【表紙題簽】 琉球はなし 上下 【コマ1と全く同じ画像】 【扉】 森嶋中良先生述 【下部に文字入りの縦楕円あり】 琉(りう)球(きう)談(ばなし) 京都書肆  起文堂梓  【琉球大学附属図書館蔵書印】 琉球談序 琉球在薩之南鄙海中蓋 一小島也慶長中臣附于 薩然在其上世源鎮西宏 垂国統即其為属于我也 亦巳尚矣万象主人甞着 万国新話亜細亜一部業巳 梓行琉球談亦収其中而以韓 琉蝦久属 本朝世亦粗諳其国事故 臨梓除之日者書賈重請 其初稿以梓之需予序之然 国業大体民事細瑣詳悉 書中予更何言即書此言 以序寛政庚戌秋九月   蘭渓 前野達 印 【巳は已の意か】 【瑣の原字は石へん】 琉球談   目録 ○琉球国の略説  ○開闢の始《割書:附|》鎮西八郎  鬼か島へ渡る記 ○日本へ往来の始 ○官位并官服図説 ○琉球国王の図 ○年中行事    ○元服の事 ○剃髪      ○家作図式 ○米蔵の図    ○器財図説 ○駕篭の図    ○馬之図説 ○女市図説    ○婦人の風俗 ○嚔を好む    ○歌舞の図説 ○琉球の狂言   ○琉球歌  ○神祇      ○宗派 ○葬式      ○棺槨《割書:并》墳墓 ○書法      ○耕作 ○貢物      ○産物 ○琉球語     ○屏風《割書:附|》いろはの説 ○読谷山王子日本紀行の詠歌  通計三十条 琉球談      東都 森嶋中良 著  ○琉球国の略説 琉球国、古名は流虬(りうきう)といふ、中山世鑑録に云、地(くに)の 形(かたち)、虬龍(つのなきりゆう)の、水中に浮ぶか如くなる故に名付たりと なん、隋書には流求(りうきう)と書す、宋書是に徒ふ、元史 には、瑠求(りうきう)とあり、明の洪武年 ̄ン中、改て琉球の文字 とす、 吾邦にて、古くは宇留麻廼久爾(うるまのくに)といふ、又 【原文の黒丸を読点で表記する】 神代紀(かみよのまき)に、海宮(わたつみのかみのみや)といへるは此国なるべき事、予か撰 する万象雑組の中、地之部の条にくはしく載(のせ)たり、 此国の下郷(かたゐなか)に居る、土人(くにびと)どもは、琉球とは云ず、屋其惹(おきの) といふ、蓋その国の旧名なりと、中山伝信録に見え たり、其地は、薩州の南百四十里にあり、南北長《割書:サ|》六十 里、東西十四五里程ありとなり、昔は国を三つに分つ、 所謂(いはゆる)、中山、山南、山北なり、然るに、大琉球、中山第十二 世、尚巴志といへる国王、山南山北を併(あは)せてより、中山 一統(いつとう)とは成ぬ、此国に属する島三十六有り、地図は 三国通覧図説、其他諸書に載たれは略(はぶ)きぬ、  ○開闢(かいびやく)の始《割書:附|》鎮西八郎鬼か島へ渡る説 中山世鑑に云、琉球の始祖を天孫氏といふ、其はじめ、 一《割書:チ|》男一《割書:チ|》女、自然に生出(なりいで)て夫婦となる、是を阿摩美(あまみ) 久(く)といふ、《割書:中良案るに天皇(アマミコ)なるべし|琉球には日本の古言多く残れり》三男二女を生めり長男は 天孫氏といふ、国王のはじめなり、二男は諸侯(だいめやう)の始と なり、三男は百姓の始となる、長女を君々(くん〳〵)、二女を祝々(しゆく〳〵) といふ、国の守護神(まもりかみ)となる、一人は天神(あまつかみ)となり、一人は 海神(わたづみ)となる、天孫氏の末裔(ばつゑい)二十五代、世を保(たも)つ事、 およそ一万七千八百二年にして断絶(だんぜつ)すと、《割書:云| 々》夫より 鎮西八郎為朝の子、舜天といふ者、国王となる、《割書:舜天の|子舜馬》 《割書:其子義本にいたりて天孫氏の末裔に位を譲る|世俗今の琉球王は為朝の血脈なりと云は誤なり| 》中良案るに、中山伝信録に、 舜天は日本人皇の後裔、大里按司(おほざとのあんす)、朝公の男子なりと 記せり、大里は地名、按司は官名、《割書:大里按司は為朝の舅なり|もしくは、聟に官を譲りたる| 》 《割書:ならんか、按司は位従一品、|領主諸侯の如きものなり、》朝公は、為朝の為を省(はぶ)きて称したる なるべし、白石先生の琉球事略に、二条院永万年 中、為朝海に浮び、流に従ひて国を求(もと)め、琉球国に至り、 《割書:流に求るの義によりて、流求と改称せしと|いふ、此説然るべからす是より先此名あり、》国人其武勇に畏れ服す、 其国の名を流求と名付、遂に大里按司の妹に相具し て舜天王を産、為朝此国に止る事日久しく、故土(ふるさと)を 思ふ事禁し難くして、遂に日本に帰れりと、《割書:云| 々》和漢 三才図会に、為朝逝して後、祠を立て、神号を舜天 太神宮といふと記せるは誤なり、因(ちなみ)に記す、為朝十八歳 の時、父六条判官為義と同しく、新院の御味方と なり、軍破て伊豆国に流さる、二十九歳にして鬼か島 へ渡り、帰国の後、国人等が訴に依て官兵をさし向 られ、三十三歳にして自殺(じさつ)ありし事、保元平治物語に 見えたり、白石先生、本朝にて鬼か島といふものは、則 今の琉球これなりと云れたるは、何にもとづかれたるや、 所見(しよけん)なし、愚案るに、此地の古名を、屋其惹島(おきのしま)と いふ、或は文字を替(かへ)て、悪鬼納島(おきのしま)とも書に依て、附会(ふくわい) したる説ならんか、  ○日本へ往来の始 琉球事略に云、後花園院、宝徳三年、七月、琉球人 来りて、義政将軍に銭千貫と、方物(そのかたのもの)を献ず、是より して其国人、兵庫の浦に来りて交易すと、《割書:云| 々》案る に、十五代、尚金福といへる国王、位に在し時なり、夫より 代は四代(よだい)、《割書:後花園、後土御門、|後柏原、後奈良》年(とし)は百二十三年《割書:ン|》を歴て、 正親町院(おほきまちのいん)、元亀十一年、琉球人来りて産物を献る、 薩摩国とは隣国なれば、深く好(よしみ)を通(つう)じ、綾船と名 付て、年毎に音物を贈りしが、慶長年中、彼国の三司官、 邪那といふ者、大明と議(はかり)て国王をすゝめ日本への往 来をとゞめける故、薩州の太守、島津陸奥守家久、使 を遣はして故を糺(たゞ)すに、邪那、使に対して、種々の無 礼を振廻(ふるまひ)ければ、義久大に憤(いきどう)り、同十三年、駿府に趣き、 神君に見え奉り、兵を遣はして誅伐(ちうはつ)すべき旨を請ふ 神君義久が所存にまかすべき由 欽命(きんめい)ありければ、翌年 二月、兵船数百艘を遣はして攻討(せめうた)しむ、諸士功を抽(ぬきんで)て 攻(せめ)入〳〵、同年四月、首里(すり)に乱入(らんにう)し、国王 尚寧(しやうねい)を擒(とりこ)にし て凱陳(かいちん)す、尚寧王、日本に居事三年、過(あやまち)を悔(くい)、罪(つみ)を謝(しや)し、 