おんか)へし被成候(なされそろ)やうにと心願(しんぐわん)いたし候書付(そろかきつけ)にて御座候(ござそろ)       と云(い)ふ事(こと)があるので之(これ)は何(な)にか極秘(ごくひ)の書付(かきつけ)を特(とく)に定信(さだのぶ)から信明(のぶあき)に送(おく)つた時(とき)の事(こと)で其(その)書付(かきつけ)は当時(たうじ)信任(しんにん)し       て居(お)つた加納遠江守(かのうとほとふみのかみ)にさえ見(み)せるなと云(い)ふのであるから其(その)信明(のぶあき)に対(たい)する親交(しんかう)と云(い)ふものは到底(たうてい)並(ならび)一       ト通(とほり)ではなかつたものと思(おも)はねばならぬのである殊(こと)に面白(おもしろ)く思(おも)はるゝのは其(その)九月 中旬頃(ちうじゆんころ)のものと思(おも)は       るゝ書簡(しよかん)の中(なか)に「只今(たゝいま)夜食(やしよく)たべかけ候間(そろあひだ)其(その)疎答恐入奉存候(そたうおそれいりぞんじたてまつりそろ)」と云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある事(こと)である之(これ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 定信の襟度 は云(い)ふ迄(まで)もなく両人(れうにん)が平常(へいぜう)の交情(かうぜう)も分(わか)るが又(ま)た定信(さだのぶ)の襟度快豁(きどかいかつ)なる処(ところ)も窺(うかゞ)はれると思(おも)ふのである        兎(と)に角(かく)定信(さだのぶ)信明(のぶあき)両人(れうにん)が青年時代(せいねんじだい)に於(お)ける親交(しんかう)並(ならび)に其(その)当時(たうじ)の事情(じぜう)と云(い)ふものは前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くであるがイヨ       〳〵田沼(たぬま)は黜(しりぞ)けられ家斉(いへなり)が十一 代将軍(だいせうぐん)の職(しよく)に就(つ)いたと云(い)ふ其(その)翌年(よくねん)即(すなは)ち天明(てんめい)七年の六月十九日に至(いた)つて 《割書:定信輔佐職|となる》   定信(さだのぶ)は遂(つひ)にる老中(らうちう)に任(にん)せらるゝ事(こと)となり其(その)上座(ぜうざ)に就(つ)いたが八年の三月四日には将軍(せうぐん)が尚(な)ほ少弱(せうじやく)なるの故(ゆゑ)       を以(もつ)て特(とく)に輔佐(ほさ)の職(しよく)にあつて大政(たいせい)を総攬(そうらん)すべき旨(むね)を仰付(あふせつ)けられたのである蓋(けだ)し之(これ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと) 《割書:信明老中に|推挙せらる》  く田沼(たぬま)弊政(へいせい)の後(のち)を受(う)けて大(おほい)に幕政(ばくせい)の革新(かくしん)を要(えう)する時(とき)であつたので三 家(け)初(はじ)め疑議(ぎぎ)する所(ところ)があつて其(その)結果(けつくわ)       ドウしても此(この)定信(さだのぶ)を起(おこ)すより外(ほか)にはないと云(い)ふ事(こと)になつたものと思(おも)はれるいづれソウ云(い)ふ趨勢(すうせい)の結果(けつくわ)       として来(きた)つたものであろうが右(みぎ)の如(ごと)く定信(さだのぶ)が要職(ようしよく)に就(つ)いて後程(のちほど)なく天明(てんめい)七年の十月二日を以(もつ)て田沼意(たぬまをき)        次(つぐ)は復(ふたゝ)び在職中(ざいしよくちう)不正(ふせい)の儀(ぎ)が多(おほ)かつたと云(い)ふ簾(かど)を以(もつ)て更(さら)に先代(せんだい)賜(たま)ふ処(ところ)の所領(しよれう)弐万七千石を召上(めしあ)げらるゝ      こととなつて遠江国(とほとふみのくに)相良(さがら)の城(しろ)を収(をさ)められたが之(これ)で田沼(たぬま)の事件(じけん)は略(ほ)ぼ一 段落(だんらく)となつたのであるソコで定信(さだのぶ)       は前(まへ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)いた加納遠江守久周(かのふとう〳〵みのかみひさのり)を挙(あ)げて側衆(そばしう)となし本多弾正少弼忠壽(ほんだだんじうせうせうしつたゞかず)を以(もつ)て若年寄(わかとしより)に任(にん)       じ更(さら)に八年の二月には信明(のぶあき)を引(ひ)き挙(あ)げて側用人(そばようにん)となし僅(わづか)二ヶ月 経(た)つか経(た)たぬに之(これ)を老中(らうちう)に推挙(すゐきよ)したの 寛政の政治 である信明(のぶあき)は此(この)時(とき)年(とし)僅(わづか)に廿六 歳(さい)であつたが之(これ)より定信(さだのぶ)を輔(たす)けて天下(てんか)の政事(せいじ)に参与(さんよ)する事(こと)と相成(あひな)つた次(し)        第(だい)で所謂(いはゆる)寛政(かんせい)の政治(せいじ)と云(い)ふものは之等(これら)の人(ひと)によつて振興(しんこう)せられたものである             ⦿尊号事件と信明       サテ定信(さだのぶ)が要職(えうしよく)に任用(にんよう)せられて以来(いらい)前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く段々(だん〴〵)と枢要(すうえう)の地位(ちゐ)へ然(しか)るべき人物(じんぶつ)を登用(とうよう)し政(せい)        治(ぢ)向(むき)も次第(しだい)に改革(かいかく)せられ田沼時代(たぬまじだい)の弊風(へいふう)も殆(ほとん)ど一 掃(さう)せらるゝに至(いた)つたのであるが天明(てんめい)と云(い)ふ年号(ねんごう)も其(その) 【欄外】    豊橋市史談  (尊号事件と信明)                 三百十九 【欄外】    豊橋市史談  (尊号事件と信明)                    三百二十 【本文】       九年に至(いた)つて寛政(かんせい)と改(あらた)まり程(ほど)なく起(おこ)つた一 問題(もんだい)が諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の彼(か)の有名(いうめい)なる尊号事件(そんごうじけん)と云(い)ふのであ       る 《割書:尊号事件の|端緒》  サテ此(この)尊号事件(そんごうじけん)と云(い)ふのは申(もをす)も畏(かしこ)きことであるが時(とき)の聖天子(せいてんし)光格天皇(くわうかくてんのう)は閑院宮(かんゐんのみや)典仁 親王(しんのう)の御子(おんこ)で入(い)つて        大統(たいとう)を継(つ)ぎ給(たまは)つたのであるから夙(つと)に御父君(おんちゝぎみ)を尊(たつと)むで太上天皇(だじやうてんのう)の号(ごう)を奉(たてまつ)らむとの叡慮(えいりよ)があらせられたの       であるソコで寛政(かんせい)元年(がんねん)の八月 先(ま)づ幕府(ばくふ)の意見(いけん)を御諮問(ごしもん)になろうと云(い)ふので伝奏(でんそう)万里小路政房(までのこうぢまさふさ)同(どう)久我信(くがのぶ)        通(みち)の二 卿(けう)を以(もつ)て時(とき)の京都所司代(けうとしよしだい)太田備中守(おほたびつちうのかみ)資愛に向(む)けて其(その)旨(むね)を伝(つた)へしめられたのが其(その)起(おこ)りである蓋(けだ)し        聖天子(せいてんし)に於(お)かせられては早(はや)くより此(この)思召(おぼしめし)があらせられたのであるから天明(てんめい)の末年(まつねん)既(すで)に中山愛親卿(なかやまあいしんけう)に命(めい)       ぜられて其(その)先例(せんれい)を考(かんが)へしめ給(たまは)つたのであるがイヨ〳〵今度(このたび)表向(おもてむ)きに所司代(しよしだい)まで右(みぎ)の趣(おもむき)を御申達(ごしんだつ)になつ       た次第(しだい)であるソコで太田備中守(おほたびつちうのかみ)は直(たゞ)ちに其(その)趣(おもむき)を幕府(ばくふ)へ申送(もをしおく)つたのであるが幕府(ばくふ)に於(おい)ては第(だい)一に定信(さだのぶ)が 定信の意見  固(かた)く執(こ)つて此(この)事(こと)を不可(ふか)としたのであるモツトモ其(その)原因(げんゐん)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の説(せつ)もあるので其(その)真相(しんさう)は今(いま)容易(ようい)に        断定(だんてい)すべきではあるまいが兎(と)に角(かく)定信(さだのぶ)が理由(りゆう)とする処(ところ)はコウであつたのである元来(がんらい)万乗(ばんぜう)の御位(みくらゐ)は絶対(ぜつたい)       に尊(たつと)いものであるから未(いま)だ其(その)位(くらゐ)を践(ふ)まずして其(その)名(な)をのみ奉(たてま)つると云(い)ふ事(こと)は誠(まこと)に理(り)のない事(こと)で仮令(たとへ)故事(こじ)        先例(せんれい)があるにしては之(これ)は必(かなら)ず倣(なら)はねばならぬと云(い)ふものではない時世(じせい)の如何(いかん)と道理(どうり)の善悪(ぜんあく)とを詮索(せんさく)し       て取捨(しゆしや)すべきである従(したがつ)て何卒(なにとぞ)其(その)思召(おぼしめし)丈(だけ)は御無用(ごむよう)になさるように願(ねが)ひたい若(も)し御孝心(ごかうしん)より御実父(ごじつふ)を御(おん)        敬(うやまひ)になりたい御思召(おぼしめし)であるならば相当(さうたう)に御領(ごれう)でも御増進(ごぞうしん)に相成(あひな)つたならば如何(いかゞ)であらうと云(い)ふにあ       つたのである全体(ぜんたい)定信(さだのぶ)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く実(じつ)に人格(じかく)の高(たか)い且(か)つ聡明(さうめい)で学問(がくもん)もあり其(その)上(うへ)皇室(くわうしつ)       に対(たい)しても屡々(しば〳〵)勤王(きんわう)の行(おこなひ)が現(あら)はれて居(お)つた位(くらゐ)の人(ひと)であるから今回(こんくわい)の事(こと)も決(けつ)して聖旨(せいし)に対(たい)し奉(たてま)つて之(これ)       を御抑(おんおさ)へ申(もを)さむとのみ思(おも)つた筈(はづ)はないのであるが前(まへ)にも申述(もをしの)ぶる如(ごと)く之(これ)には種々(しゆ〳〵)の関係(くわんけい)があつたので 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百八号附録    (大正元年十一月五日発行) 【本文】        止(やむ)を得(え)ず遂(つひ)に此(この)問題(もんだい)に対(たい)しては是非共(ぜひとも)御止(おとゞ)め申(もを)さねばならぬと云(い)ふ境遇(けうぐう)にあつたものと確信(かくしん)さるゝの       であるソコで定信(さだのぶ)は先(ま)づ私信(ししん)を以(もつ)て其(その)意見(いけん)を関白(くわんぱく)鷹司輔平公(たかつかさすけひらこう)に申送(もをしおく)つたのであるが兎(と)に角(かく)其(その)時(とき)は之(これ)等(ら) 《割書:尊号事件再|燃》  の関係(くわんけい)で一 時(じ)御中止(ごちうし)の模様(もやう)と相成(あひな)つたのである然(しか)るにソレが寛政(かんせい)三年の二月に至(いた)つて復(ふたゝ)び持(も)ち上(あが)つた       ので翌(よく)四年の正月(せうぐわつ)には朝廷(てうてい)よりは遂(つひ)に群議(ぐんぎ)の写(うつし)に御内諭(ごないゆ)を添(そ)へられて公然(こうぜん)幕府(ばくふ)へ諮問(しもん)になつたのであ       るが前(ぜん)申上(もをしあげ)た如(ごと)き事情(じぜう)であるから幕府(ばくふ)に於(おい)ては早速(さつそく)奉答(ほうたう)は仕兼(しか)ねたので段々(だん〴〵)と遷延(せんえん)したが遂(つひ)に止(やむ)を得(え)       ず当初(たうしよ)の方針(はうしん)に従(したが)つて其(その)儀(ぎ)は然(しか)るべからずとの旨(むね)を御答(おこたへ)申上(もをしあ)ぐるに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て事態(じたい)は頗(すこぶ) 事件の落着 る不穏(ふおん)なつたが朝廷(てうてい)の方(はう)に於(お)かせられて結局(けけつきよく)尊号(そんがう)の議(ぎ)は一 時(じ)御停止(ごていし)と云(い)ふ事(こと)に相成(あひな)つたので茲(こゝ)に幕(ばく)        府(ふ)の意見(いけん)が通(とほ)つた訳(わけ)になつて事(こと)は落着(らくちやく)したのである然(しか)るに此(この)事(こと)の未(いま)だ終局(しうきよく)を告(つ)げさる以前(いぜん)に幕府(ばくふ)の方(はう)       から京都(けうと)の方(はう)へ向(む)けて尋(たづ)ねたい事(こと)があるから伝奏(でんそう)議奏(ぎそう)の人々(ひと〴〵)に江戸(えど)に下(くだ)らるゝようにと云(い)ふ事(こと)を申送(もをしおく)       つたのである之(これ)に就(つい)ては少(すくな)からず宸襟(しんきん)をも脳(なや)まさせ給(たま)つたと伝(つた)へられて居(お)るが翌年(よくねん)の二月 遂(つひ)に京都(けうと)か 《割書:中山正親町|二卿の東下》  ら中山愛親(なかやまなるちか)正親町公明(おほぎまちきみあき)の両卿(れうけう)が東下(とうか)する事(こと)と成(な)つたのであるソコで此(この)両卿(れうけう)は江戸(えど)に着(ちやく)してから或(あるひ)は定(さだ)        信(のぶ)の役宅(やくたく)に於(おい)て又(また)は柳営(りうえい)に於(おい)て幕府(ばくふ)の要職(えうしよく)と数回(すうくわい)の対問(たいもん)かあつて互(たがひ)に此(この)尊号事件(そんがうじけん)に就(つい)て論難(ろんなん)したので 信明の弁論 あるが此(この)時(とき)信明(のぶあき)は恰(あたか)も三十一 歳(さい)で老中(らうちう)の末座(まつざ)に列(つらな)つたのであるトコロが此(この)対問中(たいもんちう)定信(さだのぶ)は中山愛親卿(なかやまなるちかけう)の       為(ため)に論詰(ろんきつ)せられ答弁(たふべん)に窮(きう)した場合(ばあひ)があつたので信明(のぶあき)は末座(まつせき)より進(すゝ)み出(い)でゝ之(これ)に応答(おうたう)する処(ところ)があつたが        理義明白(りぎめいはく)で聴(き)く者(もの)感服(かんぷく)せざるはなかつたとの事(こと)が嵩岳公言行録(すをかくこうげんこうろく)などの中(なか)に記(しる)されて居(お)るのである       トコロが此(この)尊号事件(そんがうじけん)の最中(さいちう)寛政(かんせい)四年に京都所司代(けうとしよしだい)に交迭(かうてつ)があつて太田備中守(おほたびつちうのかみ)の替(かは)りに堀田相模守(ほつたさがみのかみ)が大(おほ)        坂城代(さかじようだい)から転(てん)じて此(この)京都(けうと)の所司代(しよしだい)と成(な)つたのである然(しか)るに京都所司代(けうとしよしだい)に更迭(かうてつ)のあつた時(とき)は必(かなら)ず其(その)事務(じむ) 信明の上京  引継(ひきつぎ)には江戸(えど)から老中(らうちう)が出張(しゆつてう)したのであるが此(この)時(とき)は信明(のぶあき)が其(その)職務(しよくむ)を帯(お)びて上京(ぜうけう)する事(こと)になつたのであ 【欄外】    豊橋市史談  (尊号事件と信明)                    三百廿一 【欄外】    豊橋市史談  (尊号事件と信明)                    三百廿二 【本文】       る此(この)時(とき)の事(こと)が太平秘録(たいへいひろく)と云(い)ふ書物(しよもつ)の中(なか)に書(か)いてあるが果(はた)して其(その)記事(きじ)が確実(かくじつ)であるかドウかは他(た)は証(せう)す       べき事(こと)もないので何(なん)とも云(い)へぬが兎(と)に角(かく)全然(ぜん〴〵)虚構(きよかう)となすべきでないのみならず誠(まこと)に信明(のぶあき)の気性(きせう)を現(あら)は       して面白(おもしろ)いと思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に申述(もをしの)べようと思(おも)ふ        即(すなは)ち其(その)記事(きじ)の大要(たいえう)を申述(もをしの)ぶると今度(このたび)京都所司代(けうとしよしだい)交迭(かうてつ)に就(つい)て松平伊豆守信明(まつだひらいづのかみのぶあき)が上京(ぜうけう)せられる事(こと)と成(な)つた       のであるが之(これ)は其外(そのほか)にも参内(さんだい)して太上天皇(たいじようてんわう)の尊号(そんがう)延期(えんき)の事(こと)を御願(おんねがひ)する用事(ようじ)があるので夫(それ)に就(つい)ては聖天(せいてん)        子(し)並(ならび)に仙洞御所(せんどうごしよ)へ進献物(しんけんもつ)をするのであるが幕府(ばくふ)では其(その)品物(ぶつぴん)は猩々緋(せう〴〵ひ)がよかろうと云(い)ふ評定(へうぜう)になつて呉(ご)        服屋(ふくや)から大極上(だいごくぜう)の品(ひな)と上々(ぜう〳〵)の品(しな)と上(ぜう)の品(しな)との三 通(とほ)りを取寄(とりよ)せて評議(へうぎ)をされたが其時(そのとき)は最(もつと)も倹約(けんやく)を主(しゆ)と       した時代(じだい)であつたから其(その)三 通(とほ)りの中(なか)で中位(ちうぐらゐ)にある上々(ぜう〳〵)の品(しな)がよかろうと云(い)ふ事(こと)になつた然(しか)るに独(ひと)り信(のぶ)        明(あき)は不服(ふふく)で苟(いやしく)も将軍職(せうぐんしよく)から聖天子(せいてんし)へ献(けん)ずるものゝ外(ほか)天下(てんか)に重(おも)いものはある筈(はづ)がないソレに今度(このたび)中位(ちうぐらゐ)       の品(しな)を用(もち)ゆると云(い)ふ事(こと)になれば世(よ)の中(なか)に大極上(だいごくぜう)の品(しな)は全(まつた)く不用(ふよう)の訳(わけ)である慮外(りよぐわい)ならば此(この)儀(ぎ)に於(おい)ては倹(けん)        約(やく)は御無用(ごむよう)かと存(ぞん)ずると云(い)つたので遂(つひ)に其(その)事(こと)に決(けつ)して大極上(だいごくぜう)の品(しな)を上(あぐ)る事(こと)になつたと云(い)ふことであるまた又(また)        信明(のぶあき)が上京(ぜうけう)してからの事(こと)に関(くわん)してもイヨ〳〵所司代(しよしだい)の事務引継(じむひきつぎ)となつて信明(のぶあき)は将軍(せうぐん)の名代(みようだい)として上座(ぜうざ)       になほり声高(かうせい)にて番頭(ばんがしら)並(ならび)に番衆(ばんしう)当城堅固(たうじようけんこ)に相守候段大儀也(あひまもりそろだんたいぎなり)と述(の)べたとの事(こと)が記(しる)してあるが元来(がんらい)之(これ)は        前例(ぜんれい)によると当城堅固(たうじようけんこ)に相守(あひまも)られ御太鐵也(ごたいぎなり)と云(い)ふべきであつたが特更(ことさら)に叮嚀(ていねい)なる語(ご)を省(はぶ)いたのは如何(いか)        にも無礼傲慢(ぶれいがうまん)なようではあるが却(かへつ)て将軍(せうぐん)の名代(みようだい)としての事(こと)であるから威厳(ゐげん)があつて有(あ)り難(がた)く覚(おぼ)へたと       て聴(き)くものが歎賞(たんせう)したと云(い)ふことが記(しる)してあるのである元来(がんらい)信明(のぶあき)には他(た)にも之(これ)に似寄(にかよ)つた行(おこなひ)があつた       ので今(いま)の松浦伯爵(まつうらはくしやく)の四 世(せい)の祖(そ)肥前平戸(ひぜんひらど)の藩主(はんしゆ)であつた松浦静山公(まつうらせいざんこう)の書(か)き置(お)かれた甲子夜話(きのへねよばなし)と云(い)ふ随筆(ずいしつ)       の中(なか)にも左(さ)の如(ごと)き話(はなし)が載(の)つて居(お)るのである 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        嘗(かつ)て信明(のぶあき)が同(おな)じ老中職(らうちうしよく)の戸田采女正(とだうねめのしやう)と共(とも)に上野(うへの)の廟(べう)を拝(はい)して退(しりそ)く時(とき)二 天門(てんもん)の間(あひだ)にて雁間衆(かりのましう)の嫡子(ちやくし)某(ばう)に        行逢(ゆきあ)つたが其(その)人(ひと)は地(ち)に平伏(へいふく)して礼(れい)したのであるソコで采女正(うねめのしやう)は膝(ひざ)まで手(て)を下(お)ろして返礼(へんれい)したが信明(のぶあき)は       一 向(かう)に見向(みむき)もせずに行過(ゆきす)ぎた蓋(けだ)し此(この)身分(みぶん)の人(ひと)が老中(らうちう)に逢(あ)つた時(とき)には歩(ほ)を留(と)めて立(たち)ながら礼(れい)するのが通(つう) 《割書:信明非礼を|受けず》   例(れい)であるのに某(ばう)のやり方(かた)が分(ぶん)を過(あやま)つて既(すで)に礼(れい)に過(す)ぎたのであるから之(これ)を受(う)くるのは寧(むし)ろ非礼(ひれい)であると       した信明(のぶあき)の態度(たいど)は如何(いか)にも感心(かんしん)であると観者(くわんしや)が評(へう)したと云(い)ふ事(こと)であるが信明(のぶあき)が青年時代(せいねんじだい)の意気(いき)と云(い)ふ       ものは実(じつ)に彼様(かやう)であつたであろうと思(おも)はるゝのである私(わたくし)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く定信(さだのぶ)が其(その)書翰(しよかん)の中(なか)に御(ご)        明敏(めいびん)は御油断被成(ごゆだんなされ)まじくとして信明(のぶあき)を戒(いまし)めたのも此処(こゝ)にあるが又(ま)た若年(じやくねん)の信明(のぶあき)に対(たい)し異数(ゐすう)の抜擢推挙(ばつてうやすいきよ)       をなしたのも此処(こゝ)であると思(おも)ふのである       かくて尊号事件(そんがうじけん)は最後(さいご)に中山(なかやま)正親町(おほぎまち)二 卿(けう)の閉門(へいもん)となつて終局(しうきよく)を告(つ)げたのであるが程(ほど)なく其(その)年(とし)の七月廿       三日に至(いた)つて定信(さだのぶ)は遂(つひ)に重職(ぢゆうしよく)を辞(じ)するに至(いた)つたのである             ⦿定信の退職 定信の退職  定信(さだのぶ)が此(この)将軍(せうぐん)補佐(ほさ)の重職(ぢゆうしよく)を退(しりぞ)くに至(いた)つたのは実(じつ)に急遽(きふきよ)の事(こと)であつたから其(その)原因(げんゐん)に対(たい)する疑説(ぎせつ)は百 出(しゆつ)       で三上博士(みかみはかせ)の白河楽翁公(しらかはらくおうこう)と徳川時代(とくがはじだい)と云(い)ふ書物(しよもつ)にも恐(おそら)くは千 古(こ)の一 疑団(よだん)ならむとしてある然(しか)れ共(とも)同書(どうしよ)       の中(なか)に定信(さだのぶ)が辞職(じしよく)に当(あた)つて其(その)内縁(ないゑん)ある関白(くわんぱく)鷹司輔平公(たかつかさすけひらこう)に贈(おく)つた手書(てがみ)の一 節(せつ)が載(の)つて居(お)るが之(これ)は最(もつと)も参(さん)        考(かう)になるものであると思(おも)ふ其(その)主意(しゆい)は「定信(さだのぶ)が此(この)度(たび)の事(こと)定(さだ)めて意外(いぐわい)に思(おも)はれ候(そうろ)はん去(さ)れども定信(さだのぶ)職(しよく)を奉(ほう)       ずること年(とし)既(すで)に久(ひさ)しく改革(かいかく)の事(こと)など又(また)少(すくな)からず候(そろ)天下(てんか)の耳目(じもく)今(いま)も既(すで)に定信(さだのぶ)が一 身(しん)に 集(あつ)するの勢(いきほひ)見(み)え候(そろ)然(しか)      るに尚(なほ)重(おも)き職(しよく)に居(お)りて威権(ゐけん)を貪(むさぼ)らむは畏(かしこ)し国家(こくか)の御為(おんため)にも亦(また)然(しか)るべからず候(そろ)且(か)つ将軍(せうぐん)も御年(おんとし)最早(もはや)壮(さかん)に 【欄外】    豊橋市史談  (定信の退職)                       三百廿三 【欄外】    豊橋市史談 (信明老中を辞す)                    三百廿四 【本文】       て坐(おは)せば政事万端(せじばんたん)の事(こと)を直裁(じきさい)ありて上皇室(かみくわうしつ)の藩屏(はんべう)となり給(たま)ふべし加之(しなのみならず)定信(さだのぶ)生来(せうらい)の病体(びやうたい)は此上(このうへ)劇務(げきむ)に        服(ふく)するを許(ゆる)し候(そうら)はず此(この)故(ゆゑ)に之迄(これまで)しば〳〵辞職(じしよく)を申請(もをしこ)ひ候(そうら)ひしが何時(いつ)も優渥(ゆうあく)なる台命(たいめい)ありて許(ゆる)されず内(ない)        願(ぐわん)四 度(たび)に及(およ)び今度(このたび)こそは遂(つひ)に職(しよく)を解(と)かれ候(そうら)ひしなれ」と云(い)ふのにあるが如何(いか)にも定信(さだのぶ)の心事(しんじ)は此処(こゝ)に       あつたものと思(おも)はれる特(とく)に定信(さだのぶ)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く勤王(きんわう)の志(こゝろざし)に厚(あつ)かつた人(ひと)で其(その)意中(いちう)は色(いろ)        色(いろ)の事柄(ことがら)の上(うへ)にもチラ〳〵と見(み)ゆるのであるが既(すで)に徳川氏(とくがはし)が天下(てんか)の大権(だんけん)を握(にぎ)つて居(お)る以上(いぜう)は恐(おそ)れ多(おほ)い        事(こと)ではあるが時(とき)と場合(ばあひ)とによつては朝庭(てうてい)【朝廷の誤り】をも抑(おさ)へ奉(たてまつ)らねばならぬ事(こと)があるそれでなくては徳川氏(とくがはし)の天(てん)        下(か)は持(も)てぬ場合(ばあひ)になるので此(この)事(こと)は深(ふか)く定信(さだのぶ)の心(こゝろ)を痛(いた)ましめた処(ところ)でなくてはならぬが特(とく)に今度(このたび)の尊号事(そんがうじ)        件(けん)に対(たい)しては其(その)感慨(かんがい)を深(ふか)からしめたのではなかろうかと信(しん)ずるのである嵩岳君言行録(すがくくんげんこうろく)の中(なか)に定信(さだのぶ)退職(たいしよく)       の前夜(ぜんや)太田備中守資愛(おほたびちうのかみすけなる)から信明(のぶあき)に宛(あ)て大封(たいほう)の密書(みつしよ)が来(き)た然(しか)るに此(この)書翰(しよかん)は備中守(びちうのかみ)が誤(あやま)つて水中(すゐちう)に落(おと)して        濡(ぬ)れて居(お)つたが何分(なにぶん)火急(くわきう)の用事(ようじ)であるから其(その)儘(まゝ)で届(とど)けるとの事(こと)であつたが此(この)書翰(しよかん)は何(な)にか京都表(けうとおもて)から        申来(もをしきた)つたに因(よ)つての事(こと)と思(おも)はれた然(しか)るに其(その)翌日(よくじつ)定信(さだのぶ)は退職(たいしよく)する事(こと)になつたとしてあるが此(この)太田備中守(おほたびちうのかみ)       と云(い)ふ人(ひと)は寛政(かんせい)四年八月まで京都所司代(けうとしよしだい)を勤(つと)め五年三月から老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)わつたのである             ⦿信明老中を辞す       サテ定信(さだのぶ)退職(たいしよく)は信明(のぶあき)が同列(どうれつ)の戸田采女正氏教(とだうねめのしやううぢのり)、 太田備中守資愛(おほたびちうのかみすけなる)、安藤対馬守信成(あんどうたじまのかみのぶなり)、 本多弾正大弼忠(ほんだだんじやうおほすけたゞ) 信明の退職  数(かず)などと共(とも)に天下(てんか)の政治(せいじ)に任(にん)じたのであるが越(こ)えて十年 享和(けうわ)三年の十二月廿二日に至(いた)つて信明(のぶあき)も亦(ま)た       其(その)職(しよく)を辞退(じたい)するに至(いた)つたのであるモツトモ此(この)信明(のぶあき)の辞退(じたい)に就(つい)ても表面(へうめん)は病気(びやうき)の為(ため)であると云(い)ふ事(こと)にな       つては居(お)るが其(その)実(じつ)は矢張(やはり)甚(はなは)だ疑問(ぎもん)である嵩岳言行録(すがくげんこうろく)には此(この)時(とき)の事情(じぜう)を記(しる)して「十一月廿四日 大久保山(おほくぼやま) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百十四号附録    (大正元年十一月十二日発行) 【本文】        城守忠喜(しろのかみたゞよし)の養母(やうば)が卒(そつ)せられたが此(この)人(ひと)は信明(のぶあき)嫡母(ちやくば)の叔母(おば)であるから忌服(きふく)せられたトコロが其(その)廿八日に除(ぢよ)        服(ふく)の御沙汰(ごさた)があつたから翌日(よくじつ)からは登城(とじよう)さるゝ筈(はづ)であるのに病気(びやうき)と称(せう)して出仕(しゆつし)されないのみならず十       二月の初(はじめ)に至(いた)つて重臣(ぢうしん)を召(め)し我(われ)此頃(このごろ)登城(とじよう)致(いた)さぬは将軍(せうぐん)の旨(むね)に忤(さから)ひし事(こと)がある故(ゆゑ)である併(しか)し思(おも)ふ仔細(しさい)が       あるから決(けつ)して心配(しんぱい)するではないぞと云(い)はれたが其(その)廿二日になつて同列(どうれつ)の牧野備前守忠精(まきのびぜんのかみたゞきよ)から手翰(しゆかん)を        以(もつ)て辞表(じへう)を提出(ていしゆつ)すべき旨(むね)を申送(まをしおく)つたので其(その)十九日に信明(のぶあき)は月番(つきばん)戸田采女正氏教(とだうねめのしよううじのり)の許(もと)まで病気(びやうき)に付(つき)退職(たいしよく)       の願書(ぐわんしよ)を出(だ)したのである」と記(しる)してある蓋(けだ)し信明(のぶあき)と云(い)ふ人(ひと)前(まへ)に屡々(しば〴〵)申述(もをしの)べた如(ごと)く頗(すこぶ)る敏才(びんさい)でかつ且(か)つ直(ちよく)        言(げん)を憚(はばか)らぬ気性(きせう)であつたが何処(どこ)迄(まで)も寛政(かんせい)に於(お)ける弊政革新(へいせいかくしん)の実(じつ)を挙(あ)げたいと云(い)ふ意気込(いきごみ)が盛(さかん)であつた 信明の極諫 ので其(その)極(きよく)将軍(せうぐん)の旨(むね)にも忤(さから)つた事(こと)があつたであろうと思(おも)ふ之(これ)はまだ信明(のぶあき)が側用人(そばようにん)時代(じだい)で二十六 歳(さい)頃(ごろ)の話(はなし)       であるが嘗(かつ)て将軍(せうぐん)の家斉(いへなり)が近習(きんしふ)の者(もの)をして小座敷(こざしき)の庭(には)に仮山(かりやま)を築(きづ)かしめ盆池(ぼんち)などを設(もを)けて得意(とくい)に之(これ)を信(のぶ)        明(あき)に見(み)せしめた事(こと)があるスルト信明(のぶあき)は賞(ほ)めるかと思(おも)ひの外(ほか)忽(たちま)ち襟(えり)を正(たゞ)して凡(およ)そ天下国家(てんかこくか)を治(おさ)むる程(ほど)の        御身(おんみ)は海内(かいない)の山岳滄海(さんがくさうかい)皆(みな)御庭(おには)も同様(どうやう)である吉野龍田(よしのたつだ)の花紅葉(はなもみぢ)を御庭(おには)の花(はな)とも思召(おぼしめさ)るゝ御心持(おこゝろもち)がほしい       然(しか)るに此(かく)の如(ごと)き琑細(ささい)の事(こと)を以(もつ)て御楽(おたのしみ)になさるゝのは誠(まこと)に以(もつ)て狭(せま)き事(こと)である近習(きんしふ)の人々(ひと〳〵)もかゝるツマラ       ない事(こと)で貴重(きぢう)の暇(ひま)を費(ついや)すと云(い)ふ事(こと)は余(あま)り御為(おため)にもなるまいと申上(もをしあ)げた此(この)時(とき)近習(きんしふ)の人々(ひと〴〵)は手(て)に汗(あせ)を握(にぎ)つ       たが将軍(せうぐん)家斉(いへなり)も余(あま)り面白(おもしろ)くは感(かん)じなかつた様子(やうす)であつた併(しか)し遂(つひ)には之(これ)を嘉納(かのう)したと云(い)ふ事(こと)であるかゝ      る有様(ありさま)であつたから将軍(せうぐん)に於(おい)ても時々(とき〴〵)気(き)に入(い)らぬ事(こと)を云(い)はれて信明(のぶあき)の挙動(きうどう)には不満(ふまん)の点(てん)もあつたであ       ろうが此処(こゝ)には尚(なほ)別(べつ)に研究(けんきう)すべき大切(たいせつ)の事柄(ことがら)が一つあると思(おも)ふそれは外(ほか)でもないが此(この)将軍(せうぐん)家斉(いへなり)と云(い)ふ 大御所問題  人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く元(も)と一橋治済(ひとばしはるなり)の子(こ)で入(いつ)て前将軍(せんせうぐん)家治(いへはる)の後(あと)を襲(つ)いだのであるから夙(つと)に其(その)生父(せいぼ)治(はる)        済(なり)を尊(たつと)むで大御所(おほごしよ)とし西丸(にしまる)に迎(むか)へたいと云(い)ふ志(こゝろざし)があつたのであるソコで定信(さだのぶ)在職(ざいしよく)の当時(たうじ)信明(のぶあき)と両人(れうにん) 【欄外】    豊橋市史談 (信明老中を辞す)                    三百廿五 【欄外】    豊橋市史談 (信明老中を辞す)                    三百廿六 【本文】       を召(め)して此(この)事(こと)を諮(はか)つたが両人(れうにん)は之(これ)を不可(ふか)としたのである其(その)翌日(よくじつ)将軍(せうぐん)は更(さら)に定信(さだのぶ)一 人(にん)を呼(よ)むで再度(さいど)此(この)事(こと)       を熟談(じゆくだん)したが定信(さだのぶ)は矢張(やはり)固(かた)く執(と)つて之(これ)を不可(ふか)とし語気(ごき)漸(やうや)く激烈(げきれつ)となつたので将軍(せうぐん)も遂(つひ)に色(いろ)を変(へん)じて側(そば)       にあつた刀(かたな)に手(て)を掛(か)けた此(この)時(とき)御側衆(おそばしう)の平岡頼長(ひらをかよりなが)と云(い)ふ人(ひと)が傍(かたはら)に居(ゐ)たが気転(きてん)のきいた人(ひと)であつたから        其(その)仔細(しさい)を知(し)らざる真似(まね)をして定信(さだのぶ)に向(むか)ひ越中守殿(えつちうのかみどの)御佩刀(ごはいとう)を賜(たま)はるから早(はや)く御受(おう)けし給(たま)へと云(い)つたので        将軍(せうぐん)も止(やむ)を得(え)ず執(と)つた刀(かたな)を投出(なげだ)して内(うち)に入(い)られたとの事(こと)であるが其(その)後(のち)年(とし)を経(へ)て将軍(せうぐん)は又(ま)た此(この)大御所(おほごしよ)問(もん)        題(だい)を青山下野守忠裕(あをやましもつけのかみたゞひろ)にも諮(はか)つた事(こと)があるが之(これ)も不可(ふか)を唱(とな)へた此(かく)の如(ごと)き事(こと)があつて此(この)件(けん)丈(だけ)はドウしても        実行(じつかう)されては種々(しゆ〴〵)の差障(さしさは)りを生(せう)ずる幕府(ばくふ)の重大事件(ぢうだいじけん)であると云(い)ふので定信(さだのぶ)は結局(けつきよく)此(この)問題(もんだい)との対照上(たいせうぜう)止(やむ)       を得(え)ず彼(か)の尊号事件(そんがうじけん)をも御拒(おこば)み申上(まをしあ)げねばならぬ事情(じぜう)になつたのであるとの説(せつ)がある兎(と)に角(かく)之(これ)は当時(たうじ)       に於(お)ける余程(よほど)の難問題(なんもんだい)で閣老(かくらう)の間(あひだ)には苦心(くしん)されたものである 久田縫殿頭  元来(がんらい)此(この)一橋治済(ひとつばしはるなり)には久田縫殿頭(ひさだぬひどののかみ)長考と云(い)ふ家老(かろう)があつて治済(はるなり)の寵(てう)を専(ほしいまゝ)にして居(を)つたが之(これ)が中々(なか〳〵)の野(や)        心家(しんか)で之(これ)には大分(だいぶん)其(その)徒党(ととう)もあるそソコで定信(さだのぶ)等(ら)の意見(いけん)では治済(はるなり)の大御所(おほごしよ)の号(がう)を上(あ)ぐれば随(したがつ)て此(この)久田(ひさだ)は        益々(ます〳〵)権威(けんゐ)を弄(ろう)する様(やう)になるかくては折角(せつかく)田沼(たぬま)を斥(しりぞ)けて多年(たねん)の積弊(せきへい)を改革(かいかく)しようと云(い)ふ事(こと)も茲(こゝ)に第(だい)二の        田沼(たぬま)が出来(でき)て其(その)仕事(しごと)は遂(つひ)に水泡(すゐはう)に皈(き)し再(ふたゝ)び弊害(へいがい)を助長(じよてう)するのは当然(たうぜん)であると云(い)ふのにあつた事(こと)と信(しん)ぜ       られる夫(それ)故(ゆゑ)にイヨ〳〵定信(さだのぶ)が退職(たいしよく)の後(のち)の事(こと)であるが信明(のぶあき)の謀議(ぼうぎ)で先(ま)づ此(この)久田(ひさだ)を治済(はるなり)の膝元(ひざもと)から離(はな)すの       が一 策(さく)であると云(い)ふ処(ところ)から之(これ)を大目付役(おほめつけやく)に転任(てんにん)せしめたのである特(とく)に信明(のぶあき)が辞職(じしよく)の前(まへ)であるが二の丸(まる)       が造営(ざうえい)せられて将軍(せうぐん)は治済(はるなり)を之(これ)に移(うつ)さむとする下心(したごゝろ)であつたが信明(のぶあき)はドウしても之(これ)を御受(おうけ)致(いた)さなかつ       たのである其(その)時(とき)の落首(らくしゆ)に          二の丸へ渡しかけたる一つ橋 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】              踏みはづしたらなんと将軍       と云(い)ふのが出来(でき)たと云(い)ふ事(こと)であるが先(ま)づ大要(たいえう)は右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)から信明(のぶあき)は老職(らうしよく)を辞(じ)するに至(いた)つたものと 《割書:久田等の専|横》   信(しん)ぜられる果(はた)して信明(のぶあき)辞職(じしよく)後(ご)は久田(ひさだ)長考が若年寄(わかとしより)の立花出雲守種周(たちばないづものかみたねのり)と謀(はか)り合(あは)せて私望(しぼう)を遂(とげ)むとし信明(のぶあき)        辞職(じしよく)の享和(けうわ)三年を去(さ)る僅(わづか)に三年 遂(つひ)に其(その)不埒(ふらち)が露顕(ろけん)して遉(さすが)の将軍(せうぐん)も愛想(あひさう)をつかし文化(ぶんくわ)三年十二月十九日       を以(もつ)て孰(いづ)れも免官(めんくわん)となり蟄居(ちつきよ)を申付(まをしつ)けらるゝに至(いた)つたのであるが其(その)事(こと)のあつた翌(よく)四年の五月には信明(のぶあき)       は再(ふたゝ)び召(め)されて老中(らうちう)の職(しよく)に就(つ)き特(とく)に其(その)上座(ぜうざ)を命(めい)ぜられて幕政(ばくせい)を握(にぎ)るに至(いた)つた処(ところ)から見(み)ても益々(ます〳〵)其(その)間(あひだ)の 《割書:林述斉と信|明》   消息(せうそく)が判(わか)る事(こと)と思(おも)ふのであるモツトモ信明(のぶあき)辞職(じしよく)の当時(たうじ)は人(ひと)の意外(いぐわい)とした事(こと)で志(こゝろざし)あるものは最(もつと)も之(これ)を        惜(おし)むだのである彼(か)の林大学頭(はやしだいがくのかみ)述斉が其(その)当時(たうじ)信明(のぶあき)に贈(おく)つた書翰(しよかん)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので甚(はなは)だ        価値(かち)のあるものであると思(おも)ふ        元来(がんらい)此(この)林述斉(はやしじつさい)と云(い)ふ人(ひと)は美濃国(みのゝくに)岩村(いはむら)の城主(じようしゆ)松平能登守(まつだひらのとのかみ)乗蘊(大給松平(だいきふまつだひら)の支族(しぞく))の次男(じなん)で名(な)を衡(こう)幼名(えうめい)を熊(くま)        蔵(ざう)と云(い)つたが寛政(かんせい)五年四月五日 林大学頭(はやしだいがくのかみ)信敬 病没(びやうぼつ)せるも嗣(よつぎ)なきの故(ゆゑ)を以(もつ)て将軍(せうぐん)の特旨(とくし)により其(その)後(あと)        を襲(つ)いたのである併(しか)し実(じつ)は定信(さだのぶ)等(ら)の推薦(すゐせん)によつたものであるとの事(こと)であるが此(この)人(ひと)は性質(せいしつ)快豁(くわいかつ)で胆気(たんき)あ       り能(よ)く人(ひと)の意表(いへう)に出(い)でゝ直言家(ちよくげんか)であつた且(か)つ実(じつ)に誠意(せいい)があつて学問(がくもん)に於(おい)ても頗(すこぶ)る勝(すぐ)れて居(を)つたのであ       る信明(のぶあき)とは恰(あたか)も四 歳(さい)違(ちが)ひで信明(のぶあき)の方(はう)が年長(ねんてう)であつたが信明(のぶあき)辞職(じしよく)の時(とき)に送(おく)つた書翰(しよかん)の大要(たいえう)と云(い)ふのは大(たい)        要(えう)左(さ)の如(ごと)くである 述斉の書翰 「今般(こんぱん)御病気(ごびやうき)に付(つき)御免職(ごめんしよく)なされ扨々(さて〳〵)不慮(ふりよ)の義(ぎ)である此(この)節(せつ)朝野(てうや)は賢愚(けんぐ)の別(べつ)なく嘆惜痛腕(たんせきつうゑん)のみであるが之(これ)       は畢竟(ひつけう)平日(へいじつ)正大明白(せいだいめいはく)の御心事(ごしんじ)を世上(せぜう)一 統(とう)が信(しん)じて居(を)るからである即(すなはち)御辞職(ごじしよく)の事(こと)は閣下(かくか)御(ご)一 人(にん)に取(と)りて       は御本望(ごほんもう)であろうが国家(こくか)の為(ため)には誠(まこと)に以(もつ)て然(しか)るべからざる義(ぎ)と概嘆(がいたん)する外(ほか)はない近来(きんらい)追々(おひ〳〵)世風(せふう)が陵遅(れうち) 【欄外】    豊橋市史談 (信明老中を辞す)                    三百廿七 【欄外】    豊橋市史談 (信明老中を辞す)                     三百廿八 【本文】       の姿(すがた)に傾(かたむ)いて来(き)たが国(くに)の柱石(ちうせき)とも仰(あふ)ぎ万人倚頼(ばんにんいらい)の望(のぞみ)あるを以(もつ)て一 日(にち)々々と持耐(もちこた)へて来(き)たので一 且(たん)意外(いぐわい)       の変事(へんじ)が出来(でき)た場合(ばあひ)には易(えき)に所謂(いはゆる)霜(しも)を踏(ふ)むで堅氷(けんぴよう)至(いた)るで何処(どこ)迄(まで)行(ゆ)くか分(わか)らぬ之(これ)よりは君子(くんし)道消(みちき)え小人(せうにん)        道(みち)長(ちよう)ずるの地(ち)へ進(すゝ)むのは是非(ぜひ)ない事(こと)である実(じつ)に天災地妖(てんさいちよう)よりは人事(じんじ)の変程(へんほど)恐(おそ)るべきものはない此(この)上(うへ)何(な)       にか大変事(たいへんじ)は出来(でき)は仕(し)まいかと志(こゝろざし)あるものは心中(しんちう)に覚悟(かくご)を極(きは)むるの外(ほか)はないのである扨(さて)又(また)閣下(かくか)は未(いま)       だ春秋(しゆんしう)に富(と)むで居(を)られるから御退職後(ごたいしよくご)も国家(こくか)の事(こと)は朝暮(てうぼ)に思(おも)ひ出(いだ)され御養生(ごやうぜう)を専(せん)一にせられたい大丈(だいじよ)        夫(うぶ)の進退出処(しんたいしゆつしよ)は元(も)と皆(みな)世(よ)の為(た)め国(くに)の為(ため)で我身(わがみ)を我物(わがもの)と思(おも)ふは狭小(けうせう)の見(けん)とも云(い)ふべきであるから古(いにしへ)よ       り自(みづか)ら任(にん)ずるの士(し)は其身(そのみ)を自愛(じあい)して待(ま)つ処(ところ)がある仮令(たとへ)太平(たいへい)の時節(じせつ)たり共(とも)国(くに)の為(た)め君(きみ)の為(た)め身(み)を棄(す)つべ       き時(とき)はあるべきかと思(おも)はれる返(かへ)す〴〵も自愛(じあい)を第(だい)一に致(いた)されたい心中黙止(しんちうもくし)し難(がた)いから申上(まをしあげ)るが此(この)書翰(しよかん)       は御自身(ごじしん)に火(ひ)に投(とう)じて貰(もら)いたい又(また)此(この)節(せつ)嫌疑(けんぎ)を避(さ)くる仔細(しさい)有(あ)つて拝候(はいこう)せなむだが春(はる)にもなつたなら御(お)        目(め)に掛(かゝ)りに参(まゐ)りたい」と先(ま)づ之(これ)が其(その)書翰(しよかん)の大要(たいえい)であるが勿論(もちろん)述斉(じつさい)として辞職後(じしよくご)の信明(のぶあき)に故(ことさ)ら阿諛(あゆ)する        必要(ひつえう)もなく特(とく)に其(その)文辞(ぶんじ)より見(み)るも実(じつ)に熱誠(ねつせい)を籠(こ)めたもので何処(どこ)迄(まで)も述斉(じつさい)の真意(しんい)たる事(こと)は疑(うたがひ)を容(い)れざる        処(ところ)であるが実(じつ)は之(これ)が当時(たうじ)に於(お)ける識者間(しきしやかん)の与論(よろん)とも云(い)ふべきものであつた事(こと)と信(しん)ずるが而(しか)して述斉(じつさい)は        又(ま)た其(その)後(のち)一ケ年(ねん)立(た)つた処(ところ)で再(ふたゝ)び信明(のぶあき)に書翰(しよかん)を送(おく)つた此(この)書翰(しよかん)も亦(ま)た幸(さいはひ)に大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのである       ソコで其(その)要旨(えうし)を御話(おはなし)して見(み)るとコウである       「光陰(くわうゐん)は早(はや)いもので一 年(ねん)は瞬(またゝ)く間(ま)に過(すぎ)たが君(きみ)には未(いま)だ御出勤(ごしゆつきん)の運(はこ)びに至(いた)らぬドウか早(はや)く御出勤(ごしゆつきん)ある様(やう)       に致(いた)したい昔(むかし)から賢相良輔(けんさうれうほ)の苦心(くしん)して組立(くみた)てた善政(ぜんせい)も美事(びじ)も小人(せうにん)が代(かは)れば其(その)人(ひと)を憎(にく)むで其(その)事(こと)迄(まで)をも廃(はい)       する様(やう)になる歴代(れきだい)其(その)例(れい)は少(すくな)くないのであるから此(この)際(さい)閣下(かくか)一 身(しん)の進退(しんたい)は国家(こくか)に関(くわん)する処(ところ)が多(おほ)い折角(せつかく)御改(ごかい)        革(かく)の結果(けつくわ)今日(こんにち)の太平(たいへい)となつたるものを百 年(ねん)之(これ)をなして足(た)らず一 朝(てう)之(これ)を敗(やぶ)るに余(あまり)ありと云(い)ふ事(こと)もあるか 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百廿二号附録    (大正元年十一月廿一日発行) 【本文】       らムザ〳〵金甌(きんぺい)の天下(てんか)へ瑕(きづ)をつけるのは惜(おし)いものである早(はや)く再(ふたゝ)び職(しよく)につかれて此(この)天下(てんか)を維持(ゐぢ)して貰(もら)ひ       たい」とコウ云(い)ふ意味(いみ)で熱心(ねつしん)に信明(のぶあき)の再就職(さいしうしよく)を促(うなが)したものである       かくて此(この)書翰(しよかん)に対(たい)しては信明(のぶあき)からも返書(へんしよ)を送(おく)つたのであるがそれが如何(いか)なる意味(いみ)の事(こと)を答(こた)へたもので       あるか遺憾(ゐかん)ながら今(いま)分明(ぶんめい)せぬのである併(しか)し述斉(じつさい)からは更(さら)に又(ま)た重(かさ)ねて其(その)再就職(さいしうしよく)を熱望(ねつぼう)する所以(ゆゑん)を細(こま)        細(ごま)折回(おりかへ)して申送(まをしおく)つたのである此(この)書翰(しよかん)の方(はう)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る併(しか)し余(あま)りクダ〳〵しいから此処(こゝ)       には詳述(せうじゆつ)せぬが兎(と)に角(かく)信明(のぶあき)の辞職(じしよく)は当時(たうじ)甚(はなは)だしく識者間(しきしやかん)に惜(おし)まれたもので其(その)再就職(さいしうしよく)は又(ま)た実(じつ)に輿望(よぼう)で       あつた事(こと)が証拠立(せうこた)てられると思(おも)ふ然(しか)るに前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)の辞職(じしよく)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の事情(じぜう)が其(その)間(あひだ)に        介在(かいざい)して居(を)つた事(こと)であるから仮令(たとへ)信明(のぶあき)自身(じしん)も亦(ま)た己(おの)れが再(ふたゝ)び出(いづ)るでなくては天下(てんか)の事(こと)は治(おさ)まらぬと思(おも)       つたにしても到底(とうてい)其(その)意(い)の如(ごと)くにはならなかつたのである             ⦿信明再び老職に任ず 信明と和歌 「位山(くらゐやま)ふもとの里(さと)にたち返(かへ)りこゝろのどけき春(はる)はきにけり」とは信明(のぶあき)が辞職(じしよく)の翌年(よくねん)即(すなは)ち文化(ぶんくわ)元年(がんねん)の正(せう)        月(ぐわつ)に読(よ)むだ歌(うた)であるが信明(のぶあき)も辞職後(じしよくご)は一 時(じ)閑散(かんさん)の身(み)となつたので頻(しき)りに和歌(わか)の稽古(けいこ)をしたものと見(み)え       る既(すで)に前(まへ)にも申上(まをしあげ)た如(ごと)く此(この)人(ひと)は幼少(やうせう)の時(とき)から能書(のうしよ)であつて詩(し)も上手(ぜうづ)であり又(ま)た篆刻(てんこく)などを能(よ)くした事(こと)       は有名(いうめい)なものであるが其(その)熱心(ねつしん)に和歌(わか)を学(まな)むだのは却(かへ)て此(この)頃(ごろ)の事(こと)であつたと信(しん)ぜられる即(すなは)ち芝山前中納(しばやまぜんちうな)        言持豊卿(ごんもちとよけう)に添削(てんさく)を請(こ)つたものであるが「谷(たに)の戸(と)はかさなる雲(くも)にあけやらでなつの夜(よ)長(なが)きさみだれの宿(やど)」 《割書:さみだれの|侍従》  と云(い)ふ歌(うた)は秀逸(しういつ)であると云(い)ふので公卿(くげ)の間(あひだ)には信明(のぶあき)を称(せう)してさみだれのう侍従(じぜう)と呼(よ)むだとの事(こと)であるサ 《割書:信明国に就|く》  テ文化(ぶんくわ)二 年(ねん)の四月には夫人(ふじん)井上氏(ゐのうへし)逝去(せいきよ)の事(こと)があり同年(どうねん)六月より帰国(きこく)を許(ゆる)されて廿一日 江戸(えど)を発(はつ)し廿七 【欄外】    豊橋市史談 (信明再び老職に任ず)                     三百廿九 【欄外】    豊橋市史談 (信明再び老職に任ず)                    三百三十 【本文】       日に此(この)吉田(よしだ)へ着(ちやく)せられたがそれよりは国(くに)に居(ゐ)て家臣(かしん)を集(あつ)め毎日(まいにち)馬術(ばじゆつ)などの稽古(けいこ)をさせたり又(また)は海上(かいぜう)に        釣(つり)を試(こゝろ)みたりなどして悠々自適(ゆう〳〵じてき)の有様(ありさま)であつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く其(その)年(とし)の十二月廿八日に至(いた) 《割書:久田立花の|蟄居》  つて例(れい)の大目付(おほめつけ)久田縫殿頭(ひさだぬひどののかみ)長考は立花出雲守種周(たちばないずものかみたねのり)と共(とも)に其(その)職(しよく)を奪(うば)はれ蟄居(ちつきよ)を命(めい)ぜらるゝ事(こと)になつたの       である其(その)時(とき)の事柄(ことがら)に就(つい)て文恭院殿御実記(ぶんきやうゐんでんごじつき)に         此日(このひ)立花出雲守種周(たちばないずものかみたねのり)致仕(ちし)し蟄居(ちつきよ)を命(めい)ぜらる之(これ)は重(おも)き御役(おやく)をも蒙(かうむ)り乍(なが)ら卑賎(ひせん)の者(もの)に度々(たび〴〵)面会(めんくわい)し其上(そのうへ)奥(おく)         向(むき)或(あるひ)は重(おも)き事柄(ことがら)を表方(おもてかた)の者(もの)に伝(つた)へ様々(さま〴〵)虚偽(きよぎ)を申(まを)すに至(いた)りしは勤柄(つとめがら)に不似合(ふにあひ)不埒(ふらち)を咎(とが)められてなり又(ま)        た目付(めつけ)久田縫殿頭(ひさだぬひどののかみ)長考 御役(おはやく)召放(めしはな)されて小普請(こぶしん)に入(い)れられ閉門(へいもん)せしめらる之(これ)は市人(しじん)を猥(みだ)りに出入(でいり)致(いた)さ        せ又(また)は重(おも)き事(こと)まで雑談(ざつだん)に及(およ)び立花出雲守種周(たちばないずものかみたねのり)と示談(じだん)の事(こと)を心付(こゝろつけ)もなく剰(あまつさ)へ市人(しじん)より取留(とりとめ)ざる義(ぎ)を         信用(しんよう)致(いた)し彼是僻事(かれこれひがごと)多(おほ)きにより封書(ふうしよ)を以(もつ)て尋問(じんもん)ありしに不束(ふつゝか)の答書(たうしよ)を捧(さゝ)げ旁々(かた〴〵)不埒(ふらち)の至(いたり)を咎(とが)められて        なり       と記(しる)してあるが之(これ)は真相(しんさう)であると思(おも)ふ従(したがつ)て信明(のぶあき)が先(さ)きに老中(らうちう)の職(しよく)を辞(じ)するに至(いた)つたのも其(その)原因(げんゐん)の一       としては慥(たしか)に此(この)両人(れうにん)の一 派(ぱ)に対(たい)する消息(せうそく)があつたものに相違(さうゐ)ないと信(しん)ぜらるゝのであるがサテ両人(れうにん)が        今(いま)コーなつて見(み)れば自然(しぜん)の勢(いきほひ)信明(のぶあき)が復(ふたゝ)び世(よ)に出(いづ)るようになるのは当然(たうぜん)の結果(けつくわ)ともなすべすべきもので嵩(す) 信明の復職  岳君言行録(がくくんげんかうろく)などに拠(よ)ると信明(のぶあき)自身(じしん)も亦(ま)た自(みづか)ら再勤(さいきん)の時機(じき)に接(せつ)すべきことを予期(よき)して居(を)つたものであるが        果(はた)して其(その)翌(よく)文化(ぶんくわ)三年の五月四日 付(づけ)を以(もつ)て幕府(ばくふ)から急(きふ)の召状(めしぜう)が吉田(よしだ)に到着(たうちやく)したのである其(その)時(とき)の奉書(ほうしよ)は矢(や)        張(はり)今日(こんにち)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る而(しか)して其(その)全文(ぜんぶん)は左(さ)の如(ごと)くである        其方御用義候間可致参府旨被仰出候可被存其趣候恐々謹言           五 月 四 日                 青  山  下  野  守 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】                                   土  井  大  炊  頭                                   牧  野  備  前  守              松 平 伊 豆 守 殿               猶以六七日の支度にて其元可有発足候道中被差急不及常体の日積にて可被相越候供廻               小勢可被召連候以上       かくて信明(のぶあき)は早速(さつそく)吉田(よしだ)を出立(しゆつたつ)して五月廿三日に着府(ちやくふ)したが其(その)廿五日には復職(ふくしよく)を命(めい)ぜられ且(か)つ上座(ぜざ)たる       ことを命(めい)ぜられたのである其(その)時(とき)の様(さま)も亦(ま)た文恭院殿御実記(ぶんきやうゐんでんおじつき)に左(さ)の如(ごと)く記(しる)してある        二十五日 今朝(こんてう)水戸宰相治紀卿(みとさいさうはるのりけう)のもとに青山下野守忠裕(あをやましもつけのかみたゞすけ)御使(おんつかひ)し松平伊豆守信明(まつだひらいづのかみのぶあき)加判(かはん)の上班(うへはん)を命(めい)ぜらる        ゝ旨(むね)を仰(あふ)せつかはさる因(よつ)て其(その)事(こと)布衣(ふい)以上(いぜう)の輩(はい)へ宿老(しゆくらう)列座(れつざ)して牧野備前守忠精(まきのびぜんのかみたゞきよ)をして伝(つた)ふ又(また)尾張中将(をはりちうぜう)        は御幼稚(ごえうち)を以(もつ)て家司(かし)めして備前守忠精(びぜんのかみたゞきよ)伝(つた)ふ       と云(い)ふので却々(なか〳〵)厳格(げんかく)なものであつた事と信(しん)ずる又(ま)た此(この)時(とき)信明(のぶあき)は将軍(せうぐん)家斉(いへなり)に面謁(めんえつ)して何事(なにごと)か懇篤(こんとく)なる旨(むね)       を受(う)けて落涙(らくるい)したと伝(つた)へられて居(を)るが併(しか)し一 般(ぱん)の批評(ひへう)では信明(のぶあき)再勤(さいきん)の後(のち)は将軍(せうぐん)の恩遇(おんぐう)何(なん)となく衰(おとろ)へ当(たう)        人(にん)も亦(ま)た万事(ばんじ)に扣(ひか)へ目(め)勝(がち)で只管(ひたすら)無事(ぶじ)を図(はか)つた形跡(けいせき)があるから天下(てんか)こそ太平(たいへい)に治(おさま)つたが却(かへつ)て其(その)技倆(ぎれう)は発(はつ)        揮(き)されて居(を)らぬ寧(むし)ろ其(その)人物(じんぶつ)は前任(ぜんにん)の時代(じだい)に於(おい)て見(み)らるゝのであると云(い)ふにあるようであるが私(わたくし)は強(あなが)ち      にさう評(へう)されぬのみならず却(かへつ)て再勤後(さいきんご)に於(おい)ては自然(しぜん)定信(さだのぶ)の助力(じよりよく)を俟(ま)事も少(すくな)く自己(じこ)の力量(りきれう)を発揚(はつよう)して       居(を)る処(ところ)が多(おほ)いと確信(かくしん)するのである之(これ)から追々(おい〳〵)其(その)事蹟(じせき)に就(つい)てはかい摘(つま)むで申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したいと思(おも)ふ             ⦿信明復職当時の形勢 【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅一 【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅二 【本文】 我儘隠居   元来(がんらい)将軍(せうぐん)の生父(せいふ)一橋治済(ひとつばしはるなり)と云(い)ふ人(ひと)は世(よ)に我儘隠居(わがまゝゐんきよ)と噂(うはさ)せられた位(くらゐ)の人(ひと)で随分(ずゐぶん)幕府(ばくふ)の重職(ぢうしよく)等(ら)も持(も)て余(あま)し       たのであるが之(これ)には又(ま)た奸臣(かんしん)等(ら)の阿附(あふ)するものが多(おほ)く孰(いづ)れも此(この)治済(はるなり)を利用(りよう)して何(な)にか一 仕事(しごと)をしよう       と云(い)ふ心根(こゝろね)のものばかりであるので流石(さすが)の定信(さだのぶ)でさへ之(これ)には苦心(くしん)したのであつたさればこそ定信(さだのぶ)が辞(じ) 水野忠友   職(しよく)して後(のち)僅(わづか)に三四年で寛政(かんせい)九年の二月には彼(か)の水野忠友(みづのたゝとも)が再勤(さいきん)の事となり其(その)十一月には遂(つひ)に此(この)人(ひと)が西(にし)       の丸(まる)の老中(らうちう)に復(ふく)することとなつたが之(これ)も治済(はるなり)の意(こゝろ)であつたと云(い)ふ事である蓋(けだ)し此(この)忠友(たゞとも)と云(い)ふ人(ひと)は田沼時(たぬまじ)        代(だい)に於(おい)て意次(おきつぐ)に媚付(びふ)して側用人(そばようにん)となり遂(つひ)に老中(らうちう)に准(じゆん)ぜられたのであるが其(その)養子(やうし)忠徳(たゞのり)と云(い)ふのは実(じつ)は意(おき)        次(つぐ)の次男(じなん)で此(この)両人(れうにん)は互(たがひ)に相結托(あひけつたく)して権勢(けんせい)を弄(もてあそ)むだのである然(しか)るに前(せん)に申述(まをしの)べた如(ごと)く天明(てんめい)六年に意次(おきつぐ)       が斥(しりぞ)けらるゝ事と相成(あひなつ)たらば忠友(たゞとも)は忽(たちま)ちに豹変(ひようへん)して其(その)養子(やうし)をも離別(りべつ)したので世人(せじん)は其(その)澆薄(げうはく)に驚(おどろ)いたと       の事(こと)であるがそれにも拘(かゝは)らず此(この)人(ひと)も程(ほど)なく職(しよく)を罷(や)められて仕舞(しま)つたのであるにそれが前(せん)申(まを)す如(ごと)く寛政(かんせい)       九年に又々(また〳〵)復職(ふくしよく)したのであるから老中(らうちう)本多忠籌(ほんだたゞかず)は到底(とうてい)居堪(ゐたま)らずして奥勤(おくつとめ)を罷(や)むるに至(いた)つたと云(い)ふ始末(しまつ)       で之(これ)では折角(せつかく)定信(さだのぶ)等(ら)の苦心(くしん)した事も水泡(すゐほう)に皈(き)しはしないかと気遣(きつか)はれた事(こと)であつたが忠友(たゞとも)は程(ほど)なく享(けう)        和(わ)二年九月廿日 年(とし)七十二で卒去(そつきよ)したがサテ治済(はるなり)に付(つ)き纏(まとま)つて居(を)る者共(ものども)の勢(いきほひ)は益々(ます〳〵)漫延(まんえん)する計(ばか)りで其(その)翌(よく)       三年には前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)も一たび其(その)職(しよく)を退(しりぞ)くの止(やむ)を得(え)ざる事情(じぜう)に立至(たちいた)り其(その)翌年(よくねん)に当(あた)る文化(ぶんくわ)元(がん) 水野忠成   年(ねん)にはイヨ〳〵治済(はるなり)の党(たう)が時(とき)を得(え)て忠友(たゞとも)の養子(やうし)水野出羽守忠成(みづのではのかみたゞしげ)は若年寄(わかどしより)となり奥掛(おくがゝり)に任(にん)ぜられ段々(だん〴〵)と        政局(せいきよく)に其(その)手(て)を伸(のば)さむとしたのである勿論(もちろん)之(これ)も治済(はるなり)の意(い)に出(い)でたと云ふ事であるが此(この)忠成(たゞしげ)と云(い)ふ人(ひと)は元(がん)        来(らい)岡野(をかの)備前守知隣の次男(じなん)で忠徳(たゞのり)離別(りべつ)の後(のち)に養子(やうし)となつて忠友(たゞとも)の後(あと)を襲(つ)いだのであるが中々(なか〳〵)父(ちゝ)に劣(おと)らぬ        策士(さくし)で後年(こうねん)に至(いた)つて大(おほい)に世(よ)を紊(みだ)したのは実(じつ)に此(この)人(ひと)であるので仮令(たとへ)前(ぜん)申述(まをしの)べたように久田(ひさだ)立花(たちばな)等(ら)一 味(み)の       ものは其(その)後(ご)斥(しりぞ)けられたにしてもマダ中々(なか〳〵)治済(はるなり)の一 派(ぱ)と云(い)ふものは一 方(ぱう)に割拠(かつきよ)して居(を)る次第(しだい)であるから 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百廿五号附録    (大正元年十一月廿六日発行) 【本文】        此(この)時(とき)に方(あた)つて信明(のぶあき)の復職(ふくしよく)は実(じつ)に容易(ようい)ならぬ苦労(くろう)であつた事と信(しん)ぜられるのであるそれのみならず当時(たうじ)       は既(すで)に盛(さかん)に外交(ぐわいかう)の問題(もんだい)が起(おこ)つて居(ゐ)たのである 《割書:露国の使節|レサノツト|の来航》   諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く彼(か)の露国(ろこく)の使節(しせつ)レサノツトが初(はじ)めて我(わ)が長崎(ながさき)へやつて来(き)て通商(つうせう)を求(もと)めたのは恰(あたか)も        文化(ぶんくわ)元年(がんねん)の事で即(すなは)ち信明(のぶあき)が辞職中(じしよくちう)の出来事(できごと)であるが其(その)以前(いぜん)既(すで)に寛政(かんせい)の二三 年頃(ねんごろ)から北海(ほくかい)には屡々(しば〳〵)露船(ろせん)が 《割書:英艦長崎へ|来る》  やつて来(き)て毎度(まいど)何(なん)とかの事(こと)があつたのである而(しか)して信明(のぶあき)が復職(ふくしよく)した翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち文化(ぶんくわ)五 年(ねん)には又(ま)た英艦(えいかん)       が長崎(ながさき)へやつて来(き)て抄掠(しようれう)を行(おこな)つたので時(とき)の長崎奉行(ながさきぶぎやう)松平図書頭康英(まつだひらずしよのかみやすひで)は深(ふか)く其(その)暴状(ぼうぜう)を憤(いきどほ)り故(ことさ)らに薪水(しんすゐ)       を供給(けふきう)して油断(ゆだん)をさせ其(その)隙(すき)を窺(うかゞ)つて之(これ)を夜打(ようち)にせむと謀(はか)つたのであるが徴募(てうぼ)の兵(へい)がまだ集(あつま)らざる中(うち)に        英船(えいかん)の方(はう)が早(はや)くも錨(いかり)を揚(あ)げて立(た)ち去(さ)つたので康英(やすひで)は其(その)機(き)を失(うしな)つたのを遺憾(ゐかん)とし且(かつ)は憤懣(ふんまん)に堪(た)へざる処 《割書:松平康英の|憤死》  から遂(つひ)に割腹(かつぷく)して死(し)むだと云(い)ふ珍事(ちんじ)があつたのである此(かく)の如(ごと)く我国(わがくに)の辺彊(へんきよう)は北(きた)も南(みなみ)も外国(ぐわいこく)の事(こと)がある       にも拘(かゝは)らず先(さ)きに信明(のぶあき)忠籌(たゞかず)等(ら)の如(ごと)き定信(さだのぶ)の意志(いし)を継続(けいぞく)せるものが引退(ひきしりぞ)きて而(しか)も前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く治済(はるなり)       に属(ぞく)する一 派(ぱ)の人々(ひと〴〵)が次第(しだい)に勢力(せいりよく)を得(う)るに至(いた)つてからと云(い)ふものは都(みやこ)は益々(ます〳〵)奢侈(しやし)の風(ふう)が盛(さかん)になり政綱(せいかう)       は漸(やうや)く弛(ゆる)み出(だ)して人心(じん〳〵)の隋弱(だじやく)に流(なが)れむとした事は将(まさ)に田沼時代(たぬまじだい)を再現(さいげん)せむとする有様(ありさま)であつたのであ 《割書:深川八幡祭|礼の珍事》  る現(げん)に文化(ぶんくわ)四年八月十九日 江戸(えど)の深川(ふかがは)八 幡宮祭礼(まんぐうさいれい)の時(とき)の如(ごと)きは練物(ねりもの)作(つく)り物(もの)など実(じつ)に風流(ふうりう)華美(かび)を競(きそ)つた       もので見物(けんぶつ)の群集(ぐんしう)は近年(きんねん)に稀(まれ)なる事であつたが為(ため)に永代橋(えいたいばし)が中間(ちうかん)から断落(だんらく)して千五百 余(よ)の溺死人(できしにん)を出(いだ)       したと云(い)ふ有名(いうめい)なる話(はなし)がある程(ほど)である此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたから信明(のぶあき)は復職(ふくしよく)すると同時(どうじ)に此(この)難局(なんきよく)に方(あた)       つて偏(ひとへ)に英意(えいい)以(もつ)て治(ぢ)を求(もと)めたものである之(これ)も矢張(やはり)述斉(じつさい)が信明(のぶあき)に送(おく)つた書翰(しよかん)で大河内家(おほかうちけ)の所蔵(しよざう)であるが        文化(ぶんくわ)五年九月のもので誠(まこと)に当時(たうじ)を知(し)るべき究意(きうい)の史料(しれう)であると思(おも)ふのがあるから此処(こゝ)に先(ま)づ其(その)書翰(しよかん)に        就(つい)て申述(まをしの)べて見(み)たいと思(おも)ふ 【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅三 【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅四 【本文】        即(すなは)ち此(この)書翰(しよかん)は当時(たうじ)述斉(じつさい)が極密書(ごくみつしよ)として其(その)意見(いけん)を信明(のぶあき)に申送(まをしおく)つたものであるが随分(ずゐぶん)長文句(ながもんく)で先(ま)づ最初(さいしよ)に       は「熟(つらつ)ら世(よ)の中(なか)の有様(ありさま)を考候(かんがへそろ)に古(いにしへ)より二百年 引続(ひきつゞき)たる太平(たいへい)と申事(まをすこと)は書冊(しよさつ)にも見(み)へざる程(ほど)の事(こと)にて        目出度義(めでたきぎ)には候(そうら)へ共(ども)近来(きんらい)人心(じん〳〵)風俗(ふうぞく)の日(ひ)に随(したが)ひ成(な)り降(くだ)り候所(そろところ)歎(なげ)ケ敷事(しきこと)も少(すくな)からず候(そろ)遠(とほ)き事(こと)は暫(しばらく)さし措(お)       き近(ちか)くは私(わたくし)御奉公(ごほうこう)始(はじめ)より十ケ年 程(ほど)の間(あひだ)は誠(まこと)に難有(ありがたき)世風(せふう)に候(そうら)ひき其後(そののち)に至(いた)り候(そうろ)てはひた〳〵と陵遅(れうち)し        朝夕(てうせき)耳目(じもく)に觸(ふ)れ候事共(そろことども)痛脳(つうのう)の事多(ことおほ)く此上(このうへ)の移(うつ)りは甚(はなは)だ掛念仕候事(けねんつかまつりそろこと)に御座候(ござそろ)亥年(ゐのとし)御退職(ごたいしよく)の節(せつ)封書(ふうしよ)を以(もつ)て        人事(じんじ)の変(へん)茲(こゝ)に至候時(いたりそろとき)は此後(このご)如何(いか)なる事(こと)出来(しゆつたい)仕(つかまつ)るべくも計(はか)り難(がた)くと申上候(まをしあげそろ)」と云(い)ふような事(こと)が書(か)いて       ある元来(がんらい)述斉(じつさい)が初(はじ)めて仕官(しくわん)したのは寛政(かんせい)五年で恰(あたか)も定信(さだのぶ)辞職(じしよく)の当年(たうねん)であるが即(すなは)ち其(その)頃(ころ)より享和(けうわ)二年の        頃(ころ)まで前後(ぜんご)十ケ年 許(ばかり)の間(あひだ)は誠(まこと)に有難(ありがた)きよい時世(じせい)であつたがその後(のち)と云(い)ふものは段々(だん〳〵)と世風(せふう)が乱(みだ)れて朝(てう)        夕(せき)耳目(じもく)に觸(ふ)るゝ事柄(ことがら)が心痛(しんつう)の外(ほか)はない夫故(それゆゑ)に享和(けうわ)三年 閣下(かくか)御辞職(ごじしよく)の時(とき)に天災地妖(てんさいちよう)よりは寧(むし)ろ人事(じんじ)の変(へん)       が恐(おそ)るべきであるから速(すみやか)に国家(こくか)の為(ため)に御復職(ごふくしよく)ある様(やう)にと云(い)ふ事(こと)を申上(まをしあげ)て置(お)いたのであると云(い)ふ意(い)を此(こ)        処(こ)に書(か)いたものであるがそれから次(つぎ)に「子年(ねのとし)オロシヤ入船(にふせん)引続(ひきつゞ)き夷狄(いてき)の変(へん)毎年(まいねん)引(ひき)もきらず候様(そろやう)に相成(あひなり)        候(そろ)も又(また)不思儀(ふしぎ)の至(いたり)に御座候(ござそろ)」と云(い)ふ事が書(か)いてあつて又(ま)た其次(そのつぎ)に「其(その)果(はて)奉行(ぶぎやう)の変死(へんし)など申事(まをすこと)道理(どうり)は差(さし)        措(お)き申(まを)さば不吉(ふきち)とも可申事哉(まをすべきことや)に候(そろ)」とあるが子年(ねのとし)とあるのは勿論(もちろん)文化(ぶんくわ)元年(がんねん)でオロシヤの船(ふね)とはレサノ       ツトの長崎(ながさき)に来(き)た事を云(い)つたものであるが奉行(ぶぎやう)の変死(へんし)とは前(まへ)にも申上(まをしあげ)た如(ごと)く長崎奉行(ながさきぶぎやう)松平康英(まつだひらやすひで)が今度(このたび)        切腹(せつぷく)をした事変(じへん)を指(さ)したものであるそれから述斉(じつさい)は此(この)書翰(しよかん)に於(おい)て益々(ます〳〵)筆(ふで)を転(てん)じて漸(やうや)く世(よ)の様(さま)の陵遅(れうち)に        趣(おもむ)き人心(じん〳〵)の腐敗(ふはい)に傾(かたむ)ける事を慨嘆(がいたん)した後(のち)更(さら)に「御退職前(ごたいしよくぜん)より勤来(つとめきた)り候(そろ)御役人(おやくにん)も少(すくな)からず候(そうら)へ共(ども)時世(じせい)に       つれ皆流儀(みなりうぎ)を代(か)へ同(おな)じ人(ひと)にて事は大(おほい)に変(へん)じ申候(まをしそろ)何事(なにごと)も上(かみ)の事(こと)下(しも)へ通(つう)じ申(まを)さず下情(かぜう)は又(ま)た雍閉(えうへい)して上達(ぜうたつ)        仕(つかまつ)らず」云々(うんぬん)「それに付候(つきそうら)ては善(よ)き人(ひと)は善事(ぜんじ)の十 分出来(ぶんでき)申(まを)さざるを憤(いきどほ)り悪(あし)き輩(やから)は却(かへつ)て権威(けんゐ)を弄(ろう)し 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       苞苴を参(さん)じ候事(そろこと)出来(でき)不仕候(つかまつらずそろ)とて恨(うら)み一 世(せ)の君子(くんし)小人(せうにん)ともに一 人(にん)として得意(とくい)のものなく皆(みな)失意仕候(しついつかまつりそろ)に        付寄合候(つきよりあひそろ)へば時(とき)を誹(そし)り人(ひと)を評(へう)し正路(せいろ)の事は絶(たゑ)て之(こ)れなく邪路(じやろ)にばかり目(め)を付(つ)け居申候(をりまをしそろ)」と云(い)ふような       事が書(か)いてあつて最後(さいご)には又(ま)たコウ云(い)ふ事が書(か)いてあるのである「始終(しじう)小人(せうにん)の魁(さきがけ)として毒(どく)を天下(てんか)に        流(なが)すべきは水羽州(みづうしう)に相違(さうゐ)有之間敷(これありまじく)其人(そのひと)小材(せうさい)ありて小人(せうにん)の才(さい)あるものを愛(あい)し候(そろ)手術之有(しゆじつこれあり)前々(ぜん〴〵)よりの所業(しよげうと)        存居候所(ぞんじをりそろところ)も有之(これあり)松泉州(まつせんしう)と無(む)二の交(まじはり)を結(むす)び相互(あひたがひ)に援引(ゑんいん)して世(よ)を一 変(へん)するの含有之(ふくみこれあり)其手(そのて)に付(つ)き候(そろ)小身(せうしん)の        面々(めん〳〵)小才(こさい)あるもの少(すくな)からず(中略)羽州(うしゆう)泉州(せんしゆう)志(こゝろざし)を得候(えそうら)て内外(ないぐわい)釣合候(つりあひそうら)はんとの巧(たく)み其上(そのうへ)に蜷相州(になさうしゆう)へ       も陰(ゐん)に結(むす)び候次第有之(そろしだいこれあり)彼家(かれいへ)所々(しよ〳〵)へ手(て)を入(い)れ候(そろ)妙策(みようさく)おもしろきほどの事も有之(これあり)後年(こうねん)の殃(わざわひ)之(これ)より起(おこ)り候事(そろこと)        必然(ひつぜん)に御座候(ござそろ)」云々(うんぬん)、 即(すなは)ち文中(ぶんちう)水羽州(みづうしゆう)とあるは前(まへ)に申述(まをしの)べた水野出羽守忠成(みづのではのかみたゞしげ)の事で松泉州(まつせんしゆう)とあるのは        松平和泉守乗寛(まつだひらいづみのかみのりひろ)が事(こと)蜷相州(になさうしゆう)とあるのは蜷川相模守親文(にながはさがみのかみちかぶみ)が事(こと)である        右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)で当時(たうじ)述斉(じつさい)が心中(しんちう)に秘(ひ)せる処(ところ)は以上(いぜう)の如(ごと)きものであつたが遉(さす)がに信明(のぶあき)が復職後(ふくしよくご)と云(い)ふもの       は此(この)水野忠成(みづのたゞしげ)等(ら)も如何(いかん)ともする事が出来(でき)なかつたので一 時(じ)は全(まつた)く其(その)爪(つめ)を収(をさ)めて居(を)つたのであるが果(はた)せ       るかな文化(ぶんくわ)十四年八月 信明(のぶあき)の卒去後(そつきよご)は僅々(きん〳〵)数日(すうじつ)ならざるに忽(たちま)ち忠成(たゞしげ)が勝手掛(かつてがゝり)に任(にん)せられ其翌(そのよく)文政(ぶんせい)元年(がんねん)       八月には早(は)や老中(らうちう)の位置(ゐち)に上(あが)つたと云(い)ふ始末(しまつ)で従(したがつ)て松平和泉守(まつだひらいづみのかみ)等(ら)一 派(ぱ)の人々(ひと〳〵)も時(とき)を得(え)て文政(ぶんせい)年間(ねんかん)か       ら天保(てんぱう)の初年(しよねん)へかけては忠成(たゞしげ)の勢威(せいゐ)実(じつ)に盛大(せいだい)を極(きは)むるに至(いた)つたものであるが平常(へいぜう)の登城(とじよう)にも忠成(たゞしげ)は虎(とら)       の皮(かわ)の鞍置(くらおき)を許(ゆる)されたと云(い)ふ位(くらゐ)で世(よ)の中(なか)は再(ふたゝ)び奢侈(しやし)に陥(おちゐ)り賄賂(わいろ)は殆(ほとん)ど公然(こうぜん)に行(おこな)はるゝと云(い)ふ状態(ぜうだい)で天(てん)        下(か)は実(じつ)に危殆(きたい)の有様(ありさま)に瀕(ひん)したのである即(すなは)ち述斉(じつさい)は信明(のぶあき)に送(おく)つた右(みぎ)の書翰(しよかん)に於(おい)て明(あきらか)に十年 後(ご)の此(この)事態(じたい) 述斉の予言 を予言(よげん)し其(その)先見(せんけん)が少(すこ)しも誤(あやま)らなかつたのであるから炯眼(けいがん)誠(まこと)に驚(おどろ)くの外(ほか)ないと思(おも)ふのであるが之(これ)と同時(どうじ)       に信明(のぶあき)が復職(ふくしよく)以来(いらい)如何(いか)に群小(ぐんせう)を抑制(よくせい)し其(その)在職中(ざいしよくちう)は能(よ)く寛政(かんせい)当時(たうじ)の美風(びふう)を保持(ほぢ)し又(ま)た己(おの)れが主張(しゆてう)をも着(ちやく) 【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅五 【欄外】    豊橋市史談 (松平信明と外交関係)                    三百卅六 【本文】        着(ちやく)実行(じつかう)したと云(い)ふ事(こと)に想到(さうたう)すれば其(その)苦心(くしん)の程(ほど)も思(おも)ひやらるゝが又(ま)た其(その)人物(じんぶつ)の非凡(ひぼん)であつた事も推測(すゐそく)さ       るゝと思(おも)ふのである先(ま)づ此(この)話(はなし)は此処(ここ)らに止(とゞ)めて尚(なほ)之(これ)から私(わたくし)は信明(のぶあき)と外交(ぐわいかう)に関(くわん)する事柄(ことがら)に就(つい)て少(すこ)しく申(まをし)        述(の)ぶる処(ところ)がありたいと思(おも)ふのである             ⦿松平信明と外交関係        抑(そも〳〵)露国人(ろこくじん)が初(はじ)めて蝦夷地(えぞのち)に入込(いりこ)むに至(いた)つたのは余程(よほど)以前(いぜん)の事で明和(めいわ)二年にイバンレエンチゝと云(い)ふ露(ろ)        国人(こくじん)が蝦夷地(えぞのち)の内(うち)レシヤハ島(とう)に来(きた)り其(その)翌々年(よく〳〵ねん)迄(まで)択捉島(えとろふとう)やウルツプ島(とう)の間(あひだ)に越年(ゑつねん)して皈帆(きはん)するに方(あた)り土(ど)        人(じん)に対(たい)して乱暴(らんぼう)を働(はたら)いたのが最初(さいしよ)であると伝(つた)へられて居(を)る然(しか)るに安永(あんせい)【あんえいの誤り】七年には根室(ねむろ)に上陸(ぜうりく)して通商(つうせう)を        求(もと)め其(その)後(ご)屡(しば〳〵)来航(らいかう)して遂(つひ)には千島群島(ちしまぐんとう)の内(うち)に移住(いぢう)せるものすらありしも従来(じうらい)は之(これ)を松前侯(まつまへかう)に任(まか)せきりで        幕府(ばくふ)は余(あま)り干渉(かんせう)しなかつたのであるが天明(てんめい)五年に至(いた)り遂(つひ)に捨置(すてお)かれぬ事(こと)となつたので幕府(ばくふ)から勘定奉(かんでうぶ) 松本伊豆守  行(ぎやう)松本伊豆守(まつもといづのかみ)に命(めい)じて其(その)属吏(ぞくり)を蝦夷地(えぞのち)に派遣(はけん)せしめて巡視(じゆんし)せしめたがそれが其(その)翌年(よくねん)になつて復命(ふくめい)した       のである然(しか)るに其(その)時(とき)には丁度(ちようど)将軍(せうぐん)家治(いへはる)が薨去(こうきよ)に際(さい)したのであるが其(その)後(のち)定信(さだのぶ)が補佐職(ほさしよく)となつても例(れい)の田(た) 最上徳内   沼処分(ぬましよぶん)やら色々(いろ〳〵)で手(て)廻(まは)り兼(か)ねた有様(ありさま)であつたが寛政(かんせい)四年には蝦夷地(えぞのち)の経営(けいえい)は実(じつ)に急務(きふむ)であると云(い)ふの       で最上徳内常矩(もがみとくないつねのり)と云(い)ふ人(ひと)を派遣(はけん)したのである此(この)人(ひと)は其(その)以前(いぜん)天明(てんめい)六年に既(すで)に一度(ひとたび)単身(たんしん)で北地(ほくち)の探検(たんけん)をな       し具(つぶさ)に辛苦(しんく)を甞(な)めて彼(か)の地(ち)にて露人(ろじん)にも会(あ)つて来(き)たので曩(さき)に其(その)意見書(いけんしよ)を採用(さいよう)して定信(さだのぶ)が之(これ)を普請役(ふしんやく)に 《割書:露国我が漂|流民を送り|来る》   登用(とうよう)したのであるが今度(こんど)復(ま)た此(この)人(ひと)を派遣(はけん)することになつたのである然(しか)るに其(その)年(とし)の十月 露国(ろこく)の大船(たいせん)が根室(ねむろ)       に来(き)て我国(わがくに)の漂流人(へうりうにん)幸太夫(かうたいう)、 小市(こいち)、 磯吉(いそきち)と云(い)ふ三 人(にん)を護送(ごそう)して通商(つうせう)を求(もと)め国書(こくしよ)並(ならび)に方物(ほうもつ)【宝物か】を江戸(えど)へ致(いた)さ       むことを請(こ)つたのである其(その)使節(しせつ)はアダム、ラツクスマンと云(い)ふ人(ひと)で一 行(かう)は四十一 人(にん)であつたがソコで松(まつ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百三十一号附録    (大正元年十二月三日発行) 【本文】        前家(まへけ)に於ては其(その)事(こと)を幕府(ばくふ)に急報(きふほう)して指揮(しき)を請(こ)つたのであるから幕府(ばくふ)に於ては即(すなは)ち目付(めつけ)石川将監忠房(いしかはせうげんたゞふさ)、        村上大学義礼(むらかみだいがくぎれい)、 御徒目付(おんかちめつけ)後藤(ごとう)十 次郎(じらう)を松前(まつまへ)に派遣(はけん)し之(これ)等(ら)の人々は其(その)翌年(よくねん)松前(まつまへ)に於て露国(ろこく)の使節(しせつ)等(ら)と会(くわい)        見(けん)して我国(わがくに)では長崎(ながさき)以外(いぐわい)の地(ち)では外国(ぐわいこく)との通商(つうせう)は相(あひ)ならぬ定(さだめ)であるから兎(と)に角(かく)速(すみやか)に此処(こゝ)をば立去(たちさ)る 《割書:露国使節に|信牌を与ふ》  がよいと云ふ事を告(つ)げて米(こめ)其他(そのた)薪水(しんすゐ)を供給(けふきう)し且(か)つ左(さ)の信牌(しんはい)を与(あた)へて去(さ)らしめたのである        オロシヤの船(ふね)一 艘(そう)長崎(ながさき)に至(いた)るため験(しらべ)の事(こと)         爾(なんぢ)等(ら)諭(さと)す旨(むね)を承諾(せうだく)して長崎(ながさき)に至(いた)らむとす抑(そも〳〵)切支丹(きりしたん)の教(おしへ)は我国(わがくに)の大禁也(たいきんなり)其(その)像(ぜう)及(およ)び器物(きぶつ)書物(しよもつ)等(とう)を持来(もちきた)る        事なかれ必(かならず)害(がい)せらるゝことならむ此(この)旨(むね)能(よく)格遵(かくじゆん)して彼地(かのち)に至らば猶(なほ)研究(けんきう)して上陸(ぜうりく)をゆるすべき也                                 石  川  将  監  判                                 村  上  大  学  判          寛政五年六月廿七日        時(とき)宛(あたか)も江戸(えど)に於ては彼(か)の尊号事件(せうごうじけん)で中山(なかやま)正親町(おほぎまち)の二 卿(けう)が東下(とうか)されて喧(やか)ましかつたのであるがそれも此(この)        年(とし)の三月 僅(わづか)に其(その)局(きよく)を結(むす)むだのである併(しか)し松前(まつまへ)に於て此(この)信牌(しんはい)を与(あた)へた翌月 即(すなは)ち七月の廿三日には前(まへ)にも        申述(まをしの)べた如く定信(さだのぶ)は急(きふ)に補佐(ほさ)の職(しよく)を退(しりぞ)いたと云ふ始末(しまつ)で中々(なか〳〵)騒(さは)がしかつた其(その)中(なか)へ石川将監(いしかはせうげん)等(ら)は前(まへ)にも        申述(まをしの)ぶる如く兎(と)に角(かく)一時を彌縫(ひほう)して十二月に皈着(きちやく)し露国人(ろこくじん)との会見(くわいけん)の顛末(てんまつ)を幕府(ばくふ)に報告(ほうこく)したのである       かくて蝦夷(えぞ)の経営(けいえい)も又々二三年間 等閑(とうかん)に付(ふ)せられて居(を)つたが彼(か)の漂流民(ひようりうみん)が江戸(えど)に到着(とうちやく)した時 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)       は親(みづか)ら吹上馬見所(ふきあげうまみしよ)に召(め)して之(これ)を見(み)たのみならず有司(いうじ)をして漂流(ひようりう)の顛末(てんまつ)をも尋問(じんもん)せしめたのでそれ等(ら)が 《割書:寛政九年の|発令》   動機(どうき)となつて余程(よほど)彼国(かのくに)の事情(じぜう)を詳(つまびらか)にする事が出来(でき)たものと見(み)え即(すなは)ち寛政(かんせい)九年十二月 幕府(ばくふ)は左(さ)の命(めい)を 【欄外】    豊橋市史談 (松平信明と外交関係)                    三百卅七 【欄外】    豊橋市史談 (松平信明と外交関係)                    三百卅八 【本文】        発(はつ)したのである        一異国船漂着之節取計寛政三亥年委細相達置候趣勿論に候得共若心得違候て此方より事を好み手荒        成働仕出し候ては不宜候先方より重々不法之次第相決不得止事節は格別之儀先は可成丈け計策を以        て成とも繋留注進可有之候総て異国船は漂着候ても海上へ向け候て石火矢打候習は の趣に聞得候        へば無事故右に乗じ卒爾成取計従此方仕出候義無之様可被入念候(下略)        私(わたくし)は実(じつ)に此(この)発令(はつれい)に対(たい)しては深(ふか)き興味(けうみ)を以て見(み)るものであるが其(その)訳(わけ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如く当時(たうじ)既(すで)に定(さだ)        信(のぶ)は要職(えうしよく)を去(さ)りて直接(ちよくせつ)には幕政(ばくせい)に関係(くわんけい)なく而(しか)して信明(のぶあき)は年(とし)既(すで)に三十五歳で老職(らうしよく)の中(なか)でも最(もつと)も意見(いけん)の行       はれた時代(じだい)である勿論(もちろん)松前(まつまへ)に於て前(まへ)に信牌(しんはい)を露国人(ろこくじん)に与(あた)へた時(とき)は未(いま)だ定信(さだのぶ)が職(しよく)にある時代(じだい)で信明(のぶあき)はそ       れ程(ほど)に勢力(せいりよく)もなかつたのであるが此(この)発令(はつれい)に方(あた)つては前(まへ)に申述(まをしの)ぶる如き次第(しだい)で之(これ)は大部分(だいぶぶん)信明(のぶあき)の意見(いけん)で       あるとしても強(あなが)ち誣妄(ふもう)の説(せつ)とは思(おも)はれぬからである殊(こと)に信明(のぶあき)が外交上(ぐわいかうぜう)の遣(や)り口(くち)と云ふものは後(のち)に又た        御紹介(ごせうかい)せむとする林述斉(はやしじつさい)の書翰(しよかん)でも窺(うかゞ)ひ知(し)る事(こと)が出来(でき)ると思(おも)ふが決(けつ)して暴虎馮河(ばうこへうが)的(てき)の攘夷論者(ぜういろんしや)ではな       かつたのである        然(しか)るに其(その)後(のち)と云ふものは北海(ほくかい)に於ける露船(ろせん)の出没(しつぼつ)が益々(ます〳〵)多(おほ)く松前(まつまへ)からは其(その)都度(つど)幕府(ばくふ)へ注進(ちうしん)に及(およ)むだの 《割書:渡邊糺等を|蝦夷に派遣|す》  で幕府(ばくふ)に於ては右(みぎ)の翌年(よくねん)即(すなは)ち寛政(かんせい)十年の四月 更(さら)に目付(めつけ)渡邊久蔵糺(わたなべきうざうたゞし)、 御使番(おつかひばん)大河内善兵衛政壽(おほかうちぜんべゑまさかず)、 勘定吟(かんぜうぎん)        味役(みやく)三橋藤右衛門成方(みつはしとううゑもんなりかた)を蝦夷(えぞ)に派遣(はけん)して其(その)探検(たんけん)を命(めい)じ石川左近将監忠房(いしかはさこんのせうげんたゞふさ)は江戸(えど)にあつて此(この)事(こと)に与(あづか)つた 近藤重蔵  のである彼(か)の近藤重蔵守重(こんどうじうざうもりしげ)が蝦夷地(えぞち)に出張(しゆつてう)したのも矢張(やはり)此(この)時(とき)であるが守重(もりしげ)は当時(たうじ)松前蝦夷御用取扱(まつまへえぞごようとりあつかひ)       と云ふ役名(やくめい)で此(この)年(とし)から文化(ぶんくわ)五年まで約(やく)八年 許(ばかり)の間(あひだ)は殆(ほとん)ど全力(ぜんりよう)を此(この)北海開拓(ほくかいかいたく)の事に尽(つく)したのであるかく       て渡邊糺(わたなべたゞし)、 大河内政壽(おほかうちまさかず)、 三橋成方(みつはしなりかた)の三人は其(その)年(とし)の十一月に皈府(きふ)し詳細(せうさい)に取調(とりしらべ)の結果(けつくわ)を復命(ふくめい)したのであ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:箱松蝦深秘|考》  るが当時(たうじ)の調査(てうさ)と云ふものは総(すべ)て極秘(ごくひ)にしたものである今(いま)大河内家(おほかうちけ)に当時(たうじ)の書(か)き物(もの)で「箱松蝦深秘考(はこまつかしんひかう)」 長島忠親  と云ふのが残(のこ)つて居るが之(これ)は幕府(ばくふ)の普請役(ふしんやく)で其(その)頃(ころ)蝦夷地(えぞち)の警衛(けいえい)に従(したが)つて居つた長島新左衛門忠親(ながしましんざゑもんたゞちか)と云       ふ人が書(か)いたものである然(しか)るに其(その)要所(えうしよ)々々は厚紙(あつかみ)を以(もつ)て文字(もんじ)が覆(おほ)つてあるので其(その)厚紙(あつかみ)を一々 剥(は)がすで       なければ到底(たうてい)読(よ)み下(くだ)す事が出来(でき)ぬようになつて居(を)るのである之(これ)で見(み)ても如何(いか)に当時(たうじ)之(これ)等(ら)の事に就(つい)て秘(ひ)        蜜(みつ)を要(えう)したかが分(わか)ると思(おも)ふのであるが其(その)代(かは)り此(この)書(しよ)には頗(すこぶ)る当時(たうじ)の内情(ないぜう)が詳(くは)しく書(か)いてあるので普通(ふつう)史(し)        上(ぜう)に伝(つた)はつて居(を)らぬこと事がイクラモ見(み)へるのであるが特(とく)に近藤重蔵(こんどうじうざう)、 最上徳内(もがみとくない)などの処為(しよゐ)に就(つい)て間々(ま々ゝ)攻(こう)        撃的(げきてき)の口調(くてう)が用(もち)ゐてあるなどは甚(はなは)だ味(あぢは)ふべき処があると思(おも)はるゝのみならず多(おほ)くは事実(じじつ)であつて其(その)記(き)        録者(ろくしや)は全(まつた)く眞面目(しんめんもく)に己(おの)れが見(み)る処を書(か)いたものと思(おも)はるゝのである今(いま)一々 是(こ)れ等(ら)に就(つい)て申述(まをしの)べて居る        暇(ひま)もないのであるから此処(こゝ)に略(りやく)する考(かんがへ)であるが兎(と)に角(かく)幕府(ばくふ)に於いては此(この)秘密(ひみつ)の調査(てうさ)を進行(しんかう)する間(あひだ)に結(けつ) 《割書:幕府自ら蝦|夷開拓の事|を決す》   局(きよく)幕府(ばくふ)自(みづか)ら直接(ちよくせつ)に蝦夷(えぞ)を経営(けいえい)する議(ぎ)を決(けつ)したもので其(その)翌(よく)寛政(かんせい)十一年二月 遂(つひ)に松前家(まつまへけ)から向(むか)ふ七ケ年 東(ひがし)        蝦夷地(えぞち)の内(うち)浦河(うらかは)からシレトコまで其(その)余(よ)島々(しま〴〵)を御用地(ごようち)として幕府(ばくふ)へ差出(さしいだ)さしめ其(その)代(かは)りとして松前家(まつまへけ)に対(たい)       しては何分(なにぶん)の下(さ)げ金(きん)をしたのであるソコで愈々(いよ〳〵)幕府(ばくふ)に於て直轄(ちよくかつ)で蝦夷開拓(えぞかいたく)に着手(ちやくしゆ)する事となつたのであ 《割書:本多忠籌の|辞職事情》  るが池田晃淵氏(いけだこうはんし)の「徳川幕府時代史(とくがはばくふじだいし)」には此(この)時(とき)の事を記(しる)して右(みぎ)の渡邊(わわたなべ)大河内(おほかうち)三橋(みはし)等(ら)三人が蝦夷(えぞ)から皈(き)        府(ふ)して其(その)地(ち)の山海(さんかい)が孰(いづ)れも物産(ぶつさん)に富(と)み利益(りえき)が饒多(けうた)であると云ふ事を上言(ぜうごん)したので当時(たうじ)財政困難(ざいせいこんなん)なる幕(ばく)        府(ふ)は直接(ちよくせつ)経営(けいえい)を思(おも)ひ立(た)ち松平信明(まつだひらのぶあき)は最(もつと)も之(これ)に賛同(さんどう)したが独(ひと)り本多忠籌(ほんだたゞかず)が反対(はんたい)して其(その)説(せつ)が合(あ)はぬ処から        遂(つひ)に老中(らうちう)の職(しよく)を辞(じ)したのであると書(か)いてある併(しか)し私(わたくし)は其(その)説(せつ)は大(おほい)に疑問(ぎもん)とすべきであると思(おも)ふがナゼな       れば右(みぎ)の渡邊(わたなべ)等(ら)三人が蝦夷(えぞ)から皈(かへ)つて将軍(せうぐん)に謁見(えつけん)したのは其(その)年(とし)の十一月十五日であるのに忠籌(たゞかず)が老中(らうちう)        職(しよく)の辞職聞届(じしよくきゝとゞけ)は其十月廿六日であるから右(みぎ)の三人が復命(ふくめい)してから議論(ぎろん)が沸騰(ふつとう)したが為(ため)の辞職(じしよく)としては 【欄外】    豊橋市史談 (松平信明と外交関係)                    三百卅九 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十 【本文】        理屈(りくつ)に合(あ)はぬ事と信(しん)ぜられるからである蓋(けだ)し信明(のぶあき)が蝦夷開拓(えぞかいたく)直営説(ちよくえいせつ)の主唱者(しゆせうしや)であつた事は又た事実(じじつ)と        信(しん)ぜられるのであるが其(その)熱心(ねつしん)に蝦夷(えぞ)の研究(けんきう)を重(かさ)ねた証拠物(せうこぶつ)は今(いま)も段々(だん〴〵)発見(はつけん)さるゝ次第(しだい)である兎(と)に角(かく)時(とき) 松平信濃守 の幕議(ばくぎ)は前(ぜん)申述(まをしの)ぶる如く直営(ちよくえい)を以て蝦夷(えぞ)を開拓(かいたく)することに一 決(けつ)し松平信濃守忠明(まつだひらしなのゝかみたゞあき)を以て蝦夷地(えぞち)の警衛(けいゑい)に        任(にん)じ石川忠房(いしかはたゞふさ)並(ならび)に羽太庄左衛門正養(はぶとせうさゑもんせうやう)及(およ)び大河内正壽(おほかうちまさかず)、 三橋成方(みつはしなりかた)をも同(おな)じく其(その)役(やく)に任(にん)じたのであるが此(この) 《割書:羽太正養の|休明光記》   羽太正養(はぶとせうやう)と云ふは後(のち)に安芸守(あきのかみ)となつた人で此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)にも「休明光記(きうめいくわうき)」と云ふものがあるが之(これ)亦(ま)た蝦夷(えぞ)       の事を書(か)いた書物(しよもつ)で己(おの)れが関係(くわんけい)した最初(さいしよ)から文化(ぶんか)四年まで自身(じしん)在職中(ざいしよくちう)の事柄(ことがら)を残(のこ)りなく記録(きろく)したもの       である誠(まこと)に此(この)当時(たうじ)に於ける蝦夷経営(えぞけいえい)に関(くわん)する事情(じぜう)を知(し)るには究竟(きうけう)の記録(きろく)であるがサテ幕府(ばくふ)は此(かく)の如き 間宮林蔵   次第(しだい)で一方に開拓(かいたく)の事を進(すゝ)むると同時(どうじ)に一方には北海(ほくかい)の探検(たんけん)をも勉(つと)めしめたので彼(か)の間宮林蔵(まみやりんざう)などゝ       云ふ人は此(この)探検(たんけん)の為には頗(すこぶ)る困苦(こんく)を甞(な)めたものである即(すなは)ち樺太(かばふと)から進(すゝ)むで大陸(たいりく)に入(い)り黒龍江(こくりうこう)を渡(わた)り山(さん)        海関(かいくわん)までも入(い)り込(こ)むだのであるが幕府(ばくふ)は又た寛政(かんせい)十二年に伊能忠敬(いのうたゞよし)をして蝦夷地(えぞち)の測量(そくれう)をもなさしめ 《割書:伊能忠敬の|地図》  たのである此(この)時(とき)忠敬(たゞよし)自身(じしん)に製作(せいさく)した蝦夷(えぞ)の図面(づめん)が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に保存(ほそん)してあるが此(この)図面(づめん)は実(じつ)に天下(てんか)の        逸品(いつぴん)であると思(おも)ふ之(これ)も信明(のぶあき)が当時(たうじ)主(しゆ)として此(この)事(こと)を実行(じつかう)せしめた結果(けつくわ)であると信(しん)じて疑(うたが)はざる次第(しだい)であ 《割書:伊能忠敬と|松平信明》  るが元来(がんらい)此(この)伊能忠敬(いのうたゞよし)と云ふひと人は松平信定信(まつだひらさだのぶ)がまだ補佐(ほさ)の職(しよく)にあつた頃(ころ)から幕命(ばくめい)を受(う)けて全国(ぜんこく)の海岸(かいがん)を測(そく)        量(れう)したものであることは諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の如(ごと)くである然(しか)るに定信(さだのぶ)退職後(たいしよくご)は矢張(やはり)信明(のぶあき)が最(もつと)も之(これ)等(ら)の事に鞅掌(おうせう)       したもので忠敬(たゞよし)の製作(せいさく)にかゝる日本全国(にほんぜんこく)の地図(ちづ)は右(みぎ)の蝦夷図(えぞづ)以外(いぐわい)に今(いま)悉(こと〴〵)く揃(そろ)つて大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて       居るのである又(また)東京(とうけう)の帝国大学(ていこくだいがく)にも殆(ほとん)ど之(これ)と同様(どうやう)なる地図(ちづ)が保存(ほぞん)されて居るが之(これ)は或(あるひ)は幕府(ばくふ)に伝(つた)はつ       たものであろうかと思(おも)はれる先年(せんねん)遠州(ゑんしう)の浜松辺(はままつへん)でも忠敬(たゞよし)に地図(ちづ)が壱 枚(まい)発見(はつけん)せられたと云ふので頗(すこぶ)る喧(やかま)       しい問題(もんだい)であつたがそれ等(ら)に比(ひ)すれば実(じつ)に大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るものは絶品(ぜつぴん)とも称(せう)すべきで学術上(がくじつぜう)に 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百三十七号附録    (大正元年十二月十日発行) 【本文】        取(と)りても容易(ようい)ならざる参考(さんかう)となるべきものであると考(かんが)へる       サテ話(はなし)は少(すこ)し横道(よこみち)に入(い)つたが初(はじ)めに戻(もど)る事として寛政(かんせい)と云ふ年号(ねんがう)は御承知(ごせうち)の如く其十三年目と於(おい)て享(けう) 蝦夷奉行   和(わ)と改(あらた)まつたのであるが其(その)享和(けうわ)の二年に至(いた)つて幕府(ばくふ)は初めて蝦夷奉行(えぞぶぎよう)と云ふものを置(お)き羽太正養(はぶとせいやう)、 戸(と)        川筑前守安倫(がはちくぜんのかみやすとも)を以(もつ)て之(これ)に命(めい)じたが之(これ)等(ら)は皆(みな)申(まを)す迄(まで)もなく信明(のぶあき)が幕政(ばくせい)の衝(せう)に当(あた)れる時代(じだい)である然(しか)るに前       にも申述(まをしの)べたる通(とほ)り信明(のぶあき)は其(その)翌年(よくねん)即(すなは)ち享和(けうわ)三年を以(もつ)て老中(らうちう)の職(しよく)を辞(じ)し一 時(じ)幕政(ばくせい)と関係(くわんけい)を絶(た)つに至(いた)つた 《割書:露国使節レ|サノツト長|崎に来る》  のであるが其(その)辞職中(じしよくちう)享和(けうわ)は文化(ぶんくわ)と改(あらた)まつた其(その)元年(がんねん)に彼(か)の露国(ろこく)の使節(しせつ)レサノツトは長崎(ながさき)へヤツテ来(き)て曩(さき)       に松前(まつまへ)に於て渡(わた)した彼(か)の信牌(しんはい)を持参(ぢさん)し切(せつ)に通商(つうせう)を求(もと)めたのである其(その)時(とき)幕府(ばくふ)の当局者(たうきよくしや)が之(これ)に対(たい)してなし       た処置(しよち)は頗(すこぶ)る其(その)当(たう)を得(え)なかつたのでレサノツトも大(おほい)に憤怨(ふんえん)して皈(かへ)つた様子(やうす)であるが其(その)後(のち)文化(ぶんくわ)三年 即(すなは)ち 《割書:露船北海に|寇す》   信明(のぶあき)復職(ふくしよく)の年(とし)に露船(ろせん)は又た樺太(かばふと)に来(きた)りて今度(このたび)は中々(なか〳〵)乱暴(らんぼう)を働(はたら)いた上(うへ)戌卒(じうそつ)四人を捕(とら)へて去(さ)つたと云ふ始(し)        末(まつ)であつたが其(その)四年四月には再(ふたゝ)び択捉(えとろふとう)ウルツプ諸島(しよとう)に寇(こう)し且(か)つ理井尻(りゐじり)に来(きた)つて前(まへ)に捕(とら)へし戌卒(じうそつ)をし       て書翰(しよかん)を齎(もた)らさしめ若(も)し通商(つうせう)を許(ゆる)さぬに於(おい)ては明年(みようねん)大挙(たいきよ)して攻(せ)め来(きた)るからソウ思(おも)へと云はしめたので       あるソコで此(この)事(こと)が幕府(ばくふ)の評議(へうぎ)となつたのであるが此(この)時(とき)林述斉(はやしじつさい)が満腔(まんくう)の意見(いけん)を認(したゝ)めて信明(のぶあき)に差出(さしだ)した書(しよ)       翰(かん)が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのであるコレは中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものであるから少(すこ)し長(なが)くはなるが段々(だん〴〵)と左(さ)       に申述(まをしの)べようと思(おも)ふのである 《割書:述斉の信明|に上りし意|見》   先(ま)づ述斉(じつさい)の此(この)書翰(しよかん)には溯(さかのぼつ)てレサノツトが長崎(ながさき)に来(きた)つた時(とき)の事(こと)から批評(ひへう)してある         此度(このたび)の大議(たいぎ)深々(ふか〴〵)相考候得(あひかんがへそうらへ)ば始終(しじう)へ懸(か)けいづれの方(はう)御決着有之候(ごけつちやくこれありそうろ)ても十 全(ぜん)の事には相成申間敷(あひなりまをしまじく)実(じつ)         以(もつて)心痛(しんつう)不過之事哉(これにすぎざることや)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)其(その)病源(べうげん)を窺候(うかがひそうら)へば長崎(ながさき)へ使節(しせつ)差越候節(さしこしそうろせつ)大機会(だいきくわい)をはづし事々失着(じゞしつちやく)        に相成(あひな)り此(この)末(すゑ)いかように仕(つかまつり)候ても取直(とりなほ)しは出来申間敷たとへば大病人(だいびようにん)を一 度(ど)誤治仕(ごぢつかまつり)病症(びようせう)一 変(ぺん)の後(のち) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十一 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十二 【本文】         良方(れうはう)を求(もと)め候やうなるものにて難治至極(なんぢしごく)に相成申候 返(かへ)す〳〵も残念(ざんねん)不尽(ふじん)の事と奉存候         其(その)節(せつ)彼方(かなた)より江戸拝礼(えどはいれい)一、 書簡(しよかん)進物(しんもつ)一、 交易通商(かうゑきつうせう)三、の願(ねがひ)に付 此(この)三 願(がん)とも一つも御取上(おんとりあ)げ無之と申        候はあまりしき事にて殊(こと)に信牌(しんはい)を被下(くだされ)御下知(ごげち)の通り参り候ものを此方(このはう)より信義(しんぎ)を失(しつ)し候事 何(なん)とも不(あひ)         相済訳(すまざるわけ)遮て申上 併(しか)しながら江戸(えど)拝礼(はいれい)と後年(こうねん)迄(まで)永々(なが〳〵)交易(かうゑき)とは容易(ようい)ならざる事に付不被差許候はば書簡(しよかん)        は請取(うけとり)御返簡(ごへんかん)可被下歟(くだされべくか)(国初は何れの国へも御書被下候例多し)左もなく候はば寺社奉行(じしやぶぎよう)よりかの役        人あてにして明細(めいさい)に利害申達候(りがいまをしたつしそろ)書面可遣歟 且(かつ)接壌(せつぜう)の国故いつ〳〵迄も不和(ふわ)に不相成様(あひならざるやう)旅館(りよくわん)を始(はじめ)御馳        走向被下物等 御叮嚀(ごていねい)を被尽(つくされ)かの歓心(かんしん)を得候而 不得止事次第(やむをえざることしだい)を打明(うちあか)し交易(かうゑき)御断(おんことは)り有之度旨 詳細(せうさい)に申上        候事に御座候         然(しか)る所(ところ)御部屋(おへや)へ御呼出(およびだ)しにて御評議(ごへうぎ)有之 其(その)時(とき)御取扱(おんとりあつかひ)大炊頭殿(おほすいのかみどの)にて大に御見込違(おんみこみちが)ひ叮嚀(ていねい)に取扱候ほ        ど夫へ取付可申候間 立腹(りつふく)いたさせ候 方(ほう)可然哉(しかるべきや)腹立(はらたち)候はばもはや参(まゐ)る間敷旨(まじくむね)被仰聞(あふせきかれ)候に付 大(おほい)に申争(まをしあらそ)        ひ候事御座候ひき尤(もつと)も其(その)節(せつ)は至ての御急(おいそ)ぎの申事に付 御儒者(ごじゆしや)共(とも)私宅(したく)へ打集(うちあつ)め一夕か二夕の内(うち)に口        々の事とも仕分(しわ)け差上候間(さしあげそろあひだ)弥々(いよ〳〵)の所は尚(なほ)又(また)細(こまか)に御尋の上 巨細(こさい)に可申上旨も申上候処 其(その)後(のち)一 向(かう)に音沙(おとさ)         汰(た)も無之相考候処 私(わたくし)過般(くわはん)の論をも申 大炊頭殿(おほすいのかみどの)逆耳とも相承(あひうけたまは)り候哉と存居候儀に御座候 其(その)後(のち)三月        許も何(なん)の御沙汰(ごさた)も無之依之いかが相成候や一 向(かう)難計(はかりがたく)采女正殿(うねめのせうどの)へ別段故(べつだゆゑ)申出候所(まをしいでそろところ)大炊頭殿(おほいのかみどの)御取扱ゆゑ        直に申候ように抔(など)と申許(まをすばかり)の事にて貧苦無之趣に有之 迚(とて)も黒白(こくびやく)の別見に相成候に付 何度申候(いくたびまをしそろ)ても詮(せん)         無之(これなき)事と見切(みき)り私も不申上云々        之(これ)で見(み)るとレサノツト来航当時(らいかうたうじ)に於ける幕議(ばくぎ)の模様(もやう)と云ふものは誠(まこと)に能(よ)く分(わか)る事と思(おも)ふが書中(しよちう)大炊頭(おほいのかみ)       とあるのは土井利厚(どゐとしあつ)が事で又(また)采女正(うねめのせう)とあるのは戸田氏教(とだうじのり)が事である孰(いづ)れも時の老中(らうちう)である其(その)述斉(じつさい)の 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        進言(しんげん)に対(たい)して大炊頭(おほいのかみ)の言(い)つた事などは実(じつ)に今日(こんにち)から見(み)れば抱腹絶仆(ほうふくぜつとう)の至(いたり)である併(しか)し此(この)時分(じぶん)に於ける当(たう)        局者(きょくしや)多数(たすう)の意見(いけん)は或はいづれもコンナものであつたのであろうそれにつけても述斉(じつさい)の意見(いけん)と云ふもの       は益々(ます〳〵)時(とき)に取(と)つての卓見(たくけん)となすべきもので誠(まこと)に感服(かんぷく)の外(ほか)はないのである然(しか)るに其(その)書中(しよちう)にある通(とほ)り到底(たうてい)        当局者(たうきよくしや)等(ら)の容(い)るゝ処とならなかつたので述斉(じつさい)は心痛(しんつう)の余(あま)り更(さら)に奥御祐筆組頭(おくごゆうひつくみがしら)の近藤吉左衛門(こんどうきちざゑもん)と云ふ人       に逢(あ)つて此(この)事(こと)を極論(きよくろん)し能(よ)く〳〵申含(まをしふく)めて置(お)いたのである之(これ)亦(ま)た右(みぎ)の書翰(しよかん)の中(なか)に認(したゝ)めてあるのであるが       それにも抅(かゝは)らず述斉(じつさい)の意見(いけん)と云ふものは遂(つひ)に少(すこ)しも用(もち)ゐられなかつたのである而(しか)も長崎(ながさき)に於ける露使(ろし)       に対(たい)する幕府(ばくふ)の取扱振(とりあつかひぶり)と云ふものは頗(すこぶ)る不当(ふたう)を極(きは)めたので之(これ)は独(ひと)り露使(ろし)が憤怨(ふんえん)した計(ばか)りでなく世上(せぜう)       に於ても中々(なか〳〵)駁議(ばくぎ)が多(おほ)かつたのである述斉(じつさい)は之(これ)も此(この)書翰(しよかん)の中に書(か)き現(あら)はして居(を)るが尚(なほ)其(その)後(のち)に持(も)つて       いつて左(さ)の如(ごと)く云つて居(を)る         其(その)節(せつ)手切(てきれ)の御挨拶(ごあひさつ)にて殊(こと)に奉行(ぶぎよう)の口達(こうだつ)と申もの再度(さいど)参帰(まゐりかへ)る間敷(まじく)との別紙(べつし)等(とう)は抱腹(ほうふく)に不堪事(たへざること)に御座候         海路(かいろ)は諸万国(しよばんこく)の通路(つうろ)に御座候(ござそろ)其(その)通路(つうろ)を此方(このはう)許(ばかり)にて留(とゝ)め候事 出来候事(できそろこと)が出来不申事(できまをさざること)か加様(かやう)に申かけ        候ては尚更(なほさら)意地(いぢ)わるく参り候様に成り候 人情(にんぜう)に御座候(ござそろ)        実(じつ)に痛快(つうかい)に堪(た)へざる議論(ぎろん)であるがソレから述斉(じつさい)は更(さら)にイヨ〳〵論鋒(ろんぽう)を進(すゝ)めて今回(こんかい)の事件(じけん)に及(およ)ぼし先(ま)づ        最初(さいしよ)に         只今(たゝいま)申候(まをしそろ)てもかへり不申事(まをさざること)に御座候(ござそろ)へ共(とも)此(この)事情(じぜう)をとくと御存(ごぞん)じ被在(あらせられ)候て今般(こんぱん)の御処置(ごしよち)御勘弁(ごかんべん)無之て        は大(おほい)に間違(まちがひ)を又々(また〳〵)生(せう)じ可申哉と掛念仕候(けねんつかまつりそろ)       と論(ろん)じ其(その)終(をは)りに         今日(こんにち)の事(こと)実以(じつもつて)無此上御大切(このうへなきごたいせつ)の機会(きくわい)にして国祚(こくそ)の長短(てうたん)之(これ)により可申事 臣子(しんし)膽(たん)を甞(な)め塊(くわい)を枕(まくら)とすべき時 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十三 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十四 【本文】        と奉存候 不残心底(のこらずしんでい)一 杯(ぱい)に申上置申候(まをしあげおきまをしそろ)能(よ)く〳〵御探謀被為立(ごたんばうたてなされ)候 様(やう)奉存候(ぞんじたてまつりそろ)残念(ざんねん)なる事は先年(せんねん)長崎(ながさき)の         時(とき)閣下(かくか)御在職(ございしよく)にも候はばかく迄は相成(あひな)り申間敷哉(まをすまじくや)今更(いまさら)申候(まをしそろ)てもかへり申(まを)さぬ事に御座候ただ〳〵此        上の失策(しつさく)を甚(はなは)だ恐(おそ)れ云々(うん〳〵)       と結(むす)むである尚(なほ)此(こ)の他(た)にも一 通(つう)の書翰(しよかん)があるが矢張(やはり)其(その)中(なか)にも今度(このたび)の事件(じけん)を論(ろん)じた処があるので左(さ)に御        紹介(せうかい)したいと思(おも)ふ        此度(このたび)の事たとへ此末(このすへ)平和(へいわ)に相成候迚(あひなりそろとて)カラフトの蕃人(ばんじん)を生擒(いけどり)丸小屋(まるこや)焼払(やきはらひ)雑物(ざつぶつ)奪取(だつしゆ)今般(こんぱん)又(また)同断(どうだん)の取計(とりはからひ)         有之候上(これありそろうへ)は最早(もはや)敵国(てきこく)のあしらひに相成(あひなり)中々(なか〳〵)隣誼(りんぎ)を結(むす)び候 主意(しゆい)は立不申候(たちまをさずそろ)夫(それ)を柔(やわ)らかに取扱候(とりあつかひそろ)ては         此方(このはう)の弱(よわき)を示(しめ)し候に相成候間(あひなりそろあひだ)此上(このうへ)ます〳〵跋扈(ばつこ)の志(こゝろざし)を生(せう)じ可申(まをすべく)も難計(はかりがたく)云々(うん〳〵)       と論(ろん)じた後(のち)更(さら)に北海(ほくかい)に於ける我国鎮戌(わがくにちんじう)の不利(ふり)なる点(てん)を挙(あ)げて之(これ)に対(たい)する方法(はう〳〵)として         兵機(へいき)は迅速(じんそく)を貴(たつと)び候事 勿論(もちろん)の事にて今日(こんにち)の事にても一と廉立候儀(かどたちそろぎ)機会(きくわい)を失(うしな)ひ候ては勝算(せうさん)は得(え)がたき         儀(ぎ)に御座候(ござそろ)先(さき)んずる時(とき)は人を制(せい)し後(おく)るゝ時は人に制(せい)せらるゝの場合(ばあひ)緊要(きんえう)に御座候(ござそろ)       と云(い)ふように云(い)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の意見(いけん)は悉(こと〴〵)く信明(のぶあき)の意(い)に叶(かな)つた事で信明(のぶあき)が毎(つね)に此(この)方針(はうしん)によつた事は段(だん)        段(だん)事実(じじつ)の上(うへ)に於ても現(あら)はれて居(を)るのである       サテ今度(このたび)の事件(じけん)に就(つい)て露国船(ろこくせん)が最初(さいしよ)択捉(えとろふ)ウルツプあたりに寇(こう)した当時(たうじ)南部(なんぶ)、 津軽(つがる)、 松前(まつまへ)などの諸侯(しよかう)か       らは孰(いづ)れも急使(きうし)を以て之(これ)を幕府(ばくふ)に注進(ちうしん)したのであるが幕府(ばくふ)に於ては将軍(せうぐん)家斉(いへなり)を初(はじ)め之(これ)は容易(ようい)ならぬ事       であると心痛(しんつう)し早速(さつそく)中奥(なかおく)に於て評議(へうぎ)があつたのである其(その)時(とき)信明(のぶあき)が意見(いけん)の一 部分(ぶぶん)として伝(つた)はつて居(を)るの       は「露船(ろせん)が我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ふ事は到底(たうてい)一 朝(てう)一 夕(せき)の事ではない万一にも彼(かれ)をして蝦夷(えぞ)又(また)は佐渡(さど)に拠(よ)らしむる 《割書:松前若狭守|の転封》  が如(ごと)き事があつたならばソレこそ実(じつ)に国家(こくか)の一 大事(だいじ)であるソコで先(ま)づ松前若狭守(まつまへわかさのかみ)に関(くわん)する一 件(けん)を落着(らくちやく) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百四十四号附録    (大正元年十二月十七日発行) 【本文】       せしめて更(さら)に奥羽両国(おうれうこく)の大名(だいみよう)に命(めい)じ津軽(つがる)外(そと)ケ浜(はま)から蝦夷(えぞ)松前(まつまへ)に至(いた)るまでの固(かた)めを厳重(げんぢう)にするのが急務(きうむ)       である殊(こと)に一人 幕府(ばくふ)から然(しか)るべき人物(じんぶつ)を蝦夷地(えぞち)に派遣(はけん)して其(その)巡視(じゆんし)に任(にん)じたい」と云ふにあつたが之(これ)は        嵩岳君言行録(すうがくくんげんかうろく)などにも記(しる)してある処であるモツトモ右(みぎ)の内(うち)で松前若狭守(まつまへわかさのかみ)に関(くわん)する一 件(けん)と云ふ事に付(つい)て       は少(すこ)しく説明(せつめい)を要(えう)するのであるが之(これ)は例(れい)の松前侯(まつまへこう)転封問題(てんほうもんだい)である元来(がんらい)此(この)松前若狭守(まつまへわかさのかみ)の先代(せんだい)章広(あきひろ)と云ふ       人は一橋治済(ひとつばしはるなり)の御気(おき)に入(い)りで定信(さだのぶ)補佐(ほさ)時代(じだい)から注目(ちうもく)されて居(を)つた人であつたが身持(みもち)放蕩(はうたう)の故(ゆゑ)を以(もつ)て此(この)        年(とし)の三月 永蟄居(ながのちつきよ)を命(めい)ぜられたのであるソコで幕府(ばくふ)では之(これ)を機(き)として当主(たうしゆ)若狭守(わかさのかみ)から此(この)蝦夷地(えぞち)の全部(ぜんぶ)を        上地(ぜうち)せしめて直接(ちよくせつ)経営(けいえい)をしたいと云ふのが此(この)問題(もんだい)の主(おも)なるものであつたが此際(このさい)幕府(ばくふ)は先(ま)づ之(これ)を実行(じつかう)し       たので其(その)時(とき)幕府(ばくふ)から若狭守(わかさのかみ)への申達書(しんたつしよ)に         蝦夷地(えぞち)の儀(ぎ)は古来(こらい)より其方(そのはう)家(いへ)にて進退致来候得共(しんたいいたしきたりそうらへども)異国(ゐこく)へ接(せつ)し候島々(そろしま〴〵)万端(ばんたん)の手当(てあて)難整様子(とゝのへがたきやうす)に付(つき)先達(せんだつて)         東蝦夷(ひがしえぞ)上(あ)げ地(ち)被仰出(あふせいでられ)従公儀(こうぎより)御処置(ごしよち)被仰付候(あふせつけられそろ)西蝦夷之儀(にしえぞのぎ)も非常之備等(ひぜうのそなへとう)其方(そのはう)手限(てかぎり)難行届段申立(ゆきとゞきがたきだんまをしたて)外国(がいこく)        之境(のさかひ)不容易事に被思召(おぼしめされ)候間 此度(このたび)松前(まつまへ)西蝦夷(にしえぞ)一円 被召上候(めしあげられそろ)云々(うん〳〵)       とあるので其(その)主旨(しゆし)は明瞭(めいれう)であると思(おも)ふが当時(たうじ)松前家(まつまへけ)に対(たい)する代償(だいせう)としては陸奥(むつ)、 上野(かうづけ)両国(れうごく)の内(うち)で表面(へうめん)       は九千石 事実(じつ)は一万二千石許もある土地(とち)を与(あた)へて之(これ)で打切(うちき)つたのであるソレからはイヨ〳〵幕府(ばくふ)に於(おい) 松前奉行  て蝦夷(えぞ)全島(ぜんとう)を直営(ちよくえい)することとなつたのであるが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く最初(さいしよ)は蝦夷奉行(えぞぶぎよう)と云ふのが置(お)かれて       あつたのを其後(そののち)函館奉行(はこだてぶぎよう)と改(あらた)められたが今度(このたび)は又(また)更(さら)に之(これ)を松前奉行(まつまへぶぎよう)と改(あらた)めて蝦夷全島(えぞぜんとう)の事を支配(しはい)せし       むる様になしたのであるモツトモ此(この)信明(のぶあき)の意見(いけん)には老中(らうちう)の一人 牧野忠精(まきのたゞきよ)も大(おほい)に賛成(さんせい)したのであるが蝦(え)        夷派遣(ぞはけん)としては若年寄(わかどしより)の堀田正敦(ほつたまさあつ)が幸に仙台藩主(せんだいはんしゆ)伊達政千代(だてまさちよ)の叔父(おぢ)であると云ふ処もあるからと云ふ 《割書:将軍の女浅|姫を伊達政|千代に嫁す》  ので此(この)人(ひと)に任(にん)ずる事となり政千代(まさちよ)には又た将軍(せうぐん)の姫君(ひめぎみ)浅姫(あさひめ)を嫁(か)せしむる事となつたのである之(これ)も実(じつ)は 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十五 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十六 【本文】        信明(のぶあき)の発議(はつぎ)であつたが伊達家(だてけ)に於ても大(おほい)に悦(よろこ)で挙(あげて)藩命(はんめい)に応(おう)じたと云ふ事である       トコロで今度(このたび)の露船(ろせん)の処為(しよゐ)と云ふものは前(まへ)にも申述(まをしの)べた如く実(じつ)に無法(むはう)極(きは)まるのみならず昨年(さくねん)は我戌卒(わがじうそつ)       を四人までも擒(とりこ)にして去(さ)つたと云ふ次第(しだい)であるから事 茲(こゝ)に至(いた)つては幕府(ばくふ)もヨモヤ善隣(ぜんりん)に対(たい)する体度(たいど)で       は居られぬ訳(わけ)であるソコで文化(ぶんくわ)四年既に海岸(かいがん)の各藩(かくはん)に命(めい)じて守備(しゆび)を厳重(げんぢう)にせしめ且(か)つ 《割書:文化四年六|月廿八日の|対外命》    万(まん)一 怪敷船(あやしきふね)相見(あひみ)え候(そうら)はば諸事(しよじ)寛政(かんせい)三年 相達候趣相心得(あひたつしそろおもむきあひこゝろえ)取計可申候(とりはからひまをしべくそろ)       と命(めい)じたのであるモツトモ此(この)寛政(かんせい)三年の達(たつし)と云ふのは極端(きよくたん)なる攘夷令(ぜうゐれい)ではないので異国船(ゐこくせん)を見付(みつ)けた       ならば先(ま)づ見分役(けんぶやく)を以(もつ)て十分なる取調(しらべ)をなし若(も)し之(これ)を拒(こば)むだ場合(ばあひ)には船(ふね)も人も打払(うちはら)つて差支(さしつかい)ないが併(しか)       し之(これ)を拒(こば)まぬものに対(たい)しては然(しか)るべき計策(けいさく)を以て船(ふね)を繋(つな)ぎ留(と)め乗組員(のりくみゐん)をば上陸(ぜうりく)せしめて厳重(げんぢう)に取締(とりしま)り       万一にも之(これ)を承知(せうち)しなかつたなら止(やむ)を得(え)ず召捕(めしと)つてもよいから其上(そのうへ)で早速(さつそく)幕府(ばくふ)に伺(うかゞ)ひ出(い)づるやうに致       せと云ふ意味(いみ)であつたのであるそれを又々(また〳〵)今度(このたび)適用(てきよう)した次第(しだい)であつたが何故(なにゆゑ)か其後(そのご)と云ふものは絶(たへ)て        露国船(ろこくせん)の来航(らいかう)を見(み)なかつたのである然(しか)るに文化(ぶんくわ)八年に至(いた)つて其(その)五月 又々(また〳〵)蝦夷(えぞ)の国後(くにじり)にやつて来(き)たので 《割書:幕吏露船の|乗組員を檎|にす》  あるが今度(このたび)は警備(けいび)の幕吏(ばくり)が前年(ぜんねん)の暴挙(ばうきよ)に報(むく)ゆる為(ため)にうまく欺(あざむい)て船員(せんゐん)を上陸(ぜうりく)せしめ其(その)八人を捕虜(ほりよ)にし       たのである而(しか)して其(その)八人の内(うち)には例(れい)の船長(せんてう)ゴ、ローインと云ふ人も居(を)つたのであるが当時(たうじ)の顛末(てんまつ)は有名(ゆうめい)       なる彼(か)れが自記(じき)の日本遭難記事(にほんそうなんきじ)に詳(くわし)いとの事であるトコロで其(その)露船(ろせん)の乗組員(のりくみゐん)は同行(どうかう)の内(うち)八人を捕虜(ほりよ)に       せられて大(おほい)に驚(おどろ)いたが到底(たうてい)力(ちから)の及(およ)ばないものと見(み)たのであろう遂(つひ)に之(これ)を見捨(みす)てゝ急(きふ)に帆(ほ)を揚(あ)げて去(さ)つ 《割書:高田屋嘉兵|衛》  て仕舞(しま)つたのである然(しか)るに其(その)翌々年(よく〳〵ねん)に至(いた)つて彼(か)の有名(ゆうめい)なる高田屋嘉兵衛(たかだやかへゑ)の船(ふね)が蝦夷(えぞ)の近海(きんかい)で露船(ろせん)に襲(おそ)       はれた事件(じけん)があつて其五月に露船(ろせん)は此(この)嘉兵衛(かへゑ)を伴(ともな)つて国後(くにじり)に来(きた)り前年(ぜんねん)の入寇(にふかう)は暴民(ばうみん)の処為(しよゐ)であつて決(けつ)       して露国政府(ろこくせいふ)の知(し)る処ではない今(いま)政府(せいふ)は其(その)暴民(ばうみん)を罰(ばつ)したから宥(ゆる)して貰(もら)ひたいと云ふ意味(いみ)で書(しよ)を送(おく)り捕(ほ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        虜(りよ)交替(かうたい)の事を申込(まをしこ)むだのであるソコで松前奉行(まつまへぶぎよう)は急使(きふし)を幕府(ばくふ)に送(おく)つて指揮(しき)を待(ま)つたが幕府(ばくふ)に於ては松(まつ)        前奉行(まへぶぎよう)をして捕虜(ほりよ)の交替(かうたい)を許(ゆる)さしめ且(か)つ叮嚀(ていねい)に我国(わがくに)が之(これ)迄(まで)鎖国(さこく)であると云ふ其(その)訳(わけ)を詳(くは)しく説(と)かしめた 《割書:信明の対外|政策》   上(うへ)米塩酒食(へいゑんしゆしよく)などをも手厚(てあつ)く供給(けうきふ)して去(さ)らしむることとしたのである勿論(もちろん)此(この)当時(たうじ)は信明(のぶあき)が幕府(ばくふ)に於(お)ける主(おも)       なる責任者(せきにんしや)であつたのであるから此(この)処置(しよち)こそ実(じつ)に信明(のぶあき)の意見(いけん)から出(い)でたものであると見(み)るのが当然(たうぜん)で       