漸(やうや)く本国に帰る事を得たり、《割書:時に慶長十六年|なり》此時 神君 義久に琉球国を属(そく)し給ひけるより、永代 附庸(ふやう)の国 となり、臣とし仕ふる事甚 敬(つゝし)めり夫よりして、 将軍家御代替りには、中山王より慶賀の使臣を来聘(らいへい) せしめ、彼国の代替りには 将軍家の欽命を薩州 侯より伝達せられて、しかうして後位を嗣(つき)、他日恩謝 の使を奉るなり、其国 唐(から)と日本の間に有故 嗣封(しほう) の時は、清よりも冊封(さつほう)を受るなり、去ども、唐へは遠く、 日本へは近き故、日本の扶助(たすけ)にあらされは、常住(しやうちう)の日用 をも弁ずる事あたはす、去によりて、国人 耶麻刀(やまと)と 称して、甚日本を尊とむとなん、  ○官位《割書:并|》冠服図説 位は一品より九品まであり、勿論正従の別あり、王の子弟 を王子(わんず)と称す、《割書:正一品|》領主を按司(あんず)と称す《割書:従一品○古は按司|領地に住居して、其》 《割書:地を治めしか、各権威を振ふに依り、第十七代の国王尚真、制を改、首里の城|下に住居せしめ、察事(サツジ)紀官(キクハン)といふ官人を、一人づつ遣して、其領内の事を》 《割書:支配せしめ、歳の終に物成を、|按司の方へ納めしむ、》天曹司、地曹司、人曹司とて、国家(こくか)の 政事(まつりこと)を司(つかさど)る大臣を、三司官(さんしくわん)親方(おやかた)と称す、《割書:正一品|》夫より以下 の大臣を、親方と称す、《割書:従二品|》親雲上(ばいきん)と称するものは武官 なり、《割書:三品より七品|まてあり》里之子(さとのし)と称するは扈従(こせう)の少童(せうとう)なり、《割書:八品|》 筑登之(つくとし)と称するは九品なり、 ○国王は図の如く、烏紗帽(くろきしやのかふりもの)に朱き纓(ひも)、龍頭(たつがしら)の簪(かんざし)雲龍の紋 ある袍(きぬ)を着し、犀角(さいかく)白玉の帯を用ゆ、何れも明朝の 制なり、今清朝の冊封を受ながら、冠服は古へを改 めず、一品以下 帽(かぶりもの)八等(やしな)、簪(かんさし)四等、帯四等あり、其 荒増(あらまし)は、 一品は金の簪、彩織緞(もやうをおりたるきれ)の帽、錦の帯、緑色(もえぎ)の袍を着す 《割書:江戸へ来聘する使臣は一品なれども、|国王の名代故、王の衣冠を着用す、 》二品は金の簪、《割書:従二品は、頭を金にて|作り、棒は銀なり、 》 紫綾(むらさきあや)の帽、龍蟠(くわんりやう)の紋ある黄なる帯、《割書:功ある者は|錦帯を賜ふ》深青色(こいもえぎ)の 袍を着す、三品は、銀の簪、黄なる綾の帽、帯袍ともに、 二品に同じ、四品は龍蟠(くわんりやう)の紋を織たる、紅の帯、簪 帽袍、三品に同じ五品は、雑色花帯(いろいとにてもやうあるおび)、其外は三品に同し、 六品七品は、黄なる絹(きぬ)の帽、簪と袍とは三品に同じく、帯 は五品と同じ、八品九品は、火紅縮紗(ひぢりめん)の帽、其他(そのほか)は七品 に同じ、雑職(かるきやくにん)は、紅絹(もみ)の帽、其他は七品に同し、銅の簪、 紅布(あかもめん)の帽、或は緑布(もえき)の帽を蒙(かぶ)るは里長(なぬし)保長(しやうや)など なり、青布(あゐもめん)の帽を蒙(かぶ)るは、百姓(ひやくせう)頭目(かしら)なり、凡(すべ)て官服は、 平服より丈長く、上より帯にてしむるなり、いかにも 寛(ゆる)やかに着為(きな)し、紙夾(かみいれ)、烟袋(たはこいれ)など懐(ふところ)に入る事、日本 の如し、童子の衣服は、三四寸ばかりの脇明(わきあけ)あり元服 の時縫詰る、元服の事は下に載たり、女人の服もさ して替る事なし、外衣(うはぎ)を襠(うちかけ)にし、左右の手にて襟を曳 て行となり、寢衣(よぎ)の制(しかた)、日本と同し、衾(ふすま)といふ、名服に 【図】 里之子(さとのし)  扈従の躰 琉球国王 【図は略 説明文】 王帽(わうほう)         片帽(へんほう)  黒き紗         黒き絹にて作る  にて作る        六の角あり医官  国王          楽人茶道の外   これを        剃髪したるもの    戴く        これを用ゆ 官民帽(くわんみんほう)【注】   笠(かさ)  一品より九品まての   麦【注】藁にて作り  制皆同しいため紙    また革にても  を骨にして作る     作る外を黒く  前に七ひだ後に     内を朱く  十二のひだあり色を   膝【漆】にて  以て高下を分つ事    塗なり  上に記せるか如し 短簪(みちかきかんさし)        帯(おび)  長 ̄サ三四寸元服したる  長 ̄サ壱丈四五尺  者これを用ゆ金銀    寛 ̄サ六七寸  銅にて作る上に     腰をまとふ事  くはし         三重四重にす 長簪(なかきかんさし)          此帯地の地いろ  長 ̄サ尺余婦人少年    地紋に差別  の男子元服前にて    ある事上に  髻の大なるもの是を   載たる如し  用ゆ金銀にて貴賤を   此帯の裁を  分つ民家の女子は玳瑁  薩摩がんとう  にて制したるを用ゆ   とて好事の人              はなはだ珍翫す 【注 帽図中の文字「前後」は略 麦に草冠】 衣【図略】  袖大 ̄サ二三尺ばかり  長 ̄サ手に過す図  する物は平服なり  官服は丈長し平日  着する物は大抵  芭蕉布の島  織を用ゆると  なり  此外足袋草履  日本と同じかるが  ゆゑに図せず 両面を反覆(うらかへ)して着する様に制したるも有り、惣し て、帽帯の織物は、唐土閩といふ地にて織、此国へ売 渡す、琉球国にては唯芭蕉布のみを作る、家〳〵 の女子、皆手織にす、首里(すり)にて制(せい)する物を上品 とす、  ○年中行事 正月元旦、国王冠服を改て、先 ̄ツ年徳を拝し、夫より 諸臣の礼を受(うく)、同十五日の式、元日に同じ、《割書:毎月十五日、諸臣|の登城あり、》 王より茶と酒とを賜ふ、扨民家の女子は毬(まり)をつきて 遊び、また板舞(はんぶ)といふ戯(たはむれ)を為す、図の如く真中へ木 板舞之図     【図は略】 の台を居(すえ)、其上へ板を渡し、二人の女子、両端(りやうはし)に対(むか)ひ て立、一人 躍(をと)り上れば、一人は下にあり、躍上りたる女子、 本の所へ落下る勢ひにて、こなたに立たる女子は、五六尺 も刎(はね)上るなり、其躰、転倒(てんとう)せさるを妙とす、其地北極地 を出る事二十五六度なる故、暖気も格別にて桃桜の 花も綻(ほころ)び、長春は四季ともに花咲ども、わけて此月を 盛とす、羊躑躅(つつし)は殊更見事なり、元日王宮の花瓶(はなかめ) に挿(さす)事、恒例(かうれい)なるよし、薩州の人の直話なり、蛇はし めて穴を出、始て電(いなひかり)し、雷すなはち声を発す、枇杷 の実 熟(じゆく)す、元朝これを食ふ、正三五九の四 ̄ケ月を 国人吉月と名づけて、婦女(をんなわらへ)海辺(うみべ)に出 水神(わたづみ)を拝 して福を祈ると、伝信録に載たり、 ○二月十二日、家〳〵にて浚井(いとがへ)し、女子は井の水を汲 て、額(ひたひ)を洗ふ、如此すれば、疾病を免るゝとなり此月 や、土筆(つくし)萌出(もえいて)、海棠、春菊、百合の花満開し蟋蟀(こほろぎ)鳴(なく)、 ○三月上巳の節句とて往来し、艾糕(くさもち)を作て餉(おく)る。