あるが本章(ほんせう)に於て段々(だん〳〵)と申述(まをしの)べて来(き)た処の述斉(じつさい)の意見(いけん)などゝ比較対照(ひかくたいせう)して見(み)ると明(あきらか)に信明(のぶあき)が此(この)外交方(ぐわいかうはう)        針(しん)と云ふものは分(わか)るように信(しん)ずるのである        即(すなは)ち当時(たうじ)に於ける右(みぎ)の処置(しよち)は最(もつと)も其(その)当(たう)を得(え)たので露船(ろせん)に於ても能(よ)く〳〵我意(わがい)を了解(れうかい)したものと見(み)へる       が其(その)後(ご)と云ふものは絶(た)へて我国(わがくに)に来航(らいかう)しなかつたのである従(したがつ)て多年(たねん)纏綿(てんめん)として連続(れんぞく)し来(きた)つた此(この)露国(ろこく)と       の外交関係(ぐわいかうぐわんけい)と云ふものは兎(と)に角(かく)茲(こゝ)に一 段落(だんらく)を告(つ)げた次第(しだい)であつたが此(この)事実(じじつ)は誠(まこと)に歴史上(れきしぜう)に於ける大(たい)        切(せつ)の事柄(ことがら)として特筆大書(とくしつたいしよ)するに価(あたひ)あるものと確信(かくしん)して疑(うたが)はぬのである 北海の警備 トコロで一 方(ぱう)に於ては前(まへ)に申述(まをしの)べた如くで蝦夷経営(えぞけいえい)の事は着々(ちやく〳〵)最初(さいしよ)の方針(はうしん)通(とほ)りに実行(じつかう)せられたのであ       るが之(これ)には意外(いぐわい)に費用(ひよう)を要(えう)し其(その)割合(わりあひ)には収入(しうにふ)の少(すくな)かつた処から非難(ひなん)も段々(だん〳〵)あつた様子(やうす)である従(したがつ)て此(この)点(てん)       は幕府(ばくふ)に於ても頗(すこぶ)る苦心(くしん)した処であつたが併(しか)し此(この)経営中(けいえいちう)は遂(つひ)に外人(ぐわいじん)の窺窬(きゆ)を我(わ)が北海(ほくかい)に容(ゆる)さなかつた       のである即(すなは)ち千島列島(ちじまれつとう)は勿論(もちろん)我(わ)が威力(ゐりよく)と云ふものは遠(とほ)く樺太(かばふと)に迄(まで)も及(およ)むで居(ゐ)たのであるが之(これ)は実(じつ)に信(のぶ)        明(あき)が畢生(ひつせい)の大事業中(だいじげふちう)の一ともなすべものでかゝる有様(ありさま)であつたればこそ我国(わがくに)の版図(はんと)と云ふものも幸       に全(まつた)きを得(え)た次第(しだい)であるが其(その)余勢(よせい)は又た実(じつ)に維新(ゐしん)の当時(たうじ)にまでも及(およ)むで居たものと信(しん)ずべきである 《割書:信明の卒去|と共に政局|一変す》   然(しか)るに信明(のぶあき)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如く文化(ぶんくわ)十四年の八月十六日 年(とし)五十八で病(やまひ)を以(もつ)て卒去(そつきよ)と相成(あひな)つたのであ       るが其(その)卒去(そつきよ)後(ご)と云ふものは前(まへ)に屡々(しば〴〵)御話(おはなし)した通(とほ)り幕府(ばくふ)の政局(せいきよく)は全(まつた)く一 変(ぺん)し例(れい)の水野忠成(みづのたゞなり)は忽(たちま)ち老中格(らうちうかく) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十七 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百四十八 【本文】       となり続(つゞい)て老中(らうちう)に任(にん)じ威権(ゐけん)並(なら)ぶものもないようになつたので茲(こゝ)に定信(さだのぶ)以来(いらい)信明(のぶあき)等(ら)が苦心経営(くしんけいえい)し来(きた)つた        善政美事(ぜんせいびじ)と云ふものは一 朝(てう)にして破壊(はくわい)さるゝに至(いた)つたのであるが此(この)蝦夷経営(えぞけいえい)の事も亦(ま)た信明(のぶあき)が卒去(そつきよ)後(ご) 《割書:蝦夷経営の|廃止》   僅(わづか)に五年目の文政(ぶんせい)四年には全(まつた)く廃止(はいし)せられて松前奉行(まつまへぶぎよう)は廃(はい)せられて復(ふたゝ)び彼(か)の松前章広(まつまへあきひろ)を封(ほう)じて蝦夷地(えぞち)       を与(あた)へたのである此(こゝ)に於て之迄(これまで)折角(せつかく)信明(のぶあき)が苦心(くしん)して経営(けいえい)した処の我(わが)北辺(ほくへん)の関門(くわんもん)と云ふものは又(ま)た元(もと)の        不締(ふしまり)に立戻(たちもど)つたので其後(そののち)露人(ろじん)は続々(ぞく〳〵)樺太(かばふと)に移住(いぢう)するようになつたのであるが遂(つひ)には千島諸島(ちじましよとう)に迄(まで)も及(およ)       むだのである然(しか)るに残念(ざんねん)な事には松前氏(まつまへし)の力(ちから)は到底(たうてい)之(これ)を如何(いかん)ともすることが出来(でき)なかつたのみならず擅(おしいまゝ)       に其(その)蠺食(さんしよく)に一 任(にん)するに至(いた)つたと云ふのは誠(まこと)に遺憾(ゐかん)千万の事であると思(おも)ふのである之(これ)に付(つ)けても私(わたくし)は        返(かへ)す〳〵信明(のぶあき)の功績(こうせき)の多大(ただい)なりしを思(おも)ふて止(や)まざるものである             ⦿松平信明の逸事        信明(のぶあき)の事蹟(じせき)に就(つい)てはまだ〳〵御話(おはなし)すれば実(じつ)に数多(かずおほ)いことであるが私(わたくし)はいづれ之(これ)に就(つい)ては別(べつ)に一 冊子(さつし)とし       て記述(きじつ)して見(み)たいと思(おも)つて居(を)る次第(しだい)であるから此処(ここ)には先(ま)づ其(その)大要(たいえう)を申述(まをしの)ぶることとする考(かんがへ)であるソ       コで以上(いぜう)述(の)べ来(きた)つた事の外(ほか)は便宜上(べんぎぜう)此(この)逸事(いつじ)の中(なか)に於てボツ〳〵と御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのである        元来(がんらい)信明(のぶあき)と云ふ人は余程(よほど)厳格(げんかく)な性質(せいしつ)で苟(いやしく)も理屈(りくつ)に合(あ)はぬ事は聴容(きゝい)れなかつた実(じつ)に私(わたくし)のない正(たゞ)しい行(おこなひ) 《割書:信明の性行|に関する甲|子夜話の記|事》  ばかりであつたが例(れい)の甲子夜話(かしやわよばなし)の中(なか)にもコウ云ふ話(はなし)が記(しる)されてある        越後国(えちごのくに)新発田藩主(しばたはんしゆ)の溝口氏(みぞぐちし)は信明(のぶあき)とは近縁(きんゑん)の間柄(あひだがら)であつたが信明(のぶあき)が老中(らうちう)であつた時代(じだい)幼穉家督(ようちかとく)の事       があつて其(その)近臣(きんしん)の考(かんがへ)では主人(しゆじん)が余(あま)り幼年(ようねん)で表向(おもてむ)き都合(つごふ)が悪(わる)いからドウか二三 歳(さい)年齢(ねんれい)を増(ま)して官辺(くわんへん)へ       届出(とゞけい)でゝ置(お)きたいものであると云ふので内々(ない〳〵)之(これ)を信明(のぶあき)に相談(さうだん)したのであるトコロが信明(のぶあき)が言(い)ふにはそ 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百四十九号附録    (大正元年十二月廿四日発行) 【本文】       れは以(もつ)ての外(ほか)の事で姑息(こそく)と云ふものである断然(だんぜん)相成(あひな)り難(がた)き儀(ぎ)であると一 言(げん)の下(もと)に刎(は)ね付(つ)けたので之(これ)を        聞(き)いた溝口氏(みぞぐちし)の近臣(きんしん)は心(こゝろ)蜜(ひそ)かに後悔(こうかい)したとの事である又(ま)た同書(どうしよ)に或時(あるとき)能楽(のうがく)の催(もよほし)があつて賜餐(しさん)の時(とき)老(らう)        臣(しん)等(ら)が御用部屋(ごようべや)に来(き)て休息(きうそく)して居(を)つたが或(ある)老臣(らうしん)が御同朋頭(ごどうほうかしら)の荻原林阿弥(をぎはらりんあみ)と云ふ人に此(こ)の次(つぎ)の能(のう)は何(なん)で       あるかと云つて番組(ばんぐみ)を問(と)ふたスルト此(この)林阿弥(りんあみ)と云ふ人は軽率(けいそつ)の性(せう)であつたから問(とひ)に応(おう)じて此(この)次(つぎ)は執着(しゆうちやく)       と云ふ能(のう)でありますと答(こた)へた然(しか)るに此(この)執着(しゆうちやく)と云ふ名(な)は坊間歌舞伎(ぼうかんかぶき)などで付(つ)けた俗(ぞく)の名(な)で能楽(のうがく)の石橋(しやくきよう)       から作(つく)り替(か)へたものであるから元(もと)より能(のう)にはソンな名(な)はない即(すなは)ち石橋(しやくきよう)と答(こた)ふべき処を突然(とつぜん)の答(こたへ)に執(しゆう)        着(ちやく)と云つたので人々(ひと〴〵)ドツト笑(わら)ひ出(だ)したが此(この)時(とき)はサスがに平常(へいぜう)厳然持重(げんぜんぢちよう)の信明(のぶあき)でも耐(た)へ兼(か)ねたと見(み)へて        遂(つひ)に噴(ふ)き出(だ)したと記(しる)してあるのである之(これ)に依(よ)つて見(み)ても此(この)書(しよ)の著者(ちよしや)たる松浦静山侯(まつうらせいざんかう)の如(ごと)きですら信明(のぶあき)       を以(もつ)て厳然持重(げんぜんぢちよう)の人と評(へう)して居(を)る位(くらゐ)で此(この)話(はなし)などは実(じつ)によく其(その)平常(へいぜう)が推(お)し測(はか)られるように思(おも)わるゝので       ある 信明の仁慈  此(かく)の如(ごと)く信明(のぶあき)は誠(まこと)に鹿爪(しかつめ)らしい人であつたが又(ま)た一 方(ぱう)には実(じつ)に慈悲深(じひふか)い処のあつた人で殊(こと)に下々(しも〳〵)の者(もの)       に向(むか)つては仁心(じんしん)の厚(あつ)かつたものである矢張(やはり)甲子夜話(かしやは)の中(なか)にある話(はなし)であるが信明(のぶあき)が老中(らうちう)たりし時(とき)両番衆(れうばんしう)       に弓削田新右衛門(ゆげだしんうゑもん)と云ふ人があつて夫(それ)が或(あ)る事件(じけん)に座(ざ)して遂(つひ)に切腹(せつぷく)を仰付(あふせつ)かつたのである其(その)時(とき)検使(けんし)に        行(い)つた目付(めつけ)の某(それがし)と云ふものがヤツト役目(やくめ)を済(す)まし夜陰(やゐん)に及(およ)むだが規定(きてい)であるから直様(すぐさま)復命(ふくめい)の為(ため)に先(ま)づ        若年寄(わかとしより)某(それがし)の邸(やしき)に行(い)つたのであるトコロが既(すで)に門(もん)が鎖(とざ)されて居(ゐ)て入(い)る事がで出来(でき)なかつたがヨウ〳〵開(かい)        門(もん)してからも急(きふ)に燭台(しよくだい)を玄関(げんかん)に持出(もちだ)すやら狼狽(らうばい)の体(てい)が見(み)へたのであるソコで検使(けんし)の思(おも)ふには此(この)様子(やうす)で       は今(いま)から老中(らうちう)の邸(やしき)に行(い)つた処で余程(よほど)門前(もんぜん)で待(ま)たされる事であろうから其(その)覚悟(かくご)で行(ゆ)かねばなるまいと考(かんが)       へたのであつたが信明(のぶあき)の邸(やしき)へ行(い)つて見(み)ると案(あん)に相違(さうゐ)してチヤント開門(かいもん)してあつたのみならず主人(しゆじん)の信(のぶ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百四十九 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十 【本文】        明(あき)も最前(さいぜん)から此(この)復命(ふくめい)を待受(まちう)けて居(を)られた様子(やうす)で直様(すぐさま)対面(たいめん)せられたが検使(けんし)の報告(ほうこく)を篤(とく)と聞(き)き終(おは)られて扨(さて)       も〳〵是非(ぜひ)なき事であつたと深(ふか)く愁傷(しうせう)の体(てい)であつたので其(その)目付役(めつけやく)は実(じつ)に信明(のぶあき)の士(し)を愛(あい)することに感激(かんげき)し       たと云ふ事が書(かい)いてあるのである又或時(またあるとき)信明(のぶあき)が浅草見付(あさくさみつけ)を通行(つうかう)せられた時 如何(いか)なる間違(まちがひ)であつたか門(もん)        番(ばん)の者(もの)が下座(げざ)をしなかつたので番頭(ばんがしら)の者(もの)は非常(ひぜう)に恐縮(けうしゆく)して行列(ぎようれつ)の後(あと)を遂(お)つて供頭(ともがしら)に歎願(たんぐわん)し「ワビ」を請(こ)       つたのである然(しか)るに信明(のぶあき)は之(これ)を聞(き)いてイヤ心配(しんぱい)には及(およ)ばぬそれは何(な)にか間違(まちがひ)であろう我等(われら)通行(つうかう)の際(さい)浅(あさ)        草見付(くさみつけ)に於(おい)ては皆々(みな〳〵)下座(げざ)を致(いた)したぞと云つて其(その)罪(つみ)を問(と)はなかつたのであるソコで此(この)番頭(ばんがしら)は深(ふか)く信明(のぶあき)の        仁徳(じんとく)に服(ふく)して爾来(じらい)邸前(ていぜん)を過(す)ぐる毎(ごと)に必(かなら)ず下座(げざ)をして其(その)恩(おん)を拝謝(はいしや)したとの事である又(ま)た文化(ぶんくわ)年中(ねんちう)の話(はなし)で       あるが如何(いか)なる訳(わけ)であつたか或時(あるとき)一人の比丘尼(びくに)が城(しろ)の本丸(ほんまる)に紛(まぎ)れ入(い)つた事があつて之(これ)が一 問題(もんだい)となつ       たのである然(しか)るに此(この)処置(しよち)を時(とき)の老中(らうちう)信明(のぶあき)に伺(うかゞ)ひ出(い)でた処が信明(のぶあき)が云(い)ふにはそれは恐(おそら)くは真正(まこと)の比丘尼(びくに)       ではなかろう必(かなら)ず狐狸(こり)のなせる業(わざ)に相違(さうゐ)あるまい如何(いか)なる訳(わけ)にせよ御本丸(ごほんまる)へ比丘尼(びくに)などの入(い)るべき筈(はづ)       がないではないかとコウ断案(だんあん)を下(くだ)したので門番(もんばん)は勿論(もちろん)責任者(せきにんしや)一 同(どう)は孰(いづ)れも其(その)咎(とがめ)を免(まぬが)れて喜(よろこ)むだと云ふ       事であるが之(こ)れは例(れい)の嵩岳君言行録(すがくゝんげんかうろく)にある話(はなし)である 《割書:信明権威に|屈せず》   信明(のぶあき)の気性(きせう)はザツト右(みぎ)の如(ごと)くであるから其(その)替(かは)り一 且(たん)之(これ)はドウも筋道(すぢみち)の立(た)たぬ事であるなと思(おも)ひ込(こ)む       だならば其(その)時(とき)こそ何処迄(どこまで)も聞(き)き入(い)れぬと云(い)ふ風(ふう)であつたが其(その)場合(ばあひ)になると権威(けんゐ)などは到底(たうてい)恐(おそ)れなかつ       たのである之(これ)も信明(のぶあき)が老中(らうちう)時代(じだい)の話(はなし)であるが或日(あるひ)其(その)登城(とじやう)先(さき)へ水戸(みと)の家来(けらい)が走(はし)り来(きた)つて水戸殿(みとどの)御箱(おはこ)にて        候(そろ)控(ひか)へられよと云つて信明(のぶあき)の先供(さきども)を突(つ)き寄(よ)せたのであるソコで供頭(ともがしら)の松尾(まつを)五 郎(らう)と云(い)ふものが信明(のぶあき)の駕(か)        籠側(ごそば)へ走(はし)り寄(よ)つて其(その)事(こと)を告(つ)げた処が信明(のぶあき)は泰然(たいぜん)として動(うご)かない忽(たちま)ち大音声(だいおんぜい)で急(きふ)の御用(ごよう)により登城(とじやう)する       ものであるまだ水戸殿(みとどの)御箱(おはこ)は参(まゐ)らぬから苦(くるし)くないドン〳〵先(さき)へやれと言(い)ひ付(つ)けて遂(つひ)に登城(とじやう)して仕舞(しま)つ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       たが夫(それ)から同僚(どうれう)の人々とも協議(けふぎ)して大切(たいせう)なる御用先(ごようさき)の差支(さしつかへ)と相成(あひな)るから爾来(じらい)水戸殿(みとどの)御登城(おとじやう)は老中(らうちう)の登(と)        城(じやう)時刻(じこく)御見合(おんみあ)はせ之(こ)れあるべくと水戸家(みとけ)の家老(からう)へ相達(あひたつ)したとの事である又(ま)た或時(あるとき)何(いづ)れからか菓子(くわし)の到(とう)        来(らい)があつたが信明(のぶあき)は之(これ)を床(とこ)の間(ま)に置(お)かしめて登城(とじやう)したのである軈(やが)て帰邸(きてい)の後(のち)其(その)菓子(くわし)を見(み)ると配置(はいち)が乱(みだ)       れて居(ゐ)て何(なん)たか人が手(て)を付(つ)けた様子(やうす)であるので信明(のぶあき)は色々(いろ〳〵)と之(これ)を取扱(とりあつか)つたものに就(つ)いて調(しら)べさせたが        誰(たれ)も存(ぞん)ぜぬ知(し)らぬで一 向(かう)に埒(らち)が明(あ)かぬソコで信明(のぶあき)は何時(いつ)になく気色(きしよく)を荒(あら)らげ近習(きんしふ)の者(もの)をして最初(さいしよ)到来(たうらい)       の時(とき)之(これ)を取扱(とりあつ)かつた聞番(きゝばん)某(それがし)なるものを糺問(きつもん)せしめた処が実(じつ)は余(あま)り綺麗(きれい)な菓子(くわし)であつたから内々(ない〳〵)手(て)に        取(と)つて居(を)る処へ殿様(とのさま)御帰邸(ごきてい)の觸(ふれ)があつたので驚(おどろ)いて元(もと)の位置(ゐち)へ納(をさ)めようとしたが其(その)暇(ひま)がなかつたので        拠(よんどころ)なくそれを一 個(こ)袂(たもと)の中(なか)へ隠(かく)して持下(もちさが)つたでのあると白状(はくぜう)に及(およ)むで「ワビ」入(い)つた之(これ)を聞(き)いた信明(のぶあき)は        其(その)時(とき)初(はじ)めて顔色(がんしよく)を和(やわ)らげ能(よ)くこそ正直(せうじき)に申立(まをした)てた若(も)しも何処迄(どこまで)も偽(いつは)つて隠(かく)し立(た)てをするならば彼者(かのもの)を        手打(てうち)にせむと思(おも)つたが之(これ)にて満足(まんぞく)したと云(い)つて遂(つひ)に其上(そのうへ)を咎(とが)めようとしなかつたと云(い)ふ事(こと)であるが之(これ)        等(ら)の話(はなし)は実(じつ)に信明(のぶあき)の気質(きしつ)を有(あり)のまゝに曝露(ばくろ)したとも云(い)ふべきもので信明(のぶあき)の人物(じんぶつ)を見(み)る上(うへ)には誠(まこと)に面白(おもしろ)       い話(はなし)であると思(おも)ふ 《割書:信明諌を容|る》   又(また)信明(のぶあき)は壮年(さうねん)の頃(ころ)に兎角(とかく)酒(さけ)を過(すご)す癖(くせ)があつて追々(おい〳〵)気分(きぶん)も荒々(あら〳〵)しく近習(きんしふ)のものも頻(しき)りに心痛(しんつう)する様(やう)にな       つたのであるソコで奥年寄(おくとしより)の佐藤久右衛門(さとうきううゑもん)と云(い)ふ人(ひと)が打捨(うちす)て置(お)かれぬ大事(だいじ)であると思(おも)つて自(みづか)らは決(けつ)す       る処(ところ)があつたものと見(み)へて或夕(あるゆう)信明(のぶあき)が酒宴(しゆゑん)半(なか)ばの席(せき)へ出(いで)て爾来(じらい)酒(さけ)に対(たい)して謹慎(きんしん)せらるゝようにと云(い)ふ       事を極諫(ごくかん)したスルト信明(のぶあき)は以(もつ)ての外(ほか)機嫌(きげん)で無礼(ぶれい)な事を云ふな下(さが)れと云ふ勢(いきほひ)で大不興(だいふけう)であつたから佐藤(さとう)       も此(この)上(うへ)は強(しゐ)て諫言(かんげん)を重(かさ)ぬるも益(えき)ない事であると思(おも)つて一 時(じ)其場(そのば)を引下(ひきさが)つたがサテ我家(わがや)に帰(かへ)つてからも        心配(しんぱい)に堪(た)へられぬので行末(ゆくすへ)の事(こと)などツク〳〵と考(かんが)へて一 室(しつ)に黙座(もくざ)して居(を)つたが其夜(そのよ)の深更(しんかう)に及(およ)むで急(きふ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十一 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十二 【本文】       の御召(おめし)であると云(い)ふので使(つかひ)が来(き)たのである佐藤(さとう)はイヨ〳〵事(こと)面倒(めんだう)になつたと信(しん)じて恐(おそ)る〳〵決心(けつしん)して        罷出(まかりいで)た処(ところ)が信明(のぶあき)は最前(さいぜん)に似(に)も付(つ)かず打(う)つて変(かは)つた機嫌(きげん)で佐藤(さとう)を側近(そばちか)く招(まね)き先刻(せんこく)の諫言(かんげん)は身(み)にしみて有(あり)        難(がた)く思(おも)ふから向後(かうご)は汝(なんぢ)の言(い)ふ如(ごと)く必(かなら)ず禁酒(きんしゆ)する就(つい)ては其印(そのしるし)として之(これ)迄(まで)自分(じぶん)が用(もち)ゐ来(きた)つた盃(さかづき)は残(のこ)らず        纏(まと)めて其方(そのはう)に遣(つか)はすと云(い)ふので悉(こと〴〵)く之(これ)を佐藤(さとう)に下(くだ)し賜(たまは)つたのである之(これ)を聞(き)いた佐藤(さとう)は実(じつ)に嬉(うれ)しさ堪(た)へ       かねて深(ふか)く感涙(かんるい)にむせむだと云(い)ふ事(こと)であるが其(その)時(とき)下賜(かし)の盃(さかづき)は今(いま)も尚(なほ)佐藤(さとう)の家(いへ)に伝(つた)はつて居(を)ると云ふ       ので其(その)佐藤(さとう)の直話(ぢきわ)が矢張(やはり)嵩岳君言行録(すがくくんげんかうろく)の中(なか)に載(の)せられてあるのである古来(こらい)名君(めいくん)と云(い)はれた人(ひと)には必(かなら)ず        人(ひと)の諌(いさめ)を容(い)れた話(はなし)があるが信明(のぶあき)の此(この)話(はなし)も又(ま)た実(じつ)に一 美談(びだん)として伝(つた)ふべきであると思(おも)ふ 信明の精力  又(ま)た信明(のぶあき)と云(い)ふ人(ひと)は実(じつ)に偉大(ゐだい)なる精力家(せいりよくか)であつたと云(い)ふ事(こと)を此処(こゝ)に御話(おはなし)したいと思(おも)ふのである先(さき)にも        一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)は幼少(えうせう)の頃(ころ)から既(すで)に能書(のうしよ)であつたが廿 歳(さい)の時(とき)自(みづか)ら公沢(かうたく)の千 文字(もんじ)を模写(もしや)したもの       が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に遺(のこ)つて居(を)るのである而(しか)して其(その)奥書(おくがき)を見(み)ると        (前略)欲模写以為範、奈何晝日公私鞅掌、以是燈下模写、二夜卒業、謂之書癖亦所不辞也       コウ書(か)いてある実(じつ)に之(こ)れ丈(だけ)のものを二夜(ふたよ)で書(か)き上(あ)げて仕舞(しま)ふと云ふ精力(せいりよく)は驚(おどろ)くべきであると思(おも)ふ又(ま)た        篆刻(てんこく)にも巧(たくみ)であつた人で自刻(じこく)の石印(せきいん)木印(もくいん)扁額(へんがく)などは矢張(やはり)大河内家(おほかうちけ)に何(なん)十 個(こ)となく今(いま)遺(のこ)つて居(を)るが孰(いづ)れ       も見事(みごと)な出来(でき)で到底(たうてい)専門家(せんもんか)も及(およ)ばぬ程(ほど)のものが多(おほ)いのである其他(そのた)詩(し)を賦(ぶ)し歌(うた)を読(よ)み詩集(ししう)なども残(のこ)つて        居(を)るのである何(なに)をしても相当(さうとう)には成績(せいせき)が上(あが)つて居(を)るので何事(なにごと)につけても終始(しうし)絶倫(ぜつりん)の精力(せいりよく)を傾注(けいちう)したも       のであることは伺(うかゞ)ひ知(し)る事が出来(でき)るのであるが殊(こと)に日夜(にちや)政務(せいむ)多端(たたん)で天下(てんか)の事に鞅掌(わうせう)し而(しか)も其(その)職務(しよくむ)に対(たい)し       ては前(ぜん)より段々(だん〳〵)申述(まをしの)べ来(きた)つた如(ごと)く実(じつ)に其(その)天才(てんさい)を発揮(はつき)して居(を)るのであるから其(その)精力(せいりよく)は誠(まこと)に驚(おどろ)くべきであ       ると思(おも)ふ 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百五十八号附録    (大正二年一月七日発行) 【本文】 信明の質素  又(また)信明(のぶあき)が常(つね)に質素倹約(しつそけんやく)を旨(むね)とした人であることは言(い)ふまでもないのであるが常(つね)に袴(はかま)などはワザ〳〵作(つく)る       には及(およ)ばぬ上下(かみしも)の下(しも)を用(もち)ゐて置(お)けばよいと云(い)はれた程(ほど)で従(したがつ)て其(その)遺物(ゐぶつ)の如(ごと)きはドレを見(み)ても全(まつた)く飾(かざ)り気(け)       のないもの計(ばか)りである終生(しうせい)大好物(たいかうぶつ)であつた篆刻(てんこく)の如(ごと)きでも只(たゞ)の蠟石(ろうせき)へ彫(ほ)り付(つ)けたもの計(ばか)りで一つも修(しう)        飾(しよく)などを加(くは)へたものはない併(しか)しながら又(ま)た決(けつ)して吝嗇(りんしよく)などの行(おこな)はれなかつたものである必用(ひつよう)の費用(ひよう)と       あれば少(すこ)しも惜(おし)まず支出(ししゆつ)したのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く信明(のぶあき)が世(よ)に立(た)つた頃(ころ)は所謂(いはゆる)田沼時代(たぬまじだい)の後(あと)であつ       たから只管(ひたすら)其(その)弊風(へいふう)を打破(だは)して士気(しき)を奮起(ふんき)せしめようと勉(つと)めたもので或(あるひ)は馬術(ばじつ)を奨励(せうれい)し或(あるひ)は鷹野(たかの)を催(もよほ)し       などして惰弱(だじやく)に流(なが)れたる人気(にんき)を振興(しんこう)せしめむとしたのであるソコで僅(わづ)か七万石の家(いへ)でありながら自(みづか)ら        馬(うま)三四十 頭(とう)に鷹(たか)の二三十 羽(ぱ)は養(やしな)つて置(お)いたものである此(かく)の如(ごと)き性行(せいかう)の人(ひと)であつたから一 方(ぱう)に於(おい)ては        又(ま)た極(きは)めて清廉(せいれん)の質(しつ)であつた事は言(い)ふ迄(まで)もないが之(これ)にも伝(つた)ふべき一 美談(びだん)があるのである 信明の廉潔 ソレは信明(のぶあき)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)であつた頃(ころ)の話(はなし)であるが米津小太夫(よねづこたいう)と云ふ旗本(はたもと)があつて宝飯郡(ほゐぐん)の牛久保(うしくぼ)を領(れう)し       て居(を)つたのであるが其(その)領地(れうち)は恰(あたか)も信明(のぶあき)の領地(れうち)即(すなは)ち吉田領(よしだれう)の間(あひだ)に狭(はさ)まつて居(を)つたのみならず至極(しごく)肥沃(ひよく)で       あつたから吉田領(よしだれう)の方(はう)では万事(ばんじ)に不便(ふべん)極(きは)まる上(うへ)にそれが肥沃(ひよく)であつて見(み)れば何(なん)とか換地(かへち)の法(ほう)を立(た)てゝ        米津(よねづ)を外(ほか)へ廻(まは)し牛久保(うしくぼ)をば吉田領(よしだれう)へ入(い)れる事に致(いた)したいものであると云(い)ふので国家老(くにからう)から其(その)事(こと)を信明(のぶあき)      に申出(まをしい)でたのである然(しか)るに信明(のぶあき)は之(これ)を聴(き)き入(い)れずして云(い)ふにはソレは我儘(わがまゝ)と云(い)ふものである元来(がんらい)小禄(せうろく)       の給所(きうしよ)は縄(なは)の延(の)びて居(を)るもので事実(じじつ)は表面(へうめん)よりも余計(よけい)に上(あが)り高(だか)のあるようになつて居(を)るのであるそれ       を比較的(ひかくてき)切詰(きりつ)めて自分(じぶん)の領地(れうち)と引替(ひきかへ)にせむと云ふのは誠(まこと)に心(こゝろ)のない仕業(しわざ)であるソンナ事(こと)はいらざ       る義(ぎ)であるから捨(す)てゝ置(お)けと斥(しりぞ)けたのでサスガの国家老(くにからう)も其(その)仁慈(じんじ)あると廉潔(れんけつ)なるとに服(ふく)したと云ふ事       であるが之(これ)亦(ま)た信明(のぶあき)の人格(じんかく)を伺(うかゞ)ふ上(うへ)に於(おい)て面白(おもしろ)き話(はなし)であると思(おも)ふ 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十三 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十四 【本文】 文学の奨励  又(ま)た信明(のぶあき)が其(その)在職中(ざいしよくちう)頻(しき)りに武道(ぶどう)を激励(げきれい)して一たび堕(お)ちたる士気(しき)を興奮(こうふん)せしめた事は前(まへ)にも屡々(しば〴〵)申述(まをしの)べ       た如(ごと)くであるがそれのみならず信明(のぶあき)は一 方(ぱう)に文学(ぶんがく)の奨励者(せうれいしや)で之(これ)を以(もつ)て世道人心(せどうじんしん)に益(えき)した事も少(すくな)からざ       るのである勿論(もちろん)之(これ)に関(かん)しては定信(さだのぶ)の発意(はつい)になつたものもあるのではあるが定信(さだのぶ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く        要職(えうしよく)にある事(こと)僅(わづか)に七年に過(す)ぎなかつたのであるから其(その)後(のち)は全(まつた)く信明(のぶあき)が之(これ)を受継(うけつ)いで総(すべ)ての経営(けいえい)に任(にん)じ       たのである先(ま)づ彼(か)の聖堂(せいどう)の振興(しんこう)であるがそれも大成(たいせい)したのは信明(のぶあき)が主(しゆ)として責任者(せきにんしや)たるの時代(じだい)である 《割書:信明と古賀|精里》  モツトモ彼(か)の有名(いうめい)なる尾藤(びとう)二 州(しゆう)、柴野栗山(しばのりつざん)両人(れうにん)の召(め)されたのは定信(さだのぶ)がまだ在職(ざいしよく)の当時(たうじ)であつたが古賀(こが) 《割書:寛政重修諸|家譜の編纂》  精里(せいり)の召出(めいだ)されたのは信明(のぶあき)が老中(らうちう)主席(しゆせき)たるの時代(じだい)である又(ま)たズツト前(まへ)に詳(くは)しく申述(まをしの)べてある寛政重修(かんせいぢうしう)       諸家譜(しよかふ)の編纂(へんさん)と云(い)ふものは実(じつ)に信明(のぶあき)の事業(じげふ)と云つてもよいので此(この)書物(しよもつ)は寛永系図(かんえいけいづ)、貞享書上(ぢようけうかきあげ)に継(つい)で其(その)       誤謬脱漏(ごびやうだつろう)を補正(ほせい)したものであるが武家(ぶけ)の歴史(れきし)に取(と)つては唯(ゆ)一つ資料(しれう)で最(もつと)も大切(たいせつ)のものと相成(あひな)つて居(を)る       次第(しだい)である之(これ)は実(じつ)に一千五百二十五 巻(くわん)と云ふ大部(だいぶ)のもので前(まへ)にも御話(おはなし)した事のある堀田正敦(ほつたまさあつ)と云ふ人       が其(その)編纂(へんさん)に関(かん)する総裁(そうさい)を命(めい)ぜられたのであるが林述斉(はやしじつさい)は監修(かんしう)の役(やく)に当(あた)り成島司直(なるしましちよく)、屋代弘賢(おくしろこうけん)などの学(がく)       者(しや)が之(これ)に関与(かんよ)したものである其(その)事業(じげふ)は最初(さいしよ)寛政(かんせい)十一年から始(はじ)まつて文化(ぶんくわ)九年に至(いた)りヨウ〳〵巧(こう)を竣(かわ)つ       たのであるから其(その)間(あひだ)十四ケ年を費(つひや)した次第(しだい)であるが此(この)十四ケ年の中(うち)僅(わづか)に享和(けうわ)三年十二月から文化(ぶんくわ)三年       五月まで二ケ年半(ねんはん)許(ばかり)の外(ほか)は悉(こと〴〵)く信明(のぶあき)が老中(らうちう)の上座(ぜうざ)たるの時代(じだい)であるから此(この)事業(じげふ)に対(たい)する信明(のぶあき)が統括(とうかつ) 《割書:徳川実記並|に朝野旧聞|裒稿の編纂》  誘掖(ゆうえき)の功(こう)と云ふものは容易(ようゐ)ならざるものがあつた事と確信(かくしん)するのであるそれのみならず御承知(ごせうち)の徳川(とくがは)       実記(じつき)並(ならび)に朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうかう)の編纂(へんさん)と云ふものも矢張(やはり)述斉(じつさい)だの司直(しちよく)だのゝ関係(かんけい)したのであるが之(これ)は文化(ぶんくわ)六年       即(すなは)ち信明(のぶあき)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)として最(もつと)も勢力(せいりよく)のあつた時代(じだい)に起(おこ)つた事業(じげふ)で嘉永(かえい)二年に至(いた)つて出来上(できあが)つたのであ       る之(これ)亦(ま)た孰(いづ)れも大部(だいぶ)の書物(しよもつ)で今日(こんにち)に於(おい)ても徳川時代(とくがはじだい)に関(かん)する歴史上(れきしぜう)の一 大宝典(だいほうてん)となつて居(を)るものであ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       る蓋(けだ)し其(その)時代(じだい)を通(つう)じて文学上(ぶんがくぜう)の大事業(だいじげふ)として之程(これほど)のものは他(た)になかつた事と信(しん)ずる 《割書:信明と伊能|忠敬》  又(ま)た伊能忠敬(いのうたゞよし)が海岸(かいがん)を測量(そくれう)して我国(わがくに)の地図(ちづ)を製作(せいさく)したのも多(おほ)くは信明(のぶあき)が権勢(けんせい)を握(にぎ)れる当時(たうじ)の事である       が其(その)製図(せいづ)の見事(みごと)なものが今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る事などは既(すで)に前章(ぜんせう)に於て申述(まをしの)べた如(ごと)くであるが勿(もち)       論(ろん)之(これ)にも信明(のぶあき)が多大(ただい)の関係(かんけい)を有(ゆう)して居(を)つた事は明(あきらか)なる事実(じじつ)である其他(そのた)太田錦城(おほたきんじやう)を初(はじ)めて自藩(じはん)の儒者(じゆしや)       として採用(さいよう)したのも信明(のぶあき)であるが此(この)錦城(きんじやう)のことに就(つい)ては後章(こうせう)に於て詳(くは)しく申述(まをしの)ぶる考(かんが)へである又(ま)た前(まへ) 日光山殖林 にも段々(だん〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く彼(か)のに日光山(につかうざん)並(ならび)に其(その)街道(かいどう)多数(たすう)の杉樹(さんじゆ)を殖(う)へ付(つ)けたのは信綱(のぶつな)の叔父(おぢ)で正綱(まさつな)と云ふ人       であるが此(この)杉苗(すぎなへ)は毎年(まいねん)其(その)中(なか)に何分(なにぶん)づゝ枯(か)れるものなどが出来(でき)たので正綱(まさつな)の子孫(しそん)たる大多喜(おたき)の大河内家(おほかうちけ)       に於(おい)ては代々(だい〳〵)之(こ)れが植継(うゑつぎ)の為(ため)には苦心(くしん)もし又(ま)た費用(ひよう)をも投(とう)じたものであるが信明(のぶあき)も又(ま)た此(この)祖先(そせん)の遺業(ゐげふ)       に倣(なら)つて享和(けうわ)元年(がんねん)矢張(やはり)此(この)日光山(につかうざん)に殖林(しよくりん)の事業(じげふ)を計画(けいくわく)したのである其(その)当時(たうじ)信明(のぶあき)が殖林地(しよくりんち)へ建設(けんせつ)した碑(ひ)が       あるが此(この)刻文(こくぶん)は左(さ)の如(ごと)くである        下野国河内郡針谷村之東大谷川之南塩野室村之西矢野口村之北有地曰萱野今界弐拾五町捌反歩植松        桧等壱拾五万株又鑿渠環之以備野焼庶幾待以歳月修茂一拱抱以充日光山 両廟修繕之材云       私(わたくし)はまだ遺憾(ゐかん)な事には此(この)碑(ひ)を実見(じつけん)する機会(きくわい)を得(え)ないから今日(こんにち)も尚(な)ほ之(これ)が現存(げんぞん)して居(を)るや否(いな)やは明言(めいげん)が       出来(でき)兼(か)ぬるのである併(しか)し或人(あるひと)の話(はなし)によると此(この)森林(しんりん)は今(いま)実(じつ)に繁殖(はんしよく)して莫大(ばくだい)の価値(かち)あるものとなつて居(を)る       と云ふ事である其外(そのほか)信明(のぶあき)が事に就(つい)てはまだ御話(おはなし)すれば中々(なか〳〵)尽(つ)きぬのであるが尚(な)ほ一二 大切(たいせつ)の事を申述(まをしの)      べて一 先(ま)づ此(この)章(せう)を終(をは)りたいと思(おも)ふのである之(これ)は信明(のぶあき)がズツト若(わか)い時(とき)の事で寛政(かんせい)七年に行(おこな)はれたものであ       るが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く当時(たうじ)田沼(たぬま)弊政(へいせい)の後(あと)を受(う)けて世(よ)の中(なか)が実(じつ)に遊惰(ゆうだ)に流(なが)れつゝあるので大(おほひ)に士気(しき)を 《割書:小金原の狩|猟》  鼓舞(こぶ)する必要(ひつえう)があると云ふ処から其(その)三月五日 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)が自(みづか)ら出馬(しゆつば)して小金原(こがねがはら)で大(おほひ)に狩(かり)をした事がある 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十五 【欄外】    豊橋市史談  (太田錦城と信明)                    三百五十六 【本文】       此(この)時(とき)の陣立(ぢんだて)と云ふものは頗(すこぶ)る大規模(だいきぼ)のものであつたが其(その)総指揮官(そうしきくわん)とも云ふべき役(やく)は信明(のぶあき)が之(これ)を勤(つと)めた       のである当時(たうじ)の模様(もやう)は委(くは)しく書(か)いたものも今(いま)残(のこ)つて居(を)るが信明(のぶあき)は此(この)時(とき)将軍(せうぐん)から恩賞(おんせう)として陣羽織(ぢんはをり)を賜(たまは)       つたので人々(ひと〳〵)之(これ)を光栄(くわうえい)なりとしたのであるから之(これ)も此処(こゝ)に概要(がいえう)申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである而(しか)し       て尚(なほ)一つ最後(さいご)に申述(まをしの)べたいのは信明(のぶあき)が勤王心(きんわうしん)の深(ふか)かつた事実(じじつ)である 《割書:信明の勤王|心》  元来(がんらい)我国民(わがこくみん)の勤王心(きんわうしん)に厚(あつ)きことは当然(たうぜん)であつて言(い)ふ迄(まで)もない事であるが併(しか)し徳川時代(とくがはじだい)にあつては其(その)徳川(とくがは)       氏(し)が武運(ぶうん)の長久(てうきう)ならむ事を思(おも)ふの余(あま)り間々(まゝ)其(その)人(ひと)の勤王心(きんわうしん)を疑(うたが)はるゝ場合(ばあひ)がないとも云へぬのである例(たと)       へば定信(さだのぶ)が尊号事件(そんがうじけん)に於けるが如き如何(いか)にも時(とき)の朝庭(てうてい)の思召(おぼしめし)に逆(さから)つた形(かたち)がある然(しか)るに此(この)定信(さだのぶ)と云ふ人       が又(ま)た実(じつ)に勤王心(きんわうしん)に富(と)むで居(を)つたので其(その)志(こゝろざし)が行(おこなひ)の上(うへ)に現(あら)はれて居(を)つたことは数々(しば〴〵)証拠立(せうこだ)てられるの       であるが信明(のぶあき)も亦(ま)た実(じつ)に勤王(きんわう)の志(こゝろざし)が深(ふか)かつた人で勿論(もちろん)当時(たうじ)の事でもあり身(み)は徳川氏(とくがはし)の執政(しゆつせい)であつた       処から天下太平(てんかたいへい)を祈(いの)ると同時(どうじ)に徳川氏(とくがはし)の武運長久(ぶうんてうきう)をも希(こひねが)つた事であると信(しん)ずるが一 方(ぱう)に於ては又(ま)た       実(じつ)に朝庭(てうてい)を尊(たつと)ぶの志(こゝろざし)が厚(あつ)かつた事を証明(せうめい)さるゝ事実(じじつ)があるのであるそれに対(たい)する二三は既(すで)に前(まへ)にも       申述(まをしの)べて置(お)いた考(かんがへ)であるが此頃(このころ)信明(のぶあき)の詠詩(えいし)の中(なか)にも間々(まゝ)其(その)志想(しさう)を見(み)るに足(た)るべきものを発見(はつけん)するので       ある之(これ)に就(つい)ては一々 引例(ゐんれい)して申述(まをしの)べたいのであるが今日(こんにち)は少(すこ)しく時間(じかん)が容(ゆる)さぬ事情(じぜう)があるから今(いま)は其(その)       概要(がいえう)に留(とゞ)むるが兎(と)に角(かく)此(この)前提(ぜんてい)丈(だけ)は此処(こゝ)に申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである             ⦿太田錦城と信明       信明(のぶあき)の性行(せいかう)並(ならび)に事蹟(じせき)に関(かん)しては申述(まをしの)べたい事(こと)もマダ数多(かずおほ)いことであるが先(ま)づザツト右(みぎ)の通(とほり)として此処(こゝ)に       は少(すこ)しく太田錦城(おほたきんじやう)の事に就(つい)て御話(おはなし)したいと思(おも)ふ 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百六十三号附録    (大正二年一月十四日発行) 【本文】       彼(か)の有名(ゆうめい)なる儒者(じゆしや)太田錦城(おほたきんじやう)と云(い)ふ人(ひと)は之(これ)亦(ま)た最初(さいしよ)信明(のぶあき)が草莽(そうもう)の中(なか)より抜擢(ばつてき)した人(ひと)であるが信明(のぶあき)は此(この) 太田錦城  人(ひと)を採用(さいよう)して吉田藩(よしだはん)の儒員(じゆゐん)となしたのである元来(ぐわんらい)錦城(きんぜう)は加賀国(かゞのくに)大聖寺(だいせうじ)の生(うまれ)で父(ちゝ)を玄寛(げんかん)と云(い)つたが博覧(はくらん)       強気(けうき)の人(ひと)で陰陽本草(ゐんようほんそう)の学(がく)に精(くは)しく世々(よゝ)大聖寺藩主(だいせいじはんしゆ)前田侯(まへだこう)に事(つか)へたのである此(この)人(ひと)は樫田氏(かしだし)を娶(めと)つて八 人(にん)       の子(こ)を生(う)むだが錦城(きんぜう)は即(すなは)ち其(その)季子(きし)であつたのである而(しか)して錦城(きんぜう)も亦(ま)た幼(よう)にして頴悟(えいご)で五 歳(さい)の時(とき)既(すで)に士(し)       の字(じ)を土(つち)の字(じ)との区別(くべつ)を明(あきらか)にし十一 歳(さい)にして詩(し)を作(つく)り十三 歳(さい)にして経史(けいし)を講説(こうせつ)し郷里(けうり)で神童(しんどう)と呼(よ)び囃(はや)       されたのである御承知(ごせうち)の如(ごと)く神童(しんどう)などと云(い)はるゝものに最後(さいご)の大成功者(だいせいこうしや)はないとせられて居(を)るのであ       るが此(こ)の錦城(きんぜう)に限(かぎ)つては大(おゝい)に世(よ)の諺(ことわざ)に反(はん)して居(を)つたので長(ちやう)ずるに及(およ)むで所謂(いはゆる)四方(しはう)の志(こゝろざし)があり遂(つひ)に父(ちゝ)の       許(ゆるし)を得(え)て京都(けうと)に上(のぼ)り後(のち)江戸(えど)にも出(い)てゞ当時(たうじ)の名儒(めいじゆ)たる皆川淇園(みなかはきえん)、山本北山(やまもとほくざん)などに就(つい)て学(まな)むだのである       がドウモ己(おの)れの意(い)に満(み)たないので慨然(がいぜん)として学(がく)を古人(こじん)に求(もとめ)むとするの志(こゝろざし)を起(おこ)し爾来(じらい)万巻(ばんかん)の書(しよ)を読破(どくは)       しに大(おゝい)に暁(さと)る処(ところ)があつたのである然(しか)るにかゝる性質(せいしつ)の人(ひと)であつたから気(き)を負(お)ひ奇(き)を懐(いだ)くと云(い)ふ傾(かたむき)があ       つて妾(みだ)りに人(ひと)に下(くだ)るなどゝ云(い)ふ事(こと)はせぬ無論(むろん)聞達(ぶんたつ)を諸侯(しよこう)の間(あひだ)に求(もと)むるなどは思(おも)ひもよらぬ事(こと)であるか       ら頗(すこぶ)る逆境(ぎやくけう)に立(た)つて最(もつと)も貧苦(ひんく)と戦(たゝか)つたものである一 時(じ)は按摩(あんま)をして其日(そのひ)の糊口(ここう)を凌(しの)いだと云(い)ふ話(はなし)もあ       るのである然(しか)るに当時(たうじ)幕府(ばくふ)の医官(いくわん)に多紀桂山(たきけいざん)と云(い)ふ人(ひと)があつて博学洽聞(はくがくこうぶん)であつたが深(ふか)く士(し)を愛(あい)した人(ひと)       で殊(こと)に錦城(きんぜう)の才学(さいがく)に服(ふく)して之(これ)を其(その)子弟(してい)を教授(けうじゆ)せしめたのである蓋(けだ)し当時(たうじ)は朱子学(しゆしがく)を以(もつ)て正学(せいがく)とな       した時代(じだい)で其他(そのた)の学派(がくは)は如何(いか)にも異端(いたん)ででもある様(よう)に見(み)られたのであるが学者間(がくしやかん)に議論(ぎろん)が喧(やかま)しかつた       にも拘(かゝは)らず錦城(きんぜう)は飽迄(あくまで)自己(じこ)の信(しん)ずる処(ところ)を主張(しゆてう)して所謂(いはゆる)折衷的(せつちうてき)一 家(か)の識見(しきけん)をなしたのであるかゝる間(あひだ)に       信明(のぶあき)の知(し)る処(ところ)となつたのであるが之(これ)は一 説(せつ)には桂山(けいざん)が信明(のぶあき)に薦(すゝ)めたのだと云(い)ふ事(こと)であるソコで信明(のぶあき)は 錦城と信明 特(とく)に賓客(ひんかく)の礼(れい)を以(もつ)て錦城(きんぜう)を吉田藩(よしだはん)に聘(へい)し世子(せし)信順(のぶなり)に経書(けいしよ)を講説(こうせつ)せしむる事(こと)となつたのであるモツトモ 【欄外】    豊橋市史談  (太田錦城と信明)                    三百五十七 【欄外】    豊橋市史談  (太田錦城と信明)                    三百五十八 【本文】       此(この)錦城(きんぜう)任用(にんよう)の年月(ねんげつ)に就(つい)ては今(いま)判然(はんぜん)し兼(か)ぬるのであるが事実(じじつ)から推定(すいてい)すると之(これ)は文化(ぶんくわ)三四 年(ねん)の頃(ころ)で世子(せし)       は十五六 歳(さい)錦城(きんぜう)は四十二三 歳(さい)の頃(ころ)であつたものと信(しん)ぜられるのである之(これ)より錦城(きんぜう)が吉田(よしだ)藩学(はんがく)振興(しんこう)の為(ため) 時 習 館 に尽(つく)した事(こと)は少(すくな)くないが其(その)頃(ころ)我(わが)吉田(よしだ)には時習館(じしうくわん)と云(い)ふ藩校(はんかう)があつたのである之(これ)は信明(しんめい)の祖父(そふ)信復(のぶなほ)が吉(よし)       田(だ)に移封(いほう)になつた頃(ころ)起(おこ)したもので創立(そうりつ)当時(たうじ)は恐(おそ)らく三 浦竹渓(うらちくけい)が大(おほい)に関係(かんけい)した事(こと)であつたろうと思(おも)ふの       であるが信明(のぶあき)の時(とき)に至(いた)つては益々(ます〳〵)其(その)規模(きぼ)を拡張(くわくてう)し規律(きりつ)を改(あらた)めたのである而(しか)して西岡善助(にしをかぜんすけ)と云(い)ふ儒者(じゆしや)が       専(もつぱ)ら其(その)監督(かんとく)をして居(を)つたのであるが錦城(きんぜう)も亦(ま)た之(これ)が為(ため)には少(すくな)からず尽(つく)す処(ところ)があつたのである丁度(てうど)文政(ぶんせい)       二 年(ねん)信明(のぶあき)卒去(そつきよ)の年(とし)であるが世子(せし)信順(のぶより)は家督相続(かとくそうぞく)早々(そう〳〵)就国(じゆこく)の事(こと)があつて錦城(きんぜう)は之(これ)に随行(づいこう)して此(この)吉田(よしだ)に来(きた)       つた而(しか)して其(その)翌年(よくねん)迄(まで)此(この)地(ち)に留(とゞま)つたのであるが其(その)間(あひだ)は時習館(じじしうくわん)教授(けうじゆ)の任(にん)に当(あた)つたのである即(すなは)ち今日(こんにち)豊橋(とよはし)地(ち)       方(はう)に錦城(きんぜう)の書(か)いたものが残(のこ)つて居(を)るのも多(おゝ)くは此(この)時(とき)のものである       其後(そのご)錦城(きんぜう)は暇(いとま)を請(こ)ふて京都(けうと)に遊(あそ)むだが其(その)頃(ころ)加賀(かが)の金龍公(きんりうこう)から頻(しき)りに錦城(きんぜう)を聘(へい)したいと云(い)ふので度々(たび〳〵)の       交渉(こうせう)であつた初(はじ)めは信順(のぶより)も容易(ようい)に承知(せうち)しなかつたのであるが加賀公(かがこう)の切(せつ)なる請(こい)に遂(つひ)に固拒(こきよ)し難(がた)くなつ       て之(これ)を錦城(きんぜう)に諮(はか)つた処(ところ)己(おの)れの生国(せいこく)の事(こと)でもあるからと云(い)ふので之(これ)に応(おう)ずる事(こと)となつて禄(ろく)三百 石(こく)で加(か)       賀(が)に移(う)つたのである而(しか)して文政(ぶんせい)八 年(ねん)四月廿二日 病(やまひ)を以(もつ)て江戸(えど)に没(ぼつ)したのであるが享年(けうねん)六十一 墓(はか)は谷中(やなか)       の一 乗院(ぜうゐん)にある生前(せいぜん)に水戸(みと)の藤田幽谷(ふぢたゆうこく)と最(もつと)も親善(しんぜん)であつたと云(い)ふので幽谷(ゆうこく)が其(その)墓表(ぼへう)を書(か)いて居(を)るが此(この)       幽谷(ゆうこく)と云(い)ふ人(ひと)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く東湖(とうこ)の父(ちゝ)である       サテ錦城(きんぜう)は通称(つうせう)を才佐(さいさ)と云(い)つたが容貌(ようばう)清癯(せいく)で弁説(べんぜつ)は流(なが)るゝが如(ごと)く議論爽快(ぎろんそうくわい)で聴(き)く者(もの)をして倦(あ)くことを知(し)       らざらしめたとの事(こと)である而(しか)も洒々(しや〳〵)落々(らく〳〵)たるもので少(すこ)しも末節(まつせつ)に頓着(とんちやく)しなかつたから人(ひと)の非難(ひなん)を免(まぬ)が       れなかつたとの事(こと)である併(しか)し学問(がくもん)の該博(がいはく)なりしことは一 世(せ)を驚動(けうどう)せしめたもので著書(ちよしよ)も彼(か)の梧窓漫筆(ごそうまんひつ)を 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       初(はじ)め多数(たすう)に遺(のこ)つて居(を)ることは私(わたし)は今(いま)茲(こゝ)に詳(くわ)しく申上(まうしあげ)ずとも諸君(しよくん)が能(よ)く御承知(ごせうち)の如(ごと)くである 太田晴軒  サテ錦城(きんぜう)が此(この)吉田藩(よしだはん)を去(さ)るの時(とき)特(とく)に其(その)三 子(し)魯(ろ)三 郎(らう)と云(い)ふのを残(のこ)して吉田侯(よしだこう)へ仕(つか)へしめたが之(これ)が即(すなは)ち晴(せい)       軒(けん)と号(ごう)した人(ひと)で名(な)を敦(あつ)と云(い)つて父(ちゝ)に次(つい)での学者(がくしや)であつた其(その)十九 歳(さい)の時(とき)或夜(あるよ)亀田鵬齋(かめだほうさい)の宴(えん)に与(あづか)つたが偶(たま)       偶(〳〵)黒雲(こくうん)天(てん)を蔽(おゝ)つて明月(めいげつ)未(いま)だ出(い)でずと云(い)ふ光景(こうけい)であつたから鵬齋(ほうさい)は此(この)有様(ありさま)を題(だい)として各(おの〳〵)に詩(し)を賦せしめ       たが晴軒(せいけん)は立(たちどこ)ろに十二 首(しゆ)を賦(ぶ)して同席(どうせき)の諸名士(しよめいし)を驚(おどろ)かしめたと云(い)ふ事(こと)である此(この)人(ひと)は明治(めいぢ)六 年(ねん)まで存命(ぞんめい)       で其(その)十 月(ぐわつ)七十九 歳(さい)で病没(びやうぼつ)したのであるが今(いま)の愛知県(あいちけん)第(だい)二 中学校(ちうがくかう)教諭(けうゆ)太田才次郎(おゝたさいじらう)氏(し)は其(その)嫡孫(ちやくそん)で錦城(きんぜう)から       云(い)ふと曾孫(そうそん)に当(あた)る人(ひと)である尚(なほ)参考(さんこう)になる事(こと)が多(おゝ)いと思(おも)ふから重複(ちようふく)を厭(いと)はず藤田幽谷(ふぢたゆうこく)の書(か)いた錦城(きんぜう)の       墓表(ぼへう)全文(ぜんぶん)を御紹介(ごせうかい)したいと思(おも)ふ               錦城先生太田才佐墓表        文政八年、歳在乙酉、四月二十三日、錦城先生以疾終于江戸、享年六十有一、葬北郊谷中一乗院        城内、送葬者千余人、其友藤田一正在水戸、聞而哭之、謂人曰、斯人也、天下奇材、一代名儒、天        下之宝、固富為天下惜之、斯人而亡、其亦可悲也夫、先生太田氏、諱元貞、字公幹、錦城其別号、        而才佐其平時所自称也、七世祖柴山監物事豊太閤、食禄万石、監物之孫曰宥菴、隠於医、居京師、        有二子、皆以降仕加賀、加賀北藩大国、菅公之胤世為之君、宗国治金沢、而支封邑于大聖寺、宥菴        二子各自別族、長為能勢氏、事金沢、次為太田氏、事大聖寺城主、子孫因家焉、父曰玄覚、読書強        記、精於陰陽本草之説、好施与、行隠徳、娶樫田氏女、生八子、先生其季也、生於大聖寺之福田        里、生而頴異、五歳始識字、暁士土二義、十一作詩、十三講説経史、郷里号為神童、先生蚤従其兄        伯恒、□□家学、頗有所成立、然不耳為方枝之士、以匏緊北土、遂有四方之志、西詣京都、東遊江 【欄外】    豊橋市史談  (太田錦城と信明)                    三百五十九 【欄外】    豊橋市史談  (太田錦城と信明)                    三百六十 【本文】        都、覔当世宿学老儒、以厳事之、所謂淇園先生、北山先生者、其以文名、称雄東西、而請益質疑、        皆不満其竟、於是、慨然欲求之古人、□精刻苦、学大進、先生索懐奇負気、不妄届於人、大医桂山        多記氏博学洽聞、名震関東、而愛容下士、一時知名之士多従之遊、而特服先生才学、俾其子弟受業、        毎語人曰、才佐眞才子、今世縫掖第一、由是知名、我水戸文公亦聞其奇才、将欲辟之、適有沮之者        而不果、先生下帳教授、不求聞達於諸侯、窮居陋巷、若将終身焉、故閣老吉田源公重幣招之、為其        家嗣今吉田侯、講説経書、優待甚厚、巳卯、吉田侯就封、先生従焉、庚辰乞暇、再遊京師、搢紳学        士聴其論説、莫不驚服、是時、加賀金龍公惜先生北藩之産而為意外賓師、屡遣使于吉田邸、請先生、        吉田侯不可、迺悟其食俸、礼遇愈渥、然加賀侯之請益切、不能固拒、以命先生、先生亦以其父母之        邦、起而応其聘、加賀侯授禄二百石、班上士、不煩以職事、居無幾、金龍公即世、先生亦尋歿、人        皆曰、擇水之智、首丘之仁、先生兼之矣、配武田氏、生六男一女、曰穂厚、曰雄飛、曰敦、曰如晦、        曰玄齢、曰天瑞、徳厚称英太郎、嗣仕加賀食禄二百石、以善撃劔称、其余皆攻文学、雄飛先歿、敦        食粟於吉田、女嫁于古筆氏、初先生来江都、年甫弱冠、落魄無資、爨桂炊玉、且遭歉歳、拮据太窘、        漂游於二毛之野、険阻艱難莫不備甞、而其執志愈堅、不隕穫於貧賤、再至江都、竟成大儒、先生博        学、百氏之書無所不読、而尤長於経術、詩書易春秋、沈潜反覆、参互錯綜、攷證之妙、多発先賢所        未発、而於四子之書所以相終始者、最致思焉、上自先秦古文、下至後世雑書、苟有□経、莫不旁引        曲暢、審其同異、弁其是非、其漢唐宋明、及近時清人與我国朝諸価之説、会萃演繹、必帰諸至当而        止、至如老釈之書、占相之説、亦粗究其帰趣、凡宇宙三千治乱成敗、歴歴如指諸掌、而其於本朝、特        熟於応仁天正以来伝記英雄割拠之迹、其土彊広狭大小、兵賦多少強弱、及将士姓名譜牒、皆能娓々 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百七十号附録    (大正二年一月二十一日発行) 【本文】        言之、其於当世郡国利病、亦藕究其故、而独好談邊塞事、然時政得失、不敢妄議、独曰、其治乱之        原、在人主奢與倹而巳、其論議武練兵、則曰、威敵利器、固在口鋭、而養士卒之勇、莫如刀槍、城        府之間、或専恃長兵、而不知用短者、其俗必弱矣、識者以為知言、若其詩文才多之余、初務舖叙、        喜彫琢、晩更簡易平淡、而其奇気可愛者、始終如一、要不踏襲前人、卓然自成一家伝、先生既歿、        其門人謀所以表其墓者、僉謂、当世無能文之士、而其與先生相識最旧者莫如余、嗚呼先生、余不相        見久矣、其容貌清爟、胸襟潚洒者、猶能髣髴其一子、生而雄弁懸河、飛談捲霧者、今不復得聴矣、        経伝之理、其誰與釋其疑難也、古今之事、其誰與上下其議論也、嗚呼、先生之為人、疎暢洞達、不        事矯飾、名之所在、謗亦随焉、古人不云乎、能言而不能行者、国之宝也、能行而不能言者、国之用        也、世之君子、汲々富貴之徒、才身家之諛、而不知其能言之為宝者、独何哉、余今表其口以告天下        後世之人、常陸藤田一正述、             ⦿信明と其城主時代に於ける吉田の情況       前章(ぜんしよう)に段々(だん〳〵)と申述(まうしの)べた如(ごと)くで信明(のぶあき)に関(かん)する事蹟(じせき)に就(つい)ては約(ほ)ぼ御承知(ごせうち)に相成(あひな)つた事と思(おも)ふのであるが余(あま)       り話(はなし)の区域(くいき)が広(ひろ)くなつた結果(けつくわ)更(さら)に前数章(ぜんすうしやう)を繰(く)り返(かへ)して茲(こゝ)に其(その)一 生(せう)を約言(やくげん)して置(お)かぬと後(のち)に申述(まうしの)ぶる事(こと)       柄(がら)との関係上(かんけいぜう)不便(ふべん)であると考(かんが)へるのみならず多少(たせう)補正(ほせい)もしたい処(ところ)があるので先(ま)づ本章(ほんせう)の初(はじめ)に当(あた)つて尚(なほ)       少(すこ)しく信明(のぶあき)に就(つい)て諸君(しよくん)の御清聴(ごせいてう)を煩(わづら)はしたいと思(おも)ふのである       前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まうしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)と云(い)ふ人(ひと)は宝暦(ほうれき)十三年二月十日 江戸(えど)谷中(やなか)の邸(やしき)で生(うま)れ明和(めいわ)七年六月廿二日       父(ちゝ)信礼(のぶゐや)の卒去(そつきよ)により年(とし)僅(わづか)に八 歳(さい)で其(その)年(とし)の七月十二日 家督(かとく)を継(つ)ぎ父(ちゝ)の遺領(いれう)を賜(たまは)つたのであるが天明(てんめい)八年 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十一 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十二 【本文】       二月二日 年(とし)二十六で初(はじ)めて側用人(そばようにん)に任(にん)ぜられ其年(そのとし)の四月四日一 躍(やく)して老中(ろうちう)の列(れつ)に加(くわ)はつたのである元(がん)       来(らい)此(この)抜擢(ばつてき)は実(じつ)に異例(いれい)で到底(たうてい)他(た)に比類(ひるい)のない事であるが之(これ)は全(まつた)く彼(か)の定信(さだのぶ)の推挙(すいきよ)に依(よ)つた事で定信(さだのぶ)は其(その)       後(ご)嘗(かつ)て人(ひと)に向(むかつ)て我(われ)重任(ぢうにん)に居(を)るも一 事(じ)の誇(ほこ)るべきものなし只(たゞ)一 賢(けん)を得(え)て之(これ)を進(すゝ)めたり庶(こいねがは)くは罪戻(ざいれい)を免(まぬが)る       べしと云(い)つたとの事(こと)であるが此(この)一 賢(けん)を得(え)たと云(い)つたのは実(じつ)に信明(のぶあき)を指(さ)したものである爾来(じらい)信明(のぶあき)は全力(ぜんりよく)       を挙(あ)げて定信(さだのぶ)の政治(せいぢ)を輔(たす)けたものであるがそれから享和(けうわ)三 年(ねん)十二月廿二日までは大約(たいやく)十六 年間(ねんかん)であつ       て茲(こゝ)に至(いた)つて一たび其(その)職(しよく)を退(しりぞ)いたがそれより文化(ぶんくわ)三 年(ねん)五月まで約(やく)二ケ年半(ねんはん)許(ばかり)の間(あひ)は閑散(かんさん)の位置(いち)にあつ       たのであるトコロが其(その)月(つき)の廿五日 再(ふたゝ)び老中(らうちう)に任(にん)ぜられて其(その)上座(ぜうざ)に列(れつ)し更(さら)に天下(てんか)に重(おも)きをなした事(こと)が十       一 年余(ねんよ)で文化(ぶんくわ)十四 年(ねん)の八月十六日 在職(ざいしよく)のまゝ病(やまい)で卒去(そつきよ)せられたのである享年(けうねん)は五十五 歳(さい)であるが前章(ぜんせう)       にドウ云(い)ふ間違(まちがひ)か活字(くわつじ)が五十八 歳(さい)となつて居(を)るから幸(さいはひ)に此処(こゝ)で之(これ)を訂正(ていせい)して置(お)きたいと思(おも)ふのである       此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で信明(のぶあき)が此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)たりし事(こと)は大約(たいやく)四十七 年許(ねんばかり)又(ま)た其(その)間(あひだ)に於(おい)て天下(てんか)の執政(しつせい)たりし事(こと)も前(ぜん) 信明の体質 後(ご)通(つう)じて二十八 年(ねん)に近(ちか)い次第(しだい)であるから其(その)事蹟(じせき)の多(おほ)いのも当然(たうぜん)であるが元来(がんらい)信明(のぶあき)は其(その)幼児(ようじ)甚(はなは)だ虚弱(きよじやく)な       質(たち)で十三 歳(さい)と相成(あひな)つた時(とき)例(れい)によつて時(とき)の将軍(せうぐん)に拝謁(はいえつ)すべきものを幼少(ようせう)より積気(しやくき)があつて且(か)つ便旋頻数(べんせんひんすう)到(たう)       底(てい)長座(てうざ)に堪(た)へ難(がた)いと云(い)ふ事情(じぜう)で之(これ)を延期(えんき)しヨウ〳〵十五 歳(さい)の三月 初拝謁(しよはいえつ)を行(おこな)つたと云(い)ふ訳(わけ)であつたの       で終生(しうせい)余(あま)り健康(けんこう)の質(たち)ではなかつたように信(しん)ぜられる併(しか)し前(まへ)にも屡々(しば〳〵)申述(まうしの)べた如(ごと)く極(きわ)めて精力絶倫(せいりよくぜつりん)の人(ひと)       で此(この)長(なが)い間(あひだ)には屡々(しば〳〵)暇(ひま)を得(え)て国(くに)に就(つ)いたのであるが在国中(ざいこくちう)は特(とく)に地方(ちはう)の政治向(せいぢむき)に留意(りうい)し一たび老中(らうちう)辞(じ)       職(しよく)の後(のち)文化(ぶんくわ)二 年(ねん)六月から翌(よく)三 年(ねん)の五月まで殆(ほとん)ど満(まん)一ケ年間(ねんかん)在城(ざいぜう)した時(とき)の如(ごと)きは大(おほい)に藩中(はんちう)の文武(ぶんぶ)を振興(しんこう)       したものであるが其(その)逸話(いつわ)は今(いま)も老人(らうじん)間(かん)に伝(つた)へられて居(を)るのである 信明の葬儀 又(ま)た信明(のぶあき)卒去(そつきよ)の時(とき)は病気中(びやうきちう)数々(しば〳〵)将軍(せうぐん)から見舞(みまい)があつたが其(その)喪(も)は八月廿八日に至(いた)つて発(はつ)せられ翌日(よくじつ)より 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       九月一日まで鳴物(なりもの)の停止(ていし)を命(めい)ぜられたのである葬儀(そうぎ)は九月二日で翌日(よくじつ)野火留(のびどめ)の平林寺(へいりんじ)先塋(せんえい)の次(つぎ)に葬(ほうむ)ら       れたが諡号(いつがふ)は瑞龍院殿乾翁元徳大居士(ずいりうゐんかんおうげんとくたいこじ)と云(い)ふのである尚(な)ほ此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付(つ)け加(くわ)へて置(お)くが信明(のぶあき)は生前(せいぜん)其(その)       別号(べつがう)を嵩岳(すがく)と云(い)つたが青年時代(せいねんじだい)には犀峯(さいほう)と称(せう)したのである       以上(いぜう)の如(ごと)き次第(しだい)であるから信明(のぶあき)が城主(ぜうしゆ)たりし長(なが)き間(あひだ)には此(この)吉田(よしだ)にも色々(いろ〳〵)な事柄(ことがら)があつたであろうと思(おも)       ふシカシ信明(のぶあき)自身(じしん)の事蹟(じせき)に関(かん)する資料(しれう)が実(じつ)に豊富(ほうふ)なる割合(わりあひ)には其他(そのた)の材料(ざいれう)として残(のこ)つて居(を)るものゝ甚(はなは)       だ少(すくな)いのは遺憾(いかん)とする処(ところ)である其(その)中(うち)大要(たいえう)分(わか)つて居(を)るものに就(つい)ては之(これ)から段々(だん〳〵)と申述(まうしの)ぶる考(かんがへ)である 《割書:時習館の創|立》  先(ま)づ此処(こゝ)に御話(おはな)したいと思(おも)ふのは時習館(じしうくわん)の事(こと)であるが此(この)時習館(じしうくわん)と云(い)ふのは諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く吉田藩(よしだはん)       の藩校(はんかう)であつて維新(いしん)当時(たうじ)迄(まで)継続(けいぞく)して此(この)豊橋(とよはし)に存立(ぞんりつ)して居(を)つたものであるが此(この)藩校(はんかう)を創立(そうりつ)したのは前(まへ)に       も一寸(ちよつと)申述(まうしの)べて置(お)いた如(ごと)く信明(のぶあき)の祖父(そふ)の信復(のぶなほ)である此信復(このゝぶなほ)と云(い)ふ人(ひと)は既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く三浦竹渓(みうらちくけい)       を師(し)としたので学(がく)は古今(こゝん)に通(つう)じ最(もつと)も賢(けん)を愛(あい)し才(さい)を挙(あ)ぐる事(こと)に勉強(つと)めたのであるが此(この)人(ひと)の文集(ぶんしう)詩集(ししう)は今(いま)も       大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので此頃(このごろ)も拝見(はいけん)したが其(その)文集中(ぶんしうちう)には頗(すこぶ)る伝(つた)ふべきものがあると思(おも)ふのである之(これ)       は又(ま)た折(をり)を以(もつ)て申述(まうしの)ぶるであろうが兎(と)に角(かく)かゝる賢明(けんめい)な人(ひと)であつたから夙(つと)に興学(こうがく)の志(こゝろざし)があつたので浜(はま)       松(まつ)から此(この)吉田(よし)に移封(いほう)せらるゝや程(ほど)なく藩校(はんかう)を起(おこ)して之(これ)に時習館(じしうくわん)と命名(めい〳〵)したのである即(すなは)ちそれは宝暦(ほうれき)二       年(ねん)の事(こと)であるが此(この)時(とき)信復(のぶなほ)は老臣(らうしん)の北原忠兵衛(きたはらちうべえ)に命(めい)じて館名(かんめい)を扁額(へんがく)に書(しよ)せしめたのである忠兵衛(ちうべえ)は名(な)を       忠光(たゞみつ)と云(い)つて当時(たうじ)藩中(はんちう)の能書家(のうしよか)であつたのである而(しか)も其(その)額(がく)は維新後(いしんご)まで存在(ぞんざい)して後(の)ち豊橋町(とよはしてう)が中学校(ちうがくかう)       を設立(せつりつ)し之(これ)に時習館(じしうくわん)の名(な)を冠(かん)せしめた時(とき)矢張(やはり)それを持(も)つて行(い)つて玄関(げんくわん)に掲(かゝ)げてあつたように記憶(きおく)する       のであるが今(いま)果(はた)して県立(けんりつ)の第(だい)四 中学(ちうがく)に引継(ひきつ)がれてあるかドウか幸(さいはひ)にありとすれば私(わたくし)は記念(きねん)として之(これ)を       豊橋(とよはし)の新設(しんせつ)図書館(としよくわん)にでも保存(ほぞん)したいものであると思(おも)ふ尚(なほ)其(その)当時(たうじ)に於(お)ける館(くわん)の規定(きてい)と云(い)ふものが残(のこ)つて 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十三 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十四 【本文】       居(を)るから今(いま)試(こゝろみ)に左(さ)に掲(かゝ)げて御参考(ごさんかう)に資(し)せたいと思(おも)ふ                定        一先年被仰出候通文武之芸術弥無懈怠可致修行事        一今度諸稽古道場被仰付候間朝六ツ時ヨリ暮六ツ時迄面々相集望次第稽古可仕事        一文武ノ稽古ノ外一切寄合申間敷事        一火元入念仕廻候節面々火元心附可申事        一喧嘩口論相慎ミ相互批判等並ニ礼儀正敷聊モ無礼無之様相慎事        一諸稽古打込無隔意師匠々々罷出可致指南事        一世上雑談無用ノ事        一酒可為無用事附詩会有之時用候共不可過三爵事        一師匠共依估贔負芸ノ善悪沙汰不可有事        一相集不宜遊堅仕間敷事        一建具等並ニ竹木等ニ至ル迄紛失無様可心付事        右條々堅可相守者也         宝暦二年申七月 《割書:信明時習館|を拡張す》  かくの如(ごと)き訳(わけ)で時習館(じしうくわん)は創立(そうりつ)されたのであるが併(しか)しまだ不完全(ふくわんぜん)の点(てん)も甚(はなは)だ少(すくな)からざりし事(こと)であつた事(こと)       と思(おも)ふ然(しか)るに信明(のぶあき)の時代(じだい)となつて前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く一たび老中(らうちう)の職(しよく)を退(しりぞ)き文化(ぶんくわ)二 年(ねん)から国(くに)に就(つ)いて       吉田(よしだ)に来(き)て居(を)られる間(あひだ)に此(この)藩校(はんかう)を興隆(こうりう)することを勉(つと)められたので規模(きぼ)も余程(よほど)拡張(かくてう)された様子(やうす)であるが此(この) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百七十七号附録    (大正二年一月二十九日発行) 【本文】 西岡善助  時(とき)彼(か)の西岡善助(にしをかぜんすけ)は擢(ぬきん)でられて藩(はん)の儒官(じゆくわん)となり其(その)教授職(けうじゆしよく)に任(にん)ぜられたのである善助(ぜんすけ)は名(な)を淵(えん)号(ごう)を天津(てんしん)と       称(せう)した人(ひと)で論語徴訓約覧(ろんごてうくんやくらん)と云(い)ふ著書(ちよしよ)がある而(しか)して其(その)時(とき)新(あらた)に定(さだ)められたる時習館(じしふくわん)の規條(きてう)と云(い)ふものがあ       るから之(これ)も左(さ)に御紹介(ごせうかい)することとする                時 習 館 規 條        時習館之儀今度猶又厚思召ヲ以テ追々結構被為仰出候依之館中へ出席之面々少長トナク何レモ一同        出精可致候抑聖賢之学校被興候事治国之基人才ヲ育フ地ニテ文武ノ道皆是ヨリ出候事ニテ士太夫タ        ル者ノ子ハ別シテ末々御政事ニ与リ申事ニ候得ハ猶更幼年ヨリ館中ヘ罷出学問ノ儀ハ別テ専出精可        致事ハ其道忠孝ヲ本トシ君臣父子兄弟長幼等ノ儀ヲ明ラカニシ国民ヲ集メ命令ヲ施シ入ルヲ計リ出        スヲ為シ国ノ水乾ノ手当人ヲ愛シ民ヲ恵ムノ法悉ク此館ニテ講習致iシ其外燕享養老郷射等都テ礼法        ニ拘リ申候儀相学申候内ヨリ自然ニ発明致シ悪ヲ去リ善ニ相染父母モ安堵シ君ニモ御成不浅儀ニテ        忠孝ノ二ツ声ノ響キニ応シ水ノ形ヲ鑑ミル如ク其微明白ニ候当時幼輩ノ者ハ先館中ニテ素読専ラニ        致シ意味ハ成長ニ随ヒ講釈追々聞染候得ハ自然ニ相分リ申物ニ候其余ハ面々志次第博学ニ可至候諸        事追々被為改候思召ニテ今般掛リ之者被仰付素読世話人早朝ヨリ相詰候相互ニ自分修行ハ不及申館        中ヘ出候テ行儀正敷致シ教候者依怙贔屓ナク精々世話可致候講釈出席名前日々書留是又毎月朔日可        差出候格別出精ニテ昇達之者是迄之通毎暮ニ出シ可申候出席ノ者ヘ左ノ箇條之趣掛リノ者月並一同        為読聞幼年ノ者ヘハ末ニ出候趣是亦月並為読聞可申候         一素読致候者毎期六ツ半時ヨリ罷出到着順ヲ以テ名札掛ケ混雑不致教候者ヘ一礼致シ静ニ読ミ可          申候読畢リ又一礼シテ退クヘシ且着座致候節無貴賤ト出候順ニ教ヘ可申候惣テ進退静ニ致シ所 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十五 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十六 【本文】          習ノ書ヲ暗踊シ忘却セサル事専用ニ候         一素読本成タケ無点宜敷候自分ニテ仮名等附申間敷候         一素読篇数ノ儀ハ教候者許シ無之内ハ幾篇モ読ムヘシ多ク習フ事ヲ求メス只々所習ヲ不忘様可心          掛候         一素読ノ書ハ孝経、論語、詩経、書経、礼記、易経、春秋ニ限リ孟子学庸ノ類モ読候テモ宜敷候          大概右書数相読ミ候得ハ其余ハ自分ニテ読申候間常ニ復読無懈怠可致候          但十五六歳以上ニテ素読相初候者ハ右ノ内何ニテモ二三部モ暗踊致程心掛候得ハ右力ニテ外ノ          書読メ申候年齢ヲ不耻相初可申候且年重サノ者共一同罷出講釈可承候其益多カルヘク候         一講釈ノ者孝経、論語、詩経、書経、礼記、易経、右六部ニ相限リ可申候其余ハ時ノ差略可有之          候         一会読ノ書周礼、儀礼、左伝、国語其外史記、漢書等追々昇達之者ヘ会読可為致候         一講釈、会読、素読ノ節ハ勿論惣テ館中ニ於テ無益ノ雑談無用之事         一志厚面々定日ノ外モ会読、論講、詩文会等申合セ教授エ相談可致候         一館中ニ於テ若シ失礼ノ節有之節ハヾ早速掛リノ者申ナタメ口論大声等為致間敷事         一幼年ノ輩素読退屈出追々懈怠致シ却テ教方等悪様ニ云ヒナシ或ハ己精学ニ随ヒ自己ノ見ヲ立師          ノ恩ヲ忘レ被是批判致間敷事         一御役人以上ノ内若キ者ハ猶更無懈怠出席仕諸事心付可申候左候得ハ館中弥厳重ニ相成以下ノ者          励ミニモ相成候事ニ候幼年ノ輩ヘ被仰出 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         一幼年ノ者館中ヘ罷出第一行儀正敷仕リ師ノ教ヲ相守リ毎朝罷出素読出精仕所習ノ書不忘様復読          専ラニ可致候館中ノ義ハ文武講習仕候重キ御場所之義ニ候得ハ聊心得違等不仕幼年ヨリ悪キ友          ニ交ラス善事ニ進ミ稽古事等出精可仕候左候得ハ親共安心致シ何寄ノ孝心ニ相成且ハ学問出精          致シ候得ハ成長ニ従ヒ義理ニ明ラカニ相成何様ノ勤モ相成取計向自然ニ宜敷君ニモ御安堵被為          遊候間猶又前文ケ條之趣追々相弁ヘ呉々心得違致ス間敷候        右之趣可相守候           文化三丙寅年五月       右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)で信明(のぶあき)は此(この)在城中(ざいじやうちう)には特(とく)に大(おほい)に文武(ぶんぶ)を奨励(せうれい)し藩学(はんがく)の振興(しんこう)を計(はか)つたものであるが其後(そののち)太田錦(おほたきん)       城(じやう)が聘(へい)せられて後(のち)亦(ま)た此(この)時習館(じしふくわん)に教授(けうじゆ)たりし時代(じだい)があるのである此(この)事(こと)は前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べて置(お)いたが又(ま)       た後章(こうせう)に於(おい)ても御話(おはなし)する場合(ばあひ)があることと信(しん)ずるサテ士族(しぞく)の子弟(してい)に対(たい)する教育方針(けういくはうしん)がかゝる有様(ありさま)であつ 《割書:平民子弟の|教育》  たから延(ひ)いては平民(へいみん)子弟(してい)の教育(けういく)にも影響(えいけう)した様子(やうす)であるが其頃(そのころ)此(この)時習館(じしふくわん)には平民(へいみん)の子弟(してい)が通学(つうがく)しても       敢(あへ)て差支(さしつかへは)ないようになつて居(を)つた事(こと)と信(しん)ずるモツトモ或(ある)記録(きろく)によると平民子弟(へいみんしてい)の入学(にふがく)は許可(きよか)されなか       つたとしてあるがそれはそうではなくて敢(あへ)て入学(にふがく)は拒(こば)まずとも平民(へいみん)の子弟中(していちう)には殆(ほとん)ど之(これ)に来(きた)るものが       なかつたと云(い)ふのが事実(じじつ)であると思(おも)ふ而(しか)して平民子弟(へいみんしてい)の教育(けういく)は多(おほ)く寺子屋式(てらこやしき)の処(ところ)で行(おこな)はれたものであ       つたが当時(たうじ)行(おこな)はれた処(ところ)の習字(しふじ)の手本(てほん)が私(わたくし)の友人(ゆうじん)の処(ところ)に残(のこ)つて居(を)るので之(これ)を借覧(しやくらん)するのに中々(なか〳〵)興味(けうみ)のあ       るものである寛政(かんせい)十二 年(ねん)と云(い)ふ年号(ねんごう)が書(か)いてあるが多(おほ)くは書翰文(しよかんぶん)で実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける町人(てうにん)の通用文(つうようぶん)の       有様(ありさま)が伺(うかゞ)ひ知(し)れるのである而(しか)もそれが一々 実用向(じつようむき)で其日(そのひ)から直(たゞ)ちに家庭(かてい)に間(ま)に合(あ)ふようなもの計(ばか)りで       あるのは大(おほい)に参考(さんかう)とすべき事(こと)と思(おも)ふ殊(こと)に其次(そのつぎ)には吉田市中(よしだしちう)の各町名(かくてうめい)が列記(れつき)してあるが之等(これら)は最(もつと)も実用(じつよう) 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十七 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十八 【本文】       的(てき)であるのみならず今日(こんにち)から見(み)ると其(その)沿革(えんかく)を知(し)る上(うへ)にも面白(おもしろ)いと思(おも)ふから左(さ)に掲(かゝ)げて置(お)きたいと思(おも)ふ          (吉田の町名)   榎川岸    船  町   田  町   坂下町          上伝馬町     天王小路   本  町   札木町    呉服町          曲尺手町     鍛冶町    下モ町    新  町   瓦  町          萱   町    指笠町    魚  町   御輿休町   垉六町          下 リ 町    新銭町    中  柴   天白前    神明前          清   水    紺屋町    手間町    元鍛冶町   利  町          龍拈寺世古    猿  屋   中世古    談合宮    御堂世古          悟眞寺世古    薬師世古   西  町   西  宿   牟呂街道          組 屋 舗       モツトモ此(この)町名(てうめい)の沿革(えんかく)に就(つい)てはズツト古(ふる)い処(ところ)から色々(いろ〳〵)御話(おはなし)すべき事(こと)があるので段々(だん〴〵)取調(とりしらべ)も出来(でき)資料(しれう)も       多少(たせう)集(あつま)つて居(を)る事(こと)でもあるが之(これ)はいづれ詳細(せうさい)に申述(まをしの)ぶる時期(じき)があると信(しん)ずるから此処(こゝ)には序(つひで)を以(もつ)て一(ちよつ)       寸(と)御参考(ごさんかう)迄(まで)に申述(まをしの)べて置(お)く次第(しだい)である      次(つぎ)に信明(のぶあき)が常(つね)に質素倹約(しつそけんやく)を旨(むね)として臣下(しんか)一 般(ぱん)に対(たい)した事は既(すで)に御承知(ごせうち)の事(こと)で信明(のぶあき)は全(まつた)く松平定信(まつだひらさだのぶ)の筆(しつ) 《割書:文化十四年|の解書》  法(はふ)を守(まも)つた人(ひと)であるが幸(さいはひ)文化(ぶんくわ)十四年二月十一日 信明(のぶあき)が晩年(ばんねん)に家老(からう)として家中(かちう)一 統(とう)へ觸(ふ)れ出(だ)さしめた       ものがあるから之(これ)は大(おほい)に当時(たうじ)の政治向(せいぢむき)を伺(うかゞ)ふ上(うへ)の参考(さんかう)となることと信(しん)ずるので左(さ)に抄出(しようしゆつ)したいと思(おも)ふめ       のである        先達てゟ質素倹約之義度々被仰出人々承知之事には候得共去暮猶又被仰出茂有之御上御上惣容様御分米 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百八十二号附録    (大正二年二月三日発行) 【本文】        迄茂御減少之上厳敷御倹約被仰出候程之事ニ候所御家中勝手向取続之義被為思召候而難有義ニ候依        之一統勝手向取続之ため致質素倹約乍恐被為遊御安堵候様致度候ニ付而は人々御為筋之義は勿論自        分々々ニ倹約之筋存付候義茂有之候ハヽ申出候様致度事ニ候間則左之ケ條之趣及相談候         一御家中統一吉凶ニ限らす膳部之義一汁三菜ニ可限事          但小略之義は勝手次第可為事         一転役其外祝事之節酒宴之肴手軽ニ吸物之外何ニ而茂手軽之肴二種ニ可限事          但硯蓋類無用可為事         一御門外勤出府立番手始五節句恐悦御祝事等は衣服是迄之通可為事          但年始五節句袖木綿等勝手ニ宜候ハヽ着用可致候         一御家中一統御城内勤向之節は急度綿服着用可致候          但糸入片つむきの類は勝手ニ宜候ハヽ相用候而茂宜候         一ふんごみは持合候品是迄之通可為事         一御家中一統夏羽織ろちりめん無用ニ可致事         一御家中一統家内之者袖類之外着用為致間敷事         一御門外え置出候節茂可為同様事          但下着茂右ニ准可申事         一婦人帯織物類其外都而高キ価之品相用申間敷事         一独礼以下家内之者急度めんふく着用可為致候門外に置出候節は片袖類之外着用為致間敷事 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十九 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十 【本文】         一独礼以上以下夏服右ニ准し心得可有事         一婦人年始之祝儀相廻候ニ不及候立宅之節かいどり無用可為事          但婚姻祝儀之節は是迄之通可為事         一髪さし壱本かうがい壱本ニ可限事並切類髪え掛候事急度無用可為事         一親子兄弟之外為近親共熨斗包ニ而祝儀取かはし可申事         一音信贈答之義は兼而被仰出茂有之不相成事候間人々質素倹約相心掛堅無用之贈答無之様可有事          ニ候         一御足軽共めんふく着用勿論ニ候一切けんふく類無用可為事         一御足軽共ぶつさき羽織中ぬき草履紺もゝ引蛇の目笠無用可為事         一御足軽共妻子茂ははんゑり袖口たり共きぬ類無用可為事         一上下茂下には持合候小袖着候而茂宜候事         一御用召之節茂綿服之侭可罷出事          但拝領之品ハ御用召之節着用候而茂宜候拝領羽織下た自分小袖着用は不相成事         一社参仏参之節拝領之服着用候而茂宜候尤人々心得可有事         一御家中一統外出たり共片袖青梅島類之外不相成候尤ふとりたりとも無用事         一婚姻当夜縁女勿論家内並居合候近親かいどり不苦候事         一三ツ目五ツ目縁女斗かいどり不苦候家内並親類不相成候事         一初て親類廻り縁女斗かいどり不苦候差添候親抔ハ不相成候事 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】         一御近習御中小性式日並御吉凶之節羽織着用ニ不及尤御用召之節は羽織着用可致候親子之義ニ付          御席御礼ニ罷出候節は羽織着用ニ不及候事         一他所之者に致応対服改候ハヽ御目付え相届可申事         一田町神明神事等ニ罷出服改候ハヽ御目付ニ相届可申事         一御家中一統男女共夏服すきや縮ニ熨斗縮み絹縮不相成候事         一夏袴川越平類以上は不相成候事         一七歳未満独礼以上忰服是迄之通          但新規拵候ハヽ面々可有心得事         一婦人帯有来候黒縮子縮緬紗綾ごろう厚いた不苦候事         一婦人長襦ばんの類益有之候共目立候所無用ニ可致候事         一御目見に子供式日其外羽織勝手次第たるへく事         一御払米入札之節致出役候者服是迄之通勝手次第可為事         一御医師服役方聞置候事         一葬式之節服是迄之通尤綿服着用之義は勝手次第可為事         一組小頭御用筋ニより絹布着致候事         一又者之義は其主人々々可有心得事         一独礼以下絹夏羽織持合候ハヽ相用候而茂宜候       尚(なほ)其他(そのた)当時(たうじ)に於(お)ける民政上(みんせいじやう)の事(こと)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)材料(ざいれう)となるべきものが大河内家(おほかうちけ)の倉庫(そうこ)に残(のこ)つて居(を)るが大(おほ) 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十一 【欄外】   豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十二 【本文】       字(あざ)船町(ふなまち)の倉庫(そうこ)にも多少(たせう)其(その)資料(しれう)たるべきものが保存(ほぞん)されて居(を)るのである一々(いち〳〵)之(これ)を掲(かゝ)ぐることは到底(とうてい)複雑(ふくざつ)で 《割書:渡船に関す|る記録》  あつて出来(でき)難(がた)い事(こと)であるが其(その)中(なか)で一寸(ちよつと)面白(おもしろ)く思(おも)ふのは船町(ふなまち)にある古帳簿(こちやうぼ)で豊川通(とよかはとほり)渡船(とせん)に関(くわん)するもので       ある其(その)頃(ころ)は前(まへ)にも申述(まうしの)べて置(お)いた通(とほ)り大橋(おほはし)の掛替(かけかへ)又(また)は普請(ふしん)に方(あた)り元禄時代(げんろくじだい)まで行(おこな)はれたように旧橋(きうけう)と       並(なら)むで新橋(しんけう)を架(か)するとか或(あるひ)は仮橋(かりばし)を架(か)けるとか云(い)ふ事(こと)は行(おこな)はれぬようになつたので其(その)普請中(ふしんちう)は渡船(とせん)を       以(もつ)て往来(わうらい)をなさしめたものである勿論(もちろん)洪水(こうすゐ)などで橋(はし)の破損(はそん)した時(とき)なども同様(どうやう)であるが其(その)渡船(とせん)に用(もち)ゐた       場所(ばしよ)は今日(こんにち)も尚(な)ほ渡船場(とせんば)と云(い)ふ名前(なまへ)が残(のこ)つて居(お)る次第(しだい)である而(しか)して其(その)渡船(とせん)の事(こと)は一 切(さい)大字(おほあざ)船町(ふなまち)の者(もの)に       申付(まうしつけ)られたのであるが其(その)入用(にうよう)として金(きん)廿五 両(れう)又(また)は卅 両(れう)と其(その)都度(つど)藩(はん)から貸下(かしさ)げて貰(もら)つたもので之(これ)を年賦(ねんぷ)       で返済(へんさい)した事実(じじつ)なども其(その)帳簿(ちやうぼ)の上(うへ)で見(み)られるのである又(ま)た大名(だいめう)などの通行(つうかう)があつた時(とき)に船(ふね)の不足(ふそく)を告(つ)       げた場合(ばあひ)には大河内家(おほかうちけ)の領内(れうない)は勿論(もちろん)領外(れうぐわい)と雖(いへど)も豊川沿岸(とよかはえんがん)の村々(むら〳〵)から何処(どこ)には何艘(なんそう)と云(い)ふ様(やう)に割(わ)り当(あて)て       ゝ徴発(てうはつ)したものである茲(こゝ)に寛政(かんせい)四 年(ねん)の四 月(ぐわつ)に橋普請(はしぶしん)があつて其(その)為(ため)に此(この)渡船(とせん)を開始(かいし)した事(こと)があるが其(その)時(とき)       に掲示(けいじ)した高札(かうさつ)の写(うつし)が残(のこ)つて居(を)るので之(これ)を掲載(けいさい)するのは又(ま)た以(もつ)て当時(たうじ)の状態(ぜうたい)を知(し)るの資料(しれう)ともなる事(こと)      と思(おも)ふから左(さ)に其(その)全文(ぜんぶん)を示(しめ)して見(み)よう                定        一役船定のことく懈怠なく出し昼夜相勤べき事          附 往来之旅人に対しかさつ成事すへからす無礼悪口等之事有へからす緞軽き旅人たりといふと            もあやまちなきやうに念入へき事        一往還人之儀もかさつ成事無之不法之儀仕間敷渡場込合候節は段々に渡可申事        一往還之人多き時はよせ船を出し人馬荷物滞なく渡すへし奉公人之外船賃出す輩より 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百八十八号附録    (大正二年二月十一日発行) 【本文】           壱人ニ付         拾  六  文           乗下壱駄ニ付       弐 拾 五 文           荷物壱駄ニ付       参 拾 九 文        此定之外賃銭多く取るべからざる事         附 奉公人之外定之通賃銭出すべし古来より定置之間職人町どもの荷物はいふに及ばず武士荷           物たりといふとも商人請負にて相通候分は定のことく賃銭出すべき事        一荷物附ながら馬を船にのせ候儀相対次第たるべき事        右之條々可相守之若違犯之輩於有之者可為曲事者也          寛政五年己四月                     奉   行 領地の異動 又(また)此処(こゝ)に一つ御話(おはなし)して置(お)きたいのは信明(のぶあき)が藩主(はんしゆ)たりし間(あひだ)に其(その)領地(れうち)の内(うち)で多少(たせう)異動(ゐどう)のあつた事(こと)であるソ       レは先(ま)づ明和(めいわ)九年六月廿九日 付(づけ)で宝飯郡(ほゐぐん)の内(うち)、下五井(しもごゐ)、下佐脇(しもさわき)、御馬(おんま)、為当(ためたう)を差出(さしいだ)して其(その)代地(だいち)として       同年(どうねん)十月五日 付(づけ)で遠江国(とほとふみのくに)榛原郡(はいばらごほり)の内(うち)朝生村(あさふむら)、城東郡(きとうごほり)の内(うち)加茂村(かもむら)、本所村(ほんじよむら)、和田村(わだむら)、上平川村(かみひらかはむら)の内(うち)合(がう)       計(けい)弐千九百十八 石余(こくよ)を賜(たまは)つた事(こと)で其(その)次(つぎ)が安永(あんえい)三年八月廿七日 付(づけ)宝飯郡(ほゐごほり)の内(うち)、日色野(ひしきの)、前芝(まへしば)、梅薮(うめやぶ)、大(おほ)       塚(つか)、伊奈(いな)の内(うち)並(ならび)に同所(どうしよ)新田(しんでん)の内(うち)を差出(さしいだ)して其(その)代地(だいち)を渥美郡(あつみごほり)の内(うち)、宝飯郡(ほゐごほり)の内(うち)、額田郡(ぬかたごほり)の内(うち)で下賜(かし)され       た事(こと)であるが尚(なほ)安永(あんえい)六年十一月六日 付(づけ)で右(みぎ)の榛原郡(はいばらごほり)朝生村(あさふむら)の地(ち)を返上(へんぜう)して其(その)代(かは)りを城東郡(きとうごほり)の内(うち)で賜(たまは)つ       た事実(じじつ)がある而(しか)して天明(てんめい)八年三月五日 付(づけ)で吉田領(よしだれう)に対(たい)し改(あらた)めて下賜(かし)になつた朱印(しゆいん)の写(うつし)があるから之(これ)を       も左(さ)に掲載(けいさい)して参考(さんかう)に供(きよう)したいと思(おも)ふ        三河国渥美郡之内三拾壱箇村八名郡之内三拾九箇村宝飯郡之内四拾箇村額田郡之内七箇村加茂郡之 【欄外】   豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十三 【欄外】   豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十四 【本文】        内五拾二箇村遠江国敷知郡之内拾七箇村城東郡之内五箇村近江国浅井郡之内二拾箇村伊香郡之内二        箇村高島郡之内下開田村高七万石《割書:目録在|別 紙》事宛行之訖依代々之例領知之状如件          天明八年三月五日             松平伊豆守とのへ 《割書:安永八年の|大火》  ソレから話(はなし)は又(ま)た変(かは)るがソレは安永(あんえい)八年十一月四日に此(この)吉田(よしだ)に大火(たいくわ)のあつた事(こと)である其(その)時(とき)は本町(ほんまち)から       失火(しつくわ)して町家(てうか)が三百八十四 戸(こ)侍家舗(さむらいやしき)が一 区(く)焼失(せうしつ)したのであるが此(この)時(とき)は丁度(ちようど)信明(のぶあき)が初(はじ)めて入国(にふこく)して在城(ざいじやう) 火消組   されて居(を)つたのである尚(なほ)ソレに就(つい)て御話(おはなし)したいのは此(この)吉田町(よしだまち)の火消組(ひけしぐみ)の事(こと)であるが天明(てんめい)七年に其(その)四 組(くみ)       を市中(しちう)に設(まを)けて一 組(くみ)は拾壱人 宛(づゝ)であつたが総(すべ)ての道具類(どうぐるゐ)は藩(はん)から下(さ)げたものと見(み)へる幸(さいはひ)船町(ふなまち)に当時(たうじ)       組員(くみゐん)から差出(さしだ)した書付(かきつけ)が残(のこ)つて居(を)るが実(じつ)に趣味(しゆみ)あるものと思(おも)ふから之(こ)れも全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)ぐることとする                差上申一札之事        此度町火消四組一組拾壱人宛被仰付一組畑ケ中源助組頭ニ被仰付組合連判名前之通町火消相勤申候       一出火有之候節者早速欠附出精取鎮メ可申候若々難取鎮メ出火ニ相成候節者御城内        御役人中様御下知並町御役人中御差図ヲ以消口相働可申候組々散乱不仕様ニ申合相働可申候火消看        板諸道具左之通御渡被成組頭方ニ預リ置私用ニ決而相用申間敷候          一 半     臂         拾  壱          一 股     引         拾  壱          一 纏  挑  燈         壱  張          一 手 丸 挑 燈         壱  張 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】          一 斧              参  挺          一 鳶     口        五  挺        右之通慥ニ請取申候出火之節蝋燭其外入用御座候ハヽ其後書付ヲ以御月番御役人中ゟ受取可申候        於出火場万一諸道具之内紛失仕候ハヽ其節御断可申候私ニ失候義御座候ハヽ火消組合ゟ急度拵置可        申候        一組合拾壱之内病気故障遠方行等御座候共出火有之節差支無御座候様ニ常々無油断外人心当テ仕置         可申候        一火消道具臨時御改可被成旨承知奉畏候        一右為御給米自         御上様一組え御米弐俵宛毎年被下置組頭え御米壱斗弐升相残米拾人え割賦頂戴可仕旨被仰付難有         奉存候出火之節消口働之義者御見届之上御褒美可被下旨承知仕候依之組合連判差上申処如件          天明七丁未年十二月                           畑  中      紋       平  印                           同         平   三   郎  印                           同         又   次   郎  印                           同         吉   六   郎  印                           同         半       十  印                           同         與   三   郎  印 【欄外】   豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十五 【欄外】   豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十六 【本文】                           同         三   之   助  印                           同         彌   四   郎  印                           同         松       六  印                           同         助   三   郎  印                           同 組 頭     源       助  印       ソレから此(この)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の人物(じんぶつ)に就(つい)てであるが学者(がくしや)としては太田錦城(おほたきんじやう)及(およ)び西岡善助(にしおかぜんすけ)などで之(これ)は前(まへ)       にも申述(まをしの)べた如(ごと)くである其他(そのた)藩士(はんし)の内(うち)には相当(さうたう)の人物(じんぶつ)もあつた事(こと)と思(おも)ふが今(いま)此処(こゝ)に取立(とりた)てゝ御話(おはなし)する       程(ほど)の事(こと)もないのである勿論(もちろん)大河内家(おほかうちけ)の家臣(かしん)の事(こと)に就(つい)ては実(じつ)に詳(くは)しい記録(きろく)が大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)にあるから之(これ)       に拠(よつ)て色々(いろ〳〵)申述(まをしの)べたい事があるのみならず此(この)領地(れうち)には国家老(くにからう)を始(はじ)めドウ云(い)ふ役向(やくむき)があつてドンナ工合(ぐあひ)       に国政(こくせい)を取(と)つて居(を)つたものであるか又(ま)た其(その)役々(やく〳〵)には如何(いか)なる人々(ひと〳〵)が当(あた)つて居(を)つたものであるかなども       段々(だん〴〵)御話(おはなし)したいと思(おも)ふのである併(しか)し私(わたくし)は兎(と)に角(かく)大筋(おほすぢ)丈(だけ)を先(ま)づ申述(まをしの)ぶる考(かんがへ)であるので右(みぎ)の如(ごと)き細密(さいみつ)に渉(わた)       る事(こと)は大河内家(おほかうちけ)の話(はなし)の最後(さいご)に参(まゐ)つた時(とき)纏(まと)めて申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したいと思(おも)つて居(を)るのであるから此際(このさい)一(ちよつ)       寸(と)此(この)事(こと)を御断(おことはり)して置(お)きたいと思(おも)ふのである       サテ此(この)時代(じだい)吉田(よしだ)の町人(てうにん)の内(うち)で生花(いけばな)を能(よ)くするものがあつたが一 人(にん)は四 時庵北萊(じあんほくらい)と云(い)ふ人(ひと)で之(これ)は当時(たうじ)指(さし) 四時庵北萊 笠町(かさまち)にあつた観音寺(くわんをんじ)の住職(ぢうしよく)であつたが松月堂(せうげつどう)古流(こりう)の始祖(しそ)是心軒(ぜしんけん)一 露(ろ)翁(をう)の直門(ぢきもん)で安永(あんえい)八年九月 其(その)可印(かいん)を       受(う)けたが四時庵(しじあん)と云(い)ふ号(がう)は其(その)後(のち)段々(だん〳〵)跡(あと)を継(つ)ぐ者(もの)があつて今日(こんにち)も其(その)道(みち)にかけては喧(やかま)しい号(がう)である又(ま)た一 恩田三省  人(にん)は曲尺手町(かねんててう)の人(ひと)で恩田三省(おんださんせう)と云(い)ふのであるが之(これ)も是心軒(ぜしんけん)の門人(もんじん)で天明(てんめい)二年 諸国会頭(しよこくくわいとう)の可印(かいん)を受(う)けた      が此(この)人(ひと)は通称(つうせう)を太惣太(たさうた)と云(い)つて名(な)は満辰(まんしん)字(あざな)は子信(ししん)号(がう)を心応軒(しんおうけん)と称(せう)したのである生花(いけばな)に就(つい)ては色々(いろ〳〵)の著(ちよ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百九十三号附録    (大正二年二月十八日発行) 【本文】       書(しよ)があるが三遠瓶花之図(さんゑんへいくわのづ)、生花口伝集(せいくわくでんしふ)などは就中(なかんづく)有名(いうめい)のものである門人(もんじん)も壱千人 以上(いぜう)あつたと云(い)ふ事       であるが文化(ぶんくわ)七年九月 年(とし)六十七で病歿(びやうぼつ)したのである 佐藤南澗  次(つぎ)に御話(おはなし)したいのは佐藤南澗(さとうなんかん)と云(い)ふ人(ひと)の話(はなし)であるが之(これ)は船町(ふなまち)の住人(ぢうにん)で運漕店(うんそうてん)を業(ぎよう)として居(を)つたが通称(つうせう)       を新兵衛(しんべゑ)と云(い)つたのである今(いま)も其(その)家(いへ)は存在(ぞんざい)して当主(たうしゆ)も亦(ま)た佐藤新平(さとうしんぺい)と称(せう)して居(を)られるのである而(しか)して       南澗(なんかん)は名(な)を幾道(きどう)字(あざな)を若水(じやくすい)号(ごう)を曲肱齋(きよくこうさい)又(また)は文会堂主人(ぶんくわいどうしゆじん)などと称(せう)した勿論(もちろん)南澗(なんかん)も其(その)号(がう)であつたが其(その)家(いへ)が吉(よし)       田大橋(だおほはし)に近(ちか)い処(ところ)から戯(たわむれ)に欄干(らんかん)とも号(がう)したのである此(この)人(ひと)は円山応挙(まるやまおうきよ)の門人(もんじん)で絵画(くわいぐわ)を能(よ)くし兼(かね)て文学(ぶんがく)に       も通(つう)じて彼(か)の曲亭馬琴(きよくていばきん)とも交遊(かうゆう)したのである今(いま)も同家(どうけ)に南澗(なんかん)が画(ぐわ)を描(ゑが)いてそれに馬琴(ばきん)が賛(さん)をしたもの       が残(のこ)つて居(を)る天明(てんめい)七年四月 年(とし)四十二で病歿(びやうぼつ)したが人(ひと)の惜(おし)む処(ところ)となつたのである 服部彌助  又(ま)た其(その)頃(ころ)同(おな)じ船町(ふなまち)で今(いま)の服部彌(はつとりや)八 氏(し)の祖先(そせん)に服部彌助(はつとりやすけ)と云(い)ふ人(ひと)があつたが此(この)人(ひと)は又(ま)た実(じつ)に武道(ぶどう)の達人(たつじん)       で且(か)つ任侠(にんけう)に富(と)むだ人(ひと)であつた柔術(じうじゆつ)は浅川(あさかは)一 伝流(でんりう)で其(その)他(た)釼術(けんじゆつ)でも棒(ぼう)の手(て)でも一として奥義(おくぎ)を極(きは)めぬも       のはなかつたので実(じつ)に評判(ひようばん)の人(ひと)であつた其(その)屋号(やがう)が伊賀屋(いがや)と云(い)ふ処(ところ)から世人(せじん)は此(この)人(ひと)の事(こと)を呼(よ)むで伊賀助(いがすけ)       と云(い)つたそうであるが武道(ぶどう)の弟子(でし)も数多(あまた)あつたが常(つね)に自(みづか)らは此(この)武道(ぶどう)を以(もつ)て諸国(しよこく)を遊歴(ゆうれき)し其(その)逸話(いつわ)は極(きは)め       て多(おほ)いので恰(あたか)も元和(げんな)三 勇士(ゆうし)などの昔話(むかしばなし)を聞(き)くようである今(いま)此(この)人(ひと)の自記(じき)した道中記(どうちうき)が服部氏(はつとりし)の家(いへ)に残(のこ)       つて居(を)るが見取図(みとりづ)なども処々(しよ〳〵)に書(か)き入(い)れられて甚(はなは)だ面白(おもしろ)く思(おも)はれる文化(ぶんくわ)十四年九月十六日八十二 歳(さい)で       病歿(びやうぼつ)せられたのである 刀工重喜  尚(なほ)其他(そのた)に重喜(しげよし)と云(い)ふ刀鍛冶(かたなかぢ)が此(この)吉田(よしだ)にあつて相当(さうたう)の名工(めいこう)であつた其(その)鍛(きた)へた刀(かたな)は今(いま)一 振(ふり)大河内家(おほかうちけ)に蔵(ざう)せ       られて居(を)るソレは文化(ぶんくわ)十年八月と銘(めい)してあるが惜(おし)い事(こと)には其(その)人(ひと)の伝記(でんき)などが一寸(ちよつと)分(わか)り兼(か)ねて居(を)る他日(たじつ)       私(わたくし)も材料(ざいれう)を捜索(さうさく)して見(み)たいと思(おも)つて居(を)るが其(その)存知(ぞんぢ)の方(かた)があつたならば御指教(ごしけう)願(ねが)いたいのである 【欄外】   豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十七 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百七十八 【本文】             ⦿松平信順の襲職       前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平信明(まつだひらのぶあき)は文化(ぶんくわ)十四年八月十六日 年(とし)五十五 歳(さい)で老中(らうちう)上座(ぜうざ)在職(ざいしよく)のまゝ病(やまひ)で江戸(えど)の 松平信順  邸(やしき)で卒去(そつきよ)せられたのであるが其(その)家督(かとく)を継(つ)いで此(この)吉田(よしだ)の城主(じやうしゆ)となつたのは即(すなは)ち信順(のぶより)である信順(のぶより)は信明(のぶあき)の       二 男(なん)で母(はゝ)は家女(かじよ)久須美氏(くすみし)であるが嫡出(ちやくしゆつ)の長子(てうし)は早世(さうせい)した為(ため)に此(この)信順(のぶより)が世子(せいし)となつて家督(かとく)を相続(さうぞく)した次(し)       第(だい)である寛政(かんせい)五年六月七日の生(うまれ)で家督(かとく)を相続(さうぞく)した時(とき)は恰(あたか)も其(その)廿五 歳(さい)の時(とき)であつた幼名(えうめい)は長治郎(てうぢらう)で初(はじ)め       駿河守(するがのかみ)に叙(ぢよ)し後(のち)伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられたが此(この)人(ひと)も亦(ま)た父(ちゝ)信明(のぶあき)に似(に)て勤勉(きんべん)の質(しつ)であつたが寛仁(かんにん)で而(しか)も緻密(ちみつ)な       る性(せい)を持(も)つて居(ゐ)たように察(さつ)せられる而(しか)して文化(ぶんくわ)と云(い)ふ年号(ねんがう)は信順(のぶより)の家督相続(かとくさうぞく)をした十四 年(ねん)迄(まで)で文政(ぶんせい)と       改(あらた)まつたが其(その)八年の五月六日 信順(のぶより)は寺社奉行(じしやぶぎよう)に任(にん)ぜられたのである其(その)後(のち)文政(ぶんせい)は又(ま)た十二年 迄(まで)で天保(てんぽう)と       改(あらた)まつたのであるが其(その)天保(てんぽう)の二年五月廿五日を以(もつ)て信順(のぶより)は大阪城代(おほさかじやうだい)に任(にん)ぜられて任地(にんち)に赴(おもむ)く事(こと)となつ       た当時(たうじ)徳川将軍(とくがはせうぐん)はまだ家斉(いへなり)であつが前章(ぜんせう)にも段々(だん〳〵)と申述(まをしの)べたる如(ごと)く此(この)家斉(いへなり)の治世(ぢせい)に方(あた)つては最初(さいしよ)彼(か)       の松平定信(まつだひらさだのぶ)が出(い)でゝ幕政(ばくせい)の大改革(だいかいかく)を行(おこな)ひ彼(か)の田沼(たぬま)一 派(ぱ)のものを斥(しりぞ)けて大(おほひ)に官紀(くわんき)を振粛(しんしゆく)したのである然(しか)       るに其(その)頃(ころ)から例(れい)の一橋治済(ひとつばしはるなり)即(すなは)ち将軍(せうぐん)家斉(いへなり)の実父(じつぷ)が色々(いろ〳〵)と政務(せいむ)に干渉(かんせう)を試(こゝろ)みむとするので屡々(しば〳〵)困難(こんなん)な       る事情(じぜう)を惹起(ひきおこ)しそれには又(ま)た佞臣(ねいしん)の阿付(あふ)するものもあり田沼(たぬま)の残党(ざんたう)とも目(もく)すべきものも之(これ)と欵(くわん)を通(つう)ず       ると云ふ訳(わけ)で益々(ます〳〵)事情(じぜう)は複雑(ふくざつ)したのであつたが定信(さだのぶ)退職(たいしよく)の後(のち)は信明(のぶあき)が其(その)志(こゝろざし)を継(つ)いで何処(どこ)迄(まで)も定信(さだのぶ)の       遺業(ゐぎよう)を損(そん)しないように勗(つと)めたのみならず之(これ)には加納遠江守久周(かのうとうとほみのかみひさかね)などは勿論(もちろん)青山忠裕(あをやまたゞひろ)、堀田正敦(ほつたまさあつ)などの 《割書:水野忠成の|弊政》  名臣(めいしん)も補翼(ほよく)したのであつたが信明(のぶあき)の晩年(ばんねん)に方(あた)つては次第(しだい)々々に治済(はるなり)の勢(いきほひ)が長(てう)じ来(きた)つて其(その)側用人(そばようにん)たる水(みづ)       野忠成(のたゞなり)は老中格(らうちうかく)となりそれには又(ま)た土方縫殿介(ひぢかたぬひどのすけ)などゝ云ふ権臣(けんしん)が付(つ)いて居(ゐ)たので漸(やうや)く悪弊(あくへい)を増長(ぞうてう)せし 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       むるに至(いた)つたがイヨ〳〵信明(のぶあき)卒去(そつきよ)後(ご)は此(この)忠成(たゞなり)が急(きふ)に勢(いきほひ)を得(え)て老中(らうちう)となり定信(さだのぶ)信明(のぶあき)以来(いらい)の名臣(めいしん)は次第(しだい)に       其(その)職(しよく)を引退(ひきしりぞ)くと云ふ訳(わけ)で世風(せふう)は忽(たちま)ち浮華虚栄(ふくわきよえい)に陥(おちい)り賄賂(わいろ)は横行(わうかう)を極(きは)め再(ふたゝ)び田沼時代(たぬまじだい)の弊風(へいふう)を来(きた)したの       である初(はじ)め定信(さだのぶ)信明(のぶあき)等(ら)が相続(あひつ)いで幕政(ばくせい)を取(と)つて居(ゐ)た頃(ころ)はドウしても此(この)病源(びやうげん)が治済(はるなり)にあるべきを察(さつ)した       のであつたから常(つね)にそれを抑制(よくせい)することに苦心(くしん)したもので将軍(せうぐん)は之(これ)が自分(じぶん)の生父(せいふ)である所(ところ)から夙(つと)に尊(たつとん)で       大御所(おほごしよ)と呼(よ)ばしめむとしたのであつたが定信(さだのぶ)等(ら)は之(これ)に反対(はんたい)し其(その)後(のち)之(これ)を二の丸(まる)に迎(むか)へ入(い)れむとした時(とき)に       も信明(のぶあき)が反対(はんたい)したのであるトコロが今度(このたび)忠成(たゞなり)が老中(らうちう)と相成(あひな)つたので彼(か)の尊号事件(そんがうじけん)の行掛(ゆきがゝ)りなどを知(し)つ       て居(を)る処(ところ)から段々(だん〳〵)と京都(けうと)の方(はう)へ取(と)り入(い)る事(こと)を初(はじ)めて朝廷(てうてい)に対(たい)して色々(いろ〳〵)と奉(ほう)ずる処(ところ)があつた処(ところ)は誠(まこと)に大(おほ)       手柄(てがら)とも云ふべきであつたが結局(けつきよく)それによりて治済(はるなり)に准大臣(じゆんだいじん)の宣下(せんげ)を請(こ)ふに至(いた)つたのであるかゝる訳(わけ)       で忠成(たゞなり)の勢力(せいりよく)は忽(たちま)ち幕府(ばくふ)を敞(お)ふに至(いた)つたのであるが彼(か)の貨幣(くわへい)の改鋳(かいちう)なども長(なが)い間(あひだ)信明(のぶあき)の取(と)つた方針(はうしん)を       一 変(ぺん)して此(この)人(ひと)が屡々(しば〳〵)実行(じつかう)したので悪貨幣(あくくわへい)の濫造(らんざう)は実(じつ)に此(この)時(とき)に行(おこな)はれたのであるモツトモ当時(たうじ)に於(お)ける       幕府財政(ばくふざいせい)の窮乏(きうぼう)と云ふものは甚(はなはだ)しかつたもので中(なか)には其(その)原因(げんゐん)を以(もつ)て蝦夷経営(えぞけいゑい)の失敗(しつぱい)に皈(き)する論者(ろんしや)があ       るが之(これ)は誠(まこと)に皮相(ひさう)の観察(くわんさつ)であると信(しん)ずる蝦夷経営(えぞけいゑい)の事に就(つい)ては既(すで)に前章(ぜんせう)にも詳述(せうじゆつ)して置(お)いたが成程(なるほど)幕(ばく)       府(ふ)の財政上(ざいせいぜう)に取(と)つては之(これ)が一の大(たい)なる困難(こんなん)となつたのではあろうが当時(たうじ)露国(ろこく)が我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ひたる事に対(たい)       してはドウしても幕府(ばくふ)は蝦夷(えぞ)を直轄(とよくかつ)として松前氏(まつまへし)が多年(たねん)の積弊(せきへい)を除(のぞ)き所謂(いはゆる)対外的(たいぐわいてき)に其(その)経営(けいえい)をしなけれ       ばならぬのは当然(たうぜん)の事柄(ことがら)である之(これ)をなしたればこそ我(わが)北辺(ほくへん)を以(もつ)て当時(たうじ)露国(ろこく)の侵略(しんりやく)に任(にん)せなかつたので       ある然(しか)るに信明(のぶあき)卒去(そつきよ)の後(のち)僅(わづか)に四年で此(この)蝦夷(えぞ)の地(ち)は復(ふたゝ)び旧主(きうしゆ)松前氏(まつまへし)に返与(へんよ)して仕舞(しま)つたのであるが之(これ)も       松前氏(まつまへし)が忠成(たゞなり)に取入(とりい)つた結果(けつくわ)であるとも云(い)ひ又(ま)た治済(はるなり)に泣(な)き付(つ)いた処(ところ)から其(その)意(い)に出(い)でたとも伝(つた)へられ       て居(を)るかゝる訳(わけ)であつたから蝦夷(えぞ)の警備(けいび)と云(い)ふものは忽(たちま)ち全(まつた)く弛(ゆる)み折角(せつかく)開拓(かいたく)しかけた土地(とち)も亦(ま)た荒蕪(かうぶ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百七十九 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十 【本文】       に皈(き)せしむるに至(いた)つたので有識者(いうしきしや)は切(せつ)に惜(おし)むだ次第(しだい)である信明(のぶあき)死去(しきよ)後(ご)の大勢(たいせい)は先(ま)づ大要(たいえう)此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で 《割書:大阪城代と|しての信順》  あつたがサテ天保(てんぽう)の初年(しよねん)からは国内(こくない)が不作(ふさく)で米価(べいか)は次第(しだい)に騰貴(とうき)し四年に至(いた)つては諸処(しよ〳〵)に窮民(きうみん)の蜂起(ほうき)を       見(み)たのである従(したがつ)て大阪市中(おほさかしちう)の形勢(けいせい)も実(じつ)に不穏(ふおん)と成(な)つたのであるが勿論(もちろん)当時(たうじ)は信順(のぶより)が城代(じやうだい)として其(その)地(ち)に       あつたのである而(しか)して其(その)年(とし)の七月 彼(か)の矢部駿河守(やべするがのかみ)は堺奉行(さかいぶぎよう)から転(てん)じて大阪(おほさか)の町奉行(まちぶぎよう)と相成(あひな)つたのであ       るが信順(のぶより)は日々(にち〳〵)駿州(すんしう)と蜜議(みつぎ)を凝(こ)らし厳(げん)に不正(ふせい)の利(り)を貪(むさぼ)る米商(こめせう)の取締(とりしまり)を行(おこな)つたのである大河内家(おほかうちけ)にある       十 世遺事抄(せいゐじしよう)と云ふ記録(きろく)にると其(その)頃(ころ)駿州(すんしう)には毎日(まいにち)深(ふか)き笠(かさ)にて顔(かほ)を隠(かく)し忍(しの)び〳〵て市中(しちう)を巡行(じゆんかう)し米(こめ)の差札(さしふだ)        に着眼(ちやくがん)して少(すこ)しにても高価(かうか)に商(あきな)はんとする米商(こめせう)は一々 之(これ)を記録(きろく)して其(その)都度(つど)信順(のぶより)に報告(ほうこく)し以(もつ)て其(その)取締方(とりしまりかた)       を励行(れいかう)したので後世(こうせい)迄(まで)も其(その)仁徳(にんとく)を称(せう)したのである其(その)翌(よく)五年四月十一日 付(づけ)を以(もつ)て信順(のぶより)は京都所司代(けうとしよしだい)に栄(えい)       転(てん)し其(その)翌(よく)六年 駿州(すんしう)も亦(ま)た他(た)に転任(てんにん)することとなつたのであるが八 年(ねん)の二月には例(れい)の大塩平(おほしほへい)八 郎(らう)の乱(らん)が起(おこ) 《割書:京都所司代|としての信|順》  つたので大阪(おほさか)の市人(しじん)は益々(ます〳〵)信順(のぶより)の徳(とく)を慕(した)つたと云ふ事が載(の)せてあるのであるかくて信順(のぶより)は天保(てんぽう)五年四       月(がつ)大阪城代(おほさかじやうだい)から京都所司代(けうとしよしだい)に転任(てんにん)したのであるが信順(のぶより)が初(はじ)めて禁裏(きんり)へ上(あが)つた時(とき)の歌(うた)に           遥にもおもひし雲のうへに今日               のほりて高き日影をそあふく       と云(い)ふのがあるが恐(おそら)くは此(この)時(とき)のものであろうと信(しん)ずるのであるサテ信順(のぶより)が京都所司代(けうとしよしだい)たりしは同(おな)じ八       年の五月迄で仝月十六日 所司代(しよしだい)から老中(らうちう)に栄転(えいてん)したのであるが京都(けうと)在職中(ざいしよくちう)も前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く米価(べいか)は       イヨ〳〵騰貴(とうき)し大阪(おほさか)には大塩(おほしほ)の乱(らん)が起(おこ)つたと云ふ訳(わけ)で京都(けうと)も中々(なか〳〵)の騒(さわ)ぎであつたが信順(のぶより)は幕府(ばくふ)の許可(きよか)       を受(う)けたる上町奉行(うへまちぶぎよう)をして救小屋(すくひこや)を設(まを)けしめ以(もつ)て窮民(きうみん)に粥(かゆ)を施(ほどこ)し病者(びやうしや)には施療(せれう)をもなさしめたのであ       る勿論(もちろん)奸商(かんせう)の米価(べいか)を騰貴(とうき)せしめて利(り)を得(え)むとするが如(ごと)きものは勉(つと)めて之(これ)を匡正(きようせい)せしめたのであるが茲(こゝ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百九十九号附録    (大正二年二月二十五日発行) 【本文】       に一つ面白(おもしろ)い逸話(いつわ)があるから御話(おはなし)したいと思(おも)ふ       当時(たうじ)京都(けうと)の千本通(せんぼんどほり)に一 軒(けん)の穀屋(こくや)があつたが此(この)穀屋(こくや)は時節柄(じせつがら)にも似(に)ず殊(こと)に升目(ますめ)をよく量(はか)つて売(う)ると云(い)ふ       ので大評判(おほひようばん)となつたのである信明(のぶあき)は此(この)事(こと)を聞(き)いてそれは誠(まこと)に奇特(きとく)なる事柄(ことがら)のようではあるが此(この)米価(べいか)暴(ばう)       騰(とう)の時(とき)に於(おい)ては甚(はなは)だ以(もつ)て不審(ふしん)であるそれとも其者(そのもの)の心掛(こゝろが)けが之(これ)迄(まで)とても常(つね)に宜敷(よろし)き者(もの)であるか取調(とりしら)べ       て見(み)よと云(い)ふので其者(そのもの)の素行(そこう)を調査(てうさ)せしめた処(ところ)がドウモ一 向(かう)ソウ云(い)ふ善(よ)き心懸(こゝろがけ)ありし様子(やうす)は見(み)へぬソ       コで信順(のぶより)は益々(ます〳〵)不審(ふしん)の事となして其者(そのもの)の用(もち)ゐ居(を)る升(ます)を取寄(とりよ)せて調(しら)べて見(み)ると古(ふる)き升(ます)の底(そこ)へ糠(ぬか)を煉(ね)り付(づ)       けて浅(あさ)くしてあるのである従(したがつ)て量(はか)りを宜(よ)くしても矢張(やはり)一 升(せう)は一 升(せう)となる仕掛(しか)けに出来(でき)て居(を)るのである       から役人(やくにん)も驚(おどろ)いたのであるが九 合(ごう)のものを一 升(せう)と云(い)つて売(う)つたと云(い)ふ訳(わけ)でもなかつたので商売差止(せうばいさしとめ)の       上(うへ)押込(おしこめ)を命(めい)じたと云(い)ふ事(こと)である       彼様(かやう)な訳(わけ)で信順(のぶより)は転任(てんにん)早々(さう〳〵)容易(ようい)ならず窮民(きうみん)に対(たい)する保護(ほご)を劃策(くわくさく)したのであつたが為(ため)に人心(じん〳〵)は次第(しだい)に平(へい)       穏(おん)に皈(き)し市人(しじん)は皆(みな)其(その)仁徳(にんとく)を欽仰(きんげい)したと云(い)ふ事(こと)である又(ま)た信順(のぶより)が京都(けうと)在任中(ざいにんちう)禁裏(きんり)に罷出(まかりいで)たる事があるが       其(その)節(せつ)築地内(つきぢない)の掃除(さうぢ)が不行届(ふゆきとゞき)で雑草(ざつそう)が生(お)ひ茂(しげ)つて居(を)つたので皈館後(きくわんご)役人(やくにん)を召寄(めしよ)せて御築地内(おんつきぢない)不掃除(ふさうぢ)にて       草(くさ)の生立(おひた)つをも不構差置(かまはづさしお)くは何(なん)と心得居(こゝろえを)るにや恭(うや〳〵)しくも一 天(てん)の君(きみ)の御座所(ござしよ)たり甚(はなはだ)以(もつ)て不敬(ふけい)の事共(ことども)       也(なり)とて厳敷(きびしく)将来(せうらい)を戒(いまし)めたと云ふ話(はなし)がある又(ま)た公用人(こうようじん)岡本(をかもと)と云ふ者(もの)の話(はなし)だとして十 世遺事鈔(せいゐじしよう)の中(なか)に記(しる)し       てある処(ところ)を見(み)ると信順(のぶより)が京都(けうと)着任(ちやくにん)以来(いらい)常(つね)に役人(やくにん)等(ら)に向(むか)つて種々(しゆ〴〵)の質問(しつもん)を発(はつ)した様子(やうす)であるが之(こ)れが何(い)       時(つ)も意外(いぐわい)な事で誰(だれ)も其(その)答弁(たうべん)に苦(くるし)むだとの事である余(あま)り長(なが)くなるから一々 此処(こゝ)に其(その)逸話(いつわ)は申述(まをしの)べぬ考(かんがへ)で       あるが併(しか)し此(かく)の如(ごと)くして信順(のぶより)は鋭意(えいゝ)治(ぢ)を求(もと)めたものであるから世人(せじん)は実(じつ)に其(その)徳望(とくぼう)に皈服(きふく)したのである       序(ついで)だから一寸(ちよつと)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいと思(も)ふが信順(のぶより)が大阪城代(おほさかじやうだい)に任(にん)ぜられて赴任(ふにん)せる時(とき)の道中記(どうちうき)並(ならび)に 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十一 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十二 【本文】 《割書:大阪入城の|絵巻》  其(その)行列(ぎようれつ)の実況(じつけう)を絵巻物(ゑまきもの)にしたのが今(いま)旧藩中(きうはんちう)に伝(つた)はつて居(を)るのであるタシカ長尾清江(ながをせいかう)氏(し)の家(いへ)にも所蔵(しよざう)さ       れて居(を)る事(こと)と思(おも)ふが之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので此(この)時(とき)信順(のぶより)は九月朔日(天保二年)江戸(えど)を発(はつ)し八日 此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)       九日は滞在(たいざい)にて十日 出発(しゆつぱつ)其(その)十六日 大阪(おほさか)に着(ちやく)し十八日に入城(にふじやう)したものである之(これ)は頗(すこぶ)る厳(いか)めしかつたもの       で老人中(らうじんちう)にはまだ之(これ)を目撃(もくげき)した人(ひと)も生存(せうぞん)して居(を)る次第(しだい)である       サテ一 時(じ)天下(てんか)の勢力(せいりよく)を掌握(せうあく)した水野忠成(みづのたゞなり)も年(とし)七十一で天保(てんぱう)五年二月二十八日 病(やまひ)で卒去(そつきよ)したのであるが       