石竹、 薔薇(ろうさはら)、罌粟(けし)、俱に花咲く、紫蘇生じ、麦(むき)秋(みの)り、虹(にし)始 て見ゆ、 ○四月させる事無し、鉄線(てつせん)開き、笋(たけのこ)出、蜩(ひくらし)鳴き、蚯蚓(みゝつ) 出、螻蟈(けら)鳴き、芭蕉実を結ふ、国人是を甘露と名つく、 ○五月端午、角黍(ちまき)を作り、蒲酒(せうぶさけ)を飲事日本の如し、 此月 稲(いね)登(みの)る、吉日を選んで、稲の神を祭り、然うし て後、苅(かり)収(をさ)むるとなり、明の夏子陽使録(かしやうがしろく)に云、国中に 女王といふ神有り、国王の姉妹、世〳〵神の告に依て、 是に替る、五穀 成時(みのるとき)に及て、此神女所〳〵を廻り、■【祖ヵ】穂 を採(とり)てこれを嚼(かむ)、いまだ其女王の甞(なめ)ざる前に、獲(かり) 入たる稲を食ふ時は、立所に命を失ふゆゑ、稲盗人(いねぬすひと) 絶て無し、此月蓮の花咲き、桃、石榴(さくろ)熟す、 ○六月の節句あり、《割書:六月の節か中に|当る日なるべし》強飯(こはいゐ)を蒸(むし)て送る、 此月や、沙魚(わにさめ)、岸に登りて鹿となり、鹿また暑を畏(おそ) るゝ故、海辺に出て水を咂(ふく)み、亦化して沙魚(わにさめ)と なる、桔梗扶桑花開く、 ○七月十三日、門外に迎火の炬火(たいまつ)を照して先祖を 迎へ、十五日の盆供など、日本と替りたる事なし 此月、竜眼肉実を結ぶ、 ○八月十五夜、月を拝す、白露を八月の節句とし 赤飯を作て相餉(あいおく)る、其前後三日が間、男女戸を閉(とぢ) て業(わざ)を休む、是を守天孫(しゆてんそん)と号す、此間に角口(いさかひ)な とすれば、かならず蛇に噛(かま)るゝとなり、木芙蓉(もくふやう)花 花さく、 ○九月梅花開き、霜始て降り、雷声を収め蛇 はなはだ害を為す、此月の蛇に傷(きず)つけらるれば、立 どころに死す故に、八月の守天孫に、三日か間つゝし むなり、田は尽く墾(あらき)ばりし、麦(むき)の種(たね)を下す、《割書:麦は三月実|のるなり》 ○十月蛇穴に蟄(ちつ)し、虹(にじ)蔵(かくれ)て見えす、小児は紙鳶(いかのぼり) をあぐ、 ○十一月、水仙、寒菊開き、枸杞(くこ)紅(くれなゐ)に色づき蚯蚓咼【窩ヵ】 を出す、其外にさせる事なし、 ○十二月、庚子(かのえね)庚午(かのえうま)に当る日に逢ば、糯米(もちこめ)の粉を 椶(しゆろ)の葉にて、三重四重に包み、蒸篭(せいらう)にてむし たるを鬼餅と名付て餉(おく)るなり、土人の説に、昔 此国に鬼出たりし時、此物を作て祭りしとなり、 是其 遺(のこ)れる法なるよし、駆儺(おにやらひ)。禳疫(やくびやうよけ)の意なるべ し、二十四日 竈(かまど)を送り、翌年正月始て竈を 迎ふ、《割書:竈の神を送り|迎ふるなり》  ○元服 此国人。元服以前は、髻(もとゝり)を蛇(へび)のわだかまりたる如くにし 長き簪(かんざし)を、《割書:図上に出|せり》下より上へ逆(さか)しまに串(つらぬ)きて其先 ̄キ は 額(ひたび)に翹(いた)るなり、既に成長(ひとゝなり)て冠(かむり)する時は、《割書:二十にして冠するは通例|なり此国にてもしかるへし》 頂(いたゝき)の髪を剃(そり)て髻を小さくし、短き簪にて留置なり 唐土明(もろこしみん)の世には、髪を剃事なかりしが、清の冊封(さつほう)を 受る世となりてよりの事なるよしなり、中良案るに、 芥子坊主になるかはりに、中剃(なかそり)と遁(のが)れたるなるべし、  ○剃髪 医官を五官正(こかんせい)といひ、茶道(さだう)坊主(ぼうす)を、宗叟(そうさう)といひ、また 御茶湯(おさどう)といふ、上に図したる、片帽(へんぼう)を被(かふり)、黒き十徳の 如きものを着するとなり、  ○家作 王宮の図は、唐画(からゑ)に画(ゑかき)たる宮殿にかはる事なければ 略けり、平人の家は、日本の作りにさまで替りたる事なく、 屋宇之図  【右以外は絵のみ】 床の高 ̄サ三四尺、棟は甚高からず、海風を避(さく)るを 以てなり、屋根は瓦をもちゆ、畳、戸、障子、日本に 同し、柱は大島、鬼界か島に産する羅漢杉(らかんさん)を 用ゆ《割書:羅漢松はまきなり|羅漢杉もまきの類か》価【人へんに買】いたつて貴し、木目至極 麗(うる) はしく、数千年 蠧(むしばま)ず、年を歴(ふる)に従ひて、その光潤(つや) 鑑(かゝみ)の如し、壁は板羽目にし、粉箋(からかみ)を以て是を張る、 竹簾(すだれ)は極めて麁(あら)く、細(ほそ)き丸竹にて編(あみ)、簷(のき)に挂(かく)、庭 の構へ、築山(つきやま)に黄楊(つげ)、桧松の類、あるひは円(まるく)、或は方(かく)に 苅込(かりこみ)たるを植、小池を掘て魚を畜(かひ)、水中に小石を 立、其上に鉄蕉(そてつ)、其外小紅木なとを植て玩となす、 大抵 外囲(そとかこひ)は、蠣石を塁(たゝみ)て作る、《割書:蠣石は礪石にて|砥石の類か》大家に ては殊さらに磨(みがき)て削合(けつりあは)する故、一 ̄チ枚石にて切 ̄リ立たる が如く、甚立派なる事なり、寺院は多く黄楊(つげ)の生(いけ) 墻(がき)を苅込たるなり、また此国にのみ産する、 【縦線】 米廩之図   【二棟の図】 十里香といふ木を籬(かき)とす、此木の事は、産 物の部に載たり、民家は竹の穂牆(ほがき)なり、米廩(こめぐら) は、床の高 ̄サ四五尺、床下に十六本の柱を施し、 其間を人の行抜るやうに作る、官倉(かうぎのくら)皆かく の如し、村落(むらかた)にては、寄合て一亭を作り、米を 其中に蔵め、日を分て守望(ばん)をするとなん、  ○器財図説 食膳の為方(しかた)、膳椀にいたるまで、惣て日本の 