程(ほど)なく彼(か)の水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)が入(い)つて本丸(ほんまる)老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)はつたのであるソコで多年(たねん)忠成(たゞなり)の為(ため)に圧(あつ)せられ 大久保忠眞 て居(ゐ)た大久保忠眞(おほくぼたゞさね)は次第(しだい)に勢力(せいりよく)を得(え)て意見(いけん)を実行(じつかう)する事が出来(でき)るようになつたので少(すこ)しくは忠成時代(たゞなりじだい)       の弊風(へいふう)も矯(た)めらるゝに至(いた)つたのであるが此(この)忠眞(たゞさね)も亦(ま)た天保(てんぱう)八年三月十九日 病(やまひ)で卒(そつ)せられたのである而(しか) 《割書:将軍家斉隠|居》  して其(その)年(とし)の四月二日 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)は自(みづか)ら西丸(にしまる)に隠居(ゐんきよ)し世子(せいし)家慶(いへよし)が相続(さうぞく)して征夷大将軍(せいいたいせうぐん)に任(にん)ぜられたが隠居(ゐんきよ) 家慶襲職  後(ご)と雖(いへど)も家斉(いへなり)は大御所(おほごしよ)と称(せう)してまだ政務(せいむ)を聴(き)いたのである而(しか)も其(その)九年三月十日に西丸(にしまる)から失火(しつくわ)して全(ぜん)       部(ぶ)烏有(うゆう)に皈(き)したので其(その)再建築(さいけんちく)に就(つい)ては容易(ようい)ならず幕府(ばくふ)も財政(ざいせい)に困難(こんなん)したものもであるが家斉(いへなり)は老後(らうご)次(し) 《割書:水野忠邦の|改革》  第(だい)に我儘(わがまゝ)が募(つの)つたのみならず二三の権臣(けんしん)が其(その)意(い)を迎(むか)へ実(じつ)に賄賂横行(わいろわうかう)の有様(ありさま)でサスがの水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)       も之(これ)には閉口(へいこう)したのであつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く信順(のぶより)が京都所司代(けうとしよしだい)から老中(らうちう)に栄転(えいてん)したのは恰(あたか)も家(いへ)       慶(よし)が相続(さうぞく)した月(つき)の十六日で其(その)年(とし)の七月九日には又(ま)た脇坂安董(わきさかやすたゞ)と堀田正篤(ほつたまさあつ)とが老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)はつたので       ある尚(なほ)其(その)翌(よく)九年の三月には土井利位(どゐとしつら)も老中(らうちう)と相成(あひな)つたのであるが水野忠邦(みづのたゞくに)は即(すなは)ち其(その)上座(ぜうざ)として大(おほい)に幕(ばく)       政(せい)の改革(かいかく)をなさんと企(くはだ)てたのである元来(がんらい)此(この)忠邦(たゞくに)と云ふ人は中々(なか〳〵)の敏腕家(びんわんか)で幼少(ようせう)から文武(ぶんぶ)に志(こゝろざし)厚(あつ)く当(たう)       時(じ)大名(だいみよう)の若殿(わかとの)は遊宴(ゆうゑん)に耽(ふけ)るものが多(おほ)かつた風潮(ふうてう)であつたにも拘(かゝは)らず頗(すこぶ)る豪気(ごうき)で勉強家(べんけうか)であつた処(ところ)から       一 般(ぱん)からは変(かわ)り物(もの)として冷笑(れいせう)されて居(を)つたと云(い)ふ事(こと)である然(しか)るに此人(このひと)の多(おほ)く交際(かうさい)したのは成島司直(なるしましちよく)だ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       の筒井政憲(つゝゐまさのり)だのと云(い)ふような人(ひと)で林述斉(はやしじつさい)は段々(だん〴〵)老年(らうねん)に向(むか)つては居(を)つたが其(その)門(もん)にも亦(ま)た常(つね)に往来(わうらい)したの       である而(しか)して彼(か)の塩谷宕陰(しほのやとうゐん)をば賓師(ひんし)として顧問(こもん)に備(そな)へたと云(い)ふ事である此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから其(その)       老中(らうちう)の上座(ぜうざ)となるや大(おほい)に弊政(へいせい)を改革(かいかく)するの志(こゝろざし)があつて当時(たうじ)水戸(みと)の藩主(はんしゆ)であつた彼(か)の斉昭(なりあきら)の処(ところ)にも出(で)       入(いり)したのであるが初(はじ)めは中々(なか〳〵)意気投合(いきたうがう)したものである其(その)頃(ころ)斉昭(なりあきら)は彼(か)の藤田東湖(ふぢたとうこ)、会沢安(あひざはやすし)、青山延于(あをやまえんう)な       どゝ云(い)ふ人材(じんざい)を其(その)藩(はん)に登用(とうよう)して大(おほい)に衰世(すいせ)を挽回(ばんくわい)するに勉(つと)めたものであるが忠邦(たゞくに)が其(その)後(のち)天保(てんぱう)十二年六月       十三日を以(もつ)て真田信濃守幸貫(さなだしなのゝかみゆきつら)を老中(らうちう)に推挙(すいきよ)したのも実(じつ)は斉昭(なりあきら)の助言(じよごん)によつたものと伝(つた)へられて居(を)る幸(ゆき)       貫(つら)は前(まへ)に屡々(しば〳〵)申述(まをしの)べた松平定信(まつだひらさだのぶ)の次男(じなん)であるが定信(さだのぶ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く退隠(たいゐん)後(ご)は楽翁(らくをう)と号(がう)して風月(ふうげつ)を友(とも)と       して居(を)つたが憂国(いうこく)の念(ねん)は去(さ)らなかつたもので其(その)著(ちよ)「閑(ひま)なるあまり」などの中(なか)には種々(しゆ〴〵)概世(がいせ)の字句(じく)も見(み)       ゆるのである然(しか)るに此(この)人(ひと)は文政(ぶんせい)十一年六月 年(とし)七十一で卒去(そつきよ)せられたので信明(のぶあき)の卒去(そつきよ)よりも後(おく)るゝこと丁度(ちようど)       十二 年目(ねんめ)であつた此(かく)の如(ごと)く忠邦(たゞくに)は切(しき)りに幕府(ばくふ)の弊政(へいせい)を改革(かいかく)せむとするに意(い)があつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べた       如(ごと)く当時(たうじ)はまだ家斉(いへなり)が大御所(おほごしよ)と称(せう)して西(にし)ノ丸(まる)に控(ひか)へて居(を)り幕政(ばくせい)に与(あづか)ると云(い)ふ次第(しだい)でドウモ思(おも)ふように       行(おこな)ふ事が出来(でき)なかつたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)から又(ま)た外国船(ぐわいこくせん)が我(わが)沿岸(えんがん)に来航(らいかう)すると云(い)ふので外交上(ぐわいかうせう)の問(もん)       題(だい)が起(おこ)つたのであるが既(すで)に前章(ぜんせう)で御承知(ごせうち)の如(ごと)く信明(のぶあき)が老中(らうちう)たるの時代(じだい)林述斉(はやしじつさい)の意見(いけん)もあつた如(ごと)く極(きよく)       端(たん)なる攘夷論(ぜうゐろん)を排(はい)して適宜(てきぎ)の処置(しよち)を取(と)る事となしたので一 時(じ)円満(ゑんまん)なる解決(かいけつ)を告(つ)げた事であつたが其(その)後(のち)       文政(ぶんせい)八年に至(いた)つて外国船(ぐわいこくせん)とあれば二 念(ねん)なく打払(うちはら)へと云(い)ふ命(めい)を下(くだ)したのであるソコで今度(こんど)外交(ぐわいかう)の事(こと)起(おこ)る 《割書:渡辺崋山等|の疑獄》  に及(およ)び心(こゝろ)あるものは大(おほい)に之(これ)を憂(うれ)ひ種々(しゆ〴〵)計画(けいくわく)する処(ところ)があつたが御承知(ごせうち)の渡辺崋山(わたなべくわざん)、高野長英(たかのてうえい)などが慎機(しんき)       論(ろん)や夢物語(ゆめものがたり)などを著(あらは)し世(よ)を警(いまし)めむとしたのも即(すなは)ち此(この)時(とき)である之(これ)等(ら)の事に就(つい)ては既(すで)に種々(しゆ〴〵)の著書(ちよしよ)も世(よ) 《割書:蟄居中の崋|山》  に公(おほやけ)にされてある事であるから私(わたくし)は今(いま)茲(こゝ)に詳(くは)しくは申述(まをしの)べぬ考(かんがへ)であるが渡辺崋山(わたなべくわざん)がイヨ〳〵田原(たはら)へ蟄(ちつ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十三 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十四 【本文】       居(きよ)を仰付(あふせつけ)られたのは天保(てんぱう)十年十二月十八日でそれより崋山(くわざん)は江戸(えど)から国(くの)に来(き)て田原(たはら)に蟄居(ちつきよ)したのであ       るが崋山(くわざん)蟄居中(ちつきよちう)は屡々(しば〳〵)此(この)吉田(よしだ)へは来(き)たもので種々(しゆ〴〵)なる逸話(いつわ)も多(おほ)く残(のこ)つて居(を)る事である私(わたくし)が或(ある)老人(らうじん)から       聞(き)いて居(を)る話(はなし)に左(さ)の如(ごと)き事がある       此(この)吉田(よしだ)の某町(ぼうてう)(魚町(うをまち)か或(あるひ)は油屋世古(あぶらやせこ)辺(へん)であると記憶(きおく)する)に或(あ)る鰻屋(うなぎや)があつて其(その)亭主(ていしゆ)の名(な)を勝(かつ)と云(い)つ       たが崋山(くわざん)は吉田(よしだ)へ来(く)る毎(たび)に大概(たいがい)は此(この)家(いへ)に立寄(たちよ)つた然(しか)るに此(この)勝(かつ)と云(い)ふ者(もの)は至(いた)つて夫婦仲(ふうふなか)が悪(わる)くて何時(いつ)来(き)       ても夫婦喧嘩(ふうふげんくわ)をしない時(とき)はないソコで崋山(くわざん)は或(ある)時(とき)其(その)勝(かつ)に向(むか)つて自分(じぶん)が一つマジナヒに額面(がくめん)を書(か)いてや       ろうと云(い)つて「不争而克勝」と云(い)ふ文字(もんじ)を書(か)いて与(あた)へた而(しか)して其(その)意味(いみ)のある処(ところ)を能(よ)く〳〵説(と)き聞(き)かせた       が勝(かつ)も之(これ)に感(かん)じたか爾来(じらい)夫婦喧嘩(ふうふげんくわ)をしないようになつたと云(い)ふ事である其(その)額(がく)は其後(そののち)勝(かつ)が質入(しちいれ)して流(なが)し       て仕舞(しま)つたが今(いま)魚町(うをまち)の瀧崎安之助(たきざきやすのすけ)氏(し)方(かた)に蔵(ざう)せられて居(を)るより承知(せうち)して居(を)る 《割書:崋山の格天|井》  又(また)新銭町(しんせんまち)の天神社(てんじんしや)にも崋山(くわざん)筆(ふで)の格天井(かくてんぜう)が残(のこ)つて居(を)る之(これ)は月(つき)に雁(かり)を書(か)いたものであるが非凡出来(ひぼんでき)である       之(これ)には書翰(しよかん)が添(そへ)つて居(を)るが実(じつ)に面白(おもしろ)いものである此(この)書翰(しよかん)は一 時(じ)私(わたくし)の親属(しんぞく)に当(あた)る佐藤市(さとういち)十 郎(らう)方(かた)に蔵(ざう)さ       れて居(ゐ)たから度々(たび〴〵)拝見(はいけん)したが今(いま)は幸(さいはひ)に天神社(てんじんしや)に蔵(ざう)さるゝ事となつた相(さう)である勿論(もちろん)之(これ)も田原蟄居中(たはらちつきよちう)のも       ので実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける崋山(くわざん)の境遇(けうぐう)と此(この)吉田(よしだ)屡々(しば〳〵)往来(わうらい)された有様(ありさま)が分(わか)るので最(つと)も趣味(しゆみ)あるものであるか 崋山の日記 ら後世(こうせ)迄(まで)大切(たいせつ)に伝(つた)へたいと思(おも)ふ又(ま)た花園町(はなぞのまち)の浅井常(あさゐじよう)三 氏(し)方(かた)には崋山(くわざん)自筆(じしつ)の毛武遊記(もうぶゆうき)が蔵(ざう)されてあるが       之は天保(てんぱう)三年十月 崋山(くわざん)が武州(ぶしう)から野州(やしう)の方(はう)へ遊歴(ゆうれき)した時(とき)の道中記(どうちうき)で実(じつ)に面白(おもしろ)いものである殊(こと)に其(その)中(なか)に       生田萬(いくたまん)と図(はか)らず板橋(いたばし)の町端(まちはづ)れから道伴(みちづれ)になつて桶川(おけがは)の宿(しゆく)で同宿(どうしゆく)した時(とき)の事が詳(くは)しく記(しる)してある且(か)つ萬(まん)       の肖像(せうざう)までも書(か)いてある之(これ)は先年(せんねん)三上文学博士(みかみぶんがくはくし)が豊橋(とよはし)へ来(こ)られた時(とき)見(み)られて実(じつ)に珍(めづ)らしいものである       と云(い)ふので其(その)訳(わけ)を話(はな)し聴(き)かされたから私(わたくし)も大(おほい)に知識(ちしき)を得(え)た次第(しだい)であつたが此(この)生田萬(いくたまん)と云(い)ふ人(ひと)は御承知(ごせうち) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百五号附録   (大正二年三月四日発行) 【本文】       の如(ごと)く平田篤胤(ひらたあつたね)の門人(もんじん)で名(な)を道満(どうまん)と云(い)ひ秋田(あきた)の産(うまれ)であつたが天保(てんぱう)八年の飢饉(ききん)に大塩平(おほしほへい)八 郎(らう)が大阪(おほさか)で起(おこ)       せる変(へん)は其(その)意(こゝろ)救民(きうみん)にあると云(い)ふのを聞(き)いて自分(じぶん)も亦(ま)た越後(ゑちご)の柏崎(かしはざき)にあつて門人(もんじん)を集(あつ)め六月十日「奉天       命誅国賊」と書(しよ)せる旗(はた)を立(た)てゝ陣屋(ぢんや)だの富豪(ふごう)だのを襲(おそ)つたので妻子(さいし)諸共(もろとも)自殺(じさつ)した人(ひと)である此(この)人(ひと)が越後(ゑちご)       行(ゆき)の途中(とちう)図(はか)らず崋山(くわざん)と道伴(みちづれ)になつて初(はじ)めて話(はなし)を交(か)はした其(その)実際(じつさい)の記事(きじ)で而(しか)も崋山(くわざん)自筆(じしつ)であるから成程(なるほど)       得難(えがた)いものであると思(おも)ふのであるまだ崋山(くわざん)が蟄居中(ちつきよちう)此(この)吉田(よしだ)へ往来(わうらい)された事に就(つい)ては長尾華陽(ながをくわやう)、鈴木梅(すゞきばい)       厳(がん)の如(ごと)き諸先生(しよせんせい)に就(つい)て聞(き)いたならば面白(おもしろ)い事もあろうと思(おも)ふが遺憾(ゐかん)ながらまだ其(その)暇(ひま)を得(え)ない次第(しだい)であ       るイヅレ後(あと)から又(ま)た補遺(ほゐ)として申述(まをしの)ぶる事もあろうと考(かんが)へる       サテ此(この)時分(じぶん)の事を申述(まをしの)ぶれば中々(なか〳〵)複雑(ふくざつ)でもある今(いま)は成(な)るべく本市史(ほんしし)に関係(くわんけい)あるものに止(とゞ)めて進行(しんかう)し 家斉の薨去 たいのであるから略(りやく)するの外(ほか)はないが大御所(おほごしよ)の家斉(いへなり)は天保(てんぱう)十二年 閏(うるふ)正月 遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたので       あるトコロで水野忠邦(みづのたゞくに)はイヨ〳〵兼(かね)ての意見(いけん)を実行(じつかう)することと成(な)つて其(その)年(とし)の三月十五日 先(ま)づ西丸(にしまる)付(つき)の権(けん)       臣(しん)とも云(い)ふべき林肥後守忠英(はやしひごのかみたゞひで)、水野美濃守忠篤(みずのみのゝかみたゞあつ)、美濃部筑前守(みのべちくぜんのかみ)などを初(はじ)め西丸大奥(にしまるおほおく)に出入(でいり)して居(を)つた       日蓮宗(にちれんしう)の僧侶(そうりよ)に至(いた)る迄(まで)凡(およ)そ一千人に近(ちか)き人々(ひと〴〵)を斥(しりぞ)け夫(そ)れ〴〵軽重(けいぢう)の処罰(しよばつ)をしたがそれより引続(ひきつゞ)いて大(だい)       改革(かいかく)を行(おこな)ひ倹約(けんやく)の命(めい)を布(し)いたのである然(しか)るに此(この)事(こと)が実(じつ)に極端(きよくたん)であつたので非常(ひぜう)に怨嗟(えんさ)の声(こゑ)多(おほ)く忠邦(たゞくに)の 《割書:矢部駿州の|憤死》  政策(せいさく)は遂(つひ)に全(まつた)く失敗(しつぱい)に終(おは)るに至(いた)つたのである其(その)頃(ころ)彼(か)の矢部駿河守定謙(やべするがのかみさだかた)は大阪(おほさか)から転(てん)じて江戸(えど)の町奉行(まちぶぎよう)       であつたが先(さき)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べたる如(ごと)く実(じつ)に寛厳(かんげん)宜(よろ)しきを得(え)て評判(へうばん)の善(よ)かつた人(ひと)である然(しか)るに此度(このたび)此(この)改(かい)       革(かく)を以(もつ)て余(あま)りに極端(きよくたん)に過(す)ぐるとなしたが為(ため)に忠邦(たゞくに)の意(い)に忤(たか)ひ其(その)年(とし)の十二月廿一日 遂(つひ)に免職(めんしよく)となつて後(のち)       に伊勢(いせ)の桑名(くはな)に預(あづ)けられたが食(しよく)を絶(ぜつ)して憤死(ふんし)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)代(かは)りとして江戸(えど)の町奉行(まちぶぎよう) 鳥居忠耀  となつたのは彼(か)の鳥居耀蔵忠耀(とりゐえうざうたゞてる)であるが此(この)人(ひと)は崋山(くわざん)、長英(てうえい)等(ら)疑獄(ぎごく)の当時(たうじ)は目付役(めつけやく)で随分(ずゐぶん)世(よ)の中(なか)からは 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十五 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十六 【本文】       悪(あし)く言(い)はるゝ人(ひと)である而(しか)も此(この)矢部駿河守(やべするがのかみ)の憤死(ふんし)も其(その)原因(げんゐん)は耀蔵(えうざう)等(ら)の讒言(ざんげん)からであると伝(つた)へられて居(を)る       が併(しか)し此(この)耀蔵(えうざう)は後(のち)に甲斐守(かひのかみ)となつた人(ひと)で彼(か)の林述斉(はやしじゆさい)の次男(じなん)である従(したがつ)て相当(さうたう)に学問(がくもん)もあつたものである       が後世(こうせい)に譏(そし)らるゝ如(ごと)き悪者(わるもの)ではなかつたように思(おも)はるゝ然(しか)るに品性(ひんせい)が極(きは)めて小規模(せうきぼ)で余(あま)りに厳格(げんかく)に過(す)       ぐるの結果(けつくわ)到底(たうてい)人(ひと)を容(い)るゝ事の出来(でき)ざるのみではなく何事(なにごと)にも峻酷(しゆんこく)であつたが為(ため)に実(じつ)に世(よ)の中(なか)で怨(うら)ま       れたものである而(しか)してそれに命令(めいれい)したのが矢張(やはり)極端(きよくたん)なる水野忠邦(みづのたゞくに)ときて居(を)るので江戸中(えどちう)の怨(うら)みを集(あつ)め       た事は著(いちゞる)しきものであつたのである而(しか)して彼(か)の述斉(じゆさい)は丁度(ちようど)此(この)大改革(だいかいかく)の行(おこな)はれた天保(てんぱう)十二年に年(とし)七十四       で歿(ぼつ)したのであるが其(その)以前(いぜん)に於(おい)ても既(すで)に老病(らうびやう)の故(ゆゑ)を以(もつ)て引退(いんたい)して居(を)つたのであるから前(まへ)に申述(まをしの)べた渡(わた) 忠邦の失敗 辺崋山(なべくわざん)一 件(けん)の時(とき)などは恐(おそら)くは無関係(むくわんけい)であつたものと信(しん)ぜられるのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから此(この)忠(たゞ)       邦(くに)の大改革(だいかいかく)も遂(つひ)に種々(しゆ〴〵)なる障害(しようがい)を生(せう)じ忠邦(たゞくに)は天保(てんぱう)十四年閏九月十三日 其(その)職(しよく)を免(めん)ぜらるゝに至(いた)り改革(かいかく)の       事業(じげう)も結局(けつきよく)失敗(しつぱい)に帰(き)したのであるが忠邦(たゞくに)の後(のち)は土井利位(どゐとしつら)が受(う)けて老中上座(らうちうぜうざ)と相成(あひな)つたのであるトコロ       が此(この)人(ひと)は又(ま)た極(きは)めて保守主義(ほしゆしゆぎ)であつたから大概(たいがい)は忠邦(たゞくに)の方針(はうしん)を打破(うちやぶ)つたのである而(しか)して其(その)翌年(よくねん)は年号(ねんごう) 《割書:水戸斉昭の|謹慎》  が改(あらた)まつて弘化(こうくわ)となつたが其(その)元年(がんねん)の五月五日 水戸(みと)の斉昭(なりあきら)は遂(つひ)に謹慎(きんしん)を命(めい)ぜらるゝに至(いた)つたのであるモ       ツトモ忠邦(たゞくに)も最後(さいご)には外交(ぐわいかう)に関(くわん)して斉昭(なりあきら)と意見(いけん)を異(こと)にするに至(いた)つたのであつたが併(しか)し其(その)在職中(ざいしよくちう)は政略(せいりやく)       上(ぜう)陽(よう)に斉昭(なりあきら)を尊(たつと)むで居(を)つたのである然(しか)るに今度(このたび)此処(こゝ)に至(いた)つたのは全(まつた)く幕府(ばくふ)の方針(はうしん)が一 変(ぺん)せる結果(けつくわ)に外(ほか) 信順の隠居 ならぬので幕府(ばくふ)と水戸(みと)との関係(くわんけい)は愈(いよ〳〵)険悪(けんあく)と相成(あひな)つた次第(しだい)である之(これ)より先(さ)き天保(てんぱう)十三年の十二月十三       日に信順(のぶより)は隠居(ゐんきよ)して刑部大輔(けうぶたいいう)となり子(こ)信賓(のぶたか)が家督(かとく)を相続(さうぞく)して伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられたが信順(のぶより)は程(ほど)なく天保(てんぱう) 信順の卒去 十五年(弘化元年)の三月二日(三月十日発表)年(とし)五十二 歳(さい)を以(もつ)て病(やまひ)で卒去(そつきよ)せられ矢張(やはり)野火留(のびどめ)先塋(せんけい)の次(つぎ)に       葬(ほうむ)り承天院(せうてんゐん)と諡(おくりな)されたのである 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ソコで一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)きたいのは信順(のぶより)が老中在職中(らうちうざいしよくちう)に於(お)ける事蹟(じせき)であるが遺憾(ゐかん)な事には之(これ)がドウモ分(わか)       り兼(か)ぬるのであるモツトモ信順(のぶより)が老中(らうちう)に就職(しうしよく)したのは前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く天保(てんぱう)八年の五月十六日で       恰(あたか)も将軍(せうぐん)家慶(いへよし)が相続(さうぞく)の年(とし)であるが其(その)退職(たいしよく)の時日(じじつ)に就(つい)ては少(すこ)しく不明(ふめい)である併(しか)しドウ研究(けんきう)して見(み)ても私       は其(その)隠居(ゐんきよ)まで即(すなは)ち天保(てんぱう)十三年の十二月十三日までは勤続(きんぞく)して居(を)つたものと信(しん)ずるのである従(したがつ)て前述(ぜんじゆつ)       の如(ごと)く水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)が上座(ぜうざ)として幕政(ばくせい)に大改革(だいかいかく)を行(おこな)はむとした当時(たうじ)は之(これ)に参与(さんよ)して居(を)つたものとなさね 《割書:信順隠居の|事情》  ばならぬ此(こゝ)に於(おい)て私(わたくし)の疑問(ぎもん)とするのは其(その)隠居(ゐんきよ)の事情(じぜう)であるが信順(のぶより)の隠居(ゐんきよ)は恰(あたか)も其(その)五十 歳(さい)の時(とき)であるか       ら普通(ふつう)としてはまだ少(すこ)しく早過(はやす)ぎはしまいかと思(おも)ふ併(しか)し当時(たうじ)信順(のぶより)が病気(びやうき)であつたことは事実(じじつ)である之(これ)は       慎徳院記(しんとくゐんき)の中(なか)にも病気引退(びやうきいんたい)の事が書(か)いてあるが又(ま)た御承知(ごせうち)の中山美石(なかやまびせき)(此(この)人(ひと)の事は後(のち)に詳述(せうじゆつ)する筈(はづ)な       り)の公事記(くじき)にも其(その)事(こと)が載(の)つて居(を)るのである従(したがつ)て其(その)引退(いんたい)の原因(げんゐん)が病気(びやうき)の故(ゆゑ)であつた事は事実(じじつ)である       に相違(さうゐ)なかろうが蓋(けだ)し其(その)内(うち)に又(ま)た別(べつ)に事情(じぜう)の存(ぞん)するものがあつたではなかろうかと思(おも)はるゝのであ       る前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は勤倹主義(きんけんしゆぎ)の人(ひと)で父(ちゝ)信明(のぶあき)の遺志(ゐし)を継(つ)いで居(を)つた事は勿論(もちろん)である       が併(しか)し又(ま)た寛量(かんれう)の性(せい)であつた事も敞(お)ふべからざる処(ところ)である従(したがつ)て大阪城代時代(おほさかじやうだいじだい)などは極(きは)めて矢部駿州(やべすんしう)を       信用(しんよう)したもので老中在職(らうちうざいしよく)の当時(たうじ)はまだ末座(まつざ)であつたから十 分(ぶん)に意見(いけん)の行(おこな)はれなかつた処(ところ)もあつたであ       ろうが前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く彼(か)の矢野駿州(やのすんしう)【矢部駿州(やべすんしう)の誤り】を江戸町奉行(えどまちぶぎよう)から貶した如(ごと)きは或(あるひ)は心中不服(しんちうふふく)の点(てん)もあつた       ではなかろうかと推測(すゐそく)せらるゝのである従(したがつ)て水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)の大改革(だいかいかく)の如(ごと)きは其(その)主旨(しゆし)に於(おい)ては勿論(もちろん)賛成(さんせい)で       あつたに相違(さうゐ)ないが之(これ)が実行(じつかう)に関(くわん)して余(あま)りに峻酷(しゆんこく)なりし点(てん)は或(あるひ)は其(その)意(い)に合(がつ)せざりしものがあつたでは       なかろうかと信(しん)ぜられるのである従(したがつ)て病身(びやうしん)なるを幸(さいはひ)に隠居(ゐんきよ)を願(ねが)ひ出(い)で角立(かどた)たぬように老中(らうちう)の職(しよく)をも       退(しりぞ)いたのではあるまいか之(これ)は誠(まこと)に私見(しけん)であつて公表(こうへう)するのは実(じつ)に如何(いかゞ)であるとは思(おも)ふが聊(いさゝか)信(しん)ずる点(てん) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十七 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況)    三百八十八 【本文】       もあるから茲(こゝ)に諸君(しよくん)の教(おしへ)を待(ま)たむとする処(ところ)である             ⦿松平信順の人物並に其藩主時代に              於ける吉田の状況 信順の性行 サテ信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く実(じつ)に勤倹主義(きんけんしゆぎ)の人(ひと)で数々(しば〳〵)倹約(けんやく)の命(めい)を藩内(はんない)に布(し)いたのである       が其(その)大主旨(だいしゆし)は常(つね)に父(ちゝ)信明(のぶあき)の方針(はうしん)を継承(けいせう)したものと思(おも)はれる従(したがつ)て寛厳(かんげん)常(つね)に宜(よろ)しきを得(え)たのであるが殊(こと)に       其(その)人(ひと)となりに於(おい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く屡々(しば〳〵)寛量(かんれう)の処(ところ)が見(み)へるのである而(しか)して其(その)内(うち)には又(ま)た誠(まこと)に緻(ち) 山田洞雪  密(みつ)の処(ところ)があつたのであるが此(この)人(ひと)が大阪城代(おほさかじやうだい)から京都所司代(けうとしよしだい)を勤(つと)めて居(を)つた頃(ころ)に画師(えし)の山田洞雪(やまだどうせつ)と云(い)ふ       人(ひと)も随行(ずいかう)して居(を)つたのである此(この)人(ひと)は谷文晁(たにぶんてふ)の門人(もんじん)で中々(なか〳〵)の上手(ぜうづ)であつたが信順(のぶより)は常(つね)に此(この)画師(えし)をして色(いろ)       色(いろ)と有(あ)り觸(ふ)れたものを臨写(りんしや)せしめ之(これ)を集(あつ)めて綴(つゞ)り込(こ)むで置(お)いたものがあるソレは今日(こんにち)も尚(な)ほ大河内家(おほかうちけ)       に残(のこ)つて居(を)るのであるが之(これ)を見(み)ると其(その)内(うち)には又(ま)た時(とき)の摺物(すりもの)で歌舞伎(かぶき)などの広告(かうこく)のようなもの迄(まで)も貼(は)り       込(こ)むである殊(こと)に面白(おもしろ)く思(おも)ふのは或夜(あるよ)大阪(おほさか)の城中(じやうちう)へ大(おほ)きな蜘蛛(くも)が出(で)て之(これ)を打(う)ち殺(ころ)したが普通(ふつう)にない大(おほい)さ       であるからと云(い)ふので例(れい)の洞雪(どうせつ)に写生(しやせい)せしめ之(これ)に其(その)蜘蛛(くも)の寸法(すんぱう)だの現(あら)はれた年月日(ねんがつひ)だのを書(か)き添(そ)へて       保存(ほぞん)してある事であるソンナ訳(わけ)で微細(びさい)な処(ところ)までも能(よ)く〳〵注意(ちうい)し之(これ)を纏(まと)めて丁寧(ていねい)に保存(ほぞん)して置(お)かれた       処(ところ)は信順(のぶより)が一 種(しゆ)の好(す)きからも成(な)した事であろうが一つには又(ま)た其(その)微蜜(びさい)な性質(せいしつ)をも現(あら)はして居(を)る事と思(おも)       ふのである而(しか)して信順(のぶより)は前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く其(その)十五六 歳(さい)の頃(ころ)から彼(か)の太田錦城(おほたきんじやう)を師傅(しふ)として経書(けふしよ)       を学(まな)むだもので詩作(しさく)もカナリにはやつたものであるが文政(ぶんせい)二年 父(ちゝ)信明(のぶあき)卒去(そつきよ)となつて家督(かとく)を相続(さうぞく)すると       程(ほど)なく一たび国(くに)に就(つ)いたのである其(その)時(とき)は錦城(きんじやう)も随(したが)つて此 吉田(よしだ)に来(き)たのであるが凡(およ)そ一 年間(ねんかん)は此(この)地(ち)にあ 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百十一号附録   (大正二年三月十一日発行) 【本文】       つたのである即(すなは)ち信順(のぶより)の吉田(よしだ)到着(たうちやく)は七月廿五日であつたが錦城(きんじやう)も翌年(よくねん)まで此(この)地(ち)にあつて時習館(じしうくわん)で経書(けふしよ) 中山美石  の講義(かうぎ)をなしたものである当時(たうじ)信順(のぶより)は必(かなら)ず自(みづか)らも出(い)でゝ其(その)講義(かうぎ)を聴聞(てうぶん)したとの事であるが又(また)其(その)頃(ころ)彼(か)の       中山美石(なかやまびせき)をも召(め)して和漢書(わかんしよ)の講義(かうぎ)を命(めい)じたのである此(この)人(ひと)は其(その)中(なか)でも多(おほ)く国學(こくがく)の講義(かうぎ)の方(はう)を引受(ひきう)けたの       であるが元来(がんらい)美石(びせき)と云(い)ふ人(ひと)は小禄(せうろく)の家(いへ)で通称(つうせう)を爲蔵(ためざう)後(のち)に彌助(やすけ)と云(い)ひ父(ちゝ)の名(な)を清勝(きよかつ)と云(い)つたが初(はじ)め遠州(ゑんしう)       新居(あらゐ)の関吏(せきり)に任(にん)ぜられて居(を)つたのである然(しか)るに実(じつ)に篤学(とくがく)の人(ひと)で国学(こくがく)は彼(か)の本居大平(もとおりおほひら)に就(つ)いて学(まば)むだの       であるが信明(のぶあき)の晩年(ばんねん)文化(ぶんくわ)十四年の五月に吉田(よしだ)に召寄(めしよ)せられて時習館(じしうくわん)の助教(じよけう)を拝命(はいめい)するに至(いた)つたのであ       る此(この)人(ひと)は其(その)後(のち)信順(のぶより)が大坂(おほさか)並(ならび)に京都(けうと)に在勤(ざいきん)の時(とき)も常(つね)に随行(ずゐかう)して怠(おこた)らず和漢書(わかんしよ)の講義(かうぎ)及(およ)び和歌(わか)の講釈(かうしやく)など       をなしたものであるが遂(つひ)には政治上(せいじぜう)の顧問(こもん)にも当(あた)つた様子(やうす)である信順(のぶより)はそれ故(ゆゑ)和歌(わか)にも中々(なか〳〵)堪能(たんのう)であ 公 事 記 つたのであるが前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた如(ごと)く此(この)美石(びせき)が書(か)き置(お)いたもので前章(ぜんせう)既(すで)に御話(おはなし)した彼(か)の公事記(くじき)並(ならび) 《割書:大坂日記 |京都日記 》  に大坂日記(おほさかにつき)、京都日記(けうとにつき)などと云(い)ふのがあるが之(これ)はいづれも日記体(につきたい)のもので信順(のぶより)に仕(つか)へた当時(たうじ)の事共(ことども)己(おの)       れに関係(くわんけい)せるものは細大漏(さいだいもら)さずに記載(きさい)した記録(きろく)であるが実(じつ)に其(その)当時(たうじ)を知(し)るには大切(たいせつ)のものであると思(おも)       ふ而(しか)も其(その)中(なか)には又(ま)た屡々(しば〳〵)信順(のぶより)が勉強家(べんけうか)であつた様子(やうす)が書(か)き現(あら)はしてあるのであるが今(いま)此(この)書(しよ)は其(その)子孫(しそん)の       家(いへ)に保存(ほぞん)されて居(を)るので此(この)頃(ころ)当市(たうし)の市史編纂係(しゝへんさんかゝり)に於(おい)てもソレを謄写(とうしや)して置(お)いたから結局(けつきよく)は市(し)の図書館(としよくわん)       に之(これ)を留(とゞ)める事(こと)になると思(おも)ふ       又(ま)た信順(のぶより)の手帳(ててう)が二 冊(さつ)幸(さいはひ)に大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)に残(のこ)つて居(を)るが之(これ)は簡単(かんたん)な手帳(ててう)で真中(まんなか)に煉筆(れんぴつ)が挟(はさ)まるよう       になつて居(を)る恐(おそら)くは旅行中(りよかうちう)にチヨイ〳〵必要(ひつよう)の事(こと)を書(か)き留(とゞ)めたものであろうと考(かんが)へるが其(その)中(なか)には間々(まゝ)       和歌(わか)なども記(しる)してある政事上(せいぢぜう)などに取(と)つて大(だい)なる材料(ざいれう)となる事(こと)はないようであるが信順(のぶより)の平常(へいぜう)を知(し)る       上(うへ)には随分(ずゐぶん)面白(おもしろ)いものである要(よう)するに信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は極(きは)めて質素(しつそ)であつて緻密(ちみつ)な性質(せいしつ)を持(も)ち且(か)つ相当(さうたう) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                   三百八十九 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百九十 【本文】       に学問(がくもん)のあつたものと思(おも)はるゝ特(とく)に書(しよ)は頗(すこぶ)る能書(のうしよ)と云(い)ふべきであつて多数(たすう)我(わが)豊橋(とよはし)地方(ちはう)には遺(のこ)つて居(を)る       次第(しだい)である       サテ前(まへ)に一寸(ちよつと)中山美石(なかやまびせき)のことを申述(まをしの)べたが此(この)人(ひと)は元来(がんらい)安永(あんせい)四年十月十日 吉田(よしだ)に於(おい)て生(うま)れ天保(てんぱう)十四年八月 《割書:後撰集新抄|の出版》  年(とし)五十九で歿(ぼつ)した人(ひと)である本居大平(もとおりおほひら)の門人(もんじん)であつたことも前(まへ)に御話(おはなし)して置(お)いた如(ごと)くであるが後撰集新抄(ごせんしうしんしよう)       などの著書(ちよしよ)がある而(しか)も此(この)後撰集新抄(ごせんしうしんしよう)の出版(しゆつぱん)に就(つい)ては実(じつ)に容易(ようい)ならぬ苦心(くしん)をしたものと見(み)へるが殊(こと)に其(その)       費用(ひよう)に就(つい)ては余程(よほど)困難(こんなん)した様子(やうす)である初(はじ)め其(その)何分(なにぶん)を藩主(はんしゆ)より拝借(はいしやく)したが容易(ようい)に其(その)返済(へんさい)が出来(でき)ぬので苦(くるし)       むだ有様(ありさま)が矢張(やはり)公事記(くじき)の中(なか)に見(み)へて居(を)るので今日(こんにち)からも尚(な)ほ同情(どうぜう)に堪(た)へぬ思(おも)ひがするのである又(ま)た本(もと)       居大平翁(おりおほひらおう)の年譜(ねんぷ)を見(み)ると此(この)美石(びせき)が序文(ぢよぶん)を書(か)いて居(を)るのであるが其(その)門人(もんじん)名簿(めいぼ)に於(おい)ても吉田人(よしだじん)の中(なか)の筆頭(しつとう)       に記(しる)されて居(を)るのである而(しか)して此(この)門人(もんじん)名簿(めいぼ)にある連名(れんめい)は当時(たうじ)如何(いか)なる人(ひと)か此(この)大平(おほひら)に就(つい)て国学(こくがく)を学(まな)むだ       かが分(わか)るので大(おほい)に面白(おもしろ)いものであるから左(さ)に吉田(よしだ)住人(ぢうにん)の分(ぶん)だけを抜萃(ばつすゐ)したいと思(おも)ふ         参 河 国 吉 田 《割書:本居大平門|人々名》      中山彌助美石      実相院古道      橋本周作庸成           西岡銀助匡之      中山小右衛門眞道  小池一庵恭           久野逸蔵爲國      富田富次足穂    小川周蔵千文           西村孫次右衛門妻多米  西村多米妹八重   松平八右衛門忠直           岩上伝兵衛母登波    内藤熊吉正能    成就院養善           寶形院彰僊       松平殿       中山彌藤次豊村           横山五左衛門直礒    小川又助清風    金井氏女満知子 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】           羽田野常陸敬雄     中川氏女玉江       右(みぎ)の人名(じんめい)の中(なか)で今日(こんにち)其(その)履歴(りれき)の分(わか)つて居(を)る人(ひと)もあれば分(わか)り兼(か)ぬる人(ひと)もあるが其(その)中(なか)で松平殿(まつだひらどの)とあるのは疑(うたがひ)       もなく信順(のぶより)の事(こと)であると思(おも)ふ其(その)訳(わけ)は大平(おほひら)の内遠(うちとほ)の門人録(もんじんろく)の終(をは)りに亡父(ぼうふ)門人(もんじん)文通(ぶんつう)不絶分(たへざるぶん)として其(その)中(なか)に松(まつ)       平伊豆守殿信順(だひらいづのかみどののぶより)、同妾町子(どうせうまちこ)、同老女玉江(どうらうぢえたまえ)と記載(きさい)してある事(こと)である之(これ)に依(よ)ると信順(のぶより)も亦(ま)た美石(びせき)の紹介(せうかい)で       大平(おほひら)の門人(もんじん)となつたのみならず本居家(もとおりけ)に対(たい)して絶(た)えず文通(ぶんつう)したものと信(しん)ぜられるのである尚(なほ)茲(こゝ)に御話(おはなし)       して置(お)きたいのは此(この)本居大平(もとおりおほひら)の祖父(そふ)に当(あた)る彼(か)の本居宣長(もとおりのりなが)の門人(もんじん)となつた人(ひと)で其(その)門人名簿(もんじんめいぼ)に載(の)つて居(を)る       のが此(この)吉田(よしだ)の人(ひと)で五 人(にん)あるのであるそれは天明(てんめい)四年の入門(にふもん)で鈴木土佐(すゞきとさ)寛政(かんせい)元年(がんねん)の入門(にふもん)で鈴木陸奥(すゞきむつ)寛政(かんせい) 鈴木土佐  五 年(ねん)入門(にふもん)で鈴木若狭(すゞきわかさ)と大山治左衛門(おほやまぢざゑもん)母(はゝ)縫(ぬい)寛政(かんせい)十二 年(ねん)入門(にふもん)で寶形院観蓮(ほうげうゐんくわんれん)とであるが其(その)中(なか)で鈴木土佐(すゞきとさ)と鈴(すゞ)       木陸奥(きむつ)とは親子(おやこ)である之(これ)は今(いま)の鈴木延路君(すゞきのぶぢくん)の祖先(そせん)であらるゝが土佐(とさ)と云(い)ふ人(ひと)は梁満呂(やなまろ)と云(い)つたので其(その) 鈴木陸奥  子(こ)の陸奥(むつ)と云(い)ふ人(ひと)は重野(しげの)と云(い)つたのである二 人(にん)共(とも)中々(なか〳〵)の人物(じんぶつ)であつたが土佐(とさ)の方(はう)は実(じつ)に信明(のぶあき)時代(じだい)の人(ひと)       であるから其(その)当時(たうじ)に於(おい)て御話(おはなし)すべき筈(はづ)であつたのであるが今(いま)茲(こゝ)に申述(まをしの)ぶる次第(しだい)であるトコロで此(この)土佐(とさ)       と云(い)ふ人(ひと)は実(じつ)に節倹家(せつけんか)であつたが又(ま)た善行(ぜんかう)の多(おほ)かつた人(ひと)である宣長(のりなが)と数々(しば〳〵)往復(わうふく)した書翰(しよかん)は今(いま)も延路君(のぶぢくん)       の家(いへ)に遺(のこ)つて居(を)るが自分(じぶん)に書(か)き残(のこ)して置(お)いたものも少(すこ)しくあるのである私(わたくし)は此(この)頃(ごろ)其(その)手記(しゆき)の中(なか)から安永(あんえい)       八 年(ねん)の十一月 此(この)吉田本町(よしだほんまち)に大火(たいくわ)のあつた時(とき)の事(こと)を記(しる)したものを発見(はつけん)したので甚(はなは)だ面白(おもしろ)いものであると       思(おも)ふのであるモツトモ此(この)火事(くわじ)の事(こと)は信明(のぶあき)の時代(じだい)を御話(おはなし)した内(うち)に既(すで)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べては置(お)いたが尚(なほ)補遺(ほゐ)と       して茲(こゝ)にそれを掲載(けいさい)したいと思(おも)ふのである 《割書:安永八年吉|田大火に関》   十一月三日夜暁七ツ時(十一月四日)本町藤井宗淳宅より火出本町不残焼御輿休町天王社中不残焼失 《割書:する鈴木土|佐の手記》   祢宜田中近江宅焼失夫ゟ魚町へ焼ぬけ魚町西方より焼乾風強く吹き権現の西隣善九郎といふ者の家 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百九十一 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百九十二 【本文】        焼神楽殿に火かゝり神楽殿焼る此神楽殿は善九郎家に軒ならび候故焼候然処神楽殿へ火付候へば乾        風即に神山風に吹なほし拝殿本社の方へ火烟を寄付ず依て本社拝殿鳥居大門並応屋無難ニ相遁候乾        風忽神山風に吹なほせしハ偏に神力なりと人々云ふ也魚町の北側は権現の向長吉と云ふ人の家にて        火留る長吉が家は半焼也権現の御神躰は十一月四日の暁方出火有といふより白山の社中へ遷し奉る        十一月四日の夜は白山の拝殿に安置して十一月五日夜魚町熊野社に遷奉るもとの如し(中略)扨本町        より出火札木町呉服町曲尺手町鍛冶町は談合宮入口まで焼る希代の大火なり       ソコで此(この)土佐(とさ)の子(こ)の陸奥(むつ)と云(い)ふ人(ひと)も中々(なか〳〵)の人物(じんぶつ)であつて平田篤胤(ひらたあつたね)などゝも常(つね)に文通(ぶんつう)したことであつたが       太田錦城(おほたきんじやう)が信順(のぶより)に従(したがつ)て此(この)吉田(よしだ)に居(を)つた間(あひだ)も数々(しば〳〵)之(これ)と交遊(かうゆう)したものである錦城(きんじやう)が陸奥(むつ)に贈(おく)つた詩(し)は今(いま)も       延路君(のぶぢくん)の家(いへ)に存(そん)して居(を)るが其(その)最後(さいご)に吉田(よしだ)に於(おい)て交遊(かうゆう)した人(ひと)も数多(あまた)あるが其(その)中(なか)で陸奥(むつ)程(ほど)の人物(じんぶつ)は他(た)には       ないと思(おも)ふと云(い)ふ意味(いみ)が書(か)き添(そ)へられてあるのである錦城(きんじやう)も余程(よほど)陸奥(むつ)の人物(じんぶつ)たる事(こと)を信(しん)じたものと見(み)       へるのでめ【めはあの誤り】る 《割書:山田洞雪は|横山文堂の|誤》   ⦿正誤(せいご)本章(ほんせう)の初(はじめ)に画師山田洞雪(●●●●●●)と申述(まをしの)べて置(お)いたがあれは全(まつた)く横山文堂(●●●●)と云(い)ふ画師(えし)の誤(あやまり)で私(わたくし)が其(その)         名前(なまへ)を間違(まちが)へた次第(しだい)である併(しか)し事柄(ことがら)に就(つい)ては違(ちが)いはないので只(たゞ)其(その)名前(なまへ)丈(だけ)を此処(こゝ)に訂正(ていせい)したいと思(おも)         ふのである 僧了願   尚(なほ)之(これ)に続(つゞい)で此処(こゝ)に御話(おはなし)したいのは了願(れうぐわん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)のことである此(この)人(ひと)は今(いま)の花園町(はなぞのてう)浄円寺(ぜうゑんじ)の住職(ぢうしよく)で法雲庵(はううんあん)       と号(がう)した人(ひと)であるが明和(めいわ)三年の生(うまれ)で幼少(えうせう)から学(がく)を好(この)み詩文(しぶん)に長(てう)じ和歌(わか)をも善(よ)くした初(はじめ)め最親院義陶(さいしんゐんぎとう)(       此(この)人(ひと)のことは少(すこ)しく不明(ふめい)なり)と云(い)ふ人(ひと)に就(つい)て学(まな)むだが後(のち)京都(けうと)に出(い)でゝ高倉大学(たかくらだいがく)に入(い)り知山(ちざん)、泉山(せんざん)など       の諸大家(しよたいけ)に従(したがつ)て華天蜜禅倶舎法相(くわせんみつせんぐしやはふさう)の蘊奥(うんのふ)を究(きは)め後(のち)に同大学(どうだいがく)の寮司(れうじ)に任(にん)ぜられたが程(ほど)なく国(くに)に帰(かへ)つて熟(じゆく) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百十六号附録   (大正二年三月十八日発行) 【本文】       舎(しや)を浄円寺(ぜうゑんじ)内(ない)に設(まを)け子弟(してい)の教育(けういく)に全力(ぜんりよく)を傾注(けいちう)したのである其後(そののち)数々(しば〳〵)京都(けうと)から招(まね)かれた事(こと)があつたが遂(つひ)       に之(これ)に応(おう)せず文化(ぶんくわ)元年(がんねん)に至(いた)つて経蔵(けうぐら)を境内(けうたい)に起(おこ)し一 切経(さいけう)を蔵(ざう)したのであるが之(これ)には了願(れうぐわん)も余程(よほど)苦心(くしん)を       重(かさ)ねた事(こと)であつた今日(こんにち)も尚(なほ)其(その)蔵(くら)だけは残(のこ)つて居(を)る次第(しだい)であるが其(その)他(た)大無量寿経(だいむれうじゆけう)を和哥(わか)に訳(やく)して之(これ)を判(はん)       行(かう)したり中々(なか〳〵)事業(じげふ)の見(み)るべきものがある著者(ちよしよ)にも大無量寿経(だいむれうじゆけう)略述(りやくじゆつ)十二 巻(くわん)あるが其(その)筆蹟(ひつせき)も一 種(しゆ)の気骨(きこつ)       と風韻(ふうゐん)があつて頗(すこぶ)る見(み)るべきものである文政(ぶんせい)五年十二月 年(とし)五十七で寂(じやく)した而(しか)も終身(しうしん)娶(めと)らなかつたととの       事(こと)である 大珍彭仙  又(また)其頃(そのころ)龍拈寺(りうねんじ)の住職(ぢうしよく)にも大珍彭仙(たいちんほうせん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)があつたが之(これ)も中々(なか〳〵)の名僧(めいそう)で僧俗(そうぞく)の帰依(きえ)する処(ところ)となつた       が其人(そのひと)の寂後(じやくご)弟子(してい)の如山(によざん)と云(い)ふ僧(そう)が彭仙(ほうせん)の存生中(ぞんせいちう)に説(と)いた処(ところ)の教理(けうり)を集(あつ)めて一 書(しよ)となして或問止啼飾(わくもんしてんしよく)と       云(い)つたのである之(これ)は今(いま)も残(のこ)つて居(を)つて禅学者間(ぜんがくしやかん)に行(おこな)はるゝものである此(この)人(ひと)は文政(ぶんせい)三年十月 年(とし)七十三で       寂(じやく)したのであるから其(その)壮(さかん)なる時代(じだい)は矢張(やはり)信明(のぶあき)執政(しつせい)の頃(ころ)であつたのである 大口三緘  次(つぎ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは大口三緘(おほぐちさんかん)の事(こと)であるが之(これ)は私(わたくし)の祖先(そせん)に当(あた)るのであるから此処(こゝ)に申述(まをしの)ぶ       るも如何(いかゞ)であるとは思(おも)ふが実(じつ)は珍(めづ)らしい能書家(のうしよか)であつて屡々(しば〳〵)信明(のぶあき)時代(じだい)に藩(はん)から褒賞(ほうせう)されたものである       幼名(えうめい)を周作(しうさく)又(ま)た肥富(ひとみ)と云(い)つて元来(がんらい)は同町内(どうてうない)の佐藤市(さとういち)十 郎(らう)の子(こ)であつたが幼少(えうせう)から私(わたくし)の家(いへ)に養(やしな)はれたも       のである此(この)人(ひと)が十五 歳(さい)の時(とき)に書(か)いた六 枚折(まいをり)の屏風(べうぶ)は今(いま)も私(わたくし)の家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのであるが全(まつた)く米芾(べいふつ)の書(しよ)       風(ふう)である其頃(そのころ)楽庵(らくあん)と云(い)ふ書家(しよか)が田町(たまち)(今(いま)の湊町(みなとまち))に住(す)むで居(ゐ)たが此(この)人(ひと)も中々(なか〳〵)の能書(のうしよ)であつた然(しか)るに此(この)三(さん)       緘(かん)の筆蹟(ひつせき)には感服(かんぷく)して歴代名書要論(れきだいめいしよえうろん)と云(い)ふ書物(しよもつ)に其訳(そのわけ)を自書(じしよ)して之(これ)を贈(おく)つたのであるが幸(さいはひ)に之(これ)も私(わたくし)       の家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのである然(しか)るに三緘(さんかん)は僅(わづか)に十七 歳(さい)で文政(ぶんせい)三年八月 病歿(びようぼつ)したが此(この)人(ひと)の遺物(ゐぶん)は尚(なほ)多数(たすう)に       私(わたくし)方(かた)に蔵(ざう)して居(お)るのである 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況)        三百九十三 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況)      三百九十四 【本文】 四時庵北溟 ソレから前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた生花(せいくわ)の名人(めいじん)北萊(ほくらい)の弟子(でし)に北溟(ほくめい)と云ふ人(ひと)があつた事は其(その)道(みち)の方(かた)には能(よ)く御承知(ごせうち)       に成(な)つて居(お)る事(こと)であるが此(この)人(ひと)は矢張(やはり)観音寺(くわんおんじ)の住職(ぢうしよく)で北萊(ほくらい)に対(たい)しては法孫(はふそん)に当(あた)るのであるが後(のち)に四時庵(しじあん)       の名(な)を襲(つ)ぎ文政(ぶんせい)五年十二月 会頭(くわいとう)の可印(かいん)を受(う)けたのである併(しか)し此(この)人(ひと)の事蹟(じせき)に付(つい)ては其(その)他(た)に能(よ)く知(し)る事の       出来(でき)ぬのは遺憾(ゐかん)であると思(おも)ふ 孝子初蔵  尚(なほ)此処(こゝ)に一つ御話(おはなし)したいと思(おも)ふのは其(その)頃(ころ)魚町(うをまち)の初蔵(はつざう)と云(い)ふ孝子(かうし)のあつた事である之(これ)は今(いま)も尚(な)ほ魚町(うをまち)に       住(す)むで居(お)らるゝ早川彦(はやかはひこ)七と云ふ方(かた)の祖先(そせん)であるが父(ちゝ)を彦助(ひこすけ)と云つたのである性温厚(せいおんこう)であつて至(いた)つて孝(かう)       心(しん)が深(ふか)かつたが家(いへ)は元(もと)より貧乏(びんぼう)であつたから此(この)初蔵(はつざう)は昼夜(ちうや)稼業(かげふ)を励(はげ)むで父母(ふぼ)に奉(ほう)じたのであるが特(とく)に       読書(どくしよ)を好(この)むで深更(しんかう)に至(いた)るまで常(つね)に倦(う)む事がなかつたのである勿論(もちろん)倹約(けんやく)に倹約(けんやく)を重(かさ)ねて零砕(れいさい)の資(し)と雖(いへど)も       余裕(よゆう)があれば必(かなら)ず之(これ)を貯蓄(ちよちく)して居(お)つたが或時(あるとき)書物(しよもつ)が購(あがな)ひたいと思(おも)つた併(しか)し其(その)資(し)を得(う)るに困難(こんなん)した為(ため)に       名古屋(なごや)まで行(ゆ)く〳〵他人(たにん)の貨物(くわもつ)を担(にな)つて僅(わづか)の賃銭(ちんせん)を得(え)其(その)銭(ぜに)を以(もつ)て目的(もくてき)の書物(しよもつ)を購(あがな)ひ之(これ)を携(たづさ)へて帰(かへ)つた       と云ふ話(はなし)がある其(その)孝道(かうどう)並(ならび)に平素(へいそ)の行為(かうゐ)が段々(だん〴〵)人(ひと)に知(し)れ遂(つひ)には藩主(はんしゆ)信順(のぶより)の耳(みゝ)に入(い)つて文政(ぶんせい)二年 米(こめ)七 俵(へう)を       賜(たまは)つて之(これ)を賞(せう)されたのである今(いま)も此(この)初蔵(はつざう)が自写(じしや)した王蓮集(わうれんしう)と云ふものが其(その)子孫(しそん)の家(いへ)に残(のこ)つて居(お)る尚(なほ)其(その)       履歴(りれき)の詳細(せうさい)は本藩孝子伝(ほんはんかうしでん)と云ふ書物(しよもつ)の中(なか)にも載(の)つて居(お)るから就(つい)て見(み)られむことを望(のぞ)むのである       其他(そのた)此(この)信順(のぶより)時代(じだい)の記録(きろく)としては色々(いろ〳〵)なものが大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)にもあり又(ま)た船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)などにもあるまだ       一々 私(わたくし)も之(これ)を調査(てうさ)し兼(か)ねて居(お)るのであるが段々(だん〴〵)と之(これ)を取調(とりしら)べて市史編纂(ししへんさん)までには必要(ひつえう)なる事は尚(なほ)之(これ)を       発表(はつぺう)したいと考(かんが)へて居(お)るのである従(したがつ)つて御心付(おこゝろづき)の方(かた)がありますれば何事(なにごと)によらず教(おしへ)を垂(た)れらるゝ事       を惜(おし)まれないように願(ねが)ひたいと思(おも)ふ 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】             ⦿松平伊豆守信寶 松平信寶  前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平信順(まつだひらのぶより)は天保(てんぱう)十三年十二月十三日を以(もつ)て隠居(ゐんきよ)したのであるが其(その)子(こ)信寶(のぶたか)は仝日(どうじつ)       家督相続(かとくさうぞく)を命(めい)ぜられ続(つゞい)て伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられて父(ちゝ)の封(ほう)を襲(つ)いだのである母(はゝ)は前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べた金子氏(かねこし)町(まち)       子(こ)であるが後(のち)に冷松院(れいせうゐん)と云はれた人(ひと)である而(しか)して信寶(のぶたか)は文政(ぶんせい)九年九月十日の生(うまれ)で初(はじ)め長之助(てうのすけ)と云つた       が伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せらるゝ以前(いぜん)には隼人正(はやとのせう)と称(せう)したのであるトコロで此(この)信寶(のぶたか)襲封(しうほう)の当時(たうじ)は外交(ぐわいかう)の問題(もんだい)が中(なか)       中(なか)盛(さかん)になり其(その)翌(よく)天保(てんぱう)十四年の閏(うるふ)九月には水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)も其(その)大改革(だいかいかく)が失敗(しつぱい)に終(をは)つて老中(らうちう)を辞職(じしよく)すると       云ふ始末(しまつ)で其(その)後(のち)は土井利位(どゐとしつら)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)となつて之(これ)を承(う)けたが忽(たちま)ち水戸斉昭(みとなりあきら)との間(あひだ)に衝突(せうとつ)を来(きた)すに至(いた)つ       たのである之(これ)等(ら)の事は既(すで)に其(その)大要(たいえう)を前章(ぜんせう)にも申述(もをしの)べて置(お)いたのであるが天保(てんぱう)は其(その)十五年 目(め)に弘化(こうくわ)と改(かい) 信寶卒去  元(げん)されたが其(その)天保(てんぱう)十五年の三月二日 隠居(ゐんきよ)の信順(のぶより)は卒去(そつきよ)となり続(つゞ)いで其(その)年(とし)の十月十七日(十一月廿日 発(はつ)       表(ぺう))信寶(のぶたか)も亦(また)病(やまひ)で卒去(そつきよ)と相成(あひな)つたのである卒年(そつねん)僅(わづ)かに廿一 歳(さい)で寛量院(かんれうゐん)と諡(おくりな)されたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)       で信寶(のぶたか)は其(その)在世(ざいせ)甚(はなは)だ長(なが)からず従(したがつ)て茲(こゝ)に御話(おはなし)する事項(じこう)も右(みぎ)申述(まをしの)べた位(くらゐ)で他(た)に之(これ)と云ふのもない様(やう)であ       る併(しか)し信寶(のぶたか)が相続(さうぞく)の翌年(よくねん)天保(てんぱう)十四年六月十二日 此(この)吉田(よしだ)に入城(にふぜう)した時(とき)自書(じしよ)を以(もつ)て老衆(らうしう)に言(い)ひ渡(わた)した事は       当時(たうじ)に於(お)ける諸侯(しよこう)の内情(ないぜう)を知(し)る上(うへ)には誠(まこと)に面白(おもしろ)い資料(しれう)である而(しか)して其(その)翌(よく)十五年六月 目付(めつけ)より觸(ふ)れ出(だ)し       た時習館(じしふくわん)に関(くわん)する件(けん)並(ならび)に同年(どうねん)九月 同(おな)じく目付(めつけ)よりの觸書(ふれがき)は藩(はん)の学事(がくじ)に関(くわん)し及(およ)び時(とき)の風習(ふうしう)を知(し)る上(うへ)に於(おい)       て甚(はなは)だ面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に掲載(けいさい)して参考(さんかう)に供(けう)したいと思(おも)ふのである          天保十四年癸卯六月十二日吉田表にて信寶君御自書於大書院老衆被仰渡 《割書:信寶自書の|仰渡》   家中の者共年成引米多難義可有之の処いつれも取続相勤候段畢竟常々心懸奇特の事に候此度家督に 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信寶)                    三百九十五 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信寶)                    三百九十六 【本文】        付ては少々たり共引米弛め遣度候処連年莫大の物入打続勝手向必至と差支此上暮し方趣立兼候事に        付乍残念不能其義候乍併右存し立候趣意せめて相顕候様にも致度兼々分米之内にて為除置候金子乍        少々一同へ為取候事に候猶勝手向之義此侭にて打過候はゝ終には家中扶助も出来兼候様にも可相成        と深致心痛候依之猶又諸向厳敷省略申付候間万事失墜無之様厚心を用ひ今一際省略之廉相立候様致        度事に候尤為筋之儀二年存付候はゝ聊無遠慮可申出候尚委細は家老共へ申含候         卯五年廿六日 《割書:諸侯財政の|窮状》  之(これ)で見(み)ると実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける諸侯(しよこう)の財政(ざいせい)と云ふものゝ情態(ぜうたい)が分(わか)るようであるが之(これ)は結局(けつきよく)幕府(ばくふ)其(その)ものゝ       財政(ざいせい)窮乏(きうばう)の余波(よは)が及(およ)むで居(お)るものであると信(しん)ずるのである兎(と)に角(かく)此(この)仰渡(あふせわたし)は誠(まこと)に露骨(ろこつ)であつて当時(たうじ)の内(ない)       情(ぜう)を知(し)る上(うへ)に於(おい)ては善(よき)材料(ざいれう)であるように思(おも)ふ次(つぎ)に時習館(じしふくわん)に関(くわん)する事であるが其(その)触書(ふれがき)は左(さ)の如(ごと)くであ       る 《割書:時習館に関|する触書》   文武御取立之義従御先代様度々被仰出時習館之儀も去ル宝暦度文化度厳重に被仰出銘々心掛出精        致候事に志候得共猶又此度文武之義厚被仰出芸達之者出来候様被遊度被思召候ニ付時習館之義弥厳        重ニ被仰出夫々掛り之者被仰付諸芸時習館に於て無絶間出来候様被仰付候間銘々心掛候芸術望次第        稽古可致候就ては道場新建等被仰付候得共一同厚相心掛出精昇達致候様銘々真実之修行可致候尤御        役人以上年若之者は別而自己之執行は勿論年輩之者も折々罷出心付可申候          付手習算術之儀銘々無油断心掛申可候        一若年之者も素読之儀は勿論諸芸共入門為致出精可為致候是迄年若者一向に稽古不致者も有之候         得共以来ハ右様之者は其親々え急度御沙汰可有之候間其趣兼て御心得可申候 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百二十二号附録(大正二年三月二十五日発行) 【本文】        一書物伝授之節は懸り御役人其芸見分可致候事        一他流稽古批判は勿論透見等一切致間敷事        一稽古道場不足にて差支之儀は可有之候得共御時節柄之義にて思召通にも難被遊師匠之申合差支無         之様稽古可為致候事        右之通被仰出候間御家中へ可相觸旨孫次右衛門殿被仰渡候間可被得其意候以上          六月朔日(天保十五年甲辰)              御   目    付        諸稽古時習館定日之外日々師匠宅ニ而有之候所諸芸心掛ル者所々通ヒ致稽古候而者心掛通執行致候        義難茂出来候ニ付此度釼術道場壱ケ所御新建ニ相成候間左之通稽古繰合不限晴雨日々代ル〳〵稽古        可致候事        一弓稽古両流壱ケ月置九ツ時限朝夕代リ合半日ツヽ於時習館稽古可致事          但一日之内一時鉄炮空矯稽古可致事        一鎗術稽古終日持切          但一日之内一時無念流釼術三ツ道具稽古可致候事         新建道場        一釼術稽古両流一ケ月置半日代リ弓稽古之通         道場御修復        一杢馬居合両流申合前同断        一柔術稽古両流申合前同断 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信寶)                    三百九十七 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信寶)                   三百九十八 【本文】        一軍学躾方朝四ツ時ゟ九ツ時迄夕七ツ時ゟ暮迄之内申合差支無之様稽古可致事        一終日稽古致候節ハ名前懸り之者え書出シ師匠之宅ニテ可致候事        一右芸術師匠之無懈怠罷出精々取立可申事尤御役人以下御広間勤之者御番御免被成候事         但日勤又者御用多之御役向ハ御用透ニ罷出其余ハ高弟之者罷出世話可致事        一一流ニ付高弟之者ニテ世話行届候者見立師匠ニゟ書出可申事右之者え世話被仰付候間是又御広間         勤之者ハ御番御免被成候事          但半年代リニテ休月之節ハ御番相勤候事        一講釈輪講会読之儀ハ八ツ時ゟ七ツ時迄尤宅講釈之分も時習館え罷出可致候事         右太田魯三郎、西岡介蔵、山本勘三郎罷出講釈致且門弟之者致世話取立可申事         右一時之内諸稽古古相休一同聴聞可致事        一会読輪講詩文会等之儀昇立之者え繁々可為致事          但国学並都而文事ニ携候義勝手次第之事        一素読之義ハ是迄之通無油断取立可申事        一鉄炮稽古之義ハ御帳前掛リ被仰付候者天王矢場並師匠者勿論高弟之者師ニ差添稽古世話致可為致         出精事        一稽古出席之儀ハ月々師匠ニ記置毎月朔日目付え差出可申事          但名前上星附ニ可致事        一書物伝授相済候者え其度々御褒美被下置候事 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        一於時習館掛リ御役人ハ勿論師匠並世話役被仰付候者申付違背致不行跡之もの於有之ハ自分弁当ニテ         時習館十日詰被仰付候事          但日之出ゟ出之入迄        一書物伝授之儀流儀々々仕来ニテ遅速之儀あながち一様ニも相成間敷又流ニテ茂其者之性質且修行         之次第ニテ年限之極メ茂難出来事ニ可有之候得共其芸未熟之者ニテ書物等相望亦者師匠ゟも進ミ         之為抔迚手数早く差免シ候向茂有之義ニ相聞え候書物伝授之儀者其流儀之先師ゟ之定茂可有之候         間師範之面々其訳巨細ニ相認御目付其差出可申候          辰六月朔日       当時(たうじ)に於(お)ける文武修行(ぶんぶしうぎよう)の状態(ぜうたい)並(ならび)に時習館(じしふくわん)の有様(ありさま)は之(これ)にて大要(たいえう)分(わか)る事(こと)であると思(おも)ふ左(さ)の触書(ふれがき)は実(じつ)に其頃(そのころ)       に於(お)ける風俗(ふうぞく)を窺(うかゞ)ひ知(し)らしむる上(うへ)に於(おい)て至極(しごく)面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふから之(これ)も全文(ぜんぶん)を茲(こゝ)に掲(かゝ)げて見(み)よ       うと思(おも)ふ 《割書:倹約に関す|る席觸》    天保十五年九月十八日席觸之写         先達テモ度々被仰出候処御家中之者並組支配之内町方え罷出饂飩屋並酒屋等え立寄其外猥りニ所         々致徘徊候義不相成趣兼々御沙汰茂有之候処中ニ者心得違之者有之哉ニ相聞へ不埒之事ニ候向後         右様心得違之者於有之者御吟味之急度可被及御沙汰候        一風巾之儀是迄四月朔日ゟ五月六日限リ揚来候処以来正月壱ケ月限リ揚可申候尤紙数之義ハ端不切         紙拾枚ニ限リ尾巾義ハ是迄之通可為之事          但彩色絵一切不相成候事 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信寶)                   三百九十九 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信寶)                    四百 【本文】        一仏事之節中酒又は茶と名付酒出候族茂有之趣ニ相聞ヘ候以来右体之義無之様可被相心得候        右之通御家中え可相觸旨肇殿被仰渡候可被得其意候尤組支配有之面々此旨精々御申付可有之候万一        右ケ條ニ相背候者於有之者見聞次第御徒目付並下目付共早々申出候様兼而申付置候間其段御心得有        之候                                     御 目 付       右(みぎ)の触書(ふれがき)で見(み)ると当時(たうじ)紙鳶(たこ)を揚(あげ)るのを正月(せうぐわつ)一ケ月に限(かぎ)るように制限(せいげん)した事があつたものと見(み)える御承(ごせう)       知(ち)の通(とほ)り関東地方(くわんとうちはう)では必(かなら)ず紙鳶(たこ)は正月(せうがつ)に揚(あ)げるものゝ様(やう)になつて居(を)るのであるが我(わが)豊橋地方(とよはしちはう)では旧来(きうらい)       五月の節句(せつく)に揚(あ)ぐるものとなつて居(を)る然(しか)るに此(この)時(とき)之(これ)を関東(くわんとう)同様(どうやう)に正月(せうがつ)に限(かぎ)ると云(い)ふ觸(ふれ)を出(だ)したのは風(ふう)       俗(ぞく)研究(けんきう)の上(うへ)からは至極(しごく)趣味(しゆみ)のある事(こと)であると思(おも)ふ併(しか)し之(これ)も矢張(やはり)遂(つひ)に実行(じつかう)は出来(でき)なかつたものと見(み)へて       今日(こんにち)でも尚(な)ほ我(わが)地方(ちはう)では陰暦(いんれき)の五月に揚(あ)げて居(お)るのを見(み)るは一 層(そう)面白(おもしろ)い感(かん)じがするのである風俗習慣(ふうぞくしふくわん)       と云(い)ふものゝ容易(ようい)に改(あらた)むる事の出来(でき)ぬのは実(じつ)に意想外(いさうぐわい)とも言(い)ふべきものがあると思(おも)ふ 信寶の逸事 尚(な)ほ此(この)信寶(のぶたか)の性行(せいかう)に就(つい)ては彼(か)の十 世遺事抄(せいゐじしよう)の中(なか)にも記載(きさい)してあるものがあるが余程(よほど)祖父(そふ)信明(のぶあき)に似(に)た処(ところ)       があつたように思(おも)はれる此(この)人(ひと)が幸(さいはひ)に天寿(てんじゆ)を得(え)て蚤世(そうせい)しなかつた事であつたならば或(あるひ)は信明(のぶあき)に続(つゞ)いで相(さう)       当(たう)に 名(な)を挙(あ)げたであろうと思(おも)はるゝ次第(しだい)であるが其(その)逸話(いつわ)の二三を申述(まをしの)ぶれば左(さ)の如(ごと)き事(こと)があるのであ       る       信寶(のぶたか)がまだ家督相続(かとくさうぞく)をしない前(まへ)隼人正(はいとのせう)と称(せう)して居(を)つた時(とき)の事であるが或時(あるとき)登城(とじよう)して詰席(つめせき)に在(あ)つたので       あるソコへ丁度(ちようど)老中(らうちう)水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)が登城(とじよう)とあつて其(その)詰席(つめせき)の前(まへ)を通行(つうかう)したのである其時(そのとき)詰席(つめせき)にあつた       ものは一 同(どう)頓首(とんしゆ)して礼(れい)に及(およ)むだのであるが独(ひと)り信寶(のぶたか)のみは只(た)だ注意(ちうい)して謹慎(きんしん)の体度(たいど)を現(あら)はした計(ばか)りで 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百二十九号附録    (大正二年四月一日発行) 【本文】       頓首(とんしゆ)には及(およ)ばなかつたそれを見(み)た越前守(ゑちぜんのかみ)は巳(おの)れの扣席(ひかへせき)に入(い)つた後(のち)茶坊主(ちやばうづ)の何乗(かじよう)と云(い)ふものをして何故(なにゆゑ)        に他(た)の者(もの)は一 同(どう)頓首(とんしゆ)の礼(れい)をなすのに其元(そのもと)独(ひと)り之(これ)に及(およ)ばぬのであるかと前(まへ)の一 件(けん)に対(たい)し信寶(のぶたか)に尋問(じんもん)せし       めたのであるソコで茶坊主(ちやばうづ)も実(じつ)に汗(あせ)を握(にぎ)つてドウなる事かと心配(しんぱい)したのであつたが信寶(のぶたか)は驚(おどろ)く気色(けしき)も       なく之(これ)に答(こた)へて成程(なるほど)御不審(ごふしん)は御尤(ごもつとも)であるが拙者(せつしや)常々(つね〳〵)父(ちゝ)より承(うけたまは)る処(ところ)によれば拙者(せつしや)の祖父(そふ)信明(のぶあき)が老中(らうちう)上(ぜう)       座(ざ)たりし時代(じだい)に於(おい)てもかゝる場合(ばあひ)には詰衆(つめしう)は只(たゞ)謹慎(きんしん)の体度(たいど)を以(もつ)て敬意(けいい)を表(へう)するに止(とゞ)まり頓首(とんしゆ)黙礼(もくれい)する       には及(およ)ばなかつたとの事であるがそれとも此頃(このごろ)にかゝる事の御制定(ごせいてい)でもあつたものであるか又(ま)た別(べつ)に       古例(これい)でもある事であるか謹(つゝしん)で御教示(ごけうじ)を仰(あふ)ぎたいと云(い)つたのであるソコで越前守(ゑちぜんのかみ)も何(なん)とも小言(こごと)を云(い)ふ       べき道(みち)もなく其(その)侭(まゝ)で相済(あひす)むだが其後(そののち)も屡々(しば〳〵)之(これ)に似寄(によ)つた事があつたので越前守(ゑちぜんのかみ)はいつも隼人正(はいとのしやう)の理屈(りくつ)       詰(づめ)には恐(おそ)れ入(い)るが山椒(さんしよう)は小粒(こつぶ)でも辛(から)いものだと笑(わら)はれたとの事である此(かく)の如(ごと)く剛直(がうちよく)な中(なか)にも又(た)た頗(すこぶ)る       怜悧(れいり)な処(ところ)もあつた人(ひと)であるが又(ま)た極(きは)めて孝心(かうしん)の深(ふか)かつた人(ひと)で父(ちゝ)信順(のぶより)が病気(びようき)と相成(あひな)つてからは深(ふか)く之(これ)を       憂(うれ)ひて菩提寺(ぼだいじ)の平林寺(へいりんじ)と計(はか)り其(その)室(しつ)桂叢院(けいさうゐん)(阿部正弘養女(あべまさひろやうぢよ))と共(とも)に金剛寿命多羅尼経(こんごうじゆめいたらにけふ)を自写(じしや)し之(これ)を彫刻(てうこく)       して家中(かちう)一 同(どう)に頒布(はんぷ)し其(その)平癒(へいゆ)を祈(いの)つたとの事である要(えう)するに此(この)人(ひと)の蚤世(そうせい)は誠(まこと)に惜(おし)むべき事で実子(じつし)もま       だなかつた次第(しだい)であるから其(その)後(のち)は一 門(もん)の松平(まつだひら)兵頭の子(こ)を以(もつ)て家(いへ)を継(つ)がしむる事と相成(あひな)つたのである            ⦿松平伊豆守信璋と其時代 松平信璋  前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く吉田城主(よしだじやうしゆ)松平伊豆守信寶(まつだひらいづのかみのぶたか)は天保(てんほう)十五年(弘化元年)十月十七日 僅(わづか)に廿一 歳(さい)で病(やまひ)の       為(ため)に卒去(そつきよ)せられたが不幸(ふかう)にして未(いま)だ子(こ)がなかつたので同族(どうぞく)の中(なか)で松平(まつだひら)(大河内)兵頭 正敏(まさとし)の子(こ)信璋(のぶあき)を迎(むか)       へて嗣子(しじ)となし同年(どうねん)十二月廿九日を以(もつ)て襲封(しうほう)を命(めい)ぜらるゝ事と相成(あひな)つたのであるが此(この)信璋(のぶあき)は幼名(えうめい)を健(けん) 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百一 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百二 【本文】       之丞(のぜう)と云ひ文政(ぶんせい)十年八月九日の生(うまれ)である而(しか)して其(その)実家(じつか)は前(まへ)にも申述(まをしの)ぶる如(ごと)く大河内(おほかうち)の一 族(ぞく)ではあるが       千石 許(ばかり)を知行(ちぎよう)する旗本(はたもと)であつたので襲封(しうほう)に際(さい)しては頗(すこぶ)る苦心(くしん)したるものと思(おも)はるゝ今(いま)弘化(こうくわ)二年七月七 《割書:信璋襲職当|時の仰渡書》  日 信璋(のぶあき)が襲職(しうしよく)後(ご)初(はじ)めて国(くに)に就(つ)き大書院(おゝしよゐん)に於(おい)て藩士(はんし)一 同(どう)に自書(じしよ)を以(もつ)て申渡(まをしわた)したものを左(さ)に掲(かゝ)げようと思(おも)       ふ        今般不存寄当家致相続難有事に候いまだ万事様子も不相弁候得共御代々御家政之儀は格別之御事兼        而承及候不肖之我等不及事には候得共何分にも志を相励まし代々之家声不墜候様第一ニ心懸候間一        統にも其心得ニ而精力を尽し相助可申候我等身之程を遺失し政事致怠慢或ハ驕かましき事有之候ハ        ヾ無遠慮諫可申候其外為不為何事によらず存寄有之候ハヾ書付封印致し目付共迄差出候可否ニよ        り取用可申候奥向より差出候事ハ慎而致間敷候総て御代々之旧制相守候間面々にも心得違無之様相        勤可申候          己 六 月       此(この)仰渡(あふせわたし)によるも自(みづか)ら深(ふか)く其(その)地位(ちゐ)の低(ひく)き処(ところ)より出(い)でゝ此(この)大河内家(おほかうちけ)を襲(つ)いだのに付(つい)て謙遜(けんそん)し英意治(えいいぢ)を求(もと)       めむとした事が分(わか)るのである而(しか)して此(この)際(さい)少(すこ)しく当時(たうじ)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)を御話(おはなし)して置(お)く必要(ひつえう)があると       思(おも)ふが御承知(ごせうち)の如(ごと)く当時(たうじ)は漸(やうや)く外交(ぐわいこう)の問題(もんだい)が紛糾(ふんきう)し世(よ)の中(なか)は次第(しだい)に騒(さわ)がしくなりて尊王攘夷(そんおうぜうゐ)の声(こゑ)は四 《割書:外交問題の|紛糾》  方(はう)を風靡(ふうび)せむとするの勢(いきほひ)を示(しめ)したのである元来(がんらい)此(この)尊王攘夷(そんおうぜうゐ)説(せつ)の盛(さかん)になつたと云(い)ふに就(つい)ては水戸藩(みとはん)と云 《割書:尊王攘夷論|の勃興》  ふものが実(じつ)に其(その)主唱者(しゆせうしや)とも云ふべきものであるが前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた如(ごと)く水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)失敗(しつぱい)以来(いらい)は土井利位(どゐとしつら)       が老中(らうちう)上座(ぜうざ)となり幕政(ばくせい)の衝(せう)に当(あた)つたのであるが此(この)利位(としつら)は水戸(みと)の挙動(きよどう)甚(はなは)だ面白(おもしろ)からざる次第(しだい)であるとな       して忽(たちま)ち水戸家(みとけ)疎斥(そせき)の方針(はうしん)を取(と)り諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く天保(てんほう)十五年五月 其(その)計(はから)ひを以(もつ)て斉昭(なりあきら)に隠居(ゐんきよ)を命(めい)じ 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       其(その)臣(しん)戸田銀次郎(とだぎんじらう)藤田虎之助(ふぢたとらのすけ)(東湖)などに蟄居(ちつきよ)を命(めい)じたのであるトコロが到底(たうてい)かゝる手段(しゆだん)を以(もつ)て天下(てんか)の       大勢(たいせい)に抗(こう)する事は出来(でき)ざるのみならず反(かへ)つて人心(じんしん)を激発(げきはつ)せしめた結果(けつくわ)と成(な)つて天下(てんか)の志士(しゝ)は益々(ます〳〵)水戸(みと)       との交誼(かうぎ)を厚(あつ)くするの傾(かたむき)を生(せう)じ漸(やうや)く国論(こくろん)の沸騰(ふつとう)を大(だい)ならしめたのである勿論(もちろん)此(この)時(とき)水戸藩中(みとはんちう)にも二 派(は)       に分(わか)れて此(この)両派(れうは)は互(たがひ)に相反目(あひはんもく)し終(つひ)に争闘(そうたう)に終(をは)るに至(いた)つたのであるが幕政(ばくせい)も亦(ま)た実(じつ)に之(これ)より乱(みだ)れて復(ふたゝ)び       収攬(しうらん)し能(あた)はざるに至(いた)つたのであるトコロで又(ま)た茲(こゝ)に一つの災難(さいなん)の起(おこ)つたのは矢張(やはり)天保(てんぱう)十五年五月に江(え)       戸本丸(どほんまる)の炎上(ゑんぜう)した事である当時(たうじ)幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)は益々(ます〳〵)窮乏(きうばう)の極(きよく)に達(たつ)し其(その)再建(さいこん)に就(つい)ては利位(としつら)も頗(すこぶ)る苦心(くしん)して       諸侯(しよこう)に寄附金(きふきん)を勧誘(くわんゆう)したが之(これ)が失敗(しつぱい)に終(をは)つたのである其(その)後(のち)八月に至(いた)つて利位(としつら)は遂(つひ)に其(その)職(しよく)を辞(じ)するに至(いた)       つたのであるが此(この)本丸(ほんまる)の工事(こうじ)は後(のち)に彼(か)の阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)が老中上座(らうちうぜうざ)となり本丸普請(ほんまるふしん)の総奉行(そうぶぎよう)となるに       及(およ)むで知行高(ちぎようだか)壱万石に付(つき)金五百両の割(わり)により加賀侯(かゞこう)初(はじ)め廿六 諸侯(しよこう)に高割手伝(たかわりてつだひ)を命(めい)じて工(こう)を起(おこ)すに至(いた)つ       たが如何(いかん)せむ到底(たうてい)尚(な)ほ莫大(ばくだい)の不足(ふそく)を免(まぬが)れぬ処(ところ)から又々(また〳〵)金銀(きん〴〵)吹替(ふきかへ)を行(おこな)ひ悪貨(あくくわ)の濫造(らんざう)をなして一 時(じ)を糊塗(こと)       するに至(いた)つたので之(これ)より幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)は窮乏(きうばう)の上(うへ)にも窮乏(きうばう)を重(かさ)ぬるの止(やむ)を得(え)ざるに立至(たちいた)つたのであるサ       テ此(この)混雑中(こんざつちう)天保(てんぱう)十五年四月 和蘭(おらんだ)より書(しよ)を呈(てい)して今度(こんど)英仏(えいふつ)二 国(こく)が使節(しせつ)を我国(わがくに)に派(は)して通商(つうせう)を求(もと)めむとす       るに付(つき)それに対(たい)して注意(ちうゐ)をなすのであるが今度(こんど)の使節(しせつ)は国王(こくおう)より特派(とくは)するものであるから相当(さうたう)に警備(けいび)       の兵士(へいし)をも引卒(いんそつ)することである従(したがつ)て然(しか)るべき待遇(たいぐう)をして貰(もら)ひたいとの意(い)を齎(もた)らしたのであるソコで幕(ばく) 《割書:水野忠邦の|復職と罷免》  府(ふ)の驚駭(けうがい)は一 方(かた)ではなかつたが遂(つひ)に彼(か)の水野越前守忠邦(みずのゑちぜんのかみたゞくに)を起(おこ)して天保(てんぱう)十五年(弘化元年)六月再(ふたゝ)び老中上(らうちうぜう)       座(ざ)となし此(この)外交(ぐわいかう)の衝(せう)に当(あた)らしむる事と相成(あひな)つたのであるトコロが此(この)忠邦(たゞくに)は在職(ざいしよく)僅(わづか)に九ケ月で弘化(こうくわ)二       年二月 再(ふたゝ)び御承知(ごせうち)の鳥居甲斐守耀蔵(とりゐかひのかみえうざう)の事に座(ざ)して罷免(ひめん)せられ遂(つひ)に削禄(さくろく)の上(うへ)出羽(では)の山形(やまがた)へ転封(てんほう)蟄居(ちつきよ)を命(めい)       ぜられたのであるソコで其(その)後(のち)は阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)が老中上座(らうちうぜうざ)となり幕政(ばくせい)を握(にぎ)つたのであるが爾来(じらい)外交(ぐわいこう)の 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百三 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百四 【本文】       問題(もんだい)は益々(ます〳〵)頻繁(ひんはん)となり英仏(えいふつ)二 国船(こくせん)は勿論(もちろん)亜米利加(あめりか)船(せん)の来航(らいかう)をも見(み)たのであるが弘化(こうくわ)三年二月六日(実(じつ)       は正月廿六日と伝(つた)ふ)には仁孝天皇(にんかうてんのう)の御崩御(ごほうぎよ)があり同月十三日 御年(おんとし)十六 歳(さい)を以(もつ)て孝明天皇(かうみうてんのう)践祚(せんそ)ましま       したがかくて外交問題(ぐわいこうもんだい)紛糾(ふんきう)の間(あひだ)に弘化(こうくわ)四年も過(す)ぎ其(その)五年には年号(ねんごう)が嘉永(かえい)と改(あらた)まつたのである而(しか)して其(その) 信璋卒去  二年七月廿七日を以(もつ)て信璋(のぶあき)は病(やまひ)で卒去(そつきよ)せられたのであるが享年(けうねん)は廿一歳(さい)之(こ)れ亦(ま)た野火留(のびどめ)の平林寺(へいりんじ)に葬(ほうむ)       り万機院(ばんきゐん)と諡(おくりな)されたのである       かくの如(ごと)く信璋(のぶあき)の藩主(はんしゆ)たりしは弘化(こうくわ)元年(がんねん)から嘉永(かえい)二年まで僅(わづか)に五ヶ年余(ねんよ)の事で余(あま)り長(なが)くないのである       が外交上(ぐわいこうぜう)の問題(もんだい)を中心(ちうしん)としたる国政(こくせい)の変動(へんどう)と云(い)ふものは此(この)間(あひだ)に於(おい)て実(じつ)に少(すくな)からなかつたものである当(たう) 《割書:藩の財政内|情》  時(じ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)財政(ざいせい)の窮乏(きうぼう)と云(い)ふものは其(その)極(きよく)に達(たつ)して居(を)つたのであるが吉田藩(よしだはん)の如(ごと)き       も大(おほい)に其(その)余波(よは)を蒙(かうむ)つて居(お)つたもので嘉永(かえい)元年(がんねん)七月廿八日 藩士(はんし)へ達(たつ)した左(さ)の申渡(まをしわたし)の如(ごと)きは実(じつ)に其(その)内情(ないぜう)       を穿(うが)つて居(を)るものと思(おも)ふのである        御勝手向之儀近年打続無御拠莫大之臨時御入用夥敷右ニ付御借財追々相増大造成御借財高ニ相成候        ニ付年々多分之御借入無之候而は御利足御勘定も出来不致当年ニ至り候ては誠ニ必至と御差支此末        御取続も出来兼候場合ニ至り何共奉恐入候事ニ相成候斯迄に不相成内御趣法も可有之候所何分にも        連年大造成臨時御物入実に無御拠事而巳打続候故御趣法立候御時節無之斯大造成御借財高ニ相成此        未御取続之程深ク御心配被遊候誠ニ不容易事ニ付何レも此末御取続之御趣法立不申候而は不相成事        ニ付諸席共御入用向是迄三分減之取斗には候へとも尚又此上厳敷御省略格外ニ御入用筋減少取斗候        様致度候間面々厚相心得右御省略之廉存付候義も有之候ハヽ取調可被申出候諸席御入用向ヲ初格外        ニ省略取斗此上御借財少々ツヽ成共減候方へ趣無御滞御取続御出来候様不致候ては不相成候ニ付右 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百三十四号附録    (大正二年四月八日発行) 【本文】        取計方は如何致候て可然哉存付候儀も有之候ハヽたとひ御取用ニ不相成儀ニても不苦候間聊無遠慮        書付致封印来ル十日迄ニ御目付共迄可被差出候尤寄心付候義ハ無之面々ハ其口上ニて御目付迄可        被申出候       其(その)後(のち)も此(この)借財(しやくざい)整理(せいり)の事(こと)に付(つい)ては屡々(しば〳〵)申渡(まをしわたし)があつたのであるが仝年(どうねん)九月四日の申渡(まをしわたし)は実(じつ)に其(その)極(きよく)に達(たつ)       して居(を)るものと思(おも)ふから尚(なほ)左(さ)に之(これ)を掲(かゝ)げて当時(たうじ)諸侯(しよこう)の財政(ざいせい)が如何(いか)なる程度(ていど)に達(たつ)せしかを参考(さんこう)に供(けう)した       いと思(おも)ふ        御勝手向従来ゟ不如意の上 承天院様遠国御勤被遊其後西御丸御炎上ニ付多分の御上金被遊且又御        上屋敷御類焼右御普請御入用不少其外無御拠御吉凶御入用折重リ御趣法替御取直し度も無之其時の        御勝手御役人共夫々御借入金を以其年切御融通いたし来り候処右ニ而は年々御借財相嵩候而巳御減        少之期無之当時ニ而は莫大の御借財高ニ相成其上最早御才覚の手当無之実に必至の御差支ニ付其段        達御聴候処深御心配被為遊御常椀も御一菜平日御召物も御綿服被為成此度御趣法立之儀被仰出候右        ニ付当申暮ゟ来ル丑年迄五ヶ年之間格別御省略被仰出候御借財向利下ケ年賦等夫々御趣法付候而も        何分御趣法立兼候ニ付御家中之者難渋の程は深く御憐察被遊候へとも誠ニ無御拠御時節ニ付右年限        中割合を御扶持方ニ可被仰付候間一同無御拠訳柄等被相心得万端厳敷致省略如何様ニも取続候而相        勤候様可被致候尤困究ゟ不計心得違も起り候もの故其段も銘々厚相弁へ可被申候此度御趣法立之儀        は上下一和いたし御取締相貫候而御勝手向ハ取直し追々御家中へも御免米等被遊度思召候間右之趣        一同厚相心得呉々も難渋相凌家内取締御奉公無滞相勤候様可被致候       モツトモ当時(たうじ)各藩(かくはん)共(とも)悉(こと〴〵)く其(その)財政(ざいせい)が此(かく)の如(ごと)くであつたと云(い)ふ訳(わけ)でもなかつたであろうと思(おも)ふが兎(と)に角(かく) 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百五 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百六 【本文】       幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)が窮乏(きうばう)し其(その)上(うへ)に西丸(にしまる)、本丸(ほんまる)の造営(ぞうえい)が続(つゝ)いたと云ふ訳(わけ)で数々(しば〳〵)上納金(ぜうのうきん)を譜代(ふだい)の諸侯(しよこう)に申付(まをしつ)けら       れたので之(これ)には余程(よほど)閉口(へいこう)したものであるが又(ま)た一 方(ぱう)には譜代(ふだい)の大名(だいめう)で老中(らうちう)を勤(つと)むると云ふ事は実(じつ)に財(ざい)       政上(せいぜう)に取(と)つては苦痛(くつう)であつたので大河内家(おほかうちけ)では信祝(のぶとき)が老中(らうちう)たりし時代(じだい)に於(おい)て余程(よほど)財政上(ざいせいぜう)には打撃(だげき)を受(う)       けたが其(その)後(のち)信明(のぶあき)が長(なが)い間(あひだ)其(その)職(しよく)の上座(ぜうざ)にあつたと云ふことは容易(ようい)ならず財政上(ざいせいぜう)には苦痛(くつう)を受(う)けたもので       ある之(これ)に関(くわん)する其(その)当時(たうじ)の資料(しれう)は相当(さうたう)に大河内(おほかうち)の倉庫(さうこ)にも残(のこ)つて居(を)る事であるがそれ等(ら)が綜合(そうがふ)し       て次第(しだい)に此(この)窮状(きうぜう)を訴(うつた)ふるに至(いた)つたものと信(しん)ぜられるのである尚(なほ)藩(はん)の財政(ざいせい)に付(つい)ては後(のち)に或(あ)る場合(ばあひ)を以(もつ)て       今(いま)少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる考(かんがへ)であるから此処(こゝ)には此(この)位(くらゐ)で御話(おはなし)を止(や)める事に致(いた)したいと思(おも)ふ       尚(な)ほ前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたから其(その)頃(ころ)頻(しき)りに藩士(はんし)の意見(いけん)をも徴(てう)したもので嘉永(かえい)元年(がんねん)八月廿八日には重(かさ)       ねて左(さ)の如(ごと)き事を觸(ふ)れて居(を)るのである        御上御行状初御為に不相成義は不寄何事心付候儀有之面々は書付封印致し箱相廻候間来月三日四日        頃迄に右箱え入可被申候(下略) 封事を徴す 此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから藩士(はんし)からは種々(しゆ〴〵)異見(いけん)を封事(ふうじ)として提出(ていしゆつ)したものであるが併(しか)し此(この)封事(ふうじ)を徴(てう)すると       云ふ事は初(はじ)めて此(この)信璋(のぶあき)の時代(じだい)から起(おこ)つたものではなくて既(すで)に信明(のぶあき)の時代(じだい)に於(おい)ても藩士(はんし)から異見(いけん)を封事(ふうじ)       として差出(さしだ)したものが沢山(たくさん)今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に遺(のこ)つて居(を)るのである又(ま)た信明(のぶあき)が卒(そつ)して信順(のぶより)が相続(さうぞく)した時(とき)に       於(おい)ては矢張(やはり)財政(ざいせい)に関(くわん)して藩士(はんし)の意見(いけん)を徴(てう)したものであるが此(この)時(とき)藩士(はんし)から差出(さしだ)した封事(ふうじ)も既(すで)に十 余通(よつう)保(ほ)       存(ぞん)されて居(を)るのである之(これ)等(ら)の中(なか)には藩政上(はんせいぜう)実(じつ)に大切(たいせつ)のものもあるから追々(おひ〳〵)調査(てうさ)して必要(ひつえう)のものは之(これ)を       発表(はつぴよう)したいと思(おも)ふのである       次(つぎ)に当時(たうじ)に於(お)ける人物談(じんぶつだん)に移(うつ)りたいと思(おも)ふのであるが主(おも)に其(その)頃(ころ)の藩政(はんせい)を支配(しはい)して居(を)つたのは家老(からう)の和(わ) 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       田理兵衛(だりへゑ)、西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)などであつて此(この)二人は共(とも)に伝(つた)ふべき事が多(おほ)いのみならず其他(そのた)の藩士(はんし)にも頗(すこぶ)る       伝(つた)ふべき人物(じんぶつ)もあつたのであるが併(しか)し前(まへ)にも既(すで)に申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く此(この)吉田藩政(よしだはんせい)の機関(きくわん)に就(つ)き後(のち)に至(いた)       つて別(べつ)に申述(まをしの)ぶる処(ところ)がある考(かんがへ)であるから其(その)折(をり)を以(もつ)て此(この)機関(きくわん)に参与(さんよ)して居(を)つた藩士(はんし)の事に関(くわん)しては詳(くは)し       く御話(おはなし)する筈(はづ)である従(したがつ)て今(いま)此処(こゝ)にはそれに及(およ)ばぬ考(かんがへ)で只(たゞ)左(さ)の一二に就(つい)てのみ申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふ 太田晴軒  即(すなは)ち先(ま)づ申述(まをしの)べたいのは三 人(にん)の漢学者(かんがくしや)の事であるがそれは太田晴軒(おほたせいけん)、金子荊山(かねこけいざん)、村井楽所(むらゐらくしよ)である太田(おほた) 金子荊山  晴軒(せいけん)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く彼(か)の太田錦城(おほたきんじよう)の三 男(なん)で名(な)は敦(あつし)字(あざな)は叔復 通称(つうせう)を魯(ろ)三 郎(らう)と云つたが之(これ)は錦(きん) 村井楽所  城(じよう)が其(その)故国(ここく)加賀(かが)に皈(かへ)る時(とき)に藩主(はんしゆ)信順(のぶより)の命(めい)によつて当藩(たうはん)に留(とゝま)る事となつたのでるが最(もつと)も強記(きようき)な人(ひと)で十       七八歳の頃(ころ)既(すで)に名(な)を学林(がくりん)に知(し)られたのであるそれのみならず彼(か)の多紀氏(たきし)に就(つ)いて医学(ゐがく)をも修(をさ)めて奇術(きじゆつ)       人(しと)を救(すく)つた事も少(すくな)くなかつたとの事である余(あま)り名筆(めいひつ)ではなかつたが父(ちゝ)に次(つい)での学者(がくしや)として世(よ)の尊敬(そんけい)す       る処(ところ)となつた事は前(まへ)にて申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)くで此(この)人(ひと)は明治六年 迄(まで)存命(ぞんめい)で其(その)十月十五日七十九 歳(さい)で歿(ぼつ)し       たが多(おほ)くは江戸(えど)の方(はう)に居(を)つて信寶(のぶたか)信璋(のぶあき)と歴代(れきだい)に侍講(じかう)したのである又(ま)た金子荊山(かねこけいざん)は今(いま)の豊橋市(とよはしし)書記(しよき)金子(かねこ)       鼎君(かなへくん)の厳父君(げんぷくん)であるが名(な)は鼎(かなへ)字(あざな)は玉鉉(ぎよくげん)通称(つうせう)を熊藏(くまざう)と称(せう)し後(のち)に多助(たすけ)と改(あらた)めたが市川米庵(いちかはべいあん)、太田錦城(おほたきんじよう)、       荻野緑野(をぎのりよくの)などに就(つ)いて学(まな)むだ人(ひと)で一 方(ぱう)には書家(しよか)であつたのである初(はじ)め信順(のぶより)に仕(つか)へて用人(ようにん)となつたが其(その)       子(こ)信寶(のぶたか)がまだ世子(せいし)たりし頃(ころ)から其(その)傅(ふ)となつて侍講(じかう)を勉(つと)めたのである安政(あんせい)二年十一月十一日 年(とし)四十九で       歿(ぼつ)した人(ひと)であるが其(その)著(ちよ)に従革堂雑抄(じうくわどうざつしやう)などがあるソレカラ村井楽所(むらゐらくしよ)であるが之(これ)は既(すで)に文士(ぶんし)として有名(ゆうめい)       なる村井弦斉君(むらゐげんさいくん)の厳父(げんぷ)で名(な)は惟凞(いき)通称(つうせう)を有右衛門(ありうゑもん)と云つたのである此(この)人(ひと)は寛政(かんせい)八年の生(うまれ)で之(これ)も亦(ま)た荻(をぎ)       野大麓(のだいろく)並(ならび)に其子(そのこ)の緑野(りよくの)に就(つい)て学(まな)むだのであるが天保(てんぱう)の初(はじ)めに信順(のぶより)に仕(つか)へて吟味役(ぎんみやく)となり八年 世子(せいし)信寶(のぶたか)       の傅(ふ)となり藩学(はんがく)時習館(じしふくわん)の学問係(がくもんがゝり)となり信璋(のぶあき)に歴仕(れきし)したが明治三年 迄(まで)存命(ぞんめい)であつたのである楽所(らくしよ)雑抄(ざつしよう)廿 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百七 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百八 【本文】       巻(かん)其他(そのた)にも三四の著書(ちよしよ)がある 川西士龍  ソコデ尚(なほ)一つ御話(おはなし)したいのは彼(か)の川西士龍(かはにししりう)の事である士龍(しりう)名(な)は潜(せん)字(あざな)は確輔(かくすけ)後(のち)三 助(すけ)と改(あらた)む士龍(しりう)は其(その)号(がう)で       あるが後(のち)又(ま)た函洲(かんしう)とも号(がう)したのである吉田藩士(よしだはんし)中井行右衛門(なかゐぎよううゑもん)封豊と云ふ人の次男(じなん)であつたが十二 歳(さい)の       時(とき)出(い)でゝ拳母藩士(ころもはんし)川西氏(かはにしし)に養(やしな)はれたのである然(しか)るに天性(てんせい)卓異(たくゐ)で逸気(いつき)あり初(はじ)め学(がく)を竹村悔斉(たけむらかいさい)と云ふ人に       受(う)けたが年(とし)二十 余(よ)昌平校(せうへいかう)に入(い)つて経術(けうじゆつ)文章(ぶんせう)を学(まな)び終(つひ)に同藩(どうはん)に重用(ぢうよう)せられたるのみならず頗(すこぶ)る天下(てんか)の知(し)       る処(ところ)となつたのである天保(てんぱう)十三年二月 年(とし)四十二で歿(ばつ)したのは誠(まこと)に惜(おし)むべき事であつたが此(この)人(ひと)の著(ちよ)を集(あつ)       めて函洲遺稿(かんしうゐかふ)と云ふ本(ほん)が出来(でき)て居(を)るのであるモツトモ此(この)人(ひと)の事については右(みぎ)の如(ごと)くであるから信順(のぶより)時代(じだい)       に於(おい)て申述(まをしの)ぶるのを仕当(したう)としたのであるが其(その)節(せつ)申(まを)し残(のこ)したから幸(さいはひ)今(いま)此処(こゝ)で御話(おはなし)して置(お)きたいと考(かんが)へ       たのである而(しか)して此(この)有名(ゆうめい)なる人(ひと)が我(わが)吉田藩(よしだはん)の出(で)であると云(い)ふに就(つい)ては曩(さき)に愛知県史編纂(あいちけんしへんさん)の田部井鉚太(ためがゐりうた)       郎君(らうくん)から注意(ちうゐ)を受(う)けて段々(だん〳〵)分(わか)つた次第(しだい)であるから此(この)際(さい)深(ふか)く同君(どうくん)に対(たい)して感謝(かんしや)の意(い)を表(へう)したいと思(おも)ふの       である 山田洞雪  其(その)次(つぎ)には絵師(ゑし)の山田洞雪(やまだどうせつ)の話(はなし)であるが先(さき)に私(わたくし)は横山文堂(よこやまぶんどう)と間違(まちが)へて此(この)人(ひと)の名前(なまへ)を挙(あ)げたのであつたが       ソレは全(まつた)く誤(あやまり)であつたのである併(しか)し此(この)山田洞雪(やまだどうせつ)も亦(ま)た矢張(やはり)文堂(ぶんどう)と相前後(あひぜんご)して信順(のぶより)に仕(つか)へたのである       が洞雪(どうせつ)は狩野洞淋(かのどうりん)の門人(もんじん)で頗(すこぶ)る名筆(めいひつ)であつた今(いま)も其(その)筆蹟(ひつせき)は残(のこ)つて居(を)るが実(じつ)に善(よ)いものがあるのである       モツトモ此(この)人(ひと)は天保(てんぱう)十三年六月 年(とし)六十一 歳(さい)で歿(ばつ)したのであるが其(その)子(こ)の眞静(しんせい)名(な)は意誠(おきさね)と云ふ人も亦(ま)た狩(か) 山田香雪  野眞笑(のしんせう)の門人(もんじん)であつて相当(さうたう)の画家(ぐわか)であつたが一に香雪(かせつ)とも号(がう)し嘗(かつ)て日光廟修覆(につくわうべうしうふく)に際(さい)し師匠(しせう)と共(とも)に絵画(くわいぐわ)       に従事(じうじ)した事がある安政(あんせい)四年七月 年(とし)四十一で歿(ばつ)したが之(これ)が御承知(ごせうち)の明治十七年十一月 年(とし)三十六で豊橋(とよはし)       に歿(ぼつ)した永豊(ながとよ)と云ふ画家(ぐわか)の父(ちゝ)であるのである 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百四十号附録    (大正二年四月十五日発行) 【本文】 恩田石峯  サテ其(その)頃(ころ)町人(てうにん)の内(うち)にも三四の画家(ぐわか)があつて相当(さうたう)に名筆(めうひつ)のものもあつたが彼(か)の恩田石峯(おんだせきばう)は前(まへ)に申述(まをしの)べて       置(お)いた恩田(おんだ)三 省(せう)の子(こ)で名(な)は方(はう)字(あざな)は大矩(たいく)通称(つうせう)を吉作(きちさく)と呼(よ)むだが画(ぐわ)を京都(けうと)の渡邊南岳(わたなべなんがく)に就(つ)いて学(まな)び頗(すこぶ)る妙(めう)       に入(い)つたのである彼(か)の渡邊崋山(わたなべくわざん)が丁度(ちようど)田原(たはら)に蟄居中(ちつきよちう)田原(たはら)の素封家(そほうか)某氏(ばうし)が金屏風(きんべうぶ)を新調(しんてう)して之(これ)に石峯(せきばう)の       揮毫(きごう)を請(こ)はむとしたが崋山(くわざん)は之(これ)を聞(き)いて是非(ぜひ)自分(じぶん)に画(えが)かせてくれよと申込(まをしこ)むだので某氏(ばうし)は其(その)応接(おうせつ)に困(こん)       し内々(ない〳〵)屏風(べうぶ)を船(ふね)に積(つ)むで吉田(よしだ)に送(おく)り崋山(くわざん)には程(ほど)よく断(ことは)つて此(この)石峯(せきばう)に揮毫(きごう)せしめたと云(い)ふ話(はなし)が残(のこ)つて居(を)       る之(これ)は作(つく)り話(ばなし)ではない全(まつた)く事実(じじつ)であると信(しん)ずるが当時(たうじ)崋山(くわざん)の画(ぐわ)が人(ひと)に知(し)られなかつたと云(い)ふ一つの珍(ちん)       談(たん)にもなるが亦(ま)た一 方(ぱう)には石峯(せきばう)の名声(めいせい)が当時(たうじ)頗(すこぶ)る盛(さかん)であつた事(こと)をも意味(いみ)するのである又(ま)た其(その)頃(ころ)宝飯郡(ほゐぐん) 《割書:吉田名蹤踪|録の著》  の下地(しもぢ)に山本貞晨(やまもとていしん)と云(い)ふ人(ひと)があつたが此(この)人(ひと)は深(ふか)く地方(ちはう)の旧事古蹟(きうじこせき)を調査(てうさ)した人(ひと)で吉田名蹤踪録(よしだめいしようそうろく)の著(ちよ)が       ある同時(どうじ)に三 河名蹤踪録(かはめいしょうそうろく)と云(い)ふものをも著(あら)はす考(かんがへ)であつたようであるが之(これ)は脱稿(だつかう)に至(いた)らなかつたもの       と思(おも)はるゝが此(この)吉田名蹤踪録(よしだめいしようそうろく)の挿図(さうづ)は多(おほ)く石峯(せきばう)の画(ゑが)いたもので当時(たうじ)の風俗(ふうぞく)から神社(じんしや)、仏閣(ふつかく)、風景(ふうけい)など       孰(いづ)れも写生(しやせい)であるから今日(こんにち)から見(み)て甚(はなは)だ参考(さうかう)になるものであると思(おも)ふのである石峯(せきばう)は又(ま)た父(ちゝ)三 省(せう)に就(つ)       いて生花(せいくわ)をも学(まな)むだのであるが後(のち)に父(ちゝ)の名(な)を相続(さうぞく)して心応軒(しんおうけん)と称(せう)したのである而(しか)して其(その)逝去(せいきよ)は弘化(こうくわ)四       年五月である 佐藤大寛  又(ま)た其頃(そのころ)前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた佐藤南澗(さとうなんかん)の子(こ)に梅塢(ばいう)と云ふ画家(ぐわか)があつたが之(これ)は淑慎斉(しゆくしんさい)の門人(もんじん)で名(な)を       大寛(たいかん)と称(せう)した嘉永(かえい)元年(がんねん)五月十四日 年(とし)七十五で歿(ぼつ)した 福谷水竹  ソレカラ福谷水竹(ふくたにすゐちく)、此(この)人(ひと)は通称(つうせう)を藤左衛門(とうざゑもん)と云つて相当(さうたう)の資産家(しさんか)であつたが俳諧(はいかい)を青々(せう〳〵)処卓地(しよたくち)に学(まな)び       茶道(ちやどう)をも岡崎(をかざき)の人(ひと)不蔵庵(ふざうあん)に学(まな)むで共(とも)に妙(めう)を得(え)たが絵画(くわいぐわ)に就(つい)ても中々(なか〳〵)妙抜(めうぎ)と云ふべきものがあつたので       ある呉服町(ごふくまち)の佐藤弥吉氏(さとうやきちし)の処(ところ)に蔵(ざう)して居(を)られた釈迦(しやか)の涅槃像(ねはんぞう)の如(ごと)きは最(もつと)も面白(おもしろ)きものである此(この)人(ひと)は嘉(か) 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百九 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百十 【本文】       永(えい)三年正月 年(とし)六十四で歿(ばつ)したのである 鈴木三岳  ソレから鈴木(すゞき)三 岳(がく)の話(はなし)であるが三 岳(がく)は吉田(よしだ)新銭町(しんせんまち)の人(ひと)で通称(つうせう)を与平(よへい)と云ひ推迺舎(しゐのや)又(ま)た再少年(さいせうねん)等(ら)の号(がう)が       あつたが彼(か)の士朗(しらう)の門人(もんじん)で俳諧(はいかい)を能(よ)くした且(か)つ渡辺崋山(わたなべくわざん)と深交(しんかう)があつて其(その)門(もん)に画(ぐわ)を学(まな)むだが崋山(くわざん)が田(た)       原(はら)へ蟄居中(ちつきよちう)は専(もつぱ)ら其(その)家計(かけい)を補助(ほじよ)したものである当時(たうじ)崋山(くわざん)は謹慎中(きんしんちう)であるから表向(おもてむ)き絵画(くわいぐわ)を他人(たにん)に画(えが)い       てやると云ふような事(こと)は憚(はゞか)つたものであるが多(おほ)くは此(この)三 岳(がく)の手(て)を経(へ)てワザと蟄居(ちつきよ)以前(いぜん)の年号(ねんがう)なとを用(もち)       ゐ他人(たにん)の依頼(いらい)に応(おう)じたものであるそれ故(ゆへ)に三 岳(がく)の家(いへ)には崋山(くわざん)の画幅屏風(ぐわふくべうぶ)など大小(だいせう)の傑作(けつさく)五十 余点(よてん)を所(しよ)       蔵(ざう)して居(を)つたもので彼(か)の有名(ゆうめい)なる千山万水(せんざんばんすゐ)の図(づ)なども其(その)一であるが三 岳(がく)の歿後(ばつご)追々(おい〳〵)四 方(はう)へ散乱(さんらん)して目(もく)       今(こん)では其(その)画幅(ぐわふく)の中(なか)で我(わが)豊橋市(とよはしし)に残(のこ)つて居(を)るものは甚(はなは)だ僅(わづか)である三 岳(がく)は嘉永(かえい)七年九月四日 年(とし)六十 歳(さい)で病(びやう) 鈴木吉兵衛 歿(ばつ)したが其頃(そのころ)又(ま)た此(この)三 岳(がく)の本家(ほんけ)に当(あた)る家(いへ)で今(いま)の花園町(はなぞのてう)に鈴木吉兵衛(すゞききちべゑ)と云ふ人(ひと)があつた此(この)人(ひと)は明治四年       十月十二日 年(とし)六十四 歳(さい)で歿(ぼつ)したが現今(げんこん)の鈴木吉兵衛(すゞききちべゑ)君(くん)即(すなは)ち梅厳(ばいがん)と号(がう)さるゝ方(かた)の先代(せんだい)である此(この)人(ひと)も亦(ま)た       壮年(さうねん)の頃(ころ)に崋山(くわざん)と交(まじはり)のあつたものであるが其(その)祖父(そふ)に法林(はふりん)と云ふ人(ひと)があつて此(この)人(ひと)は一 種(しゆ)の面白(おもしろ)い識見(しきけん)を       有(ゆう)して居(を)つたものである其(その)自筆(じひつ)の家憲(かけん)が今(いま)も其(その)家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るが之(これ)へ崋山(くわざん)が書(か)き添(そ)へをしたものが中(なか)       中(なか)面白(おもしろ)いモツトモ其(その)筆者(ひつしや)は吉兵衛(きちべゑ)の事(こと)になつて居(を)るが其(その)実(じつ)は崋山(くわざん)が代作(だいさく)代書(だいしよ)をしたものである即(すなは)ち之(これ)       には其(その)家憲(かけん)の来歴(らいれき)から祖父(そふ)の法林(はふりん)及(およ)び父(ちゝ)の慈全(じぜん)が事蹟(じせき)などをも明記(めいき)したものであつて其(その)人々(ひと〴〵)の履歴(りれき)は       勿論(もちろん)蟄居中(ちつきよちう)の崋山(くわざん)が消息(せうそく)も分(わか)る訳(わけ)で甚(はなは)だ趣味(しゆみ)あるものと信(しん)ぜらるゝのである 《割書:柴田猪助の|米価記》  次(つぎ)に尚(なほ)一つ御話(おはなし)したいのは柴田猪助(しばたゐすけ)と云ふ人(ひと)の事(こと)であるが此(この)人(ひと)は吉田藩士(よしだはんし)で今(いま)の柴田豊水(しばたほうすゐ)君(くん)の先代(せんだい)で       ある嘉永(かえい)二年四月六十六 歳(さい)を以(もつ)て病没(びやうばつ)したのであるが此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)に米価記(べいかき)と云ふものがあつて遠(とほ)くは       元亀(げんき)三年の昔(むかし)から近(ちか)くは病没(びやうばつ)の前年(ぜんねん)即(すなは)ち嘉永(かえい)元年(がんねん)迄(まで)長(なが)い間(あひだ)ズツト引(ひ)き続(つゞ)いて米価(べいか)の統計(とうけい)を集(あつ)めたもの 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       である其(その)根気(こんき)のよい事(こと)と緻密(ちみつ)なる事には誠(まこと)に驚(おどろ)くの外(ほか)ないのであるが又(ま)た実(じつ)に今日(こんにち)の経済上(けいざいぜう)からも容(よう)       易(ゐ)ならざる参考(さんかう)になるものであると思(おも)ふ此(この)書(しよ)は明治維新後(めいぢゐしんご)大蔵省(おほくらせう)に借上(かりあ)げられた事(こと)があつたが同省(どうせう)か       らは鄭重(ていちよう)なる謝状(しやぜう)を添(そ)へて返附(へんふ)して来(き)たので其(その)原本(げんぽん)は今(いま)も柴田家(しばたけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るのである 《割書:弘化嘉永間|の吉田の人|口》  ソコで此(この)信璋(のぶあき)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の人口(じんこう)であるが当時(たうじ)の宗旨改人別帳(しうしあらためじんべつてう)で見(み)ると弘化(こうくわ)二年に総人口(そうじんこう)男女(たんぢよ)合(がう)       計(けい)五千五百三十五 人(にん)とあつて且(か)つ前年(ぜんねん)に比(ひ)し十人 減(げん)であると記(しる)してある又(ま)た嘉永(かえい)元年(がんねん)のものに依(よ)ると       総人口(そうじんこう)五千五百十九 人(にん)とあつて前年(ぜんねん)に比(ひ)し十 人(にん)増加(ぞうか)であると記(しる)してあるモツトモ之(こ)れは藩士(はんし)までが加(くは)       はつて居(を)るものかどうか未(いま)だ能(よ)く取調(とりしら)べては見(み)ぬが兎(と)に角(かく)連年(れんねん)人口(じんこう)に大差(たいさ)なく寧(むし)ろ何分(なにぶん)減(げん)じ行(ゆ)く状態(せうたい)       であつたのである之(これ)には種々(しゆ〴〵)の原因(げんゐん)があつた事(こと)であろうがズツト以前(いぜん)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く町(てう)       家(か)には彼(か)の伝馬役(てんまやく)などの掛(かゝ)りのものが多(おほ)かつた為(ため)に市民(しみん)は頗(すこぶ)る苦痛(くつう)を感(かん)じたもので今日(こんにち)の如(ごと)く百 姓(せう)が農(のう)       家(か)を捨(す)てゝ都会(とくわい)に集中(しふちう)すると云ふが如(ごと)き事(こと)は全(まつた)くなかつた事(こと)が分(わか)るのである又(ま)た弘化(こうくわ)二年には吉田(よしだ)大(おほ)       橋(はし)の修繕(しうぜん)が行(おこな)はれたが其事(そのこと)に関(くわん)し船町(ふなまち)の人(ひと)大村久米蔵(おほむらくめざう)と云ふ者(もの)の記録(きろく)が今(いま)船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)されて居(お)       る事(こと)を序(ついで)ながら此処(こゝ)に御紹介(ごせうかい)して置(お)きたいと思(おも)ふ        ◉正誤 本章(ほんせう)中村井楽所(なかむらゐらくしよ)に関(くわん)し井村弦斉君(●●●●●)の(●)厳父(●●)で(●)とあるは村井弦斉君(●●●●●)の(●)祖父(●●)で(●)の誤(あやまり)に付(つき)訂正(ていせい)す            ◉松平信古の襲職       前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平伊豆守信璋(まつだひらいづのかみのぶあき)は嘉永(かえい)二年七月廿七日を以(もつ)て病卒(びやうそつ)せられたのであるが享年(けうねん)は廿       三 歳(さい)で(前章(ぜんせう)に廿一 歳(さい)としたるは誤(あやまり)なり)未(いま)だ嗣子(しし)がなかつたのであるソコで彼(か)の間部詮勝(まなべのりかつ)の二 男(なん)信古(のぶひさ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十一 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十二 【本文】       が入(い)つて大河内氏(おほかうちし)を襲(つ)ぎ其(その)封(ほう)を受(う)けたのであるが信古(のぶひさ)は幼名(えうめい)を理(り)三 郎(らう)と云つて文政(ぶんせい)十二年四月廿三日       の生(うま)れである嘉永(かえい)三年十一月十五日 年(とし)廿二 歳(さい)で襲封(しうほう)したのであるが此(この)人(ひと)はズツト引続(ひきつゞ)いてそれから明(めい)       治維新(ぢゐしん)にまで及(およ)むだのであるから実(じつ)に外交問題(ぐわいかうもんだい)の紛糾(ふんきう)から安政(あんせい)の大獄(だいごく)而(しか)して明治(めいぢ)の維新(ゐしん)と云(い)ふように       幕末(ばくまつ)に於(お)ける総(すべ)ての変革(へんかく)に遭遇(さうぐう)して居(を)らるゝのである従(したがつ)て今(いま)其(その)一 代(だい)の歴史(れきし)を申述(まをしの)べむとするに就(つい)て       も頗(すこぶ)る複雑(ふくざつ)であるが為(ため)に私(わたくし)は時代(じだい)に応(おう)じて便宜(べんぎ)章(せう)を改(あらた)め以(もつ)て説明(せつめい)を致(いた)して行(ゆ)きたいと思(おも)ふのであるソ       コで先(ま)づ信古(のぶひさ)襲職(しうしよく)当時(たうじ)の仰渡(あふせわたし)を左(さ)に掲(かゝ)げようと思(おも)ふ         嘉永三庚戌年二月十五日吉田表ニ而         信古君御自書於大書院老衆被仰渡今般不存寄当家致相続候ニ付政事向等之儀一同へ可申聞候へと         も御代々御家政之儀は格別之御事ニ而不肖之我等不及事ニ候へハ一巳之新意を加へす慎而諸事旧         制ニ随ひ家風不墜様相守可申候間一統ニも精力を尽し相助可申候        一御先代様御勝手向必至と御差支斯くてハ往々御家中御扶助も無御心之思召格別之御省略被仰出御         自身ニも御綿服をさへ被為召御定椀も御一菜に被仰付深く御心痛思召候処御間となく御遠行被成         御寿数とは乍申御痛ましき御事ニ存上候此上は我等御志を継き愈質素倹朴相用ひ速ニ勝手向取直         し一同之艱苦をも休め申度所願ニ候へとも容易ニ難行事ニ候実に上下は合持ニ候ヘハ上たるもの         ハ下を愛憐し下たるものハ上を補助し孰れも一和して誠意を尽し勤可申候        一文武之嗜為士者専務ニ候間常ニ心懸可申候壮年のものは別而志を励し怠慢無之可致出精候学問ハ         今日の行ひニ懸候而学ひ申へし何事ニよらす仁義の二ツ不可欠もの也           正  月 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百五十六号附録    (大正二年四月二十二日発行) 【本文】 《割書:信古襲職後|に於ける天|下の形勢》  ソコで此(この)信古(のぶひさ)襲職(しうしよく)の当時(たうじ)即(すなは)ち嘉永(かえい)二三年と云ふ頃(ころ)の天下(てんか)の形勢(けいせい)は如何(いかん)であつたかと云ふに前(まへ)にも申述(まをしの)       べたる如(ごと)く外国船(ぐわいこくせん)が頻(しき)りに我(わが)沿岸(えんがん)に渡来(とらい)し物論(ぶつろん)漸(やうや)く沸騰(ふつとう)せむとするの場合(ばあひ)であつたが時(とき)の老中上座(らうちうぜうざ)阿(あ)       部伊勢守正弘(べいせのかみたゞひろ)は特(とく)に水戸(みと)の斉昭卿(なりあきらけう)を起(おこ)して其(その)意見(いけん)を諮(と)ひ沿海(えんかい)の守備(しゆび)を厳(げん)にするの策(さく)を講(かう)じたのである       が何分(なにぶん)にも当時(たうじ)に於(お)ける幕府(ばくふ)は勿論(もちろん)諸侯(しよこう)の財政(ざいせい)と云ふものが実(じつ)に窮乏(きうぼう)を来(きた)して居(を)つたので之(これ)には孰(いづ)れ       も苦心(くしん)した情況(ぜうけう)が見(み)ゆるのである吉田藩(よしだはん)に於(おい)ても嘉永(かえい)三年の二月廿五日 付(づけ)を以(もつ)て信古(のぶひさ)から直々(じき〴〵)に家中(かちう)       へ仰渡(あふせわた)したものに左(さ)の如(ごと)き事がある        異国船渡来之節海岸防禦之義此度不容易被仰出有之候ニ付てハもし渡来之節ハ注進次第早速人数差        出し不申候てハ不相成事ニ付兼て用意いたし置出張候様致し度候就ては年来引米等も有之支度等不        調之者も可有之候へハ手厚に手当も遣し度候へ共存しの通之時節に付不任心底乍去少しの事ハいた        し遣し可申候間難義にハ可有之候へ共可成丈勘弁いたし如何様にも支度相調へ注進次第早々罷出一        和いたし尽精力防禦之手段可致候 《割書:米国使節ペ|リーの来航》  之(これ)に拠(よ)るも其(その)当時(たうじ)に於(お)ける事情(じぜう)の一 端(たん)は分(わか)る事と思(おも)ふが其後(そののち)は益々(ます〳〵)外船(ぐわいせん)の渡来(ちらい)は頻繁(ひんはん)になつて嘉永(かえい)六       年の六月三日には御承知(ごせうち)の如(ごと)くイヨ〳〵彼(か)の米国(べいこく)の使節(しせつ)ペリーが浦賀(うらが)に来(きた)つて遂(つひ)に徳川幕府(とくがはばくふ)鎖国(さこく)の政(せい)       策(さく)は茲(こゝ)に破綻(はたん)の端緒(たんちよ)を開(ひら)くに至(いた)つたのである 《割書:ペリー来航|以前に於け》  サテ此(この)外交問題(ぐわいかうもんだい)に就(つい)て之(これ)迄(まで)も段々(だん〴〵)申述(まをしの)べては来(きた)つたのであるが中々(なか〳〵)複雑(ふくざつ)なる事柄(ことがら)で特(とく)に研究(けんきう)すれば 《割書:る外交問題|の概要》  研究(けんきう)する程(ほど)益々(ます〳〵)新事実(しんじじつ)をも発見(はつけん)すると云ふ有様(ありさま)であるから到底(たうてい)私(わたくし)が今日(こんにち)豊橋市史(とよはしゝ)の範囲(はんゐ)に於(おい)て十 分(ぶん)       に其(その)関係(くわんけい)を御話(おはなし)し尽(つく)すことは及(およ)ばないのであるが併(しか)し大体(だいたい)の筋道(すぢみち)丈(だけ)はザツトでも此処(こゝ)に申述(まをしの)べて置(お)かな       いと此(この)信古(のぶひさ)の一 代(だい)を説明(せつめい)する上(うへ)に於(おい)て差支(さしつか)ふる事情(じぜう)があるから少(すこ)しく初(はじ)めに遡(さかのぼ)つて其(その)由来(ゆらい)を取纏(とりまと)め 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十三 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十四 【本文】       て申述(まをしの)ぶるのも無用(むよう)ではなかろうと思(おも)ふのみならず然(しか)る後(のち)追々(おい〳〵)に前(まへ)に向(むか)つて話(はなし)を進(すゝ)めるのが順序(じゆんぢよ)であ       ると考(かんがへ)ふるから或(あるひ)は重複(ちようふく)の事もあるであろうが成(な)るべくそれを避(さ)けて大要(たいえう)を左(さ)に御話(おはなし)する事にする       諸君(しよくん)も既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く徳川氏(とくがはし)の最初(さいしよ)と云ふものは我国(わがくに)も極端(きよくたん)なる鎖国主義(さこくしゆぎ)ではなかつたのであるが       彼(か)の三代将軍(さんだいぜうぐん)家光(いへみつ)の時代(じだい)に方(あた)つて九 州(しう)に島原(しまばら)の乱(らん)があつて以来(いらい)は一 方(ぱう)に外教(ぐわいけふ)の禁(きん)を厳重(げんぢう)にすると同時(どうじ)       に愈々(いよ〳〵)鎖国(さこく)の方針(はうしん)に傾(かたむ)いたのであるが独(ひと)り和蘭国(おらんだこく)のみは引続(ひきつゞ)いて我国(わがくに)と交通(かうつう)をなして居(を)つたのである       然(しか)るに我国(わがくに)が長(なが)く太平(たいへい)の夢(ゆめ)を貪(むさば)つて居(を)る間(あひだ)に世界(せかい)の大勢(たいせい)と云ふものは漸(やうや)く一 変(ぺん)して英(えい)、仏(ふつ)、露(ろ)、米(べい)等(とう)       の新興国(しんこうこく)は益々(ます〳〵)西班牙(すぺいいん)、葡萄牙(ぽるとがる)、和蘭(おらんだ)などゝ云ふ国(くに)を凌駕(れうが)して其(その)勢力(せいりよく)を次第(しだい)に東方(とうはう)に伸(の)ばし露国(ろこく)が彼(か)       