制に效(なら)ふ、王宮の給仕(きうじ)は、里之子(さとのし)なり、二人宛揃 への服を着し、進退、小笠原流をもちゆ、はなはだ 行儀よき事なるよしなり、定西(ぢやうさい)法師(ほうし)伝に、《割書:此書は|天正年中、》 《割書:琉球へ渡り、一度は栄へ、一度は衰へて、|道心となりたるものゝ伝なり、》琉球の習ひ、朝毎(あさこと)に然る べき臣下より、銘〳〵に后へ食籠をたてまつると 記せり、今もしかあるや、  ○女市 此国中 辻山(つぢやま)といふ所の海沿(うみばた)に、早晩(あさばん)両度市あり、 商人は残らず女なり、商(あきな)ふ所のものは魚蝦(ぎよるい)、蕃薯(さつまいも)、 豆腐(とうふ)、木器(きぐ)、礠碟(さらさはち)、陶器(せともの)、木梳(きぐし)、草靸(さうりわらぢ)、等の、麁物(あらもの)なり、 其 貨物(しろもの)、何によらず首(かうべ)に戴(いたゞ)き、坡(さか)に登り嶺(みね)を下 るに偏(かたよら)ず、売買は日本の錢を用ゆ、古へは洪武 膳(せん)    食榼(じきちう)          榼(さげぢう) 鍋(なべ)    烟架(たはこぼん)  いづれも   鉄鍋    なり 【右いずれも図の説明】 火罏(ふろ)     水火罏(ちやべんたう)  是は   薩州    にて  角火取(ツノビトリ)と   名付る    もの     なり  茶甌(ちやわん)   書架(けんだい)  挽茶を   もちゆる    なり 茶筌(ちやせん)   曲隠几(きやうそく) 【右いずれも図の説明】 扇 二品       団扇 二種  折扇を        金泥入の   櫂子扇と      彩色絵を   名づく        書たるを   帯にさす      玉団扇と  事日本の       名づく王宮の    如し       婦人これを                もちゆ  末広は        常用のものは  僧家に        白青の紙にて  もちゆ        張泥画を  俗人は         画く  用ゐず 蕉扇 二品      棋局(こばん)  此国にていふ  梹榔団(ヒロウウチワ)  なり丸き  方を日扇  といふ男子  の用ゆる     ものなり   其傍を缺(カキ)て  半月の如く  作りたるを  月扇と  名付く  婦人   これを    用ゆ 【右いずれも図の説明】 燭          套枕(いれこまくら) 二品         白紙にて張宮中  にて用ゆ 灯  あんどう  の制作  日本と  同じ  民間は  皆   油火を    用ゆ 太平山船       独木船  唐日本へ渡海     是は一木を  する船は福州     くりて作る   船の如し同国     漁者などの  中の島〳〵を     用ゆるもの  往来する船      なり甚軽  いつれも此船     くしてしかも     の欄杆なき      行事  ものなり太平      すみやか  山といへる所の    なりもし   船のみかくの     一艘にて足ざる  如く欄檻       時は日本の平田船     ありと      の如く二艘     なり         もやひて                  物を               載るなり 【右いずれも図の説明】 轎之図  国王は肩輿(アゲゴシ)なり夫より下は  皆 轎(カゴ)を用ゆ貴族(レキ〳〵)の用ゆる  ものは雕鏤(チボリ)の金物を打表は  錦にて包み裏は絵ばり附  などにするとなり 飾馬之図  馬は日本と替る事なし、山坂または  石原を行に躓(ツマヅカ)ず、山に上り、水を渉(ワタ)れ  ば馳(ハス)、是自然に其土地に馴たればなり、  此地四季ともに暖気にして、冬も  草の枯る事なきによりて終歳  青草を食ふかるかゆゑに豆を  食はするに及ばす、民家にて馬の  入用なる時は、野より牽入、  用事過れば野へ放すとなり、  鞍鐙其外とも、日本の馬具  にかはる事なし、唯 小紐(コヒモ)  の下と、むながいに、紅の糸にて  作りたる、丸き房を付るなり 【右いずれも図の説明】 女市之図 【以下図のみ】 通宝、永楽通宝、唐土より此地へ渡りて通用せし が、今ははなはたまれにして、只寛永通宝のみ多 しとなり、  〇婦人の風俗 大家(れき〳〵)の女子は、金銀の簪(かんざし)を用ゐ、民家の婦女は、 玳瑁にて作りたるを挿(さす)なり其形は、上に図する か如し、外に首飾(かみのかさり)なし、脂粉(へにおしろい)をも用ゐず、髪の 毛は至て長く、背丈(せだけ)に余るとなん、歩行する には、半襪(ざうり)を履(はき)、木套(げた)を履もあり、亦 赤足(すあし)にて 歩むも有り、何れも手の指の甲に黥(いれずみ)す、《割書:指の節の本|に黒星を入、》 《割書:夫より爪ぎはまてまつすぐに|黒すじを入墨にす、》女子十五歳になれば針にて刺(さし)、 墨を入、夫より年〳〵に増加ゆる事、貴賤ともに 皆然り、三才図絵に、女人は墨を以て龍蛇の紋 を黥(いれずみ)にすと記せるは此事なるへし、当時(そのかみ)尚益といへる 国王、女子の黥を止めんと欲し、衆を集(あつ)めて評議ありし に、上古よりの習はしなれは、今更前制を改められんも 如何なりと、衆議(しうき)一決(いつけつ)しければ、国王も為方(せんかた)なく、其 儘にさしおきけるとなん、街(ちまた)を往来するに、尺ばかり の布を手に持たるは、良家(れき〳〵)の女なり、衣の襟(ゑり)に紅(も) 絹(み)の縁(へり)を取たるは妓(たはれめ)なり、小児を抱くには、片手 にて小児の腰をとらへ、腰骨へかけて歩むなり、 《割書:女市の図にて|見るべし》定西法師伝に云、琉球は弁才天の島 なりとて、男子より女を敬(うやま)ふとなりふとなり、  〇嚏を好む 琉球人は寿命の薬なりとて、嚏(くつさめ)する事、を好む、 客に対する間も、紙条(かうより)を鼻孔(はなのあな)へ入てくつさめ を為と、薩州の人の語りき、  〇哥舞 王宮にて哥舞を興行する時は、五六丈四 面の舞台を造り、四方に幕を張り、楽人は 紅衣(くれなゐのきぬ)緑衣( みどりのきぬ )を着し、夫〳〵の巾(きん)を戴(いたゞ)き、蛇の 皮にて張たる三弦、提琴、笛、小鑼(こどら)、鼓(つゞみ)などを持て、 二行(ふたかは)にならび、ゆるやかに楽譜を歌へば、暫く有 て、階(はし)懸りの幔(まく)を褰(かゝ)げ、舞人出るなり、 〇小童四人、朱き襪(したうづ)を履(はき)、五色の長き衣を襠(うちかけ)に