の西伯利亜(しべりや)の荒原(くわうげん)を過(す)ぎて終(つひ)に黒龍江(こくりうこう)辺(へん)の侵略(しんりやく)を初(はじ)めたのは既(すで)に慶安(けいあん)二年の昔(むかし)にあると云ふ事である       其(その)後(のち)其(その)東侵(とうしん)南下(なんか)の勢(いきほひ)は止(や)まずして漸(やうや)く千島(ちじま)並(ならび)に樺太(かばふと)の方面(はうめん)に進入(しんにふ)し元禄時代(げんろくじだい)に於(おい)ても既(すで)に屡々(しば〴〵)其(その)進(しん)       入(にふ)を見(み)たと云ふ事であるが明和(めいわ)の初(はじめ)に当(あた)つては其(その)著(いちじる)しきものがあつたのである此(この)事(こと)はズツト前章(せんせう)に       於(おい)ても既(すで)に申述(まをしの)べて置(お)いたのであるが寛政(かんせい)五年 露将(ろせう)ラツクスマンが蝦夷地(えぞち)に来(きた)りし時(とき)は初(はじ)めて徳川幕(とくがはゞく)       府(ふ)をして一 問題(もんだい)たらしめたのである此(この)時(とき)は更(さら)に長崎(ながさき)に来(きた)るべき旨(むね)を記(しる)せる信牌(しんはい)を与(あた)へて兎(と)に角(かく)一 時(じ)を       瀰縫(ひほう)したが当時(たうじ)は屡々(しば〴〵)露船(ろせん)の我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ふものがあつたのであるモツトモ露国(ろこく)に於(おい)ても其(その)頃(ころ)欧州(おうしう)に仏(ふつ)       国革命(こくかくめい)の騒動(さうどう)がありそれのみならず波蘭分割(はうらんぶんかつ)の問題(もんだい)などが起(おこ)つて居(を)つたので其(その)後(のち)暫(しばら)く東方経略(とうはうけいりやく)の手(て)を       弛(ゆる)めたがアレキサンダー帝(てい)が即位(そくゐ)して後(のち)四年 我(わ)が享和(けうわ)三年に至(いた)つて又(ま)た使節(しせつ)レサノフを我国(わがくに)に派遣(はけん)し       それが翌年(よくねん)の九月 長崎(ながさき)へやつて来(き)たのであるモツトモ其(その)当時(たうじ)の事は先(さ)きに信明(のぶあき)時代(じだい)に於(おい)て種々(しゆ〴〵)申述(まをしの)べ       て置(お)いた如(ごと)くであるが其(その)時(とき)レサノフの一 行(かう)は皈途(きと)我(わが)北辺(ほくへん)を調査(てうさ)して警備(けいび)の少(すくな)いことを看破(かんぱ)したるものゝ       如(ごと)く其(その)一 行(かう)の紀行文中(きかうぶんちう)に於(おい)て樺太(かばふと)奪取(だつしゆ)の意見(いけん)を漏(もら)したのであるが之(これ)が八九年の後(のち)我国人(わがこくじん)の手(て)によりて 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       邦文(ほうぶん)に訳(やく)されたのである即(すなは)ち所謂(いはゆる)奉使日本紀行(ほうしにほんきかう)なるものであるが之(これ)は余程(よほど)我国(わがくに)が露国(ろこく)に対(たい)する外交(ぐわいかう)方(はう)       針(しん)に悪影響(あくえいけう)を与(あた)へたるものであると思(おも)ふ其(その)後(のち)露国船(ろこくせん)の侵掠(しんれう)は我(わが)北辺(ほくへん)に絶(た)ゆることなく一 時(じ)は世論(せろん)も沸騰(ふつとう)       したのであつたが其(その)内(うち)幸(さいはひ)に又(ま)た中絶(ちうぜつ)するに至(いた)つた事情(じぜう)は矢張(やはり)前章(ぜんせう)信明(のぶあき)時代(じだい)に申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)くで       あるトコロが露国(ろこく)に次(つい)で我国(わがくに)にやつて来(き)たのは英国(えいこく)である元来(がんらい)英国(えいこく)は諸君(しよくん)も知(し)らるゝ如(ごと)く既(すで)に元和(げんわ)の       昔(むかし)に於(おい)て肥前(ひぜん)の平戸(ひらど)に商館(せうくわん)を設置(せつし)して居(を)つたのであるが当時(たうじ)余(あま)り利益(りえき)がないと云ふので其(その)七年 遂(つひ)に自(みづか)       ら退去(たいきよ)したのである然(しか)るに其(その)後(のち)五十年を経(へ)て我(わが)延宝(えんほう)元年(がんねん)五月 英(えい)の東印度会社(ひがしいんどくわいしや)は再(ふたゝ)び我国(わがくに)との通商(つうせう)を開(ひら)       きたいと云ふので一 船(せん)を長崎(ながさき)に送(おく)つたのである蓋(けだ)し英国(えいこく)も此(この)数(すう)十 年(ねん)と云ふものは内乱(ないらん)が打続(うちつゞ)いて其(その)手(しゆ)       足(そく)を海外(かいぐわい)に伸(のば)す程(ほど)の余裕(よゆう)もなかつたものと思(おも)はるゝが此(この)頃(ころ)に至(いた)つて御承知(ごせうち)の東印度会社(ひがしいんどくわいしや)と云ふものは       次第(しだい)に印度(いんど)に於(おい)て成功(せいこう)し其(その)勢力(せいりよく)は著(いちじる)しく増大(ぞうだい)したので遂(つひ)に和蘭(おらんだ)の商勢(せうせい)に拮抗(きつこう)し東洋貿易(とうようぼうえき)の覇者(はしや)たら       むとするの希望(きぼう)を抱(いだ)いたものであるから茲(こゝ)に復(ふたゝ)び我国(わがくに)とも通商(つうせう)をしたいと云ふのでレターンと称(せう)する       一 船(せん)を我国(わがくに)に送(おく)つたのであるトコロが申(まを)す迄(まで)もなく我国(わがくに)に於(おい)ては当時(たうじ)一 層(そう)外交(ぐわいかう)に制限(せいげん)を加(くは)へて従来(じうらい)通(つう)       商(せう)せる処の清国(しんこく)並(ならび)に和蘭(おらんだ)の二 国(こく)にさへも貿易上(ぼうえきぜう)の制限(せいげん)を厳(げん)にしたる時(とき)であつたのみならず我国(わがくに)が外国(ぐわいこく)       の事情(じぜう)を知(し)るには当時(たうじ)独(ひと)り和蘭(おらんだ)の通信(つうしん)にのみ待(ま)つた時代(じだい)であるのに和蘭(おらんだ)と英国(えいこく)とは前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)       き事情(じぜう)で通商上(つうせうぜう)講和(かうわ)し難(がた)き敵(てき)であるから和蘭人(おらんだじん)は勉(つと)めて英人(えいじん)と我国(わがくに)との通商(つうせう)を阻隔(そかく)せむとした様子(やうす)が       あつて英国王(えいこくわう)と葡萄牙王家(ほろとがるわうか)とは姻戚(いんせき)の間柄(あひだがら)である事などを申述(まをしの)べたので我国(わがくに)に於(おい)ては外教騒動(ぐわいけふさうどう)の一 件(けん)       から葡萄牙人(ほるとがるじん)は特(とく)に嫌(きら)つて居(を)る場合(ばあひ)であるから遂(つひ)に此(この)英国(えいこく)をも一も二もなく拒絶(きよぜつ)すると云ふ方針(はうしん)を取(と)       つたのである其(その)後(のち)英船(えいせん)は屡々(しば〴〵)我(わが)海岸(かいがん)に出没(しゆつぼつ)したが茲(こゝ)に是非(ぜひ)諸君(しよくん)に申述(まをしの)べたいと思(おも)ふのは其(その)頃(ころ)彼(か)のナポ       レオンが飛躍(ひやく)の為(ため)に欧州(おうしう)の天地(てんち)が攪乱(かくらん)されたる事である其(その)結果(けつくわ)我(わ)が文化(ぶんくわ)三年に和蘭(おらんだ)の本国(ほんこく)は遂(つひ)に仏国(ふつこく) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十五 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十六 【本文】       の属領(ぞくれう)となつたので御承知(ごせうち)の通(とほ)り当時(たうじ)仏国(ふつこく)と英国(えいこく)とは敵対(てきた)つて居(を)る場合(ばあひ)であるから英船(えいせん)は此(この)東洋(とうよう)に於(おい)       て和蘭(おらんだ)の貿易船(ばうえきせん)を捕獲(ほくわく)したいものであると云ふので和蘭(おらんだ)の東洋(とうよう)に於(お)ける根拠地(こんきよち)バタビアから此(この)長崎(ながさき)に       渡航(とかう)せる処の定期船(ていきせん)を差押(さしおさ)ふる目的(もくてき)を以(もつ)て文化(ぶんくわ)五年八月十五日 遂(つひ)に我(わが)長崎港(ながさきこう)に侵入(しんにふ)して来(き)たのである       此(この)時(とき)が即(すなは)ち彼(か)の長崎奉行(ながさきぶぎよう)松平図書頭康英(まつだひらづしよのかみやすひで)が自殺(じさつ)して以(もつ)て責任(せきにん)を明(あきらか)にしたと云ふ話(はなし)のあつた時(とき)である       之等(これら)の事情(じぜう)が能(よ)く通(つう)じない処から英船(えいせん)が我国(わがくに)に与(あた)へた悪影響(あくえいけう)は少(すくな)からざるもので当時(たうじ)我国(わがくに)に於(おい)ては露(ろ)       船(せん)と同(おな)じく英人(えいじん)を以(もつ)て国(くに)に寇(かう)するものであるとの印象(いんせう)をのみ与(あた)へたる次第(しだい)である其(その)後(のち)英国(えいこく)は遂(つひ)に先(さき)に       和蘭領(おらんだれう)であつた処のジャバを占領(せんれう)しバタビアに自己(じこ)の総督府(そうとくふ)を置(お)いたので和蘭(おらんだ)から我国(わがくに)の長崎(ながさき)に出張(しゆつてう)       して居(を)る出島(でじま)の商館(せうくわん)と云ふものをも己(おの)れの手(て)に収(おさ)めむと云ふ目的(もくてき)から文化(ぶんくわ)十年に又々(また〳〵)我(わが)長崎(ながさき)へ其(その)船(ふね)を       送(おく)つたのであるが此(この)時(とき)なども右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)は少(すこ)しも我国(わがくに)には通(つう)じなかつたのであるが今日(こんにち)から考(かんが)へて       見(み)ると実(じつ)に不可思儀(ふかしぎ)とも言(い)ふべきは和蘭国(おらんだこく)と云ふものは前(まへ)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く当時(たうじ)仏国(ふつこく)の属邦(ぞくはう)と相成(あほな)つ       て居(を)るのであるから世界中(せかいちう)に和蘭(おらんだ)の国旗(こくき)の立(た)てられてある場所(ばしよ)はない訳(わけ)であるのに独(ひと)り我国(わがくに)の長崎港(ながさきこう)       出島(でじま)にある蘭館(らんくわん)許(ばか)りは我国(わがくに)が鎖国主義(さこくしゆぎ)であつた御蔭(おかげ)を蒙(かうむ)つて独(ひと)り相変(あひかは)らずに和蘭(おらんだ)の国旗(こくき)を建(た)て通(とほ)した       のは頭(すこぶ)る面白(おもしろ)い現象(げんせう)と云ふべきであつたのである即(すなは)ち此(この)和蘭(おらんだ)の商館(せうくわん)が其後(そののち)初(はじ)めて本国(ほんごく)に消息(せうそく)を通(つう)じ得(え)       たのは後年(こうねん)オレンヂ王家(わうか)が和蘭(おらんだ)を復(ふく)せられた後(のち)であつたとは随分(ずゐぶん)奇態(きたい)なる事柄(ことがら)であつたのであるがソ       ンナ事情(じぜう)は其(その)当時(たうじ)我国(わがくに)では誰(たれ)も知(し)るものはなかつたのであるから話(はなし)は実(じつ)に面白(おもしろ)いのであると思(おも)ふ其後(そののち)       とても英船(えいせん)は屡々(しば〴〵)我(わが)海岸(かいがん)に来往(らいおう)したが之(これ)は多(おほ)く捕鯨船(ほげいせん)位(くらゐ)で格別(かくべつ)の事はなかつたのである併(しか)し之(これ)等(ら)のも       のゝ中(なか)には度々(たび〴〵)陸地(りくち)に上(あが)つて暴行(ばうかう)をなした事があるので寛政(かんせい)九年一たび弛(ゆる)められた夷船打払(えびすせんうちはらひ)の事は       文政(ぶんせい)八年二月に至(いた)つて再(ふたゝ)び二 念(ねん)よく打払(うちはら)ふべしと云ふ発令(はつれい)の一 動機(どうき)ともなつたのである 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百五十八号附録    (大正二年五月六日発行) 【本文】       かくて其(その)後(のち)十 余年(よねん)を経過(けいくわ)し天保(てんほう)十 年(ねん)に至(いた)つては前(まへ)に申述(まをしの)べたる欧州(おうしう)の内乱(ないらん)も稍(やゝ)平定(へいてい)に近(ちか)づいたのであ       るが当時(たうじ)英国(えいこく)は勿論(もちろん)仏国(ふつこく)の如(ごと)き欧州(おうしう)に於(お)ける新興(しんこう)の国(くに)と云ふものは漸(やうや)く其(その)力(ちから)を此(この)東洋(とうやう)に傾注(けいちう)するに至(いた)       つたが其(その)影響(えいけふ)として先(ま)づ支那(しな)に御承知(ごせうち)の阿片戦争(あへんせんそう)が起(おこ)つたのである而(しか)も戦争(せんそう)の結果(けつくわ)は我(わが)天保(てんはう)十三年に       至(いた)つて之(これ)等(ら)の欧州(おうしう)諸国(しよこく)に向(むか)ひ広東(かんとん)以下(いか)の五 港(こう)を開(ひら)き且(か)つ支那(しな)は香港(ほんこん)の一 島(とう)を英国(えいこく)に割譲(かつぜう)して我(わが)東洋(とうやう)史(し)       に一 新紀元(しんきげん)を劃(くわく)するに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て英国(えいこく)が東洋(とうやう)に対(たい)する計画(けいくわく)は益々(ます〳〵)進捗(しんせん)せむとするのみな       らず其(その)他(た)の新興国(しんこうこく)をして新天地(しんてんち)を求(もと)め利源(りげん)を開発(かいはつ)せむとするの希望(きばう)を強大(けうだい)ならしめた事は一 層(そう)で我国(わがくに)       に対(たい)する開国(かいこく)の圧迫(あつぱく)も亦(ま)た之(これ)より漸(やうや)く盛(さかん)なるの形勢(けいせい)を作成(さくせい)したのである       当時(たうじ)幕府(ばくふ)に於(おい)ても此(こ)の世界(せかい)の大勢(たいせい)に余儀(よぎ)なくせられ天保(てんはう)十三年 復(ふたゝ)び外船打払(ぐわいせんうちはらひ)の禁(きん)を弛(ゆる)めたが弘化(こうくわ)二       年 英(えい)の軍艦(ぐんかん)サラマングは長崎(ながさき)に来(きた)り嘉永(かえい)二年 其(その)測量船(そくれうせん)マリナーは又(ま)た浦賀(うらが)並(ならび)に下田(しもだ)に至(いた)り幕吏(ばくり)の頗(すこぶ)る       苦慮(くりよ)した事は之(こ)れ亦(ま)た諸君(しよくん)の既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)くである       それから米国(べいこく)の我国(わがくに)に対(たい)する挙動(きよどう)であるが元来(がんらい)米国(べいこく)と我国(わがくに)とは余(あま)り古(ふる)くからの関係(くわんけい)ではなく寛政(かんせい)十年       蘭領(らんれう)バタビアに住(す)む米人(べいじん)が蘭人(らんじん)と称(せう)して長崎(ながさき)に来(き)て貨物(くわもつ)の売買(ばい〴〵)をしたのが先(ま)づ最初(さいしよ)であると云ふことで       ある其(その)後(のち)もチヨイ〳〵来航(らいかう)したものがあつたが彼(か)の天保(てんぱう)八年六月モリソン船(せん)の浦賀(うらが)に来(きた)つたのは頗(すこぶ)る       注意(ちうゐ)すべきことである此(この)事(こと)は前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べたと考(かんが)へるが実(じつ)に我国(わがくに)に重大(ぢうだい)なる影響(えいけふ)を及(およ)ぼしたもので       ある初(はじ)め米国(べいこく)の一 商館(せうくわん)に於(おい)ては我国(わがくに)の漂流民(へうりうみん)を得(え)て之(これ)を送還(そうくわん)し之(これ)に依(よ)つて通商(つうせう)の機会(きくわい)を得(え)むとしたの       であるソコでモリソンと云ふ名前(なまへ)の船(ふね)を艤(ぎ)して我国(わがくに)へ向(むか)はしめソレが天保(てんぱう)八年の六月に浦賀(うらが)に到着(たうちやく)し       たのであるトコロで其(その)渡来(とらい)の目的(もくてき)が元(も)と通商(つうせう)にあるのであるから勉(つと)めて平和(へいわ)を示(しめ)したいと云ふ処から       凡(すべ)ての武装(ぶさう)を解除(かいぢよ)してやつて来(き)たのである当時(たうじ)我国(わがくに)に於(おい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く異船打払(ゐせんうちはらひ)の令(れい) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十七 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十八 【本文】       が布(し)かれてあつたのであるから之(これ)に向(むかつ)て直(たゞ)ちに発砲(はつほう)したのみならず其(その)武装(ぶさう)のないのを見(み)て余程(よほど)軽蔑(けいべつ)の       様子(やうす)を現(あら)はしたのである此(この)時(とき)米船(べいせん)は種々(しゆ〴〵)の方法(はう〳〵)を以(もつ)て其(その)他意(たい)なきことを示(しめ)さむとしたが我国(わがくに)の幕吏(ばくり)の為(ため)       に峻拒(しゆんきよ)せられて遂(つひ)に浦賀(うらが)を去(さ)るに至(いた)つたのである後(のち)此(この)米船(べいせん)は八月廿日を以(もつ)て鹿児島(かごしま)に寄港(きかう)したが之(こ)れ       亦(ま)た拒絶(きよぜつ)されたので匇惶(そうくわう)として澳門(まかを)に向(むか)つて去(さ)つたと云ふのが事実(じゞつ)である然(しか)るに翌年(よくねん)即(すなは)ち天保(てんぱう)九年に       至(いた)つて和蘭(おらんだ)の甲比丹(かぴたん)からモリソンが我国(わがくに)に来航(らいかう)すると云ふ風説書(ふうせつがき)を幕府(ばくふ)に差出(さしいだ)したので之(これ)が忽(たちま)ち一 問(もん)       題(だい)と相成(あひな)つたのである其(その)実(じつ)モリソンと云ふのは米国(べいこく)の船名(せんめい)で前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)く既(すで)に昨年(さくねん)我国(わがくに)に来(きた)り目的(もくてき)を達(たつ)       せずしてミス〳〵皈(かへ)り去(さ)つたのであるが我国(わがくに)に於(おい)ては昨年(さくねん)浦賀(うらが)に来(きた)つた処の船(ふね)が其(その)モリソンであつた       と云ふことは知(し)るに由(よし)なく殊(こと)に和蘭(おらんだ)の風説書(ふうせつがき)に此(この)モリソンを以(もつ)て英国船(えいこくせん)と記(しる)してあつたので其(その)頃(ころ)の蘭学(らんがく)       者(しや)等(ら)は之(これ)は彼(か)の東洋学者(とうやうがくしや)で支那(しな)に在留中(ざいりうちう)たるロバート、モリソンが英国(えいこく)から派遣(はけん)せられて我国(わがくに)に使(し)す       るものであると信(しん)じて大(おほい)に其(その)打払(うちはらひ)の非(ひ)なる事を憂慮(いうりよ)するに至(いた)つたのである渡辺崋山(わたなべくわざん)、高野長英(たかのてうえい)等(ら)の疑(ぎ)       獄(ごく)も実(じつ)は之(これ)が原因(げんゐん)となつて起(おこ)つたものであるが今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)るとかゝる事実(じじつ)の間違(まちがひ)から多(おほ)くの人(じん)       物(ぶつ)を困死(こんし)せしむるに至(いた)つたのは返(かへ)す〳〵も遺憾(ゐかん)なることであつたと思(おも)ふ其(その)後(のち)弘化(こうくわ)二年に至(いた)つて米国(べいこく)の捕(ほ)       鯨船(けいせん)が浦賀(うらが)に来(きた)つた事があるが其(その)携(もた)らし来(きた)つた我(わが)漂流民(へうりうみん)丈(だけ)は特別(とくべつ)の詮議(せんぎ)と云ふので受取(うけと)られたが総(すで)て       の武器(ぶき)などは取上(とりあ)げられてホウ〳〵の体(てい)で皈(かへ)り去(さ)つたのである其(その)頃(ころ)米国政府(べいこくせいふ)は東亜(とうあ)に来住(らいぢう)せる其(その)国民(こくみん)       の利益(りえき)を擁護(えうご)する為(ため)に有力(いうりよく)なる一 艦隊(かんたい)を支那近海(しなきんかい)に出航(しゆかう)せしむることとなつたが同時(どうじ)に我国(わがくに)に於(おい)て外国(ぐわいこく)       の為(ため)に港湾(かうわん)の開放(かいはう)をなさしむる見込(みこみ)があるかどうかと云ふことに就(つい)て確(たしか)むる為(ため)に提督(ていとく)ビツトルと云ふ人       に命(めい)じて之(これ)を試(こゝろ)みしめたのであるソコでビツトルは嘉永(かえい)元年(がんねん)六月廿日 米艦(べいかん)二 雙(そう)を率(ひき)ゐて浦賀(うらが)に来(きた)り通(つう)       商条約(せうでうやく)を締結(ていけつ)せむことを申込(まをしこ)むだのであるが此(この)時(とき)も矢張(やはり)幕吏(ばくり)の拒(こば)む処(ところ)と相成(あひな)つたのであるモツトモ此(この)時(とき) 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       に於(おい)ても米船(べいせん)は極(きは)めて穏和(おんわ)なる態度(たいど)を示(しめ)して邦人(ほうじん)に対(たい)し自由(じゆう)に船内(せんない)の観覧(くわんらん)を許(ゆる)すなど頗(すこぶ)る交意(かうい)を表(へう)し       たのであるが帰(き)する処は彼(か)れの失敗(しつぱい)に終(をは)つて之(こ)れ亦(ま)た遂(つひ)に空(むな)しく皈(かへ)り去(さ)らざるを得(え)なかつたのである       ソコで其(その)翌(よく)二年の三月廿五日 米国(べいこく)の提督(ていとく)グリンが其(その)国(くに)の漂流民(へうりうみん)受取(うけとり)の為(ため)に長崎(ながさき)に来(きた)つた時(とき)は中々(なか〳〵)強硬(けうこう)       の態度(たいど)で之(これ)迄(まで)の穏和主義(おんわしゆぎ)一 点張(てんば)りではなかつたのであるがイヨ〳〵嘉永(かえい)六年に乗(の)り込(こ)むで来(き)たペリー       に至(いた)つては最(‘もつと)も強硬(けうこう)なる態度(たいど)を示(しめ)したのである       時(とき)の米国大統領(べいこくだいとうれう)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)くミラルド、フヒルモーアであつたが我国(わがくに)に対(たい)して開国(かいこく)を促(うなが)すべ       しと云ふ議論(ぎろん)が漸(やうや)く其(その)国(くに)に盛(さかん)となつて千八百五十年に至(いた)り遂(つひ)にそれが議会(ぎくわい)に現(あら)はれて決議(けつぎ)となり其(その)東(とう)       洋(やう)印度(いんど)支那(しな)海(かい)にある艦隊(かんたい)の勢力(せいりよく)を増加(ぞうか)して我国(わがくに)に対(たい)する開国(かいこく)を試(こゝろ)みむとしたのである而(しか)してマシウー       ペリーは新(あらた)に其(その)提督(ていとく)に任命(にんめい)せられたのであつたが大統領(だいとうれう)は我(わが)将軍(せうぐん)に致(いた)すの書(しよ)並(ならび)にペリーの信任状(しんにんぜう)を彼(かれ)       に授(さづ)け以(もつ)て其(その)使命(しめい)を達(たつ)せしめむとしたのであるソコで米国(べいこく)は先(ま)づ此(この)事(こと)を和蘭(おらんだ)に告(つ)げて適当(てきたう)なる助力(じよりよく)を       求(もと)め和蘭(おらんだ)に於(おい)ても之(これ)を承諾(せうだく)したのであるが英国(えいこく)海軍省(かいぐんせう)も亦(ま)た此(この)挙(きよ)に対(たい)し好意(かうい)を表(へう)し最新(さいしん)の海図(かいづ)を供給(けうきふ)       して東洋(とうよう)への航路(かうろ)に付(つき)指示(しじ)する処があつたのであるソコで和蘭(おらんだ)に於(おい)ては長崎(ながさき)にある処の甲比丹(かぴたん)をして       右(みぎ)の事情(じぜう)を我国(わがくに)に報知(ほうち)せしめ且(か)つ忠告(ちうこく)する処あらしめたが其(その)頃(ころ)我国(わがくに)に於(おい)ては未(いま)だ米国(べいこく)を以(もつ)て英領(えいれう)であ       る如(ごと)く思惟(しい)するもの多(おほ)く従(したがつ)て米国(べいこく)が世界(せかい)に於(お)ける独立(どくりつ)の強国(けうこく)だなどとは考(かんが)へなかつたのが一 般(ぱん)であつ       たそれのみならず和蘭(おらんだ)に対(たい)しても近来(きんらい)は頻(しき)りに疑惑(ぎわく)の眼(まなこ)を以(もつ)て見(み)るような場合(ばあひ)であつたから今度(このたび)の忠(ちう)       告(こく)に対(たい)してもそれ程(ほど)に留意(りうい)もしなかつたのであるがイヨ〳〵ペリーの来航(らいかう)に方(あた)つては我(わが)幕府(ばくふ)の狼狽(らうばい)は       実(じつ)に甚(はなはだ)しきものがあつたのである       サテ米国(べいこく)に於(おい)ては其(その)議会(ぎくわい)がペリー遠征(ゑんせい)の事を決(けつ)して後(のち)其(その)軍艦(ぐんかん)蒸滊船(ぜうきせん)などの選定(せんてい)に時日(じじつ)を費(つひや)したのであ 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十九 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百二十 【本文】 《割書:ペリーの出|発》  るがイヨ〳〵我(わが)嘉永(かえい)五年十月十三日を以(もつ)て其(その)準備(じゆんび)全(まつた)く整(とゝの)ひペリーは本国(ほんごく)ノルフオークを出発(しゆつぱつ)したので       ある而(しか)して喜望峯(きばうほう)を廻(めぐ)り漸(やうや)く東亜(とうあ)の海面(かいめん)に浮(うか)びて澳門(まかを)に到着(たうちやく)したのは翌年(よくねん)の四月六日であつたが五月       四日には上海(しやんはい)に到達(たうたつ)し此処(こゝ)にてペリー自身(じしん)はシユスクエハンナに坐乗(ざぜう)し外(ほか)にミスシツピー及(およ)びサツブ 《割書:ペリー琉球|に至る》  ライの二 艦(かん)を率(ひき)ひて五月廿六日 先(ま)づ琉球(りうきう)を見舞(みま)つたのである此(この)琉球(りうきう)に於(お)けるペリーの挙動(きよどう)等(とう)に就(つい)ては       実(じつ)に注目(ちうもく)すべき事が多(おほ)いのであるが今(いま)はそれ等(ら)迄(まで)をも詳説(せうせつ)すべき余裕(よゆう)がないから略(りやく)することとしたいが       それからペリーは一たび小笠原島(をがさはらじま)の探検(たんけん)に赴(おもむ)き更(さら)に琉球(りうきう)に引(ひ)き返(かへ)し遂(つひ)に七月二日を以(もつ)て我国(わがくに)への航路(かうろ)       に向(むか)つたのである此(この)時(とき)ペリーの率(ひき)ゐたる船(ふね)は先(ま)づ旗艦(きかん)シユスクエハンナ(蒸滊軍艦(ぜうきぐんかん))を初(はじめ)としミスシツ       ピー(仝上(どうぜう))並(ならび)にサラトガ(帆船(はんせん))ブライマウス(仝上(どうぜう))の四 艘(そう)であつたが右(みぎ)の内(うち)帆船(はんせん)二 艘(そう)は後(あと)から来(きた)り会(くわい)       したもので先(さき)に率(ひき)ゐて来(き)たサツブライ丈(だけ)は之(これ)を琉球(りうきう)那覇港(なはかう)に残(のこ)し置(お)いた次第(しだい)である 《割書:ペリー浦賀|湾に投錨す》  かくてペリーは我(わが)嘉永(かえい)六年六月三日(千八百五十三年七月八日)未刻(ひつじのこく)を以(もつ)て相模国(さがみのくに)城(しろ)ケ島(しま)沖(おき)に現(あら)はれ       直(たゞ)ちに其(その)率(ひき)ゆる処の四 艦(かん)に対(たい)し戦闘準備(せんたうじゆんび)を命(めい)じたのであるソコで浦賀奉行(うらがぶぎやう)配下(はいか)の小吏(せうり)は之(これ)を抑止(よくし)する       為(ため)に数艘(すうそう)の小舟(こぶね)に乗(ぜう)じて之(これ)に近(ちか)づかむとしたが彼等(かれら)は泰然自若(たいぜんじじやく)として一 向(かう)之(これ)等(ら)の小舟(こぶね)を寄(よ)せ付(つ)けざる       のみか帆(ほ)もなく櫓(ろ)もなきに逆風(ぎやくふう)に快走(かいさう)して益々(ます〳〵)湾内(わんない)に進入(しんにふ)せる光景(くわうけい)に対(たい)しては当時(たうじ)我(わが)幕吏(ばくり)の呆然(ばうぜん)なり       しも無理(むり)ならぬ次第(しだい)であつたと思(おも)ふソコで此(この)艦隊(かんたい)の浦賀(うらが)湾内(わんない)に投錨(とうべう)するを見(み)るや浦賀奉行(うらがぶぎやう)戸田伊豆守(とだいづのかみ)       氏栄(うぢひで)は部下(ぶか)をして早速(さつそく)米艦(べいかん)に赴(おもむ)かしめたが米艦(べいかん)は矢張(やはり)之(これ)を受付(うけつ)けない此(この)時(とき)我(わが)陸上(りくぜう)に於(おい)ては号砲(がうほう)を放(はな)つ       やら海岸守備(かいがんしゆび)の任(にん)にあるものが各(おの〳〵)其(その)担当区域(たんたうくゐき)の守衛(しゆえい)に就(つ)くやらで其(その)混雑(こんざつ)と云ふものは実(じつ)に名状(めいぜう)すべ       からざるものがあつたのである此(この)時(とき)与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云ふ人は蘭語(らんご)の出来(でき)る人であつたが自(みづか)ら次官(しくわん)だ       と称(せう)して上船(ぜうせん)を許(ゆる)され暫(しばら)くペリーの旗手(きしゆ)と談話(だんわ)を交換(かうくわん)したのであるソコでイヨ〳〵此(この)船(ふね)が予想(よさう)の如(ごと)く 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百六十四号附録(大正二年五月十三日発行) 【本文】       米国(べいこく)の艦隊(かんたい)であることが確(たしか)まつたのみならず其(その)大統領(だいとうれう)より我(わが)将軍(せうぐん)に送(おく)るべき書翰(しよかん)を所持(しよぢ)して居(を)る事を知(し)       つたのである併(しか)し此方(こちら)から出(だ)した禁令(きんれい)だの用事(ようじ)があるならば長崎(ながさき)へ来(こ)いだのと云ふ注文(ちうもん)は一も二もな       く先方(せんぱう)の峻拒(しゆんきよ)する処となつたのであるそれのみならず我(わが)警備船(けいびせん)に対(たい)しても其(その)立退(たちのき)を要求(えうきう)し若(も)し肯(がゑん)ぜざ 《割書:与力中島三|郎助》  れば打(う)ち払(はら)ひもしまじき態度(たいど)を示(しめ)したのであるが只今(たゞいま)一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云ふ人は私(わたくし)が後(のち)       に段々(だん〴〵)御話(おはなし)致(いた)したいと思(おも)ふ吉田藩士(よしだはんし)穂積清軒(ほづみせいけん)と云ふ人の叔父(おぢ)で実(じつ)は我(わが)吉田藩(よしだはん)に於(お)ける蘭学者(らんがくしや)とは最(もつと)も       関係(くわんけい)の深(ふか)い人である此(この)人(ひと)は後(のち)に榎本釜次郎(ゑのもとかまじらう)に従(したがつ)て函館(はこだて)に脱走(だつそう)したのであるが之(これ)等(ら)開国論者(くわいこくろんしや)の議論(ぎろん)が       我(わが)吉田藩士(よしだはんし)の間(あひだ)に影響(えいけう)した事の少(すくな)からざりしことは頗(すこぶ)る注意(ちうゐ)すべき事柄(ことがら)であると信(しん)ずるのである 《割書:浦賀湾頭の|光景》  トコロで此(この)夜(よ)に於(お)ける浦賀湾頭(うらがわんとう)の光景(くわうけい)と云ふものは実(じつ)に物凄(ものすご)い訳(わけ)であつたので陸上(りくぜう)には到(いた)る処(ところ)に烽火(ほうくわ)       を飛(と)ばして遠近(ゑんきん)に警報(けいほう)を伝(つた)えあらゆる警鐘(けいせう)を夜(よ)を徹(てつ)して打(う)ち鳴(な)らされると云ふ有様(ありさま)であつたが米国(べいこく)の       旗艦(きかん)からは又(ま)た午後(ごご)九時の号砲(がうほう)を放(はな)つたので邦人(ほうじん)を驚(おどろ)かした事が少(すくな)くなかつたと云ふ話(はなし)であるかゝる       有様(ありさま)で当時(たうじ)に於(お)ける混雑(こんざつ)と云ふものは今日(こんにち)より想像(さうぞう)する以上(いぜう)の事であつたと思(おも)ふのであるが其(その)明日(あくるひ)も       空(むな)しく此(かく)の如(ごと)き事を繰(く)り返(かへ)しつゝ浦賀奉行(うらがぶぎよう)は一 方(ぱう)に之(これ)に対(たい)する幕府(ばくふ)の指揮(しき)を仰(あふ)いだのであるがサテ幕(ばく)       府(ふ)に於(おい)ても此(この)処置(しよち)には実(じつ)に当惑(たうわく)したのであつて到底(たうてい)従来(じうらい)の如(ごと)き筆法(ひつぱう)では此(この)米艦(べいかん)を逐(お)ひ去(さ)らしむることは       不可能(ふかのう)であることが明(あきら)かであると云ふ処から最(もつと)も苦心(くしん)したのであつたが何(なに)を言(い)ふても万(まん)一 米艦(べいかん)と戦端(せんたん)で       も開(ひら)くようになつて其(その)艦隊(かんたい)が次第(しだい)に江戸(えど)の近海(きんかい)に進入(しんにふ)して来(き)た場合(ばあひ)には江戸市民(えどしみん)に必須(ひつす)なる物質(ぶつし)の輸(ゆ)       入(にふ)と云ふものは全(まつた)く杜絶(とぜつ)さるゝ事になると云ふのが先(ま)づ第一の苦痛(くつう)であつた様(やう)に察(さつ)せらるゝのである       ソコで成(な)るべき丈(だけ)は無事(ぶじ)に米艦(べいかん)をして去(さ)らしむる方法(はう〳〵)が必要(ひつえう)であると云ふ処から兎(と)に角(かく)彼(か)れの要求(えうきう)に       応(おう)じて特使(とくし)を派(は)し其(その)齎(もた)らせる処の書翰(しよかん)を受取(うけと)るより外(ほか)致方(いたしかた)がなかろうと云ふのに帰着(きちやく)したのであるモ 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百二十一 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百二十二 【本文】       ツトモ之(これ)迄(まで)に立至(たちいた)るに就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の混雑(こんざつ)があつた事であるがそれ等(ら)は今(いま)細(こま)かに申述(まをしの)ぶる必要(ひつえう)もないと       考(かんが)へるのであるが結局(けつきよく)かゝる次第(しだい)で在京(ざいけう)の浦賀奉行(うらがぶぎよう)井戸石見守弘道(ゐどいわみのかみひろみち)が幕命(ばくめい)を受(う)けて戸田伊豆守(とだいづのかみ)と共(とも)に       イヨ〳〵米使(べいし)に接見(せつけん)することと相成(あひな)つたのであるサテ此(この)米使(べいし)接見(せつけん)の模様(もやう)は既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)くであ 《割書:久里浜の会|見》  るが久里浜(くりはま)に会見所(くわいけんじよ)を設置(せつち)し中々(なか〳〵)威儀堂々(いぎどう〴〵)たるものであつたのであるモツトモ此(この)時(とき)の事(こと)に関(くわん)しては御(お)       話(はなし)すべき事(こと)が沢山(たくさん)にあるのであるが之(これ)は大概(たいがい)世(よ)に知(し)られて居(を)る事柄(ことがら)が多(おほ)いのであるから諸君(しよくん)も略(ほゞ)御存(ごぞん)       知(ぢ)の事(こと)であると思(おも)ふソコで大統領(だいとうれう)よりの書翰(しよかん)授受(じゆ〴〵)の事を終(をは)り我(わが)幕府(ばくふ)からも諭書(ゆしよ)を渡(わた)したのであるがペ       リーは更(さら)に来春(らいしゆん)四五月を以(もつ)て再(ふたゝ)び来航(らいかう)すべき旨(むね)を言(い)ひ残(のこ)して相別(あひわか)れたのであるそれよりペリーは船(ふね)を       神奈川沖(かながはおき)まで進(すゝ)め水深(すゐしん)を測量(そくれう)するなど悠然(ゆうぜん)として動作(どうさ)し漸(やうや)く十二日に到(いた)つて琉球(りうきう)に向(むか)ひ浦賀(うらが)を去(さ)つた       のであるが此(この)時(とき)我(わが)邦人(ほうじん)の驚愕(けうがく)せる事は一方(ひとかた)でなく老中(らうちう)初(はじ)め幕府(ばくふ)の枢要(すうえう)なる人々(ひと〴〵)は火事装束(くわじせうぞく)で武器(ぶき)を携(たづさ)       へて登城(とうじやう)し徹宵謀議(てつせうばうぎ)に及(およ)むだと云ふ程(ほど)である此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)で此(この)米艦(べいかん)来航(らいかう)の問題(もんだい)は之(こ)れ迄(まで)の外船渡来(ぐわいせんとらい)と       は頗(すこぶ)る趣(おもむき)を異(こと)にし実(じつ)に我(わが)邦(くに)の外交(ぐわいかう)に関(くわん)して一 大覚醒(だいかくせい)を促(うなが)さしめたもので実(じつ)に我(わが)邦(くに)開国(かいこく)の起源(きげん)とも云       ふべきであるから一 般(ぱん)邦人(ほうじん)に対(たい)する刺激(しげき)も実(じつ)に容易(ようい)ならざりし訳(わけ)であつたのである 《割書:幕府当局者|と水戸斉昭》  尚(な)ほ此処(こゝ)に一 言(げん)して置(お)きたいと思(おも)ふのは当時(たうじ)に於(お)ける幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)の意見(いけん)である勿論(もちろん)当時(たうじ)の老中(ろうちう)上座(ぜうざ)は       阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)であつたが正弘(まさひろ)は米艦(べいかん)の浦賀(うらが)に入(い)れる報知(ほうち)に接(せつ)するや先(ま)づ同(おな)じ閣老(かくらう)の牧野備前守(まきのびぜんのかみ)に謀(はか)       り諸有司(しよいうし)の意見(いけん)を徴(てう)したる後(のち)私(ひそ)かに一 書(しよ)を水戸(みと)の斉昭(なりあきら)に致(いた)して其(その)策(さく)を問(と)つたのである蓋(けだ)し斉昭(なりあきら)は前(まへ)に       も申述(まをしの)べたる如(ごと)く現代(げんだい)の政界(せいかい)に多大(ただい)の勢力(せいりよく)を有(いう)し特(とく)に其(その)外交(ぐわいかう)意見(いけん)は極(きは)めて強硬(けうかう)なるもので頗(すこぶ)る天下(てんか)に       傾聴(けいてう)せられて居(を)つた次第(しだい)であるから其(その)意見(いけん)を聴(き)いて之(これ)を纏(まと)めて置(お)くのは当時(たうじ)最(もつと)も得策(とくさく)となしたのであ       ると思(おも)はれる然(しか)るに斉昭(なりあきら)とても別(べつ)に妙案(めうあん)のある筈(はづ)もなく最初(さいしよ)の答(こたへ)は先年来(せんねんらい)自分(じぶん)の海防建議(かいぼうけんぎ)が容(い)れられ 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       なかつたのであるから今更(いまさら)何(なん)とも致方(いたしかた)はないが併(しか)し彼(か)れの要求(えうきう)は容(い)れないようにしたいと云ふような       意味(いみ)で頗(すこぶ)る不得要領(ふとくえうれう)なものであつたが余程(よほど)之(これ)には斉昭(なりあきら)も苦心(くしん)したものと見(み)えて更(さら)に将軍(せうぐん)の命(めい)とあらば       登城(とじやう)の上(うへ)衆議(しゆうぎ)をも聴(き)き又(ま)た自分(じぶん)の意見(いけん)をも開陳(かいちん)すべしと申出(まをしい)でたのであるソコで伊勢守(いせのかみ)は渡(わた)りに船(ふね)と       でも言(い)ふべきか早速(さつそく)将軍(せうぐん)の旨(むね)を請(こ)ふて自(みづか)ら斉昭(なりあきら)の邸(やしき)を訪(と)ひ諸有司(しよいうし)の意見書(いけんしよ)をも示(しめ)して所見(しよけん)を問(と)つたの       であるが其(その)結果(けつくわ)幕議(ばくぎ)は遂(つひ)に米使(べいし)の齎(もた)らせる書翰(しよかん)を受取(うけと)る事(こと)に決定(けつてい)したのであるから斉昭(なりあきら)も別(べつ)の策(さく)の施(ほどこ)       すべきものなしとして矢張(やはり)之(これ)に同意(どうい)したものか少(すくな)くとも之(これ)を黙認(もくにん)したものと思(おも)はるゝのであるソコ       で先(ま)づ米国(べいこく)の書翰(しよかん)受取(うけと)りの事丈(ことだけ)は無事(ぶじ)に相済(あひす)むでペリーは兎(と)に角(かく)一 度(ど)退(しりぞ)き去(さ)つたのであるがいづれペ       リーは再(ふたゝ)び渡来(とらい)して今度(こんど)は一 層(そう)強(つよ)き意味(いみ)に於(おい)て開国(かいこく)の催促(さいそく)をするに相違(さうゐ)ないサテ此(この)点(てん)に対(たい)する我(わが)邦(くに)の       覚悟(かくご)如何(いかん)は其(その)後(のち)に残(のこ)る大問題(だいもんだい)で幕府(ばくふ)に於(おい)ては其(その)後(のち)開鎖(かいさ)の疑議(ぎゞ)に日(ひ)も亦(ま)た足(た)らざるの有様(ありさま)であつたが当(たう)       時(じ)我国(わがくに)の弱点(じやくてん)は第一 武備(ぶび)の不足(ふそく)である之(これ)は既(すで)に年来(ねんらい)の宿題(しゆくだい)で有識者間(いうしきしやかん)には数々(しば〴〵)唱導(せうどう)されたる処(ところ)であつ       たが天下(てんか)一 般(ぱん)の人に至(いた)つては中々(なか〳〵)右(みぎ)様(やう)な事は分(わか)らぬ言(い)はば元寇殲滅(げんかうせんめつ)など我国(わがくに)が歴史上(れきしぜう)未(いま)だ嘗(かつ)て外国(ぐわいこく)に       敗(やぶ)れた事のないと云ふ例(れい)を深(ふか)く印象(いんせう)して只(た)だ〳〵鎖国(さこく)すべし攘夷(ぜうゐ)何(なに)かあらむと威張(ゐば)り手(て)が多(おほ)いと云ふ       のが普通(ふつう)の状態(ぜうたい)であつたのであるトコロが幕府(ばくふ)の枢機(すうき)にあるものから云ふとまだ武備(ぶび)の不足(ふそく)よりも一       層(そう)痛切(つうせつ)に困難(こんなん)を感(かん)じたのが実(じつ)に財政(ざいせい)の窮乏(きうぼう)で之(これ)は下手(へた)に打明(うちあ)くる訳(わけ)にも行(ゆ)かず只だ〳〵苦慮(くりよ)の外(ほか)はな       かつたのであるかゝる内情(ないぜう)であつたから幕府(ばくふ)に開国主義(かいこくしゆぎ)と云ふ迄(まで)の見地(けんち)は之(こ)れなくとも対外上(たいぐわいぜう)の政策(せいさく)       としては自然(しぜん)退嬰軟弱(たいえいなんじやく)の方針(はうしん)に傾(かたむ)くのは致方(いたしかた)がなかつたのである然(しか)るに一つ困(こま)つた事は矢張(やはり)水戸(みと)の斉(なり)       昭(あきら)である前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く最初(さいしよ)ペリーの持参(ぢさん)せる書翰(しよかん)を受取(うけと)るべきや又(また)は之(これ)を拒絶(きよぜつ)すべきやと云       ふ時(とき)に方(あた)つては幸(さいはひ)に止(やむ)を得(え)ぬから之(これ)を受取(うけと)るも仕方(しかた)がないであろうと云ふような不得要領(ふとくえうれう)の意見(いけん)で 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百二十三 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百二十四 【本文】       あつたものらしく誠(まこと)に致(いた)しよかつたのであるがサテ今度(こんど)イヨ〳〵開国(かいこく)か鎖国(さこく)かと云ふ段(だん)になつては中(なか)       中(なか)強硬(けうかう)な鎖国説(さこくせつ)を取(と)つて承知(せうち)しないモツトモ幕府(ばくふ)枢要(すうやう)の地位(ちゐ)にある人々とても必(かなら)ずしも開国(かいこく)を欲(ほつ)した       訳(わけ)ではない出来(でき)る事なれば攘夷(ぜうゐ)も致(いた)したいのであるが今(いま)は到底(たうてい)武備(ぶび)足(た)らず財政(ざいせい)も亦(ま)た窮乏(きうぼう)の極(きよく)である       から暫(しばら)く権宜(けんぎ)を以(もつ)て外交(ぐわいかう)を塗抹(とまつ)し幸(さいはひ)に機(き)を得(え)たならば再(ふたゝ)び攘夷(ぜうゐ)を決行(けつかう)しては遅(おそ)からずと云ふような考(かんが)       であつたものと察(さつ)せられる然(しか)るに斉昭(なりあきら)の意見(いけん)は前(まへ)に申述(まをしの)ぶる如(ごと)く最(もつと)も強硬(けうかう)なる鎖国(さこく)にあるのでドウモ       幕議(ばくぎ)と意見(いけん)が一 致(ち)せなかつたのが少(すくな)くとも政局紛乱(せいきょくふんらん)の一 因(ゐん)をなしたものと信(しん)ぜられるのであるトコロ       へ此(この)場合(ばあひ)又(ま)た一 大不幸(だいふかう)が起(おこ)つたと云ふことは将軍(せうぐん)家慶(いへよし)の薨去(こうきよ)である家慶(いへよし)は此(この)国家無前(こくかむぜん)の大事件(だいじけん)の起(おこ)れる 《割書:将軍家慶の|薨去》  に方(あた)つて恰(あたか)も病(やまひ)革(あらた)まり此(この)年(とし)六月廿ニ日を以(もつ)て遂(つひ)に薨去(こうきよ)せられたのであるが世子(せいし)の家定(いへさだ)は元来(がんらい)病身(びやうしん)の 《割書:世子家定の|襲職》  人で到底(たうてい)此(この)大事(だいじ)を裁決(さいけつ)せらるべき人ではないソコで家慶(いへよし)は病(やまひ)大漸(たいぜん)に至(いた)つた時(とき)伊勢守(いせのかみ)を病床(びやうせう)に召(め)して後(こう)       事(じ)を托(たく)し後々(のち〳〵)の事(こと)は幸(さいはひ)に水戸斉昭(みとなりあきら)を起(おこ)して登城(とじやう)せしめ之(これ)に外事(ぐわいじ)を謀(はか)るの外(ほか)はなかろうと云つたとの事       である勿論(もちろん)伊勢守(いせのかみ)も此際(このさい)はドウあつても斉昭(なりあきら)と協和(けふわ)するの必要(ひつえう)を感(かん)じて居(を)つたのみならず松永慶永(まつながよしなが)【松平慶永(まつだひらよしなが)ヵ】、       島津斉彬(しまづせいひん)の如(ごと)きも亦(ま)た偏(ひとへ)に之(これ)に依(よ)るの外(ほか)なき事を唱(とな)えたのである以(もつ)て当時(たうじ)斉昭(なりあきら)の心(こゝろ)を収(おさ)むるは則(すなは)ち天(てん)       下(か)の人心(じんしん)を収攬(しうらん)する所以(ゆゑん)であると云ふ意味(いみ)を現(あら)はして居(を)つたものと見(み)るべきであると思(おも)ふ       ソコで伊勢守(いせのかみ)は七月三日 遂(つひ)に斉昭(なりあきら)を起(おこ)して幕議(ばくぎ)に参加(さんか)せしむるに至(いた)つたのみならず其(その)臣(しん)藤田東湖(ふぢたとうこ)等(ら)に       も書(しよ)を送(おく)らしめて説(と)く所(ところ)あらしめたのであるが幕議(ばくぎ)は終(つひ)に開鎖(かいさ)に関(くわん)し広(ひろ)く諸侯(しよこう)並(ならび)に諸士(しよし)の与論(よろん)を徴(てう)す       ることとなつたのである御承知(ごせうち)の通(とほ)り此(この)諸侯(しよこう)諸士(しよし)の与論(よろん)を聴(き)くと云ふ事に就(つい)ては後世(こうせい)の史家中(しかちう)に頗(すこぶ)る議(ぎ)       論(ろん)のある事で之(こ)れありしが為(ため)に却(かへ)つて議論(ぎろん)の沸騰(ふつとう)を来(き)たし幕府(ばくふ)の威権(ゐけん)は地(ち)に落(お)ちて処士横議(しよしわうぎ)の弊(へい)を生(せう)じ       結局(けつきよく)其(その)衰亡(すゐぼう)を招(まね)いたものであると論(ろん)ずるものもあるようであるが当時(たうじ)幕府(ばくふ)の声望(せいぼう)が漸(やうや)く軽(かる)きに傾(かたむ)き其(その) 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百七十一号附録  (大正二年五月二十日発行) 【本文】       衰態(すゐたい)は諸侯(しよこう)の眼(まなこ)にも映(えい)じて居(を)つた事(こと)は勿論(もちろん)であつたであろうと思(おも)ふが併(しか)し事(こと)の外国(ぐわいこく)に関係(くわんけい)なき限(かぎ)りは       断(だん)じて未(いま)だ諸侯(しよこう)の拮抗(きつこう)を蒙(こうむ)るが如(ごと)き事は之(こ)れなかつた筈(はづ)である然(しか)るに今(いま)や事(こと)外国(ぐわいこく)との交渉(かうせう)であつて如(い)       何(か)なる場合(ばあひ)も挙国(きよこく)一 致(ち)でなくては事(こと)の致(いた)し様(やう)がないと云ふ大切(たいせつ)の時(とき)に方(あた)つて多年(たねん)幕府(ばくふ)の取(と)り来(きた)つた極(きよく)       端(たん)なる鎖国(さこく)の方針(はうしん)は到底(たうてい)急(きふ)に之(これ)を開国(かいこく)に導(みちび)くの方法(はう〳〵)なくさりとて従来(じうらい)の如(ごと)き鎖国主義(さこくしゆぎ)を取(と)れば此(この)際(さい)国(こく)       家(か)を危殆(きたい)の地位(ちゐ)に陥(おとしい)るゝも分(わか)らぬと云ふ現状(げんぜう)に際(さい)しては幕府(ばくふ)たるものは茲(こゝ)に初(はじ)めて衆議(しうぎ)の赴(おもむ)く処に決(けつ)       し与論(よろん)を尊重(そんちよう)すると云ふ態度(たいど)を取(と)つて如何様(いかやう)にも天下(てんか)の人心(じんしん)を纏(まと)めたいと云ふ事になつたので之(これ)は実(じつ)       に自然(しぜん)の勢(いきほひ)止(やむ)を得(え)ざるの運命(うんめい)であつたと解(かい)せねばならぬと信(しん)ずるのである             ⦿外国問題と吉田藩       ソコで当時(たうじ)に於(お)ける我(わが)吉田藩(よしだはん)の傾向(けいかう)は如何(いかん)であつたか之(これ)は此処(こゝ)に少(すこ)しく申述(まをしの)べねばならぬ事であると 和田肇   思(おも)ふが当時(たうじ)此(この)吉田藩(よしだはん)に於(おい)て国老(こくろう)として最(もつと)も重(おも)きをなして居(を)つたのは和田肇(わだはじめ)である此(この)人(ひと)は寛政(かんせい)十二年九       月の生(うま)れで既(すで)に大河内家(おほかうちけ)の累代(るいだい)に歴仕(れきし)し頗(すこぶ)る勢力(せいりよく)のあつたものであるが名(な)は元長(もとなが)と云ひ後(のち)に信古(のぶひさ)の偏(へん)       諱(ゐ)を賜(たまは)つて古元(ひさもと)と改(あらた)めたが号(がう)を挑川(ちようせん)と云つたのである歌(うた)を善(よ)くし書(しよ)にも妙(みよう)を得(え)て居(を)つたが又(ま)た極(きは)めて 《割書:西村治右衛|門》  書画(しよぐわ)の鑑識(かんしき)に巧(たくみ)であつたのである其(その)頃(ころ)同(おな)じ国老(こくろう)で西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)と云ふ人があつたが之(これ)も亦(ま)た藩中(はんちう)で重(おも)       きをなしたもので此(この)人(ひと)は名(な)を為周(ためかね)号(がう)を峯庵(ほうあん)と云つて頗(すこぶ)る古今(ここん)の学(がく)に通(つう)じ武芸(ぶげい)にも長(てう)じて居(を)つたのであ 西岡翠園  る当時(たうじ)藩校(はんかう)時習館(じしうくわん)の教授(けふじゆ)には西岡翠園(にしをかすゐゑん)があり又(ま)は監理(かんり)としては山本謙斉(やまもとけんさい)などと云ふ人があつたが此(この)西(にし)       岡翠園(をかすゐゑん)と云ふ人は前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた西岡天津(にしをかてんしん)と云つた人の次子(じし)で名(な)を宣(せん)字(あざな)を季廸(すへみち)通称(つうせう)を介蔵(すけざう)と云つ       たが初(はじ)め教(おしへ)を父(ちゝ)に受(う)け後(のち)太田錦城(おほたきんじやう)に就(つい)て学(まな)むだのである最(もつと)も毛詩(もうし)に通(つう)じて居(を)つたが人(ひと)となり澹泊寡言(たんぱくかごん) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百二十五 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩職)                    四百二十六 【本文】       で全(まつた)くの儒者(じゆしや)と云ふ風(ふう)であつたから政治向(せいぢむき)などには殆(ほとん)ど関係(くわんけい)がなかつたように思(おも)ふ又(また)其頃(そのころ)前(まへ)に申述(まをしの)べ       て置(お)いた彼(か)の太田錦城(おほたきんじやう)の子(こ)晴軒(せいけん)も矢張(やはり)藩(はん)の儒者(じゆしや)ではあつたが此(この)人(ひと)も矢張(やはり)学問(がくもん)一 徹(てつ)で藩政(はんせい)の顧問(こもん)と云ふ       ような訳(わけ)ではなかつたものと信(しん)ぜられるモツトモ此(この)人(ひと)は当時(たうじ)江戸(えど)の方(はう)に居(を)つたのであるがトコロで御(お) 児島閑牕  話(はなし)して置(お)きたいのは諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)である彼(か)の児島閑牕(こじまかんさう)である此(この)人(ひと)は名(な)を義和(よしかづ)通称(つうせう)を七五郎と云つ       たが矢張(やはり)此(この)吉田藩士(よしだはんし)で児島(こじま)六 助忠恕(すけたゞひろ)と云ふ人の長男(てうなん)であつた文政(ぶんせい)十一年八月の生(うまれ)で初(はじ)めは江戸(えど)にあつ       て荻野緑野(おぎのりよくや)の門(もん)に入(い)り其(その)塾長(じゆくてう)に推(お)されたが頗(すこぶ)る英邁(えいまい)強記(けうき)で出藍(しゆつらん)の誉(ほまれ)が高(たか)かつたのである後(のち)藩主(はんしゆ)の許可(きよか)       を得(え)て昌平黌(せうへいこう)に遊(あそ)び居(を)ること数年(すうねん)薩藩(さつはん)の重野安繹(しげのあんやく)、会津藩(あひづはん)の南摩綱紀(なんまこうき)、西條藩(せいでうはん)の三浦安 等(ら)と同窓(どうさう)で古賀(こが)       茶渓(さけい)、佐藤(さとう)一 斉(さい)などの鴻儒(こうじゆ)に就(つい)て学(まな)むだのである当時(たうじ)重野(しげの)は同窓(どうさう)の塾長(じゆくてう)であつたが閉窓(かんさう)【閑牕ヵ】とは最(もつと)も親密(しんみつ)       であつた様子(やうす)である後(のち)嘉永(かえい)六年の正月に至(いた)つて閑窓(かんさう)【閑牕ヵ】は更(さら)に藩主(はんしゆ)の許可(きよか)を得(え)て水戸(みと)、会津(あひづ)、米沢(よねざは)等(とう)の各(かく)       藩(はん)を遊歴(ゆうれき)したが其中(そのなか)でも水戸(みと)の藤田東湖(ふぢたとうこ)、会沢安(あひざはやすし)、内藤恥叟(ないとうちそう)などと交(まぢは)つて内藤(ないとう)とは晩年(ばんねん)までも友誼(いうぎ)を       続(つゞ)けて居(を)つたのであるかゝる訳(わけ)であつたから嘉永(かえい)六年の十一月 藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)は閑窓(かんさう)【閑牕ヵ】を召(め)し寄(よ)せて扈従役(こじうやく)と       し程(ほど)なく近習(きんじふ)に転(てん)じたが実(じつ)に君側(くんそく)にあつて顧問(こもん)に備(そな)はり藩政(はんせい)を輔翼(ほよく)したのである併(しか)し閑牕(かんさう)は其(その)当時(たうじ)は       まだ廿六 歳(さい)の青年(せいねん)で最初(さいしよ)から十 分(ぶん)に其(その)意見(いけん)が行(おこな)はれたかドウかは疑問(ぎもん)であるが要(えう)するに吉田藩(よしだはん)は御承(ごせう)       知(ち)の如(ごと)く徳川氏(とくがはし)譜代(ふだい)の家筋(いへすぢ)で殊(こと)に小藩(せうはん)でもあり只々(たゞ〴〵)公儀(こうぎ)に対(たい)する忠義(ちうぎ)一 徹(てつ)と云ふ志操(しさう)が充満(じうまん)して居(を)つ       たのであるから其頃(そのころ)は兎(と)に角(かく)幕府(ばくふ)の方針(はうしん)には逆(さから)はず只(た)だ〳〵それに対(たい)して忠誠(ちうせい)を励(はげ)むと云ふ志(こゝろざし)が盛(さかん)で       あつたものと考(かんが)へられる之(これ)は老人(らうじん)の実話(じつわ)又(また)は之(これ)から段々(だん〴〵)御紹介(ごせうかい)しようと思(おも)ふ記録(きろく)などでも推測(すゐそく)すること       が出来(でき)ると思ふのである       サテ前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)に於(おい)てはイヨ〳〵米艦(べいかん)の渡来(とらい)に付(つき)此後(このご)の処置(しよち)に関(くわん)して諸侯(しよこう)の意見(いけん)を諮(と) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:諸侯諸士等|の建議》  ふことと成(な)つたのであるが諸侯(しよこう)に於(おい)てはソコで所謂(いはゆる)藩論(はんろん)を定(さだ)めて漸次(ぜんじ)建議(けんぎ)する処があつたのである然(しか)る       に其(その)多(おほ)くと云ふものはまだ〳〵容易(ようい)に旧套(きうたう)を脱(だつ)することが出来(でき)ぬのは当然(たうぜん)の事で祖法(そはふ)は容易(ようい)に変改(へんかい)すべ       からずと云ふ意味(いみ)で鎖国的意見(さこくてきいけん)を具申(ぐしん)したのであるが独(ひと)り彦根侯(ひこねこう)井伊掃部守直弼(ゐいかもんのかみなほすけ)のみは結局(けつきよく)開国(かいこく)の止(やむ)       を得(え)ざる所以(ゆゑん)を陳述(ちんじゆつ)したのである而(しか)して浦賀奉行(うらがぶぎよう)戸田伊豆守(とだいづのかみ)の建議(けんぎ)も亦(ま)た殆(ほとん)ど直弼(なほすけ)と同論(どうろん)であつたが       殊(こと)に当時(たうじ)の小普請役(こふしんやく)勝麟太郎(かつりんたらう)(安房)、長崎(ながさき)の砲術家(はうじゆつか)高嶋喜平(たかしまきへい)(初(はじめ)四 郎太夫(らうたいう)、秋帆(しうほ))、並(ならび)に韮山(にらやま)の代官(だいくわん)江(え)       川太郎左衛門(がはたらうさゑもん)、仙台(せんだい)の藩士(はんし)大槻磐渓(おほつきばんけい)の如(ごと)きは蘭書(らんしよ)の講究(かうきう)によりて最(もつと)も外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)に通(つう)じて居(を)つた人々(ひと〴〵)       であるから孰(いづ)れも上書(ぜうしよ)して開国論(かいこくろん)を主張(しゆてう)したのである特(とく)に其(その)中(なか)でも高島秋帆(たかしましうほ)の建白(けんぱく)の如(ごと)きは当世(たうせ)第一       の卓見(たくけん)であるとして今日(こんにち)に於(おい)ても称賛(せうさん)せらるゝ処であるかゝる有様(ありさま)で一二の大名(だいみよう)又(また)は五六の学者(がくしや)志士(しゝ)       等(ら)は熱心(ねつしん)に開国論(かいこくろん)を主張(しゆてう)したのであるが大勢(たいせい)と云ふものはまだ〳〵旧習(きふしう)に固着(こちやく)し到底(たうてい)鎖国(さこく)の思想(しさう)は免(まぬが)       れざるのみならず一 方(ぱう)には熱心(ねつしん)なる攘夷論者(ぜうゐろんしや)もあつたのである吉田藩(よしだはん)に於(おい)ては此(この)時(とき)如何(いか)なる事を建議(けんぎ)       したるかそれは遺憾(ゐかん)ながら今(いま)分(わか)り兼(か)ぬるのであるが私(わたくし)は前(ぜん)申述(まをしの)べたる如(ごと)き志操(しさう)から勿論(もちろん)幕府(ばくふ)の処置(しよち)に       は逆(さから)はざる範囲内(はんゐない)に於(おい)て矢張(やはり)多分(たぶん)に漏(も)れぬ鎖国説(さこくせつ)であつた事と想像(さうぞう)するのである 《割書:露国使節の|来航》  然(しか)るに米艦(べいかん)の浦賀(うらが)を去(さ)れる後(のち)僅(わづか)に一月余に露国(ろこく)の使節(しせつ)プーチヤチンは亦(ま)た長崎(ながさき)へやつて来(き)たのである       当時(たうじ)和蘭(おらんだ)の通報(つうほう)によると露国(ろこく)の使節(しせつ)は米国使節(べいこくしせつ)の行動監視(かうどうかんし)の為(ため)であると伝(つた)えられたのであるが露国(ろこく)が       其(その)指(ゆび)を我(わが)北辺(ほくへん)に染(そ)めつゝあることは既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)くであるから機会(きくわい)だにあらば何等(なんら)かの利益(りえき)を我国(わがくに)に       求(もと)めむと欲(ほつ)して居(を)つた事は疑(うたが)ふべからざる事である従(したがつ)て今度(こんど)の来航(らいかう)とても亦(ま)た其(その)意味(いみ)に漏(も)れざる事       は明(あきらか)であると信(しん)ぜられるのであるが露艦(ろかん)は長崎(ながさき)に入港(にふかう)しても至極(しごく)穏和(おんわ)なる態度(たいど)を取(と)つたので其(その)点(てん)は米(べい)       艦(かん)と大(だい)なる差違(さゐ)があつたのであるから幕府(ばくふ)に於(おい)ては余程(よほど)之(これ)に満足(まんぞく)したものと見(み)え稍々(やゝ)寛大(かんだい)の処置(しよち)を取(と) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百二十七 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百二十八 【本文】       つたのであるが結局(けつきよく)長崎奉行(ながさきぶぎよう)からの伺(うかゞひ)によつて幕府(ばくふ)は一 応(おう)諭告(ゆこく)して尚(なほ)強(しゐ)て請(こ)ふ処があるならば国書(こくしよ)       を受取(うけと)るべしと命(めい)じたのであるソコで長崎奉行(ながさきぶぎよう)は八月十九日を以(もつ)て遂(つひ)に露国(ろこく)使節(しせつ)の上陸(ぜうりく)を許(ゆる)し書翰(しよかん)授(じゆ)       受(じゆ)の儀(ぎ)を挙(あ)ぐるに至(いた)つたのであるが其(その)書翰(しよかん)の要旨(えうし)とする処は一に両国(れうこく)の国境(こくけう)を定(さだ)むる事二に露国(ろこく)の為(ため)       に我国(わがくに)の一二 港(かう)を開(ひら)きて交易(かうえき)を許(ゆる)し又(ま)た露船(ろせん)に食料(しよくれう)並(ならび)に其他(そのた)の必要品(ひつえうひん)を供給(けふきう)する事と云ふのであつ       たが幕府(ばくふ)では十月八日を以(もつ)て留守居(るすゐ)筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)、勘定奉行(かんでうぶぎよう)川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)二 人(にん)を任命(にんめい)し之(これ)に荒尾土佐守(あらをとさのかみ)       並(ならび)に古賀謹(こがきん)一 郎(らう)の二 人(にん)を付(つ)き添(そ)はしめて長崎(ながさき)に派遣(はけん)し返書(へんしよ)を与(あた)へしめむとしたのである而(しか)して其(その)要旨(えうし)       とする処は国境(こくけう)に関(くわん)しては余程(よほど)の調査(てうさ)を要(えう)する事項(じこう)であることは言(い)ふ迄(まで)もないから到底(たうてい)一 朝(てう)一 夕(せき)に取(と)り       定(さだ)むることは出来(でき)ない又(ま)た開港(かいかう)交易(かうえき)の事は祖法(そはふ)として厳禁(げんきん)せられて居(を)る事ではあるが此(この)頃(ごろ)米国(べいこく)からも請(こ)       ふ処があつたし宇内(うだい)の形勢(けいせい)に鑑(かんが)みて古例(これい)をのみ守(まも)る訳(わけ)にも行(ゆ)くまいが之(これ)を決行(けつかう)するには十 分(ぶん)に利害(りがい)得(とく)       失(しつ)を調査(てうさ)する必要(ひつえう)があるは勿論(もちろん)の事であるのみならず事 重大(ぢうだい)であるから天朝(てんてう)にも奏(そう)し又(ま)た列侯(れつこう)の意見(いけん)       を緩和(くわんわ)する必要(ひつえう)もあるから此処(こゝ)四五年も立(た)つて国論(こくろん)の一 定(てい)するのを待(ま)たれたいものであると云ふので       あつた之(これ)で見(み)ると米艦(べいかん)の渡来(とらい)後(ご)まだ数(すう)ヶ月(げつ)であるが幕府(ばくふ)は既(すで)に開港(かいかう)の止(やむ)を得(え)ざるのを認(みと)めて居(を)つた様(やう)       子(す)で只(た)だ国論(こくろん)の趨向(すうかう)に顧慮(こりよ)する処があつて急(きふ)には之(これ)を断行(だんかう)し兼(か)ねたものと見(み)えるモツトモ此(この)肥前守(ひぜんのかみ)は       頗(すこぶ)る外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)に通(つう)じて開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざることを認(みと)めて居(を)つた人(ひと)であるが左衛門尉(さゑもんぜう)とても矢張(やはり)無謀(むばう)の戦(せん)       争(さう)をなすが如(ごと)きは決(けつ)して国家(こくか)に利益(りえき)でないと云ふ事を承知(せうち)して居(を)つたのである殊(こと)に古賀謹(こがきん)一 郎(らう)の如(ごと)き       は其(その)父(ちゝ)洞庵(どうあん)以来(いらい)の開国論者(かいこくろんしよ)であるから此(この)時(とき)の長崎(ながさき)下向(げかう)は幕議(ばくぎ)も頗(すこぶ)る開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざる事を認(みと)めたる結(けつ)       果(くわ)であることと思(おも)はるゝのである然(しか)るに彼(か)の露使(ろし)プーチヤチンは屡々(しば〳〵)長崎奉行(ながさきぶぎよう)に促(うなが)す処があつたが意(い)の       如(ごと)くならないので段々(だん〳〵)前(まへ)の態度(たいど)を一 変(へん)して頗(すこぶ)る強硬(けうこう)と成(な)つたのであるが十月廿二日に至(いた)り長崎奉行(ながさきぶぎよう)が 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百七十七号附録    (大正二年五月二十七日発行) 【本文】       種々(しゆ〴〵)に慰諭(ゐゆ)せるにも拘(かゝは)らず遂(つひ)に老中(らうちう)に宛(あて)たる書翰(しよかん)の写(うつし)を托(たく)して其(その)率(ひき)ゆる処(ところ)の四 艦(かん)を携(たづさ)へて卒然(そつぜん)長崎(ながさき)を       立(た)ち去(さ)つたのである此(この)退去(たいきよ)に就(つい)て当時(たうじ)プーチヤチンは種々(しゆ〴〵)なる口実(こうじつ)を設(まを)けて長崎奉行(ながさきぶぎやう)に告(つ)げたのであ       るが今日(こんにち)から観察(くわんさつ)すれば其(その)時(とき)恰(あたか)も露国(ろこく)と英仏(えいふつ)両国(れうこく)との間(あひだ)に国交(こくかう)が断絶(だんぜつ)せむとする場合(ばあひ)で其(その)報知(ほうち)を得(え)た       るプーチヤチンは終(つひ)に我国(わがくに)に居堪(ゐたま)らずして一たび上海(しやんはい)に立退(たちの)いたのであると信(しん)ぜられるのである然(しか)れ       共(ども)長崎奉行(ながさきぶぎやう)に於(おい)ては元(もと)よりそれ等(ら)の事を知(し)るよしもなく直(たゞ)ちに其(その)一 伍(ぶ)一 什(じう)を幕府(ばくふ)に通知(つうち)したのである       其(その)時(とき)恰(あたか)も筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)等(ら)の一 行(かう)は既(すで)に西下(さいか)の途上(とぜう)にあつたのであるが幕府(ばくふ)は露使(ろし)の再来(さいらい)を予期(よき)したもの       であるから其(その)侭(まゝ)一 行(かう)をして西下(さいか)を継続(けいぞく)せしめたが一 行(かう)は十二月 初旬(しょじゅん)を以(もつ)て佐賀(さが)に達(たつ)したのである然(しか)る       に同月五日 露艦(ろかん)は果(はた)して再(ふたゝ)び長崎(ながさき)に入港(にふかう)したので左衛門尉(さゑもんぜう)等(ら)は至急(しきう)佐賀(さが)から長崎(ながさき)に到着(たうちやく)してイヨ〳〵       十二月十四日を以(もつ)てプーチヤチンと初度(しよど)の会見(くわいけん)をなし引続(ひきつゞ)いて数度(すうど)の談判(だんぱん)は開始(かいし)せられたが容易(ようい)に決(けつ)       することのなかつたのは当然(たうぜん)の事で殊(こと)に露国(ろこく)に於(おい)ては国境問題(こくけうもんだい)に就(つい)て択捉島(えとろふとう)を以(もつ)て全(まつた)く其(その)所領(しよれう)なりと抗(かう)       弁(べん)し唐太(からふと)も亦(ま)た其(その)大部分(だいぶゞん)を自己(じこ)の所領(しよれう)なりと主張(しゆてう)したのであつたが肥前守(ひぜんのかみ)、左衛門尉(さゑもんぜう)の両人(れうにん)は勿論(もちろん)勘(かん)       定組頭(でうくみがしら)中村為彌(なかむらためや)(出羽守(ではのかみ)時萬)等(ら)は熱心(ねつしん)に抗議(かうぎ)を申込(まをしこ)むで択捉島(えとろふとう)は無論(むろん)全部(ぜんぶ)我国(わがくに)の所領(しよれう)であることは明瞭(めいれう)       なるのみならず唐太(からふと)も亦(ま)た少(すくな)くとも天度(てんど)五十 度(ど)以南(いなん)は我(わ)が有(いう)でなければならぬと論争(ろんさう)したがいづれ実(じつ)       地調査(ちてうさ)の上(うへ)で更(さら)に談判(だんぱん)をなすべきこととなり又(ま)た開港(かいこう)の事に対(たい)しても結局(けつきよく)日本(にほん)は最(もつと)も露国(ろこく)に親近(しんきん)すること       を欲(ほつ)するが故(ゆゑ)に若(も)し他(た)の国(くに)に通商(つうせう)を許(ゆる)す場合(ばあひ)には必(かなら)ず先(ま)づ露国(ろこく)に許(ゆる)し且(か)つ隣国(りんこく)の交誼(かうぎ)を以(もつ)て特(とく)に露国(ろこく)       を厚遇(かうぐう)すべしと云ふ意味(いみ)の約束(やくそく)をなしたまでゞ此(この)事(こと)も一 時落着(じらくちやく)を告(つ)ぐるに至(いた)つたのであるが此(この)談判(だんぱん)中(ちう)       に嘉永(かえい)六年も過(す)ぎて翌年(よくねん)の春(はる)を迎(むか)へプーチヤチンの長崎(ながさき)を辞(じ)し去(さ)つたのは嘉永(かえい)七年の正月八日であつ       たと云ふ訳(わけ)である 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百二十九 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十 【本文】       此(この)嘉永(かえい)七年と云ふ年(とし)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く安政(あんせい)と改元(かいげん)せられた年(とし)であるが我国(わがくに)の外交史(ぐわいかうし)に対(たい)しては頗(すこぶ) 《割書:ペリーの再|航》  る記憶(きおく)すべき年(とし)である即(すなは)ち露国船(ろこくせん)の長崎(ながさき)を去(さ)つた後(のち)僅(わづか)に七日 米使(べいし)ペリーは復(ふたゝ)び数艘(すうさう)の艦隊(かんたい)を率(ひき)ゐて江(え)       戸湾(どわん)に入(い)り来(きた)つたのである之(これ)より先(さ)きペリーは一 時(じ)我国(わがくに)を去(さ)つて香港(ほんこん)にあつたが絶(た)えず我国(わがくに)に関(かん)する       近状(きんぜう)を偵察(ていさつ)し露船(ろせん)の入港(にふかう)をも承知(せうち)したのであるから結局(けつきよく)之(これ)は打捨(うちす)て置(お)かれずと思考(しかう)したものと見(み)へて       去年(さるとし)の十二月 既(すで)に琉球(りうきう)に向(むか)つて出航(しゆつかう)し琉球(りうきう)には若干(じやくかん)の士卒(しそつ)をさへ止(とゞ)めて用意周到(よういしうたう)を極(きは)め遂(つひ)に江戸湾(えどわん)に       至(いた)つたのであるトコロが今度(こんど)は浦賀(うらが)などに止(とゞむ)るのを肯(がえん)ぜず直(たゞ)ちに内湾(うちわん)に進入(しんにふ)し総艦(そうかん)九 隻(せき)堂々(どう〴〵)として神(か)       奈川沖(ながはおき)に碇泊(ていはく)したのであるから之(これ)には少(すくな)からず我国人(わがこくじん)も驚(おどろ)いた事であるかゝる有様(ありさま)で当時(たうじ)に於(お)ける我(わが)       国情(こくぜう)と云ふものは実(じつ)に沸騰(ふつたう)した事であつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く其(その)頃(ころ)はまだ極(きは)めて少数(せうすう)の人士(じんし)       の外(ほか)は外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)などに通暁(つうげふ)して居(ゐ)なかつたので勿論(もちろん)祖法(そはふ)固守(こしゆ)で鎖国(さこく)攘夷(ぜうゐ)の説(せつ)が大多数(だいたすう)であつたので       あるから幕府(ばくふ)に於(おい)ても既(すで)に昨(さく)嘉永(かえい)六年の十一月朔日 伊勢守(いせのかみ)から台旨(たいし)を奉(ほう)して登営(とゑい)の諸侯(しよこう)に向(むか)ひ対米(たいべい)問(もん)       題(だい)に付(つい)て左(さ)の如(ごと)き諭告(ゆこく)をなしたのである即(すなは)ち其(その)大要(たいえう)を申述(まをしの)ぶれば仮令(たとへ)米使(べいし)が再(ふたゝ)び来航(らいかう)して通商(つうせう)を促(うなが)す       処ありとも何(なん)とか事に托(たく)して其(その)決答(けつたう)を遷延(せんえん)し和親通商(わしんつうせう)の願意聴許(ぐわんいてうきよ)の有無(うむ)を告(つ)げずして退去(たいきよ)せしめ且(か)つ       能(あた)ふ限(かぎ)り穏和(おんわ)の処置(しよち)を施(ほどこ)すべきも万(まん)一 彼(か)れより乱暴(らんぼう)を仕掛(しか)けまいとも限(かぎ)らないから諸大名(しよだいめよう)は防備(ぼうび)を厳(げん)       重(じう)にし忠憤(ちうふん)を忍(しの)び義勇(ぎゆう)を蓄(たくは)へ彼(かれ)の動静(どうせい)を熟察(じゆくさつ)して若(も)し兵端(へいたん)の開(ひら)かれた場合(ばあひ)には一 同奮発(どうふんぱつ)して毫髪(もうはつ)も国(くに)       體(たい)を汚(けが)さざる様(やう)上下(ぜうげ)挙(こぞ)つて力(ちから)を尽(つく)すべしと云ふのにあつたのである而(しか)して尚(なほ)此(この)外(ほか)にも色々(いろ〳〵)其(その)準備(じゆんび)に就(つい)       て計劃(けいくわく)された処があつたが一 方(ぽう)には彼(か)の水戸斉昭(みとなりあきら)も頗(すこぶ)る之(これ)に干与(かんよ)したのであるかゝる事情(じぜう)であつたか       ら内(うち)にありては盲進的(もうしんてき)の与論(よろん)を節制(せつせい)しつゝ外(そと)に対(たい)しては外人(ぐわいじん)の強求(きようきう)を抑(おさ)へねばならぬと云ふのが伊勢(いせの)       守(かみ)初(はじ)め幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)の立場(たちば)で実(じつ)に其(その)苦心(くしん)の程(ほど)は今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)ても一 面(めん)に於(おい)て同情(どうぜう)に堪(た)へぬ次第(しだい)であ 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ると思(おも)ふ       ソコで今度(こんど)イヨ〳〵ペリー再渡航(さいとかう)となつて幕府(ばくふ)の応接係(おうせつかゝり)は林大学頭煒、町奉行(まちぶぎやう)井戸対馬守(ゐどたじまのかみ)学弘、目付(めつけ)       鵜殿民部少輔(うどのみんぶのせうゆう)長鋭、儒者(じゆしや)松崎満太郎(まつざきまんたらう)並(ならび)に浦賀奉行(うらがぶぎやう)伊沢美作守政義(いざはみまさかのかみまさよし)であつたが会見(くわいけん)の場所(ばしよ)はペリーの意(い) 《割書:神奈川条約|の締結》  見(けん)で神奈川(かながは)と定(さだ)まり矢張(やはり)前年(ぜんねん)の様(やう)な仮会見所(かりくわいけんしよ)が建設(けんせつ)せられて此処(こゝ)で此(この)年(とし)の二月十日から談判(だんぱん)が初(はじ)まつ       たのである然(しか)るにペリーは此(この)時(とき)通商(つうせう)の開始(かいし)に就(つい)ては深(ふか)く求(もと)むる処なく只(た)だ和親条約(わしんでうやく)の締結(ていけつ)をのみ望(のぞ)む       だので其(その)主張(しゆてう)する処が比較的(ひかくてき)急劇(きふげき)でなかつたのみならず一 方(ぱう)にはペリーの威圧(ゐあつ)と云ふものが甚(はなはだ)しか       つたので幕府(ばくふ)も全(まつた)く初(はじ)めの予想(よさう)に反(はん)し遂(つひ)に之(これ)を拒(こば)むに由(よし)なく既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)時(とき)大要(たいえう)左(さ)の如(ごと)       き条約(でうやく)を締結(ていけつ)するに至(いた)つたのである即(すなは)ち此(この)神奈川条約(かながわでうやく)の大要(たいえう)と云ふのは第(だい)一、漂民(へうみん)の取扱方(とりあつかひかた)に就(つい)て       は従来(じうらい)仇敵(きうてき)を以(もつ)て遇(ぐう)し禁獄幽囚(きんごくゆうしう)等(とう)をなした事があつたがそれは今後(こんご)一 親同仁寛大(しんどうにんかんだい)なる取扱(とりあつかひ)をなすべ       き事(こと)第(だい)二、食糧(しよくれう)薪炭(しんたん)等(とう)船中(せんちう)に於(おい)て欠乏(けつばう)したる時(とき)は何時(いつ)にても求(もとめ)に応(おう)じて供給(けうきふ)し且(か)つ必(かなら)ず代金(だいきん)を支払(しはら)ふ       べき事(こと)第(だい)三、米艦(べいかん)の立寄(たちよ)る事を許(ゆる)すべき港(みなと)は長崎(ながさき)の外(ほか)に明年(みようねん)三月から函館(はこだて)と伊豆(いづ)の下田(しもだ)を許(ゆる)す事(こと)第四       下田(しもだ)函館(はこだて)両湊(れうみなと)には米国人(べいこくじん)の上陸(ぜうりく)遊歩(ゆうほ)を許(ゆる)し其(その)里程(りてい)下田(しもだ)は七 里(り)函館(はこだて)は追(おつ)て調査(てうさ)の上(うへ)定(さだ)むる事 第(だい)五、下田(しもだ)       には両国民(れうこくみん)の紛争(ふんさう)を解(と)き相互(あひたがひ)の利益(りえき)を進(すゝ)むる為(た)め米国官吏(べいこくくわんり)の駐在(ちうざい)を許(ゆる)されたしとのペリーの要求(えうきう)に対(たい)       し尚(なほ)今後(こんご)十八ケ月に至(いた)り双方(さうはう)更(さら)に協議(けふぎ)の上(うへ)若(も)しイヨ〳〵止(やむ)を得(え)ざる場合(ばあひ)があつたならば之(これ)を許(ゆる)す事と       云ふに決定(けつてい)したのであるモツトモペリーからは尚(なほ)二三の要求(えうきう)があつたがそれは段々(だん〴〵)に撤回(てつくわい)することにな       つて以上(いぜう)申述(まをしの)べた如(ごと)きことが条約(でうやく)として締結(ていけつ)さるゝことになつたのであるが其(その)後(ご)右(みぎ)の文案(ぶんあん)に就(つい)て討議(たうぎ)を重(かさ)       ねたる結果(けつくわ)三月三日を以(もつ)て遂(つひ)に十二ケ条(でう)の和親条約(わしんでうやく)となつて之(これ)に調印(てういん)せらるゝに至(いた)つたのである       然(しか)るに此(この)条約(でうやく)と云ふものは当時(たうじ)に取(と)りては実(じつ)に破天荒(はてんくわう)の事とも云ふべきであるから水戸斉昭(みとなりあきら)の如(ごと)きは 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十一 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十二 【本文】       勿論(もちろん)輿論(よろん)の沸騰(ふつたう)と云ふものは甚(はなはだ)しかつたのである彼(か)の筒井(つゝゐ)、川路(かはぢ)の如(ごと)き開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざるを認(みと)めて       居(お)る人(ひと)までも自身(じしん)等(ら)が長崎(ながさき)に於(おい)て露使(ろし)プーチヤチンと応接(おうせつ)した結果(けつくわ)に比較(ひかく)対照(たいせう)して此(この)神奈川条約(かながはでうやく)の意(い)       気地(きぢ)のない事を非難(ひなん)した位(くらゐ)であるが今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)ると実(じつ)は之(これ)も止(やむ)を得(え)ざるの勢(いきほひ)で当時(たうじ)の情勢(ぜうせう)と       云ふものは到底(たうてい)之(これ)を拒絶(きよぜつ)することが出来(でき)なかつたのである       当時(たうじ)米艦(べいかん)の挙動(きよどう)と云ふものは実(じつ)に堂々(どう〴〵)たるもので嘗(かつ)て我国人(わがこくじん)の多(おほ)くが夢想(むさう)だにもしなかつた処(ところ)の山(やま)の       如(ごと)き軍艦(ぐんかん)の多数(たすう)を眼前(がんぜん)に控(ひか)へ而(しか)もその士官(しくわん)水兵(すゐへい)の挙止動作(きよしどうさ)と云ふものは実(じつ)に勇壮厳粛(ゆうさうげんしゆく)で其(その)武器(ぶき)の精鋭(せいえい)な       ることは到底(たうてい)我国人(わがこくじん)をして及(およ)ばざることを思(おも)はしめたるのみならず或(あるひ)は祝砲(しゆくほう)を連発(れんぱつ)し或(あるひ)は軍楽隊(ぐんがくたい)の吹奏(すゐそう)を       なし或(あるひ)は兵士(へいし)の操練(さうれん)を行(おこな)ひ或(あるひ)は艦隊(かんたい)の操縦(さうじう)を試(こゝろ)むるなど視(み)るとして我国人(わがこくじん)が吃驚(きつけう)せざるはなく尚(なほ)其(その)外(ほか)       にも汽車(きしや)電信機(でんしんき)などの模型(もけい)を使用(しよう)して其(その)奇智(きち)を示(しめ)し又(また)はメキシコ戦争(せんさう)の絵画(くわいぐわ)を贈(おく)りて其(その)惨憺(さんたん)たる光景(くわうけい)       に戦慄(せんりつ)せしむるなど殆(ほとん)ど我国人(わがこくじん)の意想(いさう)の外(ほか)に出(い)でたのであるから幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)と雖(いへど)も最初(さいしよ)は前(まへ)に申述(まをしの)べ       たる如(ごと)き方針(はうしん)を以(もつ)て之(これ)に応接(おうせつ)し如何様(いかやう)にも一 時(じ)を切(き)り抜(ぬ)く事の考(かんがへ)であつた事は勿論(もちろん)であると信(しん)ずる       が事(こと)此(かく)の如(ごと)きに至(いた)つては殆(ほとん)ど之(これ)に対(たい)して何等(なんら)恃(たの)むに足(た)るべき武力(ぶりよく)のなき我(わが)幕府(ばくふ)に於(おい)ては或(あるひ)は国家(こくか)を焦(せう)       土(ど)となす迄(まで)の覚悟(かくご)があるでなければ先方(せんぱう)の要求(えうきう)を拒絶(きよぜつ)することなどは出来(でき)なかつたので結局(けつきよく)以上(いぜう)申述(まをしの)べ       た位(くらゐ)の条約(でうやく)を締結(ていけつ)するのは権宜上(けんぎぜう)誠(まこと)に止(やむ)を得(え)ざるの情勢(ぜうせい)に陥(おちゐ)つたるものであつた事を思(おも)ふのである之(これ)       と云ふも実(じつ)は世界(せかい)の進運(しんうん)が遂(つひ)に我国(わがくに)をして茲(こゝ)に至(いた)らしめたもので如何(いか)に強硬(けうかう)なる我(わが)日本武士(にほんぶし)と雖(いへど)も帰(き)       する処は此(この)世界(せかい)の大勢(たいせい)には打勝(うちか)つ事が出来(でき)なかつたものと思(おも)はねばならぬのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で日米(にちべい)       間(かん)の和親条約(わしんでうやく)は成立(せいりつ)したのであるがそれよりペリーは三月廿一日を以(もつ)て一たび神奈川(かながは)を去(さ)り函館(はこだて)に向(むか)       つたが更(さら)に五月十二日を以(もつ)て下田(しもだ)に渡来(とらい)し此処(こゝ)で又々(また〳〵)林大学頭(はやしだいがくのかみ)、井戸対馬守(ゐどたじまのかみ)の応接係(おうせつかゝり)と会見(くわいけん)し条約(でうやく) 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百八十二号附録    (大正二年六月三日発行) 【本文】       付則(ふそく)に調印(てういん)したのである而(しか)して此(この)条約(でうやく)並(ならび)に付則(ふそく)は翌年(よくねん)即(すなは)ち安政(あんせい)二年の正月(せうがつ)五日を以(もつ)て矢張(やはり)此(この)下田(しもだ)に於(おい)       て米使(べいし)アダムスと云ふ人と我国(わがくに)の応接係(おうせつかゝり)との間(あひだ)に批准(ひじゆん)交換(かうくわん)を了(れう)したのであつた 英艦の来航 然(しか)るにペリーが我国(わがくに)を退去(たいきよ)して後(のち)程(ほど)なく其(その)年(とし)の閏(うるふ)七月十五日に至(いた)つて今度(こんど)は又(また)英国(えいこく)の艦隊(かんたい)が長崎(ながさき)にや       つて来(き)たのである其(その)水師(すゐし)提督(ていとく)はゼームス、スターリングと云ふ人であつたが書(しよ)を奉行(ぶぎやう)に送(おく)つて当時(たうじ)英(えい)       国(こく)は仏国(ふつこく)と同盟(どうめい)して露国(ろこく)に対(たい)し戦争中(せんさうちう)であるが之(これ)は露国(ろこく)が欧羅巴(よろつぱ)を併呑(へいどん)せむとするのを制(せい)する為(ため)であ       るトコロが露国(ろこく)は此(この)東方(とうはう)に向(むかつ)ても手(て)を延(の)ばして既(すで)にサガレン、千島(ちじま)などには侵掠(しんれう)を加(くは)へて居(を)るから日(に)       本(ほん)の本土(ほんど)にも其(その)手(て)が及(およ)ばないものではないソコで今度(こんど)英艦(えいかん)は自国(じこく)の船舶保護(せんぱくほご)の為(た)め東洋(とうよう)に於(お)ける露艦(ろかん)       を撃退(げきたい)する目的(もくてき)を以(もつ)て来(きた)れるものであるから今後(こんご)とても自国(じこく)は勿論(もちろん)同盟国(どうめいこく)たる仏国(ふつこく)の船(ふね)も屡(しば〴〵)此(この)東洋(とうよう)       へは来航(らいかう)する事と思(おも)ふから艦隊(かんたい)の立寄(たちよ)るべき為(た)め然(しか)るべき港(みなと)を開(ひら)いて貰(もら)ひたいと云ふことを申出(まをしい)でたの       である因(よつ)て幕府(ばくふ)に於(おい)ても種々(しゆ〴〵)に議(ぎ)を凝(こ)らしたのであるが結局(けつきよく)薪水食糧(しんすゐしよくれう)の要求(えうきう)又(また)は船舶修理(せんぱくしうり)の為(ため)となら       ば其(その)求(もとめ)にも応(おう)じようが仮令(たとへ)何国(なにくに)にせよ戦争(せんさう)の為(ため)に便(べん)を我国(わがくに)に得(え)ようと云ふならば此(この)義(ぎ)には一 切(さい)応(おう)じ難(がた)       いと云ふ旨(むね)を答(こた)ふる事となつたのであるトコロでスターリングも之(これ)には承服(せうふく)して然(しか)らば戦争(せんさう)の事には 《割書:英国と協約|成る》  全(まつた)く無関係(むかんけい)として単(たん)に長崎(ながさき)函館(はこだて)二 港(かう)に入港(にふかう)を差許(さしゆる)されたいと云ふ事になつて結局(けつきよく)七ケ条(でう)より成(な)る協約(けふやく)       書(しよ)が出来(でき)て之(これ)に調印(てういん)するに至(いた)つたのである而(しか)して此(この)本条約(ほんでうやく)は矢張(やはり)翌(よく)安政(あんせい)二年の八月廿九日を以(もつ)て長崎(ながさき)      に於(おい)てスターリングと時(とき)の長崎奉行(ながさきぶぎやう)荒尾石見守(あらをいわみのかみ)、川村対馬守(かはむらつしまのかみ)との間(あひだ)に交換(かうくわん)さるゝに至(いた)つたのである 露使の再航 米英(べいえい)二 国(こく)が我国(わがくに)と協約(けふやく)をなせること前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くであるに就(つい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)き行掛(ゆきがゝ)りのある露国(ろこく)       に於(おい)ては勿論(もちろん)黙止(もくし)すべきものではないので彼(か)のプーチヤチンは先(さ)きに長崎奉行(ながさき)を去(さ)りしより上海(しやんはい)を根拠(こんきよ)と       せしものゝ如(ごと)く数々(しば〴〵)我(わが)近海(きんかい)を窺(うかゞ)つて居(を)つたのであるが当時(たうじ)其(その)本国(ほんごく)は英仏(えいふつ)二 国(こく)と交戦中(かうせんちう)であつたにも拘(かゝは) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十三 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十四 【本文】       らず巧(たくみ)に両国船(れうこくせん)の捜索(さうさく)を避(さ)け安政(あんせい)元年(がんねん)の九月十八日を以(もつ)て又々(また〳〵)我(わ)が大阪(おほさか)の安治川沖(あじがはおき)に到着(たうちやく)したのであ       るソコで大阪城代(おほさかじやうだい)を初(はじ)め頗(すこぶ)る苦心(くしん)する処があつたが遂(つひ)に其(その)外人(ぐわいじん)応接(おうせつ)の地(ち)にあらざる由(よし)を諭(さと)して下田(しもだ)に       赴(おもむ)かしめむとしたのであるプーチヤチンも亦(ま)た何(なん)と考(かんが)へたか十月三日を以(もつ)て俄(にはか)に大阪(おほさか)を出発(しゆつぱつ)し此方(このはう)の       諭告(ゆこく)の如(ごと)く下田(しもだ)に向(むか)つたのであるが露船(ろせん)に取(と)つては此処(こゝ)に気(き)の毒(どく)なる一 事件(じけん)が起(おこ)つたのである既(すで)に露(ろ)       船(せん)再来(さいらい)に就(つい)ては幕府(ばくふ)に於(おい)ても之(これ)に対(たい)する応接係(おうせつかゝり)も定(さだ)まつて談判(だんぱん)も開始(かいし)に至(いた)つたのであるが其(その)十一月四       日に至(いた)つて東海沿岸(とうかいえんがん)に大津嘯(おほつなみ)が起(おこ)つてプーチヤチンの乗(の)つて居(を)つた船艦(せんかん)ヂアナは遂(つひ)に顚覆(てんぷく)の運命(うんめい)に逢(あ)       ひ下田(しもだ)全町(ぜんてう)は流失(りうしつ)したと云ふ不慮(ふりよ)の災変(さいへん)が生(せう)じたのであるソコでプーチヤチンは全(まつた)くの漂民(へうみん)同様(どうよう)の境(けう)       遇(ぐう)に陥(おちゐ)つたが終(つひ)に幕府(ばくふ)の許可(きよか)を得(え)て伊豆(いづ)の戸田(へだ)に根拠(こんきよ)を構(かま)へて其(その)船(ふね)を修理(しうり)することとなつたのである然(しか)       るに不運(ふうん)な時(とき)には何処迄(どこまで)も不運(ふうん)なもので其(その)船(ふね)は将(まさ)に戸田港(へだかう)に引(ひ)き入(い)れらむとした時(とき)又々(また〳〵)暴風(ばうふう)に遭(あ)つ       て結局(けつきよく)沈没(ちんぼつ)の運命(うんめい)に終(をは)つたのであるトコロでプーチヤチンは之(これ)に屈(くつ)せず戸田(へだ)にあつて新船(しんせん)建造(けんざう)の事を       企(くはだ)て苦心(くしん)惨憺(さんたん)ではあつたが数月(すうげつ)の内(うち)に其(その)帰国(きこく)に用(もち)ゐ得(う)べき大船(たいせん)を造(つく)り出(いだ)すに至(いた)つたのである       而(しか)して幕府(ばくふ)の露使応接係(ろしおうせつかゝり)は矢張(やはり)筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)、川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)等(ら)五 人(にん)であつたが応接(おうせつ)の結果(けつくわ)先(さき)に長崎(ながさき)に於(おい)       てなしたる協約(けふやく)もあることであるから少(すくな)くも米国(べいこく)と同等(どうとう)の条約(でうやく)は結(むす)ばねばならぬ訳(わけ)であると云ふ道理(どうり)で 《割書:日露条約成|る》  大体(たいだい)に於(おい)て先(ま)づそれと同(どう)一のものが成立(せいりつ)したのであるが併(しか)し只(た)だ其(その)国(くに)の官吏(くわんり)を開港場(かいかうぜう)に駐在(ちうざい)せしむる       と云ふことに就(つい)ては米国(べいこく)に対(たい)せるものと少(すこ)しく違(ちが)ひがあつたのである即(すなは)ち米国(べいこく)との条約(でうやく)によれば尚(なほ)協議(けふぎ)       の余地(よち)が残(のこ)してあつたのであるが今度(こんど)露国(ろこく)との条約(でうやく)によれば殆(ほとん)ど其(その)余地(よち)がないので帰(き)する処は安政(あんせい)三       年(ねん)以後(いご)に於(おい)ては其(その)駐在(ちうざい)は遂(つひ)に拒(こば)み難(がた)いように見(み)ゆるのである従(したがつ)て此(この)一 事(じ)は後日(ごじつ)物議(ぶつぎ)を惹起(ひきおこ)すの種(たね)と       相成(あひな)つた次第(しだい)であるが其他(そのた)国境問題(こくけうもんだい)は暫(しばら)く中止(ちうし)の姿(すがた)となり又(ま)た水戸斉昭(みとなりあきら)の意見(いけん)もありて切支丹宗門(きりしたんしうもん)等(ら) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       の談判(だんぱん)もあつたのである併(しか)し之(これ)も遂(つひ)に要領(えうれう)を得(え)ずに終(をは)つたのであるが恰(あたか)も其(その)年(とし)の十二月 彼(か)の米使(べいし)アダ       ムスが批准(ひじゆん)交換(かうくわん)の為(た)め下田(しもだ)に来(きた)つて露国水兵(ろこくすゐへい)等(ら)の窮迫(きうはく)の状(ぜう)を目撃(もくげき)して帰(かへ)つたのでそれかあらぬか程(ほど)な       く米国(べいこく)のスクーナーが一 艘(さう)下田(しもだ)に来(き)て露兵(ろへい)百五十人 許(ばかり)を乗(の)せて之(これ)をカムサツカに送(おく)り其(その)内(うち)又(ま)た新造(しんざう)の       船(ふね)も出来上(できあが)つたのでプーチヤチンは終(つひ)に翌(よく)安政(あんせい)二年三月廿二日を以(もつ)て下田(しもだ)を去(さ)るに至(いた)つたのである 《割書:外船渡来が|及ぼせる影|響》  嘉永(かえい)六年から安政(あんせい)二年へかけて僅(わづか)三 年間(ねんかん)であるが我国(わがくに)が外交方針(ぐわいかうはうしん)に関(くわん)し著(いちじ)しき変化(へんくわ)を来(きた)せる事は実(じつ)に       前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くである而(しか)も此(かく)の如(ごと)き変化(へんくわ)と云ふものは殆(ほとん)ど前代未聞(ぜんだいみぶん)とも云ふべきであるから此(この)外交(ぐわうかう)の問題(もんだい)       が当時(たうじ)に於(お)ける総(すべ)ての風潮(ふうてう)を激変(げきへん)せしめた事は容易(ようい)でない先(ま)づ之(これ)迄(まで)は長(なが)い間(あひだ)鎖国(さこく)一 点張(てんばり)でやり通(とほ)して       来(き)たのであるから我国(わがくに)に大船(たいせん)などを作(つく)る必要(ひつえう)はない寧(むし)ろ千 石(ごく)以上(いぜう)の大船(たいせん)を作(つく)る事は御承知(ごせうち)の如(ごと)く厳禁(げんきん)       してあつたのである又(また)砲術(はうじゆつ)の如(ごと)きも幕府(ばくふ)に世襲(せいしう)せる鉄砲方(てつぽうかた)と云ふものはあつても之(これ)は徒(いたづ)らに形式的(けいしきてき)で       あつて到底(たうてい)時世(じせい)の進歩(しんぽ)に適応(てきおう)せるものではない特(とく)に海防(かいばう)の如(ごと)きは嘗(かつ)て松平定信(まつだひらさだのぶ)等(ら)の注意(ちうい)する処もあり       其(その)後(のち)渡辺崋山(わたなべくわざん)等(ら)を初(はじ)め痛切(つうせつ)に之(これ)を論(ろん)じたものがなかつたではないが一 般(ぱん)に鎖国(さこく)の夢(ゆめ)が醒(さ)めぬのと幕府(ばくふ)       を初(はじ)め諸侯(しよこう)が財政(ざいせい)に窮乏(きうばう)せる結果(けつくわ)殆(ほとん)ど何等(なんら)の備(そなへ)をもなし能(あた)はなかつたと云ふ訳(わけ)であつたがイヨ〳〵今(こん)       度(ど)と云ふ今度(こんど)こそは頗(すこぶ)る覚醒(かくせい)せざるを得(え)なかつた次第(しだい)であるソコで幕府(ばくふ)に於(おい)ては嘉永(かえい)六年九月十五日       を以(もつ)て大船製造(たいせんせいざう)の禁(きん)を解(と)き又(ま)た同年(どうねん)六月廿三日には若年寄(わかとしより)本多越中守(ほんだゑつちうのかみ)、勘定奉行(かんでうぶぎやう)川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)等(ら)に命(めい)       じて江戸近海(えどきんかい)の見分(けんぶん)をなさしめ其(その)結果(けつくわ)として同年(どうねん)八月廿三日を以(もつ)て勘定奉行(かんでうぶぎやう)松平河内守(まつだひらかはちのかみ)、同(どう)川路左衛(かはぢさゑ)       門尉(もんぜう)等(ら)五 人(にん)に命(めい)じて例(れい)の品川沖(しながはおき)の台場(だいば)を建築(けんちく)することになつたのであるがそれに備(そな)へ付(つ)ける大砲(たいほう)の鋳造(ちうざう) 《割書:江川太郎左|衛門》  を彼(か)の伊豆(いづ)の代官(だいくわん)江川太郎左衛門(えがはたらうざゑもん)に命(めい)ぜられたのである諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)江川太郎左衛門(えがはたらうざゑもん)と云ふ       人は前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた高嶋喜平(たかしまきへい)(秋帆)の門人(もんじん)で夙(つと)に最新洋式(さいしんようしき)の砲術(ほうじゆつ)を学(まな)むだのであるが其(その)管内(くわんない)に反射(はんしや) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十五 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十六 【本文】 高嶋秋帆  炉(ろ)を建設(けんせつ)して銃砲(じうほう)の製造(せいざう)に尽瘁(じんすゐ)したものである元来(がんらい)此(この)高嶋秋帆(たかしましはん)と云ふ人は元(もと)長崎(ながさき)の町奉行(まちぶぎやう)で早(はや)くから       蘭人(らんじん)に就(つい)て近年(きんねん)最(もつと)も発達(はつたつ)せる洋式(ようしき)の砲術(ほうじゆつ)を学(まな)び遂(つひ)に高島流(たかしまりう)と云ふ一 派(ぱ)を成(な)したのであるが天保(てんぱう)の末年(まつねん)       に一 度(ど)其(その)技(ぎ)は幕府(ばくふ)の採用(さいよう)する所(ところ)とならむとしたのである然(しか)るに当時(たうじ)は尚(な)ほ守旧派(しゆきうは)の勢力(せいりよく)が旺盛(わうせい)であつ       た為(た)めに例(れい)の鳥居甲斐守(とりゐかひのかみ)一 派(ぱ)の陥(おとしめ)る処となつて弘化(こうくわ)三年七月 中(ちう)追放(つゐほう)と云ふ処置(しよち)に遭(あ)つて安部虎之助(あべとらのすけ)に       永預(ながあづけ)と相成(あひな)つて居(を)つたのであるソレを今度(こんど)門人(もんじん)たる江川(えがは)の尽力(じんりよく)で(嘉永(かえい)六年八月)赦免(しやめん)となり砲術(ほうじゆつ)の師(し)       範(はん)たるに至(いた)つたのであるが其(その)翌(よく)安政(あんせい)元年(がんねん)七月には又(ま)た和蘭(おらんだ)から我(わが)海軍建設(かいぐんけんせつ)に就(つい)ても種々(しゆ〴〵)忠告(ちうこく)する処が 観 光 丸 あつたのである而(しか)して越(こ)へて一 年(ねん)同国(どうこく)より一艘(さう)の蒸気船(ぜうきせん)を我国(わがくに)に贈(おく)るに至(いた)つたのであるが之(これ)が即(すなは)ち有(いう)       名(めい)なる観光丸(くわんくわうまる)で幕府(ばくふ)は早速(さつそく)勝麟太郎(かつりんたらう)初(はじ)め俊秀(しゆんしう)の子弟(してい)を長崎(ながさき)に送(おく)つて蘭人(らんじん)の教授(けうじゆ)を受(う)けしめ造船(ざうせん)、運(うん) 《割書:海軍創設の|端緒》  転(てん)、砲術(ほうじゆつ)等(とう)の稽古(けいこ)をなさしめたが之(これ)が我国(わがくに)海軍創設(かいぐんさうせつ)の端緒(たんちよ)ともなすべきである之(これ)と同時(どうじ)に幕府(ばくふ)は又(ま)た 講 武 所 大(おほい)に武術(ぶじゆつ)の奨励(せうれい)をなし士気(しき)を鼓舞(こぶ)すべしと云ふので安政(あんせい)二年二月 江戸(えど)の築地(つきぢ)、筋違外(すじちがひそと)、四谷(よつや)の三ヶ所(しよ)       へ講武所(かうぶしよ)を設(まを)くる事に決(けつ)し三年の四月から実施(じつし)したが幕府(ばくふ)は更(さら)に軍制改正(ぐんせいかいせい)の必要(ひつえう)をも認(みと)めて曩(さき)に此(この)件(けん)       を水戸斉昭(みとなりあきら)に委任(ゐにん)したのである然(しか)るに其(その)事(こと)がまだ十 分(ぶん)進行(しんかう)しなかつたので今度(こんど)此(この)講武所(かうぶしよ)創設(さうせつ)に方(あた)つて       斉昭(なりあきら)の発意(はつい)で其(その)事業(じげふ)を講武所(かうぶしよ)に移(うつ)す事となり総裁(そうさい)久貝因幡守(くがいゐなばのかみ)、池田甲斐守(いけだかひのかみ)両人(れうにん)に其(その)調査(てうさ)を命(めい)ずる事と       相成(あひな)つたのである       右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)で米英露(べいえいろ)三 国(こく)の使節(しせつ)は続々(ぞく〴〵)相接(あひせつ)して来航(らいかう)し其(その)反響(はんけふ)とも云ふべき結果(けつくわ)として以上(いぜう)の如(ごと)く一       部(ぶ)に於(おい)ては海防(かいばう)を初(はじ)め造船(ざうせん)、砲術(ほうじゆつ)など洋式(ようしき)の学芸(がくげい)が盛(さかん)に採用(さいよう)せらるゝに至(いた)つたがまだ中々(なか〳〵)一 般(ぱん)にはソ       ウは行(ゆ)き渡(わた)らなかつたので実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける我国人(わがこくじん)の意想(いさう)と云ふものは互(たがひ)に其(その)懸隔(けんかく)に著(いちじるし)いものがあ       つたのであるソコで我(わが)吉田藩(よしだはん)の状況(ぜうけふ)は当時(たうじ)如何(いか)なものであつたか之(これ)に対(たい)して今(いま)少(すこ)しく申述(まをしの)べて置(お)きた 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百八十八号附録    (大正二年六月十日発行) 【本文】       いと思(おも)ふのである 彦坂菊作  ソコで此(この)吉田(よしだ)に於(お)ける洋学者(やうがくしや)の事に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのであるが当時(たうじ)此(この)吉田(よしだ)の新銭(しんせん)       町(まち)に彦坂菊作(ひこさかきくさく)と云(い)ふ数学(すうがく)の大家(たいか)があつたのである此(この)人(ひと)は父(ちゝ)を彦坂喜平(ひこさかきへい)と云(い)つたが町人(てうにん)には珍(めづ)らしく和(わ)       歌(か)を能(よ)くした人(ひと)で名(な)を千善(ちよし)号(がう)を杉園(すぎその)と云(い)つたのである菊作(きくさく)は享和(けうわ)三年の生(うまれ)で名(な)を範善(のりよし)字(あざな)を徳元(とくもと)号(がう)を成(なり)       通(みつ)と云(い)つたが幼少(ようせう)の時(とき)から窮理的(きうりてき)の思想(しさう)に富(と)むで居(を)つて数学(すうがく)を牟呂村(むろむら)の人(ひと)牧野傳蔵(まきのでんざう)に就(つい)て学(まな)むだが其(その)       後(のち)江戸(えど)に出(い)でゝ内田観斉(うちだくわんさい)(彌太郎)の門(もん)に入(い)り天象(てんせう)、地理(ちり)、経緯(けいゐ)、暦歩(れきほ)は勿論(もちろん)窮理(きうり)の学(がく)を修(をさ)め其(その)蘊奥(うんおう)を       究(きは)めたが一 方(ぱう)には蘭書(らんしよ)をも読(よ)むだものである此(この)内田観斉(うちだくわんさい)と云(い)ふ人(ひと)は其(その)頃(ころ)芝(しば)の新銭座(しんせんざ)に住む例(れい)の江川太(えがはた)       郎左衛門(らうざゑもん)の屋敷内(やしきない)に居(を)つたのであるが此(この)人(ひと)から菊作(きくさく)に寄越(よこ)した書翰(しよかん)には実(じつ)に当時(たうじ)の状況(ぜうけふ)を知(し)るべき面(おも)       白(しろ)いものがあるのである之(これ)は幸(さいはひ)其(その)子孫(しそん)の家(いへ)に存在(ぞんざい)して居(を)るから市史(しゝ)資料(しれう)の中(なか)へ蒐集(しう〳〵)することになつて       居(を)るのであるトコロで安政(あんせい)四年に至(いた)つて菊作(きくさく)は初(はじ)めて吉田藩(よしだはん)に召(め)し出(だ)されて士分(しぶん)に列(れつ)し藩校(はんかう)の数理教(すうりけふ)       授(じゆ)を命(めい)ぜられたのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)人(ひと)が工夫(くふう)した吉田方村(よしだがたむら)の灌漑法(くわんがいはふ)と云(い)ふものは頗(すこぶ)る進歩(しんぽ)した       もので其(その)頃(ころ)藩(はん)からの命(めい)を受(う)けて師匠(しせう)の内田観斉(うちだくわんさい)とも協議(けふぎ)したる上(うへ)泰西(たいせい)の理学(りがく)を応用(おうよう)して折衷的(せつちうてき)揚水器(ようすゐき)       を作(つく)り以(もつ)て灌漑(くわんがい)に便(べん)ならしめむとしたのである其(その)一 件書類(けんしよるい)は之(これ)も矢張(やはり)其(その)家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのであるから       今日(こんにち)から見(み)ることも出来(でき)るので頗(すこぶ)る面白(おもしろ)いものである而(しか)して此(この)人(ひと)は七十七 歳(さい)まで寿(じゆ)があつて明治十二年       一月廿八日を以(もつ)て此(この)地(ち)で病歿(びやうぼつ)したが其(その)門(もん)に入(い)つて教(おしへ)を受(う)けたものは実(じつ)に数(すう)百 人(にん)の多(おほ)さに上(のぼ)つたので従(したがつ)       て泰西(たいせい)究理(きうり)の学(がく)を夙(つと)に我(わが)地方(ちはう)へ輸入(ゆにふ)した事に就(つい)ては此(この)人(ひと)の力(ちから)は実(じつ)に少(すくな)からざりしものであると思(おも)ふの       である此(この)人(ひと)の碑(ひ)は龍拈寺(りうねんじ)構内(こうない)にあつて撰文(せんぶん)は石川鴻斉(いしかはこうさい)氏(し)である又(ま)た此(この)人(ひと)の研究(けんきう)した数理(すうり)の書中(しよちう)には実(じつ)       に参考(さんかう)になるものが沢山(たくさん)にあつたので先日(せんじつ)も御承知(ごせうち)の遠藤利貞(えんどうとしさだ)氏(し)が和算学史取調(わさんがくしとりしらべ)の為(た)め学士会院(がくしくわいゐん)から 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十七 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十八 【本文】       派出(はしゆつ)になつた時(とき)にも私(わたくし)から段々(だん〴〵)御話(おはなし)した処(ところ)がそれは誠(まこと)に有難(ありがた)い事であると云(い)ふので残(その)らず其(その)遺書(ゐしよ)を閲(えつ)       覧(らん)せられ其(その)結果(けつくわ)多数(たすう)のものを孫(まご)の春次(はるじ)氏(し)から学士会院(がくしくわいゐん)へ寄贈(きぞう)すっることになつた次第(しだい)であるソレから御話(おはなし) 福谷啓吉  したいのは福谷啓吉(ふくたにけいきち)と云(い)ふ人(ひと)の事であるが之(これ)は恐(おそら)くは諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふ此(この)人(ひと)は吉田(よしだ)       萱町(かやまち)の人(ひと)で父(ちゝ)を喜久蔵(きくざう)と云(い)ひ文政(ぶんせい)二年七月の生(うまれ)であるが其(その)子息(しそく)は今(いま)も豊橋(とよはし)に住(す)むで居(を)られるのみなら       ず御承知(ごせうち)の福谷藤(ふくたにとう)七 氏(し)の如(ごと)きも其(その)親族(しんぞく)であられるのであるサテ前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)はイヨ〳〵       安政(あんせい)二年に至(いた)つて初(はじ)めて海軍(かいぐん)の伝習生(でんしふせい)を長崎(ながさき)に派遣(はけん)することとなつたのであるが此(この)時(とき)幕府(ばくふ)からは彼(か)の勝(かつ)       麟太郎(りんたらう)(安房、海舟)を初(はじ)め三十 余名(よめい)の選抜生(せんばつせい)を差送(さしおく)られたのである之(これ)が我国(わがくに)に於(お)ける海軍(かいぐん)の嚆矢(かうし)とも 《割書:初期の海軍|伝習生》  なすべきものであるが当時(たうじ)各藩(かくはん)からも亦(ま)た幕府(ばくふ)の許可(きよか)を得(え)てソレ〴〵伝習生(でんしふせい)を之(これ)に差出(さしだ)す事となつた       のである而(しか)して鹿児島(かごしま)、熊本(くまもと)、福岡(ふくおか)、萩(はぎ)、佐賀(さが)、津(つ)、福山(ふくやま)、掛川(かけがは)の諸藩(しよはん)は孰(いづ)れも多少(たせう)の学生(がくせい)を之(これ)に送(おく)       つたのであるが其中(そのなか)でも佐賀藩(さがはん)即(すなは)ち鍋島侯(なべしまこう)が一 番(ばん)多数(たすう)の学生(がくせい)を出(いだ)したのである即(すなは)ち啓吉(けいきち)は此(この)時(とき)其(その)鍋島(なべしま)       侯(こう)に採用(さいよう)せられ佐賀藩士(さがはんし)として右(みぎ)の海軍(かいぐん)伝習生(でんしふせい)に加(くは)はつたのであるが其(その)時(とき)の学生名簿(がくせいめいぼ)を見(み)ると佐賀藩(さがはん)       から出(で)た人(ひと)の中(なか)には右(みぎ)の啓吉(けいきち)を初(はじ)め佐野栄壽左衛門(さのえいじゆさゑもん)(常民)だの中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)だのと云(い)ふ連名(れんめい)も見(み)ゆる       のである然(しか)るに此(この)学生(がくせい)が伝習(でんしふ)を受(う)くるに就(つい)ては実(じつ)に容易(ようい)ならざる困苦(こんく)をなしたもので少(すくな)きも二三 年(ねん)多(おほ)       きは四五 年(ねん)留学(りうがく)したことであつたが今(いま)其(その)苦学(くがく)の状況(ぜうけふ)を一々 申述(まをしの)べて居(を)る暇(いとま)はないと思(おも)ふから之等(これら)は略(りやく)す       ることとするがイヨ〳〵安政(あんせい)六年となつて学生(がくせい)の技倆(ぎれう)も略(ほ)ぼ熟達(じゆくたつ)したと云(い)ふ処から幕府(ばくふ)は遠洋航海(えんようかうかい)を試(こゝろ) 《割書:咸臨丸の遠|洋航海》  みしめたいと云(い)ふので安政(あんせい)四年九月 和蘭(おらんだ)から出来(でき)て来(き)た処の軍艦(ぐんかん)咸臨丸(かんりんまる)を米国(べいこく)桑港(さんふらんしすこ)に発(はつ)せしむる       こととなつたのである之(これ)には軍艦奉行(ぐんかんぶぎやう)木村摂津守(きむらせつゝのかみ)(芥舟)が乗(の)り込(こ)み選抜(せんばつ)せる学生(がくせい)を乗(の)せて同年(どうねん)の十二月       横浜(よこはま)から我国(わがくに)を出発(しゆつぱつ)して首尾能(しゆびよ)く彼国(かのくに)に達(たつ)し翌年(よくねん)即(すなは)ち万延(まんえん)元年(がんねん)の五月を以(もつ)て無事(ぶじ)帰朝(きてう)したのである之(これ) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       が我国人(わがこくじん)の手(て)を以(もつ)て我国(わがくに)の軍艦(ぐんかん)を運転(うんてん)し遠(とほ)く外国(ぐわいこく)に渡航(とかう)した嚆矢(かうし)で福沢諭吉(ふくざはゆうきち)が木村摂津守(きむらせつゝのかみ)の従僕(じうぼく)と云       ふ名前(なまへ)を以(もつ)て渡航(とかう)せられたのも即(すなは)ち此(この)時(とき)であつたのであるかゝる有様(ありさま)であつたから佐賀藩(さがはん)に於(おい)ても外(ぐわい) 《割書:福谷啓吉の|渡米》  国視察(こくしさつ)の為(ため)に其(その)学生(がくせい)の中(なか)から二 人(にん)を選抜(せんばつ)して米国(べいこく)に渡航(とかう)せしむることになつたのであるが啓吉(けいきち)は実(じつ)に其(その)       一 人(にん)に当(あた)つたので万延(まんえん)元年(がんねん)横浜(よこはま)から外国船(ぐわいこくせん)に乗(の)り込(こ)むで米国(べいこく)に渡航(とかう)したのである当時(たうじ)啓吉(けいきち)の父(ちゝ)喜久蔵(きくざう)       は病気(びやうき)で此(この)吉田(よしだ)萱町(かやまち)の宅(たく)に療養(れうやう)して居(を)つたのであるが啓吉(けいきち)は出発(しゆつぱつ)の途次(とじ)佐賀(さが)から横浜(よこはま)まで陸路(りくろ)を急行(きふかう)       し途中(とちう)僅(わづか)に数時間(すうじかん)父(ちゝ)の病床(びやうせう)を訪(と)つて訣別(けつべつ)したと云(い)ふことである而(しか)して其(その)父(ちゝ)は其(その)年(とし)の五月十六日を以(もつ)て遂(つひ)       に病死(びやうし)したのであるが其(その)時(とき)は既(すで)に啓吉(けいきち)が米国(べいこく)に着(ちやく)して居(を)つた後(あと)である蓋(けだ)し啓吉(けいきち)は米国(べいこく)に着(ちやく)してワシン       トン府(ふ)で彼(か)の井伊大老(ゐいたいらう)の遭難(そうなん)を聞(き)いたと云(い)ふ事であるが大老(たいらう)の遭難(そうなん)は其(その)年(とし)の三月三日であるから勿論(もちろん)       啓吉(けいきち)はそれより以前(いぜん)に我国(わがくに)を出発(しゆつぱつ)して居(を)つたことが分(わか)るのである而(しか)して啓吉(けいきち)が無事(ぶじ)帰朝(きてう)したのは其(その)年(とし)の       九月廿八日であるが其(その)帰航(きかう)に関(くわん)する日記(につき)が今(いま)福谷藤(ふくたにとう)七 氏(し)の家(いへ)に蔵(ざう)せられてあるが之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので       あるが只(た)だ其(そ)の前(まへ)の方(はう)が欠(か)けて居(を)るのは実(じつ)に惜(おし)いものであると思(おも)ふ此(この)後(のち)此(この)人(ひと)は矢張(やはり)鍋島侯(なべしまこう)の命(めい)を受(う)け       て数々(しば〴〵)支那(しな)に航(かう)し其(その)内地(ないち)に入(い)つて支那貿易(しなぼうえき)の事に研究(けんきう)を重(かさ)ねたのであるが維新後(ゐしんご)は工部省(こうぶせう)に出仕(しゆつし)し一       等属(とうぞく)まで進(すゝ)むだのである然(しか)るに明治十六年 頃(ころ)退隠(たいゐん)して多(おほ)く此(この)豊橋(とよはし)に居(を)つたが仝(どう)廿二年七十一 歳(さい)で病歿(びやうぼつ)       したのである墓(はか)は豊橋市(とよはしゝ)花園町(はなそのてう)正琳寺(せうりんじ)にあるが此(この)人(ひと)が万延(まんえん)元年(がんねん)帰朝(きてう)の時(とき)に米国(べいこく)から齎(もた)らした印刷物(いんさつぶつ)其(その)       他(た)器具(きぐ)などは勿論(もちろん)其(その)後(のち)支那(しな)から持(も)ち帰(かへ)つた織物(おりもの)の見本(みほん)なども今(いま)福谷藤(ふくたにとう)七 君(くん)の処に蔵(ざう)せられて居(を)るので       ある       右(みぎ)の如(ごと)く福谷啓吉(ふくたにけいきち)は佐賀藩士(さがはんし)として我国(わがくに)最初(さいしよ)の海軍(かいぐん)伝習生(でんしふせい)となり万延(まんえん)元年(がんねん)既(すで)に米国(べいこく)に渡航(とかう)したのであ 穂積晴軒  つたが其(その)実(じつ)は元(も)と我(わが)吉田(よしだ)の市人(しじん)であつたのである而(しか)し之(これ)とは少(すこ)しく後(おく)れて生(うま)れた人(ひと)であるが此(この)吉田(よしだ) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十九 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百四十 【本文】       藩士(はんし)に穂積清(ほづみせい)七 郎(らう)と云(い)ふ人(ひと)があつて之(これ)は実(じつ)に我(わが)吉田藩(よしだはん)に於(お)ける洋学(ようがく)の鼓吹者(こすゐしや)として大(おほい)に伝(つた)ふべき人物(じんぶつ)       であるから此処(こゝ)に其(その)人(ひと)に関(くわん)して話(はなし)の端緒(たんちよ)を開(ひら)いて置(お)きたいと思(おも)ふのである       清(せい)七 郎(らう)の父(ちゝ)は矢張(やはり)吉田藩士(よしだはんし)で穂積喜左衛門(ほづみきざゑもん)と云(い)つたのであるが清(せい)七 郎(らう)は其(その)長男(てうなん)である天保(てんぱう)七年正月 江(え)       戸(ど)の藩邸(はんてい)に生(うま)れ後(のち)号(がう)を清軒(せいけん)と云(い)つたのであるが父(ちゝ)喜左衛門(きざゑもん)は御用人筆頭(ごようにんひつとう)と云(い)ふので藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)の近臣(きんしん)と       なり専(もつぱ)ら弓(ゆみ)、馬(うま)、槍(やり)、劔道(けんどう)などの武技(ぶぎ)を主(しゆ)とする役目(やくめ)であつたが禄高(ろくだか)は百七十 石(こく)であつたのである而(しか)       して前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた彼(か)の浦賀奉行(うらがぶぎやう)の与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云(い)ふ人(ひと)は喜左衛門(きざゑもん)の弟(おとゝ)であつたのであ       るから清(せい)七 郎(らう)から云(い)ふと叔父(おぢ)であるトコロで此(この)三 郎助(らうすけ)は嘉永(かえい)六年ペリーが初(はじ)めて浦賀(うらが)に来航(らいかう)した時(とき)其(その)       船(ふね)に訪問(はうもん)して米国人(べいこくじん)と最初(さいしよ)の問答(もんどう)を試(こゝろ)みたので有名(ゆうめい)な人(ひと)であるが安政(あんせい)二年 幕府(ばくふ)が選抜生(せんばつせい)を長崎(ながさき)の海軍(かいぐん)       伝習生(でんしふせい)として差送(さしおく)つた時(とき)には此(この)三 郎助(らうすけ)は勝麟太郎(かつりんたらう)等(ら)と共(とも)に其(その)選(せん)に当(あた)つて長崎(ながさき)へ赴(おもむ)いたのである即(すなは)ち海(かい)       軍(ぐん)修行中(しうげふちう)は前(まへ)に申述(まをしの)べた福谷啓吉(ふくたにけいきち)とも同学(どうがく)であつたが此(この)人(ひと)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く幕末(ばくまつ)に至(いた)つて彼(か)の榎本釜次(ゑのもとかまじ)       郎(らう)が函館(はこだて)に脱走(だつそう)五 稜郭(れうくわく)に籠(こも)つた時(とき)其(その)同志(どうし)に加(くは)はり遂(つひ)に榎本(ゑのもと)等(ら)は降服(こうふく)したが三 郎助(らうすけ)は独(ひと)り踏(ふ)み止(とゞま)つて       千代(ちよ)が岡(をか)の砲塁(ほうるい)を固守(こしゆ)し其(その)二 子(し)と共(とも)に打死(うちじに)をして仕舞(しま)つたのである清(せい)七 郎(らう)はかゝる人(ひと)を叔父(おぢ)に持(も)つて       居(を)つたのであるから夙(つと)に洋学(ようがく)講究(こうきう)の必要(ひつえう)なる事を聞(き)かされて居(を)つたもので其(その)二十 歳(さい)の時(とき)即(すなは)ち安政(あんせい)二年       丁度(ちようど)幕府(ばくふ)でも蕃書調所(ばんしよしらべしよ)を創設(さうせつ)した年(とし)であるが清(せい)七 郎(らう)は三 郎助(らうすけ)の勧誘(くわんゆう)によつて遂(つひ)に蘭学(らんがく)の研究(けんきう)を思(おも)ひ立(た)       つたのである然(しか)るに当時(たうじ)はまだ武技(ぶぎ)の研究(けんきう)をも怠(おこた)つてはならぬのであるから都合(つがふ)のよい処に蘭学(らんがく)の師(し) 《割書:蘭医坪井信|道》  匠(せう)を求(もと)めたいものであると思(おも)つて居(を)つたのであるが会々(たま〳〵)蘭医(らんゐ)の坪井信道(つぼゐのぶみち)と云(い)ふ人(ひと)が呉服橋外(ごふくばしそと)に門戸(もんこ)を       開(ひら)いて医業(ゐげふ)の傍(かたは)ら洋学(ようがく)の教授(けふじう)をもすると云(い)ふので清(せい)七 郎(らう)は初(はじ)め之(これ)に通学(つうがく)することとなつたのである其頃(そのころ)       清(せい)七 郎(らう)の家(いへ)は北新堀(きたしんぼり)にある藩(はん)の中屋敷内(なかやしきない)にあつたのであるからそれから毎日(まいにち)武技(ぶぎ)を修(をさ)むる傍(かたは)ら此(この)坪井(つぼゐ) 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百九十四号附録    (大正二年六月十七日発行) 【本文】       の処(ところ)へ行(い)つて殆(ほとん)ど二 年間(ねんかん)の苦学(くがく)をしたのであるがそれでヨウ〳〵蘭語(らんご)文典(ぶんてん)一 部(ぶ)を習得(しふとく)するに過(す)ぎなか       つたのである然(しか)るに其頃(そのころ)は申(まを)す迄(まで)もなく攘夷論(ぜうゐろん)の盛(さかん)な時(とき)であるから蘭学(らんがく)などと云(い)ふ事は実(じつ)に同僚間(どうれうかん)       は排斥(はいせき)を受(う)けたもので或時(あるとき)己(おの)れの隠(かく)し置(お)いた其(その)蘭語文典(らんごぶんてん)の表紙(へうし)へ藩中(はんちう)の同輩(どうはい)に落書(らくがき)をされた事がある       がその落書(らくがき)が今日(こんにち)から見(み)ると中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いのであるソレは「団子(だんご)は喰(く)へるが蘭語(らんご)は喰(く)へぬ」と云ふので       あつた以(もつ)て当時(たうじ)に於(お)ける青年(せいねん)の志想(しさう)の一 部(ぶ)を見(み)るべしとも云(い)ふべきであると思(おも)ふ此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつた       から清(せい)七 郎(らう)は到底(たうてい)蘭学(らんがく)の研究(けんきう)をなすには一 意専心(いせんしん)でなくてはいかぬ武技(ぶぎ)修行(しゆげふ)の傍(かたは)ら公務(こうむ)の余暇(よか)を以(もつ)て