し、頭に黒皮にて作りたる笠に、朱纓(あかきひも)の付たる を戴き、廻旋(まひながら)場(ぶたい)に登り、楽人(がくにん)の方へ向ひて座す、 楽工(がくにん)其笠をとり、朱纓(あかひも)を笠の上へ捲(まき)■【つヵ】けて あたふれば、童子うけ取て立上り、足拍子を曲節 に合せて舞ふ、此を笠舞と名付く、 〇小童四人、金扇子に花を餝りたるを戴き 朱帕(あかきはちまき)を為し、五色の衣をいかにも花やかに 着(き)為(な)し、五色の花を付たる索(なは)の輪(わ)に為たるを 頂(くびすぢ)に懸て、場(ぶたい)に登り、其索を手に懸足拍子 を踏て舞事、笠舞の如し、これを号(なづけ)て 花索舞といふ、 〇小童三人、頭に作り花を餝り、錦の半臂(はつぴ) を着し、小き花籃(はなかご)を肩(かた)に懸て場(ふたい)に登り、 前の如く舞ふ、籃舞(かごまひ)と名つく、 〇小童四人、五色の衣を着して場に登り 楽工の前に座すれば、楽工銘〳〵へ小竹拍四片(よつたけ) を授(さづ)く、童子取て立上り、拍子を拍て舞、これ を拍舞といふ、 〇武士六人、白黒の綦紋(しま)の、袖を大小仕立たる短 き衣を着し、金箍(きんのはちまき)を額(ひたひ)に結び、白き杖を突 て場に登り、撃合(うちあふ)音を節(ふし)に合せて舞ふ、武舞 と号す、 〇小童二人、五色の服を穿(き)、金の毬(まり)の四面に鈴を つけ、朱き紐の長く付たるを持、左右に立て舞な がら、二疋の獅子(しし)を引て、場に登り、獅子を狂はせ 琉球楽(りうきうがく) 毬舞之図(きうぶのづ) 【以下図のみ】 なから舞ふ、獅子は種〳〵の狂ひをなし、甚興 ある曲なるよし、是を毬舞といふ、 〇小童三人、さはやかに粧(よそほ)ひて場に登り、楽人より 一尺ばかりなる、金様(きんだみ)の桿(ぼう)を請取り、交撃(うちあはせ)て 舞ふ此曲を桿舞といふ、 〇小童四人、手に三尺ばかりの竿に花の付たる を、各一本宛たづさへて舞ふを、竿舞といふ、 此外舞には、扇曲(あふぎのきよく)《割書:童子六人|にて舞ふ》掌節曲(てびやうしのきよく)《割書:小童三人|にて舞ふ》などゝ いふ舞あり、楽には、   太平調(たいへいちやう) 長生苑(ちやうせいゑん) 芷蘭香(しらんかう) 天孫太平歌(てんそんたいへいのうた)    桃花源(とうくはげん) 楊香(やうかう) 寿尊翁(じゆそんおう) 是等の外、数曲あり此内、桃花源、楊香は明(みん) 楽(がく)なり、寿尊翁は、清朝の楽なり、又神歌と いふ物あり、日本の式三番の如く、国楽を奏 する始に、一老人の形に打汾(いでたち)、場に登りて瑞 曲を歌ふ、此国 混沌(こんとん)のはじめ、世を御(ぎよ)したる、 神聖天孫氏、世〳〵の国王位に登毎(のぼるごと)に、形を 現(けん)じて霊祐(れいゆう)を示(しめ)す、すなはち迎神(かみおろし)の歌を 製して、もつてこれを歓楽(くわんらく)す、後世にいたりて、 神しば〳〵形を現ぜず、故に神代より遺(のこ)りたる 唱歌(しやうが)を伝へて、国王即位の時か、格別の儀式 ある時此曲を行ふ、神歌を唱ふる間は管弦 ともに声を出さずとなん、  〇俳優 舞楽に続きて俳優(わざおき)あり、其狂言に、鶴亀 といへる兄弟の童、父の仇(あた)を復(ふく)したる古事 あり、日本の曽我兄弟の敵討に髣髴(さもに)た り、昔琉球国 中城(なかくすぐ)といへる所の按司(あんず)、毛国鼎(もうこくてい)と いへる人、忠勇にして国を治む、其ころ勝連(かつれん) の按司、阿公(あかう)といふ者、若くして郡馬(くんば)といふ職 になり、国王の覚へ目出度かりしまゝ、甚奢侈 を極めしが、内心毛国鼎を忌(いみ)けるにより、弁舌 を巧(たくみ)にして、国王に讒(ざん)をかまへ、毛国鼎 叛逆(ほんきやく)の企(くはたて) 有と奏聞しければ、国王 且(かつ) 驚(おどろ)き且 怒(いか)り、一 ̄チ応の 今【吟】味にも及はす、すなはち阿公に軍兵を授け、毛国 鼎を攻討しむ、毛公 無失(むしつ)の罪を歎くといへども、 阿公一円に取あへねば、今は是まてと思ひ明らめ、 遂に自殺をぞなしにける、毛公に二人の子あり、 兄を鶴といふ十三歳、弟を亀といふ十二歳、二子 到て伶俐(れいり)なり、父毛公、平日(つね〳〵)宝釼二振を以て、 是に撃劔(けんしゆつ)を教(をし)へ、小腕(こうて)なからも其業におい ては、大人にもおとらぬ程に仕立ける、此折柄は 母に従ひて、山南の査(さ)国吉といへる、親属(しんるい)の方 に在けるが、父毛公、阿公が讒言(ざんげん)に依て、討手 を引受、無念の死を遂(とげ)たると聞、天に仰ぎ、地 に伏て涕泣(ていきう)せしが、涕を払ひて母に請(こひ)けるは、 父上の最期は、今更歎きて返らぬ儀なれば、われ 〳〵兄弟面体を見知られぬを幸に、忍びより て阿公を討取、父の仇(あた)を復(ふく)せんと存するなり、 願くは父上の秘 蔵(そう)ありし二振の宝釼を賜 はらんと、思ひ込て願ふにぞ、母は憂(うれえ)も打忘れ、 けなげにもまうしつる兄弟かな、いて〳〵望の 如く、二振の釼をあたふべしとて、取出して 分ち与(あた)ふ、兄弟勇んて暇(いとま)を乞、父の紀念(かたみ)の 宝釼を帯しつゝ、身をやつして勝連(かつれん)に至り、 父の仇をそねらひける、扨も阿公は、日頃心憎か りし、毛公を具ひければ、今は程にも憚らず、春 の野つらを詠めんと、従者(しうしや)を引連出けるを、兄 弟早くも聞出し、宝釼を懐(ふところ)にし、透間(すきま)も あらばと伺ひける、阿公は二人の小童を毛公か 子とは夢にも知ず、扨しほらしき小冠者(こくわしや)かな是 へ参て酌(しやく)いたせと、膝元へ招(まね)きよせ、兄弟が容皃(やうほう) の麗(うる)はしきに心乱れ、数献(すこん)の酒を傾(かたむ)けしか、 酔興のあまり、着せし所の衣を脱、兄弟に分ち 与へ、猶も足(たら)ずや思ひけん、佩(はひ)たる所の釼を鶴に あたふ、鶴今は能(よき)図(つ)なりと、弟に目くばせし、其釼 を抜手を見せず、つと寄て阿公に組付、われ〳〵 を誰とか思ふ、汝が讒言(さんけん)に依て自殺なしたる 毛国鼎か二人の子なり、父の恨おもひ知と、柄 も通れ、拳(こふし)も通れと刺通(さしとう)され、あつといふて 立上るを、返す刀に首打落せば、酔潰(えひつぶ)れたる 従者ども、此体を見て肝を消し、上を下へと 狼狽(ろうはい)す、二人の童子は透間もなく、四方八面を切 て廻り、悉く切殺し、本望を遂たるを一局(ひとくさり)とす、 又鐘魔といふ狂言あり、是は謡曲(うたひ)の道成寺に 似たり、中城(なかくすく)の姑場村(こしやうそん)といふ所の農家(ひやくせう)に陶姓(たううち) なる者あり、一子を松寿と名付く、齢(よわひ)まさに 十五歳、誠に端麗(たんれい)の美少年なり此国の都、 首里(すり)に師ありて、常に往通ひて業(きやう)を受けり、 一日(あるひ)浦添(うらそへ)の山径(やまみち)に懸りける時、日暮に及ひて路 を失ひ、とさまかうさまに踏迷(ふみまよ)ふ程に、次第に 昏黒(くらやみ)になりてあいろも分ず、小竹を折て杖 となし、其所(そこ)よ此所(こゝ)よとたどりしが、ほのかに 火影の見えければ、松寿そゞろに嬉しくて、 火影を便りに路をとり、辛(から)うして其家に 到り、一 ̄チ夜の宿(やと)りを求めける。此家の主は猟人(かりうと) にて、一人の娘を持てり、山家には生立(おいたて)とも、天 性の嬌態(きやうたい)あやしきまてにあてやかなり、年はつ かに十六歳、此夜父は猟に出、只一人留主居して ありけるが、門に人のおとなひして、知ぬ山路に さまよひたる者にて侍らふ、情に御宿たまはり たしと、いふ泣声もかきくれたり、娘いたはしく は思ひけれども、折ふし父の留主といひ、心一つに 定めかねしか、まだいはけなき人といひ、殊さら俱 したる人もなければ、さまでに父のとかめもあらじ と、門の戸開きて庵にともなひ、彼是いたはり もてなせしが、松寿が姿のいつくしきに心とき めき、事に触(ふれ)て挑(いどみ)けれども、松寿もとより物堅(ものがた) き生れにて、いさゝかもうけひうけひかず、睡(ねむ)りもやらず 座し居たり、娘おもひにせまりてやひし〳〵と 抱き付ば、松寿驚き、衣を振(ふる)ふて起上る、娘今は 恨のあまり、難面(つれなき)人を生(いか)しは置じ、同じ冥(めい) 途(ど)へともなはんと、猟具(りやうぐ)を取て飛懸る、松寿は 魂(たましい)九天(きうてん)に飛、夢路(ゆめぢ)をたどる心地して、足を空 に逃出すを、何国まてもと追来る、其早き事 飛鳥の如し、松寿やう〳〵逃延て、此山の 曲(くま)にある、万寿寺といふ寺に駈入、しか〳〵の 由を物語れは、住持 普徳(ふとく)といふ僧は、行徳(きやうとく) いみじく、才覚ある僧なりければ、すなはち 松寿を鐘楼(しゆろう)へともなひ、大鐘(おほがね)の内に伏(ふさ)しめ、 三人の徒弟(でし)をして、其 傍辺(かたへ)を看守(まもら)しむ、とばかり 有て彼姫、姿あらはにしたひ来り、三人の僧に問、 何れも知ざる体にもてなし、戯(たはむれ)嬲(なぶ)りて帰らしめ んとす、娘は松寿を求得ず、狂気の如く泣叫(なきさけ)び、 猶も行衛を尋んと、門外へ駈出れは、僧共今は心 易しと、件(くだん)の鐘を退(のけ)んとす、其物音、山彦(やまびこ)に 響(ひゞ)きければ、女早くも馳戻(かけもど)り、髪振乱し形(きやう) 相(さう)変り、恋しき人は此鐘の内にこそ有(ある)らんなれ と、鐘の内へぞ入にける、住僧驚き、諸僧と俱に、 鐘を繞(めぐ)りてこれを祈(いの)る、行法(きやうほう)の験(しるし)にや、かねは おのれと鐘楼へ上り、女は鬼女の相を現はし、 叉(しゆもく)を以て鐘の内より倒(さかしま)にあらはれ出、諸僧を 目懸て打懸る、僧共少しもひるまばこそ、動 ず去ず祈りければ、一 ̄ツ天 俄(にはか)にかき曇(くも)り震動(しんとう) 雷電(らいでん)すさましく、女は其儘 悪魔(あくま)となり松寿 を掴(つか)んで走り出る、これまた一局(ひとくさり)の狂言なり 此二事は皆百年以前、琉球国中にて有し 古事なりとなり、此外は皆唐土の歌舞妓 狂言を興行するとなり、又日本の猿楽をも 伝へ、舞囃子などをも興行す、義太夫節を甚 好み芦苅(あしかり)などの節事(ふしごと)を、能覚えへて語ると なり、  〇琉球歌 徂徠先生の琉球 聘使記(へいしき)に云、三線歌琉曲也(さんせんうたはりうきうのきよくなり)《割書:云| 云》其 哥にいはく、  けうの《割書:希有なり| 》ほこらしやや《割書:奢なり| 》なほるれかな  《割書:猶これ有哉|なり》たてろ《割書:彩色の具|なり》つぼであるはなの《割書:莟み|てある》  《割書:花のなり| 》つゆまやたごと《割書:露を帯たる如し|となり》 中良案るに、此哥は生者必滅(せうじやひつめつ)の意(こゝろ)を本とせり、 いかさまにも挽哥(ばんか)めきたり、又 謡哥(こうた)を載(のせ)られたり、  世の中の習ひ、いつもかこざらめ、残る人ないさめ  まちのぐれ、 又 娼妓(たはれめ)の唱ふ歌あり、  いとやなぎ、こゝろくにあらしやば、のよてはろ  もの、かぜにてりよか、 此唱哥は、徠翁も意得(こゝろえ)られさりしにや、註を ほどこされず、  〇神祇 琉球事略に云、慶長年中、本朝の僧、彼国に ありて、其風土の事を記せし書を案るに、此 国のはじめ、一 ̄チ男一 ̄チ女 化生(くはせい)す、其男をシネリキ ユといひ、其女をアマミキユといふ、《割書:中良案るに、アマミキユは|中山世鑑にいふ、阿摩美》 《割書:久なり、此説上に記せる開闢の条と異同あり、|あはせ考ゆべし、是非は薩人に正すべし、》此時其島小にして、 波に漂(たゞよ)へり、タシカといふ木の生し出しを植て、山の 体(たい)とし、シキユといふ草をうゑ、またアダンといふ木を 植て、国の体となし、遂に三子を生ず、一子は所々の 主(あるじ)の始なり、二子は祝(はふり)の始なり、三子は土民の始なり 其国に火なかりしに、龍宮より求得て、其国成就し、 人物を生して、守護の神あらはる、これをキンマ モンと称す、《割書:中良案るに、キンマモンは諸書に君真物(クンシンフツ)と記せる是なり、キン|マ、モノ、の字訓をキンマ、モンとよむなり、イキシチニヒミイリイを》 《割書:訓に読時は文箱(フンハコ)公達(キンタチ)なと呼ふる事、和訓の例なり|此にていへる如く、琉球には、日本の古語まゝのこれり、》其神に陰陽あり、 天より下るを、キライカナイノ、キンマモンといひ、海 より上るを、オホツカクヲクノ、キンマモンといふ、毎月(つきごと)に 出現して、託女(たくじよ)に託して、《割書:中良案るに、託女は巫女の如く、|神に仕ゆるものと見ゆ、》所々 の拝林(おがみばやし)にあそふ、《割書:中良案るに、拝林とはいかなるものなるや、社はかならす|森の内にたつるものなるからに、宮地の■【祖ヵ】に標おく、》 《割書:体の事か、猶|尋ぬべし、》其託女三十三人は、皆 王家(わうのすぢめ)なり、王妃 も亦其一 ̄チ人なり、国中の託女は其数を知らず 其神み〳〵怒る時は、国人 腕折(うでおり)、爪折(つめおり)して是を 拝慰(おかみなくさ)む、《割書:中良案るに、是日本神代の、|祓の遺風を伝へたるなり、》其俗にて、嶽々浦々 の大石大樹、こと〳〵く皆神にあがめ祭る、又 七年に一回(ひとたひ)の荒神(あらかみ)、十二年の荒神(あらかみ)ありて、遠国諸 島一時に出現す、荒神の出現を、キミテスリと いふ、その出 ̄ツ べき前に、其年の八九月の間に アヲリといふものあらはる、其山をアヲリ嶽と いふ、五色あざやかにして、種〳〵の荘厳(しやうごん)あり て、三つの嶽に三本あらはる、其大さ一山をおほ ひ尽す、其十月に到りて、神かならず出つ、 託女、王臣、各 鼓(つゞみ)うち歌うたひて神をむかふ、王 宮の庭を以て、神の至る所とし、傘三十余 を立つ、其傘の大なる事、高さ七八丈、その輪 十尋(とひろ)あまり、小なるものは一丈ばかり、又山神 時ありて現はる、其数多くあらはるゝ事あり、 又すくなき事あり、其 面(おもて)は明ならず、袖の長き ものを着す、その衣裳たちまち変じて、或は 錦繡(にしき)の如くあるひは麻衣(あさきぬ)の如し、二人の童(わらべ)を 従ふ、二郎(じら)五郎(ごら)といふ其衣裳は日本の製(したて)の如く にして、小袖に袴(はかま)なり、神いかなる事ありてか、 童を鞭打(むちうつ)事あり、童の啼声(なくこゑ)犬の如し、又ヲ ウチキウといふ海神あらはるゝ事あり、其丈は 一丈ばかりにして、陰嚢(いんなう)ことに大きければ、 緄(ふどし)を結(むす)びて肩に懸く、是等の神の現(あら)はれし事 正しく見たりし事の由しるせり、其国の人の君真(くんしん) 物(ぶつ)としるしたるは、是等の神の事なりと見えたり 《割書:中良案るに、君真物は、キンマモンの字訓なる事、上に書たる|如し、白石先生、いかで心付れざりけん、》猶事の子細は よく〳〵尋ぬべし、此外、伊勢、熊野、八幡、天満宮の如き、 本朝の神を祭りし社どもおほしといふと《割書:云| 云》定西 法師伝に云、氏神の社は、鎮西八郎為朝を祝ひ たり、今に為朝の弓矢社に有り、若盗人ありて、 穿鑿(せんさく)するには、弁才天の社に巫女(みこ)あり、それが、ヤ コミサとて、蛇を連て来り人を集め、其蛇に見 すれば、罪あるものに喰付、いさゝかもたがはず、それゆゑ 盗人といふものなしと記せり、  ○宗派 此国の僧、入唐して法を伝ゆる事をゆるさず、薩州 へ来りて法を学ぶ、衣は朱黄色(かばいろ)を着す、袈裟(けさ) の外に一衣を服す、其制 背(ぼい)心の如し、断俗と名 づく、帽子(もうす)は、清人(しんひと)の笠帽の如し、氈を以て作る となり、宗旨(しうし)は、臨済宗(りんさいしう)と、真言(しんごん)のみなりと、中 山伝信録に見えたり、  ○葬式 国中の民は皆火葬にす、官宦(やくにん)かまたは有力(はさとにん)の家に ては、先一たん生葬(そのまゝほうぶ)り、時を踰(こえ)て舁(かき)出し火葬 にするもありとなり、又水葬にして、腐肉を去と、 白骨を甕(かめ)に入、石坎(いはあな)の中に蔵め置、法事を 行ふ時、啓(ひら)いて是を視となり、  ○棺槨《割書:并|》墳墓 棺は円く製す、其高 ̄サ三尺ばかり、死者の膝蓋(ひざがしら) を湯にて洗ひ、足を屈(かゞ)め、趺(あくら)をかゝしめて棺 に納むるとなり、墓は山に穴を穿(うが)ちて埋め、 塁に石を以てす、貴家(わき〳〵)は其石を立派に磨(みか)かせ、 石壇(いしだん)墓門(はかくち)を建るも有となり、  ○書法 書法は、日本の大橋流、玉置(たまき)流をもちゆ、片仮名、 平仮名は、国中の貴賤おしなべて通用す、薩 州藩(まか)中へ往来の書翰、いづれも竪状(たてじやう)捻状(ひねりしやう)に て、一筆啓上の文体を用ゆ、書する時桌に 倚(よら)ず、左手に紙を持、懸腕(ちうだめ)にして書事日本 と同じ、  ○耕作 田地は、九月十月の間に耕(たがへ)し種蒔(たねまき)、十月十一月の 頃 緑秧(さなへ)水を出れば、日和(ひより)を見合せ本田に移(うつ)し植(うゑ) 此節大雨 時(とき)に行はれ、雷声発し、蚯蚓(みゝつ)鳴く、気 候あたかも春の如し、夫より翌(あくる)年に到り、春耘(はるくさきる)、 夏五月 穫収(かりをさ)む、《割書:其跡へすぐさま麦を蒔つけ、|年の内に苅納る となり、》六月に至れば 大颶(おほかぜ)しば〳〵作(おこ)り、海雨(ゆうだち)横飛(よこしふき)し、果実(くだもの)皆 落(おつ)るに、 より、穫納(かりいれ)を早くせざれば、風損多し、かるがゆゑ に、此国中、秋 耕(たがへ)し冬 種蒔(たねまき)春耘、夏収む六月 より九月迄は、農業を事とせずとなり、農具は 大抵日本製を用ゆ、殊に鋤鍬(すきくは)なとは、琉球にて 作る物は鉄鈍(てつにぶ)くして用に堪ずとなり、高田は 天水(あまみづ)を湛(たゝ)へ、下田(くぼた)は次第 坻(びく)にし、泉を引て 下し漑(そゝ)ぐ、入江小河などいづれも鹵入(しほいり)なる故 田地の用水になり難しとそ、  ○貢物 琉球国王より、公(おほやけ)へみつぎする物件(しな〳〵)は、  儀刀(あがりたち)《割書:一腰| 》飾馬《割書:二疋| 》卓(つくえ)《割書:青貝、蒔絵、|なとなり、》大盒子(おほちきらう)《割書:朱縁黒漆、|沈金、青貝》  《割書:等なり| 》芭蕉布《割書:無地、嶋織、染たるも、|練ざるとなり、》大平布《割書:麻なり、幕|幟なとに》    《割書:作る、太平は|地名なり、》久米綿《割書:久米は地名|なり》泡盛酒 官香  《割書:長き線香|なり》龍涎香《割書:焼物なり、香餅といふ、碁石の大、に|かため、面に寿福の文字を印す》    寿帯香《割書:色白く細き線香なり、燃るにしたがひ其■【軆ヵ】みゝつの|如く、くる〳〵と巻て蛇を避る事新なり》 大抵此等の物なるよし 公より琉球人への 賜ものは、  国王え 白銀百枚   綿五百把  使者え 白銀二百枚  時服十重  惣人数え白銀三百枚 右の通りを下し賜はるとなり、  ○産物 物産は、中山伝信録、土産の部にくはしけれは爰に もらせり、其条下に、油樹なるもの有り其葉橘 の如く、実もまた橘の大 ̄サ の如し、以て油に 搾(しぼ)る、食ふ可(べか)らすと記せり、此油 灯(ともし)油にな らは、蕃薯(さつまいも)におとらざる、益ある物なるべし、  ○琉球語 中山伝信録に載たるを見るに、皆日本語な り其間には、日本の古言 交(まじ)はれり、故に爰 に略(はぶ)きぬ、和漢三才図会に十余言を載たり  日《割書:おでた|》月《割書:おつきかなし|》 仏《割書:ほとけかなし|》神《割書:かめかなし|》水《割書:おへい|》   火《割書:かまつ|》酒《割書:おさけ|》男《割書:おけが|》女《割書:おいなご|》父《割書:せうまい|》母《割書:あんまあ|》  兄《割書:すいざ|》弟《割書:おつとう|》刀釼《割書:ほうてう|》  中良案るに、中より以上の人はいづれも日本 語を用ひ、中より以下は、かくの如き方言を 用ゆるか、尋ぬべし、  ○屏風《割書:附|》伊呂波 此国にて用ゆる屏風は四枚折なり、上に 文行忠信、春夏秋冬などの四字を大字に 一字宛 書(かき)、その下に、上(かみ)の大字とは懸はなれ たる詩を、二くだりに書となん、附ていふ、いろ は仮名は、上にもいへる如く、国中の貴賤通 用する事、為朝の子、舜天王の時より、はじ まるといふ、此 国人(くにひと)漢文を読には、日本の 如く、訓点(くんてん)をほどこすとなり、此二条、上に云 落したる故爰に記す、  ○読谷山王子の和歌 林子平が三国通覧図説中の、琉球図説に、 明和元年来聘せし、読谷山王子(よみたんざわうじ)朝恒(ともつね)が、 《割書:日本の如く|名乗るなり》詠せし和哥を伝聞せりとて、わづかに 七首を載たり、予が父国訓法眼、明和のは じめ、竹公主の御前(みまゑ)に侍りし時、読谷山 王子が、手づから書て、笑覧(みわらひぐさ)にそなへ奉りたる、 道行(みちゆき)ふりの和歌十四首を、御前に侍らひける 女房に、写させてたまはりたるを、こよなく秘 蔵せられしが、今はむなしき紀念(かたみ)となりぬ、 原書のまゝを左に記して、宇留摩の国 人の、我国の風に、かくまてなひきたるを しめすのみ、  扶桑の 大樹公御代かはらせ給ふにより  賀慶の使者として武蔵の国におも  むきけるに肥後の国松浦といふ所にいた  り九月十三夜の月を見て故郷の事  も思ひ出してよめる               読谷山王子朝恒 秋毎に見しを友とて故郷の空なつかしみ見つる月影   追風なしとてかの所に十余日船をとゝめ   侍りしころ 追風ふく風の便をまつら潟いく夜うきねの数つもるらん   須磨の浦にて敦盛の塚を見て 須磨の浦に散浮く花の跡とへはあはれもしらぬ春風そふく   唐さきの松 浦風も枝もならさぬ御代なれば猶も栄んからさきの松   真野の入江 霜むすふ尾花か袖に月さえてまのゝ入江にちとりなく也   鏡山 くもりなき御代の鏡のやまなれは君か千とせの影も見えける   田子の浦にてふしの山を見て おもひきや田子の浦辺に打出てふしの高根の雪をみんとは   不二 人とはゝいかゝかたらんことの葉にそはぬふしの雪の白妙   霜月初つかたむさしの国にいたりかの所   の月を見て 旅ころもはる〳〵きてもふるさとにかはらぬものはむかふ月影      藤枝といふ所にて雪つもりける朝 夜のほとは草のまくらに月さえて朝たつ野辺につもるしら雪   松尾山 常盤なる色こそ見えね松尾山みねもふもとも雪のふれゝは   深草の里 ふる雪に鶉の床も埋れて冬そあはれは深草の里   祝の心を 波風も治る君か御代なれはみち遠からぬ日の本の里   去方へ返し 袖の雪あはれをかけしことの葉に君かこゝろのほともしられん  附録《割書:二条|》  ○鎮西八郎の事 此書すてに剞劂(きけつ)の功(かう)を終(をゆ)るころ去やごとなき 君より、琉球国の臣、紫金大夫、蔡温が撰する所 の、中山世譜を拝借せさせたまひぬ、舜天王の 父の事、此書のはじめにも引る如く伝信録 には、舜天王 ̄ハ日本人皇 ̄ノ後裔、大里按司朝公 ̄ノ男 子也、とあり、朝公は為朝なる事上に云へり、され ども此文まさしく為朝と記さゞれば穏(おたやか)なら 【「大里」は囲み字】 ざるに似たり、中山世譜 ̄ニ云、南宋 ̄ノ乾道元年乙 酉、鎮西為朝公、随 ̄テ_レ流 ̄ニ至 ̄リ_レ国 ̄ニ、生 ̄テ_二 一子 ̄ヲ_一而返 ̄ル、其 ̄ノ子 ̄ヲ名 ̄ク 尊敦(ソントン) ̄ト_一、後為_二浦添(ウラソヘノ)按司(アンスト)_一《割書:中略| 》国人 推(スイ)_二戴(タイ) ̄シテ尊敦 ̄ヲ_一為_レ君 ̄ト 是舜天王也、《割書:云| 々》又云、舜天王、姓 ̄ハ源、号 ̄ス_二尊敦 ̄ト_一、父 ̄ハ 鎮西八郎為朝公、母 ̄ハ大里 ̄ノ按司 ̄ノ妹 ̄ナリ《割書:云| 々》此文にて、 舜天王の父は為朝なる事明らかなり、  ○琉球人の書翰 此ごろはからずも、琉球の王子より、薩州の 家臣へ往来の書二通を得たり独 珍(めづ)らしみ 玩(もて)あそはんも本意なければ本書のまゝを模写(しきうつし) にして好事(かうす)の士の看(かん)に呈(てい)す、上包は西の内の 如き紙にて封し状は唐紙を奉書だけに 切たるなり義村王子の書中に白麻二十 帖とあるは薩州にて製する紙の名なり、 義村(よしむら)王子(わうじ)、大宜見(おほぎみ)王子(わうじ)ともに、当年東都へ來 聘せる、宜野湾(ぎのわん)王子(わうじ)の兄弟なり、書翰の宛名 は憚りあれは闕たり、手跡あまりに日本風な る故、疑筆にもやとうたがふ人あり、はしめ にもいへる如く、此国にては大橋流もつはら に行はるゝとなん、 一筆令啓達候弥無御替 御勤珍重御事候在旅中は 預御丁嚀忝存候拙者事 無恙致帰着候仍白羽扇子 一箱官香五把令進入之候 恐惶謹言          大宜見王子  四月十四日  朝規 花押 【宛名上部黒塗】右衛門様           御宿所  猶々去春御状御音物贈給候由  忝存候便船破船に付不相届段承  入御念儀存候以上 御札令拝見候弥無 御替御勤珍重存候 預示趣殊白麻二十帖 贈給忝存候乍御報 御礼旁申達候品迄 白羽扇子一箱官香 五把令進入之候恐惶 謹言      茂村王子   四月十四日  朝宜 花押 【宛名上部黒塗】右衛門様            御報   跋 今歳寛政二年の冬琉球国王より慶賀の 使臣 東の都に来り聘すると聞て四方の 君子《割書:余|》か居舗に顧をたまひ中山伝信録 琉球事略三国通覧なとの書を贖玉ふ毎に 此等の書の外に琉球国の事実を 童蒙の耳にも入易からむやうに記たる書の あらまほしさよと宣ふより利に走る足の逸く 万象亭にいたりて先生に請ふ先生莞爾と して笑て曰吾子か此挙あらむ事をあらかじめ 推知して万国新語の遺稿より琉球の部を 抄出し一編の小冊となしおけりとて取出して 授け給ひぬ《割書:余|》手の舞足の踏をしらす頓に 梓に鏤て世におほやけにす希は此書の為に 都下の紙あたひの貴からむことを実に 先生著述の書は《割書:余|》か家の揺錢樹なり  寛政二年九月《割書:書林|》申椒堂主人誌 印 【前コマと同じ 琉球大学の蔵書印を添付】 【裏表紙 左下隅に管理ラベル】